ニックネーム:さるしばい
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2009年12月01日(火)
司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む11〜20
司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む11

  坂本龍馬がお龍を知ったのは1864(元治1)年夏、池田屋事件の前ころと推定されます。お龍は青蓮院宮家侍医楢崎将作三姉妹の長女で、将作の死後禁門の変が起こり京都は焼亡、一家は離散、美貌の妹たちは悪人の手にかかり京都の島原や大坂の遊郭に売りとばされようとしたので、お龍は妹たちの救出にでかけました。このときの様子を龍馬は書簡で次のように述べています「其悪もの二人をあいて(相手)に死ぬるかくこにて、刃ものふところにしてけんくわ(喧嘩)致し(中略)わるものうてにほりもの(刺青)したるをだしかけベラホヲ口にておどしかけしに元より此方ハ死かくごなれバとびかゝりて其者むなくらつかみ、かを(顔)した(た)かになぐりつけ(中略)とふ々(とうとう)其いもと(妹)おうけとり京の方へつれかへりたり」(「坂本龍馬関係文書」一)。
  つづいて龍馬はお龍を次のように紹介しています「此女乙大姉をしてしんのあね(姉)のよふにあいたがり候。乙大姉の名諸国にあらハれおり候。龍馬よりつよいというひょうはん(評判)なり。○なにとぞおび(帯)かきものかひとつ此者ニ御つかハし被下度此者内々ねがいいて候。(中略)今の(の)名ハ龍と申私しニに(似)ており候」(慶応元年9月9日付姉乙女、龍馬の乳母おやべ宛・「坂本龍馬関係文書」一)。

幕末英傑録―佐幕人幕末人の章―幕末女傑名鑑―お龍

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む12

  1864(元治1)年7月24日幕府は西南21藩に長州出兵を命令(第1次長州征討)、同年11月16日征長総督徳川慶勝は広島に本営を設置し、長州藩の領地周防国の没収などの徹底的な処分を考えていましたが、征長軍の薩摩藩士西郷隆盛はこのような強硬処分が長州藩の「暴徒蜂起」を引き起こすとして反対、同年12月27日征長軍は長州藩処分未決定のまま撤兵を開始しました(「維新史料綱要」巻5)。しかるに長州藩の正義派(討幕開国派)高杉晋作らは同年11月16日挙兵、1865(元治2・慶応1)年2月長州藩の主導権を掌握しました(「維新史料綱要」巻6)。
  坂本龍馬は同年4月5日大坂から京都の薩摩藩邸に帰り(土方久元「回天実記」幕末維新史料叢書7 新人物往来社)、4月25日薩摩藩汽船胡蝶丸に乗り、神戸塾生を連れて京都から鹿児島へ帰る小松帯刀や西郷隆盛らに同行、5月1日鹿児島到着、同月16日まで同地に滞在しました。
  同年5月16日龍馬は鹿児島を出発、肥後熊本の東南沼山津に横井小楠を訊ね、さらに太宰府の三条実美に面会、渡海して同年閏5月1日下関に到着、同月5日白石正一郎宅で土方久元と会うことができました(「回天実記」)。土方久元は土佐勤王党の同志で、三条実美に従って長州に赴き、実美の命により中岡慎太郎とともに上京して京都情勢を探索していた人物です。

中岡慎太郎館―慎太郎年表 

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む13

 土方久元の話によると、土方と中岡は京都にいて薩長両藩の和解が必要であることを感じました。そこで中岡は西郷が上京のとき、下関に立ち寄ることを説得するために薩摩に向かい、土方は長州藩の木戸孝允を説得するために下関に立ち寄ったとのことでした。この土方の話に同感した龍馬は直ちに木戸と連絡をとり同月6日木戸は下関に現れました(「回天実記」)。しかし8月18日の政変や禁門の変において薩摩藩と戦った長州藩には薩摩藩への敵愾心がつよく、木戸は薩長和解には容易に同意しませんでしたが、龍馬らは3日がかりで木戸を説得することに成功しました。
一方鹿児島に向かった中岡は西郷隆盛に薩長和解を説き、西郷は上京途中下関にたちよることに同意しました。1865(慶応1)年閏5月15日西郷は鹿児島を出発しましたが、途中佐賀で大久保一蔵から至急上京せよとの連絡をうけ大坂に直航、中岡だけが下関に現れ(中岡慎太郎「海西雑記」維新勤皇遺文選書 地人書館 慶応元年閏5月21日条)、薩長和解は不成功に終わったのです。
 しかしながら長州藩側から幕府の禁止により当藩は長崎で外国から必要な銃砲や艦船などを購入できないため、それを薩摩藩名義でやってもらえないだろうか、薩摩藩がこの提案を受け入れるかどうかで、同藩の意向を知ることができようとの要望が出され(末松謙澄「防長回天史」柏書房 第5編上第8章 長薩和解の端緒)、龍馬と中岡はこの提案に賛成して同年閏5月29日下関を出発、京都に向かいました。
 龍馬らは同年6月下旬入京すると西郷に面会して上記長州藩の提案を伝え、西郷が同意したので、龍馬は京都から太宰府へ帰る予定の三条実美随従の土佐出身者楠本文吉に途中下関に立ち寄って、上記提案に西郷同意の旨を長州藩側に伝えるよう依頼しました。
この知らせをうけた長州藩はただちに伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)を長崎に派遣することを決定、途中太宰府に立ち寄って薩摩藩士の紹介状を貰い、楠本文吉が同行、長崎で両人を薩摩藩に紹介したのが龍馬とともにかつて神戸塾で学んだ土佐出身者の多い亀山社中の連中でした。彼等は龍馬と鹿児島へ同行し、龍馬とわかれて薩摩藩の小松帯刀とともに長崎へきていました。彼等は長崎の亀山に宿所を構えたので亀山社中とよばれたのです。

幕末歴史探訪―人物別分類―坂本龍馬―亀山社中

 亀山社中の近藤長次郎(「龍馬がゆく」を読む7参照)は両人を小松帯刀の屋敷に潜伏させ、井上とともに鹿児島へ同行、慶応元年7月21日伊藤は社中の高松太郎の斡旋で英国商人グラバーからミネー・ゲーベルの最新小銃4300挺の購入に成功(「維新史料綱要」巻6)、薩摩船胡蝶丸・海門丸に積み、薩摩から引きあげてきた井上・上杉とともに同年8月下旬三田尻・馬関に入港(末松謙澄「防長回天史」第5編11章 長薩和解の進行并銃砲軍艦購売談判 柏書房)、長州藩が長崎で購入した汽船ユニオン号(櫻島丸)は当時下関に来ていた龍馬の仲介で長州藩海軍総管の統制下に所有は長州藩、旗号は薩摩藩、乗り組みは亀山社中という約束となりました。

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む14  

1865(慶応1)年9月21日将軍徳川家茂は長州藩再征の勅許をうけ、同年11月7日彦根藩はじめ諸藩に長州藩征討への動員を命令しました(「維新史料綱要」巻6)。
同年12月初旬在京中の薩摩藩小松帯刀・西郷隆盛らの使者として黒田了介(清隆)が下関にやってきて長州藩の桂小五郎(木戸孝允)の上京を要請、同年12月26日桂は品川弥二郎らをつれて山口を出発、1866(慶応2)年正月8日入京すると薩摩藩邸に入り小松・西郷・大久保らと会談しましたが、両藩提携の問題は従来の複雑な経緯がからんでなかなか議題に上りませんでした。
坂本龍馬は下関でユニオン号問題に決着をつけると正月10日下関を出発、同月17日大坂に到着、翌日同地に滞在中の大久保忠寛(一翁)から幕府側が龍馬らを手配探索していることを聞かされ、高杉晋作にもらったピストルを用意、同月19日夜京都に到着しました。薩長提携の話が少しも進展していないことを知ると、彼は薩摩藩の消極的な態度を批判、ただちに薩長両藩の攻守同盟についての具体的な検討に入るよう勧告、同年正月21日薩長同盟(連合)が成立するに至りました(「維新史料綱要」巻6)。

幕末千夜一夜―Essay幕末物語―56.薩長同盟はチト大げさではないでしょうか?

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む15

 1866(慶応2)年正月22日龍馬は桂小五郎らが京都を出発するのを見送り、翌23日龍馬が定宿にしていた伏見の寺田屋にやってきました。寺田屋には龍馬とともに上京してきた長州藩支藩長府藩の三吉慎蔵が待っていましたが、その翌朝午前3時ころ龍馬らは伏見奉行配下のものに襲撃されました。
 このときの様子を龍馬はのちに桂小五郎宛書簡で簡潔に次ぎのような文章で報じています「(前略)去月廿三日夜伏見ニ一宿仕候処、不計(はからずも)幕府より人数さし立、龍を打取るとて夜八ツ時(午前2時)頃二十人計寝所ニ押込ミ、皆手ことに鎗とり持、口々に上意々々と申候ニ付(中略)彼高杉(晋作)より被送候ビストールを以テ打払、一人を打たをし候(中略)そのひまニ隣家の家をたゝき破りうしろの町ニ出候て薩(摩)の伏水(見)屋敷ニ引取申候 二月六夕 木圭先生 机下」(慶応2年2月6日付「坂本龍馬関係文書」一)。
さらに兄坂本権平と一同宛の書簡でこのときの様子を大要次のように述べています「(前略)伏見の難は去る正月廿三日夜八ツ時半(午前3時)頃なりしが、(中略)もふねよふと致候所に、ふしぎなるかな[此時二階ニおり申候]人の足音のしのびしのびに二かいしたをあるくと思ひしにひとしく六尺棒の音からからと聞ゆ折柄兼てお聞に入れし婦人[名は龍、今妻と致し居り候]勝手より走せ来り云様御用心なさるべしはからず敵のおそい来りしなり」(慶応2年10月頃「坂本龍馬関係文書」一)。
またこの場面をお龍は後の回想で次のように語っています「あの時、私は風呂桶の中につかって居ました。これは大変だと思ったから、急いで風呂を飛び出したが、全く着物を引掛けて居る間も無かったのです。実際全裸で恥も外聞も考へては居られない。夢中で裏梯子から駆け登って、敵が来たと知らせました。」(安岡重雄「坂本龍馬の未亡人」二 宮地佐一郎「坂本龍馬全集」光風社書店)。

隼人物語―京都と薩摩―伏見の史跡―伏見寺田屋

長崎の坂本龍馬―コンテンツメニューー坂本龍馬の書簡―慶応2年2月6日 寺田屋の遭難を伝える書(桂小五郎宛)―慶応2年12月4日 寺田屋の一件を語る(坂本権平・一同宛) 

 同年3月4日龍馬はお龍を連れて大坂を出発、同月10日鹿児島に到着、その後お龍とともに日当山(ひなたやま)・塩浸(しおひたし)温泉で襲われたときの傷を治し、日向の霧島に遊び、このときの様子を龍馬は姉乙女宛の書簡で次のように述べています「此所に十日計(ばかり)も止りあそひ、谷川の流にてうおヽつり、短筒をもちて鳥をうちなとまことにおもしろかりし是より又山深く入りてきりしま(霧島)の温泉に行、此所より又山上ニのほり、あまのさかほ(天の逆鉾)を見んとて、妻と両人つれにてはるばるのほりし(後略)」(慶応2年12月4日付「坂本龍馬関係文書」一)。

ワシモ(WaShimo)のホームページへようこそ!−コンテンツー旅行記―鹿児島県―龍馬新婚旅行の地〜霧島 

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む16

 1866(慶応2)年6月2日龍馬はユニオン号(櫻島丸→乙丑丸)に乗って鹿児島を出発、同月16日下関に到着しました。すでに同年6月7日幕府軍艦が大島郡の海岸を砲撃し、第2次長州征討が始まっており、長州藩の高杉晋作は幕府老中小笠原長行が指揮する小倉藩領の幕府軍攻撃を計画、高杉晋作が指揮する丙寅・癸亥・丙辰3艦は田ノ浦、龍馬が指揮する乙丑と帆船庚申2艦は門司を攻撃し勝利しました。陸上でも幕府軍は連敗がつづくうちに同年7月20日将軍家茂は大坂城で死去、9月2日幕府軍艦奉行勝海舟は長州藩士広沢真臣らと安芸国厳島で休戦協定を締結するのやむなきに至ったのです(「維新史料綱要」巻6)。
 このような第2次長州征討における長州藩の勝利と幕府の敗北は当時の政治情勢に大きな転換をもたらすことになりました。
 第2次長州征討が終了すると長州藩は亀山社中に乙丑丸を提供する必要はなくなり、亀山社中は同年11月薩摩藩の小松帯刀の援助で洋型帆船大極丸を購入しましたが、経済的にゆきづまり、龍馬は社中の解散も考えねばならぬ苦境に追い込まれました。
 一方土佐藩ではすでに土佐勤王党が弾圧され、前藩主山内豊信によって、かつての参政吉田東洋のグループに属していた後藤象二郎らが登用されていました。

坂本龍馬人物伝―ページー関連人物―後藤象二郎  

彼等はもはや安易な公武合体政策が破綻したことは明白であり、とりあえず諸藩の動向を探索するとともに、藩としての富国強兵策を強化するに越したことはないと考えたのでしょう(平尾道雄「前掲書」)。1866(慶応2)年2月後藤らによって完成した開成館はその後の土佐藩富国強兵政策の中心的機関となり、軍備の近代化と・殖産興業・藩営貿易を推進する目的を果たす役割を担ったのです。同年7月後藤は長崎に出張、上海にも渡航し同年8月から1年の間に軍艦・商船7隻、銃砲弾薬類を総計約43万両近く買いつけ、土佐商会(開成館貨殖局長崎出張所)の実務担当者岩崎弥太郎が金策に苦しむほどでした(池田敬正「坂本龍馬」中公新書)。

坂本龍馬人物伝―ページー関連人物―岩崎弥太郎  

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む17

1867(慶応3)年2月下旬後藤象二郎は、龍馬とも面識があり当時砲術修行のため長崎に来ていた土佐藩士溝淵広之丞の仲介で清風亭の酒席に坂本龍馬を招待しました。

龍じゃ〜なが 長崎新聞ホームページー龍馬動くー関連企画―龍馬と長崎 動乱の幕末をゆくー<12>清風亭会談(2009年7月4日)

 そこには龍馬が隠れてなじみにしていた芸妓お元が呼ばれていました。このときの両人の会談内容は不明ですが、将来を心配する亀山社中のものに、龍馬は後藤が自分の過去の武市瑞山処刑などの出来事に一切触れようとせず、これからの問題だけを話題にしたことに感心したと述べたそうです(坂崎紫瀾 瑞山会編纂「維新土佐勤王史」日本図書センター)。
 後藤象二郎とともに土佐藩内の指導的位置にあった福岡藤次(孝弟 たかちか)はすでに1866(慶応2)年10月上京して薩摩藩の西郷隆盛と接触し、翌年2月15日西郷は高知を訪問、彼と会談した山内豊信は山内家は薩摩藩と違って、徳川家には格別の関係もあるが、地球全体から見れば小さなことだと述べたとのことです。福岡の尽力により1867(慶応3)年2月には龍馬とのちに陸援隊を組織する中岡慎太郎の脱藩赦免が決定されました。同年4月福岡藤次は藩命により長崎に赴き、才谷楳(梅)太郎(坂本龍馬の変名)は脱藩の罪を許されるとともに海援隊長に任命されました(「海援隊日史」坂本龍馬関係文書其一)。後藤象二郎は亀山社中が先に購入した大極丸残金其の他を海援隊発足とともに土佐商会から支払いました(千頭清臣「坂本龍馬伝」日本伝記叢書 新人物往来社)。
 同年4月19日いろは丸(伊予大洲藩所有)が長崎で購入した武器弾薬類を一航海15日間500両の契約で海援隊が請け負い大坂へ運ぶため出帆しましたが、同月23日夜讃岐沖で明光丸(紀州藩所有)に衝突され沈没する事件が発生しました。龍馬は大藩紀州藩を相手に、最後は後藤象二郎を表にたてて交渉、紀州藩は非を認めて賠償金を支払いました(「いろは丸航海日記」「坂本龍馬関係文書」二)。

坂本龍馬と海援隊へようこそ!!―海援隊の関連事件・事項録―6 海援隊約規―7 いろは丸衝突・沈没事件

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む18

 1867(慶応3)年6月9日坂本龍馬は後藤象二郎とともに藩船夕顔で、大政奉還建白案を京坂にとどまる山内豊信に勧めるため長崎を出発しました。瀬戸内海航行中船上で後藤と相談して、長岡謙吉に書き取らせのが有名な「船中八策」(「日本近代思想大系」9 岩波書店)と呼ばれるものです。
 この「船中八策」は近代的な共和政(国家主権が国民にあり、国政が合議制で行われる政治)の主張に近い政治構想の可能性があるとする説もあります(池田敬正「坂本龍馬」中公新書)。

坂本龍馬と海援隊へようこそ!!―海援隊の関連事件・事項録―9 船中八策

 後藤上京の翌日京都の土佐藩士らはこれを藩の方針とすることを決定しました。この船中八策は土佐藩が危惧する前年正月に成立した薩長同盟のような武力討幕方針を回避できるかもしれなかったからです。また土佐藩は幕府との武力対決を恐れ、それが民衆蜂起の原因に連なる不安があったからです。同年6月22日後藤は土佐藩武力討幕派の乾(板垣)退助を抑えて、幕政返上路線で薩土盟約(宮地佐一郎「坂本龍馬全集」光風社書店)を結びました。

幕末維新新選組―屯所入口―佐幕人・幕末人名鑑―土佐藩士 乾退助

 このころ龍馬は姉乙女宛に次のような書簡を送っています「○先頃より段々の御手がみ被下候。(中略)私を以て利をむさぼり、天下国家の事おわすれ候との御見付のよふ存ぜられ候。○又、御国の姦物役人(後藤象二郎)ニだまされ候よふ御申こし、右二ヶ条ハありがたき御心付ニ候得ども、(中略)御国(土佐)よりハ一銭一文のたすけおうけず、諸生の五十人もやしない候得バ、一人ニ付、一年どふしても六十両位ハいり申候ものゆへ、利を求メ申候。(中略)かれこれこの所かんがへ被成、姦物役人にだまされ候事と御笑被下まじく候。私一人ニて五百人や七百人の人お引て、天下の御為するより廿四万石(土佐藩)を引て、天下国家の(の)御為致すが甚よろしく、おそれながら、これらの所ニハ乙様の御心には少し心がおよぶまいかと存じ候」(慶応3年6月24日付・宮地佐一郎「坂本龍馬全集」光風社書店)。

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む19

 1867(慶応3)年9月18日龍馬はオランダから購入したライフル銃1000挺を長崎出帆の震天丸(芸州藩船)で高知へ回送しました(中城直正手控「随聞隋録」宮地佐一郎「龍馬百話」引用)。そのころ土佐藩では乾退助が藩兵の組織を銃隊中心とする軍制改革を行っていたところで、龍馬がもたらしたライフル銃はすべて藩が引き取りました。このように龍馬は武力による圧力が大政奉還(徳川氏の政権返上)実現を促進するものと理解していたもののようです。同年9月29日竜馬は脱藩以来久しぶりで帰省した実家(「尾崎三良談話」史談会速記録 宮地佐一郎「坂本龍馬全集」光風社書店)にもゆっくりすることなく、同年10月1日京都へ向かいました。
 同年10月3日後藤象二郎は前土佐藩主山内豊信名義の大政奉還建白書を一通、他の一通は土佐藩家臣神山左多衛・福岡藤次・後藤象二郎・寺村左膳の連名によるもので、主として船中八策を骨子とするものを幕府老中板倉勝清に提出しました(渋沢栄一「徳川慶喜公伝」4 東洋文庫107 平凡社)。つづいて10月13日将軍徳川慶喜は在京10万石以上の諸藩重臣を二条城に招集、大政奉還について諮問しました(「維新史料綱要」巻7)。
 この日龍馬は後藤に次のような書簡を書き、「建白之議万一行はれされば固より必死の御覚悟故、御下城無之時は、海援隊一手を以て大樹(将軍)参内の道路に待受社稷のため不(倶)戴天の讐を報じ、事の成否ニ論なく先生(後藤象二郎)ニ地下ニ御面会仕り候」(慶応3年10月13日付「坂本龍馬関係文書」一)と二条城に赴く後藤に死を覚悟するよう要請し、もし下城しないときは国家のため将軍を殺害し、自分も死ぬであろうと訴えています。
 翌日将軍慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出しましたが、同日前権大納言正親町(おおぎまち)三条実愛(さねなる)は長州藩父子に討幕の密勅を出しました(「維新史料綱要」巻7)。

明治神宮外苑聖徳記念絵画館 壁画集―5 大政奉還―[解説5]

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む20(最終回)

 1867(慶応3)年10月16日龍馬は戸田雅楽(尾崎三良 三条実美の家臣)らと相談して船中八策を実現する新政権運営のための新官制擬定書ならびにそれを担う人材を候補として挙げました(坂崎紫瀾編述「坂本龍馬海援隊始末」三 宮地佐一郎「坂本龍馬全集 光風社書店)。それは「関白」として三条実美、「議奏」として松平春岳ら雄藩諸侯と岩倉具視ら公卿、「参議」として小松帯刀・木戸孝允・後藤象二郎・由利公正・横井小楠らが候補とされていたのです。龍馬と同席していた戸田雅楽は「関白」の次に「内大臣」として徳川慶喜が候補として挙げられていたといささかの差異があったことを指摘しています(「尾崎三良自叙略伝」上巻第1篇 宮地佐一郎「坂本龍馬全集」光風社書店)。この官制案を西郷に見せたとき、西郷が龍馬を候補として挙げた職がない理由を問うと「僕は役人を厭ふ」と答え、西郷がさらに「然らば官職を外にして何をか為す」と質問すると竜馬は「左様さ、世界の海援隊でもやらんかな」と答えたそうです[千頭清臣「坂本龍馬伝」(遺事雑記)]。
しかし坂本龍馬が参議の候補として入っていたとする史料(「尾崎三良手扣」「坂本龍馬関係文書」一)もあり、上記の話が事実かどうかは今後の研究を待ちたいと思います。
 同年10月24日龍馬は京都を出発、福井で松平慶永に会見、越前藩士由利公正に新政府の財政を担当するよう求めました(三岡丈夫著述「由利実話」由利公正伝 第二篇 宮地佐一郎「坂本龍馬全集」光風社書店)。
 越前から帰って龍馬は同年11月船中八策を簡単にまとめた「新政府綱領八策」(宮地佐一郎「坂本龍馬全集」光風社書店)を書き、最後に「諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云々。○○○自ラ盟主トナリ、コレ以テ朝廷ニ奉リ始テ天下万民ニ公布云々。…」とあり、天皇を頂き、おそらく徳川慶喜か山内豊信をはじめとする雄藩・諸侯が協力を誓約する新政権構想を示したものと言えるでしょう。一方薩長両藩の武力挙兵の動きは着々と進行していました。
 同年11月15日夕刻中岡慎太郎は銀閣寺近くの陸援隊屯所から龍馬の下宿近江屋(土佐藩醤油等御用達)を訪問、龍馬は彼を母屋の二階に案内しました。夜になって本屋の倅峯吉に軍鶏を買いにやらせた後、十津川の郷士と称する3人の刺客が近江屋に現れ、龍馬に面会を求めました。相撲取りあがりの下男藤吉がその名刺をもって二階に上がってきたところを刺客は背後から下男を斬り付けました。中岡・坂本は二階に飛び込んできた刺客に応戦する暇もなく、龍馬は頭を斬られて転倒、中岡も斬られて重傷を負いました。竜馬は刺客が帰った後店の主人を呼び、医師を呼ぶよう命じ、主人が二階にあがると龍馬はすでに絶命していました。中岡は翌々17日に死去しました(「坂本龍馬関係文書」一・二)。
この小説は竜馬が刺客に襲われて死去したところで終了しており、次のような文章で結ばれています「しかし、時代は旋回している。若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押しあけた。」。
なお龍馬・中岡を暗殺した犯人は長い間新撰組だという説が有力でしたが、1870(明治3)年箱館五稜郭落城によって降服した元京都見廻組今井信郎の「刑部省口書」(「坂本龍馬関係文書」一)により、今井信郎ら見廻組の犯行であることが明らかとなり、現在ではこれが定説となっているようです(池田敬正「前掲書」)。

京阪奈ぶらり歴史散歩―歴史のチシキー龍馬暗殺犯を推理する

 次回から明治時代に入りますが、その執筆構想を整えることと、既述の文章の不備を補正するために、このblogをしばらく休載します。
 来年4月から連載再開の予定です。
 読者の皆様。よい新年をお迎えになりますよう祈念致します。
2009-12-01 07:33 | 記事へ | コメント(2) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇 8) |
2009年11月26日(木)
司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む1〜10
司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む1

 司馬遼太郎「龍馬がゆく」(司馬遼太郎全集第3巻 文芸春秋)は1962(昭和37)年6月21日から1966(昭和41)年5月19日にかけて「産経新聞」の夕刊に連載された長編小説です。
 近世の土佐藩は関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が中世以来の長宗我部氏の領国土佐国を山内一豊に与えた時からはじまります(「功名が辻」を読む10参照)。しかし土佐には多くの一領具足とよばれる旧長宗我部氏の遺臣が土着しており、山内氏は彼等に郷士という身分を与えたのでした。この人々が慶長郷士ですが、のちには町人や豪農が郷士株を譲渡されることもしばしばありました(平尾道雄「土佐藩」吉川弘文館)。
 坂本家は明智光秀一門の出身であるといわれ(寺石正路「南国遺事」高知聚景園武内書店 宮路佐一郎「龍馬百話」文春文庫引用)、近江坂本城落城後、土佐に逃亡、同国長岡郡才谷村に定住しましたが、4代目のとき高知城下に出てきて町人才谷屋として繁栄するようになりました。6代目八郎兵衛直益は郷士株を譲渡されてこれを長男に継がせ、次男に酒造業才谷屋を継承させました。才谷屋は9代目八太郎直与の時代の1849(嘉永2)年に酒造業をやめて質屋と武士の俸禄を抵当に貸金をする仕送屋を営業していました。
 土佐藩の身分制度は士格と足軽などの軽格に分けられていましたが、郷士とは軽格中の最上位の身分でした。
  坂本龍馬は1835(天保6)年11月15日土佐藩家老福岡宮内お預かり郷士坂本八平直足の次男として、高知城下本町で出生しましたが、異説もあります(「坂本龍馬年譜」宮地佐一郎編「坂本龍馬全集」光風社書店)。3丁目には坂本家の本家であった豪商才谷屋がありました(「才谷屋記録」日本都市生活史料集成3 城下町篇T 学習研究社)。

高知県観光情報サイト こじゃんとネットー観光―竜馬誕生地―大河ドラマ記念 坂本龍馬特集

高知県立坂本龍馬記念館―調べるー龍馬ゆかりの場所一覧―才谷屋跡

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む2

 龍馬の幼少期については「初め龍馬は怯懦にして暗愚なるが如く、居常寡黙、十歳を過ぎても夜溺(よばれ 寝小便)の癖止まず、隣人称して洟垂(はなたれ 痴児)といふ。十二歳の時、始めて市外小高坂楠山某の学舎にはいりしも、業進まず通学の途上屡々学友に揶揄せられ泣きて家に帰る」(千頭清臣「坂本龍馬伝」新人物往来社)と記述されています。
 この心身虚弱な龍馬を愛し、根気よく鍛え上げたのは三歳年上の姉乙女(とめ)でした。彼女は成長した龍馬の体格に匹敵するほどの女丈夫で料理・裁縫は苦手でしたが、剣術・馬術・弓術・水泳に秀でており、経書を学び和歌・絵画も巧みで、琴・三味線・一弦琴・舞踊などの芸事にも通じていました(土居晴夫「坂本龍馬の系譜」新人物往来社)。

幕末英傑録―佐幕人幕末人の章―幕末女傑名鑑―坂本乙女

 龍馬は14歳ころから小栗流の剣客日根野弁治道場に通い、剣術の修行を通じて、次第に逞しく成長しはじめるのです。1853(嘉永6)年3月龍馬は剣術修行の目的で江戸へ旅立ちました。このとき父八平から「修行中心得大意」(京都国立博物館所蔵・「坂本龍馬関係文書」一 日本史籍協会叢書 東大出版会)という訓戒を与えられています。 
  この小説は龍馬が剣術修行のため江戸へ旅立つ前日、龍馬の姉乙女が針仕事にいそしむ場面から始まります。
 龍馬が江戸で入門したのは幕末三剣客の一人北辰一刀流千葉周作の実弟千葉定吉の剣術道場でした。この年ペリーが浦賀に来航、龍馬も江戸品川海岸の警備を命ぜられて参加、「異国船処々に来り候由に候へば、軍も近き内と奉存候。其節は異国(人)の首を打取り、帰国可仕候。」(嘉永6年9月23日付父宛書簡「坂本龍馬関係文書」一)と述べています。

坂本龍馬の遺伝子―カテゴリー別アーカイブー坂本龍馬講座―坂本龍馬、江戸に留学し千葉定吉道場に入門

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む3

 1854(安政1)年6月高知に帰ってきた龍馬は土佐安政大地震(安政元年11月5日)の直後、龍馬の近所に避難してきた狩野派画家河田小龍を訪問したといわれています。
 1852(嘉永5)年米国より帰国した土佐国幡多郡中浜村の漂流民漁師万次郎(ジョン万次郎)から河田小龍は藩命により海外事情を詳細に調査し「漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)」(川田維鶴撰 高知市民図書館)という著書をまとめ、山内容堂に献上しました。また彼は1854(安政1)年8月土佐藩から薩摩藩に派遣された反射炉視察団の一人でもあったのです。龍馬は小龍に江戸での見聞を語るとともに、最新の海外知識を授けられたことでしょう。小龍は龍馬に洋式の汽船を購入して人と貨物の交流をさかんにすることが急務であることを説きました(「藤陰略話」宮地佐一郎「前掲書」)。そしてこのことが龍馬に強い印象を与え、後の亀山社中―海援隊の構想を発展させる土台となったようです。
 1856(安政3)年8月龍馬は再び剣術修行のため江戸にきていましたが、同じころ武市半平太(瑞山)が江戸の鏡新明智流桃井春蔵道場に来ていました。

土佐の人物伝―人物―武市瑞山―岡田以蔵―その他の関連資料―土佐勤王党―土佐藩

 土佐尊攘運動の中心人物武市瑞山は土佐国長岡郡仁井田郷吹井(ふけ)村の白札郷士の家に生れ、剣に秀でてのちに高知城下に道場を開くほどの腕前でした。彼はおそらく江戸で龍馬や他藩の武士との交流を深めたことでしょう(嶋岡晨「土佐勤王党始末」新人物往来社)。瑞山は翌年9月祖母の病気のため帰国しましたが、龍馬は1858(安政5)年正月吉祥日に千葉定吉より「北辰一刀流長刀(なぎなた)兵法 一巻」(高知桂浜龍馬会所蔵)を授けられました。この末尾に千葉定吉政道とその子女の名すなわち「千葉重太郎一胤・千葉佐那(さな)女・千葉里幾(りき)女・千葉幾久(いく)女」が連記されています。同年9月龍馬は江戸遊学を終了して高知に帰国しました。
 龍馬が前後3年余江戸に居て薙刀の目録しか貰わなかったとは考えにくく、土居晴夫氏は佐那女との将来の結婚を約束した引出物として授けられたものではなかろうかと推定しています(土居晴夫「坂本龍馬とその一族」新人物往来社)。
 龍馬は姉乙女への書簡(文久3年8月14日と推定)で「此人ハおさな(佐那)というなり。かほかたち平井(加尾 龍馬の高知時代の初恋の女といわれる)より少しよし。心ばへ大丈夫ニて男子などをよばず夫(それ)ニいたりてしづかなる人なり。」と述べており、千葉佐那との恋を伝える唯一の史料です(宮地佐一郎「龍馬の手紙」講談社学術文庫)。

幕末英傑録―佐幕人幕末人の章―幕末女傑名鑑―千葉佐那子

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む4

 1848(嘉永1)年土佐藩主となった山内豊信(とよしげ 容堂)は1853(嘉永6)年吉田元吉(東洋)を参政に起用し、洋式軍備強化をめざす藩政改革に着手しました(平尾道雄「土佐藩」吉川弘文館)。

水野日向守本陣―江戸時代大名総覧―やー松平山内土佐家

土佐の人物伝―人物―山内容堂―吉田東洋―河田小龍―ジョン万次郎

 土佐藩主山内豊信は老中阿部正弘指導下の幕政に発言権を強めて参勤交代その他の負担免除を要望、阿部正弘歿後の将軍継嗣問題では一橋派に属していました。
1858(安政5)年井伊直弼が大老に就任、同年10月幕府は土佐藩主山内豊信を隠居させ、翌年9月前藩主豊信は謹慎を命ぜられました。参政吉田東洋は土佐藩を幕府の方針に従う方向に転じました。
しかるに1860(万延1)年3月桜田門外の変により大老井伊直弼が暗殺され、幕府独裁体制が崩壊すると、同年7月武市瑞山は再び江戸に赴き、長州藩の久坂玄瑞・・桂小五郎・高杉晋作らと接触、1861(文久1)年8月江戸で土佐勤王党を結成しました(「土佐勤王党盟約書」武市瑞山関係文書一 日本史籍協会叢書 東大出版会)。

龍馬の遺伝子―坂本龍馬講座―坂本龍馬、武市瑞山の「土佐勤王党」に第九番目の加盟

瑞山は翌月高知に帰り坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村寅太郎らが加盟する200余名の大組織に発展させました。彼等は郷士及び庄屋などの豪農層が大部分で長宗我部遺臣の子孫が多く、山内家に忠実な士格に属するものはほとんど居ませんでした。ここに土佐勤王党の性格がよく現れています。

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む5

1862(文久2)年正月瑞山は龍馬を長州の久坂玄瑞の許に派遣、龍馬はこのとき同時に久坂を訪ねてきた薩摩藩の樺山三円から島津久光上京の情報を入手、龍馬は久坂から瑞山宛の「草莽の志士糾合義挙の外には迚(とて)も策無之事と私共同志中申合居候(中略)坂本(龍馬)君ニ御申談仕り候事ども篤く御熟考可被下候」と記された書簡(文久2年正月21日付「坂本龍馬関係文書」一)を託され、大坂・京都を経由して同年3月1日高知に帰着しました。
しかし武市瑞山はこのような藩を越えた尊攘運動に一線を画し、あくまで土佐一藩の藩論を尊攘運動にまとめようと画策していました。
一方龍馬は武市瑞山に同調せず、同年3月24日夜脱藩しました。龍馬と同じ勤王党の同志であった郷士平井収二郎は翌日当時京都の公卿三条公睦(三条実美の兄)未亡人信受院(山内豊信の妹)の侍女であった妹かほ(加尾)に「坂本龍馬昨廿四日の夜亡命定めて其地へ参り申すべく龍馬国を出づる前々より其許の事に付相談に逢ひ候事御座候たとへ龍馬よりいかなる事を相談いたし候とも決して承知不可致(中略)元より龍馬は人物なれとも書物を読ぬゆへ時としては間違ひし事も御座候得はよくよく御心得あるべく候」と記した書簡(文久2年3月25日付「坂本龍馬関係文書」一)を送っており、竜馬が高知在住のとき平井加尾に浅からぬ思いを寄せていた様子が推察されます。しかし龍馬は京都には現れず、下関から九州を経て同年6月11日大坂に姿を現し、やがて江戸に向かいました。

Golden Cadillac―竜馬伝・坂本竜馬関係―登城人物・関係人物―平井加尾(広末涼子) 

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む6

他方武市瑞山は上述のような意図の実現をはかり、1862(文久2)年4月8日土佐藩参政吉田東洋は土佐勤王党の那須信吾らによって暗殺されました(「維新史料綱要」巻4東大出版会)。武市瑞山は京都で画策、同年6月11日孝明天皇の内旨をうけた尊攘派公卿三条実美は土佐藩京都留守居役に土佐藩主はただちに上京、薩長両藩とともに京都警衛にあたるべきことを伝達しました。かくして土佐藩主山内豊範は1862(文久2)年7月25日兵を率いて上京、幕府に攘夷を命ずる勅使三条実美に従って江戸に下ることになりましたが、武市瑞山は公家に変装して東下しました(瑞山会「維新土佐勤王史」日本図書センター)。
武市瑞山に先んじて江戸に入った龍馬は、おそらく横井小楠を通じて、当時幕府政事総裁職であった越前藩主松平慶永(春嶽)に面会、さらに慶永の紹介で幕府軍艦奉行並であった勝海舟を訪問しました。このとき千葉重太郎(「龍馬がゆく」を読む3参照)が同行しています(「続氷川清話」幕末維新史料叢書二 人物往来社)。勝海舟は幕臣でありながら、幕府のためではなく国家のための開国を主張していた人物でした。

近代日本人の肖像―人物名50音順―おー大久保一翁―かー勝安芳―まー松平慶永―よー横井小楠 

この時のことを海舟は後年「坂本龍馬。彼れはおれを殺しにきた奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着(おちつ)いて、なんとなく冒しがたい威権があって、よい男だったよ。」(「氷川清話」講談社学術文庫)と語っています。
攘夷論者であった龍馬は勝海舟の見識に圧倒されて開国論者となり、彼の門弟となったといわれていますが、すでに攘夷論に疑問を感じていた龍馬が海舟の開明的立論に目を開かれたというのが真相ではないでしょうか。
1862(文久2)年12月17日龍馬は海軍奉行並勝海舟の家来で幕艦順動丸に乗って西に向かい。やがて翌年はじめには京都に現われ、彼の仲間であった人々を次々と海舟の影響下に引き入れ、海軍の隆盛や航海術習得の同志を集め、さらに「人斬り以蔵」と呼ばれた武市瑞山配下の刺客岡田以蔵をも海舟の警護役にしています。
翌年正月25日龍馬は海舟の紹介で幕臣大久保忠寛(一翁)を訪問しました。この直後一翁から横井小楠に宛てた書簡(文久3年正月日付「坂本龍馬関係文書」一)で龍馬のことを「大道可解人」と評し、「素意之趣」を話すと、龍馬と沢村惣之丞は「手ヲ打計(ばかり)ニ解得候」と記し、おおいに意気投合した様子が伺えます。松平慶永の政事総裁職在職中一翁は「幕府にて掌握する天下の政治を、朝廷に返還し奉りて、徳川家は諸侯の列に加り、駿(河)、遠(州)、三(河)の旧地を領し、居城を駿府に占メ候儀、当時の上策なり」(「逸事史補」松平春嶽全集第1巻 原書房)と述べており、一翁はおそらく龍馬に対しても上述のような大政奉還論を語ったと思われます。

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む7

また龍馬は勝海舟や松平慶永の尽力で、1863(文久3)年2月25日京都土佐藩邸で謹慎7日の処分により脱藩の罪を許され、同年3月6日藩から航海術の修行を命ぜられました。同年3月20日付姉乙女宛初書簡で龍馬は次のように述べています「(前略)今にてハ日本第一の人物勝憐(麟)太郎殿といふ人のでし(弟子)になり、日々兼而(かねて)思付所をせい(精)といたしおり申候(中略)あにさん(坂本権平)にもそふだん(相談)いたし候所このころハおゝきに御きげんよろしくなりそのおゆるしがいで申候国のため天下のためちから(力)おつくしおり申候。どふぞおんよろこひねかいあけ、かしこ。」(「坂本龍馬関係文書一」)。
同年4月23日将軍徳川家茂が大阪湾の海防状況を視察した時、側近にあった勝海舟が神戸村で操練局建設の必要を訴えたところただちに許可され(「海舟秘録」氷川清話)、翌日幕府は兵庫付近の神戸に海軍所と造艦所建設を決定、海舟は海軍所で海軍の教授を自由にすべきこと、及びその費用として毎年三千両を支給することなどを決定しました。龍馬は同年5月16日海舟の命により、松平慶永に海軍所の費用を援助してもらうため越前に赴いています。
龍馬は同年5月17日付の姉乙女宛の書簡で「(前略)近き内には大坂より十里あまりの地にて、兵庫という処にておゝきに海軍ををしえ候処をこしらへ、又四十間五十間もある船をこしらへ、弟子(塾生)共にも四五百人も諸方よりあつまり候事、私初(はじめ)栄太郎(甥の高松太郎)なども其海軍所に稽古学問いたし時々船乗のけいこもいたし(中略)すこしヱヘン顔(得意顔)をしてひそかにおり申候。(中略)猶(なお)ヱヘンヱヘン、かしこ」(「坂本龍馬関係文書」一)と四、五十間(70m〜90m)もある船を建造したとか、塾生が四、五百人もいるなどと云っているのは彼の願望のようにおもわれますが、このような内容を得意顔で姉乙女にあかるく語っている龍馬の姿が目に浮かぶようです。龍馬は実際に神戸海軍操練所と神戸塾の塾頭となり、その「稽古学問」とは航海術・運用術・砲術・造船学・測量学・船具学・算術・機関学から天文・暦数・英語などの広範囲に及び、塾生には河田小龍門下の饅頭屋近藤長次郎(上杉宗次郎)・焼継屋馬之助[新宮駟(しめ)]・医者の長岡謙吉、それから甥の高松太郎(坂本直)・脱藩の同志沢村惣之丞(関雄之助)・紀州藩脱藩伊達小次郎(陸奥宗光)その他伊東祐亨(薩摩藩士)などもいました。

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司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む8

1863(文久3)年4月20日将軍家茂は攘夷期限を5月10日とする旨天皇に奏上、長州藩は5月10日下関通過の米船を砲撃、23日には仏軍艦、26日には蘭軍艦を砲撃しました。これに対して同年6月1日米軍艦ワイオミングが報復攻撃、5日には仏軍艦2隻が下関砲台を攻撃し、上陸してこれを占領しました(「維新史料綱要」巻4)。
 同年6月29日付龍馬の姉乙女宛の書簡では「(前略)然ニ誠になけくへき事ハながと(長門)の国に軍(いくさ)初(始)り、後月より六度の戦に日本甚利すくなくあきれはてたる事ハ其長州てたゝかいたる(外国)船を江戸でしふく(修復)いたし又長州でたヽかい申候是皆姦吏の夷人と内通いたし候ものニて候(中略)龍馬二、三家の大名とやくそくをかたくし(中略)朝廷より先ヅ神州をたもつの大本をたて(中略)日本を今一度せんたく(洗濯)いたし申候事ニいたすへくとの神願ニて候」(「坂本龍馬関係文書」一)と述べています。この書簡からも判るように、龍馬は勝海舟や大久保一翁に接近したからといって佐幕派に転向したのではないことに注意する必要がありましょう。

長崎の坂本龍馬―コンテンツメニューー坂本龍馬の書簡―通称「日本の洗濯」(坂本乙女宛)

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む9

江戸で公武合体・雄藩連合を策していた前土佐藩主山内豊信(容堂)は1862(文久2)年4月8日の土佐藩参政吉田東洋暗殺以後、土佐勤皇党の破約攘夷方針に押されているかのような土佐藩の動向につよい不満をもっていました。
1863(文久3)年4月豊信が高知に帰ってくると、同年5月24日郷士以下の軽格の藩士すべてが集合させられ、藩奉行職は「一旦朋党の盟約相結び候輩といへども先非を改め、正道に相帰候得は、既往之小過は深く糾明仰付られず」と事実上の土佐勤王党解散命令を布告しました(「高知県史」近世篇 高知県)。
同年8月18日の政変が起こり、京都の政治情勢は一変、会津藩・薩摩藩ら公武合体派は三条実美ら尊攘派公卿を退け、尊攘派長州藩は禁門警衛の任務を解任されました。この政治情勢変化に呼応して、同年9月21日土佐藩は武市瑞山ら土佐勤皇党の主な指導者を投獄、翌日藩はこの勤王党弾圧が京都朝廷からのご沙汰であると藩内に布告しています(瑞山会「維新土佐勤王史」)。

武市瑞山獄中自画像(提供:フリー百科辞典ウイキペディア(Wikipedia)  

このころ勝海舟とともに江戸にあった坂本龍馬に対して江戸の土佐藩邸から龍馬召喚要求をうけた勝海舟は同年12月6日の書簡(54「土佐藩御目付衆宛」文久3年12月6日付「勝海舟全集」別巻1 勁草書房)で、龍馬は勉励修行中であるからと丁重に修行年限延長を要請しました。しかし土佐藩側も海舟の希望を拒絶、龍馬も藩の召喚命令に応じなかったため、龍馬は再び脱藩者となりました。
 1865(慶応1)年閏5月11日武市瑞山ら土佐藩尊攘派は処刑されました(「維新史料綱要」巻6)。

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む10

 京都を追われた長州藩は1864(元治1)6月5日新撰組が尊攘派志士を襲った池田屋事件をきっかけに再びその勢力回復を企て出兵しましたが、1864(元治1)年7月18日薩摩・会津両藩がこれを退けた禁門の変が起こり、同年7月23日には長州藩追討の朝命が出されました。池田屋事件では龍馬と同郷の神戸塾生望月亀弥太が新撰組に殺害されています(「維新史料綱要」巻5)。
神戸塾生高松太郎が海舟の命で観光丸乗員用として大量の防寒毛布を外国商人から買い込むと、これは「禁門の変」で敗北した長州浪人をかくまうためであろうという噂が広がりました。さらに神戸塾はそれら過激分子の巣窟となっていると嫌疑をうけ、同年9月19日幕府は全塾生の出処姓名の提出を命令するに至ったのです(土居晴夫「坂本龍馬の系譜」)。
同年10月21日勝海舟は役職罷免、江戸に召喚されたので、神戸海軍操練所碑石を庄屋生島四郎太夫に命じてこれを地中に埋めさせ、塾生坂本龍馬はじめ高松太郎、陸奥陽之助(宗光)らは、おそらく海舟のはからいにより、薩摩藩家老小松帯刀・西郷隆盛らの庇護をうけ頭髪・服装も薩摩風にして大坂薩摩屋敷に潜伏しました。

神戸旅行・観光めぐりー神戸の史跡―海軍営之碑

 このころ小松帯刀(清廉)は大久保一蔵(利通)に次のような書簡を送っています「神戸、勝方え罷居候土州人(中略)坂元(本)龍馬と申す人(中略)当分土佐国政向甚厳敷不法の取扱有之、罷帰候へば則ち命を絶ち候由、(中略)潜居の相談承り、余計の事ながら右辺浪人体之者を以て、航海之手先に召使候得ば可宜と、西郷抔滞京中談判もいたし置候間、大坂行(御)屋敷へ内々相潜め置き候」(元治元年十月「坂本龍馬関係文書」一)。
 薩摩藩は前年の薩英戦争で多大の損害を受け、海軍再建をはかっていたときで、龍馬ら神戸塾生を「航海之手先」に使おうとしていたのです。
2009-11-26 11:30 | 記事へ | コメント(0) |
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2009年09月12日(土)
司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む11〜20
司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む11

 高杉晋作は1839(天保10)年8月20日長門国萩で出生しました。晋作は通称で、本名は春風、字は暢夫(のぶお)といいます。高杉家は毛利家に仕える家柄で晋作の父は高杉小忠太春樹といい、長州藩12代藩主斉広・13代藩主敬親に仕えた中級武士(禄高200石 ただし藩財政窮乏による知行召し上げにより実質40石程度)で藩主敬親・世子定広(支藩徳山毛利家から養子となる)の側近を勤めました。母は道といい同藩大西家より嫁ぎ、長男晋作を生みました(「高杉小忠太履歴材料」・「安政二年分限帳」梅渓昇「高杉晋作」吉川弘文館引用)。

水野日向守本陣―江戸時代大名総覧―もー松平毛利長州家

 1854(安政1)年ころ藩校明倫館入舎(通学)生となりましたが、そのころの明倫館の学風はかつての学頭山縣太華に代表されるような経書[けいしょ 四書(論語・孟子・大学・中庸)五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)などの総称]の訓詁(古文の字句の解釈)のみで、時局の論議を避ける空気が支配的でした。
 晋作はこうした明倫館の風潮にあきたらず、1857(安政4)年8〜9月ころ吉田松陰の指導する松下村塾に学ぶようになりました(「世に棲む日日」を読む8参照)。これより以前晋作のよき競争相手であった久坂玄瑞がすでに松陰門下生となっていたようです。
 1858(安政5)年幕府による日米修好通称条約の無勅許調印に吉田松陰は反対の態度をとり、弟子たちに時局にかんする策問を与えましたが、高杉晋作は同年5月ころ「弾正益田君(藩家老益田右衛門介)に奉るの書」(堀哲三郎編「高杉晋作全集」下 論策 新人物往来社)をまとめ、松陰はこれを賞賛しています(「暢夫の対策を評す」「戊午幽室文稿」吉田松陰全集第5巻)。

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む12

 願いにより高杉晋作の江戸遊学が許可され、同年7月18日晋作は松陰から「高杉暢夫を送る叙」(「戊午幽室文稿」)を贈られ萩を出発、同年8月16日ころ江戸に到着しました。
 やがて松陰は同年末老中間部詮勝要撃策などを実行しようとするなど(「世に棲む日日」を読む8参照)の動きを見せ、同年11月24日付の重大な内容の書簡を高杉晋作・久坂玄瑞・飯田正伯・尾寺新之丞・中谷正亮ら5人に送っていますが、これに対して高杉晋作ら5人は同年12月11日師吉田松陰に江戸から次のような手紙を送りました。
 「先生此度正論赫々、御苦心の程誠に以て感激奉り候、然る処天下の時勢も、今日に至り大いに変り、諸藩鉾を斂(おさ)め旁観仕り候事、甚以て歎息の至に候得共、将軍 宣下も相済み人気稍静まり候得は、義旗一挙実に容易ならざる事にて、却而社稷の害を生る事必然の儀に御座候、然りと雖も幕吏猖獗(しょうけつ)、有志の外、諸侯に隠居を令せられ候乎、或は交易開け候上には、必ず旁観成ぬ勢に相成り申すべく、此時に方(あた)り、実に御互い国の為鞠躬尽瘁(きくきゅうじんすい)仕る可し。夫迄は胸を押さへ、鉾を斂め、何にも社稷の害仕出ぬ様、国の為万々祈り奉り候」(東行先生五十年祭記念会「東行先生遺文」民友社)
 高杉晋作らは松陰に対して長州藩に被害が及ばないように自重をもとめたのです。1859(安政6)年10月藩命により帰国した晋作は吉田松陰刑死を知り無念の思いにさいなまれたことでしょう。帰国した晋作を待っていたのは婚礼で、父高杉小忠太より井上平右衛門(江戸藩邸留守居役)の次女政(まさ)(雅・雅子・政子などともいう)を晋作の嫁に迎える申し入れが行われ、1860(万延1)年正月18日結婚式が挙行されました(「伜婦申請御願申上候事」「高杉晋作全集」 上 新人物往来社・「東行未亡人の追憶」「新聞集成大正編年史 大正五年版」上 東京朝日5月9日 明治大正昭和新聞研究会)。
 同年2月7日杉家で松陰百日祭が開催されたとき、高杉ら松陰門下生が集まって団子岩の吉田家墓地(萩市椿東)に松陰墓がたてられ師の前髪などを納めました。墓前の石灯籠に「高杉春風」の名があります。

維新のふるさと萩―メインメニューー萩の文化財―萩市指定の文化財―吉田松陰の墓ならびに墓所

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む13

 1860(万延1)年3月の桜田門外の変以後幕府の権威は失墜し、その公武合体策としての和宮降嫁問題もその主導権は幕府から朝廷へと移りつつありました。
 1861(文久1)年3月28日長州藩は直目付(じきめつけ)長井雅楽(ながいうた)の建策により、諸藩の中でもいちはやく公武周旋の具体策として「航海遠略策」を藩論と決定しました。それは幕府の過去の開国政策を支持し、朝廷を説得して攘夷の放棄を求める方針であったのです。
 同年3月11日世子定広の小姓となっていた晋作は当時江戸桜田藩邸にいた世子に近侍していましたが、江戸にいた松陰門下生らは攘夷の立場から松陰の遺志をついで草莽の志士となり幕府権力に抵抗しようと決心していました。
 このころ幕府が貿易視察のため幕府役人を上海・香港に派遣しようとしていたので、世子定広は桂小五郎の意見を入れて、晋作が軽挙暴発しないよう高杉晋作を使節一行に同行させようとし、幕府の許可を得ることに成功しました。
 1862(文久2)年正月3日晋作は江戸桜田藩邸を長崎に向けて出発、2月初旬には長崎に到着したと思われます。晋作が長崎を同年4月出港するまでに、坂下門外の変・寺田屋騒動(「天璋院篤姫」を読む12参照)が起こっています。
 同年4月27日高杉晋作は幕府役人使者として千歳丸(せんざいまる 幕府がイギリス商人より買い入れた帆船)に乗船、この船には幕府役人の従者として佐賀藩士中牟田倉之助(中村孝也「中牟田倉之助伝」)・水夫として薩摩藩士五代才助(友厚)が同船していました。同船はイギリス人船長はじめ同国人が操船を司り4月29日長崎出港、5月6日上海港に到着しました(「航海日録」)。同船は7月5日上海を出港、7月15日長崎に帰着したのですが、高杉晋作はこの航海について「遊清(ゆうしん)五録」[「航海日録」(A)「上海淹留(えんりゅう)日録」「外情探索録」「内情探索録」「崎陽雑録」 田中彰校注「日本近代思想大系」1 開国)岩波書店]を帰国後、同年夏長崎で執筆しています。
 晋作らが上海に渡航した時清国は太平天国の乱の最中で、列強の清国蚕食と清国衰退を悲しみ、速に攘夷の策(列強対抗策)をとらないとわが国も清国の二の舞になる危険を強調しています(「続航海日録」)。さらに佐賀・薩摩両藩が長崎・上海航路ならびに貿易事情の調査や蒸気船の購入に積極的であることを知り、長州藩の立ち遅れを感じています(「内情探索録」)。
また長崎から上海に至る精しい英国式航海技術の記録「航海日録」(B)(田中彰校注「前掲書」の表現による)はのちの海軍総督としての晋作の活躍に大いに役立ったのです。

幕末歴史探訪―人物別分類―高杉晋作―上海

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む14

 高杉晋作が上海に渡航している間に、久坂玄瑞ら長州藩尊攘派は1862(文久2)年4月19日付で「長井雅楽公武周旋弾劾書」を藩主ならびに藩首脳に提出、薩摩藩に対抗して反幕府運動を展開しようとしていました。かくして同年7月24日京都河原町藩邸で世子以下周布政之助・桂小五郎ら藩首脳は「航海遠略策」を放棄、「破約攘夷」の藩論を決定しました(「周布政之助伝」)。世子は朝廷から勅使大原重徳の江戸下向を薩摩藩と協力してして補佐するようにと命ぜられ、同年閏8月19日ころ江戸に到着していました。また同年10月には三条実美ら勅使が東下、攘夷を幕府に迫り、世子も勅使を補佐せよとの勅命が下っていました。しかし幕府は容易に態度を明らかにしようしませんでした。晋作も江戸派遣の藩命により、途中京都に立ち寄って藩主に清国の情勢を報告、同年閏8月15日ころ江戸に到着したと思われます。晋作は幕府が攘夷の勅命に従わないのを憤慨していました。
 同年11月13日某公使が武州金沢の名所(横浜市金沢区)に遊ぶことを聞き出した志道聞多(しじぶんた 井上馨)はこれを公使暗殺の好機会として高杉晋作ら長州藩尊攘派と実行に移すことを決め、相談の場所として使った品川の妓楼土蔵相模の費用や金沢行き
の旅費などの調達を志道聞多が引き受けました。この計画は世子の知るところとなって失敗しましたが、彼等は「血盟書」を作って団結を維持、同年12月世子が京都に向かうと同年12月13日未明当時建築中の品川御殿山の英国公使館焼き討ちを決行しました(井上侯伝記編纂会編「世外井上公伝」第1巻 明治百年史叢書 原書房)。

ようこそ松崎家の世界へーようこそ幕末の世界へー史跡巡りー東京都心周辺―東海道品川宿紀行―御殿山英国公使館焼き討ち事件 

 1861(文久1)年8月朝廷より幕府に安政の大獄以来の国事罪人死者の罪名を削除せよとの勅旨が出たので、1863(文久3)年正月5日高杉晋作らは藩許を得て吉田松陰遺骨を小塚原から若林大夫山(東京都世田谷区 松陰神社の地)に改葬しました(「松陰先生埋葬并改葬及神社の創建」吉田松陰全集第11巻)。

松陰神社―日本語ページTOPへー神社由緒

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む15

 1863(文久3)年3月4日将軍家茂は家光以来229年振りの上洛を果たしましたが、家茂はなかなか江戸へ帰れず、同年4月20日攘夷期限を同年5月10日とする旨を天皇に奏上しました。同年5月10日長州藩は下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃、以後続々と外国船に砲撃を加えるに至りました(「天璋院篤姫」を読む13参照)。
 将軍上洛とほぼ同じ頃上京した晋作は酒と女に日を過ごす毎日でしたが、隠遁を決心し剃髪、西行法師を慕って東行と名乗り、同年4月帰国して萩の東郊に草庵住まいしていました。しかし外国船砲撃開始以後晋作は同年6月5日山口政事堂において藩主父子に新軍編成策を進言、赤間関(下関)出張を命ぜられ直ちに現地へ赴き、竹崎(下関市竹崎町)の廻船問屋白石正一郎宅に宿泊しました(「白石正一郎日記」文久3年6月6日条 下関市教育委編「白石家文書」国書刊行会)。

JH4IVR YAS’s Page―YASのふるさと紹介―観光・名所―下関の名所・旧跡―白石正一郎旧宅跡

このとき彼は「夫れ兵に正奇あり。(中略)今吾徒の新に編成せんと欲する所は、寡兵を以て敵衆の虚を衝き、神出鬼没して彼を悩すものに在り。常に奇道を以て勝を制するものなれば、命ずるに奇兵隊の称を以てせん。」(「防長回天史」第三編下第39章 戦後の馬関)と述べ、諸人の賛成を得ました。
 奇兵隊とは正規軍(武士身分のみで構成された軍隊)に対して、正規軍でない軍隊の意で、軍隊構成を武士中心とするものの一般民衆の入隊を認めることを特徴としています。しかし袖印を武士身分は白絹地、足軽以下は晒布(さらしぬの)で区別し、身分制度を撤廃した訳ではありません(梅渓昇「高杉晋作」吉川弘文館)。このような軍隊を創建した背景の多くは上海における強力な列強銃隊を見て、号令による統制が困難で兵力増強にも限界がある武士身分のみの軍隊よりも、身分差別のない軍隊のほうが兵力増強が容易でかつ規律統制しやすいことを見抜いた晋作の卓見によるものでしょう。
 奇兵隊につづいて猟師隊、被差別部落の希望者を選抜して屠勇隊、力士隊の編成も行われました。

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む16

 長州藩をはじめとする尊攘派の政局主導を快く思わず、幕府権威回復を望む会津藩(藩主 松平容保 京都守護職)・薩摩藩は1863(文久3)年8月18日宮中クーデタにより宮中尊攘派を一掃、長州藩兵は京都を撤退しました(八月十八日の政変・「天璋院篤姫」を読む13参照)。
 かくして同年8月29日長州藩俗論(恭順)派椋梨藤太らは藩首脳の更迭を藩主に直訴、藩首脳の人事異動が行われる中で、高杉晋作も一時政務座役御免となり、奇兵隊も一旦解散令が出されたのですが、撤回され山口から小郡(おごおり)移転を命ぜられました。
 官位剥奪処分を受けた三条実美ら七卿は長州藩を頼り、晋作は藩主の命により同年9月10日三田尻に赴き、世子上京を報告、奇兵隊は三田尻(山口県防府市)に駐屯して七卿の護衛に当ることとなりました[「防長回天史」第4編上第3章 堺町門変後の毛利氏(其二)]。
 しかしこうした長州藩の対朝廷策を手ぬるいとし、来島又兵衛が組織する遊撃軍は京都へ出兵しようとする動きを見せ、憂慮した藩主父子は晋作に来島又兵衛らを鎮静するように説得させました。しかるに来島は晋作の説得に応ぜず、進退に窮した晋作は脱藩して京都長州藩邸の同志らと連絡をとり、島津久光暗殺計画の謀議に参加するも果たせず、在京の桂小五郎らの説得により、1864(元治1)年3月末帰国、野山獄に入獄させられました(「高杉晋作獄中手記」高杉晋作全集 下 日記)。
同年6月5日新撰組が京都三条池田屋を襲撃、松下村塾における晋作の親友吉田稔麿らが殺害されると藩論は出兵を決定、同年年7月19日長州藩兵は御所諸門を襲撃、会津・薩摩両藩兵に敗北(禁門の変)来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞は自刃しました(「防長回天史」第4編上第14章 甲子七月十九日の変)。

歴史倶楽部―新選組のコーナーーContents―池田屋事件

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む17

これより先1864(元治1)年4月英・仏・米・蘭の4国は幕府に対して長州藩に制裁を加えて下関海峡の封鎖を解くよう要求、安全に対する保証が得られないときは直接行動を開始するであろうと通告していたのです(石井孝「増訂明治維新の国際的環境」分冊一 吉川弘文館)。
 1863(文久3)年年5月10日長州藩による外国船砲撃に勝算がないと考えていた長州藩首脳の一人周布政之助は同年5月12日井上聞多(馨)・伊藤俊輔(博文)その他5名をイギリスに留学させていました。彼らはロンドンで留学中「(ロンドン)タイムス」紙上で長州藩の下関における外国船砲撃に諸国が合同で反撃しようとしていることを知り、井上と伊藤は1864(元治1)年3月中旬ロンドンを出帆、同年6月10日横浜に帰着しました。両人は英国領事ガワーの紹介で英国公使館通訳官アーネスト・サトウに面談、英公使オールコックに会見して4国連合艦隊の出発猶予を要請、同公使は英艦で両人に長州藩主宛覚書を託して周防灘にある豊後姫島に送ることにしました。両人は6月26日藩主父子に攘夷の無謀と開国の必要を言上しましたが、藩論を変えるには至らなかったのです(伊藤博文伝編纂委「伊藤博文伝」上巻 春畝公追頌会・「世外井上公伝」)。
井上は7月21日萩に赴き高杉晋作を訪問、晋作はこのとき野山獄をでて座敷牢に謹慎中でしたが、井上の開国論に賛成の意を表明しました。
 同年8月5日4国連合艦隊は下関海峡沿岸の諸砲台を砲撃沈黙させ、陸戦隊が上陸して諸砲台を占領しました(「維新史料綱要」巻5)。
 かくして8月8日長州藩は井上の提案により仮に晋作を主席家老宍戸備前の養子として宍戸刑馬(ししどぎょうま)と名乗らせ正使とし他2名を副使として4国連合艦隊との講和にあたらせたのです(「世外井上公伝」)。
 「正午に帰艦すると、例の伊藤俊輔が来ていた。長州は講和を希望し、全権を委任された家老、すなわち世襲の顧問官が談判に来るとのことであった。そこでその偉い人を迎えに1隻のボートを出した。まもなく家老が旗艦(英艦ユーリアラス号)の後甲板に到着した。
 家老は黄色の地に大きな淡青色の紋章のついた大紋(だいもん)と称する礼服をきて、絹の帽子をかぶっていたが、中部甲板を通つたときそれを脱いだ。
 彼等三名は、その姓名を、長門の家老宍戸備前の養子宍戸刑馬、参政の杉徳輔、渡辺内蔵太と名のった。
 日本の使者の態度に次第に現れてきた変化を観察すると、なかなかおもしろい。使者は艦上に足を踏み入れた時には悪魔のように傲然としていたのだが、だんだん態度がやわらぎ、すべての提案を何の反対もなく承認してしまった。それには大いに伊藤の影響があったようだ。」(アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」上 岩波文庫)。

香寺大好きー今日生まれの偉人伝―REPLAY―6月(30日)―アーネスト・サトウ

講和交渉は最終的には同年8月14日付で停戦協定書に藩主の署名捺印を得て成立に至りました(「和戦一件」山口県文書館 毛利家文庫所蔵 梅渓昇「前掲書」引用)。

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む18

1864(元治1)年7月23日幕府は長州藩征討の勅命を受け、西南21藩に出兵を命令しました(第1次長州征伐)。
当時長州藩には俗論派(絶対恭順)と正義派(武備恭順)の二派が対立していました。俗論派は主として萩城下の世禄の武士を基盤とする勢力で藩首脳を更迭し、奇兵隊などの諸隊を解散し、禁門の変首謀者を厳罰にして幕府に絶対恭順の意志を表明すべしと主張、これに対して正義派は奇兵隊など諸隊の幹部を基盤とする勢力で、幕府の攻撃には徹底抗戦し、敗北して長州藩滅亡もやむなしと主張していました。高杉晋作や井上聞多は勿論正義派に属しており、井上が俗論派の拠点夜襲を企てるとこれを事前に察知した俗論派は同年9月25日夜山口政事堂から帰宅する途中の井上を襲撃、重傷を負わせました(「世外井上公伝」)。
このような情勢の中で同年10月藩主父子は俗論派に擁せられて萩城に帰り、俗論派首領椋梨藤太が政務役となり藩政を掌握するに至ったのです。
 晋作は山口で重傷の井上を見舞い、ついで俗論派の解散命令にも服従せず幕府軍の来襲に備えて、三田尻から徳地(山口県徳地町)に移動していた奇兵隊の軍監山県狂介(有朋)らを訪ね、10月29日下関の白石正一郎宅に潜伏しました(「白石正一郎日記」元治元年10月29日条)。
 同年11月朔日晋作は博多に向かい(「白石正一郎日記」)、筑前藩士月形洗蔵の紹介で野村望東尼(ぼうとうに)の平尾山荘(福岡市中央区平尾)に滞在することになりました(江島茂逸編述「贈正五位望東禅尼伝」野史台維新史料叢書十五 東大出版会)。

幕末歴史探訪―野村望東尼―平尾山荘

 征長総督徳川慶勝は長州藩の伏罪・山口城の破却・五卿(七卿のうち錦小路頼徳死去、沢宣嘉別行動)の引渡しの3条件実行で幕府軍の撤退をはかるという西郷隆盛の意見を許容していたので、11月下旬の時点で五卿引渡しさえ実行されれば、第一次長州征伐は終了するはずであったのです。同年11月18日征長総督徳川慶勝は長州藩主毛利敬親父子恭順の状及び進撃猶予を命ぜんことを朝廷・幕府に報告しています(「天璋院篤姫」を読む14参照)。
 しかるに奇兵隊ら諸隊は既述のごとく藩の解散命令に従わず、五卿を奉じて山口に集結、山口残留の家老に藩主父子への歎願書(藩主の山口帰還、俗論の抑制など)を呈出、また五卿は諸隊の要請により使者を派遣して藩主に歎願書が届くよう尽力しました。 
 藩当局による諸隊討伐の噂が広がり、同年11月17日五卿と諸隊は長府の功山寺(下関市長府川端町)及びその周辺に移動しました[「防長回天史」第四編下第24章 元治元年冬期の毛利氏(其三)]。

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む19

 1864(元治1)年12月15日高杉晋作は夜半三条実美ら五卿が滞在する雪の功山寺に現れ、挨拶の後酒を飲んで辞去、下関の伊崎新地の会所を襲撃、船で三田尻に赴き、藩の軍艦癸亥丸(帆船)を乗組員とともに奪って下関に回航、海上砲台としました[「防長回天史」第四編下第26章 元治元年冬期の毛利氏(其五)]。

幕末歴史探訪―人物別分類―高杉晋作―功山寺―大田絵堂

このとき晋作は長府の大庭伝七に手紙を出して、自分が死亡したときの墓碑銘を記しているところをみると、死を覚悟していたことがわかります。しかし「死後の墓前にて芸妓御集め、三絃(三味線)など御鳴らし御祭り下され候様頼み奉り候。」(「高杉晋作全集」 上 131書簡)と書いているのは、芸妓を集めた遊び好きな晋作の性格を示して興味深いものがあります。
 幕府は同年12月27日当時五卿引渡しが行われていなかったにもかかわらず、藩内は鎮静したとして諸軍に撤兵を命令していましたが(「徳川慶喜公伝」3 東洋文庫98 平凡社)、上記の如く長州藩は内戦状態に陥っていたのです。
 俗論派は晋作挙兵を知って追討軍を絵堂に進軍させましたが、山県狂介の率いる奇兵隊らの諸隊は1865(慶応1)年正月7日未明絵堂駐留の粟屋帯刀指揮の追討軍を襲撃、絵堂背後の大田を占拠、正月20日ころ諸隊は山口を拠点として萩の俗論派とにらみあう態勢となっていました[「防長回天史」第五編上 第2章 慶応元年春期の毛利氏(其一)]。正月28日晋作は軍艦癸亥丸を萩の海上に回航し艦砲射撃(空砲)をおこなって威嚇、海陸双方から萩へ進撃する勢いを示しました。
 このような情勢を背景として正義派の藩政掌握、俗論派の凋落が進行、同年2月22日藩主毛利敬親は正義派の主張を承認、藩士にその趣旨を諭告、内戦は終結しました。つづいて藩主は諸隊の要望を受け入れ藩庁を山口に移転させました(「同上」第五編上 第3章)。
 下関はその西端の一部が本藩の領地で、大部分は支藩長府藩のものであり、本藩と長府藩の地の中間に支藩清末藩領がありました。本藩は下関すべてを領地とすべく両支藩と交渉未解決になっていたのでした。やがて本藩が外国応接掛高杉晋作・伊藤俊輔らの意見をとりあげ下関開港の実現をはかろうとする動きが外部にもれ、長府・清末両支藩の壮士らは晋作らを襲撃しようとする不穏な情勢となり、晋作らは一時潜伏するのやむなきに至りました。
 同年4月中旬ころ晋作は備後屋三介と変名し商人の身なりで愛妾おうの(おのぶ)と伊予の道後温泉に遊び、讃岐の金毘羅宮に参詣、榎井(えない)村(香川県多度郡琴平町)の詩人にして侠客日柳(くさなぎ)長次郎(燕石)の許に隠れていました。やがて危険も去ったので同年5月ころ下関に帰りました(「伊藤博文伝」上巻 第五編第2章)。

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司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む20(最終回)

すでに幕府は1865(慶応1)年2月5日長州藩主父子を江戸に護送するよう命じましたが(「維新史料綱要」巻6)、正義派が藩政を掌握した長州藩がこのような幕命に応ずるはずもなく、幕府軍の長州再征を覚悟しなければならない情勢となってきました。
同年閏5月22日家茂は上洛参内し、長州再征を上奏、朝廷は同年9月21日長州再征の勅許を下しましたので、幕府は同年11月7日彦根藩などに長州征討のための動員を命令しました(「天璋院篤姫」を読む15参照)。
かくして長州藩は新式の銃砲と艦船を外国から輸入しなければなりませんでしたが、長崎で公然と外国貿易できない長州藩に代わって薩摩藩名義で武器を購入し、これを下関に輸送したのは土佐脱藩の坂本竜馬とその亀山社中(後の海援隊)でした。例えば1865(慶応1)年7月21日長州藩井上聞多(馨)・伊藤俊輔(博文)は海援隊・薩摩藩家老小松帯刀らの斡旋により、長崎グラバー商会から銃砲を購入しています。こうして薩長両藩の接近が進展、1866(慶応2)年1月21日長州藩木戸貫治(孝允)と薩摩藩小松帯刀・西郷吉之助(隆盛)は坂本竜馬らの斡旋により、京都薩摩藩邸で薩長合従の盟約(薩長連合)を結びました(「天璋院篤姫」を読む14参照)。
 同年6月7日幕府軍艦一隻が長州藩領周防大島(山口県東部)を砲撃し幕兵が同島に上陸、第2次長州征討が開始されました(「維新史料綱要」巻6)。海軍総督高杉晋作が指揮、同年6月12日丙寅丸は夜襲をかけて幕艦4隻に打撃を与え、大島守備兵は同島を奪還しました[「防長回天史」第五編中 第29章 四境戦争(其一)]。
また九州では老中小笠原長行が小倉・熊本などの諸藩兵より成る幕府軍を統括、海を渡って下関を攻撃しようとしていました。これにたいする長州軍主力は奇兵隊で総督は山内梅三郎、晋作は参謀、軍監山県狂介らが指揮、小倉城攻略をめざして同年7月渡海襲撃を繰り返しました(高杉晋作全集 上 書簡223)。7月末に至り、老中小笠原長行は将軍家茂死去(同年7月20日)の秘報に接して退去(「維新史料綱要」巻6)、同年8月2日長州軍は小倉を占領しました[「防長回天史」第五編中 第37章 四境戦争の進行(其二)]。
 このころすでに高杉晋作の病状は進行(「白石正一郎日記」白石家文書 慶応2年7月22日条 国書刊行会)、下関の藩医が診察しています。彼は1867(慶応3)年4月14日未明30年に満たぬ短い生涯を閉じました(「高杉暢夫墓誌」東行遺稿序「東行先生遺文」)。
 野村望東尼と唱和した晋作辞世の句として「面白き事もなき世におもしろく 東行 すみなすものはこヽろなりけり 望東」(江島茂逸編「前掲書」)が有名ですが、梅渓昇氏によればこの歌は晋作の臨終の際に作られたものとはいえないといわれています(梅渓昇「前掲書」)。

幕末歴史探訪―人物別分類―高杉晋作―馬関 下関市―東行庵

 この小説はわずか27年と8ヶ月の短い生涯をとじた高杉晋作の最後の描写で終了しています。
 最後に既述の「東行未亡人の追懐」(「世に棲む日日」を読む12参照)の一部を掲げます。
「東行は廿九で逝くなりましたが、殆どオチオチ宅に居りませんでした。私が東行の処に参りましたのは十六の年、万延元年の一月で確か十八日でした。『自分の命は何時捨てなければならぬか分からぬ』と平素から口癖のように言い含められておりました。八年も連れ添って居て一度も叱られた事は御座いません。それに至って子煩悩で、逝ったのは馬関に出張中でうわごとの間にもモー為るだけはしたから後は頼んだぞ山県、福田などヽ云われました。御国の為にはもう少し生きて居たい丈と仰っやられましたが、十分療治も出来なかったのは遺憾でした。」
2009-09-12 09:45 | 記事へ | コメント(0) |
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2009年09月06日(日)
司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む1-10
司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む1

 司馬遼太郎「世に棲む日日」(「文芸春秋」)は幕末の長州藩を吉田松陰・高杉晋作の生涯を通じて描写した小説で、1969(昭和44)年2月から1970(昭和45)年12月まで「週刊朝日」に連載され、1972(昭和47)年この小説その他の業績に対して「吉川英治文学賞」を受賞した作品です。
 毛利氏は鎌倉幕府御家人大江広元の四男季光が本拠相模国毛利荘の地名により毛利氏を称したのが始まりとされています。毛利季光は鎌倉幕府評定衆となりましたが、三浦氏の乱で四男経光を残し滅亡、経光は四男時親に安芸国吉田荘を譲り時親は鎌倉幕府滅亡後も足利尊氏について生き延び、安芸毛利氏の基礎を築きました。

風雲戦国史―地方別武将の家紋と系譜―中国・四国の武将―広島県―安芸国―毛利氏

 戦国時代毛利元就は1557(弘治3)年大内義長を討滅、五カ国の大名となり、毛利氏は豊臣政権の下においても中国地方八カ国112万石を領有していました。しかし関ヶ原の戦いで敗北、毛利輝元は引退、秀就を藩祖とし周防・長門二国(長州藩)に減封、萩城を本拠として36万石余の外様大名となりました(「寛政重修諸家譜」卷第616−618)。
 長州藩の藩支配機構には当役(行相 こうしょう)と当職(国相 こくしょう)があり、当役は常時藩主に随い藩政に参画、当職は国許にいて藩財政と民政を担当しました。当役の力は次第に当職を超え、やがてその実権は手元役や右筆に移っていきました。
 藩の支配地は宰判(行政区)と呼ばれるほぼ郡に相当する地域に分かれ、幕末には18宰判で構成されていました。
 農民は原則として四公六民の貢租を負担していましたが、累積する藩財政の赤字負担のため多くの馳走米銀(貢租以外の上納米銀)を負担させられていました。
 しかし藩は1762(宝暦12)年に完了した検地による新高41600余石を財源とし、従来の藩会計から独立した会計役所である撫育局を設立、この資本を専売制・新田開発や越荷方など藩外への金融・倉庫業経営に充てて資本蓄積をはかりました。例えば藩は農民に対し馳走米銀だけでなく、農民が作る主な産物を産物会所で強制的に安く買い上げ、特定の商人と結託して大坂その他で売却、莫大な利益を上げていました(田中彰「幕末の長州藩」中公新書)。

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む2

 1830(天保1)年8月、瀬戸内海に面する上関・熊毛・都濃の諸宰判で藩専売制に反対する一揆が起こり、翌年7月26日萩から中関に向かう藩産物方御用商人の荷物から皮革が発見されたことをきっかけに、一揆は現在の防府市から山口に波及しその参加者数は約6万人に達したといわれています。
 1831(天保2)年の天保大一揆となった原因としては長州藩でそのころ秋の収穫時以前に牛馬の皮を運搬すると、嵐がおこって凶作となるという迷信が影響力を持っていました。しかし当年は豊作であったため、藩産物会所の役人たちは凶作になって米価を高くしなければ、それまでに買い付けた米・産物で損をしないために皮革を運んだといわれています(「浮世の有様」四 日本庶民生活史料集成 第11巻 三一書房)。
 同年8月2日吉田宰判の代官林喜八郎らは連名で次のような「覚(おぼえ)」を出しました。「一、みなみな腹立尤(もっとも)に候。一、上は御気毒に被思召上儀に候。一、早々しつまりかへるべし。」(大田報助「毛利十一代史」第41冊巻之107 邦憲公記 公爵毛利家蔵版)。
 しかし一揆は鎮まるどころか、日本海側や山間部の村々に拡大、一揆参加の村々は百カ村を越え、13万人以上の農民がこれに加わったと藩側に報告されています。
この一揆で、ほとんど殺人が起こらなかったといわれているにもかかわらず、被差別部落民だけは焼き討ちをかけられ、多数が打ち殺されたといわれています。一揆のきっかけとなった皮革生産は被差別部落民の主な仕事であったことを考えると、なぜこんなことが起こったかお分かりでしょう(田中彰「前掲書」)。

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司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む3

 藩当局は天保大一揆の圧力に譲歩し、山口や室積の藍の専売会所を廃止するとともに、村役人や各地の代官を更迭しました。しかし表面的な譲歩だけでは事態を収拾することができず、根本的な藩政改革が必要であったことは明らかです。
 1831(天保2)年10月23日村田清風が江戸当役用談役に登用されました。翌年長州藩天保の改革基本綱領が作成されました。この年藩の負債は8万貫に達していました(田中彰「前掲書」)。その時村田清風は次のように述べています。「鎌倉以来六百年、芸(安芸)来三百年之御家と御国を百姓蹴立候口惜さ之事。」(「此度談」)また彼は後年「此乱(天保大一揆)何事より萌さしたるか、克々(よくよく)工夫あるへき事なり。罪は政をなす人ニあるへし。出納を司る役人ニはなしと知るへし」(「病翁宇波言」)とも記述しています(「村田清風全集」上巻 マツノ書店)。

山口県HP―山口の魅力と観光―プロフィールー歴史・文化―山口の文化―維新史回廊―維新史回廊マップー掲載データ索引(人物、史跡、博物館等)―村田清風

 1837(天保8)年毛利敬親が藩主となり、この藩主の下で村田清風らはこれまでの慣例を破った人材登用を実施し、藩財政を公開して、家格にこだわらない実務担当者の意見を求めました。
 1843(天保14)年4月15日に発令された三十七カ年賦皆済仕法は藩及び藩士の借財解決策でその内容は@藩債については1貫目に付き年々30目(匁)の割合で37カ年納入すれば、元利皆済とし、A藩士の借財については藩が肩替りして37年間元金据え置きにし、年利2朱を支払い、期限末年には元金皆済とする(末松謙澄「防長回天史」第一編第20章 天保嘉永年間の民政 柏書房)というものでした。その他蝋・櫨の専売制の変更や越荷(北陸や九州から下関を経由して大坂方面へ出荷される商品)方の拡大・強化(越荷を抵当として金融・あるいは貨物の一時保管による料金徴収等)など、村田清風の改革は多方面にわたりました。
 吉田松陰は青年時代に村田清風に会ったことがあり、深くその人物に敬服し、清風もまた松陰に嘱望し激励しました(土屋矢之介に与ふる書「野山獄文稿」山口県教育会「吉田松陰全集」第4巻・前参政村田翁を挽す「松陰詩稿」「松陰全集」第7巻・8 村田清風宛書簡・185小田村伊之介宛書簡「松陰全集」第8巻 岩波書店)。
  
司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む4

 この小説は作者が長州藩の城下町であった萩から、松本村の吉田松陰墓を訪ねるところから始まります。
 吉田松陰は1830(天保1)年8月4日長門国萩松本村で藩士杉百合之助常道(家禄26石)の次男として誕生しました。母の名は滝といいます。幼名虎之助・後寅次郎その他、名は矩方(のりかた)、字は子義その他、一時の変名もありました。
 1835(天保6)年吉田大助賢良(同年4月死去)の養子となり吉田姓を名乗りました。吉田家は代々山鹿流兵学師範として毛利家に仕える家柄で家禄57石余を受けていましたが、松陰は杉家に同居していました。松陰は6歳の幼少であったので、藩命により家学の高弟渡辺六郎兵衛・叔父玉木文之進らに家学教授を代理させました。
 「松陰は幼少の頃より、『遊び』てふことは知らざりしものの如し。年頃の朋輩と伍して、紙鳶を上ぐるとか、独楽を廻すとかの戯に耽ることは絶えて之なく、常に机に向ひて青表紙(漢書)を繙くか、筆管を操るかの外、他あらざりき。」
「松陰が年少の頃、実父、又は叔父の許にて書を学ぶに、実父も叔父も極めて厳格なる人なりしかば、三尺の童子に対するものとは思われざること屡〃なりしと。」(松宮丹畝「松陰先生の令妹を訪ふ」吉田松陰全集第12巻 岩波書店)
 1839(天保10)年11月にははじめて藩校明倫館に出仕して家学を講義し、山田宇右衛門らに後見させました。翌年4月藩主が自ら文武師範を城中に召して、その学芸を試そうとした時、松陰ははじめて「武教全書」(山鹿素行の主著)戦法篇を講義しました。
しかしその学問は「武教全書」の解釈を主とするものに過ぎなかったのです。
 1842(天保13)年玉木文之進は松下村塾を開き、杉梅太郎・松陰兄弟らはその塾生となりました。

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 1845(弘化2)年松陰は山田宇右衛門の薦めにより藩士山田亦介(村田清風の甥)について長沼流兵学も兼修しました。この時亦介は近頃強大な欧夷(欧米列強)がしきりに東洋諸国を侵略し、その害毒が皇国(日本)に及ぼうとしていることを説き、松陰を激励(「含章斎山田先生に与ふる書 戊午幽室文稿」吉田松陰全集第5巻 岩波書店)、松陰に国事に奔走することの重要性について示唆を与えました。
 翌年山田宇右衛門にも同様の影響をうけ、寝食を忘れて辺防を講究しています(「講孟余話」尽心下篇第35章 吉田松陰全集第3巻)

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む5

 1849(嘉永2)年6月松陰は藩命により須佐・大津・豊浦・赤馬ヶ関(下関)などの海岸を巡視(「廻浦紀略」吉田松陰全集第10巻)、翌年には萩から九州に赴き、平戸に50余日滞在して葉山佐内・山鹿万介に家学を究問、長崎では漢語を学び、唐館・蘭館に遊び、蘭艦に上がり、高橋景保訳の海外事情書などに接し、熊本において宮部鼎蔵らと交友、また唖弟敏三郎のために清正公廟で祈願しました(「西遊日記」吉田松陰全集第10巻)。
 1851(嘉永4)年3月兵学研究のため、松陰は藩主に従って江戸へ赴き、江戸で安積艮斎(あさかごんさい)・古賀茶渓・山鹿素水・佐久間象山に学び、剣を藩士平岡弥三兵衛門下に学びました。
 同年7月松陰は東北諸国遊歴を許可され、宮部鼎蔵と仇討ちの計画を持つ江幡五郎とはいずれ落ち合うことにして、出発の日を赤穂義士仇討ち決行の12月15日としました。しかるにその直前「過所(旅行のための身分証明書)」が発行されておらず、藩主はすでに国許に帰っていて、それは江戸藩邸の独断では処理できない案件でした。
 ここにおいて松陰は過所の下付をまたず、藩邸を亡命して江戸を出発してしまいました。彼には「仮令(たとい)今日君親に負(そむ)くとも、後来決して国と家とに負かじ」(51「兄梅太郎宛書簡」嘉永4年12月12日付 吉田松陰全集第8巻)という判断があったからです。
 松陰は翌1852(嘉永5)年にかけて松野他三郎の変名で水戸に赴き、会沢恒蔵(正志斎)らを訪ね、水戸学に接して感銘をうけたようです。さらに弘前・青森・盛岡・仙台・米沢等を歴訪(「東北遊日記」吉田松陰全集第10巻)、同年4月江戸に帰り藩邸に待罪書を提出、帰国の命が下ったので同年5月萩に帰り、やがて杉家に謹慎して命を待ちました。同年11月ころから松陰号を常用しています。

維新の散歩道―明治維新人物名鑑―会沢正志斎

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む6

 1852(嘉永5)年12月9日松陰は亡命の罪により士籍を削り、世禄を奪われ、実父杉百合之助の育(はぐくみ 保護下におく)となりました。藩主は松陰を惜しみかつ憐れみ、父百合之助に10年間諸国遊学を申請させ(「関係公文書類」吉田松陰全集第11巻)、翌1853(嘉永6)年正月16日藩は松陰遊学を許可しました。
 松陰は同年正月26日萩を出発、讃岐・摂津・河内・大和を経て、伊勢大廟に参拝、さらに美濃・信濃・上野を通過して5月24日江戸に到着しました。
 米艦の浦賀来航を聞くと、同年6月4日直ちに現地に赴き、同月10日江戸に帰り(「葵丑遊歴日録」吉田松陰全集第10巻)、藩邸に意見書を提出するとともに、佐久間象山らと時事を討論しました。同年9月18日佐久間象山らと相談して海外事情視察のため当時長崎に停泊中の露艦に乗り込もうとして長崎へ出発、10月27日長崎に到着しましたが、露艦はすでに出航した後でした(「長崎紀行」吉田松陰全集第10巻)。

佐久間象山と日本の歴史―佐久間象山とは?

 1854(安政1)年3月5日金子重之助(重輔)とともに米艦に乗り込み、海外に赴こうとして江戸から神奈川に至ったが機会を得ず、同月7日佐久間象山に会い「投夷書」(吉田松陰全集 第10巻)を見せ、下田に至り同月27日上陸した米人に「投夷書」を渡し、同日夜金子とともに米艦に乗り込もうとして拒否され、翌日自首しました(「日本遠征記」を読む17参照)。松陰は江戸に護送される途中、三島では被差別部落民3〜4人が番に当り、松陰の話を聞いて興奮、別れ際には松陰の唐丸籠(罪人を護送する籠)から離れ難い様子を示したそうで(「回顧録」吉田松陰全集 第10巻)、松陰が被差別部落民に偏見をもっていなかった様子が分かります。同年4月15日幕府は両人を江戸伝馬町の獄舎に拘禁、9月18日麻布の長州藩邸に幽閉、同月23日両人は江戸を出発、10月24日萩に到着、幕命では父杉百合之助の許における蟄居でしたが、藩は幕府に気兼ねしたのか、父百合之助に借牢願を提出させ、松陰は野山獄(藩の士分の罪人を収容)、金子は岩倉獄(士分以外の罪人収容)に収容されました(「回顧録」)。1855(安政2)年正月11日金子重之助は獄中病死し、松陰は彼を悲しむ詩を作り、その行状記録(「金子重輔行状」吉田松陰全集第1巻)を著しています。  

幕末歴史探訪―人物別分類―吉田松陰―野山獄・伝馬町処刑場

このころの松陰は幕府の処置に憤激し、攘夷運動に対する共感をもっていましたが、単純な攘夷論者ではなく、ただちに討幕論に賛成もしませんでした。彼は、中国においては「天下は天下の天下」であるが、わが国では「天皇一人の天下」である、という熱烈な皇室至上主義者でした(奈良本辰也「吉田松陰」岩波新書)。
  一方この年松陰は対外問題について「魯墨講和一定(露米両国と和親条約を締結したこと)、決然として我より是を破り信を夷狄(いてき)に失ふ可らず、ただ章程を厳にし信義を厚うし、其間を以て国力を養ひ、取易き朝鮮満州支那を切り従へ、交易にて魯墨に失ふ所は土地にて鮮満に償ふべし」[1855(安政2)年4月24日付萩野山獄から兄に寄せた「獄是帳」(181)吉田松陰全集第8巻]と述べ、後年大日本帝国が推進した朝鮮・中国への侵略を予言するかのような主張を展開しているのです。

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む7

 松陰が入獄したころ、野山獄には11人の囚人が収容されていました。その中には在獄47年の長期にわたる74歳の大深虎之助、もっとも短期の者は1年の平川梅太郎(42歳)で、ただ一人の女囚であり在獄2年の高須久子(37歳)もいました。11人の囚人の中、藩命による囚人は2人だけで9人は親族からのの申し出による禁錮だったのです。
 高330石取りの家柄の寡婦であった高須久子は陽気な性格で浄瑠璃・京歌やチョンガレ(後に浪花節につながる)に凝り、やがてこれらの芸能を生業とする被差別部落の勇吉や弥八らを自宅に呼び寄せ、ときには翌朝まで宿泊させることもありました。このことを一族は久子乱心とし、やがて1851(嘉永4)年藩の取調べの結果久子を密通と決め付けようとしましたが、久子は被差別部落の人々との付き合いを「都(すべ)て平人同様の取扱」をしたまでとし密通を否定しました。藩は1853(嘉永6)年久子に野山獄入りを命じたのです(「嘉永四亥十二月より同六丑五月迄高洲彦次郎并母祖母御咎一件」<山口県文書館毛利家文庫蔵>田中彰「吉田松陰」中公新書引用)。
 松陰はここで獄内は囚人の自治にまかせ、獄中で読書その他の学芸を身につけさせるべきことを「福堂策」(吉田松陰全集第2巻)で主張し、獄中座談会や読書会を開いて「孟子」を講義しました(「講孟余話」吉田松陰全集第3巻)。このような状態で松陰と高須久子は急速に接近していきました。松陰は「詩文拾遺」(吉田松陰全集第7巻)に「高須未亡人に数々のいさ(を)し(子細の意味か)をものがたりし跡にて 清らかな夏木のかげにやすろへど人ぞいふらん花に迷ふと 矩方(松陰)」とほのかな久子への慕情の漂う和歌を残しています。

吉田松陰と幕末の志士―過去記事―2009年01月28日―吉田松陰 高須久子の恋 

 松陰に対する藩の処置が過重であるとの批判があり、1855(安政2)年12月15日松陰は野山獄を出て杉家に謹慎となったとき、高須久子は「鴨立ってあと淋しさの夜明けかな」(「獄中俳諧」(附録)送別詠草 吉田松陰全集第2巻)の一句を松陰に贈っています。松陰は外部との接触を禁止されましたが、近隣の子弟で密かに松陰の教えを受けるものがありました。
 松陰は野山獄収容の囚人釈放を藩に働きかけ、翌年10月ころには7人が放免されましたが、高須久子は放免されませんでした。

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む8

 1856(安政3)年8月には友人とともに尊王攘夷問題について大いに論究(「丙辰幽室文稿」また読む七則 吉田松陰全集第4巻)、同年12月18日梅田雲浜が萩にきて松陰と会見しています。
 1857(安政4)年11月5日外弟久保清太郎とともに杉家の小屋を修理して松下村塾を開き、松陰が事実上の主宰者で、翌1858(安政5)年3月11日塾舎が門人増加により狭くなったので増築完了しました(「戊午幽室文稿」中村理三郎に贈る 吉田松陰全集第5巻)。
藩校明倫館には士分以下の足軽・中間(ちゅうげん)などの子弟は入学を許可されなかったので、身分が低くても気骨のあるものや士分でも時局に敏感なものはすすんで松陰門下に集まるようになったのです。
 「○松陰先生は罪人なりとて、村塾に往くことを嫌ふ父兄多し。子弟の往くものあれば、読書の稽古ならばよけれども、御政事向の事を議することありては済まぬぞと戒告するほどなり。
 ○始めて先生に見え、教えを乞ふものに対しては、必ず先づ何の為に学問するかと問はる。之に答ふるもの、大抵、どうも書物が読めぬ故、稽古してよく読めるやうにならんといふ。先生乃ち之れに訓へて曰く、学者になってはいかぬ、人は実行が第一である、書物の如きは心掛けさへすれば、実務に服する間には、自然読み得るに至るものなりと。」(「渡辺蒿蔵談話第一」 吉田松陰全集第12巻)
 「六、塾には飛耳長目録と云ふものありて、今日の新聞様のものを書き綴りしものである。主に交友又は上方(京都)より来る商人などの談によれり。」(「渡辺蒿蔵談話第二」 吉田松陰全集第12巻)

萩まちじゅう博物館―まち博ブログー以前の記事―2009年07月―ベールを脱いだ渡辺蒿蔵旧宅

同年4月12日勅諭(通商条約調印は諸大名の意見を奏上した後、再び勅裁を請うべし)のことを在京の久坂玄瑞からの報で知り、時事に関する策問を門人に与えています(316号品川弥二郎宛書簡附録 村塾策問一道 吉田松陰全集第9巻)。
 同年4月23日井伊直弼が大老に就任、同月25日幕府は諸大名に勅書を示して通商条約調印の可否を諮問しました(「大日本古文書・幕末外国関係文書」)。同年5月12日幕府諮問が萩に達し、松陰もただちに「愚論」・「亜墨利加人取扱方の議」二文を記述しています(「吉田松陰年譜」吉田松陰全集第1巻)。
 しかるに同年6月19日幕府は日米修好通商条約・貿易章程を無勅許調印しました(「大日本古文書・幕末外国関係文書」)。かくして松陰の幕政批判は直接行動計画による幕政阻止に向かい、同年9月9日書簡を江戸の松浦松洞に送り水野土佐守忠央(紀州新宮藩主 南紀派 井伊直弼と結ぶ)暗殺の策を授け(363号書簡 吉田松陰全集全集第9巻)、11月6日同志17名と血盟して老中間部詮勝(井伊大老の下で尊攘派弾圧)を要撃(待ち伏せして攻撃する)しょうとし、藩要人に声援をもとめ(「384・385号書簡」 吉田松陰全集第9巻)、12月15日出発しようとしました。
藩当局は驚愕して借牢願出の形式をとり、松陰投獄の命令が下され、同月26日入獄したのです(「吉田松陰年譜」吉田松陰全集第1巻「戊午幽室文稿」吉田松陰全集第5巻)。かくして松陰は再び高須久子と出会うことになりました。

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む9

 1859(安政6)年4月7日当時萩にきていた北山安世(佐久間
象山の甥)に松陰は次のような書簡(533号書簡 吉田松陰全集第9巻)を送っています。「独立不羈三千年来の大日本、一朝人の羈縛を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや。那波列翁(ナポレオン)を起こしてフレーヘード(自由)を唱へねば腹悶医し難し。僕固より其の成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれども一も裨益なし。徒らに岸獄に坐するを得るのみ。(中略)今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼みなし。」また「只今の勢いにては諸侯は勿論捌けず、(中略)草莽に止るべし。(中略)天下を跋渉して百姓一揆にても起りたる所へ付込み奇策あるべきか。」(517号書簡「安政6年3月26日野村和作・入江杉蔵宛」吉田松陰全集第9巻)とも云っており、ナポレオンの西欧封建制度に対する「自由」のための戦いを思い起こし、場合によっては百姓一揆の力を利用してでも「草莽」(民間人)が立ち上がることこそ日本を救う道であると主張しているのです。
 しかし井伊大老の所謂安政の大獄の嵐の中で同年4月19日幕府より江戸藩邸へ松陰東送の命が下され、長井雅楽ら幕命を伝える使者が5月13日ころ萩に到着しました。

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む10

 松陰の東送を知って高須久子は「手のとはぬ(手の届かぬ)雲に樗(あふち 栴檀の花)の咲く日かな」(「東行前日記」松陰先生東行送別詩歌集(編者附載)吉田松陰全集第11巻)の一句を残し、松陰は「高須うしのせんべつとありて汗ふきを送られければ 矩方 箱根山越すとき汗の出でやせん 君を思ひてふき清めてん 高須うしに申し上ぐるとて 一声をいかで忘れん郭公(ほととぎす) 松陰」(「詩文拾遺」全集第7巻)と詠んでいます。

CirclePlayer―サークルジャンル一覧ー旅行―NZロトルア広場―メッセージアーカイブー2006年11月―10−次の10件を表示―13―[854]楝(おうち)の花

天地(あめつち)に遊ぶーカテゴリー生物―2009年06月24日 郭公と書いてホトトギス(改定)

 松陰の妹は「三十年の生涯は短しと云はば短きも、一般の人より観れば、妻を迎へ家を成すべき年なりしなり。されど松陰は年漸く長じて後は諸方に出遊し、其の国に居るの時は御咎めの身の上蟄居を申付けられたるものなれば、妻帯など云う相談は湧き出づべき由もなかりき。(中略)松陰は生涯婦人に関係せることは無かりしなり。」(松宮丹畝「前掲書」)と述べていますが、松陰にとって高須久子の存在は彼の短い生涯を彩る紅一点であったようです(田中彰「松陰と女囚と明治維新」NHKブックス)。
 幕府の松陰東送の目的は梅田雲浜との関係を明らかにすることでした。しかし1859(安政6)年7月9日松陰は伝馬町の獄につながれ、取り調べの過程で幕府が全く知らなかった老中間部詮勝詰問計画を陳述(「関係公文書類」全集第11巻)、さらに尋問の結果同年10月16日口書(口供書)読み聞かせがありました。翌日死を覚悟した松陰は同月26日「留魂録」を記録し、そのはじめに「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」(「詩文拾遺」吉田松陰全集第7巻)の一首を書き上げたのです。同月27日評定所で罪状の申し渡しがあり、同日伝馬町の獄舎で死刑を執行されました。
 尾寺新之丞・飯田正伯・桂小五郎・伊藤利助(博文)らが遺骸受け取りに奔走、同月29日小塚原回向院下屋敷常行庵に葬りました(「葬祭関係文書」吉田松陰全集第11巻)。
2009-09-06 12:37 | 記事へ | コメント(3) |
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2009年07月10日(金)
「天璋院篤姫」を読む11〜「天璋院篤姫」を読む20
宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む11

 1861(文久1)年4月19日和宮は内親王宣下(天璋院より高位)を受けて親子(ちかこ)という名を賜り、同年10月20日京都今出川の桂宮を出発(「孝明天皇紀」第三)、中山道を経て11月15日江戸清水屋敷に到着しました。同年12月11日和宮は江戸城大奥に入り、1862(文久2)年2月11日将軍家茂との婚儀が江戸城で挙行されました(「昭徳院殿御実紀」「続徳川実紀」)。

港区立図書館―姉妹サイトーゆかりの人物データベースー索引 ゆかりの人物―かー和宮親子内親王

Ohono’s Page―企画モノ部屋―日本史のお時間―和宮親子内親王

 和宮が江戸城に入ったとき、お土産の包装紙に「天璋院へ」と書かれており、大奥女中を憤慨させたそうです(「海舟語録」和宮と天璋院 講談社学術文庫)。
 天璋院と篤姫との初対面の折、天璋院が上座で茵(しとね 敷物)に座したのに対して和宮の席はその左脇の下座で茵もなかったので、和宮はこれを口惜しがり、お泪(なみだ)のみと和宮付の宰相典侍(庭田嗣子)は京都へ手紙を送っています。そこで同年2月19日に関白九条尚忠が家茂後見役田安慶頼に書簡を送り、和宮の待遇につき幕府の反省を求め(「孝明天皇紀」第三 文久2年2月19日条)、同年11月23日和宮の希望により御台様の呼称をやめて和宮様と呼ぶことになりました(「静寛院宮御側日記」「静寛院宮御日記」二 日本史籍協会叢書 東大出版会に収録)。
 内親王の和宮は内大臣の家茂より高位でした。しかし家茂と和宮は仲むつまじい夫婦であったようです。家茂が吹上の広場で乗馬の稽古をすると和宮はその様子を見に行き、家茂はその帰りに石竹の花を和宮に持参したり、また珍しい金魚を入手したと予告せずに彼女の許を訪れることもあったようです。さらに庭田嗣子をはじめ下級の女官にもいろいろな品を自分で与えたりしています(「静寛院宮御側日記」文久2年4月9・10日条)。
 浜御殿に天璋院と家茂と和宮が出かけたとき、踏石の上に天璋院と和宮の草履が上げられ、将軍の草履だけ下に置かれていました。天璋院が先に庭に下りると和宮は飛び降り、自分の草履を除けて将軍の草履を踏石にあげ、お辞儀をしました。それで天璋院と和宮のお側に仕える女中たちのいがみあいもピタリとおさまったそうです(「海舟語録」)。
  これはよく引用される挿話ですが、プライドの高い和宮がはたしてかかる現代の世話女房のような行動をとったのか疑問です。おそらく側近の女中に命じて将軍の草履を踏石にあげるよう命じたというのが真相で、勝海舟の回顧談には誇張があるように思われます。

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む12

 このような和宮降嫁という幕府の公武合体策に対して、尊皇攘夷派は1862(文久2)年1月15日坂下門外の変を起こし、老中安藤信行(信正・陸奥磐城平藩主)は水戸浪士らに襲撃され負傷しました(「維新史料綱要」)。
 同年4月16日薩摩藩主島津忠義の父島津久光は藩兵を率いて入京、朝廷に幕政改革の意見書を提出するとともに、同月23日伏見寺田屋に集結した薩摩藩尊攘派有馬新七らを久光の命を受けた同藩士が斬殺しました(「維新史料綱要」)。同年5月22日朝廷は島津久光の建議を受け入れ、久光は勅使大原重徳を頂き江戸へ下向しました(「維新史料綱要」)。同年6月10日勅使一行は江戸城に登城、将軍家茂に勅命を伝えました。幕府は同年6月29日徳川慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職とし幕政を改革せよの勅旨を受け入れました(「維新史料綱要」巻4)。
 かくして得意の絶頂にあった島津久光の行列は江戸からの帰途、同年8月21日イギリス商人ら4人が武蔵国生麦村で行列を横切ったことにより斬られるという事件を起こしました(生麦事件・「維新史料綱要」巻4・アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」岩波文庫)。

東京紅団―テーマ別散歩情報―明治維新シリーズー生麦事件を歩く(1)(2)

 1863(文久3)年5月9日幕府は生麦事件などの賠償金44万ドルを支払いましたが、薩摩藩は犯人処刑の要求に応じなかったため、同年7月2日イギリス艦隊は鹿児島湾に侵入、薩摩藩と交戦しました(薩英戦争・「維新史料綱要」巻4・アーネスト・サトウ「前掲書」)。しかし薩摩藩は同年11月1日イギリス代理公使に生麦事件賠償金10万ドルを交付(「維新史料綱要」巻5)してイギリスとの接近をはかるようになっていきました。

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む13

 一方長州藩は1862(文久2)年7月公武合体から破約攘夷に方針転換して藩主毛利敬親(慶親)が上洛、9月21日朝廷は攘夷を決定、同年11月27日勅使三条実美・副使姉小路公知を奉じて土佐藩主山内豊範らが江戸に下向、攘夷督促を将軍家茂に伝達しました(「維新史料綱要」巻4)。
 1863(文久3)年3月4日将軍家茂は家光以来229年振りの上洛を果たしました(「昭徳院殿御上洛日次記」「続徳川実紀」)。江戸に居る天璋院からの家茂宛書状で、彼女はまだ18歳の家茂の江戸帰着が遅いのを懸念しています(畑尚子「幕末の大奥」岩波新書)。しかし彼女の懸念も空しく、家茂はなかなか江戸へ帰らず、同年4月20日攘夷期限を同年5月10日とする旨を天皇に奏上しました(「維新史料綱要」巻4・同年6月16日江戸帰着「昭徳院殿御上洛日次記」「続徳川実紀」)。同年5月10日長州藩は下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃、以後続々と外国船に砲撃を加えるに至りました(「維新史料綱要」巻4)。
しかしこのような長州藩をはじめとする尊攘派の政局主導を快く思わず、幕府権威回復を望む会津藩(藩主 松平容保 京都守護職)・薩摩藩は同年8月18日宮中クーデタにより宮中尊攘派を一掃しました(八月十八日の政変・「維新史料綱要」巻4)。

なるほど!幕末―なるほど陰の主役―京都守護職/幕末会津藩―容保

 このころ江戸城では家茂上洛中の1863(文久3)年6月8日西丸、同年11月15日には本丸と二丸が炎上しました(「維新史料綱要」巻5)。以後本丸は再建されず翌年西丸に仮御殿が建設されました。これまで和宮と同じく本丸に住んでいた天璋院が同年8月二丸に引き移りました。その理由は「天璋院が御台所の御殿を占有し和宮は召使用の部屋に住んでいる」とのうわさを聞いた和宮世話係りの公卿が在京中の老中に善処をもとめたため、それが天璋院の耳に伝わって彼女の感情を害したといわれます(鈴木由紀子「天璋院篤姫と和宮」幻冬社新書)。
 同年末幕府は公武合体の体制を確立するため将軍家茂の上洛を決定しました。将軍が海路上洛すると聞いた天璋院は蒸気船では危ないと心配しましたが4人の老中と話し合った彼女は陸路より危険が少ないとの説明にようやく納得しました。このとき政治問題も話題となったようで、老中らは天璋院の見識の高さをしきりに賞賛したそうです(「旧事諮問録」上 大奥の事)。
 1864(元治1)年正月15日将軍家茂は上洛し(「昭徳院殿御実紀」「続徳川実紀」)、同年2月14日参内、沿岸防備強化と横浜鎖港実施を上奏(宮内庁「明治天皇紀」第一 吉川弘文館)(5月17日横浜鎖港断念「維新史料綱要」巻5)、同年5月20日江戸に帰着しました(「昭徳院殿御実紀」「続徳川実紀」)。
 しかるに同年7月19日長州藩兵は御所諸門を襲撃、会津・薩摩両藩兵に敗北(禁門の変「維新史料綱要」巻5)、同月23日幕府は長州藩征討の勅命を受け、西南21藩に出兵を命令しました(第1次長州征伐「維新史料綱要」巻5)。また同年8月5日英・仏・米・蘭の4国連合艦隊は長州藩下関を砲撃、翌日同艦隊陸戦隊は上陸して下関砲台を占領、長州藩は水陸からの攻撃を受けて敗北し、同年8月14日長州藩は4国連合艦隊と講和条件を協定しました。また同年11月18日征長総督徳川慶勝は長州藩主毛利敬親父子恭順の状及び進撃猶予を命ぜんことを朝廷・幕府に報告しています(「維新史料綱要」)。

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む14

 しかし長州藩では攘夷戦、4国連合艦隊との戦闘を通じて庶民層を含む非正規軍たる奇兵隊以下の諸隊が結成され、高杉晋作ら討幕派は上層佐幕派を抑えて長州藩の主導権を奪回し、武装の近代化をはかりました。
 薩摩藩もまた島津久光を頂点とする公武合体派にかわって、西郷隆盛ら討幕開国派が成長し、長州藩と共通する主張をもつ政治勢力が藩の主導権を掌握するようになりましたが、永年にわたる薩長両藩の抗争が両藩の提携を妨げる要因となっていました。ところが長崎で公然と外国貿易できない長州藩に代わって薩摩藩名義で武器を購入し、これを下関に輸送したのは土佐脱藩の坂本竜馬とその亀山社中(後の海援隊)でした。例えば1865(慶応1)年7月21日長州藩井上聞多(馨)・伊藤俊輔(博文)は海援隊・薩摩藩家老小松帯刀らの斡旋により、長崎グラバー商会から銃砲を購入しています(「維新史料綱要」巻6)。こうして薩長両藩の接近が進展、1866(慶応2)年1月21日長州藩木戸貫治(孝允)と薩摩藩小松帯刀・西郷吉之助(隆盛)は坂本竜馬らの斡旋により、京都薩摩藩邸で薩長合従の盟約(薩長連合)を結びました(「維新史料綱要」巻6)。

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宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む15

 1865(慶応1)年5月16日将軍家茂は長州藩再征のため江戸を出発しました(「昭徳院殿御実紀」「続徳川実紀」)。家茂はその前夜年寄滝山に自分にもしものことがあったときには田安亀之助(田安慶頼の子 当時4歳 徳川家達)を跡目に定めたいとし、そのことを、自分が出発したのち和宮へ直接伝えるよう内命を下しました(「静寛院宮御側日記」慶応元年5月16日条)。

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 同年閏5月22日家茂は上洛参内し、長州再征を上奏、朝廷は同年9月21日長州再征の勅許を下しましたので、幕府は同年11月7日彦根藩などに長州征討のための動員を命令しました(「維新史料綱要」巻6)。
 しかし翌年4月14日薩摩藩の大久保一蔵(利通)は大坂城で老中板倉勝静に書面を呈出し長州征討の非を論じ、同藩の出兵を拒絶しました(「維新史料綱要」巻6)。また1866(慶応2)年7月18日にも芸州藩主浅野茂長・備前藩主池田茂政・阿波藩主蜂須賀斉裕は連署して長州征討の非と撤兵を幕府・朝廷に建言、征長軍の足並みが乱れる中、同年7月20日将軍家茂は大坂城で急死しました(「維新史料綱要」巻6)。
 家茂危篤が江戸に伝わると、天璋院は滝山から家茂の遺志を知らされて、田安亀之助を跡継ぎとすることについて和宮の賛同を要請しました。、勝海舟は「天璋院は、しまいまで、慶喜が嫌ひサ。それに、慶喜が、女の方はとても何もわかりやしないと言ったのがツーンと直きに奥へ聞えて居るからネ。そしてウソばかり言って、善いかげんに言ってあるから、少しも信じやしないのサ。」(「海舟語録」天璋院)と回想しています。和宮は時勢を考え、能力ある適材を後嗣にたてることを希望(「静寛院宮御側日記」慶応2年7月24日条)、しかし最後には天璋院に同調しました。
 しかるに老中板倉勝静らは一橋慶喜の推戴を内定、これにつき天璋院と和宮の賛同を望み、同年7月28日慶喜を継嗣として奏請、翌日勅許を得ました。かくして天璋院と和宮は慶喜の継嗣に同意しつつ、家茂の遺志を尊重して亀之助成人後慶喜の継嗣とするよう老中に命令しました(武部敏夫「和宮」吉川弘文館)。
 同年8月16日慶喜は参内して征長撤兵を奏請、勅許を得、8月20日将軍家茂の喪を発表、徳川慶喜の徳川宗家相続を公布(「昭徳院殿御在坂日次記」「続徳川実紀」)、12月5日慶喜は征夷大将軍に任命されました(「公卿補任」)。ところが孝明天皇は同年12月16日痘瘡の症状が出て、やがて快方に向かったにもかかわらず、やがて吐き気と下痢が激化して、同月29日死去しました(「孝明天皇紀」第5)。

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む16

 1867(慶応3)年10月14日正親町三条実愛は長州藩主父子に討幕の密勅を発しました。しかるにこれをかわすかのように、同日将軍徳川慶喜は前土佐藩主山内豊信(容堂)の建白を容れ、大政奉還上表を朝廷に提出、翌日朝廷は大政奉還を勅許しました(「維新史料綱要」巻7」)。これによって江戸幕府は倒壊したのですが、徳川慶喜は天皇を頂点とする新政府において主導権を握ろうとしていたのです。
 これに対して同年12月9日朝廷は王政復古の大号令を発しましたが、薩長両藩は新政府における徳川氏の主導権を否定しようとし、徳川慶喜の辞官納地を命じることを決定、有栖川熾仁親王を総裁とする新政府を成立させました(「維新史料綱要」巻7)。

幕末京都ー幕末京都倶楽部―[14] 京都 小御所会議

 当時京都二条城では征長に敗れた徳川軍と国許から京都へ上洛増強された薩長軍の間に一触即発の危機が迫っていました。この危機を回避しようとして慶喜は12月12日一旦二条城を退去、大坂城に入りました(「維新史料綱要」巻7)。、同年12月23日江戸城二丸が焼失(「維新史料綱要」巻7)、天璋院は本寿院・実成院(家茂の実母)とともに避難し、西丸に入り、再び和宮(慶応2年12月9日薙髪 静寛院宮と称する)との同居が始まりましたが、これは薩摩藩の関係者による放火ではないかとの嫌疑がかけられました。当時薩摩藩の益満休之助らが浪士を使って江戸で放火・強盗などをやらせ、騒乱状態が起こっていました。同月25日徳川方の指示で旗本・庄内藩兵らが江戸三田の薩摩藩邸に押し寄せ、二丸出火の原因究明と市中における狼藉者捕縛のため、使者を2人門内に派遣しましたが、藩側は使者の首を窓から投げ砲撃しました。これにより両者戦闘状態となり、薩摩藩邸は焼き討ち(「維新史料綱要」巻7)、浪士70余人が徳川方に捕らえられました。
 この薩摩藩の挑発が大坂城に伝わると、徳川慶喜は憤激する徳川軍を抑えられず、薩摩藩征討の表(「慶喜公御実紀」明治元年正月10日条「続徳川実紀」)を朝廷に提出して京都に攻め上り、迎え撃つ薩長軍と1868(慶応4・明治1)年正月3日鳥羽伏見の戦いで敗北(「維新史料綱要」巻8)、同月8日軍艦開陽丸で大坂を脱出、同月12日江戸へ逃げ帰りました(「慶喜公御実紀」明治元年正月12日条「続徳川実紀」)。

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む17

1868(慶応4・明治1)年正月12日徳川慶喜は天璋院に面会して鳥羽伏見で開戦するに至った事情を報告しましたが、静寛院宮には面会を許されず、同月15日天璋院の斡旋でようやく面会して鳥羽伏見の戦いに至る状況を説明、翌日天璋院を介して引退の決意と後継者の選定や謝罪のことを朝廷に伝えて頂きたいと懇願しました。静寛院宮は謝罪の朝廷への伝奏周旋のみ引き受け、その方法を天璋院も交えて協議、慶喜が書いた歎願書を何度も書き直させて、正月21日上臈土御門藤子を使節とし慶喜の歎願書と実家の橋本実麗・実梁父子宛の直書を持たせて西上させました(「静寛院宮御日記」一)。土御門藤子は同年2月1日桑名に滞陣する橋本実梁に静寛院宮の直書を渡し、2月6日京都に到着しました。
当時の朝廷では徳川氏処分について寛厳両論が対立していましたが、同年2月15日有栖川熾仁親王を東征大総督として江戸への進軍が開始されました(「維新史料綱要」巻8)。その翌日朝廷は橋本実麗に慶喜が謝罪の道を尽すならば慶喜本人の処分は別として徳川家存続については深く配慮する旨の口演書(「静寛院宮御日記」一)を与え、土御門藤子を通じてこれを静寛院宮に伝達させました(「土御門藤子筆記」正親町公和「静寛院宮御日記」二所収・武部敏夫「和宮」吉川弘文館)。
一方徳川方には天璋院を薩摩に帰して徳川家の存続をはかろうとの意見があったようです。このことについて勝海舟は次のように回想しています。
 「慶喜殿が帰られた時に、天璋院を薩摩へ還すという説があったので、大変に不平で、『何の罪があって、里にお還しになるか、一歩でもコゝは出ません、もし無理にお出しになれば自害する』と言ふので、昼夜懐剣を離さない。同じトシのお附きが六人あったが、それが亦、みな、一緒に自害するといふので、少しも手出しが出来ん。それぢゃア、己が行かうといって、先づ通じて置いて貰った。それで、次の日、出てゆくと、女中がずっと並んで居て、座布団が向ふにあるが、天璋院が見えない。『どうかなさいましか』というと、みな黙って居たが、暫くして、女中の中から一人出て来たよ。それが天璋院サ。かくれて様子を見たものだネ。」(「海舟語録」天璋院)
 天璋院は次の日も来てほしいといい、3日間勝海舟と語り合ったということです。天璋院は大総督府参謀西郷隆盛に自分の一命に代えても徳川家の存続がかなえられるよう嘆願した書状(畑尚子「前掲書」)を書き、女中らの手によって勝海舟との会談の前に届けられました。
 同年3月3日大総督府は3月15日を期して江戸城を総攻撃する旨命令しました(「維新史料綱要」)。3月13日大総督府参謀西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁勝安芳(海舟)が江戸薩摩藩邸で会見、翌日江戸城無血開城の交渉が成立しました(文部省編「維新史」文部省)。

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宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む18

 1868(慶応4・明治1)年4月4日勅使橋本実梁・柳原前光両名は江戸城で田安慶頼に江戸城の明け渡し、軍艦・銃砲の引渡しなどを条件として徳川家の家名を存続し、慶喜を水戸に謹慎させる勅旨を伝宣しました。同月11日江戸城が開城して徳川慶喜が水戸に引退のため江戸を去る(「維新史料綱要」巻8)以前、同月9日静寛院宮は実成院とともに清水邸に移り、同月10日天璋院・本寿院は一橋邸に去っていきました(「静寛院宮御日記」一)。
 つづいて同年4月24日関東監察使三条実美は江戸城に入り、大総督以下と協議し、田安亀之助を徳川家相続者とし(「維新史料綱要」巻8)、駿府(静岡)において70万石を賜ることに決定、同月29日亀之助相続を、また徳川家封地については彰義隊鎮圧後の同年5月24日伝宣しました(渋沢栄一「徳川慶喜公伝」4 東洋文庫107 平凡社)。同年7月17日江戸は東京と改称(内閣官報局「法令全書」第1巻 原書房)、同年9月8日明治と改元し、一世一元の制が定められました(内閣官報局「前掲書」)。
 1869(明治2)年正月18日静寛院宮は東京を出発、京都へ帰住しましたが、天璋院は帰郷せず、一橋邸から住居を転々と変え、1871(明治4)年静岡からもどった徳川家達とともに赤坂溜池近くの福吉町にあった旧相良藩邸に移り、1877(明治10)年千駄ヶ谷に新築された徳川邸に終生居住したのでした[保科順子(徳川家達の孫)「花葵 徳川邸おもいで話」毎日新聞社]。家達が同年イギリスへ留学するまで、天璋院が母親代わりで家達の養育に当たりました。福吉町邸と勝海舟の赤坂氷川町邸とはすぐ近くで、勝海舟と天璋院の間には親交があったのです。

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宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む19

 1875(明治8)年商法学者のウイリアム・ホイットニーはアメリカで知己となった森有礼の招待で東京に開設した商法講習所(のちの一橋大学)の教師として家族とともに来日しました。ホイットニー家はやがて勝海舟とも知り合いとなり、徳川家達とも交際するようになりました。1876(明治9)年のクリスマスにはじめてホイットニー家に招かれた家達は翌年2月17日ホイットニーの妻と娘クララを徳川邸(福吉町邸)に招待しました。
当時17歳であったクララは徳川邸の様子を次のように記述しています。
 「前方に大きな日本家屋があって、広く堂々たる玄関に、大勢の威厳ある人々が集まっていた。一番威厳のあるサンミ様(三位様 徳川家達)が中央に、あとの従者や護衛たちが堂々たる態度でその回りにいた。両側と道には召使いたちが並んでいた。私たちを見ると、いかめしく恐ろしいサムライ全員が、大変低くお辞儀をし、召使いたちは頭が地につきそうなくらいだった。(中略)案内された客間は、とても立派な部屋で栗色のカバーを掛けたテーブルが中央にあり、ブリュッセルじゅうたんが床に敷いてあった。体裁のよい椅子が回りにあって、隅々には屏風が立っていた。そして部屋の回りには絵も掛かっていた。」
 「婦人たちの住む家に出たが、そこには老婦人が三人(天璋院・本寿院・実成院)、二十八人の侍女を従えて住んでいる。最高位の婦人(天璋院)はご病気で、運悪くお目にかかれなかった。大勢の女の人が廊下に出てきて、お辞儀をしたが、私たちは靴をはいていたので中には入らず、外にいて十五歳になる老猫とたわむれた。」(クララ・ホイットニー「クララの明治日記」上 講談社)
 クララ・ホイットニーはのちに勝海舟の3男梶梅太郎(生母は海舟の長崎時代の愛人梶くま、母方の梶家を継ぐ)と結婚したアメリカ人女性です(寺尾美保「天璋院篤姫」高城書房)。

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む20(最終回)

1869(明治2)年3月明治天皇が東京に移り、1872(明治5)年10月天皇の勧めもあり(同年12月3日を太陽暦明治6年1月1日とする)、1874(明治7)年7月8日静寛院宮は東京麻布市兵衛町の邸宅に入りました。以後天皇の近親として厚遇を受け、一方徳川家一門として天璋院・家達を自邸に招待、また家達邸を訪問する日常を過ごしました。
 天璋院と静寛院宮が一緒に勝海舟を訪問したことがありました。お膳を出すと、両方でお給仕をしようとしてにらみあっていると女中が海舟に告げたので、海舟はお櫃を二つ出させて「サ、天璋院さまのは、和宮さまが為さいまし、和宮さまのは天璋院さまが為さいまし、これで喧嘩はありますまい」。すると「安芳は利口者です」と大笑いになって、帰りは一つ馬車で帰っていったそうです(「海舟語録」和宮と天璋院)。
 1877(明治10)年8月静寛院宮は脚気を発病し、侍医のすすめで箱根塔ノ沢へ湯治に行きましたが同年9月2日衝心の発作が起こり、旅館環翠楼にて32歳で死去しました。徳川家達はイギリス留学中で留守を預かる松平斉民(確堂)が喪主として葬儀を行い、遺骸は生前の希望により、家茂の墓と並んで葬られました(武部敏夫「和宮」吉川弘文館)。
 1880(明治13)年9月23日天璋院ははじめて旅行し、新橋から鉄道利用で神奈川に赴き、東海道を人力車を利用して江ノ島に参詣、小田原に一泊、熱海に一月近く滞在、10月28日には熱海出発、箱根芦ノ湖を巡り、宮ノ下に二泊した後、塔ノ沢の環翠楼を訪問、亡き静寛院宮をしのんで次の和歌を詠みました。「君かよわひ(齢)とどめかねたる早川の水のながれもうらめしきかな」(「熱海箱根湯治日記」)。
 1883(明治16)年11月13日天璋院は卒中を発症し危篤状態となりました(「海舟日記」)、また同年11月17日ころ千駄ヶ谷邸でお湯を使っていたとき、間違って湯殿でつまずき中風症になった(「東京日々新聞」)ともいわれています。彼女は同年11月20日49歳で死去しました(「明治過去帳」)。喪主徳川家達により葬儀が行われ、上野寛永寺の夫温恭院(家定)と並んで宝塔が建てられました。

JanJanニュースー検索―天璋院篤姫と幕末の上野を歩いた 2008/03/20

 この小説は天璋院篤姫歿後、額縁の中の篤姫が微笑みながら首を振ったように思われ、女中重野が篤姫の大好物であった白いんげんの煮たのとあんかけ豆腐を祀るために台所のほうへ立っていくところで終了しています。
2009-07-10 11:17 | 記事へ | コメント(2) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇 4) |
2009年07月01日(水)
「天璋院篤姫」を読む 1〜「天璋院篤姫」を読む10
宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む1

 宮尾登美子「天璋院篤姫」は1983(昭和58)年2月25日から1984(昭和59)年5月1日まで日本経済新聞夕刊に連載され、1984年講談社より出版、2007(平成19)年加筆された新装版が同社より刊行され、2008(平成20)年第47回NHK大河ドラマ「篤姫」の原作となった小説です。
 徳川氏は関ヶ原の戦いで敵対した島津氏をいわゆるムチとアメの政策を使い分けながら支配してきました。
 例えば1729(享保14)年藩主島津継豊は8代将軍徳川吉宗から常憲院殿(綱吉)の養女竹姫(綱吉の愛妾大典侍の局の姪 清閑寺大納言煕定の女 浄岸院 「寿光院殿之系」柳営婦女伝系巻之十四 柳営婦女伝叢 日本人物情報大系 女性叢伝編1 皓星社)を継室(後妻)として娶ることを命ぜられ、そのための出費[新御殿(御守殿)建築・調度その他]により借銀は3倍に増大しました(「孤愁の岸」を読む5参照)。
しかし竹姫は島津家の家格向上をもたらしました。継豊を継承した宗信・重年が若年で死去した後、竹姫は重年の嫡子重豪を養育し、重豪の人格形成などに大きな影響を与えました。1762(宝暦12)年12月重豪は竹姫の意向をうけ、一橋宗尹(むねただ 吉宗の子)の娘保姫と結婚しました。1772(安永1)年12月5日竹姫は68歳で死去の際、重豪に娘が生れたら徳川家一門と縁組させるようにと遺言(「旧記雑録追録」6 巻131-1406 鹿児島県史料 鹿児島県)を残したので、翌年6月に誕生した島津重豪の三女茂姫(寔子 広大院)と一橋治済の嫡子豊千代との縁組が1776(安永5)年7月18日に成立しました。
 1779(安永8)年2月24日家基(将軍家治の世子)が死去すると(「浚明院殿御実紀」巻40「徳川実紀」)、田沼意次は1781(天明1)年閏5月18日一橋治済の長男豊千代を将軍家治の世子とすることに成功しました(「浚明院殿御実紀」巻44「徳川実紀」)(「冬の鷹」を読む13参照)。豊千代は1781(天明1)年江戸城西丸に入り、家斉と改名しました(「浚明院殿御実紀」巻45「徳川実紀」)。

水野日向守本陣―江戸時代大名総覧―徳川将軍家―徳川一橋家―しー松平薩摩家

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む2

 徳川将軍家は3代将軍家光以降皇族・五摂家などの上流公家と婚姻関係を結ぶ慣例がありました。1786(天明6)年10代将軍家治死去により家斉は本丸に移ると、茂姫の父島津重豪の権勢を警戒する動きが現れ、形勢を察知した重豪は翌年隠居、家督を斉宣に譲り(「寛政重修諸家譜」巻108)、次代の斉興まで依然として藩政の実権を握りつづけました。
 中世以来島津家は近衛家を門流(主家)と仰ぐ間柄で、1705(宝永2)年6月薩摩藩3代藩主島津綱貴の娘亀姫は近衛家久と結婚、同年10月亀姫が死去すると、4代藩主吉貴の娘満姫が1712(正徳2)年近衛家久に嫁しています。このような島津家と近衛家との関係維持に大きな影響力を発揮したのが、6代将軍家宣正室天英院(近衛基凞娘)でありました(寺尾美保「天璋院篤姫」高城書房・林匡「島津家と近衛家」芳即正「天璋院篤姫のすべて」新人物往来社)。
  1787(天明7)年家斉将軍宣下、茂姫は近衛経熙の養女となり、寔子という諱を賜り、1789(寛政1)年2月4日家斉との婚儀にこぎつけたのです(「文恭院殿御実紀」巻6「続徳川実紀」)。

公卿類別譜―家格―摂家―近衛―武家―島津

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む3

 1809(文化6)年薩摩藩主となった島津斉興には正室(弥姫 鳥取藩主池田斉稷娘)との間に生れた長男斉彬、次男の斉敏(鳥取藩主池田家を継ぐ)と側室の由羅が生んだ三男久光がいました。斉彬は3歳で世子になっていたのに、斉興は由羅を寵愛して久光を可愛がり、斉彬を疎遠にしたのです。
 永年にわたり薩摩藩政の実権を握りつづけた島津重豪は1833(天保4)年に死去していましたが、薩摩藩内には筆頭家老島津将曹ら門閥層と藩財政再建に貢献し重豪死後も藩主斉興の信任厚かった調所広郷らの一派と江戸家老島津久武と主として民生・軍事を担当した人々で斉彬が藩主になることを期待していた一派との対立が激化していました。
 斉彬は幕府老中阿部正弘らの強力な支持を得て、調所広郷失脚をはかり1848(嘉永1)年12月調所広郷は明るみに出た藩琉球密貿易の責任をとって服毒自殺を遂げましたが、この事件の背後には島津斉彬がいたと思われます。
 1849(嘉永2)年斉彬擁立派はこの勢いに乗じて由羅と島津将曹らを殺害しようとした計画が事前にもれ、これを聞いた斉興は激怒、同年12月3日町奉行物頭勤近藤隆左衛門、船奉行家老座書勤奥掛役高崎五郎右衛門、鉄砲奉行勤山田一郎左衛門らに切腹を命じ、翌年4月島津久武が切腹させられるまで切腹13人、遠島17人その他50余人に及ぶ処分がおこなわれました(芳即正「島津斉彬」吉川弘文館)。

島津斉彬 〜早世を惜しまれた幕末の名君〜 ―お由羅騒動

弾圧を免れた斉彬派は斉彬と親密な筑前藩主黒田斉溥に助けを求めたので、黒田斉溥は越前藩主松平慶永・宇和島藩主伊達宗城らと相談して老中阿部正弘に斉彬の島津家相続に尽力を要請しました(芳即正「前掲書」)。

福山誠之館同窓会―誠之館人物志―福山藩歴代藩主―阿部正弘

1851(嘉永4)年正月阿部正弘は幕府の干渉を秘して斉興を隠居させることに成功、同年2月斉彬は薩摩藩主となることに成功したのでした(「慎徳院殿御実紀」巻15「続徳川実紀」)。

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む4

将軍世子家定は1841(天保12)年5月関白鷹司政熙の娘有姫(任子)と結婚しましたが、任子は1848(嘉永1)年死去、翌年左大臣一条忠良の養女寿明姫(秀子)と再婚しましたが、秀子は1850(嘉永3)年死去し、家定は再び独身となったのです(「慎徳院殿御実紀」巻14「続徳川実紀」)。
家定簾中(れんちゅう 将軍世子正室)秀子死去後間もなく、11代将軍御台所(みだいどころ 将軍正室)であった広大院付比丘尼(女僧)から島津家の年寄へ内々に藩主斉興や世子斉彬に年頃の娘はいないか問い合わせがありました。島津家では年頃の娘もおらず、なぜこのようなことを聞かれたのかも分からなかったので、情報を集めたところ、家定が京都出身の夫人が相次いで死去したため、京都の娘ではなく、広大院の例にならって、自分も夫人を島津家から迎えたいと希望したので、島津家に年頃の娘はいないかと問い合わせてきたことが明らかとなりました(「御一条初発より之大意」竪山利武公用控十四冊の内八 自安政2年11月24日至12月29日 「斉彬公史料」 第4巻 鹿児島県史料 鹿児島県・芳即正「天璋院入輿は本来継嗣問題とは無関係」雑誌「日本歴史」551号 1994年4月号)。

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む5

1851(嘉永4)年2月薩摩藩主となった島津斉彬は大砲・蒸気軍艦を製造して軍備を強化し、紡績工業などの産業を育成しようとしていましたが、これらの政策を実行すれば幕府に謀反を企てているのではないかと疑われるおそれがあり、それを打ち消すためにも将軍家と婚姻関係を結ぶことに熱心でした。斉彬は同年3月9日江戸をたち、途中京都の近衛忠凞邸で家定継室候補者について協議、同年5月8日鹿児島へ到着しました。
領国薩摩で多くの者と会い、島津忠剛(ただたけ 斉彬叔父・斉興弟)の娘於一(おかつ)を気に入って家定継室候補にしたいと考えるに至ったようです(「斉彬公史料」第4巻 鹿児島県史料 鹿児島県)。
江戸時代の薩摩藩主島津家は薩摩・大隅・日向諸県(もろかた)郡及び琉球国を支配、琉球を除く領国の人口は1852(嘉永5)年調査(「要用集」により推計)によれば約625000人、このうち士族が172000人余、全人口の約27.5%を占めていました。全国平均の5〜6%に比して士族の人口は多く、彼等をすべて鹿児島城下に居住させることはできないので、薩摩藩は琉球を除く領国を110余の外城(とじょう)という行政区画に分け、武士たちを配置して行政と防衛を担当させていました。1783(天明3)年外城は郷と改名されたのです。 
外城の中核であった村には麓(ふもと)と呼ばれる武家集落がありました。
島津家家臣団は鹿児島に住む城下士と外城に住む外城衆中(しゅじゅう 郷士)に分けられました。城下士の中でも家臣最上位の家柄は一門家と呼ばれ、重富(越前)家・加治木家・垂水家・今和泉家の4家がありました。
島津忠剛は今和泉家の領地今和泉郷を領地とし、本邸は鹿児島城下にありました。

ワシモ(WaShimo)のホームページへようこそ!―旅行記―鹿児島県―天璋院篤姫ゆかりの地―指宿市・鹿児島市

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む6

於一は島津忠剛の娘として1835(天保6)年12月19日誕生しました(「島津氏正統系図」松尾千歳「篤姫の出自とその一族」引用 芳即正「天璋院篤姫のすべて」新人物往来社)。また彼女は1836(天保7)年2月19日府第(鹿児島城下の本邸)で生れたとする史料(「源姓和泉氏嫡流系図」以下「和泉氏系図」と略 松尾千歳「篤姫の出自とその一族」引用 芳即正「前掲書」)もあります。於一の母は島津久柄の娘で名は不詳です(「和泉氏系図」)。ただし墓碑に「幸姫」とあり実母名は幸と判明しました(寺尾美保「前掲書」)。
於一と会ったことのある越前藩主松平慶永は彼女の性格について、斉彬から「耐忍力ありて、幼年よりいまだ怒の色を見たる事なく、不平のやう子もなし。腹中は大きなるものと見ゆ。軽々敷事なく、温和に見へて、人に応接するも誠に上手なり。将軍家の御台所には適当なり。」と聞かされたと記述(「閑窓秉筆」松平春岳全集 第1巻 明治百年史叢書 原書房)しています。

国立国会図書館―電子展示会―近代日本人の肖像―人名50音順―松平慶永

ところが幕府側家定継室についての窓口をつとめていた幕府奥医師多紀元堅らから、幕府閣老たちが島津家女性を正室ではなく側室にと考えていることを知らされた斉彬は1852(嘉永5)年8月23日鹿児島を出発、同年10月9日江戸に到着、ただちに老中阿部正弘や大奥の実力者姉小路[12代将軍家慶の正室楽宮(有栖川宮織仁親王娘)に従って京都から下向した公家の娘]に連絡し問題解決に奔走しました。姉小路は於一が斉彬の実子であれば家定正室でよいという意向を示したので、1853(嘉永6)年3月1日於一は斉彬の養女に迎えられ、同月10日篤姫と改名、幕府に斉彬実子として届けられました。
 同年6月5日篤姫は鹿児島城下の今和泉邸を出て、藩主居城の鶴丸城に入り、同年5月2日江戸を出発した斉彬も同年6月22日鶴丸城に到着したのです。

幕末写真館―幕末の女性―天璋院篤姫(尚古集成館蔵 島津隆子「篤姫と和宮」掲載 芳即正「前掲書」)

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む7

しかるに1853(嘉永6)年6月3日ペルリ提督率いるアメリカ艦隊が来航(「日本遠征記」を読む4参照)、幕府老中阿部正弘らはその対応に追われる毎日となりました。
阿部正弘(備後福山藩主)はペリー来航による対外折衝に当り、異例でありましたが対外問題を朝廷に奏聞するとともに、対外策を諸大名・幕臣らに諮問し、御三家の前水戸藩主徳川斉昭を幕府顧問格に据え、大廊下詰(御三家以外の徳川氏分家と徳川氏と親近関係にあった外様大名の一部の江戸城詰所)の代表的人物越前藩主松平慶永(春嶽)、大広間詰(大藩外様大名の江戸城詰所)薩摩藩主島津斉彬と密接な関係を結びました。

ぶらり重兵衛の歴史探訪2−会ってみたいな、この人にー銅像との出会いーとー徳川斉昭
  
ペリーが来年の日本渡航を予告して江戸湾を去った直後、12代将軍家慶は1853(嘉永6)年6月22日死去、同年11月23日世子家定が13代将軍に就任しました(「維新史料綱要」巻1 東大出版会)。
将軍家慶死去により家慶の寵愛を受けていた姉小路の大奥における影響力の低下を予想した島津斉彬は家定育ての親で近衛家とも旧知の間柄であった歌橋を新たな仲介者として近衛家を通じ依頼するよう働きかけました。
阿部正弘の要請もあり、篤姫は同年8月21日鹿児島を出発、途中近衛家に立ち寄り、同年10月29日江戸芝の薩摩藩邸に到着、この小説は島津斉彬の養女篤姫が斉彬の見送りを受けて鶴丸城から江戸へ出発する描写から始まります。
斉彬も1854(安政1)年1月21日鹿児島を出発、同年3月6日江戸に着きました。このとき西郷吉兵衛(後吉之助と称する)も斉彬に同行しており、庭方役(君主の密事を命ぜられ、または情報を報告する役)に抜擢されました。1856(安政3)年将軍家と篤姫との縁談はようやく急進展、斉彬は近衛忠凞簾中郁君(島津斉興養女)付で、郁君死後尼となっていた得浄院を還俗させて篤姫付老女(幾島)とし、江戸へ呼び寄せました。幾島については「女丈夫とかいへる類にて、心逞敷膽太とき本性」と評される女性で、顔に大きな瘤がある異相の持ち主であり、みな陰では「瘤々(こぶこぶ)」と呼んでいたそうです(安政4年12月14日「西郷より後宮往復の密書呈覧」中根雪江「昨夢紀事」二 日本史籍協会叢書 東大出版会)。中根雪江は越前藩主松平慶永の腹心だった人物です。
後に西郷は「おいどんが珊瑚、鼈甲、陶磁器、金銀細工の装飾品に至るまで鑑識に長けているのは、その昔篤姫こと天璋院様が入輿の折、調度品一切の御用達を命じられたとき覚えたのでごわす」と述懐しています(島津隆子「篤姫と和宮」芳即正「前掲書」)。

敬天愛人―メインコンテンツー西郷隆盛の生涯

同年4月4日京都近衛邸で篤姫を養女とする結定式が行われ、7月篤姫を近衛家養女とする幕府の許可が下されると、篤姫は「敬子(すみこ)」と改名しました。篤姫は同年11月11日江戸城に入り、同月19日納采(結納)の儀が行われ、同年12月18日婚儀がとりおこなわれました(「温恭院殿御実紀」安政3年12月18日条 「続徳川実紀」)。江戸城大奥にはすでに家定生母本寿院(家慶側室みつ)とお志賀(家定側室)がいました。

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む8

 1856(安政3)年7月21日(西暦8月21日)アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは日米和親条約により開港された下田に入港、このとき条約第11条の解釈をめぐって日米間に紛議(「日本遠征記」を読む16参照)を生じましたが、ハリスは玉泉寺に総領事館を開設、翌年10月21日(西暦12月7日)ハリスは幕府の反対を押し切って江戸城で将軍家定との謁見を実現しました(「大日本古文書・幕末外国関係文書」之十八 35号文書)。
 このときの将軍家定の挙動をハリスは次のように述べています。「ここで私は言葉を止めて、そして頭を下げた。短い沈黙ののち大君(たいくん・将軍)は自分の頭を、その左肩ををこえて、後方へぐいっとそらしはじめた。同時に右足をふみ鳴らした。これが三、四回繰り返された。それから彼は、よく聞こえる、気持ちのよい、しっかりした声で、次のような意味のことを言った。『遠方の国から、使節をもって送られた書翰に満足する。同じく、使節の口上に満足する。両国の交際は永久につづくであろう。』」(ハリス「日本滞在記」下 岩波文庫) 日本側史料(上掲 35号文書)では将軍家定の答辞は「遠境之処以使節書翰差越、令満足候、猶幾久敷可申通、此段大統領へ宜可申述」となっています。
 この将軍家定の動作について日本側記録(進士慶幹校注「旧事諮問録」上 大奥の事 岩波文庫)には「問 十三代(家定)は御癇癖があったそうですな。 答 さよう、御癇癖があったのでのでございます。しかしあまり困るような事ではございませぬ。ただ首を振る癖がありました。」と記述されていることが参考になります。この後ハリスは老中堀田正睦(下総佐倉藩主)に通商開始の必要性を力説し、通商条約調印を迫ったのです(「維新史料綱要」巻2)。

日米交流―通商条約と内政混乱

 一方病弱であった将軍家定に嗣子を得ることができないことは明らかであったため、1857(安政4)年6月老中阿部正弘死去後の翌年正月ころから将軍継嗣問題が烈しさを増してきました。次期将軍候補者は水戸徳川家出身の一橋慶喜(よしのぶ)と紀州徳川家の慶福(よしとみ)で、一橋慶喜を推す一橋派には慶喜の実父水戸藩の徳川斉昭、越前(福井)藩主松平慶永(春嶽)、薩摩藩主島津斉彬があり、徳川慶福を推す南紀派には老中堀田正睦(後一橋派に転向)、彦根藩主井伊直弼、新宮藩主水野忠央(紀州藩付家老)らが居ました。
 篤姫が御台所となると、彼女を一橋慶喜擁立に利用しようという動きも起こりました。斉彬も篤姫に将軍継嗣問題を説明し、機会を見て家定に働きかけるよう指示していましたが、篤姫があまり積極的に動くのは得策ではないとおもっていました。それで篤姫に従って大奥に入った幾島が中心となって大奥工作を進めたのです。斉彬の腹心西郷吉兵衛は松平慶永の家臣橋本佐内に篤姫を通じて大奥で慶喜擁立の工作をすると伝え、薩摩藩邸の老女小野島を通じて篤姫付の老女幾島に連絡をとりました。
 将軍継嗣の決定には将軍家定の意向がもっとも重視されますが、彼の意見に大きな影響力をもつのは生母本寿院です。大奥には水戸嫌いの風潮が強く、本寿院は一橋慶喜を将軍継嗣とすることに絶対反対で、家定を養育した歌橋も同意見で紀州擁立に傾いていました。

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む9

 1858(安政5)年正月5日幕府はハリスに60日以内の通商条約調印を約束、条約勅許奏請のため老中堀田正睦を上京させましたが、同年3月20日朝廷は条約調印は御三家以下諸大名の意見を奏上した後、再び勅裁を要請すべしとの勅諚を堀田正睦に示し、条約勅許は得られませんでした(「維新史料綱要」巻2)。
 かくして同年4月23日将軍家定は彦根藩主井伊直弼を大老に任命(「温恭院殿御実紀」安政5年4月23日条 「続徳川実紀」)、同年6月19日幕府は江戸湾碇泊の米艦上でハリスと日米修好通商条約および貿易章程を無勅許で調印(「維新史料綱要」巻2)しました。同条約はアメリカ合衆国に領事裁判権を与え、関税自主権なしの不平等条約です。つづいて同年6月25日将軍家定は継嗣を紀州藩主徳川慶福に決定(「温恭院殿御実紀」安政5年6月25日条「続徳川実紀」)しました。

小さな資料室―資料177 日米修好通商条約(付・貿易章程)

国際法を学ぼうーQ&AコーナーーQ49・50

 同年7月6日将軍家定死去(「維新史料綱要」巻3)、つづいて7月16日島津斉彬死去、死去の直前かけつけた久光に、久光かその子忠徳(茂久・忠義)を斉興に伺い後継者と定めよと遺言しました(芳即正「島津斉彬」吉川弘文館)。8月29日篤姫は落飾して天璋院と称しました。同年7月21日徳川慶福は家茂(いえもち)と改名(「維新史料綱要」巻3)、同年10月25日将軍宣下(「公卿補任」)、天璋院は将軍養母として江戸城大奥の中心となったのです。

よろパラ 文学歴史の10−日本史人物列伝―とー徳川家茂

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む10

 1858(安政5)年6月24日前水戸藩主徳川斉昭らは江戸城中で条約無勅許調印につき、大老井伊直弼を詰問(「維新史料綱要」)、同年7月5日幕府は徳川斉昭を謹慎、徳川慶恕(慶勝・尾張藩主)・松平慶永を隠居・謹慎処分(「温恭院殿御実紀」「続徳川実紀」)とし、同年9月7日元小浜藩士梅田源次郎(雲浜)を京都で逮捕、以後吉田松陰・橋本左内ら志士が続々と逮捕され、いわゆる安政の大獄が始まりました(「維新史料綱要」)。
 このような幕府の反対派弾圧に対して、1860(万延1)年3月3日大老井伊直弼は桜田門外で水戸浪士らの襲撃を受け惨殺されました(「水戸藩史料」・「維新史料綱要」巻3)。

東京紅団―テーマ別散歩情報―明治維新シリーズー桜田門外の変を歩く(1)(2)

 桜田門外の変後、弱体化した幕府は公武合体による政情安定の具体策として同年4月1日付の老中連署奉書で皇妹和宮降嫁を関白九条尚忠に申し入れ(「維新史料綱要」巻3)、九条尚忠は同年5月1日孝明天皇にこれを奏上しました。和宮はすでに有栖川宮熾仁親王と婚約が成立しており、天皇は降嫁請願を2度却下、和宮も生母観行院(典侍橋本経子 権大納言橋本実久の娘)も承諾しませんでした。
 しかし幕府は使節を京都に派遣して観行院と和宮伯父橋本実麗を説得、また和宮降嫁を条件として攘夷決行を幕府に約束させようとしていた岩倉具視も孝明天皇に和宮降嫁を許可するよう働きかけました(「和宮降嫁ノ件勅問ニ付具視意見書ヲ進覧スル事」多田好問編「岩倉公実記」上 明治百年史叢書 原書房)。
 同年8月15日和宮は将軍家茂との婚姻にあたり、5箇条を条件に降嫁を内諾、同月18日孝明天皇は条約破棄・公武の融和を条件に和宮降嫁勅許を関白九条尚忠を通じ幕府に内達しました(「維新史料綱要」巻3)。また和宮要請の5箇条にそって、孝明天皇から幕府への要望があり、それは12箇条の趣意書(宮内省先帝御事蹟取調掛編「孝明天皇紀」第三 万延元年10月6日条 吉川弘文館)として通達されました。その中には身辺を「万事御所風」にすることという箇条もありました。同月26日有栖川宮家は和宮お輿入れ延期という事実上の婚約解消を願い出る形式をとらされました(「維新史料綱要」巻3)。
2009-07-01 12:08 | 記事へ | コメント(0) |
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2009年05月10日(日)
「日本遠征記」を読む11〜「日本遠征記」を読む20
ペルリ提督「日本遠征記」を読む11

 ペルリ提督は琉球にいる多数の日本代官とその密偵とが、琉球において発生したあらゆる出来事に注意し、帝国(日本)政府に報告しようと常に監視しているのをだしぬくために、艦隊中の帆船の幾艘かを江戸湾に出発させ、そのすぐあとから自分の汽船で続航し、先発船と合流するのが得策だと考えました。
 そこで1854年2月1日マセドニアン号がヴァンダリア号、レキシントン号及びサザンプトン号を率いて出帆、提督は同年2月7日サスクエハンナ号、パウアタン号及びミシシッピ号を率いて先発船の後を追いました。運送船サプライ号は翌日上海に向かって出帆し、同地で石炭及び若干の家畜を積み江戸湾で艦隊に合流するよう命令されていました。
 那覇を出発する以前、ペルリ提督はオランダ印度総督から、米大統領の親書受領後まもなく日本の皇帝が崩御された旨知らせがありました。日本当局者は長崎駐在オランダ商館監理官に対して、一定の葬送の儀式と帝位継承の手続きとを行うことが必要になり、そのため当分大統領親書についての審議が延期されることになったのでアメリカ艦隊がペルリ提督の定めた時期に江戸湾に帰航してくれるなという日本政府の希望を伝えてくれるよう繰り返し要求したのでした。提督はオランダ印度総督の通信に対し、皇帝崩御について哀悼の意を表しましたが、この通告のためにその計画の遂行を思い止まることはありませんでした。
 同年2月13日午後3時7隻から成る艦隊は浦賀町より12哩、首府江戸より20哩はなれた江戸湾西側の入り江に投錨しました(「維新史料綱要」巻1 安政元年正月16日条 参照)。政府御用船2艘がやってきて、役人の乗艦を許可されたいと要求したので、ペルリ提督は艦長アダムスに命じて旗艦パウアタン号に役人たちを迎えさせました。以後日本側と提督との間に繰り返された折衝は次のような内容でありました。
 役人たちは日本高官とペルリ提督会見の場所を浦賀もしくは鎌倉に指定しましたが、提督は艦長らを通じて浦賀も鎌倉も非常に遠く、港として危険であるから何処か他の場所、もっとも望ましい江戸を選ぶべしと主張しました。また来る2月22日水曜日はワシントンの誕生祭であるから礼砲を発射すると日本側に通告し、同日正午礼砲を発射しました。さらに2月24日提督は艦隊を檣頭から江戸が見える地点まで移動させて、日本側に無言の圧力をかけたのです。
 2月25日アメリカ側既知の香山栄左衛門がやってきて、提督が自分の目的を変えず江戸のもっと近くに近づこうとしていることを知ると、彼は突如として先に提出した日本委員の会見地に関する最後通牒を廃棄し、当時艦隊が停泊していた場所の真向かいに当る横浜村にすぐ近い一地点を提案しました。
 提督は自分の部下の士官が栄左衛門に従ってその地点に赴き、適当であることを見出したので、栄左衛門の提案に同意する旨林大学頭(復斎)に書翰を送りました(「維新史料綱要」巻1 安政元年2月朔日条 参照)。

母を訪ねて3000円―名家のその後(幕末)−林復斎

ペルリ提督「日本遠征記」を読む12

 ペルリ提督は9艘の艦隊(サラトガ号とサプライ号が加わる)を横浜湾に停泊させました。1854年3月8日まず士官と武装した水兵及び陸戦隊約500名より成る儀仗兵が上陸、提督はマセドニアン号からの17発の礼砲を発射しつつ旗艦パウアタン号から乗艇に乗り移りました。提督上陸後士官たちは一列になって提督に従い、アメリカ人が条約館と呼んだ建物に向かいました。この建物は横浜村に隣接し、神奈川から3哩を隔て、首府の南郊から5哩、江戸自身からは多分9哩を隔てる位置にあったのです。
 提督とその一行が館に入る時、皇帝に敬意を表するため、海岸近くの艦載ボートの船首に載せてあった榴弾砲で21発の礼砲が発射され、それに次いで高級委員林大学頭のために17発の礼砲が発射されました。
 提督と部下の士官達及び通訳達が上席である左側の席につき、多数の日本役人が右側に席をとると、5人の委員が他の部屋から入ってきました。顧問官林大学頭が明らかに主席委員で、当日勤務した主席通訳は森山栄之助(「日本遠征記」を読む13参照)という人物です。

横浜開港資料館―横浜歴史画像集―1.ペリー来航関係

 双方挨拶の後委員たちは別室で会議を継続することを提案、提督も同意し、提督は艦隊指揮官と2人の通訳と秘書を伴って別室に入り、主席委員は提督に1本の巻紙を渡しました。それはさきに久里浜訪問の際に手渡した大統領親書にたいする回答で、その内容の要点は次のようなものでした。
日本皇帝陛下に呈したる大統領親書にたいする回答訳文(「大日本古文書・幕末外国関係文書之五」120号文書 参照)
@ 貴政府の提案全部に対して、直ちに満足なる回答を与ふるは、吾が国祖宗の法律によって、極めて厳重に禁ぜられ居るところなれば、全く不可能なり。
A 昨年卿が当帝国に来訪された際には先帝陛下(12代将軍家慶)病にありて、今や薨去されぬ。その後今上(13代将軍家定)即位せられ、即位につきての幾多の事未だ完了せざるため、他事を徹底的に解決するの時なし。
B 最近長崎にロシアの使節到着して、ロシア政府の希望を通告したり。同使節は長崎を去れり。されど石炭、薪水、食料及び難破船とその乗員との救助に関する貴政府の申出の緊要なるを認めて、全くその申出に添はんとす。卿が如何なる港を選ぶかを通告されたる後に、その港の準備をなさん。
C 交易さるべき商品の価格は、黒川嘉兵衛と森山栄之助とによって決定さるべし。
D 右に述べたる諸点を決定したる後は、次回の会見に於て条約を締結し署名することを得。
                 高官諸氏の命令によりて捺印
                         森山栄之助 
 提督は、この文書に主席委員が署名して明日自分に渡してくれるようにと願ってこれを返し、条約の商議に入りました。提督は合衆国・支那(清国)間の条約と同様の条約を結ぶことが二国民にとって好ましいと語り、英語・支那語(漢文)・及びオランダ語で書いた支那(清国)条約の写しに、提督からの覚書2通並びに主席委員が浦賀から送った手紙に対する返書1通を添えて日本人に渡すと、日本人はその諸文書を自国語に翻訳させるため、時間を貸してくれと願いました(「維新史料綱要」巻1 安政元年2月10日条 参照)。
 その他の問題及び饗応の後、提督は条約館を退出、軍楽隊の奏楽に送られて海岸へ行進し乗艇に乗り込んで帰艦、当日の儀式に参加した士官、水兵、陸戦隊も後に続きました。

下田観光協会―下田の歴史―ロシアからの黒船

ペルリ提督「日本遠征記」を読む13

1854年3月9日組頭黒川嘉兵衛と主席通訳森山栄之助が大統領の親書に対する皇帝の回答に委員たちが署名したもの(「大日本古文書・幕末外国関係文書之五」94号文書 参照)を持ってパウアタン号を訪問、次いでミシッシピ号に赴き、アダムス艦長と協議しました。彼等は電信機、銀板写真装置、蒸気機関などのアメリカ側の贈物受け取りの日として3月13日を指定しました。またアダムス艦長はアメリカ人との貿易にあてるために委員たちはどの港を選んだか、その港は何処にあるかと質問しましたが、組頭は明言を避けました。

Akizoo Art―Gallery―ペルリ提督日本遠征記の図譜―このコレクションのサムネイルを見る―主席通詞森山栄之助とたこ十郎―アメリカからの贈り物-1ー下田奉行組頭 黒川嘉兵衛

笑う門には福来るー教育―日本における英語教育の始まりー日本における英学のはじまりー4 森山栄之助

同年3月13日贈り物はアボット艦長指揮により、少しの損傷もなく陸揚げされました。アボット艦長は香山栄左衛門らに迎えられ、条約館に案内されました。高級委員林侯が入ってきて贈り物手交の手続きを完了し、日本委員は海岸における提督との会見日を3月16日と定め、その日に提督が固執した日本諸港の開港に関する覚書に対しての正式の回答を手交しようと約束しました。
 贈り物が正式に渡されたので、この目的のために選抜されたアメリカ士官と労働者たちは、それを展観するために荷物を解き整理したのです。ドレーパー氏とウイリアムス氏の指図によって電信装置は仕事ができるように準備されました。電線は真っ直ぐに、約1哩張り渡され、一端は条約館に、一端はその目的のために設けられた一つの建物にありました。両端にいる技術者の間に通信が開始された時、日本人は烈しい好奇心を抱いて運用法を注意し、一瞬にして消息が英語、オランダ語、日本語で、建物から建物へと通じるのを見て多いに驚いていました。
 小さい機関車と、客車と炭水車とをつけた汽車も、技師のゲイとダンビイとに指揮されて、同様に彼等の興味をそそったのです。その客車は非常に小さいので6歳の子供をやっと運び得るだけでしたが、日本人はそれに乗らないと承知ができませんでした。円を描いた軌道の上を1時間20哩の速力で真面目くさった一人の役人がその寛かな衣服を風にひらひらさせながらぐるぐる廻っているのを見るのは少なからず滑稽な光景でした。彼は烈しい好奇心で歯をむいて笑ひながら屋根の端に必死にしがみついていました。

日本財団図書館―ジャンルから検索―歴史―日本史―次ページー2004「阿部正弘と日米和親条約」展図録―目次―ペリー将来の蒸気機関車模型 松崎 哲 

ペルリ提督「日本遠征記」を読む14

 ペルリ提督と日本委員との会見の日3月16日は嵐で翌朝に延期され、合衆国が支那(清国)との間に結んだ条約を基礎として提督が提案した日本との条約に関する覚書に対する日本委員の手紙がアメリカ側に渡されました。その内容は@ 明年1月よりアメリカ船舶の必要とする薪水、食糧、石炭その他の物を長崎で供給する A 同月より五ヶ年の後、他の封領における1港を開き船舶の入港に宛てる、というものでした。
 条約館においてペルリ提督は@について提督は長崎を開港場の一つとして承認しようとは思わない。Aについて60日以内でなければならない、と主張しました。
 やがて提督は委員たちに対し、アメリカ船舶のために五つの港をを開くことを期待しようと告げました。けれども当分三港で、一つは日本島内の浦賀か鹿児島、他の一つは蝦夷の松前、第三は琉球の那覇港で満足する積りだと語ったのです。委員たちは此れに対して下田を提案し、琉球、蝦夷については日本皇帝の統制がわずかしか及んでいないので、何らの提案もなしえないと回答しました。下田について提督は同港の調査後適合か否かを決断すると答えました。
 3月23日には代理委員がパウアタン号に来艦し、アメリカ船舶に食料、薪水を供給するために函館(箱館)港を翌年七月(1855年9月17日)開港する旨の回答を持参しました。
提督は調査の結果により、かつ提案の日より早く開港を希望するという条件で日本側提案に同意しました。

ペルリ提督「日本遠征記」を読む15

 1854年3月24日ペルリ提督は招待されて色々の贈物を受けるために、士官と通訳を従えて横浜に上陸しました。条約館の応接室にはさまざまな贈物すなわち立派な錦及び絹布、有名な漆器類、すばらしい明るさと透明さをもった陶器の盃、扇、煙草入れなどが積まれ、林侯が日本語で贈物の目録と贈呈する相手の名前を読み上げ、此れを森山栄之助がオランダ語に訳し、ポートマン氏が英語に訳しました。また海岸には多くの贈呈された米俵が積み上げられていました。
 日本人の好意を示すこれらの品々を観賞していると、突如として巨象のように海岸を踏みつけながら歩いてくる一団の巨漢が現れました。彼等は職業的力士たちで、諸侯は彼等を私の娯楽のため及び公の余興のために抱えているのです。その数は約25人で腰の廻りに僅ばかりの染めた布片をつけ、抱主たる諸侯の紋をつけていて巨大な四肢を露はしていました。
 これらの者たちの大力の余興を見せるために、諸侯たちは海岸の船積みに便利な場所に米俵を移動させました。米1俵は125ポンドを下らぬ重さでしたが、一時に米2俵を運ばなかった力士は2人だけでした。ある者は1俵を歯でぶらさげて運び、他の者は1俵を腕に抱へ、それを持ったまま何度も飜筋斗(とんぼがへり)をうちました。この後相撲観戦も行われています。

Akizoo Art―Gallery―ペルリ提督日本遠征記の図譜―このコレクションのサムネイルを見る―相撲観戦-横浜

ペルリ提督「日本遠征記」を読む16

 同年3月25日森山栄之助は下役通訳を伴ってパウアタン号に来艦、委員たちに代わってアメリカ側贈物などに対する感謝を表明、それから提督の船室で提案された条約に関する数点について評議したいと申し出ました。森山栄之助は明らかに提案された条約の諸点の中、委員たちが譲歩したくない思っている点について、提督の決心を試すために委員たちから派遣されたのです。提督はその事項を非公式に討議するについて異論はないが、通訳たちを委員たちの公式の代理者と考えることはできないと断言しました。
 森山栄之助はアメリカ代理領事の設定に言及し、町々の奉行は領事の仲介がなくとも、船舶に石炭食料その他の必要物を供給するための事務を行うのだから、領事館を必要としない。従ってアメリカがかかる役人を任命することに同意することを4〜5年間延期したい旨申し出ました。これに答えて提督は領事館の性質と任務を説明し、日本人の利益のために領事を居留させるのだということ及びに下田に居住する領事は1人でよいが、この点を条約中に明記せねばならないと主張しました。同年3月27日提督は日本委員たちとその従者を旗艦パウアタン号に招待し饗応しました。
 翌日条約館において条約中の残りの諸点に関する協議が行われました。日本に居住する領事について委員たちは大いに懸念し、提督と日本通訳との談話と同じ理由を挙げたのですが、提督は強硬にこの代理官を置かねばならない旨を述べ、結局下田に領事1人を置くべきことと、条約調印の日より1年乃至18ヶ月後まではその領事を任命しないこととが承認されました。

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 1854年3月31日ペルリ提督は随員を伴って条約館に赴き、英語で書かれた条約草案3通に署名し、合衆国通訳ウイリアムス氏とポートマン氏のとの証明あるオランダ語、支那語(漢文)の同草案写し3通と共に委員たちに手交しました。同時に日本委員は同国政府に代わって各々日本語[「日本米利堅合衆国和親条約」(日米和親条約)日付 安政元年(嘉永7年)3月3日 西暦1854年3月30日(「大日本古文書・幕末外国関係文書之五」243号文書 参照)]、支那語(漢文)、オランダ語で書いた条約草案3通を提督に手交しましたが、それは皇帝が特に選んだ委員4名の署名があるものでした。条約調印後日本側主催の饗応が行われました。

日米交流150周年記念事業―日米交流の始まりー5 日米和親条約(神奈川条約)―条約付録

条約第 9条は片務的最恵国待遇を規定した不平等条項です。

国際法を学ぼうー目次―質疑解答・用語解説編―Q&AコーナーーQ83 片務的最恵国待遇について

同 第11条は和文と英文の意味の食い違いを生む余地を残し、後に問題となりました。
(田保橋潔「近代日本外国関係史」原書房 参照)

ペルリ提督「日本遠征記」を読む17

 1854年4月4日調印された条約とその他必要な通信をワシントンの合衆国政府へ送るために、アダムス中佐はサラトガ号で出発しました。4月11日日本委員の強硬な反対にもかかわらず、ペルリ提督は全艦隊を神奈川の停泊所から江戸湾を遡航させ、首府の南郊品川付近の岬を廻って江戸の間近に接近しました。
 そこで艦隊は回航し、提督は4月11日マセドニアン号を小笠原諸島のピール(父)島へ、サザンプトン号とサプライ号は14日先行して下田港を調査させ、ヴァンダリア号とレキシントン号は16日、提督はパウアタン号に乗り込み、ミシシッピ号を伴って4月18日午前4時下田へ出航、同日午後3時30分同港に投錨しました。神奈川条約による開港後下田は伊豆領の管轄から離れて帝領都市となり、役人は直接江戸幕府から任命されるのです。
 4月21日提督は少数の士官を伴って組頭黒川嘉兵衛を公式に訪問しました。通訳森山栄之助も下田に来ていました。士官たちは条約による特権でしばしば上陸し町や田舎を散歩しましたが、民衆がアメリカ人と会話し交流しようとすると、武装した兵士や警官が民衆を追い払い、アメリカ人の行く所を密偵が監視したのです。提督は司令官参謀と2人の通訳に組頭を訪問させ、兵士が後をつけ、民衆を追い払い、店舗を閉めることに抗議しました。組頭はこの点について江戸の上役に照会するが、早速家屋を閉めないようにし、兵士にアメリカ人の後をつけないようにする命令を出そうと語りました。
 ところがアメリカ士官たちが上陸したある日2人の日本人がついて来るのを発見しました。話をして見ると日本人は2本の刀を帯び、立派な錦の袴をはき、その態度は慇懃で洗練されていたが不安そうで、士官の一人に近づき、折りたたんだ手紙を密か渡して立ち去りました。その内容は日本語で世界を周遊するために密航させてほしいと記述したものでした。
 4月25日午前2時ころミシシッピ号に乗船を希望する2人の日本人が発見され、旗艦に行くよう指示されると、同艦で通訳に手紙と同様の希望を述べました。提督は日本政府の許可なき人物を乗艦させることを拒絶し悄然とした彼等を送り返しました。その数日後上陸した士官たちは同町の牢獄で2人の日本人が甚だ狭い檻の中に拘禁されているのを認めました。この2人の日本人とは元萩藩士吉田寅次郎(松陰)と金子重輔でした(「維新史料綱要」巻1 安政元年3月27日条 参照)。

幕末関連史跡補完計画―史跡便覧―都道府県別―東海 静岡―下田市―下田湾

ペルリ提督「日本遠征記」を読む18

 函館(箱館)で日本役人と会見するために予定された5月9日が近づいたので、ペルリ提督は旗艦パウアタン号に乗りミシシッピ号を伴って下田を出航しました。マセドニアン号、ヴァンダリア号、及びサザンプトン号はすでに函館(箱館)に向けて出帆していましたし、運送船サプライ号は下田に残留したのです。パウアタン号とミシシッピ号は5月17日午前9時函館(箱館)港に投錨しました(「維新史料綱要」巻1 安政元年4月21日条)。
 2〜3時間後日本政府御用船から数人の役人がパウアタン号に乗り込んできたので、アメリカ側は日本委員から受け取った手紙と支那語(漢文)で書いた条約の写し1通を彼等に渡しました。翌日司令官副官は2名の通訳と提督秘書を伴って奉行を訪問、艦隊の函館(箱館)訪問の目的を、合衆国と日本との条約を実行することで、アメリカ人が任意に店舗や公共の建築物にはいる特権、商品の売却及び宿舎の提供等を求めました。
 奉行(松前藩用人)遠藤松(又)左衛門らは提督が提出した手紙にはアメリカ人に対して普通の歓迎と好遇を与え、艦隊に水と食料を供給することを命じているだけだと回答、翌日アメリカ側はこの土地は不毛で殆ど産物がなく、貴方の希望に不適である。横浜で締結された条約について何らの命令や文書も到着しておらず、命令を待つべきである。粗末なものだが食料を供給、市場及び店舗に赴くことその他貴方の要求するものは供給する旨の通牒を受け取りました。
 5月19日午後提督はミシシッピ号において松前侯の代理(家老)松前勘解由と会見、翌日上陸して松前勘解由を訪問しましたが、彼はアメリカ人が当地と交通する際の制限区域決定を拒絶(「維新史料綱要」巻1 安政元年4月26日条 参照)、この問題は下田における委員たちとの交渉に委ねられました。
 5月31日朝マセドニアン号は下田へ、ヴァンダリア号は上海へ向けて出港、1854年6月3日パウアタン号とミシシッピ号は下田に向かって出発しました。

北海道大学附属図書館―コレクション紹介―北方資料データベースー検索―ペリー箱館応接之図

ペルリ提督「日本遠征記」を読む19

 1854年6月7日パウアタン号とミシシッピ号は下田港に投錨しました。翌日ペルリ提督は護衛兵を従えて上陸、委員たちによって寺院に迎えられ、主席委員は下田が帝領都市となったこと及び伊沢美作守と都築駿河守が下田奉行に任命されたことを述べました。
同年6月8日より同月17日まで連日会議が続行され、17日に至りようやく相互協定(「日本遠征記」を読む16 条約付録参照)が成立したのです(「維新史料綱要」巻1 安政元年5月22日条 参照)。
同年6月28日旗艦ミシシッピ号とパウアタン号はサザンプトン号を曳航して下田を出港し、琉球に向かいました。マセドニアン号とサプライ号は台湾へ赴き、他の諸艦は任務を与えられて日本を去っていたのです。やがてサザンプトン号は香港に直行すべき命令を受け、同年7月1日2蒸気艦は那覇港に投錨しました。
司令長官副官のベント氏と通訳ウイリアムス氏は提督代理として、7月8日琉球執政と会見、契約草案を提出して論議しました。10日には再び両人が執政と会見して両当事者が満足する契約の全条項取り決めに成功、7月11日提督は少数の陸戦隊を上陸させ市庁に執政を訪問、贈物を手交後締結された協定(琉米条約)または契約の諸条項が作成され、それを英語と支那語(漢文)で記し、提督、執政、琉球布政官によって署名捺印されました(「維新史料綱要」巻1 安政元年6月17日条 参照)。

外務省―外務省案内―外務本省―外交史料館―特別展示アーカイブスー過去の特別展示一覧―平成16年度 日米関係のあけぼのー3 琉米条約

琉球当局の手厚い饗宴の後提督は帰艦、7月14日乗艦上で琉球当局者に訣別の宴を張りました。翌日レキシントン号は香港に赴くよう命令を受けてただちに出帆、17日提督はミシシッピ号に乗り、パウアタン号を従えて出発しました。パウアタン号は命により支那(清国)沿岸の寧波、福州府及び厦門に向かい、ミシシッピ号は香港に直行したのです。
提督は以前に大臣に対して、自分の仕事が終わった時、指揮権を次席の士官に譲って合衆国に帰ることを許可してほしい旨の歎願書を出していました。提督が香港に到着すると、海軍省から彼の願いを許可し、ミシシッピ号で帰るか陸路印度から帰るかは自由に任せる旨の急信が待っていました。
 提督は司令長官副官を伴ってイギリスの便船ヒンドスタン号に乗り込み、1855年1月12日ニューヨークへ到着、ミシシッピ号は同年4月23日ブルックリンの海軍工廠に帰還、翌日提督は同号に赴いて提督旗を降ろし、日本遠征最後の仕事を終了したのでした。

ペルリ提督「日本遠征記」を読む20(最終回)

日米和親条約の謄本を携行してサラトガ号に乗り込んだアダムス中佐(「日本遠征記」を読む17参照)は1854年5月1日ホノルルに到着、サンフランシスコに向かう船に乗り込み、同地からパナマ経由で同年7月12日ワシントンに到着しました。
同条約は大統領によって上院に提出され満場一致で批准されると、アダムス中佐は日本当局と条約の批准を交換する合衆国代表として同年9月30日批准された条約謄本を携えてニューヨークを出発、日本へ向かいました。1855年1月1日香港からアボット提督指揮のパウアタン号はアダムス中佐を乗せて同年1月26日下田に到着しましたが(「維新史料綱要」巻1 安政元年12月9日条 参照)、中佐は同地の外観に大きな悲しい変化があったことを発見しました。
中佐が日本を離れていた間に地震(1854年12月23日 安政東海地震)が起こり、下田にもその破壊的影響の証拠を夥しく残したのです(「維新史料綱要」巻1 安政元年11月4日条 参照)。  

防災システム研究所HP―防災知識と教訓―東南海・南海地震―安政東海地震

その時にはプーチャチン提督の提督旗を掲げたロシアのフリゲート艦ディアナ号が同港に停泊していました。ロシアの士官が語るところによれば、水が退いた時には泥が無数の飛沫になって海底から湧き上がり、水が流れ込んで来た時に水は大渦巻のように湧き上がり、その速力と力はフリゲート艦を30分に43回も旋回させた程でした。船梯、船材、竜骨の大部分は打ち砕かれてなくなり、船底は非常に傷んだので、下田から約60哩の戸田(へだ)に艦をもっていって修繕しようとしたが船は沈没したとのことでした(「日本遠征記」を読む12参照・「維新史料綱要」巻1 安政元年11月27日条 参照)。
日本との条約(日露和親条約)は提督の乗艦が沈没した後、アダムス中佐の滞在中に締結されたもので(「大日本古文書 幕末外国関係文書之八」193号文書 参照)、同提督がアダムス中佐に知らせたところによれば、それはペルリ提督が吾が国(アメリカ合衆国)のために締結したものと全く同じで、ただ那覇港に代えるに長崎港を以てした点がのみが異なるとのことでした。しかしこれは何らの改善でもありません。

日本辞典―日本縦断検索―日露和親条約

日本人は前に訪問した時よりもはるかに親しげに愛想よくしようとしていました。アダムス中佐は日本人が大統領から皇帝に贈った機関車を操縦する方法を習得しているのを発見しましたが、磁性電信機はまだ非常に難しいと語っていました。
批准の翌日すなわち1855年2月22日パウアタン号は下田を出発しました(「維新史料綱要」巻2 安政2年正月6日条 参照)。
2009-05-10 11:53 | 記事へ | コメント(0) |
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2009年05月01日(金)
「日本遠征記」を読む1〜「日本遠征記」を読む10
ペルリ提督「日本遠征記」を読む1

 「日本遠征記」土屋喬雄・玉城 肇訳(岩波文庫)には「合衆国政府の命令により、合衆国海軍エム・シー・ペルリ提督の指揮の下に、1852年、1853年、及び1854年に行われたる支那(清国)諸海及び日本へのアメリカ艦隊遠征記事」という表題が掲げられており、「ペルリ提督の要求に基き、且つその監修の下に提督及びその士官達の覚書及び日記原本を資料として神学博士、法学博士、フランシス・エル・ホークスによって編纂さる」という解説が付記されています。

福山誠之館同窓会―所蔵品(歴史資料)―管理.索引―z0001〜z0999―ペリー肖像画

 序論において従来欧米諸国に知られていた日本が紹介されています。そうして1831年1艘の日本船が米西海岸コロンビア河口付近に漂着したので、やがてこの哀れな人々を故国に送還することが決定されました。そこでアメリカの商船モリソン号がキング家によって日本に航海するよう準備され、平和の目的を明らかにするために、同船の銃砲と装甲は全部取り除かれました。同船は1837年に江戸湾に達しましたが砲撃され、鹿児島でも砲火を浴びせられ、日本人を乗船させたままマカオに帰還しました(モリソン号事件 「小説 渡辺崋山」を読む12参照)。
 1846年には合衆国政府から日本に遠征隊が派遣されました。その任務はできれば日本と協商を開くことでした。この遠征隊は90挺の鉄砲を備えるコロンブス号と海防艦ヴィンセンス号の2船より成るものでビッドル提督が指揮していました。同年7月同船隊は江戸湾に達し、10日間滞留しましたが、その2船の乗組員は1人も上陸せず、通商を許可されたいとの請願に対する回答は「オランダを除く如何なる外国民に対しても通商を許し得ず」という簡単なものでした(田保橋潔「近代日本外国関係史」原書房 参照)。

ペルリ提督「日本遠征記」を読む2

  ところがアメリカ合衆国とメキシコとの戦争(1846〜48)終結の条約によってアメリカは太平洋に臨み金を産出するカリフォルニア地方を領土として獲得しました。かくしてアメリカ西海岸とアジアとの長期にわたる貿易航路を開くために蒸気船の燃料として不可欠の石炭および他の価値ある産物を供給するために未開国日本を開国させることはアメリカ合衆国の利益に直結する課題となったのでした。
ペルリ提督が吾が国を出発して日本に赴いた約12ヶ月前にこの事が世界に報告されたのですが、諸外国の世論はこの遣使が他国の多くの使節派遣と同様に、成功しないだろうことは明らかであろうと云うのでした。長く日本に居住したことのあるフォン・シーボルト博士はこの遣使と関係のあった友人に次のような手紙を書いたのです。すなわち「私の心は遠征隊について行く。平和な手段で成功することは甚だ疑はしい。もし私がペルリ提督を鼓舞することができさへすれば勝利を獲るだろう」等々。
 この人は出島のオランダ人に雇われていた医者で、ペルリ提督が司令官に任命された後、シーボルトは同遠征隊の一員として雇われんことを申し出ました。ペルリ提督は特に追放されたと一般に信ぜられている(シーボルト事件 「間宮林蔵」を読む15参照)人を日本に連れ帰って自分の使命の成功を危うくしたくないために、この申し出を拒絶し続けました。
 1852年11月24日ペルリ提督はミシシッピ号とともにノフォークを出港、石炭と飲食物の供給上マディラ,喜望峰、マウリシアス及びシンガポール経由で日本に向かったのです。

はまっちSNS―バックナンバー2008年12月>>2007年04月―2008年05月12日(月)1.ペリー/黒船の航路ご存知でした?

ペルリ提督「日本遠征記」を読む3

 マディラ島においてペルリ提督は1852年12月14日付で海軍卿宛に次のような内容の公式書信を寄せました。@ 予備行動として我が捕鯨船(当時日本近海に数種の鯨豊富)その他の船舶のために一つ以上の避難港及び給水港をただちに獲得する必要がある。A もし日本政府が本島内にかかる港を許与することを拒否した場合、我が艦隊は日本南部の一、二の島内に良港を入手し、水と食糧とを得るに便利な集合地を確立し、而して住民を懐柔、彼らと友好を結ぶよう努力することが望ましい。B 具体的には実際の主権について支那(清国)政府の異議があるが、薩摩侯の治める琉球群島中の主要港を占拠することは、我が軍艦の便利のため及び他の国民の商船に対する安全な集合のためにも正当である。
 この書信は海軍卿より国務省に報告され、国務長官より大統領に申達して、その承認が得られたという連絡が1853年2月15日付で返信されました。
 1853年5月4日ミシシッピ号は上海に到着し、ペルリ提督はここで旗艦となったサスクエハンナ号に乗り換えました。同年5月23日サスクエハンナ号をはじめとするアメリカ艦隊は大琉球島の主港那覇に向かい、同月26日夕刻那覇に入港しました。
 琉球王宮を訪問した後、同年6月9日ペルリ提督はミシシッピ号とサプライ号を那覇に残してサスクエハンナ号とともにサラトガ号を従えて小笠原諸島に向かい、6月14日小笠原諸島の一つであるピール島(父島)内のロイド港(二見港)沖合いに到着しました。
 1827年イギリス船が同島を訪れ、来訪の年月と占有の行為を銅版に刻んで樹木に釘付けにしましたが、この銅版と樹木は存在せず、「日本遠征記」には林子平「三国通覧図説」(「蝦夷千島古文書集成」第3巻 教育出版センタ− 参照)の一節「小笠原諸島の名称は同島を最初に訪れた航海家の名前(小笠原貞頼)になぞらへて附せられたのであった。」の英訳文が引用されており、イギリス人の発見は日本に先んじてゐると云って主張する権利はイギリス人には少しもない。日本人が同諸島最初の発見者だったことは全く明らかであると記述されています。
 提督はカリフォルニアと支那(清国)との間に遅かれ早かれ確立されるべき汽船航路上の停泊地としてピール(父)島を勧めたいと思って、そこへ訪問したのでした。

硫黄島探訪―10.小笠原・火山列島資料―小笠原・火山(硫黄)列島の歴史

 同年6月18日サスクエハンナ号はサラトガ号を曳航して同月23日夕刻那覇湾内の停泊地に到着しました。

ペルリ提督「日本遠征記」を読む4

 1853年7月2日早朝ペルリ提督は旗艦サスクエハンナ号とミシシッピ号(蒸気船)、サラトガ号とプリマウス号(単檣帆軍艦)の4隻から成る艦隊を率いて那覇を出発、日本に向かいました。同年7月8日午後5時ころ艦隊は戦闘配備につき、江戸湾西側にある浦賀町の沖合に投錨したのでした。投錨に先立ち多くの日本防備船が海岸を離れて来るのを認め、ペルリ提督は自分の乗艦以外の船には何人の乗船も禁止するとの至急命令を伝え、さらに旗艦にも同時に3人以内で用件ある者のみの乗船を許可すべしと命令しました。
 役人は船をサスクエハンナ号に横付けにして舷梯を下ろしてくれるよう手真似をしたので、支那語(漢語)・和蘭語通訳に提督は最高の役人以外の何人をも引見しないことを通告させました。横付けした防備船上の一人は立派な英語で「余は和蘭語を話すことができる」と云い、和蘭語通訳と次のような会話を交わしました。すなわち彼は自分の側にいる役人の一人を指し、浦賀の副奉行で艦隊の司令長官が引見さるべき適当の人物であると述べたので、提督は彼の副官に副奉行を引見させることにしました。そこで舷梯が下ろされて副奉行(与力)中島三郎助が和蘭語通訳堀達之助を伴って乗船してきました。
 中島は艦隊の長崎回航を要求しましたが、提督は断じて長崎に回航せず、合衆国大統領から皇帝に宛てた親書を今滞在しているところで受納されることを期待していると副官を通じて通告したのです(「維新史料綱要」巻1 嘉永6年6月3日条 東大出版会 参照)。中島は明朝上役が来てご沙汰をしましょうと云って帰還しました。
 同年7月9日7時に2艘の大船が横付けになり、自ら浦賀奉行で最高の役人と名乗る香山栄左衛門(与力)が到着し乗船したいと和蘭語通訳が告げたので、副官らが浦賀奉行と応対しました。このときも中島が述べたことと同じ要求が繰り返され副官を通じた提督の回答も武力を背景として全く同じで、浦賀奉行は江戸の回訓を仰ぐ旨申し述べ、提督は3日の回答期限をつけるとともにミシシッピ号と測量船をさらに江戸湾の奥深く進入させて日本側に無言の威圧を加える作戦をとったのでした。

三浦大根―歴史講座―黒船来航人物辞典巻の1―中島三郎助―堀達之助―香山栄左衛門
         ―黒船来航人物辞典巻の2―黒船


ペルリ提督「日本遠征記」を読む5

 江戸からの回答に接する約束の日(同年7月12日)が来ました。午前9時半ころ3隻の船がサスクエハンナ号に接近し、先頭の船だけが舷側に着きました。同船から主席通訳堀達之助以下1名を従えた香山栄左衛門は乗船を許され交渉の相手ブカーナン・アダムス両艦長の席へ案内されました。当日午前・午後の2回の会談で日米双方は次の諸点において合意しました。すなわち@ ペルリ提督は合衆国の海軍大(代)将に相当する官位を有する江戸の高官とこの地海岸で会見する。A その高官は皇帝の署名ある信任状を所持する。B その信任状及び和蘭語訳の写し1通を会見に先立ち、提督に手交する。C 提督は米大統領親書・大統領信任状の原文と写し及びその訳文をその高官に手交する。D 提督は大統領親書に対する回答について何ヶ月かの後、受納のため再訪する。翌日合意Bにもとづく信任状とその写しが香山栄左衛門によってもたらされました(「維新史料綱要」巻1 嘉永6年6月8日条 参照)。
 同年7月14日その日の祝典のために選抜され、正装した士官・水兵・陸戦隊を乗せた多数のボートがサスクエハンナ号に横付けになりました。ブカーナン艦長の乗艇が先導、従者を連れた浦賀奉行と副奉行が乗っている2艘の日本船が艦長乗艇を守衛し久里浜村の応接所めざし案内、その後に海軍軍楽隊が音楽を演奏してついていったのです。ボートが海岸まで後半分の所へ達した時、サスクエハンナ号から13発の大砲が発射されて丘々にこだましました。これはペルリ提督の出発を知らせるもので、提督は自分の乗艇に乗り組んで、陸をめざして漕ぎ出したのです。しかしこれは同時に日本側に対する威嚇でもあったことはあきらかです。 

横須賀市オフィシャルサイトー観光―横須賀観光情報―よこすかタウンナビーよこすか散策―浦賀の歴史とふれあう散策ルートー吉井・久里浜コースーペリー公園

ペルリ提督「日本遠征記」を読む6

 提督が到着すると、幕僚の士官たちは提督の後に2列に並び、接見所に向かって行進を開始しました。一行を先導した香山栄左衛門と通訳が行く道を案内してくれました。提督は謁見所の戸口まで護衛され、幕僚を伴って内に入りました。接待の部屋に入ると左側に着席していた2人の高官が立ち上がってお辞儀をしました。提督と幕僚は右側の安楽椅子へ案内されました。通訳が日本高官の名前と称号、戸田伊豆守と井戸石見守を知らせました。2人とも相当の年輩で非常に立派な衣服を着し、その上衣は精巧な金銀の模様をちりばめてある重たげな絹の紋織でした。

三浦大根―歴史講座―黒船来航人物辞典巻の1―井戸石見守弘道・戸田伊豆守氏栄

 提督と幕僚とがその席についてから数分間は鳴りを鎮めて両方共一言も発しませんでした。主席通訳堀達之助が和蘭語通訳ポートマン氏に向かって、手交すべき書翰が用意されているかどうか訊ねました。提督にこの旨を知らせると、提督は次の間に控えていた少年を招き、大統領の書翰とその他の文書入れた美しい箱を2人の黒人が少年から受け取ってそれを開け、書翰を取り出して文書と印章を見せながら日本櫃の蓋の上に置きました。

ペルリ提督「日本遠征記」を読む7

 大統領及びペルリ提督の書翰の要点は下記の通りです(「大日本古文書・幕末外国関係文書之一」115号文書 東大出版会 参照)。
アメリカ合衆国大統領 ミラード・フィルモアより日本皇帝陛下に呈す
 偉大にして、よき友よ。余は提督マッシウ・シー・ペルリを介してこの公書を陛下に呈す。この者は合衆国海軍における最高地位の一士官にして、今陛下の国土に訪れたる艦隊の司令官なり。
@ 余が提督を遣わしたる目的は合衆国と日本とが友好を結び、相互に商業的交通を結ばんことを陛下に提案せんがために他ならず。
A 貴政府の古き法律によれば、支那(清国)と和蘭とに非ざれば外国貿易を許さざることを余等は知れり。されど世界の状態は変化し、時勢に応じて新法を定むることを賢明とするが如し。
B 吾が船舶にして毎年カリフォルニアより支那(清国)に赴くもの多く、また吾が人民にして、日本沿岸に於て捕鯨に従事するもの甚だ多し。荒天の際には吾が船舶中の一艘が貴国沿岸に於て難破することも屢〃なり。かかる場合には悉く、吾等が他の船舶を送りてその財産及人民を運び去るまでは、吾が不幸なる人民を親切に遇し、その財産を保護せられん願ひ、また期待するものなり。
C 吾が諸汽船が太洋を横ぎるに当りては多量の石炭を焚く。願はくは吾が汽船及その他の船舶が日本に停船して、石炭、食糧及び水の供給を受くることを許されよ。これ等の物に対しては金銭又は陛下の臣民が好む物をもって支払をなすべし。又吾が船舶がこの目的のため停船するを得るが如き便利なる一港を、貴帝国の南部地方に指定せられんことを要求す。
1852年11月13日
   (捺印)
                      ミラード・フィルモア
            副署 国務卿 エドワード・エヴァレット 

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ペルリ提督より皇帝へ (略)
合衆国巡洋艦サスクエハンナ号
    日本海岸の沖合にて 1853年7月5日
東印度、支那(清国)及び日本諸海における合衆国海軍司令長官
                      エム、シー、ペルリ
ペルリ提督より皇帝に
合衆国汽船巡洋艦サスクエハンナ号上
  1853年7月14日 江戸湾浦賀にて
 本官を介して日本政府に提出せらるる提案が、甚だ重大にして且甚だ多くの肝要なる問題を含むが故に、数個の関係事項を審議決定するためには、多くの時日を要するならんと想像し居れり。本書状の署名者はこれを考慮し、来春江戸湾に帰航するまでその提案に対する回答をば喜び待つものなることを言明するものなり。    
   印度、支那(清国)及び日本諸海における合衆国海軍司令長官
                      エム、シー、ペルリ

アメリカ合衆国大統領ミラード・フィルモアよりペルリ提督に与えられたる信任状(略) 

ペルリ提督「日本遠征記」を読む8

 以上数通の書翰とともに支那語(漢文)及び和蘭語の翻訳も手交されました。提督の指示により、和蘭語通訳ポートマン氏が日本の通訳達之助に対して種々の文書の性質を説明しました。
 香山栄左衛門は石見侯から受け取った巻紙をもって提督に膝まづきそれを手交しました。和蘭語通訳が「この紙は何か」と訊ねると「これは皇帝の受領書(「大日本古文書・幕末外国関係文書之一」120号文書 参照)である」と答えました。
 2〜3分の沈黙の後、提督は通訳に命じて次のように通告しました。すなわち2〜3日中に艦隊を率いて琉球及び広東に立ち去るということ、又来春多分4月か5月かに日本に帰航する積りだということをも述べました。
 提督は退出するために立ち上がり、2侯も立ち上がって提督と幕僚たちを見送りました。提督と幕僚は再び行列を組んで、海岸から乗艇に乗り移り艦に向けて漕ぎ出しました。このとき軍楽隊は暫く吾が国の国歌を演奏したのです。

ようこそ!Dr.町田のホームページへーMIDIコーナー(クラッシク編)―<世界の国歌いろいろ>−アメリカ国歌

 提督は海岸における会見後艦に帰着すると、江戸の方に向かって水道を調査することを決心しました。その理由は首府の近くでそれを行うことが日本政府の誇りと自負心に決定的な影響を与え、且つ大統領の親書に対してもっと深い考慮をはらうことになるだろうと思ったからです。
 7月15日提督は提督旗をサスクエハンナ号からミシシッピ号に移し、浦賀の停泊所から20哩隔たってゐると推測される一地点に達しました。目に見えた町は多分江戸郊外品川だったでしょう。
 7月17日サスクエハンナ号はサラトガ号を、ミシシッピ号はプリマス号を曳航して艦隊は出航しました。多くの人々は遠く艦隊を眺めるのに満足せず、水上は無数の船で覆われたのです(「維新史料綱要」巻1 嘉永6年6月12日条 参照)。

ペルリ提督「日本遠征記」を読む9

 艦隊は江戸湾出帆後まもなく始まった暴風を無事に乗り切って、7月25日那覇に投錨のため入港しました(「維新史料綱要」巻1 嘉永6年6月20日条 参照)。提督はただちに琉球摂政との会見を要求するとともに、会見に先立ってアダムス中佐は提督の提議を摂政に知らせるために那覇市長及び当局者に提示するため次のような訓令書を手交されて上陸しました。
 「1ヵ年間の家屋賃貸料の率並びにその支払方法を決定すること。600噸を貯蔵し得る貯炭倉庫に充てる適当な建物を欲していることを説明すること。もし適当な建物がなかったならば、島民労働者を使用して琉球風の建物を建設しようと欲していること。」など。
  また提督はこのような命令に加え、摂政に対して次のような内容の信書を送付しました。
 東印度、支那(清国)及び日本諸海に於ける合衆国海軍司令長官は日本より当港に帰航して将に支那(清国)に向かって出帆せんとす。その出発以前に総理官閣下に対し、琉球当局及び琉球人との交際に関して二三の所見を通達せんと欲するものなり。
@ 司令長官はその麾下の士官及び部下が支那(清国)及び日本より来着したる人達と同様の資格にて待遇せられんことを要求し、その必要とするものは如何なるものと雖も、市場及び商店にて購買する特権を有すべきことを要求す。その商品に対しては販売者の要求する価格を支払うべし。
A 吾が士官と部下とが、卑しき役人及び密偵より監視され後ををつけられざることをも要求す。
 アダムス中佐が提督の提案を那覇市長に提出すると、那覇市長は提督副官コンティ大尉に摂政が7月28日那覇の公館で提督と会見すると回答しました。提督は合計16人の幕僚を伴って会見の場所に案内され、会話は支那語(漢語)でウイリアムス氏を介して行われました。ウイリアムス氏は提督から要求されて、伊豆侯と石見侯に歓迎された時の話及び江戸湾の踏査測量についての話を簡単に語って聞かせました。
 それから晩餐が始まると摂政は手紙を提督に差し出し、ウイリアムス氏は提督の命を受けてそれを開きその場で読みました。その手紙には@ 吾々が貯炭所にあてるため一つの建物を建設すれば琉球人の困難は甚だしく増大するだろう。A 商店及び市場に関しては人民の思ふままに委せてあるので、もし彼等が店を閉めたいと思へば、摂政はそれに干渉できない。B 吾々が上陸する度に後をつけてきた役人は密偵ではなくて案内人として働くように任命された役人である。今後はつけないように命じよう。という内容の記述がありました。
 提督はその手紙を摂政に帰すよう命じ、もし明日正午までに、自分の要求に対して満足な回答をもらわなかったら、200人の兵士を上陸させて、首里に行進し、同地の王宮を占領し、ことが決着するまでそれを占拠するだろうと声明し、ただちにサスクエハンナ号に帰りました。
 翌朝10時ころ市長がサスクエハンナ号に来艦して提督の提案が全部承認されたことを伝えました。貯炭所に関しては建設の準備がすでに行われていることを述べ、市場については提督の妥協案すなわちアメリカ人の購入したい産物を販売するため公館で市場を開催することで合意しました(「維新史料綱要」巻1 嘉永6年6月23日条 参照)。
 8月1日提督は同地にプリマス号を残して香港に向かい出発しました。 

沖縄情報IMA―沖縄の歴史

ペルリ提督「日本遠征記」を読む10

 1853年8月7日ペルリ提督は香港に到着しました。当時清国は太平天国の乱(1850〜64)の渦中にあり、その政治情勢は混乱を極めていました。

歴史研究所―中国史―第28回 今度はキリスト教? 太平天国の乱

 広東におけるアメリカ商人たちはすでに支那(清国)に始まった革命は韃靼人の敗北に終わり、やがて無政府状態となる外なく、この土地一帯には盗賊及び無頼漢が居住外国人の住居を襲って略奪する機会をねらっていると書面で訴え、提督に対して1艘またはそれ以上の船艦を広東の商館隣接地に派遣されたしと要請しました。
 提督はアモイから到着したサプライ号を広東市対岸の投錨地に停泊せしめ、艦隊の残余は香港とマカオの中間にある1港に集合するよう命令し、提督自身はマカオに居住しました。
 同年末近くマカオに停泊中のフランス軍艦に乗ってフランス提督がいずれかへ出航し、上海に在ったロシア海軍大(中)将プーチャチンも日本に引き返しそうとしていると懸念されたのです(「日本遠征記」を読む12参照)。提督は予定を早めて1854年1月14日サスクエハンナ号で香港を出発琉球に向かいました。パウアタン号、ミシシッピ号及び運送船レキシントン号、サザンプトン号が提督に従いました。レキシントン号、サザンプトン号とは各々パウアタン号とミシシッピ号に曳航されていました。マセドニアン号とサプライ号とはヴァンダリア号と琉球で一緒になるために2〜3日前に琉球へ出発していました。サラトガ号は琉球で艦隊に参加せよとの命令を受けていました。
2009-05-01 10:49 | 記事へ | コメント(2) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇 1) |
2009年03月10日(火)
「小説 渡辺崋山」を読む11〜「小説 渡辺崋山」を読む20
杉浦明平「小説 渡辺崋山」を読む11

 田原藩は遠州灘に突出した渥美半島に所在し、三河国の海防の拠点という位置にありました。このため1825(文政8)年異国船打払令(「通航一覧」)が出されると、田原藩では海防掛りという役目を設置したようです。1832(天保3)年崋山が年寄役末席に起用されると、海防掛りを兼務しました。崋山はかねて蘭学に関心がありましたが、海防の強化のため海外諸国の事情を知る必要に迫られ、高野長英・小関三英・幡崎鼎らの蘭学者と親交を深めるようになりました(「崋山口書」蛮社の獄における崋山の供述書 鈴木清節編「前掲書」第1巻)。

四日市の史跡―四日市の近世史跡―幡崎鼎の墓

 また上記の人物たちとの交友を通じて得た崋山の学識と識見を慕って幕臣・儒学者・文人が彼の許に集まったのです。例えば幕臣では勘定吟味役川路聖謨(「間宮林蔵」を読む16参照)・伊豆韮山代官江川英竜(坦庵)ら、儒学者・文人では紀州藩儒者遠藤勝助・水戸藩士立原杏所らが挙げられます。さらに前記の紀州藩儒者遠藤勝助が天保の飢饉対策のために設立した会合尚歯会も新しい知識や情報の交換に役立つグループといえましょう。

杉浦明平「小説 渡辺崋山」を読む12

 このような渡辺崋山を中心とする蘭学研究グループ(蛮学社中略して蛮社)を敵視したのは蘭学を嫌悪する林大学頭(衡 述斎)とその一門です。

全国名前辞典―は2−林述斎

その理由の一つは崋山が林家の家塾の塾頭であった佐藤一斎の門人であり、また林家の家塾で塾生の学習指導に当ったことのある松崎慊堂(「小説 渡辺崋山」を読む5参照)を師とする間柄であったからです。林述斎一門の中でも特に渡辺崋山グループを敵視したのは述斎の次男鳥居耀蔵でした。すなわち1837(天保8)年に起こったモリソン号事件とこれに伴う江戸湾防備問題に関連して、翌々年蘭学者弾圧事件(「蛮社の獄」 高野長英 「蛮社遭厄小記」日本思想大系55 岩波書店)に発展するのです。

別館 仁杉五郎左衛門研究―第10章 関わった人々―鳥居甲斐守忠耀

 1837(天保8)年イギリス貿易監督官は小笠原諸島の対清国・対日貿易の基地としての価値を評価し、本国政府に同諸島の占領を勧告しました。そこで1837(天保8)年英艦ローレイ号による同諸島の調査が実施されました。
 当時マカオには日本漂流民7名がイギリス貿易監督官付首席通訳官ギュツラフに保護されて帰国の機会を待っていました。かねて日本との貿易を望んでいたマカオのアメリカ商社オリファント会社支配人チャールス・キングは貿易監督官に自社船モリソン号で日本漂流民送還を提案しました。マカオ貿易監督官はこの提案を受諾しギュツラフのモリソン号同乗を求め、ギュツラフに帰還後日本遠征の経過について報告を命じたのです(佐藤昌介「渡辺崋山」吉川弘文館)。
 モリソン号は1837年7月4日マカオを出港、同年7月29日夜江戸湾頭に到着しました。同年6月28日(1837年7月30日)異国船の浦賀接近を知った浦賀奉行はこれを江戸に報告するとともに小田原藩・川越藩に連絡して異国船打払令により異国船砲撃を開始しました。このためモリソン号は江戸湾を退去、鹿児島湾の山川港付近に停船して漂流民を上陸させようとしましたが、薩摩藩の砲撃にあい漂流民送還を断念、同年8月18日マカオ港外に安着しました(田保橋潔「近代日本外国関係史」原書房)。

杉浦明平「小説 渡辺崋山」を読む13

 1838(天保9)年6月長崎に入港したオランダ船はモリソン号日本接近の経緯を記述した機密文書を持参したので、新旧商館長ニーマンとフランデソンは同文書を長崎奉行に提出しました。その和訳文の内容は(「小説 渡辺崋山」を読む12)で述べた文章とほぼ同一ですが、アメリカ商社オリファント会社を「エゲレス(イギリス)の商館」、モリソン号を「モリソンと申すエゲレス船」と誤って記述しています。
 長崎奉行久世広正は幕府に上申した伺書において、昨年江戸湾浦賀沖に接近して撃退された異国船が実は日本漂流民送還のため来日した英船モリソン号であったことを述べ、「日本人異国へ漂流まかりあり候につき、手寄りもこれあり候わば、重ねて入津の節、連れ渡り候よう仕るべき旨、当秋オランダ船出帆のみぎり、申し渡し候よう仕るべきや、この段御内意伺い上げ奉り候」と日本人漂流民をオランダ船に委託して連れ戻るようにしてはどうかとの決裁を幕府に乞うたのです(向山誠斎編「蠧余(とよ)一得」二集 内閣文庫所蔵史籍叢刊3 汲古書院)。
 当時幕府領の海防を担当していた勝手掛老中水野忠邦は長崎奉行伺書を勘定奉行・勘定吟味役・および林大学頭(述斎)、大小目付に意見を聞き、また評定所一座[寺社・町・勘定奉行(公事方 訴訟担当)]に諮問しました。

北国五郎の大ニッポン見聞録―画像一覧―@歴史の現場を訪ねてーリストー歴史探検倶楽部―天保の改革 水野忠邦の墓所

杉浦明平「小説 渡辺崋山」を読む14

 水野忠邦の諮問に対する各役職の答申の要点は次のようなものでした。長崎奉行の伺書について勘定奉行らと大小目付・林大学頭はおおむね賛成でしたが、評定所一座は反対し、もしモリソン号が再来した場合、評定所一座は異国船打払令を適用すべしとする強硬な意見を主張しました。この答申に対して水野忠邦は再び勘定奉行・同吟味役らに議論させたのですが、勘定奉行らは漂流民のオランダ船委託による送還という長崎奉行伺書と同意見を繰り返し主張したのでした。よって1838(天保9)年12月水野忠邦は長崎奉行に伺書通り処置するよう指令しました(「蠧余一得」)。

首都大学東京図書館情報センター本館―本館コレクションー水野家文書

 これよりさき同年10月15日尚歯会例会が開催され、閉会後の雑談の中で評定所記録方芳賀市三郎が英船モリソン号の来日の風説と同船に対する異国船打払令の適用を主張した評定所一座の答申案を密かに示しました(高野長英「蛮社遭厄小記」)。
 雑談に同席していた渡辺崋山・高野長英は評定所一座の答申案がすなわち幕府の方針を示すものと誤解し、高野長英は「戊戌(ぼじゅつ)夢物語」、崋山は「慎機論」を著しました(「日本思想大系」55 岩波書店)。

奥州市―観光―観光スポットー博物館・記念館―高野長英記念館―高野長英記念館HP

杉浦明平「小説 渡辺崋山」を読む15

 「慎機論」において崋山はまず田原藩が三河国渥美郡にあって古来海防に努力してきたことを述べ、つづいてモリソン号渡来のことに触れていますが、崋山は高野長英と同様に同号がイギリスの著名なシナ学者ロバート・モリソンの指揮する船と誤解しています。
 崋山はモリソン号渡来の目的はわが国の開国にあるとし、わが国の独立の脅威となるのはロシアとイギリスで、この二国の中でまず日本を侵略しようとしているのは優秀な海軍をもつイギリスであり、同国は日本の鎖国政策を人道に反するという理由で日本侵略の口実にしようとしていると主張しています。
 しかるにわが国為政者は世界の現況を知らず、このような状態であれば「束手(傍観)して寇(侵略)を待む歟」と崋山はわが国政治指導者の無能ぶりを批判攻撃するのです。
崋山は「慎機論」の内容が不敬にわたるとして公開しませんでした(「崋山口書」鈴木清節編「前掲書」第1巻)。
一方高野長英は「戊戌夢物語」において読書に疲れて見た甲乙二人の問答の夢に託して「唯イキリスと唱へ候得者、海賊とのみ被思召、…船国地へ近寄り候者、…鉄砲にて、打払に相成候。凡世界の中如此御取扱は無之事也。」とモリソン号撃退の方針を具体的に批判しました。「戊戌夢物語」は極少数の人々の内覧に止めた(高野長英「わすれがたみ」別名「鳥の鳴く音」日本思想大系55)そうですが、伝写されてかなりの人々に読まれたようです。

横須賀市オフィシャルサイトー観光―横須賀観光情報―横須賀散策―浦賀の歴史とふれあう散策ルートー西浦賀コースー浦賀奉行所跡

杉浦明平「小説 渡辺崋山」を読む16

 水野忠邦は1837(天保8)年の異国船江戸湾浦賀沖侵入事件の刺激を受けて翌年12月4日江戸湾防備体制強化のため目付鳥居耀蔵と伊豆韮山代官江川英竜に江戸湾備場(砲台設置の場所)の視察と防備改革案の立案を命じました。

伊豆の国市―観光―韮山郷土資料館―重要文化財 江川邸HP―Contents―江川英竜(坦庵)

 この視察でもっとも重要とされたのは備場の新設とその位置の選定にあり、そのための海岸測量が必要でした。江川英竜は崋山に測量技術者の推薦を依頼、これに対して崋山は1838(天保9)年12月23日付の書簡(小沢耕一「前掲書」)で高野長英の門弟奥村喜三郎(増上寺御霊屋領代官)と内田弥太郎(和算家)を推薦しました。1839(天保10)年1月7日江川英竜は勘定奉行に内田弥太郎の測量随行願書を提出したところ、翌日願書は差し戻しとなりました。
 同年1月9日鳥居耀蔵と江川英竜は視察先へ出発しました。江川英竜は内田弥太郎随行再願書を提出、勘定奉行はようやくこれを受理し、同月21日老中水野忠邦の名において許可されました。内田弥太郎は奥村喜三郎の同行を求め、江川英竜は増上寺と交渉、同月26日増上寺の承諾を得、江川英竜の雇手代という名目で測量に参加したのでした。ところが同年2月3日内田弥太郎・奥村喜三郎が安房国平郡本郷村で備場視察一行に合流、同月7日房州洲ノ崎に至ると鳥居耀蔵は奥村喜三郎を寺侍(江戸時代格式の高い寺に付属して事務をとった武士)が国家の御用に任ずる例なしと異議を唱えたため、江川英竜は奥村喜三郎を江戸に帰し、ここに鳥居耀蔵と江川英竜の対立が表面化しました。しかし両者はまもなく表面的には和解、同年3月15日坦庵は江戸に帰着しています(仲田正之「江川坦庵」吉川弘文館)。
 内田弥太郎の測量随行が難渋したことおよび奥村喜三郎に対する鳥居耀蔵のいやがらせも、鳥居耀蔵と江川英竜の対立というよりは渡辺崋山に対する鳥居耀蔵の敵意がこの問題の背景にあったと考えると納得できるように思われます。
 江川英竜は崋山の助言を求め、同年4月19日見分復命書を上申しました。仲田正之氏はこれが蛮社の獄の最大誘因になったと主張しています(仲田正之「前掲書」)。

杉浦明平「小説 渡辺崋山」を読む17

 1839(天保10)年4月19日鳥居耀蔵は配下の小人目付小笠原貢蔵・大橋元六に対し、老中水野忠邦の内命と偽り、イギリス人「モリソン」ならびに「夢物語」の著者についての探索を命じました(「小笠原貢蔵手控」高橋磌一「古文書への招待」高橋磌一著作集 別巻 あゆみ出版)。小笠原貢蔵らは同月29日鳥居耀蔵に探索報告書を提出、イギリス人「モリソン」の略歴を記し、「夢物語」の著者について高野長英が翻訳した蘭書に基づき渡辺崋山が執筆したものとし、その他鳥居耀蔵の命令にない僧侶順宣・順道父子らの無人島渡航計画者一味のことを記述しています。小笠原貢蔵はこの情報を元同僚であった花井虎一(蘭学者宇田川榕庵門下生 渡辺崋山宅に出入り)から得たもののようです。鳥居耀蔵が無人島渡航計画について小笠原貢蔵に命じた調査に対する報告書には渡辺崋山が無人島渡航計画に参加したことが記されています。
 鳥居耀蔵は小笠原貢蔵の調査報告書をもとに花井虎一の密訴によるものとして、次のような告発状を水野忠邦に上申しました(「鳥居耀蔵告発状」佐藤昌介「洋学史研究序説」岩波書店)。これはあまり客観性のない誇張と虚構を含んでいるものです。
@ 僧侶順宣・順道父子らの無人島渡航計画に田原藩士渡辺登(崋山)が関与した形跡がある。
A 崋山は蘭学を好み藩主(三宅友信の誤り)に蘭学を勧め、幡崎鼎・高野長英・小関三英らと外国事情を詮索し、当今の政事向を批判している。
B 崋山は順宣らとは別に無人島渡航を企て、漂流に名を借りて、ルソン・サンドウィッチ島からアメリカ辺まで赴こうとしている。
C 代官江川英竜らが崋山・長英に師事し、外国の事情を探索し、尊信している(以上「告発状」第1回)。
D 崋山が大塩平八郎と通信した形跡がある(「告発状」第2回)。

全国名前辞典―こ1−小関三英

京阪奈ぶらり歴史散歩―随時更新コンテンツー歴史人物辞典―おー大塩平八郎

杉浦明平「小説 渡辺崋山」を読む18

 鳥居耀蔵の告発状を受けて、水野忠邦は密かに腹心の部下に容疑者の再調査を命じ、江川英竜ら主要な幕臣の無実が明らかとなったので、江戸北町奉行大草安房守高好に、これら幕臣を除く容疑者の取調べを命令しました。
 1839(天保10)年5月14日渡辺崋山は北町奉行所に召喚され、奉行の取調べを受けた後、揚屋(あがりや 御目見以下直参・陪臣・僧侶などの入牢する所)入りとなり、僧侶順宣・順道父子らの無人島渡航計画者一味が投獄され、同月17日小関三英は自殺しました。高野長英は一旦逃亡しましたが同月18日北町奉行所に自首しました(高野長英「蛮社遭厄小記」)。
 崋山逮捕を知って彼の救済運動の中心となったのは崋山門人椿椿山(つばきちんざん)らです。崋山の恩師佐藤一斎は崋山救済を断った(椿椿山「麹町一件日録」鈴木清節編「前掲書」第1巻)のに対して、同じ崋山の恩師松崎慊堂は崋山救済に献身し、そのための上書(嘆願書)(鈴木清節編「前掲書」第1巻)を用人小田切要助(藤軒)宛に差し出し、嘆願書は同年7月29日忠邦に手渡されました。その後慊堂は首尾を聞くため要助宅を訪問しています(「慊堂日暦」5 天保十年八月五日条 東洋文庫377 平凡社)。
 崋山は奉行の取調べに告発状の内容について事実無根である旨弁明しましたが、同月22日に至り、崋山の幕政批判の証拠書類として、奉行所与力が崋山宅で押収した「慎機論」その他が提出され、これが崋山有罪の根拠となり、同年7月24日「崋山口書」に書判[かきはん 花押(かおう 自署の変化したもの)]させられました。同年12月19日付崋山は田原で蟄居(閉門による謹慎)[「申渡之書」(幕府の宣告)鈴木清節編「前掲書」第1巻]、高野長英は「戊戌夢物語」により永牢(終身禁錮)処分となりました(高野長英「蛮社遭厄小記」)。これまで老中首座の地位にあった松平乗寛が天保10年12月2日に死去したので、代わって老中首座に就任した水野忠邦(北島正元「水野忠邦」吉川弘文館)によってこの判決が下されたのです。北町奉行所の崋山斬罪の伺書が差し戻しになったところを見ると、この判決で水野忠邦ら幕府首脳が崋山に対して同情的であったことが判るでしょう。

別館 仁杉五郎左衛門研究―第11章 ゆかりの地―伝馬町牢屋敷


杉浦明平「小説 渡辺崋山」を読む19

 1839(天保10)年12月18日夕刻崋山は田原藩江戸藩邸に引き渡され、翌年1月13日田原に送還、同月20日田原に到着しました。
 田原藩では天保10年12月19日崋山に招聘された大蔵永常(「小説 渡辺崋山」を読む10参照)が辞職、同月24日には崋山の献策による格高制が廃止されました。
 1840(天保11)年2月16日崋山は大蔵永常の旧宅であった池の原産物屋敷で家族とともに蟄居生活に入ったのです。しかし藩政に関与しないことを条件に外部の人々との往来や文通は黙認されていたようです。
 崋山は経済的にも困窮し、生活費を得るために知人に頼んでひそかに作画を売りさばきました(天保11年5月8日付門人福田半香宛崋山書簡 小沢耕一「前掲書」)。ところが崋山は水野忠邦用人小田切要助が同年8月27日江戸を出立、学文所設立のため浜松(水野忠邦は浜松藩主)へ向かったとの情報を得、これは内々崋山の行状を探るための口実ではないかとの疑惑をもったようです(同年9月12日付福田半香宛書簡 小沢耕一「前掲書」)。
 もしも小田切要助が崋山の作画売却の事実を知れば、蟄居処分者にあるまじき行為として田原藩主の監督不行き届きの責任追及に発展するおそれがあります。
 崋山は「邯鄲(かんたん)の夢」の故事にもとづく「黄粱一炊図」を描き、5通の遺書(「日本思想大系」55所収)を残して、1841(天保12)年10月11日昔大蔵永常が使った砂糖製造小屋で自殺しました。「黄粱一炊図」は崋山のどのような心境を示したものといえるのでしょうか。

中国故事物語―故事リストーか行―邯鄲の夢

渡辺崋山・椿椿山が描く人物画―黄粱一炊図

崋山は椿椿山宛の遺書で「尊兄厚御交りに候とも、先々御忍可被下候。数年之後一変も仕候はゞ、可悲人も可有之や。極秘永訣如此候。」と述べていますが、「数年之後一変」とは何を意味しているのでしょうか。
 崋山の師松崎慊堂は崋山の死を知って、「三宅侯の医者鈴木春山来り、崋山の自尽を報ず。崋山は杞憂を以て、罪に罹り、また杞憂を以て死す。哀しい哉。」(「慊堂日暦」6 天保十二年十月二十七日条 東洋文庫420 平凡社)と記述しています。
 崋山の自殺は時代の先駆者の悲劇と言えるでしょう。

杉浦明平「小説 渡辺崋山」を読む20(最終回)

 この小説の終章は渡辺崋山自殺後崋山の霊が田原見物をするという人を食った記述です。1840(天保11)年田原藩主三宅康直の側室に男子が出生し屯(たむろ)と名づけられました。ところが康直夫人はすでに決定していた世子しん太郎を屯に替えるよう康直に強く働きかけたため、康直も彼女の意見に傾いていきました。崋山の親友であった真木定前はしばしば藩主に諫言して世子変更を思いとどまるよう具申しましたが、聞き入れられなかったので、彼は1844(弘化1)年9月帰国する藩主に従って東海道金谷で宿泊した時、諫言の遺書を残して自刃しました。藩主三宅康直はついに真木定前の死を賭した諌めを無視することができず、しん太郎の養嗣子を再確認せざるを得なかったのです(真木寛「真木定前墓誌」田原町史 中巻)。このしん太郎が1850(嘉永3)年に藩主となった三宅康保であります(「田原町史」中巻)。
 しかしそんなことは崋山の霊の関知するところではなく、死後百年ほど経過したころ崋山の霊は田原城下にただよい下りて崋山神社を見物、町役場で崋山先生歿後百年記念事業、崋山記念館建設委員会を傍聴、城宝寺の片隅の雑草の中におかれた石ころにの下にもぐりこむところで終了しています。

2009-03-10 13:23 | 記事へ | コメント(4) |
| 歴史小説・日本文化論と史実(近世篇23) |
2009年03月01日(日)
「小説 渡辺崋山」を読む1〜「小説 渡辺崋山」を読む」10
杉浦明平「小説 渡辺崋山」を読む1

 この小説は「朝日ジャーナル」に1968(昭和43)年1月から1970(昭和45)年10月まで連載され、連載終了後単行本として出版のため加筆された長編小説です。
 渡辺崋山は名を定静(さだやす)、字(あざな 学者・文人の実名以外の名)を子安、伯登、通称を登と言いました。号ははじめ華山、のち崋山と改めています。
 崋山は1793(寛政5)年9月16日田原藩邸(江戸城半蔵門外)内の長屋で誕生しました。彼は父田原藩江戸定府の家臣渡辺市郎兵衛定通(さだみち)の長男で、母は永井大和守の家臣河村彦左衛門の女です(「渡辺家略系図」・三宅友信「崋山先生略伝」鈴木清節編「崋山全集」第1巻・「渡辺家年譜」同全集 第2巻 田原町崋山会)。
 田原藩主三宅家の祖先は戦国時代に三河国梅坪(愛知県豊田市内)に居住する土豪で、1558(永禄1)年三宅政貞は嫡子惣右衛門とともに岡崎で徳川家康に仕え、惣右衛門は家康から諱(いみな 生前の名)の一字を与えられて康貞(三宅氏初代)と名乗りました。1604(慶長9)年には1万石を与えられて大名にとりたてられ、武蔵国瓶尻(みかしり 埼玉県熊谷市)から三河国挙母(ころも 愛知県豊田市)に移封、1664(寛文4)年5月康勝(4代)は同国渥美郡に転封、田原城を与えられました(「寛政重修諸家譜」巻第1003)。

ぶらり重兵衛の歴史探訪―重兵衛、登城す!ー愛知県 田原城―会ってみたいな、この人にー銅像との出会いーわー渡辺崋山

杉浦明平「小説 渡辺崋山」を読む2

愛知県田原市―田原市関連サイトー市の行政―田原市博物館―渡辺崋山

 田原藩は石高1万石余の小藩であったため、財政は窮乏していました。渡辺家は上流武家の階層に属しており、家禄は百石でしたが、1792(寛政4)年の減俸令により、実収は12石足らずで父定通は病身にもかかわらずあわせて11人の大家族であったため、崋山の兄弟の多くは幼少のうちに奉公や養子に出され、そのほとんどが貧窮のうちに死去しました。この様子を崋山は次のように述べています。
 「兄弟皆幼少にて、七人[未(いまだ)五郎生れ不申]ほどもこれあり、唯母之手一つにて老祖・病父・私共、その日を送候事故、(中略)貧窮は尤甚敷、筆紙に尽候処には無之、依之弟共は寺へ奉公に遣、(中略)其寒苦艱難之内、幼少の弟を私十四歳計(ばかり)時、板橋迄生別れに送り参り候時、雪はちらちらふり来、弟は八、九才にて、見もしらぬあら男に連れられ、跡を振向振向わかれ候事、于今目前に見え候如御坐候。」(「退役願書之稿」日本思想大系55 岩波書店)。

杉浦明平「小説 渡辺崋山」を読む3

 1804(文化1)年当時12歳の崋山が江戸日本橋付近を通行中備前侯(岡山藩主池田家)の先供に突き当たり、烈しく殴打されました。大名行列の主君は崋山と同年輩の少年(藩主池田斉政の世子新之丞か)であったので、「子供ながらも大息仕り候は、右備前侯、御年大体同年位にて、大衆を引、御横行被成候事、同じ人間にて天分とは申しながら、発憤に不堪、今より何也と志候はゞ、如何なる義にても出来可申」(「退役願書之稿」)と思って志を立てたと述べています。
 かくして崋山は同藩の祐筆高橋文平のすすめもあり、もともと好きだった絵画の道に入り、1809(文化6)年父の伝手で知った画家金子金陵の紹介で彼の師である文人画[中国で専門画家ではない士大夫(高級官僚)が描いた絵画をいう。江戸時代、はじめて文人画に注目したのは祇園南海ら武家知識人でついで与謝蕪村・池大雅らが著名、画風は俗塵から離れて芸に遊ぶ逃避的趣味の傾向がつよい]家谷文晁(たにぶんちょう)に入門しました(「退役願書之稿」)。

静岡県―教育・文化―文化・スポーツー文化政策室HP―静岡県立美術館―日本語―コレクションー主な収蔵品―谷文晁(富士山図屏風)

 崋山は23〜4歳ころには画壇において著名となりましたが、当時の彼の日記によれば、1815(文化12)年頭から画作、2月1日には早朝から午前中画作、昼出勤、午後古画模写、注文画描写、読書、知人宅訪問と多忙な1日を過ごしています。また1月16日以来「合歓図」(春画)を余暇に描いているのは家計を助ける内職のためでしょう。さらに病臥の記事も見られ、過労によるものではないかと推察されます(「寓画堂日記」小沢耕一・芳賀登監修「渡辺崋山集」第1巻 日本図書センター)。
 生活に余裕のある武家知識人らが俗塵を離れて芸術に酔う、趣味としての文人画の境地は生活に追われる崋山に違和感をもたらしていたのではないでしょうか。

杉浦明平「小説 渡辺崋山」を読む4

1809(文化6)年田原藩主三宅康友が死去し、12歳の世子康和が後継者となりましたが、田原藩はひきつづき財政難で将軍への御目見や元服の儀式を行う余裕がなく1815(文化12)年にやっと上記儀式を済ませることが出来たという有様でした(「田原町史」中巻 田原町教育委員会)。1819(文政2)年藩は家中の俸禄を全額借り上げ、別に低額の扶持米を支給することにしました。この結果藩士の中には険悪の空気が高まり翌年以降物頭が家中を代表して手当金を要求する強訴が連年発生するに至りました。
1818(文政1)年には崋山の父渡辺定通が年寄役末席として藩政に参与することになり、このことが崋山の藩政に対する関心を高める契機となったのでしょうか、彼は文政年間のはじめ同志を募って藩政革新運動を起こしました(「退役願書之稿」)。
 すでに崋山は1811(文化8)年ころ佐藤一斎に入門していますが、崋山の藩政革新運動とは学問の振興による風紀の刷新を目標とするという抽象的な目的を掲げただけで、結局失敗に終わりました。崋山は藩政に失望し、一時は脱藩して長崎に出奔を企てましたが、これも果たせず、ますます画業に専念するようになっていきました。

山田方谷マニアックスー方谷研究―幕末辞典―さー佐藤一斎

杉浦明平「小説 渡辺崋山」を読む5

 皮肉にも崋山の藩政革新運動の失敗が画業において新境地を開くきっかけとなったようです。例えば1818(文政1)年作の風俗画集「一掃百態」は江戸市井の風俗を描写したもので、文人画を越えた新境地を開こうとする崋山初期の傑作と評価されています。

厚木市―まなぶ・遊ぶー文化財・歴史―郷土資料館・みる―歴史 厚木の原像―こころの風景―2 厚木を描いた渡辺崋山 

 さらに1822(文政5)年ころ外来の銅版画や洋書の挿絵を通じて遠近法や陰影法を学び、「鷹見泉石像」などの優れた肖像画を描いています。

東京国立博物館―名品ギャラリーー名品ギャラリー検索―作品・文化財の名称―鷹見泉石像

 1823(文政6)年崋山は31歳で同藩士和田伝の娘たか(17歳)と結婚しました(「田原町史」中巻)。翌年父定通が死去しました。彼は家督をついで禄80石を賜りましたが、引米制度により実収は10石余に過ぎず、相変わらず内職としての画作にはげまねばなりませんでした。彼は洋画のみならず明清画からさらにさかのぼって宋元画も学び、画家としての教養のために佐藤一斎や松崎慊堂[こうどう 崋山1824(文政7)年ころに入門 山田琢訳注「慊堂日暦」1 文政七年十二月十一日条 東洋文庫169 平凡社]に師事して儒学(朱子学)を学んでいます。
この小説は渡辺崋山の師であった松崎慊堂の紹介から始まります。

全国名前辞典―さ2―佐藤一斎―ま2―松崎慊堂

天来書院―書道ブログー臨書に挑戦(田村南海子)―ブログ内検索―松崎慊堂の墓碑

杉浦明平「小説 渡辺崋山」を読む6

 1827(文政10)年7月10日田原藩主三宅康明は28歳で病死しました。康明には嗣子がいなかったので、藩重臣たちは康明の死を秘密とし養子を迎える件で協議しました。康明には22歳の異母弟友信(鋼蔵)がいました。しかし藩首脳部は破綻寸前の藩財政を立て直すために持参金付き養子を迎えようとし、候補者として15万石の姫路藩主酒井忠実の六男稲若に白羽の矢がたてられたのです。当時姫路藩は名家老河合隼之助道臣が木綿専売政策を中心とする施策で成功し富裕で知られていました。
 一方父定通と同じく藩主側近として出仕していた崋山は三宅家の血統が絶えるとして酒井家から養子を迎えることに反対、康明異母弟友信の擁立を主張して藩首脳部と対立しました。しかし崋山の主張は藩財政窮迫解決に無力でしたから藩の大勢から孤立しました。
 藩首脳部は友信と崋山らを田原に招き、その間に江戸で同年10月15日姫路藩主と稲若を三宅家養子に迎える内約成立、同月23日康明重病による養子願を幕府に提出、即刻許可されたので、同日夜康明の喪が発表されました。稲若は17歳で田原藩主となり三宅康直を名乗るようになったのです(「田原町史」中巻)。

歴史の勉強―武家大名録―三宅氏


杉浦明平「小説 渡辺崋山」を読む7

 友信は田原城内藤田丸に、崋山らも藩校成章館に軟禁され、崋山が江戸に帰ることを許可されたのは同年11月11日のことでした。

江戸時代の田原―田原藩藩校 成章館について 

 友信擁立に失敗した崋山は一時自暴自棄状態となったようですが、藩主三宅家に三宅氏の血統を残そうとする意思を放棄したわけではありませんでした。
 藩重臣たちは友信に前藩主の待遇を与えて巣鴨の別邸を設け、崋山を友信の側用人に起用したので、崋山は友信の侍妾の選択にあたり(「全楽堂日録」文政13年10月27日条小沢耕一・芳賀登監修「渡辺崋山集」第1巻 日本図書センター)、友信の子を藩主の後継者に指名させる復統運動を企てました(小沢耕一編「崋山書簡集」天保元年12月24日付真木定前宛 国書刊行会)。
1831(天保2)年侍妾に男子しん(人偏に口)太郎が誕生しました。翌年三宅康直夫人が女子_子を生んだので、崋山は康直にすすめて_子にしん太郎をめあわせ、養嗣子とすることに成功しました(小沢耕一編「崋山書簡集」天保3年3月26日付真木定前宛 国書刊行会)。

杉浦明平「小説 渡辺崋山」を読む8

 1830(文政13)年田原藩主は幕府より新たに日光祭礼奉行を命ぜられました。日光祭礼奉行は譜代大名の公役の一つで、毎年4月17日(「徳川家康」を読む27参照)の日光祭礼に小身の大名が将軍の代参を勤める役目です。この役目には役料はなく、にもかかわらず、鎧武者百人、長柄百本を自己負担で用意しなければなりませんでした。

閑話抄―歳時記―夏―宗教―日光祭mail address lereve@big.or.jp 文責 たいら

 これによって財政窮乏に苦しむ田原藩は日光祭礼奉行の費用捻出に困り、姫路藩家老河合隼之助に相談、河合の口利きで半金を高利貸から調達できたのですが、残りの半金は藩内で負担することになり、藩重臣たちは藩主臨席の会議を同年4月2日より8日間昼夜にわたって開催、ようやく支出のやりくりのめどをつけ(「全楽堂日録」文政13年4月13日条 小沢耕一・芳賀登監修「前掲書」)、無事日光祭礼奉行の役目を果たすことができたのでした。しかしこの出費を賄うために、藩は同年から3年間異例の引米と倹約を実施したのにもかかわらず、1832(天保3)年5月藩財政はすでに千両の不足が生じ、財政責任者は病と称して出仕を拒むに至りました。
 かくして藩財政再建のための新しい展望をもたず、他藩からの持参金付き藩主養子を迎えることや引米による支出倹約に頼ることしか知らない藩重臣は同年5月12日渡辺崋山を年寄役末席に起用し、藩財政の立て直しを期待したのでした(「全楽堂日録」)。

杉浦明平「小説 渡辺崋山」を読む9

 1832(天保3)5月藩財政に千両の不足が生じた原因の一つは藩主康直の贅沢による出費にもありました。三宅康直はいわゆる苦労知らずのお坊ちゃん育ちで、千両の不足は在国中の康直が分不相応の普請や奢りをしたことによる(「全楽堂日録」天保3年8月3日条)ものです。
 さらに1833(天保4)年正月22日崋山は在国の康直の召しだしによって田原に赴き、2月15日康直は崋山に奏者番(年始などで大名・旗本が将軍に謁見する際、姓名の奏上、進物の披露や将軍からの下賜品の伝達にあたる役職)になりたい希望をうちあけました。奏者番は大名が幕政に参与する登竜門でしたが、多額の運動費を必要とする実情があり、崋山が諌めてあきらめさせると、康直好みの女の姿絵を家臣に持たせて名古屋で探させるなどの愚行をあえてし、家臣を困らせる有様でした(「全楽堂日録」天保4年2月19日条)。

歴史の勉強―大名騒動録―田原藩の騒動

杉浦明平「小説 渡辺崋山」を読む10
 
崋山を中心として行われた藩政改革は第一に人材登用で、そのための給与体系として1833(天保4)年12月19日藩主の名で格高制を布達し、翌年から5年間実験的に実施されることとなりました。格高制とは従来の家格に応ずる家禄制と対称的に、職務を等級別に分類して年寄役を最高の格とし、以下用人・側用人・御者奉行・御取次と順に120石・80石・70石・60石・48石と俸禄を下げ、最低の足軽・坊主の16俵・13.2俵の俸禄に至る給与体系で、これによって従来の家禄を下回るものには、減俸された分の十分の一ないし二十分の一を下付することにします(「御家中格高御法立」佐藤昌介「洋学史研究序説」岩波書店)。
 しかしこの格高制は同年奥州を中心として起こった天保の飢饉が翌年田原藩に波及したこと及び藩内保守派の反感を受けてかならずしも確実に実行できたわけではありませんでした。このため崋山は辞職を願い出たほどですが(「退役願書之稿」)、許可されませんでした。
 改革の第二は殖産興業政策の採用で、1834(天保5)年9月、崋山は農学者大蔵永常を田原に招聘、換金作物の栽培とこれに伴う加工業を起こそうとしました。

ヴァーチャル日田市―先哲―歴史上の人物―大蔵永常

 大蔵永常は換金作物として甘蔗の栽培を伝授し同時に砂糖の製法を指導、その他櫨(はぜ)・楮(こうぞ)の栽培と蝋絞り、製紙法の移植も行っています(「田原町史」中巻)。
2009-03-01 13:06 | 記事へ | コメント(2) |
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2009年01月10日(土)
「間宮林蔵」を読む11〜「間宮林蔵」を読む20
吉村昭「間宮林蔵」を読む11

 「そのうちに一人新顔がやってきた。それは日本の首府から派遣されて来た、間宮林蔵という測量天文家であった。(中略)彼はそのために(ロシアの天文測量法を学ぶために)自分の器具類をわれわれのところへ持ってきた(中略)。
  彼は毎日通ってきて、殆んど朝から晩まで詰めきりで、自分の旅行の話をしたり、彼が描いて来た各地の要図や風景などを見せてくれた(中略)。かれの虚栄心は大したもので、絶えず自分の壮挙や、その間になめた苦労を物語り、その最上の証明として旅行中に炊事用に使った鍋を持ってきては、獄舎の炉で何や彼や煮炊きして、自分でも食べ、われわれにも御馳走してくれた。
  間宮林蔵は、太陽の高さで、土地の緯度を発見する方法は会得していた。そして太陽と月または星との距離によって、経度をも探知出来ると聞いて来て、どうしたらよいか教えてくれと云った、しかしそれは手のつけやうのないことであった。われわれの手許には必要な表もなく、天文カレンダーもなく、そのうへ係りの通詞たちと来たら、どんな簡単なことでも、ロシア語の理解力がないのであった。こちらでそれをことわると、この日本人は非常に不機嫌になって、次のように威嚇までした。『近いうちに江戸から蘭語通詞と学者が当地に派遣されて、学術関係の事項について説明を求める筈だが、その時は文句も云わせず、否応なしに返事させますぞ。』このニュースは余り気持のよいものではなかった。ムール君(ゴロヴニンとともに捕らえられたロシア海軍士官)は進んでその仕事を引き受けた(中略)。
  この学者はわれわれの大敵となったが、時にはいろいろな問題について仲よく話をすることもあった。間宮林蔵は、『日本側としてはロシアの対日敵意を疑ふべき確たる理由を持ってゐる。また欧洲各宮廷の陰謀を伝えたオランダ人の言は本当です』と断言した。
 しかし(村上)貞助はそうは思わないで、次のように考えてゐた。『オランダ人は腹に一物あって、露英両国に対する猜疑心を、日本政府に吹き込んだのですよ。』」(ゴロヴニン「日本幽囚記」上 岩波文庫) 

吉村昭「間宮林蔵」を読む12

 ロシア軍艦ディアナ号副長リコルドは艦長ゴロヴニンらがクナシリ島で拘束された後、一旦オホーツクに帰港、イルクーツク民政長官の尽力により、勅令でリコルドはオホーツクに帰還し、ディアナ号を指揮してやりかけの測量を続行するとともに併せて日本側に捕縛された同胞の運命を調査するためクナシリ島へ寄港するよう命令されました。リコルドは1812(文化9)年8月14日に高田屋嘉兵衛(須藤隆仙「高田屋嘉兵衛」国書刊行会)をクナシリ沖で日本側のゴロヴニン拘束の報復として捕え、彼からゴロヴニンらが松前で生存していることを知り、嘉兵衛の身の上と日本政府の意向を聞きだすために、彼の同意を得て嘉兵衛をカムチャッカに連行しました。リコルドは翌年5月26日高田屋嘉兵衛を伴いクナシリ島に来航、ゴロヴニン釈放の交渉を始めました。幕府もロシア海軍の樺太・エトロフ攻撃はロシア政府の関知しない出来事であるとのロシア政府の証明書を提出させることを条件にゴローニンを釈放する方針を決定しました。かくしてディアナ号はオホーツクに帰港、リコルドはオホーツク港務長官から日本政府の要求する証明書とイルクーツク民政長官から松前奉行宛の親交状を受け取り、第3回目の日本航海で箱館において1813(文化10)年9月26日ゴロヴニンらのに引き渡しをうけ(「通航一覧」第八 巻314 国書刊行会)、日露関係の緊張はこれによって解消されました(リコルド手記「日本沿岸航海および対日折衝記」ゴロヴニン「日本幽囚記」下 岩波文庫 収録)。

高田屋嘉兵衛公園―学ぶー菜の花ホールー高田屋嘉兵衛顕彰館TOP―嘉兵衛物語

 かくして1821(文政4)年12月7日幕府は東西蝦夷地を松前藩に還付(「通航一覧」第八 附録巻5)、翌年松前奉行廃止「通航一覧」第八 附録巻8)、その結果間宮林蔵は蝦夷地から江戸に帰り、普請役として勘定奉行の支配下に入りました。

吉村昭「間宮林蔵」を読む13

 間宮林蔵が幕府天文方高橋景保に呈出した樺太図はおそらく彼が踏破した西海岸が実線化され、北端から東海岸を南下して北知床岬に至る海岸線は未踏破のため、点線として残されていたと思われます(洞富雄「前掲書」)。
 1807(文化4)年幕府から万国地図の作成を命ぜられていた高橋景保はこの点線の海岸線を実線化するための資料を必要としていたのですが、これを提供してくれたのが、1823(文政6)年オランダ商館医師として長崎出島に赴任してきたドイツ人シーボルトでした。

ぶらり重兵衛の歴史探訪―会ってみたいな、この人にー銅像との出会いーしーシーボルト

 1826(文政9)年オランダ商館長は江戸で将軍家斉に謁見しましたが、このときシーボルトもオランダ商館長に随行して江戸にやってきていました。高橋景保はしばしばシーボルトに面会して相互に知識交流を行っていたのですが、このときシーボルトがクルウゼンシュテルン著「世界周航記」(「間宮林蔵」を読む5参照)を所持していることを知りました(呉秀三「シーボルト先生」1 東洋文庫103 平凡社)。この著作は間宮林蔵の樺太探検でも未知の同島東海岸の様子を観察記録した貴重な航海記で、これによって高橋景保は間宮林蔵提出の樺太図を完成できるのです。

吉村昭「間宮林蔵」を読む14

 高橋景保は日本地図を外国人に譲渡することが国禁の罪になることをよく知っていた筈ですが、シーボルトに請われて伊能忠敬「大日本沿海輿地全図」[伊能忠敬の没後高橋景保によって1821(文政4)年完成。その蝦夷地方図は大半間宮林蔵の資料による。](蝦夷地を欠く)および蝦夷地方図に南千島と樺太を加記した蝦夷図の写しを贈る約束をし、シーボルトからクルウゼンシュテルン著「世界周航記」の外、蘭領東インドの地図ならびに某氏地理書の譲与を受けました(呉秀三「前掲書」平凡社)。
 1828(文政11)年3月28日高橋景保に対して、同年正月11日長崎からシーボルトの送った1個の荷物が到着し、その中に間宮林蔵宛の小包がありました。間宮林蔵はこれを景保から受け取ると、外国人に関する事柄なので小包を開かず、所属の勘定奉行村垣淡路守定行へ届け出ました。小包には進物としての織物と蘭文の書簡が入っており、書簡の内容は林蔵の北辺探検を称賛し、蝦夷産草木押し葉の譲渡を依頼するものでした。このことから高橋景保が外国人とひそかに連絡していることが明らかとなり、幕府目付は景保の身辺内偵を開始しました(呉秀三「前掲書」平凡社)。
 同年8月10日大規模な台風が九州に襲来しましたが、このとき長崎に入港していたオランダ船コルネリウス・ハウトマン号が破損しました。この船舶にはシーボルトがジャワへ帰るために、日本で蒐集した資料の一部を89個の箱にまとめてすでに積み込まれていました。幕府の法度で外国船が入港する場合積荷を検査することになっていましたが、この難破したオランダ船を入港船として取り扱うことにした長崎奉行はその積荷を検査し、その中から海外持ち出し禁止の品物が続々と発見されるに至りました(呉秀三「前掲書」平凡社)。

長崎遊楽―出島―GO 本体目次―オランダ船の入港から出港まで


吉村昭「間宮林蔵」を読む15

 本書によれば、オランダ船の積荷の中には日本とその周辺の地図類も含まれていたとありますが、洞富雄前掲書によれば、地図などは入っていなかったとあり、叙述に食い違いがあります。
 1828(文政11)年10月10日幕府はシーボルトに制禁の日本地図を渡した高橋景保を逮捕、ひきつづき関係者数十人が投獄されました。シーボルトも長崎で厳重な取調べをうけ、地図その他の重要資料を没収されました。
 高橋景保は1829(文政12)年2月16日に獄死、重罪人として死体は塩漬けにされ判決を待ちました。シーボルトは同年9月25日国外退去を命ぜられ、再入国禁止となりました。
しかしシーボルトは長崎奉行所に地図を引き渡すまでの数日間を利用して地図の模写を行い、これをオランダへ持ち帰ることに成功したのです(呉秀三「前掲書」平凡社)。

シーボルトの生涯

吉村昭「間宮林蔵」を読む16

 シーボルト事件関係者の処分決定後、間宮林蔵は勘定奉行村垣淡路守に長崎へ隠密として赴くよう命令を受け、オランダ商館をめぐる実情調査に従事、それにより失脚した者もありました[フィッセル(長崎出島オランダ商館員)「日本風俗備考」1概観的序論3 東洋文庫326 平凡社]。そのためか、蘭学者小関三英は郷里鶴岡の兄仁一郎に林蔵を「高橋作左衛門(景保)殿を訴へ候も右間宮氏にてござ候」と非難し、林蔵が年々日本国海辺をかくし目付けになって巡回していると記述した書簡[1835(天保6)年6月26日付 半谷二郎「小関三英」旺史社 引用]を送っていますが、林蔵の上司であった川路聖謨(かわじとしあきら)や徳川斉昭など彼に目をかけた人物がいたこともわすれてはならないことでしょう。

宝蔵院流槍術―宝蔵院流人物伝―川路聖謨

 1835(天保6)年11月勘定吟味役となった川路聖謨は間宮林蔵の上司として天保9年11月まで在職した人物ですが、彼は「先見の明らかなるものは、始に気違ひの如くみゆるものなり。間宮林蔵がいひしことなど、実に思ひあたるなり。」(川路寛堂「川路聖謨之生涯」吉川弘文館)と述べています。

吉村昭「間宮林蔵」を読む17

また水戸藩主徳川斉昭は北辺問題に深い関心を持ち、1834(天保5)年10月から度々幕府に蝦夷地の開拓の請願書を提出しました。このような事情から北方問題の権威と目されていた間宮林蔵が斉昭の注目するところとなった理由でしょう。
林蔵が水戸藩に出入りするようになったのは天保5〜6年ころで斉昭と林蔵との連絡にはいつも藤田東湖が当っていたようです。1838(天保9)年12月29日斉昭は東湖に、林蔵は湿瘡(伝染性の皮膚病 吉村昭氏は梅毒性の疾患と説明)にかかっているそうだが、湿毒に効く蘭方薬と秘法の神仙丸を与えて林蔵を慰めるよう命じ、全快後直接林蔵に会って北方の事情を聞きたいので先方と都合を打ち合わせよと指示しています(「水戸藩史料」別記上 吉川弘文館)。

写真で見る「水戸案内」―藤田東湖生誕の地

吉村昭「間宮林蔵」を読む18

既述の長崎への隠密行についで有名なのは間宮林蔵の薩摩藩探索です。「(林蔵は)彼の城下なる経師の弟子となりて、粗(あらあら)その国の虚実を窺ふことを得たり。たまたま城内に張付の修理ありければ彼経師に従て入込み、因て城内を一覧して帰れリ。後に藩侯在府の折に、幕府の有司某をその邸に招くことありしに、城内の形状まで詳にこれを知りて語りければ、その故を問はれしに、某笑て、帰藩の折に城内某辺なる紙障(ふすま)を剥て、其下を見給へというにより、侯、後に其言の如くすれば、下張の内に、往々名刺一葉を挿みて、大府(幕府)探偵間宮某とありしに、一藩その探偵の妙に驚きしとなり。」[小宮山綏介(南梁)第拾編 間宮林蔵の探偵「徳川太平記」 博文館 洞富雄「前掲書」引用]とありますが、面白く誇張されているように思われ、そのまま事実であったとは思われない所もあります。
 また「天保中、石州浜田の廻船問屋八右衛門といふもの、漁猟に事寄せ、松原浦の沖なる竹島に押渡り、外国人と密商せしこと、粗その風聞ありといへども、未だ其証跡を得ず。因て林蔵を遣て、これを探らしめしに、林蔵垢面敝衣し乞丐(きつかい乞食)の姿となりて、浜田に入込、やがて其確証を得て帰り報ぜしかば、幕府因て手を下し、云々。」(小宮山綏介「前掲書」洞富雄「前掲書」吉川弘文館 引用)という記録もあります。

Bibliographical Database of keio Economists―人物検索―小宮山綏介

吉村昭「間宮林蔵」を読む19

 晩年の間宮林蔵の生活は簡素なものだったようで、着替えは一揃いしかなく、留守がちで一人の雇い婆が留守をしていた(松浦静山「甲子夜話」続編5 巻之56―七 間宮林蔵 東洋文庫381 平凡社)ということです。彼が夏には多く裸足で歩いているのを見て、川路聖謨が「先生いかなればかくはし給ふぞ」と聞くと、「足のうら柔(やわ)に成とこまることある」と答えたそうです(「寧府紀事」弘化3年5月14日条「川路聖謨文書」二 日本史籍協会叢書 東大出版会)しかし貧窮であったのではなく、趣味としては多くの甲冑を蒐集していたようで[天保6年6月4日付小宮山楓軒宛友部好正書簡(「楓軒年録」)洞富雄「前掲書」]、余裕ある生活をしていたことがうかがえます。

茨城県ー茨城の先人たちー50音で検索―こー小宮山楓軒

  林蔵は終生結婚せず、従って妻子はいなかったようです。常陸の林蔵生家では林蔵生前に叔父治助の二男鉄三郎が相続人と定められていました。1844(天保15・弘化1)2月危篤となったとき、内妻りきは林蔵の郷里の親戚に手紙で知らせています。この手紙は保存されていて、その全文は次のようなものです(洞富雄「前掲書」引用)。
急ぎ候間、仁儀(義)は真平御免被下候。然ば林蔵儀今日七ッ半頃ヨリふと打ふし、持用ならず候ニ付、色々手当テいたし候得共、宜敷方も相見へず誠に困入候間、何卒この状参リ次第ニ、此者同道ニて御出被下度、偏ニ奉持(待)入候。尤いし(医師)事申候ニハ、
余病出不申候ハヾくわ(火)急の事も無御座候得共、御大切儀ニ候間御手当テ大(第)一と申事ニ候ハヾ、くれぐれ御談事申度斗(ばか)リ山々御座候間、御出之程偏ニ偏ニ御まち申上まいらせ候。余は御出の上ニて万々申上度、先は右之段斗リ如此ニ御座候。あらあらかきとめまいらせ候。
猶またくわ敷事は此者ヨリ御聞取可被下候事
   二月十九日暮六ツ時認メ
                   間宮内
                     利き
 飯沼甚兵衛様
     大急用 
誤字もあり、たどたどしい文章を書いた内妻りきとはどのような女性だったのか不明です(吉村昭氏はりきが伊能忠敬の家に奉公していた女性という谷沢尚一説を採用)。

間宮林蔵の世界へようこそ(間宮正孝)―間宮林蔵記念館―ギャラリー所蔵品紹介コーナーーりきよりの手紙

同年2月26日間宮林蔵は死去しました(「本立院墓碑」)。林蔵死後、勘定奉行は翌年3月、林蔵の死を秘して跡目相続伺を老中に呈出、許可されたので浅草蔵前の札差青柳家次男鉄次郎が林蔵の跡を相続し、間宮孝順と名乗って普請役に任ぜられました(洞富雄「前掲書」)。

吉村昭「間宮林蔵」を読む20(最終回)

 シーボルトの大著「Nippon(日本)」(雄松堂書店)は1832(天保3)年に刊行が開始されました。シーボルトは間宮林蔵を「彼はわれわれの日本滞在の最後のーあの不幸な年に起こった、日本政府側からわれわれに対する審問の契機を作った人物ではある。」(シーボルト「日本」第一巻 第一編第五章 雄松堂書店)と述べ、シーボルト事件の告発者として反感をもっていましたが、林蔵の間宮海峡(MAMIYA NO SETO)(「日本」図録 第一巻 付図 雄松堂書店)発見を学問上の大功績としてこの著作で讃え、シーボルトが持ち出した日本の原地図をクルウゼンシュテルンに見せたとき、彼が「これは日本人の勝ちだ!」と叫んだことを記述しています(「日本」第一巻 第一編第五章)。

放送大学附属図書館―ギャラリー 西洋の日本観―42 シーボルト「日本」1832

 間宮林蔵の間宮海峡発見を世界に紹介したシーボルトの著作「日本」はあまり多くの人々には知られず、以後も世界ではやはり樺太半島説が支配的でした。
 1849((嘉永2)年東部シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフはニコライ1世の許可をうけてゲンナジー・ネヴェリスコイ大佐を長とする遠征隊を編成、同遠征隊は樺太北部からアムール河口に到達、さらに船を南下させて同年8月3日樺太と東韃靼との間に幅7kmの海峡を発見しました。ロシアはネヴェリスコイ大佐が世界ではじめてこの海峡を発見したものと誤認し、アムール河の戦略的重要性から海峡発見を機密事項として他国にもれぬようにしました。
 ロシアとトルコの間に起こったクリミア戦争(1853−1856)においてイギリス・フランスはトルコに味方してロシアに宣戦布告しました。1855年5月J・G・B・エリオット指揮のイギリス艦隊は間宮海峡の南にあるデ・カストリー湾にいるロシア艦隊を発見、
ロシア艦隊はこれに気付いて北方に逃亡しました。エリオットは樺太半島説を信じていたのでロシア艦隊を半島奥の湾に追い込んだものと思い、数週間にわたってロシア艦隊を探し回ったのですが、ついにロシア艦隊は間宮海峡を北上してアムール河口から河を遡上して逃げたことが明らかとなり、ここに樺太半島説は誤りであることがイギリスをはじめとする世界各国に知れ渡りました。
  1881(明治14)年に刊行されたフランス地理学者エリゼ・ルクリュの「万国地誌」第6巻「アジア・ロシア」においてシーボルトの命名によるMAMIYA NO SETO(間宮海峡)の名称が確立、これによって世界地図の地名に日本人として唯一人間宮林蔵の名が不動のものとして記述されることとなったのです(洞富雄「前掲書」)。
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2009年01月01日(木)
「間宮林蔵」を読む1〜「間宮林蔵」を読む10
吉村昭「間宮林蔵」を読む1

 吉村昭「間宮林蔵」(講談社)は1981(昭和56)年11月1日より1982(昭和57)年6月13日まで北海道新聞・西日本新聞・中部日本新聞・東京新聞に連載された興味深い小説です。
 間宮林蔵は常陸国筑波郡上平柳村(茨城県つくばみらい市)で出生しました。そこは下総国との境となっている小貝川畔の地域です。生年については1775(安永4)年説[「仰普請役間宮林蔵ニ付仰御内意奉伺候書付」(老中宛間宮林蔵跡目相続に関する勘定奉行連名の伺書)地学雑誌 第16年第189号 東京地学協会 洞富雄「間宮林蔵」吉川弘文館 引用]と1780(安永9)年説(「妹尾万寿吉筆記」中山信名「新編常陸国誌」下巻 第10巻 間宮倫宗 積善堂)があります。親代々の百姓でしたが、祖先は武士だといわれ、古くから間宮姓を私称していました。

NHKオンラインードキュメンタリー/教養―検索ーその時 歴史が動いたーバックナンバーー2008年6月分詳細へ―6月11日第328回北方探検 異境の大地を踏破せよー番組の内容についてー間宮の蝦夷地での働きぶりを示す幕府の記録について

つくばみらい市―サイトマップー施設連絡先ー間宮林蔵記念館

 林蔵は少年のころから計数の才を示し隣村岡の土木工事における幕府普請掛を驚かせたと伝えられています(「飯島省三郎筆記」中山信名「新編常陸国誌」下巻 同上)。いつの頃か不明ですが林蔵は江戸へ出て村上島之允の指導をうけ地理学を学んだといわれ(間宮林蔵略伝 満鉄大連図書館編纂「東韃紀行」満鉄総裁室庶務課発行 国立国会図書館所蔵 洞富雄「前掲書」引用)、1799(寛政11)年ころ村上島之允に従い蝦夷地松前に渡りました。この年幕府はロシア人の千島列島南下の脅威に対抗して東蝦夷地を松前藩より収公して直轄地としました(「通航一覧」第八 附録巻5 国書刊行会)。

おもしろ地図と測量―おとなのはなしー地図測量の200―地図測量の200史跡―東京地方の地図測量史跡―村上島之允の墓

 1800(寛政12)年8月林蔵は蝦夷地御用掛雇となりましたが、このころ林蔵は蝦夷地測量の目的で渡海してきた伊能忠敬に出会って親密な師弟関係を結びました(伊能忠敬「間宮倫宗に贈れる序」大谷亮吉「伊能忠敬」岩波書店)。

伊能忠敬記念館―忠敬の生涯

やがて1806(文化3)年ころエトロフ島に渡り、測量ならびに新道開鑿に当っていたようです。

吉村昭「間宮林蔵」を読む2

 1804(文化1)年9月6日ロシアの遣日使節ニコライ・レザノフ(1798年設立の国策会社「露米会社」総支配人)はロシア皇帝アレクサンドル1世の国書をもって、長崎入港許可の信牌を携え、艦長クルウゼンシュテルン大佐の指揮する軍艦ナデジュダ号に乗り長崎に来航、漂流民若宮丸乗組員4名を送還するとともに、日本との貿易許可を求めました。長崎奉行はこれを江戸に急報しましたが、ロシア軍艦の武器・弾薬を取り上げ、物品の購入や乗組員の上陸を許可しなかったのです。やがてレザノフに病気療養の名目で上陸を許可しましたが、居室の周囲を竹矢来で囲み、幽閉同様の扱いでした(「通航一覧」第七 巻275・レザーノフ「日本滞在日記」岩波文庫)。
 翌年3月江戸から派遣された目付遠山景晋はレザノフに対して貿易不許可を回答し、ただちに長崎を退去するよう申し渡しました。レザノフは幕府の無礼な扱いに悲憤しつつ帰国の途につきました。彼に同行したナデジュダ号艦長クルウゼンシュテルンは長崎について「長崎の防備力はヨオロッパの最も貧鄙なる漁村に異らない」と述べ、樺太南部における日本施設についても「占領そのものに関していへば、之は些少の危険もなく行はれることが出来る」(クルウゼンシュテルン「日本紀行」異国叢書 雄松堂書店)といっています。ナデジュダ号は樺太東海岸北上を試みましたが、氷海に阻まれて断念し、一旦カムチャッカ半島のペトロパウロフスクに帰港、レザノフはここで上陸しました。

月刊デラシネ通信―ライブラリーー漂流民―善六―レザーノフーレザーノフの画廊―レザーノフ来航絵巻

吉村昭「間宮林蔵」を読む3

 レザノフはおそらく自らの観察及び上記のようなクルーゼンシュテルンの指摘にもとづき、日本との貿易開国を実現させるために、日本を武力で威嚇することを決心しました。

カムイミンタラー北海道・樺太・千島―択捉島

彼はこの方針をロシア皇帝に上奏し、1806(文化3)年8月8日フヴォストフ大尉に樺太・エトロフ(択捉)島襲撃命令を出しました。同年9月10日フヴォストフ大尉指揮のロシア艦「ユノナ」号は樺太の久春古丹(アニワ湾内の大泊)に上陸、松前藩の番所を襲撃、番人を連れ去りました。しかし皇帝から日本襲撃の許可を受けていなかったレザノフは迷いがあったようで、同年9月24日エトロフ襲撃命令を撤回しました。フヴォストフらは不審に思ったようですが、結果としてこの撤回命令を無視、1807(文化4)年4月ユノナ号(艦長フヴォストフ)・アヴォス号(艦長ダヴィドフ)は千島列島のエトロフ島に来襲、ナイボ(内甫)の番屋や蔵を焼き払い5人の日本人を捕らえ、ついでシャナ(沙那)の幕府会所を襲撃しました。しかしレザノフは1807(文化4)年3月1日すでにシベリアのクラスノヤルスクで死去していました(レザーノフ「日本滞在日記」解説 岩波文庫)。幕府は1807(文化4)年3月ロシアの脅威に対して西蝦夷地とも東蝦夷地と同じく直轄地とすることを決定しました(「通航一覧」第八 附録巻5)。 

吉村昭「間宮林蔵」を読む4

 この小説は1807(文化4)年4月29日ロシア船が千島エトロフ島シャナ会所を襲撃した状況の記述からはじまります。このときエトロフに配備されていた津軽・南部両藩の守備兵はなすところなく退却したのですが、このときエトロフにいた間宮林蔵はひとり戦うことを主張し、そのことを証明する証文を書くよう要求したといわれます。

北海道大学附属図書館―コレクション紹介―北方資料データベースーホー北地日記―全文を見るーp24

(久保田見達「北地日記」北方史史料集成 第5巻 北海道出版企画センター)

 こうして北辺の軍事的緊張に衝撃をうけた幕府は北辺防備強化の必要にせまられ、同年12月4日幕府天文方高橋景保は林大学頭から万国地図の作成を命ぜられました(上原 久「高橋景保の研究」講談社)。

子どものページ(国土地理院HP)ー測量・地図ミニ人物伝―高橋景保と渋川景佑

景保が世界地図を作成するにあたって困難であったのは樺太北部の地理が不明確であったことにありました。それにはどうしても樺太全島の沿岸踏査を為しうる強健な体力と測量・製図能力に秀でた人物が必要です。しかも今後のロシアの出方も不明で予測できない以上、身分の高いものが従者を連れて大集団で樺太へ渡海することは避けて、身分の低い少数者を派遣するのがよいと判断され、1808(文化5)年幕府は調役下役松田伝十郎と雇間宮林蔵に樺太探検を命令しました(「北夷談」日本庶民生活史料集成 第4巻 三一書房)。

おもしろ地図と測量ーおとなのはなしー地図測量の200人―まー松田伝十郎

吉村昭「間宮林蔵」を読む5

 樺太については西欧・中国・日本がそれぞれの立場から地理上の研究を行なっていました。1787(天明7)年フランス人ラ・ペルーズは樺太南部沖から左舷に東韃靼(沿海州)、右舷に樺太を見ながら船を北上させていきましたが、水深は浅くなる一方でこれ以上船を進めることはできないと判断し船を反転、宗谷海峡を経てカムチャッカへ向かいました(ラペルーズ「太平洋周航記」岩波書店)。またサハリン島と樺太とは別の島であるとする中国側(中国で作られた図はヨーロッパに伝わり、フランス王室の地図師ダンヴィルによって樺太を半島としその西方にサハリン島を描く地図が作成される)の定説を否定、サハリンは樺太と同じものであるとする主張にもとづいた地図を作成公表したのです。
 1797(寛政9)年イギリス人ウイリアム・ロバート・ブロートンはラ・ペルーズの樺太探検結果を確認するため、ラ・ペルーズが引き返したところからさらに北上しましたが、水面は湖のように静止していたため、その海面は湾であると断定、1804(文化1)年「北部太平洋探検(発見)航海記」(北大附属図書館所蔵)を発表して樺太は半島であると記述しました(洞富雄「間宮林蔵」吉川弘文館)。

北海道HP―組織から探すー本庁各部・局―総合政策部―地域づくり支援局―伝えたい北海道の物語―歴史・伝説―噴火湾の名づけ親 もうひとつの顔 W.R.ブロートンを追って

吉村昭「間宮林蔵」を読む6

 1806(文化3)年クルウゼンシュテルンは樺太東海岸沖を北知床岬から北上、樺太最北端の岬を迂回して樺太西海岸を南下しました。しかし水道の中央で手桶に汲んだ水は全く淡味で、しかも水深が浅くなったので、艦をこれ以上進めることを断念、カムチャッカへ引き返しました。かくしてクルウゼンシュテルンは樺太探査結果を1810〜12年「世界周航記」(クルウゼンシュテルン「日本紀行」異国叢書 雄松堂書店)として公表し、樺太はやはり大陸を流れるアムール河(黒竜江)河口の南で大陸と連続している半島であると主張するに至ったのです。
 ダンヴィルの地図はオランダを通じて長崎に持ち込まれ、林子平は「三国通覧図説」(「蝦夷千島古文書集成」第3巻 教育出版センタ−)[1785(天明5)年著]において樺太を東韃靼に接続する半島であるとしました。また北方地域研究の権威者であった近藤重蔵も樺太半島説を全面的に支持(「辺要分解図考」近藤正斎全集 第一 国書刊行会)したので、日本で同説を批判するものは居なかったのです。

是非に及ばずー絶筆―林子平

国土地理院―子供のページー測量・地図ミニ人物伝―近藤重蔵

吉村昭「間宮林蔵」を読む7

 松田伝十郎は従者に「もし奥地におゐて落命に及ぶか且異国船へ檎となるか、または年を経て帰国なき時は、ソウヤ出船の日を見届、忌日と定むべき旨」を申付け(「北夷談」)、間宮林蔵は津軽藩士山崎半蔵に「成功の形たゝぬうちは死を誓って帰るまじ。若し難行の節は、我一人たりとも蝦夷地にに残り、夷地の土となるか、夷人となるであろう。再会期しがたし。」(「山崎半蔵日記」函館市中央図書館所蔵 洞富雄「前掲書」引用)と述べ、1808(文化5)年4月13日ソウヤを出発、その日に樺太のシラヌシに到着しました(「北夷談」)。松田伝十郎は樺太西海岸を、間宮林蔵は東海岸をアイヌ人の丸木舟で北上する約束でしたが、林蔵が北知床岬を横断して東海岸にでると、おしよせるオホーツク海の怒涛をみて東海岸北上を断念し、山越えして西海岸に出、同年6月20日ノテトで北方のラッカから引き返してきた松田伝十郎と合流しました。二人は西海岸のラッカまで北上しましたが、伝十郎は「此処を国境と見極めしゆへ是より奥の方へ壱里なりとも参るならば林蔵の手柄なり。何卒参り申すべき」(「北夷談」)といって南方のナッコ岬へ帰ってしまいました。林蔵はひき潮で陸地になっていたラッカ川筋を奥の方へ出てみて「カラフト島之地方此辺一躰平地、海岸通東北ニ追し周り候間、離島には相違無之様子凡相分候」[間宮林蔵報告書(「カラフト島見分仕候趣申上候書付」)間宮林蔵述 村上貞助編「東韃地方紀行他」東洋文庫484 平凡社]と樺太が島であることを推定しただけで、確認するに至りませんでした。林蔵はその日のうちにナッコまで引き返して伝十郎と相談の結果、ノテトから帰途につくことにし、同年閏6月18日シラヌシに帰着、同月20日蝦夷地北端ソウヤに来着しました。

間宮林蔵の世界へようこそ(間宮正孝)―間宮林蔵について

吉村昭「間宮林蔵」を読む8

ソウヤに出張していた松前奉行川尻肥後守春之と同吟味役高橋三平は松田伝十郎に松前に赴き奉行村垣淡路守定行に書面で報告を命じ、間宮林蔵には彼の要請を容れて樺太全島の再調査と樺太対岸の山靼・満州の地境をを見極めることを申し渡しました。
1808(文化5)年7月13日間宮林蔵は再び単身樺太に渡り北進を開始しましたが途中断念してトンナイにもどり越年、1月29日再北上を開始、アイヌ人ら現地人の協力を得て4月9日ノテトに到着、凍結した海が解けた後、山靼船で5月12日樺太の最北端に近いナニオーに到達し、樺太が島であることを確認しました。この様子を林蔵は次のように述べています。「ノテトより此処に至るの間、島と東韃地の相対せる迫処にして、潮水悉く南に流れ、、其の間潮路ありといへども波濤激流の愁も少く、小軟の夷船といへども進退さまで難き事なし。此処よりして北地は北海漸々(やうやう)にひらけ、潮水悉く北に注ぎ、怒涛大に激起すれば船をやる事かなわず。」(「東韃地方紀行」東洋文庫484)

間宮林蔵の世界へようこそ(間宮正孝)―間宮正孝の樺太紀行(その1)―3 間宮海峡の状況

5月19日ノテトに帰った彼はさらに進貢と交易のため満州仮府に赴く現地人酋長コーニに従って東韃靼(沿海州)のデレンにまで赴くことになりました。林蔵は自身の万一の死も覚悟してトンナイから連れてきたアイヌ人に樺太に関する調査資料すべてを託したのです。
1809(文化6)年6月26日間宮林蔵はコーニと林蔵の外6人の乗る山靼船で東韃靼に向けてノテトを出発、同年7月11日ようやく満州仮府の所在地デレンに到着しました(「東韃地方紀行」)。

吉村昭「間宮林蔵」を読む9

 デレンは清国官人が毎年夏約2ヶ月満州から出張して仮府を設立し、黒竜江下流域・樺太・沿海州などの方面から来る酋長より貢物として、貂皮を受理、彼らに衣帛を下賜する場所で、あわせて交易もここで行われていました。
コーニらは7日デレンに滞在、7月17日帰途につきましたが、往路と異なり帰路は黒竜江を河口まで下り、海峡を大陸沿いに南下、8月8日ノテトに到着、以後は南下する原住民の舟に便乗して9月15日シラヌシ番所へ帰着、同月28日蝦夷地ソウヤにたどりつきました。彼の樺太探検でその指はすべて凍傷のため変形していたそうです(「俟采択録」福本義亮編「久坂玄瑞全集」マツノ書店)。林蔵が松前に帰ったのは1809(文化6)年11月でしたが、彼は翌年村上貞助(村上島之允の養子)の援助と協力により「北蝦夷図説」(北蝦分界余話)と「東韃地方紀行」(「東韃地方紀行他」東洋文庫484 平凡社)を口述しています。その後林蔵は樺太探検の苦労が原因だったのか病床に伏したようですが、1811(文化8)年江戸に赴き上記2著と地図を幕府へ呈出しました(洞富雄「前掲書」)。

蝦夷地質学―蝦夷地質学外伝 其の八 「東韃地方紀行」(間宮林蔵)

吉村昭「間宮林蔵」を読む10

1811(文化8)年6月5日クナシリ(国後)島守備隊は南千島測量のため同島に立ち寄ったロシア軍艦ディアナ号艦長ゴロヴニン少佐その他を捕縛拘束しました(「通航一覧」第七 巻298 国書刊行会)。

早稲田大学附属図書館―コレクション紹介―WEB展―貴重資料の紹介―日本俘虜実記(日本幽囚記)/ゴロヴニン

これは1806〜7(文化3〜4)年にかけて起こったフヴォストフ大尉の樺太・エトロフ襲撃事件に対する報復措置として行われたものです。
ゴロヴニンらは同年8月25日松前に護送され、奉行荒尾但馬守成章の取調べに、書面で、フヴォストフらの行動は海賊的行為であって、何らロシア政府の命令によるものではないと答えました(「通航一覧」巻303)。荒尾但馬守はゴロヴニン陳述書を江戸に報告するとともに、彼らを釈放すべきであるとする意見書を上申しました。
1812(文化9)年正月26日幕府は松前奉行にロシア人はすぐ送還するに及ばず、ロシア船来航の節は漂流船であっても打ち払い、上陸させないよう指令しました(「通航一覧」巻305)。かかる状況の下で、同年2月はじめ間宮林蔵は松前にやってきてゴロヴニンを訪問しました。
2009-01-01 07:23 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年11月14日(金)
「おろしや国酔夢譚」を読む15〜「おろしや国酔夢譚」を読む23
井上靖「おろしや国酔夢譚」を読む15

 その後光太夫はたびたび女帝からの呼び出しをうけ、皇太子の招待を受けたこともありました。光太夫は宮廷のみならずペテルブルグ上流社会に広く知れ渡ったのです。
 しかし女帝から帰国の許可はなかなか下されませんでした。女帝にはキリルの日本人漂流民の送還が対日貿易開始に不可欠とする意見書と豪商シェレホフらの日本人漂流民を帰化させ、場合によって通訳に利用すべしとする意見書が提出されており、女帝は熟慮を重ねていたのです(山下恒夫「大黒屋光太夫」岩波新書)。
 1791(寛政3)年9月になり宮廷はペテルブルグ冬宮にもどりましたので、キリルと光太夫も帝都に帰りました。

ハシムの世界史への旅―旅行記・写真集―ロシアーエルミタージュ美術館・写真特集

 同年9月13日付で女帝はイルクーツク総督ピーリに対し日本人漂流民送還の勅令を発しましたがその要点は次の通りです。@ 日本人送還の使節は、キリル・ラックスマンの子息のうちの1人を起用する(キリルは次男アダムを指名)。A 日本人漂流民3名(光太夫・小市・磯吉)を送還する。B ロシア正教に帰依した2人(庄蔵・新蔵)はイルクーツク日本語学校の教師とする。C イルクーツク第一級の商人たち、あるいはその使用人をオホーツクにおける送還船に同乗させ、今後の日本との貿易に備える。D 日本人漂流民送還にいたる経緯を詳述したイルクーツク総督による日本政府あての書簡を用意し、その書簡において日本との通商樹立を望むロシア政府の意向を伝達せよ(「女帝エカテリーナ二世のピーリ総督宛勅令」「大黒屋光太夫史料集」第3巻 日本評論社)。
 同年9月29日出頭命令が出て光太夫はキリルとともにベズボロドコ邸に赴き、ウォロンツォーフから日本人漂流民の帰国を許す旨の勅令を伝達されました。光太夫はどんなに嬉しかったことでしょうか。
同年10月20日冬宮においてキリルと光太夫は女帝の召喚を受け、光太夫には美しい嗅ぎ煙草入れが別離の記念品として下賜されました(「北槎聞略」)。

井上靖「おろしや国酔夢譚」を読む16

 1791(寛政3)年11月8日キリルと光太夫はウォロンツォーフ伯爵の官邸に呼び出しを受け、ロシアから日本人漂流民に対する公式の下賜品が授与されました。光太夫には民間人に与えられる最高の賞牌である金メダルとフランス製金の懐中時計と金貨150枚、小市と磯吉には銀メダルと金貨50枚、新蔵と庄蔵にも同額の金貨が与えられました。
キリルには光太夫の保護に尽力した功績をたたえ、ダイヤモンドの指輪と銀貨1万枚が授与されました。光太夫の旅宿には各方面から餞別品が続々と寄せられました。
 同年11月26日キリルと光太夫は12頭立ての馬橇2台、荷物用馬橇3台とともに深夜ペテルブルグを出発、翌朝未明ツァールスコエ・セロに到着、離宮御苑長ブーシュは御茶5袋、その妹ソフィアは襦袢を選別として光太夫に贈ってくれました(「北槎聞略」)。

井上靖「おろしや国酔夢譚」を読む17

 キリルと光太夫はモスクワを経て1792(寛政4)年1月23日無事イルクーツクのラックスマン宅に帰還することができました。翌日光太夫はイルクーツク総督からオホーツクでの送還船の準備ができるまで、この地で待機するように告げられました(「北槎聞略」)。
 小市と磯吉は鋳物師一家に別れの挨拶をし、磯吉が家を出ようとした時、マルファが彼女の栗色の髪1房を贈りました(「魯西亜国漂舶聞書」)。
 出発が迫った同年5月10日光太夫はキリル宅でキリルの知人である薬剤師ジーファースから別離の記念に光太夫の肖像画を残したいと言われ、光太夫の和服姿をペンで描きました(「ゲッティンゲン大学コレクション」大黒屋光太夫史料集 第4巻 日本評論社)。

鈴鹿高専教養教育科―トピックスー光太夫が幕府に伝えたロシアー二、ゲッティンゲン大学に残る光太夫の遺品―(三)光太夫の肖像画 

 イルクーツクを出発する5月20日早朝光太夫は庄蔵に2度と会えぬ別れを告げました。「いつまでおしむともつきせぬなごりなれば心よわくては叶はじと、彼邦のならひなれば、つとよりて口を吸ひ、思いきりてかけ出せば、庄蔵は叶はぬ足にて立ちあがりこけまろび、大声をあげ、小児の如くなきさけび悶へこがれける。道のほど暫(しばし)のうちはその声耳にのこりて、腸を断計(ばかり)におぼえける。」(「北槎聞略」)。
 先頭の馬車には光太夫とキリル及びキリルの子息が乗り込み、新蔵も次の駅逓ブキンまで見送りました。小市と磯吉は同日夕刻出発の予定です。新蔵との別れも庄蔵同様切ないものでした。ブキンの次の駅逓からヤクーツクまでは快適な船旅でしたが、ヤクーツクからオホーツクへの旅で光太夫らは蚊とアブの襲来に悩まされました。同年8月3日ラックスマン父子と光太夫らはオホーツクに到着しました。対日派遣使節に選ばれたアダム・ラックスマン中尉はすでに当地へ着任していたのです(「北槎聞略」)。

井上靖「おろしや国酔夢譚」を読む18

 1792(寛政4)年8月21日光太夫はキリルと永別の挨拶を交わしました。「別れに臨んでアダム、キリロの足を戴く。光太夫は親よりも深き恩義をうけたる事なればおなじく足をいただき、これまでの厚恩を謝し申しければ、キリロも不測の縁なりし事どもをくり返し、この末恙なく旅中を凌ぐべきよしを懇ろに云て涙を揮ひ別れける。」(「北槎聞略」)。
 同年9月13日朝対日派遣使節と日本人漂流民を乗せたエカチェリーナ号は蝦夷地をめざしてオホーツク港を出帆しました。10月7日(陰暦9月3日、以後日付は陰暦)同号は蝦夷地根室湾のバラサン海岸(北海道野付郡別海町)沖に停泊、現地のアイヌ老人2人を水先案内人として9月5日根室に入港することができました(「魯西亜国漂舶聞書」)。
 アダム・ラックスマンは現地の役人を通じて蝦夷地領主(松前志摩守通広)宛書簡(ロシア語文と通訳トウゴルーコフによる日本語訳文)でロシア船来航目的を通告し、日本中央政府(幕府)への伝達を求めるとともに日本側認可のもと越冬用の宿舎建設を開始しました(「魯西亜国漂舶聞書」・「御私領ノ節 魯西亜船入津一件」大黒屋光太夫史料集 第2巻 日本評論社)。
 前松前藩主松前道広(藩主は江戸参府途中)は一門の松前弥蔵にアダム・ラックスマンの書簡・同日本語訳文ならびに道広届書を託し江戸へ急使を派遣するとともに側近の藩医加藤肩吾と藩士鈴木熊蔵をロシア使節接待役として根室に赴かせました(「御私領ノ節 魯西亜船入津一件」)。

松前町ポータルサイトー松前町の概要―まちの歴史―松前歴史物語

井上靖「おろしや国酔夢譚」を読む19

 老中首座松平定信はアダム・ラックスマン書簡の日本語訳文を読んで、ロシア船が江戸への渡航を希望していることを知り憂慮し、ロシア側と幕府との折衝は蝦夷地で行う必要有りと判断しました。また通訳による稚拙な日本語訳文で彼はロシア側が日本人漂流民引渡しだけでなく、日本との貿易を開始する目的でロシア皇帝の国書を持ってきていると誤解したようです。とすれば日本の鎖国政策を理由にロシア側の国書受領を拒否するしかなく、しかもロシア側の怒りを買って戦端を開くような事態を避けるためにロシア側を納得させる必要から、幕府は蝦夷地派遣の幕府使節を宣諭使と名乗らせ目付2人を選任、さらに日本人漂流民送還の謝礼としてロシア船の長崎入港許可の信牌(公文書)授与を決定しました(「宇下人言」岩波文庫)。
 1792(寛政4)年12月上旬徒(かち)目付(目付の下役)村田兵左衛門は根室のロシア人出迎え役に任命され、翌年2月上旬松前到着、4月1日根室に到着しました(「御私領ノ節 魯西亜船入津一件」)。その時すでに壊血病に冒され重態だった小市は翌日死去してしまったのです(「北槎聞略」)。

歴史・教育・旅・グルメー歴史―大黒屋光太夫―2. シベリア横断―5. 幽閉生活―6. ラックスマンの根室来航

井上靖「おろしや国酔夢譚」を読む20

 村田兵左衛門はアダム・ラックスマンと話し合い、日本の廻船がロシア船を同伴して目的地まで先導する、以後陸路でロシア側の幹部乗組員だけが松前に赴く、ロシア側はエカチェリーナ号を江戸へ回航させない、ロシア側の目的は持参しているイルクーツク総督の日本中央政府(幕府)宛の書簡を松前に到着している日本政府高官(宣諭使)に提出することでその後日本人漂流民を引き渡すなどで合意しました。
 1793(寛政5)年5月7日早朝、エカチェリーナ号は根室を出港、6月8日箱館(函館)に入港、6月17日ロシア使節は箱館出発、6月20日松前に到着しました。同月21日日本側両宣諭使石川将監(忠房)(「寛政重修諸家譜」巻第125)・村上大学(義礼)(「寛政重修諸家譜」巻第235)とロシア使節の第1回会談が行われ、幕府から使節への下賜品として米百俵と日本刀長刀3振その他を披露、ロシア使節は国法申渡書を受理しました(「御私領ノ節 魯西亜船入津一件」)。同月24日第2回会談に先立ち、アダムは両宣諭使旅宿ならびに松前藩主にラシャやビロードの織物と色染めの皮革類を贈呈、会談においてロシア使節はイルクーツク総督書簡の趣旨に沿い日本との貿易を求める演説を行い、総督書簡を日本側に提示、両宣諭使は同書簡を受け取らない(「亜魯斉人来朝記・魯西亜人取扱手留」(「大黒屋光太夫史料集」第1巻 日本評論社)、その後通訳が日本語訳文を朗読、ところが同訳文が珍妙な日本語で、日本側は笑いをこらえるのに苦労したそうです(「徒目付後藤十(ママ)次郎の咄の趣き」同上「史料集」 第1巻 日本評論社)。
 ついで石川忠房はロシア使節に対し、異国との貿易業務はすべて長崎で行われるので、ロシア人は長崎へ赴き交渉すべきである、そのため長崎入港を許可する信牌(「大黒屋光太夫史料集」 第1巻 日本評論社)を次回の会談で与える、また日本人漂流民の引渡しについては徒目付後藤重次郎をロシア使節旅宿に派遣すると述べました(「亜魯斉人来朝記・魯西亜人取扱手留」(同上「史料集」第1巻 日本評論社)。

大宝天社絵馬―今は昔ー2 大黒屋光太夫の旅―帰国―ラックスマンー信牌

 第3回会談は同月27日行われ、同年7月16日(露暦8月11日)エカテリーナ号はオホーツクへ向けて箱館を出港しました(アダム・ラックスマン「日本来航日誌」(同上「史料集」第3巻 日本評論社)。

井上靖「おろしや国酔夢譚」を読む21

 1793(寛政5)年7月16日徒目付村田兵左衛門らは付き添い医師米田元丹とともに光太夫・磯吉を護送して松前を出発、8月17日江戸へ到着しました(「松前藩医米田元丹物語の趣き」大黒屋光太夫史料集 第2巻 日本評論社)。2人はキリシタン宗門の取調べを受け、雉子橋門外御厩の空き屋敷に収容されました(「老中戸田氏教の伺いと申し渡し」大黒屋光太夫史料集 第3巻 日本評論社)。
 このとき松平定信はすでに老中を辞職していましたが、二漂流民の将軍御目見の処置を決定済みでした。同年9月18日江戸城内吹上上覧所御白砂(おしらす)に光太夫42歳・磯吉28歳はそれぞれ、金・銀のメダルを胸にかけ、ロシア服で現れました。
 2人の漂流民の正面には当日の司会を勤める蘭学者桂川甫周らが、右手前方奥の間には松平越中守(定信)らが着座、将軍家斉は右手横の奥の間から御簾越しに漂流民を見ていました。光太夫は桂川甫周に向かい、ロシアでもお名前はよく存じあげておりましたと答えています(「冬の鷹」を読む9参照)。

大宝天社絵馬―今は昔ー2 大黒屋光太夫の旅―吹上漂民御覧

このときの桂川甫周らとの問答は甫周によって年内に「漂民御覧之記」(「大黒屋光太夫史料集」 第3巻 日本評論社)にまとめられました。また翌年には同じく甫周による2漂流民聞き取りの記録「北槎(槎はいかだを意味する)聞略」(岩波文庫)が、篠本簾による幕府の正式取調べ記録「北槎異聞」(「大黒屋光太夫史料集」 第2巻 日本評論社)が作成されました。

井上靖「おろしや国酔夢譚」を読む22

 1794(寛政6)年6月11日老中戸田氏教は勘定所へ次のような申し渡しを行い、2漂流民の今後の取り扱いを決定しました(「老中戸田氏教の伺いと申し渡し」)。@ 2漂流民に金30両ずつ下付、A 郷里へは帰さず、番町明地薬草植場(勘定奉行所支配)に住居させ、月々お手当として光太夫に金3両、磯吉へ同2両渡す、B 両人とも妻を呼び迎えること勝手次第、植場の手伝いなどさせるな、C 外国の様子などみだりに物語ることをしてはならない。
  同年11月11日は西暦1795年1月1日にあたり、蘭学者大槻玄沢は私塾芝蘭堂で「おらんだ正月」の会合を催し、光太夫と磯吉は招待を受けました(「冬の鷹」を読む16参照)。光太夫はロシア文字を書き、磯吉はロシア服に着替えて一同の興味を引いたようです
(「芝蘭堂新元会図」大黒屋光太夫史料集 第4巻 日本評論社)。

大宝天社絵馬―今は昔ー2 大黒屋光太夫の旅―そしてその後―オランダ正月

 1796(寛政8)年光太夫は江戸で妻帯したようです。彼には故郷に妻がいたのですが、再会しておらず、おそらくすでに死去もしくは再婚していたと思われます。磯吉も光太夫と同じころ結婚したようです。
  この小説の終章では磯吉が1798(寛政10)年正月勘定奉行石川忠房に許されて郷里の村に帰り、1箇月滞在したことがあるが(「寛政十年・磯吉帰郷文書」大黒屋光太夫史料集 第4巻 日本評論社)、光太夫は薬草植場で手当てをもらって、「おらんだ正月」の会合に招待されたことを除けば、ひとと自由に話すことも禁じられ、故郷に帰ることもできず、一生ここに住んだと記述されています。

井上靖「おろしや国酔夢譚」を読む23(最終回)

 ところが1986(昭和61)年8月、若松小学校長弓削弘氏は同小学校百年史編纂のため、南若松の倉庫を調査中発見した古文書の中に光太夫が帰郷していたことを物語る古文書を見出したのです(「鈴鹿市史」第3巻 補遺編 三 大黒屋光太夫らの帰郷 鈴鹿市役所・「享和二年・光太夫帰郷文書」大黒屋光太夫史料集 第4巻 日本評論社)。
 1802(享和2)年光太夫はおそらく勘定奉行石川忠房に願い出て帰郷を許可され、4月22日20年ぶりの故郷帰りを果たしたのです。彼は伊勢神宮に詣でて死去した仲間たちの鎮魂を願い、白子の一見勘(諫)右衛門宅と母の実家訪問を希望(実現したかどうか不明)、同年6月3日江戸へ戻りました。
 1804((文化1)年ロシアの遣日使節ニコライ・レザノフ(1798年設立の国策会社「露米会社」総支配人)はロシア皇帝アレクサンドル1世の国書をもって、長崎入港許可の信牌を携え、ナデジュダ号に乗り長崎に来航(「通航一覧」)、このとき同号によって1793(寛政5)年仙台藩領陸奥国石巻港を出港し、12月に遭難して翌年アレウト列島のある島に漂着した若宮丸漂流民4名が送還されてきていました。
 大槻玄沢は長崎より江戸に到着した若宮丸漂流民の聞き取り記録「環海異聞」・「北辺探事」(大友喜作編「北門叢書」第4冊・第6冊 国書刊行会)を編纂しましたが、光太夫は玄沢の希望によりその手助けをしました(「環海異聞」序例附言)。
 光太夫が死去したのは1828(文政11)年4月15日で78歳、磯吉は1838(天保9)年11月15日に75歳で死去しています(「興安寺の過去帳」大黒屋光太夫史料集 第4巻 日本評論社)。
 ロシアに残留した庄蔵と新蔵はその後どんな人生を送ったのでしょうか。庄蔵はイルクーツクで暮らし妻帯せず、新蔵とも仲たがいして晩年若宮丸漂流民とともに生活、丙辰[1796(寛政8)]年死去しました(「北辺探事」)。
 新蔵はイルクーツク日本語学校の教師となり、若宮丸漂流民が帝都でアレクサンドル1世に謁見を許されたとき、新蔵は通訳を務め、褒美をもらったそうです(「環海異聞」「北辺探事」)。彼はイルクーツクで1810(文化7)年死去しました(木崎良平「前掲書」中公新書)。
2008-11-14 11:50 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年11月04日(火)
「おろしや国酔夢譚」を読む5〜「おろしや国酔夢譚」を読む14
井上靖「おろしや国酔夢譚」を読む5

 島民10人余が上陸した光太夫一行を見つけて現れ、はなしかけてきたが通じません。島民は光太夫の袖を引いて、ついてくるように仕草をしましたので、結局清七・庄蔵・小市・新蔵・磯吉の5名が同行しました。峠を越えると北の海浜が見渡されたが人家らしいものは見えませんでした。海岸にはラシャやビロードの服を着て、いずれも槍や鉄砲をもった多勢の者がいて、彼等は清七ら5人を麹室(こうじむろ)のような小屋に入れました。
 昼ころになって清七らが空腹を訴えると、魚の潮蒸しと黒百合の根を水煮にしてつき砕き水でうすめた汁を与えられました。これがこの島の常食でロシア人も在留中はこれを食事とし、その他たら・うに・海獣肉・雁・鴨などでした。
 やがてロシア人は磯吉・小市以外の3人を連れ去りました。昼と同じ夕食後年齢70くらいの原住民だがロシア正教に帰依した老人がきてタバコをくれ、皮衣を持ってきて寝ろとの仕草をしたので磯吉らは熟睡しました。
 一方上陸地点に残っていた光太夫らに4〜5人のロシア人が庄蔵ら3人を伴ってやってきてロシア人の常用するポロシカ(かぎたばこ)をくれました。ロシア人の頭(ニビジモフ ロシアの豪商ヂガレーフの使用人で島々の皮革類を買い集めに派遣されていた人物)と筆談を試みたが通じませんでした。夕方炊飯して握り飯をロシア人に与えると彼等はうまそうに食べました。
 神昌丸は夜半の時化で暗礁に触れて船底が破れ、積荷はすべて流出しました。光太夫一行はニビジモフの狭い家にひきとられましたが、船親父(水夫頭)の三五郎は8月9日、楫取(航海士)の次郎兵衛は同月20日、10月16日水手の安五郎、同月23日上乗(積荷采領役)の作二郎、12月17日水手清七 同月20日同長次郎、翌年9月30日同藤助の7名が死去しました。

天明元年大宝天社絵馬―今は昔―2―大黒屋光太夫の旅―アムチトカ島

井上靖「おろしや国酔夢譚」を読む6

 光太夫らは半年ばかりロシア人の言葉がわからなかったが、彼らが日本人の身の回りの品々をみてよくエト・チョワ(エータ・チェヴォー)というので、磯吉が真似をして側の鍋を指さしてエト・チョワというと、すぐコチョウ(コチョール)と答えました。そこでエトチョワとはこれは何かという意味だと覚り、新しく知った語を書きとめて言葉を覚えました。漂流民たちはやがて原住民を手伝い、らっこを捕獲して生活するようになりました。
 こうして満3年の歳月が流れ、その年の7月本国からの迎えの船が現れたが嵐で難破してしまいました。
ニジビモフは漂流民たちに船を造ってカムチャッカまで渡るため協力を要請してきました。そこでロシア人の船具、光太夫らの破船の古釘や流木を集めて船を完成し、ロシア人25人、光太夫ら9人の漂流民を乗せ、海獣皮と食料を積載(「北槎聞略」)、1787(天明7)年7月18日アムチトカ島を出帆、同年8月28日カムチャッカに到着したのでした(「魯西亜国漂舶聞書」山下恒夫編纂「大黒屋光太夫史料集」第2巻 日本評論社)。

井上靖「おろしや国酔夢譚」を読む7

 1787(天明7)年8月光太夫らはカムチャッカ川の河口に到着後、ニビジモフはカムチャッカ政庁長官オルレヤンコフ少佐に光太夫らを引き渡し、光太夫らはここから20kmほど川を遡行してカムチャッカ政庁所在地ニジネカムチャックに入りました。
 オルレヤンコフは光太夫を自宅に、他の8人を秘書の家に分宿させました。
 到着の夜光太夫らははじめて洋風の食卓で乾魚と白酒のような汁(スープ)とが錫の鉢に盛られて出され、「熊手のごときもの(フォーク)と小刀(ナイフ)大匕(スプーン)」が添えられていました。翌朝は麦の焼餅(パン)と汁(牛乳)でした。のちにこの汁が牛乳だとわかったので漂流民一同は以後肉食はしない習慣だという理由で牛乳と牛肉は辞退しました。
 ところが同年11月に入ると、麦や魚はすべて食べ尽くし、光太夫を除く漂流民たちに飢餓の危険がせまってきました。ある日役人が彼らに牛の股2つを持参し、これを食べて命をつなぐよう説得したので、漂流民は牛の股肉のこまぎれを麦とまぜて作った煮汁を飲んで8人で2ヶ月ほど食いつなぎました。こうした環境の中で翌年4月5日与惣松、同月11日勘太郎、5月6日藤蔵の3人があいついでチンカ(壊血病)により死去するに至りました。
 5月に入り冬を越して川の氷がとけると魚が海から遡上し、山で獣をとって獣肉を食料とし、皮を衣とするので、衣食に不自由することはなくなりました(「北槎聞略」)。

天明元年大宝天社絵馬―今は昔―2―大黒屋光太夫の旅―カムチャッカ半島

井上靖「おろしや国酔夢譚」を読む8

 ニジネカムチャックで光太夫はフランスの探検家ジャン・レセップス(スエズ運河を開いたフェルディナンド・レセップスのおじ)に出会いました。光太夫自身はレセップスについて何も語っていませんが、レセップスは光太夫ら日本人漂流民に深い関心をもって注目し、次のように述べています。
 「彼の名はコダイ(光太夫)という。(中略)彼は司令官のオルレアンコフ少佐の家に住み、生活していた。彼が入り込んだところでの自由な振舞いは、司令官のもとでも、他の場所でも同様だった。それは我々の間では無礼とされ、少なくとも無作法とされるものだった(中略)。
 彼は休みなく煙草をふかした(中略)。彼はあらゆることに好奇心を持つ優れた観察者のように見えた。人は、彼が見たこと、起こったことのすべてを正確に記した日記を付けていると私に断言した(中略)。
彼は聞きとるには充分なロシア語を話す。しかしながら、彼と話を交わすためには、彼の発音になれる必要があった。彼のいうことは、時々聞きおとしてしまうほどの口達者で、意味も変化して述べられるからだ。それらの通常の即答は、生き生きとして自然なものだった。彼は思っていることを隠さず、誰もがそれ以上にはできないほど率直に説明した。」(「バルテレミー・レセップスの光太夫印象記」山下恒夫編纂「大黒屋光太夫史料集」第3巻 日本評論社)

京都外国語大学付属図書館―世界の美本ギャラリー世界の古刊地図と探検―レセップス「レセップスの旅行日記」

井上靖「おろしや国酔夢譚」を読む9

 1788(天明8)年6月15日オルレアンコフは光太夫らに彼らを日本へ送還するよう本国政府あての願書下書を与え(「魯西亜国漂舶聞書」)、オルレアンコフの部下ホッケイチ大尉とその従卒及び政府関係役人を含むロシア人15名、光太夫ら6人の漂流民はニジネカムチャックを出発、シベリア総督の所在地イルクーツクにむけて旅立ちました。同年8月1日チギリを出帆、24〜5日を費やしてオホーツクに到着、オホーツクの役人から光太夫に銀30枚、他の5名に銀25枚ずつが与えられ、これで衣服・帽子・手袋・靴など一切の防寒具を買いととのえました。
 同年9月12日同行者(光太夫ら6人の漂流民の外、カムチャッカ各地から集めた海獣皮類を本国に輸送する役人、任期満ちてイルクーツクに帰る医師の家族やイギリスの難破船員2名を含む)は野宿用のテント類まで駄馬にのせ、食事も1日2度にきりつめ11月9日ヤクーツクに到着しました。
 ヤクーツクはシベリアの中心の一つですが、冬季の往来には橇を用います。光太夫らの乗った大形の橇は上に革を張った輿のような形のキビツカを置いてそこに座り、下には荷物を載せ5〜6頭の馬に引かせます。
 光太夫らはヤクーツクでもオホーツクと同じく銀を与えられ、服装や橇を用意、冬の12月13日イルクーツクめざして出発しました。8〜9里ごとに政府の馬つぎ場があってそこで馬を取り替えるので旅行は少しも滞ることはありませんでしたが(「北槎聞略」)、この旅行中庄蔵は脚部に凍傷を負い、傷口から菌が侵入して腐敗が進行、彼は痛みに苦しみました(「魯西亜国漂舶聞書」)。1789(寛政1)年2月7日イルクーツクに到着、ホルコフという蹄鉄工の家に宿泊しました(「北槎聞略」)。

天明元年大宝天社絵馬―今は昔―2―大黒屋光太夫の旅―イルクーツク

井上靖「おろしや国酔夢譚」を読む10

 しかし異説(山下恒夫「大黒屋光太夫」岩波新書)によれば、光太夫らはイルクーツクの日本語学校に収容されたようです。彼らは同地到着後イルクーツク総督府に出頭、知事にオルレアンコフ少佐が添書した帰国嘆願書を提出しましたが、知事は後日の返事を約束したに止まりました(「魯西亜国漂舶聞書」)。当時イルクーツクの日本語学校で、日本語教師を務めていたのは多賀丸漂流民久助(「おろしや国酔夢譚」を読む3参照)から日本語を習ったというトウゴルーコフで、彼と話した光太夫は日本人漂流民をロシアに帰化させ、日本語教師とするというロシア側の意図を察知し、日本語学校を出て蹄鉄工ホルコフの家に転居したというのが真相のようです。庄蔵は膝頭の下で切断することによって生命を取りとめました。しかし庄蔵は命をロシアの医師に救われ、生活のすべてをロシアの援助にすがる身となり、医師にロシアへの帰化を勧められると、これを断ることは出来なかったのでしょう。庄蔵はやがてロシア正教の洗礼をうけ、シトニコーフのロシア名を名乗ることになりました(「北槎聞略」)。
 春になると3人の男が光太夫らを訪問しました。3人とは日本南部藩の久兵衛(久助)・参之助(三之助)とその他1人の日本人漂流民の子で、久兵衛の子は苗字タラペヱヂニコフ(トラペズニコフ)、参之助の子はタタリン(タターリノフ)といい、日本人漂流民がイルクーツクに来たと聞いて懐かしく思い招待したいと申し出ました。そこで光太夫・磯吉・小市・九兵衛(九右衛門)・新蔵の5人はトラペズニコフの家に赴き歓待を受けたそうです(「魯西亜国漂舶聞書」)。
 1789(寛政1)年8月総督府から呼び出しがあり、役人が光太夫にペテルブルグからの帰国をあきらめ、この国に仕官せよとの通達を読み上げました。光太夫は帰国の願いを捨てない旨の願状を提出して辞去したのです。

井上靖「おろしや国酔夢譚」を読む11

 1790(寛政2)年正月過ぎ、光太夫らの宿泊先にオホーツクで別れたホッケイチ大尉が訪ねてきました(「おろしや国酔夢譚」を読む9参照)。光太夫が帰国の見込みがたたないことを訴えると、ホッケイチは数日後当地在住の著名な博物学者でペテルブルグ科学アカデミー会員であり、首都の高官にも知り合いが多く、学問好きの女帝にも気に入られていると聞くキリル・ラックスマンの家に案内してくれました(「魯西亜国漂舶聞書」)。
 光太夫が総督府に提出した帰国嘆願書の写しを見せると、キリルは光太夫の希望が実現するよう協力を惜しまない旨を伝え、ホッケイチとも相談して新たに帰国嘆願書を書いてくれたので、光太夫はこれを清書して総督府へ提出しました(「北槎聞略」)。この帰国嘆願書にはおそらく光太夫らの帰国をきっかけにして、日本との貿易を開始しようとのキリル・ラックスマンの着想が書き加えられていたのでしょう。

鉱物たちの庭―ひま話―過去のひま話からーラクスマンと光太夫1・2

 同年2月3日光太夫はペテルブルグからの命令書を受け取りました。その内容は相変わらず帰国は許されませんでしたが、仕官すれば軽卒(下士官)待遇とし、将来は加比丹(大尉)にまで昇進させること、及び仕官する意志がなくば商人になってもよい。住居を提供し、資金を交付し、税金を免除するというものです。光太夫は丁寧にこれを断り、同月7日に帰国許可の願状を提出しました(「北槎聞略」)。

井上靖「おろしや国酔夢譚」を読む12

 キリルは2回目の嘆願書を作成し、光太夫が同年2月7日に同嘆願書を総督府に提出すると、光太夫らに与えられていた月々の給付金が無くなりました。しかしホッケイチの紹介で光太夫がイルクーツクの上流社会の人々に日本の話をしたりすると、みな日本人漂流民に同情し、謝礼をくれましたし、キリルの援助が励ましとなりました(「北槎聞略」)。おかげで光太夫と還暦を過ぎた九右衛門は生活費に事欠くことはなかったし、小市・磯吉・新蔵ら3人も出稼ぎで収入がありました。
 やがて新蔵は親身になって世話してくれる年上の後家と結婚しロシア名を名乗るようになりました。小市と磯吉は夏になると鋳物師の家に住み込みで働くようになりました。鋳物師には2人の息子と2人の娘がいて、鋳物師は磯吉にどちらかの娘と結婚するよう勧めましたが、磯吉は辞退しました(「魯西亜国漂舶聞書」)。しかし磯吉と妹娘のマルファの間には恋心が生まれていたのです。
 1791(寛政3)年正月キリルは光太夫にこのように帰国嘆願書に対する返事が遅れているのは、きっと中途にさえぎるものがあって皇帝の耳に達しないからと見える。幸いにも自分は収集した花木薬石をもって上京せよとの命をうけ、近く出発するので、あなたも同道しペテルブルグに赴いて直訴するがよいと言ってくれました。
 光太夫は喜んで旅支度をはじめましたが、3人の仲間は熱病に伏し、九右衛門は1月13日死去しました(「北槎聞略」)。

井上靖「おろしや国酔夢譚」を読む13

 九右衛門の葬儀を終えた翌日1791(寛政3)年1月15日光太夫はキリル・ラックスマンとともに、キリルの子息、護衛の従卒と馭者を加えた5人で8頭立ての馬橇に乗ってイルクーツクを出発しました。光太夫の旅費はキリルがすべて負担してくれました。
 馬橇は昼夜の別なく走り2月19日ペテルブルグに到着、官の宿舎に滞在して後、キリルは光太夫とともに女帝エカチェリーナ2世の側近であった伯爵ベズボロドコ秘書官を訪問し、帰国嘆願書と日本漂流民と死去した仲間たちの詳細を述べた別紙を添えて提出しました。その後キリルは熱病の冒され瀕死の状態となり、約3ヶ月を経てようやく回復しました。

歴史研究所―ロシア史―第4回 ロマノフ王朝〜女帝の時代

 同年5月1日慣例により女帝は皇太子一家とともにペテルブルク冬宮から南に6里ほど隔たった夏離宮所在地(プーシキン市)ツァールスコエ・セロ(皇帝村)に移動しました。
 キリルは光太夫とともにキリルの友人であった離宮御苑長ブーシュの屋敷に宿泊して嘆願運動を再開しました。ブーシュの妹ソフィアは光太夫の漂泊の運命に同情してペテルブルグで人気のあるウクライナ民謡の流行歌を歌ってくれましたが、光太夫はソフィアが自分のために作曲してくれたと思い込んだのでした(「北槎聞略」・ソフィアの歌をめぐってー中村喜和氏に聞くー山下恒夫「大黒屋光太夫史料集」第3巻 日本評論社・「大黒屋光太夫」岩波新書)。

うたごえサークル「おけら」―サークルおけらーロシア民謡―そーソフィアの歌

 同年5月半ばすぎ、ベズボロドコとともに女帝の側近であったウォロンツォーフ伯爵よりの通達がキリルに許に届き、来る5月28日女帝の謁見が許可されたので、当日は日本人漂流民光太夫を連れてくること及び、その数日前に謁見の際の諸作法を教える演習を行う旨が記述されていました。その作法とは女帝の玉座まで伺候すると片膝を折って拝礼、差し出された女帝の手の甲に3度軽く唇を触れるというものでした。

ほたるのひとり言―過去ログー2007年6月―2007/6/10 スピンさんの欧州便り.26 エカテリーナ宮殿T

井上靖「おろしや国酔夢譚」を読む14

 謁見当日キリルと光太夫が離宮に到着するとベズボロドコとウォロンツォーフが出迎えてくれました。第3層の座所の入り口に来ると、逡巡する光太夫の手をウォロンツォーフが引き玉座まで誘導、キリルがその後に従いました。
 女帝への拝礼の作法を済ませた後の様子を光太夫は次のように述べています。
 「国王左右に命じて光太夫が願状をとり出させ御覧ありて、この疏草は誰が書きたるや、定めてキリロ(キリル)ならんと有りければ、キリロ謹んで渠(かれ)が申すまゝに草したる由を答へ申す。又この書面に相違なきやとありければ、キリロ仔細も候まじと答へける。時に国王ベンヤシコ(ベドニャーシカ)と宣う声高く聞こへける。これは可憐(あわれむべし)という語なり。それより執政トルッチンニノーフ(官房長トゥルチェニーノフ)が妻にソフヤ・イワノウナ(ソフィア・イワーノヴナ)といへるを以て、光太夫に海上にての艱苦、また死亡せし者共の事なんどくはしく尋訪(たずねとわ)せらるゝ故、詳かに答へ申しければ、ヲホ・ジャウコ(オホ、ジャールコ、ああ、なんてかわいそうな)と宣ふ。これは死者を悼むの語なり。この時女王顔にややうれひを帯て見へける…」(「北槎聞略」)。
 さらにに女帝は光太夫に対し帰国の希望ががあるかを聞き、彼がひたすら帰国を望むことを嘆願してこの日の謁見は終了しました。
2008-11-04 13:49 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年09月11日(木)
「冬の鷹」を読む11〜「おろしや国酔夢譚」を読む4
吉村昭「冬の鷹」を読む11

1770(明和7)年奥州一関藩主の侍医建部清庵は漢方医でありながら、蘭方医学に興味をもち、弟子衣関(きぬどめ)甫軒は清庵のオランダ流医学に対する疑問を認めた4箇条の質問書(後追加)を携え、江戸へ遊学しました。苦心のすえ、1773(安永2)年正月衣関甫軒は杉田玄白にめぐりあうことができたのです。玄白は清庵に回答して両者は交流を深めていきました。
同年5月玄白は41歳で29歳の安東登恵と結婚しました。登恵は幼時両親を失い、下野国喜連川藩家老生沼氏の養女となり、19歳のときから伊予国大洲藩江戸屋敷で藩主母に10年仕えた女性でした(「杉田玄白墓文」大槻如電原著・佐藤栄七増訂「前掲書」・片桐一男「杉田玄白」吉川弘文館)。
  1778(安永7)年建部清庵は彼の第5子建部勤と大槻元節を玄白に入門させました。
「此男(大槻元節)の天性を見るに、凡そ物を学ぶ事、実地を踏まざれば、なすことなく、心に徹底せざることは筆舌に上せず。後には直ちに良沢翁に托して、此業を学ばせしに、果たして勉励怠らず、良沢も亦其人を知りて、骨法(基礎)を伝し故、程なく彼書を解する事の大概を暁(さと)れり。」(「蘭東事始」) 1780(安永9)年12月玄白が元節は呼びにくいからという理由で、元節は郷里の黒沢に合致する玄沢に改称しました。

早稲田大学図書館―古典籍総合データベースー資料でたどる日本の歴史ーその他のコレクションー洋学(蘭学)コレクションー主な資料―Page1―No.10大槻玄沢肖像―Page2―15芝蘭堂新元会図

 1782(天明2)年玄白は建部清庵の第5子勤(由甫)を養子とし、伯元と改称[1774(安永3)年長男誕生 虚弱、1784(天明4)年夭折]しました。

吉村昭「冬の鷹」を読む12

1783(天明3)年7月には浅間山の噴火(「浚明院殿御実紀」巻49「徳川実紀」)や冷害がおこって、以後数年にわたり東北地方をはじめとする天明の大飢饉が発生しました。玄白は江戸から望見した浅間山噴火の様子を「然に(七月)六日の夜半頃西北の方鳴動し、雷神かと聞はさにあらす、一声一声鳴渡れり。夜は已に明けれと空の色ほのくらし。又其日の夕暮方より同し様に鳴出し終宵止もせす、明る七日は猶烈しく、降灰も大粒にて粟黍なんとを見る如し。」(「後見草」日本庶民生活史料集成 第7巻 三一書房)と述べてます。また天明の大飢饉については「出羽、陸奥の両国は取わけての不熟にて、南部、津軽に至りては余所よりは甚く、銭三百文に米一升、後々は銀拾弐匁に狗壱疋、銀五拾匁に馬一疋と価を定め侍りし由。然ありしにより貧き者共は他領に出さまよひ嘆き食を乞ふ。されと一飯あたふる人もなく、日々に千人、二千人流民共は餓死せし由。残り留る者共は先に死たる屍を切取喰ひしまゝ、草木の根葉を交せたきて喰ひし人も有りしと也。」(「後見草」)と悲惨な伝聞を記しています。

フォトギャラリーー目次―旅紀行ジャパンー浅間山鬼押し出しー観音堂―美晴台

同年 9月大槻玄沢は「蘭学階梯」(蘭学入門書 「日本思想大系」64 洋学 上)を著しました。1785(天明5)年オランダ商館長江戸参府に大通詞吉雄耕作が付き添ってきたので、おそらく玄沢の長崎遊学のことが話題になったと思われ、同年秋大槻玄沢は長崎へ遊学しました。1786(天明6)年5月玄沢江戸に帰着 仙台藩の医員となり、125石で江戸在住となりました(大槻如電原著・佐藤栄七増訂「前掲書」)。

吉村昭「冬の鷹」を読む13

 松平定信は田安宗武[8代将軍吉宗の二男 御三卿(田安・一橋・清水)の一つ田安家を起こす]の七男として1758(宝暦8)年誕生しましたが、宗武の子は治察(はるあき)と定国(伊予松山松平家養子)及び定信を除いてみな早世しました(「田安徳川家記系譜」徳川諸家系譜 第三 続群書類従完成会)。幼時しばしば大奥に呼ばれて将軍家治に愛せられたようです。彼は1774(安永3)年幕府から奥州白河藩主松平定邦の養子となるよう命ぜられました。定信は「この事は田邸にても望み給はずありけれども、そのときの執政ら、おしすゝめてかくはなりぬ。さりがたきわけありしこと、この事は書きしるしがたし。」[「宇下人言」(定信自伝)岩波文庫)]と言いにくそうな記述をしていますが、これは将来将軍の地位につく可能性の高い定信を他家へ養子に出すことを老中田沼意次が画策し、田安家と競争する立場にあった一橋治済と、一橋家家老であった田沼意誠(意次の弟「寛政重修諸家譜」巻第1219)を通じて連携した工作であったことは明らかです。
 1779(安永8)年2月24日家基(将軍家治の世子)が死去すると(「浚明院殿御実紀」巻40「徳川実紀」)、田沼意次は1781(天明1)年閏5月18日一橋治済の長男豊千代を将軍家治の世子とすることに成功しました(「浚明院殿御実紀」巻44「徳川実紀」)。彼が後の11代将軍家斉です。
 1784(天明4)年3月24日若年寄田沼意知(意次の子)が江戸城退出の時、佐野善左衛門政言によって切り付けられ、これがもとで意知はまもなく死去しました(「浚明院殿御実紀」巻50「徳川実紀」)。佐野善左衛門政言は尋問により狂気のいたすところとして切腹となりましたが、彼の死後五穀の価格が下がったので、民衆は佐野善左衛門を「世直し大明神」とあがめたそうです(「後見草」)。のちに松平定信は田沼政治の弊害を阻止するため、意次を刺殺する決心をしたが思い留まり、忠良な人物と協力して幕政改革を進めるため、田沼意次の屋敷に日参して贈賄したと述懐しているそうです(徳富蘇峰「近世日本国民史」23 田沼時代 時事通信社)。
 1786(天明6)年8月27日田沼意次は老中を免職、9月8日将軍家治が死去し(「浚明院殿御実紀」巻55「徳川実紀」)、1787(天明7)年4月15日家斉将軍宣下(「文恭院殿御実紀」巻2「続徳川実紀」)、同年5月20日江戸の打ちこわし激化(「杉田玄白日記」蘭学資料叢書6 青史社・「後見草」)など騒然とした世情を背景に、6月19日松平定信が老中首座となりました(「寛政重修諸家譜」巻第55)。

ぶらり重兵衛の歴史探訪2―会ってみたいな、この人にーまー松平定信

 杉田玄白はこの松平定信の登場について「白河の大守老職に挙られ給て後わつか三月はかりにして、悪風忽ちあらたまり、又逢かたきとおもふ世に再び逢奉る事の嬉しさに、拙き筆をこゝに止む。」(「後見草」)と述べています。

吉村昭「冬の鷹」を読む14

1788(天明8)年正月16日松平定信は京都の柴野栗山を幕府儒臣に登用(「文恭院殿御実紀」巻4「続徳川実紀」)、同年正月8日栗山はすでに江戸到着し(「杉田玄白日記」)、玄白は伯元を栗山に入門させます。1789(寛政1)年2月伯元は扇(玄白長女)と結婚しました(片桐一男「杉田玄白」吉川弘文館)。

栗山記念館―栗山について

1792(寛政4)年9月3日ロシア使節ラックスマンは伊勢の漂流民大黒屋光太夫を護送して根室に来航し通商を求めるに至り(「通航一覧」第7 巻之274 魯西亜国部2 国書刊行会)、このような北辺の急に刺激されて蘭学はさらに重視されるようになります。
こうして玄白が富と名声を高めていったのと対照的に、前野良沢は自宅に閉じこもり、オランダ語の研鑽に明け暮れる毎日を過ごしていました。『良沢という人、天性多病と唱へ、此頃よりは、常に閉戸して、外へも出ず、亦漫りに人にも交らず、特此業を以て楽みとし、日を消し居れり。其君(奥平)昌鹿公は、其素志の情合をよく知召し、「彼は元来異人なり」とて、深く咎もし給ず。元来其号を楽山とよびしが、高年の後、自ら蘭化と称せり。これは、昔君侯より賜りし名なりと。これは、君侯常に、「良沢は阿蘭陀人の化物なり」と御戯れにの給ひしより出たり。』(「蘭東事始」)
このように交際嫌いの良沢が高山彦九郎と親交を結んでいたことは注目に値する事柄です。高山彦九郎正之は上野国新田郡の郷士で、尊王論を唱え、京都に上って公家と接触、また諸国を遍歴し水戸藩の藤田幽谷とも交わりがありましたが、幕府の監視をうけ、悲憤のあまり九州久留米で自刃しました。彼は奇行が多く蒲生君平・林子平とともに寛政の三奇人と呼ばれています。

太田市―学び・スポーツー文化財―高山彦九郎記念館


吉村昭「冬の鷹」を読む15

 吉村 昭氏は前野良沢と高山彦九郎が親交を結んだ事情について次のように述べています。
 「なぜ良沢が彦九郎を親しく受け入れるようになったのか。仲立ちをしたのは中津藩士簗(やな)次正(又七)という人物であることは彦九郎日記からも確実に推測できる。
 群馬県前橋市の萩原進氏は、次正の仕える中津藩主奥平侯の先祖が、彦九郎の郷里である上野国の出であることに特殊な親近感をいだき接近したのではないかという意見を述べた。
 さらに私は簗次正と前野良沢の関係の調査にかかった。次正も良沢も中津藩に仕え、しかも築地鉄砲洲にあった中津藩の江戸中屋敷内に住居をもっていた。簗家の資料に「次正が和歌をよくし、一節截(ひとよきり 尺八の原型ともいうべき管楽器)の宗勲流を前野良沢より習い名手となる」という一節を見出した。」(「冬の鷹」著者「あとがき」)

京の住人たよりー洛中―三条大橋と高山彦九郎

1792(寛政4)年11月杉田伯元主催、大槻玄沢協力による杉田玄白60歳・前野良沢70歳の合同賀宴が開かれました(大槻玄沢「鷧斎杉田先生六十寿序」(「盤水漫草」岩崎克己「前野蘭化」2収録 東洋文庫604 平凡社)。大槻玄沢の杉田玄白に対する還暦祝いの文章はそのまま前野良沢に対する祝いの言葉でもありました。

吉村昭「冬の鷹」を読む16(最終回)

 1794(寛政6)年閏11月11日大槻玄沢が江戸の芝蘭堂で「おらんだ正月」をいわう[市川岳山(大槻玄沢門人)画「芝蘭堂新元会図」早稲田大学図書館所蔵(「冬の鷹」を読む11参照)]行事がありました(大槻如電原著・佐藤栄七増訂「前掲書」)。丁度この日が西暦1795年1月1日であったので29人の親友がこれを祝ったのです。
1802(享和2)年9月玄白70歳・良沢80歳の合同賀宴(大槻玄沢「鷧斎先生七十寿贅言」)が開催されました(大槻如電原著・佐藤栄七増訂「前掲書」)。
前野良沢はすでに「解体新書」の翻訳中に長女を失っていましたが、さらに妻a子や男子達(良庵)に先立たれ、その晩年は寂寥にみちたものであったようです。ただ次女峰子が幕府医官小嶋春庵に嫁していたので、良沢は春庵宅に引き取られました(岩崎克己「前掲書」)。
1803(享和3)年10月17日前野良沢は81歳で死去しました(野崎謙蔵「蘭化先生碑」「杉田玄白日記」)。
1805(文化2)年7月28日玄白は将軍家斉に拝謁(「文恭院伝御実紀」巻39「続徳川実紀」)、1807(文化4)年家督を伯元に譲り隠居、1815(文化12)年4月回顧録を脱稿して大槻玄沢に校訂を依頼(のちの「蘭東事始」大槻玄沢序文)、1817(文化14)年4月17日死去しました(大槻玄沢「杉田家系譜」)。
  この小説は1817(文化14)年4月17日杉田玄白が85歳で永眠したところで終了しています。

医療科学社―Web 医療科学―医療科学通信バックナンバーー2005年2号―東京の医跡Part2―杉田玄白と前野良沢の墓

井上靖「おろしや国酔夢譚」を読む1
 
この小説(株式会社「文芸春秋」発行)は江戸後期伊勢白子の船頭大黒屋光太夫らの船員たちが北の異国ロシヤに漂流、苦労の末帰国する冒険譚で、1966(昭和41)年1月から1967(昭和42)年12月にかけて月刊雑誌「文芸春秋」に連載され、1968(昭和43)年5月に発表した終章で完結、1992(平成4)6月映画化された作品です。
 ロシアのシベリア進出は1581年コサックの首領エルマークのシビル汗国攻撃を以って開始されました。彼らはシベリア原住民を制圧、1639年にはオホーツク海に到達しました。やがて清国との間に国境紛争が起こりましたが、ピョートル1世(大帝)は1689年ネルチンスク条約を締結し、清国側に有利な露清間の国境を確定しました。1706年カムチャッカ半島を領有、やがて首都ペテルブルグを建設、デンマーク人でロシア宮廷に仕えたベーリングに命じてアジア・アメリカ大陸の連絡状態を探検させました。大帝没後1728年ベーリング海峡、18世紀中ころまでにアラスカおよびアレウト列島が発見され、近海に棲息する毛皮獣が高価に取引されてコサックがその利益を独占するところとなりました(田保橋潔「近代日本外国関係史」明治百年史叢書 原書房)。

東方観光局―国別リンクーロシア・CIS諸国―ロシアー地図

井上靖「おろしや国酔夢譚」を読む2

  序章では大黒屋光太夫以前に漂流してアレウト列島あるいはカムチャッカ半島に上がり、シベリアからロシアにはいり、再び日本の土を踏めなかった不幸な漂流日本人の事が述べられています。
 1695年当時シベリア探検の根拠地であったヤクーツクからアナディル城砦司令としてアナディル(シベリア東端)に赴いたアトラソフは1696年暮れから1699年にわたり部下とともにカムチャッカ半島を探検しましたが、このとき異国の漂流民に出会い、この男はモスクワに連行されました。彼はそこで出先機関の取調べを受け、名はデンベイ(伝兵衛)という日本人であることが判明しました(エリ・エス・ベルク(小場有米訳)「カムチャッカ発見とベーリング探検」原書房)。
 1702年1月8日デンベイはピョートル1世に拝謁、彼は生活を保証され、1705年にペテルブルグで日本語の教師をしていました。1710年デンベイは洗礼を受けてガブリエルと名乗り、日本へ送還されることはありませんでした(木崎良平「漂流民とロシア」中公新書)。
 1710年4月日本船がカムチャッカ沿岸に漂着、10人が上陸したが原住民に襲われて4名殺害、6名捕虜となったが、その中の4名がロシア人に救出され、4名の1人サニマ(三右衛門)がペテルブルグに送られ、デンベイの助手として日本語の教師となりました。彼はロシアに帰化し、イヴァンという洗礼名を名乗りました(木崎良平「前掲書」)。

EVER GREEN FOREST―漂流@WIKI―更新順にページ一覧表示―H1695a―H1710a

井上靖「おろしや国酔夢譚」を読む3

 1729年薩摩の若潮丸がカムチャッカのロパトカ岬に漂着、ロシア人に率いられた原住民の襲撃を受け、17人の中2人を残して殺害されたのですが、2人がゴンザ(権蔵 権左)とソウザ(宗蔵 宗左)で、彼らはペテルブルグに送られ、1734年女帝アンナ・ヨアンノウナに謁見し、1736年科学アカデミーの中に日本語学校が開設され、ソウザ・ゴンザは教師となりました。しかしまもなくソウザは死去、ゴンザは「露日辞典」などを著し1739年死去しています(田保橋潔「前掲書」・村山七郎「漂流民の言語」吉川弘文館)。
 1745年南部藩出身の竹内徳兵衛一行の多賀丸が佐井港を出帆し難破して徳兵衛(上陸後死亡)の部下10人が千島列島のオンネコタン島に漂着しました。2人のカムチャッカ毛皮税徴収人に救出された10人(1747年一名死亡)のうち5人はペテルブルグに送られて日本語学校教師となりました。残りの4人(一名病没)三之助・利八郎・宮古の久助・大間の長助はイルクーツクに送られ同様に日本語教師をさせられました。ペテルブルグの日本語学校はイルクーツクに移されることになり、1754年イルクーツク日本語学校が開設されました(木崎良平「前掲書」)。竹内徳兵衛らの遭難民のことははじめて江戸時代の最上徳内「蝦夷草紙」や佐藤玄六郎「蝦夷拾遺」(大友喜作編「北門叢書」第1冊 国書刊行会)などの日本側記録に現れてきます。

EVER GREEN FOREST―漂流@WIKI―更新順にページ一覧表示――H1728a―H1744a

村山市公式サイトー検索インデックスー組織名から探すー商工観光課―観光&偉人―最上徳内

井上靖「おろしや国酔夢譚」を読む4

  1782(天明2)年12月13日船頭大黒屋光太夫は船員16人とともに神昌丸(百姓の彦兵衛の持船)に紀州藩の廻米500石、江戸に送る木綿・薬種・紙・膳椀類を積み込み、白子港を出発しました。神昌丸は西風に乗って外海に出帆しましたが、駿河の沖にさしかかった夜半暴風による怒涛にもまれ船は転覆寸前となったので、帆柱を切り倒し、上荷を投げ捨てて急場をきりぬけました(桂川甫周著 亀井高孝校訂「北槎聞略」岩波文庫)。

大黒屋光太夫記念館―大黒屋光太夫ってだれ

 翌年2月に入り、彼岸のころになると海上も穏やかになったので、舵桿を帆柱代わりにたて、衣類を帆の代用にしました。米は沢山あったので食事に事欠くことはありませんでしたが、2月末から飲料水が不足し雨水をためました。
 7月15日夜病気の水手(水夫)幾八が死去、船員の多くは鳥目になっていたので夜明けを待って水葬にしました。7月20日朝、賄(事務長)小市が東北方向に島影を発見、一同大喜びとなりました。同日昼すぎに伝馬船に荷物も積んで上陸しましたが、この島はアラスカからカムチャッカ半島に連なるアレウト列島の西端に近いアムチトカ島であったことを彼らは後に知るのです。

ほたるのひとり言―カテゴリーー歴史(音吉/大黒屋光太夫/源義朝)他―大黒屋光太夫記念館を訪れてbP伊勢から船出、漂流へ
2008-09-11 05:23 | 記事へ | コメント(0) |
| 歴史小説・日本文化論と史実(近世篇17) |
2008年09月01日(月)
「冬の鷹」を読む1〜「冬の鷹」を読む10
吉村昭「冬の鷹」を読む1

 この小説(新潮文庫)は前野良沢・杉田玄白という二人の個性的な人物の生涯をたどることによって、江戸時代におけるわが国蘭学の黎明期を活写した名作です。
 前野良沢[名は熹(よみす)、字(あざな 日本では学者・文人の実名以外の名)は子悦、号は蘭化または楽山、通称は良沢]は1723(享保8)年の生まれ(推定)で、幼時に両親を失い、豊前中津藩に仕える前野東元の養子となりましたが、東元死去により、淀藩の医師[古医方(中世において朱子学の影響を受けた李朱医学の観念的空論に対して、朱子学を批判する古学の影響を受け、実試を重視する漢方医学の革新派 日本学士院編「明治前日本医学史」第1巻 増補復刻版 日本古医学資料センター)の吉益東洞流]であった伯父宮田全沢に養われて成長しました。全沢は良沢に「世に廃れんと思ふ芸能は習置て、末々までも不絶様」[「蘭東事始」(「蘭学事始」)日本古典文学大系95 岩波書店)と教え、良沢は世にすたれた遊芸「一重切(ひとへぎり)尺八に似た細く短い縦笛、一節截(ひとよきり)ともいう」を学んで、その秘曲を極めたといわれます(岩崎克己「前野蘭化」1 東洋文庫600 平凡社)。

日本医事史抄

吉益東洞(よしますとうどう)のホームページ

 一方宝暦の末か明和の初年(1763〜4)良沢は青木昆陽に和蘭語を学んだようです。

写真紀行・旅おりおりー史跡を訪れるー墓地・終焉の地―関東―江戸以前―青木昆陽の墓

 1766(明和3)年オランダ商館長ヤン・クランス一行の江戸参府に付き添って大通詞西善三郎が江戸にやって来ました。この小説は中津藩医前野良沢が小浜藩医の杉田玄白を誘って、年1回行われる長崎オランダ商館長一行の江戸参府に随行するオランダ大通詞西善三郎を訪ねて、オランダのことやオランダ語学習の希望などを申し出るため、彼らの宿泊する江戸日本橋本石町の長崎屋に赴くところから始まります。

吉村昭「冬の鷹」を読む2

 杉田玄白[諱は翼(たすく)、字(あざな)を子鳳 号を鷧(い)斎、玄白は通称]は1733(享保18)年9月13日江戸牛込矢来(東京都新宿区矢来町)の小浜藩下屋敷内で誕生しました(大槻玄沢「杉田家系譜」早稲田大学蔵 資料影印叢書「杉田玄白集」早稲田大学出版部)。父は南蛮・紅毛流(ポルトガル船の通詞西吉兵衛がこの国の医術を伝え、また同船の入港禁止後和蘭通詞となり、同国の医術も伝えた医学流派)の同藩医杉田甫仙、母は彼を産み落とすと死去しました。17〜8歳のころから儒学を古学派荻生徂徠系統の儒学者に、医学を紅毛流外科医西玄哲(幕府奥医師)に学びました。
 1753(宝暦3)年ときの小浜藩主酒井忠用(ただもち 当時京都所司代 「寛政重修諸家譜」巻第61)に仕えることとなりましたが、翌年玄白は同僚の小杉玄適から京都で古医方の漢方医山脇東洋が日本最初の公許による人体解剖を行ったということを聞きました(「形影夜話」日本思想大系64 洋学上 岩波書店)。
 1754(宝暦4)年閏2月7日京都西郊で斬罪処分をうけた罪人の遺体解剖を小浜藩医の原松庵・伊藤友信・小杉玄適(友信と玄適は山脇東洋の門人)3人が京都所司代に願い出て許可を受けたのです。そこで38歳の屈嘉の死体について山脇東洋は解剖観察を記録、その内容には「管を以て気道を吹けば、則ち両肺は皆怒張し」とか「膀胱は、之を圧せば尿迸り出づ」などの実験的記述もあり、漢方医書と比較すると蘭方医書が正しいことを認めて、1759(宝暦9)年「蔵志」(三枝博音編「日本科学古典全書」第8巻 朝日新聞社)の題名で出版しました。このことは当時の医学界に大きな衝撃を与えたのでした。

フィールド・ミュージアム京都―いしぶみを探すー全件一覧―やー山脇東洋解剖碑所在墓地―山脇東洋観臓地

吉村昭「冬の鷹」を読む3

 玄白は1757(宝暦7)年25歳で父と別居、日本橋四丁目において開業しました(大槻玄沢「前掲書」)。同年7月平賀源内の首唱により、湯島天神の旗亭京屋九兵衛方において本草学の大家田村元雄(藍水)を会主とする物産会が開催されました(「物類品隲」序文)。
 平賀源内は讃岐高松藩の白石家の三男として1728(享保13)年讃岐国志度浦で出生、1749(寛延2)年家督を継いで平賀姓を名乗り、やがて藩主の命により長崎に遊学、1754(宝暦4)年家督を妹婿に譲り、やがて藩の許可をうけて江戸に赴きました。この目的は官医であった田村藍水に入門して本草学(中国を源流とする薬用植物・動物・鉱物を研究する学問)を学ぶためでした。この平賀源内の指導する物産会に小浜藩医の中川淳庵が有力会員として活躍しており、おそらく玄白も物産会を通じて平賀源内との交流を深めていったことでしょう(城福 勇「平賀源内」吉川弘文館)。1765(明和2)年玄白は小浜藩奥医師となりました。

平賀源内記念館 

 1766(明和3)年前野良沢とともにオランダ商館長一行の宿泊する長崎屋を訪れた杉田玄白に大通詞西善三郎は「それは必ず御無用なり(おやめになった方がいいでしょう)。夫(それ)は、何故となれば、彼辞(オランダ語)を習ひて理会するといふは至て難き事なり。我輩、常に阿蘭陀人に朝夕して(接触して)すら、容易に納得しがたし。中々江戸などに居られ学んと思い給ふは不叶(かなはざる)事なり。」(「蘭東事始」)と答えたので、玄白はもっともの事と思い、オランダ語を学ぶことをあきらめました。しかし前野良沢はオランダ語学習をあきらめず、数年後長崎遊学を実行に移すのです。

長崎県東京事務所―平河町2丁目通信―バックナンバーーVOL.7 長崎屋よ、ふたたび

吉村昭「冬の鷹」を読む4

 1769(明和6)年江戸参府のオランダ商館長に随行してきた大通詞吉雄幸左衛門(後に耕作 号 耕牛)が、豊前中津藩主奥平昌鹿(「寛政重修諸家譜」巻第546)母の骨折事故を治療した縁で同藩医師前野良沢は吉雄幸左衛門と懇意となり、藩主が中津に赴いたとき、藩主に願い出て長崎遊学が実現しました。良沢は長崎で吉雄幸左衛門・楢林氏らに従って約百日滞在しオランダ語を習い、すでに青木昆陽から学んだ「類語」(蘭和対訳単語集か)をもととしてわずかに700余言を習うことができ、彼国の字体・文章などの事もあらまし聞き書きし、蘭書も購入して江戸へ帰着しました(「蘭東事始」)。
 他方玄白は1769(明和6)年江戸参府のオランダ商館長に随行してきた大通詞吉雄幸左衛門に入門、幸左衛門が入手したヘーステル(ドイツ人)の著作シュルゼイン(図入りの外科書)を借り受け、その挿図を写し取ったのです。

吉村昭「冬の鷹」を読む5

 1771(明和8)年中川淳庵が江戸参府のオランダ商館長が宿泊している長崎屋へ行ってみると、商館長一行の中に「ターヘル・アナトミア」と「カスパリュス・アナトミア」の二書を所持しているものがあり、希望者に譲ってもよいというので、淳庵はこの二書を借りて同僚玄白に見せてくれたのでした。
 玄白はこの書物を一字も読むことはできなかったけれども、臓腑・骨節はこれまで見聞することとおおいに異なり、これは必ず実験して図説したものと知り、是非入手したいと思いましたが、高価であったので同藩の大夫(家老)岡新左衛門に見せてようやく蘭書を入手できました。
 ところが同年3月3日玄白に町奉行曲淵甲斐守家臣得能万兵衛から手紙で明日千住骨ヶ原(小塚原 当時刑場のあった所)で腑分け(解剖)を実施するので、希望ならば同所に来られよとの知らせがあり、まず同僚中川淳庵をはじめとして、そのころ往来もまれになっていた前野良沢にも連絡しました。翌朝待ち合わせの場所で前野良沢は先年長崎へいったとき入手したと言って、玄白が手にいれたものと同書・同版の「ターヘル・アナトミア」(ドイツ人クルムス著「解剖学表」蘭訳本1734年版)を紹介し説明しました。一同が骨ヶ原に赴くと執刀に当る予定の被差別民虎松が病気でその祖父が代わりになって、年齢50歳ばかりの大罪を犯した京都うまれの青茶婆という渾名(あだな)の女性の遺体を執刀解剖し、玄白らは臓器を観察するのみでした。

Tokyo Sky Blue―TOKYO PHOTO―Menu―荒川・足立・葛飾・江戸川区―南千住―延命寺首切り地蔵(小塚原)

吉村昭「冬の鷹」を読む6

 良沢とともに持参した「ターヘル・アナトミア」と照らしあわせてみると、一つもその図と異なることはありませんでした。昔から医経(漢説の医書)にある「肺の蔵は重さ三斤、そのかたち八葉の蓮華の敷(ひらき)たるがごとし。三葉は前に垂、三葉は後にたれ、小葉二つ左右に垂て人の両耳のごとし。」(「鍼灸重宝記」)などの分別もなく、腸胃の位置・形状も大いに古説と異なっていました。
 帰路玄白が「何とぞ此ターフルアナトミア、の一部、新たに翻訳せば、身体内外の事分明を得、今日治療の上の大益あるべし。いかにもして、通詞等の手をからず、読分ヶたきものなり。」(「蘭東事始」)と語ると良沢は「自分は年来オランダ書を読み出したいと思っていたが良友がいませんでした。皆さんご希望ならば、自分は長崎にもいき蘭語も少しは覚えています。それを種として共同で蘭書翻訳にとりかかりませんか。」とよびかけ、皆賛同すると良沢はただちに明日私宅へ集まってくださいといって別れました。
 「翌日、良沢が宅に集り、彼のターフルアナトミイの書に打向ヒしに、誠に艫・舵なき船の大海に乗出せしが如く、茫洋として寄るべきかたなく、ただあきれにあきれて居たるまでなり。」(「蘭東事始」)

吉村昭「冬の鷹」を読む7

 さてどのようにして此書を読み始めるかについては、最初に仰伏全象の図[全身の前向き(女)、後ろ向き(男)の図]があり、その名前と場所は判っているので、その図と符号を照らし合わせるのがとりつきやすいだろうということになりました。玄白は『ある日、鼻の所にて「フルヘッヘンド、せし物なり」とあるに至りしに、此語分らず。長崎より良沢求め帰りし簡略なる一小冊ありしを見合たるに、フルヘッヘンドの釈註に、「木の枝を断チ去れば、其迹フルヘッヘンド、を為し、又、庭を掃除すれば、其塵土聚り、フルヘッヘンド」すという様に読出せり。時に翁(玄白)思ふに「木の枝を断りたる跡愈れば堆くなり、又、掃除して塵土あつまれば、これもうずたかくなるなり。しかれば此語は堆と訳しては如何」といひければ、各々これを聞きて「堆と釈さば、正当すべし」と決定せり。』(「蘭東事始」)というような有名な蘭書翻訳の苦心を述べています。しかし「ターヘル・アナトミア」の鼻のところに「フルヘッヘンド」の発音に当る文字はなく「玄白の老齢故の記憶違いかと思われる。」(片桐一男「杉田玄白」吉川弘文館・岩崎克己「前掲書」にも同様の記述あり)
 吉村 昭氏は「83歳の老齢ではあっても、重要な著書である「蘭学事始」を書くにあたって、もしもオランダ語の知識を持ちつづけていたとしたら、当然ターヘル・アナトミアをひるがえして鼻の部分の文章を読んで記憶をたしかめたはずである。それを誤ったままにしておいたのは、玄白が「解体新書」出版後にオランダ語研究から完全にはなれてしまった証拠と考えるのが自然だろう。」(「冬の鷹」著者「あとがき」)といっています。

吉村昭「冬の鷹」を読む8

 玄白は翻訳仲間が一日かかって訳読できたところを、その夜ただちに整理し、記録しました。これは簡単な事のようですが、何人かの会合の内容をまとめていくには、こういう地味なまとめ役がいないと折角の会合が無意味になってしまうおそれがあります。仲間は玄白のこのような様子をみて時々笑ったようですが、玄白は「かたがたは身健やかに齢は若し。翁は多病にて歳も長けたり。ゆくゆくこの道大成の時にはとても逢いがたかるべし。諸君大成の日は翁は地下の人となりて草葉の蔭にて居て見侍るべし。」(「蘭東事始」)といったので、仲間の桂川甫周は玄白に「草葉の蔭」と渾名をつけたそうです。
 こうして彼らは1年半を費やして「ターヘル・アナトミア」の28枚の附図を中心として、それに対応する本文だけを翻訳することに成功したのです。
 玄白はおそらく1772(安永1)年翻訳蘭書出版を決心して、翻訳の中心となった前野良沢に巻頭を飾る序文を要請しました。しかし良沢は長崎遊学の途中筑紫の太宰府天満宮に参詣したとき、「某(それがし)、和蘭の術に従事するに、猥りに聞達の餌となす所あらば、明神これを殛(つみ)せよ。」と祈願したので、訳書の序文は勿論訳者の一人として名を載せることも辞退しました[野崎謙蔵「蘭化先生碑」(五弓雪窓編「事実文編」三 関西大学出版・広報部)・岩崎克己「前掲書」収録]。

MORIMORI HomePage―最近の更新等―太宰府天満宮


吉村昭「冬の鷹」を読む9

 また訳書出版にあたり玄白が心配したのは、1765(明和2)年後藤梨春(田村藍水に本草学を学ぶ)が江戸参府のオランダ商館長一行を長崎屋に訪問して見聞したことをまとめて「紅毛談(おらんだばなし)」を出版したとき、書中和蘭の二十五の横文字を三体載せてあったとして咎をうけた(大槻如電原著・佐藤栄七増訂「洋学編年史」錦正社)ようなことが、玄白の翻訳蘭書出版においてもおこらないか、あるいは蘭説を知らず漢説のみ主張する人が驚き怪しんで見る人もないという結果になることを恐れ、まず「解体約図」を世間でいう報帖(ひきふだ 広告のちらし)と同様のものとして出版し、世間の反応をみたのでした。
 こうして問題がおこらないことを確かめ、玄白は前野良沢を通じて大通詞吉雄幸左衛門の序文を得て1774(安永3)年8月杉田玄白 訳・中川淳庵 校・石川玄常 参・桂川甫周 閲・小田野直武(秋田藩士 平賀源内推薦)解体図描写による「解体新書」(「日本思想大系」65 洋学下 岩波書店)を出版、同書は桂川甫三(幕府奥医師 甫周の父)の尽力で将軍家治や老中方、九条家・近衛家・広橋家などの公家衆にも献上されました。

京都外国語大学付属図書館―特徴と活動―デジタル展示会〜世界と日本―日蘭交流400周年記念稀覯書展示会―ご入場口―「紅毛談」後藤梨春―「解体新書」杉田玄白―「蘭学階梯」大槻玄沢


吉村昭「冬の鷹」を読む10

 「解体新書」出版の成功は玄白を中心とする翻訳仲間の一致結束と慎重な世間への配慮がもたらした成果でしたが、他面玄白が「其頃より世人何となく彼国(オランダ)持渡の物を奇珍とし、すべて其舶来の珍器の類を好み、少しく好事(かわったものを好む)ときこへし人は、多くも少くも取聚て、常に愛せざるはなし。殊に故の相良侯(田沼意次)、当路執政の頃にて、世の中甚華美繁花の最中なりし」という時代で「「世風(世の中の有様)右のごとく成り行けるも、西洋の事に通たりといふ人もなかりしが、只何となく、此事(西洋のこと)遠慮することもなき様になりたり」(「蘭東事始」)と述べているように、前野良沢や杉田玄白らが蘭書訳読をはじめた1772(明和9)年には田沼意次が老中となり、従来の伝統にとらわれない自由な雰囲気がみなぎりはじめた世相も大いに影響したといえるでしょう。
 田沼意次の父意行は8代将軍吉宗が紀州藩主のとき紀州藩に仕え、さらに吉宗が将軍となると江戸に従い、御小納戸役として理財方面に従事しました。意次は13歳で吉宗に御目見を許され、15歳で将軍世子家重の小姓となり、家重が9代将軍になると江戸城本丸出仕となり、1758(宝暦8)年禄高1万石で大名となり、老中とならんで評定所出仕を命ぜられました。1760(宝暦10)年家治が10代将軍になると1767(明和4)年7月側用人となり遠州相良に築城しました(「寛政重修諸家譜」巻第1219)。

牧之原市観光協会―名所めぐりー歴史・伝統―田沼意次

 田沼意次の政策の特徴は商業資本と結合した積極的殖産興業政策で、鉱山開発・専売制を実施し、これによって多額の運上金を幕府に収納しようとしたのです。また蝦夷地調査と開発計画にも積極的でした(大石慎三郎「田沼意次の時代」岩波書店)。
 平賀源内は将軍侍医であった千賀(せんが)道有と道有が仮親になっていた田沼意次の妾らを通じて田沼意次に取り入ったようで、1770(明和7)年意次の世話により長崎に赴きました。
 1776(安永5)年にはエレキテルを作って評判となりました(大田南畝「一話一言」巻二 平賀鳩渓 日本随筆大成 別巻1 吉川弘文館)。これはオランダ船がもってきた摩擦起電器を修理したものにすぎませんでしたが、その放電現象を見るために、田沼意次とその妾も源内宅に立ち寄ってこれを見ました。
 しかし一方において彼は長年にわたり努力した秩父鉱山開発に失敗、1779(安永8)年自宅で殺傷事件を起こし入牢、その年の暮れに死亡しました。千賀道有は源内の遺体を引き取って自分の菩提寺に葬り、源内の親友であった杉田玄白は私財で墓碑を建てました(城福 勇「前掲書」)。
2008-09-01 05:25 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年07月06日(日)
「孤愁の岸」を読む7〜「孤愁の岸」を読む15
杉本苑子「孤愁の岸」を読む7

 1753(宝暦3)年12月25日幕府は薩摩藩主島津重年に濃・勢・尾三州川々御普請御手伝を命令、重年は帰国中であったので翌26日老中西尾隠岐守忠尚が薩摩江戸藩邸留守居役山澤小左衛門を江戸城に呼び出し命令を伝え、老中連署の奉書を交付しました。薩摩藩江戸家老島津主殿・島津主鈴は即日早飛脚を鹿児島に出発させて命令を藩主に急報しました。
 同月27日幕府は再び山澤小左衛門を呼び出し勘定奉行一色周防守政を治水工事御用とし、石野三次郎ら4名を治水工事目付役として派遣する旨を伝え、工事については万事一色周防守と打ち合わすべきこと、工事人足は村々百姓に申しつけ、町人請負にしないこと、現場には多数の役人を派遣するに及ばないことなどを伝え、仰渡書付三通を交付しました。
 薩摩藩江戸家老島津主殿・島津主鈴は奉書等に関する詳細な内容を知ろうと用人岩下佐次右衛門を一色周防守邸に派遣、来年何月ころより工事に着手せらるべきかを尋ねたところ、一色周防守は治水工事は来る正月末着手、三月末中止、九月ころ再び着手、十一月竣功の予定、仕様書・絵図面等は追って相渡すべきことなどを内達しました。同月28日岩下佐次右衛門は再び一色周防守邸を訪問、「幕府御見積の工事入費は如何程を要すべきか、内々承りたい」旨を用人へ申し出たところ、用人の返答は「凡そ十万両許りの御見積の由承り候、十四五万両にも及び申すべきかと存じ候」という漠然としたものでした。
 同月29日島津主殿・島津主鈴は去る27日以来老中堀田相模守並びに勘定奉行一色周防守に接触して探聞し得た情報や幕府から渡された仰渡御書付写三通その他を副え、国家老伊勢兵部・義岡相馬・新納内蔵・鎌田典膳・平田靭負・市来左中宛て早飛脚で通報しました(四五 島津氏世録正統系図 抄 「岐阜県史」史料編 近世五 岐阜県)。

杉本苑子「孤愁の岸」を読む8

 1753(宝暦3)年12月25日付美濃国川々治水命令の老中奉書は遅くとも翌年正月9日か10日ころには鹿児島に到着したことと思われます。この奉書に接した薩摩藩主島津重年と島津家重臣たちの衝撃は大きかったことでしょう。
 この小説は自宅で算用方吟味役をつとめる部下の笈川鉄之助と碁を打っていた薩摩藩家老平田靭負(ひらたゆきえ)が平田家の家扶宮増外記(みやますげき)から「城中より『申し談ずる儀あり、即刻登城せよ』との召し触れが参りました」と告げられるところからはじまります。

日本の川と災害―石碑の語る治水・利水災害の歴史―宝暦治水史蹟位置図―鹿児島市―平田公園―詳細情報

 つづいて前年12月29日江戸家老が発した続報は1754(宝暦4)年正月13日ころには鹿児島に到着したようです。
 当時幕府側から島津77万石の薩摩藩は裕福と見られていたようですが、藩財政は藩主継豊が竹姫を継室として迎えて以来失費続きで、藩内及び大坂などにおける借銀は1753(宝暦3)年当時4万貫余(「鹿児島県史」第2巻 鹿児島県)(銀60匁=金1両 金貨に換算すると約67万両)に達していました。このため5年以前から米租増徴の外人頭税、牛馬税、船舶税などの特別税が賦課され、藩債の償却など藩財政の再建に薩摩藩は苦慮している最中で、とくに御勝手方家老(財政担当家老)平田靭負正輔の苦労はなみなみならぬものがありました。
 しかるに今御手伝普請の幕命を受け入れれば数万貫の負債は最悪の場合倍加すると予想され、藩財政が破綻に陥ることは明らかです。
 藩主島津重年は一族重臣を鹿児島城中に招集し大評定を開いたといわれます。大評定においてあるものは幕命拒絶を主張するものや幕府との一戦を主張するものもありましたが、幕命拒絶が薩摩藩の滅亡を招くことは誰の眼にもあきらかであり、結局薩摩藩挙って工事を成し遂げるということに評定一決、正月16日御手伝総奉行に平田靭負正輔、副奉行に伊集院十蔵久東を任命することが家老伊勢兵部から全藩に発表されました。つづいて同年正月21日幕府老中宛松平薩摩守名で「濃州、勢州、尾州川々御普請御手伝仰付けられ、有難き仕合に存じ奉り候。」という文面の請書が幕府へ提出されたのです(伊藤信「前掲書」)。

杉本苑子「孤愁の岸」を読む9

 総奉行平田靭負がまず取り組まねばならなかったのは巨額と予想される御手伝工事費の調達でした。平田靭負はおそらく藩主島津重年の了承を得て中島源兵衛を大坂へ急行させ、大坂・京都の薩摩藩邸留守居とともに金策に着手するよう「御用銀さへ相調ひ候へば頂上の儀故、銀主共へ随分熟談致し饗応又は附届等致し候儀は申談じ、何ヶ度も時宜次第致す可く候」(「島津氏世録正統系図」岐阜県史 史料編 近世五)と指示しました。平田靭負は1754(宝暦4)年正月29日鹿児島を出発、2月16日大坂長堀の薩摩藩邸に入りました。平田靭負はこのとき江戸表から御手伝工費ははじめ14〜5万両と聞いていたが実際は30万両以上との内報があり仰天したようです。彼は美濃へ赴く途中大坂・伏見に留まり、とりあえず約7万両の借金を得て同年閏2月6日伏見を出発、同月9日美濃国安八郡大牧(岐阜県養老郡養老町大巻)の本小屋(治水工事御手伝の本部)豪農鬼頭兵内方へ到着したのでした。

underZero―観光―岐阜―岐阜県―薩摩義士(宝暦治水跡)その2−大牧工事役館跡

 「予め助役の費用を計るに、大抵三十万両ならんか。是れ芝邸(薩摩藩江戸藩邸)の伝ふる所なり。故を以て正輔、久東、大坂・伏見に在り。藩邸留守居等と共に用金を銀師に議す。…後雑費を会計し、銀一万三千三百七十八貫八百十五匁九分八厘五毛、これを金と為して二十二万二百九十八両なり。銀師に借り、余は国産及び士庶に収めて、以て之に充つ。」(「宝暦三年治水記」島津氏世録正統系図)
 この史料によれば、薩摩藩は宝暦治水御手伝費用を幕府担当者からの情報を総合して総額30万両と予測し、上方の商人から借金約22万両を調達、不足分を藩費節約と献納金、士分の扶持米削減、国産物の売却と庶民の負担増で賄ったことになります。しかし御手伝費用が30万両で賄えたとしても、これに従来の借銀4万貫余を加えると薩摩藩の負債は借金に換算して約90万両という巨額に達することになりました。
 薩摩藩が御手伝工事を監督するため現地に派遣した人数は江戸藩邸からの人員も含めて1000人近くに及んだということです。藩主島津重年は御手伝方心得書(宝暦四年二月付「島津氏世録正統系図」岐阜県史 史料編 近世五)を現地に送って幕府役人との間に紛争を起こさず、首尾よく成就するよう諭し、平田靭負は工事中多度神社(岐阜県安八郡輪之内町)に度々参詣して祈願したと伝えられます。 
 幕府がたてた工事分担区域は一の手から四の手に分かれ、伊勢海の河口から上流へ約60km、東西約40km、関係村落は193箇村に及びました。

薩摩義士―宝暦治水の偉業を偲ぶー千本松原が美しい写真の2005年カレンダー

杉本苑子「孤愁の岸」を読む10

 御手伝工事監督に従事する薩摩藩士が現地に到着する以前に、幕府側役人は薩摩藩士に対する大体の宿割りをきめ、普請箇所村々に触書を回して、普請材料は勿論、人馬賃銭・宿泊の飯米・牛馬飼料などみだりに値上げをせず相応の代金を受け取って提供すべきことを通達しました。
 薩摩藩士の待遇に関して伊勢国桑名郡五明村の庄屋・年寄・百姓代が高木新兵衛配下の内藤十郎左衛門宛に提出した止宿村々申渡書付に対する宝暦4年2月24日付請書によれば、賄いは一汁一菜とし心付けがましい馳走は一切しない、物品の売買は所の相場により安くするに及ばぬ、聊かの品でも代金を受け取らなければ之を渡すな、宿は見苦しくとも取り繕いは禁止するなどのことが述べられています(伊藤信「前掲書」)。
 第1次応急工事は同年2月下旬から5月下旬までに終了しましたが、4月14日薩摩藩士永吉惣兵衛・音方貞淵、4月22日には内藤十郎左衛門(高木新兵衛家来)が自刃する事件が起こりました。永吉惣兵衛埋葬時に薩摩藩士二宮四郎衛門から海蔵寺(伊勢国桑名)に差し入れた宝暦4年4月16日付一札に「松平薩摩守家来永吉惣兵衛、腰物に而致怪我相果候に付、」と自刃したことを隠しているのです。四十余名の薩摩藩士自刃の理由については正確な記録が欠け不明ですが、内藤十郎左衛門については工区担当の笠松郡代青木次郎九郎以下諸役人が息を引き取る寸前に十郎左衛門を尋問して作成した口上書(「西高木家文書」名古屋大学附属図書館所蔵)によると、「和泉新田普請所で土薄い場所は右村庄屋與次兵衛へ吟味させ直させたけれども、與次兵衛は横着者にて十郎左衛門の指図に従わず、もはや普請も完成したので、與次兵衛のことは次郎九郎様へ申し上げませんでした。ところが御徒目付衆から土薄い箇所には念を入れるようにとの御指摘があり、もっとものことと存じます。もし御徒目付衆から主人新兵衛にこの点についての御沙汰があれば、自分の面目がたたず切腹いたしました。」と申し述べたそうです。

名古屋大学附属図書館―高木家文書―文書の概要―治水関連史料―宝暦治水―6 口上書

日本の川と災害―石碑の語る治水・利水災害の歴史―宝暦治水史蹟位置図―桑名市―海蔵寺薩摩義士墓―弥富市―証玄寺 内藤十郎左衛門自刃之地

杉本苑子「孤愁の岸」を読む11

 1754(宝暦4)年5月11日島津重年は江戸参勤のため鹿児島を出発しました。このときその子善次郎(島津重豪)を継嗣として幕府に届けるため同行させたのです。重年はその途中美濃の工事現場を視察するため中山道垂井宿から美濃寺路をとって7月4日大垣へ到着しました。
 このとき総奉行平田靭負らは藩主の旅宿に伺候、それまでの工事実施状況を報告しましたが、とくに永吉惣兵衛・音方貞淵をはじめとして、6月には江夏次郎左衛門・茂木源助・永田佐左衛門の家来関右衛門などが割腹した事情を説明すると、藩主は驚き愁嘆しました。
 翌7月5日藩主は平田靭負の説明を聞きながら大垣より竹ヶ鼻へ出て三之手の工事現場を視察、中島郡石田村の出張小屋で休息、ついで一之手三柳村あたりの工事現場を巡視、尾張起宿に休息、後事を平田靭負に託して江戸へ向かいましたが(伊藤信「前掲書」)、これは苦難の薩摩藩士たちをどれほど勇気づけたことでしょうか。
 同年7月22日付薩摩藩国家老義岡相馬・鎌田典膳宛総奉行平田靭負報告書によれば、治水工事費用をできるだけ節約するために、平田靭負は幕府から工事人足は村々百姓に申しつけ、町人請負にしないことを命じられていましたが、これでは村方農民は土木工事に無経験であり、内藤十郎左衛門割腹の理由にあげられているように、村々百姓の中には報酬だけ受け取って監督者の指示に従わない横着者もいるので、費用がかかる割りに仕事ははかどらないという結果になりやすい欠点があります。これを土木工事に経験ある町人請負にすれば、町人は仕事を受注するために、できるだけ安い価格で工事請負を獲得するため競争することになり、村方請負より費用を節約できて、しかも仕事は能率的になるというわけです。
 そこで平田靭負は水行御普請難場三十八ヶ所の外請負(町人請負)を幕府当局に出願したところ難場六ヶ所の外請負が許可されました。さらに残る三十二ヶ所の外請負出願について青木郡代・吉田代官より「これは聞き届けられないであろう」といわれたけれども、引き続き努力することを述べています。また幕府は油島新田並びに大榑(おおくれ)川締切堤新築も御手伝工事を命ずる意向であることを伝え、人数増派を要請しています。
 三十二ヶ所の外請負出願について、勘定奉行一色周防守は村方が納得するならば、外請負にし、納得しない村方は村請負とするよう指令しました(伊藤信「前掲書」)。

杉本苑子「孤愁の岸」を読む12

  第2期工事で油島、大榑(おおくれ)川両方とも川をすっかりしめ切るか、ただしは中開けとするか、中開けの場合は食い違い堰とするか洗い堰とするか決定していませんでした。川をすっかりしめ切ることによって水害から浮かび上がれる村は堤の中開けに反対し、しめ切られるためにわが輪中への水あたりが強くなり洪水の危険にさらされる村々は中開けを主張して譲りません。
 大榑川と長良本流との分かれ口に、しめ切り堤より低い築堤を河中へ突き出すと、ふだん水位の下がっているときは、長良の水はせきとめられて支流の大榑川へはいってきませんが、長良の水位が常の水位より4尺を越すと、余分な水は築堤の上を洗いながら大榑川へ落ちはじめます。このため長良の水勢は弱まり、大榑川の流れも緩和される。これを「洗い堰」と呼びますが。対立する双方の主張を折衷した妙案といえましょう(「孤愁の岸」を読む3−HP「輪中の歴史―宝暦治水」参照)。
結局大榑川には洗い堰を築造、油島新田締切堤については北方油島新田より五百五十間、南方松之木村より二百間の締切堤を築出して中間三百間を開けることに決着しました。

木曽川文庫―周辺ガイド―大榑川洗堰

1754(宝暦4)年5月下旬から同年9月下旬第2期工事が開始されるまで、御手伝薩摩藩士は請負人や村人足その他を督促して陸上の工事を行う一方次期工事の準備に奔走していました。この間既成工事が出水によって破壊されることが多く、多面幕府役人の督励が急であったため、6月には江夏次郎左衛門・茂木源助・永田佐左衛門の家来関右衛門が割腹し、その数36名に上りました。しかしこれらの人々の割腹の原因や事情については不明であります。

日本の川と災害―石碑の語る治水・利水災害の歴史―宝暦治水史蹟位置図―鹿児島市―大中寺 薩摩義士墓

 また同年6〜7月疫病が流行し、薩摩藩士佐久間源太夫が8月25日幕府役人に送った書簡[四七「蒼海記」(高木新兵衛普請日記)巻8「岐阜県史」史料編 近世五]によれば、小奉行32人の内7人、歩行士164人のうち60人、足軽230人のうち90人が発病し数十人が病死(現在判明した病死者33名)したとのことで当分普請場所へ動員する人数を減少させ、また水行普請4工区2箇所より開始されるよう要請しています。
 第2期工事は同年9月24日起工、翌年5月22日検分を受けましたが、この間割腹自殺者は14名(ただし竹中伝六は薩摩藩士ではない)に上りました(「岐阜県治水史」 上巻)。

杉本苑子「孤愁の岸」を読む13

 1755(宝暦5)年5月24日総奉行平田靭負は国家老島津主殿・鎌田典膳宛報告書において一之手・三之手・四之手の幕府役人による出来栄え検分(二之手検分は同年正月20日ころ終了)が完了し、「いづれも出精故御普請丈夫に出来致し、御見分も御滞無く相済み、一段の儀に思召され候段」御丁寧に御挨拶これ有り候と述べています。
 また御手伝方人数、江戸御国元へ引取り候儀、勝手次第致すべき旨仰渡され、…明廿五日(伊集院)十蔵出立これ有り、拙者には廿六日罷立つ筈に候。」(「島津氏世録正統系図」岐阜県史 史料編 近世五)と記述しています。

木曽川文庫―周辺ガイド―千本松原と治水神社

 ところが翌5月25日平田靭負は自刃しました(公式には病死)。遺書はなく「住みなれし里も今更名残りにて立ちぞわづらふ美濃の大牧」という辞世の歌を残しただけでした。
  この小説は治水工事が完了していよいよ国許への帰途につく前日薩摩藩家老平田靭負は切腹、平田の部下たちは桑名から遺骸を輿に移して陸路伏見の薩摩藩邸に向かうため、平田の遺骸を乗せた駕籠を守護しつつ三艘の川舟に分乗して桑名まで下ろうとするところで終了しています。
 平田靭負の遺骸は同年5月27日山城国伏見町大黒寺に埋葬されました。副奉行であった伊集院十蔵は5月26日美濃を出発、6月6日薩摩藩江戸藩邸に到着しました。藩主島津重年はすでに病床の人となっていましたが、伊集院十蔵らから御手伝工事の様子や平田靭負自刃の報告を聴取し、6月8日靭負の菩提を弔うため大黒寺に種々の品を寄付させました(「大黒寺文書」)。しかし重年は美濃治水工事をめぐる心労も影響したのでしょうか、同年6月16日27歳の若さで死去しました(「寛政重修諸家譜」巻第108)。

日本の川と災害―石碑の語る治水・利水災害の歴史―宝暦治水史蹟位置図―京都市―平田靭負翁之墓

 宝暦治水工事に薩摩藩が支出した費用の総額は不正確な概算しか知ることができませんが、主として大坂の銀師から何回にも分割して調達した銀は一万三千三百七十八貫八百十五匁余、これを金に換算すると二十二万二百九十八両、この外藩債募集・献納金・藩費節約・税金増徴などによって捻出した金額が推定十五万両で、総計四十万両に近い金額だったと推定されます。またこれは石高七十七万石の薩摩藩の2年分の全収納米を超過する額でもありました。これに対して幕府が支出した金額は一万両をわずかに下回る額にすぎませんでした(伊藤信「前掲書」)。

杉本苑子「孤愁の岸」を読む14

 平田靭負の自刃については遺書もなく、その評価は下記のHP「薩摩義士顕彰館」のような内容のものが一般的です。

薩摩義士顕彰館―宝暦治水と薩摩藩士―平田家老の最後

 すなわち「総ての責任を一身に負い」切腹したという評価です。しかし総ての責任とは何でしょうか。私はこのことが判ったようでよく判らないのです。他方平田靭負には巨額の借財をどのような方法で償還するかについての個人的責任がかかって来るような事情があったのではないかという疑問が残るのです。この点について、この小説には下記のような内容の叙述がみられます。
 平田靭負は大坂の中級両替商天満屋十兵衛を介して接近してきた加賀金沢の砂糖小売商田島屋専右衛門に@薩摩藩は堺筋の砂糖仲買を通さず、直接砂糖を回すかわりに田島屋は上納金千両、来年の砂糖を担保に二千五百両を立入りの銀師(大名相手に担保・抵当をとらず、高利をむさぼる金貸し、富裕な両替商が多い)の利息より安く融資し向う4カ年間同じ特典を得る、A薩摩藩は上納金の受領書を出すが、二千五百両の先借り分については、勝手方家老平田靭負の仮受取りで済ませる、の2点を約束しました。しかしそれは平田以外の重職たちにも、むろん薩摩藩そのものにも何ら後日、迷惑の及ぶ恐れのない、要点をぼかした文書なのでした。つまり平田靭負は上述のような約束は実行できないことを承知の上で空手形を発行したことになるのです。このことについて、小説の末尾で笈川鉄之助の「御家老個人の責任は逃れられません。御家老、もしやあなたは、始めから命を捨てるお覚悟で事を企まれたのではござりませぬか。」との指摘に対して、平田は「彼らへの申しわけに切って捨てる腹など私は持ち合わさぬ。」と答えています。
 この叙述をうら付ける史実を、私が眼を通した史料や文献から見つけることはできませんでした。しかし後年における薩摩藩の藩政改革を調べてみるとこのようなことは小説の作者の創作というよりも、薩摩藩の藩政に一貫して貫かれている共通の発想であることに気づくのです。

杉本苑子「孤愁の岸」を読む15(最終回)

 島津重豪(しげひで)は1745(延享2)年11月7日島津重年の子として最高の家格の一つ鹿児島の加治木島津家屋敷で生まれました。幼名を善次郎といい、10歳のとき宝暦治水工事の最中、父重年に伴われて治水工事に苦心する薩摩藩士の姿を目撃したはずです。1755(宝暦5)年父重年死去により11歳で薩摩藩主となり、祖父継豊が後見しました。
 重豪は1787(天明7)年14歳の嫡子斉宣(なりのぶ)に藩主を譲り43歳の若さで藩政を後見しました。以後藩政後見を止めた時期もありましたが藩主斉興(なりおき)時代の1820(文政3)年まで藩政後見を勤めました。しかし公式に後見引退後もなお藩政に影響力を持ち続けていました。
 重豪が藩主となったとき、すでに薩摩藩は巨額の負債をかかえていました。彼は1807(文化4)年126万両に達していた藩債を1813(文化10)年徳政令を発して棄却しました。その後商人の多くは薩摩藩に不信感をもち、貸付を承諾しなくなったということです。それでも1818(文政1)年藩債は90万両余残っていました(芳即正「島津重豪」吉川弘文館)。

港区ゆかりの人物データベースーゆかりの人物リストー索引―しー島津重豪

 かくして重豪は1828(文政11)年ころ調所広郷(ずしょひろさと)に財政改革を命じます。このころ薩摩藩の藩債総額は500万両の巨額に達していました。1835(天保6)年調所広郷は京大坂で利息なし年2万両ずつ250年賦償還を宣言しました。この措置について銀主たちの恨みの声が渦巻いたことは当然でしょう。やがて調所広郷は密貿易を幕府隠密に探知され、1848(嘉永1)年薩摩藩江戸藩邸で服毒自殺したといわれます(芳即正「調所広郷」吉川弘文館)。
 このように薩摩藩の赤字財政対策は一貫して商人の犠牲のうえに推進されたものであることがお判りでしょう。「孤愁の岸」を読む14で述べたこの小説の作者の文章内容は、それが史料によって実証できないことであったとしても、作者の鋭い史眼の光る一節であるように思われます。

2008-07-06 05:36 | 記事へ | コメント(0) |
| 歴史小説・日本文化論と史実(近世篇15) |
2008年05月18日(日)
「市塵」を読む19〜「孤愁の岸」を読む6
藤沢周平「市塵」を読む19

 家宣のあとその子鍋松が4歳で7代将軍となり家継と名乗りました。家継の生母は勝田玄(元)哲著邑(浅草唯念寺の僧侶)の女です。矢島次(治)大夫の養女として甲府藩邸に奉公し喜世と名のるようになりました(「月光院殿の伝系」柳営婦女伝系巻之十六「柳営婦女伝叢」日本人物情報大系「女性叢伝編」1皓星社・「寛政重修諸家譜」巻第1469)。
 家宣には正室として京都の近衛家からきた煕子(天英院)があり(「有徳院殿御実紀」巻53 寛保元年2月28日条)、側室としてすでに御部屋の方やすめの方などがいましたが、やがて喜世は家宣の目にとまって側室おきよの方・左京の局と呼ばれるようになり、1709(宝永6)年7月鍋松を生みました(「有章院殿御実紀」巻1・「惇信院殿御実紀」巻16「徳川実紀」)。すでに家宣在世中から左京の局は大奥において大きな勢力となっていましたが、家宣没後髪をおろして月光院と称するようになった彼女は家継が将軍となることによって、天英院を越える実力者にのしあがっていったのです。

Jinbun−sha Official Homepage ―復刻古地図ー 御江戸―江戸城本丸詳図(附:大奥・二之丸之図)

 家宣没後間部詮房が月光院の許にいる幼将軍を擁して、新井白石の意見を取り入れながら幕政を指導していくようになりました。間部詮房は職務熱心で、甲府藩邸のころから家に帰る事は1年のうちわずかに3〜5度に過ぎず、まして幼将軍の世となってからはしばしも帰宅したこともなかった(「折たく柴の記」)ほどで、いつしか間部詮房と月光院との関係についての噂が飛び交うほどになりました。江戸城における反間部詮房・新井白石派や大奥における反月光院派がこうした成り行きを黙視しているはずはありませんでした。

藤沢周平「市塵」を読む20

 1714(正徳4)年正月12日江戸城大奥老女絵島・宮路は将軍家継の生母月光院の代参として芝の増上寺に参詣し、その帰り道に木挽町の山村長太夫座に立ち寄り芝居見物、幕間に酒や料理を運ばせ、主役の(生島)新五郎ら役者が出て接待につとめました。絵島はつい度を過ごして大奥の門限に遅れ、同年2月2日親戚の家で謹慎処分となりました。
 ところがこの絵島について山村座が取り調べをうけ、同年2月8日山村座は廃絶(「歌舞伎年表」)、(生島)新五郎は2月12日入牢となりました。つづいて3月5日絵島は評定所へ呼び出され遠流処分を言い渡されたのですが、3月12日罪を減ぜられて信濃国高遠の内藤駿河守清枚にお預けと決定しました(「有章院殿御実紀」巻7「徳川実紀」、「大奥女房其他処罰」「東京市史稿」市街編第18 東京市役所編纂)。この絵島生島事件が反月光院派によって企てられ、大袈裟なものに仕組まれたものであることは明らかでしょう。

ようこそ松崎家の世界へー先祖の思いー信州高遠の旅―絵島囲い屋敷

 この事件について新井白石が自伝「折たく柴の記」やその他の著作で記述したものはありません。おそらくこの事件は白石の手の届かないところで処理されたと思われ、6代将軍家宣という最大の庇護者を失った間部詮房・新井白石の幕政に対する影響力のかげりを示す事件であったようです。

藤沢周平「市塵」を読む21

 1716(正徳6)年4月半ばより将軍家継は病床に伏し、同月30日夕刻より重病となったので御三家の方々が江戸城に召集されました。紀州藩主吉宗は弓を射ている時でしたが急ぎ出仕すると、将軍家継は幼稚で御世継がなく、尾張中納言継友・水戸中納言綱條及び老臣らが会議して文昭院殿(家宣)の御遺命であるからと言って吉宗に御後見のことをすすめたけれど、固辞して受諾しなかったので天英院殿(家宣正室)も前代(家宣)の御遺命であるから天下万民のために政務代行されよと説得したが聞き入れず、御三家・諸老臣の推挙と群臣の一決でついに受諾されたということです(「有徳院殿御実紀」巻1「徳川実紀」)。同日将軍家継は8歳で死去(「新井白石日記」下 享保元年5月朔日条・「有章院殿御実紀」巻15「徳川実紀」)し、紀州藩主徳川吉宗が8代将軍を継ぐことになりました。

戦国かわら版―戦国データベースー徳川家康―徳川家一覧―徳川御三家―尾張徳川家

 しかし天英院のいう家宣の遺命がはたして紀州藩主吉宗を推挙することであったかどうかは疑わしいのです(「市塵」を読む18参照)。天英院と結んだ間部反対派が家宣の遺命をまげて紀州藩主吉宗をかつぎ出したというのが真相のようです。
 同年5月3日白石は辞職願いを提出していましたが(「新井白石日記」下)、5月16日吉宗は間部詮房・新井白石ら前将軍の側近をすべて罷免しました(「有徳院殿御実紀」巻1「徳川実紀」)。間部詮房は1717(享保2)年上野国高崎城主から越後国村上城主に転封、1720(享保5)年村上で死去しました(「寛政重修諸家譜」巻第1461)。

藤沢周平「市塵」を読む22(最終回)

 1712(正徳2)年5月白石が拝領した一ツ橋外(小川町)の屋敷は1717(享保2)年正月16日召し上げられ、内藤宿(東京都渋谷区千駄ヶ谷)六軒町に屋敷替えとなりました(「新井白石日記」下)。白石が見に行くとそこは誰一人住まず麦畑ばかりだったので深川一色町の借宅に移転、ここは手狭のため同年7月22日小石川同心町に移転しました。ところがここが火災に会い、1721(享保6)年閏7月15日内藤新宿の新宅(現在の新宿御苑の一隅)に移住しました。小石川同心町から内藤新宿の住居時代にかけて白石は著述活動に没頭しました。

新宿御苑へようこそー歴史―内藤新宿四谷荘

 拝領屋敷召し上げの冷酷な仕打ちを吉宗の指示によるものと考えていた白石ははじめ吉宗嫌悪の感情をもっていたようです。吉宗は反間部・白石派の老中や林信篤らの意見を採用して、家宣時代に行われた武家諸法度の改訂や対朝鮮外交を綱吉時代にもどす政策を採用しました。しかし吉宗が白石の意見を聴聞しようとの意思をもっていたことは室鳩巣の書簡から明らかです。白石には吉宗の諮問に応ずる気持ちは一切なかったので、室鳩巣の示唆により吉宗は白石との接触をあきらめたようです。白石も内藤新宿の住居時代には拝領屋敷召し上げの冷酷な仕打ちが吉宗の指示によるものではないと知り、吉宗が昔の如く千石取りの旗本の身分を保証してくれたことを親友佐久間洞巌あての書簡で述べて感謝しているのです(宮崎道生「前掲書」)。
 この小説は老衰した白石が弱った体力を振り絞って著作「史疑」の完成に取り組むところで終了しています。しかし白石最晩年の大著「史疑」は失われ、現在では断片的遺文が知られるだけです(宮崎道生「前掲書」)。白石が死去したのは1725(享保10)年5月19日で享年69歳でした(「寛政重修諸家譜」巻第1218)。墓は現在高徳寺(東京都中野区上高田1−2−9)内にあります。

だるまさんが転んだー「日本と韓国」などー日本の中の朝鮮―関東地方・首都圏―新井白石墓

 新井白石の生涯は苦難と努力の連続でした。しかし君主でありながら家宣のような白石に対する敬意と親愛の情を抱き続けた人物に出会えたことは幸福な人生であったというべきでしょう。

杉本苑子「孤愁の岸」を読む1

 杉本苑子「孤愁の岸」(埼玉福祉会 大活字本シリーズ)は濃尾平野を流れて伊勢海に注ぐ木曽川・長良川・伊尾川(揖斐川)治水工事請け負いを1753(宝暦3)年江戸幕府から命ぜられた薩摩藩の悲憤と苦闘の歴史を描写した小説で、1963(昭和38)年第48回直木賞を受賞した作品です。
 承平年間(10世紀)に著された源順の「和名類聚抄」によれば、濃尾平野の北部各郡にはいくつかの郷がおかれて住民の集落が形成されていたことがわかります。当時の住民は三角州の高所に高畑を開発してささやかな洪水防御の堰堤を作る一方、次第に下流の低地にも水田を耕作するようになっていました。しかしこの堰堤は三角州の上流に向かった方向だけに築いていただけで下流側に堤防はありませんでした(「岐阜県治水史」上巻 岐阜県)。
 「輪中(わじゅう)」が初めて文献にあらわれるのは「百輪中旧記」で1329(元応1)年高須輪中が潮除堤を築いて伊勢海から逆上する潮汐の侵入を防ぐためはじめて輪中(集落の周囲をめぐらした堤防)を作ったと記述されています。

西江小プラザー輪中のくらし表紙(史跡めぐり)−輪中のくらしー川に囲まれた土地―映像―高須輪中

 この地域における洪水の記録は奈良時代(「続日本紀」神護景雲3年9月8日条)、平安時代(「日本三代実録」貞観7年12月27日条)にもありますが、洪水の記録は少なく、後世の水源森林乱伐や焼畑農業の盛行などにより、室町時代以降洪水が多発するようになりました。

杉本苑子「孤愁の岸」を読む2

 1600(慶長5)年関ヶ原の戦いに徳川家康が勝利、1603(慶長8)年江戸に幕府を開き、1605(慶長10)年秀忠に将軍職を譲って自らは駿府にあり幕政を指導しました(「徳川家康」を読む20参照)。
 1607(慶長12)年閏4月26日家康は子徳川義直を尾張に配置(「大日本史料」第12編−4)、美濃・伊勢には幕府の天領ならびに譜代大名領や旗本領を与え、さらに伊奈備前守忠次の建策と平岩主計の同意で尾張国を守るための木曽川左岸大堤防(御囲堤)築造を決定しました。これは当時大坂城にいた豊臣秀頼と豊臣恩顧の西国大名に対する防備という軍略上の配慮と言うべきでしょう。
 御囲堤の築造工事は1608(慶長13)年起工して翌年完成したものです。此れに対して美濃側堤防は美濃代官に命じて修築させたのですが、御囲堤と比較すれば貧弱なもので、しかも御三家尾張藩は御囲堤と同様の高さの堤防築造を許さず、美濃側堤防は御囲堤より3尺低くせよという不文律ができたといわれています(「岐阜県治水史」上巻)。

木曽川上流河川事務所―知るー子供達にもわかる河川事業―御囲堤

杉本苑子「孤愁の岸」を読む3

 江戸幕府の水害復旧あるいは堤防修築の仕方には4通りの方法がありました。(1)公儀御普請は幕府の費用で実施するもの。(2)国役普請は民衆に国役金を賦課して工事費に宛てるもの。(3)御手伝御普請は諸大名に命じて助成させるもの。(4)自普請は領主あるいは住民の出願を認可し、自費で工事させるものです。いずれも水行奉行および笠松郡代陣屋堤方が工事を監督しました。美濃国水行奉行は寛永年中石津郡多良の領主高木権右衛門貞勝・同次郎兵衛貞俊・同藤兵衛貞友の三家に命じて美濃国堤川除国役普請奉行を勤務させたことを契機としてこれ以後高木三家が1年ずつ水行奉行を勤める慣例となりました。
また笠松郡代陣屋堤方は国役金の収支、治水工事の設計施工監督、堤防保護などを任務としていました(伊藤信「宝暦治水と薩摩藩士」鶴書房)。

緑と水に囲まれた生活―緑に囲まれた町―高木三家(西高木家)−高木三家(東高木家)

木曽川文庫―周辺ガイドー笠松郡代陣屋跡―木曽三川治水偉人伝―井沢弥惣兵衛為永

 当時伊尾川と長良川とは中須川ならびに大榑(おおくれ)川によって通じ、木曽川は逆川によって長良川に通じ、長良川はさらに南流して中島郡小藪村地先で木曽川と合流していました。この二川を合流した木曽川は伊勢国桑名郡油島新田地先で一旦伊尾川と合流し、
尾張国長島輪中の北端松之木村地先で再び分かれ長島輪中を挟んで南流し伊勢海に注いでいました。またこの三川の河床は伊尾川がもっとも低く、ついで長良川、木曽川の順に高くなっていました。

輪中の歴史―BACK―長良川の洪水と治水の歴史―宝暦治水 

 雨天は西方より東方に移動するので、三川中まず伊尾川が出水、ついで長良川、さらに遅れて木曽川が出水するようになります。ところが伊尾川は長良川の出水により水位が高くなり、さらに木曽川の出水によってますます水位を高めて減水しないということになるのです。この水害を防ぐには三川を分流させることが必要でした。
 井沢弥惣兵衛為永は始め紀州徳川家に仕えたのですが、紀州藩主徳川吉宗が8代将軍となると江戸幕府勘定所に出仕して新田開発・河川浚治などを担当しました。1735(享保20)年8月10日為永は勘定吟味役より美濃郡代兼帯を命ぜられ、笠松役所に来任しました。美濃在任中彼は綿密な三大河川分流治水工事計画をたてて幕府に建策しました。宝暦治水工事は為永の計画にもとづいて実施されたものであるといわれています(伊藤信「前掲書」)。

杉本苑子「孤愁の岸」を読む4

 1746(延享3)年正月高須輪中尾州領及び高須領40箇村の庄屋は連署して木曽・伊尾両川の分流、桑名川の浚渫等の工事施行、同時に本阿弥新田その他の16箇村も庄屋が連署して木曽・伊尾両川分流工事実施の嘆願書を幕府に提出しました。
 かくして幕府も翌年11月奥州二本松城主丹羽若狭守高庸に美濃・伊勢両国川々の水行普請御手伝いを命じ、工事を施行させました(四三 濃州勢州川々御手伝御普請ニ付覚帳 「岐阜県史」史料編 近世五 岐阜県)。これが美濃国川々御手伝普請のはじめです。しかしこの普請施行後も洪水氾濫や悪水停滞の水害を免れることは出来ませんでした。
 其の後も続く農民の治水工事嘆願[四四 濃州川通普請願(大垣領八八ヶ村)「岐阜県史」史料編 近世5 岐阜県]に対して1753(宝暦3)年4月勘定奉行神尾若狭守春央の内申により、代官吉田久左衛門は幕府普請役とともに美濃国に来て笠松郡代・水行奉行ら立会いの下、7月にかけて木曽・長良・伊尾三大川からその他の支川に至るまで視察しました(「笠松郡代文書」)。この入用金は70万両と見積もられています(「渡辺家文書」)。ところが同年8月中旬連日の豪雨により三大川の堤防決壊、洪水による農村の被害はおびただしく、そのために飢餓のものが続出する状態となりました。同年12月6日勘定奉行一色周防守政は吉田久左衛門らの復命書(「宝暦三年柳営日次記」)にもとづき、老中筆頭堀田相模守正亮へ普請施行の内申書を提出しました。この総経費は93000両と見積もられていました(「笠松郡代文書」)。
 その結果同年12月25日幕府は薩摩藩主島津重年に濃・勢・尾三州川々御普請御手伝を命令したのです(四五 島津氏世録正統系図 抄 「岐阜県史」史料編 近世五 岐阜県)。

杉本苑子「孤愁の岸」を読む5

 関ヶ原の戦いで徳川家康と戦った島津義弘を家康は許し島津氏の薩摩・大隈・日向の所領を保証しました(「徳川家康」を読む20参照)。しかし徳川氏は島津氏と融和する姿勢をとりながらも、その勢力を削減しようとして警戒を怠らなかったのです。

江戸三百藩HTML便覧―九州の諸藩―鹿児島藩

 薩摩藩主島津家久の時代、藩は公儀の許可を得て琉球王国を属領としました(「徳川家康」を読む21参照)。以来、米・砂糖・毛皮などの貢物は莫大な数にのぼったし、琉球を中継地として中国その他との密貿易をする利便も生まれました。しかし世相の変遷とともに藩収入を上回る出費も増加していきました。
 1697(元禄10)年7月朔日5代将軍徳川綱吉は藩主島津綱貴に東叡山寛永寺根本中堂新築工事の助役を命じました(「常憲院殿御実紀」巻36「徳川実紀」)。この臨時支出によって藩財政は悪化、1729(享保14)年藩主継豊は8代将軍徳川吉宗から常憲院殿(綱吉)の養女竹姫(綱吉の愛妾大典侍の局の姪 清閑寺大納言煕定の女 浄岸院 「寿光院殿之系」柳営婦女伝系巻之十四 柳営婦女伝叢 日本人物情報大系 女性叢伝編1 皓星社)を継室(後妻)として娶ることを命ぜられ(「寛政重修諸家譜」巻第108)、そのための出費(新御殿建築・調度その他)により借銀は3倍に増大しました。
 1739(元文4)年継豊が隠居、吉宗は継豊の側室の子宗信に松平姓を与え、宗信が藩主になりました。さらに翌年4月28日宗信に尾張中納言宗勝の息女(房子姫)を娶れと命じました(「有徳院殿御実紀」巻51「徳川実紀」)。しかるに房子姫は1748(寛延1)年死去(「御系譜」(尾張家)「徳川諸家系譜」第二 続群書類従完成会)、すると幕府は翌年3月6日房子の妹(勝子姫)との婚姻を宗信に命じてきたのです(「惇信院殿御実紀」巻9「徳川実紀」)。島津家はこれも受諾したが、今回は島津宗信が1749(寛延2)年7月10日鹿児島において22歳で死去した(「寛政重修諸家譜」巻第108)ため、尾張家と島津家の縁組は不成立におわったのです。この後宗信の異母弟重年が薩摩藩主を継承しました。

杉本苑子「孤愁の岸」を読む6

 徳川吉宗は1745(延享2)年9月25日将軍職をその子家重に譲り(「惇信院殿御実紀」巻1「徳川実紀」)なお幕政を後見していたようですが、1751(寛延4)年6月20日死去しました(「惇信院殿御実紀」巻13「徳川実紀」)。
 9代将軍徳川家重は「御所多病にましましければ。御代つがせ給ひしはじめよりつねに後閣(大奥)におはしたまふこと多ければ。平常の御言行知り奉るもの少し。」(「惇信院殿御実紀」巻31「徳川実紀」)という状態で「ろれつ回らせ給はず。上意といふ事曾て無之。於御前被仰渡事は、上意の代り、御言葉の御名代として大岡出雲守(忠光)、上意を申達せらるるなり。」(馬場文耕「当時珍説要秘録」巻之一 当将軍家家重公御虚性の事 叢書 江戸文庫12「馬場文耕集」 国書刊行会)と噂される有様でした。

坪田敦緒HomePage―相撲評論家の頁―弊ページ構成―史料庫―史書・歴史物語―解題タ行―《当時珍説要秘録》とうじちんせつようひろく

また家重は将軍就任直後、長期にわたり吉宗を補佐してきた老中松平乗邑を罷免(「惇信院殿御実紀」巻1延享2年10月9日条「徳川実紀」)しています。「徳川実紀」はこの乗邑罷免について「いかなる故にやとうたがひをいだきけるも少なからず。されどその事の子細は。秘して伝えざればしるものなし。」と述べています。将軍家重の評価や乗邑罷免の真相については諸説があります。

歴史研究所―日本史―徳川将軍十五代―九代将軍:徳川家重

 吉宗の時代における幕府の対島津政策は徳川一門と島津氏を婚姻関係で結びつけ、あわせて財政面から薩摩藩を弱体化させようといういわゆるアメとムチの併用ということができるのですが、家重の時代になると露骨にも財政面から薩摩藩を弱体化させようとするムチのみの政策すなわち濃・勢・尾三州川々御普請御手伝命令に転換したのです。
 このような政策転換を推進した人物は誰であったか不明ですが、おそらく尾張中納言宗勝が関わっていた可能性が高いでしょう。
 当時美濃の総石高約645000石のうち尾張藩約128800石、天領約117600石がもっとも多く、宝暦年間幕府が薩摩藩に命じた工事区域の大部分は尾張藩と天領で、工事の中心地には尾張藩分家高須藩の領地15000石も含まれていました(伊藤信「前掲書」)。
 高須藩は尾張藩主徳川光友の次男義行が分家して成立した藩で、尾張中納言宗勝もはじめ高須藩主松平摂津守義惇と称していました。しかるに1739(元文4)年1月12日尾張藩主徳川宗春は将軍吉宗に蟄居を命ぜられ(「有徳院殿御実紀」巻49「徳川実紀」)、宗春に嗣子がなかったため、高須藩主義惇が尾張藩主を継承して宗勝と改名、宗勝の次男義敏に高須藩主を継がせたのです(「御系譜」(尾張家)「徳川諸家系譜」第二)。故に尾張中納言宗勝は三大川水害の状況や治水工事の困難を十分承知していたはずです。宗勝は婚姻政策を通じて吉宗の薩摩藩牽制策に協力してきたのですが、上述のような事情で婚姻政策が失敗した上は、薩摩藩を財政的破滅に導きかねない非情な施策を幕府首脳に働きかけたのではないでしょうか。
2008-05-18 11:48 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年05月08日(木)
「市塵」を読む9〜「市塵」を読む18
藤沢周平「市塵」を読む9

 1709(宝永6)年5代将軍綱吉は死去し、家宣が6代将軍となりました。家宣は間部詮房を補佐役とし、老中格で評判のよくなかった柳沢吉保の隠居を許可、大学頭林信篤に代わって彼の仕事の大半を新井白石に代行させるなど人事の刷新につとめ、白石は幕臣として500石を給与されました(「新井白石日記」下 宝永6年7月6日条)。しかも白石は江戸城中の口部屋の一室を与えられました(「同上」下 同年11月3日条)が、中の口部屋とはその過半が大老・老中・若年寄・側用人の控室に宛てられていたところで、家宣は白石に幕府首脳並みの待遇を与えたことを意味するものです。
  幕政改革について家宣はまず同年正月20日「生類憐みの令」を廃止し、当時の人々の大歓迎を受けました。家宣の重要政策は総て白石の建策立案によるものであり、7代将軍家継の時代に完了したものです。その内政・外交について、二・三紹介するに止めます。
 ア 通貨改良 家宣が江戸城本丸に移り、綱吉御台所が移り住む御所を造るための会議を開いたところ「国財尽き果てて、今後支出すべきものもない」という有様でした。国家財政を司る老中大久保加賀守忠朝は何も知らず、実務は勘定奉行荻原近江守重秀(「寛政重修諸家譜」巻第601)に任せられておりました。

明るい!?国家公務員のページー経済から見た江戸時代

 荻原重秀の申す所によれば、御料(幕府の直轄領)すべて四百万石でそこから年々納入される金額は約七十六〜七万両、この中から夏冬旗本に給与する切米金三十万両余を除くと残り四十六〜七万両となります。しかるに去年の国家の費用は約百四十万両でこの外焼失した内裏を造営する支出は約七〜八十万両に及ぶでしょう。ですから国家財政の不足は約百七〜八十万両余に及びます。
 これを聞いて老中大久保忠朝らは驚き、重ねて荻原重秀にその対策を尋ねたところ、荻原重秀は1695(元禄8)年9月はじめて金銀貨を改鋳、すなわち金銀貨に銅鉛をまぜ、それによって五百万両ほどの利益を得たといい、今この急を救うには、金銀貨の改鋳によって利益を得るよりほかに方法がありませんと答えました。

藤沢周平「市塵」を読む10

 家宣はこうした荻原重秀の建策を認めませんでしたが、荻原重秀はひそかに品位を下げた通貨を鋳造していました。この通貨についての封事をさし上げると、家宣は「才あるものは徳あらず、徳あるものは才あらず。真材(まことの人材)誠に得がたし。今にあたりて、天下の財賦(財政)をつかさどらしむべきものいまだ其人をえず。年比(としごろ)重秀が人となり、しらざる所にはあらず(重秀の人柄を知らないのではない)」(「折たく柴の記」)と答えました。
 かくして白石は荻原重秀弾劾を決心し1712(正徳2)年3月から9月10日まで3回におよび荻原重秀罷免を家宣に迫ったのです(宮崎道生「前掲書」)。家宣は白石の激烈な態度に驚き、翌11日間部詮房を通じて荻原重秀罷免を白石に知らせてくれました。
 家宣が死去する直前、白石進言による金銀復旧遺命により、1713(正徳3)6月白石は7代将軍家継に「改貨議」を提出しました。かくして1714(正徳4)年5月15日金銀復古令が出され、それは改貨決定の宣言と遵法の諭示・改貨完了までの金銀通用方法の指示・新古金銀割合の次第・諸国商人の両替する者に対する申し渡しの4文書で構成されていました。しかし法令は白石の金融に関する実務理解の不十分さもあったのでしょうか、一時金融界の混乱を招き、幕府の赤字財政解決には程遠いものであったことは否定できません。

ビジネスオンラインー経済コラムマガジンー07.5.28(483号)−荻原重秀と新井白石

藤沢周平「市塵」を読む11

イ 対朝鮮外交 1402(応永9)年室町幕府3代将軍足利義満に対して明皇帝は「日本国王源道義」宛ての返書を与え、義満も翌年これに応えて「日本国王臣源道義」と署名した上表文を明皇帝に上呈したように、義満は朝鮮に対しても1404(応永11)年「日本国王源道義」と称しています。以後4代将軍足利義持が明に対するのと同じように「日本国源義持」と称したのを例外として、室町政権は朝鮮に対して征夷大将軍を「日本国王」と自称する慣例でした(中村栄孝「室町時代の日鮮関係」「日鮮関係史の研究」上 吉川弘文館)。
秀吉の朝鮮出兵により日朝関係が断絶した結果、対朝鮮貿易に依存していた対馬藩は日本を警戒して日朝間の国交回復に慎重な朝鮮を説得して日朝国交回復を実現しようと必死でした。1607(慶長12)年に日朝間の国交が回復(「徳川家康」を読む21参照)しましたが、前年末朝鮮にもたらされた徳川家康の国書と称するものは「日本国王」と自称し、かつ印は対馬藩が偽印を使用したものでありました。
1617(元和3)年対馬藩の橘智正が2代将軍秀忠(「日本国王源秀忠」)の朝鮮国王へ伝達した国書も偽作で、これに対する朝鮮国王の復書に応えた答書は以心崇伝が朝鮮使臣の要請を斥けて「日本国源秀忠」の名で書いたにもかかわらず、朝鮮に伝達されたものは対馬藩によって「日本国王源秀忠」と改竄されていました。
1623(元和9)年徳川家光が3代将軍になると対馬藩から朝鮮に対して通信使の派遣を要請、翌年朝鮮は回答使を日本へ派遣しましたが、このときの返書も将軍の称号について以心崇伝の意見で「日本国主」としたのに対馬藩の柳川調興らは「日本国王」に改めています。
やがて対馬島主宗義成と柳川調興との間に紛争が起こり、1635(寛永12)年将軍家光親裁により宗義成と柳川調興と対決させた結果、宗義成は許され柳川調興ら国書改竄関係者は処罰されました(中村栄孝「江戸時代の日鮮関係」「前掲書」下)。かくして以後征夷大将軍の外交上における称号は「日本国大君」と定められました。その考案者及び理由は不明ですが、中村栄孝氏はその人物がおそらく林信勝(羅山)であろうと指摘しています(「外交史上の徳川政権」「前掲書」下)。
朝鮮は3代将軍家光の治世に3度派遣したことをを例外として、将軍の代替わりごとに将軍襲職祝賀使節として通信使を派遣することを慣例としていました。

邪馬台国大研究―23歴史倶楽部ANNEX−朝鮮通信使―雨森芳洲庵

藤沢周平「市塵」を読む12

 家宣ははじめ林信篤(鳳岡)に通信使来日に関する先例を調査させましたが納得できず、あらためて白石に検討させました。
 白石は家康のとき朝鮮への書翰に「日本国王」の称号を用いていたと考え(正確には足利義満)、正徳年間時にも「日本国王」と記述すべき由を答え、家宣はこのことを対馬守を通じて朝鮮に復号通告をしました。その理由として白石は『外国人はわが国天子を日本天皇と申し、武家(将軍)のことを「日本国王」と申す先例があった。しかるに寛永の比[1636(寛永13)年]に至って「日本国大君」と記述するようになってからこれが後の例となったのである。しかし「大君」は彼国(朝鮮)では臣子に授ける職号である。また「大君」は天子の異称であると異朝(中国)の書(「周易」)にみえる。だからもとのごとく「日本国王」と記述すべきである。』(「折たく柴の記」)と述べています。
 これに対して対馬藩に仕える儒学者雨森芳洲は白石と同じく木下順庵の門下でしたが、新たに将軍を日本国王と称しても、そのために朝鮮側の恭敬が少しも増すわけのものではないと白石を批判しました[1711(正徳1)年3月14日の白石宛書翰 栗田元次「新井白石の文治政治」石崎書店]。
 上記の復号通告に対して朝鮮使節はすでに日本へむけて出発した後でしたが、朝鮮朝廷で討議が行われ、この通告は許容できぬとの強硬意見もでました。しかしこの通告に従うことが別に彼(日本)の指揮をうけることになるわけでもないから、改書して送るべしとの意見が朝鮮国王の認める所となりました(栗田元次「前掲書」)。
 さらに来日した朝鮮使節の待遇を簡素化し、これによって従来約百万両の出費を約六十万両に減少させて窮乏する幕府財政の節約を成功させました。

藤沢周平「市塵」を読む13

 同年11月11日辞見(お別れ)の儀(式)終了後、将軍返書の文中に朝鮮国王粛宗から7代前の中宗の諱(いみな 死者の生前の名 死者を贈り名で呼び、生前の名を呼ぶことを忌む慣習がある)懌を用いてあるので、返書を改めてほしいとの申し出が朝鮮側から出されました。これに対して白石は朝鮮国書を見るに当代(家宣)御祖考(亡祖父 家光)の御諱(光)を用いているからこのような申し出を受け入れることはできないと答えました。幕府内の反白石派は「朝鮮使節はこのことがかなえられられなければ生きて帰国しない様子である。されば両国の戦争も近い。」などと言い罵りました。結局家宣が白石の意見を支持し、朝鮮国書を改めた後、将軍返書も改めて決着がついたのです。
 朝鮮使節が帰国の途についた日白石は出仕を辞退することを決意して辞表を間部詮房を通じ家宣に提出しました。ところが間部詮房は白石を呼んで次のような家宣の言葉を白石に伝えました。「佛氏の説に一体分身(一つの仏が衆生を救うために、十方世界に種々相で現れること)とかいふなるは、我(家宣)と彼(白石)との事也。彼あやまちあらむ、すなわちこれ我あやまり也。ただ彼のはからい(考え)に任せよといひき。すべて此たびの事ども、皆これ我身の上の事ぞかし。いかにおもふ所ありぬとも、我ためとおもひておもひとゞまるべし。」(「折たく柴の記」)。この家宣の言葉に白石はおもわず涙にむせんで辞意を撤回したと述べています。さらに家宣はこのたびの白石の努力と成果を評価して500石を加増し(合計1000石)、その労に報いたのです(「新井白石日記」下 正徳元年11月22日条)。

藤沢周平「市塵」を読む14

ウ シドチと「西洋紀聞」 1708(宝永5)年8月28日大隈国屋久島栗生村に来ていた阿波国の漁民が魚を捕っていたところ見慣れぬ大船を見かけました。大船は屋久島の他の地域でも見たものがありました。翌日同島恋泊の百姓藤兵衛が炭焼きの材料にするため松下というところで木を伐採しているとき、後で声がしたので振り向くと帯刀した人が手招きして話しかけたが、言葉がわからず、水を乞う様子だったので器に水を入れて差し出しました。藤兵衛は恋泊へ帰って村人2人を伴い松下から恋泊へ連れて帰り食事をさせました。彼の言葉は理解できなかったが、さかやき(月代)を剃り着物姿で腰に一刀を差していました。このことは島の役人の知るところとなったので宮之浦にこの人物を移し、薩摩守に取り次ぎました。薩摩藩の役人が連署してこのことを長崎奉行所に連絡すると、長崎奉行所はこの人物を長崎に送致するよう指示し、この人物は長崎の獄舎に収容されました。

とりあえずいってみるー国内旅行記―屋久島日記―2003年8月29日屋久島一周観光その1−シドッチ上陸記念碑

 同年12月6日白石は江戸城西丸で家宣から「去る8月大隈国の海島に番(蕃)夷1人来り留っている。その言葉はほとんど理解できないが、自分で紙に数圏を記述してロウマ、ナンバン、ロクソン、カスティラ、キリシタンなどを指さしていい、ロウマと言ったときには、自分を指さした。このことは長崎に注進された。オランダ人に質問するとロウマとは西洋イタリヤの地名で、天主教化の主がいる所である。その余のことは心得られないとオランダ・中国の人々が言っているということだ。」と仰せ下されました。
 翌年11月初め、家宣は白石に「去年大隈国に来たり留まる外国人が近くここに来るであろう。そのことについての尋問をせよ。」との命を下しました。

藤沢周平「市塵」を読む15

 1709(宝永6)年11月22日白石は江戸小石川の「きりしたむ(切支丹)屋敷」で奉行・通事(通訳)立会いの下、かのもの(彼者)を召喚しました(「新井白石日記」下)。

黄土雑記―江戸黄土―ネタ日記―切支丹屋敷

 彼は長途輿の中にいたため歩けなくなり、2人に支えてもらって人々に拝礼し、庭上の榻(腰掛)に着座しました。「其たけ高き事、六尺にははるかに過ぬべし。普通の人は、其肩にも及ばず、頭かぶろ(髪を短く切りそろえて垂れる髪型)にして、髪黒く、眼ふかく、鼻高し。身には茶褐色なる紬細の綿入れし、我国の紬の服せり。これは薩州の国守のあたへし所也といふ。」(宮崎道生校注「西洋紀聞」東洋文庫113 平凡社)
 まず奉行が通事を通じて彼と問答を交わした内容は次の如くでした。これはすでに寒季に入ったので厚い衣服を与えたのに受け取らず、その理由は其教(キリスト教)戒にその法受けざる人(異教徒)の物を受け取る事はないからである。この問答後は白石が通事を通じて彼国地方の事など問答が行われました。問答になれてくると白石は通事を介さず、直接彼と問答することも出来るようになったようです。
 日も西に傾いたころ奉行らが辞去の挨拶をすると、彼は通事に向かってもう雪の降る季節も近いのにここにおられる御侍の人々が日夜を問わず私を守る様子を見るに忍びない。昼はそのままでも夜は手械・足枷で獄中につないで人々が夜安心して寝られるようにしてほしいと申し上げて下さいと言いました。
 奉行の人々もこれを聞いて感動する様子であったが、白石が此者は思いもかけぬ偽りある人物だと言ったのを彼が聞いて私は物心ついてより一言のいつわりを申したこともありません。殿(白石)はどうしてこういう事を仰せになるのですかと申しました。
 白石は奉行の人々はおほやけ(幕府)の仰せをうけて汝(お前)に事故がない事を願って、薄着では肌寒いことを心配して厚衣を支給すると度々言っているのだ。もし今汝が申す所がまことならば、なぜ此の人々に心配をかけないよう安心させないのか。この人々の心配を汝の法(信仰)のために顧みないのならば、なんでここにいる者どもが汝を守ることを顧みる必要があろうか。このことどのようにでも申し開きせよといったので、彼は恥じ入る様子を示し、先に申し上げたことは確かに私の誤りでした。それでは衣を頂いて御奉行がご安心下さるようにしますと申しました。

藤沢周平「市塵」を読む16

 1709(宝永6)年11月25日白石はまたきりしたん屋敷で奉行立会いの下彼人を呼び出し、奉行所にある万国の図で彼地方の事を問いただすとともに、彼が収容されている獄舎を視察しました。さらに同月晦日白石は奉行の人々の立会いなしに、過日の尋問で不十分な点を質問しただけに止めました。白石は同年12月4日にも同屋敷へ赴き、彼の渡海の事情を知りました(「新井白石日記」下)。
 白石は同年11月22日以来、欧州諸国を中心とした世界地理について彼に問い糺したことになります。この取調べで白石はイスパニヤ継承戦争(1701−13)や世界宗教と欧州地方の諸言語についての知識を得ており、またキリスト教にも新教と旧教、正統と異端の別があることを知りました。 
 同年12月4日奉行の人々立会いで白石は彼人を召しだし、来日の理由といかなる法(教え)を広めようとして来たのかと尋問すると、彼は大変喜んで6年前来日の使節となるべきことを承知して苦労を重ね、ついに国都へ至りました。初めて我法(キリスト教)の事を聞こうといわれたことは無上の幸いですと述べてその教えの事どもを説明し尽くしました。
「凡そ其人博聞強記(見聞が広く記憶力が強いこと)にして、彼方多学の人と聞えて、天文地理の事にいたりては、企及ぶべしとも覚えず。」(「西洋紀聞」)。白石は彼の学識の深さに驚嘆したのです。例えば天文の事について白石は次ぎのように述べています。「初見の日に夕方になったので私が奉行の人に今は何時でしょうかと聞くと、この辺には時をうつ鐘もなくて(よくわかりません)と答えるのを聞いて、彼は地上にうつる自分の影を見、指をまげて数え、我国の法では某年某月某日の某時の某刻ですと言いました。」
 しかし白石はまたこんなことも言っています。「其教法を説くに至りては、一言の道にちかき所もあらず。智愚たちまちに地を易へて、二人の言を聞くに似たり。ここに知りぬ、彼方の学のごときは。たゞ其形と器とに精しき事を、所謂形而下(時間・空間のうちに形をとって現れる自然一般)なるものゝみを知りて、形而上(理性的思惟や直観によってとらえられる超自然的なもの)なるものは、いまだあづかり聞かず。」すなわち科学技術は優れているが、キリスト教などの精神文化は真理に程遠く、まるで別人の言葉を聞いているようだと言っているのです。

さわらび通信―日本史を見つめた「聖母」たちーU「親指のマリア」=鎖国下での白石との出会い


藤沢周平「市塵」を読む17

白石がヨッロッパ文化に関する上述のような評価を下したのは、其人との次のような問答(要約)を交わしてからの結論です。「大西人に其姓名・郷国・父母などのことを問うと其人は我名はヨワン、バッティスタシローテ[ジョヴァンニ・バッティスタ・シドチ(Giovanni Batista Sidoti)]、ローマ、パライルモ(イタリア シシリー島パレルモ生まれ)人也と答えました。またシドチは本師(ローマ教皇)の命により日本に来るためにその風俗や言語を学び、ロクソン(フィリピンのルソン島)を経て来日したということです。
 白石が天主の教え(キリスト教)を私はまだ聞いたことがないといい、その大略を問うとシドチは「物は自ら成ることが出来ない。必ずこれを造るものを待ち得て成る。天地万物、これ主宰たるものなしに成る事はない。其主宰を名づけてデウスという。」という説明から始めてキリスト教の大意を述べました。
 しかし白石はシドチの説明するデウスについて「デウス、また何ものゝ造ることによって、天地がまだ存在しないときに生まれたのか。デウスがもしよく自ら生まれたのならば、なぜ天地も自らうまれないのか。」と批判しています。
 白石はシドチ処分について「異人御裁断之事に、上中下ノ三策候歟。第一に、かれを本国へ返さるゝことは上策也。第二に、かれを囚となしてたすけ置るゝ事は中策也。第三に、かれを誅せらるゝ事は下策也。」として家宣の裁断を求めながらも、シドチが「いのちをかへりみず、万里の外に使として六年がうち険阻艱難をへて、ここに来れる事、其志のごときは、尤もあはれむべし。」(「羅馬人処置献議」宮崎道生校注「前掲書」)と同情を禁じ得ませんでした。
 家宣は中策を裁断、シドチは小石川のキリシタン屋敷に禁固され、獄舎の雑役人夫婦(長助・はる)が彼の身の回りの世話をしていました。ところが1714(正徳4)年冬シドチが雑役人夫婦をキリスト教に帰依させたことを夫婦が告白したため、シドチは地下牢にいれられました。シドチは大声で日夜夫婦者の名を呼び、死んでも信仰を捨てるなと叫び続けたそうです。シドチは同年10月21日夜半47歳で死去しました(「西洋紀聞」)。
 白石が「西洋紀聞」(後年増補)をまとめたのは1715(正徳5)年のことです。

部落学序説―総合目次―第3章第6節第6項 長助とはるの物語

藤沢周平「市塵」を読む18

 1712(正徳2)年春から夏にかけて家宣は病床に伏し、薬効も見えない状態となりました。同年9月27日白石は間部詮房を通じて家宣からひそかに次のような諮問を受けたのです。「汝の申す所によって決心しようと思ったので呼んだのである。昔から幼主のとき世の中の動揺すくないことは多くない。神祖(家康)が三家(尾張・紀伊・常陸の三家)を置かせ給うたのはこのような時の御ためである。我後の事を尾張殿(徳川吉通)に譲り、幼きものが成人しようという時のことを我後となろうとしている人の心に任すべき事である。但しまた我の多かった子の中、我後となすべきはただひとりのみ(家宣には4人の男子があったが、うち3人は夭折、三男鍋松のみ健在)残ったので、鍋松が成人となるまでは尾張殿が江戸城西丸にあって天下のことを摂行(代行)し、我後となるものに万一のことあらば、尾張殿が将軍を受け継ぐべきか、この二つの間をもって意見を述べよ。」
 白石は「仰せ下される所は二つながら、、国のため、世のため 適切なこととは思えません。仰せ下される事のようになれば、必ず天下の人、其党相分かれて、世の乱れになること、応仁の比(応仁の乱)のようになるのは明らかです。祖宗(徳川家代々の君主の総称)の御時、御幼稚の間に世を継ぐ御事が多かった中に神祖の御時(家康は父廣忠没時8歳)の事はどうであったでしょうか。わか君(鍋松)御代を継がれるのに、何の不都合がありましょうか。」と申し上げました。家宣は重ねて「我なき後、いくほどもなくかれもむなしくなったときどうするか。」との仰せがあり、白石が「神祖三家をおたてになったのはそれらの時の御ためです。」と申し上げると、以後家宣はこのことについて白石の意見を聞くことはありませんでした。
 此のち御あとの事共を御台所(家宣夫人煕子)に仰せられた事どもがあり、また老中を召されて「我後のことをば越前守(間部詮房)にいひ置きしなり。とふべきほどの事は、かれにとふべし。」と仰せられたそうです。
 同年10月14日家宣は重臣をはじめ召し使った側近の人々を悉く呼び、その労を慰め、その後白石を呼ばせて、別に何もおっしゃることはなく、白石の方をつくづくとご覧になっているだけでした(「折たく柴の記」)。そうしてこの日家宣は死去しました(「新井白石日記」下・「文昭院殿御実紀」巻15「徳川実紀」)。

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2008-05-08 13:28 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年03月19日(水)
「新・忠臣蔵」を読む19〜「市塵」を読む8
船橋聖一「新・忠臣蔵」を読む19

 3月15日は大名たちの登城日であったので赤穂浪士は表通りを避けて高輪の泉岳寺に向かい、浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供えて各自焼香しました。途中吉田忠左衛門と富森助右衛門が大目付仙石伯耆守久尚に訴え出ました。
仙石伯耆守は登城以前に月番老中稲葉丹後守正通に報告、登城して他の老中や若年寄にも知らせました。
 上杉家では3月15日明け方吉良討ち入り事件突発を知ると、上杉綱憲は直ちに討手を吉良邸に向かわせようとしましたが、高家畠山下総守義寧が、不日凶徒(赤穂浪士)の成敗があるから討手を出すなとの老中の下知を伝えてきたので思いとどまったのです。
 老中・若年寄は吉良邸の検分を目付に命じるとともに、赤穂浪士を細川・松平(久松)・毛利・水野の四家に預けることを決定、赤穂浪士は同日夕刻大目付仙石邸に向かい、四家お預けの言い渡しがあり、四家から引き取りの家臣たちがやってきました。

船橋聖一「新・忠臣蔵」を読む20(最終回)

 幕府は赤穂浪士の処分をどうするかという難問に直面しました。「其義を賞して助命せんといふもあり。又は此輩が主のためにせしをもて。助けられんに於ては。此後罪蒙りしものの臣子報讐を名とし。ひがふるまいして。大乱を引出すもとひとなるまじきにもあらずといふもあり。在朝諸大臣の議一決せざりし」(「常憲院殿御実紀」巻47「徳川実紀」)という状態でした。また12月23日には幕府評定所からは赤穂浪士に同情的で、吉良家を処分する主張にもとづく覚書が将軍綱吉に提出されたといわれます。将軍綱吉が日光門主の公弁法親王(輪王寺宮門跡)の意見を求めると、かれらはこの世に思い残すことはないのだから、今さらその罪を許しても二君に仕えるべきではない。死を賜ることによって彼等の志も空しからず、これで天下の公論とするべきだろうとされ、みなこの義言に決したということです(「常憲院殿御実紀」巻47「徳川実紀」・公弁法親王はこのことについて何の答えもなかったという異説もあります「常憲院殿御実紀」附録 巻下「徳川実紀」)。
 1703(元禄16)年正月22日幕府から赤穂浪士に「親類書」(中央義士会編 未刊新集「赤穂義士史料」新人物往来社)提出が命じられ、2月3日明日四家お預けの赤穂浪士たちに切腹を仰せ付けるとの内示があり、翌日四家に検使として目付が派遣されました。徒党を組み、公儀を恐れない行為であるとの理由で、四家の邸内に用意された場所で赤穂浪士は切腹、大石はじめ此輩の子弟は遠流に処せられました(「常憲院殿御実紀」巻47「徳川実紀」)。

東京紅團―テーマ別散歩情報―忠臣蔵散歩―永代橋から泉岳寺散歩

 同じ2月4日吉良義周も討ち入り当夜のはからいがよくなかったとの理由で知行地没収の上、諏訪安芸守忠虎の信州高島城にお預けとなりました((「常憲院殿御実紀」巻47「徳川実紀」)。この措置は将軍綱吉ならびに柳沢や老中たちが、赤穂浪士に対する世間の拍手喝采を意識して、かっての浅野内匠頭処分の誤りを事実上認めたことになると思われるのですが、吉良義周にとってこの処分は厳しすぎたのではないでしょうか。
 この小説は1709(宝永6)正月10日将軍徳川綱吉が死去、6代将軍家宣の登場とともに同年2月赤穂義士関係の遺族が赦免されたことを祝って左京の局(月光院 家宣の側室)が浅野内匠頭長矩の妻阿久利(瑤泉院)を微行すがたで訪れ、涙ぐむ瑤泉院が仏間に座って、今はなき夫長矩との思い出にふける場面で終わっています。
 同年8月20日浅野大学長広は江戸に帰るよう命令を受け、翌年9月16日500石の知行地をもらって、お家は再興しました(「文昭院殿御実紀」巻3・7「徳川実紀」)。
  寺坂は吉田の婿の伊藤十郎太夫の家に身を寄せ、孫の信成が「寺坂吉右衛門筆記」や「寺坂信行筆記」をまとめたのです(「赤穂義士史料」上巻)。
  1748(寛延1)年8月、竹田出雲「仮名手本忠臣蔵」が大坂の竹本座ではじめて上演されました(「浄瑠璃譜」)。

HOMER’S玉手箱―麹町ウおーカー(麹町遊歩人)1−40号―仮名手本忠臣蔵


藤沢周平「市塵」を読む1

 藤沢周平「市塵」(講談社文庫)は江戸幕府6代将軍徳川家宣・7代将軍家継に仕えた朱子学者新井白石の生涯を描写した小説で、1989(平成1)年第40回芸術選奨文部大臣賞を受賞した作品です。
 白石が晩年に執筆した自伝「折たく柴の記」(日本古典文学大系95 岩波書店)によれば、祖父新井勘解由は常陸国下妻庄で1609(慶長14)年に死去しました。「新井家系」(新井白石全集 第三 吉川半七)では祖父は下妻城主多賀谷宣家に仕えた武士であったが、多賀谷宣家が関ヶ原の戦いに敗れて没落後牢人となったようです。
 白石の父新井正済(まさなり)は1601(慶長6)年の生まれで、白石の祖父死去後、祖父に仕えていた人の養子となりました。白石の父が13歳のとき、友人と争い「自分の家の家来の養子となったことも知らないような者に何がわかるか」と侮辱されて白石の父は激怒し、江戸へ出奔しました。それから随分苦労を重ねたことでしょうが、白石の父が31歳のとき、ようやく上総国久留里藩主土屋利直(「寛政重修諸家譜」巻第87)に仕えることができました。白石の父は古武士的風格をもつ人物であったようです。

ザ・登城―搦手門―関東・甲信越地方―上総(千葉県中部)―久留里城

 白石が生まれたのは1657(明暦3)年2月10日明暦の大火の直後のことで、土屋利直の邸宅も焼け仮小屋(東京都千代田区神田万世橋から神田川に沿って浅草橋に至る街路の辺)で生まれたので土屋利直は白石を「火の児」と呼んだようです。名前はいろいろあったようですが、君美(きんみ)が代表的な名でしょう(「寛政重修諸家譜」巻第1218)。このとき白石の父は57歳、母は42歳で両親は晩婚であったと思われます。

古代で遊ぼー縄文と江戸の地勢図―明暦の大火少考

 白石の母は能筆で古今集などの勅撰歌集や源氏物語などの平安時代仮名文学類を白石の姉妹に読みを教え、また囲碁・将棋にも堪能で、これらのことも白石に教えたそうです。

藤沢周平「市塵」を読む2

 土屋利直の新井正済に対する信任は厚く、君美は3歳で常に利直の側で寵愛されたため、土屋一族の人々から利直妾腹の子ではないかと疑われたほどでした。
 君美は7歳で天然痘を発症し、すでに医術では助からぬと聞いて土屋利直は蕃薬(西洋流の妙薬)「ウンカフル(ウニカウル)」を与え、ようやく命をとりとめたと後に白石は当時投薬した医師から聞きました。
 君美9歳のとき、利直留守の間、父から日中に行草(行書・草書)の字3000、夜に1000字を書くよう命ぜられました。とくに夜になるとねむくなって我慢ができないので、付き添いの者と相談して水2桶ずつ竹縁に用意させ、ひどくねむくなると裸になって1桶の水をかぶり、またねむくなるとまた1桶の水をかぶり、2桶の水をかぶるころには大体日課を終了することができました。白石は「折りたく柴の記」で「これ、我九歳の秋・冬の間の事也。」と記述しています。
 10歳の秋父から「庭訓往来(ていきんおうらい 正月から十二月までの書簡文を集めた書物)」を学習させられ、清書したものを1冊にして土屋利直にお見せすると大変褒められて、13歳になると利直の人との贈答文はほとんど君美に代筆を命ぜられるようになりました。

教史曲―教育の部屋―実物教材ギャラリー庭訓往来

 17歳のとき長谷川という若侍の机上にあった書「翁問答(おきなもんどう 中江藤樹著 文武・学問・士道・仏教などを論じた書物)」を借りて読んだのが聖人の道(儒学)を知った初めでした。

高島市―観光―史跡・名勝・文化財等―中江藤樹

藤沢周平「市塵」を読む3

 しかるに土屋利直在世中からその子頼直支持派と反対派(頼直の子を後継に立てようとする)との対立が激化し、1675(延宝3)年利直は死去、頼直が相続したのですが、すでに辞職していた君美の父正済は反対派の行動を阻止しようとしたにもかかわらず頼直から反対派に味方したものと誤解され、1677(延宝5)年2月22日父・君美ともに追放処分を受けるに至ったのです。この処分は当時「「奉公構(ほうこうがまえ)」といって、旧主から新規奉公(再就職)を禁じられるものでした。
 かくして牢人となった新井家の生活費は陸奥相馬家に仕えた君美の義兄の仕送りに頼ったようで、同時に起こった母・妹の死去により、以後新井家は老父と君美の2人だけという物心ともに苦痛に満ちたものとなりました。
 このころ「当時天下に雙なしなどいふ富商の子の、学ぶ友となりぬること出来」(「折たく柴の記」)して、君美が富商の蔵書を利用できたことは幸いでした。その富商の子から父の希望として孫娘の婿にしようという申し出がありました。この富商とは河村瑞賢(宮崎道生「新井白石」吉川弘文館)のことで君美の才能を見込んでのことでしょうが、君美はこれを辞退しています。

日本の川と災害―治水・利水・災害対策に尽くした人々―河村瑞賢

藤沢周平「市塵」を読む4

 1679(延宝7)年土屋家改易(「寛政重修諸家譜」巻第87)により奉公構が解けたことから、君美は再就職が可能となり、1682(天和2)年3月大老堀田正俊に出仕することができましたが、同年6月父正済が他界しました。
 一方君美はこの就職実現により堀田家藩士朝倉万右衛門長治の娘と結婚しました(宮崎道生「前掲書」)。君美にも家庭的な幸せが訪れたようです。
 君美が土屋家を牢人したころに知り合った対馬の儒者阿比留(あびる 西山順泰 のち木下順庵に師事)の尽力で1682(天和2)年秋来日した朝鮮使節通訳官に君美の詩集の序を書いてもらったことがありました。後君美30歳のとき阿比留が君美の山形へ旅行したときの紀行を木下順庵に見せ、朝鮮使節に詩集の序を書いてもらったことなども申し上げたところ、木下順庵の希望で君美ははじめて木下順庵に会うことを得たのでした。このことがきっかけで君美は木下順庵と師弟関係を結ぶこととなったのです。

京都市歴史資料館―フィールド・ミュージアム京都―事項一覧―京都の私塾―木下順庵邸址

 これより先1684(貞享1)年堀田正俊が刺殺される事件(「新・忠臣蔵」を読む2参照)が起こって嫡男正仲が家督相続したのですが、出羽国山形・奥州福島に転封となり(「寛政重修諸家譜」巻第645)、家臣の禄米を減ぜられて堀田家を辞去するものが続出する有様で、君美も1691(元禄4)年ついに堀田家を去り再び牢人暮らしになったのです。このとき子供も生まれていたのに新井家に残る資財は青銅300疋(青銅とは銭の異名 百疋は銭1貫文)白米3斗しかありませんでした。

藤沢周平「市塵」を読む5

 君美は江戸城の東(現在の東京都江東区内の地域)で私塾を開いていましたが、ある人が「そこもとは当時御覚もよからぬ人の家(堀田家)より出て、しかも世に用ひられぬ人(木下順庵)にものまなび給ひぬれば、たとひ学優也といふとも、身を起こし(立身)給はむ事かたかるべし(困難でしょう)。あはれ、(ああ)其学ぶ所をあらためて、後栄(後の繁栄)を期し給へかし」(「折たく柴の記」)と繰り返し言ったそうです。
 木下順庵ははじめ加賀藩主前田家に仕えていたので、1692(元禄5)年前田家へ君美を仕官させようとしたところ、これを聞いた同門の岡島仲通が加賀出身で国許に老母がいることを理由に自分の前田家への推薦とりなしを君美に依頼しました。君美はこれを受け入れて順庵に対し、前田家への推薦を辞退したのです。
 しかるに翌年10月10日甲府藩主徳川綱豊の家老戸田長門守忠利の命により、小姓組番頭高力伊予守忠弘が木下順庵を訪ねて、一門の中でだれがもっとも優れているか聞いて参れと言われたことを伝えました。順庵はあなたもよくご存知の人だがといって新井白石の名を答えました(「新井白石日記」 上 大日本古記録 岩波書店)。12月5日高力忠弘がまた順庵を訪ねて白石を甲府藩邸(桜田 現在の東京都千代田区 日比谷公園心字池付近)に推薦したいという家老の意向を伝えましたが、順庵は甲府藩が提示した30人扶持(扶持料は1人1日米5合、1年で約54石)給与の条件に不満で、高力忠弘が当面40人扶持を確保するという申し出にも満足しませんでしたが、白石受諾の意思を尊重して順庵は高力忠弘に承諾の書簡を送り、白石の甲府藩出仕が決定されたわけです。

東京を描くー庭園・公園・霊園―日比谷公園

 甲府藩主徳川綱豊は5代将軍綱吉の異母兄綱重(「新・忠臣蔵」を読む1参照)の子で、1662(寛文2)年4月25日出生(「文昭院殿御実紀」巻1「徳川実紀」)、綱重が1678(延宝6)年9月14日死去(「厳有院殿御実紀」巻57「徳川実紀」)したため、綱吉が将軍となったわけで、本来なら将軍は綱重―綱豊と継承されるはずであったのです。そのような徳川宗家中枢にいた甲府藩主徳川綱豊の家老がなぜ「世に用ひられぬ人」と世間から見られていた木下順庵に門下生の推薦を要請したのでしょうか。「折たく柴の記」によれば、白石は後に聞いたこととして次のように述べています。すなわちはじめ甲府藩邸は大学頭林信篤(「新・忠臣蔵」を読む2参照)の弟子推薦を要請したにもかかわらず林信篤は推薦する弟子はいませんと答申したそうです。林信篤はなぜ甲府藩に弟子を推薦しなかったのでしょうか。

藤沢周平「市塵」を読む6

 1693(元禄6)年12月26日白石は綱豊に対して「大学」(四書の一)の初講義を行いました。翌年2月27日白石は湯島天神(現在の東京都文京区)下に転居し(「新井白石日記」上)、ここから桜田の甲府藩邸に出仕したのです。

東京写真紀行―神社―湯島天神

進講のテキストとして用いられたものの概略は「折たく柴の記」に記述されているので詳記することは避けます。
白石の進講が終わると綱豊は座を変えて和漢の故事を質問、とくに徳川家康の天下統一のことについて綱豊の関心は深く、1700(元禄13)年12月11日国初(創業期)以来の1万石以上の大名家の人々の事どもを、進講の暇の折々に記述して提出せよと仰せられ、翌年10月脱稿したのが「藩翰譜」(新井白石全集 第一・二、「功名が辻」を読む4参照)で、さらに補訂を加えて1701(元禄15)年2月19日綱豊に進呈することができました(「新井白石日記」上)。
 綱豊への白石の講義の様子を紹介すると、年初「詩経」の中のめでたい詩を選んで進講、終了時には時節に着るべき服2領を賜る慣例でした。こののち15日を過ぎて日講がはじまり12月末にいたるまで、天災地変やその他の故障が無い限り日講を止めたことはなく、
白石が病気がちになってきびしい寒暑に耐えられないことを知った綱豊は酷暑時になると日没後に参れと仰せ下され進講は夜行われました。寒天時には昼間の進講で綱豊の座席と白石の間に大きな火鉢を置き、寒さ甚だしいときには白石の座席の後にもう一つ火鉢を置かせました。白石進講日に雨雪あれば必ず御使いを派遣して出仕に及ばずとお知らせがありました。
 綱豊が講義に臨むとき、春秋冬は裏打ちの上下(かみしも)を、夏は透けた肩衣(かたぎぬ)にひとへの袴を着用して、上座を下り綱豊の座席を約9尺隔てて白石の座席を設けました。綱豊は夏暑くても扇を使わず、夜がふけて蚊が多くても追うこともありませんでした。何時ころであったか綱豊が風邪をひいてしきりに鼻水が滴ったときも、そっと横をむいて懐の紙を取り出して拭い、こちらへ向くことがよくありました。講義は一時(2時間)を越えることもありましたが、御前の物静かな様子が想像できるでしょう(「折たく柴の記」)。

藤沢周平「市塵」を読む7

 綱豊は父綱重が千姫(天樹院 2代将軍秀忠の長女)に養育されたという事情で乳母松坂の侍女おほらを母として1662(寛文2)年に出生しました。このとき綱重は正室がおらず、綱豊(幼名 虎松)は家老に引き取られました。しかしその後綱重には嗣子がなかったため甲府藩25万石の後継者となったのです(「文昭院殿御実紀」巻1「徳川実紀」)。
 従って綱重が1678(延宝6)年死去していなければ、綱重は5代将軍となったはずでした。それで5代将軍綱吉がその子徳松を世継ぎにしようとしたとき、水戸の徳川光圀はこれに反対し、綱吉の甥にあたる綱豊を後継者とすべきことを主張したのです(鈴木暎一「徳川光圀」吉川弘文館)。
 しかし綱吉は綱豊を自分の世継ぎとすることを好まず、徳松が1682(天和2)夭折すると、紀伊藩主徳川綱教に嫁した鶴姫の男子出生を期待していたのです。綱吉によって引き立てられた林信篤がその弟子を甲府藩に推薦せず、木下順庵の推薦によって新井白石が甲府藩に出仕するに至ったのはこのような政治的背景があったからです。しかるに鶴姫は1704(宝永1)年4月13日死去しました。綱吉はかくして綱豊を後継者とすることを決定しました。
 この小説は新井白石が甲府藩主徳川綱豊に進講のため桜田藩邸に出仕すると、用人間部詮房(「寛政重修諸家譜」巻第1461)から綱豊が急遽江戸城に登城したため、進講はとりやめとなった旨告げられるところから始まります。

江戸三百藩HTML便覧―北陸甲信の諸藩―越前の諸藩―鯖江藩

藤沢周平「市塵」を読む8

 1704(宝永1)年12月5日綱豊は将軍の儲副(ちょふく 世継ぎ)として江戸城西丸に入ることになり、同月9日名を家宣と改めました(「新井白石日記」上)。白石は急ぎ桜田藩邸に赴き、間部詮房を通じて家宣に「凡そ天下の政治については、私がこのとしごろ申し上げたところですから、今あらためて申すまでもありません。ただその申し上げた事共をお忘れにならなければ天下のなによりの幸せであります。」と申し上げました。後に白石がある人から聞いたことによれば、なにかのきっかけで家宣は間部詮房に「我はじめ西城(西丸)に入らむとせし時に、君美が馳参りていひし所をば、わすれもやする(忘れることがあろうか)、我は日として忘るゝ事はなきものを(自分は一日として忘れることはないのだ)」と仰せられたそうです(「折たく柴の記」)。
 同年12月27日白石は間部詮房からの連絡を受けて江戸城西丸に赴き、白石は正式に家宣の儒者として採用される旨伝達を受け、家宣への白石の進講は翌年正月11日から開始されました(「新井白石日記」上)。
 1706(宝永3)年3月白石は間部詮房を通じて家宣に封事(ふうじ 密封して直接君主にさし出す意見書)を提出し、家宣が散楽(能楽)を好み自ら舞うこともしばしばあったことを諌めました。それは中国で後唐の荘宗が散楽を好んで殺害されたことを例として能楽批判論を展開したものですが、これは家宣の信任厚かった間部詮房が能楽師の子であったことも関係して家宣・詮房の反発を買う結果となりました。このため以後勅使饗応のような公的儀礼としての能楽上演以外白石は観能には招待されなかったようです。しかしこのことによって家宣らが白石を排斥するようなことがなかったことはその度量の広さを示すものでしょう。
2008-03-19 09:31 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年03月09日(日)
「新・忠臣蔵」を読む9〜「新・忠臣蔵」を読む18
船橋聖一「新・忠臣蔵」を読む9

 若年寄加藤越中守・稲垣対馬守が内匠頭・上野介へ質した目付その外全部を集めて「浅野内匠頭儀…吉良上野介え刃傷に及び候段不届に付、田村右京大夫えお預け、其身は切腹仰せ付けられ候。上野介儀、御場所を弁、手向致さず、神妙の至り、…随分大切に保養致すべく候」と仰せ渡しました。大目付庄田下総守は正使、目付大久保権左衛門忠鎮・多門伝八郎重共は副使として浅野切腹検使を命ぜられ、田村邸に赴きました(「多門伝八郎覚書」)。
 田村邸で浅野は家臣たちに自分の気持ちを伝えたいと願ったのですが、許可されず、「此段兼て為知可申(知らせ申すべく)候へ共、今日不得止(止むを得ざる)事候故、為知(知らせ)不申候、不審ニ可存(存ずべく)候」という抽象的な口上書を家来に伝達してもらうよう依頼したにとどまりました(「長岡記録」八木哲浩編「前掲書」)。浅野内匠頭家来片岡源五右衛門が一目主人に会わせてほしいと願い出てきたので、多門伝八郎の才覚で実現したのです。浅野内匠頭は「風さそふ花よりもなをわれは又春の名残をいかにとかせむ」という辞世の歌を残して切腹しました(「多門伝八郎覚書」)。
 浅野内匠頭切腹直前の家来片岡源五右衛門との対面ならびに浅野内匠頭辞世の歌は他の記録に見えず、その史実は不確実です。その他の理由も加わって「多門伝八郎覚書」は偽書であるとの説があります。

ろんがいびー赤穂事件関係―多門筆記偽書弁

船橋聖一「新・忠臣蔵」を読む10

 3月14日田村邸より浅野大学長広に浅野内匠頭遺骸を引き取るよう連絡があり(「御用留」御口上書之写 八木哲浩編「前掲書」)、江戸築地鉄砲洲の浅野家上屋敷から用人粕谷勘左衛門ほか6名が田村邸に向かい、棺に付き添って菩提所である芝高輪泉岳寺まで葬送、片岡源五右衛門・田中貞四郎・磯貝十郎左衛門・中村清右衛門の4名は落髪、初七日過ぎて赤穂へ赴きました。
 江戸から赤穂に向かった第二の使者は田村邸から浅野内匠頭切腹終了の連絡があってから、原惣右衛門と馬廻役の大石瀬左衛門が出発しました(「赤穂城引渡覚書」八木哲浩編「前掲書」)。
 第一の使者が赤穂に到着したのは3月19日卯の刻(午前6時ころ)で第二の使者は同日戌の下刻(午後9)時ころについたようです(「岡島常樹覚書」赤穂義士史料 上巻 雄山閣)。
 大石内蔵助良雄は家臣を登城させて第一の使者の口上書と刃傷事件の報告をしました。第二の使者は三通の書状を持参しておりました。第一通は大石以下浅野家重臣宛の浅野美濃守長恒・同大学長広・戸田采女正氏定3名の連署のもので、浅野内匠頭切腹につき家中のものは静穏にするようにという内容、第二通は老中より戸田ら浅野家親戚宛の赤穂の家臣たちをさわがせないようにという内容の書状写し、最後は田村家より浅野内匠頭遺骸を引き取るよう連絡してきた書状の写しでした。
 3月20日大石は再び家臣を総登城させて第二の使者が持参した情報について、浅野家の領地没収・家名断絶を知らせました。しかし吉良がどうなったかについては不明のままだったようです。赤穂城では19・20日につづいて連日評議が繰り返されました。21日には飛脚により大学長広閉門や脇坂・木下両家が受城使に任命されたことを知りました。

船橋聖一「新・忠臣蔵」を読む11

 浅野家家中にはさまざまの意見がありました。吉良は存生で浅手の噂が伝わってきたので、3月29日多川九左衛門と月岡治右衛門が城明け渡しに立ち会う幕府目付荒木十左衛門・榊原采女に「吉良が生きていてお咎めがないのに、浅野だけが開城することについて、家中のものが納得するような筋を立ててほしいこと及び大学長広のお家再興を認めてほしいこと」という内容の手紙(「赤穂城引渡御用状」八木哲浩編「前掲書」)を持って江戸に赴きましたが、幕府両目付はすでに江戸を出発した後で多川・月岡は使命を果すことができませんでした。やむなく浅野内匠頭の従兄弟大垣藩主戸田氏定に見せたのです。
4月14日江戸から来た堀部安兵衛武庸らは大石に面会して、「吉良が軽傷で生きていることを知り、吉良家へ斬り込もうとも思ったが、上杉家の防御もかたく、かくなる上は赤穂城で籠城討死する覚悟」と言ったが、大石は籠城してもそれでは大学長広によるお家再興の妨げになるとし、「まず此度は内蔵助に任候へ、是切には限るべからず、以後の含みもこれあり候。」と言ったので、堀部安兵衛らも了承したようです(「堀部武庸筆記」日本思想大系27 岩波書店・鍋田晶山「前掲書」補遺)。
大石は4月15日赤穂城明け渡しの準備を進めました。4月18日目付荒木十左衛門・榊原采女が大石らの案内で没収することになっている赤穂城の検分を行いました。このとき大石は両目付に三度大学長広によるお家再興を願い出ました。両使は旅宿へ改めて大石を呼び出し、請願の趣を江戸へ言上する旨伝えたそうです(「堀部武庸筆記」)。
 4月19日脇坂・木下両正使の軍勢が赤穂城に入城、城の受け取りと引渡しが終了しました。5月21日浅野家についての総ての残務整理が完了、大石らは残務処理に当った遠林寺の会所を閉鎖しました。その後大石の手許に残った金をどのように消費したかを記載した帳面(「大石良雄金銀請払帳」八木哲浩編「前掲書」・鍋田晶山「前掲書」補遺)によれば、大石は京都普門院の義山和尚(遠林寺の前住職)、遠林寺の住職祐海和尚ならびに浅野一門などを頼って大学長広のお家再興を幕府へ働きかけたようです。大石は6月24日には華嶽寺で亡君百日追善法要をひそかに営みました(大石には赤穂在住時妾腹の娘があったようですが、早死で華嶽寺に娘の墓があります)。その後進藤源四郎の世話で京都近郊の山科に転居しました。

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船橋聖一「新・忠臣蔵」を読む12

 江戸では3月26日に吉良義央は自分から高家職を辞任したいとの希望を申し出、聞きとどけられましたが(「常憲院殿御実紀」巻43「徳川実紀」)、家は江戸城大手門に近い呉服橋門内にありました。義央が家督を養子左兵衛義周に譲った後は上杉家の保護下に米沢へ転居するのではあるまいかという噂がとんだ程です。義央は転居を願い出ていましたが、9月2日隅田川を越えた本所一ツ目の旗本旧邸を修理して移されました。これは赤穂浪士が吉良を討ちやすいようにしたのではないかという憶測を生んだようです。その理由とは江戸城大手門に近い呉服橋門内では仇討ちが幕府攻撃の印象を与えてまずいが、本所ならばそうした印象は薄くなるというわけです。これは吉良への仇討ちを急ぐ堀部安兵衛武庸ら江戸在住の急進派にとって有利な情勢といえるでしょう。
 5月19日から6月19日にかけて堀部安兵衛武庸ら江戸在住の急進派は大石ら上方在住の人々宛てしきりに大石の江戸下向を促して来ていました。このことについて6月19日付手紙に対する大石からの7月3日付堀部ら宛て返信で左腕に出来た疔腫が全快しないので、自分の江戸下向は無理であるから、原惣右衛門を江戸に派遣する旨通知してきました。こうして原惣右衛門・潮田又之丞・中村勘助が江戸にきましたが、原らは堀部らに同調してしまったのです。それには吉良の本所への屋敷移転が大きく影響したといえるでしょう。
 大石は亡君墓参のためと称して11月3日江戸に到着、ただちに江戸在留の赤穂浪士と会合し、大体翌1702(元禄15)年3月(浅野長矩の一周忌)を一つのくぎりとして、浅野家再興問題を見極め、他方吉良邸偵察をおこなうことで合意しました。大石はこの後に瑤泉院や浅野家一族、及び荒木十左衛門らに挨拶ならびにお礼言上、14日の長矩命日に牢人していた不破数右衛門正種を泉岳寺の長矩墓前に伴って同志に加えることを認め、23日江戸を離れました。
 1701(元禄14)年12月12日吉良義央の隠居が許可され、養子義周が家督相続することが決定されたのです(「常憲院殿御実紀」巻44「徳川実紀」)。大石ら赤穂浪士が待望していた吉良処分は行われませんでした。

船橋聖一「新・忠臣蔵」を読む13

 1701(元禄14)年12月27日付大石宛奥田兵左衛門・堀部安兵衛・高田郡兵衛連署三通の書簡で高田のみ「病気故判形(花押)仕らず候」と書いてあることが注目されます(「堀部武庸筆記」)。これは堀部とともに江戸急進派の一人であった高田郡兵衛が仲間から脱落しつつあったことを示しています。高田は独身の伯父内田三郎右衛門から養子の申し出があり、これを断ろうとして理由を質問され、理由を明かせば仇討ち計画を第三者に漏らすことになり、仇討ち計画を隠すならば仲間を離脱することになるのです。高田は結局後者の途を選んだことになりましょう。
 一方京都では正月14日亡君の忌日に京都付近の同志たちが瑞光院に参詣した帰途、二条柳馬場の医師寺井玄渓(元赤穂浅野家の医師)の家に集まったとき来る2月15日に上方同志の会合を持つことを申し合わせました。ところがこの日の明け方萱野三平(刃傷事件を江戸から赤穂に知らせた第一の使者)が攝津萱野の自宅で父より主君の旗本大島阿波守に仕えるよう説得され、困惑の末遺書を残して切腹しました。このことも上方の同志たちにとっておおきな衝撃であったでしょう。

箕面市HP−観光案内―観光ボランティアガイドー箕面の見どころー萱野三平旧邸(涓泉亭)と墓碑

 2月15日山科の大石宅での会合(山科会議)では吉良本所移転に応じてただちに亡君の恨みを晴らすべきであるとする江戸急進派と大学長広の閉門が解けるのを待って判断すべきであるとの慎重派が対立しましたが、小野寺十内と吉田忠左衛門が仲介し、仇討ちを否定しないが、来年の亡君三回忌までには大学長広閉門の件の決着を見るであろうから、それを見た上の結論ということにしてほしいという大石の提案が了承されました。2月21日山科会議の結論を江戸へ伝えるために吉田忠左衛門らが出発していきました。

船橋聖一「新・忠臣蔵」を読む14

 大石がいつごろから遊蕩しはじめたかについてはよく判りませんが、その遊び所は主として伏見撞木町(夷町)で、やがて京都の島原・祇園、それから奈良の木辻や大坂の新町にまで及んでいたようです。刃傷事件以来、大石を襲ってきたさまざまの緊張をときほぐす世界を彼が求めたのも当然で、それがたまたま大石の本音をさぐるために接近してきたさまざまの人々をまどわせる隠れ蓑の役割を果したのでしょう。

隆慶一郎わーるどー歴史用語の基礎知識―色里の部

 5月20日付奥田孫太夫・長江長左衛門(堀部安兵衛)宛、原惣右衛門の書簡で大石が妻室(陸)息女らを離別して但馬の実家へ帰し嫡男松之丞(主税)のみ山科に残したことを知らせています(「堀部武庸筆記」)。
 7月24日江戸の吉田忠左衛門から7月18日大学長広の閉門赦免と知行3000石召し上げが決定され、身柄は浅野本家へお預けとなった(「常憲院殿御実紀」巻46「徳川実紀」)という内容の書簡が届きました。7月28日京都円山の重阿弥(安養寺の6坊の一つ)で江戸急進派を含む18名の会合(円山会議)が持たれ、吉良仇討ちの方針を決定しました。円山会議に出席した堀部らは江戸に帰り、8月12日江戸の同志を月見の宴と称して隅田川に集め、円山会議の結論を伝えました。
 大石は山科の家を処分して京都四条寺町の金蓮寺境内の梅林庵に移転しました。この年(元禄15年)春ころに大石には二条寺町の二文字屋次郎左衛門の娘でお軽という妾がいて秋にはともに梅林庵に引越しました。時の伏見奉行建部内匠頭政宇は吉良の縁者で、大石は監視されていたのです(松島栄一「前掲書」)。
 8月下旬から上方の同志たちは身辺の整理を済ませて、少人数で逐次江戸へ下向していきました。大石は身籠った軽を寺井玄渓に託して10月7日少数の同志とともに江戸へ向けて出立したのです。

船橋聖一「新・忠臣蔵」を読む15

 大石らはただちに江戸入りをせず、10月22日鎌倉到着、26日川崎の平間村で10箇条の訓令を出して討ち入り時の服装・道具の準備やぬけがけ禁止などの心構えを示しています。江戸に入ったのは11月5日で日本橋石町の小山屋弥兵衛の空店に宿泊することになりました。垣見左内(大石主税)が公事訴訟のため江戸にきたもので伯父垣見五郎兵衛(大石内蔵助)が後見役で付き添っているという名目をとり、人々の出入りが多少多くても怪しまれないような配慮が行われていました。大石ら赤穂浪士が次第に江戸へ集まってくる様子を幕府や江戸町奉行らは知っていたでしょうが、これに対する取締りがほとんど行われなかったことは興味ある現象といえるでしょう。
 吉良屋敷においては赤穂浪士の討ち入りを警戒して、奉公人は領地の三河から呼び、出入り商人の身元調べはをしていました。
 すでに江戸に住み着いていた赤穂浪士の同志たちは米屋・小豆屋に変装して本所の吉良屋敷の内偵探索に苦労していました。赤穂浪士の中では吉良の顔見知りがおらず、その面体を知るために苦心したようです(「寺坂信行筆記」鍋田晶山「前掲書」第二)。
 12月2日大石は深川八幡前の料理茶屋において頼母子講を開くという名目で会合(深川会議)を開き、討ち入りの趣意を述べる口上書ならびに起請文を審議しています。この起請文前書で「此節に及び、大臆病者共変心、退散仕候者」と非難の言葉があるのは、大石江戸入り後も同志から脱落したものがあったことを示しています。谷口眞子氏は『討ち入り参加者の中には、離脱者が激しく批判されているのを目の当たりにして、自分も「臆病者」と侮蔑されることを危惧して腹を決めた者がいたかもしれないが、彼らに共通してみえるのは、自己の名誉、「家」の名誉、親族・一族の名誉を重んじる感性であった。』と述べています(谷口眞子「前掲書」)。

船橋聖一「新・忠臣蔵」を読む16

 ところが他方赤穂浪士たちの心情に同感し、できるだけ協力したいと思っている人々も少なくありませんでした。例えば京橋三十間堀(東銀座)の呉服商中島五郎作やその家作に当時住んでいた羽倉斎(はぐらいつき 荷田春満)は江戸下りした大石と交渉をもつようになっていました。

荷田春満

 中島五郎作は茶道を山田宗へん[千宗旦(千利休の孫)の弟子]に習っており、吉良の茶会に宗へんはよく招かれていました。赤穂浪士の一人俳人脇屋新兵衛(大高源五)も宗へんに入門していたのです。
 また堀部安兵衛武庸は江戸で剣客として著名な堀内源太左衛門の門下生でしたが、同門の細井広沢(次郎太夫 柳沢家に仕える儒学者)と親しい間柄でした。「堀部武庸筆記」は堀部が討ち入り直前に細井広沢へ贈ったものです(「堀部武庸筆記」奥書)。

おもしろ地図と測量―おとなのはなしー地図測量の200人―はー細井広沢

 さらに大石の一族で浅野長友に仕えたが牢人していた大石無人良総も赤穂浪士への協力を惜しまなかった人物で、次男三平良穀とともに討ち入りを後援していました。大石三平は羽倉斎(荷田春満)とも交渉があったのです。
 深川会議の翌日山田宗へんから聞いた話として大高が12月6日吉良邸で茶会が開催されるという情報を大石にもたらしました。しかしこの茶会は延期され、横川勘平宗利(赤穂浪士)から吉良邸の年忘れの茶会が同月14日に開かれるとの報告があり、この知らせは山田宗へんによっても確認されたのでこの日を吉良邸討ち入りの日とすることが決定されたのです。

船橋聖一「新・忠臣蔵」を読む17

 赤穂浪士の同志たちは正確には元禄15年12月15日(「常憲院殿御実紀」巻46「徳川実紀」)丑ノ上刻(午前2時)あらかじめ定められた3箇所に集合、寅の上刻(午前4時)47人が吉良邸表門側と裏門側に分れて討ち入りました(「江赤見聞記」鍋田晶山「前掲書」補遺)。
 表門の玄関前に同志連署の「浅野内匠頭家来口上書」を文箱に入れて結んだ竹竿が立てられましたが、この口上書には内匠頭が吉良上野介に「忍び難き儀御座候て」刃傷し、切腹ならびに城地召し上げられたことについては、家来共まで畏れ入り奉ります。右喧嘩の節に上野介殿を討ち留め申さず、内匠頭の残念の心底については家来共忍び難いものがあります。君父之讐共に天を戴くべからざるの儀黙止しがたく、今日上野介宅へ推参したのは亡君の意趣を継ごうとの志からでありますとの文章が記されていました。ここに「君父之讐」という表現は引用した「礼記」には「父之讐」としか記されていませんが、これは堀部が細井広沢に相談して「君」を追加したもので(「浅野内匠頭家来口上」八木哲浩編「前掲書」)、これは江戸時代の仇討ちが父をはじめとして肉親の讐をうつことであったが、赤穂浪士の吉良討ち入りにより仇討ちは主君の讐をうつことをも意味することになったのです。

船橋聖一「新・忠臣蔵」を読む18

 吉良邸における赤穂浪士と吉良方の攻防戦は吉良方が不意を襲われたこともあって吉良警護の主な武士が討たれで終了しました(「江赤見聞記」鍋田晶山「前掲書」補遺)。一時は吉良の行方がわからず、浪士たちはここで切腹かとあきらめかけたのですが、さらに徹底した探索の結果吉良は炭部屋と見られる処から間十次郎によって発見されました。額と背中の傷あとを確認して間十次郎が吉良の首を打ち落としました(「堀内伝右衛門覚書」鍋田晶山「前掲書」第一)。
 討ち入りの物音は吉良邸周辺の旗本屋敷にはすぐに聞こえたはずですが、いずれも赤穂浪士に同情的で吉良方を応援しようとする様子はなかったことが12月15日幕府に提出された届書で明らかです。
 細井広沢は討ち入り当夜深川の自宅の屋根に上って本所方面を眺め立ちつくしていたようで、その他大石三平や堀部の親戚、近松勘六の下僕甚三郎などが吉良邸周辺を歩き回っていたということです。赤穂浪士が吉良の首を挙げた後、甚三郎は瑤泉院の用人落合与左衛門に知らせたといわれます(松島栄一「前掲書」)。
 本懐を遂げたあと、赤穂浪士たちは人員を調べ、上杉家等から討手が来ることを警戒して回向院に入ろうとしましたが、閉門のため入れなかったようです。このころ大石らは討ち入りに参加した足軽寺坂吉右衛門信行に命じて、討ち入り成功を広島の浅野本家その他に報告させたのでしょうか、寺坂は姿を消してしまいました(「寺坂信行筆記」)。
2008-03-09 11:35 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月12日(水)
「海鳴りの底から」を読む15〜「新・忠臣蔵」を読む8
堀田善衛「海鳴りの底から」を読む15

 1638(寛永15)年4月12日島原藩主松倉勝家は改易、美作国津山藩の森内記方にお預けとなり、7月19日島原の乱を起こした不始末により死刑に処せられました(「寛政重修諸家譜」巻第1125)。また唐津藩主寺沢堅高は天草一揆を引き起こした罪により天草所領のうち4万石を没収、出仕を止められました。翌年出仕を許されたのですが、1647(正保4)年自殺しました(「寛政重修諸家譜」巻第651)。
 同年5月2日武家諸法度の改訂がおこなわれ、これまで何事があっても大名は自領内を守れと命じられていたが、それは私事の場合であって、公儀(幕府)にそむく者など国法にそむくものがあれば、隣国の面々は協力して処置すべきであると変更されたのです(「徳川実紀」寛永15年5月2日条 新訂増補国史大系 第40巻 吉川弘文館)。
 島原の乱は直接に禁教令に反抗して起こったのではなく、領主の過酷な課役に対しておこったのであって、その点においては純粋な宗教一揆とはいえないでしょう。しかしこの乱の担い手はキリシタンで、彼らを支えた思想はキリスト教であり、ここにこの乱がのちの百姓一揆と区別される特徴がありました。日本に伝来したキリスト教は封建領主に抵抗するという教えはなく、宣教師たちは神の栄光のために死ぬ覚悟を説いたのでした。
 弾圧がはじまると、宣教師は信仰を守るため各地にコンフラリア(組講)結成を指導し殉教が説かれ、コンフラリアの組親には帰農した牢人や庄屋・乙名が当りました。しかし宣教師が追放され、棄教を強制された民衆がキリスト教に立ち帰り、立て籠もった原城では異教徒である領主と徹底的に戦って、地上に天国を実現しようという教えが説かれたのです。このような教えが原城の一揆勢にどの程度浸透したのかは不明ですが、この異端的キリスト教に指導された一揆勢はローマ教皇から殉教の栄誉をあたえられることはありませんでした(深谷克己 X島原の乱 「日本民衆の歴史」3 三省堂)。

堀田善衛「海鳴りの底から」を読む16(最終回)

 松平信綱は島原の乱平定の功績により、1639(寛永16)年忍3万石から武蔵国川越6万石へ転封となりました(「寛政重修諸家譜」巻第256)。
 乱後松平信綱は1638(寛永15)年3月1日原城を破却し、一揆勢を梟首(さらしくび)しました。「籠れるところの男女すべて三万七千人、其生捕所のものに邪宗を転ぜむことをさとすといへども、したがはざるによりことごとくこれを刑す。」(「寛政重修諸家譜」巻第256)という有様でした。奇跡的に生存した山田右衛門作はその後どうなったのでしょうか。彼の生涯については論文「島原乱の切支丹陣中旗と山田右衛門作」(西村貞「日本初期洋画の研究」全国書房)に詳しく考証されていますので、興味のある方はご覧ください。
 島原半島南目の村々では住民すべてが一揆に参加して原城に立て籠もり全員討ち死にしてしまった所も多かったようです。乱後島原には高力忠房が遠江浜松から転封(「寛政重修諸家譜」巻第511)、天草には山崎家治が備中国成羽から転封となりました(「寛政重修諸家譜」巻第432)。乱後の島原・天草地方では百姓がおらず亡所(荒村状態)が多かったので幕府は諸大名に対して1万石につき1戸を島原・天草地方に移住させることを奨励しました。例えば熊本藩・薩摩藩・対馬藩や種子島・小豆島などからの移住が知られています。。

Slow Life in Shimabara―しまばら歴史散策―島原城―高力氏のこと

讃岐の風土記―カテゴリ―安土〜江戸時代(小豆島)―2006-07-26−(22)“島原の乱と小豆島そうめん”

 1641(寛永18)年9月山崎家治が讃岐国丸亀に転封されて後、天草は天領(幕府直轄領)となりました。鈴木重成は島原の乱においてその養子重辰(重成の兄鈴木正三の長男)とともに松平信綱に従って現地に赴き、乱後も命により留まって肥後国天草荒廃地の開発に従事しました。同年9月19日天草の代官に任命され(「寛政重修諸家譜」巻第1154)、翌年薩摩・肥後からの移民を導入しました。また彼は天草の実態を調査して、寺沢氏領国時代の天草総石高42000石による農民負担は過重でその半分が適当と判断しましたが、すでに確定した石高半減は不可能であったので、1653(承応2)年江戸の自邸で自刃し、天草石高の半減を幕府に訴えました。この命を懸けた訴えが実現したのは鈴木重辰が2代目天草代官であった1659(万治2)年のことで、天草では鈴木神社を建立して重成の功績を称えたのです(村上直「天草における幕領の成立と代官支配―鈴木重成・重辰を中心にー」森克己博士古稀記念会「史学論集」対外関係と政治文化 第三 吉川弘文館)。この史実を見ても島原の乱時の天草がいかに重税であったかがよくわかります。

天草探検―歴史を彩った人―鈴木重成

船橋聖一「新・忠臣蔵」を読む1

 船橋聖一「新・忠臣蔵」(文芸春秋社)は1956(昭和31)年4月27日から1961(昭和36)7月26日まで「毎日新聞」に連載され、1999(平成11)年NHK大河ドラマ「元禄繚乱」の原作となった小説です。

大河ドラマ&時代劇登場人物配役事典―Contents―作品リストーNHK大河ドラマー元禄繚乱

 まず最初にこの事件に関係ある時代背景と人物について考察しましょう。江戸幕府5代将軍徳川綱吉は1646(正保3)年正月8日3代将軍徳川家光の子として誕生しました。幼名は徳松、長兄の竹千代が4代将軍家綱で、次兄長松(綱重)とはともに異母兄弟です。徳松の母光子は江戸城内ではお玉の局(家光死後桂昌院)とよばれていました。公式には京都二条家の侍北小路太郎兵衛宗正の女(常憲院殿御實紀巻1「徳川実紀」)とされていますが、その正確な出自は不明です。彼女は家光の側室お万の方(京都貴族出身の伊勢慶光院尼)の付き添いとして江戸城に入ったのが縁でやがて家光の子綱吉を産んだとする説(内藤耻叟「徳川十五代史」三 宝永2年6月20日条 新人物往来社)や、お玉の局は京都堀川の八百屋の娘とする説(「玉輿記」六 桂昌院殿御由緒「柳営婦女伝叢」日本人物情報大系 女性叢伝編1 皓星社)などがよく知られています。

ようこそ横浜 金沢みてあるきーかねさはの歴史―図表―徳川氏の系図

 1661(寛文1)年閏8月9日上野国館林城主として25万石の領主となりましたが、ほとんど現地に赴いたことはなく江戸神田館に住んでいたようです。1664(寛文4)年鷹司関白房輔の妹信子と結婚しましたが子はなく、1677(延宝5)年側室お伝の方との間に鶴姫、延宝7年には徳松が誕生しましたが徳松は1682(天和2)夭折しました。延宝6年には次兄綱重が死去、1680(延宝8)年長兄の将軍家綱が病に倒れて回復の見込みもなくなると、家綱には子がなく当然将軍後継者問題が浮上してきました。「徳川実紀」(常憲院殿御實紀巻1)が「世に伝ふる所」として述べている記事によれば、大老酒井雅楽頭忠清は昔鎌倉殿(源家将軍)の血統が絶えたとき、京都に要請して摂家・親王将軍を頂いた先例にならい、有栖川宮を将軍後継者として迎えようと主張しました。幕府首脳部がみなこの意見に雷同する中で、堀田備中守正俊ひとり正しい御血脈の徳川一門(綱吉)を捨てて他の後継者を立てる理屈はないと主張し、家綱の裁可を得たようです。

船橋聖一「新・忠臣蔵」を読む2

 かくして家綱死去後の1680(延宝8)年年8月23日綱吉は35歳で5代将軍となりました。同年12月9日には大老酒井忠清は免職、翌1681(延宝9)年12月老中堀田正俊は大老に、牧野成貞は側用人に任命され、成貞は老中に準ずる待遇をうけることとなります。
 しかるに1684(貞享1)年8月28日大老堀田正俊は江戸城中で若年寄稲葉正休に刺される事件が突発しました。正俊は重傷をうけて命もあやうく見えたので、老臣らがその場で正休を殺害したが、正俊は帰宅後死去しました。
この事件について「徳川実紀」(常憲院殿御實紀巻10)は「正休が正俊を刺殺せしそのゆへさだかならず」として諸説を記述していますが、塚本学氏が「重要なことは事件が綱吉の専制君主としての地位を固めるのに貢献したことであった。事件の背後に綱吉自身の意思があった嫌疑は濃厚であり、大老刺殺犯を即時に抹殺した幕府閣僚の行動もこの嫌疑を深める。」(塚本学「徳川綱吉」吉川弘文館)と述べていることに注意する必要があります。「徳川実紀」(常憲院殿御實紀巻10)は上述の記事につづいて「諸老臣かけよって、正休打ち果せしは卒忽の挙動なり。などをしらへて事の可否をば聴断せられざるとて水戸黄門光圀卿詰難せられしかば、諸老臣応る詞なかりしといふ。」と述べています。
 この事件後、綱吉は大老を任命せず専制体制を強化していきました。老中らの執務する御用部屋は将軍が出座する部屋に近く、この事件以来将軍に危害が及ばないよう御用部屋を遠避けたため、将軍側近の側用人が老中らとの連絡役として幕政に重きをなすようになりました。その代表的人物が牧野成貞と柳沢保明(のち吉保)です。ともに綱吉が館林城主の時代から仕え、綱吉の将軍就任後幕臣となった人々で、柳沢吉保は才学に秀でた人物ではあったが、幕政に対する高い識見があったとも思えず、ただ綱吉に気にいられることに巧みであったといえるでしょう。

川越原人のホームページー色々な人がいました―柳沢吉保

 すでに何度か出されていた生類憐れみの令がとくに厳しくなったのは1687(貞享4)年正月のことでした。それは人宿(口入業者が求職者を主体として宿泊させていた旅人宿)または牛馬宿などで重病の生類を生きているうちに捨てることを厳禁した法令(「御触書寛保集成」)で、2月の法令では犬の保護を重視、1695(元禄8)年には犬小屋を建てて野犬を保護しました。生類憐れみの令は全国に適用されましたが、江戸ではとくに厳しく励行されました。同年6月には大久保、10月中野に犬小屋を建設、11月中野犬小屋敷地は16万坪で収容された犬はたちまち10万頭に及び(常憲院殿御實紀巻32「徳川実紀」)、この費用を負担するために江戸の町人は賦課金をださせられ(「正宝事録」)、関東の諸国も犬扶持を拠出させられたのです(塚本学「前掲書」)。
 生類憐れみの令が出された背景には嗣子徳松を失った綱吉は桂昌院お気に入りの僧隆光が綱吉の嗣子のないのは前世で多くの殺生をした報いだから殺生を禁じ、丙戌年生まれの綱吉はとくに犬を愛護するのがよいというのを聞いた桂昌院が綱吉に勧めた結果であるとの説(東武野史「三王外記」我自刊我書屋)がありますが、あまり信頼できず、綱吉が儒教・仏教に厚く帰依したことが深く関わっていたようです。しかし綱吉の主観的意図はともかくとして、この法令が一般の武士ならびに民衆にとっていかに迷惑であったかははかりしれないものであったと思われます(戸田茂睡「御当代記」三 東洋文庫643 平凡社)。

戸田茂睡

 綱吉の儒教・仏教帰依の実例をあげると、1690(元禄3)年12月孔子を祭る湯島聖堂を完成させ、翌年正月には剃髪の林信篤に束髪を命じ、大学頭に任命しました(常憲院殿御實紀巻23「徳川実紀」)。このことは中世以来儒学(とくに朱子学)が五山禅僧の余技に過ぎなかった状態から脱して、儒学が仏教から独立した教学であることを将軍が公然と認定したことになります。また1695(元禄8)年9月綱吉は知足院に参詣、同院をご祈願所とし護持院と改め、僧隆光を大僧正に任命しました(常憲院殿御實紀巻32「徳川実紀」)。

近代建築散策―建築物一覧―東京(2)―文京区(2)―湯島聖堂

1701(元禄14)年3月14日浅野内匠頭長矩が江戸城中で吉良上野介義央に刃傷した事件(常憲院殿御實紀巻43「徳川実紀」)は上記のような綱吉治世の末期に起こった出来事です。

船橋聖一「新・忠臣蔵」を読む3

吉良氏は足利氏の祖となった義康の子孫義氏が三河国守護で同国幡豆郡吉良荘の地頭となり、その子長氏が吉良荘を継承し同荘西条に居住、長氏・満氏のころ吉良氏を称するようになったようです。やがて長氏の子孫満義の長男満貞が西条吉良、次男尊義が兄満貞と対立して東条吉良に分かれました。尊義の子孫東条吉良持広は1535(天文4)松平清康死去時、広忠を保護し三河岡崎帰城に尽力したことがあります(「徳川家康」を読む2参照)。ところが西条吉良満貞の子孫義安は東条吉良持広の養子となったので、今川氏真は義安が徳川家康の外戚であることを疑い、義安を駿河国にとどめ、義安の弟義昭を東条吉良に移らせました。1563(永禄6)年三河の一向一揆に際し一揆方についた義昭は徳川家康と戦って敗北し近江国に出奔したので西条吉良の系統は断絶、義安が西条・東条の地を併合するにいたりました。義安が死去すると、家康はその子義定に家を継承させました。義定の孫義冬の子が義央です(「寛政重修諸家譜」巻第92)。

吉良町HP−教育・文化―歴史・文化財―吉良三人衆―吉良上野介義央公

義央の妻は上杉定勝の女です。定勝は上杉景勝(関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れて米沢30万石に減封、「徳川家康」を読む20参照)の子で、定勝の子綱勝は1664(寛文4)年閏5月7日無嗣のまま死去しました。幕府は無嗣相続は許可しないのが原則であったが、死去後に綱憲(吉良義央の子)を養子として相続要請があったので同年6月5日封地半減の米沢15万石で上杉家相続を許可したのです(「寛政重修諸家譜」巻第749)。このような決定の背景には、綱勝の妻の父保科正之(3代将軍家光の異母弟で4代将軍家綱の補佐役)の尽力があったと考えられます。そこで上杉綱憲の次男義周が吉良義央の養子となりました(「寛政重修諸家譜」巻第92)。このように吉良家と上杉家は婚姻関係を中心とする同族関係で深く結ばれていたことに注意する必要があります。
浅野長政ははじめ織田信長に仕え、豊臣秀吉とはその妻北政所の養家が浅野家であったことから親しく、秀吉政権の五奉行の一人として重用されました。浅野本家は関ヶ原の戦い以後徳川方大名として紀伊和歌山から安芸広島城主として426000石を領有するに至りました。長政の三男長重の子長直は1631(寛永8)年従五位下内匠頭に叙任、1645(正保2)年常陸国笠間から播磨国赤穂他4郡に転封、新たに赤穂城を築城しました。長直の孫が長矩です。長矩は1667(寛文7)年の生まれで1680(延宝8)年従五位下内匠頭に叙任、1683(天和3)年はじめて領地に赴く暇を得ました。長矩の妻は備後国三次の領主浅野長治の女です(「寛政重修諸家譜」巻第310)。

ザ・登城―搦手門―播磨―兵庫県の城郭―播磨―赤穂城

船橋聖一「新・忠臣蔵」を読む4

この小説は1683(天和3)年2月勅使饗応役の大任を果した(「常憲院殿御実紀」巻7「徳川実紀」)十七歳の浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が播州赤穂へお国入りする途中、鷹取峠の上で家老大石頼母(おおいしたのも)から家老職辞退要請と後任家老として兄大石良欽(おおいしよしかね)の嫡孫内蔵助良雄(くらのすけよしたか)を推薦する旨を聞く場面から始まります。
大石家の先祖は近江国栗太郡田原の大石荘下司職を勤めた家柄でしたが、応仁の乱のころ家は衰退、大石久右衛門良信は豊臣秀次に仕えたが、秀次の死とともに牢人となりました。良信の子良勝は父の没落により、男山八幡の大西坊に入門して出家させられそうになったが、浅野長重が1601(慶長6)年下野国真岡2万石の大名となったとき、その家臣となりました。長重が大坂の役に参戦したとき、良勝は戦功をあげて家老となり1500石の俸禄をうけるにいたったのです。良勝の子が内蔵助良欽で良欽の弟は頼母良重といって長直(長重の子)の女と結婚、浅野家の親族となりました。良欽の長男良昭の子が良雄で良昭が家を継がぬうちに死去したため1677(延宝5)年良欽の死後良雄が家を継承したのです。良雄の妻は但馬豊岡の領主京極甲斐守高任の重臣石束(いしづか)源五兵衛毎好の女リクでした(大石神社蔵「大石家系図正纂」赤穂義士史料集二 新人物往来社)。
儒学者山鹿素行がその著「聖教要録」で幕府の官学であった朱子学を批判したため、赤穂に流罪(「徳川実紀」寛文6年10月3日条)となったのは、大石良雄が8歳のとき(1666)で、良雄も影響をうけたのではないかという説があります。

私立PDD図書館―PDD画像―墓所霊廟の索引―山鹿素行の墓(新宿区の宗参寺)

船橋聖一「新・忠臣蔵」を読む5

 江戸時代には年頭に幕府から朝廷へ高家衆(幕府の儀式典礼を職掌とし、勅使接待や京都名代などを勤める。足利一門の畠山・吉良家などが世襲)が挨拶に赴き、これに対する答礼として勅使(天皇の使節)・院使(上皇の使節)などが江戸に下向する慣例がありました。勅使饗応役とは上述のような勅使などを接待する幕府役職で主として外様大名が任命されたのです。
1701(元禄14)年正月には高家筆頭の吉良上野介義央が将軍年頭の挨拶をもって京都へ赴き、吉良義央が江戸に帰参しないうちに勅使・院使が決定したので、幕府は同年2月4日勅使饗応役として浅野内匠頭長矩を、院使饗応役には伊達左京亮村豊を任命しました。、
同年3月14日は勅使接待の最終日で、将軍の勅使らへの返答の儀式が江戸城本丸表の白書院で行われる予定になっていました。勅使・院使が白書院に赴こうとする直前に、この白書院に渡る松之大廊下で刃傷事件(「常憲院殿御実紀」巻43「徳川実紀」)が突発したのです。

忠臣蔵―忠臣蔵関係―忠臣蔵新聞―刃傷事件とその背景―第042号ドキュメント刃傷松の廊下

船橋聖一「新・忠臣蔵」を読む6

 「梶川氏日(筆)記」(八木哲浩編「忠臣蔵」第三巻 赤穂市・鍋田晶山「赤穂義人纂書」第二 国書刊行会)によれば、御留守居番の梶川与惣兵衛(かじかわよそべえ)は当日朝五ツ時(午前8時ころ)登城、吉良義央と浅野長矩に会うため松之大廊下まで来たところ「この間の遺恨、覚えたるか」といって浅野が吉良に切りつけ、驚いた吉良が振り向くとまた切りつけ、逃げる吉良の後ろを二太刀切りつけました。梶川がとびついて浅野を抱きとめました。浅野を大勢で取り囲んで大広間の後ろの方へつれていく途中、浅野は「上野介のことはこのあいだから意趣があり、殿中のことで恐れ入るが討ち果たしました。」と幾度も大声で言いましたので、高家衆はじめ取り囲んでいた人々が「もはや事は済んだ。お黙りなされ。」というと、浅野はそれ以後は言わなくなったそうです。

歴史資料室ホームページー歴史探検―2002年バックナンバー第二十一回―梶川頼照

船橋聖一「新・忠臣蔵」を読む7

 「多門伝八郎(おかどでんぱちろう)覚書」(八木哲浩編「前掲書」・「近世武家思想」日本思想大系27 岩波書店・鍋田晶山「前掲書」第一)によれば、事件当日の目付当番は多門伝八郎(重共)・大久保権左衛門(忠鎮)であったが、四ツ半時(午前11時ころ)殿中大騒動で御目付部屋へ「只今松之御廊下で喧嘩があり、高家吉良上野介殿が手疵を負われました。」という知らせがあり、早速同役とともに松之御廊下へ駆けつけました。
上野介は松之御廊下から桜之間に近い板縁へ逃げてきたので、畳一面に血がこぼれていました。浅野内匠頭は無刀で梶川与三兵衛に組みとめられていました。老中・若年寄の指示により、多門伝八郎が浅野内匠頭に「其方儀、場所も弁えず既に上野介え刃傷に及び候儀、いかが心得られ候や。」と申し渡すと、内匠頭は「上に対し奉り聊かの御恨これなく候得共、私の遺恨これあり、…刃傷に及び候。如何様のお咎め仰せ付けられ候共、ご返答申し上ぐべき候筋これなし。」と答えました。上野介へは同役両人で「其方儀何之恨を受候て内匠頭刃傷に及び候や、定めて覚之あるべし、ありてい申し上ぐべし。」と申し渡すと、上野介は「拙者儀何之恨を請候覚これなく、全く内匠頭乱心と相見申候。」と答えました。多門伝八郎ら4名は若年寄・大目付と相談の上、老中へ申しあげたところ、老中から松平美濃守(柳沢保明)へ申し達し、追々御差図もあろうから、目付4人は部屋で控えるよう指示がありました。
 刃傷事件突発時後、口上書ならびに大石・大野宛長矩の弟浅野大学長広の御書之写をもって馬廻役の早水藤左衛門満尭と萱野三平重実が第一の使者として国許の赤穂へ向けて出発しました(「赤穂城引渡覚書」忠臣蔵第三巻 赤穂市)。

船橋聖一「新・忠臣蔵」を読む8

 刃傷事件が突発したとき、将軍綱吉は入浴中でした。側用人柳沢保明は入浴後衣服を身に着けた綱吉に事件の概略を報告、綱吉は勅使饗応役を下総佐倉城主戸田能登守とし、勅使らへの返答の儀式場を黒書院に変更することを決定するとともに、刃傷事件に対する処置を老中たちに委ねず、浅野をただちに奥州一関城主田村右京大夫建顕に預け、吉良には大目付を通じて「時節を弁へ、場所を慎みたる段、神妙に思召さる」と慰めました(松島栄一「忠臣蔵」岩波新書)。将軍の勅使らへの返答は時刻が遅れた外は滞りなく終了しました(「柳原資簾卿関東下向道中日記」中央義士会編 赤穂義士史料 上巻 雄山閣)。
 当日午後綱吉は老中らを集合させて、浅野内匠頭に対する処分を相談し、浅野を即日切腹させる意向を老中たちに示しました。老中稲葉丹後守正通は浅野が乱心の様子であるから最終的な処分の猶予を願い、秋元但馬守喬朝・土屋相模守政直もほぼ同意見であったといわれます。この様子を見た将軍綱吉はこの場を去り、月番老中の土屋相模守を呼んで、浅野の切腹を命じたのです(松島栄一「前掲書」)。
 この将軍綱吉の裁断について、松島栄一氏は「浅野に対する裁決が、とりわけ過酷すぎるというわけではない。しかしこの裁決が将軍綱吉の専断ともいうべき裁決となったことと、それを許すような柳沢や老中たちの態度の中に、問題があることが考えられる。…このような裁決と、そのやりかたとについて、綱吉にも、柳沢にも、また老中たちにもなにほどかの反省が、生じたことであろう(それは、第二の事件がおこったことの理由のなかに、どうしてもそう考えないでは解せないようなことがことがあるからである)。」と述べています(松島栄一「忠臣蔵」岩波新書)。
 他方谷口眞子氏は第一に将軍綱吉の治世において朝廷儀礼を復興させ、天皇・朝廷の権威を将軍権力に協調させる方針をとったこと、第二に1683(天和3)年に発布された武家諸法度第一条を武道よりも忠・孝・礼儀による秩序を重視するよう変更したこと、仏教・儒学への関心を深め、生類憐み令を発布したこと、第三に浅野刃傷事件は内匠頭が一方的に切りつけたのであって喧嘩両成敗法が適用される類の実力行使ではないこと、第四に内匠頭が刃傷に及ぶような遺恨を吉良から受けたとは立証できないことなどの理由により『殿中で切りかけた内匠頭の行為は「理不尽」な暴力行為と解釈されたのである。』と述べており(谷口眞子「赤穂浪士の実像」歴史文化ライブラリー214 吉川弘文館)、綱吉の政治に対する批判はなく、松島栄一氏と対照的な意見です。私は松島栄一氏の見解に同感です。
2007-12-12 14:21 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年12月04日(火)
海鳴りの底から」を読む5〜「海鳴りの底から」を読む14
堀田善衛「海鳴りの底から」を読む5

「山田右衛門作口書写」(林銑吉編「前掲書」中巻)によれば、天草大矢野の千束島に山居していた5人の牢人たちは26年前に追放された伴天連(宣教師)が書き残した予言を知っていました。その予言とは「今から26年後に、必ず『善人』が一人出現する。その『幼き子』は習わないのに文字に精通した者である。その出現の印が天にも現れるであろう。その時は木に饅頭が生り、野山に白旗が立ち、人々の頭に十字架が立つはずである。東の空も西の空も必ず雲が焼けるだろう。そればかりか人々の住処が焼け果ててしまい、野も山も草も木も皆焼けてしまうだろう」というものでした。5人の牢人たちは当時天草にいた「大矢野四郎」がまさに予言に記された『善人』に間違いないとし、彼を「天之使」として人々に尊ばせたそうです。

南島原市―観光―歴史・伝統文化―島原の乱に関する名所―山田右衛門作の住居跡(口之津)

 この「大矢野四郎」とは小西行長に仕えていたといわれる牢人益田甚兵衛好次の子で16歳の四郎時貞(洗礼名ジェロニモあるいはフランシスコ)とされました。彼は稽古もなしに読書し、天草と有馬の中間にある湯島(談合島)まで海上を歩くなどの奇蹟を行ったそうです(「別当杢左衛門覚書」林銑吉編「前掲書」)。
 やがて「じゅわん(寿庵)廻状」(「岡山藩聞書」鶴田倉造編「原史料で綴る天草島原の乱」本渡市)の名で知られる一揆呼びかけの檄文が10月13日付で「かづさ」(加津佐 島原半島南端)から発せられました。その内容は「天人」と呼ばれる神の使者が地上に下り、全能の神でうす様の火のぜいちょ(審判)が行われるとし、キリシタンとなって「天草四郎様」に従うことを呼びかけ、キリシタンに改宗しない者はでうす様によっていんへるの(地獄)に落とされるからよく心得るようにと注意しています。
 他方1637(寛永14)年島原天草地方は深刻な飢饉に襲われていました。キリシタン弾圧による棄教の強制と飢饉を省みない重税に苦しむ島原天草の民衆が強い終末観に捉えられ、終末到来の原因を棄教にあると理解し、キリシタンに立ち帰って蜂起するに至ったという神田千里氏の説(「島原の乱」第三章 蜂起への道程 中公新書)は説得力に富む見解です。
 一方加藤清正は関ヶ原の戦いで小西行長の宇土城を攻略、戦後球磨・天草郡を除く肥後国全域と豊後国の一部を領有するに至りました(「大日本史料」第12−8慶長16年6月24日条)。1611(慶長16)年清正は死去しその子忠広が後継者となりましたが、1632(寛永9)年加藤忠広は改易(「徳川実紀」寛永9年6月1日条 新訂増補 国史大系第39巻 吉川弘文館)、出羽庄内に流罪となりました。同年細川忠利(忠興の子)が豊前小倉から転封、肥後国の大部分と豊後国の一部54万石の領主として熊本城主となったのです(「寛政重修諸家譜」巻第105)。

熊本北部ネットー熊本城―加藤・細川両家と熊本城

堀田善衛「海鳴りの底から」を読む6

1637(寛永14)年10月下旬天草でキリシタンに立ち帰った民衆の不穏な動向を聞いた島原藩の代官たちは各々担当の地域へ視察に向かいました。有馬村の三吉、覚内(角内)という二人の百姓が天草大矢野村の「増田四郎」(天草四郎)に帰依して吉利支丹の絵を授けられ村に持ち帰り、同月23日ころ村人を集めて布教を行う集会をひらいていました。すると23日の晩だけで700人余の男女がキリシタンに立ち帰ったそうです。翌日島原藩代官がこの二人の百姓を捕らえて処刑し、同月25日上述の集会を解散させようとした林兵左衛門をキリシタンたちは殺害し蜂起しました(「佐野弥七左衛門覚書」林銑吉編「前掲書」)。これが島原の乱の発端です。
同月26日早朝有馬村から中木場村(現島原市)にかけて7箇村のキリシタンが蜂起し島原城下へ押し寄せたので島原城の軍勢は籠城して防備態勢をかためました。城内にいる下級の奉公人たちのなかには一揆勢に加担するものもありましたが、島原城に立て籠もる武士は城内の一揆呼応者を殺害しました(「島原一乱家中前後日帳覚」林銑吉編「前掲書」)。
同月27日島原藩家老田中宗夫・岡本新兵衛・多賀主水らは豊後目付に事変を報告(「別当杢左衛門覚書」林銑吉編「前掲書」)するとともに、熊本藩の細川家や佐賀藩の鍋島家に領内の百姓らがキリシタンに立ち帰り、一揆を起こしているので隣国の誼により加勢をお願いするという内容の書状を送りました(「新撰御家譜」鶴田倉造編「前掲書」・「勝茂公譜考補」林銑吉編「前掲書」)。
当時豊後府内に牧野成純と林勝正両名の幕府目付が駐在していたのは、豊後府内藩に「お預け」となっていた福井藩主松平忠直(結城秀康の子 菊池寛の小説「忠直卿行状記」で有名)監視の目的で派遣されていたこと(「嶋原日記」鶴田倉造編「前掲書」)によるものです。同年11月2日島原藩からの報告を受けた豊後目付は江戸から返報があるまで島原城を守り通すこと及び近隣国へ一揆が領内にはいれば加勢して攻撃するよう指示してあるので安心して対処するよう申し渡しました。また加勢を要請された近隣諸藩は1635(寛永12)年に改訂された「武家諸法度」の「江戸ならびに何国に於てたとへ何篇の事これ有るといへども、在国の輩はその処を守り、下知相待つべき事」(原漢文)の規定(高柳真三・石井良助編「御触書寛保集成」岩波書店)に基づき、ただちに加勢することは不可能でした。しかし肥後熊本藩は10月28日豊後目付の命令次第で加勢することを回答しています(「新撰御家譜」鶴田倉造編「前掲書」)。
十月末には一揆勢は島原城下を引き上げ、それぞれの出身地域に立て籠りました。島原藩領の約三分の二にあたる南目(みなんめ)のうち深江・堂崎・有家・有馬・加津佐・串山の諸村は全部キリシタンとなって蜂起し島原城に敵対していました(「御家中文通の内抜書」鶴田倉造編「前掲書」)。これに対して島原藩領の約三分の一にあたる北目の村々は島原藩側につき、島原城下町の町民たちも城方に味方したのです(「野村氏島原陣覚書」鶴田倉造編「前掲書」)。

堀田善衛「海鳴りの底から」を読む7

  島原半島の日野江に古い裾の破れた「御影(みえい)」があり、だれも知らないうちに「御影」は表具し直され新しくなっていました。天草ではこの話を聞いて大矢野の湯島のもの6人が島原へ船で行ったところ、3人が湯島へもどってきて報告し、このことをきっかけに1637(寛永14)年10月27日大矢野ではキリシタンが立ち帰り(「新撰御家譜」鶴田倉造編「前掲書」)、一揆を起こして同月30日寺社に放火したということでした(「御家中文通の内抜書」鶴田倉造編「前掲書」)。これが天草における蜂起のはじまりで、大矢野のキリシタンは周辺の村民に改宗を迫ったのです。
  同月29日富岡城代三宅重利は本渡(下島)に軍勢とともに赴き、熊本藩に唐津は遠いので加勢を要請する(「新撰御家譜」鶴田倉造編「前掲書」)とともに立ち帰りキリシタンを討ち取り(「御書奉書写言上扣」鶴田倉造編「前掲書」)、やがて富岡に帰りました(「嶋原日記」鶴田倉造編「前掲書」)。
  11月10日ころ唐津からの応援軍勢が天草に到着し富岡城方の軍勢と一揆方は14日島子・本渡で交戦、唐津藩軍は富岡城代三宅重利をはじめとして寺沢家有力家臣が戦死する敗北を蒙り、富岡城に籠城を余儀なくされました(「嶋原日記」鶴田倉造編「前掲書」)。
本渡合戦における一揆方の大将は天草四郎で、上津浦村の源太夫と年齢50歳前後の乙名(おとな 老臣の意)2人の騎馬武者を従え、太刀を帯びていて額には小さな十字架をつけていました(「嶋原日記」鶴田倉造編「前掲書」)。三宅重利をはじめ、5人の者が梟首(さらしくび)された獄門に立て札が立てられ、この五人の者どもはキリシタンに敵対し、デウスの「冥慮(神の深い思し召し)」に背いたので刑罰を加えたと記述されていました。また立て札には一揆の指導者2人の署名があったということです(「嶋原実記」鶴田倉造編「前掲書」)。
一揆勢は富岡城を連日攻撃しましたが、城を陥落させることはできなかったようです(「諫早有馬記録」鶴田倉造編「前掲書」)。島原から援軍にきていたキリシタンは島原へ帰り、同月25〜6日の間に大矢野・上津浦(上島)のキリシタンたちも島原へ撤退していきました(「御家中文通の内抜書」鶴田倉造編「前掲書」)。

堀田善衛「海鳴りの底から」を読む8

 島原でキリシタンの一揆が蜂起したとの知らせを受けて、11月6日以後大坂城代阿部正次・京都所司代板倉重宗は九州諸大名に外部からの武器・米及びキリシタンが有馬に侵入しないよう監視すること、領内で島原の一揆に同調して蜂起するものがあれば死罪に処すべきことを命令しました。さらに熊本藩に対しては天草キリシタン蜂起の報告をふまえて、さらにキリシタンが蜂起すれば加勢を派遣すべきことを命じました(細川護貞監修「綿考輯録」第5巻 巻39 出水神社)。
 島原のキリシタン蜂起の豊後目付報告は11月9日江戸に到着しました。ただちに上使として板倉重昌・石谷貞清を現地に派遣することが決定され、島原藩主松倉勝家と豊後府内藩主日根野吉明は自領へ帰国することが許可されました。さらに佐賀藩主鍋島勝茂・唐津藩主寺沢堅高には領国の家臣たちに島原藩家臣が苦戦するようであれば加勢するよう指示することが命ぜられました(「徳川実紀」寛永14年11月9日条 新訂増補 国史大系第40巻 吉川弘文館)。
 板倉重昌は板倉勝重の三男で1614(慶長19)年方広寺大仏殿鐘銘が問題となったとき、京都に派遣され、鐘銘を記して家康に奉りました。1624(寛永1)年父勝重の遺領の一部を相続し、三河国深溝((ふかうづ)に住居、1632(寛永9)年以降たびたび城引渡しの役を務め、翌年には禄高一万五千石となりました(「寛政重修諸家譜」巻第82)。

大坂の陣絵巻―人物一覧―徳川軍武将一覧―板倉家―板倉重昌

堀田善衛「海鳴りの底から」を読む9

 11月12日には天草でもキリシタンが蜂起したことが江戸に知られたようで、13日幕府は豊後目付・大坂・京都へ継飛脚(幕府公用の飛脚)を派遣、つづいて14日には熊本藩細川家・日向延岡藩有馬家・佐賀藩鍋島家など九州諸大名に親族を領国へ下向させることを命じ、つづいて唐津藩主寺沢堅高らの帰国を許可しました(「徳川実紀」寛永14年11月14日条 新訂増補 国史大系 第40巻 吉川弘文館)。
 同月15日には長崎は島原のキリシタン蜂起にもかかわらず無事である旨報告が江戸に到着、江戸に戻っていた長崎奉行榊原職直・目付馬場利重が派遣されました(「同上」)。またこの日長崎代官末次平蔵茂房が大坂城代の配下曽我又左衛門に町ではキリシタンに立ち帰るものもないことを報告しています(「嶋原日記」鶴田倉造編「前掲書」)。
 一方11月27日江戸幕府は松平信綱と戸田氏鉄をキリシタン蜂起に関する御仕置のために派遣することを決定しました(「徳川実紀」寛永14年11月27日条 新訂増補 国史大系 第40巻 吉川弘文館)。この時点で幕府は島原・天草の一揆をそれほど重大視しておらず、松平信綱らの現地到着以前に一揆は鎮圧されているだろうと楽観しており、乱後処理を目的として松平信綱らを派遣したのでしょう。松平信綱は大河内久綱の長子で叔父松平(大河内)正綱の養子となりました。将軍徳川家光の信任厚く1633(寛永10)年武蔵国忍(おし)城など三万石を領有し、1635(寛永12)年11月土井利勝・酒井忠勝・阿部忠秋・堀田正盛とともに諸大名の訴訟を聞きかつ諸事を言上すべきことを命じられました。島原の乱に際しては将軍から西国より注進の書状は信綱が見た後江戸に言上すべきこととし、人夫・伝馬の用に備えて白紙の朱印数通を下付されました(「寛政重修諸家譜」巻第256)。

川越原人のホームページ(川越雑記帳)―人物―人物志1ー松平信綱

堀田善衛「海鳴りの底から」を読む10

 11月24日島原藩主松倉勝家が江戸から帰国しました(「新撰御家譜」鶴田倉造編「前掲書」)。また佐賀藩の軍勢が「からこ」(長崎県諌早市)までやってきたと聞いて一揆勢は驚き、原城に籠城することを合議の上決定しました。一揆勢が原城へ籠城をはじめたのは12月1日でした。島原のキリシタンたちは同月4〜5日男女ともすべて籠城、9日には天草のキリシタンが籠城に加わりました(「山田右衛門作口書写」林銑吉編「前掲書」)。籠城人数についての確実な情報はありません。一揆の指導者は有馬・小西家の牢人武士たちと豪農層の庄屋たちでした。彼らに従っていた民衆は必ずしも熱心なキリシタンばかりではなかったようです。原城から発掘された遺物のなかに、銃弾を熔かして作った十字架が発見されています。この十字架が死者の遺骨の周辺から発見されるということは、籠城のとき十字架をもっていなかったが、城中で布教をうけてはじめてお守りとして十字架をうけっ取ったものがいたことを物語っています。
近年の発掘の成果によると、原城は有馬領国の中心として建設され、松倉氏の入国以後もかなりの施設が残されていたようです。一揆勢は三十艘の関船(海賊を防ぐために使用した早船)を一隻だけ残して船板を素材とし城の塀に転用したようです(「同上」)。
  この小説には7箇所のプロムナードが挿入されており、この小説に関連する著者の思索や感想などが記載されています。これはそれ自体大変興味ある内容ですが、その記述をご紹介することは省略いたします。この小説は百姓たちが船をこわして原城の旧趾の崩れ落ちた石垣に木柵竹柵をたて、船板で補強しているところから始まります。

長崎県―長崎の歴史と旅の遊学サイトー長崎歴史散歩―県南―第8回 原城に散った祈り“島原の乱”をゆく 長崎歴史散歩―番外編―第7回 殉教の足跡を探して

堀田善衛「海鳴りの底から」を読む11

 キリシタン鎮圧軍を指揮する総大将に任命された板倉重昌と石谷貞清は11月26日小倉に到着し、熊本藩に対して、唐津藩軍と一揆勢が対立する天草へ出兵することを命じました(「新撰御家譜」鶴田倉造編「前掲書」)。
 板倉重昌と石谷貞清は島原に到着すると12月5日に軍勢の狼藉を禁止する軍令を出すとともに、一揆方の女性・子供はなるべく殺さないように、また一揆の投降者は咎めずに退城を認めると指示しています(「新撰御家譜」鶴田倉造編「前掲書」「勝茂公譜考補」林銑吉編「前掲書」)。同月6日島原を出発した島原・佐賀藩兵で構成される討伐軍は同月10日以降柳川・久留米両藩兵も合流して原城攻撃を繰り返しましたが敗退するばかりでした。
 松平信綱が到着する以前に原城を陥落させようとあせり気味だったらしく、1638(寛永15)年正月元日板倉重昌らの命令により討伐軍は原城総攻撃を敢行しましたが、討伐軍の足並みは揃わず、総攻撃は提灯三つを高く掲げ鉄砲の砲撃を三発行うのを合図に開始する手筈になっていたのに、佐賀藩鍋島家は合図以前に攻撃を開始して撃退され、久留米藩も佐賀藩の動きにつられて出撃したが撃退され退却、合図後に出陣したのは島原藩軍であったという状態(「林小左衛門覚書」林銑吉編「前掲書」)で板倉・石谷は原城の塀際まで進み、采配をふるって出撃を促したけれども応ずる軍勢はなく、板倉重昌は塀に手をかけたまま鉄砲に当って戦死し(「勝茂公譜考補」林銑吉編「前掲書」)、石谷貞清も負傷したのをはじめとして多数の戦死・負傷者をだすという失態を露呈しました(「嶋原日記」鶴田倉造編「前掲書」)。
 同年正月12日板倉重昌戦死の報告が江戸に到達すると、幕府は驚いて熊本藩主細川忠利・佐賀藩主鍋島勝茂・久留米藩主有馬豊氏・柳川前藩主立花宗茂・福岡藩主黒田忠之・延岡藩主有馬直純らに現地へ赴くことを命じました(「徳川実紀」寛永15年正月12日条 新訂増補 国史大系 第40巻 吉川弘文館)。細川家と黒田家は以前から仲が悪く、九州帰国に際しても先を争った様子を岡田章雄氏は史料を駆使して興味深く紹介しています(岡田章雄「天草時貞」吉川弘文館)。
 同年正月4日現地に到着した松平信綱と戸田氏鉄は原城を視察して早急な攻略は困難であると判断し、原城を包囲して兵糧攻めにするとともに間断なく砲撃・銃撃を浴びせて一揆勢を疲労消耗させる作戦をとり、間者(忍者)を入れて城中をさぐらせました(「寛政重修諸家譜」巻第256)。信綱は近江国水口から甲賀忍者を呼び城内に忍び込ませたのですが、一揆方の使う九州の方言やキリシタン宗旨の言葉が理解できず、あまり役に立たなかったようです(岡田章雄「前掲書」)。また正月13日から平戸にいたオランダ船を島原半島沖に回航して原城を砲撃させる挙にでました「ニコラス・クーケバッケルの日記」1638年2月26日条(永積洋子訳「平戸オランダ商館日記」第四輯)。これに対して一揆勢からオランダ船まで動員して攻撃するとは、外国までも物笑いになる旨の矢文による抗議が行われ(「新撰御家譜」鶴田倉造編「前掲書」)、これについてオランダ側の同様の証言「ニコラス・クーケバッケルの日記」1638年3月1日条(永積洋子訳「前掲書」第四輯)もあります。しかし原城包囲作戦の間に城から逃亡して降伏する者もありました(「池田家島原陣覚書」鶴田倉造編「前掲書」)。

川越歴史博物館―展示品紹介―忍者(隠密)

堀田善衛「海鳴りの底から」を読む12

 正月12日ころ松平信綱は一揆勢に対して矢文で将軍徳川家光か島原藩主松倉勝家に恨みがあるのか、もし恨みに理があるなら和談してもよい。籠城者は本宅にもどらせて耕作を許し、飯米二千石を給与、今年の年貢は免除し以後も租税を免除するなどの施策を実施する用意があると述べています。これに対して同日城中より包囲軍に送られた矢文には私どもは上様(将軍)・松倉殿への言分はありません。是非私どもの宗門をお認めくださいと記述されていました(「新撰御家譜」鶴田倉造編「前掲書」)。すなわち一揆方の主張は現世の支配者に服従するが、後生の救いを失わないために信仰の容認を求めて蜂起したという内容です。
 同年1月末ころから細川・鍋島陣から原城の城壁に向かって坑道を掘る作業が行われていました。これは塀際まで穴を掘って焼草をいれ塀の支柱を燃やして塀を崩してしまおうという作戦だったようですが、やがて城内からも穴を掘って水をかけたり、射撃したり、あるいは糞尿を流し込んだりしたのであまり効果はなかったようです(岡田章雄「前掲書」)。
 同年2月1日松平信綱は天草四郎の甥で熊本藩に捕らえられた小平(小兵衛)を使者とし、小平と同じく捕らえられた渡辺小左衛門(大矢野の庄屋)らの連名の手紙を持たせて原城内に派遣しましたが、その手紙の内容はキリシタン以外は助命するとして籠城者の降伏を促すものでした。2月8日松平信綱は再度小平と天草四郎の妹まんに渡辺小左衛門と四郎の母・姉の手紙を持たせて城内に派遣し籠城を強制されているものの解放をよびかけています(「一揆籠城之刻々日記」林銑吉編「前掲書」)。

堀田善衛「海鳴りの底から」を読む13

 同年正月26日この地域の元領有者であった日向延岡藩主有馬直純が島原に到着しました。直純は細川忠利・立花忠茂と相談した上で、原城に立て籠もっている旧有馬牢人らに連絡をとり交渉にもちこむことを松平信綱・戸田氏鉄に申し入れ裁可されました。そこで一揆方に打ち込む矢文の文面を松平信綱の添削を経たのち、包囲する各藩軍勢から城内に矢文を合計15本射込んだのですが、その文章はおよそ次ぎのような内容のものでした(「有馬五郎左衛門筆記」林銑吉編「前掲書」)。まず宛名は益田四郎大夫(天草四郎)・山田右衛門佐(作)・芦塚忠右衛門の3名で、内容は「この地はわが譜代の地なのでそちらの要求を詳しく聞いた上で幕府御上使衆に上申し、しかるべく取り計らいたい。そのためには書状ではなく、直接談合したいので矢留(停戦)を相談し日時を定めて当方の使者を派遣し、城中か塀際で話し合いたい。まず矢留交渉のため城内でも知人の多い田中刑部少輔を送る予定である。」
 翌日城内から矢文が届き、2月3日に大江浜で山田右衛門作・芦塚忠右衛門がでて、有馬家側の有馬五郎左衛門(田中刑部少輔)と会うとの返事がありました。この返事の矢文は山田右衛門佐(作)・芦塚忠右衛門加判のものと山田右衛門作一判のものが1本の矢に結ばれており(「有馬五郎左衛門筆記」林銑吉編「前掲書」)、山田右衛門作のものには松倉勝家殿の禄をはむ自分がこのような一揆に加わるはずもなく、強いられてやむなく参加していると記述されていました(「一揆籠城之刻々日記」林銑吉編「前掲書」)。山田右衛門作が包囲軍側に内通する決心をした動機は鍋島軍の井楼から発射された鉄砲の弾丸が天草四郎の左の袖を貫通し側近のものが射殺されたことに落胆した結果だということです(「山田右衛門作口書写」林銑吉編「前掲書」)。かくして交渉の場に臨んだのは山田右衛門作単独で、有馬五郎左衛門は右衛門作に有馬直純の手紙を渡し、城中に通告すべき7箇条の覚書を右衛門作に伝え、右衛門作からの返事を五郎左衛門が筆記しました。これで話し合いは終わり、五郎左衛門は筆記を松平信綱に奉りました(「有馬五郎左衛門筆記」林銑吉編「前掲書」)。

堀田善衛「海鳴りの底から」を読む14

 包囲軍側に内通する決意をかためた山田右衛門作は部下700名のうち500名を内通に抱き込むことに成功し、包囲軍を三の丸に侵入放火させたところで、天草四郎に原城からの脱出を進言、天草四郎を生け捕りにすることを計画しました。その計画を2月18日
有馬直純に矢文で知らせたのですが、この矢文が有馬側の手に渡る以前に同月21日城内の者に直純からの返事の矢文を見つけられて内通がばれ、山田右衛門作は家族とともに囚われの身となりました(「山田右衛門作口書写」林銑吉編「前掲書」)。
 同月21日一揆勢は包囲軍に夜襲をかけ城内に撤退しましたが、捕虜が松平信綱の面前で供述したところによれば、このまま飢え死にするよりは出撃すべきであるということになり、天草四郎が夜襲部隊を指揮したということです(岡田章雄「前掲書」)。
 一方2月27日山田右衛門佐(作)の妻子は原城本丸で斬られ、右衛門作も処刑されるところでしたが、包囲軍の原城総攻撃が開始されたため放置状態となり、縛られながら逃走しているところを小倉藩軍の足軽に捕らえられました(「有馬五郎左衛門筆記」林銑吉編「前掲書」)。これまでの研究では籠城したものは山田右衛門作を除いてすべて殺害されたとされているものが多いようですが、逃亡したものも少なくなかったようです(神田千里「前掲書」)。
 この小説は1638(寛永15)年2月28日原城総攻撃が予定されていたにもかかわらず、鍋島勢による事実上の総攻撃が開始された2月27日総崩れとなった一揆勢の中で生き残った3人が包囲軍の掘った坑道の中で、息をひそめて正坐しているところで終了しています。
2007-12-04 17:54 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年10月07日(日)
「功名が辻」を読む7〜「海鳴りの底から」を読む4
司馬遼太郎「功名が辻」を読む7

 四国・北陸の制圧以後秀吉が甥秀次に近江八幡山城主43万石を与えると、若く失敗がめだつ秀次を補佐するために数人の古参家臣を秀次付に任命しました。1585(天正13)年閏8月一豊は2万石を領有する大名として再び長浜城主となり、秀次補佐役を命ぜられました(「御武功記―一豊公紀―山内家史料」)。こうして立身を遂げた一豊は同年11月29日の長浜大地震(「宇野主水日記」)で6歳の娘与禰(よね)を失い(「御家中名誉―一豊公紀―山内家史料」)、夫妻は悲嘆の底に沈みました。このことをきっかけに一豊夫妻は美濃瑞龍寺の南化和尚(妙心寺大通院開基)について参禅し、法華宗から禅宗へ宗旨変えしたといわれます。1586(天正14)年には一豊の母(法名 法秀院)が死去しました(「一豊公紀―山内家史料」)。法秀院の墓といわれるものが滋賀県米原市宇賀野に現存しています。
米原市―観光ナビー功名が辻ー山内一豊公の母(法秀院)

 1587(天正15)年秀吉は九州の島津氏征討に赴きましたが、山内一豊は留守居役であった秀次側近として九州遠征には不参加でした。この年一豊は聚楽第普請役を務め、同年正五位下対馬守に叙任されています(「一豊公紀―山内家史料」)(「夢のまた夢」を読む14参照)。
 千代は裁縫が上手で能筆でもありました。一豊の長浜在城のころ、唐織の巻物の切れ切れを継ぎあわせて小袖に仕立てたものを一豊が親しい人々へ見せると、これは秀吉公へも上覧に入れるよう勧められ、差し上げたところ、秀吉はその出来栄えに感心し聚楽第出仕の面々にも小袖を見物せよと仰せ付けられ、以後禁裏(宮中)へ献上したとのことです(「一豊公御武功附御伝記」)。
Kimono Hudoki―きものの歴史―江戸時代の小袖

 この年長浜城下で千代に拾われた男子があり、拾(ひろい)と名づけられ一豊夫妻に育てられました。後には養子(後継)にしようと一豊にすすめたのですが、一豊は承知しなかったので、千代は拾を出家させ、1596(慶長1)年妙心寺南化国師の弟子となって湘南と名乗りました(「旧記」)。また一説に、一豊には妾がいて男子が生まれたのに、夫人に隠していました。ところがいつしか夫人の知るところとなり、彼女はある日仏寺参詣の帰途妾の生んだ子を捨て子として連れ帰り、自分には子がないから、この子を養育したいと申し出ましたので、一豊はこれを認めました。この子がのちの湘南であるといわれています(「山内一豊夫人若宮氏伝」大日本史料第12−3慶長10年9月20日条)。
高知市―市の情報―市政のひろばー広報ー広報あかるい町(HTMLファイル)ー土佐史研究家 広谷喜十郎さんの高知市歴史散歩はこちら―バックナンバー2005年4月〜2007年3月―253大利の地福寺―湘南和尚
 
司馬遼太郎「功名が辻」を読む8

 1590(天正18)年後北条氏征服戦では秀次指揮下に伊豆山中城攻撃に参加しました。同年9月20日遠江掛川城主となり遠江榛原・佐野二郡5万石を領する大名に取り立てられました(「御手許文書―一豊公紀―山内家史料」)。このとき一豊と同じく秀次補佐役であった中村一氏は駿府城主17万石、堀尾吉晴は浜松12万石、田中吉政は岡崎城主約6万石となり、いずれも関東へ移封した徳川家康を監視牽制する役割を担ったものと考えられます(「夢のまた夢」を読む15・16参照)。
掛川市―観光・ロケ―中部エリアー掛川城

 1592(天正20)年正月5日秀吉は朝鮮を経て明国に出兵しようとし、諸将に出陣を命令しました。すでに関白職を秀吉から譲られていた秀次は京都留守居役となり、山内一豊らは京都駐留として朝鮮に出陣することはなかったようです。 
 1595(文禄4)年7月秀次は謀反の疑いをかけられ、秀吉は同月8日山内一豊ら5人の使者を聚楽第に派遣、秀吉との意思の疎通をはかるため伏見にくるよう説諭しました。
しかるに秀次がこれに応じて伏見に赴くと、秀吉はもはや秀次と会わず、命じて高野山で切腹させました(「夢のまた夢」を読む18参照)。一豊はこのとき使者を務めた功績により、秀次の遠江蔵入約16000石のうち8000石が加増されました(「一豊公御武功附御伝記」)。
 1597(慶長2)年4月徳川家康・秀忠が上洛の際山内一豊の掛川領内で丁重な接待を受けたことを感謝する家康の礼状が送られました(「御手許文書―一豊公紀―山内家史料」)。このように一豊は秀次死後急速に徳川家康に接近したもののようです。
 翌年秀吉が死去すると石田三成らと徳川家康らの対立が激化、1600(慶長5)年家康は大坂城を出発、石田三成と気脈を通じる上杉景勝討伐に向かいました(「徳川家康」を読む18参照)。一豊もこの徳川軍に参加していましたが、彼は家康より先に伏見を出発して掛川城に帰り、同年6月24日江戸に向かう家康を遠江国佐夜(小夜)の中山(静岡県掛川市)で迎え、茶亭を設けて昼食の接待をしています(「御代々記―一豊公紀―山内家史料」)。」)。
掛川市―観光・ロケ―山内一豊・千代と掛川―山内一豊ゆかりの史跡―久延寺茶亭跡(小夜の中山)

同年7月21日家康は江戸城を出発、24日には下野小山に到着しました。その直後伏見城の鳥居元忠から石田三成の伏見城攻撃が近く開始されるとの報告がもたらされたので、家康は諸将に対して小山で軍議を召集すると通告しました(「徳川家康」を読む19参照)。
司馬遼太郎「功名が辻」を読む9

 すでに一豊は千代を守るために家臣の市川山城(信定)を駿河の鞠子(まりこ)から大坂へ派遣しました(「高知県史」近世篇 高知県)。彼は熱田神宮の神官に変装していましたが近江の水口で長束正家方の者に捕らえられても、機転をきかして脱出、大坂で千代の護衛にあたりました。しかし大坂城内から増田長盛・長束正家連署の書状が千代の許に届き、大坂方に味方すべきことを勧告されていました。石田三成方に細川邸が襲われ、ガラシャ夫人が最後を遂げたとき、千代も一時自害を決意したようですが、市川山城の諌めで思いとどまり、一豊に宛てた書状と増田長盛らの書状を文箱に収め、他に自らの見解を述べた書状を認め、文箱と他の一豊宛ての密書を編笠の緒にするよう命じ、家臣の田中孫作に託して一豊の許へ届けさせました。
 深夜田中孫作が一豊の陣所に到着して門をたたくと、一豊は近侍していた谷川庄五郎(元次 後に七左衛門と改名)に命じて孫作を引見し、「笠の緒の文」を読んで焼却させ、文箱は開かず、そのまま使者に持たせて小山にいた家康の許へ提出させました。文箱に収められた一豊あての夫人の手紙の内容は大要次のようなものであったそうです。「老中奉行達俄かに反逆を企て、人数催促の廻文来たり候程に、田中孫作に持たせ差し下し候。常々の御志に候へば、申すもいかがに候へども、上様へ能々忠節遊ばされ候へ。構へて構へて我身の事、御心苦敷思召され間敷候。叶はぬせんには自害を遂げ、人手には懸り候まじ。」(山本大「前掲書」)。家康の命により直ちに家康の本陣に赴いた一豊に対し、家康は大坂城内の動きを詳細に知ることができ、且つ一豊夫人の手紙により、彼女の決意を知って感動した旨を述べたようです(「御家伝并御武功記」「谷川氏記録」「田中孫作先祖覚書」)。
司馬遼太郎「功名が辻」を読む10

 1600(慶長5)年7月25日小山において開かれた軍議(「徳川家康」を読む19参照)において上方の逆徒退治を優先する方針が決まると、一豊は「西上の際、自分の居城を明け渡して兵糧を提供し、人質を出して二心のないことを明らかにしたい。」(「鶴頭夜話」)と申し出て諸将も賛同し、東海道筋に居城をもつ者はみな城を家康に明け渡すことになり、家康を感激させました。しかしこれは一豊の発案ではなく、浜松城主堀尾忠氏の意見であったといわれます(「藩翰譜」)。
 やがて始まった関ヶ原の戦い(「徳川家康」を読む20参照)において一豊は他の諸将らとともに南宮山に陣を構えた毛利秀元・吉川広家・長束正家・安国寺恵瓊・長宗我部盛親らの軍勢と対峙して垂井近辺に軍を展開していました。吉川広家は家康に内応しており、むしろ西軍の諸将を牽制しようとしていましたし、南宮山は主戦場から離れていたこともあって、一豊は関ヶ原の戦いにおいてめざましい戦功はあげられなかったのです(「一豊公紀―山内家史料」)。
 家康は同年9月27日大坂城に入ると井伊直政ら6人の武将に諸将の関ヶ原の戦いにおける勲功を定めさせ10月15日に封地の授与を発表しています。一豊の封地授与もおそらくこのとき内示があったのではないかと思われますが、正式には11月にはいり、榊原康政を通じて土佐一国20万石余授与を申し渡されました。このとき家康は「山内対馬守の忠節は木の本、其外の衆中は枝葉の如し」(「御武功記」)といい、大坂でみずから茶をたててもてなしたといわれます。
 土佐を支配していた長宗我部盛親は関ヶ原の戦いに敗れて土佐に逃げ帰り、井伊直政を通じて家康に謝罪したのですが、家康はこれを許さず、井伊直政に土佐浦戸城を受け取って山内一豊に渡すよう命じ、直政は家臣鈴木平兵衛らを城受け取りのため土佐に派遣しました。一豊もこのころ弟康豊らを土佐に行かせています(「御手許文書」)。康豊は土佐入国後同年11月27日安芸郡吉良川(室戸市)の大畑弥右衛門と百姓あてに「急度(きっと)申し遣わし候。今度土佐国対馬(一豊)拝領申さるるに付き、先へ相越し候。然る処に浦戸城渡しの儀、遅延せしむる故か、在々所々の百姓山中へ隠れ在るの由に候。然れば当国法度の事、衛門太郎殿(長宗我部盛親)御置目の如く申し付くべく候間、又々在所へ立ち還ること尤に候。」という文書を遣わし、山内家は長宗我部氏の法度を尊重する方針を表明しました(「御手許文書―一豊公紀―山内家史料」)。
)。しかし一領具足(長宗我部支配下の2〜3町ほどの土地をもった在郷武士)たちは武力で抵抗(浦戸一揆)し、長宗我部家の宿老たちはこれを鎮圧、同年12月5日鈴木平兵衛らは浦戸城の接収を完了したのでした(「土佐国蠧簡集」―「高知県史」古代中世史料篇 高知県)。
風雲戦国史―地方別武将家の家紋と系譜―中国/四国の武将―高知県―長曽我部氏

明石海峡大橋北南―「功名が辻」関連共同ブログーCATEGORIES―高知―一豊の一領具足鎮圧法
司馬遼太郎「功名が辻」を読む11

 山内一豊は1600(慶長5)年末大坂を出帆、翌年正月2日甲浦(かんのうら)に上陸、正月8日浦戸城に入りました(「御家伝記―一豊公紀―山内家史料」)。1601(慶長6)年3月1日一豊入城の祝賀行事として桂浜で相撲大会を開催し、国中の相撲上手が集まったので大変な人気でした。しかるに一豊はあらかじめ浦戸一揆に加わった一領具足や庄屋らを調査し、相撲大会参加者の中73人を捕らえて種崎浜で磔刑にする弾圧を強行しています(「御武功記―一豊公紀―山内家史料」)。
 同年4月1日一豊は康豊とともに領内視察のため、老臣を随行させて土佐7郡を巡視、万事長宗我部氏の旧慣に準拠することを申し渡しました(「南路志―一豊公紀―山内家史料」)。同年6月康豊に幡多郡中村2万石(「南路志」)、8月深尾重良に高岡郡佐川1万石、山内一吉に同郡窪川5000石、山内可氏に幡多郡宿毛7000石、山内一照に長岡郡本山1300石、五藤為重に安芸郡土居1500石を各々分封しました(「一豊公紀―山内家史料」)。
 浦戸城は水軍の基地としては便利ですが狭い土地で、近世大名として広大な城下町を建設することはできません。大高坂山は湿地帯という欠点がありましたが、治水工事に成功すればほぼ国の中央に位置し、水陸交通の要衝で土佐国の首都として理想的でした。一豊は同年6月大高坂山に新城建設を決定、築城総奉行に百々(どど)越前守安行(谷口克広「織田信長家臣人名辞典」吉川弘文館)を任命しました。
 百々越前守は近江国犬上郡百々村出身ではじめ織田信長に仕え、本能寺の変後秀吉の命により、美濃岐阜城主織田秀信(信長の孫)に仕えましたが、関ヶ原の戦いにおける岐阜城陥落後牢人となり、京都にいた彼を一豊が7000石で召抱えたのです。その理由の一つは百々越前守安行が濃尾平野の低湿地に多い輪中堤の技術を新城建設に導入させることを期待したからでしょう。事実としてのちの高知は幾重もの堤防に守られ、輪中のようになっています(平野明夫「土佐への転封とその治世」小和田哲男編「山内一豊のすべて」新人物往来社)。
 1603(慶長8)年8月新城の本丸・二の丸が完成したので、一豊は入城し、新城の地名は大高坂山から河中山(こうちやま)と改称されました。しかしその後度々の水害に悩まされたので、河中の字を同音の高智山(のち高知と改名)と改名しましたが、これは一豊死後のことです(「御家伝記」大日本史料第12−1慶長8年8月21日条)。
 同年11月山内一照に分封した長岡郡本山地方の長宗我部遺臣高石左馬之助が支配下にあった農民とともに反乱を起こした本山(滝山)一揆が勃発しました。山内一照は援軍を受けてやっとこれを鎮定しましたが、百姓の逃散により無人の荒野となったところも多く、山内家は一揆に参加した百姓の罪を許して帰村させたといわれます(「滝山一揆覚書―一豊公紀―山内家史料」)。しかしこの一揆が山内家の土佐支配に対する最後の抵抗となりました。
まさるマニアー岡豊城―滝山一揆

司馬遼太郎「功名が辻」を読む12(最終回)

 山内一豊が徳川政権成立後に世子としたのは弟康豊の長男国松(のち忠義)でした。国松は1592(文禄1)年遠江掛川で生まれ、1605(慶長10)年4月17日家康の養女阿姫(家康の異父弟松平定勝の二女)と結婚(「高知県史」近世篇)、のち秀忠の一字を与えられて忠義と改名しました。
この直後同年9月20日山内一豊は死去し(「大日本史料」第12−3慶長10年9月20日条)、真如寺山(高知市)へ葬られました(後、筆山に改葬)。法名は大通院殿心峯宗伝で、一豊生前すでに南化玄興国師から与えられていたそうです。
よいよい写真館―土佐の歴史散歩―山内氏関係―墓所―山内家墓所

お城と温泉と文学の旅―司馬遼太郎を歩くー功名が辻―高知編(中)


  一豊夫人千代は夫が死去した翌日妙心寺住持単伝士印から見性院の法名を受けました。やがて1606(慶長11)年土佐を去って伏見に赴き、同年6月13日京都桑原町の新居が完成するとここへ移転しました。約10年後病気からの再起ができないと知って、千代は日常愛読していた「古今和歌集」や「徒然草」などを形見として忠義に与え、京都桑原町の邸宅も遺産として忠義に贈り、与えられていた隠居料1000石のうち800石は義子の湘南和尚に相続させることとし、1617(元和3)年12月4日死去しました(「旧記」大日本史料第12−3慶長10年9月20日条)。夫人の遺骸は妙心寺大通院で荼毘にふした後埋葬されたとのことです。
京都あちらこちらー洛中ー以前の記事―2006年3月―妙心寺大通院(3/15)
 
田端泰子氏は千代について「現在使われている『内助の功』は、夫が外で働き、妻は家庭にいるという性別役割分担のなかで、夫の社会的活動の支えになることを、この言葉で呼ぶ。…戦国時代には妻も夫も一緒に智恵を働かせ、…時代の変化に対応する手だてを考えたのであり、…妻は夫のパートナーであると同時に、夫のよき代理者でもあった、というのが戦国期の夫婦の実態であった。そのため『内助』の意味は現代とは大きく異なっていたといえる。」(田端泰子「前掲書」)と述べています。

堀田善衛「海鳴りの底から」を読む1

 堀田善衛「海鳴りの底から」(大活字本シリーズ 埼玉福祉会)は島原の乱を扱った小説で、1960(昭和35)年から翌年にかけて「朝日ジャーナル」に連載されました。
 肥前島原地方の領主有馬氏は鎌倉時代の建保年中肥前国高来郡有馬に築城、有馬氏を称するようになりました。室町時代に在地領主として成長、有馬晴信の時代戦国大名として最盛期を迎えました。1582(天正10)年晴信はキリシタン大名として大友義鎮(宗麟)・大村純忠とともに、ローマ教皇の許へ少年使節を派遣したことで有名です(「下天は夢か」を読む19参照)。
 1587(天正15)年秀吉の九州出兵により、その支配下に入り本領を安堵されました。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは、はじめ西軍に属しましたが、やがてその子直純を加藤清正による小西行長の宇土城攻撃に参加させ、無事徳川政権下に生き残ることができたのでした。有馬氏の居城は日野江城と原城です(「寛政重修諸家譜」巻第745)。
風雲戦国史―地方別武将の家紋と系譜―九州の武将―長崎県―有馬氏

お城めぐりFAN―九州・沖縄―日野江城―原城


 キリシタン大名有馬晴信は厚くキリスト教を保護し、その教えを理解しようとしない者は領内から追放するよう命じました。宣教師たちは仏像を破壊し、焼却することも躊躇しなかったのです(ルイス・フロイス・松田毅一・川崎桃太訳「日本史」西九州篇U第43・44章 中央公論社)。しかし晴信は岡本大八事件(「徳川家康」を読む23参照)に連座、自殺させられました。
 晴信の子直純が後継者となると島原地域ではキリスト教禁教の布告が出されました。しかし領民の棄教に反抗する一揆に直面すると直純は再びキリスト教信仰を認め(1612年10月10日ルイス・セルケイラ書簡『イエズス会と日本』二 大航海時代叢書第U期7 岩波書店)、1614(慶長19)年の幕府禁教令によりまた島原地域に禁教を命ずるなど、その政策は一貫性を欠く有様でした。長崎奉行長谷川藤広の報告を受けた幕府は有馬直純の日向転封を命じました。かくして直純は家臣の大半を連れて日向延岡に赴いたのですが、牢人として島原に残った者たちの中から乱の中心的指導者がでることになり、これが島原の乱の特徴の一つとなるのです。

堀田善衛「海鳴りの底から」を読む2

 有馬直純が日向へ去った後、1616(元和2)年松倉重政が島原の領主として入部してきました。松倉氏は大和国筒井家の家臣でしたが、筒井定次が伊賀に転封された後、松倉氏は伊賀国において八千石を知行していました。関ヶ原の戦いで東軍に味方して、大和国二見五条の領主となり、大坂夏の陣の功により肥前日野江四万石を与えられたのです(「寛政重修諸家譜」巻第1125)。元和の一国一城令により、1618(元和4)年重政は有馬氏の日野江城と原城を廃して島原城の築城を開始しました。日野江城と原城を拠点とすることは農村に土着した旧有馬家牢人たちを通じて農村を支配することになるので、有馬氏の城を捨ててあらたに島原城を中心とした松倉氏の直接農村支配体制をつくろうとしたといえるでしょう。この工事は1625(寛永2)年まで続き、住民の重い負担となったことは明らかです。
風雲戦国史―地方別武将の家紋と系譜―近畿の武将―奈良県―松倉氏

お城の旅日記―九州のお城―長崎―肥前―島原城

 すでに幕府の禁教令が発せられていたにもかかわらず、重政は1622(元和8)年まで半ば公然とイエズス会宣教師の活動を容認していました。しかし彼は1625(寛永2)年江戸に赴いた際、幕府から禁教の不徹底を指摘されて激烈なキリスト教弾圧にふみきりました(深谷克己 X島原の乱 「日本民衆の歴史」3 三省堂)。
 たとえば同年キリシタンからの改宗を拒んだ7人が温泉山(雲仙岳)の「地獄」に沈められました。1627(寛永5)年には有家村の住民207人が以前改宗したことを後悔し、改宗する旨を認めた書面を取り戻しに島原へいったとき、権左衛門以下7人は竹鋸で首を挽かれるという残酷な刑罰を受けました。他のものは拷問に耐えきれず転んだ(改宗)のですが、吉兵衛だけは転ばなかったため、権左衛門以下7人と同じく首を挽かれたそうです(「肥前国有馬古老物語」―林銑吉編「島原半島史」上中巻 国書刊行会)。かくして松倉領の住民は寛永5年にみな改宗しました(「有馬記録」―林銑吉編「前掲書」中巻)。

堀田善衛「海鳴りの底から」を読む3

 松倉重政が江戸城普請を命ぜられたとき「十万石の役(労役)をのぞみしかば、所領六万石になされ、十万石の軍賦(軍事的労役)をゆるさる」(「徳川実紀」寛永7年11月16日条 新訂増補国史大系第39巻 吉川弘文館)とあり、重政は石高の約1.65倍の負担を江戸幕府に申し出て、キリシタンの弾圧ともども徳川氏への忠誠を行動で示したのですが、この十万石の軍賦は島原民衆への過酷な負担要求となって現れたのです。
 やがてもともと山地が多く耕地に乏しい島原・天草地域は深刻な飢饉に見舞われました。オランダ平戸商館長ニコラス・クーケバッケルは松倉重政の苛政について次のように記述しています。「新しい領主(松倉重政)は土地を耕作する人々にさまざまな税を課し、不可能な程多量の米を取り上げた。そしてこれに不足する者、或いは命令を守ることが出来ない者は、長く広幅の干草で作り、日本人が蓑と呼ぶ、船頭や田舎の人々が雨の時に使う、もじゃもじゃの外套を首から胴まで巻きつけてかけ、手を後にしっかりしばりつけた後、この藁の外套に火をつけた。このため焦げるだけではなく、或る人々は完全に燃えつきてしまった。また或る人は自ら頭を地に打ちつけ、或いは水に飛込んで生命を絶った。この蓑の悲劇は、今日でも蓑踊りと呼ばれている。」つづいてクーケバッケルは松倉勝家(重政の子)が「領民には取れる限りの税を課し、彼等は殆ど餓死寸前で、僅かに木の根、草の根で生命を保っていた。」と日記に書きました「ニコラス・クーケバッケルの日記」1637年12月17日条(永積洋子訳「平戸オランダ商館の日記」第四輯 岩波書店)。
 また島原の乱当時、大村の牢獄につながれていたポルトガル人ドアルテ・コレアは奉行長門守(松倉勝家)の虐政について見聞したことを次のようにのべています。「農民は毎年貢物として米と小麦と大麦を納めた。さらに煙草一株につき税としてその葉の半数を取られた。もしそれが無い場合茄子一株について実何個と割り当てる。納められない人々には迫害が加えられ、その妻を取り上げられた。たとえ妊婦でも容赦なく凍った水中に投ぜられ、そのために生命を失う者もすくなくなかった。」(「ドアルテ・コレア島原一揆報告書」長崎県史 史料編第三 吉川弘文館)

堀田善衛「海鳴りの底から」を読む4

 1588(天正16)年佐々成政切腹(「夢のまた夢」を読む14参照)以後肥後天草
は小西行長に与えられ、彼は宇土城を築城しました。加藤清正も肥後半国を与えられ隈本城に入り、熊本城を築いて隈本を熊本と改めました。

阿蘇ネットワーククラブー天草の神社―天草の地理、歴史そして人々―熊本の歴史

戦国放題こたつ城―更新終了―戦国時代一覧―小西行長

 小西行長が有馬晴信とともにキリシタン大名であったことは有名です。彼の統治下でキリシタンへの改宗が強力に進められ、神仏の偶像が、あるものは鼻をそがれ、あるいは首を切られ、また足蹴りにされました。他方仏僧の中には斬首刑に処せられるものもあり、首は地中に打ち込まれた杭の上に曝され、遺体も首のまわりに経本とともにつるされたのです(「1590年度・日本年報」松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第T期第1巻 同朋舎)。
 小西行長は1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで石田三成方の西軍について敗死しました。寺沢広高は秀吉に仕え肥前国唐津8万石を領有する大名で、関ヶ原の戦いにおいては大谷吉継を撃破した戦功により1601(慶長6)年肥後国天草郡4万石を加封され、旧領をあわせて12万石を領有するようになりました(「寛政重修諸家譜」巻第651)。

お城の旅日記―九州のお城―佐賀県のお城―唐津城―熊本県のお城―富岡城

 寺沢広高はキリシタン大名ではありませんでしたが、十数年に及ぶ小西行長のキリシタン保護政策によるキリスト教勢力伸張の既成事実を無視していきなり禁教政策を徹底させることはできなかったようです。従って天草領有当初はイエズス会宣教師やキリシタンに冷淡であったが、やがて広高は「伴天連方の手に予の島々を渡しドン・アゴスチイノ(小西行長)の頃と同じ自由をもって、何らの不安も妨げもなしにかのキリシタンたちの教化にあたっていただくことを決意した」(「1601、02年の日本の諸事」松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第T期第4巻 同朋舎)と言明したようです。しかし1604(慶長9)年彼はキリシタン迫害を開始しましたが、また黙認する(「1605年の日本の諸事」松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第T期第5巻 同朋舎)などその宗教政策は島原における有馬直純同様一貫性に欠けていました。
 幕府の禁教令をうけて寺沢広高もキリシタン迫害に踏み切りました。天草諸島の各地で司祭が追放されていきましたが、それでもなお天草各地には潜伏する宣教師がいてキリシタンの数も多く厳重な取り締まりなどできる状況ではなかったようです。
 天草で大規模なキリシタン迫害がはじまるのは1629(寛永6)年ころで、寺沢広高は志岐(下島)の富岡城城代に三宅藤兵衛重利(元キリシタン)を任命しました。三宅重利は家臣の改宗を強制し、富岡をはじめキリスト教を根絶するため拷問などを用いて迫害を強行しました[「1628(寛永5)、1629(寛永6)、1630(寛永7)年に日本の各地でキリスト教の信仰に対して起こった迫害の記録」(今村義孝「近世初期天草キリシタン考」天草文化出版社)]。
2007-10-07 05:51 | 記事へ | コメント(0) |
| 歴史小説・日本文化論と史実(近世篇8) |
2007年07月25日(水)
「徳川家康」を読む25〜「功名が辻」を読む6
山岡荘八「徳川家康」を読む25

    1614(慶長19)年11月18日徳川家康・秀忠は攝津茶臼山に出陣、同月19日東西両軍の武力衝突が始まりました(「駿府記」大日本史料第12−16慶長19年11月19日条 大坂冬の陣)。幕府側は和戦両様の対応で臨み、家康は秀頼の身上を保証、秀頼は大御所・将軍家に対して、今後謀反野心あるべからず、中傷の雑説に惑わされず、直接に両御所の意を伺うべきこととして互いに誓詞を交換、12月22和議が成立しました(誓書前書「羅山別集所収大坂冬陣記」中村孝也「前掲書」下巻之一 八八二頁・大日本史料第12−17慶長19年12月22日条)。
    しかし和議の条件の中に二の丸・三の丸の城濠を埋却するという条項があり、大坂方の使者が秀頼方の人数で壊埋すると申し上げたのに対して家康はよくよく入念に崩せ、ただし奉行は若狭守(京極忠高 正室は将軍秀忠の娘 義母常高院は淀殿の妹として大坂方との講和交渉にあたる)とする旨仰せられたと記録されています(「大阪冬陣記」羅山別集所収 大日本史料第12−17慶長19年12月20日条)。この家康の発言は重要な含みがあったと考えられ、幕府側が和議条件を越えて本丸の内堀まで埋めてしまったので、これが大阪方との対立を激化したといわれます。しかし「元和元年卯之三月始めより、…城ハ本丸之堀一重ニ而羽ぬけ鳥の有様、誠に言葉にも不被伸候」(「見聞書」大日本史料第12−18元和元年4月5日条)という記録もあり、大坂城本丸の内堀まで埋められたかどうか疑問も残ります。問題は大坂方が牢人をさらに召抱えていると幕府側が非難している点にありました。家康は秀頼に対して大和もしくは伊勢への国替えか牢人追放か、二者択一を迫り、ともに拒絶するなら開戦すべきことを通告しましたが、秀頼の使者は家康の許に来て移封を受け入れられないと回答しました(「駿府記」大日本史料第12−18元和元年4月5日条)。
   1615(慶長20・元和1)年3月12日板倉勝重は大坂再挙の模様を駿府に注進(「大日本史料」第12−17元和元年3月12日条)、4月4日家康は駿府を出発、同月7日西国の諸大名に再び大坂征討準備を命令しました(「譜牒余録」大日本史料第12―18元和元年4月7日条 大坂夏の陣)。大坂方の武将後藤基次・薄田兼相らは河内片山・道明寺附近、木村重成らは河内若江・八尾附近、真田信繁(幸村)らは摂津茶臼山・岡山附近で奮戦しましたが戦死、大坂城は炎上しました。同年5月7日大坂方の武将大野治長は千姫(秀頼正室)を城から脱出させ、使を家康の軍営に派遣、秀頼母子の助命を要請(「駿府記」大日本史料第12−19元和元年5月7日条)しましたが、同年5月8日秀頼・淀殿は火中に自殺、大野治長・大蔵卿局らも運命を共にし、豊臣氏は滅亡しました(「駿府記」大日本史料第12−20元和元年5月8日条)。
大坂の陣絵巻

   同年8月5日家康は駿府に帰る途中近江水口に3日間滞在、近江代官・蘆浦観音寺住僧から松平忠輝(家康第6子)が大坂夏の陣において将軍秀忠の配下長坂信時らを殺害した事情を聴取しました(「駿府記」大日本史料第12−22元和元年8月5日条)。その結果同年9月10日忠輝を勘当(親子関係の断絶)しています(「大日本史料」元和元年9月10日条)。翌年の松平忠輝改易(領地没収)の発端となった出来事でした。
山岡荘八「徳川家康」を読む26
 
1615(慶長20・元和1)年閏6月13日江戸幕府は一国一城令を定め、諸大名の領内における居城以外の城の破壊を命じました(「細川家記」)。さらにかねてより家康が以心崇伝に命じて検討させていた武家諸法度13箇条を、伏見城において同年7月7日徳川秀忠の前に諸大名を招集し以心崇伝に読み上げさせました(「駿府記」中村孝也「前掲書」下巻之二 二一−二三頁・「大日本史料第12−22元和元年7月7日条)。
  このうち第1文武両道の奨励、第2群飲佚遊(多数集まって酒を飲み、きままに遊ぶ)の制限、第12倹約の奨励、第13人材登用をこころがけるなどは訓戒的条項ですが、第3法度に背く輩を隠すな、第4反逆・殺害人の放逐、第5他国者を交え置くな、第6城郭の修理は要許可・新築厳禁、第7隣国の徒党結社の告発、第8私婚姻禁止などいずれも命令・禁令でこれに違反すれば厳科に処せられました。
  つづいて同年7月17日将軍徳川秀忠・前将軍徳川家康・前左大臣二条昭実が二条城において連署した禁中并公家諸法度17箇条(「大日本史料」第12−22元和元年7月17日条」が同月30日公布されました(「言緒卿記」「御当家令条」中村孝也「前掲書」下巻之二 二五−二八頁)。その主要な内容を述べると、天皇の修養について学問に励み、和歌の道を学ぶべきことを規定し、三公(太政大臣・左大臣・右大臣)・親王・清華(摂家につぐ公家の家格)の座位の規定、三公・摂関の任官規定、養子において女性の家督相続不認、武家の官位は公家当官の員外とする、改元、公家の服制・昇進、門跡(はじめ祖師の法統を継承する寺またはその僧、やがて寺格の意となる)の座位、紫衣・上人勅許などにかんする規定などです。要するにこの法度の最重要目的は天皇及び公家を政治の世界から閉め出し、単なる儀礼的存在とするところにあったといえるでしょう。
京の住人たよりー洛中―二条城

  寺社に対する法度は武家諸法度や禁中并公家諸法度のように一括したものでなく個別的に下されたものです(例「金地院文書 五山十刹諸山之諸法度」中村孝也「前掲書」下巻之二 六四−六五頁)。それは信長・秀吉によって推進された寺社の政教分離を最終的に完成したものといえます。
山岡荘八「徳川家康」を読む27

  1616(元和2)年正月21日家康は鷹狩に興じましたが、その夜にわかに発病しました。「御痰つまり候て、御煩いなされ候」(「板倉勝重宛以心崇伝書状」)という状態であったようで、将軍秀忠は同年2月2日駿府に到着して父の病状を見舞いました(「本光国師日記」)。また2月11日朝廷は諸社寺に命じて家康の病気平癒を祈らせ(「中院通村日記」)、3月27日家康を太政大臣に任命しました(「梵舜日記」大日本史料第12−24元和2年3月27日条)。
  4月1日家康は本多正純・南光坊天海・金地院崇伝(「大坂の陣絵巻」人物一覧参照)を召して、自分の死後の処置について、遺体は駿河久能山に葬ること、葬礼は江戸増上寺において行うべきこと、位牌は三河大樹寺に立つべきこと、一周忌後下野日光山に小堂を建てて勧請すべく、これによって関八州の鎮守となるべきことを遺言(板倉勝重宛崇伝卯月四日付書状「大日本史料」第12−24元和2年4月1日条)、同年4月17日75歳で駿府城において死去、即日柩は駿河久能山に移されました(「本光国師日記」大日本史料第12−24元和2年4月17日条)。この小説はこのころ松平忠輝が臨済寺(家康が少年のころ太原崇孚の指導を受けた寺)で家康形見の笛を手にして放心しているところで終了しています。
玄松子の記憶―神社記憶―駿河国(静岡市駿河区)−久能山東照宮

週末ウオーキングー東京23区一周ウオーキング―ウオーキングコース―2001.01.21増上寺
日光市HP−観光情報―名所・旧跡―世界遺産―「日光の社寺」ー登録遺産―東照宮

山岡荘八「徳川家康」を読む28(最終回)

  家康死去の直後、1616(元和2)年7月6日松平忠輝は越後高田城ならびに領国を没収され伊勢朝熊に配流となりました(「大日本史料」第12−25元和2年7月6日条)。このことは家康生前の出来事(「徳川家康」を読む25参照)と深く関わっていた事件です。
  この事件の背景についてイギリス平戸商館長リチャード・コックスは次のように述べています「風評によれば戦争は今や皇帝(徳川家康)と其子カルサ様(上総介 松平忠輝)との間に起らんとし、義父政宗殿(伊達政宗 忠輝は彼の娘婿)は、カルサ様の後援をなすべし。戦の原因は、皇帝が大坂城ならびに其属領を収めし時、約に基きて之を其子息に与えることを欲せざりしにあり。八月十八日(元和2年7月16日)カルサ様切腹のことを聞けり(誤聞)。こは彼が父及び兄弟に対し反逆を企て、彼らを亡して敵たる秀頼様を擁立せんとせしが為なりと。これが為め、彼の義父たる政宗殿は困難を感ずべしと思考せられ、また耶蘇会員及び他の師父等は炬火となり、煽動者となりて子をして父に背かしめ、臣下をして其君主に叛かしめたりと噂せらる。」(「リチャルド・コックス日記」大日本史料第12−25元和2年7月6日条 欧文材料第五号訳文)。
  このコックスが聞いた噂がどれほど真実に近いかは不明確ですが、中村孝也氏は著書「家康の族葉」(講談社)の中の松平忠輝について述べた箇所で、このリチャード・コックスの日記を引用しており、中村氏がこの史料の価値を高く評価していたと推測されます。この小説もリチャード・コックスの日記に記述されているような噂をほぼ史実として叙述しています。   
他方二木謙一氏は著書「徳川家康」(ちくま新書)において「松平忠輝とその外舅伊達政宗、改易浪人、キリシタン、それにポルトガル・スペインまでをも結びつけた幕府転覆計画という筋書きは、作り話」と断定しているのです。私は忠輝処罰の原因が将軍秀忠配下の武士を殺害したことなどの理由だけであったとは考えにくく、やはりコックスが聞いた噂のような背景がある程度事実としてあったと考えざるを得ません。

司馬遼太郎「功名が辻」を読む1

 司馬遼太郎「功名が辻」(文芸春秋社)は2006年NHK大河ドラマの原作となった歴史小説です。

大河ドラマ「功名が辻」一豊と千代の物語
風雲戦国史―地方別武将の家紋と系譜―中部/東海の武将―愛知県(尾張)―山内氏

 山内一豊の父盛豊は「寛政重修諸家譜巻826」によれば尾張岩倉の領主であった織田敏信に仕え、黒田に築城して居住していました。敏信が病に倒れて盛豊その他の重臣たちに遺言し、我が子信安を託しました。このころ織田信長の台頭著しく岩倉織田家の家臣たちはみな信長に服従しましたが、盛豊は信安を立てようとし、1557(弘治3)年岩倉城で討ち死しました(「下天は夢か」を読む1参照)。ただし「御家中名誉」など山内家関係の史料(「一豊公紀―山内家史料」山内神社宝物資料館)では盛豊は弘治3年に負傷し1559(永禄2)年岩倉城で織田信長の兵と戦って戦死したとされており、田端泰子氏はこの説のほうが信頼性があるとしている(「山内一豊と千代」岩波新書)ので、この説に従いましょう。
一宮市―WEB便利サービスー一宮市観光協会―山内一豊生誕地―史跡紹介―黒田城跡―法蓮寺

 一豊の母は二宮長門守(法名 一楽斎)の娘で織田三七信孝の母方の祖父(祖母)であるとされており(「一豊公御武功附御伝記」大日本史料第12−3慶長10年9月20日条引用)、また梶原氏女と記述されているので、おそらく梶原氏の養女となって山内盛豊に嫁いだのであろうと考えられます。 
 1545(天文14)年(天文15年説あり)山内一豊は盛豊の三男として出生しました。弟に康豊がいます。しかるに1559(永禄2)年父盛豊が一豊の兄とともに戦死すると、一豊は家族とともに祖父江勘左衛門を供として近くの祖父江村に逃げ延びました。以後尾張刈安賀城主浅井政高・美濃松倉城主前野長康を頼り、やがて1560(永禄3)年16歳のとき始めて近江瀬田城主といわれる山岡景隆に仕えたようです(「一豊公紀―山内家史料」)。一豊の母は同年宇賀野長野家に落ち着いたようで、長野家の伝承では近所の子女に裁縫や行儀作法教えていましたが、その教え子の中に隣村の若宮家の娘がおり、彼女を一豊の嫁に推薦したといわれています(太田浩司「山内一豊の妻『近江若宮氏説』小和田哲男編「山内一豊のすべて」新人物往来社)。

司馬遼太郎「功名が辻」を読む2

 一豊の妻(法名 見性院)は江州浅井家の若宮喜助友興の娘で友興の妻は不破市丞重純の妻と同じく石川小四郎の娘であった縁で、友興戦死後母とともに不破家へ引き取られ、やがて一豊と結婚したのです(「旧記」大日本史料第12−3慶長10年9月20日条)。しかし一豊の妻は美濃国出身で斉藤龍興に仕えた遠藤盛数の娘であったとする説(「寛政重修諸家譜」巻第534)があります。一豊の妻の名について、「千代」または「松」説がありましたが、最近近江「牛尾田文書」などから、「松」は近江の浅井氏に仕えた若宮左馬助の娘で一豊の家臣五藤為重夫人の名であることが明確となりました。また「千代」については「御家中名誉」祖父江勘左衛門の条に「妙玖院様(千代様御事)」とあり、これは二代土佐藩主山内忠義の生母の名であることから、これを一豊妻の実名と混同されたようです(岩崎義郎「山内一豊の妻『美濃遠藤氏説』小和田哲男「山内一豊のすべて」新人物往来社」)。しかしこの小説では一豊妻を「千代」と呼んでいるので筆者もこの「千代」説に従うことにいたします。田端泰子氏の推定によれば2人の婚姻は1573(天正1)年から1579(天正7)年の間であろうとされています(田端泰子「前掲書」)。この小説は「ぼろぼろ伊右衛門」とよばれた微禄の武士山内一豊が千代と結婚するところから始まります。
司馬遼太郎「功名が辻」を読む3

 1573(天正1)年織田信長は越前の朝倉義景・近江の浅井長政を攻撃して、朝倉・浅井両氏は滅亡するに至ったのですが(「下天は夢か」を読む15参照)、この年山内一豊は羽柴秀吉配下として退却する朝倉軍を追撃、このとき朝倉義景の親族三段崎勘右衛門の放つ矢が一豊の左の眸より右の奥歯まで突き通った負傷に屈せず、勘右衛門を討ち取る戦功をあげました。しかし自分で突き通った矢を抜くことができず、一豊の家臣五藤吉兵衛為浄が一豊の顔に足をかけて引きぬいたようです。やがて信長の首実検に際し、一豊に代わって三段崎勘右衛門の首を持参した吉兵衛に信長は一豊の疵養生の薬を下賜したといわれます(「一豊公御武功附御伝記」)。
 秀吉は浅井氏滅亡後その旧領を与えられ、一豊も近江唐国400石の知行を賜りました(「一豊公紀―山内家史料」)。
虎姫町―虎姫町についてー観光―山内一豊公 初所領の地 虎姫

 以後1575(天正3)年長篠の戦いに従軍、翌年秀吉にならって近江竹生島社に50疋の銭貨を寄進、「山内伊右衛門尉」と署名しています(「竹生嶋奉加帳」竹生島文書)(「下天は夢か」を読む16参照)。
 1577(天正5)年信長が秀吉に中国地方平定命令を出すと、一豊は秀吉の播磨・但馬攻略戦に従軍し、播磨有年(うね 兵庫県赤穂市)(「一豊公紀―山内家史料」)あるいはウニ(兵庫県加西市「一豊公御武功附御伝記」)に700石の領地を与えられたようです。翌年には別所長治の三木城攻撃に参加、同年末に摂津伊丹城攻略にも従軍しています(「夢のまた夢」を読む6参照)。
 1580(天正8)年には一豊夫妻に女子「与禰(よね)」が誕生し、夫妻にとって大きな喜びであったでしょう。
司馬遼太郎「功名が辻」を読む4

 本書も述べているように、一豊の名馬を買い入れた話は有名ですが、これは新井白石(1657−1725)「藩翰譜」・室鳩巣(むろきゅうそう 1658−1734)「鳩巣小説」・湯浅常山(ゆあさじょうざん 1708−1781)「常山紀談」その他に掲載されている逸話です。この三書の全文は山本大「山内一豊」(新人物往来社)に紹介されていますが、参考までに「藩翰譜」に記述されている内容を要約して示すと次のような内容です。
 「昔一豊が織田家に出仕した初め、東国第一の名馬といって安土に馬を商う者があったが、織田家の家臣はあまりに高価で買う人もなかった。一豊(猪右衛門尉)は家に帰って、貧乏ほど口惜しいことはない。このような名馬に乗って見参すれば屋形(信長)にも認められるのにと独り言をいったのを妻が聞いて、その馬の値はどれほどですかと問うたので、黄金十両と答えた。妻は鏡の箱の底から黄金十両を出して、これでその馬をおもとめ下さいと差し出した。一豊は今この馬を買えるとは思わなかったと喜び、これほどの黄金をもっていることをなぜ自分に隠していたかと恨み言をいった。妻はこの黄金は私が嫁いだとき父が鏡の下に入れて、これはお前の夫の一大事のときに差し上げよと言って賜ったものです。ちかく都で馬揃へがあるそうで、これは天下の見ものでしょう。こういう時こそ名馬にまたがり屋形にも傍輩にも認められるよい機会と思ってこの黄金を差し上げたのですと申し上げた。
 やがて都で馬揃へがあったとき、織田殿はこの馬をみて驚き、高価でだれも買わなかった名馬を山内一豊が買い取ったと聞いて、山内は家も貧しいであろうに名馬を手に入れたことは信長の家の恥をもそそいだことになり、また武士としてのたしなみも深いと激賞、これから次第に立身したという。」
(新井白石・室鳩巣については、藤沢周平「市塵」を読む6・22参照)

湯浅博物館―湯浅家の歴史―江戸時代―湯浅常山
司馬遼太郎「功名が辻」を読む5

 田端泰子氏はこの挿話について「私見では千代が何らかの援助か動機づけをして、一豊に名馬を買わせたというのはありうる話であると思う。その理由は、当時の武士も上層農民も、婚姻する時には化粧料を持参するのが通例であったからである。」(田端泰子「前掲書」)と述べています。
 また山本大氏はこの挿話について「京都の妙心寺七十四世の住持であった単伝士印(一豊夫人に見性院の法号を授けた人)が夫人死去の約半年後に書いた一豊夫人肖像賛(「大日本史料」第12−3慶長10年9月20日条)に『業鏡(衆生の善悪を照らす地獄の鏡)を打破して大いに現前(目の前)に用ふ』とあり、夫人の話が連想されることから、馬を買った時期は天正九年(1581)京の馬揃え(「下天は夢か」を読む20参照)をさかのぼるとしても、信長と一豊とは馬によって結びつけられる可能性はあったと思われる。」(山本大「前掲書」)という意味のことを述べています。
 これに対して大嶋聖子氏は「画像の賛の言葉に鏡という言葉が含まれているからといって、鏡の話が当時から有名であると解釈することは、無理なことである。」とし、さらに「白石は『誠にや』と馬の話を引用したあとに書き添えている。つまり材料になった史料も不明であるし、さらにその情報も不確かであることが、この白石の表現から読み取れるのである。」(大嶋聖子「名馬購入譚の虚実」小和田哲男編「山内一豊のすべて」新人物往来社)
と述べています。
山内一豊夫人顕彰会―千代と一豊の馬

司馬遼太郎「功名が辻」を読む6

 一豊は1581(天正9)年秀吉の鳥取城包囲戦に参加、翌年には備中に出陣し、諸将とともに高松城外に長大な堤防を築いて同城水攻めの一翼を担いました。このとき本能寺の変がおこり、秀吉は毛利軍と急ぎ講和して姫路城に引き返し、1582(天正10)年6月13日山崎の戦いで明智光秀軍を撃破しましたが、一豊も秀吉軍の構成メンバーの一人でした(「夢のまた夢」を読む7参照)。
 清洲会議(「夢のまた夢」を読む8参照)で織田家に仕える有力武将の所領配分が終わると、各部将の論功行賞が行われ、一豊は同年9月25日播磨国印南郡500石を加増されるに至りました(「御手許文書―一豊公紀―山内家史料」)。
 1583(天正11)年秀吉は織田信孝・柴田勝家と結んだ滝川一益を攻撃(「夢のまた夢」を読む9参照)、一豊は一益の部下佐治新助の守る伊勢亀山城を攻略しましたが、このとき一豊の老臣であった五藤吉兵衛為浄(五藤為重の兄)は戦死しました(「御家中名誉ー
一豊公紀―山内家史料」)。
 同年賎ヶ岳の戦いにも一豊は参加(「柴田合戦記」)、小牧・長久手の戦い(「夢のまた夢」を読む10参照)では三好信吉(秀吉の甥秀次)・池田恒興らの三河攻撃を側面から援助する役割で、秀吉は生駒近規・矢部家定・山内一豊に対して、敵の攻撃を受けても決して砦を出ないように注意しました(「御武功記―一豊公紀―山内家史料」)。三好信吉(秀吉の甥秀次)・池田恒興らの三河攻撃軍は惨敗しましたが、山内一豊らは徳川方の攻撃を受けることはなかったようです。
 小牧から帰還後、1584(天正12)年9月一豊は近江坂田郡に5000石を給与され、長浜城主に任命されました(「御家伝記―一豊公紀―山内家史料」)。翌年秀吉の紀伊根来攻撃に参加、6月若狭西懸郡19870石を下賜され若狭高浜城(福井県)主となり(西懸郡という郡名はなく疑問とする説がある。太田浩司「近江長浜時代の山内一豊」小和田哲男編「山内一豊のすべて」新人物往来社)、8月佐々成政征討に従軍しました。
お城の旅日記―近畿のお城―滋賀―湖北―長浜城

2007-07-25 05:40 | 記事へ | コメント(0) |
| 歴史小説・日本文化論と史実(近世篇7) |
2007年07月14日(土)
「徳川家康」を読む14〜「徳川家康」を読む24
山岡荘八「徳川家康」を読む14
 
   江戸は鎌倉時代江戸氏が居住したところで、源頼朝に仕えた江戸太郎重長という武士がいました(「吾妻鏡」治承4年10月4・5日条)。1457(長禄1)年扇谷上杉氏の執事であった太田資長(道灌)が江戸城を築きました(「永享記」)。道灌は櫓に登って四方を眺め「吾カ庵ハ松原ツヽキ海近ク、富士ノ高根ヲ軒端ニソ見ル」(「落穂集」)と詠みました。
風雲戦国史―地方別武将の家紋と系譜―関東の武将―東京/埼玉県―武蔵江戸氏―太田氏

   1590(天正18)年4月22日北条征討戦のはじめのころ、家康は武蔵江戸城守将川村兵衛大夫を降伏させ、戸田忠次を派遣して城を接収しました。さらに秀吉は同年6月28日武蔵江戸を徳川家康の城地と決めています(「天正日記」)。
    しかし家康入国当初の江戸城は「殊外なる古屋にて、御玄関の上り段には、船板のはゞの広きを二段に重ね、板敷と申義も無之、土間にて有之候。」(「霊岩夜話」)という状態であったようです。
埋もれた古城―関東地方―東京都(武蔵国)―江戸城
 
   同年8月1日家康は正式に江戸城に入り、8月15日領国に家臣武将を分封しました。たとえば、上野箕輪城に井伊直政、同国館林城に榊原康政、同国厩橋城に平岩親吉、同国碓井城に酒井家次、上総大多喜城に本多忠勝、相模小田原城に大久保忠世、下総矢作城に鳥居元忠を配置しました(中村孝也「前掲書」中巻 二三−二六頁)。
 このように家康は関東領国の統治に力を注ぐ一方、東北地方の治安にも深く関わっております。
   東北地方では1589(天正17)年6月11日伊達政宗が陸奥会津黒川城に入りました(「史料綜覧」)。政宗の会津黒川城入城はたびたび繰り返された秀吉の停戦と上京命令を無視して実行された事件でした。同年7月4日秀吉は伊達政宗を詰責して撤兵を命令し、また上杉景勝・佐竹義重に政宗討伐を命じています(「佐竹文書」)。秀吉は北条覆滅後、会津に乱入して伊達政宗の首級をも挙げる予定だったようです。
伊達政宗歴史館―伊達政宗公の生涯
 
   しかし伊達政宗も小田原の北条氏の秀吉への降伏が次第に確実な情勢となるにつれ、自身の小田原伺候を拒否することができなくなっていることを悟り、翌1590(天正18)年6月5日相模小田原に到着しました。同月9日秀吉は政宗を引見し、彼の帰国を許可し、木村清久らを政宗と同行させて会津黒川城を接収させることにしました(「史料綜覧」)。同年7月17日秀吉は陸奥・出羽を支配するため小田原を出発(「兼見卿記」)、8月9日陸奥会津黒川城に入りました。ついで小田原に参陣しなかった大崎義隆・葛西晴信らの所領没収、伊勢松坂の蒲生氏郷を会津に封じました(「夢のまた夢」を読む16参照)。
   しかるに同年10月16日大崎・葛西氏の旧領に封ぜられた木村吉清父子の施政が適切を欠き、旧主遺臣らが一揆をおこしたので、伊達政宗が一揆鎮圧の命をうけて出動したところ、蒲生氏郷も出兵して政宗と対立、氏郷は政宗が逆心をもっている旨を秀吉に報告しました(「伊達政宗記録事蹟考記」)。この一揆の背後に政宗の働きかけがあったらしいのです。
   家康は同年11月6日大崎・葛西一揆蜂起の知らせを聞き、榊原康政らを出陣させ、結城秀康を陸奥白河に出兵させました。翌年正月5日秀吉の命により家康自ら陸奥に出陣しょうとして江戸を出発、武蔵岩槻で政宗に書状を送り、できるだけ早く上洛して秀吉の感情を緩和すべきことを勧告しています(「伊達家文書」中村孝也「前掲書」中巻 四四頁)が、同月13日陸奥出陣をとりやめ江戸に帰着しました。
   1591(天正19)年正月30日伊達政宗は上洛のため、出羽米沢を出発しました(「伊達家文書」)。
山岡荘八「徳川家康」を読む15  

1591(天正19)年閏正月3日家康は上洛のため江戸を出発、鷹狩のためとして同月10日京都を出た秀吉と尾張清須で会見、上洛しました。同月26日清須に到着した伊達政宗宛の家康書簡によれば、秀吉は政宗に対して悪感情は持っていないから安心するように述べています(「伊達家文書」中村孝也「前掲書」中巻 四八頁)。政宗は翌日秀吉と会談、2月初旬秀吉・政宗は上洛、同月9日秀吉は大崎・葛西両氏の乱についての裁決を下し、木村吉清父子の封地を奪って伊達政宗に与えました。3月11日家康は帰国のため京都を出発、政宗も大崎・葛西の残党鎮圧の命を受けて帰国しました。
  しかるに同年4月13日陸奥の南部信直はその子利直らを上洛させ、九戸(くのへ)政実の反乱を訴え出ました。
岩手県HP−岩手県を知るー文化情報大事典―歴史文化―歴史に触れ、故郷を知るー安土桃山―江戸時代―天下統一最後の戦い「九戸政実の乱」

  同年6月14日伊達政宗は米沢から出動しました。事態を重視した秀吉は同月20日徳川家康・羽柴秀次を大将とし、伊達政宗・蒲生氏郷を陸奥二本松より、佐竹義宣・宇都宮国綱を同国相馬口より進撃せしめ、石田三成を軍監としました。また上杉景勝を同国最上口より進撃させ、大谷吉隆を軍監としました。徳川家康は同年7月19日江戸を出発、8月6日二本松に到着、羽柴秀次・浅野長吉(長政)・蒲生氏郷・伊達政宗も来会しました。
同月18日家康は二本松から岩手沢に至りここで反乱鎮圧を指揮したのです。同年9月4日九戸政実は降伏したので、反乱は終結し、同年10月29日家康は江戸に帰りました{「家忠日記」}。
山岡荘八「徳川家康」を読む16

1592(天正20・文禄1)年正月5日秀吉は朝鮮を経て明国出兵をめざし、諸将に出陣を命令しました。同年2月2日徳川家康も江戸城に秀忠(「徳川家康」を読む8参照)を残し、榊原康政・井伊直政をその補佐とし、肥前名護屋に向けて出発しました。秀吉は同年3月26日京都を出発、4月25日肥前名護屋の本営に到着しました。家康はおそらく秀吉よりさきに名護屋に到着していたことでしょう。同年6月2日秀吉は朝鮮に向かって乗船しようとしましたが、徳川家康・前田利家らの諫止により延引しました。
1593(文禄2)年5月15日石田三成・小西行長らが明使謝用梓・徐一貫とともに名護屋に到着すると、秀吉は徳川家康・前田利家らに命じて明使を接待させています(「夢のまた夢」を読む23参照)。
同年6月23日秀吉は肥前名護屋の陣中の瓜畠に家康をはじめ諸将と振売商人の扮装をし、その軍労を慰めました(「史料綜覧」巻13)。この時秀吉は黒い頭巾をかぶり、菅笠を肩に柿帷子を身につけ、瓜の籠を担って「味よしの瓜召され候。」と声高に触れ歩きました。江戸大納言家康は、あしか瓜を荷なって、大様に「あしか買われよ、買われよ。」と大声で呼び歩き、これも秀吉同様よく似合ったということです(渡辺世祐「豊太閤の私的生活」文芸趣味付逸話 講談社学術文庫)。また家康は名護屋滞在中の余暇に儒学者藤原惺窩を招いて親交を深め、同年10月江戸へ帰った後も、年末藤原惺窩に「貞観政要」(唐の太宗と家臣たちとの政治上の議論をまとめたもの)の講義を受けています(「惺窩文集」)(「夢のまた夢」を読む26参照)。
  1594(文禄3)年2月12日家康入京(「家忠日記」)、5月3日京都で大和柳生の柳生石舟斎宗厳より新陰流兵法の相伝を受けました(「柳生家文書」中村孝也「前掲書」中巻 二四九頁)。翌年2月7日蒲生氏郷が京都で死去すると、同月11日家康は前田利家と連署で氏郷の遺臣蒲生郷成らに書状を送り、秀吉の命により遺児鶴千代に跡目相続を許されたことを通告しました(「蒲生家系図由緒書」中村孝也「前掲書」中巻 二五四頁)。その際秀吉朱印状「御定之条々」(中村孝也「前掲書」中巻 二五五−二五七頁)に台所入算用はその明細を徳川家康・前田利家らをもって監査させると規定されていました。ところが同年6月3日蒲生領は家老私曲を理由に没収、鶴千代は近江2万石を与えると発表されました。この蒲生家老不正摘発が徳川家康失脚をねらっていたことは明らかです。しかし蒲生領没収は撤回されました。この蒲生領没収を撤回させる力をもっていたのは秀次以外にないのです(「夢のまた夢」を読む18参照)。
  同年12月27日には秀吉の意向により家康の子督姫(北条氏直後室)を三河吉田城主池田照政(輝政)と結婚させています(「言経卿記」)。 
1595(文禄4)年7月3日秀吉の命により石田三成・増田長盛ら豊臣秀次を詰問、同月15日には秀吉が秀次を高野山で自殺させました(「夢のまた夢」を読む18参照)。
このころ石田三成らは故秀次のことについて、秀次の家臣で謀反に加担したとして切腹した前野長重は丹後宮津の細川忠興の婿で、忠興も秀次一味として秀次より黄金百枚を受け取ったと秀吉に訴えました。忠興は黄金百枚は拝領したのではなく、施薬院全宗を頼み借用しただけと秀吉に弁明、秀吉は黄金百枚を返金せよと命じました。家康は忠興の老臣松井康之の依頼により黄金百枚を用立て、窮地に陥った忠興を救済しました(「細川家記」<「綿考輯録」>巻十一出水神社)。
秀吉は同年8月3日小早川隆景・毛利輝元・前田利家・宇喜多秀家・徳川家康の連署による5箇条の「御掟」、同日には小早川隆景・毛利輝元・前田利家・上杉景勝・宇喜多秀家・徳川家康の連署による9箇条の「御掟追加」を制定し、諸大名縁辺(婚姻関係)之儀は秀吉の許可を必要とする規定や徒党を結ぶことを禁止などを定めたものです(「浅野家文書」による。「由比文書」と内容に異同あり。中村孝也「前掲書」中巻 二七〇−二七三頁)。その後まもなく死去した小早川隆景以外の5人が豊臣政権の五大老です。
1596(文禄5・慶長1)年5月8日家康は権大納言従二位より内大臣正二位に昇進しました(「公卿補任」)。武家としては太政大臣従一位の秀吉に次ぐ官位で秀吉政権におけるナンバー2の地位にありました。同年9月1日明冊封使楊方亨らは大坂城で秀吉に拝謁し、明皇帝からの誥命・金印・冠服を進呈しました。しかし翌2日秀吉は誥命を怒り、徳川家康の諫止を退け、朝鮮再出兵を決定しました(「夢のまた夢」を読む24参照)。
家康は同年9月5日伏見から江戸へ帰りましたが、12月にはまた伏見にもどって来ました。1597(慶長2)年もほぼ前年と同様江戸へ帰り、翌年はじめ上洛しました。
1598(慶長3)年3月15日秀吉は秀頼やその他の家族を伴って醍醐寺で花見をしたのち、5月5日発病、8月18日死去しました。
山岡荘八「徳川家康」を読む17

  1598(慶長3)年8月28日毛利輝元・宇喜多秀家・前田利家・徳川家康の四大老(上杉景勝は帰国中)が朝鮮在陣中の黒田長政らに対して送った連署の書状(「黒田文書」中村孝也「前掲書」中巻 三二五頁)によれば、秀吉の喪を秘し、朝鮮で和議を成立させた上、内地に引き揚げよという秀吉の朱印状と覚書により使節を派遣すると述べています。秀吉の葬儀が1599(慶長4)年2月18日京都方広寺大仏殿で盛大に行われたという記録もないわけではありませんが、当時の京都の公家や僧侶の日記などに秀吉の葬儀に関する記事はなく、豊臣政権としての公式葬儀はとても実行できる状況にはなかったようです(二木謙一「徳川家康」ちくま新書)。
  他方朝鮮では和議は一時しのぎに過ぎず、明・朝鮮軍の日本軍に対する攻撃が続いていました。1598(慶長3)年9月21日明提督麻貴は加藤清正を蔚山城に攻撃(「乱中雑録」)、10月1日明提督劉綖・朝鮮水軍の李舜臣らは小西行長を順天城に攻撃しました(「乱中日記」)。これに対して11月19日島津義弘らは露梁津に明・朝鮮水軍を破り、李舜臣は戦死しました。11月20日島津義弘らは巨済島より対馬に向かい、これによって日本軍の朝鮮からの撤退は完了したのです(「征韓録」)。
  1599(慶長4)年正月10日秀吉の遺命により秀頼は淀殿とともに伏見城から大坂城に入った(義演准后日記)とき、徳川家康も供奉して大坂に赴き、片桐貞隆邸に宿泊しましたが、11日夜半旅宿を窺うものがあり、12日伏見の自邸に帰りました。同月19日前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元の四大老は家康と伊達政宗・福島正則・蜂須賀一茂(家政)に対し、秀吉の遺命に背いて婚姻関係を結んだことを詰問し(「言経卿記」)、家康は2月5日四大老・五奉行に対し3箇条の誓書をおくって縁辺の儀についての警告を承認しました(「武家事紀」中村孝也「前掲書」中巻 三八三頁)。五大老の一人前田利家が同年閏3月3日死去すると、利家に接近していたため手を下すことのできなかった石田三成を加藤清正・黒田長政・浅野幸長・福島正則・池田輝政(蜂須賀一茂)・細川忠興・加藤嘉明(藤堂高虎)が襲撃しようとしましたが、石田三成は政敵である家康の伏見邸にのがれて保護をもとめました(「譜牒余録」「浅野家文書」中村孝也「前掲書」中巻 三九九−四〇一頁)。本書もこのように記述していますが、不自然であるとの印象をぬぐえず、異説があるのも当然でしょう。前記7将は家康に三成の引渡しを要請しましたが、家康は7将をなだめ、護衛をつけて三成を彼の居城近江佐和山城まで送り届け、奉行を辞職して蟄居させたのです。
Hiroyuki Echigo Official WebSite:Eyes−完全戦国年表―戦国時代人物名鑑―加藤清正

  同年9月7日家康は秀頼母子に重陽の節供の祝意を表明するため、伏見より大坂城に赴きましたが、家康襲撃の陰謀があると知らされ、警備を強化して同月27日大坂城西丸に入りました。この前日まで大坂城西丸にいた北政所(秀吉後室)は京都に移り、ついで剃髪し1603(慶長8)年高台院と称せられるようになったのです(「御湯殿上日記」)。
Web―Town京都―索引か行―高台寺


山岡荘八「徳川家康」を読む18

  これより先同1599(慶長4)年7月領国会津に帰った上杉景勝はしきりに領内の諸城を普請して軍備を強化していました。1600(慶長5)年4月1日家康は伊奈昭綱を派遣して景勝の上洛を命じ、豊光寺西笑承兌は家康の命により景勝の非違8箇条を挙げて景勝の老臣直江兼続に送り、西上して陳謝することを求めました(「上杉年譜」)。
戦国浪漫―武将抜粋録―さわやかに生きた武将 TOP3―直江兼続

  同年5月3日伊奈昭綱が大坂に持ち帰った上杉景勝の上洛拒絶、直江兼続の家康非難回答をみて、家康は諸大名に出征命令を下しました(「古今消息集」)。6月15日豊臣秀頼が大坂城西丸にきて黄金2万両・米2万石を餞別として下賜、翌日家康は会津の上杉景勝討伐のため、軍を率いて大坂城を出発、伏見城に入りました。
   17日伏見城の留守を鳥居元忠・松平家忠らに託し、おそらく石田三成挙兵後の伏見城襲撃を主従ともども予想しながら18日家康は伏見城を出発したのでしょう。6月20日近江佐和山城にあった石田三成は直江兼続に家康の伏見城出発を告げ、上杉家の軍略を問いただしています(「上杉家記」)。
お城の旅日記―近畿のお城―京都―山城―伏見城

    同年7月2日江戸城に入った徳川家康は7日出陣の期日を21日と定め、15箇条の軍令を下しました(「本多忠敬氏所蔵文書」中村孝也「前掲書」中巻 五〇一−五〇二頁)。7月12日大谷吉継は近江佐和山城で石田三成・増田長盛・安国寺恵瓊と会談、安芸広島城主毛利輝元を主将に迎えることを議し、前田玄以・増田長盛・長束正家三奉行連署の書状を使者にもたせて広島に赴かせました。7月17日毛利輝元は大坂城西丸に入り、三奉行は家康に対する13箇条の弾劾状(「武家事紀」中村孝也「前掲書」中巻 五一五−五一七頁)を発表しました。その副署の一通には三奉行、他の一通には毛利輝元・宇喜多秀家が連署しています。石田三成は増田長盛に家康に従って東下した諸大名の妻子を人質として大坂城に収容させようとしましたが、細川ガラシャ(細川忠興夫人)は応ぜず、「御胸の所を両方江くハっと押しひらき」配下の武士に自身を殺害させたことで有名です(「細川家記」巻十三)。下記HPに紹介されているガラシャ夫人の最後を具体的に述べた「細川家記」の文章はなまなましく、本書もこの記録により臨場感のある筆致で描写しています。
我が姫垣―WHAT′NEW―ガラシャの死(生涯)

山岡荘八「徳川家康」を読む19

  1600(慶長5)年7月19日石田三成らは伏見城将鳥居元忠らに開城を要求、これに対して元忠は開城を拒否するとともに家康にこのことを通報、西軍諸将の包囲攻撃を受けました(8月1日落城「言経卿記」)。
  徳川家康は予定通り7月21日江戸を出発、24日下野小山(おやま)に到着したとき、鳥居元忠の急使が石田三成の挙兵を報告して来ました(「武徳編年集成」所収古文書)。25日小山における諸将の軍議で福島正則の発言により諸将は大坂に残してある人質を放棄し、家康本軍の前駆として西上すること、また山内一豊の発議により東海道に城地をもつ諸将らはその城を家康に明け渡すこととなり、諸将は26日西上しました。信濃上田の真田昌幸・長子信幸(信之)・次子信繁(幸村)ははじめ会津攻めに従軍するため下野犬伏に至りましたが、三成挙兵の報を得て昌幸は西軍に味方して信繁とともに上田に帰りました。
信幸はこのことを宇都宮の秀忠に報告、これを知った家康は信幸の志を賞揚する書状を送っています(「譜牒余録」中村孝也「前掲書」中巻 五二三頁)。
  同年8月5日秀忠を宇都宮にとどめて東山道を西上させる方針を定め、家康は江戸城に帰りました。以後9月1日江戸を出発するまで家康は主として豊臣系諸将に書簡を送ってその多くを味方とすることに成功したのです。他方伊達政宗・最上義光をして上杉景勝の背後を牽制させ(「真田文書」)、景勝は会津を動くことができませんでした。一方濃尾平野に出動した東軍先鋒部隊の福島正則は家康が容易に江戸城を動かないのを見て、家康が我々を見殺しにする積りかと憤慨し、池田輝政がこれに反論して口論となり、井伊直政・本多忠勝が調停するという騒ぎがありました。8月19日家康の使者が清須に来て西軍との開戦を促すと池田輝政・福島正則らは8月23日美濃岐阜城主織田秀信を降伏させ、さらに美濃赤坂に進出して西軍の本拠たる大垣城と対峙し、家康の来陣を待つ態勢を整えました。
  同年8月24日結城秀康をとどめ、秀忠は下野宇都宮を出て信濃に向かい、9月1日家康は美濃をめざし江戸城を出発しました。同月14日美濃赤坂に到着した家康は軍議において大垣城をさしおき近江佐和山城を攻略、ただちに大坂城に向かうことを決定し、ひそかに西軍にこのことを伝えるよう工作しました。西軍の首脳部はおどろき城をでて関ヶ原に向かったのです。
翌9月15日関ヶ原決戦の幕が切って落とされました。
戦国浪漫―時代考証―人間模様・関ケ原

山岡荘八「徳川家康」を読む20

  関ヶ原の戦いは御前8時ころに開始、勝敗は容易に決しませんでしたが、松尾山上の小早川秀秋が東軍の銃撃に催促され、大谷吉継の陣地に突入すると、東軍は総攻撃を開始、島津義弘(惟新)は退路を失い東軍陣地を突破して伊勢に逃れ、午後2時ころには東軍の完勝に終わりました(「史料綜覧」)。家康は内応の小早川秀秋に近江佐和山城攻撃を命じ、9月17日佐和山城は陥落、三成の父正澄は自殺しました。
  9月20日家康は近江草津から大津城に到着、東山道を進軍した秀忠は9月5日以来真田昌幸の信濃上田城攻略ならず、関ヶ原決戦に遅れ、この日ようやく草津に着き大津に赴きましたが、家康は彼の不始末に怒り、面会しませんでした。9月21日には石田三成が近江伊吹山中で捕らえられ大津に護送されたのです。10月1日石田三成らは京都六条河原で斬られました。
  9月25日毛利輝元は大坂城を退去、福島正則らは大坂城西丸を接収し本丸の豊臣秀頼に謁見、27日には家康も大坂城本丸で秀頼と会見、西丸に入りました。
  10月10日毛利輝元の領国中、安芸・備後・備中・石見・出雲・隠岐及び伯耆の7国を没収、周防・長門の2国約37万石を与えることに決定しました(「毛利家文書」中村孝也「前掲書」中巻 七七七頁)。
  真田信之は父昌幸・弟信繁(幸村)の助命を家康・秀忠に嘆願した結果、同年12月13日真田父子は紀伊高野山麓の九度山に蟄居処分となりました(「真田家譜」大日本史料第12−8 慶長14年6月4日条引用)。
  1601(慶長6)年2月家康は本多忠勝ら譜代の家臣に関東・東海の城を与え(「寛政重修諸家譜」)、8月には板倉勝重を京都所司代に任命しました(「朝野旧聞裒藁」)。
  同年7月結城秀康が上杉景勝を伴い、伏見城で家康に挨拶、8月16日には上杉景勝を会津120万石から出羽米沢30万石にに減封(「寛政重修諸家譜」巻第749)、翌年4月11日には島津義久(義弘の兄)に薩摩・大隈・日向の所領を安堵しました(「薩藩旧記雑録後編」)。関ヶ原の戦いで家康に敵対した島津義弘(惟新)は当時島津家の当主ではなく、当主忠恒(義弘の子)は伯父義久(竜伯)とともに家康とは親しい間柄でした。このような事情で家康は義弘が桜島に謹慎していることを了承し、義弘・忠恒(後 家久と改名)の安全を保証したのです。
  1603(慶長8)年2月12日朝廷は徳川家康を右大臣・征夷大将軍に任命(「日光東照宮文書」中村孝也「前掲書」下巻之一 三〇五頁 )、かくして家康は江戸に幕府を開きました。同年7月28日家康は7歳の千姫(秀忠の子)を11歳の豊臣秀頼の正室とし(「時慶卿記」)、秀吉の遺志を実現させたのです。
  1605(慶長10)年4月16日家康は征夷大将軍を辞職し世子秀忠が2代将軍に任命されました(「公卿補任」)。このとき家康は高台院を通じて秀頼の上洛を促しましたが秀頼の母淀殿は承知せず、両者間に一時政情不安の空気が漂ったようです。しかし5月10日松平忠輝(家康第6子)が家康名代として大坂城に秀頼を訪問(「大日本史料」第12−3慶長10年5月10日条)、これに対して秀頼は9月13日家康が江戸に帰るとき、片桐且元らを伏見城に派遣して挨拶させことなきを得ました(「義演准后日記」)。
1607(慶長12)年7月3日家康は修築なった駿府城に移りました「(「当代記」大日本史料第12−4慶長12年7月3日条)。かくして家康の大御所時代が駿府を中心として江戸とともに幕政の中心となったわけですが、依然として幕政の実権を掌握する家康に対して実直な性格の秀忠は逆らうことがなかったようで、いわゆる二元政治の混乱をおこす事態は避けられたというのが正しいと思われます。家康の補佐役として政治では本多正純(本多正信の子)、文化・宗教では以心崇伝・南光坊天海・林羅山ら、秀忠の補佐役は本多正信・大久保忠隣・土井利勝らがいました。
大坂の陣白書―大坂の陣人物列伝―徳川方の人物―本多正信

歴史の館―徳川家康館―改易大名2−大久保忠隣―宇都宮事件
山岡荘八「徳川家康」を読む21

  1599(慶長4)年徳川家康は対馬の宗義智を通じて朝鮮との和親の意向を打診していましたが、朝鮮は容易に応ぜず、4回目の使者がようやく朝鮮側の返書を持ち帰りました。1604(慶長9)年宗義智は家康の内旨を受けて年末に朝鮮使節を京都に誘導、翌年家康は将軍職交代のため秀忠とともに上洛した際、3月5日朝鮮使節を伏見城に引見しました(「義演准后日記」大日本史料第12−3慶長10年3月5日条)。さらに1607(慶長12)年5月6日朝鮮使節は将軍秀忠に謁見して国書を提出し(「当代記」)、ここに日朝間の国交が回復したのです。こうして1609(慶長14)年6月28日己酉約条が成立(「朝鮮王朝実録」)、対馬の宗氏は特送船を含めて20隻の歳遣船を朝鮮に派遣できることを認められました。
  1602(慶長7)年徳川家康は伊達氏領内に漂着した琉球船を薩摩を通じて琉球に送還させましたが(「薩藩旧記雑録後編」)、琉球からは何の謝礼もありませんでした。島津氏は江戸幕府の意向を受け琉球を介して明との貿易の再開を図ろうとしたのですが不成功に終わりました。島津義弘が関ヶ原の戦いに敗れた結果、島津氏は莫大な軍費の負担に苦しみ、その解決のためにも琉球の征服を必要としていたのです。1608(慶長13)年島津家久は幕府から琉球征服の許可をうると翌年2月26日家臣樺山久高に琉球出兵を命令、4月5日首里城を攻略、5月25日琉球王尚寧らを捕らえて帰国するに至りました(「旧記雑録後編」大日本史料第12−6慶長14年2月26日・4月5日・5月25日条)。
沖縄情報IMA―沖縄の歴史

  ヨーロッパ諸国との外交交渉では1598(慶長3)年12月家康が逮捕されていたイスパニヤ系フランシスコ会宣教師ジェロニモ・デ・ジェススを引見しました。彼はフィイリピン及びメキシコとの貿易の斡旋を条件に布教の許可を得て江戸に教会を建てました(松田毅一「近世初期日本関係南蛮史料の研究」第九章第二節 風間書房)。
  ところが1600(慶長5)年3月16日オランダ船リーフデ(はじめエラスムス号)号が豊後に漂着しました。この船は2年前東洋貿易のためオランダのロッテルダムを出帆した5隻の船団の中の1隻でマジェラン海峡を経て太平洋を横断、途中さまざまな災難にあいながら、かろうじて日本にたどり着いたのでした。この時自分で歩けるものは6人に過ぎませんでした。そのころ大坂にきていた家康はわざわざ船を派遣して同船の代表者を招いたのです。リーフデ号の船長はオランダ人ヤコブ・クワッケルナーク、航海長イギリス人ウイリアム・アダムスらがいましたが、アダムスは船長に代わって家康と会見、ポルトガル語のわかる通訳を介してオランダ船来航の理由やイスパニヤ・ポルトガルとイギリスとの戦争ならびにその理由を質問に応じて答えました(岩生成一訳註「慶元イギリス書翰」異国叢書 雄松堂書店)。リーフデ号の船尾に飾られていたエラスムス(ルネッサンス期オランダ出身の神学者)像は保存され、東京国立博物館に所蔵されています。
Seven Mile Beach File―日本語―イメージデータベース025−エラスムス像―デ・リーフデ号―ウイリアム・アダムス

 ウイリアム・アダムスは12歳からロンドン附近で船舶の修繕建造に従事、やがてエリザベス女王の艦隊の艦長および航海長として勤務しイスパニヤ無敵艦隊との海戦では艦長として参加したという経歴をもつ人物です。彼は家康の信任厚く、やがて日本婦人と結婚、相模国三浦郡の逸見(へみ 神奈川県横須賀市)に250石の領地を与えられたので、世間では彼のことを三浦按針と呼びました(「慶元イギリス書翰」)。また江戸における彼の住宅があった通りを按針町というようになったようです。オランダ人ヤン・ヨーステンも家康の信頼を得て江戸と長崎に住宅を与えられていました。東京における八重洲河岸または八重洲町という地名は彼の江戸における住宅にちなんでつけられたものといわれています。
街道古道廃道道―名のある通りー異人の道―八重洲通りー按針通り


山岡荘八「徳川家康」を読む22

  このようなオランダ・イギリス人の来日は家康の外交貿易政策に大きな影響を与えたのです。ポルトガルと密接な関係にあったイエズス会は秀吉が1587(天正15)年バテレン追放令を発する以前、ローマ教皇による日本布教独占権を獲得していました(「下天は夢か」を読む19参照)。また日本に中国産の生糸をもたらした勘合貿易は1551(天文20)年大内氏の滅亡とともに断絶し、ポルトガルは明のマカオを拠点として中国産の生糸を日本の銀と交換する中継貿易を独占して大きな利益を挙げていました。1604(慶長9)年幕府は糸割符法(いとわっぷほう)を定め、京都・長崎・堺(のち1631年江戸・大坂が参加)の商人(糸割符仲間)にポルトガルがもたらす生糸の一括購入の特権を与えました(「糸割符由緒」大日本史料第12−2慶長9年5月3日条)。この制度はポルトガル商船がもたらす中国産生糸をまず幕府が必要なだけ買い上げ、残りの生糸を糸割符仲間が適当な価格をつけて買い取り、その後この生糸を国内各地に配分販売する仕組みになっています。この結果糸割符仲間は貿易の利益のみをもとめるオランダ・イギリスというポルトガルに敵対する競争相手の出現を利用し、ポルトガル船がもたらす生糸の価格を原価を割ってたたくことが可能となり、ポルトガルの対日貿易は大きな欠損を生む状態となって行きました。
  一方1609(慶長14)年9月前ルソン総督であったイスパニヤ貴族ドン・ロドリゴを乗せた船がノビスパン(メキシコ)に向かう途中難破して房総半島田尻に漂着しました。ロドリゴは江戸城で将軍秀忠と会見、家康はロドリゴと駿府で会見しました。ロドリゴはこのときの家康の印象を次のように語っています。「皇帝(家康)は其内に緑色の天鵞絨の円き椅子に坐し、寛潤にして金のタビーと緑色の絹地にて作りたりと見ゆる衣を着し二刀を帯び其髪は之を束ねたり。彼は齢凡そ六七十歳(このとき家康は六八歳)にして肥満し、尊敬すべき老人なり。」(「ドン・ロドリゴ・デ・ビベーロ報告」大日本史料第12−6慶長14年9月条)。このとき家康はロドリゴが要求した宣教師の保護とイスパニヤ国王との親交について承知しましたが、鉱山技師の派遣を要請し、オランダ人追放の要求を退けています(村上直次郎訳註「ドン・ロドリゴ日本見聞録」異国叢書 雄松堂書店)。事実同年7月25日幕府はオランダ船に貿易を許可(「異国日記・ハーグ国立中央文書館所蔵文書」中村孝也「前掲書」下巻之一 五八三−五八五頁)、8月22日オランダは平戸に商館を建設しました(「十七世紀日蘭交渉史付録」)。1611(慶長16)年新イスパニヤ船が浦賀に来航し、ロドリゴとともに新イスパニヤに渡航した日本人田中勝介以下23人を送還してきました。しかし彼らの日本渡航の真の目的は金銀島探検でした。司令官セバスチャン・ビスカイノは家康・秀忠に謁し沿岸測量ならびに貿易の許可を得ました。またビスカイノは仙台で伊達政宗と会見、政宗はイスパニヤとの貿易を希望し、のちに家臣支倉常長をローマ教皇ならびにイスパニヤ国王に派遣して信書・音物を贈りました(「伊達貞山治家記録」大日本史料第12−12慶長18年9月15日条)。さらに大坂で豊臣秀頼と会見、彼はこのときの秀頼の風貌を「彼は甚だ肥満し齢三十に満たざるに、運動の自由を失へり。太閤様の如き勇士の子にして此の如くなるは嘆ずべし。」と述べています(ビスカイノ「金銀島探検報告」抄訳 大日本史料第12−8 慶長16年9月15日条)。また1613(慶長18)年8月4日イギリス船が平戸に入港、司令官ジョン・セーリスは駿府で家康に謁見、国書を奉呈、9月1日家康はイギリス国王の国書に返信し、貿易を許可しています(「異国日記」大日本史料第12−11慶長18年9月1日条・中村孝也「前掲書」下巻之一 七八五頁)。
山岡荘八「徳川家康」を読む23

  朱印船とは将軍の朱印を押してある異国渡海朱印状を交付されて海外貿易に従事した船をさす言葉です。このような朱印船貿易は秀吉によって始められたのですが、彼の場合貿易相手国の了解をもとめたわけではなく、単なる私貿易船または海賊船と区別するために
貿易許可証としての朱印状を交付したにとどまりました。家康の場合は諸外国首脳に書簡を送って朱印のないわが国の船に貿易を許さないよう通告したことが秀吉と異なっています。
  朱印船の渡航先は高砂(台湾)・マカオ(中国)・安南などインドシナ半島やルソン島(フィリピン)など東南アジアの各地に及び、朱印状交付をうけたものは大名では島津忠恒(家久)・松浦鎮信・有馬晴信・細川忠興など、豪商では末次平蔵・角倉了以などが有名です。
取引品目にはさまざまなものがありますが、とくに鎖国との関係で重要なものは明の海禁令による貿易統制の網の目をくぐってもたらされた中国産の生糸と日本産の銀との交換でした。
  1608(慶長13)年ころ有馬晴信の朱印船がチャンパ(占城 ベトナム中部)に向けて出港しましたが、家康は彼に銀子60貫目を与えて香木伽羅購入を依頼しました。この朱印船は帰途マカオに寄航して風待ちのため越年しました。このとき乗組員はマカオ当局と紛争を起こし、乗組員の一部が殺害され、銀子・貨物などが全部奪い取られるに至りました。朱印船の生き残り船員から事情を聴取した晴信から事件の経過を聞いた家康はポルトガル船の来航を待って報復すべきことを晴信に命じました。
  1609(慶長14)年5月末日マカオ総督アンドレ・ペッソアが定期船マードレ・デ・デウス号に乗って長崎に入港したので、晴信は長崎奉行長谷川藤広と相談してペッソアを拘束しようとしましたが、ペッソアはこれを察知して脱出しようとし、これを阻止しようとした晴信らと武力衝突、同年12月9日ペッソアは同船の火薬庫に点火して自ら爆沈(「当代記」は撃沈と記す)しました(「日本耶蘇会年報」「当代記」「羅山先生文集」中村孝也「前掲書」下巻之一 六七三−六七七頁・大日本史料第12−6慶長14年12月9日条)。
  この事件で有馬晴信は幕府の恩賞を期待しました。この晴信の心境を巧みに利用したのが当時長崎奉行の配下であった岡本大八という人物です。岡本は本多正純の与力として家康が晴信の旧領肥前国3郡を元通りにする積もりである旨を晴信に知らせました。晴信は岡本大八に金品を贈り、岡本は晴信に家康の朱印と文書を偽造して晴信に渡しました。
  しかし領地が一向にもどってこないことに不審を抱いた晴信が本多正純に問い合わせたことから岡本大八の詐欺があきらかとなり、岡本大八は投獄されました(「駿府記」大日本史料第12−9慶長17年2月23日)。しかし岡本大八は獄中から書面をもって晴信がポルトガル船攻撃の際長崎奉行長谷川藤広から攻撃が手ぬるいと非難されたのを恨んで長崎奉行毒殺を企てたと訴えました。そこで両人を大久保長安の役宅で対決させた結果、晴信は岡本大八の訴えに対する申し開きができず、1612(慶長17)年3月21日岡本大八は火刑、翌日有馬晴信は甲斐国に配流(5月7日自殺)されました(「駿府記」「藤原有馬世譜」)。ところが有馬晴信・岡本大八はキリスト教信者で家康の側近にも同教信者がいることが判明、家康は即日キリシタン禁令を公布、京都所司代板倉勝重に命じて京都の教会を破壊させ、また配下の武士らのキリスト教を奉ずる者を処罰、翌年には重ねてキリスト教を禁じ、宣教師および信徒を追放させるに至ったのです(「駿府記」大日本史料第12−9慶長17年3月21日・大日本史料第12−13慶長18年12月19日条)。
戦国放題こたつ城―更新終了ー戦国時代一覧―有馬晴信

歴史の館―徳川家康館―大久保長安

岡本大八事件は江戸幕府のキリスト教弾圧政策のきっかけにすぎず、その背後にオランダ・イギリスによるポルトガル・イスパニヤのインド・アメリカにおける残虐な征服行為非難があったことが推測されます。同年8月オランダからきた船の商人頭ヘンドリック・ブルーワーは国王モーリッツの書簡をもって駿府に赴いていますが、その書簡にはイエズス会の宣教師が表に布教を装いつつ、内実においては改宗による国民の分裂、党争、内乱をねらっていると述べています(和辻哲郎「鎖国」筑摩叢書・「大日本史料」第12−10慶長17年10月29日条)。
  1614(慶長19)年9月24日には高山長房(右近)らキリスト教徒百余人を海外に追放しました(「駿府記」)。
山岡荘八「徳川家康」を読む24

  1611(慶長16)年3月27日後陽成天皇は後水尾天皇に譲位(「公卿補任」)、これより先徳川家康は天皇譲位ならびに即位式のため上洛してきましたが、豊臣秀頼と会見したいと大坂へ申し入れました。3月28日秀頼は織田有楽(長益)・片桐且元・大野治長らを従え上洛、京都の片桐且元邸で服装を整え、二条城で家康と会見しました(「義演准后日記」大日本史料第12−8慶長16年3月28日条)。
  1612(慶長17)年前後になると豊臣恩顧の諸大名の有力者、例えば浅野長政・加藤清正・池田輝政・浅野幸長などが相次いで死去したことは豊臣氏の将来に暗い影を投げかけたと言えるでしょう。そのことを待っていたかのように1614(慶長19)年方広寺鐘銘問題が起こってきました。方広寺は1586(天正14)年秀吉が創建した寺院ですが、1596(慶長1)年大地震で倒壊炎上しました。秀吉没後淀殿は多くの神社仏閣を修復、1614(慶長19)年方広寺大仏殿落慶供養を挙行する運びになったところで(「本光国師日記」大日本史料第12−14慶長19年5月7日条)、同年7月26日徳川家康は方広寺大仏殿鐘銘(中村孝也「前掲書」下巻之一 八三八頁)に「国家安康」以下数箇所に不吉の語があると異議を唱え開眼供養の延期を命じました(「駿府記」大日本史料第12−14慶長19年7月26日条)。
平安京探偵団―京都歴史案内―平安時代以後―幻の方広寺大仏1・2

  大坂方の片桐且元が弁疏のため駿府に赴きましたが、家康の引見はかなわず、大坂城内における強硬派と穏健派との対立が激化しました。一方大蔵卿局(大野治長母)一行が別に訪れると家康はこれを優遇したので、且元と大蔵卿局の間は冷ややかとなり、大坂に帰った且元は自分の判断で秀頼が江戸に下るか、淀殿が江戸に人質として留まるか、あるいは母子ともに大坂城を退去して他に国替えすることを承認するかの3案中1案を取る以外に問題解決の道はないと言上したため、淀殿の激怒を買い、10月1日片桐且元は大坂城から居城茨木城に退去するにいたりました(「本光国師日記」)。
  かくして大坂城には大野治長ら強硬派の譜代衆と真田信繁(幸村)・長宗我部盛親などの関ヶ原の牢人衆や後藤基次などの徳川家に恨みはないが一旗組の牢人たち、および明石守重(全登)などキリスト教禁教令による弾圧を受けた人々も多く集まりました。
2007-07-14 05:30 | 記事へ | コメント(0) |
| 歴史小説・日本文化論と史実(近世篇6) |
2007年07月03日(火)
「徳川家康」を読む3〜「徳川家康」を読む13
山岡荘八「徳川家康」を読む3

 この事態をみて今川義元は松平家の重臣を駿府によびつけ、竹千代が成人するまで、岡崎領は今川家の統治下におき、岡崎城の本丸・二の丸には今川家の侍大将が在番し鳥居忠吉は三の丸において租税と雑務を扱い、毎年春駿府に伺候して義元の命を受けるべきことを申し渡されました。
  一方同年11月今川家の武将太原崇孚(雪斎 臨済宗僧)は安祥城を攻撃し城主織田信広(信秀の子)を捕らえ、織田方と竹千代・信広の交換交渉成立、同年12月8歳の竹千代は今川義元の招致をうけて岡崎から少数の家臣とともに人質として駿府に赴きました。
  竹千代は以後駿府において人質として屈辱を味わうことも多かったと思われますが、駿府において竹千代の養育に当ったのは母於大の方の実母、竹千代にとっては母方の祖母に当る於富の方(於万の方・華陽院殿・源応尼)でした。また学問教育を授けたのは太原崇孚であったといわれます。
戦国房―師弟が通る日本史―第弐頁 太原崇孚雪斎と松平元康
 
  1555(天文24・弘治1)年3月竹千代は14歳で元服して松平次郎三郎元信と名乗りました。このとき今川義元が加冠し、関口親永が理髪(元服の際の調髪)しました。
翌年元信は今川義元の了承を得て岡崎に帰り大樹寺(松平氏4代の当主親忠によって三河国鴨田に創建された浄土宗寺院)に先祖の霊を慰め、あわせて亡父の墓に詣でて法要を営みました。
岡崎市HP−観光情報―おすすめコースー英傑誕生の軌跡をたどる太平浪漫―大樹寺

 1557(弘治3)年正月15日元信は関口親永(義広)の娘と結婚しました。この女性は名も年齢も不明で築山殿あるいは築山御前といわれます。関口親永の妻は今川義元の妹(伯母?)といわれるので、築山殿は義元の姪にあたることになります(「家忠日記増補」)。
 1558(弘治4・永禄1)年2月松平元康(このころ元信を改名)は今川義元の命により再び岡崎に帰り、義元にそむいて織田信長に通じた鈴木重辰を攻撃しましたが、これは元康の初陣です。この戦功により義元は元康に旧領の山中三百貫文の地を返付しました。
これに対して本多広孝ら岡崎の将士は駿府に赴き、元康の岡崎帰還、岡崎城代の撤退及び額田・加茂の旧領返還を要請しましたが、今川義元は応ぜず、松平家の家臣たちは憂憤の感情をおさえて岡崎に帰ってゆかざるをえなかったのです(「三河物語」)。
山岡荘八「徳川家康」を読む4

  1560(永禄3)年5月12日今川義元は25000の兵力を率いて駿府を出発しました。元康はおそらく義元の駿府出発以前にその先鋒として出陣の途中、同月17日尾張阿古屋の久松俊勝館に生母於大の方を訪問、18日には大高城の守将鵜殿長照が義元に城中の糧食欠乏を訴えたため、義元は元康に大高城への食糧補給を命じ、元康は任務を果たしました。19日義元は鵜殿長照に代わって大高城守備を元康に命じ、自分は田楽狭間の本陣で休息中、織田信長の急襲にあって落命したのでした(「桶狭間の戦い」・「下天は夢か」を読む4参照)。
  大高城にいた元康は同日夕刻義元戦死を知ったが、織田方で母方の伯父水野信元が浅井道忠を遣わして撤退を勧告、夜半確報を得てから退却を開始しました。翌20日大樹寺に到着、岡崎城中の今川軍が引きあげた後、23日岡崎城に入城しました。
  1561(永禄4)年2月松平元康は水野信元の仲介により織田信長と和睦(「松平記」久曽神昇編「三河文献集成」<中世編>国書刊行会)、翌年正月元康は尾張清須城に赴き、信長と同盟することによって、従来の反織田政策を大きく転換しました(「岡崎領主古記」)。他方2月元康は三河西郡城(愛知県蒲郡市)主鵜殿長照(今川氏真の従兄弟)を攻撃し、その子2人を捕らえました。元康の家臣石川数正は駿府に赴き、氏真(今川義元の後継者)を説得、その結果鵜殿2子と元康の妻子(築山殿・竹千代<信康>・亀姫)交換に成功しました。このとき関口親永(義広・築山殿の父)は元康妻子の岡崎帰還に協力的であったため氏真に殺害されたといわれています。
  さらに1563(永禄6)年3月元康嫡子竹千代と信長の娘徳姫(ともに5歳)の間に婚約成立。同年7月元康は名を家康と改めました(「三河大樹寺文書」・中村孝也「徳川家康文書の研究」上巻五二−五四頁 日本学術振興会)。
山岡荘八「徳川家康」を読む5

  家康の信長接近政策に対して酒井忠尚は家康を諫めたがその意見は採用されなかったため、忠尚は反乱を起こしました。このため菅沼藤十郎定顕は家康の命を受けて砦を築き(「愛知県史」第一巻第四期第三章)、浄土真宗(一向宗)佐々木上宮寺の食糧を徴発すると、上宮寺は反抗し、野寺本証寺・針崎勝鬘寺がこれに同調して1563(永禄6)年秋食糧を奪還しました。これが三河一向一揆の始まりです。家康の家臣団は信仰にもとづき一揆に同調するものと家康に忠誠を誓って一揆に立ち向かうものとに分裂しました。三河一向宗の寺院は経済的に富裕なものが多く、家康の家臣の中には一向宗寺院から米銭を借用したものが少なくなかったようです。例えば本多豊後守廣孝は同年12月家康より一向宗寺院からの借米銭の破棄命令を受けています(「家忠日記増補追加」巻之二永禄六年十二月七日付引用古文書)。本多廣孝の祖父清重・父信重は三河国坂崎村の円行寺に葬られていますが[「新訂寛政重修諸家譜」巻第691本多(藤原氏兼通流) 続群書類従完成会]、円行寺は一向一揆の拠点の一つであった上宮寺の末寺であったことを考えると、廣孝は一向宗から浄土宗に改宗(「新編岡崎市史」中世第四章第一節)して終始家康に忠実で一向一揆と奮戦しました。
  一揆側に味方した松平家臣も家康と戦うことは躊躇せざるを得なかったようです。たとえば蜂屋半之丞は背丈が高く、力が強いのが自慢でした。半之丞が引き揚げようとしたとき、家康がかけつけて「八屋(蜂屋)メ、返(かえせ)」と叫びました。半之丞がふりむいて家康だと気づくと鑓をひきずっていっさんに逃げ出したところに松平金助が「半之丞返(かえせ)」と声をかけました。半之丞は引き返してきて「殿様ナレバコソ逃ゲタレカ」と相互に鑓で戦いましたが、家康がまた「八屋(蜂屋)メ」と叫ぶと後ろも見ずに逃げ去ったそうです(「三河物語」)。
1564(永禄7)年に至り双方戦いに疲れ、甲斐の武田氏や駿河の今川氏らの勢力の三河侵入を警戒して和議が起こり、一向宗寺院はもとの通りで家康に敵対した家臣を赦免し、所領も安堵されることになりましたが、平和が回復すると、家康は一向宗寺院に対して改宗を命じ、服従しない寺院を破壊して僧を追放しました。次いで領内に一向宗禁止令を敷き、1583(天正11)年にようやく赦免したのです(中村孝也「前掲書」上巻 五五七頁・笠原一男「一向一揆の研究」第十四章第四節 山川出版社)。
近江の城郭―トッピックス、レポートー本願寺と一向一揆―三河一向一揆―上宮寺・本証寺・勝鬘寺

この戦乱において本願寺派に敵対していた専修寺派(親鸞の門弟真仏を中心とする下野国高田門徒の系統をうけつぐ一派)は家康方につきました。例えば家康が甲賀武士を使い佐々木の寺を焼き討ちしようとして失敗し甲賀武士が殺害されると、専修寺派桑子明眼寺は早鐘をついて家康の出兵を要請しました。家康は明眼寺から出撃して一揆方をうち破りました。戦後家康は戦勝を祝して祈願した同寺本尊「恵心之阿弥陀」(恵心僧都作といわれる阿弥陀如来像)を家康の持仏堂に安置するためにもらい受けたといいます(松平家康書状「妙源寺文書」七七「新編岡崎市史」史料 古代中世)。この阿弥陀如来像は後に黒本尊と呼ばれて江戸増上寺護国殿に安置されました(「三縁山志」巻二黒本尊「浄土宗全書」十九 山喜房仏書林)。
  かくして三河の一向一揆を鎮圧することにより、家康は西三河を制圧、1564(永禄7)年6月今川方の吉田城(愛知県豊橋市)を酒井忠次に、田原城(愛知県田原市)を本多広孝に与え(「古文書集」中村孝也「前掲書」上巻七二頁)、東三河も家康の支配下にはいりました。翌年3月には本多重次・高力清長・天野康景を三河の奉行に登用しています(「史料綜覧」巻十)。この3人については「清長は温順にして慈愛深く、康景は寛厚にて思慮深し。ひとり重次はおそろしげなる男の、己がいひたき事をばありのままにうちいひ、…」という特徴がある人物で「仏高力・鬼作左・とちへむ(不公平)なしの天野三郎兵衛」(「藩翰譜」東照宮御実紀附録巻18引用 新訂増補「国史大系」吉川弘文館)という俗謡が流行したといわれ、家康の人材登用が適材適所であったという逸話として著名です。
山岡荘八「徳川家康」を読む6

1566(永禄9)年五摂家(摂関の地位に就く近衛・鷹司・九条・二条・一条の五家柄)筆頭の関白近衛前久から参議高倉永相を通じて申請された松平家康の徳川改姓・叙位任官(従五位下三河守)についての正親町天皇の勅命が12月29日に下され、その旨を記した口宣案(口宣とは口頭で勅命を伝えることで、その控えの文書 「日光東照宮文書」)と女房奉書が翌年正月三日に出されました(「御湯殿上日記」永禄十年正月三日条)。叙位任官は別として徳川改姓まで朝廷に願い出たの