ボジョレヌーボー騒ぎ
ことしは11月18日にボジョレヌ−ボ−の販売が解禁され、日本では例年のとおり大騒ぎである。世界で一番早く販売が始まるということでみなさん先を争って買っているようだ。
報道によればことしは昨年比10%増、750ml瓶にして660万本輸入されるという。なにしろフランスで生産されたものの半分は日本が買っているというから驚く、というより馬鹿馬鹿しくなる。
ボジョレヌ−ボ−はその年のワインの出来不出来をみる試飲酒だという話だが、ことしのワインの出来を気にするほどのワイン好きが、日本にそれほどたくさんいるとは思えない。テレビや新聞などの騒ぎに引きずられている人も多いのだろう。
引きずられようとおだてられようと買ったり飲んだりするのは勝手で、他人がとやかくいうことではないが、日本人の多くが政治からワインまでメディアに振り回されていうような気がする。
価格低下

(写真はペットボトル入りボジョレルーボー)
値段について言えば、3、4年前までは750ml瓶一本が3000円以上もしたように記憶しているが、昨年は1000円を切る安いものが出た。ことしは700円とか、590円などというびっくりするようなものも出ている。
なぜこんなに安いものが出るようになったのかといえば、原因はペットボトルである。
昨年からワインの容器にペットボトルが使用され、容器代や輸送費の軽減でワインの値が下がったという。
違和感
いまだに古い日本の習慣や思考を引きずっている私のような人間には、最近の世の中の動きにはついていけないものが多いが、ワインをペットボトルに入れるということほど違和感を持つものはない。
いまや私たちの生活に必要不可欠なものとなったペットボトル、その特徴は私自身のひととなりと同じで薄くて、軽くて軟らかで、そして安い。元来これほどワインに似つかわしくないものはないだろうと思う。
ワインと言えば優雅、おしゃれ、風格、風土を思う。それはペットボトルとは対極の事柄である。
ボジョレヌーボーの故郷の生産者団体である「ボジョレワイン委員会」は、ことしのはじめ、ワインの容器としてペットボトルを使用しないよう訴える声明を出した。もっとも声明が言っているのはペットボトルがワインの容器として似つかわしくないということでなく、現在のペットボトルの化学的組成がワインの品質を低下させるおそれがあり、かつワインを飲む人の健康を害するおそれがあるということである。
しかし、声明でははっきり言っていないけれど、ペットボトルはワインの風格や尊厳を損なうから・・という強い思いも委員の皆さん気持ちの中にあるのではないか、と私は推察する。
容器は変わる
お酒の入れ物といえば木の樽、陶磁器の徳利、あるいはガラスの瓶という常識が日本で崩れたのは30年ほど前である。1980年代はじめ屋根型の紙パックに入った酒が出た。

(写真は紙容器入り清酒)
紙容器に入った飲み物の先駆は牛乳で、三角形のテトラポットのようなものが1963年ごろ出された。それを見て液体を紙の箱に入れるという発想に感心したが、まさかお酒まで紙の容器に入れられようとは思わなかった。牛乳と違ってこちらの方には戸惑った。
1980年代中ごろには今度はペットボトル入りの焼酎が出るようになった。軽小短薄が世の流れとはいえ直視できないような思いがした。今ではウイスキーまでペットボトル入りが出ている。
紙やプラスチックが重宝されるようになった背景にはもちろん容器技術の進歩もあるけれど、なにより日本酒の低迷がある。若者の清酒離れが急速に進み、酒は一升瓶という格好が嫌われだした。加えて容器リサイクルの要請もあって、紙容器やペットボトルが重用されることになったのだろう。仕方ないことかなと思う。
しかし、こう言っては悪いが紙やプラスチックは風格に欠ける。品がない。
特別な飲み物
酒は清涼飲料水やジュースとは違う。古来より神にささげるものである。その点では品位が求められる飲み物である。
また酒は人間を非日常の佳境にいざなってくれる飲み物である。だから大切にされなければならない。
さらに言えば酒は、幸せだけをもたらすものでない。場合によっては大変な不幸ももたらすこともある危険なものでもある。したがってあまり軽々しく扱い、接してはならないものなのである。
そういうことを考えると、紙容器やペットボトルは酒にふさわしくないように思う。
酒器を重んじるべし
酒を造ったり売ったりしている人が少しでも多く売りたい、買ってほしいと願うのは当然で、だから持ち運びが簡単で、安くて、手軽に手にできるように工夫をしているのだろうが、酒の本質と力と影響を軽視してはならないと思う。

飲酒はひとつの文化である。酒とともに酒器も重視されなければならない。いにしえから酒器は美術、工芸の対象になって来た。それは酒に対する敬意の表れであり、酒の本質と力と影響を重視した人々の心の表れなのである。
軽便、安価、量産も必要かもしれないが、酒についていうなら越えてはならない一線があるのではないかと思う。
中国では白酒も黄酒も紙容器入りやペットボトル入りは出ていない。
経済発展が著しく、あらゆるものが大量生産、大量消費に向かっている中国だが、酒はまだ大切にされているようだ。
俗謡に「雨のしょぼしょぼ降る晩に まめだ(豆狸)がとっくり持って酒買いに・・」というのがあって、信楽焼のタヌキはその歌にしたがい徳利を持って酒を買いに行く姿になっているが、そのうちペットボトルを小脇に抱えたタヌキがつくられるようになるかも知れない。
やだねエ。
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2010-11-22 14:02
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白酒低度化の現状
白酒低度化の現状はどうなっているのだろうか。
2007年の数字だが、生産量から言えば次のようになっている。
40度以下: 36%
40〜50度:50%
50度以上: 14%
60度以上: ごく少量
掛け声の割には低度化はまだあまり進んでいないようで白酒愛飲家は安心しただろうが、低度化を主導する人たちは思ったように進まず不安にかられたようだ。
再び低度化を呼びかける

そこで先の会議から20年たった2007年8月、今度は河南省の鄭州に中国酒造工業会の指導者のみなさんほか全国各地の酒造専門家および企業の責任者500人が集められ、再度白酒低度化推進についての会議が開かれた。
会議ではいろいろな問題点が出されている。
第一は下限基準の問題。
2004年、農業部など関係9部門で白酒アルコール度数の下限は25度と決められた。しかし敷居の高さは時代によって違ってよい。ビール、黄酒、ワインなどの低度数アルコール飲料などを考慮し、市場や消費者の動向を深く研究して決めるべきだという意見が出された。
情勢によれば25度より下げてもいいではないかということのようだ。
(写真は70度の白酒・瑯琊台)
第二には品質の問題である。

アルコール度の高いお酒の度数を下げるには一般的に水を加えて下げるが、アルコール度数が下がるとアルコールの中に溶け込んでいた諸々の成分が排出されて酒が白濁したり、沈殿物が出たりする。そこで冷凍過濾法だの活性炭吸附法だのいろいろな技術的方法で対策をとっている。しかし、会議ではそれでもやはり問題が生じているという報告がなされている。
また、度数を下げることによって白酒の命である香りや味にも変化が出てくる。
低度化に当たっては同じメーカーの熟成年数などが違ういろいろな酒をブレンドすることによって香りや味が大きく変化しないようにしているようだが、香りや味の変化はやはり指摘されているようだ。対策について、たとえばとして董酒の例を挙げ、薬草を加え加水分解の否定的反応を抑えていることなどが紹介されているが、まだまだ技術的に解決しなければならない問題がたくさんあるというのが実情だろう。
第三には白酒が敬遠されているのは度数だけの問題なのかという疑問である。
アルコール度数以外にも白酒が敬遠される要素をはっきりさせて、原料、製造法など総合的に解決すべきでないかという意見も出されている。
若い人は自由だ。地域性や香型や風格などというものにはこだわっていない。白酒も香りや風味をもっと淡化すべきでないか、という。
会議での最終的な結論は、いろいろ問題はあるけれど、低度化は健康志向という世界的な新消費観念に沿ってどうしても進めなければなければならない。低度化は白酒の向うべき方向であり、発展の方向である、と改めて低度化推進が確認されている。
白酒とは何ぞや

この会議の結論に従って作られた酒ははたして白酒なのだろうかという疑問が湧く。
高いアルコール度数の白酒は中国人が400年、500年という長い年月をかけて作り上げて来たものである。言いかえれば中国の自然、風土、生活、料理、中国人の味覚が生んだものである。度数が高いことだけを問題にするけれど、その高いところで香りもうまさもピタッときまっているのである。それは酒をつくる人と飲む人、そしてそれぞれの地域の自然が作り上げた味覚の絶妙のバランスなのである。
それを簡単に変えていいのだろうか。変えることが出来るのだろうか。
「健康」や「消費傾向」を錦の御旗として、数値だけで飲食物を管理するというやり方に私は違和感を覚える。
すべての飲み物、食べ物は健康にいい部分と悪い部分がある。問題は摂取量の問題でないか。たしかにアルコール度数の高い酒は体への負担が大きく、またアルコール依存症になりやすい。それでは度数の低い酒ならいいかというと、やはり量を損なえば胃や肝臓を壊し、アルコール依存症にもなる。しなければならないことは消費者に自覚と自制を促すことではないか。
「軽小短薄」「快速」がいまの世のならいとなっているが、いくら今のはやりだからと言って飲食世界にそれを金科玉条のごとく持ち込むことはいかがなものか、と思う。
白酒の本質

清朝乾隆帝時代の文人、袁枚は美食家としても有名で、南京にあった自分の屋敷、随園に因んで「随園食単」という料理に関する本を著している。その著作の中で袁枚は、「紹興酒は名士であり、焼酒(白酒)は光棍(ごろつき)である」と言っている。また、「焼酒は民間の光棍であり、県庁の酷吏である」とも言って、白酒をぼろくそにけなしている。
袁枚は科挙の試験に合格して進士となり、北京でしばらく役所勤めをしていたこともあるけれど、もともと杭州出身の南方人であり、また10数年の役人生活を辞してからは生涯ずっと南京に隠棲していたので、どちらかと言えば白酒とは縁遠い。それに彼自身、私はあまり酒を飲まないと言っているように下戸なのである。それやこれやで白酒のおいしさを理解するまでに至らなかったのではないか。それでこのように口汚く白酒を中傷したのだろうと推測する。
しかしその袁枚も「焼酒を飲む以上は凶暴なるを佳しとする」と言っている。
“凶暴なる”ものとはすなわちアルコール度数の高い“烈性酒”のことだろう。飲むならきつい酒を飲めということは、白酒の本質は“凶暴”、すなわち高い度数なのだということを言っているのだろうと思う。
いい友
先日来日した西安の友人がお土産にくれた瀘州老窖は52度である。袁枚のいう凶暴なるものに入るかどうかわからないが、時代の軽薄な流れに抗しているという点でもいい酒である。
お土産をもらったから言うわけではないけれど、彼は私の気持ちがよくわかった、本当にいい友だちである。
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2010-11-07 17:05
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中国で生活をしていると中国はいま急速に変わっていることを実感する。その変わりつつある中で私が気になるひとつは、白酒をめぐる変化である。
「なんや酒のことか」と思われる方もいらっしゃるかもしれないが、そんなに馬鹿にせずおつきあいいただきたい。
白酒低度化
1987年、貴州省の省都、貴陽市で国家経済委員会、軽工業部、商業部、農業部共催の「全国酒造工作会議」が招集され、酒造工業会の幹部をはじめ全国の酒造業関係者が集まった。
会議では白酒を中心とする酒造りの“改革と発展の方向”が話し合われ、酒造りについて高品質の堅持、多品種、低コスト、そして低度化を目指すことが合意された。
具体的に次の四つの転換が決められた。
@高度酒の低度酒への転換
A蒸留酒重視からの醸造酒重視への転換
B食糧を材料とする酒から果実酒や非食糧材の酒への転換
C普通品質酒から高品質酒への転換
この四つの転換の中でとくに@とAは白酒の大転換であるが、私が一番気になるのは “低度酒への転換”である。
ところで低度とは何パーセント以下のものをいうのか。
中国の酒に関する規定によると度数による酒の分類は次のとおりである。
高度酒: 50度 以上
中度酒: 40度以上 〜50度未満
低度酒: 40度 未満

私の西安の飲み友だちはこの決定を知って、中国はお上のご威光や力が強い国だ。その政府が言い出して決めたのだから、以後白酒は間違いなく40度以下になるだろうと悲観した。そして「情けないことになったものだ。いつも55度の白酒を飲んで来た者として、またその酒を人生の楽しみとして来た者として、将来に光を失った。大げさに言えば生きる望みを断たれたような思いが禁じ得ない」と悲嘆くれたという。
低度化の背景
食文化の変化
ところで1987年になぜこうした転換が話し合われたのか。
1978年改革開放路線が展開されて以来、中国に外国の飲食文化がどんどん入りだした。
最も早いのは1978年にケンタッキーフライドチキンの北京前門への出店である。1981年にはコカコーラとペプシが北京と天津に工場を建設した。90年にはマグドナルドが広東の深圳に中国第1号店を開き、翌々年には北京に2号店を開いた。以後中国各地に肯徳基(ケンタッキー)や麦当労(マグドナルド)の店が広がった、因みにすでにケンタッキーは2000店、マクドナルドは1000店以上中国で展開しているという。
1999年にはスターバックスものちに問題になった北京の故宮に店を出している。
日本の企業も1984年にはサントリーが、90年にはキッコーマンが、91年にはグリコが中国に進出。95年には味千ラーメンが北京に店を出した。吉野家は少し遅れて2002年に中国進出。
こうしたアメリカ生まれのファストフードや軽飲料の中国進出、日本の飲食産業の進出など外国の飲食料文化の侵入と、それに影響を受けた中国の大衆レストランや小吃店のファストフード化、いわゆる中式快餐店の広がりは中国の食文化、とくに青年たちの飲食文化と飲食習慣を大きく変えた。
消費傾向の変化
また経済発展による個人の消費水準の上昇、インターネットや雑誌、テレビなどメディアによる外国情報の氾濫も若い人たちの生活観、思考あるいは嗜好を急激に変えるテコとなった。
アルコール飲料で言えば愛され始めたのはビールであり、ワインである。度の強い白酒や癖のある黄酒は敬遠されはじめ、白酒離れがはっきりと社会現象となった。
健康志向
改革開放以来人々の生活も変わり、健康への関心が高まった。
かつては多くの人が食べて行くのがやっとという状況だったが、いまや鱈腹食べ、ダイエットが話題になりだした。高齢化社会にもなった。年寄りの健康が問題が切実な問題になりだした。

かつては多く食べること、たくさん飲むことで健康を求めたが、今は飽食を忌避すること、あるいは飲食を選別することで健康を維持しようとするようになった。この変化は天地がひっくり返った程の大きな変化である。新たな健康志向がアルコール度数の高い白酒を目の敵にし始めた。
貿易自由化
1986年、中国はGATT(自由貿易促進協定)に加入を申請した。グローバルな経済貿易体制の中に跳び込もうというのである。
貿易が自由化されれば洗練された飲食文化や、新感覚の多種多様な飲食物がそれまで以上に大量に、まさに洪水のように入って来るだろう。千年一日の如き中国伝統の食べ物、飲みものではそれを迎え撃つことは出来ない。
一方輸出の方は度数の高い酒は外国に受け入れてもらえないだろうし、なにより度数によって決まる関税に対してはじめから不利で競争にならない。
こうした消費傾向の変化、飲食文化の変化、健康志向、自由貿易での競争などが中国の酒造り業者、酒販売業者あるいは関係政府機関に危機感をもたらし、白酒にも大きな変化を求めた。
1987年当時こうした大きな変化はまだ顕著になってはいなかったが、早晩来るであろうそうした変化を読んだ上で、あるいはそうした危機を予想した上で、87年に「醸酒工作会議」が開かれたのである。
白酒低度化は中国にとっては未曽有の変化への乾坤一擲の対応、対策なのである。
白酒低度化にはこうした大きな背景があり、度数の高い白酒を愛飲する個人の感傷など入る余地はない。
しかし、と思う。問答無用の低度化でいいのだろうか。
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2010-11-03 06:43
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中国の何処が一番好きかと聞かれると迷うことなく陝西省と答える。
ただ、四川省も捨てがたい。2チームの同時優勝が認められる高校サッカー選手権方式が許されるなら、四川も一番に挙げたい。
四川は温暖で緑と水が豊富で、どこに行ってもすばらしい自然と産物に出会える。また黄河文明の絶対的地位に挑むような長江文明も魅力的で、その独立独歩の風土がいい。そしてなによりとびきりおいしい料理とお酒がある。
瀘州老窖

西安の友人が仕事で名古屋に来た。会いたいので時間があるなら来てくれ、という電話があった。ヒマは掃いて捨てるほどある。それで名古屋までとんで行って久闊を叙した。
彼は私の顔を見るやいなや持っていた紙袋から白酒を取り出し、土産だといってくれた。私の白酒好きは西安の友達、知人の間で有名なようで彼らの訪日の折は、あるいは私が西安から帰国する際には必ずお土産だと言って白酒をくださる。
その際いただくのは大概「西鳳酒」だが、今回彼がくれたのは四川の「瀘州老窖」である。
四川の酒と言えば「五糧液」が有名で、中国だけでなく世界的に名が通っており、茅台酒や汾酒と並んで中国の酒の代表格になっている。四川にはまた「剣南春」という有名な酒もある。この二つが四川を代表する酒のように思われているが、「瀘州老窖」はそれらに勝るとも劣らない存在感のある酒であり、うまい酒である。
白酒のことを書いた中国の本をみると濃香型白酒の典型、代表として「五糧液」や「剣南春」でなく必ず「瀘州老窖」を挙げて説明し、濃香型白酒を「瀘型白酒」と呼んでいる。
白酒の誕生
そもそも白酒はいつ頃からつくられはじめたのか、その誕生については諸説がある。
一番古い時代を挙げるのは漢代起源説。

(前漢の蒸留器)
上海博物館に前漢時代の青銅の蒸留器がある。あるいは四川省彭県で蒸留酒をつくる工房の絵が描かれた後漢時代の磚が出土した、これらから漢代に白酒が生まれたという説がある。
当時は不老不死の霊薬を求める錬丹が盛んに行われ、その中で発達した蒸留技術が酒づくりにも応用されたのだろうか。
第二には唐代起源説。
よく知られた白居易や晩唐の雍陶の詩に「焼酒」が出てくることや、隋・唐時代の出土品の中に15〜20ml ほどの小さな杯があることなどから、唐代には白酒はつくられ、飲まれていたというのである。
第三には宋代起源説。
河北省青龍県から金の世宗の大定年間につくられたとみられる銅製の焼酒鍋が出土したことや、北宋の「麹本草」あるいは南宋の「丹房須知」「游宦紀聞」などの書物に蒸留器の記述があること、あるいは「宋史」の酒に関する記載から白酒は宋代につくられはじめたというものである。
宋と言えば市井の経済が大きく広がった時代である。酒についてもさまざまな商業的、工業的アプローチがあったのだろう。
そして第四は元代起源説である。
明の李時珍が著した「本草綱目」に、「焼酒非古法也、自元代始創・・」(焼酒は古いものでない、元代に始まった・・)とあることから元代が始まりとする。また、李時珍の記す蒸留方法が現在の固体発酵、蒸留方式と酷似していること、さらには明代初めに葉子奇が著した「草木子」の記載から元代起源が言われている。
しかしいずれの説も定説となるには至っていない。
はっきりしているのは、明代になって白酒の酒廠がどんどん作られ、白酒が大々的に人々の中に広がったということだろう。
窖(ジャオ)

オオムギ、コムギ、コウリャン、エンドウなどでつくる大曲といわれる麹を使う白酒は、蒸した酒の原料を地面に掘った穴の中に埋め込んで発酵させ、これを蒸留してつくる。酒を醸す地面の穴を「窖」というが、「瀘州老窖」の最初の窖は明の14代皇帝、万歴帝の時代につくられたという。中国では最も古い「窖」のようだ。
瀘州老窖集団有限責任公司の酒で「国窖1573」という名の高級品がある。この「1573」というのは瀘州老窖の誕生の年を表している。要するに「瀘州老窖」は440年近くの歴史を持つ白酒であり、その製法もまた典型なのである。
甘い香りとさわやか味
私は一人酒があまり好きでない。酒は気の合った友だちと飲むのが一番。したがって晩酌もしないし、一人で居酒屋の行くこともあまりない。
しかし、友だちに飲まれるのが惜しくて言うのではないが、いや根がケチくさい人間だから少しはそういう気持ちもないではないが、いい酒は一人でじっくり飲みたい、味わいたい。
「瀘州老窖」はそういう気分にさせてくれる酒である。
とびっきりいい酒には静けさという肴が合う。
西安で覚えた「葱白肉絲」をひと皿つくり、それを肴にお土産をいただいた。
杯を口元によせると熟した南国の果物のような香りが顔の周りに広がる。酒を口に含み、そして飲む。喉に焼けるような刺激がある、その後さわやかな甘みが口の中に広がる。西方に極楽浄土があるとのことだが、わざわざ西方まで行かなくていい、極楽は今ここにあると確信した。
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2010-10-28 11:55
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出爾反爾(チュアル ファンアル)
10月25日の中国ニュースネットは鳩山前首相の議員引退撤回発言について、「鳩山出爾反爾有損国民信任」(鳩山氏、出爾反爾で国民の信頼を損なった)と伝えている。
「出爾反爾」を日本語で言えば「なんじに出ずるものはなんじに反える」ということで、本来の意味は「身から出た錆」ということだが、現在は「言うことがくるくるかわる」という意味に使われる。
鳩山由紀夫さんはその言葉の生きた見本で、「出爾反爾」が服を着て歩いているような人である。
たびたびの食言
鳩山さんはまだ野党であった頃、政治家の違法行為について「秘書の責任にして逃げるのは許されない。私にそういうことが起こればバッチを外す」と大見得を切ったが、ご自身の政治資金問題で違法な事実が発覚すると、秘書などの首を切ってご自身は知らぬ顔の半兵衛を決め込んだ。
しかも政治資金規正法違反で公民権停止になり、一旦は首を切ったご自分の事務所の会計責任者を最近また政策秘書として復帰させ、近くに置いて使っている。これでは違法行為を全く反省していないばかりか、国民を馬鹿にしていると言わざるを得ない。
何たる恥知らずだろう。この方は世間体を憚るということも頭にないのだろうか。
沖縄の普天間米軍基地を国外に、少なくとも県外に移設をすると明言しながら、「抑止力のことを勉強したらやはり沖縄県内移設しかない」と恥ずかしげもなく約束を反古にし、沖縄県民をはじめ日本国民をだました。
さらにまた、「首相をやった人がいつまでも国会に残って陰で影響力をふるうのは間違っている。首相をやめたら国会議員もやめるべきだ」「私は首相をやめたら議員を引退する」と公言しながら、先だってその言を撤回した。また次の選挙に出るという。
資質を問う
当然のことだが鳩山さんの政治家としての資質を問う声が高まっている。
それだけでなく一人前の大人としての資格を問う必要があるかもしれない。責任ある立場に立った人間はどうあらねばならないかが、この方には全く分かっていない。
鳩山さんは日本で一番いい大学と世間で噂になっている東京大学を出られ、専修大学の先生までなさった人である。いったい大学で何を学ばれ、大学で何を教えて来られたのか聞いてみたい気がする。
大学には縁のない私が言うと、無学な男のひがみと笑われるかも知れないが、一流大学を出ているというだけでは立派な人間とは言えない。人間の出来不出来は大学を出たか出ないか、一流大学か否かでは決まらない、鳩山さんはその見本ではないか。
思うに小さいときの家庭の教育が悪かったのだろう。
ご高齢の鳩山家のご母堂を責めるのもどうかと思うが、お母様に「由紀夫さんにどういう家庭教育をなさって来られたのですか」とおたずねしたい気がする。由紀夫氏のこの体たらくは、ただただ乳母日傘で甘やかされて育った結果ではないだろうか。
なんとかして子どもを有名大学に入れようと躍起になっておられる世のお母さん方は、反面教師として鳩山家のことを学ぶべきかも知れない。
鳩山さんの自信を支えるもの
公然と国民との約束を反古にしても恬として恥じず、また同じように前言を翻す、嘘をつく。それでも国会議員を続けるという決心と自信はどこから来るのだろう。ご本人の厚顔無恥の性格とは別に二つの要因があるように思う。
一つは選挙区の後援会だろう。
鳩山さんのような大物政治家の地元の後援会は、地域で強大な力を持ち、後援会のボス連中は地域の政財界に大きな影響力を持っている。時には利権を持っているかもしれない。それが日本の保守政治家の後援会の特徴である。
後援会のボスたちはその大きな影響力なり、権力なりを守りつづけるために自分の後ろ盾を失いたくない。だからたとえどんな過ちを犯しても、人間的欠陥があっても、自分が担ぐ議員にはいつまでも後ろ盾としての力を保持してほしいと思い、保持できるように擁護する。
付け加えて言うなら保守政治家の後援会組織は、為政者として資格のない人をいつまでも担ぐという過ちを犯しているだけでなく、世襲議員が闊歩する温床にもなっているという点で、鳩山さんのことだけでなく、日本の政治のガンと言えよう。
もうひとつ鳩山さんに自信を持たせているのは、鳩山グープとして鳩山さんにくっついている民主党の国会議員たちである。
一部の人を除いて多くの政治家が目指しているのは国民の幸せでなく、自分のための金と地位と名誉である。
鳩山さんに近い国会議員にとって鳩山さんの資金力と党内での影響力、全国的な知名度は、政治資金を確保し、大臣や党役員の地位に着き、故郷に錦を飾るためには実に魅力的なのだろう。したがって鳩山さんが国会を離れ、軽井沢の別荘に引き込まれるのはなんとしても止めなければならないのである。鳩山さんの引退に反対する声が鳩山グループの中に多いのはそのためであろう。
幼 児 性

鳩山さんはこれは国民に受けると思えばなんの覚悟も計画もなく、思いついたことをそのまま口にする。それに対して否定的な反応があれば今度は何の躊躇もなく前言を翻して正反対のことをぬけぬけと言う。それが通用すると思っている。これこそ幼児性そのものである。
一方、自分の影響力、権力、利権を守るためにどんなに欠陥があろうと過ちを犯そうと後ろ盾としてこの鳩山さんを担ぐ地方の後援者や、金と地位を得るため鳩山さんを推す政治家たちの、欲しいものを手に入れるためにはなりふり構わないその態度、その行動、これもまた典型的な幼児性である。
いま日本の政治はこうした幼児性に支配されている。驚くべきことではないか。
ウクレレ漫談の牧伸二さんではないが、「あ〜あ、いやんなっちゃった、あ〜ああ〜あ〜、おどろいた‼」
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2010-10-26 15:47
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虎頭蛇尾
はじめは威勢がよくて、おしまいは全く勢いのなくなることを日本では「龍頭蛇尾」というが、中国では「虎頭蛇尾」という。
グーグルの中国撤退騒ぎ
10月4日の[朝日新聞・グローブ 第49号]は「サイバー戦争」特集である。その5面にグーグル中国の敗北を書いた朝日の北京特派員、峯村健司さんのコラムが掲載されている。
そう言えば、と思い出した人もいらっしゃるのではないか、今年1月、いきなりちゃぶ台をひっくり返すような様子で、グーグルは中国からの撤退を叫んだ。その理由の一つが中国の人権活動家と称される人のGmailアカウントに対するサイバー攻撃であった。なるほど今日の[グローブ]にふさわしいコラムだと思って読んでみたが、峯村さんのコラムは意外にもグーグルに対するサイバー攻撃のことについては触れておられない。
グーグルが中国撤退の理由として挙げたのは上述のGmailアカウントへのサイバー攻撃のほかにもう一つ、検索に対する中国政府の検閲要求の問題があった。いや印象としてはむしろこの検閲問題が主たる理由のような気がした。
これは私一人の印象でなく、多くの人がそう見ていたようで、マスコミの大半も自主検閲問題に焦点を当てていた。[グローブ]の峯村さんのコラムの内容も検閲問題を取り上げている。
グーグルが今年1月中国から撤退という恫喝的な手段に出、これをクリントン国務長官が支持する声明を出したばかりかオバマ大統領まで乗り出して、国家的、国際的大問題として大騒ぎした背景には、グーグルの中国におけるシェアが思ったように上がらず苦戦しているという状況があった。要するに中国撤退はシェアをあげるためのグーグルの演出であり、かつ国内国外両方で行き詰まり、支持率の落ちているオバマ大統領に自由の旗手として見得を切る舞台を与えるためではないかと、2月、私は自分のブログ(項庄之意)に書いた。
アメリカの政財界が「自由」だの「民主主義」だのと大声を出したときは用心した方がいい。「自由」や「民主主義」のスローガンは崇高な希望や目標としてでなく、政治的、経済的に行き詰った時他国を恫喝するため、あるいは戦争をはじめるための旗印として叫ばれるに過ぎないとも書いた。
その見方がやはりあたったようだ。
虎頭蛇尾
グーグルは結局免許更新を申請し、7月9日、免許更新が行われた。
今年3月から実施していた中国本土での検索を香港へリダイレクトする方式は、免許更新にあたって中国政府の要求を受けてこれを撤回した。
新華社はグーグルが中国の法律を遵守すること、法律に違反したコンテンツは提供しないことを誓約した。また、すべてのコンテンツが当局の監視下にあることを認めたと報じている。
グーグルの真のねらいはやはり・・
世界の多くのアナリストやジャーナリストは、グーグルが中国政府の免許更新を受けたことは「検索の検閲は認めないと誓った信念と、最重要インターネット市場のひとつとなる国での存在感を維持したいという希望との間の板挟みになり、結局は世界最大のインターネット市場での事業を継続する道をえらび、中国政府に譲歩した」と見ている。
峯村記者も[グローブ]に、「世界最大の中国市場を失ったら、損害はあまりにも大きい。長期ビジネスを続けていくためには仕方のない選択だった」とグーグル中国法人の幹部が力なく認めた書き、「表現の自由」という錦の御旗を降ろした形になったと言っている。
また、「グーグルは自らの力を過信し、英雄のようにふるまってメディアにもてはやされたが、長くは続かず、結局、失敗に終わった」という米中関係に詳しい中国国際問題研究所の金君暉・元研究員の話を紹介している。

(グーグル中国)
NEWSWEEK JRY・25・2010
日本のマスコミ
それにしても、と思う。
今年1月、グーグルを自由の守り手のように担ぎあげ、中国を自由の抑圧者、反民主主義国家として糾弾し、大騒ぎした日本のマスコミはどうだろう。
朝日新聞は7月9日グーグルが簡単に信念を曲げたことを、7月10日付け朝刊国際面の一番下に小さく「グーグルが更新許可を得た」という共同の配信記事を掲載しただけである。
グーグルを担ぎあげたあのテンションはどこに行ったのだろう。
秋風が身に沁みるね、日本のマスコミのみなさん。
問題はほかに・・
グーグルが膨大なユーザー情報を蓄積し、それを利用しようとしている。とりわけアメリカ政府や軍の情報機関と提携し、その個人情報が利用されようとしているのではないかという心配が世界中で広がっている。
グーグルのことを取り上げるなら、そういう問題こそマスコミはもっと追求すべきではないか、と思う。
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2010-10-06 13:57
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2010年9月16日
帰 国
空港へ

(威寧路住宅区門前)
娘の夫君は仕事に出て昨日からいない。彼女も今日は出勤する。それで朝少し早いが8時に一緒に家を出た。娘は会社のクルマで行くというので住宅区の門の前で「それではかえるよ」「また来てください」と別れ、私は地下鉄2号線に乗った。
地下鉄2号線

(地下鉄乗車カード)
上海の地下鉄のチケットはタッチパネル式の自動券売機で買う。日本ではJRも私鉄も大阪の地下鉄も路線表示を見て行き先の料金を確認し、お金を入れ、料金のところを押すか触れればチケットが出てくる。
上海は少し違う。まず利用をする路線をタッチする。画面が変わってその路線の駅が全部表示される。その画面で行き先の駅をタッチすると料金が表示される、その表示された金額を入れればチケットでなく、カードが出て来る。カードの使い方はJRなどのプリペイドカードと同じである。
料金は3元が最低で、最高は9元である。当日のレートで言えば37円から110円である。
駅も車内もラッシュアワーだから大変な人だった。もっともこの2号線はラッシュアワーでなくても大変込み合っている。要するに一日中混雑しているのである。混雑しているけれど乗客のマナーがいいので乗り降りはスムーズに行く。
中山公園駅に着いたらかなりの人が降りた。2号線、3号線、4号線の接続駅である。3号線と4号線は高架で、2号線は地下深く走っている。したがって乗り換えは大変。人民広場駅は広くて水平移動が大変だったが、中山公園駅は垂直移動が長く、しかも途中にはエスカレーターがないので疲れる。
老大爺
降りる人と交替して少し中に入った。私の隣に脊の高い青年がいて、その人の前に清楚できれいな娘さんが座っていた。その人が「老大爺(ラオターイエ)」と言った。「老大爺」とは「おじいさん」ということである。知り合いの人を呼んでいるのかなと思って知らん顔をしていると、隣の脊の高い青年が私の肩を叩いた。振り向いたら前に座っている例のきれいな女性を指差す。彼女の方を見て目があったとたん彼女はすっと立ってここに座れという。「老大爺」とは私のことだったのである。びっくりしてドキドキしたけれど、ご厚意は受けた方がよいと思って「謝々」と言って遠慮なく座らせてもらった。彼女は次の駅で降りるのかと思ったら、ずっとずっと先の世紀大道駅まで行った。
それにしても「老大爺」はショックであった。少し細めのジーンズを穿いて、娘が「ちょっと勘違いしているんじゃありませんか」というほど派手なシャツを着て、去年チベットで買ったヒツジ皮の粋な帽子をかぶっていたので、悪くても「おじさん」と呼ばれる程度と思っていた。「老大爺」が気持ちの中にいつまでもひっかかった。

(地下鉄2号線威寧路駅ホーム)
夜遅いので車内は珍しくよくすいている
6年ぶりの再会
上海浦東空港は一昨年第二ターミナルが出来た。ANAはこの新しいターミナルビルに入っているが、JALは昔のままである。あたらしいターミナルが出来てから何度も上海に来ているがずっとJALばかり利用しているのでまだ行ったことがない。今回は早めに空港に着いたのですぐチェックインして重い荷物を預け、手軽るになって行ってみようと思い、急いで手続きを済ませた。
大勢の人をかき分けて2階に降りるエスカレータまでたどり着いたところで、「先生‼」と言って後ろから抱きついてきた人がいる。振り返って見ると以前西安で一緒に仕事をしていたガイドである。「エーイ、ニイハオ、ニイハオ、ハオジョウプチエンラ(好久不見了)」と改めて抱き合った。
日本に帰るお客様を見送りに来たのだという。ここで立ち話もなんだからお茶でも飲みながら・・、と喫茶コーナーに誘った。
6年ぶりの再会である。はじめて会ったのは彼女がガイドになって3年目くらいの時だった。西安の有名大学を出た才媛で、人目を引く美人だった。今はさらにきれいになり、大人の女性を感じさせる美人になっている。
西安では仕事上でも人間関係でもいろいろ悩みがあったようで、あるときふっと西安からいなくなった。当時はどうしたのだろう、どこに行ったのだろうと少しは心配したけれど、すっかり忘れていて、思い出すこともなかった。
「こんな大きな空港の、人山人海(大勢の人)の中で会えるとは偶然の極み、私たちは赤い糸で結ばれているのかもしれないね」と言ったら、彼女は「いえ、赤い太いロープで結ばれているのでしょう」と言って笑った。そして「空港は大きく人も多いけれど、私も先生も日本行きの手続きやお見送りに来たので、お会いしたのは必然の偶然と言えるかもしれませんね」という。
「今は杭州でやはりガイドをしています」と言って今の自分の状況を話してくれた。「西安空港へ先生と一緒にお客様を迎えに行った時、空港の駐車場の片隅で、先生にいろいろ悩みや愚痴を聞いていただきました。今も先生の忠告やはげましを覚えています」と言う。今の西安空港ターミナルビルが出来る前の、古い空港の時の話である。
「今はどう?」と聞いたら「今も悩みいっぱい」という。「結婚は・・」と聞くと「まだです。それも悩みのひとつ」とのことだった。
地下鉄の中で「老大爺と言われた。がっかりしている」と言うと、「中国ではお年寄り呼ばわりするのは尊敬の表現。先生には立派なオーラーが出ていたのでしょう」と言うので、「そうだったかも知れない」と二人で大笑いした。
搭乗時間ぎりぎりまで彼女と話していたので、結局第二ターミナルビルには行けなかった。
JL894便は定刻の13時25分に駐機場を離れて、すぐ飛び立った。機内は満席。ダークスーツにネクタイのビジネスマン風の人が多かった。派手な格好の私は少し浮いていたようである。
ほぼ定刻17時30分に関空に到着。このまま踵を返してもう一度中国に行きたくなった。
下の写真は民主党代表選挙で菅代表が勝ったことを伝え、キャスターとアナリストの討論を伝える中国中央テレビ(CCTV)の画面。
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2010-10-05 07:28
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2010年9月15日
地下鉄
人民広場駅
上海駅近くにあるホテルに用事があり、朝、地下鉄2号線に乗って出かけた。
人民広場駅で上海駅方面に行く1号線に乗り換えたが、人民広場駅の広さにはおどろいた。
この駅は1号線、2号線、8号線の接続駅であるが、2号線から1,8号線のホームに行くのには随分歩かなければならない。途中で一服したくなるほど遠いのである。
また利用客もけた違いに多い、2号線の改札へは上り下りそれぞれエスカレータが3本ずつ計6本並んでついている。さらに言えば駅から地上への出入り口は18か所もあって出入り口を探し回るのに一苦労する。今回、何度かこの駅を利用して乗り換え、乗車、下車したが、いつもくたくたになった。
世界一
大きいと言えば上海の地下鉄はことし13号線が部分開通し、総延長が420kmになったというニュースが、確か夏の初めに日本の新聞でも報じられた。地下鉄の線路の長さがロンドンを抜いて世界一になったのである。
長さだけでなく網の目のごとく細かく張り巡らされた路線、濃密な運用、乗客の多さという点では上海の地下鉄は確かにすごい。上海がアジアを代表する近代的大都市だということはこの地下鉄をみれば納得する。
福州路
午後はまず福州路に行き、新華書店に入って本を見た。

(新華書店)
福州路は大きな通りである。よく知られているように昔は四馬路と呼ばれた通りで、通りの西寄りは、かつては<青い夜霧に灯影が紅い>という歓楽街であったが、東側は昔から中華書局や商務印書館という大きな出版社などがあった文化の香りの濃い街だったという。今も新華書店、外文書店、古書店など本屋さんが多い。
新華書店では本を10冊買った。持って帰るのに重くて大変だった。夜になって肩や手が痛くなった。

(上海博物館)
思い本を持って上海博物館にもに行って来た。本屋と行く順番を間違えた。本を買う前にいけばよかった。
博物館は以前は確か入場料を払って入ったが、いつ変わったのだろう、今回は無料だった。
食べもの

(街のレストラン)
今回の旅行中、14日の昼と夜、15日の昼は一人で、街の大衆食堂というべき小さなレストランで食事をした。蓋澆飯のメニューが西安とほとんど同じであったことにおやおやと思った。蓋澆飯というのはご飯におかずを乗せたもの、言わば日本の「丼物」のようなものを言う。市民が食べる普通の、一般的な料理である。「家常豆腐」「魚香茄子」「魚香肉絲」「木須肉」「洋葱牛肉」「青椒肉絲」「回鍋肉」などなど、お店の中に掲示している20種類以上もある料理名は西安と同じで、料理の材料も作り方もほぼ同じであった。以前成都に行ったが、成都でもやはり西安とほとんど同じだった。要するに中国の都市の市民の食べているものは全国的にほとんど同じなのかもしれない。
ただ、西安と違うことも少しある。上海では皿にご飯を盛り、その上のおかずが載せられて出てくる。
蓋澆飯という呼び方からすれば上海のこのやり方は当たり前のことである。しかし西安ではおかずはおかずで皿に、ご飯はご飯でどんぶりに盛られて別々に出てくる。西安の方が食べるのに手間がかかるではないかと思われるかもしれないが、西安ではご飯は何杯でも無料でお代り出来るので、いっぱいのおかずでご飯が何杯でも食べられる。上海のやり方ではおかずとごはんが一緒になくなり、ご飯のお代りが出来ない。しみったれたことをいうようだが西安の方がいい。
第二には味付けがかなり違う。上海の料理は老抽という醤油を使っているためなのか色が濃く、からそうにみえる。しかし食べてみるとそうでもなく、むしろ少し甘みを感じる。そしてうまみを感じる。西安は塩辛さが上海より強く、味が単純な気がする。
一昨日娘夫婦と浦東のレストランで食べた「紅焼肉」も、色は大変濃かったけれど、西安のそれに比べると塩辛さが格段に薄く、そのくせ旨味がしっかりしていた。

(紅焼肉)
あるお店で「魚香肉絲」を注文したら「辛子」を入れるかというので「入れてくれ」と頼んだ。出て来たものを食べて頸をひねった。かすかに辛い程度である。口に入れたものを噛むのをやめ、神経で口の中を探って調べてみなければわからないほどの辛さである。「辛子を入れたのか」と店員に聞いたら、厨房に確認して「入れた」という。私は何も言わずに食べたが、西安だったら客と店の喧嘩になっている。西安で「辛子」を入れるということは料理の中に赤いトウガラシが数えられないほど入っていて、料理を口に入れてかむとともに強烈な刺激が口の中に広がるようなものをいう。
小龍包
夜は娘と二人で食事に出た。
「せっかく上海にいらっしゃったのですから、南翔饅頭店にでも行きますか」と娘が言う。「南翔饅頭店」は有名なお店で、上海の観光ガイドブックには大概載っている。
「せっかくですが、豫園のような人の多いところは行きたくありません」と答えたら、南京西路に支店があるという。それで地下鉄2号線に乗って行った。
明るくていいお店である。たくさんお客さんが入っていたが、満員というほどではなかった。レストランというものは満員、満席というのもいやだけど、全く客が入っていないのも頼りなくて、ひょっとしたら問題があるお店ではないかと不安になる。この日このお店はちょうどいい席の埋まり加減であった。
店の中に出している掲示に東京、大阪、福岡、ソウル、香港、インドネシア、シンガポールに支店を出していると書いてあった。なかなか元気なお店のようだ。
菜単(メニュー)をひらいたらおいしそうな肉料理が目に着いたのでしばらく見ていると、娘が私を睨んで「何を食べるつもり。南翔と言えば“小龍包”でしょう」と言ってさっさと注文した。おっしゃる通りである。
蒸籠に入ったアツアツの“小龍包”が出て来た。ふうふういいながら食べたが確かにおいしい。肉のうまみが舌に滲みる。病みつきになりそうである。

(西安の灌湯包)
また西安のことをいうが、西安の北院門路に「賈六」というお店があり、ここでも小龍包”のようなスープの入った包子を商っている。西安では「灌湯包」と呼んでいるが、こちらの方は“小龍包”より少し大きい。また、回族のお店だから中の具はヒツジであるが、おいしさは“小龍包”といい勝負である。食べながら「賈六」を思い出した。
ついでに写真をとっておこうと思ってポケットに手を入れたらカメラがない。忘れて来ていた。したがって有名な南翔の“小龍包”の写真はない。
月 餅

(豪華?月餅)
帰りにスーパーによって月餅を買った。
来週は中秋節だからスーパーには月餅がたくさん並べてあったがびっくりするほど高いものはなかった。それでも最高は200元前後である。
娘はおかあさんに、と言って四角い缶に入ったちょっと豪華なものを買ってくれた。
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2010-09-25 07:11
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2010年9月14日
武 昌 路
宗田 弘 さん
日中友好協会兵庫県連合会の前々会長、宗田弘さんが亡くなられてもう4年になる。
私は長い間宗田さんと同じ会社で働き、労働組合の活動でいろいろ指導をしていただいたが、生き方の上でも大きな影響を受けた。
宗田さんは労働組合運動では労使協調路線に反対するいわゆる左派のリーダーとして活躍された。ただ非常に個性的な人で、その強烈な個性故に同じ左派の仲間の中でも、宗田さんを煙たがって敬遠する人が多かった。
しかし私はどういうものか宗田さんとは気が合って、敬遠も遠慮もしなかったし、一緒によくお酒も飲みに行った。飲めば労働運動や政治のことなど時間を忘れて語り合ったが、最後はいつも中国の話になった。私も宗田さんも中国が大好きなのである。
宗田さんは上海で生まれ、中学校を卒業するまでおられて、戦後帰国された。宗田さんにとって上海はかけがえのない故郷なのである。それだけに上海への思い入れは強く、日本に帰られてからも上海時代のお友だちや戦争中上海にいらっしゃった人たちとずっと交流を続けていらっしゃった。一緒に飲んでいる時にもよく上海の話が出た。
違和感
戦争中上海や天津などの日本租界におられた方、あるいは大連や瀋陽、長春など旧満州の都市部におられた人の多くは、当時のことを楽しそうに、すばらしい思い出として話をされる。力ずくで押し入った外国でのことだから思い出にもいろいろ影があって、素直に郷愁に浸れないだろうと思うのだが、郷愁というものは悲惨な事実や歴史を隠し、過去をロマンチックにまたセンチメンタルに飾るもののようで、その方たちはご自分が住んでいたところのすばらしさや、楽しいことばかりを誰はばかることなく嬉々として話される。あるいはかつて住んでいたところをわざわざ訪ねられて、現地で大はしゃぎされる人もいらっしゃる。
私は侵略地での思い出をうれしそうに、自慢するが如く話をする人に出会うたびに複雑な思いになる。幼いころの思い出は誰にとっても大切なものであり、高まる気持ちを抑えられないほど懐かしいものであるということはよくわかる。しかしどんな懐かしい大切な街であっても、それらの人々が懐かしむ街は本来中国人の街であり、故郷である。日本人は彼らの街、彼らの故郷の上に力づくで自分たちの街をつくり、思い出をつくったということを忘れてはならない。それらの人々の思い出と郷愁には中国人の苦しみや恨みが絡んでいる。「上海帰りのリル」の歌詞にあるような“あまい切ない 思い出だけを 胸にたぐって探して歩く”ということではいけない、とずっと以前から思っていた。
いま上海や満州を懐かしんでいるほとんどの人には、当時の侵略について責任はないだろうが、だからと言って中国に対する郷愁を遠慮なく思うままに話をするのはどうだろうと、過剰な反応かも知れないがそう思うのである。
語らなくなった宗田さん
24、5年前居酒屋で一緒に飲んでいる時、宗田さんが楽しそうに上海の思い出話をされた。その話の途中で、私は自分のそういう気持ちを語って宗田さんの話の腰を折ったことがある。青二才の生意気さが言わせたのか、酒が言わせたのかわからないが、いま考えてもあの宗田さんに大胆にもよく言ったものだと冷汗三斗の思いがする。言い終わったとたんしまったと思い、「君にそんなことを言われんでもわかっとる。日本の中国侵略のことや中国人の苦しみや思いをワシが忘れたり、無視したりしているとでも君は思うとんか」と言下に怒鳴られるものと覚悟した。
しかし宗田さんは「そやな・・」と言ったきり口をつぐんだ。
その後も長い付き合いをしたが宗田さんはその時以後私には上海のことを話さなくなり、結局私は宗田さんが上海のどこに住んでいたのか、どういう生活をしていたのか、どういう思い出があるのかなどはほとんど知らないまま永遠の別れをした。
薦められた一冊の本
ただ上海のことで言えば、その後一度だけ私に芥川賞作家、林京子さんの「上海」という本を薦めてくださったことがある。林京子さんは宗田さんと同じくらいのお歳である。女学校の2年生まで15年間上海にいらっしゃったそうで、「上海」という本は林さんが36年ぶりに上海を訪ね、昔住んでいたところや思い出の場所をみてまわったことを書いた紀行文である。手放しで郷愁を語るのでなく、当時の中国人のことも思い出し、郷愁で高ぶる心をおさえながら書いたすばらしい文章である。宗田さんは林さんの本に共鳴し、俺の心はこれだと私に伝えようとしたのではないかと思う。
昨年の日中友好協会姫路支部の中国旅行は、最終日に上海に泊った。またこれも昨年のことだが、私の主催で行ったチベット旅行でも第一日目は上海に泊まった。手配してくれた旅行社はそれぞれ違うし、こちらから注文をしたわけでもなかったのに、両方ともホテルはかつて「日本租界」があった魯迅公園近くの曲曜路と、多倫路の近くの溧陽路に取ってくれた。
昨年は宗田さんの三回忌であった。ホテルの窓から町並みを見ながら、私は宗田さんを思った。
両方の旅行団にはそれぞれ宗田さんを知っている人がたくさん参加していた。三回忌の年に、たくさんの友人、知人がかつて宗田さんもおられた「日本租界」と称されていたところでひと夜を過ごすことになったのは、なにかのめぐりあわせだろうか。宗田さんの心はまだ虹口のあたりをうろうろしているのかもしれない。その漂っている心が私たちを呼んだのかも知れない、と思った。
武昌路

武昌路1
宗田さんが住んでおられたところは奥さんに教えていただいた。
はじめは越界路の今の動物園の近くに住んでおられて、のちに虹口の武昌路に移り、武昌路353号に帰国するまでおられたという。
宗田さんは定年退職で職場を離れられてからも地域でいろいろな活動に参加されていて自由になる時間があまりなかった。また晩年は大病をされ、大きな手術をされて随分体力が衰え、旅行をするのが難しいほどになられた。したがって中国旅行はあまりされていない。ただ、大病の手術のあと、3、4度中国旅行されている。それらの旅行の中で上海にも来られている。しかしいずれも特別の目的や任務を持った旅行だったようであり、また体力的なこともあって、故郷の武昌路を歩き回られるということは出来なかったようである。

武昌路2
私が今度武昌路に来たのは宗田さんの上海での足跡を探すためではない。
長い間のつきあいで宗田さんの考えや、思いは直に聞かなくても私にはわかるような気がする。武昌路について宗田さんは「大切な思い出の街だが、大切なのは自分の思い出でなく中国人の街の復活である。自分の思い出は否定されてもいい、武昌路が中国人の手で中国の街らしく復活し、発展し、活気に満ちた楽しい街になっていてほしい」と願っておられたに違いないと私は確信している。今日は宗田さんに代わってそれを確かめに来たのである。
下 町
地下鉄天童駅から西北へ10分ほど歩いたところで「武昌路」という標識が目に入った。
通りは2車線程の広さで、狭い歩道が両側についている。二階建ての家が軒を連ね、一階部分はお店である。肉屋、八百屋、活魚屋に美容院、クリーニング屋に大衆食堂、ありとあらゆるお店が並び単車、自転車がひっきりなしに走りまわっている。通りにはまた、ところどころに門がある。門を入れば細い路地の里弄である。

里 弄
全くの下町。人々の熱気と活気が充満した下町である。日本の街のようにシャッターが下りている家も、空き家になっている家もない。租界同時の建物が残っているのかどうか知らないが、これこそ活気あふれる中国の下街である。
武昌路はいい街ですよ、と私は心の中の宗田さんに言った。

ただ、武昌路を東に向かって行くと長い塀がつくられたところがある。塀の向こうは広い更地である。また、先に行くと背の高いマンションとおぼしき建物の建設現場に行きあたる。街はどんどん変わっているようだ。何年かすれば高層建築が林立する街になっているかもしれない。
2、3年したらまったく変わってしまいそうですよ、ともう一度宗田さんに追加報告した。
下町といえば虹口区自体が上海の下町である。四川北路など大通りの両側には確かに大きな建物やショッピングセンターのようなものもあるが、一歩中に入れば小さな家々が軒を連ねている下町である。
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2010-09-20 08:20
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2010年9月14日
虹口区
昨夜、レストランで食事をしている最中に娘の電話が鳴った。彼女は眉間に皺を寄せて受け答えしていたが、電話を切るなり「病人が出たので明日代勤になった」と言い、明日出たら帰って来るのは明後日の夜だという。お父さんと世界博に行けなくなった。チケットはあります。一人で行けるでしょう。夜なら涼しいし、ひとも少ないので夜行って来たらどうですかと言う。行きたいけれど大勢の人の中を一人でうろうろするのは不安だからやめておくよ、と心にもないことを言って世界博行きをキャンセルした。娘はがっかりしていたが、私は思わず顔がほころんだのが自分でわかった。行くところは他にたくさんある、と彼女を安心させた。
魯迅公園

(魯迅公園)
朝早く、地下鉄3号線に乗って出かけた。
虹口足球場(サッカー場)駅で降り、目の前の魯迅公園に入った。
緑にすっぽりと包まれた公園である。面積は22kuというから明石公園の半分ほどもある広い公園だが、隅から隅まで人でいっぱい。ダンス、太極拳、秧歌舞、書道にコマ回し、京劇の「ナマオケ」などなど大変なにぎわいである。それぞれがマイク、スピーカを使ってい
るので何かのお祭りかと思うほど賑やかである。太極拳ひとつとっても24式、42式、48式、32式剣など随分たくさんやっている。
日本にはこうしてみんなで集まって一緒に運動したり楽しんだりするという文化がない。わたしの家の近くに先にあげた明石公園があるが、ごく僅かの人が公園の中にある剛の池の周りを走ったり、ウォーキングしたり、隅っこの方で柔軟体操をしたりしているだけで一日中閑散としている。
とくに最近日本人は他人とは距離をとり、内向きになって自分のことしか考えないようになっているようで、こういう大勢の人とともに何かをするということが煩わしいのだろう。
魯迅の墓のすこし手前の木立の下では24式太極拳を新しく始めるようとするグループがあった。先生らしい人がマイクを握って30人ほどの生徒たち、と言っても五十前後のおじさん、おばさんたちだが、彼ら彼女らを細かく指導していた。
その先生のところへ行って聞いてみたいと思った。どう教えるかという教授法でなく、どうしたらこんなにたくさんの人が集められるのかという人集めの極意である。私も10月から日中友好協会姫路支部で太極拳を教えることになっているが、当面の一番の悩みはどう教授するかということより、どうしてたくさんの生徒集めるかということである。
魯迅の墓

(魯迅の墓)
魯迅のお墓は公園を南門から入ると一番奥、北側の隅にある。折角だからお参りしていこうと思って行った。お墓の周りでも太極拳をしている。地下の魯迅もさぞかしやかましいことと思うが、中国の独立と人民の解放を求め続けて来た魯迅のことだから、人民たちの楽しいそうな声に包まれてきっと満足しているだろう。
内山書店址

(工商銀行)
魯迅公園の南門の前を東西に走っている四川北路をしばらく東に行くと道は南に曲がる。この曲がったところに山陰路という細い道がつながっている。その三叉路の角っこにある工商銀行がかつて内山書店があったところである。公園からは近い。内山書店址に来たのは二度目である。

(内山書店址を記すプレート)
朝早くからここに来たのはわけがあって一つには日中友好の大先達に敬意を表するため、もう一つはことし11月、日中友好協会姫路支部が岡山の内山完造さんの生家を訪ねるバス旅行をするので、その時参加者の皆さんにお配りする資料に入れてもらおうと思って写真を撮りに来たのである。
銀行の表の壁に内山書店の来歴を記したプレートと「上海紀念地点・内山書店址」というプレートもはめられている。銀行の中に入って左へ行った窓際にもかつての内山書店をかいた絵がかけられている。

銀行に入って、お客様を案内したり、説明したりと忙しそうにしている若い女性の行員をつかまえて写真を撮りたい旨伝えるとどうぞという。
その行員は私が写真を撮り終えるまでずっと私の後ろに立っていた。銀行強盗でもするのではないかと警戒しているのかと思った。人相が悪いのでそう思われてもしかないと納得していたらそうではなく、写真を撮り終わった私を2階にある内山書店の資料を展示している資料室に案内してくれた。
2階に資料室があるのは知っていたが、事前に申し込みしていなければ見せてもらえないと聞いていた。したがって以前来た時には見なかった。その後段取りが変わったのか、以前私が聞いたことが間違っていたのか今回は大変親切で、私が何も言わないのにわざわざ案内してくださり、恐縮した。
資料室を見ながら、内山さんの未来を見る目の鋭さ、的確さ、日中友好への確信と勇気に改めて敬服した。中国人にとっては恨み骨髄の日本人でありながらこうして顕彰されている、すばらしいことだなと改めて思った。

(内山書店に関する資料室)
私の知っている範囲では、戦争中活躍した日本人で今の中国で顕彰されている人は内山さんの他にもう一人いる。延安で日本兵の捕虜を教育していた野坂参三さんである。延安の革命博物館には彼の功績が展示されている。
ただ野坂さんのことを書くとどこかに差しさわりが出来て苦情が来てもいけないので、これ以上触れない。詳しく知りたい人は延安に行っていただきたい。
工商銀行から虹口足球場駅に戻り地下鉄に乗って四平路駅に行く。四平路駅で地下鉄10号線に乗り換え南へ。蘇州河近くの天潼駅で下車。すこし北東に歩いて武昌路に出た。
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2010-09-19 13:13
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2010年9月13日
長寧区
上海万博
上海には数えきれないほど行っているけれど、大概は空港を出ずにそのまま国内線に乗り換えて次の土地へ行ったり、空港を出てもすぐ鉄道やバスに乗り換えて他所の町に移動したりで、上海の街をゆっくり見て回ったことはあまりない。要するに私にとって上海はしょっちゅう行くけれど馴染みのない町なのである。
今回はその馴染みのない町をぶらぶらすることだけが目的で出かけた。
上海にいる娘が万博を見に来いと前からやかましく言って来ていたが、言を左右にして返事を遅らせていた。
1970年、大阪の千里で開かれた万博に私は二度出かけた。二度とも大変な人出で、アメリカ館やソ連館など有名なパピリオンには入れなかったばかりか、食事もろくに出来なかった。とくに9月の何日か忘れたが、万博最後の土曜日に職場の同僚12,3人と出かけた折は想像を絶する人出で、閉門時間が来ても会場を出ることが出来ず、会場を出たのが午前1時半、家に帰ったのが午前4時だった。一緒に行った友達の何人かは帰ることが出来ず万博会場に泊まった。
それがトラウマになって・・というと大げさだけど、要するにそれに懲りて博覧会には行かないと固く決意した。それで神戸の沖にポートアイランドが出来たのを記念してひらかれたポートピア博にも、1990年に開かれた大阪鶴見の花博にも、2005年の愛知万博にも結局行かなかった。
テレビで見ていると上海の万博は大変な人出である。大阪の万博を超えているようだ。それはそうだろう、とにかく人の数がめちゃくちゃ多い国だから・・。
したがって本当は行きたくないのだが、無下に断るのも悪いと思って返事を曖昧にしていたのである。上海の娘にとっては自慢の催しだから来て観てほしい、というより当然来るべきだと思っているようだ。何度も督促のメールが来ていたが私がいい返事をしないものだからとうとう業を煮やしたのか電話がかかって来た。電話口に出ると「おとうさん、あなたは暇と口数だけはひと様より多い人なのに、なぜ何月何日に来るとはっきりと言って来ないの。どこか悪くて寝込んでいるの」といきなり叱られた。しかたなく近々行くと約束した。
9月13日、関西空港からJL891便に乗って上海に出かけた。

関西空港はきれいで、こじんまりとしていていい空港である。ただ、こじんまりと言えば聞こえはいいが、北京空港や上海の浦東空港、あるいは韓国のインチョン空港と比べると話にならないほど小さい。ターミナルビルなどちょこちょこっと歩いただけで隅から隅まで見て回れる。早めに空港に着いたら時間をつぶすのに難儀をする。大阪の橋下知事は関西空港をハブ空港にしようと躍起になっておられるが、こんな小さな空港で大丈夫なのだろうかと心配になる。
飛行機は定刻に飛び立ち、定刻に上海浦東空港に着いた。
上海は秋雨前線が停滞していてこのところずっと雨続きだという。到着した時も大変な雨で、飛行機は着陸したあとものすごい水しぶきをあげて走った。滑って停まらずこのまま滑走路を飛び出してしまうのではないかと心配したが、そういう大げさなことにはならなかった。
リニアモーターカー
リニアモーターカー
前日、娘が迎えに行くと言って来たが断った。
空港に到着したらすぐクルマに詰め込まれて移動というのは団体旅行だけで結構。一人旅は地元の交通機関を利用するに限る。それにもう一つ断った理由がある。リニアモーターカーに乗りたかったからである。
今年になって上海地下鉄2号線が浦東空港まで延ばされたので、時間はかかるが地下鉄だけでも娘のところに行ける。しかし私は根がお調子者だから、リニアのような変わったものが大好きである。それでリニアを使って龍陽路駅まで行き、そこで地下鉄に乗り換えた。
威寧路
長寧区のマンション群
娘の家は上海都心からすこし西に行った長寧区にある。地下鉄2号線威寧路駅のすぐ近くである。長寧区は以前から経済開発区として開発されて来たので、外国企業のオフィスが集中していて、外国人居住者も多い。とくに古北路には日本人が集中していると言われているし、日本の上海領事館も長寧区にある。
最近はさらに天山路を中心に娄山関路や威寧路一帯の開発が進み、高層マンションが林立している。言わば上海発展のシンボル地域のひとつでもある。
地下鉄に乗る前に電話していたので駅まで迎えに来ていた。
威寧路駅を地上に出たところで小さな露店が目にとまった。台の前に「章魚小丸子」と書いた暖簾のようなものがぶら下がっている。「章魚」とは蛸のこと、「小丸子」は小さな団子ことで、要するに「タコ焼き」である。驚いた。こんなものを中国人が食べるのだろうかと不思議な気がした。
たこ焼き
彼女の住宅区の中には子供用の広場がいくつもある。住宅区に入ったすぐのところにある広場ではヨーロッパかアメリカか知らないが西洋のご婦人が5,6人子どもを遊ばせていた。「外国人がたくさん住んでおられるのよ」と娘がいう。しばらく行くとまた広場があってこちらでは中国人と思しき若い奥さん方が4、5人子どもを遊ばせていた。通りすがりに一人の奥さんが子どもを叱るのが聞えた。その瞬間「おやっ」と思った。どういうことを言って叱ったのか内容は全く分からなかったが、まちがいなく日本語の響きである。足をとめた私の心の中を察したのだろう娘は「日本人よ」と言い、日本人もたくさん住んでいらっしゃるとのことである。なるほどそれで「タコ焼き」が売れるのだろうと得心した。
ローン月8000元・・
娘の住まいは26階建てマンションの6階。広さは138u、購入価格は240万元という。中国のマンションはコンクリートむき出しのまま売られていて、内装は購入者負担なので本当はもっとお金がかかっているだろう。支払いは毎月8500元という。思わず「えーっ」と言った。びっくりした。今年5月、広東のホンダの下請け工場で起こったストの要求は賃上げだが、ストをした労働者の賃金は月額1500元である。ストが成功して賃金は2000元となった。そういう現実を考えると毎月8500元というのは尋常でない。
まさに「房奴(ファンヌ)」だねと言ったら「そうよ」という。
房奴
中国語で家屋のことを「房子(ファンズ)」あるいは「房屋(ファンウ)」という。「奴」は「奴隷(ヌーリ)」の「奴」である。家のローン支払いが収入の半分を超えて四苦八苦している人を揶揄して「房奴」すなわち「住宅の奴隷」というのである。
娘は「中国では労働者は国家の主人公だけど、一方で住宅開発業者の奴隷なの」と言って笑った。
中国では若い人が家を買う。日本の私たちの年代の労働者は、三十代後半から四十代初めに家を買う人が多かった。頭金をそこそこためて買うとなるとそのトシになるのである。
ところが中国では結婚してすぐ家を買う。娘夫婦がそうである。あるいは家の購入の目途を立てて結婚する、すなわち結婚と同時に買う人も多い。西安で私と同じ旅行社にいた若いガイドさんがもう何人も結婚したが、皆さん家を買ってから結婚した。
なぜそういうことが出来るのか。
1979年以降に生まれた人は「一人っ子政策」で兄弟がいない。要するに小さい頃はお菓子の取り合いで喧嘩をし、トシをとってからは親の財産分けをめぐって世間様から後ろ指されるような大喧嘩する、というようなことがない。親の援助がまるまる一人でもらえるのである。親も一人っ子だから可愛くて一も二もなく助ける。それで若くして頭金の都合がつくようだ。
すこし古いが手元に2008年の統計がある。同年の中国の個人消費のローンは3兆7000億元で、2000年の8倍になっていて、そのうちの84%は住宅ローンだという。不動産バブルがはじけるのではないかという心配も語られているが、住宅価格はまだまだ上昇し、今年4月の都市の住宅価格は前年比12.8%上がっているという。銀行の住宅ローン貸出残高も上昇の一途である。政府は最近こうした加熱気味の住宅購入熱を冷ますため頭金条件とローン金利を引き上げた。
黄浦江
私の手料理ではご不満でしょうから、今晩は外で食事をしましょうかと娘がいう。ご不満ではないが、いつもは行かないすこし高級なレストランもいいなと思ったので出かけることにした。彼女の夫君も非番で家にいたので3人で出かけた。

行ったのは外灘の向こう岸、上海のランドマーク東方明珠テレビ塔のすぐ北側にある正大広場という大きなショッピング・娯楽センターの最上階にあるレストランである。赤い灯、青い灯を映した黄浦江の水面が見える席に座って上海の夜景に見とれた。
東方明珠塔広場
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2010-09-18 11:22
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先日友人のみなさんと一杯飲んでいた時、最近の中国の争議多発の話が出て「この頃中国はどないなってんねん」ということになった。その折私はもうかなりお酒がまわっていて、十分なる発言が出来なかった。しかしいまは酔いもすっかりさめて“賢い”自分に戻っているので改めて皆さんに私の見方をお話したいと思う。皆さんにもう一度居酒屋に集まっていただいてじかにお話すればいいのだが、何分お金もかかるので、貧しい友人の皆さんに集まっていただくのもなんだから、ブログでみなさんに私が把握している中国の最近の労働争議や労働組合のことを簡単にお話したい。
「もうそんなことはよう知っとう」という人は無視してください。
日系企業でスト多発
今年5月17日、中国広東省仏山市にあるホンダが100%出資している部品製造会社でストライキが起き、広州のホンダの組み立て工場が操業停止に追い込まれた。このストは6月8日やっと解決をしたが、やれやれというまもなく、9日には別の部品工場でまたストが発生、組み立て工場は生産再開する間もなく再び操業停止に追い込まれた。
6月にはまたデンソーの部品工場がストに入った。その製品を使っているトヨタの天津工場(6⁄18)や、広州工場(6⁄22)が操業停止になって完成車組み立てが出来なかった。
さらに広東省の日産の工場(6⁄17)やオムロン(7⁄21)、ユタカ技研もストで操業停止になった。また西安にあるブラザーミシンの工場(6⁄3)でもストが起こり、こちらも操業停止になった、などなど中国全土で日本資本の会社、計の32社がストのため停まって新聞などで大きく報じられた。
この時期ストが行われたのは日系企業だけではなく、台湾系資本のクルマ部品工場、電子部品会社、スポーツ用品メーカをはじめ他の外資系企業10社でもスト行われた。
いろいろ情報を探ってみると、ストライキに至るまでに解決した騒ぎもたくさんあったようだから争議の数はもっと多かったに違いないが、何分中国当局により労働争議に関する報道は禁じられていたので詳しい、正確なところはわからない。
ストの特徴
ところで今回の争議多発の特徴はというと、第一には争議の動機、すなわち労働者側の要求が賃金引き上げであり、労働条件の向上であることである。
中国では今までにも労働争議はもちろんあった。しかしその動機は賃金の未払いや過酷な労働条件であった。今回の争議が以前のそれと違うところは第一には賃上げ要求が前面に来ているころである。少ない賃金でも我慢して働く、とにかく賃金をきちんと払ってくれというような要求レベルでなく、経済発展に伴う物価上昇、生活レベルの向上に見合う賃金が欲しいという新たなレベルの要求と闘いである。
ところでストの結果というと、闘いは功を奏してホンダでは今までの標準的賃金(月収)1500元が2500元に引き上げられた。自殺者が多発した台湾系の富士康では900元が1200元に引き上げられ、さらに10月から2000元にすることで妥結した。その他ストにあった各社とも賃上げを認めている。
こうした賃上げへの要求の高まりを抑え込むのは難しくなっているようで、今後3年の間に外資系全体では賃金は14〜17%上がるだろうという見方もある。
内需拡大
今年4〜6月期の中国のGDPは日本のそれを上回ったという。中国の経済規模の拡大はめざましい。今まで中国は世界の工場として労働集約型工業の誘致と低賃金容認、“元”安為替政策の3本柱で経済を拡大して来たが、もはやそうした発展途上国型のやり方だけでは日本を超える世界第二の経済は維持できないようで、産業構造転換、 “元”高容認の為替政策、内需拡大などによって経済成長維持が図らなければならないという。賃上げについて言えば、こうした経済の構造転換のためにも必要なのである。
温家宝首相は6月26日、視察に赴いた浙江省で今回の争議多発について「賃金上昇は認められなければならない」とこれを容認する発言をしているが、この発言はこうした経済をめぐる状況を認めるものだろう。もっとも温首相はすぐことばをつないで「(・・がしかし)賃上げペースは生産性向上と一致しなければならない」と労働者にも釘を刺している。
労働条件の改善について言えば、劣悪な労働条件の改善だけでなく、福利厚生の充実を視野に入れた労働条件向上、とりわけ自殺者が多発した台湾資本の電子部品製造会社“富士康”などのように労務管理改善などが強く求められたようになるなど、先進国並みの労働条件改善を要求しているのも最近の特徴であろう。
工会排除と連携
今回の争議の第二の特徴は争議が相互に影響しながら拡大していることではないだろうか。争議は今までのような地域的、散発的なものでなく、同じ時期に、全国各地で行われている。これは驚くべきことである。
しかも、中国の既存の労働組合である工会を排除して経営側と集団交渉を行って成功しているのである。
このあたりが中国共産党と政府が一番気にかかることだろう。
自主労組・・
そもそも中国でストライキが許されているのかという疑問があろうかと思うが、これが微妙。
1975年に改正された中華人民共和国憲法ではストライキ権は認められていた。しかし、1985年の改正憲法ではこの条項が削除された。したがってストライキ権は認められていないという説があれば、いや認めないという条項がつくられたわけでないのでストライキ権は否定されていないという解釈もある。いずれにしても党も政府も労働者のストライキにはいい顔をしていない。
このまま行けば遅かれ早かれ工会とは別の自主労組が全国的に結成されそう様相である。
1989年の天安門事件の際の学生、労働者、民衆の要求の一つはインフレによる実質賃金あるいは収入切り下げの補償、すなわち賃上げだった。その闘いの中で北京で自主労組がつくられたことがある。自主労組は北京以外の都市にも作られたようだが、すぐ解散を命じられた。しかし、今度はもっと大規模な運動になりそうで、もしそういうことになれば簡単には解散させることは出来ないだろうし、中国の労働、政治、社会に大きな影響が出るだろう。
工会の動き
既存の労働組合、すなわち工会の中央指導組織である“全国総工会”はこうした労働者の争議やストには批判的である。事態の鎮静化を図るために躍起になったようだ。同時に自らの組織の強化を図って6月4日傘下組織に次のような通達を出している。
(1)外資系、台湾香港資本系企業など非国営企業での労組(工会)の組織化を進める
(2)出稼ぎ労働者の工会への加入促進に取り組む
(3)党の指導のもとでの工会の運営を徹底させる
(4)労働者への思想、政治工作の強化を図る
(3)と(4)は工会を拡大しても、あたらしい労働者の加入によって工会が“弱体化”することを指導層が恐れていることを示すものだろう。
中国の争議と日本の実情
日本ではいま非正規労働者と言われる労働者が全労働者の三分の一になっているという。また、一生懸命働いても年収が200万円程度という労働者がたくさんいて、“ワーキングプア”なることばがごく普通に使われている。経済大国と呼ばれ、自任している日本で多くの労働者が生活も人権も希望も踏みにじられている。
しかし、こうした状況を変えようという労働争議もストライキもいまの日本ではほとんど目にしない、耳にしない。厚労省の統計によると2008年におこなわれた争議行為を伴う争議は計112件、争議参加者は10万人。2005年はそれぞれ304件、16万人だったから3年の間で三分の一近くに減っている。なぜだろう。
争議やストが難しい中国で争議やストが頻繁に起こっているというニュースを見るたびに、日本の社会はゆがんでいるのではないだろうかと思う。
日本も中国も今こそ労働組合の真価が問われていると思う。中国の労働組合、工会は今何を考えているのか、そもそも工会はどういう組織なのかということを、日を改めて書きたい。
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2010-08-20 07:20
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論語、陽貨篇に「(鄙夫は・・)其の未だ之を得ざれば、之を得んと患う、既に之を得れば、之を失わんことを患う、苟しくも之を失わんことを患うれば、至らざる所無し」
という一節がある。
平たく言えば「(つまらないやつは・・)欲しいものが手に入らないときは手に入れようと躍起になり、手に入ったら入ったで、なくなりはしないかとやきもきする。また折角手に入ったものがなくなるのではないかと心配になると、見境なしになんでもやりかねない」という意味である。
この一節から「患得患失」(ホアン ドゥ ホアン シ)ということばが生まれた。
ことばの意味は「自分の個人的利益だけにこだわる」ということである。
離 党

(写真:辻元議員離党記者会見・朝日新聞7・28)
先だって辻元清美衆議院議員が所属する社民党を離党すると表明して、マスコミを賑わした。
「日本の政治はいま危機的状況にあり、政権交代を逆戻りさせてはならない。反対ばかりでは日本を変えることはできない」と暗に社民党を批判し、それが離党の理由だとおっしゃった。
反対ばっかりではいかん、ということは自民党が政権にあった時、自分たちの悪政に野党を引っ張り込むためにしょっちゅう言っていたことばで、それを辻元さんの口から聞くとは思わなかった。
要するにご自分も一員だった社民党は反対ばかりして来た、あるいはしている非生産的党だということを認めたのだろう。それで党に三行半をつきつけて、自分の方から飛び出したということのようだ。
また辻元さんは「野党にいては政策実現が出来ない」ともおっしゃっている。
だからさっさと民主党に入るのかと思えば、無所属で活動をするとのこと。
そしてその一方で「社民党は日本の政治には必要な党である。がんばってほしい」ともおっしゃる。
言うことが支離滅裂である。どないなってんねん・・と言いたい。
「そんなに大切な党なら出んかったらええやないか。自分が先頭になって頑張ったらええんとちゃうんですか」と申し上げたいような思いを反芻しながら、彼女の離党の弁明会見をテレビで見た。
大切なのは方向
辻元さんは民主、社民、国民新党の連立政権で、国土交通省の副大臣につかれ、日本航空の経営再建問題や、ゴールデンウイークの分散化などに取り組み、テレビでもその活躍ぶりがたびたび報道されていた。
日本丸という船の操舵室に入って行政の舵取りの実務に携わり、面白さを感じたようだ。日本丸という船を動かすのは理屈だけではだめだ。現実の諸条件に向かい合い、妥協もすることだ、ということを身を持って認識されたのだろう。
その通りである。現実に政治を動かすということは柔軟性と一定の妥協が必要である。
しかし辻元さん、大切なのは日本丸の行く方向ではありませんか。
辻元さんがすり寄ろうとする今の民主党の体質と政治は、たとえば鳩山、小沢氏の不透明な政治資金問題、アメリカべったりの安全保障政策と基地問題、旧態依然の予算編成、全く改善されない年金、雇用、高齢者問題等々どれをとってみても、すべてが旧来の自民党政治のままではないか。辻本さんが大声で叫び、目指してきた方向とは真反対ではないか。そのことを問わず、ただ船を動かすことだけに興味を持っていていいのだろうか。
確かに政治には妥協が必要だろう。しかし、その向かう方向を問わず、やみくもにとにかく妥協もありだなどと得心していてはいけない。
反対ばかりではいけない、と言ったかどうか覚えていないが、まったく目指す方向の違う自民党と組んでというか、取り込まれてというか、道を誤り、多くの国民の期待を裏切りって挙句の果てに少数政党になってしまった社会党のことが、辻元さんと二重写しになって思い出される。
涙のわけ
もうひとつ気になることがある。
普天間基地移設問題をめぐって社民党が連立政権離脱を表明、辻本さんは国交省副大臣をしぶしぶやめた。その折彼女はテレビカメラの前で涙を流した。その涙は連立政権が破綻したことに対する残念の涙でも、沖縄の人々の無念さを思っての怒りの涙でもなく、自分が副大臣をやめる悔し涙であったことは一目瞭然であった。
彼女の頭には公約を反古にして沖縄の人々を裏切った民主党幹部への怒りは全くないようで、せっかく手にした地位と名誉を捨てることへの悲憤だけしかないのがよくわかった。
要するに彼女の怒りの矛先は国民に嘘をついた鳩山さんでなく、連立離脱を決意した福島さんに向っていた。
猟 官
辻元さんの離党はなぜ今なのかも気にかかった。
9月中には民主党の代表選挙があり、そのあとすぐ内閣改造が行われるだろう。辻元さんの離党はそのスケジュールにあわせて行われたものに違いない。明らかな猟官行為である。
選 挙
さらにもう一つ、彼女の離党の理由はこの次の選挙で当選するためだと言われていることも見逃せない。
福島瑞穂社民党党首が新聞記者のインタビューに答えて言っていた。「辻元さんとの話し合いのほとんどは彼女の選挙のことでした」と。
要するに辻元さんは連立政権を離れた社民党に居ては次の総選挙では当選できないことがはっきりしているので、民主党の歓心を買い、応援を得るために社民党を出たのである。
いろいろことばを飾り、もっともらしいことをおっしゃっているが、要はすべて自分の猟官と選挙のためのである。
これほどあさましい、「ジコチュウ」の、しかもこれほどはっきりしてわかりやすい行動は珍しい。友人や家族から鈍感が服を着ているような人といわれている私でもよくわかる。直情型の辻本さんならではの行動である。
まさに政治家でなく政治屋の所業ではないだろうかか。
患得患失
中国語では心変わりを「変節」「変質」「変心」などというが、意味は日本語とほぼ同じである。
辻元さんの場合「変節」というほど哲学的な内容はない。「変質」というほどの様変わりでもない。まあ「変心」という程度のものだろうが、その動機は打算である。冒頭に掲げた「患得患失」を絵にかいたような例である。
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2010-07-29 20:32
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中国では影絵芝居を「皮影戯(ピーインシー)」といい、影絵芝居の人形のことを「影偶(インオウ)」、あるいは「影人(インレン)」という。
ことし5月に行われた日中友好協会姫路支部の中国旅行の際、スルーガイドの宋艶麗さんがお土産としてツアーの全員に、小さな額に入った影絵芝居の人形のかしらをくださった。
日本から皆さんがいらっしゃる日の前日、宋さんからお土産を買いに行ってきますという電話があった。その時「お金がかかるので私の分は買わなくていいですよ」と言ったのだが、宋さんは私が無類の影絵芝居好きだということをよく知っているためか、それとも一人だけもらえなかったとあとでひがまれても面倒と思ったのか私にもくださった。
私が貰ったのは彩色していない「浄」のかしらである。「浄」とは敵役、凶暴な性格の人間、豪傑などの役を言う。因みに女性役は「旦」といい、男性役は「生」という。京劇の呼び方を取り入れたものである。
本当は欲しかったのでもらってうれしかった。

(宋さんのおみやげ)
私がいただいたものは実面陰刻という彫り方でつくられているもの、すなわち線を残して彫るのでなく、線を彫って面を残す陰刻のかしらである。額が大きく膨れ、鼻は丸く大きく盛り上がったいわゆる“岩顱”で、目の周りは透かし彫り、眼窩は勺子型という典型的な陝西皮影の「浄角」である。いい作品だと気に入った。
場所探し
話は変わるが、しばらくだが中国で旅行の仕事にかかわって来たということもあって、私は中国の小説や映画を見ると物語の舞台となっているところが気になる。この映画の舞台はどこだろう。華北か華中か華南か、華北なら何省のどこの町だろうなどとしきりに考える。
(陝西皮影・旦)
(陝西皮影・生)
(陝西皮影・馬靠)
中国の有名な映画監督、張芸謀さんの作品には名もない田舎を舞台としたものが多い。ついでにひとこと付け加えると、張芸謀監督はその田舎の何気ない、ありふれた風景をすばらしい、感動的な映像に仕上げる天才である。私は監督のそういうところが大好きである。
さて張芸謀監督の作品だが、舞台は何省のどこの町、あるいはどこそこの村だとはっきり明示しているものはあまりない。そこでこの作品の舞台はどこなのだろうと詮索するのがこれまた私の映画を見る楽しみの一つである。
「秋菊物語」「初恋のきた道」「あの子をさがして」「紅灯」などなど、映画を見た後場所探しをして楽しみ、見当がついたらもう一度映画を見て感動を新たにする。考えてみれば手間のかかる鑑賞法である。
映画「活きる」の舞台は・・
張芸謀監督2002年の作品「活きる」もその舞台が明示されていない作品である。
この映画の原作は現代中国文学を担う一人として諸外国で高い評価を受けている余華の同名小説である。
原作には主人公、福貴の村の少し離れたところに新豊という町があると書かれているが、新豊などという名前の町はあちらこちらにありそうである。新豊だけでは何省かわからない。したがって残念ながら原作を読んでも福貴にすんでいるところはわからない。
ただ、福貴が兵隊狩りにあって国民党の部隊にひきずり込まれ、北へひと月ほど歩いて安徽省に入ったとか、のちに解放軍に参加して長江渡河作戦に参加したとか、稲刈りの苦労や、戦友が江西省へ行ったとかという話が出てくることなどから考えて舞台は浙江省の田舎であることが推測できる。
しかし映画は原作とかなり設定が違う。
主人公の福貴は原作でも映画でも“大地主の道楽息子で、バクチで負けて先祖伝来の田地田畑、家屋敷をすっかりなくしてしまう”というところは同じだが、原作ではその後彼は田畑を借りて百姓をすることになっている。一方映画ではすってんてんになった後放蕩三昧の中で覚えた影絵芝居で身過ぎ世過ぎをするという設定になっている。

(映画・「活きる」の皮影)
影絵芝居が手掛かりに・・
原作では福貴一家はご飯を食べ、粥を食べる。
映画では福貴たちは米を食べない。マントウを食べ、餃子や面を食べる。冬は随分寒そうである。それらが場所探しの手掛かりとなるが、決定的な手掛かりは影絵芝居である。
影絵芝居は中国各地で行われている。大きく分ければ七つほどの流れ、系統があってそれぞれに個性的な特徴がある。早い話が人形の顔一つとってもちがう。それで映画に出てくる影絵芝居の人形をみれば、陝西省を中心とする西部一帯で使われている人形だとわかる。西部一帯とは西は青海、東は晋南すなわち山西省南部である。

(冀東・東北皮影の影偶)

(浙江皮影の影偶)
映画では大規模な国共内戦の戦闘に福貴が巻き込まれるところが出てくる。おそらく平津戦役だろう。その戦場から歩いて帰ってきていること、西部流派の皮影戯をしているということからみて、福貴の家は山西省南部の町に違いない、と私は確信した。
それで安心して「活きる」を改めて見て感動を新たにしたが、その時なんだか感動が深まったような気がした。
ところでまた話が変わるが、宋さんからもらった人形のかしらを見ていたら、皮影戯が見たくなった。

(影偶を彫っている人)
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2010-07-09 18:17
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(西安の友人の土産・粽子)
昨5月16日は旧暦5月5日、端午の節句である。
日本でも端午の節句は祝うけれど、ゴールデンウイーク中の一日だから、あまり節句としては重視されていない。しかし、中国では大変大切な節句で、去年から国民の祝日として法定休日になったほどである。
4日前、西安の友人から電話があった。
「いま京都に来ている。あなたにお土産を持って来たので来てくれないか」という。それで出かけた。
お土産というのは「ちまき」である。西安では「粽子(ゾンズ)」という。
友人の話では「いま西安では通りには“粽子”を売る露店が並び、スーパーマーケットでは“粽子”の大売り出しをしていてにぎやかだよ」とのこと。
いつ頃からだろう、こうした「ちまき」商戦がはげしくなったのは・・。
6月13日の西安晩報によれば、「ちまき」商戦が過熱気味で値段も普通のもので一箱10個入りで100元から200元。ある有名メーカーのものは399元。「ちまき」ひとつが40元だと報じている。
私が足しげく通った大衆食堂、面館の刀削面は一杯4元5毛である。たかだか子どもの拳ほどの「ちまき」がひとつ40元。何で作っているのか、何が入っているのか確かめたくなる。
また包装が目に余る華麗豪華さで、この過剰包装が消費者の判断を誤らせ、浪費を誘っている、消費の品位をさげているとも報じている。
そしてまた豪華「ちまき」が多くの人に関心を持たれるのは奥深い理由があるのではないかと言い、ある狂詩(打油詩)を紹介している。
「ちまきが黄金の鎧を着 人様の家に入って行った 贅沢、浪費を言うのでない ひそかに隠され腐敗するのではないかと気にかかる」
言うまでもないがこの詩のいう「腐敗」は汚職腐敗にかけている。要するに豪華な「ちまき」は賄賂汚職の道具でないのかという。ひと呼んで「節句汚職」「権銭交易」。

「ちまき」は第二の月餅になりつつあるようだ。
昨年年末には50年物の茅台酒(500ml)が2万元で売り出され、話題になった。価格高騰で問題になっている北京のマンションの平方米あたりの価格は1万8800元。
なんと高価な酒だろう。誰が飲むのかということも話題になったが、行く先はみんなが想像するとおりだろう。
高価「月餅」「ちまき」「茅台酒」の目指すところは同じ。
日本には中元、歳暮という「届け物」の国民的大イベントがあるが、中国も日本のように「届け物」の年中行事化が定着しつつあるようだ。違いは伝統を大切にする国らしく、中元、歳暮でなく、節句である。
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2010-06-17 13:05
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河南省博物館
「九鼎を取りて、中原を定める」
河南省博物院の建物にはその寓意がこめられているという。

もとは開封市にあった。1961年に河南省の省都、鄭州市に移され、1998年に現在のところにつくり変えられた。敷地面積10万平方米という大きな博物館である。
青銅器
「春秋左氏伝」などの中国の古い書物によれば、夏王朝を開いたという中国の伝説の聖王、“禹”は、全国九州の長官(九牧)に命じて青銅の材を集め、九つの鼎をつくったという。この九鼎は王権のシンボルとして夏、殷(商)、周、三つの王朝に引き継がれ、その都に置かれた。
楚の荘王が陸渾の戎を伐って北上し、洛水のほとりに兵を進めて周の定王に「鼎の軽重を問うた」という故事があるが、その軽重を問うた鼎とはこの九鼎である。
中国で青銅器が本格的に製作されるようになったのは夏王朝末期、殷(商)王朝初期のころといわれているので、夏王朝成立期にその軽重を問うほど大きな鼎などつくられているわけはなく、禹の九鼎はあくまで伝説だが、鼎が権力のシンボルとして崇められていたことはよくわかる。
河南博物院の夏商庁にも殷の方鼎や圓鼎が展示されている。古代の権力者たちの権力に寄せる思いが、今も鼎の周りに漂っているような気がする。とりわけ虢国墓から出土したという七つの「虢李列鼎」は圧巻である。天子九鼎、諸侯七鼎といわれるので、これは虢国君主のものだろう。権力者の自負と願いが形をして現れたもの、というべきもので圧倒される。

爵と尊
「爵」は長い流(口)と尾があり、器身の上に二本の柱がある酒器で、さかづきであり、また酒を温める器である。
「尊」は酒を入れて置く器。「尊」は「樽」と同じ意味である。
博物院の夏商庁に夏末の「爵」が展示されていた。
器の壁も薄く、文様も簡潔で、流(口)も狭い素朴なつくりだが、そこに青銅器時代さきがけの初々しさを感じて、しばらく見とれた。
「尊」に象、豚、牛、羊、ウサギなど動物を象った犠尊がある。私はかつて犀を象った「犀尊」を茂陵博物館で見たことがある。どっしりとした重量感、存在感。その写実性に心を奪われてしばらく見入った。
河南博物院に鴞尊という尊がある。鴞(キョウ)とはフクロウである。
ふっくらとした愛嬌のあるフクロウである。二本の足と尾の三点支えになり、どっしりとした安定感がある。
愛嬌といえば首は龍、身体は虎、足は亀、頭の上には六匹の龍を置いて目と角とし、背中に走る獣を乗せた「神獣」がおもしろい。太鼓か鉦かを架けるものらしいが、この神獣は横を向いてぺろりと舌を出している。思わずほほ笑みを誘う。
青銅器はどれもその形、文様は斬新、奇抜。
青銅器はいずれも省略と誇張、写実、デフォルメそしてユーモアに富んでいて今なお生命力を持つすばらしい芸術品である。
宗教的、政治的、社会的、技術的に現代では考えられないような大きな制約があった古代で、こうした現代の人間の心に響くものを作り上げていることに驚く。
古代人は我々よりずっと発想が自由で、想像力が豊かで、かつ自然や人間の本質をしっかりつかんでいたのではないだろうか。現代化とは高速化であり、大量化である。それによって我々は精神の自由や想像力が委縮し、本質を見抜く目が衰えているのかもしれない。

河南博物院は青銅器のほかに陶磁器、玉器、石刻などすばらしい展示品がある。二時間ほどではとてもすべてを見ることはできない。もう一度必ず来ようと思った。
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2010-06-07 05:36
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函谷関
がっかり
今回の旅行では函谷関に行ってみたいというご要望があり、一般のツアーではあまり行かない函谷関に足を伸ばした。

‶箱根の山は天下の険 函谷関も物ならず・・″と歌う唱歌「箱根八里」は私と同年代の者は誰でも知っている。函谷関に向かうバスの中で南光さんが朗々と独唱された。
箱根の山は万丈の山が前にそびえ、千尋の谷がしりえに支うという険岨な山で、あの函谷関にも匹敵する、いやそれ以上の難所である、と詠ったものである。この歌のおかげで函谷関は険しい山と絶壁が連なる難所と思いこんでいる人が多い。
ところが実際の函谷関は平野の中にある関所である。それで函谷関の現地に行ったほとんどの日本人は長年アタマの中で描いてきたものと現場の違い、その落差の大きさに愕然とするのである。「なんや函谷関はこんなとこかいな」と・・。今回もがっかりされた人が多かったのではないだろうか。
鶏鳴狗盗
中国の戦国時代、三千人の食客を抱えていたという斉の孟嘗君は、秦の昭王に請われてその丞相となった。しかし昭王は孟嘗君を嫌う者の讒言を信じて自らが招いた彼を殺そうとする。孟嘗君はこれを察して秦の都、咸陽を逃れ東に走り、夜中に函谷関に至る。函谷関は定めによって朝にならなければ開かない。追手は近づくさあどうしようという時、食客の中にものまねの上手な江戸家猫八のような者がいて、鶏の鳴きまねをしたところ、あたりの鶏どもが和して一斉に時を告げた。関守は夜明けになったと勘違いして門をあける。「それっ」ということで孟嘗君は関を抜けて虎口を脱する。中国の史書、十八史略にあるよく知られた「鶏鳴狗盗」の故事である。
この故事を下敷きにした歌が日本にある。
「夜をこめて 鶏の空音をはかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ」
百人一首にある清少納言の歌である。かくのごとく日本では古くから函谷関は難所の代名詞、難所のたとえとされて来た。
「箱根八里」の作詞者もこの伝統に依ったのだろう。
書物の上の知識
「箱根八里」の作詞をした鳥居忱(まこと)さんは伏見のお城で石田三成と戦い、命をかけて城を守った徳川家康の股肱の臣、鳥居元忠と血のつながる人で、大名家のお育ちである。この詞をつくったときは東京音楽学校の教授である。高い教養を身につけられたインテリゲンチアだったろうと思われる。おそらく漢籍にも通じておられ、函谷関についてもいろいろ知識をお持ちだったろうと思われるが、ただ、中国の函谷関の現地は歩かれていないのではないか。そういう記録が見つからない。

要するに「箱根八里」の詞の中に函谷関を持ちだされたのは、書物の上の知識だけに頼ってのことと思われる。
函谷関は難所である。確かに難所だけれどもロケーションとしての難所でなく、軍事要衝としての難所である。そういう実際を鳥居さんは知らずに書かれたのではないだろうか、と思う。
歌の中に‶一夫関に当たるや万夫も開くなし″ということばがある。おそらく函谷関を表した‶一夫当関万夫莫開也″ということばの直訳で、箱根の関所を表現したと思わせることばではある。函谷関を比較に出したところといい、この歌は箱根の関所を詠ったものでないかという人もいるようだが、詞全体を読めば歌の主題は箱根の関所のことでなく箱根八里の往来の難しさをいったものだということがわかる。
たとえば歌の第2章、いわゆる2番は‶箱根の山は天下の岨、蜀の桟道も物の数・・″とある。やはり箱根の山の地勢の険しさを詠ったものというべきで、関所の難しさをうたったものでない。
函谷関をたとえに使ったのがそもそもまちがいのもと・・
したがって素人ながら申し上げると、箱根の山は天下の険の後に函谷関は云々ということばは不適当、不要である。「華山の懸崖ものならず・・」とでもすればよかったのに、と思う。
またこういう誤りを犯すのは、現地を見ずに、書物の知識だけに頼ったからであろうと思う。
函谷関にがっかりした、と気を落とさず、今回の旅行で誤解が解けた。いい旅行だったと前向きに考えましょう、同行のみなさん・・。
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2010-06-03 04:20
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第六日目
5月20日(木)
8時30分、ホテルを出て、河南博物院に行く。
博物院に向かう途中、道路脇の塀の向こうに土手が続いているのが見えた。艾さんの説明によれば殷(商)の時代の城壁だという。バスを降りてそばに行ってみたかった。

河南博物院ははじめてである。外観は静岡県の登呂遺跡にある竪穴式住居によく似ている。夏や殷(商)の遺跡がある土地にふさわしい作りである。
河南の博物館について知らなかったわけではないし、鄭州に来たことがなかったわけでもないが、博物院に行ってみようと思ったことはない。西安には中国でも指折りの陝西省博物館がある。北京の歴史博物館や上海の博物館にも何度も行っているので河南には重きを置いていなかった。今回も洛陽で白馬寺に行けなかった代替見物である。
しかし、展示室に入った途端息をのんだ。いくつか展示品を見ているうちに、これは凄い。期待せずに入った町の大衆食堂ですばらしいご馳走に出会ったような気がした。とくに青銅器には引きつけられた。西安より数も多い。なにより青銅器時代初期の品々に魅せられた。
考えてみれば河南は夏、殷の集落や都があったところであり、東周の都があったところである。残された青銅器の量、質ともに他にぬきんでていて不思議でない。また、長い間中国の政治の中心となり、戦いの中心となってきた中原である。破壊されたものも多いだろうが、残されたものも多いだろう。
ユーモラスで奇抜なデザイン、豊かで重量感ある形。青銅器は古代のものとも思えないほどの斬新で,精細、どれも目が離せなかった。博物院については項を改めて書く。
北 京
鄭州空港の中にあるレストランで昼食をし、CA1236便で北京に向かった。
北京までの飛行はたった1時間だが、北京空港に着陸してボーディングブリッジに接続されるまで25分も飛行場の中を走り回った。おそれいったというべきか。北京空港の広さを実感した。
北京の現地ガイドは趙瑩さん。若い女性でガイドになって6年目だという。艾さんは河南では日本語ガイドは極端に減っていると言っていた。西安も然りである。趙さんによれば北京は首都であり、中国を代表する観光地だから日本語ガイドの絶対数は他の地域にくらべれば多いけれど、以前と比べれば減って来ているという。原因は収入が低いからだとのこと。趙さんのような若いガイドさんにはなんとかがんばってほしい。中国へたくさんの日本人が来てくれるよう私もがんばって彼女らを応援したいと思った。
夕食は王府井の「全聚徳」である。全聚徳といえば、‶北京ダック″。

神戸から参加した池田英樹さんは北京ダックは「思ったほどおいしいものでなかった」とがっがりしていた。
テレビのグルメ番組の北京ロケでよく全聚徳が出てくる。北京ダックを食べたレポータは決まって身体をのけぞらせたり、大声を出したりして、「おいしい」「絶品」と大仰なことばや素振りでこれを讃える。池田さんはそういう番組を見たことがあるのかどうか知らないが、これからはテレビのグルメ番組を見る目が違ってくるかもしれない。

ただ私は池田さんとは違い、北京ダックはやはりおいしい、すばらしい料理だと思う。
メリケン粉を水で溶いて薄くのばして焼き、いわゆるクレープ状にしてそれでいろいろな食材を包んで食べるという食べ物は、中国では北京ダックだけではない。
よく焼いた鉄板の上に水どきメリケン粉を置き、野球場のグランド整備に使うトンボのミニチュアのようなものでこれを伸ばし、卵を割りいれ、辛子などを塗って野菜を包む「煎餅(チエン ビン)」は中国の朝の露店の定番料理で、私もよく食べて来た。つい先日の15日にも西安で食べた。
「煎餅」と言えばもう一種類、焼かずに蒸してクレープをつくり、それに野菜や肉を好きに巻いて食べる、言わば手巻きずしのクレープ版のようなものもあって、これはちゃんとしたレストランの料理である。北京ダックはこの系統である。
クレープ式の食べ物は本来は軽食である。北京ダックはその軽食がメーンディッシュになったもので、中国式に言えば小吃が主菜に進化したものである。
北京ダックは特別に飼育されたアヒルを使う。こんがりと焼かれたアヒルは脂が滴り落ちるほど脂がのっていて、またうまみも強い。そのまま食べると少々負担を感じるかもしれない。煎餅にネギや甜面醤と一緒に包むとその脂がやわらぎ、烤鴨のうまみ、香ばしさが引き立つ。うまい。しかも上品な味になる。さすが皇帝が好んだ料理だといつも思う。
夕食の後、半数の人はホテルに帰り、半数の人はスーパーに買い物に行った。
私はホテルにまっすぐ帰って来た。シャワーを浴びてすぐ横になっ た。テレビを見る気力もなくすぐ眠ったようで、その後のことは全く記憶にない。
第七日目
5月21日(金)
帰国の日となった。
帰国便は北京8時40分発のCA927便。皆さんは6時10分にホテルを出て空港に向かった。
私は別便で帰るのでホテルの前でみなさんをお見送りした。
宋艶麗さんも皆さんを北京空港でお見送りし、その後、西安に帰る。
それで昨年の冬から一緒にこの旅行の準備をし、また旅行中は随分お世話になった宋艶麗さんともここでお別れをした。
彼女にはお世話になった。たくさん、たくさんお礼やねぎらいを言いたかったが、結局何も言わずに、いや言えずに別れた。
北京に大切なものを忘れて来たような気がする。

さようなら 宋さん
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2010-06-01 18:05
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第四日目
5月18日(火)
洛陽のホテルは「京安牡丹城賓館」である。
10年ほど前、高馬士郎さん、山口浩正さん、澤野農夫雄さんと洛陽に来た時泊まったホテルである。ホテルの周りはすっかり変わっていた。きれいなロータリーがつくられ、公園がきれいに整備されていた。早起きして公園に出かけた。風が強く、少し寒かったけれど太極拳をした。
関林
8時半、ホテルを出て関林に行く。関林は関羽の首塚、要するにお墓だが、実の広いお墓である。
私はずっと昔、神戸の関帝廟の近くに住んでいて、しょっちゅう関帝廟に行って境内で遊んだ。中学生のころは境内のあずまやに座り込んで、岩波文庫の「三国志」十巻を時間を忘れて読みふけり、読み終えた。
神戸の関帝廟はこじんまりとしていて私の記憶にすっぽり収まっているが、関林の方は広過ぎ、大きすぎて記憶に収まりきれない。ただ、輪郭の定まらない、ぼんやりとした印象が残るだけである。
龍門石窟
その後、龍門の石窟に行った。ここももう何度も来ているが、来るたびに新しい発見があっておもしろい。ただ最近私は、口はまだ達者だが足腰の方が随分弱くなり、石段の上がり降りが苦痛である。今回は則天武后を写したという奉先寺の大仏を見に上がっただけで、以下省略とした。

昼食にはご当地の名物、水席料理が出た。山口さんがビールを飲んで水席料理を食べるとおしっこの素をつくっているようなもので移動中大変だよ、と脅すので水席料理に箸が出せなかった。
少林寺
午後は少林寺を参観した。洛陽の東に嵩山という山容尋常ならざる山がある。中国五岳のひとつで、中岳ともいう。少林寺はその麓にある。ここも広い。塔頭や高僧のお墓が並ぶ塔林を見た。境内のあちらこちらで若い人たちが武術の稽古をしていた。

寺の近くにある釈小龍という武術学校に行って武術ショーを見た。
学校には運動場が何面もあって子どもたちが武術の稽古をしていた。大半は中学生のようだが隊列の端っこにはまだあどけない子もいる。小学校一年生くらいだろうか。幼い。そのかわいらしいヒヨコのような子が棒を振り回し、拳をつきだして黄色い声を張り上げていた。

少林寺の門前町である少林寺市にはたくさんの武術学校があり、武術を学んでいる子どもたちが5万人もいるそうだ。全員寄宿舎に入り、毎日午前中は2時間座学、午後は4時間武術の鍛錬、というカリキュラムだという。
以前上海で雑技の学校を見たことがある。また瀋陽で京劇の学校を参観したことがある。いずれもまだあどけない子どもたちが必死に練習していた。稽古場は入った途端、思わず背筋が伸びるような張りつめた雰囲気で、厳しい稽古と指導が行われていた。つらいのか、うまく行かなくて悔しいのか泣きながら稽古をしている子もいた。ひとつの芸、業(わざ)、術を身につけさせるためにまだ年端のいかない子どもを専門的に、徹底的に鍛え上げるこのような仕組みや場所は今の日本にはない。中国のやり方はよいことなのか、行き過ぎなのかよくわからないが、とにかく驚く。しかし、よりすばらしいものを目指そうと思えばこうならざるを得ないのではないだろうかと、納得するところもある。
川 柳
函谷関から洛陽に向かうバスの中で、川柳の読み合いをしようという提案があり、全員2首ずつ詠むことになった。選者は日頃から川柳をつくっているベテラン、山口浩正さんと小林尚子さんのおふたり。
私も応募した。川柳をつくるのは生れてはじめてである。一首は西安の町の現状を詠んで「レピーターがっかりするほど町変わり」、もう一首は以前チベットの拉孜のあたりを見て回った時の思い出を詠んで「車窓から消しゴムほどのヒマラヤが」と詠った。宮崎あおいさんがテレビのコマーシャルで歌っている「ヒマラヤ程の消しゴムひとつ・・」という歌を下敷きにしたものである。
少林寺から開封にはバスで3時間ほどかかった。その移動中に川柳詠み合いの優秀作品の発表があって、先にもふれたが中島やす子さんの「青空の厠の旅やれんげ草」が「天」賞を獲得した。「地」賞には山並春美さんの「いにしえのイケメン並ぶ兵馬俑」が選ばれた。そして「人」賞にはなんと私の「車窓から消しゴムほどのヒマラヤが」が入った。私は自分の才能を誤解していたかもしれない、と思った。
しかし落ち着いて考えれば、私の句が選ばれたのは野球で言えばピッチャーがホームランを打ったようなもので、いわゆる出会いがしらの一発、偶然の佳作である。
開封の町に入ったのは夜の8時頃である。開封には近年復元されたという城壁があり、その城壁の中のレストランで夕食をした。名物の「鯉魚焙面」という魚料理が出た。あまり印象に残っていない。
ホテルにチェックインした後8人で近くの屋台に出かけた。西安ではデコボコの歩道に机を並べたあまり綺麗とは言えない、しかし妙に落ち着くこうした屋台はすっかり無くなったので、懐かしかった。
烤羊肉串や水餃子などを肴にしてビールを飲んだ。たらふく飲んで食べて一人の割り前は34元。酒を飲むならこういうところに限る。
第五日目
5月19日(水)
開封ではまず相国寺を見た後龍亭に行く。その後は鉄塔を見た。

鉄塔は鉛筆を立てたような塔で、高さは60メートルという。西安の大雁塔は67メートル。高そうに見えるけれど大雁塔よりは低い。
黄 河
昼食の後鄭州に向かう。鄭州までは80キロ。2時間足らずの距離である。鄭州の北西20キロほどのところに黄河が流れているがその河岸に「黄河遊覧区」がつくられている。小高い山の上にリフトで登ることが出来、黄河を望むこともできる。また黄河の岸辺に行くこともできる。

山に登った。山の上にはポンプ所があって河から水をくみ上げている。
眼下に見る黄河の流れはあまり広くない。ただ、どこからどこまでが河なのかわからない。遠くに見える京広線の鉄橋を高速鉄道の白い和諧号が北に向かって走って行った。あの鉄橋がすなわち川幅なのだろうか。
ガイドの艾慧枝さんが遠くに見える林を指差し、あの木々の中に堤防がありますと言った。はるかはるか向こうである。

華中を流れる長江はゆったりと豊かな水を湛えて流れている。たくさんの船が行き交い、岸辺には大きな町が連なっていて、華やかさと饒舌を感じる。しかし黄河は行き交う船もあまりない。河沿いには上流の蘭州を除けば大きな町もない。寡黙で神秘的である。
私は以前、陝西省北部の宜川という町からクルマを雇って壷口瀑布に行ったことがある。クルマは切り立った崖につくられた細い道を県川河に沿って走った。東に小一時間ほど走ったところで急なカーブをまがった。突然深い崖の下に黄河があらわれた。黄河は鈍い光を放って流れていた。私は運転手にクルマをとめてもらってしばらく崖の下に見とれた。そして思わず「黄河には神がいる」と言ったら、運転手は「師傳、黄河が神ですよ」と言った。
突然、頭の上のごく低いところを一目見ればすぐわかる独特の形をした中国の最新戦闘機、殲10が轟音を響かせて飛び去った。その空気を切り裂くような音が、黄河の河原に吸い込まれて行った。
山の上には母子の塑像や黄河治水に功あった初代夏王、大禹の大きな塑像が立っているが、最近また炎帝、黄帝の顔を掘った大きなモニュメントをつくっている。余計なものだと苦々しく思う。
鄭州では弘潤華夏大酒店に泊まった。新しい大きなホテルで、調度も住み心地も申し分ないすばらしいホテルである。とくに廊下が広いのに驚いた。
夕食の後、女性4人を含む11人で表通りの屋台に出かけた。3種類の涼菜、烤羊肉串、ハム、ウナギの焼いたものを食べながらビールを飲んだ。たらふく食べ飲んで計248元だった。

私の刎頸の友がこの場の世話をやいた。彼は払いを250元として一人25元ずつ徴集した。勘定を済ませると金がたくさん余ったと言って不思議がった。当たり前である。頭割するときは自分を頭数に入れるのを忘れて割り前を決め、徴集するときは自分も割り前を払った、要するに10人で勘定し、11人から集めたのだから余るに決まっている。本人の名誉のために言っておくが、彼はこの程度の計算が出来ない男ではない。それどころか頭が切れる、頭の回転のよい事務方にするには最高の人間である。その彼にも衰えが来たのかと、わが身のことも思って少し不安になった。
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2010-05-29 14:57
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2010年5月14日(金)

(宋艶麗さん)
午後、スルーガイドの宋艶麗さんは西安を発って北京に向かった。「日中友好協会姫路支部・三古都と黄河をめぐる旅」の御一行様をお迎えするためである。
第一日目
5月15日(土)
10時過ぎ小寨に出かけた。嘉匯漢唐書店で本を4冊買う。まだ欲しい本があったけれど、本は意外に重くて持って帰るのが大変だからあきらめた。トシをとるとこういうところでも思うようにならなくなり、情けない思いをする。
書店から北京にいる宋さんに電話したところ、「日中友好協会の皆さんはもう到着されました。いま国内線乗り換えの手続きをしているところです」とのこと。
親しき中にも礼儀・・ということもあるのですぐ帰って着替えをし、髪なども少し梳いてこざっぱりした格好に改め、西安空港に皆さんを出迎えに行った。
みなさんを乗せたCA1235便はほぼ定刻の18時47分西安空港に到着。29人全員ご無事で私がお待ちしているところに出て来られた。何が嬉しいのかわからないがとにかくうれしかった。
まずは食事ということで鐘鼓楼広場の同盛祥の2階に案内し、回族料理を食べていただいたが、レストランの中はまあ、やかましいこと、テーブルの向いに座った人とも話が出来ないくらいやかましい。みなさん、やれやれと長旅の緊張を緩めたかったことだろうが、とてもそういう気持ちになれなかっただろうと思う。
第一日目と第二日目のホテルは長安北路にある「西安賓館」である。
第二日目
5月16日(日)
最初の観光は二手に分かれた。はじめて西安に来られた人8人は兵馬俑博物館、華清池、大雁塔などを観光し、そのほかの人たちは韓城へ出かけた。私は韓城組に同行し、7時半ホテルを出発した。
西安西郊外に出、ハ河(ハはさんずい偏に覇)を渡り、北上して西禹自動車道に入ろうとしたが途中で道路工事にぶち当たり、Uターンし、どこを走ったのかよくわからないがとにかく迂回してやっと西禹自動車道に乗った。その後は一路北に向かった。
途中、サービスエリアがなかなかみつからず男だけでなく女性も青空トイレをした。富山から参加した中島やす子さんがこの様子を「青空の厠の旅やれんげ草」と詠んで、旅行中に行われた川柳詠み合いで「天」賞を獲得した。いつまでも乙女の気配を残す中島やす子さんならではの秀句、と感心した。
韓 城
韓城・党家村に着いたのは11時半。西安と韓城・党家村の間は約260キロだが4時間かかった。
坂の上から党家村の集落を一望した。屋根がひしめきあって連なっている。この眺望だけでまず驚く。

(党家村遠景)
以前は村の入り口の広場までクルマで行けたが、今は村に向かう坂の手前が駐車場になっていて、村までは歩かなければならない。
久しぶりの党家村だが家屋などの増改築は禁止されているのだろう昔とちっとも変っていない。このしっとりとした重量感がたまらない。地元ガイドによれば、この村に残る人と出て行く人については村の長老たちの立会いの下で籤引きで決めるという。たくさんの人が出て行って村が寂れたり、大勢の人が残って増改築したりしないよう、昔ながらの村の姿を残す方法なのだろう。

どこかに座り込んでぼんやり時間をすごしてみたいと思った。
集落の中に高い建物がある。「文星閣」という。高い、とんがった建物だが「塔」といってはいけないそうである。「塔」とは宗教の施設として建てられる高い建物をいい、一般的な高い建物は「閣」というのだと教えられた。
昼食は村の入り口の広場のすぐ近くにある小さな食堂。ふた部屋にわかれて食事をした。
食事は野菜中心の家庭料理で、この集落でたべるのにふさわしい素朴な料理であった。心が和んだ。
食事が終わったときすでに午後2時をまわっていた。夕方5時から西安で陝西省撮影家協会と交流会を行うことになっている。急いで引返すことにした。予定ではこのあと司馬遷の墓に行くことになっていたが、そちらへまわると5時には西安に帰れない。それで司馬遷の墓は行かないことにした。

党家村を出てすぐ西禹自動車道に入った。このころから強い雨が降りだした。西安の第3環城道路までは順調だったが、市の中心部、朱雀大街に入って渋滞に引っ掛かった。交流会の会場に着いたのは約束の時間に1時間遅れ、午後6時すぎであった。
交流会
会場は雑誌<愛人>社の会議室である。60人ほど集まり満員だった。
はじめに陝西省撮影家協会の仵暁中秘書長のあいさつがあり、日本側からは戸倉康雄日中友好協会姫路支部支部長が挨拶をされた。
皮切りは中国黄河撮影家協会、李 静主席の壷口瀑布の写真が紹介された。壷口瀑布は男性的な豪快さ、勇壮さがよく強調されるが、李さんの写真はそうした荒々しさでなく、壷口瀑布の美しさを追った見事な作品であった。
予定ではこのあと日中双方の参加者が感想や意見を出し合って話し合うことになっていたが、中国側の撮影家の皆さんが私のも、私のもと次々出てこられ、8人もの方の作品が紹介されて話し合いする時間がなくなった。
日本人に作品を見てもらう機会などあまりないだろうから、この際とばかりに出て来られるその心情はよくわかるが少々驚いた。芸術家の貪欲さというか、プロの自己顕示欲の強さと言うべきか、作品のすばらしさにも圧倒されたがその根性にも圧倒され、つくづく思った。プロはすごい、と。
旧交を温める
夕食の後昨年華中の旅を手配してくださった虹陽旅行社の董勇さん、一昨年東北の旅でスルーガイドをしてくださった董華さんを囲んで旧交を温めた。旅行団からの参加者は8人。宴席を用意してくれたのは董勇さんである。「長安小鎮」という素敵なお店で、京のおばんざい風のおいしい料理が出た。
おいしい白酒もたっぷり飲み、楽しいひとときを過ごして董勇さんの用意してくれたマイクロバスに乗ってホテルに帰って来たが、途中で旅行団団長の戸倉さんを積み忘れているのに気が付き、あわてた。慌てたといえば、こんなとんでもない忘れ物をされたお店の方も、私たち以上に慌てただろうと思う。
第三日目
5月17日(月)
この日の予定は河南省に入り、函谷関をみたあと洛陽の竜門石窟、関林を観光することになっていた。
7時からという朝食を、ホテルに掛けあって6時半に繰り上げてもらって早めに食事をすませ、7時にホテルを出た。
洛陽に向かう高速道路は一部工事中ということで、バスは国道310号線を走って東に向かった。
カミワザ運転
私たちのバスの運転手さんは寡黙でおとなしそうな人だったが、高速道路で行けなかったための時間的ロスを取り返そうとしたようで、随分勇ましい運転をした。対向車線にちょっとでもクルマが途切れると遠慮なく対向車線に入って前進する。対向車が来るとぶつかるのではないかと思うほど接近するまで走ってすっと元の車線の車列に割り込む。割り込む時も前後のクルマに当たるのではないかと思うほど鮮やかに滑り込む。カミカゼ運転と言ううべきかカミワザ運転と言った方がいいのか、とにかくアメリカ映画のカーチェイス張りのスリルを味わうことになった。
華山の麓を過ぎるころからバスの中では歌声が始まった。歌唱指導は北野次子さん、伴奏は勝功雄さんでピアニカを奏でる。どちらも一流の芸術家である。
ただ、北野さんはフロントグラスを背にし、車内に向かって歌唱指導しているので機嫌よくできただろうが、私たちは前を向いているので今にも衝突しそうになったり、接触しそうになったりするのを絶えず目にしながら歌う。だから心穏やかで居られなかった。落ち着いて歌っていられないばかりか、ときどき歌声が悲鳴に変わったりした。
渋 滞
周家城あたりから渋滞がひどくなり、陝西省の唐原と山西省の太原を結ぶ鉄道、南同蒲線の劉家鎮踏切を過ぎたところでとうとう停まってしまった。潼関の10キロ程手前である。
高速道路が通れないのだから一般道が渋滞するのはやむをえないが、この渋滞はそれだけが原因でないようだ。
30分ほどして東行きは全く止まったままだが西行きはぼつぼつクルマが来はじめた。宋さんが前から来たクルマの運転手に事情を聴いている。どうも何か事故が起こり、そこへ我がちの、見境のない割り込みがあって混乱していたようだ。
警察も来て整理にあたっているようなのでもうすぐ動くでしょうという宋さんの予想通り、しばらくして東行きも少しずつ動き始めた。
潼関を過ぎて霊宝の街に入る手前でまた渋滞、クルマは止まってしまった。クルマを降りて前に行ってみると道路工事の真っ最中である。工事をしている人の話では工事の許可はとっている。この道は今日は通行止めになっているはずだと言い、前後にたくさんのクルマが列をなして停まっているのを気にも留めない。ツルハシやショベルを持つ手を休めようとしない。許可を取っているなら当然だろう。しかし通行止めの標識は全くなかった。通行止めの通知もなかったのだろう。だからたくさんのクルマが押し寄せているのである。警察は何をしているのだろうと言っているところへやっと警察が出て来て道路整理をはじめ、少しずつ動くようになった。
霊宝の街に入り、レストランに着いたのは午後3時半。随分おそい昼食をすませ、すぐ函谷関に出かけた。函谷関は霊宝の街から17キロと近い。
函谷関
函谷関の前に道観がある。その昔、東のかたより紫の瑞雲をともなってあらわれた老子が、関令の尹喜に請われて五千語の道徳経を書いたという故事に因んで建てられたのだろう。その道観を抜けて函谷関に向かった。1999年に建てられたという二つ楼閣の下を通って関中に通じる函谷古道を見る。なるほどここは天下の険だと思う。この細い道では大軍を率いて駆け抜けることは容易ではないだろう。関所の洛陽に通じる側は澗川のが流れる広い平地である。
(函谷関)
函谷関を5時半ごろ出発、洛陽に向かう。洛陽までは約200キロ。洛陽のレストランに着いたのは8時ごろである。
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2010-05-26 09:06
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‶ロマンスグレー″などという粋なことばもあるけれど、総じて「灰色」ということばには‶どっちつかず″‶背徳″‶ごまかし″‶不信″などのイメージがあり、ネガティブな印象を感じる。
「灰色の人生」などということばは、わが身の来し方をかえりみて身につまされることばである。
灰色収入
先だって行われた中国の第11期全国人民代表大会第3回会議における、温家宝首相の政府報告の中のある問題が物議をかもし、中国としては珍しいことに、一旦提案された政府報告の内容が、一部とはいえ削除、修正されるという前代未聞の大事にまで発展した。
その問題とは「灰色収入」。
温家宝首相は政府報告の中で、「違法な収入についてはしっかり取り締まり、灰色収入については規範化する・・」云々と述べた。
直ちに「おかしい」という声があがった。
新疆・カラマイ市委員会の書記、唐健さんはいう。
「灰色収入とは腐敗分子の収入のことである。こういうものについてルール作りなどすべきなのか」
中国作家協会の張抗抗副主席も「通常、リベート、祝儀、ひいては賄賂さえ灰色収入とみなされているが、これらの収入は公然と貰ってはいけないものである。公然と貰ってはいけないものをどう規範化するのだ」といぶかる。
また広州市弁護士協会の陳舒名誉会長は「灰色収入の最重要境界は、税金を納めているかどうかである。灰色収入とは非公開、未納税のものをいうのだ」と「灰色収入」を定義しているが、思うにこういうものを規範化していいのかと彼女は言いたいのだろう。
これに対して国家発展改革委員会社会発展研究所の楊宜勇所長は「灰色収入というのは相対的なものである」と言う。
「要するに程度の問題で、量的な大小を見る必要がある。少々の納税漏れや脱税は非犯罪的違法である。問題は量が過大になることで、一定の限度を超すと違法犯罪になり、すなわち黒色収入となる。黒色収入を取り締まるために、灰色収入はルール化するのだ」と語っている。
ちょっとくらいなら納税漏れや脱税があってもいいのか、量が問題かという声が聞こえそうな気がする。
GDPの26%
ところでその「灰色収入」なるものはどのくらいあるかというと、中国改革基金会国民経済研究所の王小魯副所長によれば、2006年の表(オモテ)に出ない所得、いわゆる「灰色収入」は4兆8千憶元にも達し、それは全国GDPの26パーセントになるだろうという。しかもこの灰色収入の主要部分は一般の国民の手ではなく、‶腐敗″分子のフトコロに入り、その蓄財にまわっている。灰色収入のGDPに占める割合は増加していても決して減っていない、ということである。
「灰色収入」を手にする人
では「灰色収入」を手にしているのはどういう人なのかということが、専門家の分析として南方日報に紹介されている。
「灰色収入」の大部分を手にしているのは次の三種の人たちだという。
第一には私企業の経営者、外国企業の高級職員、弁護士、コンサルタント、会計士など高級専門職、スター歌手、スター俳優。
第二には宅地開発業者、証券市場の大口投資家、投機屋、成功した不動産業者、投資家。
第三には「官糧」を食べる人、すなわち党、政府の上級指導者、高級官僚、国営企業の中、高級管理者。
「灰色収入」を得ている人は実に広範囲に存在するのである。
枠にはめて生かす
全国人民代表大会に出される政府報告は、当然のことながら国務院の会議で検討され、共産党の最高指導部である政治局常務委員会でも検討、承認された筈である。その文章の中に「灰色収入」なるものをはっきり認知し、その存続の道を図ってやるなどということが堂々と出てくることには驚くが、要するに中国では「灰色収入」は社会生活やさまざまな組織の中に広く深く根差し、社会秩序維持や商業行為円滑推進の不可欠の要素となっていることを示すものだろう。南方日報掲載された灰色収入を得ている人の実に広範囲なのも、なるほどとうなづける。
いままではお上も庶民もこれを感心しないことだけどしょうがないなと黙認し、時によってはそれを効果的に使って社会を円滑に動かして来たという面もあったに違いない。かつて中国は‶コネ″の社会、‶人治″の社会と言われた。「灰色収入」が生まれ、存続する社会的条件あるいは社会的合意があったのだろう。
しかし、国の経済規模が飛躍的に拡大し、すでに先進国の仲間入りしようかというまでになった現在、当然「灰色収入」の規模も飛躍的に拡大している。しかしその一方、正規の収入、すなわち「白色収入」が満足に得られない人も増加している。そしてそれらの人の怨嗟の声が高まり、どうにかしなきゃ、ということになって来たのだろう。
また、世界の経済や政治との結びつきが広く、深くなって来るにしたがって国際的な批判も厳しくなり、いままでのように「ウチの風習です」という言い訳が通用しなくなって来たこともあるのではないか。
だから「灰色収入」は否定できないけれど、なんとか枠にはめてその負の影響を少なくしようというのが今回の温家宝提案だろうと思う。
しかし、これはあまりにも現実追随で、国民や世界が求める透明、公平な政治、法運用にそぐわない考えではないだろうか。
それにいくら枠にはめようとしても、はまらないのが「灰色」の本質である。はめられた枠の隙間からにじみ出て、さらに新しい形で彼らは増殖する。
現実主義
今回の「灰色収入」にかかわる騒ぎは中国社会の深層をしっかりみせてくれたようは気がする。同時に指導者たちの現実主義的思考、「柔軟な」思想をはっきり見たように思う。中国共産党の指導者は‶がちがち″の原理主義者でないことがよくわかった。
日本の灰色

別に中国の向こうを張って自慢をするわけではないけれど、法的にやかましいことを言っている日本でもこの種の灰色は尽きない。
かつては灰色高官ということばが新聞をにぎわしたこともある。また高級官僚は接待漬けと言われているが、これなども言わば形を変えた「灰色収入」である。
政界の中心に居る多くの政治家の政治資金は、「灰色収入」の最たるものだろう。民主党の小沢一郎幹事長が6年もの間自宅の金庫に保管していた4億円など、銀行に預けられない、世間の目をはばかる「灰色収入」ではないのかと思う。下司の勘ぐりだろうか。
鳩山さんは毎月1500万円もの「献金」か、「借入」か、「贈与」かわからない、言わば「灰色収入」を‶自分は全く知らない″うちに得て、使っていたというのである。
ルールを作って「灰色収入」を存続させたいという思いは、温首相より鳩山首相の方が強いかも知れない。
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2010-03-25 08:44
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西安の北230キロ、黄河の近くに韓城という町がある。
小さな町だけど三千年も昔の西周の時代からある町で、あの大史学家、司馬遷の故郷として、また彼のお墓があるところとして広く世に知られた町である。
この韓城の町から10キロほど北に行ったところにひとつの古い集落がある。名は党家村という。
古い家
西安で勉強していた頃のことだからもうかれこれ10年前になる。冬休みを利用して韓城に行った。韓城に夕方着いて招待所という看板のかかった木賃宿に泊まり、翌朝早くタクシーを雇って市の東南の隅にある梁山に行き、司馬遷の墓にお参りした。
なんの下調べもせずに行ったので司馬遷の墓にお参りした後、行くところも予定もなく、しかも帰りの列車までには随分時間がありどうしようと途方にくれた。タクシーの運転手にほかにどこかいいところはありませんかと聞いたところ、この先に歴史的なところがあるから行きませんかという。どういうところかと聞いてみると「古い家がある」という。古い家屋など余り興味はないけれど、行くところもないので行ってみることにした。
タイムスリップ
クルマは黄土台地の上を北に向かってしばらく走って止まった。あそこがそうですと運転手が下を指さすので見ると、ひと固まりの集落がある。それから坂を下って村に入り、広場でクルマを降りて驚いた。時代を間違えているのではないか、それともここは映画村かと思った。
運転手が古い家があると言うので箱木千年家のような古い家が一軒あるのだろうと思っていたが全く違う。この集落すべてが古いのである。それもたんに古いだけではない。一軒一軒が、通りやたたずまいが、あたりの空気までもがすべて美しいのである。
若い女性が出て来て案内をするという。
はじめにひと通り村の説明を聞いた。まだ中国語の勉強をはじめたばかりのころなので、彼女の話が十分聞き取れず、何度も彼女の説明を途中で止め、聞きなおし、聞きなおししながら聞いた。なんだかいい加減に聞いていられないようなもったいなさを感じたのである。
村の名前は党家村。西安の学校に帰って若いクラスメートに話したら、共産党の幹部の保養センターですかと言った。そうではない。党という名字の一族がこの村をつくり、住んでいるので党家村という。もっとも明の嘉靖帝の御世から賈という一族も住んでいるという。
村は600年も前の明の永楽年間につくりはじめられたとのこと。いま目の前にある家々や路地は明、清時代につくられ、そのまま残ったもので、いまも320戸、1400人が暮らしているという。こんなに古い、立派な家々の塊は西安でも北京でも見たことがない。
この村の存在が知られるようになったのは近年のことで、日本人の学者も調査に参加し、日本工業大学の本田昭四という先生は、調査中にここで客死したという。また1991年には九州大学の青木正夫教授が「党家村」という本を著し、「党家村は東方伝統文化と東方民家の生きた化石である」と紹介し、村は一躍世界的に有名になった、とガイドは言った。私が日本人だからお愛想で言ったのかと思ったら、村の中にそういうことを書いたものが掛っていた。
息をのむ

はじめに四合院の家に案内された。この集落には120軒を超える四合院住宅があるという。まず門の前に立って目を見張った。入り口で足が止まってしまう。立派な門である。
拴馬石や礎石の彫り物に感心し、門ドゥン(ドゥンは石ヘンに敦)に見入った。門ドゥンとは観音開きの門扉をとめるもので、石で造られて門の前に置かれてある。後で何軒か四合院を見たが門ドゥンは抱鼓型、箱型あるいは獣銜環型などいろいろあってそれぞれ見事の一言に尽きる。
門楣には「太史第」だの「樹徳門」だの「勤倹居」だのと大きく書かれた扁額がかかっている。これがまたとても田舎の集落のもとは思えないほど重厚なのである。
私が門の前でいちいち驚き、感心して足を止めるものだから、ガイドの娘さんはあきれ、しびれを切らし、おそらく業を煮やしたのだろう私を置いてさっさと先に行ってしまった。
大門を入ると影壁がありまた垂花門がある。垂花門でまた足が止まった。木彫りの美しさに息を飲んだ。門を入ってみると、私を置いて先に入っていたガイドは誰かとしきりに話している。そばに行くとこの家の人だという。東西は廂房、正面は庁房、中庭を四面建物が囲んでいる。だから四合院というのである。
四合院は北京で何度も見学した。しかしここの四合院は北京とは違う。第一に建物が重厚で貫録がある。第二に北京の四合院は中庭は広いがここは狭い。したがって建物が迫って来て全体に威厳に満ちている。建物に偉い偉くないがあるかどうかは知らないが、北京よりこちらの方が偉いと思った。
あちこちの建物の外壁にレリーフがある。いろいろは故事を浮き彫りにしたものである。これを見たらまた足が止まった。
集落の中には居住家屋以外に「節孝碑楼」「看家楼」「家廟」など見事な建築物があり、集落の隅には「文星楼」という高さ38m、六層の塔もある。
集落の中を走る道は石畳で、ガイドによればすべてT字路かL字路で、十字路はない、要するに遠くが見通せないようになっているという。また向かいの家とは門が決して向き合っていないという。盗賊が入ってきても自由に動きまわることが出来ないようになっているのである。すなわちこの集落は要塞なのである。
ガイドはこの集落を一口で言えば「布局合理、建築精良、内涵豊富」であると言った。日本語に直せば集落内のレイアウトは理にかない、建物はすばらしく、文化的、美術的内容が豊富であるというのであろう。その通りであると即座に賛同した。
よくもまあ、こんな美しい集落がつくられたものだ、よくもまあ風化も破壊もせずに残って来たものだと、つくづく感心し、感動した。
異次元空間
陝西省北部の黄土高原は最近では畑の耕作が進み、てっぺんが平らになったいわゆる「ユエン(土ヘンに原)」と呼ばれる台地の上には、リンゴなどの果樹園が広がっている。また植林も盛んに行われていて緑が広がり以前とは様相が一変した。地の下でも石炭、石油、天然ガスやレアメタルがどっさり発見され、その開発が進められて豊かな土地になりつつあるけれど、つい半世紀前までは映画「黄色い大地」のスクリーンで見たような荒涼たる大地であった。豊かさとは対極の世界で、見ていると寂しくなるというか、時には恐ろしささえ感じるような土地だった。党家村のような豊かで、美しい集落など生まれるようなところではない。
そういう意味では私はこの村に異次元の空間を感じた。この集落を作り上げたものは農業やお百姓ではない。まちがいなく商業が作り上げた空間であり、商人たちが作り上げた世界である。
ここには農民の素朴な美意識でなく、広く世間を渡り歩いている人たちの美意識、審美感が広がっている。そして畑仕事では得られない富の蓄積がある。
ひととおり見て回ったらおなかがすいた。食事が出来るかと聞くと、どうぞと連れて行かれたところは村の中の民家である。
ここで待っていなさいと炕(オンドル)の上に案内されて座っていると、野菜炒めなど野菜主体の料理がふた皿と、野菜たっぷりのスープにマントウを土間に置いてあるテーブルの上に並べてくれた。地元料理だという。おいしくてスープのお代りをした。
食べ物と言えばこの地方の名物に「面花」というイヌやネコやウサギ、あるいは花の形にした「飾りモオ」(モオは食に莫)がある。お祝い事に使うものである。映画「秋菊」でコンリー演ずる農家の女が、生まれて百日になった自分の子どもをくぐらせていたあのモオも面花の一種で、面花は陝西の各地でつくられているが、韓城近辺のものは細工がよく、ひときわ派手のようである。
世界遺産級

見学が終わってクルマのところに帰って来たら、運転手が「随分熱心に見て回りましたね。どうでした」と言うから、「拾ったお金で宝くじを買ったら一等賞が当たったような気持ちです」と答えた。運転手はよくわからなかったのかきょとんとしていた。「とにかくあなたに感謝します」付け加えたら、ニコッと笑った。
この日の見学者は私一人であった。観光客は来ないのかと聞くと、「もう少し暖かくなると来るだろう。しかし、中国人は来るけれど外国人はあまりたくさんは来ない」という。もったいないなと思った。陝西省はここを「歴史文化保護村」に認定し、対外的にも宣伝をしているとのことだったが、何をそんなせこいことを言っているのだ、世界遺産に登録申請したらどうだ、と省の関係者に申し上げたいような気になった。
その党家村へ今年5月中旬、35人のお友達と出かける。出発まで後ふた月、遠足を待つ子どものようにわくわくしている。
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2010-03-11 11:44
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中国に「項庄舞剣 意在沛公」(項庄剣を舞う 意は沛公にあり)という成語がある。「項庄之意」(項庄の意)ともいう。
秦王朝を倒すために手を携えて戦っていた項羽と劉邦も時がたつにつれ、なにかと齟齬をきたすようになった。そこで劉邦は項羽の自分対する誤解を解くために驪山の北、渭河の南の鴻門にある項羽の柳営を訪ねた。項羽はこれを迎えて宴を張る。しかし、項羽の参謀・范増はこの際劉邦を殺そうと図る。その意を受けた項羽配下の武将、項庄は余興に一指し舞おうと言って剣をとって舞い、舞いながら劉邦を刺す機会をうかがった。
冒頭の成語はその時のことを言ったものである。沛公(はいこう)とは劉邦のことである。意味は「項庄のねらいは宴を盛んにすることではない、沛公を殺すことである」「本当の狙いは別にある」ということで、日本流に言えば「敵は本能寺にあり」だろう。
グーグル騒動
去る1月13日、インターネット検索の最大手、グーグルは中国から撤退することを検討すると発表し、世界を驚かせた。理由は人権活動家のGメールのアカウントに「高度に組織的な」サイバー攻撃があったこと、中国政府のネット規制が厳しいことをあげ、自由を守るための措置だといった。
すぐさまグーグル援護にアメリカ政府が乗り出し、1月21日にはクリントン国務長官が中国政府を非難する演説をしたかと思うと、オバマ大統領までもが直々に中国非難の声をあげた。
言うまでもなく中国政府は全面的に反論を展開している。
曰く、ネット規制は有害低俗な情報から国民を守るため、かつまた国の秩序を守るために必要な措置である。どこの国でも何をやってもいい、すべて自由だということにはなっていないだろう。アメリカだってテロ防止を口実にメディア規制、国民監視など自由の制限をやっているではないか。グーグルやアメリカ政府の要求、行動は内政干渉である。
日本のマスコミの論調は中国政府のネット規制や自由の抑圧を非難し、グーグルやアメリカ政府を積極的に支持している。最近発行された「日中友好新聞」(2月15日付・第2184号)にも中国政府のネット規制を批判するコラムが掲載されている。
なぜ今なのか
中国政府の厳しいネット規制は今に始まったことではない。またインターネットへのサイバー攻撃についても場所をいうなら中国に限らず、相手をいうならグーグルに限らず以前からあることで、グーグルが中国で営業をはじめたときからそれは織り込み済みのことであった筈である。
さらに、グーグルは中国で営業を展開するに当たっては、アメリカ議会やアメリカ国内のメディアなど各方面から弱腰ではないか、自由放棄ではないかと非難を浴びながらも、中国政府のネット規制に自発的に協力することを表明し、それを実行して来た。
それがなぜ突然この時期に「きれた」のだろう。
私は根が素直でないためかグーグルやアメリカ政府のヒステリックな態度を額面通りに受け取らず、疑っている。だからグーグルやアメリカ政府に同情しない。日本のマスコミの中国非難の態度にも賛同しない。
中国政府のネット規制や言論の自由に対する抑圧は確かに行き過ぎだと思う。今や中国は帝国主義勢力に包囲されていたかつてのひ弱な「社会主義国家」ではない。政治的にも経済的にも世界的に大きな影響を持つ大国である。従来からの自由規制も見直す時期に来ていると思う。
しかし今回のことはそういう問題ではないやろ、という気がするのである。
政治的イベント
グーグルは確かにネット検索の世界最大手である。だが日本、韓国、中国などアジア諸国ではシェアはトップになっていない。とくに猛烈な勢いで発展している中国の市場では思ったようにシェアが伸びていない。そこにグーグルの悩みと焦りがあるようだ。
中国は今、世界最大のネット人口を有し、その数3億人を超えるという。そのネット検索市場のシェアはいろいろな統計数値が出ているがトップは中国企業の百度で約70パーセント、グーグルは順位こそ2位だが率は20パーセント前後のようである。
今回グーグルがちゃぶ台をひっくり返す挙に出たのは「人権が大きな問題でない。儲けが思うようにならないからだ」「百度への牽制」という見方が出されており、グーグルは「商行為を政治イベント化している」と批判する論調がヨーロッパやアメリカでもみられる。
オバマ大統領の方向転換
さらに言えばアメリカ政府の騒ぎぶりはどうだろう。グーグルはアメリカ的価値観を世界に広める強力なツールになっていることは周知の事実であり、その点からいってもホワイトハウスは黙っていられなかったということもあるだろうが、それより気になるのはオバマ大統領の最近の政治姿勢である。対中国ということでいえば、台湾への武器輸出承認、中国元の切り上げ要求、ダライラマとの会見、それに今度のグーグル援護・・。昨年の中国に対する友好的な態度とは一転、このところ喧嘩腰になっている。
ねらいは何か。
国内でどんどん支持率を下げている大統領は支持率回復を狙い、大きな力を持っている国内保守派に対するご機嫌取りに姿勢を転化、というか屈服しつつあるのではないだろうか。
アメリカの指導者は政治でもビジネスでも苦境に陥ると必ず他国に対する恫喝と武力行使でその難局切り開こうとする。その際スローガンとなるのが「自由」「民主主義」「正義」である。
アメリカの指導者がこの言葉を声高に叫びだしたときは用心した方がよい。切羽詰まっているときである。
彼らの「自由」「民主主義」「正義」は気高い精神性を持つ政治目標でなく、世界を政治的、経済的に支配するためのお題目なのである。現世的打算の匂いがぷんぷんする。
タカが平和の象徴のハトのまねをして、月桂樹の葉を銜えているようなものである。
今回のグーグル騒ぎも、アメリカ政府が彼らを援護しているというより、グーグルがオバマ大統領に見得を切る舞台を用意してやっているように、私には思える。
グーグルの行動は自らの儲けを伸ばすための策動か、大統領を苦境から救いだすための深謀遠慮か、その両方か・・。
そう、グーグルの行動は二重の「項庄之意」かも知れない。すなわち、意は「百度と大統領の苦境」のふたつにあるのでは・・。
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2010-02-16 17:22
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ロングラン公演のお芝居に中には、主役などを二組作って交代で演じさせるいわゆるダブルキャストにしたものがある。
シナリオや演出は変わらず、役者だけが変わるのである。
以前上海でダブルキャストの越劇をみた。お芝居は「梁山伯と祝英台」。
梁山伯が呉鳳花と章瑞紅、祝英台が陳飛と陳頴のダブルキャストだった。普通ダブルキャストは日を変えて交代するものだが、この日はお芝居の途中でキャストが変わったので驚いた。
一回分の入場料で二つのお芝居を観たような気がして、儲けた、と思った。
自民党と変わらない
鳩山首相の不透明な政治資金の話が一段落したと思ったら、今度は民主党の小沢一郎幹事長に関係するお金の話がテレビや新聞をにぎわしている。
これでは自民党が政権を握っていた時と変わらないではないかと新聞は書いている。
もうひとつ見過ごせないことがある。
野党であったとき民主党は自民党の沖縄の基地政策を批判し、われわれが政権を取ったら普天間基地は県外に移すなど、沖縄の米軍基地を削減して沖縄県民の負担を減ずるともっともらしいことを言っていたけれど、いざ政権を取ったら途端に煮え切らなくなった。
先だって行われた衆議院の予算委員会で、日本共産党の赤嶺政賢議員が「普天間基地を県内のどこかへ持っていくだの、県外に移すなどでなく、無条件撤去すればいいではないか」と政府に迫っていたが、これに対し鳩山首相も岡田克也外相も口をそろえて「米軍基地は日本を守るための抑止力なので、これをいらないというわけにはいかない」と答弁していた。この答弁を聞いて暗澹たる気持ちになった。
日本に対する外国の侵略を抑止するために日本に米軍基地を置く必要があるなどと堂々と言うその政治感覚に愕然とする。当のアメリカでさえ腹の中では日本を守るために日本に基地を置いているなどと思っていないだろう。
沖縄の米軍基地などはアジア、中東に広がるいわゆる「危険な弧」のための米軍の前線基地に過ぎない、それが国際常識である。基地の実態や運用を見れば誰にでもわかることである。
これもまた自民党と同じ思想、思考なのである。
ダブルキャスト政治
最近の新聞やテレビを見ていてつくづく思う。私たちはシナリオも演出も変わらない自民党と民主党のダブルキャストのお芝居を見せられているのだな、と。
これがマスコミも鳴り物入りで提灯持ちをした「政権交代」の実態である。
一票で二度面白いと喜んではいられない。これは国民にとって真の悲劇なのである。
本是同根生
「政権交代」が幕を開けてみれば実は「自民・民主の政権ダブルキャスト芝居」だった。
なぜそうなったのか。
自民党と民主党は「本是同根生」(もとはこれ 同根に生ず)だからである。
鳩山さんにせよ小沢さんにせよもともと金権体質の自民党の、そのまた母屋の田中派にいて、そこで「政治学」を学んだのである。彼らは不透明で、巨額な金を動かして政治をすることになんの違和感も感じないのだろう。
時代遅れの日米安保を後生大事にしているのもまた自民党で学び、それが政治思想の土台となっているのだろう。
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2010-02-04 09:45
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今年はトラ年。それでトラの字が付くことばをひとつ紹介しようと思う。
中国語に「馬虎(マアフウ)」ということばがある。意味は「いい加減なことを言う」「いい加減なことをする」という時の「いい加減な・・」に当たることばである。会話の中では「馬馬虎虎(マアマアフウフウ)」と強めて言う。
「他這個人做事太馬馬虎虎的」(あいつのやることはほんまにええかげんやな)などと使う。
宋の時代のこと、ある絵かきが頭が虎で胴は馬の絵を描いた。これを観た人がこれなんや馬かいな、虎かいなと聞いたところ、「馬虎だ」と答えたという。それでいい加減なことをする、いい加減なことをいう、あるいはことを適当に済ますなどを指して「馬虎」と言うようになったとのことである。
信じられない話・・
昨年の中ごろから鳩山由紀夫総理の政治資金問題が世間の耳目を集めているが、日が経つにつれ、その実態が少しずつ明らかになって来た。
総理はご母堂から毎月1500万円、6年ほどの間に計12億円6千万円ものお金を貰って来たという。 いくら親子とは言えそれはちょっとおかしいんちゃいますかという声が高まり、また政治資金の事務を担当していた公設秘書が政治資金報告書虚偽記載で起訴されるという状況にもなって、いよいよ進退きわまった末、このお金が政治献金か貸付か贈与かわけのわからないお金であると非を認め、お母様からいただいたものは贈与ということにして贈与税を支払われたようだ。その税金がこれまた約6億円という。その納付も「ちょっと待って」と言わずにすぐに済ませたようだ。
聞くほどに、見るほどに、生れてこの方ずっと爪に火をともすような生活をして来た、そして今もしている私にとっては恐ろしいような、この世の話と思えないような話である。
究極の馬馬虎虎
私はこうしたとんでもない裕福な生活が本当にあるのだということにも驚いたが、なにより第一に、お母様がこのような大金をずっとくださっていたのを全く知らなかったと、総理がおっしゃったのには腰を抜かすほど驚いた。
「なにくれなく面倒をみていただく環境にあった。親や周りと金の話をすることはなかった・・」と言い訳され、無頓着だったと反省されているが、無頓着にも程がある。その生活態度も、政治活動もまさに究極の「馬馬虎虎」と言わねばならない。
卑怯未練・・
いままで自民党の先生方は怪しげな政治資金が明らかになったり、収賄の疑いのある事実が世間に出たりすると決まって秘書の所為にし、秘書に責任を取らせて幕引きするのが常だった。野党時代の総理はこれを道義に反することときびしく叱って、もし自分にそういうことが起こったら秘書の所為にはしない、秘書の責任は政治家本人の責任である。わたくしなら自らバッチを外すと大見得をきった。
ところが実際に「そういうこと」が起こった途端、わたくしは知らなかったとおっしゃって、秘書の首を切って責任を秘書に押し付けた。第二にこれに驚いた。卑怯未練な「馬馬虎虎」ではないか。
旧態依然
また自民党の先生方の話を出すが、秘書が逮捕されたり、党の同僚議員が逮捕されたりしてあなたはどう思うか、どう責任をとるのかとマスコミなどから追求されると、自民党の当該の先生や党の幹部は決まって「いま司法の調べが行われているので申し上げられない。その結果を待つ」と真相も責任の所在も明らかせず逃げ回った。
自民党政治からの「チェンジ」を声高に叫んで来られた総理である。もし司法の手が入るようなことが身辺や党に起きることがあっても、自民党のような往生際の悪い態度はおとりにならないだろうと期待していたが、さてご自分がそういうことに直面すると、マスコミの追求に対して自民党の先生方の申しようをコピーしたように「いま司法の調べが行われていますので」申し上げられないと真相を明らかにするのを拒んだ。これが第三の驚きである。どこがチェンジなのか。まさに旧態依然の馬馬虎虎ではないか。
馬馬虎虎ではすまされない
だから金持ちの政治家はだめだ、とは私は言わない。金持ちにその日その日の暮らしに困っている労働者や小商売人の苦しさはわからない、われわれが安心して暮らせるような政治は彼らには出来ない、とは思わない。
いやむしろ、生活にゆとりのある人やインテリジェンスに富む人の方が、貧乏の真っただ中にいる労働者や目先のことに追われている商売人たちより真理が見え、先が見えてよい政治が出来るだろうとさえ思っている。
しかし、毎月1500万円ものお金をもらっていても知りませんでした、気が付きませんでしたというような馬馬虎虎な人に、時代がもとめている政治が出来るだろうか。
国民一般の苦しみや悩みがわかるだろうかと思う。
総理の政治資金問題はしょせん鳩山家の内部の問題で、私腹を肥やしたというようなことでないので、そんなに大きなことと国民のほとんどは思ってはいませんよ、と評論家の鳥越俊太郎氏はテレビで言っておられた。また識者と言われる人でそういう主張をされる方はほかにもいらっしゃる。
はたしてそうだろうか。国民の大半が問題ないと思っているだろうか。
鳩山総理はまだその多額のお金をどう使ったか全然説明していない。いったいなぜ政治にそんなにたくさんの金が必要なのかが国民には全く分からないのである。その金で直接私腹を肥やしていなくても、そのお金がまわりまわって何らかの形で大きくなってご自分のところへ帰ってきているのではないか、金で政治を曲げているのでないかという思いは捨てきれない。鳥越さん、それが庶民の思いです。民主党には小沢さんの政治資金の問題もある。鳩山家の内うちの話だからほっといて、という馬馬虎虎ではすませられないのですよ。
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2010-01-07 18:44
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公 道 杯
(公 道 杯)
年末に西安の友人が所用で来日し、ついでに神戸でのんびりしている私を訪ねてくれた。
お土産に私の大好きな陝西省の地酒「西鳳酒」と、耀州青磁の「公道杯」を持って来てくれたので感謝感激の意を表してお迎えした。
「公道杯」というと中国のお茶に詳しい人は、お茶の濃さを均一にするために使うあの小さなティーポットを思い出すかもしれないが、耀州の「公道杯」は同じ名前だがそれとは違う。
耀州は西安の北、100キロほどのところにある古くからの陶磁器の里で、唐の時代の黒釉陶器や宋時代の青磁がよく知られている。
「公道杯」は酒器だが、杯の中に龍の頭が立っていて、底に穴があいているという変な酒器である。杯の中に、そこそこに酒を入れると普通の杯と同じように使えるが、欲張っていっぱいに注ぐと杯の底の穴から酒が流れ出てしまう。要するにサイフォンの原理がしかけられているのである。
欲にもほどが・・
この杯には言い伝えがある。
唐の玄宗皇帝が、息子の寿王と寿王に嫁いで来る楊玉環にお祝いの贈り物としてこれを与えた。そしてこう言った。「欲にも程度というものがある。欲張りすぎるとすべてを失う。この杯はそれを教えている」と。
「公道」とは道路交通法にいう私道、公道の公道ではない。中国語では「公正な道義」「正義」をあらわすことばである。「公道杯」とは正しき道義を教える杯なのである。
ところでこの息子の嫁の楊玉環は絶世の美人で、のちに玄宗は彼女を息子から引き離し、自分の妻とした。彼女こそ国を傾けた美人、楊貴妃である。「公道杯」の教訓は他人事でない。人に教訓を垂れた玄宗ご本人にこそ必要だったのである。
公道杯を世界各国へ・・
昨年12月、コペンハーゲンで気候変動に関する国際会議cop15が開かれ、世界190カ国から1万人以上の人が参加し、127カ国の首脳が出席するという盛況ぶりであった。気候変動や環境破壊についての関心が高まっている、というより危機感が高まっている証しだろう。
しかし、会議では一定の成果を上げたものの、危機を止める効果的な合意は得られなかった。原因のひとつは主要国の多くが、自国のいままでどおりの生産方法や生産量を確保したいという欲にこだわったことだろう。欲もほどほどにというのは玄宗皇帝の時代からの真理だが、国が変わり、時が変わってもやはりなかなか実行できない真理のようである。
地球は公道杯
地球は「公道杯」である。このままみんなが欲望に任せて今までのような調子でやっているとそのうち「あっ」と言う時が来るに違いない。
この際大きな「公道杯」を作って各国に設置してはどうだろう。例えばニューヨークの自由の女神と同じ大きさのものを女神像の横に設置する、エッフェル塔の脇に置く、赤の広場や天安門広場にも大きなのを据える等々・・。必要経費はいらぬ金をたくさん持って金融投機をしている人に出してもらう。
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2010-01-01 18:37
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西安の鐘楼広場に“聖誕老人”がやって来る!
“聖誕老人”とはサンタクロースのことである。西安も年末はクリスマスの特別セールスやイベントで大賑わい。警察が事前に安全対策が十分でないイベントなどは許可しないと警告を発したほどである。
年が明ければすぐバレンタインデーである。またたくさんの若い男女が手をつなぎ、肩を寄せ合って贈り物を買うために、あるいは楽しい食事をするために繁華街を行きかうだろう。
新聞がこの「洋人節」(西洋の祝日・祭り)を取り上げていた。
「『洋人節』は愛とロマンに満ち、おしゃれである。若い人を中心に多くの人がこれを楽しむのは不思議でない」とこの社会的現象を肯定している。同時に、「もちろん中国の伝統的節句も文化的色彩は濃いし、人情味はあるが、強いて言えばちょっと食べるだけということになっていないだろうか」と言う。
「しかも節句の食べ物、たとえば餃子、粽、あるいは月餅などいまは年がら年中いつでも食べられるし、日ごろこれよりおいしものをたくさん食べている。節句のありがたみなどまったくない」と鋭く指摘している。
「西洋のお祭りや風習を祝ったり、楽しんだりすることは決して悪いことではないし、西洋に媚びていると非難すべきことでもない。生活水準が上がり、より楽しく、情緒ある、健康的なものを求めるのは当然である」とした後、次のように訴えている。
「中国の伝統的節句ももう少し工夫してより高雅で、文化的で、かつおしゃれでファッショナブルなものにしなければならない。これは民間の小事でない、社会主義精神文明建設の問題である」。
社会主義とは伝統と現代をむすぶものであるというのである。
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2009-12-27 08:45
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(タワン僧院―西遊旅行社HPから)
中国語に熟達している人でも「麦克馬洪線」を見てすぐわかる人は少ないだろう。なぜかというとこの言葉が示すものの存在は中国政府に認められていないので、中国のメディア等にはあまり出て来ないからである。
日本語で書けば「マクマホンライン」。
達望(タワン)訪問
11月8日、ダライラマ14世はインド東北部のアルナ−チャル・ブラデ−シュ州にある達望(タワン)僧院を訪問された。
これはアルナ−チャル・ブラデ−シュ州の招聘委員会なる組織が14世を招き、それに応じたというもので、インド政府もこの訪問を承認している。
14世が訪れた達望(タワン)僧院は中国とインドの間の紛争の種となっているマクマホンラインをインド側に入ったところ、ブータンとの国境近くにある。この地は中印双方が自国の領土だと主張し、戦火を交えて来たところである。14世がインド政府の許可を得て訪問されるのはここをインド領と認めるもので、中国政府としては黙っていられないだろう。
弱みにつけ込んで・・
1912年、辛亥革命で中華民国が誕生した。生まれたばかりの中華民国は臨時憲法で清朝の版図と統治権を引き継ぐとし、チベットは中国のものだと内外に宣言したが、建国後間もないことでもあり、何かににつけ混乱し、ばたばたしていた。その混乱につけ込んでイギリスはチベットを中国から切り離そうと画策した。また、ダライラマ13世はチベットの独立を図って独立宣言を出した。
いくらまだ態勢が整わない中華民国でもこれには黙っていられない。1914年、インドのシムラでチベットの統治をめぐる中国、イギリス、チベットラサ政府の三者協議が行われた。世にいうシムラ会議である。
マムマホンライン
イギリスはダライラマ13世の独立宣言を認めず、中国のチベットに対する宗主権を認めた上でチベット族の住んでいる地域を内チベットと外チベットに分け、内チベットは中国の統治とし、外チベットはラサ政府の完全な自治地域とする提案をした。チベットを中国の管轄外におき、自らがその保護という名目の支配体制をつくろうというものである。そしてこれを呑む様迫ったが、最終的に中国はこの提案を拒否してチベットは中国の一部という主張を曲げなかった。
当時の中華民国大総統は袁世凱である。彼は大変な曲者で革命の大道に背いたり、個人的野望に走ったりした人だがチベットの分離だけはがんとして認めなかった。結局シムラでの協議はイギリスとラサ政府の両者だけの合意で終わった。
その協議の中で中国(チベット)とインドの国境をプラフマプトラ川のすぐ北の本来の国境よりずっと北にするようイギリスから提案がなされた。たくさんのチベット族が住み、チベット文化が定着している地域をインド側に取り込もうというのである。中国はシムラ会議での合意を拒否したので、イギリスは「それならば・・」と、イギリスとチベットとだけの合意で、国境を確定した。当時イギリスの全権代表はインド政庁国務長官の任にあったヘンリ−・マクマホン卿である。それでこの“国境線”を今もマクマホンラインと呼んでいる。
言うまでもなく中華民国も中華人民共和国もこの“国境”を認めていない。
実を言えばラサ政府側もこれには随分不満、と言うより反対だったようで、この国境線の提案がイギリスの交渉団に入っていたシッキム政庁の政務官ベイジル・グールドから行われた際、ラサ政府の全権大使、シェダワ・ベルジョル・ドルジェは「われわれは境界交渉の指示は受けていない。提案されたロヒト(洛隅)とチベットの境界はチベット人が居住する多くの地域に跨っていてここでは解決できない」と協議を拒否した。
これに対しグ−ルドは、「イギリスの言うことを聞かないならイギリスはチベット人を助けない。漢人と協力してチベット(政府)を孤立させる。チベットの政治と宗教に重大な影響を与えるかもしれない」と表明したという。全くの脅しである。
ここに至ってチベット政府は、「この境界確定では政府や官家、寺院の土地、庶民の収入を著しく喪失し、長期にわたる危害となると思うが、しかしチベット政府が衷心から頼りにしているイギリス政府に不愉快な思いをさせれば、助けてもらえなくなるだろう」と判断し、やむなくこれを認めたという。
チベットでの‶国境″の押しつけが済むとマクマホン卿は足早にチベットを去った。ヨーロッパでは大きな戦争がはじまっていたのである。そして彼は中東にあらわれた。
(マクマホンラインが記載されていない中国発行の地図)
アラビヤのロレンス
第一大戦中の1916年6月、アラブの名家、ハ−シム家の当主でダッカの大守、フサイン・イブン・アリーが、ドイツ、オストリアの同盟国としてイギリス、フランス、ロシアの連合軍と戦っていたオスマン帝国に反乱を起こし、その背後をついた。
私は若いころ神戸・三宮の阪急会館で、ピーター・オトゥール主演の映画「アラビアのロレンス」を観て興奮した。
夢、情熱、戦い、そして失意、悲嘆、悲しみが織りなす感動と雄大で美しいスクリーンが今なお私の心に残っていて、その時の興奮を思い出すことが出来る。
そのアラビアのロレンスことト−マス・エドワ−ド・ロレンスがラクダに跨ってアラブ軍を率い、砂漠を走りまわってオスマン軍を打ち破ったのがこのフサインの反乱である。
フサイン・イブン・アリーをこの反乱に駆り立てたのは、チベットを去って駐エジプト高等弁務官として中東に現れたヘンリ−・マクマホン卿である。
三枚舌外交
地中海東海岸からアラビア半島、メソポタミアまでの広大な地域にアラブ王国の樹立を夢見ていたフサインに、マクマホン卿はオスマン帝国を倒せばそのアラブ王国建設を保証すると約束して彼をオスマン帝国への反乱に駆り立てた。(フサイン・マクマホン書簡)
ところがイギリスはその約束の陰でひそかにフランスやロシアとアラブの分割統治を協議したり(サイクス・ピコ協定)、パレスチナにユダヤ人居住地域を作ることを約束したり(バルフォア宣言)、いわゆる“三枚舌外交”を展開してフサインを裏切った。マクマホンは陰謀、脅迫、略奪、裏切りを常套手段とする帝国主義外交のまさに中心人物だったのである。
掠め取られた地
チベットの中に深く入って引かれたマクマホンライン。これもこうした帝国主義者の“成果”なのである。これによってチベットが失った土地は9万kuと言われる。北海道と四国を合わせたほどの広い土地である。
イギリスを頼りに中国に反抗したダライラマ13世は自らが保護しなければならないチベット族の住む土地をイギリスにかすめ取られても辛抱せざるを得なかったのだろう。
しかし、この地はどう考えても不当にかすめ取られたものである。もとの持ち主に返されるべきものではないか。
大チベット要求とマクマホンライン
ダライラマ14世は中国との話し合いの中で、チベット自治区のほかにチベット族が住んでいることを理由にして青海省全部と甘粛省の3分の2、四川省の3分の2、雲南省の半分を含む大チベット区の自治を要求なさっている(中国共産党統一戦線工作部、朱維群副部長談話)。しかしこれは客観的、歴史的に見て納得できるものでない。
14世が要求する青海、甘粛、四川、雲南各省のそれらの土地はかつて一度もラサの政権が統治したこともなければ、同じ政治、経済の態勢にまとまったこともないところである。チベット族が住んでいるところだからという理屈でそういう要求を出すのなら、その地域に住む他の民族もそういう要求が出来るだろう。なぜならそれらの土地は大昔からチベット族以外の民族、すなわち蒙古族、回族、そして漢族などが住んで来たところなのだから・・。
私は敢えて14世猊下に申し上げたい。領土要求をする相手を間違っていらっしゃいませんかと・・。
領土のことをいうのなら、相手は中国でなくインドではありませんか。なぜインドにマクマホンライン南側のチベット族の土地の返還を要求なさらないのか。
チベットの土地と人民を守るのが自らの使命と覚悟なさっている14世猊下がなぜインドに一言の抗議もせず、いくら招かれたからとは言え唯々諾々と侵略された地に赴かれたのか、理解に苦しむ。
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2009-12-02 07:47
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奥巴馬
中国のメディアはオバマ大統領の名前を「巴拉克・奥巴馬」と表記している。
新華社の報道によれば、北京のアメリカ大使館は中国当局にオバマ大統領の漢字表記を「欧巴馬」にしてほしい、と要請したという。(11月20日・中国情報サイト「サーチナ」)
オバマの「オ」は「奥」より「欧」のほうが原音に近いから、修正すべきだということらしい。
よそ様の国のメディアの表記にまで口を出して変更しろと迫るのは、さすが名にし負う傲慢大国、アメリカの面目躍如と言うべきだろう。
中国側は「欧」ではヨーロッパの中国語表記「欧洲」を連想させ、アメリカ大統領の名前に使うのは適切でない。また、「奥」は奥深いという意味があり、印象もいいと言って変更しない意向のようである。
「音」だけでない
中国には日本の仮名のような表音文字がないから、外国の固有名詞は表意文字である漢字の発音を使って表記しなければならない。表意文字を使うと音とともにその語の持つ意味なりイメージなりが付いてくる。だから音だけに的を絞って似た音であればどの字でもいいや、というわけにはいかない。たとえば対象が女性なら女性に使われる字というものが有るのである。
中国の外国語表記ですばらしい例としてよく挙げられるのがコカコーラの表記「可口可楽」である。
音だけなら「渇口克喇」でもいいかもしれないが、出来るだけ対象の特徴や印象を表現しようといろいろ考える。考えたすえ「可口可楽」なったのだろう。言いえて妙、と言うべき表記である。
こういう苦心がアメリカ当局はわかっていないのだろうと思う。もっとも日本人でも最近は漢字の持つ意味やイメージに疎い人が多くなっているので、アメリカばかり悪くいうわけにはいかない。
私は「欧巴馬」より「奥巴馬」を支持する。
中国と日本
日本は中国と同じ漢字を使っているので文字による表記についてこういういざこざは起きないけれど、ただ同じ漢字でも読み方、発音が違うので、口に出して言うときは全く違う読み方になるという問題がある。
私の名前の中国の読み方は「アオイエ」である。
中国語を勉強し始めたころ先生に「アオイエ」と呼ばれても、自分のこととは思わず知らん顔して、先生にたびたび失礼をした。
私たちの方も中国の固有名詞の読み方は日本式にしている。
「モウタクトウ(毛沢東)」、「ロジン(魯迅)」、「コキントウ(胡錦涛)」などなど・・。
韓国、北朝鮮と日本
以前は韓国や北朝鮮の固有名詞も日本式に読んでいた。
「リ・ショウバン(李承晩)」「キン・ニッセイ(金日成)」「キン・ダイチュウ(金大中)」というように・・。
近年韓国は漢字使用を極力少なくし表音文字のハングルに変えているが、そういうこともあって日本人の名前もハングルで表記し、日本の読み方で表記するように変えた。 1980年代の中ごろ韓国の方から、外交の相互主義に基づいて日本も韓国の固有名詞は原音尊重で表記してくれないかという要請があり、それではそうしましょうということになったようである。今ではすっかりそれが定着し、以前は耳に慣れなかった韓国式の読み方もすっかり馴染んで「ノ・ムヒョン」「イ・ミョンバク」という表記や読み方に違和感はなくなった。
最近はヨン様こと、ペ・ヨンジュンさんなど日本式の読み方ならどうなるのか全然気にならない。
今年8月に亡くなられた金大中元大統領も最近は「キム・デジュン」の方が耳当たりがいい。ただ、日本滞在中のキム・デジュンさんがひそかに韓国に拉致された例の金大中事件は、「キンダイチュウ事件」と頭に叩き込まれているのでその方がピンとくる。「キム・デジュン事件」と言われると何のことだったろうと戸惑う。
変えよう、中国人名の表記
で、中国と日本とはなぜ相互主義で原音表記をしないのか。
まず、中国の方を言えば、原音尊重となると漢字であらわされた日本の固有名詞を、あらためて別の漢字で書き変えなければならない。一度汲み上げた井戸水を井戸に戻してもう一度汲むような煩わしさと虚しさを感じる。現実的でない。
中国の固有名詞の日本語表記の方はというと、これがまた大変。
中国語には日本語では正確に表せない発音がある。たとえば無気音や有気音の区別は表現できない。また捲舌音というものがあってこれも表記できない。だから出来ないのだというのが定説である。
しかし、外国語の表記が難しいのは中国語に限ったことではない。英語でもそうである。以前レーガン氏がアメリカ大統領になられたとき、日本のメディアは彼を「レーガン」と表記するところと「リーガン」と言うところとに分かれた。その後これではいかんということで、メディアの皆さんが集まって相談した結果「レーガン」に統一しようということになった。英語でも斯くの如しである。
中国と相互主義は難しいかもしれないが、せめて日本だけでも中国の固有名詞は「フウジンタオ」「ウエンジアバオ」などと中国読みにしてはどうだろう。
「コキントウ」「オンカホウ」などという呼び方は中国で通用しないだけでなく、世界中どこへ行っても通用しないだろう。
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2009-11-22 08:24
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西安で大勢の友人が一堂に会して酒を飲んだとき、よく「7」抜きゲームをする。
ルールはいたって簡単。みんなが車座になり、順に数字を言って行く。「7」のつく数字と「7」の倍数を言った人が負け。禁止の数字の番になると「過(グオ)」と言う。「パス」ということである。
また、テンポを乱しても負け。1・2・3・4・5・6と、とんとんとんと進んでいるのに、自分のところで「えーと、過」などと間延びさせると負けになる。
日本にこういうゲームがあるのかどうかは知らない。私はやったことはなく、西安ではじめて覚えた。負けた罰はビールをグラス一杯飲むこと。
簡単、そして難しい
このゲームは簡単だが難しい。もともと私は頭の回転が遅い方だから大概負けてビールを飲み、それで酔って益々アタマが鈍り、さらに負けるという悪循環にはまってしまう。
どこが難しいかといえば、「過」の人のあとである。5・6・「過」と来て私の番になると、本当は「8」と言わなければならないのに思わず「7」と言ってしまう。とくに「過」が2回続いたあとに当たると確実につまずく。25・26・「過」「過」「・・・」。
私の中国語力は決して高くないが数を数えるくらいは不自由はしない、と思っていたけれど並んでいる数字を飛ばされるとだめである。
50まで行くと今度は逆に帰ってくる。
48・「過」・50・「過」・48・「過」・46・・・。こううなると全く歯が立たない。数字を逆の順序に頭からひっぱり出すなどという芸当は得意の日本語でも難しい。数字のまわるスピードがだんだん速くなるのも恐怖である。
負けても懲りず
しかし、負けても負けても懲りずにいつも必ず参加する。なぜなら中国語をとっさに聞き分け、応じる訓練になり、また、ゲーム中に友だちがそれぞれ言い合っているジョークや、冷やかしを聞くのも楽しく、日常会話のいい勉強になるからである。それで「奥野老師のためにビール1箱追加」などと、みんなに笑われながらもいつも率先して輪の中に入っている。
中国語教室で勉強なさっているみなさん、授業の合間に同学們とやってみてはいかが・・。
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2009-11-03 08:36
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