皆で音を出す。
異なる楽器で、複数の人間が、一つの音を出す。
しかも、なるべくゆるいキマリごとの中で、
「自由に!」
なんてスローガンをかかげながら・・・。
そういうことを何百回もやってるうちに、「こういう状態の時を『よかった』と呼ぶことにしよう」なんていう自分の理想像みたいのができてくる。
その像が仲間と一致しているうちはいいのだけれど・・・。
毎回「自由に!」と叫びながら、「一体化する」瞬間を夢見て集う変人達・・・。しかもその「自由」を手に入れるために、普段から一見相当不自由に見える「束縛」の理屈を学び、身体に負荷をかけてトレーニングにいそしんでいたりする。
変なことやってるなあ・・・。僕たち。
毎回同じようなことをやってても、相手が変われば、これまた色々変わってくる。
相手が変わることで一番変わって来るのが、「役回り」というか、そういうやつ。
いつもはボケ担当だったのが、何故かその日は自分でも気づかないうちにツッコミ担当に・・・なんてこともある。
「今日はこの人と一緒にやるから、自分はこういう役回りであろうとするのが理想的だなあ」などと青写真を描いて臨んだところで、気づけば全く逆の役回りを演じていたなんてことのほうが、むしろ多いのではないだろうか?
「無口な彼を引き立てるには、自分は寡黙な聞き役でいよう」と思って臨んだら、ますます彼は口を閉ざしてしまい、慌てて道化役を買って出るはめになって、結局しゃべり過ぎたとか、すぐにプロレスごっこをやりたがる野蛮で落ち着きの無いヤツが相手の時は、本当は静かに、何が起きても自分だけはクールで知的な微笑みを浮かべてその場にたたずんで居ることで全体の押さえ役に回ろうと思っていたのに、あまりの傍若無人な相手の振る舞いに黙っていられなくなって、大声で相手を批判し、息の根を止める一言を探して幾千の言葉を並べ立て、結局、傍目には自分が一番野蛮で品の無い存在としてそこに居ることになっていた・・・などなど。
そして、それが、もともと狙ってやったように思われたとき、死ぬかと思うくらい辛かったりする・・・。
ただでさえドラムという楽器を担当する人間というのは他のパートの人達からは、
「いっぱい叩きたい」「大きい音をだしたい」「手が早く動くところを見せびらかしたい」と常に考えて音楽に臨んでいるのだと思いこまれているフシがある。
「今日は歌バンだったから、まだまだ叩き足りないでしょう?」とか、ひどいときには「欲求不満にさせたかもねえ、ごめんねえ」などというお言葉を頂戴することも・・・。凶暴な猛獣であるところの「ドラマー」というヤツラを、本当は鋼鉄の檻に閉じ込めておきたいのだけれど、そういうわけにもいかないから、そうやって遠回りに言葉の鎖でつないでしまおうと・・・。被害妄想かなあ・・。いや、きっとそうにちがいない!
だから、自分の「意に反して」たくさん音を出す(音量、音数ともに)結果になったときは、逆に足りなかったときよりも辛い。「わざとたくさん叩いた」もしくは、「そういうやり口がすき」と思われてしまう口惜しさが、演奏の不出来さからくる辛さに追い打ちをかけてくる。「やっぱりドラマーなんて、ノウミソまで筋肉で出来てる類のやつらだ。野蛮だなあ。」と影でささやかれているような気になる。
僕は小学校のときから、運動会と体育の時間が大嫌いだったのに・・・。
あ、こんな愚痴を書くつもりじゃなかったのに・・・。
つまり、相手があっての自分。他とのかかわりの中で生きていく以上、「己のあり方」さえも他の存在からの影響下で常に思うままにはならず、思わぬ良い方へ転ぶこともあれば、不本意なほうへ転ぶこともある。ミュージシャンとはそんな姿を人前でわざわざ晒すのが仕事なのだから、もっと強くならなきゃいけないなあ。
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