ニックネーム:イダヒロユキ 
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2010年01月30日(土)
車谷長吉の孤独論と〈スピ・シン主義〉

先日、あさかさんの「孤独だと人はゆがむ」という話を紹介しましたが、今度は「孤独こそが大事」という車谷長吉さんの主張の紹介。

『朝日新聞』1月9日「悩みのるつぼ」で、車谷長吉さんの答えは、実践的な迫力と説得力があった。
 
「ずっと、不眠、眠気、頭痛、吐き気に悩まされてきた。健康な人に嫉妬してしまいます。妊娠・出産の女性には特に」という30代女性の相談に対し、車谷はいう。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
車谷さんの返答、要約

私は健康が大事と思うが、健康な人はそこがわかっていない。
人は誰にも理解されず、孤独な存在だ。私の苦しみは理解されない。人間の本質は孤独。他人と自分を比較することに価値はない。他人と比較するから苦しくなる。なのに世の中の大半の人は、比較しながら生きている。浅ましく愚かです。不幸な人は他人から思いやってもらうことを願うが、その願いはかなえられない。一人ぼっちを決意する以外に、救いの道はない。
つらさから逃れる道は、他人との比較を止める以外にない。劣位でいいのだとおもえてこそ、自己嫌悪が少なくなり、「精神の自由の道」が開けてくる。
私は40歳ころまで「優の人」と付き合ってきたが無価値だった。そういう人との付き合いをやめ、孤独だけを信じて生きていると楽になった。
貧乏を気にしない貧乏人になればいい。(車谷 終わり)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

これは、断念することの意義をのべた、実践的にはとても有効な意見だと思う。

冷静に見れば、車谷の意見は、一面的で、ニヒルすぎて、消極主義・厭世主義的な意見だろう。しかし、実際に苦しい人はたくさんいるわけで、皆が今の社会に適応的であるわけではない。
勝間さんの意見がときにウザイのは、とにかく問題を分析して合理的に対処していけば事態はよくなるという、能力主義的で勝ち組的なことばかり言うからだ。

それに対し、車谷のほうが、「弱者」「負け組」にやさしい。
皆が競争の中で努力し続けることが大好きというわけではない。
人ごみとか、人を押しのけるのがいやという人はいる。競争せず、のんびりとマイペースで、そこそこで生きていきたいという人はいる。

そして車谷はさらに、そこの先に行く。

でも、安積さんの「孤独ではなく、皆とつながって生きていこう」というのも、豊かで実践的な思想だ。決してキレイゴトというのではなく、実際に人と共同生活したり多くかかわって、他者や世界や自然環境のなかで、自分の弱さを認めつつ吐き出し、聴いてもらい、聴きあうというようなつながりの中でこそ、まともな感覚になるという、実践論だ。

いっていることをみれば、安積さんのほうが深く〈世界〉を捉えていると思う。車谷さんは、この現実のひどいクソッたれ社会で、現実的に、「不適合的な弱い自分」を何とかラクにするための防衛的思想だと思う。

だが、その突き抜けの程度がすごくて、やはり魅力的だ。
で、僕なりに、〈スピリチュアル・シングル主義〉と安積の思想と、車谷の孤独感覚をつなげて理解してみたい。

つまり、孤独を、シングル単位的に理解したい。
古い家族観(共同体主義)へのとらわれ、を捨てるという意味で。
ジェンダーへのとらわれを捨てる、という意味で。
自立・孤独が基本、という意味で。

その上で、従来のつながりではない〈つながり方〉はある。それが、スピ感覚の問題。

わたしたちのいのちが、つながっており、自然を私的に所有したり略奪したりすることの愚かさを思う感覚。空は誰のものでもなく、空を見て感じる気持の感覚。
ユニオンのなかで、小さなところで、具体的に、丁寧に、つながれるとき、それはいいなと思う。

大きな政治とか、大きな政策変更の働きかけ、大きな労働運動というようなものも、実際には必要だろう。
だが、小さな場所での、小さなスピリチュアルなものの立ち上がりに、むしろ、丁寧なことが宿る。
そういうものなら、あなたや私や、ちいさな無名の個人の手にも入るよ、ということをみながわかるようになっていくようにしたい。

そういう文脈で、車谷の言い方を少し変更すれば、

「私たちは、いまの社会の主流秩序に評価されなくてもよい。能力主義の価値観の人に理解されなくてよい。比較せず、孤独にわが道を行けばよい。今の社会の秩序では、劣位でいいのだとおもえてこそ、自己嫌悪が少なくなり、「精神の自由の道」が開けてくる。「優の人」と付き合うのをやめ、貧乏を気にしない貧乏人になればいい。そういう〈孤独〉へ」
となる。まったくそのとおり、といいたい。

PS.今日、うれしいことがあった。昔の塾の「教え子」と街中でバッチリ再会。心がつながっていたので、うれしい。そうしたことを喜べる感覚は、〈孤独〉の上でのつながり、つまりスピ・シン的。

2010-01-30 02:57 | 記事へ |
| スピリチュアリティ / 作品 / 生き方 |
2010年01月27日(水)
NHKの性暴力被害番組

NHK「ハートをつなごう」(2010年1月25,26日放送)で、「性暴力被害」が扱われた。

リナさんは、十代のときレイプされ、中絶し、風俗で働き、インストラクターになり、次々と男性とセックスし、自傷行為をし、精神的な疾患、PTSDを抱える。誰とも深く関われない自分に悩む。
同じような体験をしたマユミさんという同年代の友人を得て、ようやく、深く人とつながるという感覚を取り戻しつつある。
☆  ☆  ☆  ☆  ☆  

アキコさんは、中学生のときに同級生からレイプされた。その後精神疾患を抱えて生きてきた。胸をさわられ、セックスさせないとこのことを皆にバラすといわれて、どうしようもなかった。何度も家に呼び出されセックスさせられた。当時はレイプという認識がなかった。知らない人に外で襲われることがレイプであって、知っている人の家にいってセックスさせられるのはレイプではないとおもっていた。

人と関係を作れなくなっている自分を責め続けてきた。孤独感島を強め、そして手当たり次第に男とセックスするようになっていった。そのときだけは、男の人に与えてあげている、余裕の感覚で、優越感を感じられたからと。
でも孤独感は癒されなかった。誰も信じることができず、自傷行為を繰り返すようになった。

絶望の中でシュウスケと出会って、一緒に悩んでくれて、過去の秘密を打ち明け、それはレイプだよといわれ、ようやく語り合え、安心でき、結婚することになった。
婚約中、また性暴力事件の被害者になり、いっそう男性が怖くなり幻聴がひどくなり不安定になっていった。オーバードーズなどの自殺未遂も繰りかえした。
☆  ☆  ☆  ☆  

父から性的なことをされていたが、親の愛情なんだ、パパは私のことが好きすぎるんだと理解していたサオリさんも出ていた。父親との関係の中で、そんな自分を汚れているとも思っていた。
父は離婚して、サオリさんと二人暮しになり、父が好きなサオリさんは父についていき、酒を飲んで働かない父に言われて、17歳で水商売で金を稼いだ。父に見捨てられたら一人ぼっちになりいくところがないと思っていた。そのうち、父からセックスを強要され、妊娠までしたが誰にもいえなかった。
父は22歳で病気で亡くなったが、性暴力を受けていたとは思っていなかった。その後、サオリさんは、だれに相談しても「あんたが悪い」といわれそうだと思って誰にもいえなかった。
33歳で結婚したが、その人はDV男で別れようとしても別れてくれなかった。精神的に不安定になって、女性センターに相談してようやく病院にいけるようになった。夫に離婚を申し出るがうけいれてもらえず、NPOの支援を受けて、徐々にサオリさんは変化していく。性虐待を受けていたのだ、私が受けていたのは暴力だったんだ、と徐々にわかっていった。自分の恥だと思ってきたが自分が悪いのではなく、自分が恥ずかしいのでもなく、被害者なんだと理解できるようになっていった。
そうして話せるようになっていった。話せて、外に出て行けるようになっていった。サングラスも外せるようになっていった。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆ 
性暴力被害者として名乗りをでて活動されている小林美佳さんも出演していた。
皆少し触ると傷がうずく。傷口が開き血が吹き出る。
多くは誰にも相談していない。

性暴力は本当に長らく人を苦しめる。心と体の奥に影響するものだからだろう。
思い出すと苦しくなる人がほとんど。ほとんどの人が長期にわたって苦しみ続けている。
性暴力は、家族・親戚、友人など面識のある人からの暴力のほうがずっと多い。
ありとあらゆることが「理由」になって、被害者は、自分が悪いと思っている人がほとんど。逃げなかった自分が、拒否できなかった自分が、悪いと。酒を飲んだ自分が悪い、騙された自分が悪い、抵抗しきれなかった自分が悪いと。

NHKが、ようやくだが、正面から問題を扱った。当事者と支援者の立場で。
ようやく。

2010-01-27 16:22 | 記事へ |
| スピリチュアリティ / 暴力・DV / ジェンダー |
安積遊歩『いのちに贈る超自立論』その3

安積遊歩『いのちに贈る超自立論――すべてのからだは百点満点』がらみの、その3。

広い意味での身体のかかわりの豊かさ
食事するとか、わらいあうとか、握手するとか、ハグするとか。身体接触を狭い意味のセックスに限定するのは、歪んでいると、安積は言う。宇宙をだきしめ、そのすばらしさを何度もいう。

○ 安積さんは、母にひたすら肯定されてきた。そういうことが必要だという。とにかく侵害するなという。とても、シングル単位的な感覚。
○ 母は私(障がいを抱えた安積遊歩)を産んで、人生が計り知れないほど豊かになった。

○ 遊歩は怒りを吐き出し続けてきた。それを親は受容し続けてくれた。全身全霊でよりそってくれた母。遊歩の苦しみのそばにいて、かわいそうに思い、泣き、心配し、なんとかしてやりたいと思い続け、祈り続ける。遊歩の自己決定を全面的に尊重し続けてくれた。だから、安積遊歩は自分で考える賢い人になれた。

○ 骨折を繰り返していた遊歩。夜痛みで目を覚ますと、必ず、さきに目を覚まして母が安積遊歩を見守ってくれていた。
○ 安積のスタンスは、レスキューではなく、とにかくそばで気持を聴く存在になれというもの。無条件の肯定だけでいいのだというスタンス。

○ 安積遊歩の娘、宇宙(うみ)は、骨が折れ続けて痛みで苦しむ人生を歩んでいる。遊歩は、その痛み、つらさを知っているから、宇宙の恐れにきちんと目をむけよう、と決意する。「痛い!」と声に出してギャーギャーいうことを尊重する。手術が怖いのはあたりまえ。専門家の知識の前に沈黙しない。ここは重要だ。
多くの親などは、代理的に、代わりに判断してあげよう、導いてあげようとする。良かれと思って代行する。だが、そこにはしらぬまに優性主義思想や健常者的な価値観や、子どもを自分の所有物とみる上下意識が入り込みやすい。私のからだは私のもの。子どものからだは子どものもの。宇宙は、自分の体を医者が勝手に触ることに、ちゃんと怒れる子どもになっている。
徹底的に、他者として、大人として、尊重して関わるという原点を、宇宙の痛みと手術のことで考えて、安積は、迷いつつ、シングル単位に何度も立ち戻る。大人は、子どものしたいことをできるだけ応援する人になればいいという。子供の声に耳を傾けていって親になるのであって、血縁主義で捉えてはダメという。

○ 経済至上主義・労働至上主義でなく、生活保護や福祉制度を使って生きていくのでいい。そしてエコな暮らし方こそが大事だと。私たちの物質消費の欲望をみなおさないといけない。

○ 貧しい人から、生きのびるモデルを見せていくことが大事。

○この世では、女性のからだは侵略されることが多い。従軍慰安婦、性器削除、強制不妊手術・・・。
○ 医者の多くは暴力的だった。手術は実験台だった。安積遊歩は、医者への怒り、恨みを抱えている。今さら謝ってもらってもしかたないほどに。

○ このことは、「謝る」ということも考えさせる。従軍慰安婦問題でも、いまだ正式な謝罪はない。謝罪があれば、ことはすむのか。
安積はいう。「謝罪が謝罪として意味をなすためには、傷つけた相手に先ず謝り、そのあと、相手がいかにつらい気持でいるかに耳を傾けることが必要だ」という。

だが日本政府は、そういう本当の謝罪を拒否している。民主党政権になったのだから、かわっていくことに期待したいが。

○ 以上は原則だが、安積さんは、今謝罪されても許せないという。今さら話を聴きますと、医者に言われても、もう話したくないという。ちゃんと聴かずに表面的に謝られても苦しいだけだという。だがそれでも、本のなかで、もしあったならと次のような声を絞り出す。「彼らのやったことは、犯罪だったのだという認識を持ち、謝罪するように彼らに伝えてください。医療の本質が患者のいのちやからだに味方することであるならば、彼らにその過ちを伝えることは、同じ医者仲間のあなたたちだからこそ、できることなのですから」。(p99−100)

○ 障害者が妊娠しないように、当事者の承諾を得ずに不妊手術をするということが世界中で行われていた。スウェーデンは、かなり遅かったが、それについて、ちゃんと謝罪をした。損害賠償をした。日本政府はまだしていない。

○ 電車の入り口近くに遊歩が車椅子でいて、混んできたとき、そのとき、見知らぬ若者が、「車椅子の方が乗っていますから、もうこれ以上は乗れません」といってくれたことがあった(p150)。日本ではめずらしくなった、関わり。「自分のことは自分で」というのが、他の人に迷惑をかけてはダメ、他の人にはかかわらない、というばらばらになってしまっている日本。孤立させられてしまっている。

それに対し安積は、競争を排し、つながって助け合えることはぜんぶたすけあっていこう、という。障がい者である私たちのからだは、そういうことに適合的だと誇らしく宣言している。

○共同生活で若い人にかかわる遊歩さんは、それは、人類という種からの要請であると感じている。それもスピリチュアルな感覚である。私のからだというものを、ひどいものに侵害させない、それは地球環境を侵害させないことと一体であるという感覚ももっている。科学や医療や経済の力で侵害させないと抵抗する。聖なる場所として、いのちとしての私、そして環境を守る。
☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

以上のような内容をもっている安積の本は、僕の〈スピリチュアル・シングル主義〉感覚にとても近いなと思った。自立したものたちが、つながる。自立観が、とてもつながり感覚のあるスピリチュアルなもの。くしくも、生き方、暮らし方がスローであることとそれは結びついている。


  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆
最後に、介助と自立と恥ずかしいということと性について。

安積さんは、「自分のおしりを拭けなくたっていいんだ」という自立観を述べている。
立岩さんが、これに関して考察している。

「自分でできない場合、あるいはしない場合、自分の代わりに他人に委ねることがある。すると、その他人との関係が生ずる。その他人がまったく無色透明な存在であれば、気にならないだろう。しかし人はそんな存在ではない。あるいはそんな存在になりにくい。
 すると、恥ずかしいと思うことがある。とくにからだ関係のこととなると、自分の代わりに、見たり触ったりしてほしくないところに他人がやってくるということがある。そんな場合は気にしなければよい、と言われても、気になってしまうことがある。
 しかし慣れてしまってかなり気にならなくなる場合も実際にある。どこまでが恥ずかしいことなのか。あらかじめ決まってはいないが、かといって、どのようにでも変わる、なくなってしまうということはないはずだ。たとえば人が隠すところは、たしかにずいぶん大きく違う。とてもたくさん隠す地域もあるし、ほんの少しのところもある。しかしほんのすこしであっても隠すところはあって、その場所はだいたい決まっている。反対から言えば、共通の部分はあるが、幅はとても大きい。」

介助する側は、気にするなというが、じゃあ、通常、健常者のトイレは男女でわけられているし、他の人に性器を触られたり見られるのが恥ずかしいというのはどうなのか、と当事者は問う。「気にするな、と言うあなた(たち)は、では実際、気にしないでやっていますか、そんなことはないでしょう」という。

 都合よく同じ言葉を使いながら、逆の意味を伝えることがあったり、二重規範であったり、矛盾したことを言ったりというようないい加減なことがある。「がまんしなさい」「気にするな」と言うことがあったり、「恥ずかしいなら自分で」といったりする。

その上で、立岩さんは、安積遊歩さんが、「自分のお尻を自分で拭かなくてもいい」ということに言及している。羞恥心をなくせというべきではないが、やがて慣れるようになること、気にしないようになることがあるという話だ。

安積さんは言う。「動かない手足が現実なのだから、自分のお尻を堂々と他人に預けるというのが、私たちの自立となるのだ。[略] プライベートとか個人のテリトリーとかいう考え方は、障害をもった人の現実にはまるで役に立たない考え方であり、ときには害をもたらしさえする」
「プライバシーの概念から自由な子どもや知的障害の人とつきあってみると、そもそもプライバシーというものがどういうふうに人と人との関係に役立ち、一人ひとりを大事にするものなのかがわからなくなるのだ。食べること、動くこと、移動すること、ときには眠ることにさえ人の手を借りなければならないときには、プライバシーさえ分かちあわれることとなる。分かちあわれたプライバシーは、プライバシーと呼べるのだろうか。」

恥ずかしいといった気持ちについて、まずは本人に即してみよう、自己決定だ、そして人に委ねるのはしんどいということもあるので、一人になれる権利、よけいなお節介をするなという権利を保障する。しかし同時に、介助が必要なことから見えてくる、新しい価値観もあり、慣れるとそれほど気にならない、むしろ豊かな関係性であるということもある。
やむなく人が必要という人に、できるだけ、必要なときに人が保障されることが必要である。他の人にしてもらうということにはいつも危険が伴うが、その弊害をできるだけ減らして、むしろ豊かさの面を追求するようなことも可能だという話。安積さんはそういうことにチャレンジし、言及し、広めている。
2010-01-27 16:10 | 記事へ |
| スピリチュアリティ / 作品 / 生き方 |
「自殺3万人」を本当に痛ましく思っているか

日本の自殺率は、10万人中24,4(2007年)
すこし前まで、日本の常識として、北欧は自殺率が高いといわれた。(そうして福祉国家を批判していた人が多かった)
しかしフィンランド18,8、スウェーデン13.2、デンマーク11,9、ノルウェー11,4.すべて日本よりかなり低い。
ドイツは1930年代は世界一高かったが、いまや11.9と日本よりかなり低い。
日本は1950年代に一時、自殺率が世界一になり、その後少し低まっていたが、1998年以降、またもや自殺大国になっている。ハンガリーは長らく世界一だったが、いまや日本と同程度となっている。今世界で自殺率トップクラスであるのは、ロシア、ベルラーシ、リトアニア。それに次ぐのが日本などである。

警察庁のまとめによると2009年の自殺者数は3万2753人。1998年以来12年連続で年間3万人を超えた。
30代の自殺が増えている。「就職失敗」「生活苦」など不況の影響が読み取れる原因・動機が昔に比べて大幅に増えている。

自殺問題を担当する福島瑞穂消費者・少子化担当相は、来週中にも閣僚級の「自殺総合対策会議」(会長・平野博文官房長官)を開き、自殺防止対策を強化する方針を明らかにした。
☆  ☆  ☆  ☆  ☆  

メディアや政治家は一応、自殺問題は大問題だというが、「自殺3万人」を本当に痛ましく思っているのだろうか。

というのは、私の友人も言うのだが、ひごろの人権感覚が鈍く、軍事力肯定、日米安保肯定、ナショナリズム肯定のような人が、ほんとうに「他人」のことを感じるのか。
在日外国人のことを考えているか? 日本人にだけ感じるのか?
じゃあ、障がい者のことは? 野宿者のことは? 非正規労働者のことは? 性暴力被害者のことは?

友人は、次のようなことをまったくまともに僕に伝えてくれた。

いま、一応ご飯をたべて、仕事にも行って、服をきて電車にのっている人の孤独の苦しみ、お金の不安、老いの恐怖、逃れられない嫉妬や執着の苦しみ、そういうものは「いま、まだ死んでいない」から問題ではないのか。
傷ついた心を守るために感情を封印したひと、人とかかわることを拒んで引きこもる人、時間の長さを忘れるため、ギャンブルや薬にはまる人、他人を傷つけ、攻撃することが気晴らしになっている人、そういう人たちの「持って行き場のない苦しみや孤独感、挫折感」を、「パーソナリティーの欠陥や障害、病気」などで結論づけるのではなく、それぞれの人が「生きることの苦しさやつらさ」に直面し、もがいている姿にこそ、わたしは心を向けたいし、そういう人が増えてほしい、と。


だが、自殺報道や番組は、そうした精神でなされているだろうか。死ぬまでは話題にならないことがおかしいのではないか。
「死ぬ」ことでようやく話題にされたり(こんにゃくゼリー問題)、死んでから評価されたり(2階級昇進)、死んだとたんに生前のことがすべてチャラに(死んでお詫びや死刑とか)なったりするという、わたしたちの社会のあり方が問われないといけないはずだ。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆
 
宮地さんの本の感覚のように、何もできないとたたずむ、でも、聴かない、見ないのではなく、何にもならないかもしれないけど、そばにいる、聴く、見るということをしていく。
それしか、自殺問題においてもできない、と言うようなところから出発したい。

勿論、実際に解決できる具体的支援も必要だと思っている。福祉制度・生活保護利用とか、借金清算とか、ユニオンを通じた交渉などで解決できる問題もある。

でも、それでは届かないものもある。「無常のものへの、いたわりとか思いやりとか、そんな気持ちで、あらゆる人の死を静かに見送る、見つめる、悲しむ、という作業は、しんどくても自分ひとりでしなきゃならないことだ」と友人はいう。

そう、いくら、悲しくても、それを他人がどうこういって解決できることではない、という場合があり、その重荷を代わりには背負えないけれど、少しは、一緒に重荷をもつことはできる。重い空気を吸うことはできる。うーんとうなり、たたずむことはできる。
それしかできない、という罪悪感から、それしかできないとしてもそれだけでいいのだという、宮地のトランスフォーム。

なのに、メディアなどで、「死」「自死」というかなりのことに、安易な決まり文句で済ます鈍感な感性でのぞむとは、・・・。
だから、「自殺3万人」を、多くの人が、特にメディアが本当に痛ましく思っているとはおもえない。

僕はたいして繊細ではない。いろんなことに鈍感だった。だがそのことに少しずつ気付き、この毎日のすばらしさを、瞬間の大事さを、いのちの不思議さと奇跡を、存在の全肯定を、日常の横にぱっくりと口を広げている底なしの無根拠世界を、世界の不条理を、心の中の闇を、少しは自覚し、10年少し前から〈たましい〉を問題とし、〈スピリチュアル・シングル主義〉というバランスで生きようとしてきた。

悲しみを、そっと一緒に見つめるしかできない、と言うことを大事にしたいと思うようになった。

先ほどの友人は、そういうことがわかる人で、だから、

「ほんのつかの間、生きている間の「わたし」と「誰か」との繋がりを大切にしたい。そして、身近な人とのかかわりを大切にすることで、まだ会ったことがなくても、遠くで今生きている見知らぬ人の心を想像できるようになればいいなと思う。そして、人にやさしくすること、思いやる気持ちを持つことは、自分自身の苦しみや悩みが癒されることでもあるような気がします。」
というようなことをいう。

そんなことをいっている僕だが、遠くの地震被害者のことをタニンゴトのようにみている。映像を見て、悲惨さをこれでもかと具体的に見せ付けられてようやく、少し想像する。
つまり僕も、「自殺3万人」を本当に痛ましく思っていないひとりである。

せめて、自殺をみなの前で議論したりして得意げにならないでいようと思う。


2010-01-27 13:17 | 記事へ |
| スピリチュアリティ / メディア / 人権 |
安積遊歩『いのちに贈る超自立論』その2


安積遊歩さんの新著『いのちに贈る超自立論――すべてのからだは百点満点』(太郎次郎社エディタス、2010年)のことを少し、1月14日ブログで書いた。
http://blog.zaq.ne.jp/spisin/article/1243/

その続き。この本を読んでの、あれこれ思い付きを書いておく。

安積さんが、いつも痛いところがある人生なので、どこも痛くないのがふつうというひとがいるとしってびっくりしたというようなことを書いていた。僕の友人が頭が割れるように痛いということを抱えている。つらいだろうなと思う。誰も代わりになれない。自分しかわからない苦しみ、という絶望。どこにも逃げられない、痛み。
僕など自分が少しの痛みがあるときでさえ、他者との断絶を思う。痛みがあると他の事をする気にならなくなる。
神様は不公平。
出発点が違う。
だからこそ、私たちは私的所有などにこだわっていてはならない。私たちが何をしようと、何かをなすのは、過去のあらゆるものの積み重ねの上での生産物である。私だけのものではない。自己責任論はまったく間違っている。自己責任論をいうものは、自分が痛みを抱えて動けなくなるとわかるだろう。私たちの命がつながっていたのだと。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  
孤独ということについて

僕は、日本社会の悪い意味の集団主義、非自立、共同体主義、DV等の抑圧、横並び主義、排外主義ナショナリズム、カップル単位感覚などに対抗して、シングル単位論を述べてきた。その文脈で、ひとり、孤独、他者との境界線ということも重視してきた。その意義については今でも揺るがない。しかし、安積さんが「孤独」について批判的に言及していることには、耳を傾ける価値があると思った。それは僕がスピリチュアルな視点と結び付けてのみ、シングル単位感覚はまともになると思っていることにつながる。

安積がいう「孤独」批判とは、プライバシーという名で皆が一人一人こもってしまってしまうことで、人の思想が「妨害」されてしまうということだ。孤独だと、自分のいのちやからだやエコロジカルに暮らすことなどを大事にできなくなる、という。自分の思いを誰にも聞いてもらえず、自分のことだけにむきあっていると、何もかもどうでもよくなるのだと。それにたいし、共同生活という暮らし方をすることで、違うようになっていくという。
そこで、聴きあう。話す。泣く。思いっきり感情を出す。泣いて泣いて、涙で池を作れば、きっとよくなっていくという。安積の母は、安積が決めることを全面的に尊重してくれたが、その陰には、絶えず泣き続けている母がいたという。クスリに依存していた子も、代わりに泣くことでよくなっていくという。

これは安積がコウ・カウンセリングで、感情を出し合う、聴きあうことの重要性を主張することにつながる。


毎日を障害を持っていきること、障がい者を持った子どもと生きることは、意識するしないにかかわらず、傷つきながら生きるということである。
よく考えれば、少し繊細に見れば、障がいがなくてもみな、誰でもが、絶え間ない比較や競争やジェンダー規範などの中で傷つけられ続けている。

そうした傷つきから回復する為に、涙や笑い、感情を言葉で出すこと、あくび、汗などを出したらいいのだという。だが今の社会はそういうことを奪っている。そして明晰に考えるのを妨害し、回復できなくさせているという。

だからこそ、意識的に、溜まっているものを出す作業をしようというのだ。徹底的に聴きあうことで知性を取り戻せるという。人が非合理な、ひどいことをするのは、傷ついた感情が思考能力を妨害するからと捉える。傷ついた感情をからだの外に出せば、知性的に考えられるようになり、非合理な行動もしないようになっていくという人間観だ。

だから彼女は、臓器移植とか手術とかに展望を持とうとする親にお願いする。どうか、障がいをもっているその子を無条件に抱きしめてあげて、その子のからだをそのまま全身全霊で信頼してあげて、と。
子どもに必要なのは、「そのままで大好き」という愛情だけだという。命が危ない以外は、ただただ、抱きしめるだけで、ほかには何もいらないという。
泣いて泣いて泣いた後に、人は、力強く立ち上がる力を持っているのだから。

この感覚は、宮地さんのいっていることに近い。

根深い問題から簡単に解放されることはない。
でも、泣く、吐き出す、それを誰かが聴く、目撃する、そばにいる、というのは、
もっとも、まともな知性がたどりついた、「ある地点」である。
私もそこに近づいた。

(この本については、また続く)
2010-01-27 11:15 | 記事へ |
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朗読劇  「ガザで起こった”本当のこと”」

 「沈黙を破る」の監督土井敏邦さんに対するイスラエル政府のプレスカード発行拒否のことは先日ここで紹介しましたが、それに関して、朗読劇  「ガザで起こった”本当のこと”」が行われます。東京なのでいけないけれど、近い方はぜひいかれてはいかがでしょうか?

 なお、この朗読劇の素材となった、「加害兵士の証言」というものがあるそうです。
それは、元イスラエル軍将兵のグループ「沈黙を破る」が09年7月に発表した「ガザ攻撃に参加した兵士たちの証言集」を土井敏邦さんが翻訳したものです。この証言集がイスラエルをはじめ世界に向けて公開された直後から、イスラエル政府は「沈黙を破る」にいっそう強い圧力をかけ始めたそうです。これまで「沈黙を破る」に資金援助してきたヨーロッパ各国の大使館に、イスラエル外務省が援助を停止するよう要請したそうです。一方、この証言集は世界的な反響を呼び、「沈黙を破る」の名と活動はいっそう広く知れわたるようになりました。
また「被害住民の証言」というものもあります。それは、土井敏邦さんが昨年1月にガザで取材し、7月に岩波ブックレット『ガザの悲劇は終わっていない』に収録したものから抜粋したものです。

この被害者、加害者の証言2つを組み合わせたものが、今回の「朗読劇」だそうです。
 
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ガザ攻撃1周年追悼・報道規制を訴える集会
ガザで起こった“本当のこと”
〜『沈黙を破る』・兵士が語るガザ攻撃〜

【趣旨】
「爆弾が降っている時の方が希望があった。あの時は、ガザ攻撃に反対して世界の多くの人々が声を上げてくれた。でも、今、世界はガザを忘れてしまった」――現在のガザ住民の悲痛な叫びです。
 約1400人が犠牲となり、5000人以上が負傷したイスラエル軍のガザ攻撃から1年2ヵ月が経った今も、破壊されたガザの復興は進まず、人びとは生き続けるための必死の闘いを強いられています。

 このガザの現実を覆い隠すため、イスラエルは今、報道規制を強めています。その象徴的な1例が、ジャーナリスト・土井敏邦へのプレスカード発行の拒否です。これによって、長年、ガザを取材し伝え続けてきた土井は、今その現場から切り離されようとしています。
 しかし、これは、土井敏邦個人の問題に終わらず、パレスチナ報道に関わるジャーナリスト全体にとって深刻な事態です。パレスチナの現状を世界に伝え続けるために、私たちはイスラエルの報道規制に抗議の声をあげる集会を催します。


【日時】2010年2月25日(木曜日) 
    (開場 18:30 /開演 19:00 /終了 21:30)

【場所】文京シビックホール /小ホール
     http://www.b-academy.jp/b-civichall/access/access.html
     (最寄駅)・東京メトロ/丸ノ内線 「後楽園」駅 4b /南北線 「後楽園」駅 5番出口
・都営地下鉄/三田線 「春日」駅/・都営地下鉄/大江戸線 「春日」駅

【内容】
1) はじめに
集会の主旨説明

2) 映像『イスラエル人が見た“ガザ攻撃”』

3)リーディング(朗読劇)
    「ガザで起こった”本当のこと”」
   ―ガザ攻撃 加害兵士と被害住民の証言―
     演出:渡辺えり 台本構成:篠原久美子 
    (出演・渡辺えり/根岸季衣/西山水木/円城寺あや/松村武/楢原拓 ほか)

   協力:非戦を選ぶ演劇人の会

  
4)問題提起「記録することの大切さ」(シグロ代表・山上徹二郎)

5)リレー・メッセージ
(予定:渡辺えり/根岸季衣/土肥信雄ほか)

6)土井敏邦からの訴え

【参加費】1000円

【主催】「ガザ攻撃1周年追悼・報道規制を訴える集会」実行委員会
【連絡先】 090-3698−2178

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以下は、「沈黙を破る」のアンコール上映のお知らせです。   
   映画「沈黙を破る」が ◇第83回キネマ旬報ベスト・テン 【文化映画部門 第1位】,◇2009年度日本映画ペンクラブ賞 【文化映画 ベスト1】を獲得しました。

それを機に、東京で映画がアンコール上映されることになりました。
  【ポレポレ東中野  2月6日―2月26日】
   また以下でも「沈黙を破る」が上映されます。
     【石川】 シネモンド   2月13日ー2月26日
      【福岡】 KBCシネマ  2月13日ー2月26日

   3月5日には「沈黙を破る」DVDが発売されます。
2010-01-27 09:56 | 記事へ |
| 戦争  / 作品 / ナショナリズム政治 |
「うらやましい」といわしめる傷


何度も受話器のむこうからうめき声が聞こえる。深く苦しい人たちが共通に言う言葉がある。何度もこの種の言葉を聴いてきた。

「新聞を見て、交通事故などにあって死んだ人をしって、その人に悪いと思うけど、正直に言うと、うらやましい」

「突然死しているっていうでしょ。うらやましい。一番の希望は、明日の朝、目覚めないこと。寝ている間に死ぬこと」

「友人の大切な人がなくなった。友人やその死んだ人がかわいそうだ。でも私はその死んだ人がうらやましい。自分が代わりになりたい。それが一番いいのに、どうして死にたい私が死ねず、死にたくない人が死ぬのか」

「しんどくて調べたけど、明確な病気はなかった。でも本当は病気になりたい。頼むから深刻な病気であってくれ、とおもう。誰はばかることなく入院できるように」

「泣けたらいいのに。泣き叫んで大声で暴れられたらいいのに」

「健常者からたくさんの、お気楽な、タニンゴトの、説教がましい、励ましの言葉を投げつけられてきた。そいつらに言いたい。おれも、そんな鈍感なことを言うひどい健常者の側にいきたい、と」

「将来いいことあるよと、子ども達にいえない。いいことなどないから」

「いろいろあった。努力はした。苦しみを味わい続けた。もう死んでもいいんじゃないかな。自殺しても許されるんじゃないかな。もう許してくれますか」

「希望は何ひとつ実現しなかった」

「我慢ばかりしてきた」

傷はある。傷の前でたちすくむ。
2010-01-27 02:39 | 記事へ |
| スピリチュアリティ / 作品 / 生き方 |
宮地尚子『傷を愛せるか』

宮地尚子『傷を愛せるか』(大月書店、2010年1月)がでた。
すばらしい本である。いつもながら。

彼女は、僕が、数年来、この日本で、もっともイチオシの人である。2006年に出した拙著『続・はじめて学ぶジェンダー論』でかなり引用させてもらったし、そのころ、女性学会やあちこちで彼女のすばらしさを伝え、彼女を呼んだりした。このブログでも、何度も言及しているし、『環状島』のことも書いた。
あさかゆうほさんやいちむらみさこさんもすばらしいが、文章の点では宮地さんがNO1だとおもう。

今度も期待に反しない。エッセイ集であるが、心に沁みる。
彼女の本の感想は、高画質、それでいて素朴な映画のシンプルさがある、という感じ。まともな神経が隅々にまで行き届いていて、気持いい。

性暴力被害者の声のそばにいること、繊細な感受性をもっていること、知的能力が高いこと、そして文学的能力が高いこと、それらが集まって、宮地の作品を生み出している。

☆  ☆  ☆    ☆
ところで宮地さんがスキューバで一番好きなのが無音の世界で水面からの光につつまれて水面を眺めることだそうだ。
僕も水底に寝転んで上をみるのが好きだ。

☆  ☆  ☆  ☆  
『傷を愛せるか』の最初のエッセイ「なにもできなくても」がいい。宮地さんらしい。本書の基本精神が出ている。

子どもが転げ落ちるのをただ見ていた自分。
だがあるとき、彼女は気付き、腑に落ちる。

何もできなくても、見ているだけでいい、目撃者もしくは立会い人になるだけでいい、のだと。「見守る」にさえ届かなくても、そこにいるだけでいいんだ、と。
目に焼き付ける、目撃するということの意味。

それは、癒すとか、支援するとかとは何をすることなのか、死にたいとか、性暴力のようなひどいことに対して何ができるかという問題に連なる。

そのことは、本書の最後のエッセイ「傷を愛せるか」でも探られる。

ベトナム戦争の戦没者記念碑。それはワシントンDCに“傷”として、少しはずれた地中にある。しみじみとした惨めさを抱えて存在している。すっきりしない。だからこそ、まさに傷なのである。

傷をずっと抱え見つめ続けることは難しい。傷は時間とともに癒えていくこともあり、あるいは、PTSDのように痛み続ける。
だからなんとか、聖なるものにまつりあげて記憶を記念碑で固定したり、逆に傷があったこと自体を抹消したり、他の事を上に塗りこめて見えなくしたりする。

負の遺産の記憶を持ち続けるには、力が要る。抹消しようとする力がある中で、傷跡を保存する、ということは大事なことである。

そんななか、傷の記憶の抹消ではなく、「包帯を巻く」ということで、傷に寄り添おうとする行為を描いた『包帯クラブ』の話を宮地は紹介する。傷ついた〈場所〉に包帯を巻き、手当てされた風景をデジカメで撮り、相手のアドレスに送るという活動。

傷に対してできることはほとんどない。ただ、それを知るだけ、みるだけ、包帯を巻けるだけ、痛いでしょとおもえるだけ。つらく思える、だけ。

思えば、自殺防止センターでの電話では、できていることはそれだけであった。聴いて、つらく思えるだけ。この世で、電話をかけてきた人が抱えている「苦」を、電話線を通して、聞き手も一瞬感じるだけ。何も解決しない。両者が重くなるだけ。

この世には、誰にも知られない傷がある。傷つけてしまったという傷もある。知らずに傷つけてしまう傷、傍観者として加担してしまった傷、どうしようもなく流されてしまって自分を傷つける傷、相手を傷つけてしまって自分を否定してしまう傷、どうしようもないことによる傷、などある。

その多くは、だれにも知られない。誰にも届かない。癒せない。思いだせばうずく。ずっと抱えている思いで、さわればかすかに痛い傷もある。

宮地は、他の人の深い傷に触れていく主人公達が、「自分の傷つきや繊細さにのみとらわれて、こわばっていた内面が、ゆっくりとほぐれていく」という点に目を向ける。
そうだろうな、と僕は思う。

包帯を巻くという行動によって、「手当てされた風景」。
それは「何も変えない」けれど、何も変えていないのだろうか。
できることはそういうことではないのか。

☆  ☆  ☆  

宮地さんはトラウマに関する学会でも、専門化していくことで、だいじなことから方向性がずれていくという問題に言及する。

何のための、誰のための研究・調査なのか。
米軍兵士の調査が学会で論じられるが、米軍の兵士が精神的な病気にならないための研究、発症予防のためや早期回復ための研究でいいのか。闘って人を殺しても殴っても、まちをは解しても、侵略しても、傷つかない人間を作るための研究に加担していいのか。

宮地は、トラウマの本質解明に役立つ研究だという大義の前に沈黙するが、心の中で叫んでいる。米軍のイラクへの派兵自体をやめるとか、イラク人のPTSDを調査するとかが射程に入らないのでいいのか、と。

ここを読んで僕の友人もいろいろ悩んでいることを思い出す。
僕なども批判の対象になるのだが、いわゆる学術論文的なスタイルをとらない人を批判する「学者」たちがいる。アカデミズムなら、客観的に、感情や意見ではなく事実や実証できることを、論理的に、そして他の学者の引用をちりばめて、こうかかなくっちゃだめだよ、というわけだ。

あほらしーと僕は思うが、ほんとにそんなひとはいる。そういう場合、感情や立場や思いを抱えて書くとダメだとされる。宮地さんや岡さんなどのように、感情を出すとだめだというのだろう。

学者になりたいのではなく、考えたいことを考え、かきたいことを書き、伝えたいことを伝えるために書くのではなかったのか、というような問いの立て方をしない。
傷を負った人の立場で、その人が少しでも楽になるための学問ではないのか、と単純には考えない。
アカデミズムのあり方とは誰が決めたのか、というようにも考えない。でも外国で権威付けされた「偉い人」が言うと、その流行は一応追う。どこまでも権威主義で自分で考えない人は、そんなスタイルだ。

で、友人は、今日、たとえば、「日本財団の助成金を使う」ということに無批判的で「どこの金であろうと出してくれるなら使えばいいじゃん」というようなことに対していらだって、以下のようなすばらしい文章を書いた。

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助成財団としての事業内容のこと以前の問題について、私自身はもっと目をむけるべきだと思っています。
なぜ、中央競馬会や競輪の財団と違い、競艇だけは日本財団という名前に変わったものの、笹川財閥を母体とする特定のファミリーが独占することが可能な法律になっているのか?
もし、社会の改革というのであれば、その既得権を解体することから始めるべきではないかと思う。沢山のお金が集まるところから、必要なところに再分配すればよい、という考えに異論はない。しかし、その沢山のお金はどこから得たものか?

金融庁2008年度上半期の「地方自治体における多重債務相談の状況」によると、借金の理由は「低収入・収入の減少による生活費・教育費等の不足」(約30%)が群を抜いて多いが、それに次いで、ギャンブル・遊興費が約7%との結果が出ている。(この他には、商品・サービス購入(約6%)、事業資金の補填(約6%)等)

競艇事業の収益が上がるということは、それだけ沢山の「スッた」人たちがいて、彼らのお金が大量に集まるから潤沢な資金を有する財団でありえるのではないのか。WHOでは病的賭博を治療の必要がある病気と認定しています。
公営と名づけられているから問題がないということでは済まされない社会的な課題を抱えているのが競艇を含むギャンブルであり、それを原資として成り立っているこの財団が「助成金」という公的事業によって、その問題性を漂白している面があることについてについて、根本的に論じることなく、目の前にあるお金をいかに上手に獲得(活用)するか、という議論でよいのでしょうか

潤沢な予算を元に、ありとあらゆる市民団体や活動に助成金を出していることやそれを受けている団体について否定するわけではありませんが、そこで話が終わってしまっていいのでしょうか。
例えば、これだけ沢山の資金を集める装置がギャンブルの収益ということ以外には日本では考えられないのかということも考えるべきではないかと思います。
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だが、こうしたまともな意見は、真摯に受け止められるであろうか?
宮地は、「反戦をここで言っても意味はない。役に立つ内容だけ選択的に取り入れればいい」と自分に言い聞かせて学会で沈黙した。孤立するのを恐れたかもしれないと自分でいう。苦い。

撹乱があれば面白いのに、と僕ならおもうが、まあ人それぞれだ。
僕は彼女が苦く思っていることに共感した。

で、宮地は、〈傷〉と名づけること、そして傷だから、手当てをしたらいつか治るかもしれないとみるような、原点に立ち戻る。
それは専門家的でないからダメだと、誰が言おうと関係ない。

「何にもならないことの証として包帯を巻く」ということの意義。手当てされた風景を残すこと。傷を前に、たちすくみ、悩み続け、ただ、重荷を受信してしまうだけであること。

無力感や罪悪感、そして自分が逃げたり、自分が傷つくこと、それらを見つめるか、鈍感にそんなことをまったく考えないか。

宮地は最後に言う。
傷を愛せるか。

傷を愛するのは難しい。傷を目撃し、傷を記録し、傷をなかったことにするのはたいへんだ。傷を抹消したり傷をなかったことにすることはできるかもしれない。
でも傷はあった。傷を負わせたり傷ついた自分というものを、自分からなくすことはできない。

だから宮地は、傷と付き合う。傷の周りをそっとなぞり、身体をいたわり、傷を包み、さらなる傷を負わないよう、手当てをし、好奇の目から隠し、傷とともにその後を生きつづけようとする。傷を愛せないあなたを、愛そうとし、傷を愛せないわたしを愛そうとする。

そして「傷のある風景が残り続けることによって、人は時には癒されることがある」という希望を語ってくれる。
だから、何もできなくても、見ているだけでいい、といってくれる。
そうなのだろうとおもう。

傷は僕にも残っている。

宮地さんの新刊、お勧めです。
2010-01-27 02:11 | 記事へ |
| スピリチュアリティ / 作品 / 暴力・DV |
2010年01月26日(火)
ベーシック・インカムの議論で浮わつくべきでない

「研究会・職場の人権」でベーシック・インカムについて私の意見を言いました。
また3ヶ月ほどあとに冊子になるかと思いますが、レジメをここに公表しておきます。
当日配ったものより少し詳しいバージョンです。

「研究会・職場の人権」第124回研究会(10年1月) 
ベーシック・インカム構想を検証する〜 労働と生活・人権の視点から 〜
 と き  1 月 2 3 日(土曜日      
報告者  小沢 修司 さん  (京都府立大学教授)
 コメンテーター  伊田 広行 さん (立命館大学・神戸大学非常勤講師)
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「ベーシック・インカム」について―――生活保護制度の拡充(制度変革)型のBIへ
        
           イダヒロユキ

1)私の基本的立脚点

社会の周辺化・底辺化されたものの視点から
私は北欧型のシングル単位・社会民主主義的なシステムがいいと主張するものであり、BIについて言えば「変形BI(部分BI)論者」である。純粋BI反対論者である
  
ベーシック・インカムの基本思想=「あらゆる人の生存権を無条件に重視」には大賛成
普遍主義的施策は、連帯社会を作る (選別主義は分断をもたらす)
全ての人の「生」が無条件で肯定される社会を創り出そうとする動き
(参考 非優越的多様性・・・似て非なるもの)
BI論議が、大きなシステムの見直しの議論につながる、始まるという点で歓迎

その具体化を考える
北欧のような普遍主義的な社会民主主義の仕組み(シングル単位の社会)に
大増税による高福祉高負担、連帯社会が必要・・現物サービス提供重視  現金給付は限定的にしたほうがよい

2)議論のおかしさ

BI論者は、生活保護のような制度よりもBIのほうがよいと主張「重要な問題、要求は明確、だがなかなか前に進まない、大きな変化はない状態が続いてきた。だからBIに期待」?
「公衆のお世話」になるのは、「社会の落伍者」? そうした見方自体を変えないといけない。
児童扶養手当などで、「パートナーがいるかどうか」等身辺調査されるのは、カップル単位制度の問題 一挙にBIの議論にするのは間違い

生活保護への差別意識、妬み意識、自己責任論自体をなくしていくような意識の向上を作っていく必要があるときに、制度設計で人々の意識が「自然に」よくなる、差別がなくなる、権利意識が高まる、優しくなる、自己責任論でなくなるというのは、おかしい

「政党は、生活保護の捕捉率を高める、100%にしよう、受給を増やそうとは言わない、選挙公約にできない、それは、有権者の支持を集めないから」、「BIのほうが政治的支持を得やすい」というようなことを山森(「ベーシック・インカム――実現可能性を問う前に理念の承認を」『ピープルズプラン』48号、2009年秋号)は言うが、間違い。

それならBIも同じ。理想主義だ、努力しない貧乏人を助けるのか、予算が高くつくから、反対で終わり。民度をあげないで、また従来の制度や政治の議論を制度でごまかすな。

BIがちゃんとした説明で理屈上説得できるなら、同じ意味で北欧型社会も説明・説得できる。

○ベーシックインカムという所得保障策だけでいくのか、それ以外の分配も認めるのか
従来の枠組みや運動・思想を「なし」にして、新しい制度へというのはおかしい。
現物サービスを重視すべき
労働を通じた社会保障、労働政策、労働による再分配、ということがあるのに、BIではおしなべてそこは無視/弱い。(立岩はさらに生産財の再分配も言う)

  例  短時間労働化・ワークシェア、誰もが社会保険・雇用保険へ  生活保護の拡充へ、 最賃1500円 といった、やるべきことはたくさんあるし、それが大事
年金の税財源化、生活保護や児童手当の普遍主義化・増額も

「小沢レジメ」では・・「現行の税及び社会保険による所得保障(年金、失業保険、生保、児童手当など)を全部BIにおきかえる」というが、私はそこがBIの欠点ととらえる

 小沢も「時短などはBIの議論ではない。BIは現金給付部分だけ」といって事実上、労働政策を入れ込んだ社会民主義全体の制度改革の連関性を軽視しているのではないか? 「それも平行して言う」というが、BIの議論が今どういう意味をもっているかに意識的になるべき。

BIは部分的な議論であるという自覚が必要である。BIはシステムの対抗案ではない。
そして純粋なリバタリアン的なBIは、社会民主主義的な改革に敵対する、非常に危険でひどいものである。

3)実践的なものでなくてはダメ

議論・研究・知的ゲームのための材料にするな。そういう学者が多い。このままでは議論だけ華やかになって数年後には実践的には庶民には何も残らず、ただ学者や論者だけが出世や業績、金儲けに利用して終るだろう。
 
社会的排除論やベーシック・インカム論は、
→ 「周辺系のひと」に対して、いかに実践的に役立つか という視点でなされねばならない。

BIには、各個人のニーズを見ないという大きな問題がある。それは実践的には有効ではない。個々人の状況に応じて、支援は考えられなければならない。 

今すすんできた規制緩和の流れに具体的にどうしていくのか、が欠如してはダメ
日本のワークフェアとして、2000年、ホームレス自立支援事業開始、2002年、ホームレス自立支援法、児童扶養手当法、母子および寡婦福祉法改正:母子家庭自立支援策、2005年、生活保護受給者等就労支援事業、2006年障害者自立支援法などがあった。
プラス 労働関連でもおなじ

なのに、それをそっちのけで、それをすすめたものたちが、いまBIに飛びついているという面がある。浮かれるべきでない。

BIの中核的感覚は、市場原理主義的でリバタリアン的な感覚と、平等主義的な感覚を整合させる試みといえる。 → BIを論じているものたちの危険性に注意を。

ヴァン・パリース  BI正当化の理屈には一定みるべきものもあるが、「自由」が何よりも大切とし、  労働政策や労働運動否定  リバタリアン的

フリードマン、ガルブレイス、トービンなど 
「負の所得税」「給付付き税額控除」など・・・・・自民党でも民主党でも税調でも、ホリエモンも中谷巌も、賛成と言及する、というようなものという側面がある
  
典型例:BIに対しての山崎元(経済評論家)の発言「各種の社会保障・社会福祉は、できるだけベーシック・インカムに集約し、それ以上に必要な人が利用する保険、年金、各種のサービスなどは民間に任せる。福祉的制度・行政の大半はなくせるだろうし、私が支持する大きな理由もそこにある」(07年8月ブログでの発言)

「生の生産」(ネグリ&ハート)等というのは飛躍  抽象論はつまらない
山森 2章の限界 →「BI的論議」が衰退した理由も考えよ

「参加所得」アトキンソン: BIが無条件なのに対して 次のどれかをしていればいい
有償労働 教育・訓練、介護、育児などへの参加、(認定された)ボランタリーワーク を条件とするもの 賃労働に限定されない、多様なことへの参加を条件とする 失業、障害による。賃労働中心主義を変更するものという意味でBIの一種

懸念: いろんな人〔各種運動〕に、ぬか喜びさせている側面
「いろいろな問題を一挙に解決してくれる!」とおもいすぎ。今までの問題が行き詰まっているのを解決する打ち出の小槌ではない。はしゃぎすぎ、期待しすぎである。BIの思想の危険性に無理解すぎるし、シングル単位論、北欧型社民主義の全体への理解がない中での、BIだけへの期待はまったく非現実的である。
社民主義への移行がむつかしいという問題と正面から向き合わず、目先の新しさでごまかしても結局、ラジカルなものになるなら、大きな抵抗はある。その後こそ問題。
(山森や小沢は、BIをダシに、現実的なことを進めようとしている高度な戦略?なのかもしれないが)

「小沢レジメ」をみていると、現行の社会保障制度が機能不全に陥っているのは必然で、そこからBIが必要となっている、としている。現在の日本の社会保障システムが、行き詰まっているという分析は、賛成だしそれは多くの論者も言っている。私もずっと前から家族単位の問題という視点で指摘。その認識が広がってきたということに過ぎない。
問題は、ではそれに対抗するのはどういう展望かということであるのに、小沢レジメでは一気に「福祉国家はダメだ→BIの出番だ」となって、福祉国家の系列の進化系である北欧型社民主義の意義を切り捨てている。
事実上、この間の社民主義、北欧的福祉国家の実際の意義と切断している。
例:児童手当の評価  児童手当は、普遍主義的で北欧では実現しているが、だからといってあらゆる人にというBIにいくというのは間違った飛躍。

家族論としてもおかしい。女性の労働力化が家族機能を後退させている というように悪く見ている側面がある。それは古臭い見方。女性の社会進出が家族を解体させ、福祉国家の基盤を危うくさせているというのは、おかしいし、そこから福祉国家ではなく、BIだというのもおかしい。

4) 提案
 単独純粋BIではなく、大きな枠の中でのBI的な思想のシステムの構築へ
今までの運動、新社民主義として北欧型の社会にするということと一体のものに
政府支出が大きい方向での社会的包摂、その一部としてのBI

ワークファースト、ワークフェアと対抗的なものへ:就労連携を強調せず
「働かざるもの食うべからず」思想と対抗していく。
「就労のための努力を義務づける、さらには就労を条件とする」には反対
これは本質的には能力主義との闘い
今の秩序の「秩序下位者」=「弱者」「負け組」「働かないもの」=「賃労働から排除」されているものの生存権としての議論


  ただし、多くの人は一定、働きたいものである。多くの人が働くことが必要ということも事実である。強制はよくないが、働ける条件を整えることは重要。だから仕事の保障(ワークシェア)が実践的には重要。労働を拡大的に解釈する必要はあるが、従来の性分業などを温存していくようなものはダメ。

だから、実践的にはシングル単位・スロー観点のワーク・ライフ・バランス重視が重要
   「働かないでも尊厳をもって生きていけるという権利」の明確化へ
    非貨幣的な時間の重要性・・・私がスピリチュアル観点で強調している点

同時に、失業運動=仕事よこせ も必要。 働きたいものは多い!
{時間観点}と{収入観点}での、「負け組」の展望としてのワーク・ライフ・バランスへ・・決定的に大事なのは、時短(そのための均等待遇、最体賃金値上げ)である。BI論者がそこを言わないのは、決定的な欠陥

だからBIの本質は、リバタリアン的なのである。小沢などは「純粋BIはリバタリアンとはいえない」というが、BIの基本思想そのものが、保育所や学校の無料化や障がい者や要介護高齢者への福祉サービスの提供といったことを重視せず、基本的に従来の制度の代わりに、全員に一律の現金給付で、問題を置き換えるという発想なので、具体策では社会民主主義の現実と対立的なところがある。いいかえれば、現金給付部分だけを考えるというBIの議論の土台が狭すぎる。


スローな、シングル単位のワーク・ライフ・バランスというのは「無痛化、ポストフォーディズム、24時間労働化、管理化、グローバリズム、物質主義、消費主義」に対抗するものとなる
その具体像が、「シングル単位的WLBを実践的に支える、BI」のようなもの  
ひどい仕事ばかりしなくてもすむような、人間的な生活がおくれる権利の保障・・・たとえば週4日労働!で、少しのBIとあわせて、そこそこのお金で楽しく生きる。

○社会の考え方と制度をラジカルに変えないようなBIはだめ
BIは個人単位であり、それは従来のシステムの決定的変更であるのに、その意義をわかっていない人が多い。
家族単位システムの改革(脱家族)と接合しないなら、BIの意義は消滅/半減
たとえば「主婦への手当て」とならぬようにするにはどうするか
女が担ってきた育児・介護などの「無報酬労働や社会的に有用でも利潤を生みだせない労働」の再評価、という美名で、性分業などの現状固定につながるのは危険。シングル単位のワーク・ライフ・バランスの観点がないものはダメ。

参考:介護保険のときの、現金給付をめぐる論議と現実

山森が「家事労働に賃金を」という運動をかなり評価しBIにつながっているというが、私はこの運動には批判的。フェミニズムの中では意見が分かれる点で、私は、シングル単位論者なので、従来の性役割の枠内の側面が強い運動には批判的。


子どもをおとなのように一人前扱いする視点は私は賛成だが、現実的には、子どもは労働者ではないので、教育費の無料化など現物給付でニーズを保障すべきで、したがって小沢の計算のように子どもがいるだけで年間96万円支給というのには反対。
小沢のBI説得のための計算でも、子どもがいる3人家族などが多い。説得のために、3人家族ならBI導入しても世帯として手取りは増えますよ、というのは、気持ちはわかるがとても家族単位的発想だし、高い税負担を皆でしていこうという連帯意識の醸成に反しているし、私は批判的。独身者だけが「損する」というような改革の問題点を考えるべき。 
  
○ひとつのイメージ:生保制度の拡充

生活保護を拡充するのが現実的(所得基準をゆるくするなど)
個人単位で、労働インセンティブつき「人間所得(生存所得、基本所得)」10万円を基本とし、完全Biではないが、BI的、普遍主義的な側面を強化する 
 
+ 現物での様々なサービスがあるような社会
個別特殊ニーズは現物のサービス給付が基本  「ニーズを測らずに」ではなく!

+ ベーシック・コモンズ =公共交通、公共住宅、公共の公園・緑地、家事・育児・介護の社会化を確立、レジャー(場所) の充実

働くことを強制しないし、恥辱感もないように、基本的に監視・調査、劣等処遇の原則をなくす。
伊田案では、働くと、「人間所得」は少し減るが、手取り合計額は増えるように段階的な制度とする。 働けば働くほど収入が増えるような設計にする。
(限界税率を100%以下にする設計)
 
現実は労働インセンティブが一定必要、有用と思う(インチキ人間を減らす、多くの人への納得性、働く喜びという現実、財源の限界性) 
したがって部分的に調査はあってもよいとおもっている。納税制度、税務署はあるのだから、新たに何かをするのではない。(貯金等の資産は関係ないものとし、/緩やかな基準とし、)つまり基本的に収入だけ捕捉する。これぐらいあってもスティグマ性につながらない。毎月・その年の収入だけの調査でよい。
納税者番号制をいれ、税務署が収入をできるだけ捕捉する(公平性、透明性)
(限界点問題点:自営業、闇の労働などの捕捉率の限界、脱税の技術)
→ 一定そんなことはどうしてもあるが、大きな公平性は保てる

つまり私の発想は、BIの原則思想は賛成した上で、現実的には、現行の生活保護の拡大の発想。(たとえば、医療券の重要性)
それは、いまの現実の運動とつながっている。でも現行生保制度の問題ある性質部分を変えて、BI的な性質にして、その象徴として名前を変える。それで「人間所得」(生存所得)というのはどうかとおもっている。

既に指摘され続けてきたように、生活保護のスティグマ性(恥辱感)をなくして当然の権利とするのが重要。
つまり 最低限度の生活を強制されるのはおかしい(自動車保有、貯金問題など)、劣等処遇原則がだめ、個人単位でないのがおかしい(親や兄弟姉妹、子に扶養義務)、自由にカネを使えないのがおかしい、資力調査(ミーンズ・テスト)、ワーク・テスト(稼働能力調査)、素行調査(ビヘイビア・テスト)が過度にあって、行政により制限・監視されているのがだめ。「だめ人間、弱者扱い。社会のお荷物、フリーライダー扱い。プライドがつぶされる」などがだめ。

参考)生活保護法: 
一条(法律の目的)、二条(無差別平等原則)、三条(最低生活の原則)、四条(保護の補足性)、九条(必要即応原則)
 プラスとマイナスがある。   世帯単位を基準

野崎 泰伸「生活保護とベーシック・インカム」『フリーターズフリー』第1号、人文書院2007の意見と私はとても近い。

5)その他

BIでは労働と賃金が分離されるため、労働による「承認」がえられなくなる?
→「承認論」のダメさ、不足さ  承認されなくてもよい

広井良典『持続可能な福祉社会』(ちくま新書)
若者が学びつつ働く試行錯誤のプロセスを経て望ましい仕事を見出すのをサポートするために、月額4万円の「若者基礎年金」を20才から30才までを対象に給付
年金制度全体を税による「厚めの基礎年金」中心のものに再編し、報酬比例部分は民営化したうえで、「後期子ども(30才)」までの「教育効果」に着目した「人生前半の社会保障」として、「若者基礎年金」を創設することを提言。

立岩:無条件性、つまり働かない人間にも働く人間にも、全て給付されるというすがすがしい感じと、それを実現するためには、でも人は可能な人は働かなきゃいけないという話の、兼ね合い。受け取られるものを提供するのは義務である。
働く、働かない、働けない、あるいは働く働かない権利、あるいは働く義務

一律の基本所得という考え方からは、個々人の境遇の差異への対応は肯定されるのか、肯定されるとしたらどの程度肯定されるのか

子どもの取り扱い → 別扱い

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(参考文献)
武川正吾編『シティズンシップとベーシック・インカムの可能性』(法律文化社)
山森亮 2009 『ベーシック・インカム入門』光文社新書
山森亮「ベーシック・インカム――実現可能性を問う前に理念の承認を」『ピープルズプラン』48号、2009年秋号
「山森 亮さんインタビュー:ベーシック・インカム─生きていることがすなわち労働」
『We』162号(2009年10・11月号)特集は「楽になる道を探そう」
小沢修司 2002 『福祉社会と社会保障改革――ベーシック・インカム構想の新地平』、高菅出版
野崎 泰伸「生活保護とベーシック・インカム」『フリーターズフリー』第1号、人文書院2007
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2010-01-26 11:41 | 記事へ |
| 労働 / 貧困/反貧困 / 生き方 |
映画「カティンの森」

映画「カティンの森」を観ました。

第2次世界大戦中、旧ソビエト軍の捕虜になった、約15,000人のポーランド軍将校たちが、ソビエト当局によって射殺され埋められたという「カティンの森事件」を再現し、そのひどさを訴えています。戦後、この事件はナチスの仕業ということにされ、真実への沈黙を強いられた恨みをワイダ監督は描いています。
映画としてどうこうというより、ある真実を記録したという点で意義のある映画です。
 「灰とダイヤモンド」、「地下水道」、「大理石の男」などのアンジェイ・ワイダの最新作ですが、この虐殺事件の犠牲者の中に、ワイダ監督の父親がいたということで、執念がこもっていました。

 歴史の見方はいろいろあるもので、ワイダの個人的な気持ちは分かるが、ワイダの認識は一面的過ぎる、社会主義批判が強すぎるという意見もあります。ポーランドがロシア革命を利用して独立し、ポーランド・ロシア戦争という面もあったという意見もあるようです。

私は、そのあたりをどう判断したらいいか十分な知識を持ち合わせていませんが、映画を観た感想としては、むしろ、ソ連がだめというより、ナチスもソ連も、軍事的な組織や思考、行動は、本当にひどいな、だから、そうしたこと自体がいやだなというものです。

過去だけでなく、今の時代も、権力あるものが力ずくで人を抹殺したり蹂躙したりしています。そしてそのことが闇に葬られ、悔しい思いもっている人がたくさんいます。悔しい思いを抱えて殺されていった人はたくさんいます。そのことをおもいました。

そして軍事的組織、指揮命令の下で、本当にひどい言動を「人」はする。暴力的に人を扱う。そして究極は殺す。

私は死ぬまでそんなことをしたくないです。だからこそ、そういうことをする軍隊、警察組織というものに関わりたくないし、皆もそんな「仕事」をしなければいいと思います。命令だということで、銃の引き金を引くようなことをできる人になってはいけない、とおもいます。
それは自分の人生をまっとうなものにするということからはずれ、〈たましい〉を壊す行為だとおもうからです。


柏原市福祉事務所・柏原市役所健康福祉部社会福祉課というところで、A君におこなわれたことも、戦争での虐殺よりも程度は軽いがひどい暴力的な行為であった点で、カティンの森事件と類似行為であったといえるとおもいます。権力を使って、一人の青年を簡単に告訴し、逮捕し、勾留しつづけ、いまや裁判で有罪にして犯罪者にしたてようとしています。

「カティンの森事件」のように「歴史から抹殺される真実」というようなことはたくさんありました。
柏原A君事件も、A君や「ユニオンぼちぼち」や支援者達が声をあげなければ、「小さな事件」として誰にも注目もされず、A君だけが有罪とされひっそりと人生を潰されて終っていたでしょう。
不当に告訴して逮捕させた柏原市役所健康福祉部社会福祉課の職員はのうのうと安全地帯で何の咎めもなく生きていくことであったでしょう。A君のことなども忘れて。

しかし、弱き者が、声をあげることで、「歴史から抹殺される真実」にしないようにできます誰かが目撃するということ、それを記録するということ、伝えていくということは重要です。目撃するということと証人になる、証拠となるということはつながっています

ワイダの認識が一部歪んでいようと、個人的に自分の父が殺されたことを恨んで執念で記録し、全世界の人に訴えるという行為をしたことは、記録した、真実を暴いていくということをした、という意味で、わかる行為です。

私たちは、“見つづけ”なくてはなりません。たとえ何もできなくても見るだけでも価値はあります。見るのはしんどく、目をそらすのは簡単、と言うことは多いです。
そして見て、記憶し、記録していく。記録したものを公表し、伝えていく。そうした行為の積み重ねが、まともな歴史を作っていきます。

A君になされた不正義を闇に葬らず、さらしていくこと。何が行われたのか。だれが告訴し誰が有罪と決め付けて取調べをし、起訴までしたのか。
それを“みること”が必要です。そしておかしいことはおかしいと、声をあげていくこと。

「カティンの森」をつくったワイダの思いを受けて、そんなことを思いました。


2010-01-26 02:10 | 記事へ |
| 映画 / 政治、権力 / 生き方 |
2010年01月24日(日)
検察リーク

1月22日の『朝日新聞』では、小沢民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入を巡る収支報告書虚偽記入事件がらみで、操作報道問題すなわち、検察リークがあり、それを報道機関が無批判的に報道しているという疑惑について、基本的に否定した記事を書いている。検察リークはないし、記事は別のルートのちゃんとした取材で書いていると。

しかし、それはタテマエというものだ。
ちゃんとした取材の記事もあるが、安易な記事があるのは明白である。検察からリークしないではわかるはずがないような情報の記事があるのは事実だ。

しかも、一時的にある問題で集中的に報道することで、どういう効果・影響があるかということでの自覚が『朝日新聞』記事にはみられない。そこが決定的に問題だ。ジャーナリストは、もっと全体に自覚的であらねばならないが、知らぬ間に自分の行為が誰かに利用されている、ということに鈍感であるというだけでも、問題である。

小沢問題では、小沢がどうこうということだけでなく、それによってそこにばかりに目をむけさせ、他の大きな事に目をむけさせず、雰囲気として、民主党はダメだ、小沢はクロに違いない、とおもわせ、大きな社会保障システムをどうしていくのかといった大事なことなどに関心を持たせないようにしている。
報道量の偏りの効果である。

事件自体でも、水谷建設の元会長の発言(5000万円の裏金)は真実なのか、ちゃんと調べる必要があるが、メディアはとにかく垂れ流してまるで事実のように報道している。

朝青龍も一時凄くバッシングされた。しかし、それほどバッシングすることか?そのときの集団心理の勢いで同じようなことをいっているだけである。イラク人質事件での3人の自己責任批判もあった。
過去にも、検察側からの情報をマスコミが垂れ流しにすることなどいくらでもあった。

関連するが、類似のことで、天皇の政治利用かどうかでも一時大騒ぎしたではないか。そこから天皇制自体の議論が深まっているか。NOである。いいっぱなしにして、政局に利用されただけである。
北朝鮮拉致問題でも一時は大騒ぎだった。誰が何のためにそれを利用していたのか、そこをみぬかないといけない。
森田健作・千葉県知事は、自民党であるということを書かないという違法な行為をしたが不起訴となっている。だがそのことでは大騒ぎしない。
何を大騒ぎするかは、正義や合理的な判断でなされているのではない。興味をかきたてられるかとか、雰囲気・勢いでやっているとか、政治的意図などがあって、選ばれている。

最近では、「公設派遣村」の利用者に対して、一部マスメディアが事実誤認に基づく報道をおこなった問題がある。「無断外泊200名」とか「2万円を持って逃亡」、飲酒事件など、その種の報道がかなり流された。なかには意図的に利用者をバッシングしているような報道もあった。完全な事実誤認か、ごく一部の心ない利用者の行動を誇張して書いたのであり、その影響は、まるで「公設派遣村」の皆がひどい人であるかのような印象を与えることになっていた。中には、今回とは全く関係ない昨年の「年越し派遣村」の写真を掲載して無関係の脚注をつけるなどの報道もあった。

よってたかって何か一つのバッシングがあるときには注意が必要である。
メディアは、危険な存在である。いい加減なものも、政治的利用もある。うのみにしてはならない。ジャーナリストは、誰かに利用されるような無批判的な報道をするのではなく、本当に独自に取材し、多角的に見て、本当に自分で判断していかねばならない。

『朝日新聞』が素直に自分の行為を全体の観点から顧みないで、タテマエだけで「検察リークはない」等と言うことこそ、ひどい姿勢である。それこそ、やましさのあらわれである。
2010-01-24 10:36 | 記事へ |
| 政治、権力 / メディア |
2010年01月23日(土)
LOVE PSYCHEDELICO


ラブサイケデリコの新アルバム『ABBOT KINNEY』を聴いている。

いつきいても、ゴキゲンである。歌詞の中身はたわいないかもしれないが、心が浮き立つ。
特にお気に入りは、「This way」
2010-01-23 09:33 | 記事へ |
| 作品 |
「承認をめぐる闘争」と安易に言わない

12月31日に、ここで「承認されないといけないのか」というのを書きましたが、その続きで、「承認」をめぐるメモを載せておきます。

「承認」という概念を、本当に使うべき適切なときに、使うべきで、安易に、他の学者が使っているからとそれに無批判的にのるべきでない。
承認概念を何にでも使えると思うのは間違い。

承認を、「自分も相手も自由で自立した存在だと捉える心の動き、すなわち人が人を人として認めること」とした上で、社会運動を「承認をめぐる闘争」というのは、適切とは思えない。

承認というのは、その定義からして、社会構成員が相互に認め合うこととされる。
だが「相互承認」というのは、本当に必要か? A(マジョリティ)がB(マイノリティ)を差別しているとき、Aがのっている秩序そのもの、Aの感覚、Aの傲慢さが問題とされるべきで、そのとき、BがAを承認する必要などない。

「万人が万人に対して承認を行うべきだ」「人が人を人として認める承認の論理」「自由で自立した自己が、自分も他者も自立した自己として認めること」は、ふわっとした一般理念としては広がっているが、しかし実態はそれは実現していない。いまどきそんな理念が人類の意識の発展の輝かしい成果である、共通基盤である、ということを再確認することにたいした意義はないのではないか?

社会運動の現場からの感覚として、「万人が万人に対して承認を行うべきだ」ということで、BがAを承認することまで入れる意義がわからない。したがって「○○運動は、AとBとの相互承認をめぐる闘争である」という言い方が適切とは思えない。

「承認」ということを、「社会的弱者の尊厳を取り戻すこと」という意味で使いたいというのはわかるが、日本語の語感としてぴったりとは思えない。弱者の〈たましい〉の叫びに耳を傾けろとか、怒りや怨念の正当性とか、バカにするな、とか、そういうことを、多様な表現であらわしていくべきで、それを「承認を求めている」と安直にまとめることには反対である。まして承認=「相互承認」というようにつかうのは、おかしいのではないか?

Bの側が、Aによる権利侵害に対して抵抗したり抗議するというのはわかるが、それを「BがAを承認する」というのはおかしい。BがAに対して「私たちを尊厳をもって扱え! 私たちのすばらしさを認めよ」というのはわかる。 「承認とは、相互的な行為である」というのは、現実的には言う必要のないことではないか?

フェミニズムや障害者運動を、「文化やアイデンティティに関する目標を掲げた運動」と規定するのは一面的過ぎないか? それは部分的規定ではないか?

「承認論モデル」は、どうも従来の社会運動の矮小化の上に成り立っているのではないか?
つまり、従来の運動は、利害の対立の発現に過ぎず、利益を最大にしたいという功利主義モデルのもので、それは、道徳的な感情が織り成す日常的な相互交流などを無視したもので、単純な「万人の万人に対する闘争」モデルの上のものでしかない、とみているのではないか?

それに対し、「承認をめぐる闘争」=「承認論モデル」は、利害状況にもとづくのではなく、尊重の欠如や道徳的に不当な扱いを受けたという感情に基づく闘争を出発点とし、そこが大事だと見て、それが法的承認や社会的承認の獲得をめぐる闘争につながる、とする。

だが、そうした対立的な構図が間違っている。
「利害の対立」といっても、そこに「尊重の欠如や道徳的に不当な扱いを受けたという感情」が絡まっていることは多い。首切りや低賃金・賃金格差を問題にする労働運動は、そこで尊厳の回復を要求することを多くは含んでいた。「従来の運動」を勝手に見くびるべきではない。
☆  ☆  ☆ 
 
また個人的私的領域での「愛の関係」「相手を大切の思う関係」をもとめることを「承認を求める」というとして、それは、「承認をめぐる闘争」というのはおかしい。人が人を愛する、大切に思うのは、すばらしい“つながりの存在”である人間なら、闘争によって獲得するものではないからである。
☆  ☆  ☆  ☆  ☆

今の社会が「儀礼的な無関心」「競争、非連帯」「社会的排除」「均質化して息苦しくなっている状態」にあふれているとして、その分析と対応策を考えることは必要である。
しかし、それが「承認をめぐる闘争」という概念で十全にフォローできるとは思えない。
「均質化された空間の隙間に政治的行為をねじ込む」「日常的に隙間を作ってそこで日々の実践で乗り越える」といえば何かが言えているとも思えない。
もっと実践的に有効な具体策に落とし込めるものにしなくてはならないし、それは、従来の運動の積極性をちゃんと認めることと不可分である。

「承認をめぐる闘争」といって何を付け加えているのか、を自分の頭で考えて意識していくことが必要である。
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2010-01-23 01:19 | 記事へ |
| 人権 / 政治、権力 |
2010年01月21日(木)
「曲げられない女」と「まっすぐな男」

たぶん、もうすでにあちこちで論じられているのかもしれないが、新しく始まったテレビドラマの表題が、「関西テレビ」と「読売テレビ」という他局なのに、タイアップしたものになっている。
「曲げられない女」(読売テレビ、水曜)と「まっすぐな男」(関西テレビ、火曜)である。

似ているようで、かなり違う。どこが違うか。

「まっすぐな男」=佐藤隆太演じる主人公は、単純である。正社員である。自分に自信がある。よく笑っている。声がでかい。明るい。周りが評価してくれる。根性が曲がった女(深田恭子)を助け、まっすぐにしていく。金はあるから、金を貸すほうである。佐藤隆太は、野球部監督のときと同じキャラで生きている。

「曲げられない女」=菅野美穂演じる主人公は、なんといっても権力がない。女性であり、若く、肩書き・資格がない。弁護士を9年目指して勉強しているが、まだ通っていない。金がない。まじめで頑張っているが、余裕がない感じで、暗いといわれ、楽しんでいないといわれ、笑い顔が少ない。
「曲げられない女」には、フェミ魂が少しある。

男女を入れ替えて「曲げられない男」と「まっすぐな女」も成り立つかもしれないが、ぴったりくるのは、「曲げられない女」と「まっすぐな男」である。そこがジェンダーだ。

「まっすぐ」と、「曲げられない」は違う。
まっすぐは、力強い。自己決定で、自分のいきたい方向に行く。正義だから自信がある。なぎ倒していく。

「曲げられない」は、弱いものが、曲がることを強要される中で、なんとか頑張って、「そこは曲げられない」とうめく。

だから僕は「曲げられない女」のほうに共感する。どちらも単純なテレビドラマだけれど、それでも、一瞬、菅野のような立場の者の痛みが感じられるうめき声や、おずおずとした勇気に、共感する。痛み、被害者、弱いものの視点からのものだからだ。

***
それにしても、テレビには、不当な解雇のときに、ユニオンがまったくでてこない。ケンローチの作品には出てくるが、日本ではでてこない。シナリオライターが知らない、誰も知らない、あるいは、描こうとしたら、それには横槍が入る、というところだろう。

1月20日放送の「曲げられない女」では、会社の不正を指摘した社員が解雇された事件で、弁護士事務所に相談しても何もしてくれなかったが、市役所の無料相談にいったら、そこの人が会社に一言言ってくれて解雇が撤回されていた。そんなことはありえない。荒唐無稽。実態がまったくわかっていない。ユニオンが交渉しないと解決しない。
で、個人加盟のユニオンが出てきたらはなしが変わってくるが、でてこない。だからドラマをつうじて、実は絶望と無知が再生産されている。解雇されたときどうしたらいいのか、、誰もしならないまま。

当然あるべき日用品が、あたりまえのように描けないという空気。この50年のつけ。


2010-01-21 03:11 | 記事へ |
| ジェンダー / 作品 / 生き方 |
大学職員、有期雇用問題と「曲げられない女」
「ユニオンぼちぼち」の仲間のユニオンエクスタシーは、京大での首切りに反対してユニークで有意義な戦いをしていますが、あちこちの大学で似た問題があり、「大学を超えた連帯」として大きな動きになりつつあります。
ユニオンエクスタシーの従来の闘いのスタイルとは、すこし違う面もありますが、ひどい京大と戦うために、こうした「まじめな」スタイルもとっていくということで、私は勿論賛同しています。「ユニオンぼちぼち」も賛同しています。

以下、この運動への賛同の呼びかけです。ご協力をお願いします。大学の正規教則員のみなさん、「曲げられない女」=菅野美穂演じる女性、に恥じない行動を!

「曲げられない女」のはなし。
弁護士事務所では、クライアントを守るのが仕事であって、どっちが正義かどうか、なんて関係ないといいます。いろいろあるんだよ、そう単純じゃないんだよ、といいます。大人になれといいます。だから解雇された労働者が正しくても、会社を守る、といいます。
それに対して菅野美穂は、人間としてそれは間違っている、イジメを見ない振りせず声を出していく人にならねばならない、と言います。

「テレビドラマなんて見ないし、単純なお話しだし、・・」、というでしょうが、だから、どうなん?

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大学非正規労働者の雇い止めを許さない運動 
ブログ http://nandenan0227.blogspot.com/

転送歓迎
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「なんで有期雇用なん!? 大学非正規労働者の雇い止めを許さない関西緊急集会」
賛同・呼びかけのお願い



きたる2月27日に、大学非正規労働者の、3年でくび・4年でくび・5年でく
び・6年でくびなどの有期雇用に反対する集会を開きます。大きな運動に
していきたいと思います。
賛同していただける方、一緒に呼びかけしてくださる方を求めます。

「なんで有期雇用なん!? 大学非正規労働者の雇い止めを許さない関西
緊急集会」
2月27日(土)1時〜4時 エルおおさか7階708会議室

★基調講演 脇田滋さん(龍谷大学/労働法)
★現場から報告
★アピール採択

主催: 「大学非正規労働者の雇い止めを許さない関西緊急集会」実行委
員会
http://nandenan0227.blogspot.com/

よびかけのチラシ(PDF)
http://kyototto.com/image/nandenan0227pre.pdf

*** 呼びかけ文

大学、官公庁、一般企業の間で、更新の年限を定めた有期雇用が広がって
います。
恒常的な業務であるにもかかわらず、数年で一律に雇い止めとなる有期雇
用、私立大学ではずいぶん前から導入され、既に常態化していますが、国
立大学でも2004年の法人化以降、各大学で有期雇用が導入されてきました
。京都大学では5年。大阪大学では6年*。今年3月、全国の国公立大学、私
立大学で大量の解雇が実施されます。
現在大学で働く非正規労働者の多くは女性です。大学に限らず、非正規労
働の根底には女性労働の搾取の問題があります。主婦のパート仕事として
位置づけられ、夫に扶養されることを前提にしているため待遇は改善され
ず、それが今では20代・30代の女性・男性がおかれる当たり前の労働環境
になりつつあります。
数年ごとに雇い止めを行い、人だけ入れ替えるのは単に「首のすげかえ」
であり、反復更新を繰り返すことにより、更新期待権が生じないようにす
るための方法です。しかし、多くの非正規労働者は「有期雇用であること
を知って契約にサインしたのだから、雇い止めになっても仕方ない。」と
諦めます。けれども、私達は声を上げます!

「なんで有期雇用なん!?そもそも、有期雇用自体がおかしいんちゃう!
?」

有期雇用は「人を育てない・育てる気がない」、人々の働く力を貧困化さ
せていくシステムだと考えます。
更新や雇い止めの不安に怯えながら働くのではなく、腰を据えじっくりと
その仕事に携わりたい!
同じ仕事をしているのであれば、正規労働者と同一の賃金・待遇を!
その思いを抱えた関西の国公立・私立大学の非正規労働者たちが大学を超
えて集まり、今年3月末に各大学で行われる雇い止めを実行させないため
、緊急集会を開くことになりました。
有期雇用に疑問と不安を抱きつつも、声を上げられない非正規労働者の方
々に「共に声を上げよう!」と呼びかけ、有期雇用の問題性**を明らかに
し、抜本的な解決策を皆さんと共に考える場にしたいと考えています。

* 阪大は法人化以前からの長期非常勤職員も今後5年で雇い止めにすると
発表しました(一部を特例職員として登用)。
** 現在、派遣法改正が国会で論議されています。派遣から直接雇いにな
ったとしても、それが期限付きの有期雇用なら、労働者は不安定なままで
す。派遣と有期雇用を正しく規制していくことは、非正規労働者の生存を
守るために必須の、車の両輪といえる問題だと私たちは考えています。


*** 呼びかけ団体

京都大学時間雇用職員組合 ユニオンエクスタシー
関西単一労働組合 大阪大学分会
関西非正規等労働組合 ユニオンぼちぼち
京都精華大学嘱託教職員組合 SocoSoco
大学をどうするか!共に考える全学大討論会実行委員会(大阪大学)
関西圏大学非常勤講師組合

2010年1月21日現在


*** 賛同していただける方(個人・団体)

お名前・ご連絡先・メッセージをメールでお送りください。
(お名前・メッセージの公開の可否もあわせてお知らせください)

nandenan0227*gmail.com (*を@に置き換えてください)


*** 一緒に呼びかけしてくださる方(個人・団体)

実行委員会では定期的に会議をしています。
そのご案内などもいたしますので、是非ご連絡ください。


*** 賛同カンパをお願いします。

「2/27関西緊急集会へカンパ」と記載の上、郵便振替口座 00950-5-204933
キョートット出版 までお願いします。


・・・・ 参考 ・・・・

最新情報は「2月27日 なんで有期雇用なん!?」のブログをご覧ください

http://nandenan0227.blogspot.com/

京大の5年条項の問題点について(A4)
http://kyototto.com/image/5year.pdf

以下ユニオンエクスタシーのブログより
大学職員の雇用年限問題 http://extasy07.exblog.jp/10158783
京大の5年条項 http://extasy07.exblog.jp/11792295/
阪大は法人化以前に採用された非常勤職員も5年後くび?
http://extasy07.exblog.jp/11665473/
関西学院大の「4年雇い止め」に反対します http://extasy07.exblog.jp/11800078
京都精華大学の3年でくび問題 http://extasy07.exblog.jp/11986343/
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2010-01-21 02:43 | 記事へ |
| 労働 / 作品 / 貧困/反貧困 |
2010年01月18日(月)
竹原信一・阿久根市長など、人権感覚のない人たち
竹原阿久根市長がむちゃを続けている。徐々に、どうも思慮深くなく勢いでむちゃを言っても平気な人であるということがあらわになってきた。

竹原市長は、市役所庁舎に提示された各課別職員給与総額の張り紙をはがしたとして、40代の男性職員を懲戒免職とした。一挙にクビなどというのはムチャクチャである。
鹿児島地裁で効力停止決定がでたが、それを不服として福岡高裁宮崎支部へ即時抗告をしたがそれも棄却された。
行政事件訴訟法によると、抗告の手続きの有無にかかわらず地裁決定は維持されるので、竹原市長は男性を職場復帰させ、給与を支給する必要があるが、職場復帰させず、給与もボーナスも払っていないという暴挙を続けている。

また市長自身のブログで「高度医療のおかげで機能障害を持ったのを生き残らせている」などと障がい者差別に当たる記事を掲載したことに対して、「発言撤回と謝罪を求める行動」が起こっているがまったく応じていない。「新聞社が言葉じりをとらえて、意図的に誤解を誘導するキャンペーンを行った」と居直っている。
鹿児島県議会も、きわめて異例であるが、「障が者に対する偏見のない社会の実現に向けた決議」を行ったが、竹原市長はこれを無視し、その後の障がい者団体、保護者団体等の抗議に対しても、会談に応じることもなく、謝罪も撤回も拒否したままという状態。

また、ブログで他人の言葉を利用しながら「日本の裏社会を構成している主な要素はヤクザと同和、在日」と主張。「右翼団体の構成員は『朝鮮半島出身者』が占めている」などとも書いた。

竹原信一市長が市議時代の2007年6月には、自身のブログで伊藤博文が孝明天皇を暗殺し、自分の手下を明治天皇にすり替えた、などと記述し、「天皇家はまさしくどこの馬の骨ともわからない家系」と書いた。
(これを天皇制批判と一部右翼やメディアはいっているが、少なくとも天皇制へのちゃんとした批判ではない)

こうした一連の対応は、人権感覚がない人だということである。
団交で最初、法律知識のない社長等がむちゃを言うときがあるが、徐々に法律を知っていってまともな対応になっていく。

だがこの市長は、学習が遅すぎる。居直って学んでいない。こういう人をリコールしないのはなぜなのか? 市民の責任が問われると思う。


* ***

人権意識がない人はほかにもいる。自民党系は、民主党政権が外国人参政権に道を開こうとしていることに対し、反対の動きをあちこちでしている。

 平沼赳夫元経済産業相は、政治資金パーティーのあいさつで政府の事業仕分けを批判し、仕分け人を務めた民主党の蓮舫参院議員について「元々日本人じゃない」などと発言した。「彼女は日本国籍を取っており人種差別ではない」という「説明」をして、差別の上塗りをしている。
「キャンペーンガールだった女性が帰化して日本の国会議員になって、事業仕分けでそんなことを言っている。そんな政治でいいのか」と、女性差別、職業蔑視もあらわにしている。ムチャクチャである。

国民新党の亀井大臣も、外国人参政権には反対している。まるでのっとられるかのような変なおそれを抱いている。

* **

民主党・鳩山政権の支持率が下がっているが、これも、まともな人権感覚の欠如が関係している。小沢さんなど古い政治家が怪しいことをしてきたのは事実だと私は推測するが、それは他の自民党系の多くの議員もそうだろう。
しかし東京地検のやり方は、昨年に引き続き、陰謀的である。恣意的である。サンデープロジェクトなど一部のメディアをのぞいて、警察発表そのままに反民主党キャンペーンとなっており、誰が裏で操っているのかを見ない状況となって、それに単純に影響されての支持率低下となっているように思える。

民主党がこの間、やろうとしているおおきな方向性のまともさが理解されていない。基地問題でも予算の中身でも自民党政権のときより、ずっとマシではないか。
 汚職などの汚さ、政治改革を進めてこなかったのは、まさに自民党政権のものだったことを忘れているのか。業界団体に金をばら撒く政治のおかしさを考えない人々が多いという、民度の低さ。
2010-01-18 10:52 | 記事へ |
| 人権 / メディア / 政治、権力 |
労働組合といってもいろいろ:「もし立場が逆だったら?」

「ユニオンぼちぼち」は、まともなことをしているなと感じている。昨日も、いい話し合いができ、職場で傷ついた人が元気と尊厳を取り戻す瞬間に立ち会えたという喜びを感じた。

だが、ときには、労働組合といっても、本当に弱い人の立場にたたない、鈍感な組織維持のための組織になっているのもみかける。非正規のために闘わない労組は多い。単なる抵抗勢力になっているだけの組合とか、まともな組合に対抗する為に組織される組合もある。組織率を上げることだけを意義あると見ている人もいる。高給を取っていてうまいモンを飲み食いしている労組関係者たちもいる。

だが、ほんの一部だが、正規と非正規の待遇格差を縮めていこう、平等にしていこうという動きもある。
そのときに「あなたが逆の立場だったらどう思うか?」という言葉を使いながらやっている組合があると知った。広島電鉄である。契約社員を正社員にしていく代わりに、従来からの正社員の待遇が一部悪化するんだが、それを受け入れたのだ。「あなたが逆の立場だったら」という問いを通じて。

そう、それが基本。
そうした視点がいつもあるかどうかが、人権意識だ。

以下では、東海林智記者がまともなことを書いているが、連合の〇七年方針をえらくいいように書いている。そうしておだててまともになるようにしていこうという狙いもあるだろうが、「07年に連合が非正規や中小零細の労働者への取り組みを最優先とする運動方針を決めたことが、一つの転機となった」というのは言いすぎだと思う。
まだ転機などきていない。派遣法も、骨抜き身抜き皮だけ法になる。

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【毎日新聞】ニュースセレクト > 社説・解説・コラム > 記者の目 - 2010.01.13
労組は社会連帯の要たれ=東海林智
http://mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20100113k0000m070137000c.html

 「人と接しないことで、自分は自分を守ってきた。でも、労働組
合に入ってみて、それが正解でないことがこの1年間で分かりまし
た」
 昨年、労働組合の組織率が34年ぶりに上昇に転じた。厚生労働
省がその調査結果を公表してから間もない12月、東京都内で若者
が企画した働くことを話し合うイベントで、一昨年末に契約途中で
雇い止めに遭って失職した元派遣労働者の男性(37)は、1年間
を振り返り、少し上気した顔でそう言った。今回の労組の組織率反
転は、非正規雇用労働者の組織化が進んだことが要因の一つだ。
「正社員クラブ」と皮肉られ、メンバーのことだけを考えてきた労
組が変わりつつある証しでもある。労組は彼が感じたような、小さ
な思いの積み重ねを大事にし、社会的なきずなを強める役割を果た
してほしい。
 彼が4年間働いた自動車工場を雇い止めにされたことは、住んで
いた寮を追い出されることも同時に意味した。行き詰まり、インター
ネットで探した個人加盟の労働組合に初めて助けを求めた。彼にとっ
ては大きな決断だった。派遣で働いている時、仕事も覚え、正社員
と同じかそれ以上の働きをした自負はある。しかし、職場の朝礼で
製造過程の改善などを提案すると、「派遣なんだから控えめにしな
よ」と言われた。景気の悪化で社員のボーナスが減額された時は、
「派遣さんよりはましだから」と心ないことを言われた。男性は
「まるで身分制度です。誰ともかかわらないことが自分を守ること
だと思い込んでいた」と話した。

 労組がメンバーのことだけしか考えていないころ、働く環境はグ
ローバル化や市場原理主義の波に洗われた。利益、効率最優先の旗
の下、労働者派遣の原則自由化など働き方の規制緩和が進められた。
労組はそれらの政策に反対の声を上げた。しかし、組織率が低下す
る中でその声は軽んじられ、雇用環境の劣化に労働者側から歯止め
をかける社会的規制の力は弱まった。その結果、労働者の3人に1
人が非正規となり、正社員も過労死・過労自殺が過去最悪レベルで
推移するような長時間過重労働の常態化、残業代不払いの名ばかり
管理職の拡大などを許した。

 非正規で働く労働者たちは、正社員より低い賃金で不安定な雇用
に置かれ、多かれ少なかれ、彼のような孤立感を感じているはずだ。
実際、「正社員労組は助けてくれなかった」、「非正規は排除され
ている」などの言葉をよく聞いた。若年者やシングルマザーからは
生活できない低賃金を嘆く声もよく聞く。非正規を中心に貧困状態
が広がっていることを実感した。

 そんな中、07年に連合が非正規や中小零細の労働者への取り組
みを最優先とする運動方針を決めたことが、一つの転機となった。
労組を必要とする人々を仲間に迎えなくては存在意義を問われると
の危機感が、すべての働く者の労働組合という本来の姿に立ち戻ら
せた。全労連や全労協も相次いで非正規への取り組みに力を注ぐ方
針を打ち出し、労働界の流れができた。以降の地道な積み重ねが組
織率上昇の下地を作ったといえる。

 「労組は旧態依然だ」と批判の声もある。もちろん、すべての労
組や産別の意識が変わったわけではないし、いまだに非正規に無関
心な組織もある。しかし、昨年の派遣村の運営や、今年公設派遣村
をサポートした「ワンストップの会」は、労組を中心にNPO(非
営利組織)や市民団体、弁護士など専門家が集まり運営された。メ
ンバーシップを超えて、生活に困窮する労働者、市民の社会的連帯
としての役割を果たそうとしたものだ。また、連合は10年の春闘
方針で、非正規など組合員でない労働者も含めたすべての労働者の
春闘にする方針を決めている。すぐに大きな成果は出せないかもし
れない。だが、これまで目を背けてきた人々へ手を広げ始めたこと
は確かだ。

 元派遣労働者の彼を迎えた労組は、寮に住み続けることを会社に
認めさせ、派遣先での直接雇用を求める裁判(東京地裁で係争中)
も支援した。彼は話を聞いてくれて、行動を共にする仲間を得た。
無口だった彼は、言葉を取り戻したように多弁になった。連日、ワ
ンストップの会の行動に参加し、1年前の自分のような仲間を励ま
した。彼は「働き方は変えられないって思っていたけれど、そうじゃ
ない。多くの人とつながることで変えられると思える」と話す。

 過去最悪レベルの失業率など、厳しい状況は今年も続くと見られ
る。労組は、長期の失業や貧困の中で社会的排除に遭っている人々
と手を結び、効率優先の中でずたずたにされた働く者同士、あるい
は市民とのつながりを再構築してほしい。そこに困難を乗り越える
手段があると思うからだ。
(東京社会部)

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2010-01-18 10:49 | 記事へ |
| 労働 / 貧困/反貧困 |
柏原市福祉事務所「逆切れ」不当逮捕事件の集会報告記事

JANJANに、さとうしゅういちさんが、昨日の集会のことをまとめてくださいました。
冒頭部分を紹介します。
全文は以下で。
http://www.janjannews.jp/archives/2315131.html


柏原市福祉事務所「逆切れ」不当逮捕事件、初公判

2010年01月16日
さとうしゅういち

 大阪府柏原市役所で、水際作戦に対抗するために生活保護申請手続きを撮影した申請者が「職務強要罪」を「根拠」に不当逮捕された事件。
 
 この事件の初公判が15日、大阪地裁堺支部でありました。
 そして、その日の夜、逮捕されたAさんが所属する関西非正規労働組合ユニオンぼちぼちの主催で、「生活保護申請ビデオカメラ弾圧事件・A君無罪!釈放要求緊急集会」が、大阪市のエル大阪で開催されました。
 
 わたしは、裁判は傍聴できませんが、夜の集会は新幹線で駆けつけることが出来ました。集会の冒頭、司会者から、裁判のほうは傍聴席が満席だったという報告がありました。

関連記事
 水際作戦の福祉事務所「逆切れ」、生活保護申請者不当逮捕
 http://www.news.janjan.jp/living/0911/0911283759/1.php
 
 「生活保護申請を記録して逮捕って何だよ!?」抗議集会開かれる
 http://www.news.janjan.jp/living/0912/0912244747/1.php
 
 なぜ生活保護申請に同行者が必要なのか? (海形マサシ) 
 http://www.news.janjan.jp/living/0912/0912244745/1.php
 
 ユニオンぼちぼちのブログ
 http://unionbotiboti.blog26.fc2.com/
 
全面的に無罪を主張
 
 続いて、国選弁護人の木原万樹子弁護士(ホームレス支援で大阪では名高い)が、裁判の様子を報告しました。
 それによると、検察は冒頭陳述で、Aさんをまるでヤクザのようだという言い方をしました。一方、弁護側は、そもそも犯罪の事実がない、と反論。これから2月に争点整理が行なわれます。


 Aさんは、一度生活保護申請が却下された事を不安に思い、ビデオカメラを持参して記録していたのですが、それが職員を脅迫した、ということにされてしまったのです。しかし、そもそも生活保護申請は、申請が行なわれたら福祉事務所は受理しなければならないのです。
 
 福祉事務所側がしようとした「水際作戦」は「違法な職務」ですから、職務強要罪でも保護の対象とはなりません。ですから、Aさんのした行為は違法とはいえないわけです。
 
 さらに、今回のような軽微な事実について、身体拘束を行なうのは論外である、と指弾しました。そして、そもそもAさんは「脅迫」など行なっていないばかりか、福祉事務所職員らは、刑法上保護に値しない職務を行なっており、しかもAさんに故意はないので、Aさんは無罪である、と主張しました。
 
 なお、Aさんの保釈申請もしていますが、却下されています。

以下は、JANJAN記事
http://www.janjannews.jp/archives/2315131.html
でみてください。
2010-01-18 02:00 | 記事へ |
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2010年01月17日(日)
「沈黙を破る」監督がイスラエルからガザ入り拒否

このブログでも紹介した、すばらしい映画「沈黙を破る」監督土井敏邦さんがイスラエル政府からプレスカード発行を拒否されました。それによってガザに入れなくなっています。それに対する抗議への賛同が呼びかけられています。

賛同文送付【連絡先】
doitoshikuni@mail.goo.ne.jp
【ホームページ】
http://www.doi-toshikuni.net/

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
    【賛同の呼びかけ文と抗議文】
前略
 ジャーナリストの土井敏邦です。
 ガザ攻撃開始から1年目に当たる2009年12月27日、私は、イスラエル政府の報道規制に対し、公に抗議する決心をしました。
 それは一般的な報道規制に対する訴えではなく、私個人への規制が契機となり決意した抗議です。
 2009年夏より、私は2度にわたってイスラエル政府によって、プレスカード発行拒否されました。これによって私はガザ地区での取材の道を絶たれました。
 しかし、この問題は私個人の問題に終わらず、パレスチナを取材するジャーナリスト全体に関わる問題だと考えています。
 下記(添付ファイルには日本語と英文)はイスラエル政府に対する私の抗議文です。

 みなさんにお願いしたいことがあります。
 私の訴えの趣旨をご理解いただき賛同していただける方は、「賛同人」になっていただけないでしょうか。
「賛同人」になっていただける方は、

1、賛同する(お名前、肩書を公表してもよい)
2、賛同する(お名前も肩書も公表しない)
の二つのどちらかもお知らせください。

*お手数ですが、1の「賛同人」となっていただける方は、例をご参考に書き方をご呈示ください。
例:(名前)土井敏邦/(読み方)どい・としくに/(肩書)ジャーナリスト
               2010年1月15日

イスラエル政府の報道規制に抗議します
ジャーナリスト・土井敏邦
 
約1400人の犠牲者、5000人を超える負傷者を出したガザ攻撃から1年が過ぎました。
 1985年以来、ジャーナリストとしてパレスチナ・イスラエルの現場を取材してきた私にとっても、これほどまでの破壊と殺戮を目の当たりにしたのは初めての体験でした。

私は、ガザ攻撃の「終結」直後から3週間にわたって現場を取材し、その結果を、NHK番組や岩波ブックレット、また世界報道写真展での映像展示、さらに数々の報告会、集会で伝えてきました。
その一方、2009年春にドキュメンタリー映画「沈黙を破る」を公開し、イスラエル国防軍(IDF)の元将兵たちによる占領地における加害の証言を伝えました。

 それから数カ月後の8月下旬、私はその後のガザ地区の実態を取材するため、いつもの通りエルサレムにあるイスラエル政府のプレス・オフィスでプレスカードを申請しました。これがなければ、イスラエルに占領・封鎖されているガザ地区に入れません。
しかし当局は、私へのプレスカードの発行を拒否しました。パレスチナ取材を始めて以来、20数年間で初めてことです。理由は「提出されたアサイメント・レター(推薦・委任状)はドキュメンタリー制作会社からのもので、報道機関からではない。ドキュメンタリー制作にはプレスカードを発行しない」というものでした。

しかし過去2回、同じドキュメンタリー制作会社「シグロ」のアサイメント・レターでプレスカードは発行されていたのです。ただこの時点で、過去2回の時と違っていたのは、「シグロ」が制作した私のドキュメンタリー映画「沈黙を破る」が劇場公開された直後だったことです。

 それから3カ月後の11月、私はガザ攻撃から1年目の実態を取材しようと、再びプレスカードを申請しました。今度は、ある報道機関からのアサイメント・レターによる申請でしたが、また拒否されたのです。理由は告げられませんでした。

 その直後、イスラエルの『イスラエル・ナショナル・ニューズ』(11月30日版)が、プレス・オフィスのダニー・シモン代表にインタビューをし、次のように伝えていることを知りました。
イスラエルは、事実を伝えない反ユダヤ主義のジャーナリストは認めないと語った。シモン氏は、意図的に虚偽を伝え、ハマスの犯罪を隠蔽するための“イチジクの葉”の役割を果たしているジャーナリストたちがいると強調した
 つまり私がプレス・オフィスから「事実を伝えない反ユダヤ主義のジャーナリスト」の1人とみなされたことが、プレスカードの発行拒否の大きな要因の1つと思われます。

 しかし私はジャーナリストとして、自分で現場を取材して確認した事実をできうる限り正確に伝えてきました。断じて「意図的に虚偽を伝え」たことはありません。また「ハマスなどパレスチナ側の犯罪を隠蔽する」報道をしたこともなく、むしろ自治政府の腐敗、ハマスの強権支配の実態など、パレスチナ側の負の部分もきちんと伝えてきました。
一方、ドキュメンタリー映画4部作『届かぬ声―パレスチナ・占領と生きる人びと』では、自爆テロで負傷または犠牲となったイスラエル市民の家族の現実と心情、また“占領”がイスラエル社会の“倫理・道徳観”を崩壊させるという危機感を抱き、“占領”に反対し闘うイスラエル人たちの姿も伝えてきました。

 今回のガザ攻撃に関する私の報道も、それが決して偏向したものではないことは、その後のアムネスティー・インターナショナルや国連調査団の報告からも明らかです。その報告はイスラエル軍の攻撃は「深刻な国際法違反」と告発しています。

このように、「パレスチナ側のプロパガンダ」のための報道ではなく、「パレスチナ問題の真の解決のために伝えなければならない事実」を、私は真摯に報道してきました。イスラエルのこのような武力攻撃や“占領”は単にパレスチナ人を苦しめるだけではなく、イスラエル国民の“倫理・道徳観”を崩壊させ、長期的にはイスラエル国民が求める真の安全と平和の可能性を自ら破壊することになると考えるからです。そういう私が「事実を伝えない反ユダヤ主義のジャーナリスト」という烙印を押されることを断じて受け入れることはできません。
 プレスカードが取得できないということは、今後、私は取材のためにガザ地区に入れないということを意味します。

 学生時代、イスラエルの「キブツ」(農業共同体)に滞在していたときに友人に誘われ、私が初めてガザの難民キャンプを訪れたのは32年前のことです。そこで住民に投げかけられた「君が滞在するキブツは誰の土地だったか知っているのか」という問いが、私の“パレスチナ問題”との出会いでした。

 その後、ジャーナリストとしてパレスチナ・イスラエルの取材を開始した1985年以来、私は数えきれないほどガザ地区に通い、取材を続けてきました。第1次インティファーダ(民衆蜂起)以前、インティファーダの真っただ中、湾岸戦争下、オスロ合意の直後、自治政府の登場、アラファト政権下の腐敗、第2次インティファーダ、ユダヤ人入植地の撤退、第2次レバノン戦争下、ハマスの強権統治の実態、封鎖の惨状、そしてガザ攻撃・・・。私は、激しく揺れ動くそのガザの情勢の中に身を置き、占領の下で生きる人びとの生活と声を記録し、伝え続けてきました。ある意味では、私はジャーナリストとして、また人間として、“ガザ”に育てられたといえます。

そのガザの“現場”と20数年間に築き上げてきた“現地の人びととの絆”を、私は今、イスラエル政府によるプレスカード発行拒否によって奪われようとしています。その絶望感は舌筆しがたいものがあります。

 ガザ地区の住民たちは長年、“封鎖”という“占領”のなかで、治療や勉学、仕事のためにガザの外に出ることもできず、海外で暮らす家族との再会も果たせない状況が続いています。もちろん、そんな住民の現実の深刻さとその苦悩に比べることはできませんが、私自身もガザ地区から断ち切られるようとする今、その“痛み”のほんの一端ですが、身を持って知った思いがします。

長年にわたって中東問題を伝えてきた、ある親しいジャーナリストは、私にこう書いてくれました。
 「イスラエルの介入で取材の場を奪われたジャーナリストとして、つまり、自分をパレスチナ問題の当事者として、その不当性を訴えつつ活動するというあり方もあるのではないでしょうか。私は、土井さんの問題は、『ガザの現状が伝えられなくなる』という問題以上に、重要な問題だと思います。まさに、占領そのものの問題なのですから」

 私がプレスカード発行を拒否され取材の場を奪われることは、私自身が“パレスチナ問題の当事者”となることであり、この現実と闘うことは、まさに私自身がジャーナリストとして“イスラエルの占領と闘う”ことを意味するという現実を、私はその言葉に突き付けられ、教えられた思いがします。
 しかし、これは私だけの問題ではありません。今後、私のようにパレスチナ側に起こった被害やイスラエル側の実態を報道するジャーナリストは、「事実を伝えない反ユダヤ主義のジャーナリスト」という烙印を押されてプレスカードの発行を拒否され、報道規制を受ける可能性が十分あります。
これは明らかに、イスラエルの“占領”に起因する不当な報道規制です。これを看過すれば、今後、パレスチナ側の実態を伝えることが難しくなります。私は、パレスチナの現場を取材し続けるジャーナリストであり続けるために、イスラエルのこの報道規制に対して記者会見、シンポジウムや集会、署名活動などを通して抗議し、正当な報道の自由を尊重するようにイスラエル政府に求めていくつもりです。
どうか、みなさんのお力を貸してください。
                      2009年12月27日 
                     (ガザ攻撃開始から1周年の日に)


 【連絡先】doitoshikuni@mail.goo.ne.jp【ホームページ】
http://www.doi-toshikuni.net/      
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2010-01-17 00:37 | 記事へ |
| ナショナリズム政治 / メディア |
2010年01月16日(土)
ベーシック・インカム構想を検証する

以下の研究会で私なりの「ベーシック・インカムへの意見」を言います。以前話したことのさきに話を進めます。
生活保護への差別意識、妬み意識、自己責任論自体をなくしていくような意識の向上を作っていく必要があるときに、制度設計で人々の意識が「自然に」よくなる、差別がなくなる、権利意識が高まる、優しくなる、自己責任論でなくなるというのは、おかしいというようなことを言います。
ベーシック・インカムの基本の感覚・思想には賛成だが、他の議論や運動・実践との関係を意識せずに頭の体操や魔法の小槌のような議論だけすることを批判します。
私が念頭においているような「周辺系のひと」に対して、いかに実践的に役立つかという観点から、生活保護制度の拡充(制度変革)型のベーシック・インカムこそがベーシック・インカムの具体的展開であるという主張になるかと思います。
興味ある方はきてみてください。

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研究会「職場の人権」
         今後の月例研究会のご案内

研究会「職場の人権」では、1999年の設立以来、毎月1回、定例の研究会を開催しております。皆さまの積極的なご参加をお待ちしております。ご希望のテーマやご意見等がございましたら、何なりと事務局までご連絡ください。(会場費500円、但し会員は無料)

■第124回研究会(10年1月) 

      ベーシック・インカム構想を検証する
          〜 労働と生活・人権の視点から 〜

 と き  1 月 2 3 日(土曜日) 午後 1 時30分〜 4 時30分

ところ  エルおおさか(大阪府立労働センター)南館101号室 (電話 06−6942−0001)        (地下鉄谷町線、または京阪電鉄「天満橋」駅下車。西へ徒歩5〜6分)
     
報告者  小沢 修司 さん  (京都府立大学教授)

 コメンテーター 伊田 広行 さん (立命館大学・神戸大学非常勤講師/ユニオンぼちぼち副委員長)

新自由主義経済体制の進展に伴い、雇用のあり方は大きく変化しました。雇用=就労を前提にした従来の社会保障政策は、増大する不安定雇用労働者や失業者、就労困難者の困窮を救済しきれなくなりつつあり、生存すらも危ぶまれる状況となっています。
 そんな中で注目を集めているのが「ベーシック・インカム」の構想です。ベーシック・インカム構想とは、就労の有無、年齢、性別、家族形態に関わらず、子どもを含むあらゆる個人に対して、ベーシック・ニーズを充足するに足る所得を「無条件で」支給しようという最低所得保障の構想です。社会保障を「働くこと」と切り離し、生活のための所得をあらゆる人に保障するという、この構想については、従来の社会保障給付につきものだったスティグマ性を克服し、性や地域などによる所得格差を是正し、働き方、生き方について個々人がより良い選択を行うことを可能にする等の期待が寄せられています。その一方、財源確保の問題や勤労意識の低下などへの懸念も考えられます。
 例会では、日本におけるベーシック・インカム論者の第一人者である小沢修司さんに、ベーシック・インカムの社会保障と人権に関わる役割についてお話いただきます。ベーシック・インカム構想を通じて、労働と生活・人権の関わりを再確認する機会となればと考えます。ぜひご参集ください。

2010-01-16 22:07 | 記事へ |
| 貧困/反貧困 / 労働 |
2010年01月14日(木)
安積遊歩『いのちに贈る超自立論』
安積遊歩さんが、『いのちに贈る超自立論――すべてのからだは百点満点』(太郎次郎社エディタス、2010年)を出した。

軽く読み出したが、いい本だった。最初は既視観があったが、娘(宇宙)のからだのこと、手術のことなどで、ゆれる中で、娘自身の生きていく力での論の運びには、やはり何か大事なものがあると感じた。

一番感じたのは、彼女のお母さんの話。

障がいがある娘(安積遊歩さんのこと)を、本当に大事したお母さんだったんだなあ、だから安積さんはああいう人になったんだなあと感じた。

安積さんのお母さんは、他の人が嫌がるような人にも平等に接するような人だった。遠くの人で、家族が結核になった人が、オフロがつぶれて、数週間、安積さんの家のお風呂に入りに来ていたらしい。当時、結核ということで近所の人からいやがられていたが、安積さんのお母さんは、そういう人にも差別しないような人だった。
「乞食」といわれていて貧乏で、お金とかを恵んでもらいに来ていた人にも、優しかったという。隣の人で、少し精神障害がある人でも、排除せず、娘と交流させたという。

あるときは、宗教団体の人が家に上がりこんで、先祖が悪いことをしたからこんな子が生まれたとか言って、入信を勧めてくることもあったが、母は、家に上がらせないのではなく、上がらせて話を聞いて、安積さんを抱いて泣いていたという。色いろな宗教の人から言われ、結局、どこにも入らなかったという。

安積さんは、むかしは、そういう誰も拒否せず、話を聞く母を臆病と思っていた気持ちもあったそうだが、いま、感情を吐き出す重要性、聞いてもらう重要性(コウ・カウンセリング)をしって、母のすばらしさがわかるようになったという。

僕もこの話で、そういう非排除的な人のことをおもった。泣きながら、話を聞くような人のことを思った。

安積さんのお母さんの話しを読んで、なんか、大事なことを感じた。
僕の祖母や母のことを思った。

☆  ☆  ☆ 
 
子ども(宇宙)のことを、ちゃんと「大人」というか、「対等な人」として接する。そういう姿勢にはやはり感じ入るものがある。こどもを権力で抑えず、その子の恐れにきちんと目を向けようとする。本人への説明なしで、いきなり「治療」「施術」などを行うのは、暴力だとはっきりいう。治療という名の虐待を容認してはダメという。痛いという声を無視するのは、虐待だという。(あとで、トラウマになる。)
そういうことは、実は、とても難しいことだ。

そこには自分の優性思想、医学信仰、能力主義も絡んでくる。

権力がない人(自分より年下である人、部下、女性、など)に、対等に関われるかどうかは、その人がどんなひとかがわかる試金石だ。

娘さんは小学校2年生から学校にいっていないんだって。宇宙ちゃんはこれから、またいろいろあるだろうけど、まあそれは本人自身が立ち向かう課題だろうと。そういうことの受容の感じも、いい。シングル単位的な覚悟。それまで愛情をいっぱいそそぐ。そそぐ。そそぐ。

障がいが個性だ、それをむしろ幸せと思う、生まれたときから目が見えない、という人の、中途失明者と違う、そのどしんとした感じは、僕にはやはり、遠い。
だから安積さんは、やはり、凄いところにいると思う。頭で、活動家として、ゴールに近づく面と、立場、実践、体験から近づく面の両方がある人。

彼女のことは、最初の単著『性差別と資本制』1995年のあとがきで、触れた。その後、本人にも会って、テレビや本でフォローしてきた。
僕が尊敬する人のひとりだ。

☆  ☆  ☆  
「ユニオンぼちぼち」や反貧困運動、生存運動にも関わる、「働く」ということの考察の一部も載っている。

簡単にだが、まあ、原則だろうというような。つまり、「賃労働に参加できないことが悪いことではない」「働いて稼いで、納税するのが、まともな大人、というのはおかしい」「生活保護を使うのはダメなことという内面化された自己抑圧が問題」「お金に依存しない生活を」「狭い血縁・家族ではなく、皆で子育てをしていく」というような。

僕は、このブログで、サンボマスターの「全肯定」という言葉を紹介したが、安積さんも、すべての命をそのまま肯定する。私的所有などにとらわれない。

A君不当逮捕事件をおもうとき、こうした安積さんの生きる水準との、とても大きいギャップを感じる。宇宙ちゃんが中学受験をしようかなと思ったとき、学校見学さえさせない教員のおろかさは、よくわかる。
A君事件でも、水際作戦でも、公務員・福祉職員がそれほど悪いんじゃなくて、組織のあり方、構造・政治の問題という言い方もよくあるが、僕はかなり前から、個人の責任のほうから、ものごとを観るようになっている。
構造がそうであろうと、目の前の人のことを大事にできないということは、つねに個々人にとわれる必要があると思っている。

えびらたずこさんの本『神への告発』のことを安積さんが紹介しているところもある。
障害者女性であるえびらさんが、生保のケースワーカーにひどい性的虐待を受けたという記述があった。読んでびっくりするような内容だ。
安積さん自身、その記述の後に、「そのシーンはもはや本の中の文章ではなかった。私自身の痛みとなって長い間私を苦しめてきた」と書いているぐらいの内容だった。
公務員福祉職員の犯罪性というものが如実に出ている話だと思う。
例外だといって楽になる話ではなく、そこにある暴力性は、程度の差はあれ、いまでもあちこちにある、と感じた。
本人たちが気付かないところで。
たとえば、柏原市福祉事務所で。


安積さんは完璧でないが、いのちの強引さがある。それは魅力だ。自分の障がいの経験から、ぐっと、一挙に、真ん中に行く。
ときどき迷うが、まあ、おおむねまっすぐすすむ。
こんなひとは、そうそういない。

私たちの運動、生き方の方向の先にある、道しるべのようなひと。
それをさらっと読んで、再度、実感。

∞∞∞∞∞

追記

上に最初、えびらたずこさんの本『神への告発』の内容の紹介を遊歩さんが書いたような内容のまま書いたら、「描写の表現が、とても強すぎて、苦しい」「前触れなく読んでしまったので、しんどくなった」という意見をもらった。
僕も読んで衝撃を受けましたが、いくら事実でも配慮が足りなかったと思うので、表現を変えました。
読んだ方で、しんどいおもいをさせてしまった方、ごめんなさい。
本を書かれた、当事者のえびらさんの思いをちゃんと引き受けるということが、私たちの課題だと思いました。

2010-01-14 02:33 | 記事へ |
| 作品 / 人権 / 生き方 |
いちむらさんのこと

『ピープルズプラン』48号(2009年秋号)は、「生存権」が特集となっており、そこに,
いちむらみさこさんの「ホームレスと女とノラ」という原稿が載っている。

いちむらさんはいつ読んでも面白い。(学者の話はいつも同じで少しつまらないからすっとばし読み。)

彼女は、家をでてテント暮らしをしたら、いろんなことが解決したという。
上を目指すことを強いられていた暮らしは魅力的でなかったという。
それで、希望の見えない雲の中から、みずから、ヤッホー!と飛び降りたのが、ホームレス・テント暮らしだった。それゆえの豊かさがあるから選んだ。
どうしてホームレスになったとみなに聞かれるから、彼女はその人に問いかえす。
ホームレスになぜならないのか、と。

彼女は、暴力・性暴力に出会い、憤る。私は、自由と豊かさのためにホームレス生活を選んだが、暴力・性暴力を受けることを選んだのではないと。

女性ホームレスの人たちのつながり、エンパワメントを追求していく。そこに希望を見出していく。
彼女は、そういう中での表現、文化を追求する。
彼女は、ホンモノだ。
尊敬する。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
2010-01-14 01:27 | 記事へ |
| ジェンダー / 生き方 / 作品 |
2010年01月12日(火)
生活保護関係の情報、あれこれ

@ 日本政府は現在、生活保護の捕捉率を調べていない。研究者は10−20%程度といっている。調査し、公表すべきは明らか。

A ベーシック・インカムの議論にからむが、私は基本的に先ず、生活保護の要件を緩和し、貧困者の多くが生活保護をベーシック・インカムのように使うことが大事。それが権利としての福祉の具体的展開。

B 生保の費用の4分の1は地方自治体が負担。全国で126万世帯が受給(09年9月)。大阪市は最多の10万世帯で、市の保護費負担は2443億円。

C 湯浅誠が政府内に入ってワンストップ相談窓口をすすめたが、かなり抵抗にあった。地方自治体が財政的にも人員的にもたいへんなので、反旗を翻したため。

D 野宿の人が生保申請して、支給決定までの生活を補償するように、生活保護法の改正が必要。

E 文部科学省が09年11月30日付で、学校での暴力行為が約6万件と過去最高であると発表。そして問題が起こればすぐに警察に通報と、警察との連携を強めているとの報道。「問題なら通報」ということで安易に警察に頼る傾向が見られる。
僕は必要なときには警察を使うこともいると思うが、安易に警察とつながるのは、教育者としてなさけなくないか? そういうのって、柏原市ですぐに警察を呼び、さらにすぐにA君を告訴したのと通じないか? 警察を使って排除。そこに相手と深く本気で関わるという姿勢は見られない。

F 岸和田市で、貧困なのに、3日に1回の職探しでは不足だ、などといって生活保護申請『却下』した事件があって、去年から運動になっていて、裁判が今度始まる。以下、その支援する会の訴え。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

「岸和田市の生活保護申請『却下』の取り消しを求める裁判を支援する会」
入会のお願い

 みなさまにおかれましては、ますますご活躍のことと存じます。
 このたび、生活保護申請に対し不当な「却下」をされた夫妻が岸和田市に対し、その取り消しを求めて提訴しました。私たちは、この提訴を支援するとともに、くらしのセーフティーネットである生活保護のあるべき姿を問うために闘う決意をしております。
みなさまがたにおかれましては、ぜひ、本裁判の趣旨にご賛同いただき、「岸和田市の生活保護申請『却下』の取り消しを求める裁判を支援する会」(以下=「支援する会」)に入会をしていただくよう、どうぞよろしくお願いします。

 夫妻は、08年2月に大東市で「派遣切り」に遭い、岸和田市に引っ越してきて、求職活動しましたが働く場が見つからず、手持ち金も数百円になり岸和田市に生活保護を申請しましたが、同市は申請もさせずに追い返しました。その後、同市の生活と健康を守る会に相談して、生活保護を申請しましたが、「稼働能力の活用が不十分」との理由で「却下」。その後、4回申請しましたが、すべて「却下」されています。理由はみんな同じです。

 この間、夫妻は家賃滞納を理由にUR住宅を退去させられ、現在は風呂のない住宅に住んでいます。また、家にある家電製品や本・CDを売る、親族から借金をする、近所の人たちから米などの食糧支援を受けて生活してきました。
 08年7月から妻がパートに行き、月収6万円から7万円で生活していました。今年7月、6回目の申請でやっと生活保護が開始決定され、現在、夫は新聞配達、妻はパートで収入を得てその不足分を生活保護費で補っています。

 夫妻は、この不当なやり方に対して、大阪府に審査請求を行いました。しかし、府は「3日に1日の求職活動は不十分」という採決をしました。夫妻は弁護士や支援者と一緒に、岸和田市や大阪府と交渉を行い、「生活費もないのにどうやって就職活動をしたらいいのか教えてほしい」と質問しましたが、府も市もまともな回答をしませんでした。以上の経過をふまえ、夫妻は岸和田市に「却下」の取り消しを求めて提訴をした次第です。
 厚労省は、昨今の大企業による「派遣切り」によって、職と住居を失った失業者に対して、まず生活保護を開始し、「最低生活」を保障しつつ、「自立」をめざすよう都道府県に指示をしています。岸和田市の「却下」はこれに逆行しています。

ご承知のとおり、生活保護の大前提は、「日本国憲法第25条に規定する理念に基づき、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その国民の困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする」(生活保護法第1条)と明記しています。この基本原理に照らしても岸和田市のやり方は不当です。
まず、生活保護を開始し、「最低生活を保障するとともに」、就職活動をして「自立」をめざすことが法の趣旨にかなったやりかただったはずです。以上のことをご理解いただき、わたしたちの趣旨にご賛同のうえ、「支援する会」への入会を、かさねてよろしくお願いいたします。
2009年11月10日


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2010-01-12 18:43 | 記事へ |
| 貧困/反貧困 / 政治、権力 / 暴力・DV |
外国人参政権が実現しそう


これも、民主党になって、自民党時代よりマシなことの一つ。ただし、対象国が限定されるなど、問題をはらむものである可能性がある。

こうした民主党の動きに対し、千葉県では、バックラッシュが起きており、森田知事は保守勢力を集めて動いています。

09年12月千葉県県議会で自民党瀧田敏幸県議がバックラッシュ質問。
堂本知事のジェンダーフリー教育は性差の否定であり、「負の遺産」と発言し、ジェンダーフリー教育の一環である「男女混合名簿」の廃止を訴え、鬼澤教育長が「総合計画策定の中で検討していく」と答弁されたらしい。
 
また09年12月千葉県県議会で、自民党は「選択的夫婦別姓のための民法改正に反対する意見書」を提出し、その中で、民主党政権はカンボジアのポルポト政権のようなものと批判しました。自民党単独過半数で可決されました。

09年後半には千葉県で、新教育基本法に基づいた「教育振興基本計画」策定のため 「千葉県の教育を元気にする有識者会議」を4回開催したそうです。
 「愛国心」と「道徳教育」の復活がテーマで木村治美氏が座長。 委員は、「新しい歴史教科書」系の百地(ももち)章日大教授や 武士道精神を叫ぶタレント藤岡弘など右翼系が多いそうです。
 

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外国人参政権法案「理解得られる」と首相 「日韓併合100年というタイミングでもある」
@MSN産経ニュース  2010.1.12 11:11

 鳩山由紀夫首相は12日、永住外国人に地方参政権(選挙権)を付与する法案について「理解は得られると思っている。今政府内で検討している最中だ。日韓併合100年というタイミングでもあることをもっていろいろ検討している」と述べ、政府提出法案(閣法)として18日召集の通常国会への提出に意欲を示した。首相公邸前で記者団に答えた。

 民主党はこの法案を「結党以来の基本政策」としているが、昨年の衆院選マニフェスト(政権公約)では党内対立を避けるため外していた。だが、11日の政府・民主党首脳会議で民主党側から政府提出法案として出すよう要請があり、政府・民主党間で合意した。

 鳩山首相は民主党幹事長だった昨年4月、インターネット上の動画サイトに出演し「定住外国人は税金を納め、地域に根を生やし、一生懸命頑張っている。参政権ぐらい当然付与されるべきだと思っている。日本列島は日本人だけの所有物じゃない」と発言するなど、これまで提出に意欲的な姿勢を示していた
2010-01-12 14:49 | 記事へ |
| 人権 / 政治、権力 |
カルチャー・ジャミング

友人が次のサイトを紹介してくれた。

http://video.google.com/videoplay?docid=1650025753153438374&hl=en

おもろい!
まえにこのブログ(ソウルヨガ)で、スーパーでの別のパフォーマンスも紹介したけど、同種のもの。新しいアート表現的な社会運動スタイル。笑いと皮肉とラジカル性。
ユニオンエクスタシーの活動感覚とも近い。

上のサイトの作品のなかで次のように言っている。

「デトーナメントとは、日々の生活のなかで、ものごとの見方が大きくゆすぶられ、視野や視点が大きく変わることだ。あわただしい日常の中で、少し立ち止まり、逆立ちして、世の中を見回してみたまえ。」

「家のリビングは工場だ。そこで作られる製品は、あなただ。」



こういうのは、カルチャー・ジャミング(Culture jamming)と呼ばれていて、直訳すると「文化破壊」だけど、主流秩序を揺るがすアート表現的活動のこと。楽しみながら暴力的なイデオロギーを破壊していく、クリエイティヴな“犯罪”で、表現のひとつだといっている。

ウィキペディアによると、 「カルチャー・ジャミングは、既存のマス・メディアを変革しようとするムーブメントの一つである。メディアの物理的なあり方やコミュニケーションの方法論はそのまま利用するが、流通するコンテンツや運営方針に批判精神を持たせようとする。しばしば既存のメディアの経営方針やコンテンツの所有者の意図を敵対的に無視する形で行われる。 活動には様々な形態があるが、反消費主義、反商業主義という点で一致している。特定の企業の企業イメージや、製品のブランドイメージに真っ向から敵対することも珍しくない。
ただし単なるネガティブキャンペーンとは一線を画し、むしろ一般のひとびとに対し、企業イメージや製品イメージの裏に隠蔽されている事実に気づかせようとすることに主眼をおいている。 典型的な例は、「デトーナメント(en: detournement)」と呼ばれる手法でなされる一種のパロディ作品の創作である。作品の公表にあたってはゲリラ的な手法を用いることも珍しくない。」

「カルチャー・ジャミングの背景には、次のような問題意識がある。現状のマス・メディア、特に広告が、既存のエスタブリッシュメント(大企業や政府)のプロパガンダの装置に堕しているという認識である。特に先進国において、オルタナティブなメッセージを(既存のメッセージと同程度のインパクトで)流通させる手段がないことを問題視している。」


カルチャー・ジャミングには、いろいろな手法がある。
公的な場所で急に踊るとか歌を歌うなどの、ゲリラ的なさまざまなパフォーマンスがそのひとつ。

街頭広告を乗っ取る。
バブル・プロジェクト:「フキダシ」(マンガのセリフを入れる枠、英語でBubble)を、街中のポスターや広告に貼り付け、オリジナルの意図を換骨奪胎するような言葉を書き込むという、ストリート・アート

無買デー(en: Buy Nothing Day)。1年に1日だけ、消費を抑制することで、過剰消費社会を問題を考え直そうと呼びかけるムーブメント。このビデオにも空っぽのカートをおして、スーパーをぐるぐる歩く活動などででてくる。

アドバスターズのアクティビティ。雑誌の発行や法的活動を含むさまざまなキャンペーンの展開

サブジニアス(Subgenius)教会。「買わないことは、功徳だ」などと説教したりする、皮肉で批判的な宗教

「テレビがあなたを殺す」というスローガンで、頭蓋骨をモティーフにしたキャンペーン

ゴリラズ(en: Gorillaz)の「Reject False Icons」ムーブメント

僕もこういうことしたいし、日本でもこういうのがたくさん増えるといいんだけどねー

2010-01-12 10:09 | 記事へ |
| 生き方 / 作品 / 政治、権力 |
当事者が参加: 民主党政権がましという一例


「障がい者制度改革推進本部」に設けられた改革推進会議のメンバーの6割が障害者自身や家族であるというようになりました。当事者が入るということです。施設経営側は入っていないそうです。
民主党政権が、前よりもましであるという一例だと思います。ようやく、まともになってきました。
私の友人が入ってます。

労働問題でも、非正規労働者などその議論の当事者団体を入れるべきです。「ユニオンぼちぼち」からひとり出しますが、いかがでしょうか?
男女共同参画なら、女性団体、フェミニストを入れるべきですが。


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「委員の6割が障害者と家族 新改革会議、異例の構成」
@共同通信2010/01/08 
http://www.47news.jp/CN/201001/CN2010010801000344.html

 障害者問題を担当する福島瑞穂特命担当相は8日の記者会見で、 政府の「障がい者制度改革推進本部」の下に新設する改革推進会議 の委員24人を発表した。6割の14人は障害者自身や家族らを充 てた。12日に初会合を開く。

 政府の障害福祉関係の審議会などにはこれまでも障害者らが参加 していたが、過半数を占めるのは異例。入所施設などの事業者が 入っていないことも特徴で、利用者サイドの視点で議論が進みそうだ。
 当事者など14人の委員には、障害者団体の代表のほか、民主党 の障害者政策に影響を与えている「障害者インターナショナル日本 会議」の尾上浩二事務局長や、障害者自立支援法の違憲訴訟で弁護団長を務める全盲の竹下義樹弁護士らが入る。

 それ以外の10人は大学教授や自治体の首長ら。24委員のほ か、日本経団連の1人がオブザーバーとして参加する。

「障がい者制度改革推進本部」@内閣府
http://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/kaikaku/kaikaku.html


2010-01-12 01:00 | 記事へ |
| 人権 / 政治、権力 |
2010年01月11日(月)
女性が男性に守ってもらう

100年前、300年前、500年前といった昔の時代の映画やドラマを観て気付いたことがある。
昔は本当に、今以上に、簡単に、女性がレイプされたり殺されていた。戦利品であり、消耗在であり、子産みの道具であり、家事や家業などの労働力・奴隷であった。

で、そんな時代だからこそ、誰か男に守ってもらうというのが理想であり現実的なサバイバル方法だった。

「私を守ってくれる強い男性が好き、男に守ってもらいたい」という感覚は、そうした古い時代の感覚の名残という面があるのではないのか。
それは古臭いのではないか。
変えるべきは、暴力環境のほうで、そうなれば、男に守ってもらうというようなつまらない感覚が残る必要性がなくなる。

で、少し考えてみれば、現代でも暴力はまだまだ多い。だから「私を守ってくれる強い男性が好き、男に守ってもらいたい」という感覚が残っている。

暴力環境を前提にサバイバルする自己対処としてのジェンダー意識ではなく、別の解決の方向性を見出す人を増やしていこう。


2010-01-11 10:37 | 記事へ |
| ジェンダー / 暴力・DV / 関係性 |
龍馬をみながら、国家主義という矛盾


龍馬は人気のある人で、僕も、昔学生のときに『竜馬が行く』を読んで感動したものだ。
そのときから思うことだが、竜馬を読みながら、ナショナリズムの人って、わかってないなーとおもう。

今年もNHKで『龍馬伝』をやっている。まだ若いときの龍馬で、どうなっていくかわからないが、ちょっとみたところ、あんまり深くない描き方だなと思う。なさけないところもあるというのはいいが、お決まりの古い表現、話のすすめ方が目に付いてしまう。

で、ナショナリズムの話だが、龍馬は、あの時代に「絶対」と思い込まれていた「神話」をのりこえるところがおもろいわけだ。上士と下士の身分格差、殿様への服従などお笑いものだが、当時は乗り越えようもない、変化も考えられない、絶対だった。同じように、薩摩と長州と土佐の人間が顔を合わせば、それは敵国外国人に出会ったようなものという時代だった。殺しあうのが当然と。土佐を脱藩するというのも凄いことだった。

はい、ならば、竜馬が乗り越えたのは、そういう時代の神話なのだから、現代なら、中国や韓国や北朝鮮やイランやイラクと闘わなくっちゃという思い込みを超えることなんじゃないの? 日本人を辞めるぐらいのことなんじゃないの? 宇宙人と仲良くしましょうというくらいのこといわないと、龍馬に笑われるんじゃねえの? 環境問題でも、平和・戦争の問題でも、貧困・労働問題でも、グローバル・金融資本主義の現実主義の枠を超えるような生き方をしないと、竜馬的じゃないんじゃないのか。

なのに、米軍基地を沖縄に残し続けるしかないなどとおっしゃる方たちが、龍馬が好きなんていうから笑っちゃう。自分が、下士をいじめてよろこんでいる上士程度の言動しかしていないことがみえていない、おろかさよ。

米軍に日本が守られているから外国から攻められない、という話、ホソキカズコがムー大陸が存在したというとか、あなたはネッシーの生まれかわりですと江原啓之がいう話と同程度じゃないの?

竜馬の時代は、ほんとに他の藩のやつに殺される時代だったけど、それでも和解させようとしたのにねぇ。ちっちゃいのぉー。わしゃ、わからんぜよ。

2010-01-11 03:22 | 記事へ |
| 作品 / 戦争  / ナショナリズム政治 |
2010年01月10日(日)
生活保護申請ビデオカメラ弾圧事件のみかた


昨日、A君事件にカンパしてくださった方の振込用紙を見ていると、私のことを知らなかったけれど、あるルートで知って私のブログを熱心に読んでくださって、その結果A君事件支援にカンパを振り込んでくださった方がありました。
ほんとうにありがとうございました。

******

さて、「A君の生活保護申請ビデオカメラ弾圧事件」をみるとき、以下のような視点があるかないかが大事だなと個人的に思っています。

それは、「生活保護窓口での水際作戦」ということの理解です。

『ウィキペディア』の「生活保護問題」の項では、以下のような説明がなされています。
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水際作戦とは、保護申請の受付窓口である福祉事務所が、生活保護の受給を窓口という「水際」で阻止し、違法に保護申請の受け取りを拒否した作戦をいう。
生活保護法の基本原則では、申請を無条件で受けて保護の要否についての審査をすることになっている。2007年7月10日には、「就職した」と市職員に虚偽報告を強いられ生活保護を打ち切られた結果、「おにぎり食べたい」と書き残して孤独死してしまった男性がいたことが発覚し、問題となった。この事件でも、当初北九州市は「(生活保護の)廃止は適切だった」と主張していた。
また、北九州市以外の市では、「もう来ないと一筆書け」と言われたり他の市へ行けと切符や電車賃を渡すケースがありそのような対応を受けた人が「小田原市役所に行くのか? 市役所を渡り歩くのか?」と聞くと、「そのような対応になります。」との答えが返ってきたと証言する人や「なぜよそに行かせるのか?」 と聞いても返事がなかったと証言する人もいる。[1]

生活保護扶助費用の1/4および現業員の給与が地方自治体予算からの支出となるため、財政状況が厳しい自治体に強く見受けられると言われている[要出典]。東京都中野区では900億円の予算のうち100億円が生活保護に関する予算(それを担当する職員、議員、対応に要する経費は除く)となっている。また、大阪市では2000億円の支出を行っており、深刻な財政難を伴っている反面、市民団体からはホームレスの保護が遅れているとの批判がきわめて強く上がっている。早急なホームレスのための、プライバシー権等に配意した住居と生活費、全額無料の医療費を用意することが求められている。また、それを行わないことは憲法違反であることは明白である。
北九州市で行われていた、保護開始・廃止件数の事実上の数値目標を各福祉事務所に課す手法は全国に報道され、有名になった。北九州市では、生活保護対象者に対し、社会問題となるほど厳しい方針が取られた。マスコミの多くは北九州市の施策を批判したが、『週刊新潮』は不正受給を強調し、北九州市を支持した[2]。2006年11月30日放送「報道ステーション」で北九州市の「水際作戦」が報じられると、同市は「公平・公正さに欠ける」と抗議した[3]。

しかし、2005年5月以降だけでも、生活保護申請却下、保護廃止となった市民の孤独死者は前述を加えて6人に上っており、その後、北九州市は公式サイトの抗議文を削除し、これらの問題を第三者機関が検証する「北九州市生活保護行政検証委員会」の議事録を公開している。そのなかで、数値目標は暴力団の不正受給を防ぐための目標だったが、数値目標が一人歩きし、不必要な人間に生活保護を出し、本当に必要な人に生活保護を出さなくなったのではないかなどと検証されている[4]。

また、2007年3月4日放送のテレビ朝日系『サンデープロジェクト』でも数値目標についてある窓口での文書を入手し、その文章について福祉職員が匿名で「面接主査課長、福祉事務所長の人事考課が下がるから必死に断らなくてはいけない。」「『申請書ください』『ハイそうですか』と渡す人は無能な職員とみなされ出世できなくなる。上司に指導される。」などと証言した。
北九州市はテレビ朝日の取材に対して「文章の数字は見込みであり目標ではない。職員の人事考課に影響することは無い。」と答えたが、2007年2月に初当選した北橋健治北九州市長は役所の対応に問題があったことを認めた。

厚生労働省社会援護局橋本浩樹保護課長は『サンデープロジェクト』の取材に対し北九州方式について「モデルとして推奨したわけではない」と答えた。 2007年12月14日、また、他地域でも兵庫県加古川市において、心筋梗塞で働けなくなった30代男性の生活保護申請者の申請取下げ書を偽造していた事件が発覚した[5]。また大阪府貝塚市でも2007年に複数の違法行為が発覚し、「大阪の北九州」との声もささやかれるに至った[6]。札幌市白石区でも1987年に“保護受給申請をさせず相談に留める”同様の対応が行なわれていたことが確認されている[7]。

『ウィキペディア(Wikipedia)』引用終わり
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私は基本的にこの説明を書いた人の見解に賛成ですが、行政側は基本的に「水際作戦などない」というでしょう。

問題は、「生活保護申請を意識的に受け付けずに追い返せ、という指示が明確に上司からあったかどうか」ではありません。

水際作戦といわれるような現象の背景にある、福祉行政職員の姿勢や思想そのものをちゃんと見直しているかどうかです。


つまり、「“溜め” が少ない人(社会的弱者)」をエンパワメントするように援助する、ということが、福祉事務所にあるかどうかです。

エンパワメントとは、本人自身が助けてもらわねばならない、無力な存在だと自分を否定的にとらえるのではなく、自分には力がある、と思えるようになっていくことです。
エンパワメントの視点に立った援助とは、その人の中にある力を信じ、引き出していくような、当事者主体の援助です。

それをしていくためには、よく聴くことが重要です。
その人のニーズは何なのか、思いは何なのか。すぐにうまく言えないなら、ゆっくり聞きますよと待てるかどうか。何が言いたいんだといらいらするとか、話ベタを怒るといったことがないようでないといけません。私はあなたの味方ですよ、あなたを信じますよという態度も必要です。
よく聴くためには、その場とか、その相手に対する安心感とか信頼感が必要です。すぐに怒られたり説教されないとか、秘密がばらされて不利に処分されることがないといった安心感が必要です。
聴く人が能力主義、自己責任論の感覚をもっていては、「“溜め” が少ない人(社会的弱者)」は話(相談)ができません。自己責任だけで見てはダメですよ、とむしろ、自己否定的になりがちな要援助者に、権利として福祉制度を利用したらいいんだ、そしてあなたには、幸せになっていく権利と力があるんだよと支援していくことが必要です。


安積遊歩さんはコウカウンセリングの重要性を昔からずっと言ってきました。専門家としてのカウンセラーに金を払って聴いてもらい、治療してもらうというのではなく、ふつうの素人が対等に同じ時間ずつ、気持ち・感情を無批判的・受容的に聴きあう、というものです。


さて、福祉事務所にそのような姿勢・思想があるでしょうか。残念ながら、上記のような「エンパワメントの視点に立った援助」の水準には程遠いのが現状でしょう。
中には個人的にすばらしい職員もいます。しかしそれは例外的です。
だから全国のあちこちで、「水際作戦」とよばれるような現象が起きたのです。だから生保申請に同行することが重要となったのです。
だから運動側は、「水際作戦」という命名を行って問題を顕在化させたのです。

したがって私は、本質を多くの人が理解し、事態が改善されることを願って、以下のようにいいたいとおもいます。

「水際作戦」という概念で問題としていたのは、狭い意味の「生保申請受付拒否姿勢」ではなく、その背景の福祉行政の貧困な非援助的な姿勢の思想そのものであった。
つまり、福祉行政が真に人権擁護の立場にたった、エンパワメントの視点で、要援助者を支援してこず、“溜め”の少なさに配慮せず、能力主義と自己責任論でむしろ排除的に接してきたことが、水際作戦の意味であった。


それをもうすこし短く言えば、
「エンパワメント視点の欠如した排除的姿勢」
「“溜め”をみない冷たい態度」
「自己責任論による意地悪対応」
ということです。

今回のA君生保申請不当逮捕事件は、柏原市(柏原福祉事務所)が、この「エンパワメント視点の支援」ではなく、その逆に、「エンパワメント視点の欠如した排除的姿勢」で臨んだために起こった事件です。援助の姿勢が十分でなかったという自分たちの姿勢を省みることなく、それを棚に上げて、逆にあろうことか逆ギレして、A君を不安に追いやり告訴までして排除したということです。

北九州市立大学非常勤師(元、北九州市ケースワーカー)の藤藪貴治さんが、賛同メールで言ってくださっているように、福祉職員は、高潔な人格と社会福祉の増進に熱意をもって、申請権を侵害せずに懇切丁寧な対応をしないといけないのに、柏原の職員はそれをしませんでした。思慮が円熟な面接で、お互いの信頼関係を築き上げて、円満な解決を図る必要があったのに、それをしませんでした。
その逆に逮捕させ、職業訓練学校を辞めざるをえなくさせ、拘置所に2ヶ月以上閉じ込め続けています。

今回の事件を、「水際作戦」とは別であるなどととらえるのは、まちがっています。

2010-01-10 11:49 | 記事へ |
| 人権 / 政治、権力 / 貧困/反貧困 |
法務省の性的少数者差別判断


今朝の『朝日新聞』をひらいてびっくり。FTMトランスジェンダーのひとが、性同一性障害者特例法に基づき戸籍上の性別を変更し、女性と結婚したのだが、その人が第三者の精子を使って妻との間に人工授精でもうけた子を、法務省は「嫡出子とは認めない。非嫡出子として登録せよ」との見解を示したという。

まったく何重もの差別的行為である。
と同時に、法と制度と意識がまだまだほとんど性的マイノリティの権利を念頭に入れていない旧態依然の差別体系であることの必然的結果でもある。解決は、根源的な方向を明確にして体系自体を変えていくことでしかえられない。

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先ず、新聞記事が指摘するように、同じ人工授精でも夫が「生来の男性」の場合は嫡出子として受理しており、法の下の平等に反するのはあきらか。民法では夫が生物学的な男性であるべきだとの規定はないし、民法772条では、妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する」となっており、民法の親子関係は、たとえば養子縁組があるように、生物学的なもの以外でも多様にある。今回の判断は、これと矛盾する。
特例法は性別変更後は新たな性別で民法の適用を受けると規定している。これにも反する。

しかしこの問題の背景には、上に記したように多様な問題体系がある。

@性同一性障害特例法で、自分の望む性で生きていける(性別変更が認められる)というときの条件が狭すぎる問題。

A性同一性障害特例法自体が、男女二分法に則っているという限界。

Bそもそも、「婚外子」差別するということが大問題。嫡出概念をなくして、あらゆる子どもを平等に扱う必要がある。

C今回の法務省判断は、直接的には性同一性障害者差別といえるが、その根底には、あからさまな同性愛者差別思想があるということ。

Dより根源的には、男女二分法・異性愛だけが正しい、と信じ込みそれ以外を差別するという問題(セクシュアルマイノリティ差別)がある。

E多様な家族が認められていく世界の潮流に反している。サンボ法やパックス法制度のように、「『異性愛者の法律婚』以外のつながりかたも、『異性愛者の法律婚』と同じように権利を保証していく」ということが先ず必要だが、そういう方向で改革を考えず、逆に、旧来の性秩序の維持強化の判断をしたという問題。

F「子どもを持つのは結婚した夫婦の間の自然生殖で」という限定を取り除いて、多様な子どものもち方を検討していくべきである。たとえば独身者や同性愛カップルが養子を持てるようにすること、精子バンクを利用して、独身女性が子どもを持てるようにすること、などは、子どもの福祉・人権を尊重する担保をとりながら原則保障していくべきではないか。

G根本は、結婚制度に入らないとダメ(損をする)という結婚強制システムがおかしい。

離婚した後再婚して、パートナーの連れ子と親子関係になるなど、多様な親子のつながり方はある。血縁主義を越えて、人と人が〈たましい〉でつながっていけばいいじゃないですか。
人が独身か既婚者かというような不必要な線引きの意味をなくすことが必要なのではないでしょうか。
人と人が愛し合ったり、助けあったり、子どもを育てていったり、要介助の人に介助という関わりをしていくということが、「結婚制度・家族制度・血縁主義」の枠を超えて、もっとみなで多様になされていく社会を追求していけばいいのにね。


以下新聞記事∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
「性別変えた夫の子、妻出産でも婚外子扱い 法務省見解」@ asahi.com
http://www.asahi.com/national/update/0109/OSK201001090155.html

2010年1月10日3時1分

 心と体の性別が一致しない性同一性障害との診断を受け、女性か ら男性に戸籍上の性別を変更した夫が、第三者の精子を使って妻と の間に人工授精でもうけた子を、法務省は「嫡出子(ちゃくしゅつ し)とは認めない」との見解を示した。全国で6件の出産例を把 握、非嫡出子(婚外子)として届けるよう指示した。だが、同じ人工授精でも夫が生来の男性の場合は嫡出子として受理しており、 「法の下の平等に反する」との指摘が出ている。

 性同一性障害者が自ら望む性別を選べるよう、2004年に施行された特例法に基づき、兵庫県宍粟(しそう)市在住の自営業Aさ ん(27)が戸籍を「女」から「男」に変更したのは08年3月。
翌月、妻(28)と結婚した。男性としての生殖能力はないため実 弟から精子提供を受け、妻が体内受精で昨年11月に男児を出産した。
 市役所に「嫡出子」として出生届を出そうとしたところ、宍粟市 はAさんの性別変更を理由に受理を保留。法務省の判断を受け、今月12日までに「非嫡出子」と書き改めて届け出るよう、昨年末に Aさんに通知した。嫡出子は、法律上の婚姻関係にある夫婦から生
まれた子。非嫡出子となれば、戸籍に父親の名は記載されない。

 嫡出子と認めない理由について、法務省は朝日新聞の取材に「特 例法は生物学的な性まで変更するものではなく、生物学的な親子関 係の形成まで想定していない」と文書で回答。出生届を出す窓口 で、戸籍から元は女性だったとわかるため、「遺伝的な父子関係が ないのは明らか」(民事1課)と説明している。

 他人の精子を使う非配偶者間人工授精(AID)は、性同一性障 害者に限らず夫の生殖能力に問題がある場合の不妊治療として戦後 広く行われてきた。1万人以上の子が生まれたとされ、遺伝的な父 子関係がないにもかかわらず、一般的には嫡出子として受理されて いる。「窓口ではAIDの子かどうか、わからないため」(宍粟市)だ。

 法務省の見解は、同じ人工授精で生まれ、同様に遺伝的な父子関 係がない子であっても、父親が生来の男性の場合と性別変更で男性 になった場合とを分けて対応する立場を明らかにしたものだ。

 ただ、民法には夫が生物学的な男性であるべきだとの規定はない。特例法は性別変更後は新たな性別で民法の適用を受ける(4条)と規定している。Aさんは「男として結婚は認めたのに、父親としては認めないのはおかしい」と反発。市の求めには応じず、市が非嫡出子として手続きを進めた場合は、神戸家裁に不服申し立てをする。

■法整備、現実に追いつかず

 性同一性障害を抱える人が自ら望む性別で社会生活が送れるよ う、制度化したのが特例法だった。昨年3月までに戸籍上の性別を 変更した男女は1468人。性同一性障害者はこの何倍もいるとみ られる。だが今回、法務省が示した見解は、法に基づいて性別変更 した人をなお「別扱い」にするもので、今後各地で争われる可能性 が高い。

 民法は「妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する」(772条)と規定。法的に結婚した夫婦の間に生まれた子を嫡出子と定 義している。夫以外から精子の提供を受ける非配偶者間人工授精 (AID)でも、夫の同意があれば嫡出子として扱われてきたの は、そのためだ。

 日本産科婦人科学会の倫理委員会は、特例法により女性から男性 に性別変更した人と妻がAIDを受けることについて「ガイドラインに抵触しない」との見方を07年に示した。学会理事長の吉村泰 典・慶応大医学部教授も「法律婚であることがAIDの要件。今回 のような夫婦に実施するのを否定する理由はない」と明言。ことは 法の受け皿の問題であるのは明らかだ。

 早稲田大学の棚村政行教授(家族法)は「民法は夫について生来 の男性とは規定しておらず、特例法でも特にルールを設けていない のだから性同一性障害者を別扱いする理由はない」と指摘。

 一方、学習院大学の野村豊弘教授(民法)は「民法は夫婦間の自 然生殖を前提としている。今回のケースは、生来の男性が夫である 場合の人工授精と違って夫の子ではあり得ないということが客観的に明らかなので、民法772条の嫡出子とみる『推定』は働かず、法務省のように判断するしかない」と話す。

 だが、両氏とも「第三者の精子や卵子を使って生まれた子と親の 関係を決める法整備が現実に追いついていないことが今回の問題を 招いた一因だ」という点では一致している。まずは特例法で子の法 的な位置づけを明確にするなど、法整備を急ぐべきだ。(上原賢子)


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2010-01-10 10:12 | 記事へ |
| ジェンダー / 人権 / 政治、権力 |
2010年01月08日(金)
マーク・ロスコ

マーク・ロスコの絵が昔から好きで、スウェーデンで画集を買って、油絵の具をかって、真似たような絵を描いていた。

今年、2009年7月19日にNHKでマーク・ロスコに関する番組があったそうで、それに関する情報が載っていた。

「亡命ユダヤ人だったロスコはニューヨークで画家の道を歩み始め、前衛的な仲間たちとシュルレアリスム風の絵画などさまざまな表現を模索していた。第二次大戦後、ロスコはついに 線も形も捨て去って色だけの絵画に到達する。
巨大な画面に赤や褐色などの少数の色が塗られただけの「ロスコ・スタイル」と呼ばれる作品たち。一切の「意味」がはぎとられ、一目みただけでは「何だこれは」と言うしかない不思議な世界である。」

意味がそぎ落とされた世界などといってたらしいが、そんな評価は僕には不要。

「何だこれは」なんてまったくおもわないなあ。

きれい。描いてみたい。すばらしいバランス。
色自体の美しさ。
色のバランス。かたちのきれいさ。

みたい。
ほーとおもえる。
すごいーとおもえる。
誰とも違う、その世界。

絵の具であの色を出そうと思ってもなかなかでなかったなあ。

美意識が近い人といい絵だねと話し合ったこともあったなあ。

徐々に色が変化するというのはとてもふしぎなことです。

描いてみるとわかります。



2010-01-08 09:51 | 記事へ |
| 作品 / スピリチュアリティ |
2010年01月06日(水)
A君無罪!釈放要求緊急集会

集会の詳細が決まりました。ぜひご参加ください。

【転送歓迎】
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生活保護申請ビデオカメラ弾圧事件
A君無罪!釈放要求緊急集会
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囚われの身として3ヶ月目、A君は即時釈放をされなければなりません。こんな
弾圧で有罪の判例を出させる訳にもいきません。1月15日、いよいよ裁判が始
まります。この日は情宣、傍聴行動、集会を予定しています。参加できる所だけ
でも是非ご一緒下さい。お願いします!

●日時:1月15日(金)18時開場 18時30分開始
●場所:エル・おおさか 6階 大会議室 ●参加費:無料

●発言者:
木原万樹子(国選弁護人、ホームレス法的支援者交流会共同代表)
加藤亮子(NPO法人釜ヶ崎医療連絡会議、福祉事務所勤務)
櫻田和也(remo [NPO法人記録と表現とメディアのための組織])

●連帯アピール:
釜ヶ崎日雇労働組合
NPO法人 釜ヶ崎医療連絡会議 など

◆情 宣 :
11時30分 南海電鉄堺東駅西口(コンビニ前)に集合
12時〜13時 公判のある大阪地方裁判所堺支部の前で情宣
◆傍聴行動:
14時10分〜50分 第一回公判

大阪市柏原市で生活保護を受給していたユニオンぼちぼち組合員A君が、10月
27日に職務強要罪で逮捕されました。(事件についての経緯は「ユニオンぼち
ぼちのブログ」12月19日、12月11日を参照下さい。)容疑は2ヵ月半前
の生活保護申請時において「脅迫」を用い申請書の受理及び保護決定を強要した
というものです。A君は各福祉事務所で横行している水際作戦に対抗し、申請の
証拠を残すためにビデオカメラを構え、「公務員でしょ。申請させてください。
ちゃんと対応してください」「生存権を保障してください」「ユニオンチューブ
(労働組合の動画サイト)っていうのがあるんですよ」という発言をしただけで
、暴言を吐いたり机を叩いたりした訳ではありません。もちろん柏原市福祉事務
所も認めているように生活保護を不正受給した訳でもありません。それなのにA
君は告訴され起訴され勾留され続け、保釈請求も却下され続けています。逮捕の
2日後に組合事務所も家宅捜索されました。こんなメチャクチャ許せません!A
君は無罪!国家ぐるみの不安定労働者イジメ弾劾!直ちに釈放しろ!という声を
力を合わせて対置していこうではありませんか!緊急集会に万障を繰越しご参加
を!

●エル・おおさか最寄駅:
・京阪.地下鉄谷町線「天満橋駅」より西へ300m
・京阪.地下鉄堺筋線「北浜駅」より東へ500m
・地下鉄御堂筋線「淀屋橋駅」より東へ1,200m
・JR東西線「大阪天満宮駅」より南へ850m

主催:関西非正規等労働組合ユニオンぼちぼち
連絡先:hogohiwoagero(at)yahoo.co.jp 当日連絡先:090-7963-5788
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2010-01-06 21:31 | 記事へ |
| 貧困/反貧困 / 政治、権力 |
居場所としての「ユニオンぼちぼち」

1月5日付け「京都新聞」の18面に、「ユニオンぼちぼち」の12月26日の忘年会(定例カフェ)の写真とともに、「ユニオンぼちぼち」メンバーへの取材記事が載りました。

多様な人たちの居場所となりつつある「ユニオンぼちぼち」のある側面が書かれています。
ぜひお読みください。
2010-01-06 15:18 | 記事へ |
| メディア / 関係性 / 貧困/反貧困 |
メディアに批判的であるということ


A君事件では、産経新聞などが間違った悪意ある報道をし、A君がまるでお金があるのに不正に生活保護を受給しようとして暴力的なことをしたかのような伝え方の記事を出しています。
これはまったく事実に反しています。
柏原福祉事務所がウソ情報を流し、それを警察と新聞記者が鵜呑みにした結果だと思われます。
メディアにリテラシー力・批判的な眼をもっておかないと、メディアに騙されるのは常識です。

メディア(ジャーナリズム)がまともになるには、反権力の視点も必要だし、深い分析の視点もいりますが、残念ながら、そうでないのが多くいて会社を牛耳っています。
この間の普天間問題などでも『朝日新聞』などもまったく同じで、なさけない限りです。

社会には主体が先にあって、立場があって、自分はジャーナリストで中立で、事実を見て描くだけ、と言うような構図が間違いなのですが、困ったことに、それがわかっておらず、自分が今の主流秩序の中でどのような位置にあり、自分の視点や記事がどのような影響を及ぼすものなのかを自覚しようとしていない人がほとんどです。
自分をも対象として分析できない。
だからこそ、警察の情報をちゃんと調べもせず垂れ流しにできる。お決まりの取材で仕事をしている気になっている。
客観中立のつもりで。

そんなんだから誤報だと分かっても訂正記事も出さない。新聞記者としての自分を深く反省して総括しない。辞職もしない。生き方の芯がないから、恥を知らない、と言うことです。

1969年の映画『ゲバラ!』をみたら、ゲバラのイメージはかなり違います。この映画では、かなり非道でダメ人間のように描かれています(反共意識がある人が作ったのだろうと思う)。
作り方によってゲバラのイメージが全然違います。その原点を思い出させてくれる映画でした。
同じように、記事の書き方次第で、まったく印象が異なるものです。

さて、そんなことを今朝の新聞で再確認。
郵便不正事件で、元雇用均等・児童家庭局長の村木厚子被告が悪いことをしたという報道が洪水のように流されました。本人はずっと否認し続けて長期勾留されました。
私には事の真相はまだわかりませんが、彼女はそんなことをする人ではないという友人達はこれはでっち上げ事件だといっています。
しかし、初期は報道を読んでいて、私も「彼女が不正に関わっていたのではないか」という印象を持っていたのも事実です。
しかしその後、本人が自分は絶対にやっていないということで、長い勾留生活でも毅然と生活していたというのを知ると、その一貫した強い信念は、本当のことを言っているからではないかという感じを私は持っていました。

それについて、今日の報道で、村木厚労省元局長の指示をうけていたといっていた元係長が、実はそうではなかったと証言を翻しているそうです。
これが事実なら、村木さんは無実です。
とすると、新聞やメディアは間違った警察・検察情報を鵜呑みにして、村木さんが悪人だというイメージを作り上げることに加担したということになります。誤報、冤罪ということになります。

さて、本気でメディアは自分たちを本気で反省できるでしょうか。
検察も自分たちの間違いをちゃんと謝罪するでしょうか。

A君事件でも、ほんとうに、警察、検察、裁判所、メディアはいい加減に動いています。事実を調べもせず、ゆがめて受取ったままの暴走です。
それが事実であり、裁判がどうなろうとも、A君の言動は職務強要罪で有罪とされるようなことではありません。不条理が社会にはありますが、おかしいことにはおかしいといっていく必要があります。

以下、新聞記事
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「厚労省元局長の指示を否定 郵便不正事件で元係長側」@asahi.com
http://www.asahi.com/national/update/0106/OSK201001050161.html

2010年1月6日4時2分

 厚生労働省から偽の証明書が障害者団体を自称する組織に発行され、郵便割引制度が悪用された事件で、虚偽有印公文書作成・同行 使の罪で起訴された厚労省の担当係長だった上村(かみむら)勉被告(40)=現・主査=側が、「偽の証明書は独断で作った」という趣旨の主張をし、当時の上司で元雇用均等・児童家庭局長の村木厚子被告(54)=同罪の共犯で起訴、休職中=の指示を否定していることが5日、関係者の話でわかった。

 弁護側と検察側、裁判所の間で争点を話し合う公判前整理手続きの中で、そうした主張が明らかにされたという。大阪地検特捜部の調べでは、上村元係長は捜査段階で、村木元局 長の指示で証明書を作ったことを認めたとされ、検察側は元局長の 関与を示す重要な証拠と位置づけている。検察側は今後、ほかの厚労省関係者の証言も踏まえ、公判で元局長の共犯性を立証する方針だが、元係長側が指示を否定したことは、大きな争点になりそうだ。
 村木元局長の初公判は、27日に大阪地裁で開かれることが決まった。元局長側は全面無罪を主張する方針。
 検察側の構図では、上村元係長は障害保健福祉部企画課係長当時の2004年、企画課長だった村木元局長の指示で、自称障害者団 体「凛(りん)の会」(現・白山会、東京)を郵便割引制度の適用 団体と認める偽の証明書を作成。元局長は、凛の会元会長の倉沢邦夫被告(74)=同罪の共犯などで起訴=の依頼で国会議員が口添えの電話をした当時の部長(退職)から、発行を指示されたとされ ている。

 倉沢元会長の公判で明らかにされた元係長の捜査段階の供述調書 や検察側の冒頭陳述によると、元係長は、元局長から「部長から下りてきた話でもあるから、すぐに証明書を作って下さい」と催促され、完成した際には「あとは私に任せて下さい」と言われた、とされている。

 一方、村木元局長は捜査段階から「不正を頼まれたことはなく、部下に偽造させたこともない」と関与を否認。倉沢元会長も「証明書が虚偽とは考えなかった」と無罪を主張しつつ、証明書は元局長 から受け取ったと説明している。
 郵便不正事件では、実態のない障害者団体名義で企業のダイレク トメール広告が大量発送され、企業や団体関係者ら計20人が郵便法違反容疑などで逮捕・起訴されている。

 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  
メディアの怖さ、間違った情報に影響されることに敏感でなくてはならないということで、以下、ついでに関連情報を一つ。

NHK『坂の上の雲』をめぐっては事実と異なり、国家主義的な扇動の面があると批判されています。『坂の上の雲』放送を考える全国ネットワークは、同ドラマ放映前の昨年11月に、NHKに対し、「NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」放送についての共同申し入れ」をしました。申し入れ書などから抜粋すると以下のようになります。

原作の作者司馬遼太郎氏は「本来からいえば、事実というのは、作家にとってその真実に到着するための刺激剤であるにすぎないのだが、『坂の上の雲』に限ってはそうではなく、事実関係に誤りがあってはどうにもなら」ない(文春文庫、新装版『坂の上の雲』第8巻)と述べています。
そして新聞連載に吟味を加えた上で「全集」に収録されたその後にも「重大な誤り」について「月報」に訂正文を掲載しています。つまり、『坂の上の雲』は単に日清・日露戦争とそこに登場した人物を題材にしたというだけでなく、全編を通して歴史の事実にそって編まれた小説です。
 ところが、その原作を貫く歴史観には次のような重大な誤りが含まれています。
たとえば、司馬氏は「日露戦争はロシアからは侵略戦争、日本からは祖国防衛戦争であった」と記していますが、ここには根本的な歴史的事実の誤認があります。当時、ロシアが日本を侵略しようとしていたことを示す歴史的事実はありません。ロシアに侵略される現実的な脅威もないのにロシアと戦うことが「祖国防衛戦争」とどうして言えるのでしょうか。朝鮮半島がロシアなどの大国の勢力下におかれると日本の主権が脅威にさらされるというのは、明治の為政者たちが軍備拡大のために意図的に唱えた対外政略論に過ぎません。
さらに、開戦前のロシアには、朝鮮半島制圧の企図もありませんでした。これらの事実は、戦後の歴史研究で多くは明らかにされていましたが、とりわけ最近の根本資料に基づいた研究でいっそう詳しく実証されています。かえって、日清戦争と日本の朝鮮王宮占領、「東学党の乱」の武力制圧、朝鮮王妃の殺害などを経て、日露戦争での朝鮮占領、そして「韓国併合」、さらに「満州」占領へと政策展開していったという近代日本の歩みこそが歴史の事実であることが明らかにされています。

つまり、原作者・司馬氏の「極東情勢」認識や朝鮮半島制圧についての認識には、明らかに誤りがあります。

 司馬氏は生前、数々の映画、テレビドラマへの「映像化」要請を拒み続けたといわれます。1986年NHK教育テレビでもその趣旨の発言を自らしています。
氏が映像化を拒み続けた理由は、この原作そのものに加え、映像にした場合の「戦争」場面の多さが、過去の戦争の反省の上に実を結んだ憲法第九条の精神や人々の非戦の誓いに逆行すると考えたからではないでしょうか。

氏は1945年以降の「戦後」を高く評価し、「私は戦後日本が好きである。ひょっとすると、これを守らねばならぬというなら死んでもいいと思っているほどに好きである」(『歴史の中の日本』)と述べています。 NHKは、こうした司馬氏の思いを深く尊重すべきではないでしょうか。
 憲法9条を「改正」して「普通の国」にしようとする動きが強まっている今日の状況のもとで、司馬氏が「迂闊に映像に翻訳すると、ミリタリズムを鼓吹しているように誤解されたりするおそれがあります」と懸念したことの意味が、今あらためて大きく現実感を帯びてきているように思われてなりません。
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2010-01-06 11:09 | 記事へ |
| メディア / 人権 / 政治、権力 |
A君裁判カンパ、ありがとうございます。


先日もここで紹介しましたが、柏原市福祉事務所の不当告訴からはじまったA君事件の集会が、15日にあります。ご参加ください。
不条理は不条理です。きっちりそのことを言い続けます。自己責任論にならない視点をもてるかどうかが、この事件の理解には重要です。

1月15日 支援集会 (詳しい内容は後日発表します)

於:エルおおさか大会議室(6階) 地下鉄・京阪 淀屋橋駅近く
  18時30分 開始
  集会の内容(予定)
 ・これまでの経緯   ・今後の方針   ・生活支援の現場より
  など
20時30分 終了
*参加費無料
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カンパが集まってきています。
本当にありがとうございます。

私の友人や知り合いも、団交でであった方たちなども、カンパしてくれて、本当に嬉しいです。
年末、元ゼミ生に会って、いろいろ話をし、A君カンパももらいました。
昨日、入金情報もらいました。

気持、深く、受取りました。

1月5日、Aさんの接見に行って、みなの賛同メールの紹介やカンパのこと、話しました。
みなの支援があるので、A君は、がんばって裁判闘争を闘っていきたいと元気そうでした。

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賛同文紹介

京都生協の働く仲間の会

役所の公務員労働者の奮起をお願いしたいです。役場の公務員労働者は、失業労働者仲間を、労働者仲間として考え、行動して欲しいです。どんどん交流し、失業を強いられている仲間には、失業を強いる会社と社会との闘いを、共に担うことを考えて欲しいです。
公務員労働者が、命令通りすることばかり考えていると、赤紙配達人になってしまいます。また、戦前は、東北地方では特に、役場が、年少女子の人身売買取引の場になったと聞きます。そこで、公務員は、人身売買仕事に従事したと聞きます。
そんなことは、繰り返してはなりません。公務員労働者と失業労働者仲間の大団結を作る為に、共に頑張りましょう。特に、公務員労働者側からの努力が絶対に大事です。この点強く訴えたいです。


2010-01-06 02:09 | 記事へ |
| 人権 / 貧困/反貧困 / 労働 |
脱“パパラギ”へ(その1)

「パパラギ――始めて文明を見た南の島の酋長ツイアビが話したこと」 エーリッヒ・ショイルマン(立風書房)を読んだ。

昔、違うのを読んだことがあったのだが、今回、絵本バージョンを読み返して、いいこといってるなーとおもった。講演や大学の授業で少し使った。

昔読んだはずなのに、そんなふうにはなかなか生きていけない。こういう気持を持ち続けて実践するのが難しい、と改めて思った。

でもある日、免許更新に警察に行った帰り、自転車で芥川の横に行って、土の堤防を走り、止まって空を眺めて、気持ちよかった。
「脱パパラギ」を、いかに自分の生き方に生かすか。

毎日、瞬間において、“いろんなことをちゃんと味わう”気持をできるだけ持とうとおもう。

何が大事か。 目の前の大事なことを大事にする。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆

その本で言っていること。少し紹介しておきます。(その1)

所有について

 たくさんのものを作り、自然の大きな力が作ったものをこわし、消費する生活がダメ。みんなが新しいものをほしがるのがおかしい。より少なく生きればいい。

ある男が、自分の頭や手が私のものだというのはわかる。だがその先、「この椰子(やし)は自分のものだ」というのはおかしい。椰子の木は誰のものでもない。自然の大きな力が作ったものではないか。

なぜ、分け与えないのか
100枚のむしろを持っているのに、どうして横にいる、持っていない人に1枚分け与えようとしないのか。

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前よりも、お金を使わずには生きているとは思うが、まだまだだとおもうし、まだまだ捨て切れていない。
でも、まあ、目の前の大事なことを、そこそこ大事にはできているとは思う。

正月、メールも見ず、2日間、前から書いていて忙しくてずっと止まっていたほんの執筆を行って、めどがついた。
少し気持ちよかった。 メールとか情報とか、テレビとか携帯電話とか、そんなものから離れて、あることに集中する喜び。

人でも同じ。少数でも、大事に包もう。
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2010-01-06 01:42 | 記事へ |
| スピリチュアリティ / 生き方 / 作品 |
「普天間移設」は、どこかが受け入れるべきなのか?

『基地はいらない、どこにも』を作られた小林アツシさんが、以下のようなことを述べておられます。

昨年、民主党が政権を取って以来、いわゆる「普天間移設」の問題がマスメディアで大きく取り上げられていますが、普天間基地を「移設」することが前提になってしまっています。それはおかしい。

市民運動の団体の人達が全国から辺野古に集まった時、名護市瀬嵩の渡具知智佳子さんは集まった人達に以下のように伝えました。

 「皆さんの地元に持っていけばいいんじゃないかって言われたら、それはそれで拒否してくださったらいいんです。ウチもいらないよ、沖縄にもいらないよっておっしゃってくださったら、それで私達はすごい励みになるし、一緒に頑張っていけたらと思います。」

時折、どこかが「普天間基地の機能を受け入れる」と言わなければどこにも決まらないから無責任だ、という主張がされる時があります。
しかし、人殺しのための基地などどこにもいらないのです。

そして、軍事基地はその地域が容認していると拡大し強化されます。
2004年にラムズフェルド国防長官(当時)は「歓迎されないところに、基地は置かない」と発言しました。あれだけ強面(こわもて)と思われている米軍であっても、できれば自分たちを歓迎してくれるところにいたいのです。

いまこそ、全国各地で「基地はどこにもいらない」と声をあげるべき時です。

詳しくは、小林アツシさんのブログをご覧下さい。

http://atsukoba.seesaa.net/
http://atsukoba.seesaa.net/article/137472130.html

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2010-01-06 01:31 | 記事へ |
| ナショナリズム政治 / メディア / 暴力・DV |
両忘(りょうぼう)


禅の言葉で「両忘」(りょうぼう)というのがあります。
両方忘れる、の意味です。
白か黒かどっちが正しいのかということにとらわれてしんどくなる二元的な考え方を忘れて、あいまいなことをそのままうけいれることで、しんどさから解放されること、みたいな意味だそうです。

時間がたてばこだわりがたいしたことでないとわかることも多いです。急いであまり小さなことにとらわれず、おおらかに向き合うのは重要です。

AかBか決断しなければならないこともありますが、大きく見れば、どっちをえらぼうと間違いではない、また修正していけるとか、どちらであろうと、その質が問題だとか、まあいろいろあります。
議論でも折衷的な真ん中がいいとか、バランス論がいいこともあります。
理屈だけじゃなく直感もいれて考えたらいいほうがいいこともあります。

違う考え方でもその人を尊重する、理屈で言い負かせないというようなことが大事なこともあります。
凄く怒ったけど、実はそれはちいさなことだったということがあります。
そうあんまり怒るな、ということもあります。

お金とか出世とかにこだわって、後で思えばたいしたことでないことにとらわれていたとわかることもあります。
ケンカしたけど、離れるほどでなかったなと思うこともあります。

☆  ☆  ☆  ☆
ぼくが尊敬したり信じたり、大事だと思った人が、あれ?とおもうことがありますが、それでも、少し時間がたてばそこに流れていた信頼感は、確かなものだったと思えることがあります。
ちゃんと大事に関わった、信じた、だけど、相手が離れていった、でもそれはその人の背景にいろんなものがあったので、しかたなかったと思えることがあります。
「あれ?」とか、怒りとか不信感とか思うことはほんの小さなことで、
やはり大きくみれば、その人への信頼感とか、尊敬とか、その人の純粋さとか、それがあるよなと思えることがあります。
だから、おおきくみれば、ステキな人たちがみんな幸せになればいいなというのは、まったくそうなのです。
たとえば、あるひとが「ユニオンぼちぼち」にきたけど、ある事情の中で離れるしかないというようなこともありますが、でも一緒に過ごした時間に間違いはなかったと思えることがあります。
ちいさなこと、自分の利益とか、自分の所有とか、自分の味方だとか自分の恋人だとか、自分を大事にしてくれるとか、組織に残るとか、ちゃんと働くとか、そんなことから離れて、遠くから、大きくみていく感覚を持ちたいなって思います。結果、最初の「あれ?」はとてもちいさくなります。大きく見れば、幸せを願い、怒りは消えていきます。

自分の不要なこだわりから離れること。
自分と違っていることを受け入れること。

両忘とは、そんなふうにも使えます。
2010-01-06 00:18 | 記事へ |
| スピリチュアリティ / 関係性 |
2010年01月02日(土)
A君支援 裁判傍聴と集会参加の呼びかけ

以下、裁判傍聴と集会参加の呼びかけです。

よろしくお願いいたします。

【A君支援/転送歓迎】
        裁判傍聴、集会参加の呼びかけ

大阪府柏原市での生活保護申請をめぐり不当逮捕・起訴されたA
君の公判(裁判)が、1月15日に始まります。厳しい闘いにな
ることが予想されますが、しっかり支え、きっちりやり返す所
存です。
どうか引き続き、ご注目とご支援をよろしくお願いいたします。

さて、公判の始まる1月15日、以下のような行動を予定してお
ります。
平日ではありますが、ご参集のほど、よろしくお願いいたしま
す。

◆裁判所前での情宣と裁判傍聴
 11時30分 南海電鉄堺東駅西口(コンビニ前)に集合
 12時〜13時 公判のある大阪地方裁判所堺支部の前で情宣
 14時10分〜50分 第一回公判【傍聴をお願いします!】
 http://www.courts.go.jp/osaka/about_katei/syozai/sakaisibu.html

◆支援集会 (詳しい内容は後日発表します)

於:エルおおさか大会議室(6階)
 http://www.l-osaka.or.jp/pages/access.html
 18時 開場
 18時30分 開始
  集会の内容(予定)
 ・これまでの経緯
 ・今後の方針
 ・生活支援の現場より
  など
20時30分 終了
*参加費無料
2010-01-02 18:52 | 記事へ |
| 貧困/反貧困 / 労働 |