2007年07月23日(月)
進化〜生き残る個性〜
酔っぱらった頭で、ベッドに寝転がって考える。

生物の進化とは、変化する環境に対応できた個体が生き残り、その遺伝的特徴を次代に伝えて行くことで、その環境下で生き延びる為により都合の良い形質を、その種全体として獲得していく過程だって、確か学校で習ったなぁ…。

その論理は、なんとなく、「優等生が生き残る」という印象を受けるけれど、実はそうでもないのかなあ。


2007-07-23 03:00 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年07月12日(木)
自分の人生・自分の音楽
こんな僕でも、さすがに40年も生きてると、
少しは「人生」ってものに関して気づかされることがある。
2007-07-12 02:26 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年06月29日(金)
ホトケツクッテタマシイイレズ 
「仏作って魂入れず」という諺がある。

それとは少し違うかもしれないけれど、

2007-06-29 02:10 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年01月17日(水)
役回り
皆で音を出す。

異なる楽器で、複数の人間が、一つの音を出す。

しかも、なるべくゆるいキマリごとの中で、

「自由に!」

なんてスローガンをかかげながら・・・。



そういうことを何百回もやってるうちに、「こういう状態の時を『よかった』と呼ぶことにしよう」なんていう自分の理想像みたいのができてくる。

その像が仲間と一致しているうちはいいのだけれど・・・。


毎回「自由に!」と叫びながら、「一体化する」瞬間を夢見て集う変人達・・・。しかもその「自由」を手に入れるために、普段から一見相当不自由に見える「束縛」の理屈を学び、身体に負荷をかけてトレーニングにいそしんでいたりする。

変なことやってるなあ・・・。僕たち。


毎回同じようなことをやってても、相手が変われば、これまた色々変わってくる。

相手が変わることで一番変わって来るのが、「役回り」というか、そういうやつ。

いつもはボケ担当だったのが、何故かその日は自分でも気づかないうちにツッコミ担当に・・・なんてこともある。

「今日はこの人と一緒にやるから、自分はこういう役回りであろうとするのが理想的だなあ」などと青写真を描いて臨んだところで、気づけば全く逆の役回りを演じていたなんてことのほうが、むしろ多いのではないだろうか?

「無口な彼を引き立てるには、自分は寡黙な聞き役でいよう」と思って臨んだら、ますます彼は口を閉ざしてしまい、慌てて道化役を買って出るはめになって、結局しゃべり過ぎたとか、すぐにプロレスごっこをやりたがる野蛮で落ち着きの無いヤツが相手の時は、本当は静かに、何が起きても自分だけはクールで知的な微笑みを浮かべてその場にたたずんで居ることで全体の押さえ役に回ろうと思っていたのに、あまりの傍若無人な相手の振る舞いに黙っていられなくなって、大声で相手を批判し、息の根を止める一言を探して幾千の言葉を並べ立て、結局、傍目には自分が一番野蛮で品の無い存在としてそこに居ることになっていた・・・などなど。

そして、それが、もともと狙ってやったように思われたとき、死ぬかと思うくらい辛かったりする・・・。

ただでさえドラムという楽器を担当する人間というのは他のパートの人達からは、

「いっぱい叩きたい」「大きい音をだしたい」「手が早く動くところを見せびらかしたい」と常に考えて音楽に臨んでいるのだと思いこまれているフシがある。

「今日は歌バンだったから、まだまだ叩き足りないでしょう?」とか、ひどいときには「欲求不満にさせたかもねえ、ごめんねえ」などというお言葉を頂戴することも・・・。凶暴な猛獣であるところの「ドラマー」というヤツラを、本当は鋼鉄の檻に閉じ込めておきたいのだけれど、そういうわけにもいかないから、そうやって遠回りに言葉の鎖でつないでしまおうと・・・。被害妄想かなあ・・。いや、きっとそうにちがいない!

だから、自分の「意に反して」たくさん音を出す(音量、音数ともに)結果になったときは、逆に足りなかったときよりも辛い。「わざとたくさん叩いた」もしくは、「そういうやり口がすき」と思われてしまう口惜しさが、演奏の不出来さからくる辛さに追い打ちをかけてくる。「やっぱりドラマーなんて、ノウミソまで筋肉で出来てる類のやつらだ。野蛮だなあ。」と影でささやかれているような気になる。

僕は小学校のときから、運動会と体育の時間が大嫌いだったのに・・・。

あ、こんな愚痴を書くつもりじゃなかったのに・・・。

つまり、相手があっての自分。他とのかかわりの中で生きていく以上、「己のあり方」さえも他の存在からの影響下で常に思うままにはならず、思わぬ良い方へ転ぶこともあれば、不本意なほうへ転ぶこともある。ミュージシャンとはそんな姿を人前でわざわざ晒すのが仕事なのだから、もっと強くならなきゃいけないなあ。
2007-01-17 03:12 | 記事へ | コメント(0) |
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2006年12月22日(金)
自転車の補助輪を一時間ではずせる方法 Part 1
先日、三宮での演奏を終えて、すぐに帰途につくのは物足りない気がして、いつもお世話になっていて、時々出演させていただいている別のジャズバーへ寄ったときのこと。

僕は車の運転があるので、ホットコーヒーを注文して、カウンターでその日の演奏を振り返って反芻していた。そうこうしているうちにその夜御共演いただいていたピアニストの方もその店に来られ、取りとめも無い話題の会話をしながらくつろいでいた。

その夜、そのバーには僕らの他にもう一人先客がいらっしゃって、僕らと並んでカウンターで飲んでいらした。

で、自然な流れでその先客の男性とも会話するようになり、なんだかんだと小ネタ集のような話題を次々にやり取りしていたのだが、その男性が、

「僕、自転車の補助輪付けてる子供が、1時間で補助輪の必要がなくなる指導法知ってるんです」と、少し誇らしげにおっしゃった。

僕には子供はいないが、将来自分に子供が出来たときに、いつかはその「指導法」が役に立つに違いないと思えて、結構真剣に彼の話に聞き入った。


その方法論たるや、素晴らしく理にかなったもので、且つ、簡単な方法だった。

今夜はもう遅いので、この続きはまた日をあらためて・・・。

to be continued....
2006-12-22 03:27 | 記事へ | コメント(0) |
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2006年10月11日(水)
主観と客観の一致
今夜は眠れないベッドの中で思いついた事を携帯から。
実際の演奏中に感じていたり、見渡せたりしている事柄を主観とするなら、後で録音を聴いているときに気付くことは客観ということができるだろう。

今の僕は、この二つがまだまだ一致していない。もっともっと経験をつんで、精進していけば、いつかは一致してくるのだろうか?

実際の演奏中に、なんだか全体のグルーヴがブカついて締まりがないように感じて、前につんのめるように追い立ててみて、その時はそれが正解のように感じられても、後で録音を聴いてみると、フロント奏者の四分音符の最後の部分をただ単に切り捨てて追い立てているだけで、とてもせっかちになっているだけだったり、その逆に、深く沈む粘りをだそうとして、モタついてしまっているだけだったり…。以前よりはそのレベルの問題点はかなりましになってはいるが、一曲を通しての変化の付け方や、一曲まるまるとは言わないまでも、フロント奏者の見通している一区切りとでもいうか、落としどころというか、そういうものを先読みしていく力が、まだまだ不足していて、心地よいカラミ方ができずに、でたらめで調和の無い流れになっていたりする事もまだまだたくさんある。せめて自分の出す音のコントロールの精度がもう少し高ければ、読み切れていないながらも、それなりの美しい対比を描けるようにも思うのだが…。それはまあ日々のフィジカルなトレーニングの積み重ねで精度をあげていくしかないとして、鼻から予め描いた地図の通りに進めていくのも、集団のインプロビゼーションの可能性を限定してしまって、いわゆる「小さく無難にまとめる」ってことになって、好ましい事とは言えない。

録音を聴いて色々思っているときは、時間軸の中で、「現在」をおろそかできる。当たり前だ。もうすでに過去の自分が選択した判断を記録の中で振り返っているだけなのだから。
「現在」にとられるエネルギーを、過去の吟味と、それに基づくより良い未来の選択のために振り向けることができて、その結果、「もっとこうすれば良かったんやんか!」などと、達人級の批評もできる。

ところが実際の演奏中はそう都合良くはいかない。

クルマの運転中に、速度が上がれば上がるほど、認識できる視野が狭まるのと同じような感覚で、過去に描いた軌跡と未来のヴィジョンの間に存在する「現在」は、不安定で危うく、希薄なものになる。

結果として…

あぁ、眠くなった。わけのわかんないことを書くのは、今夜はこれくらいにしておこう。

眠いから寝る。それでいいのだ。演奏もきっとそんな感じで良いのかもしれないなあ。
2006-10-11 06:04 | 記事へ | コメント(2) |
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2006年07月28日(金)
人間の作ったもの?
この世に人間がゼロから生み出したものなど無い・・なんてことに夜中に突然気づいた・・というか、以前からそう考えていたが、何故か唐突にそのことについてノウミソが勝手に考察を始めてしまった。

こうして叩いているPCのキーボードも、プラスティックという「工業製品」でできてはいるものの、元を辿れば石油であり、石油は太古の昔に植物が二酸化炭素と水から光合成で作り出した炭水化物などが永い時間をかけて地中で組成を変化させたものであり、そのまた元の炭素だの水素だのの元素は、宇宙が始まった瞬間の超高温高圧の状態から解き放たれる過程で素粒子がその組み合わせを変えていくうちに出来上がってきたもの。

「あったりまえやんか!」

はい、あったりまえでございます(^^)。

「そんなんどうでもええやんか!」

はい、どうでも良いことでございます(^^)。

財布の中の千円札もまた、前述のPCのキーボードと似たり寄ったりの変遷を辿って「千円札」になりえたわけだが、貨幣に関してはまあ、貨幣システムというものだけは、人間が作り出したということができるかもしれない。

しかしながら、貨幣システムそのものもまた、人間が体内に健康な状態で溜め込むことのできる栄養の限界の小ささを補って、より安定した種としての繁栄を実現するために人間に求められてできたもので、貯蔵のきく食物としての「穀物」を人間が栽培できるようになって、その「貯蔵できる富」が原型となって、やがて、穀物そのものではなく、石の貨幣にその価値を持たせ、やがて金属の鋳造が可能になって以降は金属の貨幣になり、コミュニティーとしての社会が大きく、「国家」というものにまで発展した後、紙きれに印刷した数字が様々な「価値」を保証するシステムが出来あがるに至ったというわけだから、このシステムそのものさえ、人間が自ら生み出したものといえるかどうか・・・。

あ、またまたどうでもいい?

はいどうでもいいことです(^^)。


さて、「音楽」はどうなのか?

僕はこれもまた人間が生み出したものというよりは、「見つけたもの」だと思っています。

人間が誕生する以前から、僕は音楽は宇宙に存在したと思う。万有引力があまねく宇宙に普遍的に存在するのと同じように・・・。素粒子たちが一定の法則にしたがって無数の原子を構成し、その個性あふれる多様性を呈しているように。

人間の知性と感性はその無限の宇宙の法則を、身の回りに起こる様々な「現象」を深く観察することで、解き明かし、それらの法則を見出し、整理し、そこから得られる力や利便性を自らの生活を豊にし、「幸せになるために」利用することを追求してきた。ただそれだけ。そこにあるものを利用してきただけなのだ。まったくの「無」から人間が生み出したものなど、存在しない。

ある日森の中を歩いていて見つけた、空洞を持つ朽木に躓いたときに、とても深みのある心地よい音がすることに気づいた誰かが、なぜそういう音がするのかを解き明かし、やがて空洞を持つ材木をもっとたくさん並べて色んな音程をつけて叩くと、まるで鳥や虫達のさえずりに勝るとも劣らない「美しい」音を楽しむことができることに気づく。

そう、「見つけた」のだ。見つけただけなのだ。そこから、もっと美しく、楽しく、時に切なく、人間が持つ全ての感情を表現したい、伝えたい、共有したいという衝動にしたがって、「もっと、もっと」と探し続けた。その土地の文化や風習、風土などの影響を大いに受けつつ、地球上のいたるところで「音楽」の発見は起こり、それぞれに発展し・・・音程、和音、リズム、そういうものの「法則」を整理した「楽典」とか「理論」というものができ、それらを使ってさらに深く人間の心に訴えかける組み合わせを探求し、「使って」きた。

「見つけて」「使って」楽しんできたのだから、決してゼロから「生み出した」のではない。

僕は時々、音楽をしていて、空気の中にポカンと四次元の穴が空いていて、そこに手を突っ込んで、ガサガサと、まるでくじ引きを引くように取り出したものを、皆さんの前で「こんなの出てきました」と披露しているような気分になることがある。

僕が知っていて、扱える音楽の素材など、本当にたかが知れていて、自分ひとりでそれらを扱って音を出してみたところで、楽しさもそれなりでしかない。

ところが、それぞれまったく違う人生を生きてきて、性格や感じ方も違う「他人様」と一緒に、ある程度共通した約束事を守りながら一緒に音を出すとき、それは本当に四次元ポケットから宝物を見つけて取り出したような喜びを得ることができる瞬間がある。

「因」があり、それは「果」に向かって流れる。その途中で様々な「縁」に触れることによって、自分の中の一つの「因」から生じた流れは、無限の「果」を生む可能性を帯びる。そんなところだろうか。

あー、またバカなことを書いちゃった。いい加減にして寝よう。
明日はどんな音を「四次元ポケット」から取り出せるかなあ(^^)。
2006-07-28 02:20 | 記事へ | コメント(2) |
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2006年05月08日(月)
語るように歌い、歌うように語る・・・米語の音声学的「美」
「正しい発音」を超えて「言葉の音声学的美しさ」まで自在に操るシンガーには、どんな超絶テクニックの楽器奏者もかなわないと思う。

最近、本当にそう思う。

そのレベルで表現している偉大なシンガーの操る米語の歌の中には、全てのジャズ楽器奏者が見習うべき貴重なヒントが、ぎっしりと詰まっていると思える。

特に、生まれたときから日本語で生活してきた我々日本人プレーヤーは、英語圏のプレーヤーよりも、そのあたりを強く意識して、深く観察して、できればちゃんと音声学的に整理して学ぶべきだと思う。

あー、がんばろっと。
2006-05-08 03:25 | 記事へ | コメント(0) |
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2006年05月03日(水)
「気持が伝わる」
「気持が伝わる」という表現がある。

良い言葉だ。

人間には「気持」というものがある。
動物にもあるだろうが・・・人間のそれは、様々な「動機」や、「理由」などもあって、他の動物よりもフクザツで、ときにそれは、ある意味厄介なモノだったりする。

それでも、それが伝わったとき、送り手も、受け取った側も、大なり小なり「幸せ」を感じられる。

厄介だったりするからこそ、難しいものだからこそ、喜びを感じるのかもしれないなあ。

今夜は少し酔ってます。

音楽そのものや、音楽を演奏する中で起こる様々な問題や課題。もちろんビジネス的なものもそこには含まれるのだが、全部ひっくるめて「音楽を通じて」の人の行為のなかに、様々な「気持=伝えたいこと」があって、それが、作り手から聴き手、共演者同士、そしてその場を提供してくれるお店やイベント主催者、その他にもたくさんの立場があって・・・。

それぞれの気持が伝わって、たとえ一秒でも幸せな時間が残せた時、僕は音楽やっててよかったなあと思う。心から。

これまで生活するために様々なアルバイトもしてきたけれど、音楽の現場だけでなく、そういう様々な仕事の場面で、「気持が伝わった」とき、僕は幸せを感じた。

もっともっと精進して、そういう幸せな瞬間が、人生の中で、すこしでも多くなるようにしたい。

こんなことブログに書くのは変かもしれないなあ。

酔っ払っていても一度書いたことは、誰かに迷惑をかけていない限り、削除しないつもりなのだが、まあ、今夜のこれは、これでいいか(^^)。

とにかくこれからも頑張ろう。

おやすみなさいませ。
2006-05-03 03:59 | 記事へ | コメント(2) |
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2006年04月18日(火)
大発見→頑なまでのこだわり→頓挫→勇気あるこだわりの放棄→体得と成長
変なタイトルにしてしまったけれど、今日はそんなことを考えながら過ごした。

音楽をずっと続けていると、時々、「あ!これや!」という発見をするときがある。

すごくいい感じで演奏できた日や、尊敬する先輩との共演で素晴らしいものを共有させてもらった時や、魅力的なアドバイスをいただけた時など、その状況は様々だけれど、そういう時は、その場で自分が体得できたように思えたりする。

とても嬉しくて、これからもそれを大切にしたいと深く思う。

ところが、何故か次に演奏したときに、なかなかそれができなかったりする。

その「大発見」を活かそうと張り切って、その場にその発見への「こだわり」を持ち込んで、得意になってやってみようとするのだが、まったくしっくり来ない。

その次の日も、またその次の日も・・・。

苛立ち、険しい表情になっていたり、意固地になって心の中で「なんでそういうふうにやるんや?ちがうやろ!そうじゃないやろ!」などと共演者の表現を否定してしまったりすることさえ・・・。

うまく出来なければできないほど、最初に発見した時への思いが強くなって、さらに「こだわって」しまう。

演奏後に泣きたい気分になったり、本当に涙があふれることも。

ところが、何かの拍子にふとその「こだわり」を捨てることが出来たとき、不意にうまくいき始めることがある。

考えてみれば当たり前のことだ。

毎回共演者も違えば、その場の空気も違う。

「気持ちよくスイングしてグルーヴ出来ている」という状態にも、いろんな状態やイメージの形がある。

以前に上手くいったときのイメージにこだわりすぎて演奏していては、その日の、その場の、その仲間との演奏に参加していないのと同じなのだから。

妥協やあきらめではなく、素直に自分をリセットして、ニュートラルな姿勢でその場の演奏に臨めたとき、実は、その瞬間が、それまで苦しみながらこだわって来たことを体得した瞬間だったりすることが多い。

全く違う場所で、まったく違うこだわりを見つけてきた者同士が、それらを上手く「交換」して、共有して吸収しあってこそ、「切磋琢磨」なのだろう。

20代の頃からみると、今の僕は、歳をとった分だけ、そういう「こだわり」を捨てるのが上手になったつもりでいたけれど、やはりまだまだダメだなあと思う今日この頃。

意固地でもいけないし、優柔不断でもいけない。

ナチュラルでニュートラルな自分を心がけよう。
2006-04-18 04:11 | 記事へ | コメント(2) |
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2006年04月05日(水)
今夜は大雨
最近、防戦一方な自分に気づいた。

演奏上要求される様々な事柄の中で、出来ないことや、苦手なことを見つけ、そこを補強するだけで終わってしまっている。

「自分はこれが言いたい」と言うものを深く見つめるところまでできていない。

確かに、それを表現するためにも、「補強」は大切なのだけれど、一つ雨漏りの穴をふさいだかと思えば、また別の場所から雨が漏れてくるのを慌てて塞ぐ・・・気がつくと最初に塞いだはずのところからまた漏れている・・・そんな作業ばかりしているような気がする。

そして、塞がなければならない雨漏り箇所の多さに、時々戦意を喪失しかかってしまう。

「見なかったことにしよう・・・」と。

いかんいかん、例え一生その作業が追いつかなくても、やり続けなければ。

20年前、楽器を始めたばかりの高校生だった頃は、一つ新しいことができるようになっただけで、とても嬉しくて、それだけじゃ到底音楽になんか成り得ないのに、そのちっぽけな進歩の喜びだけで、自分がどこまでも進んで行けて、無限に伸びていける気がしたものだ。

あの感覚を、もう一度取り戻すために、今の僕に欠けているものは何なのだろう?

誰か、今の僕に「あなたは18歳です」と、暗示をかけてくれないだろうか?

でも、本当にそんなことをしてもらったら、きっと、今まで見つけてきた色んな大切なことも、全部忘れてしまうのだろうなあ。
2006-04-05 02:19 | 記事へ | コメント(4) |
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2006年04月04日(火)
春本番
桜も咲いて、今度こそ本格的に春が来たようだ。

今年はなんだかいつまでも寒いと思っていたけれど、やはりちゃんと春は来た。

人間が作った単位を足し算して「一年」になったのではなく、宇宙に生まれた地球と太陽の配置が生んだ、公転周期によって生み出された一年。

気温が上がるのが例年より遅かったとか、様々な細かい誤差のようなものがあっても、そういう大きな運動(公転周期)が生み出すサイクル(季節)はゆるぎなく、かつ、しなやかで、美しい。

一拍も、一小節も、1コーラスも、全てはその大きな回転運動の一部であり、縮図なのだ。

人が生まれて、成長し、老いて、やがて死んでゆく。
その中で様々な困難もあれば、輝く季節もある。

そういうサイクルもまた、宇宙の一部であり、音楽も同じ。

電子的な振動の単位を足し算して生み出される長さ(電子メトロノームのテンポ)は正確だが、そういう足し算で生まれる周期は、大きく力強い物体の運動を割り算して生まれる周期とは、外見上は同じように見えても、やはりその成り立ちが違う。

酔っ払ったかなあ?何を書きたかったんだろう?
2006-04-04 03:33 | 記事へ | コメント(0) |
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2006年03月29日(水)
アドバイス
一つ前の記事に、
「この年齢になると、なかなかアドバイスも頂く機会がない」
と書いたけれど、この「アドバイス」、もらうのも、逆にこちらからするのも、本当に難しい。

演奏の合間にお互いの演奏について触れてしまうと、次のセットでの演奏中に、その何か言われた部分に必要以上に意識がフォーカスしてしまって、とても不自然なことになることが多いからだ。

アドバイスを「もらった」場合は、なるべく早くそれを自分の一部として消化してしまうように心がけるが、それも簡単なことではない。

「これがよかった」と言われれば、調子に乗ってそればかり強調してしまったり、逆にダメ出しをもらうと、萎縮してしまったりするのが普通の人間。

自分より経験の浅い、若い人と演奏すると、こんな僕でも「あ、これは言ってあげたほうがいいかな?」とか思うこともあるのだけれど、そのことでその人の演奏が瞬時に良い方向へ向かうような、理解しやすく、的を得た表現で、相手を迷わせず、萎縮させずに伝えることができるか?と自分に問うてみると、なかなか怖くてできないものだ。

その人がその人らしい持ち味を出せなくなってしまうようなアドバイスのしかたをしてしまうと、自分も相手も辛いことになってしまう。

だからそういうことはなるべく演奏が終わってからするようにしているけれど、それでも次回の演奏に臨むときに、相手にそれを意識させてしまうことは避けられない。

だから、僕はそういうことをしてしまったときは、その人との次の共演の機会は、なるべく時間をあけるようにしている。

僕がアドバイスをもらった場合は、なるべく早く消化して、その人からそういうアドバイスをもらったことを忘れてしまえるくらいまで、「自分のモノ」にしようと思う。

でも本当は、具体的に細かいことを指摘するよりも、一緒に録音を聴きながら、「うわー、ここ、こんなことになっててんなあ」とか、「お、ここ、あんたなかなかかっこええやん」とか「あ、これ、僕が邪魔してしもてるなあ」とか、話す中で、お互いの「こだわり」とか、「大切にしたいもの」とかを理解するきっかけを作るような時間をもうけるのが一番良いのだと思う。

やっぱり一緒に音楽するって、信頼関係が一番大切だなあ。

まずは笑顔で「今日もよろしくお願いします」ってのが第一歩ってことか。
2006-03-29 04:21 | 記事へ | コメント(0) |
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2006年03月28日(火)
録音
僕は自分の演奏をほぼ毎回録音する。

10年以上前はカセットテープ、そして当時は今より収入があったので、頑張ってポータブルサイズのDATを購入して録音していた時期もあった。

昨年復帰してからは、初めはMDで録音していたが、どんどん増えて整理できなくなっていくディスクにたまりかねて、とうとう秋頃にフラッシュメモリタイプのMP3レコーダーを購入。これがめちゃめちゃ便利!ステレオマイクが接続できて、音質もなかなかだし、録音レベルも、マイクの限界を超えないかぎり、ちょっとやそっとでは歪んだりしない。握り寿司くらいの大きさなのに、8時間くらい録音できてしまう。そして何より、MP3なので、PCに取り込んでしまえば、後々の管理も簡単で、かさばったりしない。

なぜ録音するのかというと、これは勿論「反省」用。
若いころは先輩方が常に自分の弱点を指摘、指導して下さったが、さすがにこの年齢になると、なかなかそういうありがたいご指摘やアドバイスを頂けるチャンスは無い。ご共演者の方々も色々思っておられても、気を使って言葉にして下さることは少ない。

こうなってしまうと自分の耳だけを頼りに、自分をチェックするしかない。

また、録音をチェックすると、演奏中の主観的な視点から離れて、客観的に演奏を観察することができる。

しかーしっ!

この作業、大概はものすごく辛い作業になる。時には落ち込んで眠れなくなることも・・・。
なにしろ、さっさと忘れてしまいたいような問題の多かった演奏こそ、しっかり入念にチェックしなければならないのだから、それはもう、自分を拷問するような作業なのだ。時には「絶望感」に近いものを感じることさえある。

まあ、それでもやるしかないのだが、僕の場合、この作業で見つかることは、今の自分の演奏に「付け加えたいこと」よりも、「取り除きたいこと」のほうが多い。

録音に残された自分の演奏は、たいていの場合、アンサンブルの中で「いらない音」を出しすぎているのだ。無意味な「手癖」で音を出してしまっている瞬間の多さに、あきれかえってしまう。

もう一つはアンサンブル上の、全体のグルーヴという重要な問題。

指揮者も居らず、お互いの出す音を感じながら皆で一つのグルーヴを生み出すことが何よりも大切なのだが、これは、譲り合ってばかりいてもダメだし、わがままになってもいけない。昔、全く自分のリズム感が信じられなくなってしまった時期があって、そのときは、自分の出す音が全体の流れから、全て遅れてしまって、いわゆる「重い」という状態になってしまっていた。

ある程度自信を持って、ビートを打ち出さなければならないのだが、ひとたび周囲と食い違いだすと、演奏中にものすごい葛藤が心の中で起きてしまう。

「今、俺がずれてんの?それとも他の人が原因?」

この状態を脱するには、様々な要素を判断して、決して意固地にならず、また、急ハンドルを切るようなことをせずに、しなやかに修正しなければならないのだけれど、それが出来るようになるためには、やはり後からきちんと客観的に録音をチェックしないと、底なしの迷いの中へ!ということになってしまう。

そして、最後は、そういう積み重ねの中で、自分自身や、共演者の方とのお互いの間に生まれる信頼感や、ちょっとした「愛」みたいなことこそが、自然で心地よいグルーヴを生み出す最も重要なファクターなのだと思う。

手軽に録音などできなかった時代のミュージシャン達は、さぞかし大変だったことだろう。それだけでもグレートだなあ・・・。

グレートでもなんでもない凡人の僕には、いまのところこの文明の利器を使った方法で、道を見つけていくしか無さそうだ。
2006-03-28 02:54 | 記事へ | コメント(4) |
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2006年03月12日(日)
新しい仲間
今日、正確にはもう昨日だけれど・・・、新しい仲間に出会った・・・これもまた正確には、少し前に知り合ってご縁ができた人なのだけれど・・・。

彼女は若いシンガー。

もう一人のこれまた若いシンガーとダブルのフロントで近々共演することになったのだ。

今日はそのシンガーのお二人と共に、ライヴへ向けての準備を少し始めた。

リハーサルでも、アンサンブル練習でもない。音を出したわけでも、曲目の打ち合わせでもない。

ただ一緒にライヴの案内チラシを作っただけ。

三人で知恵を出し合い、パソコンの前でああでもないこうでもないと試行錯誤しながら、なんとかチラシは完成した。

もうここから僕らの「共演」は始まっているように思う。

お互いの大切にしたい物事や立場を推し量り、自分の大切にしたい物事や立場を丁寧に伝える。お互いの役割を果たす努力をしつつ、また、相手に任せるべきことは信頼して任せる。

そこから一緒に音を出す価値が生まれ、それを一人でも多くの人に感じてもらいたい。

そういう姿勢で臨むことができれば、経験の差や、技術の差など、ちっぽけなこと。

今日はその最初の段階の準備だったが、もうすでに僕らのライヴは始まっているように思う。

ただただ良い音楽にしたい。その夜を良い夜にしたい。当日その場にいるであろう全ての人にとって。

その気持に従って皆で動いた時から、すでに僕らの「共演」は始まっているのだ。

カウントを出す時点で、すでに音楽は流れ初めている。もっと厳密に言えば、カウントを出す立場のプレーヤーが、心の中にテンポをイメージする時点から演奏は始まっている。

今日僕らは、自分達がステージに立つ事を具体的にイメージし、その意味について少し考え、今何を為すべきか共に考え、行動した。

やはりもうここからすでに僕らのライヴは始まっていて、僕等は「仲間」になったのだ。

彼らは僕よりずっと若く、経験も浅いけれど、立派な仲間であり、今回のライヴの信頼できるリーダーだ。

今日の数時間の彼らと過ごした時間の中で、僕はそれを確信した。

お二人さん、たとえこの後、他のどんな一流の第一線で活躍するミュージシャンから僕にその日の共演のオファーがあっても、それはきっちり断って、あなた方と共演するからね。

え?そんなオファー来るはずないって?
・・・あ、まあ、そうやね(^^;)。

良いライヴにしましょう!
2006-03-12 01:50 | 記事へ | コメント(2) |
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2006年03月05日(日)
奏でる=祈る
十数年前になろうか、そこは演奏の終わった深夜のジャズクラブのグランドピアノの前だった。

客席にはもう誰も居らず、一時間前までの華やいだざわめきが嘘のように静まりかえり、お客の残していったタバコの香りと、カウンターの中でグラスを洗う音だけが、そのピアノがその夜、多くの人たちの心に何かを語りかける為に使用されたことを静かに語っていた。

そのピアノの椅子には、30歳を過ぎたばかりだというのに、すでに世界を舞台に活躍している一人の日本人ピアニストが座っていた。

彼はその夜、その店に公式に出演していたのではなく、たまたま生まれ故郷の街に帰ってきていて、他にいくらでも休暇を楽しむための選択肢はあったろうに、彼にとって縁の深いその店をふらりと訪れて、何曲か演奏に参加したのだ。

おまけに、ステージが終わればさっさと帰ってしまっても誰も彼を咎めたりするわけでもないのに、客席に誰もいなくなるまでそこに留まっていたのだ。

そして、そのピアノの周りには数人のミュージシャンがいた。その夜レギュラーメンバーとして演奏していたミュージシャン達と、そのピアニストがそこに現れたという情報を聞きつけてやってきたミュージシャン達だった。

そのレギュラーバンドの本来のピアニストであり、リーダーである年配のベテランピアニストは、演奏が終わって身支度をすませると、穏かな微笑みえをたたえて「あとはたのんだよ」と、その若きピアニストに声をかけて家路についた。

そして、ピアノを取り囲むレギュラーメンバー達の中に、20代半ばを過ぎたドラマーがいた。ピアニストは、そのドラマーに向かって語りはじめる。

「ピアノの中をのぞいてご覧。ハンマーが弦を叩くのがみえるかい?ピアノの音は、そこで生まれる。僕が鍵盤を押さえている位置から、こんなに距離があるし、その動きが伝わるまでには、間にこんなたくさんの部品でできたモノが存在するんだよ。僕達ピアニストは、自分の指先まで神経を通わせて弾いているだけじゃだめなんだ。指先を超えて、そのハンマーの先に貼られたフェルトが弦に当たっている部分まで、自分の神経を通わせなきゃいけない。」

更にピアニストはそのドラマーに、そのグランドピアノの外周を形作るカーブの、高音側の、唯一へこんだ部分に頭を持っていってみろと指示した。その位置が、最もバランス良く、美しい音色でピアノの音が集まる位置なのだという。

ドラマーがそこへ頭を据えたのを確かめると、更にピアニストは続けた。

「いいかい、今から僕は、まったく同じフレーズを2回に分けて弾くよ。一回目は、『指先』まで神経を通わせて、二回目は、『ハンマーの先』まで通わせて弾くからね。よく聴いておくんだよ。」

それは二小節に満たない、バラードなどでよく見られる、ありふれたコード進行のフレーズだった。

一度目を聴いたときも、ドラマーは単純に、
「きれいな音色だなあ、音の粒も揃っていて、素晴らしくコントロールされている。さすがだ。でも、これ以上のことなんてできるのかな?」
と思った。

そして二度目。まったく同じフレーズだったが、聴いた瞬間、そのドラマーは、突然自分の目から涙があふれるのに気づいて、狼狽した。いや、狼狽したのは数秒たってからだった。いきなり「持っていかれた」のだ。彼の感情は、鍵盤を通って、ハンマーが弦をはじき、その国産のありふれたグランドピアノの響板で増幅されて彼の耳に届いたその「音」に、正に「持っていかれた」のだ。

彼は自分の中で何が起こったのか、まったくわからなかった。ただ全身に鳥肌が立ち、涙があふれて、心が「ざわっ」っといったのだけがわかった。

別に悲しい響きのフレーズというわけでもない、特別具体的なストーリーを成すほどのたくさんの流れを使っているわけでもない、「よくある流れ」和音の進行のフレーズなのに・・・。実際、どんなフレーズだったのか、後になって、耳に残っているわけでもなく、音の並びや形さえ思い出せない。それほどありふれたフレーズで、そのことが、そのフレーズの持つ幾何学的な「記号」としての美しさが心を打ったのではないことを証明している。

そのピアニストが、そのありふれた国産のピアノを通して、形で理解したり、記号で書き記すことのできない「何か」を、彼の心に刻んだのだ。

ピアニストは、あっけにとられているそのドラマーの表情を見ても、別段勝ち誇ったような微笑を浮かべるわけでもなく、気取ったり驕ったりする様子も無く、ごく当たり前に伝えるべきことを伝えているのだという様子で、静かに、しかし熱い眼差しで、そのドラマーの瞳を見据えて語り続ける。

「僕はこうやって音を出す。君も『スティックの先』まで神経を通わせて音をだしてくれ。」

あれから十数年、今でも僕はあの夜のスペシャルレクチャーを忘れない。彼があの時、ピアノを通じてその未熟な若いドラマーであった僕の心に向けて放ったものは、ほとんど「祈り」に近い表現だった。「感情をこめる」などという生易しいものではない。自らの放つ音を強くイメージして、「こうひびけ!」と、「祈り」を音に吹き込んでいたのだと思う。

「奏でる」=「祈る」なのだ。

それは、ジャズを聴き慣れた人や、我々ミュージシャン等が、「ははーん、ここはこういうふうにきたか」などという聴き方でそのフレーズの「形」を捉えて「理解」するのとは全く別次元の、たとえジャズを初めて聴いて、そのフクザツな「形」を捉えきれない人の心にも、確実に届く、例えようの無い美しい力を持っていた。

あの頃、本来なら、僕の実力で同じステージに立つことなどあり得ない、あの素晴らしいピアニストと何度も実際に一緒に音を出させて頂いたり、ここに書いたようなスペシャルレクチャーを受けることができた事は、僕の生涯の宝であると同時に、大変な宿題をもらってしまったなあという、若干の苦しさを伴うものでもあるのだが、そのピアニストとの唯一の接点だったそのジャズクラブはもう存在せず、あとは自分の地道な努力で、彼の域に少しでも近づけるように取組んで行くしかないのだなあと、彼のCDを聴く度に思う。

そして、あの夜、「あとはたのんだよ」と、微笑みをたたえて先に帰って行かれた、当時還暦のあの「御大」からも、たくさんのことを、「背中」で教えていただいた。ああいう背中で僕も還暦を迎えたいと思う。
2006-03-05 01:50 | 記事へ | コメント(2) |
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2006年03月02日(木)
もう3月・・・
この間正月を迎えたと思ったら、もう3月になってしまった・・・。

はやいっ!

おそらくそんなことを思っているうちに、あっという間に桜が咲いて、梅雨に入って、蝉の声に暑さを倍増されながら大量の汗をかく季節になって(僕は人一倍汗かきなのだ)、ようやく涼しくなったなあなどと思っているうちに、またストーブをつけなければならない季節になって、「今年の灯油の値段は・・・」なんて言っているうちにまた新しい年を迎えるのだろう。

年々加速するなあ・・・。

なぜ年をとるにつれ、時間の経つのがはやくなるのか?10代よりも20代、さらに30代になって益々早くなって、年々加速している。

どうやらこれは僕だけの感想ではないようで、うかがってみると、皆さんそう思っていらっしゃるようだ。

で、またまた考えてもどうしようもないことを考えてみたのだが、どうやら、これは「ものさし」に例えられる現象のようだ。

つまり、同じ1センチでも、10センチのモノサシにとっては、その1/10を占めてしまうほど「長い」わけだが、50センチのモノサシにとっては、自らの長さの1/50にしかならない「短い」ものなのだ。

言い換えると、人は今まで生きてきた時間の長さを基準に時間を感じていて、15年しか生きていない少年にとっては、1年は自らの人生の1/15をしめてしまうから、「長く」、40年生きていれば、1/40だから、15歳の時に感じたよりも「短く」感じてしまう。

というのが僕の結論なのだが、どうだろう?

これは音楽のリズムにも少し似た現象が見られる。

早いテンポの細かいフレーズも、小さい拍の単位を基準に感じてしまうと、単なるフィジカルな部分での難しさに加えて、そのフレーズが大きく肥大してしまって、「はまらない」ということが起きる。しかし、もっと長い単位を基準に感じて捕らえれば、意外とすんなりはまったりする。

どのくらいの長さ(拍数もしくは小節数)を基準にするべきなのかは、テンポにもよるのだが、これまた、人間が一番捉えやすい長さというものがあるあようで、僕はそれは地球の重力の大きさ(1G)や、人間のサイズ(1.5mから2mくらい)、また、人間の心臓の拍動の長さなどに深く関わっているとおもう。

将来、もしも地球以外の知的生命体とコンタクトできる日が来たとして、その「宇宙人」の住む星の重力が、地球と極端に違うとか、その宇宙人の平均身長が地球人のそれとは極端に違う場合、彼らにとって「スイング」するテンポは、ひょっとしたら我々地球人とはずいぶん違うモノなのかも知れない。

まあ、そんなことは、ずっと未来に「接近遭遇」を経験する時代の人たちに任せて、僕はとにかく今僕の周囲にいて、僕の演奏を聴きに足を運んでくれる皆さんや、共演して下さる皆さんを、「スイング」させなければならないのだが・・・。

スピルバーグさん、そのへん、少し考えてみると、新しい「未知との遭遇」作れるかもよ。
2006-03-02 01:49 | 記事へ | コメント(6) |
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2006年02月28日(火)
宇宙
昔、宇宙の始まった瞬間は、さくらんぼ大の大きさの、ものすごいエネルギーの塊だったらしい。そして、あっという間にとてつもない大きさにまで爆発的に広がっていったとか・・・

昔読んだ理論宇宙物理学者の本に書いてあった。

と、すると、今宇宙に存在するもの全てが、そのエネルギーの爆発の過程の産物なのだ。物質の素粒子はもちろん、「生命活動」という「現象」まで。

子供の頃、「神様なんて、いるわけない」と思っていた。というか、子供の僕にとっては、「神様」も「お化け」も、そう大して変わらない存在だった。

姿は見えないのに、人間より大きな力をもっていて、神様はいい人っぽいキャラで、お化けは悪者キャラ。

その程度にしか認識できていなかったし、だからきっとそういう存在は、大人が子供をしつけるために、ありもしないものを「ある」と言って脅かしているだけなのだと思っていた。

近頃は、「神様」はあるとおもう。「いる」というより「ある」という感じ。

決して人間のような「人格」は備えていないように思うが、厳然とした揺るぐとことのない法則として、この宇宙全体に満遍なく存在していると・・・。

そして、人格は無いが、「意思」のようなものは感じる。「神=宇宙」であるならば、それは「宇宙の意思」だ。最初に書いたさくらんぼ大のとてつもないエネルギーの塊から始まって無限ともいえる(正確には無限ではないともいえるらしい)大きさに広がりつつある、その「行為」の中に「意思」を感じる。

それは、どうやら「宇宙」は「美しくあろうとしている」ということだ。

音楽もまた、そんな宇宙の厳然とした美しい法則性の中から、人間が見つけて取り出したものだと思う。

星空の美しさや、夕焼けの美しさ、木の葉の葉脈の美しさや、どぶ川のような汚れた水の水面に反射する光でさえも、もれなく美しくできあがっている「宇宙」。その美しさを、空気の振動の組み合わせという、これまた物理法則のカタマリのような方法でもって写し取って、人の心に何かを起こし、人と人とが共感できる「音楽」というものを与えられた人類。

不思議でつかみ所が無いのだけれど、確かに宇宙の意思は、美しくあろうとしているのだと思う。

ならば、美しい音を探して生きる生き方は、「宇宙の意志に添って生きる」ということになろう。こんなに心強いことはない!わーっはっはっは!無敵なのだー!ぐははは!くるしゅうない、もそっと近う!

・・・と、まあ、僕は自分のやっていこうとしている音楽の道で不安になったときに、こういうでかいことを考えてみることで、なんとか自分の心の安定を保つ努力をしてみたりしながら、少しの安い焼酎で頭の過回転を収めつつ、布団にもぐりこんで眠り、また次の朝にパンをかじり、トイレで用を足し、宝くじに当選したいなあなどと切望したり、タバコやめたいのにやめられないなあ、くそっ、JTめ!俺様の脳をニコチンで支配しやがって!などとつぶやいたりしながら、「宇宙」の一部としての控え目な日々を過ごすのでした(^^)。
2006-02-28 02:22 | 記事へ | コメント(0) |
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2006年02月27日(月)
先生お元気ですか?
こんな僕でも、高校時代には「塾」というものに通っていた・・・いや、通わせてもらっていた。

考えてみると僕らは「お受験」ブームのはしりの世代だ。最終的に大学を中退してしまったのだから、親にかけた経済的負担を思うと、申し訳ない限りだが・・。

その塾では英語と、高2までは数学の授業も受けていた。

ユニークな先生ばかりで楽しかったなあ。

そこの数学の先生は、僕に「ジャズ喫茶」を教えてくれた。僕がジャズに興味を持ち始めたと知って、「なら、一度ここへいってみろ」と、わざわざ地図を描いてくれた。私立文系コースの僕には、数学をあまりシャカリキになってやる必要はなかったので、その先生は数学よりも僕が面白いと思えるものを教えてくれたのだろう。友達とか、兄貴のような素敵な先生だった。

そして、英語の先生。彼は塾長でもあったのだが、この先生は先の数学の先生とは正反対、少し近寄りがたいようなクールで上品なな大人の雰囲気をたたえていて、こちらから冗談を投げかけられるような存在ではなかった。でも、僕はこの英語の先生も大好きだった。確かイギリスに長く留学のご経験があったとかで、とてもきれいな聞き取り易い流暢な英語を話す先生だった。

彼の授業は適度な緊張感にあふれていて、だれも騒いだりふざけたりしなかった。それでいて、穏かな安心感に満ちていたように思う。

順番に生徒を指名しては、長文問題の英訳を一文づつ皆の前でやらせるのだか、たとえ生徒がどんなにトンチンカンな和訳をしていても、最後まで「うんうん、ほほう、なるほど」と穏かにうなずきながら聴き続ける。そして最後まで聞いてから、すばやくその生徒が「なぜ間違えたか?」を見抜き、整理し、その間違えた訳に至った経緯もすべて穏かな表情で受け止めて、「なるほど、そうきましたか、間違っているけれども、面白い。君はここをこういう風に捕らえてしまったのですね。それはたしかにそう訳したくなりますね。とてもよくわかります。でも、実はここはこういうふうに捕らえて、こう訳すのです。」といった風に、「その生徒がどう間違えたか?」をちゃんと生徒に理解させてた上で、正しい答えの導き方を教える。しかも、生徒は皆の前で指名されて答えている間も、先生が「うんうん、ほほう」とうなずいてくれるものだから、たとえ間違った訳でも、自信がなくても、決して萎縮することなく、最後まで落ち着いて考えながら答えることができる。

どんなに生徒の理解や習熟度が遅くても、決してため息をついたり、声を荒げたりして苛立ちを表に表すことがない、素晴らしいプロフェッショナルだった。とうとう僕は最後までその先生が生徒に対して「なんでわからないんだ?」という言葉を発するのを一度も聴くことはなかった。その「なんでわからないか?」を見つけて、生徒に理解させるのがご自分の仕事だという覚悟と信念を持って指導にあたっておられたのだろう。

大人になってジャズを演奏する現場に参加するようになってからも、僕はたくさんの先輩方とご一緒させて頂く中で、色んな事を経験させていただきながら、指導して頂いた。熱く激しく接して下さる先輩もいらっしゃれば、あの英語の先生のようにクールで穏かな方もいらっしゃった。そして、その先輩方はあくまで「ミュージシャン」であり、決して「指導」するのが仕事ではないのに、どなたも常に熱い情熱をもって出来の悪い後輩である僕を指導してくださった。

自分が今40歳を目前にして、自分よりずっと若くて経験の少ない人と接する機会の増えた今、音楽のことに限らず、様々な事柄に関して、かつて先輩方や先生方が、僕に伝えて下さったように、自分の経験から得たモノを若い人達に上手く伝えることができるだろうか?勿論、僕の演奏技術など、たかが知れていて、そういう事柄に関しては、何も伝えられることなどないのだが、それでも、やはり人間としての経験が長い分だけ伝えられることは伝えて行く「義務」があるように思う。

またその「義務」を果たそうとすることで、若い頃より物覚えも明らかに悪くなったこの年齢の自分が、さらに精進していく原動力になるのかもしれない。

とはいえ、やはり
「あのおっさん説教くさい」
と思われたり、
「たいしたこともないのに偉そうやなあ」
とも思われたくないし、
同年代や先輩方から
「あいつは若い奴らの前でいい気になってる」
と思われるのも怖い・・・
というのが本音。本当は、ずっと「後輩」の立場でいたい。

そうして考えると、40歳という年齢を生きるのには、相当な覚悟がいるのだなあ・・・。

まぁ、まだ38歳だし、もう少しの間は許していただけないだろうか・・・?
2006-02-27 14:15 | 記事へ | コメント(2) |
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2006年02月24日(金)
神業も、人間がやるから素晴らしい
この前、なんとなくテレビをつけたら、冬季オリンピックのフィギュアスケートの中継が・・・。

あれ、すごいですね。神業って言葉がぴったり!同じ人間が、あんなことできるなんて、びっくりです。きっと長い時間鍛え上げて来た人だけができる域の技なんでしょうけど、本当にすごい!!

見事にミス無く演技を終えた人の表情は、そんな努力を重ねてきてそれを結果につなげられた充実感に満ちていて、とても晴れ晴れとしていて、本当に「よかったねえ」と声をかけてあげたくなります。

でも、失敗してしまった演技にも、僕は見ていてとても魅力を感じます。別に、意地悪な意味じゃなくです。

何がかっていうと、その失敗した時の演技者の心の動きが、とても人間らしくていいなあと。

ジャンプで失敗して転んで、立ち上がった後、懸命に自分の心の動揺を払拭して、以後の演技に集中しようとする姿。次のジャンプは成功して、また自信を取り戻したのが見えたとき。不出来なまま演技を終えてリンクを後にするときに、口惜しさに顔を覆って、今にも泣き出しそうな表情になっているとき。

きっと練習や前回の大会とかではできたことが出来なかった口惜しさや、色んな思いがあふれてくるんでしょうね。

それでも、どんなに口惜しい思いをしても、辛い思いをしても、彼らはまた、翌日からスケートシューズを履いて、厳しい練習に耐えながら、必ず成功するとは限らない次のチャンスへ向けてまた努力し続ける。別にスケートなんてしなくても生きていけるのに。

やっぱりスケートが「好き」なんでしょうね。好きだからやめられない。きっと、世間の注目とか、評価とか、そういうのは二の次で、ただただ、ものすごーく好きなんでしょうね。

そんな「好き」を積み重ねて、僕らが見て「神業」とも思えることが出来るようになる。

僕は音楽することが「すごーく好き」ですが、どこまでがんばれるかなあ・・・。
「神業」は無理でも、せめて聴いてくれる人や共演してくれる人が、「今日ドラムの前に座っていたのが、あいつでよかった。あいつらしさを感じた。」と、思ってもらえるようになりたいです。
2006-02-24 03:27 | 記事へ | コメント(2) |
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2006年02月20日(月)
初対面の最大公約数で楽しむ
ジャズを演奏する現場では、初対面の人と一緒に演奏することがあります。軽くリハーサルをすることさえできない現場もあります。

よくお客さんから、「初対面でできるなんてすごいね!」と言っていただくことがありますが、もちろん僕ら演奏者は万能ではありませんし、何でも屋でもありません。

実は初対面で共演できるのには、ちょっとした心構えと、「スタンダード」と呼ばれる名曲たちがあって、初めてできることなのです。

「ジャズ」と一言でいっても、その範囲はとても広くて、いろんなものがあります。勿論、演奏者それぞれが色んな「ジャズ」を聴いたり、演奏してきたわけで、好みやスタイルで「できること」「できないこと」また、「できてもやりたくないこと」があります。

そんな中で、それでも初対面で演奏ができるためには、お互いの気持のなかに、お互いの音楽性や経験を尊重しつつ、「最大公約数」をみつけてその中でお互いを活かしながら音楽をするのだという基本姿勢が大切になってきます。

「今日は自分はこれがやりたいから、みんなあわせてくれよ。プロなんだから、できて当たり前でしょう。」では決して成り立ちません。たとえなんとかその場をやり過ごすくらいの演奏にはすることができても、誰か一人でも「いやいや」やらなければならない状況になってしまうような選曲をしてしまうと、それはもはや人様に聞いてもらう価値のある「音楽」ではなくなってしまいます。

一緒に演奏している最中に感じるお互いの「クセ」や、「問題点」も全て受け入れる覚悟で演奏に臨まなければ、「会話」は生まれないと思うのです。

そういう姿勢になれたとき、もはやそこには、お互いの経験の差や、技術のレベルの差などはちっぽけなことになって、一緒に演奏する「意味」が生まれてきて、僕は、その部分を御客さんに聴いて、感じてもらいたくて音楽しています。

「無難な選曲」と言ってしまえば、なんだか後ろ向きな響きの言葉になってしまいますが、そういう意味ではなく、まずはそういう「最大公約数」の中でお互いを少しずつ知り、お互いの演奏の中に魅力を見出し、お互いがそういう相手の魅力をさらに引き出せるような状態に至ることが出来たとき、「ああ、一緒に音楽できた」という喜びを得ることができます。そして、そういう喜びを共有できたことで生まれる信頼感が、次の機会にしっかりリハーサルをやれる形で演奏の場をセティングしてでも「新しいこと」や、「難しい曲」にも挑戦していこうという姿勢の支えになっていきます。

そんなときに、僕らは「スタンダード」といわれる数々の名曲のなかから選曲して演奏しますが、何十年も数々のミュージシャンや聴き手に愛されてきてスタンダードになり得た曲というのは、本当にすばらしいものが多いです。特別にリハーサルを必要とするような「仕掛け」や「キメ」を盛り込まなくても、その曲自体が持つ魅力が、僕らを「音楽」できるところへ導いてくれます。メロディーやハーモニーの中に、お互いに楽しく会話するためのヒントや、アドリブのイメージを広げてくれる魅力がたくさんちりばめられています。

原曲のメロディーなんて、どこにも出てきてないじゃないかというほどの複雑なアドリブの表現をしていても、ハーモニーも全てリハモし直して演奏していても、それらは全て原曲が持つすばらしさが元になって、プレーヤーをインスパイアしているのであって、当然プレーヤーも、その曲に対して愛情と敬意を持って臨んでいます。

そういうジャズの長い歴史の中で、先人達が残してくれた遺産としての数々のスタンダード曲のおかげで、僕らはまた新しい仲間と知り合えて、一緒に音楽を作ることが出来る。オリジナルにも挑戦していける。

本当にありがたいことです。
2006-02-20 00:42 | 記事へ | コメント(8) |
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