(ここに紹介するHPはリンクフリーか、HP管理者の承認済みです。)
松本清張「石の骨」を読む
松本清張の小説の中で、「石の骨」は「或る小倉日記伝」に代表される作品群に属する短編小説です。
この作品群の特徴は学究として豊かな才能と熱意をもちながら肢体不自由かあるいは学歴にとぼしい在野の不遇な研究者たちの物語というところにあります。
そうしてこの作品群の特徴には松本清張がすぐれた才能にめぐまれながら、低学歴のゆえに社会の下積みとしての生活にあまんじねばならなかった悲哀と怒りが色濃く投影されているように思えます。
「石の骨」は明石原人の発見者として知られる直良信夫をモデルとしていることで有名です。しかし彼の発見は学界の公認する業績として認知されなかっただけでなく、いわれのない中傷をあびたことはご紹介する下記のHPをご覧になればあきらかです。
しかしのちに日本における旧石器時代の文化の存在を立証する岩宿遺跡を1946(昭和21)年発見した相沢忠洋が自伝「岩宿の発見」(講談社文庫)で「私は、あるときは奇人にされ、あるときはインチキだ、売名的サギ行為だと非難の声があが」ったとのべているように常識をやぶる発見に世間は冷たい反応しか示さないことが多いようです。
「石の骨」の最後で黒津(直良信夫)が述べた言葉(下記HP)はこれからあらわれるであろう学界の権威に挑戦する先駆者たちを激励する言葉のように思われます。
大分県―総合案内―キーワード検索―viento―VOL 12-先人の軌跡 直良信夫ー臼杵が生んだ考古学者
邪馬台国 大研究―17全国・博物館/歴史館/資料館めぐりー192明石文化博物館
松本清張「断碑」を読む
考古学者森本六爾をモデルにしたといわれている「断碑」という題の短編小説をご紹介します。
森本六爾は1903(明治36)年奈良県に生まれ、県立畝傍中学校を卒業すると小学校の代用教員をしながら独学で考古学を研究しました。その業績は下記HPに詳細です。
「断碑」は「石の骨」と同じ作品群に属しています。その共通する特徴は在野の不遇な研究者であり、彼らを物心両面で支えたのは献身的な妻でありました。松本清張は彼らの努力と苦しみに深い共感を覚えながらこの作品を執筆したことでしょう。
森本六爾博物館
梅原猛「隠された十字架―法隆寺論」を読む1
書名を見ると、皆さんの中には、ははああの本かと想いだされる方も多いことでしょう。
本書の第1版が公開されたのは1972 (昭和47)年ですから、お読みになられた方ももうその内容はほとんど覚えておられないでしょう。本書の内容の概略は下記の通りです。
1647(大化3)年山背大兄(聖徳太子の子)一家惨殺の当事者巨勢徳太の背後には藤原鎌足がいて、太子と深いつながりをもつ蘇我氏を滅亡させた。再建された法隆寺は太子の霊のたたりを恐れた鎌足の子孫の主導によるものである。
2 法隆寺再建年代について著者は715(和銅8)年をさほどさかのぼらない和銅年間とする。
3 法隆寺中門の中央の柱は怨霊封じ込めのためのものである。
4 金堂薬師如来・釈迦如来の製作年をそれぞれ667(天智6)・683(天武12)年とする。
5 金堂内の構成は悲惨な死に見舞われた太子一族の浄土への再生を祈願したものとする。
6 夢殿の建立を著者は739(天平11)年とし、光明子は疫病による藤原4兄弟の死に聖徳太子の霊のたたりを感じて夢殿を建立したとする。
7 夢殿の本尊救世観音の背後はくりぬかれて空洞となっており、光背は像の頭の後ろに釘で直接うちつけられている。これは同観音像が聖徳太子等身の像として入念な呪術が仕掛けられていることを示す。
梅原猛「隠された十字架―法隆寺論」を読む2
本書に対して歴史学者林屋辰三郎氏は下記のような解説(梅原猛著作集10 集英社)をしています。
1 梅原説が発表されたとき、多くの人々が疑問としたのは、当時平安時代初期に上限を考えられていた怨霊の思想がそこまでさかのぼりうるかということであった。
2 怨霊思想を再建法隆寺の理念として位置づけたことは、その謎解きや考証には問題を含んでいるにしてもたしかに首肯しうると思う。
3 2の実例として解説者は例えば中門の謎<真ん中の柱は怨霊封じ込めるためにある>という説明は説得的とはいえないとのべています。
なお同氏の著作「日本の古代文化」(岩波書店)第3章にも上記2と同様の見解が述べられています。
私も林屋辰三郎氏の指摘に同感です。
梅原猛「水底の歌―柿本人麻呂論―」を読む
梅原猛「隠された十字架ー法隆寺論」が刊行された翌1973(昭和48)年「水底の歌ー柿本人麿論ー」が発刊されました。
この著作も多くの方々に読まれ、さまざまの議論が起こったことは歴史好きの皆さんのよくご存知のことでしょう。
この内容の紹介ならびにその反響の大きさについては井沢元彦「猿丸幻視行」(講談社)・「逆説の日本史3 古代言霊編」(小学館)をご覧ください。それぞれ梅原氏の主張の要約と学界の反応や著者の提言が、梅原氏の主張を基本的に支持する立場から述べられています。
江津市HP―江津市観光協会―江津の万葉―江津と人麻呂
黒岩重吾「天翔ける白日 小説大津皇子」を読む
この小説は天武天皇死後、謀反の罪で刑死した大津皇子(父天武母大田皇女)の物語です。草壁皇子(父天武母鵜野皇女のちの持統天皇)が大津の兄というのが通説ですが、この小説では大津が草壁の兄ということになっています。
大津と腹違いの兄弟であった草壁はこの小説では無能だと徹底的にけなされています。しかし草壁に関する史料はほとんどありません。草壁と大津は恋敵で石川郎女を争ったとき、彼女に贈った草壁の歌を見ると、あまり冗談もいえないくそ真面目な性格でおとなしい人だったように思えます。大津と彼女の間に交わされた歌の軽妙なやりとりとくらべると平凡です。
それだけに草壁の母は自分の腹をいためた草壁をなんとしても次の天皇に押し上げようと必死で、大津を敵視したのもよく分かります。また草壁の母は単なる盲愛の女ではなく、ようやく律令制が確立しつつある当時の日本において天皇は乱世の英雄であった天武やその気質を受け継いだ大津よりも病弱ではあるが温和な人柄の草壁がのぞましいと考えていたのに相違ないでしょう。
大津は当時伊勢にあった姉の大伯皇女を訪ね、重大事を語ったようですが、姉が飛鳥へ帰っていく弟の運命を思って夜明けの露にぬれて立ち尽した様子を歌った万葉の作品は深く心にせまる雰囲気を持っています。
大津が非業の最期を遂げる直前に詠んだ辞世の歌と漢詩が万葉集と懐風藻に収録されていますが、無念をおさえられなかった様子がよくわかります。
またこれほど苦労してわが子草壁を守ったのに草壁が皇位につくことなくこの世を去ったとき、どのような思いが母の胸をよぎったのでしょうか。
大津皇子
「世の中に昔語りのなかりせば」−大伯皇女と大津皇子
飛鳥の扉―大津皇子と二上山
矢釣宮
杉本苑子「穢土荘厳」を読む1
杉本苑子「穢土荘厳(えどしょうごん)」(文春文庫)は主として大仏建立に至る奈良時代の政争・外交・宗教・社会・文学などを描写した小説で、昭和53年〜58年にかけて月刊雑誌「大法輪」に掲載され、昭和61年度の女流文学賞を受賞した作品です。
この小説は長屋王の資人(従者)で左兵衛府の下級武官手代夏雄(創作人物)が長屋王の子膳夫王子からの密書を長屋王の弟鈴鹿王に届けた後にわか雨にあって道祖神の祠に避難したとき、詐欺師三田五瀬(「続日本紀」大宝元年8月7日条)に出会って思い出話を聞かされるところから始まります。
7〜8世紀の日本には推古・皇極・斉明・持統・元明・元正・孝謙・称徳の8代(皇極・斉明、孝謙・称徳は同一人物)にわたる女帝が出現しました。
この小説における興味の一つはとくに持統・元明・元正・孝謙の女帝が果たした役割は何であったかということにあります。
杉本苑子「穢土荘厳」を読む2
古代日本の女帝の果たす役割を考える前に大化改新や壬申の乱について復習しましょう。
飛鳥の扉-乙巳の変・大化改新-壬申の乱の舞台を訪ねて
飛鳥三昧-サイトマップ-山田寺
持統天皇ー系図(天皇家・橘氏・藤原氏)
上田正昭「古代日本の女帝」(講談社学術文庫)によれば、日本の女帝にはシャーマン(神がかりして天上界の精霊や下界の悪霊・死霊などとの交流をする) の伝統がまつわりついているとみなす折口信夫説で推古・皇極などの女帝がこれに当たるとする。また天武天皇の皇后であった鵜野皇女は其の子草壁皇子の将来に期待したが草壁は28歳で病没した。草壁と阿陪皇女との間に軽皇子があったが幼少であったため、天武なきあと皇后が即位して持統女帝となった。 これは皇位継承者に皇統直系の男子がない時、皇統につながる女人が臨時に天皇となる中つぎ天皇として女帝の役割があるとする井上光貞説などが紹介されています。
しかし上田氏は中つぎ天皇では説明できない例として元明女帝から元正女帝への譲位をあげます。この譲位の折に文武天皇と藤原不比等の娘宮子との間に生まれた首(おびと)皇子はすでに15歳になっていた。文武天皇は15歳で即位した先例もある。しかるに皇位は軽皇子の姉にあたる氷高皇女に譲られて、元明・元正という女帝2代がつづいた。これを上田氏は皇位継承の争いを事前に回避しようとするてだてであったと述べています。
杉本苑子「穢土荘厳」を読む3
中村修也「持統女帝から元正へ」(「続日本紀の世界」第五章 思文閣出版)は次のように述べています。
壬申の乱で大海人皇子が即位して天武天皇となると、皇位は天武系に引き継がれることになった、と一般的には説かれている。しかし天武死後皇后鵜野讃良皇女は姉の子大津皇子を殺害してまでわが子草壁皇子即位を実現しようとしわれわれに母系のイメージを強くする。しかし草壁は皇太子で死去し、鵜野讃良皇女は689年飛鳥浄御原令を施行するとともに、690年即位して持統女帝が誕生した。彼女は694年藤原京に遷都し697年草壁の遺児軽皇子に譲位した。これが文武天皇である。
701年文武は大宝律令を制定したが707年25歳の若さで死去した。文武 は死去の前年母阿陪皇女に譲位したい意思を表明したようで、文武の子首皇子は701年の生まれであるから幼少であり、文武の母は文武の要請を受諾して即位し、ここに元明女帝が生まれた。
しかし首皇子への皇位継承はそれほど自明のことだったのであろうか。首の母は藤原不比等の娘宮子でしかも716年不比等と県犬養橘三千代の娘安宿媛(光明子)と結婚している。
713(和銅6)年文武の嬪(令制における天皇の配偶者)である石川刀子娘 と紀竈門娘の嬪号が剥奪された(「続日本紀」和銅6年11月5日条)。石川刀子娘には文武との間に広成・広世という2人の子があり、石川氏は蘇我氏の末裔であった。広成・広世は首皇子の強力なライバルとなりうる。
このような藤原氏の行動に対する嫌悪感が元明の元正への譲位ではなかろうか。
杉本苑子「穢土荘厳」を読む4
藤原不比等
県犬養橘宿禰三千代
中村修也論文「持統女帝から元正へ」は「穢土荘厳」より約15年後に刊行されたものですが、「穢土荘厳」のあらすじとよく似ております。女帝の役割を 「穢土荘厳」は次のように述べています。
大化改新は飛鳥板蓋宮で中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を殺害して発足した。天智帝と藤原の姓を授かった鎌足は壬申の乱がおこった時2人とも死去していた。しかし年少のゆえに生き残った鎌足の次男藤原不比等にとって一族がほとんど戦火の犠牲になったことは恨めしいことであったに違いない。天武朝につくられた浄御原令、持統女帝によって建設された藤原京を二つとも捨てることで、彼は壬申の報復を図ったのであろう。しかしそのためには意のままに動かせる権力者(文武帝)を手中にしなければならぬ。
県犬養三千代は軽皇子の誕生とともに乳母として宮中にあがった。不比等は三千代を妻として彼女を藤原陣営にひきいれ、軽皇子が即位して文武帝となると、不比等は先妻の娘宮子を帝の夫人(令制における天皇の配偶者)とすることに成功し、宮子は首皇子を産んだ。
702(大宝2)持統先帝は死去の際首皇子の皇位継承を拒否する遺言を残した。そのこともあって707(慶雲4)年文武帝死後母阿閇皇女が即位し元明女帝となった。かくして大化の新政で犠牲となった蘇我倉山田石川麻呂の孫にあたる三女性ー持統・御名部・阿閇は藤原氏に対して団結を誓い直したのであった。元明女帝の即位を認めた不比等は710(和銅3)年平城京遷都をおしきった。そうして首皇子が15歳になると不比等は皇子の立太子を要求してきた。元明はこれを認めるかわりに娘の氷高皇女を帝位につけた。これが元正女帝である。
杉本苑子「穢土荘厳」を読む5
元明天皇の譲位の詔(「続日本紀」霊亀元年9月2日条)によれば、氷高内親王(元正)はもの静かで若く美貌の女帝であったようです。しかし「白虹日を貫く」自然現象を凶兆とし、天皇の「薄徳」によるものする謙虚さは藤原氏に天皇を退位に追い込む口実として利用され、721(養老5)年元明先帝が死去すると 元正女帝は後ろ盾を失い、724(神亀1)年首皇太子に譲位します。これから 聖武天皇の治世がはじまることになります。
すでに720(養老4)年右大臣正二位藤原不比等は死去し、政界は其の子藤原4兄弟ー武智麻呂(南家)・房前(北家)・宇合(式家)・麻呂(京家)に代表される藤原氏と長屋王に代表される皇族勢力との対抗関係を軸として動く情勢となってきました。
長屋王
奈良発見―歴史@発見―長屋王の悲劇
長屋王は聖武天皇即位とともに左大臣に任ぜられました。天皇は母宮子夫人を今後大夫人と呼べと命じましたが、長屋王は公式令では皇太夫人と称すべしと規定されていると反論し、天皇もこれに従わざるをえませんでした。
藤原朝臣光明子
聖武天皇即位により安宿媛(光明子)は夫人となりました。天皇の配偶者は令制により皇后・妃・夫人・嬪の4等級があり、妃以上は皇族の女性でなければならない規定がありました。当時は大宝律令が施行されていましたが現在に伝存するのは養老律の一部と養老令の大部分で、大宝律令は伝存していません。しかし養老令の私的注釈書「令集解(りょうのしゅうげ)」(新訂増補「国史大系」第23・24巻 吉川弘文館)に引用されている大宝令の注釈書「古記」逸文により天皇の配偶者に関する大宝令の規定は養老令と同じであったことがわかります。
727(神亀4)年閏9月光明子は基皇子を出産、同年11月皇子立太子が行なわれましたが、翌年9月皇太子は死去し、同年夫人県犬養広刀自に安積親王が誕生しました。
杉本苑子「穢土荘厳」を読む6
729(天平1)2月10日年長屋王の変が起こりました。左京人従七位下漆部造君足と無位中臣宮処連東人が「左大臣正二位長屋王がひそかに左道を学んで国家を傾けようとしている」と密告しました。よって11日式部卿藤原宇合らが兵を率いて長屋王宅を包囲し、一品舎人親王・中納言正三位藤原武智麻呂らが長屋王宅で其の罪を糾問した結果、12日長屋王はその妻吉備内親王(父草壁皇子、母元明天皇)及び4人の子とともに自害しました。
13日長屋王と吉備内親王の遺体は生馬山(生駒山)に埋葬され18日には勅使が長屋王弟従四位上鈴鹿王宅において長屋王兄弟・姉妹・子孫に連座の罪が及ばないと伝えました。以上が「続日本紀」の長屋王の変に関する主要な記事です。
しかるに同年8月10日聖武天皇は夫人光明子を皇后に立てると宣言します。これはあきらかに大宝令の規定を無視した措置ですが、天皇は宣命(国文で記述された詔)で「仁徳天皇が葛城氏の娘磐姫を皇后にたてた先例があり、大臣(藤原不比等)の娘を皇后にするのははじめてではない」といいわけをしています。
さらに738(天平10)年7月10日左兵庫少属従八位大伴子虫が刀で右兵庫頭外従五位下中臣宮処連東人を殺害しました。子虫ははじめ長屋王に仕えて恩遇をうけた人で、政事の隙に碁を囲んでいました。話が長屋王に及ぶと、子虫は憤慨して東人を罵り、殺害したそうです。「続日本紀」はその後に東人は長屋王を誣告(故意に偽って告げること)した人であると述べています。つまり長屋王は無実の罪を負わされたとはっきり言っているのです。
寺崎保広「長屋王」(吉川弘文館)は、長屋王の変の背景に関する岸俊男説を次のように紹介しています。藤原氏は安積親王の即位を阻止するために光明子を皇后(天皇になることもある地位)に立てようとした。しかしそれに反対するであろう長屋王に謀反の罪を着せて失脚させ、その半年後にようやく光明立后に成功したのである。
「穢土荘厳」も岸説と同様の観点ですが、長屋王の弟鈴鹿王が藤原氏と共謀して兄を自殺に追い込んだと推理しています。
杉本苑子「穢土荘厳」を読む7
この小説を読む興味の第二は長屋王の変の原因と黒幕の人物は誰かという推理にあります。この小説では鈴鹿王の正体に気付いた手代夏雄は鈴鹿王を襲撃しますが失敗して捕えられます。しかるに鈴鹿王の嘆願により夏雄は釈放され、 出家して行基の弟子となり行浄と呼ばれる僧侶となります。
そうして「穢土荘厳」を読む興味の第三は行基の生涯と東大寺大仏建立との関係を当時の政治・社会・宗教のありかたから考察することにあります。
行基
井上薫「行基」(吉川弘文館)によれば、行基は668年天智天皇が近江大津宮で即位した年、河内の大鳥郡に生まれました。父は王仁の子孫といわれる高志氏、母は父と同じく渡来人系の蜂田氏で彼が704(慶雲1)年生まれた母方の家を寺としたのが家原寺(大阪府堺市家原寺町)です。
682年彼は15歳で出家し道昭を師として法相宗を学んだといわれます。道昭は井戸を掘り、船を造り、橋を架けるなどの土木技術に長じていたようです(「続日本紀」文武4年3月10日条)。道昭が死去した700年ころから行基は積極的に民間伝道をはじめ、各地を周遊して民衆を教化したので行基を慕って追従するも のがややもすれば千名に達しました。自ら弟子を率いて要害の処に橋を造り堤防を築くとき、民衆は自発的に協力し短時日で完成しました。和尚が来ることを聞くと争って来て礼拝しました。時の人は号して行基菩薩と呼んだそうです。彼が留止する所に道場を建てたが、それは畿内に四十九処、その他の諸国にも往々にしてあったということです(「続日本紀」天平勝宝元年2月2日条)。道場とはおそらく粗末な寺であったのでしょう。
Nobk’s Hom-Page-北河内古代人物誌―僧行基
1175(安元1)に編纂された「行基年譜」(「続々群書類従」所収)には行基の建設した施設として「布施屋」の場所が記述されています。
710(和銅3)年平城京に遷都した後も都の造営はつづき、一層苛酷となった 負担と労役のため、調庸運脚夫で餓死するものや、役民で逃亡するものが多くいました。「布施屋」とはこうした運脚夫や役民を収容する施設でおそらく豪族の寄進による食料支給を行なったものと考えられます。
杉本苑子「穢土荘厳」を読む8
717(養老1)年元正天皇の名でだされた詔は所定の寺院以外の場所における宗教活動を禁止する僧尼令にもとづき、行基を小僧とけなし民衆への伝道を百姓を妖惑し、仕事を放棄させるものであると非難しました。行基に追従した優婆塞・優婆夷(仏教に帰依した在俗の男女)の中には租税を逃れるために僧形をしたものがかなり含まれていたのでしょう。
ところが731(天平3)年聖武天皇の名で出された詔は行基法師(小僧とは 呼んでいない)に随逐する優婆塞・優婆夷らの男の年六十一、女五十五以上は入道を許すといっており、政府は次第に行基の活動に譲歩しはじめます。
その理由は723(養老7)年に出された有名な三世一身法(「続日本紀」養老7年4月17日条)に「ちかごろ人口が増加して田池が不足している。そこで 新たに溝池を造り開墾したものに三世の私有を、旧溝池を利用して開墾したものに一身の私有を認める」といっており、行基とその弟子たちが田池を造る土木技術をもち、多くの民衆動員力をもっている実力を利用しようとしたからでしょう。
しかるに735(天平7)年九州で疫病が流行しはじめ、それは短期間で京に侵入しました。「続日本紀」はこの年の記事の最後に「是歳、年(たなつもの) 頗る稔らず。夏より冬に至るまで、天下、豌豆瘡[俗に裳瘡(もがさ)と曰ふ]を 患いて夭死する者多し。」と述べています。一時は政界の覇権を確立したかにみえた藤原氏も737(天平9)年4月から8月にかけて藤原4兄弟(藤原不比 等の子)が疫病の犠牲となって死去するとその勢力は不振となりました。
同年9月28日鈴鹿王(長屋王の弟)が知太政官事に任ぜられました。翌年には阿倍内親王(死去した基皇子の姉)が皇太子となっています。これは藤原氏の勢力を立て直そうとする策とみてよいでしょう。同日橘諸兄は右大臣に任命されました。かくして橘諸兄政権が発足します。彼は734(天平6)唐から帰国した入唐学問僧玄ム・入唐留学生吉備真備を重用して政権運営を補佐させました。
橘宿禰諸兄
よろパラ文学歴史の10−万葉人物列伝―玄ム
吉備朝臣真備
杉本苑子「穢土荘厳」を読む9
740(天平12)年8月末大宰少弐藤原広嗣(藤原宇合の子)が上表し、天地の災異の原因は政治が誤っているためであるとして、玄・・吉備真備を除くことを要請し、9月九州で挙兵しました。
聖武天皇はただちに大野東人を大将軍に任命して藤原広嗣の乱の鎮圧を命令し、乱は10月下旬には鎮圧されましたが、天皇は大野東人に「朕は思うことがあって今月の末しばし関東に行く。そんなことをしている時期ではないのだが止めることができない。」と述べて放浪の旅をはじめるに至ります。聖武にとって広嗣の反乱はよほど衝撃が大きかったようです。741(天平13)年3月の国分寺建立の詔に「このころ年穀不作で疫病が蔓延しているのは自分の罪であり、恥ずかしさに耐えず、広く国民のために幸いを求めようと思って去歳諸国に釈迦如来像を造らせ、大般若経を写させた。今春以来天候も順調で五穀豊作であった。…国毎の僧寺はその寺名を金光明四天王護国之寺となし、尼寺はその寺名を法華滅罪之寺となす。」と言っています。11月橘諸兄は建設中の新宮の命名を天皇に願いでると、天皇は大養徳恭仁大宮(やまとくにのおおみや)とすると答えました。
大伴家持の世界―伝記―家持アルバムー内舎人時代―恭仁京
ところが742(天平14)年2月になると恭仁京から近江国甲賀郡に通じる道路が建設されはじめ、8月には近江国甲賀郡紫香楽(しがらき)村に離宮を造営せよとの命令が出て月末に天皇は紫香楽宮に赴きました。
歴史の足跡―天平の宮跡―紫香楽宮
744(天平16)年になると天皇は難波宮に行くと言い出しました。同年閏正月11日安積親王(父聖武天皇、母夫人県犬養広刀自)は父に随行して難波に赴く途中脚病で河内の桜井頓宮から引き返しましたが13日17歳で死去しました。暗殺された疑いが濃厚です。(大伴家持の世界―伝記―家持アルバムー壮年期―難波)
745(天平17)年5月天皇は百官を集めてどこを都とすべきか下問したところ、みな平城京を都とすべき旨答申したので天皇は平城京に帰還しました。
杉本苑子「穢土荘厳」を読む10
国分寺建立の詔が発せられたにもかかわらず、国分寺建立ははかどりませんでした。やがて聖武天皇は大仏建立を発願します。そのきっかけとなったのは740(天平12)年2月河内の知識寺(大阪府柏原市)で見た盧舎那仏が気に入り、自分も作りたいと思ったようです。盧舎那仏とは華厳経の教主とされている仏で輝きわたる仏の意味とされ、蓮華蔵世界を照らす本尊とされています。この 大仏建立のためには、天皇の意志だけではなく、広く国民の自発的な協力が必要と感じたのでしょう。
743(天平15)年恭仁京で有名な墾田永世私財法(「続日本紀」天平15年5月27日条)が出され、土地の永世私有が認められたのですが、これは身分の上下 によって土地私有面積の限度がありました。つづいて同年10月15日天皇の紫香楽滞在中に大仏建立の詔が発せられ、「それ天下の富を有つ者は朕也。天下の勢を有つ者も朕也。」と天皇の権勢を誇示しつつも「もし更に人の一枝の草・一把の土を持ち像を助け造らむとねがうものあらば、恣に之をゆるせ。」と述べて人民の自発的協力をよびかけています。つまり大仏建立に寄進したものには位階を授け、それによって墾田面積をさらに拡大できることになるという目的が墾田永世私財法にはあったのです。
「行基年譜」によれば行基は740(天平12)年に恭仁京のすぐ西の大狗(京都府相楽郡山城町)に泉橋院を建てており、翌年3月聖武天皇はこの寺に行幸して 摂津国為奈野(兵庫県尼崎市猪名寺附近)の地を給孤独園(身寄りない人々の収容所であろう)とすることを許可したそうです。大仏建立の詔が出された後、「 続日本紀」は「盧舎那仏を造り奉らんがために始めて寺地を開く。是において行基法師、弟子らを率いて衆庶を勧誘す。」と述べています。
行基が大仏建立の費用勧進に従事したのは、彼が民衆を裏切って律令国家と結びついたのであるとする説があるそうです(井上薫「行基」吉川弘文館)。井上氏は天平15年前後で彼の思想や立場が根本的に変わったのではなく、変わったのは政治・社会の情勢や、官の行基観である。裏切り説はどうもおかしいと思うと述べています。杉本苑子氏も「穢土荘厳」で井上薫氏と同じ立場にたっています。
杉本苑子「穢土荘厳」を読む11(最終回)
744(天平16)年甲賀寺に始めて盧舎那仏像の体骨の柱を立て、聖武天皇自ら臨んで自分でその縄を引きました。甲賀寺とは大仏が造られている紫香楽の寺のことです。翌年正月に行基は大僧正に任命されています。
745(天平17)年平城京還都後、大仏造営は平城京の東、金鐘寺(金光明寺)で再開されました。747(天平19)年末ころ金鐘寺は東大寺と呼ばれるようになります。
749(天平勝宝1)年2月2日行基は菅原寺で病み死去しました。8日遺言 により弟子は生馬山(生駒山)の東陵(奈良の西方)で遺体を火葬しました。
遺骨は舎利瓶に収められ、瓶に行基の伝記を刻んで墓地に埋葬しました。墓地は竹林寺にあり、瓶に刻まれた金石文は「行基大僧正墓誌」と呼ばれ行基研究の重要史料となっています。
生駒市―いろいろと便利なシステムーゲジタルミュージアムームービーを見ないー文化財時代別一覧―奈良時代―行基墓―行基墓誌残欠
大仏建立は具体的にどのような技術を駆使して造られたのでしょうか。
アイシン高丘株式会社―Web鋳物なんでも館―鋳物の歴史ページ第4回―大化改新と奈良大仏
同年7月聖武天皇は健康状態が悪化し、皇太子阿倍内親王に譲位しました。この天皇が孝謙天皇です。
東大寺大仏の細部はまだ完成していませんでしたが、752(天平勝宝4)年 4月9日の大仏開眼会には聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇が文武百官を従えて東大寺に行幸しました。
「穢土荘厳」の最後に開眼会の当日東大寺造瓦所真上の崖の上で行基の弟子行浄が友人を相手に次のような話をしているのが注目されます。
「今は亡きわれらの師行基大徳は『大伽藍などいらぬ、仏像もいらぬ。仏者たるものの真骨頂は、釈尊がなされたように王侯の身分を捨て、一鉢の食を乞いつつ真理を探究するところにある』とつねづね仰せでした。」
「その通りだよ。大仏造立の勧進すらも大徳はそれをひと摘みの麦を喜捨することで購える民衆の仏への結縁の好機と捉えて勧進聖の役を引き受けられたのだ。」
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