2010年03月21日(日)
新進気鋭の若手役者たちによる春の歌舞伎を、南座に観劇した。
三部構成で、双蝶々曲輪日記 角力場 (一幕)、曽根崎心中 (一幕三場)、そして連獅子 である。
まず初めの双蝶々曲輪日記 (ふたつちょうちょうくるわにっき) は、中村獅童演ずるプロ関取 濡髪長五郎と、市川亀治郎演ずる素人相撲出身の放駒長吉との絡みの場面を軸に、前振りとして尾上松也演じる売れっ子の新町芸者 藤屋吾妻と、市川亀治郎が二役で演ずる大店の部屋住若旦那 山崎屋与五郎が登場する。放駒を贔屓するあやしげな武士と、濡髪を贔屓にする山崎屋与五郎とが、名伎 吾妻の見受けを競っているのを、山崎屋与五郎に恩義を感じる濡髪が、素人相撲の長吉にわざと相撲で負けてまで長吉に取りなしを依頼するが、それを知った長吉は素人とはいえ八百長相撲では一分が立たないとして張りあう場面である。市川亀治郎は、少し小柄だが器用に多彩な役柄をそつなくこなすことがよくわかる。そしてなんといっても濡髪長五郎を演ずる中村獅童のすでに風格さえ感じさせる姿と演技がとても魅力的である。
曽根崎心中は、近松門左衛門の名作として有名である。天満屋遊女 お初には坂田藤十郎の孫 中村壱太郎(かずたろう) が演じ、相手役の平野屋徳兵衛をその父の中村翫雀が演じ、親子の共演となっている。壱太郎は19歳という若さで、首などとても細くてしなやかで、動きもきびきびしていて初々しい美しい姿を披露している。まだ女形の声色には改良の余地があると思われ、セリフがときどき少し聴きづらいのが玉にきずだが、こうして優れた若手が次々に出てくるのは、伝統芸能を主催する立場からみればとても心強いことだろう。
最期の連獅子では、前段に中村獅童演じる親獅子と尾上松也演じる仔獅子とが出演し、親獅子が仔獅子を鍛えるために千尋の谷に突き落とすという故事を狂言として踊る。つぎに間狂言として、中村翫雀と市川亀治郎がそれぞれ時宗と日蓮宗との僧侶を演じる「宗論」の狂言、そして最後に、親獅子と仔獅子が長い毛を勇ましく振り回す有名な踊りでしめくくる。この松羽目物としては、中村獅童も尾上松也も、初めての役であったというが、堂々たる踊りであったと思う。
2回の幕間を挟んで全部で4時間を超える長丁場の演劇である。しかしまったく弛緩の余地はなく、あっという間に終わったように感じた。市川亀治郎の知的で器用な演技、中村壱太郎の初々しい美しい演技がとてもよかった。そしてなにより、中村獅童の堂々たる姿と演技が圧倒的であった。
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2010年3月21日 09時55分
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2010年03月19日(金)
船岡山から北側に降りると、麓には船岡山公園があり、その一角に「応仁永生戦跡舟岡山」と記された小さな石碑がある。
船岡山付近は、15世紀ころには内裏、室町幕府、公家邸宅、武家屋敷が密集していて、京都の心臓部となっていた。そのなかで、こうして周囲からひときわ高い岡であったために、戦争の陣地として重要な場所であった。
応仁2年(1468)、前年から勃発したいわゆる応仁の乱のなかで、大内政弘、山名教之の西軍は、この地で細川一族が率いる東軍と戦い、この地を攻め落とした。
その約半世紀後、足利将軍家と細川家との内紛がつづいた永正8年(1511) 8月には、丹波に逃れていた将軍足利義尹(よしただ)が細川高国と、前将軍足利義澄を擁立しようとする細川澄元、細川政賢をこの地に攻め、京都を奪回した。永正の船岡山合戦と呼ばれる。足利義尹は、この戦に勝ったことでなんとか京都に戻ることができたが、このころには足利将軍家の威信はすっかり地に落ちてしまっていた。この地は、このように度重なる戦の拠点であった。
京都というと、いまでは町全体が歴史博物館でありわが国トップレベルの観光都市のイメージが強く、なんとなく優しく雅びな印象が先行するが、歴史的には千年の都であり、それがために凄惨な戦場の街であり、かつ武器をはじめとする産業の街であったのが事実である。
(つづく)
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2010年3月19日 06時17分
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2010年03月18日(木)
建勲神社の境内から、周囲をめぐりつつ船岡山に登る道がある。両脇を樹木に囲まれ、現代ではめったにない土と落葉の小道が赤い神社の木柵に沿って続く。電柱もコンクリートもアスファルトもない、自然の土と木と石だけの道は、時代を忘れさせてくれる。
ゆるやかな坂道を登り切ると、船岡山山頂の「三等三角点」の標石がある。「北緯35度2分8秒756、東経135度44分40秒417、標高111.89メートル、設置年 明治36年(西暦1903年) 」と説明版に記されている。
船岡山は、京都の平安京の北の起点の場所に相当し、玄武を象徴する山である。古くからさまざまな記録や書物に登場しているが、応仁の乱ではこの地に西軍の陣が設けられた。このため、周囲は「西陣」という地名として残っている。
東京都心の愛宕山と同じように、標高はそんなに高くないけれども、周囲には高い場所がないために、この頂上からはずいぶん遠くまで京の街を見晴らすことができる。応仁の乱など京の都を襲った数多の戦乱で、この船岡山は重要な拠点となったが、たしかに周囲を見下ろすことができる軍事的な重要地点であることは、私にもよくわかる気がする。
京都の神社仏閣は、休日には人出が多くて混雑していることが多いが、建勲神社とここ船岡山は意外にひっそりしていて、その意味でも快適である。
(つづく)
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2010年3月18日 08時43分
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2010年03月17日(水)
鳥居をくぐり、100段の石段を昇ると境内に入り、参道脇にまだ新しい石碑がある。織田信長が好んで謡ったと伝える謡曲「敦盛」の碑である。
織田信長は、それまでの武家の常識を覆すような果断で過激な行動力を発揮して、長らく続いた混乱の戦国時代を収束させて近世の先駆けを造ったことで、現代でも非常に人気の高い武将である。テレビドラマでは、残酷だが美しく独創性に優れた武将として描かれることが多い。対照的に豊臣秀吉は、卑屈で下品な人物として描かれることが多い。もちろん真実は想像するしかないけれども、歴史を少し詳しく読むと、軍事的な実績の範囲では甲乙つけがたいとしても、やはり秀吉の業績は政治面において圧倒的に偉大であると思うので、私は信長を過大には評価しない。
明治維新がなった直後、明治新政にとって、外国のとくにキリスト教に対抗するため、かつ国内の人心統合のために、独自の宗教的政策が喫緊の課題となった。そこで江戸後期から徐々に勢力を蓄えてきた国学の系統に沿って、さらに幕末の水戸藩の勤皇思想を受け継いで、天皇を天照大神の末裔と位置づける神道を軸に、全国的な宗教政策を展開することとなった。この過程で、激しい廃仏毀釈運動が展開されたが、併せて徳川家の東照大権現に対抗して、豊臣秀吉の豊国神社や、織田信長を祀るこの建勲神社を積極的に復興し顕彰したのであった。
この建勲神社は、明治2年(1869) 明治天皇の勅辞により創建されたという。かつて豊臣秀吉が織田信長の廟所と定めた舟岡山の麓である。まもなく明治8年(1875) 別格官幣社に列せられた。信長着用の胴丸、桶狭間合戦時の今川義元左文字の太刀、太田牛一自筆本の「信長公記」などの重要文化財を含む多数の宝物を保有している。
残念ながら、ちょうど改修故事の最中で、本殿の外観を眺めることはできなかった。
(つづく)
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2010年3月17日 07時01分
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2010年03月16日(火)
京都北西部の北大路のバス停「建勲神社前」で下車し、北大路の南側に下ると、建勲神社の大きな鳥居が見える。船岡山を背にして鎮座する織田信長の鎮護神社である。
今ではめったに見る機会がない白木の、しかも大きな鳥居である。明治13年に建てられたものが昭和9年に建て替えられ、さらに平成12年に大改修を経たものであるという。立派な神社仏閣を誇る京都にあって、高さ7.4メートル、幅10.3メートルの京都市内で最大規模の「木像明神型素木造 (もくぞうみょうじんがたしろきづくり)」とされる。木材は、耐久性に優れるということから、遠く台湾阿里山から運ばれた紅檜が用いられている。現代では大口径の紅檜は希少材であり、その意味でも貴重な文化財となっている。
(つづく)
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2010年3月16日 07時49分
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2010年03月15日(月)
松竹座公演でミュージカル風にアレンジした「ガブリエル・シャネル」を鑑賞した。
ココ・シャネルとして知られるガブリエル・ボヌール・シャネルは、1883年 今ではヴォルヴィック・ミネラルウォーターで知られる地下水採取の地であるフランス中央高地地方のオーヴェルニュの救済院で生まれ、12歳で母に死別し、以後孤児院で育った。貧困と不遇のなか、やがて田舎町ムーランで針子として働く一方で、カフェやキャバレーでアルバイト歌手をして、芸能界転身のチャンスを窺っていた。このころに「コケコッコー」と鶏を真似る歌が受けて、「ココ」というニックネームを得た、というエピソードは、この劇中にも紹介されている。
芸能界への進出はできなかったが、そのころに知り合った将校エティエンヌ・バルサンに伴われてパリに出た。富裕なエティエンヌはパリ郊外に牧場をもっており、そこに滞在していたときに暇を見つけて手作りでつくった帽子のデザインが一部の貴族たちに認められることになった。それを契機にバルサンの支援を受けて1909年、 パリに帽子専門のアトリエを開いた。このころ、バルサンの友人のひとりであったイギリス人青年実業家 アーサー・ボウイ・カペルと知り合った。このアーサーは、ガブリエルにとって運命の人となった。
全ヨーロッパを混乱と破壊の渦に巻き込むことになる第一次世界大戦がはじまる前年の 1913年 貴族の保養地として繁栄していたブルターニュ地方の港町ドーヴィルに、アーサーの支援を受けて「シャネル・モード」という名のブティックを開店した。戦争で疎開してくる上流階級の注文に的確に対応したシャネルは、コレクションで好評を得て、新進のデザイナーとしての地位を確立する。
1918年に戦争が集結するが、その翌年に愛するカペルは交通事故で急死する。悲嘆にくれるシャネルは、やがて友人のひとりでパリ社交界を仕切っていたミシア・セールによって、両大戦間の混乱・創造・頽廃の10年を、旧ロシア亡命貴族(ドミトリー公など) 、ロシア亡命芸術家(ストラヴィンスキー、ニジンスキーなど)、エコール・ド・パリの芸術家(ピカソなど)、さらにジャン・コクトーやラディゲなどの多方面の芸術家・文学者たちと交流を深め、みずからの創造性を磨いていくことになった。このサロンの雰囲気については、10年ほど前、渋谷で開催されたジャン・コクトー展で別の角度から写真を含む展示を観たことがある。有名な香水「シャネルの5番」を発表したのも、このころであった。シャネルは、このサロンを通じて新進のファッション・イラストレータであったボール・イリブととくに親密になったが、イリブは1935年、急死してしまった。結婚を希求する相手には、ことごとく死なれてしまう運命であったらしい。このエピソードは今回の劇では触れられていない。
このころシャネルの工房は従業員4,000人を超える大企業に成長したが、おりしも労働運動の激化から大争議が起こり、シャネルは第二次世界大戦の兆しの濃い1939年、突然会社を閉鎖して引退してしまう。
第二次世界大戦中は、シャネルはフランスを占領したドイツ軍将校の愛人となって安全に不自由なく過ごし、戦後しばらくまでスイスに亡命生活をともにした。これが戦後、シャネルの「裏切り行為」としてフランス国内で激しく非難されることになったが、このエピソードにも今回の劇は触れていない。
15年間の長いブランクを経て1954年パリにもどったシャネルは、70歳でファッション界に復帰する。復帰後最初のコレクション展はヨーロッパでは大失敗と酷評されたが、シャネルの女性解放的なファッションは、戦後世界のリーディング市場に成長したアメリカで高く評価され、広く受け入れられた。それからさらに16年間以上も世界のトップデザイナーとして君臨し、1971年87歳のとき、コレクションの準備作業中にたおれて亡くなった。戦中の裏切り行為のため、フランス国内の高級墓地への埋葬を認められず、ドイツ人愛人と亡命生活を送ったスイスの墓地に眠っている。
今回の脚本でも、シャネルの過度の美化は抑制し、富裕な男たちに依存した生活と事業、傲慢不羈な性格を表現している。たしかに厳しい境遇での幼少体験からくる屈折した狷介な性格、クリエーターとしての格別の才能に加え天性の美貌を最大限に活用した男性関係の利用など、一筋縄の人物ではなかったようだ。ガブリエルは、初期のシャネル・モードのモデルをつとめた実妹とならんでかなりの美貌であった。そのうえ創造活動にひとかたならぬ情熱を燃やすガブリエルが、男たちにとってとても魅力的であったろうことは容易に想像できる。いずれにしても、戦前に大成功をしたあと15年間もの長いブランクがあり、さらにフランス国内で裏切り者と排斥されつつも、戦後のファッション界を87歳の死までトップデザイナーとして君臨した能力と、それを支えた努力は、尊敬すべきものである。卓越した才能と、すさまじいエネルギーは、誰もが認めざるを得ない。
テンポのよい演劇はどんどんストーリーが進み、あっと言う間に幕間、そして終演となってしまった。ミシア・セールを演じた高橋恵子のおちついた艶と華のある演技、また舞台進行役を勤めた戸井勝海の声もすばらしかった。しかしなんといっても、主演の大地真央の緊張感とメリハリのある完璧なまでの演技には、ほんとうに圧倒された。やはりこうして直接劇場で観ると、ほんものの女優の値打がわかる気がする。
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2010年3月15日 09時18分
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2010年03月12日(金)
神田明神の境内は、さほど広くはないがそれでも十分な敷地があり、ここでは都心の喧騒はなく参拝者の活気だけがある。極彩色の華やかな御神殿と随神門は、ほんらいは目立つはずだが、都心の高層ビルの谷間に隠れて、こうしてなかに入ってはじめて存在に気づくのである。
深沢秋男「旗本夫人が見た江戸のたそがれ」(文春文庫2007) のなかに、天保年間の旗本夫人であった井関隆子は、天保改革時代の神田祭りについて、情景を描写している。
さきに触れた山王祭の翌年 天保12年(1841) は9月15日に神田祭が挙行されることになった。例年であれば、その年がとくに天神様に縁の深い丑年であったことから、より一層盛大に行われるはずであった。しかしその5月、幕府は老中水野忠邦の指導により「天保の改革」を発令して、奢侈を徹底的に取り締まり、江戸市民は質素倹約を心がけるようかたく申し渡されていた。当然ながら、神田祭も縮小をよぎなくされた。隆子は記す。
今年は物事がすべて改まり、このような神事もたいそう簡略化したものである。例年ならば神輿2基を中心に山車も36基と長い行列が続くのに、今年は少なくほぼ半分くらいで、飾りも華やかでなく、手を尽くしたものはない。今までめざましいほどの装飾であったので、それに比較する故かまことに見劣りがする。
旗本の若い男たちも木綿のしりさき羽織を着た者が多く、すべて艶かしい出で立ちの者はいない。それにしても、御世の掟がこのように短期間で世間全体に行き届いているのは将軍様のご威光の故であろう。
天保の改革が発令される前に比べて、この年の神田祭がいかに寂しいものであったか、隆子は率直に記している。
さらに2年後の天保14年の神田祭は、お上のお達しにより、ついに急に中止されるという事態になった。隆子は祭りの前日にあたる9月14日に次のように記している。
明日は神田祭である。この九段下の我が家の前の広い路も山車の行列などが通る。女子供は湯飲みして髪も梳かし、衣装も準備して楽しみにしていた。ところがお上のお達しで急に中止となってしまった。それは上様(将軍 家慶) の23番目のお子さまのご不幸による。お誕生は正月と伺っていたが、この暁のほどお生まれになった。しかしやがて亡くなり、母親(於きんの方) も逝去されたためである。男のお子さまであったそうで、大変惜しいことである。
たかが祭りというなかれ。こうして江戸時代には、上層階層も下々の人々も、江戸のお祭りをめぐって悲喜こもごものときを過ごしていたのである。山王祭もこの神田祭も現代では、ビルの谷間のオアシスのようなお社としてゆかりの空間が残り、かつてと同じ空が開けている。
(完)
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2010年3月12日 09時31分
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2010年03月11日(木)
さていよいよ御神殿である。御神殿は南南西に面して建っている。
この神田明神の歴史は古い。すでに天平2年(730) 武蔵国豊島郡芝崎村、すなわち現在の千代田区大手町付近に創建されたと社伝は記している。平安時代には平将門が合祀され庶民の崇敬を集めた。江戸の地に入ってきた太田道灌持資はこの神田明神を手厚く崇敬した。ここ東京においては、太田道灌持資の存在は偉大である。江戸城に止まらず、多数の神社や寺院などの創建・維持に深く関与している。
天正年間から江戸に入府した徳川家康は、慶長5年(1600) 関が原の戦いに向けてこの神田明神に戦勝を祈願したが、戦勝が実現したので、以後この神社では「勝守(かちまもり)」と名付けたお守りを授けるようになった。
元和2年(1616) 江戸城の表鬼門にあたる現在の場所に遷座し幕府によって社殿が造営された。江戸時代を通じて、江戸の総鎮守府として将軍以下庶民に至るまで広く信仰を集めた。
明治時代になると「神田神社」と名前を改め、新都東京の守護神として准勅祭社・東京府社に指定された。明治7年(1884) には明治天皇のご参拝があった。
大正12年(1923) 9月、 関東大震災のために損傷を受けたが相対的には被害は少なく、そのことが一層庶民の崇敬を高めたという。昭和9年(1934) 氏子たちの復興・修復運動が実り、当時としては画期的な鉄筋コンクリート造りで全面的に改築・再建したという。この鉄筋コンクリート・耐火構造建造物は、さきの大戦での戦火をくぐり、他の建物が全焼して消滅するなか、かなりの範囲で持ちこたえたという。昭和51年(1976)、総檜造りの随神門を再建するにあたり、全面改修を行って現在に至る。鉄筋コンクリート造りというと、私たち現代人から見ると「ありがたみ」が少なく感じるけれども、そのような戦火をくぐり抜けた苦難の経緯を聴くと、むしろ鉄筋コンクリートでよかったのかも知れないとも思う。
(つづく)
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2010年3月11日 05時58分
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2010年03月10日(水)
世論調査によると最近、政権与党民主党の支持率が低迷しているという。2月に実施されたふたつの地方選挙、長崎県知事選と町田市長選で、民主党推薦候補は大敗した。この秋には参議院選挙があり、それへの展望に関してマスコミで種々話題となっている。
わたしは現政権を支持しない。したがって最近の民主党の地方選挙敗北および世論調査による支持率低下を大いに歓迎する。しかし問題は、その理由である。
メディアによると、民主党の支持率低下の原因は、鳩山首相と小沢幹事長の不透明なカネの問題である、という。しからば、首相と幹事長のカネの問題がなければ、引き続き民主党の世論の支持は高かったのだろうか。もしそうだとすれば、私はきわめて遺憾である。私は、ひとえに現政権の政策提案内容がまちがっており、かつまともな政権遂行能力が期待できないから、現政権の一刻も早い下野を望むのである。少なくとも個人的には、もし正しい政権運営をしてくれるなら、私は鳩山氏や小沢氏のカネの問題などは大したことではないと思う。
現政権を支持できないのは要するに、やってはいけないことをやろうとすること、やらなければならないことをやろうとしないこと、があまりに多いことによる。
まず、やってはならないことの例をあげると
(1) 二酸化炭素排出量の25%削減を外国に対して宣言したこと。目標数値の妥当性について、諸外国との公平性、技術的・経済的実現可能性について、十分な検討と関係者の合意を確認するまえに、勝手に突出して国の代表として外国に宣言するのは、決して許されることではない。
(2) 国防対策への配慮の著しい欠落。具体的には、普天間基地移設問題発生と中国への大量議員視察・表敬団派遣である。わが国の防衛戦略をまじめに考えるなら、わが国の軍事的エゴを軸としたアメリカとの協力・同盟関係の強化がきわめて重要であるにも関わらず、それを阻害する方向の行動ばかりを実施している。
(3) 日本郵政グループの再国営化。2005年の国民多数の賛同を得て、民間から有能な社長を招聘してここまで進めてきた正しい方向を、全面的に無視した。これから将来にわたって大きな禍根を残すことが懸念される。
(4) 子供手当の導入。この究極的なバラマキ政策は、一度始めたら容易に取り消すことができないという致命的な欠点をもつ。希代の悪法である。
(5) 外国人地方参政権導入。EUのような国家間統合を指向する国家の相互間、あるいは韓国のような特殊な国以外に、外国人に参政権を付与するような国家は無い。
(6) その他にも、銀行融資に対するモラトリアム的規制の導入、会社法改正による配当に対する規制および社内留保利益に対する課税の検討、有料道路の無料化、禁煙範囲の全国的拡大など、まともな企業活動、経済活動を阻害したり、経済バランスを欠いたり、不公正をもたらしたりする政策が現政権では多数提案されている。
つぎに、やるべきなのにやろうとしない、あるいはできないことも多々ある。
(7) 中長期的経済成長ヴィジョンの欠如。わが国は自由主義経済の国家であり、経済活動に政府が介入しすぎるべきではない。しかしすでに破滅的なレベルの財政赤字で予算を組み、しかも子供手当に代表される長期的な財政負担を新たに追加する以上、中長期的な経済成長のヴィジョンを提示する義務が政府にある。しかし、財務大臣も経済産業大臣も、その立案能力がない。
(8) デフレ脱却支援策の欠如。経済成長ヴィジョンにも関係するが、それ以前の喫緊の課題として、一刻も早くデフレから脱却することが必要である。これも当然ながら主役は民間の経済オペレーターだが、政府としてやるべき、導くべきことが多々ある。
(9) 輸出振興策の提案と実施。現在のデフレギャップは、輸出の低下額に一致している。もちろん内需は軽視できないが、輸出はわが国の経済にとって決定的に重要である。これを軽視するような政策をとる限り、わが国の経済の復活はありえない。その一環として、トヨタがアメリカで攻撃されている状況に対して、政治的に攻撃されている範囲に関しては、政府としてやるべきことがあるはずである。
(10) その他にも、教育の正常化、防衛力の強化、北朝鮮への拉致問題対策、憲法改正、など多くの不満がある。その一方で、小沢幹事長の方針によって、多くの民主党若手議員は、国会での野次要員と地方での選挙応援以外の活動を抑制されているという。議員ひとりあたり年間1億円以上の経費を税金から費やすのに、そんなことでよいはずがない。
民主党は「政治主導」を謳い、国会をはじめ多くの場面で官僚の支援を排除しようとしている。さらに官僚の人事権を政治家が掌握する制度に変更する。これは国民から選択される機会がない官僚の過剰な実質支配を防ぐ方策として、前進した側面は認める。しかしその一方で、たとえば現在の菅財務大臣や直島経済産業大臣のように、担当業務に関する能力がない政治家が上司の場合、その人事が当事者の官僚たちに納得できるのか大きな懸念がある。素人で能力のない政治家が官僚の人事を掌握する事態が続くと、将来的には優秀な人材が官僚に行かなくなる心配がある。
昨年8月末の衆議院選挙で、私は民主党に投票しなかった。それでも国民多数の付託によって政権交代がなった以上、民主党政権にはこれまでの自民党政権でできなかった問題の解決を期待した。具体的には、自民党に代替できる保守政党として、自民党長期政権のしがらみや澱の大掃除を期待した。しかし現実の民主党政権は、私の予測をはるかに超えて「社会主義的」な政権であった。若いころに読んだ山本夏彦のコラムに、「汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ばす」という文章があった。カネの問題は、あってはならないがそれが致命傷ではない。あくまでまちがった政策が問題である。
私は、現政権の世論支持が低下傾向であることは歓迎するが、もし鳩山氏と小沢氏の金銭上の不祥事がなかったらどうだったか、と思うと、決して安心していられないのである。
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2010年3月10日 07時14分
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2010年03月09日(火)
水野年方顕彰碑から本殿に向かって少し進んだところに、「國學院発祥の地」と刻まれた碑と、今東光の撰文による説明の石碑がある。
復古神道を提唱した江戸時代中期の国学者 荷田春満(かだのあずままろ: 東丸) は、寛文9年(1669) 京に神官の子とて生まれた。成人して京で皇族に仕官していたが、元禄13年(1700) 勅使として江戸に派遣された大炊御門経光卿に随伴して、一緒に江戸に下向した。以後、享保7年(1722) まで江戸に住み着き、武士たちを相手に神道や歌学を教えるようになった。弟子のひとりに神田明神の神主であった芝崎宮内小輔好高が、この神社の一室を教室として提供した。今東光は、その故実を顕彰して国学者の発祥としたい、としている。なお、現在の國學院大学は明治15年(1882) 飯田橋に創設された皇典講究所が始祖であり、この國學院とは直接の関係はない。このためか、門の立て札には「旧國學院発祥の地」と表記している。
賀茂真淵、本居宣長と並び称される国学者荷田春満の縁の深い場所であり、こうして顕彰していただくのは結構なことである。
(つづく)
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2010年3月9日 07時31分
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2010年03月08日(月)
地下鉄 末広町駅を降りて、蔵前通を西に歩く。駅の付近は現在では外神田という地名だが、かつては末広町という名であった。江戸時代には、このあたりの南側には商人や職人の町家が、北側には武家屋敷が立ち並んでいた。慶応4年(1868) 5月、江戸城無血開城を不服とする旧幕臣たちは上野寛永寺に立てこもり、新政府軍とついに戦火を交えた。そのとき上野山への攻撃を開始したのが、この場所付近に陣を構えていた新政府軍であった。まさにこの付近で、戦火の口火が切られたのであった。戦争は実質半日くらいであっけなく新政府の勝利となったが、この界隈は激しい戦火にさらされた。翌明治2年(1869)、 街の復興に際して「これからは末広がりで平和で繁栄しますように」という願いをこめて「末広町」と命名されたと伝える。
蔵前通を進み、妻恋坂の交差点を過ぎて少し歩くと、マンション風のビルの合間に、神田明神裏参道の入り口がある。あたかもビルの壁に沿って這い登っていくかのようなモダンで急な長い階段を登る。登り切ったところは、神田明神のちょうど裏側になっている。
境内を裏参道から道なりに行くと、「水野年方顕彰碑」という説明版があり、石碑が建っている。
水野年方は、慶応2年(1868) 神田に左官棟梁の子として生まれた。30歳すぎまでの彼の画業の前半期は、この神田付近で過ごしており、この画家にとって神田の地は非常に縁の深い土地であった。14歳のとき月岡芳年の門下となり、さらに芝田芳洲、三島蕉窓、渡辺省亭らにも学んだ。人物画のほか、草木風景にも独自の様式を樹立し、明治画壇の指導的地位を確立した。明治後期には、戦争画も描いている。新聞挿絵の初期の代表的画家でもあった。門弟には、鏑木清方、池田輝方、榊原蕉園、荒井寛方など高名な画家がならぶ。
(つづく)
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2010年3月8日 09時24分
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2010年03月05日(金)
毎年6月7日から17日までの11日間の長期にわたって執り行われる山王祭は、江戸時代には神田明神の神田祭とならび、江戸三大祭と称された盛大な行事であった。三大祭のあとひとつについては諸説があり、根津神社の「天下祭」、富岡八幡宮の「深川八幡祭」、浅草神社の「三社祭」があげられている。
とくにここの山王祭と神田明神の神田祭とは、毎年将軍がご上覧になるということもあって年を追うごとに盛大かつ華美となったので、天和元年(1681) からは山王祭と神田祭とを隔年交互に開催することになった。幕末に近い天保11年(1840) は子の年でありここの山王祭が開催されたが、そのときの様子を旗本夫人 井関隆子がその日記に詳細に描写している。
山王坂のピークとなる6月15日の10日前の6月5日には「来ん望の日は山王の御祭りとて、今より言ひ騒ぐ。神田ノ明神と、この山祇祭と、夏秋の御祭り、一年がはりなるうちに、夏の方は所狭く、人押し合、入もみぬれば、暑さにたへがたう苦しかんめれど、若き人、童などは、物とも思はで、お指折りつつ、待遠に日を数ふめり」と記している。さらにつづけて、今年はこの飯田町からも、山車や踊りを出すといって張り切っている。先年から江戸は大火や飢饉が相次ぎ、全体に節約ムードであったが、今年は麹町から大変大きな象の山車が出るそうだ。神輿や囃子物などの様子を刷り物にして売り歩いている、などと記している。
いよいよ祭り盛りの15日となる。東の空が白むころには、それぞれの町から山車が引き出される。花や鳥、尊い神、または歴史上の有名な人々の像を、玉や錦でさまざまに飾りつけて大勢の人が笛や太鼓や鉦でにぎやかにはやし立て繰り出した。屋台といって踊り場を設けて、かわいらしい少女たちに流行りの柄の着物を着せて乗せ、そこに今売れっ子の男たちも乗り込む。琴も笛も太鼓も、皆名手たちが揃いの色の衣装でさまざまな曲を演奏する。さらに猿楽めいたおかしい格好で行列に加わっている一団もある。
将軍 家慶様は朝早くからお出ましになり、西の丸の家定様はじめ皆様が、お揃いでご見物になる。警護は御徒与が担当している。ここで、舞人、役者をはじめ囃子など、技の限りを尽くして披露する。
この境内を中心として、町中が一体となって祭りに興じている様子が、目に浮かぶように想像できる。
さて、このような盛大な祭りがどうして実現できたのだろうか。藤田 覚「松平定信」(中公新書: 1993) に「町入用」の解説がある。つまり江戸の町人に対しては、住民税のような位置づけと考えられる一種の税があり、これを町内の地主のみが賦課されていたのであった。この本では、その一例として南伝馬町の町入用の場合の実際の数値が説明されている。天保年間には、この町の地主17人に対して、総計222両の町入用が課せられ、そのうち日枝山王祭りと神田祭りの祭礼入用が18.5両、すなわち町入用全体の8.3%をこの2つの大祭の費用にあてられていたという。江戸全体では町入用総額は15.5万両であったというから、もし同じ比率なら1,300両もの巨大な資金となる。江戸といっても広いので、賦課比率は場所によって異なったかも知れず、実際の金額はこれよりも大きかったのか小さかったのか不明だが、いずれにしてもかなりの大金があてられていたのだろう。
社殿前の広場を北に進むと神門がある。ここから男坂と呼ばれる表参道の石段を降りると、山王鳥居になる。ここを出て、東方向に登る坂が山王坂である。国会議事堂側のこの山王坂の終端付近まで、明治時代初めまでは境内の領域であった。当然ながら山王祭のときには大勢の人たちがこの坂を行き来したはずである。
山王坂を登り切ると、国会議事堂が見える。山王坂の脇には、議員宿舎の建設工事が真最中であった。
(つづく)
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2010年3月5日 07時29分
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2010年03月04日(木)
私は幕末・維新関係の本をとりわけ好んで読んでいるが、そのなかに深沢秋男「旗本夫人が見た江戸のたそがれ」(文春文庫2007) で、天保年間の江戸のお祭りの賑わいについて詳細な描写があった。興味を惹かれたので、その舞台を実地に散策してみることにした。
地下鉄 赤坂見附駅を降りて、外堀通りを溜池方面に歩く。東京都心の典型的な市街であり、道路にたくさんの車が行き交い、歩道を歩く人々も非常に多い。大通りの両脇には多数の近代的高層ビルが立ち並ぶ。この付近はすでに「山王」の地名があり、ビルの名称も「山王」を付したものが多いけれども、大きな神社がありそうな雰囲気は皆無である。ところが少し進んだところにビルの切れ目があり、真新しい大きな鳥居がそびえる。ここは日枝神社の赤坂側の山王鳥居である。
境内はすぐ東側にある小高い丘の上にあり、ここからは急な石段で登っていくことになる。最初の石段を少し登ると、通路は左、すなわち北に折れて、稲荷参道という朱塗りの小さな鳥居が多数続く石段となる。
この日枝神社の源は、滋賀の比叡山である。比叡山に鎮り京の守神であったと伝える日吉(ひえ)の大神とも呼ばれた大山咋神(おおやまくいのかみ) を御祭神とする。鎌倉時代初期、秩父重継は江戸氏を名乗り、自らの館のなかに日吉(ひえ)の大神を勧請した。時代が下って室町時代の文明年間(1478ころ) 足利の宰相太田道灌持資は、江戸城を築き、その城内に日吉大神のための社を造った。天正18年(1590) 徳川家康が江戸城に入府し、城内の紅葉山に新社殿を造営した。徳川幕府第3代将軍 家光は、江戸市民の参拝の便を考えて、御社を半蔵門の外側に遷座した。しかし万治2年(1659) 江戸を襲った振り袖火事のとき、半蔵門外の社殿は全焼してしまったので、ときの第4代将軍 家綱は、溜め池に望む景勝の地であった星ケ丘、すなわち現在の地に遷座して立地としては現在に至っている。万治年間に造営されたこの地のもとの社殿は、江戸時代初期の権現造りの代表的な歴史建造物として非常に貴重なものであったが、残念ながらさきの大戦末期の昭和20年5月、東京大空襲によって全焼してしまった。現在残っている建物は、昭和33年(1958) 再建されたものである。
江戸時代の壮大な境内に比べると大幅に縮小されたとは言えこれだけの大規模な神社が都心にあるのだが、周囲が高層ビルに囲まれているために、直近にまで接近しないと存在すらわからない。それでも、境内に足を踏み入れてみると、伝統ある神社独特の荘厳な静けさが漂っている。
(つづく)
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2010年3月4日 06時40分
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2010年03月03日(水)
ヴァンクーバー冬季オリンピックが終了した。北京オリンピック以来、私はオリンピックに大きな興味を持つことがなくなってしまったが、私の知る限りでの印象を簡単に記しておく。
浅田真央がキム・ヨナ選手に挑んだ女子フィギュア・スケートは、結果は2位の銀メダルであった。日本も韓国も、それぞれの国民から強い期待を受けての大舞台で、両者ともにすばらしい演技であった。キム・ヨナは、韓国の国を挙げての膨大なプレッシャーのなかで完璧な演技をしたことに、素直に敬意を表したい。浅田真央は、本人は納得がいかなかったようだが、十分すばらしい結果であった。試合直後の彼女の涙には、あんなに可憐な容姿の裏に、とてつもない激しい負けず嫌いの性格と強靱な意志力を感じた。安藤美姫の5位の演技もとてもよかったし、8位入賞の鈴木明子の明るく軽快な演技もすばらしかった。
4度目のオリンピックとなる上村愛子は、惜しくもメダルを逃したが、グッド・ファイトであった。すでに金・銅の2つのメダルを獲得し、オリンピックに近づくと急速に力をつける里谷多恵は、もっと注目されてもよいと思う。結果は失敗であったが、果敢に攻撃する競技姿勢はすばらしいと思う。
38歳、5度目のオリンピックの岡崎朋美も、よく健闘したと思う。女子パシュートは、百分の2秒差という僅差でドイツに負けた。とても惜しいとは思うが、あんな大差を諦めずに執拗に追いすがり追い抜くドイツの粘り強さに改めて驚いた。40年ほど前、ワールドカップ・サッカーで1点負けている試合を、ベッケンパウアーとゲルト・ミューラーを擁するドイツ・チームが、残り10秒余りで同点に追いつき、ついに勝利した劇的な場面を思い出した。
スノーボードの国母和宏は、試合以前に服装マナーと取材マナーで激しい批判を受けた。試合では勝てなかったが、グッド・ファイトを見せた。ある新聞では、彼は実は心優しい青年である、と擁護する記事を掲載していたが、的外れである。マナーや礼儀というのは、周囲の人々との関係を良好に維持する技術であって、当事者の人格には関係がない。マナーが完璧でも慇懃無礼で冷酷な人もいれば、マナーを知らない無骨者で心優しい人もいる。
日本は10個ほどのメダルを期待されたというが、結果は銀3個、銅2個の合計5個であった。浅田真央はじめ多くの選手に、メディアは次のオリンピックへとせき立てるが、まずは選手をしばらく休ませてあげるべきだろう。「もっと上を目指せ」とはやし立てるのは簡単だが、選手は日々を生活しながら厳しい練習をしなければならない上に、練習のために巨額の費用が必要なのである。選手たちに対する国家的支援は、わが国はとくに少ないと報道があった。「事業仕分け」の大道芸を得意とする現政権を選択したわが国民の意志としては、オリンピックなどに税金を使うべきではない、という判断なのである。それもひとつの見識ではある。そのかわり、メダルが少ないなどと選手を責めてはいけないはずである。わが国は成熟した先進国として、国を挙げてメダル数を狙うような下品な方向を目指すべきではないだろう。しかしわれわれ国民は、選手たちの大変な努力と、生活維持と、そして練習に費やす多額の費用に関して、もう少し関心と配慮を払うべき余地がある。
勝った選手も負けた選手も、ご苦労さまでした。しばらくゆっくり休んでいただきたい。
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2010年3月3日 11時52分
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2010年03月02日(火)
神戸大丸ミュージアムで藤田嗣治の展覧会が開催された。
今回の展覧会は、1992年にフランス・オルリー空港近くの古い倉庫で偶然発見された、古いポスターのように粗雑に丸められ傷んだまま放置されていた、縦横3メートルの壁画を軸としたものである。それらは藤田嗣治の作品であり、1929年日本で公開されたあと行方不明になっていた「幻の作品」4点であった。相当に傷んでいたが、やがてそれら4点はフランスの国家財産として認定され、6年間にわたる慎重かつ丁寧な専門家による修復作業を経て、2008年にようやく全作品の修復が完成した。今回の展覧会は、その修復済作品の日本での最初で最後の公開である、という。
日本が生んだ世界的画家であり晩年はフランスに帰化した藤田嗣治については、3年ほど前に京都でレビュー的な展覧会を鑑賞した。軍医総監の子という恵まれた境遇を積極的に活かして絵画の勉強に励み、日本やヨーロッパの流行にとらわれずに独自の画風を確立し、一流の画家としては珍しく早くから評価されてヨーロッパ・アメリカ・日本のいずれにおいても名声を得た。しかし戦中の一時日本の従軍画家として活動したことから、わが国戦後の極端な「戦争責任追求」で日本を離れ、晩年にはカトリックに改宗するとともにフランス国籍を得て、フランスで最期を迎えた。
藤田嗣治の「壁画」は、藤田の工夫による日本画に用いる画材のひとつである胡粉(ごふん)を油絵具に混ぜこんだ独特の乳白色を活かして、1928年ころから描きはじめた一連の大作シリーズである。「構図」、「争闘」などの少し抽象的なタイトルのもとに、男女の裸体とライオンなどの動物を多数登場させて描いている。描かれている男女の裸体は、プロポーションとしてはいささかデフォルメされていて、黄金律にもとづくような均整がとれたも期ではない。しかし誇張を含んだ肉体の隆起と乳白色の輝きは、藤田独自のひとつの理想的な美を表している。
藤田は晩年にいたって、願であった聖堂の美術設計・制作を実行した。ランスのシャペル・ノートル・ダム・ドゥ・ラーベ(平和の聖母礼拝堂) の壁画とステンドグラスの制作である。このときの多数の下書き・習作などが展示されている。そしてその壁画のテンペラ画の実験を含む習作の場として用いたのが、自宅屋根裏のアトリエの壁であった。その藤田の晩年の自宅アトリエを、この展覧会では実物大に近い模型として展示している。藤田にとって、この屋根裏のアトリエは理想的な居場所であったであろうことが、門外漢の私にもわかるような気がする。
藤田は1968年 83歳でフランスで亡くなり、自分がかかわったシャペル・ノートル・ダム・ドゥ・ラーベに眠っている。
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2010年3月2日 10時16分
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2010年03月01日(月)
寺田屋を出て、きた道を黄桜記念館までとって返し、本教寺の手前で東に曲がり、商店街と平行して走る一本南の道を東に行く。近鉄戦の線路を越えてすぐ、標識があり、それにしたがい南に少し行くと桃陵団地という住宅団地がある。
この団地の入り口に「伏見奉行所跡」という小さな石碑が建っている。
慶長5年(1600) 関が原の戦いに勝利した徳川家康は、ただちに交通の要衝であるこの伏見桃山の地に奉行所を設置して統治の実績を図った。実際には、寛文6年(1666) 水野石見守忠貞が奉行に就任して伏見支配の実効が上がるようになった。与力10騎、同心50人を擁して伏見市街地と周辺8か村を支配した。
慶応4年(1867) 1月初め、会津藩士を中心とした幕府軍1,500人がこの場所に集結し、薩摩長州連合軍に対峙したが、すぐ北側の御香宮神社に陣取る薩摩長州連合軍から、さらに北北東の龍雲寺の高台から大砲を打ち込まれ、やがて激しい迫撃戦となり、ほとんどが壊滅した。
現在は、静かな住宅団地となっている。
(完)
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2010年3月1日 07時21分
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2010年02月26日(金)
トヨタがアメリカで「自動車運行の安全性の問題」から、公聴会を通じて痛烈に攻撃を受けている。もちろんメーカーとして、トヨタに責任や反省、リコールなどの補償の余地は十分にあるだろう。問題を引き起こしたメーカーとして、責任もやるべきことも多々ある。しかしこういう事態のなかで、わが国の政府はやるべきことをやっているのだろうか。
メディアの報道から知る範囲でも、アメリカ議会およびアメリカ政府のトヨタに対する攻撃は、「本来的で妥当な範囲」と、「明らかに政治的思惑に基づく範囲」とがある。この「政治的思惑に基づく範囲」のアメリカ側のトヨタに対する攻撃については、わが国の政府はトヨタを支援することが必要である、と私は思う。こうした活動は表面に出るべきではないし、したがって与党という立場で考えると票につながらないかも知れない。しかし、国民を守る政府の責任として、わが国のメーカーが妥当な範囲以上の攻撃を、他国の政治的思惑から受けるとするなら、それから守る努力をするのも日本政府の責任である。とくに現状のわが国の厳しい経済状況を考えて、少しでもわが国の経済状況を良くしようと考えるなら、トヨタが被っている「不当な」あるいは「本来の責任追求以上の政治的攻撃」に対しては、政府として事態緩和に向けた最大限の支援、努力を惜しむべきではない。
もちろん政府の立場として、国内向けにはトヨタに対して厳しいコメントを出すことは当然あるべきだろうが、その裏でアメリカ政府に対して、アメリカ議会に対して、日本政府として、わが国のメーカーが不当な不利益を受けないように懸命に働きかける、という行動があってしかるべきである。
こういう動きは政府として表に出せるものではないので、我々が知らされないだけで実はすでに政府として努力を実行しているのかも知れない。しかし現政権の日ごろの姿勢をみる限り、もしかしてそういうことは全くやらないのではないか、という強い懸念をもっている。
別件だが関連することがらとして、原子力発電所の国際受注競争の例がある。わが国の原子力発電の技術は非常に高いにも関わらず、すでにUAE向けでは韓国に、そしてベトナム向けにはロシアに受注競争で敗北した。政府の支援の有無が成否を分けたとされている。
自由主義経済であるかぎり、基本的には経済活動に政府が介入しないことは重要で必要なことである。しかし、公平な経済的競争条件がなんらかの政治的要因で不利益を受けるような場合、政治の問題はやはり政治で対処すべき範囲があるはずである。
政府は、トヨタの問題を民間のこと、メーカーのこと、と傍観・放置せずに、やるべき範囲をよく考えて、必要なアクションを着実に実行してほしい。
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2010年2月26日 07時05分
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2010年02月25日(木)
竜馬通のすぐ西側、川に面して江戸時代の雰囲気を今に遺す建物が建っている。江戸時代の旅籠 寺田屋の遺構である。
幕末の文久2年(1862) は、正月から坂下門の変で始まるという不穏な年であった。2月には皇女和宮が将軍家に降嫁し、3月には公武合体と幕政の強化を目論む薩摩の島津久光は、大軍を率いて上洛した。雄藩薩摩の久光が兵を率いて上洛するということで、尊皇攘夷派は武力倒幕を期待していきり立った。薩摩藩の内部でも、急進派の有馬新七ら30名あまりは、この機会を捉えて関白九条尚忠、京都所司代酒井忠義を殺害しようと、薩摩藩の淀の船宿であったここ寺田屋に終結して決起の準備をしていた。実は穏健派路線を目指していた島津久光は、文久2年(1862) 4月23日、自らの態度を示す必要もあって同じ藩の部下である尊皇攘夷急進派を、機先を制して寺田屋に粛清した。「寺田屋騒動」である。
さらに下って慶応2年(1866) 1月23日、坂本龍馬がここ寺田屋に宿泊していたところを、伏見奉行所配下の捕り方が急襲したが、お龍の機転で危機一髪のところを逃れることができたという事件があった。1階の風呂場で急を察知したお龍は、裸体のまま2階に駆け上がり竜馬に捕手の来襲を知らせ、それを聞いた竜馬は主にピストルで応戦、護衛の三好慎蔵の助けを得てからくも逃げ出し、以後はしばらく西郷隆盛の庇護を受けて薩摩に潜伏したという。
この遺構には、当時のお龍が入っていた風呂という場所や、事件当時の刀痕、弾痕があるとして展示されているが、この建物自体が明治38年(1905) 以降の再建であることから、事実ではないとされている。
(つづく)
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2010年2月25日 08時59分
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2010年02月24日(水)
商店街を西に進み、京都銀行の角を左折して南に下り、黄桜記念館の前を過ぎて記念館の西側を走る小道にでる。この小道は、現在「竜馬通」と名付けられて、狭くて混雑する賑やかな商店街となっている。道幅3メートル弱の狭い通りの両側にはびっしりと商店が店舗を連ね、大勢の人だかりで賑わっている。こういう独自のコンセプトを持つ商店街には「シャッター通」の可能性は少ない。
(つづく)
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2010年2月24日 08時16分
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2010年02月23日(火)
御香宮神社南側の表門がある通りは、近鉄桃山御陵前駅を過ぎてアーケードのある賑やかな商店街に通じている。京阪伏見桃山駅を過ぎてすぐ、小路の北側に「此付近伏見銀座跡」というちいさな石碑があり、そのすぐ後ろ側には真新しい金属プレートの説明板が建っている。
関が原の戦いに勝利した徳川家康は、全国統治の実効をあげるべく貨幣の管理を強化した。その一環として、豊臣秀吉にならい、特権商人を指名して金貨、銀貨の鋳造と取り締まりを始めた。慶長6年(1601) 5月、家康は摂津の豪商 後藤庄右衛門、末吉勘兵衛等を指名して銀座取立を命じ、この場所に四町の敷地を与えた。貨幣鋳造所が建てられ、その運営のために招聘された堺の両替商 湯浅作兵衛は、銀貨鋳造の特殊技術を持っていたので、家康から大黒常是(だいこくじょうぜ) という姓名を賜り、製造した銀貨に「常是」の刻印を施した。やがてこの付近は、銀座会所、座人屋敷が立ち並ぶ銀座を軸とする市街となった。これは江戸時代のもっとも早い銀座であった。
やがて慶長13年(1608) 銀座は京の中心部である現在の中京区両替町に移され、伏見銀座は廃止された。
この後藤庄右衛門の子孫は、代々庄右衛門を襲名して徳川幕府の貨幣政策に深く関わり、通貨政策を通じて幕府の財務政策に大きな影響を持ち続けた。こうして後藤家は江戸時代後期まで特権商人として繁栄したが、文化7年(1810) 9代目猪左衛門は小普請受金使い込みで獄門、御家は絶家となった。そのあと分家から入った後藤三右衛門は、そして幕末の弘化2年(1845) 水野忠邦の側近として辣腕を振るった江戸南町奉行 鳥居耀蔵に深く結託し、通貨改鋳事業を一手に掌握して巨富を蓄えた。この後藤三右衛門も、水野忠邦失脚の後、死罪となっている。
(つづく)
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2010年2月23日 07時05分
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2010年02月22日(月)
京町通を少しだけ南に歩くと、まもなく魚三楼という由緒ある小さな高級料亭がある。江戸時代から営業を続ける老舗のひとつである。
この店の格子窓の一部に、今も生々しい弾痕が残っている。慶応4年(1868) 1月3日と4日の二日間、まさにこの場所で薩摩長州土佐の連合軍と幕府軍が激しい戦闘を繰り広げた。幕府は圧倒的に大勢であったが、この狭い道を上るのは、むしろ大軍であったために不利であった。隊列は細長く引き延ばされてしまい、両脇から連合軍の射撃を浴びた。
この戦いで、伏見の市街地の南半分は焼失したという。幸いこの魚三楼は、弾痕を残して焼失を免れたので、こうして傷跡を歴史史跡として遺すことができた。
(つづく)
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2010年2月22日 07時04分
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2010年02月20日(土)
あるテレビ番組で、衆議院議員厚生労働省政務官の山井和則氏が、長妻厚生労働大臣の「成長戦略といいますか、社会保障はコストと見る考え方もありますが、投資と見て一部の分野に成長を求めていく考え方もあります」の発言を取り上げ、「年金をはじめとする福祉と社会保障の充実により、国民の不安を取り除き、需用を喚起して景気回復を実現し、成長戦略につなげる」という説明があった。私は、この考え方はきわめて危ういと思う。
私自身高齢者のひとりとして実感をもって発言できるが、老後になると、それまでの人生で蓄積してきたモノの蓄積がある一方、新たに追加しなければならない購入物資は減少するので、購買傾向は自然に減少する。「老後の不安」から購買意欲が減少するわけではない。それとは独立に「老後の不安」というものは当然誰にもあるが、それは購買傾向に関係がない。老後でコストが嵩むとすれば、健康を害したときの医療費などが主となるだろう。
現状で消費が低迷しているのは、要するにデフレだからモノの価値よりもカネの価値の方が信頼できるので誰もがカネを手放したがらない、ということに尽きる。デフレそのものを解決しない限り景気の回復は困難であり、景気回復のために「将来の不安を除く」というのは的外れである。
このような現政権の姿勢に対して懸念するのは、財源を考えずに後戻りできない、つまり一度始めたら容易に中断できないような新しい福祉政策を始めることである。典型的には子育て手当制度である。こうした恒久的で巨大なバラマキを、安易な「福祉は投資」という誤った認識あるいは詭弁で実行してしまうと、将来大変な禍根をもたらすことになる。
必要なことは、立ち止まって待っているヒトにカネをバラまく「静的な」社会主義的政策ではなく、自発的に行動しようとしているヒトを側面から効率よく支援する「動的な」行動誘導的な政策である。たとえば子供があるが働きたい女性に対して、託児施設を充実させることは当然必要なことだろう。高齢化社会の進展にともない介護の仕事が増加しているのに対して、介護の技能を有する人材の育成も大切である。セーフティネットとして、高齢者の医療費支援も、条件つきである程度までは必要だろう。
国民の不安を除くために社会保障を充実させて経済成長を実現する、というスキームが成功するというのなら、かつて壮大な国家的社会実験を行った社会主義が、なぜ惨めに失敗したのか、きちんと説明してほしい。「社会主義政策は失敗する」という命題は、20世紀のほぼ全期間と世界的規模の膨大な犠牲をもって証明された歴史的事実である。
厚生労働大臣の長妻氏は現行の年金制度の運用上の問題点を衝くことに鋭く、政務官の山井氏は善意にあふれていることを認めるが、いずれもマクロな経済的視点が欠如していて、リアリズムのある有効な政策立案能力に欠けている。現政権がやろうとしている政策は、失敗と将来の困難が大いに懸念される社会主義的政策にしか見えず、私は断じて支持できない。
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2010年2月20日 11時34分
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2010年02月19日(金)
御香宮神社を出て、西に向かうとすぐに近鉄桃山御陵前駅があり、そこから京阪伏見桃山駅に行くまでの間に、京町通がある。江戸時代以前からある街道筋に典型的な、バスがやっと1台通ることができる程度の一車線の道である。
良くみると、この京町通は、ゆるやかに南に向かって下り、北に向かって登りとなっている。鳥羽伏見の戦いでは、南側からこの京町通を大軍で押し寄せる幕府軍に対して、新政府軍は北側からゆるやかな坂を下って迎え撃つ情勢となった。
当然、坂を攻め上るよりも、坂を下って攻撃する方が有利だろう。戊辰戦争緒戦の鳥羽伏見の戦いは、その前に徳川慶喜が京を離れて大坂城に引きこもったことがそもそも不利な条件を背負いこんだが、この道の構造からもそのひとつがわかる。
(つづく)
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2010年2月19日 07時02分
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2010年02月18日(木)
京都には鎌倉時代から、京に出入りする関所があり、それらが京への出入りの口となっていたが、豊臣秀吉の時代に京都改造の一環として京の周囲に土塁を構築し「御土居」と称した。その土塁の出入り口を7箇所設置し、「七口」と呼ばれるようになった。そのひとつが、現在のJR京都駅八条口にほど近い「竹田街道八条」の場所付近にあった「竹田口」である。江戸時代には、京市街の東洞院通りを下り、竹田口を経て京から出て、ほぼまっすぐ南下して淀港に至る「竹田街道」が整備された。現在の宇治川に突き当たる淀港付近では、竹田街道は御香宮神社の600メートルほど西を走っている。
竹田街道が設置された地域は、概ね京都の小河川が集まる低湿地帯で、雨が降ると土道の街道はひどくぬかるみ、当時の主要な交通運搬手段であった牛車が車輪をぬかるみにとられて円滑に通行することができなかった。そこで牛車の車輪が通るところに、板や石を敷いて牛車を通りやすくするようになった。やがて規格化された敷石つまり車石を、レールのように敷きつめられるようになった。
車石は、東洞院通りから淀港まで、ほぼ全区間にわたって敷きつめられていたという。通行人の安全を考慮して、車道は人道よりも一段低い場所に定められ、車石がレールのように2列続いていた。そして一車線であったために、毎日午前中は上り、午後は下り、と一方通行と定められていたという。
轍の溝がある車石が、御香宮神社境内の一隅に置かれ、その説明板がある。
調査の結果、敷かれていた車石は、六甲山の花崗岩や柳生の花崗岩が多かったという。(つづく)
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2010年2月18日 07時08分
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2010年02月17日(水)
御香宮神社境内には、「明治三十七・八年戦役戦没者慰霊碑」がある。かつて日露戦争がそのように呼ばれていたことすら現在あまり知られていないが、わが国のために尊い命を捧げた英霊の顕彰碑である。こういう歴史遺跡にもやはり説明板を設置していただきたいと思う。静かに手を合わせて、国民の後輩として感謝の意を表する。
(つづく)
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2010年2月17日 06時31分
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2010年02月16日(火)
御香宮神社の境内に入ると、すぐ左手には陵墓のような様式の区割りがあり、その門の前に「伏見義民事跡」という説明板が建っている。
江戸時代を通じて、この伏見の地は交通の要所として栄え、また幕府の統治上も非常に重要な地であった。そのため幕府はこの場所を直轄地として奉行所を設置した。奉行所の立地は、この御香宮神社のすぐ南側であった。安永8年(1779) 奉行となった小堀政方は、住民に対して苛斂誅求が厳しく、ついに天明5年(1785) 伏見町民を代表して、文殊九助ら7名の町民は、奉行の悪政に虐げられた住民の苦難を座視するに忍びず、苦心惨憺の末天下の禁を破って幕府に直訴した。この結果、小堀政方は罷免されたが、九助ら直訴の7名は入獄し、やがて相次いで獄死した。これら伏見住民を救うために自ら悲惨な最期を遂げた7名は「伏見義民」と呼ばれた。
明治20年(1887) この事跡を顕彰するために、この碑が建てられた。碑文は勝海舟、第字は三条実美の書であるという。現在でも毎年、5月18日に地元の伏見義民顕彰会によって、慰霊祭が執り行われるという。
さて、この小堀政方という人物は、江戸時代初期の高名な茶人であり芸術家であった小堀遠州政一の子孫である。小堀遠州は、晩年をここ伏見の奉行として勤め、この奉行所で死んだ。その6代目にあたる小堀政方は、その父が老中田沼意次の知遇を得ていたこともあり、若くして伏見奉行に就任、当初は善政を敷いていたという。しかしやがて寛政改革後の弛緩した時代に染まったのか公私混同がひどくなり、悪政で民を苦しめた。この小堀政方のある一面を示すエピソードとして、天明3年(1783) の「腑分け事件」がある。小堀政方は、金銭を盗んだ罪で斬罪となった罪人平次郎の死体を、自分の侍医であった橘南谿と京都の医師の小石元俊に引き渡し、腑分けをさせた。この結果は「平次郎臓腑」という名の62枚にわたる貴重なわが国近代医学の科学的史料として残っているらしい。小堀政方は、冷静に考えると近代的科学精神を持っていた開明的官僚であったと言える。しかし当時の民衆の受け取り方としては、死人を切り刻む極悪非道の行いと捉えたようで、追訴後の取り調べによる小堀政方の罪状の中に、この「非道」があげられている。
1990年以降の新しい日本史研究成果によると、こうした義民伝説は、実は江戸後期から末期に、階層分化が激化し、村方騒動が頻発し、一揆においても村役人層を対象とした打ち壊しが展開するなど、村や町の秩序が危機に直面するようになってから、村や町のリーダーを軸にして安定した村や町を作り出すためのイデオロギー装置として、村役人層や都市の町乙名層の文化人が義民顕彰をし、物語を形成していったとされる。
時代が下って、明治10年代は、自由民権運動が盛んであった。そして自由民権を謳う人々は、江戸時代に幕府に対して異議を唱えた人々を、自分たちの先達として顕彰することに勤めた。その一環としてこのような「義民」の顕彰運動があった。また一方で体制側は、明治維新のあと自らの政権の正当性を主張するために、打倒した徳川幕府をことさら悪く位置づけたかった。小堀政方という悪奉行が実在したのかも知れないが、少し冷静に考えれば、いつの時代にも権力あるいは権限を嵩にきて悪行を働く政治家や官僚は存在する。明治時代でも、現代でもその事情は大差がない部分があると思われる。交通と政治の要衝とはいえ、たかだか一地方の一事件に対して、敢えて明治政府の高官がわざわざ碑文を書くという行為に、私は、明治新政府の意図的な江戸時代攻撃の一端を感じる。
(つづく)
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2010年2月16日 06時55分
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2010年02月15日(月)
龍雲寺を出て境内のある丘を降り、奈良線の線路の上を渡る橋を渡り、奈良街道・国道24号線を少し南に下ると、道路の西側が御香宮神社 (ごこうのみやじんじゃ あるいは ごこうぐうじんじゃ) となる。神社には南側から入る表門がある。境内は広大で、格式の高い神社の雰囲気がある。
この神社の起原は古く、貞観時代(860年ころ) に社殿を改装した記録があるという。境内から香りの良い水が湧きだし、その水を飲むと病が癒えたので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという伝承がある。また一方で、筑紫の香椎宮を勧請したという説もある。豊臣秀吉は、伏見城を築城するとき、この神社を城内に移し、鬼門の守護神とした。後に徳川家康は、元の場所に戻し、慶長10年(1605) 本殿が造営された。そのとき、伏見城の大手門を移してこの神社の表門としたという。
鳥羽伏見の戦いで薩摩軍は、この御香宮神社を占領し本営を置いた。そしてここからすぐ南にある伏見奉行所の幕府軍に対して、大砲を打ち込んだのであった。こうして「官軍」は緒戦を制して幕府軍の拠点であった伏見奉行所を陥落した。伏見桃山は官軍の支配下となった。さいわい短期に戦争の勝敗が決まったので、この神社は大きな被害を受けることなく明治時代を迎えることができた。(つづく)
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2010年2月15日 06時51分
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2010年02月12日(金)
稲荷駅からJR奈良線で桃山駅まで移動する。桃山駅を降りて、駅の北側に進む。道路は登り坂となっていて、その道の突き当たりが龍雲寺境内のある切り立った丘の崖となっている。ここからは急な石段で境内に登ることになる。
登り切ったところに山門がある。門からは、南側に宇治川方面の町を一望することができる。この龍雲寺の小高い丘の南南西方向、わずか500メートルもないところに、現在は住宅団地となっている伏見奉行所跡がある。
慶応4年(1868) 1月2日朝、大坂から京を目指して北上した幕府勢のうち、会津藩および幕府歩兵隊を主力とした部隊は伏見まで進み、残りは淀に宿営した。伏見奉行所には以前から幕府歩兵隊や新撰組が駐留しており、会津、桑名、高松、四国松山などの各藩兵を加えると、淀以北に総勢1万名を越える幕府側勢力がいた。これは薩摩約3千名、長州約1千名を主力とする新政府軍を、数のうえでは圧倒していた。ただ、幕府側の北上集結を知った新政府軍は、兵を伏見方面と鳥羽方面に2分し、ここ伏見方面では薩摩・長州・土佐の兵が、幕府軍の本営である伏見奉行所を包囲するように防御の陣をしいていた。
戦端は3日、午後5時ころ鳥羽方面で始まった。その激しい銃砲声が聞こえるやいなや、新政府軍は、すでに確保していたこの場所に大砲を設置して、すぐ近くでしかも見下ろす場所にある伏見奉行所に痛烈な砲撃を加えたのであった。奉行所の正門が開かれ、新撰組をはじめとする幕府軍が薩摩軍の陣地に突撃したのと、ほとんど同時であった。砲兵隊長として活躍したのが、後に元帥陸軍大将となった大山巌であった。たまらず奉行所に詰めていた幕府軍の1,500以上の兵士たちは飛び出して突撃し、あるいは逃散せざるを得なかった。夜半にいたり、ついに伏見奉行所に薩摩長州兵が突入し、火がかけられ、幕府軍の本陣は猛火に包まれた。夜の12時ころ、幕府軍はとうとう南方の中書島方面に退却を余儀なくされた。このとき、土佐藩兵が少数いたが、山内容堂が「この戦争は幕府・会津・桑名と薩摩長州の私闘である」として、藩兵が戦闘に関与するのを禁じたために、土佐藩兵はほとんど実践には参加しなかったという。
薩摩軍が、幕府軍が集まる伏見奉行所に対して、そこを見下ろし大砲が届く龍雲寺に陣営を構えた、少なくともそういう好立地の場所を把握していた、という事前準備自体が、幕府軍との一戦を固く計画していた行動であったと思われる。
(つづく)
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2010年2月12日 06時53分
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2010年02月11日(木)
JR奈良線稲荷駅のプラットホームの、金網柵のすぐ外側に、旧東海道線の説明板と、わずかに残る遺構であるランプ小屋がある。
かつて日本国有鉄道東海道本線は、現在の膳所と京都をほぼ直線で結ぶ区間の代わりに、膳所(当時は「馬場」という駅名であった) から南に折れて、大谷駅、山科駅、そしてここ稲荷駅から現在の奈良線に沿って北上して京都に通じていた。その旧東海道線は、明治11年(1878) 8月着工、明治13年(1880) 7月に完成、それ以来、現在の膳所と京都の間を結ぶ逢坂山トンネルおよび東山トンネルが開通して東海道本線が現在のルートになるまで、京都と東京を結ぶ東海道本線として機能したのであった。
西南戦争が済んだばかりの明治10年代には、政府の財政も厳しくトンネル掘削技術が未熟であったために、東山および逢坂山にトンネルを建造することができず、京都から東山を避けて南下し、現在の奈良線に沿って稲荷駅まで行き、ここから山裾を縫って現在は京阪京津線大谷駅付近にあった大谷駅に行き、大谷駅から大津までを最短の665メートルの逢坂山隧道を堀り、ようやく京都から馬場(現在の膳所) までをつないだ。この工事は、トンネル掘削や丘陵部の切り取り築堤など、当時の日本の鉄道建設者たちにとって初めてのことが多く、難行をきわめた。しかし特筆すべきは、この工事を初めて外国人の支援を借りずに自力で達成したことであった。明治13年(1880) 7月14日の開通式には、明治天皇が臨御され、盛大に開通を祝ったという。
しかし山間を縫って急な坂を昇り降りするこの路線は、輸送力の増強には難があり、大正4年(1915) から路線変更工事が着工され、やがて東山トンネルおよび逢坂山トンネルの開通にともない現在のルートに切り換えられた。
プラットホームのすぐ東側にたつ小さなレンガ造りの小屋は、当時の駅のランプ小屋である。旧東海道線時代の建物として残る唯一の遺構であり、貴重な歴史建造物である。
(つづく)
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2010年2月11日 07時19分
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2010年02月10日(水)
「お茶屋」はもともと仙洞御所にあったものを、慶長11年(1608) 後水尾院から、この伏見稲荷大社の神主であった羽倉延次が拝領してこの地に移したものである。天皇家が使用していた茶室ということで、普通の茶室のようなにじり口はなく、貴人口とも呼ばれる大きな、人が立って出入りできるような出入り口となっている。様式は、書院造りから数寄屋造りに変遷していく中間段階に相当し、書院造りと数寄屋造りの両方の特徴が折衷されて取り入れられている。
6畳の上の間と8畳の下の間、そして4畳の広縁と半間の廊下からなる、かなり大きな茶室である。書院造りの三要素である床の間、違い棚、付書院のそれぞれが独特である。戸袋に狩野派の草花図を描き、引手の金具に繊細な彫金細工を施した豪華な違い棚と、床柱が北山杉の細めの面皮柱(皮を残した丸木柱) からなる床の間とは、落ち天井と呼ばれる一段低くした天井の下に配置されている。付書院は広めで、明かり取りの障子は華頭窓の様式となっていて、窓を真ん中細めに開いたすぐ外には、庭の石塔が真正面に見えるような配置となっている。上の間と下の間との間の数寄屋風欄間は、菱格子という様式である。
一見なんでもない庵のような建物だが、よく見ると非常に繊細な贅沢がひそやかに設えられていて、さすがに品格の高い座敷である。ただ、その広さ、天井の高さ、そして広い縁側を持つ入り口や窓など、われわれが普通に想像する茶室からはずいぶん乖離がある。実際、ここでお茶を点てることはなく、室外で点てられたお茶を、貴人を招いて喫するための静かな応接室であったらしい。
庭園は、稲荷山を借景とした回遊式庭園となっていて、数奇屋風のオーソドックスな茶室である瑞芳軒や、ちいさな茶室 残香亭、さらに待合の建物が点在する。そんなに広くはないが、ゆったりした起伏のある回遊園は、さきほど見学したお茶屋や、やはり園内の別の場所にある普通のお茶室である瑞芳軒、そして待合の建物などを配して、そして背景に稲荷山のゆったりした山腹をながめて、ゆたかな感覚に浸ることができる風雅な場所となっている。決して華美ではないが、やはり贅沢な空間である。
(つづく)
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2010年2月10日 08時41分
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2010年02月09日(火)
JR奈良線に乗って稲荷駅で降りると、駅の真正面に伏見稲荷大社がある。
この伏見稲荷大社は、和銅年間(8世紀初め)創建という非常に古い歴史を重ねる神社であり、全国4万社にのぼる稲荷神社の総本山である。社は稲荷山の麓にあり、稲荷山全体が神域である。本殿は応仁の乱で焼失したが、室町時代の明応8年(1499) に復興されて今に至る重要文化財である。
今日は時間の関係もあって、見どころの多い本殿は見学せず、ちょうど特別拝観として見学が許されていた松の下屋に隣接するお茶屋のみを拝観することとした。
境内の奥に進み、神楽殿のすぐ南側に「松の下屋」がある。ここは宮司松本家の住居であった場所で、立派な庭園がある。
その一角に「お茶屋」と呼ばれる大型の茶室がある。(つづく)
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2010年2月9日 06時39分
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2010年02月08日(月)
世界をリードするわが国のアニメーション映画業界で、絵職人として「背景画」を描き続けてきたアーティスト 男鹿和雄 の展覧会である。私はこれまで個人的にはアニメにあまり興味がなく、この展覧会にもさほど期待していなかったが、実際に鑑賞してみて心から感動した。
男鹿和雄は、私自身とほぼ同世代であり、したがって私が社会人になったころから活動をはじめて、今では円熟期を迎え、アニメーション映画に止まらず挿絵を描いたり著作したりと自由に活動範囲を広げている。
1970年代背景画担当者として最初のころの作品「侍ジャイアンツ」、それにつづく「幻魔大戦」、「カムイの剣」、「はだしのゲン」などがまず展示されている。そして脂の乗り切ったころの作品で大ヒットした「となりのトトロ」、「魔女の宅急便」などがある。私は、アニメ作品そのものはあまり見ていないが、テレビでの放映やポスターを通じて、多少はなじみがあるものもある。
まず感じたのは、水彩画の表現機能の多様さである。油彩画と異なり、水彩画では絵の具を重ねて修正することが困難であるため、精緻な絵を描くには不適当ではないか、と素人なりに思っていたが、男鹿和雄の作品を直接みて、その丁寧で精緻で鮮明な描写にまず大きな驚きを感じた。たとえば「おもひでぽろぽろ」の背景のなかに、同じ街角の風景の朝、昼、夜の3つのシーンを描き分けたものがある。朝の陽光の輝き、昼の明るさ、夜の帳と街灯の灯火の雰囲気を、それぞれを実に鮮やかに表現している。この画家の光の描写には、実にすばらしいものがある。そしてなにより、「となりのトトロ」などの森や古びた社、そして昭和初期を偲ばせる古い家の精密な描写に感動する。これほど精緻に自然や建物や動物を描けるのはなぜなのだろうか。おそらく男鹿和雄という人は、描く対象である自然の景観、建物、そして動物たちに非常に強い関心をもち愛着や愛情をもっているのだろう、と私は推測する。
アニメの背景画の性格は、建築設計に似ているのかも知れない。建築もアニメも、ともに存立の前提条件として実用性が必須である。建築物はそのなかにヒトが居住できないと意味がないし、アニメは観るヒトが容易に楽しく理解できないと意味がない。いずれも自由な芸術活動というわけにはいかず、クライアントから注文を受け入れ、かつ承認・許諾を得なければならない。芸術活動としてはいくつかの制約を受ける創作活動である。それでも、建築もアニメも、十分な芸術的創造性がなければ魅力がない。
ごくたまにアニメを観るとき、私は登場人物を主体に注目しており、背景にはさほど注意を払っていない。そんな気にもとめていなかったアニメの背景が、こんなにも贅沢な立派な絵画作品から構成されている、ということを改めて認識した。こんな贅沢な作品群をふんだんに取り込んだわが国のアニメが、レベルが高いのは当然だろう、と思う。私は直接アニメに詳しいわけではないが、聞くところによるとわが国のアニメの水準は世界でもトップだという。この展覧会をみて、それも当然だと思った。
会場は、平日だというのにとても混雑していて、まずそれに驚き、さらに600点を超える多数の作品を鑑賞したので、ひととおり鑑賞を終えたときにはすっかり疲れてしまった。それでも非常に充実した満足感たっぷりの鑑賞のひとときであった。
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2010年2月8日 09時07分
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2010年02月05日(金)
本堂に入ると、奥に毘沙門天王像を安置する毘沙門堂がある。この部屋の床は、仏像のすぐ近くから徐々に勾配で下がり、入り口は低くなっている。毘沙門天王像に対して、位の高い者ほど接近して参拝することによるという。
中央の毘沙門天王像は、平安時代に作られたと推測される高さ1.5メートルほどのほぼ等身大の一木彫像で、左手に宝刀、右手に三叉鉾を持つ守護神である。顔の表情は憤怒相と呼ばれる怒った藤原時代の様式であるが、よく見ると、落ち着きが感じられる穏やかさもたたえている。足元には赤色の邪鬼を踏みつけている。
このお像は、長らく東福寺仏殿の天井裏にひそかに安置されていたものを、開山・高岳令松の霊告によって発見されて、この勝林寺に本尊として祀られるようになったと伝える。
毘沙門天王像に向かって右手には、吉祥天像がある。これは毘沙門天王の妻と位置づけられるという。そして向かって左手には、善に師童子像 (ぜんにしどうじ: 「に」は月ヘンに弐の旧体字) が安置されている。これは毘沙門天王の子供に位置づけられる。こうして、守護神毘沙門天王の家族が安置されているのである。
(完)
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2010年2月5日 06時04分
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2010年02月04日(木)
来た道を返し、日下門を出てまっすぐ北に向かって進む。突き当たりを来たときと反対の東側に曲がり、標示のあるところを左に折れると、少し高くなったところに勝林寺の建物が見える。石段を登って境内に入る。
ここも通常は閉鎖されていて境内に入ることはできないが、ちょうど特別公開の期間であった。
この塔頭は、天文19年(1550) 高岳令松和尚により創建された。この場所は東福寺の東北の方角、すなわち鬼門にあたり、鬼門を守る毘沙門天を祀ることから「東福寺の毘沙門天」と呼ばれてきた。
本堂は、大檀那であった近衛家の大玄関を施設している。
境内に入るとすぐ、本堂の真正面に球形の石塔がある。これは一切経を納める石塔である、という。
(つづく)
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2010年2月4日 08時33分
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2010年02月03日(水)
即宗院に隣接して、龍吟庵(りょうぎんあん) という塔頭がある。
この庵は、東福寺第3世住持であった無関普門(むかんふもん): 大明国師 の住居であったところである。無関普門は、建歴2年(1212) 信濃国に生まれ13歳で得度、その後上洛して東福寺開山円爾弁円(えんにべんねん) に師事、建長3年(1251) 40歳にして入宋し、10年間留学した。弘長2年(1262) 帰国して、弘安4年(1281)から第3世住持となった。すでに70歳であった。そして10年間住持を務め、80歳にして入寂した。
方丈は、室町初期の創建で、応仁の乱以前の古い様式を残すわが国最古の方丈建築である。単層入母屋造、柿葺(こけらぶき)、桁行(正面)は8間、梁間(側面)は6間で、南に面している。そして正面東端には、唐破風屋根をつけた玄関が付設されている。正面中央には、双折両開き桟唐戸(もろおれりょうびらき さんからど) の入り口があり、左右の柱間には蔀戸明障子がはめ込まれているなど、書院造に加えて古式の寝殿造の様式を折衷している。床の板には、わずかに波うつことが認められる。これは鉋のない時代、手斧だけで平面を作り上げたためである。
入り口には、足利義満直筆の「龍吟庵」の額が掲げられている。方丈は全部で6つの室からなり、中央を室中の間、左右2室を脇室とする。室中が両脇室に比べてとくに大きく、奥の仏間と板壁で間仕切られているが、これは応仁の乱以前の様式を伝えるものとされる。その板壁には、大明国師の画像を掲げている。
(つづく)
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2010年2月3日 06時34分
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2010年02月02日(火)
三門から再びもと来た道を返して、法堂の横を北に歩く。今度は日下門と反対の方向に東に向かう。偃月橋(えんげつきょう) という木造・単層切妻造りの橋を渡るとすぐ東側に即宗院という塔頭がある。ここは閉鎖されていて中を見ることはできないが、このなかには「鹿児島藩招魂碑」がある。そのことが通路の入り口付近にある石碑でわかる。
この即宗院は、島津氏第6世の島津氏久の創建による塔頭であり、したがって島津家と縁が深い寺院である。
(つづく)
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2010年2月2日 07時07分
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2010年02月01日(月)
退耕庵を出て東福寺の境内を進み、臥雲橋を渡って日下門をくぐる。そして禅堂の前を過ぎて法堂の前にくると、法堂のすぐ南側に壮大な三門がそびえている。
この三門のすぐ東側に、「防長忠魂碑」が建っている。約5メートル近くもある大きな石碑で、揮毫は陸軍中将で朝鮮駐在公使を務めた三浦悟楼によると伝える。隣接する三門が壮大な建造物なために相対的に目立たないが、長州藩の戊辰戦争戦没者を祀る石碑としては、きわめて大きなものと言えるだろう。このように、戦傷者は手厚く祀られ、大きく顕彰されている。
(つづく)
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2010年2月1日 06時31分
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2010年01月30日(土)
客殿の北側には、昭和になってから建造された「戊辰勤皇殿」という建物がある。建物の上部に「戊辰勤皇殿 昭和巳巳初冬」と記された額が掲げられている。藤道真書と記名がある。
ここには、「小野小町百才の像」という興味深いちいさな木造がある。絶世の美女小野小町も、百才になったときには容色がすっかり衰微し、惨めな姿となっているという想像上の姿である。この寺院は小野小町との縁が深いらしく、境内の門に近く、「玉章地蔵尊(たまずさ じぞうそん)」という2メートルくらいもある大きな白塗りのお地蔵様が安置されたお堂がある。玉章とは手紙、この場合は美女小野小町に寄せられた多数の恋文を差し、それがこのお地蔵様の胎内に納められているという。
また、客殿から戊辰勤皇殿への渡り廊下には、「昭和四十二年 明治維新防長殉難者百年忌寄付者芳名」として、多数の寄付者の名札が貼り詰められている。ここにも、この退耕庵が長州や幕末維新に縁が深いことを偲ばせるものがある。(つづく)
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2010年1月30日 07時23分
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2010年01月29日(金)
客殿の西側の壁には、茶室につづくドーム型の切り込みがあり、2畳の「伏侍の間」を経て四畳半の茶室「作夢殿」に導かれている。この茶室は、この客殿創建直後の慶長5年(1600) 関が原で戦われた合戦の準備会議を行った場所と伝えられている。西軍に加担することになる安国寺恵瓊は、ここで石田三成や宇喜多秀家、さらに当日寝返りをすることになる小早川秀秋等と合戦の謀議を行った。このような高度に機密性の高い打ち合わせのために、いつでも逃れ出ることができるように忍び天井を造り、護衛の武士がひかえた「伏侍の間」が敷設され、高度に軍事的色彩の強い茶室となっている。(つづく)
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2010年1月29日 07時01分
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2010年01月28日(木)
退耕庵客殿は初期書院造の建物であるが、その南側には、開山性海霊見が作庭した「真隠庭(しんにんてい)」という庭園があり、本堂の周囲を取り囲むように広がっている。自然の起伏をそのまま残し、びっしりと杉苔を敷きつめた簡素でしっとりした庭園で、樹齢300年と伝える霧島ツツジがひとつのアクセントとなっている。
北側の庭園は、趣がすっかり違って池泉鑑賞式庭園となっていて、これは中国の西湖を模したとされている。
(つづく)
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2010年1月28日 08時08分
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2010年01月27日(水)
JR奈良線 東福寺駅を降りて、少し南に歩くと東福寺の北大門に出る。北大門を境内に入って最初に出会う塔頭が退耕院である。
この退耕庵は、臨済宗東福寺の塔頭寺院のひとつで、室町時代の貞和2年(1346) 性海霊見(しょうかいれいけん) が創建した。応仁の乱でお堂は焼失したが、慶長4年(1599) 安土桃山時代にこの庵の第11世住持であった政僧 安国寺恵瓊によって再建された。
安国寺恵瓊は安芸の出身で、安芸武田氏の一族であったろうとされ、安芸武田氏が毛利元就によって滅ぼされると、安芸の安国寺に入って出家した。そして東福寺に学び、竺雲恵心に師事した。東福寺を経て南禅寺や建仁寺にも住持を務め、禅林の高僧に上り詰めた恵瓊は、かねてより臨済宗に帰依していた毛利家にも仕えることになり、毛利家の外交僧として活躍するようになった。
このように、毛利家と恵瓊とが縁が深かったということもあり、時代が下って幕末維新のときには、戊辰戦争を戦った長州藩はこの庵を根拠地のひとつとし陣営が敷かれた。また戊辰戦争でなくなった兵士たちの菩提寺とした。「戊辰役殉難士菩提所」と記された石碑が退耕庵の門の前に建っている。
(つづく)
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2010年1月27日 06時24分
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2010年01月26日(火)
日蓮は立教開宗以来、立正安国論を記すなど政権への諫言と布教に努力したが、長い間にわたって何度も法難を受け、ついに入京して都で教えを広めることができなかった。この日蓮の遺志を継いで最初に入京と布教を果たしたのが高弟のひとりであった日像であった。日像は下総国の出身で、11歳のとき、晩年の日蓮から経一丸の名と本尊を授けられた。永仁元年(1293)ついに入京し、京都での布教を決行した。京都で有力者から信者を獲得したが、比叡山から圧迫を受け、なんどか追放の院宣を受けた。しかし追放のたびに粘り強く権力者に働きかけて許しを獲得し、ついに元享元年(1321) 四条櫛笥に妙顕寺を建立した。建武元年(1334) 後醍醐天皇から拝領した綸旨が展示されている。これにより朝廷から正式に京の公認の宗派と認められた。続いて建武3年(1336) 足利直義のために祈祷を行い、幕府からも公認を得た。そのときの「足利直義御判御教書」が展示されている。さらに後光厳天皇からは「後光厳天皇綸旨」を拝領し、天皇の支持を確立した。この大功労者である日像上人の肖像が、その弟子大覚妙実の在判の絵として展示されている。かなり傷んでいた絵を、最近ようやく修復したものであるという。また京都・北真経寺所蔵の坐像も展示されている。日蓮のように丸く大きな眼ではなく、鋭い聡明そうな眼差しである。非常に写実的な像であり、また絵とお像もよく相似しており、生前の実像を移したものであろうと言われている。このころに書かれた「法華経 紙背尊性親王消息 『御霊宝』のうち」が展示されている。親王が記した手紙の裏紙を使って写経したもので、親王の生前の幸福を願う意図があるという。
日像の弟子 大覚妙実は、京都の朝廷、公家、武家への一層の布教を進める一方、さらに西日本に布教を広げた。こうして岡山・広島にも多数の信者を得るに至った。
15世紀には日親(1407-1488) が現れ、日蓮の立正安国論になぞらえて「立正治国論」を記し、将軍足利義教を諫めた。そのときの自筆板「立正治国論」が展示されている。しかしこのときも将軍の逆鱗に触れ、日親は捉えられ、赤熱した鍋を頭から被せられるという拷問にあった。このことから日親は「鍋被り日親」と呼ばれている。また、その伝説を絵解きした片山尚景筆「日親徳行図」(宝永元年(1704))が展示されている。
戦国時代の天文5年(1536) 天文法華の乱が起こった。細川春元の後ろ楯を得て勢力を伸ばした一向宗に対して、京都で大きな勢力を保持するに至った法華宗の町衆は、六角定頼により動員され、伊丹の法華宗とともに一向宗徒と激しく戦うに至り、勝利を重ねた。しかし法華宗徒の強大を恐れた六角氏、細川氏たちは、叡山と本願寺を煽って、今度は法華宗徒の抑制を図った。こうして浄土真宗のみならず天台宗の信者たちもが法華宗の信者たちと戦うに至り、法華宗は京都の21ヶ寺を焼き討ちされた。法華宗側は敗北し、京都を追われてその多くは町衆の都市 堺に逃げた。こうして以後法華宗は、京都から堺に拠点を移して勢力を育むことになった。この天文法華の乱のときの「山門決議関連文書」が展示されている。
堺の豪商で薬剤商を営んでいた油屋伊達常言を父とする日b(にちこう) (1532-1598) が出ると、三好氏の後ろ楯を得て堺に妙国寺を建立し、多くの豪商たちに信者を得るに至った。幕末の慶応4年(1987) 2月発生した堺事件ゆかりのお寺である。この日b上人の「日b書状」(永禄4年:1561) が展示されている。実用的な速筆のような筆跡である。日bは、きわだって学識が高かったという。
日bのとき、法華宗はまたも法難に遭遇する。天正7年(1579) 織田信長により、浄土宗と宗論対決をさせられ、敗北したのであった (安土宗論)。このときの経緯を記した 太田牛一著「信長公記 巻十二」が展示されている。後、豊臣秀吉により、安土宗論の判定が無効とされ、以後大手を振って布教を続ける事になった。そのときの秀吉の意を現した書状「前田玄以判者」(天正13年: 1585) が展示されている。
法華宗は、中世から安土桃山時代にかけて、浄土真宗の一向宗とならんで、宗教を基盤とする一大政治勢力・軍事勢力として台頭した。浄土真宗が農民を基盤としたのに対して、法華宗は都市の町衆を主たる支持基盤として、たとえば本阿弥光悦や千宗室などの指導的な文化人も帰依していた。この展覧会では、そうした京都を中心とした都市文化人の作品も多数展示されている。
日蓮宗のひとつのきわだった特徴に、その政治思想として「仏法為先」がある。南都六宗にはじまる古代からのいわゆる旧仏教が「王法仏法相依論」、すなわち政治権力と宗教すなわち仏教とが両輪のごとく相ならぶ支配権を有すると主張したのに対して、日蓮は権力からの宗教の不可侵存立論を激しく主張した。第一に日蓮は、国主すなわち政治権力者が権力者たる由縁は、現に彼が権力を保持しているとか、神の子孫であるとか、かつての権力者の子孫であるとかいうことではなく、あくまで前世の法華経の受持という宗教的要因による、とする。第二に、世俗の至上権力者も、執権の至上者釈尊に対しては一介の従者に過ぎないとする。仏法と王法を対置するとき、前者を絶対優位とする理念である。第三に、権力者は釈尊から委託された仏法を四衆に及ぼす義務があり、そのうえで現実の政治支配を行うとき、はじめて彼らの支配権の正当性が教権の至上者釈尊によって容認されると主張する。これを「仏法為先」あるいは「法華経為先」思想という。日蓮にとって、権力への無条件の忠誠ははじめから存在しなかった。法華経と無縁な権力者に対しては、「法華経のかたき」として国主の意志に背くことこそが報恩の行為であった。こういう思想のもとに、立正安国論などの政治権力への指導・介入が行われ、それが政治権力側からは著しく危険な政治思想と見做されて度重なる弾圧が加えられたのであった。
少し前にやはりこの京都国立博物館で、伝教大師最澄と天台宗についての展覧会を観た。今回は日蓮と日蓮宗・法華宗についての展覧会であり、頭の中で対比しつつ興味深く鑑賞した。展示品数が300を越えて、私には鑑賞のキャパシティを超えていることもあり、長時間を要する疲労感をともなう鑑賞であったが、貴重な書や絵画、工芸品そして彫像などに直接触れることができ、大変充実したひとときであった。(完)
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2010年1月26日 06時15分
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2010年01月25日(月)
そのうちに行こうとのんびり構えていたら、気がついたらあと2日で展示期間が終了してしまうということで、あわてて寒い雨が降りそうな気配の曇天のなか、京都国立博物館を訪れた。天気がよくないというのに、秋の京都は人出がとても多く、京都という土地が卓越した集客能力をもつことに改めて驚いた。
日蓮は、貞応元年(1222) 2月、現在の千葉県鴨川市である安房国長狭群東條郷片海の小湊に、漁師の子として生まれた。幼いころから学問が好きであったらしく、11歳から妙見山の麓にあった天台宗寺院 清澄寺に入門して学問に励んだ。16歳で出家し、18歳から京都に上り、比叡山に学んだ。
30歳過ぎのころに安房 清澄寺に戻り、「南無妙法蓮華経」の題目を日の出に向かって10回唱え、立教開宗した。建長6年(1254) 鎌倉に行き、日蓮と名乗って布教を始めた。正嘉元年(1257) 鎌倉で大地震に逢い、また当時疫病や飢饉など災禍が人々を苦しめる様子を見て、幕府に対して政策を諫める目的で、実相寺にこもって「立正安国論」を記し、さらにそれを幕府最高権力者であった前執権 北条時頼に渡した。しかしこの行動は北条時頼の逆鱗に触れ、弘長元年(1261) 幕府によって捕らえられ、伊豆国伊東に配流となった(伊豆法難)。この後も、安房小松原で念仏信仰者の地頭に襲われる(小松原法難) など迫害が続いた。しかし文永5年(1268)、蒙古から幕府あてに国書が届き、立正安国論の「他国からの侵略の危機」の予言が的中した。日蓮は、北条時宗やその側近などに対して書状を送り、他宗派との公開対決を迫った。しかしこのような攻撃的な態度が幕府の不興を買い、幕府や他宗派を批判したという咎で佐渡に流罪となった(佐渡法難)。この佐渡流罪中の3年間に著作に励むとともに、法華経曼陀羅を完成させた。
文永11年(1274) 春、赦免され、幕府に呼び出されて蒙古襲来の可能性を聴かれ、年内には襲来するであろうと予言したが、これは現実となり、5カ月後に蒙古襲来 (文永の役) となった。日蓮は、彼に帰依する甲斐国の地頭 波木井実長から身延山を寄進され、身延山久遠寺を開いた。続いて2度目の蒙古襲来 (弘安の役) があり、翌弘安5年(1282) 病を得た日蓮は、地頭波木井実長の勧めで、実長の常陸国の領地にある温泉地に湯治に旅立った。しかし途中の武蔵国の池上宗仲邸で入寂した。享年61歳であった。
30歳代の少壮のころに自ら記した「立正安国論」が展示されている。丁寧な楷書で記され、巻紙ではなく一枚ごとにページが記入されている。鋭い達筆というよりは丸みを帯びた大きな字で、力強い筆致である。流罪、赦免、そして身延山に至る間、何度も曼陀羅本尊を記しているが、それらが展示されている。字画の左右の端を大きく引き延ばした独特の書法で「南無妙法蓮華経」と書く。この紙が法華経では本尊となる。弟子の母親あてに記した手紙である「孟蘭盆御書」が展示されている。これも巻紙ではなくページが打たれた紙を一葉ずつ束ねて、冒頭に短冊状の表紙を添付して巻き込んだものである。表題のすぐあとに一段下げて3行の追記がある。盂蘭盆(うらぼん)に向けて米や供物を送ってくれたお礼を追記しているのである。これは伸びやかな行書である。
北海道松前の法華寺にある「日蓮坐像」がある。大阪府高槻市の本行寺にも、このお顔にとてもよく似た日蓮聖人像がある。いずれの坐像も丸い顔に大きな眼が特徴で、おそらく実際に日蓮の相貌はそういうものだったのだろう。日本各地の日蓮系のお寺によく据えられている日蓮上人の彫像も、私が覚えている限りでは、こうした大きな眼の、少し日本人離れしたような彫りの深い容貌である。ずんぐりした姿から、熱意やエネルギーを感じることができる。この木像は、もともと摂津高槻の正覚寺にあったものが、明治19年、廃仏毀釈を逃れるために北海道松前の法華寺に移したものであるという。この法華寺は、日持(にちじ)上人が、蝦夷に教えを広めるために建立したお寺であった。日持が蝦夷に入ったころ、現地では急に珍しく魚が大漁になった。法華のお坊さんがきて取れた魚として、その魚に「ほっけ」と名付けた、というエピソードがあるというが、おそらく洒落だろうとも言われている。江戸時代後期の作品だが、「日蓮入寂図」という絵がある。これは実は版画の上に丁寧に筆で彩色を加えたもので、仏の涅槃図から構図を得ている。
(つづく)
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2010年1月25日 06時21分
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2010年01月22日(金)
五大虚空菩薩像のとなりには、愛染明王像が安置されている。一見怖そうな面貌ではあるが、その反面なんとなくユーモラスで親しみが感じられる印象もあるお像である。
このお像は、いまは真っ黒になっているが、もともとは朱色に彩色されていたという。愛染明王の前では、盛大に加持祈祷が行われ、大きなたいまつが焚かれ続けたために、その煤でお像が真っ黒になってしまったとの説明があった。
愛染明王は愛の明王として知られ、人間の本能である愛欲を直ちに否定するのではなく、そのまま浄菩提心にまで昇華させる仏様である。すなわち煩悩即菩提の本尊である。密教特有の明王であり、現代では、縁結び、開運、子宝の本尊として多くの信仰を集めている。
(完)
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2010年1月22日 06時16分
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2010年01月21日(木)
美しい中庭に隣接して、観智院の本堂がある。この本堂には、少し風変わりな5体の菩薩像群が安置されている。五大虚空菩薩像という。
さまざまな動物に乗った特異な5体の菩薩像は、もともと唐の都長安の青龍寺の金堂の本尊であったが、847年入唐していた恵運が持ち帰ったものであると伝える。わが国の仏像と比較すると、比較的表情が硬く、姿は総じて痩身である。この様式は、中国の宋代の仏像彫刻に見られる傾向であり、晩唐期の彫刻様式を偲ばせる彫刻として貴重なものとされている。わが国ではめったに見られない迦楼羅 (カルラ、ガルーダ) という神鳥にのる菩薩さまもある。
虚空蔵とは、無尽蔵かつ広大無辺に智恵を蔵しているという意味であり、わが国には「求聞持法」の虚空蔵として伝えられ、空海もこの法を受けて真言密教を開く足掛かりとしたと伝えられている。(つづく)
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2010年1月21日 07時00分
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2010年01月20日(水)
観智院には、小さいが端正な中庭がある。観光客への特段の紹介やアピールはなかったが、私は感心して、しばし佇んで眺めを楽しんだ。こういう中庭は、とても美しいと思う。
(つづく)
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2010年1月20日 06時54分
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2010年01月19日(火)
客殿に隣接して、茶室「楓泉観」がある。室町時代には足利家やその周辺の上流武家が茶の湯を楽しんだ場所で、いわゆる茶室風ではなく、むしろ書院風の建物となっている。ここではにじり口はなく、代わりに貴人口と呼ばれる一間の高さのある通常の出入り口がある。さらに、ふたつの部屋に分かれていて、貴人口がある本室と、もうひとつ「奥の席」と呼ばれる次の間がある。貴人口の脇には「一二三の竹組 (ひふみのたけぐみ)」と呼ばれる3本の竹の横桟がある。茶の湯は、一度に上達するものではなく、長い時間じっくりと着実に積み上げていくものである、というコンセプトを表しているとされる。またこの竹組のある柱は、天竺産の南天が用いられている。この柱に導入された南天は、南天としては特異的に大きな太い、したがって貴重なものであるという。
庭にあたる露地には、石灯籠、蹲(つくばい)、珍石でできた手水鉢などがある。建物も庭も、マクロな全体的形態からミクロな部分の些細な意匠まで、工芸品、美術品として構築されている。贅沢で荘重で、しかし派手さを抑えた上品な美である。
(つづく)
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2010年1月19日 06時47分
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2010年01月18日(月)
客殿は、慶長10年(1605) 再建された武家風書院造の建造物で、床の間、違い棚、帳台構えを備える書院様式に則っている。
この客殿のハイライトは、床の間の壁を飾る宮本武蔵筆と伝える水彩画「鷲の図」である。もともと「減筆体」という薄墨を用いる手法のうえにその墨がかなりはげ落ちて一層薄くなり、部分的には想像するしかないが、中央付近を空白とする大胆な構図、画面の対角に配置された鋭く振り返る鷲の表情を表現する筆致など、なかなか見応えがある。
床の間に面して向かって左手の襖絵も、やはり宮本武蔵筆と伝えられている。ここでは、交差した多少デフォルメされた孟宗竹がおもしろい。
宮本武蔵は、慶長5年(1600) 関が原の合戦に雑兵として参加した後、慶長9年(1604) ころ京に上り、前後して吉岡一門と決闘を果たした。武蔵21歳乃至23歳の青年時代であった。このころにこの観智院に逗留したことがあり、これらの作品はそのころのものだろうと推測されている。
(つづく)
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2010年1月18日 06時17分
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2010年01月17日(日)
政権与党の民主党幹事長である小沢一郎代議士が、自らの資金管理団体「陸山会」の土地購入に関わる資金操作で不正が疑われて、現職議員1名を含む3名の小沢氏の側近者が逮捕された。当の小沢氏は、検察の任意聴取に断固として応じようとしない。そして昨日の党大会で「自分は検察と全面的に戦うつもりである」と宣言し、参加した党員からは「そうだ、そうだ」と、小沢氏への賛同の野次がとんだという。
私は、政治家の値打ちが金銭に対するクリーンさだけで評価されることには与しない。政治家はあくまで政治行為の結果で評価されるべきである。だから、小沢氏がまだ法的に断罪されていない現時点で、疑惑そのものについて小沢氏をとやかくいうつもりはない。
しかしである。わが国は法治国家であるのに、政権与党幹事長が「検察と全面的に戦う」と宣言して、与党議員がそれに雷同する、それを首相までもが支持する、という構図は、非常に奇異であり危険である。国家の最小機能は「警察国家」であり、治安の維持と対外的安全保障が最低限の必須条件である。その基本中の基本の警察権の一部である検察を否定する、というなら、民主党は現在のわが国の警察機構を否定して、新しく別の警察権力を樹立しようというのだろうか。これは「革命」に通ずる非常に危険な思想である。
自分が潔白である、というなら任意聴取に応じるべきだし、メディアもいう通り国民に対して相手が理解できるように自分の言い分をきちんと説明すべきである。私は、小沢氏がカネに汚いかもしれないという点で非難するつもりはないが、国家の基本を貶める行為や考えに対しては、断じて許容できない。
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2010年1月17日 08時13分
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2010年01月15日(金)
寺院内に入ると、客殿があるが、その前には「五大の庭」という庭が広がる。勅使門と客殿の間に設えられた枯山水庭園で、弘法大師が唐からの帰途、竜神の守護により難を逃れて帰還したという故事を造形で象徴的に表現したものである。敷きつめられた白い砂は唐と日本の間に広がる大海を、築山を日本と唐になぞらえる。白砂の上には、遣唐船、神亀、鯱、さらには鳥を表す石が配置されている。
白砂の上に設営されている枯山水を見ていつも思うことだが、こうした日常の手入れを要する庭園の意匠は、時間、時代の経過とともに徐々に変遷する可能性がある。同じ意匠を維持することは容易なことではない。こうした文化遺産を継承するのは、一重に関係者の強い意志にかかっている。われわれ一般人は、それを十分尊重して敬意を払い、支援することが義務である。
(つづく)
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2010年1月15日 09時16分
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