ニックネーム:しばやん
性別:男性
年齢:60歳
都道府県:大阪府
京都のお寺に生まれたしばやんの日本史ブログです。このブログのファイル容量がなくなったのでFC2ブログに過去の歴史関係の主要記事を移し、平成26年1月5日以降の記事は新ブログにのみ掲載しています。記事のリンクやツィートなどは歓迎しますが、できるだけ新ブログのURLで案内していただきたいのでよろしくお願いいたします。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/

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2014年01月01日(水)
新年のご挨拶とブログ移転のお知らせ
今年は喪中につき祝辞は控えさせていただきますが、旧年中は、拙い私のブログにお付き合い頂き、まことに有難うございました。
また多く方々からの励ましのお言葉やご感想、貴重なご意見などを頂戴し、このブログの中で様々な対話が出来たことがとても楽しく、また励みにもなりました。

何度も訪問して頂いた方や、私の記事にリンクして頂いた方、ランキングの応援をして頂いた方、ご自身のブログやツイッターなどで記事の紹介をしていただいた方、SNSなどでメッセージを送っていただいた方、皆さん本当に有難うございました。とても嬉しかったです。

この「しばやんの日々」というブログをはじめてから、4年以上の年月がたちました。


【金沢城】

はじめは軽い日記のつもりで書き始めて「日記」のようなブログ名にしてしまいましたが、当時興味を持っていた「廃仏毀釈」のことを書き始めた頃から、読者の方から暖かい励ましのコメントなどを頂くようになり、それ以降歴史の話題に特化して、永年疑問に思ってきたことなどを調べて書くようになってからは、楽しくなってやめられなくなってきました。

他のブログサービスを詳しく比較することなくブロガリに加入しましたが、4年を経過して、ブロガリのファイル容量は、あとわずかになってしまいました。
使い慣れたブロガリに「しばやんの日々2」を立ち上げることも考えましたが、今のペースで書いて4年ごとに新しいブログを立ち上げるよりも、ファイル容量が大きくて20年以上ブログ移転や新ブログを立ち上げる必要のないFC2ブログに移転する方を選択することにしました。
連載の途中で誠に恐縮ですが、次回記事からはFC2ブログのみに掲載させていただきますのでご了解ください
新しいブログのURLはこちらです。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/

【清水寺】

今までこのブログに書いてきたいくつかの記事に、多くの方からリンクしていただいたり、ブログやホームページなどに紹介していただいたことに感謝しています。
そのおかげで、数年前に書いた記事にも毎月多くのアクセスをいただいており、このブログのアクセスは8割以上が過去に書いた記事のアクセスになっています。せっかく多くのアクセスを頂いているのにリンクが切れてしまっては申し訳ないので、ブロガリの記事はそのままにしておきますし、今後ブロガリでコメントをいただいた場合は、今までと同様に出来るかぎりお返しさせていただく所存です。(ブログの内容と無関係な、アフィリエイトや迷惑トラックバックなどは引き続き削除させていただきます。)

ブロガリはブログ移転ツールがないため、歴史をテーマにした主要な記事を4ヶ月かけて手作業でFC2ブログに移転させてきました。残念ながらブロガリでいただいたコメントまでは移転できなかったことをご容赦ください。

FC2にはブロガリで書いた日付で記事を移しています。また、移転作業をしながら新しい記事を同時に載せたりしましたので、FC2の記事の番号が連続していないことが多々あります。
読者の皆様にはご手数をおかけすることになりますが、カテゴリ別や月別や記事内検索などにより、比較的簡単に目的の記事を探して頂けるものと確信しております。また、字が大きくて読みやすいFC2のブログのテンプレートを選びましたので、今まで以上に親しんで頂ければ幸いです。

ブロガリのメインページをお気に入りに登録していただいた方や更新情報をチェックしておられる方にはまことに恐縮ですが、今年からの新しい記事はFC2ブログにのみ掲載することになりますので、登録変更をしていただくとありがたいです。

【にこ淵(高知県)】

飽き性の私が、4年間以上このブログを続けることが出来、こうして毎日充実した日々が送れるのも、読者の皆様から暖かいコメントや応援を頂いているおかげだと感謝しています。 もし自分一人で歴史を勉強するだけなら、こんなに多くのことを調べることはなかったでしょうし、こんなに文章を書くことが続くこともなかったと思います。

まだまだ勉強不足ではありますが、本年も引き続き、日本の歴史や文化について私が興味を覚えたことや、疑問に感じたこと、旅行やドライブで見聞きしたことなどを書き記していく所存です。

これからはこのブロガリには新しい記事を載せませんので、本年からはFC2の『しばやんの日々』を時々覗いてみるようにしていただければ幸いです
読んで頂いてもし気に入っていただいたら、応援ボタンを押して頂くとありがたいです。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/

本年もよろしくお願い致します。

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【御参考】
このブログでこんな記事を書いています。興味のある方は覗いて見てください。

大晦日の「年越の祓」と「除夜の鐘」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-58.html

坂上田村麻呂と清水寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-166.html

明治期に潰れてもおかしくなかった清水寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-167.html

住職が勤王倒幕運動に身を投じた江戸幕末の清水寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-168.html

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2014-01-01 00:01 | 記事へ | コメント(4) |
2013年12月29日(日)
学生や軍部に共産思想が蔓延していることが危惧されていた時代〜〜ポツダム宣言4
以前このブログで、1928年のコミンテルン第6回大会でのレーニン演説を紹介した。

帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…

帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること


帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争防止」運動は之を拒否しなければならない。
…大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従へばブルジョワの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない
。…」(三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.38-40)

レーニンは共産主義者に対して、「軍隊を内部から崩壊させ」「自国政府の敗北を助成」し、「戦争を通じて共産主義革命」を起こせ。そのために「進んで軍隊に入隊」せよと言っているのだ。これだけでも恐ろしいことなのだが、さらにレーニンはこうも述べている。

「『政治闘争に於いては逃口上や嘘言も必要である』… 『共産主義者は、いかなる犠牲も辞さない覚悟がなければならない。――あらゆる種類の詐欺、手管、および策略を用いて非合法方法を活用し、真実をごまかしかつ隠蔽しても差し支えない。』…
党はブルジョア陣営内の小競り合い、衝突、不和に乗じ、事情の如何によって、不意に急速に闘争形態を変えることが出来なければならない
共産主義者は、ブルジョア合法性に依存すべきではない。公然たる組織と並んで、革命の際非常に役立つ秘密の機関を到るところに作らねばならない。』」(同上書 p.41-42)

要するに、国家を内部崩壊させて革命を成功させるためにはその手段は問わないと言っているのだが、もしこのような考え方の者がわが国の軍隊に多数入隊して主導権を握っていたとしたら、どういうことが起こり得るであろうか。

なぜ昭和の初期にテロ事件が多かったのか、なぜ宣戦布告がないままに日中戦争が全面戦争に発展したか、なぜ昭和天皇の『ポツダム宣言』受諾の御聖断に対して軍部の一部が強く抵抗したのか。それらの謎を解く鍵のひとつは先程紹介したレーニン演説にあるのではないだろうか。

昭和40年代前半も学生の多くが共産主義思想に染まった時代だったのだが、火炎瓶や鉄パイプでは国家権力に勝てるわけがなく、簡単に鎮圧された。しかし、昭和初期の若い共産主義者は、軍隊に入れば本物の大量の武器・弾薬が目の前にあった。
もし昭和43年頃全共闘時代の学生たちが大量の爆弾や拳銃を手にしていたとしたら、大規模なテロ事件やクーデター事件が日本各地で起こっていてもおかしくはなかったと、この時代を知る人は思うに違いない。では、昭和7年(1932)の五・一五事件や昭和11年(1936)の二・二六事件は軍部の中の共産主義者が絡んだテロ事件という理解は出来ないのだろうか。

このブログで、昭和初期にマルクス・レーニンの著作がバカ売れして、共産主義思想に共鳴した青年が多数いたことを書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html

例えば、マルクスの『資本論』だけでも大正8年(1919)から昭和3年(1928)にかけて6社(緑葉社、経済社出版部、大鐙閣、新潮社、岩波書店、改造社)が出版している。また昭和3年(1928)から昭和10年(1935)にかけて改造社から全27巻の『マルクス・エンゲルス全集』が出版され、昭和2年(1927)から翌年にかけて白揚社から24篇の『レーニン叢書』が出版されている。

こんなに多くの左翼思想の本が売れたという昭和初期はどんな時代だったのだろうか。 このブログで何度か紹介した『神戸大学デジタルアーカイブ』で、当時の経済記事や解説記事の検索を試みた。

新聞の過去記事については戦後のGHQの検閲や焚書の対象にはならなかったので、当時の論調がそのまま残されていて、その貴重な史料が次のURLで誰でもネットでアクセスすることができるのはありがたい。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html

この「新聞記事文庫 簡易検索」を使ってたとえば「左傾」というキーワードで検索すると528件もの解説や記事にヒットする。
発行日順に並び替えて表題を読むだけでも、結構な情報を得ることが出来るが、この当時は学生や教員の左傾化が社会問題になっていて、政府や文部省がその対策に苦慮していたという記事がいくつもあるのに誰もが驚いてしまうだろう。
たとえば昭和7年(1932)1月15日の東京日日新聞の『学生の思想は何故左傾する』という記事がある。次のURLで記事の全文を読むことが出来る。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10070705&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

この記事では左傾化の原因について当時の社会情勢として
@ 資本家と労働者との生活の甚しき懸隔及び農村の著しき疲弊
A 労働問題及び小作問題の激化
B 中産階級の経済的顛落
C 卒業後における就職の不安
D 政界の腐敗
E 政治並に政党に対する不満
…などがあり、
このような現状を根本的に変革しようとしてマルクス・レーニンの著作に飛び付き、思想界、学会、教育界もその流れにあったことが記されている。

そして、この記事が掲載された翌月である昭和7年(1932)の2月から3月にかけて、前蔵相・井上準之助、三井合名会社理事長団琢磨が相次いで暗殺される血盟団事件が起こった。この血盟団のメンバーは大半が20代の学生だ。

ついで5月には海軍の青年将校を中心とする一団が首相官邸に向かい犬養首相を暗殺する五・一五事件が起きている。この五・一五事件の檄文を読めば、共産主義的考え方の影響をかなり受けていることがわかる。一部を引用すると、こんな具合だ。

「 … 国民諸君よ!
 天皇の御名に於て君側の奸を屠れ!
 国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!
 横暴極まる官憲を膺懲せよ!
 奸賊、特権階級を抹殺せよ!
 農民よ、労働者よ、全国民よ! 
 祖国日本を守れ

而して
陛下聖明の下、建国の精神に帰り国民自治の大精神に徹して人材を登用して朗らかな維新日本を建設せよ
  民衆よ!
 此の建設を念願しつつ先づ○○(不明)だ!
 凡ての現存する醜悪なる制度をぶち壊せ 盛大なる建設の前には徹底的な破壊を要す…」

『ビルマの竪琴』の著者・竹山道雄は昭和初期の状況をこう記している。
インテリの間には左翼思想が風靡して、昭和の初めには『赤にあらずんば人にあらず』というふうだった。指導的な思想雑誌はこれによって占められていた。若い世代は完全に政治化した。しかしインテリは武器を持っていなかったから、その運動は弾圧されてしまった
あの風潮が兵営の厚い壁を浸透して、その中の武器を持っている人々に反映し、その型にしたがって変形したことは、むしろ自然だった。その人々は、もはや軍人としてではなく、政治家として行動した。すでに北一輝などの経典があって、国体に関する特別な観念を作り上げていて、国体と社会改造とは背馳するものではなかった。しかし、北一輝だけでは、うたがいもなく純真で忠誠な軍人をして、上官を批判し軍律を紊(みだ)り世論に迷い政治に関与させることは、できなかったに違いない。…いかに背後に陰謀的な旧式右翼がいたところで、それだけで若い軍人が『青年将校』となることはありえなかった。これを激発させたのは社会の機運だった。このことは、前の檄文*の内容が雄弁に語っている

青年将校たちは軍人の子弟が多く、そうでない者もおおむね中産階級の出身で、自分は農民でも労働者でもなかった。それが政治化したのは、社会の不正を憎み苦しんでいる人々に同情する熱情からだった。インテリの動機とほぼ同じだった。ただ、インテリは天皇と祖国を否定したが、国防に任ずる将校たちは肯定した。ただし、彼らが肯定した天皇と国体は、既成現存の『天皇制』のそれではなかった。」(講談社学術文庫『昭和の精神史』p45-47)
*五・一五事件の檄文

では、「彼らが肯定した天皇と国体」とはどのようなものであったのか。
竹山氏は一人の青年将校を知っていた。その青年将校は職業軍人ではなく教師であったと書いているが、つねにブルジョアを激しく攻撃していたという。そしてその人物が思い描いていた『天皇制』とは、「国民の総意に上にたつ権力者で、何となくスターリンに似ているもののように思われた」(同上書p.48)と竹山氏は記している

竹山氏の表現を借りると、青年将校たちは「天皇によって『天皇制』を仆(たお)そうとした」、「革新派の軍人が考えていた『国体』は、『天皇制』とはあべこべのものだった」ということだが、別の言い方をすると、その青年将校は、『天皇制』は認めても「天皇」というポストに就くべき人物は昭和天皇ではなく、スターリンのような人物を考えていたということなのだ
そのように考える青年将校がどの程度いたかについては、今となってはわからないが、先ほどの『神戸大学デジタルアーカイブ』で検索していくと、軍隊の中に共産主義が相当浸透していたことがわかる記事をいくつか見つけることが出来る。

たとえば、昭和3年(1928)4月14日の神戸又新日報の記事だが「重要な某連隊に本年入隊した現役兵二名が今回の共産党事件に関係して居り、党員と気脈を通じて軍隊中の細胞組織を行わんとひそかに画策していたことが判明したので当局では大狼狽」したと書かれている。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10070587&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

また、昭和3年9月24日から6回に分けて中外商業新報に連載された、「赤化運動の経緯」という記事では、
今後も共産主義に感染した学生及び労農党に属する有識壮年等が赤化運動の首謀者となっている。…
ここに最も注意すべきは兵営の内外から連絡を保って陰謀を企てた兵卒が、第四師団の軍法会議に廻された事実である。大阪におけるある秘密結社の如きは、軍隊の赤化に最も力を尽し、その手段すこぶる巧妙、運動者の一人久木某の如きは、軍事教官という綽名さえ持っていたということだ。
これ等赤化運動者が、個人として若しくは団体とし、ソウェート・ロシアと密接な関係を持っていたことは、これまで発表された宣伝の様式や運動の方法などを見た丈けでも、明々白々であるがなおロシア側の情報に照らし合せこると、洵に思い半ばに過ぐるものがある
。」 などと書かれている。

さらにこの記事を読み続けていくと、ソビエトの赤化工作は西欧では失敗したが、東洋の日本では急激に浸透していることを書いている。そして、ソ連共産党年鑑に載っている第三インターナショナル(コミンテルン)規約第三条が引用されている。
「欧米諸国における階級闘争は今や殆ど内乱の状態となり、ブルジョア国の法律は、共産党員に対し、厳刑を科するに至りたるを以て、本党員たる者は、今後各地一斉に秘密結社を組織し決定的時機の到来に際し、革命運動の成功を期する為め、普段の努力を怠るべからず」。
またその第四条には
 「共産主義の宣伝は、極力軍隊に向って行うべし。特別の法律を以て宣伝を拘束する国においては、秘密手段に訴うべし。」
とあり、また5月24日付のソ連のプラウダ紙には、日本の共産主義者および陸海軍人に対し、「世界のブルジョア諸国は、支那に対する内政干渉より一転して領土侵略に移った。日本はその機先を制せんとして、早くも要害の地歩を占め、山東を満洲と同じくその植民地とする野心を暴露した。」
 「陸海軍人諸君よ、諸君は陸海軍両方面より、先ず反動勢力を打破し、而して支那を革命助成する為め、その内乱戦を国際戦に転換せしむるよう不断の努力を怠る勿れ」
 「日本の反革命的強盗に打撃を加うべき共産党機関現在なれ」
などと煽動していることが書かれている。一部の軍人はソ連に繋がっていて、この規約の通りに動いていたのではなかったか。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10070971&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE

このような記事は時間をかければ『神戸大学デジタルアーカイブ』でまだまだ見つかると思うのだが、いくら共産主義に共鳴する軍人が多くいたとしても、軍隊の幹部クラスが共産主義に毒されていなければ、クーデターのようなことは不可能だ。
しかし、いろいろ調べていくと軍のエリートにもソ連に繋がる者がいたようである。
その点については、次回に記すこととしたい。

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【御参考】
このブログでこんな記事を書いています。興味のある方は覗いて見てください。

「ドイツと日本を暴走させよ」と命じたスターリンの意図
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html

アメリカのルーズベルト政権に垣間見えるコミンテルンの影
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-212.html

「ハル・ノート」は、アメリカが日米開戦に持ち込むための挑発だったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-213.html

昭和天皇の『終戦の詔書』の後も戦争が続き、さらに多くの犠牲者が出たこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-225.html

ソ連の『北海道・北方領土占領計画書』を読む
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-226.html

GHQ情報部長が、日米は戦うべきではなかったと述べた理由
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終戦後大量の日本兵がソ連の捕虜とされ、帰還が遅れた背景を考える
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-224.html

『ポツダム宣言』を受諾したわが国は、連合国に「無条件降伏」したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-290.html

『ポツダム宣言』の各条項が決まるまでの経緯と公表後の日本の反応〜〜ポツダム宣言2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-291.html

原爆・ソ連参戦の後も『ポツダム宣言』受諾に抵抗したのは誰か〜〜ポツダム宣言3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-292.html

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2013-12-29 18:26 | 記事へ | コメント(4) |
| 昭和時代雑記 / 太平洋戦争雑記 |
2013年12月24日(火)
原爆・ソ連参戦の後も『ポツダム宣言』受諾に抵抗したのは誰か〜〜ポツダム宣言3
前回の記事で、『ポツダム宣言』が出た直後のわが国の反応について書いた。
この宣言が公表されてから2発の原爆が落とされてソ連が対日参戦した。これではわが国には、どう考えても勝ち目はないだろう。ドイツのように完全に敗北すれば、わが国は主権を奪われ、国土は戦勝国に分割されてしまう。
もし『ポツダム宣言』がわが国に対して「無条件降伏」を要求する文書であるならば、国を失うくらいならば破れかぶれで突き進むしかないという考え方はあり得ると考えるが、前々回の記事で記したとおり『ポツダム宣言』は戦争を終結させるための連合国側の条件を提示したものであり、その条件には曖昧な部分があるにせよわが国の立場を配慮した部分が少なからずあったのだ。
国民の生命と財産を守るべきわが国の指導者からすれば、これから先勝ち目のない戦争を継続して多くの国民に犠牲を強いるよりも、速やかに『ポツダム宣言』を受諾してその後の外交交渉に委ねる方がましだという結論に落ち着くのが自然だと思うのだ。
ところが、わが国中枢には徹底抗戦を唱える者がいて、簡単に議論がまとまらなかったのである。徹底抗戦を選択した場合は、『ポツダム宣言』を受諾するよりももっと悲惨な結果になったはずなのだが、いったいどのような議論があったのか気になるところである。

前回の記事に引き続き、山下祐二氏の論文を紹介したい。
http://ci.nii.ac.jp/els/110000980223.pdf?id=ART0001156933&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1387290927&cp=

「(8月)9日午前4時ごろ、モスクワ放送は突如対日宣戦布告を報じ、外務省ラジオと同盟通信がこれをキャッチした。午前5時、迫水書記官長がこの報をもって鈴木首相のもとに駆けつけた。和平のタイミングを待ち受けていた首相は、『いよいよ来るものが来た』と静かにつぶやいた。同じく近衛公は、ソ連の参戦を『まさに天佑であるかも知れん』と語っている。…
 構成員のみによる最高戦争指導会議が9日午前11時近くに始まった。鈴木首相は、原爆投下とソ連の参戦によって『ポツダム宣言』を受諾するほかなくなったと思われるが、意見を聞きたい、と切り出した。重苦しい空気の中で、さすがに誰一人『ポツダム宣言』受諾に対し、全面的に反対する者はいなかった。東郷外相は国体護持のみを条件として受諾することを説き、米内海相がこれに賛同した。阿南陸相と梅津参謀総長は国体護持の他に、@戦争犯罪人の処罰に関しては日本側代表をも裁判に加えること、A武装解除は日本側で自発的に行うこと、B占領軍の進駐は、出来るだけ小範囲で小兵力で短時日に制限すること、の三条件を加えるように主張し、豊田軍令部総長がそれに賛同した。その直後に、今度は長崎に原爆が投下されたとの知らせが入った。」(アジア・太平洋戦争と戦後教育改革(12) : ポツダム宣言の受諾 p.4)

少し補足すると、最高戦争指導会議のメンバーは鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外務大臣、阿南惟幾陸軍大臣、米内光政海軍大臣、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長の6人である。
長崎に原爆が投下された情報があった後、午後から臨時閣議が深夜まで行なわれ、席上で阿南陸相は原爆にひるむことなく、『死中活を求むる戦法』を主張し、米内海相が「一か八かとにかく戦ひつづけるのがよいか、極めて冷静に合理的に判断すべきである」と述べたという
明治22年に定められた内閣制度は、政府の意思決定のため閣僚全員一致を条件としていたので話は平行線のままで進まず、鈴木首相は決定の遅延と内閣総辞職の双方を回避するため、御前会議を開催して天皇の聖断を仰ぐことを決意した。
この日の午後11時50分、宮中の防空壕内の一室で、天皇陛下御臨席のもとで最高戦争指導会議が開催され、この会議で天皇陛下は「外務大臣の意見に賛成である」と裁断を下され、その理由をこう述べられた

「従来勝利獲得の自信ありと聞いて居るが、今迄計画と実行が一致しない、又陸軍大臣の言ふ所に依れば九十九里浜の築城が8月中旬に出来上るとのことであったが、未だ出来上がって居ない。又新設師団が出来ても之に渡すべき兵器は整っていないとのことだ。之ではあの機械力を誇る米英軍に対し勝算の見込みなし
 朕の股肱たる軍人より武器を取り上げ、又朕の臣を戦争責任者として引渡すことは之を忍びざるも、大局上明治天皇の三国干渉の御決断の例に做ひ、忍び難きを忍び、人民を破局より救ひ、世界人類の幸福の為に斯く決心したのである。」(同上論文 p.5)

この御前会議のあと、翌8月10日午前3時からの首相官邸における閣議決定により、「御聖断」を正式の政府決定にする手続きがなされ、外務省から「天皇統治の大権を変更する」要求が含まれていないという了解の下に『ポツダム宣言』を受諾する旨の回答が海外に発信されている

そして、この日の午後2時から閣議が開かれ、この重要な政府決定を国民に対しどう公表すべきかが議論され、ポツダム宣言の受諾については天皇陛下による「終戦の詔勅」が出されるまでは発表しないことと、それまでの間は、少しずつ国民の気持ちを終戦の方向に向けることが決定されたのだが、これから後の陸軍の動きがおかしい。
閣議決定で決められたばかりのことがその日のうちに陸軍によって完全に無視され、阿南陸相の目通しなしに、全軍玉砕の覚悟を促す「陸軍大臣布告」が各新聞社に配布されている
。この全文は次のURLに出ている。
http://www.sal.tohoku.ac.jp/~kirihara/ussr.html

全軍将兵に告ぐ、『ソ聯』遂に皇国に寇す、明分(名分?)如何に粉飾すといえども大東亜を侵略制覇せんとする野望歴然たり、事茲に至る、 又何をか言わん、断固神州護持の聖戦を戦い抜かんのみ
 假令、草を喰み土を噛り野に伏すとも断じて戦ふところ死中自ら活あるを信ず、是即ち七生報国「我一人生きてありせば」という楠公救国の精神なると共に、 時宗の『莫煩悩』、『驀進進前』以って醜敵を撃滅せる闘魂なり、 全国将兵宜しく一人を余さず楠公精神を具現すべし、而して又時宗の闘魂を再現して驕敵撃滅に驀進進前すべし。
 昭和20年8月10日             陸軍大臣」

なぜ天皇陛下の御聖断が出て『ポツダム宣言』受諾が決まったことをすぐに公表させず、陛下の詔勅が出るまで公表を先延ばしにすることにしたのだろうか。
軍隊を指揮監督する最高の権限をもつ天皇陛下の御聖断が出たというのに、なぜ軍の幹部はそれに従おうとしなかったのだろうか。
戦争を継続すれば更なる原爆投下が予想され、ソ連の侵攻が始まったというのに充分な武器・弾薬があるわけではなかった。戦争を継続してどうやって国民を護り、国土を防衛することが出来るのか。いくつも疑問点が湧いてくる。

米内海相の言う通り「冷静に合理的に判断」すれば、すぐにでも『ポツダム宣言』を受諾すべきなのだが、阿南陸相らが徹底抗戦を主張したその裏には、軍の上層部にソ連の力を借りてわが国の共産主義化を成し遂げようとした人物が少なからずいた可能性を感じるのは私だけではないだろう

阿南陸相の本心は終戦にあったのだが、陸相としては立場上徹底抗戦を主張せざるを得なかったとも言われている。また阿南自身が終戦を唱えれば暗殺されて後任の大臣が出ず内閣が総辞職し終戦が実現しない可能性があったという説もあるようだが、詳しいことはわからない。
http://ufononatu.blog10.fc2.com/?m&no=139

ところで、今年8月11日付の産経新聞に「昭和20年6月、スイスのベルン駐在の中国国民政府の陸軍武官が米国からの最高機密情報として『日本政府が共産主義者達に降伏している』と重慶に機密電報で報告していたことがロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAで明らかになった」という記事が出たことをこのブログで紹介したことがあった。
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/285/

この記事は、当時の日本政府の重要メンバーの多くがコミンテルンに汚染されており、日本の共産主義者たちが他国の共産党と連携しながらソ連に和平工作を仕掛けたということを、中国国民政府の陸軍武官が重慶(中国の臨時首都)に打電していたことを米国が傍受し、英国に最高機密情報として伝えたという内容なのだが、当時わが国の中枢部分(軍の上層部を含む)に共産主義者が多くいて、彼らがこの時期のわが国の主導権を握っていたことを窺わせるものである。なぜ軍部に共産主義者が多かったのかについては、次回に詳しく記したいと思う。

話を『ポツダム宣言』の話に戻そう。
国体護持を前提として『ポツダム宣言』を受諾するというわが国の回答に対して、連合国側はどう反応したのだろうか。

アメリカはわが国の回答を不満とする意見もあり、バーンズ国務長官が起草したとされる正式回答書(「バーンズ回答文」)には、
「降伏の時より、天皇および日本国政府の国家統治の権限は、降伏条件の実施のために必要な措置をとる、連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす」
「最終的な日本国の政府の形態は『ポツダム宣言』に遵(したが)い、日本国国民の自由に表明する意思により決定せられるべきものとす」
とあり、真正面からの回答を避けたものであった。
(「バーンズ回答文」の外務省訳文の全文は先ほど紹介した山下祐二氏論文のp.6に出ているので興味のある方は参照願いたい。)

この連合国側の回答文で納得できない陸相、陸・海総長は、連合国回答文を再照会すべしと主張したが、8月13日午後4時のから始まった閣議で即時受諾説が圧倒的となる。
鈴木首相がこの閣議で最後に述べた言葉は、誰が読んでも正論だろうと思う。
「…最後に問題は国体護持の上より危険を感じているが、さればとて今どこまでも戦争を継続するかといえば、畏れ多いが大御心はこの際和平停戦せよとの事である。もしこのまま戦えば背水の陣を張っても原子爆弾のできた今日、あまりにも手おくれである。それでは国体護持は絶対にできませぬ。いかにも一縷の望はあるかも知れませぬ。死中に活もあろう。全く絶望ではなかろうが、国体護持の上から見てそれはあまりに危険なりといわねばならぬ。万民のために赤子をいたわる広大なる思召を拝察しなければならぬ
 臣下の忠誠を致す側より見れば、戦抜くという事も考えられるが、自分達の心持だけで満足できても日本の国はどうなるか誠に危険千万である。かかる危険をも御承知にて聖断を下されたからは、我等はその下に御奉公する外に道なしと信ずる。従って私はこの意味に於て本字の閣議の有りのままを申し上げ重ねてご聖断を仰ぎ奉る所存であります。」(同論文 p.7)

事態は切迫していた。アメリカのマスコミはわが国の回答遅延を責め、13日夕刻には米軍飛行機が10日の日本側申し入れと連合国回答文を印刷したビラを東京都下その他に散布したという。先に述べたとおり、この段階においてはわが国が連合国と『ポツダム宣言』受諾に関する交渉をしている事実は一般国民には知らされておらず、早期に決断を為さなければ国内が大混乱となることが危惧された。

8月14日午前10時50分ごろ、急遽御前会議が開かれ、ここで述べられた天皇陛下のお言葉が素晴らしいのだ。

「…私の考えはこの前申したことに変わりはない。私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える
 国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの回答文の文章を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があるというのも一応はもっともだが、私はそう疑いたくない。要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申し入れ受諾してよろしいと考える。どうか皆もそう考えて貰いたい
 さらに陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことはまことに堪えがたいことで、その心持は私にはよくわかる。しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。この上戦争を続けては結局わが国がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩を嘗めさせることは私としてじつに忍び難い。祖宗の霊にお応えできない。和平の手段によるとしても、素より先方の遣り方に全幅の信頼を置き難いのは当然であるが、日本がまったく無くなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる。
…今日まで戦争に在って陣没し、或いは殉職して非命に斃れた者、またその遺族を思うときは悲嘆に堪えぬ次第である。また戦傷を負い戦災をこうむり、家業を失いたる者の生活に至りては私の深く心配する所である。この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にも立つ。…どうか私の心持を良く理解して陸海軍大臣は共に努力し、よく治まるようにして貰いたい。必要あらば自分が親しく説き諭してもかまわない
。この際詔書を出す必要もあろうから、政府はさっそくその起案をしてもらいたい。」(同論文 p.8)

このお言葉のあと、参加者全員がすすり泣いたと伝えられているが、昭和天皇がこの時に、会議の列席者それぞれの心にしみるようなわかりやすいお言葉でわが国の将来のために適切な判断を下されたことが、8月15日の終戦につながったことは言うまでもない。

侍従長であった藤田尚徳の回想記(『侍従長の回想』)にはこの御聖断が下ったあと、阿南陸相はお立ちになる陛下に、とりすがるように慟哭したと書かれているそうだ。そこで陛下は、このように陸相になぐさめの言葉をかけられたという。
「阿南、阿南、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる自信がある。」
(つづく)

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2013-12-24 20:13 | 記事へ | コメント(8) |
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