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2010年04月11日(日)
久米邦武「米欧回覧実記」を読む21〜30
久米邦武「米欧回覧実記」を読む21

 アレクサンドル2世が1861年に発した農奴解放令を、我が国の1872(明治5)年田畑永代売買の禁令撤廃と比較して、「実記」は次のように記述しています。『○露国隷農解放ノ令ヲ発シテヨリ、二年ヲ経テ、六十三年ノ三月ニ、仕組始メテ整ヒ、先ツ帝領地ノ隷農ヨリ着手セリ、(中略)其法ハ、(中略)喩ヘハ労作者ノ所得高六「ルーブル」ナリシ地ハ、其原価ヲ百「ルーブル」ト定メ、其の百「ルーブル」ヲ原主ニ払ヒテ其地ヲ私有シ、自立ノ民トナル所ナリ、(中略)去年ノ二月、我邦ニテ田地勝手売買ヲ許ス令ヲ発セラレシハ、大化年間ヨリ土地私有ノ権ヲ抑ヘラレタル地主、ミナ自立ノ地主トナルヲ得テ、恰(あたか)モ露国隷農ヲ廃セルト同シ、而テ露民ハ四十九年間ノ増租(露民は原価の20%を支払い、残りの80%を49年間で元利皆済する義務を負う)ヲ負ヒ、日本ノ民ハ一令下ニ不動産ノ所有者トナル、東西洋ニ於テ、政治風俗ノ異ナル、如此(かくのごと)シ、』(第六十二巻 露国鉄道及ヒ聖彼得堡府ノ総説)日本の農民が田畑永代売買の禁令撤廃によって如何なる影響を受けたかは別問題として、ロシアの農奴解放令が不徹底で、彼等を貧困と隷属から解放しなかったことは明らかでしょう。
 つづいて「実記」は聖彼得堡府についてこのように述べています。『○此府ハ、公侯貴戚邸第ヲ連ネ、豪家、大姓(富貴勢力家)、館宅ヲ並ヘ、富貴ノ人ノ都藪(とそう 集中地)ヲナシタルコトハ、恐クハ巴黎、倫敦ニモ敢テ劣ラサルヘシ、(中略)曾(かつ)テ評ス、英、仏、白、蘭ハ平民ニ人物富豪ノ多キコト、貴族ニ超ユ、故ニ全地ミナ繁昌シテ、民権モ亦盛ナリ、独逸(墺国ヲ兼ヌ)、以太利ハ貴族ノ富、平民ニ超ユ、故ニ文物ノ観ルヘキモ、全国ハ猶(なお)貧ナルヲ免レス、因テ君権ハ民権ヨリ盛ンナリ、露国ハ全ク貴族ノ開化ニテ、人民ハ全ク奴隷ニ同シ、(中略)聖彼得堡府ノ商店ヲ観ルニ、属目(しょくもく 注目)スヘキ大店ハ、尽(ことごと)ク日耳曼人ノ開店ナリ(英仏人ノ開店モアレトモ、最モ多キヲ謂フ)』(第六十二巻 露国鉄道及ヒ聖彼得堡府ノ総説)

ロシアの歴史―ロシア歴史紀行アルバムーサンクトペテルブルク1〜7 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む22

 かくして露国に対する日本人の印象と実体の格差について、「実記」は次のように指摘しています。『欧羅巴ニ於テ、最モ勢力アル国ハ、英、仏、日(日耳曼)、墺、露ノ五帝国ヲ推ス、(中略)其内ニ於テ最モ雄ナルヲ英仏トス、最モ不開ナルヲ露国トス、(中略)東洋人ノ想像ハ、殆ト之ニ異ナリ、今ニ至ルマテ、日本人ノ露国ヲ畏憚(いたん)スルコト、英仏ノ上ニ出ツ、(中略)抑(そもそも)此妄想ヲ日本人ノ脳神ニ感触セルハ、何ノ原因ナルヤヲ推究スレハ、蓋シ故アリ、(中略)文化元年(1804)ノ九月、露国ノ使節「レサノット」氏ノ軍艦、長崎神ノ島ニ入港シ(「間宮林蔵」を読む2参照)、発出セル祝砲ノ響ニヨリテ、全国太平ノ夢ヲ驚カシ、是ヨリ尊攘鎖国ハ沸然(ふつぜん)トシテ湧起(ようき)セリ、加フルニ甘察加(カムサツカ)、樺太(カラフト)ノ土民ニ往往辺徼(へんきょう 辺境)ノ騒擾(そうじょう)アリ、(中略)今ニシテ之ヲ回顧スルニ、皆鎖国井蛙(せいあ 井戸の蛙)ノ妄想ニシテ、(中略)実際ヲ瞭知スレハ、日本ノ今日ニ於テ、敢テ露国ヲ侵越スルノ論ヲナスモノナシ、露国モ亦日本ヲ并呑スルノ政略アランヤ、(中略)若シ其親睦ヲ以テ相交レハ、欧洲各国ミナ兄弟ナリ、(中略)従来妄想虚影ノ論ハ、痛ク排斥シテ、精神ヲ澄センコト、識者ニ望ム所ナリ、』(第六十五巻 聖彼得堡府ノ記 下)

久米邦武「米欧回覧実記」を読む23

 同年4月14日11時旅館を出て12時の蒸気車で聖彼得堡を出発、同月15日国境を越え日耳曼に再入、同月16日午前2時30分「クローフ」駅で木戸副使は乗り換えて伯林に赴き、日本への帰途につきました。岩倉使節団は「ボルチック」海浜を走り1時旱堡(ハムベルヒ)府に到着、府中の「ホテルデヨーロッパ」に宿をとりました。
 旱堡の花町を「実記」は次のように紹介しています。『○此府ハ、日耳曼北海ノ要港ニテ殊ニ英仏トノ貿易最モ盛ナリ(中略)○西北ニ花街アリ、娼妓ヲ公許シ、三等ノ娼館アリ、各ソノ街ヲ異ニス、上等ノ花街ハ、屋造美麗ナリ、各房ヲ分ツテ娼妓ヲオキ、其ノ窓(木偏に龍 格子窓)ハ、夜ニ入レハ、燈光黯淡(あんたん うす暗い)トシテ、美人ノ客来ヲ待ツ影ヲ彷彿(ほうふつ ぼんやり見える)ニミル、中等以下ハ屋小ニ、房中ノ装置モ従テ悪シヽト云、西洋各都邑、至ル所ミナ淫ヲ鬻(ひさ 売る)ク婦人ナキハナシ、』(第六十六巻 北日耳曼前記)
 「キール」を経て同年4月18日朝7時郵船は嗹馬(デンマルク)の「コールシュル」埠頭に接岸、蒸気車で11時「コッペンハーゲン」府に到着、「ホテル、デ、ロヤル」に宿泊しました。4月19日宮内長官出迎えで馬車に乗り、王宮で「キリスチャン」第九世陛下に謁見しました。

欧羅巴の旅―1.デンマークの旅―コペンハーゲン

久米邦武「米欧回覧実記」を読む24

 同年4月23日12時50分「コッペンハーゲン」府東北の波止場より郵船出発、2時15分瑞典(スエウデン)の「マルモ」埠頭に接岸、蒸気車で同月24日午前10時40分「ストックホルム」府の駅に到着、馬車で「レードボルク、ホテル」に宿泊しました。同月25日午後王宮で「ゴスタフ」第一世陛下に謁見しました。
 同年4月30日「コッペンハーゲン」出発、「リュベック」経由5月1日旱堡到着、同月3日旱堡から哈諾威(ハノーブル)州を経て同月5日仏蘭克仏(フランキホルト)、経由、「ミュンチェン」府着、同月7日「ミュンチェン」発、「インニス」堡、「ヴェロナ」府経由、同月11日5時30分羅馬府駅に到着、「ホテル、デ、コンスタンチン」に宿泊しました。同月13日王宮にて「ウイツトーリオ、エマニウエル」第二世陛下に謁見しました。

ヨーロッパの歴史風景―近代・現代編―インデックスー西暦1861年、ヴィットリオ・エマヌエレ2世を国王とする統一イタリア王国が成立した

 羅馬について「実記」は『羅馬ニ二千年前後ノ古蹟多シ、之ヲ回覧スレハ、俯仰(ふぎょう 伏し仰ぐ)ノ感ニタヘサルモノアリ、(中略)此時ニアタリテヤ、英ノ倫敦、仏ノ巴黎ハ、ミナ夷蛮ノスム所ニテ、(中略)独逸ノ如キハ、多ク荒寒ノ野、森林ノ原ニテ、(中略)竟ニ今日ノ盛ヲ馴致(じゅんち 次第に移り変わる)セシハ、元羅馬ノ文化ヨリ、誘導セラレタルモノニ非サルハナシ』(第七十五巻 羅馬府ノ記 上)と述べ、日本を顧みて『我邦古ヘヨリ発明ニ乏シ、而テ能ク他ノ智識ヲ学ヒ取ル建築、鉄冶、磁陶、縫織、ミナ之ヲ朝鮮支那ニ資シテ、今ハミナ之ニ超越ス、今ヤ東洋ニ古国多シト雖モ、其開化ノ度、独リ進ミタルハ我邦ナリ、(中略)今日ノ見ルヘキナキカ如キモ、他日必ス、其観ヲ改ムルモノアラン、』(第七十六巻 羅馬府ノ記 下)とその決意を表明しているのです。

久米邦武「米欧回覧実記」を読む25

 同年5月20日蒸気車で午後6時前那不児(ナアプル)府の駅に到着しました。「実記」は『那不児府ハ、以太利半島ノ西方ニ於テ、一海湾ヲ占メタル要港ナリ、(中略)○府中ノ人民ハ、多ク無学ニシテ、懶惰(らんだ なまける)性ヲナシ、街上ノ塵芥(じんかい)払ハス、車馬狼藉ナリ、(中略)以太利ニ貧民多シ、(中略)此行欧米十二国ノ各都府ヲ略展観シタルニ、此府ノ如ク清潔ニ乏シク、民懶ニシテ貧児ノ多キ所ハナシ、』(第七十七巻 那不児府ノ記)と述べています。
 同月23日羅馬に帰り同月25日夜9時45分羅馬発、同月27日午後10時威尼斯(ヴェニエシヤ ベネチャ)府に到着、「ホテル、ニューヨーク」に宿をとりました。
 同月29日岩倉使節団はこの地の文書館を訪問しました。「実記」は『府中ナル「アルチーフ」(文書館)ノ書庫ニ至ル、此庫ニハ,紀元七百年来ノ文書典冊ヲ蓄蔵ス、スヘテ一百三十万冊ニ及フ、(中略)此書庫ニ、本朝ノ大友氏(「夢のまた夢」を読む12参照)ヨリ遣ハセシ、使臣ヨリ送リタル書翰二枚ヲ蔵ス、其遺紙ヲ一見セシコトヲ望ミシニ、挟紙ヨリ取出シテ示シタリ、皆西洋紙ニ羅甸(ラテン)文ニテ書セル書翰ニテ、末ニ本人直筆ノ署名アリ、鋼筆ニテ書セルモノナリ、岩倉大使、余ヲシテ模写セシム、左ノ如シ(中略)外ニ日本使臣書翰五葉アリ、(中略)其五葉ノ書ハ、一千五百八十五年乃至七年(我天正ノ季)マテ、大友家ノ使臣、羅馬及ヒ威尼斯に至リシトキノ往復文ナリ、此支倉(はせくら)六右衛門(「徳川家康」を読む22参照)ハ、是ヨリ三十年モ後レテ至リタレハ、大友家ノ使臣ニハ非ルヘシ、』(第七十八巻 「ロンバルチー」及ヒ威尼斯府ノ記)と記述しています[イタリヤ国ヴェニス文書館文書 欧文材料第136号訳文 1585年6月2日(天正13年5月5日) 日本使節が記念の為めに遺したる書翰・欧文材料第192号訳文 1586年4月2日(天正14年4月2日(天正14年2月13日) 伊東マンショよりヴェニス大統領に贈りし書翰・欧文材料第194号訳文 1587年12月10日(天正15年11月11日) 伊東マンショよりヴェニス大統領に贈りし書翰 「大日本史料」第十一編 別巻之二・[ベニス市国立文書館文書 欧文材料第166号翻訳 1616年1月6日 はせ倉六右衛門よりベニスの大統領に呈せし書・欧文材料第170号翻訳 1616年2月24日 支倉六右衛門長経、フライ・ルイ・ソテロよりベニス元老院に贈りし書「大日本史料」第十二編之十二]。

欧羅巴の旅―7.イタリアの旅―ベネツイア


久米邦武「米欧回覧実記」を読む26

 同年6月2日夜10時30分威尼斯府を出発、翌日午後10時墺地利(オヽステンレイキ オヽストリヤ)国維納(ウリン ヴィヤナ)南方の駅に到着、「ホテル、オヽストリヤ」に宿泊することとなりました。
 同年6月8日帝宮において、「フランシス、ショーセフ」皇帝及び皇后に謁見しました。

ドラゴニアへようこそー御案内―歴史の研究―オーストリアの歴史―オーストリア関連年表

 同年6月9日「実記」は「此日博覧会ニ入リテ、本廊ノ列品ヲ詳覧ス、」と記し、第八十二〜八十三巻で維納万国博覧会見聞を詳説しています。
 「実記」ハ『○博覧会ハ、「エキスビション」トテ、国国ヨリ物産ヲ持集リテ、一楼榭(ろうしゃ 高い建物)ノ内ニ列シ、之ヲ衆人ニ観セテ、各地人民ノ生意(生業)、土宜(どぎ 土地の産物)、工芸、及ヒ嗜好、風習ヲ知ラシメ、一ハ持集リタル人人、己ノ物品ヲ衆見ニ供シテ、其売買ノ声誉ヲ広メ、(中略)一ハ他人ノ持集リシ物品ヲ観テ、己ノ及ハサル所以(ゆえん 理由)ヲシリ、今ヨリ工夫スヘキ要ヲ考ヘ、(中略)益(ますます)其進歩ヲナス津筏(しんばつ 手引き)ヲ求ムルニ便ニス、』と万博の目的を述べ、『夫(それ)欧洲列国ノ大小相分ルヽ、英、仏、露、普、墺ノ大国アレハ、又白、蘭、薩(サビセン)、瑞、嗹ノ小国アリ、国民自主ノ生理ニ於テハ、大モ畏ルニ足ラス、小モ侮ルベカラス、英、仏両国ノ如キハ、ミナ文明ノ旺スル所ニテ、工商秀レトモ、白耳義(ベルギー)、瑞士(スイス)ノ出品ヲミレハ、民ノ自主ヲ遂ケ、各良宝ヲ薀蓄スルコト、大国モ感動セラル、普ハ大ニ、薩ハ小ナルモ、工芸ニ於テハ相譲ラス、而シテ露国ノ大ナルモ、此等ノ国トハ、猶其列ヲ同クスル能ハス、墺国ノ列品ヲミレハ、勉強シテ文明国ニ列スルヲ得ルニスギス。是他ナシ、民ニ自主ノ精神乏キニヨルナリ、』(第八十二巻 万国博覧会見聞ノ記 上)と小国の自主的な民衆の健闘を称えているのです。

デジカメで綴る旅の想い出写真館―海外の風景ーテーマで選ぶー世界遺産―オーストリア ウイーン歴史地区・シェーンブルン宮殿  

久米邦武「米欧回覧実記」を読む27

 同年6月18日午後6時15分維納を蒸気車で西へ発車、同月20日瑞士(スイス)国首府「ベロン」に到着、同日午前大統領に政庁堂で謁見しました。

スイスの公式情報サイトースイスの情報―歴史 

 「実記」はスイスについて『○此国ノ政治ヲ協定スルヤ、唯三章ノ目的アルノミ、自国ノ権利ヲ達シ、他国ノ権利ヲ妨ケス、他国ノ妨ケヲ防ク是ナリ、故ニ内ニハ文教ヲ盛ンニシテ、其自主ノ力ヲ暢達(ちょうたつ 伸び育てる)ス、(中略)教育ノ浹(あまね 広くゆきわたる)クシテ、民ニ礼アリ学アリ、生業ニ勉強スルコト、此国ヲ最トス、○其武ヲ張ルヤ、一旦隣邦ニ不虞(ふぐ 予期しない災難)アレハ、中立ノ義ヲ堅クシテ一兵ヲシテ境ニ入ラシムルナシ、敵来レハ之ヲ逐ヒ、又他国ノ権利ヲ重ンシ、敵兵モ其国境ヲ出レハ、即チ止テ逐ハス、他国ノ地ニ入リテ、兵ヲ動カスコトヲセス、○全国ニ民兵ヲ置テ、常備兵ヲオカス、丁壮(一人前の男子)二十歳ヨリ、三十歳マテ、民兵入籍ノ期トシ、(中略)当時ノ兵数ハ、八万五千ニ及フ、(中略)故ニ其国小ナリト雖(いえ)トモ、大国ノ間ニ介シ、強兵ノ誉レ高ク、他国ヨリ敢テ之ヲ屈スルナシ、』(第八十四巻 瑞士国ノ記)と記述しています。

たぬたぬのスイスとアルプス 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む28

 同年6月29日朝10」時40分「「ベルン」駅発車、午後8時「ゼネーヴァ」府に到着「ホテル、デベルギュス」に宿泊しました。
同年7月9日「実記」は「日本政府ヨリ、急ニ帰国スヘキ電信(「日本外交文書」第6巻)来リ、葡萄牙(ポルチュガル)国行ヲ中止シ、帰装ヲナス、」(第八十六巻 「ベロン」及ヒ「ゼネーヴァ」府ノ記)と述べています。同月15日「セネーヴァ」発、夜に入って仏国里昂(リヨン)府に到着、同月17日午後11時里昂府発、同月18日朝6時馬爾塞(マルセール)府へ到着しました。
「実記」はつづいて「第八十八巻 西班牙(スパニヤ)及葡萄牙国(ポルチュガル)国ノ略記」、「第八十九巻 欧羅巴洲政俗総論」、「第九十巻 欧羅巴洲地理及ヒ運漕総論」、「第九十一巻 欧羅巴洲気候及ヒ農業総論」及び「第九十二巻 欧羅巴洲工業総論」(その一部は「米欧回覧実記」を読む12に紹介)を掲載していますが、本稿においてはその紹介を省略します。

欧羅巴の旅―6.スペインの旅

愛しのポルトガルーポルトガル写真集 

1873(明治6)年7月20日岩倉使節団は仏東洋郵便会社船「アウア」号で午前10時同港を出港、帰国の途につきました。
 同月21日以太利領「サルヂニヤ」島海浜の一島に以国民権家「ガルバルジー」氏(「米欧回覧実記」を読む24「ヨーロッパの歴史風景」近代・現代編参照)の住宅を眺め、同月26日朝9時「ポールトサイト」に岸に到達、投錨しました。午後4時運河に進入、河中に碇泊、同月27日朝4時半に抜錨、三湖を通過蘇士(スウエス)の埠頭に達し、暫く投錨しました。
 「実記」は『「ポルトサイト」ヨリ蘇士(スウエス)マテ、百英里ノ地峡ヲ、郵船ニテ駛行(しこう 速くゆく)スルヲ得ルハ、僅ニ四年前ヨリノコトニテ、是ハ仏国ノ学士「レッセフス」氏ニ向ヒテ謝スヘキナリ、』(第九十五巻 紅海航程ノ記)と述べています。

やっぴらんどー楽しい世界史―時代別―全項目目次―19世紀―スエズ運河の完成と買収

久米邦武「米欧回覧実記」を読む29

 同年8月1日朝6時半に郵船は阿刺伯(アラビヤ)の亜丁(アデン)港に到着投錨しました。「実記」は『熱帯地方ノ肥沃ナルコトヲ察スヘシ、(中略)古ノ語ニ曰、沃土ノ民ハ惰ナリト、サレハ貧歉(ひんけん 貧しく凶作)ハ人ヲ富潤スルノ砥礪(しれい 試練)ニテ、饜足(えんそく 満腹)ハ倦怠ノ基礎ト謂フヘシ、英、仏ノ文明ナルモ、其国本(もと)荒寒瘠薄(せきはく)ノ野ニテ、百物ノ欠乏ニヨリ、勤勉ノ苦ヲツミ、文明ノ光ヲ生セルナリ、(中略)故ニ国ノ貧富ハ、土ノ肥瘠ニアラス、民ノ衆寡ニモアラス、又其資性ノ智愚ニモアラス、惟(ただ)其土ノ風俗、ヨク生理ニ勤勉スル力ノ、強弱イカンニアルノミ、』(第九十六巻 阿刺伯海航程ノ記)と記しています。
 同年8月2日亜丁港抜錨、同月9日錫蘭(セーロン)島の「ポイント、デ、ゴール」港に投錨、「実記」はこの地を「熱帯ノ国ハ,山緑リニ、水青ク、植物ハ栄ヘ、土壌ハ腴(ゆ 肥えている)ニシテ、空気ノ清キ、景色ノ美ナル、欧洲ヨリ来リテ、此(この)景象ヲミレハ、真ニ人間ノ極楽界ト覚フカ如シ、」(第九十七巻 錫蘭島ノ記)と述べて褒め称えています。

Wandering the World―フォト・ギャラリーー南アジア編―19)美しきスリランカ

久米邦武「米欧回覧実記」を読む30(最終回)

 同年8月12日朝6時半「ゴール」港を抜錨、新嘉坡(シンガポール)に向かい航海中、「実記」は次のようにヨーロッパ諸国によるアジア植民地化の現実と欧州人の東南洋人に対する横暴について述べています。
『弱ノ肉ハ、強ノ食、欧洲人遠航ノ業起リシヨリ、熱帯ノ弱国、ミナ其争ヒ喰フ所トナリテ、其豊饒ノ物産ヲ、本州ニ輸入ス、(中略)今郵船ニアリテ、欧洲航客ノ状ヲ目撃スルニ、(中略)馬児塞(マルセール)ヨリ郵船ニ上レハ、一船ミナ白皙赤髯(はくせきせきぜん 白膚赤ひげ)ノ航客ナレトモ、(中略)挙動麁忽(そこつ 粗忽)ニテ、言語人ヲ侮慢シ、高笑ヲ発シ、婦人ニ狎(な たわむれる)レ、細故(細かいもめごと)ヲ怒リ、暴言ヲ吐クモノ半ニオル、是ミナ本国ニアリテ、小人ノ行ニシテ恥ル所タリ、(中略)蓋(けだ)シ遠航シテ、利ヲ東南洋ニ博取シ、以テ生理トナスモノハ、大抵本国ノ猾徒(かつと 悪賢い連中)ニテ、其無頼無行ナルヲ以テ、郷里ニ斥(しりぞ)ケラレ、或ハ刑辟(けいへき 刑法)ニ触レテ、人ニ交際ヲ得サルモノ、多ク出テ利ヲ外国ニ獲ンコトヲ図ル、』(第九十八巻 榜葛刺(ベンガラ)海航程ノ記)すなわちアジアにおけるこれら欧州人の問題行動をもって、欧州文明の価値を推測してはならないという考え方が見られます。
同年8月13日9時新嘉坡に到着、この地に最近コレラが流行しているので、岩倉使節団は上陸しませんでした。同月19日正午抜錨、柴棍(サイゴン)府・香港経由、9月2日朝揚子江口に達し、河蒸気船で黄浦江を遡上、11時上海に到着「アステルハウス」に宿泊しました。同月4日夜米利堅(メリケン)の郵船「ゴルテンエン」に乗船、翌日10時黄浦江を下り、11時揚子江口に到達、長崎を経由して、1873(明治6)年9月13日横浜に着船しました。

 
2010-04-11 12:56 | 記事へ | コメント(0) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇11) |
2010年04月06日(火)
久米邦武「米欧回覧実記」を読む11〜20
久米邦武「米欧回覧実記」を読む11

 「実記」には1872(明治5)年10月10日の記事がありませんが「木戸孝允日記」(明治五年十月十日条)に「六字過伊藤来て南貞介(助)の寄留せるアメリカンジョイントナショナルバンク之困難を告げ為其南貞介并同人同居の英人某に面会し其趣を一々承得せり雖然其所致如何とも難致依て使節一統談合の上吉田少輔へ探索吟味を托せり為其伊藤吉田の処へ至れり此バンクへ日本書生と使節一行の金を預けしもの不少余亦其一人也」と記述されています。
岩倉使節団が米国新約克(ニューヨーク)府に到着したとき、南貞助(長州出身 高杉晋作の従兄弟)という人物が使節団の旅費50万ドル(田中光顕理事官管理)を南が関係する「ナショナル・エゼンセー」に預金するよう進言しました。 

幕末を駆け抜けた男達―月別アーカイブー2008年8月―高杉晋作の義弟 南貞助2008/08/28(木) 

 南貞助は幕末ロンドンに留学、帰国後外国官権判事に任ぜられましたが、1870(明治3)年東伏見宮嘉彰親王(「米欧回覧実記」を読む8参照)のイギリス留学に随行、滞英中「ボールズ」銀行頭取「ブルーズ」と知り合い、彼が設立した「ナショナル・エゼンセー」の重役となりました。南貞助に使節団旅費を預けることに田中光顕が反対したので、南と既知の木戸・大久保はじめ久米邦武らは手持ちの私費を南貞助に預金しました。
 しかるに「ボールズ」銀行のボストン支店が、同地の大火で大損害を受けた保険会社の影響で閉鎖したのをきっかけに閉店、「ボールズ」銀行ロンドン本店にも波及した結果、「ナショナル・エゼンセー」は倒産、使節団面々の「へそくり」は無に帰したのです。
「木戸孝允日記」には翌十月十一日条にも、この事を皮肉った狂歌「白はき(しらはぎ)に見とれもせぬに百ポンドとんと落したる久米の仙人」(「今昔物語集」巻第十一 久米仙人、始造久米寺語第廿四 日本古典文学大系24 岩波書店 参照)が記述され、「是は久米の風姿甚雅朴(上品で飾り気がない)人称仙人(人仙人と称す)然るに同人平素倹素(倹約素朴)猥りに不散(散財しない)豈図(あにはからんや どうして考え及ぶだろうか)又係此難(この難にかかわる)依有此戯(よってこの戯れあり)」と書いてあります。
(「久米博士九十年回顧録」下巻 第八編 第二一三項 銀行取引に慣れぬ失敗 参照)

※@マッシュ@※奈良のホームページー奈良の昔話―奈良県内―久米仙人(橿原市)久米寺 
 
久米邦武「米欧回覧実記」を読む12

 1872(明治5)年11月2日岩倉使節団は「パークス」氏らの案内で達迷斯(テームス)河下流「ウィクトン」の瓦斯会社を視察しました。この会社は倫敦における最大瓦斯会社です。石炭を窖V(こうか 密閉加熱)して炭酸水素瓦斯を取るとき、密閉加熱した石炭を「コークス」といい、鋼鉄を熔かすにはこの「コークス」を用います。窖Vにより蒸鎦(じょうりゅう)する流液には石炭「テール」と石油を含み、此内に含有する一種の「アニリン」酸を分拆して紅黄紫藍の顔料(着色・染色の材料)を製します。瓦斯について「実記」は「瓦斯分ニハ、元来価ハナキモノナリ、市街ニテ毎夜ヲ照ス燈光ハ、只其管樋ニツキテ、価ヲ収メル所ナリト云、「(第四十巻 倫敦府後記)と述べているに過ぎません。
 しかし瓦斯会社の労働問題について言及した「実記」は次のように述べています「吾(われ)英国倫敦ニアリシトキ、瓦斯会社ノ職工、ミナ増給ノ議ヲ起シテ社員ニ逼(せま)リ、議論沸騰シ、其労動ヲ止メ、一夕満街ノ瓦斯燈、忽然トシテ消ヘシコトアリ、(中略)何(いずれ)ノ国ニテモ、職工ノ景況ハ同一ナルモノニテ、多クハ愚昧朴魯(ぐまいぼくろ 愚かで道理に暗く、飾り気がなくて鈍い)、(中略)日日労動ノ傭給ハ、直ニ飲食ニ擲(なげう)チ、淫欲ニ費シ、殖財ノ念ヲ賭博ニ注キ、終年ノ労動ハ、反テ身心ヲ腐敗スル資トナリ、一旦衰老疾病シ、労動ヲ得サルトキハ、其振救を雇主知音(ちいん 親友)ニ勒索(ねだる)ヲ、公然タル権利ト思フニ至ルハ、職工ノ常態ナリ、」(第九十二巻 欧羅巴洲工業総論)。、

茶目斜目ブログー過去記事―2009年08月―ロンドンのガス燈 2009年08月31日

 同年11月5日ヴィクトリア英女皇への謁見が行われました(外務省編纂「日本外交文書」第5巻 六四 英国女皇ニ謁見シタル次第報告ノ件 外務省蔵版)。

歴誕―歴誕歴史人物伝―歴誕歴史人物伝バックナンバーーヴィクトリア

久米邦武「米欧回覧実記」を読む13

  1872(明治5)年11月16日朝7時15分に「ホッキンハムハレイス、ホテル」を出発、「ヴィクトーリヤ」駅より蒸気車で9時「トーブル」(ドーヴァー)の埠頭に到達、郵船は「ドーブル」より仏国の「ガレイ」(カレー)に12時に到着しました。ホテルで昼食後、蒸気車で6時に巴黎(パリー)府の「ディスト」駅到着、馬車で「シャンゼルセー」の広衢(辻)を通って「アレチツリヨン」」門前の館[仏国政府より在留中借用 元土耳其(トルキー)公使館 「ル、デ、プレシボルク」街に門を開く白石の三層楼]に入りました。
 同年11月17日「実記」は凱旋門について次のように記述しています『「アルチツリョム」トハ、凱旋門ト訳ス、○此門ノ造営ハ、拿破侖(ナポレオン)第一世ノ経営セル所ナリ、(中略)○往年ニ普魯西ノ軍兵巴黎ヲ囲ミシトキ、(中略)此門ニ向ヒテ砲発スルコトヲ禁シ、囲城ヲ畢(おわ)ルマテ、一点ノ瑕(きず)モ負ハサリシニ、其後「コンミュン」ノ乱(パリー・コンミューン 世界最初の労働者政権成立)トテ、国内ニ一揆起リテ、(中略)其時ニ民党ノ一揆トモ、此門ニ大砲ヲ上セテ、砲台トナシテ、(中略)政府ヨリ巳(やむ)ヲ得ス、砲ヲ打掛ケテ之ヲ攘(はら)ヒ退ケタリ、此時ニ北方ノ一面毀傷セルヲ以テ、当時ハ修覆中ナリケリ、』(第四十二巻 巴黎府ノ記一)。

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 既に1871(明治4)年2月(太陽暦3月)パリー・コンミューン成立とほぼ同時期にパリーに赴いた西園寺公望は橋本実梁(さねやね)宛の書簡で「(前略)仏ハ昨年普に打負しより国内更ニ紛乱し、遂に解兵ノ時より事起り共和政事を名とし姦猾無恥之徒大ニ愚民を煽動し以干戈(かんか 武器)ヲ用にいたれり。」(明治4年4月26日付書簡 立命館大学編「西園寺公望伝」別巻一 岩波書店)と述べています。

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 また公園について「実記」は『○巴黎中ノ公苑を数フレハ、七十ヶ所に及フ、(中略)東鄙ニ「ビットショーモン」苑アリ、北鄙ニ「ボアーデ、ブロン」苑アリ、「ボアーデ、ブロン」ハ、巴黎第一ノ公苑ニテ、米国新約克(ニューヨーク)ノ「センタラールパーク」ニモ超越スヘキ名苑タリ、凱旋門ヨリ北ナル郭外ニアリ、(中略)日曜日ノ夕ニハ貴豪ノ家、ミナ車ヲ馳セテ来遊ス、馬ハ騏騮(きりゅう 駿馬)ヲ較ヘ、衣裳華麗ニシテ籹(粧)飾都雅(優美)ナリ、(中略)諺ニ曰ク、倫敦ノ食倒レ、巴黎ノ衣倒(きだお)レト、(中略)東鄙「ビットショーモンパーク」ハ後ニ詳記スヘシ』(第四十二巻 同上)と述べています。
同年11月22日英国辧務使より、日本で改暦の電信到着の報知があり、来月3日を新暦明治6年1月1日とする旨を衆に公布しました。
 同年11月26日館第(かんてい)で仏大統領「ルイ、アトルフ、チエル」(ルイ・アドルフ・ティエール)氏に謁見しました。
 「実記」は仏大統領「ルイ、アトルフ、チエル」の経歴を紹介した後、その印象を「短小ナル老翁ニテ、言容(言語と容貌)温温、和気掬(きく)スヘシ(穏やかな様子が外に現れる)、」と述べています。
 『チェール氏は当年七十五歳能くコンミュン暴徒を鎮めた武略もあれど、温和な矮小老爺で、容貌は尼の如く、我が副使木戸・大久保の身長偉大なるが目立った。米国渡般以来両副使は白人に交って遜色なかったが、独り岩倉公は短身で、頭蓋の大なる方であったので、、折々白人の骨相家などが来て、「体質を検して見たい」と申し込む事もあった位で、大統領チェール氏も我が大使と招宴の時、食卓に相対し、公の頭蓋の魁偉なるを眺めて居た。』(「久米博士九十年回顧録」下巻 第八編 第二一四項 大統領チェール氏に謁見)
 
久米邦武「米欧回覧実記」を読む14

1872(明治5)年12月2日(明治6年1月1日)大使は外務省に赴き賀正しました。
同年1月10日使節団は巴黎東方辺鄙の墓地を経て「ビットショーモン」の公園を訪問しました。この「ビットショーモン」苑について、「実記」は次のように記述しています。
すなわち『拿破侖(ナポレオン)第三世カ、仏国ノ大統領ニ推挙サレシヨリ、遂ニ帝位ニ登リ、「セダン」ノ戦ニ敗レテ普国ノ軍ニ降リシマテ、二十二ヶ年ノ間ハ、(中略)殊ニ傭工細民ノタメニ、勧奨救助ノ良法ヲ与ヘタル功績ハ、反テ拿破侖第一世ノ上ニ出ルト、世ニ賞誉セラル、(中略)今日覧観シタル、「ビットショーモン」苑ハ、其美挙中ノ一ナリ、(中略)此ハ巴黎製作場ノ集ル所ニテ、此苑ニ盤遊(楽しみ遊ぶ)スル住民ハ、平常其中ニ止息シ、労作ヲナス職工ナリ、(中略)一千八百四十八年、仏国ノ沸騰ハ、実ニ非常ノ際会ニテ、此時ニ当リ、職工上ニ就キテ、労動権利ノ説ナルモノ起レリ、其主旨ハ、(中略)政府ハ宜(よろし)ク人民ノ為メニ其労動ヲ遂クヘキ作業ヲ与ヘテ、各人ニ生活ヲ済セシムル方法ヲ謀ルヘキコトヲ主張セリ、(中略)』と記し、この説を批判して『其迂闊(うかつ うっかりする)モ亦甚タシ、(中略)如此キ論ヲ沸起シテ、社会ノ間ヲ撹乱(こうらん)シ、小民に懶惰(らんだ 怠ける)ヲ教ヘテ無望ノ福ヲ、希フニ至ラシムルハ、西洋文明ノ国モ免レサル所ニテ、其論ノ激昂スルニ当レハ、全国ノ騒乱ヲモ引起スニ至ル、仏国ノ内訌(内乱)ヲ起ス、多クハ此等ノ弊習ニヨル』(第四十四巻 巴黎府ノ記三)と記述しています。

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 帰路に「レテポットチャーモン」街の「ワリコレー」氏の製鉄所を見学しました。「実記」は、この製鉄所について『○此場ハ、仏国ニ於テ最大ナル製鉄場ノ一ニテ、近年埃及(エジプト)国ヨリ、四万八千磅ノ価ニテ、其国王ノ花苑ニ用ヒル、四百五十尺ノ屋根ヲ頼マレテ、成就セリトテ、其門上ノ飾リ、柱ノ彫刻等ミナ其副ヲ作リテ、留メタルヲ、示シヌ、頗ル手入ノ細工ナリ、』と述べ、英仏両国の工芸を比較して次のように記述しています『英国ノ工芸ハ、麁大(そだい 粗大)ノ物ヲ製シテ、、世ノ需用ニ供スルを目的トナス、(中略)仏国ノ工芸ハ、全ク之ニ反シ、華麗繊細ナル手技ニ於テ、独歩ナリ、而テ建築、造船、銃砲、紡織ミナ能(よく)セサルナシ、(中略)是両国ノ相対シテ、富庶ヲ競フ概形ナリ、』(第四十四巻 巴黎府ノ記三)。

久米邦武「米欧回覧実記」を読む15

 1873(明治6)年2月17日午後2時半、仏国巴黎の「レデプレスボルク」館を出発、3時45分蒸気車で南駅発車、仏国境で白耳義(ベルギー)国接伴掛が出迎え、夜11時半、白耳義の都府「ブロッセル」府に到着、政府の手配で王宮側の「ホテル、デ、ペルウェー」に宿泊することになりました。
 同年2月18日午後1時宮内省差し回しの馬車で御者はみな緋衣金装、護衛兵付きで宮内長官が出迎え、王宮で「レオポルド」第二世陛下に謁見しました。

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 「実記」はベルギー・オランダ両国について次のように述べています「今此ニ三国(米英仏)ノ巡回ヲ畢リテ、一二ノ小国ヲ経歴セントス、即チ白耳義(ベルキー)荷蘭佗(ホルランド)是ナリ、此両国ハ其地ノ広サト、其民ノ衆(おお)キトヲ語レハ、我筑紫一島ニ較スヘシ、其土ハ瘠薄(せきはく やせ地)ノ湿野ナリ、然レトモ、能ク大国ノ間ニ介シ、自主ノ権利ヲ全クシ、其営業ノ力ハ、反テ大国ノ上ニ超越シテ、自ラ欧洲ニ管係(関係)ヲ有スルノミナラス、世界貿易ニ於テモ影響ヲナスハ、其人民ノ勉励和協ニヨルニアラサルハナシ、其我ニ感触ヲ与フルコト、反テ三大国ヨリ切ナルモノアルヘシ、」(第四十九巻 白耳義国総説)。
 即ち岩倉使節団は日本の将来を模索して米欧を回覧しながら、その模範を米英仏三大国のみに求めたのではなく、ベルギー・オランダなどの小国のあり方にもなみなみならぬ注目を集めていることに気付くのです。

久米邦武「米欧回覧実記」を読む16

 同年2月24日朝9時白耳義の都府「ブロッセル」府を出発、同月25日雪の降る中荷蘭佗国の京師海牙(ハーヘ ヘッグ)に到着、4時騎兵を護衛として宮内長官が迎え、王宮で維廉(ウリヤム)第三世陛下に謁見しました。

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 この国と清国・日本を比較して「実記」は「其人民ノ勉強倹勤ナル、世界富国ノ一ト推サレタリ、蘭人ノ心ヲ以テ、支那ノ野ニ住セハ、其幾百ノ荷蘭国ヲ東方ニ生スルヲ知ラサルナリ、顧フ我日本ノ如キモ、亦荷蘭ノ勉メタルニ比スヘキ歟、抑(そもそも)支那ノ惰(だ 怠る)ナルノ類ナル歟、」(第五十二巻 荷蘭佗国総説)と述べ、厳しい日本の現状への反省をこめた文章を見ることが出来ます。
 この国の地勢を「実記」は次のように述べています「蘭国ノ山ナシ、急流ナシ、堤防ノ設ケハ、溝渠汎溢(はんいつ)シ、水郷トナルヲ拒ムノミ、風車ノ転纔(わずか)ニ絶レハ、国中其害ヲ受クルモノアリ、日本ノ銚子口、越後河末、及ヒ両肥ノ海浜ト、其地勢ヲ同シクスルモノアリ、」
また白蘭両国を比較して「○白蘭ノ両国ハ、兄弟ノ国ト看做(みな)セトモ、其人種、風俗、絶テ同シカラス、白ハ武国ナリ、其境ニ入レハ、即チ意気凛森(りんしん 気をひきしめる)ノ状ヲミル、蘭ハ文国ナリ、其境ニ入レハ、意思縝密(しんみつ 綿密)ノ状ヲミル、(中略)蘭国ノ兵ハ、常備軍六万ニ及ハス、専ラ義兵ヲ主トシ、徴兵ハ二十歳ヨリ、五年間ノ役ニ服スル法ニテ、(中略)然レトモ全国ノ民丁、甚タ徴兵ヲ厭ヒ、兵ヲ逃ルヽモノ益(ますます)多キヲ加ヘ、(中略)民兵役ヲ逃ルヽ弊ハ、各国ミナアル通患ナレトモ、蘭国ノ甚タシキカ如クナラス、」[第五十三巻 海牙(ハーヘ)鹿特担(ロツトラタム)及ヒ来丁(レーデン)ノ記]と記述しているのです。
 同年2月28日朝9時「ドクトル、ポンペー」氏の案内で来丁(レイデン)府に赴きました。「実記」は彼を「○「ポンペー」氏ハ曾テ我長崎ニ来リテ医業ヲ人ニ授ケルコト八年、本朝医学ノ進ミニ於テ、頗ル力アル人ナリ、」とたたえています。

長崎大学薬学部―薬の歴史―長崎薬学史の研究―第二章 近代薬学の導入期―1 ポンペ、ハラタマなどオランダ医師薬剤師の来日―第二次海軍伝習とポンペの来日―ポンペの医学伝習

 此府の大学附属博物館について「実記」は「諸物ノ討捜(とうそう たずねさがす)ニ富ミタルコト、欧陸地ニ於テ高名ナリ、」と紹介し、さらに『諸国ノ博物館ニ、日本ノ動物ハ稀ナリ、此館ニ猿類ノ無尾ニシテ赭顔(しゃがん 赤い顔)ナルヲミル、之ヲ問ヘハ、即チ「シーボルト」氏日本ヨリ送リ致セルモノナリ、』とシーボルトの日本におけるコレクションを見学したことを述べています。

久米邦武「米欧回覧実記」を読む17

 1873(明治6)年3月7日海牙を出発同月9日朝7時伯林(ベルリン)駅に到着、宮内省の手配で「ウンテルデン、リンデン」街の「ホテル、デ、ローマ」に宿を定めました。
 同年3月11日午後1時宮内省用意の馬車で騎兵を護衛とし「コーニングスパレイス」に於いて維廉(ウリヤム)第一世皇帝に謁見しました。
 「実記」はベルリンについて『○伯林ハ普魯士(プロイス)ノ国都ニテ、今ハ以テ日耳曼(ゼルマン)聯邦(連邦)ノ首都トナセリ、○府内ノ地ヲ、五区ニ分ツ、第一を伯林ノ本部トス、此ニ寺院、学校、武庫、病院、孤院等アリ、第二ヲ「コローン、オンセ、スプレー」トス、帝宮、及ヒ帝家ノ菩提寺等此ニアリ、第三ヲ「フレデルヒ、ウエルデン」トス、皇帝ノ別宮、医学校、運上所、造幣局等、此ニアリ、第四を「ドローツェンス、ダット」トス、新府ノ謂(いい)ナリ、此ノ帝家ノ学校、天文台、解剖所等アリ、此ニ建タル城門ヲ「ブランデンブェルゲル」ト謂フ、府内ニテ最モ美観タリ、第五ヲ「フレデルヒス、ダット」トス、此ニ金銀器ノ細工所、及ヒ大裁判所等あり、「フランデンブェルケル」ノ城門ヨリ、一条ノ大衢ヲ通ス、之ヲ「ウンテルデンリンデン」街ト云、府中第一ノ広街ナリ、』(第五十七巻 伯林府総説)と記しています。

歴史研究所―ヨーロッパ史―第56回 プロイセンからドイツ帝国へ ドイツ帝国成立へ

久米邦武「米欧回覧実記」を読む18

 ところが眼を転ずると、「実記」は普魯士国及び伯林について次のような叙述もしています。「○此他ノ風俗モ、英米トハ甚タ異ナル所モ多キ中ニ、婦人ヲ尊フ儀甚タ簡ナリ、伯林ニテハ婦人ト雖モ、亦米英ノ人カ、婦人ニ卑屈スルヲ笑ヒテ、奇俗トスルニ至ル、」(第五十五巻 普魯士国ノ総説)『○(前略)曾テ「ウンテルデン、リンデン」街ノ写真店ニユキシニ、店(ミセノモノ)夥酔テ秘戯ノ写真ヲ、公然ト売ントセシコトアリ、欧洲ノ各都ニテ春画ヲ公然ト人ニ販(ひさ)クニアヒシハ、只此府アルノミ、』(第五十七巻 伯林府総説)
 また『○集画館ハ、王宮(私宮)ノ前ニアリ、建築ノ宏大ナル、府中ニテ眉目トスル屋観ノ一ナリ、(中略)此ニ男女ノ人ニ、給料ヲ与ヘ、裸体ニテ立チ、或ハ臥シ、或ハ踞(きょ)セシメテ、其皮肉筋骨ノ真態ヲ模写ス、石雕師ハ泥ヲ以テ之ヲ模造ス、此日ハ一ノ美婦人アリ、裸体ニテ床ニ臥シ、画工ノ粉本(手本)トナレリ、穏臥シテ動カサルコト、一時半ニテ一休ヲナシ、毎日同様ニテ、一周日ニテヤメ、或ハ久シキハ、七周日ニモ至ルトナリ、人ノ肉体ヲ写スコトハ、画工ノ最モ心ヲ尽ス技倆ナリ、然レトモ其精ヲ求ムル弊ハ、此醜状ニ至ル、頗ル厭(いと)フヘキヲ覚ヘタリ、』(第五十八巻 伯林府ノ記 上)とも述べています。

山梨大学マンドリンクラブOB&OGのホームページーなんでも写真館―INDEX―「ドイツ・ベルリンの旅〜その5 ベルリン市内4」【ウンター・デン・リンデン】 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む19

 岩倉使節団は皇帝に謁見した3月11日には宰相ビスマルクとも会見していましたが、同月15日夜ビスマルク侯より招宴がありました。
 「実記」は「○本日ノ享会(饗宴)ニ於テ、侯親(みずか)ラ其幼時ヨリノ実歴ヲ話シテ言フ」と前置きして、ビスマルクの演説を大要次のように紹介しています。
 「方今世界ノ各国、ミナ親睦礼儀ヲ以テ相交ルトハイヘトモ、是全ク表面ノ名義ニテ、其陰私ニ於テハ、強弱相凌キ、大小相侮ルノ情形ナリ、我普国ノ貧弱ナリシハ、諸公モ知ル所ナルヘシ、(中略)大国ノ利ヲ争フヤ己(おのれ)ニ利アレハ、公法ヲ執ヘテ動カサス、若シ不利ナレハ、翻スニ兵威ヲ以テス、小国ハ(中略)以テ自主ノ権ヲ保セント勉ムルモ、其翻弄凌侮ノ政略ニアタレハ、殆ト自主スル能ハサルニ至ルコト、毎(つね)ニ之アリ、是ヲ以テ慷慨シ、(中略)一国対当ノ権ヲ以テ外交スヘキ国トナラント、(中略)数十年ヲ積テ、遂ニ近年ニ至リ、纔ニ其望ヲ達シタルモ、(中略)然ルニ各国ハミナ当国ノ兵ヲ四境ニ用ヒタル跡ヲ以テ漫(みだり)ニ憎悪シ、(中略)人ノ国権ヲ掠(かす)ムルモノト、非難スルト聞ク、(中略)諸公モ必ス内顧自懼ノ念ヲ放ツコトハナカルナラン、(中略)故ニ当時日本ニ於テ、親睦相交ルノ国多シトイヘトモ、国権自主を重ンスル日耳曼ノ如キハ、其親睦中ノ最モ親睦ナル国ナルヘシト謂ヘリ、」そうして「実記」はこのビスマルクの演説を「玩味スヘキ言ト謂(いい)ツヘシ、」(第五十八巻 伯林府ノ記 上)と同感の批評を記述しています。

久米邦武「米欧回覧実記」を読む20

 同年3月28日8時に大久保利通副使は帰国の途につきました。岩倉使節団は夜11時半伯林を出発、露国に向かいました。
 車窓に展開する光景を見て「実記」は次のように述べています。『米欧列国ヲ歴訪シテ、深ク遐陬(かすう 辺地)ニ入リシハ、露西亜(ロシヤ)国ヲ以テ最トス、仏国巴黎ヲ発セシヨリ、漸ク東スルニ従ヒ、開化漸クニ浅ク、「ボルチック」海浜、及ヒ波蘭(ポーレン)ノ北ハ、漠野(果てしなく広い野原)茫茫(ぼうぼう 広く果てしない様子)トシテ、森林榛榛(しんしん 草木がさかんに茂っている様子)タリ、(中略)地図ヲ開キテ之ヲ検スレハ、(中略)文明ト呼ヒ、開化ト叫フモ、全地球上ヨリ謂(い)ヘハ、(中略)陸壌ノ広キ十ノ九ハ、猶荒廃ニ属セルナリ、露国ノ壌地ハ、莫大ナリト雖モ、多ク荒寒不毛ノ野ニテ、人棄テ我有(自分勝手に領有)セルニ過キス、』(第六十一巻 露西亜国総説)
 同年3月30日岩倉使節団は聖彼得堡(セントペートルボルク)駅に到着、露国政府接伴掛に出迎えられ、王宮の側の「ホテルフランセ」に宿をとりました。
 同年4月3日午後11時宮内長官出迎えで馬車に乗り、皇帝の宮に至り、皇帝亜歴山大(アレキサントル)第二世陛下に謁見しました。

ロシアのHP-―ロシア史―5ロマノフ朝〜帝政ロシアへー(10)(11)アレクサンドル2世の時代 
2010-04-06 13:59 | 記事へ | コメント(0) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇10) |
2010年04月01日(木)
久米邦武「米欧回覧実記」を読む1〜10
久米邦武「米欧回覧実記」を読む1

 久米邦武編「特命全権大使 米欧回覧実記」(岩波文庫 以後「実記」と略)は最初の「例言」において、本書の特徴を次のように述べています。
一 此書ハ、遣欧米特命全権大使(天皇代理として国事を取り計らう権限をもつ官吏)、東京ヲ発シ、太平洋ヲ航シ、米国ニ留リ、圧爛的(アタランチック)洋ヲ経テ、英(エングランド)蘇(スコットランド)両部ヲ回リ、欧陸ニ渡リ、仏、白(ベルジュム)、蘭、普(プロイス)、露、嗹(デンマルク)、瑞典(スウェーデン)ノ奥ヲ経歴シ、軔(とめ木)ヲ回シテ、日耳曼(ゼルマン)地方ヨリ、以(イタリヤ)、墺、瑞士(スイス)ヲ回リ、仏ノ南部ヲスキ、地中海ヨリ、紅海、亜刺伯(アラビヤ)、印度、支那ノ諸海ヲ航シテ、東京ニ復命スルマデ、日日目撃耳聞セル所ヲ筆記ス、明治四年辛未十一月十日ニ起リ、六年九月十三日ニ止ル(即西暦千八百七十一年十二月十二日ヨリ同七十三年九月十三日マデ)、スヘテ全一年九ヶ月二十一ケ日ノ星霜ニテ、米欧両洲著名ノ都邑ハ、大半回歴ヲ経タリ、
一 大使ノ西航スル、書記官(大使事務を代理する官吏)ハ使命公務ノ文書ヲ纂(あつ)メ、大使書類、公署日記、謁見式等ヲ編成シ、又同時派出ノ各省理事官(専門別調査官)ハ、各国政教兵備ノ底細(内奥と細部)ヲ視察廉(調査)訪シ、報告ノ書、数大部ヲナセリ、本編ハ大使公務ノ余、及ヒ各地回顧ノ途上ニ於テ総テ覧観セル実況ヲ筆記ス、是ヲ以テ回覧実記ト名(なつ)ク、故ニ使節ノ本領タル、交際ノ応酬、政治ノ廉訪ハ、反テ之ヲ略ス、別ニ詳細ノ書アレハナリ、
一 欧洲ニ於テ、全権大使ヲ「アンバスサドル」ト称シ、之ヲ差遣スルハ、異常ノ特典トナシ、最モ尊重敬待スル使節タリ、(中略)明治中興ノ政(まつりごと)ハ、古今未曾有ノ変革ニシテ、(中略)其由テ然ル所ヲ熟察スレハ世界気運ノ変ニ催サルヽニアラサルハナシ、(中略)我邦今日ノ改革モ亦然リ、外国交際ノ基本ヲ定メント、此異常ノ特典ヲ挙行アレリ、(中略)西洋ノ通義(世間一般に通じる道理)ニ、政府ハ国民ノ公会(組織)ニテ、使節ハ国民ノ代人ナリトス、(中略)故ニ岩倉大使深ク之ヲ敬重シ、以謂(おもえら)ク吾使節ノ耳目スル所ハ、務メテ之ヲ国中ニ公ニセサルベカラストテ、書記官畠山義成(当時杉浦弘蔵ト称ス)、久米邦武ニ命ジ、常ニ随行シテ、回歴覧観セル所ヲ、審問筆録セシメタリ、

久米美術館―邦武コーナー 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む2

 1871(明治4)年11月10日(西暦12月12日)遣欧米特命全権大使岩倉具視、副使木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳、随行の官吏及び諸省の理事官ら(「日本外交文書」第4巻 日本外交文書頒布会)は皆東京を出発、横浜に到着。翌11日送別の宴が開催されました。

近代日本人の肖像―人名50音順―あ・おー岩倉具視

 同年11月12日一同は県庁に集合、馬車で波止場に至り、小蒸気船に乗り込むと、砲台から19発の祝砲が轟いて使節を祝福、つづいて15発の祝砲が鳴り響き、米公使デロング氏の帰国を祝いました。

明治神宮外苑聖徳記念絵画館 壁画集―21 岩倉大使欧米派遣―[解説21]

 使節及びこの郵船便で米欧の国々に赴く書生、華士族は54名で、その中には福岡県士族金子堅太郎、同団琢磨、高知県士族中江篤介(兆民)、鹿児島県貫属牧野伸熊(伸顕)らの名があります(「日本外交文書」第4巻)。

近代日本人の肖像―人名50音順―な・のー中江兆民

津田梅子ら北海道開拓使派遣女学生5名(久米邦武「米欧回覧実記」を読む3 HP「米欧回覧の会」―岩倉使節団の写真参照・寺沢龍「明治の女子留学生」平凡社新書449)も乗船、同日正午使節一行らを乗せた飛脚船アメリカ号は号砲一発碇を抜いて出航しました。

国立公文書館―展示会情報―デジタル展示―明治宰相列伝―黒田清隆―関係資料―黒田清隆訪欧し開拓方法を研究する(明治3年)

 港に係留する軍艦では水兵が皆桅(マスト)上に羅列して脱帽、港には見送りのため船を仕立てて数里の外まで名残を惜しむ姿も見られました。
 司法理事官随行の平賀義質は米国通で使節団一行の食卓行儀が乱雑と岩倉大使に建言、大使から命ぜられ、一同に食卓作法を列記したものを配布しました。平賀の作法書に「給仕(ボーイ)には低声に命ぜよ」とあり、「ソップ(スープ)には匙音や吸う音をさせるな」とありました。「余が前にゐた岡内(重俊)は(中略)ソップを吸ふのには態と匙音をさせ、皿を両手に持って音を立てゝ、ギューと吸ひ込みては舌打ちし、給仕には大声で指揮語の如く命じた。端に在る村田新八は、ニヤニヤ笑うて見ていたが、米国風の大ビステキが出ると、右手にフォークを持って、芋刺にし、口辺に持ち行いて喰い切った。」(「久米博士九十年回顧録」下巻 第七編 一 平賀義質の食卓行儀 早稲田大学出版部)
同年11月21日は西暦1872年1月1日なので20日の夜、欧米の船客はみな集まり、「シャンパン」「ブラデー」其の外種々の酒を混合して「ポンケ」と名づけ、子夜(午後12時)になるまで、これを酌みかわして談話していました。これは東洋における守歳(おおみそかの夜に眠らないで行く年を送ること)の風俗のようなものでしょう。

久米邦武「米欧回覧実記」を読む3

 1871(明治4)年12月6日早暁深い霧が晴れると、船は金門口(ゴールデンゲイト)に進入、10時桑方斯西哥(サンフランシスコ)港桟橋に接岸、日本御雇の当港領事官は日本より滞在の官吏とともに出迎え、11時馬車で「モントゴメリー」町の「ガラントホテル」に到着しました。「実記」はこの「ガラントホテル」の特徴を次のように記述しています。
 『「ガラントホテル」ハ屋ノ高サ五層ニテ、(中略)造営頗(すこぶ)ル精巧ニシテ、当州ニ多ク見サル広廈(広く大きな建物)ナリ、食堂ノ広サ三百人一時ニ食案(食卓)ニ就キテ余裕アルヘシ、(中略)第一層ニハ大理石(マーブル)ヲタヽミ、十分ニ磨礱(磨き)ヲ加ヘタレハ、履(くつ)ヲ滑ラサントス、浴湯店理髪店玉突場等ヲ具ス、第二層ヨリ最上層マテ、皆房ヲ分ツテ旅客ヲ待ツ、番数三百ニ及フ、各房ノ内、大ナルハ客座(「シッチングルーム」仏ニテ「サロン」)寝室(ベッドルーム)浴室(バスルーム)及ヒ圊圂
(カワヤ・水洗トイレ)(ウオートルクロゼット)皆具ス、大鏡ハ水ノ如ク、氍 (カーペット)ハ華ノ如ク、上ニ気(ガス)燈ヲ鈎下シ、昼ハ稜角ノ玻瓈(ガラス)七色ヲ幻シ、(中略)夜ハ螺旋ヲ弛メテ火ヲ点スレハ、五曜七曜環匣(めぐり)シテ、光ヲ白玉ノ中ニ輝ス、(中略)寝床ハ螺旋ノ鉄ニテ其底ヲウク、茵蓐(しとね)穏ニシテ身ニサハラス、(中略)顔ヲ洗フニ水盤アリテ、機ヲ弛ムレハ、清水迸リ出ヅ、(中略)凡ソ西洋旅館(ホテル)ノ景況ハ、此ニ記セルヲ以テ、他ハ概推スヘシ、』(第三巻 桑方斯西哥ノ記 上)
 「余に(鍋島直大が)「旅館に来い」と申された。余は翌朝早速出かけて行き、「ミストル、ナベシマ」といふと、給仕が導いて一小室に坐ゑたが、其の室に他の西洋人男女二三人ゐたが、アッと思ふ間にドキンと動き釣り上げられた。途中に止り、戸が明いた処、外人は出て行いた。二度目に止った時「出ろ」といはれ、室を出て廊下を見回した処、公(鍋島直大)の部屋番号が見つかった。是がエレベーターの初体験である。」(「久米博士九十年回顧録」下巻 第八編 第一九二項 桑方斯西哥に着船 早稲田大学出版部)。

California―地域と都市情報―サンフランシスコ&ベイエリア

 同年12月14日(西暦1872年1月23日)朝10時から「ランマン」女学校ならびに「リンコールン」小学校その他を見学、この小学校の生徒寮で米公使「デロング」氏が日本の地理を質問すると皆答えて一つも誤ることがありませんでした。
 同日夜8時よりホテルで岩倉使節団一行の米側歓迎会が開催され、食宴後15名の「スピーチ」があり、伊藤博文も拙い英語で日本の封建制度の撤廃(版籍奉還)は「一箇の弾丸を放たず、一滴の血を流さず」行われたとし、岩倉使節団の使命を説明しした後、「我国旗の中央に点ぜる赤き丸形は、最早帝国を封ぜし封蝋の如くに見ゆることなく、将来は事実上その本来の意匠たる、昇る朝日の尊き徽章となり、世界に於ける文明諸国の間に伍して前方に且つ上方に動かんとす」(「伊藤博文伝」上巻 春畝公追頌会)と述べて終了しました。この日章旗の説明が「日の丸演説」と呼ばれて好評だったようです。
また同日全権大使岩倉具視と副使木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳はサンフランシスコのブラッドレー・アンド・ラロフソン写真館で写真を撮りました(HP「米欧回覧の会」―岩倉使節団の写真参照)。この写真が同写真館で撮った写真といわれています[田中彰「明治維新と西洋文明」(岩波新書)]。
 この写真を見ると副使は皆洋装だが岩倉大使は髷に羽織・袴で靴を履き和洋折衷の風俗であるところが、いかにも明治のはじめらしい雰囲気をたたえているように感じられます。。

米欧回覧の会―岩倉使節団―米欧回覧実記 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む4

 サンフランシスコ各地見学後、同年12月22日「ガラントホテル」出発、例の汽船で「オオクランド」の長桟橋の波止場から「カリホーニヤ」太平会社の蒸気車でロッキー山脈越えて大陸を横断し、途中大雪にあい予定変更、1872(明治5)年正月元日を雪混じりの塩湖(ソルトレイク)府で迎えて、一同に新年の「シャンパン」が配られ、米公使「デロング」夫妻らを招いてホテルで新年宴会を開きました。
 『(明治5年)正月十四日「ソートレイキ」ヲ発ス、(中略)「チカゴ」ト云ヘル所ニ著キタル頃、大使モ何時トナク断髪トナリ、衣服モ是レ迄ト違ヒ、洋服とナレリ、』(東大史料編纂所編「保古飛呂比 佐佐木高行日記」五 東大出版会) 

近代日本人の肖像―人名50音順―さ・そー佐佐木高行

同年1月17日哈馬哈(オマハ)に到着、広大なアメリカ開拓を見て、「実記」は「顧ミテ我日本ヲ回想スレハ、至宝ノ人口ハ殆ト米国ニ同シ、其建国ハ之ニ百倍シ、其土地ハ百分ノ三ニ及ハス、然ルニ野ニ遺利アリ、山ニ違宝アリ、上下貧弱ヲ免レサルハ何故ソ、蓋(けだし そもそも)不教ノ民ハ使ヒ難ク、無用ノ民ハ用ヲナサス、(中略)米国ノ紳士ミナ熱心ニ宗教ヲ信シ、盛ンニ小学ヲ興シ、高尚ノ学ヲ後ニシテ、普通ノ教育ヲ務ム、(中略)東洋ハ之ニ反ス、試ミニ上等ノ人ノ学フ所ヲ看ヨ、高尚ノ空理ナラサレハ、浮華ノ文芸ノミ、民生切実ノ業ハ、瑣末ノ陋事(軽視する事柄)トシテ、絶テ心ヲ用ヒス」(第七巻 落機山鉄道ノ記)ト自問自答せざるを得なかったのです。
同年1月21日3時華盛頓(ワシントン)府「カヒトル」の傍らの駅に到着、在留辧務使森有礼らと米国政府接伴掛セネラルマヤル氏も出迎え、馬車で「ウエルモント」街の「アーリントンホテル」に宿を定めました。

近代日本人の肖像―人名50音順―ま・もー森有礼

5名の女子留学生を託された森有礼は日本辧務使館書記官チャールズ・ランマンに彼女らを預けたので、ランマンはワシントン郊外ジョージタウンの自宅につれていき、やがて1週間ほどで、最年少の津田梅子と吉益亮子2人がランマン宅に残留、他の3人は別人宅に引き移りました(寺沢龍「前掲書」)。

高原千尋の暗中模索―記事一覧―明治4年の女子留学生(その一〜四)(2009-09-14) 

ところがこのころランマン宅の津田梅子らに会いに来た日本人がいました。新島襄です。

近代日本人の肖像―人名50音順―な・のー新島襄

 森有礼は新島襄を岩倉大使に引き会わせるためにワシントンに呼び寄せたのですが、日本で津田梅子の父津田仙と交友のあった新島襄は時々ランマン宅を訪問したのです。新島は岩倉使節団に要請されて文部大丞田中不二麿の秘書通訳となり、欧州まで同行しました(明治五年四月一日付 父新島民治宛「新島先生書簡集」同志社校友会)。
木戸孝允も新島に面会したようで「今日西(新)島始て面会す同人は七八年前学業に志し脱て至此国当時已に大学校を経此度文部の事にも着実に尽力せり可頼の一友なり」(「木戸孝允日記」明治五年二月十四日条 日本史籍協会叢書 東大出版会)とあり、また「(前略)田中不二西(新)島七(五)三太(しめた 新島の呼名)等当地を発す西島は余此地に至り始与彼談話(始めて彼と談話す)彼の厚志篤実当時軽薄浅学之徒漫に開化を唱ふるものと大に異なり余与彼交自如旧知得其益不少(余彼と交わり、自ずから旧知の如く、其の益を得ること少なからず)後来(将来)可頼之人物也」(「同上日記」明治五年二月廿四日条)とも述べて新島襄を賞賛しています。

久米邦武「米欧回覧実記」を読む5

1872(明治5)年正月25日岩倉使節団はこの日大統領官邸(ホワイトハウス)で米大統領グラントに謁見しました。

外務省―外務省案内―外務本省―外交史料館―外交史料Q&A-―明治期―1870年代―
Questionアメリカ南北戦争当時の北軍司令官で、後に第18代大統領となったグラント(ulysess S .Grant)が、大統領引退後に来日した記録を探しています。


このホワイトハウスについて「実記」は「外国ノ行旅ニモ自由ニ遊覧ヲ許シ、警邏ノ設ケナシ、国人常ニ欧洲ノ王宮、諸衙門ニ、兵ヲオキ、人ヲ禁スルヲ誹笑(そしり笑う)シテ、陋習(悪いならわし)ト言做(いいな)ストナリ、」と述べています。
しかし米国の共和政治について「夫レ官ヲ公選ニ挙ケ、(中略)其体面ハ実ニ公平ヲ極メタルニ似タリ、然レトモ上下院ノ選士ミナ、最上才俊ヲ盈(みつ)ルコトハ、到底得ヘカラス、(中略)一旦異議アルトモ、十中ノ八九ハ、必ス原案ニ決ス、(中略)是ミナ共和政治ノ遺憾アル所ナリ、」(第十一巻 華盛頓府ノ記 上)と批判しています。

久米邦武「米欧回覧実記」を読む6

 1872(明治5)年2月3日(西暦1872年3月11日)「実記」には「国務省ニ於テ国務掛ノ書記官「フィシュ」氏ニ応接ス、」と簡単に記述されているだけですが、この日条約改正交渉に関する第1回日米会談が開催されました。
幕末に締結された米国はじめその他の諸国との不平等条約の改正協議期限は、明治5年5月26日(1872年7月1日)であった(条約改正関係「日本外交文書」第1巻 明治二年十二月十日付 一七 条約改正ハ条約所定ノ期日ヲ待チ商議ニ及フヘキ旨通知ノ件 巌南堂書店)ので、日本政府の方針によって岩倉使節団は欧米諸国に日本側の要望を伝えるとともに、当面の国内改革に必要とする期間、条約改正の延期を要請しようとしていました。
ところが、この第1回日米会談で国務長官フィッシュは、岩倉使節団が新条約の草案に調印する権限があり、そのためには日本政府の全権委任状を必要とすると発言しました。
このため岩倉使節団は協議して第4回会談後、副使大久保利通・伊藤博文を全権委任状交付をうけるため一時帰国させました。「実記」に『二月十二日 朝六時ヨリ大久保副使発程シ、「ニューヨルク」ヲ経テ帰朝セリ、十三日 夜八時ヨリ、伊藤副使発程シテ帰朝アリ、』と記述されているのはそのためです。 
 しかし外務卿副島種臣らはこうした使節団の外交方針転換に反対、委任状の交付を認めるかわりに、新条約調印の場合に厳しい条件をつけたことと、米国滞在中の使節団との日米会談では関税自主権や領事裁判権などの問題で日米間の主張の隔たりは大きく、同年6月17日「実記」には「朝六時、大久保伊藤ノ両副使寺島(宗則)外務大輔ト、華盛頓府ニ着ス、午後三時ヨリ国務省ニ於テ応接アリ、」(第十七巻 華盛頓府後記)と記されていますが、この第11回日米会談で条約改正に関する対米交渉は打ち切りとなりました(「日本外交文書」第5巻・下村冨士男「明治初年条約改正史の研究」吉川弘文館・石井孝「明治初期の国際関係」吉川弘文館)。

近代日本人の肖像―人名50音順―さ・そー副島種臣

久米邦武「米欧回覧実記」を読む7

 華盛頓(ワシントン)市街については『其他我一行ノ寓セル、「アルリントン、ホテル」ヲ首トシテ大逆旅(ホテル)処処ニアリ、劇場、遊園、花園ノ如キハ、録スヘキモノ少シ、「ヂヨーチタウン」ノ墓地、殊ニ清麗ヲ極ム、百貨ヲ陳(つら)ネタル商廛(しょうてん 商店)ハ、僅ニ大道二三条ニ過キス、其他ノ諸街ハ過半官人学士ノ私居ニテ、(中略)陋巷ニハ黒人ノ居住セル街アリ、木製ノ屋廬(おくろ)、矮陋(わいろう)不潔ニシテ、修掃(しゅうそう)至ラス、鉛漆(ヘンキ)斑黒ニテ、溝溜(こうりゅう)臭穢(しゅうあい)ヲ醸(かも)シ、経過スルニ鼻ヲオヽフ、』(第十巻 「コロンビヤ」県ノ総説)とアメリカ民主主義の恥部である黒人差別の実態を鋭く観察しています。
もっとも「実記」がつづいて「西洋ノ小民ハ、愚魯(ぐろ)ニシテ、不潔ニ安ンス、牛馬ヲ距ル一等ノミ、黒人ノ居ノミ不潔ナルニアラス、」と述べているところを見ると岩倉使節団は民衆を愚民として見ていますが、必ずしも黒人差別感をもってはいなかったもののようです。
 岩倉使節団の眼に奇異に見えたのは欧米の男女交際の風俗でした。「実記」には「最モ奇怪ニ覚ヘタルハ、男女ノ交際ナリ、(中略)少シク婦ノ怒リニアヘハ、俯伏シテ之ヲ詫テ猶聴レス、室外ニ屏(しりぞ)ケラレ、食スルコトヲモ得サルコトアリ、男女舟車ヲ同クスルトキハ、丈夫ハ起テ席ヲ譲リ、婦人ハ辞セスシテ其席ニツク、(中略)是大抵西洋一般ノ風ナレトモ、米英殊ニ甚シ、[瑞土(スイス)共和国ハ其甚タ簡ナリ]と記されています(第十三巻 華盛頓府ノ記下)。
ドナルド・キーン氏は上記の文章について「いくらなんでも、これは誇張というものであろう。とはいえ、彼の観察には、今日それを読んで、私たちを苦笑いさせるに十分な真実が含まれている。」(ドナルド・キーン著「続百代の過客」上 朝日選書346)と述べています。

久米邦武「米欧回覧実記」を読む8

1872(明治5)年7月3日岩倉使節団はアメリカ側の盛大な見送りを受けて、波士敦(ボストン)港から英国の「キュナルト」会社の郵船「オリンハス」号に乗り込み、イギリスへ向けて出発しました。
 同年7月14日(1872年8月17日)里味陂(リヴァプール)港を経由、蒸気車で夜11時20分倫敦(ロンドン)の「ユーストン」駅に到着、馬車で「ボツキハム(バッキンガム)、パレイス、ホテル」に宿を定めました。
同年7月16日午後1時グランヴィル英外相宅を訪問、皇帝に謁見をもとめましたが、
当時皇帝はスコットランドの離宮に遊幸中であったので、帰還を待つことにしました。
 同年7月23日駐日英公使「パークス」らの接伴(客をもてなす)で「ヴィクトリヤ」駅より「フランクホルト」に赴きました。このとき伏見宮両親王(当時イギリス留学中の東伏見宮嘉彰親王及びドイツ留学中で当時渡英していた伏見宮能久親王)も同行、「フランクホルト」で宿泊となりました。
英国政について「実記」は『英国ノ立君政治ハ米国ノ共和政治ト異ナリテ、立法行政ノ両権ヲ平衡セル妙ハ、一等宰相カ公党ヨリ推サレ、皇帝ノ特旨ニテ其輔翼(補佐)ノ任ヲ命シ、(中略)衆議ヲ協スル弁証ニ従事スルニアリ、○上院ノ貴族カ、世襲ニ国会ニ参与スルハ、其祖宗ノ受シ証書ヲ以テ、権利ヲ永永ニ保有スルコトナリ、下院ノ議員ハ、国ノ州郡ニテ(中略)公選ニ挙ケタル名代人ニテナレリ、(中略)議長ニ向ヒテ、一人ツヽ意見ヲ陳明ス、其緊要ノ所ニ至レハ、「ヒヤヒヤ」ト声ヲ掛ル、中ニハ欠伸(あくび)ノ声モキヽ、冷笑シ居ルモアリ、』(第二十四巻 倫敦府ノ記中)と記述しています。

久米邦武「米欧回覧実記」を読む9

倫敦の市街について「実記」は「○又河岸ヲ回(めぐ)リテ、地底ニモ銕(鉄)道ヲシク、(中略)銕路ノ過ル街上ノ屋ニ坐臥スレハ、終日殷殷(いんいん 音のとどろく様子)トシテ雷声ノ地下ニ震(ふる)フヲキク、」(第二十二巻 倫敦府総説)とすでに当時の倫敦に敷設されていた地下鉄について述べています。
つづいて『西部ヲ「ウエストミニストル」ト云、(中略)達迷斯(テームス)河「ウエストミニストル」橋首ニ議政堂アリ(後ニ記ス)、「ウエストミニストルアベイ」ハ其側ニアリ、英王ノ菩提寺ニテ、代代国王ノ霊屋アリ、亦壮麗ヲ窮メタリ、国王即位加冠ノ大礼、王族ノ冠婚ハ、ミナ此ニテ式ヲ取行フ、○「ウエストミニストル」橋ヨリ東ニ向ヒ、直街一路アリ、其衝当ニ「ボツキンハムパレイス」の王宮アリ、王宮ノ前ニハ「セントヂェームス」苑アリ、中央ニ池ヲ回(めぐら)シ、林丘を設ケ、頗ル美ヲ尽セリ、

Walking in London

○王宮ノ背後ニハ「バイドパーク」ト云公苑ヲ修メ、府中最美ノ游楽園ナリ、(中略)○倫敦ノ最繁華ナル所ニ於テハ、地価ノ貴(たか)キコト異常ナリ、(中略)故ニ府中ノ市屋ハ、地ヲ占ル甚タ倹ニ、下ニハ窖(あなぐら)ヲ掘入ルル、一丈以下ノ処ニ及ヒ、上ニハ層楼ヲ起シ、八九層ニ及フ、最上七八九層ニハ小民住ス、猶我東京ノ路次ノ如シ、中間ニ僑居スルモノハ、較(やや)之ヨリ上等ノ民ニテ、職工、或ハ半工半商、或ハ商家ノ社員ナリ、下層ハ市廛(してん)ヲ開キ、百貨ヲ売ル、是西洋都府ノ常ニテ、倫敦ノ如キハ、其最等ニオルモノナリ、』(第二十二巻 倫敦府総説)と述べています。
また「売淫ノ婦人ハ、倫敦中ニ十万人ニスク、少シク人行少キ街ニ至レハ、偸児(とうじ 盗人)徘徊シ、前ヨリ帽ヲ圧シ、背ヨリ懐ヲ探リテ逃レサル、(中略)国中ノ民貧富ノ均シカラサル如此シ、」(第二十一巻 英吉利国総説)と指摘しているのです。
「実記」には「当今欧羅巴各国、ミナ文明ヲ輝カシ、富強ヲ極メ、貿易盛ニ、工芸秀テ、人民快楽ノ生理ニ、悦楽ヲ極ム、其情況ヲ目撃スレハ、(中略)此洲ノ固有ノ如クニ思ハルレトモ、其実ハ然ラス、欧洲今日ノ富庶(国が富み、人口が多い)ヲミルハ、一千八百年以後ノコトニテ、著シク此景象ヲ生セシハ、僅ニ四十年ニスキサルナリ、」(第二十三巻 倫敦府ノ記上)と述べられ、岩倉使節団はわが国もその努力如何で欧州諸国の繁栄に短時日で追いつくことが可能であるとの見通しをもっていたようです。従って彼らの眼も欧州各国繁栄の原点をさぐろうと必死だったのです。

久米邦武「米欧回覧実記」を読む10

 同年8月27日使節一行岩倉大使以下9人(「日本外交文書」第5巻)は英国政府の案内で午後4時ホテルを出発、「「ユーストン」駅より蒸気車で里味陂(リヴァプール)に赴きました。夜10時半に里味陂府の「ノースヴェストロン」駅に到着、駅口の「ノース、ウエストロン、ホテル」に宿を定めました。里味陂では「曾テ美爾索(ミルシール)河ノ南岸ヨリ、府中ヲ遠望セシニ、石炭ノ烟、濛濛トシテ地上ヨリ二三百尺ノ上マテ掩(おお)ヒ、晴空常ニ闇(くら)シ、」(第二十六巻 里味陂府ノ記上)と「実記」は述べています。
同年8月30日使節一行はこの地の造船所を見学し、「実記」はここで見た「クレイン」(鶴頸秤と訳)について、次のように記述しています。「鶴頸秤ノ起重器ハ、(中略)西洋ニテ凡港頭、船舶、工場、鉱口等、総テ重荷ヲ積卸(つみおろ)シスル場所ニハ、此器械ヲ設ケサルナシ、我日本ハ従来貿易ノ開ケサルヲ以テ、(中略)殊ニ港頭ニ起重器ノ設ナキハ、甚タ商業上ノ価位ニ響キ大ニ利益ヲ損スルヲ覚フ、西洋ノ人ハ、肩ニテ重キヲ運スルコトナキノミナラス、抑(そもそも)馬背にて重キヲ運スルコトモナシ、必ス車輪ノ力ヲ借ル、故ニ一綑ノ荷モ、往往重サ一噸ニ及フヲ常トス、以テ日本ニ運シ来レハ、(中略)竟(つい)ニハ力屈シ欧客ノ智ヲ仰ク、」(第二十七巻 里味陂府ノ記下)。 
 同年9月19日朝10時に壱丁堡(エテンボルク)府の旅館を出発、南方新城(ニューカッスル)に向かい、11時半に「ガラシールス」邑駅到着、羅紗(らしゃ)製造場に赴きました。
 羅紗を織る毛を英語で「ウール」と云い、羅紗を織るには棉羊の尤も繊輭(せんなん 細く柔らかい)な部分を用い、多くは豪斯多辣利(オヽスタラリヤ)洲より輸入するものです。「実記」はこれに関連して次のように記述しています「英国ノ富ハ、石炭と銕トヲ以テ、器械ヲ運シ、棉毛麻ヲ紡織スルヲ眼目トセリ、其羊毛ハ遠ク豪洲ヨリ輸入シ、其棉花ハ亜米利加諸国ヨリ輸入シ、其麻ハ印度ヨリ輸入シ、亜麻ハ露国ヨリ輸入ス、(中略)是東洋南洋ノ民ハ、天然ノ化力(自然の万物を成長させる作用 この場合農牧業生産物を指す)ヲ以テ、西洋ヨリ営業力(工業生産物)を買入ルナリ、」(第三十三巻 新城府ノ記上)。
新城府より「ブラトホールト」府を経て、9月23日「ソルテヤ」邑に至りました。この地は毛織物製造業者サー・タイタス・ソルトが1851年から20年の歳月をかけて建設したアルパカ(羊の一種)毛織物製造の工場村です。
 邑に小学校を建設して村民の子弟男女は半日工場で操業、半日は登校して授業を受けることになっています。「実記」は「英国人ハ、職工(労働者)ヲ保護シ、貧民救護ニ力ヲ尽スヲ、栄誉ノ一トナス、○校ノ前ニ養老院アリ、(中略)又病院アリ、(中略)建立ノ寺(教会)アリ、(中略)前後ノ製造場ニテ、如此ク備ハリタルモノナシ、(中略)此ヲ職工市街ノ仕組トス、勧工ノ道ニ於テ、深ク意味アルコトナリ、」(第三十五巻 「ブラットホールト」府ノ記)と述べています。

英国お買い物日記―イギリス世界遺産―2009/6/23−6/19 Saltaire

 『十月朔日舌非力(ゼツフィールド)発車の時(中略)落涙した女が数人あった。「僅か二三日の知合と別れたのに落涙とは友情深い」と皆々感動したが、アストン通訳は一同を顧み「此の人達は本国にには嫁さん達が待っているのに(中略)欧大陸を回遊して悪しき気候に寒暑を凌ぎ、其の中に健康で家に帰り着き、夫婦の面和を遂げるは幾人あるかと思うて見ると図らず涙が溢れたよ」と彼等は云ったと其の心持を話したそうである。岩倉公以下一同之を聞き、「先に落涙を感心したが、扨はさうした涙であったか」と打笑うた。是も英国女の真相を発露した小話である。』(「久米博士九十年回顧録」下巻)
2010-04-01 08:29 | 記事へ | コメント(0) |
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