ニックネーム:しばやん
性別:男性
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京都のお寺に生まれたしばやんの日本史ブログです。このブログのファイル容量がなくなったのでFC2ブログに過去の歴史関係の主要記事を移し、平成26年1月5日以降の記事は新ブログにのみ掲載しています。記事のリンクやツィートなどは歓迎しますが、できるだけ新ブログのURLで案内していただきたいのでよろしくお願いいたします。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/

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2012年11月08日(木)
討幕の密勅、大政奉還から王政復古の大号令までの歴史を振り返る
前回の『ええじゃないか』騒動の記事で、岩倉具視らの陰謀により、慶応三年(1867)十月十三日、討幕派の薩長両藩に『討幕の密勅』が下ったことに少しだけ触れておいた。

武力討幕派の薩摩長州両藩にとっては、もし将軍徳川慶喜が土佐藩の建白による大政奉還を決断するとなると武力で幕府を倒す大義名分がなくなってしまうばかりか、新政府の主導権を土佐に奪われかねないことになる。そこで、朝廷より「討幕の密勅」を受けて、武力討幕を進めようとするのだが、大政奉還される前日の十月十三日出された「討幕の密勅」は、朝廷の出す「詔書」として正式な手続きを経たものではなかったことが明らかになっている。
Wikipediaに詳しく書かれているが、この勅書は明治天皇も摂政二条斎敬の手も経ずに書かれており、偽勅である可能性が限りなく高いと書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%8E%E5%B9%95%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85

この「討幕の密勅」の読み下し文はWikipediaでも読めるが、次のURLに口語で要約されている。読めばわかるが、驚くほど過激な内容になっている。
http://www.japanusencounters.net/restoration.html#restoration

読み下し文はこうなっている。

「詔す。源慶喜、累世の威を籍り、闔族(ごうぞく=一門)の強を恃み、みだりに忠良を賊害(=殺傷)し、しばしば王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めて懼れず、万民を溝壑(こうがく=どぶ谷)に擠し顧みず、罪悪の至る所、神州まさに傾覆せんとす。朕、今、民の父母として、この賊にして討たずんば、何を以て、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讎(しんしゅう=深い恨み)に報いんや。これ、朕の憂憤の在る所、諒闇を顧みざるは、万止むべからざる也。汝、よろしく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮(てんりく=全滅)し、以て速やかに回天の偉勲を奏して、生霊を山獄の安きに措くべし。此れ朕の願、敢へて懈る(おこたる)ことなかれ。」

要するに慶喜を暗殺せよと天皇が命じたことになるのだが、慶喜が将軍に着任したのは慶応二年(1866)の十二月五日だから着任してまだ10か月と日が浅く、ここまで恨まれるほどのことは何もしていないと思われる。要するに薩長は討幕ありきで、その為には慶喜を殺すしかないという考えなのだ。

この密勅は慶応三年(1867)十月十三日に薩摩藩に、その翌日に長州藩にも下され、長州藩には京都守護職の松平容保(会津藩主)とその実弟で京都所司代の松平定敬(桑名藩主)を討伐する命令書も下りている。

しかしこの討幕の密勅は、あとで記すが、十四日に将軍・徳川慶喜から大政奉還の上表が出されたために、中止されることになったという。

次に薩摩・長州とは別の立場をとる土佐藩の動きを追ってみよう。
土佐の坂本龍馬、後藤象二郎らが、天皇のもとに徳川及び諸藩が力を合わせて国内を改革する必要を唱え(「公儀政体論」)、彼らの働きかけで前藩主山内容堂は、15代将軍徳川慶喜に対し、政権を返還するよう建白した。
慶喜はこれを受け容れて、同じ十月十四日に朝廷に大政奉還を申し出て、朝廷はこれを受理し、これにより家康以来265年続いた徳川幕府はついに幕を閉じることになるという流れだ。

龍馬が唱えた維新国家のグランドデザインは『船中八策』と呼ばれ、原文は次のようなものであったとされている。
「一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事
一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事
一、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。
一、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事。
一、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。
一、海軍宜シク拡張スベキ事。
一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。
一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。
以上八策ハ方今天下ノ形勢ヲ察シ、之ヲ宇内万国ニ徴スルニ、之ヲ捨テ他ニ済時ノ急務アルナシ。苟モ此数策ヲ断行セバ、皇運ヲ挽回シ、国勢ヲ拡張シ、万国ト並行スルモ、亦敢テ難シトセズ。伏テ願クハ公明正大ノ道理ニ基キ、一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン。」

この『船中八策』の最初に書かれているのが『大政奉還』であり、龍馬の構想する維新国家は、まず幕府が大政奉還したうえで朝廷を中心とした統一国家を作り、上下両院の議会政治により討議すること、憲法を作ることなどが書かれている。

後藤象二郎や山内容堂がこれを受け容れ土佐藩の藩論としたのは、薩長による武力討幕を回避するためは、これ以外に方策はないと考えたのであろう。土佐藩が幕府に大政奉還の建白をしたのは十月三日で、十月六日には芸州藩も同様な大政奉還の建白をしているようだ。

この建白に対する幕府の対応は驚くほど早かった。徳川慶喜は十月十三日に十万石以上の諸藩の重臣を二条城に集めて大政奉還の諮問を行い、朝廷に大政奉還を申し出たのは十月十四日なのだ。

徳川慶喜は土佐藩などの大政奉還の建白をどう受け止めたのだろうか。もちろん薩長の武力討幕派の動きについては耳に入っていたはずだし、もし幕府と薩長とが戦えば双方が消耗して外国勢力の思う壺となり徳川家の存続どころではなくなる。一方、徳川幕府が大政奉還を受け容れれば、薩長による倒幕の大義名分がなくなり、内乱が回避され徳川家も安泰となる。徳川家としては、この選択の方がはるかにベターだと考えたのだろう。

しかし将軍慶喜は、大政奉還をしても徳川家の政権の実権を捨てることまでは考えていなかったようだ。朝廷側にとっては、幕府からいきなり政権を返上されても明治天皇の年齢は当時数えで16歳に過ぎず、朝廷に政権運営能力があるわけではない。慶喜には、大政奉還後にやがて組織されるであろう諸侯会議で、その後も政治的影響力を発揮できるという読みがあったようだ。

慶喜生前談話集である『昔夢会筆記(せきむかいひっき)』という本には、「予(慶喜)が政権返上の意を決したのは早くからのことであったが、かといって、どのようにして王政復古の実を挙げるべきかについては良い考えは思い浮かばなかった。しかし土佐藩の建白を見るに及び、その掲げる政体構想が非常に有効であると確信したので、これならば王政復古の実を上げることができると考え、これに勇気と自信を得て、大政返上の断行に踏み切ったのだ。」という趣旨のことが書かれていることが次のURLに紹介されている。
http://www2.dokidoki.ne.jp/quwatoro/faq2/faq2.cgi?action=answer&no=24

要するに、徳川慶喜は「船中八策」にあるように「上院に公家・諸大名、下院に諸藩士を選補し、公論によって事を行えば、王政復古の実を挙げる事が出来る」と考えたのだ。さらに『昔夢会筆記』には、老中板倉勝静(いたくらかつきよ)らは、慶喜を朝廷の摂政という形にしてそのまま実権をとり続けさせたいと思っていたことが、書かれているようだ。

 徳川慶喜が朝廷に提出した大政奉還の上奏文とその口語訳が次のURLで読める。
http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/bakumatu10.htm

「臣慶喜謹て皇国時運の沿革を考候に、昔し王綱紐を解き相家権を執り、保平の乱政権武門に移りてより、祖宗に至り更に寵眷を蒙り、二百余年子孫相受、臣其職奉ずと雖も、政刑当を失ふこと少なからず。今日の形勢に至り候も、畢竟薄徳の致す処、慚懼に堪へず候。況や当今、外国の交際日に盛なるにより、愈朝権一途に出申さず候ては、綱紀立ち難く候間、従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公議を尽し、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕候得ば、必ず海外万国と並立つべく候。臣慶喜国家に尽す所、是に過ぎずと存じ奉り候。去り乍ら猶見込の儀も之有り候得ば、申聞くべき旨、諸侯え相達置候。之に依て此段謹て奏聞仕候。 以上  慶喜」

最初に記したように、朝廷はこの大政奉還により十月二十一日に『討幕の密勅』の中止を指示している。そして、翌日には大名会議開催までの庶政を慶喜に委任する決定を下し、二十三日には外交権がまだ江戸幕府にあることを認める通知が出ているという。大政奉還に反対する会津藩、桑名藩や旧幕府勢力の動きにより、次の新政権に徳川慶喜が擁立される可能性は少なからずあったようなのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%BE%A1%E6%89%80%E4%BC%9A%E8%AD%B0#cite_ref-2

しかし武力討幕派の薩摩・長州両藩は慶喜の復権を認めるつもりはなく、密かに強引なる政変決行の準備をしていたのである。

慶応三年(1867)十二月八日、岩倉具視は自邸にて薩摩・土佐・安芸・尾張・越前各藩の重臣を集め、王政復古の断行を宣言し協力を求め、翌朝の朝議のあとに、待機していた尾張・土佐・薩摩・越前・安芸の五藩の兵が京都御所の九門を閉鎖し、御所への立ち入りを藩兵が厳しく制限した中で、親王、公卿のほか五藩の諸侯を集め、明治天皇(15歳)が『王政復古の大号令』を下したという。その宣言は次のようなものであった。

「徳川内府、従前御委任ノ大政返上、将軍職辞退ノ両条、今般断然聞シ召サレ候。抑癸丑以来未曾有ノ国難、先帝頻年宸襟ヲ悩マセラレ御次第、衆庶ノ知ル所ニ候。之ニ依リ叡慮ヲ決セラレ、王政復古、国威挽回ノ御基立テサセラレ候間、自今、摂関・幕府等廃絶、即今先仮ニ総裁・議定・参与ノ三職ヲ置レ、万機行ハセラルベシ。諸事神武創業ノ始ニ原キ、縉紳・武弁・堂上・地下ノ別無ク、至当ノ公議ヲ竭シ、天下ト休戚ヲ同ク遊バサルベキ叡慮ニ付、各勉励、旧来驕懦ノ汚習ヲ洗ヒ、尽忠報国ノ誠ヲ以テ奉公致スベク候事。」

この宣言により江戸幕府は廃止され、京都守護職・京都所司代も、摂政・関白も廃止され、徳川慶喜は将軍職を辞職し、新たに設けられた総裁、議定、参与の三職にも徳川慶喜は選ばれなかったのである。また「小御所会議」では徳川慶喜の内大臣の官職と領地の返上(辞官納地)を命じることまでも決めたとある。このような重要な決定が、慶喜不在で行われたというのだ。これは慶喜がとった大政奉還策に対して武力討幕派がこれを覆すクーデターのようなものではないか。

小御所会議の様子はWikipediaなどに書かれている。
この会議で山内豊信(容堂)ら公議政体派は、徳川慶喜の出席が許されていないことを非難し、慶喜を議長とする諸侯会議の政体を主張した。特に山内が「そもそも今日の事は一体何であるか。二、三の公家が幼沖なる天子を擁して陰謀を企てたものではないか」と詰問すると、岩倉が「今日の挙はことごとく天子様のお考えの下に行われている。幼き天子とは何事か」と失言を責めたため、山内も沈黙したという
そのやりとりの後で、岩倉具視らは徳川慶喜が「辞官納地をして誠意を見せるべき」と主張し両者譲らず、会議の休憩が宣言される。その休憩中に西郷隆盛は「ただ、ひと匕首(あいくち=短刀)あるのみ」と述べて岩倉を勇気付け、このことは芸州藩を介して土佐藩に伝えられ、再開された会議では反対する者がなく、岩倉らのペースで会議は進められ辞官納地が決したのだそうだ。(ただし400万石全納から松平春嶽らの努力で200万石半納になった)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%94%BF%E5%BE%A9%E5%8F%A4_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

一方的に御所警備の任を解かれ追い払われた会津・桑名藩兵や在京の幕臣たちは二条城に集まり、口々に「薩摩を討つべし」と騒いだという。慶喜の配下には幕兵5千余、会津3千余、桑名千五百余の1万近くの充分な兵がいて、一方の武力討幕派の方は薩摩藩の兵3千、長州の兵2千5百で、慶喜がその気になって戦えば勝つ可能性は高かったと思われる。しかし慶喜は戦おうとはせず、大阪に退き下がってしまった
この時に大久保利通は慶喜が抵抗もせずに、あっさりと大阪に退いたのに驚いたのだそうだ。大久保はこの時に慶喜との戦いに敗れることまで想定して、天皇を連れて広島あたりまで逃げることまで練っていたという説もある。

以前このブログで4回に分けて土佐藩の坂本龍馬が暗殺された原因を考えたことがあるが、龍馬の暗殺は十一月十五日で、十月十四日の「大政奉還」と十二月九日の「王政復古の大号」令の間に起こっているのだ。前回の記事に書いた『ええじゃないか』騒動もこの時期に起こっていることに、もっと注目してもいいのではないだろうか。

幕府から権力を奪うことになった大政奉還の方策を考えた坂本龍馬を憎いと考えた佐幕派が龍馬の命を狙ったとするのか、大政奉還の建白によって新政府に向かう主導権を土佐藩に奪われることを怖れて武力討幕派が狙ったとするのか、ほかにも諸説があるのだが、このような歴史の流れを知れば知るほど、私には武力討幕派が一番怪しいように見えてくるのだ。

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2012-11-08 22:13 | 記事へ | コメント(2) |
| 歴史雑記 / 幕末〜明治時代雑記 |
時間が経過すればするほど、史料や証言は少なくなるし、
体制側の都合の良いように操作されてしまいますね。
事実がどうであったのか、様々な角度から検証されることが望ましいですね。
その通りですね。時間が経過すればするほど権力者にとって都合の良い史実だけが残った、「きれいごとの歴史」になってしまいます。
教科書などに書かれていることはほとんどが、そのようなものでなかったかも知れませんね。

現在に残された様々な史料などを勘案して、陰謀があった考えた方が説得力のある場合があります。そういう場合に簡単に「陰謀論」とレッテルを貼るのは、思考停止ではないかと考えています。もっとも、残された史料にも信憑性の乏しいものがあるので、その点は注意すべきですね。
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