天下に三大なんとかというのは数ありますが、三美人といえば、日本では小野小町に楊貴妃、クレオパトラですが、世界史的に言えば、小野小町ははずれて、ヘレネが入ります。
今回は、華やかなりし安土桃山から江戸の初期に、三小姓と称えられた美少年?たち。
一人目は、名古屋山三郎。出雲の阿国の「愛人」かともいわれた同時代のアイドルですが、微妙に時代が違うとか・・。槍の名人でもあったということから、ただの観賞用の美少年ではなく、実戦むき。同僚と喧嘩して殺されたという最後は、とちらかというと「こわもて風」のお小姓かも・・。
もう一人は、豊臣秀次に仕えた不破万作。彼は、主人である秀次が切腹させられた悲劇に、17歳で殉死したと伝えられます。薄命の美少年伝説の生まれる要素大ですね。歌舞伎では名古屋山三のライバルとして復活します。
そして朝香佐馬之助。織田信雄(のぶかつ。信長の次男)に仕え、主没落後、蒲生氏郷→石田三成→前田利常と主を変えて、生き延びたので、けっこうしたたかな人物だったかも。3人の中では、一番波乱万丈な生涯だけれど、長生きして、結構堅実に美中年、美老人になった・・?
近世初期の屏風絵人物風に・・。ホンモノはもっと、フツーで地味だったような気がしますが・・・。
|
2010-07-04 15:28
|
記事へ |
コメント(2) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1559/
※ブログ管理者が承認するまで表示されません
16世紀の西洋の男性服飾の中で、きわめて特異な装飾デザインが、スラッシュです。
上衣の布を、ハサミで切り込みを入れる、あるいは焼いた鉄棒で穴を開け、その穴から、下衣の布を見せるファッションです。
もともとは、肩や、膝などが動きやすいように、切込みを入れるという実用であったそうです。しかし、一旦流行り始めると、あちこちに過剰なまでの切込みを入れ、下に着ているブラウスを上着の穴から引っ張り出して、総絞り染めの製作工程か・・みたいなのを全身に出すという、いささか信じられないような感じになります。こういうの・・カッコいいかな?
伝説によれば、このファッションを始めたのはスイス傭兵だそうです。
1477年にブルゴーニュ公のシャルル豪胆王が、フランス王に雇われたスイス傭兵に破れました。勝ったスイス人たちは、豪華な布地を略奪しては、自分たちのボロ服の上に縫い付けていたのが、なんとも奇妙で華やかなファッションに見えた。
これがカッコいい!・・などとマネしたのがドイツ人の傭兵だそうで、お国に持って帰って、この戦場ファッションが、別に破れていない布までも切り刻んで、隙間からシャツを覗かせるスタイルを産んだとか。
伊達男たちは、嬉しがって上等の布地を切ってスラッシュだらけのファッションを見せびらかしていましたが、女性には、袖ぐらいしか浸透しなかったようです。スカートをスラッシュだらけにしたって優雅じゃないですもんねえ。
上着から靴下まで切り込みの過剰な、全身スラッシュは、北方系のデザインで、服飾的に洗練されていたイタリアやスペインには、さほど流行しなかったそうですが・・やはり、ヘンでしょう・・。
フランスに雇われていた本家のスイス傭兵たちは、派手な色彩のスラッシュや、巨大な羽飾りの帽子で、飾り立てていたようです。 似たようなものといったら、今尚、バチカンの衛兵は派手な色違いの服を着ていますね。袖やズボンはスラッシュだし・・。
|
2010-06-26 14:52
|
記事へ |
コメント(2) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1556/
※ブログ管理者が承認するまで表示されません
最近、目の調子が悪いので、パソコンを少々自粛ぎみでした。
といっても、まあ、もう大丈夫なんですが、本日はサドです。
サド・・つまり、サディズムといえば、苛めて喜ぶ性癖を表わす言葉として、一般的になっています。
勿論、マルギ・ド・サド(ラウラの子孫ドナチアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド)の、センセーショナルな「行動」と、背徳的な文学がその言葉の理由となっていますが、74年ほどの生涯のうち30年以上を、どこかしらに幽閉されて・・いや、当時の社会が、閉じ込められねばならないと恐れられた人物です。
もともと、彼は、不品行、浪費癖のある若者であり、貧乏貴族の侯爵家にとっては、跡継ぎながら厄介者。
そして、パリの裁判所所長のモントルイユ家が、裕福ながら門閥がないので、見てくれだけは、なかなかに良い、この貴族の不良青年を、娘婿にすることにします。
サドにとっては、うるさい父親の手から逃れる手段として結婚したのですが、今度は、一筋縄ではいかない手ごわい姑モントルイユ夫人の手に落ちた・・ということになります。
まあ、この姑と、その娘とは思えないほどのけなげな嫁や、その妹などなかなかに面白い女性が廻りを取り囲みますが、それは色んな文学作品があるので、まあおいとこう。
結局、彼は既婚であろうが未婚であろうが、当時の社会通念の良識からは受け入れられないような「恥知らず」な性的嗜好を持っている・・ということで、幽閉の憂き目を見ます。
現代になってから、彼の文学や、その行動は評価されるのですが、あくまで本人は、「良識と権威なんかくそくらえ!」な人生だったんでしょうね。
彼の不品行と言っても、今日的には、女性を鞭打ったり、男性と乱交したり、教会の権威を貶めたり・・ってことて・・・話だけでは、皆驚かないんじゃあないでしょうか。まあ・・それも、彼の「功績」か・・・。
|
2010-06-11 14:16
|
記事へ |
コメント(3) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1552/
※ブログ管理者が承認するまで表示されません
ヘンリー8世は、6人もの女性を次々に王妃にして、そのうち2人もの王妃を処刑しているので、悪名高いのですが、まあ、よほど世継ぎの男子がほしかったのでしょう。
イングランドはサリカ法典を採用していなかったので、女王でもいいのですが、女性が王となると、その夫になる人物が問題なんですよね。力のある国などの王子などをうっかり婿にしてしまうと、乗っ取られる可能性があるんですね。そればかりか、本国の揉め事まで持ち込む。
ということで、どうしても世継ぎの王子が欲しかった・・・ただただ、それだけの理由です。好色だとか淫乱だとか言うなら、王様のまわりには、沢山美女がいるのですから、手当たり次第、選り取りみどりですよ。かのナポレオンですら、皇帝になったとたんに世継ぎほしさに、妻を取り替えるんだから、王様稼業は大変ですねえ。
で、そのヘンリー8世の世継ぎを産んだ唯一の女性がジェーン・シーモア。かのアン・ブーリンの侍女で、彼女とは全くタイプの違う大人しやかで、従順な女性だったとか。しかし、彼女が王妃であったのは1年ちょっと・・・つまり、妊娠して出産したそれだけの期間だけです。産褥で死んだのですから。
多産の家系だったために王に見初められたので、まさに目的を果たす(王子を産む)というためだけに存在した感のある、影の薄い女性ですが、アン・ブーリンの離婚や処刑などの経過も当然知っているのでしょうから、生きていればしたたかな王妃になったかも・・・。
その子供のエドワード6世も、王位を継ぎはしたものの17歳で早世しましたので、母子ともに影の薄い存在です。
|
2010-04-28 21:14
|
記事へ |
コメント(8) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1534/
※ブログ管理者が承認するまで表示されません
「浄瑠璃」は、今では人形浄瑠璃として残っている演芸ですが、語り物の音楽劇を伝統にしているものです。
それが、何故「浄瑠璃」と呼ばれるかと言えば、このジャンルでの絶大な人気を博した演目に「浄瑠璃姫物語」があったからだそうです。たとえて言うなら、韓流ドラマの総称が「冬ソナ」となったみたいなものではないでしょうか。
浄瑠璃姫は、平安時代末期の人という設定で、悲恋のヒロインで、岡崎市や豊田市にその伝説が残っているようです。
地方の名士が、薬師如来に子宝祈願をして授かった娘で、薬師にちなんで浄瑠璃と名づけて大切に育てられた深窓のお姫様。
それを、平家の世の中に、源氏再興を目指して平泉に下る途中の16歳の源義経(牛若丸ですね)が旅の途中に立ち寄って見初め、恋に落ちてしまいます。
この16歳のガキが、あつかましくも笛の合奏にことよせて、姫と話す機会を得るのですが、まあ、強引というか理屈っぽいというか、長々と美辞麗句を連ね、困惑する姫の言葉の揚げ足をとり、教養ある屁理屈で姫を口説きまくる。結論は「一夜、なびかせたまえ」。これのみ!
かくしてまあ、若い二人は(16歳と14歳です!! 今時の高校生がこんな理屈っぽい語りしませんが、当時の聴衆は、このかきくどく言葉遊びを楽しんだのでしょうね)一夜の契りを交わして別れます。
結論からいえば、これで、まあ、終わってしまったのですね。
伝説では、病に倒れた牛若を看病しに姫が出かけて行ったり、はたまた追いかけて川に身を投げて死んだとか、あるいは、待ち焦がれて病死したとか、まあ、この恋は、不首尾に終わったんです。
牛若にしたって、いかに源氏の御曹司とはいえ、将来は不明の行きずりの兄ちゃんだし、姫も親に内緒ですから、上手くいくわけがない・・というところが、この物語の「悲劇性」です。
なんやかや言葉巧みに言い寄る男。
お母さまにバレないうちに帰ってくれないかしら。
だけど、もっとお話もしていたい・・ああ、このままだと・・。
・・・だめよ! 絶対だめ! でも、このまま別れるのはいや・・・。
ああ・・どうしよう・・・どうしよう、という姫。
|
2010-04-02 13:54
|
記事へ |
コメント(6) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1527/
※ブログ管理者が承認するまで表示されません
カラヴァッジオ没後400年ということで、先日映画「カラヴァッジョー天才画家の光と影」を見て参りました。
カラヴァッジョのパトロンとして、デル・モンテ枢機卿が登場しましたが、ラストに、ボルゲーゼ枢機卿という人物が、なにやら画策して絵画を奪ってしまう・・というような感じでした。
この人物は、かのベルニーニのパトロンで有名なシピオーネ・ボルゲーゼで、先年来日した「ボルゲーゼ美術館展」でも公開された膨大な美術品を集めた方です。
カラヴァッジオ作品も沢山持っているのですが、悪どい方法で集めたのは事実のようです。
そもそもは、カラヴァッジオが、とある人物と女性がらみで揉め事をおこして(ほんと、この人ってロクなことしないですよね)、その件の仲裁に入ったので、そのお礼に絵画をもらったらしいのですね。
それで、気に入ってしまって、教会から受け取り拒否された作品などを買ったりしていました。さらに欲しくなって、作品を何点か持っていたダルピーノという画家を検挙させて、所蔵絵画を押収して自分のものにし、またエルコレで野垂れ死にのようにして死んだカラヴァッジオが、最後まで所持していた絵画を取り上げたというような、いささかあくどい方法で入手しました。
いかなる手段を講じても欲しいものは欲しい! というのでしょうね。それほど、熱心な?収集家であったようです。
この人の風貌としては、先日の展覧会にも出ていた、ベルニーニがこしらえた50代の肖像彫刻が有名ですが、この人物は、カラヴァッジオより5歳も年下で、枢機卿になったのは29歳ですから、彼の絵を集めていた頃は30代の前半です。
ちょっとクセのある若い枢機卿というイメージで・・。背景は勿論、この枢機卿が取り上げた「洗礼者ヨハネ」です。カラヴァッジオが最後まで手元に持っていたものです。
|
2010-03-27 12:11
|
記事へ |
コメント(12) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1526/
※ブログ管理者が承認するまで表示されません
モザイクといえば、ビザンチン! というのが自然な流れなのですが、ビザンツ帝国(東ローマ)はなかなかに複雑な継承をしています。
11世紀初頭、マケドニア朝のコンスタンティノス8世は、病に倒れて後継者選びが切迫し、重臣を娘のゾエと強引に結婚させることで帝位を安泰にしようとしました。60歳をすぎた花婿に(当然妻がいましたが、策略を用いて離婚させ)、50歳の皇女が花嫁です!この人がロマノス3世として即位しました。
この皇帝は、風呂で急死するという事態になり、皇后ゾエは、皇位安泰のために、またしても再婚することになります。名門のお姫様は大変だなあ・・と思うのは早計で、今度の花婿は、ゾエより30歳以上も年下の24歳の美貌の若者。即位してミカエル4世と呼ばれますが、実は、ロマノス3世時代にすでに皇后ゾエの愛人だったとか。
しかし、彼は顔だけの男ではなくて、野心に燃えて皇女に近づいて、目的を果たしたのですから、不要になった妻を幽閉するという暴挙に出たのは若さのせいでしょうか。皇帝としては有能だったそうですが、32歳で、病気のために、自分の従兄弟(甥?)を後継者指名をして修道院に入り、その日に死んだとは・・なんだかできすぎな気もします・・。その新帝がヨハネス5世。背後に二人の伯父にあたる宦官がいるのが陰謀くさい・・?
ヨハネス5世は、皇室と何の血縁も姻戚もないので、幽閉されていたゾエ(すでに皇太后ですね)を始末しようとするのですが、ゾエは民衆の支持を得ていたので、反乱が起こり、逆に彼が捕らえられて目を潰されて追放されたとか・・。
かくして、皇女ゾエ復活! 彼女は再々婚をせずに、自ら国を治める決意をします。そして血の絆を固めるためか、17歳年下の妹テオドラと共同統治します。ここに2人の女帝が並んだのですね。
ゾエは、もはや64歳という年齢でしたが、彼女はとてもその年齢には見えず美しかったそうです。しかし、美人姉妹?女帝の時代は、二人の不仲で、たった2ケ月しかもたなかったとか。やれやれ。結局、ゾエはまたしても「いい男」を物色することになり、42歳の元老院議員と結婚し、コンスタンティノス9世として即位させます。このカップルがアヤ・ソフィア大聖堂に肖像画が残るのですが、皇后ゾエはとても60代半ばには見えずかわいらしい姿に描かれています。13年後にあいついでこの夫婦が亡くなった後は、再びテオドラが女帝となりますが、彼女には夫も子供もいなかったため、マケドニア朝最後の皇帝となりました。
姉妹女帝を若作りで描いてみました。向かって左がゾエ。肖像画では眉毛がつながっているように見えます。
|
2010-02-18 10:58
|
記事へ |
コメント(8) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1516/
※ブログ管理者が承認するまで表示されません
ゴヤの数ある肖像画の中で、ウルティア提督を描いたものがあります。この人がどういう人であるかは、よくわかりませんでした。
時代的には、ナポレオンの侵略のある頃ですから、スペインの提督といっても、往年の無敵艦隊の頃はいざしらず、王族すら必死で逃げ出すような頃です。後に、ゲリラ戦などで、ナポレオンの兄が追い出されて、更に泥沼化したフランスとの戦いの時にも名前が出るようなので、そこそこがんばっていた人なのでしょう。
手に望遠鏡を持ち帽子を片手にポーズをつけていますが、なんとも暗い表情と、まるで難破船が出そうな荒れ果てた海岸が背景になっていて、ゴヤとしても、とても、りりしい軍人さんをホンモノより立派に描こうという意識がないような感じがします。
この人も、のんびり肖像画など描いてもらう場合ではなく、色々な悩みがありそうなので、興味が惹かれました。かなりの年配だと思うのですが、スタイルはまだまだ保っておられるようで、30過ぎでぶよぶよしているゴドイなどと違うなあ・・と。え〜・・まあ・・この時代の軍服を描くのが好きなんですわ・・・私。
|
2010-02-08 16:57
|
記事へ |
コメント(0) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1512/
※ブログ管理者が承認するまで表示されません
修道士カドフェルシリーズにハマったということを先日描いていましたが、修道院フリークなる人もおられるらしく、カドフェルといっしょに語られるマンガの「修道士ファルコ」(青池保子)なども、なかなかとお好きな方が多いようです。
私のネタ本の一つにアシェット版「世界の生活史」があるのですが、中世で修道院といえば、その具体的な建物の配置や、農園などの復元イラストが中々、眺めていて楽しいのですね。勿論、カドフェルシリーズの、本文の前に載っている修道院の地図もしかりですが・・。
で、まあ、ありきたりですが、やはりこういう絵を描いてみたいなあと・・修道士いろいろです。
向かって左は、ドミニコ会修道士。勿論、あの薔薇の名前の異端審問間ベルナール・ギー殿のところですね。
その次は、最も厳しい規律と清貧で知られる、フランチェスコ会の修道士。僧服も、布地粗そうで、なんだかゴワゴワしたイメージです。ドンゴロス・・みたいなね・・。小鳥や狼ともお話する聖人フランチェスコさんから始まります。この会では、靴をはかないで、真冬でも素足にサンダルですね。今は、靴下を履いてもいいそうですが・・。
そして、シトー会。これは、「修道士ファルコ」でおなじみですね。あのマンガを読んでいると、これが修道士のイメージとして定着してしまいますが・・。
そして、カドフェルのベネディクト会修道士です。一番汚れの目立たない服装ですね。
ちなみに映画「薔薇の名前」では、ベネディクト会の修道院にフランチェスコ会のウィリアム(ショーン・コネリー)が訪ねて行き、ここに異端審問間のドミニコ会のベルナール・ギーが来るという設定なので、坊さんばっかりで色合いは地味ですが楽しいですね(あ、ちょっとだけ、絢爛豪華な衣裳を着た枢機卿や、司教も現れます。宝石ちりばめたすごいカズラとか出てきて華やかですが・・)。
ところで、ローマ教皇が白いカソックを着ているのは、16世紀に教皇になったピオ5世がドミニコ会だったので、即位後もそのままの服装をしていて、それが、習慣になったとか。
あ! 無理やり4人つっこんだので、本日人名事典1600人を達成しました!
|
2010-01-18 16:00
|
記事へ |
コメント(8) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1503/
※ブログ管理者が承認するまで表示されません
ご存知マムシの道三こと斉藤道三です。
この秋には、なにやら戦国関係の資料やら、展示を見る機会が多かったのですが、安土考古資料館で、安土城の発掘をテーマにした展示がありました。
今年の秋は安土は、映画になったり、あるいは、町名変更などで、色々話題になったところですが、その展示だったか、大阪城の展示だったか、記憶が定かではありませんが、斉藤道三の肖像画が出ていたのですね。
この時代の肖像画は、死後追善だとか、子孫が法事に描かせたりするものが多いので、古いの姿をもとにして同じパターンのを何枚も描くようなことがありますので、まあ、どれもこれも微妙に違って似通っているんですね。だんだん美化される・・ということもあるかもしれませんが、あまり特徴のないものが多いですね。
ということなのですが、この斉藤道三さんの肖像画は、一度見たら忘れられないというか、笑ってしまうというか・・・特徴的なのは、もしゃっ・・とはやした鼻ヒゲ。そして小さくて人のよさそうなお目目。なんだか、笑える風貌です。いい人やったんやろうなあ・・なんて思えます。
しかし、この人がいわゆる「いい人」であったとは、一概に言えないですが、「英雄」と言えばいえますね。海千山千の、坊さん崩れで油屋あがりの戦国大名。で、婿は、あの信長ですし・・。一族では跡目をめぐって、親子喧嘩もしていますし、結局それで滅んだという、まあローマのマクシミアヌスのような、枯れない懲りないオヤジです。
でも、まあ、あまりに絵姿がプリティだったので、ちょっと落書きしてみました。
ところで、アクセスカウンターなるものをつけて見ましたが、これって・・どうよ・・?ちゃんとカウントしているかどうかわかりません。ブログの記録からは過去1年分しかたどれないので、一応1年前からのアクセス数から始めてみましたが・・、まあ、あってもなくてもいいですが・・。
|
2009-12-14 16:44
|
記事へ |
コメント(2) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1485/
※ブログ管理者が承認するまで表示されません
カボチャに目鼻(?)のハロウィンの飾り付けがやたらと目立つ昨今になってまいりました。
あんなものは、以前は、さほど見なかったのですが、ここんところ、個人の家の玄関にまで、クリスマスのライトアップと同じくらい盛んになってきましたね。
あのカボチャは、ジャック・オ・ランタンと言って、「提灯男」というほどの意味です。
アイルランドやスコットランドの鬼火伝説です(あちらでは、男の名前はウィルですので、ウィル・オ・ウィプス)。
日本風に言えば、成仏?できない幽霊が、墓場の辺りを彷徨っているんですね。つまり、「どこからともなく、なまあたたか〜い風が、す〜っとふいて、闇夜の墓場に、ぽっつ〜んと明かりが・・」というヤツです。そういうのをジャックのランタンだというのだそうです。
ウィルでもジャックでもいいのですが、まあ、そのジャックが、生前悪いことをして、地獄行き間違いないので、天国の門を守る聖ペテロを騙して、生き返らせてもらう。よほど口先の上手い男だったのでしょう、生き返って、再び悪行三昧、そして、また死んだ。今度は、ペテロは頭にきていて「お前には天国にも地獄にも居場所はないぞ!」と追い出されるんですね。
つまりは、あの世でも、此の世でもない、中有に(まあ、仏教ではないんで49日たっても何処にも行けない)彷徨うわけですが、死者なので暗い闇の中を、孤独にうろうろすることになる。それを見ていた悪魔が、あわれんで、煉獄の火(あるいは地獄の火)を石炭一つに移して、わけてあげる(う〜ん・・聖ペテロより悪魔が優しいのか・・・)。
ジャックは、悪魔にもらった明かりを、そこら辺に落ちていた、ひからびた蕪をくりぬいてその中に入れ、ランタンとして持って歩いている・・。だから、くら〜い夜に墓場のそばで、ぼ〜っと明かりが見えたら、それはジャックのランタンなんだそうです。
それが、新大陸に渡った人々の間では、アメリカには蕪がなかったので、カボチャで代用したのが、今は世界的に広がったのだとか。
ところで、ハロウィンは、全ての聖人の日である11月1日の前夜祭ということで、仮に死者が蘇ってくる日だということらしいのですが、なんとなく日本のお盆・・というほどには気楽ではない気がします。洗礼を受けずに死んでしまったので(霊界での)名前がなくて最後の審判まで彷徨わなければならない子供のオバケだとか、このジャックの話なども、ちょっと物悲しくて、私には、あまり楽しいとは思えないのですが・・・。
蕪のランタンを持つ幽霊・・の雰囲気で描いてみました。暗くてテンション下がりますかね?
|
2009-10-20 14:07
|
記事へ |
コメント(4) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1468/
※ブログ管理者が承認するまで表示されません
大阪府の吹田市は、千里ニュータウンとか千里万博とかに比べてもなんだかマイナーですね。「北摂マダム」なんて言葉も似合わんし。
で、戦国時代にも吹田はマイナーでしたが、一応、吹田城なるお城があって、意外と歴史は古く建武年間(1334年頃)にも遡るらしい。しかし大永頃に、吹田氏の当主(15歳の美少年だったそうです)が討ち死にしてから本家は滅亡しましたが、文字通りの吹田氏最後の当主は吹田村氏(すいたむらうじ)です。
そして、この吹田村氏の滅亡後、吹田城も滅んだようです(というのも、未だに城跡も発見されず、位置も諸説あって定かではないからですが)。
では、吹田村氏は誰に滅ぼされたか・・。
それは、もう知らぬ人とてない織田信長ですね。しかも京都の六条河原で、一族もろとも処刑されました。時に20歳。
なんで、マイナーな吹田城主が、そんなに織田のシニョーレの怒りをかったのか・・。
実は彼は、北摂大反逆者荒木村重の異母弟だったのです。吹田氏の女性を妻として入り婿していたのですが、荒木村重の反乱の時には有岡城(伊丹)に入ってて、責任者の村重がトンヅラしたあと、怒り心頭の信長に捕らえられたのですね。
摂津一円に勢力を持っていた村重は、逃亡後も、尼崎や花隈(神戸です)の城を次々と落とされ、結局毛利方に逃げ込んで生き延びたのですが、残された彼の一族や妻子、臣下たちは、女性も子供も殺しつくされました。
この反乱は、苦悩するキリシタン高山右近や、オルガンティーノ、とらわれの軍師黒田官兵衛、そして石山本願寺・・興味深いネタが満載なのですね。
それらの舞台となった北摂で、地元ネタとはいいながら、とても重要な戦国時代の様相を地域の博物館がやっておりますので。
|
2009-09-29 09:22
|
記事へ |
コメント(7) |
トラックバック(0) |
|
さ |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/randokku/trackback/1459/
※ブログ管理者が承認するまで表示されません