ニックネーム:さるしばい
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2008年07月06日(日)
「孤愁の岸」を読む7〜「孤愁の岸」を読む15
杉本苑子「孤愁の岸」を読む7

 1753(宝暦3)年12月25日幕府は薩摩藩主島津重年に濃・勢・尾三州川々御普請御手伝を命令、重年は帰国中であったので翌26日老中西尾隠岐守忠尚が薩摩江戸藩邸留守居役山澤小左衛門を江戸城に呼び出し命令を伝え、老中連署の奉書を交付しました。薩摩藩江戸家老島津主殿・島津主鈴は即日早飛脚を鹿児島に出発させて命令を藩主に急報しました。
 同月27日幕府は再び山澤小左衛門を呼び出し勘定奉行一色周防守政を治水工事御用とし、石野三次郎ら4名を治水工事目付役として派遣する旨を伝え、工事については万事一色周防守と打ち合わすべきこと、工事人足は村々百姓に申しつけ、町人請負にしないこと、現場には多数の役人を派遣するに及ばないことなどを伝え、仰渡書付三通を交付しました。
 薩摩藩江戸家老島津主殿・島津主鈴は奉書等に関する詳細な内容を知ろうと用人岩下佐次右衛門を一色周防守邸に派遣、来年何月ころより工事に着手せらるべきかを尋ねたところ、一色周防守は治水工事は来る正月末着手、三月末中止、九月ころ再び着手、十一月竣功の予定、仕様書・絵図面等は追って相渡すべきことなどを内達しました。同月28日岩下佐次右衛門は再び一色周防守邸を訪問、「幕府御見積の工事入費は如何程を要すべきか、内々承りたい」旨を用人へ申し出たところ、用人の返答は「凡そ十万両許りの御見積の由承り候、十四五万両にも及び申すべきかと存じ候」という漠然としたものでした。
 同月29日島津主殿・島津主鈴は去る27日以来老中堀田相模守並びに勘定奉行一色周防守に接触して探聞し得た情報や幕府から渡された仰渡御書付写三通その他を副え、国家老伊勢兵部・義岡相馬・新納内蔵・鎌田典膳・平田靭負・市来左中宛て早飛脚で通報しました(四五 島津氏世録正統系図 抄 「岐阜県史」史料編 近世五 岐阜県)。

杉本苑子「孤愁の岸」を読む8

 1753(宝暦3)年12月25日付美濃国川々治水命令の老中奉書は遅くとも翌年正月9日か10日ころには鹿児島に到着したことと思われます。この奉書に接した薩摩藩主島津重年と島津家重臣たちの衝撃は大きかったことでしょう。
 この小説は自宅で算用方吟味役をつとめる部下の笈川鉄之助と碁を打っていた薩摩藩家老平田靭負(ひらたゆきえ)が平田家の家扶宮増外記(みやますげき)から「城中より『申し談ずる儀あり、即刻登城せよ』との召し触れが参りました」と告げられるところからはじまります。

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 つづいて前年12月29日江戸家老が発した続報は1754(宝暦4)年正月13日ころには鹿児島に到着したようです。
 当時幕府側から島津77万石の薩摩藩は裕福と見られていたようですが、藩財政は藩主継豊が竹姫を継室として迎えて以来失費続きで、藩内及び大坂などにおける借銀は1753(宝暦3)年当時4万貫余(「鹿児島県史」第2巻 鹿児島県)(銀60匁=金1両 金貨に換算すると約67万両)に達していました。このため5年以前から米租増徴の外人頭税、牛馬税、船舶税などの特別税が賦課され、藩債の償却など藩財政の再建に薩摩藩は苦慮している最中で、とくに御勝手方家老(財政担当家老)平田靭負正輔の苦労はなみなみならぬものがありました。
 しかるに今御手伝普請の幕命を受け入れれば数万貫の負債は最悪の場合倍加すると予想され、藩財政が破綻に陥ることは明らかです。
 藩主島津重年は一族重臣を鹿児島城中に招集し大評定を開いたといわれます。大評定においてあるものは幕命拒絶を主張するものや幕府との一戦を主張するものもありましたが、幕命拒絶が薩摩藩の滅亡を招くことは誰の眼にもあきらかであり、結局薩摩藩挙って工事を成し遂げるということに評定一決、正月16日御手伝総奉行に平田靭負正輔、副奉行に伊集院十蔵久東を任命することが家老伊勢兵部から全藩に発表されました。つづいて同年正月21日幕府老中宛松平薩摩守名で「濃州、勢州、尾州川々御普請御手伝仰付けられ、有難き仕合に存じ奉り候。」という文面の請書が幕府へ提出されたのです(伊藤信「前掲書」)。

杉本苑子「孤愁の岸」を読む9

 総奉行平田靭負がまず取り組まねばならなかったのは巨額と予想される御手伝工事費の調達でした。平田靭負はおそらく藩主島津重年の了承を得て中島源兵衛を大坂へ急行させ、大坂・京都の薩摩藩邸留守居とともに金策に着手するよう「御用銀さへ相調ひ候へば頂上の儀故、銀主共へ随分熟談致し饗応又は附届等致し候儀は申談じ、何ヶ度も時宜次第致す可く候」(「島津氏世録正統系図」岐阜県史 史料編 近世五)と指示しました。平田靭負は1754(宝暦4)年正月29日鹿児島を出発、2月16日大坂長堀の薩摩藩邸に入りました。平田靭負はこのとき江戸表から御手伝工費ははじめ14〜5万両と聞いていたが実際は30万両以上との内報があり仰天したようです。彼は美濃へ赴く途中大坂・伏見に留まり、とりあえず約7万両の借金を得て同年閏2月6日伏見を出発、同月9日美濃国安八郡大牧(岐阜県養老郡養老町大巻)の本小屋(治水工事御手伝の本部)豪農鬼頭兵内方へ到着したのでした。

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 「予め助役の費用を計るに、大抵三十万両ならんか。是れ芝邸(薩摩藩江戸藩邸)の伝ふる所なり。故を以て正輔、久東、大坂・伏見に在り。藩邸留守居等と共に用金を銀師に議す。…後雑費を会計し、銀一万三千三百七十八貫八百十五匁九分八厘五毛、これを金と為して二十二万二百九十八両なり。銀師に借り、余は国産及び士庶に収めて、以て之に充つ。」(「宝暦三年治水記」島津氏世録正統系図)
 この史料によれば、薩摩藩は宝暦治水御手伝費用を幕府担当者からの情報を総合して総額30万両と予測し、上方の商人から借金約22万両を調達、不足分を藩費節約と献納金、士分の扶持米削減、国産物の売却と庶民の負担増で賄ったことになります。しかし御手伝費用が30万両で賄えたとしても、これに従来の借銀4万貫余を加えると薩摩藩の負債は借金に換算して約90万両という巨額に達することになりました。
 薩摩藩が御手伝工事を監督するため現地に派遣した人数は江戸藩邸からの人員も含めて1000人近くに及んだということです。藩主島津重年は御手伝方心得書(宝暦四年二月付「島津氏世録正統系図」岐阜県史 史料編 近世五)を現地に送って幕府役人との間に紛争を起こさず、首尾よく成就するよう諭し、平田靭負は工事中多度神社(岐阜県安八郡輪之内町)に度々参詣して祈願したと伝えられます。 
 幕府がたてた工事分担区域は一の手から四の手に分かれ、伊勢海の河口から上流へ約60km、東西約40km、関係村落は193箇村に及びました。

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杉本苑子「孤愁の岸」を読む10

 御手伝工事監督に従事する薩摩藩士が現地に到着する以前に、幕府側役人は薩摩藩士に対する大体の宿割りをきめ、普請箇所村々に触書を回して、普請材料は勿論、人馬賃銭・宿泊の飯米・牛馬飼料などみだりに値上げをせず相応の代金を受け取って提供すべきことを通達しました。
 薩摩藩士の待遇に関して伊勢国桑名郡五明村の庄屋・年寄・百姓代が高木新兵衛配下の内藤十郎左衛門宛に提出した止宿村々申渡書付に対する宝暦4年2月24日付請書によれば、賄いは一汁一菜とし心付けがましい馳走は一切しない、物品の売買は所の相場により安くするに及ばぬ、聊かの品でも代金を受け取らなければ之を渡すな、宿は見苦しくとも取り繕いは禁止するなどのことが述べられています(伊藤信「前掲書」)。
 第1次応急工事は同年2月下旬から5月下旬までに終了しましたが、4月14日薩摩藩士永吉惣兵衛・音方貞淵、4月22日には内藤十郎左衛門(高木新兵衛家来)が自刃する事件が起こりました。永吉惣兵衛埋葬時に薩摩藩士二宮四郎衛門から海蔵寺(伊勢国桑名)に差し入れた宝暦4年4月16日付一札に「松平薩摩守家来永吉惣兵衛、腰物に而致怪我相果候に付、」と自刃したことを隠しているのです。四十余名の薩摩藩士自刃の理由については正確な記録が欠け不明ですが、内藤十郎左衛門については工区担当の笠松郡代青木次郎九郎以下諸役人が息を引き取る寸前に十郎左衛門を尋問して作成した口上書(「西高木家文書」名古屋大学附属図書館所蔵)によると、「和泉新田普請所で土薄い場所は右村庄屋與次兵衛へ吟味させ直させたけれども、與次兵衛は横着者にて十郎左衛門の指図に従わず、もはや普請も完成したので、與次兵衛のことは次郎九郎様へ申し上げませんでした。ところが御徒目付衆から土薄い箇所には念を入れるようにとの御指摘があり、もっとものことと存じます。もし御徒目付衆から主人新兵衛にこの点についての御沙汰があれば、自分の面目がたたず切腹いたしました。」と申し述べたそうです。

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杉本苑子「孤愁の岸」を読む11

 1754(宝暦4)年5月11日島津重年は江戸参勤のため鹿児島を出発しました。このときその子善次郎(島津重豪)を継嗣として幕府に届けるため同行させたのです。重年はその途中美濃の工事現場を視察するため中山道垂井宿から美濃寺路をとって7月4日大垣へ到着しました。
 このとき総奉行平田靭負らは藩主の旅宿に伺候、それまでの工事実施状況を報告しましたが、とくに永吉惣兵衛・音方貞淵をはじめとして、6月には江夏次郎左衛門・茂木源助・永田佐左衛門の家来関右衛門などが割腹した事情を説明すると、藩主は驚き愁嘆しました。
 翌7月5日藩主は平田靭負の説明を聞きながら大垣より竹ヶ鼻へ出て三之手の工事現場を視察、中島郡石田村の出張小屋で休息、ついで一之手三柳村あたりの工事現場を巡視、尾張起宿に休息、後事を平田靭負に託して江戸へ向かいましたが(伊藤信「前掲書」)、これは苦難の薩摩藩士たちをどれほど勇気づけたことでしょうか。
 同年7月22日付薩摩藩国家老義岡相馬・鎌田典膳宛総奉行平田靭負報告書によれば、治水工事費用をできるだけ節約するために、平田靭負は幕府から工事人足は村々百姓に申しつけ、町人請負にしないことを命じられていましたが、これでは村方農民は土木工事に無経験であり、内藤十郎左衛門割腹の理由にあげられているように、村々百姓の中には報酬だけ受け取って監督者の指示に従わない横着者もいるので、費用がかかる割りに仕事ははかどらないという結果になりやすい欠点があります。これを土木工事に経験ある町人請負にすれば、町人は仕事を受注するために、できるだけ安い価格で工事請負を獲得するため競争することになり、村方請負より費用を節約できて、しかも仕事は能率的になるというわけです。
 そこで平田靭負は水行御普請難場三十八ヶ所の外請負(町人請負)を幕府当局に出願したところ難場六ヶ所の外請負が許可されました。さらに残る三十二ヶ所の外請負出願について青木郡代・吉田代官より「これは聞き届けられないであろう」といわれたけれども、引き続き努力することを述べています。また幕府は油島新田並びに大榑(おおくれ)川締切堤新築も御手伝工事を命ずる意向であることを伝え、人数増派を要請しています。
 三十二ヶ所の外請負出願について、勘定奉行一色周防守は村方が納得するならば、外請負にし、納得しない村方は村請負とするよう指令しました(伊藤信「前掲書」)。

杉本苑子「孤愁の岸」を読む12

  第2期工事で油島、大榑(おおくれ)川両方とも川をすっかりしめ切るか、ただしは中開けとするか、中開けの場合は食い違い堰とするか洗い堰とするか決定していませんでした。川をすっかりしめ切ることによって水害から浮かび上がれる村は堤の中開けに反対し、しめ切られるためにわが輪中への水あたりが強くなり洪水の危険にさらされる村々は中開けを主張して譲りません。
 大榑川と長良本流との分かれ口に、しめ切り堤より低い築堤を河中へ突き出すと、ふだん水位の下がっているときは、長良の水はせきとめられて支流の大榑川へはいってきませんが、長良の水位が常の水位より4尺を越すと、余分な水は築堤の上を洗いながら大榑川へ落ちはじめます。このため長良の水勢は弱まり、大榑川の流れも緩和される。これを「洗い堰」と呼びますが。対立する双方の主張を折衷した妙案といえましょう(「孤愁の岸」を読む3−HP「輪中の歴史―宝暦治水」参照)。
結局大榑川には洗い堰を築造、油島新田締切堤については北方油島新田より五百五十間、南方松之木村より二百間の締切堤を築出して中間三百間を開けることに決着しました。

かんこう輪之内―遺構を探すー建造物等―大藪洗堰跡の碑

1754(宝暦4)年5月下旬から同年9月下旬第2期工事が開始されるまで、御手伝薩摩藩士は請負人や村人足その他を督促して陸上の工事を行う一方次期工事の準備に奔走していました。この間既成工事が出水によって破壊されることが多く、多面幕府役人の督励が急であったため、6月には江夏次郎左衛門・茂木源助・永田佐左衛門の家来関右衛門が割腹し、その数36名に上りました。しかしこれらの人々の割腹の原因や事情については不明であります。

日本の川と災害―石碑の語る治水・利水災害の歴史―宝暦治水史蹟位置図―鹿児島市―大中寺 薩摩義士墓

 また同年6〜7月疫病が流行し、薩摩藩士佐久間源太夫が8月25日幕府役人に送った書簡[四七「蒼海記」(高木新兵衛普請日記)巻8「岐阜県史」史料編 近世五]によれば、小奉行32人の内7人、歩行士164人のうち60人、足軽230人のうち90人が発病し数十人が病死(現在判明した病死者33名)したとのことで当分普請場所へ動員する人数を減少させ、また水行普請4工区2箇所より開始されるよう要請しています。
 第2期工事は同年9月24日起工、翌年5月22日検分を受けましたが、この間割腹自殺者は14名(ただし竹中伝六は薩摩藩士ではない)に上りました(「岐阜県治水史」 上巻)。

杉本苑子「孤愁の岸」を読む13

 1755(宝暦5)年5月24日総奉行平田靭負は国家老島津主殿・鎌田典膳宛報告書において一之手・三之手・四之手の幕府役人による出来栄え検分(二之手検分は同年正月20日ころ終了)が完了し、「いづれも出精故御普請丈夫に出来致し、御見分も御滞無く相済み、一段の儀に思召され候段」御丁寧に御挨拶これ有り候と述べています。
 また御手伝方人数、江戸御国元へ引取り候儀、勝手次第致すべき旨仰渡され、…明廿五日(伊集院)十蔵出立これ有り、拙者には廿六日罷立つ筈に候。」(「島津氏世録正統系図」岐阜県史 史料編 近世五)と記述しています。

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 ところが翌5月25日平田靭負は自刃しました(公式には病死)。遺書はなく「住みなれし里も今更名残りにて立ちぞわづらふ美濃の大牧」という辞世の歌を残しただけでした。
  この小説は治水工事が完了していよいよ国許への帰途につく前日薩摩藩家老平田靭負は切腹、平田の部下たちは桑名から遺骸を輿に移して陸路伏見の薩摩藩邸に向かうため、平田の遺骸を乗せた駕籠を守護しつつ三艘の川舟に分乗して桑名まで下ろうとするところで終了しています。
 平田靭負の遺骸は同年5月27日山城国伏見町大黒寺に埋葬されました。副奉行であった伊集院十蔵は5月26日美濃を出発、6月6日薩摩藩江戸藩邸に到着しました。藩主島津重年はすでに病床の人となっていましたが、伊集院十蔵らから御手伝工事の様子や平田靭負自刃の報告を聴取し、6月8日靭負の菩提を弔うため大黒寺に種々の品を寄付させました(「大黒寺文書」)。しかし重年は美濃治水工事をめぐる心労も影響したのでしょうか、同年6月16日27歳の若さで死去しました(「寛政重修諸家譜」巻第108)。

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 宝暦治水工事に薩摩藩が支出した費用の総額は不正確な概算しか知ることができませんが、主として大坂の銀師から何回にも分割して調達した銀は一万三千三百七十八貫八百十五匁余、これを金に換算すると二十二万二百九十八両、この外藩債募集・献納金・藩費節約・税金増徴などによって捻出した金額が推定十五万両で、総計四十万両に近い金額だったと推定されます。またこれは石高七十七万石の薩摩藩の2年分の全収納米を超過する額でもありました。これに対して幕府が支出した金額は一万両をわずかに下回る額にすぎませんでした(伊藤信「前掲書」)。

杉本苑子「孤愁の岸」を読む14

 平田靭負の自刃については遺書もなく、その評価は下記のHP「薩摩義士顕彰館」のような内容のものが一般的です。

薩摩義士顕彰館―宝暦治水と薩摩藩士―平田家老の最後

 すなわち「総ての責任を一身に負い」切腹したという評価です。しかし総ての責任とは何でしょうか。私はこのことが判ったようでよく判らないのです。他方平田靭負には巨額の借財をどのような方法で償還するかについての個人的責任がかかって来るような事情があったのではないかという疑問が残るのです。この点について、この小説には下記のような内容の叙述がみられます。
 平田靭負は大坂の中級両替商天満屋十兵衛を介して接近してきた加賀金沢の砂糖小売商田島屋専右衛門に@薩摩藩は堺筋の砂糖仲買を通さず、直接砂糖を回すかわりに田島屋は上納金千両、来年の砂糖を担保に二千五百両を立入りの銀師(大名相手に担保・抵当をとらず、高利をむさぼる金貸し、富裕な両替商が多い)の利息より安く融資し向う4カ年間同じ特典を得る、A薩摩藩は上納金の受領書を出すが、二千五百両の先借り分については、勝手方家老平田靭負の仮受取りで済ませる、の2点を約束しました。しかしそれは平田以外の重職たちにも、むろん薩摩藩そのものにも何ら後日、迷惑の及ぶ恐れのない、要点をぼかした文書なのでした。つまり平田靭負は上述のような約束は実行できないことを承知の上で空手形を発行したことになるのです。このことについて、小説の末尾で笈川鉄之助の「御家老個人の責任は逃れられません。御家老、もしやあなたは、始めから命を捨てるお覚悟で事を企まれたのではござりませぬか。」との指摘に対して、平田は「彼らへの申しわけに切って捨てる腹など私は持ち合わさぬ。」と答えています。
 この叙述をうら付ける史実を、私が眼を通した史料や文献から見つけることはできませんでした。しかし後年における薩摩藩の藩政改革を調べてみるとこのようなことは小説の作者の創作というよりも、薩摩藩の藩政に一貫して貫かれている共通の発想であることに気づくのです。

杉本苑子「孤愁の岸」を読む15(最終回)

 島津重豪(しげひで)は1745(延享2)年11月7日島津重年の子として最高の家格の一つ鹿児島の加治木島津家屋敷で生まれました。幼名を善次郎といい、10歳のとき宝暦治水工事の最中、父重年に伴われて治水工事に苦心する薩摩藩士の姿を目撃したはずです。1755(宝暦5)年父重年死去により11歳で薩摩藩主となり、祖父継豊が後見しました。
 重豪は1787(天明7)年14歳の嫡子斉宣(なりのぶ)に藩主を譲り43歳の若さで藩政を後見しました。以後藩政後見を止めた時期もありましたが藩主斉興(なりおき)時代の1820(文政3)年まで藩政後見を勤めました。しかし公式に後見引退後もなお藩政に影響力を持ち続けていました。
 重豪が藩主となったとき、すでに薩摩藩は巨額の負債をかかえていました。彼は1807(文化4)年126万両に達していた藩債を1813(文化10)年徳政令を発して棄却しました。その後商人の多くは薩摩藩に不信感をもち、貸付を承諾しなくなったということです。それでも1818(文政1)年藩債は90万両余残っていました(芳即正「島津重豪」吉川弘文館)。

港区ゆかりの人物データベースーゆかりの人物リストー索引―しー島津重豪

 かくして重豪は1828(文政11)年ころ調所広郷(ずしょひろさと)に財政改革を命じます。このころ薩摩藩の藩債総額は500万両の巨額に達していました。1835(天保6)年調所広郷は京大坂で利息なし年2万両ずつ250年賦償還を宣言しました。この措置について銀主たちの恨みの声が渦巻いたことは当然でしょう。やがて調所広郷は密貿易を幕府隠密に探知され、1848(嘉永1)年薩摩藩江戸藩邸で服毒自殺したといわれます(芳即正「調所広郷」吉川弘文館)。
 このように薩摩藩の赤字財政対策は一貫して商人の犠牲のうえに推進されたものであることがお判りでしょう。「孤愁の岸」を読む14で述べたこの小説の作者の文章内容は、それが史料によって実証できないことであったとしても、作者の鋭い史眼の光る一節であるように思われます。



2008-07-06 05:36 | 記事へ | コメント(0) |
| 歴史小説・日本文化論と史実(近世篇15) |
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