モザイクといえば、ビザンチン! というのが自然な流れなのですが、ビザンツ帝国(東ローマ)はなかなかに複雑な継承をしています。
11世紀初頭、マケドニア朝のコンスタンティノス8世は、病に倒れて後継者選びが切迫し、重臣を娘のゾエと強引に結婚させることで帝位を安泰にしようとしました。60歳をすぎた花婿に(当然妻がいましたが、策略を用いて離婚させ)、50歳の皇女が花嫁です!この人がロマノス3世として即位しました。
この皇帝は、風呂で急死するという事態になり、皇后ゾエは、皇位安泰のために、またしても再婚することになります。名門のお姫様は大変だなあ・・と思うのは早計で、今度の花婿は、ゾエより30歳以上も年下の24歳の美貌の若者。即位してミカエル4世と呼ばれますが、実は、ロマノス3世時代にすでに皇后ゾエの愛人だったとか。
しかし、彼は顔だけの男ではなくて、野心に燃えて皇女に近づいて、目的を果たしたのですから、不要になった妻を幽閉するという暴挙に出たのは若さのせいでしょうか。皇帝としては有能だったそうですが、32歳で、病気のために、自分の従兄弟(甥?)を後継者指名をして修道院に入り、その日に死んだとは・・なんだかできすぎな気もします・・。その新帝がヨハネス5世。背後に二人の伯父にあたる宦官がいるのが陰謀くさい・・?
ヨハネス5世は、皇室と何の血縁も姻戚もないので、幽閉されていたゾエ(すでに皇太后ですね)を始末しようとするのですが、ゾエは民衆の支持を得ていたので、反乱が起こり、逆に彼が捕らえられて目を潰されて追放されたとか・・。
かくして、皇女ゾエ復活! 彼女は再々婚をせずに、自ら国を治める決意をします。そして血の絆を固めるためか、17歳年下の妹テオドラと共同統治します。ここに2人の女帝が並んだのですね。
ゾエは、もはや64歳という年齢でしたが、彼女はとてもその年齢には見えず美しかったそうです。しかし、美人姉妹?女帝の時代は、二人の不仲で、たった2ケ月しかもたなかったとか。やれやれ。結局、ゾエはまたしても「いい男」を物色することになり、42歳の元老院議員と結婚し、コンスタンティノス9世として即位させます。このカップルがアヤ・ソフィア大聖堂に肖像画が残るのですが、皇后ゾエはとても60代半ばには見えずかわいらしい姿に描かれています。13年後にあいついでこの夫婦が亡くなった後は、再びテオドラが女帝となりますが、彼女には夫も子供もいなかったため、マケドニア朝最後の皇帝となりました。
姉妹女帝を若作りで描いてみました。向かって左がゾエ。肖像画では眉毛がつながっているように見えます。
|
2010-02-18 10:58
|
記事へ |
コメント(8) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1516/
ゴヤの数ある肖像画の中で、ウルティア提督を描いたものがあります。この人がどういう人であるかは、よくわかりませんでした。
時代的には、ナポレオンの侵略のある頃ですから、スペインの提督といっても、往年の無敵艦隊の頃はいざしらず、王族すら必死で逃げ出すような頃です。後に、ゲリラ戦などで、ナポレオンの兄が追い出されて、更に泥沼化したフランスとの戦いの時にも名前が出るようなので、そこそこがんばっていた人なのでしょう。
手に望遠鏡を持ち帽子を片手にポーズをつけていますが、なんとも暗い表情と、まるで難破船が出そうな荒れ果てた海岸が背景になっていて、ゴヤとしても、とても、りりしい軍人さんをホンモノより立派に描こうという意識がないような感じがします。
この人も、のんびり肖像画など描いてもらう場合ではなく、色々な悩みがありそうなので、興味が惹かれました。かなりの年配だと思うのですが、スタイルはまだまだ保っておられるようで、30過ぎでぶよぶよしているゴドイなどと違うなあ・・と。え〜・・まあ・・この時代の軍服を描くのが好きなんですわ・・・私。
|
2010-02-08 16:57
|
記事へ |
コメント(0) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1512/
修道士カドフェルシリーズにハマったということを先日描いていましたが、修道院フリークなる人もおられるらしく、カドフェルといっしょに語られるマンガの「修道士ファルコ」(青池保子)なども、なかなかとお好きな方が多いようです。
私のネタ本の一つにアシェット版「世界の生活史」があるのですが、中世で修道院といえば、その具体的な建物の配置や、農園などの復元イラストが中々、眺めていて楽しいのですね。勿論、カドフェルシリーズの、本文の前に載っている修道院の地図もしかりですが・・。
で、まあ、ありきたりですが、やはりこういう絵を描いてみたいなあと・・修道士いろいろです。
向かって左は、ドミニコ会修道士。勿論、あの薔薇の名前の異端審問間ベルナール・ギー殿のところですね。
その次は、最も厳しい規律と清貧で知られる、フランチェスコ会の修道士。僧服も、布地粗そうで、なんだかゴワゴワしたイメージです。ドンゴロス・・みたいなね・・。小鳥や狼ともお話する聖人フランチェスコさんから始まります。この会では、靴をはかないで、真冬でも素足にサンダルですね。今は、靴下を履いてもいいそうですが・・。
そして、シトー会。これは、「修道士ファルコ」でおなじみですね。あのマンガを読んでいると、これが修道士のイメージとして定着してしまいますが・・。
そして、カドフェルのベネディクト会修道士です。一番汚れの目立たない服装ですね。
ちなみに映画「薔薇の名前」では、ベネディクト会の修道院にフランチェスコ会のウィリアム(ショーン・コネリー)が訪ねて行き、ここに異端審問間のドミニコ会のベルナール・ギーが来るという設定なので、坊さんばっかりで色合いは地味ですが楽しいですね(あ、ちょっとだけ、絢爛豪華な衣裳を着た枢機卿や、司教も現れます。宝石ちりばめたすごいカズラとか出てきて華やかですが・・)。
ところで、ローマ教皇が白いカソックを着ているのは、16世紀に教皇になったピオ5世がドミニコ会だったので、即位後もそのままの服装をしていて、それが、習慣になったとか。
あ! 無理やり4人つっこんだので、本日人名事典1600人を達成しました!
|
2010-01-18 16:00
|
記事へ |
コメント(8) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1503/
ご存知マムシの道三こと斉藤道三です。
この秋には、なにやら戦国関係の資料やら、展示を見る機会が多かったのですが、安土考古資料館で、安土城の発掘をテーマにした展示がありました。
今年の秋は安土は、映画になったり、あるいは、町名変更などで、色々話題になったところですが、その展示だったか、大阪城の展示だったか、記憶が定かではありませんが、斉藤道三の肖像画が出ていたのですね。
この時代の肖像画は、死後追善だとか、子孫が法事に描かせたりするものが多いので、古いの姿をもとにして同じパターンのを何枚も描くようなことがありますので、まあ、どれもこれも微妙に違って似通っているんですね。だんだん美化される・・ということもあるかもしれませんが、あまり特徴のないものが多いですね。
ということなのですが、この斉藤道三さんの肖像画は、一度見たら忘れられないというか、笑ってしまうというか・・・特徴的なのは、もしゃっ・・とはやした鼻ヒゲ。そして小さくて人のよさそうなお目目。なんだか、笑える風貌です。いい人やったんやろうなあ・・なんて思えます。
しかし、この人がいわゆる「いい人」であったとは、一概に言えないですが、「英雄」と言えばいえますね。海千山千の、坊さん崩れで油屋あがりの戦国大名。で、婿は、あの信長ですし・・。一族では跡目をめぐって、親子喧嘩もしていますし、結局それで滅んだという、まあローマのマクシミアヌスのような、枯れない懲りないオヤジです。
でも、まあ、あまりに絵姿がプリティだったので、ちょっと落書きしてみました。
ところで、アクセスカウンターなるものをつけて見ましたが、これって・・どうよ・・?ちゃんとカウントしているかどうかわかりません。ブログの記録からは過去1年分しかたどれないので、一応1年前からのアクセス数から始めてみましたが・・、まあ、あってもなくてもいいですが・・。
|
2009-12-14 16:44
|
記事へ |
コメント(2) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1485/
カボチャに目鼻(?)のハロウィンの飾り付けがやたらと目立つ昨今になってまいりました。
あんなものは、以前は、さほど見なかったのですが、ここんところ、個人の家の玄関にまで、クリスマスのライトアップと同じくらい盛んになってきましたね。
あのカボチャは、ジャック・オ・ランタンと言って、「提灯男」というほどの意味です。
アイルランドやスコットランドの鬼火伝説です(あちらでは、男の名前はウィルですので、ウィル・オ・ウィプス)。
日本風に言えば、成仏?できない幽霊が、墓場の辺りを彷徨っているんですね。つまり、「どこからともなく、なまあたたか〜い風が、す〜っとふいて、闇夜の墓場に、ぽっつ〜んと明かりが・・」というヤツです。そういうのをジャックのランタンだというのだそうです。
ウィルでもジャックでもいいのですが、まあ、そのジャックが、生前悪いことをして、地獄行き間違いないので、天国の門を守る聖ペテロを騙して、生き返らせてもらう。よほど口先の上手い男だったのでしょう、生き返って、再び悪行三昧、そして、また死んだ。今度は、ペテロは頭にきていて「お前には天国にも地獄にも居場所はないぞ!」と追い出されるんですね。
つまりは、あの世でも、此の世でもない、中有に(まあ、仏教ではないんで49日たっても何処にも行けない)彷徨うわけですが、死者なので暗い闇の中を、孤独にうろうろすることになる。それを見ていた悪魔が、あわれんで、煉獄の火(あるいは地獄の火)を石炭一つに移して、わけてあげる(う〜ん・・聖ペテロより悪魔が優しいのか・・・)。
ジャックは、悪魔にもらった明かりを、そこら辺に落ちていた、ひからびた蕪をくりぬいてその中に入れ、ランタンとして持って歩いている・・。だから、くら〜い夜に墓場のそばで、ぼ〜っと明かりが見えたら、それはジャックのランタンなんだそうです。
それが、新大陸に渡った人々の間では、アメリカには蕪がなかったので、カボチャで代用したのが、今は世界的に広がったのだとか。
ところで、ハロウィンは、全ての聖人の日である11月1日の前夜祭ということで、仮に死者が蘇ってくる日だということらしいのですが、なんとなく日本のお盆・・というほどには気楽ではない気がします。洗礼を受けずに死んでしまったので(霊界での)名前がなくて最後の審判まで彷徨わなければならない子供のオバケだとか、このジャックの話なども、ちょっと物悲しくて、私には、あまり楽しいとは思えないのですが・・・。
蕪のランタンを持つ幽霊・・の雰囲気で描いてみました。暗くてテンション下がりますかね?
|
2009-10-20 14:07
|
記事へ |
コメント(4) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1468/
大阪府の吹田市は、千里ニュータウンとか千里万博とかに比べてもなんだかマイナーですね。「北摂マダム」なんて言葉も似合わんし。
で、戦国時代にも吹田はマイナーでしたが、一応、吹田城なるお城があって、意外と歴史は古く建武年間(1334年頃)にも遡るらしい。しかし大永頃に、吹田氏の当主(15歳の美少年だったそうです)が討ち死にしてから本家は滅亡しましたが、文字通りの吹田氏最後の当主は吹田村氏(すいたむらうじ)です。
そして、この吹田村氏の滅亡後、吹田城も滅んだようです(というのも、未だに城跡も発見されず、位置も諸説あって定かではないからですが)。
では、吹田村氏は誰に滅ぼされたか・・。
それは、もう知らぬ人とてない織田信長ですね。しかも京都の六条河原で、一族もろとも処刑されました。時に20歳。
なんで、マイナーな吹田城主が、そんなに織田のシニョーレの怒りをかったのか・・。
実は彼は、北摂大反逆者荒木村重の異母弟だったのです。吹田氏の女性を妻として入り婿していたのですが、荒木村重の反乱の時には有岡城(伊丹)に入ってて、責任者の村重がトンヅラしたあと、怒り心頭の信長に捕らえられたのですね。
摂津一円に勢力を持っていた村重は、逃亡後も、尼崎や花隈(神戸です)の城を次々と落とされ、結局毛利方に逃げ込んで生き延びたのですが、残された彼の一族や妻子、臣下たちは、女性も子供も殺しつくされました。
この反乱は、苦悩するキリシタン高山右近や、オルガンティーノ、とらわれの軍師黒田官兵衛、そして石山本願寺・・興味深いネタが満載なのですね。
それらの舞台となった北摂で、地元ネタとはいいながら、とても重要な戦国時代の様相を地域の博物館がやっておりますので。
|
2009-09-29 09:22
|
記事へ |
コメント(7) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1459/
セクメトは、エジプトの太陽神ラーの左目から生まれた女神。
獅子の頭を持つ恐ろしい神様で、信仰心の薄くなった人間に天罰を下す、あらぶる神です。
一説にホルス神の母であるハトホル女神の、怒れる姿だという説もあるので、なにやらインド神話のドゥルガー女神や、カーリーなどに似ているかも知れません。
セクメト女神は、あまりにも多くの人間を引き裂き、食い殺し血みどろになって殺戮をするので、他の神々や、父神ラーも困り果てます。
そして、神々は赤いビール(彼女の好物の血に似せるため赤い色をつけたビールだそうですが、赤ワインではないんでしょうね)を作って、女神に飲ませ、酔っ払って眠りこけたところを、彼女の「闘争心」を抜いてしまって事態を収拾したといいます。
そして、セクメトはバステト女神となったそうです。
え?バステトって何って? バステト女神は、人々を殺戮するのではなく、人間の丹誠した農産物を食い荒らすネズミから作物を守り、豊穣の守り神と生まれ変わったのです。そう、エジプトでは大切にされミイラにまでなっている高貴な動物、ネコの女神さまです。
トリノ・エジプト博物館展にも出ていましたね。女神なのにふさふさした立派なたてがみがありましたが、まあヒゲの生えている(中には胸毛のある!)女性も、ごくたまにいるそうですから、勇猛な女神だったのでしょう。
ネコになるのだから、楽しくて可愛くなるお酒だったんでしょうね。酔っ払った雌ライオンがネコになるのならいいのですが、酔っ払った女性が雌トラになったら・・・どうしたらいいんでしょうねえ。甲子園の応援団席にでも放り込みます?
|
2009-09-08 14:00
|
記事へ |
コメント(6) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1450/
オベリスクといえば、勿論、発祥はエジプトで、もともと太陽神の象徴です。天辺の三角錐のところに金属板が張ってあって、太陽を受けてキラキラと輝いたそうです。
で、一つの町の中で一番オベリスクが多いのはどこか・・という話題はあちこちで目にしますが、勿論ローマですね。
ローマ皇帝たちが集めまくって、現在でも13本のオベリスクが立っているそうで、これがカッコいいので?ナポレオンもパリにオベリスクを立て、アメリカのワシントンにも巨大なのが立っています(高野山の奥の院でも見たことがあるような気がする・・)。
しかし、もともとは異教(エジプトですから)のシンボルだったオベリスクが、何故カトリックの本場にあるのか・・というと、ある教皇が「いかに異教の遺物とはいえ、頭の天辺に十字架をぶったっててしまえば、立派なキリスト教の記念碑だ」と言ったかどうかわかりませんが、サンピエトロ広場の真ん中にオベリスクを立て、ローマ中のオベリスクに十字架を立てて歩きました。
オベリスクは単なる柱ですからいいですが、明らかに個人顕彰と皇帝崇拝の印である記念柱(トラヤヌスとマルクスアウレリウスの立派なのがありますね)は、どうするか・・。
これは、もうその柱の天辺に、ペテロさん本人?をのっけて、巨大な台座にしてしまったのですね。
そうです、あれらのオベリスクや記念柱は「改宗」して、聖ペテロの教会への道しるべとなったのです(後の時代のもあるけれど、ローマ中のオベリスクを地図の上に落としていく、というのをやりたくなった・・)。
こういう「改装」をやったのが、シクストゥス5世(シスト5世)。肉屋の息子でしたが、度胸も根性もあり、芝居気もたっぷり、行動力も抜群なら、冷徹な合理精神も持ち合わせていたようで、教皇になるについても、コンクラーベでの面白い伝説がありますが、詳しくは、おなじみのcucciolaさまの記事でどうぞ。
この人の即位式に天正の少年使節は立ち会いました。我こそはローマを見たり!と言いえた荘厳な雰囲気だったのでしょうね。
|
2009-08-18 14:00
|
記事へ |
コメント(9) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1441/
夏祭りのシーズンです。
桃山時代のお祭りはドハデで、華麗なる色彩と金箔の豪華な祭礼図屏風になっています。
その中には、時々南蛮人が描かれています。
勿論、南蛮屏風のように、西洋の絵画にモトネタがあってそれを日本風にしたものもありますが、これらは南蛮人の風俗そのものが装飾的だったのでしょう。
そういうのではなく、祭りの出し物の行列の中に、南蛮人に仮装した登場人物たちがいます。それぞれの集団が自分たちの組の華麗さを競うところは、ちょっとリオのカーニバルっぽい。今でも神戸のみなと祭りなどでは、色々な扮装をした人たちが大とおりを練り歩きます。
豊国祭礼図では、南蛮踊りをする集団がいて、その演奏者は横笛を吹いて雰囲気を盛り上げるのでしょう。どのような曲が南蛮風だったのでしょうね。
羽織ったマントや、帽子などには金モールのような飾りが縁取りとしてつけられていたのでしょうか? ズボンは袴の柄のように和風ですが、本物の南蛮服ではなく、和服を改装して、まねて作ったのではないでしょうか。足元は、靴ではなくて、祭礼用のおそろいの赤い草鞋ばきです。
日本人の中で、ちょっと顔立ちが濃い、ポルトガルとかスペインっぽいのを選んで、お髭などつけていたのかも・・。
|
2009-08-05 16:43
|
記事へ |
コメント(5) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1436/
久々の平安ものです。谷崎潤一郎の小説「少将滋幹の母」として知られる女性は、在原棟梁の娘で、かの平安の代表的美男とされる在原業平の孫に当たり、美人の誉れ高い女性でした。
この女性が、50歳位年上の大納言藤原国経の妻になって滋幹を生みます。彼女としては、花も実もある女盛りなのに、何の因果でこんな年寄りを夫にしたのか・・と思うのは当然でしょうね。
ところが、ある時、夫の甥である左大臣藤原時平が、伯父の家の酒宴にやってきます。時平は、当時一番の権力者であり、おまけに美男でも有名だったので、御簾のかげから覗き見て「いかなる女かかる人にそいてあるらむ(どんな女がこのような男を夫にしているのだろう)」と嘆きます。
宴会が無礼講となり、客も主人もへべれけ。宴がお開きになる頃には、主の国経は気が大きくなり「土産はなんでも持ってけどろぼー」状態の大判振る舞い。客の時平は「飛び切りのものが欲しい」と言い出す始末。
大いに気が大きくなった大納言、「天下に時めく左大臣殿でも、これほどのものはお持ちではあるまい」と、引っ張り出してきたのは何と、自分の妻!
この美人妻を見るなり、泥酔のはずの左大臣は、さっと抱きかかえて自分の車に彼女を積み込んでしまいます。もともと、演技力も一流の策士。酔ってなどいなかったのですね。
かくして小説に描かれるような国経の後悔や悩みがあったのかどうかわかりませんが、この女性は藤原時平の妻の一人となりました。権力志向の女であれば、けっこう幸せになったのかもしれません(いやいや・・ねんごろだった平中と示し合わせて「ねえ、あたしをこんなじいさんのとこから連れ出してよ。あんたが無理なら、もっと力のある人を紹介して」・・なんて、彼女が仕掛けたとすれば、面白すぎるのに・・・)。
彼女が時平との間に生んだ息子が、三十六歌仙の一人藤原敦忠です。和歌や管弦にすぐれた美男子でしたが、35歳で死んだ後、彼に代わって管弦の名手ともてはやされたのが源博雅です。
イメージは、どうして、私はこんな年寄りに嫁いでしまったのか・・と嘆く雰囲気で・・。
※ 「帝国辺境伯のためいき」のダル猫があまりにかわいいので、私もマネをしてみました。ヴァリにゃ〜ノです。モトネタの宣教師のヴァリニャーノはこちらです。
|
2009-07-29 15:28
|
記事へ |
コメント(7) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1433/
レスボス島の女流詩人サッポーは、愛の女神ヴェヌスに捧げる詩を読みましたが、後世、この詩人は、同性愛の代表のような言われ方をしています。そのおかげで、女性同性愛者を島の名前でレスビアンと呼ぶようになった(以前は女性もソドミーだったそうです)ことから、歴史的名称の島の名前が嫌われ、今はミティリニ島と呼ぶのだとか。
彼女は紀元前7世紀頃の人で、伝説化していますが、女性ばかりをを集めて詩作などを教えたりていたそうです。しかし、裕福な商人の妻で、子供もいたというのですから、今で言うカリスマ主婦みたいなもので、教養ある女性が、女の子達を集めて教養サロンみたいにして教育していたにすぎないのではないでしょうか(中には、ファンのおばちゃんもまじっていたかもしれませんが)。
夫もいたことですし、また、若い男に入れあげてフラれて自殺したなどという伝説もあるので、かならずしも、古い時代には同性好きだというイメージだったわけじゃないようです。
それを女ばかりの禁断の島・・みたいなイメージにしたのは19世紀になってから、詩人のボードレールや、ラファエロ前派の画家などが作り上げたようです。
教養ある歳増美人が、若い女の子をたぶらかして「あなたの肌はとても綺麗ね。」なんて、にじりよって撫で回したりするような不埒なイメージは、いかにも男が好みそうな展開ですよね。ま、女だって、いわゆる「女性向け」というジャンルは、若くて綺麗な男が、渋くてイケナイおじさんにもてあそばれて・・なんてのが大好きですから・・・。
|
2009-07-12 15:59
|
記事へ |
コメント(10) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1426/
悪魔と取引をした者は、一時は栄耀栄華をきわめたとしても、いずれ運命は尽き、むごたらしい最期を迎える・・というのは、物語のお約束ですが、全くそうでなかった人もいます。
一介の修道僧であったジェルベールは、究学心のあまり、悪魔と契約して学業にはげんで成果をあげたという伝説。悪魔のバックアップ?で、学者としては数々の著作をものし、教育者となる。政治的活動としては、神聖ローマ皇帝とフランスのユーグ・カペーなどとの交渉の場で活動。宗教家としては東欧やロシア方面などにも布教の足がかりを作り、聖職者の頂点であるローマ教皇の地位にまで上りました(シルヴェストル2世。そう伝説の魔術法王です)。ハンガリーのイシュトヴァーン1世の戴冠もしています。
しかも彼が教皇に在位していた時に1000年紀を迎えていますので、なにやら運命的な伝説が付加されたのでしょうか。それとも、あまりにも有能で活動的であったがために、これはきっと悪魔と取引でもしていたかもしれない・・と思われたのかも。
後世の伝説では、スペインで修行中の20代の頃、アラビア人から魔法を伝授され、「此の世の秘密を記した」書物だけは見せてもらえなかったので、アラビア人の娘をたぶらかし、悪魔を呼び出して助けを得て、秘本を盗み出したとされています。
他にも、物言う青銅の首を作っただとか、ローマで銅像に記されていた暗号を解いて、地下の財宝を掘り出したとか、庭の池でドラゴンを飼っていたとか(むむむ・・・バチカンの庭で?)。また望遠鏡や時計、水圧オルガンなどを作ったとも言われています。まるで、ダ・ヴィンチのような万能の天才だったのでしょう。
|
2009-06-16 20:29
|
記事へ |
コメント(2) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1408/
弘法大師空海が出ているので、伝教大師最澄を出さないというのも、片手落ちかなあと、天台宗の開祖最澄さまです。
肖像画は、有名な帽子(もうすと読みます)を被って端座する像から、後世のどんな肖像画も頭からスカーフのようなものをかぶっています(首に巻いてもいいそうなので、ますますスカーフだ)。もともとは、着物の袖の形をした頭巾で、縹色の天皇の衣の袖を賜ったことに由来するそうです。京都の比叡山の天辺では冬が寒いので、ことのほか頭の寒いお坊さんの防寒頭巾だったのですね。偉くならないと耳を隠してはいけなかったそうです。これが、天台宗の正装に取り入れられたのだとか。
で、最澄さんといえば、なにやらふっくらした優しげな顔立ちと、この帽子(もうす)のせいで、尼さんみたいに見えるなと昔から思っていましたので、すこしやせた顔にしてみました。
空海と同じく唐で修行して帰ってきたのですが、空海さんがなんとなく、アクションむきで、冒険小説の主人公(それも、なんだか闘う坊さん・・的な)になるような気がする行動派ですが、最澄さんは、大人しやかで、学者っぽくないですか。書のほうも、空海が雄渾、最澄が端正というのは、イメージ通りなのかも。
|
2009-05-29 15:07
|
記事へ |
コメント(3) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1399/
フランスの女流作家でロマン主義の先駆者・・・というより、ナポレオンに熱を上げてフラれ、逆恨みし、強烈な反ナポレオン主義者となって、世界各地でナポレオンの悪口を言って歩く、強烈なおばさん・・ということのほうが有名かも。
本名はアンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・バロン・ド・タール・ホルスタイン。有り余る知性と雄弁で子供のときから勇名を馳せた才媛であったのですが「あまり美人ではなかった」という評判もあります。
しかし、己の才能に自信があった彼女は、イタリア戦線から戻ったナポレオンに熱烈にラブコール。「二人の天才が結ばれることはフランスのためだ」と信じて疑わず、家に押しかけて、ナポレオンは風呂に入っていたのにかまわず、ズケズケと入っていたとか。
まあ、こういう思い込みの激しい女性に言い寄よられて、普通でも女性あしらいが上手いとは思えないナポレオンとしては・・ちょっと気の毒ですね。
以後、彼女は、可愛さ余って憎さ百倍というのを地で行き、ナポレオンが嫌いで戦争をはじめたプロイセンの王妃マリア・ルイーゼや、ナポリ王妃のマリア・カロリーナとナポレオンを罵倒して、意気投合。大いに怪気炎をあげたそうですが、ロシアにまで行ってアレクサンドル1世にも「悪口」を言い、イギリスやスゥエーデンなどに「悪口行脚」をしていますが、これって・・・一種の裏ストーカーですよね。
ナポレオンが没落した後、彼女は大いに失望し、「彼には、勝って、殺されてほしかった」と言ったとか。これは「悲劇の英雄」を望むファンの心理でしょう? 以後、アヘン中毒になり、自滅するように死んだのですが、やはり、彼女は、生涯、ナポレオンが生きがいだったのでしょうね。
藤本ひとみ「皇帝ナポレオン」では、大柄で腕力が強く、ドスコイタイプのすさまじいスタール夫人が登場しますし、毎度おなじみの「ナポレオン獅子の時代」(長谷川哲也)の彼女は・・・ あまりにもヒドすぎる〜!・・・ので、ちょっと真面目?なスタール夫人を描いてみました。肖像画では、勿論、ナポレオンの胸像なんか描かれていませんが、ルイ・コルベ作の彫像をなでなでしているところ?にしてみました。
|
2009-05-21 15:10
|
記事へ |
コメント(2) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1394/
またしてもイメージの飛躍です。近代の女王あるいは皇后といえば、こんなふうではないのかと、古代の女帝に洋装して頂きました。
斉明天皇は、言うまでもなく中大兄、大海人の母であり、舒明天皇の皇后であった人です。一度目の即位は皇極天皇(第35代)と呼ばれ、二度目に即位して斉明天皇(37代)と、便宜上呼ばれていますが、本名は宝女王です。王(おおきみ)と呼ばれるのは、彼女が天皇の娘ではなく、天皇の孫娘だからですが、中大兄皇子の父である舒明天皇とは再婚で、先夫との間にも子供がいました(このあたりで、不仲であった?中大兄、大海人異父兄弟説も生まれるのですが・・)。
日本書記によれば、二度も即位して、大土木工事をして人民を苦しめ、名目上とはいえ、軍を率いて九州まで出陣した天皇。虚構の中では、権勢を振るった蘇我入鹿は、この人の愛人であったとまで言われたりしているのですから、日本の女帝としては、実は、とってもドラマチックなんじゃあないでしょうか?
邪魔で無能な夫を排除した・・・とは思えませんが、エカテリーナ女帝にも匹敵?するゴージャスな女帝ではありませんか。そしてその死についても、朝倉の宮で「妖異」があった・・これも、屋根の上からあやかしが覗いたという北斉の孝昭帝(北斉のカリギュラ文宣帝の弟)の死に様にも少し似ています。
息子の中大兄が、あまりにも「陰謀家」めいたイメージがあるので、操られていた老母だなんて思われがちですが、本当に単なる「なかつぎ」なのか・・・意外と女傑だったのでは・・などと妄想してみました。
ちなみに同時代には新羅には善徳女王、真徳女王がおり、中国唯一の女帝武則天が皇后になったのが、斉明天皇として二度目に即位した年です。
|
2009-04-25 14:29
|
記事へ |
コメント(5) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1382/
吟遊詩人でもトルバドゥールといえば、放浪してあちこちで語る詩人ではなく、宮廷に仕えて、そこで、特に奥方さまやお姫様のために、ロマンチックな恋愛詩などを、優雅に歌う・・というイメージですね。
そのような詩人にも色々な階層の人がいて、ジョフレ・リュデル・ド・ブライユは、領主詩人とされています。作品がいくつか残っているようですが、御本人をめぐる伝説のほうが有名で、ドラマチック。
ブライユの領主であったジョフレ・リュデルは、トリポリ伯夫人オディエルナが、聖地巡礼をしたというので、一度も会ったことがないのにあこがれ、猛烈な恋に陥ります。
とうとう「遥かなる恋人」に会いたいために、十字軍に参加して東方に向かいますが、途中、船上で病気にかかり、トリポリまではついたものの、重い病の床に臥し、余命いくばくもないありさま。その事情を聞きつけた、当のトリポリ伯夫人は、病床に駆けつけ、リュデルは、「恋人」の腕の中で息を引き取る・・というドラマです・・。
十字軍参加への動機がそんな不純なことでいいのか・・とか、トリポリについてすぐ死ぬのはできすぎやろ・・とか、ツッコミを入れたらいけません。ありそうもないような、ロマンチックな伝説を人々は愛したのですから・・。
この「遥かなる恋人」の着想は、アラビアンナイトであるとか、トルバドゥールの恋愛詩の発生が、もともとスペインのアンダルシアで興ったイスラム世界の影響による恋の歌であった・・という説もあるそうですが、その詩人が十字軍・・というのは、ちょっと皮肉ですね。
|
2009-04-21 11:48
|
記事へ |
コメント(2) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1380/
古代ギリシャの哲学者といえば、すっとソクラテスの名前が出てくるほど、高名な人物ですね。対話によって哲学的な思考を導く方法で、相手の理論を試したそうですが、敵も多く、結局死刑の判決を受けて服毒死します。
また、彼の妻クサンティッペも有名で、世界三大悪妻!の一人だそうですが、頭から水をかけたくらいで、世界の「大悪妻」にされるというのは、ちと気の毒な気もしますが、これまたダンナが有名なせいでしょう。
このような哲学者であり、しかも悪妻までいましたが、アテナイで有名な遊女カリストと対話したというエピソードがあります。
遊女が、ソクラテスに「私はあなたより力がありますわよ。なぜって、あなたは私の店の女の子を一人だって引き抜くことができないけれど、私なら、あなたのお弟子さんを全員引き抜けますわ」と「対話」をしかけてきました。しかし、そこは大先生「まさしく君の言うとおりだ。君は、私の弟子を下り坂に連れて行くが、私が導くのは厳しい上り坂だ。」と言ったとか。
|
2009-04-17 19:36
|
記事へ |
コメント(2) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1378/
能楽「猩々」に登場する酒の精。
酒に酔っている・・というで、赤い顔に赤い髪。赤い着物と赤尽くしで登場しますが、「猩々」は「人に似ているが獣である」という古代中国の表現から、類人猿ではないかといわれています。
また「猩々」という名がオランウータンの和名になったというのも、「猿」だからでしょうが、実は、水族でもある・・のだそうです。猿は泳げたか?というツッコミより、水ということは、清酒と宮水は切ってもきれないところから、やはり、酒に関する生き物でしょうね。猿酒・・ということで、猿が酒を作った・・という古い伝承の反映かもしれません。
妖怪・・・というには、やや「神性」があるようだし、酒の神・・というほど「ご威光」がなさそうですが、楽しげに酒を飲む・・・のはいいんじゃあないでしょうか。しかし、人間様は、全身真っ赤になるほど飲んではいけませんが・・。
|
2009-04-16 10:59
|
記事へ |
コメント(1) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1377/
もうひとつ剪燈新話です(せんとうしんわ・・つまり明かりの穂先を剪って、まだまだ火をともして夜通し語る、興味深い新しい話・・という意味でしょう)。
元の終わりごろ、劉という金持ちに翠翠という娘がいましたが、とても賢い子供なので、本人も勉強をしたがったので、両親は塾に通わせました。塾の同級生で金定という、これまた聡明な少年がいて、二人はよい友達になり、いつしか幼い恋に発展しましたが、彼女は強気で、「祝英台は、はっきりっ言わないからだめなのよ」と堂々としていました。
年頃になって結婚話が出てきても、彼女は「金君じゃなきゃ、いや!」を押し通し、「でもあちらは貧乏だし、家柄もつりあわないし・・」などと言っていた両親も、ついに折れて二人はめでたく結ばれました。
悲劇のドラマは、ここから始まります。幸せな新婚生活を送っていた二人ですが、地域が戦乱に巻き込まれ、翠翠は集落を襲った軍隊にさらわれ、李将軍という人の妾にされます。やがて戦乱が治まって、往来も出来るようになったので、夫の金定は、妻を捜す旅に出て大変な辛苦を舐めて放浪。そしてついに、羽振りのよい李将軍の元にいるという情報をつかみ、たづねて行き、「郷里の兄で、妹がこちらにいると聞いた」と名乗ります。
単純でおおような軍人の李将軍は、二人を会わせてくれ、兄妹だと信じて「お前の妹は賢くて字が読めるが、その兄なら、字が書けるだろう」と、書記に雇います。
以後、二人は同じ屋敷に住みながら、真実を明かせぬ苦しい生活。金定は、着物の衿の中に、詩文を縫いこみ、繕い物を妹に頼むということで、詩のやり取りをします。
そうこうするうちに重い病にかかった金定は危篤になり、将軍のはからいで、病床にかけつけた翠翠の腕の中で死にます。以後、涙に暮れて、生きる希望を失くした翠翠も、後を追うように空しくなりますが、死に際に兄と並べて葬って欲しいという願いがかなえられ、二人の墓が並んでいる・・という悲劇です(う〜ん・・同じ死ぬなら二人で駆け落ちするとか、イチかバチかをやってはどうか・・なんてのは、マンガチックで、あくまで真面目で良識のある二人なんでしょうね)。
が・・これまた後日談があり、時が移り、明の時代になって、翠翠の家の番頭が旅の途中に、かつて李将軍がいたところを通りかかると、立派な屋敷があり、翠翠と金定が楽しげに暮らしていた・・というものです。牡丹灯記のように祟りをするでもなく、地獄に落とされることもなく・・・幸せになったのでしょうね。
|
2009-03-09 11:06
|
記事へ |
コメント(2) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1350/
今日は御伽草子ではなく伽婢子(おとぎぼうこ)です。
伽婢子は、牡丹灯篭の原話を構築したことで有名で、近世怪奇小説の走りといわれているものです。作者は浅井了意。大阪府高槻市出身のお坊さんです。まあ、そのような地域性はともかく、中国の怪奇小説をもとに、時代や場所を日本に置き換えてすぐれた読み物にしました。江戸時代の初期ですから、翻訳というよりも翻案です。
その中に、伊豆の侍が八丈島に行こうとして遭難し、滄浪国という島に到達してそちらで見た奇異な出来事をつづる物語があります。原話は「杜陽雑編」という中国ネタですが、短い漢文から想像力をたくましくして大幅に改作したものだそうです。
遭難して到達した島には、変わった服装をした異国風の人が住んでおり、室内は高級な材質。貴石で飾られており、水晶のような透き通った飾り物から水が飛び散っているが、それは絵であり、置いてある盆栽?から涼風が湧き出て部屋を涼しくしている。紫に光る透き通る水晶の瓶には酒が入れてある。外観はというと金の城、玉の台が雲を圧してそびえている・・・。
江戸時代人を現代に招待してワインなど振舞えば、こういうことを言うんじゃあないでしょうか。大型液晶テレビとか、エアコン、高層ビル。
住人も、薄い紗帽を被り、縫い取りをした直垂(上下同じ色のいわゆるスーツ?)を着て、模様のある靴を履いている・・というのですが、西洋人が「仙境もの」をイメージするとギリシャ・ローマ風になり、日本人がイメージすると中華風になるので(原作の挿絵にも双環に結った女性が登場します)、いささか陳腐ながら、こんな風にしてみました。
|
2009-03-06 09:41
|
記事へ |
コメント(2) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1347/
今日は節分です。
全国各地の幼稚園や保育園では、今日は豆まきをしたところも多いでしょう。子供が製作した個性的な鬼の面も、とってもユニークで楽しいものです。
ところで、豆をぶっつけられる鬼は、疫病の象徴だとか、あるいは仏教で言う人間の煩悩の108つあるうちのもっとも重大な、いわゆる三毒、つまり、貧(どん)・瞋(じん)・痴(ち)だとか言われています。貧はむさぼる、瞋はいかる、痴はおろかですが、これらをそれぞれ表わした鬼を、追い払うことによって、福を招来するというのが、あちこちの豆まき行事で行われます。
鬼の姿は、それぞれ工夫をこらして恐ろしげですが、人間の心にすむ「三毒」であるとすれば、人の分身としての姿でもあるかもしれません。・・というような理屈はともかく、貧・瞋・痴の鬼を描いて見ました。それぞれ、直垂、水干、狩衣を着た鬼です。
鬼の色は、貧が黄色鬼、瞋が赤鬼、痴が緑鬼だというのは、阪急沿線の中山寺の鬼の色で、ご近所の宝ジェンヌが出演するので(あ、彼女達が鬼になるわけではありません。麗しい観音様です)有名です。また、ほかの神社では、三鬼の色は違っていて、黒鬼がいたり、青鬼がいたり、茶色?鬼がいるところもあります。
|
2009-02-03 15:39
|
記事へ |
コメント(4) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1326/
修道士のマタです。
「ローマ亡き後の地中海世界」(塩野七生・新潮社)を読んでおりまして、ある意味、華やかなりし十字軍の時代に、ものすごく地味に、しかも大変な苦労をして、命がけで活動していた修道士の団体について、いささか信じられないような奇蹟譚もあるのですが、印象に残りましたので、修道士マタを描いてみました。
彼はフランス人ですが、アフリカ北岸から来るサラセン人の海賊達に拉致され、奴隷となってアフリカで強制労働させられているイタリアやフランスの沿海の人々を救済すべく、活動をしていました。それは武装した十字軍の修道騎士たちのような、剣をふるって活躍するのではなく、あくまで交渉によって奴隷となっていたキリスト教徒を解放する・・というものです。
つまりは、お金をもって、船でアフリカに渡り、ムスリムの有力者達と交渉して、拉致されていた人々を買い戻し、彼らを船に乗せて帰って来るのです。その基金はローマ法王や、貴族王族のカンパや、広く集められた寄付金などをちまちま貯めて、息の長い活動をしていたようです。剣を振るって馬で疾駆する騎士団のような華やかさはないものの、相当の決死行で、彼の死後も、活動はずっと長く、ほぼ300年近くも続いていたそうです。
|
2009-02-02 20:59
|
記事へ |
コメント(2) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1325/
比叡山の僧侶で、北野天神縁起絵巻にも登場する人物。
法性坊(あるいは法正坊)と呼ばれたりしますが、菅原道真が大宰府で死んだ後、都に幽鬼となって舞い戻り、「これから復讐をするが法力で邪魔をしないでほしい」と頼まれた時、尊意は、天皇から祈祷を命じられたら、都を守る叡山としては王命にそむくわけにゆかないと断ります(こ話はこちらにも)。
果たして、道真の怨霊のために、、都に激しい雷鳴が起こり宮中に雷が落ちかかる折、尊意が天皇の命を受けて参内しようとすると、途中、鴨川が氾濫して渡れず、彼の乗った牛車は立ち往生します。
そこで、法力を尽くして祈祷をすると、荒れ狂う河が真っ二つに割れて道がひらけ、そこを通って御所に行くことができた・・という伝説があります。
モーゼがたちわった海と違って、鴨川なので、イメージ的には迫力不足ですが、絵巻では車ごと荒波の中を渡るような絵があるので、少々オーバーな表現もありかなと、このような絵にしてみました。
|
2009-01-24 20:34
|
記事へ |
コメント(0) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1318/
日本ではフランシスコ・ザビエル、中国ではマテオ・リッチが有名どころの宣教師。そのマテオ・リッチの中国入りからほぼ100年の後に登場したのがジョゼッペ・カスティリオーネです。
イタリアはミラノの生まれで、時代からするとマリア・テレジアのパパ、カール6世とほぼ同世代です。
イエズス会の宣教師として、27歳で中国に渡ります。結局、絵筆をとって、康熙帝、雍正帝、乾隆帝のもっとも清朝華やかなりし時代に、宮廷画家として活躍しました。作品は、西洋風東洋絵画・・ともいうべき独特の画法です。また、絵ばかりでなく、略奪された十二支像の中国への返還などで話題になった西洋式庭園の円明園の作成にも深く関わっています。
中国名は郎世寧ですが、彼の作品の中の壁画などは、実物の建物と、壁に描かれた絵の中の建物を組み合わせる技法は、古代ローマの邸宅の壁画に通じるものがあるように思いますが、いかがなものでしょうか。
中国のテレビドラマ「清王朝宮廷画師郎世寧」のスタイルで描いてみました・・って、フツーの宣教師ですね・・。
|
2008-12-18 20:53
|
記事へ |
コメント(2) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1296/
紫禁城の中には政治を司る表向きの部屋もありますが、皇帝の「居城」でもありますから、当然、日常生活の場であったところも含まれています。
その中でも、起居するところは、もっともプライベートな空間で、寝室には、豪華な帳を垂らしたベッドと、日常にくつろぐ椅子などがあり、調度品も贅を尽くした豪華な美術品でありますが、そのような皇帝の寝室にかけられていたといわれる絵があります。
それは仕女図と呼ばれる、いわゆる中国の古典的な美人画で、仕女・・つまり女官ですが、宮中に仕えるには当然「美人」でなければならないので、仕女が美女の代名詞になっています。
そして、皇帝のベッドルームにかけられていた美人画とは、これはどんなものなのか・・。
庶民の部屋の壁に貼られたアイドルのポスターなんぞでは当然ありませんで、鮮やかな青い衣裳を着た女性が、鏡に向かって、すでに化粧はすませ、爪の手入れもし(長い爪が流行していました)、仕上げに髪飾りの簪を挿し終わる・・というところを描いた、おとなしやかな絵です。
こういう絵を見ながら、皇帝陛下は、朝の身支度をなさったのか、あるいは、夜の宴会にむかう着替えをしたのか・・・? モデルは、お気に入りの皇妃だったのか? あるいは贔屓役者・・? これじゃあ、アイドルポスターとかわらん・・か・・・。
|
2008-12-17 12:43
|
記事へ |
コメント(2) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1295/
日本聖書協会が発行している「アートバイブル」という本がありまして、古今東西の名画に描かれた聖書の場面を、時代を追って、聖書の文とともに紹介している、まさしく名画で読む聖書なわけです。
それをパラパラ見ておりまして、旧約聖書のエピソードから、サライとハガルです。この二人だけが描かれた絵があるわけではありませんが(たいていは、サライの夫アブラムと3人で描かれています)、女二人にしてみました。
アブラムの妻サライは、子供が出来ないまま年とってきたので、焦って「良妻」の鑑?みたいに、自分の奴隷のハガルを夫にすすめて子供を産ませようとします。苦労をともにしてきた妻の、たっての願いなので(という言い訳がましい文章がありますが)、アブラムは、若いハガルを寝室に入れ、めでたく妊娠させます。
ところが、身ごもったハガルは次第に傲慢になり、主人であるサライを軽んじるような態度をとりはじめます。そりゃあそうでしょう。旦那様は、ばあさんのあんたなんかより、私のほうがよっぽど綺麗で可愛いって言ってくれるわよ〜♪ という強みで、これは古今東西、不滅の原則で、子供が生まれれば、それこそ最強ではありませんか。
そこで、サライは「しまった!」と気付いたか、「良妻」を演じたのを忘れて嫉妬に目覚めたか、夫に向かって「私はあなたのためにハガルを差し上げたのに、いまや彼女がいばりくさってるじゃないの! これは、みんなあなたのせいじゃなくてなんなのよ!」と怒りまくります。このサライの勢いに、後ろめたいのか、ずるいのか、アブラムは「彼女はお前の奴隷だから好きにしたらいい」な〜んて、あいまいな返事。
こうしてサライは、身重のハガルをたたき出し、追放してしまうなんて、ひどい主人夫妻ですねえ(勿論、神様はこの母子を助けますが・・)。
|
2008-12-04 11:21
|
記事へ |
コメント(2) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1284/
煩悩の多い衆生を沢山救うには、一本の手では足りないので1000本の手に様々なありがたい法具を持って救って下さる仏様が千手観音・・と思いきや、仏像などでは、実際には手の数を、律儀に1000本作っているものは少ないそうで、まあ、バランス的には、40本くらいがよいのでしょうね。
六観音の信仰では、餓鬼道に落ちた衆生を救済してくれるそうですが、たしかに、強欲の罪で餓鬼道に落ちたものを救うには、何本も手がほしいところです。
また、インドの女神ドゥルガーの変化したものだとすると、闘う神様で、なかなか激しい性格なのですが、たくさんある手の中には確かに武器も多く含まれています。
観音菩薩は女性のように表現されますが、かならずしも女性ではありません。清水寺の千手観音などは、正面から見た顔立ちや、広い肩幅などはがっちりしていて、むしろ男性的ですが、斜めにみる顔は女性のようにも見えます。作られたのが12世紀頃ということですから、その当時「美形」と考えられた顔立ち・・というイメージで描いてみました。くちひげと瓔珞は省いています。
|
2008-11-21 14:09
|
記事へ |
コメント(3) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1275/
久々の埴輪シリーズ?です。
奈良県大和高田の池田遺跡の古墳から出た靫(ゆぎ)を負う男です。
不思議なみずらは、そのぐるぐる回っている状態から、まるで縦ロールの巻き髪エクステンションを顔の左右にくっつけているようですが、このようにくるくる地髪を巻くというのが日本の古代にあったとは思えないので、部分髪を紐で巻いて垂らしていたのではないかと想像してみました。この埴輪は後ろから見ると、後頭部の頭髪を背中に垂らしていますし、その髪もストレートです。
また頭の左右にとんがった装飾(あるいは髪?)から、大陸からやって来た都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト、つまり、角がある人?)と関係があるのでは?などと想像されているのようですが、池田遺跡は馬見丘陵の南で、近所には渡来人の伝説もあるそうで、なかなか面白いのですが、きちんとやなぐいを背負って、弓を持つ姿は、いかめしい警護兵ではないでしょうか。この人物は、顔に刺青や、装飾があるようには見えないのですが、同じスタイルで、個性的な刺青かペインティングの埴輪もあります。
埴輪は死者と生者の境界領域のものであると思っていますので、警護するのは黄泉の国との境目でしょうか? 背景を夜にしてみました。
|
2008-11-15 14:46
|
記事へ |
コメント(5) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1272/
あまりにも有名でメジャーな人物ですが、ヴァンデの反乱の大きな原因を作った国王の処刑をもたらした人物。
ルイ・アントワーヌ・ド・サンジュストは、「死の大天使」の異名からもなかなか興味をひかれる人物で、古来ファンも多く、色々な描かれ方をしています。
しかし、サン・ジュストの演説が引き金となってルイ16世が処刑されたのが、1793年の1月です。ヴァンデの反乱が、ナント攻略をしたのが6月で、第三代目の総司令官のアンリ・ド・ラ・ロシュジャクランが死んだのが翌94年の1月ですが、もうすでにロベスピエールとともに、サン・ジェストらがテルミドールのクーデターで、処刑されたのは、同じ年の7月ですから、なんとも短い間にすさまじい争いをしたものです。
サン・ジュストについては、さほど興味はなかったのですが、ヴァンデ戦争の「相手方」として、やはり登場願おうかと・・。
彼の肖像画も色々あって、髪の色も薄いのや、黒いのなどもあり、いまいちイメージのつかみにくい人物ですが、ブリュードンのやや気弱そうな肖像画から、目つきを怪しくしてみました。
|
2008-11-10 16:11
|
記事へ |
コメント(2) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1269/
フランス革命の共和国政府に反旗を翻したヴァンデの反乱の指導者。
それまでは単純に王様を慕い、まじめなカトリック信者であった地方の農民たちが、過激な革命政府の重税や、信仰の弾圧、強引な兵役などに反抗して興った反乱は、ヴァンデ地方に広がります。
共和国政府は、激しい鎮圧をし、凄惨な殺戮で対抗し、また派閥争いなどの混乱の中、様相は泥沼化して、10年にもわたって騒乱が続き、結果的には40万人もの人民が殺戮されたと言われています。
ジャック・カトリノーは、行商人出身で、農民たちの要請で指導者になったけれど、その人柄と指導力で、亡命貴族出身のほかの指導者達にも信頼され、カトリック王党軍の初代最高司令官になりましたが、ナント攻略の時に狙撃されて戦死。
その後は、王党軍は、指導者間の反目などもあり、苦難の戦いをしいられます。弾圧に逃亡した難民などで、非戦闘員の人数が膨れ上がり、凄惨な行軍、撤退をしながら、分裂をし、地方で苦しいゲリラ戦を展開して、収束したのは、ナポレオンの時代になっていました。
カトリノーの肖像画は、もっと可憐な美少年のようなのもありますが(多分、こっちのほうが出回っているかも・・)、33歳の温厚な指導者というのなら、もうひとつの落ち着いたほうの絵姿をもとにして描いてみました。
弾圧され故郷を失った農民達をぞろぞろ引き連れて、王国を再建しよう・・なんていうのは、まるでさまよえる劉備のみたいです(彼が難民を連れていたのは盾にする策略だと思いますが)ので、「赤壁」の映画を見て、劉備っぽい、ジャック・カトリノーを思い出しました・・はははは。「赤壁」については、こちらにちょっと書いています。
|
2008-11-07 11:14
|
記事へ |
コメント(0) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1267/