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2011年12月17日(土)
浅野内匠頭が江戸城・松の廊下で刃傷事件を起こした原因は何だったのか〜〜忠臣蔵1
毎年12月になるとよく「忠臣蔵」に関する番組が放映される。
子供のころから何度もよく似たドラマや映画などを見てきたが、これだけ何度も実在した人物の名前で演じられるので、大半が実話なのだろうと長らく思ってきた。

Wikipediaによると、『忠臣蔵』とは
「江戸時代中期、元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)、江戸城内の松の廊下にて赤穂藩藩主浅野長矩が、高家肝煎・吉良義央に切りつけた刃傷沙汰に端を発する。松の廊下事件では、加害者とされた浅野は、即刻切腹となり、被害者とされた吉良はおとがめなしとされた。その結果を不服とする家老大石良雄をはじめとする赤穂藩の旧藩士47人(赤穂浪士、いわゆる“赤穂四十七士”)による、元禄15年12月14日(西暦1702年1月30日)の本所・吉良邸への討ち入り及びその後の浪士たちの切腹までを題材にとった物語の総称として使われる。
ただし忠臣蔵は、かなりの演出・創作・脚色が行われており、必ずしも史実の通りではないことも周知とされている。」とある。

物語や映画などにかなりの演出・創作・脚色は付き物だが、ではどこまでが史実でどこまでが作り話なのかという肝心なことが何も書かれていない。

『忠臣蔵』のハイライトは言うまでもなく赤穂浪士の討ち入りの場面だが、このきっかけとなったのは江戸城中松の廊下の刃傷事件だ。今回は松の廊下の事件について考えてみたい。

子供の頃から疑問に思っていたのだが、なぜ刃傷事件の被害者である吉良上野介が悪者となるのか。本来は逆で、江戸城中で勅使接待役の浅野内匠頭が本来の業務を捨てて刀を抜き吉良を斬りつけた方がはるかに悪者ではないのか。

刃傷事件の起こった日は、勅使(天皇の使者)が江戸城内に入って将軍と面談し、天皇のお言葉(勅語)を受けた将軍が挨拶を返す(勅語奉答)という最大の儀式が行われる日であり、浅野内匠頭は勅使御馳走役という勅使接待の直接担当者で、接待総責任者の吉良に対して刃傷事件を起こしたということなのだ。
浅野内匠頭はこの重要な儀式をぶち壊してしまったのだが、この時の吉良上野介は全く無抵抗だった。普通に考えれば、悪いのは浅野内匠頭で、吉良はただの被害者だ。

それが、『忠臣蔵』のストーリーでは逆転してしまって、吉良が大悪人になってしまっている。

そもそも『忠臣蔵』は吉良が余程の大悪人でなければ成立しえない物語である。
ところが、吉良上野介の地元である愛知県吉良町では、今も上野介を名君として称えているのだそうだ。上野介の功績としてあげられるのは、洪水に苦しむ領民のために「黄金堤」を築き、また、新田の開拓に努めた、吉良庄に立ち寄ると赤毛の馬にまたがり領内を巡検し、領民と語らったなどである。実際吉良町には「赤馬」という郷土玩具があるが、これは上野介の馬をモチーフにしたという。
世間の吉良への逆風をものともとせず、今もって名君として慕われているというのだが、どうも『忠臣蔵』とのギャップがありすぎるのだ。

では、当時の記録ではどう書かれているのかを見てみよう。
まず、松の廊下で浅野が吉良に切り付けた時、後ろから浅野を羽交い絞めにして取り押さえた梶川与惣兵衛頼照(かじかわよそべえよりてる)という人物が、この事件の一部始終を書き残している。(『梶川氏筆記』)
この文書を原文とともに現代文に訳して読みやすくしているサイトがあるのはありがたい。
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/siryo/siryo02a.htm
これによると、

「…内匠殿が参られたので、『私儀、今日、伝奏衆へ御台様よりの御使を勤めるので、諸事よろしくお頼みます』と申しました。
内匠殿は『心得ました』と言って本座(所定の場所)に帰られました。

その後、御白書院(桜間)の方を見ると、吉良殿が御白書院の方よりやって来られました。そこで、坊主に吉良殿を呼び遣わし、吉良殿に『その件について申し伝えるように』と話すと、吉良さんは『承知した』とこちらにやって来たので、私は、大広間に近い方に出て、角柱より6〜7間もある所で、吉良さんと出合い、互いに立ったままで、私が『今日、御使の時間が早くなりました』と一言二言言ったところ、誰かが、吉良殿の後ろより『この間の遺恨覚えたるか』と声をかけて切り付けました。その太刀音は、強く聞こえましたが、後で聞くと思ったほどは切れず、浅手だったそうだ。

私たちも驚き、見ると、それは御馳走人の内匠頭殿でした。上野介殿は、『これは』と言って後の方へ振り向かれました所を、また、内匠頭は切り付けたので、上野介は私たちの方へ前に向き直って逃げようとした所を、さらに二太刀ほど切られました

上野介殿はそのままうつ向きに倒れられました。
吉良殿が倒れたとほんとうにびっくりした状態で、私と内匠頭との間は、二〜三足ほどだったので組み付いたように覚えています。その時、私の片手が内匠殿の小刀の鍔にあたったので、それと共に押し付けすくめました。

内匠殿を大広間の後の方へ大勢で取り囲んで連れて行きました。
その時、内匠殿が言われるのは、『上野介の事については、この間からずーっと意趣があったので、殿中と申し、今日の事(勅使・院使の接待)のことに付き、恐れ入るとはいえ、是非に及ばず、討ち果たしたい理由があり』ということを、大広間より柳の間溜御廊下杉戸の外迄の間、何度も何度も繰り返し口にされていました。
刃傷事件のあった後なので、咳き込んで言われるので、ことのほか大声でした。高家衆はじめとり囲んで連れて行く途中、『もはや、事は済んだ。お黙りなされよ。あまり高い声では、如何かと思う』と言われると、その後は言わなくなりました。

この時のことを後に思い出して考えると、内匠殿の心中を察し入る(同情する)。吉良殿を討ち留めされなかったことは、さぞさぞ無念であったろうと思います。誠に思いもかけない急変だったので、前後の深い考えも及ばず、上のような取り扱い(抱き止め)をしたことは是非も(仕方が)ありませんでした。
とは言っても、これらのことは、一己(じぶんだけ)のことで、朋友への義のみです。上へ対してはかのような議論には及ばないのは勿論ですが、老婆心ながらあれこれと思いめぐらすことも多くあります。」

有名な『この間の遺恨覚えたるか』という部分がない写本もあり、この部分は後世に挿入されたという説もあるようだが、この文書のポイントとなるところをまとめると、
@ 浅野内匠頭が吉良上野介を斬る直前は、吉良は梶川と話していた。
A 浅野内匠頭は吉良上野介を後ろから斬りかかり、合計で四太刀も浴びせている。その後梶川が止めに入る。
B 浅野が吉良を斬った理由はずっと恨みに思っていたからというのだが、何があって恨みに思っていたかは具体的には何も書かれていない。
となる。

これが芝居や映画では、多くの作品が
@ 吉良が浅野内匠頭を侮辱する。
A 浅野内匠頭が「吉良待て」と声をかけてから正面から吉良に一太刀浴びせ、吉良は額に傷を負う。
B 逃げる吉良を追って浅野は吉良の肩口に一太刀浴びせる。そこへ梶川が止めに入る。

となっている。

梶川与惣兵衛頼照は八代将軍吉宗の家臣であり、現場にいた彼の記述が事実とかけ離れたことを書くことは考えにくいのだが、彼の記述を正しいとすると浅野内匠頭は吉良を不意打ちしている卑怯な男で、しかも四太刀も浴びせながら吉良を仕留めることができなかったのではダメな武将になってしまう。これでは物語にならないことは誰でもわかる。
四十七士の義挙の物語を描く上では、浅野内匠頭が善玉であり吉良上野介が悪玉でなければならないだろう。なぜならば、吉良が善玉であるならば、四十七士が吉良を討ち入りに行くことに「義」がないことになってしまうからだ。

それゆえに芝居や映画では、吉良は悪い男に描かれることになる。
吉良が浅野に対して多額の賄賂を要求したとか、間違ったことを浅野に教えて恥をかかせたとか、当日浅野を大勢の前で罵倒したなど諸説があるが、そのようなことを記録した当時の史料は存在せず、事件の後で創作されたものである。

では浅野内匠頭の家臣は、主君が吉良を斬った理由について心当たりがあったのだろうか。

吉良邸討ち入りに参加した赤穂浪士の手になる文書が今に残されている。
大石内蔵助が書いた口上書には、
「去年三月、内匠頭儀、伝奏御馳走の儀につき、意趣を含み罷りあり、殿中に於いて、忍び難き儀ご座候か、刃傷に及び候。…」とあり、主君が吉良を斬りつけた理由については「何か我慢できないところがあったのか」と、家臣ですら肝心なことがよくわかっていないのだ。

『忠臣蔵』のストーリーに影響されてか、浅野は吉良に恨みを持っていたという説が多数説になっている。しかしそれを裏付ける確実な当時の史料は存在せず、浅野内匠頭は何も語らないまま処刑されてしまった。

確かな裏付けがない事から、浅野内匠頭が発狂したとか、精神障害があったという説も結構根強くある。浅野内匠頭自身が当時鬱状態で治療を受けていたことや、内匠頭の母方の叔父にあたる内藤忠勝という人が刃傷沙汰を犯して切腹させられている事実もあり、遺伝的にそのような事件を起こす要素があったという説もはかなり説得力がある。
http://www.geocities.jp/toshio2003jp/tyusin-4.html

しかし、『忠臣蔵』の愛好家には、浅野内匠頭に精神障害があったという説は受け入れがたい事だろう。これでは感激のドラマには到底なりえないからだ。

多くの人が歴史小説や時代劇や映画やドラマを親しみながら知識を蓄積してこられているが、小説等には多かれ少なかれ創作部分が含まれていることに留意すべきである。それがわかっていても、ストーリーの中に実在の人物が出てくると、その多くが史実であるかのように錯覚し、作者の描く人物像に強く影響を受けることは避けられないだろう。

それが国民の常識になっているような歴史上の出来事であっても史実ではないことが少なからずあることをこのブログで何度か書いてきたが、どんな有名な事件であっても多数説を鵜呑みにするのではなく、複数の説を読み比べて自分で考えることが、事実が何かを知る上で重要なのだと思う。

それでも史料がある時代は、議論のできる余地があるからまだ良い。史料のない時代について、実在したとされる人物のドラマを、あたかも真実であるかの如くにドラマ化してテレビに放映されては、多くの国民はそれが真実だと受け取ってしまうだろう。
隣の朝鮮半島に残っている最古の歴史書は『三国史記』で、12世紀(1145年)に書かれたものでしかない。
http://dametv.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-89c6.html
それ以前の時代のドラマはほとんどすべてが想像の産物であるのだが、韓流ドラマを見てこれが史実だと信じて憧れる日本人が多いことは嘆かわしいことである。何らかの韓国の政治的意図があるのだと思うのだが、そのようなドラマを流し続ける日本のテレビ局も困ったものだと思う。

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2011-12-17 23:15 | 記事へ | コメント(22) | トラックバック(0) |
| 歴史雑記 / 江戸時代雑記 / 忠臣蔵雑記 |
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 恐らくしばやんさんがレポートされておらるように「浅野内匠頭自身が当時鬱状態で治療を受けていた。」ということで、精神的におかしな状態になっていたんでしょう。

 いわゆる「ハイ」な状態になっていて、鬱積が爆発したのではないかと思います。そうであるならば、吉良家は災難このうえない。

 歴史は「後からつくられる」と言います。「上書き保存」されてしまえば、わからないことも多くなりますね。
吉良を斬りつけた理由については様々な可能性が考えられますが、統合失調症的な状態にあったという説はかなり有力な説のようです。
この考え方だと、吉良は精神障害の浅野に突然切りつけられた上に家臣に首まで落とされたという、とんでもない災難になってしまい、これでは物語が成立しないでしょう。
私は、精神障害説に信憑性を感じます。
内藤和泉守の刃傷事件もそうですが、この時代、お家存続のために側女を持つことは許されていたものの、正妻となると誰でも良いというわけにはいかず、身分相応の相手でなければならず、その一方で、大名の結婚というと政略性が強かったことから幕府の許可が必要で、となれば、同格の家柄で幕府に睨まれない相手・・・となると、前例主義のこの時代、限られた家の間で婚姻を繰り返すことが多くなり、自然と血が濃くなる傾向があったようです。
したがって、大名家に精神異常者が多かったとしても不思議ではありませんし、それが軽度のものであれば、然るべき役職にも就いていたことでしょう。
たしかにそれでは物語が成立しなくなってしまいますが、それが一番頷けるように思えます。
いかがでしょうか?
坂の上のヒゲおやじさんもそう思われますか。私も忠臣蔵のことをいろいろ調べて、その可能性がかなり高いように思うようになりました。

殿中で本来やるべき仕事をせず、殿中でやってはいけないことをしてしまった。刃傷沙汰を起こせば、家臣が路頭に迷うこともわかっていたのに自制できなかった人物が名君であるはずがありません。

ご指摘のように血の問題もあったかもしれません。母方の叔父も同様な事件を起こしていますから、可能性が高そうです。
はじめてコメントします。

梶川与惣兵衛に対する事情聴取で、第1回(事件直後)の時は「何かわからないことを言いながら切りつけた。」の供述が、午後の第2回の時には「この間の遺恨覚えたるかと言って切りつけた。」に供述が変わっていたようです。

現代でも、物事が起きた直後に出る言葉と、時間が経って、人の意見や自己防衛思考が働いた後の言葉が全く違うことがあります。


梶川与惣兵衛も昼食時間で周囲と話をしているうちに、「何か恨みあったのかもな」という意見を聞くうちに、「そうだったのかも」と心変わりしたこともありえます。
97艦攻さん、コメントありがとうございます。

「物事が起きた直後に出る言葉と、時間が経って、人の意見や自己防衛思考が働いた後の言葉が全く違うことがあります」は、その通りですね。幕僚といえども気に入られなければ外されるのは今のサラリーマンと一緒で、自己防衛本能に走る可能性は高いですよね。

有名な『この間の遺恨覚えたるか』が抜けている写本もあるようで、この部分は後世の創作という説も以前読んだことがありますが、この事件はいろんな可能性を考えることが必要だと思います。



ゆうじです。
お久しぶりです。

先日中野へ梶川与惣兵衛の墓参りをしてきました。
このネタ好きなのでコメントさせて頂きます。

『梶川与惣兵衛日記』は大きく2つ存在していて、事件直後の記録のものは言われているように『この間の遺恨覚えたるか』の文言はありません。
この写本は現在東京大学総合図書館の南葵文庫(紀伊徳川家の蔵書)で確認できます。
『この間の遺恨覚えたるか』の文言があるのは事件から数年経った後に整理・書き直しされた写本版です。

『元禄赤穂事件』は討ち入り事件から数週間で既に芝居化されています。
幕府も庶民も討ち入りがあるのを事前に知っていて黙認と準備をしていたとしか考えられません。

「吉良を悪にして遺恨があった」とした方が当時芝居として(生類憐みの令他)鬱憤の溜まった庶民に受けが良く、ストーリーが創り易かったのでしょう。
また幕府からしても、浅野家を取り潰して評判の良い吉良を陥れることは幕府威厳を保ち更に風当たりを逸らすのに好都合。

時間が経った後の事情聴取と芝居効果で、どんどん脚色されて既成事実化していったのがいまの一般の歴史認識だと思ってます。

それと私も『松の廊下事件』の浅野内匠頭の精神病説に1票入れます。
藩内外で浅野内匠頭自身の奇行が幾つか目撃されていて、家系的に情緒不安定な方がいたことから浅野家自体に問題がある遺伝的な要素は信憑性が高いと思います。

今で言う『キレる子』だった?

一般に受けが悪く物語に都合が悪い事実はどんどん風化していったのでしょうね。
ゆうじさん、コメントありがとうございます。

私も忠臣蔵のことを調べてみて、浅野内匠頭の精神病説の方が説得力があると考えたのですが、普通の人が先入観なしに調べれば、多くの人が同じ結論になるのではないかと思っています。

梶川与惣兵衛のお墓参りをしたというのはすごいですね。中野にあることがよくわかりましたね。

東京大学総合図書館の南葵文庫に事件直後に記録された『梶川与惣兵衛日記』には『この間の遺恨覚えたるか』の文言がないという指摘は極めて重要ですね。私もどの写本に、この記述が欠落しているかまでは調べきれませんでした。ご指摘ありがとうございます。

『忠臣蔵』の愛好家には受け入れがたいことなのでしょうが、広く伝わっている物語にいくら感動したにせよ、その物語が正しいことを前提に歴史を解釈することは誤りなのだと思います。

ゆうじさんのブログは斬新な切り口でいつも勉強になります。「元の木阿弥」の話は初めて知りました。
 こちらで使われている図は、私がある人に教えるために作ったものです。赤の書き込みはその人があとから入れたものですが、書かれた内容はまだ訂正しなければならないことがいくつもあります。

 たとえば、「我等」。これは、一人称複数ではなく、一人称単数です。つまり、「私は」となるのです。「我等」で辞書を引いていただければわかります。

 事件があった直近にいたのは、浅野・吉良・梶川だけです。高家衆ははなれたところにいたし、伊達は近くにいたとはいえ、梶川と同じ立場ではありません。

「私たちも驚き」では、複数の傍観者のようですね。

 それと、角柱(すみばしら)から先へは入っていけず、覗き込んでいた梶川が、吉良が来たからといって、なぜ飛び出していったのかも、これではわからない。

 もしよかったら、私が書いたものをメール添付でお送りします。

百楽天さん、コメントありがとうございます。
画像検索か何かから拾ったのだと思いますが、断りもせずに利用して気分を害されたかもしれません。
だいぶ前に書いた記事ですが、結構アクセスがあるのに驚いています。

様々な説や写本があるのでしょうが、充分に調べきれ無かった点も多々あると思います。メールでは読者の方が読むことが出来ませんので、もしよろしければ百楽天さんの蘊蓄を、コメントでオープンされるか、百楽天さんのブログやHPのようなものがあれば、URLをコメントに書き込んで頂ければありがたいと思います。

私は高校の日本史教員を目指している17歳です。

わたしも赤穂事件のことは吉良上野介が浅野内匠頭にいじわるをしたり、侮辱をしたりしたことで起きた事件だと思っていました。
今落ち着いて考えみると赤穂浪士側だけがたたえられて、吉良側は悪者として捉えられるのも確実な資料がないのにおかしなことでした。

しばやんさんの記事を見て、テレビや映画で取り上げられる内容の全てが史実ではないということをあらためて感じました。

様々な側面から記述してある文献を読み比べてみようと思います。

ありがとうございました。
pink☆girlさん、コメントありがとうございます。

あまり受験勉強には役に立たない記事ばかり書いていますが、1年前に書いた記事に多くのアクセスを頂いて、驚いています。
日本人の常識となっている「史話」が、史実でないことはいくつもあるかと思いますが、裁判の被告と原告との主張が異なるように、歴史の記述も立場や視点が異なれば、全く違う内容のものになってもおかしくありません。

「正史」の大半は、「勝者」の立場から編まれた「史料」にもとづいているものだと思うのですが、視点を変えるとどうなるかということを考えるようになってから、歴史を学ぶことが面白くなってきました。

志望の道に進まれて、未来の子供たちに、是非日本の素晴らしさを伝えていってほしいです。
はじめまして。
お話の内容とはずれるかもしれませんが。
従四位下の浅野は身分柄松の廊下には入れるはずがないそうです。
江戸城内で、それも勅使を迎える将軍家にとって最も大切な日に、本当はなにが起きていたのか。
harrさん、コメントありがとうございます。

調べるとね浅野内匠頭は従五位下、吉良上野介は従四位下のようですね。
確かにネットではそう書いている方がおられますが、根拠となる出典まで書いている人が見当たりませんでした。

身分によって登城できる門が違っていましたからありうることだと思いますが、出典を御存知でしたらご教示ください。
浅野内匠頭の精神疾患説は強いものがあるようですね。最近まで、全く知りませんでした。

それにしても、勅使接待の日に殿中で「刃傷事件」を起こせば、いくら何でも、赤穂藩取り潰し、藩士らの“失業”は浅野内匠頭も分かっていたはずで…。

「忠臣蔵」の物語では、家老の大石内蔵助が“ヒーロー”になっていますが、彼は浅野内匠頭が失態を起こさないようにするために、赤穂からとはいえ、補佐する立場であるように思います。大石内蔵助には、主君が失態を起こさないようにする責任があった。

その大石が、現在でもヒーローとなっているのは、ちょっと腑に落ちません。

確かに、内蔵助の討ち入りに入るまでの「計画性」や「合理性」には、すごいところがあると思いますが…。
鹿児島のタクさん、ありがとうございます。

2年前に書いた記事ですが、読んで頂いただけでも有難いのにコメントまでいただき感謝です。

5回に分けて忠臣蔵のことを書きましたが、人気のない幕府が、世論に迎合しようとして、世論の求めるままに討入りをさせるように仕向けた可能性が高いと考えています。

大石をヒーローにしたのは庶民だったのではないでしょうか。
2013年12月15日(日) 21:48 by たまたまの通りすがりです
突然お邪魔してすみません。
浅野と吉良の刃傷沙汰は松の廊下で起こったのではなく、柳の間付近だったのではないか?
という話を小耳に挟み、ネットで検索していたら、たまたまこのサイトにたどり着いてしまいました。

身分の違いで浅野は松の廊下には行けなかった…。信憑性があるかはわかりませんが、個人的に少し興味がわいてきました。

あと、信憑性のある資料がないため、完全に憶測ではありますが、この刃傷沙汰には、もう一人の饗応指南役・畠山基玄が一枚噛んでいるのではないか?と思って、私なりに事件を調べております。

吉良の影に隠れてはおりますが、この畠山基玄は、2月の月番として恐らく、3月の月番であった吉良よりも長く浅野と接しているであろう人物だと私は思っています。

吉良と浅野よりも、むしろ畠山と浅野の間に何かがあったのではないか…?この二人の間に何か新発見があると面白いんですがね(笑)


長々と仮の話をして申し訳ありませんでした。

面白いサイトを発見できて楽しかったです。ありがとうございました。

身分によって入ることが許されない場所がどこかは存じませんが、『梶川氏筆記』の記述は、嘘を書く動機がないので、ある程度信用していいのではないでしょうか。
次のURLで、『梶川氏筆記』の原文と解説文を読むことが出ます。
何も史料がない場合は憶測はやむを得ないですが、信頼できる史料がある場合は、まずは史料に基づいて考えるのが原則だと思います。
御一同は浅野の精神疾患のみを言っておられますが、確かに否定は出来ないとしても、疑問は残る、若し、その癖があったとしたなら、当時の慣習として、実弟をもって後継とするのが普通、ドラマ等で有名な水戸黄門に代表される、実兄を超えて弟である光圀が領主となるのは何の不思議もない事で、加えて、今一つ浅野と吉良との間にある遺恨には もう一つ有力な説があるのをご存じだろうか?酒を酌み交わした折の事、又、浪士が討ち入りと言う事を知りながら、なぜ上杉が何等の手も打たなかったのか、若し、逆恨みによる認可無き仇討ならば、何故、浪士に切腹が赦されたのか、一方に偏らず、今少し考えるべきだろうと思慮する。
遊蕩児さん、コメントありがとうございます。

浅野長矩は延宝3年3月(1675年)、9歳の幼少で浅野家の家督を継ぎ、第3代藩主となっていますが、その段階で3歳年下の実弟を領主とするには、よほど長矩の病状が幼少の頃より重篤でなければありえないことでしょう。ちょっとその説には無理がある様な気がします。

忠臣蔵の件はいろんな説を調べて5回に分けて書きましたが、貴兄の指摘されている「有力な説」とはどのような説なのでしょうか。どの史料に書かれているかご教示いただければ幸いです。
以前から何度となく、拝見させて戴いておりました。
私は相棒と一緒に元禄赤穂事件を25年以上研究している者です。
先日は愛知県西尾市吉良町と江戸東京博物館に行ってきました。
私達の研究では、当日浅野は統合失調症の様な、或は夢遊病みたいな状況で刃傷に及んだと結論付けております。
そしてこの事件の視点を変えて見ています。
先ずこの事件が起こる前の主役と準主役は誰々だったのかという視点です。
そうすると今迄見えて来なかった事件の真相及び状況が見えて来ます。
例えば浅野と伊達が控えていた場所です。
勅使と院使が控えていた直ぐ脇の廊下に着座していて、其処が所謂本座と呼ばれている場所です。
臥龍鳳雛さん、コメントありがとうございます。

25年も研究されてきた方が、通説とは違う視点から、「浅野は統合失調症の様な、或は夢遊病みたいな状況で刃傷に及んだ」と結論されたことはとても興味深いので、論文を是非勉強したいものです。

もしネットなどで公表しておられるのなら、URLをご教示下さい。

それと、このブログはブログサービス会社が来年の1月31日にサービスを停止するので消滅することになります。

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