ブログ「セックスを拒否するのもDV?」で扱った問題の続き。
先ほどの問題(セックスしたい僕の権利はどうなる問題、別れに同意はいらない問題)は、シングル単位の理解のカナメだけに、実はなかなかわからない人が多い。
学生でも研究者でも、本当にわかっている人は一部のような気がする。
レポートを読んでいても、あまりわかっていないなーとおもえるものがあります。
そこで、ここで再度少し説明しておきます。私の著作を知らない人(及び、ざっとはみたけど実は読み込んでいない人)には、ああ、そういうことかと分かっていただけると思うので。(そんなこと分かっているよという人も、まったく賛成だ、私もそう考えてきた、という人もいると思います)
授業ではこうしたことを説明しているので、最初わからない人にも徐々にカップル単位とシングル単位の違いがわかっていきます。
DV加害者には、シングル単位の発想を伝えて、DVを正当化する自分の発想の間違いを理解してもらう(考えを変えてもらう)必要があります。
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通常の常識では、AとBのそれぞれの要求・欲求があれば、出し合って、調整する(話し合う)のが民主主義だという程度の理解が多い。だから、「妻が働きに出たいといって夫がいやだといって話しあい」「男性が女性に料理を作ってといって、女性がしんどいといって、話し合い」みたいなことになり、権力関係があれば強いほうの意見が通り、同じような力関係ならお互い妥協して、真ん中を取る、つまり、「働きに出てもいいけど、家のことは従来どおりお前がちゃんとしろよ」とか、「毎回とはいわないけどできるだけ女性が料理つくる」となる。
このようなことは、他の問題でもすべて同じ。
「男性が女性に『仕事を辞めて専業主婦になってほしい、ついてきてほしい』といい、女性が『仕事辞めたくないな、ここ地元を離れたくないな』と思って、意見が合わない」
「Aが子どもを産んでほしい(子どもを生みたい)といい、Bが子どもを産みたくない(子どもを産んでほしくない)という」
「AがBに対して部屋掃除・洗濯など家事をしてほしい、といい、Bがどうして私ばかりがしないといけないの、という」
「Aが車で送り迎えしてほしい、おごってほしいといい、Bがどうして自分ばかりがそうしないといけないのか、と思う」
「子どもが生まれた。どちらかが子どもを育てないといけない。育休をとらないといけない。どちらがとるか?でもめる」
「結婚して苗字をどうするかで話し合い」
こうした問題の解き方が、カップル単位発想とシングル単位発想ではまったく異なる。
実は上記の、「AとBのそれぞれの要求・欲求を出し合って、調整・話し合い・妥協」というのは、カップル単位発想ゆえの限界ある枠組みである。
それだと、事実上、弱者の人権が侵害されてしまう。
すわわち、話し合うという形を通じて、結果としては、
力の強い側(男性)の意見が通って、弱い側(女性)が仕事を辞めて男性についていくとか、女性が部屋掃除・洗濯など家事をするのがほとんどとなる。そうしないと女性が、自分のわがまま(エゴ)を通したような気になる。
Aが車で送り迎えしてほしい、おごってほしいというので、Bは毎回とはいわないが、送り迎えやおごりを2回に1回はする、となる。
子どもが生まれると、話し合って、ほとんど女性が仕事を辞めるか、育休をとる。苗字も男性の苗字になる。
通常はこうなってしまう。
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それに対し、シングル単位発想では、そうした単純な「話し合いによって、AとBの要求の真ん中をとる」とはならず、個々人の自己決定や自由を中心にする。
AとBの要求は、形式的には対等・同質であるが、内容的には異なる、という点に注目する。というのは、Aの要求は、「自分の希望を相手Bにやらせるもの」であり、カップル単位的な発想から出ているものであり、Bの希望は「自分がどうするかの要求」だからである。カップル単位視点では2つの要求の優先度は同じであるが、シングル単位的には、優先度は異なる。シングル単位の原則においては、Aは他者に自分の意見を押し付けることは認められないので、Bの要求が優先される。
「相手を巻き込む決定」と「自分がどうするかの決定」を区別し、相手を巻き込む権利より、各個人の自己決定を優先的に重視するのである。
このことを少し別の角度から言えば、両者全体(共同体全体・関係性全体)をどうするかということを、「関係者(AとB)全員の合意で決めないといけない、決まるまでは現状維持(あるいは話し合いですぐに決めなくてはならない)」というのではなく、まず、AとBのそれぞれの自分の範囲での自由を優先的に重視するのである。
両者全体(共同体全体・関係性全体)を1単位とみて、「どうするか」ではなく、AとBそれぞれを1単位とみて、それぞれが決定する。当然、いつも意見が一致するとは限らない。意見の相違をシステムにおいて常に入れておくのである。
その結果、どうなるか。
AとBの意見の一致を見ないとき、両者全体(共同体全体・関係性全体)は一つの意思一致した行動を取ることにならない。異なっている点をそれぞれ尊重するのである。そして異なっていれば、当然、両者の一致を求めるAの意見は通らず、ばらばらなままで、個人の要求の範囲で言っているBの要求が通る。
まどろっこしいことをいっているようだが、この違いがわかってもらえるだろうか。
以上の考え方ゆえに、
セックスしたい人としたくない人がいれば、自動的にセックスは成立しない。
恋愛を続けたい人と続けたくない人がいれば、自動的に恋愛は成立しない(破綻する)。
妻が働きに出たいなら、夫の許可なく働きに出られる。
男性が女性に料理を作ってといったら、女性は男性に「基本は自分で作ってね、私は自分が作りたいときだけ作ってあげるし、あんたも大体半々で時々作ってね」、といえばよい。一緒に食べない自由も、違う料理を食べる自由もある。
AがBに『仕事を辞めて専業主婦になってほしい、ついてきてほしい』といっても、Bが仕事を続けたいなら続ければよいし、地元を離れる必要はない。Aは、自分がどうするかを決められるだけだから、自分がBの地元に残ったり、自分が仕事を辞めるかどうかを決断すればよい。
Aが子どもを産んでほしいといっても、Bが子どもを産みたくないなら産まなくてよい。(ただし子どもを産むかどうかの前提には通常セックスがあり、子どもは二人の責任に関わるので、その点で、いろいろな場合でこのもんぢあはいろいろな変形が考えられる。但し、直接産む女性のほうの決断が基本的に優先される必要がある)
部屋掃除・洗濯など家事についても、「どちらか一方がするではなく、基本は自分でやること、私は自分がしたいときだけアンタの分までするけど、あんたもそれに応じて大体半々で時々すること」、といえばよい。
車送り迎えや、おごることも、、「どちらか一方だけがするのではなく、基本は自分で移動し、自分の分は自分で支払うこと。私は自分がしたいときだけ送り迎えやおごることをするけど、あんたもそれに応じて大体半々でおかえしすること」、といえばよい。
子どもが生まれたなら、どちらが仕事を辞めるか、育休とるかではなく、どちらも仕事を続けたいなら仕事を辞めず、それぞれが育児休業をとればよい。
苗字をどちらのほうにあわせるかではなく、それぞれが自分の使いたい姓を使えばいいので、夫婦別姓を選べるようにしたらよい。あるいは結婚せずに付き合えばよい。
というようになる。
これが私がやっている「ジェンダー論の基本」の一部である。
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