俺は福祉の世界で10年以上過ごしてきた。その間いろんな事を体験してきて今の自分のキャリアを形成してきた自負はある。だが、他人から「福祉に行きたい」と言われたら「絶対に行かないほうがいい。他の職を探せ」と言ってしまうだろう。それだけ酷い世界なのだ。
世間で言われるように福祉の職場は他の職業よりも離職率が1割ほど高い。その理由は「給料安い」「仕事がハード」だからだと言う。確かに仕事がハードなのも給料安いのも事実だし、介護職が辞めてしまう要因なのだがそれが全てではない。例え安いと言われるサラリーが他の業種と変わらない額でも離職率は改善しない。仕事がハードなのも銀行マンや宅配業者だって同じだ。ブラック企業などは離職率もかなり高い。その反面福祉職で過労死する人間はまずいない。だが、それでも言いたい。福祉には他の業界にはない負の要素がある。
他と何が違うかと言うと狂気の一言に尽きる。福祉関係者がこの業界を出ていく理由、とりわけ現場の介護職がもたないのは仕事のハードさや給料が全てではない。はっきり言おう。福祉では誰もが正気を保てないからだ。
何度も言ってきたが福祉関係者と言うのは社会常識の通用しない歪んだ人間性の持ち主が少なくない。挨拶は出来ない。自分が間違っていても認めない。仕事を平気でさぼったり、新人いじめをするなど最も大事なはずの愛情やモラルに欠けている。俺が福祉職員と聞くとこんな人々を連想してしまう。新人の時は純粋で一生懸命な人でも1年ぐらいたつと嫌がる利用者の口に食事を押し込めるようになる。純粋なモラルある人間をろくでなしに変えてしまう魔力が福祉の職場にはある。
例を挙げて説明しよう。
板野サツキは83歳の女性入居者だった。パーキンソン症候群を患っていた。彼女は頻尿のためトイレ介助が多かった。一度トイレに行く、その後10分後にトイレに行く。これで終わりかと思ったら甘い。今後は5分後に行く。30分に何度も行って尿が出るわけがない。本人は出なくても行けばいいんだろうが、介助する方は地獄だ。夜勤の場合は一人20人〜30人は最低限カバーしないといけない。一人にこれだけ拘束されると我慢強い介護者も嫌気がさしてくる。
「トイレ行きたいんですけど・・・・」とコール越しに言われて
「さっき行ったじゃないですか?!」と反応してしまう事もある。本人も好きでやっているわけじゃない。それなりの事情があると解っていても苛立つ心情は止められない。だが、難しい利用者は一人だけじゃない。
「ドロボーよ!!」
板野のトイレをやっと終わらせると他の部屋から大声が響く。駆けつけると一人の男性老人が女性の部屋にいた。その手には置時計を握っている。
「その人、泥棒よ!返しなさいよ!」
「これはわしのや!!」
時計を持って離さないのは秋田朝三。秋田は徘徊癖のある認知症老人。なまじ脚力が強いためにいろんな人の部屋に入っては物を取って来てはトラブルになる。
「秋田さん、それ返しましょうよ」
「なんでや!?」
「それは人のものですよ」
「うるさい!これはわしのや」
認知症で興奮状態の秋田から時計を奪いたければお菓子と交換するなど悪知恵を働かせればいいのにハプニング状態になるとなかなか冷静に対応できない。秋田に対応している時にナースコールが響く。
「トイレ行きたい・・・」
板野の声だ。またお前か!!!と怒鳴りたくなる。
「後で行きますから待ってて下さいね」
怒りを抑えながら返事をする。
「おかあじゃーん!!助けてぇーー」とリビングから甲高い声が響く。突然一人の老女が叫びだした。当然周りの利用者も迷惑だ。それ以上にこんな絶叫を聞かされたら周りの老人たちも興奮状態になってしまう。もはや面倒で人物設定も書く気にならないが、こんな人は珍しくない。そしてトラブルメーカーが他の眠れるトラブルメーカーを起こして施設はカオス状態になる。
今度は別の方向が騒がしい。別の老人が下半身裸で出てきた!しかもすえた匂いを漂わせて、汚物まみれになっている。
「マジかよ・・・・」泣きそうになる。
トイレに連れて行き、汚物が自分の衣服に付かないように注意しながら処理していると、またコールが鳴る。
「トイレまだですか?・・・」
板野だ。
「うっせーよ!!」思わず怒鳴ってしまった。
具体的に例を出したが、どこの介護施設でもこんな事態は有り得る。常識外のトラブルは連発すると冷静さを保つのが難しい。しかも一人二人じゃなくて何十人相手だ。施設に響く利用者の狂気の叫び声・・・何度も聞かされると正気を保てなくなる。認知症老人だからと解っていても気付かない内に自分の精神面で影響を受ける。真面目に考える人ほど、福祉施設独特のこの狂気に嫌気がさして出て行ってしまう。
こんな狂気の職場を「まるで動物園じゃないか」とブラックユーモアで笑い飛ばせるならまだ客観性を保てる。また「こんなところもう嫌だ」と退職できるならまだいい。だが、理想主義やモラル、正義感を持ち出すあまり福祉の狂気を直視しないと誰でも人間性が歪んでくる。そんな人々が歪んだ福祉観を持って組織をマネジメントする側になるのだから困ったものだ。
福祉に嫌気がさす理由は(福祉関係者は黙っているが)この「狂気」にどっぷり浸かっているためだ。高齢者虐待もこの狂気にとりつかれるからこそ起こる。この狂気は文章だけでは理解できないだろう。利用者に対して「死んでほしい」とまで思わせるそのストレスはパソコンや講演している方が長い「恵まれた福祉関係者」には到底解らないだろう。だが、この狂気を克服せずに福祉の現場で生き延びる事は出来ないのだ
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2012-02-08 01:36
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こうなるのはわかってたはずじゃないか―――
思わずこう言いたくなる。
EPA(経済連携協定)で来日したインドネシアとフィリピン人看護師たちがどんどん帰国している。日経新聞は社説でインドネシア人介護士も帰国してしまうのでは危惧を訴えていたが、いまさら何を?と言うのが正直な気持ちだ。日本人受験者なら9割は合格する看護師の国家試験だがインドネシア人看護師たちの場合は消費税ぐらいがせいぜい。これでは帰国されるのは当たり前だ。根本的なハードルが高すぎるのだ。
実はこの事は以前から警告していた。詳しくは「第104回再びフォーリナーズ」をご覧いただきたいが、問題は今度外国人介護職たちが介護福祉士試験を受けることだ。日本人でも5割は落ちるこの試験、おそらく2次試験免除を受けない限り一人でも合格できたら上出来だろう。そしてこの介護福祉士試験を不合格だった場合、文字通りの強制帰国になってしまうのだ。そもそもフィリピン政府もインドネシア政府もこんな自国民を不法移民扱いする条約によくサインしたものだ。もっともフィリピン政府上院はこの屈辱的な内容を疑問視。批准を得られるのに2年半を費やした。アロヨ大統領も当初EPAの交渉の際、日本政府が出した受け入れ人数200人という余りの少なさに激怒。猛抗議の末、看護師と介護士合計1000人に訂正させている。最初から波乱含みだったわけだ。そして今回の看護師の帰国ときたるべき介護士の帰国・・・受け入れる努力を怠った日本の責任は明らかで、どう考えても国際問題は避けられない。31年ぶりに貿易赤字に陥り、斜陽国家に近づきつつある今日この頃、恥の上塗はこれ以上避けてほしいものだ。
何度も言っているがインドネシア人介護士や看護師を試験に合格させるのは至難の業だ。
そもそも介護士や看護師としての技術以前に求められる日本語能力が高すぎる。はっきり言って努力で何とかなる問題ではない。誤解をしないで欲しいが俺は決してインドネシア人やフィリピン人たちが日本語をマスターするのが不可能と言っているわけじゃない。ただ単にわずか4年で看護師試験もしくは介護福祉士試験に合格できるほどの日本語能力は不可能に等しいと言いたいだけだ。外国人にしてみれば試験に合格する日本語力は英検1級並みに相当する。言っておくが英検1級は洋画を字幕なしで視聴できるレベルだ。合格するのには10年以上は学習歴が必要だ。そしてその上、医療や看護、福祉が解らないといけないのだ。
さすがに日本政府も問題だと思ったのか試験問題にルビをふるようだが、焼け石に水程度のアドバンテージしかない。何故か?具体的に実験してみよう。次のAとBの文章どちらが読みやすいだろうか?
(A)せいひんにはばんぜんをきしていますが、まんいちふつごうがございましたら、おてすうですがへいしゃまでごれんらくください
(B)製品には万全を期していますが、万一不都合がございましたら、お手数ですが弊社までご連絡下さい
明らかに(B)の方が読みやすい。言っておくがAとBも同じ内容だ。だが、Bの方が漢字を使っている分理解がしやすい。つまりルビを振ってくれてもその単語の意味が理解できないのであれば何の意味もない。漢字は読みにくいがその外見から意味が伝わり易い長所がある。おなじ「はな」でも鼻か花で全く意味が違う。英語でもleftは左なのかそれともleaveの過去形なのか区別がつかないなど同じ問題がある。そしてこれらの問題を克服するには努力と時間と経験しかない。たった4年では不可能なのだ。
元々英語のできるフィリピン人看護師や介護士は世界中先進国ならどこでも需要がある。4年たって合格できなければ強制送還になる日本になど誰がわざわざ行きたがるだろうか?現にフィリピン人介護士の店員500人はなかなか募集が集まらなかった。その事を踏まえ、日本政府の対応やヴィジョンの無さを非難するのは簡単だ。だが、俺はそれ以上にこんなやり方で外国人介護職や看護師を集めるのは人権上許されないと思っている。
そもそも介護職の人員不足を解消するために外国人を利用した挙句、不法滞在者扱いで国外追放するなどモラルや道徳すら無い非人道的行為ではないのか?かつて欧米国家がやっていた奴隷貿易とどこが違うのか。いやまだ奴隷貿易の方がましかもしれない。欧米国家は奴隷貿易で連れてきたアフリカ人たちを紆余曲折を経ながら最終的には自国民として受け入れた。だが、日本国は利用するだけ利用して国外追放にするのだからそれ以下だ。
日本には恥の文化があるとルース・ベネディクトが「菊と刀」で語っていたが、フィリピン人とインドネシア人への扱いを見ると恥と言う概念がこの国にはないのかと思ってしまう。もし日本人がアメリカで同じ目に遭っていたら「人種差別だ」と騒ぐだろう。障害者や高齢者、児童の人権を大事にとうんざりするほど聞かされるのにどうしてこのEPAの在り方には「人権侵害」の声は上がらないだろうか?社会福祉業界や厚生労働省の人権は日本人限定に違いない。
もし外国人介護士を定着させたければ、その方法は現在EPAでしている小手先の方法ではいけない。まず日本政府が移民受け入れを行い、日本社会に彼らを定着させる。そして日本文化が根本から根付いた彼らの子孫たちに介護を担ってもらうしかないだろう。アメリカを見ても解るように移民の受け入れにはリスクも時間もかかる。だが、それしか方法は無いのだ。
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2012-02-01 14:43
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個人情報も3回目だ。今回は(3)個人情報保護は利用者を社会から隔離させているについて語りたい。
ノーマライゼーションという言葉を聞いた事があるだろうか?ノーマライゼーションとは英語のノーマルに接尾辞の-izationをつけた言葉だ。日本語では「普遍化」と訳す。だが福祉でこの言葉を使うときには次の意味で使う。
「ノーマライゼーション」とは障害者などハンディを背負った人たちが健常者と同じような生活を送れるような政策や考え方である
まあこの言葉の是非はともかく日本ではノーマライゼーションの理念に基づき障害者が社会に進出できるように支援してきたはずだった。ところがこのノーマライゼーションの理念が近年揺らいでいる。その原因は個人情報保護法にある。ノーマライゼーションと個人情報保護はその性質上相容れない。いい例を紹介しよう。
俺がある施設に勤めていた時の事だ。
76歳の女性で時田キヨという人がいた。キヨは脳梗塞の既往があり、麻痺は殆ど無かったが軽い失語症が残った。いつも朗らかで明るく介護者達に「いつもありがとう」と失語症ながらお礼をきちんと言える人だった。元気な時は華道や茶道、日本舞踊でも指導を行い多くの弟子を抱えていた。俺はこの人格者に敬意を払い「先生」と呼んでいた。
その時田を訪ねてきた人々がいた。60代の女性が二人、かつての時田の弟子だと名乗った。ある後輩職員がこの女性2人の対応をしたのだが、俺にどう対応していいのか聞いてきた。
「別に会って貰えばいいじゃないか」
俺はぶっきらぼうにそう言った。
「でも、誰なのかぐらいは確認した方がいいんじゃないですか?会っていいのか家族にでも聞いた方が」
俺は苛立ちまぎれにこう答えた。
「確認する?先生に恥をかかせるつもりか?」
「でも松田さん、個人情報保護があるし・・・」
家族に会っていいか確認したらそれこそもっと面倒になる。不要な心配をさせるだけだ。施設に入っている老人に誰が一体何をしようと言うのだ?施設の個人情報保護は単なるパラノイア(被害妄想)じゃないのか?話しても埒があかない。
「解った。俺が対応する」
俺はまず時田の居室に行った。
「先生、お弟子さんが2名が先生をお尋ねです」
「あら、そうなの?」
そして時田を施設の玄関ホールに案内した。認知症の無い時田なら弟子が知り合いなのか判断できるだろう。弟子2名を時田の部屋に案内するよりもリスクは低い。いざとなれば責任は俺が負えばいい。
玄関ホールで懐かしの弟子にあった時田は会うなり喜びの声を上げた。
「あら?どうしたの!」
「先生、元気にしてましたか?」
どうやら弟子たちは本物だったようだ。
たかだか家族以外の面会者に会うだけでこのざまだ。施設に入居しても恩師に会いに来た弟子たち。そんな感動の再会をつまらない杓子定規で台無しにするなど本当に無粋だ。普通に考えたら解るだろうが、時田先生にわざわざ会いに来て危害を加えようとする人がいる確率は宝くじで一等を当てるより難しいだろう。だが、それでも福祉業界では個人情報保護を優先するが余りに無用なトラブルや軋轢を起こしている。何のための個人情報保護なのか、そしてこの状況では会うのは適切なのか?知的能力の低い人たちが集まる福祉業界ではこういう状況判断能力に乏しい傾向が強い。
そしてこの対応から解る事がある。彼ら福祉関係者は「利用者に満足した生活をしてほしい」と理想を躊躇いなく言うが、本心は「面倒な事は巻き込まれたくない」「責任は取りたくない」のようなエゴと保身の偽善者だ。利用者の利益など全く考えてはいないのだ。
先日ブログのコメントでも知的障害を持つ人が写真を取るのは良くてもその逆はダメだ・・・というケースがあったがこれも個人情報保護を履き違えたいい例だろう。この例からは健常者たちの思い上がりや自惚れが垣間見える。それは「障害者はそのアイデンティティーが知られるのを望まない」と考えている醜い無意識の差別意識と劣等意識だ。誰が望まないのか?福祉関係者かもしれないし、障害者の家族かもしれない。
個人情報保護によって守られるのは利用者の情報でもないし、尊厳でもない。障害者を見下す健常者の本音を暴くのが個人情報保護法なら余りにも皮肉だ。
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2012-01-25 23:30
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前回俺は現代社会では個人情報がいかに守られていないかを力説した。その共通点がコンピューター、長時間労働、思慮の無さである。特に多くの企業は事務職員を外部委託や派遣職員にしているところが多いが、個人情報を守る気は無いのか?と思ってしまう。事務職員は個人情報に最も近い場所にいる。そんな大事な部分を傭兵(派遣職員)に任していいのだろか?こんな思慮の無さがコンピューターや長時間労働もミックスされて被害が大きくなってしまう。
そして福祉業界も個人情報管理が危険なほど甘すぎる。秘密保持は昔から福祉業界では常識のはずだが、その実態は全くプライバシー保護とはかけ離れている。「個人情報保護法という法律がここでは施行されていないのか?」と思うほどだ。
先週でいかに福祉の職場が個人情報とは何か意識しないかを説明した。だがあんなもの氷山の一角だ。もっとひどい話がある。これは在宅サービスや施設のケアマネージャーたちは知られたくないだろうが、利用者や家族は知る権利がある。俺が公表しよう。
実を言うと在宅の事業所や施設、病院はお互いに利用者やその家族に黙ってケアプランやサマリー(看護情報)などを送り合っている。
例えばあるショートステイ事業所が利用者のAさんのショートステイケアプランを作るとする。その際事業所は手っ取り早くプランを作成するためにAさんを担当している居宅支援事業所にケアプランをファックスで送ってもらっている事があるのだ。勿論家族や本人には許可も得ずにだ。俺は在宅でこんな事をしている実態を知った時には「そんな事をしていいのか?」とかなり驚いたものだ。ケアプラン送るように言う方も言う方だが、送る方も送る方だ。個人情報保護どころか最低限のモラルさえないのだろうか?
ケアマネージャーたちの倫理の無さは5年ごとの更新研修の際にもはっきり解る。更新研修の時にはシュミレーションでケアプランを作るように研修所から課題が出るが、その課題ケアプランを自分の事業所に在籍している利用者のものを代用するろくでなしが多い。自分の事業所にあるPCからプリントアウトして個人名を黒塗りすれば問題ないとでも強弁したいのだろうが倫理的には大問題だ。研修所はこのような行為を黙認しているが、こんなカンニング行為は免許剥奪するべきだ。こんな外道ケアマネでさえ「利用者の自立支援は・・」など言いたがるから福祉は偽善者の世界だ。
話を元に戻そう。ケアプランなど重要でも何でも無いし、無くても介護はできるが、大事な個人情報のはずだ。例えば病院に緊急搬送された時に病院側が治療のために過去の既往歴などの情報を施設に求めるときがある。その際、本人は意識不明、家族は連絡がつかない時などは緊急性から止むを得ないかもしれない。しかし、ケアプランは緊急性も重要性も無い。無断でケアプランを送る正当な理由は全くない。ケアプランぐらい他の事業所に頼らず自分のところで作るべきだ。一歩譲って他の事業所のケアプランが必要なら口頭でもいいから家族か本人の許可を得るべきだと思う。俺がこの事で批判するといろんな反論が来る。
「早くプランを作るには必要なんだ」
「居宅同士で持ちつ持たれつだから」
など理由にならないものが多いが、それでもたまに本音が出る。
「勝手に送っても誰も損はしない」
「そもそも誰も利用者の個人情報ぐらい欲しがらない」
そう(2)福祉のお世話になる人たちの個人情報は誰も欲しがらない。は現実だ。個人情報保護が先走るあまり多くの人は大事な事を忘れている。世の中には価値のある情報とそうではない情報がある事だ。障害者や利用者の情報を最も欲しがるのは関係のある事業所ぐらいだろう。そう福祉関係者は無意識的に意識的にも「福祉のお世話になる人の情報は誰も欲しがらない」事を知っている。だからこそ福祉業界の個人情報保護は穴だらけなのだ。勝手に個人情報を送ってもお咎めが無いのも誰も文句を言わないからだ。だってそうだろう。福祉サービスを利用する人の殆どは自分で金銭のコントロールをしている訳じゃない。財産は本人以外の誰かが管理している。プライバシー保護が大事だと福祉関係者は言うが、利用者がどこの誰なのか?何の障害を持っているのか?なんて有名人でもない限り誰も興味が無い。悪いがこれが現実だ。福祉のお世話になる人の情報は社会的には無価値だ。その前提を忘れたまま福祉業界で個人情報を論じても時間の無駄だ。
そして残念な事に個人情報保護は社会と利用者との距離を遠ざけてしまっている。次週はこの事について語ろう
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2012-01-18 23:13
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近年個人情報という言葉がよく聞かれる。10年前までは身に覚えのないところからダイレクトメールや営業電話がかかってくるのが当たり前だったし、電話帳に平気で個人名が載っていた。だが、最近では得体の知れない営業電話やダイレクトメールが来る事は無い。個人情報保護法案が成立して、レンタルビデオの会員になるにも個人情報を本来の目的以外に使用しませんと言った内容の書類が添付してくる。時代は変わったものだ。
福祉でも個人情報保護法の影響は非常に強い。どこの施設や事業所でも個人情報については何らかの規定やルール、マニュアルが定まっている。それまでは福祉職員はプライバシーや情報管理などお粗末だったところは否めない。でも、それでもそれなりの秘密保持の意識はあった。そして個人情報保護法が制定してそれが強化されたはずだった。
確かにこの個人情報保護法の制定以後、ケースファイルのキャビネットに鍵をかけるようになったり、退職時には個人情報を漏らさないなどの誓約書を書かせるなど面倒な手続きが増えたのは確かだ。しかし、だからと言って法制度が整備されて個人の秘密が守られる割合は増えていない。逆に減ってしまっているのが現実だ。しかも悪い事に個人情報保護の姿勢が皮肉な事に社会と施設の壁を高くしている現実がある。
俺が体験した事例にこんなものがある。とある介護施設での事だ。
俺が用事があって介護職員の詰所に戻るとある女性利用者が来ていた。その人は歩く事が出来て、軽い認知症があるものの理解判断能力は高い人だった。詰所には女性利用者と職員数名がいてその中には上司も入って談笑していた。俺はその女性利用者を「〜さん、お話はお茶でも飲みながらリビングで伺いましょうか?」と言葉巧みに彼女を詰所から連れ出した。
俺は詰所に戻るなり、怒りを爆発させた。
「おい!一体君たちは利用者とここで何をしているんだ?なぜ利用者をつまみ出さない?」
上司もその場にいたが、構わずに注意する。上司が言い返してきた。
「松田君。つまみ出すなんて言い方は無いだろう。利用者さんがここで職員と一緒にいて何が悪いんだ?」
「はぁ?何を言っているんですか?周りを見てくださいよ。これ何ですか?全部個人情報じゃないんですか?」
詰所の壁には退院してくる利用者の診療情報、ケース記録、排便記録が剥きだしで置いてあった。俺の指摘にやっと自分の過ちに気付き始める職員たち。俺は上司に畳みかけた。
「こんなていたらくでよく会議で個人情報保護と言えますね。プライバシーの欠片もないじゃないですか」
上司はばつが悪そうに唇を噛みしめた。
よく施設が「個人情報やプライバシーを大事にしています」と言っても実際にはこんなものだ。はっきり言ってプライバシーなんて福祉施設では存在しないし、守る気もない。よく考えれば個人情報保護など今から始まった事じゃない。措置時代からずっと言われてきた事だ。それなのにどうしてこんな事が起こるのか?福祉の職場にいる人たちは知的能力に欠けた人が多くて個人情報保護とは何かよく考えないのだ。特に最近は家庭的な介護を実践するという施設が多いから本当にプライバシーに関しては危険だ。だが、この事例から導き出せる結論は3つある。
(1)施設では個人情報は全く守られていない。
(2)福祉のお世話になる人たちの個人情報は誰も欲しがらない。
(3)個人情報保護は利用者を社会から隔離させている
(1)はもしかすると「そんなことは無い。今はかなり個人情報保護法が出来てから個人情報には神経質になっている」と反論があるかもしれない。だが、事実は全く逆だ。個人情報の流失は留まるところを知らない。つい先日も弁護士会がネット掲示板に個人情報をそのまま載せていた。だが、こんなものはまだ可愛い方かもしれない。ソニーに至ってはさすがグローバル企業、7700万人の個人情報を流失させた。どうやら知的能力に欠けているのは福祉界だけではないようだ。
最も福祉界でも某有料老人ホームチェーンはノートPCを盗まれて個人情報を紛失する失態を犯している。これらの個人情報の流失に共通点がいくつかあるのに気付いただろうか?
これらの失態にはコンピューター、長時間労働、思慮の無さが絡んでいる。特にPCは顕著だ。「人間はミスを犯す。だが、馬鹿げた失敗にはコンピューターが要る」と言われるのも納得だ。長時間労働で家にデータをUSBメモリーに持ち帰り、それを紛失させてしまう・・・よくある事だが、何千枚と言う資料も数センチのUSBメモリーにまとめられてしまう。現代は個人の情報の価値はプラスティック片ぐらいの価値しかない。今回も時間が来てしまった。続きはまた次週に書こう。
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2012-01-11 23:09
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世間はいわゆる年末年始。俺はお正月ぐらい連載を休んでもいいかと考えていた。だが、どうしても書かざるを得ない。なぜなら知っていて欲しいからだ。世間ではめでたい新年でも福祉施設ではこの時期年末年始は最も危険な週間だ。
何が危険なのか?全て危険だ。
はっきり言おう。年末年始は施設では利用者が最も死ぬ確率が高くなる。
これは脅しではない。ただでさえ現在の福祉施設は職員のレベルが低く無用の怪我や事故が絶えない。それに加えて年末年始はあるリスクが加わる。そのリスクは大きく分けて3つある。
(1)職員が少なくなる
当然だが介護職員には盆や正月は無い。利用者がいる限り24時間365日いつでも出勤しなくてはならない。だが、それでも職員の数は少なくなる。平日なら9人の介護職員が年末年始は6人になるぐらいでも痛いが、事務員や看護師、幹部職員がいないのが不測の事態には堪える。例え役に立たない施設長でも家族や部外者との交渉には使えるし、責任を取ってくれるだけでもありがたいところがある。いるといないのとでは有事の時の予備力が違う。でもこれならゴールデンウィークでもお盆でも同じ条件のはずだ。なぜ年末年始が最も危険か。それは次の理由だ。
(2)正月イベントは危険が多い
正月の行事やイベントには危険な代物が少なくない。例えば初詣。寺社仏閣などは最もこの国でバリアフリー化が遅れているところだ。慣れない神社の環境では未熟な介護職員だとどんな失敗をやらかすか解らない。溝のフタの隙間に車椅子の前輪を落としてしまい抜けられなくなったぐらいならまだいい。(溝のフタの隙間は前輪を持ち上げるか、斜めに横切るのが鉄則)下手すると砂利の上でバランスを崩し車椅子ごと転倒させてしまう事すらあり得る。手すりもない階段を上がる最中に転倒させた例もある。危険なのは神社だけじゃない。初詣に行っている間もただでさえ少ない職員が減るのだから、施設の介護にも悪影響が出る。
(3)餅は殺人兵器
年末年始は必ず餅を喉に詰まらせて死亡する高齢者が続出する。早速知的障害者施設で40代の利用者が餅を喉に詰めて死亡した。文字通り餅を食べるのは本当に命がけだ。当然高齢者の健康を知り尽くしている老人福祉施設は完璧に対策を練っていると思うかもしれない。だが、それは全く違う。ニュースにはなっていないが、高齢者施設でも餅による窒息事故は実際起きている。
どうして高齢者施設でそんな事故が起きるのか?答えは単純。何の対策も用意していないからだ。遺族にとれば許せないだろうが、餅が嚥下に危険すぎる事は知っているのにも関わらず「自分のところは(技術が高いから)大丈夫だろう」と何の根拠もなく漠然と餅を与え窒息させる馬鹿施設が後を絶たない。では餅に対する窒息対策はと言えば・・・はっきり言って無い。
餅の窒息に対して有効な対策はない。餅には勝てない
餅は本当に厄介だ。小さく刻んでも他の餅とべたべたくっついて、口腔内にへばりつく。窒息に気がついても痰用の吸引機ではパワーが弱くて吸収できない。呼吸が停止すれば長くて10分ぐらいで死亡するため救急車でも間に合わない。ハイムリック法(背中に回り腹部を締め上げて吐き出させる)だろうが、タッピング(背中を叩く)など全く効果ない。餅に比べたらこんにゃくゼリーなど楽なものだ。
唯一掃除機に吸引ノズルを取りつける方法が有効だが、それさえ知らない施設もあるのだ。介護者の立場から言わせて貰えば「頼むから餅だけは止めて欲しい」のが本音だ。利用者は餅が食えて満足でも死亡させるリスクを背負わされる介護者はたまったものじゃない。
唯一の対策はもう餅を食べない事しかない。ぜんざいに餅ではなく代わりに白玉団子を入れる施設もある。きちんと利用者をモニターできる自信がないなら餅を提供しないのも消極的だが悪い対策ではない。でもなぜか介護施設はそれさえしない施設もある。「利用者の命預かっている」と偉そうに使命感に燃える施設は多いが、実際やっている事はこんなものだ。施設がこんな体たらくなので家族の方は年末年始は出来る限り家庭で外泊させた方がいいかもしれない。勿論餅は控えた方がいいが。
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2012-01-04 21:37
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2週に渡って社会福祉法人がいかに間違ったコストカットをしているのか説明してきた。今週は本当に正しいコストカットとは何かを伝えたい。
よく「家庭での介護の雰囲気を出すため」と言って私服で介護させる施設が最近よく見かける。特にグループホーム系にその類の施設が多い。俺もそういう施設で働いた事があるが、その本音は制服代を節約したい以外の何物でもない。
そもそも介護施設で制服じゃなく私服で介護するなどプロとしては有り得ない。「家庭的な介護」などプロとしての責任放棄でしかない。家庭的な介護がしたいならプロは不要だ。ジーンズで介護をするなど危険極まりない介護の自覚に著しく欠けていると言わざるを得ない。詳しくは言及しないが、私服介護はコストカットどころか物心両面でリスクを増やすだけだと覚えておいて欲しい。
冷暖房の制限をする施設は実に多い。勿論要介護者の高齢者の多くは冷房に弱いためある程度結果的に冷房の設定温度を高くするのは止むを得ない。だが、エアコンの節約などコストを下げる手段としては全くのナンセンスだと言っていい。こう聞けば驚く人が多いが本当の事だ。よく節電ブームだった今年は年間で「20万下げられた」と節電の効果があたかも金額に換算されているが、はっきり言ってこれは無意味だ。だってそうだろう。電気代がいくらになったかなんて意味がない。原油価格が1バレル130ドルの時と80ドルの時では当然電気代は大きく差が出る。今年のように原発が電力供給できないときも電気代の単価は急上昇する。天然ガスや石炭の価格が急騰すればその影響も受ける。何キロワット節電できたかで考えるならまだしも何万円節約できたかで節電できたか考えるなど愚の骨頂だ。
電力使用量の少ない家庭ならまだしも、電力使用量の莫大な大きな組織では数字に踊らされるだけだ。例え電力使用量を2割減らしても、単価が3割上がれば前年よりも高くなってしまう。どれだけ努力しても原油価格などのどうにもならない要素で価格は決まってしまう。金額を見て「電気代が高い。もっと節約しろ」と必ず経営者は言うが、現場はどれだけ頑張っても電力相場には勝てない。お互いがお互いを信用しなくなる悪循環を招きやすいのだ。
給料を下げるのも派遣社員を使うのもそして成果主義の導入も人件費削減が目的なのは同じだ。露骨に給料を下げるとただでさえ職員が足りない福祉現場はもっと退職者が増えてしまう。そこで派遣社員を使う。だが、派遣社員については第109回「マーセナリー(上)」、第110回「マーセナリー(下)」でも説明したように、彼らは組織を破滅に追い込むシロアリだ。更に派遣にはこんな制約がある。08年の派遣切りが批判されたため3年ルールが決められた。3年ルールとは派遣社員を3年以上雇用した場合、正社員として雇用しなければならないということだ。つまり人件費を増やしたくない場合、2年11カ月で契約を打ち切るしかない。だが、最初から首を切られる事が前提で誰が希望を持って働くだろうか?
成果主義の導入もその評価をする時間だって貴重な労働時間だ。そして面談して職員に説明する時間だってコストの内だ。この時間を介護に使えばいいのにと思うぐらい評価は時間(金)がかかる。そして評価された側がその評価に納得しない場合はもっと事態が面倒になる。最悪の場合、成果主義は退職者と公私混同を増やすだけかもしれない。
古いPCの使用を強要するのもナンセンスだ。諸君もパソコンを持っているなら分かるようにPCの世界は日進月歩だ。同じ値段で性能は桁違いに進歩する。ここまで言えば賢明な諸君なら理由は分かるだろう。
最後に本当に正しいコストカット方法を教えよう。
本当に正しく最も安全なコストカット、それは従業員を辞めさせない事だ。だってそうだろう。採用なんてアイ×ムに載せるだけで数万円+1か月かかる。面接や書類審査、採用後の教育期間も含めると一人100万近いコストが必要になる。10数人辞められたら単純計算しても1000万以上かかる。俺があらゆる節約が無駄だという最大の理由はこれだ。ちまちました節約などただでさえストレスに苦しむ職員を更に追い打ちしてしまう。馬鹿げたコストカットを強要して従業員を退職に追い込むぐらいなら、離職率を減らす努力をした方が合理的ではないか。
単純な事だがそれさえ気付かない経営者やリーダーがこの世には多すぎる。合理性と数字を追求すれば9割方のコストカットは意味がない。とりわけ離職率が3割近い福祉職では離職を防ぐことほど大事なコストカットは無い。
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2011-12-28 22:57
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先週福祉施設での馬鹿げたコストカット政策の一部を事例で紹介した。福祉施設はその性質上どうしても経営が苦しくなる。だが他にも無駄なコストカット政策はまだある。それを紹介しよう。
・コピー用紙の裏紙活用
・蛍光灯を間引きする
・残業代を払わない
・文具用品の支給を渋る
・制服を支給せずに私服で介護させる
・冷暖房を厳しく制限する
・給料を下げる
・派遣職員を雇う
・成果主義の導入
・古いPCを使わせる
他にもあるだろうが、こんなものだろう。この中であてはまる個所が多い施設はかなりのダメ施設だ。
なぜか?まずはコピー用紙の裏紙活用。エコロジーだとも言われているが、紙の使用を控えたところで地球環境には何の意味もない。なんせ紙はパルプから作るよりリサイクルする方が石油を2倍以上消費する。詳しくは武田邦彦氏の「環境問題はなぜウソがまかり通るのか3」を読んでほしい。
勿論福祉現場でも紙の裏紙活用は全くのナンセンス。裏紙活用するとどっちの面が必要なのかそれとも不要なのか区別が付かなくなり、書類の整理に大いに支障をきたす。馬鹿な施設の中にはケアプランや重要な文書まで裏紙に印刷して、誤ってシュレッダーで裁断してしまった事もある。それを防ぐために不要な面には大きな×印を付ける工夫をしているが、それなら最初から綺麗なコピー紙を使えばいい。
他にも裏紙使用は危険な事がある。それは高い確率でコピー機を痛めてしまうことだ。裏紙には当然インクがついている。安いプリンターだと紙に付いた余分なインクが原因で絡みついてプリントアウトしてこない・・・っていう失敗をした事は誰でもあるだろう。こんな事を高価なコピー機でやってしまったらもう目も当てられない。コピー機を絡ませると処理にいちいち時間がかかるし、しかも何度もやると癖になってしまう。前回同様時給900円の職員が6回コピー機を絡ませたとする。1回の処理に10分かかるとしたら6回で1時間。900円の損失だ。もっと酷い事にコピー機を故障させたら・・・数万円の修理代が必要になる。新品のコピー用紙なんて5000枚で3000円弱ではないか。どっちが得か言うまでもない。失敗したコピー用紙の裏紙はメモ用紙にするのが一番ベストだ。
蛍光灯の間引きもしているところは多い。特に東大日本震災以降節電と称して非常に増えた。関西の方でも節電と言って蛍光灯をよく間引きしていたが馬鹿丸出しの愚行以外の何物でもない。詳しくは電機メーカーに聞いてほしいが、2本しかない蛍光灯を一本間引いても必要電力が半分になる事は絶対ない。それどころか間引いた時の方が電力が上がる事さえある。それどころか蛍光灯の間引きは介護施設では深刻な問題を起こす可能性もある。要介護状態の人の中には視力が弱い人が少なくない。利用者によっては弱視の人は少なくない。明るさがないと誤って転倒したりする事がある。まあ福祉業界は偽善者の集まりだから利用者よりも電気代の方が大事だと思っているのかもしれない。だがその電気代さえ節約できていない、利用者には怪我をするリスクを負わせている。そして従業員には起きてほしくないトラブルのリスクを背負わせる。前回と同じだが、本当にまともな知性が働かないのは痛すぎる。
残業代を払わないなどかつてのメルマガでも話題にしたが(第101回)、労働基準監督署の監査を食らえばサービス残業がどれだけ恐ろしいものか否が応でも実感するだろう。今は弁護士でも簡単に食えない時代だ。消費者金融から過払い金がもう取れないため、彼らのターゲットは未払い金に変わりつつある。従業員に労基署に駆け込まれる前に素直に残業代払った方が賢明だ。
文具用品や制服を支給したがらないのはよくコストカットで使われる手段だ。文具用品は稟議書を通すように要求するなど嫌がらせとしか思えない規定を定める施設まである。煩雑な手続きに嫌気がさした職員の中には自分で文具を買ってくるようになる人もいる。馬鹿施設の中にはそれを狙ってそういう理不尽なルールを制定しているところもある。だがこんなせこい締め付けは痛すぎる報いを招く。
今回も時間が無く途中になってしまった。次回は正しいコストカット策を提案しよう
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2011-12-21 23:21
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今回はダウンサイジングについて語ろう。ダウンサイジングとは英語で綴ればdownsizing。これは元々「〜を小型化する」という意味だが、婉曲的に経費削減、もっと言えば人員削減やリストラを意味するようになった。リストラでさえ元々再構築という意味だったが首切りのイメージが定着したために代わりにこの言葉が使われる事が少なくない。
当然福祉にもダウンサイジングはある。勿論ただでさえ人材不足の福祉業界が首切りなんて出来るわけがないが、経費節減はしようとする。だが皮肉なことに現在福祉はそんなに経済的に苦しい状況ではない。いわゆる職員1人当たり1万円以上の処遇改善金という名の補助金のおかげだ。だが、内部留保が一施設平均3億円以上あるのでは処遇改善金が打ち切られるのは時間の問題だろう。介護保険財政が赤字なだ。内部留保がありながら更なる保険料の値上げは世論の理解を得られないに違いない。
削られるのは処遇改善金だけじゃない。今後介護保険財政が赤字なら今度は介護報酬も減額も避けられないだろう。なんせ日本の財政は世界でも最悪の水準なのを忘れてはいけない。将来社会福祉界ではダウンサイジングの嵐が吹き荒れるだろう。
元々福祉は儲からないためコスト削減の意識が非常に強いところがあった。だがそのコストカットもやり方がまずいと逆にコストが増大するという皮肉極まりない結果になる事さえあるのだ。例をもってそれを説明しよう。
以前勤めていた施設にこんな事があった。
介護施設に勤めている人なら誰でもわかるだろうが、施設には排せつ介助というものがある。トイレに連れて行ったり、オムツを交換したりするのだが、その時に清拭タオルなるもので汚れた陰部を拭く。俺が勤めていた施設ではその清拭タオルがよく紛失するので困っていた。余りにも清拭タオルが無くなるため、業を煮やした上層部はある日こんな事を言いだした。
「今度からオムツ交換が終わったら清拭タオルを数えること。最初にあった数と合わないときは見つかるまで探すこと」
大変なのは職員の方だ。オムツ交換が終わっても「やっと終わった」と心休まるばかりか便や尿で汚れたバケツの中をいじくりまわしてタオルの数を数えなければならない。しかも数が合わないとゴミ箱や利用者の居室まで戻って確かめて来ないといけなくなった。同僚たちの反応は様々だった。真面目に数を数えようと思う者。面倒な事になったとストレスを感じている者。どちらにしろ嫌だがやらなければならないと諦念していた。
だが、俺だけは違った。俺はこの命令を聞くなりこう言い切った。
「主任、それは全く割に合わないですよ。ナンセンスとしか言いようがないです」
「なっ、何ですって!!どういう事よ!松田さん」
「理論的に考えればすぐにわかる事ですよ」
本当はこの後に「こんなこと言いだすから福祉は他所では通用しない奴の集まりだと馬鹿にされるんだ」と言いたいがそれはさすがに口にはしなかった。
だがこんなものナンセンス以外の何物でもない。だってそれはそうだろう。清拭タオルなんて元々普通のタオルなんだから一枚50円かそこらだろう。それを足りなくなったから探すとなるとオムツ交換に関わった職員3,4人を10数分拘束する事になる。ヘルパー一人当たりの時給が大体900円(本来は社会保険料なども含めるともっと増える)しても割が合わない。
職員3人で清拭タオルが1枚足りない事に気づいて10分間探したとする。
900円(職員の時給)×1/6(10分)×3(人数)=450
清拭タオルが50円だとするとこの時点で9枚以上失くさないと探す価値は無い事になる。でも失くすのは1回の排せつ介助でせいぜい1枚か2枚、多くても3枚くらいだった。9枚以上失くすシチュエーションなど有り得なかった。
つまり従業員に汚れたタオルを探させる時間給コストよりも失くしたら新しい清拭タオルを買った方が安上がりだ。銀行でも同じように収支が合わないと何度も清算を合うまでやらせるが、同じ理由で時間とお金の無駄の見本だ。介護保険という税金に頼る福祉施設と破たんしても税金で救済してもらえる銀行ではこんな無駄をやる余裕があるのかもしれない。
俺は以上の理論を用いておそらく3ケタのIQの持ち主なら理解できるように説明したつもりだった。だが感情論が先立つのか理解力が無いのか、それともその頃非常勤だった俺が気に食わないのか上司は俺の提案を突っぱねた。その後も無駄なコストをかけての清拭タオル探しは続いた。
どうして理性的に考えればこんな馬鹿げたことをするのか?理由は2つ。まず福祉関係者は知性を大事にしない人が集中するからだ。もう一つは職員のモラルを根本的に信用していないからだ。職員は厳しく注意しないと会社や法人を大事にしない。会社の費用を湯水のように使うと思い込む傾向がどこの法人の上層部にも多い。だがこんなもの下らない思い上がりに他ならない。
次回もダウンサイジングについて語ろう。
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2011-12-14 01:15
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経験1年という短い期間でリーダーに抜擢された森遥子。その急な抜擢は施設内に不和と緊張をもたらしていた。だが、遥子の受難はこれで終わりではなかった。
遥子は元々自信過剰に振舞うタイプではない。どちらかと言うと謙虚で慎み深い方だ。それでも前回の田中と樋口の中傷は遥子の自信と尊厳を奪うのに十分だった。それまで遥子は抜擢された自分の評判を全く知らないわけじゃなかった。陰口を言われているのは何となくは察知していた。仲のいい同僚が情報提供してくれたこともある。しかし、間接的に聞くのと比べ直接的に悪意のある批判を聞かされるのは精神的に堪えた。笑顔を絶やさず朗らかに働いていた遥子の表情に暗さが見え始めていた。ストレスから以前には無かった不正出血に悩まされるようになったし、腕には湿疹が出て痒みのため腕をかきむしることがあった。
「よう。リーダーになってどうだい?」
リーダーになって一カ月が経つ頃、同僚に声をかけてきた。彼の名前は江藤陽一、この世界で10年のキャリアを持つベテラン介護職員だった。遥子がリーダーになる時に唯一「おめでとう」と祝福してくれたのは彼だけだった。
「まあまあだと思うけど・・・」
「そうか。ちょっと話があるんだ」
「何ですか?忙しいんですけど」
笑顔で振舞うのが1か月前まで当たり前だった遥子に似合わない無愛想な声だった。
「ご機嫌よくないようだねぇ。時間は取らねえよ。少し俺に付き合え」
警戒しながらも遥子は江藤と2人きりになれるところに行った。
「時間が無いから、簡単に言うぞ。森さん。申し訳ないんだが、君には介護の技術で致命的な欠陥がある」
「けっ、欠陥って!!」
「いろいろ皆に言われてんだろ?できればこれはリーダーになる前に修正しておくべきだったけどさ、今からでも遅くない。特にパット交換のやり方とか君が新人の頃教育した人間もきちんと教えていないと思うんだ」
自分の技術的な欠陥があるのは何となくだが自覚はしていた。だが、なんて失礼な言い方なんだ。遥子は怒りをこみあげてくるのを抑えきれなかった。
「余計なお世話ですよ!自分の事はきちんとしますから結構です」
「気分を害したのは謝るが、今のうちにきちんと直した方がいい。俺が教えるからー」
江藤が言いきらない内に遥子は口を挟んだ。
「いいです!!自分できちんと直します」
「自分じゃ直らないぞ。きちんと実践で指導を受けた方がいい。現に今もできてないとこがそのままじゃー」
「10年経験あっても出世できないアンタに言われたくないわよ!」
今度は江藤が眉間にしわを寄せる。江藤はその経験と知識から誰もが一目置く存在だった。だが問題発言が多いことから上司には嫌われ冷や飯を食わされていた。
とんでもない事を言ってしまったかもしれない。遥子は勢いでの発言を後悔した。だが江藤は静かに言った。
「分かった。もういい」
江藤の館内PHSから電子音が響いた。
「おっとコールか。行くわ。じゃあな」
ここも遥子の運命を決める選択だった。江藤は遥子のためを思いアドバイスを申し出た。ところ裏切りと陰謀に傷ついた今の遥子は自分に不快な事を言うものは何でも敵だと言う被害妄想と猜疑心に取りつかれていた。最もアドバイスを必要とする者に限ってアドバイスを聞かないものだ。
よく地位が人を成長させると良く言われるが、それはドラマや小説の話だ。管理職になる事自体は決して人を成長させない。だが、皮肉な事にどんな人間でも出世すれば傲慢さや驕りが必ず出てくる。遥子も例外じゃなかった。謙虚で素直だった彼女は変わってしまったのだ。
遥子に悪夢の時間が訪れる。夕食後ある寝たきりの利用者をベッドに臥床(寝かせる)させた後、その利用者が床に落下していた。臥床させたのは遥子だった。寝たきりの利用者でも全く動かないわけではない。臥床させた後は利用者がベッド下に落ちる事が無いように十分に壁側に押し込むべきなのに非力な遥子はそれができなかったのだ。気を付ければ防げた事故だった。落ちた利用者に怪我は無かったが、遥子には痛すぎる失態だった。
遥子は施設長と主任に呼ばれた。
「リーダーがこんな無様な事を起こしては困るよ」
「すいません。私がうかつでした」
遥子がうなだれる。主任が追い打ちをする。
「森さんには他の職員からもパット交換が雑すぎるて失禁の原因になっていると苦情が来ているんだ。今まで黙っていたけど、改善が見られないよ」
遥子が苦悶の表情を浮かべる。前に江藤に言われた事が今になって身にしみる。
「オムツ交換ぐらいは基本中の基本だろ?どうしてそれができないままだったの?」
その基本中の基本ができない奴をリーダーに抜擢したのはどこの誰だ?遥子は心の中で施設長を呪った。
「ここまで技術的にダメだとは思わなかったけどさ、高宮君もその点はどうなの?」
「いやぁ。。。僕はちゃんと指導したつもりだったんですけど。まさかここまでとは」
自分の保身に走る高宮。遥子をリーダーに抜擢した施設長と高宮も失望と恐怖を隠せなかった。今回の事故で遥子を抜擢した自分たちも職員の批判にさらされているのだ。数か月前には猫なで声でリーダーになれと言ってきたくせに立場がまずくなると責任から逃げる。こんな卑怯者たちにそそのかされてこんな重責をわざわざ背負ったのかと思うと自分の至らなさが許せなかった。
「そんなに私が出来ないと責めるならリーダーから降りてもいいですよ。いい加減責任は増えるばかりだし、皆からはいろいろ言われるし、やってられないです」
遥子は開き直った。我慢の限界だった。
「まあまあ、我々は辞めてほしいわけじゃないよ。ただそういう意見があるというだけだよ。そうだろ?高宮君?」
「そうそう。短絡的に辞めるなんて言わなくても・・」
高宮と施設長にとって遥子に降格されたらそれこそ自分たちの判断ミスを認めるのと同じだ。だから遥子に降格されるわけにはいかなかった。だが、遥子にはもうリーダー職は耐えられなかった。怠けているわけじゃない。一生懸命やっている。でも給料も報われないし、皆の批判にさらされる。不正出血など体調だって悪くなる。恋人との口論も増え、別れる羽目になった。何のためにこんなことしているんだろう。仕事に行く日はいつも憂鬱でベッドから出るのもしんどい。もう耐えられない。1週間後、遥子は辞表を提出した。
遥子は燃え尽き症候群に陥った状態だったと言える。抜擢された上司としてはあまりにも力量不足だった。他にも器じゃなくても上司になる人間は多い。だが遥子は真面目で物事を真剣に考えるためこのような状態になってしまったのだ。厚顔な人なら、役者不足で昇進してそのまま居座る上司もいる。だがそんな現実逃避の代償は破滅しかない。しかもその被害は遥子の場合よりも甚大になる。
何度も言うが遥子がオファーを受けた時に考えるべきは「自分はこの役が務まる器だろうか?」という自問だったのだ。だが、昇進を目の前にすると誰もが冷静な判断を失ってしまうのだ。
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2011-12-07 20:48
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先週俺は抜擢された上司は必ず周囲の嫉妬や妨害などの悪意にさいなまれる事を強調した。今回は俺が見てきた具体例をもとに抜擢された上司がどんな目にあうのか具体例で説明しよう。これは本当にあった話を少し加工している。
とある有料老人ホームでの話だ。森遥子は27歳の女性。この施設に入る前はごくごく普通の事務職をしていた。そこを退職して職探しをしている時、たまたま無資格でも働ける有料老人ホームを見つけ、応募して採用された。それからというものの遥子はただ夢中で働いていた。
そろそろ1年がたち介護にも自信が出てきたある日、遥子は施設長に呼ばれる。応接室に行くと施設長と主任が待っていた。呼ばれる覚えはない遥子はどんな話がされるのかと不安な面持ちでソファに座った。
「わざわざ来てもらって悪いね。森さんはここで働いてどのくらいになる?」
施設長が無理やり気味の悪い笑顔を作りながら遥子に尋ねた。
「確か・・・1年過ぎぐらいだと思いますけど・・」
「そうだね。どう1年働いてみた感想は?」
「た、大変ですけど、みっ皆さんのおかげで何とか足引っ張りながらがんばれてるかなと・・・」
遥子は失言しないように言葉を選びながら応えた。その様子を見た主任が助け船を出す。
「森さん、別に君にお説教したいために呼んだんじゃないよ。もう少しリラックスしよう」
「そうそう。今回君を呼んだのは他でもない。君にしてもらいた仕事があるんだ」
「えっ?してもらいたい仕事って?」
「本来ここにいる主任の高宮君の下にリーダーがいるんだけどさ。君も知っての通り辞めて空席になっているんだ。それを君にやってもらいたいんだ」
思わぬオファーに遥子は驚く。
「そんな!私はまだ1年ですよ。無理ですよ!絶対無理無理。ヘルパー2級も持っていないんです」
「ヘルパーはこれから取ってくれればいいじゃないか。資格を取るための費用は施設が援助するよ」
「それはありがたいですけど、皆が何て言うか・・」
「君が1年しかないのは僕たちもよくわかっているよ。でも君ならここでリーダーとしてここの雰囲気を変えられると僕たちは思っているんだ。理事長がぜひ君にと言うんだ。最初は勉強だと思ってやってくれればいい。勿論できないところは僕やここにいる主任がフォローする。そうだろ?高宮君?」
「は、はい。勿論ですよ」
主任の高宮の返答は不意を突かれたせいもあるが、逡巡を窺えるものだった。実を言うと森遥子をリーダーにすると言いだしたのはこの法人のオーナーでもあり理事長だった。美人で快活、若くてフレッシュ、笑顔で挨拶する遥子が気に入った理事長は彼女をリーダーにするように施設長に指示した。施設長は訳も分からず「それは名案ですね」と理事長にゴマをすったが、現場に近い高宮主任はためらいを感じていた。
遥子は確かに出来がいいが、なんせまだ1年だ。しかも無資格。周り(同僚)が納得するだろうか?ヘルパーを取る費用を援助するなんて聞いたことが無い。そんなえこひいきをしたら他の職員が黙ってないぞ。だいたい爽やかでにこやかならリーダーになれるってどうなのよ?
様々な懸念が高宮の頭によぎるが、凡庸で保身が命の彼はこの決定に反対しなかった。その裏には遥子の経験と能力なら自分の立場を脅かさないという打算もある。高宮はひきつりながら言葉を続ける。
「まあ、ためらうのは分かるけどさ、僕もできるだけの事をするからさ。やってみたらいいんじゃないかな?」
遥子を抜擢したのは単なる理事長の独断だった。現場を知らない人間が大事な介護現場のリーダーを決めるなど許される事じゃない。どこかの某球団の内紛を思わせるようだが、あのような非常識な「鶴の一声」など社会福祉の世界では珍しくない。ただ前GMのように公然と批判する勇気のある人間はまずいない。社会福祉法人を名乗っていても意識は個人商店と変わらないのが、福祉の世界なのだ。
森遥子はリーダーになった。1年での抜擢、しかも無資格者は今まで前例が無かった。勿論ヘルパー2級はすぐに取りに行けれるが、同僚に与えた衝撃はとても治まるものではなかった。これが辞めるまで遥子を苦しめる。
遥子はかつて誰からも好かれる女性だったが、リーダーになって以降居心地の悪さを感じ始めた。誰も遥子と以前のように気軽に親しげに話しかけて来なくなった。リーダーになっても誰もその話題に触れようとしない。皆がよそよそしくなった。遥子は言いようのない孤独感を感じた。
リーダーになって業務は倍増した。前職でパソコン作業や事務作業ができると思っていたが、使っているソフトなどが違い思わぬ苦戦を強いられた。それにも関わらず人員不足気味の介護現場では遥子も介護をしなければならない。リーダーになってから新人教育もやらされるようになった。やっと介護の業務が終わった後に会議のレジュメや議事録の作成に取りかかり、終わるのが夜の12時近くになる事もあった。主任の高宮は「できないところはフォローする」と言っていたが自分も激務で遥子を助けるどころじゃない。遥子は裏切られた気分になった。
だが遥子の受難はもっとひどくなるばかりだった。遥子が入浴介助後に風呂を洗っていると裏側の喫煙室から男女の会話が聞こえてきた。
「やってられねえよ。なんで1年しかない奴がリーダーなんて有り得ない。俺はもうやる気が無いよ」
会話が自分の事を指していると察した遥子は思わず黙って聴き耳を立てた。
「そうよね。田中君の気持ちは解るよね」
「樋口さんだってリーダーになりたかったんだろ?」
「そんなことはないわよ」と樋口は否定したが陰口を続けた。「でもねこんな何の実績のない子がリーダーになるなんてそんな人事は不公平よね」
「笑顔で爽やかでも介護は大したことないじゃないか。技術面は雑だしさ。どうやったらリーダーになれるんだ?」
田中が憎しみをこめて続ける。それに樋口が応じる。
「そりゃ、森さんのあの笑顔ですり寄ってこられたら誰でもイチコロじゃない?理事長でもさ。」
悪意の込められた陰口に耐えきれなくなった遥子はその場を立ち去った。トイレに籠り、声を立てずに涙を流した。
思ったよりも長丁場になりそうだ。
この続きは次週続きを書こう。
ところで森遥子の受難の分かれ道はどこだかわかるだろうか?それは彼女がリーダーを引き受けてしまったところだ。結果論から言ってしまうと彼女はオファーを断るべきだった。最初「私には絶対無理です」と拒絶しても結局遥子は引き受けてしまう。何度も上司に説得されて権力欲とエゴがくすぐられて引き受けてしまったのだ。
人事の誘惑は悪魔的な魅力が取りつく。それは誰もが抗えないほど人間の正常な判断能力を奪ってしまう。人間謙虚さは美徳だと言う。でも一皮剥けば人間なんて何の根拠もなく自分が偉いと思い込むエゴと傲慢さの塊だ。厳しく言えば遥子は自分の中にある身分不相応な自己顕示欲を突かれてしまったのだ。
また遥子はどうして自分にリーダーをオファーされたのか考えてみるべきだった。それは理事長の専横と言えばそうまでだが、ではなぜ施設長や主任は反対しなかったのか?そこにはいろんなエゴや陰謀が含まれている。遥子がリーダーなら施設は「若くても能力があれば昇進できる」と施設のイメージアップに役立つというのもある。しかし、最も大きいのは施設長と主任にとって森遥子は能力的に凡庸で自分たちを脅かす存在ではなかったからだ。残酷だが人事にはそういうエゴが含まれる事が大なり小なりある。役者不足で身分不相応な地位は必ず破滅を招く。それは森遥子だけじゃなく首相など政治家でも同じことが言える。
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2011-11-30 23:42
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時々俺はこんなことを聞かれる事がある。
「いい施設とはどんな施設ですか?」
いろいろ見極めるべきポイントはあるのだが、そのうちの一つがこれだ。
「あまりにも若い管理職がいる施設はダメでしょうね」
こんなことを言うとあまりにも俺らしくない保守的発言に驚かれる人が多いが、俺は勿論本心で言っている。具体的に言えば20代の部署長、30代の施設長が跋扈する施設ははっきり言って入所するべきじゃない。あまりにも危険すぎる。これは偏見でも何でもない。その理由はこれから十分すぎるほど説明しよう。
施設の善し悪しを測るにバリアフリー設備などハードウェアももちろん大事なのだが、それ以上に大事なのは介護する人間なのだ。そのヘルパーたちをまとめる主任やリーダー達が20代の若者である事は非常に組織の根幹が問われる問題なのだ。こんなことを言うと俺がまるで年功主義を後生大事にする時代遅れの人間のように思う人もいるだろう。確かに10何年の経験があっても、介護者のセンスが無い人も多い。だが、俺は福祉に限っては年功序列はそんなに悪くないとさえ思っている。
その理由の一つはこれだ。
介護には経験が大事だ
身も蓋もないがこれは本当の事だ。大体管理職をこなせるぐらいの介護職員を育てるのに何年かかるか解るだろうか?俺に言わせれば40人ユニット一つまとめられる介護職員を育てるのに大体10年かかる。しかも400人ぐらいのケースを見ないと介護の全体像は見えてこない。俺も自分が介護職員として自信と能力が一致するようになってきたのは10年目あたりくらいだ。しかも老人介護なら老人だけではなく、知的障害者や身体障害者、病院など様々な分野の福祉を体験した方が絶対ベターだ。勿論何年たっても経験を能力に換えられない無能な職員もいるが。
一人前の職員を育てるのに10年かかると言うと、驚かれるか反発されるかのどちらかだが、そもそも介護は多種多様な経験と能力が要求されるシビアで高レベルの職業だ。介護の知識は当たり前だが、医療でも医師や看護師を凌駕できるほどの知識が必要だ。そして16時間以上勤務のできる体力とボケ老人を怒鳴り散らすのを我慢するメンタルコントロール。もっと言えば相手の状態や言いたい事を掴む秀でた観察力、利用者の将来起こりえるトラブルを予想する洞察力。家族など外部の人間と交渉するネゴシエーション能力。ケース記録をきちんと書く文章作成能力や教養の高い老人の会話にも付いていけるだけの一般教養もいる。そして最近の福祉現場にはパソコンを扱える能力もないといけない。そして最も大事なのはどんな環境でも能力を発揮する柔軟性だろう。あげたらキリがないが、とにかく本来介護職員とはあらゆる能力を兼ね備えたスーパーマンであるべきなのだ。勿論実際にはそんなに優秀どころの上司はいない。現在の年収500万も行かない低待遇では誰も福祉で我慢しないだろう。でも介護者とは本来高レベルな能力を要求されるべきなのは理解してほしい。
リーダーはただ他の同僚よりも少しだけ優秀だからと言ってなれるわけじゃない。どんな職業についても結果を残せる柔軟性と総合力を兼ね備えた文字通りの超人じゃないと介護者の模範にはなれない。分数すらできないと言われるような最近の低レベルな最高学府を卒業した20代の若者には到底リーダーなど無理だ。ましてや東大やハーバード大を卒業したような頭脳明晰な若者でも介護ではリーダーシップは取れない。どれだけ頭脳が優秀でも社会に揉まれた経験が無ければ知性は実を結ばない。介護ではこのブログのタイトル同様、「学校では教えない」事こそ重要で貴重だからだ。
俺が以上どれだけ介護職での若いリーダーに懐疑的なのは十分説明できただろう。しかし一番最悪なのは序列を吹っ飛ばした抜擢だ。中途である程度社会経験がある人間でも入社して1年足らずで昇進する法人はある事はある。そんなケースを見て、公平に実力を認められた抜擢だと褒めそやされるが、そんな抜擢が有り得ること自体不安定な組織体系だと告白しているようなものだ。
どうして1年ぐらいでリーダーや主任になれるような抜擢が有り得るのか?それはこんな職場だからだ。まともな教育や人材育成が無く、職員は定着せずにすぐ辞める、職場環境が悪く故障する職員は絶えない、人間関係も悪く不信と軋轢が渦巻き笑い声は聞こえない。職員はストレスと忙しさで利用者に対しても苛立ちを隠そうともしない。つまり現在のきつい、汚い、危険、給料安いの4kの職場そのままなのだ。馬鹿な経営者はこんな環境や雰囲気を一新するのに、地道な努力よりも安直なカンフル剤を打とうとする。それがフレッシュな若者を抜擢する事なのだ。元々転職者をあまり好まない福祉の職場では集まる人材など限られている。それにも関わらずこの愚を繰り返す経営者は後を絶たない。
だが、選ばれた方は悲劇だ。己の能力を錯覚して身分不相応な大役を引き受けた報いは必ず受ける羽目になる。昇格の喜びはあっさり予期しなかった反発に打ち砕かれる。ただでさえ傲岸不遜が服を着て歩く福祉関係者はこんな抜擢をされた職員をまず歓迎しない。嫉妬、陰口、中傷、背信、不作為、妨害など様々な悪意に抜擢された上司は打ちのめされる。同僚の頃は仲良かった職員たちも距離を取り始め、針のむしろに座る孤独感にさいなまれる。それでも部下たちを屈服させられる実力があればいいが、悲しいかな大抵はそんな能力は持ち合わせていない。そして抜擢した側も新上司をフォローしたり、嫌がらせから守ろうとしない。やがて抜擢された上司はだんだん辞めていく。こうしてダメ職場は作られていくのだ。
次回は俺が体験したダメ抜擢の具体例を紹介しよう。
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2011-11-23 22:21
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諸君はヒヤリ・ハットというものを聞いたことがあるだろうか?これは介護施設や医療現場で働いていると必ず聞く言葉だ。また工場や交通機関など危険が伴う職場でもヒヤリ・ハット報告が採用されているかもしれない。
第185回から第189回まで5回に分けてアクシデントについて書いた事がある。このアクシデントに必ず付随するのがヒヤリ・ハット事例なのだ。だが、普通のアクシデントとヒヤリ・ハット報告の区別が案外わかっていない人が現場では多すぎる。職場の事故報告書やヒヤリ・ハット報告書を読むと事故に相当するものがヒヤリ・ハット報告になってしまっている事が少なくないのだ。今回は両者の違いをはっきりさせよう。
例えば医療現場で手術した時にガーゼを患者の体内に残してしまった。これは誰もが「事故」だと同意するだろう。だが、それ以外の明らかに事故と断定できないケースでは困惑することが多い。例えばA介護者は利用者が転倒して外傷になるぐらいの痕跡が残れば事故、何も残らなければ事故ではないと主張した。それに対してB介護者は介護者のミスで倒したら事故で、利用者が自分で倒れたらヒヤリ・ハットだと主張した。そしてC介護者はどんな経緯であれ、倒した時点で事故だと主張した。同じケースでも人によって解釈がバラバラなのだ。
どうしてヒヤリ・ハット報告とアクシデントの区別が人によって混同するのか。これは職場の教育が行き届いていないというのもあるのだが、一番大きいのは日本語、つまり国語力がない職員が跋扈している事が大きい。国語能力が低いと論理的思考や合理的思考の能力も低下すると言えるのだ。
残念だがヒヤリ・ハット報告が存在する職場は基本的な知性を欠いた職もしくは知的能力を大事にしない職場だと言われても仕方が無い。こんなことを言えば現場の反発を買うだろうが、本当のことだ。そもそもヒヤリ・ハット報告は「ヒヤリとした事、ハッとした事」が語源だが、こんなオノマトペ(擬音語、擬態語)を正式報告の名称にするなど情けない事この上ない。読売新聞が調査したところによると1か月に1冊も本を読まない人は5割を超えるという。これでは国語能力の低下も仕方ないだろう。俺の周りにもやたらとオノマトペを乱用する人が多い。「ドキドキする」「ホッとする」「ガーと言われる」など耳障りで仕方ない。
話が脱線してしまったが、本当の意味で知的能力のある人を対象とするこのブログではヒヤリ・ハット報告はインシデント(事件)と呼ぶことにする。
そのインシデントとアクシデントとの違いは未遂か完結かの違いだ。
例えばある特別養護老人ホームに転倒することで要注意の利用者ウメさんがいた。ウメさんは認知症で困ったことに時々黙って立ちあがって歩こうとするが、脚力がないためよく転倒していた。そのためウメさんは見守りが必要なのだが、介護職員が忙しく監視していない事が少なくなかった。
ある日、運悪くウメさんは職員が目を離したすきに歩きだし転倒した。転倒した後
(1)ウメさんは大腿骨頸部骨折でその後寝たきりになった。
(2)ウメさんは膝を強打して5センチ大の内出血ができた。しかし、骨折しなかった。
(3)運よくどこも外傷もなく、その後もダメージは見られなかった。
(1)(2)(3)のうち事故はどれだろうか?
実を言うと全部アクシデントになる。なぜならアクシデントに起きた結果(帰結)は関係はないからだ。アクシデントはウメさんの場合「転倒した」という事実だけで成立する。わかりやすく自動車事故を例にする。自動車事故と言っても人が亡くなる事故まであれば、バンパーが少しこすった程度の事故もあるはずだ。それでも車同士が当たった事実は変わらないはずだ。事実があって、完結してしまえばそれは事故になる。
ではインシデントは何なのか?簡単に言えば起りそうな事故が意図的にか偶然にか阻止された場合だ。先ほどのウメさんの例なら職員が見ていない時に立ち上がり、倒れそうになった寸前で職員が危険に気付いて転倒を阻止したらインシデントになる。アクシデントもインシデントも同じ危険要素(ウメさんの場合「忙しくて監視が行き届かない」事)だが、未遂で済んだのがインシデント、完結(転倒)したらアクシデントなのだ。
簡単に説明すること・・・
危険要素「職員が忙しく、見守りができていない」
↓
ウメさんが立ち上がって歩こうとする
↓
転倒しそうになる→転倒した―――→骨折→アクシデント
↓ ↓
阻止する 骨折せず→アクシデント
↓
インシデント
以上なるべく分かりやすく努力して説明したが、いかがだっただろうか?インシデントとアクシデントの違いについて少しでもご理解いただけたら嬉しい。
しかし、施設によって組織によってアクシデントとインシデントの定義が違うなどそんな反論があるかもしれないが、「そんなバカな事があるか!!」と言いたい。人類共通の言語を使っているはずならばロジックは同じのはずだ。これは福祉の職場だけでなく、今の現代がいかに知的能力や合理性を蔑ろにしているかの好例でもあるのだ。機会があればその点についても語ろう。
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2011-11-16 12:40
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前回と前々回で福祉業界にはメンタルヘルスを病む人間が多い事を説明した。今回はメンタルヘルス疾患の一つ燃え尽き症候群を紹介しよう。諸君はメンタルヘルスというとうつ病や統合失調症などをすぐ連想するかもしれない。しかし、あまり知られていないが、この疾患は実を言うと福祉関係者や医療関係者に犠牲になる人が多いのだ。
バーンアウトとも言うこの疾患の定義を簡単に語るとは一生懸命に職務に励みが、思ったほどに報われずにストレスと無力感でうつ状態に陥る疾患だ。心因性うつ病ともいわれる。だからうつ病の一種とも言えるのだが、体が起こせないぐらい重度の状態を指す物ではないのでここではうつ病とは区別する。
バーンアウトと言うとスポーツ選手などがオリンピックなど有名な大会で優勝してしまい、これから何をしたらいいのか目標を喪失してしまう事を指すこともあるが、それとは違う。今回は働きすぎによるストレス障害による燃え尽き症候群を語りたい。
燃え尽き症候群にかかる人には介護や医療関係者が多い事はすでに説明した。それ以外でも実をいうと教職員や宗教関係者にも多い。また業種は関係なく責任あるポジションを任された人―中間管理職にもこの疾患を抱える人が多い。つまり社会的責任が高く、モラルが求められる立場にいる人が燃え尽き症候群の餌食になりやすいと言える。
だが、この文章を書いている俺も一応福祉関係者だが、燃え尽き症候群は無縁だ。なぜか?ご存じのように言いたい事を言う勝手気ままな人間だからだ。真面目、品行方正、正義感強い、優等生、など俺には全く無縁。真面目な所はこのブログやメルマガをある程度きちんと定期的に発行する所だけだ。職場でも普通の介護者が引きつるブラックユーモアを平気で吐く。例えばこんな具合にだ。
「赤ちゃんポストはあるのにどうして老人ポストはないんだ?」
「あんまりにもポストに入れる人が多すぎるからさ」
「でも、代わりに姥捨て山(施設)があるじゃないか」
こんなブラックユーモアに大抵の福祉職員は眉を顰める。お笑いが大好きだという人でもなぜか利用者や(ぼけという言葉が出てくるのに)老人を対象にする事をことの他嫌う。俺自身この類いの発言で痛い目に遭った事もある。だが、俺がこんな人間だからこそ燃え尽き症候群は無縁だった。燃え尽き症候群は真面目で正論が大好きな人、悪く言えば愚直でユーモアのセンスに欠ける人がなりやすいのだ。
そして燃え尽き症候群になる人にはもう一つ共通している事がある。
自分の能力の限界を認めない事だ。この事はきつく言えば燃え尽き症候群にかかる人は己を客観視する勇気と知性に欠けている。ちょっと考えれば一人の人間の出来る事などたかが知れている。会社が組織が貴方に与える命令やノルマは適正なのだろうか?どうみても達成出来るはずの無いノルマを「絶対出来る」と会社に言われても本当にそれが適切なのだろうか?もうひとつバーンアウトにかかりやすい人たちの特徴は批判精神の欠如だ。
バーンアウトになりやすい人たちは愚直でもあるがゆえに組織や社会や会社に疑義を持とうとしない。しかし、彼らは組織を信じているわけではない。どちらかというと忌まわしい現実から目をそらす現実逃避癖がある。身を削る思いをしてノルマを達成しても会社は「もっとできるだろう」と次はもっと難しいノルマを与えられたるだけだ。次々洪水のように増える業務量に大抵の人は絶望を感じるようになる。これこそ燃え尽き症候群の前兆なのだ。ご存じのように俺は毒舌が大好きで会社や組織など信用しない批判精神が服を着て歩く人間だ。だからこそバーンアウトしないのかもしれない。
最後にバーンアウトを防ぐ方法を教えよう。
真面目さや性格の部分はなかなか変えられないかもしれない。ユーモアも同様かもしれない。精神論になってしまうが、ただ失敗しても能力に限界があっても、君は君だと許される事を忘れないで欲しい。世の中には本当の意味で聖職と言えるものなど何一つない。
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2011-11-09 01:35
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前回はこのブログで初めてメンタルヘルスについて語った。何度も言って申し訳ないが、介護職員にとってメンタルヘルスの問題は下手すれば退職に直結するほど重大な問題だ。その原因として挙げられるのは介護職にまつわるストレスだろう。膨大な仕事量、利用者からの悪質な嫌がらせや認知症利用者を相手にする際のストレス。そして介護者を守ろうとしない上層部。職員を苦しめる要素はいくらでも思いつく。だが、もう一つ介護者を精神的に追い込むストレス要因がある。それは同じ職員間での確執や嫌がらせだ。利用者やその家族に対するストレスは辛いがまだ何とかなる。利用者や家族はさすがに事務所やヘルパー室などの内輪の空間には入ってこないからだ。だが、職員同士は同じ職場で良くも悪くも濃密な関係を築く。そのため人間関係が悪化すると改善が難しく、とてつもないストレス要因になってしまう。
利用者に向き合わなければならないのに同僚や上司、部下に足を引っ張られるなんて地獄の極みだろうが、こんなことがよく起こるのが福祉の職場だ。現に新人いびりなどのいじめも福祉の職場には多い。新人職員などいじめて、退職されたら何百万も法人や会社に損害を与えているのと同じなのにやっている当人たちにその自覚が無いのが厄介だ。他にも同僚同士の確執。上司から部下へのパワーハラスメント。仲たがいは同じ部署だけではない。違う部署同士での軋轢もある。例えば看護師対介護士、デイサービス対特養などもある。「利用者のために…」という福祉関係者は多いが、平気でこんな権力争いをするところを見ると偽善者の戯言にしか聞こえない。
一般企業でも同じだろうが、こんな馬鹿げた内輪もめなどいい事は何一つない。権力争いが蔓延する組織は半分の能力を失っているのも同じだ。だがもっとも痛いのは人間を失うことだ。忘れてはいけないが、福祉は最も離職率が高い業種の一つだ。「こいつのせいで職員が何人も辞める」と言われる害虫のような職員がどこの施設にも一人ぐらいいるが、組織に与えるダメージは計り知れない。いじめや権力争いのために精神面を病む職員は実に多い。例え表向きは元気そうに見えても鎮痛剤や睡眠薬、精神安定剤などが手放せない人は実に多い。ハードワークを主とする看護師やヘルパーの鞄を調べて、中枢神経系の内服薬が出てこない人はまずいない。だが、こんな薬に頼っていても心の平安はまずやってこない。劇的な効果はあっても薬には副作用という高すぎる利子がある。しかも実際のギリシャやJALと違い払えないからと言って債権放棄など期待できない。薬が更に精神疾患を悪化させる悪循環に陥るのだ。
メンタルヘルスを病んだ人はその言動でも際立った特徴がみられる。周りにいる人たちはそれを察知して助けを差し伸べなくてはならない。それを見極める観察ポイントを教えよう。
・仕事で凡ミスやトラブルが明らかに増える。
・整理整頓ができなくなる。
・約束や連絡事項など大事な事を忘れる
・体臭が強くなったり、髪がボサボサなど外見に構わなくなる。
・利用者や同僚との口論が増える。
・挨拶をしなくなる。もしくは挨拶しても反応しない。
・遅刻や欠勤が増える。
・情緒不安定で突然泣き出したり、怒ったりする。
・手が震える。
・表情が暗く、喜怒哀楽に欠けている。
・明らかに飲酒量やたばこの量が増える。
まだまだあるが、とりあえずこんなところを注意してほしい。一つだけ気を付けてほしいのはあくまでも以前元気だったころと違うところに注目してほしい。例えばもともと整理整頓が苦手な人は別に何の病状が無くてもデスクは乱雑だろう。そうではなくて元々おしゃれで衣服に気を使っていた人が3,4日連続で同じ服を着てくるなど明らかにらしくない異変に気付いてほしい。
そしてここからが大事だが、もし明らかにメンタルヘルスの疾患で苦しんでいるなら何が何でも精神科や心療内科を受診させてほしい。精神科に行った経験が無い人なら「自分は病気じゃない」「余計な御世話だ」と抵抗するかもしれない。でもそれでも鉄の意志と愛で連れていくべきだ。連れて行かなければ自殺など命に関わるかもしれないのだ。精神科の診療が信用できないかもしれない、精神病薬の副作用が恐ろしいかもしれない。でも病院に行かなければ休職するための診断書さえ得られないのだ。内服薬を飲むかどうかは後で悩めばいい。
メンタルヘルスで苦しむ人が自分の病状に気付いて病院に自分で行くなどまずない。客観的な判断ができないのがこの病気の恐ろしいところなのだ。誰かを信じたくても信じられない。このままではいけない。誰かに助けてほしい。そう言いたくても言えない程苦しんでいるのだ。本人の意思を尊重するだけでは助けられないのだ。あなたの同僚や家族、愛する人、友人が精神疾患で苦しんでいるなら、助けられるのはあなただけ。このブログを読むあなたなら何をするべきかわかるだろう。どうか勇気を出して助けてほしい。
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2011-11-02 02:09
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第204回と第205回で俺は介護職、とりわけ特養などのハードワークを要求されるところではフィジカルが非常に大事である事を強調した。腰痛などの職業病で現場を出ていく羽目になった介護職は決して少なくない。だが、福祉関係者を退職に追い込むのは腰痛のようなフィジカルの故障だけじゃない。一般的に知られていないが、介護職の退職の原因になりかねない主要な原因の一つはメンタルヘルスの疾患だ。
メンタルヘルスとは文字通り精神的な健康という意味だが、介護業界では精神を病む人が多い。だが、このことは福祉業界ではタブー視されてきた。現代社会では精神疾患に対する偏見は過去に比べればまだマシになってきた。心療内科を受診する人々も増えつつある。精神科が行う治療がいいのか悪いのかはさておき、精神疾患を論ずる土壌ができてきたのは歓迎すべき兆候かもしれない。しかし、介護業界ではメンタルヘルスに関する意識は10年以上遅れている。介護職員にメンタルを病む人間が多い事は誰も認めようとしないのだ。小中高校の教職員が5000人以上精神疾患が原因で休職した事は驚きのニュースになったが、介護職員についてはその統計すら存在しない。だが、メンタルヘルスの問題を抱える福祉関係者が多いのは事実だ。介護職員の中にメンタルを病む人間が多い事を内内に認めている法人もあるが、対処法はどこでも同じだ。つまり精神疾患になれば(揉めずに)退職させるぐらいだ。だが、こんな対策など最低最悪だ。
メンタルヘルスの疾患と言えば鬱病や統合失調症などが有名だが、実際に業務に支障を来すほどの精神的疾患はもっと多様で複雑だ。バーンアウト(燃え尽き症候群)、情緒障害、境界性人格障害、パニック障害、不安、強迫障害、摂取障害、心的外傷後ストレス障害(PTSD)・・・いろんな障害や疾病が精神科のマニュアルDSM−IV(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders精神障害の診断と統計の手引き)には載っている。だが、それら上記の障害にないが注意力や集中力の低下、判断力の低下、感情の鈍磨など業務に支障を来す症状も少なくない。もっともただ業務に支障を来す程度なら解雇される程度で済むかもしれない。しかし、注意力や集中力の低下は交通事故など命に関わる結果にもなりかねない。ましてや鬱病が悪化した結果、自殺することだってあるのだ。メンタルヘルスの悪化はフィジカルの障害よりも恐ろしいのだ。
メンタルを病む原因は様々だ。原因がわからないものもあれば、生まれつきだったり、親との関係に原因があるケースもある。しかし、介護業界では原因がはっきりしている。介護業界でメンタルを病む原因・・・それは業務で生まれるストレスだ。ストレスなんてどこにでもあると反論があるかもしれない。だが、社会福祉の世界で介護者が背負う背負うストレスは普通ではない。そこらへんは大量の休職者を出した教育の世界にも共通する。明らかに限度を超えた業務量、わがままな生徒に無理な要求を言うモンスターペアレント。そして教師達を追い込む理想主義。保身しかない校長や教頭。これでは精神疾患で休職者が出ても仕方あるまい。だが、これと同じ事が介護の現場でも起きているのだ。ただ違うのは教員たちは地方公務員が多いために休職の権利が強く保障されているが、介護職員が同じ状態になったら退職してしまうケースが多いことだ。
福祉関係者が精神を病むケースも教員のケースと酷似している。トイレ誘導にオムツ交換、更衣介助に入浴、そして記録(これがかなり職員の時間を消耗する)に幻聴が聞こえるぐらい鳴り響くナースコール・・・・いつまでたっても終わらない業務量。そして認知症による介護抵抗や暴力行為、そして男性利用者から女性介護者へのセクハラ。中には故意に特定の職員の中傷や誹謗を管理職に訴える利用者もいる。生傷や内出血が絶えない苦労をしても利用者の家族は無理解。家族の理不尽なクレームや欲求は日常茶飯事だ。人がいない、時間が無いなら、無いなりの最低限の介護をすればいいのに職場に潜む理想主義者たちが無理な目標を立てて更に職員を追い詰める。こうして精神疾患に陥る介護者が今日も一人また一人と生まれるのだ。
この続きは次週語ろう。
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2011-10-26 22:40
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前回で介護者がいかに体を痛めやすいかを説明した。何度も言うが介護者は本当にフィジカルの傷害を負いやすい。移動介助、中腰でのオムツ交換、歩行介助、入浴介助などどうしてもフィジカルに無理をきたしやすい援助が多いためだ。そしてその過程で負うダメージは決して馬鹿に出来ない。俺が一緒に働いた同僚の中には椎間板ヘルニアで下半身が痺れるようになり、介護ばかりか普通のオフィスワーカーもできなくなった人もいる。膝の関節が腐敗して手術を繰り返し、1年以上入院せざるを得ない同僚もいた。
このように介護におけるフィジカルダメージはその人の人生を変えてしまうほど影響力が大きい。それにも関わらず介護の世界ではフィジカルの傷害を防ぐ努力を全くしていない。前にも言ったが介護がアスリートと変わらないぐらい運動能力が必要だと言う認識すらこの業界にはない。施設や病院だって介護者や看護師の傷害による離脱は痛いはずだが、その対策はお寒い限りだ。せいぜい腰痛検査を無料でするぐらいだろう。だが、もっと問題なのは殆どの介護者は腰痛対策やフィジカルのダメージについて全く関心が無い事だ。
だが、これではいけない。もし直接介護に携わるなら、腰痛は下手すると介護者生命に関わるものだという認識を持った方がいい。介護者の現役生活は意外と短い。4,5年で特養などのハードな介護勤務ができなくなる人も少なくないのだ。俺は現役は14年続けられた。もしフィジカルの管理に無関心だったら4年ぐらいしか持たなかっただろう。自分の身体は自分で守る。施設や会社はあてにしない。それが介護のプロの条件だと言う事を忘れないでほしい。
どうして介護業界がフィジカルの管理に無関心なのか?どうしてこれだけ腰痛でコルセットを巻く人が多いのに腰痛対策を啓蒙する人がいないのか?それは何もかも「介護に力は要らない」と言う誤った認識のせいだ。力に頼った介護方法を「介護力士」と皮肉る馬鹿な福祉界の重鎮がいるが、そんな戯言など信じてはいけない。彼は講演活動で食っていけばいいが、介護職は介護をしないと食べていけない。直接現場に入らない人間の言うことなど説得力はない。だが、現場で利用者を介護しない人間のほうが影響力が強いのが福祉業界の皮肉な現実だ。
何度も言うが、非力な介護職では職務は務まらない。介護職はアスリートだ。力押しの強引な介護は確かにいただけないが、それでも最低限のパワーと長時間の夜勤に耐えられる持久力や運動量は必要だ。だが、実際のヘルパーたちの中でトレーニングに励む人は殆どいない。利用者には偉そうにリハビリだの、自分でしなさいなど言うが自分はどうなのか?現在社会の喫煙率は21パーセントと過去最低を更新しているが、介護業界では相変わらず喫煙者が多い。職場によるが、職員の半数が喫煙者という職場も珍しくない。節制や自律が必要なのは介護者の方かもしれない。
ではどういうトレーニングがいいのか?まずは「走れ」だ。走って脚力と心肺機能を鍛える。方法は自転車でもランでもいい。スポーツジムに入会してもいいが、それでもウェイトトレーニングよりはエアロビクス(有酸素運動)で持久力や心肺機能を鍛えた方が効率的だ。スポーツクラブに入会しないなら近所を30分ほど走ったり、それも辛いなら歩くだけでもいい。
次にウェイトトレーニングなどで体のどの部分を鍛えるかは体幹(腹筋、背筋、臀部)を優先した方がいい。特に腹筋はボディバランスなど動作面で非常に影響する。総合で全身を使う水泳もお勧めだ。
だが、エアロビクス(有酸素運動)やフィジカルトレーニングばかりするのは良くない。ストレッチで体の柔軟性を鍛えるのを忘れないで欲しい。介護に限らずスポーツでもストレッチは軽視されているが、筋肉の柔軟性は非常に大事だ。柔軟性が無いと連続勤務で体を痛めやすくなる。筋力が強すぎるアスリートの場合、筋肉にしなやかさが無いと肉離れを起こしやすくなるほどだ。故障の多いアスリートはストレッチをあまりしない傾向が強い。ストレッチはやりすぎると筋力の低下を招くが、それでも柔軟性のない筋肉ほど厄介なものはない。
もしあなたが介護を長く続けたければフィジカルに関心を払うべきだろう。もっともフィジカルの問題が無くても辞める人が減らない事の方がもっと深刻な問題かもしれないが。
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2011-10-19 18:07
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マネジメントシリーズが長く続いたため、今回は福祉に関係のある話をしたい。今回は久々にフィジカルについて語ろう。以前第10回「フィジカル」でフィジカル・・・肉体的強靭さの大事さについてはかなり語ったつもりだがまだ補足したいところがある。今回はその点を語ろう。
実を言うと第10回「フィジカル」を掲載した後、ある読者からメールが来た。その方は右手の親指が物をもつと強烈に痛むと言っていた。よく介護職の職業病は腰痛だと言われているが、介護職や傷めるのは腰だけじゃない。メルマガを発行した後に腰以外の傷害についてもっと書いておけば良かったと後悔したものだ。今回は腰痛以外の介護職が負いやすい職業業を紹介しよう。
(1)肩、首
もともと肩こりや首こりの人は多いが、腰痛と関連している事が非常に多い。腰痛とは大雑把に言えば腰回りの筋肉(大臀筋や後背筋、大腰筋、背柱起立筋など)が負荷に耐えられずに筋肉痛を起こしたり、酷い場合は神経を圧迫する事だ。それと同じように腰を痛めると首や肩もつながっているため高確率で傷めやすい。俺もかなり酷い首と肩の凝りには悩まされてきた。ちなみに眼鏡を付けると、肩や首にも負担がかかりやすい。
(2)手指
先ほど例に挙げたように手の指の痛みを訴える人も少なくない。意外かもしれないが介護職は手指も非常に酷使する。その代表的な援助がオムツ交換や更衣介助だろう。直接的な介護だけではなく、洗濯や掃除、食器の洗い物などでも指を痛めやすい。足や腰が痛いなら安静にしていれば何とか回復するが、手指は普段の生活と密着しているため使わないという選択肢を選ぶのが非常に難しく慢性化しやすい。ちなみに俺も右手の親指と小指を痛めている。時々鈍痛に苦しむがストレッチやマッサージで深刻な痛みを免れているのが現状だ。特に指の傷害に苦しむ人にはナツメ社が発行しているパーフェクトストレッチをお勧めする。ストレッチについてはいろんな本が出ておりどれを選んでも間違いないが、特にこの本は手指のストレッチについて詳しい。
(3)足(大腿)
言わずもがな足も非常に大事だ。腰痛になりやすい人は例外なく脚力に弱点がある。足が負荷に耐えられないからこそ、腰に過重がかかるのだ。大腿特に太ももの裏のハムストリング(大腿屈筋群)を痛めると連鎖的に腰を痛めやすい。そして太ももの表の大腿二頭筋も利用者を抱えての移動介助の際に大事だ。
(4)膝
膝も痛める人が多い。これはスポーツでも多いから知っている人も多いだろう。だが、そのメカニズムは案外知られていない。腰や足、腕、指の痛みの多くは主に筋肉の痛みだが、膝の痛みはそうではない。大腿骨と脛骨(下腿)を腱で繋げているのが膝の役割だが、その大腿骨と脛骨が膝というジョイントに過重をかけて傷めるのが膝痛の原因だ。アスリートが傷めやすい半月板とは脛骨の上に乗っている軟骨組織の事で、靱帯で脛骨を繋げ膝のスムーズな動作を補佐している。ジャンプやランニングなど膝に過重をかける事が多いアスリートには膝の損傷は選手生命に関わる大事なものだ。そして恐ろしい事に膝を直接保護する筋肉はないため、傷めると慢性化しやすく完治が難しい。高齢者の場合は、勤続疲労で軟骨が減り膝が変形する変形膝関節症になる人もいる。
(5)踵
これは少ないかもしれないが、俺は実際踵を痛めた事がある。原因は膝同様過重を踵が支えきれない、勤続疲労が原因だった。スポーツアスリートの中にはアキレス腱を断裂したりする人もいる。最も多いのはスポーツなどで足首靱帯を内側にひねる捻挫だろう。このタイプの怪我は一般の人にも多い。だがその後遺症は馬鹿に出来ない。足の外側に体重がかかるためボディバランスが崩れるなどパフォーマンスの低下を招く。勿論介護においても影響が大きい。「靴の外側がすり減る」「片足立ちが苦手」などに現れやすい。
(6)慢性的疲労
何度も言うが、介護とは肉体労働だ。根本的にはスポーツアスリートと変わらない。だが、スポーツアスリートにはシーズンオフがあっても、介護者にはない。そもそも介護者には有給休暇を取ってリフレッシュしたり、休暇を使って文化的活動を通じて教養を身につけたりする意識や文化が全くない。その代償が慢性的な疲労だ。ストレスと肉体的な疲労感が貯まると年齢とともにダメージが抜けなくなる。肉体的な疲労から回復できないなら引退するか、事務職になるしかない。経験のあるベテランを失う大事な問題なのだ。
以上ざっと介護者が傷めやすいところをあげてみたがいかがだっただろうか?首から踵まで介護者は全身故障をしやすい職業なのだ。次回はフィジカルを守るために何が必要なのかを話そう。
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2011-10-12 22:17
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組織のマネジメントを考えるなら規律やルールを定める事は避けられない。しかし、職場の秩序を維持するためのディシプリンは行き過ぎるとレベル低下や皮肉なことに秩序やモラルの崩壊を招くことさえある。前回俺はディシプリンは職員の能力向上を妨げてしまう事を説明した。だがディシプリンの弊害はそれだけではない。ディシプリンは二つのジリツを奪ってしまう。二つのジリツとは自律と自立の事だ。これらのジリツは意味はそれぞれ違うが、この2つのジリツは二つで一つであり、共に相互作用で影響するのだ。ディシプリンの厳しい職場では2つのジリツが育たない。一体どういうことか説明しよう。
福祉に限らず多くの経営者は職員を信じようとしないし、ジリツ(自立と自律)させようとしない。だからこそ規律で職員をコントロールしようとするのだが、強すぎるディシプリンとマニュアル主義は皮肉なことに職場のモラルや規律崩壊を招いてしまう。これは矛盾するようだが、現実社会では意外でも何でもない。第198回と第199回で紹介したように横領や窃盗がまかり通るような施設は実を言うと殆どマニュアルや規則を作成するなどディシプリンの厳しい施設ばかりだったりする。だが、秩序を引き締めるために作った規則やルールはそれが行き過ぎると依存的で節制を欠いた職員を育ててしまう。
規則やルールを守らない職員にはペナルティーや注意を与えれば改善すると思っているだろうが、いくら厳しい規則を設けても経営者にモラルが無ければ意味がない。ペナルティーを設けてもモラル改善には効果が無い。「ばれなければいい」と陰でモラル崩壊が進むだけだ。経営者が職員を搾取している限り、そして職員のジリツを信じられない限りモラル崩壊は止まらない。
物品の盗難を防ぐために何を持ち出したかのチェック表を付ける施設まである。だが、そんなことをしても、盗む対象が変わるだけだ。物が盗めないなら、仕事をさぼることで時給を盗むようになる。労働監視することによりさぼる事さえも許さないなら、また別の方法で組織を消耗させるだけだろう。良く考えればわかることだが、人間を権力で嫌々働かせるなんて非能率もいいところだ。そんなことをしてもパフォーマンスの悪い職員が増えるだけだ。そんな嫌々ながら働く人間よりも自主的に喜んで働く人間の方がパフォーマンスがいいに決まっている。権力や圧政では人の最高のパフォーマンスを引き出すことはできない。その点を全く分かっていないリーダーや経営者に限ってディシプリンを強化しようとする。だが独裁政治や共産主義が必ず失敗するのは個人の自由を認めず、やる気を引き起こせないからだ。
そもそも一般的常識では経営者の方が従業員よりも強いと思われている。しかし、現実は逆だ。従業員の方が経営者よりはるかに強い。なんせ労働者が働かなければ富を作ることができないからだ。権力はあっても経営者は一人だ。強気に振舞っていても、その内心は恐怖に怯えているのが経営者だ。家族しか信じることができずに従業員がいつ怒鳴りこんでくるか震えている社会福祉法人の経営者は実に多い。そんな孤独な経営者を追い込むのは簡単だ。経営者を苦しめるのは労働組合でもないし、ストライキでもない。二つのジリツを失った従業員が跋扈するだけで事足りるのだ。
教育やマニュアルの順守はあくまでも職員が働きやすいように便宜を図ったり、ある程度成長させるのが目的のはずだ。あるレベルまで成長したら雛が親鳥の元を離れるが如く自分の考えで状況判断をしていかなくてはならない。命令通りに動くだけなら機械やコンピューターで十分なはずだ。でも所詮機械やコンピューターは人間に絶対勝つことはできない。人間には機械やコンピューターにはない創造性や観察力、洞察力があるからだ。その長所を鉄のディシプリンで縛りすぎるのは馬鹿げているとしか言いようがない。マニュアル主義は何よりも職員の自立心を奪ってしまう。これはどの世界でも同じだろうが、ディシプリンに依存するだけでは本当の意味で質の高い介護職員を作ることはできない。
先週も強調したが介護職員にとって大事なのは状況を適切に判断して自分で考える能力だ。夜勤では職員は2人ぐらいしかいない状況は大いにあり得る。そんな時に利用者が昏睡していたらどうするのか?殆どの施設はこんな困難な状況では上司や経営者に連絡するようにマニュアルで定めている。
しかし、上司や経営者に相談しても決断を引き延ばした挙句、何もせずに利用者を死亡させる事もある。こんな時、部下としては「上司に相談したから問題ない」と言えるかもしれない。そして上司は「嘱託医に相談した」「経営者に相談した」と同じように責任から逃げる。経営者も同じように「マニュアルに従った」と不作為を正当化する。なんてことはない。誰も真剣に事態に向き合おうとしないだけだ。どこかでこの光景を見たことが無いだろうか?そう原発事故対応時の東電、政府、行政の対応そっくりだ。誰も現実を直視しない。誰も決断しない。誰も将来の危機を予見しない。行き過ぎたマニュアル主義やディシプリンが作るのは一億総保身、総無責任国家でしかない。
行き過ぎたディシプリンは自立心の他に、自律性(セルフコントロール)も奪ってしまう。本当にレベルの高い職員はディシプリンでは育てられない事は何度も強調した。マニュアルからの依存から脱却した自立心は共に自律性も育てる。いい介護職員に共通するのは常に自己に艱難辛苦を課す自律性だ。より高いレベルを目指して、己の限界まで挑戦する。自律性の高い人間は何も言われなくても自分で適切な目標を己の中に設定する。組織は必ずといってもいいぐらい目標設定を強制するが、それは自律性とは何の関係もない。単なる自己欺瞞に終わっているのが現実だ。行き過ぎたディシプリンは依存心を強め、自分の行動を抑える努力を奪ってしまう。その結果表面上はルールに従うものの、見えないところでは横領やサボタージュをする職員が増える。つまりディシプリンの強化は皮肉なことに更なる職場のモラル崩壊を招いていると言ってもいい。それどころかモラルの崩壊が表面上は見えにくいためかなり性質が悪いとも言えるのだ。
ディシプリンは組織運営には大事だが、多くのリーダーや経営者は過度に締め付けようとする。だが、それでは鳩を絞め殺すのと同じなのだ。職員にいいパフォーマンスを発揮して欲しいなら、自由を与える「リスク」を犯さなくてはならないのだ。
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2011-10-05 01:19
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マネジメントシリーズも第5回を迎えた。今回はマネジメントを題材に挙げる限り外すことのできないディシプリンについて語りたい。
ディシプリンとは英語ではdisciplin、日本語で規律を意味する。組織運営をする限りその組織の約束事やルールや規則をどう制定して機能させていくかはどこの経営者でも頭を悩ませる。ディシプリンについては非常にシンプルでこれ以上ないぐらいその本質を表す名言がある。まずはそれをご覧いただこう。
経営とは鳩を手で握っているようなものだ。強く締め付けてしまうと殺してしまうし、十分強く抑えていないと逃げてしまう
―トミー・ラソーダ(元メジャーリーグ・ロサンゼルスドジャース監督)
いくらマネジメントに難しく言葉を使い説明しても、規律に関して言えばこの名言だけで事足りる。組織にルールや約束事などのディシプリンは必要だが、それもあまりにも強すぎると個人の自主性や創造性を損なうし、あまりにも規律が無いと今度はルール無用のでたらめな職場になってしまう。かつて第198回でも指摘したように福祉の職場には規律が無くなり、個人の身勝手さが横行する施設や事業所が少なくない。だが、だからと言ってディシプリンが強すぎる組織も考えものだ。ディシプリンが強すぎると個人の創造性や自由が損なわれると言われている。しかし、もっと単純に言うと規律が強すぎる職場環境は次の二つの弱点を抱える。
(1)職員の能力の成長を止めてしまう。
(2)職場の規律崩壊やモラル崩壊が止まらなくなる
(1)職員の能力の成長を止めてしまうはともかくとして(2)職場の規律やモラル崩壊が止まらなくなるは驚きではないだろうか?しかし、これも後ほど説明していこう。
まず(1)職員の能力の成長を止めてしまうから説明しよう。
俺はこの世界もう14年になるが、どうしても年々職員のレベルが下がっていることが気になって仕方がない。若くて経験のない職員なら仕方がないと諦めるが、10年以上の経験のある介護職でさえ「どうしてこんなに鈍いんだ?」「なんでこんなこともできないんだ」と苛立つ事が少なくない。特に利用者を良く見る観察力や利用者の行動の原因を見抜く洞察力に欠けた職員が多い。介護に対する知識があってもその知識を現場の利用者に当てはめていく応用力に欠けているのだ。
例えば夜間せん妄という言葉は介護福祉士資格を持つ人なら、勿論看護師でも知っている。せん妄とは術後などストレスのかかる状況でなる幻覚、見当識障害(自分が置かれた状況が分からなくなる障害)を中心とする意識障害の事だ。ところが実際に夜間せん妄を起こしている利用者を見て、夜間せん妄だと見抜ける人はいない。少なくとも俺が知っているヘルパーや看護師で夜間せん妄を見抜けた人はいない。
特にこうした傾向はしっかりした教育制度や研修がある事業所に目立つから皮肉だ。教育や研修はレベルの高い職員を育てるためにあるはずではないのか。だが、今の職員のレベルはかつて介護保険制度ができる前の洗練されていない施設より下がっている。俺は彼らがどうして成長を止めてしまうのか不思議でならなかったが、その原因がこのような教育制度やマニュアルなど強すぎるディシプリンにあると気付いた。
はっきり言うが介護施設で大事なのは状況を観察してそれに適合する判断を考える能力だ。職員の行動を強く縛るマニュアルや規律は確かに経験のない新人職員にある程度の介護水準を身に付けさせるのには役に立つ。しかし、利用者は皆同じではないし、取り巻く状況もいつも同じではない。ディシプリンに依存していると自分で考えて判断する介護士として大事な能力が育たない。しかもマニュアルに従っているだけで安心するため、先ほどの夜間せん妄の知識を教えてもそれを吸収する向上心も奪ってしまう副作用まである。
例えばどこの施設でも利用者の脱水を防ぐために一日1000cc以上の水分を摂取させようとする。当然利用者にとっては希望しない水分摂取など苦しいだけだ。だが、多くの施設は1日1000cc飲ませるというルールを守るべく嫌がる利用者にあの手この手を使って強引に水分摂取させようとする。はっきり言ってこの時点で単なる虐待だが、何が何でも水分を取らせようとする強引さが脱水よりも危険な窒息や誤嚥性肺炎を招いている。俺がこの事を指摘すると大抵どこの職場も懸命に否定するか、反発する。マニュアルや規律は己のやることを振り返る謙虚さを奪ってしまう。
他にもディシプリンは二つのジリツを奪ってしまう。おっと今回は時間が足りないようだ。この続きは来週にしよう。
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2011-09-28 02:17
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マネジメントシリーズ4回目の今回は理念について語ろう。
企業理念、法人理念・・・理念は福祉に限らず一般の会社に勤めていると必ず何かと耳にする機会が多いだろう。だが、俺は断言したい。
理念に過剰にこだわる組織は破滅する
こんな事を言うと何かと反発を買うだろうが、事実そうなんだから仕方ない。もし理念が大事だと思うなら、ちょっと聞いてみたい。読者諸兄の中で自分が所属している企業や法人の理念を言えるだろうか?
何?覚えていない?忘れた?
まあ、言えなくても気にしなくてもいい。自分が給料を貰っている会社や法人の理念を暗誦できる人などほとんどいないのが現実だろう。どれだけ一生懸命経営陣が理念について熱く語っても、下っ端の社員には悲しいかな全く覚えていないものだ。認知症ではなくても人間必要のないことは記憶しないものだ。覚えるのは採用面接に応募する時だけで十分だ。
そもそも大体企業や法人の存在目的などただ一つだけのはずだ。
それは「ビジネスで利益を上げる」それだけだ。身も蓋もないがそれができなければ、会社は倒産だ。そうなれば、従業員は路頭に迷うし、入居している利用者だって困る。勿論ヘンリー・フォードがいみじくも語ったように利益だけしかあげない企業は問題だが、それでも利益がなければ倒産するしかない。それ以上を理念で何を語ろうとするのか?理念をよく読むと、経営者の心理的な不安や後ろめたさが読み取れる。
例えばある介護系会社はこんな理念を掲げている。
私たちは誠意をもって社会参加の信条とし
社業の社会的使命を弁(わきま)え、誇りをもって行動し、
若々しい情熱で限りない未来への可能性に挑戦します。
そして社業の発展を通して、
豊かな人間社会の向上に貢献します。
なかなかご立派な文言が並ぶが、皮肉なことにこの会社がしたことはおよそ「社会的使命を弁える」に反するものだった。2007年に介護報酬を水増ししていたことが発覚、介護報酬を返還させられる羽目になった。この会社はCMなどで誰もがその名前を知っている有名なところだが、実際の行動と理念が乖離していたようだ。
この例を分析することにより理念とは心理的にどういうものかよくわかる。立派な理念は事業所や法人が自分たちの言動が正しいと再認識するためのものだ。つまり手の込んだ理念を作ったり、わざわざ朝礼に唱和させている企業や法人ほど後ろめたい事が多いと解釈できるのだ。
本来の理念とは何だろうか?それは逆境の時にこそ振り返るべき信念や哲学に他ならない。
どこでも理念として「顧客の要望に最大限応える」「お客様に満足していただく」などお客様は神様系統のものが多い。しかし、こんなもの理念でも何でもない。ごくごく当然で当たり前のことではないか。顧客が満足しなければ利益もあげられないのだから。だが、その当然で当たり前の事が通用しない状況ではどうするのか?ごねるだけごねて相手から最大限搾り取るようなクレーマーが相手でも「顧客の要望に最大限応える」のだろうか?例え客でも譲れない一線は絶対譲らない信念こそ理念だと言えるのだ。
理念無き迷走や実例は残念なことに事欠かない。最近で言えば、福島関連の送り火や物産展、花火の中止が思い出せるだろう。いずれも被災地を支援するためのイベントだったはずだが、「放射能に汚染させる気か!」とクレームを付ける愚者共のせいで中止に追い込まれた。馬鹿な偏見で差別された被災者にとってこれほどの侮辱はないだろう。
だが、一番彼らを傷つけたのはこれらのイベントの主催者達だ。本当に情けない。大多数の人々はこれらのイベントに賛成だったのに一部の狭量な愚か者の圧力に屈したのは本当の意味での理念が無いからだ。彼らが本当に被災者を支援する強い信念と理念があれば、どんな圧力があってもこう言えたはずだ。
「被災者のためにイベントは中止しない。そんなに放射能が心配ならそっちが出ていけ」
誰でも反対意見に抗するのは勇気がいる。その勇気を支えるのが理念なのだ。誰かに非難されるのを避けたり、体裁を取り繕うために唱えるのが理念ではないのだ。今の社会の迷走は本当の意味での理念が無いためではないだろうか?
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2011-09-21 01:25
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前回と前々回と施設のモラルがいかに崩壊しているかの現状をお伝えした。この内容には施設関係者の読者はよく知っているだろうが、そうではない一般の人々には信じがたい話かもしれない。だが、利用者の金を盗む職員もナースコールを無視する職員も本当に実在するのだ。
今回はそのような堕落の責任が経営者の姿勢にあることを説明しよう。よくこんな虐待などの問題は個人のモラルや資質の問題だと言うが、それは違う。なぜ虐待や横領など施設の中で職員の倫理違反が絶えないのか?社内教育でコンプライアンスの重要性を何度も説明しているはずなのに、なぜだろうか?結論から言うと事業所やそこで働く管理職員たちこそモラルや法律を大事にしないからだ。
これは意外でも何でもない。現にコムスンを見てもわかるように多くの社会福祉法人や介護を行う事業所は順法精神のかけらもないブラック企業ばかりだ。ただ誰もが知っている東証の一部上場企業と違いあまり有名でないから悪事が発覚しにくいだけだ。今年2月に週刊文春は「ワタミの介護」が経営する有料老人ホームで死亡した利用者遺族の告発記事を載せた。言っておくが、あんなことは他の施設でも十分ある。ただ「ワタミ」だからこそ報道されたのだ。
以前従業員のやっている反道徳的行為を紹介したので、今回は平等に経営者の反道徳的行為を紹介しよう。
・経営者が自分の家族や親族を理事や施設長など重要ポストに就ける。
・経営者が自分の私的な買い物を事業所の経費で落とす。
・すでにいない職員をケアマネや介護職員、看護師として登録する。また資格のない人間をPTやケアマネだと偽る。(第130回代返参照)
・自分の好みで従業員を解雇してしまう。また解雇しておいて「自己都合退職」にしようとする
・介護報酬を不正に水増し請求する。
・残業代を払わない
・有給休暇を使わせない。
・自分たちに媚びる職員を昇進させる
・妊娠した職員の産休や育児休業を認めず退職させようとする。
・公用車(デイサービスなど)を任意保険をかけないで運転させる。
・労働災害を認めない。
・本人の許可なく勝手に印鑑を押して、書類を作る(私文書偽造)
・設備の故障(ガスや電気設備など)や雨漏りを費用がかかると言って修繕しない
・ハローワークなどで求人票に書かれた待遇と実際の待遇が違う。
どうだろうか?従業員の反道徳的行為と比べてもあまりにも種類が多く、権力に守られている分性質が悪い。言っておくがこれらは実際俺が体験したことだし、またほんの一部分にすぎない。従業員の反モラル行為が解雇や処分を免れないのに対し、経営者の場合はほとんど何らお咎めがない。
だが、経営者であるならば、上司なら多少の横暴は許されると思っているなら覚悟したほうがいい。物理的な裁きは免れても、従業員は経営者の腐敗や堕落をじっくり見ている。そして黙って復讐の機会を窺っている。従業員はこのような経営者の堕落を見ても、解雇や報復を恐れ口を閉ざしている。だが、自分が一生懸命働いているのにも関わらず、自分のエゴで従業員を蔑ろにする経営者を絶対許しはしない。経営者がルールや道理を守らないなら当然従業員も守らなくなる。今度は施設全体が腐り始めるのだ。正面切って反撃できない従業員は自分たちも腐敗することにより経営者に復讐するのだ。
組織の腐敗は食物のそれとは違い、匂いも外見も特徴に現れない。殆どの問題組織は自分たちの組織は健全だと思いこみ、腐敗を自覚しない。だが、それは確実に組織を蝕み、気付かない内に重症になる。物品が次々無くなり、利用者に不審な内出血が増え始める。職場の雰囲気が悪くなり、便や尿の臭いが鼻につき始める。利用者は不穏になり、叫び声が廊下に響き渡るようになる。職員の人間関係は目に見えて険悪になり、規律が無くなりサボタージュが増え、明らかに建物全体に汚れや埃が目立つようになる。嫌気がさした職員は辞表を出し始める・・・・諸君もこんな職場状況を体験したことはあるのではないだろうか?
この状況で経営陣がどんなに口を酸っぱくして、モラルや規律を会議や朝礼で呼びかけてもまったく効果がない。酷くなるとどれだけ上司が檄を飛ばしても全く改善できなくなる。それはそうだろう。自分たちの腐敗や堕落を戒めることができないなら従業員に何を言っても全く伝わらない。マネジメントは一言でいえば自律と自覚だ。経営者が自惚れとナルシズムに陥る施設ほど危険なものはない。皮肉なことに自分が何をしているか、他人からどう見られているかという客観性はドラッガーの本で身につけることはできない。
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2011-09-14 13:36
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前回は施設のモラル崩壊を語った。だが、あれはあくまでも職員のモラルを問題にしたものだった。施設職員はモラルが高く、心やさしい人々だと一般的に思われている。それは間違いではない。ただし、そのイメージが正しいのは新人職員の時だけだ。福祉職員は長く続ければ続くほど良識が堕落する。
言っておくが前号で紹介したのはほんの一部だ。他には職員同士で不倫をしていたり、利用者から心付けとして金銭を受け取っておきながら上司に報告しない奴もいる。問題なのは個人の反道徳的行為だけじゃない。中には職場全体で人事で揉めていたり、権力争いで利用者を介護するどころではない職場もある。忠誠心が高く、真面目に働く職員はこんな環境に嫌気がさして辞めてしまう。残るのは職場のルールや規則などディシプリンをろくに守らない連中ばかりだ。こんな風にまともな組織運営を失った施設はどこにでもある。勿論こんな施設に入所するなど危険なのは言うまでもない。
新人の時は純粋で素直な職員でも2,3年で同僚の中傷や密告など上司からの信頼を貶めるぐらい平気で出来るようになる。人間ここまで変わってしまうのかと驚くほど福祉の負のエネルギーはすさまじい。権力闘争に明け暮れ、ライバルを排除することに慣れてしまうと「自分は何をしても許される」という独善性が芽生え、誰にも矯正できなくなってしまう。その結果、前号で紹介したようにさぼりや横領、窃盗などの犯罪行為にまで染まってしまう事さえある。
初心忘れるべからずと言う。福祉を始める時は立派な志や理想が誰にでもある。しかし、福祉の現実に直視するうちに最初に持っていた立派な志も理想も崩壊し始める。どんなに抗ってもこの傾向には逆らえない。なぜなら理想や志を捨てないと務まらないのが福祉の現実だからだ。現実から逃避するあまりこの「はしか」を克服できない職員こそ堕落するのだ。
そして職員の退職原因もこの「はしか」を克服できない所にある。知っているように福祉職員とりわけ現場の介護職はかなり離職率が高い。それは給料の低さなどが原因だと言われていている。それは確かに正しいのだが、退職する理由はそれだけではない。「はしか」を克服できなければ堕落する。堕落を止めるには自発的に退職するか、もしくは解雇か逮捕されるぐらいまでとことん堕落するしかないのだ。
いやもう一つ堕落した職員の行き着く未来がある。うつ病などの精神疾患にかかってしまうことだ。意外かもしれないが、福祉職員の中にはメンタルヘルスの問題に苦しむ人は少なくない。精神疾患に羅漢しても現実から逃避して適切な治療をしないばかりにもっと病状が酷くなる人もいる。現実から逃避する「はしか」の代償は決して安くない。
さてここまで職員のモラルの堕落を読んだ人は疑問に思うかもしれない。
「一体経営者や役員など偉い人たちはちゃんと施設のコントロールをしてんの?」
当然の疑問だ。はっきり言おう。施設の秩序や職員のモラルが崩壊する責任は経営陣にある。政情不安な発展途上国を思わせるほどマネジメントが機能しないのは施設を経営する人々がだらしがないからだ。
巷のドラッガー本の中にはマネジメントが無いのをあたかも個人因子つまり社員一人一人にあるように書いてあるものがあるが、そんなものお笑い草だ。実際の経営者たちも富士通の元社長のように「従業員が働かないからいけない」など口にする人もいる。だが施設にディシプリンがなくなる理由など最終的に経営陣に責任がある。皮肉なことに施設にマネジメントが無くなる理由はこのような経営陣が下に責任転嫁する姿勢そのものにある。
来週はこのような経営陣の問題について語ろう。
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2011-09-07 16:09
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ドラッガーのマネジメント理論が大流行している。どこの本屋に行ってもドラッガーと名の付く本が平積みになっている。中には高校野球に因んでドラッガー理論を判り易くイラストにした本まである。
別にそれ自体は結構だが、福祉の世界でもドラッガーのマネジメント理論を取り入れようとしているところは多い。少しでもいい組織運営をしようとしている努力は立派だが、悲しいかな福祉にまともな組織運営をしているところははっきり言って少ない。理論は立派でもやっている事はドラッガーに失礼じゃないかと言われても仕方がないところばっかりだ。
俺がかつて勤めていた施設にも見るのはマネジメントではなく、不正や腐敗が蔓延るチーム崩壊のところばかりだった。きちんとした介護サービスを提供するどころか一人ひとりが身勝手な行動を取るなど、まるでソ連崩壊後のようにケイオス状態になっている組織も少なくない。介護施設や事業所がどんな状態なのかは外部から見ただけでは素人には判りにくい。マネジメントがない施設がどんなものなのか紹介しよう。今回はまずマネジメントシリーズ(1)モラル崩壊から紹介しよう。
福祉施設は優しくて正義感が強く、真面目で品行方正な人間が多いというイメージが先行している。そして当の福祉関係者もそのイメージについて自尊心をくすぐられているところがある。実際、外から見た印象では福祉関係者は善良そうに見える人が少なくない。だが、俺が実際見た福祉関係者は一皮剥げばろくでもない偽善者が非常に多い。倫理観や道徳を喪失した人間こそ福祉関係者ではないのかと思うほどだ。
(1)ディシプリンがない施設
ディシプリンとは英語で規律の事だが、信じられないことに職場のルールや約束事ばかりか社会の法律さえ守らない職員がどこの施設にも存在する。モラルがないと言うと虐待などを思い出しそうだが、社会福祉施設では表沙汰にならない形でモラル崩壊が進む。以下にモラルの欠けたろくでなし福祉関係者を紹介しよう。
・休憩時間でもないのに煙草を吸っている
・ナースコールに意図的に応答しない
・幹部職員にごますり報告をしていて介護業務を1時間放棄
・決められた時間に援助をしていないのにしたと記録する
・入浴介助の時、洗髪をしなかったり体を洗わないなど手を抜く。
・誤薬など事故を起こしても報告しない。
・利用者からの呼びかけを無視する
言っておくがこんなものほんの序の口だ。福祉職員の善良そうなイメージから信じられないだろうが、こんなろくでなしは施設にざらにいる。もっと酷いのになると施設の物品を持って帰ることや利用者や同僚の財布などを盗むなど犯罪行為まで働く奴までいる。
先日も宝塚の施設で利用者の金を着服した容疑で逮捕された職員がいたばかりだ。他にも利用者に熱湯シャワーを浴びせて傷害致死で逮捕された介護職員がいたが、表沙汰になるような虐待や事件の裏には巧みに偽装された不作為や虚偽がその何十倍も潜んでいる。新聞沙汰にならなくても盗難や横領が絶えないのが福祉施設なのだ。言っておくが私物のコピーや携帯充電、私用でのネットサーフィンも厳密には横領だ。勿論この程度では現実的に罪に問われることなど無いが、無自覚なのは危険だ。
もはや福祉施設=モラルが高いとは言えない事が判っていただけたと思うが、最大の疑問は福祉施設はなぜこれだけ堕落するのかだろう。その理由は来週語ろう。
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2011-08-31 17:36
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今回は今の時期によくあるイベントについて語ろう。今のこの時期、全国のいろんな地域では夏祭りや盆踊りのイベントなどが目白押しだろうが、福祉施設にも同じように夏祭りのイベントがある。だが、福祉施設の夏祭りは一般のそれとは少し違う。勿論たこ焼きや金魚すくいのような夜店みたいなものや盆踊りがあるのは同じだ。
では何が違うのか?
普通の一般の夏祭りは元々神社の縁日など宗教行事が根本にある事が多い。本来夏祭りの目的は穢れや災厄を払い、幸福を祈願するものだ。勿論場所によっては自治体などが開催してあるところもある。だが、福祉施設の夏祭りは宗教的な裏付けが全くない。例え宗教法人が経営する施設でもこれは同じだ。最も現代では縁日の夏祭りに宗教的な意味合いがあることなど意識して参加する人などほとんどいないだろう。だが、宗教的な裏付けがない施設の夏祭りは様々な歪みをもたらしている事が少なくない。それを説明していこう。
先ほども述べたように夏祭りは元々神社が無病息災を祈祷するための宗教行事だった。だが、施設の夏祭りは宗教は全く関係ない。じゃあ何のために夏祭りをするのかと言えば、単なる施設の宣伝や見栄の意味合いが大きいかもしれない。勿論言うまでもないが、「利用者が喜ぶから」と言うのは単なる建前だ。だが、これが夏祭りの目的とするなら少し説得力が足りない。宣伝のためなら、例えばホームページを見栄え良くしたり、マスメディアに登場するなど広報活動に力を入れる方が効率的なはずだ。そもそも特養や老人保健施設などは何百人も入所待ちを抱える施設が宣伝や見栄のために夏祭りをする必要性など無いはずだ。
夏祭りの本当の目的とは何か?
答えはナッシング。何もない。ただ単に他の施設がしているからと言う漠然とした理由で惰性で夏祭りを企画しているだけだ。職員にどれだけ長時間残業させても残業代を払わないような遵法精神の欠片のない外道施設は未だに多いが、面白い事にそんな馬鹿施設でも夏祭りをするための予算は十分計上するから不思議だ。そんな無駄金があるなら介護職員を雇えば利用者のためになるだろうにと思う事しきりだ。
夏祭りは準備、設営する立場から言わせてもらえば本当に面倒で忌々しい事他にない。飾り付けや夜店の設営、イベントの企画、物品の準備などなどただでさえ介護で疲れ切った後に打ち合わせや準備をしなければならないのだ。勿論この時間外労働にきちんと残業代を払う事業所は少数派だ。夏祭りの準備は一人で出来ないから他の職員との協調が必要だが、皆サービス残業でやらされているため攻撃的になりやすい。ただでさえ介護の職場は人間関係が悪いところが多いが、夏祭りはそれに輪をかけて職場の雰囲気を悪化させてしまう。それが原因で退職する職員も出るぐらいだ。夏祭りは心身ともに職員を消耗させるイベントなのだ。
これだけネガティブな事を言うと「夏祭りは利用者が喜ぶからいいじゃないか」と言う反論が必ずでてくる。だが、夏祭りに限らずいろんな意味で無理なイベント開催が利用者に害を与えている実態はどう説明するのだろうか?
夏祭りの準備中の職員の負担は非常に重い。そのため中には介護そっちのけで準備作業する人も少なくない。施設側もある程度それを黙認したり、中には公式に夏祭り準備している間は正式に介護業務を免除する施設もある。その結果ただでさえ人数が少ない職場はもっと忙しくなってしまう。しかも、夏祭りで活躍すれば人事考課に影響する施設もある。ナースコールも応答せずに夏祭り準備にうつつを抜かすなど本末転倒もいいところだが、利用者にはたまったものじゃない。
一番の問題は夏祭りの時は利用者に対するケアやモニターがいい加減になる事だ。夏祭り中に盆踊りに夢中になるあまり、利用者がおでんの卵を喉に詰まらせても気付かなかった馬鹿施設もある。きちんと役割分担は決めてあるところが多いが、それでも利用者の家族や外部の訪問者などで混乱する状況では規律が緩んでしまう。中には与えられた役割を守らない職員も出てくる。その結果、利用者が危険な目に遭うのだ。
「利用者が大事」と正論を述べる職員はあまりにも多いが、実際には利用者よりも夏祭りを優先する偽善者も多いものだ。外部から見れば施設の夏祭りは賑やかで楽しいかもしれない。だが、その裏は極めて醜いのが現実だ。
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2011-08-24 01:45
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さて今回は前回の続きを語ろう。前回俺は嘱託医について(1)無能についてかなり多くのスペースを使って語った。嘱託医はなぜか普通に診断能力に欠ける医師が本当に少なくない。そして電話相談だけで投薬、処置を指示することが過誤に更に過誤を招く傾向がある。これだけでもかなり危険だが、まだ電話で指示を与える嘱託医はまだマシな方だ。(2)モラルや責任感が欠如した医師だと夜間指示を仰ぐために電話しても意図的に電話に出ない連中もいる。言っておくが夜間急変時には電話を掛ける事は承知で嘱託医の契約を結んでいるのだ。
また責任感のある医師なら利用者が急変した時に夜間や日中往診してくれる医師もいるが、決められた往診日以外全く往診しようとしない医師もいる。必要な時に医療が受けられないなど嘱託医の意味がないと言われても仕方がないが、実際そんなモラルの無い医師が嘱託医になっている施設はたくさんある。言っておくが居宅療養管理指導費や往診料も取りながら夜間の緊急電話にも意図的に応答しないなど犯罪ものの怠慢だが、こんなろくでもない医師を処罰する方法は現在はない。
続いて(3)プライドが高く扱い辛いだが、本当に医師と言う者は医師以外の人間の助言や提案を受け入れない極めて独善的な人種だ。どこの施設の関係者も独善的な医師の取り扱いにはほとほと手を焼いている。例えばある利用者が皮膚に湿疹が出来たとする。これは内服薬に反応した薬疹(薬によるアレルギーによる湿疹)ではないか?内服薬を中止してみてはどうだろうか?と考えたとする。しかし、この時も提案の言い方を注意しないと嘱託医が簡単にへそを曲げてしまう。ダイレクトに「内服薬による薬疹じゃないですか?薬を中止したらどうですか?」と提案しようものなら100パーセント医師が気分を害する事は間違いない。気性の荒い医師なら「医師でもないアンタに何が判るんだ!素人は黙ってろ!」と怒鳴りだしかねない。このような類の提案や意見を言うのは医師にとっては誤診や医療過誤を正面切って指摘するのと同じだからだ。医師は本当に扱いが難しいのだ。
医師として看護師や薬剤師、検査技師よりも見下している介護職に治療や処置を否定されたり、異なる意見を受け入れなければならないのは何よりも屈辱に感じる。だが、良く考えれば判るように介護現場でも医療現場でも大事なのは患者の利益のはずだ。医師の誤診や不作為で利用者が迷惑している例はいくらでもあるはずだが、施設関係者たちは極力医師たちの逆鱗に触れる事を恐れている。しかし、そうやって医師たちのプライドを守っている間にも利用者の健康が犠牲になっているのだ。結局「利用者が大事」などの介護者の常套句は大嘘なのがこれでわかるだろう。
言っておくが、医師たちも入院患者や通院してくる患者には程度の差はあるものの施設の嘱託医ほどは傲慢な言動は控える傾向がある。患者に悪い印象を与えると近所に悪い評判が広まり、病院の経営に影響するからだ。だが、施設の嘱託医は多少問題があっても解任しにくい。
なぜか?
まず新しい嘱託医を探して来なくてはいけないし、行政上の手続きも大変な事がある。そして何よりも嘱託医を変更することにより、治療方針が変わったりした場合、利用者の動揺がある。嘱託医を変更するのに利用者の同意は必要ないが、それでもまるっきり利用者の意見を無視するわけにはいかない。嘱託医の解任は本当に難しいのだ。そして嘱託医が同じ法人下の医師の場合は解任が難しいどころか不可能と言いきってもいい。
利用者やその家族の中には嘱託医の能力やその不誠実さに不信感を抱き、嘱託医を代えて欲しいと希望する人もいる。だが、それはまず不可能に等しい。頑なに嘱託医の変更を希望すれば下手すると退所を迫られる事すらある。(勿論退所を迫れる法的根拠はない)
勿論嘱託医が施設と同じ法人下の医師や病院なら変更するのは不可能だ。利用者や家族にとっては命あっての物種だから当然の主張と思うかもしれないが、施設側から見れば我儘な利用者もしくはその家族に思われる可能性が非常に高い。一人二人の利用者のために嘱託医を解任するような面倒くさいマネをするぐらいなら、いっそ退所して欲しい。それが施設の本音だ。なんせこのご時世、いくらでも利用者はいるからだ。
言っておくが、もし例え馬鹿で不誠実な嘱託医をクビにしても利用者の家族の受難は続く。代わりの嘱託医を家族の手で探して来なくてはいけないし、内服薬も家族たちで用意しなくてはいけない。そしてもし利用者が急変した場合、対応するのはその家族になる。夜中でも施設から電話で叩き起こされる。ここまでの犠牲を払ってまで嘱託医を解任する家族は殆どいない。
いい施設を選ぶのは難しいが、優秀で真面目な嘱託医がいるのは殆ど運頼みだ。施設の良し悪しは情報を集めれば判らない事はないが、そこの施設の嘱託医の良し悪しは外から見ても判りようがないのが現実だ。そして入居した後も嘱託医がどんなふざけた行動をしても、何もできない。一般社会なら通っている病院の医師が暗愚なら医師を変えればいいが、施設に入るとそれすらできない。不条理だが、これが現実だ。施設入所の際は、いい嘱託医に会えるように幸運を祈る事だ。
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2011-08-17 00:37
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医療 |
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前回、前々回と緊急対応について話をした。そのついでに嘱託医つまり施設のかかりつけの医師について言及したが、改めて考えてみれば今まで施設の嘱託医について話した事はない。今回は施設のかかりつけの医師について話をしよう。
一応嘱託医とは何の事か説明しよう。嘱託医とは所謂福祉施設で入居者のかかりつけの医師の事を意味する。障害者施設だろうが、老人施設だろうが嘱託医は必ず一人は必要で、主に入居者の全体的な健康管理を担当する。その性格上内科医が担当する事が多い。施設を経営する法人が持つ病院の医師や地元の開業医が担当する事が多く、休診日の日に施設に来ては往診を行う。大体施設によって違うが、月に2〜4回ぐらい往診がある。そして全体的な健康管理の他に精神科や歯科、皮膚科など専門的な医療分野を担当するサブの嘱託医もいて、往診が必要な利用者に月に2回ほど往診を行っている。しかし、この嘱託医連中が非常に問題なのだ。
よく考えれば施設のサービスは皆気にするが、そこの嘱託医がどんな医師なのかは全く気にしていない。おかしいことに病院ランキングなど老人ホームランキングなど病院や施設の質には気をつけるのにそこの入居者の命を文字通り預かる嘱託医については殆ど何も知らないのが現状なのだ。だが、施設の嘱託医の質は非常に大事だ。その質についてだが、施設の内側で嘱託医の言動を見ると心もとないのが現実だ。殆どの施設は嘱託医について大なり小なり悩まされている。そしてそのおそらく6割ぐらいはできれば嘱託医を解任して、他のマシな医師にすげ代えたいぐらいに思っているだろう。
解任したいと言うのは穏やかではないが、実際そういう嘱託医は少なくない。俺自信も「病気になってもこいつには診察して欲しくねーな」と感じるぐらい嘱託医に不信を持つ事がある。では嘱託医を解任したい場合その理由は何だろうか?
主な理由は大きく分けて3つだ。
(1)無能
(2)モラルや責任感が欠如
(3)プライドが高く扱い辛い
(1)無能は本当に文字通りの事だ。実際親を入居させている家族にとっては肝が冷えるだろうが、施設医療でも診療ミス、医療過誤は非常に多い。施設の嘱託医になる医師はなぜか診察能力に疑問があるのが多い。これは独断でも偏見でもない。中には優秀な嘱託医もいるのだろうが、嘱託医の診察能力を長期間、間近で見てきた俺には優秀な嘱託医の存在は信じがたい。特に施設では夜間や緊急時などは実際患者を直接見ずに電話相談などで投薬、処置まで指示するために過誤を犯す確率がどうしても高くなる。
例えば夜間に利用者の体調が悪くなったとする。その時は場合によって嘱託医に電話して指示を仰ぐのだが、直接患者を観察できないのだから、せいぜい血圧や体温、酸素飽和度の数字を聞いて判断するしかない。熱が出ていればステレオタイプに解熱剤の投与したりするだけだ。だが、当たり前だが直接患者を見ずに診断することなど危険極まりない蛮行だ。ノロウイルスに感染している人に吐き気止めや下痢止めを処方して余計に状況を悪化させたりなど裁判沙汰になりはしないがどうしても患者を直接見ずに診断しなければならない嘱託医はその性質上誤診が多くなる。
こんな事言うと定期的に直接入居者に往診しているし、ある程度現病歴や既往歴は把握しているから大丈夫だという反論が医療従事者からあるかもしれない。だが、月に何度か往診していると言ってもはっきり言って大雑把に血圧測って一言二言ご機嫌伺いをしているだけだ。介護施設の往診なんて利用者一人に5分もかけて診察などしていない。1、2時間ぐらいで20人から多くて50人を診察するのだからどうしても診断が大雑把になる。しかも病院とは違い、CTやレントゲンなどの医療機器などが無い状態なのだから正しい診断がどうしても難しい。つまり普段の往診から誤診する要素が多いと言う事だ。
入居している人の中には健康上特にさしたる問題の無い人も少なくない。しかし、それでも入院している人以外は全ての入居者は月に何度かはこの儀式にお付き合いしなくれはならない。しかも医療費まで取られるのだから本当に割が合わないではないか。あんな雑で利用者を十把一絡げに扱う往診など医療費の無駄遣いの見本以外の何物でもない。これなら体調が悪くて医師が必要な時に往診にきちんと来てくれる方が何十倍もありがたい。だが、必要な時に往診に来てくれないのが嘱託医なのだから困る。この事は(2)モラルや責任感の欠如に通じるが、残念なことにもう書く時間がない。続きは来週を楽しみにしてほしい。
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2011-08-10 22:25
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今回は前回の続きを語ろう。よく「24時間医師の対応が可能」「○○病院と提携してしているから大丈夫です」などよく施設の緊急対応の充実さをアピールするのに利用されているが、これほど当てにならないものはない。殆どの利用者やその家族はいざ夜中の4時に心臓発作を起こした場合、どんな対応を施設がしてくれるのか知らないだろう。今回はそれを俺が教えよう。
確かに病院と同じ法人下にある施設は多い。しかし、病院と提携しているからと言ってそれが24時間のいつでも病院と同じような医療や看護を受けられると言う意味ではない。緊急搬送に指定されている病院でさえも夜間いるのは経験の浅い研修医ぐらいのところは少なくない。ましてや緊急搬送指定されてない病院など、脳梗塞を起こしても適切な対応が期待できるレベルなど期待しない方がいい。
そもそも多くの人は「提携病院」に過大な期待をしすぎだ。もしその提携病院に内科医しかいないなら、骨折やくも膜下出血には無力だ。第193回でコメントしてくれた方が言うように医師が例えいても技師がいなければレントゲンもCTも撮りようがない。提携病院の存在など夜間の電話相談に応じて貰え易い程度の保障しかない。言っておくが診察ではなく、電話相談だ。電話をすればいつでも嘱託医が施設に来て、看てくれると思っている人もいるが、そんな事まずあり得ない。電話で症状を説明して医師から電話越しに投薬を指示されヘルパーが投与する・・・という形が一番多い。
「えっ?直接利用者を見ないで正しい診断なんかできんの?」
って思う人もいるだろう。確かにそれは常識的な疑問だ。あまりにも正当な疑問だ。だが、それを平気でやるのが施設の緊急対応なのだ。事実患者を直接診ない電話対応は裁判ものの診断ミスの宝庫だ。インフルエンザにポンタール(解熱剤)を投与して脳症を起こしたり、心筋梗塞を起こしているのに発熱している事実だけ聞いて、解熱剤を投与して死亡させた例もある。
提携病院がありしかもその病院が同じ敷地内にあれば例え夜中でも診察してもらえるとよく勘違いされているが、提携病院があってもそれがない施設と対応は大差ない。同じ敷地内なら物理的に医師が施設に来る事も出来ると思うかもしれないが、そんなこと出来る訳がない。よく考えたら判るが、病院側も入院患者がいるのに医師が無責任に病院を離れられる訳がない。そしてこれは施設側も同じ事が言える。同じ敷地にあるなら施設から利用者を病院に連れて行けばいいじゃないかと思うだろう。ただ夜勤者は夜中2人で50人ぐらいを介護している。それなのに施設を離れられるわけがないではないか。「病院と提携しているから24時間安心です」なんて嘘っぱちだ。
先ほども言及したが同じ法人下に病院があっても、そこにいる医師が何の専門かが問題だ。夜勤している医師が整形外科医なら骨折の対応は出来ても、糖尿病昏睡には対応できないだろう。ましてや夜勤をしているが研修医程度ならアナフィラキシーショックや吐血など起こされたら対応できないだろう。提携病院があっても救急車を呼ぶ羽目になるなど皮肉としか言いようがない。だが、これが現実なのだ。
夜中の電話対応だけでも十分すぎるぐらい無責任な印象を受けるかもしれない。しかし、夜中に電話に出る嘱託医はまだマシな方だ。嘱託医の中には電話を故意に無視する奴までいる。もし自分自信や家族がそんな嘱託医がいる施設に入所しているならもう不幸としか言いようがない。嘱託医にとって夜中に叩き起こされるのは迷惑だったり不快だろうが、嫌ならば嘱託医にならないければいいだけだ。かかりつけの医師になると居宅管理療養指導費や往診料まで定期的に取っているのだ。それでいて夜中の緊急電話を無視するなど医師のモラル以前の問題だ。個人的にそんな医師は詐欺などの刑事罰を科すか医師免許を剥奪ぐらいするべきだと思う。施設側もそんなふざけた医師など嘱託医を解任するなど強硬な態度を取るべきだろうが、医師を交代させると治療方針も変わってしまうため、なかなか難しいのが現実だ。
因みに夜中に利用者が心肺停止などで急死する事は決して少なくない。その場合、夜中でも医師に病院に来てもらい死亡診断をしてもらわないといけないが、医師が来ない場合は現場の介護者には警察からの事情聴取が待っている。24時間医師の診察を受けていない場合は変死扱いになるためだ。一応形式上のものだが、受けた人間はいい気分はしない。
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2011-08-03 23:10
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介護 |
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今回はエマージェンシー、緊急対応について話そうと思う。
普通の常識的な人々は介護施設にいるならいざ心臓発作や骨折で身動きできなくなっても安心だと思っているだろう。実際介護の職場にいる人でもそう思っている節がある。しかし、施設にいてもいざという時にきちんと緊急対応をしてくれるとは思わない方がいい。
こんな事言われると「そんな馬鹿な。そのための介護施設じゃないのか」とびっくりする人もいるだろう。確かにその通り。いざという時のために介護施設に入っているのだし、高いお金を出して有料老人ホームに入っているはずだ。だが、こんな事を信じるなど振り込め詐欺に騙されるのと同じくらい愚直だ。
どんな施設だろうが「いざという時安心」など死ななきゃラッキー程度ぐらいの保障しかないと思った方がいい。言っておくがこれは1億円払って入所する高級な有料老人ホームでも同じことだ。それどころかそういう大金が払えて日常生活も自立している人ほどかなり危ない。経済的余裕のある人は「転ばぬ先の杖」として有料老人ホームに大枚叩いて入居するが、その杖はプラスティックぐらいの強度しかないと覚悟するべきだ。
要介護の人はなんだかんだと24時間職員が介護のために訪問する事があるが、まず自立の人はそれがない。高専賃(高齢者専用賃貸住宅)など、多くの有料老人ホームでは8時間以上トイレに行った形跡がないとセンサーが反応して異常を知らせる緊急通報システムを持っている事を自慢するが、そんなもの何の役に立たない。せいぜい孤独死で白骨死体で発見されるのを防ぐ程度だ。よく考えれば人間は数分呼吸できなければ死ぬのだ。入浴中にてんかん発作を起こせば数分で溺死なのに、6時間、8時間単位で緊急通報など何の意味があるのか?一度有料老人ホームに見学に行って、「ウチは緊急通報システムがあるから安心です」と言われたらこの疑問をぶつけてみよう。さぞかし返答に困るだろう。
では要介護状態で24時間職員が何らかの援助に訪問してくる特養や小規模多機能で安心かと言えばそれも全く違う。確かに全く介護がない自立の人に比べるとまだ夜間でも介護機会があるだけ、昏睡状態でも発見が早いかもしれない。しかし、介護施設では夜間の緊急対応は非常に心もとないのが現実だ。看護師が夜勤もする老人保健施設以外ははっきり言ってまともな緊急対応は期待できないと覚悟した方がいい。
「ウチは24時間看護師が対応します」と言ってもそれは夜間も看護師が施設にいるという意味ではない可能性がある。多くの特養や有料老人ホーム(安いところ)では看護師はまず夜勤をしないというかさせられない。コストが介護士と段違いに違うためだ。「看護師が24時間対応する」と言うのは所謂オンコール当番を意味する可能性がある。オンコール当番と言うのは夜間の急変時には家に帰っている看護師に電話して相談をする体制の事だ。だが直接施設にいるのと電話で症状を相談するのとでは全く対応の質が違うのは言うまでもないだろう。もっとも当然のことながら大抵の看護師はオンコール当番を嫌がるため、施設によってはこの制度がないところも多い。
もし看護師の電話対応でも事態が解決しないなら、今度は施設のかかりつけの医師に電話相談することになる。よく施設側も「いざという時は嘱託医に夜間連絡して対応するので安心です」「ウチは○○病院と提携しているから夜間でも安心です」と嘱託医がいる事を強調したがる。その通りにちゃんと嘱託医が夜間でもきちんと対応してくれるなら確かに問題ない。でもそうじゃない嘱託医が多いから問題なのだ。
何が問題なのか?この続きは次週語ろう。
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2011-07-27 23:37
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介護 |
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メールマガジンの時に述べた事があるが、俺は寄付を全くしない。東日本大震災の時の募金も同様だ。どうして頑なに寄付をしないのか?それはこんな風に無駄遣いされるからだ。
今秋発売されたFRIDAY7月29日号を見て欲しい。そこには日本赤十字に集められた義援金が実際にどんな使われ方をしているのか報告されている。内容を要約すると仮設住宅や借り上げ住宅に入居すると日赤から家電製品6点が寄贈されているが、心ない入居者の中にはその寄贈された家電製品をリサイクルショップで売り払ってしまっている人もいるのだ。福島県内のリサイクルショップには寄贈品を売ったためか同じ会社の同じ型の冷蔵庫や洗濯機、電子レンジなどが集まっているという。
以前から義援金の存在意義には疑義を感じていたが、この記事を見ると「やっぱりそうか」と失望を禁じ得ない。だが、寄付をしていない俺よりも寄付した人々はこの実態を知るとどう感じるだろうか?怒り心頭に感じるだろうか?それともとりあえず「善意は行ったのだから」と自分を慰めるだろうか?どちらにしろ、寄贈品を売るなど泥棒と同じではないのか。恥を知るべきだ。
こんな事を言うと「泥棒は言い過ぎじゃないか」と非難するかもしれないが、どんな理由があっても善意の寄贈品を売るなど義援金を出してくれた人々を裏切る背信行為だ。
被災者は仮設住宅などに入居する際に32型液晶テレビ、冷蔵庫、電気ポット、洗濯機、レンジ、炊飯器の6点セットの寄贈品を必要なだけ申請する事ができる。大半の申請者が6点全部を申請すると言う。それなら必要が無ければ申請しなければいいだけだ。もし彼らが余った家電を売らなければ、他にその家電を必要とする人々を救えたかもしれないとは思わないだろうか?
しかし、中には「被災者の生活は悲惨で日赤からの寄贈品を売ったのは止むを得ない」との反論があるだろう。確かにそこまで困窮している実態には同情の余地がある。しかし、余っている家電を売ってもそれは果たしていくらになるだろうか?冷静に考えればたかだか家電6点売ったところで窮乏状態を抜本的に改善するものではないはずだ。義援金を贈ってくれた人々の良心を踏みにじってまでやるべき価値はあっただろうか?書いていて悲しくなるばかりだ。
日赤の姿勢も問題だ。FRIDAYでコメントを求められた日赤担当者は「寄贈品の所有権は被災者にあるのでそれらを売っても何も言えない」とコメントしているが、義援金を贈る側からしてみるとふざけるなと言いたくなるだろう。義援金を送った人々の中には多いとは言えない収入の中から「被災者のために」と苦労して贈った人もいるのだ。
そもそも日赤に限らず、このような寄付や義援金関連について根本的な疑問がある。どうして彼らは援助が必要な人に必要な形で援助しないのだろうか?確かに家電を送ってくれた方がいい場合もあるだろうが、それよりも現金で贈られた方が被災者にとって使い勝手がいいはずだ。送料も管理費も必要な家電を購入して贈るよりも現金を直接寄贈する方が効率もいいはずだ。贈られる側よりも贈る側の自己満足が優先されてしまっていると批判されても仕方がないだろう。
俺は義援金を出さないためにこんな事を言う資格がないかもしれない。しかし、慈善団体には義援金を出してくれた人々に対してきちんと説明責任があるはずだ。共同募金でさえ本当に恵まれない人に渡るのは2割ぐらいだと言われている。日本赤十字の場合は義援金の6割を人件費に使っていると言われている。詳細ははっきりしない。なぜなら共同募金も日本赤十字も義援金を何に使っているのか公表をしていないからだ。そこそこの株式会社ならインターネットでIR情報(インベスター・リレーションズの略。簡単に言うなら会社の財務状況報告書)を公開している。なぜ彼らは義援金を何に使っているのか公表しないのだろうか?
どこかの有名人が「義援金は100パーセント被災者のために使います」と言っていたが、少し考えれば義援金が100パーセント被災者
に渡すというのは不可能に等しい。そんなもの現実を知らない理想主義者か子供の理屈だ。義援金を預かって使う人の人件費や管理費だって必要だ。だから俺は義援金が100パーセント義援金が被災者にために使われているとは思わないが、どのような使われ方をしているのか知りたい。純粋な思いで寄付した人々はもっと知りたいだろう。会計の公開を拒む慈善団体は慈善ではなく単なる偽善者ではないのか?
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2011-07-20 01:22
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社会 |
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今回はアロガンス、英語でarroganceつまり傲慢さをテーマにしたい。
傲慢さと言えばもうわずか9日間で辞職した松本龍元復興大臣を引き合いに出さざるを得ないだろう。政治家がそんなに立派な人たちだとは国民は思っていないだろうが、品性の欠片もない生の恫喝が全国ネットに流れたのが衝撃的だった。以下その発言内容を紹介しよう。
「九州の人間だから、何市がどこの県とか分からん。」
「知恵を出したところは助けるけど、知恵を出さないやつは助けない。そのくらいの気持ちを持って。」
「お客さんが来る時は、自分が入ってから呼べ。しっかりやれよ」「長幼の序がわかっている自衛隊ならそんなことやるぞ」(応接室に村井知事が後から入ってきたことに対して発言。しかし、村井知事は実際には待たせたのは一分ぐらい、しかも定刻通りだった)
「県でコンセンサスを得ろよ。そうしないと、我々は何もしないぞ」
「今の最後の言葉はオフレコです。みなさん、いいですか、絶対『書いたらその社はもう終わり』だから」
言っている内容自体は正しいものもあるが、最後のマスコミに対するオフレコ発言は完全に恫喝以外の何物でもない。言い方や言葉遣いがあまりにも傲慢だと言わざるを得ない。仮にも選良と呼ばれる人物がこんな脅迫まがいの言い方を知事にするのかと国民とりわけ東北地方の人々に与えたショックは大きい。辞職は当然だろう。
自らの傲慢さで名誉どころか次の選挙では当選も危ぶまれる事態になった松本代議士。傲慢さとは実に高くつくといういい例だろう。ここで考えてみたい。果たして傲慢さとは何だろうか?
ここで現代社会の分析も絡めて傲慢さについて語ろう。
実は現代社会は傲慢さについて良くも悪くも非常に敏感だ。この社会においては誰もが非常に傲慢さ発揮して他人を見下そうとしている。そして見下される側も「見下される事」に対して非常に過敏で過剰反応する。現代社会は傲慢さがありふれた社会なのだ。それを象徴するようなあるワードが出現している。
「上から目線」
この言葉は2000年代後半からよく耳にする事が増えた。10年前にはまず聞かれなかった言葉だろう。だが、この言葉こそ傲慢さがいかに現代社会に溢れているか、そして現代人が見下されることにいかに脆いかの象徴なのだ。
実を俺も「上から目線だ!」と非難される事が少なくない。このブログやかつてのメルマガの内容を読んで「こいつは傲慢だ」と思う人も少なくないだろう。それ自体はどう思われようが結構だが、意外な事にリアル社会の俺はなるべく傲慢だと思われないように振る舞う。ご存じのように俺は介護の知識では人後に落ちない自信がある。だがその能力を遠慮なく発揮すると同僚や上司の嫉妬や反発を買ってしまう。だから介護現場でも知っている事を隠し、「爪を隠す」事が少なくない。他人の才能を発揮させる事を妨害する方のが傲慢で不遜だが、現実社会ではこのような事は少なくない。嫉妬や妬みは傲慢さの異型なのだ。
「謙遜さは美徳だ」と言われている。多くの人々は褒められても「そんな事はないですよ」と自分を卑下するのがマナーだ。だが、そんな人前では謙遜する人でも冷静に言動を観察すると非常に傲慢な人が多い。と言うよりも傲慢さがない人間はまずいない。
傲慢さとは妬みや嫉妬、軽蔑された怒りや自分をよく見せようとする虚栄心の原点なのだ。つまり軽蔑される事や上から目線で見られる事に耐えられない精神的脆弱さでもあるのだ。よく考えたら他人から馬鹿にされても、上から目線でも別に実害はないはずだ。だが、傲慢さに敏感な現代人は実害のないものを非常に恐れている。そして見下される屈辱を味わう前に誰かを見下そうとしている。だが、そんな恐怖心は人間関係を壊してしまう。健常者だろうが、障害者だろうが人間は愛情と信頼関係がないと生きてゆけない。自分の中の傲慢さを克服する事こそよりよい人生には必要なのだ。
そして見下される恐怖は現実直視を遠ざけてしまう。
「前向きさは嘘つきの始まり」だと前回語ったのを覚えているだろう。前向きさも傲慢さも同じように謙虚に自分を振り返る事から遠ざかってしまう。両者ともに自分の精神的脆弱さを糊塗するものなのだ。
古代の哲学者から現代のインターネットまで精神的に強くなる事は賢人たちが目指した理想郷だった。空手や剣道、柔道などの武道でさえ鍛錬する目的は精神的に強くなるためだ。強くなる事は人を見下す事ではない。己の弱さを直視する事が強くなる事なのだ。現に傲慢な発言をした松本元復興大臣は批判にさらされるとすぐに辞職してしまったではないか?政治家として苦難を乗り越える資質は無かったのだろう。
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2011-07-13 00:10
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心理学 |
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個人的感情で申し訳ないが俺は前向き、プラス思考、ポジティブシンキングなど何でもいい方向に捉えようとする言葉が嫌いで嫌いで仕方がない。第134回「前向きさなど捨てろ」と第135回「前向きさの危険性」でも痛烈に前向きさを批判したつもりだがまだ足りない。それぐらい福祉を始めこの世には忌まわしい前向きさが充満している。
はっきり言っておくが前向きさとは偽証と虚偽を正当化させるための常套句だ。俺は前向きさ溢れる発言を聞くと何かを隠そうとしている匂いを感じて仕方がない時がある。ここまで言うとあまりにもネガティブすぎて嫌悪感を感じるかもしれないが、それには俺の個人的な体験が非常に影響している。俺はこの体験を通じて前向きさと言うものがどれだけ人に平気で嘘をつけさせるのか思い知った。この教訓から現実逃避をするための前向きさなど嘘つきの始まりだとさえ思っている。少しだけ個人的体験を話す事を許して欲しい。
俺はかつて異様なほど前向きやプラス思考という言葉が好きな施設に勤務した事がある。朝礼で復唱させられる理念の中に「だけど、でも、などのマイナス思考の言葉は使いません」と言う代物があったくらいだ。冷静に考えれると単なる馬鹿施設だが、実際に勤務した俺はとんだ煮え湯を何度も飲まされた。まずこの施設の求人に応募した時だが求人票には正社員だと書かれてあったはずだった。ところが働く3日前に施設側は恐る恐る言いにくそうに実は非常勤雇用であると通知してきた。面接時にもその事は言われなかったし、ましてやもう前の職場は退職してしまっているのだ。驚愕のあまり固まる俺に施設長はこんなフォローをしてきた。
「申し訳ないけど、松田さんは中途採用だから非常勤でまず頑張ってもらえたらと思うの。でもね、でもね、松田さん。上手くいけば常勤は半年でなれるから」
ちっ、半年は試用期間のようなものか。長いな。嘘を付かれたのは頭に来たが、まあ6か月我慢するしかないな。今更引くに引けない俺はあくまでも状況をこのようにプラスに受け止めるしかなかった。名だたる社会福祉施設の長が酷い嘘をつくわけがない。今と違い甘さが抜けない俺は希望を信じようとした。
だが、嘘はこれだけではなかった。この施設の非常勤職員で6カ月で常勤に昇格した職員は存在しない事が後に判明する。常勤になるのは最低でも1年以上かかりしかも上司の推薦が必要だった。つまり上司に嫌われたらいつまでたっても常勤にはなれない恐怖のシステムだった。現に職場には5年以上も非常勤のまま冷や飯を食わされている人もいた。俺は3年後に介護福祉士とケアマネージャーを獲得したがそれでも常勤になれないため転職することにした。
世の中の人々は社会福祉を経営していると聞くと無条件で「いい事」をしていると思うだろう。しかも「前向き、ポジティブ指向」が理念だと言うのだから誰でも信用するに違いない。だが、前向きだのプラス指向だの言いながら俺にした事は誰が見ても理不尽で最悪最低で超後ろ向きな事だった。俺は退職の際、施設長に重ね重ねの大嘘を非難した。さすがに事実を指摘されると反論できないのか神妙に聞いていた。そこで俺はこんな皮肉を言うことにした。
「やれやれ、この施設で常勤になるのは介護福祉士やケアマネに合格するより難しいんですね。これで前向きになれってよく言えますね」
施設長は顔を歪めて屈辱に耐えるしかなかった。
散々な体験だったが、ここで得た教訓は貴重だった。
それは「前向きを強調する連中は平気で嘘を付ける」事だった。だが、前向きな嘘つきは俺も同様だった。俺は求人票に平気で虚偽の記載をする連中を「頑張ればいつかは正当に評価してくれるだろう」と愚直に信じていた。つまり俺も自分自身を騙していたのだ。あの時、俺がしなければならなかったのはこの連中がろくでもない嘘つきだと現実を直視することだったのだ。
社会の常識とは裏腹に所謂嘘つきは決して邪悪な人間ではない。彼らには良心の呵責もあり、優しさもある。見かけはごく普通の常識人だ。俺を騙した連中も見た目は物腰の柔らかい人たちだった。
「嘘を付いて何が悪い?そんなもの騙される方が悪いんだろ?」と嘘を正しいとさえ主張するような強烈な嘘つきは現実の世界ではそういないものだ。だが、そんな常識的な人々をすさまじい嘘つきに変えるものは何だろうか?
それは弱さだ。特に精神的な脆弱さと言ってもいい。病的な嘘つきは前向きさを盾にして弱さを隠したがる。まさに弱きもの汝の名は前向きさだ。だが、最も他人を巻き込んで不幸にする嘘こそ「前向き」に偽装されたものなのだ。
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2011-07-06 22:20
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心理学 |
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今週は前回の続き、誤りだらけの事故対策について語りたい。
どこでもそうかもしれないが、都合の悪い事、施設にとっては事故が起こると必ず派生するのはスケープゴート探しだ。だが、皮肉なことに事故の本質やその真の発生原因は一個人の問題で終わることなどまずない。東京電力の原発事故や福知山線の脱線事故をみて判るように過誤の事故は組織全体の問題だ。
何度も言うが事故は現場の人間をスケープゴートにする問題ではない。大なり小なり事故の本質は組織の膿そのものなのだ。だが、愚かな事にその事を判っていない人々が多すぎる。大体現場の人間の責任はそのままトップの責任なのに部下をスケープゴートにしたがるリーダーが多すぎる。だが部下をスケープゴートにしていると、必ずその代償を払わなくてはならなくなる。
福祉現場では現場で転倒なり、誤薬をすると必ず事故報告書を書かなくてはならない。しかし、この事故報告書は前回も語ったように事故防止には全く役に立たない。それどころか自己保身と相互不信の原因になりかねないものだ。どういうことか?説明しよう。
前にも述べたが事故報告書など現場職員の本音から言えば「面倒でメリットのない」ものだ。福祉で働く職員は「モラルが高く、利用者のために働く献身的な人間だ」と思っている読者はまさかこのブログの訪問者にはいないだろうが、人間誰でも自分がかわいいものだ。長時間サービス残業をさせられ、利用者には殴られ、あまつさえ吐瀉物や糞便まで処理させられたら誰でも福祉や利用者が憎たらしくなる。普段は「利用者さんに感謝してもらえるサービスを提供したい」とか美辞麗句をぶっても、誰でも組織への忠誠心など東電への信用度よりも低いのが現実だ。
そんな忠誠心も何もない状態で事故を起こしたり、目撃しても正直に事故報告書を書かない事は大いにあり得る。何度も言うが事故報告書は非常に面倒くさい。提出しても上司の判断一つで書き直しを命じられる事もあるし、上司も状況次第では部下に責任を押し付けて保身を図る事は部下もよく知っている。上司の自己保身のために事故報告書を書かせることも気付いている。そんな部下が利用者がベッドから落ちて倒れているところを発見したりしても報告しない事は心情的に責められる事ではない。利用者も認知症などで転倒した事を忘れる事も多い。しかし、後にこの隠ぺいが大問題に発展する事がある。
隠ぺいした事故が原因で足や腕を骨折していた場合、利用者は当然尋常じゃない痛みを訴える。そこでレントゲンを撮ってみたら骨折が発覚。一体どこで何が原因で骨折したのか?全く判らない状態になる。利用者が骨折したり大怪我をしたりする事は勿論上司は気に食わない。しかし、どこでその大怪我が起きたか不明なのは最も上司が恐怖する事態だ。利用者が骨折したら家族は勿論黙っていない。しかもその原因が説明できないなど問題外だ。家族から裁判で訴えられてもおかしくない。上司も自分の上司からも説明責任を求められるが、応えようがない。解雇までは行かないが、管理責任を問われて減俸されるぐらいは十分あり得る。部下をスケープゴートにしてきた代償はあまりにも大きい。
利用者が勝手に骨折している施設などそんな恐ろしい施設など誰が入所するんだ?と言われそうだが、そんな施設は少なくない。多くの施設にとって事故報告書は自己保身と相互不信を招くツールと化している。よくありがちだが、事故が起きると確認事項や手続きが増える。なぜならこれも上司の保身と相互不信が絡んでいるためだ。だがルールの複雑化は間違いだけではなく、施設の雰囲気を悪化させる最悪の愚策だ。
例えば誤薬なら投与前に他の介護職員に薬の投与する対象者が間違いないか確認をさせたりするなどがある。だが、これらの対策は基本的に介護職員を苦しめるだけだ。忙しい介護の現場ではそんな複雑な手続きに付き合ってられないから、段々介護職員たちは手続きや確認事項を省略したりし始める。つまり対策の強化が規律やモラルの低下に直結するという皮肉極まりない結果を招いてしまう。
前回にも強調したが、事故の原因は「職員の意識が足りない」などのような精神論やモラルの低下ではない。単純に余裕のない介護を強要している職場環境にあるのだ。
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2011-06-29 01:21
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今回もアクシデントシリーズを続けるつもりだった。しかし、事故対策はアクシデントから派生しているものの、その内容はあまりにも濃密で独立して一つのテーマにした方がいいと判断した。似たような話が続き、少し食傷気味かもしれないが、福祉ではアクシデントは付き物だ。それに対する事故報告書も付き物なのだ。根気よくお付き合い願いたい。
すでにご存じの方もいるかもしれないが、福祉施設で骨折以上の結果を残す事故を起こした場合は都道府県に報告義務がある。しかし、家族からのクレームや関係者に対するメンツから当然事故対策が求められる訳だが殆どの事故に対する改善策は対策とは言えるものではないか、出来もしない理想論以外の何物でもない。要するに施設の行う事故対策や事故報告書は「きちんと真摯に受け止めて対策を立ててますよ」というスタンドプレー程度に過ぎない。
どこの施設にも事故には必ず発見者(つまり現場の介護職員)が事故報告書を書かなくてはならないようになっているところが多い。事故についての解釈は施設や団体によって様々だが、事実から行動目的やその対策まで書かせたり、中にはその日の内に対策会議を開くように欲求する施設もある。 事故報告書など介護職員には面倒以外の何物でもない。そして単なる時間の無駄に終わっていると言っても過言ではない。
こんな事を言うと福祉関係者から非難を浴びそうだが、それなら俺はこう反論したい。
「事故報告書を書かせていながら似たような系統の事故やミスが減らないのはなぜか?」
福知山線脱線事故を起こしたJR西日本もかなりの非難を浴びたが、きちんと原因を分析して二度と同じような脱線事故を起こさないように対策を立てている。悲しい事に人間は過誤に直面した時に、初めて自分たちの怠慢や罪を自覚する。そして二度と起こさないように対策を考え始めるものだ。しかし、社会福祉施設にはこのような姿勢は全く皆無だ。彼らに過ちから教訓を得ようとする知性も謙虚さもない。現に福祉職場は同じ重大事故を繰り返している。
例
「利用者が無断外出してしばらく行方不明になる」
「食事中に喉を詰めて窒息死する」
「入浴中に利用者が溺れて死亡した」
「機械浴に入ろうとしたら中の湯が熱湯で利用者が全身大やけどをした」
「入浴中、シャワーチェアーから利用者が転倒した」
新聞を読んでいると施設の重大事故が載っている事がたまにあるが、いずれも似たような代物だ。事故の中には施設側の過失を問うのは酷な事故も多いが、上に挙げたこれらの例は100パーセント施設が悪いと断罪されても仕方がないものだ。
例えば最後の「入浴中、シャワーチェアーから利用者が転倒した」などはそもそもの事故の発端はシャンプーが無くなっている事に気付いた介護者が補充しようとして脱衣室の棚に探している内に利用者がチェアーから頭から落下。額を8針縫った。職員の不用心さも非難されるべきだが、それ以外の要素がこの事故には大きい。
まず安全であるべきシャワーチェアーには利用者を保護するべき安全ベルトが装備されていなかった。(拘束禁止のため)
そして風呂の床には衝撃吸収するためのスポンジマットが敷いてなかった(普通の生活では風呂に衝撃吸収マットは敷かない)
そもそも座位も維持できない利用者が機械浴ではなく、一般浴で入浴する事自体危険だった。機械浴ならこんな転倒は無かった。(普通の生活では出来るだけ普通の風呂に入るべきだ)
先ほどから目にする「普通の生活・・・」うんぬんのくだりは現代福祉でよく言われる理論でノーマライゼーション(普遍化)が関係している。社会福祉ではできるだけ「一般人と変わらない生活を営むべきだ」という理論が強い。そして利用者を守るための安全ベルトも拘束になるという理由で着用をしたがらない。彼らは何かと言うと「利用者さんが大事」と言う。しかし、事故の原因を分析してみると利用者の安全よりも施設の歪んだ理念と面子を優先している事が判る。利用者の安全を優先するなら出来もしない理想よりも、手っ取り早い安全ベルトの使用や機械浴の使用がベストのはずだ。所詮は施設にとって利用者の価値など施設の「高尚な」理念を証明する道具なのだ。
そして事故の重大原因は施設の歪んだ理念と面子だけではない。これは前回で紹介した誤薬にも共通するが今回紹介した5つの事故例も同じ原因が共通している。それは「慢性的なマンパワーの不足、余裕の無さ」だ。
2番目の事故例「食事中に喉を詰めて窒息死する」は餅を食べる機会の多い年末年始に増える。だが、施設の環境そのものが事故を引き起こす要因になっていると言っても過言ではない。食事時、介助する職員が1フロア、一人しかいない施設は決して珍しくない。食堂で十数人の利用者の対応をしながら、体調が悪く居室で休んでいる利用者にナースコールで呼ばれたらその間、食堂は無人の状態。この間に利用者が喉に食物を詰まらせても誰も助ける事が出来ないのだ。
恐ろしい事はまだある。食事時間中は施設の生活の中で最も忙しい時間帯だ。それでも1フロア、十数人の利用者を職員一人で対応する事は珍しくない。そんな余裕がない状況で食事介助を行い、内服もさせる。利用者が箸を落としたら拾いに行かなくてはならない。また突然膳を放り投げるスーパープレイを炸裂させる利用者もいる。こんな環境だとどんな事故が起きてもおかしくない。前回のように全く違う人に内服を投与したり、早く食事を終わらせようとして強引に食物を押し込み誤って誤嚥させる・・・そんな悪夢が起きてもおかしくないのが福祉職場なのだ。
何度も言うが介護を人間がやる限りどうしてもミスや過誤はゼロには出来ない。事故や過誤が頻発すると施設側は必ずと言っていいほど確認項目を増やしたり、現場に対する規制を強くする。しかし、そんな施設側の環境の問題を職員の個人的資質や精神論に押し付ける態度は職場内の人間関係の悪化や疑心暗鬼、士気やモラルの低下に繋がってしまう。次回はその点を詳しく語ろう。
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2011-06-22 18:01
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今回でアクシデントシリーズは3回目を迎える。身体的事故について語って来たが、今回は医療的な事故について語りたい。
医療事故と言えば新聞やメディアでもよく取り上げられるが、介護現場での医療事故は病院などと比べるとそんなに多くない。嘱託医(かかりつけの医師)の明らかな診断ミスは目にする事が多いが。しかし、介護現場で医療的事故は決して目立たないわけではない。数では転倒・転落などのスリップ系に負けるが、その重大性や深刻さではある意味どの事故よりも介護者に精神的ダメージを与える。転倒・転落では必ずしも介護者に責任があるわけではない状況が少なくない。拘束できないから利用者が歩こてこけても、それは防げないという理屈が成立する。だから転倒させても介護者に罪の意識はほとんどない。しかし、医療的事故では必ず看護師やヘルパーなどの職員側のミスや誤りがからむ。だからこそ医療事故に付きまとうプレッシャーやストレスは職員の悩みの種だったりする。
福祉現場における医療系事故で一番多いのは誤薬だ。
誤薬とはその名の通り、適切な人に適切な薬を投与していない事を指す。例を挙げるとこんな感じだ。
・Aさんの眠前薬を間違ってBさんに投与した。
・食前薬を食後に投与した。
・明日追加になるトランキライザー(精神安定剤)を間違って今日投与した
・血糖値を下げる薬を投与したのにも関わらず、また投与した(2重投与)
など誤薬は危険極まりないがその原因は思い込みや単純な確認ミスである事が殆どだ。
福祉で働いた事のない人はこれを想像もできない、もしくはあり得ない事だと思うかもしれない。しかし、現場にいる限りこの事故に無縁である事はあり得ない。しかも薬はその性質上処方箋にない投与は非常に危険だ(もっとも処方箋通りでも危険な事が少なくないが)。例えば糖尿病の患者によく投与される血糖値を下げる薬などは普通の人に投与してしまうと冷や汗、震え、酷い場合は昏睡を招く低血統症状を起こしてしまう事がある。改めて言うが誤薬は非常に危険なのだ。そして介護施設はその危険な誤薬を起こしやすい極めて危険な場所でもあるのだ。
薬を正しい人に正しい時に正しい薬剤を投与する事は簡単に思えるかもしれない。しかし、集団施設ではそれは案外難しい。なぜか?投与は複数のプロセスを繰り返す単純作業だからだ。
内服薬を投与する時に確認するプロセスは大雑把に3つ。
(1)内服薬を取りだす。その際日付と名前、朝昼夕眠前が合っているかどうか確認
(2)本人に渡す。もしくは服薬を介助する。その際、同じように日付と名前、朝昼夕眠前が合っているか確認。
(3)きちんと内服薬を嚥下しているか口腔内を見て確認。
これはあくまでも一般的な内服投与のプロセスだ。これで食前薬が絡めばさらに確認事項が増えるし、施設によってはもっと細かくルールを決めている施設もある。多くの人は「こんなもの簡単じゃないか」と思うだろう。確かに内服自体は難しくとも何ともない。実際誰にでもできる事だ。しかし、幸か不幸か人は過ちを犯す生き物だ。内服が10回だけなら小学生でもノーミスで行けるかもしれない。しかし、これが100回ならどうだろうか?そして500回なら、もしくは3年間全く渡し間違いを犯さないと断言できるだろうか?
夫婦で入居している人もいるし、施設の定員が多ければ同姓や同名の人も増える。そして薬を口腔内に入れても吐き出したり、こぼす人もいる。しかも介護職員は食事介助から利用者同士の小競り合いの仲裁などいくらでも集中力を削ぐ要素が現場にある。内服投与は確かに単純作業だ。だが、ルーチンワークゆえにミスも犯しやすいのだ。
内服事故の報告を受けると上司の中には「職員の意識が足りない」など精神論を持ち出す人が少なくない。ちゃんと気を付ければミスは防げると言うわけだ。しかし、介護は人間しかできない。人間が介護をする限り誤ちはつきものだ。精神論はミスや事故の原因から目を反らすものだ。
とりわけ介護施設は常にこのようなミスや事故を起こす要素が付きまとう。理由は主に3つ。
(1)家庭ではあり得ない集団生活であること
(2)投薬は医療行為であるにも関わらず介護職員が行っている
(3)マンパワーに余裕がない
他人のどんな効果を及ぼすかも判らない薬を飲まされたくなければ介護施設には入所や利用をしない方が最善かもしれない。
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2011-06-15 23:03
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前回アクシデント(1)で俺は最後に次のような意見を述べた。
施設が転倒させないための対策は利用者の生活の質向上に貢献していない
今回はそれについて説明していこう。
何度も言うが介護施設にとって利用者の転倒対策は本当に頭痛の種だ。利用者やその家族から苦情が寄せられるばかりか下手すると刑事告発されたり、損害賠償訴訟を起こされる可能性もある。そのため施設はいろんな対策をしている。前回の復習になるがそれらがこの3つだ。
(1)拘束
(2)バリアフリー環境
(3)衝撃吸収
(1)の拘束は現代の福祉(特に老人福祉)ではかなり忌み嫌われている。だが利用者の家族からは時々「拘束してもいい」と言われる事がある。骨折すると家族が入院中は身の回りの世話をしなくてはならないからだ。しかし、それでもベッドを柵で覆ったり、腕や足を紐で縛るなどの物理的拘束は骨折を防ぐ事は出来ても長期的視点で考えれば骨折した状況と変わらない事が多い。
確かに骨折すると運動能力は愕然と落ちる。しかし、自由に動く事を阻止すると同じように段々と運動能力は落ちていく。元々拘束される人は脳血管障害での麻痺があったり、骨折などの既往歴があったりして元々転倒しやすいからこそ拘束の対象になっている。しかし、転倒をしても必ずしも骨折するわけではない。だが、転倒しないために拘束すると必ず格段と運動量が減るため結局運動能力自体も骨折した場合と変わらないケースと同じように落ちてしまう。このような活動性の低下による機能の低下を廃用症候群と呼ぶ。
拘束は廃用症候群を招くだけではない。利用者に与えるストレスも尋常ではないために不安や暴力などの抵抗を招きやすく信頼関係も無くなる。介護者も非常にストレスを感じるために虐待などの温床になりやすいのだ。そういう意味では拘束は非常に欠陥が多い。
では(2)のバリアフリー環境はいかがだろうか?相変わらず結論から申し上げるが、バリアフリーは人間を堕落させる。障害者や老人の運動能力を低下させる代物だ。これはまたの機会にバリアフリーについて説明したいが、これは常識で考えれば当たり前だ。駅やビルでも階段とエスカレーターどちらを使用するかと言えば明らかにエスカレーターの方が多くなる。人間は誰でも楽をしたい、怠けたい動物だからだ。だが、それは現代人の運動不足や生活習慣病を招く原因である事は誰にも否定できないはずだ。
運動能力が衰えた利用者が過ごしやすくする目的でバリアフリー環境を整えるのならまだしも、無計画に段差を無くすだけでは利用者の首を真綿でジワリジワリと絞めているのと同じだ。そういう意味では最初からバリアフリーな施設の環境は能力のある人を堕落させるだけでしかない。
(3)の衝撃吸収はベッドからの転落に備えてマットレスを床に置くなどの処置を指すが、これも結果は拘束した場合と同じだ。拘束と違い縛られていないだけ見場はいいが、運動能力を抑制しているのは同じだ。下着に衝撃吸収の素材を付けることにより、転倒のダメージを抑える介護用品もあるが、あれで抑えられる衝撃などたかが知れている。
総括すると現段階で転倒を防止する方法はあっても、それが本当に見て生活の質を上げる保障になるとは言えない。転倒させないための対策は結局は運動能力を落とす皮肉極まりない結果になってしまうのだ。
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2011-06-08 18:19
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このメルマガももう180回以上になるにも関わらず、今まで言及した事がなかった。今回は福祉でのアクシデント、事故について取り上げたい。
福祉関係者なら老人福祉だろうが、障害者福祉だろうが、この世界はアクシデントとは切っても切り離せない。事故のない福祉はあり得ないと思ってもいいぐらいだ。福祉と全く関係のない人々は事故と言えば交通事故か現在話題の原発事故ぐらいだろう。しかし、福祉における事故はベッドからちょっと滑り落ちたぐらいの軽いものから浴槽に沈み溺死するなど訴訟に発展しかねない深刻なものまで多種多様だ。
福祉に関わる事故は多種多様なため、このブログでは事故を大きく2つに分けたい。
身体的事故…転倒による骨折や外出中に車に轢かれるなど。入浴中の水没も含む
医療的事故…点滴や内服などを本来の処方箋とは違う量や違う種類、違う対象者に 服用させたりする事を始め、いわゆる医療ミス。
今回は最初の身体的事故について語ろう。
最初にも少し述べたが、結論から語れば福祉では事故を避ける事は不可能に等しい。どんな福祉分野でも在宅だろうが、施設だろうが残念ながら人間がやる福祉に完璧はあり得ない。そもそも事故を起こすのは個人のミスや誤りもあるが、誰のせいでもないケースも少なくない。
身体的事故で一番多いのはおそらく転倒や転落だ。統計によってばらつきがあるが、大体事故報告書の3割以上が転倒などが占める。転倒と言っても多いのは例えば「トイレに行こうと歩いていたら、滑って転んだ」とか「部屋の段差に躓いてこけた」など健常者ならそんなに問題にならないものだ。
健常者や体の丈夫な人が多い知的障害分野では転倒などそんなに問題にならないだろうが、高齢者福祉ではそれは違う。老人福祉分野では転倒・転落事故は非常に大きい問題だ。老人の場合、転倒事故は寝たきりや最悪の場合死亡にまで直結しかねない重大な問題なのだ。だからこそどの施設でも、どの事業所でも程度の差はあれ転倒事故には非常に神経質になる。
多くの健常者の場合は風呂場で石鹸を踏んで転倒しても打撲程度で済むだろう。しかし、元々骨格が丈夫ではない障害者、骨粗鬆症で骨がもろくなっている高齢者の場合、少しこけただけでも骨折する事が少なくない。特に多いのが大腿骨頸部(股間と足を繋げる部分)、橈骨遠位端(とうこつえんいたん…前腕内側の骨で手首に近い側)、腰椎(背骨)だ。このうち大腿骨頸部になると最もダメージが大きい。確実に人工骨頭置換術が必要なため手術をしないといけなくなる。
人工骨頭置換術とは潰れた大腿骨頸部を金属やセラミック製の部品に換えて骨盤の骨を繋げる術法だ。この手術が終わっても安静にしなければならないため、日常生活がかなり制限されてしまう。高齢者の中にはこの環境に置かれると、大なり小なりADL(日常生活動作)が低下し下手すると認知症になってしまう人も珍しくない。その後はリハビリをして出来るだけ怪我をする前の能力に戻す試みは行われるが、骨折前の運動能力に戻る可能性はかなり低い。それどころか寝たきりになってしまったり、手術時の感染症で死亡する可能性もあるのだ。
高齢者や障害者にとっては転倒は文字通り命取りになりかねない危険なものだと言う事がおぼろげながら理解できただろうか?だがそんな危険な転倒だがケースによっては施設側の責任とも言えるものもあれば、施設側の責任を問うのは酷なケースも少なくない。どちらにしても施設側にとって頭が痛い問題だ。そこで施設側は次の3つの対策を主に行っている。
(1)拘束
(2)バリアフリー環境
(3)衝撃緩衝する
(1)の拘束は今でも玄関のナンバーロックや扉の施錠などやっていない施設は厳密には無いが、それでも「拘束運動ゼロ」のためかなり減っている。前までは力士のまわしのような腰ベルトや抑制帯を見る事が少なくなかった。それでもベッド柵で利用者を囲みベッドから降りられなくしたり、職員一人をストーカーのように利用者に付きまとわせたりするような行動抑制を現在もしている施設は珍しくない。
(2)のバリアフリー環境は段差や障害物、階段などを極力減らす、もしくは使用させない事で転倒のきっかけを無くそうとしている。またトイレや風呂場にも介助バーを付けたり、廊下に手すりやスロープ、エレベーターを備えるなど非常に費用もかかる。しかし、最もこれは多くの社会福祉施設では標準装備だが、施設によってはお金がないなどの理由で十分なバリアフリー環境が提供できていない施設もある。
(3)の衝撃緩衝は(1)拘束があまりにも批判の的になるために代案として提供された。具体的には床に柔らかい吸収素材を敷き詰めたり、マットを敷いて利用者が落下した衝撃を吸収しようとするものだ。衝撃吸収パッドが付いた下着を付ける事も同じ類の対策と言えるだろう。
だがこれらの対策は利用者の転倒は止める事が出来ても利用者の生活の質を上げる事には全く貢献していない。なぜだろうか?その点をまた来週語ろう。
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2011-05-27 00:44
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今回も人事学について語りたい。
前回最後の方で俺は次のように語った。
「選ばずランダムに採用するならいい人材も酷い人材も両方雇える。しかし、選んで採用するといい人材は来ない」
応募者の質を大事にして採用すると必ず凡庸な人材しか来ないものだ。なぜだろうか?
まず採用に至って絶対忘れてはならない原則がある。
自分より優秀な人間は雇えないと言う事だ。
誰が言ったか失念したが「一流の人間は一流の人間を雇う。二流の人間は三流の人間を雇う」という金言があるように、原則として面接採用者、いやその会社のレベルに合った人材しか雇えない。自分よりもいい才能を持ったタレントを雇うのは決して不可能と言うわけではなないが、それには採用者自身が自己覚知しなければならない。ただ単に漠然と惰性で採用をしていても、己のエゴと偏見に囚われた採用しかできない。つまり自己分析が必要なのは応募者ではなく採用者側だったりするのだ。
よく新卒者にいい内定を得るためには自分にあった就職が何なのか自己分析する必要があると採用担当者や○クルート関係者が主張するが、冗談ではない。その台詞はそっくり自分たちが噛みしめるべきだ。現に採用に望む企業や組織は果たして自分たちがどんな社風なのか、そしてどんな人材が必要なのか全く計算に入れず漠然と面接しているだけだ。
それだけではない。いい人材採用には「自分の属する組織の犯されている病理は何か?」「会社の業績低迷の原因は何だろうか?」「どうしてこれだけ会社内に醜い権力闘争が蔓延るのか?」など組織が持つ醜いエゴや悪癖を直視する事が必要だ。そして面接する自分自身も会社の利益よりも自分の虚栄心やエゴを満たす方を優先していないだろうか?など自己を謙虚に分析する事が必要なのだ。
現に面接担当者は大なり小なり応募者を見下す傾向がある。傲慢不遜で虚栄心に凝り固まっていながら自分の弱さを隠す臆病者が多い。セクハラ面接や圧迫面接などそんな鼻持ちならないマネが出来るのがその証左だ。自分を採用してもらえるか不安そうにしている応募者と毎日接しながら、自分の胸三寸で求職者を好きなだけ落とせてその責任も問われない。これで傲慢にならない方がおかしい。
そんな傲慢さが抜けきらない人物が面接すると人を見抜くことに失敗するばかりか誰が見ても有望で大活躍出来る人材が来ても不採用にしてしまう。優秀な才能に対する嫉妬心、敵愾心が抑えられなくて不採用にするなど組織に対する背信もいいところだが、責任が問われる事はない。例えSPI試験が満点でも「当社に合わない」「コミュニケーション能力に問題あり」など落とす理由なんていくらでもつけられる。
失われた20年と言われるように日本企業の凋落ぶりに歯止めが見えない。その閉塞感を打破するべく、最近の日本企業の採用のトレンドは「イノベーターを採る」事らしい。イノベーターとは平たく言えば青色LEDを開発するぐらいの発明の天才を意味する。しかし、俺は聞きたいが、そんな独創的な天才が面接に来たところで採用できるのだろうか?新卒面接で金髪のロングヘアーでネクタイも着用してこないだけで殆どの上場企業は不採用にするだろう。言っておくが独創的な天才は社会常識などの型にはまらないからこそ天才なのだ。
創造的なイノベーターが欲しいとか言いながら常識の枠にはまらない人物が来ると躊躇なく不採用にするなど自己矛盾もいいところだ。残念なことにこんな茶番劇を演じているのが企業における人事採用なのだ。本当に自分の属する組織が必要な人材はどんな人か?そしてそういう人材を育てるため、適応させるために組織にどんな改革が必要か?など組織側の方が自己分析が足りないのが現実だ。
しかし、企業が求める人物像はとめどなくエスカレートする一方だ。新しいものを作る「イノベータータイプ」でありながら、コミュニケーション能力が高く、常識やマナーに強い。そして頭脳優秀で組織に従順でありながら、意欲的に働けてストレスに強い。つまり全知全能のスーパースターが欲しいのだ。馬鹿馬鹿しい。そんな人材がたかだか二十歳すぎの新卒学生にいる訳がない。
例え百歩譲ってそんなスーパースターを採用できても自分の組織で扱いきれると思っているのだろうか?そんな才能ある天才たちが凡庸な人々のために作られた日本企業独特の年功序列の価値観を分かち合うだろうか?20年勤続勤務で年俸1000万ぐらいしか貰えない給与システムに満足するだろうか?それは2年連続のバロンドールのレオネル・メッシや移籍金100億円のクリスティアーノ・ロナウドを日本のJ2クラブが獲得に行くようなものだ。
結論を言うと、身も蓋もないが己の器を考えた採用をしろと言う事だ。そしてこれは逆に考えれば、もしそんなタレントが欲しければ器を大きくする、つまり組織の改革が必要ということなのだ。時々「会社を変える人材を採りたい」「組織を刷新させる採用をしたい」などと言う事を聞くが、目的と手段が正反対だ。いい人材を雇い使いこなすためには組織の変革が必要なのだ。独創的な天才が欲しいなら鼻にピアスをした人物でも採用する度胸がないといけない。
以上四週に渡って人事学を続けて来た。まだまだ書き足りないが、来週は本来のこのブログの趣旨である福祉について語ろう。
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2011-05-25 22:22
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2週続いて人事学について説明をしてきた。
読者諸君の中にはどうして福祉を書いている俺がなぜ人事採用についてこだわるのか疑問を感じるだろう。理由は二つある。まずは俺自身が転職の際に、経歴など単なるスティグマだけで判断されることに対して不満を感じたからだ。それだけなら単なる逆恨みだがもう一つある。福祉の現場でいかに人を見抜くのが難しいか痛感したためだ。福祉関係者は人と接するのが仕事のはずだが、何年一緒にいても利用者の事すら正しく理解していないと思う事が少なくない。
例を出そう。
とある女性利用者がいた。年齢は89歳。彼女の名前を仮に淑子としておく。どこの施設にも困った利用者と言うのは少なからずいる。彼女もそういう困った癖があった。それは何度も同じ事を聞くのだ。言っておくが彼女に認知症による記憶障害はない。
「今日のお風呂は何時からですか?」と淑子が職員に聞く。
職員も最初は「今日のお風呂は1時からですよ」と普通に返事をする。しかし、淑子はナースコールなどで何度も聞くのだ。しまいには職員も苛立ちを我慢できなくなる。
「今日のお風呂は何時からですか?」
「さっきも同じ事を言ったじゃないですか!!1時ですよ。1時!」
もし淑子が深刻な認知症による記憶障害があるなら職員も仕方がないと我慢するだろう。しかし、淑子には全く記憶障害がなかった。覚えているのに何度も聞く。その不可解な行動は職員のストレスの種だったそこで職員側は対策を講じた。彼女の部屋にホワイトボードによく聞く質問の答えを書くことにした。これで問題は終わると思っていたが、淑子の悪癖は治らなかった。淑子は今日も職員を苛立たせている。
俺はこの職員側の対策にいかに人の本質を見抜くのが難しいか痛感する。結論から言えばホワイトボードに答えを書いても無駄。ナンセンス極まりない努力だ。なぜか?淑子には脳梗塞の既往があった。そのため記憶障害はなくても、感情のコントロールが効きにくいのだ。実を言うと脳の障害を負うと、不安定になり易くなったりして情緒面で障害が出る人が少なくない。(認知症でも同じ症状が出る事がある)彼女が何度も同じ質問をするのは脳梗塞後遺症による不安のためだったのだ。脳の病気なのだからホワイトボードを用意しても意味がない。現段階では
しかし、こんなナンセンス極まりない対処をしている福祉施設は本当に多い。プロなのだから専門分野の知識もあるはずだ。何年も同じ施設で過ごし、利用者と触れ合っているのにも関わらず全く利用者について判っていない。福祉は人を見るプロフェッショナルのはずなのにどうしてこんなに人に弱いのだろう?そう思う事が非常に多い。そして、ましてやろくに応募者を知らないまま面接する人事採用などはどうなのだろうか?と疑問に感じるようになってきた。
福祉関係者がかなり無能な人間のあつまりだとしたら、何年たっても利用者を本当に理解できないのは当然かもしれない。だが、いくら企業の面接担当者が優秀でも1時間ぐらいで本当に応募者の適性を理解できるだろうか?同じ人を見る職業を持つ者としてこの事は非常に興味を抱いた。少し長くなってしまったがこれが俺が人事学を研究している理由なのだ。
人が人を見抜くのは不可能に等しいかもしれない。それならそれで選別をせずにランダムに極端に言えば応募が早い者順に選んでもある程度の確率でいい人材に巡り合えるだろう。勿論悪い人材にもだ。しかし、現在の採用面接は昔のような大量採用をするところはない。出来るだけ「ある程度の質を重視した」採用をしていると企業側は主張している。しかし、その質を重視した採用こそいい人材獲得から遠ざかる要因になっている。よく最近の人事担当者は「求職者の質が下がった」とぼやく事が多いが、それはそうだろう。選び方自体が誤っているのだから。次回はどんな選び方をするべきなのか語ろう。
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2011-05-15 02:37
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前回俺は従業員の採用に関して現在行われているようなとても戦略と呼べない行き当たりばったりの方法を明確に否定して「人事学」を提唱した。
今回は人事学に詳細について切り込みたい。
まず一言強調しておきたいが、
採用・人事とは技術である。
よく就職シーズンになると有名会社の人事担当者のインタビューや座談会で「どんな学生が欲しいか?」など語り合っているのを雑誌などで見かける。その様子を見るといかにも人材を見抜くプロフェッショナルのように思えるが、実際は全く違う。確かに面接を繰り返してきた経験はあるが、人の見抜く適性はない単なる素人だ。相手を見下す傲慢さや虚勢を張る能力はあるだろうが、それがいい人材を見抜けるかどうかと言えば全く違う。
あるいは人事や採用には特別な技術や適性は必要ないと思っている人もいるかもしれない。だが、低い社会的評価に甘んじている福祉や介護でさえ資格や技術がいると誰もが賛成するのならば、組織の根本をなすはずの採用や人事にはもっと高いレベルの技術と適性が必要なのだ。だが、どこの会社でも法人でも公務員でも採用にはプロフェッショナルな能力は必要だとは思われていない。
現に多くの企業では面接で採用担当は将来性のある幹部候補生や営業などで優秀な職員が担当する事が多い。面接した学生たちに「こんな格好いい先輩について行きたい」と思わせるのが目的のようだが、いかに人事採用が甘く見られているかの好例だ。幹部候補生や営業のエース職員は確かに人に好印象を与える技術やその分野の適性はあるかもしれない。だが、それと人を選ぶ能力はまた別の問題だ。
同じように二次面接や三次面接などしている企業や組織は多いが、それも全く意味がない。それどころか二次面接や三次面接など優秀な職員を足切りするだけだ。二次面接や三次面接をするのは念には念を入れて優秀な人材を見極めようという狙いだと思われているが本質的には単に問題社員を取ってしまった時の保身しかない。二次面接、三次面接までして皆で見たのだからいい職員を採用できなくても自分の責任じゃないですよ・・・と言うわけだ。
何度も言うが、二次面接や三次面接で部長や専務、役員が面接しようがそんなものは意味がない。彼らに出世レースで生き残ろる技術はあってもそれが採用には全く関係ない。それどころか優秀な人間特に独創的で個性的な尖った人材は面接を経るごとに淘汰されてしまう。特にこれは何度も面接する大企業にありがちだ。大体社会に変革を起こすような創造をする優秀な人材はおしなべて変わり者だ。企業の行き詰まりを解消できるのはこのような人材だし、企業もこのような創造的な人材を望んでいると公言している。しかし、面接に関わる人間が多ければ多いほど、それに反比例して「創造的な人材」は少なくなるのが現実だ。
かつて話題になったシュガー社員のように非常識な新入社員を採用してしまう事も痛いが、最も企業にとって痛恨なのは本当に必要なはずの優秀な人材を不採用にしてしまうことだ。優秀な人材を不採用にしてもプロ野球のように比較される訳じゃないから自分たちがどんな重大なミスを犯したのか明らかにできないからこそ性質が悪い。だがそのツケは後から必ず日本経済に暗雲をもたらす。と言うよりももう国際競争力の低下や景気低迷などでその弊害は明らかになっているはずだ。人の見極めを粗末にしてきた日本経済が没落するのは当然かもしれない。
最後に言いたい事をまとめておこう。
・人事採用は組織運営の命綱である。
・人事採用は誰でもできるものではない。人を見る技術が必要なのだ。
・シュガー社員を採用するよりも優秀な社員を不採用にしてしまう方が損害が大きい
ここで疑問だろうが、「人を見る技術」とは何だろうか?その点を含めて次回も人事学について語ろう。
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2011-05-11 23:53
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本題に入る前に面白い本を紹介しよう。
プロ野球 スカウトの眼はすべて「節穴」である 双葉新書
元ヤクルトスワローズスカウト部長片岡宏雄氏が執筆した本だが非常に面白い。野球が判る方なら是非一読を勧めたい。
ヤクルトの元スカウト部長だった片岡氏は若松勉や古田敦也など何人ものタレントを入団させた名スカウトだが、それでも「私には人を見る目がない」と慙愧の念を告白している。しかし、その年のドラフトで一人活躍すれば成功、二人活躍すれば大成功と評される中、片岡氏の人を見る目は決して人後に落ちるものではないはずだ。自分が採用した選手がどんな活躍をするのか結果が明らかになるプロ野球だからこそ本当の意味で「人を見る目」が明らかになる。
プロ野球のスカウトは自分たちの採用した結果が残酷なぐらい比較される。自分が指名した選手が活躍できないばかりか、「プロでは通用しない」と指名を見送った選手が他球団でタイトルを取るぐらいの活躍をされることほど悔しいものはない。「人を見る目」に失敗すれば言い訳が効かないぐらい打ちのめされる。こんな事は他の業界ではあり得ないだろう。
じゃ逆に一般企業や福祉の人事や採用担当者の「人を見る目」はどうなのだろう?ある程度アマチュア野球でパフォーマンスを見る事ができるプロ野球のスカウトでさえ、プロで全く通用しない選手を獲得する事がある。ならば雇用してからしかパフォーマンスを見る事が出来ない一般の採用などはどうだろうか?おそらく他の人事関係者はプロ野球のように結果がはっきり比較されない事に胸をなでおろしているだろう。
ここではっきりさせておこう。
福祉を含め、一般企業の採用・人事など出鱈目もいいとろだ。そしてここまで結果に責任が問われない部門は珍しい。
大体、営業でも介護現場でも結果やパフォーマンスに対する責任は大なり小なり問われるものだ。売上はいくら達成できたのか?その売上を達成するためのコストはいくらだったのか?そして利益はどのくらいあるのか?だがこんな当たり前の事が問われないのが人事部門だ。人事部門の事を英語でhuman resource(人的資源)と言うが酷い冗談もいいところだ。およそ99パーセントの人事部門は組織に何の貢献もせずに損害を与えているだけだ。
「ウチはいい人は人財と呼んでいます」とか「組織は人が大事ですから」と自慢げに言う組織は数多いが、そう言うところに限って人事は無節操で雑だ。退職したら募集、また退職したら募集。毎度同じパターンを繰り返し、○イデムやリク○ートに多額の費用をふんだくられているではないか。
人事担当者がこれを読めば気分を害する事請け合いだろう。しかし、実際人事がどんな酷い人材を採用しても、減俸などの処分を受ける事はないではないか。なぜなら「人が人を見抜く事は難しい」など人事採用に関しては「どうにもならないもの」「仕方ないもの」思われているからだ。本当に人が人を見抜くのは難しいだろうか?こんな言い訳は通用してもいいのだろうか?人事は果たしてこのままでいいのだろうか?どうしてこんないい加減な人事の問題に今まで誰も踏み込まないのだろうか?
俺は敢えて否と言いたい。なぜなら先ほども言ったが人事ほど怠慢さが放置されているところはないからだ。
人事の本質は無評価、無分析、無反省、無責任、無節操、無思慮、偏見、怠慢、不実そして高慢。ここまでネガティブに断罪される業務は人事しかいない。それも結果に対して誰からも批判されないからこそ人事は堕落してしまったのだ。
人間の精神面や心理を分析して体系化したものが心理学だ。同じように人事も科学的に分析、評価することにより体系化できるはずだ。それを俺は諸君に提供したい。名づけて人事学と呼ぶことにする。
現場でいろんな新人職員を指導したり、接する機会が多いがその中にはどう見ても使い物にならない職員がいる。挨拶も出来ない、教育しても同じ失敗をする。問題が起きても報告しない。最近は本当に
「なんでこんなろくでもない奴、採用すんの?」
思わず人事課に毒づきたくなった事は何度もある。特に福祉は人材難だ。どこの福祉系組織でも利用者(顧客)はいくらでも来る。しかし、優秀な職員を確保するのはそれ以上に困難なのが現実だ。
だが、もっと問題な事がある。無能な人を採用するのも問題があるが、優秀な人を不採用にしてしまう失態の方が更に問題が大きい。これは明らかになっていないが、人材不足の組織以外は概して優秀な能力を持つ人間を不採用にしてしまっている現実がある。一般企業ではプロスポーツの世界と違い、パフォーマンスが内部でしか判らないため自分たちが不採用にした職員がどれだけのポテンシャルを抱えていたのか比較する機会がない。だからこそこれまで人事にはその結果に対する批判と分析のメスが入らなかった。
人が人を見抜くのは確かに難しい。福祉現場では利用者と何年も接しているにも関わらず利用者を理解できないでいる。ならばせいぜい1時間しか話し合えない面接ではそれ以上に困難だろう。だが、このまま人事が何の工夫も反省もなく同じ愚行を繰り返していい訳がない。今後はどうすれば人事を科学できるのか?来週もその点を検証したいと思う。
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2011-05-04 01:14
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人事 |
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よく「いい施設とはどんな施設ですか?」と聞かれる事がある。そんな時俺はこう応えてしまう。
「どんな施設がいい施設かどうかは判らない。でもどんな施設が一番最悪かだけは判っている。それは利用者の評価を大事にする施設だ」
こんな事を言うと大抵の人は困惑するか反発するが本当の事だ。因みに俺はためらうことなく福祉業界で最も信用できない人は「利用者のために」を口癖にしている人だと断言する。
介護保険が施行されて以後、口癖のように「利用者=お客様なのだからサービス業の自覚が必要だ」など利用者中心主義が当たり前のように言われている。そもそも介護保険以前の措置時代の時は介護者は利用者の評価をそんなに気にしていなかった。中には利用者に敬語すら全く使わない介護者もいた。(これは今でもいるが・・・)
しかし、今はそうはいかない。どんな施設でも事業者でも利用者やその家族からの評価や評判を気にしないわけにはいかない。一般企業が平気で福祉に参入してくるようになり、自分たちが今まで福祉以外でのサービス業では当たり前だった「お客様至上主義」を持ち込むようになった。そして今までの福祉では黙認されていた介護者優先主義は「過去の福祉の悪癖」だと切り捨てられるようになったのだ。
「利用者はお金を払っているお客様なのだから大事にされるべきだ。利用者の評価やその家族からの評判が大事だ」と言うのは一見正しい主張のように思える。おそらく99パーセントの人々はその考えに同意するだろう。俺もさすがにその考え自体は否定するつもりはない。しかしこの世界に13年以上いる俺はその考えには全面的に賛成できない。それどころか俺は時に利用者の評判ほど危険なものはないとさえ思う。
現在の福祉業界は利用者の評価に一喜一憂するどろこか利用者やその家族に媚びを売っていると言われても仕方がないものだ。だがそんな態度は福祉のレベルの低下や職員のモラルの荒廃を招く。現に俺は利用者やその家族に媚びを売る施設がどうなったか何度も見て来た。
実例を挙げよう。
俺のかつての同僚に西村(仮名)という30歳のリーダーがいた。彼は将来上司になる事が有望視されている幹部候補生だった。西村は吉田(仮名)という85歳の左半身麻痺の女性利用者に特に好かれていた。吉田は何かと言うと「すぐに西村さん呼んで」と言うほど西村に惚れこんでいた。その様子を見た施設長は利用者から好かれている西村を非常に高く評価していた。何かある度に
「西村さんは吉田さんに好かれているな。君たちも見習え」と訓示を垂れた。
しかし、同僚の間では西村はあまり尊敬されていなかった。それどころか皆彼と同じ勤務になるのを避けていた。はっきり言うと忌み嫌われていたと言ってもいい。なぜか?彼は吉田を始め特定の利用者の言う事ばかり聞いて他の利用者の介助をしないからだ。西村は吉田にナースコールで呼ばれるといつでもどんなに忙しくても吉田のもとに飛んでいき、何でも聞いてあげた。下手すると西村の部屋に30分以上いる事もあった。身体介護は勿論のこと、家族や他の介護者の悪口など吉田が満足するまで西村は話を聞いていた。
吉田が西村を好きなのは当たり前かもしれない。しかし、他の利用者の介助はどうするのか?移動介助、排泄介助、食事介助、更衣など吉田の接待にうつつを抜かす西村の分は同僚がカバーしないといけなかった。他のまともな同僚職員は全体のバランスを考えて介助していた。忙しい介護の現場では特定の利用者の意見ばかり聞くわけにはいかない。特に吉田はどちらかと言うとナースコールで呼ぶ事が多い我儘な利用者だった。
どの利用者も平等に扱う介護者だと吉田のナースコールばかり応える訳にはいかない。常に人手が足りない介護の現場ではなるべく多くの利用者が介護ケアの恩恵を受けられるようにしないといけないから、我儘な要求が多い吉田とは衝突する事も多かった。どの施設にも何人かはこんな利用者がいるものだ。そんな中何でも我儘を聞く西村は吉田にとって最高の介護スタッフだった。だが、一緒に働く同僚にとっては西村は一緒に組むと仕事量が増える厄介な介護士だった。
しかも西村の行動をよくよく観察しているとある傾向に同僚が気付き始めた。西村が愛想良くする利用者は「自分の意見を主張できる能力がある人」ばかりだった。介護施設に勤めた事がある人なら判るだろうが福祉の利用者は認知症などで自己主張出来ない人が多い。介護者の区別もつかない人も少なくない。文句を言いたくても言える能力が無い人が入居しているのが介護施設なのだ。
つまり西村は大事にするのは声高に文句や意見を主張できる利用者だけだった。そういう文句の言える人にいいサービスをすれば「西村さんはいい介護者だ」と高評価を言ってもらえる。だが、これでは西村は文句の言える利用者だけ大事にする単なる偽善者だ。
西村の偽善的な勤務態度に気付き始めた同僚の何人かは当然施設長にクレームを付けた。
「西村さんは利用者のえこひいきをしている」「奴と一緒だと(業務が)回らない」
だが施設長は「西村さんは利用者さんからも評判がいいんだ。利用者さんとの信頼関係を大事していることでいいじゃないか」と事実上西村の態度を支持してしまう始末だった。
こんな施設の態度を見た同僚たちは大いに失望した。だが現実主義な職員は西村のように介護業務を正直にこなすよりも自己主張できる利用者に媚びを売り始めた。真面目に働く職員は西村のような偽善者を見て、モチベーションを失い始めた。施設に規律が無くなり、技術レベルが低下、退職者が続出し施設は荒廃し始めた。
言っておくがこれは本当にあった話だ。どこの施設にも西村のような偽善介護者が必ず一人か二人いる。そんな偽善者を許す施設は利用者の介護を誠実に真面目にやれない「かなり危険な施設」と言ってもいい。
俺が利用者からの評価を必ずしも信用しないのにはこのような理由だからだ。一般的なサービス業なら客の評価はかなり信用できるだろう。どの客もきちんと自己主張が出来るからだ。しかし、福祉では本当に大事な評価は自己主張できない人がどう感じているかだ。
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2011-04-27 00:27
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介護 |
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メルマガ時代から久しぶりの認知症シリーズを再開したい。
今回久々に再開するに当たり過去のシリーズではあまり認知症について判り易く整理出来ているとは言い難いのでその点を少し整理してみたい。同じ事を繰り返し述べることになるがその点はご容赦願いたい。
まずは何度も言うが認知症とは器質的脳疾患による後天的な脳機能の低下全般を指す。
その症状については大まかに言うと次の4つにわかれる
(1)記憶障害
(2)知的能力の低下
(3)精神後退(感情抑制の低下)
(4)精神疾患
(1)記憶障害
文字通り記憶が正常に出来ない事を指すが単なる物忘れや勘違いではない事を強調したい。例えば明日用事があったのに思い出せないって事があるとする。しかし、この場合普通の人は手帳やメモを見れば思い出すだろう。しかし、認知症の場合はメモや手帳を見ても思い出す事が困難になる事が多い。よく記憶障害の酷い人にメモを書いて証拠を残す方法を取るがこれは効果が薄い。それどころか記憶障害が酷い人には逆効果になることもある。普通の人は大事な事を忘れないためにメモを残すのが普通だろう。それは元々の事実の記憶があるから有効なのだ。肝心の事実の記憶すらない記憶障害の人にはメモを見ても文字通り「記憶にない」ため何の事か判らないのだ。下手すると混乱や不安を招いたり、不信感を持たれる可能性もあるため安易なメモの乱用は禁物だ。
(2)知的能力の低下
これは認知症への偏見を招くなどの理由で今でも知的能力の低下についてはあまり進んで議論しようとしない。そのため他の文献や発表では認知障害と呼ぶ事もある。しかし、認知障害と言うよりは知的障害と言ってしまう方が判りやすい。福祉関係者がどういう認識だろうが認知症に知的能力の低下があるのは明らかだ。判りやすい例を紹介すると例えば食物以外を口に入れてしまう異食行為、更衣がきちんとできなくなるなど知的能力の低下は認知症の人の様々な行動に反映される。他にもコミュニケーション能力が徐々に低下してやがて全く言葉を話さなくなることもある。以前言ったように認知症とは文化の喪失なのだ。
(3)精神後退(感情抑制の低下)
これも誤解や偏見を招くと言う事でタブー視されているが、認知症になると明らかに精神後退を招く。誤解を恐れず具体的に言うと言動が子供っぽくなるのだ。こんな事を言うと「高齢者を見下している」などの批判をする無知な人が多いが、本当の事だ。あの源氏物語でも「老人になると子供に帰るというじゃないか」と光源氏が語るシーンがある。
高齢者が全員認知症と言うわけではないが、認知症になると明らかに大なり小なり精神後退を起こす。どのような言動に精神後退の影響が出るかと言うと感情の抑制が効かなくなる。具体的に言うと我慢や節制が出来なくなる。怒りや不安、恐怖が強くなり衝動的な行動が増え、暴力暴言が多くなるのだ。
(4)精神疾患
これも論争の的になるかもしれないが、敢えて書こう。認知症になるとうつ症状、不安、妄想、せん妄、幻覚症状など精神疾患の症状が出る事がある。勿論うつ症状があるからと言って認知症とは言えないが、その逆もあり得る。特に代表的なのがお金を取られたなどと訴える物盗られ妄想だろう。この場合、「大丈夫。誰も貴方のお金を取っていない」と説明しても納得させる事が非常に難しい。有効な対処もないため、非常にストレスフルな対応になる。
以上基本的な認知症の症状を説明した。ここ最近テレビや報道などで認知症に言及される機会が増えた。しかし、そのいずれも多くは全く認知症に対して本質を捉えるどころか、判りにくいものになってしまっている。どうしてそうなるのか?社会からの非難を恐れるばかり真実から目を反らそうとしているのだ。何度も言うが希望とは現実から逃げて手に入れるものではない。現実を直視した者のみが希望を手にする事ができるのだ。
認知症の話では一つ忘れないで欲しいが認知症の症状は一つだけでなく様々な症状が絡み合っている。
例えば介護抵抗などは(1)記憶障害から(2)知的能力の低下から場合によっては(3)と(4)も含まれる事もある。しかし、基本は今回説明した4つの要素で説明できるのだ。また機会があればその点を説明しよう。
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2011-04-20 17:14
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医療 |
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以前メルマガで第92回「プレジュディス(上)」、第93回「プレジュディス(下)」と2週に渡り偏見がいかに現実把握能力を歪めているか語った。
しかし、現在も社会情勢がプレジュディスについて語る事を要求されているようだ。以前の2回のプレジュディスを読み返すと、もう少し判り易くまとめるべきだったと慙愧の念に駆られる。
福島原発の事故により放射能汚染に基づく偏見と差別が今も絶える事がない。福島市から来たと言うだけで病院で治療を拒否されたり、ホテルでの宿泊を拒否されるなど無知や偏見に基づく差別は更に被害者を傷つけている。また茨城県沖で取れた魚介類が銚子魚市場で水揚げ拒否された事件では農林水産省が「科学的根拠が無く違法」だと千葉県に対し指導に乗り出した。
特に人体が浴びる放射線単位シーベルトについてだが
1ミリシーベルト=1000マイクロシーベルトである事を強調しておく。
単位の混同が誤解をまねていてしまっているためだ。そしてこの内人体に健康被害が出始めるのは100ミリシーベルト、つまり10万マイクロシーベルトからなのだ。現在福島でも22マイクロシーベルトに過ぎない。つまり日常生活においては放射能による健康被害の可能性は限りなく低い。現に放射線被ばくで死亡者は出ていないではないか。
今回は過去のおさらいを含め少し判り易く偏見について整理しよう。
(1)偏見の要因は恐怖である
今回の原発の風評被害を始め、人種差別などありとあらゆる偏見にはいずれも共通した特徴がある。それは恐怖である。偏見には恐怖が付きものだと思えばいい。例えばノロウイルスは嘔吐と下痢そして微熱を起こすだけのそんなに被害自体は大した事が無い。しかし、ノロウイルスの恐怖による被害は人間の差別心を大いに刺激し、感染者を隔離すると言う愚策に終始している。冷静に見るとノロウイルスそのものよりもノロウイルスに対する恐怖の方が被害が大きいのが現実だ。
(2)無知や未知に対する恐怖
では何に対する恐怖だろうか?知らない事、判らない事に対する恐怖なのだ。人間は本来判らないものや未知の恐怖に非常に弱い。知らない恐怖に震えるぐらいなら偏見の虜になることにより安心を得ようと言うわけだ。決めつけ、早合点、思い込み、そして偏見・・・これらは「知らない」と言う不安に耐えられなかった顛末なのだ。以前に紹介したが心理学の開祖フロイトが残した名言は非常に重い。
「曖昧さを受け入れるのは成熟の証である」
(3)精神的な弱さ
無知がプレジュディスの原因の一つだが、はたして学習による知識がそれを防ぐかと言うと一概には言えない。すでに述べた事があるが、知性と教養に優れた人でも偏見の虜になっている人は少なくないからだ。
例えば二酸化炭素が増えれば地球温暖化を招くと多くの人が信じていた。名のある科学者でさえそう主張した。しかし、国連のIPCC(気候変動における政府間パネル)は2007年にノーベル平和賞を受賞したが、後にその発表におけるデータねつ造が発覚。世界有数の科学者が集まる地球温暖化研究組織は単なる詐欺集団だと非難されても仕方がない状況になってしまった。
こう言う人々は元から人を騙そうと意図的に嘘をつくわけではない。ただ単に現実を直視しないあまり偏見の虜になり、自分自信を欺いたのだ。前から何度も言うが人間は自分に嘘をつく時ほど邪悪になれる。そして偏見に陥りやすい人の共通点は己の弱さを認めない精神的脆弱さなのだ。
人間の歴史において偏見ゆえの差別や攻撃性ほど酷いものはない。偏見に陥る事こそ最も危険な過ちである事は誰にも否定できない事だろう。しかし、その偏見を克服する方法は「精神的な弱さを克服する」など頼りない精神論しか俺には提供できない。そして偏見と差別を許さないはずの福祉業界においても偏見は健在なのだ。人類の試練はこの偏見を克服する事にかかっているのではないだろうか?
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2011-04-13 14:06
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心理学 |
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東日本大震災が全ての理由ではないがかなり前回よりも間が空いたのでそろそろブログを再開しよう。
前回、新人職員の心得を紹介した。しかし、読み返してみるともう少し既存の職員つまり先輩職員から見た扱いやすい新人、期待の持てる、好ましい新人職員を紹介した方がいいのではないだろうか?という疑問がわいてきた。理不尽な先輩職員の教えやいじめなどは確かに存在する。しかし、同じくらい使えない新人職員に困っている先輩職員もいるのだ。その先輩職員から見た「使えない新人職員」がどんなものか紹介しよう。
(1)挨拶が出来ない
挨拶ぐらい簡単なはずだ。しかし、この簡単な事が出来ない人が本当にいるから驚きだ。俺も年を経るごとにいろんな新人職員に会ってきたが、確かに挨拶も出来ない人は確かに存在する。もっとも挨拶が出来ないのは新人だけじゃない。病院では医師たちもそうだった。今でもいい歳しておきながら挨拶すら出来ない職員も少ないながら存在する。
だが、これは今も昔も最も新人職員が嫌われる要素ナンバーワンだ。理不尽なようだが、ある程度の地位の職員が挨拶できないのは看過されても新人ならそうはいかない。ただ単に会った職員に「お疲れ様」や「お先に失礼します」と言うだけではないか。それぐらいきちんとしよう。
因みに心理学的見地から申し上げれば挨拶が出来ないのは精神年齢の低さと社会性の無さの表れだ。幼児と初めて会うと「人見知り」をして、相手を無視する子供が必ずいる。挨拶を拒否する人はこの幼児と心理学的に全く同じだ。幼児が人見知りをするのは相手が何をしてくるのか判らないという単純な恐怖心からだ。児童心理学では「人見知り」は極めて当然なのだ。しかし、人生経験を積むごとに「初めて会う人でもそう危害を加える人はいない」と気付き始める。それどころかちゃんと挨拶をして、好印象を与えた方がメリットがあると判り始めるのだ。しかし、大人になっても挨拶が出来ない人は精神面で大人になり切れていないのだ。実を言うと挨拶が出来ない人は官僚、医師、大学教授などある程度社会的地位の高い人にも多い。学業ができるのと精神面で成熟するのとは全くベクトルが違うということだ。しかし、それでも挨拶が出来ない人が低く評価されるのは極めて理にかなっている事なのだ。
(2)不服さが表情に出る
前回も説明したが福祉の職場では新人を罵倒したり、利用者や同僚の目の前で恥を平気でかかせる先輩職員がいる。しかし、実を言うと罵倒する側の先輩職員も新人がどんな反応をするのかよく観察している。罵倒したり、人前で恥をかかせているのだから新人職員が気分がいいはずがない。それにも関わらず新人職員が不服そうな表情をする事を許さない。臆病な先輩職員は後輩を罵って怒りの表情をされると非常に傷つくのだ。これを見て「素直さがない」「謙虚さがない」とか平気で言えるから大したものだ。
だが一方で新人職員側にも問題がある事が少なくない。新人なのだから失敗やミスは当たり前だ。先輩の立場からするとそれはそれできちんと指摘や指導はしないといけない。その方法が多少乱暴でもそれはそれでミスや失敗は謙虚に受け止めるべきだろう。しかし、これは新卒の職員よりも中途の職員に多いが、指摘されるとかなり気分を害す新人が多い。プライドが高いためか屈辱的な指摘を個人攻撃や人格中傷に取る人もいて(実際その通りの事もある)、ネガティブな感情をあらわにする新人もいる。
先輩職員が新人職員を罵ったり、いじめをしていても殆どの先輩職員はその自覚はない。自分は新人のために厳しく適切に指導しているだけだと強弁する人が多い。だから新人から不服そうな態度を取られると「こいつは新人の癖に生意気だ」という評価になってしまうのだ。先輩職員たちは屈辱的な指導をすることで新人がどんな反応をするのか試しているのだ。だから職場では出来るだけ笑顔で振る舞うようにお勧めする。笑顔で振る舞うのは福祉の職場では感情コントロールに役に立つ。是非実践してほしい。福祉の職場ではとりわけ何を言われても平静さを保てるメンタルの強さが求められる。先輩たちが新人職員を厳しく指導(侮辱)するのは逆に言うと「後輩に甘く見られたくない」という自信のなさや不安だったりする。
(3)素直に指導を聞かない
これもよく中途の新人にありがちだが、先輩職員に指導されても言い訳をしたり、反論をする人がいる。だがこれも(2)と同じだが3カ月、せめて1ヶ月はどんな事を言われても反論や言い訳は絶対するべきではない。特に中途採用の職員は経験や技術を見込まれて採用されているはずだから新しい職場のやり方となじまないかもしれない。しかし、それでも新人の内はプライドを飲み込んで、その職場のやり方に従うべきだ。郷に入れば郷に従えとも言うではないか。自分が知っているやり方がいいと思うのであれば、チームの一員だと認められてから主張するべきなのだ。これはどこの世界でもそうだが、新しい職場ではその職場に対する敬意を払うべきだ。だがなかなかそれが理解できない新人が少なくない。
特に福祉では一つ間違えると事故や死亡に結び付く事が少なくない。そういう意味でも指導を素直に聞かない職員は非常に忌み嫌われる。
総括
以上三つのポイントを説明したがいかがだっただろうか?
これらのなかで共通している事が一つある事に気が付いただろうか?それは謙虚さである。例え自分が鼻もちならない差別主義者でも新人には謙虚さを求めるのが福祉の職場だ。だがそれが無いと福祉に限らずどんな職場でも成功しない事は100パーセント保証できる。
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2011-04-06 23:11
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東日本地震からすでに2週間が経とうとしている。
あらかじめ原稿は途中まで書いていたが、地震の余波で今回も特別寄稿をしよう。
今回は文字通り恥を知ってほしい人々、組織を紹介する。
マスコミ
今回あまり評価されていないが、政府や自治体の対応の早さ、的確さは本当にすばらしいものだ。いろいろ拙い所に批判が集まるがこれはいろんな専門家が指摘するように有史以来最大の地震である事を忘れてはならない。阪神大震災から1週間後はケイオス状態だった事を考えると今回の対応はその教訓を十分生かしたものだと言える。
そんな中「相変わらず進歩がないな」と失望させたのはマスコミだ。
ニュージーランド地震でも顰蹙を買ったが、被災者が嘆き悲しむ様を映すのはもはやメディアスクラムではない。もう犯罪のレベルだ。物資が欠乏している事をご丁寧に報道するならどうして各社が保持しているヘリコプターを運搬に提供しない?
また管直人首相の対応を批判する声が多いが何が何でも非難すればいいものではない。
首相が記者会見にも現れない、国会にも姿を見せない事を非難するマスコミ記事を見たが、指揮官の首相が忙しいのは当たり前だ。
ネット世界ではマスコミをマスゴミと表現する事があるがそう言われても仕方ないだろう。無節操な批判や行き過ぎた取材活動はかつての「個人情報保護法案」などで規制を招くだけだ。取材規制をするとマスコミは鬼の首を取ったように「報道の自由」と声高に主張するが、自制が伴わない権利の主張が醜悪なのは福祉でも一般社会でも同じだ。
NPBと高野連
日本プロ野球連盟と高野連には失望した。
選手会が反対しているのにも関わらず何が何でも興行を強要する姿勢は到底どう考えても理解は得られないだろう。電力の節約をしなければならない時に大規模な電力を使う野球を誰が見たいだろうか?
特に読売ジャイアンツの強硬姿勢には批判の声が上がったが、一体コミッショナーはどこで何をしているのだろうか?震災後すぐに全日程を中止したJリーグは4月末まで試合を見合わせる事を決定した。リーダーシップの差が否が応でも目につく。
だがNPB以上に無神経で罪深いのが高野連。
こちらはさりげなく強行したがどうして非難されないのか?
被災した高校は野球どころではないだろう。選手の中には家族が亡くなった人もいるだろう。プロでもない高校生にそんな状況で興行を強いる姿勢はまるで北朝鮮だ。
「被災した人々に勇気と希望を与える為」と毎日新聞や朝日新聞、高野連は弁明するが本音を言ったらどうだろうか?
「興行を中止したら減収になるから何が何でも試合をやらせる」と
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2011-03-24 16:42
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3月11日に信じられない規模マグニチュード9.0の大地震が起きてしまった。被害にあった方及び犠牲になった方には哀悼の意を表したい。
今回は緊急投稿として震災時、幸運にも被害に遭っていない方の行動について提言をしたい。
ボランティアに行くべきではない。
俺はかつて阪神大震災を体験したがその際は幸運にも難を免れた。しかし、距離が近かったため在籍していた大学では震災救助ボランティアが組織され有志のボランティアが現地に赴いた。しかし、その結果はどうだったか。結論から言うと単なる足手まといに終わっていた。残酷な現実だろうがよく考えれば当たり前だ。素人の大学生や一般人が被災現場に行っても出来る事は何もない。これが自衛隊員やレスキュー隊、医療従事者などそれなりの経験や訓練を積んでいるなら話は別だ。だが、善意しかない素人が言っても現地は迷惑なだけ。原子力発電所の爆発や余震などで負傷する可能性もあるのだ。それと当然の事だが、ボランティアが現地に行けば、その分の食糧や生活スペース、トイレだって必要になる。しかも交通機関や道路などもボランティアの分も使用されれば緊急物資や援助を輸送する邪魔をしているだけなのだ。
現に政府はテレビを通じ、被災した都道府県はボランティアの受け入れが出来ていないと早速釘を刺している。被災地にボランティアの受け入れ態勢が整わない内は絶対に行くべきではない。
個人で物資を送らない
個人で毛布や水などの援助物資を送る動きは阪神大震災の時も見られたが、個人で送ると現地が必要で無いものを送る事態になりがちだ。今回の震災ではどの配送会社も震災地への配達は拒否しているため送りようがない。この点も今回政府の手回しが非常に早い。送るなら現金をチャリティ団体に寄付した方がいいだろう。だが俺はお金を寄付することに関しては一貫して否定的だ。その点は第24回 第25回を参照にしてほしい。コンビニやスーパーなどいろんな企業が客から募金を集めようとしているが恥を知るべきだ。そんなに募金をしたければ自分たちの収益を募金すればいいではないか。
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2011-03-14 22:55
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文藝春秋SPECIALで老人ホーム入居の心得を執筆した。読んで頂いた読者の方には素直に心から感謝申し上げたい。
今回はもうすぐ新年度が始まるので、社会福祉施設に勤める新人職員の心得について語りたいと思う。元々俺の立場は「介護施設に勤めること自体賛成しない」と言うものだが、新卒でも中途でも多くの人が福祉の門を叩く。文藝春秋SPECIALでは老人ホーム入居に対してのあくまでも入居者から見た心得を書いたが、今回は新人職員が入社に対して心得を書きたい。介護施設に就職していかに快適な職場関係を築き上げられるかそのコツをお教えしよう。
(1)理不尽な仕打ちに耐えろ
「利用者さんに何でタメ口使ってんのよ!?」
「すいません・・・」
「この間も同じ事したでしょ。何度も同じこと言わせないでよ!」
「はい・・・(アンタだって先輩のくせして利用者にタメ口じゃないか!!)」
たかだか新人職員のやる事で鬼の首を取ったかのように罵る馬鹿な先輩職員がどこの施設にもいる。新人職員なのだから仕事ができなくて当たり前だ。それをいかに指導するのかが教育のはずだ。しかし、実際には罵倒と指導の区別がついていない、いびりやいじめの大好きな職員がどこにでもいる。新人職員の中には理不尽な注意やいびりに対して思わず反論をしたくなる人もいるだろう。しかし、新人職員はしばらく理不尽な扱いを受けても反論しない方がいい。反撃などするといじめやいびりが余計酷くなるからだ。これは特にどちらかと言うと経験のない新卒職員よりもなまじプライドの高い中途職員がやりがちだが、下手な反撃は絶対止めた方がいい。新しい職場に来る時はプライドや自尊心は職場の一員と認められるまで放棄して、謙虚すぎるぐらいに振る舞っておくべきだ。
よく介護職員は「命を預かる大事な職場だから新人職員には厳しく教育する」と理不尽な仕打ちを正当化する人が少なくない。しかし、現場で働く俺に言わせればそんなもの大嘘か建前のどちらかだ。本当にきちんとまともに教育するなら怒鳴ったり罵ったりする必要性はない。そんなもの新人職員を不安にさせるだけで全く合理性が無い。俺自身同僚や後輩に怒鳴る事など皆無だ。責任が無く、道理が通用しない利用者にならまだしも、責任がある健常者にそんなもの何の意味もない。
新人職員への理不尽な注意や指導はその本質は洗礼だ。きちんと職場の秩序に順応する気があるかどうかのイニシエーションだと思えばいい。イニシエーションなど聞くとカルト教団を思い出すようだが、実際殆どそれと変わらない。
元々恥ずかしい事に福祉の職場はそのイメージとは裏腹に職員同士のいじめや権力争いの絶えない極めて陰湿で未熟な人間の集まる場所だ。よく生意気で先輩を軽視する向こう見ずな新人職員はどこにでもいる。しかし、そういう新人は「謙虚さがない」と最も嫌われる。なぜならどの介護職員にとって最も恐ろしいのは面子を失う事だからだ。
その心理を覗けば、新人いびりをする先輩職員は自分の弱いプライドを守ろうとしているだけなのだ。だからこそ、理不尽な扱いを受けても怒りに駆られるのではなく、「大人げないな」と思いつつも従順なふりをしておこう。新人に従順さと謙虚さを求める介護職員もその多くは実を言うと他人の意見に耳を傾けない傲慢極まりない人種だ。現に俺は13年の経験を持つ介護士でそれなりの能力を持っていると自負しているが、その俺の意見でも尊重しない職員や職場がほとんどだ。そんな人々でも新人には謙虚さを求めるのだから恐れ入る。
そしてこのような行動を新人職員の諸君は良く見て、我が振りを見直して欲しいと願う。職場内の権力抗争やいじめは仕事をきちんとする見地から見て百害あって一利なしだ。しかもその諍いは上司の不作為や権力欲に起因している事も少なくない。
(2)メモを取れ
新人らしく謙虚に見られたいなら、是非メモを活用してほしい。最初新人職員はOJT(on the job trainingの略。実演を通してのトレーニングの事。つまりちゃんと教育プログラムを組むつもりがない方便)で先輩職員と一緒に介護をする。その際、先輩から言われる事を適当でもいいからメモを書けば(同僚職員たちに)好印象を与える事が出来る。仕事を覚える事も出来るし、謙虚そうな印象を与える事も出来る。一石二鳥だ。
(3)周りを見ろ
周りを見る事が必要なのは利用者を見る観察眼を養う事だけではない。新人の頃は先輩職員の言動をさりげなく観察した方がいい。これは先輩の仕事ぶりを見て、技術を盗めとかそういう意味ではない。どこの職場でも同僚同士の確執や権力争いがある。そういう先輩職員同士の人間関係は誰も教えてくれない。だからこそ、新人の頃は余裕があるなら職員の言動も見ておくべきなのだ。最初は余裕がなくて難しいかもしれない。しかし、慣れてきたらトライしてほしい。
以上新人職員の心得を説明した。内容を見ると技術的な事や利用者対策よりも態度や同僚対策を強調している。身も蓋もないが福祉の現場で上手く振る舞うには他の同僚に対する対策が大事なのだ。
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2011-03-09 12:06
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嘘は本当に深遠なテーマだ。とりわけ福祉分野ではその特殊性からかなり歪んだ形で嘘は存在していると言えるだろう。今回も引き続き嘘について話したい。
前回俺は福祉現場では嘘はやむを得ないどころかむしろ必須の技術と言えると主張した。だがそれは全ての嘘や欺瞞を正当化するためではない。それどころか社会福祉施設に限らず組織の中にはあまりにも嘘や欺瞞に浸りすぎていて前後不覚の状態になっているところがある。
例えば俺が福祉の現場で体験した例でこんな話がある。
最近は利用者中心を声高に主張する施設が多い。経営者自ら「顧客満足を高めたい」と発言しているところも多い。しかし、福祉の世界では「お客様中心」の考えが時に過ちである事は決して少なくない。
橘川すずゑは77歳の昭和生まれの女性だった。彼女は認知症も無く、最初は普通の女性に見えた。穏やかでユーモアがあり、入居して友人もいた。しかし、入居して間もなく彼女の本性が出始める。職員が少しでも時間に遅れたり、ミスをすると人が変わったように怒鳴り始める事があった。最初は職員側も自分たちの失敗が原因なのだからと理解があった。しかし、橘川すずゑの攻撃はエスカレートし始める。少しでも気に食わない事があると職員を「アホ、バカ」などと罵り始めた。また弱い利用者を苛めるなど目に余る行為が増え始めた。
ここまで来ると職員の多くから上司たちに苦情が上がり始める。しかし、上司たちの返答は「橘川さんはこの季節は体調が悪いから」「職員の態度にも問題があるのでは?もっと受容しないと」など部下の期待を裏切るものだった。つまり現実よりも甘い嘘に浸る選択をしたわけだ。
実を言うと橘川にはすでにうつ病の既往があり、すでに症状が出ていた。詳しくは述べないがうつ病と言うと何も出来なくなる「大人しくなる」病気だと思っている人が多いかもしれないが、それは違う。橘川のように中には周りの人間に感情的に当たり散らす行動に出る人もいる。職員の中には精神科を受診するように上司たちに進言するものもいたが橘川を刺激したくない上司は「精神科に行かせるのはいいことではない」と逃げていた。
誰も咎める者がいない橘川の傍若無人振りはさらに悪化する。介助する職員を30分以上罵り続けたり、暴力行為に出る事もあった。こうした暴行暴言に晒された職員の中には動悸や麻疹が出たと訴える者が出始めた。酷い人は円形脱毛症になってしまった人もいた。さすがにここまで来ると上司たちも精神科医を受診させようとした。しかし、今まで何もして来なかったためか、簡単に事が運ばない。ご存知かもしれないが昔ならいざ知らず現代では本人の同意のない精神科入院は難しいのだ。
こうしている間に事件が起こった。
橘川の身勝手ぶりと何もしてくれない(ように見える)上司たちへの不信がピークに達したのか突然3人の職員が無断欠勤したのだ。3人はそのまま二度と職場に来なかった。福祉の職場で2人以上無断欠勤されたら組織崩壊状態だと思えばいい。その後も他の職員から辞表が提出された。やっと事態が悪化している事を認めざるを得なくなった上司たちは、その後強硬に橘川を精神科に入院させた。
いかがだっただろうか?苦い真実よりも甘い嘘に浸る代償は思った以上に高くつく。普通の常識で考えればお客様であろうが、従業員に暴言を吐いたり他の客に迷惑をかける行為は許容外のはずだ。だが多くの施設ではこのようなモンスター利用者に対しては現実を直視するよりも虚構に逃げ込もうとする。だが嘘に逃げ込むその姿勢はますます問題を大きくしてしまう。
ここではっきり言うが嘘は騙された相手が不利益を受けるだけではない。現実を直視せずに嘘を付いて逃げていると結局自分が一番その報いを受ける。辛くとも現実直視をするのは翻って自分自身のためなのだ。借金は最悪自己破産すれば債務から逃れらるだろうが、嘘つきに自己破産はない。嘘の代償は必ず利子を付けて返さないといけなくなるのだ。
俺がこの連載を書き始めた理由もとんでもない虚偽や嘘がまかり通る福祉の現実に嫌気がしたためだ。何らかの形で世の中の人々が知る事が出来るように「真実」を書きとめておきたいと考えたのがきっかけだ。連載当初は「抗議のメールが来るんじゃないか」と思ったが、それは全くの杞憂だった。ご意見自体は決して多くはないが、寄せられたメールやコメントは俺の文章に肯定的な意見ばかりだった。なんてことはない。やはり苦くても真実を求める勇気ある人々がいかに多いを痛感する。
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2011-03-02 18:39
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しつこいようですが・・・
俺が寄稿した文藝春秋SPECIALが今日発売しました。
朝日や産経、読売新聞などにも文藝春秋SPECIALの広告が載っているのですがそこに松田浩治の名前が載っていますね。
今日僕も早速購入したんですが、なんとあの俺の尊敬する経済評論家の荻原博子さんと同じように載せてもらえてるなんて・・・非常に光栄です。
改めて思うのですが、今回このような栄光に授かれたのはひとえにこんな口の悪いブログやメルマガでも応援してくれた読者の皆さんのおかげです。これからも変わらぬ熱意で執筆しますのでよろしくお願いします。
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2011-02-26 23:42
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