ゴヤの数ある肖像画の中で、ウルティア提督を描いたものがあります。この人がどういう人であるかは、よくわかりませんでした。
時代的には、ナポレオンの侵略のある頃ですから、スペインの提督といっても、往年の無敵艦隊の頃はいざしらず、王族すら必死で逃げ出すような頃です。後に、ゲリラ戦などで、ナポレオンの兄が追い出されて、更に泥沼化したフランスとの戦いの時にも名前が出るようなので、そこそこがんばっていた人なのでしょう。
手に望遠鏡を持ち帽子を片手にポーズをつけていますが、なんとも暗い表情と、まるで難破船が出そうな荒れ果てた海岸が背景になっていて、ゴヤとしても、とても、りりしい軍人さんをホンモノより立派に描こうという意識がないような感じがします。
この人も、のんびり肖像画など描いてもらう場合ではなく、色々な悩みがありそうなので、興味が惹かれました。かなりの年配だと思うのですが、スタイルはまだまだ保っておられるようで、30過ぎでぶよぶよしているゴドイなどと違うなあ・・と。え〜・・まあ・・この時代の軍服を描くのが好きなんですわ・・・私。
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2010-02-08 16:57
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和気清麻呂を出さずに、その姉さんを出すのは、かの有名な神託を受けに行くのは、もともと和気広虫の仕事だったからです。
広虫は、孝謙女帝に仕える女官。女帝より干支一回り年下の彼女は、女帝が病平癒のために出家した時、彼女もいっしょに出家して法均と名乗りました。すでに未亡人であったし、出家した女主人のそばで尼僧になるのは都合よかったかもしれません。
で、女帝が病を治してくれた僧侶道鏡を信頼し、彼を権力者にしたために、宇佐八幡宮から出た「道鏡を皇位に」という神託の真偽をただす勅旨に選ばれたのが法均尼・・つまり和気広虫だったのですね。
彼女は、病を理由にこの使命を弟の清麻呂に代行させたのです。結局、清麻呂は「先の神託はウソだった」という新たな神託を持ち帰って、女帝を激怒させることになり、清麻呂を穢麻呂、広虫を狭虫と改名させて流罪にしました。
この事件については、藤原氏陰謀説、女帝自作陰謀説など、いろいろあって、結局、道鏡が皇位につくということがなく、皇統は守られたとして、清麻呂は後世に英雄扱いされましたが、果たして真相は・・? 広虫が女帝の側近であり、代理が実弟であったということから・・なにやら、女帝近辺の事情かもしれませんね。
奈良時代の尼僧がどのような姿をしていたかよくわからないのですが、僧侶が男なのにスカート(裳)をはいているなどといわれていましたから、女性だとやはり裳はつけているだろうな・・と考えると、高松塚風の長い衣裳に袈裟をかけた・・という感じではなかったのでしょうか?
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2010-02-05 11:17
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やらわ |
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かつて、子供の頃には、鎌倉仏教の所では、えいさいがりんざいしゅう・・どうげんがそうとうしゅう・・などと、語呂合わせともいえない覚え方をしていました。
まあ、そのようなことがなくても、私の実家は曹洞宗で、仏壇の奥にはなにやら立派な椅子に腰掛けた坊さんの絵がかかっていました。ミニ掛け軸のようなもので、真ん中には仏像、右には達磨大師?(とにかく外国のお坊さん)。左に日本の高僧がかけてあるように記憶しています。で、多分、その椅子に座った人が、道元さんじゃないかと思っているのですが、どうでしょう?
婚家も偶然に、かつては曹洞宗でしたが、すでにキリスト教に改宗していて仏壇はありませんでしたので、奥にそのような高僧の絵がかかっていたかどうかはわかりません。
15年前に、震災の後、私の家に来た母が、父の位牌を入れるためにミニ仏壇を買い、かつての檀那寺と同じ曹洞宗のお寺のお坊さんに法事をしてもらいましたが、今の市内のお寺は、偶然というか必然というか、かつて婚家の檀那寺だったんですね。
まあ・・そういうことで、今朝の新聞で、永平寺で、坊さんが並んでパソコンの前に座り、インターネットで確定申告をしているう写真を見まして、道元さんを思い出したわけです。
道元さんの肖像画といえば、立派な椅子にかけた正装の絵もあるのですが、目玉を上に向けて空を睨んでいる三白眼の「月見の御影」というのが有名なので、その雰囲気で、やや若作りで・・・。
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2010-02-04 10:08
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た |
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聖ヒューと言えば、異教徒の祭礼のためにキリストと同じ殺され方をしたとされて、聖人にまつりあげられた子供ですが、もう一人の聖ヒューは、司教様でえらい人です。
この人は、聖遺物を集めて、自分の教会の繁栄のために尽くしたということですが、彼の行状には、まあ、いささか強引にすぎるお話も多々あるようです。早い話が、聖遺物泥棒です。勿論、小説の「修道士カドフェル」シリーズにも、青池保子の「修道士ファルコ」にも、修道士の聖遺物泥棒のお話は出てきますが、このヒュー司教は、司教さま自ら「収集」されたのですね。
毎度の私のネタ本「中世の奇蹟と幻想」(渡辺昌美・岩波新書)によると、各地の聖遺物を持つ礼拝堂などで、それらを拝観したときに、堂々と、あるいはこっそりと、それらのかけらを持ち帰ったそうです。ある教会で、聖マドレーヌ(マグダラのマリアですかね?)の骨を、指でこそっとちぎり取ろうとしたけれど、うまくいかなかったので、歯でくいちぎったとか。また、別の教会では、名高い王様の皮膚を、また、別の聖人の腱を引きちぎったりしました。
また、名高い、かの首を切られた聖者サン・ドニの頭蓋骨から歯を一本抜き取ろうとしたけれど、外れなかったので、鼻の穴から指を突っ込んで奥の骨を掠め取ったとか・・・。
これらの行為が、全てこっそりではなく、見つかったこともあるわけで、またあつかましくも、その当の教会の僧達の目の前でやったこともあるんですね。
勿論、もとの持ち主は怒りますが、そこはそれ、堂々と論戦をはって持って帰ったらしい。へりくつも理路整然としていては、誰も論破できなかったのかも。
ある僧院で、そこの秘宝である聖女の骨を噛み取ったときは、抗議する院長を、へとも思わず、誰もが聖体に接吻するではないかとゴネたとか。
まさか頭蓋骨をまるかぶりはしなかったと思いますが、まあ、そこはイメージで・・・♪ そばには、彼の「聖遺物収集」の協力者である弟子をつれていたようです。
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2010-02-02 14:03
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自らの命を犠牲にして、人を救う、という美談は、何も人間にだけ語られるものではありません。
信州駒ヶ根の早太郎伝説は、霊犬早太郎の物語です。まるで、狒々退治の岩見重太郎のような英雄伝説ですが、武器は己の牙だけという、刀を持たぬ犬の哀しさで、見事人身御供を食っていた狒々を退治したというのに、早太郎は自らも傷ついて、故郷の寺に帰って門前で死んでしまった・・という伝説です。早太郎は丁重に葬られ、神様として祀られているということです。
一方、同じような犬の犠牲の話は西洋にもあり、こちらはおフランスはリヨンの物語で、聖ギヌフォールです。
とある騎士の家で、赤ん坊を一人おいて外出していた時に、大蛇が赤ん坊を狙って入ってきました。一家の番犬ギヌフォールは、幼い主を守ろうと、果敢に大蛇と戦い、かみ殺して窓の外に投げ落としましたが、ゆりかごがひっくり返ってしまいました。
この騒ぎの最中に騎士が帰ってきて、部屋の中に赤ん坊が投げ出され、口にべっとり血がついた犬が息を切らしているのを見て、てっきり赤ん坊を食い殺そうとしたと勘違いして、犬を殺してしまいます。あわてて子供に駆け寄ってみたところ、子供は無傷なので、不審に思い、調べて見ると窓の外に大蛇がかみ殺されているのを発見。しまった、はやまった、えらいことをしてしまったと、この忠犬を手厚く葬って、犬を可愛そうに思った人々は、やがて殉教者?と称えて、子供を守る「聖人」になったのです。
ですが、後に、犬を聖人扱いするのは、悪魔崇拝だと、お堅い聖職者が非難して、この伝説が残ったようです。多神教の国なら、まあ、忠犬神社があってもかまいませんが、なかなか素朴な村の「聖人」も、あちらでは大変ですね。
ところで、聖ギヌフォールという人間の聖人もいて、この人は、アイルランドの出身で、ミラノで体中に矢を射掛けられて、そのままパヴィアにたどり着いて死んだという、まるで聖セバスティアヌスのような、矢だらけ聖人だそうですが、どうしてミラノで矢ネズミ?になったのか、何故パヴィアなのか?調べられませんでした。犬のギヌフォールのほうは、沢山出てくるのに・・・・。
早太郎は山犬の子で、灰色の毛並み。ギヌフォールはグレーハウンドだとされており、毛色はわかりませんが、もともとグレーハウンドという犬はグレーの犬だったという説もあるので、やはり灰色っぽくしてみました(人名事典なのに、犬はいいのか・・と言われそうですが、どちらも後に、神様や聖人になったのだから、そんじょそこらの犬ではありません)。
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2010-01-28 10:25
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寒くなると、なぜかヴィヴァルディの四季の「冬」を思い出しますが、先日新聞で彼の記事を読みまして、生きている時からすでに忘れられていた音楽家・・などと書かれていまして、興味を持ちました。
「四季」以外は、本当に一般的でないのですが、作品は500曲以上あるそうで、これからも発見されるかもしれないらしい。本人はヴェネツィア出身ですが、「四季」だけを聞いても、なにやらイメージは田園地帯での狩猟などを連想しますよね。「冬」も、とても寒そうでみっしり雪が降っているような・・。
アントニオ・ヴィヴァルディは、ヴェネツィアの理髪師の息子で、子供の時からヴァイオリンの才能があり、司祭になってからは、教会の孤児院の子供たちを指導して歌を歌わせたりしていたそうですが、これがとても評判だったらしい。
赤い衣裳を着て鬘をかぶって筆を執る中年の肖像画が有名ですが、なにやらロココ調の、キラキラした服装をして、少女風?な顔立ちのバイオリンを引く絵を見ました。指先が肉付きがよく、するんとしていて、まさにロココの指だ〜!って感じでして、右手にも左手にも小指に指輪をはめている。しかも、真珠の片耳ピアス。
宮廷音楽家みたいな姿ですが、申し訳程度に?頭には司祭帽を被っています。愛人もいたということですから、世俗的だったのでしょうね。流行作家だった時期のものでしょうか。演奏家でもあり、オペラなど上演する時はプロデユーサーでもあったらしいのですが、「興行成績」がおもわしくなくなった晩年に、ウィーンに出かけましたが、客死し、貧困者の墓地に埋葬されたとか。
あだ名を「赤毛の司祭」といったそうなので、赤毛をはみ出させてみました。演奏ではなくて指揮者風に・・。
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2010-01-25 15:01
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シチリアのノルマン王朝は、華やかなイメージですが、やはり、ルッジェーロ2世が、一番「花」ですかねえ。王宮教会のモザイク壁画でも、キリストから祝福される王の豪華な衣裳が印象的。
この王様は父の死後、即位した時は6歳で、当然政務を見ることができなかったので、補佐したのが27歳の王妃・・つまり彼の母親アデラシアだったのです(いつも興味深いイタリア記事満載のCucciolaさまのサイトに彼女の記事が出ています)。
摂政としての彼女は、なかなか有能であったようで、息子が成人するまで、他の幼君の公国が内乱を起こしているのに、パレルモに本拠をすえたこの国は安泰であったようです。
で、息子が一人前になって、国政を譲り渡した彼女は、なんと「お嫁に行く」のですね。その嫁入り先は、新設のエルサレム王国! ここの王様ボードワン1世が花婿さん。第二の人生というには、なかなかにすごい決断ですね。
この王様には、跡継ぎがないので、彼女が子供を産むことができたらエルサレム国王になるという約束です。もし、子供が生まれなくても、国王が亡くなれば、彼女の息子ツマリ「ルッジェーロ2世」がエルサレム王を兼ねるというのですから、どちらにしてもすごい野心ですね。
アデラシアは40歳、ボードワン1世は50歳くらいですから、かなりのシブい新婚ですね。勿論、彼女の「王国」への野心のみならず、ボードワン1世のほうは、お金持ちの王妃・・つまりは花嫁の持参金狙いですね。
この結婚は失敗し、結局、彼女の持参金が消費されてしまうと、王は前妻との離婚が成立していなかったと言い出し、破局します。 失意のうちにシチリアに戻った彼女は、1年後に死にますが、このセコい「花婿」も、その次の年に遠征先で死にます(もう少し待ってりゃよかった?)。
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2010-01-24 15:13
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あ |
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何処の国においても、王妃や王に仕える宮中の女官というのは、単なる裏方ではなく、本人が望むと望まざるとに関わらず政治的な色彩を帯びて来るものです。
王やその家族の存在が政治的なものだからですが、彼らの身の回りを世話し、秘書を務め、実務を時には補佐し、極端な場合は国王や王子たちの「愛人」までつとめる場合もあり、思わぬ権力を手にするという場合もあります。
ましてや、仕える国王が女性・・つまり女王であるとするならば、その存在感は増します。
ということで、実は、平日のレディスディーの朝っぱらから無理やり時間を作って、映画「ヴィクトリア女王ー世紀の愛ー」を見てきましたので、あの時代の絢爛豪華な衣裳の数々を堪能してまいりました。
会場に期間限定で映画の中で使われた衣裳が展示してあると言うのも、目的だったのですが、主人公の二人、タイトルからして、若きヴィクトリア女王とその夫の物語なのですが、周りの人物がなかなかに面白かったですよ。
すごく印象的で、あの目つきはどっか見たことがあるのに、誰だかよくわからないなあ・・と思っていた宰相メルバーンが、なんと!! シラスだった〜!ひえ〜! それに、叔父にあたるレオポルド公もカッコよかった・・。この人が自分の別の甥を、イギリス女王であるところの姪の夫にしようとやっきになっているんですね。政略丸出し・・。女王の母の秘書官で権力志向のコンロイも「悪い男」で、この個性的なおじさん三悪人が目だってたので、いかにもアルバート公は(主役なのに)小物に見えましたね・・うん・・まあ、あまり印象的ではなかったなあ。
で、宰相のメルバーンが送り込んだ女官長がなかなか素晴らしい衣裳を着ていまして、印象に残ったので描いてみました(かなり細めの身体に修正?していますが・・)。
この時代は(1840年頃)、まだクリノリンがあらわれておらず、かといって身体に密着したスケスケ衣裳のエンパイアスタイルはすたれていて、過剰な装飾もなく、かなりすっきりしたシルエットだったのですね。ウォルト(ワース)のようなデザイナーが出るのはまだもう少し先です。
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2010-01-21 21:24
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「実は生きていた」伝説については、世界中でその話題があるのですが、義経のジンギスカン説話に次ぐのは、日本の物語の中では「秀頼薩摩落ち伝説」ではないでしょうか。
大阪夏の陣で、真田幸村は戦死、淀殿、秀頼は火をかけられて自刃・・というのが豊臣家の最後なのですが、ここに、島津家が密かに船を仕立てて、秀頼を薩摩に逃がしていた・・という伝説は、大阪落城当時からあったようです。
有名な京童の戯れ歌とされるのは、
花の様なる秀頼さまを、鬼の様なる真田がつれて
退きものいたり、かごしまへ
というものですが、まあ、豊臣方の勇将が、実は主君を奉じて、捲土重来を期して、一時退却した・・というのは、いかにも一般受けしそうですよね。
その証拠が、外国人の記述だとか、鹿児島にいまもいる木下を名乗る秀頼の子孫だとか、真田の子孫だとか、また墓があるとかいうものです。徳川方も、秀頼は、鹿児島でアル中になっているとかいうウワサを流したとか、流さなかったとか・・。
外国人の記録には、巷のウワサとしてこのような説があると記しているようですし、島原の乱の天草四郎が秀頼の息子で本名は豊臣秀綱というのだ・・なんていう伝説もあるそうです。
それにしても、かの京童の歌は、実情にはそぐわないそうで、秀頼は身長190センチに近い肥満体の巨漢で、真田幸村は小柄できゃしゃな武将だったそうなので・・・花と鬼とは、どっちがどっちやねん?と思いますが、まあ悲劇の若殿は、三蔵法師のように、非力な様子が一般受けするんでしょうね。テレビもネットもない時代、庶民は秀頼の顔をしらなかったのでしょう。
でも、絵柄としては、優男の若殿と、ゴツい家来がいいので、そんなイメージで。幸村がマタギみたいな格好をしてスキンヘッドなのは・・・・・なりゆきです。
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2010-01-20 20:31
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修道士カドフェルシリーズにハマったということを先日描いていましたが、修道院フリークなる人もおられるらしく、カドフェルといっしょに語られるマンガの「修道士ファルコ」(青池保子)なども、なかなかとお好きな方が多いようです。
私のネタ本の一つにアシェット版「世界の生活史」があるのですが、中世で修道院といえば、その具体的な建物の配置や、農園などの復元イラストが中々、眺めていて楽しいのですね。勿論、カドフェルシリーズの、本文の前に載っている修道院の地図もしかりですが・・。
で、まあ、ありきたりですが、やはりこういう絵を描いてみたいなあと・・修道士いろいろです。
向かって左は、ドミニコ会修道士。勿論、あの薔薇の名前の異端審問間ベルナール・ギー殿のところですね。
その次は、最も厳しい規律と清貧で知られる、フランチェスコ会の修道士。僧服も、布地粗そうで、なんだかゴワゴワしたイメージです。ドンゴロス・・みたいなね・・。小鳥や狼ともお話する聖人フランチェスコさんから始まります。この会では、靴をはかないで、真冬でも素足にサンダルですね。今は、靴下を履いてもいいそうですが・・。
そして、シトー会。これは、「修道士ファルコ」でおなじみですね。あのマンガを読んでいると、これが修道士のイメージとして定着してしまいますが・・。
そして、カドフェルのベネディクト会修道士です。一番汚れの目立たない服装ですね。
ちなみに映画「薔薇の名前」では、ベネディクト会の修道院にフランチェスコ会のウィリアム(ショーン・コネリー)が訪ねて行き、ここに異端審問間のドミニコ会のベルナール・ギーが来るという設定なので、坊さんばっかりで色合いは地味ですが楽しいですね(あ、ちょっとだけ、絢爛豪華な衣裳を着た枢機卿や、司教も現れます。宝石ちりばめたすごいカズラとか出てきて華やかですが・・)。
ところで、ローマ教皇が白いカソックを着ているのは、16世紀に教皇になったピオ5世がドミニコ会だったので、即位後もそのままの服装をしていて、それが、習慣になったとか。
あ! 無理やり4人つっこんだので、本日人名事典1600人を達成しました!
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2010-01-18 16:00
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ローマ喜劇の本をよみまして、プラウトゥスとテレンティウスという劇作家が、日本ではあまり知られていない、ということを、知りました。
しかし、この本を読む以前から、この名前が私の頭の中にはインプットされていて、それがローマ時代の劇作家であるということも、すでに知識として持っていました。いえいえ決して、知識を自慢しているのではありませんよ。西洋文学史の勉強などあまりしたことがないのに、何故かなあ・・・という疑問がわきあがってきたのですね。
で、ハタと思い出したのは、一昔前のレスリー・ニールセンの裸シリーズ! そうそう・・このあまり上品とは思えないコメディです。このシリーズは、色んなパロディをやっていて、まあ、品のないギャグを満載した映画ですが、これの「裸のローマ帝国2000と2分の1年前」という「イタリア映画」がとっても面白かった。いえ、これは、本当に古代ローマ好きにはおすすめのパロディ映画です。
以前紹介した、小森谷慶子先生の「古代ローマ散歩」の改訂版にも、今回登場しています。で、この映画の中で、劇場のシーンで、この作家の名前が出てきます。「退屈で大仰な格調高いギリシャ悲劇より、プラウトゥスやテレンティウスのほうがよほどいい」というセリフがあるのです。
それほど西洋人の間では有名なこの作家も、紀元前の人で、カエサルより古い時代なのです。プラウトゥスがシェークスピアに影響を与えたよいうことですが、テレンティウスの生涯は、伝説化されています。
カルタゴの奴隷市場で売られていたベルベル人の少年を、ローマの元老院議員が買って、その才知に感心して教育を施します。この、異国の文学少年は、エキゾチックな容姿の魅力と才能で若い貴族達(小スキピオがいた)のサロンの寵児となります。
さらに、向学心に燃え、ギリシャに赴き、研鑽を積み、新作をいくつか完成させて、帰国の途につく途中、船の事故で、作品を失い、失意のうちに25歳の若さで死んでしまった・・・というドラマまで生まれました。
しかし、アフリカ人ではなかったとか、年齢も35歳だったとか、研究者によるとこの文学サロンも存在しなかったそうですし、彼自身が存在しなくて、誰か名門貴族の偽名だったという説もあるそうですが、伝説は、ロマンがあるほうがいいでしょう。
異国風のローマ人・・というイメージで。
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2010-01-17 10:48
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セピア処理が地味すぎて、影が薄くなってしまいました。
オーストリアのナイペルク伯爵アダム・アーダルベルトです。
ナポレオンの二番目の妃マリー・ルイーズが、ナポレオンと別れた後、オーストリアに帰って、パルマ女公になりました。
そのマリー・ルイーズのそばにあって、彼女を守り助けることを生涯の使命としたのが彼です。
ナポレオン没落後、政治的な結婚であったにもかかわらず、ナポレオンに愛情を抱いているマリー・ルイーズが、彼の元に駆けつけないように、父である皇帝とメッテルニヒが策略をめぐらし、護衛として送り込んだのがナイペルクだと言われています。
単なる姫の忠実な護衛ではなく、いかなる手段をとっても姫の気持ちをナポレオンから切り離せ・・と言われていたので、その使命を忠実に果たし、マリー・ルイーズの心を自分に向かわせる。まあ、つまりは色仕掛け・・ということになるんでしょうか。当時すでに40歳を越していた妻子ある男が、若い姫を慰める・・は面白すぎて、できすぎです。
そういう下世話なことではなく、心より姫を守り、姫のことのみを考えて常に側にいて、頼りになる男性・・・。不幸な姫であるマリー・ルイーズの心のよりどころとなり、愛情の対象となるのは時間の問題であったのではないでしょうか。
パルマ女公のマリー・ルイーズの、公生活では宰相として政務を行い、私生活では夫として支えました(妻とは離婚しています)。勿論、彼女が皇帝のお姫様であったからですが、上から目線の「亭主」という存在ではなく、妻に忠実に「仕える」夫というのは、なかなか貴重なものだと思いませんか? 姫の前夫の息子には嫌われても耐える感じで。
肖像画は、片目アイパッチの、ちょい悪風なので、まじめでやさしそうな・・というイメージで。頼まなくても、コートなど手に持ってついてきてくれそうな。
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2010-01-15 11:35
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な |
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ルイス・ソテロは、スペインはセビリア出身の宣教師です。
ソテロは、これまで日本に来ていたイエズス会の宣教師ではなく、フランシスコ会の所属です。もともと、日本の布教については、イエズス会が独占していましたが、日本のことが知られるようになると他の宗派も現れます。イエズス会とフランシスコ会はあまり仲がいいとは言えず、日本ではやや過激な傾向にあるフランシスコ会がキリシタン弾圧のきっかけを作ったという説もあるようです。
このルイス・ソテロが日本にやってきたのは、勿論、宗教的情熱もありましたが、ユダヤ系と言われる彼は、商才もあり、野心家であったといわれています。そして語学の才能があり、家康や秀忠にも謁見しており、フィリッピン総督の船が漂着した時には幕府の通訳をつとめています。
伊達政宗と知り合い、仙台にも布教。幕府が禁令をしいて捕らえられた時には、政宗は彼の助命嘆願し、仙台に迎えます。
そして、スペインとの貿易交渉の使節・・つまり支倉常長の慶長遣欧使節のプロデュースはソテロが行ったのです。
その後、遣欧使節は成果を挙げずに帰国、日本の事情も禁教に向かう中、再び来日して長崎で捕らえられます。伊達の殿様はまたしても、助命嘆願をしましたが、今回は許されず、火あぶりの刑になりました。
肖像画は、哀しげな顔をしたちょっと「おじょうちゃん顔」なのですが、フランシスコ会といえば・・どうしても夢見るような目つきの聖フランシスコを思い浮かべてしまいますので、そんなイメーージにしてみました。
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2010-01-14 11:19
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やらわ |
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北方の勇者とくれば、もう一人。仙台の伊達の殿様を超える人はいません。
ということで、本日は、黒尽くめの伊達政宗です。
この方については、もはや大河ドラマでも、ゲームでも、戦国の英雄としては独特の地位を保っておられます。幼いときに病で片目を失うという(目玉をくりぬいたとか、食ったとかすごい伝説もありますが、それは、まあ三国志などの影響で講談師が流行らせたのかもしれませんね。独眼竜というあだ名も講談でついたそうですから)ハンデがあったにしろ、時期を見るにふさわしい人物であったのでしょう。死ぬまで、天下を狙う野心を持っていたといわれますから、もう少し早く生まれて、信長や秀吉らと天下を争いたかったかもしれません。親子ほどの世代の差です。
天下を狙う野心のあらわれとして、世界の大国スペインと取引しようとして、支倉常長を派遣しました。女性にもモテたのでしょうね。妻妾は多かったようですが、後に江戸で評判の遊女高尾にフラれて腹いせに彼女を切って捨てて「なぜに高尾は惚れなんだ」と歌われた伊達陸奥守は、彼の孫にあたります。
先日、復元品ですが、彼の甲冑を間近に見る機会がありました。有名な話ですが、ダースベイダーのコスチュームのモデルとされていますので、陣羽織ではなく、黒マントを着せてみました。彼だってマントくらい持っていてもおかしくないでしょう?
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2010-01-13 13:38
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阿弖流為(あてるい)は、平安初期の蝦夷。北方の勇者であります。
たとえて言うなら、カエサルに対したガリアの英雄ウェルキンゲトリクスのような・・と言えばいいでしょうか。
しかし、地元の地理に明るかったのでしょうが、鮮やかな戦法を用いて、朝廷軍を翻弄し、少人数で、討伐軍を敗退させた・・ということなのですが、彼らの側に立った記録はなく、朝廷側の歴史書に記されているのですから、本当は、もっとスゴイ英雄であったかもしれません。
結局、朝廷軍紀古佐美が敗退し、ついで、東国に向かった坂上田村麻呂らと闘って、阿弖流為は敗北し、降伏しました。武将としての坂上田村麻呂は、彼らを京に連行しましたが、この北方の英雄を処刑するにしのびなく、地元の豪族である彼らを解放して温情を示し、北国経営のために役立てるのが得策と進言しましたが、北の地の勇猛な人々に怖れおののいていた貴族達が納得せず、結局、河内で処刑された・・ということです。
その場所は現在では明らかではありませんが、枚方市ではないかという説があるそうで、首塚や胴塚などの伝説があり、石碑がたっているそうです。
8世紀頃の蝦夷の軍人が、一体どのような姿をしていたのか・・とてもイメージできないのですが、さほど野蛮ではなかったのではないかと思います。平安時代初期の、朝廷の軍にしても、よくわからないんですしね。この間、京都の清水寺(坂上田村麻呂の邸宅跡)にお参りしたので、境内にある石碑を見ましたので、思いつきで・・・。
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2010-01-12 16:13
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伊達政宗という殿様はけっこう複雑な方ですが、この殿の臣下で、君命を帯びて太平洋を渡り、はるかスペインまで行ったのが支倉常長。
今でこそ、慶長遣欧使節として有名ですが、天正の使節と同じく、その後の日本では忘れ去られ、支倉常長の存在そのものまで仙台では封印されていて、新たに脚光を浴びたのは明治になってからです。岩倉使節団がヨーロパに行くまで知られなかったのですね。
さて、そのような使節は、仙台伊達の殿様の野望を秘めていました。太陽の沈まない帝国(とはいえ、当時はもう世界最強の無敵艦隊も沈み、さしもの大帝国も沈みかけていたのですが、それでも、超大国)スペインと、伊達さんは貿易を試みたんですね。
スペイン出身の宣教師ルイス・ソテロの案内で、なんと東廻り!つまりメキシコを経て、スペインに行ったのですから、これはすごいですね。
スペインではすでに、日本の事情(徳川家によるキリシタン禁令など)が知られていて、地方領主にすぎない伊達家の使節は、あまり重要視されず、貿易の話も進まなかったようなのですが、支倉常長は、ローマに赴いてローマ教皇に仲介に入ってもらおうなどという大胆なことを考えます。
そしてローマ入りしして、教皇パウロ5世に謁見して、手紙を渡すことができました。この手紙は信長の屏風が行方不明になっているのと違って、今でもバチカンにあるそうです。ローマでは、歓待を受け、貴族に列せられ、ローマ市民権(ローマ市民権ですよ〜!!)までもらったのですが、まあ、スペインとの貿易は上手くいかず、そのまま帰国します。
ところが、帰国後、日本はもう徳川の天下が定まっており、キリシタンは禁止(彼はドン・フィリッポ・フランシスコという洗礼名を持つキリシタンでした)。苦労した渡航は実を結ばず、弾圧の嵐が吹き荒れる中、帰国2年後に死没。息子は刑死。常長をヨーロッパに連れて行った宣教師のルイス・ソテロも長崎に再度密入国していましたが、火刑で殉教しました。
明治になって封印が解かれた支倉常長関係の資料は、現在、仙台市博物館で見ることができます。
先日、ボルゲーゼ美術館展で、支倉常長の絵が出ていましたが、なかなかに立派ないでたちは、彼がどれだけ意気込んでローマ入りしたかがわかりますね。黒い服を着て祈りを捧げる敬虔そうな絵もありますが、あえて、派手なほうの衣裳を着せてみました。原画では、袖のある羽織のようにも見えますが、中途半端な長さなので、陣羽織ではなかったかと思って、袖なしにしてみました。ポーズも、ちょっと「ローマ貴族」っぽく・・・ホンモノですから。
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2010-01-09 15:54
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何を今更・・と言われるかもしれませんが、世間の流行とはかなりズレてやてくるのが、おばさんのマイブーム♪
で・・・この年末から再びハマり出したのが「修道士カドフェル」シリーズです。いえ・・もうかれこれ・・・10年くらい前に一度読んだことがあるのですよね。しかしながら、当時は読み飛ばし・・という感じで、忘却の彼方。
しかし、なんだか、最近私は、「坊さんブーム」?なので、思い出して、再読を始めたわけですね。現在は絶版になっている現代教養文庫版です。
このシリーズは、修道院がらみでおこる様々な殺人事件をめぐって、「名探偵」カドフェルが推理するミステリです。しかし、一方的に謎解きをするのは彼だけ・・というんではなくて、周りの登場人物もそれぞれに重要な推理や実働をします。
カドフェルは平修道士ですが、いわゆるアラカンの年齢で、若い頃、十字軍!!(出た〜!)に参加し、危ないことも、いけないことも経験した、大人で、薬草や医術に詳しい修道院のお医者さん。
海千山千のこの方がなかなかの腕前ですね。外見は太っちょで背が低くてガニ股・・なんていわれていますが、若い時にはカッコよかったんじゃないの?
しかし、なにしろ修道院ですから、無菌培養みたいな「聖人君子」ぶってる人もいれば、とんでもないヤツらもいるし、そこんところがなかなか面白いんですよね。このシリーズが好きな人は、青池保子の「修道士ファルコ」も好きみたいですね・・って、世界観がよく似ているので・・・。
テレビシリーズがあったのも大分前ですが、ある程度読み進んだらDVDでもレンタルしてみるかなあ・・。
くわしいサイトとして「カドフェルの薬」があります。
本は、現在、光文社文庫で出ています。聖女の遺骨求む ―修道士カドフェルシリーズ(1) (光文社文庫)
テレビのカドフェルは、前髪もあるれっきとした円形のトンスラ姿ですが、なんとなく天然トンスラにしてみました。ところで、「ブラザーカドフェル」というのは薔薇の「名前」!です。
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2010-01-08 15:49
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八十島祭の行われた場所の推定として、重要な関係がありそうなのが、吹田の垂水神社です。孝徳天皇時代の難波に、高樋を用いて水を送ったという伝説がありますが、いわば、日本の古代の水道橋ですね(ですが、多分木製だったのでしょうね。ローマのような石造りのアーチを想像するとあまりにも壮大すぎますが・・・)。
その、垂水神社の主祭神が豊城入彦です。系譜は、崇神天皇の第一皇子ですが、父の天皇が、後継者として次男とどちらを選ぶべきかということで、「夢占い」をしたという説話があります。
兄は、山に登って四方に向かって鉾を振り回す夢を見たと言い、弟は、山に登って四方に縄を張り、雀を追い払う夢を見たと応えます。これで、国を守るのは弟がふさわしく、国を広げるのは兄がふさわしいとして、弟が即位(垂仁天皇)し、豊城入彦は最前線たる東国に向かわせた・・ということになっています。
この物語は、四道将軍の派遣とか、彼の甥の息子にあたるヤマトタケルの物語と似ているとか言われていますが、どうなんでしょうね。伝承では、東国に地盤を築き、上毛野、下毛野あたりの豪族の先祖になった・・ということです。
古代は色彩に満ちていたのではないかと思っている私ですが、神社に祭られた神様ですし、お正月でもあるので、白い衣裳にしてみました。
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2010-01-05 21:40
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新年明けましておめでとうございます。
旧年中は、沢山のご訪問、コメント有り難うございました。
本年も、ぼちぼちやってゆきますので、どうぞよろしくお願いします。
さて、古代難波の宮廷祭祀のひとつに八十島祭りと言うのがありました。文献上は、平安初期の文徳天皇の時に初めて登場し、鎌倉時代の後白河天皇の時が最後であったとされているものです。
新しい天皇が即位すると、宮中から祭使が派遣され、舟に乗って難波までやってきて、海に向かって祭りを行いました。そのクライマックスは、伴奏に琴をかき鳴らすにしたがって、女官が持ってきた天皇の衣を海に向かって振るというものです。
これには、悪いものを衣からふり祓って捨てるという説と、海から活力をもらって衣に移して持ち帰るという全く逆の説があったようです。その祭りを行った場所も、現在のどのあたり、またどの神社であったかということも諸説あるそうです。難波の海岸線そのものの形も時代によって、今は変わっているようですから、よくわからないのでしょうが、いずれにしても内陸の京の都から、難波の海までやってきて、自然の力から霊力を得たということは、なにやらすがすがしい感じがします。
ということで、本年が良い年でありますように。
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2010-01-01 00:00
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岩見重太郎の物語が、あだ討ちものだということを先日書きましたけれど、この重太郎のにっくき敵が、広瀬軍蔵です。
小早川家の武術師範であった岩見重兵衛は、広瀬軍蔵という剣の卑怯な方法によって殺され、師範の職も奪われます。息子や娘まで卑劣な広瀬一族によって罠に落とされて逃亡せざるをえなくなりますが、うまく逃げ延びた重太郎は諸国武者修行をして、(この間大蛇や狒々を退治します)、ついに天橋立であだ討ちをすることになります。
で、その悪役が広瀬軍蔵ですが、この物語を、宮乃木神楽団が、伝統芸能に新しい息吹を吹き込んだ演技をやっておられるようです。その映像などをみておりますと、なかなかカッコいい悪役なので、描いてみました。凧絵っぽくもあり、色合いも渋かったので・・。
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2009-12-30 21:49
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年末になると、なぜか凧絵っぽいものが描きたくなります。そして、本日は岩見重太郎です。
実在の岩見重太郎は、薄田兼相(岩見家から叔父の薄田家に養子に入った)という戦国時代の武将で、旅をして武者修行をし、豊臣秀吉に仕えた人物だそうですが、物語としては、父のあだ討ちの旅をするうちに、大蛇を退治たり、若い娘を食う狒々を退治したりという、スサノオのような、あるいは聖ゲオルギウスのような英雄とされています。そして、天橋立で、父の仇にめぐり合い、見事本懐を遂げることが出来たというものです。
大阪の淀川区にある野里住吉神社の祭礼が、人身御供の女性を救うために大蛇退治をしたという伝説と関連づけられているようですが、有名なのは、狒々退治のほうでしょう。
毎年、村の若い女性を人身御供に差し出さなければならない白狒々に困っていた村にたどりついた重太郎が、娘の身代わりに長持ちの中に入って、出てきた狒々と闘い、やっつけるというものです。新作神楽などでは、女性の着物をかぶって登場するなかなかの人気演目だそうです。
狒々がまた面白いのですけれど、大阪の伝説として(吹田にも岸部の釈迦が池に大蛇がおり、こちらは、吉士の英雄が倒したことになっています)大蛇退治のほうにしてみました。(・・狒々が描きにくい・・ってこともなきにしもあらず・・。)
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2009-12-27 16:24
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ナポレオンの友人であったランヌ元帥の夫人。
ランヌは、ちょっと猪突猛進なくらいの勇猛な軍人ですが、彼女はなかなかの女性だったようです。ランヌが最初の妻と離婚して後(戦争に行っている間に妻が浮気をした。それくらいで、離婚してたら、ジョゼフィーヌはどうなるねんって思うけれど、まあ、普通・・離婚でしょうね)、ナポレオンの妹、浮気者のカロリーヌをミュラと争って負けます。その後に再婚したのが、この夫人ですが、ミュラはカロリーヌに振り回されたけれど、この賢夫人は、しっかりしていて、勿論美人でもありましたし、ランヌが死んだ後も、女官として働いて5人の子供を育てました。
彼女が、女官長として仕えていたのが、ナポレオンの二番目の妻マリー・ルイーズです。この若い異国のお姫様を支えて、ナポレオン没落後も、彼女と子供をオーストリアに届けています。
これについては、女官の彼女が、自分がエルバ島までマリー・ルイーズについて行くのは真っ平だったから、さっさとナポレオンを捨てての策謀だと評判が悪いのですが、5人の子持ちの未亡人としては、将来もない主君を捨てるというのは、大いにありでしょう。だって、ナポレオンの子供だって、フランスに残ったり、流刑地に行くより、オーストリアであれば、とりあえずは命に別状はない・・ってことだと思いません? ある意味、彼女の選択は正しかったんじゃないかなあと思いますが・・。
ナポレオンに対する「忠誠心」も、夫はこき使われた末に戦死したら、持てないんじゃないかなあ?
ところで、「モンテベッロ」も、イタリアンワインの名前ですが、年末年始・・飲みすぎに注意しましょう。
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2009-12-26 13:16
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清し この夜 星は光り
救いの御子は
馬槽(まぶね)の中に
眠り給う いと安く
クリスマスの定番というもおろかな古典「きよしこの夜」ですが、この曲は、ナポレオン戦争と関連があります。今はオーストリアとなっているオーベルンドルフという小さな村の、その名も聖ニコラウス教会で、1818年のクリスマスに初演されたことがわかっているからです。
この歌が生まれた背景には有名な「伝説」があります。
ナポレオン戦争によって荒廃し、支配者もたびたび変わった小さな寒村にある小さな教会に、新しく赴任してきた副司祭のヨーゼフ・モールは、この教会のオルガンがネズミにかじられ、クリスマスミサができないことに困惑します。
そこで、自分で詩を作り、近くの村の小学校のグルーバー先生に作曲を頼み、二人は、ギターで手軽に伴奏ができ、村人が誰でも歌える簡単なメロディの「聖夜」の歌を、たった一日か二日で作りあげました。
この村の神父と村の先生の合作は、村人の間で評判になりましたが、やがてモール神父も別の教会に去り、忘れられました。
ある時、教会のオルガンの修理のためにチロルから来たオルガン製作者が、オルガンの中に残されていた楽譜を見つけて持ち帰り、チロルで広まりはじめ、やがて世界に広がった・・というお話です。
しかし、事実は、歌詞はすでに2年前に作られていたとか、、ネズミのオルガン破戒説は根拠がないとか、言われていますが、まあ・・お話としては面白いんじゃあないでしょうか。
作曲も全てモール神父だったのを、グルーバー先生が功績を横取りしたとか生臭いウワサもあるようですが、この2人は生涯にわたって交流がありました。音楽家としてある程度成功したグルーバーに比べて、貧者への施しに生涯を貫いて最後まで貧乏だったモールに同情した人の説かもしれませんが、お互いに職分を全うしたってことではないでしょうか。二人とも、ナポレオン戦争で困窮した庶民の出身です(特にモールは、ナポレオン戦争の脱走兵の私生児)。
今では、このオーベルンドルフ村には「きよしこの夜礼拝堂」と「きよしこの夜博物館」があり、観光名所にもなっているようです(もっとも、もとの教会は水害で流されてしまって、新設だそうですが)。
この教会では作者2人の彫像や、ステンドグラスがあるようですが、写真や骨(!)から想像したもので、とってもじいさん。この歌が作られた頃、モールは26歳だったのですから、若くしてみました。ネズミと取り合わせにしたのは・・・・ネタです。
「君たちには困ったなあ・・」と微笑んでそうでしょ。大慌てで教会のあちこちにネズミ捕りをしかける、というようなことは・・・しないような気がしません?
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2009-12-24 08:45
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私たちが「ローマ好き」で、時々、ちょっとしたきっかけがあれば、「ローマに行きたい病」がぶり返すというのは、皆様よくご存知だと思います。
その「病膏肓に入る」きっかけになったのは、何を隠そう、とんぼの本 ローマ古代散歩
(小森谷慶子・小森谷賢二、新潮社)です。そして、ついに「ええい! 実際にローマに行っちまえ!」ということになったのも、この本のおかげなのですね。
で、このたび改訂版が出まして、今直、どんどん発掘され、公開される新たなるローマの遺跡を大幅に追加しているのは、ほんとうれしい限りですね。
いや〜・・冗談じゃなく、ほんまにローマに行きたいよ〜!!!
で、この本にも紹介されている、オスティアの遺跡にある(ここはローマにすごく近い上に、ポンペイみたいにわんさかと観光客がいるわけでもなく、本当にゆっくり遺跡が堪能できます。あ・・今でもそうかなあ? 入り口にあった売店の兄ちゃんはローマ人の格好をして、サンドイッチを売っていたけれど・・)、有翼の女神像から描いてみました。 大きな翼はまるで、カステロ・サンタンジェロの橋に並ぶベルニーニの天使のようですが、羽の大きさはさらにデカくてどっしりと迫力があります。石像なので色はわからないけれども、赤い女神の衣裳にしてみました。盾を持つ、勝利のミネルヴァ(ギリシャではアテナ)です。
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2009-12-22 22:03
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クリスマスも近いですが、ドイツのスパーリングワインに、フュルト・フォン・メッテルニヒというのがあって、そのラベルは、オーストリアの宰相メッテルニヒの肖像画だそうです。
そういえば、彼の孫娘であるメッテルニヒ侯爵夫人もワインのラベルになっていますよね。
しかし、メッテルニヒといえば、会議では踊っていて、陰謀ばかりめぐらしているイメージですが、中々の苦労人で、ヨーロッパの大嵐、ナポレオン旋風が吹き荒れた時代にあって、彼もまた時代が要請した人物ではないかという気がします。
お姫様マリー・ルィーズをナポレオンにくっつけたり、離したりというような、甘くない策略もめぐらしているところは、公武合体の伊井大老のような役回りでもあるのですが、戦乱の欧州に平和をもたらしたということで、最近では評価が上がってきているようです。
孫子の兵法では、スパイや策略、なんでも用いて、実戦を避ける手立てを尽くし、交渉の万策尽きた上で初めて、開戦ということを言っていますので、そういう意味では、ナポレオンなどは兵法の掟破りで、メッテルニヒのほうが戦略家ですね。
で・・え〜・・・私としては、もうひとつメッテルニヒで思い出すのが「エロイカより愛をこめて」の「皇帝円舞曲」です。この「メッテルニヒ」は、少佐に追い回されてズボンを剥ぎ取られる散々なおじさんです・・(ミョーなもの思い出してすみません)。
有名な肖像画は身体を左に向けた四十代後半の絵ですが、少し若くして(髪も増やして?)みました。いつも微笑を浮かべて策謀をめぐらしている、という雰囲気は・・・出ませんでしたね。
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2009-12-21 10:24
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日記でも、ここでも、ずーっと栗本薫の「グイン・サーガ」を読みつづけてきていたということは、書いていましたが、とうとう、最後の巻が刊行されました。まさしく「絶筆」というんでしょうねえ。いつもの半分くらいの量しかなく、背表紙の印刷に困るんではないかというくらいの巾だったんで、よけい悲しいですね。
で、この長大なシリーズについては、栗本氏が死去されたころから、あちこちで目にし、耳にしていますので、今更ながらですが、物語を読みつづけて来たものにとっては、さほど入れ込みがなかったにしろ、あんなところで唐突に終わってしまって、作者は本当に無念だったろうなあと、思われます。
で、追悼を意味を込めて、この最後の巻を「悩み」でしめくくっているパロの宰相ヴァレリウス氏です。
敗戦国にして、弱小貧乏国に落ちぶれてしまったかつての大国の最後の女王(しかも独身なので、跡継ぎはいない)を補佐して、苦労している人です。「魔道士」なので、本来ならば、宮廷の重職につくべきではないと思っているけれど、なにしろ人材不足なので、全部自分でやっているという気の毒な人です。ものすごくぐじぐじいうくたびれたおっさん風ですが、多分・・実際はまだ若いはず・・。
ところで、ファンタジーなので、栗本さんのネーミングが多岐に渡っているのですが、ヴァレリウスという名前については、出自はローマです。
有名どころでは、共和制時代の執政官ヴァレリウス。そして「ベンハー」で、メッサラが仕えていた4代目ユダヤ総督がヴァレリウス・グラトゥス(ちなみに彼の後任が、かの有名なピラトです)。そして、クラウディウスの淫乱皇后メッサリーナの父親が、ヴァレリウス・メッサラ。このヴァレリウスは、オクタヴィアの孫にあたります。
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2009-12-20 12:18
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レオナルド・ダ・ヴィンチは、色んな意味で「天才」で、ありとあらゆる分野に才能を持っていたとされる万能の天才。ルネッサンスの代名詞とされるのももっともかも・・。手稿や落書きのようなもの、鏡文字とか、ヘリコプターや潜水艦、自転車など、凡人にははかりしれない事柄への興味の持ち主で、肩書きそのものが「天才」なのかも。
肖像画としては有名なのはサンタクロースのようなヒゲを生やしている晩年の自画像で、イメージは、ダヴインチといえば、はげひげじいさん。勿論、私もすでにこの事典に登場しているのですが、今回、比較的若いダヴィンチを想像してみました。
というのも、「トリノ聖骸布の謎」(リン・ピクネット。クライブ・プリンス。白水社)を読みまして、信心深くない私としては、まあミーハー的興味をそそられたわけです。いささかできすぎな感はあるものの、結論は、聖骸布は作られたもので、絵画ではなく原始的な「写真」だ!というもの。
あんな古い時代に写真の技術を駆使できるのは天才に違いない・・よって・・あの時代の天才といえば、もう1人しかいない・・というお話。
「写真」による復元はなかなか興味深いものでありますが、それより、テンプル騎士団の信奉するバフォメットの記事が面白かったのですが、それは、まあおいといて、この本は、1995年の刊行ですから(ダン・ブラウンの「ダヴィンチコード」はまだ出ていませんので)、今読めば、耳慣れた話なのですが、西洋社会にとっては、やはり「聖骸布」って、微妙な問題なのですね。
で、天才ダヴィンチですが、恐れ多くも、あの聖骸布のキリストの顔を自分自身の「写真」にした・・というんですが、天才は、何も知らぬ大衆が自分の「顔」をへへ〜っと拝むのをもくろんだとか・・う〜ん・・・ホンマかなあ?
で、「聖骸布」が作られたとかいう1490年頃のアラフォーのダビンチの雰囲気で描いてみました。
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2009-12-17 10:14
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ご存知マムシの道三こと斉藤道三です。
この秋には、なにやら戦国関係の資料やら、展示を見る機会が多かったのですが、安土考古資料館で、安土城の発掘をテーマにした展示がありました。
今年の秋は安土は、映画になったり、あるいは、町名変更などで、色々話題になったところですが、その展示だったか、大阪城の展示だったか、記憶が定かではありませんが、斉藤道三の肖像画が出ていたのですね。
この時代の肖像画は、死後追善だとか、子孫が法事に描かせたりするものが多いので、古いの姿をもとにして同じパターンのを何枚も描くようなことがありますので、まあ、どれもこれも微妙に違って似通っているんですね。だんだん美化される・・ということもあるかもしれませんが、あまり特徴のないものが多いですね。
ということなのですが、この斉藤道三さんの肖像画は、一度見たら忘れられないというか、笑ってしまうというか・・・特徴的なのは、もしゃっ・・とはやした鼻ヒゲ。そして小さくて人のよさそうなお目目。なんだか、笑える風貌です。いい人やったんやろうなあ・・なんて思えます。
しかし、この人がいわゆる「いい人」であったとは、一概に言えないですが、「英雄」と言えばいえますね。海千山千の、坊さん崩れで油屋あがりの戦国大名。で、婿は、あの信長ですし・・。一族では跡目をめぐって、親子喧嘩もしていますし、結局それで滅んだという、まあローマのマクシミアヌスのような、枯れない懲りないオヤジです。
でも、まあ、あまりに絵姿がプリティだったので、ちょっと落書きしてみました。
ところで、アクセスカウンターなるものをつけて見ましたが、これって・・どうよ・・?ちゃんとカウントしているかどうかわかりません。ブログの記録からは過去1年分しかたどれないので、一応1年前からのアクセス数から始めてみましたが・・、まあ、あってもなくてもいいですが・・。
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2009-12-14 16:44
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2009年12月12日で、この事典は5周年になりました。
何時もご訪問して下さる方々にかさねて御礼申し上げます。
最近は、更新も間があいたりしていましたが、このブログでの残容量もかなり少なくなってきているので、果たしてこのまま、無事5年目を迎えられるかな・・という懸念もあって(これは言い訳? 本当はネタ切れ?)ぼちぼちと・・というつもりでした。
本日は人名事典の人数としては1574人目となりますが、同じ画面に複数登場している場合も数えていますので、総投稿数としては1460番目(ただ、信長は一度出ているので、総数1573人)です。
本当に長い間、お付き合い下さって有り難うございます。今後ともどうぞよろしく御贔屓の程お願いいたしまする。
さて、洋装の信長は、前にも描きましたが、今回のは若干の資料で考証しています。
織田信長が上杉謙信に贈ったと伝承される、上杉神社所蔵の重要文化財「赤地牡丹唐草文天鵞絨洋套(あかぢぼたんからくさびろうどまんと)」の文様を省いたマント。土佐山内家宝物資料館所蔵の山内一豊所用の南蛮帽子を黒くしたもの。フェリペ2世の椅子。同時代のベネチアングラスの切子ワイングラス。
ルイス・フロイスによると、信長は緋色のマントを所蔵していたようですし、ポルトガルワインを飲んでいた・・ということでこんな絵にしました。前回の絵は洋甲冑にしましたが、日本での南蛮胴そのものは、遺物がもう少し時代が下がると聞いたので、今回は普通の甲冑です。岐阜駅前に甲冑姿の信長の黄金像が立っているそうですね。
ところで、映画「火天の城」で、信長がマントの下に着ていたレースひらひらのシャツは、おそらく加藤清正のシャツによって考証されたものと思います。
ちなみに、今や映画やテレビなどで「常識」となっている、「洋装の信長」が登場したのは、黒澤明「影武者」を嚆矢とするそうです。やはり、黒澤さんはイメージの達人ですねえ。
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2009-12-12 10:12
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ガリレオが初めて天体観測を行ったのが1609年なので、今年は400年目にあたるということで、世界天文年ということになるそうです(来年はカラヴァッジオ没後400年だ)。
う〜ん・・・来年は遷都1300年、去年は源氏年だったし、まあなにかとこじつければ、何時も色んな記念日であるわけですね。
で、このガリレオ・ガリレイですが、まるで「よしだよしお」「たかいたかし」「もときもとや」みたいな名前は、トスカーナの習慣で、一家の長男の名前を姓にするからだとか。
この世界天文年を記念する関係で、彼の有名な著作「天文対話」(ディアゴロ。DTですね♪)と、「新科学対話」(ディスコルスィ。DU!)の初版本が公開されたそうです。と言っても、彼の故郷のイタリアではなく、秋田大学付属図書館です。ここが所蔵しているのですね(彼の著作を没収したバチカンは、持ってるでしょうけれど・・ね?)。
見てわかるもんではないと思うけれど、ミーハー心でちょっと表紙など見てみたいですねえ。エッチングの絵などがふんだんにはいっているのかしら?
自作の望遠鏡で天体を観測し「天文対話」で地動説を証明したことで、ローマの異端審問所(教皇庁検邪聖省・・という名前は聞くだにも恐ろしげ・・?)から呼び出されてしまいます。彼は宗教裁判にかけられて、自説を曲げさせられ、「それでも地球は動く」といったとかいわないとか・・。ちなみに彼の破門が解かれたのは1980年だそうです。
この裁判が開かれた場所が、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会の横だそうです。
この教会はミネルヴァ神殿のあったところに建てられたということですから、智恵と学問の女神ミネルヴァ(アテネ)のお膝元で、学問を否定されたガリレオさんはくやしかったでしょうねえ。教会の前には知性と教養の象徴である象がオベリスクを背中に乗せています。このユニークなデザインは、勿論ベルニーニ。
ローマで唯一のゴシック建築であるこの教会は、ステンドグラスが美しく、天井には一面の星空が描かれていて素晴らしいです。
ガリレオと宗教的な星空・・なにやら、皮肉ですが、背景に天井を貼り付けて見ました。
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2009-12-11 14:02
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