司馬遼太郎「功名が辻」を読む7
四国・北陸の制圧以後秀吉が甥秀次に近江八幡山城主43万石を与えると、若く失敗がめだつ秀次を補佐するために数人の古参家臣を秀次付に任命しました。1585(天正13)年閏8月一豊は2万石を領有する大名として再び長浜城主となり、秀次補佐役を命ぜられました(「御武功記―一豊公紀―山内家史料」)。こうして立身を遂げた一豊は同年11月29日の長浜大地震(「宇野主水日記」)で6歳の娘与禰(よね)を失い(「御家中名誉―一豊公紀―山内家史料」)、夫妻は悲嘆の底に沈みました。このことをきっかけに一豊夫妻は美濃瑞龍寺の南化和尚(妙心寺大通院開基)について参禅し、法華宗から禅宗へ宗旨変えしたといわれます。1586(天正14)年には一豊の母(法名 法秀院)が死去しました(「一豊公紀―山内家史料」)。法秀院の墓といわれるものが滋賀県米原市宇賀野に現存しています。
米原市―観光ナビー功名が辻ー山内一豊公の母(法秀院)
1587(天正15)年秀吉は九州の島津氏征討に赴きましたが、山内一豊は留守居役であった秀次側近として九州遠征には不参加でした。この年一豊は聚楽第普請役を務め、同年正五位下対馬守に叙任されています(「一豊公紀―山内家史料」)(「夢のまた夢」を読む14参照)。
千代は裁縫が上手で能筆でもありました。一豊の長浜在城のころ、唐織の巻物の切れ切れを継ぎあわせて小袖に仕立てたものを一豊が親しい人々へ見せると、これは秀吉公へも上覧に入れるよう勧められ、差し上げたところ、秀吉はその出来栄えに感心し聚楽第出仕の面々にも小袖を見物せよと仰せ付けられ、以後禁裏(宮中)へ献上したとのことです(「一豊公御武功附御伝記」)。
Kimono Hudoki―きものの歴史―江戸時代の小袖
この年長浜城下で千代に拾われた男子があり、拾(ひろい)と名づけられ一豊夫妻に育てられました。後には養子(後継)にしようと一豊にすすめたのですが、一豊は承知しなかったので、千代は拾を出家させ、1596(慶長1)年妙心寺南化国師の弟子となって湘南と名乗りました(「旧記」)。また一説に、一豊には妾がいて男子が生まれたのに、夫人に隠していました。ところがいつしか夫人の知るところとなり、彼女はある日仏寺参詣の帰途妾の生んだ子を捨て子として連れ帰り、自分には子がないから、この子を養育したいと申し出ましたので、一豊はこれを認めました。この子がのちの湘南であるといわれています(「山内一豊夫人若宮氏伝」大日本史料第12−3慶長10年9月20日条)。
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司馬遼太郎「功名が辻」を読む8
1590(天正18)年後北条氏征服戦では秀次指揮下に伊豆山中城攻撃に参加しました。同年9月20日遠江掛川城主となり遠江榛原・佐野二郡5万石を領する大名に取り立てられました(「御手許文書―一豊公紀―山内家史料」)。このとき一豊と同じく秀次補佐役であった中村一氏は駿府城主17万石、堀尾吉晴は浜松12万石、田中吉政は岡崎城主約6万石となり、いずれも関東へ移封した徳川家康を監視牽制する役割を担ったものと考えられます(「夢のまた夢」を読む15・16参照)。
掛川市―観光・ロケ―中部エリアー掛川城
1592(天正20)年正月5日秀吉は朝鮮を経て明国に出兵しようとし、諸将に出陣を命令しました。すでに関白職を秀吉から譲られていた秀次は京都留守居役となり、山内一豊らは京都駐留として朝鮮に出陣することはなかったようです。
1595(文禄4)年7月秀次は謀反の疑いをかけられ、秀吉は同月8日山内一豊ら5人の使者を聚楽第に派遣、秀吉との意思の疎通をはかるため伏見にくるよう説諭しました。
しかるに秀次がこれに応じて伏見に赴くと、秀吉はもはや秀次と会わず、命じて高野山で切腹させました(「夢のまた夢」を読む18参照)。一豊はこのとき使者を務めた功績により、秀次の遠江蔵入約16000石のうち8000石が加増されました(「一豊公御武功附御伝記」)。
1597(慶長2)年4月徳川家康・秀忠が上洛の際山内一豊の掛川領内で丁重な接待を受けたことを感謝する家康の礼状が送られました(「御手許文書―一豊公紀―山内家史料」)。このように一豊は秀次死後急速に徳川家康に接近したもののようです。
翌年秀吉が死去すると石田三成らと徳川家康らの対立が激化、1600(慶長5)年家康は大坂城を出発、石田三成と気脈を通じる上杉景勝討伐に向かいました(「徳川家康」を読む18参照)。一豊もこの徳川軍に参加していましたが、彼は家康より先に伏見を出発して掛川城に帰り、同年6月24日江戸に向かう家康を遠江国佐夜(小夜)の中山(静岡県掛川市)で迎え、茶亭を設けて昼食の接待をしています(「御代々記―一豊公紀―山内家史料」)。」)。
掛川市―観光・ロケ―山内一豊・千代と掛川―山内一豊ゆかりの史跡―久延寺茶亭跡(小夜の中山)
同年7月21日家康は江戸城を出発、24日には下野小山に到着しました。その直後伏見城の鳥居元忠から石田三成の伏見城攻撃が近く開始されるとの報告がもたらされたので、家康は諸将に対して小山で軍議を召集すると通告しました(「徳川家康」を読む19参照)。
司馬遼太郎「功名が辻」を読む9
すでに一豊は千代を守るために家臣の市川山城(信定)を駿河の鞠子(まりこ)から大坂へ派遣しました(「高知県史」近世篇 高知県)。彼は熱田神宮の神官に変装していましたが近江の水口で長束正家方の者に捕らえられても、機転をきかして脱出、大坂で千代の護衛にあたりました。しかし大坂城内から増田長盛・長束正家連署の書状が千代の許に届き、大坂方に味方すべきことを勧告されていました。石田三成方に細川邸が襲われ、ガラシャ夫人が最後を遂げたとき、千代も一時自害を決意したようですが、市川山城の諌めで思いとどまり、一豊に宛てた書状と増田長盛らの書状を文箱に収め、他に自らの見解を述べた書状を認め、文箱と他の一豊宛ての密書を編笠の緒にするよう命じ、家臣の田中孫作に託して一豊の許へ届けさせました。
深夜田中孫作が一豊の陣所に到着して門をたたくと、一豊は近侍していた谷川庄五郎(元次 後に七左衛門と改名)に命じて孫作を引見し、「笠の緒の文」を読んで焼却させ、文箱は開かず、そのまま使者に持たせて小山にいた家康の許へ提出させました。文箱に収められた一豊あての夫人の手紙の内容は大要次のようなものであったそうです。「老中奉行達俄かに反逆を企て、人数催促の廻文来たり候程に、田中孫作に持たせ差し下し候。常々の御志に候へば、申すもいかがに候へども、上様へ能々忠節遊ばされ候へ。構へて構へて我身の事、御心苦敷思召され間敷候。叶はぬせんには自害を遂げ、人手には懸り候まじ。」(山本大「前掲書」)。家康の命により直ちに家康の本陣に赴いた一豊に対し、家康は大坂城内の動きを詳細に知ることができ、且つ一豊夫人の手紙により、彼女の決意を知って感動した旨を述べたようです(「御家伝并御武功記」「谷川氏記録」「田中孫作先祖覚書」)。
司馬遼太郎「功名が辻」を読む10
1600(慶長5)年7月25日小山において開かれた軍議(「徳川家康」を読む19参照)において上方の逆徒退治を優先する方針が決まると、一豊は「西上の際、自分の居城を明け渡して兵糧を提供し、人質を出して二心のないことを明らかにしたい。」(「鶴頭夜話」)と申し出て諸将も賛同し、東海道筋に居城をもつ者はみな城を家康に明け渡すことになり、家康を感激させました。しかしこれは一豊の発案ではなく、浜松城主堀尾忠氏の意見であったといわれます(「藩翰譜」)。
やがて始まった関ヶ原の戦い(「徳川家康」を読む20参照)において一豊は他の諸将らとともに南宮山に陣を構えた毛利秀元・吉川広家・長束正家・安国寺恵瓊・長宗我部盛親らの軍勢と対峙して垂井近辺に軍を展開していました。吉川広家は家康に内応しており、むしろ西軍の諸将を牽制しようとしていましたし、南宮山は主戦場から離れていたこともあって、一豊は関ヶ原の戦いにおいてめざましい戦功はあげられなかったのです(「一豊公紀―山内家史料」)。
家康は同年9月27日大坂城に入ると井伊直政ら6人の武将に諸将の関ヶ原の戦いにおける勲功を定めさせ10月15日に封地の授与を発表しています。一豊の封地授与もおそらくこのとき内示があったのではないかと思われますが、正式には11月にはいり、榊原康政を通じて土佐一国20万石余授与を申し渡されました。このとき家康は「山内対馬守の忠節は木の本、其外の衆中は枝葉の如し」(「御武功記」)といい、大坂でみずから茶をたててもてなしたといわれます。
土佐を支配していた長宗我部盛親は関ヶ原の戦いに敗れて土佐に逃げ帰り、井伊直政を通じて家康に謝罪したのですが、家康はこれを許さず、井伊直政に土佐浦戸城を受け取って山内一豊に渡すよう命じ、直政は家臣鈴木平兵衛らを城受け取りのため土佐に派遣しました。一豊もこのころ弟康豊らを土佐に行かせています(「御手許文書」)。康豊は土佐入国後同年11月27日安芸郡吉良川(室戸市)の大畑弥右衛門と百姓あてに「急度(きっと)申し遣わし候。今度土佐国対馬(一豊)拝領申さるるに付き、先へ相越し候。然る処に浦戸城渡しの儀、遅延せしむる故か、在々所々の百姓山中へ隠れ在るの由に候。然れば当国法度の事、衛門太郎殿(長宗我部盛親)御置目の如く申し付くべく候間、又々在所へ立ち還ること尤に候。」という文書を遣わし、山内家は長宗我部氏の法度を尊重する方針を表明しました(「御手許文書―一豊公紀―山内家史料」)。
)。しかし一領具足(長宗我部支配下の2〜3町ほどの土地をもった在郷武士)たちは武力で抵抗(浦戸一揆)し、長宗我部家の宿老たちはこれを鎮圧、同年12月5日鈴木平兵衛らは浦戸城の接収を完了したのでした(「土佐国蠧簡集」―「高知県史」古代中世史料篇 高知県)。
風雲戦国史―地方別武将家の家紋と系譜―中国/四国の武将―高知県―長曽我部氏
明石海峡大橋北南―「功名が辻」関連共同ブログーCATEGORIES―高知―一豊の一領具足鎮圧法
司馬遼太郎「功名が辻」を読む11
山内一豊は1600(慶長5)年末大坂を出帆、翌年正月2日甲浦(かんのうら)に上陸、正月8日浦戸城に入りました(「御家伝記―一豊公紀―山内家史料」)。1601(慶長6)年3月1日一豊入城の祝賀行事として桂浜で相撲大会を開催し、国中の相撲上手が集まったので大変な人気でした。しかるに一豊はあらかじめ浦戸一揆に加わった一領具足や庄屋らを調査し、相撲大会参加者の中73人を捕らえて種崎浜で磔刑にする弾圧を強行しています(「御武功記―一豊公紀―山内家史料」)。
同年4月1日一豊は康豊とともに領内視察のため、老臣を随行させて土佐7郡を巡視、万事長宗我部氏の旧慣に準拠することを申し渡しました(「南路志―一豊公紀―山内家史料」)。同年6月康豊に幡多郡中村2万石(「南路志」)、8月深尾重良に高岡郡佐川1万石、山内一吉に同郡窪川5000石、山内可氏に幡多郡宿毛7000石、山内一照に長岡郡本山1300石、五藤為重に安芸郡土居1500石を各々分封しました(「一豊公紀―山内家史料」)。
浦戸城は水軍の基地としては便利ですが狭い土地で、近世大名として広大な城下町を建設することはできません。大高坂山は湿地帯という欠点がありましたが、治水工事に成功すればほぼ国の中央に位置し、水陸交通の要衝で土佐国の首都として理想的でした。一豊は同年6月大高坂山に新城建設を決定、築城総奉行に百々(どど)越前守安行(谷口克広「織田信長家臣人名辞典」吉川弘文館)を任命しました。
百々越前守は近江国犬上郡百々村出身ではじめ織田信長に仕え、本能寺の変後秀吉の命により、美濃岐阜城主織田秀信(信長の孫)に仕えましたが、関ヶ原の戦いにおける岐阜城陥落後牢人となり、京都にいた彼を一豊が7000石で召抱えたのです。その理由の一つは百々越前守安行が濃尾平野の低湿地に多い輪中堤の技術を新城建設に導入させることを期待したからでしょう。事実としてのちの高知は幾重もの堤防に守られ、輪中のようになっています(平野明夫「土佐への転封とその治世」小和田哲男編「山内一豊のすべて」新人物往来社)。
1603(慶長8)年8月新城の本丸・二の丸が完成したので、一豊は入城し、新城の地名は大高坂山から河中山(こうちやま)と改称されました。しかしその後度々の水害に悩まされたので、河中の字を同音の高智山(のち高知と改名)と改名しましたが、これは一豊死後のことです(「御家伝記」大日本史料第12−1慶長8年8月21日条)。
同年11月山内一照に分封した長岡郡本山地方の長宗我部遺臣高石左馬之助が支配下にあった農民とともに反乱を起こした本山(滝山)一揆が勃発しました。山内一照は援軍を受けてやっとこれを鎮定しましたが、百姓の逃散により無人の荒野となったところも多く、山内家は一揆に参加した百姓の罪を許して帰村させたといわれます(「滝山一揆覚書―一豊公紀―山内家史料」)。しかしこの一揆が山内家の土佐支配に対する最後の抵抗となりました。
まさるマニアー岡豊城―滝山一揆
司馬遼太郎「功名が辻」を読む12(最終回)
山内一豊が徳川政権成立後に世子としたのは弟康豊の長男国松(のち忠義)でした。国松は1592(文禄1)年遠江掛川で生まれ、1605(慶長10)年4月17日家康の養女阿姫(家康の異父弟松平定勝の二女)と結婚(「高知県史」近世篇)、のち秀忠の一字を与えられて忠義と改名しました。
この直後同年9月20日山内一豊は死去し(「大日本史料」第12−3慶長10年9月20日条)、真如寺山(高知市)へ葬られました(後、筆山に改葬)。法名は大通院殿心峯宗伝で、一豊生前すでに南化玄興国師から与えられていたそうです。
よいよい写真館―土佐の歴史散歩―山内氏関係―墓所―山内家墓所
お城と温泉と文学の旅―司馬遼太郎を歩くー功名が辻―高知編(中)
一豊夫人千代は夫が死去した翌日妙心寺住持単伝士印から見性院の法名を受けました。やがて1606(慶長11)年土佐を去って伏見に赴き、同年6月13日京都桑原町の新居が完成するとここへ移転しました。約10年後病気からの再起ができないと知って、千代は日常愛読していた「古今和歌集」や「徒然草」などを形見として忠義に与え、京都桑原町の邸宅も遺産として忠義に贈り、与えられていた隠居料1000石のうち800石は義子の湘南和尚に相続させることとし、1617(元和3)年12月4日死去しました(「旧記」大日本史料第12−3慶長10年9月20日条)。夫人の遺骸は妙心寺大通院で荼毘にふした後埋葬されたとのことです。
京都あちらこちらー洛中ー以前の記事―2006年3月―妙心寺大通院(3/15)
田端泰子氏は千代について「現在使われている『内助の功』は、夫が外で働き、妻は家庭にいるという性別役割分担のなかで、夫の社会的活動の支えになることを、この言葉で呼ぶ。…戦国時代には妻も夫も一緒に智恵を働かせ、…時代の変化に対応する手だてを考えたのであり、…妻は夫のパートナーであると同時に、夫のよき代理者でもあった、というのが戦国期の夫婦の実態であった。そのため『内助』の意味は現代とは大きく異なっていたといえる。」(田端泰子「前掲書」)と述べています。
堀田善衛「海鳴りの底から」を読む1
堀田善衛「海鳴りの底から」(大活字本シリーズ 埼玉福祉会)は島原の乱を扱った小説で、1960(昭和35)年から翌年にかけて「朝日ジャーナル」に連載されました。
肥前島原地方の領主有馬氏は鎌倉時代の建保年中肥前国高来郡有馬に築城、有馬氏を称するようになりました。室町時代に在地領主として成長、有馬晴信の時代戦国大名として最盛期を迎えました。1582(天正10)年晴信はキリシタン大名として大友義鎮(宗麟)・大村純忠とともに、ローマ教皇の許へ少年使節を派遣したことで有名です(「下天は夢か」を読む19参照)。
1587(天正15)年秀吉の九州出兵により、その支配下に入り本領を安堵されました。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは、はじめ西軍に属しましたが、やがてその子直純を加藤清正による小西行長の宇土城攻撃に参加させ、無事徳川政権下に生き残ることができたのでした。有馬氏の居城は日野江城と原城です(「寛政重修諸家譜」巻第745)。
風雲戦国史―地方別武将の家紋と系譜―九州の武将―長崎県―有馬氏
お城めぐりFAN―九州・沖縄―日野江城―原城
キリシタン大名有馬晴信は厚くキリスト教を保護し、その教えを理解しようとしない者は領内から追放するよう命じました。宣教師たちは仏像を破壊し、焼却することも躊躇しなかったのです(ルイス・フロイス・松田毅一・川崎桃太訳「日本史」西九州篇U第43・44章 中央公論社)。しかし晴信は岡本大八事件(「徳川家康」を読む23参照)に連座、自殺させられました。
晴信の子直純が後継者となると島原地域ではキリスト教禁教の布告が出されました。しかし領民の棄教に反抗する一揆に直面すると直純は再びキリスト教信仰を認め(1612年10月10日ルイス・セルケイラ書簡『イエズス会と日本』二 大航海時代叢書第U期7 岩波書店)、1614(慶長19)年の幕府禁教令によりまた島原地域に禁教を命ずるなど、その政策は一貫性を欠く有様でした。長崎奉行長谷川藤広の報告を受けた幕府は有馬直純の日向転封を命じました。かくして直純は家臣の大半を連れて日向延岡に赴いたのですが、牢人として島原に残った者たちの中から乱の中心的指導者がでることになり、これが島原の乱の特徴の一つとなるのです。
堀田善衛「海鳴りの底から」を読む2
有馬直純が日向へ去った後、1616(元和2)年松倉重政が島原の領主として入部してきました。松倉氏は大和国筒井家の家臣でしたが、筒井定次が伊賀に転封された後、松倉氏は伊賀国において八千石を知行していました。関ヶ原の戦いで東軍に味方して、大和国二見五条の領主となり、大坂夏の陣の功により肥前日野江四万石を与えられたのです(「寛政重修諸家譜」巻第1125)。元和の一国一城令により、1618(元和4)年重政は有馬氏の日野江城と原城を廃して島原城の築城を開始しました。日野江城と原城を拠点とすることは農村に土着した旧有馬家牢人たちを通じて農村を支配することになるので、有馬氏の城を捨ててあらたに島原城を中心とした松倉氏の直接農村支配体制をつくろうとしたといえるでしょう。この工事は1625(寛永2)年まで続き、住民の重い負担となったことは明らかです。
風雲戦国史―地方別武将の家紋と系譜―近畿の武将―奈良県―松倉氏
お城の旅日記―九州のお城―長崎―肥前―島原城
すでに幕府の禁教令が発せられていたにもかかわらず、重政は1622(元和8)年まで半ば公然とイエズス会宣教師の活動を容認していました。しかし彼は1625(寛永2)年江戸に赴いた際、幕府から禁教の不徹底を指摘されて激烈なキリスト教弾圧にふみきりました(深谷克己 X島原の乱 「日本民衆の歴史」3 三省堂)。
たとえば同年キリシタンからの改宗を拒んだ7人が温泉山(雲仙岳)の「地獄」に沈められました。1627(寛永5)年には有家村の住民207人が以前改宗したことを後悔し、改宗する旨を認めた書面を取り戻しに島原へいったとき、権左衛門以下7人は竹鋸で首を挽かれるという残酷な刑罰を受けました。他のものは拷問に耐えきれず転んだ(改宗)のですが、吉兵衛だけは転ばなかったため、権左衛門以下7人と同じく首を挽かれたそうです(「肥前国有馬古老物語」―林銑吉編「島原半島史」上中巻 国書刊行会)。かくして松倉領の住民は寛永5年にみな改宗しました(「有馬記録」―林銑吉編「前掲書」中巻)。
堀田善衛「海鳴りの底から」を読む3
松倉重政が江戸城普請を命ぜられたとき「十万石の役(労役)をのぞみしかば、所領六万石になされ、十万石の軍賦(軍事的労役)をゆるさる」(「徳川実紀」寛永7年11月16日条 新訂増補国史大系第39巻 吉川弘文館)とあり、重政は石高の約1.65倍の負担を江戸幕府に申し出て、キリシタンの弾圧ともども徳川氏への忠誠を行動で示したのですが、この十万石の軍賦は島原民衆への過酷な負担要求となって現れたのです。
やがてもともと山地が多く耕地に乏しい島原・天草地域は深刻な飢饉に見舞われました。オランダ平戸商館長ニコラス・クーケバッケルは松倉重政の苛政について次のように記述しています。「新しい領主(松倉重政)は土地を耕作する人々にさまざまな税を課し、不可能な程多量の米を取り上げた。そしてこれに不足する者、或いは命令を守ることが出来ない者は、長く広幅の干草で作り、日本人が蓑と呼ぶ、船頭や田舎の人々が雨の時に使う、もじゃもじゃの外套を首から胴まで巻きつけてかけ、手を後にしっかりしばりつけた後、この藁の外套に火をつけた。このため焦げるだけではなく、或る人々は完全に燃えつきてしまった。また或る人は自ら頭を地に打ちつけ、或いは水に飛込んで生命を絶った。この蓑の悲劇は、今日でも蓑踊りと呼ばれている。」つづいてクーケバッケルは松倉勝家(重政の子)が「領民には取れる限りの税を課し、彼等は殆ど餓死寸前で、僅かに木の根、草の根で生命を保っていた。」と日記に書きました「ニコラス・クーケバッケルの日記」1637年12月17日条(永積洋子訳「平戸オランダ商館の日記」第四輯 岩波書店)。
また島原の乱当時、大村の牢獄につながれていたポルトガル人ドアルテ・コレアは奉行長門守(松倉勝家)の虐政について見聞したことを次のようにのべています。「農民は毎年貢物として米と小麦と大麦を納めた。さらに煙草一株につき税としてその葉の半数を取られた。もしそれが無い場合茄子一株について実何個と割り当てる。納められない人々には迫害が加えられ、その妻を取り上げられた。たとえ妊婦でも容赦なく凍った水中に投ぜられ、そのために生命を失う者もすくなくなかった。」(「ドアルテ・コレア島原一揆報告書」長崎県史 史料編第三 吉川弘文館)
堀田善衛「海鳴りの底から」を読む4
1588(天正16)年佐々成政切腹(「夢のまた夢」を読む14参照)以後肥後天草
は小西行長に与えられ、彼は宇土城を築城しました。加藤清正も肥後半国を与えられ隈本城に入り、熊本城を築いて隈本を熊本と改めました。
阿蘇ネットワーククラブー天草の神社―天草の地理、歴史そして人々―熊本の歴史
戦国放題こたつ城―更新終了―戦国時代一覧―小西行長
小西行長が有馬晴信とともにキリシタン大名であったことは有名です。彼の統治下でキリシタンへの改宗が強力に進められ、神仏の偶像が、あるものは鼻をそがれ、あるいは首を切られ、また足蹴りにされました。他方仏僧の中には斬首刑に処せられるものもあり、首は地中に打ち込まれた杭の上に曝され、遺体も首のまわりに経本とともにつるされたのです(「1590年度・日本年報」松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第T期第1巻 同朋舎)。
小西行長は1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで石田三成方の西軍について敗死しました。寺沢広高は秀吉に仕え肥前国唐津8万石を領有する大名で、関ヶ原の戦いにおいては大谷吉継を撃破した戦功により1601(慶長6)年肥後国天草郡4万石を加封され、旧領をあわせて12万石を領有するようになりました(「寛政重修諸家譜」巻第651)。
お城の旅日記―九州のお城―佐賀県のお城―唐津城―熊本県のお城―富岡城
寺沢広高はキリシタン大名ではありませんでしたが、十数年に及ぶ小西行長のキリシタン保護政策によるキリスト教勢力伸張の既成事実を無視していきなり禁教政策を徹底させることはできなかったようです。従って天草領有当初はイエズス会宣教師やキリシタンに冷淡であったが、やがて広高は「伴天連方の手に予の島々を渡しドン・アゴスチイノ(小西行長)の頃と同じ自由をもって、何らの不安も妨げもなしにかのキリシタンたちの教化にあたっていただくことを決意した」(「1601、02年の日本の諸事」松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第T期第4巻 同朋舎)と言明したようです。しかし1604(慶長9)年彼はキリシタン迫害を開始しましたが、また黙認する(「1605年の日本の諸事」松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第T期第5巻 同朋舎)などその宗教政策は島原における有馬直純同様一貫性に欠けていました。
幕府の禁教令をうけて寺沢広高もキリシタン迫害に踏み切りました。天草諸島の各地で司祭が追放されていきましたが、それでもなお天草各地には潜伏する宣教師がいてキリシタンの数も多く厳重な取り締まりなどできる状況ではなかったようです。
天草で大規模なキリシタン迫害がはじまるのは1629(寛永6)年ころで、寺沢広高は志岐(下島)の富岡城城代に三宅藤兵衛重利(元キリシタン)を任命しました。三宅重利は家臣の改宗を強制し、富岡をはじめキリスト教を根絶するため拷問などを用いて迫害を強行しました[「1628(寛永5)、1629(寛永6)、1630(寛永7)年に日本の各地でキリスト教の信仰に対して起こった迫害の記録」(今村義孝「近世初期天草キリシタン考」天草文化出版社)]。
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