2012年02月05日(日)
平清盛にゆかりの深い神戸では、大河ドラマにあわせて様々な清盛キャンペーン
が行われています。
ハーバーランドにはドラマの世界を体験できる「ドラマ館」、大輪田泊には
「歴史館」がオープンしました。
「歴史館」では、平安時代の暮らしや神戸港の発展、福原京に関する遺跡や
出土品の展示されており、清盛の生涯を描いたアニメ上映や「神戸・清盛隊」
というキャンペーン隊のパフォーマンスなどが行われています。
兵庫大仏で知られる能福寺は、平安初期に最澄が開創したと伝えられるお寺
ですが、福原京遷都にともない平清盛がここで剃髪し、平家一門の祈願寺と
なりました。
能福寺境内には平相国廟があります。

6年前、この辺りを歩いたときに出会った清盛くん、健在でした。
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2012-02-05 12:57
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| 神戸 |

2012年01月29日(日)
神戸南京町では、1/23〜29日、旧暦のお正月を祝う春節祭が行われました。
龍舞や獅子舞など様々なイベントに多くの人々が集まり、東西約200m、
南北110mの狭い南京町は大変な混雑でした。
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2012-01-29 17:50
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| 神戸 |

2012年01月21日(土)
「厄神さん」と呼ばれる西宮市の門戸厄神・東光寺は、厄神明王を祀る
厄除け祈願のお寺として広く親しまれ、毎年1月18日、19日の厄除大祭
には多くの人が厄払いに参拝します。
厄神明王とは、愛染明王と不動明王が一体となった仏で、あらゆる災厄を
打ち払うといわれています。弘法大師空海が白檀木に厄神明王像を3体造り、
高野山、石清水八幡、東光寺にそれぞれ安置したと伝えられ、現存するのは
東光寺の仏像(秘仏)のみといわれています。
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2012-01-21 16:56
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| 兵庫(神戸市以外) |

2012年01月14日(土)
朝護孫子寺は、奈良県と大阪府の境にある生駒山地の南端、信貴山の山腹にあり、
毘沙門天王の総本山です。
参道の入り口の大きな張子の虎で有名なお寺です。寅の年、寅の日、寅の刻に
四天王の一である毘沙門天が聖徳太子の前に現れ、その加護によって物部氏に
勝利したことから、聖徳太子によって創建されたとの伝承があり、平安時代以降
は武人の信仰を集めました。
戦国時代には松永久秀が信貴山城を築きましたが、織田信長の攻撃により
朝護孫子寺も兵火で焼亡しました。その後、豊臣秀頼により再建されました。
山腹にある広い境内には本堂の他、護摩堂、多宝塔など数十ものお堂が並んで
います。本尊の毘沙門天王像は秘仏となっていますが、1月1〜10日は特別拝観できます。
本堂から見渡す奈良盆地の眺めは絶景です。
朝護孫子寺に伝わる信貴山縁起絵巻(国宝)は、12世紀の成立した日本の絵巻物の
代表作で、平安中期に信貴山で修行した命蓮上人に関する説話を描いています。
登場人物は表情豊かで動きがあり楽しい絵巻です。原本は奈良国立博物館に寄託
されており、本堂横の霊宝館で複製を見ることができます。
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2012-01-14 15:56
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| 国宝めぐり / 奈良 |

2012年01月05日(木)
江戸幕府によって1619年から1869年まで、箱根の芦ノ湖湖畔に関所が設置
されました。この地は山と湖に挟まれた東海道の要衝で、「入鉄炮に出女」に
象徴される厳重な監視体制が採られました。
1983年に伊豆の韮山町の江川文庫で箱根関所の大規模修理についての克明な
資料『早州箱根御関所御修復出来形帳』が発見され、この資料の解析や発掘
調査により、2007年に箱根関所が復元整備され、公開されています。

(2011.12)
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2012-01-05 20:08
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| その他 |

2012年01月01日(日)
2012-01-01 16:26
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2011年12月26日(月)
伊豆半島の北端にある三島では、遠く富士山に降った雨水や雪解け水が、
延々35キロにも及ぶ溶岩トンネルを潜り抜け、街のあちらこちらから湧き
出し、「箱根西麓の水の都」とも呼ばれています。
水量が少ないこの時期にも、白滝公園で地中からわき出てる湧き水がよく
見えました。
白滝公園から、桜川のとてもきれいな水の流れを見ながら、三島大社へ。
三嶋大社は、伊豆国の一宮で伊豆一円からの信仰を集めていました。
源頼朝が
源氏の復興を祈願したとも言われています。鎌倉幕府の成立後は関東総鎮守
として多くの武将の崇拝を受けました。
現在の三島市は三島大社の門前町として発達した地域で、三島大社は宗教的
な中心地としてだけではなく、産業や文化の発展の中心となっていました。
本殿等は戦乱や地震で何度も焼失、倒壊し、現在の殿社は江戸末期に建て
られたものです。
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2011-12-26 20:23
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2011年12月15日(木)
伊豆の韮山にある願成就院は、鎌倉幕府成立前に伊豆を拠点とした北条時政
が建立したお寺です。北条時政とその子義時、孫の泰時の代にかけて次々に
伽藍は拡大し、伊豆屈指の大寺院でした。北条早雲による動乱や、豊臣秀吉
の小田原攻めで全焼しましたが、江戸時代に茅葺の本堂が建てられ、現在に
至っています。
宝物館には北条政子をモデルにした地蔵菩薩が安置され、境内には北条時政
の墓も建てられています。
この願成就院の大御堂に、運慶作の阿弥陀如来、毘沙門天、不動明王、
そして二童子(制咤迦童子、矜羯羅童子)像の5体の仏像があります。
不動明王像と毘沙門天像の胎内に納められていた銘札に、「文治2年5月3日、
北条時政の発願により運慶が造り始めた」との記載があることから、数少ない
運慶の真作と確認されています。
運慶は父の康慶とともに奈良で活躍していた慶派と呼ばれる奈良仏師ですが、
慶派に鎌倉とのつながりができ、 運慶も東国で活躍するようになりました。
願成就院の5体は銘札にあるように、1186年、北条時政の依頼により作られた
仏像で、運慶の壮年期に造仏されました。
生き生きとして、躍動感があり、たくましさが感じられる仏様です。
(2011.12.9)
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2011-12-15 22:59
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| その他 |

2011年12月07日(水)
湖南三山の3カ寺目は、善水寺です。
奈良時代に創建され、最澄が天台寺院に改めたと伝えられますが、明らかでは
ありません。
本堂(国宝)は南北朝時代の建立の典型的な天台密教仏堂で、檜皮葺の屋根の
曲線が美しく、重厚な雰囲気のお堂です。
本堂には30数体の仏像が安置されていますが、本尊薬師如来座像(秘仏)、
梵天立像・帝釈天立像、四天王像、不動明王坐像、兜跋毘沙門天立像、僧形
文殊菩薩座像の10体は、平安期の比叡山根本中堂の諸尊を模刻して
作られたもので、当時の根本中堂の様子を伝える仏像が揃っているのは珍しい
そうです。
美しい自然の中で静かに佇む湖南三山のお寺は、昔から変わらぬ姿で村々を
見守っているように感じられました。
(2011.11.25)
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2011-12-07 20:34
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| 国宝めぐり / 滋賀 |

2011年12月01日(木)
長寿寺と同じく石部地区にある常楽寺は、長寿寺の「東寺(ひがしでら)」に
対して、「西寺(にしでら)」と呼ばれています。
奈良時代に聖武天皇の勅願により、良弁が紫香楽宮の鬼門を封じるために
創建されたと伝えらますが、定かではありません。
南北朝時代に建てられた本堂(国宝)は木造入母屋造檜皮葺の天台密教仏堂です。
本尊は千手観世音菩薩(秘仏)、本尊を守る二十八部衆や雷神等が安置されて
います。
室町時代建立の三重塔も国宝となっています。
境内に植えられたたくさんの紅葉の中で落ち着いた佇まいを感じるお寺です。
(2011.11.25)
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2011-12-01 21:32
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| 国宝めぐり / 滋賀 |

2011年11月26日(土)
滋賀県湖南市は2004年甲賀郡石部町と甲西町
が合併して新しくできた市です。合併により
湖南市には、飛鳥から奈良朝中期に建立された
天台寺院で国宝指定された建築物が3ヶ寺ある
ことになり、湖南三山と名づけられました。
晩秋の1日、紅葉の湖南三山を訪ねました。
長寿寺は聖武天皇の勅願で建立された古刹です。
本堂は平安末期ごろに建てられた桧皮葺の寄棟造で、本尊(秘仏の地蔵菩薩)を
安置する春日厨子とともに国宝となっています。厨子の両側には平安期の
阿弥陀如来坐像、釈迦如来坐像が並びます。
創建当初にあった三重塔は、織田信長により安土城山中の総見寺に移築され、
現在は礎石だけが残されています。
(2011.11.25)
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2011-11-26 15:12
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| 国宝めぐり / 滋賀 |

2011年11月12日(土)
源光庵は、1346年に臨済宗大徳寺の徹翁義亨の隠居所として建立された復古堂が
始まりで、1694年、曹洞宗に改められ、現在の本堂もその時に建てられました。
表門から参道を奥へ進むと、北山杉を配した、丸い窓のある唐風の山門があります。
源光庵で有名なのは、入母屋造りの本堂の丸窓と角窓。丸窓は「悟りの窓」、
角窓「迷いの窓」と呼ばれています。
本堂裏の庭園は北山を借景とし、紅葉の季節はとりわけ美しいそうです。
紅葉には早い時期でしたが、角窓、丸窓の前で座り、お庭を見ていると、
心安らぐ感じがしました。
(2011.11.4)
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2011-11-12 14:50
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| 京都 |

2011年11月07日(月)
光悦寺は、京の北部の鷹ヶ峰・鷲ヶ峰・天ヶ峰の鷹峰三山の南麓にあり、
江戸初期の書や蒔絵、陶芸に独自の芸境を展開した文化人・本阿弥光悦が、
1615年徳川家康から与えられたこの地に草庵を結び、法華題目堂を建てた
のが起こりです。光悦は、ここに親族縁者や工匠などと移り住み、芸術家村
を築きました。
光悦の死後、日蓮宗のお寺となり、光悦寺と呼ばれました。光悦のお墓も
ここにあります。
境内は、山荘の庭園風で,鷹峯の山々を見渡す茶室が並んでいます。
竹を斜めに組んだ垣根は光悦垣と呼ばれ、ゆるやかに孤を描いて背が低く
なり、牛の寝た姿に似ているところから臥牛垣ともいわれています。
紅葉の名刹として知られていますが、まだ紅葉には早く、観光客も少なかった
ので、ゆったりと庭園を歩くことができました。
(2011.11.4)
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2011-11-07 20:09
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| 京都 |

2011年10月23日(日)
毘沙門天は、四天王の一つの多聞天で、単独で祀られるときに毘沙門天と呼ばれ、
北方を守る仏様です。
一般的には、右手を高く上げて宝塔を持ち、左手は金剛棒を持ち、遠方を見つめ、
邪鬼を踏みつけている姿です。
平安時代、王城守護のために平安京羅城門の上、北方鎮護のために鞍馬寺に、
毘沙門天が安置されました。
室町時代以降は七福神の一つ、福徳、財宝の神として信仰されました。
8年前に亡くなった父は、木彫を趣味としていましたが、晩年は仏像を彫って
いました。
仏像の写真集を見たり、あちこちのお寺を回ったりして自分なりに研究して
いたようですし、信仰心もあったようです。
そんな父が精魂込めて最後に彫った作品が毘沙門天像でした。
この仏様に込めた父の思いを聞くことができないまま、旅立ってしまいました
が、仏像好きは父から受け継いだDNAかもしれません。
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2011-10-23 12:53
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| その他 |

2011年10月15日(土)
秋の特別拝観開催中の弘源寺。嵐山天龍寺へ向う参道の途中にある天龍寺塔頭
の一つで、1429年、室町幕府の管領であった細川右京太夫持之により創建され
ました。
客殿形式の本堂前の庭園は、嵐山を借景にした美しい枯山水庭園です。
本堂の数ヶ所の柱には幕末の蛤御門の変の時、ここに陣を構えた長州藩士が
試し切りをしたという刀傷が残されており、本堂の各部屋には、竹内栖鳳と
その一門の日本画が飾られています。
表門を入った左手の毘沙門堂にはインドの仏師毘首羯磨の作で、中国を経て
日本に伝えられという毘沙門天像(重文)が安置されています。大きく腰を
ひねった少々異国風の毘沙門天です。
また、毘沙門堂の正面扁額は弘法大師の直筆と言われています。
このところ、毘沙門天好きです。
(2011.10.7)
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2011-10-15 14:26
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| 京都 |

2011年10月06日(木)
千本鞍馬口にある引接寺は、本尊として閻魔法王を祀り、通称の「千本えんま堂」
で知られています。開基は平安初期の官人で、歌人の小野篁(おのたかむら)です。
篁は、あの世とこの世を往来する神通力を持ち、昼は宮中に仕え、夜は閻魔大王
の裁判の補佐をしたとの伝説があり、冥土への入り口は東山の松原通にある
六道珍皇寺、冥土から現世への出口は嵯峨釈迦堂(清涼寺)の東隣の六道町に
あった福生寺(廃寺)と伝えられています。
(2011.9.26)
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2011-10-06 20:30
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| 京都 |

2011年09月30日(金)
京の冬の風物詩、「大根だき」で知られる大報恩寺は、かつては釈迦念仏の
道場としての隆盛を極め、千本釈迦堂とも呼ばれています。
本堂は鎌倉時代の建物で、幾多の戦禍を奇跡的に逃れ、市街に現存する最古の
本堂遺構として、国宝に指定されています。
本堂横の霊宝殿には多くの重文の仏像が安置されています。
快慶作の十大弟子立像や誕生釈迦仏立像、千手観音像、そして定慶作の
六観音菩薩像 (聖観音、准胝観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、
如意林観音)。等身大の六観音像が揃って残っているのは非常に珍しく、
特に准胝観音像は日本ではあまり見られないそうです。
(2011.9.26)
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2011-09-30 20:25
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| 国宝めぐり / 京都 |

2011年09月10日(土)
叡山電車終点の鞍馬駅からケーブルに乗り換え、多宝塔駅で降りて登っていくと
鞍馬寺本堂です。最近はパワースポットとして人気で、本堂前にある曼荼羅模様
の敷石の中心位置に立つため、多くの人が順番待ちで並んでいます。
パワースポットを横目に、本堂の奥にある霊宝館へ。今回の目的は国宝毘沙門天像
です。
霊宝館に安置されている国宝毘沙門天像は、平安時代の作で、吉祥天と善膩師
童子を脇侍とし、吉祥天は毘沙門天の妻、善膩師童子は,毘沙門天の息子と
言われています。
毘沙門天像は一木彫の白木の像で、右手に鉾を持ち、左手を目の上にかざすと
いう姿が特徴的です。平安京を見守っている姿と思われますが、厳しさの中に
優しさがあり、どことなくユーモラスな感じもします。
鞍馬寺は770年に、鑑真和上の高弟で、慈悲の権化といわれた鑑禎上人が、
毘沙門天を本尊として安置したのが始まりと言われています。鞍馬は平安京の
北にあたることから、ここ鞍馬寺は、北から侵入する悪鬼を防御し都を護る寺の
役割がありました。四天王のうち北方を護る多聞天は,独尊となると毘沙門天と
呼ばれ,鞍馬寺には、多くの毘沙門天が祀られています。
(2011.8.20)
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2011-09-10 17:27
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| 国宝めぐり / 京都 |

2011年09月03日(土)
叡電「市原駅」近くの鞍馬街道沿いにある補陀洛寺は、別名「こまちでら」
と呼ばれ、小野小町終焉の地と言われています。
945年、現在地から3kmほど北の山中の静原に清原深養父(きよはらふかやぶ)
の山荘を寺にしたのが始まりとされ、その後、焼失して廃寺となったものを、
この寺が名を継いだそうです。
小野小町は平安前期の六歌仙の一人で、絶世の美女として伝えられ、日本各地
に小町伝説があり、小町の墓も各地に残されています。
特にゆかりの寺として随心院が有名で、ここで余生を過ごしたとされ、
卒塔婆小町座像が安置されています。
補陀落寺は、小町が晩年に流浪の果てにここに辿り着いて亡くなり、亡骸が
野ざらしになっていたのを弔ったと言われ、本堂には老いてやせ衰えた
「小町老衰像」が祀られています(当日は見ることができませんでしたが)。
本堂の奥に鎌倉時代に作られた五重層の小町の供養塔が建てられていま。
(2011.8.27)
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2011-09-03 13:38
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| 京都 |

2011年08月27日(土)
叡電の木野駅近くにある妙満寺は、1389年、日蓮上人に帰依した日什(にちじゅう)
上人により創建されました。当初は、六条坊門にありましたが、戦乱などのため
転々とし、1583年,豊臣秀吉の命で寺町二条移転しました。現在地岩倉には、
環境悪化を避けるため、1968年に移転しているため、本堂等の建物は新しく現代的です。
歌舞伎などで有名な「娘道成寺」に登場する安珍・清姫ゆかりの紀州道成寺の梵鐘が
この妙満寺にあり、展示室に安置されています。
比叡の山並みを借景にとりいれた枯山水庭は、寺町二条の旧地にあった時に塔頭
成就院の庭として造られたもので、冬の雪景色が美しいことから、雪の庭」と言われ
ています。
清水寺成就院の「月の庭」、北野成就院の「花の庭」(現存せず)とともに成就院
「雪・月・花」の三名園と称されています。
この日は雨模様で、比叡山には雲がかかっていましたが、お庭の緑が雨に映え,
左手に白い百日紅、右手に赤い百日紅がきれいに花を咲かせていました。
本堂からは真正面に比叡山を見ることができます。
(2011.8.20)
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2011-08-27 11:42
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| 京都 |

2011年08月21日(日)
京都・岩倉から鞍馬へ、叡山電車の沿線を訪ねました。
岩倉の実相院は、岩倉門跡とか、岩倉御所とも呼ばれる門跡寺院です。
創建時は紫野あたりにありましたが、その後、京都御所の近くに移り、応仁の乱の
戦火を避けて岩倉に移ったと言われています。
堂内の各部屋には狩野派の画家が描いた襖絵や杉戸絵をたくさん見ることが
できます。
本堂の西の池泉回遊式庭園は、池を中心に草花や樹木を配した優雅な庭園で、
縁側に座り静かな中でお庭を見ていると心落ち着く感じがします。
漆塗りの床にお庭の紅葉や新緑が映る「床もみじ」「床みどり」を見に、
シーズンには多くの人が訪れます。
また、本堂の東は比叡山を借景にした枯山水庭園となっています。
(2011.8.20)
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2011-08-21 13:46
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| 京都 |

2011年08月12日(金)
奈良の大安寺は聖徳太子に起源を持つとされ、飛鳥の地で百済大寺、高市大寺、
大官大寺と、名と所を変え、栄えました。
平城遷都に伴って現在地に移され、南都七大寺のひとつとして国の安泰と
人々の安楽を祈る大寺、大安寺となりました。
当時は広大な寺域に大伽藍があり、空海や菩提僊那などの高名な学僧とともに、
奈良時代に海外から来日した僧侶の多くが居住し、国際交流の拠点となって
いました。
中世以降、災禍などで伽藍を消失し、現在は本堂といくつかの小さなお堂のみ
ですが、本尊の十一面観音立像(秋にのみ公開)や忿怒の形相の馬頭観音立像
(春にのみ公開)、四天王立像、不空羂索観音立像、楊柳観音立像など九体の
天平仏が安置されています。
宝物殿にある楊柳観音立像は菩薩の形式をとりながら、怒りの表情を示す
珍しい姿で、天平彫刻の面影が強く偲ばれる観音像です。
(2011.7.23)
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2011-08-12 19:55
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| 奈良 |

2011年08月06日(土)
奈良市郊外の帯解寺は、全国から多くの人が安産祈願に訪れるお寺です。
平安前期、文徳天皇の皇后が祈願して清和天皇を安産されたことから帯解寺の
名がついたと伝えられています。徳川二代将軍秀忠の正室お江の安産祈願した
ことも有名で、最近では皇族の安産祈願も行っています。
本尊は鎌倉時代に造られた木造地蔵菩薩半跏像(重文)で、日本最古の求子
安産の霊像であり、お腹に衣の結び紐が表されているところから「腹帯地蔵」
とも言われています。
左手に宝珠、右手に錫杖を執り、左足を踏み下げて半跏する形の地蔵菩薩です。
(2011.7.23)
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2011-08-06 17:06
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| 奈良 |

2011年07月30日(土)

「はだか地蔵」として有名な地蔵菩薩立像のある伝香寺では、毎年夏の地蔵会
(7月23日)に衣の着せ替えが行われます。
木造地蔵菩薩立像は鎌倉時代に一部に流行した裸形像で、裸形の木像の上に、
普段は本物の着物が着せられています。像胎内の納入品の願文から1228年頃
に作られたと推定されています。
伝香寺は奈良時代の創建と伝えられますが明確ではなく、1585年、戦国武将の
筒井順慶の菩提を弔うため、順慶の母により再興され、現本堂は当時の建物です。
(2011.7.23)
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2011-07-30 13:51
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| 奈良 |

2011年07月27日(水)
ならまちにある福智院はもとは興福寺大乗院の地蔵堂で、古来南都における
地蔵信仰の霊場でした。
1254年に西大寺の僧、興正が再興し、現本堂もこの時期のものです。
本尊は鎌倉時代に造られた木造地蔵菩薩坐像(重文)で、像高2.7m、台座
と光背を含めた総高は6.7mもあり、光背一ぱいに小形の化仏をつけています。
地蔵盆の日は、「地蔵大仏」の提灯が並んでいます。
(2011.7.23)
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2011-07-27 19:54
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| 奈良 |

2011年07月24日(日)
地蔵盆の奈良のお寺に、地蔵菩薩を見に出かけました。
十輪院は元興寺旧境内にあり、花崗岩の切石を用いた日本では非常に珍しい
石仏龕(せきぶつがん)を祀っています。
地蔵菩薩立像を中心に、弥勒菩薩、釈迦如来、その手前左右の壁面に十王、
仁王、四天王が刻まれ、微かに彩色の跡も見られます。
地蔵菩薩像は鎌倉時代前期頃、他の諸仏は少し遅れて造られました。
国宝の本堂は、もとは石仏龕を拝むための礼堂として建てられたものです。
この日は本堂に「石龕地蔵尊」の提灯が吊るされ、夜には地蔵盆法要が行われます。
(2011.7.23)
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2011-07-24 12:56
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| 国宝めぐり / 奈良 |

2011年07月17日(日)
祇園祭、宵山。夜の混雑を避け、昼間に四条通、室町通、新町通をぶらぶら
しました。
各山鉾町の町屋では格子をはずして、通りから見えるように家宝の屏風、道具が
飾られ、美術館のようです。
長刀鉾
月鉾
菊水鉾
南観音山
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2011-07-17 15:37
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| 京都 |

2011年07月14日(木)
京都市中京区の下御霊神社は、上京区の上御霊神社とともに、平安初期に
伊予親王(桓武天皇の第三皇子)とその母の藤原吉子の怨霊を鎮めるために
造られた御霊社です。上御霊神社の南にあったので下御霊社と呼ばれました。
後に早良天皇(崇道天皇)、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麻呂、吉備真備、
火雷天神を加えた八柱の御霊を祀ることから八所御霊ともいわれています。
1590年、豊臣秀吉の都市整備により現在地に移転し、本殿は仮皇居の内侍所
(賢所)を、表門は仮御所の建礼門をそれぞれ移築したものです。
(2011.7.9)
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2011-07-14 22:28
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| 京都 |

2011年07月10日(日)
西国三十三ケ所観音霊場の第19番の札所、行願寺は1004年、行円(ぎょうえん)
上人によって、一条小川(上京区)に創建されました。
上人が常に皮の衣をまとい、人々から皮聖(かわひじり)とも呼ばれていた
ことから、当寺も革堂と呼ばれるようになったといわれています。
以後、人々からの厚い信仰を受け、町堂として大いに栄えたが、度々の災火に
より寺地を転々としましたが、1708年の大火の後、中京区寺町通の現在地に
移されました。
現在の本堂は、1815年に建てられたもので、堂内には行円上人作と伝える
本尊千手観音像を安置しています。
六波羅蜜寺に祀られている空也上人も「聖(ひじり)」と呼ばれていましたが、
空也上人は、裾の短い衣を身にまとい、左手に鹿杖をつき、右手で首から
下げた鉦を打ち、念仏を唱えながら市中を歩いたといわれています。
行円は空也の30年後ぐらいに活動していますが、平安後期の市中には、
行円や円空のような風体の「聖人」がたくさん出て、布教しながら、道路を
修繕したり、橋を架けたり、井戸を掘ったり、などの社会活動を行なっていた
ようです。
革堂は上京の町衆の信仰を集め、室町時代には町衆の連帯の町堂となった。
下京の六角堂(頂法寺)に対して上京町衆の集結の場となり、町の合議機関と
なっていました。
(2011.7.9)
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2011-07-10 19:56
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| 京都 |

2011年06月25日(土)
泉涌寺の塔頭の一つ、今熊野観音寺は西国三十三箇所観音霊場第15番目の
札所です。 空海が自ら観音像を刻んで草堂に安置したのが当寺のはじめと
いわれ、854年頃、左大臣藤原緒嗣が伽藍を造営したと伝えられています。
応仁の兵火で焼失しましたが、1713年に復興され、現在に至っています。
本堂には空海作と伝えられる十一面観音像(秘仏)が安置されています。
清少納言は、この近くで生まれ、晩年は、彼女が仕えた中宮定子が眠る
北鳥戸野陵の麓にあるこの今熊野観音寺の近くで過ごしたと伝えられています。
(2011.6.7)
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2011-06-25 16:38
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| 京都 |

2011年06月20日(月)
泉涌寺の塔頭の一つ、即成院は、泉涌寺の総門手前の左側にあり、992年
恵心僧都(源信)により伏見に建立された光明院を起源としています。
本堂には、本尊阿弥陀如来像と二十五菩薩像(重文)が安置されており、毎年
10月には阿弥陀如来をはじめ二十五菩薩が極楽浄土の世界から現世に来迎し、
衆生を救済して現世から極楽浄土の世界へ導かれる教えを具体化した「二十五
菩薩お練」の法会で知られています。
また、境内には源平の戦いの武将で,弓の名手であった那須与一の墓と伝えら
れる石造宝塔があり、与一は出陣する途中で、病に罹った与一がこのお寺に
参籠し、本尊阿弥陀如来の霊験で平癒して屋島の戦いで戦功をたて、その後
出家してここに庵をむすんだと伝えられています。
総門を入ってすぐ左手にある戒光寺も泉涌寺の塔頭の一つで、1228年の創建と
伝えられます。
本尊釈迦如来(重文)は運慶・堪慶父子の合作といわれる高さ5.4mの木彫の
大仏です。後水尾天皇が暗殺されかけた事件の際、この本尊が身代わりと
なったと信じられ、「身代わり丈六さん」と呼ばれ皇室の御祈願所として
栄えました。
(2011.6.7)
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2011-06-20 13:36
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| 京都 |

2011年06月16日(木)
東山の泉涌寺は、真言宗の古刹で、起源は弘法大師が建てた法輪寺といわれ、
1218年に宗より帰国した月輪大師が再興しました。その時に、境内から泉が
涌きでてきたので、寺名を泉涌寺と改めたと伝えられています。
以後、歴代の天皇、皇室から厚い崇敬を受け、皇室の菩提所として栄え、
御寺(みてら)呼ばれています。広い境内には、仏殿、開山堂、舎利殿、
御座所、霊明殿など数多くの伽藍が建ち並んでいます。
観音堂に安置されている楊貴妃観音像(重文)は、1255年湛海が仏舎利と
ともに中国・南宋から請来したもので、楊貴妃をモデルにしたとも言われる
観音像です。
(2011.6.7)
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2011-06-16 19:56
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| 京都 |

2011年06月10日(金)
京都観光の定番の一つ、清水寺。お寺の周辺はいつも外国人観光客や修学旅行生
で賑わっています。
清水寺は798年、坂上田村麻呂の創建と伝えられ、現在の主な堂塔は1633年に
徳川家光が再建しました。
「清水の舞台」で知られる本堂(国宝)は寄せ棟造り、檜皮葺、寝殿造り風の
優美な建築で、舞台は約12メートルの長さがあり、樹齢500年以上の139本の
巨木からつくられた柱の組合せで支えられ、断崖上に架かっています。
本尊は十一面千手千眼観音立像(秘仏)、西国観音霊場三十三カ所第16番札所
となっています。
舞台の下方に音羽の滝があり、音羽山山麓の広い境内には、仁王門、鐘楼、
三重塔、経堂、釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院や子安の塔など重文指定の建物が
多く立ち並んでいます。
境内の南苑には阿弖流為・母禮之碑があります。
現在の岩手県奥州市地域を本拠地とした蝦夷の首長・阿弖流為(アテルイ)と
母禮(モレ)は平安朝廷の東北平定政策に対して勇敢に戦いましたが、征夷
大将軍・坂上田村麻呂に敗れました。将軍は両雄の武勇、器量を惜しみ朝廷
に助命嘆願しましたが、許されず処刑されてしまいました。石碑は、1994年に
平安建都1200年を期して有志により建立されました。
(2011.6.7)
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2011-06-10 23:37
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| 国宝めぐり / 京都 |

2011年06月04日(土)
京都市北区にある平野神社は794年の平安遷都の際、大和からこの地に遷座した
旧官幣大社です。天皇家の崇敬も厚くそれに伴い、源氏、平氏、大江氏、菅原氏
などの公家の氏神にもなり、伊勢神宮、松尾大社などと格式ある神社です。
現在の社殿は江戸初期に造営されたもので、本殿は4つの社殿が2つに結合された
平野造という珍しい様式です。
境内にはたくさんの種類の桜が植えられ、桜の名所として有名で、シーズンには
大勢の花見客で賑わいます。
神社の神紋は境内の桜にちなみ桜紋です。
(2011.5.20)
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2011-06-04 17:11
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| 京都 |

2011年05月27日(金)
京田辺市に一休禅師が晩年を過ごした酬恩庵(一休寺)があります。
一休宗純は後小松天皇を父として生まれ、幼少期は西山の地蔵院で過ごしました。
天龍寺、鹿王院、建仁寺などで修行し、晩年は自らが再興した酬恩庵で暮らし、
81歳で大徳寺47世となった後も、ここから大徳寺まで木津川を舟で通ったと
いわれています。
本堂、開山堂、庫裏、方丈などの酬恩庵の建物の殆どは江戸時代初期に加賀城主
の前田利常が再建したものです。
方丈の中央には、死の前年に作られたという一休木像(重文)が安置されて
います。方丈の南面・東面・北面は禅院式枯山水庭園で名勝に指定されています。
一休禅師は戒律や形式にとらわれず、風変わりな格好や奇抜な行動をしたと
伝えられますが、当時の世相や仏教界への批判・風刺であったと言われています。
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2011-05-27 23:16
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| 京都 |

2011年05月21日(土)
奈良県との県境に近い南山城地方は、京都府ですが奈良系の寺院が多く、国宝
十一面観音立像で知られる京田辺市の観音寺も、もともと東大寺の僧が建立
した普賢寺がその前身と言われています。
古くは 七堂伽藍の壮麗な大寺でしたが、度重なる火災により衰退し、
現在は大御堂だけが再建され現在に至っています。
のどかな里山風景の中にある観音寺は、春には参道の桜並木や一面に
広がる菜の花が美しいところです。
十一面観音立像は奈良中期を代表する天平仏で、高さ170cm余り、木彫りで
原型を造り,それに木屎漆などを厚く塗り盛り上げて形作った木心乾漆造の
像です。全部で7体の国宝十一面観音立像のひとつで、形態、製法や製作
時期が聖林寺の十一面観音像と共通点が多いといわれていますが、こちらの
観音像はふっくらとした顔立ち、優雅な姿で、女性的な印象です。間近で、
また少し離れて拝観して、うっとりさせられる観音像です。
(2011.5.5)
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2011-05-21 13:22
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| 国宝めぐり / 京都 |

2011年05月15日(日)
京田辺市の三山木駅近くに寿宝寺という小さなお寺があります。
かつて、このあたりの木津川沿いに「山本の大寺」と呼ばれる七堂伽藍のお寺が
ありましたが、度重なる木津川の氾濫により、移転を繰り返し、江戸時代に
現在の地に移転しました。明治以後近隣の寺々を合併し寿宝寺として現在に
至っています。
以前はこの地に鶴沢の池があり、仲秋の名月の名所でした。
寿宝寺の観音堂に安置されている十一面千手千眼観音立像(重文)は、平安
時代後期に作られた一木造の観音像で、像高180cm、左右20ずつの手の前に
小さな手が扇状に配され、すべての掌に眼が描かれています。実際に千本の
手を持つ千手観音像は、大阪河内の「葛井寺」、奈良「唐招提寺」とこの寿宝寺
の三寺のみです。
当日、拝観をお願いすると、若奥様と可愛い坊やが観音堂を開けて説明をして
くださいました。
かつてはこの千手観音像は藁葺きの本堂の中に祀られ、月明かりで拝む観音様
がいちばん優しいといわれ、法要は夜に営まれていたそうです。明るい場所で
見る観音様は端正ながら厳しい顔立ちですが、観音堂の扉を閉め、暗い中で
ほのかな光に照らされると穏やかで優しい顔の観音様が現れ、心洗われる気が
しました。
古くから観音様は村の人々を見守り、また人々もこの観音様を大切にしてきた
ことが感じられました。
(2011.5.5)
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2011-05-15 14:03
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| 京都 |

2011年05月13日(金)
妙心寺の塔頭の1つ、桂春院は、慶長年間に創建されたお寺で、庭園が名勝・
史跡に指定されています。庭園は江戸時代に造られた枯山水庭園で、方丈の
北側、東側、南側の三つと書院前庭の、趣の異なる4つの庭(清浄の庭、
侘の庭、真如の庭、思惟の庭)から構成されています。
清浄の庭:方丈北にある石組と白砂の坪庭
思惟の庭:方丈東にある築山に羅漢石を置いた庭
真如の庭:方丈南にあるサツキ・霧島ツツジ・馬酔木などがバランスよく
植えられて、刈り込みの手前は小さな石灯籠や庭石を配置
侘の庭:書院前庭の露地庭
(2011.4.30)
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2011-05-13 19:56
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| 京都 |

2011年05月06日(金)
仁和寺の東門を出たところに、五智山蓮華寺という小さなお寺があります。
門を入ると、大きな五体の石仏に驚かされます。薬師如来、宝生如来、
大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来の五智如来で、江戸後期の木喰(もくじき)
上人の作と伝えられています。
蓮華寺は1057年に創建された真言宗御室派の別格本山で、元は広沢池畔にあり、
1641年に鳴滝音戸山に五智如来等の石仏群像を造立し、伽藍・堂宇を再興され
ました。1928年には現在地に移転し、石仏群も台石と共に原形のまま現境内に
移されました。
本尊は弘法大師作と言われる五智不動明王で、毎年土用の丑の日に行われる
きゅうり封じの法要で知られています。
(2011.4.30)
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2011-05-06 15:56
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| 京都 |

2011年05月03日(火)
「徒然草」や「平家物語」に登場する仁和寺は、886年に創建された真言宗御室派
の総本山です。宇多天皇が落髪入寺し寺内に御室(御座所)を設け、御室御所と
呼ばれ、以後、明治まで代々法親王が門跡となった門跡寺院です。
応仁の乱の兵火で全山の堂塔伽藍が全焼し、江戸時代になってから現在の姿に
再建されました。
仁王門は純和様で作られていることが特色の堂々とした楼門で、南禅寺、
知恩院の門とともに京の三大門と呼ばれています。
仁王門を入ってすぐ左には御殿と呼ばれる御座所の建物や庭園があり、
白木造の白書院や黒漆塗りの黒書院、宸殿など、門跡寺院の風格があります。
五重塔は高さ36m。東寺の五重塔と同じく、寛永期を代表する塔です。
金堂(国宝)は入母屋造,本瓦葺きの京都御所の紫宸殿を移築して仏堂とした
もので、現存する最古の紫宸殿の遺構といわれています。
かつての本尊、阿弥陀如来と脇侍の勢至菩薩,観音菩薩の阿弥陀三尊は、
現在では霊宝館に安置され、春と秋に期間限定で公開されています。
また、遅咲きの八重桜は御室桜と呼ばれ、樹高の低いのが特徴で、京都の
桜の名所の1つです。
世界遺産にもなっており、いつも観光客の多いお寺ですが、特に桜の季節は
大変賑わいます。
(2011.4.30)
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2011-05-03 17:46
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| 国宝めぐり / 京都 |

2011年04月16日(土)
「御土居」とは天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が,長い戦乱で荒れ果てた京都の
都市改造の一環として、外敵の来襲に備えるため、また鴨川の氾濫から市街を
守るために築いた土塁です。長さは22.5キロメートルにも及び,東は鴨川,
北は鷹ヶ峯,西は紙屋川,南は九条に沿って築かれ、土塁の内側は洛中,外側は
洛外と呼ばれました。
江戸時代には外敵の脅威もなくなり御土居は次第に取り壊されましたが、現在
市内に残る9箇所が「史跡」に指定されています。
そのうちの1箇所は中京区西ノ京の市五郎大明神社の境内にあります。神社は、
明治期に建てられたものですが、神社の神域にあるため、この地の御土居は
壊されずに残されました。神社が面している通りは、御土居の西側を南北に
通っているため、西土居(にしのどい)通りと呼ばれています。
(2011.4.11)
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2011-04-16 13:09
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| 京都 |

2011年04月08日(金)
西宮市にある廣田神社は日本書紀にも登場する兵庫県で最も古いとされる
古社の一つで、神功皇后が天照大御神荒御魂のおつげにより広田神社、
生田神社、長田神社、住吉大社に荒魂を祀ったのが始まりとされています。
スポーツ、学業・受験の神様として御利益があるといわれ、毎年阪神タイガース
が優勝祈願にお参りすることでも有名です。えべっさんで有名な西宮神社も
元は廣田神社の境外摂社であったといわれています。
廣田神社と周辺の広田山公園一帯は約2万株のコバノミツバツツジが群生し、
古いものでは樹齢が150年以上あると言われ、兵庫県の天然記念物に指定
されています。
(2011.4.5)
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2011-04-08 20:13
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| 兵庫(神戸市以外) |

2011年04月02日(土)
「祇園さん」と呼ばれ親しまれている八坂神社は、スサノオノミコトを祭神と
し、平安遷都以前からこの地に祀られていたといわれています。
869年、疫病流行の際、当社の神にお祈りして始まったのが祇園祭です。
西楼門(重文)は、四条通の突き当りに建つ切妻造の美しい姿の門で、
八坂神社の象徴となっています。
本殿(重文)は江戸時代に徳川家綱により再建されました。かつて別棟で
あった二つの建造物、本殿と拝殿とを一つの屋根で覆った祇園造と呼ばれる
独特の様式です。
(2011.3.12)
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2011-04-02 16:32
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| 京都 |

2011年03月27日(日)
知恩院は1175年に法然が庵を結んだのが始まりといわれ、大小106もの伽藍が
点在する浄土宗の総本山です。
晩年の法然がここに住み、念仏の教えを説いたと言われますが、伽藍は応仁の
乱等で焼失し、現存の三門、本堂(御影堂)をはじめとする壮大な伽藍が再建
されたのは江戸時代に入ってからのことです。徳川氏が浄土宗徒であったこと
から、家康が、寺地を拡大、二代将軍の秀忠が三門を再建、三代将軍の家光が
御影堂を再建するなど、徳川氏の大きな庇護を受けました。
三門(国宝)は高さ24メートル、幅50メートル、木造の門としては日本最大で
あり、門の上層内部には釈迦如来像と十六羅漢像が安置され、天井には龍図
が描かれた禅寺様式になっています。
御影堂(国 宝)は本尊の法然上人尊影を祀る知恩院の本堂で、入母屋造
本瓦葺き、間口44.8メートル、奥行34.5メートルの壮大な建築です。
また1636年 に鋳造された梵鐘(重文)は重さ70トンもあり、日本三大梵鐘の
一つとも言われています。大晦日には僧侶17名により鐘撞きが行われ、この
風景はテレビな
どでよく紹介されています。
(2011.3.12)
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2011-03-27 11:20
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| 国宝めぐり / 京都 |

2011年03月23日(水)
門跡寺院とは代々の住職を貴族や天皇の血族で僧籍にあった者が務めた格式の
高い寺院です。青蓮院、三千院、毘沙門堂、曼殊院、妙法院は天台宗五門跡と
呼ばれました。
京都・東山の青蓮院は、最澄が比叡山延暦寺を開いた時に作った、僧侶の住坊
のひとつ「青蓮坊」が起源になっています。
第3代門主の慈円(関白藤原忠通の子で歌人)の時に最も栄え、法然や親鸞を
庇護したので浄土宗や浄土真宗の聖地になっています。天明の大火(1788年)
の際、後桜町上皇の仮御所になったため粟田御所とも呼ばれ、宸殿、小御所、
熾盛光堂等の建物と庭園がある境内約1万坪は、国の史跡に 指定されています。
主庭園は室町期の世阿弥の作と伝えられ、粟田山を借景にした池泉回遊式の
庭園です。

「青不動」と呼ばれる平安時代後期の仏画、不動明王ニ童子像(国宝)を
持っていますが、現在は奈良国立博物館に寄託されています。園城寺(三井寺)
の黄不動、高野山明王院の赤不動とともに三不動と言われています。
境内には京都市の天然記念物となっている楠の大木が5本あり、特に門前の
樹齢800年の楠は、親鸞の手植えと伝えられています。
(2011.3.12)
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大震災から10日以上が経ちましたが、毎日伝えられる厳しい状況に心が痛みます。
神戸で震災を体験した者として、被災地の方々のご苦労や不安はいかばかりかと
思いますが、ただただ「がんばって!」と言うしかありません。
被災地から離れ、普通の生活ができる者は、風評に惑わされず、各々の日々を
普通に生きていくことが大事なんだろうと思い、歴史散歩の掲載を再開しました。
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2011-03-23 17:07
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| 国宝めぐり / 京都 |

2011年03月01日(火)
京都・四条烏丸の近く、菅原道真誕生の地と伝えられ、道 真の邸宅や菅家廊下
(かんけろうか)といわれた学問所の跡に、道真を祀る菅大臣神社があります。
神社の創立は、道真没後すぐのようですが、鎌倉期には南北両社に別れ、南社
(菅大臣神社)を白梅殿社と称し、北社を 紅梅殿社と呼んでいました。後に次
第に衰退し、現在の本殿は1869年にもとの下鴨神社の本殿から移築されました。
901年、道真が大宰府の大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷されるとき、庭の
梅の花をみて詠んだ、
東風吹かば にほ ひおこせよ梅の花
主なしとて 春なわすれそ
の歌はよく知られていますが、道真を慕って大宰府に飛んで行ったというその
「飛梅」の伝説地です。
菅大臣神社の道を挟んだ北向かいに「菅家邸址」の石碑と、そこから細い路地道
を北に入った ところに「紅梅殿」の額を掲げた鳥居があります。道真の父是善
(これよし)を祀る北菅大臣神社(紅梅殿」で、この辺りに私塾「菅家廊下」や道
真の書斎があったと言われています。

(2011.2.24)
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2011-03-01 22:25
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| 京都 |

2011年02月19日(土)
摂津国の須磨は、古くより畿内と山陽道を結ぶ駅路が通じ、660年に天智天皇
により摂津の関<通称:須磨の関>が設けられました。しかし8世紀頃には
須磨の関は廃止されたようです。その後、歌枕として“須磨の関”は和歌に
詠み継がれました。
須磨の関守稲荷神社が須磨関屋跡との説がありますが、正確な場所は不明です。
関守稲荷神社は『源氏物語』<須磨>で光源氏が須磨の浦で巳の日祓(みのひはらい)
をしたところをこの地になぞらえ「巳の日祓稲荷」とも呼ばれます。
また、清少納言の『枕草子』第107段には、日本各地のいくつかの関が挙げられ
ている中で、「関は 逢坂(おうさか)。須磨の関。鈴鹿の関。」と、須磨の
関は2番目に登場しています。
神社の境内には、須磨の関守を詠んで『百人一首』にも撰ばれている源兼昌の
歌碑が建てられています。
あはじしま かよふちどりのなくこゑに
いくよねざめぬすまのせきもり
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2011-02-19 15:28
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| 神戸 / 源氏物語 |

2011年02月12日(土)

梅の花がチラホラと咲き始めた神戸市須磨区の綱敷天満宮は、学問の神様、
菅原道真を祀り、地元では須磨の天神さんと呼ばれて親しまれています。
綱敷天満宮は、菅原道真が九州大宰府に左遷される際、須磨の浦に立ち寄り休憩
したことにちなみ、道真の死後、979年にこの地に創建されたと伝えられます。
境内には約120本の紅白の梅が咲き、この時期には観梅と合格祈願の受験生が
多く訪れます。
また、本殿の横には、須磨の海でサーフボードを抱える幼少時代の道真像
(波乗り祈願像)があり、時代の荒波に乗り、一人でも多くの方々が幸せに
なることを願って造られたそうです。
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2011-02-12 16:36
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| 神戸 |

2011年02月05日(土)
「十三まいり」で知られる法輪寺は、眼下に渡月橋を見下ろす嵐山の中腹に
あります。
713年行基が創建し、その後、空海の弟子にあたる道昌が、虚空蔵菩薩像を
安置し、寺号を法輪寺と称したと伝えられています。
『枕草子』の「寺は」では「壺坂、笠置、法輪」と並び称せられ、院政期には
多くの人々の信仰を集めて隆盛を誇りました。
本尊の虚空蔵菩薩は、「嵯峨の虚空蔵さん」として親しまれ、数え年十三歳に
成長した男女が、成人の儀礼として法輪寺に参拝し、十三歳の厄難を払い、
智恵を授けていただけるように虚空蔵菩薩に祈願する、という「十三まいり」
に全国から多くの人が訪れます。
また、境内に建つ電電宮社に奉られている電電明神は雷や稲妻の神で、
電気・電波の祖神として信仰されています。
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2011-02-05 15:52
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| 京都 |

2011年01月30日(日)
京都・嵯峨野の観光スポットから少し離れた嵐電嵯峨駅の南側。
桂川に向かって向かって5分ぐらいのところに、安倍晴明の墓所があります。
全国にある多くの晴明塚の中で、最も確証が高いとされ、晴明神社の飛び地
境内になっています。

東へ少し行ったところ、鹿王院の西側にある曇華院(どんげいん)門跡。室町期に
足利義詮の夫人良子の生母智泉尼が創建した通玄寺の塔頭で、のちに通玄寺と
併合され曇華院と称し、京都尼寺五山の一つになりました。「竹の御所」とも
呼ばれた臨済宗の尼門跡寺院です(非公開)。
曇華院から南へ、斉明神社。神明神社とも呼ばれ、室町期に天龍寺塔頭慈済院
開山の佛慈和尚により、慈済院の鎮守として創建されましたが、もとは伊勢神宮
斎宮にえらばれた皇女の禊の旧跡とも伝えられます。
現在の本殿は、1771年に建てられたもので、簀屋祢(すやね)に覆われた本殿は
神明造で、京都の神社に珍しい造りだそうです。
桂川沿いを西に向かうと嵐山の手前に霊亀山臨川寺。天龍寺開山夢窓疎石
(夢窓国師)が1351年に入寂したところで、その廟所です。開山堂に夢窓
国師像を安置し、その床下蓮華形自然石の下に夢窓の遺骸を納めたといわれ
ています(非公開)。
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2011-01-30 14:36
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| 京都 |

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