ニックネーム:エル・ドマドール(松田浩治)
たまごやで「学校では教えない本当の社会福祉」を書いていたエル・ドマドールだ。たまごやでの連載が終了し、これからはブログで言いたい放題言わせてもらおう。過激な主張はもとより承知。炎上上等

»くわしく見る
2013年03月20日(水)
第279回「エシック―倫理とは何か?(下)」
今回も倫理について、話をしよう。

モラルや倫理が失墜する施設とはC困難と闘えないところだ。
具体的には何と闘うのか?施設だったら、要介護者の家族だったり、地域社会だったり、もしくは利用者だったりする。
前号でも述べたが、施設が倫理を守ろうとすると、エシックや人権に対して無知蒙昧な家族や施設職員(結構無知な福祉関係者は多い)と衝突せざるを得ない事が少なくない。俺のメルマガやブログでも利用者本人から搾取しているとしか言いようがない、ろくでもない家族もいた。前号のコメントにもあったように、利用者やその家族の中にも「金を払ってんだから、何をしてもいい」と言わんばかりの傲慢な態度を取る人は実に多い。こんな連中は金が無ければ、単なる人間の屑としか言いようが無い人もいる。まあ、だからこそ福祉の世話になるのだろうが。

だが、もっと最悪なのは施設が利用者、もしくはその家族のエシックの無い欲求に屈する事だ。消費者のエゴの言いなりになるのは、お客様主義でも何でもない。自分の正義やモラルを失った奴隷だ。
福祉の名にふさわしいエシックを守るには、断固とした信念と勇気を持って戦わなければならない。例え自分が解雇になるリスクを背負ってもだ。

こんな事を言うと「解雇になるのなら、妥協も仕方がないじゃないか」と言うだろう。でも解雇を避けるためのその妥協こそ、エシック崩壊への序章だ。

勿論どの社会や組織にいても、妥協は止むを得ない。利用者やその家族、または経営者から明らかにこれはおかしいと思う要請が来る。その場で争いや諍いになるのを避けて妥協をする。だが、段々妥協を重ねると、人間は不思議なもので良心が麻痺して、違法行為も平気になる。ありもしない領収書を切ったり、いない人間を職員にして法定人員を満たしていると偽装をするようになる。

だが、そんな妥協は高い代償を君に払わせる。違法行為が発覚して逮捕される事だって有り得る。D「これ以上は譲れない」という一線を持たない、際限無き妥協は君を破滅させる。エシックを失ってしまった人たちは、その一線を放棄してしまった人たちなのだ。

何度も言うが、エシックを失くしてしまった福祉関係者には破滅しかない。恥ずかしい事に福祉業界では介護報酬の水増し、私文書偽造、虚偽申告、利用者への虐待、搾取、金品の横領、窃盗、脅迫など・・・福祉とは思えないような醜い事が起きる。だが、これらは際限なき妥協の結果なのだ。堕落した福祉施設や法人の場合、逮捕者を出す事さえある。解雇が嫌だからこそ、皆妥協する。しかし、だからと言って際限なき妥協をしていては破滅する。

じゃあ、どうすればいいんだ?こんな八方ふさがりなど理不尽だ。自分は悪くない。どうして自分だけ悪いと言われるのか。誰でも己の不幸を嘆き、自己弁護をしようとする。だが、こんな被害者意識など何の意味も無い。却って自分の悪行を省みる謙虚さを失くす。

もう解っただろうが、エシックを守り通すのは非常にタフで難しい。前回に述べたようにエシックとは何か?それを知らないといけないし、本当の意味で自分の人生観や介護観を強く持たないと誰でも堕落してしまうのだ。傲慢さや尊大さの鎧で己を守り、何でも反対するような人間が福祉業界では多いが、E自己啓発をして自分自身の倫理観(人生観、介護観)を確立しないと自分のモラルを守る事は出来ない。

福祉関係者などその虚飾を暴けば、傲慢さと偽善が服を着て歩くような人間だ。その本心を暴くとエシックなど次のように思っている。

何のために倫理は守るのか?エシックなんて守っても何の意味も無いじゃないか?

悲しいほど短絡的で安直な考えで哀れになる。利用者のため、その家族のため、組織のためなんて、己を偽る理由ではエシックは守れない。エシックを守り理由なんて一つしかない。

Fエシックを守るのは他ならぬ自分自身のためだ。エシックは時に煩わしい己を縛る鎖に見えるかもしれない。しかし、その鎖こそ悪徳の落とし穴から助かるための命綱だ。エシックは難しいと思うかもしれない。何が倫理に反しているのかは、時代によって、文化や国によって判断が分かれる。それを議論をしてもキリがない。だが、何のためにエシックを守るのか。それについては即答できるようにした方がいい。それだけは確かだ。

2013-03-20 21:53 | 記事へ | コメント(5) | トラックバック(0) |
| 倫理 |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/socialservice/trackback/157/
※ブログ管理者が承認するまで表示されません
お邪魔いたします。
『無限責任は無責任』ブロガー様の引用された言葉は正に至言と感じます。
私が思うに、福祉職はもともと明確な責任の所在が明らかでない部分があり(実際には責任の所在がどこにあるかは解りやすいのですが…)、何かあった時にはその『所在が明らかでない』『責任の所在』を執拗に追及する土壌があると思います。
冷静に俯瞰すれば『責任の所在』は『運営側』にある事は明らかなのですが、運営側というジョーカーを手にした運営側は『自身の失策を認めない』という切り札を持っていて、その切り札を取得するには、責任の所在を部下に押し付けるという、『倫理観を捨てる』しかないのだと思います(倫理を捨てる側に廻れば、倫理を捨てるのは簡単ですから)。
だからどう考えても面倒を見切れない利用者を受け入れ、当然現場が失敗し、失望した将来ある優秀なスタッフが辞めていく。
倫理観の欠落と消滅はそういうオセロの様なごく簡単な組み合わせで完成していくのでしょう。


 今回もまた現場職員の地獄が続いているようですが、それにしても正義を声高に強調する福祉で、ルールを守っても守らなくても下っ端が全自動で幹部の保身の人柱にされるとはまさしく悲劇であり喜劇ですな。
 これでは何が正しいのかがわかりやしないし、「正しい・正しくない」の判断が不能になるは当然で、ましてまっとうな職業倫理が確立するはずがない。
 どうやら福祉における「倫理」は自ら守るものではなく、きれいに言えば、人に守らせるもの。平たく言えば、弱い相手を人柱にして我が身を守る道具にすぎないようですな。
 しかしまぁ、このざまで「世間を啓蒙啓発」し、「正しい理解と支援」を求め、「利用者のために戦う」なんてよく言えたもの。
 こんなこと迂闊に信用したらどれだけの損害が出るか想像がつかないし、第一上記のスローガンを連呼している連中が正気なのか大いに疑問ですな。
 それにしても、未来を担う優秀な若人が、幹部の保身、体面維持という己が欲望のために騙され、使い捨てにされるのは見るに堪えませんし、本文にあるとおり倫理に忠実に従い、欲望塗れの幹部に足蹴にされ、ポイ捨てにされた後に残ったのが本人の正義と正気だけだとしたら虚しいことこの上ない。
 このようなことを考えるとやはり優秀な人物であればあるほどに「福祉には行くな」としか言いようがない。今の福祉にとってはこっちのほうが大問題ですな。

 しかし、福祉にとっての職員と倫理はいったい何のための存在なんですかねぇ。
2013年04月03日(水) 18:03 by エル・ドマドール(松田浩次)
>>みっくさま

確かに経営者には全ての責任があるのですが、それから平気で逃げる人ばかりですね。きちんとしたモラルがあるなら、誰でもいいと問題行動が酷い利用者を入れたりはしないでしょうね。

>>スルメイカ様

コメントありがとうございます。
確かに倫理は守らせるものになってしまっています。本当は自ら守るものなんですが。倫理とは最終的には自分のために守るべきものなのですが、近くに倫理を破って平気でいる人がいれば誰も守らなくなってしまいます。でも、そういう職場は必ず腐敗するものなのです。倫理を守らなかったつけは必ずそこの経営者が払わないといけなくなります。
2013年04月03日(水) 23:27 by ブロガー(志望)  コメント削除
お邪魔します。
 何かで「宗教は現世を厭う心から生まれる。だから現世をあまり悪いものだと思わなかった中国人は優れた宗教を生まなかった。ましてや日本人は現世最高である(だから日本人は宗教音痴)。」というのを読んだ事があります。今回のエル・ドマドール様の記事を読んで「倫理は己(自身)の堕落を恐れる心から生まれる」と思いました。となれば極端な言い方をすれば「『赤信号みんなで渡れば怖くない』日本人は倫理音痴なのではないか」とも思ったりします。「いるとばかり思っていた”みんな”がいない(いなくなった)事に気付いて始めて慌てふためく・後悔する」のかなと。
 確かに、「倫理を守らなかったツケ」を払う日は来るのでしょうが、だからこそ問題なのです。
 目にはしたくありませんが、「その時」に、福祉の「経営者」が「ツケ」の清算から逃げ回り、結果、また若人が人柱になるのは間違いない。
 あと、コメント時に記載していませんでしたが、福祉の世界では、「福祉の掟」が天下の公法(+利用者と部下の権利)を蹴飛ばしているわけで、これはまさしく無法者。
 これで「法律上の権利」なり「権利擁護」が口にできることがあらゆる意味で大問題ですが、それ以前に、福祉の世界が「福祉」の看板押し立てたら何しても許され、優先されると思っているのであれば、恐ろしいことこの上ない。
 「学びて想わざれば即ち暗し、想いて学ばざれば即ち危し」とはまさしく名言ですが、福祉の世界の皆さんはどう是非善悪の区別をつけているのかを考えると、恐ろしく思えるのは考えすぎですかな? 
 世間と同じ是非善悪の基準が、福祉の世界にまだ存在していると思いたいものです。
 ただ、今もなお、福祉の一般教養は極めて貧弱で、世間の人々との対話は存在しえない。この辺が「福祉の在りよう」の原因に思えてなりません。
コメントを記入  
お名前(必須)
 
パスワード:
 
メール:
 
URL:
 
非公開:  クッキーに保存: 
※非公開にチェックを入れると、管理者のみにコメントが届きます。
ブログの画面には表示されません。
小文字 太字 斜体 下線 取り消し線 左寄せ 中央揃え 右寄せ テキストカラー リンク