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ニックネーム:おつる 鶴姫 (洗礼名ジャンヌダルク)
性別:女 
年齢:いい感じの年 
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2010年01月20日(水)
陸軍史あちらこちら−(44) 【特別号】「歴史ドラマ・坂の上の雲」感想記
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陸軍史あちらこちら−(44)               荒木肇
【特別号】「歴史ドラマ・坂の上の雲」感想記
     『教科書に書かれない『こぼれ話』』
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□はじめに 

 とうとう第一部が終わってしまいました。ああ、もう一年待たされるのかとちょっと残念ですが、あのスケールを考えると、役者さんたちの豪華さも含めて、さまざまな事情があることが理解できます。
 ところで、今回は秋山眞之がアメリカへ留学し、米西(アメリカとスペイン)戦争を観戦することと正岡子規の若い晩年がメインでした。私たちの教科書による理解では、日清戦争の結果の賠償金のことや、産業革命の成立などで終わる10年間ですが、世界情勢はどんどん動いていきます。

 今回は、今年最後の配信になりますが、教科書に書かれていないことなどを中心に「こぼれ話」を書いてみます。


▼「市民ケーン」とハースト

「売れさえすればいい」、そういった姿勢で新聞を書けば何が起きるか?
「市民ケーン」という映画がありました。たしか製作されたのは1941(昭和16)年のことでした。監督はオーソン・ウェルズで、主人公のモデルになったのがウィリアム・M・ハーストです。
 ハーストは「新聞王」と呼ばれました。彼が新聞社を手に入れたのは24歳の時といわれます。ゴールド・ラッシュで鉱山をもっていた父から、地元新聞の一つ『サンフランシスコ・エグザミナー』という会社の経営を任されます。1887年のことでした。わが国は明治20年、眞之は東京築地の海軍兵学校にいて、子規は面白くもない大学の勉強をしていた頃です。

 日本海軍は清国をおそれ、直接の恐怖はもちろん、清国北洋水師(艦隊)の増強ぶりでした。前年の明治19年には、長崎へ来航した清国軍艦の乗組員たちが乱暴、狼藉を働いて、街中が恐怖のどん底に叩きこまれました。制止しようとした警官たちも死傷者が出てしまうという有様です。政府は衝突を恐れて、警察署が襲撃されても、我慢を続けます。それほど、わが国は当時、低姿勢にならざるを得ませんでした。

 清国水兵の不規律とレベルの低さは、「坂の上の雲」でも描かれていました。もともと、下層の人たちが兵士になったのが清国。いわば食いつめて軍隊に入った人たちでした。金にあかせてドイツという商魂たくましいヨーロッパの新興国家から、高い技術水準の軍艦や兵器を買い入れて、その人たちに持たせたのです。もちろん、訓練や作戦はドイツ人顧問が取りしきりました。興味深いことに、当時の清朝は軍事征服王朝の末裔なのに、「良い鉄は釘にならず、良い人は兵にならず」という言葉通り、軍事は低く見られ、軍人の社会的地位も低いモノでした。

 さて、ハーストです。ハーストの経営方針は、経済や政治などの高尚な話題を新聞には載せませんでした。読み手に合わせようというわけです。『無知で、軽薄で、景気の良いことが大好きなアメリカおやじ』たちが喜びそうな新聞づくりに励みます。犯罪ニュースや、ゴシップ記事などを一面に載せて、ちゃちな正義感をあおりました。もっともらしい裏話を「事実」に基づくと称して「真実」らしく報道します。

 彼の面目躍如たる場面が「市民ケーン」の中で描かれています。眞之が観戦武官として参加した対スペイン戦争です。ドラマ「坂の上の雲」の中にも描かれましたが、キューバのハバナ港で停泊中のアメリカ軍艦メインが爆沈します。原因について、アメリカ側はスペインの陰謀だとし、当然、スペインは否定しました。原作にあったかどうか、マハン提督が眞之と面会中に、『きっかけがあれば開戦の名目が立つ』という言葉を出します。ほんとうだったのでしょうか。東大の島田先生の『アメリカにおける秋山眞之』が手元にあれば確かめることができるかなとも思います。

「市民ケーン」に戻ります。ケーンはハバナへ特派員を送りました。戦争気分を報道したかったからです。ところが、現地は平穏なものでした。スペインはそれほど戦争の危機を感じていませんでした。メインの沈没も、当時の常識では、めずらしいことではありません。ダメージ・コントロール(被害を受けたときの艦船の防衛策)も整っていなかったし、軍艦の中の管理システムも後世ほど厳密ではなかったからです。

 記者は新聞王ケーンから、現地でのスペイン人の暴虐ぶりや、混乱の様子を生々しく書き送れと命じられていました。アメリカ人は昔から少数派や弱い者イジメが理屈抜きで嫌いです。そして、正義を実行するのに、武器を使うことにためらいを見せません。ハーストは、いやケーンは、事実を集めて開戦キャンペーンを行うことにしていました。戦場ルポ、たとえば勇敢で、正義を背負ったアメリカ兵士、残虐で、悪の塊のスペイン兵、これが金もうけのタネになると固く信じていたからです。

 ところが、ハバナは平穏でした。記者から電報が打たれます。『ハバナは平穏、風景は散文詩にしかならない。女性はひたすら魅惑的』。すると、ケーン社長は、こう返電します。
『散文詩を送信せよ。ボクはこちらで戦争を起こす』

 こうしてスペインは、いやいやアメリカに戦争に引きずりこまれてしまいます。というより、スペイン政府はあっけにとられたことでしょう。アメリカ政府もまた、決して当初は好戦的ではありませんでした。それが世論の過熱に対応するうち、とうとう開戦の決定をする羽目におちいりました。あとは失敗だらけのアメリカ軍の作戦と、準備と戦意が不足したスペイン軍の物語です。

 覚えておきたいことは、このハーストが、というよりもハーストの意を受けた系列新聞社が、日露戦後、アメリカ西海岸で反日キャンペーンを繰りひろげたことです。そして、アメリカ人のもう一面、1941年の時点で、米西戦争開戦時に新聞が果たした役割を批判する作品を堂々と公開するところです。これに対して、その当時のわが国のマスコミは何をしていたことでしょう。その検証をさかのぼって近代史すべてを見直して自省しているマスコミは、どれだけあるでしょうか。

 わが国の近代史は、戦争の歴史といっていいでしょう。古くは台湾の征討から始まり、朝鮮の混乱での清国との衝突、清の圧力とロシアの南下、それを防ぎたいイギリス、火事場泥棒のようなドイツ、フランスといった列強との確執、ついに日清戦争の辛勝。つづいてとうとう好戦的なロシアとの衝突。つづいて清の崩壊と、その後の混乱。世界大戦の勃発と中国との駆け引き、などなどから続いていたのが大東亜戦争です。

 ここまでは健全、ここからは間違っていたと、後世の私たちはしばしば結果論から「時代を裁判」します。「坂の上の雲」もそうした描き方を踏襲しますが、歴史を勉強(かじってですか?)していますと、司馬先生はじめ多くの碩学に御言葉を返すようですが、どうも、そんなものではないのではないか。そういう疑いをいつも持ちます。
 戦争は「つながり」で解釈しなければならない。大きなケーキを切り分けるように、大東亜戦争だけを取りあげて、「ああすれば」、「あんなふうにしなければ」と論じ合うのは物足りない気がしますが如何でしょうか。


▼日清戦争の兵食

 学生時代から古本屋をめぐっては、軍事関係の本を漁っていました。大東亜戦争の本ではなく、明治・大正の発行物です。兵器マニアではなかったので、主に、兵隊さんたちの手記や体験談でした。教育に関する記述があると、霧の中の世界に見えた19世紀から20世紀初めの頃の時代相が浮かんでくるような気がしていたのです。昭和40年代には、けっこう、古い本があふれていました。日露戦争からわずか60年余りです。体験者だって生存されていた頃でした。

 その中に、参謀本部が記録した文書もありました。前回、記した清軍の編制などもそこから紹介したものです。「提督」という言葉は、わが国では海軍の将官の尊称になっていますが、もとは中国の言葉らしく、前回も提督(中将)と紹介しましたが、戸惑われた方もいると思います。提督というのは清では武官の二品(にほん)官で、近代軍の中将にあたりますが、陸路提督(陸軍中将)、水師提督(海軍中将)と分けて、どちらも使っています。わが国でも、日露戦争中、ウルサンの沖合でロシア軍艦リューリックの敵兵救助を命じた上村彦之丞海軍中将(当時)を「上村将軍」と称えた歌があります。いつから、海軍は提督、陸軍は将軍を使うようになったのでしょうか。

 ついでに清軍の様子ももう少し書きましょう。新旧いりまじりという状態です。ドラマの中でも旅順近郊の農村で、好古少佐に土地の爺さんがいいました。『オレは軍人は嫌いだ。泥棒のようなものだ』
 まったくそうとしか言いようがありません。当時、営というのが清軍の戦術単位だと申し上げました。この営は500人規模です。日本陸軍では大隊にあたります。指揮官は「営官」といわれ、参将(中佐)、遊撃(少佐)、都司(大尉)が務めます。この営がいくつか合わさって軍をつくる。総兵(大佐)か副将(少将)が指揮官です。この軍ごとに経理官をつけ、医官をおいて給養・治療・衛生にあたらせたのですが、経理官は文官でした。

 また、軍人の給与水準はひどく低く、哨官(営を構成する部隊を哨といい中隊に相当する単位の指揮官。都司「大尉」もしくは守備「中尉」)以下の暮らしも苦しく、住民から物資を取りあげる、抵抗すれば暴力をふるう、時には殺傷することも当たり前だったといいます。そして医官には欠員が多く、患者は自分の治療費や医薬品代も自弁することになっていたようです。ひどいものです。

 1894(明治27)年の朝鮮、仁川と竜山の野戦病院に勤務する軍医官、看護卒たちの食事の献立が残っています。野戦ではないので、一応のまともな食事でしょうか。

6月20日:朝・野菜の煮付け、高野豆腐、梅干し、昼・缶詰牛肉、らっきょう、夜・牛肉、馬鈴薯と芋煮。21日:朝・魚汁、梅干し、昼・牛肉、豆・らっきょう、夜・こんにゃく、豚肉ミソ煮。23日:朝・油揚げ・豆腐みそ汁、昼・豚と牛蒡の煮付け、夜・煮豆、梅干しとなっています。港のそばで、糧食集積所も近く、肉の支給もあります。これで一日6合(900グラム)の白米を食べていたわけです。

 これが最前線に近くなると、副食の欠乏が目立ちます。梅干し、沢庵漬け、福神漬けなどで赤ん坊の頭ぐらいある(ちょっと誇張か)大握り飯を食べたなどと日記にありました。副食欠乏による脚気の症状がでやすい食事です。せめて、魚の干物や、生鮮野菜、麦ご飯、などがあれば良かったのでしょうか。コメントもいただきましたが、今の私たちの選択の幅がいくらでもある生活と比べると、隔絶の感がありますね。


▼海軍の服制について

 眞之がアメリカに出かけます。袖の金筋が増えました。あの袖の筋が海軍士官の階級章です。太い線が一本で少尉、二本で大尉(だいい)、三本で中佐、四本で大佐(だいさ)でした。これは今の海上自衛隊も、米・英海軍その他でも、みな共通です。国際的につき合いの多い海軍は、階級章もお互い見分けやすくなっています。

 また、士官たちの筋を見ていただくと、くるりと輪になっています(円環:カール)。あれを「蛇(じゃ)の目」といったようですが、兵科士官(将校)だけがそうなっているのです。他の科の士官たち、つまり将校相当官の機関官、軍医官や経理官などは直線でした。区別はそれだけではありません。帽子の鉢巻きといいますが、ふくらんでいるクラウンの下、あそこの上下にも医官なら赤、機関科なら紫、主計なら白といった細い線が巻かれていました。ついでにいえば、文官だった技監(佐官級)・技士(尉官級)を武官にして、機関官と統合、機技部としたのは明治19(1886)年でした。

 興味深い映像もありました。当時の海軍士官の通常礼装です。軍帽をかぶり、ハイカラーに蝶ネクタイ、肩にはエポレット、ダブルの長い上着に長剣。あのエポレットには総(ふさ)がついていました。陸軍の正装にも肩章(金の縄で編んだもの)がつきますが、それには総がつきません。この伝統は長い間、日本陸軍独自のデザインです。欧米では、陸軍士官も総つきの肩章でした。当時、珍しがられたといいます。そして、現在も、陸上自衛官は礼装で幹部(士官)は肩章をつけますが、デザインも大きさも、ほぼ旧軍と変わりません。尉官の小さいモノは6,000円くらいとか。

 さて、実は陸・海軍対立の始まりというか、海軍は中尉、中佐の官階を廃止したことがあります。これもドラマでは正確に再現されていました。お気づきでしたか。秋山少尉は中尉をとばして大尉になっています。そして、日清戦争中、大きな艦の艦長は大佐ですが、小艦艦長は、みな少佐でした。
 あれは、明治19(1886)年、イギリス海軍にはその官等がないということから、日本海軍も中尉、中佐の官をなくしていたのです。つまり、交際上、キャプテンにあたる階級が、日本だけ大佐、中佐に分かれているのはおかしいではないかというわけでした。

 当時、フランスとロシアだけが佐官、尉官はそれぞれ2階級に分けていましたが、たいていの国が3階級制です。国内では混乱が起きました。陸海軍の間で、階級のすり合わせが難しくなりました。結局、明治30(1897)年に、中尉、中佐の官は復活しました。だから、映像にあったロシア駐在武官、八代六郎海軍少佐の袖章は太線二本の下に細線一本が入っています。進級すれば中佐になり、太線三本になりました。旧海軍はあのように、細い線を太い線の下に入れました。中尉は太線の下に細線を一本。アメリカ海軍と海自はちがいます。太線の上に細線をいれています。海自の3佐(少佐)は太線二本の間に細線が一本入り、旧海軍の伝統はなくなってしまいました。

 戦死された原田兵曹、気の毒でした。これから、どんな間柄になっていくのか興味がありましたが、「へいそう」といえば下士のはず。それがどうして水兵服を着ているのか、と疑問に思われた方もいるでしょう。でも、二・三等兵曹はあれで良かったのです。明治16(1883)年の太政官達でそうなています。
 海軍の服制は世界共通、すっきりしたものでした。帆船海軍の伝統のままといっていいいでしょう。セーラー服の後ろのたれは、英国海軍の兵たちの弁髪の汚れをつけないため、あるいは海上では両手で立てれば集音の効果があったからなどと諸説があります。下士官は専門技術をもつスペシャリストでした。それなりに決まった上着をつけていました。士官たちは、腰に短剣を吊って、のちに礼装になるような姿をしています。

 さすが第一人者、柳生悦子さんが監修に入られている結果でしょう。並木書房からも「海軍の服装」の本が、柳生さんの執筆で刊行されています。素晴らしいご本です。世間が関心をもっともたれて良い本だと思います。
 1900(明治33)年、眞之が着ていた白リンネルの夏服の袖の筋がなくなりました。大東亜戦争の戦争物のドラマや映画で見られる濃紺の肩章が決まります。一寸六分幅です。将官は幅一寸の金線を入れる。佐官は五分の金線二本、尉官は同じく一本。その上に銀の桜花を少尉・少佐・少将は一個、中尉・中佐・中将は二個、大尉・大佐・大将は三個をのせる。このとき、兵曹長という階級ができました。のちの兵曹長のような准士官ではありません。尉官と同じく五分の金線一本ですが桜がつきません。少尉候補生は二分五厘の金線一本のみでした。明らかに少尉候補生より上位になります。

 大正時代に特務士官という制度ができました。これと同じで、少尉と同格の階級でした。陸軍がこれと同じ、「准尉」という少尉相当の階級をつくるのは大正時代のことです。だから准士官は、この当時、海軍上等兵曹であり、陸軍では特務曹長でした。陸軍で准尉が准士官の階級名になるのは昭和です。
 旅順口閉塞作戦で、広瀬少佐(戦死された後、中佐に特進)は船中に爆薬点火に派遣した「杉野上等兵曹」を捜索に向かいます。昭和41年に公開された『日本海大海戦』という映画では、若大将の加山雄三さんが広瀬少佐を演じていました。相手役の方は名前を失念しましたが、士官と同じ服装をして、上等兵曹と呼ばれていたことを覚えています。
 下士官の服装が改正され、三等下士が下士官服、詰め襟金ボタンを着るようになったのは1911(明治44)年のことでした。


▼騎兵の茜(あかね)色のズボン

 阿部寛さんは、とても騎兵の服装が似合います。脚が長いし、顔が小さいからでしょう。騎兵は茜色のズボンをはいて、サイドには「萌黄(もえぎ)色」の線が入っています。また、作戦会議の場面で将官たちの軍帽が赤い鉢巻き(それに黒線3本)だったのを目にとめられた方がいるかと思います(佐官・尉官は黄色で、それぞれ2本と1本の黒線)。そして、子規と出会った兵站軍医部長森林太郎が深緑色の鉢巻きでした。あれが各兵科や各部の定色(ていしょく)といわれたものでした。

 兵科では憲兵が黒、歩兵は緋色、騎兵が萌黄、砲兵は山吹(黄色)、工兵は鳶、輜重兵は藍色という。各部では経理部が銀茶、衛生部が深緑、獣医部は紫、軍楽部が紺青となっていました。大正末にできた航空兵は淡紺青だからスカイブルーですか。他に技術部は黄色、法務部は白、いずれも昭和になってから決められました。当時はありません。
 下士以下は、襟と肩章がこの色分けになっていました。騎兵の軍装は仏蘭西軽騎兵の伝統か、きれいなものでした。下士・兵卒も肋骨服(ハンガリー風の、紐で前をとめる)を着て、縄目編みの肩章をつけ、茜色のズボンです。

 余談ですが、陸上自衛隊も識別色を決めています。ふだんの制服の肩にワッペンをつけていますが、その上部には普通科(歩兵:赤)、特科(砲兵:濃黄色)、機甲科(だいだい)、施設(工兵:えび茶)、航空(浅黄=青)、衛生(濃緑)、音楽(藍色)輸送科(紫)などです。旧軍とことなるのは新しくできた職種が多く、伝統はけっこう守られています。観閲式などで見られる部隊旗、大隊旗、中隊旗などはこの色でつくられています。

 また、土城子の秋山将校斥候隊の苦戦場面で、黄色と白の副官懸章をかけた中尉が好古に尋ねるところがありました。なんで指揮刀なのですか。みんな軍刀に替えているのに、という疑問です。当時、ヨーロッパ式の服装をした将校はみなサーベルをさげました。戦時になると、柄を長くして、両手で持てるようにした西洋式外装の日本刀を仕込んでいったのです。それなのに、好古は護拳(ハンドガード)のついた片手持ちの指揮刀をもっていました。ドラマでも再現されていて、馬上で彼の刀はしなったのが見えました。

 自分が乱戦の中で白刃を振りまわす。などと考えていなかったのでしょう。指揮官だから、オレの武装は部下たちなのだと思っていたのかも知れません。

 それでは皆様、良い年をお迎えください。







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◆荒木肇経歴
1951年、東京生まれ。横浜国立大学大学院修了(教育学)。横浜
市立学校教員、情報処理教育研究センター研究員、研修センター役員
等を歴任。退職後、生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉
専門学校講師、現在、川崎市立学校教員を務めながら、陸上自衛隊に
関する研究を続ける。2001年には陸上幕僚長感謝状を受ける。年
間を通して、陸自部隊・司令部・学校などで講話をしている。


◆主な著書
「自衛隊という学校」「続・自衛隊という学校」「指揮官は語る」
「自衛隊就職ガイド」「学校で教えない自衛隊」「学校で教えない日
本陸軍と自衛隊」「子供もに嫌われる先生」
いずれも並木書房刊 http://www.namiki-shobo.co.jp/


2010-01-20 03:09 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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