前回は、大航海時代以降に西洋諸国が世界各地を侵略し地球規模で奴隷貿易を開始したのは、ローマ教皇の教書に則った活動であることを書いた。
インカ帝国が滅亡した事例で、キリスト教の神父が重要な役割を演じていることを紹介したが、わが国の場合はキリスト教の宣教師に日本を侵略する意思や、日本人を奴隷化する意思はあったのだろうか。表題のテーマからすれば、日本も例外ではなかったことを、当時の記録から論証する必要がある。
大量に日本人奴隷が海外に輸出された事実は、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの記録を読めばわかる。以前私のブログで引用した部分だが、
「薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は、肥後の国に連行されて売却された。その年、肥後の住民はひどい飢饉と労苦に悩まされ、己が身を養うことすらおぼつかない状態になったから、買い取った連中まで養えるわけがなく、彼らはまるで家畜のように高来(タカク:島原半島)に連れて行かれた。かくて三会(ミエ)や島原の地では、時に四十名が一まとめにされて売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(「完訳フロイス日本史8」中公文庫p.268)…1588年の記述
この「おびただしかった」という数字がどの程度であったかは諸説があるが、
「豊後の国の全領民は次のように三分された。その第一集団は、戦争のために死亡し、第二集団は、敵の捕虜となって薩摩や肥後に連行されたのち、羊の群れのように市場を廻り歩かされたあげく売られていった。第三の集団は、疾病や飢餓のために極度の貧困に陥って人間の容貌を備えていないほどであった。」(同書p.314)…1589年の記述
という記録もあり、数千人レベルではなさそうだ。
太閤検地の頃の豊後の人口が418千人であったことから勘案すると、鬼塚英昭氏が『天皇のロザリオ』という本で書いた50万人説は、豊後以外の人々が奴隷にされていたとしても多すぎると考える。
史料を読む人によってイメージする数字が異なるのだろうが、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の会話録の中で、彼らが世界各地で日本人奴隷を見て驚愕した記録や、インドのゴアにはポルトガル人よりも日本人奴隷のほうが多かったという記録があることなどからしても、数万人程度は海外に奴隷として送られたと考えてもおかしくはないだろう。
日本人奴隷は鎖につながれて数百人が奴隷船に積み込まれた記述がある。
秀吉の祐筆であった大村由己(おおむらゆうこ)が『九州御動座記』に、秀吉が「伴天連追放令」を出した経緯をまとめている。
「今度伴天連等能き時分と思候て、種々様々宝物を山と積、…日本人を数百男女によらず、黒船へ買取、手足に鎖を付け、船底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、…今世より畜生道の有様、目前之様に相聞候。…右之一宗御許容あらば、忽日本外道之法に成る可き事、案の中に候。然らば仏法も王法も、相捨つる可き事を歎思召され、忝も大慈、大悲の御思慮を廻らされて候て、即伴天連の坊主、本朝追払之由仰出候。」
手足に鎖をつけて、数百人も船に積み込むのはアフリカの奴隷船と全く同じやり方だ。
アフリカで実際に使われた100tクラスの奴隷船は全長が約30mで414人の奴隷を乗せたという記録があるそうだが、船底の3〜4段のスペースに身動きできない程ぎっしりと詰められた暗くて狭い空間で、何か月もろくな食事も水も与えられずに波に揺られて運ばれていたかと思うとぞっとする。
当時日本にいたキリスト教宣教師のトップであるイエズス会日本準管区長のガスパル・コエリョと秀吉のやりとりが、ルイス・フロイスの記録に残されている。
「…予(秀吉)は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られていったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」(ルイス・フロイス「日本史4」中公文庫p.207-208)
秀吉が、奴隷を連れ戻すために必要な金を払うとまで言ったのに、コエリョは我らも廃止させようと努力しているのに取り締まらない日本側に問題があると答えて秀吉を激怒させ、『伴天連追放令』を出すこととなる流れだ。
前回の記事でも書いたように、コエリョ自身が署名した奴隷売買契約書も発見されている。コエリョはローマ教皇教書によって認められていた、異教徒を奴隷にする権利を行使していたことは間違いがない。
しかしながら、途中から日本での奴隷貿易を廃止させようと動いたこともまた事実である。
Wikipediaによると、「1560年代以降、イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教のさまたげになり、宣教師への誤解を招くものと考え、たびたびポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を求めていたが、1571年に当時の王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布させることに成功した。それでも、奴隷貿易は根絶にいたらなかった。」と書いてある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.A5.B4.E9.9A.B7.E3.81.AE.E8.B2.BF.E6.98.93
ここで、前回の記事を思い出してほしい。
ローマ教皇パウルス3世が異教徒を奴隷とすることを禁止する教書を出したのは1537年。しかし、それが翌1538年に教皇パウルス3世自身により撤回されて異教徒を奴隷にする権利が元どおりに復活しているのだ。
当時のローマ教皇はキリスト教世界の首長として絶大な影響力を持っており、その決定はヨーロッパのキリスト教国王に対しても拘束力があった。したがってローマ教皇の教書で異教徒の奴隷化を全面禁止としない限り、奴隷貿易がなくなるはずがなかったのだ。
上記のWikipediaの記事には秀吉が『伴天連追放令』を出した9年後の1596年(慶長元年)に、「長崎に着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンスはキリシタンの代表を集めて、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると通達している」ことが書かれているが、ガスパル・コエリョがそのような通達を早い段階から出していれば、日本のキリスト教の布教がその後も拡大した可能性はあったかもしれない。しかしながら、自らが奴隷貿易に関与していた男が、ローマ教皇の教書によって与えられた権利を捨ててまでしてそのような通達を出すことはなかっただろう。
日本の歴史の教科書にはほとんど何も書かれていないので、中学高校時代にはイエズス会の宣教師はキリスト教を広めるためにわざわざ日本にやってきたとしか考えなかったのだが、私がスペインやポルトガルにわが国を侵略する意図があったことを知ったのは数年前のことである。
この頃の日本は「戦国時代」で、どの大名も軍事力を大幅に増強していた時期であったことは幸運なことだった。だからこそわが国は、この時にスペインやポルトガルに征服されずに済んだのだと思う。最初に日本に来たイエズス会のザビエルですら、ポルトガルのロドリゲス神父宛ての1552年4月8日付の書簡で日本を占領することは無理だと報告している。
「…貴兄に、我らの国王と王妃とに、次の献言をして頂きたいためである。即ち此の御ニ方は、その良心を軽くせんがため、カスチリヤ(スペイン)の艦隊を、ノヴ・イスパニヤ経由で、*プラタレアス群島の探検のために、送らないようにと、皇帝やカスチリヤ国王達に知らせなければならないことである。何となれば、幾つの艦隊が行っても皆滅びてしまうからである。そのわけは、海底に沈没しなくても、その島々を占領するならば、日本民族は甚だ戦争好きで貪欲であるから、ノヴ・イスパニヤからくる船は、皆捕獲してしまうに違いないからである。他方日本は、食物の頗る不作の土地であるから、上陸しても皆飢え死にするであろう。その上、暴風が激しいので、船にとっては、味方の港にいない限り、助かるわけは一つもない。
…日本人は貪欲であるから、武器や品物を奪うために、外人のすべてを殺すであろう。…」
*プラタレアス群島:「銀の島」。日本はそう呼ばれていた。
(岩波文庫『生フランシスコ・ザビエル書簡抄(下)』p172-173)
同様のことを織田信長とも親交のあったイエズス会の東インド巡察師ヴァリヤーニも1582年12月14日付のフィリッピン総督あての書簡に書いている。本能寺の変から半年後に次のような書簡が書かれたことに注目したい。当時のフィリピンはすでにスペインの植民地であり、スペインが次にどの国に向かうべきかがこの書簡の主題である。
「これら東洋における征服事業により、現在いろいろな地域において、陛下に対し、多くのそして多き門戸が開かれており、主への奉仕及び多数の人々の改宗に役立つところである。…それらの征服事業の内最大のものの一つは、閣下のすぐ近くのこのシナを征服することである。…
私は3年近く日本に滞在して、…霊魂の改宗に関しては、日本の布教は、神の教会の中で最も重要な事業の一つである旨、断言することが出来る。何故なら、国民は非常に高貴且有能にして、理性によく従うからである。尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.81-83)
と、まずシナから征服すべきであるとし、日本は武力征服が成功する見込みがないし国土が不毛でメリットがないということを書いているのだ。
イエズス会の巡察師というのはイエズス会総長から全権を委託されて、東アジアの布教を統括した役割の宣教師と理解すればよい。彼ら宣教師の目的が布教だけでなかったことは彼らの書簡を読めば明らかなことである。
また、フィリピンのマニラ司教のサラサールが1583年6月18日付でスペイン国王宛にシナに対する武力征服の正当性を主張した報告書が残されている。この報告書は当時のスペインの征服事業が、前回の記事で記したローマ教皇の教書に基づいたものであることを裏付けているし、日本をどうするかについても書かれている。
「私がこの報告書を作成した意図は、シナの統治者達が福音の宣布を妨害しているので、これが、陛下が武装してかの王国に攻め入ることの出来る正当な理由になることを、陛下に知らせるためである。…
…もしも迅速に遠征を行うなら、シナ人がわれわれを待機し、われわれに対して備えをするのを待ってから事を起こすよりも、はるかに少数の軍勢でこと足りよう、という点である。そしてこのことを一層容易に運ぶには、シナのすぐ近くにいる日本人がシナ人の仇敵であって、スペイン人がシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを、陛下が了解されると良い。
そしてこれが効果を上げるための最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、この点日本人に対し、在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。」(同書p.85-88)
キリスト教の布教に協力しないということだけで宣戦布告できるというのは、前回の記事で書いたインカ帝国を滅ぼした手口と同様である。
これはローマ教皇アレキサンデル6世が1493年に出した『贈与大勅書』により、異教徒であることが認定されればすべての権利がスペインに帰属するという解釈により、「福音の宣布を妨害している」ことを口実にシナも攻め入ることができると進言しているのだ。
この2年後の1585年3月3日にイエズス会日本準管区長のコエリョは、フィリピンイエズス会の布教長に対し、日本への軍隊派遣を求め「もしも国王陛下の援助で日本66か国凡てが改宗するに至れば、フェリペ国王は日本人のように好戦的で頭のよい兵隊を得て、一層にシナを征服することができるであろう」と書いている。すなわちコエリョは、日本人をキリスト教に改宗させたうえで、その軍事力を使ってシナ征服にとりかかろうという考えであったのだ。
これらの書簡を読めば、キリスト教の布教は単に信者を増やすというレベルの問題ではなく、スペインが海外を征服していくための国家戦略に組み込まれていて、宣教師は世界征服のための先兵のようなものであったことが誰でもわかるだろう。
当時のわが国で、カトリックに本気で帰依したキリシタン大名はすでに何名もいた。彼らは秀吉の統制の外にいて、いずれスペインが明を征服し朝鮮半島から最短距離でわが国に向かったとすれば、キリシタン大名の銃口は秀吉に向かい国内は内乱状態になっていたはずだ。
彼らの意図を察知した秀吉の動きは早かった。コエリョが軍隊派遣した直後の5月4日に、秀吉は自らの明征服計画をコエリョに被瀝し、明でのキリスト教布教を認める代わりにポルトガルの軍船2隻を所望している。さらに秀吉は、天正19年(1591)にはゴアのインド副王とマニラのフィリピン総督に降伏勧告状をつきつけ、応じなければ明征服のついでに征服するから後悔するな、と恫喝している。
その秀吉のフィリピン総督宛ての書状には、「今や大明国を征せんと欲す。…来春九州肥前に営すべく、時日を移さず、降幡を偃せて伏(降伏)すべし。若し、匍匐膝行(ぐずぐすして)遅延するに於いては、速やかに征伐を加ふべきや、必せり。悔ゆる勿れ…」と書かれているという。
以前に私のブログで、秀吉の朝鮮出兵は、スペインの先手を打つことで明・李氏朝鮮を傘下に治めてわが国を西洋植民地化されることから守ろうとしたと考える方がずっと自然ではないかと書いた。
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/147/
秀吉の朝鮮出兵【文禄の役(1592)、慶長の役(1597)】については教科書や通説ではロクな評価がなされていないのだが、以上のような歴史的背景を知らずして、その意義を正しく理解できるとは思えないのだ。
われわれが学校で学んできた歴史は、西洋にとって都合の良い内容を押し付けられてきたのではなかったか。西洋の世界侵略や奴隷貿易のことを知らずに日本史を理解しようとするために、戦国時代以降近現代の歴史理解が随分歪んだものになってはいないだろうか。
西尾幹二氏の著書で『GHQ焚書図書開封』というシリーズ本があり、すでに6巻まで刊行されている。
その第1巻の第1章には、第二次大戦後GHQが日本を占領していた時代に7769タイトルの単行本を全国の書店、古書店、官公庁、倉庫、流通機構で輸送中のものも含めて没収し廃棄されたことが書かれている。幸い国会図書館の蔵書と個人が購入していた本までは没収されておらず、西尾氏が入手した本を解説しているのが上記のシリーズだ。
焚書処分された本の中には、国粋主義的なタイトルのものもあるが、西洋の侵略の歴史や奴隷貿易にかかわる研究書や学術書などがかなり含まれている事がわかる。
またGHQは、焚書とは別に、昭和20年9月からの占領期間中に新聞、雑誌、映画、放送内容をはじめ一切の刊行物から私信に至るまで、徹底した「検閲」を実施している。
次のURLに昭和21年11月25日付の占領軍の検閲指針の30項目が出ている。
http://www.tanken.com/kenetu.html
この検閲指針を読めば、東京裁判を批判したり、SCAP(連合国最高司令官=マッカーサー)が日本国憲法を起草したことを批判したり、米国、英国、ロシアや中国を批判したり、韓国人を批判することなどが禁止されていたことがわかる。 しかし終戦後67年目にもなるのに、これらの指針が今も活きているように錯覚してしまうことが少なからずあるのはなぜなのだろうか。
なぜマスコミは、東京裁判史観を否定する論拠となる史実を伝えようとせず、またアメリカや中国や韓国などに主権が侵害されていても充分な抗議をしようともしないのだろうか。
GHQに代わってこれらの検閲基準を今も守らせようとする勢力が国内外に存在して、大手のマスコミや出版界がその勢力とのトラブルを避けるために、未だに自主規制をしているということなのだろうか。
そんな自主規制のようなものが存在しないというのなら、少なくとも主権を侵害されているような事案に関して堂々と抗議してくれなければ、一体どこの国の会社なのかと問いたくなるところだ。
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【御参考】
このブログでキリスト教伝来後どのような事が起こり、なぜ秀吉が伴天連追放令を出し、朝鮮出兵をした経緯などを考察しました。興味のある方は覗いて見てください。
フランシスコザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事〜〜その@
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/108/
フランシスゴビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事〜〜そのA
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/109/
400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/110/
秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか〜〜その@
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/111/
秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか〜〜そのA
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/112/
秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか〜〜そのB
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/113/
戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのは切支丹大名か、宣教師か
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/114/
永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/115/
永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/116/
秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか〜〜朝鮮出兵@
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/147/
多くの朝鮮民衆が味方し勝ち進んだ秀吉軍〜〜朝鮮出兵A
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/148/
第二次朝鮮出兵も秀吉軍の連戦連勝だった〜〜朝鮮出兵B
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/149/
伊達政宗の天下取りの野望と慶長遣欧使節〜〜その1
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/153/
メキシコで歓迎されずスペインで諸侯並みに格下げされた〜〜慶長遣欧使節2
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/154/
教皇謁見を果たしスペインに戻ると国外退去を命じられた〜〜慶長遣欧使節3
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/155/
伊達政宗はいかにして幕府に対する謀反の疑いから逃れたのか〜〜慶長遣欧使節4
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/156/
16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係〜〜その1
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/172/
日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書との関係〜〜その2
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/173/
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2012-02-06 22:44
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前回は15世紀末から始まるインディオの悲劇のことを主に書いたが、北アメリカにもアフリカにも同様な悲劇があったことは言うまでもない。
カリブ海地域から拡がった地球規模の奴隷貿易に対しては、宗教的あるいは人道主義の立場から批判が古くからあったようだが、ローマ教皇が奴隷制度自体を弾劾したのは、後で記すとおり、比較的最近の話なのである。
前回紹介したラス・カサス神父は、インディオの虐待を即時中止して平和的にキリスト教を布教するべきとの考えであったのだが、それがキリスト教全体の方針ではなかったことを書いておかねばならない。
15世紀中ごろから17世紀中ごろまで続いたヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出を「大航海時代」というが、この時代にローマ教皇が多くの教書を出している。
高瀬弘一郎氏によると、当時のローマ教皇は「キリスト教世界の首長として絶大な影響力を持ち、その決定はヨーロッパのキリスト教国王すべてにとって精神的拘束力となり、一種の国際法的な意味すらもつものであった…。ポルトガル国王もスペイン諸侯も、自己の海外発展の事業を正当化し、さらに鼓吹するために随時教皇に対してこの種の精神的支援を求め、一方教皇の側は、カトリック教勢の伸長を図る意味からも常にこれに応じて明確な援助を与えてきた。」(岩波書店『キリシタン時代の研究』p.7)とあり、当時においてローマ教皇の教書は影響力のきわめて大きい文書であったことは間違いがない。
ではこの時代のローマ教皇の公式文書で、奴隷制についてはどのように書かれているのだろうか。
この点については、西山俊彦氏の『近代資本主義の成立と奴隷貿易』という論文に詳述されている。西山俊彦氏はカトリックの司祭でもあり国際政治学者でもある人物だが、この論文はありがたいことに第4章までがネットで公開されており、誰でもPDFファイルを読むことができる。
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/2003_doreimondai_index.htm この論文をベースに加筆された『カトリック教会と奴隷貿易』という本も上梓しておられるようだが、残念ながら品切れになっているようである。
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/2005_doreiboueki.htm
この西山氏の論文にキリスト教に敵対する者を奴隷とする権利を授与する教書が紹介されていて、次のように書かれている。
「サラセン人等、キリストに敵対する者を奴隷とする権利を授与する教書
キリスト教徒の奴隷化を禁止する教書と対をなしているのが、キリストの敵の奴隷化を許容する教書で、次のものが代表的です―
(1) 教皇ニコラス五世『ドゥム・ディベルサスDum Diversas』(1452・6・18)
(2) 同 『ディヴィーノ・アモーレ・コンムニーティDivino Amore Communiti』(1452・7・14)
(3) 同 『ロマーヌス・ポンティフェックスRomanus Pontifex』(1454・1・8)
(4) 教皇カリスト三世『インテル・チェテラ・クエInter Caetera Quae』(1456・3・15)
ここに⑶『ロマーヌス・ポンティフェックス』を例に紹介すれば、次のように記されています―
『神の僕の僕である司教ニコラスは、永久に記憶されることを期待して、以下の教書を送る。・・・・・・
以上に記した凡ゆる要件を熟慮した上で、我等は、前回の書簡によって、アルフォンソ国王に、サラセン人と異教徒、並びに、キリストに敵対するいかなる者をも、襲い、攻撃し、敗北させ、屈服させた上で、彼等の王国、公領、公国、主権、支配、動産、不動産を問わず凡ゆる所有物を奪取し、その住民を終身奴隷に貶めるための、完全かつ制約なき権利を授与した。
…ここに列挙した凡ゆる事柄、及び、大陸、港湾、海洋、は、彼等自身の権利として、アルフォンソ国王とその後継者、そしてエンリケ王子に帰属する。それは、未来永劫迄令名高き国王等が、人々の救い、信仰の弘布、仇敵の撲滅、をもって神とみ国と教会に栄光を帰する聖なる大業を一層懸命に遂行するためである。彼等自身の適切な請願に対し、我等と使徒座の一層の支援が約束され、神の恩寵と加護がそれを一層鞏固なものとするであろう。
我が主御降誕の1454年1月8日、ローマは聖ペトロ大聖堂にて、教皇登位第8年』」
下線部の「終身奴隷に…授与した」という文言は、上記(1)〜(4)に共通した部分で、 (4) は(3)を再掲載したものだそうだ。
この(3)教書における異教徒は、時代背景からすると主にイスラム教徒との戦いを念頭に置いて書かれたものと思われるが、コロンブスが新大陸を発見した翌年(1493)に、教皇アレキサンデル6世がカスティリア=レオン(後のスペイン)の国王に対して「贈与大勅書Inter Caetera」を発布している。
この勅書の訳文は前掲の西山論文によると次のとおりである。
「全能なる神よりペトロに授与された権威と、地上において行使するイエス・キリストの代理人としての権威にもとづき、他のいかなるキリスト教を奉ずる国王もしくは君主によっても現実に所有されていないすべての島々と大陸、および、その一切の支配権を、汝ら、および汝らの相続人であるカスティリアならびにレオンの国王に永久に…贈与し、授与し、賦与するとともに、汝らと汝らの相続人を…完全無欠の領主に叙し、任命し、認証する。」
この勅書が、スペイン国王に絶対的支配権を与えたと解釈され、インディアスの征服が福音弘布のための「予防戦争」とみなされることになり、平和なインディオの社会が急激に崩壊していくことになるのだ。
スペイン国内においてもインディアスの扱いについて関心が高まり、ラス・カサスの地道な啓蒙活動が徐々に評価されるようになって、1537年には教皇パウルス3世がインディオを「真の人間」と認めて、たとえキリスト教徒でなくとも奴隷状態に貶めるべきでないとする勅令『スブリームス・デウス』を出している。西山氏の前掲の論文に訳文が出ている。
「インディオ、及び、キリスト教の知見に最も遅れて到達した人々も、たとえ現時点で、キリストへの信仰の外にいたとしても、自由と所有への権利を剥奪されたり、剥奪されるべき者ではない。反ってそれらは尊重されるべきであって、決して奴隷状態に貶められるべきではない。また、たとえ、そのようなことが起こったとしても、それらは無効であって、何らの効力も拘束力も有するものではない。…」
と、現代人なら誰もが納得する内容になっている。
しかし、この勅令は翌1538年に教皇パウルス3世自身が出した『 ノン・インデーチェンス・ヴィデートゥール』により撤回されている。教書の一部を紹介すると、
「…カルロ国王の尽力によって彼の地にキリストの御教えが短期間に弘布されたことに鑑み、同時に、聖なる事業の障げとなることは何物たりとも除去したいがために、使徒座の権威に基づいて、前記教書を撤回・失効・無効とし、そこに含まれるいかなる事項をも、逐語的に、撤回、失効・無効とされたと見なすよう欲する。…」
『スブリームス・デウス』が撤回された理由は、西山論文では王権からの横やりが入った旨説明されている。
それ以降も奴隷制に関わるローマ教皇の教書は何度か出ているのだが、ローマ教皇が奴隷制度自体を断罪したのは文明諸国の法律から姿を消してずっと経ってからの話だそうで、J.F.マックスウェルの著書によれば1965年の第2バチカン公会議の『現代世界憲章』だというのだ。
ここで日本の歴史を振り返ってみる。
フランシスコ・ザビエルがキリスト教布教のために日本に来たのが1549年だ。大村純忠の洗礼が1562年、大友宗麟が1578年、有馬晴信が1580年。大友・大村・有馬の三氏が7遣欧少年使節を派遣したのが1582年である。この時期にはかなりの日本人奴隷が流出していた時期であり、秀吉の伴天連追放令は1587年だ。
この時期に日本に来たポルトガル人は、ローマ教皇の教書により我が国を支配する権利を付与され、日本人を奴隷にする権利を付与されていた状態にあったということになる。
例えば高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』にイエズス会の宣教師ヴァリニャーノがマカオからフィリピンの同僚に送った書翰の一節が紹介されているが、そこには「シナ、日本、その他ポルトガル国民の征服に属する地域において…」という表現が使われており、わが国は「ポルトガル国民の征服に属する地域」になっている。同様な表現が他の文書にもあることが同書に紹介されているが、この言葉の意味を理解するには1494年に教皇アレクサンデル6世の承認によるトリデシリャス条約によって、スペインとポルトガルとがこれから侵略する領土の分割方式が取り決められ、さらに1529年のサラゴサ条約でアジアにおける権益の境界線が定められていたことを知る必要がある。下図の緑色の線がサラゴサ条約における境界線で、スペインとポルトガルの境界線はこの図の通り、日本列島を真っ二つに分断していたのだ。
これらの条約に基づきスペインは西回りで侵略をすすめ、1521年にアステカ文明のメキシコを征服し、1533年にインカ文明のペルー、1571年にフィリピンを征服した。
一方ポルトガルは東回りで侵略を進め、1510年にインドのゴアを征服し、1511年にはマラッカ(マレーシア)、ジャワ(インドネシア)を征服した。いずれもキリスト教の神父が先兵となっているのは同じである。そして1549年に日本に上陸しキリスト教の布教が開始されたのだ。
1532年にスペインのフランシスコ・ピサロがインカ帝国をいかなる方法で攻撃したかが参考になる。
ピサロは1532年にインカ帝国皇帝アタワルパに部下と通訳と神父を送って交渉させている。神父の役割に注目である。Wikipediaの記述を引用すると、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%91
「バルベルデ神父は通訳を通し、皇帝と臣民のキリスト教改宗を要求し、拒否するならば教会とスペインの敵と考えられると伝えた。アタワルパは「誰の属国にもならない」と言うことによって、彼の領土におけるスペインの駐留を拒否した。使節はピサロの元に戻り、ピサロは後に1532年11月16日のカハマルカの戦いと呼ばれるアタワルパ軍に対する奇襲を準備した。
スペインの法に従い、ピサロたちスペイン人はアタワルパが要求を拒否したことで公式にインカの人々に宣戦布告をした。アタワルパがバルベルデ神父に対し、彼らがどんな権威でそのようなことを言うことができるかと冷たく尋ねたとき、神父は聖書を皇帝に勧め、この中の言葉に由来した権威だと答えた。皇帝は聖書を調べ、『なぜこれは喋らない』と尋ね、地面に放り投げた。この行動はインカには書き文字が無かった事によるものだが、結果的にスペイン人に対しインカと戦うための絶好の口実を与えてしまった。神父が神に対する冒涜だと叫ぶ声を合図に、射撃は開始され、2時間にわたり7,000人以上の非武装のインカ兵が鉄剣により殺された(この時使われた鉄砲はごくわずかで、スペイン人の武器の大半は剣だった)。アタワルパは輿から引き摺り下ろされ、太陽の神殿に投獄された。」
と書かれている。アタワルパはピサロに金を大部屋1杯分、銀を2杯分提供し釈放を求めたが、幽閉されたまま絞首刑に処されたという。
この記録を読めば、バルベルデ神父が重要な役割を果たしていたことがわかる。
スペインは「贈与大勅書」により非キリスト教国を支配する権利をローマ教皇より付与されていた。従ってアタワルパがキリスト教に改宗する意思がないことを神父が見極めれば、いつでもその権利を行使してインカ帝国を堂々と侵略し、財宝をわがものにすることができるし、また住民を奴隷にすることもできるのである。現在の価値観では極めて非人道的行為ではあるが、当時に有効であった教皇の教書には全く矛盾しない行動なのだ。
日本がインカ帝国のようにならなかったのは、この当時の日本は戦国時代で日本の刀や鎧は西洋の武器よりもはるかに優秀であったことや、天文12年(1543)に鉄砲が伝来し、その翌年には鉄砲の大量生産を開始して以後急速に各地に広まったばかりではなく、世界最大の武器輸出国となっていたことなどの要因を無視できないだろう。
以前このブログで書いた通り、当時のイギリス軍全体よりも多くの鉄砲を所有する戦国大名が日本に何名もいたのである。ポルトガルは日本よりも軍事的劣勢であったがゆえに、ローマ教皇によって日本を支配する権利を授与されながらも、日本には容易に手を出せなかったのだ。
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/105/
そこで彼らはキリシタン大名を育てて武器を融通し、彼らに日本を統一させようとするのだがそれも見破られて失敗した。
当時の日本に秀吉や家康のようなポルトガルの野望を見抜くリーダーがいたことも幸運であったが、もしキリスト教の伝来が天文18年(1549)ではなく、鉄砲伝来よりも20年以上早かったとしたら、日本も西洋の植民地になっていた可能性があるのではないか。少なくとも平安時代や南北朝時代の日本にキリスト教が伝来していたら、朝廷は祈祷をするばかりで簡単に征服されてしまい、インカ帝国と同様のことが起こっていても不思議ではないような気がするのだ。
新約聖書には「汝の隣人を愛せよと」いった言葉もあるのだが、旧約聖書には普通の日本人が読めば首をかしげるような言葉を目にすることがある。たとえば、
『あなたの神、主があなたに渡される国民を滅ぼしつくし、彼らを見てあわれんではならない。』(申命記・7章16節)
『そしてあなたの神、主がそれをあなたの手にわたされる時、つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない。
ただし女、子供、家畜およびすべて町のうちにあるもの、すなわちぶんどり物は皆、戦利品として取ることができる。また敵からぶんどった物はあなたの神、主エホバが賜わったものだから、あなたはそれを用いることができる。』(同・20章・13節)
この旧約聖書の言葉を文字通り読むと、この時代のスペイン人もポルトガル人もこの言葉通りのことを行っただけだという解釈も可能だ。しかしこの言葉通りにキリスト教国が動けば、世界中がキリスト教に改宗しない限り、争い事がいつまでも繰り返されることになる理屈にならないか。
アフリカ大陸西端のゴレ島に1776年に建てられた「奴隷の家」という赤褐色の二階建ての建物がある。窓のほとんどない小部屋ばかりの一階には船に積み出しされるまでの奴隷が詰め込まれ、二階は奴隷商人である主人とその手下らの住いであったという。
1992年2月22日、この「奴隷の家」に、教皇ヨハネ・パウロ二世が、「奴隷貿易に従事したキリスト教国家とキリスト教徒に神の許しを乞うために」訪問されたそうだ。この記事で紹介した西山俊彦氏の『カトリック教会と奴隷貿易』の表紙にはその時の教皇の写真が掲載されている。
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/JP2006.3.pdf
奴隷貿易が「キリスト教国とそれに属する人々によってなされた罪過」なのか、それとも同時に、「キリストの御名を戴く教会も関与した罪過」なのかという問いが良く発せられるのだが、ローマ教皇が奴隷貿易の謝罪のためにこの場所を訪れたという事実は、大航海時代以降のキリスト教会が奴隷貿易に関与していたことの、何よりの証になるのではないだろうか。
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【御参考】
このブログでキリスト教伝来後どのような事が起こり、なぜ秀吉が伴天連追放令を出した経緯などを考察しました。興味のある方は覗いて見てください。
フランシスコザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事〜〜その@
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400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと
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秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか〜〜その@
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戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのは切支丹大名か、宣教師か
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永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか
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永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど
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昨年にこのブログで、「400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと」というタイトルで、16世紀の後半の約50年間に大量の日本奴隷が海外に売られていったことを書いた。
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/110/
続けて、日本人奴隷を買う側の事情と、売られていく事情について調べて、秀吉の出した『伴天連追放令』がこの日本人奴隷の流出を止める役割を果たしたのではないかということを当時の史料をもとに3回に分けて書いた。
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「伴天連」とはキリスト教の宣教師の事だが、伴天連は日本人奴隷の流出を拱手傍観するどころか、初期にはポルトガル商人に代わって日本人奴隷売買契約書に署名をしていたというレポートもある。(藤田みどり『奴隷貿易が与えた極東への衝撃』、小堀桂一郎編『東西の思想闘争』所収)。
ルイス・フロイスの記録によるコエリョと秀吉との論争を読んだ印象では、キリスト教の布教と奴隷売買とは繋がっていたと私は判断しているのだが、あるSNSで私のブログの上記記事を紹介したところ、キリスト教会は奴隷貿易に積極的であったわけではないとの意見が出てかなり議論になった。
この問題について、新たに調べて勉強になったこともあるので自分の考えを整理する意味で、当時のキリスト教が奴隷貿易にどう関わっていたのかについて、自分なりに纏めておくことにしたい。
有史以来、戦争の勝者が捕虜や被征服国の住民を奴隷とすることは、程度の差はあるが世界中で存在したし、わが国でもそれは例外ではなかった。
一口に「奴隷」といっても待遇は時代・地域によりさまざまで、例えばスパルタの奴隷は移動の自由こそなかったが、一定の租税さえ納めれば経済的に独立した生活を送ることができたそうだし、アテナイの奴隷は市内移動の自由が認められ、知的労働に従事することもあったというし、古代ローマではローマ市民権を得て自由人となる道も開かれていたそうだ。
奴隷貿易が質量ともに変化するのは15世紀から始まる「大航海時代」以降の話で、ヨーロッパ人がインド・アジア、アメリカ大陸、アフリカ大陸などに進出し植民地的な海外進出を始めた頃からなのだが、「奴隷狩り」で大量に集められた奴隷が商品として地球規模で売られていったのはこの時期からだと考えて良い。
この時期に日本人奴隷が大量に流出したことは、こうした世界史の流れの中で理解すべきであると思うのだ。
では、この時期のスペイン・ポルトガルの世界侵略の実態はいかなるものであったのか。その点が日本の教科書には、残念ながら綺麗ごとが書かれているだけなのだ。
教科書では『侵略』という言葉を使わず『ヨーロッパの世界進出』とか『ヨーロッパ世界の膨張』という無味乾燥な言葉を必ず使うことにいつも違和感を覚えるのだが、この時代に起こったことは、普通に考えれば『侵略』とか『大虐殺』という表現こそがずっと相応しいと思うのだ。
ヨーロッパ人がこの時期に世界中を荒らしまわった背景について、教科書によく書かれているのは、マルコ・ポーロの『東方見聞録』によって金の空想にかきたてられてアジアの関心が高まったこと、ヨーロッパ人の必需品となっていた香辛料がイスラム圏との争いで手に入りにくくなって価格が高騰したこと、羅針盤の改良などの遠洋航海術の発達や地理学の発達したこと、キリスト教の布教熱の高まりがあったことなどがあげられて、1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見したことや、1498年ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見したことなどが淡々と記載されていると思う。
教科書だけで歴史を学べば、大半の人がコロンブスは英雄だと思ってしまうところだろうが、当時の記録などを実際に読んでみると多くの人がショック受けることだろう。
後に地球規模の奴隷貿易を出現させたと言われているコロンブスの航海を最初にふりかえってみることにしたい。
1492年8月3日にコロンブスは約90名の乗組員を乗せてサンタ・マリア号以下3隻の船でパロス港から出帆し、西回り航路でインディアスを目指した。
10月12日に今のバハマ諸島のウォトリング島に到着し、この島をインディアスの一部と考え、そこに住む人々を「インディオ」と呼び、島の名前をサンサルバドル島とした。
コロンブス自身が、サンサルバドル島に到着した時に書き残した記録がWikipediaに邦訳されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%96%E3%82%B9
「彼らは武器を持たないばかりかそれを知らない。私が彼らに刀を見せたところ、無知な彼らは刃を触って怪我をした。 彼らは鉄を全く持っていない。彼らの槍は草の茎で作られている。彼らはいい身体つきをしており、見栄えもよく均整がとれている。彼らは素晴らしい奴隷になるだろう。50人の男達と共に、私は彼らすべてを征服し、思うままに何でもさせることができた。」
「原住民たちは所有に関する概念が希薄であり、彼らの持っているものを『欲しい』といえば彼らは決して『いいえ』と言わない。逆に彼らは『みんなのものだよ』と申し出るのだ。彼らは何を聞いてもオウム返しにするだけだ。彼らには宗教というものがなく、たやすくキリスト教徒になれるだろう。…」
コロンブス一行は、サンサルバドル島だけでなく武器で原住民を脅迫して金銀宝石、真珠などを強奪し、イスパニョール島にスペイン初の入植地を作り、39名を残して、翌1493年3月にスペインに戻っている。
スペインでは大歓迎されて、この地にキリスト教徒になりうるあるいはスペインの下僕になりうるインディオが住んでおり、また黄金も発見されたことを国王や教会関係者、出資者に報告している。彼は2回目の航海の目標をこう書いているという。
「彼らが必要とするだけのありったけの黄金… 彼らが欲しがるだけのありったけの奴隷を連れてくるつもりだ。このように、永遠なる我々の神は、一見不可能なことであっても、主の仰せに従う者たちには、勝利を与えるものなのだ。」
早速2回目の航海が準備され、1493年の9月25日に出帆することになるが、今度は植民が目的のために農民や坑夫を含む17隻1500人という大船団であった。
しかしながら、11月にドミニカ島に到着し、前回作った入植地に行ってみると基地は原住民により破壊されており、現地に残したメンバー39人は全員が殺されていたという。
コロンブスはこの場所を放棄して新たなイザベル植民地を作ったが、スペイン人の行為に対して次第に原住民の怒りが高まっていく。1494年末に最初の原住民の反乱があり、それに対してスペイン人は武力報復を敢行し、多数のインディオを殺害し、また捕虜にした。この多くは現地で奴隷として使役されたが、一部は奴隷としてスペインに送られている。
布留川正博氏は『近代世界と奴隷制』という本の中で、
「1498年、第3次の航海では、コロンブスがおよそ600人ものインディオを奴隷としてスペインに連れて帰っている。こうして、強制労働→インディオ反乱→武力制圧→強制労働という「閉じた回路」がこの時点で形成される。この回路を成立させていたのは、レコンキスタ*の延長線上にある当時のスペインの好戦的姿勢とそれを物質的に保証する武力的優位、それにイスラム教徒でさえない邪教徒インディオに対する極端な侮蔑意識であった。
コロンブスによってきり拓かれたインディオに対する支配とその奴隷化への道は、ここエスパニョーラ島だけでなく、時を移さずカリブ海諸島全域に広がり、その後アステカ帝国やインカ帝国、「新世界」全域に及んだ…」(p.58)と述べている。
*レコンキスタ:718年から1492年までに行われたキリスト教国によるイベリア半島の再征服活動
岩波文庫にラス・カサス神父が著した『インディアスの破壊についての簡潔な報告』という本がある。神父の父ペドロがコロンブスの第2回目の航海に参加し、自身は1502年以降インディオスに何度も渡り、コロンブス以降のインディオの社会崩壊を目の当たりにした。
ラス・カサス自身は何よりも平和的な方法によるインディオのキリスト教化を望んでいたのだがインディオの状況は酷くなるばかりであり、1541年に国王カルロス5世に謁見してインディオの社会崩壊はスペイン人の非道な所業によるものであるとの報告書を提出している。『インディアスの破壊についての簡潔な報告』は、その時の報告書をもとに著されたものであるが、ここにはこう書かれている。
「インディアスが発見されたのは1492年のことである。その翌年スペイン人キリスト教徒たちが植民に赴いた。…彼らが植民するために最初に侵入したのはエスパニョーラ島(現在のハイチ、ドミニカ共和国のある島)で…非常に豊かな島であった。周囲には無数の大きな島が点在し、その島一帯には、我々も目撃したのであるが、世界のどこを探しても見当たらないほど大勢の土着の人びと、インディオたちがひしめきあって暮らしていた。…1541年までに発見された土地だけについてみても、人びとはまるで巣に群がる蜂のようにひしめきあい、さながら神が人類の大部分をそこに棲まわせたかのようであった。
神はその地方一帯にすむ無数の人びとをことごとく素朴で、悪意のない、また陰ひなたのない人間として創られた。彼らは土地の領主たちに対し、また、現在彼らが仕えているキリスト教徒たちに対しても実に恭順で忠実である。彼らは世界でもっとも謙虚で辛抱強く、また温厚で口数の少ない人たちで、諍いや騒動を起こすこともなく、喧嘩や争いもしない。そればかりか、彼らは怨みや憎しみや復讐心すら抱かない。…」(岩波文庫p.17-18)
「…スペイン人たちは、…これらの従順な羊の群に出会うとすぐ、まるで何日も続いた飢えのために猛り狂った獅子のようにその中に突き進んで行った。この40年間の間、また、今もなお、スペイン人たちはかって人が見たことも読んだことも聞いたこともない種々様々な新しい残虐きわまりない手口を用いて、ひたすらインディオたちを斬り刻み、殺害し、苦しめ、拷問し、破滅へと追いやっている。例えば、われわれがはじめてエスパニョール島に上陸した時、島には約300万人のインディオが暮らしていたが、今では僅か200人ぐらいしか生き残っていないのである。…」(岩波文庫p.19-20)
「インディアスへ渡ったキリスト教徒を名のる人たちがその哀れな人びとをこの世から根絶し、絶滅させるに用いた手口は主に2つあった。ひとつは不正で残酷な血なまぐさい暴虐的な戦争による方法である。いまひとつは、何とかして身の自由を取り戻そうとしたり、苦しい拷問から逃れようとしたりする領主や勇敢な男たちを全員殺害しておいて、生き残った人たちを奴隷にして、かつて人間が、また、獣ですら蒙ったことのないこのうえなく苛酷で恐ろしい耐え難い状態に陥れ、圧迫する方法である。キリスト教徒たちが無数の人びとを殺戮するのに用いたそのほかの様々な手口は、ことごとくこの2つの極悪無慙で暴虐的な方法に集約される。
キリスト教徒たちがそれほど多くの人びとをあやめ、破滅させることになったその原因はただひとつ、ひたすら彼らが黄金を手に入れることを最終目的と考え、できる限り短時日で財を築こうとし、身分不相応な高い地位に就こうとしたことにある。…」(岩波文庫p.21-22)
具体的な暴虐の実態はラス・カサスの上記著書の各ページに書かれているが、紹介してもきりがないので、ここではラス・カサスの著書に添えられたテオドール・デブリーの版画を紹介しておく。
ラス・カサスはエスパニョール島の人口はかって300万人いたと書いているが、統計があるわけでもないので数字はあまりあてにしないほうが良いだろう。
布留川正博氏の上掲書よると、コロンブスが来る以前のエスパニョール島の人口は20万〜30万人で、それが1570年には2集落を残すのみとなったとあり、キューバ島に関しては、当初6万人いたインディオが1544年にはわずか千人になったと書いてある。ラス・カサスよりもこちらの数字のほうが正しいような気もするが、この説も論拠についてはよくわからない。
いずれにせよ南海の楽園が、スペイン人によってほとんど壊滅状態になったことだけは間違いがない。ほとんど原住民がいなくなってしまったので、不足する労働力を補うために、後に白人がこの地にアフリカから大量の奴隷を輸入することになったのだ。
しかし、このようなインディオの悲劇はなぜ起こったのだろうか。
ローマ教皇はこんなに残虐な行為を止めるつもりがあったのか、なかったのか。
これはキリスト教国だから起こった出来事なのか、どの宗教の国でもありえたことなのだろうか。
その点については、次回以降のテーマとして書くことにしたい。
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このブログでキリスト教伝来後どのような事が起こり、なぜ秀吉が伴天連追放令を出した経緯などを考察しました。興味のある方は覗いて見てください。
フランシスコザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事〜〜その@
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フランシスゴビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事〜〜そのA
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400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと
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秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか〜〜その@
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秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか〜〜そのA
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戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのは切支丹大名か、宣教師か
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永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか
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永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど
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2012-01-26 22:49
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