2011年07月11日(月)
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目次

最高裁判決に思う
弁護団声明
曾野先生よりいただいたメッセージ
櫻井先生よりいただいたメッセージ
赤松さん・梅澤さん声明
星さんより
上原さんより


上記それぞれのPDFをクリックしてください。
2011年7月11日 05時50分 | 記事へ |
2011年06月08日(水)
弁護団声明 最高裁決定を受けて 代表執筆 弁護士 徳永信一
弁護団声明
最高裁決定を受けて

代表執筆 弁護士 徳永 信一
        
                          
 平成23年4月21日、最高裁は2年5カ月もの沈黙を経て、梅澤裕さんと赤松秀一さんの上訴を退けました。決定理由は上告棄却が5行、サーシオレイライ(裁量上訴)不受理はわずか2行。その素っ気なさと沈黙の長さとのアンバランスは、平成21年10月31日の大阪高裁判決の結論と理由に対し、最高裁が多々疑問を感じていたことを推測させるものですが、所詮それも思惑の域を出ません。残念ですが、ついに隊長による集団自決命令を無責任に流布してきた大江健三郎と岩波書店の不法行為責任を認めさせることはできませんでした。      
 
 しかしながら、確定した高裁判決は、二人の隊長が集団自決を直接住民に命令したという事実につき、「真実性の証明があるとはいえない。」と結論づけたものでした。これによって大江健三郎の『沖縄ノート』にある記述 ―― それは作家の曽野綾子さんが「人間の立場を超えたリンチ」だと糾弾したように、「罪の巨塊」「ペテン」「戦争犯罪者」「屠殺者」「アイヒマン」などといった憎悪的表現によって両隊長に一方的な人格非難を浴びせるものでした ―― によって汚辱されてきた梅澤、赤松両隊長の名誉は見事に回復されました。なによりも、この裁判がきっかけとなり、中高生が使用する歴史教科書や各地の歴史博物館にあった軍の命令によって集団自決が起ったとする記述や展示が見直され、軍命令が真実ではないことが、広く国民に知られるようになったことは、6年半に及んだこの裁判の貴重な成果でありました。 
  
 さて、隊長命令の真実性を否定した高裁判決が、それでも大江健三郎と岩波書店を免責した理由はなんだったのでしょうか。それは表現の自由の保護を梅澤さんと赤松さんの人格権に優先させた結果でした。私たち弁護団は、『沖縄ノート』と『太平洋戦争』が真実性と真実相当性(真実とはいえなくとも、真実と信ずるについて相当な理由があること)を喪失した以上、名誉毀損等の人格権侵害を続けることは許されず、直ちに出版を停止すべきだと主張しました。高裁判決、私たちの主張を退け、それらが出版された昭和40年代において両隊長の命令によって集団自決が生じたということが当時の通説(大方の意見)だったことから、「発刊当時はその記述に真実性や真実相当性が認められ、長年に渡って出版が継続してきたところ、新たな証拠の出現によりその真実性等が揺らいだという場合」には、それが真実でないことが明白にならない限り、直ちに違法とはならないとしたのです。そして表現の自由を優先する理由として次のようにいいました。すなわち、戦争の歴史的事実といった公共の利益に深く関わる事実については、資料研究と批判が繰り返されるなどして、「その時代の大方の意見が形成され、さらに大方の意見自体が時代を超えて再批判されてゆくという過程をたどるものであり、そのような過程を保障することは、民主主義社会の存続の基盤をなすもの」だとし、「仮に後の資料からみて誤りとみなされる主張も、言論の場において無価値なものであるとはいえず、これに対する寛容さこそが、自由な言論の発展を保障するものといえる。」としたのです。つまり、『沖縄ノート』等は、軍命令が真実だと考えられていた《戦後という特殊な時代》の歴史的資料として出版の継続を許されたということです。     
                 
もちろん、隊長命令がなかったことが証拠上も明白になったと信じる私たちにとって、それが「明白になったとまではいえない」とした高裁判決の認定はとても承服できるものではありません。しかし、裁判は終わりました。隊長命令の不在を明白な真実とし、軍の関与の実態を世に知らしめる作業は、今後の更なる資料の発掘と自由な歴史研究と言論に委ねられました。私たちは、戦後の歪んだ歴史観を見直していくための確固たる橋頭堡(きょうとうほ)を築いたことを誇りに思います。既に真実性を喪失した『沖縄ノート』と『太平洋戦争』の出版継続の当否については、大江健三郎らの良心と国民の良識に任せようと思います。 
              
最後に、この長い裁判は、沖縄戦の真実を希求する多くの国民の支援によって支えられてきました。誤った歴史教育に洗脳され、日本軍を「悪」とする図式を死守しようとする分厚い勢力に取り囲まれながらも、私たちがこの困難な戦いを、挫けることなく戦い抜けたのは、そうした支えがあったからでした。真実に対する誠実さと犠牲となった尊い命に対する畏敬の念こそが、日本人の心の閉塞を切り開く鍵だと信じることができました。心から感謝するとともに、この感謝の気持ちをバネに更なる戦いに邁進していく決意です。 
以上
2011年6月8日 14時31分 | 記事へ |
弁護団代表挨拶 最高裁判決に思う 弁護士 松本 藤一
弁護団代表挨拶
最高裁判決に思う
            
弁護士 松本 藤一
 
 

 沖縄集団自決冤罪訴訟が確定しました。最高裁は平成23年4月21日上告を棄却し,原告の請求は認められませんでした。高裁判決後直ぐ上告ましたが2年6ケ月もたってから,たった主文2行と民訴法の上告理由に該当しないという理由で恰も地震の混乱を狙ったかのように切って捨てた最高裁には呆れてしまいます。

 しかし,一審からの訴訟で「隊長の自決命令は証明されていない」という事実が確定しましたし,教科書から「軍命による自決」の記載が削除されました。今後もこの事実は変わることはないでしょう。これは大きな成果でした。

 昭和45年に『沖縄ノート』とその資料『鉄の暴風』は,昭和48年に曾野綾子著の『ある神話の背景』でその虚偽と矛盾を徹底的に批判され,書物としての信憑性が地に墜ちた後も継続して出版されていました。
「渡嘉敷島」の赤松隊長は自決に失敗した島民を衛生兵に命じて救助していたし,60年以上も軍命令を喧伝した牧師は,集団自決で生き残った後赤松隊長のもとに治療に通っていた事実を法廷で認めました。

 座間味島の青年団長宮城初枝は自決のための弾薬付与を梅沢隊長から拒絶され,反対に自決してはならないと命令されたという真実を明らかにし,援護金取得のために虚偽の軍命令が捏造されたことを暴露していました。さらに座間味村の援護係宮村幸延は「集団自決は梅沢隊長の命令ではなく兵事主任で助役であった兄盛秀の命令で行われ」と明らかにしていたのです。これらの事実からして両島とも「隊長命令が無かった」ことは明らかです。

 大阪地裁も高裁も「隊長命令が証明出来ない」,即ち隊長命令が無かったことを認めながらとしながら,言論の自由や軍人で公務員であったこと,長い年月が経過したという理由で「間違った隊長命令の記述をしたとしてもやむを得ない,裁判所は許す」というのです。誠に心外な判決です。原告を敗訴させたのは,実は裁判官がノーベル賞作家や岩波書店を敗訴させるのにたじろいだからです。

 裁判所も日本の過去や軍人の名誉回復を絶対認めないという戦後社会の枠組みを墨守し続けています。その結果,戦後レジームの一環に搦め取られ事実を明らかにするはずの裁判が政治裁判になり果てています。

 しかし,戦後レジームの背後には,搾取と人種差別の枠組みを打ち壊す日本の存在を世界支配の秩序を根底から覆す災厄として恐怖した欧米社会が日本の敗北を機に日本を封じ込めようとした思惑があります。日本を縛りつづけているこの枠組みの打破が必要です。しかるに歴史家も教育もマスコミも日本が動けなくするための縛を担っております。

 百人斬り裁判と同じく,今回の裁判は日本軍人の名誉と日本の名誉回復のために闘った裁判でした。多くの人達から物心両面で多大な支援を頂きました。考えを同じくする人が沢山いることを知り,大変勇気づけられ,日本の再生は可能であると確信しました。

 日本は東日本震災の被害からの再生の真っ最中です。被害は深刻,苛烈なものですが,日本人の勇気と共に生きる精神で必ずや立ち上がれると信じています。犠牲者の皆様の冥福を祈るとともに被災地の一日も早い再生を切望します。

 最後にこれまでの皆様からのご支援に心より感謝します。
2011年6月8日 14時01分 | 記事へ |
最高裁の判決を受けて(赤松秀一)
最高裁の判決を受けて
 
 
審議が二年以上と長引いて居りましたので、さすがに最高裁は良識ありと吉報を期待しておりましただけに四月二十一日付の上告棄却決定はショックでした。残念至極です。
 考えてみれば最高裁といえども百人切り裁判の判決、当裁判の一審、二審での判決を行ったのと同年輩の裁判官が審議するのですから、吉報を期待するのは無理であったと思い今更ながら自虐史観に毒された日教組教育の為せる業かと観念しました。
 しかしながら敗訴とはいえ自決命令のなかったことが認められ、教科書が改められたのは本裁判の大きな成果であり自虐史観の払拭に役立つものと期待しております。将来を担う若者に誇りを持たせる教育が絶対に必要であると信じます。
 弁護団の先生方、沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会の皆様方には足掛け六年の長きにわたりご指導、ご支援を賜りましたことは私一生の誇りであり冥途の兄への土産であると喜んでおります。心より感謝いたしますと共に今後とも自虐史観の払拭に邁進されるようお願いいたします。
平成二十三年五月吉日  赤松秀一
2011年6月8日 13時59分 | 記事へ |
ご挨拶 (梅澤 裕)
御  挨  拶

梅澤 裕
 

長らく應援を賜わりました皆々様方、やっと長期裁判が終了しました。
結果は斯くの如き不完全勝利でした。何と裁判とは複雑怪奇なものでしょう。
然し乍ら、この裁判は遂に我待望の真実を認証しました。即ち、これだけの長期裁判の間、結局、自決命令を出したとする証拠は何も出て来ず、大阪地裁、大阪高裁、最高裁とも、「自決命令は証明されていない」と判断したのであります。この解りきった真実が斯くの如く遷延されたのです。皆様方は克く初心を貫き御尽力下さいました。衷心より御礼申し上げます。
之にて訴訟は終りましたが、國情は混沌とし憂慮の極、今後とも護國精進を誓うものであります。
恐懼謹言
2011年6月8日 13時32分 | 記事へ |
2011年04月25日(月)
池田信夫氏 杉田謙一氏 狼魔人日記氏 各氏の正論
◎大江健三郎氏の犯罪  池田信夫ブログ
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51701149.html

◎大江無罪判決に思う 草莽の記    杉田謙一
http://plaza.rakuten.co.jp/seimeisugita/diary/201104220001

◎腐臭を放つ大江健三郎氏の自己保身 狼魔人日記
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925
2011年4月25日 10時23分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2011年04月24日(日)
最高裁決定。 最高裁決定への批判と当裁判の意義。
最高裁決定は以下の通りこのA4用紙5枚がすべてである。
松本藤一弁護団長のコメントを掲載した産経新聞報道も掲載した。
なお、最高裁決定に表記のある個人の住所は掲載に当たって削除した。



すでに多くの論客が最高裁決定への批判と、当裁判の意義に関する正論を立ててくださっているので紹介する。

◎大江健三郎氏の犯罪  池田信夫ブログ

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51701149.html

◎最高裁判断は「戦後民主主義」と「反日本軍思想」に毒されている  狼魔人日記
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/773a88e1e477317dee6656e53b8bc205
2011年4月24日 01時49分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2010年05月17日(月)
速報。新証言。宮平証言はやはり正しかった。
速報。新証言。宮平証言はやはり正しかった。
以下の動画を是非ご覧下さい。


http://www.youtube.com/watch?v=v2cDcydrvW0&feature=PlayList&p=F2B535EE1E438CCF&playnext_from=PL

http://www.youtube.com/watch?v=CoJDFak7PpU&feature=PlayList&p=F2B535EE1E438CCF&playnext_from=PL

http://www.youtube.com/watch?v=HgZmKMHMMBE&feature=PlayList&p=F2B535EE1E438CCF&playnext_from=PL

2010年5月17日 07時55分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2009年06月11日(木)
「軍命令はなかった」−『うらそえ文藝』星雅彦氏 上原 正稔氏
「軍命令はなかった」−『うらそえ文藝』
記者会見動画
星雅彦氏 上原 正稔氏

以下をクリックしてください。
http://www.youtube.com/watch?v=Xw7RKpGR7tQ
http://www.youtube.com/watch?v=rKzCll0_TSQ


2009.6.10 21:15 産経ニュース
沖縄集団自決「軍の命令ではない」 地元誌が特集記事
2009.6.10 21:15
 第2次大戦末期の沖縄戦で守備隊長が住民に自決を強いたとされる「沖縄集団自決」について「軍命による自決ではなく、切羽詰まった住民が自殺した悲惨な事件だった」とする特集記事が沖縄県浦添市文化協会発刊の「うらそえ文藝」第14号に掲載され、波紋を広げている。特集には、自決現場を目撃した当時の米軍の報告書や住民の証言などが収録され、問題の発端となった地元紙、沖縄タイムス発刊の「鉄の暴風」こそが訂正すべきと結論づけている。
 「鉄の暴風」で自決を強いたと名指しされた守備隊長や遺族らは、この記述を元に書かれた大江健三郎氏の「沖縄ノート」に対し出版差し止めなどを求めているが、昨年秋の2審判決では訴えが退けられ、現在、最高裁で争われている。
 この特集記事を書いたのは同誌編集長で沖縄県文化協会長の星雅彦氏と沖縄戦ドキュメンタリー作家として知られる上原正稔氏の2人。
上原氏は長く「鉄の暴風」を疑ったことがなく、現地調査した作家の曽野綾子氏が1973年に「ある神話の背景」で疑問を呈したさいも、軍命による集団自決を事実として信じて疑わなかった。ところが、沖縄タイムスや琉球新報などで沖縄戦に関連した連載記事を書くうちに、新たな住民の証言や米軍の報告書などを入手、「(『鉄の暴風』は)現地調査しないまま軍命による集団自決をでっち上げたという結論に達した」という。
 上原氏によると、こうした結論を2年前に琉球新報で長期連載中の沖縄戦をめぐる記事に盛り込もうとしたところ、「新聞社側の圧力で断念せざるを得ず、『うらそえ文藝』での発表に踏み切った」と説明している。
 また、星氏も沖縄県史編纂(へんさん)で40年ほど前に、集団自決事件の起きた渡嘉敷島を訪問した際、住民の話から軍命の存在に疑問を抱いたが、「鉄の暴風」が沖縄県民の間で定着し、疑問を差し挟めない状況だった。しかし、「今回は勇気を持って真実を知らせるべきと決心した」と、話している。
 富田詢一・琉球新報社編集局長の話「上原氏への圧力はありません」
http://sankei.jp.msn.com/region/kyushu/okinawa/090610/okw0906102128003-n1.htm
作家の星雅彦、上原正稔氏が会見 沖縄県庁
 第二次世界大戦末期の沖縄戦で多くの民間人が犠牲となった問題で、作家の星雅彦氏と上原正稔氏は9日、沖縄県庁で記者会見し、軍による自決命令はなかったことを強調し、濡れ衣を着せられている元隊長に謝罪すべきだと訴えた。
沖縄県出身の有識者が軍命説を真っ向から否定するのは初めて。

 星氏は「集団自決はこれまで隊長命令と信じられていたが、その誤解を解きたい」と記者会見を開いた理由を述べた。今年5月1日に出版された総合文芸誌「うらそえ文藝」第14号で、両氏は集団自決問題をテーマに対談し、論文を発表。慶良間諸島の赤松嘉次隊長と梅澤裕隊長が軍命を出した事実は一切なく、県内のマスコミによってスケープゴートとされているという内容が、大きな波紋を投げ掛けている。

 上原氏は「あたかも2人を悪者に仕立てた沖縄タイムスと琉球新報の責任は非常に重い」と強調。「真実が明らかになった今、沖縄県民は2人の隊長に謝罪し、人間の尊厳を取り戻すべきだ」と訴えた。
http://www.worldtimes.co.jp/today/kokunai/090610-4.html

http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/ce1e27894a3b64b143dea4ff4157585c


「うらそえ文藝」はここで通販で買うことができます。
https://www.o-kyohan.co.jp/
2009年6月11日 03時19分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2009年02月16日(月)
沖縄集団自決冤罪訴訟上告書面
沖縄集団自決冤罪訴訟上告書面を以下にアップしています。

沖縄集団自決冤罪訴訟 原告弁護団提出 上告書面
http://osj2.jugem.jp
/
2009年2月16日 06時21分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2008年12月11日(木)
名誉毀損の基準をめぐっての戦い
名誉毀損の基準をめぐっての戦いの本番はこれからだ

弁護士 松本藤一


沖縄集団冤罪訴訟の控訴審判決は原告(控訴人)側の請求を完全に棄却しました。
判決の結果に驚いています。問題点は多岐にわたりますが、特徴的な部分を指摘してみます。裁判所が偏頗した立場で証拠を評価し、争点の判断の回避を図り、土俵際に詰まった被告を勝たせるために裁判基準をずらして、つまり徳俵を移動させて被告を勝たせた判決です。
 第1に証拠の評価の問題です。原審と同様、むしろそれ以上に高裁の証拠の評価は偏頗なものでした。原告側証拠には裁判官の先入感に基づいた差し挟める限りの疑問を指摘しながら、被告側の証拠の決定的に不都合な部分には全く頬冠して無視するという姿勢が一貫しています。隊長の自決命令を主張しながら、自決失敗の後、赤松部隊に治療を受けに行った金城重明の証言を全く無視しています。
 第2に直接の隊長命令の証拠はないとしながら、現時点での部隊長の名誉棄損を否定したことです。発表された当時には、事情が良く分からなかったから、自決命令を出したと非難罵倒された部隊長の名誉棄損は止むを得ないとしました。ここまでは理解できます。しかし、昭和45年の『沖縄ノート』、昭和43年の『太平洋戦争』の出版以来、時間の経過にともない種々の事実が明らかになり、いまや直接の隊長命令があったことを立証することは出来ないとしながら、高裁は現時点での名誉棄損の成否を裁判所に求められても困るというのです。そして敢えていうならば裁判所は、隊長命令があったと主張する言論と、これの否定を主張する言論が議論を戦わせてその結論が明らかにされるべきであって、それこそが言論の自由の価値からして望まれるというのです。
これは裁判を求めらながら判断を拒否したものであり、完全に裁判所の逃避です。
第3に名誉の侵害による損害を著しく低く考えているのです。すなわち、名誉が棄損
されているとしても時間が経過していることから梅澤隊長や赤松隊長の弟赤松秀一氏に取り立てて言うほどの名誉感情の侵害や社会的評価の低下等の具体的な不利益をもたらすようなものはないというのです。結局、軍人という公務員であった者の名誉は一般人より低く保護されても仕方がないといのです。
 第4に、このことは最高裁判所の名誉棄損に関する判例を無視して、新たな基準を作ったことになります。最高裁判所は、どれほど繰り返し報道されてもその内容が事実でないものは真実となるものではないこと、報道した事実を真実と誤信しても、誤信したことが止むを得ない場合は相当性があったとして責任を免れるが、そうでない場合は免責されないというものでした。従って、『太平洋戦争』『沖縄ノート』がどれほど多くの報道を基にしてもその真実相当性については、評価する時点に立った真実相当性が判断されるべきです。昭和45年と43年に出版されれたものに対する評価は、現在では十分に可能です。ところが前述のとおり裁判所は歴史的事実についは言論の自由の中で決着を付けるべきだとして判断を放棄したのです。当然に裁判例に反しており上告理由となります。
 最後に、裁判所は保守的な立場から名誉回復を図る動きを認めたくない。このような動きで裁判を求めるものには勝たせるわけにはいかないという結論を最初から持っていると思われることです。ノーベル賞作家と岩波書店を負かすことに戦いているのです。大勢の流れの中で、どこに立てば有利かを判断して判決をだしているのです。
 裁判所が国民の裁判を受ける権利を否定するような判決を出すことは、裁判所の逃避であり、その偏った判決を正さなければなりません。我々は平成20年11月11日最高裁判所に上告しました。名誉棄損の基準を巡っての戦いの本番はこれからです。
今後とも宜しくご支援の程をお願いします。
                  
2008年12月11日 06時01分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(3) |
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2008年11月17日(月)
小田判決の功罪 〜「神話の証明」と「中東の笛」〜 
小田判決の功罪 
---「神話の証明」と「中東の笛]---

弁護士 徳永信一



小田耕治裁判長による高裁判決は、梅澤さん、赤松さんを敗訴させる不当なものでしたが、沖縄集団自決の真実をめぐっては、特筆すべき前進もありました。 

周知のように、この裁判の最大の争点は、日本軍の隊長より発せられた「自決命令」の真実性でしたが、小田判決は、かつて通説だとされていた「自決命令」の真実性が揺らぎ、現時点では「真実性の証明はない」ことを明確に認めています。日本軍による自決命令は文字どおり神話であったことが証明されたのでした。  

「神話の証明」にもかかわらず、敗訴したのは、控訴審が、これまでの最高裁判例の基準、すなわち名誉に関する著述の公表には真実性がなければならないとしていたルールを変えてしまったからでした。いわば司法における「中東の笛」です。なんとしても大江・岩波を負けさせるわけにはいかないという戦後民主主義の執念のようなものを感じました。  

小田判決が持ち出したルール(基準)は、出版当時、真実だと信じるにつき相当な理由があれば、その後、真実性が揺らいでも、真実でないことが明白とならない限り、出版の継続による不法行為は成立しないというものでした。
これまでの最高裁の基準は世間から殺人を疑われた人に無罪判決が下った場合、その後に彼を殺人者とする著述の公表は許されないが、判決以前から販売されていた書籍であれば、その後も大々的に出版を続けてもかまわないというものです。

これまで最高裁が否定し続けてきた米国の「現実の悪意」の法理を実質的に取り入れたものといえるでしょう。最高裁では、このルール(基準)の当否が審理されることになりますが、それが最高裁判例違反であるばかりでなく、著しくバランスを欠いたものであることは誰の目にも明らかです。 
最高裁に良識があれば、小田判決の破棄差し戻しは必定です。 
  
   

以上 
2008年11月17日 07時37分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2008年11月15日(土)
最高裁での逆転勝訴を目指します
高裁で原判決破棄、高裁への差し戻しを目指します

沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会代表 南木隆治


 皆様、私どもへの一貫したご支援、まことにありがとうございます。

平成20年10月31日、大阪高裁にて、敗訴となりましたが、我々は主張の正しさをまったく疑っておらず、最高裁での原判決破棄を目指し準備中です。

言うまでもなく、この裁判は単に梅澤さん、赤松大尉、お二人の名誉を回復する事を目指すだけでなく、それを通して我が国の名誉を回復する裁判でもあります。日本の名誉を国民が、国民の手によってに回復する裁判でもあります。また、現下の情況を述べれば、真っ当な歴史認識を述べた航空幕僚長が、自虐的歴史認識を述べた「村山談話」に抵触するとして解任される我が国において、司法が最終的にどこまで公正を保てるかが試される裁判となったとも言えます。

 さて、今回の判決に関して、当方弁護士は全面敗訴は予測していませんでした。予測が外れたのは、最高裁のこれまでの基準を変えてまで、なんとしても岩波、大江を勝たせたいという常識を逸脱した判決を大阪高裁が下したからです。
「@その表現内容が真実でないことが明白であり、かつ、A被害者が重大な不利益を受け続けているとき」でなければ公務員の名誉毀損が成り立たないのだったら、そしてこれほど生涯にわたる苦難を乗り越えてこられた梅澤さんが@Aに当たらないと言うなら、およそ、議論が分かれる事に関しては、自身でそれが完全な嘘だと証明できない限り、どれほどの罵詈雑言を浴びせられても、公務員に名誉毀損は成り立たないと言うことになります。今回の判決は、例えそれが真実であっても、過去の犯罪等について過大にそれを言い立てれば名誉毀損に当たる事を知っている国民の人権感覚からも遙かに隔絶した、まさに常識はずれの判決だったと私は思います。



 ところで、一審、2審とも、裁判では負けましたが、一審では「自決命令それ自体まで認定する事には躊躇を禁じ得ない」と書かれており、また今回の高裁判決でも「控訴人梅澤及び赤松大尉自身が直接住民に対して自決命令を出したという事実を断定することはできず、証明できない」旨が書かれています。
 2度の裁判で、自決命令があったと言う証明を、ついに岩波、大江の被告側は証明する事ができなかったのです。この点に関しては決定的な勝利だと言って過言ではありません。たった一例の明確な自決命令を指し示す事すらついにできなかったのです。なぜなら自決命令はなかったからです。梅澤さん、赤松隊長の名誉回復について、出版差止を目指す名誉毀損裁判なので、その結論で負けただけで、梅澤、赤松両戦隊長が自決命令を出したかどうかは証明できないと裁判所は判断したのですから、ご両人の名誉はすでに大きく回復された事になります。また、裁判では負けていますが、世論は大きく変わりました。
 ここがこの裁判の非常に重要な点と思っております。

 この裁判に勝つには、世論の広範な支援が必要です。皆様、今後とも物心両面の益々のご支援を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。皆様、是非再度の資金援助をお願いします。

郵便振替口座『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』

00900−6−316826
2008年11月15日 09時06分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2008年11月14日(金)
上告状兼上告受理申立書
上告状兼上告受理申立書                   

平成20年11月11日
最高裁判所 御 中

 上告人兼上告受理申立人
 訴訟代理人弁護士   松   本   藤   一
        同       コ   永   信   一
        同       岩   原   義   則
        同        大   村   昌   史
        同       中   村   正   彦
        同       木   地   晴   子
(当事者の表示)
 別紙当事者目録記載のとおり

訴訟物の価格   金4793万0800円
  貼用印紙   金32万8000円
  予納郵券   金9520円
   

上記当事者間の大阪高等裁判所平成20年(ネ)第1226号 出版差止等請求控訴事件について,平成20年10月31日判決の言渡があり,同日判決正本の送達を受けたが,全部不服であるから上告提起と上告受理申立をする。


 原 判 決 の 表 示      
主 文
1 本件各控訴及び控訴人らの当審各拡張請求をいずれも棄却する。
2 当審における訴訟費用は控訴人らの負担とする。
事実及び理由
省略

上 告 の 趣 旨
原判決を破棄し,さらに相当の裁判を求める。

上告受理申立の趣旨
1 本件上告を受理する。
2 原判決を破棄し,さらに相当の裁判を求める。

上告の理由及び上告受理申立の理由
追って,それぞれの理由書を提出する。

             添 付 書 類        
1 上告状兼上告受理申立書副本       2  通
2 代表者事項証明書             1  通
3 訴訟委任状                  2  通
                                以  上 
2008年11月14日 02時54分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2008年11月01日(土)
大阪高裁 10月31日の判決
南木です。
10月31日は沖縄集団自決冤罪訴訟大阪高裁の判決でした。
当裁判についてもっと研究したいという要望が多数寄せられており、正確な裁判名、裁判官名を再度記載します。

大阪高等裁判所第4民事部
平成20年(ネ)第1226号
出版差止等請求控訴事件
控訴人  梅澤裕 赤松秀一
被控訴人 株式会社岩波書店 大江健三郎
平成20年10月31日 午後2時より
第202号(本館)法廷
裁判官 小田耕治(裁判長) 富川照雄 山下寛 


10月31日の大阪高裁判決は控訴棄却でした。
当方弁護士は全面敗訴は予測していませんでした。
予測が外れたのは、最高裁のこれまでの基準を変えてまで、なんとしても岩波、大江を勝たせたいという常識を逸脱した判決だったからです。

当方はただちに上告し、最高裁での高裁への差し戻し、原判決破棄を目指します。

追って弁護士より上告に当たっての詳細な意見表明が為されると思いますが、以下は南木の私見です。
もし、最高裁が、今回の大阪高裁が勝手に決めた基準を是とするなら、本人が存命でも、歴史的事象等の公の議論に関することならば、どれほど名誉を毀損されても、その名誉を毀損された本人の人権よりも言論の自由が勝るという事になり、大出版社や、著名人が、相手が公務員であれば、思いこみだけで、どれほどの誹謗中傷を書き立てても、名誉毀損にはならない事になるでしょう。この裁判官にしても、「考え得る限りの良心の偽装によって自身の欺瞞に目を閉ざし続けてきた男」とか、「最大級の偽善者」などといくら書かれても、また「羞恥心の欠片すらあれば、受け取るはずのない種類の精神的で、かつ結果的には物的な支援を、ある特定の勢力から受け続けていると疑わざるを得ないその男」とか、「自身の内奥にその心の動きを密かに隠したままで、特定の反日勢力と結びつき、その実体は売国奴であった事が今後明らかになって来るであろうその裁判官」等と書かれても、またそう書かれる事によって家族や近親者が大変つらい思いをする事があっても、自分自身でその記述が明白に虚偽であることを証明できなければ、その境遇を甘受しなければならない事になります。
「@その表現内容が真実でないことが明白であり、かつ、A被害者が重大な不利益を受け続けているとき」でなければ公務員の名誉毀損が成り立たないのだったら、そしてこれほど生涯にわたる苦難を乗り越えてこられた梅澤さんが@Aに当たらないと言うなら、今後誰も公務員になる事ができないほどの、誹謗中傷合戦が繰り広げられる事になるでしょう。
今回の判決のようなことを認めれば、我が国の言論の世界にますます品位はなくなり、そう信じられるからそう書いたのだ、何が悪いと、誹謗中傷の嵐が吹きすさぶ事になるでしょう。
最高裁にこんな基準を認めさせてはなりません。
また、私も例えとして上記のように書きましたが、裁判官をこのような下品な表現で、批判したいと思いません。けれども大江健三郎はそれをしたのであり、今もし続けているのです。


ところで、一審、2審とも、裁判では負けましたが、一審では「自決命令それ自体まで認定する事には躊躇を禁じ得ない」と書かれており、また今回も「控訴人梅澤及び赤松大尉自身が直接住民に対して自決命令を出したという事実を断定することはできず、証明できない」旨が書かれています。

つまり、2度の裁判で、自決命令があったと言う証明を、ついに岩波、大江の被告側は証明する事ができなかったのです。この点に関しては決定的な勝利だと言って過言ではありません。
たった一例の明確な自決命令を指し示す事すらついにできなかったのです。なぜなら自決命令はなかったからです。
梅澤さん、赤松隊長の名誉回復について、判決では敗訴していますが、中身ではすでに勝っているのです。
出版差止を目指す名誉毀損裁判なので、その結論で負けているだけで、梅澤、赤松両戦隊長が自決命令を出したかどうかは証明できないと裁判所は判断したのですから、ご両人の名誉はすでに大きく回復された事になります。
ここがこの裁判の非常に重要な点と思っております。


31日の裁判当日は65枚の傍聴券獲得のため、原告、被告、そして割り当て以上の席を獲得するためのマスコミ関係者の方々、併せて300名弱が並びました。
当方は入るべき方々全員が入廷できました。ご協力いただいた皆様、東京からわざわざお越し頂いた皆様。
まことにありがとうございました。
裁判後報告集会を中之島公会堂で行いました。
弁護士全員、また非常に多数の方のご発言の後、簡単な懇親会をその場で開きました。

報告集会の最中に、改革クラブの西村眞悟先生が参加くださり、
「戦後体制は司法に於いて完成していると思う。そう言うことであるから、戦術としての個別の裁判では敗れる事はあっても、この裁判を起こしているという戦略は、完全に正しく、自虐的な日本から脱却し、誇りある日本をつくるという戦略を一貫して追及してほしい。頑張ってください」との、心強い支援のお言葉を頂きました。

最高裁での破棄、差し戻しに向け、気合いの入った報告集会、懇親会となりました。
最後は、松本弁護士の一本締めで閉会しました。
皆様、本当にお疲れ様でした。
多数の署名を集めてくださったいくつものグループの皆様にも、この場をお借りして御礼申し上げます。ありがとうございました。
皆さん、これからも、頑張りましょう。

判決の大要を以下に示します。




2008年11月1日 03時58分 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(1) |
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2008年10月28日(火)
高裁判決日程等のご案内
沖縄集団自決冤罪訴訟の大阪高裁判決は
10月31日(金)
午後2時より
傍聴券抽選は午後1時30分です。

2008年10月28日 06時25分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2008年10月02日(木)
控訴人準備書面(1) 目次 及び、第1
平成20年(ネ)第1226号 出版差止等請求控訴事件    
(原審 大阪地方裁判所 平成17年(ワ)第7696号)   
控 訴 人  梅澤裕、赤松秀一
被控訴人  株式会社岩波書店、大江健三郎          
  
  
控訴人準備書面(1)
                  
平成20年9月5日
大阪高等裁判所第4民事部ハ係 御中  

                控訴人ら訴訟代理人

               弁護士  松  本  藤  一

               弁護士  徳  永  信  一

               弁護士  岩  原  義  則

               弁護士  大  村  昌  史

               弁護士  木  地  晴  子

               弁護士 中  村  正  彦

弁護士 高 池  勝 彦      弁護士 本 多 重 夫

弁護士 青 山 定 聖 弁護士 荒 木 田 修

弁護士 猪 野   愈      弁護士 氏 原 瑞 穂
弁護士 内 田   智      弁護士 小 沢 俊 夫
弁護士 勝 俣 幸 洋      弁護士 神 崎 敬 直    
弁護士 木 村 眞 敏      弁護士 田 中 平 八
弁護士 田 中 禎 人      弁護士 小 沢 俊 夫
弁護士 田 辺 善 彦      弁護士 玉 置   健
弁護士 中 條 嘉 則      弁護士 中 島 繁 樹
弁護士 中 島 修 三      弁護士 二 村 豈 則
弁護士 馬 場 正 裕      弁護士 羽 原 真 二
弁護士 浜 田 正 夫      弁護士 原   洋 司
弁護士 藤 野 義 昭      弁護士 三ツ角 直 正
弁護士 牧 野 芳 樹      弁護士 森   統 一 
 
− 目 次 −  
            
第1 「真実相当性」に関する再反論 ‥‥‥‥‥‥ 4
 1 口頭弁論終結時における真実性と真実相当性の判断が異なることの問題点  ‥‥‥‥‥ 4 
 2 「隊長の関与」に基づく「公正な論評」であるとの主張について  ‥‥‥‥‥‥‥ 11 
 3 「軍の関与」と同一性のない「隊長命令」の事実摘示は許されない  ‥‥‥‥‥‥‥ 15  

第2 事後的な出版差止め要件に関する再反論  ‥‥‥‥‥‥‥‥ 20
 1 被控訴人の主張  ‥‥‥‥‥‥ 20 
2 原判決が示した基準の誤り(控訴理由書の補充)  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 20 
 3 「真実相当性」は差止めの要件とはなりえない  ‥‥‥‥‥‥‥‥ 23

第3 平成18年度教科書検定は「改め」られたか ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 25 
 1 はじめに ‥‥‥‥‥ 25
 2 東京書籍「日本史A 現代からの歴史」 ‥‥‥‥‥‥‥ 26
 3 実教出版「高校日本史B 新訂版」 ‥‥‥‥‥‥‥ 28
4 新聞各紙は最終の検定結果をどう報じたか  ‥‥‥‥‥‥‥‥ 29
 5 一貫している教科書検定の考え方と被控訴人らの誤導 ‥‥‥‥‥‥‥ 31

第4 手記「戦斗記録」のゲラと『紀要』末尾6行 ‥‥‥‥‥‥‥‥ 32
 1 はじめに ‥‥‥‥‥‥‥‥ 32  
 2 『紀要』作成までの関係証拠の整理 ‥‥‥‥‥‥‥‥ 33
 3 大城将保の弁解について ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 34
4 結論 ‥‥‥‥‥‥‥‥ 36
 5 「真相は梅澤氏の手記のとおり」 ‥‥‥‥‥‥‥‥ 38
6 補足−神戸新聞記事と梅澤供述の信用性の回復− ‥‥‥‥‥‥‥ 39

第5 宮平秀幸証言(控訴理由書p119「第4」)の信用性 ‥‥‥‥‥‥‥ 40
 1 被控訴人らの主張  ‥‥‥‥‥‥‥‥ 40
 2 貞子証言について  ‥‥‥‥‥‥‥‥ 40 
 3 ビデオ証言について  ‥‥‥‥‥‥‥‥ 41
 4 一九四五証言について  ‥‥‥‥‥‥‥‥ 42
 5 春子証言について  ‥‥‥‥‥‥‥‥ 42
 6 初枝証言について  ‥‥‥‥‥‥‥‥ 43
 7 晴美陳述書(2)について  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 44
 8 まとめ  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 45  


第1 「真実相当性」に関する再反論

1 口頭弁論終結時における真実性と真実相当性の判断が異なることの問題点
⑴ はじめに
  被控訴人らは、その控訴審準備書面(1)において、「原判決の真実相当性に関する判断は単に真実性の立証要件を緩和したものに過ぎないと言え、これを違法性阻却事由ではなく故意又は過失の阻却事由とした最高裁判例の立場に違背する」との控訴人ら主張を、「趣旨が不明」とする(p2、3)。また、被控訴人らは、その控訴審準備書面(3)においても、「同一の証拠によって、真実性自体を高度の蓋然性をもって証明できない場合であっても、それが優越的蓋然性の程度に達して真実相当性の立証ありとされることは当然のことである」と主張し(p5)、真実相当性に関する判断は真実性の立証要件を緩和してなされるのは正当であるとの見解を明確にしている。
被控訴人らは、伊藤眞教授の見解を引用するが、かかる見解がありうることは控訴人らも否定するものではない。ただ、それは最高裁判例の立場には違背するのである。控訴人ら主張の趣旨が被控訴人らには十分理解されていないものと思われるので、この点について、以下、改めて詳述する。
⑵ 原判決の判断とそれに端を発する疑問  
 原判決は、両隊長の自決命令につき、真実性の立証はないとしながら、真実相当性については合理的な資料若しくは根拠があるとしてこれを認定した。原判決は、真実性及び真実相当性双方について判断し、異なる結論を導いたのであるが、それらの判断にあたっては、その法的性質と判断基準時についてまず正確に理解しておく必要があろう。 
 最高裁判例によれば、真実性の立証とは、摘示された事実が客観的事実に合致していたことの立証であり、名誉毀損表現の違法性阻却事由とされているが、真実相当性は、行為者の故意又は過失を阻却する責任阻却事由であり、行為者の認識内容が問題となるとされている。従って、真実性の判断基準時は口頭弁論終結時であるが、真実相当性の判断基準時は名誉毀損行為時であるということになる(最高裁平成14年1月29日判決。甲C14)。 
  ところで本件原判決は、真実性については口頭弁論終結時でも立証はなされなかったとしながら、真実相当性については口頭弁論終結時に立証はあったとしている。上記最高裁判例の真実相当性の判断基準時に関する規範との関係が問題となる。
  その点、原審裁判所は、今回の請求においては「『沖縄ノート』の出版は継続されていて、口頭弁論終結時までずっと名誉毀損行為を続けている」というのが原告ら(控訴人ら)の主張なのだから、いわば、(最終の)名誉毀損行為の時期が口頭弁論終結時と一致しただけであり、最高裁判例の規範に矛盾しないと考えるのであろうが、そこでは、真実相当性が真実性の証明の緩和であるということが前提となっている。  
原判決の結論が前提としている立場(真実相当性を真実性の証明の緩和であると捉えること)に対しては、次のような疑問が生じてくる。
 即ち、「名誉毀損の事実摘示を含む書籍等の出版につき、真実性の立証ができない事実についても、真実相当性が認められるという理由をもって、名誉毀損の不法行為の成立は否定され続けてよいのだろうか」ということである。特に、当初の事実摘示(あるいは、ある事実を前提とした論評)から、かなりの時間的経過があり、その事実に関する資料、情報も十分に公表された以降の段階で、事実の真実性が立証できない場合にも、真実相当性を認め、名誉毀損の事実摘示(出版)を継続する名誉毀損者側の新たな出版行為を救済するというのが果たして正当なのであろうか。そこでは、真実相当性は、真実性の証明を単に緩めるだけのものとなり、名誉の保護を著しく後退させることとなる。何より、「真実性」は名誉毀損の不法行為の成否の要件としては全く機能しなくなり、そもそも不要ではないのか。
 一つ、ロス疑惑事件を例にとって考えてみたい。
  例えば、三浦和義が妻に対する殺人の容疑で逮捕され起訴されて、下級審で有罪判決を受けるなどした段階で、仮にある出版社が、下級審判決を主要な根拠として三浦が妻を殺害したと判断し『妻を殺した三浦の心の闇』というハードカバー本を出版して販売した後、上告審において三浦が無罪となった場合を想定してみよう。三浦の無罪判決が確定した時点において、ハードカバー本の名誉毀損性が問題とされたとする。その場合、真実性の立証はないが、出版時点における真実相当性は肯定され、名誉毀損の不法行為の成立は否定されるものと一応考えられる(類似のケースとして、最高裁平成11年10月26日判決〈甲C15〉ご参照)。
しかし、三浦の無罪が確定して以降も『妻を殺した三浦の心の闇』の出版が続けられたとしたらどうだろうか。民事訴訟においても名誉毀損の不法行為が成立するであろう(もちろん刑事訴訟の結果が民事訴訟における判断を拘束するものではないが、ここでは、刑事訴訟と民事訴訟とで「真実性」の判断については一致する場合だとして議論している)。この点については、佐伯仁志及び道垣内弘人もその対談集『刑法と民法の対話』(甲C16)p303において同趣旨を述べている。
刑事訴訟の判決が下級審と最高裁で有罪から無罪に変更されるくらいであるから、三浦による妻殺害が真実か否かは極めて微妙であり、下級審が無罪の推定を乗り越えて有罪にする程度の「真実らしさ」すなわち「真実と誤信してもやむを得ないような微妙さ」は、常にあるはずである。それは最高裁判決が出ても、実態として変わらない。真実相当性を単なる真実性の立証の緩和として捉え、真実性の証明がないという判断と両立しうるものだとすると、最高裁での無罪判決以降も、三浦による妻殺害を叙述する出版が真実相当性で救われうることになりはしないか。最高裁での無罪判決以降も、三浦による妻殺害を事実として断定的に叙述する出版行為が、真実相当性で救われうるという結論は名誉の保護を余りにも後退させることにならないか(なお、意見論評としての叙述はこの限りではない)。
  そのような検討を経ると、真実相当性を単なる真実性の立証の緩和と捉え、口頭弁論終結時において真実性の立証のできない名誉毀損の事実摘示につき、口頭弁論終結時における真実相当性を理由に救済しうるという原判決の立場が、真実性の立証を違法性阻却事由として位置づけ、真実相当性を故意又は過失を否定する責任阻却事由として限定的なものに止めている最高裁判例の立場に背走するものであることが一層明らかに見えてくるのである。
⑶ 原判決の真実相当性に関する判断の誤り
ア 控訴理由書でも述べたが、原判決の誤りは、両隊長の自決命令につき、真実性の立証はないとしながら、判断基準時も、従って根拠資料も全く同一であるにもかかわらず、真実と考えるに足る合理的な資料若しくは根拠があるとして安易に相当性を認めたこと、即ち真実相当性の存否について真実性の存否と結論を違えたことにある。
 そもそも、名誉等の人格権を保護するため、真実相当性の認定には厳格性が求められ、客観的で確実な資料に依拠しなければならない。「ある者が犯罪を犯したとの嫌疑につき、これが新聞等により繰り返し報道されていたため社会的に広く知れ渡っていたとしても、このことから、ただちに、右嫌疑に係る犯罪の事実が実際に存在したと公表した者において、右事実を真実であると信ずるにつき相当な理由があったということはできない」(最高裁平成9年9月9日判決。甲C13)し、定評ある通信社から配信された記事をスポーツ新聞社が掲載した事案についても、相当な理由がないとされている(最高裁平成14年1月29日判決。甲C14)。
  真実相当性が認められるハードルは非常に高いのである。 この点については、この平成14年判決の最高裁判例解説(甲C14)においては、下記のような解説がなされている(p122以下)。
「上記昭和41年一小判決後の相当の理由に関する最高裁の判例には、最一小判昭和47年11月16日民集26巻9号1633頁、最二小判昭和49年3月29日裁判集民事111号493頁、最一小判昭和55年10月30日裁判集民事131号89頁(判例時報986号41頁)などがある。これらは、いずれも、犯罪報道に関して相当の理由を否定し、不法行為の成立を認めたものである」(p122)
「これらの判例では相当の理由の有無の判断についてかなり厳格な姿勢がとられていることがうかがわれる」(p123)
「昭和47年一小判決、昭和55年一小判決によって、最高裁の厳格な判断姿勢が示されたことにより、下級審の裁判例では、詳細な裏付け取材を要求するという方向が定着している」(p123)
イ 真実相当性の法理は、行為時において名誉毀損者側が調査可能な資料に照らし真実性の証明に足りると評価できる場合であっても、後日、発見された証拠資料等によって真実性が失われる場合のあることに鑑み、これを故意又は過失を阻却することで救済し、正当な表現の自由を保障しようとしたものである。真実性の根拠となる証拠資料が、時間の推移によって変わりうることに配慮したものであるということができる。
名誉毀損行為が口頭弁論終結時まで継続している本件では、真実性の判断基準時も真実相当性の判断基準時も口頭弁論終結時となり、従って根拠資料も同一であることになる(本件訴訟において提出された全ての証拠がそれである)。根拠資料が全く同一ということであれば、客観的な真実性と主観的な真実相当性の判断は原則として異ならないはずである。 
 更に噛み砕いての論述を試みよう。
  真実性と真実相当性の判断要素の違いは、事後的に真実であったかどうかという客観的判断と、名誉毀損行為時に真実と信じることができたかという主観的判断の違いであるとされる。
  そういう違いが、結局のところ、具体的現実場面でどういう判断枠組の違いに反映されるかというと、「真実と判断するため基礎資料の範囲の相違」というところに帰着するのであり、更に訴訟という場面に即して述べると、真実性を判断する基礎とし得る裁判上の証拠と、真実相当性の判断の基礎とし得る裁判上の証拠の範囲に、違いが生じるということである。
 一方で、真実性と真実相当性の判断要素のうち、「真実」を判断する主観的基準には差がないものと想定されていることには、留意されねばならない。すなわち、真実性も真実相当性も、「個性を捨象した通常一般人が社会通念にしたがって判断する」というのが判断基準であって、特異な感性を有する行為者当人が「一般人は真実と信じられないだろうが、自分だけは真実と信じることができた。だから真実相当性はある」などという論理が通るものではない。
  また、真実相当性の判断の基礎となる資料、根拠についても、行為者が現実に調査、収集した結果にとらわれず、「行為当時、一般的に調査、収集が可能であった資料、根拠」を想定し、「それらによれば、軽々しく真実と誤信することは許されない」などという形で判断がされるというのも確立した判例である(杜撰な調査しかしなかった行為者が「現実に自分が判断の基礎資料としたのはこの範囲だけだ。これらの限定的な資料だけに基づいて判断したら、真実と信じてもやむを得ないはずだ」などと主張しても一顧だにされないであろう)。これは、真実性が、「現時点(口頭弁論終結時)において、一般的に調査、収集が可能である資料、根拠」に基づいて判断されるのと、「一般的な調査、収集の可能性」が問題にされる点で、同一である。
  くどくなったが、要するに、真実性と真実相当性の判断にあたっては、基準時が異なるため基礎とされる資料の範囲は異なるものの、判断基準自体は同一なのである。
  「真実性は客観的判断」とはいっても、裁判においても人間が神の視点をもって絶対的真実を認定することは不可能なのであるから、真実性についても、基礎資料の範囲を確定し、通常一般人の判断基準を設定したうえで、「真実と評価できるかどうか」という主観的判断を(判決においては裁判所が)せざるを得ないという点では、真実相当性の判断と同様である。 そのような検討を経ると、結局、最高裁判例が定立した真実相当性の実質は、「名誉毀損行為がなされた時点において行為者に入手可能な資料と情報を基礎として判断された真実性」、簡潔に言えば、「名誉毀損行為時における真実性の証明」と考えられるのである。  
前記アのように、真実相当性が認められるハードルが非常に高くなるのである。      
  ウ そうした検討を踏まえて、原判決の判断について考えてみる。
前記のとおり、本件での真実性の判断は、口頭弁論終結時までの全資料を基礎としてなされる。
 一方、真実相当性はどうか。その判断基準時は名誉毀損行為時であるが、本件では、最終の名誉毀損行為の時期である口頭弁論終結時までにあらわれた全資料が基礎となり、本件では、真実性判断の基礎資料と、真実相当性判断の基礎資料が、完全に一致するのである。具体的に言えば、当事者が裁判に提出しない証拠は判決の事実認定の基礎とできないという弁論主義の原則とも相まって、「本件訴訟で提出された全証拠」という形で、真実性判断と真実相当性判断の基礎資料が統一される結果となるのである。
 判断の基礎となる資料が同一であり、前記のとおり、「真実」を判断する基準も違わない以上、真実性判断と真実相当性判断の結論が異なるというのは、ありえないはずである。
  ところが、原判決は、真実性は認められないとしつつ、一方で真実相当性は認めることができると結論づけるという本質的な過ちを犯しているのである。
エ 法律家の論述や下級審裁判例の一部には、原判決同様、最高裁判例の明示している真実性と真実相当性の法的性質の違いを正確に把握することなく漫然と(あるいは、最高裁判例の考え方とはあえて違う見解を採った上で)、「真実性は厳しい判断基準で、真実相当性はそれを緩めた判断基準である」との考えを示している例がある。そのような見解は、真実性だけでなく、真実相当性も違法性阻却事由に位置づけ、その両者の違いを「立証の程度の違い」と考えるところに由来するのであろう(被控訴人らが援用している伊藤眞教授の見解は、正しく真実相当性を優越的蓋然性の証明だと主張するものである)。 
     しかし、最高裁判例の一貫した考え方に則った場合、そのように真実相当性を真実性の立証の緩和として考える見解は、前記イで述べたとおり、理論的におかしいのである。
     かような分析を理解するうえで参考になるのは団藤重光の分析である。団藤は、真実性の証明の法的性質について違法性阻却説または構成要件該当性阻却説をとる場合に「何を違法性ないし構成要件該当性の阻却原由とみるべきか」という課題に関し「事実が証明の可能な程度に真実であったことを阻却原由とみるべき」とし、「故意論にこの見解を適用すると、行為者が、証明可能な程度の資料・根拠をもって事実を真実と誤信したときは、―たとい事実の証明がなくても―故意を欠くものとして罪とならない。」(甲C17 p524)とする。
 即ち、団藤によれば、真実性相当性の要件を満たすには、資料、根拠については、「真実性を証明できる程度のものが行為当時にあったかどうか」という判断になる。最高裁判例の立場に即した場合、真実相当性について、「真実性の立証の程度を緩めた概念」としてとらえることが誤りであることは、この団藤の分析を参考にしたとき、一層明らかになる。
2 「隊長の関与」に基づく「公正な論評」であるとの主張について 
⑴ はじめに
 被控訴人らは、その控訴審答弁書において、控訴人梅澤に対する名誉毀損に関し、「『本件記述⑵』は、慶良間列島の集団自決について、『この事件の責任者』に言及しているが、慶良間列島の集団自決に日本軍が深くかかわり、守備隊長の関与が十分推認されることは原判決が認定しているとおりであり、これについて『この事件の責任者』の責任に言及することは、真実に基づく公正な論評に該当する」と主張する。即ち、「守備隊長の関与」を基礎として「『この事件の責任者』の責任に言及する」ことは、「公正な論評」だと言うのである。 
  以下、この主張に対して反論を加える。
⑵ 事実摘示と意見論評の混同
 まず、かかる主張については、『沖縄ノート』が「『この事件の責任者』の責任に言及」している部分は単なる「論評」とは評価できず、控訴人梅澤の出した隊長命令の「事実摘示」を含むものであるとの反論が可能である。
  改めて「本件記述⑵」(原判決の表示)を引用すると下記のとおりである。
「慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自  決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き  延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を  迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげな  いために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》と  いう命令に発するとされている。沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれ  る本土の日本人の生、という命題は、この血なまぐさい座間味村、   渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略  体制のもとの今日に、そのままつらなり生き続けているのである。生  き延びて本土にかえりわれわれの間に埋没している、この事件の責任  者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個  人の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復  しているものなのであるから、かれが本土の日本人にむかって、なぜ  おれひとりが自分を咎めねばならないのかね? と開きなおれば、たち  まちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまう  だろう。」(甲A3p69〜)
この記述が意見論評なのか、事実摘示なのかを判断するにあたっては、最高裁判決が両者の区別のために定立した以下の基準に依るべきである。 即ち、最高裁平成9年9月9日判決(甲C6)は、特定の表現が事実の摘示を含むものであるか否かについて、「一般の読者の普通の注意と読み方を基準に、前後の文脈や記事の公表当時に読者が有していた知識ないし経験等を考慮し、右部分が、修辞上の誇張ないし強調を行なうか、比喩的表現方法を用いるか、又は第三者からの伝聞内容の紹介や推論の形式を採用するなどによりつつ、間接的ないし婉曲に前記事項を主張するものと理解されるならば、同部分は、事実を摘示するものと見るのが相当である。また、右のような間接的な言及は欠けるにせよ、当該部分の前後の文脈の事情を総合的に考慮すると、当該部分の叙述の前提として前記事項を黙示的に主張するものと理解されるならば、同部分は、やはり、事実を摘示するものと見るのが相当である」としている。
本件記述⑵を見ると、要するに、「慶良間列島においておこなわれた、700人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』によれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《自決せよ》という命令に発するとされている」旨が述べられており、これは、その後の「この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場」という表現とも相まって、座間味村の日本軍の住民に対する自決命令が叙述されていることは明白である。確かに「上地一史著『沖縄戦史』によれば」という「第三者からの伝聞内容の紹介」の形式が採用されているが、それが事実摘示と評価する際の障害にはならないことは前記最高裁判例の判示するところである。 
加えて更に、本件記述⑵の「この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていない」、「この個人」、「かれ」、「おれひとりが自分を」との表現にも鑑みれば、本件記述⑵は、全体として、座間味村集団自決について、命令を出した控訴人梅澤「個人」を「責任者」として糾弾する趣旨を含む叙述となっているといえる。そのことも考え合わせると、その前の部分の「慶良間列島においておこなわれた〜という命令に発するとされている。」との一文は、控訴人梅澤が自決命令を発したという《梅澤命令説》を間接的ないし婉曲に、あるいは黙示的に主張するものと理解されるのであり(少なくとも、一般の読者の多くが、控訴人梅澤「個人」が「責任者」として糾弾されている責任の前提となる事実として《梅澤命令説》を読み取ることは否定できないところである)、最高裁判例の基準によれば、当該部分は、明らかに《梅澤命令説》の「事実の摘示」を含むものである。 
確かに「梅澤」という固有名詞の使用や「隊長の命令」という直接表現はされていないものの、「一般の読者の普通の注意と読み方を基準に、前後の文脈や記事の公表当時に読者が有していた知識ないし経験等を考慮」した場合、『沖縄ノート』発表当時、座間味村の集団自決事件について《梅澤命令説》が定説とされていたことは「一般の読者の知識」の範疇であったといえるし、本件記述⑵が引いている上地一史著『沖縄戦史』には《梅澤命令説》も明確に記載されているという文脈からして、本件記述⑵が《梅澤命令説》の事実摘示を含むものであることは動かせない(原審原告最終準備書面その1 p13〜17ご参照)。
被控訴人らは、慶良間列島の集団自決は「日本軍―沖縄の第32軍―慶良間列島の守備隊というタテの構造の強制力」によってもたらされたもので、「日本軍の命令」によるものではあるが、あえて隊長の命令と書いていないし、また、叙述の趣旨は自己批判であって集団自決の責任者個人を非難しているものでもない旨弁解する(被控訴人ら答弁書p3、4)。
しかし、一般の読者の普通の注意と読み方を基準にしたときに、「日本軍―沖縄の第32軍―慶良間列島の守備隊」、「タテの構造」、「強制力」といった文言での説明も記述中にない以上、本件記述⑵から「タテの構造の強制力」という主旨を読み取ることはとてもできない。
また、当該記述が、本土の日本人の批判ないし自己批判の主旨を含む(あるいは結論とする)表現であるとしても、それを理由に、記述中の「個人に対する名誉毀損の事実摘示」部分の名誉毀損性が失われるものではない。
例えば、もしある作家が「保険金目的で妻を殺したと報道されているロス疑惑の主人公」についてその内面を想像で醜く描いたうえで、「そういう邪悪さと同じものを、戦後の日本人みなが持っているのだ」と論評した場合、その作家の言いたいことの核心がその論評部分であったとしても、その前に述べた「保険金目的」云々の表現の名誉毀損性が否定されるものではないことは論を待たない。
結論として、本件記述⑵が《梅澤命令説》の事実摘示を含まない公正な論評であるとする被控訴人ら主張は失当であること、明らかである。
3 「軍の関与」と同一性のない「隊長命令」の事実摘示は許されない
⑴ はじめに 
  控訴人らは、「軍の関与」の認定とそこから推認した「隊長の関与」を基礎として「隊長命令」を摘示することに相当性は認められないと主張している。
これに対し被控訴人らは、原判決は、「隊長命令」の事実の記述の合理的資料若しくは根拠は、かかる「軍の関与」と「隊長の関与」だけではなくそのほかにもあると反論するが(被控訴人準備書面(1)p3、4)、「軍の関与」及び「隊長の関与」が「隊長命令」の事実の真実相当性の主要な理由であること自体は、否定していない。  
しかし、「軍の関与」及びそこから推認した「隊長の関与」を「隊長命令」の真実相当性の理由とすることは失当である。この問題点については、最高裁平成11年10月26日判決の判示を正しく理解することが極めて重要である。
⑵ 最高裁平成11年判決の理解
 控訴理由書p11以下でも述べたが、最高裁平成11年10月26日判決は、「刑事第一審の判決において罪となるべき事実として示された犯罪事実、量刑の理由として示された量刑に関する事実その他判決理由中において認定された事実について、行為者が右判決を資料として右認定事実と同一性のある事実を真実と信じて摘示した場合には、右判決の認定に疑いを入れるべき特段の事情がない限り、後に控訴審においてこれと異なる認定判断がなされたとしても、摘示した事実を真実と信ずるについて相当の理由があるというべきである。けだし、刑事判決の理由中に認定された事実は、刑事裁判における慎重な手続きに基づき、裁判官が証拠によって心証を得た事実であるから、行為者が右事実には確実な資料、根拠があるものと受け止め、摘示した事実を真実と信じたとしても無理からぬものがあるといえるからである」とし、控訴された刑事判決は、これをもって真実性の証明ありとは言えないが、真実相当性の根拠とすることはできるとしている。この判決からは、真実相当性の根拠や資料には、かくも厳しい確実性ないし信頼性が要求されるのであり、刑事訴訟の判決において真実と認定された事実と同一性のない事実については、当該判決を真実相当性の根拠とすることができないことも導かれる(甲C15 p661)。
 この控訴人ら主張に対しては、被控訴人らは、この判決は、「『真実と認定された事実と同一性のない事実については、真実相当性の根拠とすることができない』などとは全く述べていない」と反論する(被控訴人準備書面(3)p6)。
  かかる被控訴人らの反論には無理がある。「刑事訴訟の判決において真実と認定された事実については、当該判決を真実相当性の根拠とすることができる」との旨の判示は、「刑事訴訟の判決において真実と認定された事実以外の事実については、当該判決を真実相当性の根拠とすることができない」との趣旨を含意するものと読むのが当然であって、それ以外の解釈はありえない。
  同判決に関する最高裁判例解説も、(真実相当性をもって)「免責されるのは認定事実と同一性のある事実を摘示した場合であり、認定事実の範囲を超えた事実を織り交ぜて記載した場合には、真実と信じるにつき相当の理由があるとはいえない」(甲C15 p661)と明言している。
⑶ 最高裁平成11年判決の射程 ―軍の関与をもって軍命記述は許されない―
 前記最高裁平成11年判決の考え方を本件に引いた場合、教科書検定においても容認されている「軍の関与」という事実と同一性のない「隊長の命令」という事実を記載した場合には、真実相当性は認められないという結論に至る。
  本件の名誉毀損事件は犯罪報道が問題となったものではないから、前記判決にいう「刑事判決」や「捜査当局」や「捜査担当者」が存在するわけではないが、本件では、「集団自決」に関する教科書検定に際して文科省が示した見解が、教科用図書検定調査審議会という国家の専門機関において、多くの専門家の意見を聴取し、慎重に調査、検討をした結果示された認定という意味で、刑事事件における「刑事判決」ないし「捜査当局の公式発表」と同等ないしそれ以上の確実性と信頼性を有していると考えられる。
その観点からすると、本件では、集団自決についての教科書検定において文部科学省の示した判断が真実相当性の認定に大きく影響すると考えられるところであるが、控訴人らがこれまで縷々指摘しているとおり、文科省は、集団自決に関する「軍の関与」の記述は認めるものの、これを超えて「隊長命令」あるいは「軍命令」の記述を認めていないのであり、「軍の関与」が認められていることをもって、それと同一性を有していない「軍命令」あるいは「隊長命令」の事実については、文科省の判断を真実相当性の根拠とすることができないとの結論が導かれるのである。
⑷ 「軍の関与」から隊長命令を合理的に推論し「推論として」記述すること
 被控訴人らは、その控訴審準備書面(1)において「控訴人は、『軍の関与』を基礎事実として隊長命令を推論する意見論評における推論には合理性があるとしており、同主張は、隊長命令について真実であると信じるについて相当の理由があるとした原判決の正当性を裏づけるものというべきである」(p4)と主張する。
しかし、この主張からは、被控訴人らが控訴人らの主張の意図を正解せず、「推論としての意見論評」と「推論に基づく事実摘示」を、そして、「推論の合理性」と「真実相当性」を混同していることがうかがえる。
 控訴人らは、被控訴人らの一つの見解として軍の関与から隊長命令を推論することや、かかる「意見論評」に一定の合理性(但し、ここでいう「合理性」は「意見としてありうる」程度の意味である)があることは、別に否定も問題視もしてしない。
  問題は、かかる「推論に基づく意見論評の内容」が、『沖縄ノート』と『太平洋戦争』においては、「推論に基づく意見論評」として記述されておらず、「確定的な事実摘示」として記述されていることにある。
  事実摘示なのか意見論評なのかの区別については、前記「2」において詳論したところであり、本件各記述が「隊長命令」を事実として摘示したものであることは、結論が出ていると言ってよいであろう(この点は原判決も認めているとおりである)。
  「公正な論評」の法理を巡っては、前提事実から導かれた意見論評に関し、前提事実と意見論評との間に合理的関連性が必要かという論点はある(因みに、最判平成16年7月15日判決・民集58-5-1615は、意見論評については、その内容の正当性や合理性を特に問う必要はない旨判示している)。その論点についての立場はさておき、本件では、意見論評として述べられる限り、「軍の関与」という前提事実と、「隊長命令」という意見論評の間に合理的関連性がないわけではないということを、前記のくだりで控訴人らは主張する一方、かような合理性(合理的関連性)は、本件で焦点となっている真実相当性とは全く別の問題であって、原判決及び被控訴人らは、両者を実質的に混同しているというのが、控訴人らが主張するところである。
⑸ 原判決及び被控訴人らのいう「真実相当性」の正体
  原判決は「軍命令は立証されていない」と言いつつ、立証できた「軍の関与」を根拠にして「隊長命令」を書いても「真実相当性」ありとして適法としているが、それは結局、「軍の関与」から「隊長命令」という事実を推論しても相当というものにほかならない(厳密に言えば、原判決は「軍の関与」から、いったん「隊長の関与」を推認し、更に、その「隊長の関与」から「隊長による自決命令」を推論するという、2段階の強引な推認ないし推論をなしている。控訴審においては、そのような原判決の「判断の飛躍」に十分留意した、事案の再検討や法的評価が加えられねばならない)。しかし、かような考え方は前記の混同があり、失当極まりない。
原審裁判所の行き着いた厳然たる結論として、「軍の関与」までしか「立証」は届いていないのである。それは原判決がはっきりと認めているところである。
  とすれば、「軍命令」は、どう見ても「推論」の領域である。その「推論」を事実として断定した表現で叙述することを相当、適法とする原審の判断は実質的に、「そういう推論をしても構わないではないか」という考えといえる。即ち、「真実相当性」という概念を論理のワンクッションとして誤用して真実性を緩和し、「推論は、合理的で、相当だ。だから許される」と強弁しているというのが、原判決の正体なのではないか。
控訴人らが、原判決は、意見論評としての「推論の合理性」をもって、事実摘示の免責に必要な「真実相当性」、即ち、行為時における立証可能な程度の真実性と混同していると断言する所以である。
2008年10月2日 07時00分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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控訴人準備書面(1) 第2、第3
控訴人準備書面(1) 第2、第3

第2 事後的な出版差止め要件に関する再反論  ‥‥‥‥‥‥‥‥ 20
 1 被控訴人の主張  ‥‥‥‥‥‥ 20 
2 原判決が示した基準の誤り(控訴理由書の補充)  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 20 
 3 「真実相当性」は差止めの要件とはなりえない  ‥‥‥‥‥‥‥‥ 23

第3 平成18年度教科書検定は「改め」られたか ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 25 
 1 はじめに ‥‥‥‥‥ 25
 2 東京書籍「日本史A 現代からの歴史」 ‥‥‥‥‥‥‥ 26
 3 実教出版「高校日本史B 新訂版」 ‥‥‥‥‥‥‥ 28
4 新聞各紙は最終の検定結果をどう報じたか  ‥‥‥‥‥‥‥‥ 29
 5 一貫している教科書検定の考え方と被控訴人らの誤導 ‥‥‥‥‥‥‥ 31


2 原判決が示した基準の誤り(控訴理由書の補充) 

⑴ 原判決が本件各書籍の出版差止に関して定立した基準、即ち、「本件各書籍の出版の差止め等は、その表現内容が真実でないか又はもっぱら公益を図る目的のものではないことが明白であって、かつ、被害者が重大な損害を被っているときに認められる」は、北方ジャーナル事件最高裁判決において原則的に許されない事前差止が例外的に認められる場合の基準として定立されたものを基にして策定されたものであるが、同判決が示した基準は、事前差止に伴う弊害等が何ら存しない事後的な出版差止である本件では妥当しない(下記甲C20・東京地裁平成14年4月11日判決同旨)。北方ジャーナル事件最高裁判決の射程が事前差止に限定されることは、その判示上から明らかである。
また、同判決が人格権としての名誉権に基づく実体的差止請求権の存否について判示しているところから明らかなように、名誉権が違法に侵害されていれば事後的差止を認めるに十分であり、「その表現内容が真実でないことが明白である」ことを求める理由がないことは控訴理由書第2−2(p12〜)で論じたとおりである。
この点、被控訴人らは、
  「差止請求は事後的制裁ではなく、将来にわたり出版を禁止し、公共的事項に関する事実や評価が人々に伝わることを妨げるという点においては、出版開始前の差止請求と同様、民主主義社会の基礎を崩壊させる危険のある事前抑制」である(被控訴人準備書面(3)p6)
として、本件は「事前抑制」の事案とするが、既に相当部数が読者の目に触れている本件において、そもそも「事前抑制」とするのは到底無理であり、原判決も「事後」差止の事案と認めている。
⑵ 「石に泳ぐ魚」事件最高裁判決
    控訴人らの上記主張の正しさは、「石に泳ぐ魚」事件高裁判決(東京高裁   
平成13年2月15日判決、判時1741−68、甲C2の2)の「侵害行為が明らかに予想され、その侵害行為によって被害者が重大な損失を受けるおそれがあり、かつ、その回復を事後に図るのが不可能ないし著しく困難であると認められるときは、差止めを求めることができるものと解するのが相当である」との判示を肯定した同事件最高裁判決(平成14年9月24日第三小法廷判決、民集207号p243、甲C2の3)において確認されている。
最高裁は、事後的な出版差止につき「真実でないことの明白性」を要件としていないことは明らかである。
 この「石に泳ぐ魚」事件の基準が、事後的な出版差止にかかる最高裁判例として妥当しているのであり、原審が定立した前記基準は、これに反するものである。
⑶ 下級審判決 
事後的な出版差止については、「石に泳ぐ魚」事件東京高裁判決の前記基準が最高裁判例として妥当しており、「真実でないことの明白性」が要件とされていないことは、事後的な出版差止の可否が争点となった下記の下級審判決においても確認することができる。
ア 東京地裁平成19年1月23日判決(判時1982−115)(甲C19)
同判決は、原告の放火等刑事事件について記載した書籍の増刷分につき、事後的な出版差止を認めたものであるが、人格権としての名誉権に基づき、加害者に対する差止請求権が発生することを認めた上で、その要件につき、次のように判示している。
「前示のとおり、本件書籍中の本件放火等事件記述部分は、原告の名誉を毀損する事実を摘示するものであり、今後も本件書籍が増刷及び販売され続ければ、将来にわたり原告の名誉は毀損され続けることになるため、これを差し止める必要性は高い。他方、前記認定のとおり、本件書籍は、平成14年11月1日以降約10万部発行されており、既に相当部分が販売されたものと考えられることからすれば、将来の増刷及び販売を差し止めることによる被告新潮社の表現行為に対する制約は全体として限定的であり、これにより被告新潮社が被る財産的影響もさほど大きくないものというべきである」
尚、同判決は控訴審である東京高裁で取り消されているが、地裁判決で用いられた利益衡量基準自体は踏襲されている(甲C21)。
イ 東京地裁平成19年4月11日判決(判時1993‐24)(甲C20)
書籍の事後的な差止の可否が争点となった事案の判決であり、「その要件は事前差止めに比して緩やかなものと解するのが相当」とし、「石に泳ぐ魚」事件最高裁判決及び同高裁判決を引用して判断基準(利益衡量基準)を下記のとおり定立している。利益衡量の結果として差止を認めなかったものであるが、その認めなかった理由として、増刷の予定がないこと、単行本化される際に名誉毀損表現を避ける書き直しがされることなどが挙げられている。
「どのような場合に侵害行為の差止めが認められるかは、侵害行為の対象となった人物の社会的地位や侵害行為の性質に留意しつつ、侵害行為によって受ける被害者側の不利益と表現行為の有する価値とを比較衡量して決すべきである。本件のように、雑誌への掲載及び単行本の出版という出版行為が既に行われている場合には、表現物が読者側に到達し、評価批判を受ける機会は与えられたものというべきであるから、その要件は事前差止めに比して緩やかなものと解するのが相当である。しかし、事後的であっても、出版等の差止めが表現行為に対する重大な制約となり得るのであるから、既に出版等行為がされた場合であれば常に名誉毀損行為を差止めることができるとするのは相当でなく、特に、侵害行為が明らかに予想され、その侵害行為によって被害者が重大な損失を受けるおそれがあり、かつ、その回復を事後に図るのが不可能ないし著しく困難であると認められるときは、差止めを求めることができるものと解するのが相当である(最高裁判所平成14年9月24日第三小法廷判決・裁判集民事第207号243頁、東京高等裁判所平成13年2月15日判決・判例時報第1741号68頁参照)」。
3 「真実相当性」は差止の要件とはなりえない  
そもそも「真実相当性」が差止の要件とはなりえないことは、控訴理由書p16以下で詳細に述べたが、特に「真実相当性」が故意又は過失の責任阻却事由であることと、「名誉を違法に侵害」された場合に差止を認めるという最高裁の態度との法的整合性は、重要である。 
この点、被控訴人らは、「真実相当性」が真実性の証明度が軽減された場合の要件として認められるのであるから、原判決は、その理論的位置付けに何ら違背していないとするが(控訴審準備書面(3)p5)、「真実相当性」が真実性の証明度軽減の問題でないことは、平成14年1月29日最高裁判決が示した基準時論(「真実性」は口頭弁論終結時、「真実相当性」は行為時を資料の基準とする)の明確な判示により既に終わった議論である(「刑法と民法の対話」甲C16の対談ご参照。控訴理由書p9)。
基準時が真実性と真実相当性とで異なる以上、真実相当性において証明度軽減をする理由は何らなく、既に両者の法的位置付けは実体法上の面からはっきりしているのである。
被控訴人らは、控訴審準備書面(3)において伊藤眞教授の説を引用して説明しているが、伊藤眞教授は、「通説・判例とは異なる『優越的蓋然性(証拠の優越)をもって民事訴訟における証明度とすべきである』」(「民事訴訟における証明度」座談会、判タ1086−4、甲C22・1枚目の中段縦書部分)とする優越的蓋然性説の論者であり、判タ1086−4は、この説を中心として座談会がされている。この説に対しては、通説・判例からの批判が多い。  
加藤新太郎研修所教官は、同説に対して「相当程度の蓋然性はあるけれども、高度の蓋然性がないという事実に関する争点は、裁判官としては認定できないとして棄却するように思います。」「事実については、通説・判例の立場をとる以上そうならざるを得ません。」(同p26)、須藤典明判事は、「医療事故訴訟における因果関係の証明度についての最高裁判例(最二小平成12年9月2日判決民集54‐7‐2574)がやっているように、実体法の部分をいじるとかして救済すべき」(同p26)として、通説・判例の立場から極めて強烈な批判がされている。通説・判例の立場とは全く異なる説を基に証明度の軽減を言うことしかできない被控訴人らの主張が如何に苦しいものか分かる。
更に、同座談会では、名誉毀損における議論の中で、上記平成14年1月29日最高裁判決を前提にした議論をしておらず(同p19〜)、相当性が証明度を緩和するものと誤解して議論をしている感があるも、山本和彦教授は、「名誉毀損の問題でありますとか、やはり証明度を訴訟法の立場から変えるということは、実体法の従来のあり方にかなり大きな影響を及ぼす可能性がある問題であろうということで、今後は実体法研究者も含めて研究を要するという感じを受けました。」(同p30)として、「刑法と民法の対話」(甲C16)の対談につながる話しをしている。
正に、最高裁は、平成14年1月29日判決により、実体法の観点から「真実相当性」の意味付けを解決したのであり、訴訟法上の証明度を問題にして「真実相当性」の証明度を緩和する議論は、最高裁の立場ではないのである。
また、前述のように最高裁判例における「真実相当性」の内実は、「行為時における立証可能な程度の真実性の証明」であり、「過去」において真実だと信じるに足る相当な根拠に基づく名誉毀損行為の責任を免じるものであるという点からみても、現在ないし将来の名誉毀損行為を問題とする差止の場面において「真実相当性」が登場する余地はないのである。 

第3 平成18年度検定は「改め」られたのか 

1 はじめに 
 被控訴人らは、平成19年3月30日に発表された平成18年検定の判断(集団自決が軍の強制や命令によるものとする断定的な記載は認めない)は、その後教科書発行者らによりなされた教科書記述の訂正申請により「立場を改め」「最終結論では平成17年度検定の立場に戻った」と主張する(控訴審準備書面(1)p7、8)。
 その根拠の一つとして、被控訴人らは、訂正申請により最終的に承認された教科書記述が「日本軍によって『集団自決』においこまれたり、スパイ容疑で虐殺された一般住民もあった」とされた例を挙げている。
  これは、東京書籍発行の「日本史A 現代からの歴史」の訂正後の記述である(甲B104別紙⑸ないし⑺、乙103)。
  被控訴人らは、もう一つの根拠として、訂正申請により最終的に承認された教科書記述が「日本軍は、住民に対して米軍への恐怖心をあおり、米軍の捕虜となることを許さないなどと指導したうえ、手榴弾を住民にくばるなどした。そのような強制的な状況のもとで、住民は集団自決と殺し合いに追いこまれた」とされた例も挙げる。
  これは、実教出版発行の「高校日本史B 新訂版」の訂正後の記述である(甲B104別紙⑾)。
  これらの教科書等についてなされた検定の経過において、真実、被控訴人らの主張するような文科省の検定判断についての「立場の揺り戻し」があったと言えるのであろうか。
  答えは否である。被控訴人らが「立場の揺り戻し」の根拠として挙げる前記両教科書について、その記述の変遷を子細に検討すると、むしろ、文科省の立場が一貫していることが明らかとなる。以下、詳述する。
2 東京書籍「日本史A 現代からの歴史」
沖縄集団自決に関する東京書籍「日本史A 現代からの歴史」の記載は、下記のように変遷した(本準備書面別紙「教科書検定時系列」ご参照)。
○ア 平成19年3月検定決定の教科書見本の記述(甲B104別紙⑹ご参照)
「・・・犠牲者は−中略−15万人を超えた。そのなかには、『集団自決』においこまれたり、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民もあった」
○イ 平成19年11月1日に申請され同年12月18日に取り下げられた訂正申請の記述(甲B104別紙⒁ご参照))
「そのなかには、日本軍によって『集団自決』Aにおいこまれたり、スパイ容疑で虐殺された一般住民もあった」
「《側注》
       Aこれを『強制集団死』とよぶことがある。」
○ウ 承認された訂正申請の記述(甲B104別紙⑹ご参照)
「そのなかには、日本軍によって『集団自決』AにおいこまれたりB、スパイ容疑で虐殺された一般住民もあった」
「《側注》
      Aこれを『強制集団死』とよぶことがある。
      B敵の捕虜になるよりも死を選ぶことを説く日本軍の方針が、一般の住民に対しても教育・指導されていた。」 
○アは平成19年3月末に検定(18年度検定)を通った記述であるが、集団自決について日本軍の命令・強制・関与についての言及はなかった。17年度検定までは、「日本軍の命令・強制」についても記述が許容されていたが、18年度検定ではその立場が転換され、「日本軍の命令・強制」については記述が認められなくなった(一定の「関与」しか認めない)結果、かかる記述となったものである。
  ○イにおいて東京書籍は、「日本軍が集団自決に住民を追いこんだ」とだけ記述しており、これは、「集団自決が起こった背景・要因について、過度に単純化した表現」(甲B104 p8基本的とらえ方)であるとして、訂正申請の取下げを事実上求められ、東京書籍はそれに応じたのである。
  最終的に承認された○ウのポイントは、加えられた側注Bの記述が、「『集団自決に追いこまれた』背景・要因として教育や感情の植え付けなどの当時の状況を説明しようとするものである」と評価されたためである(甲B104別紙⑺)。即ち、集団自決の要因が「直接的な軍の命令ないし強制」と解釈されない形の記述、つまり「日本軍の方針が住民にも教育されていた」というような主体の曖昧な「軍の関与」にとどまる記述に全体として修正されたから、検定に通ったのである。
 「日本軍の方針が一般住民にも教育・指導されていた」という形の主体の曖昧な「軍の関与」の記述は許容するが、「直接的な軍の命令ないし強制」と読める記述は許容しないという検定の考え方は明確で、平成19年3月発表の検定の立場(甲B104 p6)と一貫している。
  被控訴人らは、平成19年3月30日発表の平成18年検定の結果においては、「『日本軍の関与』を示す部分を削除するよう修正させた」としており(控訴審準備書面(1)p7下から7行目)、検定は「日本軍の関与」すら認めない立場であるかのように述べるが、これは事実に反する誤導である。教科用図書検定調査審議会第2部会日本史小委員会の報告書においても、平成19年3月30日発表の平成18年検定の意見の趣旨は、「教科書記述としては、軍の命令の有無について断定的な記述を避けるのが適当であると判断したもの」であり、「この検定意見は集団自決に関する軍の関与に言及した教科書記述を否定する趣旨ではない」と明言されている(甲B104 p6)。現実にも、後記のとおり、実教出版「高校日本史B 新訂版」においては、平成19年3月の検定決定において「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいがおこった」という表現での「日本軍の関与」の記述が許容されていた。
  平成19年3月30日発表の平成18年検定の結果において修正が求められたのは、いずれも、「日本軍の関与」ではなく、「軍の命令の有無についての断定的な記述」がされているものであった(甲B104別紙⑴ないし⒆ご参照)。
3 実教出版「高校日本史B 新訂版」
沖縄集団自決に関する実教出版「高校日本史B 新訂版」の記載は、下記のように変遷した。
○ア 平成19年3月検定決定の教科書見本の記述(甲B104別紙⑾ご参照)
「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいがおこった」
○イ 平成19年11月1日に申請され同年12月19日に取り下げられた訂正申請の記述(甲B104別紙⒆ご参照))
「日本軍は、住民に手榴弾をくばって集団自害と殺しあいを強制した」
○ウ 承認された訂正申請の記述(甲B104別紙⑾ご参照)
「日本軍は、住民に対して米軍への恐怖心をあおり、米軍の捕虜となることを許さないなどと指導したうえ、手榴弾を住民にくばるなどした。このような強制的な状況のもとで、住民は、集団自決と殺し合いに追いこまれた」
○アは平成19年3月末に検定(18年度検定)を通った記述であるが、集団自決について日本軍の「手榴弾をくばった」という関与は述べているものの、命令・強制についての言及はなかった。17年度検定までは、「日本軍の命令・強制」についても記述が許容されていたが、18年度検定ではその立場が転換され、「日本軍の命令・強制」については記述が認められなくなった(一定の「関与」しか認めない)結果、かかる記述となったものである。
  ○イにおいて実教出版は、「日本軍は集団自害を強制した」と記述しており、これは「集団自決が起こった背景・要因について、過度に単純化した表現」(甲B104 p8基本的とらえ方)であるとして、取下げを事実上求められ、実教出版はそれに応じたのである。
  最終的に承認された○ウのポイントは、「『日本軍は、住民に対して…くばるなどした』という記述が、集団自決の背景・要因となった住民と軍とのかかわりについてのものであり、それに続く『そのような強制的な状況のもとで、住民は集団自決と殺し合いに追いこまれた』とする記述は、前段を受け、住民の側から見て心理的に強制的な状況のもとで、集団自決に追いこまれていったと読み取れるものである」と評価されたためである(甲B104別紙⑾最下部(補足説明)。下線部は控訴人ら代理人)。即ち、同教科書には、集団自決の背景・要因として、「軍の関与」があることは書かれているが、「直接的な軍の命令ないし強制があった」とまでは記述されずに(集団自決と殺し合いに追いこんだ主体は書かれていない)、あくまで「住民の受け止めとして強制的な状況があった」と読み取れる形の記述に修正されたから、検定に通ったのである
日本軍の手榴弾が配られたという形の「軍の関与」の記述は許容するが、「直接的な軍の命令ないし強制」と読める記述は許容しないという検定の考え方は明確で、平成19年3月発表の検定の立場と一貫している。
4 新聞各紙は最終の検定結果をどう報じたか
⑴ はじめに
  教科書記述の訂正申請についての最終の検定結果についての新聞各紙の報道状況については、控訴理由書p26以下で一部言及したが、以下で補足的に説明しておく。各紙の記事には、理解不足あるいは党派的立場から、文科省の考え方に「変化」「修正」「調整」があったかのように評価しているくだりも一部あるが(それらは誤った評価である)、被控訴人らが強弁するように文科省の立場が「改め」られたり、「平成17年度検定の立場に戻った」と評価するものは一つもない。
⑵ 読売新聞(甲B117)
  読売新聞は「『軍の関与』などの表現で日本軍がかかわっていたとする記述の復活を認めた」と報道するが、「軍の関与」の記述は、前記のとおり、従前も否定されていたわけではないので、読売新聞の誤解である。
 同紙が「『軍の強制』の記述復活は認めなかった」と述べる点は、正当である。
⑶ 朝日新聞(甲B118)
  朝日新聞は、「『日本軍が強制した』という直接的な記述は避けつつ、『軍の関与』や『戦中の軍の教育』などによって住民が自決に追いこまれたと記しており、『集団自決が起きたのは、日本軍の行為が主たる原因』と読める結果になった」などと報道した。強制という直接的記述が認められなかったとの理解は正しい。
  同紙が「『集団自決が起きたのは、日本軍の行為が主たる原因』と読める結果となった」と述べたのは、同紙による主観的解釈が一部含まれるが、文科省の立場も、「集団自決が起こった状況を作り出した要因にも様々なものがある」、「軍の関与はその主要なものととらえることができる」(甲B104 p8)というものであり、その主旨の範囲での理解、報道ならば、誤ってはいない。
  ただ、同紙は記事中で、「文科省は、『軍の強制』を認めなかった検定意見を撤回しなかったものの、内容を事実上修正する結果となった」とも書いたが、この点は、同紙の誤導である。前記のとおり、検定意見に揺るぎはなかった。
  教科書の書きぶりが変わり、それに伴い教科書記述から受ける印象は一部変わったとはいえようが、それは、教科書発行者が記述の訂正の申請をし、それが一定範囲(すなわち検定の基準、考え方の中)で許容され、記述訂正が行われたからである。教科書記述が若干変化したからといって、検定基準が左右したと解釈するのは、あまりに浅はかである。検定の立場においては、「軍の強制は認めない」という判断基準は変化せず、一貫して完全に守られた。本件訴訟では、その点に焦点が当てられねばならない。
⑷ 毎日新聞(甲B119、120)
  毎日新聞は、「旧日本軍による集団自決の関与を認めた。しかし、日本軍の命令を直接の原因にすることや断定的に『強制』の表現を使うことは認めず、沖縄県民などが求めていた今春の検定意見の撤回にも応じなかった」(甲B119)と報道したが、この点は、正確である。
  同紙は社説において、「当初の検定では『強制』標記の排除だけでなく、関与も軍を主語から外すなどしてあいまいにした。そこから見れば今回の修正は一歩踏み込んだものといえようが…(以下略)」と述べるが、当初の検定結果でも、軍による手榴弾交付の点など一定の「軍の関与」の記述は認められていたのは前記のとおりであり、この点、理解が不十分である。
 更に同紙の社説は、「軍関与をはっきり認めたことで検定の考え方に変化や『調整』があったとみるべきだが、 文科省は『一貫している』と言う。それはないはずだ」と指摘し、「検定の考え方の変化」を示唆するが、これには確たる根拠が何ら示されておらず、同紙の独自解釈に過ぎないというほかはない。
5 一貫している教科書検定の考え方と被控訴人らの誤導
 以上のとおり、教科書検定における考え方(検定基準)においては、「軍の強制・命令」は認めないという点は、平成18年度の検定以降一貫している。「隊長命令」の有無が争点である本件との関係では、その点が何より重要なはずである。
 従前、「軍の関与」の記述を許容していたかについては、控訴人らと被控訴人らとで理解が異なるが、「軍の関与」の事実の有無が争点ではない本件訴訟においては、この点は、正面から論点とされるべきものではない。
 被控訴人らは、「教科書検定の考え方は、最終結論では平成17年度検定の立場に戻った」と主張するが、失当である。
  「軍の関与」と「直接的な軍の命令ないし強制」とを厳密に峻別し、前者の記述は許容するが後者の記述は認めないという文科省の教科書検定の考え方について、被控訴人らは、あえてその両者を区別せず、「軍の関与、強制、命令」を混然一体のものとして議論し、「それらの記述は当初許されなかったが、最終的に承認された。だから教科書検定の考え方は改められた」などと強弁しているに過ぎない。しかし、「軍の関与」と「直接的な軍の命令ないし強制」の区別が、特に本件訴訟での名誉毀損の成否を決するにあたって決定的に重要であることは、既に控訴人らが縷々指摘してきたとおりである。
2008年10月2日 06時53分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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控訴人準備書面(1) 第4、第5
控訴人準備書面(1)第4、第5

第4 手記「戦斗記録」のゲラと『紀要』末尾6行 ‥‥‥‥‥‥‥‥ 32
 1 はじめに ‥‥‥‥‥‥‥‥ 32  
 2 『紀要』作成までの関係証拠の整理 ‥‥‥‥‥‥‥‥ 33
 3 大城将保の弁解について ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 34
4 結論 ‥‥‥‥‥‥‥‥ 36
 5 「真相は梅澤氏の手記のとおり」 ‥‥‥‥‥‥‥‥ 38
6 補足−神戸新聞記事と梅澤供述の信用性の回復− ‥‥‥‥‥‥‥ 39

第5 宮平秀幸証言(控訴理由書p119「第4」)の信用性 ‥‥‥‥‥‥‥ 40
 1 被控訴人らの主張  ‥‥‥‥‥‥‥‥ 40
 2 貞子証言について  ‥‥‥‥‥‥‥‥ 40 
 3 ビデオ証言について  ‥‥‥‥‥‥‥‥ 41
 4 一九四五証言について  ‥‥‥‥‥‥‥‥ 42
 5 春子証言について  ‥‥‥‥‥‥‥‥ 42
 6 初枝証言について  ‥‥‥‥‥‥‥‥ 43
 7 晴美陳述書(2)について  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 44
 8 まとめ  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 45  


第4 手記「戦斗記録」のゲラと『紀要』末尾の6行
 1 はじめに
  甲B115の手記「戦斗記録」(写し)は、『沖縄県史料編集所紀要第11号』(甲B14)掲載の梅澤手記の末尾6行について大城将保が自身の認識を示したものであるか否かという争点に関連する証拠である。
同書証をめぐっては、その作成経過等について、控訴人側において改めて資料調査を行い、控訴人ら代理人において新しく入手した書証(甲B115、128、129、130、131)の提出とその証拠説明を行った(平成20年6月27日付証拠説明書、平成20年8月12日付証拠説明書(6))。
これら新証拠により、上記末尾の6行が大城将保によって作成されたものであり、自らの調査に基づく大城自身の認識を示したものであることが一点の曇りもなく明らかとなった。
2 『紀要』作成までの関係証拠の整理
『紀要』(甲B14。昭和61年3月31日発行)発表までに、控訴人梅澤及び大城将保が作成した関係書証について、改めて時系列順に整理すると、下記のとおりである。
@甲B130  梅澤書簡「自決命令を出したとは以ての外である」(昭和60年10月6日)
A甲B25の1 大城から梅澤への手紙(昭和60年10月16日)
B甲B129 梅澤による手書き「戦斗記録」(昭和60年10月ないし昭和61年2月頃)
C甲B128  沖縄県史料編集所紀要第11号』掲載「座間味島集団自決に関する隊長手記」原稿ゲラ(昭和61年2月21日頃。但し、梅澤が切り貼りして加工)
D甲B131  大城の手紙(昭和61年2月21日)
控訴人らが原審原告準備書面(7)p41以下等で主張したとおり、昭和60年10月に沖縄県史料編集所主任専門員大城将保が、県史の《梅澤命令説》の訂正を手紙での連絡により求めた控訴人梅澤(甲B130)に対し、それを実現する手順として、控訴人梅澤の立場からの詳細な手記を発表ないし提示するのが適当と示唆した(甲B25の1)ことを受け、まもなく、控訴人梅澤は、戦時中の体験を「戦斗記録」と題する手書きの手記にまとめ、その写しを沖縄県史料編集所大城に送付した(甲B129)。手書きであったのは、控訴人梅澤はワープロ、パソコン等は当時も現在も使用せず手書きで書面を作成するのが常であるためである(甲B27等参照)。
  その梅澤手記「戦斗記録」を受け取った大城が、その手記も含め、『沖縄県史料編集所紀要第11号』(甲B14)掲載の「座間味島集団自決に関する隊長手記」と題する論考(報告)にまとめて原稿化し、掲載準備のために活字化(ワープロ打ちないしパソコン入力の上での刷り出し)した上で、それを、内容確認の機会を控訴人梅澤に与えるため控訴人梅澤に送付してきた。それが甲B128号証の、切り貼り、書き込み前の段階のものである。
  控訴人梅澤は、本書証から、自身の手記部分のみを取り出し、コピーして知人らに資料として配布するなどしたいと考え、2枚目の終わりに7行分あった「戦斗記録」のタイトル、執筆者表示及び冒頭書き出しの部分を切り取り(その際、大城が付していた2枚目左端の「2」という頁番号部分がなくなった)、3枚目の右端に貼り付けるとともに、その分横長になってB4サイズからはみ出ることとなった左端部分をカットした(その際、大城が付していた3枚目左端の「3」という頁番号部分がなくなった)。そのため、他の頁については基本書式が40行であるにもかかわらず、3枚目だけが48行になったのである。
3 大城将保の弁解
 上記2に挙げた書証のうち、平成20年8月12日に提出した甲B131の大城の控訴人梅澤宛手紙は近時に発見された新証拠であるが、これにより、当時の両者のやりとりの全容がほぼ判明した。
甲B131の大城の手紙は、最終段階の原稿チェックを求める内容となっており、『紀要』の原稿ゲラ(甲B128)と共に、大城は、この手紙を控訴人梅澤に対し送付してきたことが明らかである。
  原稿ゲラとこの手紙の送付は、日付からして昭和61年2月21日頃であるが、手紙の記載によれば、その時点から「すぐに印刷にまわさなければ」ならない状況であった。
  しかし、この段階の原稿ゲラには問題の末尾6行がなく、それが加えられたのは、昭和61年2月21日頃から印刷が開始されるごく短期間のうちのことであったことが分かる。
末尾6行は梅澤手記『戦斗記録』の一部であるというのが、大城及び被控訴人らの主張であるが、大城が『戦斗記録』に末尾に控訴人梅澤に断りなく6行を書き加えたとすれば、他人の手記の無断改変で、当然許されない。
  大城は、当該部分を「私が電話で梅沢氏本人から同氏の結論的見解を聞き取って加筆したものです」と述べており(乙45p2)、被控訴人らも原審ではそれに沿った主張をなしているから、大城は、甲B131の手紙の送付後に、かような電話での聞き取りと加筆をなしたと、更なる弁解をするのであろう。
しかし、かかる弁解はいかにも不自然である。
何より、昭和61年2月21日の時点で「すぐに印刷に回す」という「ほぼ完成稿」の段階であったのであり、そこから控訴人梅澤の書いた部分を更に手直しをすることは考えにくい。
  また、甲B131には「もしご意見があればお電話ででもご指摘いただければ」とのメッセージが書いてあるが、手書きのものを忠実に活字にしてもらった控訴人梅澤には、加筆修正を認めるような「意見」は当時なかったことは明らかである。むしろ控訴人梅澤は、自分の手書きの手記が活字として完成されたことに喜び、知人らへの配布用に切り貼りしてコピーしたほどであり、控訴人梅澤から加筆を求める電話をするはずがない。
  それでは大城から控訴人梅澤に電話し、「梅澤の結論的見解」をあえて聞き取り、末尾に付け加えたのであろうか。
  一体何のためにそのようなことを大城が行ったのか。全く不明である。
  末尾の6行は、土壇場で慌てて「梅澤の手記に」付け加えねばならぬ内容では全くない。戦記の記述の中で、控訴人梅澤の「自分は住民に自決を命じてはいない。決して自決するでないと村幹部に対して言ったのだ」という主旨の事実主張は、明確に述べられており、控訴人梅澤の「真実を明らかにする手記」として既に完成している。
  仮に大城の主張する「電話での聞き取り」を想定したとしても、「印刷直前に急にどたばたと電話確認して他人の手記に加筆する。そして、それが誰が書いたのかよく分からないような体裁になっている。執筆者(控訴人梅澤)に、加筆した原稿をチェックさせた痕跡もない」という結果が、歴史研究家のリポートのあり方として倫理的にどうなのかという疑問があり、果たして大城がそのようなおかしなことを真実行ったのかという疑念に立ち戻らざるを得ない。
4 結論  
 上記のように、新証拠も含め証拠資料を丹念に検討すればするほど明らかになるのは、『紀要』(甲B14)の末尾6行は、印刷に回す直前に、リポートの最後の「まとめ」として、大城が自身の認識を書いたものであるということである。
そのように考えることが、記載内容に照らしても合理的である。
まず、『紀要』の末尾6行のうち、第1文は、この大城のリポートの前半(「一“隊長命令説”について」)の内容と符合することが指摘できる。
  リポート前半の要旨は下記のとおりである(甲B14 p36〜38)。
○ “隊長命令説”には二種類の原資料が考えられる。
○ その1つは『鉄の暴風』である。
○ もう1つが、「宮城初枝氏の手記『血ぬられた座間味島・沖縄緒戦死闘の体験手記』」と、そのもとになった「座間味村当局が琉球政府及び日本政府に提出した『座間味戦記』」である。
○ それら二種類の原資料のうち、後者の記述が、山川泰邦『秘録・沖縄戦記』、『沖縄県史第8巻』、『沖縄県史第10巻』、『沖縄大百科事典』等の多くの書籍で、引用されている。
○ 二種類の原資料の前者(『鉄の暴風』)は、隊長自ら自決現場に立ち会って命令を下したように書かれているが、後者(血ぬられた座間味島』、『座間味戦記』)はそうではない。
○ 多くの住民証言から、役場の書記が「忠魂碑前に集合して玉砕するよう」伝達して回った事実は確認されている(控訴人ら代理人注:一方で、隊長自ら自決現場に立ち会って命令を下したという証言は一切ない。即ち、『鉄の暴風』の記載を裏づける証言は確認されていないということが、暗に指摘されている)。
一方、問題の末尾6行の第1文は、「以上により座間味島の『軍命令による集団自決』の通説は村当局が厚生省に対する援護申請の為作成した『座間味戦記』及び宮城初枝氏の『血ぬられた座間味島の手記』が諸説の根源になって居ることがわかる」という記載である。これは、要するに「(二種類の原資料のうち、後者の)『座間味戦記』及び『血ぬられた座間味島の手記』の内容が諸説の根源となり、通説化して、多くの書籍において述べられることとなっている」という趣旨であり、リポート前半の趣旨と完全に一致しているのである。
このような一致は、筆者が同一、すなわち大城であるからにほかならない。
くどいようであるが、事件の当人である控訴人梅澤が、体験を縷々語った手記の末尾に、突然に冷徹な資料検討の結果(そしてそれら資料は、その部分以外では、梅澤手記の中には全く触れられていない)を語り出し、諸説の根源が○○であると「分かる」等の、第三者的な調査結果報告をするはずがない。
結論として、末尾6行は大城が自分の認識を書いたのである。報告者としての「まとめ」あるいは「コメント」をリポートの最後に書かねば、他人である控訴人梅澤の手記でリポート全体が終わることとなり、リポートとしての体裁上も不自然ということもあり、また、裏づけとして宮城初枝に真相を聞き取ったという研究者としての成果報告を付記する趣旨もあって、大城は末尾6行を書いたのであろう。
細かいこととなるが、『紀要』の46頁の上段と、下段の末尾6行との間には、1行分の空白がある。これは、他の頁が上下段とも19行あるのに対し、46頁の上段が18行しかない(ように一見見える)ことから、分かる。
この1行分の空白が意味するものは明白である。その空白の前が梅澤手記であり、後ろが大城によるまとめのコメントであるがゆえに、1行分の空白が挿入されたのである。そうでなければ手記の途中で突然に1行空ける理由がない。
上記のように、いかなる角度から検討しても、『紀要』の末尾6行は大城が自身の見解を記したことは明々白々なのであるが、この点を大城は見苦しくも否認し、大城が文科省(教科書検定調査審議会第2部会日本史小委員会)に対して提出した平成19年11月22日付意見書においては、大城は、「『現在宮城初枝氏は…」云々の文章には私にはまったく身に覚えのない記事であって、事実無根のデマ宣伝としか言いようがない」(甲B104資料⑸)などと述べている。自身のリポートに付された「現在宮城初枝氏は…」を見たことがないかのように大城が言うのは控訴人らとしても全く理解に苦しむところであるが、いずれにしても、大城の弁解も、苦しさ極まって、支離滅裂の有様になっていると言わざるをえない。
5 「真相は梅沢氏の手記のとおり」
以上のように大城が『紀要』の末尾6行を書いたことを控訴人らは改めて述べ尽くしたが、その中の第2文には、こう書かれている。
「現在宮城初枝氏は真相は梅沢氏の手記のとおりであると言明して居る。」
これがリポートの最後の締め括りであり、この内容が正しく大城の当時出した結論であったのである(尚、ここでは「宮城初枝氏」となっているが、控訴人梅澤の手記中では、宮城初枝について(宮平ないし宮城)「初枝さん」と2箇所で書かれており〈甲B14 p41下段、p42上段〉、そのことも記述の主体が両者異なることをうかがわせる)。
大城の宮城初枝に対する調査に関しては、甲B131の大城の手紙の冒頭の「宮城初枝さんはじめ関係者のご意見をうかがったり、関係文献をあさったりするのに手間取ってしまいました」と書かれている部分が非常に重要である。ここから明らかなように、当時、大城は宮城初枝その他の関係者に対し入念な再聴取を行うとともに、関係文献を精査し、控訴人梅澤の説明について検証を行っていたのである(いかに控訴人梅澤の抗議があるからといっても、検証に耐えられないような控訴人梅澤の虚偽弁解を無批判に『紀要』に掲載することは報告者として避けなければならないと大城が考えたのは、当然のことであろう)。
その上で、大城が前記の締め括りの一文を記した意味は極めて大きい。
前記の「真相は梅沢氏の手記のとおり」との表現は宮城初枝の「言明」を借りた形にはなっているが、かかる経緯やリポートの文脈からして「決定的証人」と評価の上で初枝の証言を引用しているのであり、そこには同時に大城自身の認識が示されているのである。
6 補足―神戸新聞記事と梅澤供述の信用性の回復―
大城は、昭和61年の神戸新聞の記事(甲B10)中に書かれた、自身の「宮城初枝さんからも何度か、話を聞いているが、『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ」、「新沖縄県史の編集がもうすぐ始まるが、この中で梅沢命令説については訂正することになるだろう」というコメントについては、現在、「でたらめな談話記事」、「神戸新聞の記者から電話一本もらったことはない。おそらく梅沢氏の言い分と私の解説文の一部をまぜあわせて創作したのであろうが、誰がみても事実と矛盾する内容で、明白なねつ造記事である」と述べる(乙44)。
しかしながら、前記のとおり、昭和61年3月発表の『紀要』で、大城が「現在宮城初枝氏は真相は梅沢氏の手記のとおりであると言明して居る」という形で「《梅澤命令説》は間違いだというのが真相」との旨明らかにしていることは、この神戸新聞記事の内容と完全に符合するものであり、前記5までの分析は、『紀要』末尾6行問題について控訴人梅澤の供述の信用性を回復するものであると同時に、この神戸新聞記事、さらには翌年の同新聞の記事(甲B11。宮村幸延が「歴史を“拡大解釈”することにした」等のコメントをしている)の信用性を回復し、更に高めるものであると言うことが指摘できる。このことは、宮村幸延の『証言』書面(甲B8)をめぐる控訴人梅澤の供述の信用性を高めるという評価にも繋がることも、付言しておきたい。

第5 宮平秀幸証言(控訴理由書p119「第4」)の信用性
 1 被控訴人らの主張
被控訴人らは控訴審準備書面(2)において、宮平秀幸証言(以下「秀幸証言」という。)が、@『座間味村史下巻』(乙50)掲載の宮平貞子証言(以下「貞子証言」という。)、A秀幸自身のビデオ証言(乙108の1。以下「ビデオ証言」という。)、B本田靖春著『座間味島一九四五』(乙109)掲載の秀幸自身の証言(以下「一九四五証言」という。)、C『母の遺したもの』(甲B5)掲載の宮平春子証言(以下「春子証言」という。)、及び、D同書掲載の宮城初枝証言(以下「初枝証言」という。)と食い違っているとして、秀幸証言に信用性はないと主張する。そして、貞子証言や春子証言等の信用性を裏付けるために宮城晴美の陳述書(乙110。以下「晴美陳述書(2)」という。)を再び提出している。
しかしながら、上記食い違いには各々以下に述べるような合理的理由があり、秀幸証言の信用性に何ら影響を与えるものではないし、晴美陳述書(2)についてはそもそもその内容自体信用性に乏しいものである。
2 貞子証言について
藤岡信勝拓殖大学教授は、平成20年1月から同年3月まで3回にわたり座間味島を訪問し、秀幸を中心に関係者から綿密な聞き取り調査を行うと共に、秀幸証言と他の証言との食い違いについて分析を行い、それらの結果を意見書に纏めた(甲B132)。
藤岡教授は同意見書において、@貞子証言は、秀幸が本部壕にいた後に忠魂碑前で家族と合流したという事実の前後関係について混乱が見られること、A秀幸の祖父母は足が悪くうまく歩けない状態だったことからすれば、貞子証言を、書かれているままに「家族全員でお米をもらいに出かけた」という意味で読むと家族の行動が非合理的なものとなるから、言葉を補って読む必要があり、その意味で同女の証言は不完全な証言であること、B秀幸の妹である宮平昌子の証言と秀幸証言とが忠魂碑前での出来事について符合していること、等を指摘し、貞子証言は明らかに虚偽であると分析している(甲B132p4〜11)。
以上の通りそもそも貞子証言自体が虚偽であるから、秀幸証言の信用性に何ら影響を与えるものではない。
3 ビデオ証言について
秀幸は陳述書(甲B142)において、@このビデオの撮影は村役場を通してのものであったこと、A当時、秀幸は田中登村長から呼び出され、「集団自決の本当のことを話したら村に居られないようにしてやる」と脅かされていたこと、B撮影前に田中村長の妻恵美がわざわざ家に来て、母貞子に「秀幸さんに集団自決のことを喋らせてはいけない」とクギをさしたこと、C撮影は、周囲に漏れないように家中の電気を消し、カメラのスポットライトを当てて行われたこと、D誰かが家に訪ねてくるたびに撮影を中断したので、撮影に3日間もかかったこと、E真実を話せない、まるで「監視下」のような状況での撮影であったために、⑴3月23日から同月25日までの行動についてはサラッと流すような内容に止まり、本部壕での梅澤隊長と村幹部とのやり取りや、村長が忠魂碑前で村民を解散させたことについては全く触れられず、⑵3月25日の深夜、足の悪い祖父母を連れて一家7人が何キロもある部落の中を徘徊した真の理由(整備中隊でも第二中隊でも兵隊から「死んではいけない。出きる限り生き延びなさい」といって食料を与えられ、励まされたこと)についても話せなかったこと、等を述べている(甲B142p4〜5)。
現に、問題のビデオ映像(乙108の1)を見ると、秀幸は3月23日から同月25日までの行動を話す場面(その中には「軍の玉砕命令」に言及する場面も含まれる)において、それまでインタビュアーに向けていた視線を下げ、うつむいたまま、自信なさそうに、言葉を選びながら、声を小さくして、話をしている(乙108の2・反訳書p6の2〜15行目の部分がそれに該当する。)。他の場面での同人の生き生きとした語り口と比較すれば、その自信のなさと慎重さは鮮明である。これは正に、真実を語っていない自分に対する後ろめたさの表れである。
以上の通り、ビデオ証言は秀幸が村当局からの圧力を受け、敢えて《梅澤命令》の不存在を裏付ける事実に触れていない内容のものであるから、秀幸証言と食い違うのは至極当然のことであり、秀幸証言の信用性に何ら影響を与えるものではない。
4 一九四五証言について
藤岡教授は前記意見書において、@本田靖春(以下「本田」という。)の取材を受けた当時、秀幸は座間味村の田中登村長から、「本当のことをしゃべってはいけない。援護金がもらえなくなったら座間味の人は飢えてしまう。それでもよいのか。いかなることがあっても、あれは軍の命令であったことにしなければならない」と圧力を受けていたため、集団自決について絶対に語ってはならない部分があったこと(その部分とは、⑴本部壕で村の幹部に梅澤隊長が自決用の弾薬の提供を拒否し、更には「自決するな」と命じたこと、及び、⑵忠魂碑の前で野村村長が「解散命令」を出したこと)、Aそのような特殊事情と、秀幸の話し方の特徴(自分以外の肉親の体験であっても、あたかも自分の体験のように場面を描写的に再現する語り方)、更には本田の限られた取材時間(夜十時頃からの数時間)といった要因が重なることにより、本田が秀幸から聞き取りを行う際に誤解が生じたこと、等を指摘し、一九四五証言との食い違いは秀幸証言の信用性を減殺するものではないと分析している(甲B132p11〜20)。
以上の点から明らかなように、一九四五証言もまた秀幸が村当局からの圧力を受け、敢えて《梅澤命令》の不存在を裏付ける事実に触れない内容となっているのであるから、秀幸証言と食い違うのは至極当然のことであり、秀幸証言の信用性に何ら影響を与えるものではない。
5 春子証言について
被控訴人らは、春子証言に照らせば村長は忠魂碑に向かっていないことが明らかであると指摘し、そのことをもって秀幸証言は虚偽であると主張する。
問題の春子証言の内容は、「一家は盛秀を先頭に、忠魂碑に向けて出発した。燃えあがる炎と飛んでくる砲弾におびえながら歩いていると、突然数メートル先に証明弾が落下し、あたりが昼のようにパーッと明るくなった。これ以上進むと危険である。しかたなく、来た道を引き返すことにした。ちょうどその時、村長と収入役がそれぞれ家族を連れ、盛秀一家の方に向かってくるところだった。ここで全員忠魂碑に行くことをやめ、農業組合の壕に向かって歩きだした。」というものであるところ、その証言では、春子らと遭遇するまで村長がどのような行動を執っていたのか、その詳細について明確に述べられているわけではない。春子らが、村長と収入役と出会ったことが事実であったとこしても、忠魂碑前で解散を指示してから引き上げて来る道程で春子らと出会った可能性は十分ある。
また、藤岡教授は意見書(2)において、@村の三役(村長、助役、収入役)は、伝令を派遣して忠魂碑前に村人を集合させた張本人であり、自分で村人を集合させておきながら、自らは何の指示も与えずに現地に行くことをやめ、自分たちだけで勝手に別の場所に避難するなどという無責任な行動はあり得ないこと、A証明弾が落ちたことは理由にならないこと、Bまして、盛秀は人一倍責任感の強い、意志強固な人物であったこと、を理由として、「村の三役が誰も忠魂碑前に行かなかったという春子の証言こそ、社会常識から考えて到底受け入れることのできない荒唐無稽なつくり話です。」と結論付けている(甲B145p18⑵)。
   よって、春子証言もまた秀幸証言の信用性に何ら影響を与えるものではない。
6 初枝証言について
被控訴人らは、3月25日夜の本部壕での村幹部と梅澤隊長とのやり取りの場面に係る初枝証言の中に野村村長と秀幸が出て来ないことを指摘し、そのことをもって秀幸証言に信用性がないと主張している。
しかしながら、藤岡教授の意見書所収の秀幸陳述書(甲B132p2)によると、@野村村長が他の村幹部より少し遅れて本部壕に到着したこと、A本部壕の入り口にはアメリカ軍の火炎放射器で焼かれるのを防ぐため、水で濡らした毛布を吊るしていたこと、Bその毛布の陰で秀幸が村幹部と梅澤隊長とのやり取りの一部始終を聞いていたこと、が明らかである。
そうだとすれば、到着時間の遅れや遮蔽物(毛布)の存在が要因となって初枝が野村村長の存在に気付かなかったことが十分考えられるし、秀幸は毛布の陰で(即ち本部壕の外で)やり取りを聞いていたのであるから、初枝が秀幸の存在に気付かなかったことが十分考えられる。
以上より、初枝証言の中に野村村長と秀幸が出て来ないことは何ら不自然ではないから、同女の証言は秀幸証言の信用性に何ら影響を与えるものではない。
7 晴美陳述書(2)について
⑴ 晴美陳述書(2)には、「本部付の伝令であった中村尚弘氏に聞いてみたところ、『秀幸は伝令ではなかった』と明言しているのです。」と堂々と述べられ、秀幸が伝令であったと証言しているのは嘘であるとの決め付けが為されている。
しかしながら、当の中村尚弘(以下「中村」という。)の証言によると、晴美と20秒くらい挨拶と立ち話をした際、同女から「秀幸叔父さんも尚弘さんと一緒に軍の伝令をしていましたか」と尋ねられ、「いいえ、一緒ではなかったよ」と答えただけである(甲B143)。
沖縄戦当時中学生だった中村は4人でチームを作って村役場に詰め、軍と役場間の伝令を務めていたのであり、上記の通り同人が晴美に「いいえ、一緒ではなかったよ」と答えたのは、そのチームに秀幸は入っていなかったという意味に過ぎない。それを晴美は「秀幸が伝令ではなかった」という話にすり替えて、殊更に秀幸証言の信用性を貶めようとしているものである(甲B142・秀幸陳述書p1〜2)。
晴美はこのような手法で事実を捻じ曲げているものであり、そのような操作を施してまで作成されている同女の陳述書(2)は、そもそもその内容自体信用性に乏しいものである。
⑵ また、晴美は陳述書(2)において貞子の記憶力の良さを殊更に強調し、貞子証言の信用性を高めようとしている(乙110「2」)。
しかしながら、前記「2 貞子証言について」で述べた通り貞子証言自体が虚偽であるから、いくら晴美が貞子の記憶力の良さを強調しようとも、貞子証言の信用性を高めることにはならない。それに、そもそも前記⑴の通り晴美陳述書(2)の内容自体信用性に乏しく、秀幸証言を否定しようとする意図的なバイアスが働いていることが明らかであることからみても、それが貞子証言の信用性を高めるものということはできない。  
⑶ 以上の点から明らかなように、晴美陳述書(2)の存在もまた、秀幸証言の信用性に何ら影響を与えない。
8 まとめ
以上より、被控訴人らが主張する各証言との食い違いや、晴美陳述書(2)の存在は、秀幸証言の信用性に何ら影響を与えるものではない。
秀幸は本件訴訟前の平成13年の時点から《梅澤命令説》を否定する証言をしていたのであって(甲B113・9枚目)、今になって新たな証言をするようになったわけではないし、そもそも同人が嘘を付いてまで《梅澤命令説》を否定しなければならない理由は全く存在しない。秀幸証言は『母の遺したもの』掲載の宮城初枝証言と大筋で一致しているのであり、同証言との間に細かな部分について齟齬があることは、むしろ秀幸証言が創作の加えられていない原体験を如実に語るものであることを示している(創作の加えられたものであれば、後になって種々の疑問を向けられることのないように、それこそ細かな点まで一致している筈である。)。
以上
2008年10月2日 06時49分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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控訴人準備書面(2)1/2
平成20年(ネ)第1226号 出版差止等請求控訴事件    
(原審 大阪地方裁判所 平成17年(ワ)第7696号)   
控 訴 人  梅澤裕、赤松秀一
被控訴人  株式会社岩波書店、大江健三郎          
  
  
控訴人準備書面(2)
                  
平成20年9月8日 
大阪高等裁判所第4民事部ハ係 御中  


                控訴人ら訴訟代理人

               弁護士  松  本  藤  一

               弁護士  徳  永  信  一

               弁護士  岩  原  義  則

               弁護士  大  村  昌  史

               弁護士  木  地  晴  子

               弁護士 中  村  正  彦

弁護士 高 池  勝 彦      弁護士 本 多 重 夫

弁護士 青 山 定 聖 弁護士 荒 木 田 修

弁護士 猪 野   愈      弁護士 氏 原 瑞 穂
弁護士 内 田   智      弁護士 小 沢 俊 夫
弁護士 勝 俣 幸 洋      弁護士 神 崎 敬 直    
弁護士 木 村 眞 敏      弁護士 田 中 平 八
弁護士 田 中 禎 人      弁護士 小 沢 俊 夫
弁護士 田 辺 善 彦      弁護士 玉 置   健
弁護士 中 條 嘉 則      弁護士 中 島 繁 樹
弁護士 中 島 修 三      弁護士 二 村 豈 則
弁護士 馬 場 正 裕      弁護士 羽 原 真 二
弁護士 浜 田 正 夫      弁護士 原   洋 司
弁護士 藤 野 義 昭      弁護士 三ツ角 直 正
弁護士 牧 野 芳 樹      弁護士 森   統 一 
 
− 目 次 −

  
第1 住民証言等にみる軍の「善き関与」  ‥‥‥‥‥ 4
 1 はじめに ‥‥‥‥‥‥ 4 
2 金城重明証言−赤松隊による救護活動− ‥‥‥‥‥ 4  
 3 知念朝睦証言−子供らへの食料供与命令− ‥‥‥‥‥‥ 6  
 4 伊礼(古葉蔵)眞理子証言 −「命は大事に」と励ました赤松隊長 − ‥‥‥ 6
 5 宮城初枝証言−木崎軍曹による手榴弾交付と無事を喜んだ梅澤隊長 − ‥‥‥‥ 7 
 6 宮平育江証言−梅澤隊長の食料携行命令と長谷川少尉の保護命令− ‥‥‥ 10
 7 上津幸子証言−もし敵に見つかったら…の意味− ‥‥‥‥‥‥ 13
 8 宮平トメ証言−兵士による安全誘導と食料の返還− ‥‥‥‥‥‥ 13 

第2 英文報告書にみる自決のアドバイスと校長ら教員による指導 ‥‥‥‥‥‥‥ 14
 1 証拠提出された英文報告書の記述 ‥‥‥‥‥‥‥ 14
 2 校長ら教員による自決の助言ないし指導 ‥‥‥‥‥‥‥ 15 
 3 自決を助言した主体と目的 ‥‥‥‥‥‥‥ 16 
4 慶留間島での自決指示が意味するもの ‥‥‥‥‥‥ 17

第3 垣花武一の陳述書について ‥‥‥‥‥‥ 17
 1 はじめに ‥‥‥‥‥‥‥ 17
 2 阿嘉島における集団自決(第3項) ‥‥‥‥‥‥‥‥ 17
 3 「全員玉砕」の打電(第4項)‥‥‥‥‥‥‥ 19
 4 石川郵便局長の証言(第5項)‥‥‥‥‥‥‥ 20
 5 野田隊長の謝罪と訓示(第6項)‥‥‥‥‥‥‥ 21

第4 推知報道と特定性について ‥‥‥‥‥‥ 21
 1 問題の所在と最高裁判決 ‥‥‥‥‥‥‥ 21  
 2 少年法61条の推知報道に関する最高裁判決 ‥‥‥‥‥‥‥ 22 
3 最高裁判決が示した特定性の判断基準 ‥‥‥‥‥‥ 24
    
         



第1 住民証言等にみる軍の「善き関与」
1 はじめに   
検定審査会の考え方によれば、「軍の関与」は、沖縄戦における住民の集団自決の主たる要因であったとされているが、「軍の関与」は多義的であり、軍隊が島に駐留していたことも含む広い概念であり、「軍の命令」ないし「隊長命令」との関係でいえば、その存在を積極的に否定する状況証拠といえるものも少なくない。 
また、『沖縄県史第10巻』『座間味村史下巻』『渡嘉敷村史資料編』等に収められた住民らの証言には、兵士らと住民とが極限状況の中でお互いをいたわり、配慮している人間的な触れ合いがなされている例としての「軍の関与」(これを「(軍の)善き関与」という。)や、軍の強制や命令とは何ら関わりなく自決が生じている例(これを「(軍の)関与なき自決」という。)が多々あることは、原審最終準備書面(その2)、控訴理由書p59〜において繰り返し述べたところであり、これらはいずれも住民の集団自決が軍ないし隊長の「命令」によって生じたものでないことを強く示唆している。  
ここでは、それら「(軍の)善き関与」の証言のいつくかを代表例として拾いあげ、それらが《梅澤命令》ないし《赤松命令》を否定する重要な状況証拠であることを整理する。  
2 金城重明証言−赤松隊による救護活動− 
(1)証人金城重明は、原審証拠調べにおいて裁判官からの補充尋問に対し、集団自決の現場から生き残った後、赤松隊に保護されていたときの状況について次の通り証言している。  
「川べりを、我々がいたところですが、小さな小川、その川べりを赤松さんが歩いておられた、そのときにですね、それは私はもう既に負傷してますから、指が全部入るほど、迫撃砲か何かでえぐり取られていたんで、もう治療を要する、けれでも軍の医療班のところに行くとばんそうこうだけくっつけている。治療できないんですよ、薬がないから。渡嘉志久へ行けば薬はあるだろうよと、そう言っておられたんですね。私は確認するために、ああ渡嘉志久へ行けば薬がありますかと言ったら、日本刀を抜かんばかりに怒りが彼の言葉として出たことも事実です」(金城調書p43〜44)。
赤松隊長が怒った理由について金城は、「権威のある者の発言はもう1回で十分だと言わんばかりにしかられた」と証言している(同p44)。
    これから明らかなように、赤松隊は集団自決の現場から生き残った金城を保
護し、不十分ながらもばんそう膏を貼るなどの治療を施し、「渡嘉志久に行けば薬があるはず」と治療薬のありかまで教えていたのである。
(2) 曽野綾子著『ある神話の背景』には、集団自決で負傷した村民が赤松隊の医
療班から手当てを受けていた事実が記録されており、当時赤松隊の衛生兵だった若山正三は、曽野の質問に対し次の通り証言している(甲B18p121〜122)。
     曽野:「村民の治療をなさったのは、若山さんのご一存ですか?」
  若山:「いや、軍医や隊長の意向でもありましたんでね。」
     曽野:「若山さんが、こっそり行っておあげになったんじゃありませか?」
     若山:「いやそんなことはないです。明らかに隊長と軍医に言われたです。」
     曽野:「それを証言なさいますか?」 
     若山:「それはまちがいないことです。」
(3)《赤松命令説》が真実であり、部隊のために住民に犠牲を強いる非情な決断をしたのであれば、赤松隊長は金城に対しても、自決の完遂を命じるはずではないのか。事実は全く反対であり、負傷した金城を保護して応急措置を行い、貴重な薬のありかまで教えて、そこでの治療を示唆しているのである。『ある神話の背景』に記述されていた赤松隊による集団自決に失敗した住民救護の事実は、金城証言によって裏付けられたのである。
金城を含めた住民に対する赤松隊の救護活動の事実は、赤松隊長の「善き関与」を示すエピソードであり、《赤松命令説》が虚偽であることを裏付ける最たる証拠である。
3 知念朝睦証言−子供らへの食料供与命令− 
   当時赤松部隊唯一の沖縄県出身者であった証人知念朝睦は、原審証拠調べにおいて、集団自決が起こった後に陣地を訪ねて来た10歳の女児と男児に対する対応について、次の通り証言している。
     「戦隊長の命によりまして、乾麺麭を上げてやりましたら、帰りました。」(知念調書p2下から9行目以下)
       「はい、これは言いました。とにかく絶対死ぬなと、捕虜になってもいいから生きなさいと、死ぬのは兵隊さんだけだと、こう言っておりましたら帰りました。」(同p2下から5行目以下)
     「たしか私は財布をやったと思います。」「これはもう兵隊でございますし、死んだらその財布は何も必要なくなると。そういうことで、おまえら絶対生きなさいよと、生きたらこの金は使えるはずだから、必ずそれを持っていきなさいと言って渡しました。」(同p3下から9行目下)
       上記知念証言は、『沖縄県史第10巻』(乙9)p772下段以下にも掲載されている。
       赤松隊長の命によって知念証人が「絶対死ぬな、生きなさいと」言って食料や財布を子供たちに渡した事実は、いずれも《赤松命令説》を正面から否定するものであり、まさしく「軍の善き関与」を示すものである。
     4 伊礼(古波蔵)蓉子証言−「命は大事にしなさい」と励ました赤松隊長− 
       当時渡嘉敷島女子青年団長だった伊礼蓉子は『ある神話の背景』において次の通り証言している(甲B18p236)。
           「私は7月12日に、赤松さんのところへ斬り込み隊に出ることを、お願いに行ったことあるんですよ。5、6人の女子団員と一緒に。そしたら、怒られて、何のためにあなた方は死ぬのか、命は大事にしなさいと言って戻された。大変規律正しい軍隊でしたので、私たちが向こうへ行くにも、ちゃんと証明書貰って、そこには家々があって(監視所のことか? 曽野注)そこを幾箇所か通過しなければ赤松隊長さんの壕には行けなかった。」
         また、同女は『沖縄県史第10巻』所収の渡嘉敷女子青年団匿名座談会において、次の通り証言している(乙9p788。女子成年団長「K」が伊礼(古波蔵)である。)。
          「(自決に失敗して本部へ行く途中)私は、西山陣地の下の方で重機を構えていた高橋軍曹の所へ行って、この重機で私をうって下さいと哀願しましたら、生きられるだけがんばりなさいと励まされてひきかえしました。」
これらは赤松隊長らが住民に対し、死ではなく、命の大切さを説き、生き延びるようにと言ったことを内容とするもので、いずれも《赤松命令説》を正面から否定する軍の「善き関与」を示すものである。
5 宮城初枝証言−木崎軍曹による手榴弾交付と無事を喜んだ梅澤隊長−  
   (1)原判決は、初枝が木崎軍曹から「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさいよ」として手榴弾を渡されたエピソード(甲B5p46)について、「梅澤命令説を肯定する間接事実となり得る」(原判決p117)とする。
しかし、木崎軍曹による手榴弾の交付がどのような意味を持つのかは、証言の前後の文脈を踏まえ、具体的な場面と状況を考えなければならないはずであり、そうしてみれば、それが「梅澤命令説を肯定する間接事実となり得る」とした原判決の証拠評価がいかに浅薄なものであるかが分かる。
(2)木崎軍曹が初枝ら3名の女性らに手榴弾を渡した経緯は、初枝の手記において詳細に述べられている(甲B5p12〜)。無差別艦砲射撃に続く米軍の上陸が予想されるなかで、初枝は、宮里盛秀助役ら村の幹部らとともに本部壕に行くが、そこで控訴人梅澤が「今晩は一応お帰りください。お帰りください」として助役の申し出を断る場面を目撃して引き返した後、朝になって夥しい米艦隊をみて「もうだめだ」と打ちのめされ、「兵隊さんの近くにいれば安心だ」と思って整備中隊の壕に行き、そこで玄米ご飯や牛肉の缶詰めを「食べなさい」と手渡された。いよいよ米軍の上陸がはじまり、部隊は敵に斬り込みをかけることになり、初枝ら5人は、集合場所の稲崎山に弾薬運びを頼まれ、そこで斬り込み隊の生存者と合流する約束で別行動をとる。この時に、木崎軍曹から手榴弾が渡されたのである(甲B5p46)。午前4時頃、目的地に弾薬を運び終え、夜が明けても兵士は誰一人として姿を見せなかったため、みんな玉砕したと思い、「死にましょうよ。敵に捕らわれて辱めを受けて殺されるくらいなら」と木崎軍曹から手渡された手榴弾で自決を決行するが、不発弾だったため果たせず、投身自殺するべく裏海岸めがけて無我夢中で走ったものの、そこで敵の艦隊を目の当たりにしてこれもあきらめた。やがて敵機に発見され機銃掃射を浴びせられるなどした後、谷川へ下りて水を飲んでいるとき、宮里良三を含む部落の人4、5人と出会い、内藤中尉の部下が、自決してしまったのかと探していたことを聞かされ、併せて「すぐ行きなさい。心配しているよ」と言われて稲崎山へ急いで戻ると、全滅したと思い込んでいた部隊の兵士らと再会し、梅澤部隊長と内藤中尉は、「ご苦労だった。それにしても無事で何よりだった。本当によかった」と、心から労をねぎらい、その無事を喜んだということである(甲B5p51)。 
(3)初枝の手記からみて、木崎軍曹から手渡された手榴弾は、部隊とは別行動をとる初枝らに対する「万一」のための対処法であったことは明らかである。この「万一」のために手榴弾を手渡したことの意味づけについては、原審最終準備書面(その1)p58等で繰り返し説明しているように、当時、兵士も住民も、米軍に捕まったら男は八つ裂きにされ、女は強姦され米兵の慰み物にされると信じ切り、実際、無差別艦砲射撃や機銃掃射を受ける状況下においてますますその恐怖が高まるなか、「米軍に捕まったら、生きるよりもよほどつらい地獄のような目にあう。そうなりそうになったら自決を」という内容(曽野綾子「疲れ切った温情」甲B94p68、小林よしのり「善意から出た関与」甲B87p71)に他ならず、「部隊の行動を妨げないため、部隊に食糧を供給するため」に住民に自決を命じたとする無慈悲な《隊長命令》の内容を含まないことは明らかである。 
(4)この点、被控訴人らは任務達成を喜んでいるに過ぎない、万一のために手榴弾を渡すという「自決の命令」と無事を喜ぶエピソードは両立し得るなどという。
しかし、初枝らは集合場所である稲崎山に弾薬を運びその任務を果たした後、自決を図ったが果たせぬまま山を下り、敵機の機銃掃射をやりすごし、谷川付近で水を飲んでいるときに出会った部落の人から稲崎山に部隊が集結していることを聞かされて急いで戻り、そこで部隊と再会したのである。稲崎山に到着した梅澤隊は当然初枝らが任務達成をしたことを知り、その上でそこにいない初枝らの身を案じて探していたのである。
そして何よりも、部隊と合流した際に、控訴人梅澤自身が、「ご苦労だった。それにしても無事で何よりだった。本当によかった」とその「無事」を喜んでいるのである(甲B5p51)。控訴人梅澤が初枝を含む住民に自決を強いる命令を出していないことは明らかである。
被控訴人らの主張(控訴人梅澤は、初枝らの無事ではなく任務達成を喜んでいるに過ぎない)は、文脈を曲解しているばかりか、いつの間にか「万一」のために木崎軍曹がした手榴弾の交付を《梅澤命令》だと主張して、《梅澤命令》の中身を完全にすり替えているのである。
(5)このことは、初枝が部隊と合流した後、梅澤部隊長の頼みに応じて澄江と2人で部隊の道案内をすることになって出発する際、残る3人に「もし明日まで戻らなかったら2人は死んでいるんだから、兵隊さんから手榴弾を貰って自決しなさいね」(甲B5p52)と言いふくめていることからも理解することができる。この初枝の指示は、木崎軍曹の指示と同じく、残る2人のことを案じて「万一」のためになされたものであることは明らかである。木崎軍曹も初枝も、決して手榴弾による自決を望んでいるわけではない。あくまでも無事を望みつつ、「万一」のとき、地獄のような目にあうことを避けるため、自決を指示したものであった。被控訴人らは、かかる初枝の指示も「命令」だというのだろうか。被控訴人らの強弁がためにする曲解であることは明らかである。 
(6)そもそも、甲B5は、初枝が《梅澤命令》を否定した告白を受け、全体として梅澤命令説を完全に否定するものである。その中に収録されているエピソードが、梅澤命令説を肯定する根拠となるわけがない。初枝のこの部分の証言も、《梅澤命令》を否定すべきエピソードとして記載されているのである。控訴人梅澤が自ら「それにしても無事でなによりだった。本当によかった」と初枝らの無事を喜んだことや、谷川で水を飲んでいた初枝らに出会った宮里良三らが、「すぐ行きなさい。心配しているよ」と稲崎山に集合した部隊が初枝らを心配していることを告げている事実もまた、軍から自決命令など出ていないことを証明する間接事実である。
併せて初枝から、「いざとなったら自決するつもりでいたんですけど、本能的に死ぬのがこわくなるんですね。それで、家が下谷さんたちをお世話していた関係から、気心の知れた整備中隊の壕に、私たちを殺して下さい、とお願いに行ったんです。そしたら、待ちなさい、そんなに死に急ぐことはない、とさとされましてね。しばらくすれば、われわれは敵に向って突撃するつもりだから、そのあとはこの壕が空になる。まだ米や缶詰が残っている。だからこの壕を使いなさい。ここなら安全だから−と励まされました」という証言を聞いた本多靖春が「この初枝さんの証言から、住民たちは自決命令のあるなしにかかわらず、死ぬ覚悟でいたことが明らかである。そして梅沢少佐以下の軍関係者が、住民たちに自決を思いとどまらせようとしていたことも認めてよいであろう」(甲B26p305)としていることも指摘することができる。   
明らかに、これら初枝の手記や証言に現れた諸事実は、木崎軍曹による手榴弾の交付も含め、いずれも《梅澤命令》を否定すべき状況証拠たる「軍の善き関与」の実例である。 
6 宮里育江証言−梅澤隊長の食糧携行命令と長谷川少尉の保護命令−
(1)育江の証言は、『座間味村史下巻』(乙50)、『潮だまりの魚たち』(甲B59)にも収められており、そこには陳述書(乙62)に記述された兵士から「自決しなさい」と手榴弾を手渡された経緯についても、より詳しく証言されており、これを一読すれば、それが《梅澤命令》を支持するどころか、これと矛盾するものであることは容易に了解することができる。 
     育江は、軍に徴用されて経理を担当する事務についていた。3月25日の朝、米軍が隣の安室島に上陸したことを告げ、いよいよ特幹兵が出撃することになった。育江らは、「私たちも武装しますから、皆さんの洋服を貸して下さい。それを着ますので、一緒につれて行って下さい」とせがんだが、小隊長は「あなた方は民間人だし、足手まといになるから連れていくわけにはならない」と断った。そして別れ際、「これをあげるから、万一のことがあったら自決しなさい」と手榴弾を渡されたのである(乙50p61、甲B59p162)。
なぜか陳述書では、「万一のことがあったら」の部分が削除されているが、初枝の場合と同様、部隊は決して育江らの死を望んではいたものではない。そのことは、陳述書には掲載されていないが、『座間味村史下巻』及び『潮だまりの魚たち』に収められた育江証言に含まれた以下の2つのエピソードからも明らかである。
(2)1つは控訴人梅澤からの「食料携行命令」のエピソードである。 
『座間味村史下巻』に収められた証言録のなかで、育江は、「3月26日朝、『敵艦隊座間味に上陸した』と伝令がきました。そして、『女性の軍属のみなさんは、住民が裏の山に行っていますから、食糧の持てるだけのものは持って移ってください。部隊長の命令です』と言われ、出ていくことにしました」(乙50p61)と証言している。このエピソードは『潮だまりの魚たち』にも収められており、「女性の軍属の皆さんは、島の人たちが裏の山に避難しているから、持てるだけの食料を持ってそこへ移って下さい。部隊長の命令です」との命令を受けた育江ら女性軍属5人が裏の山(高月山)に避難する途中、上陸した米兵に暴行・虐殺される恐怖から前日もらった手榴弾で自決を試みるが失敗に終わった一部始終が記録されている(甲B59p163〜)。
この育江の証言は重要である。梅澤は、伝令を通じて、女性軍属5名に住民が避難している裏の山(高月山)村に移るよう、そして食料を「持てるだけ持って」移るように命令しており、そこに控訴人梅澤の当時の意思と行動が明確に読み取れる。
控訴人梅澤から育江らに対し、避難場所への移転が命じられたのは米軍上陸後の3月26日の朝であり、忠魂碑前に住民が集合した3月25日の翌日である。3月26日の朝、育江らに住民が避難している裏の山に移れと命令することは、それ自体《梅澤命令》の内容とは真っ向に反する。しかも、「持てるだけの食料を持って」というのは、当然、高月山に避難している住民たちに食料が渡ることも想定されており、育江らには、避難している住民らとともに生き伸びることが求められていたことを意味する。それこそが控訴人梅澤の意図であった。
そもそも軍隊のために住民を犠牲にする無慈悲な《梅澤命令》の中身には、軍隊のための食糧の確保という目的があったはずであり、この「食料携行命令」は、真っ向から《梅澤命令》の内容に反しており、その存在を否定するものである。  
   (3)更に、『座間味村史下巻』や『潮だまりの魚たち』には、育江の証言として、米軍が上陸してから数日後、重傷を負った長谷川少尉が部下の上等兵らに育江らを保護して親元へ届けるよう指示した経緯が、長谷川少尉の死とともに川が急に干上がった不思議な現象とともに記録されている。
「しばらくして、死の近いことを悟ったのか、傍にいた藤田上等兵と山下伍長に手元の刀を手渡しました。『自分はもう駄目だから、この日本刀で刺し殺してくれ。それから、この娘たちはちゃんと親元へ届けてやって欲しい』。少尉の傷の状況を知っている二人は承知しました」(甲B59p167、乙50p62も同旨)。そして急に川が干上がり、移動を余儀なくされた育江らは、最後の激戦に巻き込まれずにすんだ。育江たちは後日「泉の水が消えたのは、少尉の魂が水を吸い取って、その場所の危険を育江たちに告げたのではなかろうか」と語り合って冥福を祈ったという(甲B59p168)
長谷川少尉は、育江らの身を案じ、その身辺を保護して親元まで届けるよう部下に指示しているのである。それは「保護命令」といってもよいだろう。部隊が育江らに対し、親元とともに、「自決」ではなく生き伸びることを望んでいたことは明らかである。このエピソードもまた《梅澤命令》を否定する「軍の善き関与」であると断じる所以である。 
  7 上洲幸子証言−もし敵に見つかったら・・・の意味−   
    上洲幸子は陳述書(乙52)において、「米軍が上陸して4、5日たった頃」筒井中尉から「アメリカ軍が上陸しているが、もし敵に見つかったら、捕まるのは日本人として恥だ。捕まらないように、舌を噛みきってでも死になさい」と「指示」を受けたと述べる(乙52p1、甲B9、乙53も同趣旨)。
しかし、筒井中尉が「もし敵に見つかったら」という仮定的な条件がつけられていることを見過ごしてはならない。筒井中尉は命令を遂行する義務をもった軍人である。もし集団自決が《梅澤命令》によるものであれば、筒井中尉は、「既に自決命令は出ている。直ちに自決せよ」と言うはずではないか。これもまた初枝証言や育江証言の中に出てくる「万一のための手榴弾交付」と同じく、幸子の無事を願いつつ、米兵の暴行・虐殺から幸子の身を守ろうとするものであり、むしろ《梅澤命令》を否定すべき「軍の善き関与」として位置づけられるものである。ここでも、これを《梅澤命令》だと捉えることは本件各書籍に描かれた《梅澤命令》の中身を根本的に変質させるすり替えに他ならない。
なお、幸子は、神戸新聞のインタビューに対し、はっきりと「集団自決の命令はなかったが」と答えている(甲B9)。幸子自身、この筒井中尉の「もし見つかったら‥‥‥。捕まらないように、舌を噛み切ってでも死になさい」との指示が、《梅澤命令》とは異なるものであることを十分認識していたのである。 
8 宮里トメ証言−兵士による安全誘導と食料の返還−
原判決が《梅澤命令》の真実相当性の根拠として挙げている宮里トメの証言
は、『沖縄県史10巻』(乙9p732〜)、『座間味村史下巻』(乙50p39〜)、
特に『潮だまりの魚たち』(甲B59p87〜)に詳細に記載されている。 
  トメは、「軍の命令」を聞いていないが、米軍上陸後、「万一に備えて」持っていたネコイラズにより家族で自決することを決め稲崎山に登るが疲れ果てて死ぬ気力も失せた(甲B59p95)。やがて島の陸空を取り囲まれた状況等を実際に見て、「死を免れない」と考えたが、更に避難を重ねるうちに、日本兵に遭遇し「すでに敵兵はすぐ近くまで攻めて来ていて、危険だから、島の裏海岸を通った方が安全です」と親切に指示を受けている(乙B59p98)。
更に、トメは、芋を掘る鍬を勝手に使う日本兵に対し啖呵を切り、かつて分宿していた中原上等兵と再会し、掘った芋を同人から返還を受け、更に同人から謝罪の意味であろう追加の食料を届けてもらっている(甲B59p108、乙50p47、48)。 
こうしたトメの証言は、米軍上陸後の絶望的な戦況のなかにあった兵士達と住民達との関わりや交流の実際を伝えるものとして貴重であるが、兵士から、安全な道を指示されたり、食料を届けられたりするなど、部隊の活動を妨げないため、部隊に食料を供給するために住民に自決を命じる《梅澤命令》が出されていたとすれば、絶対にありえないことである(因みに、宮里ナヘも、わずかの食料からわけてくれる兵隊さんがいたことを証言している〈乙9p750〉)。 
被控訴人らは、日本軍の「命令」は絶対であったとしながら、トメの証言に表れているような絶対的な「自決命令」と真っ向から矛盾する諸事実を全く見ようとしない。トメの証言を「隊長命令」を推認する根拠の一つとしてあげている原判決も同様である。証言を素直にみれば、《梅澤命令》の虚構性は明らかである。

2008年10月2日 06時34分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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控訴人準備書面(2)2/2
平成20年(ネ)第1226号 出版差止等請求控訴事件    
(原審 大阪地方裁判所 平成17年(ワ)第7696号)   
控 訴 人  梅澤裕、赤松秀一
被控訴人  株式会社岩波書店、大江健三郎          
  
  
控訴人準備書面(2)                   
平成20年9月8日 
大阪高等裁判所第4民事部ハ係 御中  


                控訴人ら訴訟代理人

               弁護士  松  本  藤  一

               弁護士  徳  永  信  一

               弁護士  岩  原  義  則

               弁護士  大  村  昌  史

               弁護士  木  地  晴  子

               弁護士 中  村  正  彦

弁護士 高 池  勝 彦      弁護士 本 多 重 夫

弁護士 青 山 定 聖 弁護士 荒 木 田 修

弁護士 猪 野   愈      弁護士 氏 原 瑞 穂
弁護士 内 田   智      弁護士 小 沢 俊 夫
弁護士 勝 俣 幸 洋      弁護士 神 崎 敬 直    
弁護士 木 村 眞 敏      弁護士 田 中 平 八
弁護士 田 中 禎 人      弁護士 小 沢 俊 夫
弁護士 田 辺 善 彦      弁護士 玉 置   健
弁護士 中 條 嘉 則      弁護士 中 島 繁 樹
弁護士 中 島 修 三      弁護士 二 村 豈 則
弁護士 馬 場 正 裕      弁護士 羽 原 真 二
弁護士 浜 田 正 夫      弁護士 原   洋 司
弁護士 藤 野 義 昭      弁護士 三ツ角 直 正
弁護士 牧 野 芳 樹      弁護士 森   統 一 
 
− 目 次 −

  
第1 住民証言等にみる軍の「善き関与」  ‥‥‥‥‥ 4
 1 はじめに ‥‥‥‥‥‥ 4 
2 金城重明証言−赤松隊による救護活動− ‥‥‥‥‥ 4  
 3 知念朝睦証言−子供らへの食料供与命令− ‥‥‥‥‥‥ 6  
 4 伊礼(古葉蔵)眞理子証言 −「命は大事に」と励ました赤松隊長 − ‥‥‥ 6
5 宮城初枝証言−木崎軍曹による手榴弾交付と無事を喜んだ梅澤隊長 − ‥‥‥‥ 7 
6 宮平育江証言−梅澤隊長の食料携行命令と長谷川少尉の保護命令− ‥‥‥ 10
7 上津幸子証言−もし敵に見つかったら…の意味− ‥‥‥‥‥‥ 13
8 宮平トメ証言−兵士による安全誘導と食料の返還− ‥‥‥‥‥‥ 13 

第1 住民証言等にみる軍の「善き関与」
http://blog.zaq.ne.jp/osjes/article/64/


第2 英文報告書にみる自決のアドバイスと校長ら教員による指導 ‥‥‥‥‥‥‥ 14
 1 証拠提出された英文報告書の記述 ‥‥‥‥‥‥‥ 14
 2 校長ら教員による自決の助言ないし指導 ‥‥‥‥‥‥‥ 15 
 3 自決を助言した主体と目的 ‥‥‥‥‥‥‥ 16 
4 慶留間島での自決指示が意味するもの ‥‥‥‥‥‥ 17

第3 垣花武一の陳述書について ‥‥‥‥‥‥ 17
 1 はじめに ‥‥‥‥‥‥‥ 17
 2 阿嘉島における集団自決(第3項) ‥‥‥‥‥‥‥‥ 17
 3 「全員玉砕」の打電(第4項)‥‥‥‥‥‥‥ 19
 4 石川郵便局長の証言(第5項)‥‥‥‥‥‥‥ 20
 5 野田隊長の謝罪と訓示(第6項)‥‥‥‥‥‥‥ 21

第4 推知報道と特定性について ‥‥‥‥‥‥ 21
 1 問題の所在と最高裁判決 ‥‥‥‥‥‥‥ 21  
 2 少年法61条の推知報道に関する最高裁判決 ‥‥‥‥‥‥‥ 22 
3 最高裁判決が示した特定性の判断基準 ‥‥‥‥‥‥ 24
                     

第2 英文報告書にみる自決のアドバイスと校長ら教員による指導 
1 証拠提出された英文報告書の記述
原判決は、米軍の『慶良間列島作戦報告書』(乙35の1、2)の座間味村の状況について「明らかに、民間人たちは捕らわれないように自決するように指導されていた」との記述があることを極めて重要視し、「沖縄に配備された第32軍が防諜に意を用いていたに通じる」と述べて(原判決p203〜204)、「集団自決に梅澤隊長が関与したこと」の認定資料として認め(同p204〜205の5行目)、その上で真実相当性の結論に至っている(同p205(カ))。
『慶良間列島作戦報告書』の証拠評価に関する原判決の問題点は、控訴理由書p49〜で詳細に述べたとおりであるが、被控訴人らは、米軍の「慶良間列島作戦報告書」(乙35の1、2)に記載されていた「座間味島」に関する報告書の英語原本を今になって提出してきた(乙114の1)。
該当英文は、
「Apparently、civilians had been advised to attempt suicide to avoid being captured.」
(明らかに、村民たちは、捕まることを避けるため、自殺を試みるように「アドバイス」されていた)
となっている。被控訴人らが今まで英文を提出しなかったのは、「アドバイス(助言)」は、その語義からしても到底「命令」と解することはできないことに加え、英文においても受け身形がとられており、自決を「アドバイス」した主体が不明であることにあると思われる。この記載をもって「軍が」自決を指導した証拠であるとし、しかも、それが軍の防諜目的によるものだとした原判決の認定には、予断に基づく論理の飛躍があることは明らかである。
  2 校長ら教員による自決の助言ないし指導 
美恵子、恒彦は、壕の中で校長らの壮絶な自決のありさまを目撃しており、
その証言は、『沖縄県史第10巻』(乙9p739)、『座間味村史下巻』(乙50p31)『母の遺したもの』(甲B5p129〜135)、『潮だまりの魚たち』(甲B59p54)に収められている。
美恵子が上陸してきた米兵から銃剣をつきつけられたこと等を話すと壕内は騒がしくなる。恒彦は、「殺される」ということだけが頭の中をかけめぐったと証言している(甲B59p54)。
そのとき校長は、
      「めいめい自分で死ぬ方法を考えてください」(甲B59p55)、「死ぬ気持ちを惜しまないで、立派に死んでいきましょう」(甲B5p130)
   と言い、かねてから用意していたカミソリや手榴弾による壮絶な自決が始まる。
また、ここで亡くなった教員の内間敏子は、忠魂碑前に向かう途中教え子に、
   「座間味はアメリカの船団が取り巻いているのよ。先生もこれから忠魂碑前で玉砕するから、あなたも立派に死になさいね」
 と言い、自決直前の壕の中では、
      「いざとなったとき、生き恥をさらしてはいけませんよ」
         「捕虜になれば、敵の虐待を受けて殺されます。“玉砕”はこわくはありません」
      とやさしく言葉をかけていた(甲B5p135)。
3 自決を助言した主体と目的 
校長や内間教員が宮平美恵子や教え子たちに言った「死ぬ気持ちを惜しまないで、立派に死んでいきましょう」「いざとなったとき、生き恥をさらしてはいけませんよ」「捕虜になれば、敵の虐待を受けて殺されます。玉砕はこわくはありません」などといった指導は、捕まって生き恥をさらすより自決を選択するようアドバイスするものであったといえる。即ち、『慶良間列島作戦報告書』における自決のアドバイスそのものである。
このことは2つの事実を示唆する。第1に、忠魂碑前の集合を命令したのが盛秀助役ら村幹部であったことも踏まえると、座間味島において自決を助言していたのは、軍ではなく、校長や教員らを含めた村幹部であったことが浮かび上がってくる。第2に、教員らによってなされた自決の助言ないし指導は、あくまで教え子らを、米軍の暴行・虐殺から守り、生き恥をさらして人としての尊厳を奪われないためになされた助言(アドバイス)そのものであり、軍の「防諜」を主目的とする命令ではなかった。
4 慶留間島での自決指示が意味するもの
更に、乙35の2には、「日本兵という主語が明記されているのは慶留間のケースだけ」と林教授自身が記載している。このことは、座間味島や渡嘉敷島では、軍が「自決を指導」していた事実がないことの証拠ともいえよう。そして、その唯一のケースが記載されている慶留間島(げるまとう)に関する乙35の英文によれば、住民は兵士らから、まず「山中に隠れろ」と言われており、自決の指示は条件付きのものである。それは、宮城初枝や宮里育江らが、交付された前記の「万一のための手榴弾」と同様、軍の「善き関与」であったことが分かる。
結局、『慶良間列島作戦報告書』の記載は、《隊長命令》を否定すべき「軍の善き関与」を語っているとはいえても、《梅澤命令》を肯定すべき「軍の関与」を示しているとは到底いえないのである。

第3 垣花武一の陳述書について 
 1 はじめに
当時15才の阿嘉島の住民であり、阿嘉島で結成された少年義勇隊の一員であった垣花武一の証言は『沖縄県史第10巻』に「阿嘉島の戦闘経過」(乙9p722〜)として、また、『座間味村史下巻』に「あこがれの軍隊−少年兵としての戦闘参加−」(乙50p144〜)として収められている。この度、垣花武一の陳述書(乙105)が被控訴人らから提出された。それは、阿嘉島における集団自決に関するものであるが、伝聞にもとづく不確かな情報が多く、重要な点において、これまでの自らの証言とも他の信用すべき住民証言の内容と食い違うところが多々あり、極めて信用性に乏しい。
 2 阿嘉島における集団自決(第3項)
   陳述書によれば、阿阿嘉島でも3月26日から27日にかけて阿嘉島の住民約380名が、杉山という山の中に集まり、手榴弾を抱えた人を中心にいくつかの円陣を作り、目隠しをし、集団で玉砕しようとしたという。3名の日本兵が丘の上に機関銃を構え、私たち住民に銃口を向けたが、防衛隊がきて、「今すぐ死ぬことはないしばらく待て」と伝えたため、自決には至らなかったとある。
   同様の話は『座間味村史下巻』に収められた垣花武栄(武一の父)の証言(乙50p130〜)にも出てくる。「3月27日、山奥(スギヤマ)に避難していた部落民は、もはや戦況がこのようになっては、玉砕以外に道はないということで、全員が広場に集まって機関銃を前に時を待った。そしてみんな口々に『天国に行くんだよ、みんな一緒だから怖くないよ』と家族同士ささやきあっていた。ところが『集団自決』寸前になって、防衛隊員の命令で、『米軍は撤退したから自決することはよせ』ということになり、その場は解散することになった」(p131)。
また、『沖縄県史第10巻』でも当時15才だった中村仁勇(武一の親戚)が次のように証言している。「26日の斬り込みの晩、防衛隊の人たちが戦隊長のところへ行って『部落民をどうしますか、みんな殺してしまいますか』ときいたわけです。野田隊長は、『早まって死ぬことはない。住民は杉山に集結させておけ』と指示したそうです。」(乙9p708)「翌日、山の上をみると、そこに谷間に向けて機関銃を据えて兵隊が3名ついているのが見えました。後で聞いたんですが、糸林軍医が2名の兵隊をひきいて銃座についていたということです。その友軍の機関銃を見て、住民は、いざとなったら自分たちを一思いに殺してくれるんだと、安心していました。みんな一緒に玉砕できるんだということで、かえって混乱がしずまったんです。当時の私たちは、とにかくアメリカにつかまったら、マタ裂きにされて、大変になるんだと、そればっかりがこわかったわけですから、敵が上陸してきたら玉砕するんだとみんなが思っていたわけです。」(乙9p709)
さて、『座間味村史下巻』に収められた武一の証言によれば、少年義勇隊だった武一は、3月26日の晩から行われた斬り込み隊に編成され、出陣の合図を待っていたという。義勇隊の斬り込みは中止されたが、それ以後もずっと軍と行動を共にしていたとあり、27日の杉山での場面は出てこない(乙50p148〜149)。武一が杉山に集まったかどうかは疑わしい。しかも重要な点で粉飾が施され、部隊が住民を自決に追い込もうとしたように歪曲されている。住民が手榴弾を抱えていたことや、日本軍の兵士が銃口を向けていたことは、武栄の証言にも中村仁勇の証言にもない(中村仁勇の前記証言では、銃口は谷間に向けられていたとある)。また、防衛隊員の伝令で自決が中止されたことは共通しているが、武栄の証言では「米軍は撤退したから自決するのはよせ」との命令があったことが語られているが、武一の陳述書では「今すぐ死ぬことはない、しばらく待て」と伝えられたとされている。そもそも安全地帯であった杉山への避難は、野田隊長が「早まって死ぬことはない。住民は杉山に集結させておけ」としたことによるのである(乙9p709)。
『沖縄県史第10巻』ないし『座間味村史下巻』に収められた中村仁勇の証言(34年以上前)、垣花武栄の証言(18年以上前)が、その信用性において武一の陳述書より格段に上回ることは論じるまでもない。  
 3 「全員玉砕」の打電(第4項)
   武一は陳述書において「慶良間列島の日本軍は、軍とともに住民を玉砕させる方針だったのだと思います」との意見を述べ、その理由として柴田通信隊長が、3月26日に軍指令にあて「軍も住民も全員玉砕する」と打電し、無線機を破壊したことがあげられている。
ところが、柴田通信隊長の話は、1974年に発刊された『沖縄県史第10巻』に収められた武一の証言にも出てくる。そこでは、「通信隊の柴田少尉は、この調子では部落民も兵もだめということで、どうせ死ぬものならと、『阿嘉島守備隊、最後の一兵に至るまで勇戦奮闘、悠久の大義に生く』の電報を打つと、受信機だけを残して発信機をたたきこわしました」とある。
   内容の迫真性、通信内容、語られた時期、『沖縄県史第10巻』の公的性格から、そこに収められた証言内容が正しいことは明らかであろう(打電された通信内容は中村仁勇の証言とも合致している。乙9p705)。そこには部隊の玉砕はあっても「住民の玉砕」は含まれていなかった。しかも、それは「どうせ死ぬものなら」という柴田通信隊長の考えによるものであった。
柴田通信隊長による打電は、「住民の玉砕」が慶良間列島の日本軍の方針だったという武一の推測をなりたたせるものではなかった。陳述書は、なんとか自決命令を導き出そうと事実を脚色する被控訴人らの姿勢を浮き彫りにしている。 
 4 石川郵便局長の証言(第5項)
陳述書のなかで、武一は、日本軍が座間味村の村幹部に集団自決を指示していたという話を座間味村の郵便局長だった石川から聞いたという。垣花は昭和42年に郵便局につとめ、局長の石川の話を聞く機会があったようだが、「村の幹部は、米軍が上陸したら軍の足手間といにならぬよう住民を玉砕させるよう、軍から命令されていた」と話していましたとし、昭和20年の2月ころ、「村の三役が石川さんたち要職者を村のある場所に秘かに集め、米軍が上陸した場合は住民を玉砕させるよう軍から命令されている、と打ち明けたということでした」という。
この石川郵便局長の話は、武一の伝聞に過ぎないが、座間味島の住民の証言が記録された『沖縄県史第10巻』にも『座間味村史下巻』にも『母の遺したもの』にも『潮だまりの魚たち』にも一切登場しない。その内容の重大性に照らせば、不自然極まりない。座間味島にきた武一が「在職中何度も聞かされた」というのだから、石川郵便局長が当時、この話を秘匿していたわけでもない。武一自身も伝聞として語る機会はいくらでもあったにもかかわらず、その証言録のなかでは、触れられていない。
そもそも、昭和20年の2月頃は、島に米軍が上陸するようなことは日本軍においても全く想定されていなかったのである。梅澤隊、赤松隊は、沖縄本島に向かうと考えられていた米艦隊に夜陰に乗じて特攻ボートで体当たりする特攻隊であり、陸戦を戦う火器の準備もなかったのである。部隊が、この時期に、想定もされていない米軍上陸の事態に備え、住民の玉砕を命令したなどということはありえない。
杉山での集団自決のことや柴田通信隊長による打電の話にみるように、本陳述書における武一の証言は、粉飾と歪曲に満ちており、そこには、なんとしてでも軍命令による住民玉砕を打ち出そうとする強い意図が働いていることがみてとれる。石川郵便局長の話もまた、全く信用性がないものであることは明らかである。
5 野田隊長の謝罪と訓示(第6項)
  陳述書は、昭和47年3月26日、野田戦隊長が部下を引き連れ阿嘉島の慰霊祭にきたことに触れている。そこで住民に憎まれていた野田戦隊長が住民虐待のことを「申し訳なかった」と謝罪したことが述べられている。
阿嘉島における食糧難の実情が、渡嘉敷島や座間味島に比べて深刻であり、食糧をめぐる島民と兵士とのいさかいが頻繁にあり、厳しく取り締まる必要があったことについて、合同慰霊際に訪れた将校たちから聞かされたことを『沖縄県史第10巻』において照喜屋定森が証言している(乙9p726)。野田戦隊長は住民から反感をもたれていたようであるが、当時15才だった中村仁勇は「ただ一つ、住民に対する措置という点では立派だったと思います」と証言しており(乙9p708)、野田戦隊長は、阿嘉島では住民の自決者を出さなかった。 
  また、陳述書には、慶留間島では住民の大半が自決しているが、2月8日の大詔奉戴日に、野田戦隊長が「敵上陸の暁には全員玉砕あるのみ」と訓示したためではないかと話したところ、野田氏は「俺があんなことを言わなければ」と、後悔の言葉を口にしていたとあるが、慶留間島の集団自決が野田隊長の訓示が原因だったというのは極めて疑わしい。そのような話は、『沖縄県史第10巻』及び『座間味村史下巻』に収められた慶留間島の住民の証言には出てこない。
  いずれにしても、何らの強制的契機をもたない約2カ月前の慶留間島での訓示が、慶留間島における集団自決の命令であるわけはないし、座間味島や渡嘉敷島での集団自決の原因となったわけでもなく、《隊長命令》の根拠となるものではない。 

第4 推知報道と特定性について 
1 問題の所在と最高裁判決
  原審においては、特に『沖縄ノート』に関して、控訴人梅澤、赤松大尉が特定できるかという特定性、名誉毀損性が争点となったが、原判決は、いずれをも肯定しており、結論的には極めて正当な判断である。
   しかし、なおも被控訴人らは、原審と同じく、特定性がない旨の主張を繰り返しているところ、原判決も「特定情報を明示していなかったとしても」(原判決p101)として、あたかも『沖縄ノート』の記載自体では特定できないかのごとく判示している点で、若干の問題があるので、念のため整理しておく。
  この問題、すなわち、本件記述2(原判決p5)の特定性、名誉毀損性の有無は、「座間味島」の集団自決、すなわち、『沖縄ノート』に記載された「慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決」という「この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷島の酷たらしい現場」における「日本人の軍隊の−中略−という命令に発する」「この事件の責任者」が控訴人梅澤だと特定されているかどうかにかかっている(なお、被控訴人大江は、「この事件の責任者」は、慶良間列島の2人の守備隊長のことであるとし、控訴人梅澤も含んでいることを認めている。〈乙97p11〉)。
   しかし、特定性の判断基準に関して終止符を打ったといえる最高裁平成15年3月14日判決民集57-3-229(その判例解説として甲C18p143〜167)によれば、控訴人梅澤が『沖縄ノート』の記載自体から「推知」されるとも言えるし、仮にそうではないとしても、控訴人梅澤と面識を有する者や、『鉄の暴風』や引用されている上地一史著『沖縄戦史』を読んだことのある不特定多数の一般読者において特定が可能である以上、名誉毀損の特定性においても問題がないことは明らかである。「座間味島」における「日本人の軍隊」の「事件の責任者」は、控訴人梅澤一人しかおらず、控訴人梅澤と面識等のない不特定多数の一般人においてさえも「推知」可能な十分な重みを持つ特定情報なのである。
2 少年法61条の推知報道に関する最高裁判決 
上記最高裁の原審は、少年法61条の「推知」報道に該たると判断したが、最高裁は、そもそも「推知」報道に該たらないとしながらも、しかし、個別的な名誉権等の侵害は認め、それら個別的な違法性阻却事由等が判断されていないことを理由に差し戻した。最高裁は、「推知」は否定したが、名誉権侵害に関する「特定」については、より広い基準(後述)で肯定したのである。
そうとすれば、少年法61条の推知性は、名誉毀損性に関する特定性が肯定される範囲より狭い範囲の概念といえ、「推知」に該当すれば、当然、名誉毀損に関する「特定」がなされていると判断されてよいことになる。
最高裁は「少年法61条に違反する推知報道かどうかは、その記事等により、不特定多数の一般人がその者を当該事件の本人であると推知することができるかどうかを基準にして判断すべき」とする。
最高裁のこの基準に関しては、甲C18p153〜に最高裁判例解説に詳しい説明がされているが、要するに、「推知報道」というためには、「その記事等自体」に「本人と一義的に特定できる情報」が記載されている必要があり、その場合には、名誉毀損被害者と「面識等のない不特定多数の一般人」においても、推知可能だといえる。
本件『沖縄ノート』自体に記載された「座間味島」における「日本人の軍隊」の「事件の責任者」は、隊長であった控訴人梅澤以外おらず、少年法61条の列記事由たる「氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等」と同じく「本人と一義的に特定できる情報」であることは明らかである。例えていうならば「日本国第○代総理大臣」と同じように、その職業から「本人と一義的に特定できる情報」が、『沖縄ノート』自体に記載されており、控訴人梅澤と「面識等のない不特定多数の一般人」においても「推知」することが可能なのである。 
この点、被控訴人大江は、自ら『沖縄ノート』の本件記述2の「この事件の責任者」と書いているのは、「慶良間列島の2人の守備隊長のことです」として控訴人梅澤をも対象としていることを認めている(乙97p11)にもかかわらず、控訴人梅澤は特定されていないとする。被控訴人らの主張を善解すれば、「座間味島」における「日本人の軍隊」の「事件の責任者」とあっても実名が記載されなければ、沖縄戦等に知識がない者には、それが控訴人梅澤と分からないのではないかという主張ともいえよう。
しかし、この主張が失当であることは、次の例からも明らかであろう。
 「1994年ノーベル文学賞受賞者」(この年文学賞は一人)
「1994年日本人ノーベル賞受賞者」(この年日本人受賞者は一人)
 「8人目の日本人ノーベル賞受賞者」
 「2人目の日本人ノーベル文学賞受賞者」
これらは、1人の同じ人物を指すが、これらの情報を提供されても即座に誰々と分かる者は希であろう。このように「推知」の概念は、その記載だけを見て即座に本人と現実に分かるものだけが含まれるというものではない。あくまで「本人と一義的に特定できる情報」が記事自体から提供されているかで決せられるのである。
3 最高裁判決が示した特定性の判断基準  
   上記最高裁判決は、上記の基準に照らし、当該表現を少年法61条の「推知報道」に該当しないと判断したが、名誉毀損の要件としての特定性については、次のとおり、より緩やかな基準をもって判断し、これを肯定している。 
「本件記事に記載された犯人情報及び履歴情報は、いずれも被上告人の名誉を毀損する情報であり、また、他人にみだりに知られたくない被上告人のプライバシーに属する情報であるというべきである。そして、被上告人と面識があり、又は犯人情報あるいは被上告人の履歴情報を知る者は、その知識を手がかりに本件記事が被上告人に関する記事であると推知することが可能であり、本件記事の読者の中にこれらの者が存在した可能性を否定することはできない。そして、これらの読者の中に、本件記事を読んで初めて、被上告人についてのそれまで知っていた以上の犯人情報や履歴情報を知った者がいた可能性も否定することはできない。」
本件では、仮に、『沖縄ノート』の本件記述2において控訴人梅澤を一義的に特定できる情報が含まれていないという判断がなされたとしても、控訴人梅澤と面識を持つ者、或いは、『鉄の暴風』や上地一史著『沖縄戦史』を読んだ不特定多数の一般読者において控訴人梅澤を推知することは十分可能である。ましてや、原判決を含め、本件訴訟に関心を持つ不特定多数の一般人が、『沖縄ノート』の本件記述における「この事件の責任者」が控訴人梅澤であることを推知することは余りにも容易である。
ここまで考えれば、本件記述2において控訴人らが特定されていると認定するうえで、何らの支障もないことは明らかである。
                                   以上
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2008年10月01日(水)
控訴人準備書面(3)
平成20年(ネ)第1226号 出版差止等請求控訴事件    
(原審 大阪地方裁判所 平成17年(ワ)第7696号)   
控 訴 人  梅澤裕、赤松秀一
被控訴人  株式会社岩波書店、大江健三郎          
  
  
控訴人準備書面(3)
                  
平成20年9月9日 
大阪高等裁判所第4民事部ハ係 御中  

                控訴人ら訴訟代理人

                弁護士  松  本  藤  一

                弁護士  徳  永  信  一

                弁護士  岩  原  義  則

                弁護士  大  村  昌  史

                弁護士  木  地  晴  子

               弁護士 中  村  正  彦



弁護士 高 池  勝 彦      弁護士 本 多 重 夫

弁護士 青 山 定 聖 弁護士 荒 木 田 修

弁護士 猪 野   愈      弁護士 氏 原 瑞 穂
弁護士 内 田   智      弁護士 小 沢 俊 夫
弁護士 勝 俣 幸 洋      弁護士 神 崎 敬 直    
弁護士 木 村 眞 敏      弁護士 田 中 平 八
弁護士 田 中 禎 人      弁護士 小 沢 俊 夫
弁護士 田 辺 善 彦      弁護士 玉 置   健
弁護士 中 條 嘉 則      弁護士 中 島 繁 樹
弁護士 中 島 修 三      弁護士 二 村 豈 則
弁護士 馬 場 正 裕      弁護士 羽 原 真 二
弁護士 浜 田 正 夫      弁護士 原   洋 司
弁護士 藤 野 義 昭      弁護士 三ツ角 直 正
弁護士 牧 野 芳 樹      弁護士 森   統 一 

 − 目 次 −  
  
第1 立証された《赤松命令》の虚偽性 ‥‥‥‥‥‥ 4
 1 沖縄における『ある神話の背景』の評価と影響 ‥‥‥‥‥‥ 4
2 『鉄の暴風』の資料的価値再考 ‥‥‥‥‥‥ 5 

3 『沖縄県史第10巻』と『太平洋戦争』から削除された《赤松命令説》 ‥‥‥‥ 6 
 4 事前の手榴弾交付と《赤松命令説》との決定的な違い ‥‥‥‥‥ 7 
 5 結論の再確認  ‥‥‥‥‥‥‥ 8 

第2 本件訴訟の目的について ‥‥‥‥‥‥‥‥ 9  
 1 控訴人らの真意 ‥‥‥‥‥‥‥ 9
 2 命令説が果たした役割 ‥‥‥‥‥‥‥ 10 








第1 立証された《赤松命令》の虚偽性
 1 沖縄における『ある神話の背景』の評価と影響 
曽野綾子著『ある神話の背景』は、出版直後から沖縄においても高い評価がなされ、沖縄の良心的な言論人に強い反省をもたらした。小林よしのり編著『誇りある沖縄へ』(甲B139)の中で、宮城能彦沖縄大学教授は、『ある神話の背景』が出版された昭和48年当時の同書に対する地元沖縄の言論空間における評価の高さを指摘している。 
当時琉球大学の助教授であった岡本恵徳は、昭和48年6月8日付『沖縄タイムス』において、『ある神話の背景』につき、「あたう限りの時間と労力を注ぎ込み、現存する資料や、渡嘉敷島の生存者、さらに自決命令を下したと伝えられる赤松嘉次氏やその部下、また赤松氏の責任を追求する人達にまで幅広く接触して、真相を追求しようとする著者の姿勢には迫力さえ感じさせるものがあった」とし、「視線はあくまで冷静で文章も理性的に抑制されており、その点でかなり説得力のあるものとなっている」と評価したうえで、「結論では注意深く断定は避けてはいるものの、赤松元大尉が自決命令を下した可能性のないことを浮き上がらせており、このような惨劇のなかでの人間のありかた、そのような人間のありかたに対する人間の責任追及ということのもつ意味を奥深い所で問いかけているのである」と正しく分析している(甲B135)。  
更に、昭和46年6月10日付沖縄タイムスでは、「何故、沖縄の圧倒的に多数の人々が、事実を確かめようとすることなく、赤松元大尉が命令を下したと信じたのかということは、赤松元大尉の責任の問題とは別種のことがらであろう。そのような“信仰”が成立した背景には、沖縄の本島の戦争の体験のなかで同種の事件が広範に存在したからであり、そのことが、事実を確かめるまでもないことだという判断を生んだに違いない」(甲B136)と推測している。
そこで岡本は、集団自決における命令の有無にかかわりなく、軍が責任を免れ得ないことを論じようとしているが、そのことは、『沖縄ノート』が論評の前提としている《赤松命令》の真偽とは別次元の議論であり、「別種のことがら」である。あくまでも、岡本は、当時信じられてきた《赤松命令》が事実を確かめることなく成立した虚偽の信仰であることを認めているのである。
沖縄の作家である星雅彦は、同年6月13日付沖縄タイムス紙上において、『ある神話の背景』について、「ともかく曽野綾子の切れ味はみごとというべきである。多くの沖縄戦記の集団自決をあつかった章が、まちがいであったことを、一網打尽のごとく、立証したのだから。それは沖縄問題のあらたな転機を予見させるかのごとく、前代未聞である」と評価している(甲B137、甲B139p183)。
    地方公務員のいれいたかしは同年6月20日付沖縄タイムス紙上で、「著者は、集団自決に果たして赤松命令があったかどうかを執拗に追い続ける。もちろんそれはあるはずがない」と述べている(甲B138、甲B139p183)。
これらは要するに、『ある神話の背景』が出版された昭和48年当時、沖縄の言論空間においても、『鉄の暴風』で描かれ、『沖縄ノート』で事実として引用されるに至った《隊長命令》の有無という事実問題については、「こうした軍命はなかった」という見解が一般化していたことを示すものである(同p184、5〜7行目)。 
 2 『鉄の暴風』の資料的価値再考 
宮城教授は、『鉄の暴風』の執筆者の1人である太田良博が、「自分は誰から取材したか覚えていない」と述べていることについて、「ハッキリ言って、誰から話を聞いたか記録をとっていないということは、新聞記者に限らず私たち聞き取り調査をする人間にとっては致命的なことであり、そういう証言はもはや資料的価値がない。使えないはずなんです。聞き取り調査というものは、話者の名前や職業、社会的地位だけでなく、経歴その他、そして、誰がどんな状況でどんな訊き方をしたのかまでが問われる。もちろん、そこまで記事に書くわけではないのですが、裏付けとしてそういう記録は何より大切なはず。それを、開き直って堂々と『忘れた』とか記録がないとか言える神経が私には全くわからない」と酷評している(甲B139p186)。
   研究者の種稲秀司も、宮城教授と同様の見解を述べている(甲B141)。「 『鉄の暴風』は、証言者たる住民の氏名が記載されていないため情報源が不明であり、証言の真偽についてウラのとりようがない。曽野綾子氏によると沖縄タイムス社から依頼されて執筆者となった太田良博氏が、渡嘉敷・座間味両島の集団自決を書く際に、山城安次郎・宮平栄治の両氏から証言を得た。しかし、宮平氏は当時南方に出征中であり、山城氏は座間味島にいた。この二人の「伝聞」が集団自決の証拠として固定された(『ある神話の背景』)。太田氏自身は、後年、渡嘉敷・座間味両島の記述は住民側の証言をそのまま信じたもので、梅澤戦隊長が死亡したとの誤記もこれによるもの、と語っている(『太田良博著作集』第三・五巻)。つまり、住民の証言が正しいか否か、十分な検証をしていなかったのである。」
   (甲B141p26上段最後から6行目〜)。「歴史史料としての価値判断に欠かせないことの一つが、史料における誤記の有無であるが、『鉄の暴風』は、@米軍が渡嘉敷島に上陸した3月27日を3月26日と間違っており、➁座間味島の日本軍は最終的に『全員投降、隊長梅沢少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの2人と不明の死を遂げたことが判明した』とあるが、梅澤氏は健在であり、『全員投降』の事実もない(座間味島の部隊の損害は大きく、戦死者は210数名に登った)」(甲B141p26下段最後から2行目〜p27の対照表)。
   原判決が事実認定において資料的価値を有するとして重視した『鉄の暴風』に歴史を検証する資料的価値のないことは余りにも明らかである。 
 
3 『沖縄県史第10巻』と『太平洋戦争』から削除された《赤松命令説》 
   少なくとも渡嘉敷島においては、《赤松命令説》、即ち、『鉄の暴風』が描き、これを下敷きにした上地一史著『沖縄戦史』に記述され、これを『沖縄ノート』が事実として引用した「日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎え撃ち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令」(甲A3p69)の事実がないことは、沖縄における歴史研究においても定着し、昭和59年3月に発行された『沖縄県史第10巻』(乙9)においては、従来の立場がはっきり見直され、それまであった「渡嘉敷島でいよいよ敵の攻撃が熾烈になったころ、赤松大尉は『住民の集団自決』を命じた」という《赤松命令》は削除され、係争中だった家永教科書訴訟において集団自決が軍の命令に基づくものだとして争っていた家永三郎も、昭和61年9月に発行された『太平洋戦争』(第2版)において初版本(甲B7)の立場を変更し(甲A1pB〜G)、《赤松命令》を同書から削除したことは、こうした歴史研究を踏まえたものであった。

4 事前の手榴弾交付と《赤松命令》との決定的な違い 
昭和62年に出版された『渡嘉敷村史資料編』(甲B39)には、「自決の直接的な動機についても不明な点が多い。『生キテ虜囚ノ辱メヲウケズ』という皇民化教育のもとにあったとはいうものの、島の『日本軍指揮官や指導者層の命令あるいは何らかの示唆』が、自決の誘引になったことも数多く指摘されている」としているだけで、日本軍指揮官(赤松隊長)による命令についてはその内容が特定されず、「何らかの示唆」と同列に論じられており、しかもそれは自決の「誘因」となったとしてあげられているだけで、軍の命令がもっているはずの逆らいがたい「強制力」については触れられていない(365p下段)。 
ところで、『渡嘉敷村史資料編』には、「(渡嘉敷島では)すでに、上陸前に、村の兵事主任を通して軍から手りゅう弾が配られており、『いざという時』にはこれで自決するように指示されていたといわれるが、誰が『いまが自決の時だ』と判断し自決を指示したかは不明である」(366p下段)ともある。
   ここで指摘しておきたいことは、『沖縄ノート』に書かれている《隊長命令》、即ち、「日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎え撃ち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令」は、有無を言わさぬ強制であり、『いざという時』のため、米軍による暴行・虐殺を免れ、人としての尊厳を守るために手榴弾を渡して自決を示唆し、その誘因となったという類のものとは全然違うということである。『沖縄ノート』では、赤松隊長は、「およそ人間がなしうるものとは思えぬ決断」としての自決命令を発し、「余りに巨きな罪の巨塊」を犯したものと断定され、「屠殺者」と呼ばれ、「アイヒマンのように裁かれるべきだった」とされているのである。それは、何よりも部隊が生き延びるため、住民に犠牲を強いる非情の命令であった。そして、そこでの命令は、住民の意思を制圧するだけの強制力を伴うものであったと一般の読者は理解するのである。
   『鉄の暴風』で描かれ、『沖縄戦史』で記述され、『沖縄ノート』に引用された軍隊の命令は、かかる非情の命令であり、➀部隊が生き延びる目的のために、➁住民の犠牲を、➂強制するもののことである。
   かかる非情かつ無慈悲な自決命令としての《赤松命令》が存在しなかったことは明らかであって、『いざという時』のための手榴弾の交付と自決の指示は、それとは全く別のものである。それは、集団自決という悲劇に対する赤松隊長の責任、あるいは軍の責任を問うことはできても、『沖縄ノート』に事実として引用された自決命令とは、重要な点において異なっているばかりか、赤松隊長に対する「罪の巨塊」や「屠殺者」や「アイヒマン」などといった一方的で究極的な人格非難を正当化できるものではないのである。  
   なお、米軍上陸前の「3月20日」に「村役場」に「17才以下の少年達を集め」、村の兵事主任を通じて軍が手榴弾を配布したという富山証言が極めて疑わしいものであることは、金城重明証言及び吉川勇助の陳述書から明らかになっており、このことは控訴理由書p108以下で詳しく述べたところである。  
 5 結論の再確認  
   事前の手榴弾交付を自決命令の根拠だとする被控訴人らの議論は、実態としては、「示唆」であり、「誘因」に止まるものを、強制力を伴う「命令」と強弁するものであった。集団自決の原因としては、米軍に対する恐怖、鬼畜米英の刷り込み、皇民化教育、戦陣訓、家族愛、部隊や兵士そして教員や村幹部からの『いざというとき』の自決の示唆というものがあったことは、これまで提出された証拠から明らかである。それらは、軍や赤松隊長の集団自決の「責任」を論じる根拠とはなっても、事実としての自決命令、即ち、➀部隊が生き延びるために、➁住民の犠牲を、➂強制する「命令」ではない。
被控訴人らは、集団自決に関する軍の責任の有無という規範的評価に関する問題を、隊長からの発せられた自決命令の存否という事実の証明の問題とすり替えようとしているのである。  
   もはや『沖縄ノート』に事実として書かれた渡嘉敷島における《隊長命令》が事実でないことは明らかであり、その虚偽性は完全に立証されている。

第2 本件訴訟の目的について  
 1 控訴人らの真意    
被控訴人らは、本件訴訟が、控訴人らの自発的な意思によるものではなく、特定の歴史観に基づき歴史教科書を変えようとする政治運動の一環として行われていることが明らかであると非難するが、控訴人らが自らの意思で本件訴訟を提起し、出版停止等を求めていることは、彼らが法廷で述べたところからも明らかである。 
 また、控訴人梅澤が提訴前に『沖縄ノート』を通読していなかったことや、控訴人赤松が、これを飛ばし飛ばしで読んだことを取り上げて非難しているが、名誉毀損訴訟においては、名誉を毀損し、敬愛追慕の情を侵害する記述が存することの認識があれば十分であり、事前の通読を必要とするかのような被控訴人らの主張は全く理解しがたいところである(因みに、新聞記事や週刊誌による名誉毀損訴訟において、誹謗箇所とは関係のないテレビ欄や社説、別事件の記事を読んでいなくとも名誉毀損を問うことの障害にならないことと同じである)。 
   そもそも控訴人らの提訴の動機は、単なる自己の名誉や敬愛追慕の情の侵害にとどまらず、権威をもって販売されている本件各書籍や教科書等の公の書物において、沖縄における集団自決が赤松隊長ないし控訴人梅澤が発した自決命令によって強制されたという虚偽の記載がなされていることに対する義憤であり、このまま放置することができないという使命感であった。そのことは、また、代理人らも月刊誌等において広く訴えてきたところである(乙116)。そしてその意味では、昨年の教科書検定を通じて教科書から「命令」や「強制」が完全に削除されたことは、勇気をもって提訴に及んだ訴訟の目的の一つを達したと評価できる事件であった。   
   世間の耳目を集める訴訟が個人の権利回復に止まらず、より大きな政治的目的を併有していることは珍しいことではない。著名な薬害エイズ訴訟や薬害肝炎訴訟もまた、原告本人に対する損害賠償という目的のほかに、被害者全員の救済(そこにはエイズ治療や肝炎治療に係る医療体制の充実や真相究明による再発防止も含まれていた。)という政治目的を掲げていたことはよく知られている。 
   こうした主張は、控訴人らを冒涜するものであり、裁判所に予断と偏見を持ち込まんとするものである。証拠に基づく審理がなされるべき司法において持ち出すべきものではないだろう。   
 2 命令説の果たした役割 本件訴訟を通じて思うことは、集団自決の歴史を伝えていくうえで『命令』説が果たしてきた役割のことである。すでに論じてきたように、集団自決の原因は、島に対する無差別爆撃を実行した米軍に対する恐怖や鬼畜米英の思想、皇民化教育や戦陣訓、死ぬときは一緒にとの家族愛、そして防衛隊や兵士から『いざというとき』のために渡された手榴弾など様々の要因が絡んだものである。これを軍の命令としてくくってしまうことは過度の単純化、図式化であり、かえって歴史の実相から目をそらせるものである。 
   そもそも仮に、「住民は自決せよ」という軍の命令があったとしても、果たしてそれにやすやすと従って、愛する家族や子供を手榴弾やこん棒やカミソリで殺せるものであろうか。それは、現在に生きる一般人の想像を超えている。そこでの村民は、『沖縄ノート』に描かれているように、「若い将校たる自分の集団自決の命令を受け入れるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者」であり、近代的自我や理性のかけらもない「『土民』のようなかれら」としてしか認識できないことになるのである。  
   それは日本がかつて経験したことのない地上戦としての沖縄戦において集団自決という悲劇を経験した沖縄県民の尊厳を貶めるものにほかならない。
集団自決の歴史を正しく伝えていくことは、軍命令という図式ではなく、米軍が上陸する極限状況のなかで住民たちが、その時、何をどのように考え、どのような行動の果てに自決していったのかを伝えていくことにある。
そのことが本件訴訟の目的である。
                                   以上
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2008年09月19日(金)
準備書面の要旨(口頭陳述) 平成20年9月9日
平成20年(ネ)第1226号 出版差止等請求控訴事件    
(原審 大阪地方裁判所 平成17年(ワ)第7696号)   
控 訴 人  梅澤裕、赤松秀一
被控訴人  株式会社岩波書店、大江健三郎          
  
  
準備書面の要旨(口頭陳述)                   
平成20年9月9日 
大阪高等裁判所第4民事部ハ係 御中  

                控訴人ら訴訟代理人
                    弁護士  徳  永  信  一



第1 宮平秀幸証言の信用性について
    

被控訴人らは、宮平秀幸の証言の信用性につき、細かく論難していますが、それらは、いずれも、この度、証拠提出した藤岡信勝拓殖大学教授の意見書(2)において仔細に検討されたものばかりであり、そこで明らかにされているように、宮平秀幸の証言が持つ信用性と証拠価値は揺るぎないものであります。
<太>
第2 現実の悪意の法理について
    
北方ジャーナル事件最高裁判決が示した「明白性」の基準の射程については、控訴人準備書面(1)の第2で述べたとおりであり、それは事前差止めに関するものであって、本件のような事後差止めに関するものではないことは明らかです。また被控訴人らは、「現実の悪意の法理」に言及していましたが、それはアメリカの判例法理であり、日本の最高裁は繰り返しこれを退けていることは、周知のとおりであり、その採るところではありません。    
 
第3 住民の証言にみる軍の善き関与について 
  
1 控訴人準備書面(2)の第1では、数多く残されている集団自決の生き残りの住民達の証言に表れた軍命を否定すべきエピソードを整理しています。
 宮城初枝の証言には、木崎軍曹から「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさいよ」として手榴弾を渡されたエピソードがあります。原判決はこれをもって「梅澤命令説を肯定する間接事実となり得る」としましたが、そのような評価がその後、初枝らと再開した内藤中尉や梅澤隊長が初枝らの「無事をなによりも喜んだ」ことと明らかに矛盾します。これに関し、被控訴人らは、梅澤隊長らが喜んだのは初枝らによる任務の遂行であり、自決命令とは矛盾しないと主張していますが、これもまた証言の前後の文脈を無視したものであります。初枝らは、集合地点である稲崎山に弾薬を運び終えた後、兵士達が誰もやってこないのに絶望して自決を図ろうとしますが果たせず、敵機の機銃掃射に追われながら谷川を彷徨っているところを島民に発見され、部隊が稲崎山に集合し、初枝らが自決したのではないかと心配して探していたことを聞かされ、急いで集合場所に戻り、そこで梅澤隊長らと再会したのでした。既に任務が遂行されたことを知っていた梅澤隊が初枝らを探していたのは、あくまでも初枝らの安否を心配してのことであり、再会して喜んだのは、初枝らの無事であったことは、「それにしても無事でなにより」の一言に表れています。控訴人梅澤が初枝を含む住民に自決を強いる命令を出していないことは明らかです。
  2 また、初枝と同じように「万一のときのため」として兵士から手榴弾を受け取った宮里育江の証言にも、軍命を否定すべき、「軍の善き関与」のことが含まれています。『座間味村史下巻』や『潮だまりの魚たち』に収められている育江の証言には、「女性の軍属の皆さんは、島の人たちが裏の山に避難しているから、持てるだけの食料を持ってそこへ移って下さい。部隊長の命令です」との命令があったことが述べられています。梅澤隊長は、伝令を通じて、女性軍属5名に住民が避難している裏の山に移るよう、そして食料を「持てるだけ持って」移るように命令しており、そこからは育江ら女性軍属に対して避難住民らとともに生き延びることを求めた梅澤隊長の当時の意思を明確に読み取ることができます。  
    育江は、米軍が上陸してから数日後、重傷を負い死期の近いことを悟った長谷川少尉が部下の兵士らに対し、自らを殺すように命じるとともに、「この娘たちはちゃんと親元へ届けてやって欲しい」と指示したことを証言しています。もし住民に対する自決命令が出ていたとしたら、長谷川少尉から育江らを保護して親元へ無事届けろという指示が出てくるはずがないのです。
    育江が証言している「食料携行命令」や「保護命令」とでもいうべき指示が、『沖縄ノート』に書かれている「部隊の行動を妨げないため、部隊に食料を供給するため、住民はいさぎよく自決せよ」といった非情の命令と真っ向から矛盾することは明らかです。「万一のための」手榴弾交付は、そんな非情な自決命令などではなく、住民の安心と尊厳を守るためになされた兵士たちの人間的な行動であったと解されるべきなのです。これを自決命令の証拠だというのは命令のすり替えでしかありません。  
    
第4 垣花武一の陳述書について 
被控訴人らは当時、阿嘉島の住人だった垣花武一の陳述書を新たな証拠として提出しましたが、その内容は、『沖縄県史第10巻』や『座間味村史下巻』に収められている当人の証言や父親である垣花武栄や親戚の中村仁勇の証言と食い違っており、全く信用性に欠けるものです。
例えば、阿嘉島の住民が、杉山という山の中に集まり、集団で玉砕しようとしたとき、日本兵が丘の上に機関銃を構え、住民に銃口を向けていたという下りがありますが、『座間味村史下巻』に収められた垣花武栄の証言によれば、防衛隊員の命令で、『米軍は撤退したから自決することはよせ』ということになったとあり、『沖縄県史第10巻』に収められた中村仁勇の証言によれば、そもそも杉山に住民が集まったのは、野田隊長の『早まって死ぬことはない。住民は杉山に集結させておけ』との指示によるものであったとされています。日本兵の銃口は米軍の進攻が予想された谷間に向けられていたのであり、垣花武栄の証言にも中村仁勇の証言にも銃口が住民に向けられていたといった内容は含まれていません。
また、垣花武一は陳述書において「慶良間列島の日本軍は、軍とともに住民を玉砕させる方針だったのだと思います」との意見を述べていますが、その理由として挙げられているのは、柴田通信隊長が打電した「軍も住民も全員玉砕する」との無線です。ところが、柴田通信隊長の話は、1974年に発刊された『沖縄県史第10巻』に収められた武一の証言にも出てきますが、そこでは、打電の内容は「阿嘉島守備隊、最後の一兵に至るまで勇戦奮闘、悠久の大義に生く」となっており、住民の玉砕のことは全く出てきません。中村仁勇の証言に出てくる無線の内容も同じです。柴田通信隊長による打電は、「住民の玉砕」が日本軍の方針だったという推測をなりたたせるものではありません。陳述書は、なんとか自決命令を導き出そうと事実を脚色する被控訴人らの姿勢を浮き彫りにしています。 
  更に、垣花武一は、陳述書のなかで日本軍が座間味村の村幹部に集団自決を指示していたという話を座間味村の郵便局長だった石川から聞いたといいます。
この石川郵便局長の話は、垣花武一の伝聞に過ぎません。そして『沖縄県史第10巻』にも『座間味村史下巻』にも『母の遺したもの』にも『潮だまりの魚たち』にも一切登場しません。その内容の重大性に照らせば、余りにも不自然です。座間味島にきた垣花武一が「在職中何度も聞かされた」というのだから、石川郵便局長が当時、この話を秘匿していたわけでもないはずです。垣花武一自身も伝聞として語る機会はいくらでもあったにもかかわらず、これまでの証言録のなかでは、一切触れられていません。そもそも、昭和20年の2月頃は、島に米軍が上陸するようなことは日本軍においても全く想定されていなかったことを含め、石川郵便局長の話の伝聞に信用性がないことは明らかです。
 
第5 本件訴訟の目的について  
  1 被控訴人らは、本件訴訟が、控訴人らの自発的な意思によるものではなく、特定の歴史観に基づき歴史教科書を変えようとする政治運動の一環として行われていることが明らかであると非難しますが、控訴人らが自らの意思で本件訴訟を提起し、出版差止等を求めていることは、彼らが法廷で述べたところからも明らかです。 
  また、控訴人梅澤が提訴前に『沖縄ノート』を通読していなかったことや、控訴人赤松が、これを飛ばし飛ばしで読んだことを取り上げて非難していますが、名誉毀損訴訟においては、名誉を毀損し、敬愛追慕の情を侵害する記述が存することの認識があれば十分であり、事前の通読を必要とするかのような被控訴人らの主張は全く理解しがたいところです。例えば、新聞記事や週刊誌による名誉毀損訴訟において、誹謗箇所とは関係のないテレビ欄や社説、別事件の記事を読んでいなくとも名誉毀損を問うことの障害にならないことと同じであります。 
    そもそも控訴人らの提訴の動機は、単なる自己の名誉や敬愛追慕の情の侵害にとどまらず、権威をもって販売されている本件各書籍や教科書等の公の書物において、沖縄における集団自決が赤松隊長ないし控訴人梅澤が発した自決命令によって強制されたという虚偽の記載がなされていることに対する義憤であり、このまま放置することができないという使命感でありました。そのことは、また、代理人らも雑誌に寄稿した文章等において訴えてきたところでした。そしてその意味では、昨年の教科書検定を通じて教科書から「命令」や「強制」が完全に削除されたことは、勇気をもって提訴に及んだ訴訟の目的の一つを達したと評価できる事件でした。   
    世間の耳目を集める訴訟が個人の権利回復に止まらず、より大きな政治的目的を併有していることは珍しいことではありません。著名な薬害エイズ訴訟や薬害肝炎訴訟もまた、原告本人に対する損害賠償という目的のほかに、被害者全員の救済、そこにはエイズ治療や肝炎治療に係る医療体制の充実や真相究明による再発防止も含まれていましたが、そうした政治目的を掲げていたことはよく知られています。  
    被控訴人らによる前記主張は、控訴人らを冒涜するものであり、裁判所に予断と偏見を持ち込まんとするものであり、証拠に基づく審理がなされるべき司法において持ち出すべきものではありません。  
  2 本件訴訟を通じて思うことは、集団自決の歴史を伝えていくうえで『命令』説が果たしてきた役割のことです。すでに論じてきたように、集団自決の原因は、島に対する無差別爆撃を実行した米軍に対する恐怖や鬼畜米英の思想、皇民化教育や戦陣訓、死ぬときは一緒にとの家族愛、そして防衛隊や兵士から『いざというとき』のために渡された手榴弾など様々の要因が絡んだものでした。これを軍の命令としてくくってしまうことは過度の単純化、図式化であり、かえって歴史の実相から目をそらせるものです。 
    そもそも仮に、「住民は自決せよ」という軍の命令があったとしても、果たしてそれにやすやすと従って、愛する家族や子供を手榴弾やこん棒やカミソリで殺せるものでしょうか。それは、現在に生きる一般人の想像を超えています。そこでの村民は、『沖縄ノート』に描かれているように、「若い将校たる自分の集団自決の命令を受け入れるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者」であり、近代的自我や理性のかけらもない「『土民』のようなかれら」でしかありません。 
    それは日本がかつて経験したことのない地上戦としての沖縄戦において集団自決という悲劇を経験した沖縄県民の尊厳を貶めるものにほかならないと考えます。集団自決の歴史を正しく伝えていくことは、軍命令という図式ではなく、米軍が上陸する極限状況のなかで住民たちが、その時、何をどのように考え、どのような行動の果てに自決していったのかを伝えていくことにあると信じます。
そして、そのことが本件訴訟の目的であります。
                                   以上
2008年9月19日 07時01分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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金城重明氏の偽証濃厚
http://www.worldtimes.co.jp/special2/oki_jiketu/main.html

金城重明氏の偽証濃厚
平成20年9月8日「世界日報」より

金城氏の偽証濃厚に
NHKの沖縄戦集団自決特集で兄が明言 「父に手を掛けた」
 
NHKが八月二十九日放送した沖縄戦集団自決特集番組で、渡嘉敷島に住む金城重栄氏(81)が「(弟と二人で)僕たちは両親も弟もみんな、その場で殺してしまった」と明言した。この発言により、沖縄戦集団自決訴訟で昨年九月十日、福岡高裁那覇支部での所在尋問(出張法廷)で、「父とはぐれた」「父には手を掛けていない」と語った弟の金城重明・沖縄キリスト教短期大学名誉教授の発言が偽証である可能性が濃厚となった。「自ら手に掛けることが家族への愛」という、これまでの説明も説得力を失ったと言える。(編集委員・鴨野 守)
 
この番組はNHK沖縄が制作し、「九州沖縄スペシャル“集団自決”〜沖縄 
渡嘉敷島 兄弟の告白〜」と題して二十九日午後八時から四十三分間、九州・沖縄で放送された。
 
番組では当時十代だった金城兄弟のインタビューを核にして、当時の軍国主義教育、「天皇陛下万歳」の声、手榴弾を叩く音が、「兄弟にとって“自決命令”だった」という結論を導いたもの。だが、駐留していた日本軍が住民に自決命令を下したかどうかは不明としている。

 
番組で注目すべきは、兄の重栄氏が集団自決に関して、より踏み込んだ発言をしている点だ。NHKは今年二月一日も「ドキュメント沖縄 “集団自決”63年目の告白〜家族を死に導いた兄弟の告白〜」を放送。この時ナレーターは、金城氏の家族が豪雨の中、住んでいた阿波連部落から集合を命じられた七キロ先の西山に向かう場面に触れ、「途中、父親とはぐれ、十八歳と十六歳の兄弟は幼い妹と弟の手を取って歩き続けました」と語る。

 
さらに、集団自決の場面でも、ナレーターは「父親とはぐれていた二人にとって自ら手を下すことだけが家族への愛でした」との説明を付けている。

 
ところが、二十九日の番組で重栄氏は明確に「僕たちは両親も弟もみんなその場で殺してしまって…」と語る。取材記者が、「どういうふうにしてですか」と問うと、「家族の首を絞めて殺したんですよ」と、その様子を話した。

 
その後で番組ナレーターが「当時、重栄さんは六人家族。集団自決で家族四人を手に掛けた」と語り、父、母、九歳の妹、四歳の弟の名前を読み上げて、二月放送のものを事実上、訂正する形となっている。

 
テレビカメラを前に、虚偽で「家族に手を掛けた」と語る人間などいない。兄のこの証言で、弟・重明氏の法廷証言の信憑性が一気に薄らいだ格好となる。

 
昨年、那覇で行われた出張法廷で、弟の重明氏は「父親は離れて、おりません。
ですから(家族に)手を下す人はいないわけです」「父は(自決現場となった)西山までたどり着いたと思うが、まだ未明でしたので、そこではぐれた。眼病で、夜(の移動)は非常に困難したためはぐれてしまった」として、父と離れ離れになったと強調。父を手に掛けたとする重明氏本人の証言が掲載された本の記述についても、「全然間違ったことを書いてある」と全面的に否定した。

 
自ら家族に手を掛けることが「家族愛」と重明氏は説明してきたが、父親を手に掛けたことを近年否定してきたのは、父親まで手に掛けたことがあからさまになることへの後ろめたさからなのか。そこには心底「家族愛から手に掛けた」と断言できない心の葛藤があったのだろうか。

 
法廷での証言は、裁判長が宣誓の趣旨を説明、証人が偽証をした場合罪に問われることもあると告げられ、宣誓書にもサインする。関係者は「刑事事件で偽証すれば、検察官が偽証罪で起訴するが、民事ではほとんど起訴はない。だが、証言の信憑性を低下させることは確かだろう」と語った。
2008年9月19日 06時18分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2008年09月10日(水)
9月9日(火)大阪高裁で沖縄集団自決冤罪訴訟控訴審第2回(結審)

9月9日(火)大阪高裁で沖縄集団自決冤罪訴訟控訴審第2回目の口頭弁論があり、今回を持って結審しました。
判決は10月31日(金)午後2時となりました。

 この日64席の傍聴券を得るために彼我200名程度の方が並んだと思います。当方よりの度重なる依頼に多くの同志の皆さんが応じてくださったおかげで、入廷するべき方全員、及び、いつもはお帰りになる事の多い方も多数入廷いただけました。皆様ご多忙のところまことにありがとうございました。まず、この場をお借りして御礼申し上げます。
 さて、裁判は書証の番号等の確認の後、被控訴人代理人の秋山弁護士、続いて当方徳永弁護士 より、それぞれ15分程度の口頭による陳述書の朗読がありました。
 事実関係に関して、秋山弁護士は、当方から提出している宮平秀幸氏の証言は信用する事はできないと、過去の宮平氏の証言等を引用しましたが、秋山弁護士の弁論のほとんどすべてはすでに当方が裁判所に説明済みの蒸し返しであり、今回、藤岡信勝先生の意見書(裁判所提出済み)でも明らかになっている事柄ばかりであると思われました。また、表現の自由と、名誉毀損の関係について、アメリカではこうだという話を秋山弁護士はしましたが、ただちに、続く弁論で、アメリカの法理は我が国ではとらず、日本の最高裁の基準はそうではないという点を、徳永弁護士に指摘されてしまいました。また、出版物がどれほど刷数を重ねても、真実相当性(その当時それが真実と思ったことは仕方がなかったので名誉毀損ではない)は、何十年経っても、最初の出版当初の真実相当性が維持されると言う、素人が聴いてもめちゃくちゃな論を秋山弁護士は述べ、相当苦しくなっていることが傍聴席からもよく分かりました。「裁判所におかれては、この裁判が個人の救済を装った政治的な目的を持っていることを斟酌していただきたい」という内容のことを、相当くどく、秋山弁護士は述べましたが、この点も、続く徳永弁護士の弁論で、薬害エイズ事件なども、個人の救済が政治の問題を摘出したのであって、政治的目的を持たなければ個人を救済できない裁判はいくらでもあり、秋山弁護士の言っていることはまったく意味がないとただちに論破されてしまいました。
 今回口頭での陳述書朗読の順番をどちらが先にするか、開廷まで決まっていなかったようですが、とっさの判断で、当方が後になったのは非常によい判断だったと思います。
 徳永弁護士は、提出した藤岡意見書で十分な説明が為されている事や、上記の点について述べると共に、梅澤隊長と、宮城初枝が再会を喜び合った邂逅の部分や、食料をできるだけもって集まりなさいと梅澤隊長が指示したこと等、文脈から自決命令を出していたら決してあり得ないことが誰にも分かる事柄を、秋山弁護士が曲解して、自決命令があったことは明らかと言っていることの矛盾を、傍聴席の誰にも分かる語り口で述べました。
 最後に徳永弁護士は、歴史の真実に迫ると言うことは、集団自決を隊長命令説で片付けるのではなく、圧倒的な米軍の存在への恐怖、在郷軍人、皇民化教育、家族愛、愛国心、戦陣訓、等々の複合的な要因から起こった悲劇である事の歴史の真実から目をそらしてはならない、自決命令があったから自決したなどと言う結論は沖縄県民の尊厳を汚すものであると格調高く弁論を終結しました。
 彼我とも、提出してある準備書面の朗読という形での弁論でしたが、実際は上記のように相当、その場で出された準備書面にはない陳述もあり、追って、速記録をもとに文書化して裁判所提出資料とする事になりました。
 平成17年8月4日に始めた当裁判ですが、思い返せば資料集め等の準備期間を含むと、すでに5年を経過しました。ご協力くださったすべての皆様に、重ねて御礼申し上げます。
 判決は10月31日ですが、予想を超えた早い判決の日取りは、裁判官がすでに判決の半ばを書き終えているのではないかとすら思えます。
 厳正な審理に基づく判決が出されるなら、当方が負けることはあり得ません。
 どうか皆様、判決のその日まで、裁判所を囲む世論そのものを当方に有利にする言論戦、情報戦、署名活動等、気を抜く事なくご協力いただけると幸いです。
 判決がどうであっても、必ず最高裁まで行きます。
 高裁で勝っても、負けても、最高裁での差し戻しと言うこともあり得ます。
 最後の最後まで、一切気を抜くことなく、頑張り続けましょう。

 準備書面については上記理由もあって、再校正中ですので、まず藤岡先生の意見書をこのホームページに掲載いたします。


平成20年9月10日
南木隆治
2008年9月10日 07時41分 | 記事へ | コメント(1) | トラックバック(0) |
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藤岡先生意見書(大阪高裁提出資料)1/2
藤岡先生意見書(大阪高裁提出資料)1/2

意 見 書(2)

  平成20年8月28日
                                   藤岡 信勝

初めに、この意見書(2)に至るまでの経過をまとめておきます。
私は、原告側弁護団の依頼を受け、7月28日付けの意見書を提出しました。その中で、座間味島在住の宮平秀幸(78歳)が今年の1月〜3月に、私(藤岡)や鴨野守、産経新聞、チャンネル桜などに対して行った一連の証言(以下、カギ括弧付きで「宮平証言」と略称する)を紹介しました。「宮平証言」のポイントは、(1)昭和20年3月25日夜、本部壕前で梅澤隊長と村の幹部が会見した際、梅澤が「自決するな」と制止し、自決するために集められた村民の解散を求めていたこと、(2)それを受けて村長が忠魂碑前で村民に解散を命令していたこと、の2点に要約されます。
また、私は上記意見書の中で、沖縄タイムスの記者たちから指摘された、宮平の証言の信憑性を揺るがすと記者たちが考える二つの資料、すなわち、@『座間味村史(下巻)』(1989年)に掲載された宮平秀幸の母・貞子の証言、A『小説新潮』1987年12月号に掲載された本田靖春のルポ「座間味島一九四五」、の両者について詳細な検討を加え、それらの文献に記載された内容と、「宮平証言」とが食い違う理由を分析しました。
 その分析によって、貞子証言は虚偽を含み、本田ルポは話の構成に錯誤があること、そうなった根本原因は、忠魂碑前で村長が解散命令を出していたことが村当局の厳重な箝口令の対象となり、村民が真実を自由に語れないという状況にあったためであることを明らかにしました。こうして、二つの文献の存在によっても「宮平証言」の信憑性は少しも損なわれないことを論証しました。
 その後、私の意見書が原告側代理人から貴裁判所に提出される前に、7月31日、被告側代理人から乙号証108〜110と、準備書面(2)が提出されました。乙号証の中には、宮平秀幸が出演した市販ビデオ「戦争を教えて下さい」(1992年、記録社制作)のDVDとその反訳、上記本田ルポ、宮城晴美の陳述書などが含まれていました。被告側の主張の骨子は、@『座間味村史』の貞子証言、A『小説新潮』の本田ルポ、B「戦争を教えて下さい」のビデオ、が今回の「宮平証言」と食い違うから「宮平証言」は信用できない、とするものでした。
しかし、このうちの@とAについては、7月28日付けの私の意見書ですでに分析を終えておりました。私の意見書は被告側の論点をあらかじめ反論していたことになります。沖縄タイムスの記者たちが指摘した論点は、いずれ法廷に持ち込まれるであろうとの想定のもとに私は意見書をまとめたのですが、まさにその通りの展開となりました。
そこで、この意見書(2)では、まず、最初の意見書でふれていない、Bの「戦争を教えて下さい」のビデオと「宮平証言」との食い違いの理由を分析し、次に宮城晴美の陳述書の誤りを示したあと、被告側準備書面(2)が提示している論点について全面的に批判・反論することとします。この部分がこの意見書(2)の主要な内容を構成します。最後に、証言者としての宮平秀幸の人物像について私見を述べ、結びとします。この意見書(2)は、7月28日の意見書の続編であるので、小見出しのナンバリング(「第一」、「第二」など)は通し番号としました。

第四 記録社ビデオ証言との食い違いについての分析

記録社が1992年に制作したビデオは「戦争を教えて下さい・沖縄編」というタイトルで、その中に渡嘉敷島の金城重明と座間味島の宮平秀幸が60分ずつ登場します。私はこのビデオの存在を、宮平秀幸と今年の1月26日に偶然出会ってから1週間後、秀幸本人から電話で教えられました。そこで早速市販のビデオを購入し、視聴しました。
私は、2月10−12日、座間味島に裏付け調査に出かける予定を立てましたが、宮平秀幸が果たして証人として真実を語っているのか十分慎重に取り扱わなければならないと考えておりました。1月26日に出会ってから、彼の証言を私は直ちに百パーセント信じたわけではありません。人間の記憶には思い違いや記憶の変容ということがあります。それで、できるだけ彼の既存の証言記録を事前に検討しておこうとしました。そして、到底信用できない人物であると判断できるなら、裏付け調査を取りやめることも視野に入れていました。
そうした姿勢で上記ビデオを検討した結果、1月26日に語ったこととの食い違いの理由は証言時の状況などによって十分合理的に説明できるものであると判断しました。もちろん、ビデオの中で秀幸は今回の「宮平証言」の重要なポイントには全くふれておりません。それは当然のことです。また、盛んに「皇民化教育」が集団自決の原因であると力説していましたが、それは解釈に属することで事実の証言とは位相を異にし、問題とする必要はないことでした。ちなみに、今でも秀幸は「皇民化教育」の影響についてはビデオ出演当時とあまり変わらない認識を持っているようですが、「皇民化教育がなくなったから、戦後は道徳が滅びた」とも述懐しています。
今回、被告側がこのビデオを証拠として、反訳まで添えて提出したのは、ビデオで語られていることと食い違う「宮平証言」は虚偽であると主張するためです。反対に私は、ビデオの証言こそが真実を語れない制約のなかでなされたもので、虚偽を含み、この度の「宮平証言」は勇気をもって真実を語ったものであると主張します。以下、それを論証します。
第一に、ビデオ収録が村の当局の監視下で行われた事情は、秀幸の8月7日付け陳述書に詳細に述べられています。村長の妻が母・貞子に集団自決の真実を語ることのないように圧力をかけ、それを受けて貞子と秀幸の妻の照子が付きっきりで撮影が行われた状況がつぶさにのべられています。私はそれに付け加えて、次のような事情もあったことを明らかにしておきたいと思います。
記録社の撮影が行われたのは1992年の夏と推定されますが、その前年の1991年6月23日夕刻、大阪の読売テレビの取材陣が秀幸の家にやってきて、集団自決に関わる忠魂碑前の出来事についての証言を求めました。すでに日没後で、民宿を経営していた秀幸は泊まり客から細長い筒状の水中用懐中電灯を借りて忠魂碑前に取材陣を案内し、そこで電灯を付けながら証言しました。その中で、秀幸はうっかり、しゃべってはいけないことをテレビカメラに向かって話してしまいました。それは、忠魂碑前で村長が解散命令を出したという事実です。階段の上から二段目に立って村長が解散命令を出したことを、現地に立った秀幸は、話すつもりはなかったのに、つい口をすべらせて語ってしまったのです。
この取材後、何日か経ってから、秀幸は田中登村長に激しく叱責されました。「あんなことをしゃべっちゃいかん」というわけです。なお、私は、放送を録画した古いビデオが秀幸の自宅の倉庫にあったのを送ってもらいチェックしました。「戦後なき死」というタイトルで放映された番組の中に、忠魂碑前での秀幸の短いコメントが入っていましたが、村長の解散命令の部分はカットされていました。テレビ取材陣が裏付け取材をする過程で村当局がカットすることを求めたためかもしれず、その経緯の詳細は不明です。
いずれにせよ、そういうことがあった後ですから、再度の失敗は許されないことでした。記録社のビデオ出演で秀幸が極度に緊張して語っているのは、そういう重圧のなかで撮影が行われたからです。しかし、真実を隠して話したことによって、ビデオの内容は矛盾を含んだものになっています。その典型的な事例が、秀幸も陳述書で述べている、整備中隊の壕を回って自家の壕にたどり着くまで、秀幸の家族7人が、歩行が困難な祖父母をかかえながら一晩中村の中を徘徊したことになるという点です。
忠魂碑前で村長の解散命令が出て、さてこれからどうしようかという時、秀幸の家族が結果として、自家に寄宿していた気心の知れた兵隊さんたちを頼って整備中隊を訪ねたことは前回の意見書で述べました。この時の家族の心理について付け加えて言えば、タテマエは貞子や千代の主張どおり「どうせ米兵に殺されるのだから、親しい日本の兵隊さんに殺してもらったほうがよい」ということだったとしても、ホンネとしては、訪ねていけば家族はそこで保護されるだろうという期待があったはずです。甘えの心理です。整備中隊に着いてみると、「ここは米軍が上陸し、戦場になるから逃げなさい」と諭され、どこまでも生き抜くようにと励まされ、ひと月は家族が食いつなげると思われる食料まで与えられました。
日本兵と住民とのこのような心理的なつながりと愛情に満ちた人間関係を理解しなければ、家族がなぜ困難を押して整備中隊を訪ねたか、到底理解できるものではありません。しかし、記録社のビデオ作品は、村の箝口令のもとで撮影され、「日本軍悪玉説」に基づいて制作されたものですから、日本兵に「生きのびなさい」と励まされたとか、日本兵に食料をもらったなどの、軍に好意的な発言はできない状況でした。そこで、外形的にのみ秀幸の家族の行動が語られたため、忠魂碑の西方にあるシンジュの自家の壕に帰るのに、わざわざその反対の東方2.5キロメートルの距離にある整備中隊の壕を迂回して帰還したことになってしまうのです。これは絶対に説明のつかない非合理的な行動であり、記録社のビデオ作品が真実を語ったものではないことの動かぬ証拠です。被告側の、ビデオ証言と食い違うから「宮平証言」が虚偽であるとの主張は、以上のような事情に照らしてみれば完全に崩壊します。

第五 宮城晴美陳述書の問題点

宮城晴美は母・初枝の遺言を実行して『母の遺したもの』を2000年に出版し、初枝との約束をはたしました。同書の最大のポイントは、梅澤隊長が自決命令を出さなかったという事実の暴露にありました。ただし、そのポイントは、『座間味村史(下巻)』(1989年)に掲載された初枝の証言の中ですでに述べられていたものです。晴美はそのことを、村史という入手しにくい形ではなく、単行本という形で世に知らしめた功績があることになります。
ところが、梅澤を原告とする訴訟が始まると、晴美は梅澤の無実を証言するのではなく、反対側の証人に立ち、さらには、前著と正反対の結論を導く目的で、「新版」を2008年に出版するにいたりました。晴美は、こうして母を裏切っただけでなく、今度は、叔父を誹謗する陳述書を提出しました。晴美にここまでさせる背後の勢力に対し、私は怒りを禁じ得ません。
晴美の陳述書の問題点については、秀幸の陳述書で十分明らかになっています。特に、秀幸が軍の伝令ではなかったという発言についても、完璧な反論がなされています。それに付け加えて、2点ほど補足をしておきます。
第一は、昭和20年3月25日夜の本部壕での村の幹部と梅澤隊長との会見に関する争点です。
晴美は、「村長がいなかったことは母の話ではっきりしていますし、梅澤さんも村長がいたとは言っていません」とのべ、秀幸証言が虚偽である根拠の一つとしています。この点についての考察は、雑誌『正論』4月号の拙論「集団自決『解散命令』の深層」(甲B110号証)で述べたので繰り返しません。私の結論は、村長がそこにいた可能性が極めて高く、そのことは通信隊の長島義男の手記によっても裏付けられる、というものです。
次いで晴美は、「この夜の助役と梅澤隊長とのやりとりについては、母から繰り返し話しを聞いていますが、母の異母弟である秀幸がその場にいたという話はまったくありませんでした。秀幸がその場にいたのなら、母は当然彼がいることはわかったはずですし、そのことを自分の手記に書くか、あるいは私に話すなどしたはずです。何よりも秀幸自身が、重要なできごとを戦後60年余りも胸に秘めていられるような性格ではありません。彼の話し好き、マスコミ好きは島でも定評があります」と書いています。これはまったく成り立たない議論です。
秀幸がその場にいたことを初枝が知らなかったのは当り前です。秀幸の立ち位置は、初枝からは死角になっていたからです。その事情を、秀幸からの聞き取り調査をもとに、以下に再現します。
3月25日夜、整備中隊にいた秀幸は、艦砲射撃が激しくなる中、兵隊たちに説得されて、いったん自家の壕に帰ることにしました。ひとりで高月山の頂上近くまで登ってきたところ、折しもものすごい艦砲射撃が始まり、前に進むことができません。そこで、高月山の稜線を南に進み、本部壕のわきに転がり込むようにしてたどり着いたのです。本部壕は外からそれと分からないような偽装がほどこされていました。入口は、琉球マツの枝で覆われています。見ると、そこに乾パンが一袋、引っかかっていました。秀幸は急に空腹を覚えて、その乾パンを食べ始めました。すると、壕の入口の方から、人の声が聞こえて来ます。何事かとマツの枝をそっと広げてみると、宮里盛秀助役が梅澤隊長に盛んに何かをお願いしているところでした。秀幸は、そっと近づいて聞き耳を立てました。入口には水に濡らした毛布が何枚も掛けられています。艦砲弾や火炎放射器で壕が火事にならないよう、防火のために掛けていたものでした。秀幸はその毛布の陰に身を潜めました。秀幸と梅澤隊長との距離はわずか2メートル程度しか離れていません。しかし、毛布がちょうど遮蔽物となって、秀幸の姿は、梅澤隊長からも盛秀助役からも見えません。こうして秀幸は、その場の話の一部始終を聞いてしまったのです。
戦後2年ほど経ったころ、初枝を含む村の女子青年たちが畑仕事の合間に、戦争体験の自慢話のようなことをしていました。初枝は25日の夜、本部壕に行った時のことを話しました。そばにいた秀幸が、「姉さん、僕もその場にいたんだよ」と言いますと、初枝は驚いて信じられないような顔をしますので、秀幸はその場にどんなものがあったか、どんな植物が生えていたかなどを具体的に語りました。初枝は、「やっぱり、あんたもいたんだ」と納得していました。
以上の通り、初枝は秀幸がその場にいたことを事後的に知っていました。初枝がそのことを晴美に話さなかったとして、そのことに特に理由があるのかどうかわかりません。しかし、初枝が知り得たすべてのことを晴美に話したという前提も成り立たないでしょう。
晴美は、「何よりも秀幸自身が、重要なできごとを戦後60年余りも胸に秘めていられるような性格ではありません。彼の話し好き、マスコミ好きは島でも定評があります」とも書いています。晴美の人間観察は極めて浅薄です。秀幸が口の堅い人物であることを私はこの間、実感しています。
一例をあげます。1月26日の野外での会見の際、秀幸は、座間味の人が集団自決を推進したと言い、これは村の者は皆知っていることだが、その人物の子供が数人、今も那覇で重要な社会的地位にあるので名前は言えない、と言っていました。
つい最近、秀幸はその実名を明かしました。昭和20年3月26日の早朝、第二中隊の壕から出てシンジュの壕に向かって歩き出した秀幸の家族は、軍服を着て刀を振り回す、兵隊らしき人物に出会いました。「玉砕命令が出ているのに、お前たちはまだ死ねないのか。殺してやるからこっちに来い」といって、家族を皆殺しにしようとします。この人物が、国民学校の教頭・山城安次郎であることを、秀幸はごく最近、私に伝えたのです。長い間隠していてすまなかったという趣旨の謝罪の言葉も添えられていました。
このとき、祖父が山城教頭に口答えして、「先生、夕べ、自決するからといって忠魂碑の前に集まったら、軍が弾薬をくれないから自決はしない、解散だといわれてきたのに、また、先生はここで玉砕せよという。それは誰の命令ですか」と質問しました。すると、山城は、「玉砕命令は梅澤隊長の命令ではない。昨日(3月25日)の昼過ぎ、村長、三役で決め、郷土防衛隊長(宮里盛秀)の命令として出させたものだ。各自、個人個人の壕を回って、軍の命令だと言って忠魂碑の前の広場に集合させなさいと伝達させたのだ」と答えました。秀幸の家族の壕などに「軍の命令である」と言って住民を集めたのは、軍の名前を騙ったものであることを、秀幸はこのとき、はっきり知ったのです。
この一事を見ても、秀幸が、晴美の観察とは異なって秘密を守ることのできる人物であることがわかります。しかし、梅澤隊長に無実の罪をなすりつけることと比較して、迷った末に山城の名前を公表するつもりになったものと思われます。
晴美は、「彼の話し好き、マスコミ好きは島でも定評があります」と書いていますが、外部のジャーナリストや研究者に親切に対応することで人格的に非難されるとしたら、晴美の母・初枝は、その百倍も非難に値することは晴美もよく知っていることです。いずれにせよ、このような無意味な人格攻撃までしなければ秀幸証言の信憑性を否定できないところまで、被告は「宮平証言」によって追い詰められているのでしょう。
第二は、「自決」という用語の問題です。
晴美は、秀幸が「自決」ということばを使っていることについて、「「自決」は戦後使われるようになった用語で、あの夜のできごとを話す住民証言はすべて「玉砕」です」と述べています。晴美は、「自決」と「集団自決」とを混同しているようです。「集団自決」は確かに戦後使われるようになった用語のようですが、「自決」は当時も使われていました。盛秀の妹の宮平春子は、被告側が提出した陳述書の中で、「いさぎよく一緒に自決しましょう」と盛秀が言ったと証言して、「自決」の語を使っています。晴美は、ほかならぬ春子の新証言に接して自分の見解を変えたと述べていますが、「宮平証言」が信用できない理由に「自決」の語を使っていることをあげた晴美は、同じ「自決」の語を使った春子証言の信憑性をも否定しなければならないハメになりました。私は、3月7日、春子に面会しましたが、その際、確認のために、「自決」ということばを盛秀が本当に使ったかどうかを尋ねました。盛秀は子供に向かって「みんなで自決しましょうね」と言っていたとのことです。晴美の陳述書は、「自決」の語について一知半解の議論を振り回しているにすぎません。
以上の通り、晴美の陳述書は、全く説得力のない、証拠価値ゼロの証言に過ぎません。

第六 被告側準備書面(2)への批判
 
 被告側が7月31日付けで提出した準備書面(2)(以下、「被告書面」と略称する)では、原告側控訴理由書の「第4 宮平秀幸証言」について、7点の理由を挙げ、「まったく信用できない」としています。しかし、これら7点はことごとく成立しない理由であり、反対に「宮平証言」の信憑性をかえって裏付けるものとなっています。以下、被告書面が挙げた論点ごとに反論します。

 1 宮平秀幸の母の手記との食い違い
 被告書面は、秀幸の母・貞子の行動として、次のように述べています。
 「昭和20年3月25日は、70歳前後の夫の父母、23歳の長女、15歳の三男(秀幸)、5歳の娘、3歳の息子をひきつれて自分の壕に隠れており、夜になって米軍の艦砲射撃が激しくなり、前の壕の人が、「お米の配給を取りにくるように伝令が来たので、行こう」と合図に来たので、家族全員で壕を出て移動し、整備中隊の壕、御真影避難壕、第三中隊の壕などを逃げ回り、3月26日の夜明けに自分の壕に戻ったものである。この間、三男(秀幸)は祖父母の手を引くようにして歩いた。貞子たちの壕は奥まっていたため、伝令は来ず、忠魂碑前に集まれという指示は知らなかったので、忠魂碑前には行っていない。」
 これは被告による貞子証言の要約とみることができます。貞子証言については、7月28日付け意見書で詳細に分析しましたので、その成果を前提として、被告による上記引用部分を対象に、その記述の内在的矛盾(人間の行動として現実には絶対にあり得ないことが書かれていること)を明らかにします。
 
(1)被告書面は、お米の配給を取りに行こうと前の壕の人から合図があって、「家族全員で壕を出」たと読み取っています。秀幸は、今年の3月10日、那覇の県庁記者クラブで記者会見し、「証言・座間味島集団自決の『隊長命令』について」という3ページの文書を公表しましたが、その後、村史の貞子証言を読み、その間違いを指摘するため、3月14日、「証言・座間味島集団自決の『隊長命令』について(補足)」という文書を、「新しい歴史教科書をつくる会」を通じて公表しました。その「補足」文書の中で、秀幸も同じ読み取りをしており、貞子証言の文脈では、そう読むのは自然なことです。しかし、この行動こそ、当時の実情に即すると極めて不自然で、絶対にあり得ない行動なのであり、貞子証言が明白な虚偽を含んでいることの何よりの証拠です。
 村当局が備蓄していた米は、産業組合の壕に保管してありました。ジンジュの宮平家の壕と産業組合の壕との位置関係については、甲B110号証、229ページの航空写真にプロットした地図を参照していただきたい(宮平家の壕はL、産業組合壕はE)。配給の米を取りに行くということは、シンジュにある宮平家の壕から産業組合の壕に行き、配給の米を受け取って、またシンジュの壕に戻ることを意味します。その目的のために「家族全員」で出かける必要はまったくありません。誰か大人が一人行けばよいのです。被告書面は、壕の中に家族7人がいたとしています。このうち、秀幸は実際は壕にはいなかったのですが、かりに秀幸が壕にいたと仮定しても、米をとりに行くべき人物は、貞子、千代、秀幸の誰か一人であるべきです。昌子と秀頼はまだ小さすぎて、この任務を課すには無理であり、70歳前後の祖父母は、単に高齢というだけでなく、二人とも足が悪く、容易に歩けない状態にありました。被告がこの度提出した本田靖春のルポにも、祖父の次良について「リュウマチを患っていて、両脚を前へ投げ出した形でしか坐れず、歩行に困難が伴っていた」(「座間味島一九四五」163ページ)と書いています。このような祖父母を含む、「家族全員」で弾雨の中を配給の米を取りにいかなければならない理由などあり得ません。被告書面は、こうした矛盾を含んでいることにすら気付かずに、貞子証言を絶対化しています。
 (2)それでは、米を取りに行った家族は、その後、どうしたのかと続きを読むと、産業組合の壕に行ったことが全く書かれていません。これは奇妙なことです。この矛盾にも、被告書面は全く気付いていません。実際は、秀幸が忠魂碑前で家族と再会したあと、家族から詳細に聞き取ったとおり、米は取りに行かなかったと考えられます。秀幸は、3月14日に発表した「証言・座間味島集団自決の『隊長命令』について(補足)」の中で、この間の事情を次のように書いています。
 「夕方、村の役場の職員が伝令で来て、お米の配給を取りに来るように言いました。私の家の壕には木炭はありましたが、七輪はありませんでした。お米の配給をもらってもご飯を炊くことは出来ません。それでも、姉がお米をもらいに出かけようとしましたら、祖父が「千代、行くな。艦砲が激しいから、行ったら帰ってこれなくなる。飢え死にしてもいいから行くな」と止めました。」
 実際は、千代が米をとりに行こうとしたのを、祖父が止めていたのです。だから、産業組合の壕に米をとりに行った者は宮平家にはいません。貞子証言に産業組合の壕に行ったことが書かれていないのは当然のことです。以上のことからだけでも、貞子証言と「宮平証言」のどちらが真実を語っているか、あまりにも明らかです。貞子証言には決定的な虚偽が含まれています。
 (3)被告書面は、「貞子たちの壕は奥まっていたため、伝令は来ず、忠魂碑前に集まれという指示は知らなかったので、忠魂碑前には行っていない」とのべています。貞子は壕が奥まっていたから伝令は来なかったとし、それを家族が忠魂碑前に行かなかったことの理由にしています。
 しかし、第一に、宮平家の壕が奥まっていたから伝令が来なかったというのは、極めて考えにくいことです。伝令の恵達は、60あまりもある各家の壕を回るのに急いでいたことは確かですが、だからといって特定の家を省略するとは考えられません。まして、伝令の内容は部落全員で自決しようという村当局からの重大な呼びかけですから、ますます考えにくいことです。
第二に、「私の壕はシンジュの上のほうにあって、奥まっていた」(貞子証言)ということは、恵達たち伝令が秀幸の壕に来なかったとか、伝令が来たことに家族が気付かなかったとかいう言い訳にはならないことを指摘しなければなりません。シンジュの壕の配置について筆者(藤岡)が秀幸から聴取したところによれば、畑に沿った土手に宮平初枝(結婚後、宮城初枝)の家の壕があり、そのすぐ上の段、初枝の壕から2メートルの高さのところに秀幸の壕がつくられていました。初枝の壕から秀幸の壕まで、歩くと5〜6メートルの距離がありましたが、下の家の壕を訪ねた人の声は上の壕にも筒抜けに聞こえていましたし、その逆も成り立っていました。
 秀幸の壕は幅1.5メートル、奥行き3メートルほどの広さで、たいていは入口に貞子と千代が布団をかぶって寝ており、中間に祖父母、奥に小さな子供二人が置かれていました。恵達が来た時のことを秀幸が祖父から聞いたところによれば、恵達は秀幸の壕の入口までやってきました。壕の扉は、養蚕に用いる「まぶし」に木の枝を差した簡単なもので、恵達が外から扉をガタガタ揺すったので、内側から止めていたひもをはずし、祖父が顔を出して恵達と話をしました。
 貞子は忠魂碑前に行かなかったことの口実として、シンジュの壕の配置に言及しましたが、それは実態に照らすと全く説得力のないものであることが、以上の2つの理由から明らかになりました。
 (4)貞子の、忠魂碑前に行かなかったという証言は、8月14日付けで提出された秀幸の妹・昌子の陳述書によって、直接反証されています。昌子陳述書は次のように述べています。
 「暗くなってから、私たちが入っている防空壕の前へ大人二人が来て、一人はおじさん、もう一人は女の人でした。「マカー(忠魂碑のある地名)の前へきれいな着物を着て早く来なさい」と呼んでいました。おじいさんも、おばあさんも、私も弟も、きれいな着物を着けて、お母さん、お姉さんも着けて、マカーの前に行きました。マカーの前には人がいっぱい集まっていました。私と弟を、母と姉がおんぶして連れて行きました。おじいさんとおばあさんは杖をついて行きました。私たちはマカーの広場のそばの小さなみぞに座っていました。秀幸兄さんが来ました。「千代姉さん」と呼んでいました。兄さんはおじいさんとお母さんに話をしていました。少したってから、大人の人たちが集まるように大声でみんなを呼びました。大人が「解散、解散」と言っておりました。」
 ここで、@家族の壕に伝令が来たこと、A家族が全員正装して出かけたこと、B忠魂碑の前で秀幸と家族が落ち合ったこと、C大人が集まるように呼びかけられたあと、「解散、解散」と言っていたこと、が証言されていますが、このうちCは村長の解散命令に対応することは明らかで、ここで表現されている出来事の骨格は秀幸証言と完全に一致しています。
(5)貞子の証言が、(1)(2)のような内在的矛盾を含み、伝令が来なかったから忠魂碑前に行かなかったという言い訳は壕の配置の実態から見て成り立たず、昌子の陳述書の証言とも食い違う虚偽を含んでいるのは、村史編集の過程で、集団自決が軍命によるものであったという余地を残すため、軍命によるという説を明確に否定することになる、「忠魂碑前での村長の解散命令」を何としても隠蔽しておかなければならなかった村当局の意向によるものだと考える他はありません。
 この点について、秀幸の陳述書では、「母はテープに証言を吹き込むとき、「そこはストップ」、「はい、戻って」などと繰り返し指示され、終わって帰ってきてから、「ああ、疲れ果てた」とこぼしていました。母の証言で私の家族が忠魂碑前に行かなかったことにしたのは、村長の解散命令をかくすためであったと思われます」と述べています。被告書面によれば、村史を編集する際に、「宮平貞子から戦争体験を聴取したのは宮城晴美であった」とのことですから、晴美は村当局の意向を受けて貞子の証言を操作したのかもしれないという疑いを生じるところであり、この点からも晴美陳述書が信憑性を失うのは明らかです。
 (6)以上のような虚偽の内容を含む貞子証言を根拠に、本部壕で梅澤隊長と村の幹部の話を聞いたとする「宮平証言」を否定することはできません。


2008年9月10日 07時37分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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藤岡先生意見書(大阪高裁提出資料)2/2
藤岡先生意見書(大阪高裁提出資料)2/2             
              

 2 宮平秀幸のビデオ証言との食い違い
 記録社制作の「戦争を教えて下さい・沖縄編」(1992年)に出演した宮平秀幸の証言について、被告書面は、次のように述べています。
 「このビデオにおいて、宮平秀幸は、昭和20年3月23日の晩から家族7名(祖父母、母、姉、妹、弟、自分)で自分たちの壕に入って、24日、25日も過ごし、25日午後8時半か、9時頃になり、忠魂碑前で自決するから集まれとの伝令が来たので忠魂碑前に行ったが、艦砲射撃の集中砲火を浴び、各自の壕で自決せよということになり、家族で、整備中隊の壕の前、第二中隊の壕の前を経由し、夜明けに自分たちの壕にたどりついたと話している。」
「忠魂碑前で自決するから忠魂碑前に集まれとの伝令が来たので忠魂碑前に行ったとのビデオ証言は母貞子の手記に反し信用できないものであるが、宮平秀幸が3月25日の夜に宮里助役らが梅澤隊長に面会した際に本部伝令として隊長の傍にいたとの甲B111〜113の記載や、梅澤隊長が自決するなと命じたので解散すると野村村長が忠魂碑前で演説したとの甲B111などの記載は、秀幸のビデオ証言と相違し、いずれも虚偽であることが明らかである。」
 この議論が成立しないことを以下に述べます。

 (1)宮平秀幸の8月7日付け陳述書は、@集団自決の真相を語ることについて村人に厳重な口止めをしていた田中登村長の夫人が、撮影の前にわざわざ貞子に秀幸が真相を語らないよう口止めをしていたこと、Aそれを受けて貞子は家中の電気を消し、秀幸がうっかり本当のことを語ることがないよう、貞子と秀幸の妻・照子が撮影に立ち会い、秀幸の発言をチェックしていたこと、B秀幸自身もかつて、田中村長から「集団自決の本当のことを話したら村に居られないようにしてやる」と脅かされていたこと、Cこうした中での撮影であったため、大変緊張し、苦しい思いの撮影であったこと、を証言しています。
 これに付け加えて、Dその前年、読売テレビの取材の際、忠魂碑前でうっかり村長の解散命令をテレビカメラの前で話してしまったため、田中村長から厳しくとがめられたことがあった、という事情を考慮すれば、ビデオ取材が到底本当の体験を語ることのできる状態で行われたものではなく、従ってその内容を根拠に、「宮平証言」の信憑性を否定することはできないことは明白です。
 (2)こうした条件のもとで撮影されたビデオであるために、極めて不自然な箇所や、経験則上あり得ない内在的矛盾がビデオ作品には生じています。
 その一つは、「3月23日の晩から壕に入って、24日、25日も過ごして」と、さらりと述べているところに現れています。米軍の空襲は23日から始まっており、軍の伝令役をしていた秀幸は、いろいろな経験をこの間にしているはずですが、23日から25日の夜まで、自家の壕の中にじっと隠れていて、何も語ることがなかったかのように描かれていることは極めて不自然で、ほとんどあり得ない話であると言えます。秀幸は上記の発言についての背景を、「本部壕で梅澤隊長が「死んではいけない」と自決を止め、それを受けて村長が忠魂碑前に集まった村民を解散させた現場を私は見ていたのに、それをビデオの取材では話すことができなかったため、誤魔化した」と述べています。
 もう一つは、家族が、足の悪い祖父母を連れて、忠魂碑前から、自家の壕の反対側の遠方にある整備中隊の壕に行き、また戻って、第二中隊の壕を経て、シンジュの自家の壕に帰ったという、その深夜の徘徊の意味が全く分からなくなっているという点です。日本軍の兵士と秀幸の家族との人間的な交流や、兵隊さんに「死んではいけない」と諭されたことなどを語ることができなかったため、家族の立ち回り先を外形的にのみ言及したので、人間の行動としてあり得ない不合理な話ができあがってしまったと説明できるものです。
 このことからも、真実を語れなかったビデオの証言と食い違うことを根拠に、「宮平証言」の信憑性を否定することはできないことが明らかです。
(3)ただし、上記のような厳重な監視体制のもとで撮影されたビデオであるにもかかわらず、被告書面も指摘するように、ビデオには秀幸の「各自の壕で自決せよということになり」という証言が残ってしまいました。これは村長の解散命令のあと、上記のような受け止め方をして忠魂碑前を去っていった人がいた(例えば、知念久次郎。甲B110,233ページ)というあらわれであり、村長の解散命令を前提としているという点で、解散命令の片鱗が表現されたものにほかならず、上手の手から水が漏れたような状況になっています。

 3 本田靖春に対する宮平秀幸の話との食い違い
 被告書面は、本田靖春著「座間味島一九四五」(『小説新潮』1987年12月号所収)に関して、次のように書いています。
 「これによると、宮平秀幸は、昭和20年3月25日の夜、祖父母、母、姉、妹、弟、とともに7名で宮平家の壕にいたもので、そこに「午後十時を期して全員で集団自決するので忠魂碑の前に集合するように」との命令が伝えられ、家族7名で時間をかけていろいろと話し合った末、午後零時ころ上記7名が忠魂碑の前についたが、物凄い艦砲射撃が始まり、その場から逃げ出し、その夜から26日にかけて島内の各所で集団自決が次々に起きたと話している。」
 被告書面は、本田ルポを上記のように要約し、それを根拠に、本部前での梅澤隊長と村幹部との面会の際に隊長の傍にいなかったこと、梅澤隊長が自決するなと命じたので解散すると野村村長が忠魂碑前で告げたことを秀幸は聞いていないこと、が明らかであると主張しています。しかし、この主張は成り立ちません。
 (1)7月28日付けの私の意見書で詳細に分析したとおり、@宮平秀幸は自家の壕に恵達らの伝令が来た時、そこに居合わせたわけではないが、家族から聞いた話をもとにビビッドに語ったため、本田がてっきり秀幸がその場に居合わせたかのように錯覚したこと、A忠魂碑前で村長の解散命令があったあと、その後どうするかを家族で相談したことが、伝令が来た後の家族の壕での話し合いに置き換わってしまったこと、B本田は一回きりの取材であったため、秀幸の話を十分に確認することが出来なかったこと、C原稿を書いたあと、秀幸のチェックを求めるなどの措置もとられなかったこと、Dこの時点では秀幸は村長の解散命令を語ることが出来なかったこと、E以上のようなやむを得ない諸事情により、本田の話の構成に混乱が生じたこと、を解明しました。従って、本田ルポの存在を根拠に、「宮平証言」の信憑性を否定することはできません。
 (2)被告書面は、『小説新潮』の次号(1988年1月号)の記事で、本田が宮城初枝や梅澤隊長の話を記載しているのだから、「宮平秀幸との話においてもこのことが話題になっていなかったはずはない」と指摘しています。しかし、被告には、本田の取材日程の前後関係について、その認識に混乱があります。
 『小説新潮』の1988年1月号の記事「第一戦隊長の証言」には、1987年10月下旬に、本田が座間味・阿嘉両島を「再訪した」と書かれており(291ページ)、「実をいうと、このたびの座間味島再訪の主たる目的の一つは、初枝さんに会って「集団自決命令」をめぐる証言を得るところにあった。「高月」の宮平秀幸さんは彼女の弟である。そこで秀幸さんを通じて初枝さんにインタビューを申し込んだのだが、「戦争の話だったらしません」と拒否された」(303ページ)と述べています。
 ここからわかるとおり、本田が秀幸から集団自決の話を聞かされたのは最初の訪問時であり、再訪した時に、秀幸を介して初枝に取材を申し込んだ本田は、取材を断られているのです。本田は肉と魚介類の冷凍物を販売する初枝の店まで直接訪ねますが、やはり断りの言葉は同じでした。ところが、初枝との会見は、本田が島を離れる最後の日に急遽実現するのです。本田はそのいきさつを次のように書いています。
 「それから中一日を置いた座間味島を離れる日、「高月」の食堂で朝食を摂っていると、思いもかけず初枝さんから電話が入った。店の筋向かいにある喫茶店で午前十時に会ってくれるという。」(303ページ)
 こうして、昭和20年3月25日の夜、梅澤隊長が村の幹部に弾薬の提供を断った事実を、初枝は本田に初めて語ったのです。このように本田の取材日程を整理すれば、本田が秀幸から集団自決の話を初めて聞かされた時には、本田は本部壕での梅澤隊長と村の幹部の会見に関する初枝証言についてはまだ何も知らなかったことがわかります。従って、本田と「宮平秀幸との話においてもこのことが話題になっていなかったはずはない」と被告が主張するのは全くの的外れです。
 宮平秀幸にこの点の事情を確かめたところ、実は秀幸は本田に、梅澤隊長が村の幹部と会った時、自決用の武器弾薬の提供を断っていたことをそれとなくほのめかしていたとのことです。しかし、当時、秀幸は村営の連絡船の機関長であり、身分は役場の職員(地方公務員)でしたから、役場の方針に反して自分の口から真実を話せば職を失う危険性がありました。本田が座間味島を離れる日の前夜、秀幸は初枝に電話して、本田に会って証言するよう説得していました。秀幸は自営業の初枝のほうが証言しやすいと思っていたのです。こうして本田は初枝に喫茶店で会うことができました。
 被告書面は、援護法の適用を受けていた村がどれほど厳しい箝口令のもとにあったかを全く無視して脳天気な議論を展開し、それを前提に「宮平証言」の信憑性を否定しようとしているのですが、そこには二重の欺瞞が隠されているというべきです。いずれにせよ、重大な真実の一端を世間に知らしめた画期的な文献である本田ルポの背景には、本田の取材に対する秀幸の誘導があったことがこれでわかります。

 4 宮平春子証言などとの食い違い
 (1)被告書面は、「甲B111などには、秀幸の話として、3月25日午後11時頃、野村村長が忠魂碑前で、村民に対し「部隊長から自決するな、避難させなさいと命令されたので解散する」と告げるのを家族とともに聞いたと記載されているが、そのようなことがあったとの証言は、これまで住民の誰からも一切出ていない」という宮城晴美の陳述書を根拠に、「宮平証言」の信憑性を否定しています。
 しかし、私が『正論』4月号の拙論などで触れているように、@忠魂碑前に集められたのは、ほとんどが年寄りと子供で、証言者となるべき年寄りは死に絶え、子供は小さすぎて事態の意味がわからなかったこと、A60人以上の人が産業組合の壕で集団自決を遂げているが、この中には忠魂碑前にいた人々が多数含まれていること、B村当局による厳しい箝口令が存在し、秀幸自身、勇気をもって語り出しのはごく最近であること、Cそもそも晴美は、村当局の意向を受けて、真実を覆い隠すことに何らかの形で関わっていたのではないかと思われること、などの事情から十分に説明がつくことです。
 (2)被告書面は、「宮平春子の証言によれば、3月25日の夜、宮里盛秀助役の一家は、盛秀を先頭に忠魂碑に向かったが、数メートル前に照明弾が落下し、前に進むことができず、来た道を引き返したところ、村長と収入役の一家が忠魂碑方向に向かって歩いて来るのに遭遇し、忠魂碑前にいくことをやめ、全員産業組合の壕に向かって歩いたものである」と述べ、「すなわち、村長は忠魂碑前に行っていないことが明らかであり、甲111などに記載された秀幸の話は虚偽であることが明らかである」としています。
 しかし、村長も助役も収入役も、要するに村の三役が誰も忠魂碑前に行かなかったという春子の証言こそ、社会常識から考えて到底受け入れることのできない荒唐無稽なつくり話です。村の三役は、伝令を派遣して忠魂碑前に村人を集合させた張本人です。自分で村人を集合させておきながら、自らは何の指示も与えずに現地に行くことをやめ、自分たちだけで勝手に別の場所に避難するなどという無責任な行動はあり得ないことです。照明弾が落ちたことは理由になりません。まして、盛秀は人一倍責任感の強い、意志強固な人物でした。どんな危険を冒しても、忠魂碑前に行き、自らの責任を果たしたはずです。春子の証言は、兄の人間性を限りなくおとしめるものであることに気付くべきです。秀幸は、忠魂碑前に村の三役の家族が来ていたことを目撃していますが、それは村の指導者として当然のことです。晴美の『母の遺したもの』は初枝証言を世に知らしめた功績がある反面、村当局に都合のよいつくり話が含まれた作品であることに留意しなければなりません。

 5 宮城初枝の証言との食い違い
 (1)3月25日の夜、本部壕に梅澤隊長を訪ねた村の幹部の中に村長がいなかったという初枝証言を引いて、その場に村長がいたとする「宮平証言」は虚偽である、と被告書面は主張しています。これについては、私は『正論』4月号掲載の拙論(甲B110)ですでに検証しました。通信隊の長島義男の手記に、「国民学校校長と村の三役が青年有志二、三名と連れだって本部に来た」という一節があることから、村長はその場に来ていた可能性が高いと私は判断します。従って、この点に関して初枝の証言は虚偽を含み、秀幸の証言が正しいと考えます。
 (2)秀幸は、本部壕に村の三役が来ていたことを、今回に限らず、以前から証言していました。@2001年6月28日付け毎日新聞「びんご版」に、清水凡平は、「本部壕前で梅沢少佐と村長らの話を聞いた」という秀幸の証言を書いています。A専修大学で災害社会学を専攻する大矢根淳ゼミナールの学生8人は、2003年9月、座間味島で夏合宿し、宮平秀幸の案内で集団自決の調査を行いました。その報告書が同年10月29日付けで『ゼミナール報告書シリーズ(1)2003夏・ちゅら海の語るもの〜宮平秀幸氏と歩く座間味島』と題して発行されました。その中で、次のように、2箇所にわたって3月25日夜の本部壕前の出来事についての秀幸の証言が記録されています。

 <17ページ>
3つの展望台から眺める座間味
 〜宮平さんの視点を感じ取る〜
2003/09/08 晴れ 11:00〜13:30くらい ポイントをバスでめぐる(参加者8名)
【宮平さん−当時15歳】
梅沢部隊長(注1)と行動を共にしていた。
●集団自決の相談(3月25日の夜)
 村長−野村正次郎
 助役−宮里盛秀、
 収入役−宮平正次郎
以上の三役(注2)が部隊長に集団自決の相談に来る(注3)。
部隊長「村長、助役。何をおっしゃいますか。軍としては何もできない。軍は、国土、国民、財産を守る。民間人を助ける。米軍上陸前に民間人を殺すことは、天皇に申し訳が立たない。家族、一人でも生き残れ。犬死するな。米軍が上陸したら、そのとき考えろ。」
三人は壕を追い出された。
<22ページ>
歴史年表からは見えなかった、もう一つの歴史
 〜座間味・日本の歴史と宮平秀幸さんの自分史との比較〜
【宮平秀幸さん−当時15歳】
梅沢部隊長と行動を共にしていた。
●3月25日の夜<集団自決の相談>
 村長−野村正次郎
 助役−宮里盛秀、
 収入役−宮平正次郎
以上の3人が部隊長に集団自決の相談にくる。この部隊長の側に宮平さんはいたといいます。
部隊長「村長、助役、何をおっしゃいますか。軍としては何もできない。軍は、国土、国民、財産を守る。民間人を助ける。米軍上陸前に民間人を殺すことは、天皇に申し訳が立たない。家族一人でも生き残れ。犬死するな。米軍が上陸したら、そのとき考えろ。」
3人は壕を追い出された。
 
 上記で(注)が施されているところがありますが、その注の記述は、ほとんどが宮城晴美『母の遺したもの』(2000年、高文研)からの引用からなっています。晴美の著書では、村長はいなかったことになっているのですが、秀幸は、村の「三役」がいたことを学生たちに語っています。注目すべきことは、清水凡平と専修大学の学生に対する秀幸の証言は、晴美の著書が出版されたあとであるにもかかわらず、それに一切影響されておらず、終始一貫していることです。それが秀幸が直接経験した事実だったからです。
(3)そもそも、部隊長に集団自決用の弾薬をもらいに行くというのに、その場に村長がいないということは極めて不自然です。村長がいなかったとしたら、その時間、村長はどこで何をしていたのでしょうか。何か村長が来ることのできない、よんどころない事情でもあったのでしょうか。村長がいないことについて、今まで全く何の説明も与えられていなかったことは奇妙です。村長の存在を消去することは、忠魂碑前での村長の解散命令を隠すための一環であると一応考えられますが、今のところ、それ以上の即断は避けたいと思います。
 (4)被告書面は、当夜の梅澤隊長と助役とのやりとりの内容について、初枝が聞いたことと秀幸が聞いたこととが食い違っているとして、「宮平証言」に信憑性のない根拠としています。しかし、前掲『正論』4月号に書いたとおり、30分も梅澤が何も語らず考え込んでいたかのような初枝の記述は明らかに不自然です。実際は、たくさんの言葉を費やして梅澤は村の幹部を説得したに違いなく、その点でも宮平証言のほうにはるかにリアリティーがあります。
 (5)被告書面はまた、梅澤隊長の陳述書に書かれた内容と宮平証言との間にも相違があることを指摘しています。それはそのとおりですが、前掲『正論』4月号で考証したとおり、村長がいなかったという点については、梅澤は初枝に教示・誘導された可能性が高いと私は見ています。あとで得た知識が、自ら体験した事として定着してしまうという現象はありふれたことです。
 なお、前掲『正論』の拙論では、秀幸が証言した梅澤の発言のうち、「天皇陛下の赤子」発言については、梅澤は自分の発想ではないとコメントしたことを紹介しましたが、再度秀幸にぶつけたところ、梅澤は確かに「天皇陛下の赤子」発言をしたのであり、それを梅澤はすっかり忘れているのだろう、とのことです。

 6 伝令ではなかった
 宮平秀幸が軍の伝令であったことについては、宮平秀幸の陳述書、中村尚弘の陳述書、梅澤と関根清の現認証明書で完全に論証されています。

 7 宮平秀幸の信用性
 この項で被告書面は、1〜6の理由を総括して、宮平秀幸の新証言が信用できないとしていますが、以上見てきたとおり、結論は正反対で、被告書面の議論はどれ一つとして成り立たない謬論であることが証明されました。
 被告書面は、最後に次のように書いています。
 「なお、宮平秀幸は、昭和61年頃、宮城晴美に対し「昭和20年3月25日の夜、忠魂碑前で村長から、隊長が来たら玉砕すると言われたが、来ないので解散した」と述べたが、当時宮城晴美が宮平貞子をはじめとする何人もの戦争体験者に聞いてみたが、秀幸の話を認める人は誰一人いなかった(乙110宮城晴美陳述書1〜2ページ)。秀幸の新証言は、この秀幸の宮城晴美に対する話とも大きく食い違っている。」
 乙110では、晴美は「昭和63年1月頃」と書いているので、上記被告書面に「昭和61年頃」とあるのは誤りです。それは別にしても、被告書面の論旨は、今一つ不明確です。被告は何を問題にしているのでしょうか。それが明示されていないので、当方で推測するしかありません。
 @ 「隊長が来たら玉砕する」という部分が間違いだというのかも知れません。しかし、晴美の母である宮城初枝は、『家の光』昭和38年4月号に書いた手記の中で、「玉砕は、部隊長と村長の到着を待って、決行されることになっていたが」と書いています。初枝がそのことを否定するはずがありません。
 A 「忠魂碑前で村長から」秀幸が「言われた」、という意味に解釈した上で、それは間違いだというのでしょうか。それならば、その通りです。秀幸は、村長が解散命令する場にいたのであって、それ以前の段階で忠魂碑前にいた訳ではないからです。もし秀幸が晴美にそう言ったとすれば、他の人から聞いた話を秀幸は自分の言葉で再構成して語ったのでしょう。
 B 「解散」の部分が村長の「解散命令」を指すとして、それが間違いであるというのでしょうか。それならば、それは今回の争点そのものです。
 晴美は問題の焦点を示すことなく、曖昧な記述をして漠然と秀幸の発言が信用するに足りないものであるという印象を広めようとしているようですが、非論理的な文章です。被告側代理人も晴美陳述書の論旨がよくつかめず、最後の付けたりの形で扱ったのかも知れませんが、そうだとしたら、「秀幸の新証言は、この秀幸の宮城晴美に対する話とも大きく食い違っています」と締めくくっているのは不誠実です。被告側準備書面を書いた被告代理人も、何と何が「大きく食い違」うのか、そのポイントを示さないままに「宮平証言」を論難しているからです。
                                    
第七 証言者としての宮平秀幸の人物像

最後に、被告書面末尾の「7 宮平秀幸の信用性」という論点にもかかわって、「宮平証言」の位置づけと、証言者としての宮平秀幸の人物像について、私見を述べておきます。
今回、被告側が「宮平証言」を否定するために持ち出した3つの材料は、次のように整理できる内容をもっています。「宮平証言」と対比して一覧表にし、それぞれについて、被告の評価と私の評価を対照させてみます。

            忠魂碑前に   村長の解散命令   被告の   藤岡の
行ったか?   はあったか?    評価    評価  
@ 村史の貞子証言 1988    NO      言及せず     ○     X
A 本田靖春ルポ  1986    YES     言及せず     X     X
B 記録社ビデオ  1992    YES     言及せず     X     X
「秀幸証言」   2008    YES      YES      X     ○

 被告側準備書面(2)では、貞子証言だけが正しく、あとは「忠魂碑前に秀幸の家族が行った」という証言に関して、すべて誤りであるという立場をとっています。しかし、すでに述べたとおり、これは極めて脆弱な議論で、維持することの不可能なものです。貞子証言は、すでに私が前回の意見書で分析したとおりの重大な矛盾を抱えているだけでなく、当時6歳の宮平昌子の8月14日付け陳述書によって完全に反証されています。
なぜ、このようなことになったのでしょうか。それは援護法の適用を受けるため、村ぐるみで真実を隠蔽する必要があったからです。秀幸によれば、村史の自分の証言について不自然な編集がされていることへの不満は、他の証言者、長田一彦も漏らしていたとのことです。そもそも、誰が見ても重要な証言者であるはずの宮平秀幸を村史の証言者から外していることに村当局の作為があります。
座間味島の戦後史は、真実を語る住民の受難の歴史でした。援護法の適用を受けるため、村の長老の強要によって心ならずもウソの証言をさせられた宮城初枝は、長い間良心の呵責に苦しみぬきました。盛秀の弟の宮村幸延は、梅澤の無実を証明する証文を書いたばかりに、遺族会の会長の職をはずされました。晴美自身、「座間味島における惨劇をより多くの人に正確に伝えたいと思いつつも、母は「集団自決」の箇所にくると、いつも背中に「援護法」の“目”を意識せざるを得なかった」(沖縄タイムス、1995年6月23日付け)と書いています。
さらに晴美は、母の初枝が、晩年、病状が進んで、「家族の呼びかけにさえ応じなくなったというのに、時折、「XXさんがドアの前にいるので帰ってもらいなさい」とうわ言をいうようになりました。「XXさん」とは母の“新たな証言”に怒り、母を厳しく追い込んだ人です。その人が戸口に来ているわけはなく、死を目前にしてまでなお“戦争”にまとわりつかれる母が私にはあわれでなりませんでした」と書いています(『母の遺したもの』2000年、279ページ)。その晴美が、今度は真実を覆い隠す抑圧者の側に回っていることになります。
 ここで、宮平秀幸の記憶力について述べておきます。秀幸が特異な記憶力の持ち主であることは間違いありません。私が体験したエピソードを紹介します。先日、那覇のホテルのロビーで、私は秀幸とともにある人を待つために長い時間待機していたことがあります。ちょうど向かい側のソファーに、初老のご婦人の二人連れが座っておりました。秀幸は声をかけて、「お二人さんは、20年ほど前、座間味に来たことがありますね」と話しかけたのです。二人はびっくりして、確かに1回だけ座間味島に渡ったことがあると言いました。秀幸は、「ボクは連絡船の機関長だった。あなた方は船に二人連れで座っていた。ボクはお顔を覚えていましたよ」と言いました。
たった一回出会っただけの人でも顔を覚えてしまうというのは驚異的な記憶力です。特に、秀幸の映像的な記憶力は標準的な人々のそれを遙かに超えています。比喩的に言えば、秀幸の頭の中には、何百万枚という映像がストックされていて、きっかけがあれば活性化するのだろうと思われます。この間、私が接した秀幸の証言は極めて一貫しており、全く破綻がありません。宮平秀幸は、今後座間味島における集団自決の真相を究明する上で、かけがえのない人物と言えます。
しかし、宮平秀幸は、この度の証言をしたことで、村社会の中ですさまじい圧力にさらされています。座間味島における厳しい状況については、『WiLL』5月号掲載の藤岡信勝・鴨野守「沖縄タイムスの『不都合な真実』」に書きました。その末尾に、今後、秀幸に対して加えられると考えられる攻撃の類型として、
(1) 宮平の証言内容に対する攻撃――@宮平の過去の証言との矛盾をつくもの、A宮平の他の家族の証言との矛盾をつくもの、B他の住民の証言との矛盾をつくもの
(2) 宮平への個人攻撃
(3) 宮平の家族や家業への圧力
の3つを指摘しておきましたが、そのすべてが今や盛大に始まっています。宮平の次世代の家族からは、ペンションの営業に差し障ることを心配して、証言をやめてほしいと懇願されています。しかし、秀幸は妻・照子と毎日のように話し合い、「本当は村の人にとって命の恩人である梅澤さんを、悪者にするわけにはいかない」と、勇気を奮い起こして証言を続けています。秀幸は自分の枕元にノートを置いて、当時のことを思い出す度に忘れないようにメモをとっています。1月26日の初対面の日に、秀幸から彼の証言を社会に公表する役目を指名された形になった私は、村の厳しい事情から法廷に出ることのできない秀幸の証言を、忠実に、客観的に伝え、必要な批判的検討を加えつつ、真実に到達したいと考えております。             
(以上)
2008年9月10日 07時31分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2008年09月04日(木)
9月9日(火)傍聴券獲得にご協力をお願い
沖縄集団自決冤罪訴訟控訴審第2回口頭弁論

9月9日(火)午後2時開廷

午後1時30分傍聴券獲得抽選ですので、ぎりぎりでなく1時20分頃にお越しいただけると幸いです。

今回、産経新聞に掲載された宮平証言(梅澤さんは忠魂碑前に集まった人々に解散を命じた。)や、それを補強する宮平氏ご本人、及び宮平証言は間違いなく事実だとの他の方の新証言、その他多数の事実関係を巡る書証を提出しています。
当方は法理論、法解釈だけでも、一審判決は不当であり、厳正な審理がなされれば勝訴以外あり得ないと考えていますが、更に事実関係で宮平証言と、それを強力に補強する他の方の新証言等を新たに多数提出して、完全な勝利を目指しています。

弁護士による準備書面朗読もございます。
是非、一人でも多くの方に裁判所にお越しいただき、一緒にこの裁判を戦っていただけますようお願い申し上げます。

またこの間、多数の署名を全国の方々から頂き、随時、裁判所に提出し続けて来ました。皆様、ご協力、まことにありがとうございます。


2008年9月4日 05時44分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2008年07月21日(月)
東京報告会 徳永弁護士報告
平成20年7月19日
東京報告会
徳永弁護士講演
http://image01.wiki.livedoor.jp/y/7/yakata7/838799fdb5c5f415.pdf
2008年7月21日 09時12分 | 記事へ | コメント(4) | トラックバック(0) |
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2008年07月16日(水)
東京報告会案内 7月19日(土)
http://image02.wiki.livedoor.jp/y/7/yakata7/14c19c76249b5bd3.PDF

東京報告会案内 7月19日(土)
上記アドレスに案内チラシがあります。

南木です。

皆様。大阪から 徳永弁護士、柳原事務局次長、南木、が参ります。多数の方のご参加を期待いたします。
どなたのご参加も大歓迎です。

「沖縄集団自決冤罪訴訟」東京報告会


 開 催 要 項
日 時 平成20年7月19日(土)午後1時半より

会 場 靖国会館(靖国神社内)
  東京都千代田区九段北3-1-1 
講 師  徳永信一 弁護士
     演題 「逆転勝訴の方程式」
          「青ざめる進歩的知識人・大江健三郎の黄昏ー」
            推論と偏見の大阪地裁深見裁判長判決の功罪

参加費  無 料

主 催  沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会


進歩的的知識人の黄昏ー青ざめる大江健三郎■(ブログ 狼魔人日記より)
 徳永弁護士は、地裁判決後の大江健三郎氏のコメントをテレビで見て驚いたという。
「私の書いた『沖縄ノート』を裁判官が正しく評価してくださったことに感銘を受けています」と
大江氏は語っている。

彼が判決を読まないで記者会見に臨んだのは明らかだった。 なぜなら、判決は大江氏が
主張したテクスト無視の数々のまやかしについては、これを論破した原告側の主張を認め、
いずれもきっぱりと退けていたからだ。 

偏向著しい深見裁判長も、さすがに、このノーベル賞作家の呆れたまやかしまでは擁護し切れなかったのだ。

そう、裁判長は大江氏の詭弁は法廷でことごとく退けていながら、判決では論理の大飛躍の「推論」で
誤魔化し、被告勝訴にしたのである。
大江氏の詭弁は控訴審では既に死んでおり、判決は勝訴でも大江氏自身は既に
控訴審では死に体である。


資金援助のお願い

この裁判は必ず最高裁まで行きます。是非ご協力お願いいたします。

郵便振替口座『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』

00900−6−316826

(振込用紙を準備していますが、お手許に無い場合は番号を右詰めで)
2008年7月16日 00時36分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2008年07月14日(月)
大阪高裁への要請書(署名用紙)
2008年07月14日
沖縄集団自決冤罪訴訟 大阪高裁への要請書(署名用紙)
送り先の住所も用紙上に記載してあります。
以下のアドレスをクリックしてください。
http://image01.wiki.livedoor.jp/y/7/yakata7/ac1ab342.pdf

「沖縄集団自決冤罪訴訟」の第1審判決(大阪地裁)は不当であり、
大阪高裁に丁寧で、厳正な審理を求める要請書

平成20年(ネ)第1226号 出版差止等請求控訴事件
(原審 大阪地方裁判所 平成17年(ワ)第7696号)
 
 平成20年3月28日、大阪地方裁判所において、本件裁判に関して原告の請求が棄却される判決が出されました。判決は、法解釈、事実認定のどちらにおいても、不当なものであり、貴大阪高等裁判所において裁判長に丁寧で、厳正な、歴史の審判に耐えうる判決を示していただくことを求めます。
 過ぐる大戦末期の沖縄戦において、座間味、渡嘉敷両島で起こった島民の痛ましい「集団自決」に関して、最近の歴史研究成果によれば日本軍による島民への自決命令は無かった事は明らかになっています。樺太真岡の女子電信員たちの壮絶な自決も、最初は軍命によるとされていましたが、今はそうでなかった事が明らかになっています。軍命無きところでの住民自決は枚挙にいとまがありません。
 沖縄集団自決冤罪訴訟とは、海上挺身隊(特攻隊)の戦隊長として両島に赴任した 座間味島戦隊長 梅澤裕氏(90才)と、同じく渡嘉敷島戦隊長であった故 赤松嘉次氏の弟、赤松秀一氏が、島民に自決命令を出したとされ、名誉を毀損され続けた事に対して、名誉回復をかけて、大江健三郎氏、及び、岩波書店を訴えている裁判であり、私どもは両名を支援しています。そもそも戦闘地において日本軍が国民に自決の軍命を出した例はどこにもないと認識しております。
 平成20年3月28日、大阪地裁の判決は、「(大江氏の)沖縄ノートでは原告梅澤及び赤松大尉の氏名を明示していないが、引用された文献、新聞報道等でその同定は可能である」と同定性を認める判決で、当方の訴えが採用され、被告の訴えは退けられました。 同時に「自決命令の伝達経路等が判然としないため、本件各書籍に記載されたとおりの自決命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない」と裁判官の認識を示してもいます。 そうであれば当方が全面敗訴するとは普通考えられないのですが、結果は「原告らの請求はいずれも棄却する」という大変不当な判決でありました。
貴裁判所においては、一審の法解釈、事実認定の誤りを正され、丁寧で厳正な審理をしてくださることを切に望みます。また、司法の力によって、名誉を毀損され続けて生涯を送った日本国民の人権を守り、世界に向けて我が司法のプライドを示すことができるような、歴史の審判に耐えうる審理をされ、我が国権を内外に明示していただくことを強く望みます。

氏名 住所





〒530-0047 大阪市北区天満2-1-10 大阪高等裁判所 第4民事部ハ係 御中
沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会 昭和史研究所 自由主義史観研究会靖国応援団 
関西戦中派の会 大阪の教育を正す府民の会 大和心のつどひ 宗教教育研究会 
大阪読書研究会 関西自由主義史観研究会  大阪教育連盟 大阪ビジョンの会
大阪新樹会 新しい歴史教科書をつくる会大阪 日本教育再生機構兵庫県協議会 他
 
沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会事務局
連絡先 569-0855 大阪府高槻市牧田町7-55-107吉田方
2008年7月14日 02時54分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2008年06月30日(月)
控訴理由書要旨
徳永弁護士が朗読した控訴理由書要旨全文は以下の通りです。

平成20年(ネ)第1226号 出版差止等請求控訴事件
控 訴 人  梅澤裕、赤松秀一
被控訴人  株式会社岩波書店、大江健三郎 
       

控訴理由の要旨(口頭陳述)
       

平成20年6月25日
大阪高等裁判所第4民事部ハ係 御中
  
                 控訴人ら訴訟代理人

第1 本件控訴事件の概要  
1 本件控訴事件は、控訴人梅澤・赤松の請求を全面的に退けた不当な原判決の取消しと、控訴人らがその裁判のなかで求めた出版の差止めと損害賠償を求めるものです。出版差止めの対象は、岩波書店が発行している故家永三郎氏の『太平洋戦争』及び大江健三郎氏の『沖縄ノート』です。『沖縄ノート』には、沖縄戦において発生した座間味島と渡嘉敷島の集団自決が、両島の守備隊長から発せられた「部隊はこれから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動を妨げないために、また、部隊に食糧を提供するために、いさぎよく自決せよ」との命令によるものであると断定的に記述してあり、『太平洋戦争』には、「梅澤隊長は、老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよと命令し、生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じた」とあります。 
2 これらの記述が、当時の隊長であった梅澤さんと赤松大尉の名誉権とともに、赤松大尉の実弟であり遺族である赤松秀一さんの人格権を著しく侵害するものであることは明らかです。とりわけ、『沖縄ノート』には、自決命令の存在を前提としてなされている赤松大尉に対する執拗なまでの個人攻撃と究極の人格非難に溢れています。例えば、赤松大尉ないしその行為を、「人間としてつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊」とし、「屠殺者」という差別用語を用い、「屠殺者と生き残りの犠牲者の再会」といい、ナチスのホロコーストの責任者になぞらえ、「アイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであった」とし、赤松大尉が自らの無実を「血の叫び」として訴えたことを「ペテン」と断じており、赤松大尉をおよそ人の心を持たない鬼のような大悪人だと罵倒するものであり、彼を慕うものにとっては、それは、およそ正視に耐えないものです。
3 原判決は、こうした表現が、「集団自決という平時ではあり得ない残虐な行為を命じたものとして、原告梅澤及び赤松大尉の客観的な社会的評価を低下させるものと認められる」とし、その名誉毀損性を認めましたが、そうした表現の基礎となる事実 ― すなわち、《隊長命令》の存在につき、「命令それ自体まで認定するには躊躇を禁じえない」としながらも、「軍の関与」や「文科省の立場」なるもの、そして集団自決をめぐる証拠資料に対する全く偏った証拠評価を根拠に、真実と信ずるにつき相当な理由があったとして、原告らの請求を棄却したのです。
4 さて、本日陳述した「控訴理由書」は、大部なものになりましたが、その大半は、原判決が認めた「真実と信ずるにつき相当な理由」(以下、「真実相当性」と呼びます。)にかかる最高裁判例の適用解釈上の誤りと事実認定ないし証拠評価の誤りを指摘するものですが、控訴理由書では、それに先だち、原審で求めた請求の趣旨を拡大していますので、まず、このことについて説明させて頂きます。    

第2 請求の趣旨の拡張的変更
1 控訴理由書では、請求の趣旨を変更し、被控訴人らに対する損害賠償請求額を拡大しています。
2 このことは、被控訴人らが、原判決の後においても、本件各書籍の出版・販売を継続していることに対するものです。とくに『沖縄ノート』は、原判決後においても増刷を繰り返しています。確認できたものだけでも、4月24日に第58刷が、5月7日には59刷が増刷販売されています。こうしたことは、仮に、原判決が正当なものだという前提にたっても到底許されるものではありません。後述するように、原判決の事実認定や証拠評価は、これが中立公正な裁判所の判断かと驚くほど、偏頗なものでありましたが、その原判決においてさえ、違法性阻却事由である「真実性の証明」がないとし、よって、その頒布が違法であることを認定していることを忘れてはならないはずです。被控訴人らは、原判決後の記者会見等で、原判決を評価していたはずですが、『沖縄ノート』の増刷販売は、その原判決をも無視する暴挙です。
3 原判決も引用しているように名誉毀損をめぐる不法行為訴訟については、一連の最高裁判決の積み重ねがあります。もっとも基本的なものであり繰り返し引用されてきた昭和41年判決は、「事実を摘示しての名誉毀損にあっては、その行為が公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることになった場合に、摘示された事実がその重要な部分について真実であることの証明があったときには、右行為には違法性がなく、仮に右事実が真実であることの証明がないときにも、行為者において右事実を真実と信ずるについて相当の理由があれば、その故意又は過失は否定される」としています。そこでは「真実であることの証明(真実性)」は違法性阻却事由であり、「真実と信ずるについて相当な理由(真実相当性)」は故意・過失を否定する責任阻却事由であることが明確にされています。真実性は、客観的事実との合致の証明であり、真実相当性とは、客観的事実と行為者の内心における食い違いに係る主観的事情に関するものです。平成11年最高裁判決が、それぞれの判断基準時について、真実性は口頭弁論終結時、真実相当性は行為時としたのもそのことによるものです。わかりやすくいえば、真実相当性とは、「真実ではないが、真実だと勘違いしても仕方がなかった」ということです。「勘違いしても仕方がなかった」の言い訳は、しかし、原判決においても「隊長命令」に係る真実性が否定され、その違法性が明らかにされた以上は、原判決を前提とすれば、成り立つ余地のないものとなります。        
 すなわち、『沖縄ノート』の増刷販売は、原判決とは相容れぬものであり、岩波書店らが、その正当性を主張するのであれば、➀それは「隊長命令」の真実性を認めなかった原判決を否定し、あくまでそれが真実であると主張し、これを立証するか、➁最高裁判例によって確立している法的枠組み自体の変更を訴えるしかないのです。 
 
第2 最高裁判例の解釈に関する誤り
1 たった今、原判決の認定を前提にしても、原判決後になされた『沖縄ノート』の増刷販売は許されないということを説明しましたが、原判決も、また、誤信相当性を正しく理解していません。そのことは、真実性と誤信相当性に係る判断の基準時を同じく口頭弁論終結時に求め、したがって、真実性と誤信相当性の判断にかかる証拠資料を全く同一のものとしながら、真実性は否定し、誤信相当性は認めるといった矛盾する判断を行なっていることから明らかです。どうやら、原判決は、誤信相当性を、真実性の立証をその証明の程度において緩和するものだと捉えているようです。確かに、そのように主張する学説や下級審判決は散見されます。しかし、最高裁は、真実相当性について、一貫して真実性とは法的性質を異にするものとし、その認定についても、客観的で確実な資料や根拠を要求する厳格な態度を貫いています。
2 そもそも真実相当性というものは、過去の名誉毀損行為について時間の経過によって証拠資料等が集まり、真実の見えかたや判定が推移することがありうることに照らし、行為時における資料に照らして真実の証明ありと判断できると解される場合に行為者を免責し、もって表現の自由を保護するものです。本件は、新聞やテレビにおける過去の一回的な報道ではなく、書籍の出版・販売が継続していたため、行為時もまた口頭弁論終結時となり、真実性の判断基準時と合致することになったのですが、判断の基礎となる資料を共通にしながら、真実性と真実相当性の判断を異にするということは全くありえないことです。
3 真実相当性をもって、真実性を緩和したものと解することができないことは、著名な三浦和良氏の事件を扱った週刊誌の記事に関する平成9年9月9日最高裁判決を例にとれば容易に理解していただけるでしょう。
 「ある者が犯罪を犯したとの嫌疑につき、これが新聞等により繰り返し報道されていたため社会的に広く知れ渡っていたとしても、このことから、直ちに、右嫌疑に係る犯罪の事実が実際に存在したと公表した者において、右事実を真実であると信ずるにつき相当な理由があったということはできない。けだし、ある者が実際に犯罪を行なったということと、この者に対して他者から犯罪の嫌疑がかけられているということは事実としては全く異なるものであり、嫌疑につき多数の報道がされてその存在が周知のものとなったという一事をもって、直ちに、その嫌疑にかかる犯罪の事実までが証明されるわけでないことは、いうまでもないからである。」
 判決がいう「犯罪の事実」を「隊長命令」に、その「嫌疑」を「軍の関与」に置き換えれば、事態が明確になると思います。「軍の関与」は、あくまで「隊長命令」とは、別の事実なのです。犯罪の嫌疑が、それが犯罪の事実を推認させるとしても、そのことを事実として信じるにつき相当な理由とはいえないのと同様に、「軍の関与」によって推認されるからとして「隊長命令」を事実として摘示することにつき、真実相当性を認めることはできないのです。
4 また、原判決は、出版の差止めにつき、北方ジャーナル事件最高裁判決を引用した判断基準を定め、損害賠償請求が認められないことから直ちに、これを否定していますが、これもまた、事前差止めに係る判例である北方ジャーナル事件判決を、事後差止めを求める本件に適用している点で失当です。事前抑制が原則として認められず、厳格な要件を満たす場合にだけ例外的に許されるのは、それが読者や視聴者に到達する前に差止められることから、抑制効果が甚だしく、濫用の虞があるからです。『沖縄ノート』は1970年から38年にもわたり、30万部以上が販売され、一般読者に読まれてきました。その差止めについては、事前抑制の危険を論じる余地がありません。
 原判決が失当であることは、これら最高裁判例の適用解釈上の誤りだけでも明らかです。  
  
第3 真実相当性を認めた事実認定上の誤り 
1 原判決は、「文科省等の立場」や「軍の関与」から推認された「隊長の関与」等を根拠に真実相当性を認定しているのですが、そこには、誰の目にも明らかな甚だしい誤りと証拠評価の偏りがありました。まず原判決が認定した「文科省の立場」なるものを見てみましょう。
原判決は、集団自決につき、文科省の官僚である布村審議官が議会答弁において「座間味島及び渡嘉敷島の集団自決について、日本軍の隊長が住民に対し自決命令を出したとするのが通説であった旨発言していたこと」を摘示して「真実相当性」が認められる根拠としています。ところが、原判決の事実摘示は、布村審議官の発言の冒頭にあった「従来」を省略し、あたかも「隊長命令説」が平成18年検定当時の通説であったかのように認定していますが、これは全くの誤りです。 
文科省ないし検定調査審議会の立場は、口頭弁論終結後の平成19年12月26日に公表された「基本的とらえ方」(日本史小委員会)において明らかにされていますが、それは手榴弾の配布などの「軍の関与」を主要な要因としつつ、「軍による住民に対する直接的な命令により行なわれていたことを示す根拠は、現時点では確認されていない」とし、教科書においてそれが軍の命令・強制・誘導によって行なわれたとの記述を認めないとするものでありました。また、「基本的とらえ方」の取りまとめにあたって提出された専門家の意見書にも、隊長命令を事実として認定できるとしたものはありませんでした。この「基本的とらえ方」に照らし、審議会は、軍の命令や強制を事実として摘示することを内容とする訂正申請を拒否し、これを内容とする訂正申請は全て取り下げられました。軍の命令や強制を断定的に記述することを認めなかった平成18年度検定意見は揺るぐことなく堅持されたのです。
そのことは、翌日の新聞報道から明らかです。例えば、琉球新報は「軍の命令を認めず、強制、強要、誘導を認めず」と報じましたし、沖縄タイムスは、「『軍が強制』認めず」の大見出しの下、「文科省は『検定意見を変更するものではない』(伯井美徳教科書課長)とし、今後の検定でも有効との認識を示している。」と、平成18年度検定が堅持され、文科省の立場が一貫して揺るがなかったことを報じました。
原判決は、あたかも平成18年度検定意見が撤回されたように捉え、これをめぐる議論は結論が出ていないと判示しましたが、文科省・審議会の立場が明らかになった今、原判決は、その主要な根拠を失ったといってよいでしょう。
2 ところで、原判決は、「軍の関与」から「隊長の関与」を推認し、そこから「隊長の命令」を事実として摘示する相当な理由があったとの認定を導いています。その認定を導くうえで、夥しい証拠評価の偏頗、逸脱、誤謬がありますが、ここでは一々触れることができません。座間味島と渡嘉敷島における集団自決に関する証言を一つ宛あげることににします。
 まず、原判決は、宮城初枝が米軍上陸のさなか、木崎軍曹から弾薬を運ぶよう依頼された際、「途中で万が一のことがあった場合は、日本人女性として立派な死に方をしなさい」として手榴弾一個を配布された事実をあげ、これを隊長の命令を推認させる「軍の関与」の一事例としています。しかし、部隊とはぐれた初枝、宮平つる子らが手榴弾による自決に失敗した後、逃げまどうなか、再び、部隊と出会ったとき、梅澤隊長、内藤中尉が「ご苦労だった。それにしても無事で何よりだった。本当によかった」といい、心から初枝らの労をねぎらい、その無事を喜んでというエピソードが続いているのです。自決命令を出しておきながら住民の無事を喜ぶということはありえません。このエピソードは、《梅澤命令説》の根拠ではなく、逆にこれを否定する根拠となるものであり、これをもって「梅澤命令説を肯定する間接事実となり得る」とした原判決の事実認定が如何にずさんなものであるかを端的に示すものといえましょう。
3 もう一つは、渡嘉敷島における手榴弾配布に関する証言です。富山真順という兵事主任を兼ねた村役場の幹部の証言があります。それは事件から40年以上もたった家永教科書第3次訴訟の証人尋問の直前に突如表れたものですが、それは➀「敵空襲が始まる前の3月20日」➁「村役場に」➂「17歳以下の少年と役場職員が集められ」➃兵器軍曹から、➄手榴弾2個を、1個は敵に、1個は自決用に渡されたというものでした。
その証言内容の事実が、それまで村の住民には一切知られていなかったことは、証人尋問の直前にはじめて安仁屋教授から聞かされ、富山氏に会いに行ったという金城重明氏の所在尋問によって明らかになりましたが、そもそも、その前年に発行された渡嘉敷村の村民の聞き取りや証言を、その安仁屋教授が編集した『渡嘉敷村史資料編』に、その片鱗さえも登場しなかったことから「それまで村民の誰も知らなかった」ことが見事に証明されています。「そんな話は誰もしなかった」とした曽野綾子氏の証言が正しかったことを証明しており、曽野綾子氏の取材や『ある神話の背景』が偏ったものであったとする認定根拠は完全に粉砕されています。 
また、金城重明氏の所在尋問における証言によって、「金城重明氏を含め、村の16歳の少年が誰ももらっていなかったこと」が完全に証明されました。これは➂「17歳以下の少年が集められ手榴弾を渡された」とすることと決定的に矛盾します。
そしてやはり金城重明氏の同級生であり、当時16歳の村役場の職員だった吉川勇助氏の陳述書が、➀「日時」➁「場所」➂「配布対象者」➃「配布者」の4つの要件を完全に否定しています。陳述書には、空襲後に村長から手榴弾の配布を受けたことが記述されていますが、富山証言の手榴弾配布の事実はありません。すなわち➀「空襲前の3月20日」、➁「村役場」において、➂17歳以下の少年ないし村役場の関係者に、➃「兵器軍曹」による手榴弾の配布が「なかったこと」、それが幻であったことを見事に証明しています。
このように上記の富山証言は、「渡嘉敷村史資料編」「金城証言」「吉川陳述書」によって、その信用性を全く喪失しているのです。これを迫真性があるなどとして信用性を認めた原判決のデタラメさは、批判するのも虚しくなります。
その外、援護法申請に関する事実認定、照屋証言の信用性、『鉄の暴風』、『ある神話の背景』等に関する証拠評価の恣意性は、これが中立公正なはずの裁判官による認定かと、まさに目を覆いたくなる惨状です。  

第4 宮平秀幸証言  
さて、本件控訴審では、口頭弁論終結後に新たに表れた重要な証言として座間味島の住民であり、集団自決の生き残りである宮平秀幸氏(当時15歳)の証言を証拠として提出しています。
秀幸氏は、@米軍が上陸前日の3月25日午後10時頃、宮里盛秀助役をはじめとする村の幹部らと共に宮城初枝が本部壕を訪れ、「明日はいよいよ米軍が上陸する。鬼畜米英に獣のように扱われるより、日本軍の手によって死んだ方がいい」「既に、住民は自決するため、忠魂碑前に集まっている」などと言って、自決用の弾薬や手榴弾、毒薬などの提供を求めたが、➁梅澤隊長は「そんなものは渡せない。我々の役目はあなた方を守ることだ。何故自決させなければならないのか。直ちに、集まった住民を解散させ、避難させよ」と命じ、➂それでも宮里助役らが弾薬等を懇願し、30分くらい押し問答が続いていたが、➃梅澤隊長が「俺の言うことが聞けないのか」と強く拒否したため、助役らは諦めて忠魂碑前に向かったこと等を間近で目撃していたのである。
 その証言は迫真性、具体性、明確性に富んでおり、現在も座間味島に居住している同人が敢えて虚偽の証言をする理由など全くなくいことからすると、極めて信用性が高いものである。 
  
第5 『沖縄ノート』による人格非難について  
1 前述のように、原判決は、『沖縄ノート』の記述が、「集団自決という平時ではあり得ない残虐な行為を命じたものとして、原告梅澤及び赤松大尉の客観的な社会的評価を低下させるものと認められる」と正しく認定しています。大江健三郎氏が、法廷で述べたような、「赤松大尉や梅澤隊長の名前をあげていない」という《匿名論》や「罪の巨塊」に対する論難は、曽野綾子氏の誤読だという《曽野綾子誤読説》、それに「命令」とは、「軍隊のタテの構造による圧力であり、時限爆弾としての命令」であるというまやかしの珍説は、ことごとく退けました。いかに偏見に満ちた裁判官であっても、かかる珍説に与することはできなかったということだと思います。
 他方、原判決は、「自己欺瞞と他者への瞞着の試み」「かれのペテンはひとり歩きをはじめただろう」「あまりに巨きい罪の巨塊」「およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想をまでもいだきえたであろう。このようにエゴサントリクな希求につらぬかれた幻想にはとめどがない」「アイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったろう」などという赤松大尉に対してなされた非難につき、『沖縄ノート』が、日本人とは何かを見つめ、戦後民主主義を問い直したものであり、氏名を明示していないこと等から、その表現方法が執拗なものとも、その内容がいたずらに極端な揶揄、愚弄、嘲笑、蔑視的な表現にわたっているともいえず、赤松大尉に対する個人攻撃までいうことはできないとしています。 
2 原判決後、曽野綾子が雑誌に連載中のエッセイで、この判決に触れ、『沖縄ノート』の中で、被控訴人大江が、赤松大尉の心理を推測して、しかも不確かな事実に基づいて、「かれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力を尽くす」「かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう」「かれは二十五年ぶりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際に起こったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想をまでもいだきえたであろう」などと書いていることに対し、「全くつきあいもない他人に、心理のひだのようなものを推測され、断定され、その憎悪を膨らまされ、世間に公表され、アイヒマンだとさえ言われたら、たまったものではない。」とし、「それは個人攻撃以外のなにものでもないと私は思う。」と書いていますが、全くそのとおりである。
3 また、原判決は何ら触れるところがないが、『沖縄ノート』は、「屠殺者」という差別語を用いて赤松大尉を罵っています。そして赤松大尉の内心の言葉として、「あの渡嘉敷島の『土民』のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受け入れるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったではないか」と言わせ、集団自決で死んだ渡嘉敷島の村民を、命令のままに集団自決する主体性なき「土民」と貶めています。
小林よしのり氏は、漫画「ゴーマニズム宣言」で、この点を指摘し、「『沖縄ノート』は究極の差別ブンガクであり、大江健三郎は究極の偽善者である。沖縄法廷で裁かれるべきは大江本人であろう。」としています。
差別ブンガクという表現が適切かどうかはさておき、それほどまでに『沖縄ノート』の表現は、異様であり、執拗かつ粘着的であり、憎悪をかきたてずにはおれない煽情的なものであり、悪意に満ち、人間の尊厳と誇りを内面から抉るように腐食するものであり、高見に立って地上で懸命に生きる人々を見下ろす独善と侮蔑的な差別感情に溢れています。それは究極の人格非難であり、個人攻撃でした。 
 原判決は、『沖縄ノート』が、昭和45年の時点において、日本人とは何かを考え、戦後民主主義を問い直したものというテーマも前記認定根拠として判示していますが、そうしたテーマを描く上で、赤松大尉に対する悪意に満ちた人格非難を展開する必要は全くありません。    
ゆえに、かかる究極の人格非難を、隊長命令という真実性を証明できない不確かな事実をもとに、行なうことは、明らかに意見論評の範囲を逸脱したものと言わざるをえません。                       
4 ノーベル賞作家である大江健三郎氏にとっては、『沖縄ノート』の前記テーマを全く損なうことなく、赤松大尉や控訴人梅澤に対する人格権侵害にわたる表現を書き直すことができるはずである。              
 ゆえに大江健三郎氏は、『沖縄ノート』を書き直し、控訴人らの苦痛を和らげる努力を果たさなければならないはずです。なぜなら。大江氏が述べてきたように、「その発表によって苦痛をこうむる人間の異議申し立てが、あくまでも尊重されねばならず、それなしでは、言論の自由、出版の自由の人間的基盤がゆらぐことになりかねない」からであります。  
                             以上

2008年6月30日 01時54分 | 記事へ | コメント(1) | トラックバック(0) |
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6月25日沖縄集団自決冤罪訴訟控訴審第1回口頭弁論
6月25日沖縄集団自決冤罪訴訟控訴審第1回口頭弁論
が大阪高裁大法廷で午後2時よりで開かれました。

今回の裁判は一審の不当な判決に対し当方は「地裁判決は不当」として、地裁判決の取り消しを求めるものです。

なお、今回当方は、仮に、損害賠償請求が棄却された一審判決を認めたとしても、その判決の中身では「沖縄ノート」について名誉毀損が成り立っていることを認めているのであるから、一審判決後も臆面もなく増刷、出版し続けている被告らに対して、損害賠償額を倍に引き上げました。つまり、一審判決では様々な点で、中身は当方の主張が通っており、名誉毀損も成立しているが、それは仕方がなかったんだ、だから、原告の訴えを棄却するという論理になっているのです。判決以後もどんどん増刷して版を重ねている事について、仕方がなかったんだという事になるのかと、当方は主張しているわけです。

我々は必ず勝訴できると確信しています。

さて、当日70席の傍聴券獲得のために並んだ彼我の人数は併せて200人弱、当方と、被告側はだいたい同数くらいであったのではないかと思います。
倍率が低いので、必ず入らねばならない方々は全員入廷でき、またご自身で引き当てて、初めてはいる事が出来たという方も多数おられました。

傍聴券獲得のために集まってくださった皆様、有り難うございました。

平成20年(ネ)第1226号
高裁裁判官は 小田耕治裁判長、宮川照雄、山下寛 各裁判官

地裁のときと違って、裁判官はすでに提出された各種書類、証拠を徹底的に読み込んでいる事が双方弁護団への質問で直ぐに分かりました。
当方の控訴理由書の記述の修正済みのものについて、更に誤記を指摘されたり、また梅澤さん関連で提出している証拠について、1枚目と2枚目の行数が違うのはなぜかと言うような、非常に細かいところまで、真剣に読み込み、調べ尽くしている事が分かりました。
これは当方にとって大変有利な状況であると言えます。当方が求めているのは厳正な審理であるからです。
地裁では裁判官が本当に当方が精魂こめて作った書証を読んでくれたのかと、疑わざるを得ない点が多々ありましたが、今回の情況は、当方が地裁に提出したすべての証拠を、高裁の裁判官はきっちり読んでくれていると確信できるものでした。
なお、当方から、秦郁彦先生を証人申請していたのですが、裁判を中断して協議の結果、却下されました。却下されましたが、当方が証人として証言していただこうと思っていたことは、新たに書面で提出する事になったので、決して不利になったというわけではありません。
これで、原告側、被告側とも、証人申請はしないことになりました。

上記の展開のあと、当方徳永弁護士、被告側秋山弁護士が10分程度、口頭で陳述しました。
徳永弁護士は、
1「隊長命令を真実と断定することはできない。」と明らかに隊長命令の真実性を否定しながら、「軍の関与」があったからきっと隊長命令もあったに違いないと隊長命令を「推認」した地裁判決は、最高裁判例からしても「真実相当性」に関して全く誤解していると批判しました。
また、
2 証拠評価や資料認定は全く一方的で、偏っていることを批判しました。
3「集団自決」における「軍の強制」の記述を削除・修正した教科書検定問題に関連して、一審判決が「平成17年度検定まで自決命令の事実は通説だと認識」という「文科省の立場」を「隊長命令」の真実相当性を認める根拠の一つとしたことについて、平成18年度検定で隊長命令説は覆っており、一審結審後の平成19年12月26日の文科省の教科書検定の立場も、「直接的な軍命があった事を示す根拠は現時点で確認できていない」と言うものであり、原判決が寄って立つ根拠は存在しないことを述べました。
4 一審判決においても「沖縄ノート」の領府が名誉毀損であり、違法であることの認定が成立しており、ただ、「真実相当性」の判断を一審裁判官が間違ったために(つまり違法であるが仕方がなかったと言う理由で)、当方の訴えの損害賠償請求が棄却されただけである。よって仮に一審判決を認めたとしても、一審判決後も「沖縄ノート」を増刷、出版し続けている被告らに対して、損害賠償額を倍に引き上げました。

 被告側代理人 秋山弁護士の陳述は
「自決命令が真実と信じる相当の理由があるとの一審の判断は正当」
「隊長命令があったことに合理的資料や根拠がある」等と、これまでと同じであり、新たな点への言及はありませんでした、

皆様、我々は必ず勝訴します。
皆様の尚一段のご支援をお願い申し上げます。

早ければ次回弁論の9月9日で結審する可能性があります。

次回は9月9日(火)14時から、同じく大阪高裁にて。

追って、準備書面等を配信してゆきます。

2008年6月30日 01時15分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2008年05月25日(日)
控訴審 第一回期日6月25日(水)
沖縄集団自決冤罪訴訟 控訴審 第一回期日

大阪高等裁判所

6月25日(水)午後2時より

  1時半までに抽選のため集合ください。


控訴審に向けて期日までに沖縄への数回の弁護士現地調査等費用が必要

になってきております。

皆様に資金援助をお願いいたします。

>
この裁判は必ず最高裁まで行きます。是非ご協力おを!。

郵便振替口座『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』

00900−6−316826

(振込用紙を準備していますが、お手許に無い場合は番号を右詰めで)

沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会会長
南木隆治



−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


八尾市で河内国民文化研究会主催で 公開講座開催予定です



『沖縄戦・集団自決の真実

−原告弁護団が語る虚構の軍命令と悲劇の真実−

6月7日(土)午後6:30〜8:30

八尾プリズムホール4階・研修



1実施日時 6月7日(土)午後6:30〜8:30(午後6時開場・受付開始)

実施会場 八尾プリズムホール4階・研修室

     *近鉄大阪線・八尾駅下車東へ徒歩5分

テーマ  「沖縄戦・集団自決の真実―原告弁護団が語る虚構の軍命令と悲劇の真相」

講師
松本藤一弁護士
岩原義則弁護士
中村正彦弁護士

参加費用 無料(講座後の懇親会も予定しておりません。)

参加方法 当日直接会場にお越しください。
(事前に事務局にご連絡頂ければ幸いです。)
以下、河内国民文化研究会ホームページより 

【河内国民文化研究会とは?】

子ども達に引き継ごう!美しい日本の伝統文化・地域社会・自然環境」このスローガンを掲げて八尾市議会議員に当選した三宅博氏は、
八尾市政や学校教育のゆがみを市議会で鋭く追及するなど、目覚しい議員活動を続けてきました。
このような三宅博氏の理念と行動に共感する地元市民有志の要望を受け、「河内国民文化研究会」は創設されました。わが国の歴史と伝統が示唆する日本のあり方、日本人の生き方を指針として、政治・経済・教育・文化、あらゆる分野の課題について、研究・議論・提案を行うための研究会です。  

「河内国民文化研究会」事務局(連絡先:.072-949-1388)

今年3月28日に沖縄集団自決冤罪訴訟に関する大阪地方裁判所の一審判決が出ました。

ご存知のとおり、大阪地裁は原告の請求を棄却しましたが、その判決内容は、軍命令を否定する数多くの証言を排除し、元隊長らの名誉を何ら回復しようとしない極めて不当不条理なものでした。

原告側は控訴して高裁で争う構えです。

今回の公開講座は、この裁判の原告弁護団団長である当会顧問松本藤一先生と原告弁護団の若手弁護士の方々を講師としてお招きし、
多くのマスコミがほとんど報じてこなかった「集団自決の真実」と
「判決の不当性」について語って頂きます。知人・友人をお誘いの上、ぜひご参加ください。


実施日時 6月7日(土)午後6:30〜8:30(午後6時開場・受付開始)


実施会場 八尾プリズムホール4階・研修室

*近鉄大阪線・八尾駅下車東へ徒歩5分

テーマ  「沖縄戦・集団自決の真実―原告弁護団が語る虚構の軍命令と悲劇の真相」

講師   松本藤一先生(弁護士・沖縄集団自決冤罪訴訟原告弁護団団長・当会顧問)
岩原義則先生(弁護士・沖縄集団自決冤罪訴訟原告弁護団)
中村正彦先生(弁護士・沖縄集団自決冤罪訴訟原告弁護団)

参加費用 無料(講座後の懇親会も予定しておりません。)

参加方法 当日直接会場にお越しください。(事前に事務局にご連絡頂ければ幸いです。)

判決全文(裁判所判例集)
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=04&hanreiNo=36329&hanreiKbn=03
2008年5月25日 15時20分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(1) |
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2008年04月06日(日)
控訴にあたって   原告弁護団
平成20年4月2日 

控訴にあたって


沖縄集団自決冤罪訴訟
原告弁護団 
    


本件判決は、法解釈の次元においても、事実認定の次元においても、不当なものであり、その理由中の論旨をつぶさにみれば、いかに裁判長が偏見をもって判決を書いたかが、浮き彫りになっている。

⑴ 誤信相当性の取り違え  

判決は、隊長命令を真実と断定することができない(真実性の否定)としながら、「軍の関与」という前提事実をもって、隊長の関与を推認し、その推認に基づいて隊長の命令があったことを合理的だとしている。判決には、違法性阻却事由としての「真実性」と、故意・過失阻却事由としての「誤信相当性」との混同があり(違いは立証の程度ではない)、かつ、名誉毀損事件においてその区別が問題となる「意見論評」と「事実摘示」の混同がある。
すなわち、「軍の関与」という曖昧な事実と隊長の関与という推測に基づいて、《意見論評》としての「隊長命令説」に相当性があるといっているのである。最高裁判例(昭和41年6月23日、昭和58年10月20日、平成9年9月9日、平成14年1月29日等)で明確になっている故意・過失阻却事由としての誤信相当性の枠組みを逸脱するものであり、破棄は免れない。

⑵ 旧検定意見への依拠  

判決は、文部科学省の立場、すなわち検定意見を重要な証拠として挙示しているが、平成17年度の検定意見において軍命説が通説であったことを指摘するだけであり、「平成18年度教科書検定をめぐる問題については、本訴口頭弁論終結時においては、結論がでていない状況である」としている。
周知のとおり、結審後の12月26日に公表された文部科学省の教科書検定をめぐる立場は、軍の関与を集団自決発生の主要な要因としながらも、直接的な軍命があったことを示す根拠は、現時点では確認できていないというものであり、軍の関与と軍命とを区別する立場を堅持するものであった。軍命を相当とした判決の根拠は、すでに消失しているのである。  

⑶ エピソード等の読み違え 

判決は、宮城晴美の「母の遺したもの」に記載されたエピソード、木崎軍曹から「万一のときは、いさぎよく自決しなさい」として交付された手榴弾で自決しようとしたが失敗したとことを挙示し、これを軍命を推認させる軍の関与としているが、「母の遺したもの」には、自決に失敗した初枝が、別れ別れになった木崎軍曹と再開し、そこに居合わせた梅澤隊長ともども無事を喜びあった場面が記載されている。軍命が、住民に死を強制するものであれば、自決を命令した隊長が、自決を命令された住民と無事を喜びあうということはありえない。むしろ、上記エピソードは、軍命の存在と相反するものであり、末端の兵士たちが、極限状況のなかにあっても、米軍による虐殺・凌辱の恐怖からの保護を心がけていたということを物語るものである。このことは、手榴弾を交付するという「軍の関与」と自決を強制する「軍命」との間には大きな距離があることを示すだけでなく、他にも多々ある評価の逸脱事例と併せ、判決がいかに偏見に満ちたものであるかを明証している。       

⑷ 被告大江の外堀を埋めた判決 

判決は、しかし、被告大江健三郎が法廷で弄した読者の視点を無視したまやかしについては、ことごとく否定した。被告大江は、『沖縄ノート』は、赤松・梅澤両隊長を特定したものでもなく、名誉毀損表現もないと強弁したが、判決は『沖縄ノート』の表現が、「集団自決という平時ではあり得ない残虐な行為を命じたものとして、原告梅澤及び赤松大尉の客観的な社会的評価を低下させるものと認められる」とし、被告大江が、法廷で述べた曽野綾子誤読説についても、『沖縄ノート』が必ずしも文法的な厳密さを一貫させた作品であるとは解されないとし、「一般読者が普通の注意と読み方で沖縄ノートの各記述に当たった場合、『あまりに巨きい罪の巨塊』との表現は、‥‥渡嘉敷島の守備隊長の犯した罪か、守備隊長自身を指しているとの印象を抱く者も存するものと思われる」として一蹴した。控訴審では、原審で弄し続けた匿名論、曽野誤読論、タテの構造論といった文学風まやかしをはぎ取られた被告大江と(しかも原告梅澤との関係では、死者の名誉毀損の逃げ道もなくした状況で)、良心を気どる被告大江の偽善と正面から対決することになる。  以上


判決全文(裁判所判例集)
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=04&hanreiNo=36329&hanreiKbn=03

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2008年03月29日(土)
平成20年3月28日 大阪地裁 判決
平成20年3月28日 大阪地裁 判決

今回、大変不当な判決で、敗訴しましたが、控訴審で必ず逆転し、勝訴する決意です。
また、必ず勝訴できると確信しています。いろいろな点で紳士的に対応しすぎた事が皆、裏目に出たので、支援する会としてはその点の反省もあります。
弁護団もファイト満々で、不当判決への怒りをバネに、控訴審に備えています。かえって火がついて良かったかも知れません。

判決主文
1 原告らの請求はいずれも棄却する。
2 訴訟費用は原告らの負担とする。


(クリックしていただくと拡大します。)
判決骨子と、要旨



判決全文(裁判所判例集)
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=04&hanreiNo=36329&hanreiKbn=03

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 南木です。皆様、昨日は全国から多数裁判傍聴に駆けつけてくださり、有り難うございました。
 昨日の判決は全く不当な判決で、とうてい容認できません。
 控訴審に向けて、皆さん、心を一にして頑張りましょう。
 そして、高裁で必ず逆転しましょう。
 今回の判決は、裁判官の良心に基づく審理を全く当てにできない、法廷外の政治情況や、マスコミが形成する言論空間と、裁判所が連動する、司法の独立を傷つけた裁判だったと言わざるを得ません。

 ところで、判決はリークされていた疑いがあります。
深見裁判長の身辺は大丈夫だったのか。司法は自立していたか。深く疑われます。

 判決リークの疑いはいくつもの状況判断から言える事です。
判決以前に、当方弁護士にマスコミがしきりと「相当性」についてどう思うか聞いてきていました。当方弁護士は不可解な質問と思い、「自決命令があったかどうかが争点であり、相当性と言うことにはならないと思う。」と答えていました。ところが判決を読めば、これが「家永三郎及び被告らが本件各記述が真実であると信じるについて相当の理由があった」に関する質問であったことが分かります。事前に判決がリークされていなければ記者が焦点を絞って為し得ない質問です。
 更に、法定内では、大江健三郎氏が弁護士に挟まれて、被告席前列に座っていることが目を引きました。勝訴がはじめから分かっていた可能性がここからも伺えます。判決内容が分からず、敗訴の可能性もあるときに、大江氏を前面に座らせる事は考えにくいからです。原告の梅澤さん、赤松さんは原告席2列目に座っていただいて、当方前列は全員弁護士でした。
 また、傍聴席は今回当方が圧倒的に多く、他はマスコミ関係者が多かったと思います。被告側傍聴人の主要な面々が前回大江証人尋問の時のような殺気だった雰囲気がなく、何となく和やかな感じがする点も不審でした。
 我々は今回、裁判所へのメールや、電話、署名等の活動をしませんでした。しかし被告側は他の政治闘争と同じように、徹底してそれをしていたようです。
 判決を読めば、はじめから結論ありきの内容だと言わざるを得ません。当方提出の証拠は決定的なものがいくらでもあるのに、それが取り上げられず、被告側は極めていい加減な証拠なのに、判決では、裁判官はそれを共感を持って受け入れています。
深見裁判長に公正な審理を期待したことは間違いで、むしろ被告側とグルになっていたのではないか、あるいはそうせざるを得なくなった事情があるのではないかとすら、情況から疑われます。
 赤松隊長の所へ自決に失敗した人々が押しかけ、治療を受けている。これが事実です。どうして自決命令を出しておいて、その治療をするのか。また、梅澤隊長が忠魂碑前に集まっている人々を解散させよと「解散命令」を出していたという有力な証言まで出ているます。これは結審後、判決までに出た新証言なので、高裁ではこの証言も必ず審理されます。
 軍は、自決に失敗した人々の治療をした。また、自決するなと言う命令を出すという「関与」はした。これは皆「良い関与」をしたのでです。
 それから、日本軍のいないところでは自決は起こっていないと、馬鹿げた意見をこの裁判官は取り上げていますが、米軍や、ソ連軍等の敵軍がいないところでも自決は起こっていません。逆に、日本軍がいても戦闘にならなかったところでは自決は起こっていません。敗戦と共に多数の方が自決されたが、軍は国民に自決せよと命令したのでしょうか。樺太真岡の電信員たちの自決についても、最初は軍命によるとされていました。このことは当裁判にも参考になることです。『鉄の暴風』発刊当時の米軍占領下ではすべて日本軍が悪かったことになっていたのです。
(参考 真岡郵便電信局事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 北海道稚内市の稚内公園にある「殉職九人の乙女の碑(九人の乙女の像)」はこの事件を慰霊するものである。
 当初、碑文には以下のように、自殺は軍の命令であると記されていた(…は省略)。
「昭和二十年八月二十日、日本軍の厳命を受けた真岡電話局に勤務する九人の乙女は、青酸カリを渡され最後の交換台に向かった。ソ連軍上陸と同時に、日本軍の命ずるまま青酸カリをのみ、…」
 その後、碑文は次のように、殉職であると書き換えられた(…は省略)。
「…その中で交換台に向った九人の乙女らは、死を以って己の職場を守った。…静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた… 」
 自殺した9名は公務殉職として、1973年(昭和48年)3月1日付で「勲八等宝冠章」を受勲した。また、靖国神社に合祀されている。)


今回、まともな審理を避けて、逃げた深見裁判長は深く後悔する事になるでしょう。
いま、大阪の門真(かどま)第3中学校 の卒業式国歌斉唱時不起立問題がマスコミでも取り上げられ、まだこんな事をしている学校があったのかと、驚かれていますが、今回の判決は時代を10年逆戻りさせたような、現在の我が国の混沌とした政治情勢を反映した、象徴的なものでした。
 この裁判は 上に書いたように、裁判官の良心に基づく審理を全く当てにできない、法廷外の政治情況や、マスコミが形成する言論空間と、裁判所が連動する、司法の独立を傷つけた裁判だったと言わざるを得ません。高裁においては、裁判官がプライドを持って司法の独立を守り、丁寧な、厳正な審理をしてくださることを望みます。丁寧で、厳正な審理が為されれば、すでに明らかな数々の証拠により、当方が勝利するしかあり得ないからです。そのような環境が醸成されるように運動を進めたいと思います。
 皆様からの一層のご支援と、ご鞭撻をお願いします。平成20年3月29日、記


応援してくださるブログにある重要記事
〇沖縄集団自決訴訟に対する大阪地裁の不当判決と照屋氏の証言
国を憂い、われとわが身を甘やかすの記
http://abirur.iza.ne.jp/blog
〇 元隊長らの請求棄却 集団自決訴訟  狼魔人日記
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/9ee4a97bf2684993bae26c8869f5ae7f

〇産経新聞主張・■【主張】沖縄集団自決訴訟 論点ぼかした問題判決だ

 沖縄戦で旧日本軍の隊長が集団自決を命じたとする大江健三郎氏の著書「沖縄ノート」などの記述をめぐり、元隊長らが出版差し止めなどを求めた訴訟で、大阪地裁は大江氏側の主張をほぼ認め、原告の請求を棄却した。
教科書などで誤り伝えられている“日本軍強制”説を追認しかねない残念な判決である。
 この訴訟で争われた最大の論点は、沖縄県の渡嘉敷・座間味両島に駐屯した日本軍の隊長が住民に集団自決を命じたか否かだった。だが、判決はその点をあいまいにしたまま、「集団自決に日本軍が深くかかわったと認められる」「隊長が関与したことは十分に推認できる」などとした。

 そのうえで、「自決命令がただちに事実とは断定できない」としながら、「その(自決命令の)事実については合理的資料や根拠がある」と結論づけた。

 日本軍の関与の有無は、訴訟の大きな争点ではない。軍命令の有無という肝心な論点をぼかした分かりにくい判決といえる。

 訴訟では、軍命令は集団自決した住民の遺族に援護法を適用するために創作された、とする沖縄県の元援護担当者らの証言についても審理された。大阪地裁の判決は元援護担当者の経歴などから、証言の信憑(しんぴょう)性に疑問を示し、「捏造(ねつぞう)(創作)を認めることはできない」と決めつけた。

 しかし、本紙にも証言した元援護担当者は琉球政府の辞令や関係書類をきちんと保管し、経歴に疑問があるとは思われない。これらの証言に対する大阪地裁の判断にも疑問を抱かざるを得ない。

 集団自決が日本軍の「命令」によって行われた、と最初に書いたのは、沖縄タイムス社編「鉄の暴風」(昭和25年、初版は朝日新聞社刊)である。その“軍命令”説が大江氏の「沖縄ノート」などに引用された。その後、作家の曽野綾子氏が渡嘉敷島などを取材してまとめたノンフィクション「ある神話の背景」で、「鉄の暴風」や「沖縄ノート」の記述に疑問を提起し、それらを裏付ける実証的な研究も進んでいる。

 今回の判決は、これらの研究成果もほとんど無視している。

 判決前の今年2月、座間味島で日本軍の隊長が集団自決を戒めたとする元防衛隊員の証言も出てきた。控訴審で、これらの新証言も含めて審理が尽くされ、適正な判断を期待したい。
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◎世界日報・「戦いはこれから」と梅澤氏−沖縄戦集団自決訴訟
原告側弁護士 口々に「不当判決」

「原告らの請求をいずれも棄却する」――。沖縄戦集団自決訴訟の判決が下された瞬間、傍聴席の被告側支持者から「すごい!」というどよめきや拍手が起きた。作家の大江健三郎さんは二十八日、判決内容をすでに承知していたかのように被告席中央で裁判長の判決要旨に耳を傾けた。
一方、その後に開かれた原告支援集会で、弁護士らが相次いで「不当判決だ」と怒りと無念を表すと、原告の梅澤裕さん(91)は自らに言い聞かすように「戦いはこれからだ」と強く語った。(編集委員・鴨野 守)

 高校で使用される教科書から沖縄戦「集団自決」について、軍の命令・強制の記述が削除されたと伝えられ、「裁判の目的の半分は達成できた」と“祝勝”ムードに包まれた昨年三月三十日からほぼ一年。原告支援集会は、重い雰囲気に包まれた。

 冒頭、裁判を支援する会の南木隆治代表が「大変厳しい判決。梅澤さん、赤松さんに申し訳ない気持ちでいっぱいだ。しかし高裁で必ずひっくり返していきたい」と決意を披露。続いて、弁護士たちがそれぞれ判決内容について言及した。

 「曽野綾子さんの『ある神話の背景』が出版された後、それまで隊長命令に触れていた本が削除や絶版になっている事実などに裁判長はふれていない。我々の主張がほんの一部しか認められず、全く不可解だ」

 「当方の主張・証言には細かな食い違いなどを挙げて信用できないと指摘しながら、相手方の主張には、そうしたとらえ方をしていない。判決には全体像をとらえようとする大事な視点が欠落している。新たな取り組みをしたい」

 「確かに、座間味島の宮城初枝さんは日本兵から手榴弾をもらい、『万が一の時は潔く』と言われた。だが自決に失敗し、その後、梅澤隊長らと再会したおり、お互いに生きていてよかったと喜んだと当の初枝さんが書いている。これが果たして軍の自決命令と言えるのか……」

 梅澤さんは本紙の取材に答えて「真実に蓋(ふた)をした判決であり、誠に残念」と悔しさをにじませた。

 昭和十四年、梅澤さんは二十歳で士官学校を卒業。北支などで騎兵として二年、戦車兵として四年を過ごした時代を振り返って「実に痛快で爽快(そうかい)だった」と言う。だが、二十年春の沖縄戦では、米軍との圧倒的な武器兵力の格差の前に苦しみ、多くの部下を失いもした。

 だが、「住民に自決しろ」という命令を発するなど全く念頭になかった、と強調する。

 「自分たちは特攻隊だったのです。出撃した後、部落民の面倒を見る方法もない。そういう部隊だったので、住民には山で各自が隠れる壕を掘りなさいとか食糧を蓄えておきなさい、というアドバイスぐらいはしました。でも私は、手榴弾を渡すから死になさいなんて、口にしたこともないですよ」

 戦後、雑貨商やトラック運送などの仕事についたが「途中入社では目がでなかった」。だが背広を着ていても、軍人精神は忘れなかったという。組合活動が盛んになった時は、彼らに「無茶なことを言うな」と諫めたことも。

 昨年十二月で九十一歳になった。同期生の死去の報に触れる度、寂しさは隠せない。「同期で一番元気なのは僕かな。応援してくれている多くの人たちとともに、今日の判決にめげず引き続き頑張りますよ」

 梅澤さんの「戦後」は、まだ終わらない。


◎世界日報・手記などに残した「潔白」渡嘉敷島の赤松嘉次元隊長 「こんなことがあってよいのか……」。原告席で「訴え棄却」の判決を聞いた赤松嘉次・元陸軍海上挺進隊第三戦隊長(昭和五十五年死去)の弟、赤松秀一さん(75)は茫然とした表情を見せた。遺族の一人は「裁判長が、大江氏の本の記述が赤松大尉の社会的評価を低下させたと認めるのであれば、書き方がよくなかったと言及してほしかった」と残念そうに語った。
 赤松嘉次氏は、曽野綾子著『ある神話の背景』での証言、月刊誌『潮』(昭和四十六年十一月一日発行)に寄せた手記「私は自決を命令していない」(本紙平成十九年六月十七日付「真実の攻防」第三十三回参照)などが知られているが、他にも赤松氏は週刊誌の取材などに応じて、身の潔白を訴え続けていた。

 赤松氏がメディアの取材に最初に答えたと思われるのは「週刊新潮」昭和四十三年四月六日号の「戦記に告発された赤松大尉」。氏は「自決命令」について、「まったく身に覚えのないこと」ときっぱりと否定。その一方、軍紀に従い米軍につかまったあと陣地内に投降勧告に来た住民や、警告を無視した大城徳安教師を措置したことを悪びれずに認めている。その応答ぶりから、彼の心に何らの後ろめたさもないことがうかがえる。

 また「週刊朝日」昭和四十五年八月二十一日号に掲載されたルポ「集団自決の島――沖縄・慶良間」で、週刊朝日の記者に赤松氏はこう語っている。

 「自決命令はまったく身に覚えがない。あの日(三月二十八日)午後二時頃、つめ襟の国民服を着て血走った顔で村長がわたしの所へやってきました。『住民が足手まといになるので自決をしたい。機関銃を貸してくれ』というのです。私は『部隊が健在なのだから、その必要はない』と叱りつけた」

 赤松隊の陣中日誌にも、防衛隊員の一部が家族を道連れに自決したケースが二、三あったと記すのみ。第二中隊の小隊長だった連下(れんげ)政市氏も「兵隊さんと一緒に死にたい」と泣き叫ぶ住民を説得するのに二、三十分もかかったのを覚えている。記事には、連下氏に最近届いた住民からの手紙の文面が紹介されている。場面は、米軍の陣地に斬り込みに向かう直前のこと。

 「その途中、わたしは貴殿に、連下少尉殿、あなたの刀をかしてくれませんかといいましたら、貴殿は何をするのだとおっしゃるから、子供等を処分整理してこないとうしろがみが引かれて、どうしても貴殿方と一緒に行動することは出来ません、といったら貴殿がおこられてバカをいうもんじゃない、人間はどんな目に遭おうと、或はちりぢりばらばらに別れても生きる者は生かすことだ、人間は死ぬことはやすいが、死んでからは生かされるものではない、例え戦争といえどもそんなバカな考えを持ってはいけないよ、とさとされたのでほんとに思いとどまったのでした」

 渡嘉敷島でも、元少年兵で伝令だった宮平秀幸氏が証言した座間味島と同様、死を強く望んだのは住民の側であり、軍はそれを必死になって止めたというのが真相なのである。

 赤松氏は、沖縄の月刊誌『青い海』(昭和四十六年六月一日発行)にも求められて、「渡嘉敷島の兵士と村民」と題する手記を寄せている。そこには当事者でなければ分からぬ心境が綴(つづ)られている。

 「(村役場としては)米軍が上陸前に出撃してしまう隊長に、米軍上陸後の相談などする必要がなかったのであり、従って、村当局が米軍上陸に備え、どこから指令を貰い、どのような計画を持っていたかは今もって疑問である」

 また出撃失敗後、船舶団長大町大佐から島を死守するよう命じられたが、「村民に関してはなんらの命令、指示を受けずに戦闘に突入したのである」と率直に書いている。

 そして「(昭和二十年)八月二四日、米軍に武装解除された部隊を、涙を流して送ってくれた村民、昨年(同四十五年)三月、慰霊祭に旧部隊のものをあたたかく迎え、夜の更けるのを忘れて語り合ったとか、また島に上陸できなかった私に、わざわざ土産を持って那覇まであいに来てくれた村民に、私はあの島の戦史にあるような憎しみや、悪意を見い出し得ないのである」と綴っている。
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2008年3月29日 16時54分 | 記事へ | コメント(1) | トラックバック(1) |
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2008年03月23日(日)
判決 傍聴券獲得のお願い
沖縄集団自決冤罪訴訟判決
傍聴券獲得のお願い

沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会
代表 南木隆治


平成20年3月8日(金)大阪天満橋の『エル大阪』(府立労働会館)で開かれた『 沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会主催 講演会・報告会』は各種団体や、支援者が詰めかけ、200人の会場がほぼ一杯になり、大成功裏に終わりました。支援者の皆様、駆けつけてくださった皆様に深く御礼を申し上げます。
 さて、3月28日(金)午前10時より、いよいよ判決を迎えることになります。
 傍聴席は、あらかじめ多数マスコミ関係者にも割り当てられますので、通常より非常に少ない席を、原告被告双方の支援者が抽選で奪い合うことになります。
 是非多数支援者に傍聴していただきたく、当日駆けつけてくださいますよう、また傍聴券獲得のために、一人でも多く、下記の時間に列んでくださいますよう、重ねてお願い申し上げます。

3月28日(金)
午前10時より判決
(9時15分頃までに集合)
9時半頃抽選

大阪地方裁判所202法廷(抽選は裁判所前広場)

 判決後(10時半頃から)「沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会」主催で
『堂島ビルディング』(裁判所西側ビル)九階会議室にて報告集会を予定しています。
 会場は当日お越しくださった方に分かるようにいたします。
                    
連絡先 (072)695-4512(吉田まで)

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資金援助のお願い

この裁判は必ず最高裁まで行きます。是非ご協力お願いいたします。
郵便振替口座『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』
00900−6−316826
(振込用紙を準備していますが、お手許に無い場合は番号を右詰めで)
2008年3月23日 08時57分 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(1) |
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『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会主催 講演会・報告会』 盛大に開催。
『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会主催 講演会・報告会』 盛大に開催。

沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会 代表 南木隆治


平成20年3月8日(金)大阪天満橋の『エル大阪』(府立労働会館)で開かれた『 沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会主催 講演会・報告会』は各種団体や、支援者が詰めかけ、200人の会場がほぼ一杯になり、大成功裏に終わりました。支援者の皆様、駆けつけてくださった皆様に深く御礼を申し上げます。
 平成17年8月5日より始まった裁判の1回口頭弁論(平成17年10月28日)、第2回口頭弁論(平成18年1月27日)までは、大法廷で裁判を続けられるかどうか不安なほど、傍聴人の確保に苦労しました、この裁判支援のため、物心共に支援してくださった皆様全員に重ねて御礼を申し上げます。
 さて、『講演会・報告会』でまず、私は上記御礼を述べると共に、教育現場のこと、具体的には、大阪府立阿倍野高等学校と、私の勤務校である大阪府立盲学校に於いて、この卒業式で、ピアノ演奏による国歌斉唱が為されたことを報告し、大多数の日本中の公立学校に於いて、それが為されていない事をお伝えしました。
 また、沖縄については、その全土が中国共産党の支配下に入るプログラムが進行していると思われること、我が国は大東亜戦争に於いてアジアを白人植民地から解放したが、今や、我が国民こそが世界で一番植民地の人間のようになっているのではないか。『一身独立して一国独立す。』と言うが、本当に我々が独立心を持っていれば、憲法を改正しなくても、危機的事態を認識すれば、核武装もできるはずだとお話ししました。最後の最後まで、私たち一人一人が何を考え、どう行動するかで我が国の運命は決まると私は思っております。
 次に、沖縄で各種調査をし、我々の活動に多大な貢献をしてくれた、『全近畿学生文化会議』議長 坂直純(ばん なおずみ)氏より、力強い挨拶があり、その後、松本、大村、徳永各弁護士から挨拶と、詳しい報告がありました。
 坂氏は『蛍の光』4番を紹介し、私の卒業式の話を引き継ぐと共に、そこで歌われる沖縄について述べ、とっさの機転で話を続けて行かれるその能力に、将来を期待される大器である事がよく分かりました。
 蛍の光 (四番)
千島のおくも おきなわも
やしまのうちに まもりなり
いたらんくにに いさおしく
つとめよわがせ つつがなく (less)
 『全近畿学生文化会議』のますますのご発展と、坂直純氏のご健闘を期待します。
弁護団代表の松本弁護士は、シナ、ロシア等の民族性についての該博な知見を提供されたあと、テレビ局も、新聞記者も、軍による集団自決命令が無かったことを今はよく知っているのに、それを言わない、言えない言語空間について述べ、また、特に沖縄では、沖縄以外の日本人と、沖縄の人々を離反させるというアメリカのプログラムが先にあり、それをシナが引き継いると述べました。
 大村弁護士はこれまでの準備書面はページ数にして600ページ、提出した証拠は120個にのぼると報告し、当方が提出した証拠によって、その都度、被告側は大きく狼狽したが、そのことをマスコミは報道しなかったと言うことを説明しました。大村弁護士の説明は、最前列に座っておられる梅澤氏に「梅澤さん、おぼえていますね。」と問いかけながら進める、裁判の証人尋問のような場面があり、会場が沸き立ち、大変すばらしい説明でした。
 徳永弁護士は、この裁判を通じて学んだことは、単にこの裁判に勝ち抜くだけでなく、当時の人々の生き様を追体験し、それを民族の記憶として残さなければならないと言う使命感持ったことだと力強く、宣言のように延べ、今後への決意を語りました。
 我々の想像力を最も阻害してきたのが「軍命令説」であり、それで分かったような偽の言語空間を作られてしまっている事が問題であり、この裁判に於いても次々と嘘つきが現れ、逆に言えば、彼らが嘘をつかないと生きてゆけない作られた言語空間の中に現在はあると徳永弁護士は話しました。
 多数の質問が出て、その説明がありましたが省略します。
 会場では、今回の報告会のために急遽作成した小冊子『沖縄集団自決冤罪訴訟から学んだもの』(一冊500円×200部)が配布されました。これは裁判のはじまりから、争点となったこと、沖縄の言語空間、そして、最新の情報まで、全部を29話に整理して、膨大な準備書面全部を読むことができない方々に、簡潔に裁判のエッセンスを理解していただけるような内容になっています。この冊子はすでに完売したので残部はありませんが、追って判決後に出される新しい冊子にその多くの部分を引き継ぐ予定です。
 判決は3月28日(金)午前10時(9時20分頃までに集合9時半抽選)、大阪地裁です。(以上)

2008年3月23日 08時44分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2008年02月24日(日)
支援者の皆様へ 3月8日(土) 重要集会のお知らせ
平成20年2月11日

支援者の皆様へ 重要集会のお知らせ
沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会会長 南木隆治
 
 平成19年12月21日、「沖縄集団自決冤罪訴訟」の最終弁論が大阪地裁で開かれ、原告と被告が各々の主張をまとめた最終準備書面を提出し、法廷でそれぞれの代理人が要旨を開陳しました。(当方最終準備書面は全文ネット上に掲載しています。)これで提訴から約2年半の長期の審議を経て、3月28日(金)判決です。これまでの皆様方の物心両面でのご支援に深く感謝申し上げます。
 私どもの裁判を通じて、一貫して傍聴券確保等の支援をしてくださった大阪、近畿、全国の皆様、またカンパにご協力いただいた全国の皆様。このたび3月28日(金)の判決を前にして、「沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会主催で講演会・報告会を開く事にしました。
 当裁判に関して、すでに全国で多数の集会を開催していただきましたが、私どもが主催して集会をするのは、裁判当日の報告会を除けば、今回が初めてです。当方が何を争点として戦い、被告側はどの様に争点をそらそうとしたか、そして、この裁判から学んだことは何か。この裁判の意味と価値は何か。皆様、万障お繰り合わせの上、ご参加賜りますようお願い申し上げます。

後援 大阪ビジョンの会 靖國応援団 大和心のつどひ 大阪新樹会 大阪同盟OB友愛会 大阪教育連盟 新しい歴史教科書をつくる会大阪 関西戦中派の会 関西防衛を支える会 大阪読書研究会 関西自由主義史観研究会 日本教育再生機構兵庫県協議会 河内国民文化研究会 大阪日台交流協会 新聞『アイデンティティ』日本よくする大阪の会
戦争資料の偏向展示を正す会 他申請中

   (尚、この集会の当日に間に合うように裁判の要旨をまとめた冊子を作成中)
「沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会」
講演会・報告会

―裁判から学んだもの、そしてこれからの日本―

  講演・報告
   代 表 南木隆治
   弁護士 松本藤一  
   弁護士 徳永信一  
   弁護士 大村昌史 
 
日時 平成20年 3月8日(土)開場 13:30 開演 2時
会場  エルおおさか大会議室(6階)200人規模、是非会場満席にしたいです。
大阪市中央区北浜東3-14
電話06-6942-0001

 
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傍聴券獲得のお願いと報告集会のご案内

3月28日(金)午前10時より判決

(9時20分頃までに集合)9時半抽選
     大阪地方裁判所202法廷(抽選は裁判所前広場)
判決後(10時半頃から)堂島ビルディング九階会議室(裁判所西側ビル)にて報告集会

主催 「沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会」 

連絡先 (072)695-4512(吉田まで)

・沖縄集団自決冤罪訴訟資金援助のお願い
『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』

資金が不足しています。是非ご協力お願いいたします。
郵便振替口座『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』
00900−6−316826

(振込用紙を準備していますが、お手許に無い場合は番号を右詰めで)
2008年2月24日 03時03分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(3) |
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2008年02月23日(土)
詳しい新証言 梅澤隊長は自決するなと忠魂碑前村民に解散命令。
詳しい新証言 
産経新聞 大阪版 平成20年2月23日


梅澤隊長は「自決するな。」と忠魂碑前に集まった村民に解散命令




産経新聞 東京版 平成20年2月23日

2008年2月23日 11時36分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年12月24日(月)
沖縄集団自決冤罪訴訟最終準備書面(その1,2)目次 
沖縄集団自決冤罪訴訟最終準備書面(その1,2)目次 

 http://osj.jugem.jp/?eid 
沖縄集団自決冤罪訴訟最終準備書面 
                
        

平成19年12月21日(金) 結審
(沖縄集団自決冤罪訴訟最終準備書面はその1,その2の二つがある。以下にその目次を示す)

平成17年(ワ)第7696 出版停止等請求事件
原 告 梅 澤  裕 外1名
被 告 大江健三郎 外1名

原告最終準備書面(その1)          
                    平成19年12月21日
大阪地方裁判所第9民事部合議2係 御 中

                原告ら訴訟代理人


弁護士  松  本  藤  一
弁護士  徳  永  信  一
弁護士  稲  田  朋  美
弁護士  高  池  勝  彦
弁護士  岩  原  義  則
弁護士  大  村  昌  史
弁護士  木  地  晴  子
弁護士  本  多  重  夫
弁護士 中  村  正  彦
弁護士  青  山  定  聖 
弁護士  荒 木 田    修
弁護士  猪  野     愈   
弁護士  氏  原  瑞  穂
弁護士  内  田     智   
弁護士  小  沢  俊  夫
弁護士  勝  俣  幸  洋   
弁護士  神  崎  敬  直
弁護士  木  村  眞  敏   
弁護士  田  中  平  八
弁護士  田  中  禎  人   
弁護士  田  辺  善  彦
弁護士  玉  置     健
弁護士  中  條  嘉  則
弁護士  中  島  繁 樹
弁護士  中  島  修  三
弁護士  二  村  豈  則
弁護士  馬  場  正  裕
弁護士  羽  原  真  二
弁護士  浜  田  正  夫
弁護士  原    洋  司
弁護士  藤  野  義  昭
弁護士  三ツ角  直  正
弁護士  牧  野  芳  樹
弁護士  森     統  一


− 目 次 −

第1 家永三郎著『太平洋戦争』による不法行為について‥‥ 5
http://osj.jugem.jp/?eid=2 

1 本件書籍一『太平洋戦争』と問題の所在 ‥‥‥‥‥‥ 5 
 2 問題記述の名誉毀損性 ‥‥‥‥ 5  
3 原告梅澤の精神的苦痛等の損害 ‥‥‥‥‥‥ 6
 4 摘示事実の真実性と相当性について ‥‥‥‥‥‥ 8 
 5 まとめ ‥‥‥‥‥‥ 9
第2 大江健三郎著『沖縄ノート』による不法行為について‥ 9
  http://osj.jugem.jp/?eid=3
1 本件書籍三『沖縄ノート』と問題の所在 ‥‥‥‥ 9
2 『沖縄ノート』による原告梅澤に対する名誉毀損について‥13
 3 『沖縄ノート』による原告赤松に対する人格権侵害について17
 4 被告大江の弁明について ‥‥‥‥‥‥ 26
第3 座間味島における隊長命令の不在 ‥‥‥‥‥‥ 29
http://osj.jugem.jp/?eid=8
1 梅澤命令説の問題点 ‥‥‥‥‥‥ 29
 2 梅澤命令説の成立 ‥‥‥‥‥‥ 30
 3 《梅澤命令説》の破綻と訂正 ‥‥‥‥‥‥ 34
 4 宮城晴美証言について ‥‥‥‥‥‥ 45
 5 新証拠なるものについて ‥‥‥‥‥‥ 53
 6 座間味島住民の証言について ‥‥‥‥‥‥ 62
 7 梅澤部隊の行為の総体 ‥‥‥‥‥‥ 64
 8 まとめ ‥‥‥‥‥‥ 67
第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在 ‥‥‥‥‥‥ 68
  http://osj.jugem.jp/?eid=17
1 赤松命令説の問題点 ‥‥‥‥‥‥ 68
 2 赤松命令説の成立 ‥‥‥‥‥‥ 68 
 3 赤松隊長の反論 ‥‥‥‥‥‥ 70
 4 赤松命令説の破綻 ‥‥‥‥‥‥ 71
 5 赤松命令説の削除と訂正 ‥‥‥‥‥‥ 73
 6 太田良博の反論の顛末 ‥‥‥‥‥‥ 76 
 7 手榴弾交付=自決命令説について ‥‥‥‥‥‥ 77
8 隊長命令不在説の定着 ‥‥‥‥‥‥ 84
 9 金城重明の証言にみる虚偽と責任転嫁 ‥‥‥‥‥‥ 95
 10 知念証言について ‥‥‥‥‥‥ 100
 11 皆本証言について ‥‥‥‥‥‥ 103
 12 総括 ‥‥‥‥‥‥ 104 
第5 沖縄タイムス等の「欺瞞と瞞着」 ‥‥‥‥‥‥ 105
  http://osj.jugem.jp/?eid=24
1 はじめに ‥‥‥‥‥‥ 105
 2 『鉄の暴風』の出版経過戸内容の杜撰さ ‥‥‥‥‥ 106 
 3 神戸新聞報道に対する沖縄タイムス社の対応の矛盾 ‥ 108  
 4 原告梅澤との交渉における沖縄タイムス社の不誠実‥‥ 109
 5 林博史報告記事の恣意性 ‥‥‥‥‥‥ 111 
 6 援護法適用に関する記事の欺瞞 ‥‥‥‥‥‥ 113 
 7 沖縄タイムスに掲載されたその他の杜撰な記事 ‥‥‥ 113 
 8 結論 ‥‥‥‥‥‥ 116
第6 集団自決の実相 ‥‥‥‥‥‥ 116
  http://osj.jugem.jp/?eid=25
1 はじめに ‥‥‥‥‥‥ 116
 2 隊長命令説、軍命令説の根本的疑問 ‥‥‥‥‥‥ 117
 3 米軍に対する恐怖 ‥‥‥‥‥‥ 119
 4 家族愛 ‥‥‥‥‥‥ 123 
 5 パニック状態の群衆心理、同調圧力 ‥‥‥‥‥‥ 126
 6 軍の命令は無関係との住民証言等 ‥‥‥‥‥‥ 129
 7 「心中」としての集団自決 ‥‥‥‥‥‥ 130
8 捕捉とまとめ ‥‥‥‥‥‥ 132

-------------------------------------------------------
沖縄集団自決冤罪訴訟原告最終準備書面(その2)
http://osj.jugem.jp/?eid=26

− 目 次 −
序論 本書面の目的と概要
http://osj.jugem.jp/?eid=27
第1 渡嘉敷島の巻
http://osj.jugem.jp/?eid=28

1 金城武徳 7
2 大城良平 11
3 富山(新城)真順 14
4 古波蔵(米田)惟好 16
5 比嘉(安里)喜順 20
6 知念朝睦 31
7 金城重明 35
8 山城盛治 39
9 小嶺園枝 41
10 小嶺幸信 42
11 連下政市 43
12 富野稔 45
13 太田正一 47
14 若山正三 47
15 皆本義博 48
16 照屋昇雄 48
17 小嶺源次 49
18 徳平秀雄 50
19 金城つる子 52
20 比嘉松栄 54
21 伊礼(古波蔵)蓉子 54
22 安座間豊子・ウシ 56
23 グレン・シアレス 57
24 小嶺栄 58
25 東恩納政吉 58
26 吉川勇助 58
27 金城ナヘ 60
28 金城徳三 61
29 大城昌子 62
30 総括 63

第2 座間味島の巻
http://osj.jugem.jp/?eid=29
1 上洲幸子 63
2 宮里峯子 64
3 宮村文子(旧姓 宮里) 65
4 宮平(宮村、宮里)春子 70
5 中村尚宏 78
6 宮里育江(旧・宮平菊江) 79
7 宮城初枝 81
8 宮里美恵子 97
9 宮平(宮里)米子 100
11 松本光子 102
11 宮里トメ 103
12 宮村盛栄 109
13 宮村幸延 112
14 石川重徳 113
15 関根清 114
16 宮平つる子 114
17 宮城恒彦 114
18 中村春子(渡慶次ハル子) 116
19 田中登 118
20 宮里正太郎 118
21 当間正夫 118
22 「A家の隆三」 119
23 伊是名毅 121
24 総括 121





 
2007年12月24日 14時47分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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鴨野氏の裁判への多大な貢献に感謝。
南木です。
世界日報の鴨野氏の調査や、論考が私どもの裁判にどれほど貢献してくださっているか、すでに計り知れないほどであるが、今回の大江健三郎氏の信じられないほどの初歩的なミスを見つけてくださったのも鴨野さんでした。
先に私が配信した下記のメールも、鴨野さんのご努力があってのもので、再度、鴨野さんの書かれた記事のアドレスを掲示し、感謝を表明したいと思います。
大江氏のお粗末ぶりは至る所に散見され、それを書いてくださった鴨野氏の別の記事も下に掲げさせていただきました。

「世界日報」記事転載させていただきます。
http://www.worldtimes.co.jp/special2/oki_kentei/071222-3.html

平成19年12月22日
「赤旗」でも事実誤認
大江氏 「集団自決」検定問題で

 
朝日新聞十一月二十日付に掲載されたノーベル文学賞作家の大江健三郎氏のコラム「定義集」に、重大な事実誤認があるという本紙(世界日報)の指摘を受け、朝日新聞は二十一日付朝刊社会面に訂正記事を掲載した。だが、大江氏の事実誤認は、この記事だけに終わらない。十一月二十四日付の日本共産党機関紙「しんぶん赤旗」に掲載の「特別インタビュー 沖縄・文学・憲法」の<上>でも、大江氏は明らかな発言ミスをしている。
 「赤旗」編集部のインタビューに答えて大江氏は、裁判の判決が出ていないうちに文部科学省が教科書から沖縄戦の集団自決に関して、軍の強制を修正した検定意見を批判。

「こんな不自然なことは政治家が介入しなければ起きないことです。その教科書検定の結果は、三月三十日の午後に公表された。ところがその日の午前中の裁判で、原告側が集団自決は軍の強制だという項目は教科書から取り去られることが決まった、われわれの勝利だと発言したんです。明らかに教科書を検定する人たちと、ぼくらへの裁判を起こした人たちがつながっていることを示したと思います」

と訴えた。
 
この発言内容の訂正が翌日付「赤旗」に掲載されている。「昨日付本欄で、三月三十日の『午前中の裁判』は、『午後二時ごろの裁判』の誤りでした。同日の教科書検定の結果公表が『午後』とあるのは『夕方』です」
 だが、最も重要なミスが修正されていない。口頭弁論で原告側が教科書の検定意見の内容に触れたことに言及して、明らかに教科書を検定する人たちと原告側がつながっている、という指摘だ。
 事実は、原告側の弁護士が、マスコミから「集団自決の記述に修正意見がついたことに原告がどう考えるかコメントをほしい」という取材要請で初めてそのニュースを知ったのであり、教科書検定関係者からの情報では全くない。大江氏の発言は、検定制度を貶(おとし)めるものである。
 文部科学省は教科書検定結果を数日前に記者クラブ加盟各社に伝え、それを受けて記者たちが関係者に取材を行い、発表の解禁日時以降に報道・掲載する。報道の世界では常識とも言える内容だが、ここでも大江氏は事実確認をせず、自分の主観だけで発言してしまっているのである。
(編集委員・鴨野 守)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

お粗末 ノーベル文学賞作家大江健三郎氏「朝日」で事実誤認

朝日新聞11月20日付に掲載された大江健三郎氏の「定義集」について

 沖縄戦で起きた住民の集団自決をめぐり、軍命令で強制したとの虚偽の記述で名誉を傷つけられたとして、守備隊長だった元陸軍少佐らから訴えられているノーベル文学賞作家の大江健三郎氏は先月九日、大阪地裁(深見敏正裁判長)の法廷に立ち、著書『沖縄ノート』の記述について釈明、軍命令は存在するが原告の名誉は毀損(きそん)していないと主張した。

 周到な準備をして臨んだとみられる本人尋問が終わってホッとしたのか、その後、大江氏が書いた朝日新聞のコラムに重大な事実誤認があり、事実認識に関するずさんさを露呈した。

 問題の記事は、朝日新聞十一月二十日付で掲載した大江氏のコラム「定義集」。月に一回掲載される同コラムで、大江氏は『沖縄ノート』に関する作家曽野綾子氏の論評が誤読に基づくものであること、「罪の巨塊」とは「巨きい数の死体」であるなど、法廷で語った内容を紹介。その後に、こう続けた。

 「反対尋問も最後近く、徳永信一弁護人は、書証から『ある神話の背景』の一節を読むよう私に求めました」

 それは、赤松嘉次(よしつぐ)隊長のもとにいた冨野稔少尉が集団自決について、「そうして国に殉じるという美しい心で死んだ人たちのことを、何故、戦後になって、あれは命令で強制されたものだ、というような言い方をして、その死の清らかさを自らおとしめてしまうのか。私にはそのことが理解できません」というくだりだ。

 大江氏は「定義集」で、この記述を引用したあとをこう結ぶ。

 「――このようにいう者らこそ、人間をおとしめていると信じます。そういって私は証言を終えました」

 だが、徳永弁護士が反対尋問で、この一節を読むように促した事実はない。実際は、被告側の秋山幹男弁護士が主尋問の最後でこの記述を読み上げ、感想を聞いたのである。

 大江氏は、集団自決を美化する欺瞞(ぎまん)に反対するのが自分の仕事だと強く訴えて主尋問を終え、続いて徳永弁護士の反対尋問を受けた。

 このことは、地裁がテープを起こしてまとめた反訳書でも裏付けできる。しかし十二月十八日付「定義集」にも、訂正が載っていない。

 わずか十日前の出来事について、氏が勘違いして書いたというのであれば、ノーベル賞作家としてはあまりにお粗末。

 朝日新聞広報部は二十日、本紙の問い合わせに「ご指摘の通り、記事の一部に誤りのあったことがわかり、紙面で訂正を掲載します」と回答した。

 大阪地裁で進められてきた沖縄戦集団自決裁判は今日、結審を迎える。

(編集委員・鴨野守)







----- Original Message -----
朝日が謝罪広告を出したこと。大江健三郎が最近も事実誤認に基づいて朝日新聞に書いたこと

南木です。

朝日が謝罪広告を出したこと。

大江健三郎氏は最近も、彼独自の強力な「想像力」を駆使して、事実を誤認し、誤認に基づいて朝日新聞に当方弁護団や、文科省を非難する記事を書きました。

ノーベル賞作家として恥ずかしいと思っておられなければ不思議ですが、裁判での彼の考え方から推測すると、もしかしたら、仮にそのような誤認があったからと言って、作家には何の責任もないとお考えかも知れません。

このような単純な事実誤認を勝手な想像で書いてしまうところは、「沖縄ノート」を書いた人物であれば、さもありなんと言われても仕方がない状況になってきました。

大江健三郎という人は本当はものすごく頭が悪いのではないかと私は思うようになりました。

私の父は、明治生まれで、小学校しか出ておらず、あまり頭も良くはありませんでしたが、それでも、マスコミに登場する数多の大学教授より国際情勢についても、様々な状況判断においても遙かに正しかったと思っています。私は大江氏は私の父より頭が悪いと思います。

大江健三郎晩節を汚す。
戦後民主主義の星堕つ。おごれるもの久しからず。

大江氏のやったことは文革で罪もない人々を罪に追い込んで虐殺した毛沢東と同じ事を、ペンによって、精神的虐殺行為を妄想的想像力によってしただけではないのか。そのように思えてきます。

さて、柳原さんが発信してくださった重要な情報に目次をつけました。

二つ重要な点があり、

1 大江健三郎が最近、朝日新聞、及び赤旗に最近書いた記事でも、明らかで、重大な事実誤認があり、朝日新聞が謝罪広告を出したこと。同じ内容の記事を大江氏は赤旗にも書いていること。

2 教科書検定審議会は、基本的に最初の検定結果を変更する必要はないことを決めたこと。です。

すべて当方にとって良い情報です。
それにしても我々はノーベル文学賞作家がこのようなものであったと言う事実に直面しているのであり、そもそも大江氏にノーベル賞が与えられた事のプロセスに、すでにおかしな事が起こっていたと冷厳に見通すべきであると私は思っております。

大江はそんな人間だと分かりつつノーベル賞は与えられたのではないか。彼が自虐反日日本人でなかったらノーベル賞は与えられなかったのではないかと思えるのです。

2007年12月24日 04時54分 | 記事へ | コメント(0) |
2007年12月22日(土)
沖縄集団自決冤罪訴訟第13回期日、結審 12月21日
南木です。
12月21日(金)
沖縄集団自決冤罪訴訟第13回期日、結審が大阪地裁でありました。
裁判は13時15分から始まりましたが、傍聴券の抽選は12時30分からであり、私は勤務の都合で列ぶ事ができず、傍聴券獲得に列んでくださった皆様のおかげで、私を含む多数の方が入廷する事ができました。

この日、傍聴券獲得に列んだ人数は最終200人を超え、結審と言うことで、マスコミ関係者も前列すべてと更に数名、併せて15名以上入廷されていたと思います。
傍聴券獲得には東京から応援に来てくださった方々を含め、当方支持者が100人以上を占め、傍聴席の過半数をを当方支持者で埋める事が出来ました。
皆様、本当に有り難うございました。

さて、入廷した弁護士は当方は松本、徳永、大村、岩原、中村、木地の6人の弁護士、被告側は秋山、秋山、近藤の3弁護士でした。
当方と被告側代理人が15分ずつ最終準備書面要旨を陳述するだけでしたが、当方弁護士たちがまとめ、提出した最終準備書面は大変長大なものでした。それぞれ厚みが1センチほどある、単行本2冊に相当する量がその1、その2と在り、そこにこれまでの、裁判の成果をすべて整理して書き込んだだけでなく、これまで誰も踏み込まなかったような所まで、人間を掘り下げて、弁護士たちが考え抜いた、実相が述べられる事になりました。
座間味島及び渡嘉敷島の集団自決に関する隊長命令説や、軍命令説を、素朴に見つめ直し、想像力を働かせたときに(大江氏のようなねじ曲がった想像力ではなく、平均的な人間が真摯にごく自然な想像力を巡らせるとき)当然直面するのは、「軍の命令、部隊長の命令で、果たして人は、愛する家族を殺し、自殺をなすことができるのか」という根本的疑問です。わざわざ晴れ着を着て、化粧を念入りにし、死に臨もうとした娘たちは、軍の命令だから死んだのでしょうか。軍の命令で集団自決が起こったなどと言う事は、その証拠がないというような問題ではなく、(もちろん証拠は一つもないのですが)むしろそのような発想そのものが死者への冒涜である事に、国民全体が早くづき、自決を決意した方々の御霊に厳粛な祈りを捧げるべきなのです。


この裁判を通して、弁護団も皆、成長し、私ども事務局も、勉強させていただきました。この裁判に関心を寄せてくださったすべての方々とその成果を共有し、それを国民全体に広げ、我々誰もが共感し、共有する日本民族の物語として1000年後まで語り伝えることのできる内実と、人間の真相を我が弁護団はこの裁判から学び、抽出する事に成功したと私は思います。
裁判の前日、徹夜で、最後の最後まで少しでも準備書面の精度を上げるため、努力された6人の弁護士に、私は心から敬意を表します。
今、最終準備書面の膨大な量をアップするための準備中で、ホームページにアップするまで、あとしばらくお待ちください。

尚、当方代理人は徳永弁護士と、中村弁護士が口頭で陳述しました。
被告側代理人は3氏とも口頭陳述されましたが、決定的な発言は何も出ず、すでに当方によって論破されていることばかりを取り上げて「軍による自決命令があったことは疑いがない」と呪文のように繰り返すのみでした。

判決は平成20年3月28日午前10時です。
2007年12月22日 04時33分 | 記事へ | コメント(0) |
2007年12月21日(金)
12月21日(金)沖縄集団自決冤罪訴訟結審12:45抽選
12月21日(金)沖縄集団自決冤罪訴訟結審12:45抽選

皆様、本日本日21日(金)、『沖縄集団自決冤罪訴訟』結審
大阪地方裁判所集合 12:45抽選です。
これで沖縄集団自決冤罪訴訟は13回目の法廷と言うことになります。
裁判開始は13時15分からです。

結審ですが、本日も弁護士による口頭弁論があります。
前回の大江健三郎の証人尋問で、彼が発言したことの様々な矛盾や、論理の破綻が暴露されるでしょう。
この裁判の決定的勝利に向けて、当方弁護士の鉄壁の論陣が張られます。

是非、多数の方の傍聴をお願いいたします。
判決の日程は本日発表されます。

南木隆治(みなきたかはる)  
2007年12月21日 05時45分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2007年11月10日(土)
第3回証人尋問の報告と資料 
平成19年11月9日沖縄集団自決冤罪訴訟

第3回証人尋問の報告と資料
 

 第3回証人尋問が終わりました。
今回の裁判のクライマックスである長い1日でした。11月9日(金)の朝、大阪地裁に列んだ傍聴券(65席)を求める彼我の人数は10時抽選締め切り段階で693名でした。約700名のうち、当方が半数を少し超える程度で彼我の人数は拮抗していると思います。抽選の結果入廷できた方の中で、私が確認できた当方支援者、関係者の人数は30余名。ここでも彼我は拮抗と当初思いましたが、のちに、抽選に当たって入廷していた方々のうち、かなりの数が、傍聴席を確保できていないジャーナリズム関係者である事も分かり、この方々は独自で抽選券獲得のためにアルバイトを雇ったり、関係者を動員していたと思われます。そう言う方々が少なくとも5名以上いたようであるので、そうすると、純粋な支援者で入廷できた人数は原告側の当方が、被告側を少し引き離していた事になると分析しています。
 今回は近畿各地からだけでなく、関東からも多数の支援の方々が来てくださり、また個人で遠方より来られ、気合いで当選された方もおられました。また、毎回10名から20名程度の傍聴券獲得のために動員をかけてくださるある団体は、この日100名の動員をかけてくださいました。列んだ総数700名の7分の1を占めてくださったわけで、関係者に深く感謝いたします。関西でおつきあいのあるすべての団体、組織が動員してくださり、おかげで、どうしても入廷していただかなければならない方々は全員、いつものように入廷していただけました。秦郁彦先生、中村粲(あきら)先生、藤岡信勝先生のお3人にも、入廷していただく事ができました。
 裁判に結集してくださったすべての皆様、諸団体に深く感謝します。けれどもまた、被告側も総力を挙げ、全国から動員した模様で、彼我は厳しく拮抗しており、裁判の行方が予断を許さぬ事を象徴していると私は感じました。
 10時30分開廷。この日の当方代理人弁護士は、法廷の原告代理人席前列奥より、大村、松本、中村、岩原の各弁護士。後列奥から、高池、徳永、木地の各弁護士で7名です。高池弁護士は東京からの参加で、当裁判に出廷してくださるのは2度目でした。被告側代理人弁護士は、いつも通り前列3名のみで、奧より近藤、秋山(若い方)、秋山(年配の方)の各弁護士でした。

 裁判の記録は、恐ろしいほど早く速記録がイザブログに掲載されており、また、産経新聞の報道も大変正確です。イザブログ掲載の速報は語り口が実際の尋問とは違い、統一され、プロによって整理されており、また、無意味な発言の部分、及び正確な生年月日の確認の部分等プライバシーに関わりすぎると思われるところも省略されています。さらに村長、助役等についても、本名が省略されている部分が散見されますが、極めて適切に編集された詳録となっているので、この配信の末尾に、そのまま貼り付けさせていただきます。
イザブログ様 ありがとうございます。
現在次のアドレスで確認できます。


イザ!ブログの記事


http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/99444/

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/99496/

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/99530/

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/99573/
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/99545/ 

裁判のあと、すぐに弁護士会館にて報告集会を持ちました。
裁判を傍聴できなかった方々も集まってくださり、報告集会会場は当日まで一切報道しなかったにもかかわらず、60名を超える方が参加してくださいました。
弁護士全員の自己紹介、及び本日の裁判に関する報告やコメントが出されました。また上記東京より参加の秦、中村、藤岡、3人の先生方からも意見を頂戴しました。
 徳永弁護士は、徳永の読み方が誤読だと言うに止まらず、曾野先生の読み方も誤読だと断定し、通常の読者の読み方はことごとく誤読になってしまうような書き方をしたことを反省せず、誰も読めないような読み方を求める大江氏の主張を、裁判官が受け入れるとは思えないと語りました。数々の意見や分析が出されましたが、省略いたします。
 皆様、まことにありがとうございました。
次回、最終の口頭弁論は12月21日午後1時15分からです。
集合時刻等は追って連絡させていただきます。
 皆様、今後とも何とぞ宜しくお願い申し上げます。 (文責 南木隆治)
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 〇集団自決訴訟 大江さんら証言としてNHKニュースを動画で見る事ができる。

http://www3.nhk.or.jp/news/2007/11/10/d20071109000151.html
放送内容は以下のとおりである。
『この裁判は、太平洋戦争末期、沖縄の座間味島の守備隊長だった梅澤裕さん(90)と渡嘉敷島の守備隊長の遺族が「住民に集団自決を命じたかのような本の記述は事実ではなく、名誉を傷つけられた」と主張し、出版元の岩波書店と執筆者の大江健三郎さんに本の出版中止などを求めているものです。9日、大阪地方裁判所で、原告と被告の双方から直接話を聞く尋問が行われました。原告の梅澤さんは「村の幹部らが自決したいので、手りゅう弾を分けてほしいと申し出てきたが、死んではいけないと断った」と証言し、集団自決を命じていないとあらためて主張しました。一方、被告の大江さんは「軍の関係者らが『降伏はするな』、『アメリカ軍に上陸されたら自決しないといけない』と住民に繰り返し言っていたために、集団自決が起きたと考えている。本には、隊長個人ということではなく、日本軍の総体という意味で命令、強制があったと書いたが、訂正する考えはない」と証言しました。この裁判の原告側の証言は、高校の教科書から集団自決に日本軍が直接関与したとする記述を削除させた検定意見の根拠の1つにもなっています。判決は来年春の見通しです。』
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産経新聞報道
毅然とした態度で無実訴え 梅沢元守備隊長2007.11.9 12:18

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/071109/trl0711091218003-n1.htm

このニュースのトピックス:沖縄集団自決
 「自決命令は出していない」。9日、大阪地裁で本人尋問が始まった沖縄の集団自決訴訟。住民に集団自決を命じたと記述された座間味島の元守備隊長、梅沢裕さん(90)は、毅然(きぜん)とした態度で“無実”を訴えた。確証がないのに汚名を着せられ続けた戦後60余年。高齢を押して証言台に立ったのは、自分のためだけではない。無念のまま亡くなったもう1人の元守備隊長と旧日本軍、そして国の名誉を守りたい一心だった。

 地裁で最も広い202号法廷。梅沢さんはグレーのスーツに白いシャツ姿で入廷した。終始しっかりとした口調で尋問に答え、焦点となった集団自決前の状況について問われると、「(村民に対し)弾はやれない、死んではいけないと言いました」と語気を強めた。

 梅沢さんにとって決して忘れることのできない出来事をめぐる証言だった。米軍が座間味島に上陸する前日の昭和20年3月25日。「あの日、村民5人が来た場面は強烈な印象として残っている」という。

 大艦隊の艦砲射撃と爆撃にさらされ、本格的な米軍との戦闘に向けて山中の陣地で将校会議を開いていた夜、村の助役ら5人が訪ねてきた。

 《いよいよ最後の時が来ました。敵が上陸したら逃げ場はありません。軍の足手まといにならないように老幼婦女子は自決します》

 助役らは切羽詰まった様子でそう言い、自決用の爆薬や手榴(しゆりゆう)弾などの提供を求めた。驚いた梅沢さんは即座に断り、こう言葉を返したという。

 《自決することはない。われわれは戦うが、村民はとにかく生き延びてくれ》

 戦後、大阪府内で会社勤めをしていた昭和33年、週刊誌に「梅沢少佐が島民に自決命令を出した」と報じられた。そして、戦後まもなく発行された沖縄戦記『鉄の暴風』(沖縄タイムス社)で隊長命令説が記述され、沖縄の文献などに引用されていることを知った。

 「お国のために戦ってきたのに、なぜ事実がねじ曲げられるのかとがく然となった。屈辱、人間不信、孤独…。人の顔を見ることが辛く、家族にも肩身の狭い思いをさせた」

 転機が訪れたのは57年。戦没者慰霊のため座間味島を訪れた際、米軍上陸直前に会った5人のうち、唯一生き残った女性と再会。戦後、集団自決は隊長命令だったと述べていた女性は苦しみ続けた胸の内を吐露し、「隊長は自決してはならんと明言した」と真相を証言してくれた。

 さらに62年、助役の弟で戦後、村の援護係を務めた男性が「集団自決は兄の命令。(戦傷病者戦没者遺族等援護法に基づく)遺族補償を得るため隊長命令にして申請した」と述べ、梅沢さんの目の前で謝ったという。

 「彼から『島が裕福になったのは梅沢さんのおかげ』と感謝もされた。ようやく無実が証明され、これで世間も治まるだろうと思った」

 だが、隊長命令説は消えなかった。大江健三郎氏の著書『沖縄ノート』など多くの書物や教科書、さらに映画などでも隊長命令説が描かれた。梅沢さんはいう。

 「戦争を知らない人たちが真実をゆがめ続けている。この裁判に勝たなければ私自身の終戦はない」

大江健三郎氏「軍命令説は正当」と主張 
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/071109/trl0711092144016-n1.htm
2007.11.9 21:44
このニュースのトピックス:沖縄集団自決
 先の大戦末期の沖縄戦で、旧日本軍が住民に集団自決を命じたとする本の記述は誤りとして、当時の守備隊長らが、ノーベル賞作家の大江健三郎氏と岩波書店に損害賠償や書物の出版・販売差し止めなどを求めた訴訟の口頭弁論が9日、大阪地裁(深見敏正裁判長)であり、本人尋問が行われた。大江氏は「参考資料を読み、執筆者に会って話を聞き、集団自決は軍隊の命令という結論に至った」と述べ、軍命令説の正当性を主張した。今回の訴訟で大江氏が証言するのは初めて。  

 一方、大江氏に先立ち尋問があった原告の一人で元座間味島守備隊長、梅沢裕さん(90)は「(自決用の弾薬などを求める住民に対し)死んではいけないと言った」と軍命令説を強く否定。もう一人の原告の元渡嘉敷島守備隊長、故赤松嘉次元大尉の弟、赤松秀一さん(74)は「大江さんは直接取材したこともないのに、兄の心の中に入り込んだ記述をし、憤りを感じた」と批判した。

 訴訟は、来年度の高校日本史の教科書検定で、集団自決を「軍の強制」とした記述を修正した根拠にもなったが、その後、教科書会社が削除された記述を復活させる訂正申請を出している。

 大江氏は座間味、渡嘉敷両島の元守備隊長2人が直接自決を命じなかったことは認めたうえで、住民に手榴(しゅりゅう)弾が配布されたケースがあることを指摘。「当時は『官軍民共生共死』の考え方があり、住民が自決を考えないはずがない」と軍の強制があったと述べた。自著『沖縄ノート』について「強制において(集団自決が)なされたことを訂正するつもりはない」と語った。
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イザブログ転載 平成19年11月9日証人尋問 梅澤氏、赤松氏、大江氏、の詳細報道。
イザ!ブログの記事


http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/99444/

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http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/99545/ 




【沖縄集団自決訴訟の詳報(1)】梅沢さん「とんでもないことを言うな」と拒絶
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/99444/
11/09 15:14更新

この記事について書かれたブログ(8)
 沖縄の集団自決訴訟で、9日、大阪地裁で行われた本人尋問の主なやりとりは次の通り。

                               
 《午前10時半過ぎに開廷。冒頭、座間味島の守備隊長だった梅沢裕さん(90)と、渡嘉敷島の守備隊長だった故赤松嘉次さんの弟の秀一さん(74)の原告2人が並んで宣誓。午前中は梅沢さんに対する本人尋問が行われた》

 原告側代理人(以下「原」)「経歴を確認します。陸軍士官学校卒業後、従軍したのか」
 梅沢さん「はい」
 原「所属していた海上挺身(ていしん)隊第1戦隊の任務は、敵船を撃沈することか」
 梅沢さん「はい」
 原「当時はどんな装備だったか」
 梅沢さん「短機関銃と拳銃(けんじゅう)、軍刀。それから手榴(しゅりゅう)弾もあった」
 原「この装備で陸上戦は戦えるのか」
 梅沢さん「戦えない」
 原「陸上戦は予定していたのか」
 梅沢さん「いいえ」
 原「なぜ予定していなかったのか」
 梅沢さん「こんな小さな島には飛行場もできない。敵が上がってくることはないと思っていた」
 原「どこに上陸してくると思っていたのか」
 梅沢さん「沖縄本島だと思っていた」
 原「昭和20年の3月23日から空爆が始まり、手榴弾を住民に配ることを許可したのか」
 梅沢さん「していない」
 原「(米軍上陸前日の)3月25日夜、第1戦隊の本部に来た村の幹部は誰だったか」
 梅沢さん「村の助役と収入役、小学校の校長、議員、それに女子青年団長の5人だった」
 原「5人はどんな話をしにきたのか」
 梅沢さん「『米軍が上陸してきたら、米兵の残虐性をたいへん心配している。老幼婦女子は死んでくれ、戦える者は軍に協力してくれ、といわれている』と言っていた」
 原「誰から言われているという話だったのか」
 梅沢さん「行政から。それで、一気に殺してくれ、そうでなければ手榴弾をくれ、という話だった」
 原「どう答えたか」
 梅沢さん「『とんでもないことを言うんじゃない。死ぬことはない。われわれが陸戦をするから、後方に下がっていればいい』と話した」
 原「弾薬は渡したのか」
 梅沢さん「拒絶した」
 原「5人は素直に帰ったか」
 梅沢さん「執拗(しつよう)に粘った」
 原「5人はどれくらいの時間、いたのか」
 梅沢さん「30分ぐらい。あまりしつこいから、『もう帰れ、弾はやれない』と追い返した」
 原「その後の集団自決は予想していたか」
 梅沢さん「あんなに厳しく『死んではいけない』と言ったので、予想していなかった」
 原「集団自決のことを知ったのはいつか」
 梅沢さん「昭和33年の春ごろ。サンデー毎日が大々的に報道した」
 原「なぜ集団自決が起きたのだと思うか」
 梅沢さん「米軍が上陸してきて、サイパンのこともあるし、大変なことになると思ったのだろう」
 原「家永三郎氏の『太平洋戦争』には『梅沢隊長の命令に背いた島民は絶食か銃殺ということになり、このため30名が生命を失った』と記述があるが」
 梅沢さん「とんでもない」
 原「島民に餓死者はいたか」
 梅沢さん「いない」
 原「隊員は」
 梅沢さん「数名いる」
 原「集団自決を命令したと報道されて、家族はどんな様子だったか」
 梅沢さん「大変だった。妻は頭を抱え、中学生の子供が学校に行くのも心配だった」
 原「村の幹部5人のうち生き残った女子青年団長と再会したのは、どんな機会だったのか」
 梅沢さん「昭和57年に部下を連れて座間味島に慰霊に行ったとき、飛行場に彼女が迎えにきていた」
 原「団長の娘の手記には、梅沢さんは昭和20年3月25日夜に5人が訪ねてきたことを忘れていた、と書かれているが」
 梅沢さん「そんなことはない。脳裏にしっかり入っている。大事なことを忘れるわけがない」
 原「団長以外の4人の運命は」
 梅沢さん「自決したと聞いた」
 原「昭和57年に団長と再会したとき、昭和20年3月25日に訪ねてきた人と気づかなかったのか」
 梅沢さん「はい。私が覚えていたのは娘さんだったが、それから40年もたったらおばあさんになっているから」
 原「その後の団長からの手紙には『いつも梅沢さんに済まない気持ちです。お許しくださいませ』とあるが、これはどういう意味か」
 梅沢さん「厚生省の役人が役場に来て『軍に死ね、と命令されたといえ』『村を助けるためにそう言えないのなら、村から出ていけ』といわれたそうだ。それで申し訳ないと」

 《団長は戦後、集団自決は梅沢さんの命令だったと述べていたが、その後、真相を証言した。質問は続いて、「集団自決は兄の命令だった」と述べたという助役の弟に会った経緯に移った》

 原「(昭和62年に)助役の弟に会いに行った理由は」
 梅沢さん「うその証言をしているのは村長。何度も会ったが、いつも逃げる。今日こそ話をつけようと行ったときに『東京にいる助役の弟が詳しいから、そこに行け』といわれたから」
 原「助役の弟に会ったのは誰かと一緒だったか」
 梅沢さん「1人で行った」
 原「会って、あなたは何と言ったか」
 梅沢さん「村長が『あなたに聞いたら、みな分かる』と言った、と伝えた」
 原「そうしたら、何と返答したか」
 梅沢さん「『村長が許可したのなら話しましょう』という答えだった」
 原「どんな話をしたのか」
 梅沢さん「『厚生労働省に(援護の)申請をしたら、法律がない、と2回断られた。3回目のときに、軍の命令ということで申請したら許可されるかもしれないといわれ、村に帰って申請した』と話していた」
 原「軍の命令だということに対し、島民の反対はなかったのか」
 梅沢さん「当時の部隊は非常に島民と親密だったので、(村の)長老は『気の毒だ』と反対した」
 原「その反対を押し切ったのは誰か」
 梅沢さん「復員兵が『そんなこと言ったって大変なことになっているんだ』といって、押し切った」
 原「訴訟を起こすまでにずいぶん時間がかかったが、その理由は」
 梅沢さん「資力がなかったから」
 原「裁判で訴えたいことは」
 梅沢さん「自決命令なんか絶対に出していないということだ」
 原「大勢の島民が亡くなったことについて、どう思うか」
 梅沢さん「気の毒だとは思うが、『死んだらいけない』と私は厳しく止めていた。責任はない」
 原「長年、自決命令を出したといわれてきたことについて、どう思うか」
 梅沢さん「非常に悔しい思いで、長年きた」

 《原告側代理人による質問は、約40分でひとまず終了。被告側代理人の質問に移る前に、5分ほど休憩がとられた》

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【沖縄集団自決訴訟の詳報(2)】「(軍令)出していない。兵も配置していない」梅沢さん11/09 17:15更新

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/99496/

この記事について書かれたブログ(9)
 《休憩後、審理を再開。被告側代理人による質問が始まる》

 被告側代理人(以下「被」)「戦陣訓として『生きて虜囚の辱めを受けず』という言葉があるが、こういう教えが座間味の島民に浸透していたのは知っていたか」
 梅沢さん「島の長が島民に教育していたと思う」
 被「島民に浸透していただろうということは、分かっていたか」
 梅沢さん「それくらいは浸透していたと思う」
 被「鬼畜である米英に捕まると女は強姦、男は八つ裂きにされるので玉砕すべきだ、ということも浸透していたと知っていたか」
 梅沢さん「そういうことは、新聞や雑誌が言っていたことだ」
 被「物資の運搬などに対する島民への指示は誰がしたのか」
 梅沢さん「基地隊長がやっていた。炊事の手伝いとか、食料の世話とか」
 被「元々の指示は梅沢さんから出されたのか」
 梅沢さん「私から基地隊長にお願いした」
 被「軍の装備について。軍にとって手榴(しゅりゅう)弾は重要な武器か」
 梅沢さん「はい」
 被「女子青年団長が軍曹から『万一のときは日本女性として立派な死に方を』と言われて手榴弾を渡されたことは知っているか」
 梅沢さん「はい。団長から聞いた」
 被「(座間味村史を示し)『民間人だし足手まといになる』『万一の時は自決を』と言われて手榴弾を渡された、と書いている女性のことは知っているか」
 梅沢さん「知らない人だ」
 被「こんなことがあった、というのは知っているか」
 梅沢さん「こんなことはありえない」
 被「『明日は米軍の上陸だから民間人を生かしておくわけにはいかない。万が一のときはこれを使って死になさい』と軍人から手榴弾を渡されたという女性の手記は知っているか」
 梅沢さん「言うはずがないと思う」
 被「別の女性は『昭和20年3月25日の夜、忠魂碑の前で日本兵に、米軍に捕まる前にこれで死になさい、と言われて手榴弾を渡された』と証言しているが」
 梅沢さん「そういうことは知らないし、ありえないと思う」
 被「手榴弾は重要な武器だから、梅沢さんの許可なく島民に渡ることはありえないのでは」
 梅沢さん「ありえない」
 被「日本兵が『米軍に捕まるよりも、舌をかんででも前に潔く死になさい』などと島民に言っていたのを知っているか」
 梅沢さん「知らない」
 被「部下がそういうことを言っていたのを知らないか」
 梅沢さん「知らない」
 被「原告側準備書面の中で『多くの住民は忠魂碑の前に集合する命令を、軍からの命令と受け取ったと考えられる』と書いてあるが、これは認めるか」
 梅沢さん「ニュアンスが違う。イエスかノーかで答えられるものではない」
 被「準備書面の記述と同じ考えかと聞いている」
 梅沢さん「同じだ」
 被「昭和63年12月22日に沖縄タイムス社の常務と話をした際に『もうタイムスとの間でわだかまりはない』と言ったか」
 梅沢さん「言った」
 被「覚書を交わそうとしたとき、『そんなもん心配せんでもいい。私は侍だから判をつかんでもいい』と言ったか」
 梅沢さん「言った」

 《沖縄タイムス社から昭和25年に刊行された沖縄戦記『鉄の暴風』には、集団自決を軍が命令したとの記載がある》

 被「助役の弟の証言に関することだが、この証言はあなたが『家族に見せるため』と書いてもらったのではないか」
 梅沢さん「違う」
 被「別の機会の会話の録音テープがあるのだが、助役の弟が『公表しないでほしい』と言ったのに対し、あなたは『家族や知人には見せる。公表は考える』と答えているが、間違いないか」
 梅沢さん「はい」
 被「じゃあ、家族に見せるためと、証言を頼んだんでしょう」
 梅沢さん「それだけのためじゃないですよ」
 被「大江健三郎氏の『沖縄ノート』を読んだのはいつか」
 梅沢さん「去年」
 被「どういう経緯で読んだのか」
 梅沢さん「念のため読んでおこうと」
 被「あなたが自決命令を出したという記述はあるか」
 梅沢さん「ない」
 被「訴訟を起こす前に、岩波書店や大江氏に抗議したことはあるか」
 梅沢さん「ない」
 被「昭和55年に出した島民への手紙で『集団自決は状況のいかんにかかわらず、軍の影響下にあり、まったく遺憾である』と書いているが、集団自決は軍の責任なのか」
 梅沢さん「私は『軍は関係ない』とは言っていない」
 被「手紙を出した当時、軍の責任を認めているということか」
 梅沢さん「全然認めていないわけではない」

 《50分近くに及んだ被告側代理人の質問に続き、再び原告側代理人が質問》

 原告側代理人(以下「原」)「忠魂碑の前に集まれという軍令を島民に出したか」
 梅沢さん「出していない。兵も配置していない」
 原「軍は何かしたのか」
 梅沢さん「人を集めておいて、私のところに弾をくれと言いに来たのは事実らしい」
 原「忠魂碑の前に島民がいて、軍もいるというのはあり得るか」
 梅沢さん「ありえない」
 原「軍は全島に展開していたからか」
 梅沢さん「はい」
 原「先ほど『沖縄ノート』を読んだのは去年だと話していたが、その前から、(曽野綾子さんの著書で軍命令説に疑問を示した)『ある神話の背景』は読んでいたのか」
 梅沢さん「はい」
 原「その中に『沖縄ノート』のことが書かれていて、『沖縄ノート』に何が書いてあるかは知っていたのか」
 梅沢さん「知っていた」
 原「先ほどの『沖縄ノートに私が自決命令を出したという記述はなかった』という証言は、梅沢さんの名前は書かれていなかったという意味か」
 梅沢さん「そういう意味だ」

 《被告側代理人も再び質問》

 被「『沖縄ノート』には、あなたが自決命令を出したと書いてあったか」
 梅沢さん「そうにおわせるように書いてある。『隊長が命令した』と書いてあるが、この島の隊長は私しかいないのだから」

 《梅沢さんの本人尋問は午後0時10分過ぎに終了。午後1時半まで休廷となった》



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【沖縄集団自決訴訟の詳報(3)】赤松さん「タブーのような状態だった」11/09 20:07更新

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 《午後1時半に審理を再開。当事者席に大江健三郎氏が座ると、傍聴席の画家らがいっせいに法廷スケッチの似顔絵を書き始めた。まず、渡嘉敷島の守備隊長だった故赤松嘉次さんの弟の秀一さん(74)への本人尋問が行われた》

 原告側代理人(以下「原」)「あなたは赤松隊長の弟さんですね」

 赤松さん「そうです。兄とは年が13歳も離れているので、常時、顔を合わせるようになったのは戦後になってから。尊敬の対象だった。父が年をとっていたので、家業に精を出してくれた」

 原「沖縄タイムス社の『鉄の暴風』は読んだか」

 赤松さん「読んだ。大学の近くの書店で手に入れた」

 原「戦争の話には興味があったのか」

 赤松さん「戦争は中学1年のときに終わったが、陸軍に進むものと思っていたくらいだから、よく読んだ」

 原「『鉄の暴風』にはお兄さんが自決命令を出したと書かれているが」

 赤松さん「信じられないことだった。兄がするはずもないし、したとは思いたくもない。しかし、329人が集団自決したと細かく数字も書いてある。なにか誤解されるようなことをしたのではないかと悩み続けた。家族で話題にしたことはなかった。タブーのような状態だった」

 原「お兄さんに確認したことは」

 赤松さん「親代わりのような存在なので、するはずもない。私が新居を買った祝いに来てくれたとき、本棚で見つけて持って帰った」

 原「ほかにも戦争に関する本はあったのか」

 赤松さん「2、3冊はあったと思う」

 原「『鉄の暴風』を読んでどうだったか」

 赤松さん「そりゃショックだ。329人を殺した大悪人と書かれていた。もう忘れていたが、最近になって、ショックで下宿に転がり込んできたと大学の友人に聞かされた」

 原「最近まで忘れていたのはどうしてか」

 赤松さん「曽野綾子さんの『ある神話の背景』が無実を十分に証明してくれたので、安心できたのだと思う」

 原「『ある神話の風景』は、どういう経緯で読んだのか」

 赤松さん「友達が教えてくれた。無実がはっきり証明され、信頼を取り戻せた」

 原「集団自決を命じたと書いた本はどうなると思ったか」

 赤松さん「間違った書物は削除、もしくは訂正になると思っていた」

 原「大江氏の『沖縄ノート』の引用を見て、どう思ったか」

 赤松さん「大江さんは直接取材したこともなく、渡嘉敷島に行ったこともない。それなのに兄の心の中に入り込んだ記述をしていた。人の心に立ち入って、まるではらわたを火の棒でかき回すかのようだと憤りを感じた」

 《大江氏が身を乗り出すようにして赤松さんの話を聞く》

 原「誹謗(ひぼう)中傷の度合いが強いか」

 赤松さん「はい」

 原「訴訟を起こしたきっかけは」

 赤松さん「3年前にある人から話があり、とっくの昔に解決したと思っていたのに『鉄の暴風』も『沖縄ノート』も店頭に並んでいると聞かされたから」

 原「実際に『沖縄ノート』を読んでどう思ったか」

 赤松さん「難しい本なので飛ばし読みしたが、兄が誹謗中傷されているのはよく分かった」

 原「悔しい思いをしたか」

 赤松さん「はい。沖縄で極悪人と面罵(めんば)されたのですから。兄は自決命令を出していないと無実を訴える手記を出していたが、ペンも凶器になるということだ。兄は手記の中で、『沖縄ノート』の資料の質を問い、証人を示すのがジャーナリストの最低限の良心と問うていた」

 《原告側代理人の質問が終了》

 被告側代理人(以下「被」)「集団自決命令について、お兄さんから直接聞いたことはありますか」

 赤松さん「ない」

 被「お兄さんは裁判をしたいと話していたか。また岩波書店と大江さんに、裁判前に修正を求めたことがあったか」

 赤松さん「なかったでしょうね」

 被「『沖縄ノート』が店頭に並んでいると教えてくれた人が、裁判を勧めたのか」

 赤松さん「そうなりますか」

 被「お兄さんの手記は読んだか」

 赤松さん「読んだ」

 被「『島の方に心から哀悼の意を捧(ささ)げる。意識したにせよ、しなかったにせよ、軍の存在が大きかったことを認めるにやぶさかではない』と書いているが」

 赤松さん「知っている」

 原「裁判は人に起こせと言われたのか」

 赤松さん「確かにそうやけど、歴史として定着するのはいかんと思った。そういう気持ちで裁判を起こした」

 《赤松さんへの質問は30分足らずで終了した》



【沖縄集団自決訴訟の詳報(4)】大江氏「日本軍の命令だ」
11/09 21:45更新

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 《午後1時50分ごろ、大江健三郎氏が証言台に。被告側代理人の質問に答える形で、持論を展開した》

 被告側代理人(以下「被」)「著書の『沖縄ノート』には3つの柱、テーマがあると聞いたが」

 大江氏「はい。第1のテーマは本土の日本人と沖縄の人の関係について書いた。日本の近代化に伴う本土の日本人と沖縄の人の関係、本土でナショナリズムが強まるにつれて沖縄にも富国強兵の思想が強まったことなど。第2に、戦後の沖縄の苦境について。憲法が認められず、大きな基地を抱えている。そうした沖縄の人たちについて、本土の日本人が自分たちの生活の中で意識してこなかったので反省したいということです。第3は、戦後何年もたって沖縄の渡嘉敷島を守備隊長が訪れた際の現地と本土の人の反応に、第1と第2の柱で示したひずみがはっきり表れていると書き、これからの日本人が世界とアジアに対して普遍的な人間であるにはどうすればいいかを考えた」

 被「日本と沖縄の在り方、その在り方を変えることができないかがテーマか」

 大江氏「はい」

 被「『沖縄ノート』には『大きな裂け目』という表現が出てくるが、どういう意味か」

 大江氏「沖縄の人が沖縄を考えたときと、本土の人が沖縄を含む日本の歴史を考えたときにできる食い違いのことを、『大きな裂け目』と呼んだ。渡嘉敷島に行った守備隊長の態度と沖縄の反応との食い違いに、まさに象徴的に表れている」

 被「『沖縄ノート』では、隊長が集団自決を命じたと書いているか」

 大江氏「書いていない。『日本人の軍隊が』と記して、命令の内容を書いているので『〜という命令』とした」

 被「日本軍の命令ということか」

 大江氏「はい」

 被「執筆にあたり参照した資料では、赤松さんが命令を出したと書いていたか」

 大江氏「はい。沖縄タイムス社の沖縄戦記『鉄の暴風』にも書いていた」

 被「なぜ『隊長』と書かずに『軍』としたのか」

 大江氏「この大きな事件は、ひとりの隊長の選択で行われたものではなく、軍隊の行ったことと考えていた。なので、特に注意深く個人名を書かなかった」

 被「『責任者は(罪を)あがなっていない』と書いているが、責任者とは守備隊長のことか」

 大江氏「そう」

 被「守備隊長に責任があると書いているのか」

 大江氏「はい」

 被「実名を書かなかったことの趣旨は」
 大江氏「繰り返しになるが、隊長の個人の資質、性格の問題ではなく、軍の行動の中のひとつであるということだから」

 被「渡嘉敷の守備隊長について名前を書かなかったのは」

 大江氏「こういう経験をした一般的な日本人という意味であり、むしろ名前を出すのは妥当ではないと考えた」

 被「渡嘉敷や座間味の集団自決は軍の命令と考えて書いたのか」

 大江氏「そう考えていた。『鉄の暴風』など参考資料を読んだり、執筆者に会って話を聞いた中で、軍隊の命令という結論に至った」

 被「陳述書では、軍隊から隊長まで縦の構造があり、命令が出されたとしているが」

 大江氏「はい。なぜ、700人を超える集団自決をあったかを考えた。まず軍の強制があった。当時、『官軍民共生共死』という考え方があり、そのもとで守備隊は行動していたからだ」

 被「戦陣訓の『生きて虜囚の辱めを受けず』という教えも、同じように浸透していたのか」

 大江氏「私くらいの年の人間は、子供でもそう教えられた。男は戦車にひき殺されて、女は乱暴されて殺されると」

 被「沖縄でも、そういうことを聞いたか」

 大江氏「参考資料の執筆者の仲間のほか、泊まったホテルの従業員らからも聞いた」

 被「現在のことだが、慶良間(けらま)の集団自決についても、やはり軍の命令と考えているか」

 大江氏「そう考える。『沖縄ノート』の出版後も沖縄戦に関する書物を読んだし、この裁判が始まるころから新証言も発表されている。それらを読んで、私の確信は強くなっている」

 被「赤松さんが陳述書の中で、『沖縄ノートは極悪人と決めつけている』と書いているが」

 大江氏「普通の人間が、大きな軍の中で非常に大きい罪を犯しうるというのを主題にしている。悪を行った人、罪を犯した人、とは書いているが、人間の属性として極悪人、などという言葉は使っていない」

 被「『(ナチスドイツによるユダヤ人虐殺の中心人物で、死刑に処せられたアドルフ・)アイヒマンのように沖縄法廷で裁かれるべきだ』とあるのは、どういう意味か」

 大江氏「沖縄の島民に対して行われてきたことは戦争犯罪で、裁かれないといけないと考えてきた」

 被「アイヒマンと守備隊長を対比させているが、どういうつもりか」

 大江氏「アイヒマンには、ドイツの若者たちの罪障感を引き受けようという思いがあった。しかし、守備隊長には日本の青年のために罪をぬぐおうということはない。その違いを述べたいと思った」

 被「アイヒマンのように裁かれ、絞首刑になるべきだというのか」

 大江氏「そうではない。アイヒマンは被害者であるイスラエルの法廷で裁かれた。沖縄の人も、集団自決を行わせた日本軍を裁くべきではないかと考え、そのように書いた」

 被「赤松さんの命令はなかったと主張する文献があるのを知っているか」

 大江氏「知っている」

 被「軍の命令だったとか、隊長の命令としたのを訂正する考えは」

 大江氏「軍の命令で強制されたという事実については、訂正する必要はない」

 《被告側代理人による質問は1時間ほどで終わった》



【沖縄集団自決訴訟の詳報(5)完】大江氏「責任を取るとはどういうことなのか」11/09 21:47更新

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/99545/


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 《5分の休憩をはさんで午後2時55分、審理再開。原告側代理人が質問を始めた》

 原告側代理人(以下「原」)「集団自決の中止を命令できる立場にあったとすれば、赤松さんはどの場面で中止命令を出せたと考えているのか」

 大江氏「『米軍が上陸してくる際に、軍隊のそばに島民を集めるように命令した』といくつもの書籍が示している。それは、もっとも危険な場所に島民を集めることだ。島民が自由に逃げて捕虜になる、という選択肢を与えられたはずだ」

 原「島民はどこに逃げられたというのか」

 大江氏「実際に助かった人がいるではないか」

 原「それは無目的に逃げた結果、助かっただけではないか」

 大江氏「逃げた場所は、そんなに珍しい場所ではない」

 原「集団自決を止めるべきだったのはいつの時点か」

 大江氏「『そばに来るな。どこかに逃げろ』と言えばよかった」

 原「集団自決は予見できるものなのか」

 大江氏「手榴(しゅりゅう)弾を手渡したときに(予見)できたはずだ。当日も20発渡している」

 原「赤松さんは集団自決について『まったく知らなかった』と述べているが」

 大江氏「事実ではないと思う」

 原「その根拠は」

 大江氏「現場にいた人の証言として、『軍のすぐ近くで手榴弾により自殺したり、棒で殴り殺したりしたが、死にきれなかったため軍隊のところに来た』というのがある。こんなことがあって、どうして集団自決が起こっていたと気づかなかったのか」

 原「(沖縄タイムス社社長だった上地一史の)『沖縄戦史』を引用しているが、軍の命令は事実だと考えているのか」

 大江氏「事実と考えている」

 原「手榴弾を島民に渡したことについては、いろいろな解釈ができる。例えば、米英に捕まれば八つ裂きにされるといった風聞があったため、『1発は敵に当てて、もうひとつで死になさい』と慈悲のように言った、とも考えられないか」

 大江氏「私には考えられない」

 原「曽野綾子さんの『ある神話の風景』は昭和48年に発行されたが、いつ読んだか」

 大江氏「発刊されてすぐ。出版社の編集者から『大江さんを批判している部分が3カ所あるから読んでくれ』と発送された。それで、急いで通読した」

 原「本の中には『命令はなかった』という2人の証言があるが」

 大江氏「私は、その証言は守備隊長を熱烈に弁護しようと行われたものだと思った。ニュートラルな証言とは考えなかった。なので、自分の『沖縄ノート』を検討する材料とはしなかった」

 原「ニュートラルではないと判断した根拠は」

 大江氏「他の人の傍証があるということがない。突出しているという点からだ」

 原「しかし、この本の後に発行された沖縄県史では、集団自決の命令について訂正している。家永三郎さんの『太平洋戦争』でも、赤松命令説を削除している。歴史家が検証に堪えないと判断した、とは思わないか」

 大江氏「私には(訂正や削除した)理由が分からない。今も疑問に思っている。私としては、取り除かれたものが『沖縄ノート』に書いたことに抵触するものではないと確認したので、執筆者らに疑問を呈することはしなかった」

 《尋問が始まって2時間近くが経過した午後3時45分ごろ。大江氏は慣れない法廷のせいか、「ちょっとお伺いしますが、証言の間に水を飲むことはできませんか」と発言。以後、ペットボトルを傍らに置いて証言を続けた》

 原「赤松さんが、大江さんの本を『兄や自分を傷つけるもの』と読んだのは誤読か」

 大江氏「内面は代弁できないが、赤松さんは『沖縄ノート』を読む前に曽野綾子さんの本を読むことで(『沖縄ノート』の)引用部分を読んだ。その後に『沖縄ノート』を読んだそうだが、難しいために読み飛ばしたという。それは、曽野綾子さんの書いた通りに読んだ、導きによって読んだ、といえる。極悪人とは私の本には書いていない」

 原「作家は、誤読によって人を傷つけるかもしれないという配慮は必要ないのか」

 大江氏「(傷つけるかもしれないという)予想がつくと思いますか」

 原「責任はない、ということか」

 大江氏「予期すれば責任も取れるが、予期できないことにどうして責任が取れるのか。責任を取るとはどういうことなのか」

 《被告側、原告側双方の質問が終わり、最後に裁判官が質問した》

 裁判官「1点だけお聞きします。渡嘉敷の守備隊長については具体的なエピソードが書かれているのに、座間味の隊長についてはないが」

 大江氏「ありません。裁判が始まるまでに2つの島で集団自決があったことは知っていたが、座間味の守備隊長の行動については知らなかったので、書いていない」

 《大江氏に対する本人尋問は午後4時前に終了。大江氏は裁判長に一礼して退き、この日の審理は終了した》

イザブログ様 転載させていただきありがとうございました。南木

2007年11月10日 09時06分 | 記事へ | コメント(1) | トラックバック(2) |
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2007年11月09日(金)
裁判支援のお願い
この裁判は皆様からの支援金によってのみ支えられています。弁護士の沖縄派遣費用、集会のための会場費、通信費等の一切を皆様のご支援によって運営できております。まことにありがとうございます。
何卒、一人でも多くの方のご協力を賜りますよう、重ねてお願い申し上げます。
尚、当会会計は厳正に運営さており、下記以外の別の口座に振込を指示するちらし等が過去に散見されていますが、当会と一切関係ありません。振込は必ず下記の口座にお願いいたします。
『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』

郵便振替口座
 

00900−6−316826

(振込用紙を準備していますが、お手許に無い場合は番号を右詰めで)                    
代表    南木隆治
(みなきたかはる)
                      
会計責任者 吉田康彦
(よしだやすひこ)
2007年11月9日 16時30分 | 記事へ |
2007年11月07日(水)
沖縄集団自決冤罪訴訟第3回証人尋問予定
沖縄集団自決冤罪訴訟第3回証人尋問予定
平成19年11月9日(金)
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/
大江健三郎氏証人尋問
沖縄集団自決免罪訴訟第3回証人尋問
傍聴券獲得に列ぶ人は彼我併せて
500人以上になる見込み
傍聴席は65席しかありません。
皆様是非傍聴券確保にご協力ください。
傍聴券の抽選は朝1回だけです。
途中休憩を挟んで再入廷するとき、
券を持っていれば人が交替しても問題ありません。
 
・日時 平成19年11月9日(金)午前9時半までに集合
    ※傍聴券の配布は、9時45分頃
・場所 大阪地裁(大阪市北区西天満2-1-10)
TEL 06-6363-1281
・内容 10時半〜正午     梅澤  裕  氏 証人尋問
    13時半〜14時10分  赤松  秀一 氏 証人喚問
    14時半〜16時半    大江 健三郎 氏 証人喚問
2007年11月7日 02時09分 | 記事へ | トラックバック(0) |
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2007年09月12日(水)
沖縄集団自決冤罪訴訟第2回証人尋問
沖縄集団自決冤罪訴訟第2回証人尋問
 
南木です。
9月10日 那覇地裁における、金城重明証人尋問速報 (沖縄集団自決冤罪訴訟)です。
弁護団の皆様、まことにお疲れ様でした。
沖縄で弁護団のサポートをしてくださった皆様、まことにありがとうございました。
皆様、ごらんになっておわかりのように、当方に圧倒的に有利な、大きな成果がありました。
皆様のご支援に深く感謝いたします。
以下、弁護団よりの速報。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

9月10日 金城重明証人尋問速報

《証言不適格の証人》

本日の証人尋問で明かになったことは、被告側の証人として法廷に立った金城重明が、そもそも渡嘉敷の集団自決が赤松隊長の命令によるものであることを証言するに相応しい証人ではなかったということ、すなわち証言適格のない証人であったということである。

金城重明は、法廷でも集団自決が軍命令によるものであることを主張し、その根拠として、(1)昭和20年3月20日に役場に17歳以下の少年が集められ兵器軍曹から手榴弾を渡され、その際に「米軍の上陸は必至である。1発は敵兵に投げ、1発は捕虜にならぬよう自決用に使え」と命じられたこと、(2)軍から自決命令が伝えられたらしいという噂があったこと、(3)村長が天皇陛下万歳を三唱したのは自決命令にほかならないこと、(4)最も危険な場所である軍の西山陣地の近くに村民を集合させたのは、自決を命じるのと同じだ、といったことを挙げた。

なにか新しいことを証言するかも知れないと身構えていた弁護団にとっては、金城重明の証言が、これまでいろんなところで語ってきたことを整理しただけのものだったことに対して、なにやら肩すかしをくらったような感じがした。 命令が出たらしいという噂があったことを語るだけで隊長命令の存在を証言することができなかった金城重明は、しかし、反対尋問によって、彼が軍命の根拠としていた上記(1)〜(4)に対し、重大な疑念を抱かせる結果になった。

《誰も貰わなかった手榴弾〜20日交付説の虚妄》

まず、(1)の3月20日手榴弾配布の命令説であるが、なによりも、当時16歳であった金城重明自身が、そうした命令を受けていないことを明確に語ったことは重大である。金城重明は、20日に役場に集められたこともなく、兵器軍曹から手榴弾を交付されることもなかった。もちろん「1発は自決のために使え」という命令も受けてなかったのである。金城重明の言い訳は、兵器軍曹から手榴弾を配られたのは渡嘉敷部落だけであり、阿波連部落には、手榴弾の配布はなかったということであった。それが軍の命令なのであれば、阿波連に伝えられないということがありえようか。
さて、それでは、渡嘉敷部落で手榴弾をもらったものがいるのかと聞けば、なんと、もらったものは誰も知らないというのである。与那嶺次郎、小嶺勇夫、安里広信ら渡嘉敷部落の同級生も、同級生で役場の職員だった吉川勇助も3月20日に手榴弾をもらっていない。当時14歳だった知人の金城武則も。では、金城重明はいつ誰から20日の手榴弾配布という話を聞いたのだろうか。その答えは、家永訴訟の証人尋問の少し前に、安仁屋教授から富山新証言を教えてもらい、富山新順に連絡をとって会って聞いたというものだった。曽野綾子は、家永訴訟で、その徹底的調査にもかかわらず20日の手榴弾交付の話は、誰からも聞いたことがないと証言し、その話に根本的疑問を呈していたが、その証言が裏付けられた形である。他方、金城重明が、なぜ富山新順の話を真実だと信じたのかは、全く不明のままだ。  

《自決命令って単なる噂?》

(2)の隊長命令伝達に関する証言は、本来、隊長命令の有無が争点になっている本件訴訟でもっとも重要なもののはずだった。しかし、金城重明が証言したのは、「命令がでたらしいという噂」に過ぎなかった。金城重明の近著『集団自決を心に刻んで』(平成7年)でも、「事実関係には争いがある」との注が入っているのだから、「噂」しか証言できないのはしかたがないとはいえ、被告側の証人としてはいかにもパンチがないのである。しかも、その「噂」を話していた村民は誰かと尋ねてもはっきりとした答えはなかった。後知恵で命令を語っているといわれてもしかたがないであろう。
そのあたりの弱点は、金城重明も認識しているようで、それが次の「万歳三唱命令説」につながったと思われる。

《万歳三唱命令説のこじつけ》

(3)金城重明がその体験から証言できるのは、集団自決前に古波蔵村長が音頭をとった「天皇陛下万歳」の三唱だった。彼は、軍からの自決命令そのものだと強弁した。最近の新聞でも、そんなことを語っているらしい。しかし、音頭をとった村長や幹部達は自決せずに生きていたのであり、ちょっと頭を冷やして考えれば、それが軍からの自決命令だという理屈に大きな飛躍があることは誰でもわかる。しかもだ。金城重明は、昭和46年に書いた『潮』の「体験手記」でも、『ある神話の背景』に引用された「手紙」でも万歳三唱のことは全く出て来ない。軍命令の有無が争点になっていた家永訴訟において提出された「意見書」や証言においても、万歳三唱には一切触れられていないのだ。村長の万歳三唱が自決命令だと感じ、「その光景が脳裏に焼きついている」というのが真実ならば、家永訴訟においてさえ、そのことを証言していないというのはおかしいではないかという真っ当な疑問に対し、金城重明から納得できる説明はなかった。ちなみに、村長の万歳三唱を軍からの自決命令だと感じたと話している村民がいるかと尋ねたが、記録されたものはなにもないという答えだった。万歳三唱命令説の証言は、最近になって金城重明が唱えた独自の見解、即ち、こじつけに過ぎないのである。   

《西山集合命令説の自家撞着》

(4)の西山陣地集合命令説は、もともと集合の「指示」を「命令」と曲解するだけでなく、軍の陣地の側は最も危険な場所だったという後知恵を当時の村民に認識にすり替えるトリックを必要とするこじつけにすぎない。金城重明は、しかし、最も危険な場所に住民を集めるということが軍が自決を強要したことの証拠であるかのように断言してみせた。裁判所へ来てする話ではないだろうとは思ったが、本当に証言したのだからしかたがない。
それなら当時どこなら安全だったのかという問いを投げかけたが、はっきりした答が返ってくるはずもない。なんと金城重明は『潮』の体験記のなかで、西山陣地近くに移動した村民の心情として軍の側なら安全だし、保護してもらえるかもしれないという期待があったと書いていたのだ。これを突っ込むと、米軍が上陸する前の認識で、上陸後は、米軍の側が安全だという認識に変わったという。もう、むちゃくちゃである。金城重明は、家族や村民を殺した後、米軍に惨殺される覚悟で斬り込みに行ったと証言していたはずだった。鬼畜米英に対する恐怖は、西山に集合したときにもあったのである。米軍から軍民を区別しない空襲と艦砲射撃を受けているのだから当然だろう。むしろ、金城重明の証言は、そんな露骨なこじつけをしてまで、赤松隊長に集団自決の責任を押し付けようとする暗い執念のようなものが印象づけられる結果に終わった。

《なんともいい加減な話》

金城重明は、最近の沖縄タイムスのインタビューで集団自決後、赤松隊長から「軍は最後まで生き残って戦況を報告しなければならない。住民はそうではない」と直接聞いたとの新証言をしていた。弁護団としては、今回の証言で、この新証言が飛び出るのではないかと身構えていた。もし証言があれば、なぜ今まで、そんな大事な事実を沈黙してきたのかと突っ込むつもりでいた。ところが、主尋問は、この新証言にかすりもせずに終わってしまったのだ。反対尋問の最後で、このことについても尋ねてみたのだが、「住民はそうではない」の部分は、事実と違うので、削ってください、とのことだった。金城重明が、インタビューアーの期待に答えようとしてつい口が滑ってしまったのか、インタビューアーの間違いかは、はっきりしないままだったが、なんともいい加減な話である。記者にも金城重明にも、人間の罪と名誉がかかった問題だという意識がまったくないのだろう。

そうして本日の証人尋問は終わった。

《明かになったのは・・・》

家族だけでなく複数の村民にも手をかけることになった金城重明の過酷な運命に深く同情する。確かにそれは戦争という異常事態、沖縄戦という不条理がなせるわざだった。誰も彼を裁くことはできない。しかし、確かな根拠もない理屈をかざして、隊長の自決命令があったと証言して、赤松嘉次に罪を押し付けるというのは別のことである。そもそも金城重明は、集団自決とは何かを語るべき証人であり、隊長命令や軍命令の有無を語るべき証人ではなかったのだ。この日、明かになったのはそのことだった。

以上  

2007年9月12日 07時27分 | 記事へ | コメント(5) | トラックバック(4) |
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2007年07月28日(土)
沖縄集団自決冤罪訴訟第1回証人尋問
 沖縄集団自決冤罪訴訟第1回証人尋問

平成17年7月27日(金)の沖縄集団自決冤罪訴訟第10回口頭弁論・第1回証人尋問は、 午前9時45分、朝から夏の暑い日差しが照りつける中、これまで最大の220名の人々が、記者席に多くとられたため、69席しかない傍聴席を獲得するため大阪地裁前に並びました。並んだ人数は全体で220程度、そのうち相手側が130,当方90位だと思います。
被告側の動員数が勝り、せっかく並んでいただいたのに、法廷に入れなかった方が当方で相当数出ました。
また、集合時間最終ぎりぎりを 午前9時50分集合としていたため、抽選券に間に合わない方もあり、申し訳ありませんでした。最終当方の動員数100名を超えていました。

   10:00−00:00 皆本義博氏 証人尋問
   13:30−14:25 知念朝睦氏 証人尋問、
   14:40−16:30 宮城晴美氏 証人尋問


午後の部のさらに後半、宮城晴美の尋問になってようやく入場券に余裕がでて、待っていた方には入っていただく事が出来ました。
皆本さん、知念さんとも、「自決命令など聞いたことがない」と明確に証言されました。
また、宮城晴美氏を尋問された徳永さんの尋問は白眉でした。宮城氏が、軍による自決命令があったと、見解を変えたのはわずか1月前の本年6月だとはっきりさせたこと、そして今も、梅澤さんが自決命令を出したと主張しているわけではなく、軍に責任があり、そうであるなら部隊長の梅澤さんに責任があると考えるようになったに過ぎない、と言うことを認めさせた事で、梅澤ルートの証人尋問は完勝に終わったと言えます。
宮城氏は、「母が言及している時間帯における梅澤隊長の命令が無かったとしても、以外の時間で梅澤さんの命令があったかも知れず、梅澤さんの責任はあると思うし、そもそも軍としての命令はあったと思う」と証言しました。
しかし、そう考えるようになったのがわずか1ヶ月前である事について、深見裁判長が「本当にその証言でよいのですか」と聞き返すほどでした。

この日の証人尋問に先立って、当方より提出してある準備書面(9)を以下に示しますので、ご一読をお願いします。

次回以降の裁判
9月10日(月)  那覇地裁 
   13:00−15:00 金城重明氏 証人尋問
(出張尋問のため、傍聴はありません)

11月9日(金) 大阪地裁 
        時間未定 10:00-11:20 梅沢裕氏 証人尋問
               13:30−14:00赤松秀一氏 証人尋問
               14:00-16:00大江健三郎氏 証人尋問
12月21日(金)13:15 最終の口頭弁論 結審
(この日程は今回新たに設定されました)
来年3月頃までに判決が出るものと予想されます。
尚、上記の通り、9月10日に那覇地裁へ出張尋問に行かねばならず、弁護団、及び事務局員の出張費に新たに相当の費用が必要です。
何卒、一人でも多くの方のご協力を賜りますよう、重ねてお願い申し上げます。

『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』

郵便振替口座
00900−6−316826


(振込用紙を準備していますが、お手許に無い場合は番号を右詰めで)   
                 
代表    南木隆治
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−



平成17年(ワ)第7696 出版停止等請求事件
原 告 梅澤 裕  外1名
被 告 大江健三郎 外1名

            原告準備書面(9)                          平成19年7月25

大阪地方裁判所第9民事部合議2係 御 中

                  原告ら訴訟代理人
                    弁護士  松  本  藤  一

                    弁護士  sc  永  信  一

                    弁護士  稲  田  朋  美

                    弁護士  高  池  勝  彦

                    弁護士  岩  原  義  則

                    弁護士  大  村  昌  史

                    弁護士  木  地  晴  子

                    弁護士  本  多  重  夫

                    弁護士 中  村  正  彦

   弁護士 青  山  定  聖 弁護士  荒 木 田    修

   弁護士 猪  野     愈   弁護士  氏  原  瑞  穂

   弁護士 内  田     智   弁護士  小  沢  俊  夫

   弁護士 勝  俣  幸  洋   弁護士  神  崎  敬  直

   弁護士 木  村  眞  敏   弁護士  田  中  平  八

   弁護士 田  中  禎  人   弁護士  田  辺  善  彦

   弁護士 玉  置     健 弁護士  中  條  嘉  則

   弁護士 中  島  繁  樹 弁護士  中  島  修  三

   弁護士 二  村  豈  則 弁護士  馬  場  正  裕

   弁護士 羽  原  真  二 弁護士  浜  田  正  夫

   弁護士 原     洋  司 弁護士  藤  野  義  昭

   弁護士 三ツ角   直  正 弁護士  牧  野  芳  樹

   弁護士 森     統  一
第1 照屋昇雄証言について
1 被告主張
 被告は、被告準備書面(11)で照屋昇雄(元琉球政府援護課職員)証言が信用できないと主張する。
 被告はその根拠を、照屋が琉球政府に採用され中部社会福祉事務所の社会福祉主事として勤務したのが1955年(昭和30年)12月であり、1956年(昭和31年)10月1日には照屋が南部社会福祉事務所に配置変えとなり、さらに1958年(昭和33年)2月15日に社会局福祉課に配置換になっていることをあげ、照屋が、社会局の援護局に在籍していたのは1958年(昭和33年)10月のことであるという。
 そして当時、照屋は同局の庶務課に在籍していたのであるから、「昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を勤めていた」とする照屋証言は、上記の琉球政府の人事記録に反しており虚偽であるとする。
2 辞令の存在と照屋証言の真実性
 しかし、照屋は1954年(昭和29年)10月19日付で琉球政府から「援護事務を嘱託す 日給壹百五十円を給する 社会局援護課勤務を命ずる」とする辞令を受領しており(甲B63) 、さらに1955年( 昭和30年) 5月1日付で琉球政府行政主席比嘉秀平より援護事務嘱託であった照屋昇雄に対し「旧軍人軍属資格審査委員会設置規定第四条の規定により旧軍人軍属資格審査委員会臨時委員を命ずる」とする辞令が発給されているのである( 甲B64) 。
 照屋の証言と辞令からすれば、照屋が1954年(昭和29年)10月19日から、社会局援護課に勤務し、援護事務嘱託として稼動し、さらに1955年( 昭和30年) 5月1日から旧軍人軍属資格審査委員会の臨時委員として稼動したことが明らかである。
 さらに1956年(昭和31年)1月8日に願により嘱託を解かれるまで照屋が援護事務業務を遂行していたことも、琉球政府発行の公式書類により明らかである(甲B65) 。
 照屋は真実、復員業務事務の中で復員調査票を作成し、さらに援護事務の一環として各部隊の戦況、現地の状況を調査し、アメリカ側の資料とも照合して戦況調査を行ない住民の自決者についての情報も集めて役所に提出した。
 これらの活動結果がその後の集団自決に援護法の適用が決定された際の具体的な適用の際の資料として活用されたものである。
 この点については、原告が第7準備書面21頁において「この昭和31年頃までに、渡嘉敷村では、琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めていた照屋昇雄が100名以上の住民から聞き取りを実施していた。
しかしながら、集団自決が軍の命令だと証言した住民は一人もいなかった」と指摘しており、この指摘が時期の点でも正確であることが了解いただけよう。
3 補足
 そうしてみると、被告提出の乙56の1ないし乙59は、照屋が1958年( 昭和33年) 10月まで援護事務に携わる援護課に在籍していなかったとする被告主張の根拠にはなり得ないし、また「照屋氏は1958年( 昭和33年) 10月まで援護事務に携わる援護課に在籍していなかった」とし照屋が渡嘉敷島で住民から聴き取り調査をしたり、自決命令があったとして援護法適用のために活動したということは考えられないとする主張も全く根拠がないことになる。
 乙56の1及び2は、照屋が1956年(昭和31年)1月8日に願いにより(援護事務)嘱託を解かれた前後の処遇に関するものである。
 具体的に指摘すると、嘱託で働いていた照屋は、1955年(昭和30年)12月31日に琉球政府に三級民生管理職として正式に採用されたので(乙56の1)、それを受けて直ちに願いを出し、援護事務嘱託を解く決定を琉球政府になしてもらったのであり、その日付が1956年(昭和31年)1月8日であったのである(甲B65)。年末年始を挟んだため8日程度の間が空いているが、実質は完全に連続性のある身分の移動といえるのであり、乙56によって、逆に甲63ないし65の真実性がより明らかになっている。
 乙56ないし58のような援護課勤務でない別の時期の照屋の勤務に関する資料を提出して、照屋が社会局の援護課に勤務したのは1958年(昭和33年)10月からであり渡嘉敷島住民のための援護事務は行っていないと被告が主張するのは、悪意に満ちた誤導というほかはない。

第2 阿嘉島の野田隊長による自決命令について
1 被告主張
 被告は、準備書面(7)第2の3の(2)(15頁)において、「座間味島においては、集団自決の発生当時、住民は『自決せよ』との軍命令(隊長命令)をうけていたのであり、阿嘉島においては、野田少佐による自決命令の訓示がなされていた(乙9・730頁)。同じ慶良間列島の渡嘉敷島においてのみ、戦後、島に残っていた者の責任回避のために軍命令があったという話が言われ始めたとする原告の主張には、何の根拠もはない」と主張する。
 さらに被告準備書面(10)第4の1の(3)(11頁)でも「大城昌子が『阿嘉島駐屯の野田隊長から、いざとなったときは玉砕するように命令があったと聞いていました』(乙9・730頁)と証言しているほか『座間味村史』上巻(乙49・357頁)にも同様の記載がある。さらに、阿嘉国民学校慶留間分教場の校庭で野田隊長の訓示を聞いた與儀九英氏は、野田隊長が『敵ノ上陸ハ必至。敵上陸ノ暁は全員玉砕アルノミ』と厳しい口調で大声で住民に訓示していたと明確に証言しており(乙48)、慶留間島において野田義彦少佐の住民に対する玉砕訓示があったことは明白である」と述べる。
この野田隊長による自決命令については、原告は、準備書面(7)49頁以下で、その不存在を主張したが、改めて、以下内容を補足して、かかる命令の不存在と野田隊長の行為が《梅澤命令説》及び《赤松命令説》の根拠と何らならないことを指摘する。
2 野田隊長による自決命令の不存在−『沖縄県史』第10巻より−
 まず、大城昌子証言は「いざとなった時には玉砕するように命令があったと聞いていました」とするものであり、大城昌子自ら玉砕命令を受けたものでもなく、他人から玉砕命令を聞いたというものであり単なる伝聞にすぎない。しかも、この大城証言はその後にさらに、「その頃の部落民にはそのようなことは関係ありません。…(中略)…考えることといえば、天皇陛下の事と死ぬ手段だけでした。命令なんてものは問題ではなかったわけです」と、命令とは無関係に自らの意思で自決したという決定的な言葉が続くのである(乙9・73
0頁)。

 また、そもそも座間味村には座間味島、阿嘉島、慶留間島があり(うち阿嘉島及び慶留間島に、野田戦隊が配置されていた)、阿嘉島の事例は、本件訴訟で問題となっている座間味島の集団自決とは別のものである。そして阿嘉島では、集団自決は一件も発生しなかったことを県史がみずから認めているのである(乙9・700)。被告の主張のように野田隊長による「自決命令の訓示」があったと仮定しても、阿嘉島で集団自決が一件も発生していないのであるから、野田隊長の訓示は何の意味も持たなかったことになる。
 さらに阿嘉島の義勇隊員であった中村仁勇は「野田隊長は住民に対する措置という点では立派だったと思います」と野田隊長の住民に対する対応を評価する。そして中村は、「(3月)26日の切り込みの晩、防衛隊の人たちが戦隊長のところへ行って、『住民をどうしますか、みんな殺してしまいますか』と聞いたわけです。野田隊長は、『早まって死ぬことはない。住民は杉山に集結させておけ』と指示したそうです」と証言する(乙9・708頁)。この言葉は、3月26日の段階で野田隊長から自決命令が出ていないことを雄弁に物語っている。
 さらに中村は、「6月末ころだったんですが、中岳というところに部落民みんなを集めて『住民は逃げたければ逃げてもいい。ただし、兵隊の逃亡は容赦しない』という命令がありました。それから住民はどんどん島を抜け出して、最後まで残っていたのは、私の家族とか郵便局長の家族とか、ほんのわずかの人数でした。島の周辺にはひっきりなしにパトロールの舟艇がやってきて、浜へおりて合図をやるとすぐに迎えにきて座間味の方へ連れていくんです。…
(中略)…部落民がはじめて島を抜けだすのは、命令があった時よりもずっと前からで(あった)…」などとも述べている(乙9・710頁)。野田隊長が、住民に自決を求めていなかったこと、住民が投降することを認めていたことは、ここからも明らかであろう。
 なお、阿嘉島の垣花武一も「その後公然と逃亡許可がおり、6月22日、野田隊長は『降伏したい者は山をおりてよし』という命令を出したため、3分の2近くの者が小さい子供たちを連れて米軍の方に行きました」と、中村仁勇と同様の証言をしている(乙9・725頁)。
 加えて、阿嘉島の住民中島フミは「軍曹に殺してくれとお願いした。するとその人は『お前たちは心の底から死にたいとは思っていないから殺さない』といわれた」と証言する(乙9・718頁)。自決命令が出ていれば、殺してくれと頼まれて拒絶する理由はない。殺してくれと頼まれても拒絶していることは、自決命令のなかった証左といえる。
2 野田隊長による自決命令の不存在−『座間味村史』下巻より−
 『座間味村史』下巻(乙49)においては、「慶留間部落民は、前月(2月)八日の『大詔奉戴日』に阿嘉駐屯の戦隊長・野田少佐から訓示を受けた際、隊長がしきりに『玉砕』について話していたことが脳裏にひっかかっていた。この『玉砕』の話の内容について詳しく覚えている人はいないが、隊長がこと細かに『玉砕』について説明していたことから、ほとんどの住民が“いざとなったら自分たちもいさぎよく『玉砕』しろという意味だな”と解釈していた。ただその場では自分たちとはおよそ無縁の話だと、そんなにこだわりもせず聞き流した程度であったが、上陸によって、住民たちは野田隊長の訓示の意味を悟ったという」との記載がある(乙357、358頁。下線部は原告代理人)。
 しかし、そもそもこのような訓示があったか否かがまず問題である。前記の沖縄県史第10巻(乙9・昭和49年)においては、大城昌子が伝聞ではあるがそのような訓示について論及しているが、平成元年発行の座間味村史下巻においては、「内容について詳しく覚えている人がいない」として結局具体的に野田隊長の訓示内容を証言できる者がいなかったことが明らかとなっている。
 この座間味村史下巻の第2編第5章は、ほかならぬ宮城晴美が十分な調査をして執筆した部分であり(乙63・2、3頁)、宮城晴美の調査をもってしても不明であった野田隊長の玉砕訓示の内容が、現在になって突然與儀九英によって具体的に明らかにされた(乙48)というのも、釈然としないところである。
 そして、このような野田隊長の玉砕訓示が仮にあったとしても、それは(與儀を除いて)「内容について詳しく覚えている人がいない」程度の話であり、さらに“いざとなったら自分たちもいさぎよく『玉砕』しろという意味であると「解釈した」が、「自分たちとはおよそ無縁の話だと聞き流した程度であった」というのであるから、およそ具体的な「命令」とは考えられないものである。
 さらに、「玉砕」という言葉自体についても、「軍民一丸となって死を恐れずに敵に向かっていき精一杯戦うべし」という士気高揚の意味にとるのがむしろ自然であり、また自決を示唆するものとしても、「いよいよ米兵に虐殺陵辱されそうになったら」という条件付きのものとも取ることができる。
 いずれにしても「全員玉砕アルノミ」との言葉を、「軍の足手まといにならぬように住民は先に自決せよ」というような意味の自決命令と解するのは、あまりに無理矢理な解釈と言わざるを得ない。
4 まとめ
 以上の点からすると、被告は大城昌子証言、與儀九英証言を著しくねじ曲げて、野田隊長による住民への自決命令があったと強弁しているに過ぎない。
さらに本質的な問題は、本件で争われているのは、阿嘉島でも野田隊長でもない、渡嘉敷島の赤松戦隊長と座間味島の梅澤戦隊長(原告梅澤)から自決命令が出たか否かであるという点である。
 赤松戦隊長と梅澤戦隊長の自決命令の根拠(状況証拠)にするために、断片的な証拠から、およそ現実にあったとも思われない野田隊長の自決命令について阿嘉島や慶留間島の例を持ち出すのは牽強付会そのものであり、このような主張は問題を複雑化させ争点を曖昧にするだけである。
 被告は渡嘉敷島の赤松隊長と座間味島の梅澤隊長から自決命令が出たか否かについて、直截に根拠を示すべきなのである。
以 上
2007年7月28日 10時04分 | 記事へ | トラックバック(8) |
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2007年06月23日(土)
大江健三郎氏を法廷に呼び出そう!
沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会
   
代表 南木隆治
 
大江健三郎氏を法廷に呼び出そう!

 平成17年8月5日、先の大戦において、沖縄の座間味島を守備した陸軍海上挺進隊第一戦隊長 梅沢裕・元少佐(88)ご本人と、渡嘉敷島を守備した同第三戦隊長だった故赤松嘉次・元大尉の弟、赤松秀一氏(72)が、大江健三郎氏と岩波書店に対し、名誉棄損の謝罪広告等を求めて大阪地裁に訴えを起こされました。
私たちはこの訴えをまったく正当な、勇気ある行動と思います。沖縄戦に関しては、「軍命令」によって集団自決が発生したという過った情報が子供たち対象の書物や、映画、教科書にまで書かれ、すでに大量に独り歩きしており、これ以上到底放置できない状況です。
 風聞に基づく報道等により、座間味島の守備隊長だった梅澤少佐と、渡嘉敷島の守備隊長だった赤松大尉は、残虐非道な命令の主であり、村民の犠牲により自らは生き延びた卑劣漢だという全くいわれのない非難を浴びてきました。  
 やがてその風聞は曽野綾子氏の「ある神話の背景」等によって架空の「神話」であることが明らかになりましたが、赤松大尉と梅澤少佐が、犠牲となった多くの沖縄村民の補償を有利にするべく公には沈黙してきたこともあって、風聞は消滅しませんでした。
今回の裁判は梅澤、赤松両氏の名誉を回復するだけでなく、日本の名誉を守り、子供たちを自虐的歴史認識から解放して、事実に基づく健全な国民の常識を取り戻す国民運動です。
 おかげさまで、裁判は我が方の圧倒的優勢の内に進行し、すでに9回の口頭弁論を終え、7月27日(金)、9月10日(月)、11月9日(金)の証人尋問を残すだけとなりました。
 その中で、本年平成19年3月30日、文部科学省が来春から使用される高校教科書の検定結果を発表しました。そこで注目されたのは、沖縄集団自決を軍の命令とする記述に初めて検定意見がつき、出版社が修正したことでした。ようやく軍命令による自決という誤った記述が教科書から削られました。
 この文部科学省の快挙に我々は諸手を挙げて賛同しましたが、雑誌『正論』編集長の大島信三氏は次のように賛同のメッセージを発表してくださいました。
 大島先生。ありがとうございました。
 
大島信三のひとことメモより。
2007年03月31日

「定説」を広めたのは、主に岩波書店だった。そのうちの1冊は、曽野さんの著書が刊行される3年前の昭和45(1970)年に出版された大江健三郎氏の著書『沖縄ノート』(岩波書店)。大江氏らの著書で名誉を傷つけられたとして元守備隊長らが、大阪地裁に提訴。「沖縄集団自決冤罪訴訟」は、平成17(2005)年10月28日、大阪地裁で始まった。原告側の徳永信一弁護士は、『正論』(平成18年9月号)でこう述べている。
<大江氏は、まず、どんな調査のもとに、何を根拠にして、赤松元大尉を「罪の巨塊」などと断定し、アイヒマンのごとく絞首刑にされるべきだと断罪したのかを弁明しなければならない。やがて法廷の証言に立つという大江氏の約束が果たされる日を待ち遠しく思う。そのとき、彼はなにをどう語るのだろうか>
 この裁判で読み上げられた梅澤裕元少佐の意見陳述書が、今回の「軍命令」修正に大きな影響を与えたとされる。昭和20(1945)年3月23日、海上挺進第1戦隊の隊長として梅澤元少佐は、座間味島にいた。米軍上陸目前という緊迫感に包まれていたその夜、島の幹部が本部の壕をおとずれた。自決のための手りゅう弾や実弾をわけてほしいという。梅澤元少佐は、こう諭(さと)したという(『正論』参照)。
<決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り、食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。弾薬、爆薬は渡せない> 梅澤元少佐の証言には、村民と部隊との良好な関係が端的に表されている。大江氏の『沖縄ノート』には、故意かどうか知らないが、そういう雰囲気はない。いずれにしても、
徳永弁護士が述べたように、こんどは大江氏が発言する番である。
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裁判予定




7月27日(金) 大阪地裁 午前9時50分集合
   10:00−00:00 皆本義博氏 証人尋問
   13:30−16:30 知念朝睦氏 証人尋問、
           宮城晴美氏 証人尋問

9月10日(月)  那覇地裁 
   13:00−15:00 金城重明氏 証人尋問

11月9日(金) 大阪地裁 
        時間未定 梅沢裕氏 証人尋問
             赤松秀一氏 証人尋問
    (大江健三郎氏 証人尋問)


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 この訴訟は皆様の募金によってのみ活動が維持されます。
ここまでの裁判を支えてくださった皆様のご協力に深く感謝いたします。
本当に有難うございました。どうか裁判が続く限り、引き続き精神的にも、資金的にもご支援賜りますよう御願い申し上げます。

上記の通り、9月10日に那覇地裁へ出張尋問に行かねばならず、弁護団、及び事務局員の出張費に新たに相当の費用が必要です。
何卒、一人でも多くの方のご協力を賜りますよう、重ねてお願い申し上げます。

『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』

郵便振替口座
 

00900−6−316826

(振込用紙を準備していますが、お手許に無い場合は番号を右詰めで)                    
代表    南木隆治
(みなきたかはる)
                      
会計責任者 吉田康彦
(よしだやすひこ)
2007年6月23日 10時12分 | 記事へ | トラックバック(2) |
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ニックネーム:会長 南木隆治