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2010年02月10日(水)
ヴィスワヴァ・シンボルスカは、何を言っているのか。
言葉を発しても、沈黙しても、それば政治的な意味を持つ
非政治的な詩を書きつけたとしても やはりそれは政治的なこと
空に月が光っていても どんな問いも 愛の言葉も 接近も 選択も 別れも 離脱も
攻撃も 容認も 無視も 裏切りも そばにいることも 嫉妬も 秘密も 赦しも
その職業につくことも その職を離れることも それをしらないことも 興味を持たないことも
それは 選んでおり 影響を与え 世界を編成している
そして 空しい議論、会議、政治 そしてひどい現実 誰も責任をとらない 現実を変えない 逃げる そして悲惨な現実は続く
写真の片隅に写っていた抱擁のうしろにかくされている、ゆたかさ
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世紀の子供たち (1986年 「橋の上の人々」収録)
われわれは 20世紀を生き抜く子供たち
この世紀は政治的な時代
お前の われわれの そしてお前たちの
昼の用事 夜の用事
すべて政治的な問題にかかわりを持っている
好むと好まざるとにかかわらず
われわれの生きてきた時代は
肌の色が何色であるとか
目の色がどうであったとかいう
人種差別の時代であった
お前が発言すれば 反響がかえってくる
お前が沈黙すれば そればさらに雄弁な意味を持つことになる
いずれにしても政治的なこと
森や林を抜けて と
パルチザンの歌 歌いながら
行くことも政治的なこと
非政治的な詩を書きつけたとしても
やはりそれは政治的なこと
空に月が光っていても
それは既に月だけの問題に止まりはしない
なすべきか なさざるべきか これが問題だ
どんな問いも 愛の答えも
すべて政治につながっている
お前が政治的な意味を得るために
人間的である必要はない
石油であったとしても事足りたのだ
動物の餌とか リサイクルの原料だって
よかったのだ
または 生と死について論争するかたわら
会議用の机の形のことで
丸い方がいいとか 四角いのでよいとか
何ヶ月間もの間 言い争っていた
その時 人間たちは断末魔の苦しみに喘ぎ
動物たちが息を引きとり
家々は燃えつき
田畑が荒れ果てていった
はるか昔の
より非政治的な時代とおなじように
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2010-02-10 01:38
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| 作品 / 戦争 / 生き方 |
2010年02月09日(火)
フリーター労組や派遣ユニオンで活動している清水直子さんからの情報です。
ブログには写真などもあります。
【以下、転送・転載歓迎】
派遣切りはもうごめん!派遣法の抜本改正キャンペーンブログを開設しました!
http://d.hatena.ne.jp/hakenhoukaisei/
派遣労働者のニーズがある、派遣をなくしたら失業が増える、女性が働けなくなる――ってホント?
「派遣法改正TV」では、派遣の生の声を伝える「派遣100人の声」などの動画を公開。
例えば――。
【派遣法改正TV】派遣がなくなると失業が増えるというのはウソ【派遣100人の声・6】
http://www.youtube.com/watch?v=jck4KfKYA7U
【派遣法改正TV】産前産後・育児休業を取得した後、仕事の紹介がない【派遣100人の声・7】
http://www.youtube.com/watch?v=bEzbWyulPto
派遣法の抜本改正を求める該当パフォーマンスの様子も写真入りで紹介しています(次回ハケンギリチョコアクションのご案内も)。
もちろん、政治主導で真の法改正が実現するか、官僚主導で見せかけだけの法改正に終わるか、注目の派遣法改正案のポイントも分かりやすく解説中。
ぜひ、ご注目、ご紹介をお願いします!
「派遣切りはもうごめん!派遣法の抜本改正キャンペーンブログ」は、「労働者派遣法の抜本改正をめざす共同行動」
http://mutokyo.blog57.fc2.com/のキャンペーンブログです。
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2010-02-09 16:14
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| ジェンダー / 労働 / 政治、権力 |
子ども手当てが保護者不詳の2300人には支給されないというニュースがありました。親がわからない、あるいはいないと、子ども手当てが払われないなんて、まったくおかしい。
これは、ひどいです。
これも家族単位発想のままの役人がおこなっているからだ、シングル単位感覚で制度設計していないからだとおもいます。
この手当ては、「子ども本人に権利としていく」と考えるべきで、子どもに渡せばいいのです。
そして中学生未満なら(本人がまだ自己決定する力が弱い故に)事実上養育している人や施設法人に代理人として手渡される(但し年齢に応じて、本人にできる限り、これはあなたが育つためにみんなが税金で払ったお金だよと伝える)とする。(その場合もできるだけ、小学生以上だと、その使い道を親・家族・養育者と話し合うようにすべき)
中学生以上なら一度本人に確実にお金を手渡したうえで、養育者と話しあってそれをどう使うか決めていく、というようにすればいいのです。
そうした手続き、プロセスが大事で、そうやって子どもは大人になっていく、税金というものを知る、権利ということと責任を考えていく、自立した人になっていくのです。それをするのが教育です。
日本の教育(子育て)はあまりに子どもをひとりの主体として育てていく視点が欠如しているので、そういう発想ができていないのです。
親に渡すのではなく、子ども本人に渡す。その原則がまったくわかっていない。
ひどいです。
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<子ども手当>親「不詳」は対象外 施設入所の2千人
@ 『毎日新聞』2月9日2時31分配信
子ども手当を巡り、児童養護施設などに入所している子供について厚生労働省が、親の状況が「不詳」の場合、現時点で支給対象外としていることが同省の内部資料で分かった。同省は、入所に同意した親には支給し、虐待などで強制入所となった子や父母のいない子については親ではなく施設に同額を渡す方向だが、親の状況が「不詳」の子約2000人については支給について何も決まっていないという。
10年度の子ども手当は現行の児童手当に準じ「監護のある(養育・監督をしている)親」に原則支給される。内部資料によると、乳児院や児童養護施設などで暮らす子供約4万人のうち、親が同意し入所した3万人余は「親の監護がある」とみなされる。一方、「親のいない子」約4150人と、虐待などで親が不同意でも裁判所が入所すべきだと判断した「強制入所の子」同約700人については、支給対象外としつつ「特例的に施設などに相当額を渡す」(同額措置)としている。
しかし「親が誰かや生死そのものがわからず、『存在』『いない』『不明』を施設が回答できない『不詳』に該当する子」が16歳以上を含めて約2400人おり、支給対象となる中学3年以下は約2000人とみられるが、この子らについては「同額措置の対象に含めていない」(同省児童手当管理室)という。
西日本のある施設長は「施設で暮らす子の支援と手当を根本から考えるべきだ」と指摘。同省雇用均等・児童家庭局総務課は「『不詳』を同額措置から除いたのは、位置づけが不明確との担当の判断ではないか」と話している。【野倉恵】
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2010-02-09 11:09
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| ジェンダー / 教育 / 政治、権力 |
2010年02月07日(日)
ジェンダー論のレポート読みにおわれつつ、あれこれしている。
すばらしくちゃんと考えている学生さんのレポートもあれば、手抜きもあれば、いまの社会の悪意を体現しているものも、ある。一人一人はいろいろなものにとらわれている。
そのこだわりや引っ掛かりや反発や、間違いが、その人を表す。
いろいろ思いだす。
あの人はどう思っていたのだろう。今何をしているのだろう。
幸せであってほしい。不幸せであってほしい。きらい。悪意がレポートにも少し顔をだす。
親への聞き取り。家事の体験。デートDVの事例が続々出てくる。
あふれている支配、暴力、依存、束縛。
だめなところがあって、多様で、いいところもあるのが人間群。
話がうまい、でも、何か大事なところを飛ばしてしまっている、ってこともある。
組織防衛の味気ない文書。
またレポートについては、後で書くとして、
やはり、もっと、深いところのものに、触れておきたい。
ということで、シンボルスカの紹介、その3.
子供を四人産む 子供は一人もいない 一人はいる
私は、あれであり、これである あのひともああであり、こうである
みえないうらをみろ うらにまわっても でもみえないところも、ある。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
女の肖像 (1976年「大きな数:」収録)
選ばれなくてはならない
なに一つ変えないようにと変身する
それはたやすい 不可能 難しい 試みる価値はある
必要に応じて 藍色になったり 灰色になったり
黒くなったり 楽しげだったり 訳もなく涙で一杯になったりする
行きずりの女として この世でたった一人の女のように彼と寝る
子供を四人産む 子供は一人もいない 一人はいる
単純だが 一番頼りがいがある
華奢だけど 力持ち
細首には頭はまだ固定していないが 間もなく落ち着く
ヤスパースや女性週刊誌なんかにも眼をとおす
何のためのネジかも知らずに橋を作っちゃったりする
若い いつも若い まだまだ若い
翼の折れた雀を両手に持ち
遠く長い旅のためのへそくり
肉切り包丁 シップに ウォッカグラス
そんなに走っていったいどこへ 疲れはしないの
とんでもない ほんのちょっぴり とっても どうぞ気にしないで
彼を愛しているか それとも頑なに拒んでいるのか
よくも 悪くも お願いだから
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2010-02-07 01:40
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| スピリチュアリティ / 作品 / ジェンダー |
2010年02月05日(金)
汚れたものをみて、いやになるので、すこし、ちゃんとした、すがすがしいものを声に出して、こころを清浄化しておく。
こういうことがわかる人と、つながって、いきてきたし、いきていきたい。
僕から離れた人は、それは決断したのだから。
いそがしいのに、シンボルスカなんていっている。
それを、微笑むことができるか。
カレンダーの子犬の顔にむかって、「ぐぅぅぅぅー」という。
あなたは?
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
可能性 (1986年 「橋の上の人々」収録)
映画芸術の方が好き
猫の方が好き
ヴァルタ川のほとりの樫の樹の方が好き
ドストエフスキーよりもディケンズを好む
人類を愛する私より 人間好きな自分が好き
糸と針はいつも用意していたい
緑色が好き
罪深いということを 何でも理性のせいにしないほうがよい と思っている
例外を好む
早めに出かけるよう心がけている
長居は嫌いで 早めに失礼する方がよいと 思っている
医者とは 病気に関係のないことを話すのが好き
古風な縞柄の装丁が好き
書かれなかった滑稽さそのものより 諧謔的にかかれた詩の方を評価している
満何年というような記念日より 毎日愛を祝っている方が好ましい
何も約束してくれないモラリストのほうがよい
信じやすく 騙されやすい善よりは 抜け目のない善の方が好き
軍服だの制服だのはない国の方がよい
侵略する国よりは 侵略された祖国の方が好き
常に疑問を抱いていたい
整然とした地獄よりは 混沌とした地獄の方がましと思っている
新聞の第一面よりは グリム童話の方が好き
葉のない花よりは 花のない葉の方を好む
尻尾を切られた犬より 尻尾のある犬を好む
青や碧の目の色が好き なぜなら私の目は黒っぽいので
引き出しが好き
ここに挙げなかった多くのことの方が好き
並べられた数字より ばらばらのゼロの方が好き
あまりにも掴みにくい星の時間より 虫けらの時間の方がまし
オトプカチ(めでたいことを口にして かえって悪いことを招かぬための生木の木を叩くおまじないのこと)をするのが好き
どのくらいご滞在で? とか またそれはいつ? などと聞かないことの方を好む
なぜなら 存在そのものに権利があるのだから
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2010-02-05 00:48
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| スピリチュアリティ / 生き方 / 作品 |
朝青龍問題については、既にたくさん言われているんだろうけど、テレビの主流では、本当によってたかっていじめていた。
暴行の事実さえ明確でない時点で、決め付けて犯罪者扱い。
僕は勿論、暴力を行うようなやつは嫌いだが、「被害者」という男は、金目当てで挑発しておおおげさにしてひっかけたのではないかとすぐに考えた。週刊誌を読むと「当たり屋」のようないかがわしい人で、やはりそうだろうなと思った。金目当てのような人のいかがわしさをよこにおいて、朝青龍嫌いのひとが、とにかくこれを機にいじめ、批判し、ついに引退させた。
やくざとつながっているというなら、他の力士も多くの芸能人も、
細木数子なども、すぐにそこを問題とすべきであったが、そこは逆にテレビではタブーで触れないようにして、細木を使い続けた。
そういうことこそ、品格に関わるのではないのか。
「品格」というが、ガッツポーズや土俵の上でのにらみ合いはいいではないかという話は前からあった。
「なまいきな外国人」への差別意識も少しあるだろうが、むしろ、皆が悪く言うと一緒になって悪く言うというナサケナイいじめ意識の表れというところが僕にはうっとおしい。
内館牧子のようなむちゃな言いがかりを許し、なぜそれに同調するのか、となさけなくなる。
よってたかって悪く言って、自分たちがいじめでやめさせたということを認めないために、またみんなであいつ悪かったねーといって、自分のうしろめたさを見ないようにする。
朝青龍というひとが非暴力的でよい人だとは思っていない。
だがどうみても、相撲業界全体が、いかがわしいでしょう。タニマチがいて、やくざもいて、古臭くて、差別的で、・・・そんな状況があるときに、まるで朝青龍だけが悪い、他の人も業界も品行方正で、「品格」があるなどというのはちゃんちゃらおかしい。やくみつるとか、内館牧子とか、テレビで出ている相撲業界よりの人は、「朝青龍だけをわるくいう」という点で、ムチャクチャバイアスがかかった、偏った、品格のない人だと思った。
品格だ、国技だとか言って、「ふつうのスポーツではない」というが、そのことを深く考えていないで、平気で「表面的な言葉」を発する。日ごろかあら金のことで右往左往して、景気がどうだこうだばっかり言っているのに、よくもまあ、「品格」だなどといえますね。
日ごろから繊細な水準で生きている人がいうなら聞く耳を持つが、その逆の、権力や欲にまみれたひとたちが、小沢や朝青龍をわるくいうのをみて、笑ってしまう。
小沢問題でも、警察リークに乗って、調子に乗って皆でよってたかって、よく知りもしないのに、犯罪者扱いしていた。
僕は、尻馬に載って調子よく言ってたやつらが誰も謝らないこと、責任を取らないこと、そういうことを恥ずかしいことだと思う。
そういうおろかなテレビに影響されて、朝青龍と小沢はやめるべきという「世論調査の数字」がすぐに高くなるのを、愚かだなと思う。
自動車の欠陥を隠していたトヨタは、もっともっと批判されなければならないが、そう言うのは、メディアはあまり騒がない。朝青龍のことなど小さなことで、トヨタのほうがずっと大きな問題なのに、この扱いの違いは何か。
小沢という政治家はいなくなってもいいが、大事なことに目も向けず、裏で仕掛けたられたことの尻馬に簡単に乗る人が多くて、困る。
ヒトラーの扇動に乗る人を、僕は現代でも毎日見ている。
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2010-02-05 00:21
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| メディア / 政治、権力 / 人権 |
2010年02月04日(木)
今年4月1日に施行される「改正」労働基準法では、ようやく、ようやく、時間外規制が少しすすみます。まったく不十分ですが。
過労死を招くような長時間労働を抑制することを目的に、「改正」法では、月60時間を超える時間外労働の賃金(残業代)の割増率が現行の25%から50%に引き上げられます。
先ず大問題は、中小企業については残業代の引き上げを「当分の間、適用しない」としていることです。(猶予措置は施行から3年後に改めて検討する)
また、そもそも、残業代の割増率は、すべて50%にすべきです。月60時間の残業なんておかしすぎるわけで、残業の割増率は、外国のほとんどが50%以上です。戦後すぐの議論でさえ、世界標準で50%にする話だったのを、ほんとうに貧しい、敗戦直後だったので、とりあえず25%にしただけで、その後それをずっと据え置いたのが政治の責任です。自民政権だったからです。
とはいえ、現実的妥協案としても、まずは、どこで働こうと、一律、月60時間を超える残業には50%の割り増しとすべきです。中小企業の労働者は、先に死んでもかまわないというのはおかしいわけですから。そしてそれを数年内に月40,20時間とさげていくべきでしょう。
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2010-02-04 11:55
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| 労働 / 政治、権力 |
国民新党の亀井大臣が、郵政の非正規20万人を「正社員に」といった。
簡単にはすすまないだろうが、そもそも、根源的に提起するようなことが少なすぎた。
非正規問題は、単に正社員にというだけでなく、有期雇用の規制、派遣の規制、請負の規制、最賃の規制、パート法の抜本改正、などによって進められなければならない。
その端緒になればいい。
思い起こせば、亀井さんは、90年代に客室乗務員を3年試用するという制度にも文句を言った。政治的には基本的に保守おじさんであるが、労働では、古きよき時代の感覚ももっていて、ときどき、労働者の権利擁護の意見を言う。
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郵政の非正規20万人を「正社員に」 亀井担当相
2010年2月3日19時20分
亀井静香郵政担当相(国民新党代表)は3日、郵政民営化見直し後、20万人超の日本郵政グループの非正規雇用従業員を正社員にするよう同社に求める考えを国民新党議員との会合で明らかにした。
同社の非正規従業員(派遣社員含む)は約20万5千人。約23万1千人の正社員を加えた全従業員の5割弱を占める。正社員化はコスト増にもつながり、会社側の反対は必至だが、亀井氏は記者団を前に、「経営権にまで介入するのかと批判されると思うが、そこまで踏み込んだ改革をやらなくてはいけない」と強調した。
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2010-02-04 11:42
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| 労働 / 政治、権力 |
最近、少し時間がかかっていた団交の決着がついて、嬉しかったです。最後は相手の社長さんも少し心を開いてくれたように思います。妥協してくれました。こちらがムチャクチャを言っているのではないと少し伝わったように思います。
また別の交渉でも、「社長」さんが来て、まあまあ、向こうの言い分も聞いて、感情を吐き出してもらって、しかし、結果として、あなたの与えた影響は、あなたの主観としてはそうでないとしても、事実上は○○○であり、圧迫的な態度であり、十分に従業員である○○○の意見をちゃんと聞かなかったことに問題があるので、謝罪してよね、というところで落ち着きました。
よかったです。
やはりお互い人間です。聞きあうこと、相手の立場からもものを見ること、そのうえで、ユニオン側からの見方(労働者の権利、法律の精神)も理解してもらうこと、そうすることで歩み寄れます。
私たちが、金のためとか、単に相手を憎いと思って攻撃して溜飲を下げているというのではないこと、働くものの人間としての尊厳を取り戻そうとしていることをわかってもらったとき、歩み寄りが見られます。
そのような話し合いはやってよかったなと思えます。
それに対して、最初から「組織防衛」ということで、ウソも含めてただただ防御のために、人間としての顔の上に仮面をかぶって、応答してきたとき、表面的な対立になり、ことはすすみません。心の交流もなしです。
でも最初はそうでも、時間のなかで、ちゃんと聴きあえれば、ことがすすむときがあります。
「最後」まで聴こうとしない場合は、抗議活動とか、法的行政的な外部の力で事態の変化をもたらさねばならないこともあります。
ちゃんと交流できず、ただただ仮面のむこうがみえないまま、対立だけしているのは悲しいです。
聴こうとしない、心が固まっている、というのは、ナサケナイ生き方だなあと思います。
私たち(ユニオンぼちぼち)が、何を言っているのか、何にこだわっているのか、聴いてほしいです。
柏原市福祉事務所の方々と、いつか、聞きあいたいです。一方的に告訴してA君を3ヶ月以上、留置所に閉じ込め圧迫し続けるようなことに、まったく自分は知らぬ存ぜぬでいることに恥を感じてほしいです。
「向こう(A君)が悪い」と思い込んで、思考停止するようなことを、「本当に私のしていることは、それでいいのか」と問うてほしいです。「A君のしたことは、ほんとうに、3ヶ月も留置し、職務強要罪で有罪にし、犯罪者にし、職業訓練校も辞めさせるようなことだったのか」を組織内部で話し合っていますか。
公務員として、福祉職員として、本当に、市民の自立を援助しているだろうか、と話し合っていますか? 告訴するのが一番いい方法だと思っているのですか?
だれか、こんなのはおかしいといっていますか? やりすぎだといっていますか? 告訴した職員X、Yさんに、まわりのひとは、警察に告訴までするのはやりすぎだといっていますか?
自分が、未決のまま、拘置所に3ヶ月に閉じ込められたままというのを本気で想像しているのでしょうか? 拘置所がどんなところで、どんな処遇なのか知っているのでしょうか?
そもそも、A君がずっと勾留されているという事さえ知らないかもしれません。知ろうとしない。気にしない。考えない。告訴すれば後は、知らない。
思考停止していること、動かないことを恥だと思うことさえ、またまた感情停止、思考停止して、日々、決まりきった「シゴト」をしているのでしょうか? そして家に帰り風呂に入り、飯を食べ、テレビを見て笑い、あたたかい布団で寝ているのでしょうか?A君のことを考えずに。
柏原市関係者で、このブログを読んでいる方がいるかもしれません。本気で動いてほしいです。
恥を知れる人生は、まだまともです。
沈黙は加担です。
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2010-02-04 11:26
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| 労働 / 貧困/反貧困 / 政治、権力 |
石内都の写真エッセイ集『ひろしま』(集英社)をみました。
そこにはさまれているしおりに、ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩が掲載されています。
味わい深い。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「世紀の没落」
われわれの二十世紀は、前世紀より
よい時代であるべきであった
歳月人を待たずのたとえのように
年をとれば、歩みもおぼつかなくなり
息も短くなる
あまりにも多くの
起こるべきでないことが起きてしまった
そして、きたるべきことは
やってはこなかった
とりわけ 春や 幸せに向かって
歩み続けるべきであった
恐怖は、山や谷から去っていくはずであった
虚偽より早く真実は
目的に向かって突き進むはずであった
不幸な災害のいくつかは
起こらないはずであった
たとえば戦争
そして飢餓などの
備えのない無防備というものが
尊ばれるべきであった
だれがこの成し遂げることのできない
課題の前で動きのとれなくなってしまった
世界を寿ぐ(ことほぐ)ことを望んだのか
愚鈍さは 滑稽なことではない
賢明さということは 楽しいことではない
希望
これはもう、あの若い少女のものではない
残念なことに
神は 善良で たくましい人間を
信じるべきであった
しかし善良とか たくましいということは
これは依然としてまだ一人の人間に望むべきこと
ではない
どのように生きるべきか―――手紙でだれかが訊いてきた
この同じ問いを
だれに投げかけたらよいというのか
今まで書いてきたように
またいつもと同じことではあるが
どう生きるのかという素朴な質問以上に
緊急な問いかけというものはない
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2010-02-04 02:32
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| 作品 / 戦争 |
2010年02月03日(水)
民主党政権がましであることのひとつであるが、最低賃金のアップが、従来の枠を超えて、議論され始めている。だがこの問題は抵抗が大きい。派遣法と同じく、労働法制はもっとも財界側が抵抗するので、古い思考がなかなかぬぐえないところだ。
しかし、民主党は全国一律の時給800円の「全国最低賃金」新設(今後4年以内)や将来的に1000円に引き上げることを主張してきた。
だから政権交代したことは、ましなんである。
ただし、私の意見は、800円など生ぬるい、というもの。生存権、性かつ保護水準と合わせて考えて、最低1000円からはじめるべきだというものである。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【時事通信】経済 - 2010.01.28
800円へのアップ検討=最低賃金で厚労、経産チーム初会合
http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2010012801056
厚生労働省と経済産業省の最低賃金引き上げに関する検討チーム
が28日、初会合を開いた。民主党は昨年の衆院選で全労働者に適
用する時給800円の「全国最低賃金」の新設などを公約しており、
厚労省の細川律夫副大臣は冒頭、「この約束を何とか実現したい」
と強調した。
最低賃金は現在、都道府県ごとに決められ、2009年度全国平
均時給は713円。800円に引き上げた場合、地方の中小企業を
中心に大幅な負担増になる。
同日の会合では、最低賃金引き上げの影響を地域や業種ごとに分
析するため、政府による調査を4月に開始し、夏までに調査結果の
概要をまとめることを確認。これを受け、具体的な中小企業支援策
を策定し、11年度の予算要求に反映させる方針を決めた。
(2010/01/28-20:39)
【日本経済新聞】経済 > 経済 - 2010.01.28
時給800円未満の労働者、255万人
http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20100128ATFS2802E28012010.html
厚生労働省は28日、経済産業省と共同で開いた「最低賃金引き
上げ対策検討チーム」の初会合で、民主党がマニフェスト(政権公
約)に盛り込んだ最低賃金800円(時給)を下回る賃金で働く労
働者が、2008年時点で255万人と全労働者の8.8%を占め
ることを公表した。検討チームは公約の実現に向け、中小企業の支
援策を含めた具体策を探る。
最低賃金は企業が労働者に支払わなければいけない賃金の下限額
で、09年度は全国平均で713円。民主党は今後4年間で800
円、将来的に1000円に引き上げることを目指している。
調査は従業員5人以上の事業所を対象にした。調査結果によると、
正規・非正規社員で800円未満の労働者は約93万8000人。
パートなど短時間労働者は約161万3000人で、4人に1人が
該当するという。都道府県別では沖縄県や宮崎県、青森県で多く、
東京都や大阪府、神奈川県は少ない。(20:34)
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2010-02-03 13:49
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| 労働 / 貧困/反貧困 / 政治、権力 |
「国内人権機関設置と各選択議定書批准」を求める動きがあります。
むつかしい言葉ですが、大事なことですので、みなさん、頭の片隅においておいてくださいね。
署名とかが回ってきたら賛同してくださいね。
民主党政権がこれをちゃんとするかどうかも、大事なチェックポイントのひとつです。
自民党政権では決してしなかったです。だって人権が嫌いだからね。
1月26日にはこれに関して 院内集会が開催されています。また 「国内人権機関設置と各選択議定書批准に関する共同要請書」の賛同(団体・個人)の募集が行われています。
以下がそれです。
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共同要請書
内閣総理大臣 鳩山由紀夫 様
国家戦略室担当大臣 菅 直人 様
法務大臣 千葉 景子 様
外務大臣 岡田 克也 様
内閣府特命担当大臣 福島 瑞穂 様
国内人権機関設置と各選択議定書批准に関する共同要請書
私たちは人権に関する法制度を日本国内に確立することを求める市民です。
千葉景子法務大臣は9月16日の就任記者会見で、人権救済機関の設置、個人通報制度の受諾、取り調べの可視化の3つの課題を実現することを明言されました。私たちはこの発言を支持し、実現に向けた取り組みを早期に始めるよう求めます。なかでも、人権救済機関の設置と各選択議定書の早期批准等に関して、以下を要請いたします。
1. 独立した国内人権機関の創設
国内人権機関(たとえば、人権委員会)の設置にあたっては、「国内人権機関の地位に関する原則(パリ原則)」に準拠し、公権力による人権侵害や差別、ならびに市民間における人権侵害や差別を簡易、迅速、実効的に救済する機関にすることが重要です。同時に、明確かつ具体的な差別禁止法の制定が欠かせません。また、運営、財政、人員などあらゆる観点において政府から独立したものとし、日本国内の多様なマイノリティ当事者が人権委員会委員として参加できる機関にしてください。
2. 各選択議定書の早期批准
日本は、自由権規約委員会、女性差別撤廃委員会など人権諸条約の実施機関から、個人通報制度を定める各人権諸条約の選択議定書を批准し、また個人通報を条約実施機関が審査する権限を認める宣言を行うよう、繰り返し勧告されています。国際的な人権基準を国内でも確立することは、人権
理事会の理事国である日本の責務であると考えます。したがって、そうした勧告を真摯に受け止め、受け入れることを求めます。同時に、関係する国内各法を見直し、整備するとともに、司法の場においても人権諸条約が真摯に適用される環境を醸成するよう努力してください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この取組みの連絡先は、次の通りです。
人権市民会議
〒106-0032 東京都港区六本木3-5-11
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2010-02-03 02:30
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| 人権 / ジェンダー / 政治、権力 |
派遣法の改正がまじかに迫ってきています。
今のままだと、ひどいものに終わりそうです。
そして、この間、運動側は、このようなまともなものにしろという意見を出しています。
関西でも、1月19日に「緊急集会 厚生労働省の派遣法答申を斬る!」という集会、1月29日に「11の法律家団体呼びかけによる、待ったなし、派遣法抜本改正!」緊急大集会が持たれました。
どちらも適切に厚生労働省案が批判され、原則は、派遣法そのものを廃止すべきこと、しかしそれが難しい中でせめてまともな改正にするならこれだけの改正をしろという意見が出されました。
しかし、私の個人的な意見ですが、いまのままでは3党による修正でも部分的な修正に終わり、ひどい改正(答申にそったもの)となると思います。
そのとき、「それでもないよりはましだ」ではなく、「今回は改正見送りで、急遽仕切りなおしで、秋に抜本的な法改正をさせる」というようにすべきと思います。
以下、私も少し関わっている大阪労働者弁護団の非正規部会でも検討修正加筆した、大阪労弁の意見書です。起草した人の想いがだいぶ生かされた、なかなかいい文章です。
このようなものになる必要があります。
まともな活動家、労働者、組合、弁護士は、こうした意見を持っています。
しかし・・・
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労働者派遣法の抜本改正意見書
(派遣労働者の権利擁護を求めて)
2010年1月27日
大阪労働者弁護団
代表幹事 大川一夫
第1 総論
1 はじめに
今後の労働者派遣制度のあり方について、長妻厚生労働大臣の諮問を受けた労働政策審議会が、2009年12月28日、その答申を出し、国会にて労働者派遣法の改正が審議される状況である。
今回の改正論議は、昨今の「派遣切り」等の人権侵害状況を踏まえ、労働者派遣法を、派遣労働者を保護する法律に転換しようとする潮流上にあるもので、その方向性は妥当であるが、改正を阻もうとする論(以下、反対論という。)の抵抗により、上記答申は、労働者保護にとって極めて不十分なものとなっている。
そもそも、労働政策審議会の委員は政権交代前と変わらず、従って、労働者派遣問題に対する基本的な観点は以前と変わっていない。答申は、例えば、「『派遣切り』の場面においては派遣労働者の雇用の安定が図られず、製造業の技能の承継の観点からも問題であるとの指摘があった」とか「労働者派遣で働きたいという労働者のニーズが存在し、企業においてもグローバル競争が激化する中で、労働者派遣は必要不可欠な制度となっており…」等と「改正」の趣旨を説明しているが、基本的には経営側の視点から問題を捉えており、派遣労働者の権利擁護という観点が未だ不十分であることが、各論において様々な問題としてあらわれている。
よって、当弁護団は、この答申にかかわらず、今国会で、より徹底した労働者保護が達せられる改正をすべきと考え、以下、答申の問題点を中心に論じる。
2 労働法の基本的趣旨と直接雇用の原則
個別の議論に入る前に、労働法と直接雇用原則(労働者を現実に使用する者が、労働者と直接に雇用契約を結ぶべき原則)の趣旨を述べることにより、「派遣により人を使用すること」の本質的問題点の一端を明らかにする。これにより、なぜ、「間接雇用」である労働者派遣を規制しなければならないのかの理解の一助としたい。
そもそも、労働法は、雇う者(使用者)と雇われる者(労働者)には、現実としての「力の差」(立場の強弱)があることから、労使の雇用関係を当事者の自由にのみ任せては、立場の強い使用者による労働者の人権侵害・横暴が生じがちなので、使用者には人を使用する者としての責任を与え、労働者の生活・人権を守ろうとするのが、その基本的趣旨である。
この「責任」とは、たとえば、仮に業績が悪くなっても、できる限り、労働者の生活基盤を失わせるような解雇は避けようとすべき責任(整理解雇制限法理 労働契約法16条参照)であるとか、労働者が、労働条件等を改善するために労働組合に入った場合には、その労働組合と誠実に話し合う責任などである(労働組合法6条、7条)。この使用者の「責任」は、裏返せば、労働者の「権利」となる。
ところが、労働者に対する法律上の責任を担うことを嫌い、実態は労働者を使用しているのに、「請負」や「委託」を仮装して労働法を脱法し、違法な労働者供給(職業安定法44条)を利用する、悪質違法な使用形態が横行した。
人を使用する立場にありながら、労働法を脱法して責任を回避しようとする発想は、労働者の権利侵害という犠牲の上に自己の利益を築こうとするものであり、断じて許されない。
このように、現実の使用者と契約上の使用者を分離する「間接雇用」は、本来、「労働法脱法雇用」とも名付けるべき、労働者の権利擁護にとって有害なものである。
よって、「いやしくも、人を雇って使用しようとする者は、労働者の権利・生活を守るための法律上の責任を果たすべきである」という価値観に立つ限り、現実に人を使用する者と、労働契約上の雇い主が一致すべきこと、すなわち、直接雇用の原則が、労働契約関係における大原則であるべきことは明白な法理である。
3 本来禁止されるべき労働者派遣
ところで、労働者派遣が、典型的な間接雇用である点には異論を見ない。
従って、労働者派遣は、本質的に労働法脱法的な性格を有し、「労働者の権利侵害の犠牲のもとで、使用者の責任の軽減を図る」という本性を持った雇用方法であるという視点を忘れてはならない。
そもそも、労働者派遣法は、経営財界が、その強い要請により(決して、労働者が要請したものでない)、@「ごく一部にとどめる」(専門13業種)A正規職員の代替にはしない(濫用しない)との前提で、違法な人材派遣業の一部につき、適法の道を開いてしまった法律である。
その後、「ごく一部にとどめる」という前提は次々と破られ、労働者の尊厳を踏みにじり、生命に危険が生じる状況にまで追い詰める「人の使い捨て時代」へ進行したことは、周知の通りである。拡大改悪された派遣法が、経営者をして、雇用責任を果たすという矜恃(きょうじ)を捨てることを正当化し、促進したのである。
以上から分かるのは、労働者派遣は、元来決して規制緩和の対象とされるべきでなかった制度だということである。
従って、一部の反対論に、「自由」を制約することを問題視するような論もあるが、そうした議論は、前提にあるべき、上述のような労働法の基本的趣旨を忘れ、また、「労働者派遣=間接雇用」の根本的悪性を洞察せず、それが本来規制・禁止されるべきものであることを見落としている議論であり、その失当は明らかである。
第2 各論
1 登録型派遣の原則禁止について
答申が「派遣労働者の雇用の安定を図るため、常用雇用以外の労働者派遣を禁止することが適当である」とすることは評価できるが、その例外を広く認める余地を残すなど、労働者の権利保護にとって、極めて不十分である。
(1)例外なく全面禁止されるべき登録型派遣
まず、当弁護団は、本来、登録型派遣は全面禁止すべきと考える。その理由は以下の通りである。
ア「派遣元が雇っている」と言えるのかという原理的疑問
派遣先に「雇われている」ときだけ、派遣元にも雇われているという登録型派遣は、そもそも、「自己の雇用する労働者を派遣する」という言葉(派遣法2条1項 参照)にも相当しないという原理的疑問がある。派遣元は、「普段は雇っていない」登録者を、派遣先からの要請があったときにだけ、便宜的に雇用契約を締結しているに過ぎないからである。実質的にも、便宜的・一時的に雇用契約を締結するだけの派遣元が、雇用主としての責任を果たしうるのか疑問である。
その実質は職業紹介であり、それならば、労働法脱法的な間接雇用にするのでなく、紹介した後は、本来の姿である直接雇用(実際に使用する派遣先会社との直接契約)とすべきである。使用者の責任が派遣元と派遣先に複雑に分岐する派遣形態よりも、派遣先一本の労働契約となる方が、よほど簡明であるし、労働者の権利擁護に資することも明白である。
イ 「需給調整制度として有効に機能している」との論への反論
答申には、労働政策審議会の使用者代表委員から「登録型派遣は、短期・一時的な需給調整機能として有効に機能しており、これを原則として禁止することは、労働市場に混乱をもたらすことから、妥当でないとの意見があった」との付記がなされている。
「派遣労働は、需給調整機能として有効」とは、反対論がよく使用する言葉であるが、「需給調整」とは一体何なのかが必ずしも判然としない。「需給」とは、「労働力の需要と供給」と考えるしかないが、その「調整」とは何なのか。
登録型派遣の労働者の大部分は長期の安定雇用を望んでおり、これを「調整」する必要などない。
とすれば、「需給調整」とは、結局、使用者が、雇用を自由に「調整」すること、すなわち、一昨年末のような不況時などに「派遣切り」を行う自由を常に確保しておくという、使用者側だけに有利な「機能」を意味するに過ぎない。
ここで、反対論には、「労働者にも、一時的・短期的に働きたいニーズがある」という「労働者のニーズ」を述べる論もあるが、妥当と言えない。
なぜなら、まず、もともと労働者には退職の自由(強制労働の禁止)があるのだから、仮に短期的に働きたい労働者であっても、あえて、「使用者からいつでも契約を打ち切られる」という労働形態を選ぶ必然性があるのか疑問である。
そして、労働者は、基本的には働いて収入を得られなければ生活できないのであるから、労働者の大部分は長期の安定雇用を望んでおり、仮に一時的短期的労働のニーズがあるとしても、直接雇用で短期就労すれば良く、「間接雇用(労働者派遣)が必要」という理由にはならない。
間接雇用が「使用と雇用の分離」からくる本質的有害性を持つ以上、間接雇用を不可欠とするような合理的理由がない限り、本来の原則に戻り、直接雇用とすべきである。なお、直接雇用でも濫用的な有期雇用には重大な問題があるが、ここでは詳しく述べない。
(2)広範な例外を認める危険1〜専門26業務
答申では「専門26業務」は禁止の例外とされているが、この「専門26業務」は現実として違法に広げられ悪用されている実態があり(業務偽装のまん延等)、「例外」がいくらでも広がりうる危険性を有している。
とりわけ、事務用機器操作(5号業務)は、パソコンの普及した現在において真に専門業務として維持すべきか疑問であるし、この5号業務やファイリング(8号業務)等で業務偽装が後を絶たず、「例外」がいくらでも広がりうる。
従って、登録型派遣の禁止につき「専門26業務」の例外を設けるべきでない。
(3)広範な「例外」を認める危険2〜「名ばかり常用雇用」の危険
次に、「常用雇用以外の労働者派遣を禁止する」という場合の、「常用雇用」の定義がそもそも問題である。
この点、厚生労働省は、現行法の運用で、有期雇用の場合でも「過去1年間を超える期間について引き続き雇用されている者、又は、採用の時から1年を超えて引き続き雇用されると見込まれる者」も常用雇用に該当すると、不当に広範な解釈をしている(職業安定局「労働者派遣事業関係業務取扱要領」)。
これにより、現実にも、常用型派遣とされながら、派遣契約の「終了に伴って結局は解雇される事例が多く見られ、登録型派遣を禁止しても、常用雇用の定義を法律上明確にしなければ、実質は登録型派遣に近い「名ばかり常用雇用」がはびこる余地を残すことになる。
そもそも常用雇用以外の労働者派遣を禁止する趣旨は、労働者の雇用の安定を図るためであるから、有期雇用という典型的な不安定雇用を「常用雇用」に含めることは論理矛盾である。有期雇用契約とは、契約期間が終われば労働契約が終了するものであるから、通常の国語的意味からいっても「常用」と呼ぶに値しない。
よって、常用雇用とは、「期間の定めのない労働契約」であると法文で明記すべきである。
2 製造業派遣の原則禁止について
(1)答申は製造業派遣の原則禁止を提唱するが、この点も、その例外の定めにより、労働者保護にとって極めて不十分である。
すなわち、答申では、「雇用の安定性が比較的高い常用雇用」を禁止の例外としているが、上記の通り、そもそも常用雇用の定義が不明確であるままでは、例外ばかりが横行する危険がある。
また、そもそも答申では、登録型を原則禁止して常用型を原則にするはずなのに、その常用型を例外として許せば、結局、大幅に例外を認めることに他ならず、「原則禁止」と言えなくなってしまう。
さらに、より重要なことは、製造業派遣は、(専門知識がほしいということでなく)、人を雇用の調整弁として受け入れているに過ぎないのが実態で、よって、もっとも「派遣切り」にあいやすく(むしろ、はじめから「派遣切り」を予定したものである)、かつ、実際にも、製造業派遣で、「常用型」とされる労働者が大量に職を失ったのが昨年来の実態である。
さらにまた、製造業は危険業務も多く、その場合、より一層、労働者を直接使用する者に責任を負わせる必要が高いから、直接雇用の必要性が高いというべきである。単に、「常用で雇用が安定すればよい」というだけの問題ではないのである。
従って、製造業派遣は、例外のない全面禁止とすべきは明白である。
(2)以上に対し、反対論は「製造業派遣を禁止すれば、国際競争に負ける」等の論を行っているが、当然のことながら、使用者は、労働者の権利侵害をせずに競争する道を選ぶべき事は、あまりに当然である(大阪労働者弁護団「派遣法の何が問題か」Q23参照)。
「大変な不況が来たから」と、条件反射的に「派遣切り」し、その後はホームレスになろうが知ったことかという経営者の行為は、人をモノのように使い捨てにする行為にほかならず、人権侵害の最たるものであって許されない。
さらに、このような人権侵害的な働かせ方が、結局は、企業の体力を奪い、真の競争力を低下させるものであることを、使用者はもう一度肝に銘じるべきである。使用者(派遣先)が派遣切りして踏みにじった労働者は、使用者の事業を支えてくれた人たちであり、また、別の場面では、その事業の顧客(消費者)ともなってくれる人たちなのである。
なおまた、「製造業派遣を禁止すれば、使用者は海外に生産拠点を移し日本での仕事が減る」との反対論もあるが、企業の海外への生産拠点の移転は、様々な諸要素を考慮して行われるものであり、「派遣労働を使用できなくなれば、海外へ生産拠点が移転する」というような単純な問題でないし、実証的な根拠にも欠ける。むしろ、海外生産比率と派遣労働者総数等との相関につき、「海外生産は派遣が増えるほど、増える関係にある」との調査結果もある(2010年1月10日付東京新聞)。
3 違法派遣の場合における直接雇用申込みのみなし規定について
労働者派遣は、上記の通り、もともと「無責任に人を使用したい」という安易かつ不当な発想を根に持つことから、「悪貨は良貨を駆逐する」という格言のとおり、限定された適法部分を超えて、違法部分にまで拡大しようという悪しき力学が常に働く。これが様々な違法派遣である。
この違法を「割に合わないもの」として食い止めるためには、違法行為を行った者に一定の責任を課し、かつ、違法行為によって被害を受けた労働者に、原則通りの労働法の保護を与えていく必要がある。
そうした観点から、答申が「違法派遣の場合における直接雇用申込みのみなし規定」を述べた方向性については、肯定しうるが、これまた甚だ不十分である。
(1)まず、みなし規定によって直接雇用となった場合の雇用契約につき、有期雇用契約の余地を認めていることは不当であり、期限の定めのない契約(いわゆる正規雇用契約)とするべきである。
なぜなら、このみなし規定が適用されるのは、現実には、当該派遣労働者が勇気を出して、当該労働者派遣の違法に対して「声をあげた」ときになる。この「声を上げた」労働者を、派遣先会社が直接雇用とするものの、半年契約として雇い止めをしたらどうなるか。この労働者は、もし声を上げずに黙っていれば、派遣労働者としてではあるが、長期的に雇われていたはずであったのに、違法を指摘したばかりに、早期に職場を去らなければならなくなる。
このようなことでは、労働者が違法であるとの声をあげることは不可能であり、みなし規定の適用が著しく制限されるし、他方で、使用者はほとんど「痛み」がなく、違法行為の歯止めとして機能しない。
この点は,昨年12月18日に最高裁が示した松下PDP事件判決に象徴的にあらわれた。最高裁は,『偽装請負』という違法を認めながら,それを『労働者供給』の問題として捉えず,あくまでも『労働者派遣』の範疇で捉えて,松下PDPの雇用責任を否定し,かつ有期雇用契約に基づく雇止めによって雇用を打ち切られた労働者の権利救済を否定したのである。
よって、みなし後の労働契約は、必ず、無期雇用契約(正規雇用契約)とする必要がある。
反対論の中には「採用の自由に反する」との論もあるが、上記の通り、違法派遣の横行を防ぐため、必要で合理的な規制である。
(2)答申が「違法であることを知りながら」との要件を付けていることは、重大な欠陥である。
そもそも、「違法性の意識(または認識)」を責任発生要件とすることは、「法律の不知は恕せず」(法律や違法性を知らないことは、免責理由にならない)という法格言にも反するもので、立法技術としても極めて拙劣である。
たとえば、「無許可・無届の派遣元からの受入れ」という違法派遣の例で、「労働者派遣に許可が要るとは知らなかった」という派遣先会社が仮に存在した場合、「違法であることを知りながら」との規定があれば、直接雇用の責任を負わないということとなる。
「法律に不勉強で、無認識な使用者ほど免責される」という転倒した結果をもたらすものであり、その不当は明らかである。
また、「知らなければいい」のであれば、むしろ、派遣先にとっては、派遣元がきちんと許可を得ているか等は調査もしないで関知しない方が得であり、そのように行動するであろう。無責任で無認識な使用者の方が、まじめな使用者よりも保護されることになる。
そもそも、派遣先には、適法に労働者を受け入れる責任があるのだから、自ら、きちんと違法にならないように対処すべきであり、「違法であることを知りながら」との要件は付してはならない。
(3)答申は、みなし規定の適用される違法派遣として、@禁止業務への派遣受入れ、A無許可・無届の派遣元からの派遣受入れ、B期間制限を超えての派遣受入れ、Cいわゆる偽装請負の場合、D登録型派遣の原則禁止に違反して常用雇用する労働者でない者を派遣労働者として受入れを列挙している。
しかし、違法派遣には、以上の5例の他にも、事前面接等特定行為や多重派遣など派遣先に雇用責任を課す必要性の高いものがあり、加えて、@本来、人を使用するならば直接雇用が大原則であること、A違法行為を行う者は「保護」に値しないことから、上記の5例は例示列挙であることを明示し、みなし規定は違法派遣のすべてに適用されるべきである。
4 団交応諾義務等について
(1)答申は、旧野党(現与党)3党案に盛り込まれていた派遣先会社の団交応諾義務を排除しており、重大な問題である。
そもそも、「第1 総論」で述べたとおり、法は、労働関係における使用者の横暴から、労働者の権利を守るために、種々の法的保護を設けるとともに、労働者の団結権を積極的に認めた。団結権は、労働者の権利保護のための要である。
そして、派遣労働者は、実態として、専ら派遣先会社で働いているのだから、そこで生じる問題については、派遣元とのみ話し合っても解決しない。派遣労働者を指揮命令し現実に使用している派遣先とも交渉しなければ、労働者の権利・利益は守れない。また、派遣元が「顧客」である派遣先会社に強い態度を取りにくい実態も考慮すれば、なおさらである。
派遣先は、労働者の労働条件等について具体的に支配する地位にあるのであるから、派遣先は労組法上の「使用者」にあたるものとして、法律で団体交渉応諾義務を明記するべきである。
(2)そして、団結権の保障は、団体交渉のみに尽きないから、そもそも、派遣労働者との関係では、派遣先会社は労働組合法上の使用者とする旨を明記すべきである。
5 その他の論点について
(1)施行期日について
答申は、「施行期日については、改正法公布の日から6ヶ月以内の政令で定める日とすることが適当である」としつつ「1(登録型派遣の原則禁止)および2(製造業務派遣の原則禁止)については改正法公布の日から3年以内の政令で定める日とすることが適当である」として、3年という長期の先延ばしを述べ、さらに「1(登録型派遣の原則禁止)に関しては、施行日からさらに2年後までの間」の適用猶予を述べ、実質5年の先延ばしを適当としている。
しかし、あまりに長期の先延ばしに過ぎ、派遣労働者の保護を軽視し、野放図な派遣労働を温存したい使用者の思惑に迎合していると言わざるを得ない。
この点、答申は、異常に長期の先延ばしをする理由として「派遣労働者等に与える影響が大きいため」とするが、上記の「労働者のニーズ」論と同じく、実質は経営側に立っている観点をカモフラージュするものでしかない。
すなわち、答申は「派遣がなくなれば、派遣労働者の職がなくなる」と言いたいのであろうが、企業・経営者は、たとえ派遣労働者でも、人を雇う必然性があるから雇うのであり、「とりあえず余剰人員を置いておこう」などと考える者はいない。とすれば、これまで大量の派遣労働者を使って行っていた仕事があり、これを、誰も雇わずに継続できるはずがないのであるから、派遣が禁止されれば、直接雇用で人を使用するのが自然の理である。
よって、例外をもうけることなく一律に公布の日から6ヶ月以内に施行するべきである。
(2)不当な規制緩和(改悪案)を温存している点について
答申は、その冒頭で「政府が次期通常国会に労働者派遣法の改正法案を提出するに当たっては、昨年11月、第170回臨時国会に提出された法案(20年法案)の内容に」追加・変更を行うべきと述べており、20年法案を土台として、追加・変更を加えるという形をとっている。
そして、20年法案が提示した、@常用型派遣の場合の事前面接禁止規定の解除や、A政令26業務に関する雇い入れ申込み義務の撤廃など、不当な規制緩和を変更していないことから、これらの案を温存することとなっている。
しかし、事前面接は派遣法の根幹に反する。使用する労働者を自ら選別しようとするならば直接雇用すればよいのであって、「派遣」とする必要はまったくない。「派遣」を選択しながら派遣先が「事前面接」するのは、雇用責任を回避する目的としか考えられず、脱法行為そのものである。従って、例外なく禁止されるべきであり、常用型派遣の場合にこれを許容することは許されない。
また、雇い入れ申込み義務を撤廃することは、「いつまでも、間接雇用で使い続ける」という意図の現れであり、第1の総論で述べたような、間接雇用が本来的に労働法脱法(裏返せば労働者の権利侵害)的性格を持つことを看過したもので、許されない。
(3)日雇い派遣について
答申は、「雇用管理に欠ける形態である日々又は2ヶ月以内の期間を定めて雇用する労働者については、労働者派遣を禁止することが適当である」とし、日雇い派遣の禁止を述べている点は評価できる。
しかし、答申は、「日雇い派遣が常態であり、かつ、労働者の保護に問題ない業務等について、政令によりポジティブリスト化して認めることが適当である」とする例外を認めており、この例外文言も一義的に明らかでない曖昧なもので、原則禁止が骨抜きとされる余地を残す。また何より、場当たり的に人を派遣する日雇い派遣は、答申も「雇用管理に欠ける」と認めているとおり、派遣元が、労働者の健康診断などの雇用責任を果たせないもので、そもそも「労働者の保護に問題ない」ということは、あり得ない。
もし真に日単位でしかない仕事だとしても、権利侵害的な間接雇用とすべきでなく、本来の直接雇用で行うべきである。
従って、日雇い派遣は、例外無しの全面禁止にすべきである。
(4)均衡待遇について
答申は、「派遣労働者の賃金等の待遇の確保を図るため、派遣元は、派遣労働者と同種の業務に従事する派遣先の労働者との均衡を考慮する旨の規定を設けることが適当である」とする。
これまで、実質は同一の仕事を行っているのに、派遣労働者と派遣先の労働者との間に格差を設けることについて、何らの法的歯止めがなかったことからは、「均衡を考慮する」とした点は、一歩前進とは言える。
しかし、「均衡を考慮する」との文言は曖昧で、微温的な表現に過ぎ、不当な格差に対する歯止めとしての実効性に欠ける。
食堂や医務室、更衣室の利用などの施設利用ならびに教育訓練は、派遣先会社で指揮命令を受けて働く労働者である以上、平等に保障されるべきであり、「均衡」ではなく「均等待遇原則」を明記すべきである(西谷敏・中野麻美「派遣法改正で雇用を守る」旬報社 39頁)。
また、賃金については、そもそも、同一価値の労働には同一の賃金が支払われるべきであるから、派遣先会社の正規労働者と同じ業務あるいは同じ価値の業務を行う派遣労働者には、派遣先会社の正規労働者と同一の賃金が支払われるべきである。そして、異なる仕事でも、その価値を総合的に考慮して格差を是正していく必要がある。
よって、派遣労働者の低賃金化を防止するためにも、派遣先会社の正規労働者の賃金との均等待遇を規定するべきである。
(5)マージン率について
答申は、「20年法案にあるマージン率の情報公開に加え、派遣労働者が自己の労働条件を適切に把握するとともに、良質な派遣元事業主を選択する一助とするため、派遣元は、派遣労働者の雇入れ、派遣開始及び派遣料改定の際に、派遣労働者に対して、1人当たりの派遣料金の額を明示しなければならないとすること適当である」としており、派遣元が取得する中間マージンについての情報公開・説明義務を求める点は、評価できる。
しかし、派遣労働者をワーキング・プアとしないためには、さらにマージン率の上限規制を設けるべきである。
上述のように、間接雇用の本質的悪性として、実態は雇用であるのに、形式的に雇用の形を回避することによって、労働者の権利保護を図っている労働法の適用をのがれようとする、労働法脱法的性格が存することは既に指摘したが、その他の本質的悪性として、中間搾取の弊害がある。
つまり、戦前の「人夫出し業」のように、他人の労働契約関係に介入して、本来、労働者がその労働の対価として全額受け取るべき賃金から差し引くことにより、労働契約関係をゆがめ、また、労働者の生活を著しく困窮させるのが、中間搾取である。
よって、搾取的なマージン取得を阻止することにより、「ワーキング・プア」という働かせ方をなくす必要がある。どれだけ身を粉にして働いても、固定的に貧困が続く「ワーキング・プア」という働かせ方を許容することは、明らかにおかしい。派遣元によるマージン率に制限のないことが、派遣先による「買いたたき」とともに、ワーキング・プアの重大な原因となっており、その規制が肝要である。
また、各労働者にとって自分の労働条件を適切に把握するには、派遣元全体のマージン率を公開されてもまったく意味がない。従って、情報公開の対象となるのは各労働者の各個別の業務に対するマージン率とするべきである。
(6)専門的業務について,
臨時的一時的な必要性がある場合に限定
上記のとおり、本来的に、労働法脱法的であり権利侵害的な間接雇用は、本来は全面禁止されるべきものである。
よって、答申が「原則として常用型派遣だけとする」と表明した点は前進ではあるものの、それだけでは不十分であり、少なくとも、派遣許容業務については,現在のポジティブリスト方式(原則自由化)からネガティブリスト方式へ戻し、かつ、臨時的一時的な必要性がある場合に限定すべきである。それ以外の派遣においては、類型的に権利侵害的濫用を避けがたいことは、これまでの社会的実態から、既に明らかである。
(7)もっぱら派遣の禁止
もっぱら派遣とは、登録型派遣を含む一般労働者派遣事業につき、当該派遣事業が専ら特定の派遣先会社に派遣することを目的として行われることで、現行法でも禁止されている。
しかし、厚生労働省は、この専ら派遣とは,特定の者に対してのみ当該労働者派遣を行うことを目的として事業運営を行っているものであって、それ以外の者に対して労働者派遣を行うことを目的としていない場合であるとの極めて限定的な解釈を行っていたため、例えば、グループ会社内への派遣割合が100%であっても、グループ外会社への派遣の営業努力をしていたり、グループ外会社からの派遣依頼を拒否していなかったりすれば違法ではないとされていた。
大企業が人材派遣会社を作りグループ企業だけに労働者を派遣するということは、本来正社員で雇うべき人を低賃金で不安定な派遣社員の地位に置くことにほかならず派遣の悪用というほかない。しかし、グループ会社以外への営業努力を形だけしていれば法違反とならない現行規定をあらためない限り、このような脱法状態が解消することはないから、現行規定をあらため実効ある禁止規定をおくべきである。
今回の答申では、「もっぱら派遣」については何ら触れないが、このような現行解釈は一掃し、常用代替を目的としたもっぱら派遣は全面禁止とするべきである。また、連結決算の対象となるグループ会社内での労働者派遣は一切禁止すべきである。
(8)紹介予定派遣の禁止
紹介予定派遣は,職業紹介を受けて派遣先と派遣労働者が雇用契約を締結することを前提に,派遣先が,事前面接など派遣労働者を特定する行為を認めるものである。しかし、派遣終了後の雇用契約締結は派遣先会社にとって義務ではないため、結局は派遣開始時と派遣終了時に派遣先会社の選り好みを許すだけに終わってしまう可能性があり、問題の多い制度である。
同制度は、労働法脱法的な長期の「試用期間」を可能にし、そのことは、そのまま、労働者の地位をいつまでも不安定な状態に置くこととなる(西谷敏「労働法」385〜386頁)。
答申は、この点に言及しないが、紹介予定派遣は全面的に禁止し,派遣先会社には職業紹介制度の利用を促すべきである。
以 上
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2010-02-03 02:18
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| 労働 / 貧困/反貧困 / 政治、権力 |
2010年02月02日(火)
金縛りになったことが、人生で2回だけある。ああ、これがそうなのか、とおもった。
ほんとうにに重くて動けなかった。
でも、合理主義者の僕は、それで世界観が揺らぐことはなかった。
尊敬する友人で、金縛りを霊と結びつける人がいる。その人の考えを否定はしない。
だが、ぼくは、「AだからB」というときに、そこに論理的な飛躍がある場合があるから、必ずしもBとはいえないよね、とおもう。
自分が納得できる「物語」「説明」を人は必要とする。
さて、『朝日新聞』で金縛りは、睡眠リズムの乱れ、からだは眠っているのに、脳が起きている状態ゆえのことという。合理的で納得できる説明だ。
疲れ、不規則などが原因でレム睡眠になって、そのとき金縛りにあいやすいという。心身が健康的で、ちゃんとした睡眠が取れると金縛りはおきにくいものだということだ。
僕は、〈スピ・シン主義〉をいうが、インチキな神秘主義者ではない。〈たましい〉の水準を大事にするという、歴史的に人類が持ってきたものを正しく受け継いでいきたいと思うだけだ。
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2010-02-02 00:51
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| スピリチュアリティ |
全国学力調査の構想が出たのは04年11月だった。提唱者は当時の文科相、中山成彬氏で、彼は日教組を目の敵にしている極め付きの「右翼君」で、妄言を繰り出したことで有名で、彼自身が日教組的なるものをつぶすために学力調査を無理やり導入したということは、いまや明白である。
彼自身が、文科相時代に全国学力調査を提唱した理由は、日教組が学力を低下させているという自説を証明するためであり、証明が完了した以上調査の役割は終わったと述べている。
2004年の第2次小泉改造内閣で文部科学大臣として初入閣して、ここぞとばかり右翼者として様々な教育改革を提案したうちのひとつが、学力調査だったのだ。
彼の資質が余りに愚かであるのは、彼のいろいろな言動で有名である。
たとえば、彼が2008年に、次期衆議院選挙に立候補しないといったり、やっぱり立候補するといたりした迷走振り。宮崎県知事のひがしこくばるくんを国政にといったりもした。文部大臣時代に全国の小中学校を視察したが大阪だけは日教組が阻止して実行できなかったと述べたこと。2008年9月28日、国土交通大臣を5日で辞任、閣僚の在任期間としては戦後2番目の短命であったこと。
辞任した後に「民主党政権が誕生すると、日本全国が大阪府みたいになる。職員組合とのなれ合いで財政破綻にひんしている」と発言したこと。大分県の球威運採用贈収賄事件で「大分県の教育委員会のていたらくなんて日教組ですよ」「(日教組が強いから)大分県の学力は低い」といったこと。日教組に対する批判について、「撤回はしない。
わたしは日本の教育のガンは日教組だと思っている。ぶっ壊すために火の玉になる」といったこと。そなこんなで、この人、ちょっとおかしいよね、とみんなにわかってしまった。
他の点でも彼の逸話は続く。彼は、南京大虐殺否定論者で、「婦女子に対する暴行とか、そんなことは全くなかった」と発言したりしている、変な人である。
慰安婦問題でも「やっと最近、従軍慰安婦や強制連行という言葉が(教科書から)減ってきたのは本当によかった」、「そもそも従軍慰安婦という言葉は当時はなかった。なかった言葉が(教科書に)あるというのが問題」などという、日本軍・日本政府の責任を認めない立場のお方である。
そんなヘンな右翼君であったが、当時は、拉致問題、ジェンダーへのバックラッシュ、靖国参拝、中国や韓国批判、教科書問題などで、右翼的な人の意見が小泉や安倍を担いで勢いをもっていた時代であったため、学力調査もいろいろタテマエをつけて実行されてしまった。それが政治である。
今から思えば、学力調査のその見識のなさという正体は明らかではないか。だが、人々は踊らされる。まるで、ヒトラーの時代に、まじめに「議論」していたように。ヒトラーの時代も、日本軍国主義の時代も、新聞も大学も裁判所もあったのだ。
というわけで、2010年、ようやく、政権交代を通過して、全国学力調査が、次回実施分から抽出式に変わることになった。
以下、それの関連記事。
この記事でも中山君が、まだほざいている。それによってかえって、全国学力調査の不必要性が明らかになっているのだが。
悪い夢のような、プロパガンダとしての、全国学力調査であった。だが、それに加担したものは誰も責任を取らない。メディアも。大金を使うムダで、かつ競争と「序列化」を煽るだけの、単純な「学力」把握という、低いレベルの教育論の産物であった。
まだそこにしがみついている輩も多い。教育論って、ヤンキー先生レベルの人がほざくのに適したところなのね、と思う。「日教組が悪い」といえば意見だと思っている人たちがうろついている。
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学力調査、抽出式でどう変わる?
@『朝日新聞』2010年1月18日
「巨費を投じて全員にやる必要があるのか」「地域間の『点数競争』に陥っている」。2007年のスタート以来、様々な論議を呼んできた全国学力調査が、今年4月20日の次回実施分から大きく変わることになった。最大の変更は、小6、中3の全員を対象にしていたのを、全体の約3割を抽出するサンプル調査に切り替えることだ。文部科学省は、「学力競争」や公表問題のもとになっていた市区町村別、学校別の成績の集計もやめるとしている。
■成績公表の火種小さく
国語と算数・数学の2教科で実施されている全国学力調査について、民主党はかねて「全体の学力傾向をつかむには抽出調査で十分」という考えをもっていた。政権交代で「抽出化」は既定路線になったが、さらに政府全体で予算削減の動きが強まり、昨年末に確定した10年度の政府予算案では、学力調査にかけるコストは前年度比約24億円減の約33億円に。全体の抽出率は32%(小学校25%、中学校44%)とされた。
■変わる調査目的
文科省はこれまで、全員を対象とする理由として、「教育委員会や学校が全国との関係で自らの教育や施策の課題を把握し改善するため」「学校が自校の児童生徒の学力などを把握し、指導の改善に役立てられるようにするため」などと説明してきた。昨年末に公表された次回調査の実施要領からはこうした言葉が消え、「国として全国的な学力と学習の状況を把握し、施策の検証、改善を図る」というシンプルなものになった。
学力調査をめぐり、これまで大きな問題になっていたのが成績の公表問題だ。
全員調査の結果、文科省は市区町村や学校ごとの成績をまとめて各都道府県に提供していたが、「外部に出したら序列化につながり、弊害が出る恐れがある」として、都道府県にはデータを公表しないよう求めてきた。しかし、「税金を使った事業でデータを明らかにしないのは許されない」といった知事の発言が続き、秋田県では08年末、当時の寺田典城知事が自ら県内の市町村別の成績を県のホームページで公表した。市町村教委の反発は大きく、同県教委の神居隆次長は「理解を求めることに労力を使い果たした日々だった」と振り返る。
抽出化に伴い、文科省は、次回の調査では市区町村や学校別の成績は集計しない考えだ。抽出率が3割にとどまる中で細かく集計してもあまり意味がない、という考えだ。これにより、文科省の集計結果をもとに「公表か非公表か」が迫られる場面はなくなることになる。
学力調査をめぐっては、「よそに負けまい」と好成績をとるために事前のテスト対策を講じる学校が出ていたが、こうした現象も当面は沈静化するとみられる。
ただし、文科省は、今後も都道府県別の成績については集計、公表するとしており、都道府県単位での「序列化」の構図は変わらない。また、学力低下への不安感から、保護者には代わりになる全員参加の公的なテストを地元の教育委員会などに求める声も上がりそうだ。(上野創、斉藤寛子)
■抽出率の差の訳は…
次回の全国学力調査は全体では「3割抽出」だが、都道府県別で見ると、最も低い愛知の14.9%から最も高い高知の57.6%まで、かなり幅がある。特に中学では、愛知の22.7%から佐賀の81.8%まで差が大きい。7割を超える県も五つあり、「抽出」と呼ぶには違和感がある高さだ。なぜ、こうなるのか。
こうした抽出率について、文科省は、前回の学力調査の成績のばらつき具合や、学校数の多さから計算したとしている。都道府県別に平均正答率をみたとき、成績が高い層から低い層まで差が大きい地域では多めにサンプルをとらないと全体傾向が把握できない。逆に、正答率の差があまり大きくなく、全体の平均点に近いところに多くが固まっている地域では抽出率が低めでも全体状況がはかれる、という考え方だ。
また、人口が多い大都市圏では抽出率が低くてもその自治体の傾向が分かるが、人口が少ない地域で同じ精度を保つには抽出率が高くなる、という事情もあるとしている。(見市紀世子)
■提唱者・中山氏は…
全国学力調査の構想が出たのは04年11月。提唱者は当時の文科相、中山成彬氏だった。中山氏は「競い合う心や切磋琢磨(せっさたくま)する精神が必要」と説いたが、国交相時代の08年には「なぜ提唱したかといえば、日教組の強いところは学力低いんじゃないかと思ったから」などと発言し、問題化した。
調査が抽出方式になることについて、朝日新聞の取材に応じた中山氏は次のように話した。
◇
悉皆(しっかい)(全員)調査をすることに意味がある。費用が問題で抽出にするぐらいなら、2〜3年おきに悉皆でやった方がいい。
結果は学校ごとに公開すべきだった。どの県、どの町が(成績が)良い、先生が良いとか悪いとかいうことになれば、みんな自分の地区に関心を持つ。傾向と格差が検証できる。悉皆と抽出とでは全然違う。
教育界は競争は悪だという概念に縛られてきたが、社会に出れば世界の大競争の中に入る。学校でもある程度の競い合う心を養わないと、東洋の三等国になると思い、大臣になったときに教育改革を提唱した。政権交代で逆戻りになって残念だ。改善への努力も弱まる気がする。
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2010-02-02 00:30
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| 教育 / ナショナリズム政治 |
2010年02月01日(月)
写真家の篠山紀信さんが写真集のロケの際に都心の路上などで女性のヌードを撮影したとして、篠山氏とモデルの女優2人を公然わいせつ容疑で書類送検した。その作品が載ったのが、写真集「NO NUDE by KISHIN 1 20XX TOKYO」
違和感を持ったのが、新聞記事に、
「警視庁の捜査幹部は「一般人が路上で全裸になっていたら罪に問われるのに、芸術目的なら許されるというのは筋が通らない。管理者側から、処罰を求める声も強かった」と言う。」とのっていた点。
「一般の人が路上で全裸になっていたら罪に問われる」ということ事態も再検討されるべきで、草薙くんのように、すこしくらいハダカになってもそもそも、罪とするようなことではない。人権侵害は罪だが、ハダカは罪ではない。
公然わいせつ罪自体がおかしい。悪法があるとき、根源的に意見をいっていく必要がある。
次に、「一般人が路上で全裸になっていたら罪に問われるのに芸術目的なら許されるというのは筋が通らない。」というのは、まったく論理的でない意見だ。芸術目的なら、別の基準が適用されるということがあってもまったくかまわないので、まるで絶対真理のように、「筋が通らない」というのは間違った決めつけだ。自分の意見が一つの決めつけだという自覚が感じられないので、愚かだと思う。これが警察の程度ということか。
もちろん、芸術なら何でもいいというわけではない。そもそも何が芸術か不明確だ。しかし、たとえば、実際のレイプは犯罪だが、家庭内で二人でレイプのようなプレイで二人で楽しむセックスは犯罪ではない。(勿論完全な同意の中でのファンタジーという場合)
ヌード写真でも、性暴力的なものは人権侵害だが、人権侵害でないすばらしく美しい作品もある。美しくなくてもすばらしい作品もある。「わいせつ」概念自体が批判されている。
権力が一方的に性に関して、取り締まるのは制的保守主義にのっとった管理主義で、愚かしい概念だ。ハダカが本のなかの何ページ以上だからダメというのは、愚かな判断基準であって、そのハダカの質が、人権の観点で検討されねばならない。
つまり、自動的に、無検討的に、人権の視点もなく、芸術の視点もなく、「一般人が路上で全裸になっていたら罪なのだから、誰がどんな撮影であってもとにかく路上で全裸になっていたら罪」というのは、それこそ「筋が通らない」。
法律自体も問題だが、それをどう適用するかが問われている。
警察を怒らしたら、悪質だということで逮捕。
A君不当逮捕でも同じだが、警察や検察の胸先一つで「犯罪」にされるというような愚かさ。
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2月3日追記
上記では、ふれなかったが、私は、篠山紀信さんの今回の写真集が芸術作品としてすばらしいといっているわけではない。芸術作品として優れているから擁護したのではなく、警察が一方的にハダカだということで起訴するのは間違っているということを言った。
私の友人は、いまどき路上など公的なところや無機質なところで若い女性のヌードを撮るなんて古臭い、むしをそれを撮っている篠山自身を写真に撮ったらいいのだ、とけなしていた。そうだろうなとおもった。
またわいせつ罪自体の問題もある。友人は性器がうつらないとわいせつ罪にならないと思っていたといっていた。
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2010-02-01 23:45
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| ジェンダー / 政治、権力 / 作品 |
大阪性教協の合宿にいってきました。
そこで私はカップル単位の恋愛観とデートDVの関連などの話をさせてもらいましたが、夜は「ジェンダーと私」ということで参加者の皆が自分の半生を語り合う感じになってとてもいい空間になりました。
そこで私が思ったことを、思いっきりわかりにくいと思いますが、ここに簡単に書いておきますと、
@人生の苦しみ、孤独
A人生は矛盾があってOK,60点、50点、まあまあでOK,とにかく比較しない、どの道でもそのカタチで幸せとはいえない、
B悔いのない人生を送ろう、死ぬときに喜びと思えるならいいじゃん、したことをしよう。矛盾していても、ダメなことでも。
C貧乏を楽しむような貧乏生活を。同じように、本を読んでその世界を味わえるような、スローな生活を。
となります。
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NHKで、「無縁死」ということで、会社人間で家族を大事にしなかった人、非正規雇用などで結婚しなかった人、などが出ていました。一人ひっそりと死んでいく人生。「生涯未婚率」上昇の中で、安易に、「だから結婚、だから家族」じゃないよね、と言うことです。そう分かっているかどうかは、怪しいですが。
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さて、そういうなかで、いい本を紹介してもらったので、ここで紹介しておきます。
「ぼちぼちいこか」 マイクーセイラー/作 ロバート.グロスマン/絵 今江祥智/訳(偕成社、1980年)
あらすじは、
カバは、あれやこれやいろんな職業に挑戦しますが・・体重が重くて、どれもうまくいきません。しょうぼうし、ぴあにすと、宇宙飛行士、いろんな仕事を夢見ますが、でも途中でいつも「太った自分では無理だ」とあきらめてしまいます。
たとえば
ぼく、しょうぼうしに なれるやろか。
なれへんかったわ。
ふなのりはどうやろか。
どうも こうも あらへん。
そんなふうに、どんどん、やっぱりだめ。
でも、そうしてあれもこれも駄目だと思っていたある日、
カバは自問します。
「どないしたら ええのんやろ・・・・そや。 ええこと おもいつくまで――
ここらで ちょっと ひとやすみ。
ま、ぼちぼち いこか――・と いうことや。」
と気を取り直す、というお話です。
「ぼちぼちいこか。」は原語ではtake it easy。
何事も深く理解する、自分のものにする、そのような生き方をするというのが難しい。
頭の先でざっと素通りするのは多いけどね。
諦めるのでなく、また能力主義的に何か、わかりやすい成功、肩書きや職種を得るのでなく、ちゃんと、ぼちぼち生きていけるかどうかだと思います。
雑誌などメディアに載る、ということの「危なさ」を自覚している人がどれだけいるのか。自分が優れているからこそ、取り上げられていると思っているような人がいます。講演でも自分がいいことを言っている、聴衆よりも「上」であると思っている人がいます。
あせらず、あせらされず、競わず、一人ひとりが自分自身の好奇心や夢をあきらめることなく、同時に、適度な諦念とか、力を抜くとか、無名であるとか、収入にとらわれないとかが大事だという話です。「シゴトが忙しい」ということを無批判・無思考・無反省的に口にするような鈍感さをもたないようにしたい。
僕はときどき、人権関係の活動をしている多くの人が、無償とか、超低収入で、NPO的にやっているのに、その分野で専門職の人が、自分の置かれている位置を深く省みることがない、というのをみて、あーあとおもいます。その単純な「愚かさ」に、距離感を感じます。大学教員とか、医者とか、弁護士とか、カウンセラーとか、相談員とか、何か、それを生活収入にできている、ということを、ただ、仕事だ、頑張ればいい、という程度の思考でとめていいのか。
世の中には、すばらしい感性だけど、すばらしい活動や言動をしているけど、でも肩書きがない、組織の中での正規職員になっていない、ということで、「低い扱い」をされているというようなことがあります。能力があるのに、偶然、運に見放されて、その能力の活用の場につけていない、ということがあります。生きていくのさえたいへんということがあります。
自分は何をして生きていくのか、と悩むということは、そういうことに関わっています。
そのとき、仕事だ、といって忙しくしていて、かなり相対的に高い「収入・給料」を得ていることにも無反省的である、ということは、かなり問題ではないでしょうか。
それにたいし、「ぼちぼちいこか」は、けっして、自分にあった仕事がみつかってめでたし、の話ではありません。
やりがいのある、いい仕事、収入もあって、安定していて、というのではない、「道」を探す必要があります。
それを自分が、実践できるかどうか、が問われています。
今の社会秩序での「成功」「ふつう」からずれて、生きていくという、課題。
「どう生きるのか」、ということは、そういう意味で中心的課題です。
(あとで、ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩の、「どう生きるのかという素朴な質問以上に 緊急な問いかけというものはない」の言葉を紹介します。)
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2010-02-01 13:36
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| 生き方 / スピリチュアリティ / 作品 |
鳩山首相の所信表明演説を新聞でざっと見た。
歴代政権のなかで、もっともマシなものといえるのではないか。
民主党政権を全面的に支持とか、その政策を全部支持というわけではない。労働政策でも、沖縄基地問題でも、多分、今後かなりの点で批判することになる。
しかし、官僚の作文の寄せ集めではない、鳩山由紀夫なりの「命を守る」といった言葉には、〈思い〉があった。具体策ではまだまだ不足もあるが、ガンジーの言葉を引用しての、ちゃんといきていく理念には、いいものがあった。財源等を含めて社民主義を明確には書いていないが、かなり、社民主義的な方向性、公共・連帯の感覚は出ている。素直に評価できるところがあった。
だが、『朝日新聞』の社説は、「演説の美辞に酔う暇なし」といい、「聴くほうが気恥ずかしくなるほどの理想を語り続けた」とけなした。
また「現職議員が逮捕されているのに、小沢一郎民主党幹事長の問題には一言も触れなかった。残念だ。」「マニフェストにせよ、資金の問題にせよ、逃げていては、政権を率いる首相の覚悟に疑問を覚えざるをえない。」と非難した。
小沢の問題は、社会システムをどうしていくかという重要な問題に比べて、それほど大事ではない、と私は思う。政治と金というなら従来の自民党政治のときの骨抜き制度こそが問題で、そこを変えていけばいいだけのこと。施政方針演説で小沢のことを言う必要はない。
『朝日新聞』の社説書き手の心は歪んでいる。鳩山のあの程度の言葉で、「聴くほうが気恥ずかしくなるほどの理想」とは、よほど、「理想」から離れて世俗にまみれているのだろう。高収入で出世した、骨のない保守的な朝日の社員らしい感覚だと思った。
『朝日新聞』に理念があるのか。読売新聞と近いような程度になっているのに、文句だけ言うとは、ダメディアである。
北欧型の社民主義に移行するために、高負担(所得税増税)をする、大胆な年金改革をするということに、反対しているのが『朝日新聞』である。
小沢問題で検察に操られ、鳩山を批判する『朝日新聞』は、自分が保守的な立場から、鳩山的な改革の方向(理念)を感覚的に嫌っているという自覚があるのだろうか?
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以下『朝日新聞』社説
鳩山政権―演説の美辞に酔う暇なし
いのちを、守りたい。
鳩山由紀夫首相の施政方針演説は、こんな異例の切り出しで始まった。
政権交代から4カ月余り。華々しくスタートした序章の盛り上がりは早くもしぼみ、内閣支持率は低落を続ける。これをどう挽回(ばんかい)するか。新年度予算案の国会審議入りにあたって首相が選んだのは、改めてみずからが目指す理念を熱く語ることだった。
子どもを持つことをあきらめてしまう社会を変える。「生まれくるいのち」を守ろう。職を失っても孤立しないよう共同体をつくり直そう。「働くいのち」を守りたい。
首相の持論である「友愛」を、別の角度からかみ砕いたということなのだろう。市民が互いに支え合う「新しい公共」の創出や、医療や介護を成長産業としていく「人間のための経済」づくりを訴えた。
自民党政権時代の政策から価値観を変えようというわけだ。
演説のスタイルも変えた。各省から集めた施策を列挙するだけの感が強かった形式をやめ、聞く方が気恥ずかしくなるほどの理想を語り続けた。
理念を語り国民の共感を呼び起こそうとするのは、リーダーにとって大切なことだ。半世紀にして初の本格的な政権交代という歴史性を思い、新鮮さを重視した首相の狙いは理解できる。
その裏に、具体論を語ろうにも語れない鳩山政権の苦しさがのぞいている。その事実を国民の多くが気づいている。だが演説には説明がない。そこに違和感を禁じえないのだ。
「国民との契約」と呼ぶマニフェストの何を実現し何をあきらめたのか。その理由は何か。これからどうするのか。演説で国民が最も聞きたかったのはこの点ではなかったか。いわば契約の履行状況報告であり、展望だが、ほとんど素通りしてしまった。
国民はマニフェストに期待して民主党政権を選んだが、そのすべてに賛成していたわけでもない。
政治主導の大変化から日米問題、「政治とカネ」の大騒動まで、新政権の4カ月をどう概括するのか。それを堂々と語らなければ、何が生きている「国民との契約」なのか、わからなくなる。
首相は自らの政治資金の問題を陳謝したが、現職議員が逮捕されているのに、小沢一郎民主党幹事長の問題には一言も触れなかった。残念だ。
マニフェストにせよ、資金の問題にせよ、逃げていては、政権を率いる首相の覚悟に疑問を覚えざるをえない。
各論は国会審議で明らかにしていくしかない。首相や与党には誠実に審議に応じるよう求める。それなしには、せっかくの理念もかすむ。首相も民主党も、演説の美辞に酔っている暇はない。
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2010-02-01 02:25
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| メディア / 政治、権力 |
静岡刑務所を出所したばかりの三井環・元大阪高検公安部長の講演会があります。
検察のリークとメディアの報道、つまり記者クラブが検察の情報操作に使われているという問題、いかに世論調査なるもので「世論」が作られるのかなどにも言及される予定だそうです。
また、このブログの後には、小倉利丸さんのブログ関係で、取調べの可視化、捜査資料の開示の問題に関連して、電子資料の危険性についても少し、言及しておきます。
『週刊ポスト』2010年2月5日号では、検察の内幕がいろいろ暴かれています。小沢を潰すために、取調室の様子などほかからでは出ない情報が出ていることからも明白な捜査リークがあること、ダム問題で発注者である国交省は捜査しないという問題、裏金問題で口封じのために逮捕された三井環・元大阪高検公安部長の話、などが載っています。
こうした問題は、このブログで報告している柏原市生保申請A君不当逮捕事件でも、事実をちゃんと調べずに、一方の訴えだけでの決め付け逮捕、メディアへの情報リーク、起訴、そして有罪にもっていこうとしていることに関係します。
********(転送・転載は、ここからお願いします)********
講演会
「検察には小沢幹事長を攻撃しないといけない理由がある」
三井環・元公安部長、出所後初講演
■2010年02月19日(金)18:45〜21:00
■在日本韓国YMCA 9階ホール(水道橋駅、神保町駅、御茶ノ水駅)
<http://www.ymcajapan.org/ayc/jp/map1.htm>
■参加費:会員・学生1000円、ビジター1500円、年金生活者・生活にハンディ
のある方(自己申告)1000円
■ゲスト 三井環さん(元大阪高検公安部長)
「けもの道」。後藤田正晴元法務大臣が戦後最大の検察疑獄になりかけていた事件のもみ消しを検察首脳に懇願され、要請を受け入れた選択肢を形容した言葉だという。2001年、後藤田事務所に時の原田明夫検事総長と松尾邦弘法務事務次官が駆け込み、検察の裏金作りで刑事告発された大阪地検加納駿亮検事正の事件のもみ消しを依頼したことは業界内では広く知られている。この事件の翌年4月22日早朝、鳥越俊太郎氏の番組『ザ・スクープ』で検察の裏金作りの実態を内部告発するために自宅を出た三井環大阪高検公安部長が逮捕された。朝日新聞が翌日の朝刊1面トップに検察現職幹部による裏金内部告発の予定稿を組んでいたという事件だ。
あれから8年。2月定例会ゲストに、1月18日に静岡刑務所を出所したばかりの三井環さんをお招きして、自らの口封じ逮捕と懲役刑への反撃、告発されれば検察幹部70名が懲戒免職になっていたといわれる「けもの道」に至る経緯、検察の裏金作りの実態、自民党との癒着から繰り返されてきた国策捜査のカラクリを明らかにします。
さらに小沢民主党幹事長への執拗なまでの検察の攻勢が、取り調べの可視化や裏金作りの露見に危機感を覚えた検察の焦りの表れだという自説まで、余すことなくお話していただきます。
チラシをダウンロードする
http://apc.cup.com/apc201002.pdf
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小倉さんブログに関するメモ
小倉さんが取調べの可視化、捜査資料の開示の問題に関連して、「電子警察の実体は取調べの可視化、捜査資料の全面開示でも不可視なままだ」といったブログをかかれました。
http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/no_more_cap_blog/details.php?bid=36
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そこでは、捜査機関のずさんな捜査や拷問ともいえる手法による自白偏重の取調べが数多くの冤罪を生み出してきていること、盗聴法の国会審議で法務省は、性善説にたって捜査機関を疑うことは不要といってきたが、こうした性善説にたつことがさらなる冤罪を生み出す危険性が高いこと、取調べの可視化や裁判における捜査資料の全面開示の要求が、マスメディアですら取り上げられるようにまでなったが、盗聴捜査にかかわる資料の開示もまた捜査過程の可視化にとって重要だという点にまでは、あまり踏み込まれていないことなどが述べられている。
また捜査機関が膨大に溜め込んでいるデータについて、デジタルデータの改竄や流用をチェックするための技術的な歯止めが不明確なことが大きな問題であると指摘している。
そして09年8月に サンケイが次のように報じたことを紹介している。
「海上保安庁は3日から、裁判所に提出する事件・事故の証拠写真をデジタルカメラで撮影する。警察庁も本年度中の全国導入を決めているが、捜査機関での実施は初めてで、海保は「コスト削減のほか、捜査の迅速化につながる」と期待している。
海保関係者によると、デジカメで撮影した画像は編集や書き換えができるため、捜査機関は、これまでフィルムカメラを使用。しかし昨年、メーカーが書き込みデータが瞬時にロックされ、改竄(かいざん)や消去ができないメモリーカード(記憶媒体)を開発した。海保は検察庁と協議し、証拠として公判にも使えるとの結論に達した。(以下略)」
これについて小倉は、こうした新たな技術仕様をもったデジカメといっても証拠としての信用性がこれまでのフイルムによる写真同等になるとはいえないということ、及び、
デジタルカメラが上記の報道にあるように、証拠写真としての能力を欠いているというのは、本当なのか?、膨大な警察による電子情報、デジカメやデジタルビデオカメラ史朗は何に使われているのか、等に言及している。
「そもそも電子化されたデータがどれだけ蓄積されており、どのように利用されているのか、個人を特定した名寄せや、公判の証拠とすること以外の目的で収集されているデータがどれだけあり、それらがいったい何の目的で収集されているのか、そうした一連のことがらがまったく不透明なままだ。このこと自体が、冤罪を生み出す権力の技術的な背景をなしている。」
「特にコンピュータ監視法案については、捜査機関がこれまで以上に容易に電子メールなどの通信履歴にアクセス可能となり、しかも、ネットワーク越しに、電子データの押収も可能にしようというものだ。上に見たように、捜査機関内部での電子データの管理が不透明な現状では、コンピュータ監視法案が万が一にでも成立してしまえば、ますます私たちのコミュニケーションは警察の監視下におかれやすい環境になることになることだけは間違いない。」
以上のような小倉の目配りはまったく正しい、とだけコメントしておく。
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2010-02-01 01:05
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| メディア / 政治、権力 / 貧困/反貧困 |
2010年01月30日(土)
先日、あさかさんの「孤独だと人はゆがむ」という話を紹介しましたが、今度は「孤独こそが大事」という車谷長吉さんの主張の紹介。
『朝日新聞』1月9日「悩みのるつぼ」で、車谷長吉さんの答えは、実践的な迫力と説得力があった。
「ずっと、不眠、眠気、頭痛、吐き気に悩まされてきた。健康な人に嫉妬してしまいます。妊娠・出産の女性には特に」という30代女性の相談に対し、車谷はいう。
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車谷さんの返答、要約
私は健康が大事と思うが、健康な人はそこがわかっていない。
人は誰にも理解されず、孤独な存在だ。私の苦しみは理解されない。人間の本質は孤独。他人と自分を比較することに価値はない。他人と比較するから苦しくなる。なのに世の中の大半の人は、比較しながら生きている。浅ましく愚かです。不幸な人は他人から思いやってもらうことを願うが、その願いはかなえられない。一人ぼっちを決意する以外に、救いの道はない。
つらさから逃れる道は、他人との比較を止める以外にない。劣位でいいのだとおもえてこそ、自己嫌悪が少なくなり、「精神の自由の道」が開けてくる。
私は40歳ころまで「優の人」と付き合ってきたが無価値だった。そういう人との付き合いをやめ、孤独だけを信じて生きていると楽になった。
貧乏を気にしない貧乏人になればいい。(車谷 終わり)
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これは、断念することの意義をのべた、実践的にはとても有効な意見だと思う。
冷静に見れば、車谷の意見は、一面的で、ニヒルすぎて、消極主義・厭世主義的な意見だろう。しかし、実際に苦しい人はたくさんいるわけで、皆が今の社会に適応的であるわけではない。
勝間さんの意見がときにウザイのは、とにかく問題を分析して合理的に対処していけば事態はよくなるという、能力主義的で勝ち組的なことばかり言うからだ。
それに対し、車谷のほうが、「弱者」「負け組」にやさしい。
皆が競争の中で努力し続けることが大好きというわけではない。
人ごみとか、人を押しのけるのがいやという人はいる。競争せず、のんびりとマイペースで、そこそこで生きていきたいという人はいる。
そして車谷はさらに、そこの先に行く。
でも、安積さんの「孤独ではなく、皆とつながって生きていこう」というのも、豊かで実践的な思想だ。決してキレイゴトというのではなく、実際に人と共同生活したり多くかかわって、他者や世界や自然環境のなかで、自分の弱さを認めつつ吐き出し、聴いてもらい、聴きあうというようなつながりの中でこそ、まともな感覚になるという、実践論だ。
いっていることをみれば、安積さんのほうが深く〈世界〉を捉えていると思う。車谷さんは、この現実のひどいクソッたれ社会で、現実的に、「不適合的な弱い自分」を何とかラクにするための防衛的思想だと思う。
だが、その突き抜けの程度がすごくて、やはり魅力的だ。
で、僕なりに、〈スピリチュアル・シングル主義〉と安積の思想と、車谷の孤独感覚をつなげて理解してみたい。
つまり、孤独を、シングル単位的に理解したい。
古い家族観(共同体主義)へのとらわれ、を捨てるという意味で。
ジェンダーへのとらわれを捨てる、という意味で。
自立・孤独が基本、という意味で。
その上で、従来のつながりではない〈つながり方〉はある。それが、スピ感覚の問題。
わたしたちのいのちが、つながっており、自然を私的に所有したり略奪したりすることの愚かさを思う感覚。空は誰のものでもなく、空を見て感じる気持の感覚。
ユニオンのなかで、小さなところで、具体的に、丁寧に、つながれるとき、それはいいなと思う。
大きな政治とか、大きな政策変更の働きかけ、大きな労働運動というようなものも、実際には必要だろう。
だが、小さな場所での、小さなスピリチュアルなものの立ち上がりに、むしろ、丁寧なことが宿る。
そういうものなら、あなたや私や、ちいさな無名の個人の手にも入るよ、ということをみながわかるようになっていくようにしたい。
そういう文脈で、車谷の言い方を少し変更すれば、
「私たちは、いまの社会の主流秩序に評価されなくてもよい。能力主義の価値観の人に理解されなくてよい。比較せず、孤独にわが道を行けばよい。今の社会の秩序では、劣位でいいのだとおもえてこそ、自己嫌悪が少なくなり、「精神の自由の道」が開けてくる。「優の人」と付き合うのをやめ、貧乏を気にしない貧乏人になればいい。そういう〈孤独〉へ」
となる。まったくそのとおり、といいたい。
PS.今日、うれしいことがあった。昔の塾の「教え子」と街中でバッチリ再会。心がつながっていたので、うれしい。そうしたことを喜べる感覚は、〈孤独〉の上でのつながり、つまりスピ・シン的。
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2010-01-30 02:57
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| スピリチュアリティ / 作品 / 生き方 |
2010年01月27日(水)
NHK「ハートをつなごう」(2010年1月25,26日放送)で、「性暴力被害」が扱われた。
リナさんは、十代のときレイプされ、中絶し、風俗で働き、インストラクターになり、次々と男性とセックスし、自傷行為をし、精神的な疾患、PTSDを抱える。誰とも深く関われない自分に悩む。
同じような体験をしたマユミさんという同年代の友人を得て、ようやく、深く人とつながるという感覚を取り戻しつつある。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
アキコさんは、中学生のときに同級生からレイプされた。その後精神疾患を抱えて生きてきた。胸をさわられ、セックスさせないとこのことを皆にバラすといわれて、どうしようもなかった。何度も家に呼び出されセックスさせられた。当時はレイプという認識がなかった。知らない人に外で襲われることがレイプであって、知っている人の家にいってセックスさせられるのはレイプではないとおもっていた。
人と関係を作れなくなっている自分を責め続けてきた。孤独感島を強め、そして手当たり次第に男とセックスするようになっていった。そのときだけは、男の人に与えてあげている、余裕の感覚で、優越感を感じられたからと。
でも孤独感は癒されなかった。誰も信じることができず、自傷行為を繰り返すようになった。
絶望の中でシュウスケと出会って、一緒に悩んでくれて、過去の秘密を打ち明け、それはレイプだよといわれ、ようやく語り合え、安心でき、結婚することになった。
婚約中、また性暴力事件の被害者になり、いっそう男性が怖くなり幻聴がひどくなり不安定になっていった。オーバードーズなどの自殺未遂も繰りかえした。
☆ ☆ ☆ ☆
父から性的なことをされていたが、親の愛情なんだ、パパは私のことが好きすぎるんだと理解していたサオリさんも出ていた。父親との関係の中で、そんな自分を汚れているとも思っていた。
父は離婚して、サオリさんと二人暮しになり、父が好きなサオリさんは父についていき、酒を飲んで働かない父に言われて、17歳で水商売で金を稼いだ。父に見捨てられたら一人ぼっちになりいくところがないと思っていた。そのうち、父からセックスを強要され、妊娠までしたが誰にもいえなかった。
父は22歳で病気で亡くなったが、性暴力を受けていたとは思っていなかった。その後、サオリさんは、だれに相談しても「あんたが悪い」といわれそうだと思って誰にもいえなかった。
33歳で結婚したが、その人はDV男で別れようとしても別れてくれなかった。精神的に不安定になって、女性センターに相談してようやく病院にいけるようになった。夫に離婚を申し出るがうけいれてもらえず、NPOの支援を受けて、徐々にサオリさんは変化していく。性虐待を受けていたのだ、私が受けていたのは暴力だったんだ、と徐々にわかっていった。自分の恥だと思ってきたが自分が悪いのではなく、自分が恥ずかしいのでもなく、被害者なんだと理解できるようになっていった。
そうして話せるようになっていった。話せて、外に出て行けるようになっていった。サングラスも外せるようになっていった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
性暴力被害者として名乗りをでて活動されている小林美佳さんも出演していた。
皆少し触ると傷がうずく。傷口が開き血が吹き出る。
多くは誰にも相談していない。
性暴力は本当に長らく人を苦しめる。心と体の奥に影響するものだからだろう。
思い出すと苦しくなる人がほとんど。ほとんどの人が長期にわたって苦しみ続けている。
性暴力は、家族・親戚、友人など面識のある人からの暴力のほうがずっと多い。
ありとあらゆることが「理由」になって、被害者は、自分が悪いと思っている人がほとんど。逃げなかった自分が、拒否できなかった自分が、悪いと。酒を飲んだ自分が悪い、騙された自分が悪い、抵抗しきれなかった自分が悪いと。
NHKが、ようやくだが、正面から問題を扱った。当事者と支援者の立場で。
ようやく。
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2010-01-27 16:22
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| スピリチュアリティ / 暴力・DV / ジェンダー |
安積遊歩『いのちに贈る超自立論――すべてのからだは百点満点』がらみの、その3。
○広い意味での身体のかかわりの豊かさ
食事するとか、わらいあうとか、握手するとか、ハグするとか。身体接触を狭い意味のセックスに限定するのは、歪んでいると、安積は言う。宇宙をだきしめ、そのすばらしさを何度もいう。
○ 安積さんは、母にひたすら肯定されてきた。そういうことが必要だという。とにかく侵害するなという。とても、シングル単位的な感覚。
○ 母は私(障がいを抱えた安積遊歩)を産んで、人生が計り知れないほど豊かになった。
○ 遊歩は怒りを吐き出し続けてきた。それを親は受容し続けてくれた。全身全霊でよりそってくれた母。遊歩の苦しみのそばにいて、かわいそうに思い、泣き、心配し、なんとかしてやりたいと思い続け、祈り続ける。遊歩の自己決定を全面的に尊重し続けてくれた。だから、安積遊歩は自分で考える賢い人になれた。
○ 骨折を繰り返していた遊歩。夜痛みで目を覚ますと、必ず、さきに目を覚まして母が安積遊歩を見守ってくれていた。
○ 安積のスタンスは、レスキューではなく、とにかくそばで気持を聴く存在になれというもの。無条件の肯定だけでいいのだというスタンス。
○ 安積遊歩の娘、宇宙(うみ)は、骨が折れ続けて痛みで苦しむ人生を歩んでいる。遊歩は、その痛み、つらさを知っているから、宇宙の恐れにきちんと目をむけよう、と決意する。「痛い!」と声に出してギャーギャーいうことを尊重する。手術が怖いのはあたりまえ。専門家の知識の前に沈黙しない。ここは重要だ。
多くの親などは、代理的に、代わりに判断してあげよう、導いてあげようとする。良かれと思って代行する。だが、そこにはしらぬまに優性主義思想や健常者的な価値観や、子どもを自分の所有物とみる上下意識が入り込みやすい。私のからだは私のもの。子どものからだは子どものもの。宇宙は、自分の体を医者が勝手に触ることに、ちゃんと怒れる子どもになっている。
徹底的に、他者として、大人として、尊重して関わるという原点を、宇宙の痛みと手術のことで考えて、安積は、迷いつつ、シングル単位に何度も立ち戻る。大人は、子どものしたいことをできるだけ応援する人になればいいという。子供の声に耳を傾けていって親になるのであって、血縁主義で捉えてはダメという。
○ 経済至上主義・労働至上主義でなく、生活保護や福祉制度を使って生きていくのでいい。そしてエコな暮らし方こそが大事だと。私たちの物質消費の欲望をみなおさないといけない。
○ 貧しい人から、生きのびるモデルを見せていくことが大事。
○この世では、女性のからだは侵略されることが多い。従軍慰安婦、性器削除、強制不妊手術・・・。
○ 医者の多くは暴力的だった。手術は実験台だった。安積遊歩は、医者への怒り、恨みを抱えている。今さら謝ってもらってもしかたないほどに。
○ このことは、「謝る」ということも考えさせる。従軍慰安婦問題でも、いまだ正式な謝罪はない。謝罪があれば、ことはすむのか。
安積はいう。「謝罪が謝罪として意味をなすためには、傷つけた相手に先ず謝り、そのあと、相手がいかにつらい気持でいるかに耳を傾けることが必要だ」という。
だが日本政府は、そういう本当の謝罪を拒否している。民主党政権になったのだから、かわっていくことに期待したいが。
○ 以上は原則だが、安積さんは、今謝罪されても許せないという。今さら話を聴きますと、医者に言われても、もう話したくないという。ちゃんと聴かずに表面的に謝られても苦しいだけだという。だがそれでも、本のなかで、もしあったならと次のような声を絞り出す。「彼らのやったことは、犯罪だったのだという認識を持ち、謝罪するように彼らに伝えてください。医療の本質が患者のいのちやからだに味方することであるならば、彼らにその過ちを伝えることは、同じ医者仲間のあなたたちだからこそ、できることなのですから」。(p99−100)
○ 障害者が妊娠しないように、当事者の承諾を得ずに不妊手術をするということが世界中で行われていた。スウェーデンは、かなり遅かったが、それについて、ちゃんと謝罪をした。損害賠償をした。日本政府はまだしていない。
○ 電車の入り口近くに遊歩が車椅子でいて、混んできたとき、そのとき、見知らぬ若者が、「車椅子の方が乗っていますから、もうこれ以上は乗れません」といってくれたことがあった(p150)。日本ではめずらしくなった、関わり。「自分のことは自分で」というのが、他の人に迷惑をかけてはダメ、他の人にはかかわらない、というばらばらになってしまっている日本。孤立させられてしまっている。
それに対し安積は、競争を排し、つながって助け合えることはぜんぶたすけあっていこう、という。障がい者である私たちのからだは、そういうことに適合的だと誇らしく宣言している。
○共同生活で若い人にかかわる遊歩さんは、それは、人類という種からの要請であると感じている。それもスピリチュアルな感覚である。私のからだというものを、ひどいものに侵害させない、それは地球環境を侵害させないことと一体であるという感覚ももっている。科学や医療や経済の力で侵害させないと抵抗する。聖なる場所として、いのちとしての私、そして環境を守る。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
以上のような内容をもっている安積の本は、僕の〈スピリチュアル・シングル主義〉感覚にとても近いなと思った。自立したものたちが、つながる。自立観が、とてもつながり感覚のあるスピリチュアルなもの。くしくも、生き方、暮らし方がスローであることとそれは結びついている。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
最後に、介助と自立と恥ずかしいということと性について。
安積さんは、「自分のおしりを拭けなくたっていいんだ」という自立観を述べている。
立岩さんが、これに関して考察している。
「自分でできない場合、あるいはしない場合、自分の代わりに他人に委ねることがある。すると、その他人との関係が生ずる。その他人がまったく無色透明な存在であれば、気にならないだろう。しかし人はそんな存在ではない。あるいはそんな存在になりにくい。
すると、恥ずかしいと思うことがある。とくにからだ関係のこととなると、自分の代わりに、見たり触ったりしてほしくないところに他人がやってくるということがある。そんな場合は気にしなければよい、と言われても、気になってしまうことがある。
しかし慣れてしまってかなり気にならなくなる場合も実際にある。どこまでが恥ずかしいことなのか。あらかじめ決まってはいないが、かといって、どのようにでも変わる、なくなってしまうということはないはずだ。たとえば人が隠すところは、たしかにずいぶん大きく違う。とてもたくさん隠す地域もあるし、ほんの少しのところもある。しかしほんのすこしであっても隠すところはあって、その場所はだいたい決まっている。反対から言えば、共通の部分はあるが、幅はとても大きい。」
介助する側は、気にするなというが、じゃあ、通常、健常者のトイレは男女でわけられているし、他の人に性器を触られたり見られるのが恥ずかしいというのはどうなのか、と当事者は問う。「気にするな、と言うあなた(たち)は、では実際、気にしないでやっていますか、そんなことはないでしょう」という。
都合よく同じ言葉を使いながら、逆の意味を伝えることがあったり、二重規範であったり、矛盾したことを言ったりというようないい加減なことがある。「がまんしなさい」「気にするな」と言うことがあったり、「恥ずかしいなら自分で」といったりする。
その上で、立岩さんは、安積遊歩さんが、「自分のお尻を自分で拭かなくてもいい」ということに言及している。羞恥心をなくせというべきではないが、やがて慣れるようになること、気にしないようになることがあるという話だ。
安積さんは言う。「動かない手足が現実なのだから、自分のお尻を堂々と他人に預けるというのが、私たちの自立となるのだ。[略] プライベートとか個人のテリトリーとかいう考え方は、障害をもった人の現実にはまるで役に立たない考え方であり、ときには害をもたらしさえする」
「プライバシーの概念から自由な子どもや知的障害の人とつきあってみると、そもそもプライバシーというものがどういうふうに人と人との関係に役立ち、一人ひとりを大事にするものなのかがわからなくなるのだ。食べること、動くこと、移動すること、ときには眠ることにさえ人の手を借りなければならないときには、プライバシーさえ分かちあわれることとなる。分かちあわれたプライバシーは、プライバシーと呼べるのだろうか。」
恥ずかしいといった気持ちについて、まずは本人に即してみよう、自己決定だ、そして人に委ねるのはしんどいということもあるので、一人になれる権利、よけいなお節介をするなという権利を保障する。しかし同時に、介助が必要なことから見えてくる、新しい価値観もあり、慣れるとそれほど気にならない、むしろ豊かな関係性であるということもある。
やむなく人が必要という人に、できるだけ、必要なときに人が保障されることが必要である。他の人にしてもらうということにはいつも危険が伴うが、その弊害をできるだけ減らして、むしろ豊かさの面を追求するようなことも可能だという話。安積さんはそういうことにチャレンジし、言及し、広めている。
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2010-01-27 16:10
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| スピリチュアリティ / 作品 / 生き方 |
日本の自殺率は、10万人中24,4(2007年)
すこし前まで、日本の常識として、北欧は自殺率が高いといわれた。(そうして福祉国家を批判していた人が多かった)
しかしフィンランド18,8、スウェーデン13.2、デンマーク11,9、ノルウェー11,4.すべて日本よりかなり低い。
ドイツは1930年代は世界一高かったが、いまや11.9と日本よりかなり低い。
日本は1950年代に一時、自殺率が世界一になり、その後少し低まっていたが、1998年以降、またもや自殺大国になっている。ハンガリーは長らく世界一だったが、いまや日本と同程度となっている。今世界で自殺率トップクラスであるのは、ロシア、ベルラーシ、リトアニア。それに次ぐのが日本などである。
警察庁のまとめによると2009年の自殺者数は3万2753人。1998年以来12年連続で年間3万人を超えた。
30代の自殺が増えている。「就職失敗」「生活苦」など不況の影響が読み取れる原因・動機が昔に比べて大幅に増えている。
自殺問題を担当する福島瑞穂消費者・少子化担当相は、来週中にも閣僚級の「自殺総合対策会議」(会長・平野博文官房長官)を開き、自殺防止対策を強化する方針を明らかにした。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
メディアや政治家は一応、自殺問題は大問題だというが、「自殺3万人」を本当に痛ましく思っているのだろうか。
というのは、私の友人も言うのだが、ひごろの人権感覚が鈍く、軍事力肯定、日米安保肯定、ナショナリズム肯定のような人が、ほんとうに「他人」のことを感じるのか。
在日外国人のことを考えているか? 日本人にだけ感じるのか?
じゃあ、障がい者のことは? 野宿者のことは? 非正規労働者のことは? 性暴力被害者のことは?
友人は、次のようなことをまったくまともに僕に伝えてくれた。
いま、一応ご飯をたべて、仕事にも行って、服をきて電車にのっている人の孤独の苦しみ、お金の不安、老いの恐怖、逃れられない嫉妬や執着の苦しみ、そういうものは「いま、まだ死んでいない」から問題ではないのか。
傷ついた心を守るために感情を封印したひと、人とかかわることを拒んで引きこもる人、時間の長さを忘れるため、ギャンブルや薬にはまる人、他人を傷つけ、攻撃することが気晴らしになっている人、そういう人たちの「持って行き場のない苦しみや孤独感、挫折感」を、「パーソナリティーの欠陥や障害、病気」などで結論づけるのではなく、それぞれの人が「生きることの苦しさやつらさ」に直面し、もがいている姿にこそ、わたしは心を向けたいし、そういう人が増えてほしい、と。
だが、自殺報道や番組は、そうした精神でなされているだろうか。死ぬまでは話題にならないことがおかしいのではないか。
「死ぬ」ことでようやく話題にされたり(こんにゃくゼリー問題)、死んでから評価されたり(2階級昇進)、死んだとたんに生前のことがすべてチャラに(死んでお詫びや死刑とか)なったりするという、わたしたちの社会のあり方が問われないといけないはずだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
宮地さんの本の感覚のように、何もできないとたたずむ、でも、聴かない、見ないのではなく、何にもならないかもしれないけど、そばにいる、聴く、見るということをしていく。
それしか、自殺問題においてもできない、と言うようなところから出発したい。
勿論、実際に解決できる具体的支援も必要だと思っている。福祉制度・生活保護利用とか、借金清算とか、ユニオンを通じた交渉などで解決できる問題もある。
でも、それでは届かないものもある。「無常のものへの、いたわりとか思いやりとか、そんな気持ちで、あらゆる人の死を静かに見送る、見つめる、悲しむ、という作業は、しんどくても自分ひとりでしなきゃならないことだ」と友人はいう。
そう、いくら、悲しくても、それを他人がどうこういって解決できることではない、という場合があり、その重荷を代わりには背負えないけれど、少しは、一緒に重荷をもつことはできる。重い空気を吸うことはできる。うーんとうなり、たたずむことはできる。
それしかできない、という罪悪感から、それしかできないとしてもそれだけでいいのだという、宮地のトランスフォーム。
なのに、メディアなどで、「死」「自死」というかなりのことに、安易な決まり文句で済ます鈍感な感性でのぞむとは、・・・。
だから、「自殺3万人」を、多くの人が、特にメディアが本当に痛ましく思っているとはおもえない。
僕はたいして繊細ではない。いろんなことに鈍感だった。だがそのことに少しずつ気付き、この毎日のすばらしさを、瞬間の大事さを、いのちの不思議さと奇跡を、存在の全肯定を、日常の横にぱっくりと口を広げている底なしの無根拠世界を、世界の不条理を、心の中の闇を、少しは自覚し、10年少し前から〈たましい〉を問題とし、〈スピリチュアル・シングル主義〉というバランスで生きようとしてきた。
悲しみを、そっと一緒に見つめるしかできない、と言うことを大事にしたいと思うようになった。
先ほどの友人は、そういうことがわかる人で、だから、
「ほんのつかの間、生きている間の「わたし」と「誰か」との繋がりを大切にしたい。そして、身近な人とのかかわりを大切にすることで、まだ会ったことがなくても、遠くで今生きている見知らぬ人の心を想像できるようになればいいなと思う。そして、人にやさしくすること、思いやる気持ちを持つことは、自分自身の苦しみや悩みが癒されることでもあるような気がします。」
というようなことをいう。
そんなことをいっている僕だが、遠くの地震被害者のことをタニンゴトのようにみている。映像を見て、悲惨さをこれでもかと具体的に見せ付けられてようやく、少し想像する。
つまり僕も、「自殺3万人」を本当に痛ましく思っていないひとりである。
せめて、自殺をみなの前で議論したりして得意げにならないでいようと思う。
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2010-01-27 13:17
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| スピリチュアリティ / メディア / 人権 |
安積遊歩さんの新著『いのちに贈る超自立論――すべてのからだは百点満点』(太郎次郎社エディタス、2010年)のことを少し、1月14日ブログで書いた。
http://blog.zaq.ne.jp/spisin/article/1243/
その続き。この本を読んでの、あれこれ思い付きを書いておく。
安積さんが、いつも痛いところがある人生なので、どこも痛くないのがふつうというひとがいるとしってびっくりしたというようなことを書いていた。僕の友人が頭が割れるように痛いということを抱えている。つらいだろうなと思う。誰も代わりになれない。自分しかわからない苦しみ、という絶望。どこにも逃げられない、痛み。
僕など自分が少しの痛みがあるときでさえ、他者との断絶を思う。痛みがあると他の事をする気にならなくなる。
神様は不公平。
出発点が違う。
だからこそ、私たちは私的所有などにこだわっていてはならない。私たちが何をしようと、何かをなすのは、過去のあらゆるものの積み重ねの上での生産物である。私だけのものではない。自己責任論はまったく間違っている。自己責任論をいうものは、自分が痛みを抱えて動けなくなるとわかるだろう。私たちの命がつながっていたのだと。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
孤独ということについて。
僕は、日本社会の悪い意味の集団主義、非自立、共同体主義、DV等の抑圧、横並び主義、排外主義ナショナリズム、カップル単位感覚などに対抗して、シングル単位論を述べてきた。その文脈で、ひとり、孤独、他者との境界線ということも重視してきた。その意義については今でも揺るがない。しかし、安積さんが「孤独」について批判的に言及していることには、耳を傾ける価値があると思った。それは僕がスピリチュアルな視点と結び付けてのみ、シングル単位感覚はまともになると思っていることにつながる。
安積がいう「孤独」批判とは、プライバシーという名で皆が一人一人こもってしまってしまうことで、人の思想が「妨害」されてしまうということだ。孤独だと、自分のいのちやからだやエコロジカルに暮らすことなどを大事にできなくなる、という。自分の思いを誰にも聞いてもらえず、自分のことだけにむきあっていると、何もかもどうでもよくなるのだと。それにたいし、共同生活という暮らし方をすることで、違うようになっていくという。
そこで、聴きあう。話す。泣く。思いっきり感情を出す。泣いて泣いて、涙で池を作れば、きっとよくなっていくという。安積の母は、安積が決めることを全面的に尊重してくれたが、その陰には、絶えず泣き続けている母がいたという。クスリに依存していた子も、代わりに泣くことでよくなっていくという。
これは安積がコウ・カウンセリングで、感情を出し合う、聴きあうことの重要性を主張することにつながる。
毎日を障害を持っていきること、障がい者を持った子どもと生きることは、意識するしないにかかわらず、傷つきながら生きるということである。
よく考えれば、少し繊細に見れば、障がいがなくてもみな、誰でもが、絶え間ない比較や競争やジェンダー規範などの中で傷つけられ続けている。
そうした傷つきから回復する為に、涙や笑い、感情を言葉で出すこと、あくび、汗などを出したらいいのだという。だが今の社会はそういうことを奪っている。そして明晰に考えるのを妨害し、回復できなくさせているという。
だからこそ、意識的に、溜まっているものを出す作業をしようというのだ。徹底的に聴きあうことで知性を取り戻せるという。人が非合理な、ひどいことをするのは、傷ついた感情が思考能力を妨害するからと捉える。傷ついた感情をからだの外に出せば、知性的に考えられるようになり、非合理な行動もしないようになっていくという人間観だ。
だから彼女は、臓器移植とか手術とかに展望を持とうとする親にお願いする。どうか、障がいをもっているその子を無条件に抱きしめてあげて、その子のからだをそのまま全身全霊で信頼してあげて、と。
子どもに必要なのは、「そのままで大好き」という愛情だけだという。命が危ない以外は、ただただ、抱きしめるだけで、ほかには何もいらないという。
泣いて泣いて泣いた後に、人は、力強く立ち上がる力を持っているのだから。
この感覚は、宮地さんのいっていることに近い。
根深い問題から簡単に解放されることはない。
でも、泣く、吐き出す、それを誰かが聴く、目撃する、そばにいる、というのは、
もっとも、まともな知性がたどりついた、「ある地点」である。
私もそこに近づいた。
(この本については、また続く)
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2010-01-27 11:15
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| 作品 / スピリチュアリティ / 関係性 |
「沈黙を破る」の監督土井敏邦さんに対するイスラエル政府のプレスカード発行拒否のことは先日ここで紹介しましたが、それに関して、朗読劇 「ガザで起こった”本当のこと”」が行われます。東京なのでいけないけれど、近い方はぜひいかれてはいかがでしょうか?
なお、この朗読劇の素材となった、「加害兵士の証言」というものがあるそうです。
それは、元イスラエル軍将兵のグループ「沈黙を破る」が09年7月に発表した「ガザ攻撃に参加した兵士たちの証言集」を土井敏邦さんが翻訳したものです。この証言集がイスラエルをはじめ世界に向けて公開された直後から、イスラエル政府は「沈黙を破る」にいっそう強い圧力をかけ始めたそうです。これまで「沈黙を破る」に資金援助してきたヨーロッパ各国の大使館に、イスラエル外務省が援助を停止するよう要請したそうです。一方、この証言集は世界的な反響を呼び、「沈黙を破る」の名と活動はいっそう広く知れわたるようになりました。
また「被害住民の証言」というものもあります。それは、土井敏邦さんが昨年1月にガザで取材し、7月に岩波ブックレット『ガザの悲劇は終わっていない』に収録したものから抜粋したものです。
この被害者、加害者の証言2つを組み合わせたものが、今回の「朗読劇」だそうです。
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ガザ攻撃1周年追悼・報道規制を訴える集会
ガザで起こった“本当のこと”
〜『沈黙を破る』・兵士が語るガザ攻撃〜
【趣旨】
「爆弾が降っている時の方が希望があった。あの時は、ガザ攻撃に反対して世界の多くの人々が声を上げてくれた。でも、今、世界はガザを忘れてしまった」――現在のガザ住民の悲痛な叫びです。
約1400人が犠牲となり、5000人以上が負傷したイスラエル軍のガザ攻撃から1年2ヵ月が経った今も、破壊されたガザの復興は進まず、人びとは生き続けるための必死の闘いを強いられています。
このガザの現実を覆い隠すため、イスラエルは今、報道規制を強めています。その象徴的な1例が、ジャーナリスト・土井敏邦へのプレスカード発行の拒否です。これによって、長年、ガザを取材し伝え続けてきた土井は、今その現場から切り離されようとしています。
しかし、これは、土井敏邦個人の問題に終わらず、パレスチナ報道に関わるジャーナリスト全体にとって深刻な事態です。パレスチナの現状を世界に伝え続けるために、私たちはイスラエルの報道規制に抗議の声をあげる集会を催します。
【日時】2010年2月25日(木曜日)
(開場 18:30 /開演 19:00 /終了 21:30)
【場所】文京シビックホール /小ホール
http://www.b-academy.jp/b-civichall/access/access.html
(最寄駅)・東京メトロ/丸ノ内線 「後楽園」駅 4b /南北線 「後楽園」駅 5番出口
・都営地下鉄/三田線 「春日」駅/・都営地下鉄/大江戸線 「春日」駅
【内容】
1) はじめに
集会の主旨説明
2) 映像『イスラエル人が見た“ガザ攻撃”』
3)リーディング(朗読劇)
「ガザで起こった”本当のこと”」
―ガザ攻撃 加害兵士と被害住民の証言―
演出:渡辺えり 台本構成:篠原久美子
(出演・渡辺えり/根岸季衣/西山水木/円城寺あや/松村武/楢原拓 ほか)
協力:非戦を選ぶ演劇人の会
4)問題提起「記録することの大切さ」(シグロ代表・山上徹二郎)
5)リレー・メッセージ
(予定:渡辺えり/根岸季衣/土肥信雄ほか)
6)土井敏邦からの訴え
【参加費】1000円
【主催】「ガザ攻撃1周年追悼・報道規制を訴える集会」実行委員会
【連絡先】 090-3698−2178
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以下は、「沈黙を破る」のアンコール上映のお知らせです。
映画「沈黙を破る」が ◇第83回キネマ旬報ベスト・テン 【文化映画部門 第1位】,◇2009年度日本映画ペンクラブ賞 【文化映画 ベスト1】を獲得しました。
それを機に、東京で映画がアンコール上映されることになりました。
【ポレポレ東中野 2月6日―2月26日】
また以下でも「沈黙を破る」が上映されます。
【石川】 シネモンド 2月13日ー2月26日
【福岡】 KBCシネマ 2月13日ー2月26日
3月5日には「沈黙を破る」DVDが発売されます。
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2010-01-27 09:56
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| 戦争 / 作品 / ナショナリズム政治 |
何度も受話器のむこうからうめき声が聞こえる。深く苦しい人たちが共通に言う言葉がある。何度もこの種の言葉を聴いてきた。
「新聞を見て、交通事故などにあって死んだ人をしって、その人に悪いと思うけど、正直に言うと、うらやましい」
「突然死しているっていうでしょ。うらやましい。一番の希望は、明日の朝、目覚めないこと。寝ている間に死ぬこと」
「友人の大切な人がなくなった。友人やその死んだ人がかわいそうだ。でも私はその死んだ人がうらやましい。自分が代わりになりたい。それが一番いいのに、どうして死にたい私が死ねず、死にたくない人が死ぬのか」
「しんどくて調べたけど、明確な病気はなかった。でも本当は病気になりたい。頼むから深刻な病気であってくれ、とおもう。誰はばかることなく入院できるように」
「泣けたらいいのに。泣き叫んで大声で暴れられたらいいのに」
「健常者からたくさんの、お気楽な、タニンゴトの、説教がましい、励ましの言葉を投げつけられてきた。そいつらに言いたい。おれも、そんな鈍感なことを言うひどい健常者の側にいきたい、と」
「将来いいことあるよと、子ども達にいえない。いいことなどないから」
「いろいろあった。努力はした。苦しみを味わい続けた。もう死んでもいいんじゃないかな。自殺しても許されるんじゃないかな。もう許してくれますか」
「希望は何ひとつ実現しなかった」
「我慢ばかりしてきた」
傷はある。傷の前でたちすくむ。
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2010-01-27 02:39
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| スピリチュアリティ / 作品 / 生き方 |
宮地尚子『傷を愛せるか』(大月書店、2010年1月)がでた。
すばらしい本である。いつもながら。
彼女は、僕が、数年来、この日本で、もっともイチオシの人である。2006年に出した拙著『続・はじめて学ぶジェンダー論』でかなり引用させてもらったし、そのころ、女性学会やあちこちで彼女のすばらしさを伝え、彼女を呼んだりした。このブログでも、何度も言及しているし、『環状島』のことも書いた。
あさかゆうほさんやいちむらみさこさんもすばらしいが、文章の点では宮地さんがNO1だとおもう。
今度も期待に反しない。エッセイ集であるが、心に沁みる。
彼女の本の感想は、高画質、それでいて素朴な映画のシンプルさがある、という感じ。まともな神経が隅々にまで行き届いていて、気持いい。
性暴力被害者の声のそばにいること、繊細な感受性をもっていること、知的能力が高いこと、そして文学的能力が高いこと、それらが集まって、宮地の作品を生み出している。
☆ ☆ ☆ ☆
ところで宮地さんがスキューバで一番好きなのが無音の世界で水面からの光につつまれて水面を眺めることだそうだ。
僕も水底に寝転んで上をみるのが好きだ。
☆ ☆ ☆ ☆
『傷を愛せるか』の最初のエッセイ「なにもできなくても」がいい。宮地さんらしい。本書の基本精神が出ている。
子どもが転げ落ちるのをただ見ていた自分。
だがあるとき、彼女は気付き、腑に落ちる。
何もできなくても、見ているだけでいい、目撃者もしくは立会い人になるだけでいい、のだと。「見守る」にさえ届かなくても、そこにいるだけでいいんだ、と。
目に焼き付ける、目撃するということの意味。
それは、癒すとか、支援するとかとは何をすることなのか、死にたいとか、性暴力のようなひどいことに対して何ができるかという問題に連なる。
そのことは、本書の最後のエッセイ「傷を愛せるか」でも探られる。
ベトナム戦争の戦没者記念碑。それはワシントンDCに“傷”として、少しはずれた地中にある。しみじみとした惨めさを抱えて存在している。すっきりしない。だからこそ、まさに傷なのである。
傷をずっと抱え見つめ続けることは難しい。傷は時間とともに癒えていくこともあり、あるいは、PTSDのように痛み続ける。
だからなんとか、聖なるものにまつりあげて記憶を記念碑で固定したり、逆に傷があったこと自体を抹消したり、他の事を上に塗りこめて見えなくしたりする。
負の遺産の記憶を持ち続けるには、力が要る。抹消しようとする力がある中で、傷跡を保存する、ということは大事なことである。
そんななか、傷の記憶の抹消ではなく、「包帯を巻く」ということで、傷に寄り添おうとする行為を描いた『包帯クラブ』の話を宮地は紹介する。傷ついた〈場所〉に包帯を巻き、手当てされた風景をデジカメで撮り、相手のアドレスに送るという活動。
傷に対してできることはほとんどない。ただ、それを知るだけ、みるだけ、包帯を巻けるだけ、痛いでしょとおもえるだけ。つらく思える、だけ。
思えば、自殺防止センターでの電話では、できていることはそれだけであった。聴いて、つらく思えるだけ。この世で、電話をかけてきた人が抱えている「苦」を、電話線を通して、聞き手も一瞬感じるだけ。何も解決しない。両者が重くなるだけ。
この世には、誰にも知られない傷がある。傷つけてしまったという傷もある。知らずに傷つけてしまう傷、傍観者として加担してしまった傷、どうしようもなく流されてしまって自分を傷つける傷、相手を傷つけてしまって自分を否定してしまう傷、どうしようもないことによる傷、などある。
その多くは、だれにも知られない。誰にも届かない。癒せない。思いだせばうずく。ずっと抱えている思いで、さわればかすかに痛い傷もある。
宮地は、他の人の深い傷に触れていく主人公達が、「自分の傷つきや繊細さにのみとらわれて、こわばっていた内面が、ゆっくりとほぐれていく」という点に目を向ける。
そうだろうな、と僕は思う。
包帯を巻くという行動によって、「手当てされた風景」。
それは「何も変えない」けれど、何も変えていないのだろうか。
できることはそういうことではないのか。
☆ ☆ ☆
宮地さんはトラウマに関する学会でも、専門化していくことで、だいじなことから方向性がずれていくという問題に言及する。
何のための、誰のための研究・調査なのか。
米軍兵士の調査が学会で論じられるが、米軍の兵士が精神的な病気にならないための研究、発症予防のためや早期回復ための研究でいいのか。闘って人を殺しても殴っても、まちをは解しても、侵略しても、傷つかない人間を作るための研究に加担していいのか。
宮地は、トラウマの本質解明に役立つ研究だという大義の前に沈黙するが、心の中で叫んでいる。米軍のイラクへの派兵自体をやめるとか、イラク人のPTSDを調査するとかが射程に入らないのでいいのか、と。
ここを読んで僕の友人もいろいろ悩んでいることを思い出す。
僕なども批判の対象になるのだが、いわゆる学術論文的なスタイルをとらない人を批判する「学者」たちがいる。アカデミズムなら、客観的に、感情や意見ではなく事実や実証できることを、論理的に、そして他の学者の引用をちりばめて、こうかかなくっちゃだめだよ、というわけだ。
あほらしーと僕は思うが、ほんとにそんなひとはいる。そういう場合、感情や立場や思いを抱えて書くとダメだとされる。宮地さんや岡さんなどのように、感情を出すとだめだというのだろう。
学者になりたいのではなく、考えたいことを考え、かきたいことを書き、伝えたいことを伝えるために書くのではなかったのか、というような問いの立て方をしない。
傷を負った人の立場で、その人が少しでも楽になるための学問ではないのか、と単純には考えない。
アカデミズムのあり方とは誰が決めたのか、というようにも考えない。でも外国で権威付けされた「偉い人」が言うと、その流行は一応追う。どこまでも権威主義で自分で考えない人は、そんなスタイルだ。
で、友人は、今日、たとえば、「日本財団の助成金を使う」ということに無批判的で「どこの金であろうと出してくれるなら使えばいいじゃん」というようなことに対していらだって、以下のようなすばらしい文章を書いた。
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助成財団としての事業内容のこと以前の問題について、私自身はもっと目をむけるべきだと思っています。
なぜ、中央競馬会や競輪の財団と違い、競艇だけは日本財団という名前に変わったものの、笹川財閥を母体とする特定のファミリーが独占することが可能な法律になっているのか?
もし、社会の改革というのであれば、その既得権を解体することから始めるべきではないかと思う。沢山のお金が集まるところから、必要なところに再分配すればよい、という考えに異論はない。しかし、その沢山のお金はどこから得たものか?
金融庁2008年度上半期の「地方自治体における多重債務相談の状況」によると、借金の理由は「低収入・収入の減少による生活費・教育費等の不足」(約30%)が群を抜いて多いが、それに次いで、ギャンブル・遊興費が約7%との結果が出ている。(この他には、商品・サービス購入(約6%)、事業資金の補填(約6%)等)
競艇事業の収益が上がるということは、それだけ沢山の「スッた」人たちがいて、彼らのお金が大量に集まるから潤沢な資金を有する財団でありえるのではないのか。WHOでは病的賭博を治療の必要がある病気と認定しています。
公営と名づけられているから問題がないということでは済まされない社会的な課題を抱えているのが競艇を含むギャンブルであり、それを原資として成り立っているこの財団が「助成金」という公的事業によって、その問題性を漂白している面があることについてについて、根本的に論じることなく、目の前にあるお金をいかに上手に獲得(活用)するか、という議論でよいのでしょうか。
潤沢な予算を元に、ありとあらゆる市民団体や活動に助成金を出していることやそれを受けている団体について否定するわけではありませんが、そこで話が終わってしまっていいのでしょうか。
例えば、これだけ沢山の資金を集める装置がギャンブルの収益ということ以外には日本では考えられないのかということも考えるべきではないかと思います。
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だが、こうしたまともな意見は、真摯に受け止められるであろうか?
宮地は、「反戦をここで言っても意味はない。役に立つ内容だけ選択的に取り入れればいい」と自分に言い聞かせて学会で沈黙した。孤立するのを恐れたかもしれないと自分でいう。苦い。
撹乱があれば面白いのに、と僕ならおもうが、まあ人それぞれだ。
僕は彼女が苦く思っていることに共感した。
で、宮地は、〈傷〉と名づけること、そして傷だから、手当てをしたらいつか治るかもしれないとみるような、原点に立ち戻る。
それは専門家的でないからダメだと、誰が言おうと関係ない。
「何にもならないことの証として包帯を巻く」ということの意義。手当てされた風景を残すこと。傷を前に、たちすくみ、悩み続け、ただ、重荷を受信してしまうだけであること。
無力感や罪悪感、そして自分が逃げたり、自分が傷つくこと、それらを見つめるか、鈍感にそんなことをまったく考えないか。
宮地は最後に言う。
傷を愛せるか。
傷を愛するのは難しい。傷を目撃し、傷を記録し、傷をなかったことにするのはたいへんだ。傷を抹消したり傷をなかったことにすることはできるかもしれない。
でも傷はあった。傷を負わせたり傷ついた自分というものを、自分からなくすことはできない。
だから宮地は、傷と付き合う。傷の周りをそっとなぞり、身体をいたわり、傷を包み、さらなる傷を負わないよう、手当てをし、好奇の目から隠し、傷とともにその後を生きつづけようとする。傷を愛せないあなたを、愛そうとし、傷を愛せないわたしを愛そうとする。
そして「傷のある風景が残り続けることによって、人は時には癒されることがある」という希望を語ってくれる。
だから、何もできなくても、見ているだけでいい、といってくれる。
そうなのだろうとおもう。
傷は僕にも残っている。
宮地さんの新刊、お勧めです。
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2010-01-27 02:11
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| スピリチュアリティ / 作品 / 暴力・DV |
2010年01月26日(火)
「研究会・職場の人権」でベーシック・インカムについて私の意見を言いました。
また3ヶ月ほどあとに冊子になるかと思いますが、レジメをここに公表しておきます。
当日配ったものより少し詳しいバージョンです。
「研究会・職場の人権」第124回研究会(10年1月)
ベーシック・インカム構想を検証する〜 労働と生活・人権の視点から 〜
と き 1 月 2 3 日(土曜日
報告者 小沢 修司 さん (京都府立大学教授)
コメンテーター 伊田 広行 さん (立命館大学・神戸大学非常勤講師)
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「ベーシック・インカム」について―――生活保護制度の拡充(制度変革)型のBIへ
イダヒロユキ
1)私の基本的立脚点
社会の周辺化・底辺化されたものの視点から
私は北欧型のシングル単位・社会民主主義的なシステムがいいと主張するものであり、BIについて言えば「変形BI(部分BI)論者」である。純粋BI反対論者である。
ベーシック・インカムの基本思想=「あらゆる人の生存権を無条件に重視」には大賛成
普遍主義的施策は、連帯社会を作る (選別主義は分断をもたらす)
全ての人の「生」が無条件で肯定される社会を創り出そうとする動き
(参考 非優越的多様性・・・似て非なるもの)
BI論議が、大きなシステムの見直しの議論につながる、始まるという点で歓迎
その具体化を考える
北欧のような普遍主義的な社会民主主義の仕組み(シングル単位の社会)に
大増税による高福祉高負担、連帯社会が必要・・現物サービス提供重視 現金給付は限定的にしたほうがよい
2)議論のおかしさ
BI論者は、生活保護のような制度よりもBIのほうがよいと主張「重要な問題、要求は明確、だがなかなか前に進まない、大きな変化はない状態が続いてきた。だからBIに期待」?
「公衆のお世話」になるのは、「社会の落伍者」? そうした見方自体を変えないといけない。
児童扶養手当などで、「パートナーがいるかどうか」等身辺調査されるのは、カップル単位制度の問題 一挙にBIの議論にするのは間違い
生活保護への差別意識、妬み意識、自己責任論自体をなくしていくような意識の向上を作っていく必要があるときに、制度設計で人々の意識が「自然に」よくなる、差別がなくなる、権利意識が高まる、優しくなる、自己責任論でなくなるというのは、おかしい
「政党は、生活保護の捕捉率を高める、100%にしよう、受給を増やそうとは言わない、選挙公約にできない、それは、有権者の支持を集めないから」、「BIのほうが政治的支持を得やすい」というようなことを山森(「ベーシック・インカム――実現可能性を問う前に理念の承認を」『ピープルズプラン』48号、2009年秋号)は言うが、間違い。
それならBIも同じ。理想主義だ、努力しない貧乏人を助けるのか、予算が高くつくから、反対で終わり。民度をあげないで、また従来の制度や政治の議論を制度でごまかすな。
BIがちゃんとした説明で理屈上説得できるなら、同じ意味で北欧型社会も説明・説得できる。
○ベーシックインカムという所得保障策だけでいくのか、それ以外の分配も認めるのか
従来の枠組みや運動・思想を「なし」にして、新しい制度へというのはおかしい。
現物サービスを重視すべき
労働を通じた社会保障、労働政策、労働による再分配、ということがあるのに、BIではおしなべてそこは無視/弱い。(立岩はさらに生産財の再分配も言う)
例 短時間労働化・ワークシェア、誰もが社会保険・雇用保険へ 生活保護の拡充へ、 最賃1500円 といった、やるべきことはたくさんあるし、それが大事
年金の税財源化、生活保護や児童手当の普遍主義化・増額も
「小沢レジメ」では・・「現行の税及び社会保険による所得保障(年金、失業保険、生保、児童手当など)を全部BIにおきかえる」というが、私はそこがBIの欠点ととらえる
小沢も「時短などはBIの議論ではない。BIは現金給付部分だけ」といって事実上、労働政策を入れ込んだ社会民主義全体の制度改革の連関性を軽視しているのではないか? 「それも平行して言う」というが、BIの議論が今どういう意味をもっているかに意識的になるべき。
BIは部分的な議論であるという自覚が必要である。BIはシステムの対抗案ではない。
そして純粋なリバタリアン的なBIは、社会民主主義的な改革に敵対する、非常に危険でひどいものである。
3)実践的なものでなくてはダメ
議論・研究・知的ゲームのための材料にするな。そういう学者が多い。このままでは議論だけ華やかになって数年後には実践的には庶民には何も残らず、ただ学者や論者だけが出世や業績、金儲けに利用して終るだろう。
社会的排除論やベーシック・インカム論は、
→ 「周辺系のひと」に対して、いかに実践的に役立つか という視点でなされねばならない。
BIには、各個人のニーズを見ないという大きな問題がある。それは実践的には有効ではない。個々人の状況に応じて、支援は考えられなければならない。
今すすんできた規制緩和の流れに具体的にどうしていくのか、が欠如してはダメ
日本のワークフェアとして、2000年、ホームレス自立支援事業開始、2002年、ホームレス自立支援法、児童扶養手当法、母子および寡婦福祉法改正:母子家庭自立支援策、2005年、生活保護受給者等就労支援事業、2006年障害者自立支援法などがあった。
プラス 労働関連でもおなじ
なのに、それをそっちのけで、それをすすめたものたちが、いまBIに飛びついているという面がある。浮かれるべきでない。
BIの中核的感覚は、市場原理主義的でリバタリアン的な感覚と、平等主義的な感覚を整合させる試みといえる。 → BIを論じているものたちの危険性に注意を。
ヴァン・パリース BI正当化の理屈には一定みるべきものもあるが、「自由」が何よりも大切とし、 労働政策や労働運動否定 リバタリアン的
フリードマン、ガルブレイス、トービンなど
「負の所得税」「給付付き税額控除」など・・・・・自民党でも民主党でも税調でも、ホリエモンも中谷巌も、賛成と言及する、というようなものという側面がある
典型例:BIに対しての山崎元(経済評論家)の発言「各種の社会保障・社会福祉は、できるだけベーシック・インカムに集約し、それ以上に必要な人が利用する保険、年金、各種のサービスなどは民間に任せる。福祉的制度・行政の大半はなくせるだろうし、私が支持する大きな理由もそこにある」(07年8月ブログでの発言)
「生の生産」(ネグリ&ハート)等というのは飛躍 抽象論はつまらない
山森 2章の限界 →「BI的論議」が衰退した理由も考えよ
「参加所得」アトキンソン: BIが無条件なのに対して 次のどれかをしていればいい
有償労働 教育・訓練、介護、育児などへの参加、(認定された)ボランタリーワーク を条件とするもの 賃労働に限定されない、多様なことへの参加を条件とする 失業、障害による。賃労働中心主義を変更するものという意味でBIの一種
懸念: いろんな人〔各種運動〕に、ぬか喜びさせている側面
「いろいろな問題を一挙に解決してくれる!」とおもいすぎ。今までの問題が行き詰まっているのを解決する打ち出の小槌ではない。はしゃぎすぎ、期待しすぎである。BIの思想の危険性に無理解すぎるし、シングル単位論、北欧型社民主義の全体への理解がない中での、BIだけへの期待はまったく非現実的である。社民主義への移行がむつかしいという問題と正面から向き合わず、目先の新しさでごまかしても結局、ラジカルなものになるなら、大きな抵抗はある。その後こそ問題。
(山森や小沢は、BIをダシに、現実的なことを進めようとしている高度な戦略?なのかもしれないが)
「小沢レジメ」をみていると、現行の社会保障制度が機能不全に陥っているのは必然で、そこからBIが必要となっている、としている。現在の日本の社会保障システムが、行き詰まっているという分析は、賛成だしそれは多くの論者も言っている。私もずっと前から家族単位の問題という視点で指摘。その認識が広がってきたということに過ぎない。
問題は、ではそれに対抗するのはどういう展望かということであるのに、小沢レジメでは一気に「福祉国家はダメだ→BIの出番だ」となって、福祉国家の系列の進化系である北欧型社民主義の意義を切り捨てている。
事実上、この間の社民主義、北欧的福祉国家の実際の意義と切断している。
例:児童手当の評価 児童手当は、普遍主義的で北欧では実現しているが、だからといってあらゆる人にというBIにいくというのは間違った飛躍。
家族論としてもおかしい。女性の労働力化が家族機能を後退させている というように悪く見ている側面がある。それは古臭い見方。女性の社会進出が家族を解体させ、福祉国家の基盤を危うくさせているというのは、おかしいし、そこから福祉国家ではなく、BIだというのもおかしい。
4) 提案
単独純粋BIではなく、大きな枠の中でのBI的な思想のシステムの構築へ
今までの運動、新社民主義として北欧型の社会にするということと一体のものに
政府支出が大きい方向での社会的包摂、その一部としてのBI
ワークファースト、ワークフェアと対抗的なものへ:就労連携を強調せず
「働かざるもの食うべからず」思想と対抗していく。
「就労のための努力を義務づける、さらには就労を条件とする」には反対
これは本質的には能力主義との闘い
今の秩序の「秩序下位者」=「弱者」「負け組」「働かないもの」=「賃労働から排除」されているものの生存権としての議論
ただし、多くの人は一定、働きたいものである。多くの人が働くことが必要ということも事実である。強制はよくないが、働ける条件を整えることは重要。だから仕事の保障(ワークシェア)が実践的には重要。労働を拡大的に解釈する必要はあるが、従来の性分業などを温存していくようなものはダメ。
だから、実践的にはシングル単位・スロー観点のワーク・ライフ・バランス重視が重要
「働かないでも尊厳をもって生きていけるという権利」の明確化へ
非貨幣的な時間の重要性・・・私がスピリチュアル観点で強調している点
同時に、失業運動=仕事よこせ も必要。 働きたいものは多い!
{時間観点}と{収入観点}での、「負け組」の展望としてのワーク・ライフ・バランスへ・・決定的に大事なのは、時短(そのための均等待遇、最体賃金値上げ)である。BI論者がそこを言わないのは、決定的な欠陥
だからBIの本質は、リバタリアン的なのである。小沢などは「純粋BIはリバタリアンとはいえない」というが、BIの基本思想そのものが、保育所や学校の無料化や障がい者や要介護高齢者への福祉サービスの提供といったことを重視せず、基本的に従来の制度の代わりに、全員に一律の現金給付で、問題を置き換えるという発想なので、具体策では社会民主主義の現実と対立的なところがある。いいかえれば、現金給付部分だけを考えるというBIの議論の土台が狭すぎる。
スローな、シングル単位のワーク・ライフ・バランスというのは「無痛化、ポストフォーディズム、24時間労働化、管理化、グローバリズム、物質主義、消費主義」に対抗するものとなる
その具体像が、「シングル単位的WLBを実践的に支える、BI」のようなもの
ひどい仕事ばかりしなくてもすむような、人間的な生活がおくれる権利の保障・・・たとえば週4日労働!で、少しのBIとあわせて、そこそこのお金で楽しく生きる。
○社会の考え方と制度をラジカルに変えないようなBIはだめ
BIは個人単位であり、それは従来のシステムの決定的変更であるのに、その意義をわかっていない人が多い。
家族単位システムの改革(脱家族)と接合しないなら、BIの意義は消滅/半減
たとえば「主婦への手当て」とならぬようにするにはどうするか
女が担ってきた育児・介護などの「無報酬労働や社会的に有用でも利潤を生みだせない労働」の再評価、という美名で、性分業などの現状固定につながるのは危険。シングル単位のワーク・ライフ・バランスの観点がないものはダメ。
参考:介護保険のときの、現金給付をめぐる論議と現実
山森が「家事労働に賃金を」という運動をかなり評価しBIにつながっているというが、私はこの運動には批判的。フェミニズムの中では意見が分かれる点で、私は、シングル単位論者なので、従来の性役割の枠内の側面が強い運動には批判的。
子どもをおとなのように一人前扱いする視点は私は賛成だが、現実的には、子どもは労働者ではないので、教育費の無料化など現物給付でニーズを保障すべきで、したがって小沢の計算のように子どもがいるだけで年間96万円支給というのには反対。
小沢のBI説得のための計算でも、子どもがいる3人家族などが多い。説得のために、3人家族ならBI導入しても世帯として手取りは増えますよ、というのは、気持ちはわかるがとても家族単位的発想だし、高い税負担を皆でしていこうという連帯意識の醸成に反しているし、私は批判的。独身者だけが「損する」というような改革の問題点を考えるべき。
○ひとつのイメージ:生保制度の拡充
生活保護を拡充するのが現実的(所得基準をゆるくするなど)
個人単位で、労働インセンティブつき「人間所得(生存所得、基本所得)」10万円を基本とし、完全Biではないが、BI的、普遍主義的な側面を強化する
+ 現物での様々なサービスがあるような社会
個別特殊ニーズは現物のサービス給付が基本 「ニーズを測らずに」ではなく!
+ ベーシック・コモンズ =公共交通、公共住宅、公共の公園・緑地、家事・育児・介護の社会化を確立、レジャー(場所) の充実
働くことを強制しないし、恥辱感もないように、基本的に監視・調査、劣等処遇の原則をなくす。
伊田案では、働くと、「人間所得」は少し減るが、手取り合計額は増えるように段階的な制度とする。 働けば働くほど収入が増えるような設計にする。
(限界税率を100%以下にする設計)
現実は労働インセンティブが一定必要、有用と思う(インチキ人間を減らす、多くの人への納得性、働く喜びという現実、財源の限界性)
したがって部分的に調査はあってもよいとおもっている。納税制度、税務署はあるのだから、新たに何かをするのではない。(貯金等の資産は関係ないものとし、/緩やかな基準とし、)つまり基本的に収入だけ捕捉する。これぐらいあってもスティグマ性につながらない。毎月・その年の収入だけの調査でよい。
納税者番号制をいれ、税務署が収入をできるだけ捕捉する(公平性、透明性)
(限界点問題点:自営業、闇の労働などの捕捉率の限界、脱税の技術)
→ 一定そんなことはどうしてもあるが、大きな公平性は保てる
つまり私の発想は、BIの原則思想は賛成した上で、現実的には、現行の生活保護の拡大の発想。(たとえば、医療券の重要性)
それは、いまの現実の運動とつながっている。でも現行生保制度の問題ある性質部分を変えて、BI的な性質にして、その象徴として名前を変える。それで「人間所得」(生存所得)というのはどうかとおもっている。
既に指摘され続けてきたように、生活保護のスティグマ性(恥辱感)をなくして当然の権利とするのが重要。
つまり 最低限度の生活を強制されるのはおかしい(自動車保有、貯金問題など)、劣等処遇原則がだめ、個人単位でないのがおかしい(親や兄弟姉妹、子に扶養義務)、自由にカネを使えないのがおかしい、資力調査(ミーンズ・テスト)、ワーク・テスト(稼働能力調査)、素行調査(ビヘイビア・テスト)が過度にあって、行政により制限・監視されているのがだめ。「だめ人間、弱者扱い。社会のお荷物、フリーライダー扱い。プライドがつぶされる」などがだめ。
参考)生活保護法:
一条(法律の目的)、二条(無差別平等原則)、三条(最低生活の原則)、四条(保護の補足性)、九条(必要即応原則)
プラスとマイナスがある。 世帯単位を基準
野崎 泰伸「生活保護とベーシック・インカム」『フリーターズフリー』第1号、人文書院2007の意見と私はとても近い。
5)その他
BIでは労働と賃金が分離されるため、労働による「承認」がえられなくなる?
→「承認論」のダメさ、不足さ 承認されなくてもよい
広井良典『持続可能な福祉社会』(ちくま新書)
若者が学びつつ働く試行錯誤のプロセスを経て望ましい仕事を見出すのをサポートするために、月額4万円の「若者基礎年金」を20才から30才までを対象に給付
年金制度全体を税による「厚めの基礎年金」中心のものに再編し、報酬比例部分は民営化したうえで、「後期子ども(30才)」までの「教育効果」に着目した「人生前半の社会保障」として、「若者基礎年金」を創設することを提言。
立岩:無条件性、つまり働かない人間にも働く人間にも、全て給付されるというすがすがしい感じと、それを実現するためには、でも人は可能な人は働かなきゃいけないという話の、兼ね合い。受け取られるものを提供するのは義務である。
働く、働かない、働けない、あるいは働く働かない権利、あるいは働く義務
一律の基本所得という考え方からは、個々人の境遇の差異への対応は肯定されるのか、肯定されるとしたらどの程度肯定されるのか
子どもの取り扱い → 別扱い
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(参考文献)
武川正吾編『シティズンシップとベーシック・インカムの可能性』(法律文化社)
山森亮 2009 『ベーシック・インカム入門』光文社新書
山森亮「ベーシック・インカム――実現可能性を問う前に理念の承認を」『ピープルズプラン』48号、2009年秋号
「山森 亮さんインタビュー:ベーシック・インカム─生きていることがすなわち労働」
『We』162号(2009年10・11月号)特集は「楽になる道を探そう」
小沢修司 2002 『福祉社会と社会保障改革――ベーシック・インカム構想の新地平』、高菅出版
野崎 泰伸「生活保護とベーシック・インカム」『フリーターズフリー』第1号、人文書院2007
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2010-01-26 11:41
| 記事へ |
| 労働 / 貧困/反貧困 / 生き方 |
映画「カティンの森」を観ました。
第2次世界大戦中、旧ソビエト軍の捕虜になった、約15,000人のポーランド軍将校たちが、ソビエト当局によって射殺され埋められたという「カティンの森事件」を再現し、そのひどさを訴えています。戦後、この事件はナチスの仕業ということにされ、真実への沈黙を強いられた恨みをワイダ監督は描いています。
映画としてどうこうというより、ある真実を記録したという点で意義のある映画です。
「灰とダイヤモンド」、「地下水道」、「大理石の男」などのアンジェイ・ワイダの最新作ですが、この虐殺事件の犠牲者の中に、ワイダ監督の父親がいたということで、執念がこもっていました。
歴史の見方はいろいろあるもので、ワイダの個人的な気持ちは分かるが、ワイダの認識は一面的過ぎる、社会主義批判が強すぎるという意見もあります。ポーランドがロシア革命を利用して独立し、ポーランド・ロシア戦争という面もあったという意見もあるようです。
私は、そのあたりをどう判断したらいいか十分な知識を持ち合わせていませんが、映画を観た感想としては、むしろ、ソ連がだめというより、ナチスもソ連も、軍事的な組織や思考、行動は、本当にひどいな、だから、そうしたこと自体がいやだなというものです。
過去だけでなく、今の時代も、権力あるものが力ずくで人を抹殺したり蹂躙したりしています。そしてそのことが闇に葬られ、悔しい思いもっている人がたくさんいます。悔しい思いを抱えて殺されていった人はたくさんいます。そのことをおもいました。
そして軍事的組織、指揮命令の下で、本当にひどい言動を「人」はする。暴力的に人を扱う。そして究極は殺す。
私は死ぬまでそんなことをしたくないです。だからこそ、そういうことをする軍隊、警察組織というものに関わりたくないし、皆もそんな「仕事」をしなければいいと思います。命令だということで、銃の引き金を引くようなことをできる人になってはいけない、とおもいます。
それは自分の人生をまっとうなものにするということからはずれ、〈たましい〉を壊す行為だとおもうからです。
柏原市福祉事務所・柏原市役所健康福祉部社会福祉課というところで、A君におこなわれたことも、戦争での虐殺よりも程度は軽いがひどい暴力的な行為であった点で、カティンの森事件と類似行為であったといえるとおもいます。権力を使って、一人の青年を簡単に告訴し、逮捕し、勾留しつづけ、いまや裁判で有罪にして犯罪者にしたてようとしています。
「カティンの森事件」のように「歴史から抹殺される真実」というようなことはたくさんありました。
柏原A君事件も、A君や「ユニオンぼちぼち」や支援者達が声をあげなければ、「小さな事件」として誰にも注目もされず、A君だけが有罪とされひっそりと人生を潰されて終っていたでしょう。
不当に告訴して逮捕させた柏原市役所健康福祉部社会福祉課の職員はのうのうと安全地帯で何の咎めもなく生きていくことであったでしょう。A君のことなども忘れて。
しかし、弱き者が、声をあげることで、「歴史から抹殺される真実」にしないようにできます。誰かが目撃するということ、それを記録するということ、伝えていくということは重要です。目撃するということと証人になる、証拠となるということはつながっています。
ワイダの認識が一部歪んでいようと、個人的に自分の父が殺されたことを恨んで執念で記録し、全世界の人に訴えるという行為をしたことは、記録した、真実を暴いていくということをした、という意味で、わかる行為です。
私たちは、“見つづけ”なくてはなりません。たとえ何もできなくても見るだけでも価値はあります。見るのはしんどく、目をそらすのは簡単、と言うことは多いです。
そして見て、記憶し、記録していく。記録したものを公表し、伝えていく。そうした行為の積み重ねが、まともな歴史を作っていきます。
A君になされた不正義を闇に葬らず、さらしていくこと。何が行われたのか。だれが告訴し誰が有罪と決め付けて取調べをし、起訴までしたのか。
それを“みること”が必要です。そしておかしいことはおかしいと、声をあげていくこと。
「カティンの森」をつくったワイダの思いを受けて、そんなことを思いました。
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2010-01-26 02:10
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| 映画 / 政治、権力 / 生き方 |
2010年01月24日(日)
1月22日の『朝日新聞』では、小沢民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地購入を巡る収支報告書虚偽記入事件がらみで、操作報道問題すなわち、検察リークがあり、それを報道機関が無批判的に報道しているという疑惑について、基本的に否定した記事を書いている。検察リークはないし、記事は別のルートのちゃんとした取材で書いていると。
しかし、それはタテマエというものだ。
ちゃんとした取材の記事もあるが、安易な記事があるのは明白である。検察からリークしないではわかるはずがないような情報の記事があるのは事実だ。
しかも、一時的にある問題で集中的に報道することで、どういう効果・影響があるかということでの自覚が『朝日新聞』記事にはみられない。そこが決定的に問題だ。ジャーナリストは、もっと全体に自覚的であらねばならないが、知らぬ間に自分の行為が誰かに利用されている、ということに鈍感であるというだけでも、問題である。
小沢問題では、小沢がどうこうということだけでなく、それによってそこにばかりに目をむけさせ、他の大きな事に目をむけさせず、雰囲気として、民主党はダメだ、小沢はクロに違いない、とおもわせ、大きな社会保障システムをどうしていくのかといった大事なことなどに関心を持たせないようにしている。
報道量の偏りの効果である。
事件自体でも、水谷建設の元会長の発言(5000万円の裏金)は真実なのか、ちゃんと調べる必要があるが、メディアはとにかく垂れ流してまるで事実のように報道している。
朝青龍も一時凄くバッシングされた。しかし、それほどバッシングすることか?そのときの集団心理の勢いで同じようなことをいっているだけである。イラク人質事件での3人の自己責任批判もあった。
『朝日新聞』はちゃんと客観的な取材しているというが、たとえば、A君問題では、ある大手報道機関は、まったく事実をちゃんと調べもせず、実名まで出してひどい記事を書いた。警察や一方のリークだけで書いた記事だった。まったく無責任である。片方に加担している。
過去にも、検察側からの情報をマスコミが垂れ流しにすることなどいくらでもあった。
関連するが、類似のことで、天皇の政治利用かどうかでも一時大騒ぎしたではないか。そこから天皇制自体の議論が深まっているか。NOである。いいっぱなしにして、政局に利用されただけである。
北朝鮮拉致問題でも一時は大騒ぎだった。誰が何のためにそれを利用していたのか、そこをみぬかないといけない。
森田健作・千葉県知事は、自民党であるということを書かないという違法な行為をしたが不起訴となっている。だがそのことでは大騒ぎしない。
何を大騒ぎするかは、正義や合理的な判断でなされているのではない。興味をかきたてられるかとか、雰囲気・勢いでやっているとか、政治的意図などがあって、選ばれている。
最近では、「公設派遣村」の利用者に対して、一部マスメディアが事実誤認に基づく報道をおこなった問題がある。「無断外泊200名」とか「2万円を持って逃亡」、飲酒事件など、その種の報道がかなり流された。なかには意図的に利用者をバッシングしているような報道もあった。完全な事実誤認か、ごく一部の心ない利用者の行動を誇張して書いたのであり、その影響は、まるで「公設派遣村」の皆がひどい人であるかのような印象を与えることになっていた。中には、今回とは全く関係ない昨年の「年越し派遣村」の写真を掲載して無関係の脚注をつけるなどの報道もあった。
よってたかって何か一つのバッシングがあるときには注意が必要である。
メディアは、危険な存在である。いい加減なものも、政治的利用もある。うのみにしてはならない。ジャーナリストは、誰かに利用されるような無批判的な報道をするのではなく、本当に独自に取材し、多角的に見て、本当に自分で判断していかねばならない。
『朝日新聞』が素直に自分の行為を全体の観点から顧みないで、タテマエだけで「検察リークはない」等と言うことこそ、ひどい姿勢である。それこそ、やましさのあらわれである。
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2010-01-24 10:36
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| 政治、権力 / メディア |
2010年01月23日(土)
ラブサイケデリコの新アルバム『ABBOT KINNEY』を聴いている。
いつきいても、ゴキゲンである。歌詞の中身はたわいないかもしれないが、心が浮き立つ。
特にお気に入りは、「This way」
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2010-01-23 09:33
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| 作品 |
12月31日に、ここで「承認されないといけないのか」というのを書きましたが、その続きで、「承認」をめぐるメモを載せておきます。
「承認」という概念を、本当に使うべき適切なときに、使うべきで、安易に、他の学者が使っているからとそれに無批判的にのるべきでない。
承認概念を何にでも使えると思うのは間違い。
承認を、「自分も相手も自由で自立した存在だと捉える心の動き、すなわち人が人を人として認めること」とした上で、社会運動を「承認をめぐる闘争」というのは、適切とは思えない。
承認というのは、その定義からして、社会構成員が相互に認め合うこととされる。
だが「相互承認」というのは、本当に必要か? A(マジョリティ)がB(マイノリティ)を差別しているとき、Aがのっている秩序そのもの、Aの感覚、Aの傲慢さが問題とされるべきで、そのとき、BがAを承認する必要などない。
「万人が万人に対して承認を行うべきだ」「人が人を人として認める承認の論理」「自由で自立した自己が、自分も他者も自立した自己として認めること」は、ふわっとした一般理念としては広がっているが、しかし実態はそれは実現していない。いまどきそんな理念が人類の意識の発展の輝かしい成果である、共通基盤である、ということを再確認することにたいした意義はないのではないか?
社会運動の現場からの感覚として、「万人が万人に対して承認を行うべきだ」ということで、BがAを承認することまで入れる意義がわからない。したがって「○○運動は、AとBとの相互承認をめぐる闘争である」という言い方が適切とは思えない。
「承認」ということを、「社会的弱者の尊厳を取り戻すこと」という意味で使いたいというのはわかるが、日本語の語感としてぴったりとは思えない。弱者の〈たましい〉の叫びに耳を傾けろとか、怒りや怨念の正当性とか、バカにするな、とか、そういうことを、多様な表現であらわしていくべきで、それを「承認を求めている」と安直にまとめることには反対である。まして承認=「相互承認」というようにつかうのは、おかしいのではないか?
Bの側が、Aによる権利侵害に対して抵抗したり抗議するというのはわかるが、それを「BがAを承認する」というのはおかしい。BがAに対して「私たちを尊厳をもって扱え! 私たちのすばらしさを認めよ」というのはわかる。 「承認とは、相互的な行為である」というのは、現実的には言う必要のないことではないか?
フェミニズムや障害者運動を、「文化やアイデンティティに関する目標を掲げた運動」と規定するのは一面的過ぎないか? それは部分的規定ではないか?
「承認論モデル」は、どうも従来の社会運動の矮小化の上に成り立っているのではないか?
つまり、従来の運動は、利害の対立の発現に過ぎず、利益を最大にしたいという功利主義モデルのもので、それは、道徳的な感情が織り成す日常的な相互交流などを無視したもので、単純な「万人の万人に対する闘争」モデルの上のものでしかない、とみているのではないか?
それに対し、「承認をめぐる闘争」=「承認論モデル」は、利害状況にもとづくのではなく、尊重の欠如や道徳的に不当な扱いを受けたという感情に基づく闘争を出発点とし、そこが大事だと見て、それが法的承認や社会的承認の獲得をめぐる闘争につながる、とする。
だが、そうした対立的な構図が間違っている。
「利害の対立」といっても、そこに「尊重の欠如や道徳的に不当な扱いを受けたという感情」が絡まっていることは多い。首切りや低賃金・賃金格差を問題にする労働運動は、そこで尊厳の回復を要求することを多くは含んでいた。「従来の運動」を勝手に見くびるべきではない。
☆ ☆ ☆
また個人的私的領域での「愛の関係」「相手を大切の思う関係」をもとめることを「承認を求める」というとして、それは、「承認をめぐる闘争」というのはおかしい。人が人を愛する、大切に思うのは、すばらしい“つながりの存在”である人間なら、闘争によって獲得するものではないからである。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
今の社会が「儀礼的な無関心」「競争、非連帯」「社会的排除」「均質化して息苦しくなっている状態」にあふれているとして、その分析と対応策を考えることは必要である。
しかし、それが「承認をめぐる闘争」という概念で十全にフォローできるとは思えない。
「均質化された空間の隙間に政治的行為をねじ込む」「日常的に隙間を作ってそこで日々の実践で乗り越える」といえば何かが言えているとも思えない。
もっと実践的に有効な具体策に落とし込めるものにしなくてはならないし、それは、従来の運動の積極性をちゃんと認めることと不可分である。
「承認をめぐる闘争」といって何を付け加えているのか、を自分の頭で考えて意識していくことが必要である。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
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2010-01-23 01:19
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| 人権 / 政治、権力 |
2010年01月21日(木)
たぶん、もうすでにあちこちで論じられているのかもしれないが、新しく始まったテレビドラマの表題が、「関西テレビ」と「読売テレビ」という他局なのに、タイアップしたものになっている。
「曲げられない女」(読売テレビ、水曜)と「まっすぐな男」(関西テレビ、火曜)である。
似ているようで、かなり違う。どこが違うか。
「まっすぐな男」=佐藤隆太演じる主人公は、単純である。正社員である。自分に自信がある。よく笑っている。声がでかい。明るい。周りが評価してくれる。根性が曲がった女(深田恭子)を助け、まっすぐにしていく。金はあるから、金を貸すほうである。佐藤隆太は、野球部監督のときと同じキャラで生きている。
「曲げられない女」=菅野美穂演じる主人公は、なんといっても権力がない。女性であり、若く、肩書き・資格がない。弁護士を9年目指して勉強しているが、まだ通っていない。金がない。まじめで頑張っているが、余裕がない感じで、暗いといわれ、楽しんでいないといわれ、笑い顔が少ない。
「曲げられない女」には、フェミ魂が少しある。
男女を入れ替えて「曲げられない男」と「まっすぐな女」も成り立つかもしれないが、ぴったりくるのは、「曲げられない女」と「まっすぐな男」である。そこがジェンダーだ。
「まっすぐ」と、「曲げられない」は違う。
まっすぐは、力強い。自己決定で、自分のいきたい方向に行く。正義だから自信がある。なぎ倒していく。
「曲げられない」は、弱いものが、曲がることを強要される中で、なんとか頑張って、「そこは曲げられない」とうめく。
だから僕は「曲げられない女」のほうに共感する。どちらも単純なテレビドラマだけれど、それでも、一瞬、菅野のような立場の者の痛みが感じられるうめき声や、おずおずとした勇気に、共感する。痛み、被害者、弱いものの視点からのものだからだ。
***
それにしても、テレビには、不当な解雇のときに、ユニオンがまったくでてこない。ケンローチの作品には出てくるが、日本ではでてこない。シナリオライターが知らない、誰も知らない、あるいは、描こうとしたら、それには横槍が入る、というところだろう。
1月20日放送の「曲げられない女」では、会社の不正を指摘した社員が解雇された事件で、弁護士事務所に相談しても何もしてくれなかったが、市役所の無料相談にいったら、そこの人が会社に一言言ってくれて解雇が撤回されていた。そんなことはありえない。荒唐無稽。実態がまったくわかっていない。ユニオンが交渉しないと解決しない。
で、個人加盟のユニオンが出てきたらはなしが変わってくるが、でてこない。だからドラマをつうじて、実は絶望と無知が再生産されている。解雇されたときどうしたらいいのか、、誰もしならないまま。
当然あるべき日用品が、あたりまえのように描けないという空気。この50年のつけ。
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2010-01-21 03:11
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| ジェンダー / 作品 / 生き方 |
「ユニオンぼちぼち」の仲間のユニオンエクスタシーは、京大での首切りに反対してユニークで有意義な戦いをしていますが、あちこちの大学で似た問題があり、「大学を超えた連帯」として大きな動きになりつつあります。
ユニオンエクスタシーの従来の闘いのスタイルとは、すこし違う面もありますが、ひどい京大と戦うために、こうした「まじめな」スタイルもとっていくということで、私は勿論賛同しています。「ユニオンぼちぼち」も賛同しています。
以下、この運動への賛同の呼びかけです。ご協力をお願いします。大学の正規教則員のみなさん、「曲げられない女」=菅野美穂演じる女性、に恥じない行動を!
「曲げられない女」のはなし。
弁護士事務所では、クライアントを守るのが仕事であって、どっちが正義かどうか、なんて関係ないといいます。いろいろあるんだよ、そう単純じゃないんだよ、といいます。大人になれといいます。だから解雇された労働者が正しくても、会社を守る、といいます。
それに対して菅野美穂は、人間としてそれは間違っている、イジメを見ない振りせず声を出していく人にならねばならない、と言います。
「テレビドラマなんて見ないし、単純なお話しだし、・・」、というでしょうが、だから、どうなん?
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
大学非正規労働者の雇い止めを許さない運動
ブログ http://nandenan0227.blogspot.com/
転送歓迎
****************
「なんで有期雇用なん!? 大学非正規労働者の雇い止めを許さない関西緊急集会」
賛同・呼びかけのお願い
きたる2月27日に、大学非正規労働者の、3年でくび・4年でくび・5年でく
び・6年でくびなどの有期雇用に反対する集会を開きます。大きな運動に
していきたいと思います。
賛同していただける方、一緒に呼びかけしてくださる方を求めます。
「なんで有期雇用なん!? 大学非正規労働者の雇い止めを許さない関西
緊急集会」
2月27日(土)1時〜4時 エルおおさか7階708会議室
★基調講演 脇田滋さん(龍谷大学/労働法)
★現場から報告
★アピール採択
主催: 「大学非正規労働者の雇い止めを許さない関西緊急集会」実行委
員会
http://nandenan0227.blogspot.com/
よびかけのチラシ(PDF)
http://kyototto.com/image/nandenan0227pre.pdf
*** 呼びかけ文
大学、官公庁、一般企業の間で、更新の年限を定めた有期雇用が広がって
います。
恒常的な業務であるにもかかわらず、数年で一律に雇い止めとなる有期雇
用、私立大学ではずいぶん前から導入され、既に常態化していますが、国
立大学でも2004年の法人化以降、各大学で有期雇用が導入されてきました
。京都大学では5年。大阪大学では6年*。今年3月、全国の国公立大学、私
立大学で大量の解雇が実施されます。
現在大学で働く非正規労働者の多くは女性です。大学に限らず、非正規労
働の根底には女性労働の搾取の問題があります。主婦のパート仕事として
位置づけられ、夫に扶養されることを前提にしているため待遇は改善され
ず、それが今では20代・30代の女性・男性がおかれる当たり前の労働環境
になりつつあります。
数年ごとに雇い止めを行い、人だけ入れ替えるのは単に「首のすげかえ」
であり、反復更新を繰り返すことにより、更新期待権が生じないようにす
るための方法です。しかし、多くの非正規労働者は「有期雇用であること
を知って契約にサインしたのだから、雇い止めになっても仕方ない。」と
諦めます。けれども、私達は声を上げます!
「なんで有期雇用なん!?そもそも、有期雇用自体がおかしいんちゃう!
?」
有期雇用は「人を育てない・育てる気がない」、人々の働く力を貧困化さ
せていくシステムだと考えます。
更新や雇い止めの不安に怯えながら働くのではなく、腰を据えじっくりと
その仕事に携わりたい!
同じ仕事をしているのであれば、正規労働者と同一の賃金・待遇を!
その思いを抱えた関西の国公立・私立大学の非正規労働者たちが大学を超
えて集まり、今年3月末に各大学で行われる雇い止めを実行させないため
、緊急集会を開くことになりました。
有期雇用に疑問と不安を抱きつつも、声を上げられない非正規労働者の方
々に「共に声を上げよう!」と呼びかけ、有期雇用の問題性**を明らかに
し、抜本的な解決策を皆さんと共に考える場にしたいと考えています。
* 阪大は法人化以前からの長期非常勤職員も今後5年で雇い止めにすると
発表しました(一部を特例職員として登用)。
** 現在、派遣法改正が国会で論議されています。派遣から直接雇いにな
ったとしても、それが期限付きの有期雇用なら、労働者は不安定なままで
す。派遣と有期雇用を正しく規制していくことは、非正規労働者の生存を
守るために必須の、車の両輪といえる問題だと私たちは考えています。
*** 呼びかけ団体
京都大学時間雇用職員組合 ユニオンエクスタシー
関西単一労働組合 大阪大学分会
関西非正規等労働組合 ユニオンぼちぼち
京都精華大学嘱託教職員組合 SocoSoco
大学をどうするか!共に考える全学大討論会実行委員会(大阪大学)
関西圏大学非常勤講師組合
2010年1月21日現在
*** 賛同していただける方(個人・団体)
お名前・ご連絡先・メッセージをメールでお送りください。
(お名前・メッセージの公開の可否もあわせてお知らせください)
nandenan0227*gmail.com (*を@に置き換えてください)
*** 一緒に呼びかけしてくださる方(個人・団体)
実行委員会では定期的に会議をしています。
そのご案内などもいたしますので、是非ご連絡ください。
*** 賛同カンパをお願いします。
「2/27関西緊急集会へカンパ」と記載の上、郵便振替口座 00950-5-204933
キョートット出版 までお願いします。
・・・・ 参考 ・・・・
最新情報は「2月27日 なんで有期雇用なん!?」のブログをご覧ください
。
http://nandenan0227.blogspot.com/
京大の5年条項の問題点について(A4)
http://kyototto.com/image/5year.pdf
以下ユニオンエクスタシーのブログより
大学職員の雇用年限問題 http://extasy07.exblog.jp/10158783
京大の5年条項 http://extasy07.exblog.jp/11792295/
阪大は法人化以前に採用された非常勤職員も5年後くび?
http://extasy07.exblog.jp/11665473/
関西学院大の「4年雇い止め」に反対します http://extasy07.exblog.jp/11800078
京都精華大学の3年でくび問題 http://extasy07.exblog.jp/11986343/
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2010-01-21 02:43
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| 労働 / 作品 / 貧困/反貧困 |
2010年01月18日(月)
竹原阿久根市長がむちゃを続けている。徐々に、どうも思慮深くなく勢いでむちゃを言っても平気な人であるということがあらわになってきた。
竹原市長は、市役所庁舎に提示された各課別職員給与総額の張り紙をはがしたとして、40代の男性職員を懲戒免職とした。一挙にクビなどというのはムチャクチャである。
鹿児島地裁で効力停止決定がでたが、それを不服として福岡高裁宮崎支部へ即時抗告をしたがそれも棄却された。
行政事件訴訟法によると、抗告の手続きの有無にかかわらず地裁決定は維持されるので、竹原市長は男性を職場復帰させ、給与を支給する必要があるが、職場復帰させず、給与もボーナスも払っていないという暴挙を続けている。
また市長自身のブログで「高度医療のおかげで機能障害を持ったのを生き残らせている」などと障がい者差別に当たる記事を掲載したことに対して、「発言撤回と謝罪を求める行動」が起こっているがまったく応じていない。「新聞社が言葉じりをとらえて、意図的に誤解を誘導するキャンペーンを行った」と居直っている。
鹿児島県議会も、きわめて異例であるが、「障が者に対する偏見のない社会の実現に向けた決議」を行ったが、竹原市長はこれを無視し、その後の障がい者団体、保護者団体等の抗議に対しても、会談に応じることもなく、謝罪も撤回も拒否したままという状態。
また、ブログで他人の言葉を利用しながら「日本の裏社会を構成している主な要素はヤクザと同和、在日」と主張。「右翼団体の構成員は『朝鮮半島出身者』が占めている」などとも書いた。
竹原信一市長が市議時代の2007年6月には、自身のブログで伊藤博文が孝明天皇を暗殺し、自分の手下を明治天皇にすり替えた、などと記述し、「天皇家はまさしくどこの馬の骨ともわからない家系」と書いた。
(これを天皇制批判と一部右翼やメディアはいっているが、少なくとも天皇制へのちゃんとした批判ではない)
こうした一連の対応は、人権感覚がない人だということである。
団交で最初、法律知識のない社長等がむちゃを言うときがあるが、徐々に法律を知っていってまともな対応になっていく。
だがこの市長は、学習が遅すぎる。居直って学んでいない。こういう人をリコールしないのはなぜなのか? 市民の責任が問われると思う。
* ***
人権意識がない人はほかにもいる。自民党系は、民主党政権が外国人参政権に道を開こうとしていることに対し、反対の動きをあちこちでしている。
平沼赳夫元経済産業相は、政治資金パーティーのあいさつで政府の事業仕分けを批判し、仕分け人を務めた民主党の蓮舫参院議員について「元々日本人じゃない」などと発言した。「彼女は日本国籍を取っており人種差別ではない」という「説明」をして、差別の上塗りをしている。
「キャンペーンガールだった女性が帰化して日本の国会議員になって、事業仕分けでそんなことを言っている。そんな政治でいいのか」と、女性差別、職業蔑視もあらわにしている。ムチャクチャである。
国民新党の亀井大臣も、外国人参政権には反対している。まるでのっとられるかのような変なおそれを抱いている。
* **
民主党・鳩山政権の支持率が下がっているが、これも、まともな人権感覚の欠如が関係している。小沢さんなど古い政治家が怪しいことをしてきたのは事実だと私は推測するが、それは他の自民党系の多くの議員もそうだろう。
しかし東京地検のやり方は、昨年に引き続き、陰謀的である。恣意的である。サンデープロジェクトなど一部のメディアをのぞいて、警察発表そのままに反民主党キャンペーンとなっており、誰が裏で操っているのかを見ない状況となって、それに単純に影響されての支持率低下となっているように思える。
民主党がこの間、やろうとしているおおきな方向性のまともさが理解されていない。基地問題でも予算の中身でも自民党政権のときより、ずっとマシではないか。
汚職などの汚さ、政治改革を進めてこなかったのは、まさに自民党政権のものだったことを忘れているのか。業界団体に金をばら撒く政治のおかしさを考えない人々が多いという、民度の低さ。
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2010-01-18 10:52
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| 人権 / メディア / 政治、権力 |
「ユニオンぼちぼち」は、まともなことをしているなと感じている。昨日も、いい話し合いができ、職場で傷ついた人が元気と尊厳を取り戻す瞬間に立ち会えたという喜びを感じた。
だが、ときには、労働組合といっても、本当に弱い人の立場にたたない、鈍感な組織維持のための組織になっているのもみかける。非正規のために闘わない労組は多い。単なる抵抗勢力になっているだけの組合とか、まともな組合に対抗する為に組織される組合もある。組織率を上げることだけを意義あると見ている人もいる。高給を取っていてうまいモンを飲み食いしている労組関係者たちもいる。
だが、ほんの一部だが、正規と非正規の待遇格差を縮めていこう、平等にしていこうという動きもある。
そのときに「あなたが逆の立場だったらどう思うか?」という言葉を使いながらやっている組合があると知った。広島電鉄である。契約社員を正社員にしていく代わりに、従来からの正社員の待遇が一部悪化するんだが、それを受け入れたのだ。「あなたが逆の立場だったら」という問いを通じて。
そう、それが基本。
そうした視点がいつもあるかどうかが、人権意識だ。
以下では、東海林智記者がまともなことを書いているが、連合の〇七年方針をえらくいいように書いている。そうしておだててまともになるようにしていこうという狙いもあるだろうが、「07年に連合が非正規や中小零細の労働者への取り組みを最優先とする運動方針を決めたことが、一つの転機となった」というのは言いすぎだと思う。
まだ転機などきていない。派遣法も、骨抜き身抜き皮だけ法になる。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【毎日新聞】ニュースセレクト > 社説・解説・コラム > 記者の目 - 2010.01.13
労組は社会連帯の要たれ=東海林智
http://mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20100113k0000m070137000c.html
「人と接しないことで、自分は自分を守ってきた。でも、労働組
合に入ってみて、それが正解でないことがこの1年間で分かりまし
た」
昨年、労働組合の組織率が34年ぶりに上昇に転じた。厚生労働
省がその調査結果を公表してから間もない12月、東京都内で若者
が企画した働くことを話し合うイベントで、一昨年末に契約途中で
雇い止めに遭って失職した元派遣労働者の男性(37)は、1年間
を振り返り、少し上気した顔でそう言った。今回の労組の組織率反
転は、非正規雇用労働者の組織化が進んだことが要因の一つだ。
「正社員クラブ」と皮肉られ、メンバーのことだけを考えてきた労
組が変わりつつある証しでもある。労組は彼が感じたような、小さ
な思いの積み重ねを大事にし、社会的なきずなを強める役割を果た
してほしい。
彼が4年間働いた自動車工場を雇い止めにされたことは、住んで
いた寮を追い出されることも同時に意味した。行き詰まり、インター
ネットで探した個人加盟の労働組合に初めて助けを求めた。彼にとっ
ては大きな決断だった。派遣で働いている時、仕事も覚え、正社員
と同じかそれ以上の働きをした自負はある。しかし、職場の朝礼で
製造過程の改善などを提案すると、「派遣なんだから控えめにしな
よ」と言われた。景気の悪化で社員のボーナスが減額された時は、
「派遣さんよりはましだから」と心ないことを言われた。男性は
「まるで身分制度です。誰ともかかわらないことが自分を守ること
だと思い込んでいた」と話した。
労組がメンバーのことだけしか考えていないころ、働く環境はグ
ローバル化や市場原理主義の波に洗われた。利益、効率最優先の旗
の下、労働者派遣の原則自由化など働き方の規制緩和が進められた。
労組はそれらの政策に反対の声を上げた。しかし、組織率が低下す
る中でその声は軽んじられ、雇用環境の劣化に労働者側から歯止め
をかける社会的規制の力は弱まった。その結果、労働者の3人に1
人が非正規となり、正社員も過労死・過労自殺が過去最悪レベルで
推移するような長時間過重労働の常態化、残業代不払いの名ばかり
管理職の拡大などを許した。
非正規で働く労働者たちは、正社員より低い賃金で不安定な雇用
に置かれ、多かれ少なかれ、彼のような孤立感を感じているはずだ。
実際、「正社員労組は助けてくれなかった」、「非正規は排除され
ている」などの言葉をよく聞いた。若年者やシングルマザーからは
生活できない低賃金を嘆く声もよく聞く。非正規を中心に貧困状態
が広がっていることを実感した。
そんな中、07年に連合が非正規や中小零細の労働者への取り組
みを最優先とする運動方針を決めたことが、一つの転機となった。
労組を必要とする人々を仲間に迎えなくては存在意義を問われると
の危機感が、すべての働く者の労働組合という本来の姿に立ち戻ら
せた。全労連や全労協も相次いで非正規への取り組みに力を注ぐ方
針を打ち出し、労働界の流れができた。以降の地道な積み重ねが組
織率上昇の下地を作ったといえる。
「労組は旧態依然だ」と批判の声もある。もちろん、すべての労
組や産別の意識が変わったわけではないし、いまだに非正規に無関
心な組織もある。しかし、昨年の派遣村の運営や、今年公設派遣村
をサポートした「ワンストップの会」は、労組を中心にNPO(非
営利組織)や市民団体、弁護士など専門家が集まり運営された。メ
ンバーシップを超えて、生活に困窮する労働者、市民の社会的連帯
としての役割を果たそうとしたものだ。また、連合は10年の春闘
方針で、非正規など組合員でない労働者も含めたすべての労働者の
春闘にする方針を決めている。すぐに大きな成果は出せないかもし
れない。だが、これまで目を背けてきた人々へ手を広げ始めたこと
は確かだ。
元派遣労働者の彼を迎えた労組は、寮に住み続けることを会社に
認めさせ、派遣先での直接雇用を求める裁判(東京地裁で係争中)
も支援した。彼は話を聞いてくれて、行動を共にする仲間を得た。
無口だった彼は、言葉を取り戻したように多弁になった。連日、ワ
ンストップの会の行動に参加し、1年前の自分のような仲間を励ま
した。彼は「働き方は変えられないって思っていたけれど、そうじゃ
ない。多くの人とつながることで変えられると思える」と話す。
過去最悪レベルの失業率など、厳しい状況は今年も続くと見られ
る。労組は、長期の失業や貧困の中で社会的排除に遭っている人々
と手を結び、効率優先の中でずたずたにされた働く者同士、あるい
は市民とのつながりを再構築してほしい。そこに困難を乗り越える
手段があると思うからだ。
(東京社会部)
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2010-01-18 10:49
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| 労働 / 貧困/反貧困 |
JANJANに、さとうしゅういちさんが、昨日の集会のことをまとめてくださいました。
冒頭部分を紹介します。
全文は以下で。
http://www.janjannews.jp/archives/2315131.html
柏原市福祉事務所「逆切れ」不当逮捕事件、初公判
2010年01月16日
さとうしゅういち
大阪府柏原市役所で、水際作戦に対抗するために生活保護申請手続きを撮影した申請者が「職務強要罪」を「根拠」に不当逮捕された事件。
この事件の初公判が15日、大阪地裁堺支部でありました。
そして、その日の夜、逮捕されたAさんが所属する関西非正規労働組合ユニオンぼちぼちの主催で、「生活保護申請ビデオカメラ弾圧事件・A君無罪!釈放要求緊急集会」が、大阪市のエル大阪で開催されました。
わたしは、裁判は傍聴できませんが、夜の集会は新幹線で駆けつけることが出来ました。集会の冒頭、司会者から、裁判のほうは傍聴席が満席だったという報告がありました。
関連記事
水際作戦の福祉事務所「逆切れ」、生活保護申請者不当逮捕
http://www.news.janjan.jp/living/0911/0911283759/1.php
「生活保護申請を記録して逮捕って何だよ!?」抗議集会開かれる
http://www.news.janjan.jp/living/0912/0912244747/1.php
なぜ生活保護申請に同行者が必要なのか? (海形マサシ)
http://www.news.janjan.jp/living/0912/0912244745/1.php
ユニオンぼちぼちのブログ
http://unionbotiboti.blog26.fc2.com/
全面的に無罪を主張
続いて、国選弁護人の木原万樹子弁護士(ホームレス支援で大阪では名高い)が、裁判の様子を報告しました。
それによると、検察は冒頭陳述で、Aさんをまるでヤクザのようだという言い方をしました。一方、弁護側は、そもそも犯罪の事実がない、と反論。これから2月に争点整理が行なわれます。
Aさんは、一度生活保護申請が却下された事を不安に思い、ビデオカメラを持参して記録していたのですが、それが職員を脅迫した、ということにされてしまったのです。しかし、そもそも生活保護申請は、申請が行なわれたら福祉事務所は受理しなければならないのです。
福祉事務所側がしようとした「水際作戦」は「違法な職務」ですから、職務強要罪でも保護の対象とはなりません。ですから、Aさんのした行為は違法とはいえないわけです。
さらに、今回のような軽微な事実について、身体拘束を行なうのは論外である、と指弾しました。そして、そもそもAさんは「脅迫」など行なっていないばかりか、福祉事務所職員らは、刑法上保護に値しない職務を行なっており、しかもAさんに故意はないので、Aさんは無罪である、と主張しました。
なお、Aさんの保釈申請もしていますが、却下されています。
以下は、JANJAN記事
http://www.janjannews.jp/archives/2315131.html
でみてください。
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2010-01-18 02:00
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| メディア / 貧困/反貧困 / 労働 |
2010年01月17日(日)
このブログでも紹介した、すばらしい映画「沈黙を破る」監督土井敏邦さんがイスラエル政府からプレスカード発行を拒否されました。それによってガザに入れなくなっています。それに対する抗議への賛同が呼びかけられています。
賛同文送付【連絡先】
doitoshikuni@mail.goo.ne.jp
【ホームページ】
http://www.doi-toshikuni.net/
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【賛同の呼びかけ文と抗議文】
前略
ジャーナリストの土井敏邦です。
ガザ攻撃開始から1年目に当たる2009年12月27日、私は、イスラエル政府の報道規制に対し、公に抗議する決心をしました。
それは一般的な報道規制に対する訴えではなく、私個人への規制が契機となり決意した抗議です。
2009年夏より、私は2度にわたってイスラエル政府によって、プレスカード発行拒否されました。これによって私はガザ地区での取材の道を絶たれました。
しかし、この問題は私個人の問題に終わらず、パレスチナを取材するジャーナリスト全体に関わる問題だと考えています。
下記(添付ファイルには日本語と英文)はイスラエル政府に対する私の抗議文です。
みなさんにお願いしたいことがあります。
私の訴えの趣旨をご理解いただき賛同していただける方は、「賛同人」になっていただけないでしょうか。
「賛同人」になっていただける方は、
1、賛同する(お名前、肩書を公表してもよい)
2、賛同する(お名前も肩書も公表しない)
の二つのどちらかもお知らせください。
*お手数ですが、1の「賛同人」となっていただける方は、例をご参考に書き方をご呈示ください。
例:(名前)土井敏邦/(読み方)どい・としくに/(肩書)ジャーナリスト
2010年1月15日
イスラエル政府の報道規制に抗議します
ジャーナリスト・土井敏邦
約1400人の犠牲者、5000人を超える負傷者を出したガザ攻撃から1年が過ぎました。
1985年以来、ジャーナリストとしてパレスチナ・イスラエルの現場を取材してきた私にとっても、これほどまでの破壊と殺戮を目の当たりにしたのは初めての体験でした。
私は、ガザ攻撃の「終結」直後から3週間にわたって現場を取材し、その結果を、NHK番組や岩波ブックレット、また世界報道写真展での映像展示、さらに数々の報告会、集会で伝えてきました。
その一方、2009年春にドキュメンタリー映画「沈黙を破る」を公開し、イスラエル国防軍(IDF)の元将兵たちによる占領地における加害の証言を伝えました。
それから数カ月後の8月下旬、私はその後のガザ地区の実態を取材するため、いつもの通りエルサレムにあるイスラエル政府のプレス・オフィスでプレスカードを申請しました。これがなければ、イスラエルに占領・封鎖されているガザ地区に入れません。
しかし当局は、私へのプレスカードの発行を拒否しました。パレスチナ取材を始めて以来、20数年間で初めてことです。理由は「提出されたアサイメント・レター(推薦・委任状)はドキュメンタリー制作会社からのもので、報道機関からではない。ドキュメンタリー制作にはプレスカードを発行しない」というものでした。
しかし過去2回、同じドキュメンタリー制作会社「シグロ」のアサイメント・レターでプレスカードは発行されていたのです。ただこの時点で、過去2回の時と違っていたのは、「シグロ」が制作した私のドキュメンタリー映画「沈黙を破る」が劇場公開された直後だったことです。
それから3カ月後の11月、私はガザ攻撃から1年目の実態を取材しようと、再びプレスカードを申請しました。今度は、ある報道機関からのアサイメント・レターによる申請でしたが、また拒否されたのです。理由は告げられませんでした。
その直後、イスラエルの『イスラエル・ナショナル・ニューズ』(11月30日版)が、プレス・オフィスのダニー・シモン代表にインタビューをし、次のように伝えていることを知りました。
「イスラエルは、事実を伝えない反ユダヤ主義のジャーナリストは認めないと語った。シモン氏は、意図的に虚偽を伝え、ハマスの犯罪を隠蔽するための“イチジクの葉”の役割を果たしているジャーナリストたちがいると強調した」
つまり私がプレス・オフィスから「事実を伝えない反ユダヤ主義のジャーナリスト」の1人とみなされたことが、プレスカードの発行拒否の大きな要因の1つと思われます。
しかし私はジャーナリストとして、自分で現場を取材して確認した事実をできうる限り正確に伝えてきました。断じて「意図的に虚偽を伝え」たことはありません。また「ハマスなどパレスチナ側の犯罪を隠蔽する」報道をしたこともなく、むしろ自治政府の腐敗、ハマスの強権支配の実態など、パレスチナ側の負の部分もきちんと伝えてきました。
一方、ドキュメンタリー映画4部作『届かぬ声―パレスチナ・占領と生きる人びと』では、自爆テロで負傷または犠牲となったイスラエル市民の家族の現実と心情、また“占領”がイスラエル社会の“倫理・道徳観”を崩壊させるという危機感を抱き、“占領”に反対し闘うイスラエル人たちの姿も伝えてきました。
今回のガザ攻撃に関する私の報道も、それが決して偏向したものではないことは、その後のアムネスティー・インターナショナルや国連調査団の報告からも明らかです。その報告はイスラエル軍の攻撃は「深刻な国際法違反」と告発しています。
このように、「パレスチナ側のプロパガンダ」のための報道ではなく、「パレスチナ問題の真の解決のために伝えなければならない事実」を、私は真摯に報道してきました。イスラエルのこのような武力攻撃や“占領”は単にパレスチナ人を苦しめるだけではなく、イスラエル国民の“倫理・道徳観”を崩壊させ、長期的にはイスラエル国民が求める真の安全と平和の可能性を自ら破壊することになると考えるからです。そういう私が「事実を伝えない反ユダヤ主義のジャーナリスト」という烙印を押されることを断じて受け入れることはできません。
プレスカードが取得できないということは、今後、私は取材のためにガザ地区に入れないということを意味します。
学生時代、イスラエルの「キブツ」(農業共同体)に滞在していたときに友人に誘われ、私が初めてガザの難民キャンプを訪れたのは32年前のことです。そこで住民に投げかけられた「君が滞在するキブツは誰の土地だったか知っているのか」という問いが、私の“パレスチナ問題”との出会いでした。
その後、ジャーナリストとしてパレスチナ・イスラエルの取材を開始した1985年以来、私は数えきれないほどガザ地区に通い、取材を続けてきました。第1次インティファーダ(民衆蜂起)以前、インティファーダの真っただ中、湾岸戦争下、オスロ合意の直後、自治政府の登場、アラファト政権下の腐敗、第2次インティファーダ、ユダヤ人入植地の撤退、第2次レバノン戦争下、ハマスの強権統治の実態、封鎖の惨状、そしてガザ攻撃・・・。私は、激しく揺れ動くそのガザの情勢の中に身を置き、占領の下で生きる人びとの生活と声を記録し、伝え続けてきました。ある意味では、私はジャーナリストとして、また人間として、“ガザ”に育てられたといえます。
そのガザの“現場”と20数年間に築き上げてきた“現地の人びととの絆”を、私は今、イスラエル政府によるプレスカード発行拒否によって奪われようとしています。その絶望感は舌筆しがたいものがあります。
ガザ地区の住民たちは長年、“封鎖”という“占領”のなかで、治療や勉学、仕事のためにガザの外に出ることもできず、海外で暮らす家族との再会も果たせない状況が続いています。もちろん、そんな住民の現実の深刻さとその苦悩に比べることはできませんが、私自身もガザ地区から断ち切られるようとする今、その“痛み”のほんの一端ですが、身を持って知った思いがします。
長年にわたって中東問題を伝えてきた、ある親しいジャーナリストは、私にこう書いてくれました。
「イスラエルの介入で取材の場を奪われたジャーナリストとして、つまり、自分をパレスチナ問題の当事者として、その不当性を訴えつつ活動するというあり方もあるのではないでしょうか。私は、土井さんの問題は、『ガザの現状が伝えられなくなる』という問題以上に、重要な問題だと思います。まさに、占領そのものの問題なのですから」
私がプレスカード発行を拒否され取材の場を奪われることは、私自身が“パレスチナ問題の当事者”となることであり、この現実と闘うことは、まさに私自身がジャーナリストとして“イスラエルの占領と闘う”ことを意味するという現実を、私はその言葉に突き付けられ、教えられた思いがします。
しかし、これは私だけの問題ではありません。今後、私のようにパレスチナ側に起こった被害やイスラエル側の実態を報道するジャーナリストは、「事実を伝えない反ユダヤ主義のジャーナリスト」という烙印を押されてプレスカードの発行を拒否され、報道規制を受ける可能性が十分あります。
これは明らかに、イスラエルの“占領”に起因する不当な報道規制です。これを看過すれば、今後、パレスチナ側の実態を伝えることが難しくなります。私は、パレスチナの現場を取材し続けるジャーナリストであり続けるために、イスラエルのこの報道規制に対して記者会見、シンポジウムや集会、署名活動などを通して抗議し、正当な報道の自由を尊重するようにイスラエル政府に求めていくつもりです。
どうか、みなさんのお力を貸してください。
2009年12月27日
(ガザ攻撃開始から1周年の日に)
【連絡先】doitoshikuni@mail.goo.ne.jp【ホームページ】
http://www.doi-toshikuni.net/
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2010-01-17 00:37
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| ナショナリズム政治 / メディア |
2010年01月16日(土)
以下の研究会で私なりの「ベーシック・インカムへの意見」を言います。以前話したことのさきに話を進めます。
生活保護への差別意識、妬み意識、自己責任論自体をなくしていくような意識の向上を作っていく必要があるときに、制度設計で人々の意識が「自然に」よくなる、差別がなくなる、権利意識が高まる、優しくなる、自己責任論でなくなるというのは、おかしいというようなことを言います。
ベーシック・インカムの基本の感覚・思想には賛成だが、他の議論や運動・実践との関係を意識せずに頭の体操や魔法の小槌のような議論だけすることを批判します。
私が念頭においているような「周辺系のひと」に対して、いかに実践的に役立つかという観点から、生活保護制度の拡充(制度変革)型のベーシック・インカムこそがベーシック・インカムの具体的展開であるという主張になるかと思います。
興味ある方はきてみてください。
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研究会「職場の人権」
今後の月例研究会のご案内
研究会「職場の人権」では、1999年の設立以来、毎月1回、定例の研究会を開催しております。皆さまの積極的なご参加をお待ちしております。ご希望のテーマやご意見等がございましたら、何なりと事務局までご連絡ください。(会場費500円、但し会員は無料)
■第124回研究会(10年1月)
ベーシック・インカム構想を検証する
〜 労働と生活・人権の視点から 〜
と き 1 月 2 3 日(土曜日) 午後 1 時30分〜 4 時30分
ところ エルおおさか(大阪府立労働センター)南館101号室 (電話 06−6942−0001) (地下鉄谷町線、または京阪電鉄「天満橋」駅下車。西へ徒歩5〜6分)
報告者 小沢 修司 さん (京都府立大学教授)
コメンテーター 伊田 広行 さん (立命館大学・神戸大学非常勤講師/ユニオンぼちぼち副委員長)
新自由主義経済体制の進展に伴い、雇用のあり方は大きく変化しました。雇用=就労を前提にした従来の社会保障政策は、増大する不安定雇用労働者や失業者、就労困難者の困窮を救済しきれなくなりつつあり、生存すらも危ぶまれる状況となっています。
そんな中で注目を集めているのが「ベーシック・インカム」の構想です。ベーシック・インカム構想とは、就労の有無、年齢、性別、家族形態に関わらず、子どもを含むあらゆる個人に対して、ベーシック・ニーズを充足するに足る所得を「無条件で」支給しようという最低所得保障の構想です。社会保障を「働くこと」と切り離し、生活のための所得をあらゆる人に保障するという、この構想については、従来の社会保障給付につきものだったスティグマ性を克服し、性や地域などによる所得格差を是正し、働き方、生き方について個々人がより良い選択を行うことを可能にする等の期待が寄せられています。その一方、財源確保の問題や勤労意識の低下などへの懸念も考えられます。
例会では、日本におけるベーシック・インカム論者の第一人者である小沢修司さんに、ベーシック・インカムの社会保障と人権に関わる役割についてお話いただきます。ベーシック・インカム構想を通じて、労働と生活・人権の関わりを再確認する機会となればと考えます。ぜひご参集ください。
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2010-01-16 22:07
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| 貧困/反貧困 / 労働 |
2010年01月14日(木)
安積遊歩さんが、『いのちに贈る超自立論――すべてのからだは百点満点』(太郎次郎社エディタス、2010年)を出した。
軽く読み出したが、いい本だった。最初は既視観があったが、娘(宇宙)のからだのこと、手術のことなどで、ゆれる中で、娘自身の生きていく力での論の運びには、やはり何か大事なものがあると感じた。
一番感じたのは、彼女のお母さんの話。
障がいがある娘(安積遊歩さんのこと)を、本当に大事したお母さんだったんだなあ、だから安積さんはああいう人になったんだなあと感じた。
安積さんのお母さんは、他の人が嫌がるような人にも平等に接するような人だった。遠くの人で、家族が結核になった人が、オフロがつぶれて、数週間、安積さんの家のお風呂に入りに来ていたらしい。当時、結核ということで近所の人からいやがられていたが、安積さんのお母さんは、そういう人にも差別しないような人だった。
「乞食」といわれていて貧乏で、お金とかを恵んでもらいに来ていた人にも、優しかったという。隣の人で、少し精神障害がある人でも、排除せず、娘と交流させたという。
あるときは、宗教団体の人が家に上がりこんで、先祖が悪いことをしたからこんな子が生まれたとか言って、入信を勧めてくることもあったが、母は、家に上がらせないのではなく、上がらせて話を聞いて、安積さんを抱いて泣いていたという。色いろな宗教の人から言われ、結局、どこにも入らなかったという。
安積さんは、むかしは、そういう誰も拒否せず、話を聞く母を臆病と思っていた気持ちもあったそうだが、いま、感情を吐き出す重要性、聞いてもらう重要性(コウ・カウンセリング)をしって、母のすばらしさがわかるようになったという。
僕もこの話で、そういう非排除的な人のことをおもった。泣きながら、話を聞くような人のことを思った。
安積さんのお母さんの話しを読んで、なんか、大事なことを感じた。
僕の祖母や母のことを思った。
☆ ☆ ☆
子ども(宇宙)のことを、ちゃんと「大人」というか、「対等な人」として接する。そういう姿勢にはやはり感じ入るものがある。こどもを権力で抑えず、その子の恐れにきちんと目を向けようとする。本人への説明なしで、いきなり「治療」「施術」などを行うのは、暴力だとはっきりいう。治療という名の虐待を容認してはダメという。痛いという声を無視するのは、虐待だという。(あとで、トラウマになる。)
そういうことは、実は、とても難しいことだ。
そこには自分の優性思想、医学信仰、能力主義も絡んでくる。
権力がない人(自分より年下である人、部下、女性、など)に、対等に関われるかどうかは、その人がどんなひとかがわかる試金石だ。
娘さんは小学校2年生から学校にいっていないんだって。宇宙ちゃんはこれから、またいろいろあるだろうけど、まあそれは本人自身が立ち向かう課題だろうと。そういうことの受容の感じも、いい。シングル単位的な覚悟。それまで愛情をいっぱいそそぐ。そそぐ。そそぐ。
障がいが個性だ、それをむしろ幸せと思う、生まれたときから目が見えない、という人の、中途失明者と違う、そのどしんとした感じは、僕にはやはり、遠い。
だから安積さんは、やはり、凄いところにいると思う。頭で、活動家として、ゴールに近づく面と、立場、実践、体験から近づく面の両方がある人。
彼女のことは、最初の単著『性差別と資本制』1995年のあとがきで、触れた。その後、本人にも会って、テレビや本でフォローしてきた。
僕が尊敬する人のひとりだ。
☆ ☆ ☆
「ユニオンぼちぼち」や反貧困運動、生存運動にも関わる、「働く」ということの考察の一部も載っている。
簡単にだが、まあ、原則だろうというような。つまり、「賃労働に参加できないことが悪いことではない」「働いて稼いで、納税するのが、まともな大人、というのはおかしい」「生活保護を使うのはダメなことという内面化された自己抑圧が問題」「お金に依存しない生活を」「狭い血縁・家族ではなく、皆で子育てをしていく」というような。
僕は、このブログで、サンボマスターの「全肯定」という言葉を紹介したが、安積さんも、すべての命をそのまま肯定する。私的所有などにとらわれない。
A君不当逮捕事件をおもうとき、こうした安積さんの生きる水準との、とても大きいギャップを感じる。宇宙ちゃんが中学受験をしようかなと思ったとき、学校見学さえさせない教員のおろかさは、よくわかる。
A君事件でも、水際作戦でも、公務員・福祉職員がそれほど悪いんじゃなくて、組織のあり方、構造・政治の問題という言い方もよくあるが、僕はかなり前から、個人の責任のほうから、ものごとを観るようになっている。
構造がそうであろうと、目の前の人のことを大事にできないということは、つねに個々人にとわれる必要があると思っている。
えびらたずこさんの本『神への告発』のことを安積さんが紹介しているところもある。
障害者女性であるえびらさんが、生保のケースワーカーにひどい性的虐待を受けたという記述があった。読んでびっくりするような内容だ。
安積さん自身、その記述の後に、「そのシーンはもはや本の中の文章ではなかった。私自身の痛みとなって長い間私を苦しめてきた」と書いているぐらいの内容だった。
公務員福祉職員の犯罪性というものが如実に出ている話だと思う。
例外だといって楽になる話ではなく、そこにある暴力性は、程度の差はあれ、いまでもあちこちにある、と感じた。
本人たちが気付かないところで。
たとえば、柏原市福祉事務所で。
安積さんは完璧でないが、いのちの強引さがある。それは魅力だ。自分の障がいの経験から、ぐっと、一挙に、真ん中に行く。
ときどき迷うが、まあ、おおむねまっすぐすすむ。
こんなひとは、そうそういない。
私たちの運動、生き方の方向の先にある、道しるべのようなひと。
それをさらっと読んで、再度、実感。
∞∞∞∞∞
追記
上に最初、えびらたずこさんの本『神への告発』の内容の紹介を遊歩さんが書いたような内容のまま書いたら、「描写の表現が、とても強すぎて、苦しい」「前触れなく読んでしまったので、しんどくなった」という意見をもらった。
僕も読んで衝撃を受けましたが、いくら事実でも配慮が足りなかったと思うので、表現を変えました。
読んだ方で、しんどいおもいをさせてしまった方、ごめんなさい。
本を書かれた、当事者のえびらさんの思いをちゃんと引き受けるということが、私たちの課題だと思いました。
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2010-01-14 02:33
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| 作品 / 人権 / 生き方 |
『ピープルズプラン』48号(2009年秋号)は、「生存権」が特集となっており、そこに,
いちむらみさこさんの「ホームレスと女とノラ」という原稿が載っている。
いちむらさんはいつ読んでも面白い。(学者の話はいつも同じで少しつまらないからすっとばし読み。)
彼女は、家をでてテント暮らしをしたら、いろんなことが解決したという。
上を目指すことを強いられていた暮らしは魅力的でなかったという。
それで、希望の見えない雲の中から、みずから、ヤッホー!と飛び降りたのが、ホームレス・テント暮らしだった。それゆえの豊かさがあるから選んだ。
どうしてホームレスになったとみなに聞かれるから、彼女はその人に問いかえす。
ホームレスになぜならないのか、と。
彼女は、暴力・性暴力に出会い、憤る。私は、自由と豊かさのためにホームレス生活を選んだが、暴力・性暴力を受けることを選んだのではないと。
女性ホームレスの人たちのつながり、エンパワメントを追求していく。そこに希望を見出していく。
彼女は、そういう中での表現、文化を追求する。
彼女は、ホンモノだ。
尊敬する。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
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2010-01-14 01:27
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| ジェンダー / 生き方 / 作品 |
2010年01月12日(火)
@ 日本政府は現在、生活保護の捕捉率を調べていない。研究者は10−20%程度といっている。調査し、公表すべきは明らか。
A ベーシック・インカムの議論にからむが、私は基本的に先ず、生活保護の要件を緩和し、貧困者の多くが生活保護をベーシック・インカムのように使うことが大事。それが権利としての福祉の具体的展開。
B 生保の費用の4分の1は地方自治体が負担。全国で126万世帯が受給(09年9月)。大阪市は最多の10万世帯で、市の保護費負担は2443億円。
C 湯浅誠が政府内に入ってワンストップ相談窓口をすすめたが、かなり抵抗にあった。地方自治体が財政的にも人員的にもたいへんなので、反旗を翻したため。
D 野宿の人が生保申請して、支給決定までの生活を補償するように、生活保護法の改正が必要。
E 文部科学省が09年11月30日付で、学校での暴力行為が約6万件と過去最高であると発表。そして問題が起こればすぐに警察に通報と、警察との連携を強めているとの報道。「問題なら通報」ということで安易に警察に頼る傾向が見られる。
僕は必要なときには警察を使うこともいると思うが、安易に警察とつながるのは、教育者としてなさけなくないか? そういうのって、柏原市ですぐに警察を呼び、さらにすぐにA君を告訴したのと通じないか? 警察を使って排除。そこに相手と深く本気で関わるという姿勢は見られない。
F 岸和田市で、貧困なのに、3日に1回の職探しでは不足だ、などといって生活保護申請『却下』した事件があって、去年から運動になっていて、裁判が今度始まる。以下、その支援する会の訴え。
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「岸和田市の生活保護申請『却下』の取り消しを求める裁判を支援する会」
入会のお願い
みなさまにおかれましては、ますますご活躍のことと存じます。
このたび、生活保護申請に対し不当な「却下」をされた夫妻が岸和田市に対し、その取り消しを求めて提訴しました。私たちは、この提訴を支援するとともに、くらしのセーフティーネットである生活保護のあるべき姿を問うために闘う決意をしております。
みなさまがたにおかれましては、ぜひ、本裁判の趣旨にご賛同いただき、「岸和田市の生活保護申請『却下』の取り消しを求める裁判を支援する会」(以下=「支援する会」)に入会をしていただくよう、どうぞよろしくお願いします。
夫妻は、08年2月に大東市で「派遣切り」に遭い、岸和田市に引っ越してきて、求職活動しましたが働く場が見つからず、手持ち金も数百円になり岸和田市に生活保護を申請しましたが、同市は申請もさせずに追い返しました。その後、同市の生活と健康を守る会に相談して、生活保護を申請しましたが、「稼働能力の活用が不十分」との理由で「却下」。その後、4回申請しましたが、すべて「却下」されています。理由はみんな同じです。
この間、夫妻は家賃滞納を理由にUR住宅を退去させられ、現在は風呂のない住宅に住んでいます。また、家にある家電製品や本・CDを売る、親族から借金をする、近所の人たちから米などの食糧支援を受けて生活してきました。
08年7月から妻がパートに行き、月収6万円から7万円で生活していました。今年7月、6回目の申請でやっと生活保護が開始決定され、現在、夫は新聞配達、妻はパートで収入を得てその不足分を生活保護費で補っています。
夫妻は、この不当なやり方に対して、大阪府に審査請求を行いました。しかし、府は「3日に1日の求職活動は不十分」という採決をしました。夫妻は弁護士や支援者と一緒に、岸和田市や大阪府と交渉を行い、「生活費もないのにどうやって就職活動をしたらいいのか教えてほしい」と質問しましたが、府も市もまともな回答をしませんでした。以上の経過をふまえ、夫妻は岸和田市に「却下」の取り消しを求めて提訴をした次第です。
厚労省は、昨今の大企業による「派遣切り」によって、職と住居を失った失業者に対して、まず生活保護を開始し、「最低生活」を保障しつつ、「自立」をめざすよう都道府県に指示をしています。岸和田市の「却下」はこれに逆行しています。
ご承知のとおり、生活保護の大前提は、「日本国憲法第25条に規定する理念に基づき、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その国民の困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする」(生活保護法第1条)と明記しています。この基本原理に照らしても岸和田市のやり方は不当です。
まず、生活保護を開始し、「最低生活を保障するとともに」、就職活動をして「自立」をめざすことが法の趣旨にかなったやりかただったはずです。以上のことをご理解いただき、わたしたちの趣旨にご賛同のうえ、「支援する会」への入会を、かさねてよろしくお願いいたします。
2009年11月10日
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2010-01-12 18:43
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| 貧困/反貧困 / 政治、権力 / 暴力・DV |
これも、民主党になって、自民党時代よりマシなことの一つ。ただし、対象国が限定されるなど、問題をはらむものである可能性がある。
こうした民主党の動きに対し、千葉県では、バックラッシュが起きており、森田知事は保守勢力を集めて動いています。
09年12月千葉県県議会で自民党瀧田敏幸県議がバックラッシュ質問。
堂本知事のジェンダーフリー教育は性差の否定であり、「負の遺産」と発言し、ジェンダーフリー教育の一環である「男女混合名簿」の廃止を訴え、鬼澤教育長が「総合計画策定の中で検討していく」と答弁されたらしい。
また09年12月千葉県県議会で、自民党は「選択的夫婦別姓のための民法改正に反対する意見書」を提出し、その中で、民主党政権はカンボジアのポルポト政権のようなものと批判しました。自民党単独過半数で可決されました。
09年後半には千葉県で、新教育基本法に基づいた「教育振興基本計画」策定のため 「千葉県の教育を元気にする有識者会議」を4回開催したそうです。
「愛国心」と「道徳教育」の復活がテーマで木村治美氏が座長。 委員は、「新しい歴史教科書」系の百地(ももち)章日大教授や 武士道精神を叫ぶタレント藤岡弘など右翼系が多いそうです。
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外国人参政権法案「理解得られる」と首相 「日韓併合100年というタイミングでもある」
@MSN産経ニュース 2010.1.12 11:11
鳩山由紀夫首相は12日、永住外国人に地方参政権(選挙権)を付与する法案について「理解は得られると思っている。今政府内で検討している最中だ。日韓併合100年というタイミングでもあることをもっていろいろ検討している」と述べ、政府提出法案(閣法)として18日召集の通常国会への提出に意欲を示した。首相公邸前で記者団に答えた。
民主党はこの法案を「結党以来の基本政策」としているが、昨年の衆院選マニフェスト(政権公約)では党内対立を避けるため外していた。だが、11日の政府・民主党首脳会議で民主党側から政府提出法案として出すよう要請があり、政府・民主党間で合意した。
鳩山首相は民主党幹事長だった昨年4月、インターネット上の動画サイトに出演し「定住外国人は税金を納め、地域に根を生やし、一生懸命頑張っている。参政権ぐらい当然付与されるべきだと思っている。日本列島は日本人だけの所有物じゃない」と発言するなど、これまで提出に意欲的な姿勢を示していた
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2010-01-12 14:49
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| 人権 / 政治、権力 |
友人が次のサイトを紹介してくれた。
http://video.google.com/videoplay?docid=1650025753153438374&hl=en
おもろい!
まえにこのブログ(ソウルヨガ)で、スーパーでの別のパフォーマンスも紹介したけど、同種のもの。新しいアート表現的な社会運動スタイル。笑いと皮肉とラジカル性。
ユニオンエクスタシーの活動感覚とも近い。
上のサイトの作品のなかで次のように言っている。
「デトーナメントとは、日々の生活のなかで、ものごとの見方が大きくゆすぶられ、視野や視点が大きく変わることだ。あわただしい日常の中で、少し立ち止まり、逆立ちして、世の中を見回してみたまえ。」
「家のリビングは工場だ。そこで作られる製品は、あなただ。」
こういうのは、カルチャー・ジャミング(Culture jamming)と呼ばれていて、直訳すると「文化破壊」だけど、主流秩序を揺るがすアート表現的活動のこと。楽しみながら暴力的なイデオロギーを破壊していく、クリエイティヴな“犯罪”で、表現のひとつだといっている。
ウィキペディアによると、 「カルチャー・ジャミングは、既存のマス・メディアを変革しようとするムーブメントの一つである。メディアの物理的なあり方やコミュニケーションの方法論はそのまま利用するが、流通するコンテンツや運営方針に批判精神を持たせようとする。しばしば既存のメディアの経営方針やコンテンツの所有者の意図を敵対的に無視する形で行われる。 活動には様々な形態があるが、反消費主義、反商業主義という点で一致している。特定の企業の企業イメージや、製品のブランドイメージに真っ向から敵対することも珍しくない。
ただし単なるネガティブキャンペーンとは一線を画し、むしろ一般のひとびとに対し、企業イメージや製品イメージの裏に隠蔽されている事実に気づかせようとすることに主眼をおいている。 典型的な例は、「デトーナメント(en: detournement)」と呼ばれる手法でなされる一種のパロディ作品の創作である。作品の公表にあたってはゲリラ的な手法を用いることも珍しくない。」
「カルチャー・ジャミングの背景には、次のような問題意識がある。現状のマス・メディア、特に広告が、既存のエスタブリッシュメント(大企業や政府)のプロパガンダの装置に堕しているという認識である。特に先進国において、オルタナティブなメッセージを(既存のメッセージと同程度のインパクトで)流通させる手段がないことを問題視している。」
カルチャー・ジャミングには、いろいろな手法がある。
公的な場所で急に踊るとか歌を歌うなどの、ゲリラ的なさまざまなパフォーマンスがそのひとつ。
街頭広告を乗っ取る。
バブル・プロジェクト:「フキダシ」(マンガのセリフを入れる枠、英語でBubble)を、街中のポスターや広告に貼り付け、オリジナルの意図を換骨奪胎するような言葉を書き込むという、ストリート・アート
無買デー(en: Buy Nothing Day)。1年に1日だけ、消費を抑制することで、過剰消費社会を問題を考え直そうと呼びかけるムーブメント。このビデオにも空っぽのカートをおして、スーパーをぐるぐる歩く活動などででてくる。
アドバスターズのアクティビティ。雑誌の発行や法的活動を含むさまざまなキャンペーンの展開
サブジニアス(Subgenius)教会。「買わないことは、功徳だ」などと説教したりする、皮肉で批判的な宗教
「テレビがあなたを殺す」というスローガンで、頭蓋骨をモティーフにしたキャンペーン
ゴリラズ(en: Gorillaz)の「Reject False Icons」ムーブメント
僕もこういうことしたいし、日本でもこういうのがたくさん増えるといいんだけどねー
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2010-01-12 10:09
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| 生き方 / 作品 / 政治、権力 |
「障がい者制度改革推進本部」に設けられた改革推進会議のメンバーの6割が障害者自身や家族であるというようになりました。当事者が入るということです。施設経営側は入っていないそうです。
民主党政権が、前よりもましであるという一例だと思います。ようやく、まともになってきました。
私の友人が入ってます。
労働問題でも、非正規労働者などその議論の当事者団体を入れるべきです。「ユニオンぼちぼち」からひとり出しますが、いかがでしょうか?
男女共同参画なら、女性団体、フェミニストを入れるべきですが。
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「委員の6割が障害者と家族 新改革会議、異例の構成」
@共同通信2010/01/08
http://www.47news.jp/CN/201001/CN2010010801000344.html
障害者問題を担当する福島瑞穂特命担当相は8日の記者会見で、 政府の「障がい者制度改革推進本部」の下に新設する改革推進会議 の委員24人を発表した。6割の14人は障害者自身や家族らを充 てた。12日に初会合を開く。
政府の障害福祉関係の審議会などにはこれまでも障害者らが参加 していたが、過半数を占めるのは異例。入所施設などの事業者が 入っていないことも特徴で、利用者サイドの視点で議論が進みそうだ。
当事者など14人の委員には、障害者団体の代表のほか、民主党 の障害者政策に影響を与えている「障害者インターナショナル日本 会議」の尾上浩二事務局長や、障害者自立支援法の違憲訴訟で弁護団長を務める全盲の竹下義樹弁護士らが入る。
それ以外の10人は大学教授や自治体の首長ら。24委員のほ か、日本経団連の1人がオブザーバーとして参加する。
「障がい者制度改革推進本部」@内閣府
http://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/kaikaku/kaikaku.html
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2010-01-12 01:00
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| 人権 / 政治、権力 |
2010年01月11日(月)
100年前、300年前、500年前といった昔の時代の映画やドラマを観て気付いたことがある。
昔は本当に、今以上に、簡単に、女性がレイプされたり殺されていた。戦利品であり、消耗在であり、子産みの道具であり、家事や家業などの労働力・奴隷であった。
で、そんな時代だからこそ、誰か男に守ってもらうというのが理想であり現実的なサバイバル方法だった。
「私を守ってくれる強い男性が好き、男に守ってもらいたい」という感覚は、そうした古い時代の感覚の名残という面があるのではないのか。
それは古臭いのではないか。
変えるべきは、暴力環境のほうで、そうなれば、男に守ってもらうというようなつまらない感覚が残る必要性がなくなる。
で、少し考えてみれば、現代でも暴力はまだまだ多い。だから「私を守ってくれる強い男性が好き、男に守ってもらいたい」という感覚が残っている。
暴力環境を前提にサバイバルする自己対処としてのジェンダー意識ではなく、別の解決の方向性を見出す人を増やしていこう。
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2010-01-11 10:37
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| ジェンダー / 暴力・DV / 関係性 |
龍馬は人気のある人で、僕も、昔学生のときに『竜馬が行く』を読んで感動したものだ。
そのときから思うことだが、竜馬を読みながら、ナショナリズムの人って、わかってないなーとおもう。
今年もNHKで『龍馬伝』をやっている。まだ若いときの龍馬で、どうなっていくかわからないが、ちょっとみたところ、あんまり深くない描き方だなと思う。なさけないところもあるというのはいいが、お決まりの古い表現、話のすすめ方が目に付いてしまう。
で、ナショナリズムの話だが、龍馬は、あの時代に「絶対」と思い込まれていた「神話」をのりこえるところがおもろいわけだ。上士と下士の身分格差、殿様への服従などお笑いものだが、当時は乗り越えようもない、変化も考えられない、絶対だった。同じように、薩摩と長州と土佐の人間が顔を合わせば、それは敵国外国人に出会ったようなものという時代だった。殺しあうのが当然と。土佐を脱藩するというのも凄いことだった。
はい、ならば、竜馬が乗り越えたのは、そういう時代の神話なのだから、現代なら、中国や韓国や北朝鮮やイランやイラクと闘わなくっちゃという思い込みを超えることなんじゃないの? 日本人を辞めるぐらいのことなんじゃないの? 宇宙人と仲良くしましょうというくらいのこといわないと、龍馬に笑われるんじゃねえの? 環境問題でも、平和・戦争の問題でも、貧困・労働問題でも、グローバル・金融資本主義の現実主義の枠を超えるような生き方をしないと、竜馬的じゃないんじゃないのか。
なのに、米軍基地を沖縄に残し続けるしかないなどとおっしゃる方たちが、龍馬が好きなんていうから笑っちゃう。自分が、下士をいじめてよろこんでいる上士程度の言動しかしていないことがみえていない、おろかさよ。
米軍に日本が守られているから外国から攻められない、という話、ホソキカズコがムー大陸が存在したというとか、あなたはネッシーの生まれかわりですと江原啓之がいう話と同程度じゃないの?
竜馬の時代は、ほんとに他の藩のやつに殺される時代だったけど、それでも和解させようとしたのにねぇ。ちっちゃいのぉー。わしゃ、わからんぜよ。
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2010-01-11 03:22
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| 作品 / 戦争 / ナショナリズム政治 |
2010年01月10日(日)
昨日、A君事件にカンパしてくださった方の振込用紙を見ていると、私のことを知らなかったけれど、あるルートで知って私のブログを熱心に読んでくださって、その結果A君事件支援にカンパを振り込んでくださった方がありました。
ほんとうにありがとうございました。
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さて、「A君の生活保護申請ビデオカメラ弾圧事件」をみるとき、以下のような視点があるかないかが大事だなと個人的に思っています。
それは、「生活保護窓口での水際作戦」ということの理解です。
『ウィキペディア』の「生活保護問題」の項では、以下のような説明がなされています。
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水際作戦とは、保護申請の受付窓口である福祉事務所が、生活保護の受給を窓口という「水際」で阻止し、違法に保護申請の受け取りを拒否した作戦をいう。
生活保護法の基本原則では、申請を無条件で受けて保護の要否についての審査をすることになっている。2007年7月10日には、「就職した」と市職員に虚偽報告を強いられ生活保護を打ち切られた結果、「おにぎり食べたい」と書き残して孤独死してしまった男性がいたことが発覚し、問題となった。この事件でも、当初北九州市は「(生活保護の)廃止は適切だった」と主張していた。
また、北九州市以外の市では、「もう来ないと一筆書け」と言われたり他の市へ行けと切符や電車賃を渡すケースがありそのような対応を受けた人が「小田原市役所に行くのか? 市役所を渡り歩くのか?」と聞くと、「そのような対応になります。」との答えが返ってきたと証言する人や「なぜよそに行かせるのか?」 と聞いても返事がなかったと証言する人もいる。[1]
生活保護扶助費用の1/4および現業員の給与が地方自治体予算からの支出となるため、財政状況が厳しい自治体に強く見受けられると言われている[要出典]。東京都中野区では900億円の予算のうち100億円が生活保護に関する予算(それを担当する職員、議員、対応に要する経費は除く)となっている。また、大阪市では2000億円の支出を行っており、深刻な財政難を伴っている反面、市民団体からはホームレスの保護が遅れているとの批判がきわめて強く上がっている。早急なホームレスのための、プライバシー権等に配意した住居と生活費、全額無料の医療費を用意することが求められている。また、それを行わないことは憲法違反であることは明白である。
北九州市で行われていた、保護開始・廃止件数の事実上の数値目標を各福祉事務所に課す手法は全国に報道され、有名になった。北九州市では、生活保護対象者に対し、社会問題となるほど厳しい方針が取られた。マスコミの多くは北九州市の施策を批判したが、『週刊新潮』は不正受給を強調し、北九州市を支持した[2]。2006年11月30日放送「報道ステーション」で北九州市の「水際作戦」が報じられると、同市は「公平・公正さに欠ける」と抗議した[3]。
しかし、2005年5月以降だけでも、生活保護申請却下、保護廃止となった市民の孤独死者は前述を加えて6人に上っており、その後、北九州市は公式サイトの抗議文を削除し、これらの問題を第三者機関が検証する「北九州市生活保護行政検証委員会」の議事録を公開している。そのなかで、数値目標は暴力団の不正受給を防ぐための目標だったが、数値目標が一人歩きし、不必要な人間に生活保護を出し、本当に必要な人に生活保護を出さなくなったのではないかなどと検証されている[4]。
また、2007年3月4日放送のテレビ朝日系『サンデープロジェクト』でも数値目標についてある窓口での文書を入手し、その文章について福祉職員が匿名で「面接主査課長、福祉事務所長の人事考課が下がるから必死に断らなくてはいけない。」「『申請書ください』『ハイそうですか』と渡す人は無能な職員とみなされ出世できなくなる。上司に指導される。」などと証言した。
北九州市はテレビ朝日の取材に対して「文章の数字は見込みであり目標ではない。職員の人事考課に影響することは無い。」と答えたが、2007年2月に初当選した北橋健治北九州市長は役所の対応に問題があったことを認めた。
厚生労働省社会援護局橋本浩樹保護課長は『サンデープロジェクト』の取材に対し北九州方式について「モデルとして推奨したわけではない」と答えた。 2007年12月14日、また、他地域でも兵庫県加古川市において、心筋梗塞で働けなくなった30代男性の生活保護申請者の申請取下げ書を偽造していた事件が発覚した[5]。また大阪府貝塚市でも2007年に複数の違法行為が発覚し、「大阪の北九州」との声もささやかれるに至った[6]。札幌市白石区でも1987年に“保護受給申請をさせず相談に留める”同様の対応が行なわれていたことが確認されている[7]。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用終わり
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私は基本的にこの説明を書いた人の見解に賛成ですが、行政側は基本的に「水際作戦などない」というでしょう。
問題は、「生活保護申請を意識的に受け付けずに追い返せ、という指示が明確に上司からあったかどうか」ではありません。
水際作戦といわれるような現象の背景にある、福祉行政職員の姿勢や思想そのものをちゃんと見直しているかどうかです。
つまり、「“溜め” が少ない人(社会的弱者)」をエンパワメントするように援助する、ということが、福祉事務所にあるかどうかです。
エンパワメントとは、本人自身が助けてもらわねばならない、無力な存在だと自分を否定的にとらえるのではなく、自分には力がある、と思えるようになっていくことです。
エンパワメントの視点に立った援助とは、その人の中にある力を信じ、引き出していくような、当事者主体の援助です。
それをしていくためには、よく聴くことが重要です。
その人のニーズは何なのか、思いは何なのか。すぐにうまく言えないなら、ゆっくり聞きますよと待てるかどうか。何が言いたいんだといらいらするとか、話ベタを怒るといったことがないようでないといけません。私はあなたの味方ですよ、あなたを信じますよという態度も必要です。
よく聴くためには、その場とか、その相手に対する安心感とか信頼感が必要です。すぐに怒られたり説教されないとか、秘密がばらされて不利に処分されることがないといった安心感が必要です。
聴く人が能力主義、自己責任論の感覚をもっていては、「“溜め” が少ない人(社会的弱者)」は話(相談)ができません。自己責任だけで見てはダメですよ、とむしろ、自己否定的になりがちな要援助者に、権利として福祉制度を利用したらいいんだ、そしてあなたには、幸せになっていく権利と力があるんだよと支援していくことが必要です。
安積遊歩さんはコウカウンセリングの重要性を昔からずっと言ってきました。専門家としてのカウンセラーに金を払って聴いてもらい、治療してもらうというのではなく、ふつうの素人が対等に同じ時間ずつ、気持ち・感情を無批判的・受容的に聴きあう、というものです。
さて、福祉事務所にそのような姿勢・思想があるでしょうか。残念ながら、上記のような「エンパワメントの視点に立った援助」の水準には程遠いのが現状でしょう。
中には個人的にすばらしい職員もいます。しかしそれは例外的です。
だから全国のあちこちで、「水際作戦」とよばれるような現象が起きたのです。だから生保申請に同行することが重要となったのです。
だから運動側は、「水際作戦」という命名を行って問題を顕在化させたのです。
したがって私は、本質を多くの人が理解し、事態が改善されることを願って、以下のようにいいたいとおもいます。
「水際作戦」という概念で問題としていたのは、狭い意味の「生保申請受付拒否姿勢」ではなく、その背景の福祉行政の貧困な非援助的な姿勢の思想そのものであった。
つまり、福祉行政が真に人権擁護の立場にたった、エンパワメントの視点で、要援助者を支援してこず、“溜め”の少なさに配慮せず、能力主義と自己責任論でむしろ排除的に接してきたことが、水際作戦の意味であった。
それをもうすこし短く言えば、
「エンパワメント視点の欠如した排除的姿勢」
「“溜め”をみない冷たい態度」
「自己責任論による意地悪対応」ということです。
今回のA君生保申請不当逮捕事件は、柏原市(柏原福祉事務所)が、この「エンパワメント視点の支援」ではなく、その逆に、「エンパワメント視点の欠如した排除的姿勢」で臨んだために起こった事件です。援助の姿勢が十分でなかったという自分たちの姿勢を省みることなく、それを棚に上げて、逆にあろうことか逆ギレして、A君を不安に追いやり告訴までして排除したということです。
北九州市立大学非常勤師(元、北九州市ケースワーカー)の藤藪貴治さんが、賛同メールで言ってくださっているように、福祉職員は、高潔な人格と社会福祉の増進に熱意をもって、申請権を侵害せずに懇切丁寧な対応をしないといけないのに、柏原の職員はそれをしませんでした。思慮が円熟な面接で、お互いの信頼関係を築き上げて、円満な解決を図る必要があったのに、それをしませんでした。
その逆に逮捕させ、職業訓練学校を辞めざるをえなくさせ、拘置所に2ヶ月以上閉じ込め続けています。
今回の事件を、「水際作戦」とは別であるなどととらえるのは、まちがっています。
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2010-01-10 11:49
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| 人権 / 政治、権力 / 貧困/反貧困 |
今朝の『朝日新聞』をひらいてびっくり。FTMトランスジェンダーのひとが、性同一性障害者特例法に基づき戸籍上の性別を変更し、女性と結婚したのだが、その人が第三者の精子を使って妻との間に人工授精でもうけた子を、法務省は「嫡出子とは認めない。非嫡出子として登録せよ」との見解を示したという。
まったく何重もの差別的行為である。
と同時に、法と制度と意識がまだまだほとんど性的マイノリティの権利を念頭に入れていない旧態依然の差別体系であることの必然的結果でもある。解決は、根源的な方向を明確にして体系自体を変えていくことでしかえられない。
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先ず、新聞記事が指摘するように、同じ人工授精でも夫が「生来の男性」の場合は嫡出子として受理しており、法の下の平等に反するのはあきらか。民法では夫が生物学的な男性であるべきだとの規定はないし、民法772条では、妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する」となっており、民法の親子関係は、たとえば養子縁組があるように、生物学的なもの以外でも多様にある。今回の判断は、これと矛盾する。
特例法は性別変更後は新たな性別で民法の適用を受けると規定している。これにも反する。
しかしこの問題の背景には、上に記したように多様な問題体系がある。
@性同一性障害特例法で、自分の望む性で生きていける(性別変更が認められる)というときの条件が狭すぎる問題。
A性同一性障害特例法自体が、男女二分法に則っているという限界。
Bそもそも、「婚外子」差別するということが大問題。嫡出概念をなくして、あらゆる子どもを平等に扱う必要がある。
C今回の法務省判断は、直接的には性同一性障害者差別といえるが、その根底には、あからさまな同性愛者差別思想があるということ。
Dより根源的には、男女二分法・異性愛だけが正しい、と信じ込みそれ以外を差別するという問題(セクシュアルマイノリティ差別)がある。
E多様な家族が認められていく世界の潮流に反している。サンボ法やパックス法制度のように、「『異性愛者の法律婚』以外のつながりかたも、『異性愛者の法律婚』と同じように権利を保証していく」ということが先ず必要だが、そういう方向で改革を考えず、逆に、旧来の性秩序の維持強化の判断をしたという問題。
F「子どもを持つのは結婚した夫婦の間の自然生殖で」という限定を取り除いて、多様な子どものもち方を検討していくべきである。たとえば独身者や同性愛カップルが養子を持てるようにすること、精子バンクを利用して、独身女性が子どもを持てるようにすること、などは、子どもの福祉・人権を尊重する担保をとりながら原則保障していくべきではないか。
G根本は、結婚制度に入らないとダメ(損をする)という結婚強制システムがおかしい。
離婚した後再婚して、パートナーの連れ子と親子関係になるなど、多様な親子のつながり方はある。血縁主義を越えて、人と人が〈たましい〉でつながっていけばいいじゃないですか。
人が独身か既婚者かというような不必要な線引きの意味をなくすことが必要なのではないでしょうか。
人と人が愛し合ったり、助けあったり、子どもを育てていったり、要介助の人に介助という関わりをしていくということが、「結婚制度・家族制度・血縁主義」の枠を超えて、もっとみなで多様になされていく社会を追求していけばいいのにね。
以下新聞記事∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
「性別変えた夫の子、妻出産でも婚外子扱い 法務省見解」@ asahi.com
http://www.asahi.com/national/update/0109/OSK201001090155.html
2010年1月10日3時1分
心と体の性別が一致しない性同一性障害との診断を受け、女性か ら男性に戸籍上の性別を変更した夫が、第三者の精子を使って妻と の間に人工授精でもうけた子を、法務省は「嫡出子(ちゃくしゅつ し)とは認めない」との見解を示した。全国で6件の出産例を把 握、非嫡出子(婚外子)として届けるよう指示した。だが、同じ人工授精でも夫が生来の男性の場合は嫡出子として受理しており、 「法の下の平等に反する」との指摘が出ている。
性同一性障害者が自ら望む性別を選べるよう、2004年に施行された特例法に基づき、兵庫県宍粟(しそう)市在住の自営業Aさ ん(27)が戸籍を「女」から「男」に変更したのは08年3月。
翌月、妻(28)と結婚した。男性としての生殖能力はないため実 弟から精子提供を受け、妻が体内受精で昨年11月に男児を出産した。
市役所に「嫡出子」として出生届を出そうとしたところ、宍粟市 はAさんの性別変更を理由に受理を保留。法務省の判断を受け、今月12日までに「非嫡出子」と書き改めて届け出るよう、昨年末に Aさんに通知した。嫡出子は、法律上の婚姻関係にある夫婦から生
まれた子。非嫡出子となれば、戸籍に父親の名は記載されない。
嫡出子と認めない理由について、法務省は朝日新聞の取材に「特 例法は生物学的な性まで変更するものではなく、生物学的な親子関 係の形成まで想定していない」と文書で回答。出生届を出す窓口 で、戸籍から元は女性だったとわかるため、「遺伝的な父子関係が ないのは明らか」(民事1課)と説明している。
他人の精子を使う非配偶者間人工授精(AID)は、性同一性障 害者に限らず夫の生殖能力に問題がある場合の不妊治療として戦後 広く行われてきた。1万人以上の子が生まれたとされ、遺伝的な父 子関係がないにもかかわらず、一般的には嫡出子として受理されて いる。「窓口ではAIDの子かどうか、わからないため」(宍粟市)だ。
法務省の見解は、同じ人工授精で生まれ、同様に遺伝的な父子関 係がない子であっても、父親が生来の男性の場合と性別変更で男性 になった場合とを分けて対応する立場を明らかにしたものだ。
ただ、民法には夫が生物学的な男性であるべきだとの規定はない。特例法は性別変更後は新たな性別で民法の適用を受ける(4条)と規定している。Aさんは「男として結婚は認めたのに、父親としては認めないのはおかしい」と反発。市の求めには応じず、市が非嫡出子として手続きを進めた場合は、神戸家裁に不服申し立てをする。
■法整備、現実に追いつかず
性同一性障害を抱える人が自ら望む性別で社会生活が送れるよ う、制度化したのが特例法だった。昨年3月までに戸籍上の性別を 変更した男女は1468人。性同一性障害者はこの何倍もいるとみ られる。だが今回、法務省が示した見解は、法に基づいて性別変更 した人をなお「別扱い」にするもので、今後各地で争われる可能性 が高い。
民法は「妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する」(772条)と規定。法的に結婚した夫婦の間に生まれた子を嫡出子と定 義している。夫以外から精子の提供を受ける非配偶者間人工授精 (AID)でも、夫の同意があれば嫡出子として扱われてきたの は、そのためだ。
日本産科婦人科学会の倫理委員会は、特例法により女性から男性 に性別変更した人と妻がAIDを受けることについて「ガイドラインに抵触しない」との見方を07年に示した。学会理事長の吉村泰 典・慶応大医学部教授も「法律婚であることがAIDの要件。今回 のような夫婦に実施するのを否定する理由はない」と明言。ことは 法の受け皿の問題であるのは明らかだ。
早稲田大学の棚村政行教授(家族法)は「民法は夫について生来 の男性とは規定しておらず、特例法でも特にルールを設けていない のだから性同一性障害者を別扱いする理由はない」と指摘。
一方、学習院大学の野村豊弘教授(民法)は「民法は夫婦間の自 然生殖を前提としている。今回のケースは、生来の男性が夫である 場合の人工授精と違って夫の子ではあり得ないということが客観的に明らかなので、民法772条の嫡出子とみる『推定』は働かず、法務省のように判断するしかない」と話す。
だが、両氏とも「第三者の精子や卵子を使って生まれた子と親の 関係を決める法整備が現実に追いついていないことが今回の問題を 招いた一因だ」という点では一致している。まずは特例法で子の法 的な位置づけを明確にするなど、法整備を急ぐべきだ。(上原賢子)
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2010-01-10 10:12
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| ジェンダー / 人権 / 政治、権力 |
2010年01月08日(金)
マーク・ロスコの絵が昔から好きで、スウェーデンで画集を買って、油絵の具をかって、真似たような絵を描いていた。
今年、2009年7月19日にNHKでマーク・ロスコに関する番組があったそうで、それに関する情報が載っていた。
「亡命ユダヤ人だったロスコはニューヨークで画家の道を歩み始め、前衛的な仲間たちとシュルレアリスム風の絵画などさまざまな表現を模索していた。第二次大戦後、ロスコはついに 線も形も捨て去って色だけの絵画に到達する。
巨大な画面に赤や褐色などの少数の色が塗られただけの「ロスコ・スタイル」と呼ばれる作品たち。一切の「意味」がはぎとられ、一目みただけでは「何だこれは」と言うしかない不思議な世界である。」
意味がそぎ落とされた世界などといってたらしいが、そんな評価は僕には不要。
「何だこれは」なんてまったくおもわないなあ。
きれい。描いてみたい。すばらしいバランス。
色自体の美しさ。
色のバランス。かたちのきれいさ。
みたい。
ほーとおもえる。
すごいーとおもえる。
誰とも違う、その世界。
絵の具であの色を出そうと思ってもなかなかでなかったなあ。
美意識が近い人といい絵だねと話し合ったこともあったなあ。
徐々に色が変化するというのはとてもふしぎなことです。
描いてみるとわかります。
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2010-01-08 09:51
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| 作品 / スピリチュアリティ |
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