草間彌生〜永遠の永遠の永遠
2012年02月14日(火)

 大阪・国立国際美術館で開催中の『草間彌生〜永遠の永遠の永遠』展。
 若い頃から幻覚に悩まされてきたという草間彌生の作品は、特定の形象の反復が繰り返し作品に表れている点など好き嫌いがはっきりとわかれるかもしれない。私が彼女の作品を意識的に観るようになったのはここ10年ほどのことだが、80歳を超える草間の衰えを知らない創作意欲にはやはり感服する。

 彼女の作品の魅力は、いわば両義性・多義性にあるのではないかと思う。いささか大仰な喩えを許していただくならば、ダリがグロテスクな生と死のありようをユーモアをこめて描いたように、あるいはベートーヴェンが人間社会の厳しさと甘美を音楽に表現したように、草間の作品からは神経症的な不安感と同時に限りない生命への讃歌が、不気味な雰囲気と同時に人を癒しに導くような可憐なアウラが私には感じられる。
 とりわけ光と鏡を使ったインスタレーション作品《魂の灯》の幻想的な美しさには思わず息を呑んだ。それにしても同時代の美術家で、生きていくことの苦難をこれほどポジティブな形でアート作品に昇華した例を私はあまり知らない。

 本展では写真撮影を許可しているブースをいくつか設定しているのがおもしろい。草間の作品がある種の「増殖」を想起させるとするなら、鑑賞者に撮影を許すことでネット上にも作品の断片が「増殖」していくというのも草間の作風に適ったことだといえるかもしれない。
 大阪展は4月8日まで開催、その後、埼玉、松本、新潟を巡回予定。

2012-02-14 19:18 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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光と影がつくる街の風景〜10番目の感傷
2011年11月05日(土)
 国立国際美術館で同時開催している《「世界制作の方法」展》《アンリ・サラ展》《中之島コレクションズ》を観る。
 全般的に低調という印象だが、そのなかで最も感銘を受けたのは《「世界制作の方法」展》に出展されているクワクボリョウタの〈10番目の感傷(点・線・面)〉。鉄道模型とLEDを使った作品である。
 真っ暗な部屋のなかを鉄道模型がゆっくりと走行している。模型にはLED照明を搭載していて、沿線に置かれた様々なオブジェを照らし出していく。壁面に映し出される影は、時々刻々とその相貌を変化させる。洗濯バサミや鉛筆、セロハンテープやザルといった日常的なアイテムの影が街の風景と化して壁面に投影されていく様はなるほど情感に訴えてくるものがある。しかも四つの壁面すべてと天井を使っているので鑑賞者の影もまたその風景の一部を構成するものとして作品のなかに組み込まれる。仕掛けじたいはさほど複雑なものではないけれど、これは観ていてなかなか飽きない。

 《中之島コレクションズ》は、NMAOと大阪市立近代美術館のコレクションから選りすぐりの作品を展観するもの。ピカソやモディリアーニ、ユトリロなどとともに、会田誠や奈良美智など親しみやすい現代作品が並んでいる。《アンリ・サラ展》は〈ザ・クラッシュ〉と〈アンサー・ミー〉という二点の映像作品を中心にした構成。
 これら3つの展覧会は12月11日まで。
2011-11-05 08:57 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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映画『パレルモ・シューティング』
2011年09月30日(金)
 『ベルリン・天使の詩』で天使を画面に登場させたヴィム・ヴェンダースは『パレルモ・シューティング』において死神を現前させる。いや死神というよりも死そのものを擬人化した存在が姿を見せるというべきだろうか。

 主人公フィン(カンピーノ)は死の観念に取り憑かれている。自殺願望を抱いてさえいる。それが死に対する恐怖の裏返しであることは言を俟たない。
 彼は売れっ子の写真家で、御自慢のライカで写真を撮るとデジタル加工して風景を組み変えていく。街中ではサインを求められ、携帯端末でツーショットの撮影をせがまれる。だが彼は生きているという実感を得ることができない。フィンの創り出す写真も見る夢も、画面における光と陰のあり方を模索したダリの絵のように時空間が歪み超現実的な様相を呈している。

 今さら念押しするまでもないことだが、撮影(shoot)するとは、同時に「撃つ」「射る」ことをも意味する。撮ることはすなわち被写体を撃つことでもあり、すぐれて暴力的な営みであることはしばしば指摘されることだ。ヴェンダース自身も『ことの次第』や『都会のアリス』などでシューティングをめぐる考察への手がかりを披瀝してきた。
 フィンは車を運転しながら写真を撮影している。ある時、そうとは知らずに〈死〉を撮ってしまう。〈死〉からの返礼として彼は矢を射られることになる。むろん死への恐怖も願望も彼自身のなかにあるものだから矢に射られた傷は他人には見えないだろう。この〈shooting〉の応酬は〈生/死〉〈shootingするもの/shootingされるもの〉をめぐる映画的言及としてすぐれてヴェンダース的な物語構造を形成しているように思われる。

 フィンは妊娠しているモデルの再撮影のためにパレルモへと赴く。ライン川でたまたま見た船に書かれていた地名がパレルモだったのだ。パレルモで彼はフラヴィアという女性に出会う。彼女はパレルモに伝わる壁画《死の勝利》の修復の仕事をしている。痩せた馬にまたがった死神が到来して、パレルモを統治していた王侯貴族や高位聖職者が矢に射られているという絵だ。《死の勝利》の再生に従事しているフラヴィアもまた過去の苦い経験から死に取り憑かれていることが明らかになっていく……。

 フィンが対面する〈死〉はつねに夢や幻想の中であるが、そこで〈死〉はフィンが関わっている映像についてひとくさり喋る。デジタル画像は実在を保証しない、好き勝手に手を加えられる、すべてが混乱している、と。
 すなわち人間の生と死という問題に映像の生と死という問題が重ね合わされ、かくしてこの映画は生と死をめぐるすぐれて重層的な作品として立ち上がってくるのだ。
 主人公フィンの人物造形がいささか紋切型に収まっているうらみは残るし、結末も予定調和の感は拭えないけれど、音楽と連動するリズミカルで力強いショットの連鎖がそれらの不満を彼方に追いやってくれる。

 〈死〉を演じるデニス・ホッパーがいい。ヴェンダースとは『アメリカの友人』以来30年ぶりの顔合わせだが、この撮影の2年後に本当に死んでしまったのかと思うとますます泣けてくる。フラヴィアを演じたジョヴァンナ・メッゾジョルノの名も忘れることはないだろう。こんな魅力的な女優の顔をスクリーンで観たのは久しぶりのような気がする。

 蛇足ながらフィンがパルレモで活躍する女性写真家バッターリア(本人がそのままで登場する)と会話を交わす場面についても触れておこう。その即興的なシーンでは空に鮮やかな虹が架かっている。これは人工的につくった画面ではなく、撮影現場の上空に本当に現われた虹らしい。一流の映画作家は時にこのような自然の恵みをみずから手繰り寄せる才能を発揮するものなのである。

 映画『パレルモ・シューティング』は生と死をめぐる現代的なファンタジーである。ロード・ムーヴィの旗手として、みずからもヨーロッパからアメリカへトウキョウへといくつもの場所を遍歴してきたヴェンダースが生まれ故郷のヨーロッパに帰還し、死に照らし出された生の輝きを、美しい映像詩を、私たちに届けてくれたのだ。
2011-09-30 12:03 | 記事へ | コメント(1) | トラックバック(0) |
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映画『おじいさんと草原の小学校』
2011年08月03日(水)
 映画『おじいさんと草原の小学校』(原題:“The First Grader”)を観終えた時にじわりと押し寄せてくる感動の味はほろ苦い。

 2003年、無償教育制度をスタートさせたケニア。赤茶けた土壌。風に舞いあげられる土埃。それらをみおろす青い空。そんな草原地帯に造られた小学校を舞台に、子供たちと一緒に入学して読み書きを勉強し始めるおじいさんと、校長先生、子供たちの交流が描かれる。

 すべての人を対象に無償教育を始める。そのニュースをラジオで聴いた84歳のキマニ・マルゲ(オリヴァー・リトンド)はさっそく地元の小学校を訪れる。入学手続をする人々で鈴なりになっているなか、マルゲはあっさりと追い払われる。翌日もマルゲはやってきた。やはり中に入れてもらえない。校長のジェーン(ナオミ・ハリス)は入学するには制服と指定の靴が必要なことを告げる。授業料は無料でも準備にそれなりの負担を強いられるのだ。
 マルゲは制服と靴を調達し、再び校門の前に立つ。根負けした校長は周囲の反対を押し切って入学を許可する。だが、予算が不足し机の数も足りていない状況では、老人が学校で学ぶことに「子供たちの教育がおろそかになる」などと異論も噴出。授業を妨害しにくる人々。校長にいやがらせの電話をしてくる敵対者。マスコミに取り上げられ有名になったマルゲを利用しようと企む政治家。マルゲと校長の前に様々な障害が立ちふさがる……。

 それにしても、子供たちの生き生きとした表情が何より素晴らしい。子供は社会の宝という格言がこの映画をみると実感される。教育への情熱を一身に体現したような校長に扮するナオミ・ハリスもなかなか魅力的。マルゲを演じるオリヴァー・リトンドはケニア出身で元ニュースキャスターというユニークな経歴をもつ俳優である。英語と現地語(キクユ語)を話すむずかしい役柄とあっては、欧米で生まれ育った俳優に演じることは無理であった。

 われわれ人間社会にとって、教育が、学ぶ意欲がいかに大切か。マルゲやジェーンに託して見事にそれを表現した。
 しかしそれだけなら私はこの映画に賛辞をおくることはなかっただろう。いやむしろ批判したかもしれない。個々人の勇気や意欲を顕揚する類の実話を美談として語ることで、もっと重要で深刻な問題が隠蔽されるのではないか、と。無論、この映画はそうではない。何故、マルゲのような老人があらわれたのか。当然、ケニアの歴史的背景抜きには語れない。

 マルゲはかつてマウマウ運動(ケニアのキクユ族、エンブ族、メルー族、カンバ族の人々が結束して始めた独立運動)に闘士として参加した。その運動は苦難の道をたどった。マルゲは眼の前で妻子を殺害され、みずからも苛酷な拷問を受けたという過去をもつ。とても学校で読み書きを習うような状況ではなかった。独立後も、様々な対立があった。当然ながらマルゲがこれまでに受けた心身の傷は今もなお癒えることを知らない。
 またケニアの部族間対立は単なる内輪もめとはいえないことも指摘しておかねばならないだろう。西欧列強がアフリカを植民地支配するにあたっては複数の部族が存在していることにつけ込んで巧妙に「分断統治」したことはよく知られる。アフリカの「部族主義」は植民地支配の産物という見解もあるほどだ。もちろん映画ではそうした歴史の機微が詳細に描かれているわけではないけれど、宗主国として圧政を行なった祖国の暗い過去を、英国人監督のジャスティン・チャドウィックをはじめ英国人が核となっているスタッフは決して見過すごすことはしなかった。
 かくして、マルゲの過去、ケニアの苦難の過去はフラッシュバックによって描出される。マルゲたちに暴力をふるう英国人兵士の姿ももちろんはっきりと映し出される。

 世界最年長の小学生としてギネスブックにまで掲載されたマルゲの学習への渇望のありようは、一通の手紙によって巧みに表現されている。
 それは独立直後にマルゲのもとに届いた大統領府からの手紙である。英文で記されたその手紙をマルゲは読むことができない。そのシーンが開巻早々に提示される。彼はその手紙を自力で読みたいと思った。だから小学校無償化のニュースが飛びこんできた時、子供たちに交じって小学校へといそいそ出かけたのである。
 終盤、再びこの手紙にスポットライトがあてられる。当然、マルゲが自分でこの手紙の内容を理解することをもってこの映画の締めとするのかと思いきや、そうではなかった。マルゲは今もまだ自力でこの手紙を読むことができず、転勤地から再び「草原の小学校」に帰ってきたジェーンのもとに出かけるのだ。ジェーンは同僚の教師に代読を依頼する。そこには、マルゲの闘士としての活動に敬意を示すと同時に賠償金を受け取る権利のあることが記されてあった。独立後の混乱のためにその通達はいわば有名無実化しており、マルゲがその後も苦労を重ねてきたことは、すでに映画のなかで描出されてきた……。

 マルゲは学ぼうとした。何を。かつて自分たちを支配した宗主国の言語を。そしてその学習が未だ途上であること、且つ自分で読みたいと切望していた手紙の内容が一つの建前を述べただけのものであったと知ることをもって、この映画は終わるのである。この映画のエンディングは単純なヒューマン・ドラマのそれとは趣を異にする、ほとんどアイロニーとさえ呼びたいほどのものである。
 さらに付け加えるなら、こののちジェーンたちの仕事が順調に進んだとき、マルゲが話すキクユ語などの現地語は絶滅の危機に瀕していることだろう。(マルゲがキクユ語の「ウフル」とその英語「フリーダム」を連呼して、子供たちがそれに唱和するシーンはこの映画で最も印象的なシーンの一つである。)
 冒頭で「ほろ苦い」味と私が述べたのはそうした諸々の事態を指していることはいうまでもない。

 繰り返す。これは単に人を元気づけたり、心を温めたりするだけの映画では決してない。また教育や学習の重要性を毅然と訴えただけの映画でもない。それだけならわざわざこの映画を観るまでもない。その程度のことなら他に代わりはいくらでもある。

 国民の言葉とは何だろうか?
 それは自分たちで主体的に選びとることができるものなのだろうか?
 そもそも言語を習い覚えるということには、いかなる機制が働いているのだろうか?
 われわれは何のために争っているのだろうか? 異なる部族の存在が邪魔だから? 異なる言語を話す人々の存在が疎ましいから? 自分たちの大地を奪い取る者がいるから?…………
 そうした幾重もの問いをこの映画は観た者に問いかけてくるのだ。
 映画『おじいさんと草原の小学校』はすぐれて普遍的な主題を声高らかに謳いながら、同時に欧米諸国に蹂躙された人々にのしかかる「学ぶ」ことにまつわる葛藤や錯綜についても声低く言及しているとみるべきだろう。
 マルゲやジェーンの勇敢な振る舞いの背後に見え隠れしている様々な問いかけを少しでも受けとめて思考への契機としなければならない。
2011-08-03 18:45 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(4) |
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堂島リバービエンナーレ2011
2011年07月27日(水)
 堂島リバーフォーラムで開催中の『堂島リバービエンナーレ2011』を観る。というより五感で体感するといった方が良いかもしれない。
 2009年の第1回目に続き、今回が2回目の開催。アーティスティック・ディレクターに青森県立美術館チーフ・キュレーターの飯田高誉を迎え、「Ecosophia−アートと建築」と題した展示が行なわれている。
  “Ecosophia”とは“ecology”と“philosophy”の合成語であり「エコの哲学を実践する惑星」という意味がこめられているのだという。それはフェリックス・ガタリの提唱した「エコゾフィー」を踏まえた造語でもある。本展はエコゾフィーの実践を建築家とアーティストの役割において想定しており、両者のコラボレーションから成る作品が「気圏」「水圏」「地圏」の3つのゾーンで展開されている。もっともそれらの区分けは展示フロアにおいて明確に画されているわけではない。
 参加アーティストをみると、坂本龍一、杉本博司、磯崎新、隈研吾などなど錚々たる顔ぶれだ。ちなみに坂本龍一がこのビエンナーレのために作曲した〈エコソフィア〉は会場全体に常に鳴り響いている。

 安部典子の〈Cutting Book Series A Study of “Ecosophia” : Felix Guattari〉。フェリックス・ガタリの書物《三つのエコロジー》の原著が切り裂かれて机上に置かれ、文字が印刷された頁の切れ端が周囲に散らばっている。まさしく本展のコンセプトとよつに組んで格闘したような作品世界だが、4月に国立国際美術館で観た《風穴》展での立花文穂のミクストメディア作品を私はふと思い出した。
 石井七歩の〈理想宮〉〈理想島〉〈理想国家〉と題された一連の細密画は、人が「擬街化」され、街が「擬人化」されていて、作者の文明批評的な視点が強く感じられる世界。

 森万里子+隈研吾の〈ホワイトホール〉は中央に建築マケットが並ぶ展示フロアの単調さを補ってあまりある意欲的な試みだ。森万里子は「ホワイトホール」という理論的存在に関心を示しているアーティストらしい。森にインスパイアされた建築家の隈研吾はラスコーの洞窟のような、作品を優しく包み込む建築空間をつくりあげた。ノンフロンの発砲ウレタンで99%空気を含ませた「かぎりなく非物質に近い素材」を用いた建築物。観者はこの洞窟のような建物の内部に入って「分子化した星が再び新星へと誕生していく経緯」を描いたという映像を見るのだが、映像の方は私にはどうもよくわからなかった。柔らかそうな壁面を手でグニュッと押しつぶしてみたいという誘惑を抑えつつ〈ホワイトホール〉を後にする。

 マーティン・クリードの〈The lights going on and off〉は、展示室には何も飾られていず何も掛かっていず、ただ照明が5秒ごとに点滅を繰り返すというだけの作品である。ホワイトキューブという特権的な芸術鑑賞空間を相対化せんとするこの種の(デュシャンの二番煎じ的な)試みにはもういいかげん飽きたというのが率直な感想。

 池田剛介、原口啓、三木慶悟による〈Exform〉。撥水剤をかけたシナベニヤ板の上に天井から人工的な雨がポタリポタリと降っている。板上に落ちた雫は大小の水滴となって、踊るように舞うようにポヨンポヨンとふるえている。ある者たちは合流してより大きくなり、ある者は孤立したまま戦慄いている。
 作品の構造上は水が上から下へ下から上へと循環していて地球上の水の動きをデフォルメしているようだが、一見したところそのような循環の様相を見てとることはむずかしい。そのあたりをもう少し可視化しても良かったのではと思う。
 が、板上にみえる水滴の多様な振る舞いはまるで生き物のようでもあり、それが人間社会ひいては生態系そのものを隠喩しているようにもみえる。生きとし生ける者はおしなべて水を必要としているのだが、それ以前に水そのものが生きてあるかのようだ。メインの展示フロアの出入口前に展示されているので、通りすがりの人が何事かと天井を見上げたりしている。その様子がまたおもしろい。

 チームラボと柳原照弘による〈百年海図巻 アニメーションのジオラマ〉は「今世紀末までに地球の海面は最大120センチ上昇する」という予測に基づいて制作された映像作品である。メイン会場の上空に設置された幅15メートルのスクリーンに、陸地を海面が次第に呑み込んでいく様子が10分間に凝縮されて描出されている。作品コンセプトは極めてシンプルで今さらどうということもないのだが、日本画風に描かれた島や海面と最新のデジタル技術の組み合わせがちょっと面白いかなと思った。

 東日本大震災に直接言及したものとしては、新津保建秀+渋谷慶一郎、浅子佳英のコラボレーション〈Namie0420〉が強いインパクトをもって迫ってきた。4月20日、福島県双葉郡浪江町を撮影した映像である。建物は整然と建っていて、そこここに幟がはためいている。そして何よりも交差点の信号機が黄信号をチカチカと点滅させているのが目を引く。けれども人の姿はまったくみえない。避難指示が出されたエリアなのだ。映像全体に漲る不気味なほどの静謐はデ・キリコやマグリットの絵画を想起させるといった感想はやはり能天気というべきだろう。
 3月11日以降、マスメディアをとおして数多くの被災地の報道写真を目にしてきたが、この映像における人間の不在には別様の衝撃を受けた。斜め上方に設置された鏡には映像と同時に鑑賞者の姿もくっきりと映し出される。鋭いノイズが絶え間なく響いている。だが、それはノイズだったろうか。「この寂寞とした光景のなかに実はあなたも包まれているのだ」という声が微かに聞き取れたように思われた。

 平日の早い時間に覗いたこともあってか、観客よりもスタッフの数の方が多かった。いくつか説明の必要な作品(展示準備中のものなど)の前に立つとスタッフが近寄ってきていろいろと説明をしてくれる。
 あえて野暮なことを記せば、展示の質量からすると入場料がいささか割高のような気がするし、上に記したように場違いで時代遅れの凡作も紛れ込んではいる。カタログが未だ完成していない(会場で予約のみ受け付けていた)のもどうかと思うし、広報活動もやや不足しているように感じられる。とはいうものの、善戦健闘していたサントリーミュージアムが閉館に追い込まれるような大阪の地に住むアート愛好者の一人として、これ以上ネガティブな印象を羅列するようなことは差し控えよう。
 「ビエンナーレ」を謳っているのだから2年後にまた開催されるのだろう。一民間企業が管理運営する多目的ホールが単独主催でこのようなアート展を立ち上げ継続してくことには幾多の困難が予想されるが、さらなる進展を願ってやまない。
2011-07-27 19:05 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(1) |
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ニックネーム:syunpo
吉本 俊二(よしもと・しゅんじ)

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