2012年02月02日(木)
パオロとヴィットーリア
 

 イタリア人の男女は情熱的で、ドラマチック。ラテン系はアモーレが大好きだと、青池さんも昔おっしゃっていたけれど、ロミオとジュリエットが、情熱的な大悲恋ならば、こちらのカップルもある意味、大悲恋・・・といきたいところですが、評判が悪いのですね。
 男はパオロ・ジョルダーノ・オルシーニ。女はヴィットーリア・アッコランボーニ
 悪評というのも、どちらも、最初の妻や夫を殺して結ばれた・・というところが、ダメなだけでなく、ヴットーリアは美人の評判をとっていたけれど、パオロのほうは、まあ・・肖像画を見ても、とてもロマンスの主人公になれるような男ではないうえに、ロミオのように若くはなかった・・。
 それでも、お尋ね者人になり、殺したお互いの一族からは追いかけられ、世間の悪評もものともせず、教会からは、結婚を拒否されてもメゲず、手に手をとっての逃避行。ある意味ドラマじゃないでしょうか。
 そして、その逃亡の果て、時の教皇が死に、ようやく二人は正式に結婚することができたのですが、その数か月後、パオロは急死(彼が殺した前妻の兄による暗殺とウワサされているそうです。その兄というのが、メディチきっての毒薬使いフランチェスコだったのが運の尽き?)。
 一人になって、さらに逃亡したヴィットーリアですが、彼女もまた、殺されるという悲劇。 
 詳しくは、こちらのいつも面白いネタの満載のルネサンスのセレブたちを読んで下さいませ。
 とても面白かったで、こんな絵を描いてみた次第。「ここまで来たら、腹くくりなさいよ!」って、悪夢にうなされそうもないのが女ではないか・・と。いかにも「悪人」な男より、おとなしげな肖像画の美女のほうが、実は腹が据わっていた・・なんて妄想を抱きました。ヴィットーリアって、サンタンジェロにもブチ込まれているんですねえ。ますますドラマです。 
2012-02-02 14:06 | 記事へ | コメント(2) |
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2012年02月01日(水)
日子坐王
 

 日子坐王(ひこいますのみこ)は、彦坐王とも書きます。
 系譜上では、崇神天皇の異母弟にあたり、つまりは伝説上の大君である開花天皇の皇子ということになります。
 詳しいことはよくわからないくらい古い伝説上の人物ですが、いわゆる四道将軍と関係があります。
 四道将軍は、桃太郎のモデルといわれる吉備津彦大彦命、その息子の武渟川別(たけぬなかわわけ)、そして丹波道主(たんばみちぬし)と言われていますが、日子坐王は、その丹波道主の父親とされ、大彦の甥、武渟川別の従兄弟です。
 しかし、古事記によれば、崇神天皇の命令で丹波の陸耳御笠(くがみみのみかさ)を討伐したのは、日子坐であり、丹波地方に派遣されて平定をしたのは、息子の道主ではなく、日子坐自身だったのではないかという人もいるようです。
 ということで、地方へ派遣される王族武人の一人だったと思われます。
 この日子坐王の息子と娘が狭穂彦狭穂姫で、垂仁天皇暗殺をたくらみ、失敗して炎の中で死んだドラマチックな兄妹ですが、このお話は、また別の機会に・・。
 日子坐王の別の系譜の四代目の子孫が神功皇后で、垂仁天皇の二度目の皇后、葉酢媛(ひばすひめ)も孫にあたります。
 ところで、大正頃の五月人形で、古代の武人をあつかったものを見まして、その個性的な髷や、衣装など古代を工夫してイメージしている様子が面白かったので、そのイメージで。人形のモデルは、四道将軍ではないかと思いますので・・。
2012-02-01 14:12 | 記事へ | コメント(0) |
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2012年01月10日(火)
稗田阿礼と太安万侶
 

 こんなフザケた絵柄でごめんなさい。
 しかし、今年は、古事記編纂1300年だ・・ということで、なんだかあちこちで行事を企画しているようです。源氏物語1000年だとか、平城遷都1300年だとか、まあ・・キリのいい何かを探そうとすれば、なにかとあるかもしれませんね。日本は、けっこう古い国ですから。
 平城遷都1300年にはハダカ同然?だった「せんとくん」も、今年はお役所に勤務?していて、奈良時代の公務員の服装をしているそうです。ズバリ太安万侶をイメージしているのでしょうね。
 古事記が太安万侶によって献上されたのが和銅5年、つまり712年です。その編纂のはじまりについては、古事記序文によれば、天武天皇によって企画され、当時28歳で記憶力抜群?だった稗田阿礼という人物に、古い記録を誦み習わせたところから始まるとされます。 
 この誦み習わせるというのが、暗誦することなのか、ただ古い記録を読むことなのか、説があるそうですが、まあ、30年以上も一人でその記録の読み方とか、系譜上の人物の名前の発音などを伝承してきた人物から、文章もきちんと書ける歴史畑の職員が話を聞いて文書にまとめるってことなのでしょうか。太安万侶は日本書紀の編纂にも参加しているという説もあります。
 なんでもかんでもがアタマに入っているベテラン職員ひえださんが定年退職するので、急遽、別の部署からその後継に、突然人事異動されたおおのくん・・というイメージがわいてしまった。
 稗田阿礼が男性だか女性だかわかりませんが、何でも頭にメモしているおばさん職員・・って設定が、なんだかやけに現実的な気がしまして・・。あ、でも、古事記編纂1300年事業をを揶揄しているのではありません。古いことをなんでも知っている古参のおばさんが退職すると、けっこう困ると思うんですが・・・。
2012-01-10 14:31 | 記事へ | コメント(2) |
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2012年01月08日(日)
ピラネージ
 

 おおよそ、専門家であろうとミーハーファンであろうと「ローマ好き」なら、だれもがみーんな知っている・・というか、一度ならずと、目にしないのはないのがピラネージの名前ですね。
 名前のみならず、彼の版画を(好き嫌いは別にして)見ないで「ローマ」をイメージできないと言っても過言ではないかもしれません。
 そして、世界中にローマのイメージを植え付けたのが、他ならぬピラネージなんですね。
 ジョバンニ・バッティスタ・ピラネージは、18世紀の建築家です。今では版画家呼ばわり?されているけれど、彼自身は生涯にわたって、建築家だと思っていたと思います。
 なにしろ、当時の建築家ときたら、図面を描かなければならないので、絵の描けない建築家はいなかったのですから。明治時代の日本の建築家だって、その卒業図面など、額に入れて飾ってもいいくらいの「絵画芸術」なんですよね。
 で、ピラネージとくれば「廃墟の画家」とも呼ばれて、彼の描いた遺跡の絵が世界的に広まっているんですが、異色の廃墟の画家・モンスデジデリオと比較しても、デジデリオの場合は、まさに今崩れて崩壊する様なのですが、ピラネージのは、すでに崩壊し、時の試練を経て落ち着いてしまった「死んだ廃墟」なんですね。
 たとえて言えば、デジデリオの建築は、死してまさに腐敗したばかりの「骨」なのに、ピラネージはすでに白骨化して風化し、草なども生えている「骨」と言ってもいいかも。
 ピラネージは、高尚な「古代妄想」なので、古代ローマ人のいでたちで・・。
 また、彼の異色の作品「幻想の牢獄」は、古代遺跡とはちょっと違った妖しい系です。「牢獄」の3D映像がこちらにあります。
 グチになりますが、以前、初めてローマに行った時、年末だったので、本屋でピラネージのカレンダーをたくさん買っておみやげにしたのですが、あれ・・置いとけばよかった。ウチには一つもないのです。
2012-01-08 12:13 | 記事へ | コメント(2) |
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2012年01月01日(日)
平和
 

 新しい年がきました。
 年の初めの区切りとして、気持ちを切り替え、いろんなことに立ち向かえるようにしたいものです。 
 新年の絵柄として、平和の寓意像としての女神です。手にオリーブの枝を持っています。オリーブは、ノアの洪水がおさまったのち、箱舟から放たれたハトが持ち帰り、洪水後の地上に最初にあらわれた「生命の証」で、神と人間との和解の印だとされています。
 いろいろなことがあった、旧年中ですが、新しい年こそは、当たり前な「平和」が心から望まれます。
 本年もどうぞよろしくお願い致します。
2012-01-01 23:11 | 記事へ | コメント(5) |
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2011年12月29日(木)
ベックフォード

 ♪砂の嵐にかくされた バビルの塔に住んでいる〜 超能力少年は、バビル2世ですが、自ら「バベルの塔」を建設し、、周りに好みの書籍を集めた図書館、美術品を飾った画廊などを、自分自身のためだけに作って、そこに閉じこもって生活をしていた奇人がウィリアム・ベックフォードです。
 イギリスの名門政治家の家に生まれ、母方には貴族の血をひく富豪で、父母は、たくさんの家庭教師をつけて、あらゆる学問を身に着けさせました。伝説によれば、5歳の時に、8歳の天才少年モーツァルトを家庭教師にして音楽を勉強したとか・・。
 長じて、快楽と悪徳をテーマにした小説を書いたりしますが、父の後をついで政治の世界に進出します。しかし、生来の「悪癖」(美少年趣味)がすっぱ抜かれてスキャンダルとなり、嫌気がさして閉じこもり生活に入りました。
 以後、ゴシック調!のバベルの塔などを持つ広大な城の建設し、自分の趣味だけに生きます。この城に招待された数少ない客の中に、ハミルトン卿と、エマ夫人、夫妻の共通の友人ネルソン提督がいたそうです(ハミルトン卿は、母方の従兄弟だそうです)。
 自らを永遠の少年と思いこみたがり、また寵愛の少年たちにも、少年でいるべきことを要求したそうで、「大人」を否定していたのかもしれない・・とは渋沢龍彦氏の分析です。
2011-12-29 20:50 | 記事へ | コメント(0) |
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2011年12月16日(金)
フランソワ1世
 

 フランスではとても人気のある王様の一人だそうです。趣味がよく、話がうまくて美男子(?)。この人の顔と言えば、のろっとしたカーブを描いた長い鼻と、スケベそうな笑みを含んだ目つきで有名な肖像画がたいていどこでも出てきます。
 もともと王子ではなかったのだけれど、息子のいなかったルイ12世の跡をつぐことになったんですね。ルイ12世の娘(従姉妹にあたる)と結婚したのも勿論その布石でしょう。
 この逆玉の王様が、入り婿らしく大人しかったか・・といえば、まったくそうではなくて、なんだか好き放題で、豪快な感じがするのは、権力を握ったものが一度はハマる建築趣味やら、美術品好き、戦争好き(スペインのカール5世とは、宿命のライバル)、という面もあるし、もちろん女性関係も華やか。
 王妃クロードとの間に7人もの子供があったのですから、それはもう「婿」の役目は十分に果たしています。愛人は、フランソワーズ・ド・フォワのあとにエタンプ夫人。そして、息子のアンリ2世と共同?のディアーヌ・ド・ポワティエですね。
 王妃の死後、スペインから妃に迎えたアリエノール(ファナの娘)は、スペインに捕虜として囚われていたフランソワ1世に惚れ込んで結ばれた・・というお話もあることから、やはり女性にはモテたんでしょうね。
 女性だけではなく、「芸術家」とイタリアが大好き。だからイタリアに攻め込むし、ダヴィンチやら、ロッソ・フィオレンティーノなども呼び寄せ、ほかにもたくさんのイタリア人芸術家が、この人の豪快な夢の実現のお手伝いをしています。
 有名な肖像がではなく、彼が招いた芸術家のひとりチェリーニが作ったメダルの「ローマ皇帝」の扮装?をした横顔から。原作は銅とか銀の金属ですが、「皇帝」ですから大理石風?で・・。 
2011-12-16 09:36 | 記事へ | コメント(0) |
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2011年11月29日(火)
バッキンガム公(ヘンリー・スタフォード)



 ロンドン塔で消えた悲劇の幼い王子たち・・の物語は、有名な悪役「リチャードV」とむすびついています。
 しかし、この冷酷非情の悪王を、世に出すための陰謀、というものがあるとすれば、その重要な役割を果たしたのがバッキンガム公爵ヘンリー・スタフォードです。
 彼は、父方からも、母方からも王家の血筋を引きながらも、女系であるため、王位を自らが狙えるという立場ではなかったようです。
 しかも祖父も父も戦死して、11歳で公爵になり、当時の国王エドワードWの後見を受け、そして、花嫁として、13歳も年上の王妃の実妹を押し付けられます。
 この辺にも、不満があったのでしょうか。政略結婚とはいえ、小学校5年生の年齢で、24歳のおばさんが、妻としてやってきてはいじけるかも・・。
 そのためか、国王が死んだあと、その弟のリチャードが甥から王位を奪う陰謀に加担します。ロンドン塔の王子たちを始末したのは、彼だとも言われています。
 そして、さらには、自分が担いだリチャードVを追い落とそうとして、こんどはヘンリー・チューダーと組む。
 その本心は、もしかして二人を戦わして、自分が生き残って王位を狙うという心づもりであったかも・・。
 しかし、この反乱に失敗し、ヘンリー・チューダーはフランスに逃げ、バッキンガム公爵はつかまってしまい、結局処刑されるという末路。策士策に溺れるというところだったのでしょうか・・。
 あるサイトで、今残る彼の肖像画が、20代であるのに、中年男みたいだし、しかも、あまりにブサイクなので描き直すぞ・・というのをやっておられて、私も描き直してみようと・・。
 ちなみにバッキンガム公爵というのは、彼で一旦途絶え、ヘンリー7世の時に復活しますが、当時の公爵が処刑されたため断絶します。 100年の後に、この一族とは何の関係もない、ジェームズ一世の寵臣ジョージ・ヴィリアーズがバッキンガム公爵に叙任されます。この人が三銃士に出てくるぶっとんだ公爵です。
2011-11-29 21:44 | 記事へ | コメント(0) |
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2011年11月28日(月)
ブッファルマッコ
 

 ブォナミーコ・ブッファルマッコは、フィレンツェの画家です。
 しかし、とんでもないいたずらをやらかすふざけた人物としての側面のほうが語られているかもしれません。
 というのも、「デカメロン」に、彼のあざといいたずらの話が出ているからですが、ヴァザーリの「画人伝」にも、彼の画業というより、お調子者のふざけた逸話のほうがたくさんのっています。
 修業時代に、徒弟に入った師匠が厳しいので、天井裏からゴキブリを集めてきてその背中に小さなろうそくをたてて歩き回らせて師匠を怖がらせた話などが出ています。
 その中で、猿と絵を競った話があります。
 ある礼拝堂の壁画を頼まれた時、依頼主の司教が飼っている猿が、足場に上って絵の具を混ぜ、色を作り、卵を割ってテンペラを作っている作業を眺めていて、画家が仕事を終えた後、無人の足場に上り、勝手に壺の絵の具を混ぜ、卵をぶち込んで、筆に浸して、出来上がった聖人像の上からべたべたべた・・。まあ、猿まねと言いますから、やってみたかったんでしょうね。
 出勤してきて、壁画がむちゃくちゃにされているのを見て怒ったブッファルマッコは、まさか猿の仕業とは思いませんから、自分か司教に敵意を抱いているものの仕業と考え、壁画を修理して、司教に見張りの番兵をつけるように言います。
 そところが現れたのは、お猿の芸術家。得意げにまた絵の具を作って、色をべたべたべた。これには、呼ばれて来た司教も大笑いをする始末。おかしいとはいえ、画家としては面白くないブッファルマッコは「こちらには、このような画伯がおられる以上、私の仕事はありませんから、失礼します」と言い出すので、司教は笑いながらも、再修復を依頼します。
 それならば、とブッファルマッコは、猿を檻に閉じ込め、自分が仕事をしているのを、そばで見せつけ「絵の具をぬりらたいだろう。ざまみろ」とあかんべ〜をしながら仕事をしたそうです。大人げないというか・・。
 しかし、司教は、「冗談やいたずらで有名な画家をからかうとは大した猿じゃ」とこちらにもご満悦なので、業腹なブッフェルマッコは、ただではひきさがりません。最後に司教館に描くように頼まれた「鷲が獅子を襲ってやっつけている図」を、板囲いの中で誰にも見せないようにして描き上げ、「獅子が鷲を食っている図」にしてトンズラしてしまったそうです。
 真正面から競ったわけではないけれど、にらみあっているイメージで・・。背景はピサに残るブッファルマッコの壁画です。
2011-11-28 14:20 | 記事へ | コメント(0) |
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2011年11月26日(土)
鷹匠
 

 カルパッチョの描いた「聖ウルスラ伝」の中に登場する鷹匠です。またしても、カルパッチョの絵の脇役ですね。
 聖ウルスラはブリテンの王女であるとされていますが、彼女が結婚するにあたって、婚約者に、結婚前にローマに巡礼をさせてほしいと頼み、その巡礼の帰途にフン族に襲われて、彼女に従っていた1万1千人の乙女とともに殉教したということになっています。
 その伝記物語の中に、イギリスの使節がやってくる場面で、大使についてきた従者たちとおぼしき人々や、大使を迎える人々などのが大勢描かれています。舞台はイギリスということになっていますが、カルパッチョが描く港や船などはすべてベネツィア風景。ですから、人々の衣装や風俗もほとんどベネツィア風なんですね。
 その中から一人の鷹匠が海岸沿いの通廊にたたずんでいます。
 自慢のヒップと足を目立たせる赤いホーズに、短い上着。黒い帽子には飾りを付けたいでたちは、ベネツィアの伊達男なのでしょう。
 鷹は金の鎖でつないでいるようです。 
2011-11-26 15:34 | 記事へ | コメント(0) |
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2011年11月11日(金)
ポントルモとブロンズィーノ
 
 

ポントルモは、本名はヤコボ・カルッチ。ポントルモ村出身。
 マニエリスムの完成者ともいわれますが、彼の絵には一種独特の雰囲気があります。たぶん、一度見たら忘れられない奇妙な印象。あの十字架降下のキリストの青ざめた瞼とか、天使にしても、聖人にしてもみな目玉を剥いている! 自画像すら目むいてる! 目をひらいていてもつぶっていても「目」で勝負する画家ですね。
 アンドレア・デル・サルトの弟子だったけれど、師匠に激しく嫉妬されるくらいの腕前だったとか。しかも、奇人変人!
 有名な話では、だれとも会いたくないので、梯子をかけた屋根裏部屋に籠ってしまって、自分の出入りの時以外は梯子をまきあげていたという逸話。
 でも、この人嫌いでも、生きている以上は仕事と食事はしなければいけないのですが、その食事を一緒にしていたのが、9歳年下の弟子のブロンズィーノ
 かなり高齢になってからも、その日記の抜粋など読んでいると、ブロンズィーノとしか食事をしていないみたいなので・・・というか、ブロンズィーノが来ないと食事しないのか・・? という印象なんで、こういう絵を描いてみました。
 彼のぐちぐちした「日記」では、身体が痛いと文句たれているのはもう60歳を過ぎた晩年ですが、二人の爺さんの食事風景・・というのも、なかなか面白いな・・と思ったのだけれど、目玉向いて天井見てるポントルモの顔が印象的なので、彼の三十すぎくらいの肖像がから書いてみました。ブロンズィーノは若い肖像画を見つけられなかったので、彼の印象的な絵「本を持つ若者」風に・・。 
 それにしても・・・パンだけしか食べてないけど、ポントルモがフォークでパンを食べていたという記事はどこにもありませんから・・。なんとなくこんな手つきかな・・と。
2011-11-11 10:44 | 記事へ | コメント(2) |
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2011年11月03日(木)
聖フェリペ・デ・ヘスス
 

 長崎で殉教した26聖人は、20人の日本人(パウロ三木が有名かなあ)と6人の外国人宣教師がいました。その中の一人が、メキシコ人のフェリペ・デ・ヘススです。
 彼らの殉教のきっかけとなった理由のひとつは、遭難して土佐に座礁したスペイン船の、サンフェリペ号事件だとされていますが、不運なことに、この船人乗っていて、フィリピンからメキシコに帰国する途中だったのが、フランシスコ会の修道士だったこの人。
 もともと、日本で布教するつもりでやってきたのではなく、遭難後に、土佐から京都に入り、フランシスコ会の修道院にいたところを逮捕され、ほかの宣教師と一緒に長崎に送られて殉教しました。
 縛り付けられた十字架の足台が合わず、首つり状態になっていたので、すばやく槍でとどめをさされたと言われています。26人の中での最初の殉教者です。
 不運と言えば不運なのですが、ほかの宣教師たちには、彼は、運命の導きによって、殉教するために遭難する船に乗り合わせ、殉教するために京都入りし(同じ船に乗っていて、彼と別れて長崎に向かったために死ななかった宣教師もいます)、長崎で殉教をとげたと解釈されたようです。
 長崎の「日本二十六聖人殉教記念聖堂・聖フィリッポ教会」は、彼にささげられています。
 その絵姿は、本国メキシコではさまざまに変遷されていますが、それについては、こちらにもちょっと書いています。
 それらの図像の中から、いちばん新しいかたち、十字架と槍を支えてよろめく?スタイルで。なお、バチカン美術館所蔵の26聖人の「日本画」では、彼は金髪に近い明るい髪の色をしていますが、もともとスペイン人だし、メキシコのサンフェリペデヘスス教会などの像は黒髪なのでそうしました。
2011-11-03 10:15 | 記事へ | コメント(0) |
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2011年10月12日(水)
フランシスコ・ボルハ
 

 フランシスコ・ボルハは、スペイン貴族のガンディアの公子として生まれ、子供の時から信心深かったという伝承もありますが、神聖ローマ皇帝カール5世の宮廷に仕えました。
 あちこちに飛び回って忙しかった皇帝について歩いて戦場も体験し、貴族の子弟のならいで、年頃になるとポルトガル貴族の娘を嫁に迎えて、普通の生活をしましたが、ひそかに恋い焦がれる年上の女性がいたとか・・。
 それは、ほかでもない、主君の最愛の后イザベル皇后だったのですねえ。ティツィアーノの絵に描かれる美女です。
 これはもうかなわぬ恋の典型で、絶望的だったのですが、この憧れの女性が35歳で、難産で死んでしまったのですね。もちろん夫のカール5世が嘆き悲しみ、以後独身を通したのは有名な話なんですが、この人の葬儀の時に、遺体の移送を命じられたのがフランシスコだったのです。
 ところが、恋しい人の遺骸に付き添って旅をする途中に、ハプニングがあって、棺桶がひっくり返ってしまい、中身がこぼれ出したんだそうです。そして、その死体を見たフランシスコは、あんなに美しかった人も死ねば変わり果てるのだという「無常」を悟って、出家を決意した・・とかいうお話が伝わっています。
 この場面が絵にかかれているのも見たことがあります。フランシスコ28歳の時ですが、世を厭う心があるにもかかわらず、父の後をついで公国もおさめねばならず、妻子もおり、しばらくは敬虔な俗人として過ごしますが、妻が死んだ後に、息子に公国を譲って、文通していたイグナティウス・ロヨラの作ったイエズス会の聖職者になります。
 その後、後進の教育などに熱心で、宣教師養成所を作り、イエズス会第3代総長にまで「出世?」しますが、評判がよく、ローマ教皇に押すような声もあったようですが、つつましい生活をして死後、列福され、後に聖人になりました。
 ゴヤが、ボルハ公爵家の依頼で、この人が病人に取りつく「魔物」を追い払う絵を描いていますが、十字架から血がほとばしっているという芝居がかったもので「名作」とはみなされていないらしいので、あまり目にすることはありませんが、「細長い身体」が印象的なこの人が十字架をかざすスタイルが面白かったので描いてみました。
 ボルハの名前からわかるようにもちろん「ボルジア家」ですが、この人のお祖父さんが、ホアン・ボルジア(チェーザレの弟で、アホのホアンです)ですから、フランチェスコさんはアレッサンドロ6世の曾孫!にあたります。
 教皇になっていたら面白かったでしょうね! まったく清濁、逆の教皇が、ボルジア家から出たかもしれないのに・・。
2011-10-12 16:18 | 記事へ | コメント(6) |
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2011年06月30日(木)
藤原基任
 

 すさまじく暑くなってきた今年の夏です。夏は怪談の季節ですが、このお話も古い怪談です。
 「吉野拾遺」という古書に出ている物語だそうです。
 南北朝の時代、南朝の後村上天皇は、吉野の山中の行宮に移られたとき、そこは「あやかしのもの」が出るというウワサのさびれた場所でした。
 夏の6月10日頃、暑い夏の夜です。天皇の母后新待賢門院に仕える伊賀の局という女官が、涼をとるために一人で庭に出たところ、大きな松の枝があり、それに月がかかっているようなので、思わず歌を口にします。
 
    涼しさをまつ吹く風にわすられて、袂に宿す、夜半の月影

 すると、とても人がいるとは思えぬ場所・・つまり高い松の木の梢から、突然

    ただよく心静かなればすなわち身も涼し

 と声が降ってきます。こわいですねえ・・。
 上を見上げると、恐ろしげな、翼をもつ鬼のような姿のものが宙に浮いていた・・・。
 ここで、きゃ〜!出た〜!と失神するような軟弱なおなごでは、苦難の放浪王朝の女官はつとまりません。伊賀の局は、気丈にも「何者じゃ! 名を名乗れ!」と言ったのですね。
 すると、化け物は素直に「私は藤原基任といいます」と言った!。
 姿形は恐ろしげなれど、和歌に反応したり、素直に名を明かすなど、どことなく雅な化け物ですね。
 で、よくよく話を聞くと、「帝の御生母新待賢門院さま、すなわち阿野廉子(あの!廉子さまです。後醍醐天皇の寵妃で、中宮を追い落としただとか、足利尊氏と組んで護良親王を破滅させたとか、コワイおばさん)に、命を捨ててお仕えしたのに、いまだ弔ってもらえないので、こうして迷っているのです」とのこと。
 供養をしてあげましょう・・というと、すっと消えたとかいう、おとなしげな幽霊で、その後、話を聞いた女院は、吉野の僧侶に命じて法要をしたそうです。
 ところが、この影の薄い幽霊は、いつの間にか「藤原基任」じゃなく、「藤原仲成」(嵯峨天皇に殺された人ですから時代が違いすぎる)として伝承間違い?が起こって、後世の画題では、藤原仲成の亡霊ということになってしまいました。
 月岡芳年など、絵がいくつかあるのですが、烏天狗風、公家風ということで、こんな姿にしてみました。
2011-06-30 11:30 | 記事へ | コメント(0) |
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2011年06月28日(火)
ペルシャの巫女
 

 システィーナ礼拝堂の天井画は、天地創造の場面を描いて圧倒的な迫力で、天井から迫ってまいりますが、これが、まあ、頭がい骨を描いたかどうかは、別として、細部にこだわれば(といっても、とってもデッカい絵なのですが)、天地創造神話の周りに、7人の預言者と、5人の巫女(つまりは女預言者)が描かれています。
 その中で、巫女・・つまり女性像は、一番人気がデルフォイの巫女(顔が美人)で、二番手はリビアの巫女。背中のラインと横顔が美しい。そしてエトルリアの巫女はたくましすぎる腕ながら、色白で顔はきれい。
 で、あとの二人、ペルシャの巫女クマエの巫女はあまり問題にもされません。というか、まあ参考程度・・というのは、この二人がばあさんだからですね。
 ところで、以前クマエの巫女を登場させたのですが、ローマの建国神話と関連のある女預言者だからなのですが、今回は、もう一人の注目度の低い?年配のペルシャの巫女です。
 年寄くさい?頭に布を巻いた姿に長袖のババシャツ(わ〜・・もう古典的な表現だ〜)を着こんで、マントまでかぶっています。手などはゴツゴツして、ばあさんの手というよりは、じいさんの手です。しかし、この方は5人の巫女のうち、唯一、「靴」を履いているのです。色合いは少し地味目にしてみました。
預言書を覗き込んで「未来」を憂えているのか・・・。
2011-06-28 16:48 | 記事へ | コメント(0) |
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2011年04月15日(金)
長谷川時雨
 

 人の心がどうであろうと、自然はゆき過ぎ、もはや桜の花も散り始めました。今夕からは雨も降るようなので、かなり散ってしまうのでしょうね。でも、その後には若葉の季節がやってまいります。

 春なのに、またしても「紅葉館」がらみの女性。ですが、この人は、コンパニオンではありません。
 長谷川時雨、本名長谷川やすは、明治初年の東京の下町に生まれた生粋の江戸っ子。父親は日本初の弁護士(官許代言人)の一人だそうです。母は、温泉旅館や割烹旅館の経営をして有能な女将だったので、請われて「紅葉館」の経理をやっていたというからには、なかなかに才能のある両親の娘ですね。
 子供の頃から文学の才能があり、読書や勉強が好きだったのですが、明治の女の子の悲しさ、お屋敷奉公をさせられ、年頃になると、親の命令で嫁入りもします。
 しかし、成金で不誠実な夫に仕えるには「有能」すぎた彼女は、離婚して文学の才能を開花させます。劇作家や舞台芸術の方面からはじめ、小説なども書き、しかも「紅葉館」の経理の仕事も手伝っていたというからには、マルチで、エネルギッシュですね。
 そして恋も女の彩りならば、彼女に猛烈に言い寄ってきたひとまわり年下の男。これが三上於菟吉。彼は、作家で翻訳家(「雪之丞情変化」の作者・・これは翻訳小説です)。しかし、やがて人気作家になり、もてはやされはじめると、まあ・・遊び始めるんですけどね。
 しかし、彼女は、女性のための雑誌「女人芸術」を発刊し、これに連載していたのが、名高い「近代美人伝」です。
 長谷川時雨・・といえば、もうこの著作のみで評価されそうですが、多彩で色々な活動を幅広く行い、第二次大戦中には、ついに、愛国的な活動に入り、後代には批判もあるようですが、その時々で、なんとか女性の力を、活動を、社会的に・・と必死になっていたのではないでしょうか。
2011-04-15 14:15 | 記事へ | コメント(0) |
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2011年02月13日(日)
フーシェ
 
 やはりジョセフ・フーシェは、その「陰険」「目立たない」「さえない」「辛気臭い」「悪辣」「冷酷」「無節操」等々、さまざまなマイナス要因だらけながら、とても重要人物なのは間違いないでしょうね。
 とうとう「ナポレオン・フィーシェ・タレーラン」(鹿島茂・講談社教養文庫)読んだのですが、ここで述べられるところの「情念」についていうならば、フーシェが一番純粋だったのかもしれません。
 タレーランは、まあ、移り気、浮気、飽き性などの「蝶々情念」の持ち主ではありますが、勿論「陰謀情念」も多分に持っているわけで、貴族という生まれや聖職者という出自、足が悪いという障害がありながら、人を凌駕する教養や優雅さなど、複雑な人物ですし、ナポレオンは・・・・何かにつけて突出しているというか、つきぬけているので「熱狂」だけでは治まらない人物です。
 フーシェこそ、「陰謀」オンリーの人で、もともとは気球を飛ばしたりする自然科学の人でありますから、感情に左右されることもないのでしょうね。その上、家庭生活では、清廉潔白で、凡そ他から「色仕掛け」なんかの通用する人ではなさそう。
 お互いの?ファンの人からはしかられそうですが、諸葛孔明がホンモノの「職業軍師」であるならばよく似ていませんかねえ。けったいな機械をこしらえた理科系の策士で、共通して「ブサイクな」妻だけを愛して、よい夫、よい父親だったってところなど、どーでしょう。でもまあ、孔明さんは、所詮「職業」軍師ではなかったのですが・・・。
 フーシェは「職業スパイ」ですので、マンガなどでは、いかにも陰険な顔つきに描かれるのですが、肖像画で見る限り、特に「感じの悪さ」などはないし、顔に個性の表れない「影の薄い人」ですので、その目立たなさかげんが、彼の「真価」を隠すのに大いに役立ったのかも。
2011-02-13 10:58 | 記事へ | コメント(2) |
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2011年02月03日(木)
方相氏
 

 本日は節分ですね。
 ということで、本来の節分のお祓い行事(年末のお祓い)であった、宮中の追儺式に登場するのが方相氏です。
 復元された追儺式は、平安神宮で行われますが、鉾と盾を持ち、四つ目の仮面をつけた「方相氏」が、ざんばら髪で、現れ、後ろにつき従うのは、たいまつを持った童子です。
 古代中国の、穢れをはらう役割を持っていたシャーマンの方相氏は、黒い衣、赤い裳、熊の毛皮を被り、四つの目のある黄金の仮面を被っていたといいますから、かなり派手だったのでしょうね。葬儀をつかさどったとも言われるので、次第に、穢れを祓う役目なのに、その姿の異様さから、怖れられるようになり、古い志怪文学などに、妖怪扱いされたりもしています。
 本国ですらそのようなのだからかどうか、わかりませんが、日本でも、次第にその異様な風体が鬼と混同されるようになったとか。
 昨日、登場した長田神社の鬼などは、この方相氏と鬼をつなぐものかもしれませんね。
 髪を振り乱すのは、かの諸葛孔明の「風を呼ぶ魔法」や、祈祷をするシャーマンでおなじみのスタイルですが、熊の毛皮・・ということで、よく目立つように白い髪にしてみました。
2011-02-03 10:25 | 記事へ | コメント(0) |
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2010年11月19日(金)
ピエロ・デッラ・フランチェスカ
 
 久々のイタリアンです。
 ピエロ・デッラ・フランチェスカといえば、思い浮かぶのは、アレッツォのサンフランチェスコ聖堂の「聖十字架伝説」の壮大な壁画でしょうか。
 それとも、両脇に左右反転描きの天使を従えた、大きなおなかに手を置く「出産の聖母」を思い出すでしょうか。
 凝りに凝った遠近法と手前の謎の3人の人物がいる「キリストの鞭打ち」の絵でしょうか。
 いずれにしても、人物の描き方は、表情が静謐で、まるで仏像のように正面むきの絵が印象に残ります。激しい戦闘場面でも、無表情の剣をふるう人物と、これまた無表情に咽を切り裂かれて死んでゆく人物など、ちょっと無気味さがただよい、なんだか忘れられない印象の画風です。
 人物描写もさることながら、数学者でもあった彼は、遠近法を駆使して、不可思議な空間背景をを作ります。代表はキリストの鞭打ちですが、「受胎告知」の絵も、なにやら異様な建築後世で、天使と聖母、天上の神の姿が、柱や二階の区切り線でマンガのコマ割のように別けられます。
 生涯のほとんどを故郷の近辺で過ごしたと言う画家ですが、ウルビーノのフェデリコ・ダ・モンテフェルトロや、シジスモンド・マラテスタ などの絵を描き、彼が遠近法を教えたのが建築家のブラマンテだ・・などというのですから、なかなか重要人物ではありませんか。
 若い頃のピエロ・デッラ・フランチェスカをイメージして、背景はアレッツォ(だと言われている)の町の絵です。 
2010-11-19 20:58 | 記事へ | コメント(6) |
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2010年10月30日(土)
ハプスブルグのサイコロ2
 

 お待たせしました(・・って誰も待ってなかった?)!
 ハプスブルグのサイコロ、女性編です。
 お一人を除いて、5人の方々がすでに登場していますので、これで、人数をかせぐつもりはありません。
 上から御三人は、「大女帝」マリア・テレジア。次が、本来ならフランス王妃に予定されていたのだけれどナポリ王妃となる姉が亡くなったために繰り上がってナポリの王妃になった、マリア・カロリーナ。そして、ほわんとしたのが、姉に代わってフランス王妃になったマリー・アントワネット
下の段に行って、向かって右が、スペインハプスブルグのフェリペ2世のお気に入りの娘イザベルさん。そして、初登場のフランス王妃マリー・テレーズ。スペインのお姫様で、ルイ14世の王妃となった方。左端は、ナポレオンの二番目の皇后になったマリー・ルイーズです。
2010-10-30 20:41 | 記事へ | コメント(3) |
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2010年10月26日(火)
ボエモンドとタンクレディ
 
 「十字軍物語」(塩野七生・新潮社)が刊行されはじめ、早速に手に取ったけれど、まあ、砂漠っぽい聖地の戦いはそれなりに面白いのですが、シチリアのノルマン王家の一族の片割れが、かの地でも実質的な活躍をしているというのが印象に残り、またまた、シチリアやら、ノルマン関係の本を引っ張り出してきまして、またしてもあっちゃこっちゃの方向に興味が向かうという状態です。「シチリア歴史紀行」(小森谷慶子・白水社)、「ノルマン騎士の地中海興亡史」(山辺規子・白水社)などです。
 で、とりあえずは、南イタリアの地に傭兵としてやってきたノルマン人のアルタヴィッラ家(オートヴィル家)のしたたかな連中の中から、英雄?のロベルト・グイスカルド(ロベール・ギスカール。「悪知恵のロベール」)の息子であるボエモンドとその姉妹の息子のタンクレディの二人。
 ボエモンドは長身でたくましく、狡知に長け、威圧的で強烈な青い目をしていた・・と言われていますが、甥のタンクレディのほうは、どっちかと言うと、行動的で切り込み隊長的な性格のような気がしますが、比較的早死にしたことから、虚構作品では、異教徒の女戦士や、アンティオキアの王女に恋される二枚目ヒーローの役どころ。傷ついたタンクレディを介抱する半裸の美女エルミニアの絵など見たことがあります。
 実際は、どちらもノルマンマフィアみたいな連中なんですけれど、ちゃっかりとフランス王の姫たちと政略結婚もしているし・・。
2010-10-26 10:51 | 記事へ | コメント(2) |
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2010年10月06日(水)
ボニー・チャーリー
 
 ボニー・チャーリー(いとしのチャーリー)は、「マイボニー」として知られています。

  ♪ My Bonnie is over the ocean.
    My Bonnie is over the sea.
    My Bonnie is over the ocean.
    O bring back my Bonnie to me.♪

 歌の意味は、文字通り、
 私のいとしい人は大海を越えていってしまったわ
 私のいとしい人は、海を越えていってしまったの。
 私のいとしい人は、大海を越えていってしまった。
 おお、返してちょうだい! いとしい人を私に。 

 マイボニーこと、チャールズ・エドワード・スチュワートは、れっきとしたイングランドの王族の一人です。カトリックであったことから、名誉革命で王国を追放されたジェームズ2世の孫にあたります。
 フランスに亡命後、ジェームズ2世と、息子のジェームズ父子は、捲土重来を期して、本土に上陸を果たすも戦い破れ、しかも後援者のルイ14世が死んで、フランスを頼れず、結局、ローマ教皇のお情けでローマに逃れます。
 そして、ついに時が流れ、ローマ生まれの孫のチャールズの時代になってしまいますが、26歳の若い王子は、スコットランドの反乱軍と手を結び、本土に上陸、破竹の勢いで都に迫ります。あわや、ロンドン陥落か・・というところに、猛将カンバーランド公爵に率いられた国王軍に散々に破れ、チャールズは、命からがら(女装までして脱出したというお話があります)、ほうほうの体で、再び、海の彼方にはたき出されてしまいます。
 彼にとっては、生まれ故郷のローマに戻り、王国復興の野望潰えた後は、全てに希望を失ったのか、放蕩三昧、享楽の退廃生活をして人生を終えたそうです。
 しかし、そのようなチャールズでも、スコットランドでは、若き英雄に戻ってきてほしいという願いが「民謡」となって歌われたのでしょうね。
 ルイ王朝風の宮廷コートを着て、ブリーチをはかずにキルトをつけた姿の肖像画がありますので、珍しいなと思って、描いてみました。ご本人の目つきはなんとなく、軽薄そうなのですが、淋しげです。
2010-10-06 15:55 | 記事へ | コメント(4) |
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2010年09月19日(日)
ハプスブルグのサイコロ
 

 「名画で読み解くハプスブルグ家12の物語」(中野京子・光文社新書)を読みました。名画といわれるものを描く画家達はそれぞれに苦労、努力していますねえ。
 ハプスブルグ家というのは、どんな本を読んでも、下あご、下唇が特徴ある顔立ちと書いてあるのですが、まあ肖像画を見れば、画家の美化努力にもかかわらず、確かに下唇に特徴あるのは、一目瞭然ですね。古い家柄というものは、近親結婚も多いので、その一族の特徴が更に強調されるのかもしれませんが・・。
 で、リクエストのお応えして、ハプスブルグ一族の「顔」を集めてサイコロにしてみました。(カッコ内は生年)。 下右ルドルフ1世(1218年)、下左マクシミリアン1世(1459年)、真ん中カール5世(1500年)、上に向かって、フェリペ2世(1527年)、フェリペ4世(1604年)、一番上がルドルフ2世(1572年)です。
 年代順に並んでいるのではなくて、なるべく顔の印象?で配置しました。これらの人たちの中で、すでに登場している人たちもありますので、それぞれのページは次のとおり。ルドルフ2世フェリペ2世カール五世
 この絵をプリントアウトして、切り抜き、サイコロにして使って下さってもけっこうです・・って、いらんなあ・・こんなサイコロ。
2010-09-19 15:56 | 記事へ | コメント(9) |
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2010年09月14日(火)
ヴァレンティーノ公 チェーザレ・ボルジア
 

 今日は9月14日です。何にもネタがないので・・というわけでもないのですが、まあ、毎年思い出す(妹の誕生日が近い)のがこの方なので、久々に・・色つきで描いてみました。以前の記事はこちら。生誕535年(なんちゅう中途半端な数字や)です。
 「チェーザレ」ものは、最近はかなりメジャーになってきていますね。ボルジアネタは、我々の間では、けっこう古くて、冊子時代からの付き合いです。本宅のほうでも、色々な「ボルジアの間」を用意していますので、興味のあるむきは覗いてみて下さい。
 一番有名な肖像画をはじめ、黒髪・黒髯がスタンダードですが、レオナルド・ダビンチの素描は、くるくるカールした髪や髯が、なにやら軽そうなので(あ、人格が軽いというのではないですよ。あくまで、髪がやわらかくて軽い感じがするんです)、もしかしたら、黒よりも若干薄い色をしていたのではないか・・などと考えてみました。
 で、ダビンチ風のチェーザレで、少し色の薄いカールした髪にしてみました(「オレンジ色の髪」とまではいかないですけれど)。

 え〜・・わが妹にも、おくればせながらお誕生日お目でとう。
2010-09-14 14:33 | 記事へ | コメント(7) |
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2010年09月10日(金)
藤原敏行



   秋来ぬと  目にはさやかに見えねども
              風の音にぞ  おどろかれぬる


 意味は、文字通りです。立秋の日の歌だそうですが、立秋なんて、夏休みの真ん中にくるので、まあ、こういう気分にはちっともなりませんが、それでも、ふと秋の気配を感じる瞬間には、この歌を思い出します。
 それにしても、今年の暑さは異常で、毎日暑いので、「風の音におどろく」ということもなくて、九月に入ってしまいましたが、さすがに台風のあとは朝晩が秋の気配ですねえ。ちょっとほっとしていますが、昼の暑さは相変わらず厳しいですが。
 で、藤原敏行は、延喜の頃に亡くなった人なんですね。つまりは9世紀の人物なので、もう少し平安初期風に描かなければならないのだけれど、百人一首でもおなじみなので、まあ、こういうイメージでもいいか・・と。三十六歌仙の一人で、歌人であるだけでなく、書もうまくて、空海と並び証されたというから、ちょっと大物ではあります。
 奥さんが、在原業平の奥さんと姉妹だそうで、友人が紀友則で・・などと周辺にはけっこう有名人?がいるのだけれど地味かも・・。百人一首の歌は、

   すみの江の岸による浪
      よるさへや  夢のかよひぢ 人目よくらむ


 意訳すれば、「何にも、住江の岸の波みたいに、朝から晩まで、行ったり来たりしてほしいって言ってるわけやないねん。ちょっとよってほしいだけやのに、あんたは、夜でさえ、いや、夢の中でさえ、人目をよけてばっかりいるやないの! 根性なし!」
 多分・・大阪の女の子のつもりで読んだ歌かも。藤原敏行は、一度死んだ時に、能筆を生かして法華経を書いた功徳で、生き返ったのに、女遊びばかっりして、すぐに死んでしまった(?)ほどのプレイボーイだったらしいから、女性の代筆もした・・?
2010-09-10 13:52 | 記事へ | コメント(2) |
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2010年08月04日(水)
フェルディナンド・デ・メディチ
 

 トスカーナ大公フェルディナンド1世と呼ばれる人です。
 彼は、コジモ1世の五番目の息子なので、俗界の一族を、聖界からバックアップするため僧籍に入り、15歳で枢機卿となったのは、名門貴族の予定の行動であったのでしょう。
 しかし、他の兄弟がなくなり、父の後を継いだ大公のフランチェスコ1世が、問題の大公妃ビアンカ・カペッロとともに急死したので、彼が大公位を継ぐことになったのです。
 しかし、たまたま、兄夫婦が急死した時に、同じ別荘に滞在していたために、毒殺犯人説までささやかれました。
 事情はともあれ、大公になるとなれば、枢機卿をやめて還俗し、翌年には、家柄のよいフランス貴族のお姫様(母がフランス王女で、祖母がカトリーヌ・ド・メディチ!)をお嫁にもらいます。結婚のお祝いに、フィレンツェで池に水をためて古代ローマ風の模擬海戦までやるというゴージャスぶりだったそうです。
 花婿は40歳で、枢機卿といえば、海千山千ですから、ゴージャス嗜好は、彼自身の趣味だったんでしょうね。
 まあ・・勿論政略結婚ですし、祖母のカトリーヌ・ド・メディチの意思が働いたそうですが、フェルディナンド自身も、後に、姪にあたるマリ−・ド・メディシスを政略でフランス王妃にしています。このマリーさんが、仰々しい一代記をルーベンスに描かせた女性です。
 お家のためなら、緋の衣も脱ぎましょう。カボチャパンツも、タイツもはきますとも。実は、けっこう美脚なんです・・・というフェルディナンドさんです。
2010-08-04 14:50 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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2010年08月01日(日)
蛍狩りの女

 ついに8月になってしまいました。今週も暑いそうですね〜・・。
 
 本町をぶらりぶらりと蛍かな
 
 小林一茶50歳のころの句です。
 3歳の時に実母をなくし、8歳の頃にやってきた継母と折り合いが悪く、15歳で江戸に奉公に出されて、以後職場を転々とし、また、家族との確執が続き、父の死後、遺産相続をめぐっても争いは続き、ようよう落ち着いて、気持ちの上にも平安がおとづれるのが50歳の頃です。その後、初めて妻を迎え、生活もようよう安定します。
 江戸の本町あたりにも沢山蛍がいたのでしょうね。ホタルとともに描かれるのは、50男のはずですが、まあ、「涼しい女シリーズ3」ということで、彼が迎える28歳の妻女の雰囲気で(もっとも彼女は江戸には来ていませんが)。
2010-08-01 15:02 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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2010年07月18日(日)
ベレニケ
 

 ローマ帝国で有名な異国女性は、なんといってもエジプトのクレオパトラですが、このベレニケも有名です。
 彼女は、ユダヤの王女で、ヘロデ・アグリッパの娘です。
 彼女自身が何かをしたわけではないのですが、男運が悪いのか、最初、ローマ人に嫁ぎ、未亡人になって再婚後、二度目の未亡人となります。次にキリキア人と結婚をしますが、別れて、兄であるアグリッパ2世のもとに戻ります。この不幸な妹を、兄は気遣ってか常に一緒に行動していたようで、このへんで、近親相姦などという噂がたつのかもしれませんが、ユダヤ王家は、実質的には王権はなく、ローマ帝国の政争などにからんで、難しい世渡りをしていたのかもしれません。
 この彼女が次に選んだ男は大物で、ユリウス・クラウディウス家の後、新たにローマ皇帝となったヴェスパシアヌスの長男ティトゥスでした。
 ティトゥスは、ユダヤ戦線の総司令官でしたし、父親の立場からしても、次代の皇帝になる可能性は大なので、将来性がよいと判断したのでしょうか? 彼女はすでに37歳でしたが、11歳も年下の若いローマ軍人と恋仲になったのです。ローマにも、一緒に帰り、二人は夫婦としてふるまっていたようですが、ローマ市民の反応は最悪で、彼女をクレオパトラの再来と見て、ローマ帝国を分裂させる禍を生むと思っていました。
 ティトゥス自身は、本気で彼女と結婚したいと思っていたようですが、皇帝ヴェスパシアヌスは、市民の反感を恐れて彼女をユダヤに帰してしまいます。ヴェスパシアヌス帝の死後、密かに彼女はローマに戻っていたということですが、ティトゥスといっしょに暮らすことはなかったようです。
 ティトゥスは、皇帝になっても独身で通し、愛人もおかなかったのは、やはり彼女のためだったのでしょうか。その頃は、もう若くもない二人でしたが、誠実な恋人であったのかもしれません。
 クレオパトラのように山っ気のある強烈な女性ではなく、もしかしたら、落ち目の兄を助けるけなげな女性だったかもしれないでしょう・・・? ちなみに彼女と兄のアグリッパは、パウロと出会って話を聞いているそうです。
 「密偵ファルコ」に出てくる彼女は、ケバい化粧をして、派手派手なエキゾチックな装いの年増(40を過ぎていますから)ですが、フラヴィウス時代のローマ人の流行の髪形をしていたのではないかと思いますが、やや装身具を派手目に。
2010-07-18 14:53 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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2010年07月16日(金)
ヘロデ・アグリッパ
 

 アグリッパ1世として知られる、ユダヤの王族です。
 ヘロディアの夫(つまりサロメの継父)であるヘロデ・アンティパスの、次の名目上のユダヤの支配者ということになります。
 系譜から言うと、ヘロデ・アンティパスの異母兄弟アリストブラス(彼は、母が先代のハスモン王家の出身だったので、実父のヘロデ大王によって殺された)の息子です。
 名目上というのは、実質、ユダヤの支配者はローマ帝国だったからです。
 若い頃、ヘロデ・アグリッパはローマで暮らしていて、彼と似た境遇の、同じく「父親が殺された(と信じている)不幸で高貴な少年」カリギュラと親友になったのですね。彼のローマ名マルクス・ユリウス・アグリッパというのは、カリギュラがらみで得た名前なのでしょうか。
 その親友がローマ皇帝になったことで、ユダヤでの地位を獲得して、叔父と叔母(ヘロデ・アンティパスとヘロディアです。勿論)を追放し、ヘロデ大王時代の所領を統括する立場となりました。クラウディウスの時代になっても、ローマの後ろ盾は続いていたのですが、支配者となって3年目に急死します。
 ある書物によると、キリスト教を弾圧し、大ヤコブを処刑し、ペテロを獄につなぎます。そして、ヘロデ・アグリッパ自身は、銀色に輝く衣裳を着けて、民衆の前で演説すると、人々は「神の声のようだ」と称えたので、神の怒りに触れ、虫に食われて死んだ・・ということになっています。何の書物かというと、勿論聖書ですね。使徒を処刑したり、投獄したりしたので、天使が現れて打ち据え、生きながら蛆虫に食われて無残な死をとげた・・とかいう記述もあるそうです。
 叔父さんと従姉妹は洗礼者ヨハネの首で有名になり、彼は、ヤコブを殺し、ペテロを捕らえた(天使が迎えに来て脱獄しますが)ことで名を残しています。
 衣裳は、勿論ローマ風です。ユダヤの風俗は、古来偶像を描かなかったために、絵画資料がなく不明なのですが、もともとギリシャ風だったようで、紀元以降は一般的にはローマ風になったようです。
2010-07-16 15:18 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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2010年07月13日(火)
ヘロデア
 
 ヘロデアは、ユダヤ王家の王女。
 かの建築マニアでもあったヘロデ大王の孫娘にあたります。彼女が何故有名かというと、かの預言者ヨハネの首を切らせたからですね。
 そうです、サロメの母です。サロメばかりが有名な気がしますが、あのおぞましい「お盆の首」を、そもそも発案したのは母のヘロデア。ヨハネは彼女の私生活を非難したからです。
 家系図からいうと、ヘロデアは、ヘロデ大王の2番目の妃の産んだ王子の娘。彼女の最初の夫ヘロデ・ピリポ(サロメの父親)は、ヘロデ大王の3番目の妃の王子。で、サロメが踊ったのは、ヘロデ・アンティパス王で、この人はヘロデ大王の4番目の妃の王子です。
 ヘロデアは、父親の異母兄弟(つまり叔父さん)の間を渡り歩いた・・ということですね。ヨハネが批判したのも、彼女の結婚が叔父との近親婚ではなく、夫を捨てて夫の兄弟のところに走った・・つまりはヘロデ王側からすると、兄弟の妻を奪ったことなのです。
まあ、分かりやすく言えば、額田王のことで天智天皇を批判したみたいなものですね(いや・・ちょっと違うかな)。
 で、王妃という地位に満足しているヘロディアとしては、ややこしいことを言い出す預言者に腹が立ったので、「娘のご褒美」にかこつけて首を切ったということになっているのですが、これが画家の絵心を刺激し、幾たびも描かれる絵は、皆サロメが盆を捧げている・・ということなのですが、中にはヘロディアが満足げに盆の首を見ている絵もあるのですね。十代の年端も行かぬ美少女と首もなかなかですが、海千山千の年増美人も、画家の好みにあったということでしょうか。
 盆の首は省きました。
2010-07-13 14:34 | 記事へ | コメント(6) | トラックバック(0) |
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ニックネーム:おばさんたち
都道府県:大阪・兵庫
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