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フリーソフトウェアとオープンソース
2009年12月25日(金)
フリーソフトウェアとオープンソース

フリーソフトウェアとオープンソースという概念の違いについては既に多くの人が論じています。ソフトウェアのソースコードを公開することはどちらにとっても「手段」であることに違いはないのですが、その見据える先、目的は異なっています。簡単に言ってしまえば、フリーソフトウェアがフォーカスしているのは「理」であり、オープンソースがフォーカスしているのは「利」ということになるでしょう。もちろんそのずっと先の方で両者が融合し、「理」=「利」となればそれに越したことはないのですが、残念ながらなかなかそうはうまくいきません。サラダにかける前に良く振れば混じり合うけれど、そのまま置いておくと時間とともにまた油が分離してしまうドレッシングのように、一見混じり合うかに見えても決定的な部分では相容れることがないのです。

歴史を紐解いてみれば明らかなように、人というものは「理」によってではなく「利」によって動くものです。でも、「利」で動いてしまうことに対しては、何か後ろめたさのようなものを感じてしまうのも確か(村上ファンド元代表の村上世彰氏が逮捕前に「金儲けは悪いことですか?」と発言したことはニュースにもなりましたが、そうは思っていても人間なかなかそこまで開き直って公言することはできないものです)。そこで、本心の「利」に被せられる「理」の言い訳が必要となってきます。いわゆる大義名分ですね。関ヶ原の戦いの時、西軍、東軍ともに掲げていたのは「豊臣家の、秀頼君の御ため」でした。

そのへんを見ていくと、世の中に何かの変革がもたらされるときの図式のようなものが垣間見えてきます。

まず、純粋に「理」を掲げる人たちが現れます。しかし、彼らの主張が純粋であれば純粋であるほど、その「理」の正当性については同意が得られたとしても、世の人たちにすんなりと受け入れられることは難しく、少数派に止まらざるを得なくなります。「おっしゃることは確かにその通りなんだけど…ねぇ」ということになってしまいやすい。

そこに、「利」を求める人たちが寄ってきます。その人たちは最初のうち、あまり表立って「利」を標榜したりしません。むしろ、自分たちこそその「理」の支持者であり、実現に向けて手を貸すことができる者であるかのように振る舞います。「『理』を実現していくのが第一義なのはもちろんです。…でも、ついでに『利』も得られたらいいと思いませんか?」と。この言い分は、非常に人を動かしやすい。本音の部分では「利」なのだけれど、言い訳として「理」があった方が便利だという人たちを多く引き寄せることができます。そして、もともと「理」に集った人たちにも、同志であるかのように見えるのです…最初のうちは。

「利」を見据える人たちの参加により、変革は加速していきます。ですが、そもそも見ているのは「利」で、「理」はあくまで言い訳として「利」用しているだけですから、ムーブメントが十分に加速しさえすれば「理」の方はどうでも良くなってしまいます。というより、むしろ「理」は邪魔なものとなってしまうのです。

宗教を例にしてみると分かりやすいでしょうか。キリストは「金持ちが天国に行くのはラクダが針の穴を通るよりも難しい」と言っています。でも、それを本気で実践したらキリスト教徒というのは単なる貧乏人集団になってしまうわけで、キリスト教が世界3大宗教の一つになることはできなかったでしょう。「まぁ、多少お金持ってても、その分せっせと教会にお布施すれば天国に行けますよ」と教義をねじ曲げてしまうことで、一般に受け入れ易くしたわけです。これにより、本来「どう生きるべきなのか」という宗教の主題とは別に、教会というビジネスの基盤が出来上がります。

結局 - あまり心地良い日本語ではなく、好きになれない表現ですが - 勝ち組、負け組という見方をすると、「利」を「理」のオブラートにくるんでうまく立ち回った者が勝ち組になる、ということになるのではないかと思います。

さて、このへんでフリーソフトウェアとオープンソースに話を戻してみましょう。

オープンソースという呼び方、考え方を採用することによって、フリーソフトウェアが「利」用されるシーンは確かに増えてきているでしょう。そこに「利」益を求める企業も参入し、そこそこお金が回る世界にもなってきました。フリーソフトウェアの掲げている「理」だけでは、この状況を作り出すことはできなかったでしょう。

オープンソースは、それなりに成果を挙げてきていると言えます。ですが、フリーソフトウェアの視点だとどうでしょうか? フリーソフトウェアが使われる機会が増えてきているといっても、そもそもシェアを拡大すること自体が目的ではありませんし、相変わらず自由を制限するライセンスの元に配布されるプロプライエタリなソフトウェアは跋扈しています。いや、むしろその「理」を高く掲げるがためにともすれば「原理主義者」「狂信者」という眼で見られがちになっていて、「GPL 汚染」などといった完全にネガティブな概念も生まれてしまいました。

私自身は、というと、どちらかと言えばフリーソフトウェアにシンパシーを感じていました。「利」に集まっている人たちというのは「利」害が一致している限りは仲間でいられるのですが、一度「利」害が一致しなくなれば、簡単に敵になってしまう。「利」でつながるのって、コミュニティではないような気がするのです。少なくとも、私が期待するコミュニティ像とはかけはなれています。

ところが、いわゆるフリーソフトウェア陣営の人たちの振る舞いに違和感を感じることも少なくありません。Yes か No かではっきりと区分けをしたがる人、つまり、彼らを支持する人は味方だけれど、そうでない人はすべて敵、といった、Yes と No の間のグレーゾーンは認めないという人が少なからず存在しているのです。仲間でなければ全部敵、というのは、どうも素直に受け入れることができません。彼らの掲げる最大の「理」である自由って、そんなに不自由なものなのですか?と聞きたくなってしまいます(笑)。

プログラムのソースコードを入手し、改変し、再配布できる自由というのは、なぜ必要なのでしょう? また、その自由を制限することがなぜ悪なのでしょうか? その「なぜ」を、その自由がもたらしてくれるのがどのような社会なのかをちゃんと皆が分かるように説明することなく、ただ GPL というライセンスだけで彼らの「理」想を実現しようとしているのなら、それにはちょっと与することができません。たとえば全世界の人の懐が暖かくなってプロプライエタリなソフトウェアを気軽に買えるようになり、リクエストすればベンダが機能追加やカスタマイズにも応えてくれるようになれば、別にソースが公開されていなくても、改変できなくても、再配布できなくても誰も困らないんじゃないの?と問うことができます。そういう社会を実現することにこそ人類は力を注ぐべきなんじゃないの?と。フリーソフトウェア陣営の人は、この問いに対してどう答えるのでしょう? たとえそういう世の中になったとしても、でもなおかつソフトウェアには自由が必要なのだ、ということを皆が分かるように説明できなくてはいけないと思うのです。

自由を獲得することが目的となるのは、今現在不自由だと感じているということの裏返しなのではないでしょうか。だとすると、自由を手に入れることができた暁には、目的が消えてしまう。自由を手にした後、何をするかが大切なのです。オープンソースという「利」を求める潮流に飲み込まれてフリーソフトウェアの「理」がかき消されてしまわないためには、もう一度このことを考え直してみる必要があるのではないかと感じている今日この頃です。

2009-12-25 18:07 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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