ニックネーム:さるしばい
「阿弥陀来迎図流転の謎」の自己紹介を参照して下さい。
2011年10月05日(水)
木下尚江「田中正造の生涯」を読む21〜30
木下尚江「田中正造の生涯」を読む21

 正造は川俣事件被告51名のために大弁護団を組織、1900(明治33)年10月10日前橋地方裁判所で川俣事件第1回公判が開催されると、同公判を傍聴、12月なかごろまで前橋に滞在(「全集」Nk緕l八−九七二)、同年11月28日同事件第15回公判における検事論告に憤慨して欠伸(あくび)をしたため官吏侮辱罪を適用され起訴となりました。
 同年12月22日前橋地裁は川俣事件に対し判決、被告51名中29名が有罪(治安警察法違反罪2名、官吏抗拒罪26名、官吏侮辱罪1名)となり、検事・被告ともに控訴しました(1902.12.25控訴院控訴棄却により裁判消滅)。
 1901(明治34)年3月16日増税法案(北清事変費・建艦費補充など)を可決した第15議会において、3月24日正造は「鉱毒を以て多大の国土及び人民を害し兵役壮丁を減損せし古河市兵衛を遇するに位階(1900年従五位授与「古河市兵衛翁伝」)を以てせし儀につき質問書」を提出、演説を要求(「全集」G四四三−四五〇)しましたが、同議会は閉会しました。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む22

 しかし田中正造を支援する人々が次々と行動に立ちあがっていたことも忘れてはいけないことでしょう。同年5月21日神田基督教青年会館で三好退蔵・富田鉄之助・田口卯吉3名の発起により、鉱毒調査有志会が結成(「全集」Nh黶Z三五)され、51名が参加しました。
 その中には三宅雪嶺(「田中正造の生涯」を読む18参照)・陸羯南(「坂の上の雲」を読む7参照)・徳富蘇峰(「大山巌」を読む45参照)・秋山定輔・黒岩周六(涙香)などのジャーナリスト、島田三郎(「田中正造の生涯」を読む13参照)・高田早苗(「大山巌」を読む27参照)・谷干城(「大山巌」を読む25参照)・三浦梧楼(「大山巌」を読む41参照)らの貴衆院議員、松村介石らのキリスト教徒、潮田千勢子・三輪田真佐子・矢島楫子・山脇房子らのキリスト教婦人矯風会幹部、島地黙雷、田中弘之らの仏教徒など広範囲にわたる人物が網羅されていました。

近代日本人の肖像―人名50音順―か・こー河上肇ー黒岩涙香

全国名前辞典―あ行―あ3−阿部(安部の誤り)磯雄―ま行―ま2−松村介石―や行―や1−矢島楫子  

仏教百科事典―人物―人名―島地黙雷(しまじもくらい) 

 同年11月20日本郷中央公会堂で鉱毒地救助演説会が開かれ、島田三郎・木下尚江の外、牧師田村直臣(北村透谷の結婚式を司会)も演説、田村の演説に感動した東京帝大学生河上肇は演説会終了後、着ていた外套とえりまきを脱いで被害民のために差し出しました(河上肇「自叙伝」五 思い出・断篇の部 6 木下尚江翁 岩波文庫)。
 同年11月29日神田基督教青年会館で鉱毒地救済婦人会発会式が行われ、潮田千勢子が会長に選ばれ、同日の潮田・矢島・山脇らに安部磯雄・島田三郎らも加えた演説会に出席させた女中から鉱毒被害の様子を聞いた古河市兵衛の妻タメは翌日神田川に投身自殺しました(明治34年12月1日付 新聞集成「明治編年史」第11巻 財政経済学会・河上肇「前掲書」)。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む23

すでに田中正造は同年10月23日衆議院議員を辞職していました(五七 「議員辞職」政論「全集」A)。顧みれば正造は10年間鉱毒問題を訴え続けて政府・議会に裏切られつづけ、かくなる上は鉱毒問題に関する世論の盛り上がりを背景に、人の意表をつく行動にでて、この問題をひろく国民に訴えようと決意したようです。
1901(明治34)年12月10日第16議会開院式に臨み、帰途につく天皇の馬車に向かって群衆の中から駆けだした正造は直訴状[原案 幸徳秋水(「火の虚舟」を読む19参照)執筆 本書]を手に「お願いでございます。」と叫びながら馬車に近付き、護衛の騎兵がこれを遮ろうとして落馬、正造も躓いて転び、警戒中の警察官にとりおさえられました(1「直訴に関する談話」参考資料「全集」B)。彼は麹町警察署で取り調べの上釈放、不起訴となりました。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―略歴(足跡)―1901(明治34)年 鉱毒事件を天皇に直訴―翌日の時事新報―直訴状全文はこちらを参照ー直訴に関する事実―正造の関係者―石川啄木

木下尚江「田中正造の生涯」を読む24

 この事件は新聞にも報道され、反響は大きく、同年12月27日千余名の大学・専門学校・中学校の学生・生徒を田村直臣・安部磯雄・木下尚江・内村鑑三らが引率、被害地を見学し、被災民と交流しました。
 志賀直哉は足尾鉱毒地の視察を計画したところ、祖父がかつて古河市兵衛と足尾銅山を経営していたという理由から反対され父と衝突、以後の決定的な不和の原因となりました(年譜「志賀直哉全集」第14巻 岩波書店)。

近代日本人の肖像―人名50音順―さ・そー志賀直哉

 また石川一(啄木 当時盛岡中学校生徒)は正造の天皇直訴の報道をきくと、その心境を和歌に託し、翌年1月29日青森歩兵第五連隊第二大隊の八甲田山雪中行軍遭難事件を報道する「岩手日報」号外を友人とともに盛岡で売り、その利益を鉱毒被害民への義捐金として贈りました(啄木案内 年譜「啄木全集」岩波書店)。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む25

 1900(明治33)年田中正造は川俣事件第15回公判における検事論告に対する欠伸で官吏侮辱罪に問われましたが、1902(明治35)年5月9日東京控訴院は正造に対し禁錮40日、罰金5円を判決(同年6.12大審院上告棄却)。この結果彼は同年6月16日〜7月26日巣鴨監獄で服役しました(「全集」Nh齠二九−一二三二)。この間病監に入り、差し入れの新約聖書を読み(明治35年7月27日付原田定助宛書簡「全集」Nh齠二八)、強い影響を受けたのです。

ケペル先生のブログーバックナンバーー2011年6月2日―新井奥邃(あらいおうすい)と田中正造

 正造の直訴を契機とする鉱毒世論の高揚によって、鉱毒事件が政治問題化することを恐れた桂太郎(第1次)内閣は同年3月17日閣内に第2次鉱毒調査委員会を設置、4月から実地踏査を開始しました。
 『明治三十五年十月、谷中村の染宮太三郎氏方に於て翁の政談演説があった。(中略)当時十四歳の筆者は片隅の柱の陰にかくれて各弁士の演説を聴いていた。やがて田中翁が演壇に現われた。白地の立縞の単衣(ひとえ)と黒い袴、背丈は高くないが、頭の大きな肩巾の広い、実に頑丈な体格、筆者は小学校の読本で見た坂上田村麻呂のようだと直観した。(中略)筆者は帰る時、聴衆の中でただ一人の小さな子供だったので、翁の眼にふれ、「何処から来たか」とたずねられたが、はにかみ性の筆者は、モジモジしながら別れたのを昨日のように記憶している。翁はその年、数え年で六十二歳であった。』(島田宗三「前掲書」)
 1903(明治36)年5月28日第18議会において島田三郎が足尾鉱毒に関して質問演説すると、政府は同年6月3日島田の質問演説に関する答弁に代えて鉱毒調査委員会の調査報告書を発表しました(「全集」N一三八五、一三八七)。
 同調査報告書によれば、(1)農作物に被害を与える銅成分は明治30年の鉱毒予防命令(「田中正造の生涯」を読む18参照)以前に銅山から排出され、銅山付近及び渡良瀬川河床に残留するものが大部分で、現在の操業によるものは比較的小部分に過ぎない、(2)現在の被害の原因は鉱毒と洪水の両者にあるとし、(3)この観点から次のような鉱毒処分法の勧告を行いました、すなわち(ア)足尾銅山の予防工事を厳重にすること、(イ)足尾の林野経営、(ウ)渡良瀬川の治水事業、などを列挙しています(「栃木県史」通史編8)。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む26

 この報告書は(3)−(ウ)について、渡良瀬川の治水は堤防の修築だけでは不可能であるから、渡良瀬、利根及び思(おもい)川の合流する付近に渡良瀬川の流量の一部を遊水させ、本川の減水を待ってこれを排水する遊水池を設けることが必要であると述べています。
この報告書は結局鉱毒問題を治水問題に置き換えようとする意図をもっていたといえましょう。
この遊水池の場所について報告書では明示されていませんが、調査委員会の審議で谷中(やなか)村が候補地に挙げられていました。
 栃木県下都賀郡谷中村は栃木県の最南端、渡良瀬川の北岸に位置し、北に赤麻沼があり、谷中村の東端で巴波(うずま)川・思川が合流して渡良瀬川に注ぎ、同村は三方を堤防で囲まれる輪中(わじゅう 水害を防ぐため、村落が堤防で囲まれ、水防協同体を形成したもの「孤愁の岸」を読む 参照)の村でした。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―正造ゆかりの地―谷中村跡―時事新報の記事―仮小屋

木下尚江「田中正造の生涯」を読む27

 1904(明治37)年7月30日谷中村問題に専念のため、田中正造は以後同村川鍋岩五郎方を根拠地として寄留するようになりました。(「全集」Oh齪Z六五、一六六六)。
 日露戦争が開始された後の1904(明治37)年12月10日栃木県会は秘密会において堤防修築費の名目で谷中村買収案を可決、同日閉会しました。
 社会主義思想に理解を示さなかった正造は日露戦争に対して非戦論を主張し、そのために闘った社会主義者たちの行動には理解を示し、谷中村問題を彼らに理解してもらおうと努力しました。当時正造の直訴に感動、学業を放棄して鉱毒地に入り活動していた黒沢酉蔵[1925北海道製酪販売組合(雪印乳業の母胎)設立に参加]に正造は手紙で幸徳秋水・堺利彦らの平民社月例会に出席して谷中村問題を訴えるよう依頼しています(「黒沢酉蔵宛書簡」明治37年11月5日付 1753 「全集」O)。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―正造の関係者―黒沢酉蔵

木下尚江「田中正造の生涯」を読む28

 1905(明治38)年3月18日栃木県知事は告諭第2号により谷中村土地被買収者には補償と代替地を貸与(将来は移譲)、非土地所有者には別途救済を約束し(「全集」Kp407)、同年7月10日には瀦(貯)水池用測量のため谷中村立ち入りを通告してきました。また県当局は村長のなりてがないことを理由に下都賀郡役所書記を管掌村長とし、村民の買収を推し進めたのです。1906(明治39)年7月1日管掌村長は村会決議を無視して谷中村を藤岡町に合併、翌年1月26日西園寺公望(第1次)内閣は谷中村に土地収用法の適用を公告(田中正造日記三−三「全集」Jp21)、同法所管の内務大臣原敬(1905.3.24古河鉱業副社長就任、内相就任とともに同社顧問)は谷中村の強制買収を決定したのです。

近代日本人の肖像―人名50音順―は・ほー原敬・福田英子

 1907(明治40)年4月14日付で谷中村残留民は栃木県に土地収用反対意見書を提出(飯塚伊平宛書簡写本「全集」Ps二五〇)、正造も同年4月17日福田英子らとともに栃木県知事に対して「旧谷中村の土地収用に対する意見書」(谷中村問題四六「全集」Bp四八三)を、5月10日には安部磯雄らとともに、内務大臣原敬へ「土地収用法適用につき訴願書」(谷中村問題四八「全集」Bp四九三)を提出、瀦水池なる文言は法律にはない、政府の措置は法に反し、法律を破壊するものであることを強調しました。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む29

 1907(明治40)年6月29日から7月5日にかけて、栃木県は谷中堤内残留民屋16戸を強制破壊、正造は破壊現場に立ち会い、抗議の意思を表明しましたが実力で破壊を阻止する行動には出ませんでした。「而してこれがために家を失ひたる者は、竹を柱とし、芦を屋根とし麦稈(むぎわら)を板敷となし、その上に筵(むしろ)を覆ひて、蚊帳(かや)をうち釣れるもあり。小舟を沼田に浮べ、竹もてこれに蚊帳を張りかけ、寂しき夢を結べるもあり。あるひは雨戸を寄せ、筵を張りなどして、僅かに雨露を凌(しの)げるもあり。中には蚊帳なくして、終夜藪蚊(やぶか)に攻められつヽ、苦しみ明かす者もあり。見るも憐(あわ)れ深き寒村の荒涼たる沼田の水に、夜半(よわ)の月影清く映りて、凄愴の景、坐(そぞ)ろに人をして泣かしむ。」(荒畑寒村「谷中村滅亡史」岩波文庫)
 三宅雪嶺・島田三郎夫妻・矢島楫子・弁護士今村力三郎らの尽力で谷中村救済会が東京で結成されると、7月21日谷中残留民は救済会宛に「憲法および国民の生命権利に対し安全保証を与えられ、又人道のために臨時救済の方法を立てられ併せて谷中村の土地復活を期せられたき請願書」[谷中・治水問題(一)「全集」C]を提出しました。

歴史が眠る多摩霊園―著名人―頭文字―あー今村力三郎

 同日救済会は残留民に不当買収価格に関する民事訴訟を起こすことを提案、正造と残留民は土地収用法の適用を不法としていたので、買収価格の高低を争うことに疑問をもったが、残留民らは安部磯雄・田中正造らとともに宇都宮地方裁判所栃木支部に訴訟を起こし、残留民の団結を守るための力となりました(参考資料一三「全集」別巻p四〇九)。
 同年8月25日渡良瀬川は大洪水を起こし、谷中残留民の仮小屋が流失、正造は26日船を借りて残留民の救出に乗り出しましたが(逸見斧吉・柴田三郎宛書簡 明治40年8月29日付「全集」Ps三六六)、彼らは病人すら船の収容に応ぜず、正造は「此人々の自覚は神にも近き精神」と称賛しました(「逸見斧吉宛の書翰」明治40年9月1日付 本書)。しかし社会運動から手を引いていた木下尚江は強制破壊に立ち会ったのですが、やがて風雨にさらされる残留民を残して上州伊香保に帰山しました。その理由を木下は次のように述べています「今日まで彼等は翁(正造)の命令的態度に慣れ来りて自決ということに不経験なれば、この大機に際して彼等の精神に一大転化を与へざるべからずと思ふ」(「逸見斧吉宛の書翰」明治40年7月19日付「木下尚江全集」第19巻 書翰・草稿・補遺)。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む30(最終回)

 1908(明治41)年7月21日栃木県は谷中堤内に25日より河川法準用を告示、これにより残留民の仮小屋も谷中堤内の耕作も県の許可が必要となることになります。
 同年9月19日正造は谷中残留民名義の「瀦水池認定河川法準用不当処分取消の訴願書」を藤岡町を経て内務大臣に提出(1909年却下)[谷中・治水問題(一)三三「全集」C]しました。
 1909(明治42)年9月内務省は栃木・群馬・埼玉・茨城4県に同省起業渡良瀬川改修工事費分担(渡良瀬川の河身変更、谷中村堤内外を中心に遊水地化)を諮問、正造は谷中残留民とともに陳情書を作成、栃木県会へ提出するなど反対運動をつづけましたが、各県会はやがて同改修案を可決、これをうけて1910(明治43)年3月23日第26議会も総工費750万円、14箇年継続事業として渡良瀬川改修案を可決しました(年譜「全集」別巻)。
 1913(大正2)年正造は過労で病床に伏す日々が多くなりましたが、それでも河川調査をやめようとはしませんでした。足利・佐野の友人を訪問しながら谷中へ向かう途中、同年8月2日足利郡吾妻村大字下羽田の庭田清四郎宅で倒れ、そのまま臥床してしまいました。9月3日医師和田剣之助は正造の病気を胃癌による幽門狭窄と診断、翌日午後零時50分正造は木下尚江に支えられて端坐すると、「ハァ」と大きな息をして呼吸をやめました。枕元に残された菅の小笠と繻子(しゅす 経糸・緯糸の浮いた組織の織物、古来帯地に用いることが多い)の袋には、日記3冊と「苗代水欠乏農民寝食せずして苦心せるの時、安蘇郡、及び西方近隣の川々細粒巡視及其途次に面会せし同情者の人名略記内報その一号書」と題された草稿、新約聖書一冊、帝国憲法と馬太(マタイ)伝を白糸で綴じあわせた小冊子、それに石ころ数個と鼻紙が少々あったということです(島田宗三「前掲書」)。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―正造ゆかりの地―田中霊祠

栃木県の土木遺産―土木遺産目次―V 河川砂防―渡良瀬遊水池―番外―足尾銅山「光と影」年表
2011-10-05 05:56 | 記事へ | コメント(11) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇28) |
2011年09月25日(日)
木下尚江「田中正造の生涯」を読む11〜20
木下尚江「田中正造の生涯」を読む11

 栃木県においても国会開設運動を中心とする自由民権運動は盛り上がりをみせていました。1880(明治13)年3月10日嚶鳴社の沼間守一(ぬまもりかず)・青木匡・西村玄道3名は足利町の友人にまねかれて演説会に出席し、佐野町春日岡においても演説、これをきっかけにして足利に第十九嚶鳴社、佐野町にも第二〇嚶鳴社が設立され、3月20日第二〇嚶鳴社は毎月社員を東京から招いて演説会を開くとともに、「栃木新聞」に会員募集の広告を出しました。

多摩川誌―目次―第6編 社会生活史―第4章 近代―第3節 自由民権運動と多摩―3.1.3 都市民権派ジャーナリストの活躍―(1)嚶鳴社の活躍

 同年8月上旬田中正造ら6名の連名による「栃木県下同志諸君に告ぐる書」が「栃木新聞」に発表され、「進んで輿論を翼賛して国会開設を天皇陛下に請願し、退ては民権を回復し自由を拡張し全国公衆と共に国民本分の義務を尽」そうではないか、との呼びかけが行われました(「全集」@九六)。同年8月23日安蘇結合会第1回会合が佐野町春日岡惣宗寺で開催、正造は会長に選出されましたが、同年10月3日同会は中節社と改称、正造は同月4日国会開設建白書起草委員となりました(四 安蘇結合会日誌「論稿」一「全集」@)。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―正造ゆかりの地―3 春日岡山惣宗寺

木下尚江「田中正造の生涯」を読む12

 1881(明治14)年7月26日「東京横浜毎日新聞」(嚶鳴社系民権派新聞)社説「関西貿易商会ノ近状」で北海道開拓使官有物払下げ事件が暴露されて以来、各新聞はこぞってこの問題を取り上げ、自由民権運動はかつてない盛り上がりを見せたのです。
 同年10月1日開催予定の国会期成同盟大会を前に、同年9月23日遊説のため上京した板垣退助を迎えて新聞・雑誌社が上野精養軒で各派懇談会を開き、ここでは地方と府下を一貫した大政党の結成を主張するものが多く、発起人が政党組織の案を起草し、全国に呼び掛けることを決定しました(大久保利謙「明治十四年の政変」明治史料研究連絡会編「明治政権の確立過程」明治史研究叢書1 御茶の水書房)。
 しかるに翌9月24日板垣退助・中島信行・山際七司・林包明ら30余名は向島八百松楼で会合、政党組織について討議しましたが、これは愛国社系の政社を中心とするもので、嚶鳴社らの府下新聞・雑誌社などは呼ばれていませんでした。同年10月1日に開会した国会期成同盟は自由党準備会と国会期成同盟は同主義であるからこれを合体して一つの政党をつくることを決定、翌10月2日自由党組織原案起草委員5名を選出しました(由井正臣「前掲書」)。
 このような民権派の動きに応じて同年10月12日政府は北海道開拓使官有物払下げ中止、参議大隈重信罷免を発表するとともに、明治23年を期して国会を開設するとの詔書が発せられました(「伊藤博文伝」・「大山巌」を読む19参照)。

近代日本人の肖像―人名50音順―あ・おー大隈重信

 同年10月18日浅草井生村楼(いぶむらろう)で土佐の立志社を中心に自由党結成会議が開会しましたが、沼間守一ら嚶鳴社系の人物は参加していませんでした(「涌井藤七への書翰」本書)。正造は統一政党の結成をあきらめてはいませんでしたが、1882(明治15)年4月16日大隈重信を総理とする立憲改進党が結党されると、正造は同年村落名望家とともに同党に入党しました(「回想断片」「全集」@)。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む13

東北物語り伝承館―東北近代化の物語りー福島事件

 1883(明治16)年栃木県令藤川為親は福島事件の原因の一つとなった会津三方道路(会津地方から新潟県・山形県・栃木県に通じる県道)の一つを引き継ぎ、栃木県側の塩谷郡横川村から塩原村経由で陸羽街道(明治6年奥州街道を改称)親園村に至る道路開鑿を計画、その費用55,565円余の地方税を3年分割で支出するという案を県会に提出しました。
 県令提案は県会で廃案となりましたが、内務卿の命令で県令原案が執行となり、さらに同年10月30日福島県令三島通庸が栃木県令を兼任すると、土木工事はさらに拡大されました。
 三島は着任すると県庁を栃木町から宇都宮に移転するとともに、1884(明治17)年陸羽街道を氏家宿以北は旧街道に沿って新たに開通させ、以南は改修するための土木費105,073円余を県会に提案してきました。県会は紛糾の末道路橋梁費105,090円を
可決すると、県令はさらに沿道各戸に数十日間の無賃労役を課し、欠席するときは代人料1日25銭を納入させるというものでした(由井正臣「前掲書」)。
 やがて同年8月乙女村事件が起こりました。これは労役民の遅参を怒り、監督巡査が反抗した乙女村民衆73名を逮捕、小山(おやま)警察分署にて暴行を加えたという事件です(三四 「三島県令土木事件」「論稿」一「全集」@)。
 正造は事件現場にかけつけ調査、上京して島田三郎らの紹介で宮内卿土方久元・内務卿山県有朋に三島通庸の圧政を訴えました(「昔話」「全集」@)。

近代日本人の肖像―人名50音順―さ・そー島田三郎―ま・もー三島通庸

木下尚江「田中正造の生涯」を読む14

ところが同年9月23日加波山事件(「大山巌」を読む23参照)が起こりました。この事件は福島事件で弾圧され三島通庸に報復しようとする河野広躰(ひろみ)らのグループと栃木自由党員鯉沼九八郎らのグループらが茨城県加波山で武装蜂起、警官隊の攻撃で壊滅したという事件ですが、三島県令は田中正造を加波山事件容疑者として逮捕、正造は佐野警察署に79日間拘留され、不起訴処分となって釈放されました(三五「佐野警察署への請書」「論稿」一「全集」@)。
同年10月29日自由党は解党(「自由党史」下 岩波文庫)、12月17日大隈重信・河野敏鎌らが立憲改進党を脱党(指原安三「明治政史」明治文化全集 第9〜10巻 正史編 日本評論社)するなど自由民権運動は衰退し敗北していくのです。
1889(明治22)年2月11日の大日本帝国憲法発布(「大山巌」を読む27参照)式典に田中正造は栃木県会議長として出席(「回想断片」「全集」@)、明治憲法への期待を表明しています。しかし伊藤博文が同年2月15日府県会議長を招待して行った憲法講話で伊藤が展開した超然内閣(政党内閣の否定・「大山巌」を読む27参照)の主張に対して正造は論評しませんでした。正造は政党内閣制を理想としていたからでしょう。
国会開設の時期が迫ってくると、政党再編を目指す動きが活発となりました。1889(明治22)年5月26日正造は立憲改進党勢力を拡張するために、佐野で明治倶楽部の発会式を挙行(「全集」Mh齪Z七)、安蘇・梁田・足利の3郡に組織の根をおろすことを目的としたもので、同年問題となった大隈重信外相条約改正案(「大山巌」を読む28参照)をめぐる政争の中で、栃木県下の明治倶楽部を中心とする改進党勢力は大隈条約改正案断行を主張する建白運動を展開しました(四三「外交条約改正の決行を請うの建白」「論稿」一「全集」@)。
 1890(明治23)年7月1日第1回総選挙が実施され(衆議院・参議院編「議会制度七十年史(政党会派編)」大蔵省印刷局)、田中正造は立憲改進党候補として、栃木3区(安蘇・足利・梁田郡)から衆議院議員に当選しました(「全集」Ms一五・二二〇)。
 当時の新聞の報道するところによれば、田中正造は垢じみた紋服を着て、乱れた髪を整えもせず、演壇で怒声を張り上げ、大臣や吏党(現在の政府与党に相当)議員を批判、「栃鎮」(とちちん 栃木鎮台の略)とか「田正」(たなしょう)というニックネームがついていました。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む15

  足尾銅山は1610(慶長15)年発見され、江戸幕府直轄の鉱山として、産銅は日光山用銅や江戸城増築の際の屋根瓦などに利用、また長崎貿易における輸出品としても重要な役割を果たしました、しかし幕末には衰退して廃山寸前の状態でした。同銅山は1873(明治6)年民間経営に移行しましたが、経営は不振がつづきました(「栃木県史」通史編8 栃木県)。
 古河市兵衛は1832(天保3)年京都岡崎のうまれで、幼名は木村巳之助、家は貧乏な豆腐屋で、18歳のとき母方の叔父の世話で盛岡に赴き、南部藩御用商人の店で働きましたが店は倒産、叔父の世話で1858(安政5)年京都の豪商小野組番頭古河太郎左衛門の養子となり、古河市兵衛と改名しました(五日会編「古河市兵衛翁伝」近代日本企業家伝叢書3 大空社)。養父とともに生糸の買い付けに従事、一時成功しましたが、1874(明治7)年10月22日大蔵省は小野・島田・三井の各組に対して、公金預かり高に対する抵当増額を定め、このため小野・島田両組は倒産、大蔵省より事前通告をうけ、これに対する内密の工作をした三井組は生き延びることができたのです(大江志乃夫「日本の産業革命」岩波書店)。

近代日本人の肖像―人名50音順―は・ほー古河市兵衛

 このとき小野組に多額の貸し付けを行っていた第一国立銀行は大打撃をうけましたが、古河市兵衛は自らの財産を抵当として差し出し、第一国立銀行は危機を回避できました。渋沢栄一はこの恩義に報いて古河市兵衛に融資を強化、古河市兵衛の大きな後ろ盾となったのです(「雄気堂々」を読む15参照)。
 市兵衛はすでに1875(明治8)年古河本店(後の古河機械金属株式会社)を創業、鉱山経営にのりだしていましたが1876(明治9)年12月30日足尾銅山の買い取り名義人として相馬家(旧相馬藩主)を立て、資金は相馬家が半額出資、自身は相馬家家令(家務の管理人)であった志賀直道(志賀直哉の祖父)の共同経営(1886志賀直道経営から離脱)とし、1880(明治13)年渋沢栄一も出資(1888渋沢栄一経営離脱)に加わりました。
 足尾銅山は古河市兵衛の経営後も不振がつづきましたが、1881(明治14)年銅の大鉱脈を発見、以後つづいて大鉱脈を掘り当て、銅生産高は急上昇しました。
 1888(明治21)年フランスを中心とする国際的銅シンジケート(販売・購買企業連合)の代理者ジャーデン・マジソン商会との古河産銅全額買い取り契約が成立、しかるに翌年3月同シンジケートが崩壊した結果、銅価格は暴落、古河は巨額の利益を手にいれました(「古河市兵衛翁伝」)。しかし他方同じころ足尾銅山の鉱毒問題が顕在化して大きな社会問題を引き起こすようになっていたのです。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む16

 1890(明治23)年ころ、足尾銅山の鉱毒で渡良瀬(わたらせ)川の魚類が多数死滅し問題となり始めていました(「郵便報知新聞」)が、同年8月渡良瀬川沿岸は大洪水に見舞われ、その田畑被害は、以前のそれとはまったく違っていました。昔洪水は上流の腐葉土を運んできてくれたので、農民は同川沿岸の土を自分の田畑にはこんで肥料としたものでしたが、同年の洪水により、稲は冠水しただけで穂が出ず、桑木は80〜90%枯れてまうという状態となったのです(「過日来御約束の被害土壌調査致候処、悉く銅の化合物を含有致し、被害の原因全く銅の化合物にあるが如く候。」(渡良瀬川沿岸青年有志の依頼による農科大学教授古在由直の回答 6月1日付<明治23年>・「足利郡吾妻村々長亀田佐平より栃木県知事への上申書」明治23年12月18日付 本書)。
 1891(明治24)年11月26日開会の第2議会で田中正造ははじめて政府に質問書を提出しましたが、その最初が「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」(同年12月18日付)でした(「本書」)。

山とスキー・歴史と文化―国内の歴史と文化(一覧表)―D12 足尾銅山―日本鉱工業の光と陰

 この質問演説で、正造は足尾鉱毒問題を放置する監督官庁の怠慢を指摘するとともに、当時の松方正義内閣(第1次)の農商務大臣陸奥宗光(「大山巌」を読む34参照)の子潤吉が古河市兵衛の養子となっていることに言及し、「まさかに農商務大臣たる国家の大臣と云ふものが、斯くの如き事を以て公務を私するもので無いと云ふことは、拙者も信じて居る。乍併(しかしながら)斯くの如きことを人民が言ふ時には、何を以て之を弁解する」(「本書])と述べ、間接的に国家権力と財界との癒着を批判しました。
 田中正造の質問演説の日、松方内閣は衆議院を解散したため、正造の質問演説に対する政府答弁はなかったのですが、のちに農商務大臣陸奥宗光は官報に要旨次のような「足尾銅山礦毒の件に関する答弁書」(「本書」)を発表しました。すなわち(1)渡良瀬川被害が足尾銅山の鉱毒によるものとは断定できない、(2)被害の原因については分析試験中である、(3)鉱業人は鉱物流出を防止するため独米両国から「粉鉱採聚器」を買い入れて鉱物の流出防止の準備中である。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む17

 1892(明治25)年2月栃木県知事は県会議員による鉱毒仲裁委員会を組織、示談契約は同年8月から翌年にわたって栃木・群馬2県関係43町村と結ばれ、その内容は古河市兵衛が「仲裁人の取扱に任せ、徳義上示談金」の一定額を支払うのと引き換えに、被害者は「明治二十九年六月三十日迄は粉鉱採聚器実効試験中の期限とし、契約人は、何等の苦情を唱ふるを得ざるは勿論、その他行政及び司法の処分を乞ふが如き事は一切為さヾるべし」(「契約書」本書)というものでした。これによって鉱毒被害民の反対運動は一時下火となり、田中正造はこのような示談契約に賛成したわけではありませんでしたが、第4議会(明治25年11月29日―26年2月28日)から、日清戦争を経て、第8議会(明治27年12月24日―28年3月23日)まで、正造の足尾鉱毒事件についての議会発言はありません。
 1895(明治28)年3月16日栃木県下都賀郡部屋村他4村及び足利郡足利町他11村の鉱毒被害民は古河市兵衛との間に賠償金による永久示談契約を締結(「全集」Mnl三四・四三五)しました。田中正造は翌年3月25日第9議会において「足尾銅山鉱毒に関する質問書」を提出、永久示談の不当を追及しています(「全集」FbP06)。
 しかるに1896(明治29)年7月21日、8月17日、9月8日の3回にわたって渡良瀬川に大洪水が起こり、その鉱毒被害は1府5県1市20郡2区251町村に波及、農作物や桑木は立ち枯れる光景が現出しました(島田宗三「田中正造翁余録」上 三一書房)。これは永久示談なるものが、いかにむなしく不当なものであるかを実証したのです。
 正造は大洪水以後被害調査と請願運動組織のため奔走、同年10月4日群馬県邑楽(おうら)郡渡瀬村早川田(さがわだ)(群馬県館林市下早川田)の雲龍寺に栃木・群馬両県鉱毒仮事務所を設立、同寺においてしばしば鉱毒演説、同年11月栃木・群馬両県3郡9町村鉱毒被害民は足尾銅山鉱業停止請願書を農商務大臣に提出し、同年12月23〜28日栃木・群馬両県8村総代は上京、農商務省・内務省・東京鉱山監督署などに陳情するに至りました。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―正造ゆかりの地―4 雲龍寺

木下尚江「田中正造の生涯」を読む18
 
1897(明治30)年2月26日第10議会において、田中正造は「公益に有害の鉱業をを停止せざる儀に付質問書」を提出、これにつき説明演説を行いました(「本書」)。
 同年2月28日以降正造をはじめ、津田仙・島田三郎(「田中正造の生涯」を読む13参照)・谷干城・三宅雪嶺らの知識人による鉱毒演説会が神田基督教青年会館をはじめとして東京の各地で開かれるようになり、注目を集めました。

港区ゆかりの人物データベースー索引 ゆかりの人物ーつー津田仙

3月20日には谷干城(「大山巌」を読む25参照)らが被害地を視察(「全集」Mlワ七一)、これに影響をうけて3月23日農商務大臣榎本武揚も被害地を視察しました(「年譜」「全集」別巻)。

近代日本人の肖像―人名50音順―ま・もー三宅雪嶺

農商務大臣榎本武揚は田中正造の質問書に対する答弁書で、はじめて鉱毒の存在を認めたが、古河と被害民との示談成立を理由として処分を保留と述べるに止まりました(「政府の答弁書」明治30年3月18日 本書)。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―田中正造の関係者―榎本武揚

この間被害民は「押し出し」と呼ばれる請願行動を繰り返しています。当時進歩党(「大山巌」を読む46参照)と提携していた第2次松方正義内閣は同年3月24日内閣に足尾銅山鉱毒調査会を設置、委員長に法制局長官神鞭(こうむち)知常が就任しました。
同年3月29日第10議会閉会後農商務大臣榎本武揚は辞任、外相大隈重信が同大臣を兼任しました(「年譜」「全集」別巻)。
 足尾銅山鉱毒調査会はまず古河側に鉱毒防御の工事を命令、その設備が期日までに完成せず、怠慢の処置があれば鉱業を停止する、また鉱毒被害地は地租条例第20条の一般災害地なみの免租を適用することを決定、同年5月27日東京鉱山監督署長は古河市兵衛に対して、坑内排水の沈澱池、゚(からみ 鉱石を熔錬する際に生ずる滓)・捨石・泥渣などの堆積所の整備、脱硫塔、烟道及び大煙突の建設などを義務付け、各工事を完成期限までに完了するよう37項目について明示(「古河市兵衛翁伝」)、古河側は同年11月22日命令通りこの工事を完成させ、鉱業停止には至りませんでした。しかし脱硫塔は機能せず、沈澱池も不充分なもので、鉱毒が依然として垂れ流しの状態であることはのちに明らかとなっていったのです。また地租免租処分の結果、被害民は選挙権その他公民権を失うものが続出しました(「栃木県史」通史編8・荒畑寒村「谷中村滅亡史」岩波文庫)。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む19

 1897(明治30)年5月27日鉱毒防御工事命令がでると、これに期待した前記知識人らの支援活動は次第に不活発となり、新聞報道も少なくなっていきました。正造は1898(明治31)年1月2日進歩党首大隈重信を大磯に訪問、鉱毒問題について激論を交わしました(「田中正造日記」明治31年1月2日条「全集」I)。
 同年3月15日第5回臨時総選挙で田中正造は衆議院議員(進歩党所属)に当選しましたが、5月19日開会の第12議会で自由・進歩の両党は提携して6月10日地租増徴案を否決、衆議院は解散、同月22日自由・進歩両党は合同して憲政党を結成、その結果第3次伊藤博文内閣は倒壊、6月30日大隈重信内閣が憲政党を基礎とし我が国最初の政党内閣として成立しました(「大山巌」を読む46参照)。
 しかるに同年9月6日渡良瀬川大洪水で打撃をうけた被災地では、免租処分によって発生した公民権喪失による町村自治崩壊の救済を求めて、9月26日雲龍寺を出発した被害民約1万人のうち2500名は警察官の警戒網をくぐりぬけて東京府南足立郡淵江村保木間の氷川神社に到達しました(「田中正造日記」明治31年9月27日 本書)。

猫のあしあとー猫の足あとー城東地区の寺社―足立区の寺社―足立区の神社―足立区西保木間の神社―保木間氷川神社

 これを迎えた田中正造は被害民に代表を選んで他は帰郷することを勧め、彼らに以下の約束をしました。それは(1)被害民代表とともに政府に被害の惨状を十分に説明する、(2)現政府は憲政党内閣で吾々の政府であるから信用して、不充分な点があれば助けざるを得ない、(3)もし政府が正造と被害民の代表の説明を聞き入れないならば、議会でその責任を問い、社会にその不法を訴える(島田宗三「前掲書」)。
 かくして被害民の代表50名は上京して内務大臣板垣退助・農商務大臣大石正巳に面会を申し入れましたが、板垣内相は面会を拒絶、大石農商務相は3度目にようやく面会を許諾しました(「田中正造日記」明治31年9月29日〜10月1日 本書)。
 正造が吾々の政府として期待した憲政党内閣は被害民の期待に応えず、4箇月で倒壊、憲政党は旧自由党系の憲政党と旧進歩党系の憲政本党に分裂しました(「大山巌」を読む47参照)。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む20

 1895(明治28)年以来田中正造は胃カタルを起こしてしばしば病床に伏すようになっていましたが、1899(明治32)年秋より正造の関与で同年12月22日鉱毒議会が結成され、栃木・群馬4郡19箇村1070余名で構成されていました。この組織を背景に1900(明治33)年2月9日第14議会において正造は「足尾銅山鉱毒問題の請願に関する質問書」を提出、説明演説しました(「本書」)。
 同年2月13日未明雲龍寺の鐘を合図に被害民は鉱毒悲歌を歌いながら出発、彼らは渡良瀬川を渡り、館林を通過、利根川河畔の川俣に到着しました。
 このとき待ち受けた警官隊・憲兵は永島与八ら15名を逮捕、被害民は解散させられ、さらに後の捜索によるものを合わせると被逮捕者は100余名に上りました(川俣事件「栃木県史」通史編8)。

宮代NOW(GOOな情報)−バックナンバーー2011年05月22日―川俣事件(群馬県明和町)

 同年2月14日正造は同議会において「院議を無視し被害民を毒殺し其請願者を撲殺する儀に付質問書」など2件の質問書を提出、川俣事件を追及(「本書」)、同月15日「政府自ら多年憲法を破毀し、曩(さき)には毒を以てし今は官吏を以てし、以て人民を殺傷せし儀に付質問書」を提出、説明演説中、憲政本党脱党を宣言(「本書」)、2月17日には「亡国に至るを知らざれば之れすなわち亡国の儀に付質問」を提出、説明演説(「本書)、しかしこれに対する政府答弁は「質問の旨趣要領を得ず、依て答弁せず。右及答弁候也」(「政府の答弁書」明治33年2月21日 内閣総理大臣 侯爵 山県有朋 本書)というものでした。
 このような状況の中で島田三郎経営の「毎日新聞」は事件直後記者木下尚江を現地に派遣して報道、苦境にあった田中正造を励ましたのです。このころ正造は毎日新聞社にはじめて木下尚江を訪問、謝辞を述べています。同新聞に連載されたこの記事は後に増補して「足尾鉱毒問題」と題して同社から発行されました(「木下尚江全集」第1巻 教文館)。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―田中正造の関係者―木下尚江
2011-09-25 06:04 | 記事へ | コメント(2) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇27) |
2011年09月15日(木)
木下尚江「田中正造の生涯」を読む1〜10
木下尚江「田中正造の生涯」を読む1

 田中正造は幕府老中水野忠邦が天保の改革を開始した1841(天保12)年11月3日下野国安蘇(あそ)郡小中(こなか)村(栃木県佐野市小中町)で、父富蔵(25歳)、母サキ(22歳)の長男として生まれ、幼名は兼三郎といいました(年譜「田中正造全集」別巻 岩波書店 以下「全集」と略)。

栃木県WEB観光案内所―栃木県:見所・観光―佐野市―田中正造生家

 兼三郎の家は代々小中村六角(ろっかく)家知行所の名主を勤めていました。「正造も四代目の名主の家に生まれたるものヽ、家は村中でヤット中等の財産に過ぎず。」(「回想断片」全集 第1巻 以下@と略)と正造は後に回想しています。
  兼三郎の祖父正造(兼三郎はのちに祖父の名を継ぐ)は激しい気性の人であったらしく、大酒のため35歳で早く死去したため、田中家では男子30歳を越すまでは酒盃を口にしないという家憲がたてられたそうです(木下尚江「田中正造の生涯」伝記叢書83 大空社 以下「本書」と略)。
 兼三郎の父富造(富蔵)は温厚な性格で教育熱心な人物だったようです。兼三郎は7歳ころ赤尾小四郎(鷺洲)に入門しましたが、赤尾鷺洲は「生徒に教うるに厳なり。先ず四書五経唐詩選古文等に至り生徒独り無点本(返り点や送り仮名のない漢籍など)を読むに至るものにあらざれば講議を為さず」という教育方針をとったので「兼三郎の学未だ無点本を独り読むに至らずして少しも講議を授けずして師は死したりき。」(「回想断片」全集@)という結果に終わりました。これは1856(安政3)年で、兼三郎16歳のときのことです。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む2

領主六角越前守は江戸幕府の高家(幕府の儀式・典礼を司る家柄)衆で、下野国に小中村以下7箇村と武蔵国2箇村をあわせて2000石を領有していました(近代「足利市史」第1巻 通史編 足利市)。六角家は京都の烏丸大納言光広の次男木工権頭広賢が1647(正保4)年に輪王寺宮守澄法親王日光山門跡として関東下向の時、江戸に随行して六角家を称したのがその始まりとされています(「寛政重修諸家譜」巻第1401 続群書類従完成会)。

栃木県WEB観光案内所―栃木県の国宝―日光東照宮ー輪王寺

小中村は相給(あいきゅう 複数の大名・旗本によって1村が分割支配されている村)の村で、石高1438石余の中、旗本六角家が1012石余、旗本佐野家が409石余、浄蓮寺が16石余を領有、佐野領では名主石井郡造、六角領では田中正造・篠崎茂左衛門が村政を担当していたのです(由井正臣「田中正造」岩波新書)。当時武家財政は火の車で、領主六角家も破産寸前の状態でしたが、富造は六角家の用人坂田伴右衛門とともに財政整理に努め、やがて負債償却を実現、5000余両の剰余金を生むことに成功しました。  
この功績で1857(安政4)年富造は割元(村々名主等の総取締役)に昇進、苗字帯刀を許され、兼三郎は小中村六角家知行所名主に選ばれました(正誤「全集」@p86)。
 近くに足利(あしかが)・桐生(きりう)の絹織物や真岡(もうか)の綿織物など有名な織物生産地があり、米麦生産を中心とした小中村では商品作物(染料)として藍玉(「雄気堂々」を読む2参照)生産がさかんになりつつありました。兼三郎は藍玉商に力を入れ、3年で300両の大金を手にしたのでした(「田中正造昔話」以下「昔話」と略「全集」@)。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む3

 六角領では割元役は1年交替の各村持ち回りの慣例があり、1857(安政4)年田中兼三郎の父富蔵が割元に任命されたことは、従来の慣例を無視したものでした。またこの申し渡しの際平百姓で村役人になれない小前(こまえ)身分の平塚承貞(大久保村医師)が村役人席についたことおよび村々出金の当座御仕舞金を年度途中までに上納することも申し渡されました。
 こうした従来の慣例無視に小前農民は富蔵割元昇進は認めるが、足利郡の今福・田島・助戸・山川4箇村は従来の慣例通り割元を年番で選出するとして六角家に訴願を提出したのです(由井正臣「前掲書」)。
 1862(文久2)年朝廷は島津久光の建議により勅使大原重徳を江戸に下向させて勅旨を伝え、将軍家茂は幕政改革のため松平慶永を政事総裁職に、一橋慶喜を将軍後見職に任命しました。この新政の一つとして山陵修復が行われ、幕府は宇都宮城主家老戸田忠至(大和守)を山陵奉行に任命(「維新史料綱要」巻4 文久2年10月22日条)、新たに指定された神武天皇陵(畝傍山山陵)の祭典が実施されました。

奈良の名所・遺跡―バックナンバーー2006年11月03日 ミサンザイ古墳「神武天皇陵」

このとき六角越前守は高家として将軍代拝のため大和に赴き、割元富蔵は会計掛として六角越前守に随行したのです(「昔話」「全集」@)。父富蔵が畿内滞在の間田中兼三郎が割元職を代行しました(「回想断片」「全集」@)。
 1862(文久2)年六角家筆頭用人坂田伴右衛門死去により、後任として林三郎兵衛が用人を受け継ぐことになりました。同年林三郎兵衛の主家江戸屋敷普請案は田中富蔵・兼三郎父子の反対によって失敗しましたが、林は翌年上記事情による富蔵不在時に再び江戸屋敷普請計画実現をはかって、村々に2000両の先納金を課してきたのです。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む4

 1863(文久3)年田中兼三郎(同年 大沢清三郎次女 カツと結婚)は領主に上書を提出して林三郎兵衛を糾弾(「昔話」「全集」@)、これに対して林らは兼三郎の名主休役を命じたのでした。1864(元治1)年には領主在京につき、領分村々へ高100石につき3両の割合で御用金を賦課、平塚承貞居住の大久保村のみ例外とする村々分断策がとられました。
 これに対して1867(慶応3)年4月小中・山川・助戸・田島・今福・稲岡の6箇村は別家六角録三郎を通じて平塚承貞罷免を要求するとともに、、林・平塚らの悪業を8箇条に列挙、関係者を召喚して調査を要請する嘆願書を提出、この嘆願書とは別に六角家親族
による本家の家政の乱れを取り締まるよう訴え出ました。よって同年6月長沢内記・日野大学の家臣が調査を開始、11月烏丸家が長沢・日野両家に六角家家政取り締まりを依頼するに至りました。

足利市―歴史・文化・スポーツー歴史―おすすめ情報―三重地区の名所・旧跡―六角家騒動

 しかるに同年10月14日徳川慶喜は大政奉還、12月9日王政復古の大号令、翌1868(慶応4・明治1)年1月3日鳥羽伏見も戦いで徳川軍敗北、同年1月7日明治新政府は慶喜征討令を発し、2月9日有栖川熾仁親王は東征大総督として江戸へ向け進軍、3月11日東山道総督府は領主に不平あるものは訴えでるよう布告(年譜「全集」別巻・「維新史料綱要」巻8 明治元年3月11日条)、4月11日新政府軍は江戸城を接収しました(「天璋院篤姫」を読む18参照)。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む5

 6箇村名主総代助戸村藤吉ならびに山川村藤七郎は六角家問題を東征大総督府に訴え出ました。大総督府内に設置された教諭安民方は六角家問題を調査、同年4月13日夜林三郎兵衛・平塚承貞を逮捕、同月26日大総督府から派遣された役人が六角主税を尋問しました。
これに対して林一派の村役人は大総督府に賄賂を贈った結果、林・平塚は投獄約1箇月で釈放されるに至ったのです。彼らは大総督府に本領安堵の嘆願書を提出、同年5月六角主税は朝臣(新政府の臣下)を認められるとともに本領安堵の裁許状を下附される成功を収めました。

近代日本人の肖像―た・とー田中正造 

 一方田中兼三郎は本家烏丸家に嘆願書を提出して、六角家の旧慣無視と不要土木工事などの収奪を列挙、林三郎兵衛の厳重処分と六角主税の引退を求めました。この嘆願書を入手した林らは兼三郎を捕えて、江戸屋敷内の牢獄に閉じ込め、入牢は約10箇月に及びました(「昔話」「全集」@)。
 その牢獄は「広さ僅かに三尺立方にして、床に穴を穿て大小の便所を兼ねしむるが如き、其窮屈さは能く言語の尽し得べき所にあらず」(「昔話」「全集」@)という状態で、はじめ兼三郎は毒殺を警戒して食事をとらず、同志がひそかに差し入れた鰹節2本を齧って飢えに堪えたそうです。
 兼三郎はかかる状況で林三郎兵衛と対決したのですが、明治新政府役人の吟味の結果、1869(明治2)年初め役人へ遺恨を含み、種々の書類を作成、上書し、領主のことまで誹謗したことは罪軽からず、よって家族ともども領内徘徊を禁じ、他領へ追放という処分が下され、兼三郎はようやく釈放されました。彼は六角家騒動の運動費としての借金1000両を田畑などを処分して少しずつ返済していきました。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む6

 田中兼三郎は出獄後、隣の堀米村の地蔵堂で村民の援助により手習塾を開き生計を立てていました。この年の5月17日戊辰戦争は終了(「維新史料綱要」巻10 明治2年5月17日条)、同年2月小中村は日光県の管轄下におかれる政府直轄地となりました。
 赤尾鷺洲塾の同門で出流山事件に参加したが斬首を免れ、新政府に出仕して府県学校取調局御用掛の職にあった織田龍三郎のすすめで、同年8月兼三郎は留学の目的で東京に赴き、このとき彼は正造と改名しました(「回想断片」「全集」@)(改名は花輪到着時とする「全集」別巻p375)。

例幣使街道の歴史を歩くーW リンクー14.出流山天狗事件

しかし織田はすでに免職となり、正造は勉学どころか織田の生活を助けて苦闘中、同年12月陸中江刺県大属早川信斎が公務上京、正造の様子を見て江刺へ同行するよう勧誘しました。江刺県は同年8月朝敵仙台・南部両藩処分の結果設置され、下閉伊郡遠野町に本庁を、鹿角郡花輪町に分局を置き、栃木県横堀村出身の国府(こくぶ)義胤が大参事として在任中であったので、正造は江刺行を決心、1870(明治3)年2月20日早川とともに東京を出発しました。
 正造は3月3日江刺県役所に到着しましたが、国府大参事はすでに辞職、しかし3月19日付で附属補(下級官吏)に採用、月給8円を支給され、同月22日同県鹿角郡花輪町役所勤務となりました。赴任途中から正造は「食するものなく蕨(わらび)の根を製し食」する現地農民の窮乏生活を目撃、3月26日花輪に着任した正造の任務は救助窮民取り調べでした。同年4月7日聴訟掛兼山林掛となり(「御用雑記公私日記」本書)、「五十敲(たたき)以下の犯罪」の調査裁判、及び主として開墾許可の仕事を担当しました(「奥州花輪より故郷への書翰」本書)。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む7

 花輪分局では分局長が小山少参事でその下僚として木村新八郎大属がいました。小山は下野黒羽藩(勤王藩)、木村大属は旧幕府小普請役出身でしたが、戊辰戦争で朝敵であったこの地域の旧士族は新政府へ反抗的でした。小山少参事は寸陰館(郷校信盛堂再興)に集まる士族良識派を分局の下級役職に採用して彼らとの融和をはかる策をとっておりました。
 ところが1871(明治4)年2月3日夜正造の上司であった木村新八郎大属が殺害される事件が突発したのです。同年6月10日正造は木村新八郎殺害犯人として逮捕されました(正誤p86「全集」@)。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―正造の関係者―木村新八郎

 正造は出張巡回中の弾正台(明治新政府の監察機関)の役人による審問をうけたのですが、その審問とは江戸時代そのままの白州(しらす 罪人を糾問する場所)での拷問をうけ、証拠としては正造の脇差に曇りがあるという程度でした。
 しかも正造にとって不利となったこととは、かれが当時リューマチを病んでおり(「昔話」「全集」@)、身の周りの世話や言葉の通じない不便のため、すでに結婚している身でありながら、地元の15歳の少女を雇い同棲していたことでした。しかもこの少女は木村新八郎殺害当夜、正造と同室していたのに、熟睡していて何も知らないと役人の審問に答えたため、正造の潔白を立証するには不利な証言となったのです。
 弾正台は審問未了のまま秋田に出発したため、正造は入獄中免職となり、花輪から江刺県獄に移され、審問が継続され拷問がつづけられました。この年の冬正造は病死した囚人の衣類をもらいうけてようやく凍死を逃れたということです。同年の廃藩置県によって江刺県は他県に併合されたため、審問は放置されました。翌1872(明治5)年正造の身柄は岩手県盛岡獄に移送され、畳のある部屋に起居して書物の差し入れも自由となりました。
 正造はこのころ、翻訳書を借りて政治・経済の学習に努め、とくにスマイルズ著(中村正直訳)「西国立志編」(明治4年刊行)を熟読(「昔話」「全集」@)、この書は彼の精神的成長におおきな影響を与えました。
 1874(明治7)年4月5日県令から木村新八郎遺子らの証言により、正造の嫌疑ははれ、無罪放免を示達されました。彼は岩手県中属西山高久宅に引き取られて療養、同年5月9日叔父に付き添われて正造は盛岡から小中村に帰着しました(「昔話」「全集」@)。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む8

 1871(明治4)年7月の廃藩置県ののち、同年11月栃木県が設置され(「栃木県史」通史編6 栃木県)、1873(明治6)年小中村などは栃木県第九大区三小区という行政区域に再編されていました。
 1874(明治7)年帰郷した正造の仕事はまず残っていた六角家騒動の運動費にかかわる借金を引き続き返済することでした。獄中正造はウエリントン(1815年 ワーテルローの戦いでナポレオン軍を敗北させたイギリス軍司令官)の伝記[「西国立志編」第九編二十七 ウエリントン、正直にして借財を懼(おそ)るること。第十編十一 ウエリントン、ワシントン(米初代大統領)借債を懼れしこと「講談社学術文庫」527]を読み、同氏が借金を厭っていたことを深く記憶していた影響によるものでしょう。

近代日本人の肖像―人名50音順―な・のー中村正直

 正造の母サキは同年3月9日死去していたので、父庄造(明治2年富蔵改名)に後妻クマを迎え(系図附言 8正造継母クマ 「全集」別巻)、「家政の憲法」(「昔話」「全集」@)を制定して家人にこれを守るよう求めました。その内容とは家内一同借財をわすれないこと、向かう3年間は新しい家財道具を購入しないこと、日曜日には家内一同休息すること、新たな金銭出費については家内一同で相談することなどで、正造へのヨーロッパ思想の影響がよく表れていると思います。彼は家を出て隣村赤見村の造酒業「蛭子(えびす)屋」の番頭となりました。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む9

 蛭子屋の番頭をやめた正造は村に夜学を開いて青年の指導にあたるとともに、1873(明治6)年7月布告された地租改正条例により、全国に逐次実施されつつあった地租改正に関わるようになります。
 栃木県の地租改正は1875(明治8)年11月から着手、翌年から翌々年にかけて改正が実行されましたが、田畑等級や地価決定など農民の地租負担額に関わる点で、政府・県対農民の利害は鋭く対立することが多かったのです。

国税庁―国税庁概要―税務大学校―租税史料―租税史料ライブラリーー地租改正

1876(明治9)年正造は自分の田畑の等級を上げ、村民不満の等級を下げて村の紛争を鎮めたと云っています。
 1877(明治10)年西南戦争が起こると正造は西郷隆盛に同情を寄せたため、区長高田一三ら村の有力者らの疑惑をうけ、夜学への子弟の出席を妨害されて夜学は解散しました(「昔話」「全集」@)。
 西南戦争の軍費調達のための不換紙幣乱発による物価騰貴を見越して正造は土地を買収、これを売却して3000余円の利益を得ると、それを資金に政治活動専念を決意しました。正造は1878(明治11)年には、すでに1874(明治7)年民撰議院設立建白書を左院に提出(「雄気堂々」を読む15参照)した板垣退助訪問を企てたり、政府に国会開設建白を図ったと回想(「昔話」「全集」@)しています。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む10

 1878(明治11)年7月三新法(郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則・内閣官報局「法令全書」明治11年 第11巻 原書房)制定、これによって大区小区制は廃止され、郡・町村が復活、民衆の地方行政参加を認める府県会の開設や戸長(江戸時代の村役人としての性格と政府の代官としての性格をあわせもつ)公選が実施されることになりました。県会議員の被選挙権は地租10円以上を収める満25歳以上の男子で、選挙権は地租5円以上を収める満20歳以上の男子に限られており、栃木県安蘇郡における被選挙権資格者は全人口の2〜3%にすぎませんでした。
 1879(明治12)年3月栃木県会議員選挙に次点で落選しましたが、同年8月「栃木新聞」(「下野新聞」の前身)を再刊、正造は同新聞編集長になり、同年9月「国会を設立するは目下の急務」(二「論稿」一「全集」@)を同新聞に掲載しました。
 1880(明治13)年2月補欠選挙により正造ははじめて栃木県会議員に当選しました(「奇談慢筆」「全集」@)。
 1880(明治13)年2月22日第3回地方官(県令・府知事)会議を傍聴するため府県会議員104名は東京両国の中村楼に集合(田中正造も出席)国会開設問題を討議、同年2月24日37名が出席、その中の多くが国会開設建言(正造ら賛成)を決定、3月2日建言を元老院に提出しました(内藤正中「自由民権運動の研究」歴史学研究叢書 青木書店)。県会議員となった正造はこのようにして全国的自由民権運動に参加していったのです。時期を同じくして自由民権運動は下記のような盛り上がりを見せていました。
 同年3月15日愛国社(1875年土佐の立志社のよびかけで大阪において組織された全国的政治組織)第4回大会が大阪で開催、2府22県から代表が参加、国会期成同盟を結成、片岡健吉・河野広中を提出委員とし、国会開設請願書を提出しました(「自由党史」岩波文庫)。
2011-09-15 05:48 | 記事へ | コメント(0) |
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2011年05月30日(月)
司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む41〜50
司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む41

 午後2時8分バルチック艦隊旗艦スワロフの司令塔にいたロジェストウェンスキーは射撃を命令、スワロフの主砲が三笠に向けて砲撃しましたが、砲弾は三笠を飛び越えて水煙をあげ、バルチック艦隊主力艦は主砲・副砲を発射、その後三笠及び後続艦には命中弾も多かったのですが、連合艦隊は応射しませんでした。
午後2時10分三笠は砲撃を開始、つづく諸艦の砲火はまずバルチック艦隊旗艦スワロフと戦艦オスラーヴィアに集中しました。バルチック艦隊は次第に東方へ変針、連合艦隊の最初の射撃後、スワロフの前部煙突が吹き飛び、2回目の射撃で司令塔内にいたロジェストウェンスキーは額を割られ、顔中血だらけになり、無電装置が破壊、無電技師は戦死しました。5〜6分後飛来した砲弾でロジェストウェンスキーは足を負傷しました。午後2時50分過ぎスワロフは舵機が破壊され、南東方から北方へ転針したかのように見えました。東郷・秋山はバルチック艦隊が南東方へむかう連合艦隊をやりすごして北方へ逃走をはかったと思い込み、連合艦隊に「左八点一斉回頭」(左へ90度回頭せよ)の旗信号を後続艦に指示し、第1戦隊はこれに従いました。

春や昔ーメインコンテンツー「坂の上の雲」と日露戦争ー海戦ー死闘

スワロフの行動を見た2番艦アレクサンドル3世艦長はスワロフが行動の自由を失ったと判断、スワロフの後を追わず、後続艦を南東方へ誘導しました。
 しかし連合艦隊第2戦隊旗艦出雲における参謀佐藤鉄太郎中佐は信号旗が揚がっていない事を理由としてスワロフの行動は舵の故障によると判断、上村司令官の決断で第2戦隊は東郷の指示に従わず、後続艦に「我に続け」の信号旗を掲げ、東南東に向かうバルチック艦隊の先頭艦アレクサンドル3世の前に廻り込むことに成功しました。やがて砲撃戦となり、アレクサンドル3世は浸水により艦は傾斜、戦線を離脱しました。代わってバルチック艦隊先頭艦となったボロジノ艦長は左回頭によって第2戦隊の後ろから北へ転針しました。連合艦隊第2戦隊もボロジノを先頭とするバルチック艦隊を追って北へ転針しました。
 戦艦オスラーヴィアは連合艦隊射撃開始後10分で後部煙突がなくなって2本煙突となり、舷側には無数の穴があき、艦首も破砕されて、午後3時10分ころ艦首を海中に没し、黒煙を残して沈没しました。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む42

 一方スワロフを追っていた連合艦隊第1戦隊はやがてスワロフのみが北上しているので、バルチック艦隊全体が北上するとの判断の誤りに気付き、南東方向にもどってバルチック艦隊を探していたところ、午後3時58分ボロジノを先頭とするバルチック艦隊に遭遇、これを追いかけてくる第2戦隊とバルチック艦隊を挟撃しました。この攻撃によってバルチック艦隊は戦艦ボロジノをはじめとして次第に沈没する艦が増加していったのです。ネボガトフ少将指揮下の第3戦艦戦隊(旧式戦艦4隻)は連合艦隊から黙殺されたため、運よく現場を逃れることができました。
 スワロフ艦内で負傷の手当てを受けていたロジェストウェンスキーは午後5時30分に駆逐艦ブイヌイに移乗しましたが、大破損したブイヌイから再び別の駆逐艦ベドウィに移乗しました。
 やがて日没を迎えたので東郷平八郎司令長官は午後7時28分主力艦への攻撃中止と鬱陵島への集結を命令しました。
 連合艦隊主力艦が鬱陵島へ移動すると、翌日5月28日にかけて駆逐艦と水雷艇が攻撃の主役となって策敵行動を開始しました。スワロフは4隻の日本水雷艇が放った魚雷によって撃沈されたのです。バルチック艦隊の新式戦艦5隻のうち4隻が沈没、戦艦アリヨールのみ逃れることができました。
 5月28日午後4時45分ころ露駆逐艦ベドウィと随行駆逐艦グローズヌイは日本駆逐艦漣(さざなみ)と陽炎(かげろう)に発見され、グローズヌイには逃げられましたが、漣はベドウィを捕獲、同艦に乗り込んだ海軍士官は頭を包帯で蔽った人物を発見、彼がロジェストウェンスキーであることを確認、同月29日このことを巡洋艦明石を通じて旗艦三笠に通報、漣はベドウイを佐世保へ曳航、ロジェストウェンスキーを佐世保海軍病院に入院させました。
5月28日夜明け連合艦隊第5戦隊はネボガトフ指揮下(旗艦ニコライ1世)の第3戦隊を発見、やがて連合艦隊主力も加わって包囲、ネボガトフ艦隊は降伏しました(外山三郎「前掲書」)。

春や昔ーメインコンテンツー「坂の上の雲」と日露戦争ー海戦ー鬱陵島

連合艦隊旗艦三笠と第1、2戦隊は1905(明治38)年5月30日佐世保に帰港しました。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む43

 1905(明治38)年6月1日小村寿太郎外相の訓令により駐米公使高平小五郎は米大統領セオドア・ルーズベルトに日露講和の友誼的斡旋を申し入れました。その文面は米大統領が「直接且全然其一己ノ発意ニ依リ」(外務省編「日本外交文書」第37・38巻別冊 日露戦争X 巌南堂書店)両交戦国を接近させてくれることを希望するものでした。日本政府としては米国の斡旋が日本の依頼によるものであることを秘密にして、米大統領の一存で講和を斡旋するという形式をとってもらいたいということを意味しており、先に講和を申し出た方が交渉において不利になるからです。

歴史が眠る多摩霊園ー著名人頭文字ーたー高平小五郎

 米大統領はこの日本の申し入れを受け入れましたが、日本が賠償金を望まず、樺太の割譲だけに止まるなら、講和の見込みがあると高平公使にくぎを挿すことを忘れませんでした。
 翌日ルーズベルトはロシア駐米大使カシニーと会談、ロシアに講和を勧告するとカシニーはロシアから講和を云いだしたら日本は苛酷な条件を要求する恐れがあるとしながらも、講和への関心を示し、これに対してルーズベルトは、日本が苛酷な条件を要求するとは思えないが若干の領土を割譲し、いくらかの賠償金を払う覚悟は必要であろうと述べました(「小村外交史」)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む44

 同年6月5日米大統領は駐露大使メイヤーに命じてロシア皇帝に、日露講和全権の会合を勧告、この会合をロシア皇帝が受諾するならば、そのことを秘密にして日本の承諾を取りつけるよう努力する旨を伝えさせました。同月7日メイヤーからロシア皇帝が米大統領の勧告を絶対秘密にする条件で受諾したとの電報が届きました。日本海海戦に敗北したロシアは講和を希望しながらも、自分から言い出せないだろうから、ルーズベルトを利用してロシアを講和にひきだそうとする日本政府の作戦が成功したのです。
 6月9日米大統領は正式に日露両国に講和を勧告、日本は6月10日、ロシアは6月12日講和を受諾しました(外務省編「日本外交文書」第37・38巻別冊 日露戦争X)。
 7月3日日本は小村寿太郎外相と高平小五郎駐米公使を全権に、7月14日ロシアは閑職に左遷されていたウイッテとローゼンを全権に任命、講和会議の場所についてはアメリカ側がポーツマス軍港を指定、8月9日海軍工廠の一室で両国全権最初の予備会議が開かれました。

日露戦争特別展Uー日露戦争史ー政治・外交ーポーツマス講和会議開始

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む45

 1905(明治38)年6月30日の閣議は日露講和談判全権委員に対する訓令案を決定しましたが、その内容の要点は 甲 絶対的必要条件 @韓国の自由処分をロシアに承諾させる。A一定の期限内に日露両国は満州から撤兵する。B遼東半島租借権及び哈爾賓(ハルピン)旅順間鉄道を日本に譲渡させる。 乙 比較的必要条件 @軍費賠償金獲得。A薩哈嗹(サハリン 樺太)及び其の附属諸島割譲などを含む4条件などでした(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。1875(明治8)年5月7日樺太・千島交換条約(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)調印により樺太全島はロシアの領有となっていたのです。

北方領土問題―北方領土問題関連史料 入口―サンクトペテルブルグ条約(樺太千島交換条約)(日本語)フランス語 ロシア語  

 この要求実現をめざして同年7月7日第13師団は南樺太に上陸、翌日大泊占領、同月24日北樺太上陸、同月31日ロシア軍は降伏し降伏条件に調印しました(沼田多稼蔵「前掲書」)。
 一方こうした軍事作戦と同時に外交で日露講和会議で要求する日本の国際的地位をあらかじめ英米両国に支持させようとする工作が推し進められていました。
 同年7月27日桂太郎首相はフィリピン視察の途上、来日中の米陸軍長官タフトと会談、その結果桂タフト協定が成立しました(「日本外交年表竝主要文書」上 関係書類焼失により、米国務省文書収録)。その内容は次の通りです。@フィリピンをアメリカが統治することは日本にとっても利益である。Aアメリカは日本が韓国に保護権を確立することを認める。
 つづいて同年8月12日ロンドンで第2回日英同盟協約が調印されました(「日本外交年表竝主要文書」上)。その要点は次の通りです。@両締約国の一方が他国の攻撃を受けたとき、他の締約国は共同戦闘に当たり、講和も双方合意により実行する。A日本は韓国において政事上、軍事上及び経済上卓絶な利益を持っているので、大不列顚国(英国)は日本が指導、監理及び保護の措置を韓国に実行する権利を承認する。B大不列顚国は印度国境の安全に関する特殊利益を持つので、日本は大不列顚国の印度領地を擁護するため必要な措置をとることを承認する。C本協約の有効期限を10年とする。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む46

 このころロシアでは革命情勢が緊迫の度を高めていました。1905(明治38)年6月には戦艦「ポチョムキン」乗組員が艦の指揮をとる反乱が勃発しました(ウォーナー「日露戦争全史」時事通信社)。

歴史研究所―ロシア史―第8回 ロシア帝国の滅亡

 このような情勢を背景として同年8月10日日露講和第1回会議が開催され、日本側の講和条件12カ条を提出、同月12日より逐条審議に入りました。ウイッテは回答書で8カ条を原則的にまたは条件付きで承認しましたが、その具体的内容は日本の韓国保護権、日露両国の満州撤兵と門戸開放、旅順・大連の租借権及び東清鉄道南部支線の日本への譲渡、オホーツク海、ベーリング海沿岸の漁業権を日本人に与えるなどの項目です。他方ウイッテが拒否したのは4カ条で、その内容は樺太割譲、賠償支払い、中立港で抑留されているロシア艦艇の引き渡し、ロシアの極東における海軍力の制限でした(「日本外交文書」第37・38巻別冊 日露戦争X)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む47

 講和会議で最後まで難航したのは賠償金と樺太割譲問題でした。1905(明治38)年8月17日ウイッテはロシア皇帝に交渉の難航を報告、暗に樺太を日本に与えて講和を成立させる方がよいという見解を上申しましたが、皇帝は領土を割譲し、賠償金を支払うことを拒否しました。小村全権もロシア側がポーツマス引き揚げの様子を示して態度を変えなければ、戦争継続するしかないと報告、政府の訓令を求めました。
 しかし8月18日第7回講和会議秘密会でウイッテは樺太南部を日本領、北部をロシア領とする妥協案を示したことに対して、小村は現在樺太全体は日本の占領下にあるのだから、樺太北半をロシアに返還するのなら、代償として12億円をロシアが支払わない限り、日本政府は承認しないだろうと答えました。この案を日本政府は承認、代償12億円は多少下回ってもよいと訓令、8月23日第8回講和会議で小村全権は@北緯50度以南の樺太を日本領、北半をロシア領とする。Aロシアは北樺太返還の代償として12億円を日本に支払うなどを日本政府として正式に提案しました。これに対してウイッテは樺太全部を日本領とすることを承認する代わりに償金を支払わないことで講和成立を希望、同月28日を最終会談とすることを両者は取り決めましたが、もはや会談は決裂したと思っていたのです。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む48

 1905(明治38)年8月26日、ウイッテは9月5日発の欧州行き汽船に乗るためニューヨークのホテル予約を命じ、小村も同日桂首相にポーツマスを引き上げる旨の電報を打ちました。
 桂内閣は8月28日の最終会議を24時間延期するよう小村全権に命令、元老も参加した閣議を招集、8月28日午後8時35分「假令(たとい)償金割地ノ二問題を抛棄スルノ已ムヲ得サルニ至ルモ、此際講和ヲ成立セシムルコトニ議決セリ、然レトモ先ツ償金問題ヲ抛棄シ割地問題ヲ維持スルコトハ談判上従来我ノ執リタル態度ニ照ラシ此際ノ機宜ニ適シタル歩武(わずかの距離)ナリト思考」(外務省編「日本外交文書」)との桂外相訓令が小村全権宛発信されました。この訓令が発せられた直後に、露帝に謁見した米大使からの情報としてイギリス公使からロシア皇帝は樺太南部の割譲を認める気があるとの連絡があり、これも小村全権に報ぜられました。
 8月29日の会議でウイッテは皇帝が樺太南部の日本への譲与に同意したとの覚書を提出、小村全権がロシア側回答を受諾すると回答すると、急いで会議場を出たウイッテは別室の随員に「平和だ、日本は全部譲歩した!」と叫んだそうです(「小村外交史」)。
 同年9月5日日露講和条約(ポーツマス条約)が調印され、@ロシアは日本の韓国保護権を承認。A日露両国の満州撤兵と門戸開放。B旅順・大連の租借権及び東清鉄道南部支線(長春旅順口間)の日本への譲渡。Cロシアは北緯50度以南の樺太を日本に譲与。Dロシアは日本海・オホーツク海・ベーリング海沿岸の漁業権を日本人に許与するなどが主な内容です(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む49

 日本が黄海海戦に勝利した直後、ドイツ人医師ベルツの日記に『著名な雑誌「太陽」七月号に日本がやがて徹底的勝利の後に提示すべき要求事項を表明した、戸水教授(「坂の上の雲」を読む19参照)の一文が掲載されているーすなわち』として6カ条が挙げられていますが、その五にはエニセー河以東の全アジアロシアを日本に割譲すること、その六としてロシアは最低十億円の戦費賠償金を支払うことと記述されています(「ベルツの日記」下 明治37年8月26日付 岩波文庫)。
  日露戦争遂行に必要な国力が限界に達しているのもかかわらず、国民は何も知らされず、勝利のニュースばかり聞かされていた人々は講和会議が開かれる以前から代議士や新聞記者などが中心になって、領土では樺太は勿論のこと沿海州やバイカル湖以東、賠償金は20億円から40億円を要求する大会が各地で開かれていました。
 ポーツマス条約が調印された1905(明治38)年9月5日東京の日比谷公園で講和条約反対の国民大会が開催され、これを解散させようとした警察官と衝突した数万の民衆は首相・内相官邸に押し掛け、国民新聞社など政府系新聞社を破壊、交番などに放火、以後各地で講和反対大会が開かれました。政府は軍隊を出動、翌日東京市及府下5郡に戒厳令を適用して弾圧しなければならない状態でした(新聞集成 「明治編年史」第12巻 財政経済学会)。

日露戦争特別展U−日露戦争史―政治・外交―日比谷焼打事件

 このような人たちはとくに講和会議で賠償金もとれず、譲歩したことを大きな不満として爆発したのでしょう。このように大事なことを国民に知らせない秘密主義は、のちの日本を蝕む要因の一つとなっていくのです。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む50(最終回)

 1916(大正5)年第1次大戦視察を終了して帰国した海軍少将秋山真之は第2艦隊第2水雷戦隊司令官に任命されましたが、このころから体調がすぐれず、日露戦争の作戦指導で全力を傾注した疲労がようやく出てきたかのように見えました。このこととどんな関係があったのでしょうか、秋山は当時急速に教勢を拡大しつつあった大本(おおもと)教に帰依しました。大本教発祥の地京都府綾部は軍港舞鶴に近いこともあってか海軍出身者との関係が深かったのです。

春や昔ーメインコンテンツー「坂の上の雲」の主人公たちー智謀如湧 秋山真之―年表、写真集、逸話集―真之と大本教    

 第2水雷戦隊司令官を7カ月余で退いた秋山は翌年7月海軍将官会議議員という閑職に任命されましたが、しばしば激しい腹痛がおこって艦上勤務に堪えられなくなったからです。
 もはや秋山の命が長くないと察せられ、同年12月1日海軍中将に昇進しましたが、同日予備役に退く予定の待命となりました。小田原の山下亀三郎別邸で療養中1917(大正7)年2月4日死去しました(桜井真清「秋山真之」秋山真之会)。
 秋山好古が内地に凱旋したのは1906(明治39)年2月9日で、騎兵第1旅団の千葉県習志野の兵舎に到着しました。
 好古は1916(大正5)年陸軍大将となり、1923(大正12)年予備役に編入、翌年北予中学校長に就任、1930(昭和5)年同中学校長辞任、上京後発病、陸軍軍医学校に入院、同年11月4日死去しました(秋山好古大将伝記刊行会編集・発行「秋山好古」)。

坂の上の雲マニアックスーゆかりの地―秋山好古の墓ー秋山真之の墓  
2011-05-30 08:02 | 記事へ | コメント(7) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇25) |
2011年05月20日(金)
司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む31〜40
司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む31

 その後何度か石炭を積み込みながら、アフリカ西岸を南下し、喜望峰及びアグラス岬の灯台を回って艦隊はインド洋に入り、1905(明治38)年1月9日マダガスカル島のノシベに入港しました。ノシベ港にはすでにフェリケルザム支隊が到着して艦隊主力の来航を待っていました。ロジェストウェンスキーはここで旅順陥落の情報を入手しただけでなく、本国で血の日曜日事件が勃発、首都ペテルブルクが騒乱状態に陥っているという噂も聞いたのです(ポリトゥスキイ著 長村玄訳「リバウからツシマへ」文生書院・ノビコフ・プリボイ「前掲書」)。

大連紀行―日清・日露戦争―日露戦争―バルチック艦隊航行図    

Fabrik―最近のコメントー2010-01-22 TAMO2−血の日曜日事件

 バルチック艦隊はこのノシベで2カ月停泊しました。その理由の一つは石炭問題にありました。バルチック艦隊に供給する石炭は無煙炭とすることを、ロシア政府はドイツのハンブルク・アメリカン会社と契約していましたが、同会社はイギリスの妨害で艦隊への石炭供給を拒否、ロシア政府は同会社を契約違反と批判し、交渉の結果ドイツ汽船は艦隊と同航するが、日本艦隊に出会ったときは降伏すると主張しました。他の理由はロシア政府がバルチック艦隊を増強してさらに一艦隊を追加し、ネボガトフ少将指揮の第3太平洋艦隊を編成するために、老朽軍艦をかき集めていました。ロジェストウェンスキー提督はこれに反対する電報を本国政府に打ったのですが、彼の意見は聞き入れられませんでした(外山三郎「日露海戦史の研究」教育出版センター)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む32

 明石元二郎は筑前福岡藩の明石助九郎の子として1864(元治1)年に生まれ、藩校修猷館を経て1883(明治16)年陸軍士官学校卒業、1889(明治22)年陸軍大学校卒業、フランス公使館付を経て、1902(明治35)年ロシア公使館付陸軍武官に転任しました(小森徳治「明石元二郎」上 明治百年史叢書 原書房)。

近代日本人の肖像―あ・おー明石元二郎 

 寺内正毅陸相の決断で陸軍省からその工作資金として100万円を送らせたそうです(長岡外史文書研究会編「長岡外史関係文書」回顧録篇 吉川弘文館)。当時の国家予算が2億3000万円程度であったことを考えると明石に支出された100万円がいかに多額であったかがわかります。
 日露開戦とともにペテルブルグ日本公使館はスウェーデンのストックホルムに移転しました。栗野慎一郎駐露公使一行がストックホルム駅に到着するとロシアと開戦した日本歓迎の人々がホームに集まっており、偶然離宮に赴く途中のスウェーデン国王と駅で栗野公使が握手したとき、明石元二郎も国王に紹介されました。
 明石はストックホルムでロシアに独立を奪われたフィンランド憲法党のカストレンに面会を申し入れましたが断られました。しかし彼の定宿ホテルを訪ねてきたフィンランド独立運動指導者コンニー・シリヤクスを通じてカストレンに会うことができ、他の地下運動指導者とも知り合いになることができたのです。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む33

 1904(明治37)年明石はストックホルムからロンドンに移りました。やがて同年10月1日シリヤクス主催の反露諸派の合同会議がパリで開催され、明石も出席しました。会議は共同の目的をツアーリズム(ロシア皇帝の専制政治体制)打倒にあるとし、ツアーリズム打倒のために、各党派はもっとも得意とする方法をとることで合意しました。この会議以後ポーランドでは主要都市でゼネストが起き、11月から12月にかけてロシア本国でもモスクワ、キエフ、オデッサなどで学生や労働者のデモが頻発、このような情勢の中で1905(明治38)年1月22日血の日曜日事件が起こったのです。
 明石はこの流血事件をストックホルムの宿で聞いた後パリへ向かいました。シリヤクスらの企画と要請により、明石がスイスで買い付けた兵器弾薬はバルチック方面向け小銃16000挺・弾丸300万発、黒海方面向け小銃8500挺・小銃弾120万発で、彼はこれをシリヤクスらに渡すための秘密輸送に苦心しましたが、これがロシアの革命派の手に渡ったのは日露戦争終了後でした(小森徳治「明石元二郎」上 原書房)。
 「風采といひ、顔付といひ、アノ変な男が、敵国たる露西亜の内部を撹乱して、夫婦喧嘩をさせるといふ手際には、私も始めて吃驚(びっく)りしたのだ。(中略)欧羅巴から帰ると、先づ真直に参謀本部へ来て、二十何万円かの残金を返す時も、『百留の紙幣を吹き飛ばしたから、少し足らなくなるが、大体は之れで計算が合ふつもり』といって、其受取書や使ひ途などを、スッかり持って来て差出した。此等の残金などは参謀本部でも当てにはしては居なかった。」(「陸軍中将長岡外史氏追懐談」小森徳治「明石元二郎」下 原書房)
 のちに上原勇作が明石を山県有朋の許に連れて行ったとき、季節は厳寒時で風邪をひいていた山県は足を真綿でつつみ、そばにストーブを置いていました。そのストーブ越しに明石は小便をもらしているのに気付かず話に熱中し、山県の足を濡らしたそうです(「元帥上原勇作男追懐談」小森徳治「明石元二郎」下 原書房)。この話は誇張されている可能性がつよいのですが、明石の一側面を知る挿話として紹介します。

近代日本人の肖像―あ・おー上原勇作 

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む34

 1905(明治38)年1月12日大本営は第3軍の再編と鴨緑江軍の新編成を決定しました。それは第3軍から第11師団を引き抜き、これに後備第1師団を追加して鴨緑江軍とし、韓国西北部を防衛、できれば満州ロシア軍主力の左翼に進出させ、将来ウラジオ攻撃作戦に投入することも考えていましたが、満州軍総司令部はこれに反対、奉天付近と予想される両軍主力決戦に集中させるべきと主張、結局できるだけ早く撫順方面に進出して奉天会戦に参加させることになりました。第3軍も旅順から満州軍左翼へ向け北進していったのです(古屋哲夫「日露戦争」中公新書)。

第一次大戦―日露戦争―奉天会戦  

 黒溝台の戦い(「坂の上の雲」を読む24参照)の後、1905(明治38)年2月20日大山巌満州軍総司令官は各軍司令官を集め、次のように訓示しました。この大作戦の主目的は出来るだけ多くの損害を敵に与えて、再起できないようにすることで、土地や陣地を奪うことではない。また弾丸の製造能力から豊富な予備弾をもつことはできないから、1発たりとも無駄な弾丸を撃たないようにとの注意も与えました。
 総司令部作戦はまず鴨緑江軍を最右翼として前進させ、この間に第3軍を左翼から北進させてロシア軍を包囲しようという計画でした。第2軍の秋山支隊はこの作戦の途中で3月2日臨時に第3軍司令官乃木希典の指揮下にはいることになります。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む35

 同年3月1日日本軍は奉天に向かって総攻撃を開始、攻撃は思うように進展せず、第3軍の迂回北進のみ順調に進みましたが、孤立するおそれがあり、第2軍左翼と連携して奉天西側面に向かって包囲網を絞る方針に変えました。3月7日総司令部から第3軍の行動が遅いとの指示を受けると、温厚な性格の乃木希典軍司令官も怒って軍司令部を急に前進させたため、軍司令部が銃弾の飛び交う前線に突出するという事態に至りました(谷寿夫「機密日露戦史」原書房)。
 ところがこの日ロシア軍は退却を開始しました。鴨緑江軍と第1軍は3月8日から追撃、例えばロシア軍総退却を目撃した第1軍前衛の歩兵中尉多門二郎はその様子を次のように述べています。夜明けとともに朝食をとるため六家子という部落で大休止、炊事担当の兵士以外他の兵は寒気の中で疲労して死人のように眠りこんでいました。
 多門中尉はやや高所に上って前方の渾河左岸を見ると、「雲霞の如き大軍」と形容するほかないほどのロシアの大軍が地を覆ってうごき、その動きは地平のはてまで続いていました。
このとき多門中尉は追撃というような考えは瞬時も浮かびませんでした。それよりも動物的恐怖心―もしこの大軍が逆にわが方にむかって逆襲してくれば日本軍はどうなるのかーということだけが、全身をとらえつくしていました(多門二郎「予ガ参加シタル日露戦役」後篇 兵事雑誌社)。
第2・第3軍が展開する左翼では、ロシア軍は退路を確保するために反撃しましたが、3月10日第2・第4軍は奉天付近を占領、第1・第3軍は左右から鉄道線路に近付き、第3軍からは30分ごとにロシア兵を満載して列車が北上するのが目撃されましたがどうすることもできませんでした。
 3月16日日本軍は鉄嶺を占領しましたが、ここで追撃を打ち切りました。奉天会戦は日露戦争最大の会戦でしたが、日本の戦争能力は限界に達し、外交交渉による早急の講和が緊急の課題として浮上してきたのです(旧参謀本部編 桑田忠親・山岡荘八監修「日露戦争」徳間書店)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む36

 日本がアメリカの日露戦争調停を期待して特使金子堅太郎を派遣したことは既に述べた通りです(「坂の上の雲」を読む16参照)。1905(明治38)年1月15日米大統領セオドア・ルーズベルトは駐米公使高平小五郎に対して講和条件に関する次のような見解を伝えました。戦後日本は旅順を領有し、韓国を勢力範囲に入れる権利がある。しかし満州は清国に返還、列国保障のもとに中立地域にすべきである。私はこの見解を書面にしてイギリス・フランス・イタリア3国に送ったと(外務省編「小村外交史」原書房)。

クリック20世紀―人物ファイル一覧―ラーセオドア ルーズベルト

米大統領は日露戦争について、イギリスに旅行中のロッジ上院外交委員長に次のような書翰を送っています。「露国の勝利は文明に対する一打撃であると同時に、東亜の一国としての露国の破滅も予の所見にては均しく不幸であろう。日露相対峙し互いに牽制して、その行動の緩和を相計るというのが最善である。」(1905年6月16日付書簡 外務省編「小村外交史」原書房) つまりルーズベルトはロシアの満州支配に反対するために日本を支持したのですが、日本がロシアに代わって満州を支配することにも反対であったのです。
同年1月22日外相小村寿太郎は高平公使に対して、次のような講和問題に関する日本政府の見解を米大統領に伝えるよう訓令、高平公使は同年1月25日日本政府見解を申し入れました。即ち@韓国の保護権を日本が掌握する。A満州について日露両国ともすみやかに撤兵し清国に返還することが必要で、満州将来の行政は改革と善政の保障を条件として清国に行わせる方が国際的中立化より優れている。B遼東半島租借権をロシアから譲り受ける権利がある。C一時の休戦に止まるような条件では講和できないなどの4項目でした(「平和克復後に於ける満韓、旅順に関する我政府の意思竝びに希望の件」外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。 
 同年2月8日米大統領はフランス大統領を介して講和勧告をロシア皇帝に送ってくれるよう依頼したのですが、ロシア皇帝はバルチック艦隊と満州における数十万の大軍を頼み、講和勧告を拒絶しました(「小村外交史」)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む37

 1905(明治38)年3月16日バルチック艦隊はようやくマダガスカル島ノシベを出港、インド洋を東進してマラッカ海峡を通り、4月8日シンガポール沖に到達しました。同年4月13日南ベトナム(フランス領)カムラン湾付近で艦隊は停止、石炭積み込みを開始しました。翌日カムラン湾内に入り、ここで種々の物資を補給するとともにネボガトフ少将指揮下の第3太平洋艦隊の到着をここで待っていたのです。

記念館「三笠」−「三笠」艦内展示―中央展示室―バルチック艦隊

ところが中立の立場をとるフランスはバルチック艦隊のカムラン湾退去を要求、艦隊は4月22日カムラン湾を去り、同月26日北方のヴァン・フォン湾(フランス領)に入り、また追い立てられて外洋に去るという行動をとり、艦隊乗組員の信頼感を低下させました。
 ネボガトフ艦隊は同年2月15日リバウを出港、地中海からスエズ運河を経て紅海を経由、インド洋を横断して5月4日明けがたシンガポール付近に達したとき、旅順艦隊所属で旅順陥落後捕虜となり、本国送還中のロシア水兵が汽艇でネボガトフ艦隊に接近、シンガポール駐在ロシア領事から聞いた情報―ロジェストウェンスキー艦隊はカムラン湾かヴァン・フォン湾にいるーをネボガトフに伝えました。5月9日正午過ぎネボガトフ艦隊はロジェストウェンスキー艦隊旗艦スワロフとの交信に成功、同日午後4時両艦隊は接触することができたのです。同年5月14日朝バルチック艦隊はヴァン・フォン湾を出港しました(ポリトゥスキイ・ノビコフ・プリボイ「前掲書」)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む38

 203高地が陥落し旅順艦隊が壊滅すると、伊東祐亨軍令部長の命令で東郷平八郎連合艦隊司令長官は第2艦隊司令長官上村彦之丞を伴って上京、1904(明治37)年12月30日伊東軍令部長・山本権兵衛海相は東郷平八郎・上村彦之丞らと海軍最高首脳会議を開き、バルチック艦隊行動の推論にもとづき、日本海軍の配置について検討、まず全力を朝鮮海峡に置き、以って敵の第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)の行動を監視、機に応じて動作することを決定(「明治三十七八年海戦史」)、艦隊を鎮海湾に集結することになりました。
 海軍最高首脳会議の決定にもとづき、連合艦隊参謀長加藤友三郎は先任参謀秋山真之に作戦計画の策定を任せ、1905(明治38)年4月12日連合艦隊司令長官東郷平八郎の名で連合艦隊の詳細な戦策が提示されました(「極秘 明治三十七八年海戦史」田中宏巳「秋山真之」吉川弘文館 引用)。具体的には七段構えの戦法とよばれるものです。

記念館「三笠」−エピソードー参謀秋山真之による「七段構えの戦法」

七段構えの戦法で採用された連携水雷は黄海海戦時、日本駆逐艦が露旅順艦隊の針路を通過したとき、石炭叺(かます)を海に投棄すると、機雷敷設と誤認した露艦が針路変更したことをもとにして作戦が計画されました。これはバルチック艦隊の針路に9連群36個の連携水雷[数キロに及ぶ長大なロープの100m間隔に水雷をつなぎ水面下に漂わせる。 海軍軍令部「極秘明治三十七八年海戦史」(防衛省防衛研究所図書館蔵書)]を投下、同艦隊を変針させて丁字戦法にもちこむ作戦だったのです。

Z旗―水軍―日本海戦史―近代―日本海海戦    

 同年5月14日ヴァン・フォン湾を出港し、東シナ海に入ったバルチック艦隊はその後行方不明となり、日本側は津軽海峡へ向かったのではないかとの見方が強くなりました。連合艦隊司令部は「相当の時期までに当方面に敵影を見ざれば、当隊は明夕刻より北海方面に移動す」と軍令部に打電しました。5月25日東郷は旗艦「三笠」に各司令官と参謀長を招集、午後3時津軽海峡に向けて移動することを決定しかけた時、遅れて会議に参加した第2艦隊参謀長藤井較一が移動に反対、第2艦隊第2戦隊司令官島村速雄(連合艦隊前参謀長)も藤井の意見に同意、同月26日正午まで移動を延期しました。その期限直前バルチック艦隊の一部が清国呉淞(ウースン 上海の外港)に入港したという情報がはいり、移動中止となりました(田中宏巳「秋山真之」吉川弘文館)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む39

1905(明治38)年5月27日午前2時45分仮装巡洋艦(哨戒艦)信濃丸艦長成川揆は左舷の闇の中に浮かび上がった燈火を見ていました。午前4時30分ころ、艦長は艦を燈火近くに接近させて備砲をもたない病院船であると推定、やがて夜が白みはじめると信濃丸は無数の軍艦(バルチック艦隊)の真っただ中にいることがわかったのです。信濃丸はバルチック艦隊群を脱出するために転舵しつつ、「敵の艦隊二〇三地点(長崎県五島列島西方白瀬岩礁付近)に見ゆ。時に午前四時四十五分」と繰り返し暗号で打電、さらに午前四時五十分「敵航路東北東、対馬東水道に向かうものの如し」との電文が対馬に停泊中の第三艦隊旗艦厳島を中継して午前5時5分鎮海湾に待機していた連合艦隊旗艦「三笠」に入電しました。信濃丸にもっとも近い位置にあった3等巡洋艦和泉も信濃丸の第1報を受信すると周辺の海を駆け巡り、約2時間後の午前6時45分バルチック艦隊を発見、同艦隊の勢力、陣形、針路などを詳細に報告しました(外山三郎「日露海戦史の研究」下 教育出版センター)。

春や昔ーメインコンテンツー「坂の上の雲」と日露戦争ー海戦ー敵艦見ゆ

東郷平八郎連合艦隊司令長官は艦隊に出動を命令し、次の有名な電文が大本営に打電されました。「敵艦見ユトノ警報ニ接シ連合艦隊ハ直(ただち)ニ出動之ヲ撃(沈)滅セントス本日天気(候)晴朗ナレトモ波高シ」(「明治三十七八年海戦史」)(水野広徳「此一戦」国書刊行会)この電文は諸書によって若干の相違があります。
この電文で「天気晴朗」以下がもともと用意されていた電文に秋山真之が追加したものとされています。司馬遼太郎氏はこの小説で、この追加文は砲撃能力において日本が露艦隊よりはるかに優れており、波高しという状況はきわめて我が方に有利であることをこの一句で象徴したのであると東京の軍令部は理解したと云っています。
 ところが上記連携水雷作戦は静かな海面でないとできず、「波高し」とは同作戦が「変更やむなしの事態もある」ことを大本営に事前通知したとの戸高一成説(「日本海海戦に丁字戦法はなかった」中央公論 平成3年6月号)が「極秘明治三十七八年海戦史」の公開とともに有力となり、司馬遼太郎氏は同書を読んでいない(読むことができなかったのでしょう)との指摘がなされています(木村勲「日本海海戦とメディアー秋山真之神話批判―講談社選書メチエ」)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む40

同日午後1時39分連合艦隊は対馬東水道で北東に向かう2列縦陣のバルチック艦隊を発見しました。
つづいて司馬遼太郎氏は『旗艦「三笠」最上艦橋には司令長官東郷平八郎と参謀長加藤友三郎、参謀秋山真之が立ち、その外砲術長安保清種少佐と測距儀操作長谷川清少尉などが残り、他の幕僚たちは一段下の装甲で覆われた司令塔に入った。
どういう陣形で戦うのか、東郷も加藤も明示しなかったため、砲術長がたまりかねて「もはや8000m」と叫ぶと、彼の眼前で背を見せていた東郷の右手が高く上がり、、左へ向かって半円を描くように一転、参謀長は「艦長取舵一杯」と叫び、三笠は艦首を左へ急転した。有名な敵前回頭がはじまったのである。日本の海軍用語でいうところの「丁字戦法」を東郷はとった。』(概略)と述べています。

明治という国家―Categories―秋山真之―戦艦「三笠」―「三笠艦橋の図」の真実(2006年9月4日)

しかるに三笠艦橋の司令塔内部では戦術をめぐる対立が起こっていました。「反航(すれちがい)戦にするか同航(並行)戦にするかとの議論が艦橋において起こるに至った。こんなに接近して未だ射撃準備も出来上がらないのに、同航戦をするため針路を転ずるときは多大の損害を受けるから、一時反航戦をして好機会を待つにしかずという論と、そんな事をすれば敵を逸する恐れがあり、なんでも同航戦をして雌雄を決すべしとの論が起こった」(田中宏巳「秋山真之」吉川弘文館)
 よって次のような批評がでてくることになります『同文中(松村談話速記)の「取舵に大角度の転針」が、後世「敵前大回頭」として有名になった。しかし転針は迷いに迷った末の決定であり、東郷英雄伝説に描かれる格好のよいものではない。』(田中宏巳「前掲書」)。
2011-05-20 08:16 | 記事へ | コメント(0) |
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2011年05月10日(火)
司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む21〜30
司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む21

 これに対して同年3月27日社説「嗚呼増税」を掲げた同新聞は発禁処分を受けましたが、平民新聞は引き続き発行され、同年7月24日(第三十七号)には「与露国社会党書」への「イスクラ(火花)」(ロシア社会民主労働党機関紙)の応答が「露国社会党より」として平民新聞に掲載されました。
 同年8月14日片山潜はアムステルダムで開催された第2インターナショナル大会に出席、同大会は片山潜と露国代表プレハーノフを副会長(副議長)に選出、両者は握手して満堂の拍手喝采数分に及んだそうです(「万国社会党大会報告」片山潜自伝 岩波書店)。

法政大学大原社会問題研究所―大原デジタルライブラリーー大原クロニカー「社会労働運動大年表」解説編―1889.7.14−第2インターナショナル

クリック20世紀―人物ファイルーカー片山潜 

 週刊「平民新聞」は当局の弾圧により次第に経営困難となり、1905(明治38)年1月29日第64号で廃刊、加藤時次郎ら発行の「直言」をもって「平民社」機関紙とする了解のもと、同年2月5日から再出発しました。しかしこうした我国における反戦平和運動は深く国民の中に浸透するに至りませんでした。
 1904(明治37)年9月与謝野晶子の「君死に給ふこと勿れ」が「明星」に発表され、大町桂月らとの間に、この詩をめぐって議論が展開されたことは有名です。また翌年1月出征した夫をおもう妻の切ない心を詠った大塚楠緒(くすお)子「お百度詣」が「太陽」に掲載されたことも記憶されるべき事柄です。

近代日本人の肖像ー人名50音順ーよ・わー与謝野晶子

宮古万華鏡―サイト内検索―「君死にたまふこと勿れ」とその周辺―お百度詣 大塚楠緒子

青空文庫―公開中 作家別―は行―10.長谷川時雨―11.大塚楠緒子―いますぐXHTML版で読む    

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む22

 極東に展開するロシア艦隊は主力が旅順(旅順艦隊)、支隊がウラジオストック(ウラジオ艦隊)を根拠地としていました。
 1904(明治37)年2月3日早朝旅順艦隊の動きが活発となり、午前10時までに「レトヴィーザン」「ペテロパーヴロヴェスタ」「ポルターワ」などの主力艦が出港行方不明となりました。同年2月6日連合艦隊は旅順及び仁川の露艦隊攻撃と韓国首都漢城を占領する陸軍部隊の上陸支援を任務とし佐世保を出港、2月8〜9日仁川、つづいて旅順港外の露艦隊を攻撃、ところが旅順艦隊は大連湾口に停泊しており、同艦隊は損傷をうけ湾内に潜み旅順港外に出てこなくなりました。2月9日には仁川の露軍艦2隻を撃破しました(海軍軍令部編「明治三十七八年海戦史」東京水交社)。
 出口がせまく要塞砲で守られている旅順艦隊に有効な打撃を与えることは困難で、旅順港内に封じこめるために、港の出口に闇夜を利用して汽船を爆破して沈め、水雷艇に乗り移って帰ってくる「旅順口閉塞作戦」が3回にわたって実施されましたが、十分な成果を収めることはできませんでした。同年3月27日に行われた第2回作戦で行方不明の部下杉野孫七上等兵曹を探して戦死した広瀬武夫(島田謹二「ロシアにおける広瀬武夫」朝日選書)海軍少佐(死後中佐)が戦死、戦争美談となったのもこのときのことです。こののち連合艦隊先任参謀は有馬良橘から秋山真之に交代しました。

坂の上の雲マニアックスーContents Navi―人物・用語辞典―ひー広瀬武夫―全文を表示―「広瀬武夫」をもっと詳しく見る  

大連紀行―日清・日露戦争―日露戦争―年表―第1回旅順口閉塞作戦    

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む23

 第1軍(軍司令官 黒木為髑蜿ォ)の主力は同年3月15日鎮南浦に上陸、5月1日鴨緑江を渡河して九連城を占領、5月10日鳳凰城に進出、遼陽に向けて前進するための補給を待ちました(旧参謀本部編 桑田忠親・山岡荘八監修「日露戦争」徳間書店)。
第1軍の陸軍中尉多門二郎は同年5月1日朝鮮の対岸虎山の西の河原で戦死者をはじめて見ました。偵察に出た兵が撃たれたのです。初陣の多門は中学生のころ東京三宅坂の堀からひきあげられる土左衛門をみて以来のことで「大に心持が変になった」が、「こんなことではいかん」と思いかえしつつ、兵士の手前、平気な顔をして、「御同様、こんなになるんだぜ」と中隊の兵に小声でかたりかけたりしました。仙台歩兵第四連隊の小隊長であった彼は、のろいにぶいといわれる東北兵をひきいて、近衛兵や九州兵におくれをとるまいと決心していたのです(多門二郎「予が参加したる日露戦役」「現代日本記録全集」第6 橋川文三編 日清・日露の戦役 筑摩書房)。
第2軍(軍司令官 奥保鞏大将)は5月5日遼東半島南岸(塩大澳付近)に上陸、秋山好古少将は騎兵第1旅団長として第2軍に所属しました。第2軍は南下して遼東半島の中でもっとも幅が狭い金州付近を占領し、旅順を孤立させる作戦を命ぜられていました。5月26日第2軍は南山を攻撃、第2軍は機関砲(銃)使用に習熟せず(大江志乃夫「日露戦争の軍事史的研究」第1章二−2 岩波書店)、歩兵攻撃中心の日本軍は苦戦の末南山を攻略、5月29日には大連を占領しました。

近代日本人の肖像ー人名50音順ーあ・おー奥保鞏―か・こ―黒木為

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む24

同年4月30日ロシアはバルチック艦隊による増援を決定(田中宏巳「秋山真之」吉川弘文館)、この情報を得て、バルチック艦隊が極東に到着するまでに、旅順を陥落させようと、5月31日大本営は旅順攻撃のため第3軍(軍司令官 乃木希典大将)を編成、第2軍を遼陽に向け前進させることを決定しました。6月20日満州軍総司令部(総司令官 大山巌・総参謀長 児玉源太郎)を設置、総司令部は戦局の推移とともに移動、参謀総長には山県有朋が任命されました(谷寿夫「機密日露戦史」原書房)。
この人事についてははじめ山県有朋が満州軍総司令官を自薦しましたが、すでに総参謀長に内定していた児玉源太郎は部下に能力を発揮させる雅量のない山県を嫌い、雅量のある大山巌の総司令官就任をつよく希望しました。しかし桂首相・陸相寺内正毅らは同じ長州閥で陸軍の巨頭山県に遠慮、児玉の要請を斡旋しようとしないので、児玉は明治天皇を動かし勅命で大山総司令官任命を実現したのです。
大山が明治天皇に拝謁すると天皇は「山県もいいのだが、こまかいことまで口出しするので、諸将がよろこばぬようだ、そこへゆくとお前はうるさくなくていいということでお前に決まった」と云ったので、大山は笑いだし「すると、この大山はボンヤリしているから総司令官にちょうどよいというわけでございますか」と答えたそうです(生出寿「知将児玉源太郎」光人社)。
また5月19日渤海湾の大孤山に上陸した独立第10師団を拡大して6月30日第4軍(軍司令官 野津道貫大将)が編成されました(沼田多稼蔵「日露陸戦新史」岩波新書)。

近代日本人の肖像ー人名50音順ーな・のー乃木希典―野津道貫

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む25

 1904(明治37)年4月25日ウラジオ艦隊は軍隊輸送中の金州丸を元山沖で、同年6月15日対馬海峡で陸軍運送船常陸丸・和泉丸を、7月20日津軽海峡を通過して太平洋岸で汽船・帆船など5隻を撃沈しました(「明治三十七八年海戦史」)。
 このようなウラジオ艦隊の活動を見て旅順艦隊はウラジオ艦隊への合流を目的に同年8月10日旗艦ツエザレウイッチ以下17隻が旅順港を出港、黄海で連合艦隊と交戦、旗艦ツエザレウイッチ砲塔が撃破され司令長官や操舵手らが戦死したため、旅順艦隊は大混乱に陥り、主力は再び旅順に敗走しましたが、他の戦艦などが膠州湾・上海・サイゴンで武装解除となりました(黄海海戦)。なお8月14日には第2艦隊(司令長官 上村彦之丞)は蔚山沖でウラジオ艦隊と交戦1隻撃沈、2隻を撃破しました(「明治三十七八年海戦史」)。
 同年8月19日第3軍(参謀長 伊地知幸介)による旅順第1回総攻撃が実施されましたが、同月24日までに日本軍死傷者は15800名という犠牲者を出し失敗に終わりました(沼田多稼蔵「前掲書」)。
 8月25日夜半第2・4軍(第1軍は別働隊)は遼陽に向かって前進、第2軍所属秋山好古指揮の支隊(騎兵及び歩砲工兵を含む)は日本軍主力の左翼に位置し、ミシチェンコ指揮下のコサック騎兵集団の横撃を防ぐ任務を与えられていました。同月27日豪雨の中を奥軍は鞍山站を攻撃しましたが、ロシア軍主力は首山堡に退却しており、同月30日未明から首山堡攻撃を開始、秋山支隊は応援に派遣されたバイカルコサック騎兵砲第2中隊と死闘、同月31日橘中佐は大隊を率いて突撃の末戦死、翌日の首山堡占領に貢献、海の広瀬武夫中佐とならんで軍神扱いをうけました。別働隊の黒木軍は日本軍右翼から8月24日行動を開始、同月30〜31日太子河を渡河してロシア軍を攻撃、9月2日饅頭山を占領、クロパトキンは奉天まで退却を決意、日本軍は9月4日遼陽を占領しました(遼陽の会戦)(旧参謀本部編「日露戦争」徳間書店)。

第一次大戦―日露戦争―遼陽会戦  

 茂沢祐作(第1軍第2師団歩兵第16連隊所属上等兵)は遼陽の会戦を次のように述べています。
 「敵の砲撃はますます猛烈を極め、落下する砲弾は実に寸土も余さざるごとくなりし。(中略)午後に至って吾々の弾薬補充の道は絶え、ために大いに節約を要し砲兵もまったく沈黙の姿となり、有利の目的を見逃せしこと一再ならず。」(9月2日)「昨晩のごとき爆裂弾を携えてこれを投じつつ吾らが散兵線(散開した戦闘隊形)に飛び込んできた露兵は、身に絨袴(ズボン)と長靴を履きたるほか裸体にて、一つの武器だも携えることなく進んできたには驚いた。」(9月3日)(茂沢祐作「ある歩兵の日露戦争従軍日記」草思社)
 遼陽会戦が終了してから、日本軍の将兵には、これで戦争は終わりだ、ヤレヤレという気が満ちており、「兵士は『進軍喇叭は冥土の鐘なり』といい、『旅順に進むものは意気銷沈し、北進軍に従軍するものは昂る。』等の言を弄するもの生じ、寒心に堪えざるものあり」(谷寿夫「機密日露戦史」原書房)と述べられています。
 クロパトキンの遼陽退却に対する批判が高まり、グリッペンベルク大将が彼と同格で第2軍司令官に任命されて満州に派遣されることになりました。この動きに対抗するためクロパトキンはロシア政府に工作するとともに、攻勢にでたのが沙河会戦です(ウォーナー「日露戦争全史」時事通信社)。
10月10日日本軍は沙河付近でロシア軍主力を攻撃しましたが、同月20日には弾薬不足のため攻撃中止、沙河をはさんで両軍は対峙しました。11月の満州は冬季にはいり、両軍の戦線は膠着状態が続きました(旧参謀本部編「日露戦争」徳間書店)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む26

日露開戦後の1904(明治37)年2月23日日韓議定書が調印され、@日本政府は韓国皇室の安全並びに韓国の独立と領土保全を確実に保証する。A第三国(ロシア)の侵害もしくは内乱により韓国皇室の安寧あるいは領土の保全に危険がある場合、日本政府は臨機必要の措置をとる。韓国政府は日本政府の行動を容易ならしめるため、十分便宜を与える。日本政府はこの目的を達するため、軍略上必要の地点を臨時収用することができる。B両国政府は相互の承認なく、本協約の趣意に反する協約を第三国との間に締結してはならない。と規定されました(「日韓議定書」外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。
同年5月30日元老会議で「対韓方針に関する決定」(翌日閣議決定)が了承され、(二)−一、防備ヲ全フスルコトでは日韓議定書第三条(韓国の独立と領土保全)により、平和克復後も相当の軍隊を同国要所に駐留させる必要があり、三、財政ヲ監督スルコトでは韓国軍隊は親衛隊を除くほか漸次その数を減少させると述べています(外務省編「前掲書」)。
同年3月11日後備歩兵5個大隊を中心に韓国駐劄軍(司令官 原口兼済少将)が編成されたのですが、8月12日後備歩兵12個大隊に増強、9月7日近衛師団長長谷川好道中将を大将に昇進させ、韓国駐劄軍司令官として天皇に直属させました(陸軍省編「明治軍事史」下 原書房)。これは韓国駐劄軍司令官が位階勲等とともに公使の上に立ち、外交にも介入する先例となったのです。
さらに日韓議定書を推し進める日韓協約(第1次)が同年8月22日調印され@韓国政府は日本政府推薦の日本人1名を財務顧問として傭聘、A韓国政府は日本政府推薦の外国人1名を外交顧問として庸聘、B韓国政府は外国との条約締結其の他重要な外交案件の処理に関してあらかじめ日本政府と協議するという内容でした(外務省編「前掲書」)。
これによって韓国政府は財政・外交の実権を失い、日本の保護国へ一段と傾斜していったことがわかります。  

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む27

同年10月26日第3軍による第2回旅順総攻撃が本来海岸要塞用の28センチ榴弾砲を旅順攻撃にもちこみ実施、しかし同月31までに日本軍死傷者3830人を出して失敗に終わりました(沼田多稼蔵「前掲書」)。
 11月26日第3軍による第3回旅順総攻撃が開始されましたが失敗、同月28日乃木希典軍司令官は203高地(通称 爾霊山)攻撃を以後の作戦の中心とすることを命じました。203高地とは旅順の町や港が見下ろせる旅順の背面にある山で、この山頂からの観測で28センチ砲をもってロシア艦隊を砲撃破壊する積りだったのです。同月28日夜日本軍は山頂の一角を占領することに成功しましたが、29日未明ロシア軍によって奪回されてしまいました。
 この報告を聞いた満州軍総司令部総参謀長児玉源太郎は怒り、大山巌総司令官名で発電された訓示は次のような内容のものでした。「今回二百三高地ニ対スル戦闘ノ状況不利ナルハ指揮統一ノ宜シキヲ得サルモノ多キニ帰スルト云ハサルヲ得ス畢竟高等司令部及予備隊ノ位置遠キニ失シ敵ノ逆襲ニ対シ之ヲ救済スルノ時機ヲ誤リタルモノナリ貴官深ク此ニ鑑ミ明朝ノ攻撃ニ当リテハ必ス此弊ヲ除キ各高等司令部適当ノ位置ニ進出シテ自カラ地形ト時機トヲ観察シ占領ノ機会ヲ逸セス且其占領ヲ確実ニスルコトヲ期セラルヘシ」(陸軍省編「明治軍事史」下 原書房)
 1904(明治37)年11月29日児玉源太郎は旅順に赴き、乃木軍司令官は児玉に軍司令官代理として第3軍を指揮することを認めたようで、児玉の指揮の下12月5日ようやく203高地を確保することに成功しました。しかしこの日までの日本軍死傷者は約17000人に達しました。かくして12月10日までに28センチ砲で旅順艦隊の主力を破壊する事が出来たのです。この日児玉源太郎は旅順から引き揚げました(沼田多稼蔵「前掲書」)。
 本郷源三郎は熊本の貧農の息子でしたが、幼年学校・士官学校を首席で卒業、日露戦争では陸軍大尉として出征しました。ある日ばったり出会った石光真清に、彼は維新前だったら熊本の片田舎の貧乏百姓として暮さねばならぬ自分が、このように武士の身分になれたのも時代のおかげだ、満足して死ねるといい、数日後の東鶏冠山のたたかいで胸に貫通銃創を受けて戦死しました(石光真清「望郷の歌」中公文庫)。
 1905(明治38)年1月1日旅順守備軍司令官ステッセルは降伏を申し入れ、翌日水師営で旅順開城規約調印、同月13日日本軍が入城を果しました(沼田多稼蔵「前掲書」)。

中国東北地方に高句麗文化を訪ねるーはじめにー水師営会見所

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む28

 沙河でロシア軍と対峙していた日本の満州軍総司令部はときには零下40度まで下がる厳寒の満州においてロシア軍が攻勢に出るはずはないと楽観していました。総司令部の児玉源太郎・松川敏胤らはロシア軍がかつてナポレオン指揮下のフランス軍をロシアの厳冬下に撃破したという史実をあまりよく知らなかったもののようです。しかし日本軍の最左翼に布陣していた秋山好古指揮下の秋山支隊は1905(明治38)年1月9日永沼秀文中佐指揮の挺身隊などを遠く蒙古地帯まで派遣して、後方を撹乱しつつ情報を収集し、ロシア軍が攻勢に出ることを推察する報告を総司令部に連絡していましたが、総司令部は楽観していたのです。
1904(明治37)年10月26日極東総督アレクセーエフは解任され、クロパトキンは極東陸海軍総司令官(総司令部を奉天に設置)となり、ロシア満州軍は第1軍〜第3軍(第1軍司令官 リネウイッチ大将・第2軍司令官 グリッペンベルク大将・第3軍司令官 カウリバルス大将)に再編成されました。

坂の上の雲マニアックスーContents Navi―人物・用語辞典―くークロパトキン 

1905(明治38)年初め旅順陥落の情報が入ると、クロパトキンに批判的なグリッペンベルクは乃木軍が旅順から北進してくるまでに日本軍に大攻勢をかけることを主張、これに対して慎重なクロパトキンも許可、日本軍左翼に布陣する秋山支隊が展開する黒溝台を攻撃するために、ロシア陸軍最強といわれるミシチェンコ中将指揮下のコサック騎兵支隊を臨時に露第2軍に所属させました。
 クロパトキンは総攻撃開始以前に日本軍の実態を知り、あわせて鉄道破壊などを任務として同年1月9日ミシチェンコ騎兵支隊を日本軍後方に派遣したのです。しかしこの作戦は不徹底で鉄橋を爆破できず、海城・牛荘城・営口の日本軍兵站基地に打撃を与えることもなく、作戦期間8日間で北方へ撤退していっただけに終わりました(デニス・ペギー・ウォーナー「日露戦争全史」時事通信社)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む29

 同年1月25日グリッペンベルクはシベリア第1軍団・猟歩兵1個師団及び欧露から到着した第8軍団、狙撃歩兵第1旅団・同第5旅団、これに付加されたミシチェンコ機動軍即ち秋山好古支隊の約6倍の兵力で総攻撃を開始、これが成功すればクロパトキン指揮下のロシア軍主力は日本軍中央部を突破する積りだったのです。
 日本満州軍総司令部は予想せぬロシア軍の大攻勢に狼狽し、作戦室は騒然となりました。総参謀長児玉源太郎も落ち着きを失っていたとき、総司令官大山巌は作戦室に姿を現し、「時に殷々たる砲声を耳にしては、児玉に問うて曰く。今日も戦がありますかと。(中略)かかる際に、突如として悠々たる奇問に接すると。今迄熱し切ってゐる頭脳に向けて、萬斛(ばんこく 多量)の冷水を瀉(そそ)ぎかけられた心地がして、愕然として俄に悟る処が多かった。」(近世名将言行録刊行会編「近世名将言行録」第3巻 吉川弘文館)。

春や昔―メインコンテンツー「坂の上の雲」と日露戦争―日露戦争(陸戦)―黒溝台会戦 

 秋山好古は李大人屯に司令部を置き、支隊は韓山台・沈旦堡・黒溝台付近に布陣していましたが、グリッペンベルク軍の攻撃を受けると総司令部に連絡、総司令部は第8師団に秋山支隊の救援を命令、黒溝台は一時放棄しましたが、秋山は李大人屯・沈旦堡を死守、救援に赴いた第8師団は敵の重囲に陥り、身動きできない状況に置かれました。そこで総司令部はさらに第2軍の第3・5師団及び第1軍第2師団を引き抜いて秋山支隊救援に投入、1月29日黒溝台を奪回しました(沼田多稼蔵「前掲書」)。 クロパトキンは1月28日グリッペンベルクに退却を命令、怒ったグリッペンベルクは欧露に帰って新聞その他にクロパトキン批判の文章を発表しました(ウォーナー「前掲書」)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む30

 ロシア皇帝ニコライ2世の侍従武官として皇帝の信頼が厚かったロジェストウェンスキー少将(後)中将)はバルチック艦隊(第2太平洋艦隊)を編成して極東へ派遣し、旅順の第1太平洋艦隊の増援を皇帝に進言、バルチック艦隊司令長官に任命されました。
艦隊(旗艦スワロフ)は1904(明治37)年10月15日バルト(バルチック)海のリバウ港を出港しました。ところが同年10月21日艦隊は北海のドッガーバンクと呼ばれる浅瀬で英漁船を日本水雷艇と誤認して砲撃(ポリトゥスキイ著 長村玄訳「リバウからツシマへ」文生書院)、このため英露関係が一時緊迫しました。

株式会社 文生書院―新刊―リバウからツシマへ 

 この事件から2日目バルチック艦隊は英仏海峡を通過、事件から6日間航海してスペインのヴィゴに入港、ここでドイツ国籍の石炭輸送船から石炭の補給を受けようとしましたが、イギリスの圧力をうけてスペイン政府はバルチック艦隊の戦艦1隻について石炭400トンのみを積み込むことを許可しました。このやりとりで艦隊は5日間の足どめをくったのです。
 同年11月3日艦隊はフランス植民地モロッコのタンジールに入港、ここでフェリケルザム少将指揮下の支隊はスエズ運河経由の針路をとることになり、艦隊主力は石炭を積み込み同月7日出港、以後主力はアフリカ西岸を南下、11月12日フランス植民地のダカール入港、ダカール総督は艦隊への石炭積み込みを許可しませんでしたが、ロジェストウエンスキーはこれを無視、猛暑の中での石炭積み込みの重労働を強行、乗組員たちは疲れ果て、これが士気の低下を引き起こしたのでした(ポリトゥスキイ著 長村玄訳「リバウからツシマへ」文生書院・ノビコフ・プリボイ「ツシマ バルチック艦隊の壊滅」原書房 このプリボイの著作は小説の形式で叙述されており、必ずしも史実とは限らないことに注意)。
 艦船はよく故障しそのたびに艦隊は航行を停止、ようやくフランス領赤道アフリカのガポン沖の公海に投錨、イギリスとの対立を避けたいフランスからの圧力でペテルブルクからガポン沖投錨を避けるよう指示されたのですがロジェストウェンスキーはこれを無視、相変わらず石炭組み込みを強行、12月1日ガポンを出発しました(ポリトゥスキイ著 長村玄訳「リバウからツシマへ」文生書院・ノビコフ・プリボイ「ツシマ バルチック艦隊の壊滅」上 原書房)。
2011-05-10 08:32 | 記事へ | コメント(0) |
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2011年04月30日(土)
司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む11〜20
司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む11

1901(明治34)年3月12日加藤高明外相は伊藤博文首相にロシアの満州占領に対処する方針について閣議での討議を要請する意見書(「日本外交文書」第34巻)を提出しました。その方針とは@ ロシアの満州侵略に抗議し、ロシアが応じないときは日露戦争を開始する。その理由としてロシアの満州支配は朝鮮に拡大し日本の自衛を危険に陥れる。A 韓国に関する日露協商(西・ローゼン協定)を無視―具体的には韓国を占領または保護国化あるいは其の他適宜な方法で同国を我国の勢力下におく。B ロシアの満州占領に対しては抗議もしくは権利の留保にとどめ、後日臨機の措置を講じるの3策を内容とするものでした。
 この意見書が閣議で討議されたかどうかは、第4次伊藤博文内閣が同年5月3日総辞職したため不明ですが、韓国を日本の支配下に置くことは当時の日本指導者の一致した方針であったことに注意する必要があります。
 1901(明治34)年6月2日第1次桂太郎内閣が成立、外相小村寿太郎は対露軍備拡張のための財源としての地租増徴に地主勢力の反発がつよく、当面「満韓交換論」で日露協約をはかる方針をとりました。しかし「満韓交換論」で日露協約が成立したとしても、それでロシアの勢力南下を防ぐことは困難であり、ロシアに対抗するための日英同盟が何としても必要と考えたのです。元老山県有朋もこれを支持しました(徳富猪一郎「公爵山県有朋伝」下 山県有朋公記念事業会)。

近代日本人の肖像ー人名50音順ーか・こー桂太郎―小村寿太郎

 一方元老伊藤博文や井上馨らは日英同盟が朝鮮問題を解決するものではなく、その成立がロシアの外交政策を硬化させるおそれがあると考えていました。
 アメリカのエール大学が創立二百年の式典を挙行するにあたり、伊藤博文に名誉法学博士の称号を贈りたいと申し出たので、井上馨は伊藤にアメリカから欧州にわたり、ロシアに赴いて朝鮮問題についてロシアの指導者と会談することを勧めました。かくして同年9月18日伊藤は欧米にむけて横浜を出発しました(「伊藤博文伝」下巻 春畝公追頌会)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む12

 1901(明治34)年10月16日林董(はやしただす)駐英公使はランスダウン英外相と公式の同盟交渉に入り、11月6日英外相は林公使に同盟条約草案を手交しました(「日本外交文書」第34巻)。イギリスはロシアに向かう伊藤博文の行動を注目していたのです。
 伊藤博文は同年11月28日ニコライ2世に謁見、12月2日露外相ラムスドルフ、翌日ウイッテ蔵相、12月4日再びラムスドルフと会談、基本的に「満韓交換論」にもとづく覚書を提出、これに対して12月7日元老会議(桂首相・小村外相出席)は日英同盟修正案を可決、天皇の裁可をへて12月12日林公使は同修正案を英外相に提出しました。
 同年12月17日伊藤博文はベルリン駐在のロシア大使からラムスドルフ修正案を手交されましたが、12月23日伊藤はラムスドルフに交渉の打ち切りを打電、日露交渉は不成立となったのです(「日本外交文書」第35巻)。
 1902(明治35)年1月30日ロンドンで日英同盟協約(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)が調印されました。その要点は次の通りです。@ 大不列顚(英国)国は主として清国に関し、日本国は清国に有する利益に加えて韓国において政治上竝商業上及び工業上格段に利益を有するので、両締約国はその利益を擁護するため、必要不可欠の措置をとることを承認する。
A もし日本国または大不列顚国の一方が上記各自の利益を防護するため列国と戦端を開いたとき、他の一方の締約国は厳正中立を守り、その同盟国に対して他国が交戦に参加しないよう努力する。B 本協約の有効期間は5箇年とする。
 日英同盟の成立はロシアに対する圧力となったことは確かです。1902(明治35)年4月8日ロシアは清国と満州撤兵にかんする協定(「満州還付条約」日本外交文書 第35巻)を結び、撤兵を3期にわけて、半年後盛京省の遼河の線以南から、1年後盛京省の他の地域と吉林省から、1年半後黒竜江省からと18箇月以内の撤兵を約束し、同年10月8日約束通り第1期撤兵を実行しました(古屋哲夫「日露戦争」中公新書)。
 1902(明治35)年10月2日第1次桂太郎内閣は「清韓事業経営費要求請議」を決定し、「鉄道経営ハ我対韓政綱ノ骨髄ナリ」(「「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)と述べていますが、京仁・京釜両鉄道敷設権の実現すら容易でない状況で、東清鉄道ならびに同鉄道南満州支線の敷設をフランス資本の援助のもとに進めているロシアと日本の資本力の差はあまりにも大きかったといわざるを得ません。

坂の上の雲マニアックスーContents Navi―人物・用語辞典―けー京仁鉄道―京釜鉄道   

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む13

 「北清事変に関する最終議定書」(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)第11条にもとづき、イギリス・アメリカなど列国は清国と通商及航海条約修正交渉をはじめ、日本政府も満州還付条約調印後の同年6月19日上海で清国と通商及航海条約改訂交渉を開始(「日本外交文書」第35巻)、翌年10月8日日清両国間追加通商航海条約に調印しました(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。この条約では@ 清国政府は日本国汽船が貿易の目的で清国開港場より、届け出た内地に航行することを承諾する。A 清国政府は各国人の居住及貿易のため盛京省奉天府及同省大東溝を開く。などの条項があり、これらの条項内容は条約交渉の途中ですでにロシア側に知られていました。
するとロシアが満州から撤兵すれば、あとを追うように、日英米などの列国の勢力が満州に入りこんでくるという印象をロシアに与え、満州撤兵政策を主導してきた蔵相ウイッテや北部満州だけをロシアの勢力圏とし南満州を放棄することも考えていた陸相クロパトキンらに代わって、ロシア皇帝ニコライ2世の信任厚い撤兵反対派の宮中顧問官ベゾブラゾフらの勢力が強大となってきました(大竹博吉監修「ウイッテ伯回想記 日露戦争と露西亜革命」上 明治百年史叢書 原書房)。
1903(明治36)年4月8日ロシアの第2期満州撤兵は実行されませんでした。同年4月20日小村外相はロシアの第2期満州撤兵のための代償要求を清国政府に拒絶するよう勧告することを駐清公使内田康哉に訓令、4月27日清国はロシアの要求を拒絶しましたが、ロシアは撤兵しませんでした。
同年4月21日桂首相・小村外相・伊藤博文・山県有朋らは京都無鄰菴で会合、次のような方針を承認しました(徳富猪一郎「公爵山県有朋伝」下)。@ 朝鮮問題について我国の優越権を認めさせ、一歩も譲歩しない。A 満州問題についてはロシアの優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決する。

京都観光Navi―サイト内検索―無鄰菴―ホームページー無鄰菴とは

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む14

1903(明治36)年5月上旬ロシア軍は鴨緑江を越えて大東溝の対岸龍岩浦に軍事根拠地の建設を開始しました。同年6月12日露陸相クロパトキンは旅順へ赴く途中東京を訪問、桂首相と会談しています(徳富猪一郎「公爵桂太郎伝」坤 原書房)。彼は日露交渉の妥協点を探って旅順における対日外交首脳会議に臨むつもりだったのでしょう。同年8月12日ロシアは旅順に極東総督府を設置、関東軍司令官アレクセーエフを総督に任命、8月29日蔵相ウイッテは失脚しました(大竹博吉監修「前掲書」)。

第一次大戦―日露戦争―龍岩浦事件  

司馬遼太郎氏はこの小説で次のように述べています。「十九世紀からこの時代にかけて、世界の国家や地域は、他国の植民地になるか、それがいやならば、産業を興して軍事力をもち、帝国主義国の仲間入りをするか、その二通りの道しかなかった。(中略)日本は維新によって自立の道を選んでしまった以上、すでにそのときから他国(朝鮮)の迷惑の上においておのれの国の自立を保たねばならなかった。」(第二部 開戦へ)
このような指摘に対しては次のような意見もあることをご紹介しましょう。「もし日本が朝鮮の市場と資源を日本資本主義のために確保することのみを目的とし、そのために朝鮮の近代化の改革を援助したならば、その目的は容易に達せられ、かつ朝鮮に親日的な政権を安定させることもでき、したがってロシアの政治的・軍事的な朝鮮進出を防ぐこともできたであろう。」(井上 清「現代史概説」岩波講座「日本歴史」18 現代1)
 同年6月23日午前会議で満韓問題についてロシアとの交渉を決定、10月6日東京で小村外相と露駐日公使ローゼンとの交渉が開始されましたが交渉は進展せず、12月30日閣議はロシアとの開戦の際、清国には中立を維持させ、韓国は支配下に置くとの政策を決定したのです(「日本外交文書」第36巻)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む15

1900(明治33)年騎兵大佐秋山好古は広島の第5師団兵站(作戦軍のために後方で馬匹・軍需品の輸送や確保などを担当する)監として出征しました。彼は同年7月18日西太沽に上陸、連合軍の主力として8月15日北京を占領しました。
 1901(明治34)年義和団事件最終議定書調印(「大山巌」を読む50参照)により、列国は華北駐兵権を獲得し、その駐屯軍司令部は北京に設置されました。天津の「清国駐屯軍守備隊司令部」の司令官に任命されたのは秋山好古です。さらに昇格して「清国駐屯軍」の司令官を兼務、ひきつづき天津に駐在しました。
 1903(明治36)年陸軍少将秋山好古は清国から帰国、千葉県習志野にある騎兵第一旅団長となりました。やがてロシア陸軍省からシベリアのニコリスクで陸軍大演習を行うので参観武官派遣を要請する招待状が陸軍省に届き、同年9月4日好古は横浜からウラジオストックへ出発、9月11日到着、同地を見学後ニコリスクに赴き、同月13日から大演習を参観してロシア騎兵の行動を観察、演習終了後もロシア皇帝の勅許を得てハバロフスク総督代理リネウイッチ大将と会見、さらに旅順を訪問、極東総督アレクセーエフと会談、旅順軍事施設を見学、東京に帰着したのは同年10月3日のことでした(「秋山好古」)。日露関係が緊迫したこの時点でロシア側が日本軍人をシベリア陸軍大演習に招待し、ロシア旅順軍事施設見学も許可したのは、ロシア軍の威容を見せつけることで、日本の対露戦決意を牽制する積りだったのでしょう。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む16

 1902(明治35)年5月27日フランス通であった坂本俊篤が海軍大学(海大)校長に就任すると、まず戦術教官山屋他人の後任人事をてがけました。山屋は海大で「海軍戦略」と「海軍戦術」を担当、各国の海大の教育内容を調査し、すすんだ教育方法を積極的に取り入れた人物でしたが、坂本が米国留学中の秋山真之と会談した際、その識見を評価、彼を海大教官に迎えたのです。
 同年7月17日付転任の辞令を受け海大教官となった真之はアメリカにおける見聞を生かした講義で、海大選科聴講生八代六郎は毎回真之の講義に出席、あるとき真之の講義に対する八代の質問が口喧嘩に発展、翌日八代が真之に詫びたということもあったということです(桜井真清「秋山真之」秋山真之会)。
 1903(36)年10月19日山本権兵衛海軍大臣は常備艦隊司令長官に東郷平八郎海軍中将を起用、司令部幕僚に島村速雄・有馬良橘・秋山真之らが任命され(「財部彪日記」国立国会図書館憲政資料室所蔵)、海軍軍令部長伊東祐亨の指揮下に12月28日第1・第2艦隊を連合艦隊に組織、司令長官に東郷平八郎中将(のち大将に昇進)、参謀長島村速雄・先任参謀有馬良橘・次席参謀秋山真之らが任命されました。このころ真之は結婚しています。

近代日本人の肖像ー人名50音順ーや・ゆー山本権兵衛―た・とー東郷平八郎

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む17

 1904(明治37)年2月4日午前会議はロシアとの交渉を打ち切り、軍事行動に移ることを決定、2月6日駐露公使栗野慎一郎は国交断絶を通告(「日本外交文書」第37巻第1冊)、2月10日日本はロシアに宣戦布告しました(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。
 同年1月27日ニコライ2世はアレクセーエフに電訓し「我れ等は鴨緑江と図們江との分水嶺なる山脈までは日本軍の占領に任すべきなり。」と韓国問題に対する日本への全面譲歩を命じました(参謀本部第四部編「明治三十七八年役露軍之行動」第1巻 文生書院 国立国会図書館所蔵 大江志乃夫氏下記著書引用)。

株式会社 文生書院―電子復刻版―明治三十七八年役露軍之行動

 「しかしアレクセエフからローゼン公使にニコライ2世の電訓が到達したのは2月7日であり、ローゼン公使がこれを日本政府に伝える手段を失ったあとであった。(中略)日露開戦は両国にとって避けることのできた不必要な選択であった。」(大江志乃夫「世界史としての日露戦争」第3章2 立風書房)
 和田春樹氏は「2月3日(1月21日)ロシア皇帝は『日本には中立地帯(韓国北部)について、同じことを提案するが、しかし秘密条項とする』」(ラムスドルフへの手紙)と云いだし、韓国問題に関する日本への譲歩を撤回したと指摘しており(和田春樹「日露戦争 起源と開戦」下 岩波書店」)、大江説と微妙な食い違いをみせています。
 いずれにしてもロシア皇帝ニコライ2世は気まぐれな、無定見の人物であったようです。
和田氏は「小村はロシア皇帝を支配している戦争党の中心人物(ベゾブラゾフ)が戦争回避を真剣に望んでいるとの情報を受け取り、それを確認さえしていた(五三 1904年1月14日付 在露国栗野公使ヨリ小村外務大臣宛電報「日本外交文書」第37巻第1冊 巌南堂書店)。だから彼が戦争を回避しようと思えば、踏みとどまるに充分な余裕があったのである。」(和田春樹「前掲書」)と述べています。
 私は読者の皆様に、日露戦争は避けようと努力すれば避けられた可能性の高い戦争であったと結論付けたこれら諸研究があることを注目して頂きたいと思います。
 同年2月4日夜、伊藤博文より側近の金子堅太郎に電話が入り、金子が伊藤邸にかけつけて、「御用の趣は」と何度か尋ねましたが、伊藤は安楽椅子に座り込んだまま返事をしませんでした。しばらくして「わたしはまだ食事をとっていないから、しばらく待ってくれ」と云って食事を運ばせたのですが、その食事も粥一ぱいを口にいれただけでした。
 それから「日露間の関係は干戈(戦争)によって解決するほかないこととなった。米国をわが国の味方にするのが良策と思う。(中略)それで、君に米国に渡り、米国が、わが国を援助するよう尽力してもらいたいのだ。」と依頼しました。金子はハーバード大学に学び、米大統領セオドア・ルーズベルトと同期だったのです。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む18

 金子は成功の自信がなく考えましたが、結論は変わりませんでした。しかし伊藤から「今度の戦いに勝利を得んとするのは無理である。成功しようと考えるのでは駄目だ。尽くせるだけ尽くすのだ。」と説得され承諾させられたのでした。金子は出発以前参謀次長児玉源太郎を訪ねて戦争の見通しを質問すると、児玉は「五分五分と云ふところかな。(中略)どうにか四分六分まで漕ぎつけたい」と答えました。
 さらに山本権兵衛海軍大臣を訪ね、海軍はどうかと質問すると、このあと山本は海軍の見通しについて「まず日本の軍艦の半分は沈める。そのかわり、残る半分をもってロシアの軍艦を全滅させる。」と語りました(金子堅太郎述・平塚篤編著「伊藤公を語る」興文社)。
 財政についても井上馨・松方正義を訪問して打ち合わせました(松村正義「日露戦争と金子堅太郎」新有堂)。

近代日本人の肖像ー人名50音順ーか・こー金子堅太郎―児玉源太郎―た・とー高橋是清 

1904(明治37)年2月24日ロンドン市場における英貨公債募集のため、日銀総裁高橋是清(「坂の上の雲」を読む6参照)が英国に派遣されました(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む19

 日露関係の緊迫により、日本国内では対露強硬論や反戦平和の運動などさまざまな動きが活発となりました。
 1903(明治36)年6月10日東京帝国大学法科大学教授戸水寛人・小野塚喜平次・富井政章ら7博士は政府へ建議書を提出(戸水寛人「回顧録」戸水寛人)、満韓交換論の対露方針に反対するとともに、同年6月24日東京朝日新聞にこれを公表しました(7博士事件)。

坂の上の雲マニアックスーContents Navi―人物・用語辞典―しー七博士意見書   

このような対露強硬論は前年からの農村の不作による経済の不況とむすびついて、ゆきづまった状況を打開するための、民衆の戦争への期待を背景としていました。
 ドイツ人医師ベルツ(児島襄「大山巌」を読む21参照)は同年9月宮ノ下に汽車で向かう途中の事を次のように記述しています。「ハイカラな若い日本人にあう。語っていわく、民間の対露感情の激化はもう抑えきれない。政府は宣戦を布告すべきで、さもないと内乱の起こる虞れがあるとか。(中略)こんな無責任な連中は気楽なものだ。(中略)日本の新聞の態度もまた厳罰に値するものといわねばならない。(中略)交渉の時機は過ぎ去った。すべからく武器に物を言わすべしーと。しかしながら、勝ち戦さであってさえその半面に、いかに困難な結果を伴うことがあるかの点には、一言も触れようとしない。」(「ベルツの日記」上 1903年9月25日 岩波文庫)
 1900(明治33)年の北清事変の際、荒畑勝三は「二六新報」(報道中心の日刊新聞)が日英両文でロシア兵の清国民に対する暴虐な蛮行を糾弾した特別号の記事によってロシアに対する憎悪の念をつよめました。日本の軍人も略奪行為があったのですが(第十 馬蹄銀分捕事件 松下芳男「陸海軍騒動史」くろしお出版)、そんなことは彼の念頭になく、義和団に同情してロシアに対する敵愾心をつよめたのです。1903(明治36)年横須賀の海軍造船廠の職工であった荒畑勝三は艦艇の艤装(船舶が航海可能なように必要品を整え、出発の準備をすること)や修理で忙しい毎日を送っていましたが、同年10月12日弁当箱をつつんだ「万朝報」(「万朝報」45 日本図書センター)を読むと、[内村鑑三(児島襄「大山巌」を読む29参照)は別文]秋水先生(幸徳秋水・「火の虚舟」を読む19参照)・枯川先生(堺利彦)の連署で、戦争反対の主義を貫くため、開戦論に転じた「万朝報」を退社する旨の「退社の辞」が掲げられ、この日から彼は社会主義と非戦論に血をわかすようになりました(荒畑寒村「ひとすじの道」人間の記録28 日本図書センター)。

聚史苑―歴史年表―大正年表―1912年〜1915年ー1912年6月28日堺利彦ー同年10月1日荒畑寒村     

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む20

 同年11月15日幸徳秋水・堺利彦らは平民社を結成し、週刊「平民新聞」(「週刊平民新聞」史料近代日本史 社会主義史料1-4 創元社)を創刊しました。1904(明治37)年1月17日(第十号)中江兆民の「三酔人経綸問答」(松本清張「火の虚舟」を読む14〜15参照)の一節を紹介した同新聞は「小日本なる哉(かな)」を掲載し、(1)軍隊存在の理由なし、(2)真の自治制、(3)小国を以って甘んずる事、(4)万全の策、万全の希望の4項目を挙げ、(3)において「大国を羨むこと勿れ、大国の民は何れも不幸なり、殊に大国たらんとして成り損ねたる伊太利(イタリア)の民の不幸を思へよ。之に反して小国の民は皆幸福なり、瑞西(スイス)の人民、丁抹(デンマーク)の人民等を看(み)ずや。」と述べています。このことはかつて岩倉使節団が「其国小ナリト雖(いえ)トモ、大国ノ間ニ介シ、強兵ノ誉レ高ク、他国ヨリ敢テ之ヲ屈スルナシ」(久米邦武「米欧回覧実記」を読む27参照)と褒め称えたスイス観や中江兆民の「三酔人経綸問答」における洋学紳士の小国主義思想を「平民新聞」が受け継いでいることを示すものでしょう。
同年3月13日平民新聞は幸徳秋水執筆の社説「与露国社会党書」(林茂・西田長寿編「平民新聞論説集」岩波文庫)を掲げ、手を携えて共通の敵<軍国主義>と戦うことを提言したことは有名です。
2011-04-30 09:42 | 記事へ | コメント(0) |
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2011年04月20日(水)
司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む1〜10
司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む1

 司馬遼太郎「坂の上の雲」(「司馬遼太郎全集」24〜26 文芸春秋)は伊予松山出身の秋山好古・真之兄弟・正岡子規の生涯を中心に、日清戦争・日露戦争時の日本の栄光と発展を明るく描写した作品です。
 司馬遼太郎氏はこの小説の意図を次のように記述しています。
 「庶民は重税にあえぎ、国権は重く民権はあくまで軽く、足尾の鉱毒事件があり、女工哀史があり小作争議がありで、そのような被害意識のなかからみればこれほど暗い時代はないであろう。しかし、被害意識のみみることが庶民の歴史ではない。明治はよかったという。その時代に世を送った職人や農夫や教師の多くが、そういっていたのを、私どもは少年のころにきいている。(中略)
 いまからおもえば、じつにこっけいなことに米と絹のほかに主要産業のないこの百姓国家の連中が、ヨーロッパ先進国とおなじ海軍をもとうとしたことである。陸軍も同様である。人口五千ほどの村が一流のプロ野球団をもとうとするようなもので、財政のなりたつはずがない。(中略)
 明治は、極端な官僚国家時代である。われわれとすれば二度と経たくない制度だが、その当時の新国民は、それをそれほど厭うていたかどうか、心象のなかに立ち入ればきわめてうたがわしい。(中略)
 町工場のように小さい国家のなかで、スタッフたちは(中略)そのチームをつよくするというただひとつの目的にむかってすすみ、その目的をうたがうことすら知らなかった。この時代のあかるさは、こういう楽天主義からきているのであろう。
 このながい物語はその日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。やがてかれらは日露戦争というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでゆく。(中略)楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみみつめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ 花や雲を数える語)の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。」(第一部あとがき)

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む2

 秋山信三郎好古は1859(安政6)年伊予松山藩松平家(久松家)で下級武士の役職である徒(かち)目付秋山平五郎久敬の三男として生まれました。
 久松家は徳川家康の異父弟を家祖とする家柄であったので、明治維新の際には官軍である土佐・長州藩兵の占領下におかれて賠償金15万両を課せられ、藩士の生活は困窮しました。
 好古は8歳で藩校「明教館」の附属幼年部「養成舎」に入学しました。1871(明治4)年松山に士族・町家の別なく入学できる小学校が設立されましたが、好古は小学校に入学せずやがて設立された中学校にも入らず、家が貧困であったせいか風呂屋の風呂焚きをしていたそうです。

松山市HP―「坂の上の雲」の町松山―ゆかりの地を訪ねるーぐるっと城下コースー7 秋山兄弟生誕地

 1872(明治5)年5月東京に師範学校が設立され、翌明治6〜7年にかけて大阪、仙台、名古屋、広島、長崎、新潟にも設置され、学費は官費でした。師範学校入学資格は19歳であるのに、好古は16歳であったので、検定試験による小学校教員の資格を大阪でとり、19歳まで待つことを勧められ、1875(明治8)年好古は船で大阪へ行きました。
 彼は堺県で受験、首尾よく代用教員試験に合格、ところがただちに本教員の検定試験が大阪府庁でおこなわれ、好古はこれにも合格して、月給9円で野田小学校勤務を命ぜられました。その月給から彼は松山から大阪へ出るための船賃の外に借りた旅費を両親に返済したのです。
 彼は年齢を偽って17歳で大阪府立師範学校に入学を許可され1年で卒業、「三等訓導」の辞令をもらいました(「秋山好古」秋山好古大将伝記刊行会)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む3

 しかるに旧松山藩士の先輩である愛知県立名古屋師範学校付属小学校主事和久正辰の勧誘で、好古は同付属小学校に赴任しました。1877(明治10)年好古は和久から東京の陸軍士官学校(1874年設立)応募を勧められ、士官学校に出願、1月に試験があり第三期生として合格、彼は騎兵科に配属されました。

近代日本人の肖像ー人名50音順ーあ・おー秋山好古 

 好古は1879(明治12)年陸軍少尉に任官、1883(明治16)年陸軍大学校入学、1886(明治19)年陸軍騎兵大尉となり、すでにフランスに留学中の久松定謨(さだこと)の補導役として1887(明治20)年フランスへ留学、仏騎兵を研究、1891(明治24)年帰国、東京駐屯の騎兵第一大隊中隊長となりました。1893(明治26)年好古は彼が陸軍少尉のころ下宿していた旧旗本佐久間家の長女多美と結婚しています(「秋山好古」)。
 1894(明治27)年日清戦争が起こりましたが、司馬遼太郎氏は「この戦争は清国や朝鮮を領有しようとしておこしたものではなく、多分に受け身であった。」とこの小説(「第一部 日清戦争」で述べています。日本が「受け身」であったかどうか、日清戦争前後の朝鮮情勢について(「大山巌」を読む12〜15、20、24、32〜39、41〜〜44、49〜50)を参照して下さい。1894(明治27)年9月の黄海海戦後、大山巌を軍司令官とする第二軍が編成され、陸軍騎兵少佐秋山好古の率いる騎兵第一大隊は第二軍第一師団に所属して旅順攻略戦に参加(「大山巌」を読む37参照)しました。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む4

 秋山淳五郎真之(さねゆき)は好古の弟で、父久敬の五男として1868(慶応4)年松山城下に生まれました。
 真之はやがて儒学者近藤元修の塾で「論語」「孟子」などの四書五経の素読を繰り返す毎日で、間違えると師匠近藤の鞭が机を容赦なく叩いたと云います(水野広徳「提督秋山真之」秋山真之会)。和歌も七・八歳のころからよみはじめ、雪の朝北窓から放尿して「雪の日に北の窓あけシシすればあまりの寒さにチンコちぢまる」と詠んだということですが、本格的には14歳ころから歌人井手正雄(桜井真清の伯父)について学ぶようになりました。
朝暗い時に近藤塾に通い、そのあと勝山小学校に登校する毎日でした。真之は12〜3歳のころ手のつけられない悪童だったようで、、いつも8歳の桜井真清(さねきよ)を子分のように連れ歩いていましたが、ある日真清の家で花火の火薬調合書をみつけ、何日もかかって打ち上げ花火を作り、13〜4人の子供を集めて町はずれの野原で花火を打ち上げたのです。巡査が駆けつけたとき、真之らは逃げ散ったあとでした。しかし巡査が桜井家を訪問、真之が首謀者であることがすぐにわかったようで、真之は母親お貞から短刀をつきつけられて、母親と一緒に死ねと叱られたそうです(水野広徳「提督秋山真之」秋山真之会)。

近代日本人の肖像ー人名50音順ーあ・おー秋山真之 

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む5

正岡子規は1867(慶応3)年9月17日伊予国温泉郡藤原新町(松山市新玉町)に生まれ、幼名は処(ところ)之助で4〜5歳のころ升(のぼる)と改名しました。父正岡隼太(はやた)は松山藩の下級武士で馬廻り加番(候補)役でした。母は藩の儒学者で藩校明教館の教授であった大原有恒(観山)の長女八重です。1868(明治1)年新玉町の屋敷を売って湊町新町(湊町四町目)に移転、升は上京するまでここに居住しました。
1872(明治5)年父病没、翌年から母方の祖父大原観山に手ほどきをうけたのですが、観山は1875(明治8)年死去するまで結髪をしていた人物で、孫の升にもなかなか断髪を許しませんでした。板垣退助らが民撰議院設立建白書を発表した1874(明治7)年升は松山市智環学校に入学、のち勝山学校に転校しました。1880(明治13)年9月には松山中学校に入学します(「子規全集」第22巻 年譜・資料 講談社)。
松山中学校の前身は藩校明教館で、1875(明治8)年に愛媛英学所となり、創設者は土佐出身の自由民権論者岩村高俊が前年愛媛県権県令として松山に赴任したとき、内藤鳴雪を県学務課長に抜擢し、2人で相談をして慶応義塾出身の草間時福を中学校長に任命しました。でも升が松山中学に入学したころ、中央の干渉により岩村高俊らは愛媛を去っていました。

宿毛市立宿毛文教センター宿毛歴史館―宿毛人物史―岩村高俊

しかし升は1882(明治15)年民権論の影響をうけ、青年会で「自由何クニカアル」(草稿「無花果艸紙」子規全集 第9巻)などの演説をしたり、柳原正之(極堂)らと自由民権雑誌創刊を計画したりするようになりました(柳原極堂「友人子規」博文堂書房)。
1883(明治16)年5月松山中学を中退を決意、この年2月ころから東京遊学について、叔父加藤恒忠(拓川)からの手紙により上京を決心、6月10日出発、14日東京到着、恒忠や友人の居所などに宿泊、6月末久松家の書生部屋に入りました。
 升は共立学校(のちの開成中学)などに通って勉強し1884(明治17)年9月大学予備門の入試をうけて合格しました。

坂の上の雲マニアックスー「坂の上の雲」ライバル伝ー秋山真之と正岡子規ーmenuー正岡子規ー人物・用語辞典―かー加藤恒忠

東京紅団―文学散歩情報―ま行―正岡子規 散歩―東京を歩く3

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む6

 秋山好古は陸軍少尉に任官すると弟真之の松山中学校の学資の面倒をみていましたが、真之は正岡升が上京すると、おそらく兄好古に懇請したのでしょうか、真之は兄の指示で上京、東京麹町番町にあった好古の下宿に同居しつつ、大学予備門に入学しました。
 好古が陸軍大学校に入学すると、真之は神田猿楽町の正岡升の下宿に移り、帝国大学(東大の前身)入学をめざしてともに勉学に励みました。勉学の余暇に寄席見物にいくのが楽しみであったようです。
 しかるに真之は帝国大学入学をやめて、1886(明治19)年海軍兵学校に入学しました。志望変更の理由は不明という外ありませんが、兄に学費負担をかけることへの気兼ねがあり、学費なしの学校としては陸軍士官学校、海軍兵学校、師範学校くらいで、教師になる気持ちはなかったとすれば、軍人しかなく、兄の助言で海軍を選んだのではないでしょうか。
 当時の海軍兵学校は東京築地にありましたが、1888(明治21)年瀬戸内海の江田島に移転しました。

海軍砲術学校―サブメニューー懐かしの艦影―番外編―江田島 旧海軍兵学校 写真集

 1890(明治23)年7月秋山真之は海軍兵学校を首席で卒業、少尉候補生となり練習艦隊に乗り組み、同年10月出帆翌年1月イスタンブール入港、1891(明治24)年5月15日品川沖に帰着しました。真之はイギリスで建造された巡洋艦「吉野」の廻航委員として1893(明治26)年6月渡英しました。
 日清戦争を真之は巡洋艦「筑紫」乗り組みで戦ったのですが、豊島沖並びに黄海海戦には参加せず、偵察や通報などが主で、1895(明治28)年の威海衛作戦時(「大山巌」を読む39参照)にめだつ活躍をした程度です。この威海衛作戦について真之は故郷の井手正雄に宛てた手紙で次のように述べています「開戦以後此ニ半歳、其間海陸之激戦数次骨ヲ白沙ニ暴(さら)し屍ヲ漁腹に埋ムル者其数幾何(いくばく)何老幼飢凍百姓流離ス小子ハ陸ニ平壌旅順威海衛ノ惨烈なる光景ヲ見又吾甲板上ニハ粉骨飛肉之悲状ヲ目撃シ戦勝之今日万感交々発シ自ラ謂ク此天地間ニ生ヲ享(う)ケテ父母兄弟ヲ有スル蒼々たる丞民(意気さかんな庶民)も此ニ至リ而(て)ハウジ蟲同様之有様ト存候」(桜井真清「秋山真之」秋山真之会)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む7

 はじめ政治家志望であった正岡升は1885(明治18)年春哲学者志望となりましたが、同年7月語学力不足と数学の点数の不足により学年試験に落第、同年夏帰省、歌人井戸正雄(真竿)に和歌の手ほどきを受けました。叔父加藤恒忠の紹介で陸羯南を四谷に訪問したのもこのころです。加藤恒忠と陸羯南とはかつて司法省法学校(東大法学部の前身の一つ)に学び、賄征伐に関する校長の態度に反発して1879(明治12)年4月ともに退学した仲間でした(陸羯南著・鈴木虎雄編「羯南文録」大日社)。

近代日本人の肖像ー人名50音順ーか・こー陸羯南 

1887(明治20)年7月の帰省のときには大原其戎(きじゅう)について俳句を作り始めました。また野球に熱中するのもこのころからです。

坂の上の雲マニアックスーmenu―正岡子規―野球  

 雅号についての一般論を述べた正岡升の文章(「雅号」筆任勢 第二篇 「子規全集」第10巻 講談社)で滝沢馬琴や大田南畝の雅号について記述した後、自己のペンネームとして「野球」を紹介しています。
『「ベースボール」を訳して「野球」と書いたのは子規が嚆矢(こうし 物事の最初)であった。が、それは本名の升(のぼる)をもじった「野球」(ノボール)の意味であった。』(余録 二 嗜好 河東碧梧桐「子規の回想」沖積舎)とあるのは雅号としての野球の読み方としては正しいのですが、子規が「ベースボール」を訳して「野球」と書いたというのは誤りのようです。「日清戦争初まるや欧化主義の反動として、国粋論が起り、ベースボールに反対する者さへ生じてきた。これを憂へて一高(東大教養学部の前身)出身の中馬庚氏が日本式の野球術語を完成した。」(横井春野「日本野球戦史」日東書院)との指摘が正しいとされています(久保田正文「正岡子規」吉川弘文館)。
 1888(明治21)年4月正岡升は第一高等中学校(東京大学予備門の後身)古荘嘉門校長の官僚主義教育に反発、寄宿舎の「賄征伐」(食堂の食器を投げたり壊したりなどしていやがらせをする)事件に参加(「賄征伐」筆任勢第二編 「子規全集」第10巻)、同年8月 横須賀・鎌倉方面に遊び、鎌倉で血を吐きました。
 同年9月本郷真砂町の常盤会(旧藩主久松家設立の育英会)寄宿舎に移りましたが、翌年5月喀血が1週間つづき、はじめて子規と号したのはこのときでした。
子規とは「ほととぎす」を意味する語句で、その啼く声が血を吐いてなくようにせつないことを自分の喀血にかけたのです。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む8

 1890(明治23)年6月第一高等中学校の卒業試験を終え、9月東京大学(文科大学)哲学科に入学しましたが、翌年2月国文科へ転科、春ドイツ人ブッセの担当する哲学総論の試験に苦しみ、同年6月試験放棄、12月常盤会寄宿舎を去り文学者として身を立てる決心をしました。
 1892(明治25)年2月陸羯南の隣家へ転居、6月学年試験を受け落第、12月陸羯南の日本新聞社入社、月給は15円でした。
 1893(明治26)年2月子規は日本新聞文苑欄に俳句を載せはじめました。同年3月大学中退、翌年2月東京下谷区上根岸町に転居、1895(明治28)年2月従軍記者の希望がかない、4月近衛師団付きで宇品出発 金州、旅順などに赴きましたが、5月帰国途中の船内で喀血、8月帰省、夏目漱石の下宿に移りました。同年10月漱石と別れて松山を出発、大和路を歩いて法隆寺に至ったとき、浮かんだ句想をもとに、次の有名な作品が生まれました。「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(「寒山落木」巻四 子規全集第2巻・○御所柿を食ひし事 くだもの 同全集第12巻 講談社)。

K-SOHYA POEM BLOG-月別アーカイブー2010/11/14−柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

1896(明治29)年1月日本新聞に「従軍記事」を発表、翌年1月「ほととぎす」創刊号が松山からでました。
1898(明治31)2月「歌よみに與ふる書」(「子規全集」第7巻)を日本新聞に発表して和歌の革新運動を開始しました。

壺斎閑話ー月別アーカイブー2009年1月17日 歌よみに与ふる書

1901(明治34)年10月子規は中江兆民の「一年有半」(「火の虚舟」を読む20参照)を読み、「浅薄ナコトヲ書キ並ベタリ」(「仰臥漫録」二 子規全集第11巻 講談社)と酷薄な批評を投げかけています。
子規は1902(明治35)年9月18日朝「絲瓜咲て痰のつまり仏かな」以下3句をのこして翌日午前1時死去しました(「子規全集」第22巻 年譜 資料 講談社)。 

日本の墓ー著名人の墓ー50音順で探すーまー正岡子規

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む9

 1895(明治28)年秋山好古は騎兵中佐に昇進、翌年陸軍乗馬学校長となり、1897(明治30)年「本邦騎兵用法論」と題する論文を書き注目されました。
 巡洋艦「筑紫」乗り組みの秋山真之は日清戦争中に海軍中尉(戦後大尉)となり、1895(明治28)年長崎に入港、翌年横須賀鎮守府水雷術練習所学生を命ぜられ、やがて水雷艇隊付きとなり、海軍軍令部諜報課員となりました。
 1897(明治30)年6月アメリカ留学を命ぜられた真之ははじめ海軍大学校に入学するつもりでしたが入校を拒否され、紹介でかって海軍大学校長ですでに現役を退いたマハン大佐の許を訪問、独学で過去の戦史を研究するよう助言されました。
 スペイン領キューバ島の独立運動激化にともなう不穏な情勢により在留アメリカ人の救出が必要になる場合に備えてハバナ港に派遣されていた戦艦メーン号は1898(明治31)年2月原因不明の爆発で沈没しました。これをきっかけにアメリカはスペインと開戦、スペイン領のキューバとフィリピンで行動を起こし、スペイン軍を制圧しました(「米西戦争」)。
 セルベラを司令官とするスペイン艦隊が5月19日キューバ島のサンチャーゴ港に入港すると、港の入り口がせまく突入不可能と知ったアメリカ軍によって港口封鎖のため、給炭船を自沈させる作戦に失敗すると、艦隊による直接封鎖がおこなわれました。
 6月13日真之は観戦武官としてフロリダ半島タンパ港から輸送船「セグランサ」号に乗り込み、カリブ海域に向かいました。

無限蒸気艦―特集 坂の上の雲―秋山真之 年譜 戦役 事件 事象―米西戦争関係艦

 7月3日早朝サンチャーゴ港内のセルベラ艦隊はフィリピンに向かう目的で、危険と知りながら出港し、米艦隊の攻撃を受けて大損害を被りました。
 真之はこの戦闘後4隻のスペイン艦の残骸を調査、8月3日以後ニューヨーク日本領事館で「極秘諜報」(「諜報」第百十八号 防衛省防衛研究所蔵)を完成、8月15日付で海軍軍令部第三局諜報課に送付しました。真之はここでスペイン艦の被弾が少ないのに、火災とそれが弾薬庫に引火して起きた爆発の被害が大きいこと、スペイン艦隊が長い停泊で艦底についた付着物のため減速して出港し、米艦の餌食になりやすかったことを指摘しており、この観察が後の日露戦争における海戦に役立ったといわれています。
 以後真之は米北大西洋艦隊旗艦「ニューヨーク」に乗艦して経験をつみました(島田謹二「アメリカにおける秋山真之」朝日文庫)。
1900(明治33)年英国駐在として4月ロシヤ駐在の広瀬武夫とロンドンで再会、イギリスで建造中の戦艦「三笠」、ドイツ建造の巡洋艦「八雲」などを視察(島田謹二「ロシアにおける広瀬武夫」朝日選書)、真之は同年8月14日横浜に帰着、同年10月31日常備艦隊参謀として海上勤務につきました。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む10

 すでに1895(明治28)年日清戦争後の朝鮮駐在公使三浦梧楼による朝鮮王妃閔妃暗殺関与事件(「大山巌」を読む42〜43参照)後、ロシアの朝鮮への影響力は強大化し、翌年2月11日露朝鮮駐在公使ウエーバーは朝鮮国王と世子を露公使館に移し(露館播遷 1897.4.2宮廷にもどる)、朝鮮政府は親露派の要人で内閣が組織されるなどの朝鮮情勢変化が起こっていました。
1898(明治31)年3月19日西徳二郎外相はロシア駐日公使ローゼンに対し、ロシアが韓国(1897朝鮮国号を大韓と改称)に対し助言・助力を日本に一任すれば、満州は日本の利益範囲外と認める旨(満韓交換論)を通告しましたが、同年4月2日露公使は拒絶と回答しました(外務省編「日本外交文書」第31巻第1冊 巌南堂書店)。

大連紀行―日清・日露戦争―日露戦争    

同年4月25日西徳二郎外相は露駐日公使ローゼンと朝鮮問題に関する議定書(西・ローゼン協定)に調印、日露両帝国政府は@韓国の独立を認め、直接の内政干渉を行わない A韓国に練兵教官・財政顧問を送るときは事前に協議する B露西亜帝国政府は韓国における日本の商工業の発達を認め、日韓両国間における商工業関係の発達を妨害しないことを約束しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。
 北清事変(「大山巌」を読む49参照)が起こり、1900(明治33)年7月4日建設中の東清鉄道を義和団が攻撃しはじめると、ロシア東部シベリア軍は清国軍による黒竜江の対岸ブラゴヴェシチェンスク[中国黒竜江省愛琿(黒河)の黒竜江を隔てた対岸の町]砲撃事件をきっかけに国境を越えて満州全土を占領してしまったのです。日本人が満州に潜入することも困難となりました(石光真清「曠野の花」中公文庫)。しかしロシアは8月25日満州占領は一時的な措置であると弁明しました。
 1901(明治34)年1月7日露公使は列国共同保証の下に韓国の中立化を提案しましたが、同月23日駐露公使珍田捨巳(ちんだすてみ)は満州からの露軍撤退が先決と回答しました(「日本外交文書」第34巻)。
2011-04-20 09:38 | 記事へ | コメント(2) |
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2010年12月11日(土)
松本清張「火の虚舟」を読む11〜20
松本清張「火の虚舟」を読む11

 篤介の担当は国憲案の調査検討で、彼は汚れた単物(ひとえもの 裏のない一重の夏衣服)の上に小倉袴を着け、いり豆を袂にいれて官署(役所)に出かけ、暇さへあれば豆を出してポツリポツリと喰っていたので、ついに豆食い書記官とあだ名されたそうです(岩崎徂堂「中江兆民奇行談」)。
 このころ篤介は日本の改革をめざし策論一篇を草して勝海舟に頼み、島津久光に献呈したと幸徳秋水「兆民先生」は述べています。元老院議官だった勝海舟は薩摩出身の海江田信義を紹介、篤介は海江田を通じて左大臣島津久光に会った経過を勝に報告しました(「海舟日記」明治8年9月18日条 勝海舟全集 第20巻 勁草書房)。
 「兆民先生」によれば久光は「足下の論甚だ佳し、只だ之を実行するの難き耳(のみ)」というと、篤介は「何の難きことか之れ有らん。公宜しく西郷を召して上京せしめ、近衛の軍を奪ふて直ちに太政官を囲ましめよ。事一挙に成らん。」と述べましたが、久光はまあ、よく考えてみよう、と云ったままで、話はそれっきりになったということです。
 「策論」(「全集」第1巻)の内容は第一策〜第七策まであり、第七策には「仏蘭西ノ碩儒孟得士瓜(モンテスキュー)曰ク、国ノ草創ニ在テハ英傑制度ヲ造リ、既ニ開クルニ及ンデハ制度英傑ヲ造ルト、善キ哉言ヤ、」とあり、このモンテスキューの言葉はルソー「社会契約論」から孫引きしたものです。このように篤介は主観的にはルソーの思想を日本に生かそうと試みているようですが、自らを英傑になぞらえて民衆の力を結集するという発想に欠け、島津久光のような超保守勢力の協力で武装蜂起による権力奪取を夢みているだけで、そこには民主主義思想の理念を見出すことは出来ないのです。
 篤介は1877(明治10)年1月元老院を辞職しています。西郷が薩南に挙兵して西南戦争が勃発した時期に当たります。幸徳秋水は「兆民先生」で「元老院幹事故陸奥宗光君と善からずして」と述べていますが、辞職の真の理由は不明という外はありません。このころ篤介は「秋水」(おそらく「荘子」秋水篇からとる 金谷治訳注「荘子」第二冊 岩波文庫)の号で執筆するようになります(年譜「全集」別巻)。1878(明治11)年4月23日篤介は高知県士族松田庄五郎の長女鹿(しか)と結婚(「全集」第12巻 月報10)していますが、翌年9月離婚しました。

松本清張「火の虚舟」を読む12

 1880(明治13)年3月15日愛国社第4回大会が大阪で開催され、同年3月17日愛国社を国会期成同盟と改称、片岡健吉・河野広中を請願提出委員とすることを決議しました(「自由党史」岩波文庫)。しかるに政府は同年4月5日集会条例を制定(「法令全書」原書房)して、かかる反政府運動の抑圧をはかりました。
 のちに結党される自由党の準備会合が都市ならびに地方民権家合同で1880(明治13)年12月12日東京において開催されたとき、中江篤介ははじめて現実の政治活動に参加しました(「河野磐州伝」上巻 河野磐州伝編纂会編刊)。ここで政党準備は可決されたが、新聞発行は否決されたため、のちに自由党に参加するグループが企画したのが「東洋自由新聞」の発刊でした。
  1880(明治13)年10月21日西園寺公望がフランス留学から帰国しました。肥前出身でフランス帰りの松田正久がある日西園寺を訪問し、新聞を作るので社長になってくれるよう依頼、西園寺はひきうけて中江を引っ張って行こうかと云い、中江に西園寺が話すと中江は「金をくれるなら奮発しよう」と冗談半分に答えたそうです(「坐漁荘日記」昭和6年11月9日○東洋自由新聞の事 小泉策太郎「随筆西園寺公」小泉三申全集 第3巻 岩波書店)。

中江兆民のHomePage―中江兆民をめぐる人々―松田正久

 1881(明治14)年3月18日「東洋自由新聞」が創刊され、社長西園寺公望・幹事松田正久は無給、中江篤介は主筆として新聞紙上の社説に健筆をふるいました。
 西園寺公望が政府と対立する自由民権派の「東洋自由新聞」社長に就任すると、岩倉具視は西園寺実兄の宮内卿徳大寺実則を通じて明治天皇の内諭という形式で西園寺の「東洋自由新聞」社長辞任を申し入れました。西園寺公望は内諭を受け入れませんでしたが、内諭が内勅に格上げされると、西園寺は内勅に屈服(立命館大学編「西園寺公望伝」第1巻 岩波書店)、西園寺社長退社が同年4月9日に発表され、篤介は同年4月9日の社説「西園寺公望君東洋自由新聞社ヲ去ル」で西園寺社長の退社に抗議したのです。
 信州出身の記者松沢求策は「内勅」の事情を暴露した檄文を配布したため、同年4月23日逮捕され懲役70日の宣告を受けました。このような事情により「東洋自由新聞」は同年4月30日34号を発行しただけで事実上廃刊となりました(西田長寿編「東洋自由新聞」東大出版会)。
 篤介の論説は同紙上に無署名も含めて22篇掲載されていますが、第3号社説「君民共治之説」(「全集」第14巻)で政体の名称は数種あって、名ではなく実を問題にせよと説き、イギリスに国王はいるが、宰相を選ぶのも、法律を作るのも人民である。これは共和ではないか。実を主として考えれば、共和政治を君民共和といいかえればよいと主張しています。

松本清張「火の虚舟」を読む13

 「東洋自由新聞」廃刊の記事につづいて、(「自由党史」中)は次のように中江篤介を紹介しています。「篤介兆民と号す。土佐の人、維新前長崎に留学し、後ち又巴里に遊ぶこと数年、夙に仏蘭西学に得る所あり、奇才を以て世に推さる、其の自由主義を講するや、専らルーソーの民約論を祖述し、人爵を排し、階級を撃ち、議論奔放、天馬の空を行くが如く、青年の徒、風を聞いて来たり遊ぶ者多し、」
 1881(明治14)年10月自由党結成、翌年3月立憲改進党結党後、1882(明治15)年6月25日自由党機関新聞「自由新聞」が発刊、自由党総理板垣退助社長となり、社説掛には板垣退助・馬場辰猪らとともに中江篤介が名を連ねています(「自由党史」中)。
 しかし板垣外遊の資金の出所をめぐる板垣と馬場の対立が激化(「大山巌」を読む19参照)、同年9月28日馬場辰猪は自由新聞社員を解除(追放)されました(「自由党史」中)。篤介は馬場の正しさを認めながら、行動をともにせず、自由新聞の馬場追放の強引さと改進党攻撃に反発し、やがて自由新聞から退社しました。
 「自由新聞」の発刊準備が進んでいた同年2月20日仏学塾出版局は「(欧米)政理叢談」と題する雑誌を発刊、同誌第2号からルソー「社会契約論」の篤介漢訳「民約訳解」「全集」第1巻)が連載されるようになりました。

鷹の歌―「民約訳解」を読むーはじめにこちらを読んでくださいーはじめにー第一章以下

松本清張「火の虚舟」を読む14

 篤介はおそらく1886(明治19)年9月(明治22年9月届 「中江家戸籍」年譜「全集」別巻)、長野県東筑摩郡洗馬村出身で平民松沢吉宝の姪ワイの子松沢ちの(通称弥子 いよこ)と結婚しました。
 松沢ちのは被差別部落の出身だという噂がありました。巌本善治主筆の「女学雑誌」(明治22年12月7日付)に次の記事があります。
 「民権を伸ると云ひ、自由を張ると云ふものにして、尚ほ穢多新平民を別視するものあるに至ては、其陋見憫れむに堪へたり。吾人は彼の兆民居士が啻(つと)に大阪新平民の代議員たらんとするのみならず、現に其一婦人の婿となれるを見て大いに喜こぶもの也。」(「新平民」「全集」別巻)

麹町界隈わがまち人物館―メニューへー人名50音順―[あ行―1]―巌本善治

 松本清張氏は長野県東筑摩郡洗馬村まで調査して松沢ちの被差別部落出身説を否定しました。
 1887(明治20)年5月篤介は「三酔人経綸問答」を集成社から刊行しました。その構成を要約(桑原武夫・島田虔次訳・校注「三酔人経綸問答」岩波文庫)すると、酒好きで政治論議を好む南海先生の許へ、ある雨降りの日に金斧印の洋火酒(ブランデー)を持って2人の客が訪問する所から始まります。南海先生は彼らに会ったこともなく、名も知りません。一人は服装も洋風で、目もとすずしく、身体はすんなり、言語明晰です。他の一人はカスリの羽織にきりりとした袴の和装で、あさぐろい顔にくぼんだ目、見ただけでも冒険を喜ぶ豪傑連中の仲間と判ります。そこで南海先生は洋装の人物を紳士君、和装の人物を豪傑君とよんで姓名を尋ねようとしませんでした。
 まず紳士君が「私もまた、世界の形勢について、自己流の考えで見当をつけております。一度先生のご批判をうけたまわりたいものです。」と前置きして次のように主張しました。
 民主制こそ理想の政治体制です。「文明の進歩におくれた一小国が昂然としてアジアの端っこから立ち上がり、一挙に自由、博愛の境地にとびこみ、(中略)軍艦を商船にし、(中略)純粋に理学(哲学)の子となったあかつきには、もし彼ら(欧洲諸国)が侵略して来たとして、こちらが身に寸鉄を帯びず迎えたならば、彼らはいったいどうするでしょうか。剣をふるって風を斬れば、(中略)ふうわりとした風はどうにもならない。私たちは風になろうではありませんか。」

松本清張「火の虚舟」を読む15

 これに対して豪傑君は次のように主張します。「小さな国を急に大きくしようと思っても、できるはずがない。(中略)幸いなことに、国を大きくし、国を富まし、兵隊を増し、軍艦を多くする方法が、今日われわれに、ちゃんとあるのです。
 アジアだったか、アフリカだったか、大きな国がひとつある。(中略)一面とても弱い。つまり、よく肥えた大きなイケニエの牛なのです。(中略)その国の半分あるいは三分の一を割き取ってわが国とするならば、われわれは大国となるでしょう。もとの小国はすっかり民権主義者、民主主義者にくれてやろう。(中略)この連中、きっと大喜びでしょう。
 そもそも他国よりおくれて、文明の道にのぼるものはこれまでのいっさいをすっかり変えなければなりません。そうなると国民のなかにきっと昔なつかしの思いと新しずきの思いとの二つが生まれて、対立状態を示すようになるのは、自然の勢いです。(中略)文明国となる準備のために、改革計画を妨げる昔なつかしの元素は、すっかり切り取ってしまう」

高知市立自由民権記念館

 2人の客が南海先生の2人に対する批評を乞うと、先生はつぎのような批評を下しました。
 「紳士君の説は、ヨーロッパの学者がその頭の中で発酵させ、言葉や文字で発表したが、まだ世の中に実現されていないところの、眼もまばゆい思想上の瑞雲のようなもの。豪傑君の説は、昔のすぐれた偉人が、百年、千年に一度、じっさい事業におこなって功名をかち得たことはあるが、今日ではもはや実行し得ない政治的手品です。」
 2人の客は異口同音に「もし彼ら(欧洲諸国)がいつか、たけだけしくも攻めて来たとするならば、先生はいったい、どういう風に対処されるつもりですか。」
 南海先生「われわれはただ力のかぎり抵抗し、国民すべてが兵士となり、敵愾心をいよいよ激しく燃やすならば、どうして防衛することができぬなどという道理がありましょう。」
 洋学紳士「先生、どうか話の要点をつまんで、おっしゃってください。」豪傑の客「わが国将来の大方針について、先生のお考えをお教え願いたい。」
 南海先生「立憲制度を設け、上は天皇の尊厳、栄光を強め、下はすべての国民の幸福、安寧を増し、上下両議院を置いて、上院議員は貴族をあて、代々世襲とし、下院議員は選挙によってとる、それだけのことです。」
 噂によると洋学紳士は北アメリカに行き、豪傑の客は上海に行った、とも言う。そして南海先生は相変わらず酒ばかり飲んでいるという所で「三酔人経綸問答」は終了しています。
 松本清張氏はこの三酔人がすべて兆民の分身であったと述べていますが、この点についてはさまざまの説があります(田中彰「小国主義」岩波新書)。
 本書をひもとくとき、桑原武夫氏の解説(「三酔人経綸問答」岩波文庫)が指摘しているように、三酔人の主張が明治以降の日本にどのように受け継がれ、そして現在に至ったかという観点で読むことが重要で、興味のある方はぜひこの解説をご覧ください。
  同年8月「平民のめさまし」(文昌堂)を出版、はじめて「兆民」と号するようになりました(「全集」第10巻)。出典に相当する古典も見当たらず、「億兆の民」を意味する号でしょう。

松本清張「火の虚舟」を読む16

 1887(明治20)年井上馨外相の条約改正案に対するボアソナード・谷干城意見書が秘密出版で公表され、10月には片岡健吉らが植木枝盛起草の三大事件建白書(地租軽減・言論集会の自由・外交失策の挽回)を元老院に提出、一時衰退したかに見えた自由民権運動は再び盛り上がる情勢となってきました(「大山巌」を読む26参照)。
 同年12月2日後藤象二郎は天皇に拝謁を乞い、宮内大臣に拒否されると封事(密封して君主に奉る意見書)を奉呈して退出しましたが、これは中江兆民が後藤の意を受けて起草したものです(「自由党史」下)。
 これに対して政府は同年12月26日保安条例を官報号外により公布施行、秘密の結社集会の禁止・屋外の集会運動の制限・危険人物の退去命令などで、中江兆民は皇居3里以外に2年間追放され大阪に移転しました。大阪で民権派の新聞発行の企画があり、兆民は新聞主筆として招かれていたからです。
 1888(明治21)年1月15日「東雲(しののめ)新聞」(原田伴彦・村越末男監修「復刻東雲新聞」部落解放研究所)が創刊されました。
 「東雲新聞」に第3号から連載された「国会論」(「全集」第10巻)で兆民は完全普通選挙を主張、「土着兵論」(「全集」第11巻)では徴兵制に変えて民兵制を主張、理由として常備軍では地位や金の有る者は兵役をまぬかれるし、数十万の兵力を養うのは経済的ではないなどが挙げられています。
 さらに同年2月「東雲新聞」に2度連載された論文「新民世界」(「全集」第11巻)で兆民は「余は社会の最下層の更に其下層に居る種族にして、印度の「パリヤー」希臘(ギリシャ)の「イロット」と同僚なる新平民にして昔日公等の穢多と呼び做(な)したる人物なり」とし、「吾等の同僚中には死獣の皮を剥ぐ者有り公等の同僚中には死人の皮を剥ぐ者有るに非ずや獣の皮を剥ぐ者これを穢多と謂ひ人の皮を剥ぐ者これを医師と謂ふ何の論理法ぞや」と部落差別を痛烈に批判しました。

松本清張「火の虚舟」を読む17

 幸徳秋水が兆民宅を訪ねたのは1888(明治21)年11月で、兆民は「頭に真紅の土耳其(トルコ)帽を載き、身に東雲新聞の印半纏を着て出入りせしも此時に在りき。壮士演劇を創して其顧問たりしも此時に在りき。」(「兆民先生」)という変わった服装をしていたと幸徳秋水は伝えています。兆民宅には食客が「予等書生多きは四五人、少なきも二三人常に玄関に群居せり」(「兆民先生」)という状態であったようです。
 同年12月3日「東雲新聞」の記者であった角藤定憲(すどうさだのり)が大阪新町高島座で改良演劇と称して壮士芝居を公演しました(「全集」別巻 年譜)。これが新派(歌舞伎を旧派と呼ぶ)劇のはじまりといわれています。兆民と角藤定憲の関係については前掲の「中江兆民奇行談」に詳説されていますので、興味のある方はご覧下さい。

TownStroll-大阪の歴史の散策情報ー大阪市内のマップ概略ー肥後橋〜西大橋ー19 角藤定憲改良演劇創始の地の碑 

 1889(明治22)年2月11日大日本帝国憲法が発布されました(「大山巌」を読む27参照)。このことに関して「先生嘆じて曰く、吾人賜与せらるゝの憲法果して如何の物乎、玉耶将た瓦耶、未だ其実を見るに及ばずして、先づ其名に酔ふ。我国民の愚にして狂なる、何ぞ如此(かくのごと)くなるやと。憲法の全文到達するに及んで、先生通読一遍唯だ苦笑する耳(のみ)。」(「兆民先生」)

松本清張「火の虚舟」を読む18

 1890(明治23)年7月1日第1回総選挙が行われました(衆議院・参議院編「議会制度七十年史」政党会派編 大蔵省印刷局)。
 当時の衆議院議員選挙法(内閣官報局編「法令全書」第22巻ノ1 明治22年 原書房)によれば、被選挙人は満30歳以上の男子、直接国税15円以上を選挙府県内で前満1年以上納める者とされていました。選挙権も満25歳以上の男子で直接国税15円以上を納入することが必要とされ、直接国税15円以上とは田地1〜2町歩以上の地主か、年収1000円以上の者となり、選挙権有権者は約46万人、全人口の1.1%に過ぎませんでした。
 中江兆民は戸籍を高知から大阪府西成郡曽根崎村2767番地に移し、財産を被差別部落民らの名義を借り、大阪四区で衆議院議員に当選しました。
 同年11月29日開会された第1通常議会において、山県有朋内閣は軍備増強の予算案を提出しました。民党は民力休養・政費節減をスローガンに、軍艦建造費など政府予算案大削減で対抗しましたが、1891(明治24)年2月20日政府は民党の土佐派切り崩しで修正案(歳出削減額を縮小)を通過させました(「大山巌」を読む29参照)。
このことについて中江兆民は「衆議院彼れは腰を抜かして、尻餅を搗きたり総理大臣の演説に震懾(しょう 恐)し、解散の風評に畏怖し、両度迄否決したる即ち幽霊とも謂ふ可き動議を、大多数にて可決したり、(中略)無血虫の陳列場」(「全集」第12巻)と述べ、下記の辞表を衆議院に提出「小生事近日亜爾格児(アルコール)中毒病相発シ行歩艱難、何分採決ノ数ニ列シ難ク、因テ辞職仕候、此断及御届候也」、同年2月27日衆議院は辞職を承認しました(「帝国議会衆議院議事速記録」年譜「全集」別巻)。

松本清張「火の虚舟」を読む19

 1891(明治24)年4月20日「北門新報」が北海道小樽で創刊され、兆民が主筆となりました。彼は東京から「北門新報の発刊に就て」(「全集」第13巻)の原稿を送り、「一年三百日、内閣、国会、政党、撰挙、競争、離間、讒誣(ざんぶ 無実のことを云いそしる)等の瘴煙(しょうえん 毒気を含んだもや)中に吸嘘(呼吸)し、殆んど将に窒息せんとす」と述べ、内地から北海道を見るのは「炎天に冰水(ひょうすい 氷水)の看板を見るが如し」と嘆息しているようです。
 同年8月兆民は「北門新報」退社、札幌で高知屋という紙屋(材木屋目標)を開業しましたが長続きしなかったようです。
 1893(明治26)年3月一時中江家を離れて下宿していた幸徳秋水が三たび中江家に住みこむようになり、このとき幸徳は兆民から「秋水の二字を用ゐよ。是れ正に春藹の意と相反す。予壮時此号を用ゆ。いま汝に与へん。」(「兆民先生」)といわれたのです。幸徳の記録によれば、兆民は北海道、大阪をかけまわり、東京の自宅で妻子と暮らすのは金策がつくのを待つ間だけであったようです(幸徳秋水「兆民先生行状記」岩波文庫)。

幸徳秋水を顕彰する会―幸徳秋水 略伝 

 1897(明治30)年12月22日兆民は「国民党」を結成、翌年1月15日機関誌「百零一」創刊、この機関誌に発表された「創立趣意書」には「夫レ征清ノ役タル空前ノ偉業ナルモ還遼(遼東半島還付)ノ一躓(ち つまずき)頓(とみ)ニ国民ノ意気ヲ沮喪(そそう 気力がくじける)シ余ス所ハ亜細亜老大国ノ門戸ヲ打破シテ欧洲列強ノ為メニ覬覦(きゆ 限度を超えたことを望み願う)侵略ノ道ヲ闢(ひら)キタルニ過ギズ」(「全集」第15巻 )と述べ、日清戦争を肯定しました。
 1898(明治31)年年3月15日の第5回総選挙で国民党は一人も当選せず、国民党は解党して党員は憲政党に加入せざるを得なかったのです。
 信州飯田出身の伊藤大八は1877(明治10)年仏学塾に入った兆民の愛弟子でしたが、、第一議会以来自由党代議士となり、1892(明治25)年6月21日鉄道敷設法が公布されると自由党系の鉄道族議員として実力をたくわえ、1898(明治31)年6月30日第1次大隈重信憲政党内閣(隈板内閣)の時逓信省参事官兼鉄道局長となりました。

国立国会図書館―資料の検索―憲政資料室所蔵資料―旧蔵者50音順索引―いー伊藤大八関係文書

 中江兆民は1894(明治27)年から関東をはじめとして中国・四国・九州・奥羽地方の鉄道会社発起人となり伊藤大八に代表される政府高官との橋渡しをして報酬を得ていたようですが、期待するほどの報酬は得られなかったようです。
 群馬県議会は1881(明治14)年に公娼廃止の建議を可決、県令は廃娼令を布達しましたが延期され、1893(明治26)年12月31日廃止が実現しました。しかるに憲政党内閣の成立により任命された旧自由党系の群馬県知事草刈親明は公娼復活賛成を明言、そこで運動費を受け取り、板垣退助内務大臣と地方の旧自由党系の人物を橋渡しする役目を引き受けたのが中江兆民でした。草刈知事は公娼復活を許可するに至りましたが、憲政党内閣は短命で倒壊したため(「大山巌」を読む46・47参照)、新内閣によって草刈知事は免官となり、後任知事が許可を取り消し、兆民の運動は失敗、この件は当時の「毎日新聞」や「万朝報(よろずちょうほう)」(「群馬の大怪聞」1-13 万朝報刊行会編「万朝報」25 日本図書センター)に醜聞として連載報道されました。

松本清張「火の虚舟」を読む20(最終回)

 1900(明治33)年8月26日付の手紙で兆民は幸徳秋水に立憲政友会を批判した「祭自由党文」を執筆するよう依頼(「全集」第16巻)、これに応えて秋水は同年8月30日「万朝報」に「自由党を祭る文」を掲載しました。のちに紹介する予定です。
 ところが同年10月兆民は近衛篤麿が組織した対外硬(対露強硬)派の運動体「国民同盟会」に参加、秋水は「国民同盟会は蓋(けだ)し露国を討伐するを目的となす者、所謂帝国主義の団体也。先生の之に与(くみ)する、自由平等の大義に戻(もと)る所なき乎」と批判すると兆民は笑って「露国と戦はんと欲す、勝てば即ち大陸に雄張して、以て東洋の平和を支持すべし、敗るれば即ち朝野困迫して国民初めて其迷夢より醒む可し。能く此機に乗ぜば、以て藩閥を勦滅(そうめつ 滅ぼし尽くす)し内政を革新するを得ん、亦可ならずや」(「兆民先生」)と云ったそうです。

近代日本人の肖像―人名50音順―か・こー近衛篤麿

 1901(明治34)年3月22日兆民は突然喉から出血、大阪滞在中の4月中旬喉頭癌の診断を受け、医師から余命一年半を宣告されると、同年5月26日気管を切開、6月「一年有半」(「全集」第10巻)を執筆、8月3日脱稿、原稿を幸徳秋水に託し9月2日博文館から出版されました。
 同年9月6日兆民は堺の大上練炭会社事務所を発って東京に帰り、「続一年有半」の執筆を開始、約10日間で書き上げ、同年10月5日博文館から出版されました。

雁屋哲の今日もまた―アーカイブー2009年 05月―2009年5月22日(金)中江兆民の「一年有半・続一年有半

 同年12月13日中江兆民は55歳で死去、青山墓地の母の隣に埋葬されました。

中江兆民のHomePage―東京周辺の自由民権史跡―青山霊園―青山霊園の中江兆民関係者―兆民中江先生瘞骨(えいこつ 土中に埋めた骨)之標

 松本清張氏は兆民の「一年有半」の中にある「我儕(我輩)は是れ、虚無海上一虚舟」という文句がいちばん好きなんですといって、本書の叙述を終了しています。

 
2010-12-11 08:52 | 記事へ | コメント(1) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇20) |
2010年12月01日(水)
松本清張「火の虚舟」を読む1〜10
松本清張「火の虚舟」を読む 1

 松本清張「火の虚舟」(文芸春秋)は明治の自由民権運動の中心的理論家で「東洋のルソー」と呼ばれた中江兆民の生涯を講演形式で叙述した作品です。
 中江兆民は多くの著作や翻訳があるにもかかわらず、自伝もなければ日記もつけていません。幸徳秋水は師である中江兆民の晩年に自伝を書くように勧めると、兆民は笑って「我れ一寒儒の生涯、何の事功か伝ふるに足る者あらん哉。且つ夫れ自伝を艸(草)する、勢ひ知人故旧の秘密を暴露せざるを得ず。彼のルーソーの如きは忌憚なきの甚しき者、是れ予の忍ぶ能はざる所也」(幸徳秋水「兆民先生」岩波文庫)と答えたそうです。
 兆民の写真はパリ留学時代のものと、晩年の病中に子供の丑吉と並んで撮った白い髭のある顔のものと2枚残っています。後者は兆民が嫌がるのを家族が無理に撮らせたもののようで、これが兆民関係の本に使われているものです。写真を嫌ったということは、自伝を書かなかったこととともに、彼の閉鎖的性格を示すものではないでしょうか。
  兆民の死の直前に書かれた岩崎徂堂「中江兆民奇行談」(「世界ノンフィクション全集」2 筑摩書房)によれば、兆民は大酒のみで奇行の人であったそうです。同書には次のような挿話が紹介されています。
  兆民が四谷新宿辺を散歩していたとき、暑さにたまりかねて浴衣のままある家の天水桶(昔軒先などに置いた防火用の雨水を貯えた桶)に飛び込み、通りかかった巡査からはだかで公然かかることをなすと処分するぞと脅されました。兆民はこれに対して天水桶よりはい出し、はだかではない、この通り単衣(ひとえもの)を着ておるではないかと抗議したので、巡査はなすところなく帰ったそうです。

近代日本人の肖像―人名50音順―な・のー中江兆民 

 中江篤介(戸籍名 篤助)は1847(弘化4)年11月27日土佐国高知城下新町[他説 山田町(高知市はりまや町3丁目18番地「略歴メモ」中江兆民全集 別巻 年譜 岩波書店 以下「全集」と略)]で父卓介(元助)の長男として生まれました。
 山田町は足軽と町人が混住する町でしたが、篤介の父卓介は江戸詰めの下横目役(下級警察官)の足軽で後に足軽支配を離れたようです。、母は柳(りゅう)という名でした(明治25年作成「戸籍」 東京都文京区役所保管)。
 篤介は幼名を竹馬といい、後に1字にまとめて篤助を戸籍名としました。父は江戸詰めであったため事実上母子家庭で貧しい生活だったようです。母柳はのちに幸徳秋水に篤介の幼時を次のように語ったそうです。「篤介少時、温順謹厚にして女児の如く、深く読書を好みて郷党の賞讃する所となりき。而して今や即ち酒を被(あお)って放縦至らざる無し。性情の変化する、何ぞ如此(かくのごと)く甚しきや。此一事余の痛恨堪へざる所也、卿等年少慎んで彼に倣ふ勿れと。」(幸徳秋水「兆民先生」岩波文庫)
 1861(文久1)年父の死後、同年5月8日篤介は家督を相続しました。

土佐の歴史散歩―高知市―中心部―中江兆民誕生地案内板

松本清張「火の虚舟」を読む2

  1848(嘉永1)年土佐藩主となった山内豊信(とよしげ 容堂)は1853(嘉永6)年吉田元吉(東洋)を参政に起用し、洋式軍備強化をめざす藩政改革に着手しました(平尾道雄「土佐藩」吉川弘文館・「龍馬がゆく」を読む4参照)。
1858(安政5)年井伊直弼が大老に就任、同年10月幕府は土佐藩主山内豊信を隠居させ、翌年9月前藩主豊信は謹慎を命ぜられました。参政吉田東洋は土佐藩を幕府の方針に従う方向に転じました。
しかるに1860(万延1)年3月桜田門外の変により大老井伊直弼が暗殺され、幕府独裁体制が崩壊すると、同年7月武市瑞山は再び江戸に赴き、長州藩の久坂玄瑞・・桂小五郎・高杉晋作らと接触、1861(文久1)年8月江戸で土佐勤王党を結成しました(「土佐勤王党盟約書」武市瑞山関係文書一 日本史籍協会叢書 東大出版会)。
他方武市瑞山は上述のような意図の実現をはかり、1862(文久2)年4月8日土佐藩参政吉田東洋は土佐勤王党の那須信吾らによって暗殺されました(「維新史料綱要」巻4東大出版会・「龍馬がゆく」を読む6参照)。
吉田東洋が暗殺される3日前、藩校文武館(後に致道館と改称)が開設され、16歳の中江篤介が入学していました。

南国土佐へ来てみいやー土佐維新街道―土佐の高知のおらんく℃ゥ慢―[史跡]その他―Next―2008.12.28 致道館門

土佐藩校としての教授館は1760(宝暦10)年に創立されていましたが、嘉永年間に事実上廃絶状態となっていました。文武館は教授館の復活ではなく、文館と武館にわかれ、文館では細川潤次郎(十洲)が「蕃学」を教授していました。細川潤次郎は長崎で蘭学を学び、高島秋帆から砲術を学んで1857(安政4)年帰国、翌年藩命により江戸で中浜万次郎について英学を3年間勉学、帰国後、吉田東洋の下で制度改正御用をつとめ、文武館開館と同時に教授となった人物です(飛鳥井雅道「中江兆民」吉川弘文館)。
 のちに細川潤次郎の長男細川一之助が大山巌の次女芙蓉子と結婚することになります(「大山巌」を読む40参照・寺沢龍「明治の女子留学生」平凡社新書)。

幕末歴史探訪―地域別分類―長崎―高島秋帆

Web高知―土佐路ぶらりー土佐の偉人・異人―ジョン万次郎(中浜万次郎)

潤次郎は南新町の自宅で教授したそうですが、そこは山田町のすぐ近くで中江篤介は潤次郎の自宅に通ったのでしょう。しかし潤次郎は江戸と高知の往復に忙しく、実際には潤次郎の弟子で医学を緒方洪庵に学んだ萩原三圭の指導を受けることが多かったようです(飛鳥井雅道「前掲書」)。
 文武館において篤介は「蕃学」のみならず「漢学」についても学習しました。漢学は史学と経学(儒学)にわかれていましたが、篤介が愛読したのは「史記」で「史記の如きは之を暗(そら)んずるまで繙読(ひもときよむ)し、何てふ熟語は何伝にありと云ふことまで記憶せる積りなり。」(「兆民居士の文学談」「全集」第17巻)と述べています。

松本清張「火の虚舟」を読む3

 江戸で公武合体・雄藩連合を策していた前土佐藩主山内豊信(容堂)は1862(文久2)年4月8日の土佐藩参政吉田東洋暗殺以後、土佐勤皇党の破約攘夷方針に押されているかのような土佐藩の動向につよい不満をもっていました。
1863(文久3)年4月豊信が高知に帰ってくると、同年5月24日郷士以下の軽格の藩士すべてが集合させられ、藩奉行職は「一旦朋党の盟約相結び候輩といへども先非を改め、正道に相帰候得は、既往之小過は深く糾明仰付られず」と事実上の土佐勤王党解散命令を布告しました(「高知県史」近世篇 高知県・「龍馬がゆく」を読む9参照)。
平井収二郎・間崎哲馬・広瀬健太ら土佐勤王党の志士は、吉田東洋暗殺後も藩政改革が進まないのに焦慮し、京都で青蓮院宮の令旨をもらい、これを藩主の祖父に示して改革をおしすすめようと画策しました。同年4月容堂は平井・間崎を京都で逮捕させ、高知に檻送、同年6月広瀬を含む3名に切腹を命じました。
 中江篤介が1892(明治25)年執筆の「平井収二郎君切腹の現状」と題する覚書(「全集」第17巻)によれば、1863(文久3)年6月9日の夜、自宅近くの煮売屋の腰掛で町の人と雑談していたとき、近くの牢屋雇人が白木の水桶、青竹、白張の燈灯などをかついで、南の牢屋に向かっていました。平井収二郎らの切腹準備だったのです。皆で切腹を覗きみようとし、篤介は遠慮なく塀に攀登って見下ろしました。切腹は本人が短刀を腹に突きたてると介錯人がすぐに首を切り落とすもの聞いていた篤介は予想とは異なった光景を見ました。その原文は下記の通りです。
 「罰文を聴了(ききお)はるや、前に置ける九寸五分の短刀を三方と共に頂きて一礼し、然後(しかるのち)短刀の下に敷きたる布切を取り膝の上にて刀の中子を巻き斜に刀を操り尖を左腹に押当て軽々に引き廻はし僅に血をみるのみにて充分の気力を留め徐に喉を刺し是に於て力を極めて一割せし故少しもかく(口偏に畫)声を発せずして前に伏し其侭(そのまま)絶命せり」この回想文を依頼したのは平井収二郎の妹でした(「龍馬がゆく」を読む5参照)。

南国土佐へ来てみいやー土佐維新街道―土佐の高知のおらんく℃ゥ慢―[幕末土佐]維新の志士―Next―2009.07.29 平井収二郎墓所

 1863(文久3)年8月18日の政変(「龍馬がゆく」を読む9)参照)以後同年9月21日土佐藩は武市瑞山ら土佐勤皇党の主な指導者を投獄、翌日藩はこの勤王党弾圧が京都朝廷からのご沙汰であると藩内に布告しています(瑞山会「維新土佐勤王史」)。
  1865(慶応1)年閏5月11日武市瑞山ら土佐藩尊攘派は処刑されました(「維新史料綱要」巻6)。

松本清張「火の虚舟」を読む4

 1865(慶応1)年9月中江篤介は土佐藩から英学修行の目的で長崎へ公費留学を命ぜられました(「年譜根居帳」「全集」別巻)。長崎には安政年間以来幕府の語学研修所があり、同年8月「済美館(せいびかん)」と改称されましたが、篤介は済美館学頭平井義十郎に師事、フランス語学を学びはじめました。藩命には英学修行とあったのに篤介がなぜフランス語学を学んだのか不明ですが、当時の長崎在留外国人は英米人の商人が多かったのに対して仏人は少数ながらカトリック神父が中心でした。
1863(文久3)年長崎にきたプチジャン神父は1865(慶応1)年2月19日大浦天主堂(仏人フューレ設計)を建設完成、日本人に「フランス寺」とよばれました。このとき浦上の潜伏キリシタンが天主堂を訪ね、プチジャンにキリスト教信仰を告白したことは有名です(「近代日本総合年表」岩波書店)。

あじこじ九州―長崎県―(国宝)大浦天主堂

 当時イギリスが薩長に好意的だったのに対してフランスは幕府に接近、イギリスに対抗していました。またプチジャンは済美館で教えており(飛鳥井雅道「前掲書」)、おそらく篤介はフランス寺との接触があったとかんがえられます。

松本清張「火の虚舟」を読む5

 一方1865(慶応1)年夏坂本龍馬は亀山社中を長崎郊外の亀山に設立することに成功していました(「龍馬がゆく」を読む13参照)。中江兆民は後年幸徳秋水に坂本龍馬と自分の関係を次のように語っています。
 「先生曾て坂本君の状を述べて曰く、豪傑は自ら人をして崇拝の念を生ぜしむ、予は当時少年なりしも、彼を見て何となくエラキ人なりと信ぜるが故に、平生人に屈せざるの予も、彼が純然たる土佐訛りの方語もて「中江のニイさん煙艸(たばこ)を買ふてきてオーセ、」などゝ命ぜらるれば、快然として使ひせしこと屡々(しばしば)なりき。彼の眼は細くして其額は梅毒の為め抜上がり居たりきと。」(幸徳秋水「兆民先生」岩波文庫)。
 このような坂本龍馬と篤介の接近は何時ごろだったのでしょうか。慶応元年時点で龍馬は薩摩藩の保護下にあったとはいえ脱藩者としてお尋ね者であり、篤介は土佐藩公費留学生の身分でした。長崎には土佐藩の出張所である土佐商会があり、藩監視の目も厳しい状況の下で篤介が龍馬と親しく交際することは困難だったでしょう。

九州〜列車で行こう〜下町親父の珍道中―すべて表示―検索 土佐商会跡

 やがて篤介は江戸に出たいと思うようになり、長崎から江戸への直行便外国船の船賃25両の支出を長崎における藩留学生監督であった岩崎弥太郎に申し出たのですが断られ、藩参政後藤象二郎(「龍馬がゆく」を読む16参照)が長崎出張の折、扇面に書いた詩を提示して嘆願すると、後藤は笑って25両を出したので篤介は江戸に向かいました(幸徳秋水「前掲書」)。幸徳秋水の書くところによれば、詩の後半の二句は「此身合称諸生否 終歳不登花月楼」とあり、勉強のため一生遊郭に登楼する暇もなくなるの意ですが、この詩を見ると篤介はすでに長崎の丸山で放蕩の味を覚えていたようです。

松本清張「火の虚舟」を読む6

 篤介は江戸で旧松代藩士村上英俊が深川の真田藩邸内で開いていた私塾達理堂に入門しましたが、「先生学術儕輩に抜き、眼中人なく、気を負ふて放縦覊(き つなぎとめる)す可らず、屡々深川の娼楼、所謂仮宅に留連し、遂に村上先生の破門する所となれり。」(幸徳秋水「前掲書」)。深川は岡場所(江戸時代、江戸で官許の吉原以外の遊里)の多かった所で、幸徳秋水の文章にはどことなく、篤介が村上英俊を軽んじていた様子が伺えるようです。
 達理堂を破門された篤介は横浜天主堂の僧(神父)に学んだのですが(幸徳秋水「前掲書」)、おそらく長崎のプチジャン神父の紹介であろうと思われます。
 1868(慶応3年12月7日 太陽暦1868年1月1日)兵庫開港が実現(「維新史料綱要」巻7)、フランス駐日公使レオン・ロッシュは開港行事のため兵庫に行きました。横浜天主堂の神父たちはフランス外交団の通訳を兼ねていたので、篤介も通訳(おそらく臨時雇い)として採用され兵庫に赴きました。このときの様子を後に篤介は次のように述べています。
 「余や二十余年前、神戸開港のとき仏蘭西公使レオンローシ領事レック二氏に従ふて通弁官の列に在りき。毎夜「ラシャメン」(ロッシュの妾)「コック」、別当(馬丁)を教師として花(札)を引く否摘めり当時今の総理大臣伊藤(博文)伯、陸奥(宗光)公使、中島信行の三氏は判事(外国事務局)として該地に在り余一日判事庁に抵(いた)りて金を乞ひ、夫れより押し送り舟を買ふて大阪雑喉場に至り直ちに京都に赴きたり。」(「土佐紀游」第二 全集 第11巻)
 通訳をやめた篤介は再び東京に出て、福地源一郎(桜痴)が湯島天神下に開いた日新社の塾頭となってフランス語を教えましたが、福地が放蕩で授業をしなかったため、長続きしませんでした。

近代日本人の肖像―人名50音順―は・ほー福地源一郎―ま・もー箕作麟祥

結局篤介は1868(明治1)年5月ころ代々幕臣の蘭学者であった箕作麟祥(みつくりりんしょう)が神田に開いた塾に入門しました。箕作麟祥は明治新政府の信頼も厚く、箕作塾からかなりの人々が幕府の蕃書調所を引き継いだ大学南校に雇用されました。篤介も1870(明治3)年5月大学南校大得業生(だいとくぎょうせい 下級の教員 句読、翻訳を授ける 「東京大学百年史」 通史一 東京大学出版会)となっています(「官員録」 「全集」別巻 年譜)。
  ところが大学南校は学制改革のため、1871(明治4年)9月一時閉鎖され、同年7月廃藩置県のため篤介は土佐藩下級藩士としての身分も失ったのでした。

松本清張「火の虚舟」を読む7

 1871(明治4)年11月12日横浜を出発した岩倉使節団は43名の政府留学生を随行させていましたが、その中に中江篤介が含まれていたことはすでに述べた通りです(「米欧回覧実記」を読む2参照)。
 篤介がそれまで全く接触のなかった薩摩藩出身の大蔵卿大久保利通に直接交渉して政府留学生となったことは有名です(幸徳秋水「兆民先生」岩波文庫・勝田孫弥「甲東逸話」富山房)。
 はじめ篤介は大久保利通を訪ねて役所に行き、面会を申し入れましたが、警備役に断られました。そこで篤介は毎日役所の門前に遊びに行き、大久保の馬丁と親しくつきあうようになり、やがて馬丁に主人大久保に頼み事があるのだがどうしたらいいか相談しました。馬丁は主人の退庁時に黙って馬車の後ろに乗り、お屋敷到着時に頼み事を云ったらいいと教えてくれました。篤介は馬丁のすすめに従い、幸徳秋水の語るところ(「兆民先生」)によれば大久保利通に次のような内容の話をしたのです。政府が海外留学を官立学校の生徒に限るのは道理に合わない。官立学校生徒以外でも優秀な者は多い。げんに自分などは学術優秀で、国内では就くべき先生もなく、読むべき書物もないほどだ。同じく国民であり、同じく国家のためである以上、出身学校が官であろうが私であろうが、区別はありますまいと。
 大久保が「足下(そっか きみ)土佐人也、何ぞ之を土佐出身の諸先輩に乞はざる。」と訊くと篤介は「同藩の夤縁(いんえん 縁故)情実を利するは、予の潔(いさぎよ)しとせざる所也、」と応えたそうです。大久保は「善し、近日後藤、板垣諸君に諮(はか)りて決す可し。」と答えました(「兆民先生」)。

近代日本人の肖像―人名50音順―あ・おー大久保利通―さ・そー佐佐木高行

 「中江篤助・長州人河内宗一、律学修行トシテ佛国ヘ遣サル。右ハ佛国法律家入用ニ付、司法省ヘ暫時御雇ニテ、本文之通被 仰付候。志願者モ多ク有之候得共、両人見込アルニ依リ、周旋ノ上相運ビ候事。」(東大史料編纂所編「保古飛呂比―佐佐木高行日記」五 明治4年10月15日条 東大出版会)と記述されていることを見ると、大久保はおそらく篤介に約束した通り、後藤、板垣に相談したでしょうが、篤介の海外留学生採用には当時司法大輔(次官)であった佐佐木高行が関係していたようです。
 篤介は岩倉使節団とともに横浜を出発、アメリカ合衆国を経て、使節団よりさきにニューヨークから大西洋を渡り、明治5年正月11日(1872年2月19日)パリーに到着しました(「全集」別巻 年譜)。

松本清張「火の虚舟」を読む8

 1870年フランスは普仏戦争に敗北、ナポレオン3世は同年9月セダンの戦いでプロシャの捕虜となり、フランスは帝政を廃して共和制となりました。しかしプロシャは戦争を継続、1871年パリーを開城、フランスを屈服させたのでした。だが同年3月パリ・コンミューンが起こり、世界最初の労働者政権が成立、5月ティエールらのフランス臨時政府の弾圧により崩壊した後も第3共和制は不安定な状態がつづいていました。篤介を迎えたフランスの政治情勢はこのような時期にあたっていたのです。

WELCOME TO YOKOYAMA’S HOME PAGE―世界史ノート(近代編)−第13章 2.自由主義・国民主義の進展ー6.フランス第二帝政と第三共和政

 幸徳秋水は「先生が仏国留学中の事、親しくその詳細を叩くに遑(いとま)あらざりしは、今に於て予の深く遺憾とする所也。但(た)だ予は先生が、まず小学校に入れるを聞けり。而して児童の喧騒に堪へずして、幾(いくば)くもなくして去り、里昂(リヨン)某状師(弁護士)に就て、学べるを聞けり。先生が司法省の派遣する所たりしに拘らず、専ら哲学・史学・文学を研鑚したることを聞けり。孟子、文章軌範、外史の諸書を仏訳したることを聞けり。其渉猟せる史籍の該博なりしことを聞けり。」(「兆民先生」)と述べるのみで、篤介の仏国留学生活はそのほとんどが不明という外はありません。

外務省HP―外交政策―G/7 G/8―サミットの歴史についてー問.過去のサミットの議題及び成果は?―こちら参照―首脳会議・外相会議―リヨン会議―5 リヨン案内―U リヨン・今日の顔―リヨンと日本の関係

松本清張「火の虚舟」を読む9

 文部省が留学生を原則としてすべて呼び返すと通告したため、篤介はやがてリヨンを去って、旧知の馬場辰猪を訪ねてロンドンに赴き相談、パリーに戻りました。パリーで篤介は西園寺公望と知り合い(木村毅編「西園寺公望自伝」講談社)になりましたが、西園寺は篤介について「勉強よりも高論放談の方だった」と述べています。篤介が若くして亡くなった馬場辰猪を追悼する文(「弔馬場辰猪君」全集第11巻)に「余ノ天性無作法ナル仏国ニ居リ重ニ下等職人連ト交ハリ且酒ヲ呑ムヤ(馬場辰猪と)反対の性行益々極点ニ達シタリ」とある所を見ると、公家出身の西園寺公望が金のかかる遊びをしている(「日本料理」西園寺公望「陶庵随筆」国木田独歩編 中公文庫)のと対照的で、パリーにおける両者にあまり深い交際はなかったのではないでしょうか。

近代日本人の肖像―人名50音順―さ・そー西園寺公望―は・ほー馬場辰猪

  1873(明治6)年7月篤介はフランスでの留学生残留者6名の中に加えられたのですが、12月末文部省の留学生に対する「全員帰国令」が改めて出され、「仏国の教師、先生の才を惜みて、資を給して止まらしめんと云ふ」(「兆民先生」)状況であったのに、篤介は年老いた母を心配して帰国の途につきました。
 1874(明治7)年4月26日マルセイユから東回りの船に乗り、スエズ運河を通り、インド洋通過、サイゴン経由、上海で別の船に乗り換え同年6月9日日本に帰着しました。
帰国途中、篤介は次のような光景を目撃したと記述しています。
 「吾儕(ごさい 吾輩)嘗(かつ)テ印度海ニ航シテポルトサイド セイゴン等ノ諸港ニ碇泊シ岸ニ上リテ街衢(がいく)ニ逍遥セシニ英法(仏)諸国ノ氓(民)此土ニ来ルモノ意気傲然トシテ絶ヘテ顧慮スル所無ク其土耳古(トルコ)人若クハ印度人ヲ待ツノ無礼ナルコト曾テ犬豚ニモ之レ如カズ一事心ニ愜(叶)ハザルコト有レバ杖ヲ揮フテ之ヲ打チ若クハ足ヲ挙ゲ一蹴シテ過ギ視ル者恬トシテ之ヲ怪マズ(中略)抑々欧洲人ノ自ラ文明ト称シテ而シテ此行有ルハ之ヲ何ト謂ハン哉」(「論外交」全集 第14巻 ・「米欧回覧実記」を読む30・「大山巌」を読む19参照)
 帰国後篤介は直ちに大久保利通に報告に行くと、大久保は「目を閉じて、聞くが如く聞かざるが如く」眠っているようでした。篤介が抗議すると、大久保は笑って、いや決して眠っているのではない。「君に腹蔵なく満腔の所見を十分陳述せしめんと思ふがために殊更に目を閉ぢ」ているのだと云ったそうです(「甲東逸話」)。

松本清張「火の虚舟」を読む10

 中江篤介が帰国したのは1874(明治7)年1月板垣退助らが愛国公党を結成し、左院に民撰議院設立建白書を提出した(「雄気堂々」を読む15参照)直後のことで、同年10月ルソーの「民約論」(「社会契約論」)巻二の翻訳草稿(漢字カタカナ交じり文「全集」第1巻)を残しているので、彼がルソーを最重要視していたことがわかります。

谷底ライオンーライオンズ伝―ルソー

 同じころ篤介は「仏蘭西学舎」(のち「仏学塾」と改称)を東京麹町に開きました(「仏蘭西学舎開塾広告」「全集」第17巻 )。風刺画家ジョルジュ・ビゴーが「仏学塾」の教師を勤めていたこともあります(「外国人教師雇の願」 全集 第17巻)。

着物イメトレ部屋―小説の中の着物―ビゴー日本素描集 

 民撰議院設立建白書発表をきっかけとする自由民権運動は江藤新平による佐賀の乱失敗後沈滞し、政府内部も大久保利通と木戸孝允が気まずい関係となっていました。そこで1875(明治8)年2月11日大久保・木戸・板垣の大阪会議が開かれ(木戸公伝記編纂所「松菊木戸公伝」下 明治書院)、木戸・板垣は参議に就任、同年4月14日元老院・大審院を置き、地方官会議を設け、漸次立憲政体を立てるとの詔が出ました。他方政府は反政府運動取締りのため、同年6月28日讒謗(ざんぼう)律・新聞紙条例を制定しました(「法令全書」)。

自己採点用高校日本史―6エピソード高校日本史―第八章 近代国家の成立(2)―181-1 自由民権運動T−4

 篤介は同年2月23日東京外国語学校長に任命されましたが、5月18日元老院副議長後藤象二郎の上申により、元老院権少書記官に任命されました(「元老院日誌」年譜「全集」別巻)。
2010-12-01 08:20 | 記事へ | コメント(0) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇19) |
2010年10月11日(月)
児島襄「大山巌」を読む41〜50
児島襄「大山巌」を読む41

 朝鮮では1895(明治28)年初頭、政府の重要部署に日本人顧問を登用するなど、清国の影響を排除する改革が進行するかに見えたのです。しかし日本が三国干渉に屈服すると、朝鮮の政治情勢は急速にロシヤの影響力に頼る傾向を強め、日本人が訓練した軍隊である訓練隊を解散させようとしました。
 一方同年6月4日伊藤博文内閣は閣議で朝鮮への干渉をなるべく止めて、自立させる方針をとることに決定しました(「日本外交年表竝主要文書」上)。しかし井上馨は対朝鮮政策に困惑し、当時宮中顧問官で予備役陸軍中将三浦梧楼と朝鮮駐在公使を交代したい希望を表明していました(「世外井上公伝」第4巻 明治百年史叢書 原書房)。

近代日本人の肖像―人名50音順―ま・もー三浦梧楼 

 井上馨は同郷の三浦梧楼が熟慮実行型ではなく、どちらかといえばやや単純な直情径行型の人物であることをよく知っていたはずです。しかし井上馨は6月22日上京して閣議に出席し政府の対朝鮮不干渉政策に賛成するとともに、朝鮮駐在公使を三浦梧楼と交代することについて伊藤首相の内諾を得ました。
 外交経験に乏しい三浦梧楼は政府に@日本が独力で朝鮮国の防衛と改革にあたる、A朝鮮国を日本と列国との共同保護国とする、B一強国(ロシヤ)と朝鮮半島を分割占領する、の三案のうちいずれか、もしくはどのような案でもよいから方針を明示してくれれば、自分は身命を捧げて任務を遂行する旨を上申(350 対韓政策ニ関スル三浦新公使意見書「日本外交文書」第28巻第一冊)しましたが、政府は回答しませんでした。
 同年7月19日三浦梧楼は特命全権公使に任命されましたが、任国は発令されませんでした。三浦の上申に対する政府の回答がなければ、朝鮮に赴任しないと三浦が主張したからです。
 当時西園寺公望が外相代理を務めていたにもかかわらず、山県有朋が三浦に会って赴任を求めました。そこで三浦は「我輩は政府無方針の儘に渡韓する以上は、臨機応変自分で自由に遣るの外は無いと決心したのである。」(三浦梧楼「観樹将軍回顧録」伝記叢書46 大空社)と記述しています。
 三浦は同年9月3日朝鮮国王に謁見して信任状を奉呈しました。

児島襄「大山巌」を読む42

 前朝鮮駐在公使井上馨が1895(明治28)年9月17日漢城を去った後、漢城新聞社長安達謙蔵が三浦公使を訪ねて新公使の抱負を訊くと三浦は「どうせ一度はキツネ狩をせねばならぬが、君の手許に若い者がどれくらゐ居るか」と応えました。
 同年10月3日三浦は一等書記官杉村濬、宮内府顧問岡本柳之助とともに次のような計画を立てました。@常ニ宮中ノ為ニ忌マレ自ラ危ム所ノ訓練隊ト時勢ヲ慷慨スル壮士輩ヲ利用シ、A暗ニ我京城(漢城)ノ守備隊ヲモ之ニ声援セシメ、B以テ大院君ノ入闕(にゅうけつ 入宮)ヲ援ケ、C其機ニ乗ジ宮中ニ在テ最モ権勢ヲ擅(ほしいまま)ニスル王后陛下(閔妃)ヲ殪(たお 殺害)サン(353 「広島地裁 韓国王妃殺害事件予審終結決定書」市川正明「日韓外交史料」5 原書房)。

釜山でお昼をー過去の釜山や近郊の様子―昔の生活と文化―雑記―閔妃暗殺―広島裁判の被告人

 三浦公使は同年10月7日深夜から8日未明にかけて行動をおこすために、漢城守備の大隊長馬屋原務本少佐に「訓練隊ヲ操縦シ且守備隊ヲシテ之ニ声援セシメ、大院君ノ入闕ヲ容易ナラシムヘキ」と命令[公使の命令に服従すべきは高等軍衙(おそらく参謀本部をさす)の訓令による]、領事館警察の警部萩原秀次郎も指示をうけて巡査を招集しました。漢城新聞社長安達謙蔵の指揮する壮士隊は8日午前2時ころ大院君を擁して光化門を日本軍守備隊が用意した梯子で乗り越え王宮内に侵入、国王夫妻が居住する乾清宮に赴き、閔妃を探索しましたが、壮士は誰も閔妃を視たものがなく、女官に囲まれた気品ある美女を殺害、女官から閔妃の頬に疱瘡の痕があることを壮士が訊きだし、死体を見て確認したといわれます(212 明治二十八年十月八日王城事変顛末報告ノ件・349 韓国王妃殺害事件軍法会議判決書 市川正明「前掲書」)。
 一方大院君は長安堂で国王と会見して、この際日本公使の指導下に改革断行を進言、国王は無言で大院君の進言を裁可しました。
 大院君の国王謁見後、安達謙蔵ら壮士隊は引き揚げたのですが、光化門外には多数の市民が異様な壮士隊の様子を目撃していました。彼らが鐘路街を通行しているとき、朝鮮の有力閣僚たちが逃げ込んで、事件を知った露公使ウェーバーと米代理公使アレンを乗せた2台の馬車が王宮に向かって走ってきました。

児島襄「大山巌」を読む43

 露公使ウェーバーと米代理公使アレンは左右に三浦公使と大院君が侍立する朝鮮国王に謁見後、日本公使館を訪問して三浦公使を詰問しました(15 王妃殺害事件ニ付各国使臣トノ談話報告ノ件 市川正明「前掲書」)。

釜山でお昼をー過去の釜山や近郊の様子―人物名―りー李昰応

 1895(明治28)年10月8日付伊藤首相宛て三浦公使は事実を伝えて政府に事件収拾を委ねるべきとする内田定槌領事の進言により公使自身の事件関与を示唆する内容の電報と西園寺外相代理宛てロシヤ公使らとの問答を報告した電報を発信しました。政府は外務省政務局長小村寿太郎らを漢城に派遣して、真相調査と適切処置を命じたのです。 
 小村寿太郎らの派遣を知ると、内田領事は一等書記官杉村濬を通じて漢城新聞社主筆国友重章と協議、領事館警察の取り調べを受けるべき人物12名を選定、取り調べの節同一の申し立てをするよう申し合わせ、10月12日取り調べ責任者萩原秀次郎警部が調書を作成しました。しかし萩原警部は事件関係者の一人ですから、被疑者が被疑者を取り調べたことになり、事件の真相を究明するものとはならなかったことは明らかでしょう。しかも小村寿太郎は事件関係者を速やかに帰国させ、日本で処分するほうが得策であるとし、また処分するかしないかを慎重に検討すべきと政府に意見を具申しました(70 三浦公使帰朝処分ノ件 市川正明「前掲書」)。
 日本政府は10月17日三浦公使の召喚と小村寿太郎の弁理公使を発令、壮士たちは10月20日仁川を出航、宇品に入港すると警官が謀殺罪および兇徒嘯聚罪の広島検事局逮捕状を示して手錠をかけられました。
 三浦梧楼も公使館付武官楠瀬幸彦中佐らとともに10月23日仁川を出航しましたが、下関海峡で西園寺外相代理から公使罷免と広島に直行すべき電報をうけ、やがて壮士と同じく逮捕状を示され監房に収容されました。
 事件について軍人は第五師団軍法会議、三浦梧楼らは広島地方裁判所で審理、1896(明治29)年1月14日付楠瀬中佐以下8人に対し無罪判決(349 市川正明「前掲書」)、同年1月20日付予審判事は三浦梧楼らを証拠不充分により免訴としました(355〜6 市川正明「前掲書」)。
 判決後三浦梧楼が上京すると侍従米田虎雄が来訪、天皇に心配をかけて申し訳ないと三浦が謝ると米田は「イヤお上はアノ事件をお耳に入れた時、遣る時には遣るナと云ふお言葉であった」と応えました(「観樹将軍回顧録」)。この米田侍従の言葉は天皇の発言を正確に伝えたものかどうか不明ですが、正確に伝えたものならば、天皇の発言は当時の政府首脳の本音を不用意にもらした独白とも推察されます。
 同年2月11日露公使ウェーバーは朝鮮国王と世子を露公使館に移し(露館播遷)、朝鮮国王は政府を同公使館に置くことを宣言、親露派の要人で新内閣が組織され、各機関の日本人顧問は解雇されました。

児島襄「大山巌」を読む44

 日清戦争後の日本の政策はは対ロシヤをめぐる政治外交に力点がおかれたといえるでしょう。明治29年度予算は歳入1億3789万円余、歳出は1億5218万円余で増税と公債発行で戦後経営の急務即ち対露軍備増強を賄ったのです。
 賠償金は円に換算して3億4405万余円でそのうち7895万余円を臨時軍事費特別会計の補填にあて、5403万余円を陸軍、1億2526万余円を海軍拡張費にまわし、残額8000万余円を次の戦費として貯蓄する方針でした。
ロシヤは清国が日本への賠償金支払いに苦労しているのを視て1895(明治28)年6月フランスとともに共同借款を供与、イギリスもこれに対抗してドイツとともに清国に融資、この4国借款で清国は日本への賠償金を期限内に完済しました。
1896(明治29)年4月30日ロシヤ皇帝ニコライ2世の戴冠式(5月26日)参列のため清国の李鴻章はペテルブルクに到着、露蔵相ウィッテと交渉、6月3日露清同盟(秘密)条約を締結、日本に対する攻守同盟とそのため黒竜江省と吉林省を横断してウラジオストックに至る鉄道(東清鉄道)敷設権をロシヤに与え、権利者を露清銀行とすることなどをとりきめました。
 一方朝鮮国王は1896(明治29)年2月以来ロシヤ公使館に滞在する状態がつづいていたので、同年5月14日小村寿太郎朝鮮駐在公使はロシヤ公使ウェーバーとと次のような覚書(「日本外交年表竝主要文書」上)を交換しました。@日露両国代表者は朝鮮国王が安全を確認すれば王宮に還御するよう忠告する、A日露両国は漢城および開港地の日本人居留地を保護するため日本軍4個中隊(1中隊200名以下)の駐留を認め、ロシヤも日本兵力を超過しない衛兵を駐留することを認める。
 露清同盟条約締結後、同年6月9日ロシヤ外相ロバノフ・ロストウスキーは李鴻章とおなじくロシヤ皇帝の戴冠式に出席した山県有朋とモスクワで朝鮮問題に関する日露議定書(山県・ロバノフ協定「日本外交年表竝主要文書」上)に調印、その特徴は小村・ウェーバー覚書の内容をほぼ確認する程度の合意でした。
 1897(明治30)年朝鮮国王はロシヤ公使館から王宮にもどり、10月16日国号を大韓と改称しました。
 同年11月14日ドイツは同国宣教師が殺害されたことを口実に山東半島膠州湾にドイツ艦隊が入港、陸戦隊が青島を占領、翌1898(明治31)年3月6日清独間の膠州湾租借(99年)条約を締結、つづいて同年3月27日ロシヤは遼東半島の旅順・大連両港租借(25年)権と東清鉄道南満州支線(南満州鉄道)敷設権を獲得、4月22日日本は福建不割譲に関する日清交換公文を交わしました(「日本外交年表竝主要文書」上)。イギリスは6月9日香港対岸の九龍半島(99年)を、7月1日には山東半島威海衛(25年)を租借、フランスは1899(明治32)年11月16日広州湾(99年)を租借、アメリカは1898(明治31)年4月の米西戦争でフィリピン獲得後、清国に進出を企図して翌年9月6日米国務長官ジョン・ヘイが清国の門戸開放・機会均等・領土保全覚書を列強に通告し、中国分割参加の意図を表明しました(鈴木俊編「中国史」世界各国史\ 山川出版社)。

世界飛び地領土研究会―膠州湾―威海衛―香港―広州湾―古い世界地図―その他各種の地図―東支鉄道(東清鉄道)路線図

児島襄「大山巌」を読む45

 1896(明治29)年5月21日大山巌の長女信子が19歳で肺結核のため死去しました。
 徳富健次郎(蘆花)は1898(明治31)年8月、逗子の旅館柳屋で同宿した元大山巌大将副官福家安定中佐夫人安子から蘆花夫人愛子に語る大山信子の不幸な生涯について知ることを得たのです(福田清人・岡本正臣「徳富蘆花」清水書院)。

近代日本人の肖像―人名50音順―た・とー徳富蘇峰・徳富蘆花 

 徳富蘆花は同年11月29日から兄徳富猪一郎(蘇峰)の経営する国民新聞に小説「不如帰」(ほととぎす)」の連載を開始、その要旨は海軍少尉川島武男と愛妻浪子の病気をめぐる悲恋を描いたもので、翌年5月24日まで同新聞に掲載され、1900(明治33)年刊行、1901(明治34)年2月大阪朝日座で芝居として上演されるほどの人気を得ました(秋庭太郎「日本新劇史」筑摩書房)。
 ところがこの小説で浪子の父「片岡毅陸軍中将」を「この大山巌々として物に動ぜぬ大器量の将軍」(徳富蘆花作「不如帰」岩波文庫)という表現があり、其の他だれが読んでも「片岡毅」が「大山巌」をモデルとしていることがわかる文章が続くのです。しかも浪子は「早くより英国に留学して男まさりの上に西洋風の染みし」継母に冷たく扱われることになっており、継母のモデルにされたと察しのつく大山巌夫人捨松は悩みぬいたようです(久野明子「前掲書」)。

「不如帰」ネット文学記念館

児島襄「大山巌」を読む46

 1896(明治29)年6月9日の山県・ロバノフ協定締結後、同年9月18日第2次松方正義内閣が同年3月1日立憲改進党を中心として結成された進歩党を与党として成立(外相は進歩党首大隈重信)、大山巌に代わり高島鞆之助陸軍中将が陸軍大臣に就任しました。しかし松方首相は政党との連携に失敗、1898(明治31)年1月12日第3次伊藤博文内閣(外相西徳二郎、陸相桂太郎中将、海相西郷従道、蔵相井上馨など)成立、同年1月20日元帥府(げんすいふ 天皇の軍事上の最高顧問機関)条例公布(「官報」)、陸軍大将山県有朋・小松宮彰仁親王、大山巌、海軍大将西郷従道に元帥の称号が授与され、同時に陸軍中将川上操六が参謀総長に任命されました。
 同年6月10日自由・進歩両党は連携して衆議院で日清戦争賠償金を陸海軍拡張費にあてることに伴う歳入不足を補うために伊藤内閣が提出した地租増徴案を否決、衆議院は解散されました(林田亀太郎「日本政党史」上巻 大日本雄弁会)。
 同年6月22日自由・進歩両党は合同して憲政党を結成、同月24日伊藤首相は元老(天皇を補佐し重要政策決定に影響力をもった政治家 憲法外の存在)会議で憲政党に対抗するため、@首相在職で政府党を組織、A下野して政党を結党、B憲政党に政権を渡すなどの方針を示したのですが、山県有朋はすべてに反対して激論となりました。同日伊藤首相は辞表を提出、後継首相に大隈重信・板垣退助を推薦、同月27日大隈・板垣に組閣命令が下されました(「伊藤博文伝」)。かくして第1次大隈重信内閣(内務大臣板垣退助)いわゆる隈板(わいはん)内閣とよばれる最初の政党内閣が誕生することになったのです(林田亀太郎「前掲書」)。

児島襄「大山巌」を読む47

 しかし同内閣は陸海軍大臣は桂太郎・西郷従道を留任させることで山県有朋ら政党内閣反対派と妥協して発足、同年8月21日尾崎行雄文相が帝国教育会夏季期講習会の修了式における演説で最近の日本における「拝金熱」について「百千年の後共和政体設立するが如き(勿論なかるべきも)場合は、三井・三菱が大統領候補になるかもしれぬ」(共和演説・「新聞集成明治編年史」)と述べたことについて、山県有朋の指示をうけた陸相桂太郎は首相大隈重信に重大問題化する恐れがあると警告しました。

近代日本人の肖像―人名50音順―あ・おー尾崎行雄 

また川上操六参謀総長は桂太郎陸相とともに内相板垣退助に働きかけ、板垣は10月21日天皇に文相弾劾上奏を行ったのです。10月24日尾崎文相は辞表提出、閣議は後任文相をめぐって紛糾、大隈首相は独断で犬養毅を文相に奏請すると、板垣退助ら旧自由党系閣僚が辞表提出、10月31日大隈重信内閣は崩壊しました(大津淳一郎「大日本憲政史」第4巻 明治百年史叢書 原書房)。
 10月29日憲政党旧自由党派は大会を開催して憲政党解散と新憲政党結成を議決、11月2日板垣内相は旧進歩党系の憲政党を集会および政社法違反として禁止したので、同月3日憲政党旧進歩党系は憲政本党を結成してこれに対抗しました(林田亀太郎「前掲書」下巻)。

児島襄「大山巌」を読む48

1898(明治31)年11月8日第2次山県有朋内閣(外相青木周蔵、陸相桂太郎、海相山本権兵衛、蔵相松方正義)が成立、山県首相は憲政党を抱き込んで同年12月20日懸案の地租増徴法案可決に成功しました。 
 1899(明治32)年3月28日文官任用令改正が行われました。従来の文官任用令においては判任官・奏任官については学識検定を必要とする規定がありましたが、勅任官などの高級官吏は閣僚の奏薦によるとされていたため、内閣と進退を同じくしたり、情実人事の温床となったりしました。そこで山県首相は高級官吏が不偏不党を維持し、法定の理由以外で解任されないよう身分保障することを目的として文官任用令改正と文官分限令・文官懲戒令を公布し、政党の官僚統制を困難とする措置をとりました(徳富猪一郎「公爵山県有朋伝」)。
 同年5月11日参謀総長川上操六陸軍大将が死去、後任に大山巌が任命されました(徳富猪一郎「陸軍大将川上操六」伝記叢書 大空社)。

近代日本人の肖像―人名50音順―か・こー川上操六 

1900(明治33)年3月10日治安警察法(「法令全書」)を公布、政治結社・集会・示威運動の規制と労働運動・農民運動の取り締まりを規定しました。さらに同年5月19日陸軍省・海軍省官制を改正(「勅令」)、軍部大臣の現役大・中将制を確立、軍部は彼らの意向に協力しない内閣に閣僚を送らないことによって、内閣の存廃をきめる力を持つに至りました。
このような山県有朋内閣の政策に対して、6月1日憲政党は伊藤博文に党首就任を要請しましたが、伊藤はこれを断り、新党組織を示唆、憲政党は新党への無条件参加を申し入れ、8月25日伊藤博文は政友会創立委員会を開き、宣言および趣意書を発表、9月13日憲政党臨時大会は政友会参加のため解党を宣言(林田亀太郎「前掲書」)、9月15日立憲政友会発会式(総裁伊藤博文 所属代議士152名)が挙行されました(小林雄吾「立憲政友会史」第1巻 日本図書センター)。 

児島襄「大山巌」を読む49

 義和団はもともと義和拳とよばれる呪術で、18世紀末直隷・山東地方におこり、もし義和拳をおこなえば刀鎗・銃丸でも身体を傷つけることはないと信ぜられていました。清国政府はしばしば兵を出して鎮圧につとめ、一時ほとんど衰滅したかと思われていましたが、近年直隷・山東の地にキリスト教が拡大、とくに山東は儒教の祖孔子の生誕地で外国を排斥する風が強く、外人宣教師との紛争が絶えませんでした。山東省の威海衛・膠州湾のような外人占領地において民衆が外人を殺害し、教会堂を焼くなどの事件が頻発、このような情勢の中で義和拳が復活、義和団が台頭してきたのです。
 1900(明治33)年5月3日青木周蔵外相は駐清公使西徳二郎に対して、義和団に関し欧米諸国と共同の措置をとるよう訓令を発しました。5月20日北京駐在の11カ国公使団は清国に対して義和団の速やかな鎮撫を要求、5月31日英仏露米伊日の陸戦隊400余名が太沽に停泊する各国軍艦から北京に到着しましたが、6月8日北京・天津間の鉄道不通、10日には電信も不通、11日北京日本公使館書記生杉山彬が永定門外で殺害されるに至ったのです(「日本外交文書」第33巻別冊一 北清事変 上 巌南堂書店)。

坂口筑母の部屋―過去ログー2010.3.28−西徳二郎 自筆 書状

 同年6月15日山県有朋内閣は参謀総長も出席した閣議で清国へ陸軍部隊を派遣を決定、各国公使に通告しました(「日本外交文書」第33巻別冊「北清事変」)が、このとき派遣兵力量を討議しようとしたとき、参謀総長大山巌は「出兵すへきや否やは内閣の決議を要する固より当然なれとも、其兵力及び編成等に関しては本職其責に任し調査決定すへき」(陸軍省編「明治軍事史」明治百年史叢書 原書房)と主張、このことをめぐって山県有朋首相と意見の対立があったようですが、天皇の裁可を得て当面の清国派遣隊を編成しました。

児島襄「大山巌」を読む50(最終回)

 同年6月19日清国総理衙門はは各国公使に24時間以内の北京立ち退きを要求、翌日義和団は北京各国公使館を包囲しました。
 6月23日英代理公使は青木外相に北京列国公使館救援のため日本出兵の意向を問う覚書を提出、7月5日には派遣軍増員を要請、翌日日本政府は閣議で混成1個師団清国増派を決定(「日本外交年表竝主要文書」上)、派遣日本軍は総計約22000に達すると各国公使に通告しました。

近代日本人の肖像―人名50音順―あ・おー青木周蔵 

 同年7月8日英代理公使は青木外相に対して清国へ日本軍を増派すれば、財政上の援助を辞せずとし、7月14日には日本軍2万人増派すれば100万ポンド援助と通告しました(「日本外交年表竝主要文書」上)。同年7月末8カ国連合軍は33000(その2/3日本軍)に達し、8月14日北京城内に侵入、翌日列国公使館区域を救援しました(「北清事変」)。
 「その(義和団)鎮圧に際し最も強力な先鋒となり、更に最も忠実に列強の方針に随従することに依って、日本は始めて列国と対等の立場を獲得し世界の舞台に登場するに到り愈々(いよいよ)極東の憲兵(軍事警察官)としての実力を買われたのであった。」(外務省編「小村外交史」明治百年史叢書 原書房)。
 1901(明治34)年9月7日北清事変に関する最終議定書(「日本外交年表竝主要文書」上)調印、日米英仏露独墺伊白西蘭11カ国代表と清国側全権慶親王・李鴻章の間の交渉で、清国は賠償金4億5000万海関両の39年分割払いと太沽砲台撤去、北京公使館区域の各国駐兵権などを承認しました。
2010-10-11 05:16 | 記事へ | コメント(0) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇18) |
2010年10月01日(金)
児島襄「大山巌」を読む31〜40
児島襄「大山巌」を読む31
 
  1892(明治25)年8月8日第2次伊藤博文内閣が成立、外務大臣は陸奥宗光、大山巌は陸軍大臣に復帰しました(「官報」)。
 同年11月30日フランスから廻航していた砲艦千島が瀬戸内海で英国船ラヴェンナ号(ピーオー社所有)と衝突沈没する事件が発生、日本政府は翌年5月横浜領事裁判所に損害賠償請求の訴訟を起こしました。しかるにピーオー社は逆に日本側に責任があるとして1893(明治26)年10月25日上海の英高等裁判所で日本が敗訴しました(外務省編「日本外交文書」第26巻)。
 1892(明治25)年11月29日第4議会開会、民党は翌年1月26日政府予算案の軍艦建造費などを削減、2月7日衆議院は内閣弾劾上奏決議案を可決(「議会制度七十年史」帝国議会史 上巻)、2月10日「在廷ノ臣僚及帝国議会ノ各員ニ告グ」の詔書が出され、軍備拡張のため、内廷費毎年30万円ずつ6年間下付、同期間中は文武官俸給の1割を納付させて製艦費補助に充てることを命ぜられました。これにより衆議院は2月22日製艦費を含む予算案を可決しました(「議会制度七十年史」帝国議会史 上巻)。
1893(明治26)年4月24日大山巌の長女信子16歳が西郷従道夫妻の媒酌で三島弥太郎(故三島通庸の長男)と結婚しました。

近代日本人の肖像―人名50音順―ま・もー三島通庸 

このとき大山巌50歳、夫人捨松33歳、次女芙蓉子12歳、三女留子10歳、四女久子8歳、長男高7歳、次男柏3歳でした。
やがて同年7月10日信子は嫁ぎ先から実家に帰されてきました。肋膜炎または肺患(肺結核)の疑いがあるとの医師の診断で沼津の別荘や横須賀の親戚などに転地療養となりました。
やがて大山巌の長女信子の嫁ぎ先三島家から信子の離婚話が持ち込まれてきました。大山家は冷却期間をおいて信子の療養に取り組むべきだと考え、横須賀の親戚に頼んで三島家との音信を信子に知らせずに絶つことを依頼しました。ところがこのままでは離婚になるかもしれないとの夫三島弥太郎の書簡を偶然見てしまった信子は高熱を発して倒れ、大山巌は横須賀の親戚から信子を千駄谷の自宅に連れ帰りました。そのころ三島家から信子の嫁入り道具や衣装が送り返されてきていました。大山巌は自宅の庭の一隅に離れ屋を建て信子の療養所としたのです。

児島襄「大山巌」を読む32

一方千島艦事件の日本敗訴により、同年10月安部井磐根、大井憲太郎らは大日本協会を組織し対外硬派を形成して内地雑居反対・対等条約締結・現行条約履行・千島艦訴訟事件詰責を主張、改進党も同調、自由党は反対しました(林田亀太郎「日本政党史」大日本雄弁会)。

北九州のあれこれー北九州の歴史―明治時代3−1 日清戦争

1893(明治26)年11月28日第5通常議会が開会、12月19日衆議院に安部井磐根ら提出の現行条約励行案を上程、10日間の停会を命じられました。さらに12月29日陸奥外相の現行条約励行反対の演説後さらに14日間の停会を命じられ、政府は大日本協会に解散を命令、翌日衆議院は解散となり、翌1894(明治27)年3月1日第3回臨時総選挙実施、結果は民党が130議席を占め、無所属を何人か民党側に引き寄せることができるなら、衆議院を支配できる情勢となっていました。
かくして国内の世論は排外主義・対外硬・対清硬に向かっていました。キリスト教の立場から戦争に反対していた北村透谷(北村透谷「平和」発行之辞 其の他 家永三郎編「日本平和論大系」 第1巻 日本図書センター)は同年5月自殺、反戦の立場を守ったのは少数のキリスト教徒だけでした。

エッセイの森―もう一つの森―15 北村透谷・小田原

同年3月27日陸奥外相がイギリス駐在の青木周蔵公使に宛てた書簡で「内国ノ形勢ハ日又一日ト切迫シ、政府ハ到底何カ人目ヲ驚カシ候程ノ事業ヲ、成敗ニ拘ラスナシツヽアルコトヲ明言スルニアラサレハ、コノ騒擾ノ人心ヲ挽回スヘカラス。サテ人目ヲ驚カス事業トテ、故モナキニ戦争を起ス訳ニモ不参候事故、唯一ノ目的ハ条約改正ノ一事ナリ。」と述べています(「陸奥宗光関係文書」国立国会図書館憲政資料室 藤村道生「日清戦争」岩波講座「日本歴史」近代3 引用)。
同年5月15日第6特別議会開会、5月30日衆議院は内閣弾劾上奏決議案を可決(「議会制度七十年史」帝国議会史 上巻)、6月2日衆議院はまたもや解散されました。第2次伊藤博文内閣がかかる強気の対応に踏み切った理由は何だったのでしょうか。

児島襄「大山巌」を読む33

 1894(明治27)年6月1日朝鮮駐在代理公使杉村濬は東学党指導の農民暴動による全州占領と朝鮮政府の清国への援兵要請を陸奥外相に報告、日本政府はこの報告を6月2日受信しました(「日本外交文書」第27巻ノ二)。

理解する世界史&志向する競馬ー理解する世界史ー年表4−1894 朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱)

 日本政府は同年6月2日の閣議で清国の出兵に対抗、混成1個旅団の朝鮮派遣を決定、同月5日大本営(戦時中に設置された大日本帝国陸海軍の最高統帥機関)を参謀本部内に設置しました(陸軍省編「明治軍事史」明治百年史叢書 原書房)。
 6月7日清国公使は陸奥外相に朝鮮国王の要請により属邦保護のため出兵することを通告、外相は朝鮮を清国の属邦と認めないと抗議、、駐清代理公使小村寿太郎は清国政府に公使館保護のため日本軍出兵を通告しました。6月10日休暇帰国中の大鳥圭介朝鮮駐在公使は軍艦八重山に搭乗、海軍陸戦隊に守られて漢城に帰任、同月12日混成旅団先頭部隊は仁川に到着しました(「日本外交文書」第27巻ノ二)。

児島襄「大山巌」を読む34

 大鳥公使は漢城に入ると意外に平穏で清国派遣の軍隊も牙山に滞陣、さらに内地に進軍する様子もないので、同公使はしきりに日本政府に電報を送り、当分の間多数の軍隊を派出するのは外交上得策でないことを勧告してきました。これに対して陸奥外相は「然れども翻て我国の内情を視れば最早騎虎の勢(物事の勢いに乗じて中途でやめにくいこと)既に成り中途にして既定の兵数を変更する能はざる」により「仮令外交上の多少の紛議あるも大島少将の率いる本隊(即ち混成旅団)をして尽く京城(漢城)に滞陣せしめ尚ほ朝鮮政府に対し速に其内乱を鎮圧するの得策なるを説き之が為めには我が兵を仮し援助すべしと申込むべしと訓令したり」(陸奥宗光「蹇蹇録(けんけんろく)」岩波文庫)と述べています。

近代日本人の肖像―人名50音順―ま・もー陸奥宗光 

 6月16日陸奥外相は清国公使に東学党の乱の共同討伐ならびに朝鮮内政の共同改革を提案しましたが、清国は拒絶、日本は内政改革実現まで撤兵せずと通告しました。
 同年6月末から7月にかけて、英露両国は日清関係の調停斡旋を申し入れてきましたが、清国政府はこれを拒絶、調停は失敗しました。
 すでに1891年3月29日ロシヤ皇帝アレクサンドル3世はシベリヤ鉄道建設の勅書を発表、来るべきロシヤの極東への影響力増大に衝撃をうけたイギリスは極東の同盟国として憲法制定による政治の近代化を達成し、経済における産業革命に突入しつつあった日本を評価、不平等条約の撤廃と対等条約調印に同意する情勢にありました。
 かくして1894(明治27)年7月16日日英通商航海条約(領事裁判権撤廃、関税率引き上げ実現・外務省編「日本外交年表竝主要文書」上)が調印されたのです。このとき英外相キンバーレーは「此条約ノ性質タル日本ニ取リテハ清国ノ大兵ヲ敗走セシメタルヨリモ寧ロ遙ニ優レルモノアリ」と述べたと青木周蔵公使は報告(対英談判終了に付青木公使報告 外務省編「前掲書」)しています。
 同年7月23日日本軍は漢城の朝鮮王宮を占領、朝鮮軍を武装解除し、国王は日本の圧力により大院君に国政総裁を命じました。7月25日大院君は清・朝鮮宗属関係の破棄を宣言、牙山の清国軍撤退を大鳥圭介公使に依頼しました(「日本外交文書」第27巻ノ一)。

児島襄「大山巌」を読む35

 1894(明治27)年7月19日大本営は連合艦隊に清国軍増援部隊の阻止を命令しました(参謀本部「明治二十七八年日清戦史」第1巻 東京印刷)。
 同年7月25日連合艦隊第1遊撃隊 吉野(旗艦)、秋津洲、浪速3艦は豊島沖で清国軍艦 済遠、広乙を攻撃(海軍軍令部編「廿七八年海戦史」春陽堂)。日本側公式戦史はすべて清国軍艦が先に発砲したと主張しています。これに対して清国側は開戦の上諭(天子がさとし告げる文 「清光緒朝中日交渉史料」巻十六引用 「日本外交文書」第27巻ノ二)で「我備えざるに乗じ、牙山口外海面に在りて、砲を開いて轟撃し」(原漢文 書き下し文とする)と述べ、日本軍艦が先に発砲したと主張しています。日本軍艦浪速は清国軍を乗せた英国籍船舶高陞号を撃沈、英国の世論は日本の賠償を要求しましたが、英国国際公法学者「ホルランド」らは浪速艦の行為を失当にあらずと論述、英国政府も納得するに至りました(「蹇蹇録」)。この豊島沖の海戦により日清戦争が開始されました。

大連紀行―日清・日露戦争―大連と日清・日露戦争―日清戦争

児島襄「大山巌」を読む36

 つづいて7月29日大島混成旅団は朝鮮の成歓を、同月30日には牙山を占領、8月1日日本は清国に宣戦布告しました。宣戦の詔勅は「苟(いやしく)モ国際法ニ戻ラサル限各々権能ニ応シテ一切ノ手段ヲ尽スニ於テ遺漏ナカラムコトヲ期セヨ」(「日本外交年表竝主要文書」上)と宣言しています。
 成歓の戦いで中隊長松崎直臣大尉と死んでもラッパを口から離さなかった第9中隊ラッパ卒白神源次郎は日清戦争における陸軍戦死者第1・2号とされましたが後に死んでもラッパを口から離さなかったのは第12中隊のラッパ卒木口小平に訂正され、国定修身教科書で「キグチコヘイハ(中略) シンデモ ラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」と記録されたのです(西川宏「ラッパ手の最後 戦争の中の民衆」青木書店)。

MegaphoneBeat―虎スポット(岡山編)−壮烈喇叭手の碑

 9月1日第4回臨時総選挙が実施され、10月18日第7臨時議会が広島で開会されましたが、臨時軍事費特別会計法や軍費支出のための公債募集にかんする法律を可決、議会は戦争に協力しました(衆議院・参議院編「議会制度七十史」帝国議会史 上巻)。
 一方同年9月1日大本営は第1軍を編成(軍司令官 山県有朋大将 12月18日野津道貫中将に交代)、同月15日平壌を総攻撃、翌日占領。このとき大院君が清将に送った密書が発見され、彼の面従腹背が明らかとなりました(「蹇蹇録」)。大本営は広島に移され、9月15日明治天皇は広島に到着しました(「官報」)。
 同年9月17日連合艦隊(司令長官 伊東祐亨海軍中将)は清国北洋艦隊(司令長官 丁汝昌)主力に遭遇、北洋艦隊に損害を与えました(黄海海戦・海軍軍令部編「廿七八年海戦史」春陽堂)。黄海海戦の勝利により、日本軍は黄海の制海権を握り、遼東半島上陸作戦が可能となったのです。
 同年10月25日新たに朝鮮駐在公使として漢城に赴任した井上馨は後に平壌で発見された大院君の密書を彼に提示し、大院君を政権から放逐しました(「蹇蹇録」)。

児島襄「大山巌」を読む37

 1894(明治27)年10月3日大本営は第2軍を編成(軍司令官 大山巌大将)、同月24〜26日遼東半島花園口に上陸、11月6日金州城を占領しました(参謀本部編「明治廿七八年日清戦史」参謀本部)。さらに11月21日旅順口攻略をめざして、11月17日第2軍は前進を開始したのです。ところが11月18日第2軍先鋒秋山好古少佐指揮の捜索騎兵ならびに第3連隊第1大隊は旅順口北方の土城子の戦いで、第2軍の半島攻略戦最初の戦死者11名を出したのでしたが、その死体は例外なく斬首されて頭部を持ち去られ、身体にもあるいは両腕を切られ、腹部を乱刺し、中には陰部をえぐられた遺体もあったということです。
 「實ニ言語ニ絶スル惨殺ノ状ヲ目撃セラレタル山路(第一師団長 山地元治陸軍中将)将軍ハ大ニ怒リ此ノ如キ非人道ヲ敢テ行フ国民ハ婦女老幼ヲ除ク外全部剪除セヨト云フ命令ガ下リマシテ旅順デハ實ニ惨又惨、旅順港内恰(あたか)モ血河ノ感ヲ致シマシタ」[向野堅一(第一師団司令部付き通訳官)「明治廿七八年戦役余聞戦役夜話」井上晴樹「旅順虐殺事件」筑摩書房 引用 ]
 第2軍の旅順虐殺は土城子における清国軍の日本兵士死体損壊がきっかけであったとされていますが、清国兵の死体損壊行為の理由の一つは日本兵の首や身体各部に懸賞金がかけられていたからであると「チャイナ・ガセット」(8月27日付)は述べています(井上晴樹「前掲書」)。しかし第2軍兵士はこのような清国軍の行為に復讐心をたぎらせたことはたしかで、しかも師団長という第2軍幹部の組織的命令が「婦女老幼ヲ除ク」と限定されていたにもかかわらず、婦女老幼を含めた殺戮へとエスカレートしていった主要な要因であったことは確かです。
 有賀長雄(第2軍司令部参謀部付法律顧問)の著作(「日清戦役国際法論」哲学書院)によれば、第2軍司令官大山巌は住民が殺戮されたことを認めています。

児島襄「大山巌」を読む38

 虐殺された人数は何人あったのでしょうか。旅順白玉山の東麓に旅順虐殺事件から2年目にあたる1896年11月21日殉難した人々を弔うために「万忠墓」の3文字を刻んだ石碑が建立され、官兵商民男婦の被難者一万八百余名が火葬され、遺灰は集められてここに葬られている旨の41文字が彫られているということですが、曲伝林「万忠墓記」には一万八百余名は誤りで、実際は一万八千余名と記されていて、これが現在の中国側の公式数字とのことです(井上晴樹「前掲書」)。しかし虐殺は旅順周辺にまで及んだことを考えるとその人数は一万八千余名をさらに上回ると考えられます。
 同年11月22日ワシントンにおいて日米通商航海条約(対等条約)が調印(「日本外交文書」)され、元老院(上院)で審査中、陸奥宗光は「其後幾程もなく不幸にも彼の旅順口虐殺事件と云ふ一報が世界の新聞紙上に上るに至れり」(「蹇蹇録」)と述べ、米国の新聞紙中には痛く日本軍隊の暴行を非難、暗に今回の日米新条約で治外法権を放棄するのは危険との意を諷するに至ったと言い、英国の国際公法学博士「ホルランド」は「日清戦争に於ける国際公法」と題する論文において彼ら(日本の将卒)は戦闘の初日を除き其翌日より四日間は残虐にも非戦者、婦女、幼童を殺害したと述べていることを紹介し、「これ過大の酷論なるべし」と記述しています。陸奥外相は12月17日付米国「ワールド」紙に「真の非戦闘員のほとんどは、日本が包囲する前に旅順を立ち去っていた」などの弁明を掲載しましたが、この弁明が事実でなかったことを大江志乃夫氏が詳説(「東アジア史としての日清戦争」立風書房)しているので、興味のある方は御覧ください。

児島襄「大山巌」を読む39

 1895(明治28)年1月20日第2軍主力は山東半島栄城湾に上陸、2月2日威海衛軍港陸岸を占領、2月11日北洋艦隊司令長官丁汝昌は自決、北洋艦隊は翌日連合艦隊に降伏しました(参謀本部編「明治二十七八年日清戦史」第6巻 東京印刷)。
 すでに清国は張蔭恒・邵友濂を講和全権委員に任命したことをアメリカ公使を通じて日本に通告、日本側は内閣総理大臣伊藤博文と外務大臣陸奥宗光が、清国代表と交渉する全権弁理大臣に任命され、広島で会談、ところが清国全権は全権委任状を持たないことを理由に同年2月1日日本全権は清国全権との交渉を拒否しました。そこで清国は2月19日講和全権に李鴻章を任命したことをアメリカ公使を通じて我が国に通告、これに対して日本は下関を両国全権会談の地に指定、同年3月20日伊藤・陸奥両全権は下関春帆楼で来日した李鴻章と全権委任状を交換、第1回会談が行われました(「日本外交文書」)。

九州〜列車で行こう〜下町親父の珍道中―名所&うまい山口―タイトルー春帆楼―検索

 陸奥宗光は李鴻章を評して「彼は古希(70歳)以上の老翁に似ず状貌(容貌)魁偉(大きく立派)言語爽快にして曾国藩が其容貌詞令以て人を圧服するに足ると云ひしの的評なるを覚ゆ」(「蹇蹇録」)と述べています。

独学ノートー単語検索―李鴻章

 同年3月24日李鴻章は第3回講和会議帰途暴漢に狙撃されて負傷、このため3月30日かねて清国が要求していた日清休戦条約(台湾・澎湖列島を除く)に調印(「日本外交文書」)、同年4月17日日清講和条約調印(「日本外交年表竝主要文書」上)、清国は朝鮮の独立を承認、遼東半島・台湾・澎湖列島を日本に割譲、賠償金として庫平銀2億両を日本に支払い、日本と欧米諸国並みの通商条約(不平等条約)締結を約束、講和条約施行の担保として日本軍隊の山東省威海衛占領を承認しました。
 しかるに4月23日在東京露・独・仏公使は外務省に林董次官を訪問(陸奥宗光外相は播州舞子で病気療養中)、本国政府の訓令を受けたとして遼東半島の清国への返還を勧告する覚書を提出しました(三国干渉・「日本外交年表竝主要文書」上)。
 同年4月24日広島における御前会議は三国干渉に関し列国会議招集による処理にまとまりましたが、翌日舞子に来訪した伊藤首相に陸奥外相はこの問題を列国会議にかけても意見はまとまらず、かえって下関条約全体が破滅する危険性があるとして反対、結局三国に対しては譲歩せざるを得ないが、清国に対しては一歩も譲歩しない方針とし、天皇の裁可を受けました(「蹇蹇録」)。同年5月4日政府は閣議で遼東半島の全面放棄を決定、翌日露・独・仏三国公使にこの旨を通告しました(「日本外交文書」)。

児島襄「大山巌」を読む40

 1895(明治28)年5月21日大山巌は征討大総督小松宮彰仁親王とともに神戸に帰港、同月25日神戸から京都に向かい、歓迎群衆に囲まれる中を京都御所に到着、明治天皇臨席の立食宴の後、夕刻から開かれた京都府民の凱旋祝賀会に臨みました。同月26日大山巌は陸相に復帰、29日帰京する天皇に従い、30日東京に到着(尾野実信「前掲書」)、京都を遙かに越える群衆の歓迎に迎えられたのでした。大山を迎えた家族は夫人捨松はじめ18歳の長女信子、14歳の次女芙蓉子、12歳の三女留子、10歳の四女久子、9歳の長男高、6歳の次男柏みな元気でしたが、巌は捨松から長女信子の病状は楽観を許さず、信子の夫三島弥太郎の再婚の話がすすめられ、三島家から正式に離婚申し入れがあったことを告げられたのです。

栃木県立図書館―資料案内―特別コレクション―大山柏文庫―大山柏氏略歴

 同年6月8日大山巌は夫人捨松と長女信子を伴い、凱旋報告のための伊勢神宮参拝の名目で西下しましたが、実は旅行中信子にそれとなく離婚問題を納得させるための旅行だったようです(久野明子「前掲書」)。
 同年6月19日大山は奈良見物に向かう捨松夫人、信子とわかれて、日本政府との打ち合わせのため神戸に来た井上馨朝鮮駐在公使との会談に赴きました。
 同年9月16日大山巌長女信子は三島弥太郎と正式に離婚しました。
2010-10-01 04:41 | 記事へ | コメント(0) |
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2010年09月21日(火)
児島襄「大山巌」を読む21〜30
児島襄「大山巌」を読む21
  
  1882(明治15)年8月5日大山巌が帰京したとき、夫人沢子は病床に伏し、容体は重篤となっていました。大山はドイツ人医師で1876(明治9)年東京医学校(東大医学部の前身)教授として招聘されたエルヴィン・ベルツの往診を求めましたが、周辺の必死の介護もむなしく、沢子は同年8月24日死去したのです。
「今日、国民の中で第一流の女性の一人である、陸軍卿大山大将夫人の葬儀が行われた。産褥熱におかされて、二日前に永眠したとき、夫人は二十三歳だった。(中略)一週間前、夫人の病床に呼ばれたときは、もう意識もなく、青白くやつれ果てていた。夫人を診察したのは発病後三週間目のことで、すでに絶望状態にあった。だが大山将軍は、夫人を毎日みてくれるようにとの希望だった。自分はその希望に従い、夫人が徐々にではあるが確実に、死の手におちてゆくのを見守ったのである。その時、医術の無力、人間の無能をどれほど痛感したことか!」(トク・ベルツ編「ベルツの日記」上 明治15年8月25日条 岩波文庫)

軽井沢周辺案内 観光案内―観光―道の駅草津ベルツ記念館

大山巌は5歳の長女信子をはじめ3人の幼娘をかかえて若妻に先立たれ、途方にくれていました。

児島襄「大山巌」を読む22

大山巌私邸を故沢子の父吉井友実が訪問して巌に縁談を持ち込んできました。候補者は陸軍大佐山川浩(大蔵)の妹山川捨松だったのです。

鹿鳴館の貴婦人

呆嶷館(ほうぎょくかん)−会議室発言集―山川大蔵

山川捨松(「米欧回覧実記」を読む2・4参照・「大山巌」を読む9・11参照)はアメリカ留学後ニューヘヴン市の宣教師レオナード・ベーコン博士宅に寄宿、同地のハイスクールを経てヴァッサーカレッジに進学しました。彼女の友人マリアン・ホイットニー夫人の回想によれば、彼女は「ほっそりとして優しい感じのする女の子」で、同じころエール大学にに留学していた山川健次郎(後に東京帝国大学総長)は捨松が母国語を忘れないよう毎週1回彼女に日本語のレッスンを受けさせたので、捨松はどの科目より難しいとこぼしていたそうです。
1882(明治15)年6月14日山川捨松はヴァッサーカレッジを卒業、ニューヘヴン病院で2カ月看護婦コースを修学、同年11月末津田梅子とともに帰国しました。同年12月捨松と同じアメリカ留学仲間永井繁子と結婚した海軍兵学校教官瓜生外吉の結婚記念パーティに大山巌も招待されましたが、このとき在留外人の素人芝居―シェークスピア「ベニスの商人」の英語劇が開催されました。このときユダヤ商人シャイロックをやりこめるポーシャの役をつとめたのが山川捨松で大山巌はこのとき彼女を見ていた筈です。
大山巌の希望を得て吉井友実が捨松の兄山川浩に彼女の結婚について意向を内々に探ってみると、山川浩は即座に辞退したようです。やはり幕末以来の薩摩に対する会津の敵意と遺恨はそう簡単に水に流せる事柄ではなかったのでしょう。
その後この二人の縁談がどのように進められたのか不明ですが、この縁談をまとめるために徹夜の説得も辞さなかったのは西郷従道(西郷隆盛弟)であったそうです(久野明子「鹿鳴館の貴婦人 大山捨松」中央公論社)。1883(明治16)年11月8日に大山巌と捨松の結婚式が挙行されました。両人の結婚披露宴は新築の「鹿鳴館」で開催されたのです。

発祥の地コレクションー東京千代田区ー鹿鳴館時代の発祥地

児島襄「大山巌」を読む23

 1881(明治14)年10月12日明治23年に国会を開設する旨の詔書が発せられると、翌年3月14日伊藤博文は憲法調査のため東京を出発、主としてドイツに滞在、ベルリン大学教授グナイスト、ウイーン大学教授スタインの憲法講義を受け、ドイツ宰相ビスマルクと会見、彼の政見を聴取して1883(明治16)年8月3日帰国しました(「伊藤博文伝」)。
 このような日本の将来の政治体制をドイツに範をとる方向を見定めて、1884(明治17)年2月16日陸軍卿大山巌は川上操六・桂太郎両陸軍大佐らを随員として欧州兵制視察のため横浜を出発、ドイツからメッケル少佐を陸軍大学教官として招聘契約(尾野実信「前掲書」)、1885(明治18)年1月25日帰国しました(「明治政史」明治文化全集 正史篇 日本評論社)。

杜父魚文庫ブログーPROFILE―kajikablog―ARCHIVES―August 2006―4/7PAGES―2006.08.13−明治陸軍育ての親・メッケル少佐 古沢襄

1884(明治17)年9月加波山事件が起こり、自由党首脳部はこのような自由民権運動の激化に恐怖感を抱いたもののようです。同年10月29日自由党大会が大阪で開催され自由党は解党、板垣退助は「暫らく郷里に帰りて午眠を為さんとす」(解党の演説「自由党史」下)と述べています。

散歩の変人―カテゴリー関東―2010.04.16 下館・益子編(2)加波山事件志士の墓(09.8)

児島襄「大山巌」を読む24

この間に1884(明治17)年12月4日朝鮮では甲申事変が起こりました(外務省編「日本外交文書」第17巻)。壬午事変以後清国への依存度を深めた閔氏政権が再建されました。清国は朝鮮政府を指導して日本の進出を防ぐため、1882〜6年の間に米・英・独・伊・露・仏との間に通商条約を締結させました。
 清国の影響力拡大、日本の勢力後退という情勢の下で、朝鮮政界は閔氏一族ら清国に依存する事大党と日本と結び改革を実行しようとする金玉均・朴泳孝ら独立党との対立が激しくなりました。
 「自由党史」によれば、金玉均・朴泳孝らは日本政府が対朝鮮政策で積極的でないことを歎き、三田慶応義塾の福沢諭吉に援助をもとめ、福沢は後藤象二郎を金玉均らに紹介しました。

近代日本人の肖像―人名50音順―は・ほー福沢諭吉

後藤は独立党援助のための政治資金の調達に悩み、1884(明治17)年秋、板垣退助に相談、板垣は仏国公使を介して仏銀行家より資金調達の約束を取り付けました。たまたま後藤と会った伊藤博文は後藤から独立党援助計画を聞き、これを井上馨外務卿に伝えたところ井上はこのような大事を在野の人物に託してはいけないとし、済物浦条約の償金50万円のうち40万円を返附して朝鮮改革の資金とする方針に転換したと言っています。
 1884(明治17)年ヴェトナムをめぐって清仏戦争が起こり、8月清国がフランスに敗北すると、同年11月12日朝鮮駐在公使竹添進一郎は朝鮮における清国勢力打破のため、(甲案)親日派を扇動して内乱を起こすか、(乙案)親日派を保護するにとどめるかにつき、伊藤博文・井上馨両参議に請訓、両参議は11月28日乙案を可とし、公の干渉を行わないよう電訓しました(市川正明編「日韓外交史料」第3巻 原書房)。しかしこの電訓が届かないうちに金玉均・朴泳孝らは閔氏政権を打倒するために日本と結んで武装蜂起し、独立党政権を樹立する計画を練り、その期日として同年12月4日が選ばれたのです。
 この日は漢城郵征局(郵便局)落成式があり、漢城駐在の公使・領事や政府要人の閔氏一族も出席することになっていました。日本の竹添進一郎公使は急病を理由に欠席、代理が出席していました。
 落成祝宴中金玉均一派が郵征局付近に放火、局外に出ようとした閔泳翊が切られ局内に逃げ込んだため、局外に出てくる閔氏一族を暗殺する計画は失敗しました。そこで金玉均は清兵作乱を国王に告げ、王宮から景祐宮に国王を移し、国王自筆の「日使来衛」と書いた紙片を日本公使館に届けさせ、公使館護衛の駐屯日本軍は出動して景祐宮の四門を警備しました。
 知らせを受けて景祐宮に駆けつけた政府要人のうち、金玉均が指定した人物だけを宮廷内にいれ、閔氏一族ら清国派が暗殺されました。同年12月6日早朝独立党は親日派政権を樹立、政綱を発表しました。
 ところが12月5日の朝宮廷重臣の一人が清国軍兵営に来て、国王を日本軍から救出するよう要請があり、12月6日午後日清両国の軍事衝突が起こり、竹添進一郎公使と日本軍は日本公使館に撤退せざるをえないことになりました(田保橋潔「前掲書」)。
 12月6日竹添公使は機密書類を焼き、国旗を降ろして公使館警備日本軍とともに仁川に避難、途中公使館付武官磯林真三大尉ほか日本人男女40人が殺害され、公使館は再びおしよせた暴徒に焼かれました。竹添公使を除いて公使館関係者および日本軍兵士ならびに金玉均らは12月11日定期船「千歳丸」で仁川を出港、日本に逃れました(「朝鮮京城事変始末書」明治文化全集 第11巻 外交篇 日本評論社・田保橋潔「前掲書」)。
 1885(明治18)年1月9日特派全権大使井上馨外務卿は左議政金宏集全権と甲申事変処理の漢城条約(「日本外交年表竝主要文書」上)に調印、朝鮮政府は国書により日本に謝罪、死傷者に賠償金支払い、犯人処罰、日本公使館再建を約束しました。
 同年4月18日参議伊藤博文全権大使は清国直隷総督李鴻章と天津条約(「日本外交年表竝主要文書」上)を締結、朝鮮から日清両国軍共同撤兵、将来派兵の際の行文知照(公文書のやりとり、照会)、両国とも軍事教官を派遣しないことなどを約束しました。

児島襄「大山巌」を読む25

 1885(明治18)年12月22日太政官制を廃止し、内閣総理大臣および宮内・外務・内務・大蔵・陸軍・海軍・司法・文部・農商務・逓信の各大臣を置き、宮内以外の大臣で内閣を構成することを定めました(「法令全書」第18巻ノ2 原書房)。また内閣職権を定め、内閣総理大臣の権限(各大臣の首班として行政を統督、ただし軍機事項は陸軍大臣より報告を受けるにとどまる、すなわち統帥権の独立の法文化)を規定しました。 また同日内閣総理大臣に伊藤博文、外務大臣井上馨、陸軍大臣大山巌、海軍大臣西郷従道、農商務大臣谷干城、文部大臣森有礼らが任命され、第1次伊藤博文内閣が成立しました(「明治政史」明治文化全集 第9巻 正史篇 上)。

近代日本人の肖像―人名50音順―た・とー谷干城

 相次ぐ朝鮮半島における壬午・甲申事変の続発と清国の朝鮮支配の強化に対抗して、海軍大臣西郷従道は陸軍大臣大山巌と協議、1886(明治19)年6月15日海軍公債証書条例を公布(勅令)、海軍拡張のため利率5分で1700万円を公募する措置をとりました。また陸相大山巌は明治20年度予算に陸軍軍備増額を要求、苦慮した伊藤首相は天皇に帝室費の一部を下賜することを奏請、天皇は海防整備のため手許金30万円を下賜することを決定しました。同年3月23日伊藤博文は鹿鳴館に地方長官を招集、地方有志の海防費献金を求めることを訓示、9月末までに203万円余を集めました(「伊藤博文伝」)。また蔵相松方正義は年収300円以上収入に1/100〜3/100の所得税を創設しました(勅令)。

児島襄「大山巌」を読む26

 一方我が国外交の重要課題の一つに条約改正問題があります。1886(明治19)年5月1日井上馨外相は各国公使と第1回条約改正会議を外務省で開催、正式に条約改正案を提出しました(外務省編「日本外交文書」第19巻)。翌年4月22日第26回条約改正会議は裁判管轄に関する英独案を修正議了しましたが、その内容は次の如くです。@批准後2年以内に日本内地を外国人に開放、A泰西(西洋)主義による司法組織、法律を制定、B外国籍の判事・検事を任用する(外務省編 条約改正関係「日本外交文書」経過概要 巌南堂書店)
 また同年4月20日には首相官邸で仮装舞踏会が開催(「伊藤博文伝」)され、伊藤首相は伊太利ベニス貴族の服装、大山巌陸相はチョン髷で大小を腰にさしていました(時事新報の記事「自由党史」下 引用)。このころ同様の舞踏会が鹿鳴館で開かれ、卑屈な欧化政策として非難の声が高まりました。
 同年6月1日司法省法律顧問ボアソナードは条約改正に関し裁判管轄条約案に反対する意見書を内閣に提出(条約改正関係「日本外交文書」経過概要)、さらに同年7月3日農商務相谷干城は裁判管轄条約案に反対し、条約改正は国会開設後に延期せよとの意見書を伊藤首相に提出、後辞職しました(平尾道雄「子爵谷干城伝」富山房)。

chotto 法学―世界の法律家―ボアソナードと民法成立の嵐

 かくして8月になると条約改正に反対する各地代表が続々と上京、元老院や諸大臣に要求を提出、この間ボアソナード・谷干城の意見書が秘密出版で流布、10月には高知県代表片岡健吉らが植木枝盛起草の三大事件建白書(地租軽減・言論集会の自由・外交失策の挽回)を元老院に提出(「自由党史」下)、一時衰退したかに見えた自由民権運動は再び盛り上がる情勢となってきました。
これに対して政府は同年12月26日保安条例を官報号外により公布施行、秘密の結社集会の禁止・屋外の集会運動の制限・危険人物の退去命令などで、中江兆民・尾崎行雄・林有造ら570人を皇居3里以外に追放しました。拒否した片岡健吉ら15名は軽禁錮2年半(3年 自由党史)に処せられました(「明治政史」明治文化全集 正史篇 上)。

児島襄「大山巌」を読む27

 1888(明治21)年1月4日伊藤博文首相は大隈重信を外相に迎えて局面打開を図りました。伊藤博文は同年4月30日枢密院官制が公布されると枢密院議長に就任、同日黒田清隆内閣が成立しました(「明治政史」明治文化全集 正史篇 上)。
 1889(明治22)年2月11日大日本帝国憲法が発布されました(「法令全書」第22巻ノ一 原書房)。当時日本が模範とした欧米列強の中でもロシヤなどはまだツアーの専制政治下にあり、アジアで日本が最初に憲法による政治の近代化を成し遂げたことは評価されるべきでしょう。

明治・その時代を考えてみようー歴史上の事件に対する項目―大日本帝国憲法・国会開設

しかしながらこの憲法は欽定(勅命によって定められた)憲法として専制的であり、ベルツが「東京全市は十一日の憲法発布をひかえてその準備のため、言語に絶した騒ぎを演じている。至るところ、奉祝門、照明、行列の計画。だがこっけいなことには、だれも憲法の内容をご存じないのだ。」(「ベルツの日記」上 明治22年2月9日条 岩波文庫)とか「残念ながらこの祝日は、忌まわしい出来事で気分をそがれてしまった―森(有礼)文相の暗殺である。」(ベルツ「前掲書」明治22年2月11日条)というような在日外人の否定的評価をうけることになったのです。

History of modern Japan―日本近現代史研究―人物に関するデータベースーもー森有礼

また外人のみならず、中江兆民は「吾人賜与せらるるの憲法果して如何の物乎(か)。玉耶(か)将(は)た瓦耶(か)。未だ其実を見るに及ばずして、先づ其名に酔ふ。我国民の愚にして狂なる何ぞ如此(かくのごと)くなるや。」と批判し、憲法を大阪で一読して、あまりに専制的なのにあきれ苦笑するばかりであったそうです(幸徳秋水「兆民先生」岩波文庫)。また民衆の中には「欲張り連は、政府から絹布の半被(はっぴ)を下さるのだと思った」(高田早苗「半峰昔ばなし」明治文学全集 明治文学回顧録集一 筑摩書房)人もいたようです。

日本掃苔録―CONTENTS―銅像めぐりーたー高田早苗

 憲法発布の翌日黒田清隆首相は鹿鳴館に地方長官を集め、政府は超然として政党の外に立つとの方針を訓示(超然主義演説)しました(「明治政史」明治文化全集 第10巻 正史篇 下)。

児島襄「大山巌」を読む28

 黒田清隆内閣に留任した大隈外相は井上馨とは異なり、国別交渉により欧米列強間の対立を巧みに利用して最強硬のイギリスを孤立させつつ、極秘に条約改正交渉をすすめましたが、1889(明治22)年4月19日その内容を「ロンドンタイムス」が論評、この記事を外務省翻訳局長小村寿太郎が紹介したといわれ(「大隈侯八十五年史」第2巻 明治百年史叢書 原書房)、同年5月新聞「日本」(主筆 陸羯南 くがかつなん)がこれを翻訳掲載しました。

近代日本人の肖像ー人名50音順ーか・こー陸羯南

大隈案は井上案に比して前進した点が多かったのですが、そこで問題となったのが大審院に外人判事を任用することで、これには内閣法制局長官井上毅の外人法官任用は憲法第19条「日本国民ハ法律命令ニ定ムル所ノ資格ニ応シ、均シク文武官ニ任セラレ、其ノ他ノ公職ニ就クコトヲ得」に違反するという見解が出され、同年10月18日大隈外相は閣議の帰途玄洋社員来島恒喜に爆弾をなげられて負傷するに至りました(「玄洋社社史」近代史料出版会)。
 負傷した大隈重信を診察したドイツ人医師ベルツはこのときの様子を次のように述べています。「下腿を動かすと、骨がまるで袋にはいっているかのように、手の中でがたがた音を立てた。上腿切断手術よりほかに、施す手段がないことは明白だった。」(「ベルツの日記」上 明治22年10月18日条 岩波文庫)。
同年12月10日閣議は条約改正交渉延期を決定、12月14日大隈外相は辞表を提出しました(徳富蘇峰「公爵山県有朋伝」中 明治百年史叢書 原書房)。

児島襄「大山巌」を読む29

同年12月24日第1次山県有朋内閣が成立、翌1890(明治23)年7月1日第1回総選挙が行われ、民党(野党)の立憲自由党(同年9月15日結成)と態勢をたてなおした立憲改進党が、吏党(与党)を抑えて多数派を占めたのです。 
 同年10月30日戦前日本の教育の背骨を形成する教育に関する勅語が発布されましたが、翌年1月9日第一高等中学校始業式において講師内村鑑三は教育勅語に対して拝礼せず(小沢三郎「内村鑑三不敬事件」新教出版社)、国家主義者・仏教徒らによるキリスト教への批判攻撃が高まってきました。

はなごよみーもくじー雑学資料室―歴史資料―修身教典 第二−勅語―教育勅語

歴史が眠る多摩霊園―著名人(頭文字)−あー内村鑑三

1890(明治23)年11月15日明治天皇は有栖川熾仁親王ら皇族と山県有朋首相ら閣僚らとともに大山巌の私邸(東京府豊多摩郡千駄谷町)を訪問しています(宮内庁編「明治天皇紀」第七 吉川弘文館)。 
 同年11月29日開会された第1通常議会において、12月6日山県有朋首相は施政方針演説で「国家独立自衛の道は一に主権線を守禦し、二に利益線を防護するに在る。」(「公爵山県有朋伝」下)とし、主権線とは国疆(境)、利益線とは主権線の安全と緊しく相関連するの区域(朝鮮)であり、そのためには軍備増強が必要であると主張、松方正義蔵相は軍艦製造費521万余円、鉄道建設費250万円を含む8307万円余の予算案を提出しました。
明治23年は凶作で、産業界も日本資本主義最初の恐慌が起こるという背景の下で、民党は民力休養・政費節減をスローガンに、軍艦建造費など政府予算案の800万円近い大削減で対抗しましたが、1891(明治24)年2月20日政府は民党の土佐派切り崩しで修正案(歳出削減額を縮小)を通過させました(「大日本帝国議会誌」大日本帝国議会誌刊行会)。
この切り崩された土佐派の中に植木枝盛がいたのです(家永三郎「植木枝盛研究」岩波書店)。

児島襄「大山巌」を読む30

第1議会が終わると山県有朋は辞表提出、1891(明治24)年5月6日第1次松方正義内閣が成立、外務大臣は青木周蔵(このとき大山巌の陸相辞任と高島鞆之助陸軍中将の就任内定、やがて大山巌陸軍大将に昇進)、しかるに同年5月11日滋賀県大津で巡査津田三蔵が来日中のロシヤ皇太子に斬りつけた傷害事件(大津事件)が発生しました(外務省編「日本外交文書」第24巻)。松方首相・山田顕義法相らは大津事件犯人に刑法第百十六条の皇室に対する罪(死刑)を適用する方針でしたが、大審院長児島惟憲は津田三蔵を謀殺未遂罪に該当する旨の意見書を首相・法相に提出(「伊藤博文伝」)、5月27日大審院は刑法第二百九十二条其の他の謀殺未遂罪により無期徒刑を判決しました(「日本外交文書」第24巻)。 

近代日本人の肖像―人名50音順―か・こー児島惟憲 

 同年11月26日第2通常議会開会 すでに同年3月19日立憲自由党は自由党と改称しましたが、昔の民衆運動と結合した大衆政党から地主・ブルジョア政党としての性格を強め、改進党と連携して、松方内閣の軍事費を大幅に削減、このため政府は衆議院を解散、1892(明治25)年2月15日第2回総選挙施行、選挙干渉により各地で騒擾事件が起こりましたが(衆議院・参議院編「議会制度七十年史」帝国議会史 上巻 大蔵省印刷局)、結局民党側の勝利に終わりました。同年5月6日第3特別議会開会、政府の露骨な選挙干渉が問題となり、河野敏鎌内相は干渉選挙の責任者処罰を断行、干渉選挙を支持した高島鞆之助陸相、樺山資紀海相は7月28日辞表を提出、同日松方首相も辞意を奏上しましたが天皇に慰留され一旦留任を決意、ところが大山巌陸軍大将は陸軍中将川上操六・海軍中将仁礼景範とともに松方首相を訪問して辞職を勧告、後任の陸・海相に就任するものはいないと述べ辞去、これにより7月30日松方内閣は総辞職しました。
2010-09-21 05:50 | 記事へ | コメント(0) |
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2010年09月11日(土)
児島襄「大山巌」を読む11〜20
児島襄「大山巌」を読む11

1870(明治3)年8月15日大山弥助らは普仏戦争観戦を命ぜられ、8月28日横浜から米飛脚船クレド・ハフリック号で出発、太平洋を横断、サンフランシスコからニューヨーク経由で大西洋を渡り、10月23日ロンドン到着、閏10月23日ベルリン着、11月11日(西暦1871年1月1日)以後普仏戦争(「米欧回覧実記」を読む14参照)を観戦しました。フランス政府がプロシヤに降伏後、弥助はパリに入り、3月19日マルセーユから日本への帰途につき、5月5日(明治4年3月16日)横浜に帰着しました(「元帥公爵大山巌」年譜)。
 すでに1870(明治3)年12月勅使岩倉具視らが鹿児島を訪問したとき、藩主の依頼により鹿児島県大参事の職にあった西郷隆盛は岩倉に提出した改革意見二十五箇条の中で、明治新政府の軍事力を世襲の士族軍隊を中核とすることを主張していました(「西郷隆盛意見書」(「西郷隆盛全集」第3巻 大和書房)。翌年2月13日政府は薩長土3藩の兵を徴して御親兵の編成を命令し、4月25日大山弥助は御親兵を統括する兵部省の役職兵部権大丞に任命されました(尾野実信「前掲書」)。
 同年7月14日天皇は在京56藩知事を集め、廃藩置県の詔書を宣下しました(「維新史料綱要」)。

イッシーのホームページー地理のページー府県の変遷

 同年8月15日大山弥助は陸軍少将に昇進しましたが、普仏戦争観戦の結果、国産兵器の発達をめざす研究のため欧州留学を希望、同年11月3日「兵部省出仕、仏国留学被仰付候事」という辞令を受けたのです(尾野実信「前掲書」)。
同年11月12日岩倉大使一行は米欧回覧のため、午後1時横浜を出港しましたが、このとき同行した5人の女子留学生の一人として山川(咲子)捨松(「大山巌」を読む9参照)がいました(「米欧回覧実記」を読む2・4参照)。
 1869(明治2)年11月松平容保の嗣子容大をもって松平家再興が認められ会津藩23万石は斗南(となみ)藩3万石(青森県下北郡・上北郡・三戸郡と岩手県二戸郡の一部)として陸奥半島田名部付近に移住させられてから、「過去もなく、未来もなく、ただ寒く飢えたる現在のみに生くること、いかに辛(つら)きことなりしか」「やれやれ会津の乞食藩士ども下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け、生きて残れ、会津の国辱雪(そそ)ぐまでは生きてあれよ、ここはまだ戦場なるぞ」(石光真人「ある明治人の記録」会津人柴五郎の遺書 中公新書)と皆歯をくいしばり耐えぬいたのです。山川咲子は姉たちと畑に出て肥桶を担ぎ野良仕事を手伝いました。箱館のフランス人宣教師の家に預けられたこともあるので、それが女子留学生の一人となるきっかけになったのかもしれません。咲子の留学がきまると、咲子の母唐衣は咲子を一度は捨てるが、将来を期待して待つという意味をこめて、捨松と改名させました(久野明子「前掲書」)。
同年11月12日午後8時大山弥助は横浜からフランス飛脚船でインド洋・地中海経由でパリーに向かいました(尾野実信「前掲書」)。

児島襄「大山巌」を読む12

 李氏朝鮮政府の外交政策は清国の宗主権を認める「事大」と隣国日本と通交関係を維持する「交隣」の2原則からなり、他の諸外国に対しては鎖国政策をとっていました。このような鎖国政策を推進したのは若年の国王李熙(りき)の実父李昰応(りしおう 大院君)です。江戸時代対馬の宗氏を介した外交交渉と貿易が行われ、日本には将軍の代替わりごとに朝鮮通信使の来日がありましたが、1811(文化8)年を最後として、通信使来日は中絶していました(中村栄孝「江戸時代の日鮮関係」日鮮関係史の研究 下 吉川弘文館)。
  草梁倭館は朝鮮側が釜山草梁項に設けた外国人接待のための、建設維持費ともに朝鮮側負担の客館で、江戸時代対馬の宗氏は慣例によってその使用権を認められていたのです(田保橋潔「近代日鮮関係の研究」上巻 明治百年史叢書 原書房)。ここで貿易も行われ、その利益が対馬藩の財政を支える有力な財源の一つとなっていたので、対馬藩は朝鮮に対して卑屈な態度をとりがちでした。

朝鮮通信使の足跡をたどるー倭館

1868(明治1)年12月19日対馬藩主宗義達(よしあき)は家老樋口鉄四郎らを草梁倭館に派遣、新政府成立通告書を朝鮮地方官吏東莱府使を通じて朝鮮政府に提出しようとしましたが、東莱府使は通告書に「皇上登極(こうじょうとうきょく 天子即位)」などの文字が、対馬藩の副翰にも「勅」の文字が使用されているのは従来の慣例にそむき、朝鮮を下国として軽侮しているとし、通告書の受理を拒否しました(田保橋潔「前掲書」)。従来の慣例にそむくという理由は「皇」とは清国の皇帝のことで、「勅」とは皇帝の詔勅のことであり、これまで日本から朝鮮あての文書にこのような文字は使用していなかったということです。
征韓論はすでに江戸時代に見られ(「世に棲む日日」を読む6参照)ますが、このとき木戸孝允は「兵力を以、韓地釜山附港を被為開度(開かせられたく)、是元より物産金銀の利益は有之間敷(これあるまじく)、却て御損失とは奉存候得共(存じ奉り候えども)、(中略)億万生の眼を内外に一変仕、(中略)此外に別策は有之間敷。」(「明治2年正月大村益次郎宛書簡」木戸孝允文書 三)と早くも征韓論を主張していたのです。 

児島襄「大山巌」を読む13

 1871(明治4)年4月27日明治政府は大蔵卿伊達宗城を欽差(勅使)全権大使とし、条約交渉のため清国派遣を決定、清国欽差全権大臣李鴻章と交渉、日本ははじめ欧米諸国にならって清国と不平等条約を締結しようとしましたが、清国案にもとづいて討議、同年7月29日対等条約である日清修好条規(大日本国大清国修好条規)を天津で調印しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 明治百年史叢書 原書房)。しかし1873(明治6)年4月30日批准書交換によりようやく発効したのです。

独学ノートー単語検索―日清修好条規

1871(明治4)年年副島種臣(肥前藩出身)が外務卿に就任すると、翌年8月18日外務大丞花房義質および森山茂らを軍艦で朝鮮釜山に派遣、9月16日草梁倭館を外務省直轄の在外公館として外務省官吏を駐在させ、従来の宗氏と朝鮮との私的貿易関係を廃止、宗氏の使者を退去させ、その旨を朝鮮側に通知しました(田保橋潔「前掲書」)。日本側は草梁倭館の歴史的事情にうとく、この措置に朝鮮側が反発したのは当然というべきでしょう。
朝鮮側は従来の宗氏仲介による旧慣を主張して交渉に応ぜず、1873(明治6)年5月朝鮮の東莱府使が草梁公館の門前に「彼雖受制於人不恥[彼(日本人)は制を人(欧米人)に受くと雖も恥じず]、其変形易俗、此則不可謂日本之人[その形を変え俗を易(か)え、これすなわち日本の人というべからず]、不可許其来住於我境[其の我が境に来住するを許すべからず]、…」(田保橋潔「前掲書」)という文章を含む掲示を発表して日本の開化政策を非難、これにより日本政府内に征韓論が高まってきました。
 当時岩倉大使一行は外遊中で留守政府首脳部は太政大臣三条実美以下西郷隆盛(薩)・板垣退助(土)・後藤象二郎(土)・大隈重信(肥)・江藤新平(肥)らの参議で構成されていました。
 板垣退助は居留民保護のための兵を釜山に送ることを提案、これに対し西郷はまず自ら全権大使として朝鮮に赴き、もし危害を加えられたら軍隊を出動させるべきと主張、同年8月17日の政府首脳会議で西郷の朝鮮派遣を内定、三条は8月19日箱根御用邸にて明治天皇の裁断を上奏、天皇は「宜く岩倉の帰朝を待ちて相熟議し、更に奏問すべし」と述べました(宮内庁「明治天皇紀」第三 明治六年八月十九日条 吉川弘文館)。

「征韓論」政変をめぐってー毛利敏彦氏に答える

西郷隆盛は人情に厚く、版籍奉還(1869)後に推進された家禄の削減や、徴兵令の公布(1873)による士族の没落と困窮による不満を朝鮮との軍事的緊張に生かし、士族を救済するために、征韓論を利用したとも考えられます。

児島襄「大山巌」を読む14

 1873(明治6)年9月13日外遊から東京へ帰った岩倉具視は、まずすでに参議を辞任していた大蔵卿大久保利通を復職させ、同年10月14・15日大臣・参議会議(木戸病気欠席)において西郷・板垣・後藤・江藤・副島らの大使派遣論と岩倉右大臣および大久保・大隈らの内地優先論が激突、太政大臣三条実美は西郷の主張を認め、岩倉および大久保らは辞意を表明しました。

維新の嵐―明治十一年・東京―第9章 背景世界設定―1)明治政府―@組織―政府組織図

 ところが政府分裂の危機に直面して、三条実美は心痛のあまり、10月18日朝卒倒、人事不省となり、10月20日勅命により岩倉具視が太政大臣代理を務めることになりました。
 同年10月23日岩倉具視は天皇に上述の大臣・参議会議の決定と岩倉の意見(「朝鮮事件ニ関スル奏問書」岩倉具視関係文書 第1巻 日本史籍協会叢書)をともに上奏、翌日岩倉の意見を可とする天皇の裁断が下り、征韓派参議はただちに辞職しました(「岩倉公実記」下 明治百年史叢書 原書房)。
 1874(明治7)年1月14日右大臣岩倉具視が東京赤坂喰違で高知県士族武市熊吉らに襲撃される事件が発生しました(「岩倉公実記」下)。

気ままに江戸 散歩・味・読書の記録ー以前の記事ー2009年12月18日 喰違の変

 岩倉具視は事態収拾策として西郷を上京入閣させる以外にないと考え、西郷を説得する使者として当時ジュネーブに留学中の陸軍少将大山弥助を呼び戻すことを協議、弥助を呼び戻す役として宮内少輔吉井友実に白羽の矢がたてられました。
 佐賀の乱の平定が布告された3日後吉井友実は辞職、三条実美と岩倉具視連名の大山弥助宛て手紙を手にパリに赴き、同年5月2日ジュネーブからやってきた大山弥助に会って帰国を要請、弥助は一旦帰国を断りましたが、三条・岩倉両大臣は弥助に帰国命令の電報を打ち、同年10月3日弥助は東京に帰着(尾野実信「前掲書」)、その2日後鹿児島に向かいました。帰国以前弥助は大山巌と改名しています。
 鹿児島県では1873(明治6)年に実施された地租改正や太陽暦も行われませんでした。
 西郷隆盛は1874(明治7)年4月私学校を設立しました。それは賞典学校と銃隊学校、砲隊学校があり、厳密には銃・砲隊学校が私学校です。賞典学校は西郷隆盛らが戊辰戦争の功績により賜った賞典禄を経費に充て、銃隊学校は篠原国幹、砲隊学校は村田新八が指導、経費は鹿児島県令大山綱良が旧藩から県に引き継がれた公金から支出、次第に賞典学校は士官、銃隊学校と砲隊学校は下士官養成の教育組織となっていきました(陸上自衛隊北熊本修親会編「新編西南戦史」明治百年史叢書 原書房)。鹿児島県は西郷隆盛の影響下に薩摩士族が民衆を抑圧する、明治新政府から軍事的、政治的に独立した政治組織となりつつありました。
 大山巌が鹿児島に滞在したのは同年10月7日から11月3日朝までで、その間何回西郷隆盛と会ったのかは不明です。11月12日東京に帰った大山巌は大久保利通に西郷の説得が不調に終わったことを報告しています。同年12月18日大山は陸軍少輔の辞令を受け、陸軍省第一局長に補任されました。
 他方西郷と同じく征韓派として下野した板垣退助は同年4月土佐に帰り、片岡健吉、林有造、谷重喜らとともに立志社と称する政社を高知城下に設立しています(「自由党史」上)。

児島襄「大山巌」を読む15

 1874(明治7)年9月24日東莱府役人は朝鮮国王戚臣である禁衛大将趙寧夏の親書を草梁公館駐在の森山茂に手交しましたが、その内容は日朝国交梗塞に遺憾の意を表し、最近における日本国の革新を認め、新たな形式に従い、交隣を継続することを希望することを述べていました(田保橋潔「前掲書」)。これは国王・戚臣らが日朝国交再開を希望しているのに、大院君派の鎖国政策に妨げられている現状を打開するために国王・王妃閔(びん)氏一族とならぶ戚臣の中心人物である趙寧夏が国王の真意を日本側に伝達するするための措置であったようです。しかし森山茂は朝鮮の政情にくらく、趙寧夏親書の重大性を理解していなかったもののようです。
 1875(明治8)年4月森山茂および広津弘信は外務卿寺島宗則に朝鮮では大院君と王妃閔(びん)氏一派の抗争が激化し、日本の軍事圧力によって朝鮮の開国が促進される可能性がある。すなわち日本の軍艦1〜2隻を対馬・朝鮮の間に派遣して海路を測量したりすれば条約締結を督促する効果があるだろうという建白書(外務省編纂「日本外交文書」第8巻)を提出しました。
 清国は日清修好条規の批准や台湾出兵(1874)をめぐり、朝鮮が属邦ではあるが内政教令・和戦について自主独立の国であることを認めていたので、明治政府(内治派)は朝鮮に軍事的圧力を加える政策を採用、同年5月25日軍艦雲揚(艦長 井上良馨少佐)は釜山に入港、6月12日入港した軍艦第二丁卯(艦長 伊東祐亨少佐)とともに港内で軍事演習を実施、朝鮮側に恐怖感を与えました。

維新の志士たちー幕末維新 出来事一覧ー47 台湾出兵

 やがて雲揚は朝鮮東南西海岸より清国牛荘(にうちょわん 営口)辺にいたる航路研究の命をうけ、同西海岸を北上中、9月20日淡水補給のため江華島に接近、ボートをおろして漢江の支流塩河をさかのぼろうとしたところ、江華島砲台の砲撃をうけたので、同砲台に砲撃をかけ、永宗島永宗鎮砲台を攻撃、大小砲を奪い、9月28日午前8時長崎に帰港、海軍省に打電しました(明治8年10月8日付「雲揚艦長戦闘詳報」田保橋潔「前掲書」)。
 1876(明治9)年1月6日特命全権弁理大臣黒田清隆・特命副弁理大臣井上馨以下27名の使節団は軍艦3隻・運送船3隻の艦隊をひきいて東京を出港、2月10日300の兵力とともに江華島に上陸しました。日本艦隊は同年2月11日紀元節の祝砲と称して砲声を轟かせる(「日本遠征記」を読む11参照)中で4回にわたる交渉の結果、同年2月27日「日朝修好条規」の調印が江華島で行われました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上)。

理解する世界史―サイトマップー世界史年表4 日朝修好条規の締結(朝鮮の開国)

 この条約は第1款で「朝鮮国ハ自主ノ邦ニシテ日本国ト平等ノ権ヲ保有セリ」と規定し、清国の朝鮮に対する宗主権を否定しようとしたことが注目されます。しかし同条約は日本が一方的に領事裁判権をもつ不平等条約で、日朝修好条規附録に附属する宮本小一理事官の朝鮮国講修官趙寅凞宛往復文書(「日本外交年表竝主要文書」上)において「我人民ノ貴国ニ輸送スル各物件ハ我海関ニ於テ輸出税ヲ課セス貴国ヨリ我内地ヘ輸入スル物産モ数年間我海関輸入税ヲ課セサル事ニ我政府ノ内議決定セリ」と輸出入を無税とすることも規定されていました。
同年1月11日33歳の大山巌は吉井友実の娘で15歳の沢子と結婚しています(「元帥公爵大山巌」年譜)。

児島襄「大山巌」を読む16

1876(明治9)年3月28日廃刀令(大礼服着用および軍人・警察官・官吏制服着の場合を除き、帯刀禁止)が出され、つづいて同年8月5日金禄公債証書発行条例制定(内閣官報局「法令全書」第九巻ノ一 原書房)により翌年から華士族の家禄・賞典禄を廃止、公債を支給することで、毎年政府歳出の3分の1近くを占めていた家禄支給を停止することになったのです。
これに対して同年10月24日熊本県士族大田黒伴雄らが熊本城鎮台を襲撃、鎮台司令長官種田政明陸軍少将らを殺害しました(神風連の乱)。

熊本県HP―目的で探すー熊本県をもっと知りたいー地域発 ふるさとの自然と文化―熊本―史跡・遺跡―種田政明邸跡  ダンナハイケナイ ワタシハテキズ

つづいて同年10月27日福岡県士族(旧秋月藩士)宮崎車之助らが挙兵(秋月の乱)、10月28日には山口県士族前原一誠らが県庁を襲撃しようとして(萩の乱)、鎮台兵に鎮圧される事件が続発しました(「明治史要」)。大山巌は命により同年11月1日熊本城に到着、11月26日熊本鎮台司令長官谷干城陸軍少将が着任するまで、熊本鎮台司令長官代理を勤めながら、鹿児島の動向を探っていたようです(尾野実信「前掲書」)。

熊本城公式ホームページー歴史ドラマー神風連の乱―西南戦争熊本城籠城戦

児島襄「大山巌」を読む17

 1877(明治10)年1月5日大山巌夫人は女子を出産、信子と名づけられました。
明治天皇関西巡幸に陸軍卿山県有朋が随行するため、同年1月20日大山は陸軍卿代理を命ぜられました。
ところがすでに1月18日内務卿大久保利通は木戸孝允と会談、鹿児島にある弾薬引き揚げに合意、そのための三菱会社汽船「赤龍丸」が鹿児島に派遣されました。
鹿児島には藩政時代に設立された集成館の銃器製作所、滝の神の火薬製造所が陸軍省所管となり、その制作と製造がおこなわれており、また草牟田、田上、上之原、小山田には火薬庫があって、赤龍丸は夜間、火薬弾薬の積み込み作業をしていました。
一方1月上旬鹿児島に帰省した少警部中原尚雄らは政府の密偵または刺客であるとの噂が広まっていました。同年1月30日私学校生徒らは草牟田の火薬庫を襲撃、翌日銃器製作所と上之原の火薬庫を襲撃、銃器・弾薬を奪いとり、赤龍丸はあやうくも港外に逃れたのです。
同年2月5日捕えられていた中原尚雄が拷問の末西郷暗殺の使命を自白した口供書に署名させられましたが、それが事実であったかどうかは不明です(「新編西南戦史」)。

明治・その時代を考えてみようー歴史上の事件に対する項目ー西南戦争とその時代ー西南戦争について

同年2月15日西郷隆盛は政府に尋問の筋ありとして兵を率い、鹿児島を出発、熊本城をめざして北上を開始しました(「明治史要」)。

児島襄「大山巌」を読む18

1877(明治10)年2月19日政府は西郷軍征討令を布告、有栖川宮熾仁親王が鹿児島県逆徒征討総督に任命され、本営を福岡の勝立寺に置き、征討参軍として陸軍卿山県有朋(陸軍中将)・海軍卿川村純義(海軍中将)が総督を補佐するこことなりました。征討軍は徴兵制による軍隊を主力とし、征討第一旅団司令長官として野津鎮雄陸軍少将、征討第二旅団司令長官に三好重臣陸軍少将、征討第三旅団司令長官三浦梧楼陸軍少将、別働第五旅団司令長官に大山巌陸軍少将が任命されました。
北上した西郷軍は同年2月22日熊本城を包囲しましたが、予想と違って熊本城をせめあぐむうちに、3月征討軍は熊本北方の田原坂(たばるざか)と山鹿(やまが)に迫り、3月4日西郷軍幹部篠原国幹は戦死、征討軍は3月20日田原坂を越え、翌日山鹿を占領しました。

ワシモ(WaShimo)ホームページーコンテンツー旅行記―熊本県―田原坂を訪ねて

 一方3月8日勅使柳原前光は黒田清隆陸軍中将とともに征討軍と警察官に守られ。軍艦3隻汽船2隻にを率いて鹿児島に赴き、県令大山綱良を逮捕して東京に連行、明治政府が鹿児島県政を掌握することに成功しました。
 同年4月14日征討軍は西郷軍の包囲を破って熊本城に入り、戦争の大勢は西郷軍の敗色濃厚となってきました。
 西郷軍は人吉・都城(みやこのじょう)・宮崎・延岡に転戦、8月16〜17日長井(延岡北方)で征討軍との決戦に敗北、西郷らは残った数百人を率いて峻嶮な可愛嶽(えのだけ)を越え、9月1日鹿児島に帰り、城山に立て籠もりました。大山巌は攻城砲隊司令長官に任命され、9月24日征討軍は総攻撃、撃たれて動けなくなった西郷隆盛は負われて城山背後の岩崎谷を下り、島津家一門の邸前で自刃しました。こうして西南戦争は終了したのです(「新編西南戦史」原書房)。

史跡夜話―全国編所々散策―鹿児島県―西南戦争 城山

 他方板垣退助によって土佐に設立された立志社は同年6月片岡健吉を代表として立志社建白を天皇に提出し、国会開設要求を中心として、重税に悩み地租改正反対一揆に立ちあがる民衆の声をとりあげようとする一派と林有造らの西郷に呼応して武装蜂起を計画する一派に分かれ、8月8日林有造が東京で逮捕されるに至りました(「自由党史」上)。

児島襄「大山巌」を読む19

 1878(明治11)年5月大久保利通が暗殺され(「雄気堂々」を読む16参照)、内務卿は工部卿伊藤博文が兼任となりました。つづいて同年8月23日近衛砲兵隊が俸給削減の不満などから暴動を企て、鎮圧(竹橋騒動)、同年10月13日陸軍裁判所は竹橋騒動参加者に死刑を含む処分を判決しました(陸軍省編「明治軍事史」上 明治百年史叢書 原書房)。
 同年11月大山巌は陸軍中将に昇進、12月5日参謀本部(12月24日本部長山県有朋)設立による軍政(人事・予算など、担当官庁 陸軍省)と軍令(作戦・用兵 担当官庁 参謀本部)の分離に伴い、参謀本部次長となり、1880(明治13)年2月18日陸軍卿に就任、参謀本部次長を兼任しました。
 1881(明治14)年3月参議大隈重信は国会開設意見書を左大臣有栖川宮熾仁親王に提出しましたが、その内容は1883(明治16)年より国会を開設し、中立永久官の下の政党内閣制を主張するものでした。同年6月27日三条実美太政大臣を通じて大隈意見書を借覧した伊藤博文は同年7月5日大隈と会見、君権を人民に放棄するものと非難(「伊藤博文伝」春畝公追頌会)、来るべき国会の性格をめぐって大隈と伊藤の対立が激化してきました。
 同年7月21日参議兼開拓使長官黒田清隆は北海道開拓使官有物払下げを太政大臣に申請、閣議は有栖川宮、大隈重信の反対で紛糾しましたが、払下げを決定、7月30日勅裁(「伊藤博文伝」)となりましたが、各新聞は北海道開拓使払下げ事件を暴露、世論の批判が高まってきました。

エピソード日本史―第八章 近代国家の成立(2)−182−1自由民権運動V

 同年10月11日午前会議(天皇臨席で行われる政府首脳会議)で立憲政体に関する方針や北海道開拓使官有物払下げ中止、参議大隈重信罷免などを決定(明治14年の政変)、翌日発表、明治23年に国会を開設するとの詔書が発せられました(「伊藤博文伝」)。これに対して大隈免官に反対し矢野文雄・犬養毅・尾崎行雄らがいっせいに辞任するに至りました(「明治政史」明治文化全集 正史篇 日本評論社)。 
 同年10月18日自由党が結党、同月29日総理に板垣退助を選挙、11月9日板垣は総理を受諾しました(「自由党史」中)。
 このころ私擬憲法(憲法試案)も多く起草されましたが、中には後の日本国憲法におおきな影響を与えたとみられる植木枝盛「日本国々憲案」(「東洋大日本国々憲案」)もありました(江村栄一編「日本近代思想大系」第9巻 憲法構想 岩波書店)。彼は国内では基本的人権の尊重による自由・平等を認め、国外では「万国共議政府」(現国連に近い国際組織)の創設と「宇内無上憲法」(現国連憲章に近い国際規約)を制定することによって、軍備の縮小あるいは廃止をめざす小国主義(田中彰「小国主義」岩波新書)を主張していたのであって、欧米列強にならい武力を背景とした朝鮮進出をめざす日本政府の大国主義路線と真っ向から対立する国家構想を展開していたのです(家永三郎「植木枝盛研究」岩波書店)。

土佐の歴史散歩―地域別―高知市―中心部―植木枝盛旧邸

 同年12月28日陸軍刑法・海軍刑法を制定(「「法令全書」第14巻 原書房)して軍人の政治関与を罪とすることが定められました。1882(明治15)年1月4日軍人勅諭が陸軍卿大山巌に下達されました(「明治軍事史」上)。

たむ・たむ(多夢・大夢)ぺーじにようこそー入り口―歴史関連―軍人勅諭

 1882(明治15)年4月16日立憲改進党が結党され、大隈重信を総理に推戴しました(「明治政史」明治文化全集 正史篇)。
 同年5月福島事件(「自由党史」中)がおこり、6月3日政府は集会条例を改正(太政官布告)して、地方長官に1年以内の演説禁止権、解社命令権、内務卿に一般的な結社集会禁止権を与え、政治結社の支社設置禁止などを追加しました(「法令全書」第15巻 原書房)。

エピソード日本史―第八章 近代国家の成立(2)−184−1民権運動の激化T

 同年6月後藤象二郎は板垣退助に外遊をすすめ、旅費を華族蜂須賀茂韶から借資することで板垣も了承しました。しかるに党内外からその旅費の出所が政府であるとの疑惑を呼びながら、同年11月11日板垣・後藤は横浜から渡欧、翌年6月22日帰国、8月20日大阪中之島において「欧洲観光の感想」と題する談話を発表しました。この談話の内容を要約すると次の如くです。彼が横浜から欧州にいたる途中でみた光景は欧州人がアジア人を野蛮として奴隷のように虐待する現実でした。このような現実の下で我が国が条約改正を実現するためには欧州人が讃嘆するような至善至美の法律を作るか、海軍を拡張して彼らが恐怖するような武力を養成することである。しかし現在急速に完全な法律を作ることができない状況においては海軍拡張による武力養成が急務である(「自由党史」中)とその主張の力点が民権から国権へと移行していったのです。

児島襄「大山巌」を読む20

 排外主義の大院君は引退、朝鮮国王と閔氏一族は国内改革を開始し1881年日本から陸軍少尉堀本礼造を軍事顧問に招聘、別技軍という日本式軍隊を訓練していましたが、別技軍は服装も給与も旧軍よりよく、旧軍隊は現物給与の米の遅配が続いており、不満が高まっていました。
 日本との貿易輸出の8割は米で、その影響でソウルの米価が2〜3倍に騰貴し、政府の腐敗した現物管理の高官が米の横流しをやったり、米の配給を担当する下級官吏が米の量目をごまかすことがおこり、これが旧軍隊の米遅配や量目不足の背景となっておりました。
 量目不足の米を受け取る事を拒否した兵士らが倉庫番を殴り、倉庫番の上官が兵士を刑殺しようとしたことから、兵士らは上官閔謙鎬の屋敷を破壊し大院君に訴えでました。大院君はこの反乱軍を閔氏一族打倒と排日武力闘争に利用、1882(明治15)年7月23日反乱軍は日本人教官堀本礼造を殺害、日本公使館には反乱軍兵士や民衆が押し寄せ、花房義質公使らは7月26日済物浦よりイギリス測量船に助けられ、7月30日長崎に帰着しました(壬午事変 外務省編「日本外交文書」第15巻・田保橋潔「前掲書」)。

近代日本人の肖像―人名50音順―あ・おー大山巌

 北海道・青森に出張していた大山巌は同年7月30日東京から朝鮮における壬午事変を知らせる三条実美からの緊急電報で、至急帰京せよとの命令を受け取りました。8月5日大山は東京に到着(尾野実信「前掲書」)、8月7日井上馨外務卿の訓令を受け、花房義質公使は下関から海軍少将仁礼景範指揮の軍艦4隻に高島鞆之助陸軍少将指揮の歩兵一個大隊を乗せて朝鮮仁川に向かいました。
ところが駐日公使黎庶昌からの電報により壬午事変を知った清国は8月9日北洋艦隊司令長官丁汝昌に命令、彼は軍艦3隻を率い馬建忠とともに朝鮮に赴き、翌日仁川に到着、馬建忠は8月23日兵を率いて漢城に入り、8月26日大院君は清国軍に拘束され翌日天津に送られ軟禁されました。
このような情勢の下で花房公使は同年8月30日朝鮮と済物浦条約を締結、壬午事変の犯人処罰、賠償金50万円、公使館駐兵権などを朝鮮に認めさせました(「日本外交年表竝主要文書」上)。
同年9月30日清国軍は壬午事変を鎮定、大院君を保定に移し、清国軍は引き続き朝鮮に駐留する旨を各国公使に通告、10月1日清・朝鮮間に商民水陸貿易章程を締結、清の朝鮮に対する宗主権が強化されたのでした。
 壬午事変に対する政府の出兵について、自由党は「我邦ノ内治未ダ整ハザル┐ヲ知ラザルベカラズ、此戦乱ノ費幾何ナルヤヲ察セザルベカラズ且ツ征軍勝利ノ後民権ノ上ニ如何ナル結果ヲ為スヤヲ思慮セザルベカラズ」(自由党機関紙「自由新聞」1882年8月8日付)と平和をもって主眼となすことを強調しました(信夫清三郎・林茂監修「復刻 自由新聞」第1巻 三一書房)。

2010-09-11 05:59 | 記事へ | コメント(0) |
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2010年09月01日(水)
児島襄「「大山巌」を読む1〜10
児島襄「大山巌」を読む1

 児島襄「大山巌」(文春文庫)はのちの元帥陸軍大将大山巌誕生の叙述から始まります。大山巌(岩次郎)は1842(天保13)年10月10日鹿児島城下加治屋町の下級武士大山彦八綱昌(西郷竜右衛門次男)の次男として出生しました。郷中頭西郷吉之助(隆盛)は岩次郎の従兄弟にあたり、6歳ころから習字と読書の指導を受けました。

旅路―@旅日記(汽車旅編)−南九州編ーB早春の薩摩路を行くー維新の故郷、加治屋町

 当時の薩摩藩士は地区単位の郷中に属し、年齢によって6、7〜13、4歳までの「稚児(ちご)」と、元服した14、5〜23、4歳までの「二才(にせ)」にわかれ、「二才」の中で才能と人望を認められたものが郷中頭に選ばれました。
 稚児岩次郎は腕白少年で、いくさごっこで竹槍をかわしそこねて左眼を負傷、その視力は元通りにはなりませんでした。
 1855(安政2)年ころ、岩次郎は元服、弥助と改名し、明年薩摩藩槍術師範梅田九左衛門に入門しました(尾野実信編「元帥公爵大山巌」大山元帥伝刊行所)。

児島襄「大山巌」を読む2

  1858(安政5)年7月6日将軍家定死去(「維新史料綱要」巻3)、つづいて7月16日島津斉彬死去、死去の直前かけつけた異母弟久光に、久光かその子忠徳(茂久・忠義)を斉興に伺い後継者と定めよと遺言しました(芳即正「島津斉彬」吉川弘文館)。同年7月21日徳川慶福は家茂(いえもち)と改名(「維新史料綱要」巻3)、同年10月25日将軍宣下(「公卿補任」)、家茂は14代将軍となりました(「天璋院篤姫」を読む9参照)。
 1860(万延1)年3月3日家茂を将軍に推した大老井伊直弼は桜田門外で水戸浪士らの襲撃を受け惨殺されました(「天璋院篤姫」を読む10参照)。
 和宮降嫁という幕府の公武合体策に対して、尊皇攘夷派は1862(文久2)年1月15日坂下門外の変を起こし、老中安藤信行(信正・陸奥磐城平藩主)は水戸浪士らに襲撃され負傷しました(「維新史料綱要」巻4)。
 同年4月16日薩摩藩主島津忠義の父島津久光は藩兵を率いて入京、朝廷に幕政改革の意見書を提出するとともに、同月23日伏見寺田屋に集結した薩摩藩精忠組暴発派の有馬新七らを久光の命を受けた同藩士が斬殺しました(「天璋院篤姫」を読む12参照)。精忠組暴発派に加わっていた大山弥助ら22人は大坂藩邸を経て鹿児島に護送され、謹慎処分を受けました(尾野実信「前掲書」)。

nature-京都の散歩路ー維新の路ー伏見界隈 其の三 寺田屋事件

 同年6月10日島津久光の奉ずる勅使大原重徳の伝えた勅旨により、幕政改革が行われ越前藩主松平慶永を政事総裁職に、一橋慶喜を将軍後見職とし、松平慶永のすすめにより同年閏8月1日会津藩主松平容保は、家老の諫止にもかかわらず、京都守護職を引き受け、任命されました(山川浩「京都守護職始末」1 東洋文庫49 平凡社)。

京都探検隊―menuー新選組探索ー1862(文久2)年7月27日 京都守護職の設置

児島襄「大山巌」を読む3

  島津久光の行列は江戸からの帰途、同年8月21日イギリス商人ら4人が武蔵国生麦村で行列を横切ったことにより斬られるという事件を起こしました(生麦事件)。
 1863(文久3)年5月9日幕府は生麦事件などの賠償金44万ドルを支払いましたが、薩摩藩は犯人処刑の要求に応じなかったため、同年7月イギリス艦隊は鹿児島湾に侵入、薩摩藩と交戦しました(薩英戦争・「天璋院篤姫」を読む12参照)。
 寺田屋事件関係者の謹慎も解かれ、大山弥助も動員されました。桜島に対面する鹿児島沿岸に北から祇園洲、新波戸、弁天波戸、大門口、砂揚場の各砲台が築かれていましたが、弁天波戸砲台に配属された弥助は斬り込み隊に応募、生麦事件犯人の海江田武次隊の一員として、黒田了介(清隆)、西郷信吾(従道)野津七左衛門(鎮雄)、伊東四郎(祐亨)らとともに西瓜売りをよそおって英国艦隊旗艦「ユリアラス」に乗り込むことに成功しましたが、他の斬り込み隊はいずれも乗り込みに失敗したため、斬り込みは中止、引き揚げとなりました(公爵島津家編纂所「薩藩海軍史」中 明治百年史叢書 原書房)。

敬天愛人―薩摩的幕末雑話―第七話「スイカ売り決死隊―薩英戦争の一場面―」

 同年7月2日薩英間の砲撃戦がはじまり、弁天波戸砲台の射程距離内に接近した「ユリアラス」号に砲台発射の弾丸が命中したようです。しかし薩摩藩側は甚大な損害を受けたのです。
薩摩藩は同年11月1日イギリス代理公使に生麦事件賠償金10万ドルを交付(「維新史料綱要」巻5)してイギリスとの接近をはかるようになっていきました。

児島襄「大山巌」を読む4

 大山弥助は薩英戦争後近代的砲術の習得が必要と考えるようになりました。1863(文久3)年8月18日の政変(「天璋院篤姫」を読む13参照)後、同年9月12日島津久光上洛時弥助も久光に従って上洛しましたが、やがて11月16日江戸の江川太郎左衛門塾(「小説 渡辺崋山」を読む16参照)に入門のため江戸へ向かいました(尾野実信「前掲書」)。

伊豆の国市―観光―伊豆の国市の観光―観光施設―重要文化財江川邸―Contents―江川英竜(坦庵)―砲術と韮山塾

 1864(元治1)年7月19日禁門の変が起こり、同年7月24日幕府が長州征討(第1次長州征討)を命令、薩摩藩家老小松帯刀は大山弥助ら江戸詰め薩摩藩士22名に上京を命じました。弥助は征長軍に加わって筑前芦屋に移動しましたが、翌年再び江戸にもどりました。
 同年閏5月22日家茂は上洛参内して長州再征を奏上、西郷吉之助はこれを知ると京都へ上り、江戸藩邸の縮小をはかり、同年12月大山弥助は江戸から京都に移動、大砲隊談合役に任命され砲隊訓練を指導するようになりました。
 あけて1866(慶応2)年1月21日薩摩藩京都藩邸で薩長連合の盟約(「竜馬がゆく」を読む14参照)が成立、同年6月7日幕府軍艦は長州藩領周防大島を砲撃(第2次長州征討開始)、しかし幕軍は連戦連敗でした。同年7月20日薩摩藩主島津茂久(忠義)は父久光と連名で関白に提出した建白書において「即今兵庫・大坂ノ儀ハ将軍家御在陣中号令整粛、軍威四方ニ可輝(輝くべき)ノ処、(中略)米価ハ勿論諸色未曾有ノ騰貴ニテ、既ニ災旱水溢ノ憂モ不被図(図られず)此上兵端を開候テハ、争論日ニ長シ率土(国土のはて)分崩当年不可救(救うべからざる)勢ニ及候」(「島津久光公実記」二 日本史籍協会叢書 東大出版会)と戦争が民衆の蜂起を誘発して彼らの支配体制そのものが崩れさる危険性を指摘しています。大坂の打ちこわしで逮捕されたものに役人がその発徒人(首謀者)を問うと其の首謀者は大坂城中(当時大坂城で将軍家茂が長州再征の指揮をとっていました)にあると言ったものがいたそうです(「丙寅連城漫筆」第一 日本史籍協会叢書)。
同年7月20日将軍家茂は大坂城で死去、8月20日幕府は家茂死去を公表、徳川慶喜の宗家相続を公布、9月2日幕府軍艦奉行勝海舟は長州藩士広沢真臣と安芸厳島で休戦協定を締結、9月19日幕府は征長軍撤兵を命令しました。
 薩摩藩家老小松帯刀は京都の情勢を長州藩と大宰府の三条実美ら五卿に伝えるため、大山弥助を派遣しました(尾野実信「前掲書」)。


児島襄「大山巌」を読む5

 1866(慶応2)年12月5日徳川慶喜は征夷大将軍に任命され、15代将軍に就任、ところが同年12月25日孝明天皇が死去、翌1867(慶応3)年1月9日睦仁親王(明治天皇)践祚、関白二条斉敬が摂政となりました。
 1867(慶応3)年10月14日正親町三条実愛は同月13日付島津久光父子宛・同月14日付長州藩主父子宛の討幕の密勅を薩摩藩大久保一蔵、長州藩広沢兵助に発しました。しかるにこれをかわすかのように、同日将軍徳川慶喜は前土佐藩主山内豊信(容堂)の建白を容れ、大政奉還上表を朝廷に提出、翌日朝廷は大政奉還を勅許しました(「天璋院篤姫」を読む16参照)。これによって江戸幕府は倒壊したのですが、徳川慶喜は天皇を頂点とする新政府において主導権を握ろうとしていたのです。
 これに対して同年12月9日朝廷は王政復古の大号令を発しましたが、薩長両藩は新政府における徳川氏の主導権を否定しようとし、徳川慶喜の辞官納地を命じることを決定、有栖川熾仁親王を総裁とする新政府を成立させました。
 当時京都二条城では征長に敗れた徳川軍と国許から京都へ上洛増強された薩長軍の間に一触即発の危機が迫っていました。この危機を回避しようとして慶喜は12月12日一旦二条城を退去、大坂城に入りました。、同年12月23日江戸城二丸が焼失、これは薩摩藩の関係者による放火ではないかとの嫌疑がかけられました。当時薩摩藩の益満休之助らが浪士を使って江戸で放火・強盗などをやらせ、騒乱状態が起こっていました。同月25日徳川方の指示で旗本・庄内藩兵らが江戸三田の薩摩藩邸に押し寄せ、これにより両者戦闘状態となり、薩摩藩邸は焼き討ち、浪士70余人が徳川方に捕らえられました(「維新史料綱要」巻7)。
 この薩摩藩の挑発が大坂城に伝わると、徳川慶喜は憤激する徳川軍を抑えられず、京都に攻め上り、迎え撃つ薩長軍と1868(慶応4・明治1)年正月3日鳥羽伏見で戦いを開始しました(「維新史料綱要」巻8)。

上杉家の戊辰戦争―その他の戊辰戦争の記事―鳥羽伏見の戦いー地図

児島襄「大山巌」を読む6

 同年1月5日徳川軍は下鳥羽に米俵を積んだ陣地を構築していましたが、薩摩軍の攻撃をささえきれず下鳥羽南西2キロの富ノ森に後退しました。伏見方面から応援にかけつけた大山弥助の2番砲隊が午前11時ころ会津兵の斬り込みを撃退、富ノ森陣地に臼砲攻撃を加えていると、前日征討大将軍に任命された仁和寺宮嘉彰親王が下賜された錦旗を掲げて出陣してきました。

国立公文書館デジタルアーカイブーカテゴリー別―絵巻物ー戊辰所用錦旗及軍旗真図
 
2番砲隊は弾薬が少なくなっていたので、大山弥助は大刀を左手に、右手に六連発拳銃を握り、砲を捨てて銃をとり突撃するよう命令しました。すると一弾が弥助の右耳を撃ちぬき、手ぬぐいで頬冠りして突撃を続行しました(尾野実信「前掲書」)。
敗北した徳川慶喜は、同月8日軍艦開陽丸で老中板倉勝清、京都守護職・会津藩主松平容保らを従えて大坂を脱出、同月12日江戸へ逃げ帰りました。慶喜は鳥羽伏見戦で錦旗が出現したと聞き「あはれ朝廷に刃向かふ可き意志は、露ばかりも持たざりしに、誤りて賊名を負ふに至りしこそ悲しけれ」(渋沢栄一「徳川慶喜公伝」4 東洋文庫 平凡社)と述懐したと伝えられています。
 西郷隆盛の書簡(同年1月10日桂右衛門宛)で「人数多少をを比較いたし候得ば、賊軍(徳川軍)は五増倍(三倍「維新史」第五巻)の事に御座候得共、かくの如き勝利はいまだ聞かざる儀に御座候。京摂の間、余程人心を失い居り候事にて、今日に至りては、伏見辺は兵火のために焼亡いたし候得共、薩長の兵隊通行度毎には、老若男女路頭に出て、手を合わせて拝をなし、有難し々々と申す声のみに御座候。戦場にも路路粮食を持ち出し、汁をこしらえ、酒を酌みて戦兵を慰し、国中の人民(薩摩藩領民)よりはまさりて見え候事に御座候。」(「西郷隆盛全集」第2巻 大和書房)と薩長軍を京都の民衆が支持したことを得意そうに述べています。

児島襄「大山巌」を読む7

朝廷は1868(慶応4・明治1)年1月10日前将軍徳川慶喜、会津藩主松平容保らの官位剥奪、慶喜追討と幕府直領を没収する布告を発し、同年2月9日有栖川宮熾仁親王が東征軍大総督に任命され、東海・東山・北陸3道の軍を指揮することとなりました。東征軍は主力を東海道と東山道(中山道)に配置、東海道軍は箱根から品川へ、大山弥助が所属する東山道軍は諏訪で二分されて、一方は甲府を経て内藤新宿へ、他方は碓氷峠を越えて板橋へ向かい、品川・新宿・板橋3方面から江戸城を総攻撃することになっていました。
同年1月12日朝廷は「今度、不図(図らずも)干戈(かんか 戦争)ニ至リ候儀ニ付テハ、万民塗炭(とたん ひどい苦しみ)之苦モ不少(少なからず)、依之(之に依りて)、是迄幕領之分、総テ当年租税半減被 仰付(仰付けられ)候」(太政官編纂「復古記」第1冊 内外書籍)と旧幕領年貢半減令をだし民心の掌握に努めました。相良総三に率いられる赤報隊は東山道各地に年貢半減令を宣伝しました。ところが小諸藩が出した訴状によれば赤報隊は徒党を企、頑民を語らい合い、連判状等取りたて(長谷川伸「相楽総三とその同志」新小説社)とあるように農民を百姓一揆のような組織に組み込みつつあったことが推定されます。同年3月3日東山道先鋒総督府は先鋒嚮導隊相良総三らを偽官軍として逮捕し、下諏訪で斬罪としました(「維新史料綱要」巻8)。

幕末維新新選組―佐幕人・幕末人名鑑―赤報隊 相良総三

徳川慶喜は故将軍家茂夫人和宮親子内親王(「天璋院篤姫」を読む17参照)と天台宗管領・上野寛永寺住職輪王寺宮公現法親王を通じて、朝廷に恭順の意思伝達をはかりました。この影響もあって同年3月13日大総督府参謀西郷隆盛と慶喜助命ならびに水戸謹慎を提案する旧幕府陸軍総裁勝海舟が、薩摩藩江戸藩邸で会見、翌日江戸城総攻撃中止、江戸城開城の合意成立となりました。
江戸城開城は同年4月11日に行われ、徳川慶喜も水戸に赴きました。しかし東征軍への降伏を受け入れない大鳥圭介指揮の徳川軍の一部は日光東照宮を拠点として、奥州の諸藩と連帯し抗戦する決意をかため、宇都宮にむかい、旧幕府海軍も海軍副総裁榎本武揚の指揮により館山湾に退きました。同年4月23日大山弥助の所属する官軍は宇都宮城を攻撃、大鳥圭介軍は奥州街道から北方へ退却していきました。つづいて同年5月1日白河城を陥落させると 同年5月3日奥羽各藩代表は仙台に集まり25藩が同盟条約を決議、ついで会津・庄内・長岡など8藩を加え、奥羽越列藩同盟が成立しました。
官軍側はこの情勢に対応するために、江戸上野に集結する彰義隊制圧を決意、同年5月15日彰義隊を攻撃鎮圧しました(「維新史料綱要」巻9)。

幕末歴史探訪―人物別分類―大村益次郎

写真紀行・旅おりおりー史跡を訪ねるー墓地・終焉の地―関東―江戸以前―彰義隊の墓

児島襄「大山巌」を読む8

 官軍を迎え撃つ会津藩の軍制は年齢別の青龍(36〜49歳)・白虎(びゃっこ16,7歳)・朱雀(すざく18〜35歳)・玄武(げんぶ50歳以上)の4隊にわかれ、その外一般藩民の志願者を集め、強制することはなく、他に身寄りあらば逃れるもよしと布令がありました(石光真人「ある明治人の記録」会津人柴五郎の遺書 中公新書)。
守備兵力は官軍が接近するとみられる南の日光方面、北西の越後方面に力点がおかれ、東方は険しい安達太良山脈と猪苗代城(亀ケ城)に頼っていたのですが、1868(慶応4・明治1)年8月22日猪苗代城陥落の報をうけて会津若松が危機におちいると、藩主松平容保は弟の桑名藩主松平定敬にも応援を求め、、日向内記の指揮する白虎隊二番中隊は会津若松城下から約8キロの十六橋西方大野ケ原に進出しました。
同年8月23日土佐藩兵を先頭とする官軍は会津若松城下に突入してきました。会津若松城下は鶴ケ城を囲む内濠と外濠の間に武家屋敷が集中し、外濠から内側に入る橋には郭門がありました。
 土佐藩砲兵は鶴ケ城を砲撃、1弾が北角の櫓に命中、所蔵されていた火薬に引火して大爆発をおこし、藩士邸も放火されて市内に火煙が立ち上りました。
このころ鶴ケ城東北東2キロの飯盛山にたどりついた白虎隊二番中隊は火煙に包まれている鶴ケ城を見て自決しましたが、飯沼貞吉のみ蘇生して助けられました(「七年史」四 続日本史籍協会叢書)。

呆嶷館―会議室発言集―飯沼貞吉

児島襄「大山巌」を読む9

土佐藩部隊は鶴ケ城大手門の前に築かれた北出丸からの射撃で侵入を阻まれました。土佐藩部隊から救援を求められて、参謀伊地知正治は大山弥助の指揮する砲兵隊の出動を命じましたが、このとき弾丸が大山弥助の右股を内側から貫き弥助は転倒、同年8月24日後送されました。

Yosh’s blog―カテゴリーーこのblog内の検索 山本八重とスペンサー銃 2009.5.21

 9月に入っても、約5000人の老幼男女と藩士が立てこもる鶴ケ城には砲撃と射撃がつづき、城内は食料不足に悩まされました。とくに城内での女性の活躍は著しく、松平容保の姉輝姫は負傷者の救護と炊事を指示して昼夜の別なく働きつづけました。
当時の榴弾は弾着後しばらくしてから炸裂し、焼弾は弾体の穴から火焔を噴き出して家屋を焼き尽くします。その対策として水に濡らした綿衣類や布団をかぶせて消火する役目が女性に課せられましたが、女性が砲弾とともに爆死する危険を伴ったのです。のちに大山弥助(巌)夫人となる会津藩家老山川大蔵(浩)の妹で当時8歳の咲子(捨松)もこれら女性の中にいたのです。捨松は後に当時を回顧して次のように述べています。「当時私は8歳でした。(中略)男達は皆戦いに出ていました。女子供も精一杯男達を助けて働きました。仕事の種類によって隊を編成し、米を洗って炊きだしをする者、前線にいる兵隊達のために弾薬を作る者、幼かった私に割り当てられた仕事は、蔵から鉛の玉を運び出し、弾薬筒につめられたものを他の蔵へ運びこむことでした。」(久野明子「鹿鳴館の貴婦人 大山捨松 日本初の女子留学生」中央公論社)。
同年9月14日官軍による鶴ケ城総砲撃がおこなわれ、藩主松平容保は開城を決意、9月22日ついに会津藩は官軍に降伏しました(「維新史料綱要」巻9)。
官軍参謀であった板垣退助は、後にこのころを回顧して次のように述べています。「東北に転戦し(中略)、会津が天下の雄藩を以て称せらるヽに拘らず、其亡ぶるに方って国に殉ずる者、僅かに五千の士族に過ぎずして、農工商の庶民は皆な荷担して逃避せし状を目撃し、深く感ずる所あり。(中略)蓋し(けだし おそらく)上下隔離、互に其楽を倶にせざるが為なり。(中略)我帝国にして苟くも東海の表に屹立し、富国強兵の計を為さんと欲せば、須らく上下一和、衆庶と苦楽を同ふし、闔(こう 全)国一致、以って経綸(けいりん 国家を治め整える)の事に従はざる可からず。」(「自由党史」上 岩波文庫)と考えるようになり、故郷土佐にかえって自由平等の宣言を発したと述べています。

児島襄「大山巌」を読む10

 大山弥助は1868(明治1)年11月20日鹿児島に帰り、砲隊塾を開きながら大砲の研究に取り組み、欧米製のものを改良した「弥助砲」を考案しました(尾野実信「前掲書」)。

尚古集成館―薩摩・島津家の歴史―1908 忠重、東京へ移るー公爵 島津家―弥助砲

1870(明治3)年3月弥助は東京(1868年7月17日江戸を改称「天璋院篤姫」を読む18参照)守備の薩摩藩兵として上京、弥助の率いる大砲隊一番大隊は数寄屋橋の旧江戸南町奉行所に駐屯しました。弥助は東京到着後同伴した薩摩藩鼓隊員を横浜に派遣、イギリス公使館軍楽隊長ジョン・ウイリアムズ・フェントンの伝習指導を受けさせることにしました。
 ところが各藩徴兵の天覧(天皇御覧)演習が予定されており、当然国歌演奏が行われるべきだから、国歌の練習から始めようとフェントンが言うので、日本に国歌はないというと、フェントンは国歌を作ってくれば、自分が作曲するといっていると、伝習小頭頴川吉次郎が大山弥助に相談をもちかけてきました。
大山弥助は薩摩琵琶「蓬莱山」の一節にうたわれている「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」をフェントンに紹介させ、フェントンはこれをもとに作曲を試みました(尾野実信「前掲書」)。
しかし1883(明治13)年宮内省式部寮雅楽課の林広守が「君が代」を作曲しなおし、海軍省傭教師フランツ・エッケルトの編曲したものが、現在国歌とされている「君が代」です(小田切信夫「国歌君が代講話」君が代史料集成 第3巻 大空社)。

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2010年06月11日(金)
城山三郎「雄気堂々」を読む11〜20
城山三郎「雄気堂々」を読む11

 1868(慶応4・明治1)年4月24日関東監察使三条実美は江戸城に入り、大総督以下と協議し、田安亀之助を徳川家相続者とし(「維新史料綱要」巻8)、駿府(静岡)において70万石を賜ることに決定、同月29日亀之助相続を、また徳川家封地については彰義隊鎮圧後の同年5月24日伝宣しました(渋沢栄一「徳川慶喜公伝」4 東洋文庫107 平凡社・「天璋院篤姫」を読む18参照)。
 渋沢栄一は同年11月19日駿府に到着、宝台院という駿府市中の小寺院で謹慎中であった徳川慶喜の引見を受けました。その後駿府藩庁から出頭命令があり、藩の勘定組頭を申しつけるとの辞令を交付されましたが、栄一はこれを辞退したのです。
 ところが明治新政府は財政窮乏のため、参与兼会計事務掛三岡八郎(由利公正)の建議(「維新史料綱要」巻8 明治元年正月二十三日条)により「太政官札」という不換紙幣を発行(「前掲書」巻9 同年五月十五日条)、その金額は凡そ4800万両でした。また諸藩石高に応じて、1万石につき1万両を新政府が拝借、その返還は太政官札をもって行い、13箇年賦で償却することとなりました。

日本銀行金融研究所 貨幣博物館ーわが国の貨幣史・年表ーわが国の貨幣史ー20 明治維新直後の紙幣ー太政官札・京都府札

 駿府藩への割付高は70万両程で、その年の末までに政府から交付された金高は53万両でした。栄一が提出した建議に基づき、藩勘定頭平岡準蔵は石高拝借交付金と地方の資本をあわせて商法会所(常平倉)という商会を設立、栄一は頭取として経営主任となり、預金・貸付金業務や京阪における米穀・肥料を買い付けて、これを駿府地方に売却するなどで利益をあげました(「雨夜譚」巻之四)。

城山三郎「雄気堂々」を読む12

 1869(明治2)年11月21日栄一は明治新政府より召喚を受け、同年12月初旬太政官に出頭すると、大蔵省租税正に任命されました。栄一はだれが自分を政府に推挙したのか判らなかったのです。当時の大蔵卿は伊達宗城、大輔は大隈重信、少輔は伊藤博文で、省務は大隈・伊藤がその多くを管掌していたので、同年12月中旬大隈を訪問して辞意を表明しましたが慰留されました。栄一は大蔵省の組織確立のため新局を設けて旧制の改革にあたることを提議、彼は改正掛長に任命されたのです(「雨夜譚」巻之五)。

埼玉が生んだ偉人渋沢栄一―関係人物―大隈重信

 1871(明治4)年春、大久保利通が大蔵卿、井上馨が大蔵大輔となる人事異動があり、栄一も大蔵権大丞となり、不換紙幣を償却し兌換準備を実現するため、当時アメリカへ出張中であった伊藤博文大蔵少輔の建議にもとづき、新貨幣にかんする条例立案を栄一が担当、同年5月「新貨条例」が制定され(内閣官報局「法令全書」原書房)、貨幣の呼称を円・銭・厘と定め、金本位制を確立しようとしました。

日本銀行金融研究所 貨幣博物館ーわが国の貨幣史・年表ーわが国の貨幣史ー21 円の誕生

また同年7月14日廃藩置県が断行され(「維新史料綱要」巻10)、その後栄一は財政の「量入為出」(支出・収入のバランスをはかること)方針をとって、各省経費の定額を設け、支出の制限を企てていました。しかるに同年8月ころ政府内に陸軍省の歳費額を800万円に、海軍省の同額を250万円に定めようとする提議があり、大久保大蔵卿はこれに同意しようとして、これに反対する栄一と対立しました。
 同年11月12日岩倉使節団は欧米視察のため横浜を出発、大久保利通大蔵卿も副使として同行(「米欧回覧実記」を読む2参照)したため、大蔵省の実権は井上馨大蔵大輔の掌握するところとなり、翌年春大蔵少輔吉田清成の英国出張により、栄一が少輔の事務を取扱うこととなりました(「雨夜譚」巻之五)。

城山三郎「雄気堂々」を読む13

 1859(安政6)年5月28日幕府は同年6月以降神奈川・長崎・箱館3港において、欧米列強との貿易を許可することを布告しました(「維新史料綱要」巻3)。幕末貿易の中心輸出品は生糸・産卵紙で、それまで京都に生糸を送っていた関東・東山・東北の地方は蚕種を横浜に送ってヨーロッパやアメリカに輸出するようになりました。
 その背景には当時世界の絹はイタリアとフランスの生産物で供給されていたのですが、ヨーロッパの養蚕地におこった微粒子病という蚕の病気の流行により、日本の生糸は世界的に重要なものとなったという事情がありました。
 1870(明治3)年2月から大蔵少輔伊藤博文・租税正渋沢栄一が中心となって、官営模範工場の設立計画がすすめられていました。同年6月フランス人技師ポール・ブリューナが招聘され、工場敷地を調査した結果、上野国富岡(群馬県富岡)に決定、1872(明治5)年10月富岡製糸場(場長 尾高惇忠)が開業しました(「富岡製糸所沿革大要」群馬県内務部「群馬県蚕糸業沿革調査書」二 明治前期産業発達史史料 別冊(50) 明治文献資料刊行会)。

群馬風便りー囲み記事―官営富岡製糸場

 この富岡製糸場で働いた伝習工女の記録として、和田英「富岡日記」(「中公文庫」)が有名です。彼女は次のように述べています「私の父は信州松代の旧藩士の一人でありまして、横田数馬と申しました。(中略)十三歳より二十五歳までの女子を富岡製糸場に出すべしと申す県庁からの達しがありましたが、人身御供(ひとみごくう)にでも上るように思いまして一人も応じる人はありません。(中略)やはり血をとられる(外国人が飲む赤ワインを生血と誤解)のあぶらをしぼられるのと大評判になりまして、(中略)それで父も決心しまして、私を出すことに致しました。」。
 彼女は一等工女として月給1円75銭でしたが、フランス人技師ブリューナの月給は月600ドル(約1ドル1円に相当)(楫西光速他「製糸労働者の歴史」岩波新書)で、御雇外国人が当時いかに高給で迎えられていたかがわかります。

城山三郎「雄気堂々」を読む14

 井上馨大蔵大輔は伊藤博文のアメリカでのナショナル・バンク制度調査にもとづく取り調べを渋沢栄一に委嘱、1872(明治5)年11月15日「国立銀行条例」が公布されました(「法令全書」第五巻ノ一)。国立銀行とは国法により設立された民間銀行という意味で、条例によれば資本金の6割を通貨で政府へ納入、同額の金札引換公債証書を受領、その公債証書を政府に納めて、政府から同額の銀行紙幣を受け取って流通せしめ、その引き換えのために資本金の4割を金貨で準備、希望により兌換する仕組みになっていました。
 他方井上馨・渋沢栄一による財政の「量入為出」(支出・収入のバランスをはかること)にもとづく各省経費の定額化方針は抵抗が大きくなかなか実現できませんでした。かくして1873(明治6)年5月3日井上馨大蔵大輔は辞意を表明、栄一も連袂辞職を明言、同年5月7日付で三条実美を経て政治・財政・経済上の意見書を奏上しました。その後まもなく意見書が「曙新聞」に掲載されたため、司法卿江藤新平は政府秘密を漏らした咎で井上に罰金を課したのでした。政府は同年5月23日付(5月14日「太政官日誌」渋沢栄一伝記資料第3巻)で「依願免出仕」の辞令を下しました(「雨夜譚」巻之五)。

南白新平館―南白伝

城山三郎「雄気堂々」を読む15

 明治維新以後、新政府の為替方を務めていた三井組・小野組は政府の勧奨により、1872(明治5)年6月連署で国立銀行設立の願書を大蔵省に提出、翌年6月11日「第一国立銀行」(「みずほ銀行」の起源)が資本金244万円余で創立、渋沢栄一が総監に就任、東京海運橋兜町に本店、横浜・大阪・神戸に支店を置き、銀行紙幣の発行と普通銀行業務の外に租税その他の官金出納事務を大蔵省から委託されました(「渋沢栄一伝記資料」第4巻)。

東京都中央区の地域情報 イーナビライフドットコムー中央区今昔物語ー3 日本橋兜町第一国立銀行と海運橋

 1873(明治6)年10月征韓派が下野(東大史料編纂所蔵版「明治史要」明治6年10月25日条 東大出版会)し、その一人であった江藤新平は翌年1月板垣退助らとともに「民撰議院設立建白書」に署名(板垣退助監修「自由党史」上 岩波文庫)、自由民権運動のさきがけとなりましたが、同年2月佐賀の乱を起こして刑死、同年4月には台湾出兵が起こり(「明治史要」)、戦乱つづきによる金貨高騰により兌換希望者が続出しました(「渋沢栄一伝記資料」第4巻)。

詳しくわかる高校日本史―日本史講義録目次―4 近現代―076 新政府の外交―台湾出兵―077 新政府への反動―政府内部の対立ー民撰議院設立建白書

またほぼ同時に起こった小野組破産により小野組への多額の貸付を行っていた第一国立銀行の打撃は大きかったのです。
 小野組で生糸買い付けや輸出に従事していた古河市兵衛は小野組閉店の際、秋田の鉱山を含む自らの財産を抵当として差出しました。このような古河市兵衛の協力にも助けられ、第一国立銀行は危機を乗り切ることに成功したのです。渋沢栄一はこの恩義に報いて、古河市兵衛の鉱山業に融資し、やがて市兵衛は足尾銅山の経営に成功するようになりました(「渋沢栄一伝記資料」第4・15巻)。

実業史研究情報センターーブログー記事一覧―2009・03・06−古河市兵衛の鉱山事業への支援

 正貨流出のため、第一国立銀行は兌換紙幣の発行を停止、横浜第二など他の三国立銀行と協議の上、正貨を銀行紙幣と兌換する制度を通貨(政府紙幣)と兌換するよう政府に請願しました。その結果1876(明治9)年8月改正国立銀行条例が公布され、銀行紙幣も政府紙幣もともに不換紙幣となりました(「法令全書」第九巻ノ一)。

城山三郎「雄気堂々」を読む16

  征韓論に敗れて下野した西郷隆盛は江藤新平の協力要請にも応ぜず、1876(明治9)年に起こった神風連の乱(熊本)、秋月の乱(福岡)、萩の乱(山口)など不平士族の反乱を傍観、私学校を創立して士族子弟の教育にあたっていましたが、1877(明治10)年2月西郷隆盛を擁立した私学校党は挙兵、西南戦争が勃発しましたが、結局徴兵制の政府軍に薩摩士族軍は敗北、同年9月西郷は自刃してここに西南戦争は終了したのです(「明治史要」)。
 同郷でありながら西郷隆盛と対立した内務卿大久保利通は翌1878(明治11)年5月14日東京紀尾井町で石川県士族島田一郎ら6人に刺殺されました(中山泰昌編「新聞集成明治編年史」第3巻 財政経済学会)。

埼玉が生んだ偉人渋沢栄一―関係人物―西郷隆盛

歴史倶楽部―郷土の歴史よもやまー6 大久保利通暗殺事件

 西南戦争によるインフレーションの進行を阻止するために、渋沢栄一は紙幣整理を政府に建議しようとしましたが、当時の財政責任者たる大隈重信の反対で実現しましせんでした(「渋沢栄一自叙伝」抄 渋沢栄一 日本図書センター)。1881(明治14)年の政変で大隈重信が下野(「伊藤博文伝」中巻 春畝公追頌会)した後、大蔵卿となった松方正義は不換紙幣償却のために緊縮財政方針をとり、官業を払下げ、翌年10月日本銀行が開業、1885(明治18)年兌換銀行券による銀との兌換を開始しました(大蔵省「明治財政史」第14巻 吉川弘文館)。

城山三郎「雄気堂々」を読む17

  1873(明治6)年渋沢栄一は王子抄紙会社(後 王子製紙会社)を創立しました(大蔵省編「明治前期財政経済史料集成」3 大蔵省沿革志 下 紙幣寮第二 明治文献資料刊行会)。大川平三郎の母親は渋沢夫人千代の姉みちであるという御縁で平三郎は渋沢家の書生として住み込むようになりました。会社に製紙業技術革新のため留学を希望する建白を提出、アメリカに留学して帰国後、製紙法に改良を加え、のちに王子製紙支配人となった人です(竹越与三郎「大川平三郎君伝」大川平三郎君伝記編纂会・「渋沢栄一伝記資料」第11巻)。
横浜に薪炭・石炭店を営業していた浅野惣(総)一郎は石炭や薪炭の納入先である横浜瓦斯局などが処理にこまっていた石炭の廃物コークスを東京の官営深川セメント工場技師鈴木儀六の協力でセメント製造の燃料として用いる方法を開発、これを同工場や製紙会社などに売り込みました。浅野が横浜花咲町にある瓦斯製造所にいくと、コークスは王子抄紙会社が買い占めていたのですが、ここではコークスは役に立たなかったので、浅野は渋沢に石炭とコークスの交換を申し入れ、承諾を得ると、浅野は安い石炭を仕入れて横浜に運び、製紙会社に納入し、巨利を得たのです(北林惣吉「浅野総一郎伝」千倉書房)。
王子製紙支配人谷敬三から、渋沢栄一が会いたがっていることを聞いた浅野はある夜渋沢宅を訪問しましたが、栄一は浅野に「お汝(ぬし)の様な人は東京で飯を食う以上、腕で飯を食う心掛が肝心ぢゃ」と話しました(浅野泰治郎・浅野良三「浅野総一郎」渋沢栄一伝記資料 第15・29巻」。こうして浅野は1884(明治17)年渋沢の援助で経営不振の官営深川工作分局払下げを受けることに成功しました(「工部省沿革報告」明治前期財政経済史料集成 第17巻ノ1)これが浅野セメント(現 太平洋セメントの起源)の始まりです。

埼玉が生んだ偉人渋沢栄一―雑学の部屋―明治の実業家たちー浅野総一郎

城山三郎「雄気堂々」を読む18

 渋沢栄一が大蔵省在職中の1871(明治4)年7月廃藩置県の際諸藩所有の汽船をもとに郵便蒸気船会社を設立させ、とくに貢米輸送にあたらせようと考えたのです。ところが岩崎弥太郎(「竜馬がゆく」を読む16参照)が経営する土佐藩汽船6隻ではじめた三菱汽船会社は1874(明治7)年の台湾出兵(征台の役)で軍事輸送を担当、やがて郵便蒸気船会社を合併、さらに西南戦争の軍事輸送でさらに社運を向上させるに至ったのでした(「渋沢栄一自叙伝」抄)。
 政商岩崎弥太郎の三菱汽船会社横暴を憎んだ渋沢栄一は1880(明治13)年益田孝(三井物産設立者 明治の女子留学生永井繁子の兄・「米欧回覧実記」を読む2参照)らとともに東京風帆船会社を設立しました。1882(明治15)年栄一の妻千代が死去しています(「渋沢栄一伝記資料」第29巻)。この小説は糟糠の妻千代をうしなった渋沢栄一を従兄の喜作が励ますところで終了しています。
 しかし渋沢栄一は翌年伊藤兼子と再婚、彼の活躍は千代死後も止むことはありませんでした。
1883(明治16)年には北海道運輸会社などを合併して共同運輸会社を設立、三菱汽船会社に対抗しました。しかし両社共倒れの危険も予想される事態となり、1885(明治18)年9月日本郵船会社設立となったのです。

近代日本人の肖像―人名50音順―ま・もー益田孝

 また陸運では1881(明治14)年11月池田章政(旧岡山藩主)らにより東京・青森間を結ぶ日本鉄道会社が設立され、渋沢栄一は株主となり、1885(明治18)年7月以降理事員に推されて、社業の発展に尽くしました(「渋沢栄一伝記資料」第8巻)。

城山三郎「雄気堂々」を読む19

 開港後イギリス綿業資本による機械紡績糸の綿糸・綿織物の流入が手紡糸生産のみの日本に洪水のように流入しました。このような状況の下で政府は伝統的な在来紡績業を保護育成するのではなく、西洋式機械紡績を導入保護することによって輸入綿糸に対抗しようとしたのです。
 当時日本には幕末に藩営または幕府の内命による洋式機械紡績所として鹿児島・堺・鹿島の三紡績所がありました。1878(明治11)年政府は水車を原動力としミュール紡機500錘立四基を運転する官営の愛知・広島紡績所建設などに着手しました。しかしこの方針は結局失敗に帰したのであって、こうした政府の保護の外で大規模生産を実現したのは渋沢栄一の発起により1883(明治16)年に操業を開始した大阪紡績株式会社(東洋紡績の起源)でした(「渋沢栄一伝記史料」第3章第1節第1款 大阪紡績株式会社 第10巻)。渋沢栄一は筆頭株主、有力株主は蜂須賀・前田・毛利・亀井・徳川・伊達・西園寺・井伊などの大華族、益田孝・大倉喜八郎・藤田伝三郎・住友・五代友厚などの政商資本並びに東京・大阪の綿問屋の巨大商人で構成されていました(大江志乃夫「日本の産業革命」岩波書店)。

はまだよりー発祥の地コレクションー大阪府―紡績工業(大阪市)−近代紡績工業発祥の地

 大阪紡績は設立当初から10500錘規模の大規模生産を実現、原動力に蒸気機関を採用し、原料綿花にかならずしも国産綿花を考慮せず、徹夜操業を開始、このための照明に当時珍しかった民間ではじめての電燈を採用したのでした。これは引火しやすい綿を扱う紡績工場で当時支配的だった石油ランプを使用することは火災の危険を伴ったからです。
 1897(明治30)年の調査によれば、紡績女工の労働時間は12時間、すなわち朝6時より晩6時までで、夜業は午後6時より午前6時まで、その間合計1時間の休憩時間がありました。夜業の様子を、横山源之助は次のように述べています「深更(深夜)二時三時の頃睡魔の襲ひ来る最も激しく、電燈白ろく工女の姿をうつして淋し」。賃銀は日給15銭以下が紡績工場の多数女工の賃金と見るのが事実に近く、この賃銀より食料8銭と前借金、親許に送る貯蓄積金などを差し引けば、残る額はいくばくもなかったでしょう(横山源之助「日本の下層社会」岩波文庫)。

かるがも飼育研究所―旧サイト「かるがもの言いぶん」―FAVORITE PERSONS−横山源之助

 一方渋沢栄一は紡績を専門とする技術者養成のため、経済学研究を目的としてイギリス留学中の山辺丈夫に150ポンドの修学資金を送って紡績実務を学ばせました。

経済(学)あれこれーバックナンバー2009−07−06 経済人列伝 山辺丈夫

城山三郎「雄気堂々」を読む20(最終回)

 1916(大正5)年渋沢栄一は喜寿を迎えた機会に財界から引退、公共、社会事業に余生を捧げました。

埼玉が生んだ偉人渋沢栄一―栄一の生涯ー栄一の経緯〜余聞〜栄一が関係した主な会社・団体

1921(大正10)年のワシントン会議以後アメリカの対日感情は融和に向かい、日本における大正デモクラシーの風潮とも合致して国際交流が盛んとなりました。渋沢は民間経済外交の中心として日米協会・国際連盟協会などを通じた国際的交歓を発展させたのですが、その母胎となったのが東京をはじめとする主要都市の商業会議所だったのです。
 しかし1924(大正13)年アメリカで排日移民法が可決されたころから、渋沢栄一の民間経済外交への影響力は失われてゆきました。政財界の指導者が次第に若い世代へ移行していったからです(木村昌人「渋沢栄一」中公新書)。
 1931(昭和6)11月11日渋沢栄一は92歳で永眠(「渋沢栄一伝記資料」第46巻)、東京上野の谷中墓地に埋葬されました。本年9月満州事変が勃発しています。

谷中・桜木・上野公園―谷中墓地―渋沢栄一

2010-06-11 11:05 | 記事へ | コメント(0) |
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2010年06月01日(火)
城山三郎「雄気堂々」を読む1〜10
城山三郎「雄気堂々」を読む1

 城山三郎「雄気堂々」(新潮文庫)は最初「寒灯」の題で「毎日新聞」1971(昭和46)年1月1日から同年12月23日まで連載され、単行本として出版されたとき、上記のように改題されたもので、明治財界の草分けであった渋沢栄一の生涯を辿った長編小説です。
 この小説のはじめは「序曲 流産祝い」という渋沢栄一にまつわる挿話からはじまります。明治の元勲の中で井上馨ひとりがまだ総理になっていませんでした。伊藤博文らはぜひ井上内閣を発足させようとしたが、井上は「渋沢が大蔵大臣にならなければ、引き受けぬ」といいました。だが当時第一銀行頭取だった渋沢は「私は実業家で通す決心です」と、この話を断りつづけました。渋沢の拒絶によってついに井上内閣は日の目を見ることはありませんでした。しかし井上は渋沢をうらみはしませんでした。「もし失敗して退くようだと末路に傷がつく。きみが引き受けてくれなかったおかげで、その心配がなくなった」と井上は言って、わざわざ渋沢を呼び、内閣流産祝の宴をはったそうです。
 伊藤・山県など下級武士上がりの明治の元勲たちが、もっともらしい系図づくりに精を出したのに対し、渋沢は「武州血洗島(ちあらいじま)の一農夫」で押し通したそうです。血洗島は江戸から二十里、中仙道深谷宿からさらに北へ二里ほど入ったところにあります。

深谷市HP―市の紹介・お知らせー偉人―渋沢栄一ミュージアムー渋沢栄一物語―21 生地 血洗島の地名について

城山三郎「雄気堂々」を読む2

渋沢栄一は1840(天保11)年2月13日武蔵国榛沢(はんざわ)郡血洗島村(2万石余の大名安部摂津守の所領)で父渋沢市郎右衛門(養子)と母栄(エイ 家付娘)との間に生まれました(「渋沢栄一伝記資料」第1巻 渋沢栄一伝記資料刊行会)。血洗島に渋沢を名乗る家は十数軒あり、栄一の家はその宗家(中の家)で、もともと農耕・養蚕と藍玉製造・販売を兼業、父の代には荒物商・金融業も営業していました。、
 市郎右衛門は栄一が7歳になると、隣村手計(てばか)村の尾高惇忠(新五郎 藍香と号す)に入門させ、主として儒学を学ばせました。師匠は栄一に自主的な読書を奨励、剣法も12歳から神道無念流の研鑚にはげんだようです。

埼玉が生んだ偉人渋沢栄一―栄一の生涯ー栄一の経緯余聞―栄一の家族たちー渋沢家関係略系図―史跡めぐりー尾高惇忠の家・鹿島神社

 14歳(1853 嘉永6年 ペリー来航)から父の命により農耕・養蚕の他、自家で作った藍葉(葉茎から染料をとる)と他家から仕入れたものを藍玉(藍葉を発酵させたものを固めた染料)に製造、上州、秩父あたりから信州辺の紺屋(元来藍染業者、のち染物を職業とするものの総称)へ売る掛け売りに従事するようになりました。

城山三郎「雄気堂々」を読む3

 栄一が17歳(1856  安政3年)のとき、領主安部摂津守から血洗島村に約1500両の御用金を課す命令が下り、市郎右衛門も500両を負担しなければならなくなりました。

城郭図鑑―埼玉県―深谷市―岡部陣屋   

このとき市郎右衛門は差し支えにより、栄一が父の名代として、御用金を申しつけられた他の2人とともに岡部にあった安部摂津守の陣屋へ出頭しました。同行の2人は一家の当主で、ただちに御用金献上を承諾しましたが、栄一は御用金額を承り、父にその由を伝えた上で、あらためて、お受けに罷り出ますと答え、その場で御用金献上承諾を迫る代官に反抗、叱責を受けました。結局翌日御用金を持参して事は収まったのですが、このとき栄一には封建的身分制度への疑問と反抗の思想が芽生えていたといえるでしょう(渋沢栄一述「雨夜譚」渋沢栄一 日本図書センター)。
 栄一の師尾高惇忠の弟長七郎は栄一より年長で剣道に秀で、江戸に出ていましたが、ときどき友人を伴って帰郷、江戸の情勢を伝え、尾高惇忠も時事を論ずることを好んだので、栄一がその影響をうけたのは当然でしょう。

深谷市HPーデジタルミュージアムーふかやデジタル・ミュージアムー人物館ー江戸時代ー尾高長七郎

 栄一が19歳の年(1858 安政5年)には尾高惇忠の妹千代と結婚しましたが、安政の大獄による勤皇の志士の弾圧がはじまり、翌々年の1860(万延1)年には桜田門外の変で井伊大老が暗殺されるに至りました。
 栄一が23歳の年(1862 文久2年)正月15日老中安藤対馬守信正が水戸浪士によって襲撃される坂下門外の変が起こり、この事件の犯人として尾高長七郎もその嫌疑をかけられた一人でした。長七郎は事件当時、郷里にいましたが、自分に嫌疑がかけられていることを知らず、江戸へ向けて出立していました。その後長七郎に追手が迫っていることを知った栄一は寒風の夜、長七郎に危機を知らせるため自宅を出て、熊谷宿で長七郎に追いつき、信州路を経て京都に避難するよう説得することに成功したのでした(「渋沢栄一伝記資料」第1巻)。

城山三郎「雄気堂々」を読む4

 1863(文久3)年春から夏にかけて、栄一は尾高惇忠・渋沢喜作(栄一の従兄)とともに攘夷計画すなわち高崎城を乗っ取り、槍刀などの兵備を整え、鎌倉街道を経て横浜に至り、焼き討ちを敢行して外国人を切り殺す作戦を立案、その費用を藍商売勘定から父に内緒で支払い、約70名の同志を得て、決起する日を同年11月23日と決定しました。

埼玉が生んだ偉人渋沢栄一―栄一の生涯ー栄一の経緯―渋沢家の人々―新屋敷〜栄一の従兄弟喜作

 同年9月13日観月の宴で栄一は父に当時の政治情勢を説き、父に迷惑がかかるのをおそれて、勘当を願いでました。父は栄一の具体的行動計画を知りませんでしたが、危険な行動をやめるよう説得し、栄一の同意を得られないまま黙認せざるを得なかったようです。
 翌日江戸へでた栄一は喜作とともに、幕吏の眼を逃れるため、面識があった一橋家に仕える川村恵十郎の紹介で、10月24日一橋家用人平岡円四郎を訪ねました。平岡は栄一が気に入ったようでしたが、栄一は一橋家お出入りを許されるなら幸いですと言い、平岡も当面は自分の家来ということにするがよいといったようです。

埼玉が生んだ偉人渋沢栄一―関係人物―川村恵十郎―平岡円四郎

 栄一から連絡を受けた尾高長七郎は同年10月25〜26日ころ京都から帰り、10月29日夜尾高惇忠・長七郎・渋沢栄一・喜作らの幹部会議が開かれました。このとき長七郎は同年8月18日の政変により尊王攘夷を藩論とする長州藩は京都を追われ、薩摩・会津両藩のような親幕勢力が政治の主導権を回復したことを述べ、横浜焼き討ち中止を主張、結局攘夷計画は中止されたのです(「渋沢栄一伝記資料」第1巻)。

城山三郎「雄気堂々」を読む5

 横浜焼き討ち計画中止後、栄一と喜作は故郷を離れ、一旦江戸へ出、かねて面識がある一橋家用人平岡円四郎宅を訪ね、留守であったので夫人に平岡円四郎家来の名目で京都へ赴くについての了解を依頼したのでした。栄一が京都へ旅立つとき、父市郎右衛門は百両の大金を与えました。
 栄一らは1863(文久3)年11月25日京都に到着、さっそく平岡円四郎を訪問しています。しかるに翌年2月初旬尾高長七郎が獄中から送った手紙が栄一の許に届きました。
 その手紙の内容は長七郎が江戸から郷里へ帰る途中、飛脚を殺害したため、捕縛投獄されのですが、このとき栄一と喜作が長七郎宛てに送った、幕府は外交問題でやがて倒壊するに違いないから、長七郎も京都へ来た方がよいという手紙を、長七郎は持ったまま逮捕されたことが記されていました。
 翌朝平岡円四郎が栄一らを呼び出し、幕府から栄一らについて照会が来ていること、栄一らを悪くは扱わぬので、隠さず事情を話せと平岡に言われ、栄一は手紙の件を打ち明けました。平岡は栄一らに節をまげて一橋家に仕えるつもりなら仕官に尽力しようといわれ、2人は宿に帰って相談、平岡の好意を受け入れることに同意、翌朝再び平岡を訪ねて、仕官に先立ち一橋慶喜に拝謁させてほしいと願い出ました。

埼玉が生んだ偉人渋沢栄一―関係人物―徳川慶喜

 しかし平岡は未知の者に拝謁を許すことはできぬ、両三日中に松ヶ崎へ御乗切(騎馬行)があるから、騎馬とともに駆けよと言ったので、背が低く肥満していた栄一は、御乗切の当日慶喜の馬が見えると下賀茂から山鼻まで十町余を必死に駆けて慶喜のお供をしたということです。その後一両日後に拝謁が許可され、栄一らは一橋家家臣となりました。役名は奥口番(奥の出入り口の番人)で御用談所(諸藩の留守居役所に相当)下役として御用談所の脇の一室に同居することとなりました。両人の俸禄は四石二人扶持に京都滞在中の月手当が金四両一分でした(「渋沢栄一伝記資料」第1巻)。

城山三郎「雄気堂々」を読む6

 1864(元治1)年5月から6月にかけて、栄一らは平岡から、広く天下の志士を招集する人選御用の件を命ぜられ、両人は江戸へ赴き、一橋家領地村々を巡回、領地内で3〜40人、江戸で剣術家8〜9人、漢学者2人をを連れて、中山道経由で京都へ帰ろうとしましたが、中山道の岡部を通過する際、久しぶりに故郷の父妻子や尾高惇忠らの知人にも会いたいと思ったのです。しかし岡部陣屋は栄一らを謀反人と見ていましたから他所で父ならびに妻子に面会、尾高惇忠は天狗党に勧誘されたことで入牢中であり、面会はかなわなかったようです(「渋沢栄一伝記資料」第1巻)。

茨城大学図書館―古文書・貴重資料―参考リンクー水戸学・水戸幕末騒乱―天狗党の乱

 しかし岡部陣屋は一橋家家臣として約50名の武士を従え、通過する栄一らに手出しをすることができず、ただ傍観するだけでした。
 ところが同年6月16日夜、京都において、開国論者とみなされていた平岡円四郎は川村恵十郎とともに、一橋家家老(名誉職的存在)渡辺甲斐守を、その旅宿に訪ねての帰途、水戸藩士に要撃され、右の肩先から左の肋骨まで切り下げられ、即死しました。京都では平岡死後、黒川嘉兵衛(「日本遠征記」を読む13・17参照)が主席用人となって一橋家の政務を執行しました(渋沢栄一「徳川慶喜公伝」4 東洋文庫107 平凡社)。

城山三郎「雄気堂々」を読む7

 1865(慶応1)年2月御目見以上となり御用談所下役から出役に昇進、俸禄も十七石五人扶持、月俸十三両二分に加増されました。
 慶喜が京都守衛総督の職にありながら、一橋家には主君を護衛する約百人の親兵と銃砲隊があるだけであったので、栄一は申し出て歩兵取立御用掛となり、一橋家領地から困難を排除して約450名の兵力を集めることに成功、また御勘定組頭として一橋家領年貢米を灘・西宮付近の酒造業者に高値で売って収入を増加させるなど業績をあげて、黒川嘉兵衛ら一橋家重役の信任を高めました。
 ところが1866(慶応2)年7月20日将軍家茂は大坂城で死去、同年8月20日幕府は家茂の喪を発して慶喜の宗家相続を公表しました。同年12月5日慶喜は征夷大将軍に任命され、江戸幕府15代将軍に就任したのです。
 栄一は幕臣となりましたが、幕府の将来に希望がもてず、幕臣の身分を捨てようとしていた同年11月末、一橋家主席用人より幕臣となった原市之進に呼び出され、「来年フランスで万国博覧会が開催されるにあたり、我が国も大君(将軍)の親戚を派遣されるがよいとフランス公使が進言したので、評議の上、水戸の民部公子(民部大輔 徳川昭武 慶喜の異母弟)を派遣されることに決定した。博覧会の礼式終了後、民部公子はフランスに留学させよとの上(慶喜)の思し召しで、付き添いは水戸藩の七人だが、相変わらず外国人を夷狄(いてき)と思っている連中で、また彼らでは会計のこともできぬから、上の御内意で篤太夫(栄一)が適任との御沙汰である。拙者も十分に御内意を伝えますとお受けした。速やかに御内意を受けられよ」とのことでした(「渋沢栄一伝記資料」第1巻)。

松戸市―市の紹介―公共施設―博物館・歴史館―戸定歴史館―デジタルアーカイブー将軍のフォトグラフィ 展覧会ノートー解説 徳川昭武 5 将軍のイメージ 徳川昭武の渡欧

城山三郎「雄気堂々」を読む8

 栄一は旅装として黒羽二重(はぶたえ)の小袖、同色の羽織、緞子(どんす)の義経袴、靴1足、古着の燕尾服1着を整え、1867(慶応3)年正月11日朝7時フランス郵船アルヘー号で横浜を出港しました(「航西日記」渋沢栄一滞仏日記 日本史籍協会叢書 東大出版会)。徳川昭武随行者は御勘定奉行格外国奉行向山隼人正、御作事奉行格御小姓頭取山高石見守はじめ25人で渋沢栄一は庶務・会計を担当する御勘定役・陸軍附調役として参加したのでした。
 同年正月15日上海上陸、同月20日香港着、ここでアルヘー号に倍するフランス郵船アンペラトリス号に乗り換え、サイゴン・シンガポールを経て、翌年2月7日セイロン島着、2月21日スエズに到着しました。当時スエズ運河は開通していなかったので、陸路汽車でカイロ経由アレキサンドリアに至りました。
 「私が汽車に始めて乗ったのは、慶応三年渡仏の途中スエズから出てアレキサンドリアで地中海の船に乗換えるまでであった。(中略)一緒にいった人達も皆硝子(ガラス)というものを知らぬので、(中略)何もないと思ひ、一行の或者が窓の外へ捨る積りで蜜柑(みかん)の皮を何度も投げた。すると隣席にいた西洋人が憤って何か言い出したが言葉が通じないから、(中略)腕力沙汰になった。(中略)皆でよくよく両方の話を聞くと、(中略)結局硝子のあることを日本人が知らなかったのから起った事と判って、双方とも笑って事済(ことずみ)になった」(「雨夜譚会談話筆記」上 渋沢栄一伝記資料 第1巻)
 1868(明治1)年2月29日(西暦4月3日)朝9時半フランスのマルセイユ港に到着、グランド・ホテル・ド・マルセイユに宿泊、滞在中民部公子の世話人フロリヘラルト(フリューリー・エラール 銀行家)の案内でフランス皇帝の離宮見学や市街見物、観劇など多忙な日々を過ごしました。1週間後、リヨンを経て、同年4月11日パリーに到着したのでした(「航西日記」)。

東京百選 江戸旧聞東京百選―近郊近県地域―徳川昭武と松戸戸定邸―徳川昭武一行マルセーユ写真館撮影

城山三郎「雄気堂々」を読む9

 同年3月24日(西暦4月28日)民部公子はナポレオン3世に謁見、将軍の公書奉呈が行われ、公の礼式は終了しました。栄一はこの礼式には出席しませんでしたが、万国博覧会見学がおおいに彼の知見を広めるのに役立ち、蒸気機関・耕作・紡績機械・各国貨幣・医師道具・測量器・絹布織物などに深い興味を覚えました。5月29日(西暦7月1日)には博覧会の褒賞授与式があり、これをもって民部公子の使節としての任務は終了しました。
 この間フロリヘラルトは既述のように銀行家でしたから、銀行をはじめとして、鉄道・株式取引所・株式・公債などフランス資本主義の仕組みについて栄一に説明、有価証券売買の実際を見学するために株式取引所に赴いて渋沢に教えたのです(土屋喬雄「渋沢栄一」吉川弘文館)。
 同年8月6日(西暦9月3日)から民部公子のヨーロッパ各国巡回がはじまりました。スイスからオランダ・ベルギーを巡回、同月末イタリア、11月末イギリスを訪問してパリーに帰着、民部公子はフランス語学習を中心とする研修に明け暮れる毎日がつづきました(「渋沢栄一滞仏日記」日本史籍協会叢書 東大出版会)。

海神歴史文学館―渋沢栄一―渋沢栄一とその時代―第1部 欧州巡歴

城山三郎「雄気堂々」を読む10

 1868(明治1)年正月には日本からの報知で、前年10月14日大政奉還が行われたことや、3〜4月になると、当年正月初めの鳥羽伏見の戦い・将軍の大坂城立ち退き・謹慎・水戸退隠などの報道がパリーにも届きました(「雨夜譚」巻之三 渋沢栄一 日本図書センター)。
 やがて明治新政府外国掛伊達宗城・東久世通禧から民部公子宛て帰国命令の文書が発せられました。栄一はそれでもなお民部公子留学継続をはかったのですが、まもなく水戸藩主(慶篤)死去により、民部公子は後継者と決定、同年9月迎えのものがフランスに到着しました。
 かくして民部公子一行は帰国の途についたのですが、香港到着時に会津落城や幕府海軍が榎本武揚の指揮により箱館に籠城したことを聞きました。
 1868(明治1)年12月3日(11月3日の誤り「渋沢栄一日記」渋沢栄一伝記資料第2巻)民部公子一行は横浜に到着、民部公子は水戸から出迎えた人々とともに東京に赴きました。栄一は杉浦愛蔵(先に帰国した旧幕府外国掛)に出迎えられ、横浜に一泊しました。箱館の様子を聞くと従兄の喜作も同地へ赴いたとのことでした。
 同月6〜7日ころ東京に出て尾高長七郎はその年夏出獄しましたが、死去したことや長七郎弟の平九郎は栄一のフランス渡航の際渋沢家の見立養子になっていたのですが、戊辰戦争で反政府軍に参加、飯能宿付近の黒山で戦死していました。栄一はそれから帰郷して両親・妻子・知友に面会しました。

播磨屋商店―MENU―Categories―尾高長七郎―尾高長七郎、死の真相

深谷市HP―市の紹介・お知らせー偉人―渋沢栄一ミュージアムー渋沢栄一物語―13 戦火に散った渋沢平九郎

 民部公子は帰国の途中も、帰国後も小石川の屋敷で栄一に水戸に来てほしいとの内意を表明していましたが、栄一は公子の申し出を辞退、旧主慶喜の恩顧に応えるべく駿府(静岡)へ赴いたのです(「雨夜譚」巻之三 渋沢栄一 日本図書センター)。
2010-06-01 07:24 | 記事へ | コメント(0) |
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2010年04月11日(日)
久米邦武「米欧回覧実記」を読む21〜30
久米邦武「米欧回覧実記」を読む21

 アレクサンドル2世が1861年に発した農奴解放令を、我が国の1872(明治5)年田畑永代売買の禁令撤廃と比較して、「実記」は次のように記述しています。『○露国隷農解放ノ令ヲ発シテヨリ、二年ヲ経テ、六十三年ノ三月ニ、仕組始メテ整ヒ、先ツ帝領地ノ隷農ヨリ着手セリ、(中略)其法ハ、(中略)喩ヘハ労作者ノ所得高六「ルーブル」ナリシ地ハ、其原価ヲ百「ルーブル」ト定メ、其の百「ルーブル」ヲ原主ニ払ヒテ其地ヲ私有シ、自立ノ民トナル所ナリ、(中略)去年ノ二月、我邦ニテ田地勝手売買ヲ許ス令ヲ発セラレシハ、大化年間ヨリ土地私有ノ権ヲ抑ヘラレタル地主、ミナ自立ノ地主トナルヲ得テ、恰(あたか)モ露国隷農ヲ廃セルト同シ、而テ露民ハ四十九年間ノ増租(露民は原価の20%を支払い、残りの80%を49年間で元利皆済する義務を負う)ヲ負ヒ、日本ノ民ハ一令下ニ不動産ノ所有者トナル、東西洋ニ於テ、政治風俗ノ異ナル、如此(かくのごと)シ、』(第六十二巻 露国鉄道及ヒ聖彼得堡府ノ総説)日本の農民が田畑永代売買の禁令撤廃によって如何なる影響を受けたかは別問題として、ロシアの農奴解放令が不徹底で、彼等を貧困と隷属から解放しなかったことは明らかでしょう。
 つづいて「実記」は聖彼得堡府についてこのように述べています。『○此府ハ、公侯貴戚邸第ヲ連ネ、豪家、大姓(富貴勢力家)、館宅ヲ並ヘ、富貴ノ人ノ都藪(とそう 集中地)ヲナシタルコトハ、恐クハ巴黎、倫敦ニモ敢テ劣ラサルヘシ、(中略)曾(かつ)テ評ス、英、仏、白、蘭ハ平民ニ人物富豪ノ多キコト、貴族ニ超ユ、故ニ全地ミナ繁昌シテ、民権モ亦盛ナリ、独逸(墺国ヲ兼ヌ)、以太利ハ貴族ノ富、平民ニ超ユ、故ニ文物ノ観ルヘキモ、全国ハ猶(なお)貧ナルヲ免レス、因テ君権ハ民権ヨリ盛ンナリ、露国ハ全ク貴族ノ開化ニテ、人民ハ全ク奴隷ニ同シ、(中略)聖彼得堡府ノ商店ヲ観ルニ、属目(しょくもく 注目)スヘキ大店ハ、尽(ことごと)ク日耳曼人ノ開店ナリ(英仏人ノ開店モアレトモ、最モ多キヲ謂フ)』(第六十二巻 露国鉄道及ヒ聖彼得堡府ノ総説)

ロシアの歴史―ロシア歴史紀行アルバムーサンクトペテルブルク1〜7 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む22

 かくして露国に対する日本人の印象と実体の格差について、「実記」は次のように指摘しています。『欧羅巴ニ於テ、最モ勢力アル国ハ、英、仏、日(日耳曼)、墺、露ノ五帝国ヲ推ス、(中略)其内ニ於テ最モ雄ナルヲ英仏トス、最モ不開ナルヲ露国トス、(中略)東洋人ノ想像ハ、殆ト之ニ異ナリ、今ニ至ルマテ、日本人ノ露国ヲ畏憚(いたん)スルコト、英仏ノ上ニ出ツ、(中略)抑(そもそも)此妄想ヲ日本人ノ脳神ニ感触セルハ、何ノ原因ナルヤヲ推究スレハ、蓋シ故アリ、(中略)文化元年(1804)ノ九月、露国ノ使節「レサノット」氏ノ軍艦、長崎神ノ島ニ入港シ(「間宮林蔵」を読む2参照)、発出セル祝砲ノ響ニヨリテ、全国太平ノ夢ヲ驚カシ、是ヨリ尊攘鎖国ハ沸然(ふつぜん)トシテ湧起(ようき)セリ、加フルニ甘察加(カムサツカ)、樺太(カラフト)ノ土民ニ往往辺徼(へんきょう 辺境)ノ騒擾(そうじょう)アリ、(中略)今ニシテ之ヲ回顧スルニ、皆鎖国井蛙(せいあ 井戸の蛙)ノ妄想ニシテ、(中略)実際ヲ瞭知スレハ、日本ノ今日ニ於テ、敢テ露国ヲ侵越スルノ論ヲナスモノナシ、露国モ亦日本ヲ并呑スルノ政略アランヤ、(中略)若シ其親睦ヲ以テ相交レハ、欧洲各国ミナ兄弟ナリ、(中略)従来妄想虚影ノ論ハ、痛ク排斥シテ、精神ヲ澄センコト、識者ニ望ム所ナリ、』(第六十五巻 聖彼得堡府ノ記 下)

久米邦武「米欧回覧実記」を読む23

 同年4月14日11時旅館を出て12時の蒸気車で聖彼得堡を出発、同月15日国境を越え日耳曼に再入、同月16日午前2時30分「クローフ」駅で木戸副使は乗り換えて伯林に赴き、日本への帰途につきました。岩倉使節団は「ボルチック」海浜を走り1時旱堡(ハムベルヒ)府に到着、府中の「ホテルデヨーロッパ」に宿をとりました。
 旱堡の花町を「実記」は次のように紹介しています。『○此府ハ、日耳曼北海ノ要港ニテ殊ニ英仏トノ貿易最モ盛ナリ(中略)○西北ニ花街アリ、娼妓ヲ公許シ、三等ノ娼館アリ、各ソノ街ヲ異ニス、上等ノ花街ハ、屋造美麗ナリ、各房ヲ分ツテ娼妓ヲオキ、其ノ窓(木偏に龍 格子窓)ハ、夜ニ入レハ、燈光黯淡(あんたん うす暗い)トシテ、美人ノ客来ヲ待ツ影ヲ彷彿(ほうふつ ぼんやり見える)ニミル、中等以下ハ屋小ニ、房中ノ装置モ従テ悪シヽト云、西洋各都邑、至ル所ミナ淫ヲ鬻(ひさ 売る)ク婦人ナキハナシ、』(第六十六巻 北日耳曼前記)
 「キール」を経て同年4月18日朝7時郵船は嗹馬(デンマルク)の「コールシュル」埠頭に接岸、蒸気車で11時「コッペンハーゲン」府に到着、「ホテル、デ、ロヤル」に宿泊しました。4月19日宮内長官出迎えで馬車に乗り、王宮で「キリスチャン」第九世陛下に謁見しました。

欧羅巴の旅―1.デンマークの旅―コペンハーゲン

久米邦武「米欧回覧実記」を読む24

 同年4月23日12時50分「コッペンハーゲン」府東北の波止場より郵船出発、2時15分瑞典(スエウデン)の「マルモ」埠頭に接岸、蒸気車で同月24日午前10時40分「ストックホルム」府の駅に到着、馬車で「レードボルク、ホテル」に宿泊しました。同月25日午後王宮で「ゴスタフ」第一世陛下に謁見しました。
 同年4月30日「コッペンハーゲン」出発、「リュベック」経由5月1日旱堡到着、同月3日旱堡から哈諾威(ハノーブル)州を経て同月5日仏蘭克仏(フランキホルト)、経由、「ミュンチェン」府着、同月7日「ミュンチェン」発、「インニス」堡、「ヴェロナ」府経由、同月11日5時30分羅馬府駅に到着、「ホテル、デ、コンスタンチン」に宿泊しました。同月13日王宮にて「ウイツトーリオ、エマニウエル」第二世陛下に謁見しました。

ヨーロッパの歴史風景―近代・現代編―インデックスー西暦1861年、ヴィットリオ・エマヌエレ2世を国王とする統一イタリア王国が成立した

 羅馬について「実記」は『羅馬ニ二千年前後ノ古蹟多シ、之ヲ回覧スレハ、俯仰(ふぎょう 伏し仰ぐ)ノ感ニタヘサルモノアリ、(中略)此時ニアタリテヤ、英ノ倫敦、仏ノ巴黎ハ、ミナ夷蛮ノスム所ニテ、(中略)独逸ノ如キハ、多ク荒寒ノ野、森林ノ原ニテ、(中略)竟ニ今日ノ盛ヲ馴致(じゅんち 次第に移り変わる)セシハ、元羅馬ノ文化ヨリ、誘導セラレタルモノニ非サルハナシ』(第七十五巻 羅馬府ノ記 上)と述べ、日本を顧みて『我邦古ヘヨリ発明ニ乏シ、而テ能ク他ノ智識ヲ学ヒ取ル建築、鉄冶、磁陶、縫織、ミナ之ヲ朝鮮支那ニ資シテ、今ハミナ之ニ超越ス、今ヤ東洋ニ古国多シト雖モ、其開化ノ度、独リ進ミタルハ我邦ナリ、(中略)今日ノ見ルヘキナキカ如キモ、他日必ス、其観ヲ改ムルモノアラン、』(第七十六巻 羅馬府ノ記 下)とその決意を表明しているのです。

久米邦武「米欧回覧実記」を読む25

 同年5月20日蒸気車で午後6時前那不児(ナアプル)府の駅に到着しました。「実記」は『那不児府ハ、以太利半島ノ西方ニ於テ、一海湾ヲ占メタル要港ナリ、(中略)○府中ノ人民ハ、多ク無学ニシテ、懶惰(らんだ なまける)性ヲナシ、街上ノ塵芥(じんかい)払ハス、車馬狼藉ナリ、(中略)以太利ニ貧民多シ、(中略)此行欧米十二国ノ各都府ヲ略展観シタルニ、此府ノ如ク清潔ニ乏シク、民懶ニシテ貧児ノ多キ所ハナシ、』(第七十七巻 那不児府ノ記)と述べています。
 同月23日羅馬に帰り同月25日夜9時45分羅馬発、同月27日午後10時威尼斯(ヴェニエシヤ ベネチャ)府に到着、「ホテル、ニューヨーク」に宿をとりました。
 同月29日岩倉使節団はこの地の文書館を訪問しました。「実記」は『府中ナル「アルチーフ」(文書館)ノ書庫ニ至ル、此庫ニハ,紀元七百年来ノ文書典冊ヲ蓄蔵ス、スヘテ一百三十万冊ニ及フ、(中略)此書庫ニ、本朝ノ大友氏(「夢のまた夢」を読む12参照)ヨリ遣ハセシ、使臣ヨリ送リタル書翰二枚ヲ蔵ス、其遺紙ヲ一見セシコトヲ望ミシニ、挟紙ヨリ取出シテ示シタリ、皆西洋紙ニ羅甸(ラテン)文ニテ書セル書翰ニテ、末ニ本人直筆ノ署名アリ、鋼筆ニテ書セルモノナリ、岩倉大使、余ヲシテ模写セシム、左ノ如シ(中略)外ニ日本使臣書翰五葉アリ、(中略)其五葉ノ書ハ、一千五百八十五年乃至七年(我天正ノ季)マテ、大友家ノ使臣、羅馬及ヒ威尼斯に至リシトキノ往復文ナリ、此支倉(はせくら)六右衛門(「徳川家康」を読む22参照)ハ、是ヨリ三十年モ後レテ至リタレハ、大友家ノ使臣ニハ非ルヘシ、』(第七十八巻 「ロンバルチー」及ヒ威尼斯府ノ記)と記述しています[イタリヤ国ヴェニス文書館文書 欧文材料第136号訳文 1585年6月2日(天正13年5月5日) 日本使節が記念の為めに遺したる書翰・欧文材料第192号訳文 1586年4月2日(天正14年4月2日(天正14年2月13日) 伊東マンショよりヴェニス大統領に贈りし書翰・欧文材料第194号訳文 1587年12月10日(天正15年11月11日) 伊東マンショよりヴェニス大統領に贈りし書翰 「大日本史料」第十一編 別巻之二・[ベニス市国立文書館文書 欧文材料第166号翻訳 1616年1月6日 はせ倉六右衛門よりベニスの大統領に呈せし書・欧文材料第170号翻訳 1616年2月24日 支倉六右衛門長経、フライ・ルイ・ソテロよりベニス元老院に贈りし書「大日本史料」第十二編之十二]。

欧羅巴の旅―7.イタリアの旅―ベネツイア


久米邦武「米欧回覧実記」を読む26

 同年6月2日夜10時30分威尼斯府を出発、翌日午後10時墺地利(オヽステンレイキ オヽストリヤ)国維納(ウリン ヴィヤナ)南方の駅に到着、「ホテル、オヽストリヤ」に宿泊することとなりました。
 同年6月8日帝宮において、「フランシス、ショーセフ」皇帝及び皇后に謁見しました。

ドラゴニアへようこそー御案内―歴史の研究―オーストリアの歴史―オーストリア関連年表

 同年6月9日「実記」は「此日博覧会ニ入リテ、本廊ノ列品ヲ詳覧ス、」と記し、第八十二〜八十三巻で維納万国博覧会見聞を詳説しています。
 「実記」ハ『○博覧会ハ、「エキスビション」トテ、国国ヨリ物産ヲ持集リテ、一楼榭(ろうしゃ 高い建物)ノ内ニ列シ、之ヲ衆人ニ観セテ、各地人民ノ生意(生業)、土宜(どぎ 土地の産物)、工芸、及ヒ嗜好、風習ヲ知ラシメ、一ハ持集リタル人人、己ノ物品ヲ衆見ニ供シテ、其売買ノ声誉ヲ広メ、(中略)一ハ他人ノ持集リシ物品ヲ観テ、己ノ及ハサル所以(ゆえん 理由)ヲシリ、今ヨリ工夫スヘキ要ヲ考ヘ、(中略)益(ますます)其進歩ヲナス津筏(しんばつ 手引き)ヲ求ムルニ便ニス、』と万博の目的を述べ、『夫(それ)欧洲列国ノ大小相分ルヽ、英、仏、露、普、墺ノ大国アレハ、又白、蘭、薩(サビセン)、瑞、嗹ノ小国アリ、国民自主ノ生理ニ於テハ、大モ畏ルニ足ラス、小モ侮ルベカラス、英、仏両国ノ如キハ、ミナ文明ノ旺スル所ニテ、工商秀レトモ、白耳義(ベルギー)、瑞士(スイス)ノ出品ヲミレハ、民ノ自主ヲ遂ケ、各良宝ヲ薀蓄スルコト、大国モ感動セラル、普ハ大ニ、薩ハ小ナルモ、工芸ニ於テハ相譲ラス、而シテ露国ノ大ナルモ、此等ノ国トハ、猶其列ヲ同クスル能ハス、墺国ノ列品ヲミレハ、勉強シテ文明国ニ列スルヲ得ルニスギス。是他ナシ、民ニ自主ノ精神乏キニヨルナリ、』(第八十二巻 万国博覧会見聞ノ記 上)と小国の自主的な民衆の健闘を称えているのです。

デジカメで綴る旅の想い出写真館―海外の風景ーテーマで選ぶー世界遺産―オーストリア ウイーン歴史地区・シェーンブルン宮殿  

久米邦武「米欧回覧実記」を読む27

 同年6月18日午後6時15分維納を蒸気車で西へ発車、同月20日瑞士(スイス)国首府「ベロン」に到着、同日午前大統領に政庁堂で謁見しました。

スイスの公式情報サイトースイスの情報―歴史 

 「実記」はスイスについて『○此国ノ政治ヲ協定スルヤ、唯三章ノ目的アルノミ、自国ノ権利ヲ達シ、他国ノ権利ヲ妨ケス、他国ノ妨ケヲ防ク是ナリ、故ニ内ニハ文教ヲ盛ンニシテ、其自主ノ力ヲ暢達(ちょうたつ 伸び育てる)ス、(中略)教育ノ浹(あまね 広くゆきわたる)クシテ、民ニ礼アリ学アリ、生業ニ勉強スルコト、此国ヲ最トス、○其武ヲ張ルヤ、一旦隣邦ニ不虞(ふぐ 予期しない災難)アレハ、中立ノ義ヲ堅クシテ一兵ヲシテ境ニ入ラシムルナシ、敵来レハ之ヲ逐ヒ、又他国ノ権利ヲ重ンシ、敵兵モ其国境ヲ出レハ、即チ止テ逐ハス、他国ノ地ニ入リテ、兵ヲ動カスコトヲセス、○全国ニ民兵ヲ置テ、常備兵ヲオカス、丁壮(一人前の男子)二十歳ヨリ、三十歳マテ、民兵入籍ノ期トシ、(中略)当時ノ兵数ハ、八万五千ニ及フ、(中略)故ニ其国小ナリト雖(いえ)トモ、大国ノ間ニ介シ、強兵ノ誉レ高ク、他国ヨリ敢テ之ヲ屈スルナシ、』(第八十四巻 瑞士国ノ記)と記述しています。

たぬたぬのスイスとアルプス 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む28

 同年6月29日朝10」時40分「「ベルン」駅発車、午後8時「ゼネーヴァ」府に到着「ホテル、デベルギュス」に宿泊しました。
同年7月9日「実記」は「日本政府ヨリ、急ニ帰国スヘキ電信(「日本外交文書」第6巻)来リ、葡萄牙(ポルチュガル)国行ヲ中止シ、帰装ヲナス、」(第八十六巻 「ベロン」及ヒ「ゼネーヴァ」府ノ記)と述べています。同月15日「セネーヴァ」発、夜に入って仏国里昂(リヨン)府に到着、同月17日午後11時里昂府発、同月18日朝6時馬爾塞(マルセール)府へ到着しました。
「実記」はつづいて「第八十八巻 西班牙(スパニヤ)及葡萄牙国(ポルチュガル)国ノ略記」、「第八十九巻 欧羅巴洲政俗総論」、「第九十巻 欧羅巴洲地理及ヒ運漕総論」、「第九十一巻 欧羅巴洲気候及ヒ農業総論」及び「第九十二巻 欧羅巴洲工業総論」(その一部は「米欧回覧実記」を読む12に紹介)を掲載していますが、本稿においてはその紹介を省略します。

欧羅巴の旅―6.スペインの旅

愛しのポルトガルーポルトガル写真集 

1873(明治6)年7月20日岩倉使節団は仏東洋郵便会社船「アウア」号で午前10時同港を出港、帰国の途につきました。
 同月21日以太利領「サルヂニヤ」島海浜の一島に以国民権家「ガルバルジー」氏(「米欧回覧実記」を読む24「ヨーロッパの歴史風景」近代・現代編参照)の住宅を眺め、同月26日朝9時「ポールトサイト」に岸に到達、投錨しました。午後4時運河に進入、河中に碇泊、同月27日朝4時半に抜錨、三湖を通過蘇士(スウエス)の埠頭に達し、暫く投錨しました。
 「実記」は『「ポルトサイト」ヨリ蘇士(スウエス)マテ、百英里ノ地峡ヲ、郵船ニテ駛行(しこう 速くゆく)スルヲ得ルハ、僅ニ四年前ヨリノコトニテ、是ハ仏国ノ学士「レッセフス」氏ニ向ヒテ謝スヘキナリ、』(第九十五巻 紅海航程ノ記)と述べています。

やっぴらんどー楽しい世界史―時代別―全項目目次―19世紀―スエズ運河の完成と買収

久米邦武「米欧回覧実記」を読む29

 同年8月1日朝6時半に郵船は阿刺伯(アラビヤ)の亜丁(アデン)港に到着投錨しました。「実記」は『熱帯地方ノ肥沃ナルコトヲ察スヘシ、(中略)古ノ語ニ曰、沃土ノ民ハ惰ナリト、サレハ貧歉(ひんけん 貧しく凶作)ハ人ヲ富潤スルノ砥礪(しれい 試練)ニテ、饜足(えんそく 満腹)ハ倦怠ノ基礎ト謂フヘシ、英、仏ノ文明ナルモ、其国本(もと)荒寒瘠薄(せきはく)ノ野ニテ、百物ノ欠乏ニヨリ、勤勉ノ苦ヲツミ、文明ノ光ヲ生セルナリ、(中略)故ニ国ノ貧富ハ、土ノ肥瘠ニアラス、民ノ衆寡ニモアラス、又其資性ノ智愚ニモアラス、惟(ただ)其土ノ風俗、ヨク生理ニ勤勉スル力ノ、強弱イカンニアルノミ、』(第九十六巻 阿刺伯海航程ノ記)と記しています。
 同年8月2日亜丁港抜錨、同月9日錫蘭(セーロン)島の「ポイント、デ、ゴール」港に投錨、「実記」はこの地を「熱帯ノ国ハ,山緑リニ、水青ク、植物ハ栄ヘ、土壌ハ腴(ゆ 肥えている)ニシテ、空気ノ清キ、景色ノ美ナル、欧洲ヨリ来リテ、此(この)景象ヲミレハ、真ニ人間ノ極楽界ト覚フカ如シ、」(第九十七巻 錫蘭島ノ記)と述べて褒め称えています。

Wandering the World―フォト・ギャラリーー南アジア編―19)美しきスリランカ

久米邦武「米欧回覧実記」を読む30(最終回)

 同年8月12日朝6時半「ゴール」港を抜錨、新嘉坡(シンガポール)に向かい航海中、「実記」は次のようにヨーロッパ諸国によるアジア植民地化の現実と欧州人の東南洋人に対する横暴について述べています。
『弱ノ肉ハ、強ノ食、欧洲人遠航ノ業起リシヨリ、熱帯ノ弱国、ミナ其争ヒ喰フ所トナリテ、其豊饒ノ物産ヲ、本州ニ輸入ス、(中略)今郵船ニアリテ、欧洲航客ノ状ヲ目撃スルニ、(中略)馬児塞(マルセール)ヨリ郵船ニ上レハ、一船ミナ白皙赤髯(はくせきせきぜん 白膚赤ひげ)ノ航客ナレトモ、(中略)挙動麁忽(そこつ 粗忽)ニテ、言語人ヲ侮慢シ、高笑ヲ発シ、婦人ニ狎(な たわむれる)レ、細故(細かいもめごと)ヲ怒リ、暴言ヲ吐クモノ半ニオル、是ミナ本国ニアリテ、小人ノ行ニシテ恥ル所タリ、(中略)蓋(けだ)シ遠航シテ、利ヲ東南洋ニ博取シ、以テ生理トナスモノハ、大抵本国ノ猾徒(かつと 悪賢い連中)ニテ、其無頼無行ナルヲ以テ、郷里ニ斥(しりぞ)ケラレ、或ハ刑辟(けいへき 刑法)ニ触レテ、人ニ交際ヲ得サルモノ、多ク出テ利ヲ外国ニ獲ンコトヲ図ル、』(第九十八巻 榜葛刺(ベンガラ)海航程ノ記)すなわちアジアにおけるこれら欧州人の問題行動をもって、欧州文明の価値を推測してはならないという考え方が見られます。
同年8月13日9時新嘉坡に到着、この地に最近コレラが流行しているので、岩倉使節団は上陸しませんでした。同月19日正午抜錨、柴棍(サイゴン)府・香港経由、9月2日朝揚子江口に達し、河蒸気船で黄浦江を遡上、11時上海に到着「アステルハウス」に宿泊しました。同月4日夜米利堅(メリケン)の郵船「ゴルテンエン」に乗船、翌日10時黄浦江を下り、11時揚子江口に到達、長崎を経由して、1873(明治6)年9月13日横浜に着船しました。

 
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2010年04月06日(火)
久米邦武「米欧回覧実記」を読む11〜20
久米邦武「米欧回覧実記」を読む11

 「実記」には1872(明治5)年10月10日の記事がありませんが「木戸孝允日記」(明治五年十月十日条)に「六字過伊藤来て南貞介(助)の寄留せるアメリカンジョイントナショナルバンク之困難を告げ為其南貞介并同人同居の英人某に面会し其趣を一々承得せり雖然其所致如何とも難致依て使節一統談合の上吉田少輔へ探索吟味を托せり為其伊藤吉田の処へ至れり此バンクへ日本書生と使節一行の金を預けしもの不少余亦其一人也」と記述されています。
岩倉使節団が米国新約克(ニューヨーク)府に到着したとき、南貞助(長州出身 高杉晋作の従兄弟)という人物が使節団の旅費50万ドル(田中光顕理事官管理)を南が関係する「ナショナル・エゼンセー」に預金するよう進言しました。 

幕末を駆け抜けた男達―月別アーカイブー2008年8月―高杉晋作の義弟 南貞助2008/08/28(木) 

 南貞助は幕末ロンドンに留学、帰国後外国官権判事に任ぜられましたが、1870(明治3)年東伏見宮嘉彰親王(「米欧回覧実記」を読む8参照)のイギリス留学に随行、滞英中「ボールズ」銀行頭取「ブルーズ」と知り合い、彼が設立した「ナショナル・エゼンセー」の重役となりました。南貞助に使節団旅費を預けることに田中光顕が反対したので、南と既知の木戸・大久保はじめ久米邦武らは手持ちの私費を南貞助に預金しました。
 しかるに「ボールズ」銀行のボストン支店が、同地の大火で大損害を受けた保険会社の影響で閉鎖したのをきっかけに閉店、「ボールズ」銀行ロンドン本店にも波及した結果、「ナショナル・エゼンセー」は倒産、使節団面々の「へそくり」は無に帰したのです。
「木戸孝允日記」には翌十月十一日条にも、この事を皮肉った狂歌「白はき(しらはぎ)に見とれもせぬに百ポンドとんと落したる久米の仙人」(「今昔物語集」巻第十一 久米仙人、始造久米寺語第廿四 日本古典文学大系24 岩波書店 参照)が記述され、「是は久米の風姿甚雅朴(上品で飾り気がない)人称仙人(人仙人と称す)然るに同人平素倹素(倹約素朴)猥りに不散(散財しない)豈図(あにはからんや どうして考え及ぶだろうか)又係此難(この難にかかわる)依有此戯(よってこの戯れあり)」と書いてあります。
(「久米博士九十年回顧録」下巻 第八編 第二一三項 銀行取引に慣れぬ失敗 参照)

※@マッシュ@※奈良のホームページー奈良の昔話―奈良県内―久米仙人(橿原市)久米寺 
 
久米邦武「米欧回覧実記」を読む12

 1872(明治5)年11月2日岩倉使節団は「パークス」氏らの案内で達迷斯(テームス)河下流「ウィクトン」の瓦斯会社を視察しました。この会社は倫敦における最大瓦斯会社です。石炭を窖V(こうか 密閉加熱)して炭酸水素瓦斯を取るとき、密閉加熱した石炭を「コークス」といい、鋼鉄を熔かすにはこの「コークス」を用います。窖Vにより蒸鎦(じょうりゅう)する流液には石炭「テール」と石油を含み、此内に含有する一種の「アニリン」酸を分拆して紅黄紫藍の顔料(着色・染色の材料)を製します。瓦斯について「実記」は「瓦斯分ニハ、元来価ハナキモノナリ、市街ニテ毎夜ヲ照ス燈光ハ、只其管樋ニツキテ、価ヲ収メル所ナリト云、「(第四十巻 倫敦府後記)と述べているに過ぎません。
 しかし瓦斯会社の労働問題について言及した「実記」は次のように述べています「吾(われ)英国倫敦ニアリシトキ、瓦斯会社ノ職工、ミナ増給ノ議ヲ起シテ社員ニ逼(せま)リ、議論沸騰シ、其労動ヲ止メ、一夕満街ノ瓦斯燈、忽然トシテ消ヘシコトアリ、(中略)何(いずれ)ノ国ニテモ、職工ノ景況ハ同一ナルモノニテ、多クハ愚昧朴魯(ぐまいぼくろ 愚かで道理に暗く、飾り気がなくて鈍い)、(中略)日日労動ノ傭給ハ、直ニ飲食ニ擲(なげう)チ、淫欲ニ費シ、殖財ノ念ヲ賭博ニ注キ、終年ノ労動ハ、反テ身心ヲ腐敗スル資トナリ、一旦衰老疾病シ、労動ヲ得サルトキハ、其振救を雇主知音(ちいん 親友)ニ勒索(ねだる)ヲ、公然タル権利ト思フニ至ルハ、職工ノ常態ナリ、」(第九十二巻 欧羅巴洲工業総論)。、

茶目斜目ブログー過去記事―2009年08月―ロンドンのガス燈 2009年08月31日

 同年11月5日ヴィクトリア英女皇への謁見が行われました(外務省編纂「日本外交文書」第5巻 六四 英国女皇ニ謁見シタル次第報告ノ件 外務省蔵版)。

歴誕―歴誕歴史人物伝―歴誕歴史人物伝バックナンバーーヴィクトリア

久米邦武「米欧回覧実記」を読む13

  1872(明治5)年11月16日朝7時15分に「ホッキンハムハレイス、ホテル」を出発、「ヴィクトーリヤ」駅より蒸気車で9時「トーブル」(ドーヴァー)の埠頭に到達、郵船は「ドーブル」より仏国の「ガレイ」(カレー)に12時に到着しました。ホテルで昼食後、蒸気車で6時に巴黎(パリー)府の「ディスト」駅到着、馬車で「シャンゼルセー」の広衢(辻)を通って「アレチツリヨン」」門前の館[仏国政府より在留中借用 元土耳其(トルキー)公使館 「ル、デ、プレシボルク」街に門を開く白石の三層楼]に入りました。
 同年11月17日「実記」は凱旋門について次のように記述しています『「アルチツリョム」トハ、凱旋門ト訳ス、○此門ノ造営ハ、拿破侖(ナポレオン)第一世ノ経営セル所ナリ、(中略)○往年ニ普魯西ノ軍兵巴黎ヲ囲ミシトキ、(中略)此門ニ向ヒテ砲発スルコトヲ禁シ、囲城ヲ畢(おわ)ルマテ、一点ノ瑕(きず)モ負ハサリシニ、其後「コンミュン」ノ乱(パリー・コンミューン 世界最初の労働者政権成立)トテ、国内ニ一揆起リテ、(中略)其時ニ民党ノ一揆トモ、此門ニ大砲ヲ上セテ、砲台トナシテ、(中略)政府ヨリ巳(やむ)ヲ得ス、砲ヲ打掛ケテ之ヲ攘(はら)ヒ退ケタリ、此時ニ北方ノ一面毀傷セルヲ以テ、当時ハ修覆中ナリケリ、』(第四十二巻 巴黎府ノ記一)。

ワールドワイド水戸黄門―メニューー飛猿の海外観光スポット写真集―パリー/フランス 凱旋門 

 既に1871(明治4)年2月(太陽暦3月)パリー・コンミューン成立とほぼ同時期にパリーに赴いた西園寺公望は橋本実梁(さねやね)宛の書簡で「(前略)仏ハ昨年普に打負しより国内更ニ紛乱し、遂に解兵ノ時より事起り共和政事を名とし姦猾無恥之徒大ニ愚民を煽動し以干戈(かんか 武器)ヲ用にいたれり。」(明治4年4月26日付書簡 立命館大学編「西園寺公望伝」別巻一 岩波書店)と述べています。

近代日本人の肖像―人名50音順―さ・そー西園寺公望

 また公園について「実記」は『○巴黎中ノ公苑を数フレハ、七十ヶ所に及フ、(中略)東鄙ニ「ビットショーモン」苑アリ、北鄙ニ「ボアーデ、ブロン」苑アリ、「ボアーデ、ブロン」ハ、巴黎第一ノ公苑ニテ、米国新約克(ニューヨーク)ノ「センタラールパーク」ニモ超越スヘキ名苑タリ、凱旋門ヨリ北ナル郭外ニアリ、(中略)日曜日ノ夕ニハ貴豪ノ家、ミナ車ヲ馳セテ来遊ス、馬ハ騏騮(きりゅう 駿馬)ヲ較ヘ、衣裳華麗ニシテ籹(粧)飾都雅(優美)ナリ、(中略)諺ニ曰ク、倫敦ノ食倒レ、巴黎ノ衣倒(きだお)レト、(中略)東鄙「ビットショーモンパーク」ハ後ニ詳記スヘシ』(第四十二巻 同上)と述べています。
同年11月22日英国辧務使より、日本で改暦の電信到着の報知があり、来月3日を新暦明治6年1月1日とする旨を衆に公布しました。
 同年11月26日館第(かんてい)で仏大統領「ルイ、アトルフ、チエル」(ルイ・アドルフ・ティエール)氏に謁見しました。
 「実記」は仏大統領「ルイ、アトルフ、チエル」の経歴を紹介した後、その印象を「短小ナル老翁ニテ、言容(言語と容貌)温温、和気掬(きく)スヘシ(穏やかな様子が外に現れる)、」と述べています。
 『チェール氏は当年七十五歳能くコンミュン暴徒を鎮めた武略もあれど、温和な矮小老爺で、容貌は尼の如く、我が副使木戸・大久保の身長偉大なるが目立った。米国渡般以来両副使は白人に交って遜色なかったが、独り岩倉公は短身で、頭蓋の大なる方であったので、、折々白人の骨相家などが来て、「体質を検して見たい」と申し込む事もあった位で、大統領チェール氏も我が大使と招宴の時、食卓に相対し、公の頭蓋の魁偉なるを眺めて居た。』(「久米博士九十年回顧録」下巻 第八編 第二一四項 大統領チェール氏に謁見)
 
久米邦武「米欧回覧実記」を読む14

1872(明治5)年12月2日(明治6年1月1日)大使は外務省に赴き賀正しました。
同年1月10日使節団は巴黎東方辺鄙の墓地を経て「ビットショーモン」の公園を訪問しました。この「ビットショーモン」苑について、「実記」は次のように記述しています。
すなわち『拿破侖(ナポレオン)第三世カ、仏国ノ大統領ニ推挙サレシヨリ、遂ニ帝位ニ登リ、「セダン」ノ戦ニ敗レテ普国ノ軍ニ降リシマテ、二十二ヶ年ノ間ハ、(中略)殊ニ傭工細民ノタメニ、勧奨救助ノ良法ヲ与ヘタル功績ハ、反テ拿破侖第一世ノ上ニ出ルト、世ニ賞誉セラル、(中略)今日覧観シタル、「ビットショーモン」苑ハ、其美挙中ノ一ナリ、(中略)此ハ巴黎製作場ノ集ル所ニテ、此苑ニ盤遊(楽しみ遊ぶ)スル住民ハ、平常其中ニ止息シ、労作ヲナス職工ナリ、(中略)一千八百四十八年、仏国ノ沸騰ハ、実ニ非常ノ際会ニテ、此時ニ当リ、職工上ニ就キテ、労動権利ノ説ナルモノ起レリ、其主旨ハ、(中略)政府ハ宜(よろし)ク人民ノ為メニ其労動ヲ遂クヘキ作業ヲ与ヘテ、各人ニ生活ヲ済セシムル方法ヲ謀ルヘキコトヲ主張セリ、(中略)』と記し、この説を批判して『其迂闊(うかつ うっかりする)モ亦甚タシ、(中略)如此キ論ヲ沸起シテ、社会ノ間ヲ撹乱(こうらん)シ、小民に懶惰(らんだ 怠ける)ヲ教ヘテ無望ノ福ヲ、希フニ至ラシムルハ、西洋文明ノ国モ免レサル所ニテ、其論ノ激昂スルニ当レハ、全国ノ騒乱ヲモ引起スニ至ル、仏国ノ内訌(内乱)ヲ起ス、多クハ此等ノ弊習ニヨル』(第四十四巻 巴黎府ノ記三)と記述しています。

歴史研究所―ヨーロッパ史―第54回 ナポレオン3世の第二帝政 

 帰路に「レテポットチャーモン」街の「ワリコレー」氏の製鉄所を見学しました。「実記」は、この製鉄所について『○此場ハ、仏国ニ於テ最大ナル製鉄場ノ一ニテ、近年埃及(エジプト)国ヨリ、四万八千磅ノ価ニテ、其国王ノ花苑ニ用ヒル、四百五十尺ノ屋根ヲ頼マレテ、成就セリトテ、其門上ノ飾リ、柱ノ彫刻等ミナ其副ヲ作リテ、留メタルヲ、示シヌ、頗ル手入ノ細工ナリ、』と述べ、英仏両国の工芸を比較して次のように記述しています『英国ノ工芸ハ、麁大(そだい 粗大)ノ物ヲ製シテ、、世ノ需用ニ供スルを目的トナス、(中略)仏国ノ工芸ハ、全ク之ニ反シ、華麗繊細ナル手技ニ於テ、独歩ナリ、而テ建築、造船、銃砲、紡織ミナ能(よく)セサルナシ、(中略)是両国ノ相対シテ、富庶ヲ競フ概形ナリ、』(第四十四巻 巴黎府ノ記三)。

久米邦武「米欧回覧実記」を読む15

 1873(明治6)年2月17日午後2時半、仏国巴黎の「レデプレスボルク」館を出発、3時45分蒸気車で南駅発車、仏国境で白耳義(ベルギー)国接伴掛が出迎え、夜11時半、白耳義の都府「ブロッセル」府に到着、政府の手配で王宮側の「ホテル、デ、ペルウェー」に宿泊することになりました。
 同年2月18日午後1時宮内省差し回しの馬車で御者はみな緋衣金装、護衛兵付きで宮内長官が出迎え、王宮で「レオポルド」第二世陛下に謁見しました。

浮舟絵巻―ビールの香りーベルギービール博物館―Other Contents/その他ビール以外についてーベルギーの歴史―近代・現代   

 「実記」はベルギー・オランダ両国について次のように述べています「今此ニ三国(米英仏)ノ巡回ヲ畢リテ、一二ノ小国ヲ経歴セントス、即チ白耳義(ベルキー)荷蘭佗(ホルランド)是ナリ、此両国ハ其地ノ広サト、其民ノ衆(おお)キトヲ語レハ、我筑紫一島ニ較スヘシ、其土ハ瘠薄(せきはく やせ地)ノ湿野ナリ、然レトモ、能ク大国ノ間ニ介シ、自主ノ権利ヲ全クシ、其営業ノ力ハ、反テ大国ノ上ニ超越シテ、自ラ欧洲ニ管係(関係)ヲ有スルノミナラス、世界貿易ニ於テモ影響ヲナスハ、其人民ノ勉励和協ニヨルニアラサルハナシ、其我ニ感触ヲ与フルコト、反テ三大国ヨリ切ナルモノアルヘシ、」(第四十九巻 白耳義国総説)。
 即ち岩倉使節団は日本の将来を模索して米欧を回覧しながら、その模範を米英仏三大国のみに求めたのではなく、ベルギー・オランダなどの小国のあり方にもなみなみならぬ注目を集めていることに気付くのです。

久米邦武「米欧回覧実記」を読む16

 同年2月24日朝9時白耳義の都府「ブロッセル」府を出発、同月25日雪の降る中荷蘭佗国の京師海牙(ハーヘ ヘッグ)に到着、4時騎兵を護衛として宮内長官が迎え、王宮で維廉(ウリヤム)第三世陛下に謁見しました。

オランダ子育て生活―オランダ案内―オランダサイトTOP―オランダの歴史

 この国と清国・日本を比較して「実記」は「其人民ノ勉強倹勤ナル、世界富国ノ一ト推サレタリ、蘭人ノ心ヲ以テ、支那ノ野ニ住セハ、其幾百ノ荷蘭国ヲ東方ニ生スルヲ知ラサルナリ、顧フ我日本ノ如キモ、亦荷蘭ノ勉メタルニ比スヘキ歟、抑(そもそも)支那ノ惰(だ 怠る)ナルノ類ナル歟、」(第五十二巻 荷蘭佗国総説)と述べ、厳しい日本の現状への反省をこめた文章を見ることが出来ます。
 この国の地勢を「実記」は次のように述べています「蘭国ノ山ナシ、急流ナシ、堤防ノ設ケハ、溝渠汎溢(はんいつ)シ、水郷トナルヲ拒ムノミ、風車ノ転纔(わずか)ニ絶レハ、国中其害ヲ受クルモノアリ、日本ノ銚子口、越後河末、及ヒ両肥ノ海浜ト、其地勢ヲ同シクスルモノアリ、」
また白蘭両国を比較して「○白蘭ノ両国ハ、兄弟ノ国ト看做(みな)セトモ、其人種、風俗、絶テ同シカラス、白ハ武国ナリ、其境ニ入レハ、即チ意気凛森(りんしん 気をひきしめる)ノ状ヲミル、蘭ハ文国ナリ、其境ニ入レハ、意思縝密(しんみつ 綿密)ノ状ヲミル、(中略)蘭国ノ兵ハ、常備軍六万ニ及ハス、専ラ義兵ヲ主トシ、徴兵ハ二十歳ヨリ、五年間ノ役ニ服スル法ニテ、(中略)然レトモ全国ノ民丁、甚タ徴兵ヲ厭ヒ、兵ヲ逃ルヽモノ益(ますます)多キヲ加ヘ、(中略)民兵役ヲ逃ルヽ弊ハ、各国ミナアル通患ナレトモ、蘭国ノ甚タシキカ如クナラス、」[第五十三巻 海牙(ハーヘ)鹿特担(ロツトラタム)及ヒ来丁(レーデン)ノ記]と記述しているのです。
 同年2月28日朝9時「ドクトル、ポンペー」氏の案内で来丁(レイデン)府に赴きました。「実記」は彼を「○「ポンペー」氏ハ曾テ我長崎ニ来リテ医業ヲ人ニ授ケルコト八年、本朝医学ノ進ミニ於テ、頗ル力アル人ナリ、」とたたえています。

長崎大学薬学部―薬の歴史―長崎薬学史の研究―第二章 近代薬学の導入期―1 ポンペ、ハラタマなどオランダ医師薬剤師の来日―第二次海軍伝習とポンペの来日―ポンペの医学伝習

 此府の大学附属博物館について「実記」は「諸物ノ討捜(とうそう たずねさがす)ニ富ミタルコト、欧陸地ニ於テ高名ナリ、」と紹介し、さらに『諸国ノ博物館ニ、日本ノ動物ハ稀ナリ、此館ニ猿類ノ無尾ニシテ赭顔(しゃがん 赤い顔)ナルヲミル、之ヲ問ヘハ、即チ「シーボルト」氏日本ヨリ送リ致セルモノナリ、』とシーボルトの日本におけるコレクションを見学したことを述べています。

久米邦武「米欧回覧実記」を読む17

 1873(明治6)年3月7日海牙を出発同月9日朝7時伯林(ベルリン)駅に到着、宮内省の手配で「ウンテルデン、リンデン」街の「ホテル、デ、ローマ」に宿を定めました。
 同年3月11日午後1時宮内省用意の馬車で騎兵を護衛とし「コーニングスパレイス」に於いて維廉(ウリヤム)第一世皇帝に謁見しました。
 「実記」はベルリンについて『○伯林ハ普魯士(プロイス)ノ国都ニテ、今ハ以テ日耳曼(ゼルマン)聯邦(連邦)ノ首都トナセリ、○府内ノ地ヲ、五区ニ分ツ、第一を伯林ノ本部トス、此ニ寺院、学校、武庫、病院、孤院等アリ、第二ヲ「コローン、オンセ、スプレー」トス、帝宮、及ヒ帝家ノ菩提寺等此ニアリ、第三ヲ「フレデルヒ、ウエルデン」トス、皇帝ノ別宮、医学校、運上所、造幣局等、此ニアリ、第四を「ドローツェンス、ダット」トス、新府ノ謂(いい)ナリ、此ノ帝家ノ学校、天文台、解剖所等アリ、此ニ建タル城門ヲ「ブランデンブェルゲル」ト謂フ、府内ニテ最モ美観タリ、第五ヲ「フレデルヒス、ダット」トス、此ニ金銀器ノ細工所、及ヒ大裁判所等あり、「フランデンブェルケル」ノ城門ヨリ、一条ノ大衢ヲ通ス、之ヲ「ウンテルデンリンデン」街ト云、府中第一ノ広街ナリ、』(第五十七巻 伯林府総説)と記しています。

歴史研究所―ヨーロッパ史―第56回 プロイセンからドイツ帝国へ ドイツ帝国成立へ

久米邦武「米欧回覧実記」を読む18

 ところが眼を転ずると、「実記」は普魯士国及び伯林について次のような叙述もしています。「○此他ノ風俗モ、英米トハ甚タ異ナル所モ多キ中ニ、婦人ヲ尊フ儀甚タ簡ナリ、伯林ニテハ婦人ト雖モ、亦米英ノ人カ、婦人ニ卑屈スルヲ笑ヒテ、奇俗トスルニ至ル、」(第五十五巻 普魯士国ノ総説)『○(前略)曾テ「ウンテルデン、リンデン」街ノ写真店ニユキシニ、店(ミセノモノ)夥酔テ秘戯ノ写真ヲ、公然ト売ントセシコトアリ、欧洲ノ各都ニテ春画ヲ公然ト人ニ販(ひさ)クニアヒシハ、只此府アルノミ、』(第五十七巻 伯林府総説)
 また『○集画館ハ、王宮(私宮)ノ前ニアリ、建築ノ宏大ナル、府中ニテ眉目トスル屋観ノ一ナリ、(中略)此ニ男女ノ人ニ、給料ヲ与ヘ、裸体ニテ立チ、或ハ臥シ、或ハ踞(きょ)セシメテ、其皮肉筋骨ノ真態ヲ模写ス、石雕師ハ泥ヲ以テ之ヲ模造ス、此日ハ一ノ美婦人アリ、裸体ニテ床ニ臥シ、画工ノ粉本(手本)トナレリ、穏臥シテ動カサルコト、一時半ニテ一休ヲナシ、毎日同様ニテ、一周日ニテヤメ、或ハ久シキハ、七周日ニモ至ルトナリ、人ノ肉体ヲ写スコトハ、画工ノ最モ心ヲ尽ス技倆ナリ、然レトモ其精ヲ求ムル弊ハ、此醜状ニ至ル、頗ル厭(いと)フヘキヲ覚ヘタリ、』(第五十八巻 伯林府ノ記 上)とも述べています。

山梨大学マンドリンクラブOB&OGのホームページーなんでも写真館―INDEX―「ドイツ・ベルリンの旅〜その5 ベルリン市内4」【ウンター・デン・リンデン】 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む19

 岩倉使節団は皇帝に謁見した3月11日には宰相ビスマルクとも会見していましたが、同月15日夜ビスマルク侯より招宴がありました。
 「実記」は「○本日ノ享会(饗宴)ニ於テ、侯親(みずか)ラ其幼時ヨリノ実歴ヲ話シテ言フ」と前置きして、ビスマルクの演説を大要次のように紹介しています。
 「方今世界ノ各国、ミナ親睦礼儀ヲ以テ相交ルトハイヘトモ、是全ク表面ノ名義ニテ、其陰私ニ於テハ、強弱相凌キ、大小相侮ルノ情形ナリ、我普国ノ貧弱ナリシハ、諸公モ知ル所ナルヘシ、(中略)大国ノ利ヲ争フヤ己(おのれ)ニ利アレハ、公法ヲ執ヘテ動カサス、若シ不利ナレハ、翻スニ兵威ヲ以テス、小国ハ(中略)以テ自主ノ権ヲ保セント勉ムルモ、其翻弄凌侮ノ政略ニアタレハ、殆ト自主スル能ハサルニ至ルコト、毎(つね)ニ之アリ、是ヲ以テ慷慨シ、(中略)一国対当ノ権ヲ以テ外交スヘキ国トナラント、(中略)数十年ヲ積テ、遂ニ近年ニ至リ、纔ニ其望ヲ達シタルモ、(中略)然ルニ各国ハミナ当国ノ兵ヲ四境ニ用ヒタル跡ヲ以テ漫(みだり)ニ憎悪シ、(中略)人ノ国権ヲ掠(かす)ムルモノト、非難スルト聞ク、(中略)諸公モ必ス内顧自懼ノ念ヲ放ツコトハナカルナラン、(中略)故ニ当時日本ニ於テ、親睦相交ルノ国多シトイヘトモ、国権自主を重ンスル日耳曼ノ如キハ、其親睦中ノ最モ親睦ナル国ナルヘシト謂ヘリ、」そうして「実記」はこのビスマルクの演説を「玩味スヘキ言ト謂(いい)ツヘシ、」(第五十八巻 伯林府ノ記 上)と同感の批評を記述しています。

久米邦武「米欧回覧実記」を読む20

 同年3月28日8時に大久保利通副使は帰国の途につきました。岩倉使節団は夜11時半伯林を出発、露国に向かいました。
 車窓に展開する光景を見て「実記」は次のように述べています。『米欧列国ヲ歴訪シテ、深ク遐陬(かすう 辺地)ニ入リシハ、露西亜(ロシヤ)国ヲ以テ最トス、仏国巴黎ヲ発セシヨリ、漸ク東スルニ従ヒ、開化漸クニ浅ク、「ボルチック」海浜、及ヒ波蘭(ポーレン)ノ北ハ、漠野(果てしなく広い野原)茫茫(ぼうぼう 広く果てしない様子)トシテ、森林榛榛(しんしん 草木がさかんに茂っている様子)タリ、(中略)地図ヲ開キテ之ヲ検スレハ、(中略)文明ト呼ヒ、開化ト叫フモ、全地球上ヨリ謂(い)ヘハ、(中略)陸壌ノ広キ十ノ九ハ、猶荒廃ニ属セルナリ、露国ノ壌地ハ、莫大ナリト雖モ、多ク荒寒不毛ノ野ニテ、人棄テ我有(自分勝手に領有)セルニ過キス、』(第六十一巻 露西亜国総説)
 同年3月30日岩倉使節団は聖彼得堡(セントペートルボルク)駅に到着、露国政府接伴掛に出迎えられ、王宮の側の「ホテルフランセ」に宿をとりました。
 同年4月3日午後11時宮内長官出迎えで馬車に乗り、皇帝の宮に至り、皇帝亜歴山大(アレキサントル)第二世陛下に謁見しました。

ロシアのHP-―ロシア史―5ロマノフ朝〜帝政ロシアへー(10)(11)アレクサンドル2世の時代 
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2010年04月01日(木)
久米邦武「米欧回覧実記」を読む1〜10
久米邦武「米欧回覧実記」を読む1

 久米邦武編「特命全権大使 米欧回覧実記」(岩波文庫 以後「実記」と略)は最初の「例言」において、本書の特徴を次のように述べています。
一 此書ハ、遣欧米特命全権大使(天皇代理として国事を取り計らう権限をもつ官吏)、東京ヲ発シ、太平洋ヲ航シ、米国ニ留リ、圧爛的(アタランチック)洋ヲ経テ、英(エングランド)蘇(スコットランド)両部ヲ回リ、欧陸ニ渡リ、仏、白(ベルジュム)、蘭、普(プロイス)、露、嗹(デンマルク)、瑞典(スウェーデン)ノ奥ヲ経歴シ、軔(とめ木)ヲ回シテ、日耳曼(ゼルマン)地方ヨリ、以(イタリヤ)、墺、瑞士(スイス)ヲ回リ、仏ノ南部ヲスキ、地中海ヨリ、紅海、亜刺伯(アラビヤ)、印度、支那ノ諸海ヲ航シテ、東京ニ復命スルマデ、日日目撃耳聞セル所ヲ筆記ス、明治四年辛未十一月十日ニ起リ、六年九月十三日ニ止ル(即西暦千八百七十一年十二月十二日ヨリ同七十三年九月十三日マデ)、スヘテ全一年九ヶ月二十一ケ日ノ星霜ニテ、米欧両洲著名ノ都邑ハ、大半回歴ヲ経タリ、
一 大使ノ西航スル、書記官(大使事務を代理する官吏)ハ使命公務ノ文書ヲ纂(あつ)メ、大使書類、公署日記、謁見式等ヲ編成シ、又同時派出ノ各省理事官(専門別調査官)ハ、各国政教兵備ノ底細(内奥と細部)ヲ視察廉(調査)訪シ、報告ノ書、数大部ヲナセリ、本編ハ大使公務ノ余、及ヒ各地回顧ノ途上ニ於テ総テ覧観セル実況ヲ筆記ス、是ヲ以テ回覧実記ト名(なつ)ク、故ニ使節ノ本領タル、交際ノ応酬、政治ノ廉訪ハ、反テ之ヲ略ス、別ニ詳細ノ書アレハナリ、
一 欧洲ニ於テ、全権大使ヲ「アンバスサドル」ト称シ、之ヲ差遣スルハ、異常ノ特典トナシ、最モ尊重敬待スル使節タリ、(中略)明治中興ノ政(まつりごと)ハ、古今未曾有ノ変革ニシテ、(中略)其由テ然ル所ヲ熟察スレハ世界気運ノ変ニ催サルヽニアラサルハナシ、(中略)我邦今日ノ改革モ亦然リ、外国交際ノ基本ヲ定メント、此異常ノ特典ヲ挙行アレリ、(中略)西洋ノ通義(世間一般に通じる道理)ニ、政府ハ国民ノ公会(組織)ニテ、使節ハ国民ノ代人ナリトス、(中略)故ニ岩倉大使深ク之ヲ敬重シ、以謂(おもえら)ク吾使節ノ耳目スル所ハ、務メテ之ヲ国中ニ公ニセサルベカラストテ、書記官畠山義成(当時杉浦弘蔵ト称ス)、久米邦武ニ命ジ、常ニ随行シテ、回歴覧観セル所ヲ、審問筆録セシメタリ、

久米美術館―邦武コーナー 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む2

 1871(明治4)年11月10日(西暦12月12日)遣欧米特命全権大使岩倉具視、副使木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳、随行の官吏及び諸省の理事官ら(「日本外交文書」第4巻 日本外交文書頒布会)は皆東京を出発、横浜に到着。翌11日送別の宴が開催されました。

近代日本人の肖像―人名50音順―あ・おー岩倉具視

 同年11月12日一同は県庁に集合、馬車で波止場に至り、小蒸気船に乗り込むと、砲台から19発の祝砲が轟いて使節を祝福、つづいて15発の祝砲が鳴り響き、米公使デロング氏の帰国を祝いました。

明治神宮外苑聖徳記念絵画館 壁画集―21 岩倉大使欧米派遣―[解説21]

 使節及びこの郵船便で米欧の国々に赴く書生、華士族は54名で、その中には福岡県士族金子堅太郎、同団琢磨、高知県士族中江篤介(兆民)、鹿児島県貫属牧野伸熊(伸顕)らの名があります(「日本外交文書」第4巻)。

近代日本人の肖像―人名50音順―な・のー中江兆民

津田梅子ら北海道開拓使派遣女学生5名(久米邦武「米欧回覧実記」を読む3 HP「米欧回覧の会」―岩倉使節団の写真参照・寺沢龍「明治の女子留学生」平凡社新書449)も乗船、同日正午使節一行らを乗せた飛脚船アメリカ号は号砲一発碇を抜いて出航しました。

国立公文書館―展示会情報―デジタル展示―明治宰相列伝―黒田清隆―関係資料―黒田清隆訪欧し開拓方法を研究する(明治3年)

 港に係留する軍艦では水兵が皆桅(マスト)上に羅列して脱帽、港には見送りのため船を仕立てて数里の外まで名残を惜しむ姿も見られました。
 司法理事官随行の平賀義質は米国通で使節団一行の食卓行儀が乱雑と岩倉大使に建言、大使から命ぜられ、一同に食卓作法を列記したものを配布しました。平賀の作法書に「給仕(ボーイ)には低声に命ぜよ」とあり、「ソップ(スープ)には匙音や吸う音をさせるな」とありました。「余が前にゐた岡内(重俊)は(中略)ソップを吸ふのには態と匙音をさせ、皿を両手に持って音を立てゝ、ギューと吸ひ込みては舌打ちし、給仕には大声で指揮語の如く命じた。端に在る村田新八は、ニヤニヤ笑うて見ていたが、米国風の大ビステキが出ると、右手にフォークを持って、芋刺にし、口辺に持ち行いて喰い切った。」(「久米博士九十年回顧録」下巻 第七編 一 平賀義質の食卓行儀 早稲田大学出版部)
同年11月21日は西暦1872年1月1日なので20日の夜、欧米の船客はみな集まり、「シャンパン」「ブラデー」其の外種々の酒を混合して「ポンケ」と名づけ、子夜(午後12時)になるまで、これを酌みかわして談話していました。これは東洋における守歳(おおみそかの夜に眠らないで行く年を送ること)の風俗のようなものでしょう。

久米邦武「米欧回覧実記」を読む3

 1871(明治4)年12月6日早暁深い霧が晴れると、船は金門口(ゴールデンゲイト)に進入、10時桑方斯西哥(サンフランシスコ)港桟橋に接岸、日本御雇の当港領事官は日本より滞在の官吏とともに出迎え、11時馬車で「モントゴメリー」町の「ガラントホテル」に到着しました。「実記」はこの「ガラントホテル」の特徴を次のように記述しています。
 『「ガラントホテル」ハ屋ノ高サ五層ニテ、(中略)造営頗(すこぶ)ル精巧ニシテ、当州ニ多ク見サル広廈(広く大きな建物)ナリ、食堂ノ広サ三百人一時ニ食案(食卓)ニ就キテ余裕アルヘシ、(中略)第一層ニハ大理石(マーブル)ヲタヽミ、十分ニ磨礱(磨き)ヲ加ヘタレハ、履(くつ)ヲ滑ラサントス、浴湯店理髪店玉突場等ヲ具ス、第二層ヨリ最上層マテ、皆房ヲ分ツテ旅客ヲ待ツ、番数三百ニ及フ、各房ノ内、大ナルハ客座(「シッチングルーム」仏ニテ「サロン」)寝室(ベッドルーム)浴室(バスルーム)及ヒ圊圂
(カワヤ・水洗トイレ)(ウオートルクロゼット)皆具ス、大鏡ハ水ノ如ク、氍 (カーペット)ハ華ノ如ク、上ニ気(ガス)燈ヲ鈎下シ、昼ハ稜角ノ玻瓈(ガラス)七色ヲ幻シ、(中略)夜ハ螺旋ヲ弛メテ火ヲ点スレハ、五曜七曜環匣(めぐり)シテ、光ヲ白玉ノ中ニ輝ス、(中略)寝床ハ螺旋ノ鉄ニテ其底ヲウク、茵蓐(しとね)穏ニシテ身ニサハラス、(中略)顔ヲ洗フニ水盤アリテ、機ヲ弛ムレハ、清水迸リ出ヅ、(中略)凡ソ西洋旅館(ホテル)ノ景況ハ、此ニ記セルヲ以テ、他ハ概推スヘシ、』(第三巻 桑方斯西哥ノ記 上)
 「余に(鍋島直大が)「旅館に来い」と申された。余は翌朝早速出かけて行き、「ミストル、ナベシマ」といふと、給仕が導いて一小室に坐ゑたが、其の室に他の西洋人男女二三人ゐたが、アッと思ふ間にドキンと動き釣り上げられた。途中に止り、戸が明いた処、外人は出て行いた。二度目に止った時「出ろ」といはれ、室を出て廊下を見回した処、公(鍋島直大)の部屋番号が見つかった。是がエレベーターの初体験である。」(「久米博士九十年回顧録」下巻 第八編 第一九二項 桑方斯西哥に着船 早稲田大学出版部)。

California―地域と都市情報―サンフランシスコ&ベイエリア

 同年12月14日(西暦1872年1月23日)朝10時から「ランマン」女学校ならびに「リンコールン」小学校その他を見学、この小学校の生徒寮で米公使「デロング」氏が日本の地理を質問すると皆答えて一つも誤ることがありませんでした。
 同日夜8時よりホテルで岩倉使節団一行の米側歓迎会が開催され、食宴後15名の「スピーチ」があり、伊藤博文も拙い英語で日本の封建制度の撤廃(版籍奉還)は「一箇の弾丸を放たず、一滴の血を流さず」行われたとし、岩倉使節団の使命を説明しした後、「我国旗の中央に点ぜる赤き丸形は、最早帝国を封ぜし封蝋の如くに見ゆることなく、将来は事実上その本来の意匠たる、昇る朝日の尊き徽章となり、世界に於ける文明諸国の間に伍して前方に且つ上方に動かんとす」(「伊藤博文伝」上巻 春畝公追頌会)と述べて終了しました。この日章旗の説明が「日の丸演説」と呼ばれて好評だったようです。
また同日全権大使岩倉具視と副使木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳はサンフランシスコのブラッドレー・アンド・ラロフソン写真館で写真を撮りました(HP「米欧回覧の会」―岩倉使節団の写真参照)。この写真が同写真館で撮った写真といわれています[田中彰「明治維新と西洋文明」(岩波新書)]。
 この写真を見ると副使は皆洋装だが岩倉大使は髷に羽織・袴で靴を履き和洋折衷の風俗であるところが、いかにも明治のはじめらしい雰囲気をたたえているように感じられます。。

米欧回覧の会―岩倉使節団―米欧回覧実記 

久米邦武「米欧回覧実記」を読む4

 サンフランシスコ各地見学後、同年12月22日「ガラントホテル」出発、例の汽船で「オオクランド」の長桟橋の波止場から「カリホーニヤ」太平会社の蒸気車でロッキー山脈越えて大陸を横断し、途中大雪にあい予定変更、1872(明治5)年正月元日を雪混じりの塩湖(ソルトレイク)府で迎えて、一同に新年の「シャンパン」が配られ、米公使「デロング」夫妻らを招いてホテルで新年宴会を開きました。
 『(明治5年)正月十四日「ソートレイキ」ヲ発ス、(中略)「チカゴ」ト云ヘル所ニ著キタル頃、大使モ何時トナク断髪トナリ、衣服モ是レ迄ト違ヒ、洋服とナレリ、』(東大史料編纂所編「保古飛呂比 佐佐木高行日記」五 東大出版会) 

近代日本人の肖像―人名50音順―さ・そー佐佐木高行

同年1月17日哈馬哈(オマハ)に到着、広大なアメリカ開拓を見て、「実記」は「顧ミテ我日本ヲ回想スレハ、至宝ノ人口ハ殆ト米国ニ同シ、其建国ハ之ニ百倍シ、其土地ハ百分ノ三ニ及ハス、然ルニ野ニ遺利アリ、山ニ違宝アリ、上下貧弱ヲ免レサルハ何故ソ、蓋(けだし そもそも)不教ノ民ハ使ヒ難ク、無用ノ民ハ用ヲナサス、(中略)米国ノ紳士ミナ熱心ニ宗教ヲ信シ、盛ンニ小学ヲ興シ、高尚ノ学ヲ後ニシテ、普通ノ教育ヲ務ム、(中略)東洋ハ之ニ反ス、試ミニ上等ノ人ノ学フ所ヲ看ヨ、高尚ノ空理ナラサレハ、浮華ノ文芸ノミ、民生切実ノ業ハ、瑣末ノ陋事(軽視する事柄)トシテ、絶テ心ヲ用ヒス」(第七巻 落機山鉄道ノ記)ト自問自答せざるを得なかったのです。
同年1月21日3時華盛頓(ワシントン)府「カヒトル」の傍らの駅に到着、在留辧務使森有礼らと米国政府接伴掛セネラルマヤル氏も出迎え、馬車で「ウエルモント」街の「アーリントンホテル」に宿を定めました。

近代日本人の肖像―人名50音順―ま・もー森有礼

5名の女子留学生を託された森有礼は日本辧務使館書記官チャールズ・ランマンに彼女らを預けたので、ランマンはワシントン郊外ジョージタウンの自宅につれていき、やがて1週間ほどで、最年少の津田梅子と吉益亮子2人がランマン宅に残留、他の3人は別人宅に引き移りました(寺沢龍「前掲書」)。

高原千尋の暗中模索―記事一覧―明治4年の女子留学生(その一〜四)(2009-09-14) 

ところがこのころランマン宅の津田梅子らに会いに来た日本人がいました。新島襄です。

近代日本人の肖像―人名50音順―な・のー新島襄

 森有礼は新島襄を岩倉大使に引き会わせるためにワシントンに呼び寄せたのですが、日本で津田梅子の父津田仙と交友のあった新島襄は時々ランマン宅を訪問したのです。新島は岩倉使節団に要請されて文部大丞田中不二麿の秘書通訳となり、欧州まで同行しました(明治五年四月一日付 父新島民治宛「新島先生書簡集」同志社校友会)。
木戸孝允も新島に面会したようで「今日西(新)島始て面会す同人は七八年前学業に志し脱て至此国当時已に大学校を経此度文部の事にも着実に尽力せり可頼の一友なり」(「木戸孝允日記」明治五年二月十四日条 日本史籍協会叢書 東大出版会)とあり、また「(前略)田中不二西(新)島七(五)三太(しめた 新島の呼名)等当地を発す西島は余此地に至り始与彼談話(始めて彼と談話す)彼の厚志篤実当時軽薄浅学之徒漫に開化を唱ふるものと大に異なり余与彼交自如旧知得其益不少(余彼と交わり、自ずから旧知の如く、其の益を得ること少なからず)後来(将来)可頼之人物也」(「同上日記」明治五年二月廿四日条)とも述べて新島襄を賞賛しています。

久米邦武「米欧回覧実記」を読む5

1872(明治5)年正月25日岩倉使節団はこの日大統領官邸(ホワイトハウス)で米大統領グラントに謁見しました。

外務省―外務省案内―外務本省―外交史料館―外交史料Q&A-―明治期―1870年代―
Questionアメリカ南北戦争当時の北軍司令官で、後に第18代大統領となったグラント(ulysess S .Grant)が、大統領引退後に来日した記録を探しています。


このホワイトハウスについて「実記」は「外国ノ行旅ニモ自由ニ遊覧ヲ許シ、警邏ノ設ケナシ、国人常ニ欧洲ノ王宮、諸衙門ニ、兵ヲオキ、人ヲ禁スルヲ誹笑(そしり笑う)シテ、陋習(悪いならわし)ト言做(いいな)ストナリ、」と述べています。
しかし米国の共和政治について「夫レ官ヲ公選ニ挙ケ、(中略)其体面ハ実ニ公平ヲ極メタルニ似タリ、然レトモ上下院ノ選士ミナ、最上才俊ヲ盈(みつ)ルコトハ、到底得ヘカラス、(中略)一旦異議アルトモ、十中ノ八九ハ、必ス原案ニ決ス、(中略)是ミナ共和政治ノ遺憾アル所ナリ、」(第十一巻 華盛頓府ノ記 上)と批判しています。

久米邦武「米欧回覧実記」を読む6

 1872(明治5)年2月3日(西暦1872年3月11日)「実記」には「国務省ニ於テ国務掛ノ書記官「フィシュ」氏ニ応接ス、」と簡単に記述されているだけですが、この日条約改正交渉に関する第1回日米会談が開催されました。
幕末に締結された米国はじめその他の諸国との不平等条約の改正協議期限は、明治5年5月26日(1872年7月1日)であった(条約改正関係「日本外交文書」第1巻 明治二年十二月十日付 一七 条約改正ハ条約所定ノ期日ヲ待チ商議ニ及フヘキ旨通知ノ件 巌南堂書店)ので、日本政府の方針によって岩倉使節団は欧米諸国に日本側の要望を伝えるとともに、当面の国内改革に必要とする期間、条約改正の延期を要請しようとしていました。
ところが、この第1回日米会談で国務長官フィッシュは、岩倉使節団が新条約の草案に調印する権限があり、そのためには日本政府の全権委任状を必要とすると発言しました。
このため岩倉使節団は協議して第4回会談後、副使大久保利通・伊藤博文を全権委任状交付をうけるため一時帰国させました。「実記」に『二月十二日 朝六時ヨリ大久保副使発程シ、「ニューヨルク」ヲ経テ帰朝セリ、十三日 夜八時ヨリ、伊藤副使発程シテ帰朝アリ、』と記述されているのはそのためです。 
 しかし外務卿副島種臣らはこうした使節団の外交方針転換に反対、委任状の交付を認めるかわりに、新条約調印の場合に厳しい条件をつけたことと、米国滞在中の使節団との日米会談では関税自主権や領事裁判権などの問題で日米間の主張の隔たりは大きく、同年6月17日「実記」には「朝六時、大久保伊藤ノ両副使寺島(宗則)外務大輔ト、華盛頓府ニ着ス、午後三時ヨリ国務省ニ於テ応接アリ、」(第十七巻 華盛頓府後記)と記されていますが、この第11回日米会談で条約改正に関する対米交渉は打ち切りとなりました(「日本外交文書」第5巻・下村冨士男「明治初年条約改正史の研究」吉川弘文館・石井孝「明治初期の国際関係」吉川弘文館)。

近代日本人の肖像―人名50音順―さ・そー副島種臣

久米邦武「米欧回覧実記」を読む7

 華盛頓(ワシントン)市街については『其他我一行ノ寓セル、「アルリントン、ホテル」ヲ首トシテ大逆旅(ホテル)処処ニアリ、劇場、遊園、花園ノ如キハ、録スヘキモノ少シ、「ヂヨーチタウン」ノ墓地、殊ニ清麗ヲ極ム、百貨ヲ陳(つら)ネタル商廛(しょうてん 商店)ハ、僅ニ大道二三条ニ過キス、其他ノ諸街ハ過半官人学士ノ私居ニテ、(中略)陋巷ニハ黒人ノ居住セル街アリ、木製ノ屋廬(おくろ)、矮陋(わいろう)不潔ニシテ、修掃(しゅうそう)至ラス、鉛漆(ヘンキ)斑黒ニテ、溝溜(こうりゅう)臭穢(しゅうあい)ヲ醸(かも)シ、経過スルニ鼻ヲオヽフ、』(第十巻 「コロンビヤ」県ノ総説)とアメリカ民主主義の恥部である黒人差別の実態を鋭く観察しています。
もっとも「実記」がつづいて「西洋ノ小民ハ、愚魯(ぐろ)ニシテ、不潔ニ安ンス、牛馬ヲ距ル一等ノミ、黒人ノ居ノミ不潔ナルニアラス、」と述べているところを見ると岩倉使節団は民衆を愚民として見ていますが、必ずしも黒人差別感をもってはいなかったもののようです。
 岩倉使節団の眼に奇異に見えたのは欧米の男女交際の風俗でした。「実記」には「最モ奇怪ニ覚ヘタルハ、男女ノ交際ナリ、(中略)少シク婦ノ怒リニアヘハ、俯伏シテ之ヲ詫テ猶聴レス、室外ニ屏(しりぞ)ケラレ、食スルコトヲモ得サルコトアリ、男女舟車ヲ同クスルトキハ、丈夫ハ起テ席ヲ譲リ、婦人ハ辞セスシテ其席ニツク、(中略)是大抵西洋一般ノ風ナレトモ、米英殊ニ甚シ、[瑞土(スイス)共和国ハ其甚タ簡ナリ]と記されています(第十三巻 華盛頓府ノ記下)。
ドナルド・キーン氏は上記の文章について「いくらなんでも、これは誇張というものであろう。とはいえ、彼の観察には、今日それを読んで、私たちを苦笑いさせるに十分な真実が含まれている。」(ドナルド・キーン著「続百代の過客」上 朝日選書346)と述べています。

久米邦武「米欧回覧実記」を読む8

1872(明治5)年7月3日岩倉使節団はアメリカ側の盛大な見送りを受けて、波士敦(ボストン)港から英国の「キュナルト」会社の郵船「オリンハス」号に乗り込み、イギリスへ向けて出発しました。
 同年7月14日(1872年8月17日)里味陂(リヴァプール)港を経由、蒸気車で夜11時20分倫敦(ロンドン)の「ユーストン」駅に到着、馬車で「ボツキハム(バッキンガム)、パレイス、ホテル」に宿を定めました。
同年7月16日午後1時グランヴィル英外相宅を訪問、皇帝に謁見をもとめましたが、
当時皇帝はスコットランドの離宮に遊幸中であったので、帰還を待つことにしました。
 同年7月23日駐日英公使「パークス」らの接伴(客をもてなす)で「ヴィクトリヤ」駅より「フランクホルト」に赴きました。このとき伏見宮両親王(当時イギリス留学中の東伏見宮嘉彰親王及びドイツ留学中で当時渡英していた伏見宮能久親王)も同行、「フランクホルト」で宿泊となりました。
英国政について「実記」は『英国ノ立君政治ハ米国ノ共和政治ト異ナリテ、立法行政ノ両権ヲ平衡セル妙ハ、一等宰相カ公党ヨリ推サレ、皇帝ノ特旨ニテ其輔翼(補佐)ノ任ヲ命シ、(中略)衆議ヲ協スル弁証ニ従事スルニアリ、○上院ノ貴族カ、世襲ニ国会ニ参与スルハ、其祖宗ノ受シ証書ヲ以テ、権利ヲ永永ニ保有スルコトナリ、下院ノ議員ハ、国ノ州郡ニテ(中略)公選ニ挙ケタル名代人ニテナレリ、(中略)議長ニ向ヒテ、一人ツヽ意見ヲ陳明ス、其緊要ノ所ニ至レハ、「ヒヤヒヤ」ト声ヲ掛ル、中ニハ欠伸(あくび)ノ声モキヽ、冷笑シ居ルモアリ、』(第二十四巻 倫敦府ノ記中)と記述しています。

久米邦武「米欧回覧実記」を読む9

倫敦の市街について「実記」は「○又河岸ヲ回(めぐ)リテ、地底ニモ銕(鉄)道ヲシク、(中略)銕路ノ過ル街上ノ屋ニ坐臥スレハ、終日殷殷(いんいん 音のとどろく様子)トシテ雷声ノ地下ニ震(ふる)フヲキク、」(第二十二巻 倫敦府総説)とすでに当時の倫敦に敷設されていた地下鉄について述べています。
つづいて『西部ヲ「ウエストミニストル」ト云、(中略)達迷斯(テームス)河「ウエストミニストル」橋首ニ議政堂アリ(後ニ記ス)、「ウエストミニストルアベイ」ハ其側ニアリ、英王ノ菩提寺ニテ、代代国王ノ霊屋アリ、亦壮麗ヲ窮メタリ、国王即位加冠ノ大礼、王族ノ冠婚ハ、ミナ此ニテ式ヲ取行フ、○「ウエストミニストル」橋ヨリ東ニ向ヒ、直街一路アリ、其衝当ニ「ボツキンハムパレイス」の王宮アリ、王宮ノ前ニハ「セントヂェームス」苑アリ、中央ニ池ヲ回(めぐら)シ、林丘を設ケ、頗ル美ヲ尽セリ、

Walking in London

○王宮ノ背後ニハ「バイドパーク」ト云公苑ヲ修メ、府中最美ノ游楽園ナリ、(中略)○倫敦ノ最繁華ナル所ニ於テハ、地価ノ貴(たか)キコト異常ナリ、(中略)故ニ府中ノ市屋ハ、地ヲ占ル甚タ倹ニ、下ニハ窖(あなぐら)ヲ掘入ルル、一丈以下ノ処ニ及ヒ、上ニハ層楼ヲ起シ、八九層ニ及フ、最上七八九層ニハ小民住ス、猶我東京ノ路次ノ如シ、中間ニ僑居スルモノハ、較(やや)之ヨリ上等ノ民ニテ、職工、或ハ半工半商、或ハ商家ノ社員ナリ、下層ハ市廛(してん)ヲ開キ、百貨ヲ売ル、是西洋都府ノ常ニテ、倫敦ノ如キハ、其最等ニオルモノナリ、』(第二十二巻 倫敦府総説)と述べています。
また「売淫ノ婦人ハ、倫敦中ニ十万人ニスク、少シク人行少キ街ニ至レハ、偸児(とうじ 盗人)徘徊シ、前ヨリ帽ヲ圧シ、背ヨリ懐ヲ探リテ逃レサル、(中略)国中ノ民貧富ノ均シカラサル如此シ、」(第二十一巻 英吉利国総説)と指摘しているのです。
「実記」には「当今欧羅巴各国、ミナ文明ヲ輝カシ、富強ヲ極メ、貿易盛ニ、工芸秀テ、人民快楽ノ生理ニ、悦楽ヲ極ム、其情況ヲ目撃スレハ、(中略)此洲ノ固有ノ如クニ思ハルレトモ、其実ハ然ラス、欧洲今日ノ富庶(国が富み、人口が多い)ヲミルハ、一千八百年以後ノコトニテ、著シク此景象ヲ生セシハ、僅ニ四十年ニスキサルナリ、」(第二十三巻 倫敦府ノ記上)と述べられ、岩倉使節団はわが国もその努力如何で欧州諸国の繁栄に短時日で追いつくことが可能であるとの見通しをもっていたようです。従って彼らの眼も欧州各国繁栄の原点をさぐろうと必死だったのです。

久米邦武「米欧回覧実記」を読む10

 同年8月27日使節一行岩倉大使以下9人(「日本外交文書」第5巻)は英国政府の案内で午後4時ホテルを出発、「「ユーストン」駅より蒸気車で里味陂(リヴァプール)に赴きました。夜10時半に里味陂府の「ノースヴェストロン」駅に到着、駅口の「ノース、ウエストロン、ホテル」に宿を定めました。里味陂では「曾テ美爾索(ミルシール)河ノ南岸ヨリ、府中ヲ遠望セシニ、石炭ノ烟、濛濛トシテ地上ヨリ二三百尺ノ上マテ掩(おお)ヒ、晴空常ニ闇(くら)シ、」(第二十六巻 里味陂府ノ記上)と「実記」は述べています。
同年8月30日使節一行はこの地の造船所を見学し、「実記」はここで見た「クレイン」(鶴頸秤と訳)について、次のように記述しています。「鶴頸秤ノ起重器ハ、(中略)西洋ニテ凡港頭、船舶、工場、鉱口等、総テ重荷ヲ積卸(つみおろ)シスル場所ニハ、此器械ヲ設ケサルナシ、我日本ハ従来貿易ノ開ケサルヲ以テ、(中略)殊ニ港頭ニ起重器ノ設ナキハ、甚タ商業上ノ価位ニ響キ大ニ利益ヲ損スルヲ覚フ、西洋ノ人ハ、肩ニテ重キヲ運スルコトナキノミナラス、抑(そもそも)馬背にて重キヲ運スルコトモナシ、必ス車輪ノ力ヲ借ル、故ニ一綑ノ荷モ、往往重サ一噸ニ及フヲ常トス、以テ日本ニ運シ来レハ、(中略)竟(つい)ニハ力屈シ欧客ノ智ヲ仰ク、」(第二十七巻 里味陂府ノ記下)。 
 同年9月19日朝10時に壱丁堡(エテンボルク)府の旅館を出発、南方新城(ニューカッスル)に向かい、11時半に「ガラシールス」邑駅到着、羅紗(らしゃ)製造場に赴きました。
 羅紗を織る毛を英語で「ウール」と云い、羅紗を織るには棉羊の尤も繊輭(せんなん 細く柔らかい)な部分を用い、多くは豪斯多辣利(オヽスタラリヤ)洲より輸入するものです。「実記」はこれに関連して次のように記述しています「英国ノ富ハ、石炭と銕トヲ以テ、器械ヲ運シ、棉毛麻ヲ紡織スルヲ眼目トセリ、其羊毛ハ遠ク豪洲ヨリ輸入シ、其棉花ハ亜米利加諸国ヨリ輸入シ、其麻ハ印度ヨリ輸入シ、亜麻ハ露国ヨリ輸入ス、(中略)是東洋南洋ノ民ハ、天然ノ化力(自然の万物を成長させる作用 この場合農牧業生産物を指す)ヲ以テ、西洋ヨリ営業力(工業生産物)を買入ルナリ、」(第三十三巻 新城府ノ記上)。
新城府より「ブラトホールト」府を経て、9月23日「ソルテヤ」邑に至りました。この地は毛織物製造業者サー・タイタス・ソルトが1851年から20年の歳月をかけて建設したアルパカ(羊の一種)毛織物製造の工場村です。
 邑に小学校を建設して村民の子弟男女は半日工場で操業、半日は登校して授業を受けることになっています。「実記」は「英国人ハ、職工(労働者)ヲ保護シ、貧民救護ニ力ヲ尽スヲ、栄誉ノ一トナス、○校ノ前ニ養老院アリ、(中略)又病院アリ、(中略)建立ノ寺(教会)アリ、(中略)前後ノ製造場ニテ、如此ク備ハリタルモノナシ、(中略)此ヲ職工市街ノ仕組トス、勧工ノ道ニ於テ、深ク意味アルコトナリ、」(第三十五巻 「ブラットホールト」府ノ記)と述べています。

英国お買い物日記―イギリス世界遺産―2009/6/23−6/19 Saltaire

 『十月朔日舌非力(ゼツフィールド)発車の時(中略)落涙した女が数人あった。「僅か二三日の知合と別れたのに落涙とは友情深い」と皆々感動したが、アストン通訳は一同を顧み「此の人達は本国にには嫁さん達が待っているのに(中略)欧大陸を回遊して悪しき気候に寒暑を凌ぎ、其の中に健康で家に帰り着き、夫婦の面和を遂げるは幾人あるかと思うて見ると図らず涙が溢れたよ」と彼等は云ったと其の心持を話したそうである。岩倉公以下一同之を聞き、「先に落涙を感心したが、扨はさうした涙であったか」と打笑うた。是も英国女の真相を発露した小話である。』(「久米博士九十年回顧録」下巻)
2010-04-01 08:29 | 記事へ | コメント(0) |
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2009年12月01日(火)
司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む11〜20
司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む11

  坂本龍馬がお龍を知ったのは1864(元治1)年夏、池田屋事件の前ころと推定されます。お龍は青蓮院宮家侍医楢崎将作三姉妹の長女で、将作の死後禁門の変が起こり京都は焼亡、一家は離散、美貌の妹たちは悪人の手にかかり京都の島原や大坂の遊郭に売りとばされようとしたので、お龍は妹たちの救出にでかけました。このときの様子を龍馬は書簡で次のように述べています「其悪もの二人をあいて(相手)に死ぬるかくこにて、刃ものふところにしてけんくわ(喧嘩)致し(中略)わるものうてにほりもの(刺青)したるをだしかけベラホヲ口にておどしかけしに元より此方ハ死かくごなれバとびかゝりて其者むなくらつかみ、かを(顔)した(た)かになぐりつけ(中略)とふ々(とうとう)其いもと(妹)おうけとり京の方へつれかへりたり」(「坂本龍馬関係文書」一)。
  つづいて龍馬はお龍を次のように紹介しています「此女乙大姉をしてしんのあね(姉)のよふにあいたがり候。乙大姉の名諸国にあらハれおり候。龍馬よりつよいというひょうはん(評判)なり。○なにとぞおび(帯)かきものかひとつ此者ニ御つかハし被下度此者内々ねがいいて候。(中略)今の(の)名ハ龍と申私しニに(似)ており候」(慶応元年9月9日付姉乙女、龍馬の乳母おやべ宛・「坂本龍馬関係文書」一)。

幕末英傑録―佐幕人幕末人の章―幕末女傑名鑑―お龍

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む12

  1864(元治1)年7月24日幕府は西南21藩に長州出兵を命令(第1次長州征討)、同年11月16日征長総督徳川慶勝は広島に本営を設置し、長州藩の領地周防国の没収などの徹底的な処分を考えていましたが、征長軍の薩摩藩士西郷隆盛はこのような強硬処分が長州藩の「暴徒蜂起」を引き起こすとして反対、同年12月27日征長軍は長州藩処分未決定のまま撤兵を開始しました(「維新史料綱要」巻5)。しかるに長州藩の正義派(討幕開国派)高杉晋作らは同年11月16日挙兵、1865(元治2・慶応1)年2月長州藩の主導権を掌握しました(「維新史料綱要」巻6)。
  坂本龍馬は同年4月5日大坂から京都の薩摩藩邸に帰り(土方久元「回天実記」幕末維新史料叢書7 新人物往来社)、4月25日薩摩藩汽船胡蝶丸に乗り、神戸塾生を連れて京都から鹿児島へ帰る小松帯刀や西郷隆盛らに同行、5月1日鹿児島到着、同月16日まで同地に滞在しました。
  同年5月16日龍馬は鹿児島を出発、肥後熊本の東南沼山津に横井小楠を訊ね、さらに太宰府の三条実美に面会、渡海して同年閏5月1日下関に到着、同月5日白石正一郎宅で土方久元と会うことができました(「回天実記」)。土方久元は土佐勤王党の同志で、三条実美に従って長州に赴き、実美の命により中岡慎太郎とともに上京して京都情勢を探索していた人物です。

中岡慎太郎館 

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む13

 土方久元の話によると、土方と中岡は京都にいて薩長両藩の和解が必要であることを感じました。そこで中岡は西郷が上京のとき、下関に立ち寄ることを説得するために薩摩に向かい、土方は長州藩の木戸孝允を説得するために下関に立ち寄ったとのことでした。この土方の話に同感した龍馬は直ちに木戸と連絡をとり同月6日木戸は下関に現れました(「回天実記」)。しかし8月18日の政変や禁門の変において薩摩藩と戦った長州藩には薩摩藩への敵愾心がつよく、木戸は薩長和解には容易に同意しませんでしたが、龍馬らは3日がかりで木戸を説得することに成功しました。
一方鹿児島に向かった中岡は西郷隆盛に薩長和解を説き、西郷は上京途中下関にたちよることに同意しました。1865(慶応1)年閏5月15日西郷は鹿児島を出発しましたが、途中佐賀で大久保一蔵から至急上京せよとの連絡をうけ大坂に直航、中岡だけが下関に現れ(中岡慎太郎「海西雑記」維新勤皇遺文選書 地人書館 慶応元年閏5月21日条)、薩長和解は不成功に終わったのです。
 しかしながら長州藩側から幕府の禁止により当藩は長崎で外国から必要な銃砲や艦船などを購入できないため、それを薩摩藩名義でやってもらえないだろうか、薩摩藩がこの提案を受け入れるかどうかで、同藩の意向を知ることができようとの要望が出され(末松謙澄「防長回天史」柏書房 第5編上第8章 長薩和解の端緒)、龍馬と中岡はこの提案に賛成して同年閏5月29日下関を出発、京都に向かいました。
 龍馬らは同年6月下旬入京すると西郷に面会して上記長州藩の提案を伝え、西郷が同意したので、龍馬は京都から太宰府へ帰る予定の三条実美随従の土佐出身者楠本文吉に途中下関に立ち寄って、上記提案に西郷同意の旨を長州藩側に伝えるよう依頼しました。
この知らせをうけた長州藩はただちに伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)を長崎に派遣することを決定、途中太宰府に立ち寄って薩摩藩士の紹介状を貰い、楠本文吉が同行、長崎で両人を薩摩藩に紹介したのが龍馬とともにかつて神戸塾で学んだ土佐出身者の多い亀山社中の連中でした。彼等は龍馬と鹿児島へ同行し、龍馬とわかれて薩摩藩の小松帯刀とともに長崎へきていました。彼等は長崎の亀山に宿所を構えたので亀山社中とよばれたのです。

幕末歴史探訪―人物別分類―坂本龍馬―亀山社中

 亀山社中の近藤長次郎(「龍馬がゆく」を読む7参照)は両人を小松帯刀の屋敷に潜伏させ、井上とともに鹿児島へ同行、慶応元年7月21日伊藤は社中の高松太郎の斡旋で英国商人グラバーからミネー・ゲーベルの最新小銃4300挺の購入に成功(「維新史料綱要」巻6)、薩摩船胡蝶丸・海門丸に積み、薩摩から引きあげてきた井上・上杉とともに同年8月下旬三田尻・馬関に入港(末松謙澄「防長回天史」第5編11章 長薩和解の進行并銃砲軍艦購売談判 柏書房)、長州藩が長崎で購入した汽船ユニオン号(櫻島丸)は当時下関に来ていた龍馬の仲介で長州藩海軍総管の統制下に所有は長州藩、旗号は薩摩藩、乗り組みは亀山社中という約束となりました。

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む14  

1865(慶応1)年9月21日将軍徳川家茂は長州藩再征の勅許をうけ、同年11月7日彦根藩はじめ諸藩に長州藩征討への動員を命令しました(「維新史料綱要」巻6)。
同年12月初旬在京中の薩摩藩小松帯刀・西郷隆盛らの使者として黒田了介(清隆)が下関にやってきて長州藩の桂小五郎(木戸孝允)の上京を要請、同年12月26日桂は品川弥二郎らをつれて山口を出発、1866(慶応2)年正月8日入京すると薩摩藩邸に入り小松・西郷・大久保らと会談しましたが、両藩提携の問題は従来の複雑な経緯がからんでなかなか議題に上りませんでした。
坂本龍馬は下関でユニオン号問題に決着をつけると正月10日下関を出発、同月17日大坂に到着、翌日同地に滞在中の大久保忠寛(一翁)から幕府側が龍馬らを手配探索していることを聞かされ、高杉晋作にもらったピストルを用意、同月19日夜京都に到着しました。薩長提携の話が少しも進展していないことを知ると、彼は薩摩藩の消極的な態度を批判、ただちに薩長両藩の攻守同盟についての具体的な検討に入るよう勧告、同年正月21日薩長同盟(連合)が成立するに至りました(「維新史料綱要」巻6)。

幕末千夜一夜―Essay幕末物語―56.薩長同盟はチト大げさではないでしょうか?

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む15

 1866(慶応2)年正月22日龍馬は桂小五郎らが京都を出発するのを見送り、翌23日龍馬が定宿にしていた伏見の寺田屋にやってきました。寺田屋には龍馬とともに上京してきた長州藩支藩長府藩の三吉慎蔵が待っていましたが、その翌朝午前3時ころ龍馬らは伏見奉行配下のものに襲撃されました。
 このときの様子を龍馬はのちに桂小五郎宛書簡で簡潔に次ぎのような文章で報じています「(前略)去月廿三日夜伏見ニ一宿仕候処、不計(はからずも)幕府より人数さし立、龍を打取るとて夜八ツ時(午前2時)頃二十人計寝所ニ押込ミ、皆手ことに鎗とり持、口々に上意々々と申候ニ付(中略)彼高杉(晋作)より被送候ビストールを以テ打払、一人を打たをし候(中略)そのひまニ隣家の家をたゝき破りうしろの町ニ出候て薩(摩)の伏水(見)屋敷ニ引取申候 二月六夕 木圭先生 机下」(慶応2年2月6日付「坂本龍馬関係文書」一)。
さらに兄坂本権平と一同宛の書簡でこのときの様子を大要次のように述べています「(前略)伏見の難は去る正月廿三日夜八ツ時半(午前3時)頃なりしが、(中略)もふねよふと致候所に、ふしぎなるかな[此時二階ニおり申候]人の足音のしのびしのびに二かいしたをあるくと思ひしにひとしく六尺棒の音からからと聞ゆ折柄兼てお聞に入れし婦人[名は龍、今妻と致し居り候]勝手より走せ来り云様御用心なさるべしはからず敵のおそい来りしなり」(慶応2年10月頃「坂本龍馬関係文書」一)。
またこの場面をお龍は後の回想で次のように語っています「あの時、私は風呂桶の中につかって居ました。これは大変だと思ったから、急いで風呂を飛び出したが、全く着物を引掛けて居る間も無かったのです。実際全裸で恥も外聞も考へては居られない。夢中で裏梯子から駆け登って、敵が来たと知らせました。」(安岡重雄「坂本龍馬の未亡人」二 宮地佐一郎「坂本龍馬全集」光風社書店)。

隼人物語―京都と薩摩―伏見の史跡―伏見寺田屋

長崎の坂本龍馬―コンテンツメニューー坂本龍馬の書簡―慶応2年2月6日 寺田屋の遭難を伝える書(桂小五郎宛)―慶応2年12月4日 寺田屋の一件を語る(坂本権平・一同宛) 

 同年3月4日龍馬はお龍を連れて大坂を出発、同月10日鹿児島に到着、その後お龍とともに日当山(ひなたやま)・塩浸(しおひたし)温泉で襲われたときの傷を治し、日向の霧島に遊び、このときの様子を龍馬は姉乙女宛の書簡で次のように述べています「此所に十日計(ばかり)も止りあそひ、谷川の流にてうおヽつり、短筒をもちて鳥をうちなとまことにおもしろかりし是より又山深く入りてきりしま(霧島)の温泉に行、此所より又山上ニのほり、あまのさかほ(天の逆鉾)を見んとて、妻と両人つれにてはるばるのほりし(後略)」(慶応2年12月4日付「坂本龍馬関係文書」一)。

ワシモ(WaShimo)のホームページへようこそ!−コンテンツー旅行記―鹿児島県―龍馬新婚旅行の地〜霧島 

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む16

 1866(慶応2)年6月2日龍馬はユニオン号(櫻島丸→乙丑丸)に乗って鹿児島を出発、同月16日下関に到着しました。すでに同年6月7日幕府軍艦が大島郡の海岸を砲撃し、第2次長州征討が始まっており、長州藩の高杉晋作は幕府老中小笠原長行が指揮する小倉藩領の幕府軍攻撃を計画、高杉晋作が指揮する丙寅・癸亥・丙辰3艦は田ノ浦、龍馬が指揮する乙丑と帆船庚申2艦は門司を攻撃し勝利しました。陸上でも幕府軍は連敗がつづくうちに同年7月20日将軍家茂は大坂城で死去、9月2日幕府軍艦奉行勝海舟は長州藩士広沢真臣らと安芸国厳島で休戦協定を締結するのやむなきに至ったのです(「維新史料綱要」巻6)。
 このような第2次長州征討における長州藩の勝利と幕府の敗北は当時の政治情勢に大きな転換をもたらすことになりました。
 第2次長州征討が終了すると長州藩は亀山社中に乙丑丸を提供する必要はなくなり、亀山社中は同年11月薩摩藩の小松帯刀の援助で洋型帆船大極丸を購入しましたが、経済的にゆきづまり、龍馬は社中の解散も考えねばならぬ苦境に追い込まれました。
 一方土佐藩ではすでに土佐勤王党が弾圧され、前藩主山内豊信によって、かつての参政吉田東洋のグループに属していた後藤象二郎らが登用されていました。

坂本龍馬人物伝―ページー関連人物―後藤象二郎  

彼等はもはや安易な公武合体政策が破綻したことは明白であり、とりあえず諸藩の動向を探索するとともに、藩としての富国強兵策を強化するに越したことはないと考えたのでしょう(平尾道雄「前掲書」)。1866(慶応2)年2月後藤らによって完成した開成館はその後の土佐藩富国強兵政策の中心的機関となり、軍備の近代化と・殖産興業・藩営貿易を推進する目的を果たす役割を担ったのです。同年7月後藤は長崎に出張、上海にも渡航し同年8月から1年の間に軍艦・商船7隻、銃砲弾薬類を総計約43万両近く買いつけ、土佐商会(開成館貨殖局長崎出張所)の実務担当者岩崎弥太郎が金策に苦しむほどでした(池田敬正「坂本龍馬」中公新書)。

坂本龍馬人物伝―ページー関連人物―岩崎弥太郎  

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む17

1867(慶応3)年2月下旬後藤象二郎は、龍馬とも面識があり当時砲術修行のため長崎に来ていた土佐藩士溝淵広之丞の仲介で清風亭の酒席に坂本龍馬を招待しました。

龍じゃ〜なが 長崎新聞ホームページー龍馬動くートップ―検索ー清風亭会談(2009年05月02日)

 そこには龍馬が隠れてなじみにしていた芸妓お元が呼ばれていました。このときの両人の会談内容は不明ですが、将来を心配する亀山社中のものに、龍馬は後藤が自分の過去の武市瑞山処刑などの出来事に一切触れようとせず、これからの問題だけを話題にしたことに感心したと述べたそうです(坂崎紫瀾 瑞山会編纂「維新土佐勤王史」日本図書センター)。
 後藤象二郎とともに土佐藩内の指導的位置にあった福岡藤次(孝弟 たかちか)はすでに1866(慶応2)年10月上京して薩摩藩の西郷隆盛と接触し、翌年2月15日西郷は高知を訪問、彼と会談した山内豊信は山内家は薩摩藩と違って、徳川家には格別の関係もあるが、地球全体から見れば小さなことだと述べたとのことです。福岡の尽力により1867(慶応3)年2月には龍馬とのちに陸援隊を組織する中岡慎太郎の脱藩赦免が決定されました。同年4月福岡藤次は藩命により長崎に赴き、才谷楳(梅)太郎(坂本龍馬の変名)は脱藩の罪を許されるとともに海援隊長に任命されました(「海援隊日史」坂本龍馬関係文書其一)。後藤象二郎は亀山社中が先に購入した大極丸残金其の他を海援隊発足とともに土佐商会から支払いました(千頭清臣「坂本龍馬伝」日本伝記叢書 新人物往来社)。
 同年4月19日いろは丸(伊予大洲藩所有)が長崎で購入した武器弾薬類を一航海15日間500両の契約で海援隊が請け負い大坂へ運ぶため出帆しましたが、同月23日夜讃岐沖で明光丸(紀州藩所有)に衝突され沈没する事件が発生しました。龍馬は大藩紀州藩を相手に、最後は後藤象二郎を表にたてて交渉、紀州藩は非を認めて賠償金を支払いました(「いろは丸航海日記」「坂本龍馬関係文書」二)。

坂本龍馬と海援隊へようこそ!!―海援隊の関連事件・事項録―6 海援隊約規―7 いろは丸衝突・沈没事件

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む18

 1867(慶応3)年6月9日坂本龍馬は後藤象二郎とともに藩船夕顔で、大政奉還建白案を京坂にとどまる山内豊信に勧めるため長崎を出発しました。瀬戸内海航行中船上で後藤と相談して、長岡謙吉に書き取らせのが有名な「船中八策」(「日本近代思想大系」9 岩波書店)と呼ばれるものです。
 この「船中八策」は近代的な共和政(国家主権が国民にあり、国政が合議制で行われる政治)の主張に近い政治構想の可能性があるとする説もあります(池田敬正「坂本龍馬」中公新書)。

坂本龍馬と海援隊へようこそ!!―海援隊の関連事件・事項録―9 船中八策

 後藤上京の翌日京都の土佐藩士らはこれを藩の方針とすることを決定しました。この船中八策は土佐藩が危惧する前年正月に成立した薩長同盟のような武力討幕方針を回避できるかもしれなかったからです。また土佐藩は幕府との武力対決を恐れ、それが民衆蜂起の原因に連なる不安があったからです。同年6月22日後藤は土佐藩武力討幕派の乾(板垣)退助を抑えて、幕政返上路線で薩土盟約(宮地佐一郎「坂本龍馬全集」光風社書店)を結びました。

幕末維新新選組―屯所入口―佐幕人・幕末人名鑑―土佐藩士 乾退助

 このころ龍馬は姉乙女宛に次のような書簡を送っています「○先頃より段々の御手がみ被下候。(中略)私を以て利をむさぼり、天下国家の事おわすれ候との御見付のよふ存ぜられ候。○又、御国の姦物役人(後藤象二郎)ニだまされ候よふ御申こし、右二ヶ条ハありがたき御心付ニ候得ども、(中略)御国(土佐)よりハ一銭一文のたすけおうけず、諸生の五十人もやしない候得バ、一人ニ付、一年どふしても六十両位ハいり申候ものゆへ、利を求メ申候。(中略)かれこれこの所かんがへ被成、姦物役人にだまされ候事と御笑被下まじく候。私一人ニて五百人や七百人の人お引て、天下の御為するより廿四万石(土佐藩)を引て、天下国家の(の)御為致すが甚よろしく、おそれながら、これらの所ニハ乙様の御心には少し心がおよぶまいかと存じ候」(慶応3年6月24日付・宮地佐一郎「坂本龍馬全集」光風社書店)。

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む19

 1867(慶応3)年9月18日龍馬はオランダから購入したライフル銃1000挺を長崎出帆の震天丸(芸州藩船)で高知へ回送しました(中城直正手控「随聞隋録」宮地佐一郎「龍馬百話」引用)。そのころ土佐藩では乾退助が藩兵の組織を銃隊中心とする軍制改革を行っていたところで、龍馬がもたらしたライフル銃はすべて藩が引き取りました。このように龍馬は武力による圧力が大政奉還(徳川氏の政権返上)実現を促進するものと理解していたもののようです。同年9月29日竜馬は脱藩以来久しぶりで帰省した実家(「尾崎三良談話」史談会速記録 宮地佐一郎「坂本龍馬全集」光風社書店)にもゆっくりすることなく、同年10月1日京都へ向かいました。
 同年10月3日後藤象二郎は前土佐藩主山内豊信名義の大政奉還建白書を一通、他の一通は土佐藩家臣神山左多衛・福岡藤次・後藤象二郎・寺村左膳の連名によるもので、主として船中八策を骨子とするものを幕府老中板倉勝清に提出しました(渋沢栄一「徳川慶喜公伝」4 東洋文庫107 平凡社)。つづいて10月13日将軍徳川慶喜は在京10万石以上の諸藩重臣を二条城に招集、大政奉還について諮問しました(「維新史料綱要」巻7)。
 この日龍馬は後藤に次のような書簡を書き、「建白之議万一行はれされば固より必死の御覚悟故、御下城無之時は、海援隊一手を以て大樹(将軍)参内の道路に待受社稷のため不(倶)戴天の讐を報じ、事の成否ニ論なく先生(後藤象二郎)ニ地下ニ御面会仕り候」(慶応3年10月13日付「坂本龍馬関係文書」一)と二条城に赴く後藤に死を覚悟するよう要請し、もし下城しないときは国家のため将軍を殺害し、自分も死ぬであろうと訴えています。
 翌日将軍慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出しましたが、同日前権大納言正親町(おおぎまち)三条実愛(さねなる)は長州藩父子に討幕の密勅を出しました(「維新史料綱要」巻7)。

明治神宮外苑聖徳記念絵画館 壁画集―5 大政奉還―[解説5]

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む20(最終回)

 1867(慶応3)年10月16日龍馬は戸田雅楽(尾崎三良 三条実美の家臣)らと相談して船中八策を実現する新政権運営のための新官制擬定書ならびにそれを担う人材を候補として挙げました(坂崎紫瀾編述「坂本龍馬海援隊始末」三 宮地佐一郎「坂本龍馬全集 光風社書店)。それは「関白」として三条実美、「議奏」として松平春岳ら雄藩諸侯と岩倉具視ら公卿、「参議」として小松帯刀・木戸孝允・後藤象二郎・由利公正・横井小楠らが候補とされていたのです。龍馬と同席していた戸田雅楽は「関白」の次に「内大臣」として徳川慶喜が候補として挙げられていたといささかの差異があったことを指摘しています(「尾崎三良自叙略伝」上巻第1篇 宮地佐一郎「坂本龍馬全集」光風社書店)。この官制案を西郷に見せたとき、西郷が龍馬を候補として挙げた職がない理由を問うと「僕は役人を厭ふ」と答え、西郷がさらに「然らば官職を外にして何をか為す」と質問すると竜馬は「左様さ、世界の海援隊でもやらんかな」と答えたそうです[千頭清臣「坂本龍馬伝」(遺事雑記)]。
しかし坂本龍馬が参議の候補として入っていたとする史料(「尾崎三良手扣」「坂本龍馬関係文書」一)もあり、上記の話が事実かどうかは今後の研究を待ちたいと思います。
 同年10月24日龍馬は京都を出発、福井で松平慶永に会見、越前藩士由利公正に新政府の財政を担当するよう求めました(三岡丈夫著述「由利実話」由利公正伝 第二篇 宮地佐一郎「坂本龍馬全集」光風社書店)。
 越前から帰って龍馬は同年11月船中八策を簡単にまとめた「新政府綱領八策」(宮地佐一郎「坂本龍馬全集」光風社書店)を書き、最後に「諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云々。○○○自ラ盟主トナリ、コレ以テ朝廷ニ奉リ始テ天下万民ニ公布云々。…」とあり、天皇を頂き、おそらく徳川慶喜か山内豊信をはじめとする雄藩・諸侯が協力を誓約する新政権構想を示したものと言えるでしょう。一方薩長両藩の武力挙兵の動きは着々と進行していました。
 同年11月15日夕刻中岡慎太郎は銀閣寺近くの陸援隊屯所から龍馬の下宿近江屋(土佐藩醤油等御用達)を訪問、龍馬は彼を母屋の二階に案内しました。夜になって本屋の倅峯吉に軍鶏を買いにやらせた後、十津川の郷士と称する3人の刺客が近江屋に現れ、龍馬に面会を求めました。相撲取りあがりの下男藤吉がその名刺をもって二階に上がってきたところを刺客は背後から下男を斬り付けました。中岡・坂本は二階に飛び込んできた刺客に応戦する暇もなく、龍馬は頭を斬られて転倒、中岡も斬られて重傷を負いました。竜馬は刺客が帰った後店の主人を呼び、医師を呼ぶよう命じ、主人が二階にあがると龍馬はすでに絶命していました。中岡は翌々17日に死去しました(「坂本龍馬関係文書」一・二)。
この小説は竜馬が刺客に襲われて死去したところで終了しており、次のような文章で結ばれています「しかし、時代は旋回している。若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押しあけた。」。
なお龍馬・中岡を暗殺した犯人は長い間新撰組だという説が有力でしたが、1870(明治3)年箱館五稜郭落城によって降服した元京都見廻組今井信郎の「刑部省口書」(「坂本龍馬関係文書」一)により、今井信郎ら見廻組の犯行であることが明らかとなり、現在ではこれが定説となっているようです(池田敬正「前掲書」)。

京阪奈ぶらり歴史散歩―歴史のチシキー龍馬暗殺犯を推理する 
 
2009-12-01 07:33 | 記事へ | コメント(2) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇 8) |
2009年11月26日(木)
司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む1〜10
司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む1

 司馬遼太郎「龍馬がゆく」(司馬遼太郎全集第3巻 文芸春秋)は1962(昭和37)年6月21日から1966(昭和41)年5月19日にかけて「産経新聞」の夕刊に連載された長編小説です。
 近世の土佐藩は関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が中世以来の長宗我部氏の領国土佐国を山内一豊に与えた時からはじまります(「功名が辻」を読む10参照)。しかし土佐には多くの一領具足とよばれる旧長宗我部氏の遺臣が土着しており、山内氏は彼等に郷士という身分を与えたのでした。この人々が慶長郷士ですが、のちには町人や豪農が郷士株を譲渡されることもしばしばありました(平尾道雄「土佐藩」吉川弘文館)。
 坂本家は明智光秀一門の出身であるといわれ(寺石正路「南国遺事」高知聚景園武内書店 宮路佐一郎「龍馬百話」文春文庫引用)、近江坂本城落城後、土佐に逃亡、同国長岡郡才谷村に定住しましたが、4代目のとき高知城下に出てきて町人才谷屋として繁栄するようになりました。6代目八郎兵衛直益は郷士株を譲渡されてこれを長男に継がせ、次男に酒造業才谷屋を継承させました。才谷屋は9代目八太郎直与の時代の1849(嘉永2)年に酒造業をやめて質屋と武士の俸禄を抵当に貸金をする仕送屋を営業していました。
 土佐藩の身分制度は士格と足軽などの軽格に分けられていましたが、郷士とは軽格中の最上位の身分でした。
  坂本龍馬は1835(天保6)年11月15日土佐藩家老福岡宮内お預かり郷士坂本八平直足の次男として、高知城下本町で出生しましたが、異説もあります(「坂本龍馬年譜」宮地佐一郎編「坂本龍馬全集」光風社書店)。3丁目には坂本家の本家であった豪商才谷屋がありました(「才谷屋記録」日本都市生活史料集成3 城下町篇T 学習研究社)。

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司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む2

 龍馬の幼少期については「初め龍馬は怯懦にして暗愚なるが如く、居常寡黙、十歳を過ぎても夜溺(よばれ 寝小便)の癖止まず、隣人称して洟垂(はなたれ 痴児)といふ。十二歳の時、始めて市外小高坂楠山某の学舎にはいりしも、業進まず通学の途上屡々学友に揶揄せられ泣きて家に帰る」(千頭清臣「坂本龍馬伝」新人物往来社)と記述されています。
 この心身虚弱な龍馬を愛し、根気よく鍛え上げたのは三歳年上の姉乙女(とめ)でした。彼女は成長した龍馬の体格に匹敵するほどの女丈夫で料理・裁縫は苦手でしたが、剣術・馬術・弓術・水泳に秀でており、経書を学び和歌・絵画も巧みで、琴・三味線・一弦琴・舞踊などの芸事にも通じていました(土居晴夫「坂本龍馬の系譜」新人物往来社)。

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 龍馬は14歳ころから小栗流の剣客日根野弁治道場に通い、剣術の修行を通じて、次第に逞しく成長しはじめるのです。1853(嘉永6)年3月龍馬は剣術修行の目的で江戸へ旅立ちました。このとき父八平から「修行中心得大意」(京都国立博物館所蔵・「坂本龍馬関係文書」一 日本史籍協会叢書 東大出版会)という訓戒を与えられています。 
  この小説は龍馬が剣術修行のため江戸へ旅立つ前日、龍馬の姉乙女が針仕事にいそしむ場面から始まります。
 龍馬が江戸で入門したのは幕末三剣客の一人北辰一刀流千葉周作の実弟千葉定吉の剣術道場でした。この年ペリーが浦賀に来航、龍馬も江戸品川海岸の警備を命ぜられて参加、「異国船処々に来り候由に候へば、軍も近き内と奉存候。其節は異国(人)の首を打取り、帰国可仕候。」(嘉永6年9月23日付父宛書簡「坂本龍馬関係文書」一)と述べています。

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司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む3

 1854(安政1)年6月高知に帰ってきた龍馬は土佐安政大地震(安政元年11月5日)の直後、龍馬の近所に避難してきた狩野派画家河田小龍を訪問したといわれています。
 1852(嘉永5)年米国より帰国した土佐国幡多郡中浜村の漂流民漁師万次郎(ジョン万次郎)から河田小龍は藩命により海外事情を詳細に調査し「漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)」(川田維鶴撰 高知市民図書館)という著書をまとめ、山内容堂に献上しました。また彼は1854(安政1)年8月土佐藩から薩摩藩に派遣された反射炉視察団の一人でもあったのです。龍馬は小龍に江戸での見聞を語るとともに、最新の海外知識を授けられたことでしょう。小龍は龍馬に洋式の汽船を購入して人と貨物の交流をさかんにすることが急務であることを説きました(「藤陰略話」宮地佐一郎「前掲書」)。そしてこのことが龍馬に強い印象を与え、後の亀山社中―海援隊の構想を発展させる土台となったようです。
 1856(安政3)年8月龍馬は再び剣術修行のため江戸にきていましたが、同じころ武市半平太(瑞山)が江戸の鏡新明智流桃井春蔵道場に来ていました。

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 土佐尊攘運動の中心人物武市瑞山は土佐国長岡郡仁井田郷吹井(ふけ)村の白札郷士の家に生れ、剣に秀でてのちに高知城下に道場を開くほどの腕前でした。彼はおそらく江戸で龍馬や他藩の武士との交流を深めたことでしょう(嶋岡晨「土佐勤王党始末」新人物往来社)。瑞山は翌年9月祖母の病気のため帰国しましたが、龍馬は1858(安政5)年正月吉祥日に千葉定吉より「北辰一刀流長刀(なぎなた)兵法 一巻」(高知桂浜龍馬会所蔵)を授けられました。この末尾に千葉定吉政道とその子女の名すなわち「千葉重太郎一胤・千葉佐那(さな)女・千葉里幾(りき)女・千葉幾久(いく)女」が連記されています。同年9月龍馬は江戸遊学を終了して高知に帰国しました。
 龍馬が前後3年余江戸に居て薙刀の目録しか貰わなかったとは考えにくく、土居晴夫氏は佐那女との将来の結婚を約束した引出物として授けられたものではなかろうかと推定しています(土居晴夫「坂本龍馬とその一族」新人物往来社)。
 龍馬は姉乙女への書簡(文久3年8月14日と推定)で「此人ハおさな(佐那)というなり。かほかたち平井(加尾 龍馬の高知時代の初恋の女といわれる)より少しよし。心ばへ大丈夫ニて男子などをよばず夫(それ)ニいたりてしづかなる人なり。」と述べており、千葉佐那との恋を伝える唯一の史料です(宮地佐一郎「龍馬の手紙」講談社学術文庫)。

幕末英傑録―佐幕人幕末人の章―幕末女傑名鑑―千葉佐那子

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む4

 1848(嘉永1)年土佐藩主となった山内豊信(とよしげ 容堂)は1853(嘉永6)年吉田元吉(東洋)を参政に起用し、洋式軍備強化をめざす藩政改革に着手しました(平尾道雄「土佐藩」吉川弘文館)。

水野日向守本陣―江戸時代大名総覧―やー松平山内土佐家

土佐の人物伝―人物―山内容堂―吉田東洋―河田小龍―ジョン万次郎

 土佐藩主山内豊信は老中阿部正弘指導下の幕政に発言権を強めて参勤交代その他の負担免除を要望、阿部正弘歿後の将軍継嗣問題では一橋派に属していました。
1858(安政5)年井伊直弼が大老に就任、同年10月幕府は土佐藩主山内豊信を隠居させ、翌年9月前藩主豊信は謹慎を命ぜられました。参政吉田東洋は土佐藩を幕府の方針に従う方向に転じました。
しかるに1860(万延1)年3月桜田門外の変により大老井伊直弼が暗殺され、幕府独裁体制が崩壊すると、同年7月武市瑞山は再び江戸に赴き、長州藩の久坂玄瑞・・桂小五郎・高杉晋作らと接触、1861(文久1)年8月江戸で土佐勤王党を結成しました(「土佐勤王党盟約書」武市瑞山関係文書一 日本史籍協会叢書 東大出版会)。

龍馬の遺伝子―坂本龍馬講座―坂本龍馬、武市瑞山の「土佐勤王党」に第九番目の加盟

瑞山は翌月高知に帰り坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村寅太郎らが加盟する200余名の大組織に発展させました。彼等は郷士及び庄屋などの豪農層が大部分で長宗我部遺臣の子孫が多く、山内家に忠実な士格に属するものはほとんど居ませんでした。ここに土佐勤王党の性格がよく現れています。

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む5

1862(文久2)年正月瑞山は龍馬を長州の久坂玄瑞の許に派遣、龍馬はこのとき同時に久坂を訪ねてきた薩摩藩の樺山三円から島津久光上京の情報を入手、龍馬は久坂から瑞山宛の「草莽の志士糾合義挙の外には迚(とて)も策無之事と私共同志中申合居候(中略)坂本(龍馬)君ニ御申談仕り候事ども篤く御熟考可被下候」と記された書簡(文久2年正月21日付「坂本龍馬関係文書」一)を託され、大坂・京都を経由して同年3月1日高知に帰着しました。
しかし武市瑞山はこのような藩を越えた尊攘運動に一線を画し、あくまで土佐一藩の藩論を尊攘運動にまとめようと画策していました。
一方龍馬は武市瑞山に同調せず、同年3月24日夜脱藩しました。龍馬と同じ勤王党の同志であった郷士平井収二郎は翌日当時京都の公卿三条公睦(三条実美の兄)未亡人信受院(山内豊信の妹)の侍女であった妹かほ(加尾)に「坂本龍馬昨廿四日の夜亡命定めて其地へ参り申すべく龍馬国を出づる前々より其許の事に付相談に逢ひ候事御座候たとへ龍馬よりいかなる事を相談いたし候とも決して承知不可致(中略)元より龍馬は人物なれとも書物を読ぬゆへ時としては間違ひし事も御座候得はよくよく御心得あるべく候」と記した書簡(文久2年3月25日付「坂本龍馬関係文書」一)を送っており、竜馬が高知在住のとき平井加尾に浅からぬ思いを寄せていた様子が推察されます。しかし龍馬は京都には現れず、下関から九州を経て同年6月11日大坂に姿を現し、やがて江戸に向かいました。

Golden Cadillac―竜馬伝・坂本竜馬関係―登城人物・関係人物―平井加尾(広末涼子) 

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む6

他方武市瑞山は上述のような意図の実現をはかり、1862(文久2)年4月8日土佐藩参政吉田東洋は土佐勤王党の那須信吾らによって暗殺されました(「維新史料綱要」巻4東大出版会)。武市瑞山は京都で画策、同年6月11日孝明天皇の内旨をうけた尊攘派公卿三条実美は土佐藩京都留守居役に土佐藩主はただちに上京、薩長両藩とともに京都警衛にあたるべきことを伝達しました。かくして土佐藩主山内豊範は1862(文久2)年7月25日兵を率いて上京、幕府に攘夷を命ずる勅使三条実美に従って江戸に下ることになりましたが、武市瑞山は公家に変装して東下しました(瑞山会「維新土佐勤王史」日本図書センター)。
武市瑞山に先んじて江戸に入った龍馬は、おそらく横井小楠を通じて、当時幕府政事総裁職であった越前藩主松平慶永(春嶽)に面会、さらに慶永の紹介で幕府軍艦奉行並であった勝海舟を訪問しました。このとき千葉重太郎(「龍馬がゆく」を読む3参照)が同行しています(「続氷川清話」幕末維新史料叢書二 人物往来社)。勝海舟は幕臣でありながら、幕府のためではなく国家のための開国を主張していた人物でした。

近代日本人の肖像―人物名50音順―おー大久保一翁―かー勝安芳―まー松平慶永―よー横井小楠 

この時のことを海舟は後年「坂本龍馬。彼れはおれを殺しにきた奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着(おちつ)いて、なんとなく冒しがたい威権があって、よい男だったよ。」(「氷川清話」講談社学術文庫)と語っています。
攘夷論者であった龍馬は勝海舟の見識に圧倒されて開国論者となり、彼の門弟となったといわれていますが、すでに攘夷論に疑問を感じていた龍馬が海舟の開明的立論に目を開かれたというのが真相ではないでしょうか。
1862(文久2)年12月17日龍馬は海軍奉行並勝海舟の家来で幕艦順動丸に乗って西に向かい。やがて翌年はじめには京都に現われ、彼の仲間であった人々を次々と海舟の影響下に引き入れ、海軍の隆盛や航海術習得の同志を集め、さらに「人斬り以蔵」と呼ばれた武市瑞山配下の刺客岡田以蔵をも海舟の警護役にしています。
翌年正月25日龍馬は海舟の紹介で幕臣大久保忠寛(一翁)を訪問しました。この直後一翁から横井小楠に宛てた書簡(文久3年正月日付「坂本龍馬関係文書」一)で龍馬のことを「大道可解人」と評し、「素意之趣」を話すと、龍馬と沢村惣之丞は「手ヲ打計(ばかり)ニ解得候」と記し、おおいに意気投合した様子が伺えます。松平慶永の政事総裁職在職中一翁は「幕府にて掌握する天下の政治を、朝廷に返還し奉りて、徳川家は諸侯の列に加り、駿(河)、遠(州)、三(河)の旧地を領し、居城を駿府に占メ候儀、当時の上策なり」(「逸事史補」松平春嶽全集第1巻 原書房)と述べており、一翁はおそらく龍馬に対しても上述のような大政奉還論を語ったと思われます。

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む7

また龍馬は勝海舟や松平慶永の尽力で、1863(文久3)年2月25日京都土佐藩邸で謹慎7日の処分により脱藩の罪を許され、同年3月6日藩から航海術の修行を命ぜられました。同年3月20日付姉乙女宛初書簡で龍馬は次のように述べています「(前略)今にてハ日本第一の人物勝憐(麟)太郎殿といふ人のでし(弟子)になり、日々兼而(かねて)思付所をせい(精)といたしおり申候(中略)あにさん(坂本権平)にもそふだん(相談)いたし候所このころハおゝきに御きげんよろしくなりそのおゆるしがいで申候国のため天下のためちから(力)おつくしおり申候。どふぞおんよろこひねかいあけ、かしこ。」(「坂本龍馬関係文書一」)。
同年4月23日将軍徳川家茂が大阪湾の海防状況を視察した時、側近にあった勝海舟が神戸村で操練局建設の必要を訴えたところただちに許可され(「海舟秘録」氷川清話)、翌日幕府は兵庫付近の神戸に海軍所と造艦所建設を決定、海舟は海軍所で海軍の教授を自由にすべきこと、及びその費用として毎年三千両を支給することなどを決定しました。龍馬は同年5月16日海舟の命により、松平慶永に海軍所の費用を援助してもらうため越前に赴いています。
龍馬は同年5月17日付の姉乙女宛の書簡で「(前略)近き内には大坂より十里あまりの地にて、兵庫という処にておゝきに海軍ををしえ候処をこしらへ、又四十間五十間もある船をこしらへ、弟子(塾生)共にも四五百人も諸方よりあつまり候事、私初(はじめ)栄太郎(甥の高松太郎)なども其海軍所に稽古学問いたし時々船乗のけいこもいたし(中略)すこしヱヘン顔(得意顔)をしてひそかにおり申候。(中略)猶(なお)ヱヘンヱヘン、かしこ」(「坂本龍馬関係文書」一)と四、五十間(70m〜90m)もある船を建造したとか、塾生が四、五百人もいるなどと云っているのは彼の願望のようにおもわれますが、このような内容を得意顔で姉乙女にあかるく語っている龍馬の姿が目に浮かぶようです。龍馬は実際に神戸海軍操練所と神戸塾の塾頭となり、その「稽古学問」とは航海術・運用術・砲術・造船学・測量学・船具学・算術・機関学から天文・暦数・英語などの広範囲に及び、塾生には河田小龍門下の饅頭屋近藤長次郎(上杉宗次郎)・焼継屋馬之助[新宮駟(しめ)]・医者の長岡謙吉、それから甥の高松太郎(坂本直)・脱藩の同志沢村惣之丞(関雄之助)・紀州藩脱藩伊達小次郎(陸奥宗光)その他伊東祐亨(薩摩藩士)などもいました。

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司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む8

1863(文久3)年4月20日将軍家茂は攘夷期限を5月10日とする旨天皇に奏上、長州藩は5月10日下関通過の米船を砲撃、23日には仏軍艦、26日には蘭軍艦を砲撃しました。これに対して同年6月1日米軍艦ワイオミングが報復攻撃、5日には仏軍艦2隻が下関砲台を攻撃し、上陸してこれを占領しました(「維新史料綱要」巻4)。
 同年6月29日付龍馬の姉乙女宛の書簡では「(前略)然ニ誠になけくへき事ハながと(長門)の国に軍(いくさ)初(始)り、後月より六度の戦に日本甚利すくなくあきれはてたる事ハ其長州てたゝかいたる(外国)船を江戸でしふく(修復)いたし又長州でたヽかい申候是皆姦吏の夷人と内通いたし候ものニて候(中略)龍馬二、三家の大名とやくそくをかたくし(中略)朝廷より先ヅ神州をたもつの大本をたて(中略)日本を今一度せんたく(洗濯)いたし申候事ニいたすへくとの神願ニて候」(「坂本龍馬関係文書」一)と述べています。この書簡からも判るように、龍馬は勝海舟や大久保一翁に接近したからといって佐幕派に転向したのではないことに注意する必要がありましょう。

長崎の坂本龍馬―コンテンツメニューー坂本龍馬の書簡―通称「日本の洗濯」(坂本乙女宛)

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む9

江戸で公武合体・雄藩連合を策していた前土佐藩主山内豊信(容堂)は1862(文久2)年4月8日の土佐藩参政吉田東洋暗殺以後、土佐勤皇党の破約攘夷方針に押されているかのような土佐藩の動向につよい不満をもっていました。
1863(文久3)年4月豊信が高知に帰ってくると、同年5月24日郷士以下の軽格の藩士すべてが集合させられ、藩奉行職は「一旦朋党の盟約相結び候輩といへども先非を改め、正道に相帰候得は、既往之小過は深く糾明仰付られず」と事実上の土佐勤王党解散命令を布告しました(「高知県史」近世篇 高知県)。
同年8月18日の政変が起こり、京都の政治情勢は一変、会津藩・薩摩藩ら公武合体派は三条実美ら尊攘派公卿を退け、尊攘派長州藩は禁門警衛の任務を解任されました。この政治情勢変化に呼応して、同年9月21日土佐藩は武市瑞山ら土佐勤皇党の主な指導者を投獄、翌日藩はこの勤王党弾圧が京都朝廷からのご沙汰であると藩内に布告しています(瑞山会「維新土佐勤王史」)。

武市瑞山獄中自画像(提供:フリー百科辞典ウイキペディア(Wikipedia)  

このころ勝海舟とともに江戸にあった坂本龍馬に対して江戸の土佐藩邸から龍馬召喚要求をうけた勝海舟は同年12月6日の書簡(54「土佐藩御目付衆宛」文久3年12月6日付「勝海舟全集」別巻1 勁草書房)で、龍馬は勉励修行中であるからと丁重に修行年限延長を要請しました。しかし土佐藩側も海舟の希望を拒絶、龍馬も藩の召喚命令に応じなかったため、龍馬は再び脱藩者となりました。
 1865(慶応1)年閏5月11日武市瑞山ら土佐藩尊攘派は処刑されました(「維新史料綱要」巻6)。

司馬遼太郎「龍馬がゆく」を読む10

 京都を追われた長州藩は1864(元治1)6月5日新撰組が尊攘派志士を襲った池田屋事件をきっかけに再びその勢力回復を企て出兵しましたが、1864(元治1)年7月18日薩摩・会津両藩がこれを退けた禁門の変が起こり、同年7月23日には長州藩追討の朝命が出されました。池田屋事件では龍馬と同郷の神戸塾生望月亀弥太が新撰組に殺害されています(「維新史料綱要」巻5)。
神戸塾生高松太郎が海舟の命で観光丸乗員用として大量の防寒毛布を外国商人から買い込むと、これは「禁門の変」で敗北した長州浪人をかくまうためであろうという噂が広がりました。さらに神戸塾はそれら過激分子の巣窟となっていると嫌疑をうけ、同年9月19日幕府は全塾生の出処姓名の提出を命令するに至ったのです(土居晴夫「坂本龍馬の系譜」)。
同年10月21日勝海舟は役職罷免、江戸に召喚されたので、神戸海軍操練所碑石を庄屋生島四郎太夫に命じてこれを地中に埋めさせ、塾生坂本龍馬はじめ高松太郎、陸奥陽之助(宗光)らは、おそらく海舟のはからいにより、薩摩藩家老小松帯刀・西郷隆盛らの庇護をうけ頭髪・服装も薩摩風にして大坂薩摩屋敷に潜伏しました。

神戸旅行・観光めぐりー神戸の史跡―海軍営之碑

 このころ小松帯刀(清廉)は大久保一蔵(利通)に次のような書簡を送っています「神戸、勝方え罷居候土州人(中略)坂元(本)龍馬と申す人(中略)当分土佐国政向甚厳敷不法の取扱有之、罷帰候へば則ち命を絶ち候由、(中略)潜居の相談承り、余計の事ながら右辺浪人体之者を以て、航海之手先に召使候得ば可宜と、西郷抔滞京中談判もいたし置候間、大坂行(御)屋敷へ内々相潜め置き候」(元治元年十月「坂本龍馬関係文書」一)。
 薩摩藩は前年の薩英戦争で多大の損害を受け、海軍再建をはかっていたときで、龍馬ら神戸塾生を「航海之手先」に使おうとしていたのです。
2009-11-26 11:30 | 記事へ | コメント(0) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇 7) |
2009年09月12日(土)
司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む11〜20
司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む11

 高杉晋作は1839(天保10)年8月20日長門国萩で出生しました。晋作は通称で、本名は春風、字は暢夫(のぶお)といいます。高杉家は毛利家に仕える家柄で晋作の父は高杉小忠太春樹といい、長州藩12代藩主斉広・13代藩主敬親に仕えた中級武士(禄高200石 ただし藩財政窮乏による知行召し上げにより実質40石程度)で藩主敬親・世子定広(支藩徳山毛利家から養子となる)の側近を勤めました。母は道といい同藩大西家より嫁ぎ、長男晋作を生みました(「高杉小忠太履歴材料」・「安政二年分限帳」梅渓昇「高杉晋作」吉川弘文館引用)。

水野日向守本陣―江戸時代大名総覧―もー松平毛利長州家

 1854(安政1)年ころ藩校明倫館入舎(通学)生となりましたが、そのころの明倫館の学風はかつての学頭山縣太華に代表されるような経書[けいしょ 四書(論語・孟子・大学・中庸)五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)などの総称]の訓詁(古文の字句の解釈)のみで、時局の論議を避ける空気が支配的でした。
 晋作はこうした明倫館の風潮にあきたらず、1857(安政4)年8〜9月ころ吉田松陰の指導する松下村塾に学ぶようになりました(「世に棲む日日」を読む8参照)。これより以前晋作のよき競争相手であった久坂玄瑞がすでに松陰門下生となっていたようです。
 1858(安政5)年幕府による日米修好通称条約の無勅許調印に吉田松陰は反対の態度をとり、弟子たちに時局にかんする策問を与えましたが、高杉晋作は同年5月ころ「弾正益田君(藩家老益田右衛門介)に奉るの書」(堀哲三郎編「高杉晋作全集」下 論策 新人物往来社)をまとめ、松陰はこれを賞賛しています(「暢夫の対策を評す」「戊午幽室文稿」吉田松陰全集第5巻)。

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む12

 願いにより高杉晋作の江戸遊学が許可され、同年7月18日晋作は松陰から「高杉暢夫を送る叙」(「戊午幽室文稿」)を贈られ萩を出発、同年8月16日ころ江戸に到着しました。
 やがて松陰は同年末老中間部詮勝要撃策などを実行しようとするなど(「世に棲む日日」を読む8参照)の動きを見せ、同年11月24日付の重大な内容の書簡を高杉晋作・久坂玄瑞・飯田正伯・尾寺新之丞・中谷正亮ら5人に送っていますが、これに対して高杉晋作ら5人は同年12月11日師吉田松陰に江戸から次のような手紙を送りました。
 「先生此度正論赫々、御苦心の程誠に以て感激奉り候、然る処天下の時勢も、今日に至り大いに変り、諸藩鉾を斂(おさ)め旁観仕り候事、甚以て歎息の至に候得共、将軍 宣下も相済み人気稍静まり候得は、義旗一挙実に容易ならざる事にて、却而社稷の害を生る事必然の儀に御座候、然りと雖も幕吏猖獗(しょうけつ)、有志の外、諸侯に隠居を令せられ候乎、或は交易開け候上には、必ず旁観成ぬ勢に相成り申すべく、此時に方(あた)り、実に御互い国の為鞠躬尽瘁(きくきゅうじんすい)仕る可し。夫迄は胸を押さへ、鉾を斂め、何にも社稷の害仕出ぬ様、国の為万々祈り奉り候」(東行先生五十年祭記念会「東行先生遺文」民友社)
 高杉晋作らは松陰に対して長州藩に被害が及ばないように自重をもとめたのです。1859(安政6)年10月藩命により帰国した晋作は吉田松陰刑死を知り無念の思いにさいなまれたことでしょう。帰国した晋作を待っていたのは婚礼で、父高杉小忠太より井上平右衛門(江戸藩邸留守居役)の次女政(まさ)(雅・雅子・政子などともいう)を晋作の嫁に迎える申し入れが行われ、1860(万延1)年正月18日結婚式が挙行されました(「伜婦申請御願申上候事」「高杉晋作全集」 上 新人物往来社・「東行未亡人の追憶」「新聞集成大正編年史 大正五年版」上 東京朝日5月9日 明治大正昭和新聞研究会)。
 同年2月7日杉家で松陰百日祭が開催されたとき、高杉ら松陰門下生が集まって団子岩の吉田家墓地(萩市椿東)に松陰墓がたてられ師の前髪などを納めました。墓前の石灯籠に「高杉春風」の名があります。

維新のふるさと萩―メインメニューー萩の文化財―萩市指定の文化財―吉田松陰の墓ならびに墓所

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む13

 1860(万延1)年3月の桜田門外の変以後幕府の権威は失墜し、その公武合体策としての和宮降嫁問題もその主導権は幕府から朝廷へと移りつつありました。
 1861(文久1)年3月28日長州藩は直目付(じきめつけ)長井雅楽(ながいうた)の建策により、諸藩の中でもいちはやく公武周旋の具体策として「航海遠略策」を藩論と決定しました。それは幕府の過去の開国政策を支持し、朝廷を説得して攘夷の放棄を求める方針であったのです。
 同年3月11日世子定広の小姓となっていた晋作は当時江戸桜田藩邸にいた世子に近侍していましたが、江戸にいた松陰門下生らは攘夷の立場から松陰の遺志をついで草莽の志士となり幕府権力に抵抗しようと決心していました。
 このころ幕府が貿易視察のため幕府役人を上海・香港に派遣しようとしていたので、世子定広は桂小五郎の意見を入れて、晋作が軽挙暴発しないよう高杉晋作を使節一行に同行させようとし、幕府の許可を得ることに成功しました。
 1862(文久2)年正月3日晋作は江戸桜田藩邸を長崎に向けて出発、2月初旬には長崎に到着したと思われます。晋作が長崎を同年4月出港するまでに、坂下門外の変・寺田屋騒動(「天璋院篤姫」を読む12参照)が起こっています。
 同年4月27日高杉晋作は幕府役人使者として千歳丸(せんざいまる 幕府がイギリス商人より買い入れた帆船)に乗船、この船には幕府役人の従者として佐賀藩士中牟田倉之助(中村孝也「中牟田倉之助伝」)・水夫として薩摩藩士五代才助(友厚)が同船していました。同船はイギリス人船長はじめ同国人が操船を司り4月29日長崎出港、5月6日上海港に到着しました(「航海日録」)。同船は7月5日上海を出港、7月15日長崎に帰着したのですが、高杉晋作はこの航海について「遊清(ゆうしん)五録」[「航海日録」(A)「上海淹留(えんりゅう)日録」「外情探索録」「内情探索録」「崎陽雑録」 田中彰校注「日本近代思想大系」1 開国)岩波書店]を帰国後、同年夏長崎で執筆しています。
 晋作らが上海に渡航した時清国は太平天国の乱の最中で、列強の清国蚕食と清国衰退を悲しみ、速に攘夷の策(列強対抗策)をとらないとわが国も清国の二の舞になる危険を強調しています(「続航海日録」)。さらに佐賀・薩摩両藩が長崎・上海航路ならびに貿易事情の調査や蒸気船の購入に積極的であることを知り、長州藩の立ち遅れを感じています(「内情探索録」)。
また長崎から上海に至る精しい英国式航海技術の記録「航海日録」(B)(田中彰校注「前掲書」の表現による)はのちの海軍総督としての晋作の活躍に大いに役立ったのです。

幕末歴史探訪―人物別分類―高杉晋作―上海

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む14

 高杉晋作が上海に渡航している間に、久坂玄瑞ら長州藩尊攘派は1862(文久2)年4月19日付で「長井雅楽公武周旋弾劾書」を藩主ならびに藩首脳に提出、薩摩藩に対抗して反幕府運動を展開しようとしていました。かくして同年7月24日京都河原町藩邸で世子以下周布政之助・桂小五郎ら藩首脳は「航海遠略策」を放棄、「破約攘夷」の藩論を決定しました(「周布政之助伝」)。世子は朝廷から勅使大原重徳の江戸下向を薩摩藩と協力してして補佐するようにと命ぜられ、同年閏8月19日ころ江戸に到着していました。また同年10月には三条実美ら勅使が東下、攘夷を幕府に迫り、世子も勅使を補佐せよとの勅命が下っていました。しかし幕府は容易に態度を明らかにしようしませんでした。晋作も江戸派遣の藩命により、途中京都に立ち寄って藩主に清国の情勢を報告、同年閏8月15日ころ江戸に到着したと思われます。晋作は幕府が攘夷の勅命に従わないのを憤慨していました。
 同年11月13日某公使が武州金沢の名所(横浜市金沢区)に遊ぶことを聞き出した志道聞多(しじぶんた 井上馨)はこれを公使暗殺の好機会として高杉晋作ら長州藩尊攘派と実行に移すことを決め、相談の場所として使った品川の妓楼土蔵相模の費用や金沢行き
の旅費などの調達を志道聞多が引き受けました。この計画は世子の知るところとなって失敗しましたが、彼等は「血盟書」を作って団結を維持、同年12月世子が京都に向かうと同年12月13日未明当時建築中の品川御殿山の英国公使館焼き討ちを決行しました(井上侯伝記編纂会編「世外井上公伝」第1巻 明治百年史叢書 原書房)。

ようこそ松崎家の世界へーようこそ幕末の世界へー史跡巡りー東京都心周辺―東海道品川宿紀行―御殿山英国公使館焼き討ち事件 

 1861(文久1)年8月朝廷より幕府に安政の大獄以来の国事罪人死者の罪名を削除せよとの勅旨が出たので、1863(文久3)年正月5日高杉晋作らは藩許を得て吉田松陰遺骨を小塚原から若林大夫山(東京都世田谷区 松陰神社の地)に改葬しました(「松陰先生埋葬并改葬及神社の創建」吉田松陰全集第11巻)。

松陰神社―日本語ページTOPへー神社由緒

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む15

 1863(文久3)年3月4日将軍家茂は家光以来229年振りの上洛を果たしましたが、家茂はなかなか江戸へ帰れず、同年4月20日攘夷期限を同年5月10日とする旨を天皇に奏上しました。同年5月10日長州藩は下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃、以後続々と外国船に砲撃を加えるに至りました(「天璋院篤姫」を読む13参照)。
 将軍上洛とほぼ同じ頃上京した晋作は酒と女に日を過ごす毎日でしたが、隠遁を決心し剃髪、西行法師を慕って東行と名乗り、同年4月帰国して萩の東郊に草庵住まいしていました。しかし外国船砲撃開始以後晋作は同年6月5日山口政事堂において藩主父子に新軍編成策を進言、赤間関(下関)出張を命ぜられ直ちに現地へ赴き、竹崎(下関市竹崎町)の廻船問屋白石正一郎宅に宿泊しました(「白石正一郎日記」文久3年6月6日条 下関市教育委編「白石家文書」国書刊行会)。

JH4IVR YAS’s Page―YASのふるさと紹介―観光・名所―下関の名所・旧跡―白石正一郎旧宅跡

このとき彼は「夫れ兵に正奇あり。(中略)今吾徒の新に編成せんと欲する所は、寡兵を以て敵衆の虚を衝き、神出鬼没して彼を悩すものに在り。常に奇道を以て勝を制するものなれば、命ずるに奇兵隊の称を以てせん。」(「防長回天史」第三編下第39章 戦後の馬関)と述べ、諸人の賛成を得ました。
 奇兵隊とは正規軍(武士身分のみで構成された軍隊)に対して、正規軍でない軍隊の意で、軍隊構成を武士中心とするものの一般民衆の入隊を認めることを特徴としています。しかし袖印を武士身分は白絹地、足軽以下は晒布(さらしぬの)で区別し、身分制度を撤廃した訳ではありません(梅渓昇「高杉晋作」吉川弘文館)。このような軍隊を創建した背景の多くは上海における強力な列強銃隊を見て、号令による統制が困難で兵力増強にも限界がある武士身分のみの軍隊よりも、身分差別のない軍隊のほうが兵力増強が容易でかつ規律統制しやすいことを見抜いた晋作の卓見によるものでしょう。
 奇兵隊につづいて猟師隊、被差別部落の希望者を選抜して屠勇隊、力士隊の編成も行われました。

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 長州藩をはじめとする尊攘派の政局主導を快く思わず、幕府権威回復を望む会津藩(藩主 松平容保 京都守護職)・薩摩藩は1863(文久3)年8月18日宮中クーデタにより宮中尊攘派を一掃、長州藩兵は京都を撤退しました(八月十八日の政変・「天璋院篤姫」を読む13参照)。
 かくして同年8月29日長州藩俗論(恭順)派椋梨藤太らは藩首脳の更迭を藩主に直訴、藩首脳の人事異動が行われる中で、高杉晋作も一時政務座役御免となり、奇兵隊も一旦解散令が出されたのですが、撤回され山口から小郡(おごおり)移転を命ぜられました。
 官位剥奪処分を受けた三条実美ら七卿は長州藩を頼り、晋作は藩主の命により同年9月10日三田尻に赴き、世子上京を報告、奇兵隊は三田尻(山口県防府市)に駐屯して七卿の護衛に当ることとなりました[「防長回天史」第4編上第3章 堺町門変後の毛利氏(其二)]。
 しかしこうした長州藩の対朝廷策を手ぬるいとし、来島又兵衛が組織する遊撃軍は京都へ出兵しようとする動きを見せ、憂慮した藩主父子は晋作に来島又兵衛らを鎮静するように説得させました。しかるに来島は晋作の説得に応ぜず、進退に窮した晋作は脱藩して京都長州藩邸の同志らと連絡をとり、島津久光暗殺計画の謀議に参加するも果たせず、在京の桂小五郎らの説得により、1864(元治1)年3月末帰国、野山獄に入獄させられました(「高杉晋作獄中手記」高杉晋作全集 下 日記)。
同年6月5日新撰組が京都三条池田屋を襲撃、松下村塾における晋作の親友吉田稔麿らが殺害されると藩論は出兵を決定、同年年7月19日長州藩兵は御所諸門を襲撃、会津・薩摩両藩兵に敗北(禁門の変)来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞は自刃しました(「防長回天史」第4編上第14章 甲子七月十九日の変)。

歴史倶楽部―新選組のコーナーーContents―池田屋事件

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む17

これより先1864(元治1)年4月英・仏・米・蘭の4国は幕府に対して長州藩に制裁を加えて下関海峡の封鎖を解くよう要求、安全に対する保証が得られないときは直接行動を開始するであろうと通告していたのです(石井孝「増訂明治維新の国際的環境」分冊一 吉川弘文館)。
 1863(文久3)年年5月10日長州藩による外国船砲撃に勝算がないと考えていた長州藩首脳の一人周布政之助は同年5月12日井上聞多(馨)・伊藤俊輔(博文)その他5名をイギリスに留学させていました。彼らはロンドンで留学中「(ロンドン)タイムス」紙上で長州藩の下関における外国船砲撃に諸国が合同で反撃しようとしていることを知り、井上と伊藤は1864(元治1)年3月中旬ロンドンを出帆、同年6月10日横浜に帰着しました。両人は英国領事ガワーの紹介で英国公使館通訳官アーネスト・サトウに面談、英公使オールコックに会見して4国連合艦隊の出発猶予を要請、同公使は英艦で両人に長州藩主宛覚書を託して周防灘にある豊後姫島に送ることにしました。両人は6月26日藩主父子に攘夷の無謀と開国の必要を言上しましたが、藩論を変えるには至らなかったのです(伊藤博文伝編纂委「伊藤博文伝」上巻 春畝公追頌会・「世外井上公伝」)。
井上は7月21日萩に赴き高杉晋作を訪問、晋作はこのとき野山獄をでて座敷牢に謹慎中でしたが、井上の開国論に賛成の意を表明しました。
 同年8月5日4国連合艦隊は下関海峡沿岸の諸砲台を砲撃沈黙させ、陸戦隊が上陸して諸砲台を占領しました(「維新史料綱要」巻5)。
 かくして8月8日長州藩は井上の提案により仮に晋作を主席家老宍戸備前の養子として宍戸刑馬(ししどぎょうま)と名乗らせ正使とし他2名を副使として4国連合艦隊との講和にあたらせたのです(「世外井上公伝」)。
 「正午に帰艦すると、例の伊藤俊輔が来ていた。長州は講和を希望し、全権を委任された家老、すなわち世襲の顧問官が談判に来るとのことであった。そこでその偉い人を迎えに1隻のボートを出した。まもなく家老が旗艦(英艦ユーリアラス号)の後甲板に到着した。
 家老は黄色の地に大きな淡青色の紋章のついた大紋(だいもん)と称する礼服をきて、絹の帽子をかぶっていたが、中部甲板を通つたときそれを脱いだ。
 彼等三名は、その姓名を、長門の家老宍戸備前の養子宍戸刑馬、参政の杉徳輔、渡辺内蔵太と名のった。
 日本の使者の態度に次第に現れてきた変化を観察すると、なかなかおもしろい。使者は艦上に足を踏み入れた時には悪魔のように傲然としていたのだが、だんだん態度がやわらぎ、すべての提案を何の反対もなく承認してしまった。それには大いに伊藤の影響があったようだ。」(アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」上 岩波文庫)。

香寺大好きー検索・一覧ー今日生まれの偉人伝―REPLAY―6月(30日)―アーネスト・サトウ

講和交渉は最終的には同年8月14日付で停戦協定書に藩主の署名捺印を得て成立に至りました(「和戦一件」山口県文書館 毛利家文庫所蔵 梅渓昇「前掲書」引用)。

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む18

1864(元治1)年7月23日幕府は長州藩征討の勅命を受け、西南21藩に出兵を命令しました(第1次長州征伐)。
当時長州藩には俗論派(絶対恭順)と正義派(武備恭順)の二派が対立していました。俗論派は主として萩城下の世禄の武士を基盤とする勢力で藩首脳を更迭し、奇兵隊などの諸隊を解散し、禁門の変首謀者を厳罰にして幕府に絶対恭順の意志を表明すべしと主張、これに対して正義派は奇兵隊など諸隊の幹部を基盤とする勢力で、幕府の攻撃には徹底抗戦し、敗北して長州藩滅亡もやむなしと主張していました。高杉晋作や井上聞多は勿論正義派に属しており、井上が俗論派の拠点夜襲を企てるとこれを事前に察知した俗論派は同年9月25日夜山口政事堂から帰宅する途中の井上を襲撃、重傷を負わせました(「世外井上公伝」)。
このような情勢の中で同年10月藩主父子は俗論派に擁せられて萩城に帰り、俗論派首領椋梨藤太が政務役となり藩政を掌握するに至ったのです。
 晋作は山口で重傷の井上を見舞い、ついで俗論派の解散命令にも服従せず幕府軍の来襲に備えて、三田尻から徳地(山口県徳地町)に移動していた奇兵隊の軍監山県狂介(有朋)らを訪ね、10月29日下関の白石正一郎宅に潜伏しました(「白石正一郎日記」元治元年10月29日条)。
 同年11月朔日晋作は博多に向かい(「白石正一郎日記」)、筑前藩士月形洗蔵の紹介で野村望東尼(ぼうとうに)の平尾山荘(福岡市中央区平尾)に滞在することになりました(江島茂逸編述「贈正五位望東禅尼伝」野史台維新史料叢書十五 東大出版会)。

幕末歴史探訪―野村望東尼―平尾山荘

 征長総督徳川慶勝は長州藩の伏罪・山口城の破却・五卿(七卿のうち錦小路頼徳死去、沢宣嘉別行動)の引渡しの3条件実行で幕府軍の撤退をはかるという西郷隆盛の意見を許容していたので、11月下旬の時点で五卿引渡しさえ実行されれば、第一次長州征伐は終了するはずであったのです。同年11月18日征長総督徳川慶勝は長州藩主毛利敬親父子恭順の状及び進撃猶予を命ぜんことを朝廷・幕府に報告しています(「天璋院篤姫」を読む14参照)。
 しかるに奇兵隊ら諸隊は既述のごとく藩の解散命令に従わず、五卿を奉じて山口に集結、山口残留の家老に藩主父子への歎願書(藩主の山口帰還、俗論の抑制など)を呈出、また五卿は諸隊の要請により使者を派遣して藩主に歎願書が届くよう尽力しました。 
 藩当局による諸隊討伐の噂が広がり、同年11月17日五卿と諸隊は長府の功山寺(下関市長府川端町)及びその周辺に移動しました[「防長回天史」第四編下第24章 元治元年冬期の毛利氏(其三)]。

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む19

 1864(元治1)年12月15日高杉晋作は夜半三条実美ら五卿が滞在する雪の功山寺に現れ、挨拶の後酒を飲んで辞去、下関の伊崎新地の会所を襲撃、船で三田尻に赴き、藩の軍艦癸亥丸(帆船)を乗組員とともに奪って下関に回航、海上砲台としました[「防長回天史」第四編下第26章 元治元年冬期の毛利氏(其五)]。

幕末歴史探訪―人物別分類―高杉晋作―功山寺―大田絵堂

このとき晋作は長府の大庭伝七に手紙を出して、自分が死亡したときの墓碑銘を記しているところをみると、死を覚悟していたことがわかります。しかし「死後の墓前にて芸妓御集め、三絃(三味線)など御鳴らし御祭り下され候様頼み奉り候。」(「高杉晋作全集」 上 131書簡)と書いているのは、芸妓を集めた遊び好きな晋作の性格を示して興味深いものがあります。
 幕府は同年12月27日当時五卿引渡しが行われていなかったにもかかわらず、藩内は鎮静したとして諸軍に撤兵を命令していましたが(「徳川慶喜公伝」3 東洋文庫98 平凡社)、上記の如く長州藩は内戦状態に陥っていたのです。
 俗論派は晋作挙兵を知って追討軍を絵堂に進軍させましたが、山県狂介の率いる奇兵隊らの諸隊は1865(慶応1)年正月7日未明絵堂駐留の粟屋帯刀指揮の追討軍を襲撃、絵堂背後の大田を占拠、正月20日ころ諸隊は山口を拠点として萩の俗論派とにらみあう態勢となっていました[「防長回天史」第五編上 第2章 慶応元年春期の毛利氏(其一)]。正月28日晋作は軍艦癸亥丸を萩の海上に回航し艦砲射撃(空砲)をおこなって威嚇、海陸双方から萩へ進撃する勢いを示しました。
 このような情勢を背景として正義派の藩政掌握、俗論派の凋落が進行、同年2月22日藩主毛利敬親は正義派の主張を承認、藩士にその趣旨を諭告、内戦は終結しました。つづいて藩主は諸隊の要望を受け入れ藩庁を山口に移転させました(「同上」第五編上 第3章)。
 下関はその西端の一部が本藩の領地で、大部分は支藩長府藩のものであり、本藩と長府藩の地の中間に支藩清末藩領がありました。本藩は下関すべてを領地とすべく両支藩と交渉未解決になっていたのでした。やがて本藩が外国応接掛高杉晋作・伊藤俊輔らの意見をとりあげ下関開港の実現をはかろうとする動きが外部にもれ、長府・清末両支藩の壮士らは晋作らを襲撃しようとする不穏な情勢となり、晋作らは一時潜伏するのやむなきに至りました。
 同年4月中旬ころ晋作は備後屋三介と変名し商人の身なりで愛妾おうの(おのぶ)と伊予の道後温泉に遊び、讃岐の金毘羅宮に参詣、榎井(えない)村(香川県多度郡琴平町)の詩人にして侠客日柳(くさなぎ)長次郎(燕石)の許に隠れていました。やがて危険も去ったので同年5月ころ下関に帰りました(「伊藤博文伝」上巻 第五編第2章)。

柏崎市HP―便利なサービス―ソフィアセンター(図書館)蔵書検索ー郷土の事を調べるー調べたいときに(項目別 関連資料一覧)―日柳燕石(くさなぎえんせき)

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む20(最終回)

すでに幕府は1865(慶応1)年2月5日長州藩主父子を江戸に護送するよう命じましたが(「維新史料綱要」巻6)、正義派が藩政を掌握した長州藩がこのような幕命に応ずるはずもなく、幕府軍の長州再征を覚悟しなければならない情勢となってきました。
同年閏5月22日家茂は上洛参内し、長州再征を上奏、朝廷は同年9月21日長州再征の勅許を下しましたので、幕府は同年11月7日彦根藩などに長州征討のための動員を命令しました(「天璋院篤姫」を読む15参照)。
かくして長州藩は新式の銃砲と艦船を外国から輸入しなければなりませんでしたが、長崎で公然と外国貿易できない長州藩に代わって薩摩藩名義で武器を購入し、これを下関に輸送したのは土佐脱藩の坂本竜馬とその亀山社中(後の海援隊)でした。例えば1865(慶応1)年7月21日長州藩井上聞多(馨)・伊藤俊輔(博文)は海援隊・薩摩藩家老小松帯刀らの斡旋により、長崎グラバー商会から銃砲を購入しています。こうして薩長両藩の接近が進展、1866(慶応2)年1月21日長州藩木戸貫治(孝允)と薩摩藩小松帯刀・西郷吉之助(隆盛)は坂本竜馬らの斡旋により、京都薩摩藩邸で薩長合従の盟約(薩長連合)を結びました(「天璋院篤姫」を読む14参照)。
 同年6月7日幕府軍艦一隻が長州藩領周防大島(山口県東部)を砲撃し幕兵が同島に上陸、第2次長州征討が開始されました(「維新史料綱要」巻6)。海軍総督高杉晋作が指揮、同年6月12日丙寅丸は夜襲をかけて幕艦4隻に打撃を与え、大島守備兵は同島を奪還しました[「防長回天史」第五編中 第29章 四境戦争(其一)]。
また九州では老中小笠原長行が小倉・熊本などの諸藩兵より成る幕府軍を統括、海を渡って下関を攻撃しようとしていました。これにたいする長州軍主力は奇兵隊で総督は山内梅三郎、晋作は参謀、軍監山県狂介らが指揮、小倉城攻略をめざして同年7月渡海襲撃を繰り返しました(高杉晋作全集 上 書簡223)。7月末に至り、老中小笠原長行は将軍家茂死去(同年7月20日)の秘報に接して退去(「維新史料綱要」巻6)、同年8月2日長州軍は小倉を占領しました[「防長回天史」第五編中 第37章 四境戦争の進行(其二)]。
 このころすでに高杉晋作の病状は進行(「白石正一郎日記」白石家文書 慶応2年7月22日条 国書刊行会)、下関の藩医が診察しています。彼は1867(慶応3)年4月14日未明30年に満たぬ短い生涯を閉じました(「高杉暢夫墓誌」東行遺稿序「東行先生遺文」)。
 野村望東尼と唱和した晋作辞世の句として「面白き事もなき世におもしろく 東行 すみなすものはこヽろなりけり 望東」(江島茂逸編「前掲書」)が有名ですが、梅渓昇氏によればこの歌は晋作の臨終の際に作られたものとはいえないといわれています(梅渓昇「前掲書」)。

幕末歴史探訪―人物別分類―高杉晋作―馬関 下関市―東行庵

 この小説はわずか27年と8ヶ月の短い生涯をとじた高杉晋作の最後の描写で終了しています。
 最後に既述の「東行未亡人の追懐」(「世に棲む日日」を読む12参照)の一部を掲げます。
「東行は廿九で逝くなりましたが、殆どオチオチ宅に居りませんでした。私が東行の処に参りましたのは十六の年、万延元年の一月で確か十八日でした。『自分の命は何時捨てなければならぬか分からぬ』と平素から口癖のように言い含められておりました。八年も連れ添って居て一度も叱られた事は御座いません。それに至って子煩悩で、逝ったのは馬関に出張中でうわごとの間にもモー為るだけはしたから後は頼んだぞ山県、福田などヽ云われました。御国の為にはもう少し生きて居たい丈と仰っやられましたが、十分療治も出来なかったのは遺憾でした。」
2009-09-12 09:45 | 記事へ | コメント(0) |
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2009年09月06日(日)
司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む1-10
司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む1

 司馬遼太郎「世に棲む日日」(「文芸春秋」)は幕末の長州藩を吉田松陰・高杉晋作の生涯を通じて描写した小説で、1969(昭和44)年2月から1970(昭和45)年12月まで「週刊朝日」に連載され、1972(昭和47)年この小説その他の業績に対して「吉川英治文学賞」を受賞した作品です。
 毛利氏は鎌倉幕府御家人大江広元の四男季光が本拠相模国毛利荘の地名により毛利氏を称したのが始まりとされています。毛利季光は鎌倉幕府評定衆となりましたが、三浦氏の乱で四男経光を残し滅亡、経光は四男時親に安芸国吉田荘を譲り時親は鎌倉幕府滅亡後も足利尊氏について生き延び、安芸毛利氏の基礎を築きました。

風雲戦国史―地方別武将の家紋と系譜―中国・四国の武将―広島県―安芸国―毛利氏

 戦国時代毛利元就は1557(弘治3)年大内義長を討滅、五カ国の大名となり、毛利氏は豊臣政権の下においても中国地方八カ国112万石を領有していました。しかし関ヶ原の戦いで敗北、毛利輝元は引退、秀就を藩祖とし周防・長門二国(長州藩)に減封、萩城を本拠として36万石余の外様大名となりました(「寛政重修諸家譜」卷第616−618)。
 長州藩の藩支配機構には当役(行相 こうしょう)と当職(国相 こくしょう)があり、当役は常時藩主に随い藩政に参画、当職は国許にいて藩財政と民政を担当しました。当役の力は次第に当職を超え、やがてその実権は手元役や右筆に移っていきました。
 藩の支配地は宰判(行政区)と呼ばれるほぼ郡に相当する地域に分かれ、幕末には18宰判で構成されていました。
 農民は原則として四公六民の貢租を負担していましたが、累積する藩財政の赤字負担のため多くの馳走米銀(貢租以外の上納米銀)を負担させられていました。
 しかし藩は1762(宝暦12)年に完了した検地による新高41600余石を財源とし、従来の藩会計から独立した会計役所である撫育局を設立、この資本を専売制・新田開発や越荷方など藩外への金融・倉庫業経営に充てて資本蓄積をはかりました。例えば藩は農民に対し馳走米銀だけでなく、農民が作る主な産物を産物会所で強制的に安く買い上げ、特定の商人と結託して大坂その他で売却、莫大な利益を上げていました(田中彰「幕末の長州藩」中公新書)。

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む2

 1830(天保1)年8月、瀬戸内海に面する上関・熊毛・都濃の諸宰判で藩専売制に反対する一揆が起こり、翌年7月26日萩から中関に向かう藩産物方御用商人の荷物から皮革が発見されたことをきっかけに、一揆は現在の防府市から山口に波及しその参加者数は約6万人に達したといわれています。
 1831(天保2)年の天保大一揆となった原因としては長州藩でそのころ秋の収穫時以前に牛馬の皮を運搬すると、嵐がおこって凶作となるという迷信が影響力を持っていました。しかし当年は豊作であったため、藩産物会所の役人たちは凶作になって米価を高くしなければ、それまでに買い付けた米・産物で損をしないために皮革を運んだといわれています(「浮世の有様」四 日本庶民生活史料集成 第11巻 三一書房)。
 同年8月2日吉田宰判の代官林喜八郎らは連名で次のような「覚(おぼえ)」を出しました。「一、みなみな腹立尤(もっとも)に候。一、上は御気毒に被思召上儀に候。一、早々しつまりかへるべし。」(大田報助「毛利十一代史」第41冊巻之107 邦憲公記 公爵毛利家蔵版)。
 しかし一揆は鎮まるどころか、日本海側や山間部の村々に拡大、一揆参加の村々は百カ村を越え、13万人以上の農民がこれに加わったと藩側に報告されています。
この一揆で、ほとんど殺人が起こらなかったといわれているにもかかわらず、被差別部落民だけは焼き討ちをかけられ、多数が打ち殺されたといわれています。一揆のきっかけとなった皮革生産は被差別部落民の主な仕事であったことを考えると、なぜこんなことが起こったかお分かりでしょう(田中彰「前掲書」)。

山口県HP―山口の魅力と観光―プロフィールー歴史・文化―山口の文化―維新史回廊―維新史回廊マップー幕末維新史年表

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む3

 藩当局は天保大一揆の圧力に譲歩し、山口や室積の藍の専売会所を廃止するとともに、村役人や各地の代官を更迭しました。しかし表面的な譲歩だけでは事態を収拾することができず、根本的な藩政改革が必要であったことは明らかです。
 1831(天保2)年10月23日村田清風が江戸当役用談役に登用されました。翌年長州藩天保の改革基本綱領が作成されました。この年藩の負債は8万貫に達していました(田中彰「前掲書」)。その時村田清風は次のように述べています。「鎌倉以来六百年、芸(安芸)来三百年之御家と御国を百姓蹴立候口惜さ之事。」(「此度談」)また彼は後年「此乱(天保大一揆)何事より萌さしたるか、克々(よくよく)工夫あるへき事なり。罪は政をなす人ニあるへし。出納を司る役人ニはなしと知るへし」(「病翁宇波言」)とも記述しています(「村田清風全集」上巻 マツノ書店)。

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 1837(天保8)年毛利敬親が藩主となり、この藩主の下で村田清風らはこれまでの慣例を破った人材登用を実施し、藩財政を公開して、家格にこだわらない実務担当者の意見を求めました。
 1843(天保14)年4月15日に発令された三十七カ年賦皆済仕法は藩及び藩士の借財解決策でその内容は@藩債については1貫目に付き年々30目(匁)の割合で37カ年納入すれば、元利皆済とし、A藩士の借財については藩が肩替りして37年間元金据え置きにし、年利2朱を支払い、期限末年には元金皆済とする(末松謙澄「防長回天史」第一編第20章 天保嘉永年間の民政 柏書房)というものでした。その他蝋・櫨の専売制の変更や越荷(北陸や九州から下関を経由して大坂方面へ出荷される商品)方の拡大・強化(越荷を抵当として金融・あるいは貨物の一時保管による料金徴収等)など、村田清風の改革は多方面にわたりました。
 吉田松陰は青年時代に村田清風に会ったことがあり、深くその人物に敬服し、清風もまた松陰に嘱望し激励しました(土屋矢之介に与ふる書「野山獄文稿」山口県教育会「吉田松陰全集」第4巻・前参政村田翁を挽す「松陰詩稿」「松陰全集」第7巻・8 村田清風宛書簡・185小田村伊之介宛書簡「松陰全集」第8巻 岩波書店)。
  
司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む4

 この小説は作者が長州藩の城下町であった萩から、松本村の吉田松陰墓を訪ねるところから始まります。
 吉田松陰は1830(天保1)年8月4日長門国萩松本村で藩士杉百合之助常道(家禄26石)の次男として誕生しました。母の名は滝といいます。幼名虎之助・後寅次郎その他、名は矩方(のりかた)、字は子義その他、一時の変名もありました。
 1835(天保6)年吉田大助賢良(同年4月死去)の養子となり吉田姓を名乗りました。吉田家は代々山鹿流兵学師範として毛利家に仕える家柄で家禄57石余を受けていましたが、松陰は杉家に同居していました。松陰は6歳の幼少であったので、藩命により家学の高弟渡辺六郎兵衛・叔父玉木文之進らに家学教授を代理させました。
 「松陰は幼少の頃より、『遊び』てふことは知らざりしものの如し。年頃の朋輩と伍して、紙鳶を上ぐるとか、独楽を廻すとかの戯に耽ることは絶えて之なく、常に机に向ひて青表紙(漢書)を繙くか、筆管を操るかの外、他あらざりき。」
「松陰が年少の頃、実父、又は叔父の許にて書を学ぶに、実父も叔父も極めて厳格なる人なりしかば、三尺の童子に対するものとは思われざること屡〃なりしと。」(松宮丹畝「松陰先生の令妹を訪ふ」吉田松陰全集第12巻 岩波書店)
 1839(天保10)年11月にははじめて藩校明倫館に出仕して家学を講義し、山田宇右衛門らに後見させました。翌年4月藩主が自ら文武師範を城中に召して、その学芸を試そうとした時、松陰ははじめて「武教全書」(山鹿素行の主著)戦法篇を講義しました。
しかしその学問は「武教全書」の解釈を主とするものに過ぎなかったのです。
 1842(天保13)年玉木文之進は松下村塾を開き、杉梅太郎・松陰兄弟らはその塾生となりました。

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 1845(弘化2)年松陰は山田宇右衛門の薦めにより藩士山田亦介(村田清風の甥)について長沼流兵学も兼修しました。この時亦介は近頃強大な欧夷(欧米列強)がしきりに東洋諸国を侵略し、その害毒が皇国(日本)に及ぼうとしていることを説き、松陰を激励(「含章斎山田先生に与ふる書 戊午幽室文稿」吉田松陰全集第5巻 岩波書店)、松陰に国事に奔走することの重要性について示唆を与えました。
 翌年山田宇右衛門にも同様の影響をうけ、寝食を忘れて辺防を講究しています(「講孟余話」尽心下篇第35章 吉田松陰全集第3巻)

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む5

 1849(嘉永2)年6月松陰は藩命により須佐・大津・豊浦・赤馬ヶ関(下関)などの海岸を巡視(「廻浦紀略」吉田松陰全集第10巻)、翌年には萩から九州に赴き、平戸に50余日滞在して葉山佐内・山鹿万介に家学を究問、長崎では漢語を学び、唐館・蘭館に遊び、蘭艦に上がり、高橋景保訳の海外事情書などに接し、熊本において宮部鼎蔵らと交友、また唖弟敏三郎のために清正公廟で祈願しました(「西遊日記」吉田松陰全集第10巻)。
 1851(嘉永4)年3月兵学研究のため、松陰は藩主に従って江戸へ赴き、江戸で安積艮斎(あさかごんさい)・古賀茶渓・山鹿素水・佐久間象山に学び、剣を藩士平岡弥三兵衛門下に学びました。
 同年7月松陰は東北諸国遊歴を許可され、宮部鼎蔵と仇討ちの計画を持つ江幡五郎とはいずれ落ち合うことにして、出発の日を赤穂義士仇討ち決行の12月15日としました。しかるにその直前「過所(旅行のための身分証明書)」が発行されておらず、藩主はすでに国許に帰っていて、それは江戸藩邸の独断では処理できない案件でした。
 ここにおいて松陰は過所の下付をまたず、藩邸を亡命して江戸を出発してしまいました。彼には「仮令(たとい)今日君親に負(そむ)くとも、後来決して国と家とに負かじ」(51「兄梅太郎宛書簡」嘉永4年12月12日付 吉田松陰全集第8巻)という判断があったからです。
 松陰は翌1852(嘉永5)年にかけて松野他三郎の変名で水戸に赴き、会沢恒蔵(正志斎)らを訪ね、水戸学に接して感銘をうけたようです。さらに弘前・青森・盛岡・仙台・米沢等を歴訪(「東北遊日記」吉田松陰全集第10巻)、同年4月江戸に帰り藩邸に待罪書を提出、帰国の命が下ったので同年5月萩に帰り、やがて杉家に謹慎して命を待ちました。同年11月ころから松陰号を常用しています。

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司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む6

 1852(嘉永5)年12月9日松陰は亡命の罪により士籍を削り、世禄を奪われ、実父杉百合之助の育(はぐくみ 保護下におく)となりました。藩主は松陰を惜しみかつ憐れみ、父百合之助に10年間諸国遊学を申請させ(「関係公文書類」吉田松陰全集第11巻)、翌1853(嘉永6)年正月16日藩は松陰遊学を許可しました。
 松陰は同年正月26日萩を出発、讃岐・摂津・河内・大和を経て、伊勢大廟に参拝、さらに美濃・信濃・上野を通過して5月24日江戸に到着しました。
 米艦の浦賀来航を聞くと、同年6月4日直ちに現地に赴き、同月10日江戸に帰り(「葵丑遊歴日録」吉田松陰全集第10巻)、藩邸に意見書を提出するとともに、佐久間象山らと時事を討論しました。同年9月18日佐久間象山らと相談して海外事情視察のため当時長崎に停泊中の露艦に乗り込もうとして長崎へ出発、10月27日長崎に到着しましたが、露艦はすでに出航した後でした(「長崎紀行」吉田松陰全集第10巻)。

佐久間象山と日本の歴史―佐久間象山とは?

 1854(安政1)年3月5日金子重之助(重輔)とともに米艦に乗り込み、海外に赴こうとして江戸から神奈川に至ったが機会を得ず、同月7日佐久間象山に会い「投夷書」(吉田松陰全集 第10巻)を見せ、下田に至り同月27日上陸した米人に「投夷書」を渡し、同日夜金子とともに米艦に乗り込もうとして拒否され、翌日自首しました(「日本遠征記」を読む17参照)。松陰は江戸に護送される途中、三島では被差別部落民3〜4人が番に当り、松陰の話を聞いて興奮、別れ際には松陰の唐丸籠(罪人を護送する籠)から離れ難い様子を示したそうで(「回顧録」吉田松陰全集 第10巻)、松陰が被差別部落民に偏見をもっていなかった様子が分かります。同年4月15日幕府は両人を江戸伝馬町の獄舎に拘禁、9月18日麻布の長州藩邸に幽閉、同月23日両人は江戸を出発、10月24日萩に到着、幕命では父杉百合之助の許における蟄居でしたが、藩は幕府に気兼ねしたのか、父百合之助に借牢願を提出させ、松陰は野山獄(藩の士分の罪人を収容)、金子は岩倉獄(士分以外の罪人収容)に収容されました(「回顧録」)。1855(安政2)年正月11日金子重之助は獄中病死し、松陰は彼を悲しむ詩を作り、その行状記録(「金子重輔行状」吉田松陰全集第1巻)を著しています。  

幕末歴史探訪―人物別分類―吉田松陰―野山獄・伝馬町処刑場

このころの松陰は幕府の処置に憤激し、攘夷運動に対する共感をもっていましたが、単純な攘夷論者ではなく、ただちに討幕論に賛成もしませんでした。彼は、中国においては「天下は天下の天下」であるが、わが国では「天皇一人の天下」である、という熱烈な皇室至上主義者でした(奈良本辰也「吉田松陰」岩波新書)。
  一方この年松陰は対外問題について「魯墨講和一定(露米両国と和親条約を締結したこと)、決然として我より是を破り信を夷狄(いてき)に失ふ可らず、ただ章程を厳にし信義を厚うし、其間を以て国力を養ひ、取易き朝鮮満州支那を切り従へ、交易にて魯墨に失ふ所は土地にて鮮満に償ふべし」[1855(安政2)年4月24日付萩野山獄から兄に寄せた「獄是帳」(181)吉田松陰全集第8巻]と述べ、後年大日本帝国が推進した朝鮮・中国への侵略を予言するかのような主張を展開しているのです。

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む7

 松陰が入獄したころ、野山獄には11人の囚人が収容されていました。その中には在獄47年の長期にわたる74歳の大深虎之助、もっとも短期の者は1年の平川梅太郎(42歳)で、ただ一人の女囚であり在獄2年の高須久子(37歳)もいました。11人の囚人の中、藩命による囚人は2人だけで9人は親族からのの申し出による禁錮だったのです。
 高330石取りの家柄の寡婦であった高須久子は陽気な性格で浄瑠璃・京歌やチョンガレ(後に浪花節につながる)に凝り、やがてこれらの芸能を生業とする被差別部落の勇吉や弥八らを自宅に呼び寄せ、ときには翌朝まで宿泊させることもありました。このことを一族は久子乱心とし、やがて1851(嘉永4)年藩の取調べの結果久子を密通と決め付けようとしましたが、久子は被差別部落の人々との付き合いを「都(すべ)て平人同様の取扱」をしたまでとし密通を否定しました。藩は1853(嘉永6)年久子に野山獄入りを命じたのです(「嘉永四亥十二月より同六丑五月迄高洲彦次郎并母祖母御咎一件」<山口県文書館毛利家文庫蔵>田中彰「吉田松陰」中公新書引用)。
 松陰はここで獄内は囚人の自治にまかせ、獄中で読書その他の学芸を身につけさせるべきことを「福堂策」(吉田松陰全集第2巻)で主張し、獄中座談会や読書会を開いて「孟子」を講義しました(「講孟余話」吉田松陰全集第3巻)。このような状態で松陰と高須久子は急速に接近していきました。松陰は「詩文拾遺」(吉田松陰全集第7巻)に「高須未亡人に数々のいさ(を)し(子細の意味か)をものがたりし跡にて 清らかな夏木のかげにやすろへど人ぞいふらん花に迷ふと 矩方(松陰)」とほのかな久子への慕情の漂う和歌を残しています。

吉田松陰と幕末の志士―過去記事―2009年01月28日―吉田松陰 高須久子の恋 

 松陰に対する藩の処置が過重であるとの批判があり、1855(安政2)年12月15日松陰は野山獄を出て杉家に謹慎となったとき、高須久子は「鴨立ってあと淋しさの夜明けかな」(「獄中俳諧」(附録)送別詠草 吉田松陰全集第2巻)の一句を松陰に贈っています。松陰は外部との接触を禁止されましたが、近隣の子弟で密かに松陰の教えを受けるものがありました。
 松陰は野山獄収容の囚人釈放を藩に働きかけ、翌年10月ころには7人が放免されましたが、高須久子は放免されませんでした。

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む8

 1856(安政3)年8月には友人とともに尊王攘夷問題について大いに論究(「丙辰幽室文稿」また読む七則 吉田松陰全集第4巻)、同年12月18日梅田雲浜が萩にきて松陰と会見しています。
 1857(安政4)年11月5日外弟久保清太郎とともに杉家の小屋を修理して松下村塾を開き、松陰が事実上の主宰者で、翌1858(安政5)年3月11日塾舎が門人増加により狭くなったので増築完了しました(「戊午幽室文稿」中村理三郎に贈る 吉田松陰全集第5巻)。
藩校明倫館には士分以下の足軽・中間(ちゅうげん)などの子弟は入学を許可されなかったので、身分が低くても気骨のあるものや士分でも時局に敏感なものはすすんで松陰門下に集まるようになったのです。
 「○松陰先生は罪人なりとて、村塾に往くことを嫌ふ父兄多し。子弟の往くものあれば、読書の稽古ならばよけれども、御政事向の事を議することありては済まぬぞと戒告するほどなり。
 ○始めて先生に見え、教えを乞ふものに対しては、必ず先づ何の為に学問するかと問はる。之に答ふるもの、大抵、どうも書物が読めぬ故、稽古してよく読めるやうにならんといふ。先生乃ち之れに訓へて曰く、学者になってはいかぬ、人は実行が第一である、書物の如きは心掛けさへすれば、実務に服する間には、自然読み得るに至るものなりと。」(「渡辺蒿蔵談話第一」 吉田松陰全集第12巻)
 「六、塾には飛耳長目録と云ふものありて、今日の新聞様のものを書き綴りしものである。主に交友又は上方(京都)より来る商人などの談によれり。」(「渡辺蒿蔵談話第二」 吉田松陰全集第12巻)

萩まちじゅう博物館―まち博ブログー以前の記事―2009年07月―ベールを脱いだ渡辺蒿蔵旧宅

同年4月12日勅諭(通商条約調印は諸大名の意見を奏上した後、再び勅裁を請うべし)のことを在京の久坂玄瑞からの報で知り、時事に関する策問を門人に与えています(316号品川弥二郎宛書簡附録 村塾策問一道 吉田松陰全集第9巻)。
 同年4月23日井伊直弼が大老に就任、同月25日幕府は諸大名に勅書を示して通商条約調印の可否を諮問しました(「大日本古文書・幕末外国関係文書」)。同年5月12日幕府諮問が萩に達し、松陰もただちに「愚論」・「亜墨利加人取扱方の議」二文を記述しています(「吉田松陰年譜」吉田松陰全集第1巻)。
 しかるに同年6月19日幕府は日米修好通商条約・貿易章程を無勅許調印しました(「大日本古文書・幕末外国関係文書」)。かくして松陰の幕政批判は直接行動計画による幕政阻止に向かい、同年9月9日書簡を江戸の松浦松洞に送り水野土佐守忠央(紀州新宮藩主 南紀派 井伊直弼と結ぶ)暗殺の策を授け(363号書簡 吉田松陰全集全集第9巻)、11月6日同志17名と血盟して老中間部詮勝(井伊大老の下で尊攘派弾圧)を要撃(待ち伏せして攻撃する)しょうとし、藩要人に声援をもとめ(「384・385号書簡」 吉田松陰全集第9巻)、12月15日出発しようとしました。
藩当局は驚愕して借牢願出の形式をとり、松陰投獄の命令が下され、同月26日入獄したのです(「吉田松陰年譜」吉田松陰全集第1巻「戊午幽室文稿」吉田松陰全集第5巻)。かくして松陰は再び高須久子と出会うことになりました。

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む9

 1859(安政6)年4月7日当時萩にきていた北山安世(佐久間
象山の甥)に松陰は次のような書簡(533号書簡 吉田松陰全集第9巻)を送っています。「独立不羈三千年来の大日本、一朝人の羈縛を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや。那波列翁(ナポレオン)を起こしてフレーヘード(自由)を唱へねば腹悶医し難し。僕固より其の成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれども一も裨益なし。徒らに岸獄に坐するを得るのみ。(中略)今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼みなし。」また「只今の勢いにては諸侯は勿論捌けず、(中略)草莽に止るべし。(中略)天下を跋渉して百姓一揆にても起りたる所へ付込み奇策あるべきか。」(517号書簡「安政6年3月26日野村和作・入江杉蔵宛」吉田松陰全集第9巻)とも云っており、ナポレオンの西欧封建制度に対する「自由」のための戦いを思い起こし、場合によっては百姓一揆の力を利用してでも「草莽」(民間人)が立ち上がることこそ日本を救う道であると主張しているのです。
 しかし井伊大老の所謂安政の大獄の嵐の中で同年4月19日幕府より江戸藩邸へ松陰東送の命が下され、長井雅楽ら幕命を伝える使者が5月13日ころ萩に到着しました。

司馬遼太郎「世に棲む日日」を読む10

 松陰の東送を知って高須久子は「手のとはぬ(手の届かぬ)雲に樗(あふち 栴檀の花)の咲く日かな」(「東行前日記」松陰先生東行送別詩歌集(編者附載)吉田松陰全集第11巻)の一句を残し、松陰は「高須うしのせんべつとありて汗ふきを送られければ 矩方 箱根山越すとき汗の出でやせん 君を思ひてふき清めてん 高須うしに申し上ぐるとて 一声をいかで忘れん郭公(ほととぎす) 松陰」(「詩文拾遺」全集第7巻)と詠んでいます。

CirclePlayer―サークルジャンル一覧ー旅行―NZロトルア広場―メッセージアーカイブー2006年11月―10−次の10件を表示―13―[854]楝(おうち)の花

天地(あめつち)に遊ぶーカテゴリー生物―2009年06月24日 郭公と書いてホトトギス(改定)

 松陰の妹は「三十年の生涯は短しと云はば短きも、一般の人より観れば、妻を迎へ家を成すべき年なりしなり。されど松陰は年漸く長じて後は諸方に出遊し、其の国に居るの時は御咎めの身の上蟄居を申付けられたるものなれば、妻帯など云う相談は湧き出づべき由もなかりき。(中略)松陰は生涯婦人に関係せることは無かりしなり。」(松宮丹畝「前掲書」)と述べていますが、松陰にとって高須久子の存在は彼の短い生涯を彩る紅一点であったようです(田中彰「松陰と女囚と明治維新」NHKブックス)。
 幕府の松陰東送の目的は梅田雲浜との関係を明らかにすることでした。しかし1859(安政6)年7月9日松陰は伝馬町の獄につながれ、取り調べの過程で幕府が全く知らなかった老中間部詮勝詰問計画を陳述(「関係公文書類」全集第11巻)、さらに尋問の結果同年10月16日口書(口供書)読み聞かせがありました。翌日死を覚悟した松陰は同月26日「留魂録」を記録し、そのはじめに「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」(「詩文拾遺」吉田松陰全集第7巻)の一首を書き上げたのです。同月27日評定所で罪状の申し渡しがあり、同日伝馬町の獄舎で死刑を執行されました。
 尾寺新之丞・飯田正伯・桂小五郎・伊藤利助(博文)らが遺骸受け取りに奔走、同月29日小塚原回向院下屋敷常行庵に葬りました(「葬祭関係文書」吉田松陰全集第11巻)。
2009-09-06 12:37 | 記事へ | コメント(3) |
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2009年07月10日(金)
「天璋院篤姫」を読む11〜「天璋院篤姫」を読む20
宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む11

 1861(文久1)年4月19日和宮は内親王宣下(天璋院より高位)を受けて親子(ちかこ)という名を賜り、同年10月20日京都今出川の桂宮を出発(「孝明天皇紀」第三)、中山道を経て11月15日江戸清水屋敷に到着しました。同年12月11日和宮は江戸城大奥に入り、1862(文久2)年2月11日将軍家茂との婚儀が江戸城で挙行されました(「昭徳院殿御実紀」「続徳川実紀」)。

港区立図書館―ゆかりの人物データベースー索引 ゆかりの人物―かー和宮親子内親王

 和宮が江戸城に入ったとき、お土産の包装紙に「天璋院へ」と書かれており、大奥女中を憤慨させたそうです(「海舟語録」和宮と天璋院 講談社学術文庫)。
 天璋院と篤姫との初対面の折、天璋院が上座で茵(しとね 敷物)に座したのに対して和宮の席はその左脇の下座で茵もなかったので、和宮はこれを口惜しがり、お泪(なみだ)のみと和宮付の宰相典侍(庭田嗣子)は京都へ手紙を送っています。そこで同年2月19日に関白九条尚忠が家茂後見役田安慶頼に書簡を送り、和宮の待遇につき幕府の反省を求め(「孝明天皇紀」第三 文久2年2月19日条)、同年11月23日和宮の希望により御台様の呼称をやめて和宮様と呼ぶことになりました(「静寛院宮御側日記」「静寛院宮御日記」二 日本史籍協会叢書 東大出版会に収録)。
 内親王の和宮は内大臣の家茂より高位でした。しかし家茂と和宮は仲むつまじい夫婦であったようです。家茂が吹上の広場で乗馬の稽古をすると和宮はその様子を見に行き、家茂はその帰りに石竹の花を和宮に持参したり、また珍しい金魚を入手したと予告せずに彼女の許を訪れることもあったようです。さらに庭田嗣子をはじめ下級の女官にもいろいろな品を自分で与えたりしています(「静寛院宮御側日記」文久2年4月9・10日条)。
 浜御殿に天璋院と家茂と和宮が出かけたとき、踏石の上に天璋院と和宮の草履が上げられ、将軍の草履だけ下に置かれていました。天璋院が先に庭に下りると和宮は飛び降り、自分の草履を除けて将軍の草履を踏石にあげ、お辞儀をしました。それで天璋院と和宮のお側に仕える女中たちのいがみあいもピタリとおさまったそうです(「海舟語録」)。
  これはよく引用される挿話ですが、プライドの高い和宮がはたしてかかる現代の世話女房のような行動をとったのか疑問です。おそらく側近の女中に命じて将軍の草履を踏石にあげるよう命じたというのが真相で、勝海舟の回顧談には誇張があるように思われます。

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む12

 このような和宮降嫁という幕府の公武合体策に対して、尊皇攘夷派は1862(文久2)年1月15日坂下門外の変を起こし、老中安藤信行(信正・陸奥磐城平藩主)は水戸浪士らに襲撃され負傷しました(「維新史料綱要」)。
 同年4月16日薩摩藩主島津忠義の父島津久光は藩兵を率いて入京、朝廷に幕政改革の意見書を提出するとともに、同月23日伏見寺田屋に集結した薩摩藩尊攘派有馬新七らを久光の命を受けた同藩士が斬殺しました(「維新史料綱要」)。同年5月22日朝廷は島津久光の建議を受け入れ、久光は勅使大原重徳を頂き江戸へ下向しました(「維新史料綱要」)。同年6月10日勅使一行は江戸城に登城、将軍家茂に勅命を伝えました。幕府は同年6月29日徳川慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職とし幕政を改革せよの勅旨を受け入れました(「維新史料綱要」巻4)。
 かくして得意の絶頂にあった島津久光の行列は江戸からの帰途、同年8月21日イギリス商人ら4人が武蔵国生麦村で行列を横切ったことにより斬られるという事件を起こしました(生麦事件・「維新史料綱要」巻4・アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」岩波文庫)。

東京紅団―テーマ別散歩情報―明治維新シリーズー生麦事件を歩く(1)(2)

 1863(文久3)年5月9日幕府は生麦事件などの賠償金44万ドルを支払いましたが、薩摩藩は犯人処刑の要求に応じなかったため、同年7月2日イギリス艦隊は鹿児島湾に侵入、薩摩藩と交戦しました(薩英戦争・「維新史料綱要」巻4・アーネスト・サトウ「前掲書」)。しかし薩摩藩は同年11月1日イギリス代理公使に生麦事件賠償金10万ドルを交付(「維新史料綱要」巻5)してイギリスとの接近をはかるようになっていきました。

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む13

 一方長州藩は1862(文久2)年7月公武合体から破約攘夷に方針転換して藩主毛利敬親(慶親)が上洛、9月21日朝廷は攘夷を決定、同年11月27日勅使三条実美・副使姉小路公知を奉じて土佐藩主山内豊範らが江戸に下向、攘夷督促を将軍家茂に伝達しました(「維新史料綱要」巻4)。
 1863(文久3)年3月4日将軍家茂は家光以来229年振りの上洛を果たしました(「昭徳院殿御上洛日次記」「続徳川実紀」)。江戸に居る天璋院からの家茂宛書状で、彼女はまだ18歳の家茂の江戸帰着が遅いのを懸念しています(畑尚子「幕末の大奥」岩波新書)。しかし彼女の懸念も空しく、家茂はなかなか江戸へ帰らず、同年4月20日攘夷期限を同年5月10日とする旨を天皇に奏上しました(「維新史料綱要」巻4・同年6月16日江戸帰着「昭徳院殿御上洛日次記」「続徳川実紀」)。同年5月10日長州藩は下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃、以後続々と外国船に砲撃を加えるに至りました(「維新史料綱要」巻4)。
しかしこのような長州藩をはじめとする尊攘派の政局主導を快く思わず、幕府権威回復を望む会津藩(藩主 松平容保 京都守護職)・薩摩藩は同年8月18日宮中クーデタにより宮中尊攘派を一掃しました(八月十八日の政変・「維新史料綱要」巻4)。

なるほど!幕末―なるほど陰の主役―京都守護職/幕末会津藩―松平容保

 このころ江戸城では家茂上洛中の1863(文久3)年6月8日西丸、同年11月15日には本丸と二丸が炎上しました(「維新史料綱要」巻5)。以後本丸は再建されず翌年西丸に仮御殿が建設されました。これまで和宮と同じく本丸に住んでいた天璋院が同年8月二丸に引き移りました。その理由は「天璋院が御台所の御殿を占有し和宮は召使用の部屋に住んでいる」とのうわさを聞いた和宮世話係りの公卿が在京中の老中に善処をもとめたため、それが天璋院の耳に伝わって彼女の感情を害したといわれます(鈴木由紀子「天璋院篤姫と和宮」幻冬社新書)。
 同年末幕府は公武合体の体制を確立するため将軍家茂の上洛を決定しました。将軍が海路上洛すると聞いた天璋院は蒸気船では危ないと心配しましたが4人の老中と話し合った彼女は陸路より危険が少ないとの説明にようやく納得しました。このとき政治問題も話題となったようで、老中らは天璋院の見識の高さをしきりに賞賛したそうです(「旧事諮問録」上 大奥の事)。
 1864(元治1)年正月15日将軍家茂は上洛し(「昭徳院殿御実紀」「続徳川実紀」)、同年2月14日参内、沿岸防備強化と横浜鎖港実施を上奏(宮内庁「明治天皇紀」第一 吉川弘文館)(5月17日横浜鎖港断念「維新史料綱要」巻5)、同年5月20日江戸に帰着しました(「昭徳院殿御実紀」「続徳川実紀」)。
 しかるに同年7月19日長州藩兵は御所諸門を襲撃、会津・薩摩両藩兵に敗北(禁門の変「維新史料綱要」巻5)、同月23日幕府は長州藩征討の勅命を受け、西南21藩に出兵を命令しました(第1次長州征伐「維新史料綱要」巻5)。また同年8月5日英・仏・米・蘭の4国連合艦隊は長州藩下関を砲撃、翌日同艦隊陸戦隊は上陸して下関砲台を占領、長州藩は水陸からの攻撃を受けて敗北し、同年8月14日長州藩は4国連合艦隊と講和条件を協定しました。また同年11月18日征長総督徳川慶勝は長州藩主毛利敬親父子恭順の状及び進撃猶予を命ぜんことを朝廷・幕府に報告しています(「維新史料綱要」)。

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む14

 しかし長州藩では攘夷戦、4国連合艦隊との戦闘を通じて庶民層を含む非正規軍たる奇兵隊以下の諸隊が結成され、高杉晋作ら討幕派は上層佐幕派を抑えて長州藩の主導権を奪回し、武装の近代化をはかりました。
 薩摩藩もまた島津久光を頂点とする公武合体派にかわって、西郷隆盛ら討幕開国派が成長し、長州藩と共通する主張をもつ政治勢力が藩の主導権を掌握するようになりましたが、永年にわたる薩長両藩の抗争が両藩の提携を妨げる要因となっていました。ところが長崎で公然と外国貿易できない長州藩に代わって薩摩藩名義で武器を購入し、これを下関に輸送したのは土佐脱藩の坂本竜馬とその亀山社中(後の海援隊)でした。例えば1865(慶応1)年7月21日長州藩井上聞多(馨)・伊藤俊輔(博文)は海援隊・薩摩藩家老小松帯刀らの斡旋により、長崎グラバー商会から銃砲を購入しています(「維新史料綱要」巻6)。こうして薩長両藩の接近が進展、1866(慶応2)年1月21日長州藩木戸貫治(孝允)と薩摩藩小松帯刀・西郷吉之助(隆盛)は坂本竜馬らの斡旋により、京都薩摩藩邸で薩長合従の盟約(薩長連合)を結びました(「維新史料綱要」巻6)。

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宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む15

 1865(慶応1)年5月16日将軍家茂は長州藩再征のため江戸を出発しました(「昭徳院殿御実紀」「続徳川実紀」)。家茂はその前夜年寄滝山に自分にもしものことがあったときには田安亀之助(田安慶頼の子 当時4歳 徳川家達)を跡目に定めたいとし、そのことを、自分が出発したのち和宮へ直接伝えるよう内命を下しました(「静寛院宮御側日記」慶応元年5月16日条)。

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 同年閏5月22日家茂は上洛参内し、長州再征を上奏、朝廷は同年9月21日長州再征の勅許を下しましたので、幕府は同年11月7日彦根藩などに長州征討のための動員を命令しました(「維新史料綱要」巻6)。
 しかし翌年4月14日薩摩藩の大久保一蔵(利通)は大坂城で老中板倉勝静に書面を呈出し長州征討の非を論じ、同藩の出兵を拒絶しました(「維新史料綱要」巻6)。また1866(慶応2)年7月18日にも芸州藩主浅野茂長・備前藩主池田茂政・阿波藩主蜂須賀斉裕は連署して長州征討の非と撤兵を幕府・朝廷に建言、征長軍の足並みが乱れる中、同年7月20日将軍家茂は大坂城で急死しました(「維新史料綱要」巻6)。
 家茂危篤が江戸に伝わると、天璋院は滝山から家茂の遺志を知らされて、田安亀之助を跡継ぎとすることについて和宮の賛同を要請しました。、勝海舟は「天璋院は、しまいまで、慶喜が嫌ひサ。それに、慶喜が、女の方はとても何もわかりやしないと言ったのがツーンと直きに奥へ聞えて居るからネ。そしてウソばかり言って、善いかげんに言ってあるから、少しも信じやしないのサ。」(「海舟語録」天璋院)と回想しています。和宮は時勢を考え、能力ある適材を後嗣にたてることを希望(「静寛院宮御側日記」慶応2年7月24日条)、しかし最後には天璋院に同調しました。
 しかるに老中板倉勝静らは一橋慶喜の推戴を内定、これにつき天璋院と和宮の賛同を望み、同年7月28日慶喜を継嗣として奏請、翌日勅許を得ました。かくして天璋院と和宮は慶喜の継嗣に同意しつつ、家茂の遺志を尊重して亀之助成人後慶喜の継嗣とするよう老中に命令しました(武部敏夫「和宮」吉川弘文館)。
 同年8月16日慶喜は参内して征長撤兵を奏請、勅許を得、8月20日将軍家茂の喪を発表、徳川慶喜の徳川宗家相続を公布(「昭徳院殿御在坂日次記」「続徳川実紀」)、12月5日慶喜は征夷大将軍に任命されました(「公卿補任」)。ところが孝明天皇は同年12月16日痘瘡の症状が出て、やがて快方に向かったにもかかわらず、やがて吐き気と下痢が激化して、同月29日死去しました(「孝明天皇紀」第5)。

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む16

 1867(慶応3)年10月14日正親町三条実愛は長州藩主父子に討幕の密勅を発しました。しかるにこれをかわすかのように、同日将軍徳川慶喜は前土佐藩主山内豊信(容堂)の建白を容れ、大政奉還上表を朝廷に提出、翌日朝廷は大政奉還を勅許しました(「維新史料綱要」巻7」)。これによって江戸幕府は倒壊したのですが、徳川慶喜は天皇を頂点とする新政府において主導権を握ろうとしていたのです。
 これに対して同年12月9日朝廷は王政復古の大号令を発しましたが、薩長両藩は新政府における徳川氏の主導権を否定しようとし、徳川慶喜の辞官納地を命じることを決定、有栖川熾仁親王を総裁とする新政府を成立させました(「維新史料綱要」巻7)。

幕末京都ー幕末京都倶楽部―[14] 京都 小御所会議

 当時京都二条城では征長に敗れた徳川軍と国許から京都へ上洛増強された薩長軍の間に一触即発の危機が迫っていました。この危機を回避しようとして慶喜は12月12日一旦二条城を退去、大坂城に入りました(「維新史料綱要」巻7)。、同年12月23日江戸城二丸が焼失(「維新史料綱要」巻7)、天璋院は本寿院・実成院(家茂の実母)とともに避難し、西丸に入り、再び和宮(慶応2年12月9日薙髪 静寛院宮と称する)との同居が始まりましたが、これは薩摩藩の関係者による放火ではないかとの嫌疑がかけられました。当時薩摩藩の益満休之助らが浪士を使って江戸で放火・強盗などをやらせ、騒乱状態が起こっていました。同月25日徳川方の指示で旗本・庄内藩兵らが江戸三田の薩摩藩邸に押し寄せ、二丸出火の原因究明と市中における狼藉者捕縛のため、使者を2人門内に派遣しましたが、藩側は使者の首を窓から投げ砲撃しました。これにより両者戦闘状態となり、薩摩藩邸は焼き討ち(「維新史料綱要」巻7)、浪士70余人が徳川方に捕らえられました。
 この薩摩藩の挑発が大坂城に伝わると、徳川慶喜は憤激する徳川軍を抑えられず、薩摩藩征討の表(「慶喜公御実紀」明治元年正月10日条「続徳川実紀」)を朝廷に提出して京都に攻め上り、迎え撃つ薩長軍と1868(慶応4・明治1)年正月3日鳥羽伏見の戦いで敗北(「維新史料綱要」巻8)、同月8日軍艦開陽丸で大坂を脱出、同月12日江戸へ逃げ帰りました(「慶喜公御実紀」明治元年正月12日条「続徳川実紀」)。

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む17

1868(慶応4・明治1)年正月12日徳川慶喜は天璋院に面会して鳥羽伏見で開戦するに至った事情を報告しましたが、静寛院宮には面会を許されず、同月15日天璋院の斡旋でようやく面会して鳥羽伏見の戦いに至る状況を説明、翌日天璋院を介して引退の決意と後継者の選定や謝罪のことを朝廷に伝えて頂きたいと懇願しました。静寛院宮は謝罪の朝廷への伝奏周旋のみ引き受け、その方法を天璋院も交えて協議、慶喜が書いた歎願書を何度も書き直させて、正月21日上臈土御門藤子を使節とし慶喜の歎願書と実家の橋本実麗・実梁父子宛の直書を持たせて西上させました(「静寛院宮御日記」一)。土御門藤子は同年2月1日桑名に滞陣する橋本実梁に静寛院宮の直書を渡し、2月6日京都に到着しました。
当時の朝廷では徳川氏処分について寛厳両論が対立していましたが、同年2月15日有栖川熾仁親王を東征大総督として江戸への進軍が開始されました(「維新史料綱要」巻8)。その翌日朝廷は橋本実麗に慶喜が謝罪の道を尽すならば慶喜本人の処分は別として徳川家存続については深く配慮する旨の口演書(「静寛院宮御日記」一)を与え、土御門藤子を通じてこれを静寛院宮に伝達させました(「土御門藤子筆記」正親町公和「静寛院宮御日記」二所収・武部敏夫「和宮」吉川弘文館)。
一方徳川方には天璋院を薩摩に帰して徳川家の存続をはかろうとの意見があったようです。このことについて勝海舟は次のように回想しています。
 「慶喜殿が帰られた時に、天璋院を薩摩へ還すという説があったので、大変に不平で、『何の罪があって、里にお還しになるか、一歩でもコゝは出ません、もし無理にお出しになれば自害する』と言ふので、昼夜懐剣を離さない。同じトシのお附きが六人あったが、それが亦、みな、一緒に自害するといふので、少しも手出しが出来ん。それぢゃア、己が行かうといって、先づ通じて置いて貰った。それで、次の日、出てゆくと、女中がずっと並んで居て、座布団が向ふにあるが、天璋院が見えない。『どうかなさいましか』というと、みな黙って居たが、暫くして、女中の中から一人出て来たよ。それが天璋院サ。かくれて様子を見たものだネ。」(「海舟語録」天璋院)
 天璋院は次の日も来てほしいといい、3日間勝海舟と語り合ったということです。天璋院は大総督府参謀西郷隆盛に自分の一命に代えても徳川家の存続がかなえられるよう嘆願した書状(畑尚子「前掲書」)を書き、女中らの手によって勝海舟との会談の前に届けられました。
 同年3月3日大総督府は3月15日を期して江戸城を総攻撃する旨命令しました(「維新史料綱要」)。3月13日大総督府参謀西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁勝安芳(海舟)が江戸薩摩藩邸で会見、翌日江戸城無血開城の交渉が成立しました(文部省編「維新史」文部省)。

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宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む18

 1868(慶応4・明治1)年4月4日勅使橋本実梁・柳原前光両名は江戸城で田安慶頼に江戸城の明け渡し、軍艦・銃砲の引渡しなどを条件として徳川家の家名を存続し、慶喜を水戸に謹慎させる勅旨を伝宣しました。同月11日江戸城が開城して徳川慶喜が水戸に引退のため江戸を去る(「維新史料綱要」巻8)以前、同月9日静寛院宮は実成院とともに清水邸に移り、同月10日天璋院・本寿院は一橋邸に去っていきました(「静寛院宮御日記」一)。
 つづいて同年4月24日関東監察使三条実美は江戸城に入り、大総督以下と協議し、田安亀之助を徳川家相続者とし(「維新史料綱要」巻8)、駿府(静岡)において70万石を賜ることに決定、同月29日亀之助相続を、また徳川家封地については彰義隊鎮圧後の同年5月24日伝宣しました(渋沢栄一「徳川慶喜公伝」4 東洋文庫107 平凡社)。同年7月17日江戸は東京と改称(内閣官報局「法令全書」第1巻 原書房)、同年9月8日明治と改元し、一世一元の制が定められました(内閣官報局「前掲書」)。
 1869(明治2)年正月18日静寛院宮は東京を出発、京都へ帰住しましたが、天璋院は帰郷せず、一橋邸から住居を転々と変え、1871(明治4)年静岡からもどった徳川家達とともに赤坂溜池近くの福吉町にあった旧相良藩邸に移り、1877(明治10)年千駄ヶ谷に新築された徳川邸に終生居住したのでした[保科順子(徳川家達の孫)「花葵 徳川邸おもいで話」毎日新聞社]。家達が同年イギリスへ留学するまで、天璋院が母親代わりで家達の養育に当たりました。福吉町邸と勝海舟の赤坂氷川町邸とはすぐ近くで、勝海舟と天璋院の間には親交があったのです。

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宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む19

 1875(明治8)年商法学者のウイリアム・ホイットニーはアメリカで知己となった森有礼の招待で東京に開設した商法講習所(のちの一橋大学)の教師として家族とともに来日しました。ホイットニー家はやがて勝海舟とも知り合いとなり、徳川家達とも交際するようになりました。1876(明治9)年のクリスマスにはじめてホイットニー家に招かれた家達は翌年2月17日ホイットニーの妻と娘クララを徳川邸(福吉町邸)に招待しました。
当時17歳であったクララは徳川邸の様子を次のように記述しています。
 「前方に大きな日本家屋があって、広く堂々たる玄関に、大勢の威厳ある人々が集まっていた。一番威厳のあるサンミ様(三位様 徳川家達)が中央に、あとの従者や護衛たちが堂々たる態度でその回りにいた。両側と道には召使いたちが並んでいた。私たちを見ると、いかめしく恐ろしいサムライ全員が、大変低くお辞儀をし、召使いたちは頭が地につきそうなくらいだった。(中略)案内された客間は、とても立派な部屋で栗色のカバーを掛けたテーブルが中央にあり、ブリュッセルじゅうたんが床に敷いてあった。体裁のよい椅子が回りにあって、隅々には屏風が立っていた。そして部屋の回りには絵も掛かっていた。」
 「婦人たちの住む家に出たが、そこには老婦人が三人(天璋院・本寿院・実成院)、二十八人の侍女を従えて住んでいる。最高位の婦人(天璋院)はご病気で、運悪くお目にかかれなかった。大勢の女の人が廊下に出てきて、お辞儀をしたが、私たちは靴をはいていたので中には入らず、外にいて十五歳になる老猫とたわむれた。」(クララ・ホイットニー「クララの明治日記」上 講談社)
 クララ・ホイットニーはのちに勝海舟の3男梶梅太郎(生母は海舟の長崎時代の愛人梶くま、母方の梶家を継ぐ)と結婚したアメリカ人女性です(寺尾美保「天璋院篤姫」高城書房)。

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む20(最終回)

1869(明治2)年3月明治天皇が東京に移り、1872(明治5)年10月天皇の勧めもあり(同年12月3日を太陽暦明治6年1月1日とする)、1874(明治7)年7月8日静寛院宮は東京麻布市兵衛町の邸宅に入りました。以後天皇の近親として厚遇を受け、一方徳川家一門として天璋院・家達を自邸に招待、また家達邸を訪問する日常を過ごしました。
 天璋院と静寛院宮が一緒に勝海舟を訪問したことがありました。お膳を出すと、両方でお給仕をしようとしてにらみあっていると女中が海舟に告げたので、海舟はお櫃を二つ出させて「サ、天璋院さまのは、和宮さまが為さいまし、和宮さまのは天璋院さまが為さいまし、これで喧嘩はありますまい」。すると「安芳は利口者です」と大笑いになって、帰りは一つ馬車で帰っていったそうです(「海舟語録」和宮と天璋院)。
 1877(明治10)年8月静寛院宮は脚気を発病し、侍医のすすめで箱根塔ノ沢へ湯治に行きましたが同年9月2日衝心の発作が起こり、旅館環翠楼にて32歳で死去しました。徳川家達はイギリス留学中で留守を預かる松平斉民(確堂)が喪主として葬儀を行い、遺骸は生前の希望により、家茂の墓と並んで葬られました(武部敏夫「和宮」吉川弘文館)。
 1880(明治13)年9月23日天璋院ははじめて旅行し、新橋から鉄道利用で神奈川に赴き、東海道を人力車を利用して江ノ島に参詣、小田原に一泊、熱海に一月近く滞在、10月28日には熱海出発、箱根芦ノ湖を巡り、宮ノ下に二泊した後、塔ノ沢の環翠楼を訪問、亡き静寛院宮をしのんで次の和歌を詠みました。「君かよわひ(齢)とどめかねたる早川の水のながれもうらめしきかな」(「熱海箱根湯治日記」)。
 1883(明治16)年11月13日天璋院は卒中を発症し危篤状態となりました(「海舟日記」)、また同年11月17日ころ千駄ヶ谷邸でお湯を使っていたとき、間違って湯殿でつまずき中風症になった(「東京日々新聞」)ともいわれています。彼女は同年11月20日49歳で死去しました(「明治過去帳」)。喪主徳川家達により葬儀が行われ、上野寛永寺の夫温恭院(家定)と並んで宝塔が建てられました。

JanJanニュースー検索―天璋院篤姫と幕末の上野を歩いた 2008/03/20

 この小説は天璋院篤姫歿後、額縁の中の篤姫が微笑みながら首を振ったように思われ、女中重野が篤姫の大好物であった白いんげんの煮たのとあんかけ豆腐を祀るために台所のほうへ立っていくところで終了しています。
2009-07-10 11:17 | 記事へ | コメント(2) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇 4) |
2009年07月01日(水)
「天璋院篤姫」を読む 1〜「天璋院篤姫」を読む10
宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む1

 宮尾登美子「天璋院篤姫」は1983(昭和58)年2月25日から1984(昭和59)年5月1日まで日本経済新聞夕刊に連載され、1984年講談社より出版、2007(平成19)年加筆された新装版が同社より刊行され、2008(平成20)年第47回NHK大河ドラマ「篤姫」の原作となった小説です。
 徳川氏は関ヶ原の戦いで敵対した島津氏をいわゆるムチとアメの政策を使い分けながら支配してきました。
 例えば1729(享保14)年藩主島津継豊は8代将軍徳川吉宗から常憲院殿(綱吉)の養女竹姫(綱吉の愛妾大典侍の局の姪 清閑寺大納言煕定の女 浄岸院 「寿光院殿之系」柳営婦女伝系巻之十四 柳営婦女伝叢 日本人物情報大系 女性叢伝編1 皓星社)を継室(後妻)として娶ることを命ぜられ、そのための出費[新御殿(御守殿)建築・調度その他]により借銀は3倍に増大しました(「孤愁の岸」を読む5参照)。
しかし竹姫は島津家の家格向上をもたらしました。継豊を継承した宗信・重年が若年で死去した後、竹姫は重年の嫡子重豪を養育し、重豪の人格形成などに大きな影響を与えました。1762(宝暦12)年12月重豪は竹姫の意向をうけ、一橋宗尹(むねただ 吉宗の子)の娘保姫と結婚しました。1772(安永1)年12月5日竹姫は68歳で死去の際、重豪に娘が生れたら徳川家一門と縁組させるようにと遺言(「旧記雑録追録」6 巻131-1406 鹿児島県史料 鹿児島県)を残したので、翌年6月に誕生した島津重豪の三女茂姫(寔子 広大院)と一橋治済の嫡子豊千代との縁組が1776(安永5)年7月18日に成立しました。
 1779(安永8)年2月24日家基(将軍家治の世子)が死去すると(「浚明院殿御実紀」巻40「徳川実紀」)、田沼意次は1781(天明1)年閏5月18日一橋治済の長男豊千代を将軍家治の世子とすることに成功しました(「浚明院殿御実紀」巻44「徳川実紀」)(「冬の鷹」を読む13参照)。豊千代は1781(天明1)年江戸城西丸に入り、家斉と改名しました(「浚明院殿御実紀」巻45「徳川実紀」)。

水野日向守本陣―江戸時代大名総覧―徳川将軍家―徳川一橋家―しー松平薩摩家

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む2

 徳川将軍家は3代将軍家光以降皇族・五摂家などの上流公家と婚姻関係を結ぶ慣例がありました。1786(天明6)年10代将軍家治死去により家斉は本丸に移ると、茂姫の父島津重豪の権勢を警戒する動きが現れ、形勢を察知した重豪は翌年隠居、家督を斉宣に譲り(「寛政重修諸家譜」巻108)、次代の斉興まで依然として藩政の実権を握りつづけました。
 中世以来島津家は近衛家を門流(主家)と仰ぐ間柄で、1705(宝永2)年6月薩摩藩3代藩主島津綱貴の娘亀姫は近衛家久と結婚、同年10月亀姫が死去すると、4代藩主吉貴の娘満姫が1712(正徳2)年近衛家久に嫁しています。このような島津家と近衛家との関係維持に大きな影響力を発揮したのが、6代将軍家宣正室天英院(近衛基凞娘)でありました(寺尾美保「天璋院篤姫」高城書房・林匡「島津家と近衛家」芳即正「天璋院篤姫のすべて」新人物往来社)。
  1787(天明7)年家斉将軍宣下、茂姫は近衛経熙の養女となり、寔子という諱を賜り、1789(寛政1)年2月4日家斉との婚儀にこぎつけたのです(「文恭院殿御実紀」巻6「続徳川実紀」)。

公卿類別譜―家格―摂家―近衛―武家―島津

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む3

 1809(文化6)年薩摩藩主となった島津斉興には正室(弥姫 鳥取藩主池田斉稷娘)との間に生れた長男斉彬、次男の斉敏(鳥取藩主池田家を継ぐ)と側室の由羅が生んだ三男久光がいました。斉彬は3歳で世子になっていたのに、斉興は由羅を寵愛して久光を可愛がり、斉彬を疎遠にしたのです。
 永年にわたり薩摩藩政の実権を握りつづけた島津重豪は1833(天保4)年に死去していましたが、薩摩藩内には筆頭家老島津将曹ら門閥層と藩財政再建に貢献し重豪死後も藩主斉興の信任厚かった調所広郷らの一派と江戸家老島津久武と主として民生・軍事を担当した人々で斉彬が藩主になることを期待していた一派との対立が激化していました。
 斉彬は幕府老中阿部正弘らの強力な支持を得て、調所広郷失脚をはかり1848(嘉永1)年12月調所広郷は明るみに出た藩琉球密貿易の責任をとって服毒自殺を遂げましたが、この事件の背後には島津斉彬がいたと思われます。
 1849(嘉永2)年斉彬擁立派はこの勢いに乗じて由羅と島津将曹らを殺害しようとした計画が事前にもれ、これを聞いた斉興は激怒、同年12月3日町奉行物頭勤近藤隆左衛門、船奉行家老座書勤奥掛役高崎五郎右衛門、鉄砲奉行勤山田一郎左衛門らに切腹を命じ、翌年4月島津久武が切腹させられるまで切腹13人、遠島17人その他50余人に及ぶ処分がおこなわれました(芳即正「島津斉彬」吉川弘文館)。

鹿児島県HP―かごしまの紹介―かごしまの概要―歴史・文化―中世・近世―お由羅騒動

弾圧を免れた斉彬派は斉彬と親密な筑前藩主黒田斉溥に助けを求めたので、黒田斉溥は越前藩主松平慶永・宇和島藩主伊達宗城らと相談して老中阿部正弘に斉彬の島津家相続に尽力を要請しました(芳即正「前掲書」)。

福山誠之館同窓会―誠之館人物志―福山藩歴代藩主―阿部正弘

1851(嘉永4)年正月阿部正弘は幕府の干渉を秘して斉興を隠居させることに成功、同年2月斉彬は薩摩藩主となることに成功したのでした(「慎徳院殿御実紀」巻15「続徳川実紀」)。

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む4

将軍世子家定は1841(天保12)年5月関白鷹司政熙の娘有姫(任子)と結婚しましたが、任子は1848(嘉永1)年死去、翌年左大臣一条忠良の養女寿明姫(秀子)と再婚しましたが、秀子は1850(嘉永3)年死去し、家定は再び独身となったのです(「慎徳院殿御実紀」巻14「続徳川実紀」)。
家定簾中(れんちゅう 将軍世子正室)秀子死去後間もなく、11代将軍御台所(みだいどころ 将軍正室)であった広大院付比丘尼(女僧)から島津家の年寄へ内々に藩主斉興や世子斉彬に年頃の娘はいないか問い合わせがありました。島津家では年頃の娘もおらず、なぜこのようなことを聞かれたのかも分からなかったので、情報を集めたところ、家定が京都出身の夫人が相次いで死去したため、京都の娘ではなく、広大院の例にならって、自分も夫人を島津家から迎えたいと希望したので、島津家に年頃の娘はいないかと問い合わせてきたことが明らかとなりました(「御一条初発より之大意」竪山利武公用控十四冊の内八 自安政2年11月24日至12月29日 「斉彬公史料」 第4巻 鹿児島県史料 鹿児島県・芳即正「天璋院入輿は本来継嗣問題とは無関係」雑誌「日本歴史」551号 1994年4月号)。

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む5

1851(嘉永4)年2月薩摩藩主となった島津斉彬は大砲・蒸気軍艦を製造して軍備を強化し、紡績工業などの産業を育成しようとしていましたが、これらの政策を実行すれば幕府に謀反を企てているのではないかと疑われるおそれがあり、それを打ち消すためにも将軍家と婚姻関係を結ぶことに熱心でした。斉彬は同年3月9日江戸をたち、途中京都の近衛忠凞邸で家定継室候補者について協議、同年5月8日鹿児島へ到着しました。
領国薩摩で多くの者と会い、島津忠剛(ただたけ 斉彬叔父・斉興弟)の娘於一(おかつ)を気に入って家定継室候補にしたいと考えるに至ったようです(「斉彬公史料」第4巻 鹿児島県史料 鹿児島県)。
江戸時代の薩摩藩主島津家は薩摩・大隅・日向諸県(もろかた)郡及び琉球国を支配、琉球を除く領国の人口は1852(嘉永5)年調査(「要用集」により推計)によれば約625000人、このうち士族が172000人余、全人口の約27.5%を占めていました。全国平均の5〜6%に比して士族の人口は多く、彼等をすべて鹿児島城下に居住させることはできないので、薩摩藩は琉球を除く領国を110余の外城(とじょう)という行政区画に分け、武士たちを配置して行政と防衛を担当させていました。1783(天明3)年外城は郷と改名されたのです。 
外城の中核であった村には麓(ふもと)と呼ばれる武家集落がありました。
島津家家臣団は鹿児島に住む城下士と外城に住む外城衆中(しゅじゅう 郷士)に分けられました。城下士の中でも家臣最上位の家柄は一門家と呼ばれ、重富(越前)家・加治木家・垂水家・今和泉家の4家がありました。
島津忠剛は今和泉家の領地今和泉郷を領地とし、本邸は鹿児島城下にありました。

ワシモ(WaShimo)のホームページへようこそ!―旅行記―鹿児島県―天璋院篤姫ゆかりの地―指宿市・鹿児島市

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む6

於一は島津忠剛の娘として1835(天保6)年12月19日誕生しました(「島津氏正統系図」松尾千歳「篤姫の出自とその一族」引用 芳即正「天璋院篤姫のすべて」新人物往来社)。また彼女は1836(天保7)年2月19日府第(鹿児島城下の本邸)で生れたとする史料(「源姓和泉氏嫡流系図」以下「和泉氏系図」と略 松尾千歳「篤姫の出自とその一族」引用 芳即正「前掲書」)もあります。於一の母は島津久柄の娘で名は不詳です(「和泉氏系図」)。ただし墓碑に「幸姫」とあり実母名は幸と判明しました(寺尾美保「前掲書」)。
於一と会ったことのある越前藩主松平慶永は彼女の性格について、斉彬から「耐忍力ありて、幼年よりいまだ怒の色を見たる事なく、不平のやう子もなし。腹中は大きなるものと見ゆ。軽々敷事なく、温和に見へて、人に応接するも誠に上手なり。将軍家の御台所には適当なり。」と聞かされたと記述(「閑窓秉筆」松平春岳全集 第1巻 明治百年史叢書 原書房)しています。

国立国会図書館―電子展示会―近代日本人の肖像―人名50音順―松平慶永

ところが幕府側家定継室についての窓口をつとめていた幕府奥医師多紀元堅らから、幕府閣老たちが島津家女性を正室ではなく側室にと考えていることを知らされた斉彬は1852(嘉永5)年8月23日鹿児島を出発、同年10月9日江戸に到着、ただちに老中阿部正弘や大奥の実力者姉小路[12代将軍家慶の正室楽宮(有栖川宮織仁親王娘)に従って京都から下向した公家の娘]に連絡し問題解決に奔走しました。姉小路は於一が斉彬の実子であれば家定正室でよいという意向を示したので、1853(嘉永6)年3月1日於一は斉彬の養女に迎えられ、同月10日篤姫と改名、幕府に斉彬実子として届けられました。
 同年6月5日篤姫は鹿児島城下の今和泉邸を出て、藩主居城の鶴丸城に入り、同年5月2日江戸を出発した斉彬も同年6月22日鶴丸城に到着したのです。

幕末写真館―幕末の女性―天璋院篤姫(尚古集成館蔵 島津隆子「篤姫と和宮」掲載 芳即正「前掲書」)

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む7

しかるに1853(嘉永6)年6月3日ペルリ提督率いるアメリカ艦隊が来航(「日本遠征記」を読む4参照)、幕府老中阿部正弘らはその対応に追われる毎日となりました。
阿部正弘(備後福山藩主)はペリー来航による対外折衝に当り、異例でありましたが対外問題を朝廷に奏聞するとともに、対外策を諸大名・幕臣らに諮問し、御三家の前水戸藩主徳川斉昭を幕府顧問格に据え、大廊下詰(御三家以外の徳川氏分家と徳川氏と親近関係にあった外様大名の一部の江戸城詰所)の代表的人物越前藩主松平慶永(春嶽)、大広間詰(大藩外様大名の江戸城詰所)薩摩藩主島津斉彬と密接な関係を結びました。

ぶらり重兵衛の歴史探訪2−会ってみたいな、この人にー銅像との出会いーとー徳川斉昭
  
ペリーが来年の日本渡航を予告して江戸湾を去った直後、12代将軍家慶は1853(嘉永6)年6月22日死去、同年11月23日世子家定が13代将軍に就任しました(「維新史料綱要」巻1 東大出版会)。
将軍家慶死去により家慶の寵愛を受けていた姉小路の大奥における影響力の低下を予想した島津斉彬は家定育ての親で近衛家とも旧知の間柄であった歌橋を新たな仲介者として近衛家を通じ依頼するよう働きかけました。
阿部正弘の要請もあり、篤姫は同年8月21日鹿児島を出発、途中近衛家に立ち寄り、同年10月29日江戸芝の薩摩藩邸に到着、この小説は島津斉彬の養女篤姫が斉彬の見送りを受けて鶴丸城から江戸へ出発する描写から始まります。
斉彬も1854(安政1)年1月21日鹿児島を出発、同年3月6日江戸に着きました。このとき西郷吉兵衛(後吉之助と称する)も斉彬に同行しており、庭方役(君主の密事を命ぜられ、または情報を報告する役)に抜擢されました。1856(安政3)年将軍家と篤姫との縁談はようやく急進展、斉彬は近衛忠凞簾中郁君(島津斉興養女)付で、郁君死後尼となっていた得浄院を還俗させて篤姫付老女(幾島)とし、江戸へ呼び寄せました。幾島については「女丈夫とかいへる類にて、心逞敷膽太とき本性」と評される女性で、顔に大きな瘤がある異相の持ち主であり、みな陰では「瘤々(こぶこぶ)」と呼んでいたそうです(安政4年12月14日「西郷より後宮往復の密書呈覧」中根雪江「昨夢紀事」二 日本史籍協会叢書 東大出版会)。中根雪江は越前藩主松平慶永の腹心だった人物です。
後に西郷は「おいどんが珊瑚、鼈甲、陶磁器、金銀細工の装飾品に至るまで鑑識に長けているのは、その昔篤姫こと天璋院様が入輿の折、調度品一切の御用達を命じられたとき覚えたのでごわす」と述懐しています(島津隆子「篤姫と和宮」芳即正「前掲書」)。

敬天愛人―メインコンテンツー西郷隆盛の生涯

同年4月4日京都近衛邸で篤姫を養女とする結定式が行われ、7月篤姫を近衛家養女とする幕府の許可が下されると、篤姫は「敬子(すみこ)」と改名しました。篤姫は同年11月11日江戸城に入り、同月19日納采(結納)の儀が行われ、同年12月18日婚儀がとりおこなわれました(「温恭院殿御実紀」安政3年12月18日条 「続徳川実紀」)。江戸城大奥にはすでに家定生母本寿院(家慶側室みつ)とお志賀(家定側室)がいました。

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む8

 1856(安政3)年7月21日(西暦8月21日)アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは日米和親条約により開港された下田に入港、このとき条約第11条の解釈をめぐって日米間に紛議(「日本遠征記」を読む16参照)を生じましたが、ハリスは玉泉寺に総領事館を開設、翌年10月21日(西暦12月7日)ハリスは幕府の反対を押し切って江戸城で将軍家定との謁見を実現しました(「大日本古文書・幕末外国関係文書」之十八 35号文書)。
 このときの将軍家定の挙動をハリスは次のように述べています。「ここで私は言葉を止めて、そして頭を下げた。短い沈黙ののち大君(たいくん・将軍)は自分の頭を、その左肩ををこえて、後方へぐいっとそらしはじめた。同時に右足をふみ鳴らした。これが三、四回繰り返された。それから彼は、よく聞こえる、気持ちのよい、しっかりした声で、次のような意味のことを言った。『遠方の国から、使節をもって送られた書翰に満足する。同じく、使節の口上に満足する。両国の交際は永久につづくであろう。』」(ハリス「日本滞在記」下 岩波文庫) 日本側史料(上掲 35号文書)では将軍家定の答辞は「遠境之処以使節書翰差越、令満足候、猶幾久敷可申通、此段大統領へ宜可申述」となっています。
 この将軍家定の動作について日本側記録(進士慶幹校注「旧事諮問録」上 大奥の事 岩波文庫)には「問 十三代(家定)は御癇癖があったそうですな。 答 さよう、御癇癖があったのでのでございます。しかしあまり困るような事ではございませぬ。ただ首を振る癖がありました。」と記述されていることが参考になります。この後ハリスは老中堀田正睦(下総佐倉藩主)に通商開始の必要性を力説し、通商条約調印を迫ったのです(「維新史料綱要」巻2)。

日米交流―通商条約と内政混乱

 一方病弱であった将軍家定に嗣子を得ることができないことは明らかであったため、1857(安政4)年6月老中阿部正弘死去後の翌年正月ころから将軍継嗣問題が烈しさを増してきました。次期将軍候補者は水戸徳川家出身の一橋慶喜(よしのぶ)と紀州徳川家の慶福(よしとみ)で、一橋慶喜を推す一橋派には慶喜の実父水戸藩の徳川斉昭、越前(福井)藩主松平慶永(春嶽)、薩摩藩主島津斉彬があり、徳川慶福を推す南紀派には老中堀田正睦(後一橋派に転向)、彦根藩主井伊直弼、新宮藩主水野忠央(紀州藩付家老)らが居ました。
 篤姫が御台所となると、彼女を一橋慶喜擁立に利用しようという動きも起こりました。斉彬も篤姫に将軍継嗣問題を説明し、機会を見て家定に働きかけるよう指示していましたが、篤姫があまり積極的に動くのは得策ではないとおもっていました。それで篤姫に従って大奥に入った幾島が中心となって大奥工作を進めたのです。斉彬の腹心西郷吉兵衛は松平慶永の家臣橋本佐内に篤姫を通じて大奥で慶喜擁立の工作をすると伝え、薩摩藩邸の老女小野島を通じて篤姫付の老女幾島に連絡をとりました。
 将軍継嗣の決定には将軍家定の意向がもっとも重視されますが、彼の意見に大きな影響力をもつのは生母本寿院です。大奥には水戸嫌いの風潮が強く、本寿院は一橋慶喜を将軍継嗣とすることに絶対反対で、家定を養育した歌橋も同意見で紀州擁立に傾いていました。

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む9

 1858(安政5)年正月5日幕府はハリスに60日以内の通商条約調印を約束、条約勅許奏請のため老中堀田正睦を上京させましたが、同年3月20日朝廷は条約調印は御三家以下諸大名の意見を奏上した後、再び勅裁を要請すべしとの勅諚を堀田正睦に示し、条約勅許は得られませんでした(「維新史料綱要」巻2)。
 かくして同年4月23日将軍家定は彦根藩主井伊直弼を大老に任命(「温恭院殿御実紀」安政5年4月23日条 「続徳川実紀」)、同年6月19日幕府は江戸湾碇泊の米艦上でハリスと日米修好通商条約および貿易章程を無勅許で調印(「維新史料綱要」巻2)しました。同条約はアメリカ合衆国に領事裁判権を与え、関税自主権なしの不平等条約です。つづいて同年6月25日将軍家定は継嗣を紀州藩主徳川慶福に決定(「温恭院殿御実紀」安政5年6月25日条「続徳川実紀」)しました。

小さな資料室―資料177 日米修好通商条約(付・貿易章程)

国際法を学ぼうーQ&AコーナーーQ49・50

 同年7月6日将軍家定死去(「維新史料綱要」巻3)、つづいて7月16日島津斉彬死去、死去の直前かけつけた久光に、久光かその子忠徳(茂久・忠義)を斉興に伺い後継者と定めよと遺言しました(芳即正「島津斉彬」吉川弘文館)。8月29日篤姫は落飾して天璋院と称しました。同年7月21日徳川慶福は家茂(いえもち)と改名(「維新史料綱要」巻3)、同年10月25日将軍宣下(「公卿補任」)、天璋院は将軍養母として江戸城大奥の中心となったのです。

よろパラ 文学歴史の10−日本史人物列伝―とー徳川家茂

宮尾登美子「天璋院篤姫」を読む10

 1858(安政5)年6月24日前水戸藩主徳川斉昭らは江戸城中で条約無勅許調印につき、大老井伊直弼を詰問(「維新史料綱要」)、同年7月5日幕府は徳川斉昭を謹慎、徳川慶恕(慶勝・尾張藩主)・松平慶永を隠居・謹慎処分(「温恭院殿御実紀」「続徳川実紀」)とし、同年9月7日元小浜藩士梅田源次郎(雲浜)を京都で逮捕、以後吉田松陰・橋本左内ら志士が続々と逮捕され、いわゆる安政の大獄が始まりました(「維新史料綱要」)。
 このような幕府の反対派弾圧に対して、1860(万延1)年3月3日大老井伊直弼は桜田門外で水戸浪士らの襲撃を受け惨殺されました(「水戸藩史料」・「維新史料綱要」巻3)。

東京紅団―テーマ別散歩情報―明治維新シリーズー桜田門外の変を歩く(1)(2)

 桜田門外の変後、弱体化した幕府は公武合体による政情安定の具体策として同年4月1日付の老中連署奉書で皇妹和宮降嫁を関白九条尚忠に申し入れ(「維新史料綱要」巻3)、九条尚忠は同年5月1日孝明天皇にこれを奏上しました。和宮はすでに有栖川宮熾仁親王と婚約が成立しており、天皇は降嫁請願を2度却下、和宮も生母観行院(典侍橋本経子 権大納言橋本実久の娘)も承諾しませんでした。
 しかし幕府は使節を京都に派遣して観行院と和宮伯父橋本実麗を説得、また和宮降嫁を条件として攘夷決行を幕府に約束させようとしていた岩倉具視も孝明天皇に和宮降嫁を許可するよう働きかけました(「和宮降嫁ノ件勅問ニ付具視意見書ヲ進覧スル事」多田好問編「岩倉公実記」上 明治百年史叢書 原書房)。
 同年8月15日和宮は将軍家茂との婚姻にあたり、5箇条を条件に降嫁を内諾、同月18日孝明天皇は条約破棄・公武の融和を条件に和宮降嫁勅許を関白九条尚忠を通じ幕府に内達しました(「維新史料綱要」巻3)。また和宮要請の5箇条にそって、孝明天皇から幕府への要望があり、それは12箇条の趣意書(宮内省先帝御事蹟取調掛編「孝明天皇紀」第三 万延元年10月6日条 吉川弘文館)として通達されました。その中には身辺を「万事御所風」にすることという箇条もありました。同月26日有栖川宮家は和宮お輿入れ延期という事実上の婚約解消を願い出る形式をとらされました(「維新史料綱要」巻3)。
2009-07-01 12:08 | 記事へ | コメント(0) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇  3) |
2009年05月10日(日)
「日本遠征記」を読む11〜「日本遠征記」を読む20
ペルリ提督「日本遠征記」を読む11

 ペルリ提督は琉球にいる多数の日本代官とその密偵とが、琉球において発生したあらゆる出来事に注意し、帝国(日本)政府に報告しようと常に監視しているのをだしぬくために、艦隊中の帆船の幾艘かを江戸湾に出発させ、そのすぐあとから自分の汽船で続航し、先発船と合流するのが得策だと考えました。
 そこで1854年2月1日マセドニアン号がヴァンダリア号、レキシントン号及びサザンプトン号を率いて出帆、提督は同年2月7日サスクエハンナ号、パウアタン号及びミシシッピ号を率いて先発船の後を追いました。運送船サプライ号は翌日上海に向かって出帆し、同地で石炭及び若干の家畜を積み江戸湾で艦隊に合流するよう命令されていました。
 那覇を出発する以前、ペルリ提督はオランダ印度総督から、米大統領の親書受領後まもなく日本の皇帝が崩御された旨知らせがありました。日本当局者は長崎駐在オランダ商館監理官に対して、一定の葬送の儀式と帝位継承の手続きとを行うことが必要になり、そのため当分大統領親書についての審議が延期されることになったのでアメリカ艦隊がペルリ提督の定めた時期に江戸湾に帰航してくれるなという日本政府の希望を伝えてくれるよう繰り返し要求したのでした。提督はオランダ印度総督の通信に対し、皇帝崩御について哀悼の意を表しましたが、この通告のためにその計画の遂行を思い止まることはありませんでした。
 同年2月13日午後3時7隻から成る艦隊は浦賀町より12哩、首府江戸より20哩はなれた江戸湾西側の入り江に投錨しました(「維新史料綱要」巻1 安政元年正月16日条 参照)。政府御用船2艘がやってきて、役人の乗艦を許可されたいと要求したので、ペルリ提督は艦長アダムスに命じて旗艦パウアタン号に役人たちを迎えさせました。以後日本側と提督との間に繰り返された折衝は次のような内容でありました。
 役人たちは日本高官とペルリ提督会見の場所を浦賀もしくは鎌倉に指定しましたが、提督は艦長らを通じて浦賀も鎌倉も非常に遠く、港として危険であるから何処か他の場所、もっとも望ましい江戸を選ぶべしと主張しました。また来る2月22日水曜日はワシントンの誕生祭であるから礼砲を発射すると日本側に通告し、同日正午礼砲を発射しました。さらに2月24日提督は艦隊を檣頭から江戸が見える地点まで移動させて、日本側に無言の圧力をかけたのです。
 2月25日アメリカ側既知の香山栄左衛門がやってきて、提督が自分の目的を変えず江戸のもっと近くに近づこうとしていることを知ると、彼は突如として先に提出した日本委員の会見地に関する最後通牒を廃棄し、当時艦隊が停泊していた場所の真向かいに当る横浜村にすぐ近い一地点を提案しました。
 提督は自分の部下の士官が栄左衛門に従ってその地点に赴き、適当であることを見出したので、栄左衛門の提案に同意する旨林大学頭(復斎)に書翰を送りました(「維新史料綱要」巻1 安政元年2月朔日条 参照)。

母を訪ねて300