ニックネーム:イダヒロユキ 
都道府県:地球
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2010年02月26日(金)
勝間和代さんって、徹頭徹尾自己責任論

勝間和代さんが、「活躍」しており、あちこちに出ていて、それに対して批判もある。

僕はこの人がこの世に存在するのはわかるし、彼女なりに一生懸命なのだろうけど、社会で周辺化された人の立場で現実をみていない、他者の感情をつかむ力において欠陥があると思うので、しかたないなと思う。

たとえば、おもしろいなっておもったのは、『朝日新聞』1月30日のビジネス本の評価で、勝間さんは『資本主義はなぜ崩壊したのか』(中谷巌)を選外とした。全体としてこの本への評価が高いとき、意地になっているかのように彼女はこの本を評価しない。かっての中谷さんと同じようなところにいるから、懺悔はまだできねえってわけだろう。

「勝間和代の人生を変えるコトバ」という『朝日新聞』の連載で、「相手の悪意を知るには、己の悪意を知れ」と書いていて、対立したとき相手を悪く思うことで自己防御するというようなことを書いていた。相手が自分を嫌う要因を分析し、変えれる所は変えて、変えられないところはあきらめて離れること、その時間を自分の道で前にすすむことに使うべきとしている。
悪意があるのは当然として、とにかく自分は前にすすむということ。合理的で強い対処方法です。新自由主義のあるべき人間観にぴったりです。

もう一つは、「感情を引きずるのは自分の責任」というもの。(2月6日『朝日新聞』)
これはなかなか示唆に富むものでした。
自分が悪いか正しいかに関係なく、とにかく被害にあってマイナス系の感情を抱いてしまったら、その感情から早くはなれることが大事、その感情を引きずるのは自分の選択の結果に過ぎないというのです。

先ず、「それができたら苦労しねーよ、できないのが人間だ」という反論があるでしょうが、そんなのはものともしないでしょう。できない人が悪いのです。

次に、彼女は説明事例として、パワハラにあっているなら、自分は悪くない、上司が悪いと思いつつその場にいるのではなく、問題解決に動けといいます。
その職場を選んだのも、退職転職しないのも自分の選択なのだからパワハラにあうのは自己責任だといわんばかりです。
しかし、問題解決として、ユニオンに入って団交でパワハラを問題にしていくとか、弁護士や人権対処の機関に相談して、パワハラと闘っていくというようなことを勝間さんはいいません。その職場を退職すればいいじゃんみたいなニュアンスしか伝わってこないのです。被害感情をいつまでもぐずぐず持つなよ、というだけなのです。

彼女の、そういうとこが問題なんだよねー。
彼女は一生懸命ですが、大きな欠陥を抱えた、自己責任論者になってしまっています。

私たちは、いろんな本のエッセンスをまとめる彼女の高い能力から、効率よく、何かを少し学ぶことができますが、何か彼女のスタイルから「こうなってはいけないというもの」をこそ、たくさん学ぶことができます。

そして、どこから社会を見るか、自分はどこにいて、どのように生きていくか、という自分の〈たましい〉の居場所を見つめることができます。

2010-02-26 11:53 | 記事へ |
| 作品 / 生き方 / 貧困/反貧困 |
東ティモールの日本軍「慰安婦」証言
東ティモールの賛同署名の関係で、日本軍「慰安婦」の新証言情報がきましたので、紹介しておきます。
そのひとつひとつの事実、その人の人生を思うとき、私は世界を構成している多くが、苦や悲や不条理だという感じになります。それを見なかったり忘れて表の世界が動いていることを含めて。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  

昨年8月、HAK(東ティモール人権協会)の日本軍「慰安婦」問題チームは新たにふたりの被害者と出会うことができました。ひとりはコバリマ県のフォホレンに住むラウリンダさん、もうひとりはマヌファヒ県サメに住むマルセリーナさんです。全国協議会/HAKは、おふたりの承諾を得て被害証言を採録し、以後定期的に訪問させていただくことになりました。

以下、HAKのアンジェリーナ・アラウジョさんによる報告(テトゥン語)からおふたりの経験をお伝えします。

日本語訳:古沢希代子(東ティモール全国協議会)

1. アボ・ラウリンダの体験

 私たちは2009年8月21日にコバリマ県のフォホレムでアボとのインタビューを行った。アボの名は、ラプ・ハレで、洗礼名がラウリンダ・フェレイラである(以下ラウリンダと略す)。日本軍は彼女を「タズコ」と呼び、腕に入れ墨をした(写真:タズコが「多鶴子」であることがわかる)。

 日本軍がやってきた時、彼女はまだ幼くベコトゥアン(Beko Tuan)に住んでいた。日本軍はスアイで道路を建設しようとしていた。彼女たちを連行した上官は、一人はTomikozo(トミカズか?)で、もう一人はToriz(トリイか?)だった。彼女たちは毎日10人以上の相手をしなければならなかった。彼女たちは全部で8人だった。その8人をひとつの部隊の兵隊がかわるがわる自分たちの欲望を満たすために使うのであった。Torizは兵隊たちが彼女たちに暴力をふるわぬよう見張りをしていた。日本軍は彼らの欲望のおもむくままにラウリンダに性関係を強要したのだが、彼女があまりに幼かったため、彼らは彼女をかわいそうだと思っていたようだった。

 自身が受けた性暴力の体験について彼女は次のように語った。「私はまだ幼かった。しかし彼らは私を連れて行き、そして膣に太い鉄の棒を突っ込んだ。血が流れた。そうしてから私を犯した。私は初めてそうされた後、歩くことができなかった。太い鉄の棒で膣を突かれたら誰だって歩くことなんかできないだろう。私たちはそんなことは嫌だった。しかし怖くて何も言えなかった。」

 女性たちは強かんされても妊娠はしなかった。「私たちは子どもをみごもったりしなかった。なぜなら兵隊たちはコンドームを使っていたからだ。彼らの汚いもの(foer)はコンドームの中に落ちて私たちの膣には入らなかった。だから子どもはできなかった。」

 「多鶴子」は日本軍が撤退するまでの3年間、日本軍の「慰安所」で暮らした。しかし、日本軍から与えられたものは何もなかった。服とか金とか分け与えられたものはなかった。

日本人が帰った後も彼女は男性と結婚することができなかった。彼女はトラウマを抱え、男性とふたたび交わることを嫌悪した。彼女は今兄の娘の子どもといっしょに住んでおり、日々、鶏に餌をやったり、タイスを織ったりして暮らしている。

2. アボ・マルセリーナの体験

 アボは辛抱強く話しをしてくれたが、身体の具合は良くない(注:9月に阪大の学生を連れて訪ねた際はほとんど寝たきりで椅子にすわっていることもやっとだった。しかし年末にアンジェリーナたちが訪問した時は、ひとりで立つことができるまで回復されていた)。

 彼女が暴力を受けた軍人のひとりは「Michi」という名前で、もうひとりは「Sumi」という名前だった。また「Sembuhan(宣撫班)」の指令官の名前は「Naihito(ナイトウか?)」だった。当時彼女は13歳ぐらいで、まだ幼く、あと少ししたらメンスをむかえるという年頃だった。彼女は日本軍が撤退するまでの3年間、ミチとスミに仕えねばならなかった。

 彼女はまた8人の女性たちとともにマウバラ(リキサ県の町)に行かされた。マヌファヒ県のバオルメンタ(Baolmenta)にいる時は、アボ・アリシア(注:マヌファヒ県サメに住む被害者のひとり。タカラキという将校に占有された。アリシアはタカラキにレイプされた後、逃亡に成功したが、命令を受けて捜索に出た地域の王に捕まり、連れ戻された)のことは知っていた。アボ・マルセリーナはその頃の思いを次のように語った。

 「私は決してそうしたかったわけではない。日本人の祭りが催され、ココアの林のなかでダンスがあって、日本人はみなそこにやって来てダンスをした。そうすると彼らは「おまえの叔父はどこに住んでいる」とか「おまえの兄はどこに住んでいるのか」とか聞きたがった。夜になって解散になった。祭りの間は「手紙」は来なかった。私はコタララ(Kotalala)という所にいたが三日するとコタララに「手紙」が来た。両親の子どもは私だけだった。次に手紙はリウライ(伝統的な長)たちのところへ行った。成果がないので手紙が再度送られ、それでも成果がないのでまた送られ、するとついには銃と黒い縄を持った者が現れてリウライを脅した。それで私は行かねばならなくなったのだ。他の女性たち同様、私も決してそうしたかったわけではない。ダンスがあったからこんなことが起きたのだ。私は「ミチ」という名の日本人の所に行き、彼は私を犯し、私は血を流した。私は両親やリウライが殺されるのが嫌だった。だから行くしかなかった。」

 マルセリーナは同じような被害にあった何人かの女性を知っている。ひとりはフォウセナだがすでに亡くなった。ヘウコリも死んだ。マルティーニャももういない。今でも生きているのはアリシアだけだ。

 日本軍が撤退した後、アボ・マルセリーナは結婚し、5人の子ども、男3人、女2人をもうけた。現在はアボはエリアスという名の息子と彼の家族と暮らしている。

 2009年12月20日 アンジェリーナ・アラウジョ
2010-02-26 10:39 | 記事へ |
| ジェンダー / 人権 / 戦争  |
『抱擁のかけら』のおもろいところ

先日、『抱擁のかけら』(ペドロ・アルモドバル)を観たと書きましたが、なかなか味わい深いので、HP情報や友人の意見なども参考に、少し考えたことをメモっておきます。

***

まず、人間のダメなところとよいところがまだらに絡んでいて、ウソや秘密があってモそれでも許したり、一緒にいたりするのが、なかなか、うーむ、って感じだということは、先日書きました。
映画を観た人前提、観ていない人には、わからないことを前提に、以下、書きます。

なんか、他の人のコメントの重点と違って、僕は、ジュディットの生き方というか、存在の仕方、人間関係の持ち方が、一番印象に残った。
だって、ありえないもん。あまりにひどすぎる。作品を破壊することに、加担してしまった。そこに僕は決定的な「関係終了」の一線をみる。
自分が、ジュディットなら、けっして許されないことをしたのだから、早めに、フィルム素材を渡して、マテオの前から消える。僕がマテオなら、決して許さず、離れるだろう。
しかも彼女は、マテオとレナの居場所さえ、エルネスト・マルテルに教えてしまう。最低だ。殺人に協力することになる可能性だってあるのに。

なのに、彼女は、そんなことをしても黙ったまま、マテオ(ハリー・ケイン)のそばにい続ける。その感覚は、図太すぎて自分なら想像できない。 
 
で、息子・ディエゴの出生の秘密も、いまごろいうし、ちょっと溺愛的で気持ち悪いし、自分に甘い人のような気がする。息子であると告げずにいるという判断自体も、深いものというより、あまり考えない結果のような気がする。
そしてその分、ハリー・ケインが見知らぬ人とセックスするようなことを、何も言えない距離で存在し続ける。

だが、アルモドバルは、彼女を断罪もせず、だめなところも入れて丸ごと、受容する。

ところで、あるひとが「ジュディットに自分の近いものを感じて共感する人は多いはず」と書いていて、驚きました。そうなの? 映画の見方ってほんとひとそれぞれ。
「弱さ、矛盾、でも愛する人のそばにできるだけいたい、秘密を抱えて生きる、息子のことあるし」そういうところに、共感するわけ?

ジュディットは人間の弱さとおろかさを体現しているし、そんな面もあるのが人間だといえるけど、僕は好きになれない。僕は、直感的な好き嫌いは激しいほうだし、ジュディットの、決断を先延ばしにするところと、決定的なことをしても許されるかもと思うところがいやだ。ずーっと言わない人生に耐えられない弱さにも、共感できない。

***

レナの生き方は・・・うーん、これも、わかるところもあるし、なんでやねん、のところもある。なんで、離れへんねん、映画のため、あるいは、エルネスト・マルテルの復讐が怖いから、・・・・でも、結局は離れるわけだし、かえって悪い選択をしている。でもDV被害者の複雑さの側面もあるし。

で、レナには、哀しみを抱えている、という空気がある。だからこそ、ある特定の設定の中だけど、愛する人との、最後の抱擁のような、どんどん砂時計の砂がが落ちていく感じは、よかった。

宣伝などにも使われている、逃避行さきでカウチに寝そべりながら映画をみていた彼女が、自分たちの状況と重ねて悲しく、切なくなる、それを感じて、マテオが二人の写真をとるというシーンは、とても悲しい。あれが愛だ、というには悲しすぎる。先がない、時間がない、もうあと少ししかない、別れがある、終わりがある。
そんな悲しみに包まれすぎた、シーンだ。

(このシーンを深い感動を呼ぶ、と書いているものがあったけど、僕は、愛の喜びとしての元気さの逆の、まあ昔から逃避行の恋愛とか「不倫」関係とか、テーマとしてはよくある事と近いと感じた)

また、最後の、事故直前のキスをしている映像を、目がみえないマテオが手で味わうシーンは、遠くに行っていたものを、久し振りに身近に感じる幸福に包まれていた。
たとえそれが悲しいことであっても。
逃避行する、抱き合う、その切なさには、記憶がある。

ところで、なんで二人が恋に落ちるのかは、わからなかった。こんなにも少ない理由で恋に落ちるのだという例としてならわかる。あとは、坂道を転がるだけ。始まりに深い必然性と説得性はない。ただ、恋と言うのは、始まると、止まらないというだけのこと。
その点では恋愛なんてつまらない。

***

監督は、赦し合うというか、「作品作り」で包み込む、という大きさをえがいている。
いい悪いではなく、恋人達の間の独自な物語自体の複雑さを愛している。
そんな作品であることは間違いない。別に、わかりやすい結論を言いたいのではないから、少ない要素で明確な結論を言うようなことはしない。余白や可能性や説明不足だらけ。別にそれでいいと思って。だから、勝手に想像できる。

* **
ジュディットの息子、ディエゴも、わかるけど、わからない。屈託なく、いい子だけど、そうかい?ってところがある。でも、みようによっては、何もかも飲み込んでいる。マテオに見えないところまで観ていても、ディエゴはやすやすと、言わないでいいところは言わない判断をしてしまう。そして本当に屈託ないように、前向きに、映画作りにはまり込んでいける。
父親のことでも、監督はことさら描きこまない。
二人の愛が突然終わるあの事故は、偶然だったのか、それとも犯罪かも、わからない。

* **

マテオ自体は、最初、精神的なショックから乖離して、他者になって、目が見えないような別人になってしまっただけで、身体的には目が見えるのかと思って面白がっていたがそうではなかった。

* **

エルネストJr(ライ・X)の描き方は、これまた複雑だ。悪意ある気持ちで人物形成している面もあるし、にもかかわらず、「父の記憶に復讐する息子の物語」をつくるという、成長した彼の執念には、何か自分を重ねているところがあるようでもある。
よくわからないのは、執拗にレナを追いかける若いときのエルネストJr。父に言われている以上のものがあるから、それは、恋愛・性愛感情なのかとおもっていたら、そうでもないようで、単に変質的というのとも違うし。かわいそうで、苦しいキャラとして、監督の想いが深く入り込んでいる気がする。

* **

エルネスト・マルテルも、そんなに悪いやつかい?と感じる。 そんなにモンスターか? ただ、レナからみれば、他の男を好きになったから、レナにとって遠くなっただけでしょ?
執念深いけど、ただのエロじじいだし。階段から突き落とすし、謝るし、殴るし。
息子のキャラにくらべて、単純な存在に思える。

***

というわけで、レナとマテオの愛は、『ことの終わり』みたいな、まあそれはそれでよかったけど、僕は、ジュディットのそのおぞましき裏切りと愛と支えに一番面白みを感じた。マイナス感情の面白みだ。アルモドバル、おもろいなー。って。

「謎の鞄と女たち」をひどいものにするという一番の復習をしちゃっても、告白したらすっきりするという能天気。ああこわい。

破られた写真だけは捨てることができなかったという、ハリー・ケインこと、マテオは、過去に戻ることがよかったのだろうか。
その感情にとらわれるということは、苦しみに入り、停滞するということだ。
だが、何も人生は、生産のために前に多くすすめばいいというものではない(そこが勝間和代にはわかっていない)。
世界のだれに知られなくても、過去のあの人のところに心が戻る、というのは滋養である。

そして「謎の鞄と女たち」、ようわからんけど、細部はおもろい。にやり。
(監督インタビューで、「謎の鞄と女たち」は『神経衰弱ぎりぎりの女たち』に大まかに基づいていることは否定しない、といっている。なるほど)

「どんな悲しみからも立ち直る力をくれる」作品だ、という文章も見たけど、そうかな。

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2010-02-26 03:23 | 記事へ |
| 映画 / 関係性 / 生き方 |
東ティモールの賛同、期限が延びました。
東ティモールの日本軍性奴隷制被害者に関する要請のお願いを昨日、紹介させていただきました。


その賛同の期限が延びたそうです。
日曜日28日の深夜0時まで受け付けるそうです。

今からでもよろしくお願いいたします。
2010-02-26 01:47 | 記事へ |
| ジェンダー / ナショナリズム政治 / 暴力・DV |
大阪府警・検察 壮大なでっち上げストーリー

郵便不正事件で、偽証明書作成に関与したとされていた厚生労働省元局長、村木厚子被告の裁判で、厚労省の当時の上司や部下らが次々、村木さんは関与していないという証言が出てきている。
「否定したが聞いてもらえなかった」「検事に事実を言ったが聞き入れられなかった」「既成事実として最初から調書に書かれていた」というように、検察のむちゃぶりが伝わってきている。
検察が、作り上げたストーリーにあわせるような証言をさせていたのであるが、時間がたつ中で、各人が本当のことを言い始めたのである。

取り調べの検事にいわれ続けると多くの人が、混乱し、一時は警察・検察に言われているストーリーが正しいかのようにおもってしまうという。記憶というのは常に書き換えられる可能性がある。

かなりしっかりした人、たとえば、政治家でも、逮捕、起訴、長期勾留、実刑などをちらつかせられると、決意が揺らぎ、検事の言うとおりにみとめれば、下手に警察・検察に抗って長期の裁判になるよりも現実的にマシなのではないかとも考えてしまう。ましてや、普通の人ならば、支援する人もなく、あきらめざるを得ない。普通の人のちいさな事件はメディアにチェックもされないから、余計に簡単にひねり潰される。


罪を認めたら釈放するが、認めないなら長期勾留もある(と聞く)。
それは本当におかしな、ひどい人権侵害だが、それに関わっている人は、感覚が麻痺している。

この郵便不正事件が、壮大なでっち上げストーリーによる村木主犯説の話とすれば、これは大問題だ。で、それを無批判に流したメディアも、本当に反省しなければならない。
メディアにおいて、いい加減な、村木が絶対悪いやつだと思わせるような報道をした責任を加担者にとらせねばならない。検証し、再発を防ぎ、同時に一番責任あるものは謝罪や処罰をしなければならない。
警察発表だから報道しちゃったのはしかたなかった、というのは、もう時代遅れの言い逃れとしていかねばならない。

みなさん、検察側主張では、元係長、上村が、村木被告に相談したところ、「決裁なんていいから、すぐに作って」と言ったとしている。こんなふうに具体的な科白があるなら、普通の人は、本当だと思ってしまう。まさか、まったくでっち上げするなんて、さすがにしないだろうと警察・検察を信じている人がいる。
だが、警察や検察は、まったくウソを平気ででっち上げます。検察の捏造はあるのだ、でっちあげられるのだ、ということを学びましょう。

10歳の子が何も知らないのは許されることであろうが、20歳以上の人は、許されるべきでない。生きているならこのような事件にはいくつも出会うからである。不勉強でない限り、そして忘れない限り。
なのに、いつまでも簡単にメディアに騙されるのは・・・。というか、メディアの側の人こそ、大問題だ。

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障害者郵便割引不正:「調書でっちあげ」 元係長、検事の取り調べ批判−−第8回公判
 毎日新聞 2010年2月25日 東京朝刊

郵便不正事件で、障害者団体の偽証明書作成に関与したとして虚偽有印公文書作成・同行使罪に問われた厚生労働省元局長、村木厚子被告(54)の第8回公判は24日、大阪地裁で証人尋問が行われ、偽証明書を作成したとされる元係長、上村勉被告(40)は「取り調べで、誰からも指示されず、自分一人でやったと伝えたが、検事が調書に入れてくれなかった。村木被告とのやり取りはでっちあげで、検事の作文だ」と述べた。
 また、偽証明書を村木被告に手渡したとする検察側主張についても「再逮捕をちらつかされ、耐え切れなくなって認めた。村木被告には渡していない」と涙ながらに話した。
 検察側の主張によると、村木被告は04年6月、「決裁なんていいからすぐに作って」と上村被告に作成を指示したとされ、上村被告は捜査段階で村木被告の関与を認めた調書に署名・押印した。検察側は今後、取り調べた検察官を証人尋問するほか、捜査段階の供述調書と公判証言が大きく食い違う証人の供述調書を証拠提出し信用性を訴える見通し

2010-02-26 01:39 | 記事へ |
| 人権 / 政治、権力 / メディア |