ニックネーム:さるしばい
「阿弥陀来迎図流転の謎」の自己紹介を参照して下さい。
ブログ引っ越しのご連絡
2016年02月10日(水)
           ブログ引っ越しのご連絡
 
 当ブログ読者の皆様。拙ブログをいつもご覧頂き、ありがとうございます。犬養道子「花々と星々と」を読む1〜40が終了いたしました機会に、来年1月のBLOGARI終了に伴い、当ブログは「はてなブログ」http://sarushibai.hatenablog.com/へ引っ越しを実施中です。
 下線部をクリックすると、引っ越し先ブログに接続します。引っ越しのためのインポートがうまくいかず、各ファイルごとに一つずつコピーしているために、とても時間と手間がかかりそうで、日本近代史のみの引っ越しにとどめますが、それでもおそらく引っ越し完了はBLOGARI終了と同じころまでかかりそうです。
 はじめ当ブログ引っ越し完了後に読者の皆様に「はてなブロク」のURLをお知らせするつもりでしたが、そんな訳でブログ引っ越し途中ですが、URLをご連絡申し上げることにしました。
 引っ越しと言っても旧記事そのままではなく、記事にリンクしたHPやBLOGで終了したものや、無関係になったものは、別のHPやBLOGに入れ替えました。またブログ本文も増補・訂正した箇所もあります。
 「はてなブログ」の扱い方については、私もまだ慣れていなくて、よくわからないところもあるのですが、「BLOG内検索」の箇所に「私の読書感想」と入力して検索すれば、これで引っ越し先ブログの最初の記事を読むことができます。以下「明治憲法下の天皇制と日本資本主義」、ペルリ提督「日本遠征記」を読む1〜10、11〜20とつづき、以下「BLOGARI」の内容とほぼ同様です。「BLOG内検索」に「阿弥陀来迎図流転の謎」と入力して頂けば、拙HPにリンクします。今後更新できるとすれば、「BLOGARI」ではなく、「はてなブログ」で行うことになります。なにかご質問がございましたら、「BLOGARI」でも「はてなブログ」でもどちらでもコメントできますので、ご利用ください。
 今後も当ブロクをご覧下さいますよう、お願い申しあげます。さるしばい
2016-02-10 05:36 | 記事へ | コメント(4) |
| ブログ引っ越しのご挨拶 |
犬養道子「花々と星々と」を読む31〜40
2016年01月31日(日)
犬養道子「花々と星々と」を読む31

 それが、椿の咲きつくして、桃や桜の咲く季節になると、再び開けられました。「なにィ、クモォ? 平気じゃい、平気じゃい。ヒヒヒ」脳のてっぺんから湧き出るような、甲高い声の人が谷間の部屋にやって来たからです。
 古島一雄(花々と星々と」を読む15参照)。正岡子規(「坂の上の雲」を読む5・7〜8参照)と、『日本及日本人』の雑誌編集室で一緒であった若き日を持つ彼は、護憲運動の陰の大役者でありました。犬養木堂の右の手よと、世に知られる人でした。
 彼は道子を孫のように可愛がり、且つからかったのです。「りんごの、一番うまいとこ、どこか知っちよるかい」「知らない」「そりゃな、皮と果肉(み)のちょうど、あいだよ。じいさんにそう言うて、皮と果肉の間をもろうて来い。ヒヒヒ!」
 他にもいろんな人が来ました。頭山満。彼にしたがう、仕込杖の壮士たち。李王殿下。久邇宮さま。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―とー頭山満

 けれどー道子が恐れていた人は来ませんでした。幸いにも四ツ谷のお祖母ちゃまは、蜘蛛の多い、だっだっぴろい、そしてお湯の塩っぱい熱海はおきらいなのでした。
 その祖母ちゃまの前では、茹でられた伊勢海老のように固くつっぱりかえる母が、碁盤を前にさし向う古島さんと祖父のわきでは、横坐りさえするのでした。甘ったれて、ねえおとうさま、こんやのおかず何にしたらいいかしらんねえ、なぞ言うのでした。
 「がんもどきでええよ、仲さん」「わしが干物を買(こ)うて来てやるよ、仲さん」祖父は母にやさしかったのです。
 道子はだんだんと元気になって行きました。古島さんが海べから、毎日バケツに汐を汲んで来て、「海水浴」と言って道子のゼロゼロ言う胸に塗ってくれました。 
 老人ふたりは彼女を、掌中の玉のごとくに扱いました。日光浴のかたわらで、祖父はせっせと蜜柑汁をしぼり、りんごを磨(す)りました。
 梅園そばの蜂園から取りよせた蜂蜜や、椿の大島から人にたのんで持って来てもらった蜂蜜を、祖父は丹念に、りんご汁にまぜ入れて、日光浴の彼女に飲ませるのでありました。
 半生を賭して、ついに議会を通過させ、めでたく陽の目を見させた普通選挙法が、全国の心ある人々をよろこばせたその直後、彼は政界を引退しました。
 観樹邸での日光浴の日々はまた、そのような彼の、悠々自適の閑日でもあったのです。
 若葉が、さしも広い観樹邸の、座敷の奥まで緑の色を流しこむころ、彼女たちはその邸に別れを告げました。

犬養道子「花々と星々と」を読む32

 1925(大正14)年孫文は北京にて死去、1929(昭和4)年孫文の陵墓中山陵が南京に完成すると、犬養毅は孫文移霊祭に招待されました(第4回中国訪問)。同年5月20日犬養は令息健、古島一雄、萱野長知らとともに東京発、翌日神戸から長崎丸で出港上海に向かいました。また頭山満一行及び故宮崎寅蔵(滔天)遺族一行も招かれています。

Weblio辞書―検索―萱野長知―宮崎寅蔵 

 犬養らは同月23日上海上陸、この夜上海市長張群は犬養一行のために盛大な歓迎会を開催、張群市長の挨拶があり、犬養が謝辞を述べ、ただちに通訳によって同席の中国人に伝えられました。同謝辞において犬養は次のように語っています。
「自分が孫君を援助したなどとは、洵(まこと)に心苦しき次第である。唯だ孫君とは東亜の大局に対し同じ目的を持って居った事と同じ境遇に居った為めに、互いに理解して扶け合ったに過ぎぬ。」 
 5月27日南京に到着、同月28日孫文の霊柩の到着を出迎えました。犬養は祭文を朗読、6月1日孫文の霊柩を城外の墓陵に奉安する儀式が挙行されました。

南京ツアーコンサルテイングー南京ガイドー南京旅行ガイドー中山陵

 6月3日夜犬養毅、頭山満ら一行は蒋介石の自邸に招待され、中国側は胡漢民、戴天仇(「花々と星々と」を読む30参照)らの要人が出席しました。6月4日南京発、揚州を経て上海着、6月8日海路青島に向かい済南より曲阜聖廟と孔子の墓に参拝、天津、北平(北京)に出て7月3日帰京しました。
 中国訪問後、犬養は再び信州富士見の白林荘で悠々自適の生活にもどったのですが、1929(昭和4)年8月22日早朝荘内散策中転倒して腰部を捻挫、病臥療養の身となりました。傷がようやく癒えて、同年9月25日帰京、つづいて湯河原の天野屋(「日本の労働運動」を読む47参照)別館の浴客となり、上記の如く急死した田中義一政友会総裁の告別式に臨んだ後も、引き続き湯河原で療養生活を送っていました。
 田中の死後、政友会内では鈴木(喜三郎)、床次(竹二郎)、中橋(徳五郎)、山本(条太郎 「花々と星々と」を読む38参照)、久原(房之助)ら後継総裁説が乱れ飛び、分裂しかねない情勢となっていました。よって10月7日政友会長老、顧問、前閣僚等は協議の結果、犬養毅を総裁に推戴することに決し、翌8日幹事長森恪は犬養を湯河原に訪問、総裁就任についての諾否の内意を伺ったのです。これに対して犬養は次のように答えたそうです(「東京朝日新聞」10月9日夕刊 鷲尾義直「前掲書」中 引用)。
 「自分は党の諸君の期待するやうには働けるとは思って居ない。若し党の現状に於て自分がこの老体を提して出ることが大局の上から必要であるといふことであれば、自分も政友会の一党員として党の為め最善を尽すべき大なる義務と責任があるのだから、此際謹んでお引受けしようう。」
 1929(昭和4)年10月12日立憲政友会臨時大会が党本部で開催され、犬養毅は第6代政友会総裁に推戴されました(小林雄吾「立憲政友会史」7 日本図書センター)。

日本漢文の世界―英傑の遺墨が語る日本の近代―作品リストー犬養毅(木堂)

 第57議会(1929:12.26開会、30.1.21解散)の休会明けの1930(昭和5)年1月20日、開催された政友会大会に於いて、犬養は政党の争いは政策を以ってすべきことを強調し、金解禁問題(「男子の本懐」を読む24参照)について大要次のように述べています。
 「金の解禁に対しては、勿論その趣旨に於ては賛成であるが、それを断行するには、その時期を見ることが必要であり、またこれに対する準備は欠くべからざる要点である。
 然るに現内閣は単に財政及び公私経済の緊縮のみを以て絶対の準備対策としたことは、我が経済界の将来にとって甚だ憂慮すべきことである。これが為めに全国都鄙全般に亙る不景気は益々深刻となり、失業者は日共に激増し、此の勢を以て進めば如何なる事態を醸成するか測り知れぬ趨勢である。先づこれが応急善後の対策を行うて当面の急を救ひ、不用意なる解禁の惨禍を出来得る限り緩和せしめることに努力しなければならぬと思ふ。」
 同年2月20日第17回総選挙の結果、民政党が第1党となり、政友会は第2党にとどまりましたが、第58議会(1930.4,23開会、5.13閉会)において犬養はロンドン海軍軍縮条約(「男子の本懐」を読む26参照)について、浜口首相をはじめとする閣僚に対して、つぎのように質問演説(要旨)しています。
 「第一ハ軍縮会議ニ於ケル結末デアリマス。是ハ総理大臣ノ御演説並ニ外務大臣ノ御演説ヲ承リマシテモ、是デ国防上ノ危険ハナイト云フコトヲ断定的ニ申サレテ居ルノデアリマス。所デ此兵力量ヲ以テ確ニ安全ニ国防ガ出来ルヤ否ヤト云コトニ付テハ、私共非常ナ疑ヲ持ッテ居ルノデアリマス。
 用兵ノ責任ニ当ッテ居ル(海軍)軍令部長ハ、回訓後ニ声明シタモノガアル、此声明書ニ依リマスト、七割ヲ欠ケタ米国案ヲ基礎ニシタ譲歩デアル、此兵力量デハドンナ事ヲシテモ国防ハ出来ナイ斯ウ断言致シテ居ルノデアリマス。国務大臣ハ軍事専門家ノ意見ヲ十分ニ斟酌シタト申サレテ居ル、併ナガラ軍事専門家ノ意見ト言ヘバ、軍令部ガ其中心デナケレバナラヌ、是デハ国民ハ安心出来ナイ。」
 また政友会の鳩山一郎は軍縮問題を内閣が云々することは天皇の統帥権の干犯(「男子の本懐」を読む27参照)に当たると浜口内閣を批判しました。
 1930(昭和5)年11月14日浜口首相は東京駅で狙撃され、翌1931(昭和6)年4月13日首相病状悪化のため浜口内閣が総辞職、4月14日第2次若槻礼次郎内閣が成立しました(「男子の本懐」を読む35参照)。

犬養道子「花々と星々と」を読む33

 鎌倉の住まいは由比ヶ浜近くにある四間ほどの安普請の貸家でした。「規則正しい」散歩と日光浴にきたえられ、道子はめっきり元気をとりもどしはじめました。弟も、魚やおまじりを喜んで食べるようになりました。
 しかしある夜。二階の寝室で眠っていた道子は突き抜けに階下から聞えて来るはげしい声で眼をさましました。ふいに、何かの投げられる音がしました。
「あなた、ほんとに変わったわ。知らない人だわ。あたし、子供つれて行きます……」
「まだわからないか。行くなら行け」階下はそのまましんとなりました。彼女はいつか、枕を抱きしめて声を忍ばせて泣いていました。1929(昭和4)年の10月のこと。
 今思えばそれは、四ツ谷のお祖父ちゃまが、急逝した田中陸軍大将のあとを受けて、政友会総裁になった(「男子の本懐」を読む22参照)直後のことでした。
  政友会は明治の終りに当時の民党野党の一部が割れて、長年の政敵伊藤博文(「伊藤博文と安重根」を読む1参照)公に降参して成った政党(「大山巌」を読む48参照)でした。野党ひとすじに生きたお祖父ちゃまにとっては、許しがたい存在でしたが、普選法の議会通過と共に、お祖父ちゃまは守りぬいた孤塁である革新クラブを政友会に明け渡し、自分だけは「節を守って」身を退きました。
 そんな因縁の政友会の総裁を、なぜ、晩節の時代に入るべき老人が引き受けたのでしょう。軍閥の台頭―理由はただひとつ、それでありました。中国の主権を認めず、門戸開放を許さず、日本だけの特殊権益の地として満州を中国から切りはなし、やがては中国、さらには米国も相手どろうとする軍の、狂気の沙汰を押えるには、多数党政党の首領となって天下をとるより他に道はのこされていませんでした。お祖父ちゃまは異常な覚悟で、遺言を認(したた)め、、死ぬつもりで総裁を受諾したのです。
 台頭しているのは軍ばかりではありませんでした。政党は生ぬるし、よろしく強硬策に出るべしと謳い、国内の不況と農村の疲弊に不満を爆発させつつ、危機感に沸き立つ右翼もまた。
 彼が総裁を引き受けた政友会の当時の幹事長は政党切っての「軍部派」で、政党も、議会も、すべてを軍に屈服させねば日本は「国難」を乗り切れず、「東西の新体制」も樹立できないと考える森恪(もりつとむ)でありました。
 他にも政友会には、鮎川義介(あいかわよしすけ)の一族の、巨大なる日産コンツェルンを背景に、利権と軍との結びつきから軍に著しく近い、久原房之助(くはらふさのすけ)などという長老もいました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―あー鮎川義介―くー久原房之助―もー森恪 

れきしのおべんきょう(・・  )メモメモー検索ー日産コンツェルンー2013年02月16日(土)編集  

 そんな党を押さえ、軍と対決の方向にひきずって行くのは、ほとんど無謀とも見える大仕事なのでした。
 その大仕事に、「おとうさんをひとりで放り出してよいものか」、芸術は人間性のためのものだが、軍閥による人間性の圧迫を、政治によって解き放すことも広義に解釈すれば「芸術ではないかと、パパは思ったんだよ」、ずっとのちに、父はそう告白しました。
 「おとうさんには後継ぎが要る……ぼくはこの次の選挙に出る」、覚悟し予想していたことではあったが、東中野千七百を片づけて引揚げたのも、「そのため」でした。
 新聞に、お祖父ちゃまの写真が屡々出るようになり、、母は丹念にそれを切り抜きました。
 桜山のあでやかなお祖母ちゃまが、同じ鎌倉の大町に引越して来たのもそのころでした。小さな家で、がらんとしていました。
 「ねえママ、どうしたのよ」道子はお祖母ちゃまの家からの帰り道に訊きました。「そうねえ」と母は遠くを見ながら言いました。それから急に母はふり向き、唐突な動作で彼女を抱きしめました。「ねえ道ちゃん、ママはねー」しかし母はしまいまで言いませんでした。
いつもの声になって別のことを言いました。「さあ、海に行きましょう。海はいいのよ。とてもいいのよ」
  冬が来ました。父は破かれた原稿用紙を枯葉と一緒に焼き、母は東京から来た白い大きな紙をひろげては鉛筆を片手に考えごとをするのでした。「これ、何よ」「おうち」と母が言いました。「道ちゃんのおうちだ」と原稿用紙を綴じていた父が熱心に言いました。
 「お祖父ちゃんのおうちの裏庭をつぶして、そのおうちを建てるんだよ。いいねえ、四ツ谷に住めば学校まで歩いて行けるもの」
 松飾りのとれるころ、由比ヶ浜の家に行李やバスケットや唐草模様の緑の風呂敷がひっぱり出され、拡げられました。
 「引っ越すの?ポーラとロリータ(犬の名前)は」「大丈夫よ。箱に入れて汽車に乗せるの」
 小っちゃな子供ではなくなって帰って来た東京の、四ツ谷での生活もまた、それまでとはがらりと変りました。ひどく働き者の、しかし犬は大きらいのかよという女中と、江古田のばあやと呼ばれる活溌でよく笑うばあやが雇い入れられ、母は道子と弟をその二人にまかせ切りにして、ほとんど終日どこかに行くようになりました。父は黒っぽい洋服を着こんで、朝早く出かけ夜おそくまで帰って来ませんでした。
 二人ともこうして留守だというのに、多勢の見知らぬ人が来るようになりました。彼らは父のことを先生と呼び、「先生は最高点だ」などと言うのでした。かよはその人たちを愛想よくもてなしては「でも二区は大へんですよ。鳩山さんがいるからね。しっかりたのみます」「なにね」と、とくに下卑らしい一人が口をとがらせて、「犬は鳩より強いときまってまさあ。ハ、ハ、ハ」
 「万歳! 万歳! 最高点だぞ!」「勝った! 勝った!」潮のように人々が家になだれこみ、狂気じみたにぎわいが何日もつづく忙しさの中で、二匹の犬は身をもだえ大きく息を吐いて、そのまま動かなくなりました。
 「かわいそうに。さみしかったろうに。ごめんね」と、犬が死んでからはじめて東中野のころのママに戻って犬小屋の前にしゃがんだ母は、寝もやらず泣き明かした道子の肩を抱いてささやきました。

犬養道子「花々と星々と」を読む34

 お祖父ちゃまのすぐそばに住むようになってから、彼女は「この上等な植木屋」の、意外のさみしさに気づくようになりました。
 ある午後でした。あれは雨もようの日であったでしょうか。彼女は書斎の襖を開けました。祖父は机に向って、チョンと坐って背中を丸めて何かしきりに書いていたものと見えました。「お祖父ちゃま、何してる」「ちょっと来(こ)う。道公、おやつが欲しくないか」
 彼は眼鏡をはずし、硯の蓋をきちんと閉めました。それから書架の筆や書物をどけて、取り出したのはビスケットの罐でありました。白髪のジョージ・ワシントンの顔の描いてある赤い罐の蓋を開けて中をのぞきこみました。「まだあるわ、フ、フ。だいぶあるわ」
 「ちょっと待っておれ」水洗便所の水道のカランをひねる音がして、お祖父ちゃまは歯磨用コップに水を入れて持ってきました。
 彼女たち二人は毛氈の上に、赤い罐をはさんで、向き合って、水を飲み、ビスケットを食べました。「仲々、うまい」と彼は言い、道子を見てニッと笑いました。
 道子にしてみれば、水とビスケット二枚のおやつはあまりにもわびしかったのですが、満足しきっているらしいお祖父ちゃまを見ては、可哀想で言えませんでした。
 襖を開けかける彼女に、彼は「道公や、ママはシチューをつくるか」「うん」
 「じゃあな、こんどシチューをつくったら、ママに、おじいちゃんにも分けるように言うてくれ。忘れるでないぞ。」
 お祖父ちゃまはシチューや、油のいためものが好きでありました。が、木場の色街で育ったお祖母ちゃまはそう言うものが大きらいで、お祖父ちゃまは、お祖母ちゃまのお好みの、「あっさりした」煮つけを食べさせられていました。
 何しろ「打清((清国朝廷)興中(漢民族の中国)の革命の父孫文が、こっそり亡命してお祖父ちゃまにかくまわれていたころも、(当時の日本の政府すじはその亡命人の滞日を好まなかったので)大貧乏のさなかとは言え、菜種油で米を炒めて食べさせることすらしなかったのでした。
  それから、お祖父ちゃまが、東京や横浜の支那居留民の子弟や留学生の世話を、「日支共存共栄」のために一心に手がけたころ、「しょっちゅうやって来てはお風呂に入って行った書生は親子丼が好きで、よくおかわりをしたもんでござんす。支那の人は親子丼が好きと見えるねえ」しかし、「支那人が親子丼を好き」というわけではなく、親子丼が犬養家の食物の中で「一番油こい」ものだったから、にちがいありません。
 「ほんとうにあの書生は親子丼ををいつもお代わりしたっけが」あの書生の名は、蒋介石と言いました。

YAHOO知恵袋―教養と学問、サイエンスー歴史―中国史―蒋介石は日本に留学していたって本当ですか? 

 日常の食べものでさえ、そんな具合でありましたから、おびただしい書類や蔵書の整理などとなると、彼は全く、孤立無援といってもよい状態にいました。 彼女にしてみれば、ただ祖父が何となくあわれであったのです。
 蔵書は支那本が多くありました。一時は支那学の学者を志したほどの彼の、支那の文物・歴史への深い愛着と理解とが土台となってのことでありました。そしてまた、その人の来る日には、顔じゅう柔和な微笑で満たされるほどの「お祖父ちゃまのお友達」は京都大学の碩学で支那学の泰斗である内藤湖南先生でありました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―なー内藤湖南

 支那書だから、洋とじとちがって、一冊ずつ積み重ねます。背表紙がないので、書架の前に立っても、どれがどれだかわかりません。だから一冊ごとに、古ハガキ余白のメモに書名が書きこまれて、はさんでありました。
 そこまでは彼は自分でやりました。しかし、虫干し、種類別、年代順などとなるともう、お手上げでした。政界は複雑微妙に揺れており、彼は決して見かけほどひまな「植木屋」ではなかったのであります。そしてまた、四ツ谷に移り住んでからは、彼の腹心の秘書となった父も、蔵書整理を手伝うひまはとても持てないのでした。
 「たれか、よい人はおらぬかの」お祖父ちゃまが父にそう言ったのは、いつごろだったでしょうか。「訊いてみますよ」と父は言いました。「菊池にでも聞いてみますよ。きっと見つかりますよ」菊池とは文芸春秋の菊池寛さんのことでした。

もっと高松―検索ー文化財課―文化財課トップページー施設一覧―菊池寛記念館HP―菊池寛について 

 そしてある日「お父さん、いい人が見つかりましたよ。菊池君が、あの人なら、と太鼓判を押してくれましたよ」「おお、そうか」とお祖父ちゃまは可愛い笑顔を見せました。
 その人との出会いの日は記念すべき日でした。意外にも若い女の人であったことで、海老茶の袴をはいていたとは、道子の記憶違いだったのでしょうか。
「石井桃子です」と、その人はそれこそお祖父ちゃまの丹精の、バラのように薄ら紅い頬に笑みを湛えて自己紹介をしました。清潔で温かでした。

香寺大好きー3月(10日)生まれの偉人伝―石井桃子

  石井桃子(児童文学者)さんが来るようになってから、お祖父ちゃまのどこかしらにまつわっていたあのあわれっぽい雰囲気が、さっぱり取れてなくなったのを道子はじきに発見しました。
 最後の重い任を負って死んでゆく、ほんの僅か前のことでした。

犬養道子「花々と星々と」を読む35

 しかし軍部の暴走により1931(昭和6)年9月18日満州事変(「男子の本懐」を読む37参照)が起こると、同年9月21日中国は柳条湖事件を国際連盟に提訴、連盟理事会は同年10月24日日本への期限付き満州撤兵勧告案を可決しました。
 同年11月10日犬養毅総裁は政友会貴衆両院議員並びに各府県支部長、院外有力者五百余名を集めて所信を演説し、満州事変の原因を支那軍の鉄道破壊としつつも、事変発生直後自ら進んで真相を宣明すべきに拘わらず、この当然の処置を怠り、甚だしく遅延した結果、吾国を国際会議に於て終始被告の地位に立つの已むなきに到らしめたことを当局の失態として非難しました。
 また曩(さき)に我が党政務調査会に於て、金輸出再禁止の必要があると主張したのは、是が金本位統制維持の唯一の手段たるを信ずる故であると述べています(鷲尾義直「前掲書」中)。
 若槻内閣は閣内不一致に陥り、同年12月11日総辞職、12月12日興津にあった元老西園寺公望は急遽上京、参内後神田駿河台の自邸に入り、犬養毅の来邸を求めました。
 同夜午後8時犬養は参内、天皇から後継内閣組閣命令を受け、帰途高橋是清を訪問、帰邸後直ちに組閣に着手、電話で交渉し来邸を求めたのは同夜のうちでした。
 同年12月13日成立した犬養毅(政友会単独)内閣閣僚は次の通りです。首相兼外相 犬養毅(後  外相 芳沢謙吉)・内相 中橋徳五郎・蔵相 高橋是清・陸相 荒木貞夫・海相 大角岑生・法相 鈴木喜三郎・文相 鳩山一郎・農相 山本悌二郎・商相 前田米蔵・逓相 三土忠造・鉄相 床次竹二郎・拓相 秦 豊助・内閣書記官長 森  恪

近代日本人の肖像―日本語―あー荒木貞夫―もー森恪

犬養道子「花々と星々と」を読む36

 1931(昭和6)年12月12日深更から13日払暁にかけてが組閣で、15日にはもう、何ごとも起らなかったような、「ふだんの」生活が永田町で送られていたのです。(道子たち親子は、総理大臣官邸裏手の秘書官邸2号に入りました。)

首相官邸HP―検索―旧首相官邸バーチャルツアー

 まだ四ツ谷にいた間にも組閣終了と同時のすみやかさで、ほとんどひっきりなしに全国とくに郷里選挙区の岡山県から届きはじめたお守り札は、お祖父ちゃまのところではなしに道子たちの家の床の間に着く端から積まれました。あんまり沢山、連日到着するので床の間に置き切れなくなり、とうとう彼女の居室寝室に当てられた二階六畳の違い棚にまで積みあげられました。
 彼女はまず、日本間(私生活用の棟ぜんぶの称号で、洋間ももちろんあったに拘らず、ややこしい呼び方で呼ばれていた)とは杉の一枚戸によって仕切られた向うがわにある総理大臣官邸事務館(つまりほんとの意味での官邸)を探検しはじめました。
思ったよりずっと広く、迷路のような廊下があって、探検は仲々渉りませんでした。オーケストラの演奏場を中二階に突き出させたルイ王朝風とやらの大宴会場が忽然とあらわれるかと思えば、 わざとかくしたような小さな洋間が、通称「芝の愛宕山」のこんもりした緑とそこにそびえるJOAK(NHKの前身)のラジオ塔を窓枠の額ぶちにおさめて、人待顔に出て出て来たりしました。
 またある時。学習院の校門の扉より大きい(と思われた)彫りをほどこした扉を力いっぱい開けてみたら、長細いテーブルに向ってお祖父ちゃまはじめ、高橋(是清)さんや鳩山(一郎)さんや荒木(貞夫)中将(当時)がいかめしい顔で坐って話しこんでいました。
 「おっと。入っちゃいかんぞ、あとで、な」お祖父ちゃまはそれでも微笑して彼女に言い聞かせるような弁解するような調子で言いました。閣議だったのです。
 愛情とか手しおとかの感じの丸切り欠けた庭が、日本間右手正面のひねこびた泉水からはじまって洋官邸前面の芝生につづいていました。洋官邸と日本間の丁度結ばれるあたりの正面に一本だけ、場ちがいな明るさで溌溂と伸び、梢を大きくひろげる榧(かや)の木がありました。
 あるときは衿に議員ポッチと略綬をつけた黒背広の正装のまま、あるときは袖口に揮毫の墨の汚れをつけた着流しのまま、お祖父ちゃまがこの榧の木のもとに屡々佇みつくすようになったのは引越してから間もなくのことで。正装のときも着流しのときも、彼は議場演壇の上で見せるあの姿勢をーつまり軽くこぶしをにぎった左手を背にまわし右手を自然に前方に流した姿勢をとって。たったひとつ演壇上とちがう(新聞写真)のは生来の猫背をいささか反らせていたことで、反り身にならなければ、溌溂と張った梢を見ることはできなかったからです。 
 1932(昭和7)年。官邸日本間付の「まかない」のつくった、おいしくないお雑煮を、そそくさと祝った日からさして間もない風の冷たい午後、道子は急にお祖父ちゃまに会いたくなって、日本間の庭に出かけて行きました。お祖父ちゃまはあの榧の大樹の下に佇んでいました。考えごとをしている、そう感じて遠慮がちに道子は低く呼びました、お祖父ちゃま、何見てる。
 「道公か……寒いのう」しかし彼は衿巻もつけず外套も手袋もつけていませんでした。そして見上げて、彼の疲れはてた表情に一驚したのです。
 ワシントンは日本軍部の「反省」をすでに大正時代以来つよく迫り、「満蒙のためのシベリア出兵」にも口を入れていました。国内的にも不況と農村疲弊による危機感が狂おしく昂まって、貧苦に追いつめられた農村出身の若い兵たちの間には、無為の政党への憎悪感がふくれ上り、それは一直線に「日本の生命線・満蒙進出」と「へっぴり腰の堕落政党打破」とにつながって来ていました。「政党・議会政治」にまっこうから反対の軍部にとっての絶好の背景でありました。そう言う背景の中から、1931(昭和6)年9月18日に柳条湖事件をきっかけに満州事変が起こったのです。
 その彼らの背後には陸軍中将荒木貞夫陸相と関東軍路線を支持・推進する内閣書記官長森恪(「花々と星々と」を読む35参照)がいました。満州の宗主権を中華民国の手に返し(即ち日本軍満州占領を解き)、そののち満州の経済開発をあらためて中華民国と日本国双方の対等で平等な話しあいにもとづき協力して行うという処理案を唯一のものと考え、軍の意向と正面衝突するその処理案遂行のために身を挺したお祖父ちゃまの内閣に、あるまじき「矛盾」と後世の史家の多くは言います。
 しかし最も「危険な」ふたりを己が懐中に抱えることによって彼らの動きを牽制したいと彼は叶わぬ望みを望んだのでありました。しかし彼は、死にゆく者に対して知識と技術のすべてを注ぐ医者にも似て、人事の限りを尽そうとしたのでありました。尽した人事のもひとつは、大蔵大臣に高橋是清の出馬を乞うたことで、金の面で軍を抑える筋金入りの役者として、高橋翁はゆきづまった財政金融の不安を、些かなりとも安定の方向にひきずれる人物でした。
 お祖父ちゃまは一日でも永らえれば一日長く軍を抑えることもできようかと、彼は持病蓄膿症を毎日大野耳鼻医師に来診を乞うことによって癒そうとし、酒を絶ち、塩分を避けていたのでした。

犬養道子「花々と星々と」を読む37

 「道公、卒業式が近いな」彼女は1932(昭和7)年3月、女子学習院前期(小学 4年編成)を卒業し、中期(中学)に進学する予定でした。
「お祖父ちゃんは今日はちと用がある―が、あしたの夕方、大野先生の来たあとならええわ、お祖父ちゃんの部屋の来(こ)う」言い終って再び彼は榧を仰ぎました。
 大野医師の退(さが)ったあと、お祖父ちゃまは、蓄膿症洗滌のため布かせた布団の上で、枕にもたれてちょこんと座っていました。
 「なあ道公」とお祖父ちゃまは切り出しました、「卒業はひとつけじめになるでな、ええ機会と思うてお祖父ちゃんはー」少し間をおいて、「道公に記念をのこしたい…」
「これは孫さん(孫逸仙)の葬式に(支那に)行った折、お祖父ちゃんが見つけた硯で…わるいものではない」それから彼は端渓というものについて少し語りました。

唐珍佳肴 小角堂―コレクションー硯譜―基礎知識―その3 端渓硯 

 「それからこの水差しは」ともひとつの箱を開けて、優に美しい一品を、皺深い手で撫でつつ、「やはり支那のものだ。このふたつ……」 
「それからの、楠瀬(名は日年、お祖父ちゃの旧友で彼の表装、硯箱づくりを一手に手がけた)に言うてつくらせたが」と、のこるひとつの箱の中から一本の軸をとり出し、母に手伝わせてひろげました。それはお祖父ちゃまがすでに2年前道子のためとくに書いてくれた「訓戒」でした。濃緑に金粉をあしらった茶掛風の軸の書は子供の眼にもみごとと映りました。「恕」
 …自分は14歳で父を亡くしてから貧窮困苦のうちに成長した、世の辛酸と人の心のうつりかわりを知って人となった、だから他人に対してもあのころの自分の境遇にあるならばと思いやらずにいられぬ。使用人を叱責したことのないのはそのためである。恕せ。思いやれ。恕の心を忘れるな。女孫道子にのこしたい訓はこれである、と。
 おとうさまこんな貴いものをと言いかける母に、「それその反物を取っておくれ、道公や、お祖父ちゃんは道公に着物の一枚を買(こ)うてやったことがなかったな。卒業式に(当時、女子学習院の式服は銘仙紫無地の紋服に袴であった)着てゆく羽織を一枚と思うてとりよせた。お祖父ちゃんの好きなのを三反えらんでな」ふいに茶目っ気たっぷりに笑って、「三反もらおうなどと欲張ってはいかぬぞ。その三反の中から好きなのをおえらび。一反だけだぞ、ハ、ハ」
 彼女はただもう上気して、銘仙に珍しく白の小梅模様を飛ばした紫地のがあって、彼女はためらうことなくそれを指しました、「これ。これがいい」「そうか、それからと、」と
 彼は布団の上から枕もとの小机に手を伸ばしひき出しを開けて(そのひき出しの奥には厳重の封をほどこした遺書―総理大臣拝命の夜ひそかに清書した遺書が入っていた)一包の紙をとり出しました。
 「お祖父ちゃんの友人の支那の人からもろうて大切にしてきた紙じゃ。乾隆(けんりゅう)の帝(みかど 清の第6代皇帝高宗の称、乾隆は年号)の御紙(ぎょし)じゃ。つまり、のう」と乾隆御紙を説明してから「道公にのこす。大切にせいよ」

香寺大好きー8月(13日)生まれの偉人伝―乾隆帝

夏樹美術株式会社―文房具の買い取りについてー紙―乾隆紙

 御紙はこの上なく美しく思われました。一枚は白地に金泥の梅の図。一枚は碧紫の濃淡。愛する孫に遺品を手ずから与えることを思い立つほど、迫り来る「時」をあの風のある一月の午後、彼は榧の梢に「見ていた」にちがいなかったのでしょう…
 新内閣は成立同日閣議で金輸出再禁止を決定、大蔵省は金貨幣・金地金輸出許可制に関する件を公布しました。
 第60議会(1931,12.26開会、32.1.21解散)において犬養首相兼外相は同年12月27日満州問題に関する声明を発表し、「帝国政府は連盟規約、不戦条約(1928.8.27調印 外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)、その他各種条約、及び今次事件関する理事会両度の決議を忠実に遵守せんことを期するものにして、その間政府に於て凡ゆる手段を尽し、日支両軍の衝突を予防するに努めたる誠心誠意と、隠忍自重とは、全く前記諸条約及決議に基く義務に忠実ならんとする精神に出でたるものなること、必ずや世界輿論の認識を得べきを信ず。」と述べています。
 1932(昭和7)年1月21日衆議院解散、2月9日前蔵相井上準之助が血盟団員に射殺される事件が起っています(「男子の本懐」を読む40参照)。2月20日第18回総選挙が実施され、政友会が大勝、第1党となりました。
 しかるに軍部は満蒙の実質的日本領土化をめざす中国からの独立方針により、同年1月7日陸軍中央部は、陸・海・外3省の協定による支那問題処理方針要綱(満州独立の方針)を関東軍参謀板垣征四郎に指示、同年3月1日満州国建国宣言を発表、宣統廃帝溥儀が同国執政に就任しました。3月5日には三井合名理事長団琢磨が血盟団員に射殺される事件が起っています(「男子の本懐」を読む40参照)。
 これに対して、同年3月12日閣議は満蒙処理方針要綱(支那問題処理方案要綱 「現代史資料」7 満州事変 みすず書房)を決定、軍部方針を表面的に追認しながら、これとはことなる裏工作がすすめられていました。

犬養道子「花々と星々と」を読む38

 「何か起る、何か起る…」四囲の空気の切迫は、もう子供にもそれとわかるほどになっていました。
 「ねえ道ちゃん、お祖父ちゃまのとこにできるだけちょいちょい行ってあげようね」と母が言い、父もそう言うので、彼女は総理官邸日本間にべったりといることにしました。
 だがー史料と記憶はどうも食い違っていて、その人(萱野長知「花々と星々と」を読む32参照)が蒼惶として、且つ秘かに、台所口から日本間に「再び」やって来たのは、桜の蕾のふくらむころでした。
 萱野長知。曽て東京留学時代の汪精衛などと共に革新的な「民報」を編し、お祖父ちゃまの早稲田の寓居に中国革命の父孫先生が滞在されたころ、入りびたりであった中国通。武漢での革命戦に孫先生のもとで実際に戦ったこともある熱血漢。お祖父ちゃまを理解し、軍と親軍派が「生命線」と呼ぶ対大陸軍略こそ実は日本を「殺してしまう」愚策と信じてお祖父ちゃまの右手となることを肯じた男。
 1931(昭和6)年の押しつまるころ、お祖父ちゃまは萱野さんを密かに招き、当時中華民国政府の孫科あての極秘の親書を持たせ、商社員を装わせて、軍の背後での日支和平工作第一歩をかためようとしたのです。
 萱野さんは軍の眼をかすめ変名でみごと上海に入り南京に着きました。「国父孫文先生の同志、いま来(きた)る。日中永遠の友好を願って満蒙問題処理のため来る」と下にも置かず中国政府に礼遇されました、日本軍は気づいていませんーと告げる密書がお祖父ちゃまにとどきました。1932(昭和7)年2月初めのこと。
 お祖父ちゃまは飛びたつ思いで、中国政府と正式に交渉すべき第二の人物を秘かに招きました。それは武漢のころ、孫文に三百万円の大金を都合して助けた男。議会政治のみが日本を救う道と信じて動じぬ男、「三十年先だけを見ている」豪胆でしかも細心な男―
山本条太郎(山条)でありました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―やー山本条太郎

 彼は、お祖父ちゃまから「萱野・孫科会談を協定書としてな、調印して来てくれないか」と持ちかけられると、軍に知られれば生命の危険があることを承知しながら、「ああ、行って来てやるよ」と豪快に言い放ったのでした。
  内閣書記官長森恪が、じいさん日本間で何かごそごそやっているなと敏感に気づいたのはそのころでした。三井での創設以来の切れ手と曽ていわれた森が、萱野さんや山条さんのいかにも茶飲み話風に出入りするお祖父ちゃまならぬお祖母ちゃまの部屋を臭いとにらんだのは当然だったでしょう。ただちに秘密電報が関東軍の石原中佐に飛び、同時に逓信省(郵政省)に手をまわした森は総理あて一切の電報を押さえたのです。「ダ ケツナル」その一文を最後に、萱野さんからの音信は絶えました。

満鉄と関東軍―昭和初期の内閣―犬養毅 

犬養道子「花々と星々と」を読む39

  同年5月15日は爽やかに輝いてまことに日曜日らしい日曜日でした。「今日はね、おひる、みんな外よ」と母が笑いながら言いました。「お祖母ちゃまね、こんやおるすなの。だからおるすの間に、ウフフーだってお祖母ちゃまバタは臭いっておっしゃるでしょーお祖父ちゃまにおいしい洋食、上げるのよ。A1(エイワン それは当時出来た、『一番上等の』フランス料理店であった)にたのむんだけどたのむだけじゃあ具合が悪いからね、まずみんなで食べに行って、たのんで、取ってくるの」「お祖父ちゃま、今から夕方をお待ちかねなの」
 コンソメと軽い一品と特別焼のパンを注文してA1を出たのは午後1時半ころでした。道子は総理官邸に出る一本手前の筋で車を降りました。いまはもうなくなりましたが、そこには外務大臣官舎(旧有栖川宮邸)があり、芳沢(外相)のいとこたちが「テニスをしよう」とさそいをとうにかけて来ていたのを思いだしたからでした。「おそくも5時半にはお祖父ちゃまんとこに来るのよ、お待ちかねだからね」と母は外相官邸の広い車寄せに小走りに入る道子の背に言葉を投げました。「ママと康ちゃん(道子の弟)はもう行ってますからね。パパも5時には用をすませていらっしゃるからね」
 ラケット遊びの途中でしかし道子はさすがに気になり出しました。「いま何時?」「4時半」「そろそろ帰る」と彼女は言いました。「やだァ道ちゃん、もう少し」少し少しと釣られて5時になり、陽はもはや傾いていました。
 そのころ、母は日本間台所のまかないに指図をし了えて、少々早いはわかっていましたが御馳走の前に食堂でお茶でも一服と思い、お祖父ちゃまを呼びに行きました。お祖父ちゃまは喜んで、母のあとから食堂に向いました。
 ちょうど廊下が鍵の手になる中庭の角まできたとき、母は異様な足音と物のはじけるような「ふしぎな音」を耳にしました。(それは護衛田中巡査の撃たれた音だったのです)
何ごと、と立ち止まったとき、ころぶが如く、護衛のもひとり、村田巡査が走りこみました。「暴漢です、お逃げ下さい!お逃げください!」

東京紅團―テーマ別散歩情報―戦前を歩くー5.15事件を巡る(下

  「いいや、逃げぬ」お祖父ちゃまはしずかに言いました。「逃げない、会おう」言葉の終りやらぬうち、海軍少尉の制服をつけた二人と陸軍士官候補生姿の三人が土足のまま、疾風の勢であらわれました。お祖父ちゃまを見ると矢庭にひとりが拳銃を突き出し引き金を引いたのですが弾丸は出ませんでした。
 「まあ、急(せ)ぐな」「撃つのはいつでも撃てる。あっちに行って話を聞こう……ついて来い」お祖父ちゃまは先にたってひょこひょこと歩きはじめました。4人の若者は一瞬気を呑まれた風におとなしくあとにつづきました。
 母は本能的に弟を抱きあげて胸の中に包みこみました。その胸にひとりが拳銃をぴたりとつけたので、母は中庭とのさかいをなすガラス戸に釘づけとなりました。

犬養道子「花々と星々と」を読む40(最終回)

 お祖父ちゃまは嫁と孫から一番遠い「突き出た日本間」に暴漢を誘導しました。床の間を背に、中央の卓を前に坐り、煙草盆をひきよせると一本を手に取り、ぐるりと拳銃を擬して立つ若者にもすすめてから、「まあ、靴でも脱げや、話を聞こう…」
 そのとき、母は自由に動かせる眼のはしに、前の5人よりはるかに殺気立った後続4人の「突き出た日本間」に走りこむさまをチラととらえました。
 「問答無用、撃て!」の大声。次々と九つの銃声。母の胸に拳銃をつきつけたひとりも最後の瞬間走り去って撃ちました。彼が走ると同時に母は弟をその場に置いて、日本間に駆け込みました。
 こめかみと顎にまともに弾丸を受けて血汐の中でお祖父ちゃまは、卓に両手を突っ張り、しゃんと坐っていました。指は煙草を落していませんでした。母につづいてこれまた台所から馳け入ったお祖父ちゃま付きのあのテルが、おろおろすがりつく手を払うと、「呼んでこい、いまの若いモン、話して聞かせることがある」と命じてから、ちょっと待て、まず「煙草に火をつけろ」しかし火はつきませんでした。テルが激しく震えていたからです。テルは震えつつも若いモンを呼びに走りましたが、無駄でした。
  母はお祖父ちゃまが即死でないのを確かめると、その日の午後も宅診を願った大野医師がまだ官邸にいたので、お祖父ちゃまの応急手当を依頼するとともに、青山(外科)博士以下数人の名医に電話したのでした。
 「大変です!大変です!総理が…」テニスコートに向って外相官舎付きの事務官が叫びつつ駈けこんだのは5時20分ころです。
 道子は外相公用車にとにかく乗ったのをおぼえています。顎紐を結んだ警官数十人が続々と詰めかけていたので、正門から入れず、裏道で車を降り、勝手知った道をいとこたちの先頭に立って裏門から内玄関へ。さいしょに目についたのは、蹴破られたあの杉戸で、、戸のわきに田中巡査が倒れ、数人が「しっかりしろ大丈夫だ」と叫びつつ手当をしていました。「突き出た日本間」の襖は大きく開け放たれ、縁側近くにお祖父ちゃまの横たわっているのが見えました。応急の包帯で頭から首にかけて包まれた姿で。
 「入っちゃだめ」と母が洗面器と白布を手にして廊下まで出て来て言いました。「大丈夫です」彼女は声をあげて泣きました。
 そのころから続々と医師団が到着しはじめ、お出ましだったお祖母ちゃまも芳沢の伯母さまも父も、閣僚も次々に小走りの緊張し切った姿を見せました。
 6時40分に医師団の最初の発表がありました。こめかみと顎から入った弾丸3発。背にも4発目がこすって通った傷があるが、「傷は急所をはずれている。生命は取りとめる」
 8時過ぎ、お祖父ちゃまは布団ごとかつがれていつもの部屋に移されました。彼女はのぞきに行きました。
 「心配せんでええわ、なに、痛いかって? 弾丸が入ったのじゃから少々痛むのは当たりまえだ。まあ、みんな少し休んだらどうかな」
 で、道子はごったがえす官邸をぬけ出してひとまず秘書官舎に帰りました。かよにすすめられて、客のためつくった炒り鶏(とり)と五目ずしをつまんでから、赤いセルの寝間着に着かえた彼女は廊下をうろうろと歩きまわりました。
 10時過ぎ、あわただしく玄関の戸が叩かれ、だれかが上ずった声で呼んでいました。「道子さま!道子さま!早く、早く!」
 ―お祖父ちゃまの部屋のたたずまいは、8時に見たときと一変していました。窓辺に低く置かれたスタンド以外一切の電灯は消され、黄ばんだ丸い小さな光の環の中で、包帯に包まれたお祖父ちゃまの口を少しあけた顔だけが浮いていました。苦痛のかげはなく、顔はいつものようにーいや、いつもよりははるかに柔和にみえました。呼吸は間遠であり弱くありました。
 医師団は彼女たち家族を取り巻いて粛然と起立していました。その背後に高橋蔵相。鳩山文相。鈴木法相。中橋内相…
 お祖父ちゃまの安らかな顔に白布のかけられたのは午後11時26分でした。まろぶがごとく彼女は庭に走り出ました。まっすぐにあの榧の根もとに。涙はもはや涸れ、仰げば、澄んだ暁の空に星が無数にきらめいているのが見えました。待っても待っても、しかしお祖父ちゃまの魂は見えませんでした。
2016-01-31 05:38 | 記事へ | コメント(0) |
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犬養道子「花々と星々と]を読む21〜30
2016年01月21日(木)
犬養道子「花々と星々と」を読む21

  古い本の少なくない書棚の中に、ひときわめだって古ぼけた一冊があります。著者は大町桂月、書名は「伯爵後藤象二郎伝」(伝記叢書 大空社)。
  一葉の写真にぶつかると、道子はそのまま長い間、動きませんでした。うら若い乙女が、ページの上から、微笑を含んでこちらを見ています。
 その人は道子の、母方の祖母(後藤延子)です(「花々と星々と」を読む1「系図で見る近現代」―近現代家系図―第12回 犬養毅参照)。
 ドクトル・メディツイーネ長与称吉(「花々と星々と」を読む1参照)は、ある園遊会の緑したたる芝の上で延子を見そめました。あの人をもらえないなら自分はとても病院経営などしてはいられないと、まだ生きていた父専斎に向って言い、あげくのはては恋患いで痩せ細りました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―なー長与専斎

 上流貴顕の社交界で多くの青年を同じ目にあわせつづけた佳人は、とうとうドクトル称吉の嫁となることになりました。媒酌は伊藤博文(「伊藤博文と安重根」を読む1参照)夫妻でありました。
  道子が小さかったころ、長与延子は後家にふさわしい小さな束髪を結い、いつも黒い羽織を着て、しかしまことに華やいだ暮しをしていました。
 「桜山にゆこ」言い出すのはいつも父(犬養健)した。そう言うときの彼の語調に、いつもとちがう、何となく甘たるい妙なものを道子は感じました。
 同じ東中野でも、こうもちがうものかしらん。桜山は踏切の向う側にあって、文字通り、桜の木々にふちどられる小高い丘でした。 
  古風な和式玄関わきには、わびすけ椿。南天。黒もじ。山吹。品のよい、さりげない格子戸をカラカラ開けると、しかしそこは「ドイツ」でした。
 ベルリンからお祖父ちゃまドクトル・メディツィーネのお持ち帰りになったバヴァリア・タイルをはめこんだ大飾時計が、チックタックと悠長な音をたてながら、これまた緑や金のこまかい模様でかざられる振子をせい一杯振って、正面にでんと立っていました。
  お祖母ちゃまの居間でお茶など飲む間じゅう、父はかあさまかあさまと甘ったれました。事情があってほんの幼児のときに、実の母からもぎはなされてさみしく育った彼は、桜山のお祖母ちゃまに、ほんとの母を見出していたにちがいありません。
「そうよ、パパはかあさまを好きよ。かあさまもパパを好きよ。だってママがパパを知るようになったのも、かあさまがパパと仲よしだったからなのよ。パパはいりびたりだったのよ」母(仲子)は後に一度そう言いました。

まるっと中野―まち歩きー風景探訪―中野区内のおすすめお花見スポット

犬養道子「花々と星々と」を読む22

  1921(大正10)年4月20日は、観桜会にふさわしい、柔らかな光に満ちておりました。四ツ谷の祖父、犬養木堂毅という人は、そんな派手な集りを出来るだけ避けたいたちでしたが、その日は出かけました。
 木や花や土や草原が好きでしたから、新宿御苑はなるほど整いすぎて、彼の好む野趣から程遠かったのですが、その園の、枝ぶりのよい、樹齢も丁度よい桜には定評がありました。若緑の萌える香りと、満開の桜とを、彼は愛(め)でたかったのです。

楽しく散歩―近郊散策―散策スポット目次ー東京―1月〜4月―1264 新宿御苑のしだれ桜&桜  

 この日ばかりは前年からしきりと世を騒せはじめた、カリフォルニア州の日本人排斥問題も、議会で論陣を張りつづけて来たシベリア派兵の撤退のことや、早々に実現されるべき普通選挙法案のことも忘れました。
 その日は彼の満六十六歳の誕生日でした。六十六年前、二万石に満たぬ岡山の小藩の、貧しい庄屋であった彼の父は、愛読する孔子の書物の一文句の文字をとって、生まれたばかりの子に名づけました。……士は以て弘毅ならざるべからず……
 その文句はこう続きます。任重くして、道、遠し。

ちょんまげ英語日誌―投稿記事一覧―孔子の論語 泰伯第八の七 士は以て弘毅ならざるべからず


笈(修験者などが背負う脚のついた箱)を負うて、貧書生として上京し、やがて自由民権の思想を謳う新聞の記者となったころ、「道、遠し」の遠を取って子遠という字(あざな 本名以外につけた名)をつけました、木堂、とは、「木強ければ」の、これもやはり支那の古書の句から引いたものでありました(「花々と星々と」を読む4参照)。

心が楽になる老子の言葉―トップページーやわらかに、しなやかにー生まれる時は柔らかい

 つまり当時の新聞は、ときの権力者に敗れた、反骨の人が寄り集まってつくっていたわけで、最初から反政府・野党精神に満ちていたのでありました。
 しかしどうやら普選法を通すという任に限っては、もはや道の半ばは過ぎたようだ、−彼は機嫌よく御苑を退出しました。
 御苑の門には、この新宿からはそう遠くない四ツ谷の家から飛んできた書生がひとり、待ちかまえていました。
 若旦那様のところに、今朝がた、お嬢さまがお生まれになったそうで。なに、同じ誕生日に。
 任重い道の半ばを過ぎたときに、その赤ん坊は、お祖父ちゃまにとっての、特別の孫となり、道子と七日目に名づけられました。

犬養道子「花々と星々と」を読む23

 1924(大正13)年1月1日枢密院議長清浦奎吾に組閣命令が下り、同月4日貴族院研究会幹部は組閣援助を決定、同月7日清浦奎吾内閣が成立しました。
 これに対して同年1月10日政友会・憲政会・革新倶楽部の3派有志は清浦特権内閣打倒運動を開始しました(第2次護憲運動発足)。同年1月15日政友会総裁高橋是清は同会幹部会で清浦内閣反対を声明、これに対して床次竹二郎らは脱党、同月29日政友本党を結成、清浦内閣の与党となりました。同月18日高橋是清・加藤高明・犬養毅3党首は熱海の棲雲居(別荘)から上京した三浦梧楼の斡旋で会談(「花々と星々と」を読む15参照)、政党内閣確立を申し合わせました。1月31日衆議院は議場混乱による休憩中解散となりました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む28参照)。
 同年5月10日第15回総選挙が実施され、憲政会が第1党となり、護憲3派の大勝利となり、6月7日清浦奎吾内閣は総辞職、6月9日加藤高明に組閣命令が下り、6月11日第1次加藤高明(護憲3派連立)内閣が成立しました。
 同内閣の成立をめぐる古島一雄の談話(鷲尾義直「前掲書」中)によれば、加藤は犬養と合わず、彼の入閣を希望しなかったようです。犬養は古島に入閣せぬかと云ったが、古島は犬養に入閣をすすめ、政友会から高橋が入閣すれば、ここではじめて三派合同内閣になるではありませんかと犬養に言うと、犬養は高橋が入閣するなら入閣する意向を示しました。そこで古島が政友会幹部にこのことを打診すると、政友会側は総理大臣をしていた高橋が加藤の下に平大臣をやるのは問題だと云うから、古島がそれは貴下方の間違いだ、世間はかえって度量の大きい人だといって、高橋の器量が上がるとは思わないのかと反論、犬養の入閣明言もあり、高橋・犬養の入閣が決定しました。
 それから閣僚の割り振りの相談になったが、加藤は内務、大蔵を除く外なら何でもよいという意向だったので、犬養が高橋に、君は何をやるかと問うと、高橋はさうだナ、農林でもやらう、犬養はソレなら俺は逓信の古巣にもどるということになりました。
 同年12月26日開会された第50議会において1925(大正14)年3月19日男子普通選挙案が治安維持法と抱き合わせで通過しました(凛冽の宰相加藤高明」を読む29参照)。
 同年4月1日犬養毅は丸ノ内の中央亭に革新倶楽部代議士らを集めた晩餐会で「行政財政の整理、軍備縮小、または貴族院改革問題、普通選挙の問題、是等の諸問題が兎も角も解決の端緒にだけは就いたのである。併しこれ丈で以て満足することの出来ないのは言うまでもない。例へば普選問題にしても言はばお膳立てが済んだといふ迄であって、本当の仕事は実は是れからである。」(鷲尾義直「前掲書」中)と述べているように、今議会における普選の実現に満足していなかったことは明らかです。

西洋料理人列伝―渡辺鎌吉(中央亭創業者)

  また犬養は逓相として大震災直後の復旧復興に実績をあげ、視察で電話電信局における少女たちの劣悪な労働環境を目撃して甚く同情、東大の博士に逓信省嘱託を依頼して、その改善を実現し、温情を慕われました。

犬養道子「花々と星々と」を読む24

 1925(大正14)年4月4日立憲政友会総裁高橋是清は引退を表明、同月16日商相兼農相を辞任し、4月13日田中義一(凛冽の宰相加藤高明」を読む30参照)が政友会総裁に就任しました。
 同年5月5日立憲政友会・革新倶楽部・中正倶楽部3派の有志は合同に関する覚書を作り、これを実行するよう努力することを約束しました。
  同年5月10日革新倶楽部は麹町区内幸町の仮事務所で、代議士、前代議士、常議員、地方支部代議員の連合協議会を開き、犬養毅は上記合同参加の理由について、つぎのように演説(要旨)しました。

瀬戸内市HP―瀬戸内市の旅―楽しむー日本刀の聖地―刀剣ゆかりの史跡―造剣之古跡碑

 「普選法の成立を見るに至り、茲に本問題の一段落を告げたのである。是れより以往吾人の最も重大と信ずるものは、普選法の運用である。万一にも無産階級がその運用を誤るが如き事あらば、吾人の責任は遁るる事は出来ぬのである。普選に依って今後無産階級よりも続々代表者が選出されるであらう。されど選挙では、その代表は議院の一少部分に過ぎぬであろう。然らば既成政党の勢力は如何といへば、急激に減退するものではない。この七八年乃至十年間の過渡時代の政治は、依然として旧勢力に依って運用せらるるのである。
 然らば旧勢力は如何なる悪政を行っても吾人は不関焉として傍観すべきか、或は吾人の力を加へて之を改善して過渡期に処すべきであらうか、是が最も大切なる現実の問題である。
 旧勢力若し依然として新勢力の悪感を刺戟するが如き行動を以て政治を運用するに於ては、或は早晩激烈なる大衝突を惹起するに至るであらう。
 政友会は勿論多年の間吾人の非難攻撃した対象物であった。されど首領にして統制其宜しきを得れば、或る程度迄はこれを制止し得るのである。現総裁田中(義一)君も亦決して世の非難を受くるが如き行動には断じて出でざるは自分の信ずる所である。
 我が同志は、多年逆境で鍛へ上げたる勇気を以て、政友会、中正倶楽部有為の人物と共に合同計画を成就し、進んでその改善を行ふに於ては、新興の一大政党は必ず新生面を開き、健全なる発達を遂ぐるものと信ずるのである。
 茲に一言お断りを為したきは、此度の手続の周到を欠きたる一事である。斯のごとき重大問題に就ては、犬養自ら全国同志と親しく意見を交換すべきが当然なれど、如何せん身の官吏たるために、奔走の時間を得難く、それが為に意志の疏通せざりしは偏に自分の落度で、諸君に対し慚愧(ざんき 恥じ入ること)の至りである。」(鷲尾義直「前掲書」中)

犬養道子「花々と星々と」を読む25

 犬養の政友会への合同提案は苦渋の決断だったようで、この時点で政友会に合同しなければならない理由についての説得力に乏しく、これは犬養の本意ではないとする意見もでる始末で、犬養の演説には彼の引退について何等言及がないのに、彼がそれとなく引退をほのめかせたと解する者もあったようです。
 採決の結果革新倶楽部の政友会への合同は了承されたものの、一時乱闘寸前の険しい雰囲気がただよいました。合同反対の尾崎行雄らは中正倶楽部残留派とともに新生倶楽部を組織しました。

キリヌケ成層圏―似顔絵リストーいー犬養毅  

 後年古島一雄(「花々と星々と」を読む15参照)はこのときの犬養の心境についてつぎのように語っています。
  嚮(さき)に歴史ある国民党を解党して、新時代の気運に乗じた新政党を創立すべく、一時革新倶楽部を組織したが、それは決して成功とは言へなかった。同志議員の数は選挙毎に減少する、其上、一人一党的倶楽部組織に在って、国民党時代の如き統制の行われないのは当然であった。名は党首に非ずして、而も党首たる負担を荷はせらるる木堂の苦痛は一と通りではなかった。而して木堂には一切の進退を委ね来たった同志がある。而も自ら顧みれば齢已に古稀(70歳)を超えている。前途ある是等の同志をして適処を得せしめねばならぬ。
 つづいて1925(大正14)年5月28日犬養は議員並びに逓相辞任を発表、同月30日逓相を辞任、後任として安達謙蔵(「男子の本懐」を読む31参照)が就任しました。しかし犬養は引退声明で「辞職したとて決して国事を放棄するのではない、徹頭徹尾国家への御奉公は勉めるのである」と述べており、政界を引退する意思はありませんでした。同年7月中旬犬養は同志の招きに応じて東北地方遊説にでかけています。
 同年6月11日犬養は退任挨拶のため、岡山県都窪郡中庄村の性徳院来訪、これに対して旧革新倶楽部岡山支部では補欠選挙協議会が度々開かれ、7月16日木堂先生再選に決定しました。しかるに木堂先生代理の岡田忠彦は倉敷東雲楼で倉敷町長はじめ多くの町村長と会見、この度の再選は先生困惑甚だしき旨を述べました。7月22日岡山県第4区衆議院議員補欠選挙が実施され、犬養毅が当選しました。7月26日中庄村長らは犬養先生当選承諾懇請のため上京、翌日四ツ谷南町の犬養毅私邸を訪問、犬養は苦り切って無言でしたが、しばらくして今回は選挙区民諸氏の依頼に敬意を表して、困るけれども一応受諾せんとのことに一同雀躍して喜びました。一同麹町内山下町の政友会本部を訪れ、前田幹事長に委曲を語り、更に新聞記者室でも仔細を報告しました。、
  同年7月31日第1次加藤高明(護憲3派連立)内閣は閣内不統一により総辞職、8月2日第2次加藤高明(憲政会単独)内閣が成立しましたが、1926(大正15)年1月28日加藤首相死去(三浦梧楼同日死去)しました(凛冽の宰相加藤高明」を読む30参照)。
 一方、上述のように犬養は再び政界の第一線に戻ったのですが、政友会との関係は長老という閑職で自由な時間に恵まれたため、1924(大正13)年起工、翌年完成した信州富士見の別荘白林荘(「花々と星々と」を読む17参照)に悠々自適の生活を送り、時々招聘されて地方の講演に赴くのでした。
 1926(大正15)年1月30日若槻礼次郎(前内閣閣僚全員留任)内閣が成立しましたが1927(昭和2)年4月17日枢密院が台湾銀行救済緊急勅令案を否決したため総辞職、同年4月20日田中義一政友会内閣が成立、野党となった憲政会は同年6月1日政友本党と合同して立憲民政党を結党、浜口雄幸が総裁に推挙されました。
しかるに1928(昭和3)年6月4日関東軍参謀らによる張作霖爆死事件が起こり、この処理をめぐって天皇の信任を失い、1929(昭和4)年7月2日田中義一内閣は総辞職し、浜口雄幸(民政党)内閣が成立しました。同年9月29日田中義一は死去しました(「男子の本懐」を読む21〜22参照)。

犬養道子「花々と星々と」を読む26

 さて赤泥のあの坂がおしまいになると、道は急に明るく開けて、右と左に別れます。左に行けば地主の「石森さんち」があって、そのはす向いが、市外東中野千七百。磨かない御影石のひょろりと不安定な門柱をたてたわが家でした。塀はなくて根もとが隙々の槇の木の生け垣がめぐらされていました。
 隣人の家の、いつもまっぱだかの英ちゃんという子はぬうと入って来ては、母(仲子)の丹精の花畑と野菜畑を、容赦なく踏み荒らし、書斎の窓近くの楓や、庭の正面の松の木にするすると登って、枝から枝へ飛び移りました。そにたびに書斎の襖がガタピシと開いて、梯子段を二、三段ずつ駈けおりる音がして、ステッキをふりかざし、尻かっらげで毛脛を思い切り出した父(犬養健)が、こらあこらあと、これまたはだしで英ちゃんを追いかけました。
  父は大立廻りをけっこう楽しんで、英ちゃんの這いこむのをひそかに待っている節がありました。遅筆で寡筆で、神経質で、容易に枡目のつぶれない原稿用紙を前に坐りつづけなければならない苦行に、時に耐え得ない父にとって、梯子段を駈け降りるのは願ってもないゲームだったかもしれません。
 家は持家でなく、家賃はたしか七十円で、階下に八畳の茶の間、八畳の納戸、四畳のなんでも部屋に玄関と女中部屋各々三畳。広い勝手と広い風呂場。西南には飛び出た恰好の、納戸つき西洋間。二階は八畳、四畳半に、あとで建増して納戸の上に乗っけた書斎と、書庫がわりの渡り廊下。
 庭は広くて、三、四百坪はらくにあったでしょう。半分を芝にして、残りは花畑と野菜畑でした。母は集まって来る文学青年たちを手下にして、年に二度か三度大量の石灰を庭全体の土に混ぜるのでした。
 石森さんちの鼻たらし子が一度こんな風に彼女に聞きました。「なぜ、おとうさんはつとめに出かけんの」「なぜ、夜、起きてんの。なぜ、ぶらぶらしとんの。会社にゆかんの。兵隊にもゆかんの」
 「親爺(犬養毅)は藩閥打倒の旗をかかげて苦節に甘んじて、ようよう普選を実現させるところまで漕ぎつけたと言うに」、「息子は鞄持ちのひとつもせんで、、何をぶらぶら、ろくでもない小説など書いて」…「嫁も嫁で、毎日ピヤノばかり弾いてコロコロ笑って」…石森さんばかりではなく、世間一般、そう思っているにちがいないことを道子はこれっぽっちも知りませんでした。

犬養道子「花々と星々と」を読む27

 『白樺』は周知のように、文学界だけのものではありませんでした。その世界は広かったのです。

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 色が白くて、お餅の感じがしました。その人は「健さんいるか」とか、「やあ仲子さん」とか言って、ずかずか入って来て、すぐに縁側に出て着物を脱ぐのでした。
「いやあねえ、下卑(げび)らしい!」口では言いながら、母は嬉しげにコロコロ笑いこけていました。
 その人は裸になると、猿股の上に、ほどいて棄てたばかりの兵児帯をぐるぐる巻きつけ、時には持って来た風呂敷を前に垂らして化粧廻しにしました。それから芝生に飛びおりて、「よっ、よっ」と四股を踏むのです。道子は急いで縁側に陣取り、見物気取りでかけ声などかけるのでした。
 すると、二階で支度をしたのに違いない父が、これも裸で兵児帯を廻しにして、ようし、と降りて来ます。
  二人はありあわせの紐なぞで土俵の輪郭を芝の上につくり、いつまでも相撲をとって、大げさにひっくりかえったり、急にひとりが行司の真似をはじめるので、しまいにはみんなおかしさのあまり笑いころげて暫くは動けなくなるのでした。その白い人が同人同然の岸田(劉生)さんだったのです(道子は長い間、岸田さんは相撲取りの卵だと思い込んでいました)。時たま、これも眼が細くて、不思議な顔立ちの女の子を連れて来ました。麗子像の麗子さんと、本物の麗子さんは、驚くばかりそっくりでした。

東京国立博物館―コレクションー名品ギャラリーー館蔵品一覧―検索―麗子(れいこ)

犬養道子「花々と星々と」を読む28

  雑誌『白樺』[1923(大正12)年8月廃刊]は李王家博物館の弥勒像や石仏を日本にはじめて紹介して朝鮮人の素晴しさを陶酔を以って語るかと思えば、鳥羽僧正の絵巻の写真を掲げて日本人の内なる「天才」を讃美しました。北宋の白磁陶器のゆえに、万暦赤絵(明の万暦年間に景徳鎮で作られた陶磁器)のゆえに、支那人と支那を評価しました。
 道子は大体、近所の子供たちとはうまが合いませんでした。陣取りなどするとき、弱いのはチャンチャン坊主であり、いじめっ子の取っておきの脅し文句は「やあい朝鮮人」「やあい露助」なのでした。彼女はそれらの言葉を甚だしい苦痛と感じずには聞き流すことができませんでした。
  ひるまは、芝生の上の冗談。夕暮れごろから、集まる友人たちは茶の間の八畳で、相変わらずの笑い声をにぎやかに響かせながらも、いかにも白樺らしい理想と楽天に貫かれた話をはじめるのでした。
 集まるのは若手の同人か、同人同然の同好の人たちが中心でした。なにしろ学習院で、志賀、武者、木下利玄、正親町公和さんが同級。三級下に里見さん、児島(喜久雄)さん、その下が柳さん、そして郡虎彦さん、長与の善郎叔父。『白樺』発刊[1910(明治43)年4月]のころ、父はまだ初等科でした。
 そんな風に年は離れていたけれど、武者(武者小路実篤)さんはずいぶんちょいちょい座に加わってあぐらをかいていました。

ワシモ(WaShimo)のホームページー宮崎県―日向新しき村を訪ねてー宮崎県児湯郡木城村   

 母はその一団の中にあって、この上もなく楽しげに、活き活きと見えました。絵や音楽や、書物や会話や友人やーそれらは母の人生の、花々であり、星々でした。花々と星々にかこまれて、母もまたひとつの花であり星でありました。

犬養道子「花々と星々と」を読む29

 憲政の神様とある時期には祭り上げられ「少しは世間に知られた」「犬養の」子(や孫)が、ふつうの学校にゆけば、「犬養だ、犬養だ」と何かにつけてちゃほやされぬとは言えぬ、しかし学習院なら、「上は皇室」から「宮家五摂家元老」「有名」ばかり、平民野党の犬養などはビリのビリになります。そして「有名であることの虚しさもまた身にしみて習えるというものじゃ、犬養の家は、世々代々、野党であって欲しいから、そのためには正反対の貴族華族のどまん中に、子供をほっぽり出す」…
 祖父(犬養毅)の方針はまちがっていませんでした。まちがわないどころか、行きすぎておおいに脱線しました。道子が学習院前期に入った日、教官ぜんぶを呆然と驚かせることになります。
  父も母も、学習院の白樺一群の、自由とこわいものなしの精神に染まり果てた結果、しんそこ、忘れたのでありましたー陛下とはどなたかを娘に教えること。国旗を教えること。君ケ代を教えること。道子は何ひとつ知りませんでした。
「一ばん尊い方は? はい、犬養さん」「…トルストイ」それしか思いつきませんでした。
「さあ、君ケ代を歌いましょうね。何ですか、犬養さん」「君ケ代ってなあに」
「そんなこと!言ってはいけないでしょう。ふざけてはいけないでしょう。ほら、君ケ代です」「だって知らない」
 学校生活第一日目、父が担当教官に呼ばれました。しかし彼はあっけらかんと快活でした。「道ちゃんねえ、君ケ代って。歌なんだ。節はあんまりよかあないけど、まあ、ひとつおぼえてみるか」
「じゃあパパ、陛下、って?」「そのうちわかるさ」。
「ねえパパ、朕てなあに」「うん、そりゃね、チンコロじゃないんだ…」「アハハ」そんな風でした。
 モヤモヤを肺尖のまわりに散らせていた道子は、当然丈夫ではありませんでした。
 冬になると、ぜいぜいは他の季節よりひどくなるのが常で、いちどゴホンと咳が出ると、胸中はふいごのように湧きたって、いつまでもゼロゼロと音をたてました。
 ある年の冬。みぞれが鈍い空をぬらしてあたりいちめんに、凍りつく寒さをまきちらした夕方。枯れた庭の真ん中に、突如、四ツ谷のお祖父ちゃまがあらわれました。道子は庭に面した茶の間のまん中で、ハアーハアーと吸入をしていました。
 お祖父ちゃまが来るときは、父も母も、たれひとり緊張しませんでした。縫紋羽織のお祖母ちゃまの御来訪のときとは白と黒ほどの相違でした。
 お祖父ちゃまはラッコの襟のついた黒外套を重たげに着こんだまま、縁側のガラス戸を自分で開けて入って来て、「道公、どうした」と彼女の背に手をかけました。
 お祖父ちゃまは火鉢に向ってしゃがみ込み、外套の内ポケットから白い分厚い封筒を出して、母の前に置きました。
 母は、その中身を注意深く見て、あらおとうさま、と何度か頭を下げ、ひどく嬉しそうでした。
 −その翌日、彼女たちは人力に乗り、汽車に乗って着いたところは暖かでした。「あったかいからね、熱海って言うんだよ」
 彼女は父のトンビの下に抱かれて、ずっと遠くに広がる海を眺めながら、梅の香のただよう崖をのぼって、落ち着いた先は、蜜柑山の崖に沿って建てられた、驚くばかり広い家でした。三浦さんのおうち、と知らされました。

犬養道子「花々と星々と」を読む30

 「三浦さん」は、三浦(梧楼)観樹(「大山巌」を読む41参照)のことです。長州の人。高杉晋作の奇兵隊に若き日々を送った人。戊辰戦争(「大山巌」を読む5〜9参照)に功をたて、山県有朋とはじめ親しく、彼とともに維新政府の兵部省に入りましたが、やがて薩長藩閥をこころよしとせず、1916(大正5)年、護憲運動の先頭に立ち、山県と袂を分かった軍人政治家でした。
 1924(大正13)年1月18日三浦梧楼の斡旋で、護憲のための、加藤高明、高橋是清、犬養毅三党首会談が行われました(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む28参照)。
 朝鮮における日本の勢力伸展のため、閔妃暗殺(「大山巌」を読む42参照)という大事件をわざわざ起こした張本人も彼でありました。
 いま、記憶を史実と照らし合わせれば、彼女が「三浦さんの別荘」に行ったのは彼観樹将軍の死[1926(大正15)年1月]の直後のことでした。
 部屋はいったい幾つあったろう。たくさんで、あっちこっちに散らばって、「わかんなくなっちゃうよ」と、父も母も笑いました。道子と母は、椿の林にかこまれた、物静かでしかも陽あたりのよい階下の二間つづきに陣取りました。
 ニ、三日すると、父は「じゃあ、また来るよ」と一言のこして、東中野に帰って行きました。
 母とふたりの静けさは、しかし長くはつづきませんでした。ある朝。「道ちゃん、まあだ?」
祖父の声でした。前夜おそく、到着したのでありました。護衛の私服巡査と、十数年来付添う女中のテルと、そしてもひとり…。
 おもいがけない祖父の声に、驚きよろこび、飛び起きて、食事の場所と定められた、海を眼下に見はるかす部屋に行ってみると、祖父とさし向いに、柱に寄りかかって坐る見知らぬ人がいました。
 黒い短い口髭をはやし、細い眼で彼女を見たその人は、くるぶしまで裾の垂れる、黒絹の支那服を着ていました。組まれた足は、青っぽい褲子(クーツ)でおおわれていました。
「道公、戴さんだ」と祖父は、湯気のたつ紅茶茶碗のうしろから声を出しました。
 彼女より一足早く、この席に来ていた母は火鉢の上でパンを焼きながら、「道ちゃん、戴さんのおじちゃまよ」と祖父の言葉をくりかえしました。
「じょっちゃん、みっちこさん」と戴さんが手招くと、彼女は素直に近づいて、その人のそばに坐りました。
 そんなことから、彼女は戴さんをすっかり好きになり、その肩車に乗ると、ずいぶん高い枝の椿の花も手にとどきました。
 母は彼に茶をすすめながら、「ねえ戴さん、どうして道子はこう弱いのかしら」と相談を持ちかけるようになっていました。
 「戴さん、道子をお風呂にいれてよ。あたし忙しいのよ」彼はまもなく、それほどの親しいひとになってしまったのです・
 三浦邸の風呂場は、十五畳もあったでしょう。三方ガラス張りの風呂場の中央には子供なら泳げる広さの浴槽。塩気のためにすっかり粉を吹いたカランからは、塩っぱい湯が二六時中流れていました。
 戴さんは黒絹の支那服の裾をはしょり、湯殿とのさかいの半びらきの戸によりかかって、彼女を見守っていました。そしてある日彼の姿は唐突に消えました。
 十数年ののち。道子は、はじめて学んだ中国革命の書物の中に、見覚えのある顔の写真を見出しました。その下には戴天仇と書いてありました。
「パパ」と道子は父のところへ走って行きました。「この人、あの人? あの三浦別荘の…」「むろんそうだ。なんだ、知らなかったの」と父は笑いました。
 孫文の片腕。抗日の先鋒。熱血の戴天仇。
 曽て孫文をかくまい、その革命を助け、そのゆえに支那の人々からは「国士」の礼を以て遇される祖父木堂を、愛すべきごく少数の日本人知己として、熱海にひそかに訪ねてきた革命児であったのです・

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  三浦邸には谷間の部屋に蜘蛛が多く見られました。母は谷間の部屋の入口をぴたりと閉めてしまいました。
2016-01-21 05:39 | 記事へ | コメント(4) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(現代篇7犬養毅) |
犬養道子「花々と星々と」を読む11〜20
2016年01月11日(月)
犬養道子「花々と星々と」を読む11

 1910(明治43)年5月25日大逆事件(「日本の労働運動」を読む47〜48参照)の宮下太吉検挙が開始され、やがて幸徳秋水(「日本の労働運動」を読む27参照)も逮捕されました。秋水が法廷で「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」(岩城之徳「啄木と南北朝正閏論問題」岩城之徳著/近藤典彦編「石川啄木と幸徳秋水事件」吉川弘文館 所収)と発言したことが外部にもれ、1911(44)年1月19日の読売新聞に掲載された社説「南北朝問題 国定教科書の失態」が「もし両朝の対立をしも許さば、国家の既に分裂したること、灼然火を賭るよりも明かに、天下の失態之より大なる莫かるべし。何ぞ文部省側の主張の如く一時の変態として之を看過するを得んや」の主張をするに及んで、南北朝正閏(せいじゅん)問題(南北朝のどちらの皇統が正統であるか)が起こりました。
  同新聞社説が批判したのは1903(明治36)年4月13日小学校令の一部改正により制度化、翌年4月1日施行された国定教科書で、1909(明治42)年改訂の同国定教科書では当時の歴史学界における史実の実証的研究により、南北両朝は並立と記述されていました。
 1911(明治44)年2月21日衆議院の秘密会において、立憲国民党は大逆事件・南北朝正閏論に関する閣臣(第2次桂太郎内閣)問責決議案を提出、犬養毅がその説明に当たりました。新聞に掲載された彼の決議案説明演説の要旨は次のような内容です。
 「大逆事件は、其発生したる原因に就ては、多くあるべきこと明かに認むる所なるも、就中行政上及び警察上の失態が与って其一原因を成せるは、動すべからざる事実なり。単に社会主義の思想を有せりと云うに対し、余りに苛酷俊厳なる待遇を与へ、進んで其生活をも脅かすが如き警察の取締が、終に其徒を駆って危険なる無政府主義者たらしめ、大逆罪を企つるに至らしめたることは、亦衆議院の委員会に於ける政府委員の自白に徴するも明なり。閣臣は、優渥なる御沙汰に接したりとて、之がために政治上の責任を解除されたりと謂ふべからず。内閣諸公が引責すべきことは此際諸公の採るべき最善の手段なるべしと信ず。
 教科書事件に至りては、大逆事件に比して更に重大なる問題たりと信ず。維新の際に於ける王政復古の大業は、全く南朝を正統とするの趣旨に基くものにして、曩に元老院官版として出版し、我皇室典範となれる皇位継承編に依るも南朝を正位となしありて、更に岩倉公総裁となり山県公また勅選せる『大政紀要』に依るも、北朝を帝とし南朝を天皇と称すと明記せるが、然るに今日に於て何の必要ありて之を改竄せるや。是れ実に立国の大本を危うする大逆の行為なりと云はざるべからず。此恐るべき大逆的事実を国民教育の為に用ふべき国定教科書として天下に発表せし以上は、独り文部大臣のみと云はず、延て内閣各大臣於て其責に任ずべきや素より言ふを要せざる処なり。」(鷲尾義直「前掲書」)しかし決議案は否決されました。
 同年2月27日文部省は編修官喜田貞吉を休職処分とし当該教科書の使用を禁止しました(史学協会編輯「南北朝正閏論」修文閣)。

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犬養道子「花々と星々と」を読む12

  対外関係では孫文が来日したのは1896(明治29)年9月松隈内閣(「花々と星々と」を読む8参照)成立の直後で、平山周に伴われて、孫文が牛込区馬場下町に犬養を訪問、このとき犬養ははじめて孫文を知ったのです。

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  犬養は孫文滞日について大隈外相の認可をとりつけ、牛込区鶴巻町に居住させて、自宅との往来を便にするとともに、孫文の生活費も犬養の尽力で平岡浩太郎(初代玄洋社長)が引き受けました。
 1911(明治44)年辛亥革命(「凛冽の宰相加藤高明」を読む15参照)が起こって清朝が滅亡、同年12月25日孫文はアメリカから上海に帰着、翌年1月1日中華民国臨時大総統に就任しました。
 犬養毅は同年12月19日上海に到着(第3回中国訪問)、翌年1月8日南京総統府で孫文と会見しました。しかし2月25日に黄興が来訪、袁世凱と妥協せざるを得ないと告げたので、犬養及び同行の同志は種々忠告するところあり、3月16日孫文大総統の送別宴に出席、同月26日上海より帰国の途につきました(鷲尾義直「前掲書」中)。

犬養道子「花々と星々と」を読む13

 1912(大正1)年11月30日上原勇作(「坂の上の雲」を読む33参照)陸相は朝鮮に2個師団増設案を閣議で否決されたため、同年12月2日単独辞表を提出、陸軍は後任陸相を送らなかったので、同月5日第2次西園寺公望内閣は総辞職しました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む13参照)。同年12月21日第3次桂太郎内閣が成立するに至りました。
 かかる軍部の横暴を非難する動きは、早くも同年12月13日東京の新聞雑誌記者・弁護士などが憲政作新会を組織、師団増設に反対、同月14日交詢社(福沢諭吉によって設立された社交倶楽部)有志が憲政擁護会を組織、同月15日政友会3派(関東倶楽部・東京支部・院外団)の大懇親会が開催され、官僚政治の根絶、憲政擁護を決議するなどの行動として現れました。
 同年12月27日にも開催された憲政擁護大懇親会は憲政擁護会の事務所があった築地精養軒で開かれましたが、このとき犬養毅の演説要旨は次の如くでした(鷲尾義直「前掲書」中)。

近代日本とフランスー日本語―コラムー「美し国」フランスへの憧れー1.料理―築地精養軒と洋食文化   

 「今や政局の形勢は既に議論の時機を去れり。政国の両党が互に猜疑を挟むが如きは、永き歴史を有する党派上に於て已むを得ざるも、連合の目的を達する上に於ては、日夕胸襟を披いて談論を上下し、彼我の間の猜疑心を除くことに努めざるべからず。其勢力必ずしも強しとせざる官僚の倒れざるは、政党全体の責任なり。故に政国両党真に連合して一たび風雲を叱咤せんか、官僚閥族を討滅すること易々たるのみ。茲に憲政の為め諸君と共に益々奮戦せんことを誓ふ。」
 しかるに1913(大正2)年1月19日に開かれるべき立憲国民党大会以前に推挙された宣言起草委員には改革派が多数で、その宣言草案は当面の政敵たる桂太郎内閣に言及することを避け、友党であるべき政友会を攻撃することに重点をおいたものでした。大会前日にこのことを知った犬養毅ら非改革派は別に閥族打破・憲政擁護の民党的宣言案を用意、大会においてこの宣言と桂内閣弾劾の決議を可決することに成功しました(新聞集成「大正編年史」)。
 その結果同年1月21日大石正巳・島田三郎・河野広中・片岡直温らは立憲国民党を脱党、同月31日桂首相の新党創立(立憲同志会)に参加を表明、立憲国民党は分裂しました。
 1912(大正1)年12月27日開会された第30通常議会は翌年1月21日停会となり、2月5日再開された議会において、政友・国民両党は桂内閣不信任案を提出、政友会の尾崎行雄が桂首相の弾劾演説(「凛冽の宰相加藤高明」を読む14参照)を行い、議会は再び5日間の停会となりましたが議事堂周辺には護憲派民衆の示威行進が行われ(「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造8参照)、2月11日第3次桂太郎内閣は総辞職しました。

犬養道子「花々と星々と」を読む14

 1913(大正2)年2月20日山本権兵衛(薩摩閥)内閣(首・外・陸・海を除き、全閣僚は政友会所属)が成立しました。同日立憲国民党は山本内閣が政党内閣でないとして、立憲政友会との提携を断絶、政友会の尾崎行雄も国民党と同様に同党から脱党、同月24日政友倶楽部を結成しました。
 山本内閣は軍部大臣現役武官制(「大山巌」を読む48参照)を撤廃、軍部を非難する世論に配慮を示しましたが、1914(大正3)年1月23日立憲同志会の島田三郎は衆議院予算委員会でシーメンス事件につき政府を攻撃(「凛冽の宰相加藤高明」を読む15参照)、犬養毅は山本内閣の世論への配慮をやや評価したものの、同年3月23日の衆議院における内閣弾劾上奏決議案の審議においては提案理由説明演説を行っています。同年3月24日同内閣は総辞職しました。
 同年4月13日大隈重信に組閣命令が下されました。大隈は当時すでに政界の第一線を退き、都の西北早稲田に閑居していたのですが、上述の立憲国民党分裂以後、大隈の態度は曖昧そのものでした。彼は一方において憲政擁護・閥族打破の主張に共鳴し、犬養・尾崎の功労を称賛しながら、桂が新党組織の賛助を要請すると、これに対して好意的態度を示し、国民党脱党組が彼を訪問すると、彼等を激励するなどその真意を理解するのに困難な言動を見せたのです。早稲田大学教授副島義一は雑誌「太陽」(大正2年3月発行)において公然と大隈を批判、情宜に厚く礼義を重んずる犬養毅は同誌において大隈を弁護していますが、彼が本音で大隈の言動を支持したとは思えません。
 同年4月14日立憲国民党代議士会はは大隈内閣の成立は援助するが、党員は入閣しない旨決議、4月16日副総理格として加藤高明(立憲同志会総理)が外相として入閣、第2次大隈重信内閣は成立、中正会の尾崎行雄は司法大臣として入閣しました。

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  1914(大正3)年7月第1次世界大戦が勃発、同年8月23日政府(大隈内閣)はドイツに宣戦布告、翌1915(大正4)年1月18日中華民国政府に21カ条要求を提出、5月25日21カ条要求に基づく日中条約ならびに交換公文に調印しました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む17参照)。

犬養道子「花々と星々と」を読む15

  1914(大正3)年12月25日衆議院は軍艦建造費を可決しましたが、2個師団増設を否決したため、衆議院解散、1915(大正4)年3月25日第12回総選挙が実施され、与党立憲同志会が第一党、野党立憲政友会(1914.6.18総裁 原敬)・立憲国民党は議席減少、同年5月17日第36特別議会が招集されました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む18参照)。
 同議会開会の前に立憲国民党は次のような宣言を発して、大隈内閣の対中国外交を批判しました。
 「日支両国の親善を保ち、東洋永遠の平和をを計るは我党多年の主張なり。然るに現内閣の対支交渉を開始するや、初めより支那に向て誠意を披歴し、東亜の大局を共済するの途に出でず、先づ提案の時期を失し、折衝の機宜を誤り、荏苒(じんぜん 年月が長引く)九十日、徒に恫喝を以て却て軽侮を招き、その拒否する所となるや、事を樽俎(そんそ 外交上の会談)の間に収拾する能はず、纔(わずか)に兵馬の余威をを藉(かり)て時を糊塗す。之を要するに帝国の威信を傷け、国際の禍根を貽(のこ)すもの、焉(いずく)んぞ東洋平和の基礎を確立するを得んや、是れ実に現内閣の失政なり。我党は断じて之を仮借(許す)せず。」(鷲尾義直「前掲書」中)
 同年6月3日衆議院は対中国外交に関する内閣弾劾決議案を上程、原敬政友会総裁が対中国外交の失敗を指摘、片岡直温(立憲同志会)の反対演説があり、次いで犬養毅(立憲国民党)が登壇、21カ条要求のうちの第5号要求の不始末(「凛冽の宰相加藤高明」を読む17参照)を指摘して加藤外交の失策を追及しましたが、同決議案は否決されました。

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 また犬養は1915(大正4)年5月、故金玉均(「花々と星々と」を読む6参照)の表彰を大隈首相ならびに寺内朝鮮総督に建言したが省みられなかったので、翌年1月政府に同人の表彰を働きかけるよう貴衆両院に対して建議しています(鷲尾義直「前掲書」中)。
 しかし大隈内閣も大浦兼武内相の政友会議員買収容疑が問題となり(「凛冽の宰相加藤高明」を読む18参照)、外相加藤高明らが総辞職を要求して閣外に去ると弱体化し、1916(大正5)年3月26日大隈首相は山県有朋を訪問、加藤高明(立憲同志会総理)を後継首相に推薦、同年4月上旬山県は挙国一致の必要を理由に政党首領の組閣に反対と返書、寺内正毅(長州閥)組閣の準備を進めていました。
 一方子爵三浦梧楼(「大山巌」を読む41参照)の呼びかけにより、原敬(立憲政友会総裁)・加藤高明(立憲同志会総理)犬養毅[立憲国民党総理(正式就任は1917.6.20)]の3党首は同年5月24日から3回も小石川富坂上の三浦邸で会談、6月6日外交国防方針につき協同し、外界の容喙を許さぬとの覚書を作成しました(新聞集成「大正編年史」)。三浦は『此の大切な時局を、大隈に任してはおけぬ。軍備、外交、財政此三点に対する一定の国策を樹立し、誰が政局に立っても、此れ丈けは動かぬやうに決定しておきたい。ソレで吾輩は其事を元老連中に説いた。山県に謀ったが、相変わらず用心深い。「此上は軍事、外交、財政、此の三策に就て、君と加藤、犬養、此三人が同一の態度を執ると云ふことにする外、他に道はなかろうと思ふ。」と云ふと原は早速此れに同意した。加藤に会った翌日、犬養にも会った。此れで三党首とも吾輩の国策樹立の意見に賛成した訳だ。』(「観樹将軍回顧録」大空社)と言っていますが、三浦と昵懇であった古島一雄は「三浦は同じ長州出身でありながら陸軍時代から山県とは常に反対の立場に居った。従って三浦は元老の山県を封じ込めてやらうといふ心持もあったのだ。」と語っている(鷲尾義直「前掲書」中)ように、元老(とくに長州閥)に反対する政党連合を強化しようとする意図があったとも考えられます。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―こー古島一雄

同年10月5日大隈内閣は総辞職しました。10月9日山県有朋の推挙により、寺内正毅(長州閥)内閣が成立、翌10月10日立憲同志会は中正会などと合同して憲政会(総裁 加藤高明)が結成されました。

犬養道子「花々と星々と」を読む16

  1917(大正6)年1月25日衆議院は憲政・国民両党共同提案の内閣不信任案を上程(政友会中立)、ところが犬養毅(立憲国民党)は同案の説明演説で「私モ憲政会ハタッタ此間マデ当面ノ敵ト考ヘテ居リマシタガ、此案ニ付テハ賛成者デアリマス。併ナガラ提出者トシテハ此案ニ憲政会ガ同意サレタ以上ハ国民党ト同様ノ意見ニ変化致サレタモノト認メテ宜シイト思フ」と憲政会を批判したため、憲政会の反発を受け、衆議院が解散されると、国民党は憲政会との提携打ち切りを声明しました。
 同年4月20日第13回総選挙が施行され、政友会は第1党、憲政会は第2党で、国民党はやや議席を増加させたに止まりました。
 同年6月2日寺内首相は原敬・加藤高明・犬養毅3党首に臨時外交調査会委員就任を要請、原敬・犬養毅は受諾しましたが、加藤高明は6月5日これを拒絶しました。
 一方この年の夏ころから上がり始めた米価は翌1918(大正7)年さらに上昇、同年8月富山県に米騒動が起こり、同年9月21日寺内正毅内閣は倒壊、9月27日原敬立憲政友会総裁に組閣命令が出されました。
 米騒動は明治時代において弾圧された労働運動や普選運動などの社会運動が再び活発化するきっかけとなりました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む20参照)。
 1918(大正7)年12月25日召集の第41議会において翌年3月8日政友会・憲政会・国民党3派提案の衆議院議員選挙法改正案(小選挙区・選挙権資格を直接国税3円以上に拡大)が可決されましたが、村松恒一郎ら6名の立憲国民党所属代議士が、同上選挙法改正案の撤回を要求、普選案に代えることを主張したため党より除名処分となりました。1919(大正8)年12月20日憲政会政務調査会でも普選の条件をめぐる対立が起こっていました。

Weblio辞書―検索―村松恒一郎 

  1918(大正7)年11月11日第1次世界大戦が終了、1919(大正8)年1月18日パリ講和会議が開催(「凛冽の宰相加藤高明」を読む21参照)されましたが、内政においては普選運動の高まり(「労働運動二十年」を読む19〜20参照)に対する政府与党と野党の対応の問題が緊急の課題として浮上してきたのです。 
 1919(大正8)年12月26日開会の第42議会において、1920(大正9)年2月14日衆議院は憲政会・立憲国民党・普選実行会提出の普通選挙法3案をが上程されました。立憲国民党案は選挙権を満二十歳以上とし納税資格規定削除などとする内容でしたが、普選法案討議中同年2月26日衆議院は解散となりました。
 同年5月10日第14回総選挙実施、普選反対の与党立憲政友会が大勝、普選運動は一時衰退する傾向を見せました(「労働運動二十年」を読む20参照)。

犬養道子「花々と星々と」を読む17

 1921(大正10)年11月4日原敬首相は東京駅で刺殺され死去、11月13日高橋是清内閣(全閣僚留任)が成立、翌日高橋是清は立憲政友会総裁に推挙されました。
 翌年1月10日大隈重信、2月1日山県有朋ら維新の元勲たちが相次いで死去、新しい時代の到来を告げる出来事でした。
 1921(大正10)年末に召集された第45通常議会において提出された憲政会・立憲国民党・無所属組の統一普選案(立憲国民党は選挙権年齢を20歳から25歳に改める)が翌年2月23日上程されましたが、2月27日否決されました。しかし立憲政友会内部にも普選法案に対する動揺が拡大しつつあったのです。
 一時衰退した普選運動の主な新しい担い手となったのは地域の市民的政治結社で、1922(大正11)年春より普選運動は再び高揚しました。
 1922(大正11)年6月6日高橋是清内閣は内閣改造問題による閣内不一致で総辞職、同年6月12日加藤友三郎(前内閣海相)内閣(「凛冽の宰相加藤高明」を読む26参照)が成立しました。
 政友会・憲政会の二大政党の圧迫を受けて党勢不振状態にあった立憲国民党は同年9月1日解党、新たな勢力の結集をめざして同年11月8日立憲国民党を母胎とし、憲政会の尾崎行雄や島田三郎ら及び無所属倶楽部が参加、革新倶楽部が結成されました。
 1923(大正12)年8月24日加藤友三郎首相は病死し、同年8月28日山本権兵衛に組閣命令が下されました。しかるに同年9月1日関東大震災が起こり、この非常事態の最中、同年9月2日第2次山本権兵衛内閣が成立しました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む27参照)。
 当時犬養毅は信州富士見の高原における白林荘(別荘)の新築に世事を忘れていましたが、中央線で名古屋に福沢桃介を訪問した同年8月28日至急電報をうけ、翌日上京しました。山本権兵衛と犬養との連絡は同内閣の書記官長樺山資英と犬養の側近古島一雄(「花々と星々と」を読む15参照)を通じてつけられていたのです。

富士見町HP―検索―白林荘―富士見町を歩く[文学に触れるプレミアム紅葉ウオーキングコース] (4)白林荘    

 古島は東海道線沼津駅で御前3時寝台車にいた犬養に会い、山本の犬養への入閣要請を伝えると、犬養は眠そうな眼をこすりながら、「普選で勝負する」と唯これ丈を言いました。8月30日『山本と水交社で会見して帰ってから「どうです」とたずねると「やれそうだ」といふ、そこで直ちに入閣に決した』(古島直話 鷲尾義直「前掲書」中)。
 「普選をやるには内務大臣がよいが、内務は後藤(新平「男子の本懐」を読む5参照)が希望してゐるから、一番ヒマな椅子がよからう、逓信がよいと云ふので逓信大臣になられたのである。」(古島一雄談 鷲尾義直「前掲書」中)。
 革新倶楽部は犬養の入閣を了承しましたが、政友会は同内閣に非協力の態度をとり、貴族院において憲政会の若槻礼次郎(「男子の本懐」を読む6参照)は犬養毅逓相の逓信事務怠慢を批判する質問を展開しました。犬養の普選への思い入れも虚しく、同内閣は同年12月27日虎ノ門事件(「凛冽の宰相加藤高明」を読む27参照)で総辞職しました。

犬養道子「花々と星々と」を読む18

 ここで話題を変えて、犬養毅とその家族の家庭生活を観察してみましょう。そのための数少ない情報源の一つが、犬養道子(犬養毅の孫)の「表題作品」です。
 四ツ谷[ 1922(大正11)年四ツ谷区南町に犬養毅新邸(借翠盧)完成 年譜 鷲尾義直「前掲書」下 ]に道子が連れて行ってもらうのはまれでありました。どうせ行ったところで、お祖父ちゃま(犬養毅)とは滅多に会えるわけでないし、お祖母ちゃま(犬養毅夫人千代)の御機嫌伺いとなればこれは仲々気骨の折れることでした。
 実際、連れて行ってもらっても、お祖父ちゃまなしの四ツ谷は退屈なところでありました。お祖母ちゃまのお居間は、南に向って「逆コの字」に建てられた家の中央にありました。庭に通じる気持ちよい広縁式廊下と、お着替えのための小部屋と十畳の床の間つきと、一組になっていました。
 それにひきかえ、お祖父ちゃまのお居間兼書斎兼寝室兼何でも部屋は、玄関真上の二階にあって、西陽が照りつける滅法暑い部屋でした。「お祖父さんは字を書いて汚しなさるから」

夏樹美術株式会社―書画・掛け軸―名士墨跡・書物故作家―昭和時代の名士墨跡書・物故作家―あ行の作家―犬養木堂/いぬかいぼくどう

 畳はそこに敷いてありませんでした。「墨をしょっちゅうこぼしなさる」絨毯も敷かれていませんでした。「毛氈(もうせん 獣毛を加工した厚手の敷物)でよろしい」
 買い求めたときは一体何色であったろうといぶかしく思われる磨り切れた毛氈が、あっちこっちに焼けこげや墨汁のしみを浮き出させて、お祖父ちゃまの部屋の床をおおっていました。元来が窓の高い洋間のつくりなのに、毛氈の上に座布団を敷き、和風の文机がおいてあります。
 花や盆栽はありませんが、お祖母ちゃまのお居間には、立派な簿記机とおびただしい書付の類と、銀の小ちゃな壺にいつも一杯入っている外国製のボンボンがありました。
 いちどそのボンボンを頂いて、この世ならぬ香気と甘ずっぱいおいしさに驚いて、道子は四ツ谷に行くたび、ボンボン壺にはかない望みをかけるのでした。しかしボンボンは極めて特別な時にもらえるだけで、出されるものはほとんどいつも和泉家の栗饅頭と唐饅頭。それは紙に包んであるから、「何度でも、お客に出したり、ひっこめたり出来る重宝な」お菓子でありました。一度、唐饅頭を頂いて、二つに割ってみたら、中にはカビが生えていました。
 でも、お祖母ちゃまには、女中たちに教えてカビの生えた唐饅頭を出したりひっこめさせたりさせねばならぬ正当な理由があったのです。何しろ大変な数の客でありましたから。
 はじめて四ツ谷の台所を見た日の驚きを、道子は決して忘れませんでした。お湯は大薬罐に二六時中たぎり、十人、二十人の単位で湯呑みと土瓶がひっきりなしに、第二応接室や書生部屋に運ばれました。台所の隅っこの三畳には、大きな卓袱台が出しっぱなしにされ、そのまん中には、これまた二六時中、たくあんを山盛りにした丼、土瓶と、お櫃と、茶碗と箸とが置かれ、いつも、たれかが、そこで食べていました。しかも女中はもとより、十数年も祖父につきそっている女中頭のテルも、台所で食事をしている人物が誰であるか知りませんでした。
 何しろ「憲政の神様」の異名を、お祖父ちゃまは冠(かぶ)せられてしまっていました。だから、崇拝者や子分は日本国中に多かったのです。先生、先生と、夜が明けると同時に四ツ谷に「出勤」して来る常連の中には「あそこに行きゃあ、ひると晩とは、たとえたくあんの尻尾だけのめしでも、食わしてもらえる」と踏む連中もいたのであります。しかし金ヅルは万年野党のお祖父ちゃまには縁遠かったのでした。

犬養道子「花々と星々と」を読む19

 今にして思えば、四ツ谷のお祖母ちゃまは、大変な経営者素質を持っていました。彼女が色街でなく、今日普通の家庭で人となったら、おそらくお祖母ちゃまは経済学でも志して、女性経営者として花々しく活躍したでしょう。万年野党の首領の奥さまになって、おさまる人ではなかったのです。
 お祖母ちゃまは立派な簿記机の中に、植木屋とか草取りなどの「出勤簿」を入れていました。出勤簿に記入する植木屋の出勤時間は植木屋が犬養家に到着した時刻ではなく、最初の植木に手を触れた瞬間なのです。仕事終わりも最後の植木から手を離した瞬間が退勤時間として記入されるのです。お祖母ちゃまが来客で忙しいときや、外出の際「出勤簿」は女中頭のテルに渡されましたが、植木屋の出退勤時刻を推定で記入したりすると、月末にお祖母ちゃまに見つけられて注意されるのでした。
 先を見通す能力に秀でたお祖母ちゃまが、「この人はモノになる」と見込みをつけて、元々好きはもちろんのことながら、強引に押しかけ、居坐って妻の座を奪ったのでした。道子の父(犬養健)の生みの母は、この猛烈な恋仇にしてやられ、身を引いて表面から去っていったのです。
 そのドラマは、もうひとつ別のドラマを生みました。追い出された女の産んだ長男―道子の父の兄―が、どうしても「おかあさんを追いやった人」を認めることが出来ず、少年期にさしかかる子供の一徹から出刃庖丁をふりまわして大変な刃傷沙汰をひきおこしたことでありました。
 政治の勘の滅法によいお祖母ちゃまー千代と言いましたーにすっかりしてやられて頭の上がらなくなったお祖父ちゃまは、「あんな子を置いておいては、あなたの政治の生命にもかかわりますよ」の言葉に負けてしまったのでありました。
 十歳と言う幼い年齢を、つい数年前越えたばかりの少年は、勘当(親子の縁を切る)廃嫡(旧民法で相続人としての資格を奪うこと)の身となって、遠く四国に送られました。
 道子の父[ 犬養健 1896(明治29)年7月東京生まれ 「父の映像」筑摩叢書 筆者略歴]は、そのドラマのとき、ほんの幼児でありました。可愛がってくれた優しい実母からひきはなされ孤独と悲哀のゆえに寄り添って日夜暮した兄からさえも剥(も)ぎはなされ、「子供を好きではない」女の手もとに、とりのこされました。
 満四つにになったかならぬころ、さっさと取りきめた継母のはかららいで、彼は幼児のための寄宿に入れられました。成人して人の父となったのちも彼は、お祖母ちゃまがでんと居すわる家を避けました。

犬養道子「花々と星々と」を読む20

  お祖母ちゃまは、花のひとつ、絵の一枚を部屋に飾る心を持たぬ人でありました。文学を志す青年なぞ、わかる筈もなかったのです。そのお祖母ちゃまの思いは、道子の父が「愚かな父」と言う題の連載をはじめたと知ったときに爆発しました。
 父はうるささに耐えかねて、連載を途中で切りあげ、短編集に集録された、人の心の機微を気品高い細やかな筆で描いたその小品を、破って棄てました。
 けれどたった一度。彼女はそのこわい四ツ谷の御祖母ちゃまの、思いがけない面に接して、お祖母ちゃまはそれほどおそろしい冷酷な女でもなく、むしろ多分にこっけいな、愛すべきところの多い女ではなかったかと思うのです。
 ―その日。四ツ谷はいつもに倍かけての来客ずくめ。着く早々、母も前掛けをさっさとかけて台所の方に手伝いに行ってしまいました。彼女は「四ツ谷用」のキューピーをひとつ持って、ベランダに水を張った洗面器を無断で持ち出し、キューピーを「風呂」に入れていました。突然、黒紋付がそばに坐ったので、彼女は無断で洗面器を持ち出したことへの叱責を覚悟したのでした。
 しかしお祖母ちゃまはそのキューピーをじっと見ていました。「ちょいとそのキューピーさんをおばあさんに見せておくれ」
 「道ちゃんや。何度もこのキューピーさんをお洗いかえ」「うん」
 「剥げませぬか。色はとれぬかえ」「ううん」彼女は首を横に振りました。「よく出来ているねえ……」お祖母ちゃまは眼をあげてしばし空中をしばらく見ると、急に「キューピーさん」を彼女の膝に押し戻し、さっさと早い動作で居間に入って上手にポンポン手を拍ちました。「たれかおらぬかえ」「三越に電話をおかけなさい。セドドイド(セルロイド)部の部長をお呼び」
 ややこしい押し問答がくりかえされたあと、三越側はようやく、玩具部長が四ツ谷のお祖母ちゃまの居間の閾 、三つ指をつきました。道子が母や其の他の人々から聞いた話によると、お祖母ちゃまと三越部長との間にはこんな問答が繰り返されたようです。
 「ときに、セドドイドで海老はつくれますかえ」「エビーセルロイドでエビを。それはまァ、つくれぬことはありますまいが」「髯(ひげ)もちゃんと出来ますかえ。赤い髯」「それは…まァ、つくらせてつくれぬことはございますまい」「それから、昆布も出来ますかえ」
「ヘッ! コンブ!」「北海道でとれる上等の昆布でござんすよ」
 お祖母ちゃまが玩具部長に注文したのは、伊勢海老、裏白(シダ植物の一種、正月飾り)、昆布、橙(だいだい)ぜんぶくっついた、セルロイドの鏡餅大中小一式なのでした。
「特別でございますから、高くつきます」「けっこうでござんすよ。あんた、毎年毎年、玄関と、応接と、茶の間に、役にも立たず、かたくなる鏡餅をかざるより、、毎年洗って使えて、色もさめないセドドイドの方がよほど経済的でござんすよ」
  こうして、犬養本家の正月は、その後、年々歳々、セドドイドの鏡餅で飾られました。「ねえ、あなた、ついでに芝生も松も桜も、セドドイドでつくらせてはどうでござんしょねえ。草取りや植木屋のてまもなし、出勤簿の面倒もなくなるし」
「やァなこった」とお祖父ちゃまはそっぽを向きました。いのちの芽生えの健かさも、自然の緑の美しさも解さぬ、政治一点張りのこの妻をえらんでしまったお祖父ちゃまは、そのとき、ふっと嘲りとも淋しさともつかぬ妙な表情を孫の道子に向って見せました。
2016-01-11 05:45 | 記事へ | コメント(0) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(現代篇6犬養毅) |
犬養道子「花々と星々と」を読む1〜10
2016年01月01日(金)
犬養道子「花々と星々と」を読む 1

 犬養道子「花々と星々と」上下(大活字本シリーズ 埼玉福祉会)は著者の自伝的随筆で、中央公論社から1969(昭和44年)出版、1973(昭和48)年増補版が出されました。著者は1932(昭和7)年の五・一五事件で暗殺された犬養毅(木堂)首相の孫、白樺派の作家で後政界に転じた犬養健(毅の子)・仲子夫妻の長女です。本書では犬養毅と犬養家の人々や、同家と関わりのあったさまざまな人々の姿が生き生きと描写されており、彼女は評論家としても其の他多くの著作を発表しています。

系図で見る近現代―近現代家系図―第12回 犬養毅―「話せばわかる」は、なかった!

 1978(昭和53)年には本書を原作とする「ドラマ人間模様」(斉藤こず恵 犬養道子役)がNHKから放映されました。
 まず犬養毅(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む13参照)の生い立ちから申し述べることにしましょう。
彼は1855(安政2)年4月20日備中国賀陽郡庭瀬村字川入(後ち岡山県吉備郡庭瀬町)の庭瀬藩(板倉氏領)大庄屋犬飼源左衛門當済の次男(母 嵯峨)として生まれ、仙次郎當毅(後に本人が毅の一字とした。読み方も本人自身時期によって変化、つよし、つよきと呼ばれたことが多い)と名付けられました(鷲尾義直編「犬養木堂伝」上 明治百年史叢書 原書房)。

犬養木堂記念館 

 犬飼家は犬養とも称し(毅の代に犬養と決定)、苗字帯刀を許された家柄でしたが、當済の代には家運が衰退していました。父源左衛門はこの次男の誕生を殊の外喜び、七言絶句を賦したと言います。近隣の人々は「犬飼家は、代々次男に傑出した人物を出してゐる、今度も次男の誕生祝いを盛んにされたのは、その為であらう」と噂し合ったそうです。
 彼は6歳のころから父の膝下にあって漢書の素読を授けられ、7歳にして藩医で学者として聞こえた森田月瀬の家塾に通学させられたのですが、父は彼を漢学者にする希望だったので1865(慶応1)年犬飼松窓の三餘塾に転学させられました。

犬養道子「花々と星々と」を読む 2

 ところが1868(明治1)年父は急病で死去、当時彼の兄豊太郎が18歳で家を相続したのですが、彼が従来通り修業を続けることは不可能となりました。
 そこで兄の厄介にならずに、自活して勉学を続けるために、彼は門側の一屋に寺子屋を開き、傍ら松窓先生の家塾に通って勉学に励みました。
 松窓先生が倉敷の明倫館に招聘されると、彼はそこから約1里ほどの母方の伯父の家に寄寓して勉強をつづけました。

倉敷代官所跡 

 1871(明治4)年廃藩置県により、庭瀬藩は深津県(県庁 笠岡市)の一部となり、同県は翌年小田県と改称されました。
 すでに習字を習っていた御祐筆が小田県の役人で、この人の紹介により、彼は同県地券局に勤務することになりました。彼はこうして学資を貯え、上京するつもりでしたが、給料は安く、下宿代を払えば、あとはいくらも残りませんでした。1874(明治7)年地券局は地租改正局と改称されましたが、彼は継続出仕を願わず辞職しました。
 そのころ医者などが集まって漢訳の西洋書輪読が流行していました。会場は大概お寺で、集まるものは彼より年長のものばかり、書籍は「気海観瀾」(青地林宗著 日本最初の物理学書)や「博物新編」(大槻玄沢ら訳 仏語の「家事百科事典」の蘭訳本)とかいうもので、漢学修業を目的とする彼には物足りないものでした。
 ところがあるとき、先輩の学友多田松荘が漢訳の「万国公法」(ヘンリー・ホウィートン著の国際法原書を米人宣教師マーチンが漢訳したもの。日本では1865年出版)を輪読の席に持って来ました。
 「どうもよく読めない」と多田が言うので、彼は同書を持ちかえって、三晩くらい徹夜しましたが、すっきり理解できませんでした。そこでまず英語を学んで原本を読んでみようと考え、それには上京する外はないが、旅費の工夫さえつかず、途方にくれていると、友人の多田が資産家の伯父に話して30両出してくれることになり、あとは姉がかなりの商人に嫁いでいて、婿の援助で上京することになりました。

犬養道子「花々と星々と」を読む 3

 1875(明治8)年7月7日神戸出帆、横浜を経て7月10日東京着、松窓先生の家塾の塾頭であった難波恭平氏を訪ねると、地方に移転して不在でした。姉婿の援助も期待できなくなり、途方にくれているとき、偶然小田県の官吏であった山口正邦に出会い、山口の従兄林(後 藤田姓)茂吉に会えるよう手配してくれました。藤田茂吉は慶応義塾出身、郵便報知新聞の主筆をしていた人物で、彼はまもなく藤田の新借家(京橋区南鍋町)の食客となり、同新聞論説の代筆を引き受けたりしたこともあったようです。彼が湯島の共慣義塾に入ったのも藤田の勧めによるものでした。共慣義塾は月謝も賄料も他に比して安く、ここで彼は初歩の英語を習得しましたが、塾舎は粗造不潔、寄宿舎の賄いも劣悪で耐えがたいものでした。

Weblio辞書―検索―郵便報知新聞―藤田茂吉    

  藤田は彼に郵便報知新聞に寄稿し、その原稿料を学資にして慶応義塾に入学してはどうかと勧め、1876(明治9)年彼は同塾に入学、寄宿舎では一切友人とも交際せず、勉学に専心する毎日を過ごしました。
 1877(明治10)年西南戦争(「大山巌」を読む18参照)がおこると、藤田茂吉から、戦地にでかけて戦況を通報してはどうか、もし君がやってくれるなら、社主に交渉して帰ってからの学費は卒業まで社から毎月10円ずつださせることにするが、という相談をうけ、彼は快諾し「戦地探偵人」(従軍記者)として戦地に赴くことになりました。
 戦地に到着したのは同年3月田原坂の戦闘の最中で、軍人と官吏以外交戦地帯に入ること禁止とのこと、幸いに内務権大書記官の石井章一郎が臨時熊本県令事務取扱として出張してきていたので、この人に頼んで熊本県御用係という名義の辞令を出してもらって交戦区域に入ることができました。
 当時各新聞社から特派された記者は、「東京日日」の福地源一郎(桜痴)をはじめ一流の大記者を選抜したものでしたが、彼等は贅沢な生活に慣れ、戦地の不自由に弱っていました。これに対して彼は貧書生で窮乏には慣れて居り、砲烟弾雨の間を縦横に馳駆し、ときには兵卒らとともに露営もし、夜襲にも加わるという有様で、所謂活きた材料によって軍事通信の任務を果しました。
 彼の戦地からの通信は「戦地直報」と題して、同年3月27日発行の郵便報知新聞紙上に其の第1回が掲載され、城山陥落まで前後百数回連載、内容は生彩に富み、現状を見るようだと大いに読者の歓迎するところとなりました。

犬養道子「花々と星々と」を読む 4

 彼が九州から帰ってくると、報知社では学資は続けるが、その代わりに月3回宛論説を書いてくれと言われ、やむなく承知しました。ところが半年もたたぬうちに藤田より月10回論説を書けといわれ、それでは約束が違うと報知社との関係を絶つに至ったのです。
 すると忽ち学資に困りましたが、同郷の友人が翻訳文の添削の仕事を周旋してくれて、これで安心して勉強できるようになりました。
 当時福沢諭吉は講義を担当しておりませんでしたが、三田演説会が毎週土曜日に開かれ、福沢が演説するとその後犬養毅も演説(「諸友は語る」鷲尾義直「前掲書」)、こうした福沢と彼との人格的接触を通じて、彼は福沢の思想的影響を受けたようです。
 彼はまた仮名垣魯文の推薦(「十大先覚記者伝」鷲尾義直「前掲書」)で1873(明治6)年郵便報知新聞に入社した栗本鋤雲の門下生となり指導を仰ぎました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―くー栗本鋤雲

 犬養毅の雅号「木堂」は栗本鋤雲の撰によるものとする説(犬養道子「表題書」)があります。鷲尾義直氏によれば、犬養毅がいつから「木堂」の雅号を称するようになったのか不明であり、その出典は「老子」説(「十大先覚記者伝」)もあるが誤りで、「論語」の「剛毅木訥近干仁」から撰んだと犬養毅自身が述べていること、及びこの雅号が鋤雲の撰によるものかどうか断定を避けています(鷲尾義直「前掲書」)。
 入学した慶応義塾で彼が一番困ったのは学資を得るための翻訳文添削などに追われ、数学の勉強の時間がなかったことでした。そのため第二級時代の大試験に1点上の成績を矢田績(後 三井銀行入社)君に奪われ、自尊心を傷つけられた彼は卒業間際の慶応義塾を退学してしまったのです。彼の負けず嫌いな性格の一面がよく表れている挿話です。
 1880(明治13)年「東海経済新報」が創刊され、社長は豊川良平(慶応義塾出身)で、資金の調達其の他経営を担当、彼は主幹として編集を担当、「東京経済雑誌」誌上に自由貿易論を掲げる田口卯吉(鼎軒)に対して、彼は保護貿易論を主張、両者の論争が展開されました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―たー田口卯吉

 やがて豊川は明治義塾の経営に主力を注がねばなっらなくなり、かれもまた大隈の改進党創立に参画して多忙となったため、1882(明治15)年同誌は廃刊となりました。
 彼の永い記者生活(郵便報知新聞の寄稿にはじまり、東海経済新報の創刊から正式に報知社への入社となり、朝野新聞に転じ、民報の創刊となり、聘せられて秋田日報の主筆に就任、また報知社に復帰など)の途中、参議大隈重信(「田中正造の生涯」を読む12参照)の配下であった報知社の先輩矢野文雄(龍溪 「日本の労働運動」を読む10参照)のすすめで1881(明治14)年7月18日統計院権少書記官に任命されました。矢野は彼に、統計院の総裁は大隈参議である、大隈は近く開設せらるべき帝国議会に、有力なる政府委員をを養成するの必要を感じ、福沢諭吉(「大山巌」を読む24参照)に依頼して、三田系の俊才をそこに網羅せんとする意図を懐いている、そしてその選考の任に当たったのが矢野だというのです。
 彼は在官中であっても「東海経済新報」を続刊し、これに執筆することを妨げない内諾を得て、統計院に出仕することになりましたが、このとき矢野の推挙で統計院に入ったのは、彼の外、尾崎行雄(「大山巌」を読む47参照)・牛場卓造の3人でした。

犬養道子「花々と星々と」を読む 5

 しかし1881(明治14)年の政変(「大山巌」を読む19参照)により、同年10月11日大隈重信が参議を罷免されて下野すると、矢野文雄・犬養毅・尾崎行雄らも一斉に辞任するに至りました。
 翌日、1890(明治23)年を期して国会を開くとの詔が発せられると、同年板垣退助を総理とする自由党が結党され、これにつづいて翌年大隈重信を総理とする立憲改進党が発足しました。
 同党は大隈総理の下に河野敏鎌、北畠治房、前島密の3大老がおり、大老の下に5奉行の如き幹事が設けられ、矢野文雄、沼間守一、牟田口元学、春木義彰、小野梓がこの職務を勤めました。是等の人々はすべて官吏を辞職した人たちで、最高幹部でしたが、尾崎行雄、犬養毅らは、その下で地方の遊説にむけられる実働部隊に属し、最高幹部会議には参加を許されませんでした。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―まー前島密

 1882(明治15)年5月東京府会議員の補欠選挙が芝区で行われたとき、当時の芝区長奥平昌邁は犬養に立候補をすすめました。彼は当時復帰した郵便報知新聞(大隈重信買収、社長矢野文雄)の記者で、まだ下宿生活をしていましたが、奥平は法律上の居住資格を作るために慶応義塾構内の岡本宅に彼の門札を掲げるよう手配、首尾よく当選しました。
 このころ彼はようやく本所区番場(旗本戸田邸跡)に新居を構え、郷里から母と妹を迎えております。
 1883(明治16)年春、彼は秋田改進党から「秋田日報」主筆に招聘されて秋田に赴いたのですが、永く中央の地を離れるつもりはなく、同年11月18日秋田を出発、同月末に帰京して郵便報知新聞社に復帰しました。
 政府の自由民権運動に対する弾圧が強化(「大山巌」を読む19参照)され、松方デフレ政策(「雄気堂々」を読む16参照)による不況も影響して1882(明治15)年の福島事件をはじめとする自由民権運動激化事件が頻発するに伴い、1884(明治17)年自由党は解党、立憲改進党にも解党論が高まってきました。同党の総理大隈重信は解党論の代表者河野敏鎌、非解党論の代表者北畑治房、中立派の代表者前島密の慰撫調整に苦しみ、同年12月17日副総理河野敏鎌とともに同党を脱党しました(「明治政史」明治文化全集 日本評論社)。

犬養道子「花々と星々と」を読む 6

 このような情勢の下で、大隈の去った後、同党は総理を空席とし、沼間守一・島田三郎・尾崎行雄・藤田茂吉ら7名を事務委員に挙げ、党務を処理することとなりました。犬養は解党反対派の一人でしたが、具体的にどのような党活動をしたのかほとんど不明です。
 同年12月4日に朝鮮で起った甲申事変(「大山巌」を読む24参照)処理のため井上馨外務卿は特派全権大使として朝鮮に赴き、郵便報知新聞は犬養毅をその談判の模様並びに同国乱後の景況を探聞し、精密確実の報道をなさんがため、同国京城(漢城)に特派することにしました。
 彼は同年12月25日春日艦で横浜を出港、暴風のため難航し、翌年1月3日馬関を出港、同月6日仁川着、仁川から京城に赴き数日滞在、同月12日同地を出発、同月14日馬関に帰着しました。
 甲申事変における武装蜂起に失敗して金玉均が日本に亡命後、犬養は隣接する井坂早夫(元朝野新聞記者)宅に一時身をひそめて居た金玉均と交流を深めていました。犬養の語るところによれば、井上外務卿らに冷遇された金玉均は、犬養の制止にもかかわらず、李鴻章の援助を得ようとして上海に渡航し暗殺されました(鷲尾義直「前掲書」中)。
 朝鮮から帰国後、1886(明治19)年井上馨外相は欧米諸国との条約改正交渉にのりだしました。しかし外人判事任用問題にみられる卑屈な欧化政策(「大山巌」を読む26参照)が非難を浴び、一時衰退したかに見えた自由民権運動が再び高まってきました。
 1887(明治20)年10月3日後藤象二郎(「龍馬がゆく」を読む16参照)は民間政客70余人を芝公園内三縁亭に招き演説、丁亥(明治20年の干支)倶楽部を設立、小異を捨てて大同につく、いわゆる大同団結運動を起こしました。
 かねて民党の合同を主張し、その実現に努力してきた犬養は、矢野文雄、藤田茂吉ら改進党の同志先輩たちが後藤の性格を信ぜず、改進党独自の立場を守ることの必要を説いたのですが、彼は尾崎行雄とともに三縁亭の会合に参加し、丁亥倶楽部の幹事になっています。
 同年10月高知県代表片岡健吉らが三大事件建白書を元老院に提出するなどの動きが高まると政府は同年12月26日保安条例を公布施行するなどの弾圧を強行するに至りました(「大山巌」を読む26参照)。
 彼は保安条例施行以前に「政海之燈台」(集成社)と題する著作を公刊し、時局を次のように論じています。「在朝政治家と民間政党の間に政論の争競の旺盛繁劇を加ふるは吾人の最も希望する所なり。左れども其争競の手段宜きを失へるより官民の間に不穏当なる軋轢を生じ為めに上下乖離の情状を生ずるの傾向あらば吾人は力を極めて之を匡正せざる可からず」(第三章 官民の乖離)
 このような抽象的表現の時評にとどまる限り、彼の発言は問題とならず、改進党員として唯一人保安条例の適用を受けて東京から追放されたのは尾崎行雄だけで、彼には及びませんでした。
 1889(明治22)年3月22日後藤象二郎は突如黒田清隆内閣の逓信大臣として入閣、この行動は大同団結運動に結集した人々の期待を裏切る行為として指弾され、この運動は四分五裂となってしまいました。
 このような情勢において彼は植木枝盛(「大山巌」を読む19参照)・河野広中(「日本の労働運動」を読む26参照)ら自由党系の人々とともに大同団結派の政社組織を主張する大同倶楽部に結集したのです。

犬養道子「花々と星々と」を読む 7
 
 1887(明治20)年9月17日井上馨外相が辞任し、伊藤首相が外相を兼任しましたが、翌年2月1日大隈重信が外相に就任し黒田清隆内閣にも留任しました。
 1889(明治22)年2月11日大日本帝国憲法が発布(「大山巌」を読む27参照)されましたが、彼は「朝野新聞」[末広重恭の招聘により、1886(明治19)年3月入社]の同日社説欄に頌辞を執筆、憲法発布を奉祝しました。

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近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―すー末広鉄腸 

 1889(明治22)年4月19日大隈の条約改正案がロンドン・タイムスにに報道されて、大審院外人判事任用の秘密が世間に洩れると、「朝野新聞」は同年7月9日より18日まで「改正条約の得失を論ず」と題する長文の論説を掲げました。この論文には筆者無署名ですが、犬養の執筆と推定されます。
 彼は大隈の条約改正についてもとより完全なものとは思わなかったけれども、当時の国情においては、これを断行せざるを得ないと考えていたようです。大隈重信は大審院外人判事任用問題で失脚するに至り(「大山巌」を読む28参照)、この後改進党は一段と党勢不振に陥りました。
 1890(明治23)年7月1日第1回総選挙実施、彼は郷里岡山県第三区で立候補、定員1名に立候補者は4人いましたが、首尾よく当選しました。
 総選挙の結果、衆議院では民党(野党)の立憲自由党と態勢を立て直した立憲改進党が吏党(与党)を抑えて多数派となりました。
 山県有朋首相は軍備増強を盛り込んだ予算案を提出、民党は民力休養・政費節減をスローガンに予算案の削減で対抗(「大山巌」を読む29参照)、1891(明治24)年3月2日政府は民党の土佐派切り崩しで修正案(歳出削減額を縮小)を通過させました。
  1890(明治23)年暮、犬養は尾崎行雄ら数名の同志とともに「朝野新聞」を去り、翌年1月11日新たに「民報」を創刊しましたが、同紙は上記の土佐派変節議員に痛烈な批判攻撃を展開、このため3月16日犬養毅議員が人力車で路上を通行中暴漢に襲われ棒で頭部を殴られる事件が起こりました。同紙はしばしば発行停止の処分を受け、5カ月目に廃刊、以後彼は尾崎とともに郵便報知新聞の客員として、同紙に執筆するようになりました。
 1892(明治25)年2月15日松方正義内閣も軍事費をめぐって民党と対立し、衆議院を解散、第2回総選挙施行、露骨な選挙干渉にもかかわらず民党が勝利し、松方内閣は総辞職、同年8月8日第2次伊藤博文内閣が成立しました。
 同年11月29日開会された第4議会において、民党は1月26日政府予算案の軍艦建造費などを削減、2月7日衆議院は内閣弾劾上奏決議案を可決しました。これに対して軍備拡張のため、一定期間官吏の俸給を削減するなどの内容をもつ詔書が出され、衆議院は2月22日製艦費をふくむ予算案を可決、以後政府と民党の対立は異なった局面に転換しました。

犬養道子「花々と星々と」を読む 8

 千島艦事件の日本敗訴(「大山巌」を読む31参照)により、1893(明治26)年10月、安部井磐根・大井健太郎らは大日本協会を組織して対外硬派を形成、内地雑居反対・対等条約締結・現行条約履行・千島艦訴訟事件詰責を主張、これに改進党は同調しましたが、自由党は反対しました(「大山巌」を読む32参照)。

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  同年11月28日第5通常議会が開会され、12月19日安部井磐根ら提出の現行条約励行案を上程、10日間の停会を命じられました。さらに12月29日政府は大日本協会に解散命令を出し、翌日衆議院を解散しました。
 1894(明治27)年3月1日第3回総選挙が実施されたのですが、同年4月犬養毅らは立憲改進党を脱党し、岡山で中国進歩党(所属代議士5名)を結成しています。しかし彼は主義主張を改進党と異なって離党したのではなく、地方における同志の立場を有利にするための一時的振る舞いであって、一切の政治行動は改進党と同一でした。同年5月15日開会の第6特別議会において、同月31日衆議院は硬六派(立憲改進党を含む)提出の内閣弾劾上奏決議案を可決しました。

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 同年6月2日政府は衆議院を解散、7月25日豊島沖の海戦により日清戦争が勃発しました。同年9月1日第4回臨時総選挙を実施、10月18日広島で開会された第7臨時議会は政府の日清戦争(「大山巌」を読む35〜39参照)遂行に全面的協力をすることになりました。
 しかし戦後日本が三国干渉により遼東半島を放棄(「大山巌」を読む39参照)すると、硬六派はこれを非難、三国干渉を承認した第2次伊藤博文内閣の倒閣方針に転ずると、政府は自由党及び硬六派の一角であった国民協会を抱き込み、政権延命を図るに至ったので、硬六派側も新党樹立に向かい、1896(明治29)年3月1日立憲改進党[1892(明治25)年大隈重信改進党に復帰]・犬養毅の指導下にあった中国進歩党・立憲革新党などが合同して進歩党を結成、犬養毅は常議員に推挙されました。新しく成立した第2次松方正義内閣に大隈重信が外相として入閣、進歩党は松方内閣と提携しました(松隈内閣)。
 しかるに薩閥系と大隈系の閣僚間のいがみ合いを松方首相は収拾できず、同内閣は倒壊、1898(明治31)年1月12日第3次伊藤博文内閣が成立しました。

犬養道子「花々と星々と」を読む 9

  政府は歳入不足を補うため、地租・酒税を中心に3000万円の増税方針をはかったのですが、第12特別議会において自由・進歩両党は提携して地租増徴案を否決、衆議院は解散されました。つづいて同年6月22日自由・進歩両党は合同して憲政党を結党しました。
このころ犬養毅は健康を害しておりましたが、しばしば自由党首脳部とも会談、彼の宿望であった民党の合同に向けて努力しました。結党大会においては宣言・綱領を採択し、党務処理のため4名の総務委員を推挙、自由党系から片岡健吉・江原素六が、進歩党系から犬養毅・楠本正隆が就任しました。

土佐の歴史散歩―地域別MENU―高知市中心部―片岡健吉像 

 伊藤首相は元老会議で政党との対決を主張する山県有朋と激論となり、ついに辞表を提出し、後継首相に大隈重信・板垣退助を推薦、同月27日大隈・板垣に組閣命令が下され、第1次大隈重信内閣(隈板内閣 最初の政党内閣)が誕生しました(「大山巌」を読む46参照)。
 閣僚の選考においては、とくに尾崎行雄の文部大臣就任に難色をしめすものが多かったのですが、犬養毅はひたすらこれらの不平を抑えることに苦心しました。当時彼の私邸は牛込馬場下にありましたが、早朝から深夜まで政客の来訪が絶えず、夜になれば酒でもてなし、彼は入閣こそしなかったが、事実上の総理と目されていたようです。
同年8月10日第6回総選挙で憲政党は衆議院300議席中243議席を確保しました。
 しかるに尾崎行雄文相の共和演説事件で尾崎が辞職すると、閣議は後任文相問題で紛糾、大隈首相が独断で犬養毅を後任文相に奏請したため、板垣退助内相ら自由党系閣僚は辞任、同年10月31日大隈重信内閣は倒壊、憲政党は旧自由党派の憲政党と旧進歩党派の憲政本党に分裂しました(「大山巌」を読む47参照)。
 1898((明治31)年11月8日第2次山県有朋内閣が成立、同内閣は憲政党を抱き込んで、同年12月20日懸案の地租増徴法案可決に成功しました。同法案に反対した憲政本党において大隈重信は事実上の総理であったけれど、党則上は責任ある地位になく、党の実権は犬養毅・大石正巳ら総務委員の手中にありました。

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  山県内閣は文官任用令などを改正して政党の官僚統制を困難にし、治安警察法を公布、労働運動・農民運動の取り締まりを強化し、軍部大臣の現役武官制を確立、軍部が内閣の存廃をきめる力を持つようにするなど、政党と対決する政策を打ち出しました。これに対して憲政党は伊藤博文を党首とする新党参加を申し入れ、1900(明治33)年9月15日立憲政友会が発足(「大山巌」を読む48参照)、尾崎行雄はこれに参加しました。

犬養道子「花々と星々と」を読む10

  1900(明治33)年12月18日憲政本党大会において党則改正が行われ、新たに総理をおき大隈重信が推戴されました(大津淳一郎「大日本憲政史」5 原書房)。
 同年10月19日成立した第4次伊藤博文(立憲政友会)内閣の外相に就任した加藤高明は山県有朋と合わず、1901(明治34)年6月2日第1次桂太郎(長州閥 山県有朋の直系)内閣が対露軍備拡張のため地租増徴継続による海軍拡張計画をめざすと、伊藤博文は加藤高明の斡旋で大隈重信と会談、政友会と憲政本党提携の気運が高まりました。両党はそれぞれ大会を開いて地租増徴継続に反対、海軍拡張の財源は政費節減のよれと決議しました。
 1903(明治36)年5月20日桂首相は政友会との妥協交渉を開始、同月24日政友会議員総会は妥協案を承認、かくして伊藤と大隈の提携は崩壊しました(「凛冽の宰相加藤高明」を読む7〜9参照)。
 1905(明治38)年12月21日第1次桂太郎内閣は日露講和(「坂の上の雲」を読む48〜49参照)をめぐる騒擾事件をきっかけとする民衆運動の高まりの中で総辞職し、元老会議を経た桂太郎の推薦により、1906(明治39)年1月7日第1次西園寺公望(1903立憲政友会総裁・「火の虚舟」を読む9参照)内閣が成立、桂と西園寺が交替して政権を担ういわゆる桂園時代がはじまりました。
 隈板内閣以来政権からはなれた憲政本党には民党としての使命に徹しようとする正義派(非改革派)と多年の在野による党勢の停滞に耐えられず、政権に接近しようとする功利派(改革派)の抗争が容易ならざる事態となってきました。犬養毅は正義派として党内をまとめようと努めました。しかし1903(明治36)年と1907(明治40)年の中国訪問による不在中、改革派は桂太郎一派大同倶楽部のはたらきかけもあって大隈と犬養の排斥を企てるに至ったのです。
 1907(明治40)年1月20日の憲政本党大会において大隈重信は総理引退を声明するに至り、1909(明治42)年2月27日改革派が掌握していた党執行部常議員会において院内総務犬養毅は除名処分を受けました。しかし同年3月2日同党代議士会を掌握した非改革派はこの決定を無効とし混乱状態となったのです。しかしこの直後の4月11日日糖疑獄事件の検挙(原圭一郎編「原敬日記」福村出版)が始まり、改革派から逮捕者が出ると、同年10月28日の党大会で改革派は犬養毅の除名を取り下げ、両派の妥協が成立しました(「憲政本党党報」複製版 柏書房)。

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 その後1910(明治43)年3月13日憲政本党は又新(ゆうしん)会・旧戊申倶楽部の一部などの民党系非政友会系の各党と合同して立憲国民党が結党されました(鷲尾義直「前掲書」)。同党は党首不在で憲政本党の大石正巳・犬養毅、又新会の島田三郎(「田中正造の生涯」を読む13参照)・河野広中、戊申倶楽部の片岡直温・仙石貢らが常議員として党運営に当たりましたが、旧憲政本党の犬養毅を中心とする非改革派と大石正巳らを中心とする改革派の対立は依然として存続したのです。 
2016-01-01 05:29 | 記事へ | コメント(1) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(現代篇 5犬養毅) |
城山三郎「男子の本懐」を読む31〜40
2015年05月20日(水)
城山三郎「男子の本懐」を読む31

  1930(昭和5)年11月下旬、井上は恒例の製造貨幣試験に立会い、あわせて銀行大会などに出席するため、関西へ赴きました。

財務省―トップページー検索―製造貨幣大試験について

 政府の政策として、労働者の権利伸長のための労働組合法の制定にとりかかっており、労働者側は協力しているのに、資本家側は反対で話し合いに代表すら送ろうとしないので、財界に顔のきく井上に上記内容の話し合いの場に出席するよう資本家を説得する役割が期待されていたのです。
 また彼はさまざまな機会をとらえて金本位制堅持を主張する必要を感じてもいました。それは政友会を中心として、金輸出再禁止に転換することにより、金準備量とは無関係に通貨を発行できるようにして、インフレ政策により不景気を脱出しようという意見が高まろうとしていたからです。
 幣原喜重郎が首相代理となったことについて、やがて民政党内部から不満の声が聞かれるようになりました。彼は衆議院に議席を持たず、民政党の党員でもありませんでした。そのような人物が民政党内閣の首相代理となるのは問題があると云う理由からです。
 幣原よりも安達謙蔵内相(首相代理決定の際在京せず)の方が首相代理にふさわしいという人々も多くいました。彼は幣原に欠けた上記資格を具えていただけでなく、その政治経歴からみても、浜口首相自身が「副総理格」として入閣させた経緯があったからです。

好古齋−Site Menu―松篁収蔵品−日本軸L1861〜1870生―安達謙蔵

 この年の暮近くになって浜口は少しずつ元気を取り戻しつつありました。 1931(昭和6)年1月22日浜口は退院、和服でステッキをもち、両脇を支えれるようにして官邸に帰りました。
 同日すでに前年12月26日開会され、休会中であった第59議会が再開されました。その冒頭、政友会の鳩山一郎は幣原喜重郎の首相代理を認めないという緊急動議を提出しました。この動議は否決されましたが、議会は波瀾の幕開けとなったのです。

城山三郎「男子の本懐」を読む32

 1931(昭和6)年1月22日井上蔵相は衆議院本会議で財政演説を行いましたが、その論旨は大要次のような内容でした(「井上準之助論叢」3)。
 不景気は金解禁の結果というよりも世界恐慌によるものであり、その恐慌は予測できなかったものである。世界の物価が低落する情勢の下で、もし日本が金解禁と緊縮により物価引き下げを行っていなかったら、国際収支は破滅的な赤字になっていただろう。不景気の中で合理化に努力した企業は生産費の切り下げのおかげで、すでに安定した立ち直りを見せている。中小企業の救済や整理促進のため特別な措置をとる他は、従来の政治路線を堅持して、何等の支障もない。

トリバタケハルノブのイラストとか日記ブログー12 浜口雄幸 金解禁を宣言する井上準之助   
 
これに対して政友会きっての財政通であった三土忠造前蔵相は要約すると次のように井上の論旨を批判しました。 
 不景気は、政府が金解禁の時期と方法を誤ったために起こったものであり、経済は一向に立ち直りを見せず、むしろ悪化する一方である。
 同年2月3日衆議院予算総会で政友会の中島知久平議員がロンドン軍縮条約について、国防の不足をきたしたのなら、浜口首相・幣原外相の責任は重大である。明確なる返答を承りたと質問したところ、幣原首相代理は「この条約は御批准(「男子の本懐」を読む27参照)になっております。御批准になっていることを以て、国防を危うくするものでないことは明らかであります。」と答弁(この答弁については幣原首相代理の弁明あり。幣原喜重郎「前掲書」参照)したため、議場は騒然となり、島田俊雄議員が「それは国務大臣としての輔弼(ほひつ 補佐)の責任を忘れ、陛下に責任をなすりつけるものと言わねばならぬ」と非難、予算審議は10日中断しました(新聞集成「昭和編年史」)。
 もともと幣原外相を首相代理としたことには問題があり、やはり浜口首相が登院しないとまともな予算審議ができないとする声が高まり、体調を回復しつつあった浜口は毎日新聞を精読して議会の成り行きをよく知っていましたから、登院の意向を示していました。
 このため幣原首相代理は同年2月19日の貴族院本会議で「浜口首相も経過は至って順調であるから、今後意外の変化のない限りは、三月上旬には登院出来るであろう」旨を自発的に声明するに至りました(浜口雄幸「前掲書」)。
 ところが登院の約束をして2月下旬から3月上旬にかけて、浜口の病状は悪化しはじめました。激しい腹痛、便秘と下痢の繰り返しが続き、食欲はなく、わずかな葛湯かパン粥などしか喉を通りません。痛みのため不眠症がひどくなりました。
 家族や医師の反対にもかかわらず、同年3月10日午後1時半浜口首相は登院、休憩室で閣議を開き、午後2時5分衆議院本会議場に入り、議員は総起立、拍手して迎えました。
 浜口首相は大臣席につき、演壇に立って次のように挨拶しました。「諸君、私不慮の遭難のため時局多事の折柄数箇月の間国務を離るるのやむなきに至りました。(中略)以来健康も次第に回復をいたし、昨日をもって幣原首相臨時代理の任を解かれ、同時に私自ら総理大臣の職務に当ることとなったのであります。ここに御報告かたがた特に一言申上げる次第であります。」(小柳津五郎「前掲書」)

城山三郎「男子の本懐」を読む33

 つづいて犬養毅立憲政友会総裁が心のこもったいたわりの言葉をかけ、再び拍手の嵐の中を浜口首相は退場しました。首相官邸に帰り、椅子に坐ると浜口はがくんと首を垂れ、家人があわてて臥床させるほど疲労していました。
 翌3月11日浜口首相は再び登院、貴族院本会議で挨拶、その様子を貴族院で見た若槻礼次郎は「挨拶はすらすらとはできず、とぎれとぎれで、すこぶる苦しげな様子であった。」と述べています(若槻礼次郎「明治・大正・昭和政界秘史−古風庵回顧録―」講談社学術文庫)。浜口が姿を消すと議場には、ため息があちこちで洩れたほどでした。
 この後浜口首相は衆議院予算総会に出席、首相挨拶の後、政友会の島田俊雄議員が質問に立ち、首相代理の法理的根拠、軍縮問題、不景気問題などを挙げ、「これらについては、ぜひ首相の言明を承りたいが、お見受けするところ健康はまだ十分でないようである。首相は果して議会の質問応答に堪え得るかどうか」と浜口の顔を見て「かかる健康状態で議会に臨まれることは、野党として甚だ迷惑至極である」とただしました。
 浜口首相は立ち上がることができません。「首相答弁せよ!」の声が飛ぶと、島田議員は見かねたように「私は挨拶を述べたのであって、強いて答弁を求めたもではないから、とくと考慮されたい」と発言をしめくくり、浜口首相はようやく予算総会から解放されました。

たむたむホームページー人名事典―皇族・政治家・軍人―浜口雄幸―高知新聞 俳句趣味

 浜口首相が回復どころか、衰弱しきった状態であることは誰の目にも明らかでした。閣僚・与党幹部及び医師団は協議して、翌3月12日首相を休養させることにしました。ところが新聞が「僅か二日で早くも休養」と書き立て、首相はまた登院します。
 3月18日首相は鳩山一郎らの首相代理問題や財政問題などのきびしい質問にさらされ、演壇にたち、答弁します。
 浜口首相が本会議場に入ったのは午後2時30分で、首相が政戦の陣頭に立った時間は2時間43分に及び、議長が休憩を宣言して首相はようやく本会議場近くの休憩室に入りました。首相は休憩室で2時間半も待機した後、閣僚や党幹部の説得で首相官邸に引揚げました。

城山三郎「男子の本懐」を読む34

 1931(昭和6)年3月17日衆議院は政府提出の進歩的な労働組合法案・労働争議調停法改正案などを可決しましたが、政府内部にも安達謙蔵内相ら積極派と江木翼鉄相、宇垣一成陸相らの消極派の対立があり、これが保守的な貴族院への働きかけを弱めたとの見方もあり、浜口首相が指導力を発揮できる状態にはなく、結局貴族院はこれを否決、第59議会は同年3月27日閉会となりました。
 症状が悪化した浜口は同年4月4日帝大病院に再入院、深夜の午前1時から2度目の開腹手術を実施して結腸の一部を切り、人工肛門をつくりました。しかしそれでも症状は好転せず、4月9日午後11時3度目の開腹手術により、銃創の化膿による硬結を切開しました。このころ浜口はつぎのような句を詠んでいます。「紅葉より桜につづく嵐かな」(病院生活百五十日 その二 浜口雄幸「随感録」講談社学術文庫)

四季折々―カテゴリーアーカイブー橋の話題―第73話 浜口雄幸と雄幸橋


 閣僚の間には議会を乗り切ったことでもあり、なお浜口に望みを託して内閣の延命をはかろうとする意見も多かったのですが、井上蔵相は浜口辞任を強く主張しました(「木戸幸一日記」上巻 昭和6年4月7日条 東大出版会)。

歴史が眠る多摩霊園―著名人全リストー頭文字―かー木戸幸一

 井上準之助は今浜口にもっとも必要なのは政権維持ではなくて、治療のための静養がなによりも大切であるということで、ここで浜口が政界を引退したとしても、元老西園寺公望らはなお浜口内閣の財政ならびに外交政策の継続を望んでおり、天皇の大命(組閣命令)は民政党に降下することは確実とふんでいたからです。
 同党内では後継総裁は現役の衆議院議員でなければならぬとして、若手を中心に安達謙蔵を推戴しようとする動きがあり、他方江木翼や党外の幣原喜重郎らは若槻礼次郎や山本達雄(「男子の本懐」を詠む10参照)らを擁立しようとする動きを示していました。
 浜口に後継総裁を要請され、江木翼と安達謙蔵が若槻礼次郎の自宅を訪問し、「どうしても引き受けろという。山本は出ず、外にだれといって見当はつかない。(中略)どうにも仕様がない。とうとうそれでは引き受けようということになり、それで浜口の後を承けて民政党の総裁になり、ついで大命を拝して再び総理大臣となった。」(若槻礼次郎「明治・大正・昭和政界秘史−古風庵回顧録―」講談社学術文庫)。

城山三郎「男子の本懐」を読む35

 1931(昭和6)年4月14日第2次若槻礼次郎内閣が成立、井上準之助蔵相はじめ多くの閣僚が留任しました。
 同年5月2日午後10時過ぎ、三河台の井上私邸の冠木門脇の物置が大音響とともに爆破されました(新聞集成「昭和編年史」)。
 同年5月16日政府は閣議で官吏の減俸を決定、浜口内閣の官吏減俸方針(「男子の本懐」を読む24参照)に対するそれに劣らぬ反対運動が巻き起こり、同月21日には東京地裁・区裁の判事連合協議会が減俸反対を申し合わせ、同月25日鉄道省職員が辞表を提出するなど騒然とした雰囲気がみなぎりました。
 しかし政府は5月27日俸給令(約1割減俸)改正を公布、官吏減俸に踏み切りました。
 浜口は病床に伏したまま、リンゲル、鎮痛薬、催眠薬など絶えず注射を打ち、注射針のあとばかりが増えていきました。やがて催眠薬の量を減らされたため眠れず、浜口は大学病院の病室でひとり目ざめて痛みに耐えていました。
 新聞だけは読んでもらい、ついに減俸が断行されたことを知りましたが、それについて特別意見をいうこともなかったようです。
 レントゲン照射が効いたのか、6月に入ると浜口の症状はいくらか好転し、同月28日退院して久しぶりに久世山の私邸に戻りました。だが8月2日浜口は悪寒と痙攣に襲われ40度の高熱を発したため急に衰弱していきました。10日ほどで熱は下がりましたが、食欲はなくなり、言語もはっきりしなくなりました。
 逝去の数日前浜口は子供たちを呼び、死後のことなどについて話しました。8月26日激しい発作が起こり、浜口は危篤状態に陥りました。「みんなの顔はまだ見えるぞ」というのが最後の言葉であったそうです(北田悌子「父浜口雄幸」日比谷書房)。

日本の墓―五十音順で探すーはー浜口雄幸

城山三郎「男子の本懐」を読む36

 ここで話題を転換して、右翼国家主義者の動向をたどってみましょう。枢密院でロンドン軍縮条約の諮詢が終わろうとしていた1930(昭和5)年9月下旬、陸軍中佐橋本欣五郎(陸大卒業後、満州里の特務機関長を経て、参謀本部ロシア班長)を筆頭に参謀本部若手陸大出身者らが中心となって桜会を結成、国家改造のための武力行使を辞せずと決議しました(「現代史資料」国家主義運動1 みすず書房)。
 「(前略)今や此頽廃し竭(つく)せる政党者流の毒刃が軍部に向ひ指向せられつつあるは之を『ロンドン条約問題』に就て見るも明らかな事実なり。(中略)過般、海軍に指向せられし政党者流の毒刃が陸軍軍縮問題として現れ来たるべきは明らかなる処なり。故に吾人軍部の中堅をなすものは充分なる結束を堅め、日常其心を以て邁進し、再び海軍問題の如き失態なからしむるは勿論、進んで強硬なる愛国の熱情を以て腐敗し竭せる為政者流の腸(はらわた)を洗うの慨あらざるべからず。」(桜会趣意書 中野雅夫「橋本大佐の手記」みすず書房)
  1931(昭和6)年橋本欣五郎ら桜会の一部将校及び大川周明[東大卒 インド哲学専攻 学生時代参謀本部で独語翻訳に従事 北一輝と親交あり、後の「日本改造法案大綱」(1923出版)の原稿を上海より日本に持ち帰る、満鉄に入社し、関東軍高級参謀板垣征四郎らと親交あり]ら軍部武装蜂起による軍部政権樹立を企図、失敗して桜会は10月事件後解体しました(3月事件・10月事件 「現代史資料」国家主義運動1 みすず書房)。

松岡正剛の千夜千冊―全読譜―0901−1000−0942−北一輝―日本改造法案大綱

 中国では1928(昭和3)年6月9日北伐軍が北京に入城(北伐完了)、張学良は国民政府に合流しました。張学良政権は翌年までに打通線(打虎山―通遼)、吉海線(吉林―海竜)の2鉄道を開通させましたが、この2鉄道は満鉄平行線となったため、満鉄は世界恐慌のあおりと相まって大打撃をうけるようになり、それに抗議すればするほど反日運動は強化されていく状態となりました。
 幣原喜重郎外相はこうした中国に対してその主権を尊重し、内政不干渉方針をとりながら日本の権益を守ろうと努めていましたが、このとき関東軍高級参謀板垣征四郎を頂く参謀石原莞爾は将来の日米戦に備えて満蒙を日本の領土とする必要があると考えており、その立場から見れば幣原外交は生ぬるいものでしかなかったようです。

城山三郎「男子の本懐」を読む37

 1931(昭和6)年6月以降永田鉄山ら陸軍省課長級並びに山脇正隆ら参謀本部課長級は建川美次(参謀本部第一部長)を長とする秘密委員会で「満蒙問題解決方策の大綱」を決定、関東軍の計画は南次郎陸相(第2次若槻礼次郎内閣)ら軍首脳部にも受けいれられました[「現代史資料(満州事変)」みすず書房]。
 陸軍首脳部は昭和10年までに満蒙問題を解決するとして関東軍の暴発を防ごうとしましたが、同年7月2日満州万宝山で朝鮮人農民と中国農民・官憲との大衝突事件が起こり、同月4日には朝鮮各地で中国人に対する報復暴動が起こるとか、北満地方視察中の中村震太郎大尉外1名が軍事探偵として中国兵に殺害された事件が8月17日公表され、幣原外交が苦境にたったとき、満州事変が勃発したのです。
 同年9月18日奉天郊外の柳条湖で満鉄線路が爆破され(柳条湖事件)、関東軍司令官本庄繁はこれを中国軍の行為として総攻撃を命令しました[「現代史資料」(満州事変)みすず書房]。しかし9月19日奉天総領事林(久治郎)は今次の事件は軍部の計画的行動と想像されると幣原外相に報告しています(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)。
 事実については花谷正(はなやただし 奉天特務機関補佐官)の証言(花谷正「満州事変はこうして計画された」別冊 知性5 秘められた昭和史 河出書房)があります。この証言を聞き出した秦郁彦氏はこの花谷証言を次のように要約しています。(1)事件の謀議に直接関わったのは、花谷のほか板垣、石原、今田新太郎大尉(張学良軍事顧問補佐官)、川島正大尉、河本末守中尉、三谷清憲兵少佐(奉天憲兵分隊長)、独立守備隊の小野正雄大尉、歩兵二九連隊の児島正範少佐、名倉栞少佐、他に補助的役割を分担した者に河本大作予備大佐、甘粕正彦予備大尉、和田勁予備中尉のほか数人の浪人がいた。(2)軍中央部の建川少将、重藤大佐、永田大佐、橋本中佐ら、朝鮮軍の神田中佐は事前に大体の構想を知らされ、支援を約束していた。(3)「留め男」の建川少将の訪満を知らされ、九月十五日の夜半に謀議者たちが特務機関で会合した席で、くりあげ決行論(今田)と中止延期論(花谷)が対立し、エンピツをころがすクジで中止と決めたが、決行論者の説得で、十八日決行に再転した。(4)建川は奉天到着までに以上の経過を報告され、了解を与えていた。(5)爆薬は今田が調達し、川島の指揮下に河本中尉が自身で爆破作業を担当した。(秦郁彦「昭和史の謎を追う」上 文芸春秋社)

クリック20世紀―年表ファイルー1931/03/17 三月事件―09/18 柳条湖事件―10/17  十月事件  

 関東軍は政府や軍中央の不拡大方針にもかかわらず、止まるところを知らない進撃を継続しました。

城山三郎「男子の本懐」を読む38

 満州事変の勃発は軍事支出の増大を招き、これまでの緊縮財政を一挙に突き崩しかねない情勢となってきました。
 一方中国では反日運動が激化、日本商品不買運動が高まり、産業合理化による企業の体質改善で輸出増大をはかろうとしていた政策の出足をくじかれることになりました。
 1931(昭和6)年9月21日イギリスが金輸出再禁止に踏み切り、金本位制を離脱、スウェーデン・デンマーク・ノルウェー・カナダなどが続々とこれにならいました。
 このような国際情勢は、従来から金輸出再禁止を主張していた立憲政友会を勇気づけ、閣内でも安達謙蔵内相が政友会と同様の再禁止論を唱えて若槻首相に迫るようになりました。しかし井上蔵相は金本位制維持の主張を変えることはありませでした。

大磯の風―バックナンバーー2009年08月―カレンダー05日05時03分 井上準之助邸

 金輸出再禁止必至とみて、そのときには円暴落は避けられないから今円をドルに代えておけば差益で大儲けできるとみてドル買いがさかんとなりましたが(大蔵省財政史室編「昭和財政史」13 東洋経済新報社)、井上は同年10月6日日銀に公定歩合を2厘引き上げさせて1銭6厘とし、さらに11月5日2厘引き上げて(「日銀八十年史」)、ドル買いのための円資金借り入れを妨げる作戦に出たのです。
 同年10月1日昭和7年度予算案が各省に内示されました。歳出総額は13億3千万円余、前年度に比して1億2千万円の削減となっています。この予算案内示は各省の井上蔵相への憎悪を深めただけでなく、若槻内閣の存在そのものが揺らぎはじめました。

城山三郎「男子の本懐」を読む39

 安達謙蔵内相は浜口内閣の副総理格として入閣したのに、浜口首相遭難後は首相代理を幣原外相に奪われ、浜口引退時には次期総理を期待する声も高かったのに、当然辞退すると思われていた若槻の再出馬で首相就任の機会を失った悔しさもあったでしょう。
 安達の回想(「安達謙蔵自叙伝」)によれば、若槻首相は満州事変・イギリスの金輸出再禁止によって自信を失い、しばしば辞意を表明、これに対して安達は挙国一致内閣をすすめたところ、若槻は賛成したそうです。
 若槻の回想(「古風庵回顧録」)によれば、満州軍(関東軍)を政府の命令に服従させるには民政党だけの内閣でなく、各政党の連合内閣を作れば、政府の命令は国民全体の意志を代表することになり、政府の命令が徹底することになる。そこで若槻は安達にこのことを話し、各党の意向を打診することを頼みました。他方こういう連合内閣について幣原外相・井上蔵相に賛成をもとめたところ、両君は断然これに反対であったので、若槻は連立内閣を断念し、安達に先日頼んだことは中止されたいと告げたそうです。・
 同年11月21日安達謙蔵内相は政友・民政両党の協力内閣を主張して声明書を発表しました(新聞集成「昭和編年史」)。若槻首相が閣議をひらいても安達謙蔵内相は出席しません。同年12月11日第2次若槻内閣は安達内相の辞職拒否により、閣内不統一で総辞職しました。
 このとき若槻や井上は、組閣の大命が若槻に再降下すると期待していました。元老西園寺公望が依然として幣原の協調外交や井上の金解禁政策を支持していると読んでいたからです。従って若槻に大命が降下すれば、安達謙蔵だけを内相からはずして、実質的に内閣改造すればよいと考えていたようです。
 たしかに元老西園寺公望(松本清張「火の虚舟」を読む9参照)は若槻礼次郎内閣を支持していましたが、第2次若槻内閣総辞職に伴う後継内閣首班奏請に際して、西園寺はいつもの彼に似あわず、秘書原田熊雄に「貴下はどう考えられるか」と繰り返して尋ねました。
 原田熊雄はこのことについて次のように述べています。『公爵としても、現下の外交の経緯からいって幣原外務大臣が辞め、この財政の危機を控えて井上大蔵大臣を引き下がらせる、というようなことは、頗る遺憾に思はれたのであらう、独言のように「幣原も井上も大分くたびれたろうから、この際休んで、再び力を養って出る方が、或は御奉公ができやしないか」と言ってを(お)られた。』(「西園寺公と政局」2)
 同年12月13日犬養毅(立憲政友会)内閣が成立(外相 犬養毅兼任 のち芳沢謙吉蔵相 高橋是清 陸相 荒木貞夫)しました。

城山三郎「男子の本懐」を読む40(最終回)

 十月事件の際、民間右翼の日蓮宗僧侶井上日召(井上昭 満州浪人の生活を送り、帰国後仏門にはいる 日本精神にもとづく国家改造の信念で護国堂を開いて青年を教育、1930年に海軍の藤井斉を通じて海軍青年将校と深交を結ぶ)らは西田税(にしだみつぎ 陸軍士官学校を経て陸軍騎兵少尉となるが、病気で予備役編入 北一輝の心酔者)を通じて、その計画を知っていましたが、彼は大部隊の軍隊を動かして政権を奪取したりすることには反対で、血盟団を結成、国家改造のための手っとり早い方法として政財界の指導者を暗殺するテロリズムを重視していました。
 十月事件が挫折すると、彼らはその具体化にとりかかり、1932(昭和7)年1月18日上海事変が起って藤井斉らが出動したので、民間右翼の血盟団だけで実行にとりかかりました(「現代史資料」国家主義運動1・2 みすず書房)。
 1931(昭和6)年12月13日犬養毅政友会内閣は初閣議で金輸出再禁止を決定しました。
 翌日株式・商品相場は暴騰、逆に為替相場は暴落、同年12月31日現在で対米為替相場は100円=35ドル1/4まで低下しました。輸出額ではとくに対中国輸出が激減、小麦・木材・硫安はじめ輸入品は一斉に値上がりしはじめました。
 1932(昭和7)年1月5日から井上準之助は朝日新聞紙上に3回にわたり、「金の再禁止について」次のように論じています。
 英国が金本位制停止に追い込まれた事情にくらべ、わが国にには再禁止すべき根拠が薄弱であり、「今日金(輸出再)禁止をなす事はドル買い思惑を実行した一部資本家あるいは三、四の大銀行にばく大ななる利益を提供する以外何ものもないのである。しかして貨幣制度の根本を破壊された一般国民は不安と動揺の渦中に投じられるのみである。
 金の輸出再禁止のみで深刻な不景気が回復するはずはないから、(中略)次に来るべき通貨ぼうちょう政策であらねばならぬ。(中略)政府は我国の前途を一体どうしようとする考えであるか疑惑なきを得ない。(中略)ドイツが今日如何に過去の通貨ぼうちょうに悩まされつつあるか、今少しこの点を反省してみる必要があろう。」
 同年1月21日井上は貴族院本会議で高橋是清蔵相を対し緊急質問に立ち、再禁止の非を述べましたが(「井上準之助論叢」3)、衆議院は同日解散となりました。立憲民政党では井上が筆頭総務に推され、彼は来る2月20日の総選挙に向けて選挙委員長として総指揮をとることとなったのです。
 政党政治には豊かな政治資金が必要とされていました。若槻礼次郎が党および内閣での統率力が弱かったのは、若槻自身も認めたように、政治資金調達力が弱かったことも一因だったのでしょう。
 井上が日銀総裁や蔵相を経験して培った金融・産業界との人脈も、民政党内閣の緊縮財政及び産業合理化政策の及ぼす厳しい現実にそっぽを向き、犬養内閣の再禁止政策によるドル買いに走って井上を裏切りました。井上に財界からの政治資金調達力を期待できないのは明らかでした。しかも軍部と対立し、すでに浜口は逝き、安達謙蔵も脱党して資金源に乏しい民政党の総選挙を闘う困難は井上自身がよく知っていたことでしょう。
 同年2月9日夜井上は民政党候補駒井重次の演説会場である本郷駒本小学校に応援演説のため到着、車から降りて数歩歩いたとき、一人の男小沼正が群衆の中から飛び出し、拳銃を3発発射しました。井上は約15分後に絶命、即死同然の死であったようです。

東京紅團―地区別散歩情報―千代田区の散歩情報―5.15事件を巡る(下)−昭和史を歩くー5.15事件を巡る(上)−<前大蔵大臣井上準之助暗殺>

 小沼は現場で逮捕され、自分は農村青年で、農村の今日の困窮は井上の責任だから殺害したと述べ、背後関係は一切明かしませんでした。このあと3月5日三井合名会社(1909年三井家同族会管理部を法人化)理事長団琢磨が菱沼五郎に射殺されました。警視庁はピストルの出所が藤井(斉)海軍大尉で事件の中心人物が井上日召であることをつきとめ、3月11日井上日召は自首しました(血盟団事件・新聞集成「昭和編年史」)。
 青山霊園の木立の中に、死後も呼び合うように、盟友二人の墓は仲良く並んで立っています。 

有名人の墓―青山霊園―井上準之助  
2015-05-20 05:28 | 記事へ | コメント(8) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(現代篇 4浜口雄幸) |
城山三郎「男子の本懐」を読む21〜30
2015年05月10日(日)
城山三郎「男子の本懐」を読む21

 1927(昭和2)年4月20日田中義一(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む30参照)政友会内閣(組閣中田中は井上準之助に外相就任を要請したが、彼が辞退したため首相が外相兼任、蔵相は高橋是清元首相)が成立(「官報」)、同月22日3週間のモラトリアムを緊急勅令として公布し、同年5月9日日本銀行特別融通および損失補償法・台湾の金融機関に対する資金融通に関する法律の2法が公布(「法令全書」原書房)され、台湾銀行各支店は営業を再開しました(新聞集成「昭和編年史」)。翌5月10日井上準之助が日銀総裁に就任しています(「日本銀行八十年史」)。彼は非常事態を切り抜ける間だけで、1年でやめることを宣言していましたが、高橋是清は40日あまりで閣外に去り、その後任は三土忠造に変わりました。1928(昭和3)年5月8日で日銀は特別融資を打ち切り[特別融通法によるもの6億8793万円、台湾金融機関融通法によるもの1億9150万円(「日本銀行八十年史」)]ましたが、かつて金解禁賛成論者であった井上は同年5月15日全国手形交換所大会で、特別融資の結果日銀が金融統制力を失った状況下では金解禁は尚早と発言しています(「井上準之助論叢」3)。約束通り彼は同年6月12日在任1年1箇月で日銀総裁を退任しました。総裁退任後の井上には毀誉褒貶がつきまとい、井上だから特別融資をこの程度の額におさえられたのだと称える向きもあれば、貸してもたたかれ、貸さなくてもたたかれたのです。
 退任後家族を連れて長崎・雲仙を訪れ、雲仙には1週間居てゴルフばかりやっていました。8月には下関から友人とともに南洋旅行にもでかけました(「南洋視察」井上準之助論叢4)。

せたがやー検索―駒沢のゴルフ場  

  ところが田中義一新内閣は同年4月施政方針を発表、中国における共産党の活動に日本は無関係であり得ないと声明しました(新聞集成「昭和編年史」)。伊東巳代治が前内閣の幣原喜重郎外相を軟弱外交と批判した理由もあわせて知るためには、ここで話題を変えて当時の中国情勢を概観する必要があります。

城山三郎「男子の本懐」を読む22

 1911(明治44)年辛亥革命により清朝が滅亡し、翌年成立した中華民国においては、封建的軍閥が各地に割拠して、これらが外国勢力と結び対立抗争していました。1917(大正6)年9月10日孫文は北京の段祺瑞政権に対して、広東軍政府を樹立、同月13日対独宣戦布告したことは既述の通りです(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む19参照)。しかし同政府は不安定で継続せず、1919(大正8)年五四運動の刺激を受けて、同年10月10日中華革命党を国民大衆に基礎をおく中国国民党に改組、1921(大正10)年5月5日広東新政府を樹立しました。同年7月には五四運動の指導者の一人であった陳独秀らが上海で中国共産党を創立しました。

世界史ノートー現代編―第16章 3 アジアの情勢―国共の合作と分離(その1・2)  

 1926(大正15・昭和1)年7月蒋介石は国民革命軍を率いて北伐を開始、1927(昭和2)年1月20日英大使は上海防衛のための共同出兵を提議しましたが、当時の若槻内閣の外相幣原喜重郎は翌日これを拒否、同年3月24日国民革命軍が南京に入城したとき、日本領事館が暴行を受け、海軍軍人も無抵抗で武装解除される事件(南京事件)が発生しました。

クリック20世紀―1927/03/24 南京事件  

 外相幣原喜重郎は駐華公使芳沢謙吉に南京事件の解決は外交交渉によると訓令し、同年4月11日に米英日仏伊5国総領事は南京事件に関し、国民政府(1927.4.18蒋介石南京に国民政府樹立)外交部長に責任者処罰、其の他を申し入れました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)。
 蒋介石率いる国民政府軍が華北に到達すると、1927(昭和2)年5月28日田中義一内閣は山東出兵を声明、以後3回の出兵を実行、翌年の第2次出兵の際、山東省済南で中国国民政府軍と衝突しました(済南事件・新聞集成「昭和編年史」)。
 ついで1928(昭和3)年5月18日田中内閣は中国南北両政府に戦乱が満州に波及すれば、治安維持のため適当・有効な措置をとると通告、駐華公使芳沢謙吉は当時北京政府を支配していた奉天軍閥張作霖に東三省(奉天・吉林・黒竜江の三省)復帰を勧告しました。よって同年6月4日張作霖は奉天に引揚げの途中、関東軍[関東州(「伊藤博文と安重根」を読む15参照)の守備隊]の一部(参謀 河本大作らで、関東軍首脳部も彼等の計画を知りながら黙認)がかならずしも日本の言う通りには動かない彼を殺害するための謀略を企て列車を爆破、死亡させました(張作霖爆死事件・外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)。
 河本らは事前に中国人の浮浪者2名を殺して偽の密書を懐に入れ、国民政府軍の仕業であるかのように見せかけたのですが、殺される予定の浮浪者の一人が逃亡して張学良(張作霖の子)側に情報を伝えたことなどから、真相が明らかになって行きました(森島守人「陰謀・暗殺・軍刀」岩波新書)。

南京事件―日中戦争 小さな資料集―第四部 日中戦争への視点―2 張作霖爆殺事件(1) 

 同年6月21日立憲民政党は田中内閣の山東出兵を軽挙妄動と非難した声明を発表、同年7月26日にも同内閣の対華外交批判の第2次声明を発表しています(新聞集成「昭和編年史」)。
 同年9月田中首相は憲兵司令官を現地に派遣して調査、10月陸相も張作霖殺害犯人が日本軍の仕業と認め、これを首相に報告したので、田中は事件の犯行者が日本の軍人らしいこと、犯人は軍法会議(軍人が軍人を裁く軍の裁判所)に付する方針である旨、これを天皇に奏上しました(「岡田啓介回顧録」中公文庫)。
しかるにこの厳重処分方針に対する陸軍の猛反対に屈して、1929(昭和4)年7月1日政府は張作霖爆死事件の責任者処分を発表、関東軍司令官を予備役に、河本大作を停職とする行政処分にとどめたのです。田中がこの行政処分の件を天皇に奏上すると、天皇は「お前の最初に言ったことと違ふぢゃないか。」と田中の違約を叱責、田中の話を再び聞きたくないと側近の侍従長(鈴木貫太郎)にもらしたことを聞いて彼は落涙したそうです[原田熊雄(「男子の本懐」を読む23リンク「系図で見る近現代」第13回参照)述「西園寺公と政局」第1巻 岩波書店]。

近代日本人の肖像―人名50音順―おー岡田啓介―すー鈴木貫太郎

 同年7月2日田中義一内閣は総辞職しました。同年9月29日田中義一は死去、同年10月12日立憲政友会は臨時大会で犬養毅(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む13参照)を総裁に推戴しました(「立憲政友会史」7 日本図書センター)。

城山三郎「男子の本懐」を読む23

 1929(昭和4)年年7月2日浜口雄幸は参内して天皇より組閣命令を受けました。すでに大臣候補者の腹案ができており、新聞はかなり正確な大臣一覧表を報道していましたが、新内閣の最重要ポスト大蔵大臣だけは空白となっていたのです。とりあえず浜口首相が蔵相兼任で新内閣は発足するのではないかという観測も流れていました。蔵相人選について浜口には意中の人があり、その人物の名を早くから出せばつぶされるおそれがあったので、少数の最高幹部に打ち明けていただけで、党内にも秘密にしておき、ぎりぎりの時点で強行突破をはかる作戦だったようです。
 組閣について党内からはさまざまの要望が出されていました。大臣の椅子は一つ残らず党員に配分すべきであるとか、貴族院議員の入閣も望ましくないなどですが、浜口はこうした要望を傾聴しながら、独自の判断で閣僚選考をすすめたのでした。まず外務大臣には非党員であるが協調外交の推進者として定評のある幣原喜重郎を、司法大臣には少数ながら民政党を支持してくれる貴族院議員のグループに属する渡辺千冬を、そして注目の大蔵大臣には非党員で貴族院議員の井上準之助が起用されました。井上は党内の要望とは正反対の人物で、しかも原敬なきあとの政友会総裁として首相も勤めた高橋是清にひきたてられた経歴は周知の事柄でした(「男子の本懐」を読む11参照)。
 井上の入閣について、閣僚予定者の中から反対の声があがりました。なかでも強硬に反対したのは、民政党きっての異色野人政治家小泉又次郎(小泉純一郎元首相の祖父)です。

系図で見る近現代―近現代家系図―第27回 小泉純一郎―小泉又次郎(祖父)

 小泉又次郎は入閣(逓信大臣)を辞退すると浜口にねじ込んだのですが、浜口に説得されて辞意を撤回、入閣を承諾しました(井上は入閣後、民政党に入党)。親任式のため参内するとき御車寄せの位置がわからないからと内務大臣安達謙蔵の車に同乗して宮中に入りましたが、誰も大臣と思わず、安達の従者として扱われたそうです(梅田功「変革者 小泉家の3人の男たち」角川書店)。
 同年7月2日浜口雄幸(立憲民政党)内閣が成立、同年7月9日同内閣は対華外交刷新・軍縮促進・財政整理・金解禁断行など10大政綱を発表しました(新聞集成「昭和編年史」)。
 新内閣の金解禁即行方針のため、7月から8月にかけて株式相場は続落していきました(「朝日経済年史」朝日新聞社)。

城山三郎「男子の本懐」を読む24

 1926((大正15)年当時議会で金解禁は時期尚早と述べた蔵相浜口雄幸(「男子の本懐」を読む19参照)が1929(昭和4)年首相として金解禁断行を同内閣の政綱の一つとして掲げたのはいかなる情勢の変化があったのでしょうか。
 戦後恐慌・震災恐慌などの不況による輸入超過がつづく状況の下で、金輸出禁止政策により円の外国為替相場は法定平価(「男子の本懐」を読む14参照)を大きく低落した状態となっており[1929(昭和4)年3月対米為替相場は100円=44ドル台に下落(「金融事項参考書」大蔵省理財局)]、この状態で金解禁を実施すれば、手持ちのある輸入業者は大打撃で、輸出業者も高価格となって輸出不振に陥るおそれが大きくなります。また為替差益をねらう投機も活発となるので、金解禁を実施する以前に、円の外国為替相場を出来るだけ法定平価に近づけておく必要があり、そのために国家財政を中心として緊縮政策を実施、国内物価を引き下げ、輸出額を増加させねばなりませんでした。
 大戦後の国際情勢では1919(大正8)年6月アメリカは金輸出禁止を解いて金本位制に復帰、翌年にはスウェーデン、イギリス、オランダが金解禁にふみきりました。
 1922(大正11)年イタリアのジェノアで開催された国際経済会議は金本位制再建を決議、各国はこの決議に沿って続々と金解禁を実施、1928(昭和3)年にはフランスが金解禁を行い、めぼしい国家はほとんど金本位制に戻り、残る国は日本とスペインだけという状態になったのでした。
 さらに1930(昭和5)年に設立される国際決済銀行の出資国(国際連盟財政委員会構成国)の要件に金解禁の実施が盛り込まれ、大戦後「五大国」の一つとされた日本の威信にもかかわる事態となったのです。
 日露戦争の戦費として募った外債2億3000万円に相当する英貨公債の償還期限は1930(昭和5)年で、現金償還するだけの財政力は当時の日本政府にはなく、借り換え債を発行するためには、金解禁に踏み切らなければならないという有様でした。

つかはらの日本史工房―日本史のおはなしー兌換制度・金本位制・金解禁などについて

1929(昭和4)年7月29日浜口内閣は9100万円(当初予算の約5%)減の緊縮予算を発表、つづいて同年8月28日浜口首相は緊縮政策を全国にラジオ放送、ビラ「国民に訴ふ」を全国各戸配布しました。
 つづいて同年10月15日同内閣は全国高級官吏の1割減俸を声明しましたが、判検事・鉄道省官吏らの反対運動が高まり、10月22日同声明は撤回されました。
 同年11月9日昭和5年度予算案を決定、その内容は一般会計16億800余万円で、1907(明治40)年以来はじめて一般会計で公債を発行しないという金解禁に備えた緊縮予算案となったのです(新聞集成「昭和編年史」)。

城山三郎「男子の本懐」を読む25

 浜口内閣による官吏の減俸声明の直後、前内閣時欧米諸国に派遣された大蔵省財務官津島寿一は再び井上蔵相の密命を受けて太平洋を渡り、バンクーバーから大陸横断鉄道でニューヨークにむかう途中、、ニユーヨークからの至急電報を受け取りました。1929(昭和4)年10月24日木曜日、ウォール街株式市場が暴落したという内容のものです。これは後に「暗黒の木曜日」とよばれる世界大恐慌のはじまりを告げる事件でしたが、津島はそんな大事件の開始であることを予想できず、株式暴落はよくある出来事であり、このことがどの程度の影響をもつものかを心配しながらニューヨークに到着しました(安藤良雄編「昭和経済史への証言」上 毎日新聞社)。

坂出市―分類でさがすー市政情報―坂出市の紹介―名誉市民―津島寿一

 津島はモルガン商会の支配人ラモントらに会い、英米の銀行から1億円相当のクレジット(貸付)の約束をとりつけることに成功、同年11月19日横浜正金銀行と英米金融団との間に合計1億円のクレジットが成立しました。
 金解禁を実施するに当り、金輸出禁止以前の(旧平価)100円=約50ドル(「男子の本懐」を読む14参照)で解禁するか、それとも実勢為替相場の100円=44ドル(「男子の本懐」を読む24参照)前後(新平価)で解禁に踏み切るかという問題がありました。
 浜口内閣は旧平価による解禁を決断したのですが、その理由は(ア)旧平価による解禁ならば、大蔵省令による解禁で実施できるが、新平価による解禁の場合、貨幣法(「男子の本懐」を読む14参照)の改正を必要とする、(イ)衆議院(1928.2.20普選法による最初第16回総選挙)では金解禁反対の政友会が多数をしめ、法案改正には時間がかかると予想される(ウ)旧平価による解禁で輸出不振が予想されるが、産業合理化をすすめることによって物価の引き下げは可能であるなどでした。
 かくして大蔵省は同年11月21日金解禁に関する省令を公布、1930(昭和5)年1月11日施行ということになりました(新聞集成「昭和編年史」)。
 金解禁施行から40日後の1930(昭和5)年2月20日に行われた第17回総選挙で立憲民政党は273、立憲政友会は174議席を獲得、政府与党の大勝利に終わりました(衆議院・参議院編「議会制度七十年史」政党会派編)。

城山三郎「男子の本懐」を読む26

 1929(昭和4)年10月7日イギリスは日・米・仏・伊を補助艦保有量制限に関するロンドン海軍軍縮会議に招請、同年10月18日政府は同軍縮会議全権に若槻礼次郎(元首相)・財部彪(海軍大臣)・松平恒雄(駐英大使)を任命しました。つづいて同年11月26日閣議は同会議全権に対し、対米7割を要求する訓令を決定しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―たー財部彪 

 1930(昭和5)年1月21日ロンドン海軍軍縮会議が開会、アメリカは日本の要求に対して対米6割縮小案を提議、交渉は難航しました。
 同年3月14日ロンドン会議日本全権はアメリカ提示の最終妥協案につき、これ以上の譲歩は得難いとして、これを承認するかどうかについての訓令を要請してきました。その最終妥協案の大要は(ア)大型巡洋艦について、アメリカの18万トンに対し日本の現有保有量は10万8400トンで対米6割2厘の比率であるが、アメリカは18万トンの中で3隻については1933年より3年間に1隻ずつ起工するに止めると譲歩したのでアメリカの実質保有量は15万トンとなり、これで対米比率は7割2分になる、(イ)潜水艦について 日本は7万8000トンを要求、米英は全廃の主張で対立したが、日米英同量の5万2700トンで合意、という内容でした。
 同年4月1日浜口雄幸首相は米国妥協案承認の訓令を、海軍軍令部[1893海軍軍令部条例により設置された天皇直属の軍令(作戦・用兵など)機関、同時に海軍省官制改正により海軍大臣権限を軍政(予算・人事など)に限る]長加藤寛治らに内示[「現代史資料」(満州事変)みすず書房]し、閣議で決定の上、上奏裁可後全権に回訓しました。
 同年4月22日ロンドン海軍軍縮条約が調印され、翌年1月1日公布となりました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)。

城山三郎「男子の本懐」を読む27

 すでに同年4月20日海軍軍令部副部長末次信正はロンドン条約案に不同意の覚書を海軍次官山梨勝之進宛に送付[「現代史資料」(満州事変))みすず書房],していましたが、翌4月21日第58議会が招集されると、4月25日衆議院で政友会総裁犬養毅・鳩山一郎(鳩山由紀夫元首相の祖父・「男子の本懐」を読む23リンク「系図で見る近現代」第3回参照)はロンドン条約締結に関し、国防上の欠陥と統帥(とうすい)権干犯(かんぱん 干渉して他の権利を犯すこと)につき政府を攻撃批判しました。

第二次世界大戦資料館―用語辞典―た行―統帥権―統帥権干犯問題   

 このころ西園寺公望秘書原田熊雄は住友の別邸で内大臣秘書官岡部長景・外務省亜細亜局長有田八郎らとともにロンドン条約をめぐる統帥権問題につき、弁当を食いながら美濃部達吉博士の意見を聞きました。政府は大概美濃部博士の説をとる意向らしく、浜口首相も美濃部博士の説を可とすると言ってゐたけれども、美濃部博士は『軍令部は帷幄(いあく たれまくとひきまく転じて本陣の意)の中にあって陛下の大権に参画するもので、軍令部の意見は政府はただ参考として重要視すればいヽので、何等の決定権はないものだ』という風に非常に軽く言ってゐたということです(「西園寺公と政局」第1巻 昭和5年4月条)。

ぶらり高砂―高砂ゆかりの人物―美濃部達吉

 同年6月10日海軍軍令部長加藤寛治は天皇にロンドン条約反対の上奏文を提出しようとしても天皇側近に体よく妨げられて果さず、帷幄上奏(軍機・軍令に関する事項を内閣から独立して天皇に直接上奏すること)して天皇に辞表を提出、後任には谷口尚真が任命されました(「官報」)。
 同年7月23日海軍軍事参議官会議はロンドン条約に関する(天皇の)諮詢(しじゅん諮問)に奉答、兵力の欠陥を補うため、制限外艦船・航空兵力充実などの対策を要望、これによって政府と海軍軍令部との対立を緩和しようとする姿勢を見せ、7月26日この奉答文に関し浜口首相より財政の許す範囲内で対策実行に努力すると上奏しました。
 すでに同年7月24日ロンドン条約は枢密院に諮詢され[「現代史資料(満州事変)みすず書房」]、8月4日枢密院議長倉富勇三郎は浜口首相に上記奉答文の提示を要求、しかし奉答文は軍事参議官が天皇に提出したもので、政府の関知するものではなく、首相はこれを拒絶したのです(「西園寺公と政局」1)。
 同年8月18日枢密院第1回ロンドン条約審査委員会(委員長 伊東巳代治)が開催されました。委員会は繰り返し開かれ、その度に幣原外相や財部海相とともに呼び出された浜口首相は枢密顧問官たちから問いつめられ、つめよられました。
 奉答文の提出が繰り返し求められ、軍事参議官に転じた前海軍軍令部長加藤寛治の出席を要求されましたが、浜口首相はこれを拒否しつづけ、(ロンドン条約)補充計画の規模、内容などについても大体の数字でいいからと質問されましたが、浜口首相は責任ある答弁は出来ないと答えるばかりでした。
 補充計画は次年度予算編成時に大蔵省と海軍省との折衝によって11月ころに具体化するのであって、井上蔵相の活動の妨げになってはならぬとの配慮もありました。
 同年10月1日枢密院本会議はロンドン条約諮詢案を可決、翌日同条約は批准されました(今井清一「浜口雄幸伝」下巻 朔北社)。

YAHOO知恵袋―検索―大日本帝国憲法 批准

 同年10月27日ロンドン条約寄託式が英国外務省の「ロカルノ」の間において挙行され、浜口首相・マクドナルド英首相・フーバー米大統領がほぼ同じ時刻に世界に向って軍縮記念演説の放送を行いました(軍縮放送演説 浜口雄幸「随感録」講談社学術文庫)。

城山三郎「男子の本懐」を読む28

 1930(昭和5)年10月3日財部彪は海軍大臣を辞任、後任には安保清保が任命されました(「官報」)。
 同年10月14日の閣議で井上蔵相は昭和6年度予算案について不景気による未曾有の歳入減が予想されるので、相当の緊縮予算となるはずである。このため新規要求は絶対に承認できない。また既定経費についても、思い切った削減を加える方針であると述べました。
 海軍省でつくられた(ロンドン条約)補充計画の当初案は第1案7億3300余万円、第2案5億600余万円を要求するという方針が確定していました。ところが同年10月24日の閣議で井上蔵相から示された大蔵省査定案では歳出総額が14億1000余万円で、これに見合う歳入額は公債発行なしであり、剰余金の計上もなく、井上の予告通りのの驚異的な節減案となり、各大臣はため息をつくばかりで各省に持ち帰って検討することになりました。
 各省にこの予算案が内示されると、どこも大騒ぎとなり、いっせいに復活要求の声が上がりました。緊縮続きで不景気は深刻となっていました。
 この年世界恐慌が日本に波及、物価(日銀調査東京卸売総平均指数)は前年比約18%下落、特に農産物価格は著しく下落し、工業製品との格差が拡大していきました。事業会社の解散・減資が激増、輸出は著しく減退したのです。
 同年10月1日第2回国勢調査が実施されましたが、内地人口6445万5人、外地(台湾・朝鮮・関東州・南洋群島)人口2594万6038人、失業者は全国32万2527人に達していました(「統計年鑑・日本帝国統計年鑑・日本労働年鑑(大原社会問題研究所)」)。
 都会で失業した人々が郷里へ帰ろうにも汽車賃がなく、東海道などの主要街道は妻子を連れて歩いて帰る姿が目立ちました。
 しかし彼等が帰る農村も生糸の暴落で不況に苦しみ、このため全国から町村長が東京に集まり、農村負担の軽減、農家負債整理などを訴えて集会を開き、陳情デモがうねりました。これでは民政党の人気が失われる、緊縮万能を改めよとの反発が党内からも高まってきました。

横浜金沢みてあるきーかねさわの歴史―コラム―昭和恐慌と農村

城山三郎「男子の本懐」を読む29

 予算編成の労苦について、浜口首相は次のように述べています。『昭和六年度予算編成の最中、余一夕五勺の晩酌に陶然として肱掛に凭れて眠る。夢に一客あり、卒然として余が室に来り、憮然として余に告げて曰く、 不景気の結果、歳入の減少すること一億二千万円、剰余金は皆無、此の上は歳出節約の外、途あることなし。於是乎(ここにおいてか)、大蔵大臣は各省の既定経費に向って節約を強要すること一億五千万円、陸軍聴かず、海軍肯(うけが)わず、各省亦従わず、予算編成の難きこと実に未曾有(みぞう)のことたり。
 子(あなた)、昨夏組閣以来、金解禁に、議会解散に次いで総選挙に、将又(はたまた)海軍軍縮問題に、諸般の難問題踵を接して起り、一難未だ去らずして、一難復来る、寝(い)ねて席に安んぜず、食うて味を甘しとせず、顔色憔悴形容枯槁す。
 今復空前の予算編成難に遭(あ)う。心を労し思を焦がす、余命幾(いくば)くもあらざらんとす、何ぞ速に印綬(いんじゅ)を解いて(首相を辞任して)江渚の上に漁樵し、心広く躰胖(ゆたか)に、以って夫(そ)の天命を楽しみ、老後を養わんとはせざる。』
こう夢の中で問いかけられて、浜口首相は『好意多謝。余昨年七月組閣の大命を拝するや、当時心秘かに決する所あり、身神共に君国に捧ぐ。苟(いやし)くも上御一人の御信任のあらせ給わん限り、総選挙の結果国民の信任の失われざらん限り、敢(あえ)て駑鈍(どどん)に鞭(むちう)ちて自ら信ずる所を行わんのみ。安(いずく)んぞ子孫と共に一日の余生を楽しむことを願わんや。
且つ夫れ、予算難は即ち予算難なりというと雖も、余を以て之を見れば、秀吉、家康が時鳥(ほととぎす)の類のみ。「鳴かざれば鳴かしてみしょう時鳥。」「鳴かざれば鳴く迄待とう時鳥」宜いか解ったか、努力は一切を解決す。努力の及ばざる所は時が之を解決す。鳴かしてみしょうは努力なり。鳴く迄待とうは時なり。』「(予算夢問答 浜口雄幸「随感録」講談社学術文庫)

日本漢文の世界―英傑の遺墨が語る日本の近代―作品リストー作者名五十音検索―は行ー浜口雄幸   

既述の海軍省(ロンドン条約)補充計画要求額に対する大蔵省査定額3億2500万円が井上蔵相から小林海軍次官に提示されました。そのころ天皇を迎えての観艦式が神戸沖で挙行され、海軍大臣・海軍軍令部長ら海軍首脳部は東京不在で海軍予算と補充計画についての折衝は海軍次官に任せられていましたが、小林はその日の夜行列車で神戸に向かい、翌日朝御召艦霧島の帰港後、艦上で異例の海軍首脳会議が開かれました。その結果査定案は奉答文の趣旨を全く無視するものであるということになり、安保海軍大臣は急遽帰京して井上蔵相・浜口首相と復活折衝に入ったのです。
同年11月9日の深夜になって、ようやく安保海相と井上蔵相との間に歩み寄りがみられました。それは海軍側が3億7400万円に譲歩するが、財務当局は1937〜8(昭和12〜3)年度まで、不足兵力量の補充実現のため財源を1000万円ずつ繰り延べて支出するという内容です(今井清一「前掲書」)。
 同年11月11日新宿御苑における観菊会の終了後、首相官邸で開かれた閣議は予算最終案総仕上げのためのものとなる筈でしたが、各大臣から再び復活要求が相次ぎ、閣議が終了したのは午後11時過ぎでした。総額14億4800万円の昭和6年度予算案がやっと成立したのです。

城山三郎「男子の本懐」を読む30

 折から岡山で天皇統監の陸軍大演習が実施されており、1930(昭和5)年11月13日夜浜口首相は記者会見で予算編成難であったことを述べ、失業救済・労働組合法・行政整理などの今後の課題についての抱負を語った後、翌日陸軍大演習陪観のため東京駅に到着、駅長室で休憩してから地下道を通ってホームへ出ました。午前9時発の超特急「つばめ」号に乗車する予定だったのです。ホームには人が溢れ、同じ列車で、新任駐ソ大使広田弘毅が出発するので、幣原喜重郎外相らが見送りに来て居ました。原敬の東京駅頭遭難(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む23参照)があってから、首相乗降時ホームに一般乗客を入れないようにしていたのですが、浜口はそれをやめさせました。
 浜口首相が歩いていく前方の人垣の中から、わずか3mほどの距離を隔てて佐郷屋留雄[右翼団体愛国社員、同社長岩田愛之助は元関東軍特務機関(日本軍の諜報・宣撫工作などを行う特殊組織)員で、後述する桜会とも関係あり]にピストルで彼は狙撃されました。『「ピシン」と云う音がしたと思うた一刹那(せつな)、余の下腹部に異状の激動を感じた。その激動は普通の疼痛(とうつう)と云うべきものではなく、恰(あたか)も「ステッキ」位(くらい)の物体を大きな力で下腹部に押し込まれた様な感じがした。(中略)余は思わず蹌踉(そうろう)として倒れんとしたから、周囲の人々は自分を抱き上げ、手取り足取り駅長室に連れて行った。』(十一月十四日 浜口雄幸「随感録」講談社学術文庫)

HARUKOの部屋―目次―母が語る20世紀―浜口雄幸首相 

 異変を聞いた幣原外相はこの時のことを次のように回想しています。『ようやく貴賓室へかけつけると、浜口君はもうグッタリと横になっていた。(中略)浜口は苦しい呼吸の下からハッキリと、「男子の本懐だ!」といっている。そして「昨日の総予算案の閣議も片づいたので、いい時間だった」などといろいろ話しかける。私は、「物をいうとどんどん血が出るから、物を言っちゃいかん」と止めたが、私がいると話しかけるので、ソッと駅長室へ行った。』(幣原喜重郎「前掲書」)ここに記述されている「男子の本懐」(十一月十四日 浜口雄幸「随感録」講談社学術文庫にも同じ言葉が記述されている)という言葉が本書の題名になっているのです。
 とりあえず次男巌根が輸血し、駆けつけた医師団の協議で帝大病院に運び、開腹手術が行われました。翌11月15日在京の閣僚はとりあえず、宮中席次が一番上の幣原喜重郎外相を首相臨時代理に推挙しました(「官報」)。
 これよりさき陸軍大演習当日安達謙蔵内相は天皇に供奉して陪観、ところが浜口遭難の第一報が御野立所の近くの電話に鉄道次官から連絡が入り、大塚警保局長は受けた内容を記した手帳メモを安達に手渡しました。
 安達が天皇に浜口遭難を報告すると、「陛下には予が手にせる大塚メモを御覧にならんとし、御竜顔恐れ多くも予が前額の附近に接近遊ばされる始末であった。」(「安達謙蔵自叙伝」新樹社)
 安達は天皇からの見舞の果物籠を預って東京に赴き、浜口の病室に届けました。安達はすぐ岡山に引き返し、浜口からのお礼言上のため、天皇に報告しました。
2015-05-10 05:34 | 記事へ | コメント(0) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(現代篇 3浜口雄幸) |
城山三郎「男子の本懐」を読む11〜20
2015年04月30日(木)
城山三郎「男子の本懐」を読む11

 帰国した年の10月、井上は検査役となり、星ヶ岡茶寮で毛利千代子(華族毛利家の娘)と結婚式を挙行しました。

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 1900(明治33)年12月25日熊本の第九銀行(安田銀行・富士銀行を経てみずほ銀行に吸収合併)に取り付け騒ぎが起こり、九州全体に金融不安が拡大しました(新聞集成「明治編年史」)。関西に出張していた井上は門司の日銀西部支店に赴き、熊本へも出かけて収拾の乗り出しました。結局山本総裁は安田善次郎に第九銀行の再建整理を引き受けてもらおうとしました。安田善次郎は同上銀行に対する日銀の救済融資について、種々の注文をつけたため、井上は反発して安田善次郎と激しい口論になりましたが、井上の主張を日銀幹部は容認するに至らなかったのです。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―むー武藤山治―やー安田善次郎


 このとき浜口は熊本税務監督局長在任中(「男子の本懐」を読む4参照)でしたが、井上とはすれ違いに終わりました。
 1901(明治34)年秋、井上は新築中の日銀大阪支店調査役(支店長補佐)として赴任しました。彼は支店員全員に洋服を着るよう命令、支店の新築披露で来賓にもフロック・コート着用を招待状に記し、来賓として招待された鐘紡の武藤山治が東京からの帰途だったので、フロック・コートの用意がなく、モーニング姿で現れると、井上は武藤の出席を断りました。
 政府による日銀からの借り入れが増加し、政府融資額に上限を設けるよう主張して山本総裁は政府と対立任期満了で解任され、1903(明治36)年10月20日後任として大蔵省理財局長であった松尾臣善(しげよし)が日銀総裁に就任しました。松尾総裁は温厚な性格で、「松尾男(男爵)は仕事は白湯(さゆ)を飲むが如くでなければいけぬと屡言った。」(吉野俊彦「歴代日本銀行総裁論」講談社学術文庫)といわれるように、職務を無難に勤めたことで知られ、政府はこうした人物を総裁にすえることで日銀を政府の思惑通りに運営しようとする意図が誰にも見え透いており、日銀内部ではかかる総裁人事に反対の空気がつよく、井上も批判的でした。
  大阪支店調査役から井上は京都出張所長となり、やがて日露戦争が勃発すると、日銀は国債の消化を重要な任務とするようになり、井上も積極的に国債売却に飛び回り、高橋是清副総裁の外債募集(「坂の上の雲」を読む18参照)も応援しました。
 京都に1年居て、井上は36歳で大阪支店長心得として大阪へ戻ってきました。当時大阪支店長は50歳以上の役職とされていましたから、抜擢人事で大阪支店内部の摩擦が大きいことを予想した高橋副総裁が支店長心得として赴任させ、赴任後3箇月ほど支店内の雰囲気をうかがってから心得を外すという念の入れ様でした。

城山三郎「男子の本懐」を読む12

 同じく高橋副総裁の推薦で、松尾総裁もこれを認め。1906(明治39)年井上は日銀営業局長に抜擢されました。井上は自信過剰に陥り、安田善次郎ら重要財界人と衝突を繰り返し、総裁に注意されても態度を変えません。日銀内部では営業局担当の理事を無視して総裁と問題の決着をつけたり、独断で物事を処理して総裁に事後承諾を求めることもありました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―いー井上準之助 

温厚な松尾総裁も上述のような井上の増長した行動には我慢できなくなり、1908(明治41)年10月末井上に日銀営業局長を退き、海外代理店監督役の肩書でニューヨークへ赴任するよう命令しました。日銀の中枢から閑職への左遷です。
 井上はよほど日銀を退職しようかと思った程ですが、この年の秋妻千代子が病臥し、彼が看病してようやく回復したばかりであり、ここで退職すれば病みあがりの妻に心理的にも経済的にも負担を強いることになるので、退職はあきらめ、翌年1月20日妻子をのこして単身東京を出発赴任の途につきました(「渡米手紙日記」井上準之助論叢4)。
 横浜から多くの人々に見送られて米国船モンゴリア号で出港、同年2月6日サンフランシスコに入港、列車でロッキー山脈を横切るときは雪の中を走り、わずかにソルト・レイクの湖面をのぞき見ただけでした。ついでまた雪の大平原を走り、日本を出発してから25日目にやつと任地ニユーヨークにたどりつきました。
 任地では実質的にこれといった仕事はなく、部下は二人しかおらず、事務室も横浜正金銀行支店の一劃を借りているだけでした。宿はホテル・マルセイユ、長期滞在客の多いホテルでした。現地では井上に興味をもつ日本人倶楽部の宴会が毎夜催されたのです。
 ニューヨークでの井上に来た日本からの最初の知らせは生母の死去でした(「書翰」大分県日田 井上豊一郎宛 明治42年3月11日付 井上準之助論叢4)。母の追憶に耽りたいところでしたが、事務引き継ぎに伴う人との会談の約束が相次ぎ、忙しい毎日を過ごしました。

城山三郎「男子の本懐」を読む13

 妻千代子からの簡単な手紙を繰り返して読み、夜は家郷のことを思って寝られなかったようです。
 憂鬱な井上のニューヨーク生活をわずかに救ったのはスポーツでした。彼は久しぶりにテニス・コートに立ち、さそわれてゴルフを始め、これで生気を少し取り戻すと、自分の置かれた境遇をやや客観的に眺める余裕が生まれたのです。
 1910(明治43)年秋、日銀吉井理事が海外視察の途中ニューヨークにやってきて、井上に横浜正金銀行(三菱東京UFJ銀行の前身)役員として転出するようにという松尾総裁の内意を伝えました(「書翰」東京 松尾臣善宛 明治43年11月12日付 井上準之助論叢4)。11月26日本店より帰朝せよとの電報が入りました。
  1911(明治44)年6月井上は横浜正金銀行副頭取に就任、同月1日日銀でも松尾総裁は退任して副総裁高橋是清が総裁に昇進しました。

タイムスリップよこはまー関内駅周辺―旧 横浜正金銀行

 高橋は日銀副総裁時代に横浜正金銀行頭取を兼務していましたが、日銀総裁に就任すると兼務をやめ、新たに三島弥太郎(「大山巌」を読む31・40・45参照)が正金銀行頭取に迎えられました。三島は貴族院多数派「研究会」幹部で、この人事は第2次桂太郎内閣の貴族院対策と見られていました。三島は薩摩藩士三島通庸(「大山巌」を読む31参照)の長男でアメリカに留学して昆虫を研究、帰国後貴族院議員となり、少しは財政経済の勉強はしていたものの、正金銀行頭取の実務には暗く、国際経済・金融の実務に精通した補佐役が必要でした。そこで井上が副頭取に起用され、正金銀行頭取としての実務はほとんど井上に任されたのです(吉野俊彦「前掲書」)。
 第3次桂太郎内閣は短命に終わり(「男子の本懐」を読む6参照)、1913(大正2)年2月山本権兵衛内閣(首・外・陸・海を除く全閣僚は政友会員)成立に際して、同じ薩摩閥の三島弥太郎に大蔵大臣就任が要請されましたが、三島は辞退、このため日銀総裁高橋是清が大蔵大臣となり、三島が代って日銀総裁を引き受けたので、正金銀行頭取はしばらく水町日銀副総裁が兼務、同年9月井上が正金銀行頭取に昇進しました。
 山本権兵衛内閣がシーメンス事件(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む15参照)で倒壊、1914(大正3)年4月16日第2次大隈重信内閣(副総理格に立憲同志会総理加藤高明入閣)が成立、若槻礼次郎蔵相の下で大蔵次官となった浜口雄幸が正金銀行頭取井上準之助としばしば顔を合わせるようになったことは既述の通りです(「男子の本懐」を読む6参照)。

城山三郎「男子の本懐」を読む14

 1914(大正3)年12月25日衆議院解散、翌年3月25日第12回総選挙が行われることになり、高知県の立憲同志会が立憲政友会に対抗して浜口を衆議院議員立補者に担ぎ出そうとする動きが本格化してきました。
 彼は演説が下手だと首をかしげる向きもあったのですが、大蔵次官の肩書や専売局長官時代の実績や人柄も評価されて総選挙への出馬を正式に要請されました。たしかに彼は政談演説が上手とは言えませんでしたが、各演説会場にふさわしい演説草稿を事前に作り、どんな僻地に出掛けることも厭いませんでした(政見要旨「消極政策か積極政策か」大正4年3月第35議会解散後、立候補 小柳津五郎「前掲書」))。
 総選挙で与党立憲同志会は大勝、浜口も当選、1915(大正4)年7月彼は大蔵省参政官(政務次官・政務官の前身)となりましたが、そのころ大浦兼武内相の野党政友会議員の買収容疑が問題となり(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む18参照)、外相加藤高明・蔵相若槻礼次郎らは内閣総辞職を主張して閣外に去り、浜口も加藤らと行動を共にしました。
 1916(大正5)年10月5日第2次大隈重信内閣は総辞職、同年10月9日山県有朋の推挙により寺内正毅(長州閥)内閣が成立、翌10月10日立憲同志会・中正会・公友倶楽部が合同して憲政会(総裁 加藤高明)を結成、衆議院の過半数を掌握しました(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む18〜19参照)が、結党大会で浜口は結党にいたる経過説明を行い、加藤総裁の下で総務を勤めました。
 しかし1917(大正6)年4月20日に行われた第13回総選挙で憲政会は政友会に敗北、浜口も落選して衆議院の議席を失ったのですが、彼は事務員の徽章を着けて議会に通い、傍聴席で質疑に耳を傾けていました。
 すでに日本は日清戦争の賠償金(「大山巌」を読む39参照)を英ポンド貨で支払いを受けた(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む5参照)結果、1897(明治30)年10月1日貨幣法の「純金ノ量目二分(ふん 一分は一匁の1/10,二分は750r)ヲ以テ価格ノ単位ト為シ之ヲ圓ト稱ス」(「法令全書」)の規定により、我が国の中央銀行である日本銀行が発行する拾円兌換(だかん)銀行券を日銀はいつでも純金二匁を含む拾円金貨と交換、国際金融においては輸出入[金(法定)平価(円と外国通貨例えば米国通貨との比率)100円=約49.85ドル]との差額を金で支払うという金本位制を確立したのでした。
 第1次世界大戦により、とくに欧州諸国は輸入超過となったこと及びロンドン為替決済市場が閉鎖されたため、各国とも金輸出禁止の措置をとるようになりました。
  1917(大正6年)4月6日アメリカはドイツに宣戦布告し、同年9月10日金輸出を禁止したので、寺内内閣の蔵相勝田主計(しょうだかずえ)は同年9月14日金本位制を事実上停止する金貨幣・金地金輸出取締令(省令)を公布、金輸出禁止(通貨当局が金を輸出することは可能)にふみきりました(新聞集成「大正編年史」)。

YAHOO知恵袋―カテゴリー教養と学問、サイエンス―歴史―日本―日本史寺内正毅について(2012/11/30/)

城山三郎「男子の本懐」を読む15

 勝田主計は東大法科で浜口と1895(明治28)年卒の同級生でした。彼等は二八会というものを結成、大臣になったものが会員全体を招待し御馳走するという申し合わせをしていましたが、その最初の該当者となった勝田主計は同期生を蔵相官邸に招いてシャンペンを抜き乾杯、にぎやかな宴会を開きました。二八会で大蔵官僚となったのは勝田と浜口の二人だけ、勝田が終始エリートコースを歩んだのに、浜口は短期間大蔵次官を勤めただけで、当時は代議士でもなく無官でしたが、この会合に出席して勝田への祝辞を述べたのでした。
 寺内正毅内閣は1917(大正6)年1月20日日本興業銀行・朝鮮銀行・台湾銀行から資金を出させて、交通銀行(中国)へ500万円の借款(異なった国家間の長期にわたる融資)を供与する契約を締結しました(「日本興業銀行五十年史」日本興業銀行臨時史料室)。これをはじめとして翌年9月28日における上記3銀行による資金を満蒙4鉄道借款前貸金、済順・高徐2鉄道借款前貸金、参戦借款の3種各2000万円を供与する契約を中国政府(段祺瑞政権)と締結[いわゆる西原借款(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む19参照)、これまでの総計1億4500万円]しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

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 勝田蔵相ははじめこの金額の一部を横浜正金銀行にも割り当ててきたのです。政府からさまざまな圧力がかかっても井上の方針は変わらなかったので、蔵相も無理押しをあきらめたようです。事実西原借款は本来の目的とは異なった軍閥政府の政治資金や戦費などに使用されて回収の見込みがなくなり、3銀行の債権は大蔵省預金部資金に肩代わりされ、国民の負担となって世論の非難を浴びたのでした。 

城山三郎「男子の本懐」を読む16

 寺内正毅内閣は米騒動で倒れ、1918(大正7)年9月29日原敬内閣(陸海外3相を除く全閣僚政友会員)が成立(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20〜21参照)、同内閣の蔵相高橋是清は翌年3月13日井上準之助を日銀総裁に任命しました(「日本銀行八十年史」)。はじめての日銀生え抜き総裁の登場です。
 大戦景気(「労働運動二十年」を読む15参照)がかげりを見せ、1919(大正8)年初頭には貿易収支が入超に転じていた(「日本経済統計総観」朝日新聞社)のに、経済界では依然として株式などへの投機がさかんでした。
 金輸出禁止の日本において、正貨準備(在内正貨ともいう。国内産金・輸入金貨及び金地金など、この中の朝鮮からの略奪的輸入額は輸入総額の約68%、大江志乃夫「日本の産業革命」岩波書店)は約四億四千万円あり、これに加えて在外正貨(ポンド貨で受け取った日清戦争の賠償金及び日露戦争の際英国で募集された外債についての手取金などは日本政府から日本銀行に預託され、ポンド預金としてロンドンのイングランド銀行が保有)は約十二億円もありました(1919年6月現在、水沼知一「金解禁問題」岩波講座「日本歴史」19)。大戦後の同年6月アメリカは金(輸出)解禁にふみきって金本位制に復帰したことでもあり、井上は投機熱を冷やすためにも、金輸出禁止を解くことが必要だと考えたのですが、高橋是清蔵相は当時の中国情勢(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21参照)を考慮、同国にいつでも投資できるよう正貨を貯えておく必要があると考えていたので、井上の主張は取り上げられませんでした。それで日銀は同年10〜11月の二度も公定歩合(日銀が市中銀行にお金を貸し出すときの金利)の引き上げを実施、金融引き締め策を実施しました(「日本銀行八十年史」)。
 1920(大正9)年3月15日株式市場は株価暴落で混乱、東京・大阪株式取扱所は2日間休業せざるを得なくなりました。戦後恐慌が始まったのです(「労働運動二十年」を読む20参照)。
 日銀は株式市場救済のための資金融資を、同年4月13日商品相場が暴落すると、さらに産業界に対しても特別融資を決定しました。1921(大正10)年11月17日井上は関西銀行大会において消費節約を唱え、内務省・商業会議所などの消費節約運動がおこりました[日本銀行調査局編「日本金融史資料(明治大正編22)」大蔵省印刷局]。
 1922(大正11)年8月19日日銀は在外正貨を正貨準備に繰入れることを禁止、従来充当分も8月末日限り解消と発表、このころ金解禁問題をめぐる議論は活発となっていましたが、加藤友三郎内閣(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む26参照)の蔵相市来乙彦は金解禁が尚早と声明していました(「日本金融史資料(明治大正編22)」)。

Weblio辞書―検索―市来乙彦  

 これは加藤(友)内閣の事実上の与党である立憲政友会の総裁高橋是清が金解禁反対を強硬に主張したためといわれています。

城山三郎「男子の本懐」を読む17

 1923(大正12)年9月1日関東大震災(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む27参照)が起ったとき、その直前に組閣命令をうけ、第2次山本権兵衛内閣が組閣中で井上準之助は首相官邸に呼ばれて蔵相への就任を要請されました。彼は回答を保留して日銀にもどり、建物に異常はなかったが、念の為宿直員や守衛をふやすなどの指示をして帰宅しました。
 しかるに翌2日未明、日銀が燃えだしたとの報せをうけ、井上は日銀の近所に住む理事の深井英五を日銀へ急行させ、自身は陸軍省へ赴き、破壊消防の必要がでたときに備えて工兵隊の出動を要請しました。

Weblio辞書―検索―深井英五  

 彼がやがて日銀に駆けつけると、ポンプ車が窓から注水しても火勢が強くて鎮火出来そうになく、消防司令を先頭に井上はまず石垣をよじ登り、そこから細い板を渡し、その上を這うようにして二階の窓から中に入りました。彼はハンケチで鼻と口を押さえながら、重要な部屋の配置を次々と消防司令に教えると、司令は井上に建物外に出るよう指示、午後1時ころ漸く鎮火しはじめました。

日本銀行―対外説明・広報―日本銀行を知る・楽しむーバーチャル見学ツアー旧館入口―旧館マップー歴史写真館入口―関東大震災で焼け落ちたドーム<大正12年>  

 日銀の主要な建物は無事で業務に支障はなく、また日銀には安心して任せられる深井英五のような人物が育っており、井上は大蔵大臣に就任する決意を固めていたのです。 
 新首相山本権兵衛が同郷の前蔵相市来乙彦を留任させず、井上を蔵相に起用したのは、山本首相が関東大震災復興までしばらく見送るとしても、いずれ金解禁を実行せざるを得ないだろうという意向だったからです。内相として入閣した副総理格の後藤新平も井上の蔵相就任を強く望みました。
 同年9月2日宮中の露天芝生の上で摂政宮(裕仁親王、後の昭和天皇)臨席の下、第2次山本権兵衛内閣の親任式が行われ、新内閣が発足しました。
 翌日大蔵省全焼により臨時の大蔵省仮庁舎となった永田町の蔵相官邸に集合した大蔵官僚に対し、井上はモラトリアム(moratorium  天災・恐慌などのの際に起こる金融の混乱を抑えるために手形の決済、預金の払い戻しなどを一時的に猶予すること)実施を発表、9月7日支払猶予令(緊急勅令「大日本帝国憲法」第八条による)が公布されました(新聞集成「大正編年史」)。

国立国会図書館―電子展示会―日本国憲法の誕生―資料と解説―憲法条文・重要文書―大日本帝国憲法   

 予算編成については、大正12年度予算十三億七千五百万円の中で大震災による租税減収が八千三百万円あり、この金額を各省予算に割り当て減額、大正13年度予算編成においても、各省に大幅減額を要求して歳入剰余(黒字)を生み出しました。
 同内閣は帝都復興院を設置、後藤内相に復興院総裁を兼任させました。井上は復興予算財源については増税によらず、公債で賄うこととし、公債の利子支払い金額を毎年度予算における上記歳入剰余で充当できるように計算して復興予算総額七億二百万円を計上したのです。
 これに対して後藤新平復興院総裁は復興予算三十五億円を要求、烈しい対立となり、後藤は閣議の席をけって退出しかけた程でしたが、結局井上の原案をしぶしぶ承認させられました。
 しかし井上のこうした奮闘にもかかわらず、同年12月27日虎ノ門事件(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む27参照)により、同内閣は総辞職し、短命内閣に終わりました。
 1924(大正13)年1月9日貴族院勅選議員となった井上は同年2月4日ヨーロッパへ向けて神戸を出港、フランス・イギリス・ドイツ・デンマークなどを訪問、政財界人や旧知の銀行家たちと会談、8月下旬に帰国しました。

日本の歴史学講座―日本戦前官僚事典―勅選貴族院議員一覧

 東京市会各派は全会一致で井上を東京市長に推挙、しかし井上は受諾せず、困惑した市会各派は渋沢栄一に井上説得を依頼したので、渋沢は後藤新平とともに井上を訪問、元日銀総裁の山本達雄も加勢しましたが、井上は結局応ぜず、大日本連合青年団と東洋文庫の理事長を引き受けただけでした。

東洋文庫―ライブラリーー所蔵図書の概略―井上準之助氏旧蔵和漢洋書―井上準之助

 この年すでに大磯の別荘で療養中の井上の長男益雄が永眠、家族愛を大事にしてきた井上にとって大きな打撃であったでしょう。

城山三郎「男子の本懐」を読む18

 1919(大正8)年3月26日浜口雄幸は補欠選挙(「原内閣外交政策の無力」大正8年3月11日 補欠選挙における政見要旨 小柳津五郎「前掲書」)で勝利して代議士の議席を回復しました。憲政会の党本部では浜口が主に政務を、安達謙蔵が党務を処理、二人三脚と呼ばれました。浜口の誠実で地味な政治家としての日常生活を加藤高明・若槻礼次郎ら党幹部は高く評価していましたが、党外からも注目され、渋沢栄一らが彼を東京市長に推挙しようとしたこともありましたが、浜口は憲政会が逆境(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む22参照)にあるのに見捨てることはできないという理由で辞退しました。

FROG GALLRERY-―歴史人物イラスト(日本の著名人)−昭和初期1−浜口雄幸

 帝国議会の会期中(第42議会)になると、浜口は憲政会全体の質疑の方向や手順をきめるとともに、彼自身も原敬首相や高橋是清蔵相に対して、物価騰貴を招く放漫財政を質問批判し、物価調節機能を持つ金本位制復帰(金解禁)へ向かっての政策転換の必要を示唆したのでした(小柳津五郎「前掲書」)。
 1923(大正12)年夏珍しく浜口は次男の磐根とともに箱根に滞在、同年8月31日帰京、翌日関東大震災に遭遇しました。
 政党内閣ではない第2次山本権兵衛内閣の成立に憲政会は反対でしたが、憲政会政務担当総務で財政に明るい浜口は井上新蔵相に大きな期待を寄せていました。その期待に応えるかのように、井上は上述のようなモラトリアムなどの施策を強行し、浜口は見事だと感心したのでした。しかし野党憲政会の代議士として浜口は帝国議会での井上との対決も覚悟していましたが、同内閣はわずか4か月の短命で倒壊、両者対決の機会は訪れなかったのです。 
 第2次山本内閣倒壊後、成立した清浦奎吾内閣はまた非政党内閣であり、忍耐強い浜口もさすがに「心身共に倦怠を覚え」(八 敵は本能寺にあり 浜口雄幸「随感録」講談社学術文庫)たと述懐した程でした。
 しかし1924(大正13)年5月10日第15回総選挙で護憲3派が大勝、同年6月11日加藤高明を首相とする護憲3派(憲政会・政友会・革新倶楽部)連立内閣が成立、浜口雄幸は蔵相に就任したのです(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む29参照)。

城山三郎「男子の本懐」を読む19

 浜口蔵相が取り組んだのは行政財政整理問題でした。1924(大正13)年11月から12月にかけて、行政整理のため諸官制の改正・廃止などの諸勅令を公布、翌年5月陸軍4個師団を廃止して人員整理をを行い、大正14年度一般会計歳出決算は前年度より約1億円減少しました(統計研究所編「日本経済統計集」明治・大正・昭和 日本評論新社)。
 税制整理については、1925(大正14)年7月30日の閣議で政友会出身閣僚の小川法相・岡崎農相が税制整理案に反対し退席、加藤高明内閣は閣内不統一で総辞職となり、同年8月2日第2次加藤高明(憲政会単独)内閣が成立、浜口蔵相は留任しました。
 翌年浜口は金解禁について議会で時期尚早であるという立場を述べています(「東洋経済新報」)。1924(大正13)年の年間輸入超過額は6億4637万円に達し、これまでの最高となっていました(「日本経済統計総観」東京リプリント出版社 朝日新聞社 昭和5年刊行の復刻)。

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 同年3月対米外国為替相場が47ドル台から44ドルに、年末に38ドル台に下落し、翌年末43ドル台に回復しました(「日本経済統計総観」)。しかしもしこの時点で金解禁を実施すれば、輸入品在庫及び輸入原材料による製品所有者が損害をうけ、投機が行われ、輸入はさらに増加、輸出も減少するおそれがありました。金解禁を実施するには為替相場が法定平価に近づくのを待つ必要があり、これが浜口蔵相の公式見解であったのです。

城山三郎「男子の本懐」を読む20

 1926(大正15・昭和1)年1月28日加藤高明首相死去により、同月30日若槻礼次郎(「男子の本懐」を読む 6参照)内閣が成立、前内閣の全閣僚が留任しました。
 税制整理問題の処理に当たってきた浜口ははじめ同内閣の蔵相として留任したのですが、同年3月税制整理問題は一応決着したので、若槻首相は自分の後継者として浜口に内務行政も経験させるためでしょうか、あえて同年6月3日の内閣改造で浜口を内務大臣に就任させ、蔵相には早速整爾(はやみせいじ)、次いで彼の病死により片岡直温が後任として起用されたのでした(若槻礼次郎「前掲書」)。
 同年12月25日天皇死去、摂政宮裕仁親王が践祚し昭和と改元、1927(昭和2)年1月20日追号を大正天皇と公表しました(新聞集成「昭和編年史」明治大正昭和新聞研究会)。
 経済不況は依然として立ち直らず、同年3月14日片岡蔵相の失言を発端として始まった金融恐慌が鈴木商店と密接な関係にあった台湾銀行[台湾銀行法により1899(明治32)年設立された特殊銀行、台湾における貨幣発行権をもつとともに、融資も行う商業銀行でもある]に波及しました。

鈴木商店記念館―鈴木商店のあゆみー鈴木商店の歴史 

YAHOO知恵袋―カテゴリー教養と学問、サイエンス―歴史―日本―なぜ台湾銀行は鈴木商店に融資し続けたんですか? 

 若槻内閣は台湾銀行の破綻を救済するために、同年4月14日台湾銀行救済緊急勅令(憲法第8条)案(1.日銀は台湾銀行に無担保特別融資、2.政府は日銀が台湾銀行への融資の結果、生じた損失に対し2億円の限度で補償)を用意してこれを枢密院(天皇の諮問機関 憲法第56・70條)に提案(「男子の本懐」を読む17参照)しました。
 しかるに同年4月17日枢密院は同勅令案を否決、若槻内閣は総辞職に追い込まれました(新聞集成「昭和編年史」)。この時の状況を若槻礼次郎は次のように回想しています。
 『枢密院は、この事は憲法第七十条の緊急処分の条項に当たらんと言い出した。(中略)政府側では、議会を開くまでまで待てないから(中略)、緊急処分を要するというのだが、枢密院は頑として応じない。(中略)ある(枢密)顧問官は、(中略)暗にこの内閣が、この案を引っ込めないのは立憲的政治家でないという口ぶりである。(中略)
 その同じ老顧問官は、この案を討議するとき、政府の外交が軟弱であるといって、攻撃した。これは問題外であるから、私も外務大臣の幣原(喜重郎)も、黙って答えなかった。(中略)そしてその老顧問官は、ますます調子に乗って、(天皇)陛下の御前をも顧みず、「町内で知らぬは亭主ばかりなり」という、俗悪な川柳まで引いて、外交攻撃をした。(中略)私はもう癪(しゃく)にさわって、一つ相手になってけんかをしたかったが、(中略)じっと腹の虫を抑えて黙っていた。(中略)私はかなり興奮していた。』(若槻礼次郎「前掲書」)
 上記の若槻礼次郎の回想文に記述されている「町内で知らぬは亭主ばかりなり」という女房の浮気を知らない亭主を笑う川柳を引用してまで若槻内閣の外交政策を軟弱外交として批判した老顧問官とは枢密院のボス的存在である伊東巳代治(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む10参照)であったことが明らかです(幣原喜重郎「外交五十年」日本図書センッター)。
 この伊東巳代治・平沼騏一郎(「日本の労働運動」を読む47参照)らの主導する枢密院の動きが野党立憲政友会と結んだ倒閣運動であったことは言うまでもないことでしょう。
 1927(昭和2)年6月1日野党となった憲政会は政友本党と合同して立憲民政党を結党、浜口雄幸は総裁に推挙されました(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む19参照)。
2015-04-30 05:25 | 記事へ | コメント(0) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(現代篇 2浜口雄幸) |
城山三郎「男子の本懐」を読む1〜10
2015年04月20日(月)
城山三郎「男子の本懐」を読む 1

 城山三郎「男子の本懐」(「城山三郎全集」1 新潮社)は「週刊朝日」[1979(昭和54)年3月23日号〜同年11月20日号]に連載されたノンフィクション小説で、第27代首相浜口雄幸と彼の盟友井上準之助蔵相の生涯をたどった作品です。
 浜口雄幸は1870(明治3)年4月1日、高知県長岡郡五台山村唐谷(からたに)の水口家にうまれました(浜口雄幸「随感録」講談社学術文庫)。

高知市―観光情報―みるー浜口雄幸生家記念館

 水口家は土佐藩の山林見回りを勤めるお山方の家柄で、彼の父水口胤平(たねひら)は、明治時代になっても、山林官として同じ仕事をつづけていました。
 雄幸の長兄義清は十六も年上で、五台山竹林寺の勧学院に弟子入りしてあまり家におらず、次兄義正は八つ違いの腕白大将で、これも留守勝ちでした。

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 郷士の娘で母親の繁子は7年ぶりに身ごもり、両親は娘の出生を期待したのですが、生まれたのは男子であったため、やむなく「雄幸」と名をつけ「おさち」と呼ぶことによって満足したといわれます(小柳津五郎「浜口雄幸伝」伝記叢書 大空社)。
 少年になると雄幸はがっしりとした体つきになり、獅子鼻で眉が上がり、どんぐり眼に角ばった顔つきになってきました。母は家のきりもりや畑仕事に追われ、雄幸には構わなくなったので、雄幸は山あいの一軒家で幼いときからひとりぼっちで、一日の大半を過ごし、やがて字が読めるようになると、むさぼるように読書にふけりました。

城山三郎「男子の本懐」を読む 2

 近くに高知県下最初の小学校の一つであった孕(はらみ)尋常小学校ができましたが、2学級しかなく。正規の教員もおらず、長兄の義清が教えたりしました。

ひまわり乳業株式会社―今日のにっこりひまわりー年月別過去ログー2008年3月25日―西孕、東孕、男子の本懐

雄幸は学校から帰ってもほとんど本ばかり読んでいたので成績優秀、高知中学(高知県立高知追手前高校の前身)に入学すると、往復4里の道のりで毎朝6時前には家を出て、学校に着くとまだ校門が開かず、その前で本を読むことも珍しくありませんでした。3年生を終わると成績優秀で飛び級して5年生に編入されたのですが、体育だけはにが手で跳び箱が飛びこせず、箱の上に尻餅をついてしまう状態でした。

有名人の出身高校ランキングー都道府県別ランキングー高知県―高知県立高知追手前高校―浜口雄幸
  
 土佐出身の自由民権運動の指導者板垣退助(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む8参照)を盟主とする自由党の活躍時代で、中江兆民(「火の虚舟」を読む1参照)の政治結社も動きだして政治運動も活発でした。雄幸もこのような雰囲気の中で、会合に出席して、公然と主張を述べたりすることもあり、少数ながら友人もできましたが、そのつき合い方が通常とは異なっていました。かれは友人の家へ遊びにいっても、自分からはほとんど口をきかず、部屋の隅に坐ったり寝ころんだりして2~3時間過ごしてから、ふいに立ちあがって帰っていくのです。
 当時高知中学校に、教え子全員の寸評をした漢学教師がいましたが、この教師による雄幸評は「雲くさい」の一語であったそうです(小柳津五郎「前掲書」)。
 中学校5年のとき、雄幸に養子縁組の話が持ち込まれました。浜口家は高知市の南東約50`の安芸郡田野町の郷士で、剣客としても有名な浜口義立(よしなり)には男子二人が夭折、夏子という高知の女子師範に学ぶ娘一人しかおりませんでした。よい婿養子を迎えるために、義立は友人知己に頼んで歩いたのですが、それでは満足できず、高知中学校で卒業生から在校生まで、成績・操行・身上などを調べ上げた結果、学業成績抜群、志操堅固で三男坊の水口雄幸を見出だし、校門に立って首実検までして惚れこんだようです(北田悌子「父浜口雄幸」日比谷書房)。
 浜口義立はやがて水口家に出かけ、雄幸の養子縁組を申し入れました。雄幸の父水口胤平は浜口義立の熱意に圧倒されて本人の意思を確かめると、どうでもいい様子だったので、高知中学校の卒業式が終わると、19歳の雄幸は仲人に伴われて16歳の夏子と初対面の挨拶をし、養子縁組の盃を交わしました。

城山三郎「男子の本懐」を読む 3

 養子縁組の盃を交わすと、雄幸は海を渡って大阪に赴き、第三高等(中)学校(京都大学総合人間学部・岡山大学医学部の前身)に入学、法科に在籍、1889(明治22)年学校の移転に伴い、京都で下宿生活をするようになり、幣原喜重郎(「伊藤博文と安重根」を読む3参照)らと首席を争いました。同校在学中すでに「ライオン」と綽名されていたようです(小柳津五郎「前掲書」)。

華麗なる旧制高校巡礼―第三高等学校  

 溝渕進馬という高知中学以来の友人と時々相撲をとったりするだけで、あとは従来通り黙々と読書に耽る毎日でした。夏冬の休暇に田野へ帰省しても、黙って読書やひとりで川辺、海岸を散歩したりするだけで、だれとも口をきこうともしません。一度か二度彼が唐谷の実家まで約40`の道のりを馬の背にゆられて帰ったときも、馬を引く下男と全く口をきかず、例外として「もう、行かう」の一語だけ口を開いたと下男が報告したそうです(北田悌子「前掲書」)。夏子や養家の人々は最初とまどったようですが、事前に雄幸の性格を聞いていたので、そっと見守るだけでした。
 数え20歳のとき、彼の父胤平は死去、三高在学中21歳で夏子と結婚、やがて帝国大学法科へ進学、最初の一年は寄宿舎生活でしたが、翌年夏子が上京し一戸を構えるようになりました。
 雄幸は相変わらず、身なりを構わず、黙々と登下校して、運動もせず趣味も持たず、倶楽部やサークル活動にも参加せず、ちょっと鎌倉の円覚寺へ参禅したことがあるだけでした。当時の東大の学生は天下国家を論ずる風潮がさかんでしたが、雄幸は傍聴しても討論に参加することはありませんでした。彼は政治家志望でしたが、これからの政治家は財政経済に通暁することが必要と考え、アダム・スミスの「国富論」を読みつづけました。
 1895(明治28)年7月雄幸は東大を卒業しましたが、卒業時の成績は小野塚喜平次(「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造4参照)がトップで、浜口は2番でした。
 高等文官試験の最中、雄幸の長女和子が危篤状態となり、一時試験をあきらめようとしましたが、夏子が必死になだめ、思いとどまりました(今井清一「浜口雄幸伝」上巻 朔北社)。試験最終日における憲法の口頭試問で、彼は試験官の一木喜徳郎(「大正デモクラシーの群像」を読む―T−吉野作造3参照)と憲法の解釈についって対立、幸いにも合格して大蔵省に入省しましたが、和子は死去、、雄幸の表情は暗かったのです。

城山三郎「男子の本懐」を読む 4

 大蔵省内では新人なのに年齢より老けた感じで、同僚と酒で羽目をはずすこともなければ、喫煙もしません。上役に煙たがられたのか、入省1年目に山形県収税長に転出、半年後には松江に飛ばされ、山形と松江で1年2箇月経過すると、本省会計課長を命ぜられました。
 しかし浜口雄幸は大蔵大臣経費の一部を削減したことから、その復活を求める大臣秘書官と衝突、たちまち名古屋へ、1年足らずで収税官として四国の松山へ転任、長い不遇ないわゆるドサ廻りの境遇が始まりましたが、彼は黙々と職務に精勤、深夜まで相変わらず読書に励み、ときには書画に親しみました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―はー浜口雄幸

 松山に1年居てさらに九州の熊本に税務監督局長の肩書で赴任することになり、ここで高知中学の同期生だった熊本医大教授山崎正薫に出会いました。浜口夫妻は健康状態も悪く山崎教授の尽力をうけましたが、山崎教授は浜口家について「贔屓目に見ても余りに粗末な身なりや、住居も局長のそれとして随分ひどい。家が粗末な上に室内には装飾一つなく、掃除も行き届かないという有様で、いかにも貧乏臭かった。(中略)君が何だか以前と違って元気がなくて意気消沈して居たように見受けた。」(浜口前総裁追悼号 「民政」付録 民政社)と述べています。
 しかし経済学を中心に、勉強はつづけていました。松山以来、ずっとロンドン・タイムスを購読、草深い日本の田舎にいても、国際的視野を失わないよう心がけたのです。
東京にいた友人たちもやきもきして運動し、若槻礼次郎の尽力で1902(明治35)年1月浜口はようやく熊本と同じ税務監督局長として東京に戻りました。

城山三郎「男子の本懐」を読む 5

 しかし東京税務監督局長も1年半で、浜口は外局の専売局へ転出となり、肩書は煙草専売局書記官兼臨時煙草製造準備局事務官となりました。このころから彼は煙草を吸うようになります。

たばこと塩の博物館―たばこと塩のあれこれーたばこの歴史と文化―明治のたばこ商たちー専売の時代(戦前)―世界の塩・日本の塩―日本の塩


 専売局での最初の仕事は従来行われていた民間業者による煙草の製造をやめさせることでした。2年半後部長となり、帝国議会の委員会ではじめて政府委員として答弁に立たされ、さらに1年経って専売局長官となりました。
 長官となった浜口は塩の製造をコストの安い大規模塩田に集中し、零細な塩田を廃止しょうとする問題に直面しました。零細業者の反対は激しかったのです。議会でもきびしい批判にさらされたとき、浜口は冷静に、資料を手にすることもなく、暗記した主要な数字を挙げて答えたので、自由民権運動以来の論客島田三郎(「田中正造の生涯」を読む13参照)が、「唯今の政府委員の答弁は明快で、本員の大いに満足するところであります。」(尼子止「平民宰相浜口雄幸」 御厨貴監修「歴代総理大臣伝記叢書」19 ゆまに書房)と称賛したほどでした。 

塩事業センターー塩百科―歴史編―制度の変遷  

 このような浜口の取り組みに注目したのが初代満鉄(南満州鉄道・「坂の上の雲」を読む48・「伊藤博文と安重根」を読む12参照)総裁となった後藤新平でした。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―こー後藤新平

 後藤は浜口に満鉄理事への就任を要請しました。満鉄理事は当時の中央官庁における次官以上の地位といわれ、はるかに高い俸給も約束されていたにもかかわらず、浜口は塩田整理問題の未完を理由に、後藤の要請を辞退したのです(浜口雄幸「前掲書」)。
 1908(明治41)年7月14日第2次桂太郎内閣が成立、後藤新平が逓信大臣に就任すると、彼は再び浜口を逓信次官に迎えたい意向を示し、これも大蔵官僚として、専売局長官以上の昇任は期待できぬ浜口にとって有利な人事であった筈ですが、満鉄理事人事のときと同じ理由で浜口は今回も辞退しました。
 塩田整理は1911(明治44)年総て完了、天皇は浜口の労をねぎらって金盃を下賜しました。

城山三郎「男子の本懐」を読む 6

 1912(大正1)年12月21日第3次桂太郎内閣が成立、後藤新平が再び逓信大臣に就任すると、後藤は再び浜口の逓信次官引っ張り出しにかかりました。まさに中国の故事にいう三顧の礼というべきでしょう。

故事成語大辞典―サイト内検索―三顧の礼   

 策士の一面を持つ後藤新平にとって、愚直ともいえる上記のような浜口雄幸の身の処し方は、そうした側面に乏しい後藤に新鮮な魅力として感じられたのではないでしょうか。
 浜口は大蔵省の先輩で同内閣の蔵相若槻礼次郎の意見も聞いた(若槻礼次郎「明治・大正・昭和政界秘史―古風庵回顧録―」講談社学術文庫)のですが、塩田整理は完了しており、後藤の要請を辞退する理由がありません。第3次桂太郎内閣は成立当初から短命が予想され(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む13〜14参照)、かかる内閣の傘下に入ることは浜口にとって不利益であることがわかっていたにもかかわらず、彼は後藤の知遇に応えて逓信次官就任を受諾、専売局長官を退職しました。予想通り同内閣は翌年2月11日倒壊、浜口も同次官を辞任して無職の身となったのです。
 これより先桂太郎は新党立憲同志会を結成、若槻礼次郎・後藤新平も参加、浜口もこれに同調して入党、後藤は同会結党直後、諸種の対立から同会を脱党しましたが(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む19参照)、浜口は後藤と行動を共にすることはありませんでした(浜口雄幸「前掲書」)。
 1914(大正3)年4月16日第2次大隈重信内閣が成立、若槻礼次郎が大蔵大臣に就任(新聞集成「大正編年史」明治大正昭和新聞研究会)すると、若槻は浜口を大蔵次官に起用しました(浜口雄幸略歴 浜口雄幸「前掲書」)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―わー若槻礼次郎
 
 左遷による地方回りと外局勤務という大蔵省の主流から外れたコースをたどってきた浜口雄幸は、ここでやっと大蔵省首脳部に立ち、その手腕を発揮する機会に遭遇したのです。    
 しかし彼は感慨にふけっている暇はありませんでした。同内閣成立早々の同年6月28日サラエボ事件をきっかけとして第1次世界大戦が勃発、日本も同年8月15日ドイツに宣戦布告して大戦に参加しました(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む16参照)。大戦勃発による臨時軍事費の調達や次年度予算編成に忙殺されるなかで、浜口は横浜正金銀行頭取井上準之助としばしば顔合わせをするようになりました。

城山三郎「男子の本懐」を読む 7

 井上準之助は1869(明治2)年3月25日、大分県日田郡大鶴村(日田市大鶴町)で代々造り酒屋を営む庄屋井上清・ひな子夫妻の第七子五男として生まれました(青木得三「井上準之助伝」井上準之助論叢5 明治百年史叢書 原書房 )。

おいでひた.com―サイト内検索―清渓文庫(井上準之助の生家を記念館にしたもの)

7歳のとき叔父井上簡一の養子に出されました。井上簡一は広瀬淡窓の咸宜園に学び塾を営んでいましたが、準之助はこの養父の許から小学校に通い、級長になったのですが餓鬼大将でもありました。
 あるとき、大木に上ってぼんやりしていると、通りがかりの老人が「高い木の上で考へてござらっしゃるが、郡長にでもなるのかえ」と声をかけると、準之助少年は「俺は郡長ぐらゐにはならぬ。なれば大臣になるさ。」とやり返したそうです。
 11歳のとき養父簡一が急死のため、家督相続、12歳で豆田町の郡立教英中学に入学、次兄が豆田町へ養子に行っていたので、その家に間借りして勉強しました。しかし中学2年を終ってリュウマチに罹り、さらに心臓を病む不幸に見舞われ、好転しません。
医者に学業の放棄をすすめられ、同中学校をを退学、久留米に名医を訪ねて1年半、ようやく健康を回復して大鶴村の実家に戻りました。
 でも実家は家業が傾き、母は父に代わって長男初太郎とともに家業の立て直しに懸命で、準之助には冷淡でした。それに家業を手伝っても失敗が多く、彼は母の許しを得て門司から三兄良三郎の世話で兄の勤務する日本郵船の貨客船に乗って上京しました。だがこれといった就職先もなく、成立学舎などで勉強、一高を受験しましたが、それまで漢学中心の教育を受けてきて、英語や数学ができなかったため不合格でした。

城山三郎「男子の本懐」を読む 8

 次いで第二高等(中)学校(東北大学教養部の前身)の補欠募集を受験して合格、1887(明治20)年、19歳で仙台での学生生活がはじまりました。

華麗なる旧制高校巡礼―第二高等学校―片平丁校舎  

 井上準之助について後輩の結城豊太郎(興銀総裁)は「井上さんはあそこを第二の故郷以上に憧れ、常々同級生殊に高山樗牛を懐しみ、後々まで二高生に話しかくることを此上なく楽しんでおられたが、先年同校に開校二十五周年記念式があって参られたことがある。(中略)あの時井上さんの母校に対する懐かしそうな態度といったら尋常なものではなかった。日本銀行総裁時代に、俺れは総裁をやめたら高等学校の校長になって見たいと時々言うて居られたが、(中略)若し二高の校長になる機会があったら、欣然就任せられたことであろう。」と述べています(青木得三「前掲書」序文)。
 二高では小編成で友人に恵まれ、井上がとくに親しくなったのは高山樗牛であり、両人は首席を競い、寮では同部屋で起居しました。高山が深夜まで勉強するのに対して、井上は夜10時ころには寝てしまうタイプでした。英語に関してはおくれをとり戻そうと猛勉強、英語会には高山と二人で出席してシェイクスピア劇では井上が重要な役割をつとめました(清水浩「清渓おち穂」井上準之助論叢編纂会)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―たー高山樗牛 

 医学部の学生と宿舎の問題でもめたことがありました。血の気の多い弁のたつ高山が強気で相手を「大体貴公らはコモンセンスが無い」というと、ドイツ語には明るいが英語は苦手な相手がコモンセンスを「昏盲精神」と聞きちがえて大騒ぎになりました。このとき井上が仲裁に立ち、両者の食い違いを明らかにして仲直りしましたが、彼はもめごとをまとめるのがうまかったようです。
 二高を卒業して級友が離れ離れになる日、井上は学友たちにこう述べました。「これからも、より以上に健康には注意しなければならぬと思っている。(中略)勉強よりも健康が大事だから、みんなも誓って一つ身体を丈夫にしようじゃないか」(清水浩「前掲書」)
 大病を経験した井上にとって、健康を軸に、合理的な生活設計をーという生き方が彼の生涯を貫いていくのです。

城山三郎「男子の本懐」を読む 9

 井上は浜口より1年遅れて東大法科へ進学、寄宿舎では就寝前に約1時間半ほど勉強する程度、同期生より2〜3年年長でしたから、同室の仲間と口角あわを飛ばして議論することはありませんでした。
 卒業前の1年は麹町区富士見町の兄良三郎の家に寄宿、とりよせた原書による法律の勉強を開始しました。彼は弁護士志望で、世話になった兄に役立つようにと、商法、それもイギリスの海商法を中心に判例を研究するというような勉強に励み、商法の口頭試験で優秀な成績をとったので、卒業成績は2番でした。
 恩師や友人は官吏になることをすすめてくれましたが、役所はどこも窮屈な職場と思われ、それに井上が勉強したのは公法(憲法・行政法など)ではなく商法が中心で、それを生かせる職業がいいと思っていたのです。
 そうした彼を見かねたように、兄良三郎がこんな話を準之助に持ち込んできました。同じ大分出身の山本達雄が日本銀行の理事をしている。かねて面識があるところから、弟の就職を頼んでみると、こころよく採用してくれるということでした。若手を外国に出すことも考えているそうで、ひとつ行ってみる気はないかという話です(清水浩「前掲書」)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―やー山本達雄

 準之助はとくに希望したわけではありませんでしたが、勉強もできるようだし、わるい職場ではなさそうだと思い、日本銀行に就職することにしました。1896(明治29)年のことです。

日本銀行―日本銀行についてー日本銀行の概要―沿革―日本銀行百年史

城山三郎「男子の本懐」を読む10

 井上の最初の勤務地は日本銀行大阪支店で、初任給は25円、貸付割引係に配属となり、帳面付けと算盤の訓練から始まりました。支店員は全員和服を着ていたのに、井上は背広を着用して出勤、英語が得意で外人客が来るともっぱら井上独りの出番でした(清水浩「前掲書」)。

日本銀行大阪支店―大阪支店のご案内―支店の歴史

 彼はやがて本店に呼び戻され、翌年銀行業務研究のため、イギリスとベルギーへ2年間の出張を命ぜられました(「留学日記」井上準之助論叢4)。
 1897(明治30)年10月、井上は同銀行函館支店から呼び戻された東大卒の1年先輩土方久徴とともに横浜を出帆、ロンドンに赴きましたが、日銀最初の海外研修であったためか先方の受け入れ態勢も整っておらず、英国中央銀行であるイングランド銀行は両人の研修受け入れを認めません。
 日本公使館[加藤高明駐英公使在任(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む5参照)]から交渉してもらってもだめで、結局日本へ最初に銀行業務を教えるために来日したシャンド(Alexander Allan Shand 土屋喬雄「お雇い外国人」8 金融財政 鹿島研究所出版会)が関係するパースバンクに見習いとして受け入れてもらいました。
 土方が支店詰めだったのに対して、井上は本店詰めで技術的なことよりも銀行の仕組みや運営に興味をもちました。暇なときは本屋に行き、金融関係だけでなく、経済・政治・歴史・文学などさまざまな分野の本を買い込みました。親友高山樗牛のための本も購入して日本へ送ったようです。
 井上の日銀就職を世話してくれた山本達雄は郵便汽船会社三菱の出身で、もともと岩崎弥太郎(「竜馬がゆく」を読む16参照)の補佐役をつとめ、松方正義の推薦で1889(明治22)年日銀総裁となった川田小一郎の引き立てにより、日銀入りをした人物で、1898(明治31)年10月20日43歳の若さで日銀総裁となりました。
 しかし私学出身で中途採用の山本に対する帝大出身者の多い日銀内部の反感は激化、山本総裁就任4ヵ月で理事・局長・支店長の大半11名が辞表を提出して山本を失脚させようとしました(日銀ストライキ事件・「日本銀行八十年史」日本銀行史料調査室))。
 しかし山本は彼等の辞表を受理して人事の刷新を企て、1899(明治32)年横浜正金銀行副頭取高橋是清(「坂の上の雲」を読む18参照)を日銀副総裁に迎えたのですが、この非常事態のためロンドンにいた井上らの若手までが日本へ呼び戻されました(「書翰」仙台 高岡松郎宛 明治32年5月21日付 井上準之助論叢4)。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―まー松方正義
2015-04-20 05:26 | 記事へ | コメント(1) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(現代篇 1浜口雄幸) |
平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む41〜50
2014年11月19日(水)
平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む41

 ここへ来てから半月ばかり後、11月号の「青鞜」と野枝さんからの厚い手紙が届きました。その手紙の内容は、大体つぎのようなものでした。
 「自分がつくった雑誌があまりに不出来なので、自分にあいそがつきた。出来るなら12月号の編集はお断りしたい。」と一応12月号の編集を断ったうえで、「この仕事をあなたの代理としてやるのはやりにくくて困る。もしあなたが『青鞜』の編集、経営のすべてを私共の手に委(まか)して下されば、もう一度覚悟し直して、辻と一緒に出来るだけやってみてもいいとも思う」といい、「とにかく冷静なあなたの判断を待ちます。」と書いてありました。
 彼女はとりあえず「12月号は、あなたが一たん引受けたことであり、とにかく今のままでやって下さい。これからのことは今考えています。わたくしの考えがまとまるまでしばらく待って下さい」という意味の返事を出しました。
 自分自身の内部の声は、ここで右か左かの決断をしいられれば、躊躇(ちゅうちょ)することなく、奥村と二人きりで静かに勉強したり、書いたりという自由な生活を選ぶことでしょう。そのためには「青鞜」はここできれいに廃刊すべきです。
 しかし、そう思う一方で、もしほんとうに野枝さんたちの手で続けてもらえるものなら、それも結構だけれど、野枝さんの現在の生活でそれが可能だとは、どうしても彼女には思えないのでした。でもとにかく会ってよく話してみようと思い、野枝さんの手紙を受取ってから約5日後に上京しました。けっきょく、野枝さんの烈しい気性におされて廃刊を断念、野枝さんに「青鞜」を任せることにしました。その日はそのまま別れました。
 二日目に改めて彼女の上駒込の家の事務所に来てもらい、青鞜社の所有品全部を野枝さんの引っ越し先、小石川竹早町の家にへ運んでもらいました。
 これで1915(大正4)年以降の「青鞜」は名実ともにすべて野枝さんの責任において発行されることになりました。
 彼女はその日すぐ上駒込の家をたたみ、荷物は曙町の家の物置に移して、ふたたび奥村の待つ御宿海岸の宿に引返しました。そしてこの美しい海べで大正4年の元旦を、奥村とふたりで心しずかに迎えたのでした。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む42

 御宿海岸との別れを惜しみながら、やがて東京へ帰り、小石川西原町一ノ四に新居を定めました。この借家に落ちつくと、すぐ奥村は近くなった小石川の植物園へ日課のように大きなカンバスをさげて描(か)きに出かけます。彼女は山田嘉吉(らいてう研究会編「前掲書」)先生のお宅へ通い、まずウォード(らうてう研究会編「前掲書」)の社会学の勉強をはじめることにしました。そのかたわら、食べるための必要から、生まれてはじめて小説というものを書きはじめました。「時事新報」に連載された「峠」という小説(「平塚らいてう著作集」2)がそれですが、前年、御宿に滞在中、訪ねて来た「時事新報」の記者との交渉の中から生まれたことで、それも森田先生との、あの塩原事件をテーマにしてということでした。
 ところが、書いているうちに、ある日突然胸のむかつきを覚えるようになり、すぐつわり(傍点、筆者省略)ということはわかりました。その気分の悪さに加えて、「峠」を書きだしてからの、奥村の態度の変わり方は、彼女にはつわり以上にもこたえました。まだ数え年二十四歳の若い男の心には、自分が父親になるという実感ももてなかったでしょう。まして一方で嫉妬になやんでいる心にはー。
 こうして、けっきょく「峠」はつわりの苦しみと、奥村の嫉妬のはねかえりのために、心ならずも、途中で筆を折ることになってしまいました。ずっと後にきいたことですが、徳富蘆花(とくとみろか 「大山巌」を読む45参照)さんが、この作品に興味をもたれ、毎朝読んでいられたということでしたが、亡くなられたあと、遺品を整理していたら、「峠」の切りぬきが出てきたと、愛子未亡人からうかがったことがあります。
 母となることにも、自主的でなければならない。すべての婦人が母となるについて、自由をもつべきであるという考えのもとに、恋愛を肯定したのちにも、なお母となることを避けて来た彼女ですが、子どもがほしくなければ、自制すべきだという考えに支配されがちな彼女は、全面的には避妊を受けいれかねるという甚だ不徹底な態度の結果、母となる十分の条件がととのわないうちに、心ならずも、母となる日を迎えることになってしまいました。
 こんな思いのとりこになっているとき、偶々やはり妊娠中の原田皐月さんが、彼女と同じような悩みのなかからまことに大胆な堕胎肯定論を、その月(大正4年)の「青鞜」(5巻6号)誌上に発表しました。それは「獄中の女より男に」(堀場清子編「前掲書」)と題するもので、堕胎罪をおかした女が、獄中から男にあてた手紙の形をとったものでした。
 皐月さんのいおうとしていることは、けっきょく親として満足できる状態でないかぎり、親になるべきではない。そのためには堕胎もやむを得ない。それが法律にふれることであっても、自分の信念にしたがうほかないということで、いかにも皐月さんらしく、思いきったものでした。「青鞜」(5巻6号)は久しぶりに発売禁止の処分をうけました。
 皐月さんのこの堕胎論に対して、エレン・ケイの母性主義を信奉する山田わか(らいてう研究会編「前掲書」)さんは、真正面から反対し、四周年記念号(5巻8号)に「堕胎に就いて」の一文を寄せました(堀場清子編「前掲書」)。

歴史が眠る多摩霊園―頭文字―やー山田わか

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む43

 彼女にとっても、この問題は、母となる日を前にして、いうまでもなく切実なものでした。同じ四周年記念号に彼女は「個人としての生活と性としての生活との間の争闘に就いて」(「平塚らいてう著作集」2)という長文の感想を寄せました。それは野枝さんあての手紙の形式で書いたもので、それは大体、こんな意味のことでした。
 「自分も妊娠の初期に一時やはり堕胎の妄想にとらわれたことがあった。一番気になることは、今子どもを否定することが、自分たちの現在および未来を通しての生活全体のために、はたしてもっとも正しい、そして賢いことだろうか。他日悔いるようなことはしたくないということであった。もしここに十分な思慮と落ちつきをもって堕胎を行なう人がいたとしたら、それをも許しがたい罪悪だと責められるだろうか。」
 このような一連の堕胎論議も、妊娠中絶という言葉で、平気で行われている今日の時代からは、どのように見られ、受けとられることでしょうか。
 避妊問題についても同様です。いま避妊は当然の個人の権利だというように考えられていますが、当時はそうした視野はなく、避妊の方法など実際的な知識を与えられる機会など全くなかった時代(避妊薬のあることをなにかで知っていた程度)でした。日本で避妊が公然と社会的な問題になったのはサンガー夫人の来日[1922(大正11)年3月10日 新聞集成「大正編年史」明治大正昭和新聞研究会]以後のことです。
 彼女の書いた「個人としての生活と性としての生活との間の争闘に就いて」の一文に対して、このとき、まだお目にかかったことのない有島武郎氏から、初めて長文の手紙をもらいました。安子夫人が「青鞜」を読んでいられた関係で、お目にふれたものらしく、「たいへん感動して読んだ……改めて敬意を表する」というような懇切な内容のもので恐縮しました。

北海道ニセコ町―まちのご案内―有島記念館―有島武郎略年譜  

こういう女の問題を、真面目に読んでくれる男のひとのあるのはうれしいことでした。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む44

 ひどかったつわりが、ようやく回復しはじめた1915(大正4)年7月初旬、彼女たちは、西原町の家をたたんで、四谷南伊賀町の、山田嘉吉先生の裏隣の貸家へ移ることになりました。山田先生は社会学が専門で、婦人問題についても造詣が深く、当時彼女が取り組んでいたエレン・ケイについての知識も豊富で、毎朝おわかさんのためにケイの著書を読んであげていることを知り、その仲間に自分もいれていただいていたわけです。ここに来て、いよいよ午前のエレン・ケイの「児童の世紀」を勉強する時間のほかに、午後の時間を設けて、ウォードを読むことになりました。
 レスター・ウォード(1841-1913)はアメリカの有名な社会学者で、最初に社会学という新しい学問を体系化した人です。
 青鞜社員の斎賀琴(子)(のちの原田・らいてう研究会編「前掲書」)さんらは彼女より先に、山田先生のもとで、英語を習っていたのですが、それは斎賀さんが意にそわぬ結婚を強いられて家出し、恩師宮田修氏の家に厄介になっていたころのことでした。

JKSK 女子教育奨励会―黄金の鍵 語りつぐ、女性の物語―バックナンバーリストー2003年7月 『青鞜』第9回 「家父長制度と新しい女」斎賀琴子

 斎賀さんの「青鞜」(5巻10号)に出ている「戦禍」(堀場清子編「前掲書」)という感想は、いま読み返しても、つよい感銘をうける、反戦的文章といえましょう。
 1914(大正3)年7月、第一次世界大戦が勃発(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む16参照)しておりますが、「青鞜」誌上には、ほとんどその反映が見られません。そのなかで、斎賀さんのこの感想は、貴重なものでした。
 「(前略)恐ろしい戦争の惨禍は只に幾多の貴い精霊を犠牲にし、その白骨を風雨に曝すばかりではなく、残された人々の上に負い難い苦痛を授けます。一国にとりましても勝敗何れにかゝはらず、損害を斎(もたら)すもので御座ゐます。何故に人類は多額の費用と時と知識とを、無益にして徒な殺生に耽るのでせうか!」
 南伊賀町に移った1915(大正4)年の夏、そのころの奥村は、フランス語の勉強と、植物園へスケッチに通うことを仕事にしていましたが、お盆前後から、だんだん咳きこみ方が激しくなってきました。医者嫌いの奥村がようやく納得して、診察を受けた結果は、一期の終りか二期のはじめという診断でした。
 七度前後の熱が五、六日つづいたところで、ようやく院長からゆるされて、汽車にのり、茅ケ崎の南湖院へ奥村を送ったのは、秋風の吹きはじめたころでした。
 身重のからだでいまより以上に働くことは、思うにまかせないことでした。いろいろと仕事の約束をしては、借りられる限りの金を商店や雑誌社から借り、奥村の絵も、売れるかぎりは売るということにしました。ときにはおわかさんに、急場しのぎの借用を申しこむこともありました。このあたりのことは、翌1916(大正5)年の「中央公論」12月号に「厄年」という題で書いた小説(「平塚らいてう著作集」2)に詳しく出ております。
 いよいよ出産の予定日をむかえ、最初の陣痛を覚えた彼女は、赤ん坊の産着や手まわりの支度をととのえ、俥をやとって、本郷東片町の篠田病院へ向かいました。この病院長は女医で曙町の家のかかりつけの医師であり、ここをすすめてくれたのは母です。
 院長からは前もって、齢をとってからの初産であり、多分難産だろうとは警告されていました。ようやく明け方になって生まれた赤児は、逆児(さかご)で、胞衣(えな)を首に巻きつけ、仮死状態でこの世にあらわれ、しばらくして力強い呱々(ここ)の声を上げました。
 病院では、一にも二にも彼女のことを気遣い、面会謝絶の札を出してくれましたが、どこから洩れるものか新聞記者たちが、毎日のように押しかけて来ます。いちばん最初に花の鉢をもって見えたのは田中王堂氏で、たまたま押しかけてきた新聞記者を、おだやかな笑顔で追いかえしてくれました。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む45

 子どもの籍をどうするか—−このことは、妊娠に気づいたときから、胸にあったことですが、いよいよ子どもの出生届を出すきわになって、はたと困ってしまいました。というのは、いわゆる私生児を生むこと、これに対する社会の非難も、少しも恐れる彼女ではありませんが、父がこうむるであろう今後の迷惑については、胸の痛むものがありました。
 子どもは奥村と彼女二人のものに相違ありませんが、結婚届を出さず、二人は戸籍を一つにしていませんから、子どもの籍を入れるとすれば、母方に属するのが自然であると思い、彼女はその前に分家の手続きをとろうとしたのでした。出生届の日限のこともあり、気をもむうちに、ようやく家から書類が届き、彼女は分家の戸主ということになりました。
 さっそく父の認知した庶子として、彼女の戸籍に入れるよう、使いをたのんで区役所へその手続きをさせにやったのですが、戸籍吏がこれを受けつけてくれません。父が認めた子どもは、庶子として父方の家に入るのだといってきかない、それをようやくことで、母方の戸籍に入れることができました。

Weblio辞書―項目を検索―庶子―庶子に似た言葉―私生児  

 奥村は彼女の籍のことも、子どもの籍のこともまったく無関心で、そんな形式などどうでもよいという人間ですから、こうしたことはすべて彼女のひとりの考えではこびました。父の認知した子どもは、すべて「庶子」の名で呼ばれるものと思っていましたが、曙生の場合は—−−暁に生まれたので、曙生と名前をつけました−−−母方の家に入ったために、戸籍上「私生児」となっていることを、あとで知りました。
 こうして、奥村のいない家に、生まれたばかりの赤ん坊と暮らすようになって、思ったことは、この新しい生命の存在が、彼女の心までもこうも変えてしまうものかというおどろきでした。彼女の心はかぎりなくやさしい気持に満たされ、愛らしさの思いが胸にふくらんでくるのです。
 けれども一方では、にわかにふえた雑務と睡眠不足、時をかまわぬ泣き声が、彼女を苦しめます。
 こうして新たに自分の中に生まれた母の愛と、エゴイズムの葛藤にわれとわが心をのぞきこむような思いですごしているある日、名も知らぬ訪問者がわが家を訪れて、出産祝いの贈物を置いてゆきました。この人が、二葉保育園の野口幽香女史の下で働く徳永恕(とくながゆき)さんと知ったのは、のちのことです。
 世間のあざけりの的であった「新しい女」の生んだ子どもを、いちはやく祝福してくれた徳永さんは貧民街の保育事業にとびこまれた人で、齢は彼女と同じくらいでしょうか。徳永さんはその後毎年12月9日の曙生の誕生日には、彼女たち一家がどこに引越しどこに住んでいても、一度も忘れることなくかならずプレゼントをくださるようになりました。これが曙生の女学校卒業の年までつづいております。
 彼女たち親子に対する、過分な厚情の動機といったものについて、その後、人を介して伺ってみたことがありました。徳永さんは、言葉少なく、こんなふうに語られたといいます。
 「私がこんな仕事をするようになったのは、絶対愛に生きたいという気持からで、私の対象は神の子、キリストよりほかなかったのでした。(中略)この自分の絶対愛に生きたいという気持が、平塚先生の示して下さった絶対の生き方に、うたれることになったのでしょうか。絶対の歩み方、絶対恋愛の実行者として生きられたことに、私は敬意を表さずにいられなかったのですが、引っこみ思案の私は、親しくおたずねする勇気が、なかったのでした。」

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む46

 南伊賀町の家をたたんで、奥村の待つ茅ケ崎へ向かったのは、彼女の30回目の誕生日、1916(大正5)年2月10日の翌日でした。
 前にいたことのある懇意な家の一室を借りて、そこから毎日曙生をはんてん(ねんねこ半纏)におんぶして、病院の奥村のもとへ、お弁当を届けにゆく日課がはじまりました。

もりのいえ 菜の花日記―DIARY―19−2006.04.14 ねんねこはんてんでお散歩

生まれながら菜食主義者の奥村には、病院の結核患者向きの、わけてもきらいな牛乳や生玉子の毎日多量につく献立がよほどこたえるようでした。栄養のあるもので、奥村の口にあうような菜食料理のお弁当をつくってゆくことが、まずさしあたりの彼女の仕事なのです。
 うれしいことには彼女たちの茅ケ崎へくるのを待ちかまえていたように、奥村の病状が奇蹟的に好転しはじめました。そしてやがて、ベッドのなかから「海気室」まで出ることを許されるようになると、まるでピクニック気分で、そこでいっしょにお弁当を食べるのを、たのしみにするようになりました。海気室というのは、小松林のなかの、海に面して建ちならぶあけ放たれた小屋ですが、少しよくなった患者たちが、ここへ出てきて、きれいな海の空気を存分に吸うことになっています。
 やがて夏も終わるころ、入院生活から自宅療養にきりかえることを、院長に許してもらい、南湖院に近い場所にある、「人参湯」という湯屋の廊下つづきのはなれ座敷を借りうけ、そこへ奥村をむかえいれました。育児と看護と生活のための仕事、という三つのことをかかえては、とうてい家事に手がまわりかねます。このとき結婚いらいはじめて、手伝いの娘を頼むことにしました。赤ん坊への感染を恐れる院長から、消毒についてやかましくいわれていましたから、消毒に要する手間だけでもたいへんです。それに、育児にかける手間が、予想をこえたものでした。一カ月近くも病院にいるあいだ、彼女から全く離されていた赤ん坊は、人工栄養のゴムの乳首にすっかり慣れてしまって、彼女の飲みにくい小さな乳首をきらい、じれて火がつくように泣き立て、そのうちとうとう母乳を、飲まなくなってしまいました。
すると、もともとさほど出のよくない彼女の乳は、まもなくとまってしまい、人工栄養に頼るほかなくなってしまいました。
 ミルクの支度を待ちかねて、烈しく泣く子、そのうえ入院中、看護婦が抱き癖をつけてしまったので、下に寝かせるとすぐ泣くので、泣かせまいと思えば夜となく、昼となく抱いていなければなりません。隣室の病人の安眠をさまたげてはならないと赤ん坊を抱いて、人参湯の長い廊下をホイホイあやしながら行きかえりして夜を明かすようなこともあり、新米の母親は、こちらこそ泣きたいような思いをくり返したものでした。
 実際母の仕事というものは、無数の不規則な雑務の連続で、かつて経験したことのない気ぜわしさ、とりとめない腹立たしさのような焦燥感に、仕事のための二晩や三晩の徹夜など平気な彼女が、すっかり疲れてしまいました。
 しかし曙生はやがて母の顔をよく覚え、彼女に対して特別の笑い方をするようになりました。そうなると彼女の母性もまた、赤ん坊と同じく、日ごとに成長してゆくのが、はっきりと感じられるのでした。
 はじめて母となっての心の葛藤はいなみがたいものではありましたが、この茅ケ崎での毎日は、いわば、彼女が主婦としての生活に没頭した時期であり、それはそれとして苦しみのなかに十分たのしさもあったといえます。奥村も、やがてもう寝たり起きたりという回復状態となり、ぼつぼつ写生に出ることも許されました。高田院長は破格の厚意で、医療費を、奥村の画と引換えにするよう申し出てくれました。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む47

 伊藤野枝さんが、大杉(栄 「日本の労働運動」を読む37参照・らいてう研究会編「前掲書」)さんのもとへ走ったことを耳にしたのは、その年[1916(大正5)年]の4月のことです。辻(潤 「元始、女性は太陽であった」を読む28参照)さんとの家庭生活については、いろいろな悩みを訴えられてはいましたが、大杉さんについては、野枝さんの口から直接きかされたことは一度もありませんでした。
 茅ケ崎で暮らすようになって、野枝さんと会う機会もなくなった彼女の耳に、きこえてくる野枝さんと大杉さんとの噂は、しぜんと彼女の胸に、大杉さんの糟糠の妻堀保子さんの、病身のさびしげな姿を思い起こさせ、野枝さんの新しい愛の行く手のきびしさを、考えさせるのでした。しかも一方、大杉さんのフランス語研究会に出入する神近市子(らいてう研究会編「前掲書」)さんと大杉さんとの噂がやがてよそからきこえてくるようになると、いっそう彼女は、あやぶまずにはいられませんでした。

港区ゆかりの人物データベースーゆかりの人物リストーかー神近市子

 野枝さんの近況を案じながらも、なんの便りもなく過ぎているところへ、とつぜん野枝さんから、家出を告げる手紙が届いて、彼女を驚かせました。ごく簡単な文面で、むろんこの手紙にも大杉さんのことは、ひとこともふれておりません。
 長男の一ちゃんを生んでからの、野枝さんの生活は、いちだんとたいへんだったように思います。辻さんとの相愛生活のはじめから、姑、小姑夫婦との雑居生活のなかへ、異分子として入った野枝さんは、辻さんの家族との感情的な摩擦や、貧困の苦しみから逃れる日はなかったのでした。
 しかも、辻さんはお子さんが生まれてからも、相変わらずお金になる仕事をしようとしませんし、子どもに対しても、父親らしい愛情を示したり、世話をするといったこともありません。お姑さんも、孫を可愛がる世間普通のおばあさんらしいところがなく、あまり面倒などみてくれないので、いつ訪ねていってみても、野枝さんが家のなかのただ一人の働き手というように、忙しそうに見えました。自分の勉強や思索や、仕事のための時間を、まったく失ってしまった野枝さんは、それでも負けぬ気をふるい起こして、お子さんを膝にしながら、あわただしい心で原稿を書いておりました。
 ことに、長く住み馴れた染井の地に居られなくなり、小石川竹早町のある家に、姑や小姑夫婦らといっしょに住むようになった1914(大正3)年夏の野枝さんは、いたましいまでにやつれが出てどこかイライラとヒステリカルな状態にさえなっていました。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む48

 伊藤野枝さんは、辻さんの交友関係を通じて、社会主義者の影響を知らず知らずうけたということもありましょうが、端的にはそれは、辻さんに欠けているもの(たとえば実践力)をもっている大杉さんに対する微妙な愛情(こころ)の屈折を示すものであったと思います。
 彼女が千葉県御宿海岸にいったあと、編集をまかせた「青鞜」4巻10号(大正3年11月号)と次号11号の「編集室より」で、野枝さんは、大杉、荒畑(寒村 「坂の上の雲」を読む19参照)両氏の仕事に敬意を表したりしています(定本「伊藤野枝全集」第二巻)。
 やがて野枝さんの家庭生活の根底を破壊するような、重大な問題がおこりました。それは辻さんが、野枝さんの従姉の千代子さんに、愛を移したという事件です。野枝さんはこの裏切られた痛手について、「青鞜」5巻7号の「「偶感二、三」のなかで、切々と語っています。そしてそれからまもない7月中旬には、三ヵ月の滞在期間を予定して、九州の実家へお産のためという表面の理由で、辻さんや長男といっしょに帰りました。そのため留守中の「青鞜」の事務は発売所の日月社に、編集は生田花世(「元始、女性は太陽であった」を読む38〜39参照)さんに委任したのでした。
 これは、彼女のまったくの想像にすぎませんが、二人のこの旅行は、お産のためとはいえ、東京での行き詰まった生活や、忙しい仕事から離れて、傷ついた二人の間の愛をふたたびもとにかえしたいふたりの願いがあってのことではなかったでしょうか。
 しかし野枝さんのこれらの願いも、努力も、結果から見るとすべて失敗でした。野枝さん夫妻が東京に帰ったのが、だんだんのびて11月下旬、長男も赤ちゃんもいっしょでした。 
 「青鞜」は新年号から創刊以来の規約も形式も捨てて、見るからに簡素な、貧弱な、よくいえば圧縮した感じのものに変わりました。2月号も続いて出ました。そしてその4月に、野枝さんは辻さんも長男も「青鞜」もなにもかも捨て、ただ赤ちゃんひとりだけ連れて家出を決行したのです。それはいうまでもなく、大杉栄氏のもとに走ったのです。
 こうして「青鞜」は、6巻2号(大正5年2月)以後、無期休刊の状態に入りました。野枝さんの手に移ってから、それでも1年2ヵ月です。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む49

 茅ケ崎へ、なんの前ぶれもなく、大杉さんと野枝さんが連れ立って見えたのは、その年の秋11月6日の昼下りのことです。葉山へゆく途中を、奥村の見舞に寄ってくれたということでした。
 野枝さんが、日本髪を結ったのは、前にも見て知っていますが、いま目の前に見る野枝さんは、下町の年増の結う、つぶし銀杏返しとかいう、世話にくだけた髪を結い、縞お召(絹織物の一種、お召縮緬の略)の着物を、抜き衣紋(えもん)に着て(後襟を下げ、襟足が見えるように着て)、帯をしめた格好はどう見ても芸者ほどのアカぬけしたものではなく、お茶屋の女中というところです。思わず、「変わったわね」と連発する彼女に、野枝さんはニヤニヤ笑うばかりでした。

てんちょの部屋―てんちょ的日本髪―記録―銀杏返し

 大杉さんには、後にも先にも、このとき唯一度お目にかかったきりですが、この日の大杉さんは、痩せた、けれど、がっちりしたからだに大島(大島紬の略)かなにかの飛白(かすり)の着流し(袴をつけぬ和装)で、色黒のきびしい顔に、クルクルと大きな目の印象が、なにより先にくる人でした。
 二月以後、ずっと休刊をつづけている「青鞜」のことにふれられるのが、その日の野枝さんには、いちばんつらいことだったのでしょう。廃刊を主張する彼女に真正面から反対し、全責任を負うからぜひとも自分にやらせてほしいといい張ってきた手前、いまさら野枝さんとして弱音は吐けますまい。しかしそれも、野枝さんのその場のせめてものつよがりであったのでしょうか。その後「青鞜」はついに出ませんでした。この日、大杉さんと野枝さんには二人の尾行がついていました。
 午後の日が傾きかけたころ、これから逗子に行くというふたりを、彼女たちは道に立って見送りました。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む50(最終回)

 葉山の「日蔭茶屋事件」(らいてう研究会編「前掲書」)[1916(大正5)年11月9日(新聞集成「大正編年史」明治大正昭和新聞研究会)]はその2日後の事件でした。

臼井吉見の「安曇野」を歩くー94.日蔭茶屋事件

 大正5年11月10日の東京朝日新聞は「大杉栄 情婦に刺さる 被害者は知名の社会主義者、 凶行者は婦人記者神近市子、相州葉山日蔭の茶屋の惨劇」という見出しもとに、この行き過ぎた自由恋愛の生んだ不祥事件を伝えました。
 「青鞜」から遠ざかっていった神近市子さんとは、その後直接のつきあいがなくなっておりましたが、嫉妬の激情から、大杉さんを刺さなければならないほどの深い二人の間柄とはまったく知らずにいました。
 彼女は恋愛の自由ということを踏みはずしたあの多角恋愛の破綻が、古い封建道徳に反対し、新しい性道徳を打ちたてようと努力するものの行く手の大きな支障となることを、おそれずにはいられませんでした。そのころ彼女は「いわゆる自由恋愛とその制限」(「平塚らいてう著作集」2)と題する、次のような一文を発表しています。
 「(前略)恋愛の自由といふことは、氏(大杉栄)等が意味するやうな、一種の一夫多妻主義(或時は多夫一婦ともなり、多夫多妻ともなる)委しく言へば、相愛の男女は別居して、各自独立の生計を営み、また若し是等の男女にして他の男女に恋愛を感ずれば、其等とも同時に、しかも遠慮なしに結合することが出来るのみならず、愛が醒めれば、子供の有無に拘らず、いつでも勝手に別れることが出来るというやうな無責任な、無制限な、従って共同生活に対する願望も、その永遠の意志をも、欫いた性的関係でありませうか。これは恋愛の自由の甚しき乱用でなくて何でせう」「然るにその新婦人と呼ばれる者の中から真の恋愛の自由は私が前に述べたやうな、永久の共同生活に対する願望と、未来の子供に対する責任感との伴った恋愛のみにある事を忘れ、自分の愛人の間違った恋愛観を、深き反省も批判もなく受け容れ、それを実行させるやうな婦人を出したといふことは、しかもその果は殺傷沙汰を引き起したといふことは、どう考へても残念なことでした。」
 大杉さんは野枝さんと同棲をつづけ、堀保子さんは別居して、彼女たちが住んでいた山田さんの裏の借家に、ひとりさびしく余生を送りました。そして大杉夫妻があの悲惨な運命に斃(たお)れた(甘粕事件「労働運動二十年」を読む26参照)のち、半年ほどで、そのあと追うようにして、病のため永眠されたそうです。
 多くの錯雑した、容易に解決しがたい問題がー少なくとも個人の力ではどうすることもできないような多くの問題が、目の前にむらがってきました。
 ここで、彼女たちの「青鞜」は終わりました。そして「日蔭茶屋事件」が好むと好まざるとにかかわらず、彼女たちの「青鞜」の挽歌であったこともいなみ得ないことです。同時に彼女自身の青春も、このへんで終わったのではないかと思います。
2014-11-19 05:24 | 記事へ | コメント(4) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇51平塚らいてう) |
平塚らいってう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む31〜40
2014年11月09日(日)
平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む31

ジャーナリズムの非難、攻撃、揶揄(やゆ)と同調して、彼等の描く青鞜社なるものを目の敵にして騒いだのは当時の女子教育家たちでした。下田歌子を筆頭に津田梅子というような人びとが、おそらく「青鞜」は読みもせず,見当はずれの批判をしました。彼女の母校女子大の成瀬校長までが、この年の「中央公論」4月号に「現今日本に起こりつつある所謂新しい女の一派は(中略)、いかにも常識が欠けてをる。自分の事以外親の事も家の事もそれらは総て顧みないといふやうな人がある。」ときめつけました。
青鞜社の受難期にに際して、社員の結束を新たにして出発するために、公開の文芸研究会と、主として地方の社員のための講義録の発行を計画したのでした。「青鞜」三巻四号の巻頭には見開きで、「青鞜社文芸研究会会員募集」の要項がでております。ところが1913(大正2)年4月7日開催予定の同上研究会は会場確保に苦労したにもかかわらず、予定の人数が集まらず、中止に追いこまれました。彼女たちは「青鞜」をとりまく世評の嵐のなかで、急速に婦人問題の方向へと傾いていきました。
 新しい事務所ができてひと息ついたころ、同年4月25日警視庁高等検閲係から出頭通知を受けました。保持さんと中野さんが出向くと、『「青鞜」4月号(三巻四号)には日本婦人在来の美徳を乱すようなところがたくさんあり、発売禁止するところだが、編集者に注意するにとどめておく』と申し渡されました。とくに名指しはされませんが、同誌4月号に彼女の書いた「世の婦人達に」(「平塚らいてう著作集」1)が当局の忌諱にふれたのでした。この小文で彼女は、良妻賢母主義に対する疑問を提出し、結婚のみにしばられた在来の女の生き方を否定し、現行の結婚制度をー主として民法親族篇の不条理をあげて、女の新しい生き方を訴えています。また上記の頑迷な女子教育家に対する挑戦でもありました。

OKWave―民法上の家の廃止

   
 それから間もなく、同年5月1日出版した彼女の処女評論集「円窓より」(東雲堂刊 複製版 叢書女性論8 大空社)が、発売とともにただちに発禁となりました。これはいままで「青鞜」其の他へ発表した評論、感想などを収めたものですが、この中に「世の婦人達に」が入っていたからで、彼女は「世の婦人達に」を削除、改版し、書名も装幀も全部変えて「扃(とざし)ある窓にて」の名で、またすぐに出しました。
 青鞜社に対する世間のあまりの非難に対して、このころから生田先生が幾分か逃げ腰気味になられたようにも思います。新しい女を認めながら、感情のうえでは解放された女の姿よりも、家のなかでひっそりと縫いものなどしている女を讃美する先生にとって、だんだん婦人解放問題へと傾斜してゆく「青鞜」の女たちは感情的に否定したい存在となっていたのかもしれません。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む32

 思いがけない運命の扉が開かれました。ふたたび奥村の姿を見る日がきたのです。しかもその道をつけたのが紅吉でしたから、なにか皮肉といえば皮肉な思いもします。
 生田先生の家に寄寓していた紅吉はあるとき日ごろ親しくしている上山草人氏宅を訪れ、同氏夫人が開いていた眉墨などの化粧品を売る店「かかし屋」で、帝国劇場において近代劇協会が1913(大正2)年3月27日から31日まで上演する(田中栄三編著「明治大正新劇史資料」演劇出版社)、ゲーテ作、森鴎外訳「ファウスト」に奥村が出演することを耳にしたのです。

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 自分がさんざん脅かした相手であることも、それがもとで彼女から離れていったということもまるで忘れたかのように、紅吉は顔を輝かせながら彼女のもとへ飛んで来て、手柄顔にこのことを伝えるのでした。
 近代劇協会から招待されていた彼女は3月27日の初日に帝国劇場にひとりで出かけました。日本ではじめて上演されるこの「ファウスト」(岩波文庫)の配役は上山草人がファウストを演じ、奥村は「アウエルバッハの窖(あなぐら)の学生・酒宴の場」の学生に扮して鼠(ねずみ)のうたをうたっていました。自分が来たことだけを告げるために、幕間に、真紅の小さなバラの花束を楽屋へ届けて、彼とは会わずに帰りました。
 奥村が、この「ファウスト」の舞台に出ることになったきっかけが、いかにも奥村らしい、のんきな話からはじまったことを、のちに聞かされました。
 奥村は、あの燕の手紙を彼女によこしたあと、有楽座で上演中の文芸協会の(バーナード)ショウ(らいてう研究会編「前掲書」)の喜劇「二十世紀」(「春陽堂」)を観に出掛けたとき、幕間に廊下を歩いてくる一人の男の姿に興味をもちました。「どうしてそんなにぼくの顔を見るんですか」と先方の男原田潤(声楽家)が声をかけてきたのがきっかけで、二人はつきあうようになり、南房州の海岸で放浪生活を楽しんでいました。
 やがて近代劇協会の上山草人氏から原田さん宛の、上演する「ファウスト」出演勧誘の電報が届き、原田さんに勧められるままに「アルバイト」のつもりで試験をうけて、一座に加えてもらったのだそうです。「ファウスト」は帝劇上演以後、同年5月1日から大阪の北浜帝国座で公演することになり、奥村も大阪にゆき、彼女の病気を大阪朝日新聞の学芸消息欄で知って、絵葉書の便りを彼女によこしてくれました。その一葉の絵葉書がつたえてくれるぬくもりに、彼女の心は満たされました。

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 奥村の住所を近代劇協会其の他へ問い合わせて、大塚窪町の新妻莞さんのアドレスを奥村の下宿先と信じた彼女は、処女出版の「円窓より」に手紙を添えて、その宛先に送りました。ところが新妻さんは奥村宛の彼女の手紙を奥村には渡さなかったのです。
 奥村は6月初め帰京すると、すぐ曙町の家を訪ねてくれたのですが、なかへ入りかねて、置手紙を門のポストにへ残したまま帰りました。彼女は奥村がうらめしく、すぐ追いかけて手紙を書きました。奥村とはその二、三日あとに再会しました。向かい合う二人の心の絆(きずな)は、どうしようもない力で、つよく、かたく結ばれてしまったのです。
 この日の朝、彼女は新妻さんから、妙な手紙を受けとっていました。なんにしても新妻さんとしては、一人の親しい友人を奪われることの嫉妬(?)もいくらかはあったかもしれませんが、それよりも、彼女と接近しようという気持としか思えません。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む33

 再会の日から、ほど近い6月の下旬、彼女は奥村を誘い、新緑の赤城の山へ、二人だけの時を求めて、旅立ちました。

赤城山ポータルサイト

 この山上で、奥村は白樺の林や山つつじの咲き乱れた高原や、放牧の牛などスケッチ板四、五枚の収穫をもって彼女より一足さきに山を下りました。有楽座でやる伊庭孝の旗あげ芝居のバーナード・ショウの「武器と人」(「早稲田大学出版部」)の稽古がはじまるためですが、彼女はなお数日残って「青鞜」に送るかきかけの原稿をここで書きあげることにしました。ところが、まったく思いもかけぬことが起こりました。
 「至急親展」と朱字で書いた新妻さんからの手紙が東京の自宅から転送されて来たのです。それはまるで脅迫状で「自分を無視する気なら、お礼として、今度の事実の全部と、あなたが奥村にあたえた手紙の全部を公開する……」という内容のものです。
 彼女は即座に筆をとって、「二人の愛に対しては、何人の干渉も絶対に許しません。どんな障碍もきっと克服します」というような意味の相当長い公開状を書き、山から青鞜社に送りました。これが「青鞜」9月号に「手紙の中から」(「平塚らいてう著作集」1)として発表されたものです。
 公開状の形式をとった理由の一つは、直接新妻さんに返事など出したくなかったからだけではなく、因習的な世間の圧迫、周囲の干渉に悩み、苦しんでいた当時の青年男女のこころ(筆者傍点省略)を代弁して、対社会的に、あらゆる障碍とたたかって、恋愛の権利を主張し、その自由を確立する必要を同時に感じていたからでした。
 奥村を赤城に誘ったときの気持は、まだそれほどつきつめたものではなかったのでしたが、赤城を境にして、二人はもうどうしようもない力で、一つの道を歩みはじめました。
 そのころ奥村は築地の南小田原町の下宿に原田潤さんといっしょにいましたが、曙町のすぐ近くの小石川原町に移り、しばしば彼女の家を訪ねてくるようになりました。奥村はよそを訪ねたら適当な時間に切り上げるということができないたち(筆者傍点省略)で、母にしてみれば、奥村の存在がどんなにか気になったことでしょう。「もうこれ以上このまま家にいるわけにはいかないのだ、やがては家を出なければ……」という決意が、だんだんと心にかたまってくるのでした。
 9月のある日の午後、彼女は奥村をつれて、突然海禅寺にでかけ、中原秀岳和尚を奥村に紹介しましたが、奥村にとって、同和尚はなじめない存在でしかなかったようです。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む34

 家を出る前に彼女は、どうしても一度、奥村の母に会いたいと思うようになりました。そこで奥村にも話したうえで、訪ねることにしました。
 もう秋風のたつころでした。奥村の家は藤沢の遊行寺の近くにありますが、いきなりそこを訪ねることを遠慮し、−80歳を越えしかも失明しているという彼の父を驚かしたくなかったのでー駅前の旅館から使いのものを出し、旅館の奥座敷に母を迎えました。

盆踊りの世界 特別企画 盆踊りのふるさと藤沢―文化拠点 遊行寺について

見るからに善良そうな地方人らしい老婦人は、無愛想とも見える人ですが、それでも初対面の彼女に対して家庭の事情をうちあけ、目の不自由な年寄の世話で手いっぱいで、なにをしてやることもできませんから、よろしく頼むと繰返されました。
 小石川原町の奥村の下宿は未亡人らしい品のよい老婦人が、身内の若い娘を使ってやっている素人下宿ですが、あまりしばしば彼女がそこを訪ねることが、女主人の気に障ったものか、ある日とつぜん奥村によそへ越してほしいと申し出ました。彼女はいよいよ、家を出るときの迫ったことを知りました。
 といっても、家を出てから奥村と営む生活について、明らかな見通しをもっていたわけではありません。現行の家族制度にもとづく結婚の形態に、反発しないではいられない彼女としては、世間並みの結婚生活というものをまったく考えていませんでしたから、二人の世界はいよいよ未知の冒険ともいえるものでした。
 それで、彼女は奥村に思いきって8項目のほどの質問状を出し、責任のある回答を求めることにしました、その8項目の中には@ 今後、ふたりの愛の生活の上にどれほどの苦難が起こってもあなたはわたしといっしょにそれに堪えうるか。(中略)A もしわたしが最後まで結婚を望まず、むしろ結婚という(今日の制度としての)男女関係を拒むものとしたら、あなたはどうするか。B 結婚はしないが同棲は望むとすればどう答えるか。C 結婚も同棲も望まず、最後までふたりの愛と仕事の自由を尊重して別居を望むとしたら、あなたはどうするか。D 恋愛があり、それにともなう欲求もありながら、まだ子どもは欲しくないとしたらあなたはどう思うか。E 今後の生活についてあなたはどんな成算があるのか。−大体にこんなようなことを挙げました。これに対する奥村の回答は、自然な、素直なもので、柔軟な受けとり方に感心しました。彼女の家出の決意はいよいよかたまり、、この上は実行あるのみとなりました。
 その年の大晦日の夜、二人は行きつけの鎧橋際の「メーゾン鴻の巣」で、この年最後の晩餐を共にしました。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む35

 1913(大正2)年9月、青鞜社創立2周年を期して、彼女たちはいいよ社則の改正に踏み切りました。例えば、第1条の「本社は女流文学の発達を計り云々」は「本社は女子の覚醒を促し云々」と改められ、また「本社の目的に賛同したる女流文学者、将来女流文学者たらんとする者、及び文学愛好の女子は人種を問わず社員とする云々」という5条は全部削られました。そして、在来の社則によった社員を一応全部解散し、新社則のもとに責任を感じ、新しい決意をもって,改めて入社を申込んでもらうことにしたのでした。「青鞜」もこれで従来の婦人文芸誌という狭い観念から脱却することができたわけですが、このことは、前からの彼女の望むところであったのは確かでした。
 それにいま一つ、社の財政確立の課題も一方にありました。それで社則の改正と同時に、青鞜社補助団という別個のものを、青鞜社の事業の完成のために、経済的な補助をするという目的でつくりました。
 補助団には社員はもちろん、社員以外の支持者多数の入会を希望していたものの、女の経済力のない時代のことですから、けっきょく入会者は社員と直接購読者の範囲で、予期したほどの結果は得られませんでした。社員の中には社費の払えないという貧しさにいるひとも、少数ながらありました。
 今度の新社則では、全員から社費をもらわないことにしたのです。大部分の社員が進んで補助団に加入し、いままで以上の高い会費を負担してくれました。この補助団の構想は、おばさん(保持研子)だけの知恵でなく、後に保持さんと結婚した小野さん、岩野泡鳴夫妻の助言もあったように思われます。
 東雲堂に発行と発売を一任した「青鞜」は、その時の最初の部数は二千部ほどのものでしたが、それがぐんぐん伸びて、最盛期には三千部に達しました。ところが編集費は元のままでしたから(「元始、女性は太陽であった」を読む26参照)、東雲堂が儲けすぎている、この際編集費の値上げをしてもらおうと、保持さんがいいだしたのです。ところがこの編集費値上げ要求は、東雲堂側から一蹴されることとなりました。そのため東雲堂との関係は1913(大正2)年の三巻十号かぎりで切れ、社員の荒木郁子さんが紹介してくれた懇意な書店―神田南神保町の尚文堂に発売を一任することになりました。しかし売上部数はへり、地方へ行きわたっていないこともわかりました。
 1914(大正3)年春ころ、これも荒木さんの紹介で、岩波書店にまかせる話がまとまりました。そのころ、岩波書店の主人、岩波茂雄氏一家の住んでいた南神保町の借家は、荒木さんの持ち家か、あるいは、荒木さんが管理していた家で、彼女は荒木さんに案内され、岩波氏とお店の方で会いました。彼は30歳をちょっと越えた歳のころで、思いのほかのうちとけた態度で初対面の彼女によく話しました。それで間もなく保持さんを連れて二回目の面会をし、「青鞜」についての取りきめも万事うまく運んで、早速原稿を入れ、ゲラ刷りの初校というところまですらすらと進んだところで、突然また思いもよらぬ事態がおこりました。

諏訪市―サイト内の検索―岩波茂雄 

 そのとき校正に出掛けたのは保持さんと、たしか伊藤野枝さんの二人ですが、岩波氏の奥さんが、おそらく初対面の挨拶もかねて、校正刷りをもって二階へあがってきたのを受けとるのに、保持さんが岩波氏の奥さんとは知らず、ただ「うん」といったということで、奥さんがすっかり腹を立ててしまいました。
 翌日、彼女宛に、岩波氏から長い丁重なことわりの手紙が速達便で届いたときは、あまりの意外にびっくりしました。真面目そのもののような岩波氏が、奥さんの強い抗議に困惑しながら、いそいでこの手紙を認めていられる様子が目に見えて、恐縮しながらも、なにかおかしくて、吹き出しそうになったことを覚えております。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む36

 1914(大正3)年1月13日予定通り、彼女は家を出、いよいよ独立にふみきりました。まず、金の用意が必要でした。つぎに二人の住むところを探さねばなりません。都合よく、青鞜社の事務所に近い、巣鴨のとげぬき地蔵前の裏通り、廃兵院の近くに小さな二階家(植木屋の広い庭にぽつんと建った離れ家)を見つけ、その閑静さがなによりも気に入りました。

巣鴨地蔵通り商店街―御参りをするーとげぬき地蔵尊 高岩寺  

 奥村の方は、もうこれでいつでも引越せるわけですが、彼女の方には、両親の承諾を求めるという大きな問題が最後にありました。自分の気持を父はもとより、母にも十分にいいあらわすには、筆の力をかりるほかありません。そこで、両親あての手紙をしたためることにしたのですが、それは長い長い手紙で書くのに二、三日かかったように思います。ようやく書きあげた手紙を、すぐ母の手に渡しました。母もそれと知って、涙を浮かべていました。
このときの手紙は「青鞜」四巻二号に「独立するに就いて両親に」(「平塚らいてう著作集」1)と題して載せました。この手紙は私信ですが、あえて公表することにしました。古い封建的な結婚制度に反対し、恋愛が発展して自然的に実を結んだ、自由な共同生活に新しい性道徳の基礎をおく彼女の考えと、それを身をもって行なうことの意義を、社会に、ことに多くの同じ問題になやむ婦人たちに、知らせたい気持からでした。
 こうして、両親が見て見ぬふりをしてくれるなかで、彼女は、家を出る支度にひとりでとりかかりました。円窓の部屋に置いてあった机、本箱などや、さしあたり必要な手廻りのものを入れた行李(こうり)1個、ふとん包などを、若い、家事見習いに来ていた母の親戚の娘が手伝ってくれて、出入りの俥屋(くるまや)に運ばせました。
 さて、こうして一日先に引越していた奥村に迎えられ、ぽつんと建った離れ家に落着きました。
 「青鞜」誌上で、ふたりの共同生活を公表してから、新しい女への非難がいっそう激しくなりました。非難の中心点は、奥村が彼女より五つも年下であるということ、恋愛から入った自由結婚で、不道徳で、野合というものではないかということ、その上、法律を無視し同棲しながら結婚届を出すのを拒んでいるーつまり合法的な結婚でないということでした。
 しかし世間からなんといわれようと彼女たち二人は、愛する者同士であり、二人の間柄は、日本婚姻法に定められているような、夫と妻の関係ではありませんし、またあってはならないのでした。自分の納得できない法律で、自分たちの共同生活を承認し、また、保証してもらうという、そんな矛盾した、不合理なことが出来るでしょうか。ここで彼女が結婚届を出すことは、現行のこの結婚制度を、認めることにほかならないのです。法律結婚をしないことが、この時代として可能な、唯一の抵抗だと考えた彼女は、最初から既成観念のともなう、「結婚」という言葉を使うことさえ避け、とくに「共同生活」といって、はっきりそれと区別していたのでした。
 また彼女は、女が結婚すると、いままでの姓を捨て、男の姓を名のらねばならないことにも、前まえから大きな疑問と不満をもっていました。
 親の家を離れるとともに、たちまちひしひしと身に迫るものは貧乏でした。質屋への使いは奥村の役目です。奥村は質屋通いには慣れており、牛込の方に馴染みの店がありました。
 炊事は、その折りおりの都合でどちらかが引き受け、また時にはいっしょにしました。奥村は自炊をしたことがあるので、料理もうまくつくりました。家事には興味がなく、仕事に気をとられて、煮物をよく焦がすような彼女に較べて、まだしも奥村の方が、おいしいものをつくってくれたものです。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む37

 こんな話を聞いた伊藤野枝さんが、彼女を助けるつもりで、炊事を引き受けましょう、実費程度のものを出して下されば……と申し出てくれました。
 彼女は台所から解放されるのがなによりもうれしく、野枝さん夫婦の家と道路一つへだてた上駒込妙義神社前の新しい貸家に移り、野枝さんの家へ、たしか月十円であったか出すことにして、奥村といっしょに昼と夜の食事をしにゆくことになりました。

宗教法人 東京都神社庁―都内神社のご紹介―豊島区―妙義神社

 そのころ野枝さんの家には辻(潤)さんと野枝さんと赤ちゃんとの三人暮らしでした。いつ行っても辻さんは、三畳の書斎のまんなかに机を置き、スピノザの石版刷りの額の下で、翻訳のペンを運んでいましたが、疲れると好きな尺八を吹いて楽しんでいるようでした。
 辻さんは、野枝さんを最初「青鞜」に導いた人であり、青鞜社の運動についてはもちろん、もっと広く婦人問題、婦人運動についても、深い理解をもつ人でした。
 ところで野枝さんのつくってくれる食事ですが、いま思うと、よくあそこで食事をしたものだと、おかしく思われます。家の中には、炊事道具などほとんどなく、金盥(かなだらい)がすき焼き鍋に変わったり、鏡を裏返して、俎板(まないた)代りに使われたりしていました。茶碗などもないので、一枚の大皿に、お菜とご飯の盛りつけです。
 野枝さんは、料理が下手というより、そんなことはどうでもいいというふうで、コマ切れのシチューまがいのものを、ご飯の上にかけたものなど、得体の知れないものをよくつくりました。仕事は手早い代りに、汚いことも、まずいことも平気です。
 野枝さんの家と垣一つへだてて野上弥生子(のがみやえこ・らいてう研究会編「前掲書」)さんのお宅があって、ちょうどそのころ野上さんご夫妻は、大分の郷里へ帰国中でした。その留守番を、野枝さんが頼まれていたので、広い野上さんのお家の方へ行って、食事をすることもまれにはありました。
 野枝さんのせっかくの好意ではじまったこの共同炊事を、生まれつき肉嫌いで、食物に好悪のひどい奥村が我慢しきれないのは無理もありません。一カ月も続かなかったかと思います。
 そのあと彼女たちは、駒込橋近くの河内屋という、やや高級なめし屋に通うことにして、炊事の時間を浮かして、勉強にあてました。夫婦で通う人など、彼女たちのほかにはありません。ここには、季節ものがいろいろあって、今日は木の芽田楽が出来るとか、茄子のしぎやきが出来るとかあるいは粕汁だとか、その日その日の特別なものが、茶半紙に書いて貼り出してあるので、つい誘惑されてそれもとることになり、予算を超過するのが、悩みの種でした。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む38

 青鞜社事務所を任せている、保持さんの上にも、変化がおこっていました。保持さんの、最初の恋愛の相手は、南湖院の薬局で働いていた薬剤師のKさんでしたが、自分の薬局を開いてから結婚するという、彼の煮え切らない態度に保持さんは不満で、婚約は解消されました。Kさんと婚約解消のあと、新しい恋人の小野東(丸善勤務で南湖院入院患者だった)さんを得た保持さんには、難関があって、小野さんの家庭の問題(小野東は妻帯者)が、なかなか思うように片づかないのです。多くの障害を乗り越えて、二人は結ばれることになりましたが、そんな悩みをかかえているせいか、保持さんはいつも暗い顔で考え込んでいるようになり、事務所の仕事が、停滞して困るようになりました。
 いまでいう、ノイローゼ状態のつづく保持さんに困った彼女たちは、相談のうえ、保持さんにひとまず静養することを勧めました。1914(大正3)年4月末に保持さんは四国今治へ久しぶりでの帰国の旅に立ち、それで、巣鴨の事務所を一応たたみ、書類その他の家具を上駒込の彼女の家に運び、いや応なしに、編集だけでなく、経営その他一切の責任をしょい込むことになりました。
 保持さんが郷里に立つ前か後か忘れましたが、枇杷(びわ)の実の熟するころ、枇杷の産地、西伊豆の土肥(とい)温泉にふたりででかけました。留守中のことは野枝さんに頼み、1週間以内の約束ででかけました。この旅のことは「七日間の旅」という題で「青鞜」に出しましたが、このときの写真がいま二枚残っております。温泉町の写真屋を呼んできてわざわざ撮らせたまずい写真ですが、これが彼女たちのいま思えば結婚記念写真であり、この旅行がいわば、新婚旅行かもしれません。

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 1914(大正3)年の「青鞜」を語る上で、ぜひ落としてならないのは、西崎花世(はなよ)さんと安田皐月(さつき)さんのことです。
 大正2年の暮のことですが、西崎花世さんが曙町の家へ訪ねてこられました。久しぶりに円窓の部屋で向かい合った花世さんは銀杏返し(「元始、女性は太陽であった」を読む49参照)に結った髪が乱れかかりひどくやつれていました。先ごろから下町のことぶき亭という寄席に女中として住み込み、おもに下足番をやっていることなど話し出しました。
 花世さんは、そこでの毎日がかなり激しい労働ではあるけれど、いろいろ変わった生活を見ることができて、その間にノートを何冊も書いた、毎日見聞したことをなんでも学生ふうに書いていると、満足そうに話します。そしてことぶき亭でのわずかな収入では、青鞜社の会費が払えないというので、むろん彼女は、会費はいらないから、原稿をどしどし書いて送ってほしいといいました。
 花世さんが、大正2年から3年にかけて書いたあの多くの感想は、「青鞜」誌上に発表されたあらゆる文学のなかの、最もとはいえないまでも価値高きものであったといえるでしょう。
 1914(大正3)年1月号の「青鞜」に発表された「恋愛及生活難に対して」(「青鞜」第四巻上 不二出版)という感想などが、多感の、若き詩人生田春月(「元始、女性は太陽であった」を読む29参照)氏の魂をゆり動かし、花世さんが春月氏と結婚したのは3、4月ころのことでした。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む39

 この年、生田長江氏主幹の文芸評論雑誌「反響」9月号に、花世さんは「食べることと貞操と」という、この人独自の例の告白的感想文を発表しました。たまたまこれが導火線となって、安田皐月さんが「生きることと貞操と」題して、痛烈な駁(ばく)文を、この年十二月の「青鞜」に発表しました。つづいて、伊藤野枝さんが「貞操についての雑感」(定本「伊藤野枝全集」第二巻 学芸書林)を書き、この三人の貞操感に対して彼女が最後に、「処女の真価」(「平塚らいてう著作集」2)という一文を書くというようなことで、「青鞜」は大正3年から4年にかけて、貞操論―もっとも、未婚婦人の場合の貞操問題でしたがーで、賑わうことになりました。
 花世さんの「反響」の所説は、次のようなものです。「女が食べるために、ことに自分だけでなく、養育の責任ある弟妹などある場合はなおさら、他に生活手段がないとき、女の最後のものを食に代えることは、やむを得ないこととして許されるべきである。(中略)在来の道徳が処女を捨てさせまいとするのは、それが決して罪悪だからではない。処女であることが、結婚の有利な条件だからに過ぎない。だから結婚の場合の不利さえ覚悟の上なら、貞操を売って生活するのも、また自由ではないか。」
 ところが安田皐月(らいてう研究会編「前掲書」)さんにすれば、こんな考えや行ないは、自己を侮辱し、女性を侮辱したもので、腹立たしくてならないものなのでした。「(前略)操といふものは、人間の、少なくも女の全般であるべき筈だ。決して決して部分ではない。部分的宝ではない。これだけが貞操で、これからが貞操の外だなどと言ひ得るわけがない。人間の全部がそれでなければならない。(後略)」と皐月さんはいいます。
 皐月さんのこの一文(堀場清子編「前掲書」)は、肝心の貞操がなぜそれほど大切なのかということの説明が、ほとんど欠けていましたが、それが在来の女徳としての貞操観念でないのはあきらかなことで、それを、自己とか、愛とかいう言葉に置きかえてもよいと思われる内容のものでした。
 この一文を書いたときの皐月さんは、新たな恋愛のさなかにいたので、なおさら花世さんの論旨に納得しかねるものがあったのでしょう。ところで、その相手というのが、原田潤さんであったことには、その偶然に驚きました。
 原田潤さんは、彼女たちと前後して、帝劇の女優をしていた人と結婚しましたが、この人は重いつわりがもとで急逝しました。新妻を失った原田さんは、悲しみのあまり、流浪の旅に出て、千葉の大原海岸にやってきました。
 そのころ、皐月さんは、隠退して、この地大原で余生を送っていた父上、母上といっしょに住んでいましたが、たまたまこの放浪の原田さんに出会って、同情、世話をしているうちに恋愛が芽生えたということです。
 この恋愛に勇気づけられて、皐月さんは一人で生きる道を切り開こうと、東京へ帰って、小石川白山の坂の途中に「サツキ」という水菓子(果物)店(らいてう研究会編「前掲書」コラム)開きました。前々からの青鞜社員であった皐月さんと原田さんは、年が改まると間もなく結婚しました。
 その後、原田さんは小林一三氏に招かれて宝塚少女歌劇の創設にあたることになり、大阪に移住、彼女と同じころに最初の子どもが生まれました。

Back to the 宝塚歌劇    

 やがて原田さんにに女性問題がつぎつぎに起こったことのほかに、二番目の子どもが疫痢から精薄児となり、その子どもの扱い方や教育の仕方について、二人はいつも対立するようになりました。
 それから二十年、結婚生活に絶望した皐月さんは、子どもを一人連れて、生活での苦闘の末、病気となり、友人、知人の救いの手をもしりぞけ、四十六年の生涯を自分自身の手で立ち切ってしまいました。
 同じく二十年後、花世さんもまた、結婚生活の苦労を重ねた上で、夫君を失われたのでした。けれども花世さんの場合は、皐月さんの場合とは反対に、自殺者は夫君春月氏であったことを思うとき、同じ明治、大正の時代を、いずれも女性として荊(いばら)の道を切り開きながらたたかってきた人ながら、その生き方の上の大きな相違を思わずにはいられません。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む40

 花世、皐月、野枝三氏の所説のあとをうけて最後に彼女の書いた「処女の真価」という一文は一応、この論争のしめくくりとなったものでしたから、その要旨を次に記しておきます。
 「処女は重んじなければならぬ。(中略)軽々しくそれを捨ててはならぬーと、だれもが無条件で思いこんでいるが、処女を捨てることが、なぜ不道徳なのだろう。生田、原田、伊藤の三氏は、(中略)処女それ自身の真価についてきわめようとする態度のないことでは、一致している。
 すべての女子は彼女の所有する処女を、捨てるにもっとも適当な時がくるまで、大切に保たねばならない。(後略)」
この「もっとも適当な時」の説明について「恋人に対する霊的憧憬(愛情)の中から官能的要求を生じ、自己の人格内に両者の一致結合を真に感じた場合ではあるまいか。(後略)」と書いています。
この文章は、田中王堂(「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―を読む(A) 6参照)氏の目にとまり、大変褒められたのは意外なことでした。巣鴨宮仲の岩野泡鳴氏のお宅でお目にかかったことがありましたが、王堂氏は岩野氏のお宅をよく訪ねていたようで、清子さんにも相当好意をもっていたらしく、二人で散歩に出かけた話など、清子さんから聞いていました。王堂氏は、当時もう六十歳を過ぎていられたでしょうか見るからに上品な老紳士≠ニいった感じで、もの腰がどこか女性的な、控え目がちな人柄でした。
 1915(大正4)年のことですが、「丁酉倫理会」の新年会に招かれ、夫婦で出席することになっていたようですが、王堂氏は独身、彼女は夫婦出席を知らず、一人で出席し、二人並んですわらされ、それを皆が冷やかします。その夜の帰り道、どうことわっても彼女の家まで送ってくれようとするのに、困ってしまいました。
 保持さんが郷里に帰り、案じていた通り、「青鞜」に関する一切の仕事が、彼女一人の肩にかかってきました。5月〜8月と号を重ねてどうにかやってはゆきましたものの、自分の原稿もその中で書かねばならないというあわただしさに加えて、毎月の欠損を、自分たちの生活とともに心配してゆかねばなりません。
 そのうち、頭痛もはじまり、そのため9月号は休んでしまい、1914(大正3)年9月であるべき「三周年記念号」を10月に入ってようやく発行したものの、そのときの彼女はもうなにをする気力もない人間となっていました。砂丘が美しいと原田さんから聞いていた、上総(かずさ)の御宿(おんじゅく)海岸へまるで逃げるように、絵具箱をもった奥村といっしょに東京をたちました。それは10月12日のことです。

おんじゅく 御宿町観光協会公式サイト

 留守中のことはすべて野枝さんに頼みました。赤ちゃんをかかえて、人一倍忙しい野枝さんですけれど、「お留守の間のことは引受けます。辻にも手伝ってもらいますからー」と、旅にでる彼女を励ましてくれるのをほんとうにうれしく思いました。
 御宿海岸には、この年いっぱい滞在の予定でしたので、しばらくこの地に1軒しかない旅館にいたあと、漁師の家の広い部屋へ移り、当座の必需品は母屋(おもや)から借りて、形ばかりの自炊生活をしました。
 彼女もお天気さえよければ、朝から浜に出て、半裸体で日光浴をしたり、歩けるだけ歩き、疲れれば坐ったり、寝たり、時には本を読んだりしました。夜は東京の出版元から送ってくる「現代と婦人の生活」(のちに反響社より刊行)とエレン・ケイの「恋愛と結婚」の校正をしました。
2014-11-09 05:29 | 記事へ | コメント(0) |
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平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む21〜30
2014年10月30日(木)
平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む21

 1911(明治44)年、かぞえ年26歳を迎えた彼女は、相変わらず坐禅と図書館通い、それに英語の勉強に明け暮れて、人ともあまり交わらず、、といってこれという仕事もない毎日を送っておりました。
 こんな彼女に対して、生田先生はしばしば、女ばかりの文芸雑誌の発行をお勧めになるのでした。あるいは、先生のお勧めではじめた先きの閨秀文学会の回覧雑誌―森田先生との事件で一回きりで中絶したーが、ずっとまだ尾を引いていたのかもしれません。
 生田先生のせっかくのお勧めも、彼女はいいかげんに聞き流していましたが、生田先生は雑誌の話をなかなかお忘れにならず、だんだん具体的な計画まで話されるようになりました。
 何部刷って、印刷費はいくらぐらいかかる。そのぐらいの費用は、お母さんに御頼みになればきっと出してくださいますよ。お友達を集めて、一つ本当にやってごらんなさいーと、いよいよ熱心に勧められるのでした。
 彼女はそのころ彼女の家を泊り場所にしていた保持研(子)さん(「元始、女性は太陽であった」を読む14参照・らいてう研究会編「前掲書」)に生田先生からのお話をもらしたのです。保持さんは四国の今治の人で結核療養の後、再び学校にもどって、同年春ようやく卒業、寮をひきはらってから、そのころ姉はもう結婚して、夫の任地神戸へいっていましたから、彼女の家に寄寓して東京で職をさがしていました。
 生田先生からのお話に保持さんはとびつき、「ぜひやりたい、いっしょにやりましょう」と、まだ決心のきまらない彼女を促します。
 そこで二人の計画を母に話すと、「そんなことなら、あなたのためにとってあるお金があるから、そのなかから幾らか出してあげましょう」といって、最初の印刷費百円を、「お父さんは承知なさるまいけれど…」と、出してくれることになりました。雑誌が出るまでには、この百円のほかにも、少しずつたびたび母からもらっております。
 雑誌発行の趣意書や規約草案ができると、まっさきに生田先生を訪ね、保持さんをまず先生に紹介して、「二人でやってみようかと思います」というと、たいへんよろこんでくださいました。
 生田先生を保持さんとお訪ねしたのは同年5月29日でしたが、この日は雑誌の誌名のことが話にでました。生田先生も、思いつく名を挙げているうちに、はたと膝を打って「いっそブルー・ストッキングはどうでしょう。」ということになったのでした。

Kotobank―辞書検索―ブルーストッキング

 明治二十年代の日本では、このブルー・ストッキングを紺足袋党と訳したといいますが、彼女たちは生田先生と相談して、これに「青鞜」の訳字を使うことにしました(田中久子『「青鞜」とヨーロッパのブルー・ストッキングについて』(「国語と国文学」1965年7月号 至文堂)。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む22

 1911(明治44)年6月1日青鞜社第1回発起人会が開催され、中野初子、木内錠(てい)子、物集(もずめ)和子(らいてう研究会編「前掲書」)、保持研子、平塚 明の5人が発起人となり、同社事務所(らいてう研究会編「前掲書」コラム)は物集氏宅に設置することになりましたが、彼女は保持さん以外とはだれもそう親しくはありませんでした。

発祥の地コレクションー東京文京区―青鞜社(文京区)−「青鞜社」発祥の地

 はじめて発起人会を開催した駒込林町の物集邸は樹木に囲まれた宏大な屋敷でした。本来ならば彼女の家に事務所を置くべきでしたが、父への遠慮もあり、片手間仕事で「青鞜」をやろうとしていた当時の彼女にしてみれば、こんなことで自分の本拠をかき乱されたくないと願っていたからです。このときの会合で、雑誌の編集発行人を中野初子さんに、雑誌の表紙は長沼智恵子(のちの高村光太郎夫人・らいてう研究会編「前掲書」)さんに引受けてもらうことになりました。
 麹町六番町の与謝野さんのお住居を、訪ねたときの印象も忘れられません。4年前の閨秀文学会当時とは大変な変り様で、萩、桔梗などの秋草模様の浴衣がけに、はやりの大前髪をくずれるにまかせたようなお姿は、むしろ個性的で異様にさえ見えました。
 ともかく賛助員になって頂きたいこと、創刊号にぜひ御寄稿願いたいことなど、ずい分欲ばったことを頼んで帰りました。ところが与謝野さんの原稿(十あまりの短詩「そぞろごと」)は第一着の原稿として8月7日に到着し、「青鞜」創刊号巻頭に掲げました(抄 堀場清子編「『青鞜』女性解放論集」岩波文庫)。
 いよいよ「青鞜」を世に送り出すにあたっては、「発刊の辞」といったものが必要ではないかということになり、忙しい保持さんから「あなた書いて頂戴」ということになって、彼女が引受けることになりました。八月下旬のむし暑い夜から夜明けごろまでに、ひと息に書きあげました。「元始、女性は太陽であった」の一文(「平塚らいてう著作集」1 大月書店)は、ずいぶん稚拙で舌足らずなものではありましたが、そのころの彼女の張りつめた魂の息吹きが、ひたむきに吐露されております。
 創刊の辞を書きあげたとき、彼女は雷鳥を筆名にすることを思いつきました。「雷鳥」を「らいてう」とひらがな書きにしたのは、雷という字のイメージが、あの鳥の姿にも、彼女自身にもなにかしっくりしないように思われたからです。このときから、半世紀をこえる「らいてう」−雷鳥との因縁は、松本平を越えて北アルプスを朝夕のぞむ、信州の山の中の生活(「元始、女性は太陽であった」を読む19参照)から生まれたものでした。
1911(明治44)年9月1日雑誌「青鞜」(復刻版 龍溪書舎)が創刊されました。

しづのをだまきー過去の記事―2011年09月21日 「青鞜」創刊号―本文を読む


 「青鞜」創刊号の反響は予想外に大きなものでした。現在の女の生活に、疑いや不満や失望を抱きながら、因襲の重石(おもし)をハネのけるだけの勇気と実力を欠いていたこの時代の多くの若い女性の胸に、「女ばかりで作った女の雑誌」「青鞜」の出現が、一つの衝撃を与えたことは確かでした。
 「青鞜」の運動というと、すぐいわゆる婦人解放と、世間から思われていますが、それは婦人の政治的、社会的解放を主張したものでなく、この時分の彼女の頭の中には欧米流のいわゆる女権論というものは全く入っていませんでした。しかし、後日、その発展段階において政治的、経済的、社会的な婦人の自由と独立への要求として発芽するものは内蔵されていたと見るべきでしょう。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む23

 1911(明治44)年9月22日〜24日坪内逍遥の文芸協会が同協会研究所第1回試演会で、イプセン(らいてう研究会編「前掲書」)作・島村抱月訳「人形の家」を初演、松井須磨子(「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―を読む(A)4参照)のノラは好評だったといわれています(田中栄三編著「明治大正新劇史資料」演劇出版社)。

Net個人指導道場―読書感想文 Archives―外国文学編―ヘンリック・イプセン(ノルウェー)―人形の家   

 さらに同年11月開場した椅子席の帝国劇場で「人形の家」が再演されると、圧倒的な話題となり、ノラに扮した松井須磨子(らいてう研究会編「前掲書」)の評判はすばらしいものでした。
 当時は新劇運動の発生期で、イプセンの投げかけたこの問題劇のテーマは、文壇はもとより社会的にも大きな論議を集めました。
 「人形の家」(岩波文庫)について、彼女は女子大時代に、だれの訳文であったか日本語訳を読んでいて、一人でこっそり後ろの席で見ました。松井さんの舞台はこのときがはじめてでしたが、どういうものか劇自体からも、松井さんの演技からも、世評のような感動が伝わってきませんでした。
 「人形の家」の合評「社員のノラ批評及感想」は「青鞜」翌四十五年1月号の付録に掲載されました。この合評に彼女は無署名ですが、家出をするノラの自覚というものが、次元の低い安易なものであるから、ノラはまずなによりも、その自覚が本物になってこそ、真の人間としての自由も独立も得られるのだから、中途半端な自覚(?)から家出するノラを危ぶんでいるのでした(「平塚らいてう著作集」1)。
 1912(明治45)年4月18日「青鞜」は二巻四号(小説特集号)に掲載された荒木郁子(らいてう研究会編「前掲書」)の小説「手紙」(堀場清子編「前掲書」)によって、最初の発禁処分を受けました。荒木さんの小説「手紙」の内容は、人妻が若い愛人にあてた手紙の形式で、密会のよろこびを語るといった官能的なものでした。
 荒木さんは「青鞜」創刊の最初からの社員で、神田三崎町の玉名館という旅館の女主人として、彼女より年下の女性でした。女子大卒業生がほとんどの最初の社員にまじって、毛色の変わった荒木さんが入社したのは、保持さんの紹介によるものでした。
 荒木さんは、ものの考え方にとくに新しいもの、進歩的なものを意識的にもっていたわけではなく、むしろ感覚的、情緒的に素早くものをとらえて行動するひとでしたから、当時としては因習的ななにものにも縛られず、その環境のなかで大胆で自由な生き方をした一つの典型的な女性でした。
 発禁処分を受けたことも一つの原因となって、物集邸内に「青鞜」事務所を置くことを断られ、この年5月半ばに、本郷区駒込蓬莱町万年山勝林寺に、事務所を移すことになりました。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む24

 青鞜社には毎日のように、日本全国の文学好きな若い女からー時には男も混じっていろいろの真面目な、また不真面目な手紙や葉書が舞こんでいましたが、そのなかに混って尾竹(富本)一枝(らいてう研究会編「前掲書」・渡辺澄子「尾竹紅吉伝」不二出版)さんの手紙は異色のものでした。それからたびたび手紙がくるようになり、社内では「大阪のへんな人」ということで、すっかり知られた存在となっていたのですが、たまたま年末の社員会にに出席した小林哥津(かつ・らいてう研究会編「前掲書」)さんから彼女はこの未知の、大阪の「へんな人」についていろいろと聞くことができたのでした。
 小林さんは、発起人の一人の木内錠(子)と学校がいっしょだった関係で、木内さんの紹介で創刊の年の10月に社員になった人でした。小林さんの遠縁にあたる早稲田の学生と尾竹(富本)一枝(尾竹越堂画伯の長女)さんが知り合いだったことから、前に一枝さんが上京して尾竹竹坡(ちくは 画伯 一枝の叔父)氏の家に寄寓していたときに紹介され、それから二人は手紙のやりとりをすることになったのだそうです。
 一枝さんはそれからも手紙を矢つぎばやによこしましたが、自分の名前が手紙のたびごとにいろいろ変わり、それがいつの間にか「紅吉(こうきち)」「紅吉」と自分を呼び出しました。彼女はこの変わり者に入社承諾の返事を出し「あなたは絵を勉強していられるそうですが(女子美術学校中退)、『青鞜』の素晴らしい表紙を描いてみる気はありませんか。いいものが出来れば、今のをいつでも取替えます」と書き添えました。
 1912(明治45)年4月尾竹紅吉が小林さんに連れられて、彼女の円窓の部屋(「元始、女性は太陽であった」を読む15参照)を訪ねてきました。
 はじめて見る紅吉という人は、細かい、男ものの久留米絣の対の着物と羽織にセルの袴をはき、すらりと伸び切った大きな丸みのある身体とふくよかな丸顔をもつ可愛らしい少年のような人でした。
 このとき以来紅吉はよく訪ねてくるようになり、社の事務所へも顔を出して、編集の手伝いや表紙絵やカットの仕事など、なんでも手伝ってくれるようになりました。
 大阪から一家が上京して中根岸に落ち着くと、さっそく自宅を提供して、同年5月13日同人会を開き、みんなで巽(たつみ)画会第12回展覧会に出品した紅吉の二曲一双の屏風の作品が三等賞をとったこと、及び社員の林(河野)千歳(らいてう研究会編「前掲書」)さんがズーデルマン(らいてう研究会編「前掲書」)の「故郷」に、マグダの妹役で出て成功をおさめたことに祝杯をあげたのでした。
1912(明治45)年5月3日ズーデルマン作・島村抱月訳「故郷」(文芸協会3回公演)有楽座にて初演(田中栄三編著「明治大正新劇史資料」演劇出版社)。

いつでも携帯 青空文庫―「創作家の態度」(p44/67)−夏目漱石

 林千歳さんは「紅吉」と同じころ「青鞜」に入社した人で女子大国文科卒、ご主人の林和氏は劇作家で、同時に俳優でしたから二人で舞台に立っていました。「故郷」では、マグダの妹マリーに扮して「松井須磨子に次いでの有材」と評されましたが、松井さんとは違った知性の持主で、それがかえって舞台で伸びる邪魔となったかもしれません。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む25

 彼女たちが「新しい女」と呼ばれるようになったのは、既述のようにイプセンの「人形の家」を「青鞜」で取り上げたのにひきつづき、同人作「幽霊」(岩波文庫)を話題に上せ、さらにズーデルマンの「故郷」[「世界文学全集」第35巻(近代戯曲集)新潮社]が上演禁止となり世論が沸騰すると、その女主人公マグダの生き方をめぐって6月号で論評(「平塚らいてう著作集」1)を加えました。ノラやマグダを論じたことが、そのまま「ノラを礼賛しマグダを理想とする」新しい女というふうに受けとられ、「和製ノラ養成所青鞜社」などとジャーナリズムは揶揄します。
 こうして青鞜社の女たちが、時の言葉「新しい女」の名の下に、ジャーナリズムの好奇の眼にさらされているとき、紅吉がなんの考えもなく、無邪気に、得意気に「青鞜」誌上に書いたことなどが災いしたものか、国民新聞に1912(明治45)年7月11日から4日間にわたって「所謂新しい女」の見出しで、想像を逞しくしたデマ記事があらわれました。
 この「国民新聞」の記事にもある「雷鳥が美少年に五色の酒を与へ、少年が麦藁で吸ふのを恍惚として眺めている」とか「吉原遊興」については、いまなお青鞜社のスキャンダルとして話題にされますが、このことには紅吉がからんでおります。

かぶらやのきせきー森羅万象気になることー[5]―2012/5/26激しい女性を愛した男の恍惚と悲劇 〜富本健吉と妻一枝  

 「青鞜」は発足以来、経営を助けるために、みんなが手分けして広告(らいてう研究会編「前掲書」コラム)をとっておりましたが、文学雑誌などによくレストラン兼バー「鴻の巣」(らいてう研究会編「前掲書」コラム)の広告の出ているのを見た紅吉はここから広告をもらうために同店に赴き、主人からフランスでいま流行しているという五色の酒を、眼の前で注いで見せられました。これは一つのコップに、比重、色彩の異なった酒を、重いものから順に注ぎ分けたものですが、紅吉はそれを飲んだわけでもないのに、それからことごとに五色の酒について書き立てるようになったのです。  
 「吉原遊興」という伝説も、これは、紅吉が「鴻の巣」で五色の酒を見せられたあとのことですが、ある日紅吉が叔父の尾竹竹坡氏からの話として、吉原見学の誘いを突然もちこみました。
 紅吉から持ち込まれた話があまりにも急でしたから、やっと連絡のついた中野初子さんと彼女、紅吉の三人が、竹坡氏がお膳立てをしておいてくれたお茶屋を通して、妓楼に上がったのでした。そこは吉原でも一番格式の高い「大文字楼」で「栄山」という花魁(おいらん)の部屋に通されました。おすしやお酒が出て、「栄山」をかこみながら話ををしたわけですが、その夜彼女ら三人は花魁とは別の部屋に泊り、翌朝帰りました。
 紅吉は吉原見学も黙っていられず、そのころ越堂氏の下にに出入りしていた、東京日日新聞社会部記者小野賢一郎さんに、このことを話したので、「吉原遊興」のニュースはたちまち世間にひろまり、じつに下品な攻撃がはじまったのでした。
 青鞜社に対する世間の非難攻撃は、とりわけ彼女に対して強く、だれの仕業か、彼女の家には石のつぶてが投げられたりしたものでした。
 南湖院での長い闘病生活の間に、クリスチャンのような一面ももっていた保持さんにとっては、女だてらの吉原登楼ということが、許しがたく思われたのでしょう。怒りながらも保持さんは外部からの青鞜社に対する非難に対しては、どこまでもたたかってゆくという、つよい態度と気力を示し、受難期の「青鞜」をもり立ててゆく頼もしい存在でした。
 青鞜社内に内訌こそは起こりませんでしたが、こうしたジャーナリズムの攻撃がもとで、動揺が起こったのは事実でした。紅吉は「退社してお詫びします」といいますが、彼女は紅吉のこれくらいの過失を責めようという気持にはなれませんでした。このころ紅吉は自分の左腕に刃物をあてるという自分の肉体を傷つけるというようなこともしております。やがて紅吉は肺結核の宣告が下され、茅ケ崎の南湖院でしばらく療養生活を送ることになりました。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む26

 8月の半ばを過ぎたある日、彼女たち(保持、紅吉、平塚)は南湖院(らいてう研究会編「前掲書」コラム)の応接間で、二人の未知の男客を迎えました。その一人は、当時文芸図書の出版社として有名な東雲堂の若主人で、詩人でもあった西村陽吉(らいてう研究会編「前掲書」)さんです。たまたま紅吉は竹坡氏との関係で西村さんと知り合いの間柄でした。そんなことから、東雲堂が「青鞜」の発行経営を引受けたいという希望を、紅吉を橋渡しにして先ごろから申し込まれていたのでした。今後は東雲堂に発行、発売をまかせることにして、こちらは編集と校正だけするということで、最終的な取りきめをするために、若主人がわざわざ茅ケ崎へ訪ねてみえたのです。当時東雲堂からは、北原白秋編集の「朱欒(ザムボア)」という詩歌雑誌が出ているほか、そのころの新しい文芸関係の出版物が発行されていて、そこから持ち込まれた話は、「青鞜」にとっても悪い話ではなかったのです。

茅ケ崎市文化生涯学習ポータルサイト マナコレー最近登録された茅ケ崎の文化・歴史写真アーカイブー最盛期の南湖院―写真カテゴリー 南湖院―南湖院全景

 さて、このときの西村さんの連れの客というのは、西村さんにくらべ、骨太で、図抜けた長身に真黒な長髪をまん中からわけた面長の青白い顔が、異様なまでに印象的な青年で、奥村博(らいてう研究会編「前掲書」)と名乗りました。
 このとき奥村が西村さんと同行したいきさつはあとで聞いたことですが、その日の朝、奥村は父の知人に会うため、藤沢駅の待合室で、列車の入ってくるのを待っていましたが、向かい側のベンチににかけている若い男の手にしている雑誌「朱欒」が目に入りました。奥村はその「朱欒」最新号が見たくてたまらず、見知らぬ青年に声をかけて、それを見せてもらいました。その青年が西村さんで、「これから茅ケ崎の南湖院へ用があって行くのですが、ごいっしょにどうです?」と誘われました。病院の応接室で最初に彼女を見た瞬間、青年になってはじめて、かつて覚えぬ想いで、ひとりの女性を見たーと、奥村はのちに述懐しました。
 ところが、後に知ったことですが、その夜か、その翌朝かに、早くも紅吉は、らいてうが奥村の再来訪を待っているという内容の手紙を、紅吉の署名入りで出していたのです。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む27

 二、三日して写生の帰りだといってスケッチ箱をもった奥村が突然彼女の宿である漁師の家を訪ねてきました。彼女はふと「青鞜」1周年記念号の表紙を、この人にかいてもらいたい気になり、さっそく頼んだのでした。
 彼女は奥村を連れて、南湖院に行き、紅吉の提案で保持さんと保持さんの親しい入院患者の小野さんを誘って、その日の夜、柳島(馬入川が茅ケ崎の海にそそぐ川口の洲のあたり)に小舟を出しました。奥村は藤沢に帰る汽車にのりおくれ、保持さんの紹介で、病院の松林の奥の藁屋に泊まることになり、彼女は自分の宿へ引き上げました。
 ところが激しい雷鳴に驚いた彼女は宿のおかみさんに提灯をもって付き添ってもらい、奥村を迎えにゆきました。その夜大きな緑色の蚊帳の中に寝床を並べて朝を迎えたときから、奥村に対する彼女の関心は、しだいに関心以上のものへと、急速に高まってゆくのでした。
 こうして奥村が彼女の宿で一夜を過ごしたことは、夜明けを待ちかねて彼女の宿の様子を窺いに来た紅吉の知るところとなりました。すっかり逆上した紅吉は「きっとこの復讐はするつもりです。わたしはらいてうを恋しています」というような脅迫状を奥村に送って、奥村を驚かせたのです。
 この年1912(明治45)年7月30日には明治天皇が崩御され(「労働運動二十年」を読む6参照)、9月13日の大葬の日を待って、乃木大将夫妻殉死があるなど、新聞、雑誌は天皇の御病中から、大きくその関係記事を取り上げるという時代でした。
 「天皇」を意識することも、社会に目を向けることも少ないこのころの彼女たちでしたから、奥村の表紙に飾られた「青鞜」1周年記念号には、世を挙げての諒闇色といったものはなにひとつ反映されていません。
 9月が訪れると彼女は東京へ帰り、やがて紅吉も月の半ばには退院して東京に帰りました。
このころ奥村は城ヶ島に渡り、そこの宿に滞在して画をかいていました。そんなある日前田夕暮氏の主宰する短歌雑誌「詩歌」の同人で編集の手伝いなどもしている新妻莞(にいづまかん)さんが奥村を訪ねてきて、奥村と同居することになりました。
 しかるに新妻さんは、奥村宛に届く手紙などから彼女の存在を知って「あんな女とは絶交するのが若い君の身のためだ」と熱心に忠告、奥村は紅吉の脅迫状のこともあり、すっかり不愉快になって、彼女に一通の手紙に気持ちを「若い燕」の寓話に託して彼女の前から姿を消してしまいました。この寓話は新妻さんが作った「お話」を書いたものですが、このときから「若い燕」ということばが時の流行語となり、いまなお生きているようです。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む28

 たしか晩春のころと思いますが、彼女のもとへ、九州に住む未知の少女から長い手紙が届きました。差出人は「福岡県糸島(いとしま)郡今宿(いましゅく)村 伊藤野枝(らいてう研究会編「前掲書」)」と、素直な、しっかりした字で書いてあります。その内容は肉親たちから強制されている結婚の苦痛などを訴えたもので、手紙を一読した彼女は、本気で一生懸命に、からだごと自分の悩みをぶっつけてくるような、その内容につよく動かされました。近いうちに上京してお訪ねするから、ぜひ会ってほしいと書いてあります。
 それから何日か後に九州の少女が彼女を訪ねてきました。紅吉よりも、哥津ちゃんよりもずっと子どもっぽい感じで、その黒目勝ちの大きく澄んだ眼は、野生の動物のそれのように、生まれたままの自然さでみひらかれていました。
 そのときの野枝さんの話は、さきに寄越(よこ)した手紙の内容を、より具体的にしたもので、今は上野女学校で英語の先生であった辻潤(らいてう研究会編「前掲書」)氏の家に、世話になっている、とのことでした。一度九州へ帰ってすっかり後かたづけをしてくるといって帰った野枝さんから、家人の隙を窺って再度の家出をしようと思うが、その旅費をなんとか都合して送ってほしいとの再度の手紙を受け取ったのは、それから一(ひと)月近くのちのことでした。
 彼女はまず野枝さんが世話になっていたという辻さんの意見を尋ねてみると、彼は野枝さんの上京後のことは自分が責任をもつということでしたから、彼女は自分のポケットマネーから旅費を送ることにしました。当時の彼女は野枝さんが再度上京して辻さんとの相愛生活をはじめてからも、なおそれに気づかず、妊娠したときいてやっと気がつくという有様でした。辻さんが野枝さんのことで職を失ったことはあとできいて知ったことでした。
「五色の酒」や「吉原遊興」事件によってまき起こった世間の誤解や非難が、新しい女の上に集中するにつれて、社の内部には、「わたしは新しい女ではない」という逃避的な声がつよまり、われ一人よしとする逃げ腰の態度が、社員のなかに目立つようになっていました。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む29

 これに対して、彼女はここに改めて、「新しい女」とは何か、とみずからに問いかけ、真実を主張し、悪ジャーナリズムにあやまられた新しい女の実態を示すことで、勇敢に起ちあがらなければいけないと考えたのでした。
 「中央公論」編集長の滝田樗陰(「大正デモクラシーの群像」読むT―吉野作造9参照)さんが再度来訪して大正2年(1913)新年号に「新しい女」という題の文章の寄稿を頼まれ、断りきれず、その日に書いたのが「自分は新しい女である」(「平塚らいてう著作集」1)という書き出しの小文です。この文章は、のちに幾分か字句の修正をしてその後の著書(平塚らいてう「円窓より」複製版 叢書女性論8 大空社)に収録してあります。「青鞜」同年第三巻一号は「新しい女、其他婦人問題について」と題する特集を付録とし、同付録にらいてう訳のエレン・ケイ(らいてう研究会編「前掲書」著「恋愛と結婚」 原田実訳 岩波文庫)の掲載が始まりました。
 生田先生のおすすめで同年2月15日青鞜社(新しい女)講演会(らいてう研究会編「前掲書」コラム)が開催され、生田長江のほか、馬場孤蝶、阿部次郎(らいてう研究会編「前掲書」)、岩野泡鳴の諸先生および岩野清子(泡鳴夫人 青鞜社員)さんが演壇に立たれました(阿部次郎は講演予定だったが、風邪のため中止となり、出席のみ)。

JKSK 女子教育奨励会―黄金の鍵 語りつぐ、女性の物語―バックナンバーリストー2002年10月 『青鞜』第3回 「霊が勝つか肉が勝つか」岩野清子

 講演会の準備を進める社員のなかに、ビラや入場券の作成を受け持って、たのしそうに動きまわっている、紅吉の姿もありました。すでにおもて向きは退社となっていながら、紅吉は編集室へも彼女の円窓の部屋へも、相変わらず顔を見せていますし、三巻新年号からの表紙絵―それはアダムとイブを描いたすぐれたものでしたがーを、自分で木版を彫るなど、たいした骨のおり方でした[その絵の下絵は、富本健吉(らいてう研究会編「前掲書」)氏の描かれたものであることを、紅吉自身の話でによって最近知りました]。
 どんなきっかけで紅吉が生田先生宅へ寄寓ようになったのか、よく分かりませんが、生田家にいる姉のもとへ、家からのおつかい役で来りする紅吉の妹、福美(ふくみ)さんを、佐藤春夫が見染めたのもこのころでした。
 そのころ、佐藤さんは慶応義塾の学生で生田家に玄関番の生田春月(らいてう研究会編「前掲書」)とともに同居していたのでしたが、佐藤さんから託された恋文を、紅吉が福美さんに手渡すようなこともあったようでした。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む30

1913(大正2)年初頭、国内の政情は大きくゆれ動いていました。第3次桂太郎内閣に対する尾崎行雄の弾劾演説が同年2月5日の議会で行われ、同内閣が倒壊する大正政変(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む13〜14、「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造8参照)が起こっていましたが、こうした新しい時代の胎動をよそに、「新しい女」に対する偏見と迫害は根強いものがありました。
「青鞜」第三巻二号は「婦人問題の解決」福田英子(「田中正造の生涯」を読む28参照)、「冷酷なる愛情観と婦人問題」岩野泡鳴、「談話の代りに」阿部次郎、「恋愛と結婚」エレン・ケイ、らいてう訳を付録として掲載したのでしたが、これが同年2月8日「安寧秩序をを害するもの」という理由で、発禁処分となりました。だれの書いたものが抵触するかについてはふれられていませんが、福田さんの「婦人問題の解決」は、社会主義的婦人論の荒筋のようなものでした。もしこの論文が当局の忌諱(きい)にふれたとするなら、おそらくその内容よりも、平民社(「日本の労働運動」を読む32参照)に関係のある、福田さんの名前がいけなかったのでしょう。
ところが、この発禁処分がもとで、彼女の家庭では父との間に一悶着が持ち上がりました。「青鞜」への世間の悪評に、いままでただ一言も文句をいったことのない父が、このときは自分の部屋に彼女を呼びつけ、真正面から怒りをぶっつけたのでした。

内田聖子のホームページー聖子・歴史の小径−福田英子と解放運動

「青鞜」の原稿を依頼した当時、福田さんは、石川三四郎(「日本の労働運動」を読む40参照)さんといっしょに横浜の根岸に住んでいました。後に青鞜社の巣鴨の事務所[1913(大正2)年4月移転 ]へ見えるようになったころは、石川さんを海外へ送り出したあと、上京して駒込橋付近で養鶏をしていたのでしょうか、生みたて玉子を売り歩いていました。
はじめてお会いした福田さんの印象は、大柄な中年を過ぎたこわい感じの婦人で、ちょっとたじろぐ思いでした。でも老いた女壮士といった風格がどこかにありました。
彼女は後に福田さんを姉に紹介しました。姉は義兄が逓信省庶務課長であった関係で、新橋汐留(しおどめ)駅に近い逓信省の官舎に住んでいました。
姉の方でも話し好きの福田さんをいい話し相手にしていたらしく、やがて福田さんはしげしげと姉のところに出入りするようになりました。
1927(昭和2)年5月2日福田さんは危篤状態のなかで、礼をいいたいからどうしても姉に会わせてほしいと家人にせがんだそうで、知らせを受けて、姉は南品川の福田さん宅に駆けつけましたが、間に合いませんでした。
2014-10-30 06:16 | 記事へ | コメント(0) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇49平塚らいてう) |
平塚らいて自伝「元始、女性は太陽であった」を読む11〜20
2014年10月20日(月)
平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む11

 女学校四、五年の一時期に、彼女が富士登山を思いたった気持の背景には、その当時、女性の富士登山者がぼつぼつ現れて、それを新聞などが賞賛的に書き立てていたことなどもいくらか影響したのでしょうか。
 いよいよ夏休みとなり、彼女は精一杯の勇気をふるって、父に富士登山の許しを求めました。小さいころ、あれほど父に可愛がられていた彼女でしたが、いつのころからか次第に、父に対して、気軽に話ができないようになっていました。はたして、彼女のひたすらな望みは、ひとたまりもなく父に退けられました。「馬鹿な。そんなところは女や子どもの行くところじゃないよ。」嘲りとあわれみをふくんだ、彼女にとってはなんとも不愉快な表情で、父ははねつけました。彼女はまったく承服できない気持のまま、にじみ出る涙をおさえて、黙って引きさがるだけでした。

松本正剛の千夜千冊―バックナンバーで探すー全読譜―1201-1300−1206−平塚らいてう

 その年の秋であったか、翌年の春であったか、祖母に付き添われて、胸を病む姉が久しく療養していた小田原十字町の宿を足がかりにして、海賊組のひとりの友達といっしょに、草鞋(わらじ)ばきで箱根の旧道を登ったことで、彼女は悶々とした思いを多少解消した形になりました。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む12

 五年生のころ、クラスで隣の席に、当時仏教学者として名高かった、村上専精(せんじょう)博士の娘さんがいました。新聞かなにかでこの村上さんのお父さんの講演会のあることを知った彼女はその講演会に行ってみる気になりました。
 会場は神田の錦輝館で、法然(ほうねん)上人か親鸞(しんらん)上人の何百年祭かの記年講演会でした。当時の彼女は、この講演や会場の雰囲気から大きな感銘を受けました。いま振りかえってみると、村上博士の講演からうけた感銘がのちに彼女を、宗教や哲学に近づける一つの機縁となったことは、疑いないことのように思われます。
 こうして急速度に、宗教や倫理、哲学などの方向に興味をもちはじめた彼女は、今後の研究に打ちこんでゆくために、開校まだ日の浅い、日本女子大学への入学を願うようになりました。

日本女子大学―大学案内―建学の精神と歴史   

 当時女子大には、国文科、英文科、家政科の三つの科がありましたが、彼女の志望は英文科でした。ところが、彼女の志望を父に話してみると。「女の子が学問をすると、かえって不幸になる」と彼女の希望は一言のもとにはねつけられたのです。そのとき父が「親の義務は女学校だけで済んでいるのだ」といったことばが、その後いつまでも、彼女の耳底に残りました。
 物ごとを一途に思いつめてあとへひかない彼女の性質をよく知っている母は、母親らしい愛情から、彼女のためにいろいろとりなしてくれ、そのおかげで、「英文科ではいけないが、家政科ならば…」という条件つきで、ようやく父から女子大入学の許しが出ました。
 大きな期待に胸を躍らせながら、創立間もない女子大の第3回入学生として、目白の校門をくぐったのは、1903(明治36)年4月のことでした。この時分の女子大生には何年か小学校の先生をしてきた人とか、未亡人、現に家庭をもちながら入学してきた人などもいて、なかには「小母さん」と呼んでいいような、中年の婦人もいました
。家政科の学生は百人近くいて一番多く、国文科ががもっとも学生の少ない科でした。「自主、自学」を建前とする学校だけに、すべてのことが生徒の自治にまかされているので、お茶の水ではまったく経験しないことばかりでした。
 週1回、午後二時間の校長の実践倫理は、各部の新入生を一堂に集めて行われるのですが、あくまでも、自学、自習、創造性の尊重ということに重点を置いて、たんなる知識の詰込み、形式主義の教育を排撃するという成瀬先生の説明は、お茶の水の押しつけ教育にうんざりしていた彼女をどれほど喜ばせたことでしょう。試験というものがなく、成績点もなければ、落第もなく、卒業のとき論文を出すだけという女子大の教育は、入学したばかりの彼女には、まったく理想的なものに映りました。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む13

 さて、こうして通学していると、当時の女子大は寮生活が中心でしたから、寮に入らないと本当の校風が分からないということで、リーダーがしきりに寮に入ることを勧めるようになりました。彼女は、家の反対を押し切るようにして、二年のはじめころ寮にはいることにしました。
 そのころの寮は学校の構内の裏側にあり、木造日本建築の下宿屋のような建物で、棟割り長屋式に幾棟かに別れて立っており、それが一寮から七寮までありました。一寮が一家族ということになっていて、およそ二十人ほどですが、付属女学校の生徒から大学の上級生までがふくまれていて、寮母は上級生か女の先生がつとめました。
 彼女が入った七寮は付属高女の平野先生が寮監で、その下に家政科三年生の大岡蔦枝さんがお母さん役で責任をもち、その下に彼女と信州飯田出身で付属高女からきた出野柳さんがリーダー役で活躍していました。
 自分からすすんで寮に入った彼女でしたが、やがて寮の生活に疑問と幻滅を感じるようになりました。寮は八畳の部屋に四人ほど入っているのですが、机に向かっても、向い合わせの机に人がすわっているので、気持が落着きません。夜は夜で、修養会とか、何々会とか集まりばかりが多く、それらにいちいち出席していたら、自分のことがなにも出来なくなるのでした。
 自主、自治、独創ということは、成瀬先生からつねづねいわれていることですし、また自学自習主義が建前であるはずなのに、自主的な研究時間などは全くなく、同じような会合につぶす時間があまりにも多いことも、納得できないことでした。
 こうした学生の会合には、いつも出るのを渋っていた彼女でしたが、家政科の授業にはまじめに出席しました。料理の実習には、週二回の午後の時間が全部あてられていましたが、彼女はたいていさぼって、図書室に行ったり、文科へ傍聴にゆくことにしていたので、大体料理が出来上がるころを見はからって料理室にゆき、試食の段どりになると、すまして食べるだけはたべたものです。
 文科の講義では、西洋美術史の大塚保治先生は、「お百度詣り」の詩で有名な、竹柏園(佐佐木信綱の雅号)の歌人、大塚楠緒子(なおこ 「坂の上の雲」を読む21参照)さんの御夫君で、文学博士、帝大の教授ですが、この先生の講義のときは講堂がいっぱいになりました。幻燈でラファエルやミケランジェロの絵が見られるので、たのしい時間でした。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む14

 学生が勉強しないことについての疑問とともに、もう一つ彼女には釈然としないことがありました。そのころの女子大では、家政学部が成瀬教育の寄りどころのようになっていて、学校にとって大事なお客様(主として当時の政、財界の知名人)が学校に見えると、その接待役は家政科の学生でした。お料理からお菓子なにもかもみんな学生の手作りですから、こんなとき真先きに働くような人が、共同奉仕の精神の持主として賞讃されるのでした。彼女はそんな評価の仕方が納得できないので、こうした接待のときはさぼりがちでした。
 それよりももっといやなことは、こうした後援者に対する成瀬校長の、過度な感謝の態度というか、その表現の仕方で、彼女は校長がつくづく気の毒になってしまうのでした。
 岩崎、三井、三菱、住友、渋沢などの財界の当主や、伊藤、大隈、近衛、西園寺などの政界の代表的人物が、なにかの時には学校へ見え、まれには話をきくこともありましたが、この人たちの話は、たいてい内容のないことをもっともらしく引き伸ばしたお座なりのものですから、感心したことなどなく、こういう種類の人たちをとうてい彼女は偉い人とも、尊敬できる人とも思えませんでした。
 とくに大隈伯はいかにも傲慢な感じの爺さんで、横柄な口のきき方でした。その説くところの女子教育の必要も、女子自身を認めてのことでなく、日本が列強に伍して行くようになって、女が相変わらずバカでは国の辱(はじ)だとか、男子が進歩したのに、女子がそれにともなわないでは、内助はおろか、男子の足手まといになるだけで、けっきょく、それだけ日本の国力が減退することになるといったものなので、呆れました。
 こうした周囲の雰囲気のなかで、彼女はやがて、成瀬先生の講義そのものに対しても、いままでのように打ちこめなくなってきたのでした。校長の実践倫理の講話は、校内では至上命令的で「神の声」のようなものですから、コントのポジティヴィズム(実証主義)のあとジェイムスのプラグマティズム(「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―を読む(A) 3参照)が説かれるようになると、ひどく狭い実用主義、実利主義が学内を風靡するようになり、彼女にはもう我慢できないことでした。

独学ノートー単語検索―実証主義   

 こうした雰囲気のなかで、勉強しているもの、本などにかじりついている者は異端視され、ことに実証主義的でない本など読んでいる者は危険思想の持主としてかんたんに睨まれるようになりました。
 とにかくそのころの彼女は読書欲にかられ、まるで本の虫のようにして書物を漁ったものでした。読むものは、宗教、哲学、倫理関係のもので、彼女はちょっとの休み時間にも図書室にかけこみ、ときには講義を休んで終日ここですごすようなこともありました。九時半だったかの消燈後も、食堂へこっそり入って、ろうそくの火で本を読んでいて、寮監にたしなめられたことなど思い出します。
 そうこうしているうちに、彼女は突然発熱し、パラチブスという診断を校医から受けて、家へ帰されました。
 彼女に女子大入学を許した以上、姉にも女子大の教育をうけさすべきだという父の意向で国文科ならば入ってもいいという姉に父が妥協、姉は彼女より1年遅れて、女子大国文科にはいりましたが、二年になって肺結核の初期という診断で療養生活に入り、結局中途退学してしまいました。やがて結核専門の療養所である茅ケ崎海岸の南湖院で同級生の保持研(子)(よしこ)さんと闘病生活を慰めあっていました。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む15

 当時の日本は日露戦争のさなかで、国をあげて戦争に協力していましたが、自分の内的な問題にばかりとり組んでいた彼女は、一度も慰問袋をつくったりするようなことをやった覚えがありません。
 与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」については、当時女子大が明星派の新しい文学を拒否していたからか、学校では話題にならなかったように思います。もともと学校自体も、ときの政治問題などについて、学生を社会的影響から隔離しようという方針でしたから、この時分の女子大生は、彼女に限らず、そのほとんどが新聞を読んだり、読まなかったりで、、どちらかといえば、読まない日の方が多かったことでしょう。いまふりかえってみて、日露戦争の印象は、小学生時代の日清戦争の記憶よりもずっと希薄なのはおどろくばかりです。
 先にいた七寮を、なにかの用事で訪ねたついでに、木村政(子)(らいてう研究会編「『青鞜』人物事典」大修館書店)という同級生の部屋に立ち寄ったとき、机の上に置かれた「禅海一瀾」という和綴木版刷り、上下二巻の本が目にとまりました。著者は鎌倉円覚寺の初代管長今北洪川老師ですが、めくっているうちに、ふと、「大道求于心。勿求于外。」(大道を外に求めてはいけない、心に求めよ)という文字が目に入りました。このことばこそ観念の世界の彷徨に息づまりそうになっている、現在の自分に対する、直接警告のことばではありませんか。

楽道庵ホームページー根源的大道としての禅  

 この本は禅家の立場から、儒教―ことに論語、大学、中庸のなかの諸徳を批判したもののようでした。彼女は息をのむ思いで、矢もたてもなくこの本を借りうけて帰りました。
 それから間もないある日、彼女は木村さんに案内されて、日暮里の田んぼのなかの一軒家、「両忘庵」の偏額(へんがく 門戸または室内にかけた額)のかかったつつましい門をくぐりました。女子大三年の初夏のころだったと思います。
 迷いも悟りも二つながら忘れるというこの両忘庵の庵主、釈宗活老師は鎌倉円覚寺二代管長、釈宗演老師の法嗣(仏法統の後継者)で、両忘庵で独り暮しをされ、後藤宗碩(そうせき)という大学生が侍者(和尚に侍して雑用を務める者)をつとめていました。
 この日彼女は、相見(面会)につづいて参禅を許され、老師から公案(参禅者に示す課題)を頂き、後藤さんから坐り方を教えてもらい、その日から彼女にとって坐禅という、自己探究の果てしのない、きびしい旅がはじまりました。
 しかし他方で、卒業期が近づき、卒業論文提出の締切日がきてしまいました。この学校には試験というものが全然なく、卒業論文を提出して卒業がきまるので、クラスの人たちはみんな早くから、論文に夢中になっていました。しかしこの人たちとは反対に、いままで得たあらゆる知識を捨てる修行に日夜骨身をくだいている彼女には、論文を書くのはじつに辛いことでした。といって卒業だけはどうしてもしてしまいたかったので、短いものを、なるだけ時間をかけずに書くことにしました。
 1906(明治39)年3月数え年二十の春、彼女は家政科らしからぬ筋違いの論文がパスして、家政科第3回卒業生として社会に送り出されました。
 同年冬、一応健康を回復した姉と、帝大卒業を控えた義兄との結婚式が挙げられました。
 姉たちは結婚とともに姉たちのために建てた新しい家に引越しましたので、彼女は義兄がそれまで占領していた別棟の二間つづきの部屋に移りました。
 大きな円窓のある三畳の狭い方の部屋を書斎にし、四枚の襖で仕切られた四畳半を寝室兼坐禅の間として、そこには床の間に花瓶、床脇に香炉一つ置くほか何ももちこまないことにしました。床の間には、宗活老師にたのんで揮毫してもらった、書の掛け軸をかけました。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む16

 卒業とともに、英語の書物を自由に読みこなせるように、英語の力をつけようと思った彼女は、両親には無断で、麹町の女子英学塾(津田塾大学の前身)[校長 津田梅子(久米邦武「米欧回覧実記」を読む2参照)]予科二年に入学しました。その帰りには近くにある三島中洲先生の二松(にしょう)学舎に寄って漢文の講義をききました。それは禅をはじめてから、漢文で書いた書物を読むことが多くなったからです。そのために必要な学費は、家からもらう小遣いと、女子大三年のとき、講習会其の他で貴族院速記者に習った速記の収入でどうにかやりくりをしました。
 しかし女子英学塾の授業は狭い意味での語学教育に終始し、使う教科書も内容のないものでしたから、彼女は一学年の終わりを待たず。飯田町仲坂下の成美女子英語学校に転じました。1907(明治40)年の正月だったかと思います。
 こうして英語学校。二松学舎、速記の仕事という忙しい生活の中でも。両忘庵通いはいっそう熱心につづけました。ようやく老師に認められて見性(けんしょう 悟りの境地)を許されたのは、女子大卒業の年の夏で、慧薫という安名(あんみょう 禅宗で新たに得度受戒した者に初めて授与する法諱)を老師からいただきました。
 求め、求めていた真の人生の大道の入口が開かれたのです。さすがにうれしさのやり場がなく、彼女はその日、すぐに家に帰る気になれず、足にまかせてどこまでも歩きました。それからの彼女はずいぶん大きく変わりました。坐禅の先輩の木村政子さんといい相棒になって、芝居や寄席のような場所にも、足を運ぶようになりました。
 1907(明治40)年正月から通いだした成美女子英語学校はユニヴァサリストという教会付属の学校で、ここは英学塾のように文章をやたらに暗記させることもなく、出欠席もとらないという自由な学校で、読むものも英学塾より面白いのが取り柄でした。
 ここで生田(長江)先生から、若きウェルテルの悩み、相馬(御風)先生にアンデルセンの童話、などを学びました。生田先生も相馬先生もまだそれぞれの大学を出て一、二年というところで、生田先生は少しのひげをぴんとひねりあげて、頭髪もきれいに分け、いつも洋服をきちんと着込んだ身だしなみのよい紳士でした。相馬先生は、赤門出の先生方のなかに、ひとり早稲田出ということでやや異色の存在でしたが。いつも粗末な和服姿で、気どりがなく、やさしいけれども神経質な気むずかしさと、どこか気の小さな人のよさの感じられる方でした。

花の絵―文化(CULTURE)―月別インデックスーNovember 2011-―不屈の評論家 生田長江について

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む17

 同年6月になって成美のなかに閨秀(けいしゅう 学芸に秀でた婦人)文学会(らいてう研究会編「前掲書」用語解説)という、若い女性ばかりの文学研究会が生まれました。これは女性の文章に、非常に興味をもっていられた生田先生の肝入りでつくられた会で、講師の顔ぶれは新詩社系の人びとが中心で、与謝野晶子、戸川秋骨、平田禿木、馬場孤蝶(らいてう研究会編「前掲書」)、相馬御風、などの諸先生と生田長江先生、そのお友達の森田草平先生などでした。

渋谷・時空探究―一覧―第三話 与謝野晶子と東京新詩社

 会員は成美で英語を勉強している生徒有志のほか、外部からも加わって、全部で十数人ほど、彼女も誘われるままによろこんでこの会に加わりました。学校の授業のあと、一週に一回の集まりを開きましたが、おそらく講師の先生方は無報酬で来ていられたにちがいありません。
 はじめて見る与謝野先生の印象が、いままで想像していた人と、あまりに違うことにびっくりしました。ふだん着らしく着くたびれた、しわだらけの着物といい、髷をゆわえた黒い打紐がのぞいて垂れ下っているような不器用な髪の結い方といい、見るからにたいへんななかから、無理に引っぱり出されてきたという感じでした。やがて先生の源氏物語の講義が始まりましたが、それはまるでひとりごとのようなもので、しかもそれを関西弁で話されるので、講義の内容は誰にもほとんどわからずじまいでした。
 彼女は閨秀文学会に加入してから生田先生の推薦で急速にツルゲーネフやモーパッサンなどの外国文学に親しむようになり、他方「万葉集」などの国文学を系統的に読みはじめていました。これは閨秀文学会で知り合った青山(山川)菊栄さんの刺激が多分にあったように思います。

フェミニズムの源流 山川菊栄  

 アメリカへ布教のため、弟子たちを連れて旅立たれた両忘庵主の釈宗活老師から、自分の留守中、他の師家につくなと戒められていましたが、あるとき興津清見寺住職の坂上真浄老師の提唱(禅宗で宗師が大衆のために宗旨の大綱を提示して説法すること)があったときその枯淡な印象が忘れられず、浅草松葉町の海禅寺で同老師の接心(禅宗で僧が禅の教義を示すこと)があると聞くと、紹介もなしに参禅することになりました。
 そのころの長らく無住だった海禅寺を復興させるため、鎌倉(円覚寺)から住職代理として、手腕のある青年僧中原秀岳和尚が来ていたのです。
 その日も海禅寺で参禅していた彼女は夜の八、九時になっているのに気付くと、急いで立ち上がり、宗務室の中原秀岳和尚が開けてくれた潜り戸から外へ出ようとしたとき、この青年僧になんのためらいもなく、和尚の好意に対するあいさつとして、接吻してしまったのです。
 数日後、中原秀岳和尚から結婚申し込みをうけ、当惑した彼女は木村さんに宥め役になってもらい、かなりの時を経過して、3人はなんでも遠慮なく話し合えるようになりました。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む18

 閨秀文学会の会員の作品を集めて、回覧雑誌をつくることになり、このとき彼女は小説を生まれてはじめて書きました。彼女のほかに小説を書いたのは青山(山川)さん一人でした。彼女の「愛の末日」と題する小説は全くの想像で、女子大か何かを出た女性が恋愛を清算し、独立を決意して、地方の女学校の教師となって、愛人にわかれて、任地にひとり旅立って行くというようなものでした。
 この小説(?)を読んだ森田先生から、長い批評の手紙をもらったのは、1908(明治41)年1月末のことでした。

Weblio辞書―項目を検索―森田草平  

 達筆の薄墨で巻紙にしたためられた森田先生の手紙は「愛の末日」についての過分の讃辞にみちたものでしたが、彼女も巻紙に筆で返事を返事をしたためてだし、文通するようになりました。
 かくしてオープンな若い男女交際の場に乏しい当時の日本において、森田草平は彼女を男女関係の経験者と思い込んだ形跡があり、彼女は森田草平のだらしのない男女関係の実態をよく知らず、デートを重ねるうちに、森田草平が説くダヌンチオ「死の勝利」(生田長江訳 昭和初期世界名作翻訳全集22 ゆまに書房)の世界へと彼女が引き込まれていったようです。

Kotobank-辞書検索―死の勝利―その他の辞典―世界大百科辞典 第2版の解説

 1908(明治41)年3月24日森田草平・平塚明子心中未遂で塩原尾頭峠(栃木県)を徘徊中、発見されました[塩原(煤煙)事件](新聞集成「明治編年史」第13巻 財政経済学会)。

クリック20世紀―1908−1908/3/24森田草平・平塚らいてう心中未遂(煤煙事件)  

 二人は宇都宮警察の巡査に発見され、、案内された温泉宿には生田先生、すこし遅れて母まで来ていました。母とともに帰宅して、心痛のため腸をこわして寝床についていた父は、、深く頭をたれて枕元に坐った彼女を見すえて、「たいへんなことをしてくれたね」といっただけでしたが、激怒を精いっぱいおさえていることは彼女のからだにすぐ感じられました。
 この事件の解決策として夏目(漱石)先生の側から、生田先生を通じて、父に述べられたことは、「森田がやったことに対しては、平塚家ならびにご両親に十分謝罪させる、その上で時期を見て平塚家へ令嬢との結婚を申込ませる」という内容だったようです。ところが父は、直接娘におききなさいと無愛想に答えたらしく、母に案内されて彼女の部屋に入ってきた生田先生に彼女は森田先生との結婚の意思はないと申しました。事件の後始末が、事件の当事者同士の話し合いにゆだねられず、第三者による結論としての結婚のおしつけに彼女は不満だったのです。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―なー夏目漱石

 その後何日かして夏目先生(一高の語学教師として彼女の父とは面識あり)から父あての「あの男を生かすために、今度の事件を小説として書かせることを認めてほしい。」という内容の丁重な親展の手紙がきました。母は父に代わって、それは受け入れがたいことを伝えに、夏目家を訪れましたが、夏目先生の強い懇願をうけ、父の意向は通らずじまいでした。
「漱石は正直に『よく解らない』といいながら、この事件の表に出た形と想いとはくいちがっていることを指摘している。」(塩原尾花峠・雪の彷徨事件 井手文子「平塚らいてうー近代と神秘―」新潮選書)

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む19

 山から帰って十日ほどあと、いちはやく母校の女子大から、除名の通知がもたらされました。寮監で桜楓会(同大同窓会)役員の出野柳さんが、その使者役となって彼女の家にみえました。彼女は「自分としては、母校の名を傷つけるようなことをしたとは思いませんが、桜楓会でそういうふうになさりたいのなら、むろんわたくしはそれをお受けします」とあっさり答えました。
 こうして世間がかってな見方で騒ぎ立てることはうるさく、不快なことには相違ありませんが、いちばん失礼だとおもったのは当時の新聞記者の、面会を強要するひどい態度です。わかってもらえそうな程度のことを少しばかり話すと、それが違った意味のものに作りあげられているのには驚きました。
 こんなことから、父は彼女を当分の間、家に置きたくないといいはじめ、彼女は鎌倉の円覚寺や母とともに茅ケ崎の貸別荘で過ごしたりしました。今度の事件の渦中に木村さんも巻き込まれた形となり、母校の女子大から妙な眼で睨(にら)まれるようになったので、女学校の家事の先生になって急きょ関西へ赴任してしまいました。
 1908(明治41)年9月初め、かつてお茶の水高女で「海賊組」の一人であり、女高師を出て松本の高等女学校に赴任した小林郁さんを訪ねて、彼女はひとりで、信州の旅に向かいました。
 一時小林さんから紹介された松本市内の繭問屋の蔵座敷に滞在しましたが、1週間ほどで松本から数里東南方の東筑摩郡中山村字和泉の養鯉所に落ち着くことになりました。彼女はここで散策と坐禅と読書に明け暮れる毎日を過ごしたのです。

Goro―北アルプス絶景スポット

 森田先生からは、この山のなかへも時おり手紙がきました。先生は謹慎していた夏目先生の自宅から、近くの、牛込横寺町にあるお寺に下宿し、そこで小説「煤煙」(岩波文庫)を書きはじめていました。彼女はそれが作品として立派なものであってほしいと願っていました。
 やがて朝夕眺めていた日本アルプスの連峰は雪をかぶり、彼女の部屋にも炬燵が入って、信州滞在も終りを告げねばならない季節となりました。こんなとき、森田先生から、例の小説がだいたい書けた。朝日新聞に、夏目先生の紹介で、来春元旦から発表されることになったと知らせてきました。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む20

 中山村の養鯉池から引き上げたのは、十二月のなかばに入ってからでした。信州から帰京後、彼女は神田美土代町の日本禅学堂において、坐禅修行をはじめました。日本禅学堂はお寺ではなく、中原南天棒全忠老師(鎌倉禅の批判者)門下の駿足といわれた岡田自適(外科開業医)が私財を投じて独力で開いたものでした。
 森田先生の創作「煤煙」は、予告通り1909(明治42)年元旦から「東京朝日」に連載されました。新聞は毎朝配達されてきますから、父や母の眼に触れないはずはなく、読んでいるかも知れないのです。彼女も部屋に持ち込んで、ひそかに読んでいました。
 もともと「死の勝利」を下敷にしたともいえるこの小説が、自分の実感によるものでないのは仕方がないとしても、あれほど自分の趣味や嗜好で、また自分よがりの勝手な解釈で作り上げないでもよさそうなものだと思われるのでした。しかしほんとうに「一生懸命」に書いた苦心の作であることだけは、はっきりと感じられます。

装丁探索―2012.01.06 名取春仙の代表作、 森田草平「煤煙」の挿絵

 1909((明治42)年十二月下旬彼女は西宮市海清寺禅堂において臘八接心(釈迦が成道した12月8日にちなんで12月1日から8日まで徹夜で行われる接心)に参加、南天棒老師より「全明」の安名を受けました。
 一方新たな意気込みで英語の勉強にとりくみ、同年4月から神田の正則英語学校に通い、ここで斉藤秀三郎先生の英文法を聴きましたが、まるで講釈師がするように、折々扇子で机をたたいて講義されるのには驚きました。馬場孤蝶先生や生田先生宅へも時折伺っておりましたが、社会や政治の問題を、自分自身の問題として考えることもなければ、当時(明治43)年、世上やかましくさわがれた幸徳事件(「日本の労働運動」を読む47〜48参照)についても、生田先生のところで話題に出るほか、とくに関心はもちませんでした。
 塩原事件以来、海禅寺へふたたび出入りするようになったのは、1910(明治43)年の夏のことでした(「元始、女性は太陽であった」を読む16参照)。
 その年の暑中休暇に東京へ帰ってきた木村さん(「元始、女性は太陽であった」を読む15・19参照)が海禅寺にゆくと、秀岳和尚が彼女にひどく会いたがっているということで、木村さんに連れられるような格好で、再び出入りするようになったのでした。それがきっかけで、その後、木村さんが関西へ帰ってからもひとりでたまには海禅寺を訪ねたりするようになりました。
 遊びの味を覚えた和尚は、お酒が入ると馴染みの若い芸者の話などを得意そうにきかせるので、彼女がその待合を見たいといったことから、その日和尚の行きつけの待合に出掛けることになりました。
 ここでついに彼女は和尚と結ばれることになりました。しかし未婚の娘として、そのとき自分のしていることが、不道徳なことだという気持ちはありませんでした。それにしても、塩原事件というものがなかったなら、和尚とそんな関係になることは考えられないことでした。彼女にも性に対する好奇心が、無意識のうちに育っていたことは確かなことのように思われます。
 和尚は、それ以後の彼女に対する態度も控え目で、積極的に自分から待合へなど誘うようなことはありませんでした。
2014-10-20 06:38 | 記事へ | コメント(0) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇48平塚らいてう) |
平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む1〜10
2014年10月10日(金)
平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 1

 平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」(大月書店)下巻に収録された、小林登美枝「らいてう先生と私」(1971年8月15日付)は本書の成立事情について、次のように述べています。
 「(前略)らいてう先生の自伝原稿は、私が先生のお話をうかがってまとめたものに、先生が綿密、丹念に手をいれられたうえで、それを私が清書し、さらにまた先生が目を通されるという作業をくりかえしながら、書きすすめました。(中略)
 原稿として完結しなかった、「青鞜」以後のらいてう先生の歩みのあとについては、「外伝」または「評伝」といった形ででも、いずれ私がまとめなければならない、責任を感じております。(後略)」
 上述の如く「同上書」には続巻・完結篇もありますが、これについては、いずれ検討したいと思います。
 彼女は1886(明治19)年2月10日、父平塚定二郎、母光沢(つや)の三女として、東京市麹町区三番町で出生、明(はる)と名付けられました(平塚らいてう年譜 「元始、女性は太陽であった」下巻 大月書店)。両親の最初の子為(いね)は夭折、二番目の姉は1885(明治18)年1月30日、孝明天皇祭の日に生まれたので孝(たか)と名付けられたのです。母が彼女を身ごもると、姉は母の乳から離されて、乳母が雇われました。
 のちに彼女が見た平塚家の系図によれば、三浦大介義明は相模国三浦の豪族で、鎌倉幕府に仕えたその一族の為重が箱根の賊を平らげた功績により、相模国平塚郷に三千町歩を賜り、三浦姓を平塚に改めたことが記録されています。

風雲戦国史―戦国武将の家紋―地方別戦国武将の家紋―地方別索引―関東地方―三浦氏

 豊臣秀吉が天下を統一したとき、為重から7代目の因幡守為広は岐阜垂井城主として、秀吉に仕えていましたが、関ヶ原の戦いで石田三成方について敗死、その弟越中守為景は捕えられましたが、許されて紀州の徳川頼宣に仕え、兄為広の遺児3人を紀州侯に仕えさせると、自身は退官出家、久賀入道と名乗りました。
 為景には子がなかったので、兄為広の遺児の末弟勘兵衛を養子とし、代々勘兵衛を名乗り、御旗奉行の役職を勤め七百石の知行を賜っていました。彼女の祖父に当たる勘兵衛為忠は明治維新の際に洋式訓練を受けた紀州兵の中隊長として、神戸外人居留地の保護に当たったそうです。
 1871(明治4)年の廃藩置県により、為忠は紀州を離れることを決意、先祖伝来の屋敷と全財産を先妻の長男と二人の娘に与え、後妻の八重と、その間に生まれた二人の子供を連れ、東京に出てきました。これが1872(明治5)年のことで、父定二郎の15歳のときのことでした。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 2

 父の話によると、このとき和歌山から東京に着くのに、汽船の故障などで5日もかかりました。祖父は当時陸軍の会計局長を勤めていた従兄津田出(いずる 紀州藩改革の功労者で岩倉具視に招聘される)を頼って、津田家の執事として彼の麹町下六番町の屋敷に住まわせてもらい、父も玄関番をしました。

和歌山県ふるさとアーカイブー紀の国の先人たちー「社会・政治」の先人たちー津田出

 津田出は役所が窮屈だといって、九段坂上の陸軍偕行社(陸軍将校の社交・互助を目的とした団体)をよく利用しました。父もそこへ手伝いにいくようになり、給仕のような仕事をしていたようです。この偕行社にドイツ語の出来る松見という紀州出身の人がいて、地位は低いのに軍人の間では重んじられていたので、父は自分もドイツ語で身を立てようと決心、松見にドイツ語を教えてもらい、やがて正則のドイツ語を教える駿河台の私塾に通うための学費を作るために豆売りなどもして苦労しました。やがて外国語学校に入るための学費約200円を祖父から出してもらい、1876(明治9)年神田一橋に開校されていた外国語学校(東京外国語学校 東京外国語大学の前身)を受験合格しました。

東京外国語大学―大学紹介ー大学の歴史ー大学の歩み  

 やがて卒業間近という時期に、以前から床についていた祖父の病気が長びいて、経済的に追いつめられ、やむなく同校を退学しようとしたところ、校長から才を惜しまれて、生徒から一躍教師に抜擢され、月給25円を給与されるに至りました。
 祖父の死後、父は官界に入り、農商務省・外務省を経て1886(明治19)年会計検査院に移り、翌年憲法制定に伴う会計検査院法制定の必要から院長に随行して、先進諸国の会計検査院法調査のため欧米諸国を歴訪しました。出発にあたり、院長は伊藤総理に呼ばれてプロシャ(ドイツ)の会計法を詳細に調べて来るよう命ぜられたということです。
 帰朝後父は1924(大正13)年66歳で官界を引退するまで40年間会計検査院に勤務し続けたのでした。
 父はいつも忙しかったのでしょうが、私生活では実に趣味がひろく、子供たちの遊び相手にもよくなってくれた、家庭的な父親でした。父は彼女を「ハル公」と呼び、末っ子の彼女が余程可愛かったのでしょうか、暇さえあれば彼女の相手になって遊んでくれました。五目並べや、お正月にはトランプの「二十一」・「ばばぬき」などをいつまでも倦きずに子供達の相手になって遊んでくれたものです。冬にはストーブや火鉢にあたりながら、グリムやイソップなどの童話を話してくれました。
 いまから考えてもおかしいのは、父が編物を上手にしたことです。彼女は小さな丸い手の甲にあかぎれが出来るので、父が、赤地に白い線をいれて、指が出るようになった手袋を編んでくれたのが気に入り、いつもそれをはめていたのを思い出します。「学校へいって、お父さんが編んだのだなんていうんじゃないよ」と笑いながら口どめされたところをみると、父としてはちょっと恥ずかしかったのでしょうか。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 3

 母は田安家(御三卿の一、徳川吉宗の3男宗武がたてた家柄)の御典医(将軍や大名に仕える医師)飯島芳庵の三女で父より5年後の1864(元治1)年に生まれました。飯島家の初代芳庵が若くして死去し、実子が幼少だったので、田安家の殿様の御声がかりで、同じ田安家の漢方医であった高野家から妻子とも養子に入り、二代目芳庵として典医の職をついだのだそうです。
 母の生家飯島家は代々江戸住まいで本郷丸山町に大きな屋敷があり、暮らし向きも豊かでした。飯島家の末娘であった母は寺子屋で読み書き算盤を習い、踊りは五つぐらいから稽古したらしく、常磐津(ときわず 浄瑠璃の流派)は数え年十七歳で結婚する前に名取り(音曲・舞踊などを習うものが師匠から芸名を許されること)になっていました。

歌舞伎へのお誘いー歌舞伎の表現―音による表現―常磐津節


 その飯島家から、母が津田家の長屋住まいをしている父のところへ嫁いだのは、父の人物に芳庵が惚れこみ、末娘をくれる気になったからでした。
 江戸育ちの母は祖母の紀州弁がわからず、父は遊芸の雰囲気を好まなかったようで、せっかく嫁入り道具に持ってきた二丁の三味線を、納戸(なんど 屋内でとくに衣服・調度などを納める室)の奥にかけたまま一度も弾くことをゆるされませんでした。小姑の父の妹も同居していましたので、母はその育った時代の女の生き方として自分を殺すことに努めたような人でしたが、父からは、しとやかな美しい妻として愛されていたに違いありません。母の遺品の中に、母が若いころ習っていた茶の湯の本で、父が筆記してやったものが残っています。
 父が欧米巡遊に出かけていたころ、母は文明開化の先端をゆく官吏の家庭の主婦として、自分を再教育するために、家からあまり遠くない中六番町にあった桜井女塾[校長 矢島楫子(「田中正造の生涯」を読む22参照) 後の女子学院]に通い英語の勉強を、また一ツ橋の女子職業学校に洋裁や編物や刺繍などを学びに通ったりしていたので、彼女は自然と祖母の世話になることが多くなりました。
 当時の彼女の家は欧化主義の全盛時代のことでもあり、洋間の父の書斎には天井から大きな釣りランプが下がり、ストーブをたき、母は洋服を着て、ハイカラな刺繍や編物をするという雰囲気だったのに比べて、母の実家の古めかしい空気や貞庵(母の義理の兄)の奥さんが長火鉢の前で煙管(きせる)で刻み煙草を吸う姿が異様な印象として思い出されます。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 4

 母が学校に出かけて留守の間、幼いわたくしたち姉妹の遊び相手になってくれるのは祖母の八重でした。祖母が紀州のどんな家の出身かは知りませんが、生まれ年は1833(天保4)年だったと思います。どこか堅苦しく、いつも取り澄ました感じの母にくらべて、祖母は開けっぴろげで庶民的で、身なりなどもいっこうに構おうとしません。
 読み書きは得意でなく、耳学問で知識をこやしてきた人でしたが、淘宮(とうきゅう)術の木版和綴じの本だけは、かなり熱心に読んでいるのをよく見かけました。

発祥の地コレクションー東京文京区―淘宮術(文京区)−淘宮術発祥之地


 母が学校に出かけて留守の間、彼女たちは祖母に連れられて、招魂社(靖国神社の前身)の境内にあそびにゆくのが日課でした。彼女は祖母に背負われ、姉は乳母が背負いました。ときには大村益次郎の銅像の建っている馬場を抜けて富士見小学校のあたりまで行きます。その途中に、みんなが琉球屋敷とよんでいる琉球王尚(しょう)家の邸宅があり、その前を通ると、髪をひっつめに結って長い銀のかんざしをさし、左前に着物を着た男の琉球人の歩いている異様な姿を、よく見かけたものでした。
 招魂社の表通り、つまり九段坂上の通りに絵草紙屋があって、この店先には欠かさず立ったものでした。彼女が祖母にせがんでよく出かけたのは千鳥ヶ淵の鴨の群れの見物でした。
 少し遠出をするときは、お猿のいる山王様(日枝神社)にも行きましたが、数寄屋橋を渡って、銀座の松崎へ、月に1回くらいお煎餅を買いにゆくのも楽しみの一つでした。松崎の帰り道は、かならずお堀端の青草の上、柳の木陰で一休みして、お堀端に浮かぶ鴨を見ながら、そこでお煎餅の一、二枚を食べることにしていました。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 5

 1890(明治23)年春、数え年5歳で、富士見町6丁目の富士見小学校付属富士見幼稚園に入りました。最初しばらくは祖母の送り迎えで、あとは姉といっしょに、招魂社の馬場を通りぬけて通うことになりました。
 幼稚園に通う彼女たち姉妹の服装は、ふだんはたいてい洋服に靴、帽子という格好ですが、式の日にはちりめんの友禅の着物に、紫繻子の袴をはいたりします。それでいて履物は、いつもの編みあげ靴、それにラシャで出来たつばのある帽子をかぶったりしたのですから、、いまから思うとずいぶんおかしな格好をしたものでした。そのころ、洋服はまだ珍しく、洋服で通ってくるのは、九段坂上の富士見軒という洋食屋の娘で、青柳さんという子と、お母さんがドイツ人の高橋オルガさんという子と彼女たちぐらいなものでした。
 こうした集団生活の中に入ってみると、生まれつきはにかみ屋で孤独を好む性格が一層はっきりしました。他の子どもが愉快そうに遊んでいるとき、彼女は片隅で、ただそれを見ているのです。こうした引っ込み思案の性格は、もって生まれたものと、一つには声帯の発達が不均等で声の幅が狭く、大きな声がどうしても出せないところからもきていたようです。
 1892(明治25)年彼女は富士見小学校へ入学しました。そのころは、今のように、家で勉強するようなことはなく、家でやることといえば、手習いといっていた習字の稽古くらいのことで、予習、復習などしたことがありません。受持の先生はたしか高橋先生という男の先生で、なんとなく動作や話の仕方に活気がなく、そのうえ、学課もやさしいことばかりなので、学校もあまり楽しくありませんでした。学校の記憶はほとんど薄れてしまいましたが、招魂社を中心にした学校の往き帰りのことは、いまだによく覚えております。お能をはじめて見たのも、相撲というものを知ったのも、招魂社でのことでした。

千代田区立富士見小学校―沿革  

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 6

 三番町界隈に芸者屋が多くなり、父はもっと閑静な土地を求めて、1894(明治27)年家を解体し本郷駒込曙町13番地に移転、この辺鄙(へんぴ)な駒込の地を選んだわけは、父がその年から、駒込追分町にある一高(東大教養学部の前身)で、ドイツ語を教えることになったからで、そのため彼女は本郷西片町の誠之小学校へ転校しました。

文京区立誠之小学校―学校紹介―誠之小学校の歴史

 富士見小学校は女の先生が多かったのに、誠之は裁縫の先生を除いて、男の先生ばかりでした。受持の先生は二階堂先生といって、色黒で鼻が高く、中背のがっちりした好青年でしたが、大きな声で子どもたちの名前を呼びつけにし、こちらも大声で「ハイッ」とすぐ元気よく答えないと叱られるのでした。
 紀元節とか天長節の挙式は、いつも戸外の運動場で、寒風の中で行われました。校長先生が教育勅語を読みおえるまで、、頭だけ下げて、じっと耐えていなければならないのでした。このころの子どもには、それがあたり前でもあったのです。そして「今日のよき日は大君の…」などを声のかぎりうたい、小さな鳥の子餅の包みをだいて、大喜びで家へ帰るのでした。

四大節  

 学課はまったく楽なもので、富士見小学校と同じように、勉強はほとんどしませんでしたが、たいてい総代を通しました。
 いまにして思えば、二階堂先生は彼女の非社交的な性格や、自由の世界を内部に求めようとする求心的な性向を、一番早く発見してくれた人といえましょう。お手玉や手まり、おはじきなどの遊びもさかんでした。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 7

 当時は日清戦争のさなかで、世を挙げて軍国調の時代でした。大勝利を祝う提灯行列など、で、子どもたちはみんな戦争のことをよく知っていました。
 突然二階堂先生が兵隊にとられたと聞いたときは、みんなびっくりしました。ところが、しばらく学校に見えなかった先生が、ある日堂々たる近衛兵(このえへい 天皇の親兵)の美しい軍服姿で、学校に現れました。こんなときにもはにかみ屋の彼女はだまってはなれたところから先生をなつかしく眺めたことでした。
 もう一つこの先生で忘れられないことは、遼東半島還付について、教室でなにかの時間にとくに話をされたときのことです。戦勝国である日本が、当然、清国から頒(わ)けてもらうべき遼東半島を露、独、仏の三国干渉のため、涙をのんで還付しなければならなくなった事の次第を、子どもにもわかりやすく諄々と説き、「臥薪嘗胆」と黒板に大きく書いて、子どもたちに強く訴えられたのでした。日清戦争の思い出が、いまだに日露戦争よりもはるかにあざやかなのは、この二階堂先生の影響が少なからずあったのでしょう。

語語源由来辞典―検索―臥薪嘗胆 

 彼女の家に「為平塚大兄」として、伊藤博文の書が掛軸になって残っておりますが、それは1895(明治28)年10月31日は、日本が清国からの償金の第一回の払い込みをロンドンでで受取った日(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む5参照)で、晩年の父の話ですと、その日会計検査院の渡辺院長が、総理大臣伊藤博文をはじめ、陸海両軍の各大臣、次官、、会計局長などを芝の紅葉館に招待して、日清戦役関係の軍事費の検査状況を報告し、そのあとで祝宴を開いたその席上、父の請いをいれて書いてくれたものとのことでした。
 おそらくこのとき、戦勝のかげの犠牲者―戦死者や戦傷者のこと、その遺家族のことなど、その席にいるだれ一人として、思い浮かべてもみなかったことでしょう。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 8

 1898(明治31)年4月、彼女はお茶の水にあった東京女子高等師範学校付属高等女学校へ入学しました。誠之では、組の大半が小学校卒業だけでやめ、お茶の水に入ったのは彼女だけ、ほかに二人ほど、小石川竹早町にあった府立の高女に入りました。
 そのころの女学校といえば、お茶の水や府立高女のほかに、上流の子女のための華族女学校(後の学習院女子部)、私立の虎の門女学館、跡見女学校、明治女学校、横浜のフェリス女学校などで、高女以上では女高師と男女共学の上野の音楽学校の二つしかありませんでした。
 女高師付属のお茶の水女学校へ入ったのは、自分から志望したのではなく、父のいいつけに従ったまでで、女学校へ入学したことを、とくにうれしいとも思いませんでした。試験は学課一通りのほかに、裁縫の実技まであって、袷(あわせ)の右の袖を縫わされました。学課試験についてなにも思い出せないのは、みんなやさしい問題ばかりだったからでしょう。

お茶の水女子大学附属高等学校―学校紹介―学校概要

 そのころは制服というものがなく、和服に袴と靴というのが、女学生一般の服装でした。お茶の水の生徒は、上中流の家庭の子女がほとんどで、彼女の組にも何人かの大名華族のほかに、明治新政府に勲功のあった新華族―いわゆる軍閥、官僚、政商というような人たちの娘が大勢いました。
 女学校へ入ってからも、彼女は発育がわるく、全体としてよほどおくてだったのでしょう。担任の矢作先生が初潮の話をしてくれたのが、なんのことかさっぱりわかりませんでした。むろん、異性への興味などあろう筈もありません。
 祖母は彼女の眉頭にほんの二、三本の柔らかい毛が逆生えしているのまでちゃんと見つけて、これは目上の人のいうことを「ハイ」と素直に聞くことのできない性分で、女にはよくない相だと、たびたび彼女にいい聞かせたものでした。後年の自分のあるいた道を思うと、祖母の人相術に思いあたるふしもありますが、祖母は早くから、孫の人となりを予見していたのでしょうか。 

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む 9

 お茶の水に進学してからも、唱歌を除いて、学校の課目はどれもやさしく、成績も一番か二番を下ることはありませんでした。
 英語は自由課目ですが、英語をやらないものは、その時間を裁縫にあてられていて、彼女は父や母の考えからでしょうが、裁縫をやらされていました。それが二年生か三年生かのときに、どうしても英語が勉強したくなり、姉といっしょに学校外で、個人教授の先生について習うようになりました。
 とにかく自分からいいだして英語を習ったことは、自発的に両親に頼んでやった、はじめてのことでした。おそらくそれは、当時の父の復古思想に対する、彼女の最初の、無意識の反抗であったかもしれません。
 彼女が女学校に入学した明治三十年代前後は、鹿鳴館時代を頂点とした欧化主義からの反動期で、万事が復古調の世相となり、彼女の家でも、日清戦争の少し前ころから、今まで洋間だった父と母の居間が畳敷きとなり、洋装、束髪で、前髪をちぢれさせていた母が丸髷を結うようになり、姉と彼女も、洋服から紫矢絣の着物に変えて、稚児髷を結うという変わりようでした。 

いこまいけ高岡―周辺の市町村の見所―氷見市―まるまげ祭りー丸髷

ニッポンつれづれ帖―ブログ内検索―稚児髷  

 教育勅語がでたのは1890(明治23)年でしたが、その後2、3年して彼女の家からは、半裸体のような西洋美人の半身像の額が消え、教育勅語(「大山巌」を読む29参照)の横額が掲げられるようになりました。
 1898(明治31)年には、明治23年に公布されて以来、「民法出デテ忠孝滅ブ」[ボアソナード民法草案を批判した穂積八束論文(『法学新報』5号 明治24年8月刊)の題名]と非難され、その施行が無期延期となったボアソナード(「大山巌を読む26」参照)案の民法にかわって、新民法が実施されました。さらに1900(明治33)年には「治安警察法」(「日本の労働運動」を読む18参照)が生まれ、いっさいの政治活動から女性がしめ出され、封建的家族制度と政治的不平等に苦しめられることになりますが、このような時代の空気が、父の女子教育に対する態度にも反映したに違いありません。
 文部省直属のお茶の水女学校では日本の家族制度維持を根本思想として、徹底した良妻賢母主義教育が行われていました。1899(明治32)年に出された高等女学校令には、学問や知識、教養よりも、家庭生活に直接役立つもの、裁縫、家政、手芸、行儀作法、芸能を重視するという、その教育内容が、はっきりと掲げられています。
 受持の矢作先生からから受けた授業は、世にもあじけない、心と心のふれ合いのないものでした。すべての学課を、形式的に教科書どおりに教え、教科書にあることを丸暗記させるだけで、生徒が自発的に考えたり、興味をもって勉強してゆくような教え方ではないのでした。あれほど索漠とした授業に、よくみんな辛抱したものだと思いますが、あの時代の娘たちは、それに疑問をもつこともなかったのでした。
 とくに運動好きというわけでもない彼女が、三年生のころからテニスに熱中しはじめたというのは、、一つには、学課のつまらなさの反動であったのかもしれません。

平塚らいてう自伝「元始、女性は太陽であった」を読む10

こんななかで、彼女はいつか数人の親しい友達をもつようになりました。この仲間は、結婚などしないで、なにかをやってゆこうという気持に、つよく燃えていました。
 彼女たちは因習的な結婚に反発し、つくられた女らしさに反抗して、わざと身なりを構わず、いつも真黒な顔をしていました。
 いつも伸びよう伸びようとする心の芽を、押えつけられているような気分で、学校生活を送っていた彼女たちは三年生の歴史に時間に「倭寇(わこう)」の話を聞いて、その雄大、奔放な精神にすっかり感激してしまいました。やがて彼女たちは、自分たちのグループを「海賊組」と命名しました。彼女はそのころから、授業のなかでもっとも反発をおぼえる「修身の時間」をボイコットするようになりました。
 修身は矢作先生の受持ちですが、女(おんな)大学式のひからびた内容の教科書(例えば山内一豊の妻の話など)を、ただ読んでゆくだけの講義に、つくづく退屈したからでした。

寉渓書院―江戸思想史への招待-―江戸の教育思想に学ぶー5.江戸時代の女性用教科書

 おそらくこの退屈な授業に耐えられなかったのは、彼女一人ではなかったと思いますが、授業を欠席するというような、思いきったことをする生徒は、彼女一人だけでした。修身という大切な授業をボイコットしながら、あの厳しい矢作先生から、ふしぎなことに、彼女は一度も叱られませんでした。ふだんから温和しく、成績もよかった彼女は、多分、先生の気にいるような生徒だったのでしょう。
2014-10-10 05:24 | 記事へ | コメント(1) |
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江宮隆之「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯ーを読む(A)11〜20
2014年04月11日(金)
江宮隆之「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―を読む(A)11

 1915(大正4)年1月加藤高明外相の訓令にもとづき、日置益駐華公使は中華民国大総統袁世凱に5号21ヵ条要求を提出、秘密交渉とするよう求めました。5月4日閣議は21ヵ条要求から第5号を削除、5月7日日置公使は最後通牒(自国の最後的要求を相手国に提出して、それが容れられなければ、自由行動をとるべき旨を述べた外交文書、通常一定期限を付ける)を中国政府に交付、同年5月7日中国政府は日本の要求を承認、同月25日21ヵ条要求に基づく日中条約並びに交換公文に調印しました(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む17参照)。

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 これに対して吉野作造は列強と並んだ日本の中国分割参加を積極的に支持していましたが(松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造 9参照)、湛山は露骨なる領土侵略政策の敢行は帝国百年の禍根をのこすものと批判して次のように述べています。
 「(前略)そもそも我が対支要求の内容はこれであると、未だ当局からの明示には接せぬが、内外の新聞に各様に報ぜられたものによって、ほぼ想像は出来る。(中略)欧洲列強が自分の火事に全力を傾け、他を顧みるの遑(いとま)なきに乗じて、(中略)南満および福建に、我が立場を確立する要求を支那に持ち出したのである。(中略)
 しかしながら、いかに支那が積弊の余の衰弱国であるとしても、(中略)かような大胆な希望が、(中略)果して無事に、安々と、実現し得られるものであろうか。(中略)吾輩はこの点において大疑問がある。(中略)
 支那の独立や、支那人の希望の如き、毫(ごう)も眼中に置くの要なし、これを破却し、蹂躙(じゅうりん ふみにじる)して可なりというのであろうか。(中略)
 もしも、支那が(中略)わが要求の大部分を容れたらば、吾輩は意外なる局面を惹起(じゃっき)して来はせぬかを恐れる。(中略)これらの諸国(欧米列強)は日英同盟破毀を手始めに、何国かをして、日本の頭を叩かせ、(中略)それとも連合して日本の獲物を奪い返す段取りに行くのではなかろうか。(中略)
 その直接の責任は(中略)大隈首相と加藤外相の失策にあるといわねばならぬ。」(「禍根をのこす外交政策」東洋経済新報 大正4.5.5号 社説 松尾尊~編「石橋湛山評論集」岩波文庫)

江宮隆之「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―を読む(A)12

 1916(大正5)年、雑誌「中央公論」1月号に吉野作造は論文「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済すの途を論ず」を発表、いわゆる民本主義の主張を展開しました(松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造10参照)。
 吉野によれば、民主主義とは「国家の主権は法理上人民に在るべし」という意味で、民本主義とは「国家の主権の活動の基本目標は政治上人民に在るべし」という意味に用いられる。
 かかる意味で唱えられる民主主義は我が国で容れることのできない危険思想であるが、民本主義の精神は、明治初年以来我が国の国是であったとし、我が国における国民主権論を否認したのです(「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造16参照)。
 これに対して湛山は、吉野が民本主義論を展開したとほぼ同時期に、山川均に代表されるような社会主義者とは異なった観点からの国民主権論を次のように論述しています。「(前略)代議政治を以て、君主もしくは貴族から、民衆が主権を奪うたものと言うけれども、私の見解を以てすれば、そうではない。元来主権は国民全体にあったのである。それをただ円滑に働かしむるものが代議政治である。(後略)」(「代議政治の論理」東洋経済新報 大正4.7.25号 時論 松尾尊~編「石橋湛山評論集」岩波文庫)
 このような国民主権の立場から、湛山は帝国議会常設の必要を説いて、次のように主張するのです。「(前略)吾輩は、我が帝国議会の会期を三ヵ月とせる現在の規定を改めて十二ヶ月とし(即ち一年中常設)、ただ議事なき場合には議会自ら休会することに致したい。
(中略)もっとも帝国議会の会期をかく改むるには、憲法の改正を要する。即ちその第四十二条に「帝国議会ハ三箇月ヲ以テ会期トス必要アル場合ニ於テハ勅命ヲ以テ之ヲ延長スルコトアルヘシ」とあるを、「帝国議会ハ十二箇月を以テ会期トス」とせねばならぬ。(中略)
憲法の改正は勅命による必要あり、(中略)あるいは断行に躊躇する向きもあろう。(中略)国民の希望にして、而して善事なれば、勿論勅命も賜ること疑いない。」(「帝国議会を年中常設とすべし」東洋経済新報 大正5.8.15号 社説 松尾尊~編「石橋湛山評論集」岩波文庫)

江宮隆之「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―を読む(A)13

 1917(大正6)年ロシア革命が起こり、同年11月レーニンの指導するボルシェヴィイキ政権が樹立されました。これに対してアメリカならびに日本など連合国は1918(大正7)年チェコ軍救出を名目にシベリア出兵を敢行するに至りました(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20参照)。
 これに対して湛山はシベリア出兵に反対して次のように主張しています。「(前略)露国の問題に関し、何よりもまず我が国民の注意を乞いたいは、やはり同国の革命の性質である。幾十百年の間、他国民のほとんど想像だも出来ぬ激しさを以て圧伏せられて来た農民労働者が、一時にその圧迫を蹴破って起ったのが、今回の露国の革命である。不孝にして露国の農民労働者には教育が足りない。民衆政治の訓練が足りない。(中略)彼らは(中略)勝手次第に地主の土地財産を強奪分配せるが如き、その一例である。(中略)
 これさえ改まれば、即ちそこに統一は生じ、そこに混乱は終熄(しゅうそく)する。しかしながら、そは果して外国の圧迫で、能く行い得る処であろうか。(中略)今の露国で反革命党を援け、あるいは革命党を圧迫するのは、あたかも明治維新の際、幕府を援け、討幕党を圧迫するのと異ならない。(中略)ただ彼らの首領たる識者の努力に待つより他に途はない。
 故に吾輩はいう。過激派を承認しろ過激派を援けろと。(中略)ここに疑うべからざる一の事実は、(中略)露国の主権は、過激派政府が握っておることである。(中略)無名の兵を露国に出だし、露国民の憤激を買うが如きは絶対にすべからざる事である。もしそれ過激派政府が、恣(ほしいまま)に戦争を熄(や)めたという非難にに対しては、吾輩は、戦争を熄めたは一過激派政府の所為にあらずして、実に露国の実情がこれを熄めざるを得ざらしめたものと見る。(後略)」(「過激派政府を承認せよ」大正7.7.25号 東洋経済新報 社説 松尾尊~編「石橋湛山評論集」岩波文庫)

江宮隆之「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―を読む(A)14

 1918(大正7)年夏、シベリア出兵とほぼ同時に起こった米騒動(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20参照)について、湛山は次のように述べています。
 「(前略)政府ならびにいわゆる官僚政治家の多くは、米騒動を以て単純に米価の騰貴に帰し、米価さえ引き下げれば、それで万事解決、(中略)今後再び騒擾を起し得ぬように、騒擾犯者を厳罰に処して今後を懲(こ)らすべしなどというものさえある。(中略)
もし今日の我が思想界に危険なものがありとすれば、これに優るものはない。(中略)
 しからば米価は何が故にかくの如く暴騰をしたのか。(中略)米価の狂騰は即ち全く政府の愚劣なる輸出奨励の作出した思惑の結果と見るほかに説明のしようがないのではないか。
(中略)その結果は大多数の無産者の犠牲を以て、少数有産者に利益を与うることになる。
(中略)今回の事件は(中略)有産対無産の階級戦の大烽火を挙げたるの観さえある。されば吾輩は(中略)単に米騒擾に過ぎずなどと軽視し、もしも多数を騒擾罪に問うて懲罰に付する如きあらば、かえって由々しき結果を惹起するに至るべきを深く恐るるものである。」
(「騒擾の政治的意義」東洋経済新報 大正7.9.5号 社説 松尾尊~編「石橋湛山評論集」岩波文庫)
 1918(大正7)年1月、米大統領ウイルソンが掲げた14カ条の提案(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む19参照)における民族自決主義の呼びかけは大きな感動をよびました。パリ講和会議が開催された1919(大正8)年、3月に起こった朝鮮の独立を要求する三・一運動(松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造26〜27参照)について湛山は次のように論述しています。
 『(前略)在鮮邦人について、這次(しゃじ)暴動(三・一運動)に関する所感を叩け。(中略)彼らはいう、「(前略)群衆が団を成して喧騒はしたが、暴力を訴うる元気も憤激も看取し得なんだ。あれで何が出来るものか」と。(中略)彼らはまた眉を顰(ひそ)めて、鮮人のために日本婦人の辱めらるるもの続出するので、婦人の夜出を戒め居る旨を語りながら、これを単に鮮人の悪習に帰して居る。(中略)
およそいかなる民族といえども、他民族の属国たることを愉快とする如き事実は古来ほとんどない。(中略)衷心から日本の属国たるを喜ぶ鮮人はおそらく一人もなかろう。故に鮮人は結局その独立を回復するまで、我が統治に対して反抗を継続するは勿論、(中略)その反抗はいよいよ強烈を加うるに相違ない。(中略)
  もし鮮人のこの反抗を緩和し、無用の犠牲を回避する道ありとせば、畢竟(ひっきょう)鮮人を自治の民族たらしむるほかにない。しかるに(中略)鮮人の暴動を見て、鮮人元気なし、腰抜けなり、というて、鮮人の暴動を軽侮し、はた鮮人の日本婦人凌辱を、(中略)単なる悪習と見去る如きは、何という無反省のことだろう。(中略)はたまた鮮人の生活を奪い居ることに気が注(つ)かぬのか。かくの如き理解の下には、断じて何らの善後策もあり得る訳がない。』(「鮮人暴動に対する理解」東洋経済新報 大正8.5.15号 社説 松尾尊~編「石橋湛山評論集」岩波文庫)
 同年東洋経済新報社に入社した高橋亀吉は、記事を書いても湛山から文章が下手だと酷評され、屑かごに棄てられる有様でした。しかし同社の編集会議では編集記者たちが取材したテーマを自由に討論する気風に富み、湛山が編集長となってから、その気風は一段と活発になり、高橋はここで実力を養うことができたのです(鳥羽欽一郎「生涯現役―エコノミスト高橋亀吉」東洋経済新報社)。

東洋経済新報社 創立115周年記念サイトー湛山・亀吉のプロフィールー石橋湛山 高橋亀吉

 米騒動をきっかけに、同年再び普選運動が盛り上がり(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20参照)、普通選挙期成同盟会なるものが数寄屋(すきや)橋付近の小さなレストランの二階に設けられ、3月1日には、日比谷の音楽堂前広場で国民大会を開き、そこから直ちに示威行列を行って、銀座を通過し、二重橋前で万歳を三唱して散会しました。湛山は当時「東洋経済新報」の仕事が忙しくて、街頭運動に参加することは好まなかったのですが前々からの関係もあって引っ張り出されました。
 「しかし日本の普通選挙は、あまりにもおくれておこなわれた。(中略)せめて大正七、八年ごろ、諸政党が(中略)普選実行の決意をいだいたら、日本の民主主義はその時代にもっと固まり、したがって、昭和六年以後軍閥官僚が再びその勢力を盛り返すがごとき不幸を防ぎ得たかもしれない。」(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫)

江宮隆之「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―を読む(A)15

 1921(大正10)年米大統領ハーディングの提唱により軍備制限ならびに太平洋・極東問題を議題とするワシントン会議が開催され、我が国も参加しました(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む24参照)。

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 このワシントン会議について湛山は次のように述べています。「(前略)在朝在野の政治家に振り向きもせられなんだ軍備縮少会議が、ついに公然米国から提議せられた。おまけに、太平洋および極東問題もこの会議において討議せらるべしという。(中略)吾輩は欧州戦争中から、必ずこの事あるべきを繰り返して戒告し、政府に国民に、その政策を改むべきを勧めて来た。(中略)
 我が国の総ての禍根は、(中略)小欲に囚(とらわ)れていることだ、(中略)我が国民には、その大欲がない。朝鮮や、台湾、支那、満州、またはシベリヤ、樺太等の、少しばかりの土地や、財産に目をくれて、その保護やら取り込みに汲々としておる。(中略)彼らには、まだ、何もかも棄てて掛れば、奪われる物はないということに気づかぬのだ。(中略)
 例えば満州を棄てる、山東を棄てる、其の他支那が我が国から受けつつありと考うる一切の圧迫を棄てる、(中略)また例えば朝鮮に、台湾に自由を許す、その結果はどうなるか。
英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。何となれば(中略)その時には、支那を始め、世界の小弱国は一斉に我が国に向って信頼の頭を下ぐるであろう。インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、其の他の列強属領地は、一斉に、(中略)我にも自由を許せと騒ぎ立つだろう。(中略)
 以上の吾輩の説に対して、あるいは空想呼ばわりする人があるかも知れぬ。(中略)しかしかくいうただけでは納得し得ぬ人々のために、吾輩は更に次号に、決して思い煩う必要なきことを、具体的に述ぶるであろう。」(「一切を棄つるの覚悟」太平洋会議に対する我が態度 東洋経済新報 大正10.7.23号 社説 松尾尊~編「石橋湛山評論集」岩波文庫)

江宮隆之「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―を読む(A)16

「(前略)吾輩の議論(前号に述べた如き)に反対する者は、、多分次の二点を挙げて来るだろうと思う。
 (一)我が国はこれらの場所を、しっかりと抑えて置かねば、経済的に、また国防的に自立することが出来ない。少なくも、そを脅(おびや)かさるる虞(おそ)れがある。
 (二)列強はいずれも海外に広大な殖民地を有しておる。しからざれば米国の如くその国自らが広大である。而して彼らはその広大にして天産豊なる土地に障壁を設けて、他国民の入るを許さない。この事実の前に立って、日本に独り、海外の領土または勢力範囲を棄てよというは不公平である。
 (中略)第一点より論ぜん。朝鮮・樺太・台湾ないし満州を抑えて置くこと、また支那・シベリヤに干渉することは、果して我が国に利益であるか。(中略)まず経済上より見るに、けだしこれらの土地が我が国に幾許(いくばく)の経済的利益を与えておるかは、貿易の数字で調べるが、一番の早道である。今試みに大正九年(1920)の貿易(朝鮮及び台湾の分は各同地の総督府の調査、関東州の分は「本邦貿易月表」に依る。当ブログの筆者、本文掲載の統計数字を省略)を見るに、我が内地および樺太に対して、この三地(朝鮮・台湾・関東州)を合せて、昨年我が国はわずかに九億余円の商売をしたに過ぎない。同年、米国に対しては輸出入合計十四億三千八百万円、インドに対しては五億八千七百万円、また英国に対してさえ三億三千万円の商売をした。(中略)
 もし経済的自立ということをいうならば、米国こそ、インドこそ、英国こそ、我が経済的自立に欠くべからざる国といわねばならない。(中略)
 しからばこれらの土地が、軍事的に我が国に必要なりという点はどうか。軍備については、(中略)(一)他国を侵略するか、あるいは(二)他国に侵略せらるる虞れがあるかの二つの場合のほかにはない。他国を侵略する意図もなし、また他国から侵略せらるる虞れもないならば、警察以上の兵力は、海陸ともに、絶対に用はない。(中略)
 しかしながら吾輩の常にこの点において疑問とするのは、既に他国を侵略する目的でないとすれば、(中略)一体何国から我が国は侵略せらるる虞れがあるのかということである。(中略)我が国を侵略する虞れがあるとすれば、(中略)戦争勃発の危険の最も多いのは、むしろ支那またはシベリヤである。(中略)さればもし我が国にして支那またはシベリヤをを我が縄張りとしようとする野心を棄つるならば、満州・台湾・朝鮮・樺太等も入用でないという態度に出づるならば、戦争は絶対に起らない(中略)。」(「大日本主義の幻想」一
東洋経済新報 大正10.7.30号 社説 松尾尊~編「石橋湛山評論集」岩波文庫)

江宮隆之「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―を読む(A)17

 「(前略)前号の吾輩の議論では、なおその証明足らずという人があるかも知れぬ。例えば内地との貿易額は、なるほど比較的僅少(きんしょう)であるかも知れぬが、(中略)それらの地方に内地人が移住して生活しておる者もある、それが多いならば、仮令(たとい)内地との貿易額は少なくとも、以てそれらの地方を経済的に価値なしとはいえぬであろうと。
(中略)最近の調査(大正七〜八年 当ブログの筆者統計数字を省略)によるに、内地人にして台湾・朝鮮・樺太・関東州を含める全満州・露領アジア・支那本部に住せる者は総計八十万人には満たぬ。これに対して我が人口はは明治三十八(1905)年日露戦当時から大正7(1918)年末までに九百四十五万の増加だ。(中略)九百四十五万人に対する八十万人足らずでは、ようやく八分六厘弱に過ぎぬ。(中略)内地に住む者は六千万人だ。八十万人の者のために、六千万人の者の幸福を忘れないが肝要である。
 一体、海外へ単に人間を多数送り、(中略)人口問題を解決しようなどいうことは、間違いである。(中略)悪くいうなら、資本と技術と企業脳力とを持って行って、先方の労働を搾取(エキスプロイット)する。もし海外領土を有することに、大なる経済的利益があるとするなら、その利益の来る所以は、ただここにある。(中略)
 しかし世の中には、以上の議論を以てしても、なお吾輩の説に承服せぬ者があるであろう。(中略)それは仮りに彼らの盲信する如く、大日本主義が、我に有利の政策なりとするも、そは今後久しきにわたって、とうてい遂行し難き事情の下にあるものなること、これである。
(中略)思うに今後は、いかなる国といえども、新たに異民族、または異国民を併合し支配するが如きことは、とうてい出来ない相談なるは勿論、過去において併合したものも、漸次これを解放し、独立または自治を与うるほかないことになるであろう。(中略)即ち大日本主義は、いかに利益があるにしても、永く維持し得ぬのである。
 (中略)また軍事的にいうならば、大日本主義を固執すればこそ、軍備を要するのであって、これを棄つれば軍備はいらない。(中略)吾輩は次に、前号所掲の論者の第二点に答うるであろう。」(「大日本主義の幻想」二 東洋経済新報 大正10.8.6号 社説 松尾尊~編「石橋湛山評論集」岩波文庫)

江宮隆之「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―を読む(A)18

 「吾輩の主張に対する反対論の第二点は、列強が広大なる殖民地または領土を有するに、日本に独り狭小なる国土に跼蹐(きょくせき 身の置き処のない思い)せよというは不公平であるという論である。
(中略)吾輩が我が国に大日本主義を棄てよと勧むるは決して小日本の国土に跼蹐せよとの意味ではない。これに反して我が国民が、世界を我が国土として活躍するためには、即ち大日本主義を棄てねばならぬというのである。(中略)しかしながら世界には現前の事実として、大なる領土を国の内外に所有し、而して他国民のここに入るを許さぬ強国がある。されば日本もまた彼らと競争して行くがためには、どこかに領土を拡げねばならぬではないかという論の起るのも、一応もっともでないではない。
 これに対しては、吾輩は三つの点から答える。第一は前すでに説ける如く今になってはもはや我が国は(中略)四隣の諸民族諸国民を敵とするに過ぎず、実際において何ら利する処なしということこれである。第二は(中略)列強の過去において得たる海外領土なるものは、漸次独立すべき運命にある、(中略)第三は我が国は(中略)列強にその領土を解放させる策を取る(中略)例えば我が国が朝鮮・台湾に自治を許し、あるいは独立を許したりとせよ、英国は果してインドや、エジプトを今日のままに行けようか、米国はフィリピンを今日のままにして置けようか。(中略)道徳はただ口で説いただけでは駄目だ。(中略)他人に構わず、己れまず実行する、ここに初めて道徳の威力は現わるる。ヴェルサイユ会議において、我が大使が提案した人種平等待遇問題(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21参照)の如き、わけもなく葬り去られた所以はここにある。我が国は、自ら実行していぬことを主張し、他にだけ実行を迫ったのである(鈴木文治「労働運動二十年」を読む18参照)。(中略)
 かくいわば、あるいはいうであろう。仮りに列強いずれも、その海外領土は解放するとするも、なお米国の如き自国の広大なる処がある。また解放せられたるそれぞれの国も、あるいは皆その国境を閉じて、他国の者を入れぬかもしれぬ。これらに対してはどうすると。
これについては吾輩は次の如く答うる。(中略)それは移民についての話である。商人が、米国内で商業を営むに、何の妨げもない。(中略)一人の労働者を米国に送る代りに、その労働者が生産する生糸をまたはその他の品を米国に売る方が善い。(中略)
 あるいはいうかも知れぬ。自国の領土でなければ、そこで或る種の産業は営むことが出来ぬ。例えばいずれの国でも鉱業の如きは、外国人の経営するを許さない。あるいは仮りに経営し得たりとするも、少しくそれが盛んになれば、何のかのというて妨げられる。あたかも米国における日本人の農業の如き、それであると。これはいかにももっともの苦情である。
(中略)しかし吾輩の見る処によれば、(中略)なお外国人が、経済的に、そこに活動する範囲は相当に大きく開かれておる。(中略)仮令種々の制限はあるにしても、資本さえあるならば、これを外国の生産業に投じ、間接にそれを経営する道は、決して乏しくないのである。(中略)しからば則ち我が国は、いずれにしてもまずその資本を豊富にすることが急務である。(中略)而してその資本を豊富にするの道は、ただ平和主義に依り、国民の全力を学問技術の研究と産業の進歩とに注ぐにある。(中略)
 以上の諸理由により吾輩は、我が国が大日本主義を棄つることは、何らの不利を我が国に醸さない。否(中略)かえって大なる利益を、我に与うるものなるを断言する。(中略)
もし(中略)米国が横暴であり、あるいは英国が驕慢(きょうまん おごりあなどる)であって、東洋の諸民族ないし世界の弱小国民を虐ぐるが如きことあらば、我が国は宜しくその虐げらるる者の盟主となって、英米を膺懲(ようちょう こらしめる)すべし。(中略)今回の太平洋会議は、実に我が国が、この大政策を試むべき、第一の舞台である。」(「大日本主義の幻想」三 東洋経済新報 大正10.8.13号 社説 松尾尊~編「石橋湛山評論集」岩波文庫)

江宮隆之「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―を読む(A)19

 1922(大正11)年2月1日元老山県有朋が死去しました(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む25参照)。
 湛山は彼の死去に際して、次のように述べています。「山県有朋公は、去る一日、八十五歳で、なくなられた。(中略)維新の元勲のかくて次第に去り行くは、寂しくも感ぜられる。
(中略)急激にはあらず、しかも絶えざる、停滞せざる新陳代謝があって、初めて社会は健全な発達をする。人は適当の時期に去り行くのも、また一の意義ある社会奉仕でなければならぬ。(中略)
 政友会は二日に陸軍縮小建議案を議会に提出した。(中略)憲政会の領袖さえ、天下取りの政党は、うかと陸軍縮小などは叫べないという世の中だ(加藤総裁はその後これを唱えたといえども)。(中略)陸軍閥が恐いからだ。(中略)その背後に絶大の政治権力を有する山公が控えていたからだ。しかるに憲政会よりも(中略)八方円満主義の政友会が事もあろうに陸軍縮小の建議をする。山公の死、少なくともその予感がなくては出来ない事だ。(後略)」(「死もまた社会奉仕」 東洋経済新報 大正11.2.11号 小評論 松尾尊~編「石橋湛山評論集」岩波文庫)

落合道人「わたしの落合町誌」―カテゴリ−気になるエトセトラー2007.08.31石橋湛山は「主婦之友」の愛読者だった

 また1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災(松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造28参照)における朝鮮人虐殺について、湛山は次のように論述しています。「(前略)鮮人というから(中略)個々の不良の徒が混乱に際して、若干の犯罪をした。それも官憲の発表によれば、ほとんど皆風説に等しく、(中略)かくてはその犯罪者が、果して鮮人であったか内地人であったかも、わからぬわけである。(中略)日本は万斛(ばんこく 非常に多量)の血と涙とを以て、過般(かはん さきごろ)の罪をつぐなわなければならぬ。」(「精神の復興とは」 東洋経済新報 大正12.10.27号 小評論 松尾尊~編「石橋湛山評論集」岩波文庫)
 しかし上述のような、現在の日本国憲法の理念を先取りしたとも言える東洋経済新報における湛山の主張は当時の日本では少数派にとどまり、国民の間に広く浸透することはありませんでした。

江宮隆之「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―を読む(A)20(最終回)

 片山 潜に対する日本政府の圧迫は、同氏がソ連に入国後も継続しました。それは日本に残した同氏の夫人(声楽家原信子の姉の娘 たま 1903片山の先妻フデ死去後 再婚 片山潜「自伝」年譜 岩波書店)に対してです。地方で女学校の教師をしていた夫人は、突然東洋経済新報社に湛山を尋ねて来て、学校に就職しても片山潜の妻とわかると首にされ困っている、片山とは文通もないので、法律上離婚する方法はあるまいかということでした。
 幸いに片山氏の戸籍は神田区にあり、湛山は片山氏と親しかった区長を区役所に尋ね相談、区長に、片山氏から離婚に異議がないという意思表示を手紙ででもしてもらえないか、といわれたので、ロンドンの友人を通じて、湛山は片山氏にその事情を申し送りました。片山氏の返事の中にペン書きで「離婚を承諾す。片山 潜」と記述した紙片が同封されていたので、湛山は同紙片を区長に見せ、手続きは一切区長がやってくれました。それは大正12(1923)年4月でした。
 「(前略)世の中には、片山氏がいたために、東洋経済新報は社会主義化したといった人があったと聞いたが、もしほんとうにそんな評判があったとすれば、それは全然事実に反する想像であった。(中略)
私は、こうして、しばしば片山氏と手紙のやり取りをしたが、しかしその後『東洋経済新報』も過激な議論を書くというので、官憲から目をつけられているらしいので、万一家宅捜索でも受けては、やっかいだと思い、片山氏からの手紙は一切焼いてしまった。しかし近ごろ、古手紙類を調べて見たら、右の離婚を承諾すという紙片と、二、三枚の葉書が残っているのを発見した。」(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫)
2014-04-11 06:21 | 記事へ | コメント(11) |
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江宮隆之「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯ーを読む(A)1〜10
2014年04月01日(火)
江宮隆之「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―を読む(A) 1

 江宮隆之「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―(河出書房新社)は1999(平成11)年に出版された石橋湛山の伝記小説です。わたしは石橋湛山の生涯を(A)生誕から大正末年まで、(B)大正末年から1945(昭和20)年の日本敗戦まで、(C)戦後から1973(昭和48)年死去までの3期に区分してたどることにしたいと思います。
 石橋湛山は1884(明治17)年9月25日東京で杉田湛誓(日蓮宗僧侶)を父として生まれました。湛山の父は当時東京市麻布区芝二本榎(東京都港区二本榎)にあった東京大教院(立正大学の前身 日蓮宗最高学府)助教補(助手)として勤務しておりました。母きんは昔江戸城内の畳表一式を請け負っていた石橋藤左衛門の次女であり、石橋家は承教寺(日蓮宗)の有力檀家で同寺内にあった東京大教院に在学中の湛誓とも親しい間柄でした。

気ままに江戸―カテゴリー一覧―大江戸散歩―2013.02.09 承教寺(高輪散歩6)

 湛山は湛誓の長子で幼名を省三(せいぞう)といい、私は事情があって、この母方の姓を名乗って、石橋というのである。(中略)私も生まれた時から湛山と命名されたのではなく、外に省三という幼名があって、セイゾウと呼ばれていた。(中略)「吾れ日に三たび吾が身を省みる」という『論語』の有名な言から出ている(中略)。私の名も中学を卒業するころ湛山と改めたのである。=i石橋湛山「湛山回想」岩波文庫)と述べています。
石橋姓を名乗ったのは当時の日蓮宗における慣習として、表向き妻帯は許されていなかったからといわれています(熊王徳平「田舎文士の生活と意見」未来社)。
 湛山が生まれた翌年父が郷里の山梨県増穂村の昌福寺住職となったので、彼は母とともに甲府市稲門に転居、大日本帝国憲法が発布された1889(明治22)年4月稲門小学校に入学、同小学校3年のとき初めて父と同居することとなり、増穂村の小学校に転校しました。
 父は厳格な人で湛山が小学校4年のころ、学校から帰ると父に呼ばれて漢文の本を教えられたが、それがなかなか覚えられず泣きそうになったこともありました。

江宮隆之「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―を読む(A) 2

 1894(明治27)年日清戦争がはじまり、黄海海戦が起こった9月、父が静岡の本覚寺住職となったとき、湛山は山梨県中巨摩郡鏡中条村の長遠寺住職望月日謙に預けられ、翌年春甲府市の山梨県立尋常中学校(後の甲府中学)に入学しました。その後中学を卒業するまでほとんど父母との交渉はありませんでした。
 中学にははじめ寄宿舎、のちには甲府市において家庭生活を営んだ日謙宅から通ったのですが、一時鏡中条村から二里半の道を歩いて通学したこともありました。その往復の間に買い食いに月謝を使い込むこともあり、勉強もせず二度落第するという悪童ぶりを発揮したのです。
 しかし日謙はすこしもこごとをいわず、使い込んだ月謝も、学校から連絡があると、黙って払い込んでくれました。これが少年を育てる日謙のこつであったようで、湛山は恐縮し反省したそうです。
 「私は、もし望月師に預けられず、父の下に育てられたら、あるいは、その余りに厳格なるに耐えず、しくじっていたかもしれぬ。父にも、またそんな懸念があって、早く私を望月師に託し、いわゆる子を易(か)えて教ゆ(「孟子」)の方法を取ったのかもしれぬ。いずれにしても私が、望月上人の薫陶を受けえたことは、一生の幸福であった。そうしてくれた父にも深く感謝しなければならない。」(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫)。
 湛山が2度落第したお陰で出会った中学校長が大島正健でした。彼は札幌農学校(北海道大学の前身)第1期卒業生の一人として、アメリカから招聘されたウイリアム・クラーク博士の直接指導を受けた人物で、熱心なキリスト教徒でもありました。

北海道開拓スピリットと甲府中学校長大島正健―カテゴリーフォルダー大島正健略伝

 「私はこの大島校長から、しばしばクラーク博士の話を聞いた。そして私の一生を支配する影響を受けたのである。(中略)博士が一切の、やかましい学則を設けず、ただビー・ゼントルマンの二語ををもって学生に臨み、また北海道を去るにあたり、送ってきた一同の学生に向かい、馬上から、ボーイズ・ビー・アンビシャスの三語を残したことは有名な話である。(中略)私は幸いに大島校長に会うことにより、クラーク博士の話を聞き、なるほど真の教師とは、かくあるものかと感動した。」(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫)

江宮隆之「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―を読む(A) 3

 1902(明治35)年3月湛山は中学校を7年かけて卒業、同年7月第一高等学校(東京大学教養学部の前身)を受験しましたが不合格、翌年再び同校の受験に失敗、早稲田大学高等予科の編入試験に合格、9月入学しました。
 日露戦争がはじまった1904(明治37)年9月湛山は予科を修了、大学部文学科の哲学科に進級しました。当時の校長(後の総長)は鳩山和夫、文学科講師(教員)には高田早苗・安部磯雄・内ヶ崎作三郎・坪内雄蔵(逍遥)・島村滝太郎(抱月)・波多野精一・田中喜一(王堂)などが顔を揃えていました。
 このような早稲田大学文学科の講師たちのなかで、湛山は当時の日本に支配的だったカントやヘーゲルに代表されるドイツ観念論に興味を示さず、アメリカのシカゴ大学に学び、デユーイのプラグマティズムを日本に紹介した田中王堂に強い影響を受けました。

独学ノートー単語検索―プラグマティズム

 「われわれが早稲田大学で初めて王堂氏の講義を聞くことになったのは、明治三十八年、私が大学部二年の時であったが、(中略)白晢(はくせき)温顔(白い柔和な顔)にして、長い髪と短い三角の顎鬚(あごひげ)とをたくわえ、それに赤ネクタイを結んだ氏は、一見していかにも哲学者らしい風彩を具えていた。(中略)しかしその説くところは、われわれには、つかまえがたく、わからない。(中略)氏の哲学が、簡単にいえば作用主義に立脚し、従来われわれが無批判に受入れた形而上学(けいじじょうがく 現象の背後にある本質を探究しようとする学問)的哲学と鋭く異なっていたからであった。(中略)私は(中略)卒業後もとくに田中氏に親近し、(中略)もし今日の私の物の考え方に、なにがしかの特徴があるとすれば、主としてそれは王堂哲学の賜物であるといって過言ではない。」(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫)

早稲田大学―大学案内―歴史とエピソードー略年表

 1907(明治40)年7月湛山は同大学部文学科の哲学科を首席で卒業、彼は特待生として宗教研究科に進級し、月に二十円を給与されました。しかし将来の大学教師の望みもなく、当時私立大文学科出身のものの職業としてもっともよかったのは地方の中等学校の教諭でしたが、ここでは高等師範と帝大が堅く学閥を作っていました。ただ新聞界と文芸界とは腕次第の社会で、学閥はなかったのです。

江宮隆之「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―を読む(A) 4

 1908(明治41)年12月湛山は島村抱月(江宮隆之「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―を読む(A)3参照)の紹介により、東京毎日新聞社(1870横浜毎日新聞として創刊 1906此の名称となる 現在の「毎日新聞」とは無関係)に入社しました。

MY HOME TOWN(島根県浜田市)−島村抱月 

東京紅團―テーマ別散歩情報―東京情報―松井須磨子と牛込早稲田界隈

 東京毎日新聞は1908(明治41)年ころ島田三郎(木下尚江「田中正造の生涯」を読む13参照)の所有となり、島田は同社の経営を大隈重信に譲与しました。大隈は田中穂積(後に早稲田大学総長)を副社長兼主筆とし、事実上の経営者としました。島村抱月は田中穂積と親しく、湛山を同社に推薦してくれたのです。
 しかし大隈が率いる憲政本党(児島襄「大山巌」を読む47参照)は立憲政友会(児島襄「大山巌」を読む48参照)に押されて党勢不振となり、犬養毅(寺林 峻「凛冽の宰相加藤高明」を読む13参照)と他の幹部との争いが激化、ついに分裂状態に到ったのですが、大隈の影響をうけた東京毎日新聞社も二派に割れて抗争が起こり、田中穂積が退社声明を出すと幹部社員もこれに同調、1909(明治42)年夏湛山も徴兵検査に合格して入営が近くなっていたこともあり退社しました。
 同年12月1日湛山は麻布竜土町の歩兵第三連隊に入営、当時新兵虐待のうわさがあり、覚悟していましたが、彼は社会主義者と思われたらしく、監視のため好遇を受けたようです。
1910(明治43)年11月末湛山は軍曹に昇進して除隊となりました。
 田中穂積の紹介で1911(明治44)年1月湛山は東洋経済新報社(当時牛込天神町六番地所在)に入社しました。

江宮隆之「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―を読む(A) 5

 東洋経済新報社は日清戦争終結後の1895(明治28)年11月、大隈系の郵便報知新聞記者退職後イギリス留学を終えて帰朝した町田忠治が創設、経済専門誌「東洋経済新報」(「復刻版」 東洋経済新報社)を創刊しました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―まー町田忠治 

 やがて町田は日本銀行に入り、大隈重信の推薦で1897(明治30)年3月天野為之(東京専門学校、後の早稲田大学教授、John S.Millの研究で知られる)が後継者として同社を引き継ぎました。

歴史が眠る多摩霊園―著名人ー頭文字―あー天野為之

 湛山が同社に入社したとき、天野はすでに退任、天野門下の植松考昭(ひろあき)が3代目の主幹[1907(明治40)年]となっていました。植松考昭は旧彦根藩士の家に生まれ、1896(明治29)年東京専門学校を卒業、1898(明治31)年東洋経済新報社に入社しました。彼は片山潜の在米時代の友人杉田金之助(「日本の労働運動」を読む15参照)の縁者が植松考昭の在学中の同級生であったことから片山潜(片山潜「日本の労働運動」を読む8参照)と知り合いになったそうです(片山潜「自伝」岩波書店)。
 植松は山県有朋・伊藤博文両元老が背後で操縦する桂園時代(片山潜「日本の労働運動」を読む36参照)政治を打破するために「東洋経済新報」論説「議院改革」(1907.3.5−4.15)ではじめて普通選挙を要求、以後、社説「普通選挙を主張す」(1908.7.5−9.15)を連載、繰り返して普選実現を主張し、労働者階級の覚醒に期待を寄せたのです(松尾尊~「大正デモクラシー」岩波書店)。植松が官憲のきびしい監視下におかれ、社会主義者の同志からも孤立しがちであった片山潜を1909(明治42)年東洋経済新報社員として迎え入れたのも、上述のような状況を背景としていたことから理解することができます。

江宮隆之「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―を読む(A) 6

 主幹の植松を補佐したのが副主幹格の三浦銕(てつ)太郎(松尾尊~「大正デモクラシーの群像」同時代ライブラリー35 岩波書店)という人物です。彼は植松と東京専門学校の同期生で、植松に1年遅れて東洋経済新報社に入社しました。

むるぶWeb―志太(静岡県)そこしり物語2― 三浦銕太郎   

明治40年代の日本では文学界において自然主義が流行、思想界・政治界においても個人主義・自由主義の思潮が勃興していました。もともと個人主義者・自由主義者で、普通選挙を主張していた植松・三浦は、上記のような風潮の下で、経済専門誌「東洋経済新報」だけの発行に満足できず、1910(明治43)年5月三浦主宰で社会評論を主とする「東洋時論」(東洋経済新報社編「東洋時論」復刻版 竜渓書舎)を創刊しました。
 しかし「東洋時論」は創刊号から発売禁止となり、その後もさらに1回同様の処分をうけたのです。
 湛山を東洋経済新報社に紹介した田中穂積は三浦銕太郎と同じ東京専門学校の同窓生で、田中は湛山に友人から近頃始めた社会評論雑誌の編集者の世話を頼まれているので行かないかと声をかけ、湛山は三浦の面接を受け、その際論文「福沢諭吉論」を提出、同論文が三浦の評価を得、上述の通り1911(明治44)年1月湛山は同社員として月給18円で入社したのでした。このときすでに片山潜が同社員として勤務していたことはすでに記述した通りです(片山潜「日本の労働運動」を読む50参照)。
 「東洋時論」の社説は主として植松・三浦、後には湛山も社説およびその他の評論を執筆しました。同誌において「国家も、宗教も、哲学も、文芸も、其の他一切の人間の活動も、皆ただ人が人として生きるためにのみ存在するものであるから、もしこれらの或るものが、この目的に反するならば、我々はそれを変改せねばならぬ」(「国家と宗教および文芸」東洋時論 明治45年5月号 松尾尊~編「石橋湛山評論集」岩波文庫)と述べているように、湛山は明確な個人主義の立場を表明しました。またこのような考え方は『湛山が、宗教を道徳や政治などと同様、人間の「生活機関」(生活の方法)の一部分であり、したがってそれらが「生活に不便」を与えるものとなれば、新しい方法を現実の中から探し出せばよいとのプラグマティックな根拠に立ったことは、明らかに王堂哲学を継承している。』(増田 弘「石橋湛山―リベラリストの真髄―」中公新書)と指摘される理由となっています。

所沢市立所沢図書館―その他のリンクーコラム「所沢の足跡」―所沢ゆかりの人物編―郷土の哲学者田中王堂

江宮隆之「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―を読む(A) 7

 1911(明治44)年3月11日衆議院は松本君平ら提出の普通選挙法案を可決しましたが、同年3月15日貴族院で同法案は否決されました(片山潜「日本の労働運動」を読む49参照)。
 そのころ湛山は「東洋時論」の記者として当時東京市長であった尾崎行雄(児島襄「大山巌」を読む47参照)を訪問、普選について意見をただしました。尾崎から普選促進論を期待していた彼は意外にも普選反対論を聞かされたのです。その主張の要点を述べると、英国の如く、国民に訓練があり、秩序を重んずるところでは、普選も害はないだろうが、日本の一般大衆に権利だけを与えると、社会の秩序が保てない危険があるというのでした。
 湛山は後に尾崎の意見も誤りであるとはいえないと思うようになったが、当時ジェー・エス・ミルなどの説を金科玉条としていた湛山にとって尾崎の普選反対論は承諾できませんでした。なぜなら選挙権を大衆に与えることは彼等を政治的に教育し訓練する手段であるからで、これを恐れていたら、社会の進歩は望み得ないと考えていたからです(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫・「犬養・尾崎両氏に与う」大正2.3.5「東洋経済新報」社説)。
 1912(明治45・大正1)年7月30日明治天皇死去(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む12参照)に際して湛山は次のように主張しました。「多くの人は明治時代の最大特色を以ってその帝国主義的発展であるというかも知れない。(中略)しかし僕は明治時代をこう見たくない。而してその最大事業は政治、法律、社会の万般の制度及び思想に、デモクラチックな改革を行ったことにあると考えたい。(中略)東京市長の椅子を占めた阪谷芳郎男は、その就任第一の事業として、日枝神社へ御参りをした。それから第二の事業として明治神宮の建設に奔走しておる。(中略)しかしながら阪谷男よ。(中略)卿らの考えは何でそのように小さいのであるか。(中略)真に、先帝とその時代とを記念せんと欲せば、吾人はまず何をおいても、先帝陛下の打ち立てられた事業を完成することを考えなければならぬはずである。(中略)しかるにこれらのものは棄て置いて、一木造石造の神社建設に夢中になって運動しまわる。(中略)それでもなお何か纏った一つの形を具えた或る物を残して、先帝陛下を記念したいというならば、(中略)「明治賞金」を作れと奨めたい。」(「愚なるかな神宮建設の議」東洋時論 大正元年9月号 松尾尊~編「石橋湛山評論集」岩波文庫)

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―さー阪谷芳郎

江宮隆之「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―を読む(A) 8

 1912(明治45・大正1)年9月東洋経済新報社主幹植松考昭が病死すると、同社第4代主幹に就任した三浦銕太郎は売れ行き不振の「東洋時論」廃刊(1912.10月)を決意、湛山も同意して、彼は「東洋経済新報」の記者として再出発しました。
 1912〜13年にかけて三浦は帝国主義批判を主題とする論文を発表していますが、中でも「満州放棄乎軍備拡張乎」(「東洋経済新報」大正2.1.5号〜同年3.15号 論説)「大日本主義乎小日本主義乎」(「東洋経済新報」大正2.4.15号〜同年6.15号 論説)(三浦銕太郎論説集「大日本主義か小日本主義か」松尾尊~編集・解説 東洋経済新報社)において帝国主義すなわち「大日本主義」の害毒を指摘、「小日本主義」の具体策として満州放棄を主張しました。
 また三浦は植松死後も片山潜を引き続き援護、、彼の入獄中(片山 潜「日本の労働運動」を読む50参照)月給(50円を30円に減額)を支給、1914(大正3)年片山の渡米に際しては、あらゆる便宜を与えてくれました(片山 潜「わが回想」下 徳間書店)。
 すでに同社に入社してから哲学専攻であった湛山は植松主幹のすすめで天野為之の「経済学綱要」を読んで経済学の勉強をはじめていました。
 1912(明治45・大正1)年11月三浦銕太郎は貞夫人の教え子岩井うめ(梅子)を湛山の配偶者として紹介、仲人をして結婚させています(石橋梅子「思い出の記」長幸男編「石橋湛山 人と思想」東洋経済新報社)。湛山の結婚後も湛山夫人が病気になると、貞夫人が子供の面倒を見たり、避暑に湛山一家を一緒に連れていったりしたほど両家は家族ぐるみの親密な間柄でした(年譜「石橋湛山全集」第15巻 東洋経済新報社)。
 湛山は結婚後もひきつづき経済学の勉強に励み、本所錦糸堀近所の二階借りの自宅から牛込天神町の新報社まで通勤する電車の中でセリグマン「経済学原論」やそれと前後して田中王堂推奨のトインビー「十八世紀産業革命史」などを原書で読んでいます。
同年12月5日第2次西園寺公望内閣が2個師団増設問題で総辞職(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む13参照)、憲政擁護運動が高まり、同月13日東京の新聞雑誌記者・弁護士などが憲政作新会を組織して師団増設に反対を表明したとき、湛山は経済学研究や執筆活動だけでなく、この運動に若干の援助をしていますが、中野正剛も学校卒業早々で、この運動に参加してきた一人でした(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫)。

歴史が眠る多摩霊園―著名人索引―頭文字―なー中野正剛

江宮隆之「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―を読む(A) 9

 米国における日本人移民によって労働市場が圧迫されるとする排日の気運は日露戦争終了後の1905(明治38)年後半から顕著となり、1913(大正2)年5月カリフォルニア州で日本移民の土地所有を禁止する法律が制定されて、同地で農業方面に進出していた日本移民に大打撃を与え(鈴木文治「労働運動二十年」を読む11参照)、日米開戦論まで唱えられるほどで、日本の新聞・雑誌などは一斉に対米批判を展開しました。植松主幹時代の「東洋経済新報」も同じく対米批判を行った新聞・雑誌の一つだったのです。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―いー石橋湛山

 湛山はこれに反して、次のように対米移民の不要を主張しました。「(前略)しからば則ちその根本的解決法は如何。(中略)けだし世往々にして武力の万能を信ずる者あり。(中略)しかれども思え、(中略)戦争は決して人種問題に根本的解決を与うるものにあらざるなり。(中略)
 思うに今我が国民は一つの謬想(びゅうそう 誤った考え)に陥れり。人口過剰の憂ということこれなり。(中略)しかれども吾輩は思う、我が人口は果してしかく過剰なるや。(中略)人ややもすればすなわち食料の不足をいい、(中略)即ち直ちに人口の過剰を意味する如く考うといえども、(中略)工業盛んに起り、貨物の外国に出すこと多きを得ば、(中略)あに六千万、七千万の人口に過剰を苦しまん。(中略)アメリカの富源は移民にあらずんば利用せられざるものにあらず。我は決して強いて彼に移民を送るの要なきなり。(後略)」(「我に移民の要なし」東洋経済新報 大正2.5.15号 社説 松尾尊~編「石橋湛山評論集」岩波文庫)

江宮隆之「政治的良心に従います」−石橋湛山の生涯―を読む(A)10

 1914(大正3)年7月第1次世界大戦が勃発すると、大隈重信内閣の外相加藤高明は日英同盟の情誼と、この機会に独逸の根拠地を東洋から一掃して、日本の国際的地位の向上をはかる利益から参戦断行を主張、同年8月15日独逸に膠州湾租借地(「大山巌」を読む44参照)交付を要求、同月23日独逸に宣戦布告、11月7日青島(山東省)を占領しました(寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む16参照)。

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  日本の新聞・雑誌のほとんどが政府の方針を支持した中にあって、湛山は参戦はもとより、青島占領及び領有に反対して次のように述べています。
 「アジア大陸に領土を拡張すべからず。満州も宜しく早きに迨(およ)んでこれを放棄すべし、とはこれ吾輩の宿論なり。更に新たに支那山東省の一角に領土を獲得する如きは、害悪に害悪を重ね、危険に危険を加うるもの、断じて反対せざるを得ざる所なり。
 (中略)ドイツの青島租借、山東経営を以て、(中略)仮りに、我が政府当局および世人の多数の考うる如く、東洋の平和に害ありとせん。しかれどもドイツを支那大陸の一角より駆逐して、日本が代ってその一角に盤踞(ばんきょ 広大な土地を領有し、勢力を張る)すれば、それが、何故に東洋の平和を増進することとなり得るや。
 (中略)支那の領土に野心を包蔵すと認められつつあるは、露独日の3国なり。(中略)
我が国が満州に拠り、山東に拠ることは、国際的に内乱的に、支那に一朝事ある場合には我が有力なる陸海軍を迅速に、有効に、はたらかして、速やかに平和の回復を得しめ、はたまた禍乱を未発に防止する所以なりと、説かんも、支那国民自身および支那に大利害を有する欧米諸国の立場より見れば、これほど、危険にして恐るべき状態はあるべからず。
 這回(しゃかい 今回)の戦争において(中略)、我が国がドイツと開戦し、ドイツを山東より駆逐せるは、我が外交第一着の失敗なり。(中略)青島割取は断じて不可なり。」(「青島は断じて領有すべからず」東洋経済新報 大正3.11.15号 社説 松尾尊~編「石橋湛山評論集」岩波文庫)
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鈴木文治「労働運動二十年」を読む21〜30
2013年12月21日(土)
鈴木文治「労働運動二十年」を読む21

 1920(大正9)年5月2日(日曜日)日本最初のメーデーが上野公園で開催され、参加者1万人余、鈴木文治は開会の辞で『諸君、この記念すべき日に於て、我等日本の労働者も、世界各国の労働者も共に叫びませう、曰く万国の労働者団結せよ』と結びました。つづいて治安警察法第17条撤廃・失業防止・最低賃金法設定の3要求を決議(「日本労働年鑑」1921年版 1921年版 大原社会問題研究所)、解散後示威運動に移りましたが警官隊がこれを阻止したため乱闘となり、鈴木文治もこの日はじめて警官隊と格闘しました(「労働運動二十年」)。

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 同年5月16日友愛会・信友会・啓明会などメーデー参加組合は労働組合同盟会を結成しました(「日本労働年鑑」大原社会問題研究所)が、中央集権的な組合主義をとる友愛会と大杉栄(「日本の労働運動」を読む37参照)らアナーキスト(無政府主義者・「日本の労働運動」を読む35参照)系の指導者の影響下にある信友会のような自由連合的なサンジカリズム(「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造18参照)の立場にたつ勢力を含み、一枚岩の団結には程遠い存在でした。そのためこの同盟会は翌年6月友愛会の脱退で分裂しました。
 同年7月14日友愛会加入の紡績労働組合は富士紡績押上工場に組合(団結権)の承認を求めて罷業に入りましたが組合側は敗北[「労働」(1920年「労働及産業」改名)9巻9号 「労働」(1)日本社会運動史料 機関紙誌篇 法政大学出版局]、友愛会婦人部も大打撃をうけました。
 同年11月29日長崎県香焼炭坑(長崎港沖の孤島)で解雇組合員の復職を要求して坑夫が罷業開始、12月1日坑夫200人が事務所を破壊、75人が検挙され友愛会系の坑夫組合「工友会」は壊滅しました(「鉱山労働者」2巻1号 全日本鉱夫総連合会)。
  1921(大正10)年1月12日足立機械製作所争議で工場閉鎖、全員解雇に憤慨した組合員が工場主を殴打、機械を破壊する行動に出たため40余名が投獄されました[「労働」10巻3号 「労働」(1)]。
 上述のようなサンジカリズムの弊害が目立つようになると、棚橋小虎(友愛会東京連合会主事)は論文「労働組合へ帰れ」を発表して次のように呼びかけました。「直接行動とは、警官と小ぜり合ひをして、一ト晩警察に止められたり、禁止の革命歌を高唱して大道を歩く事ではあるまい。(中略)真実に労働者の地位を向上させる事のできる直接行動は、労働者の大々的団結を必要とする、強大勇猛な労働組合が必要だ。(中略)警察官と格闘する一人の勇士よりも、穏かな百人の人が団結した一つの労働組合がどれ丈け資本家にとって、権力者にとって恐ろしいか」(「労働」大正10年1月号)
 しかし同年4月2日足尾銅山坑夫が団結権承認など8要求を提出したところ、4月8日活動家337人が解雇され、組合は怠業・罷業・示威などで対抗、4月18日解決(「鉱山労働者」2巻5号 全日本鉱夫総連合会)しましたが、その解決条件に坑夫の一部が不満で、棚橋論文への反発と結びついてインテリ指導者排撃の動きがおこり、同年7月棚橋は失脚しました((吉田千代「前掲書」)。

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鈴木文治「労働運動二十年」を読む22

 戦後恐慌下の造船・鉄鋼業はワシントン軍縮会議(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む24参照)によっても大きな打撃となりました。同年6月25日三菱内燃機株式会社神戸工場の職工は賃上げ外9項目の嘆願書を会社に提出、発動機工場・機械工場・艤装工場の職工もこれに同調して怠業に入り、友愛会に加盟、これに対して会社側は首謀者の解雇を申し渡しました。同地区の川崎造船所でも6月27日支給の賞与が昨年末のそれよりも少額であることに不満で、同月29日電気工作部900名は怠業を開始、7月2日同工作部は電気工組合「電正会」を結成して工場委員制度の採用・賃上げ外6カ条の要求を会社に提出しました。同造船所側は首謀者を解雇したので労働者たちは怠業を開始、同造船所本社工場に被解雇者を擁してなだれ込んだとき、暴力団「片福組」支配下にある一団が青たすきをかけ、棍棒や匕首をもって労働者たちの中へ殴り込みをかけ、事態はさらに悪化しました。
 7月10日には神戸労働組合連合団主催で三菱・川崎両造船所と神戸印刷工組合・東神鉄工組合その他友愛会所属組合員をあわせ30000人の大示威運動が行われました。
 同年7月12日川崎争議団は工場管理を宣言したため、知事は軍隊の派遣を要請、姫路師団第39連隊の歩兵1個大隊が出動してきました。
 やがて両社とも多数の解雇者を発表、脱落組合が出始め、7月28日市中デモを禁じられた組合員は湊川神社に集まり祈願文を読み上げ、同月29日生田神社にも参拝がおこなわれましたが、その帰途デモが自然発生、騎馬巡査や抜剣した巡査が群衆の中に突っ込み、巡査のサーベルに突き刺された死亡者がでたほどでした。同日夕刻警察は三菱・川崎争議団本部及び友愛会神戸連合会を襲って賀川豊彦ら200余人の指導者を検挙しました。

徳島の20世紀―第17回 賀川豊彦

 争議団幹部総検束の急報接した鈴木文治は自ら総指揮に当たるため7月30日列車で神戸に向かいました。翌日朝神戸に到着した彼は争議団最高顧問となり、西尾末広・松岡駒吉・木村錠吉3名を参謀として最高首脳部を形成、友愛会神戸連合会を総本部として陣容をたてなおしたのです。

history of modern japan―日本近現代史研究―人物に関するデータベースーにー西尾末広

 しかし争議敗北の大勢は覆いがたく、同年8月12日争議団は「惨敗宣言」を発し、40日に及ぶ大争議は終結しました(大前朔郎・池田信「日本労働運動史論」日本評論社・「労働運動二十年」)。
 同年9月友愛会機関紙は「「日本労働運動の転期」と題して次のように述べています「こんどの争議(神戸の三菱・川崎造船所の争議)を分岐点として、(中略)漸くその向かう所が定まったやうな感じがする。(中略)資本家や官憲が(中略)ただ力≠もって押し付けやうとするのみならば、労働者も(中略)力≠もって応対するの外はない」。また友愛会京都連合会長辻井民之助も「労働者新聞」に「普通選挙の夢から覚めて」という題目で次のように書きました「ぼくは正直に告白する。ぼくらは(中略)あまりに議会政策の効力に重きをおいた。(中略)労働者にして真に自覚し、団結するならば、いまさら代議士を選び、議会をたよるまでもなく、(中略)直接行動によってその目的貫徹のために闘ふべきである」(大河内一男「前掲書」)。
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鈴木文治「労働運動二十年」を読む23

すでに1920(大正9)年7月12日第43議会において衆議院は野党提出の普選法案を否決していました(「労働運動二十年」を読む20参照)。。
1920(大正9)年10月3〜5日大阪で開催された友愛会八周年大会では会名の大日本の「大」を削除、終わりの3字「友愛会」を取れとの提案がなされました。鈴木文治会長の意見により1年間を限度として「日本労働総同盟友愛会」と呼称することに落ち着きました[「労働」9巻11号 「労働」(1)]。
また工場法改正・労働組合法制定などをめざす実行委員会設置の件が審議されているときに、関西の代議員から議会を否認しようとするものが政府を相手に建議するのは矛盾だという発言があり、アナーキズム系の代議員や傍聴席から盛んな拍手が送られました。
これに対して関西連合会主事の西尾末広は「議会主義を否認するものが、この問題を論議するのはたしかに矛盾だ。しかし、われわれは議会主義そのものを否認するものではないからこそ、この問題を討議しているのだ。議会を否認するものは、この議案に反対すればよいのだ」と反論しました。このように友愛会内部には議会政策派と直接行動派(「日本の労働運動」を読む38〜40参照)の間に論争が起こっていたのです(大河内一男「前掲書」)。
 1921(大正10)年10月1日から3日間東京で日本労働総同盟友愛会の友愛会第10年大会(この年より年度大会となる)が開催され、会名はさらに「友愛会」の3字を切り捨て「日本労働総同盟」と改称、鈴木文治は前年から強まった知識階級排斥の気運を察知して会長辞任の意向を中央委員会で表明したのですが、大会では名誉会長として留任、松岡駒吉が主事(会計)に就任しました[「労働」10巻11号 「労働」(2)]。
 この大会直後の11月4日原敬首相が暗殺された影響もあって、翌年2月27日衆議院は三たび野党提出の普選法案を否決、政府(高橋是清内閣)は過激社会運動取締法案を議会に提出(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む23・25参照)したため、労働組合は大同団結して保守勢力と対決しなければならない必要に迫られました。

鈴木文治「労働運動二十年」を読む24

 1922(大正11)年7月日本共産党が非合法に結成され(市川正一「日本共産党闘争小史」国民文庫 大月書店)、山川均(「日本の労働運動」を読む43参照)は雑誌「前衛」(大正11年7・8月号)に論文「無産階級運動の方向転換」を発表しました。
 同論文によれば、「日本の社会主義運動の思想には、一度も妥協主義や、日和見主義や、改良主義がまざっていたことはないといってよい。おそらく日本の社会主義者ほど、明白に資本主義の撤廃という最後の目標をのみ見つめていたものはない。けれどもこの最後の目標を見つめていたために、かえってこの目標に向かって前進することを忘れていた。(中略)たしかにわれわれの誤りであった。(中略)
 無産階級の前衛たる少数者は、資本主義の精神的支配から独立するために、まず思想的に徹底し純化した。(中略)そこで無産階級運動の第二歩は(中略)はるかの後方に残されている大衆の中に、ふたたび、ひきかえしてくることでなければならぬ。
 もし無産階級の大衆が、資本主義の撤廃を要求しないで、現に目前の生活の改善を要求(中略)一日一〇銭の賃金増額しか要求しておらぬなら、われわれの当面の運動は、この大衆の実際の要求に立脚しなければならぬ。われわれの運動は大衆の現実の要求に立ち、大衆の現実の要求から力を得てこなければならぬ。」(「山川均全集」第4巻 勁草書房)

鈴木文治「労働運動二十年」を読む25

 日本労働総同盟の野坂参三(「労働運動二十年」を読む7参照)・赤松克麿(「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造14参照)らも日本共産党に参加していましたから、日本労働総同盟の内部には急速にボルシェビズムの傾向が強まっていました。

独学ノートー単語検索―ボルシェビズム 

 同年9月30日「日本労働組合総連合会」創立大会が大阪で主要59組合、106人の代表参加で開催されましたが、傍聴席には大杉栄(「日本の労働運動」を読む37参照)・近藤憲二らのアナーキストや堺利彦・山川均らのボルシェビストらがつめかけていました。会議は規約の審議をめぐって総同盟派・反総同盟派の対立で混乱、臨席の警察官が「中止・解散」と叫んだだけで流会となりました(古賀進「最近日本の労働運動」聚芳閣)。
 つづいて同年10月1〜3日日本労働総同盟第11年大会が大阪の天王寺公会堂で開催されましたが、アナーキズム系の自由連合論に対する反発を含む「決議」を採択、この大会で決定された新綱領は(1)を除いて、次のような、その創立時とは異なったボルシェビズムの影響を受けものでした。
(1)われらは、団結の威力と相互扶助の組織とをもって、経済的福利の増進ならびに知識の啓発を期す。
(2)われらは、断固たる勇気と有効なる戦術とをもって、資本家階級の抑圧、迫害にたいし、徹底的に闘争せんことを期す。
(3)われらは、労働階級と資本家階級とが両立すべからざることを確信す。われらは労働組合の実力をもって、労働階級の解放と自由平等の新社会の建設を期す。
 また大会決定の7カ条の主張には労農ロシア承認が含まれ、ILO(「労働運動二十年」を読む18参照)に対しても「吾人は、国際労働会議を否認し(中略)有害無用なる同会議の壊滅を期す」と決議しました(「労働」11巻11号)。

鈴木文治「労働運動二十年」を読む26

 山川論文は労働者の日常要求にたち帰り、労働運動を組織しなおそうとする点で棚橋論文(「労働運動二十年」を読む21参照)と共通する特徴をもっており、この点において鈴木文治も山川論文に賛意を表明していますが(「労働運動二十年」)、他面野坂参三ら総同盟に属する日本共産党員は山川論文の社会主義革命の主張を多様な考え方をもつ大衆団体である総同盟の綱領に持ち込むことによって、後の総同盟分裂の火種を作ったといえるでしょう。
 1923(大正12)年9月1日関東大震災が起こりました(「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造28参照)。翌日戒厳令が公布され、朝鮮人暴動の噂が流れる状況の下で同年9月4日南葛労働会の河合義虎・純労働者組合の平沢計七を含め10人が亀戸署で軍隊の銃剣により刺殺されました[亀戸(かめいど)事件]。
つづいて同月16日憲兵大尉甘粕正彦(東京憲兵隊麹町分隊長)が部下とともに大杉栄(「日本の労働運動」を読む37参照)を刺殺、内妻伊藤野枝らを憲兵隊内で秘かに扼殺(やくさつ 腕で首を絞めて殺害すること)、死体を菰筵でくるんで隊内の古井戸に投げ込んだという事件が起こりました(甘粕事件・新聞集成「大正編年史」大正十二年版 下)。

たむたむページにようこそー人名事典―社会運動家―大杉栄―伊藤野枝―関東大震災―亀戸事件―甘粕事件   

上述の山川論文によってその影響力を失いつつあったアナーキズム系は、甘粕事件による大杉栄の死去によってさらに力を喪失し、労働運動の本流から離れていったのです。関東大震災の最中に起こったかかるテロリズムに労働組合の力がいかに弱体であるかが明らかとなり、また第2次山本権兵衛内閣の普選法実施とILO代表の組合推薦の公約もあり、総同盟はもう一度右旋回する必要に迫られました。同年11月の総同盟中央委員会で鈴木文治は名誉会長から「名誉」を消して名実ともに総同盟会長の地位を回復したのでした(吉田千代「前掲書」)。
 1924(大正13)年2月10日総同盟第13年大会が東京芝の協調会館で開催されましたが、同大会3日目において、社会改良主義の右派とボルシェビズム(社会主義革命)系の左派はその妥協の産物たる次のような「宣言」を満場一致で採択しました。
 「(前略)改良的政策に対する従来の消極的態度は積極的に之を利用することに改められなければならぬ。例へばブルジョア議会に依て労働階級の根本的解放を期待する処、毫もなきは勿論なれども、普選実施後に於ては選挙権を有効に行使することに依りて政治上の部分的利益を獲得すると共に、無産階級の政治的覚醒を促し、又国際労働会議に就いても之が対策を慎重に考慮し、以って我国労働組合発展のために計るべきである。(後略)」(「総同盟五十年史」第一巻 資料編)

鈴木文治「労働運動二十年」を読む27

 総同盟第13年大会の直後から1925(大正14)年にかけて多くの組合が総同盟に加入、1922(大正11)年と比較すると、組合数で約百組合、組合員数で約12万人増加しましたが、この時期に加盟した組合の多くが左派系組合でした。
 1924(大正13)年10月5日総同盟関東労働同盟会(関東同盟会)に於いて副議長内田藤七の議事不慣れを理由に左派は議長不信任の動議を提出、否決されると左派代議員は退場しました。
 同年10月16日関東同盟会理事会は左派の横暴に対し、総同盟中央員会に4組合(東京東部合同労働組合・関東印刷労働組合・時計工組合・横浜合同労働組合)の除名、5名[杉浦啓一(関東機械工組合)・立松市太郎(同)・渡辺政之輔(南葛労働会)・相馬一郎(東部合同労働組合)・春日庄次郎(関東印刷工組合)]の総同盟よりの除名、及び河田賢治(関東鉄工組合主事)の辞職勧告を提案しました。
 しかし総同盟中央委員会はこの提案を慰留しましたが、同年11月16日関東同盟会理事会は上記提案を再確認してしまったのです。12月18日日開催された総同盟中央委員会は除名された組合を本部直属とし、さきに辞表を提出した鈴木文治会長は留任となりました。
 同年12月20日除名され本部直属となった5組合(上記4組合に後に除名された関東鉄工組合を追加)は12月20日総同盟関東地方評議会を結成しました(「日本労働組合評議会資料」4 大原社会問題研究所)。
 1925(大正14)年3月27日総同盟中央委員会では関東同盟会選出の委員から6名の左派指導者(中村義明・鍋山貞親・辻井民之助・山本懸蔵・杉浦啓一・渡辺政之輔)の除名案が議題として提出されましたが、その理由は「一、右六名は日本共産党に属し、又は之と通謀し、常に党中党を作り、総同盟を乗取らんとする陰謀を企てつつある。二、右六名の言動は、実質の伴わざる狂激なるものであって、総同盟の組合精神と全然相反するものである。」と述べられています。採決により同議案は三分の二の賛成をえられず、承認するに至らなかったのですが、同時に中央委員の一人から提案された関東地方評議会の解散と機関紙「労働新聞」の停刊要求案は満場一致で可決されました。4月12日左派30組合は日本労働総同盟革新同盟を結成するに至ったのでした(「日本労働年鑑」大原社会問題研究所)。
かくして同年5月24日総同盟革新同盟全国大会が神戸のキリスト教青年会館で開催され、同革新同盟は総同盟より分離し日本労働組合評議会(評議会)を結成したのです(総同盟第1次分裂・「日本労働組合評議会資料」2 大原社会問題研究所・野田律太「評議会闘争史」中央公論社)。
 評議会は結成直後の1926(大正15)年1〜3月、徳永直の小説「太陽のない街」(岩波文庫)で知られている共同印刷(労働運動史研究会・労働者教育協会共編「日本労働運動の歴史」戦前編 三一書房)や同年4〜8月の日本楽器(ヤマハの前身)のストを指導(「日本労働組合評議会資料」6 大原社会問題研究所)、会社も損害を受けましたが、争議団も惨敗して終了しました。

鈴木文治「労働運動二十年」を読む28

 1925(大正14)年3月普通選挙法の成立(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む29参照)により、無産政党設立の動きが具体化してきました。その動きの一つとして1926(大正15)年11月4日安部磯雄・吉野作造・堀江帰一は連名で無産政党(のちの社会民衆党)の結成を提唱、総同盟もこれを支持する決議をしました(「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造30参照)。しかるに総同盟の実力者麻生久らは浅沼稲次郎・三輪寿壮と秘かに準備していた「日本労農党」(日労党)創立の計画を明らかにしたため、同年12月3日総同盟中央委員会は日労党設立準備をすすめた麻生久・加藤勘十・棚橋小虎(「労働運動二十年」を読む19参照)ら12名を除名、このため麻生久らと関係の深かった人々も総同盟を脱退、同月4日棚橋小虎を会長とする日本労働組合同盟が結成されました(総同盟第2次分裂・「工場と鉱山」1巻1号 日本労働組合同盟)。

History of Modern Japan―日本近現代史研究―政党議会に関するデータベースー2.政党に関するデータベースー戦前期:衆議院院内各派

 1927(昭和2)年9月16日野田醤油(キッコーマンの前身)の総同盟組合員2000名は賃上げ・団体協約締結要求で罷業に突入、暴力団が介入、争議団も竹槍で対抗し、あるいは会社側の人物に硫酸を投げつけて重傷を負わせるなどの事件が発生ました。翌年1月16日争議団は戦術の一つとして、小学校の児童三百数十名を同盟休校させて町の人々を驚かせ、争議団に批難が集中する結果となりました。結局1928(昭和3)年4月20日争議団の解散、復職者300人と解雇者700人に対する手当45万円という条件で会社と総同盟(鈴木文治会長と松岡駒吉主事)、及び調停者協調会理事添田敬一郎との間に解決案が調印され、争議は解決したのですが、争議団の惨敗に終わったのはあきらかでした[「労働」196〜204号「労働」(5〜6)]。
 1929(昭和4)年総同盟大阪連合会を中心に左派勢力が伸長、日労党(中間派無産政党)や日本労働組合同盟らが提唱していた組合の全国的総連合に同調せんとするなど主流派と悉く対立したので、総同盟中央委員会は同年9月9日桑島南海士ら17人を除名、統制に従わなかった組合として大阪金属労組・大阪合同労組・関西紡績労組を除名[「労働」220号「労働」(7)]しました。その結果被除名派は同月16日労働組合全国同盟を結成しました(総同盟の第3次分裂・「全国労働者新聞」1号)。
 このような総同盟の分裂に対して鈴木文治はどのような見解を持っていたのでしょうか。
総同盟の第1次分裂について鈴木は次のように述べています。左派の「目的はあはよくば総同盟の幹部を全部排斥してその声望を失墜せしめ、そっくり其儘(そのまま)、総同盟を赤化して左翼陣営の本体とする積りらしかった。其事の成らざるを知るや、次善の策に出で、総同盟所属の大半を浚って行く計画のようであった。併しそれも成功しなかった」(「労働運動二十年」)。この文章の表現にはかなり感情的な左派への反感が感じられるとしても、その発端は左派が総同盟の綱領に共産党の社会主義革命の主張を持ち込んだことに原因があり(「労働運動二十年」を読む25参照)、私はその主張には論理的に同感できます。

鈴木文治「労働運動二十年」を読む29

 しかし総同盟第2次分裂について鈴木は「労働運動二十年」で次のように述べています。「我等は涙を揮って麻生君をはじめ、加藤勘十、棚橋小虎両君等十名の除名を断行するの外なきに至ったのである。固より無産運動の前途は長い、私は必ずこれ等諸君と堅く提携して進むべき時あることを信じて疑はないが、私はこれを以て終生忘るべからざる恨事とせざるを得ない。」
 また総同盟第3次分裂についても彼は次のように言及しています。「私は如何にかして之を防ごうと全力を傾注した。為に優柔不断の譏(そしり)までも受けたのであるが、それも結局徒労水泡に帰したのである。今は何事も言ふべき時でないと思って居る。凡ては時が解決するであらう。」
 この総同盟第2〜3次分裂は総同盟が社会民衆党支持を決定し、これに従わない総同盟内の人々を除名したことから起こったことで総同盟主流が特定の政党(社会民衆党)支持を総同盟内に持ち込んだ点で、かって左派が共産党の主張を総同盟の綱領に持ち込んだことと同じ誤りを犯しているのではないでしょうか。鈴木はこの誤りに気付いていないようですし、また総同盟を除名された人々に対しても、かって第1次分裂の際に見せたような左派への感情的反発はなく、彼等との別れを惜しむ気持ちを隠そうともしていません。
 本来労働組合の政党支持は自由であるべきでしょう。しかし無産政党各派はその支持基盤を確保するために労働組合に働きかけ、組合も政治的発言の場を求めて何れかの無産政党と結びついていったのです(二村一夫「労働者階級の状態と労働運動」岩波講座 日本歴史18)。

二村一夫著作集―総目次―第2巻 『日本労働運動・労使関係論』―第2章 第一次大戦前後の労働運動と労使関係―3 総同盟の分裂と各派の特徴


 1930(昭和5)年総同盟第19回大会最終日の11月4日鈴木文治は会長辞任の意思を表明、彼は大会代議員に向かって労働階級の解放は労働者自身で為さねばならないという信念を友愛会創立の時より持ちつづけてきたのであり、今や日本の労働運動も成人の域に達し、いよいよ自分の希望を実現する時期が到来したと説明して了解を求めました。
 しかし代議員は納得せず、困惑した大会議長は休憩を宣言、鈴木は会長辞任について自分のもっとも信頼する先輩(吉野作造)に松岡駒吉・西尾末広とともに相談して問題解決に努力するので、それまで会長に留任すると申し出、大会は漸く閉幕となりました。
 松岡と西尾は同年11月10日夜吉野作造と会見しましたが、吉野は鈴木の辞任を積極的に支持する態度を見せ、鈴木も同月11日吉野と協議、同日の各新聞に会長辞任の声明を発表してこの問題に終止符をうちました[鈴木会長辞任発表に至るまでの顛末報告「労働」昭和6年1月号「労働」(9)]。
 「労働運動二十年」は鈴木の総同盟会長辞任を述べた後、「労働運動の現勢」・「将来の展望」を述べて終了しています。
 鈴木文治が総同盟会長を辞任した1930(昭和5)年現在、労働組合数712(35万4312人)で、その組織率は労働者総数の7.5%に過ぎなかったのです(労働運動史料委員会編「日本労働運動史料」10)。

鈴木文治「労働運動二十年」を読む30(最終回)

 1931(昭和6)年刊行の「労働運動二十年」に寄せた「鈴木文治君の素描」−序文に代へて旧稿を録すーと題する文章の中で吉野作造は次のように述べています。
 「鈴木君は能く変な金を持って来ると難ずる人がある。来るものは拒まずとは学生時代からの性格だから、或は少し位の疎忽はあらうかと考へる。併し彼れには悪意を以て不正の金を貪り、平然として節を売るやうなことは断じてないと信ずる。金銭の授受については今日の地位に在ってはモ少し慎重であっていゝと思ふが、金によって彼れの良心を左右し得べしと考ふる人があらばそは大変な誤算であらう。(中略)
 それに彼れは金の持てぬ男である。(中略)昔あれだけ貧乏したのだから、もう少し倹約してもよかりそう、(中略)と私共は思ふが、金があると何か他愛もないものを買って喜んでいる。さうでもないと後輩を沢山集めて彼れ相応の大盤振舞ひをやる。(中略)私はこゝに彼れの不謹慎は認める。けれども結局において、これは矢張り彼れの一美点をなすものではあるまいかと考へて居る。(中略)
 しかし時勢の進みは早い。今後も依然として従来の運動を継続するには、彼れに新たな修養が要る。其修練に身心を投ずるにはもう時機は遅過ぎた。(中略)こゝに自らを反省して転身の決心を定めたのは頗る時の宜しきを得たものと私は思ふ。」
 すでに最初の普通選挙が実施された1928(昭和3)年2月20日の第16回総選挙に彼は社会民衆党から立候補、衆議院議員に当選しましたが、1930(昭和5)年2月20日第17回総選挙に同じく社会民衆党から立候補して落選しました。しかし1937(昭和12)年4月30日の第20回総選挙に社会大衆党(社会民衆党と全国労農大衆党が合同)から立候補して衆議院議員に当選しましたが、1940(昭和15)年3月斉藤隆夫代議士の除名問題をめぐって社会大衆党中央委員会の決定を拒否、除名処分を受けました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―さー斉藤隆夫

 太平洋戦争中は憲兵隊の監視下に置かれ、1週間に2〜3人の憲兵の訪問をうけたほどでした。
 1945(昭和20)年日本は太平洋戦争に敗北、同年11月2日日本社会党が結成されると、翌年3月11日同党から総選挙に立候補を届け出た後、翌日心臓喘息により61歳で逝去しました(吉田千代「前掲書」年譜)。1946(昭和21)年3月15日仙台の教会で行われた鈴木文治の告別式において野坂参三(「労働運動二十年」を読む7参照)は弔辞を鈴木の霊前に捧げたのでした(吉田千代「前掲書」)。
 野坂参三は彼の自伝の中で鈴木文治を回想して次のように述べています。「わたしは、思想や運動の方針、具体的な政策などについて、鈴木文治とは早くから意見を異にし、議論し合ったこともあった。(中略)いよいよ友愛会の分裂、評議会の誕生の段階では、わたしは面と向かって彼を批判した。そして彼らと袂を別かち、その後、個人的な交際もなくなってしまったが、しかし、彼に個人的な憎悪感をいだく気にはなれなかった。また、わたしは、彼が友愛会をつくったことの歴史的な意義を、かつても、いまも、変わりなく高く評価している。だから、別れてのち、何かの機会で、彼と顔を合わすようなことがあっても、顔をそむけるような態度をとったことはなかった。」(野坂参三「前掲書」)
2013-12-21 06:15 | 記事へ | コメント(11) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇44鈴木文治) |
鈴木文治「労働運動二十年」を読む11〜20
2013年12月11日(水)
鈴木文治「労働運動二十年」を読む11

 米国における日本人移民によって労働市場が圧迫されるとする排日の気運は日露戦争後の1905(明治38)年後半から顕著となり、1913(大正2)年5月2日カリフォルニア州での「外国人土地所有禁止及び借地制限に関する法律」制定は在米日本人に大打撃を与えたのですが、同様の法律は他州に於いても続々成立していったのです。

日系移民の歴史―アメリカ本土の日系移民―(9)外国人土地法

しかしこうした日米間の対立激化を憂慮する米人の一人として在日経験のある組合派宣教師シドニー・ギューリックという人物がいました。
 彼は1915(大正4)年1月キリスト教連合会特使シカゴ大学神学部長マシウスとともに再来日、同年1月31日ギューリックは在米日本移民協会(会長 大隈重信)を実質的に指導していた渋沢栄一(「雄気堂々」を読む4参照)を訪問、在米日本移民に対する米国内の状況を報告(「渋沢栄一日記」渋沢栄一伝記資料 別巻第二)、同年2月10日歓迎会の席上ギューリックは労働使節派遣の必要を示唆、他方旧知の安部磯雄らとも協議して具体的に派遣の人選を進めた結果、鈴木文治が指名されるに至りました。
 鈴木の承諾を得たギューリックは帰国後、カリフォルニア州労働同盟幹事ポール・シャーレンベルクに、秋のアメリカ労働大会に日本からの労働代表として鈴木を受け入れることを承諾させた上で、同年4月7日付で書簡を渋沢・鈴木宛に送って来ました。
 渋沢から鈴木の渡米要請を正式に受けた友愛会は同年5月10日同会16支部34名の代表が臨時協議会を開催、鈴木文治と渡米を希望していた麻布支部幹事吉松貞弥をアメリカ労働大会に派遣することに決定しました。かくして6月11日渋沢栄一は鈴木文治送別会に臨みました(「渋沢栄一日記」渋沢栄一伝記資料 別巻第二)。

鈴木文治「労働運動二十年」を読む12

 同年6月19日横浜を出帆した鈴木文治は7月5日サンフランシスコに到着、桟橋には日本領事館書記が出迎え、片山潜(「日本の労働運動」を読む50参照)・河上清(「日本の労働運動」を読む25参照)も姿を見せていました。
 鈴木文治はサンフランシスコの在米邦人の歓迎会に何度も出席しただけでなく、米大陸東部も訪問、ワシントンではアメリカ労働総同盟(AFL・「日本の労働運動」を読む3参照)本部で会長サミュエル・ゴンパースと会見しました。ニューヨークでは裁縫工組合のストライキの現場にも遭遇したのです。
 同年10月5日から第6回カリフォルニア労働同盟の大会がサンタ・ローザで、11月8日から第35回AFL大会がサンフランシスコで開催され、鈴木はいずれも日本労働団体代表として、英会話が苦手だったので何度も練習した英語で演説、AFL大会において、人種差別問題に言及「偏見は労働者の敵である。(中略)若し欧洲の労働者の間に、更に一層の理解と協力ありしならば、今次の大戦争(第1次世界大戦)は、或いは之を防止し得たのではあるまいか。予は確く信ずる。日米の労働者が相互の間に明かなる理解と熱き友情とあらば、太平洋は長へに平和なる湖水として残るであろう。(後略)」(「労働及産業」大正5年1月号「労働及産業」(3)日本社会運動史料 機関紙誌篇 法政大学出版局)と述べると彼の周囲には成功を祝して握手を求める代議員が集まりました。
 鈴木は訪米によって多くの見聞と経験を深め、帰途の船上甲板で鈴木に遅れて訪米した渋沢栄一と元旦の日の出を見ながら談論[渋沢栄一「資本と労働の調和」「労働及産業」大正5年8月号 「労働及産業」(4)]、1916(大正5)年1月4日横浜に帰着しました。

鈴木文治「労働運動二十年」を読む13

 鈴木文治の帰国とほぼ時を同じくして、吉野作造の論文「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済すの途を論ず」が1916(大正5)年「中央公論」1月号に発表されました(「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造10参照)。
 この吉野論文における民本主義の思想に鈴木文治は呼応するかのように、その主張に明確な変化が表れます。
 たとえば1911(明治44)年3月28日日本における最初の労働立法である工場法が公布(「法令全書」第四十四巻ノ二 法律第四十六号 原書房)されましたが、その施行は勅令で定めるとされたまま放置されていたのでした。

つかはらの日本史工房―東大・京大・阪大・一橋・筑波に関する受験情報―鍛える!日本史論述―2000年度版―215 独占資本の形成と工場法


同法は1916(大正5)9月1日にやっと施行されたのですが、同法施行令・施行規則制定に際して農商務省が資本家団体に諮問したのに労働者団体には諮問せず、この法令が結果として資本家本位のものであったことは明らかです。また同省商工局長が工場主に対して、工場法は日本固有の主従の美風を根本として、尚一層発展せしめて貰いたいと要望したことに対して、鈴木文治は工場法の適用は工場主も職工も平等の立場にあってうけるべきものと主張したのです(工場法 「社会新聞」 大正5年6月 「吉田千代「前掲書」引用)。ここに鈴木の労使関係に対する認識の変化をみることができます(「労働運動二十年」を読む9参照)。

鈴木文治「労働運動二十年」を読む14

 鈴木文治は1916(大正5)年9月9日2度目の渡米に出発、再び出席したAFL第36回大会は平和(講和)会議の使節に各国労働者代表を参加させること及び平和会議開催の同時期・同場所に於て万国労働者会議を開催することを決議しました[「労働及産業」大正8年8月号 「労働及産業」(10)日本社会運動史料]。彼は1917(大正6)1月23日に帰国しました。
同年4月6日より3日間友愛会創立五周年大会が開催されましたが、同大会は戦後国際労働大会が開催された場合、代表者を選出して列席させることを可決していました[「労働及産業」大正6年5月号 「労働及産業」(5)]。
 友愛会創立よりこのころまでに、同会組織は順調に発展してきました。やがて既述のように川崎・本所などに支部ができ(「労働運動二十年」を読む8・10参照)、1914(大正3)年には北海道室蘭支部が発足した時、松岡駒吉が友愛会に入会しています。

岩美町(鳥取県)―観光案内―遊ぶ・散策するー偉人達の足跡―松岡駒吉


工場地帯のあるところには必ずといっていいくらい友愛会支部が作られ、やがて東京・神奈川・大阪・神戸などに連合会が生まれました。また海員・鉱山・婦人労働者を対象とする特別の部も生まれました。
創立1周年で会員は1326名、創立五周年の大正5年には会員総数27000名・支部数108に達し、その外生活援護・法律相談や出版・講演などの啓蒙活動にも力を入れてきました(大河内一男「暗い谷間の労働運動」岩波新書)。五周年大会では会則を修正して職業別組合への方向を示し、女子の準会員規定を正会員として男女平等の原則を樹立しました(吉田千代「前掲書」)。
松岡駒吉について鈴木文治はその自伝で次のように回想しています「同君はもと北海道の室蘭製鋼所の職工であった。(中略)入会の後漸く幹事に就任して会計の任務を執るや、俄然として理財の能力を発揮し、(中略)全国に率先して室蘭支部の会館を建設するに至ったが、同君の力最も大なるものがあるのだ。(中略)漸く同君の承諾を得、友愛会の本部員として採用することとなり、先づ大阪連合会の主務として働いて貰ふことになった。(中略)大阪にあって刻苦精励された後、本部主事兼会計として東京に在住(後略)」(「労働運動二十年」)。

JSW日本製鋼所―沿革 

鈴木文治「労働運動二十年」を読む15

第1次世界大戦下において日本商品はアジア市場に進出、貿易は大幅な輸出超過となり、海運・造船のみならず鉄鋼業・化学工業も躍進、鉄成金・船成金などと呼ばれる人々が現れ、工場労働者数も急増しました。しかしこのような好況にもかかわらず、一般労働者の名目賃金は増加しても、物価の上昇がそれを上回っていたので、実質賃金は低下し労働争議は増加の傾向を辿ったのでした(労働運動史料委員会編「日本労働運動史料」統計篇 第10巻 労働運動史料刊行委員会)。
1917(大正6)年1月14日池貝鉄工所職工630人余は2割賃上げを要求して罷業、翌2月本所の三田土ゴム会社職工380人余3割賃上げ要求で罷業、前者は鈴木渡米中の会長代理が調停、後者は鈴木文治が調停、各々1割賃上げで解決しました[「労働及産業」67号「労働及産業」(5)]。 
 さらに同年3月14日室蘭製鋼所職工が2割賃上げを嘆願しましたが、要求拒絶により罷業、鈴木文治は日本製鋼本社を訪問して後、室蘭に赴き、難交渉の末会社は平均2割〜3割の賃上げを認めましたが、友愛会員22名は解雇、其の他の会員は友愛会脱会を強要され同会室蘭支部は壊滅状態となりました[「労働及産業」93号「労働及び産業」(9)]。

鈴木文治「労働運動二十年」を読む16

 この争議をきっかけに政府・使用者側の友愛会に対する姿勢は強硬となりました。室蘭製鋼所が軍需工場であったので呉・横須賀の両海軍工廠において友愛会員に対する脱会強要が行われ、舞鶴の海軍工廠では御用団体「工友会」を創立して友愛会員をこれに吸収するなどの友愛会に対する圧迫が激化しました。
 これに対して鈴木文治は海軍工廠幹部や海軍次官に同郷の海軍大将斉藤実の紹介状をもらって抗議しましたが(「斉藤実関係文書」国立国会図書館 憲政資料室所蔵)、何の効果もなかったようです。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―さー斉藤実

 鈴木文治はこのような労働者をめぐる環境の緊迫にもかかわらず、上述の五周年大会で規約第2条を「本会ハ全国ニ於ケル各種同業団体ノ総連合トス」と改正して、職業別労働組合の全国的連合体をめざす方針を表明し、1917(大正6)年10月15日秀英舎・日清印刷の印刷工が友愛会東京印刷工組合(友愛会最初の職業別組合)を結成(「労働及産業」76号)、翌年10月10日には友愛会東京鉄工組合創立総会が開催され、理事長山口政科・理事(会計)松岡駒吉が就任しました[「労働及産業」89号「労働及産業」(9)]。

鈴木文治「労働運動二十年」を読む17

 1917(大正6)年ロシア革命が起こりました(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20参照)。鈴木文治は同年春大学を卒業した野坂鉄(「労働運動二十年」を読む7参照)を本部教育員に任命、同年9月から機関誌の編集長として出版部長となりました。
 野坂は友愛会員に機関誌への投稿を呼び掛け、1918(大正7)年夏「露西亜革命の感想」という題で懸賞論文を募集、応募論文14が「労働及産業」同年10〜11月号に掲載されました。同応募論文の1等入賞者はなく、2等に仙台支部の原田忠一の「生きる光明を与へたり」が入賞しました。野坂参三の自伝「風雪のあゆみ」(新日本出版社)の記すところによれば、原田忠一とは、そのころ野坂とともに本部出版部で機関誌編集に従事していた鍛冶工平沢計七(亀戸事件の犠牲者・「労働運動二十年」を読む26参照)の筆名であったようです。
 この論文で平沢は次のように記述しています「(前略)今の世の中は吾々貧乏人には浮かばれない様に出来てゐるのだ。(中略)ところが迅雷霹靂の如く露西亜に大革命が起って瞬く間に天下は労働者の手に帰してしまった。(中略)私は躍り上ったそして家に駆けこむで小供等を抱きしめて斯う叫むだ。『オイ小僧共、心配するな、お前達でも天下は取れるむだ! 総理大臣にもなれるのだ!』謂はヾ露西亜革命は吾々に生きる希望を与へてくれたのだ」。なおこの懸賞論文に野坂は編集長でありながら偽名山崎国三の名で「先駆者の悲哀」と題する文章で応募、3佳作の一つとなりましたが、「この事実は、選者の一人である鈴木会長も知らなかったろう。」(野坂参三「前掲書」)と述懐しています。
 しかし当時の社会運動に大きな刺激を与えたのはロシア革命よりも、1918(大正7)年夏に起こった米騒動(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20参照)でした。
 鈴木文治は自伝の中で米騒動について次のようにのべています「米騒動と労働運動とは、一見何の関はりもないやうに見える。(中略)併し乍ら事実は決してそうではない。米騒動は民衆に『力』の福音を伝えた、労働階級に自信を与えた、(中略)米騒動は、我国労働運動の拍車となってその活躍を前へ推進めた。」(「労働運動二十年」)。
 吉野作造が右翼団体「浪人会」との立会演説会を開催した際、鈴木文治が会場内外を連絡してその実況を報告、多くの知識人・民衆に知らせて活躍したのはこのころです(「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造25参照)。

鈴木文治「労働運動二十年」を読む18

 第一次世界大戦終結に伴う講和会議の日程が明らかになると、鈴木文治は労働団体の形勢(「労働運動二十年」を読む14参照)について懇意の間柄であった外務次官埴原正直を通じて外相内田康哉に注意を促し、外相も了解、非公式の政府顧問として1918(大正7)年12月30日横浜を出発、アメリカからロンドンを経由、翌年2月15日講和会議(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21参照)開催中のパリーに到着しました。
 しかし列強首脳はロシア革命の影響による労働者の急進化を恐れ、すでに講和会議の一部門として国際労働法制委員会(議長 AFL会長ゴンパース)を設立させており、各国労働代表は同法制委員会の委員で日本はすでに落合謙太郎(駐オランダ公使)・岡實(前農商務省商工局長)の2名が委員となっていました。鈴木文治は両代表の顧問として同法制委員会に出席、同年3月20日まで同委員会はほとんど休まず会議を継続、平和条約第13編(いわゆる国際労働条約)を決定、これにより国際労働機関(ILO)の設置と一般労働原則9箇条の決議がなされ以後毎年国際労働会議が招集されることとなりました。
 同年4月28日講和会議総会で国際労働条約の成立が決定すると、鈴木はパリーを出発、ロンドン・アメリカ経由で同年7月17日横浜に帰着しました。
 彼は記者会見で日本政府より発する訓令も極めて保守的なる時代遅れのもので、委員自身も自分の独立意見によって進退することができず、連合各国の感情を甚だしく損したことはもちろんである。日本側がアメリカにおける移民問題の好転をはかって講和会議に提出を希望していた人種平等案(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21参照)が、英・米の反対により取り下げる結果になったのも、同じくその源はここに発するものであると政府の対応を批判しました(吉田千代「前掲書」)。

鈴木文治「労働運動二十年」を読む19

 1919(大正8)年8月3日東京砲兵工廠の職工らは小石川労働会を結成、賃上げ・8時間労働制などを要求して8月23日より罷業、8月30日解決しました。なお同年11月9日大阪砲兵工廠に組合「向上会」が結成されています(「労働運動」1号 労働運動社)。

Weblio―辞書―項目を検索―砲兵工廠   

 同年8月30日友愛会七周年大会が東京の唯一館講堂で開催され、会名を大日本労働総同盟友愛会と改称、鈴木会長の単独指導を理事の合議制とすることや会長公選などを決議、決定された20カ条に及ぶ主張の主なものはヴェルサイユ平和条約に記された労働理念(一般労働原則9箇条・「労働運動二十年」を読む18参照)をとりいれたもので(1)労働組合の自由(2)幼年労働の廃止(3)最低賃金制度の確立(4)同一労働に対する男女平等賃金制の確立(5)1週1日日曜日の休日(6)8時間労働および1週48時間制(7)夜業禁止(8)普通選挙(9)治安警察法の改正などが掲げられています(「労働運動二十年」・「労働及産業」98号)。
 同じころ政府(原敬内閣)の意をうけて渋沢栄一らが中心になり、(労資)協調会設立の趣意書と綱領を公表、労働団体の代表として友愛会長鈴木文治に参加協力を要請しました(渋沢栄一「協同的精神の発揮」「実業之日本」大正8年9月 吉田千代「前掲書」引用)。しかし鈴木は協調会が労働組合の公認・治安警察法第17条の撤廃・労働組合の同盟罷工の権利の公認を協調会の方針とすることなど5項目を提示、もし協調会発起人が真に時勢を達観する明があるならば、労働組合の公認と普通選挙法の樹立という二大問題に其非凡の精力を傾倒、世界の大勢に響応すべきではないかと主張しました[「労資協調会を評す」「労働及産業」大正8年9月 「労働及産業」(10)]。これらの文章に渋沢も憤慨して、以後鈴木文治とは疎遠となったようです。1919(大正8)年12月22日渋沢栄一らは協調会を設立しました(矢次一夫編「財団法人 協調会史」偕和会)。
 一方賀川豊彦らの提唱で同年12月15日関西14労働団体普通選挙期成関西労働連盟を結成(「総同盟五十年史」第一巻 総同盟五十年史刊行委員会)、普選運動は友愛会をはじめ各種労働団体を中心に盛り上がりを見せていました。
 同年12月26日第42議会開院式にあわせて、大阪では大阪砲兵工廠向上会の八木信一、鉄工組合の坂本孝三郎、友愛会の久留弘三らが中之島公会堂で演説会を開催、「われら労働者は、第42議会において、普通選挙法の通過を期す」という決議をしています(大河内一男「前掲書」)。

鈴木文治「労働運動二十年」を読む20

 1920(大正9)年2月5日友愛会などが普選期成・治警撤廃関東労働連盟を結成、同年2月11日東京で数万人の普選大示威行進が挙行されるに至りました(新聞集成「大正編年史」大正九年度版 上 明治大正昭和新聞研究会)。
 同年2月14日衆議院に憲政会・国民党・普選実行会提出の普通選挙法3案が上程されましたが、2月26日普選法案討議中議会は解散、5月10日総選挙の結果立憲政友会が大勝、7月1日第43議会開会、7月12日衆議院は憲政会・国民党提出の各普選法案を否決しました(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む23参照)。
  この結果について友愛会の関西系機関紙「労働者新聞」大正9年8月15日号は次のように述べています「労働者諸君、今度の議会のふざけ方はどうですか。それでもなほ諸君は、議会を信頼しますか」(大河内一男「前掲書」)。このように議会に対する労働者の信頼は急速に薄れていったといえるでしょう。
 これ以後労働組合を中心とする普選運動は急速に衰退の一途をたどりました。
 1920(大正9)年3月15日株式市場は株価暴落で混乱、いわゆる戦後恐慌が始まっていました(日本経営史研究所編「東京証券取引所50年史」東京証券取引所)。企業や商社の倒産がつづき、多くの失業者が街頭に投げ出されていきました。労働組合は普選どころか首切り反対闘争を展開するのが精一杯で、それも敗北して組合組織そのものも壊滅する事態を招くことが多かったのです。
 同年2月5日官営八幡製鉄所の職工一万数千名は職工規則の改正をめぐって罷業開始、前年結成された組合「日本労友会」を中心に友愛会も応援しましたが、労友会幹部19人が検挙され、同年4月1日9時間3交代制実施など職工は要求を貫徹したものの多数の解雇者を出し労友会は壊滅しました(八幡製鉄労働組合編「八幡製鉄労働運動史」八幡製鉄労働組合・浅原健三「溶鉱炉の火は消えたり」新建社)。

新日鉄住金―企業情報―所在地―製鉄所―八幡製鉄所―アクセス・地図―歴史・沿革

2013-12-11 07:21 | 記事へ | コメント(0) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇43鈴木文治) |
鈴木文治「労働運動二十年」を読む1〜10
2013年12月01日(日)
鈴木文治「労働運動二十年」を読む 1

 鈴木文治の自伝「労働運動二十年」(一元社 昭和六年発行)は彼の生い立ちを次のように述べています。
「宮城県栗原郡金成(かんなり)村―古く旧記を按ずれば、その昔源義経が兄頼朝の笞を逃れて、北の国へと落ち延びた時、その東道の主人を勤めしと伝へられる金売吉次の出生地―これが私の生声(うぶこえ)を揚げた土地なのである。」
伝説の真偽は別として、この辺は平安時代、高鞍荘という荘園で平泉の奥州藤原氏が関白藤原忠実に寄進して自らは荘園管理者となった地でした(宮城県史編集委編「宮城県史」宮城県史刊行会)。鎌倉時代には源義経や源頼朝も通ったと思われる官道松山道が金成村の西部を貫いていたので、昔から交通の要地であったのでしょう(高橋長寿遺稿「金成村誌」吉田千代「評伝鈴木文治」日本経済評論社 引用)。江戸時代同村は奥州街道の宿駅として繁栄しました。
仙台藩は南・北・中奥・奥の4地方に各々郡奉行を設置していましたが、金成は中奥に属する三迫と磐井郡流郷の中心として代官所が置かれ、藩直轄の穀倉地帯で、代官は年貢の徴収を主な職務としていました。この代官の下に大肝入(おおきもいり)とよばれる村役人がいて、管下の政治を支配していたので、大肝入は豪農の中で人望のある人物の家から選ばれ、のちに世襲となりました。
1853(嘉永6)年から1865(慶応1)年まで金成の酒造業泉屋の金野助三郎が大肝入を勤めていたのですが、この泉屋の番頭であったのが鈴木文治の曾祖父安治でした。
 鈴木文治は前掲自伝で「自分の生まれた家といふのは百年とかの古い家で、太い梁や柱が使ってあった。これ等の諸材や人夫や手間は殆んど悉く安治を徳とする人々の寄附で出来たのだと、祖母が語り聞かしたのを覚えて居る。」と述べています。
 今ではその屋敷跡の道路沿いに「鈴木文治ここに生まる」という記念碑(昭和42年建立碑文揮毫 片山哲)が立っているだけです。

[偉人録]郷土の偉人を学ぶ

 安治は男子に恵まれず長女しうに婿養子として、石川家より泰治を迎え、鈴木家は泰治の代に農業に従事しながら麹屋をはじめました。泰治としうの間に1868(明治1)年文治の父益治がうまれました(吉田千代「前掲書」)。

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 2

 文治は1885(明治18)年9月4日上掲の地上町(宮城県栗原市)の旧家鈴木益治の長男として出生しました。

聚史苑―歴史年表―大正年表1―1912年 明治45年 大正元年8月1日― 鈴木文治   

 文治出生のころは祖父泰治が健在で 泰治が1888(明治21)年死去後、益治は酒造業にのりだしました。
1890(明治23)年文治は金成小学校に入学、尋常科4年を終了すると岩ヶ崎尋常高等小学校に入学、金成少年学会に所属するようになりました。金成少年学会は1889(明治22)年7月当時13歳の菅原幸佐の提案により創立され、小学生から16歳ころまでの少年少女を会員とし、先輩や村の有識者が指導者となって毎夜講読会を開き、会員は漢文講義を聞いたり、作文を発表したりしていました。また年に2〜3回は教師や先輩による大演説会も開催されました。とくに1892(明治25)年金成ハリストス正教会の中川崇伝道士が中心となって少年学会を指導するにいたり(吉田千代「評伝鈴木文治」日本経済評論社)、のちに鈴木文治が社会運動家として、文章や書に秀で、雄弁で多数の人々をひきつけた魅力もこの金成少年学会で養われたものでしょう。
1895(明治28)年鈴木文治は父とともに金成ハリストス正教会で洗礼を受けました[金成教会銘度利加(メトリカ)第壱巻 吉田千代「前掲書」引用]。

栗原市―観光案内―カテゴリー一覧―歴史探訪・文化―金成ハリストス正教会

1897(明治30)年3月岩ヶ崎小学校高等科を卒業した文治は創立されたばかりの宮城県尋常中学校志田郡立分校(古川高校前身 明治34年宮城県立第三中学校 のちに古川中学校)に入学しました。
「中学のあった町は私の生地より八里離れた古川町―吉野作造博士の出生地、私はこ丶で十三歳中学一年の時、二十歳仙台一中卒業の吉野氏と会った。爾年交遊三十五年、兄弟に等しい友誼を続けているーに行っていたが、毎週土曜日の午後は人力車を仕立て丶必ず家に帰った。そしてその車夫を一泊させてさらに月曜の朝までに学校へ通って行ったものである。」(「労働運動二十年」)

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 3

1902(明治35)年3月鈴木文治は宮城県立第三中学校を卒業、吉野と同じく第二高等学校を経て大学へ進学したい希望を持っていましたが、このころから鈴木家の家運は傾き、彼は一時進学をあきらめかけました。しかし母親が実家からもらって長年保存していた古金銀を元手に同年8月仙台で全国一斉の高等学校入学試験に合格、成績と志望順に全国に振り分けられ、山口高等学校(現在の山口大学)に入学を許可されました。再び両親の金策の世話になり、彼は山口に赴く途中東京で吉野作造・内ヶ崎作三郎の両先輩と相談、内ヶ崎氏の知人であった山口高等学校教授戸沢正保先生への紹介状をもらっていったのでした。

華麗なる旧制高校巡礼―山口高等学校 

 戸沢正保は鈴木文治の保証人となり、戸沢の紹介で寄宿舎に入ることができました。しかし窮乏により校則に定められた制服を作ることができず、私服で登校したため横地石太郎教頭から度々注意され、「学校は人材の教育が主か洋服調製が主かと先生に喰ってかかり、眼玉の飛び出る程叱りつけられたことがある」(「労働運動二十年」)。ようやく父から送金があり制服をつくったのですが、外套はなしで翌年先輩から古外套を譲ってもらいました。靴も連隊営舎前の古靴屋で兵隊の古靴を25銭で買って穿いたのです。
 その年東北の大飢饉がおこり、両親からの仕送りはなくなり、鈴木文治は途方にくれ、死を思って彷徨したことも度々ありました。丁度その時一高の秀才藤村操が有名な「巌頭の感」を残して華厳の滝に投身自殺しました(1903.5.22 新聞集成「明治編年史」第十二巻 財政経済学会)。

小さな資料室―資料2 藤村操の「巌頭之感」

 鈴木文治は「私は山口から日光まで死に行く程の旅費も持たなかったが、藤村君の死がとっても羨ましかった」(「労働運動二十年」)と述べています。
 やがてこのような状態の鈴木文治を心配した戸沢先生の好意で、彼は約1年間先生の食客書生として戸沢宅に住み込みを許され、戸沢先生と同じく山高教授の戸川秋骨先生の筆耕(写字などによって報酬を得ること)に雇われ、学資の足しにすることができました。
 また当時東京帝大の学生(助教授と「労働運動二十年」に記されていますが、鈴木文治の記憶違い)であった吉野作造の尽力により、仙台の養賢義会よりの貸費生として月8円を支給されるようになり、山高入学と同時に学内の羊牢会というキリスト教青年会に所属していた鈴木文治は戸沢宅を出て美以教会の日曜学校校舎の留守番として住み込むことができました。
 山口より7里山奥の秋吉村において大理石の採掘加工を業としたキリスト教徒本間俊平は出獄人や不良少年の感化に情熱を傾注し、時々7里の山道をこえて山口に赴き、若者らに信仰の灯を与えて倦まなかったそうで、鈴木文治も彼の感化をうけた一人であり、彼が社会において偏見をうけ、不遇に苦しむ人々に注目するきっかけを与えた人として本間俊平は記憶すべき人物といえるでしょう。

Remnant―キリスト教読み物サイトーそのほかークイック移動―その他―本間俊平とその妻・次子
    

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 4

 1905(明治38)年鈴木文治は山口高等学校を卒業、同年9月東京帝国大学法科大学政治学科に入学、郷土の先輩吉野作造・内ヶ崎作三郎らの世話で本郷台町の中央学生基督教青年会館に入りました。
 「其頃日露戦争は漸く終ったが、講和の結果について国民の不満は実に猛烈であった。到頭日比谷の国民大会から焼打騒ぎとなったが、着京四日目に其騒動が起り、私は友人と一緒に本郷から日比谷までこれを見に行った。今の帝国ホテルのあるところに内務大臣の官邸があったが、その塀には桂首相や小村外相の生首の畫がベトベトに張ってあった。警官がそれを剥ぎ取ろうとする、民衆は夫れを妨げる、…私は此大混乱の渦の中に捲き込まれて出るも引くも出来なかった。」(「労働運動二十年」・「坂の上の雲」を読む49参照)
 同年9月半ばころから大学の講義が始まり、穂積八束博士の憲法、金井延博士の経済学、岡田朝太郎博士の刑法、等々々、いずれも鈴木文治のような田舎学生には驚異でしたが、就中彼の心をとらえたのは4年生の時の桑田熊蔵博士の「工業政策」の講義でした。同博士の講義は名は工業政策でも実は社会政策で工場法のこと、労働組合のこと、消費組合のこと、労働保険のこと、労働紹介のこと、工業裁判所のこと等でした。彼はもっとも熱心に聴講、屡々先生を自宅に訪問して親しく教えを受けたものです。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―くー桑田熊蔵

 一方彼の生活の内容は大学四年を通じてまことに恵まれないものでした。すでに仙台にでていた貧窮する鈴木一家を養うために、鈴木文治は月15円の生活費を仕送らねばならず、彼は海老名弾正の本郷教会(「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造 3参照)に属して、同師主催の雑誌「新人」の同人となり、毎日曜に師の説教を筆記して「新人」に掲載、後に「新人」の編輯主任となって多少の収入を得ることができました。其の他家庭教師などもして自らの勉学のかたわら家族を養っていかねばならなかったわけで、その苦労は並大抵なものではなかったでしょう。

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 5

 鈴木文治は1909(明治42)年7月大学四年の課程を終了しました。東京帝大法科大学長穂積八束(「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造3参照)は学生就職の世話をするために学生を引見、その志望を聞きました。鈴木文治は此の時新聞記者志望と答えて穂積八束を驚かせたのです。当時帝大―とくに東京帝大法科大学―は官吏の養成所と呼ばれ、また官界への登竜門で卒業生の大部分がみな官吏を志願したからです。
 穂積八束は「東京日々」社長加藤高明(「凛冽の宰相加藤高明」を読む10参照)への紹介状を書いてくれましたが、郷里の先輩小山東助の尽力で島田三郎(「田中正造の生涯」を読む13参照)の紹介により鈴木文治は同年7月1日印刷工場「秀英舎」(創立者 佐久間貞一「日本の労働運動」を読む7参照)に入社、工場法案の研究などの知識を広めるに役立ったのですが、どうしても印刷業を終生の仕事とする気になれず、1910(明治43)年3月同社を退社、同年4月「東京朝日新聞社」入社試験を受けて合格、5月1日より同社社会部記者として入社したのでした。
 この入社試験の課題は「東京に於ける救済事業現況」で、十日以内に提出を命ぜられました。取材訪問のために8日の間本所若宮町の無料宿泊所をはじめとして破れ綿入れに色褪せた黒木綿の羽織を着て穴のあいた足袋にグダグダの中折れ帽をかぶって、トボトボと宿をもとめ、電車のなかでは車掌から権突をくらい、道を尋ねて巡査に叱られ、ようやく宿泊所にたどりつくと、取次人に怪しまれながら二階の大部屋へあがり来宿者の中に入って数時間を過ごしてみました。
 当時の救済事業はほとんど宗教関係者によって実施されていたので、救世軍の社会事業、留岡幸助の家庭学校、原胤昭の出獄人保護事業、島貫兵太による苦学生救護の日本力行会などを訪問、さらに孤貧児の救済施設として東京市内第一の設備を持つといわれる市立巣鴨養育院分院などを視察、これらの取材ノートをもとに20回分の原稿を完成して試験委員に提出しました。同原稿は鈴木文治入社後、「東京に於ける社会改良事業現況」と題して東京朝日新聞に10回にわけて掲載されたものです。彼は1911(明治44)年2月「浮浪人研究会」を組織しています。

児童福祉施設 東京家庭学校―施設概要  

 入社3日目にハレー彗星の記事(1910.5.19ハレー彗星地球に最接近、流言・噂・不安を呼ぶ 新聞集成「明治編年史」第十四巻)を書くことを命ぜられ俄か天文学者となってあわてたりしたこともありました。大逆事件(「日本の労働運動」を読む47参照)の取材に当たっては、第1回公判開廷と同時に傍聴は禁止されたので、彼は幸徳秋水と親交のあった堺利彦(枯川)に会い、死刑判決後に幸徳と面会した様子を取材して新聞記事「最後の面影」をまとめ、さらに幸徳秋水と管野スガが堺に送った書簡を全文掲載しました。またこのころ朝日新聞社には石川啄木(「田中正造の生涯」を読む23参照)が校正係として勤務しており、鈴木文治と無政府主義について議論したこともあったようです(石川正雄編「石川啄木日記」第3巻 明治44年1月3日条 世界評論社)。
 やがて彼は夜の編集主任に昇進しましたが、同一記事を市内版と神奈川版とに二重掲載した誤謬の責任をとって、1911(明治44)年10月朝日新聞社を退社するに至りました。

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 6

 1911(明治44)年11月鈴木文治は再び郷里の先輩小山東助の奨めで日本ユニテリアン派教会(機関誌「六合雑誌」「日本の労働運動」を読む24参照)の附属伝道団体である統一基督教(弘道)会に社会事業を行う目的で、同教会の幹事として就職しました。このことは英国留学後帰国して同教会の牧師になった同郷の内ヶ崎作三郎の活動を側面から援助するためでした。
 ユニテリアン派教会の日本における活動拠点であった惟一館において鈴木文治は1912(明治45)年1月15日周辺の労働者を対象とする「労働者講話会」を開催しました。
同日午後6時職工や近隣の女子供を含む住人約400名が集まり、鈴木文治司会により教会員の讃美歌から始まり、ピアノや独唱を交えながら、三宅鉱一東大医学部教授の「酒の話」をはじめとして救世軍の山室軍平・安部磯雄らが講演を行いました。
同講話会は毎月15日(当時の労働者は1日と15日が休業)夜知名人を講師に迎え、映画・講談などの余興も交えて開催され、次第に労働問題の話などを加えて労働者を啓蒙する試みに着手しました。
 同年3月には「労働者倶楽部」を開設して、労働者と親しく交流する機会をふやし、職場での労働者の処遇が上役への賄賂の多寡によって左右されているという前近代的労務管理の実態を知りました。
「そこで私は彼等に説いた。かういう実情に対抗し、横暴を打ち砕くには一人や二人の力には及ばない。団結の威力によるの外はないと、外国の労働組合の話をした。すると、感激の呻きが忽ち揚るという有様であった。」(「労働運動二十年」)
 そこで1912(大正1)年8月1日(同年7.30明治天皇死去)諒闇(天子が父母の喪に服する期間)第3日惟一館図書室において電気工・機械工・畳職・塗物職・牛乳配達・撒水夫等計十三名に現職の巡査1名(隠れた同志として極力奮闘を約す)及び鈴木文治を加えて15名が集まりました。

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 7

座長席についた鈴木文治は『労働階級の向上と労働組合の結成とは必然的のものである。(中略)併し労働問題に対する世間の理解力極めて乏しく、官憲の圧迫も亦猛烈である今日―幸徳事件終了後漸く二年―到底直ちにその組織を作ることは困難である。暫く友誼的共済的又は研究的の団体で満足しようではないか。(中略)と云い、一同納得したので会名の詮衡に入った。(中略)そこで私は然らば「友愛会」という名はどうか。(中略)英国にフレンドリー・ソサイテイーというのがあるが、それは訳せば友愛会となる。(中略)日本の労働者も今は正しく隠忍して力を養ふべきときであると語り、英国労働運動の故智を学ぶことにしようではないかと述べ』(「労働運動二十年」)満場の同意をえました。

聚史苑―大正年表1―1912〜1915−1912年8月1日―鈴木文治―友愛会


 鈴木が立案した、共済と相互扶助・修養と努力・社会的地位の改善を旗印とする綱領と会則とを決定(「六合雑誌」大正元年9月号 「総同盟五十年史」第一巻 総同盟五十年史刊行委員会 引用)、会長には鈴木文治が推戴され、幹事を互選、ユニテリアン・ミッションのマコーレー博士は名誉会員に推され、安部磯雄(「日本の労働運動」を読む22参照)を会長とする弘道会の人々は評議員や賛助会員となって友愛会を支援したのです。同年11月同会機関紙「友愛新報」[総同盟50年史刊行委員会編「大正昭和労働運動・社会民主主義研究資料」第1(友愛新報集成)柏書房]が創刊されました。
 「友愛新報」第二号には労使関係について「抑も物の生産は、何に依って出来るのであろうか。資本と労働との協力の結果ではないか。」(「資本と労働の調和」)と述べられているように労資協調主義がとられています(吉田千代「前掲書」)。
 鈴木文治は彼の自伝で友愛会創立時代に活躍した若き人々の中で特に異彩を放った3人として野坂鉄(参三)・久留弘三・酒井亀作(興)を挙げ、野坂鉄について次のように述べています。「野坂鉄君は大正二年の暮か、大正三年の春に堀江帰一(友愛会評議員)博士の紹介状を以て来訪した。慶応理財科の二年で、卒業論文に労働組合のことを書きたいから、友愛会の実際運動を見せ、又話をして貰いたいというのである。(中略)大正四年春卒業と同時に友愛会本部員として入って来たのである。真面目な学究肌の人でつひに一回も演壇に立ったことはない。(中略)同君は当時共産理論に共鳴し、(中略)洋行以来一層其の信念を堅くしたもの丶ようである。(中略)私は今でも此力のある立派な闘将を我等の陣営より失わざるを得ざるに至ったことを残念に思ふものである。」(「労働運動二十年」)

杜父魚文庫―杜父魚ブログー2007.07.22 野坂参三の不思議 渡部亮次郎

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 8

 友愛会創立後1年も経たない1913(大正2)年6月末労働争議が起こりました。同月7日発会式を挙げたばかりの同会川崎支部の山中・長谷川両人が語るところによれば、日本蓄音器(レコードプレイヤーの前身)商会(日本コロンビア株式会社の前身)の従業員は同月28日会社側から次のような通告を受けました。1. 7〜8月両月を会社の都合により暑中休暇とする。2. 其間の生活費は例年6月末に下げ渡してある賞与金(日給者)積立金(請負者)を7月末に半額、8月末に半額払い渡すという内容でした。従業員は協議の結果、会社に向かって次のような申し出をしました。夏季休業はいらないから、仕事を続けてほしい。でなければ二ヶ月分の給料を渡して貰いたい。
 しかるに会社は従業員の申し出を受け入れないので、一同協議の上、事件の解決を会長(鈴木文治)にお願いしようということになったそうです。

日本コロンビア株式会社―会社沿革 

 労働運動の最初の小手調べにに米人支配人(日本蓄音器商会は米国資本の経営で社長・支配人・工場長らは悉く米人)に一泡吹かせずに置くものかという猛烈な反感から、鈴木文治はこのお願いを引き受け、まずマコーレー博士(「労働運動二十年」を読む7参照)から同商会支配人ラビットに対する紹介状を書いてもらいました。
 つづいて彼は同月28日罷業に入っていた同商会従業員全員に談判の手段並びに従業員の実際行動についての全権委任をとりつけ、警察署長を訪問、鈴木が同商会と談判する際争議団員が同商会前広場に三々五々集まる程度なら警察は干渉しないとの了解をとりつけました。
 同月29日午後4時ころ支配人ラビットらと鈴木文治の談判が開始されましたが険悪な雰囲気で物別れとなり明朝再び会うこととなって、翌朝午前9時再会談の結果東京電気工業部長新荘吉生の裁決に従うことで合意しました。同日午後4時新荘吉生の裁決により同商会は次のような決定を回答しました。
1. 会社は7月15日まで仕事を継続、8月15日より仕事を開始する。この1ヶ月間は従来通りの賃金を支給する 2. 7月16日より8月14日まで休業する。但しこの期間の休業に対しては1週間分の給料を手当てとして支給する。 3. 賞与金は即時全額を支給する。
 この回答を鈴木文治が友愛会川崎支部にもたらすと、同商会従業員は喜び、300の会衆は友愛会万歳を唱和しました。
 同年11月鈴木文治はユニテリアン教会で内ヶ崎作三郎牧師司会により、井上ユキと結婚式を挙行しました(吉田千代「前掲書」)。

鈴木文治「労働運動二十年」を読む 9

 このころの鈴木文治の労働争議に対する姿勢は「親心ある工場主」(「友愛新報」大正3年3月1日号 吉田千代「前掲書」引用)の言葉が示すようにその解決を経営者の恩恵に期待する発言にその特徴があり、既述の日本蓄音器商会争議解決の過程に上述のような鈴木の考え方が反映されていますが、次に述べる東京モスリン争議の経過にも基本的にこのような彼の同じ姿勢が継続しているように思われます。
 1914(大正3)年6月1日不況で同業4社は操業短縮5割を決定、東京モスリン(薄手の平織り羊毛生地)紡織株式会社(大東紡織株式会社の前身)ではその直前男女工合計千百余名を解雇、さらに同月18日残留職工2800余名の減給処分(定傭給者は1割5分内外、請負者は4〜5割)を工場内に掲示しました。

Daitobo―会社案内―会社沿革   

 これに対して従業員は憤慨、結束して同月20日夜作業の停止を断行しました。会社側はあわてて代表委員との折衝後、翌21日 1. 同年8月20日までに減給に相当する収入額を或方法で補填する。 2. 同年12月1日より減給前の俸給に復活する。但し復活の上は第1条項は廃止する。以上2項目の覚書で妥協することとなったのです。

東京スカイコミューサービス一覧―クチコミーすみだ・浅草のクチコミー6ー東京モスリン吾妻橋工場跡―地図   

 ところが従業員たちは同月28日の定例休業日を利用して、有志7〜80名が「工友会」という共済組合的労働団体を結成するに至りました。しかしその附則には会社の不当解雇を受けたような場合、調査の上80円の恵与金を交付する旨記載されていました。
 会社側は工友会を切り崩そうとし、(ア)6月18日掲示の請負賃値下及び日給減額は来る12月1日より6月1日と同様に復旧すべきはずのところ、都合により来る7月20日より復旧する。(イ)但し大正3年8月20日迄の減給に相当する収入減を或方法で填補することは自然消滅する。以上のような内容を掲示しました。

鈴木文治「労働運動二十年」を読む10

 しかし工友会の結束は堅く、同年7月14日登坂秀興同社作業部長は工友会幹部12名を順次呼び出し、工友会解散命令に不服従の者は今日限り解雇すると通告しました。これにより工友会は同盟罷業の入り、翌15日工友会長は治安警察法第17条違反(同盟罷工の扇動)を理由としで所轄小松川警察署に検挙されるに至ったのです。これをきっかけに工友会の結束は崩れさったのでした。

神戸大学附属属図書館―デジタルアーカイブー新聞記事文庫―新聞別一覧ー東京発行の新聞―やまと新聞―1914年―14 東京モスリン紡織会社職工の同盟罷業


 此の時解雇された12名の一人が友愛会江東支部幹事より友愛会の存在を知り、協議の結果、救援依頼のため友愛会本部に鈴木文治を訪ねてきたのです。
 鈴木は工友会長釈放をもとめて小松川署長・警視庁・東京区裁判所検事局を歴訪しましたが、釈放はかなえられず、工友会長は裁判所で懲役3ヶ月、執行猶予3年の判決を受け服罪せざるを得なかったのです。
 解雇者(最終的に21名)の後始末について、鈴木文治は3回にわたり会社を訪問し談判、結果は何等会社側の譲歩を引き出すことはできず、物別れとなりました。
 しかし鈴木と同郷で友愛会評議員でもあり、当時東京府立職工学校長の職にあった秋保安治と云う人があり、登坂氏とも蔵前(東京職工学校?)の先輩・後輩の関係にあったので、同氏の斡旋で鈴木は登坂氏と再度職工学校で会見した結果、東京モスリンの青木専務の名で解雇者に対し同情金210円(一人当たり10円)を支出することで決着となりました。 これら解雇者たちは友愛会に加入、幹部として活動し、翌年2月やがて千数百名を数える友愛会本所支部が彼等の活躍の結果として誕生したのでした。
 すでに1914(大正3)年年11月1日「友愛新報」は「労働及産業」[法政大学大原社会問題研究所・総同盟五十年史刊行委員会共編「労働及産業」(復刻版)日本社会運動史料 法政大学出版局]と改題され月刊雑誌に発展していました。
2013-12-01 05:19 | 記事へ | コメント(1) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇42鈴木文治) |
松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造21〜30
2013年05月21日(火)
松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造21

以上のような内容をもつ吉野作造の論文に対する反響は大きく、各方面から批判が飛んで、民本主義論争が展開されました。「中央公論」3月号には上杉慎吉が「我が憲政の根本義」と題する論文において、またその他植原悦二郎らが他雑誌を通じて吉野批判に参加したのです。これに対して吉野の反批判が「予の憲政論の批評を読む」と題して「中央公論」4月号に掲載され、その批判を主として上杉に向けました。上杉が「西洋に在っては君主を出来るだけ多く制限する事に依って、又我国に在っては君主の完全なる親政に依って、民本主義の目的が達成される」(田中惣五郎「吉野作造―日本的デモクラシーの使徒」未来社)と説くに対して、吉野は「天皇親政をあまりに強調することはかえって天皇に迷惑をおよぼすものとし(松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造16参照)」ています。

聚史苑―歴史年表―大正年表―大正年表2−1916〜1919−1916年 大正5年3月ー上杉慎吉 

 また吉野作造は同じく1916(大正5)年「中央公論」3月号に論文「対支外交根本策の決定に関する日本政客の昏迷」(松尾尊~編「中国・朝鮮論―吉野作造」東洋文庫161 平凡社)を発表、「我国は最も密接に支那と結ばねばならぬ。而して支那と結ぶには必ずやまずその中心の勢力を手に入るるに成功せねばならぬが、…」と従来の対中国政策(松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造 7参照)を批判しようとはしていませんが、「けだし支那に於て今日何者が中心的勢力であるかと尋ぬるに、実は能く分らない。(中略)しかしながら少しく事物の奥に観察の眼を放てば、(中略)支那の将来の永遠の中心的勢力となるものは、今日袁世凱の一派に非ずして、恐らくは現に祖国の改革を唱えて居るところの幾百の青年であると見るべきではあるまいか。」と述べ、王正廷(松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造 7参照)ら中国革命勢力の将来に期待を寄せていると思われる点が注目されます。
 つづいて同年「中央公論」6月号に吉野は「満韓を視察して」と題する文章を掲載し、「朝鮮人は大体に於て、現今の日本統治に非常な不平を有って居る。」と述べ、これはただ一片の抽象的議論であると、遠慮がちな表現ではあるが「異民族統治の理想はその民族としての独立を尊重し、かつその独立の完成によりて結局は政治的の自治を与うるを方針とするに在りと云いたい。」(松尾尊~編「中国・朝鮮論―吉野作造」東洋文庫161 平凡社)と主張しているのです。
 1916(大正5)年は吉野作造にとって、山県有朋を頂点とする軍部官僚を中心とする日本の専制支配に対する公然たる批判開始の年でしたが、同時に彼の中国・朝鮮観の転換を示唆した年でもあったといえるでしょう。

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造22

 1917(大正6)年ロシア革命が起こり、翌年4月5日日英陸戦隊はウラジオストクに上陸を開始していました(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20参照)。
 1918(大正7)年吉野作造は「中央公論」4月号で論稿「所謂出兵論に何の合理的根拠ありや」を発表、シベリヤ出兵反対を主張しました。吉野はこの論文でロシア過激派の恐るべき影響力を指摘した駐露特命全権大使内田康哉の帰朝談話を引用して、これに賛意を表するとともに、(ア)世界の大勢は日本のシベリア出兵に不同意であろう(イ)若干の白系露人を利用してレーニン政府に対抗することはロシア全体と戦う覚悟が必要だが、現在その必要は認められないなどの理由を挙げています(田中惣五郎「前掲書」)。
 大逆事件以後社会主義の冬の時代を生き抜いてきた社会主義者たちの代表的人物堺利彦(司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む19参照)は1915(大正4)年9月「新社会」を「へちまの花」に代えて創刊、高畠素之ら社会主義者がこれに執筆していました。
 赤旗事件で投獄、釈放されて郷里の岡山で薬局を経営していた山川均(片山潜「日本の労働運動」を読む43参照)は「新社会」の投稿者の一人でしたが、1916(大正5)年1月上京、大山郁夫のデモクラシー論を批判する論文を翌年2月に「新社会」に発表、

赤須喜久雄 憲法9条を守る 平和を守るー8.平和がみちあふれる郷土をめざしてー1)大山郁夫   

1918(大正7)年4月論文「民本主義の煩悶」を「無名子」の匿名で雑誌「新日本」に掲載(1919「デモクラシーの煩悶」と題して出版 山川均全集 第1巻 勁草書房)して吉野作造の民本主義批判を大要次のように展開しました。
 『吉野作造がデモクラシーに「主権の所在に関する説明」と「主権運用の方法に関する説明」(松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造13〜14参照)との二つ意義をみとめ、しかも、その二つが何の必然的関係もない「明白に異りたる二つの観念」であることを主張し、前者を民主主義となづけ、後者を民本主義となづけ、かくて「予は民本主義者であって民主主義者ではない」といいきったとき、そのようなデモクラシーの分裂の過程のうちに、日本のデモクラシーの大いなる煩悶が見え透いているではないか』
「大日本帝国憲法のためにデモクラシーを分裂させなければならなかったことはー山川均にしたがえばー吉野作造の第一の煩悶であった。しかし第一の煩悶は、さらに第二の煩悶にみちびかれた。(中略)“人民によっての、人民のための政治”なるものは、君主から人民にあたえられた恩恵的の善政としてはありうるが、人民の主張としてはありえないものである。(中略)ここにおいてか、民本主義はすすんで主権論にふれるか、退いて一片の善政主義に終わらなければならない羽目に立っている。(後略)そこに吉野作造の第二の煩悶があった。われわれは、デモクラシーが”主権の所在に関する説明“たる民主主義と手を切って”主権運用の方法に関する説明“たる民本主義になってから、ついに選挙権の拡張、しかもそれは人民の当然の要求ではなくて、為政者がその国家主義ないしは軍国主義的政策の遂行にもっとも便宜とみとめたときに、政府案として提出される意味での選挙権の拡張に変化するまでの径路を知ることができた。」(「民本主義論争」信夫清三郎「前掲書」)。

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造23

1918(大正7)年8月米騒動が富山県こり、騒動は8月10日になると名古屋・京都両市に拡大、やがて全国に波及する事態に発展しました(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20参照)。米騒動において被差別部落民が多くの地域で重要な役割を果たしています。
 朝田善之助は1902(明治35)年京都府下の被差別部落に父幾之助、母みゑの三男として生まれました。幾之助は大津の出身で、9歳のとき京都へ奉公に出て、やがて和鞋(わぐつ 袋靴)の製造・販売や猪鹿などの肉・皮の卸しを扱う商店の番頭となりました。父親は被差別部落のものとわかると旅先でも宿屋に泊めてもらえず、土間に筵を敷いて寝るという状態だったようです。

鹿ケ谷に眠る人々―27)朝田善之助

善之助は1908(明治41)年小学校に入学しましたが、部落の子に対する差別はひどいものでした。親がいらぬことを教えるものだから、遊戯で手をつなぐ時でも小指だけしかつながない。部落のそばのよろず屋では、代金を直接受け取らず、水をいれた手オケになげこませていました。反抗とけんかが当時の善之助の日課でした。
 1917(大正6)年6月朝田善之助は保護職工(少年工)として鐘紡京都支店に入社、翌年夏米騒動が起こりました。大正7年8月11日夜になると約200人が集まり、代表をきめて町内外の米屋5軒に安売りの交渉にいきましたが、部落の中の岡村という米屋の2階から群衆に出刃包丁をなげつけたものがあり、これがきっかけで群衆は米屋に投石をはじめ、大八車を家の中に突っ込むやら、店先の米俵を引きずり出す騒ぎに発展しました(朝田善之助「差別と闘いつづけて」朝日新聞社)。

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造24

 米騒動が全国に拡大しつつあった1918(大正7)年8月14日、時の寺内正毅内閣の内務大臣水野錬太郎は省内で記者会見し米騒動に関する記事の差し止めを命令しました。
このような寺内内閣の言論弾圧に対する全国新聞社の抗議行動が高まり、同年8月25日には大阪の関西記者大会に全国から代表が参加、事実上の全国大会となり、これを報道した大阪朝日新聞8月26日付夕刊に次のような文章が記述されていたのです。
「金甌無欠(きんおうむけつ 傷のない黄金でつくった亀のように、完全で欠けたところがないこと)の誇(り)を持った我大日本帝国は今や恐ろしい最後の審(裁)判の日に近づいてゐるのではなかろうか。『白虹日を貫けり』と昔の人が呟(つぶや)いた不吉の(な)兆(きざし)が黙黙として肉叉(にくさ フォーク)を動かしてゐる人々の頭に雷の様に閃(ひらめ)く。」

四字熟語データバンクー検索―白虹貫日   

 「白虹日を貫く」とは中国の故事で兵乱がおこる前兆とされ、黒竜会(玄洋社の流れをくむ内田良平が1901年組織)・浪人会(玄洋社の福岡出身以外の人々によって1908組織)などの右翼団体は「日」とは天子を意味すると非難、警察は内務省と連絡をとって、この夕刊を発売禁止処分とし、同年9月9日大阪朝日新聞社幹部は新聞紙法における皇室の尊厳冒涜などの事項記載で起訴(同年12月4日有罪判決)されました。
 寺内正毅首相は米騒動の責任をとって、同年9月21日辞表を提出、原敬立憲政友会総裁に組閣命令が出された直後の9月28日浪人会の流れを汲む皇国青年会の池田弘寿らは大阪朝日新聞社長村山龍平を白昼大阪中之島公園で襲撃、燈籠に縛り付け、「国賊村山龍平を天に代って誅(ちゅう 罪をせめとがめる)す」と書いた紙旗をたてるという事件が起こりました。これにより10月14日村山龍平社長は辞任、翌日編集局長鳥居素川は退社、長谷川如是閑・大山郁夫らも行動をともにしたのです(朝日新聞大阪本社社史編修室「村山竜平伝」朝日新聞社・新聞集成「大正編年史」大正七年度版 大正昭和新聞研究会))。
 米騒動は大逆事件以後消滅したかに見えた労働運動・普選運動などの社会運動復活に大きな刺激を与えました(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20参照)。右翼団体の上記のような行動は再び活発となりはじめたこれら社会運動に対する示威と威嚇であったといえるでしょう。

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造25

 吉野作造は1918(大正7)年「中央公論」11月号に「言論自由の社会的圧迫を排す」と題する論稿を掲げ、浪人会はそのなすところの大半は、国家に有害な運動をこころみている。第一、かれらの運動の財源はいかなるところから出ているのか明かでない。世人は浪人会といえばこれを物騒なものとして見るし、事実またかれらはしばしば腕力によってことを解決する。しかもこの暴力的制裁を同志の誇りの如くに吹聴している。もしかれらにして真に国体よう護の実をあげんとするのであるならば、もっと公明な方法で、その積極的精神なるものを承りたいものである、という内容を記述したものでした(田中惣五郎「前掲書」)。
 同年11月16日浪人会は吉野に面会を求め、11月23日東京神田の南明倶楽部で双方の立会演説会が開催されました。演説会当日東京帝大の教室には5〜600名の学生が集まり、南明倶楽部へ赴いて吉野先生を守れとの提案がなされ、東大のみならず早大・法政・明治・日大・一高の学生らも参加しました。また東京帝大出身で東京日日新聞に籍を置き、総同盟を築きあげた友愛会長鈴木文治影響下の組織労働者の人々や新聞で知った一般人も演説会に参加したのです。午後6時開会予定でしたが、午後4〜5時ころから集まった群衆の波は一斉に「吉野博士万歳」「デモクラシー万歳」を叫びました。定刻ころ入場しきれない群衆は2000を越えたようです。
 浪人会側の討論者4人を前にして吉野作造は「如何なる思想にせよ、暴力を以て圧迫することは絶対に排斥せねばならない。思想に当たるに暴力を以てすることは、それ自体に於て既に暴行者が思想的敗北者たることを裏書きするのである。」と説き、あせりだした浪人会側の聴衆が、浪人会側の演説を「ノー」と反論する聴衆の一人に鉄拳を加えると、吉野はとっさに「数万語の演説よりもいまの一事が諸君の本体をしめしている。」ときめつけ、聴衆は万雷の拍手でわき立ったのでした(田中惣五郎「前掲書」)。「大仏次郎もまた聴衆の中にあったが。感激のあまり吉野作造にだきついて接吻をした。」(「普選運動」信夫清三郎「前掲書」)吉野作造もびっくりしたでしょうね。
 会場から出てきた吉野はたちまち群衆に囲まれ、かろうじて警察官の力で電車にとび乗りました。しかし外套と帽子をなくしたそうです(「日記」大正7年11月23日条 吉野作造選集14 岩波書店)。
 多くの知識人や民衆が求めていたのは社会主義ではなくて民本主義であったことが上述の出来ごとから読み取れます。
同年12月上旬には吉野作造の影響をうけた東京帝大法科学生赤松克麿・宮崎竜介らを中心として、思想団体「新人会」が結成されました(大原社会問題研究所編「デモクラシー」1巻1号 大正8年3月号 法政大学出版局)。同会綱領によれば一、吾徒は世界の文化的大勢たる人類解放の新気運に協調し、之が促進に努む、一、吾徒は現代日本の合理的改造運動に従ふ、とあり、月2回くらい会合して思想研究による精神的結合に努力、ときどき講演会を開催するなどを申し合わせました(田中惣五郎「前掲書」)。
同年12月23日には吉野作造・福田徳三・今井嘉幸らの呼びかけで思想団体「黎明会」が結成され、、同会大綱では世界の大勢に逆行する頑迷思想の撲滅を期すこと記述、翌年1月より月1回講演会を開催して啓蒙宣伝活動を行うことになりました(「黎明会講演集」1集 大鐙閣・田中惣五郎「前掲書」)。

国立の達人―一橋大学―検索ー福田徳三

社会主義者山川均は依然として普選運動に反対でしたが、堺利彦は普選運動への参加を主張していました。彼は「新社会」大正7年10月号で次のように述べています。「米騒動が狐火のごとく全国に出没した。(中略)ある人はこれを解して、普通選挙の実施や労働組合運動の自由を無意識に要求したものだという。ある人はまた、それらの運動の不自由と無効果に絶望した結果だという。(中略)
もし無意識の要求だとするならば、それを意識的にみちびいて明々白々たる公然の運動にすることが安全の道である。そこでいずれにしても、普通選挙の実施と労働組合の奨励とが今後の急務である。すこしく先見ある識者は、この点においてたいてい一致の意見を有している。(後略)」(「普選運動」信夫清三郎「前掲書」)

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造26

1910(明治43)年の日韓併合以後の朝鮮人は日本の武断政治の下に押さえつけられていました。このような状況で朝鮮の人々にとって1918(大正7)年1月8日米大統領ウイルソンが第1次大戦終結の条件として掲げた14ヵ条の提案(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む19参照)における民族自決主義のよびかけはおおきな感動をもって迎えられたのです。
1919(大正8)年2月宗教家や教育者らで構成される民族主義者33人は「朝鮮建国四千二百五十二年三月 日」の日付で「我等ハ茲ニ我朝鮮国ノ独立タルコト及朝鮮人ノ自由民タルコトヲ宣言ス」という文章ではじまる「独立宣言書」(五 三・一運動日次報告 総督府警務局 「現代史資料」25 朝鮮一 みすず書房)を起草しました。この年1月22日前朝鮮国王高宗が急死、暗殺のうわさが飛び交っていたようです。
1919(大正8)年3月1日前朝鮮国王国葬当日(3月3日予定)を期して朝鮮の京城(漢城)・平壌などで独立宣言が発表され、やがて示威運動が朝鮮全土に拡大しました(三・一運動・寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21参照)。
「三月五日のことでした。私達は愛する祖国の自由のために南大門(South Gate)で列をつくり、自由のために自らの血を流す覚悟をしているしるしとして、腕に赤いベルトや赤いバンドをつけていました。私達は『バンザイ(Mansei)』と励ましあい、叫びながら駅から鍾路(Chongno)に向かって行進していました。私達が徳寿宮(Dok-su Palace)に近づきつつあるとき、突然ひとりの日本人警官が後から私の髪をつかみました。そして私は乱暴に地面にたたきつけられました。(後略)」(五−二 宣教師の記録及その関連文書 証拠書類]T 警察に逮捕された一朝鮮少女の経験「現代史資料」26朝鮮二 みすず書房)
 第1次大戦の講和問題で、パリ首相会議が山東問題に関する日本の要求を認める(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21参照)と、北京の学生3000余は天安門広場で山東問題に抗議して5月7日の国恥記念日(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む17参照)に抗議デモを行う予定でしたが、政府の弾圧を避ける目的で1919(大正8)年5月4日に繰り上げて実行、代表が各国公使館を訪問して抗議文を手交し、21ヶ条要求当時の外交次長曹汝霖邸が放火され、駐日公使の章宗祥が殴打される事態に発展しました(五・四運動・寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21参照・新聞集成「大正編年史」大正八年度版)。さらにこの運動は全国的規模で拡大していきました。

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造27

吉野作造は「中央公論」(大正8年4月号)に論稿「対外的良心の発揮」(松尾尊~編「中国・朝鮮論―吉野作造」東洋文庫161)を執筆、三・一運動が第三者の扇動によるものとの見解を否定、「朝鮮統治の改革に関する最小限度の要求」(松尾尊~編「前掲書」)では
当面の改革として言論の自由・同化政策の放棄・朝鮮人差別待遇の撤廃と武人政治の廃止を主張しました。
 同年8月20日日本が朝鮮総督府官制を改正して文官総督を認めると、吉野はこれを歓迎(「新総督及び新政務総監を迎う」(松尾尊~編「前掲書」)しましたが、同年11月27日朝鮮独立運動指導者呂運亨(上海の朝鮮臨時政府外務次長)が東京で独立運動の抱負を記者団に語って問題化すると、吉野は「所謂呂運亨事件について」と題する論稿(松尾尊~編「前掲書」)で「一概に我々に反対するからというて、単にそれだけで彼等を不逞呼ばわりするのは、あまりに軽率である。」と批判しました。

原寸画像検索―検索―呂運亨 

 中国の五・四運動についても吉野は「北京学生団の行動を漫罵する勿れ」(「中央公論」大正8年6月号社論 松尾尊~編「前掲書」)において「中国民衆一般の排日に至りては、官僚・軍閥ないし財閥に依って代表せらるる日本に対する反感に過ぎず」とし、「支那に於ける排日の不祥事を根絶するの策は、(中略)我々自ら軍閥財閥の対支政策を拘制して、日本国民の真の平和的要求を隣邦の友人に明白にする事である。」と述べ、また「吾人は、多年我が愛する日本を官僚軍閥の手より解放せんと努力して来た。北京に於ける学生団の運動は、亦この点に於て全然吾人とその志向目標を同じうするものではないか。」と論じました。
 しかし吉野作造において朝鮮独立は将来の課題にすぎず、彼は五・四運動に共感しながらも、21ヵ条廃棄、山東即時返還も主張していないのです。
 この1919(大正8)年から翌年に至る時期が吉野作造の社会活動の頂点であって、その朝鮮・中国論がもっとも精彩を放ったころでもあったのです。1920(大正9)年以後は以前の時期ほど国民大衆への影響力をもつことはありませんでした。

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造28

 1923(大正12)年8月加藤友三郎首相が死去、同月28日山本権兵衛に組閣命令(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む26〜27参照)が出された直後の同年9月1日、関東大震災がおこり、関東地方は大激震に見舞われ、火災が随所に発生しました。被災者は約340万人、死者と行方不明者は合計10万余人、東京では通信交通機関・ガス・水道・電燈がすべて停止、流言がとび、人心動揺しました(内務省社会局編「大正震災志」)。
 翌日成立した第2次山本権兵衛内閣は東京及びその周辺に戒厳令を公布、非常徴発令を出して救援・復興にのりだしました。
 9月1日の午後から東京・川崎・横浜の一部で朝鮮人暴動の流言が流され、翌2日には京浜地区全域に拡大、恐怖した被災地の民衆は各地で自警団を組織し、軍隊・警察も一緒になって朝鮮人の迫害が行われたのです(「現代史資料」6 関東大震災と朝鮮人)。
 『当時19歳だった伊藤圀夫(くにお)は演劇好きの早稲田の学生で千駄ヶ谷に住んでいた。9月2日の晩、親戚から軍は神奈川方面からの不逞鮮人と交戦中という情報を得て、偵察のつもりで千駄ヶ谷駅に近い線路の土手にのぼると、後ろで「鮮人だ」という叫びが聞こえた。
そっちへ走ってゆくと腰のあたりをガーンとやられた。提灯が集まって来て、ぐるりと私を取り巻いた。「ふてえ野郎だ。国籍を言え」と私をこずきまわすのである。歴代の天皇の名を「言え」というには弱った。度胸をすえて「ジンム…チュウーアイ」もうその先は出てきそうもなかったとき「伊藤さんのお坊ちゃんじゃねえか。」と近所の酒屋の若い衆がいってくれた。
センダガヤのコレアン(朝鮮人)、これが千田是也の芸名の由来である。』(「日本の百年」6震災にゆらぐ 筑摩書房)

港区ゆかりの人物データベースーゆかりの人物リストーせー千田是也

朝鮮人迫害に対する批判は全体としては弱かったのですが、吉野作造は「中央公論」大正12年11月号における「朝鮮人虐殺事件に就て」の中で「手当たり次第、老弱男女の区別なく、鮮人をおう殺(みなごろし)するに至っては、世界の舞台に顔向けの出来ぬほどの大恥辱ではないか。(中略)僕はこの際鮮人虐殺に対する内地人の、謂わば国民的悔恨もしくは謝意を表するが為に、なんらかの具体的方策を講ずるの必要を認むるものである。(中略)今度の事件に刺激されて、我々はまた朝鮮統治という根本問題に就いても考えさせられる事になる。」(松尾尊~編「前掲書」)と述べています。
また吉野作造は関東大震災において、朝鮮人学生を自宅にかくまい(堀豊彦談 松尾尊~ 「大正デモクラシー」岩波書店 引用)、朝鮮人虐殺を批判したため、大杉栄(片山 潜「日本の労働運動」を読む37参照)のように陸軍に暗殺されかかったこともありました(安成二郎「無政府地獄」新泉社)。

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造29

 1924(大正13)年2月7日東京朝日新聞は社告において柳田国男と東京帝大教授を辞職した吉野作造両氏の入社を発表しました。
同年2月25日神戸青年会館における朝日新聞社主催の「時局問題大演説会」において吉野作造は「現代政局の史的背景」と題する講演を行い、(ア)「五箇条の御誓文」について当時江戸幕府の衰亡に人心は離れているが、かといって明治新政府にもかたむかないときに、この御誓文を発布することによって人心を一変させるための看板であった。(イ)とくに伊藤博文が伊藤ごのみの憲法を作成するために秘密主義を堅持したと述べました(講演の要旨 「時局問題批判」朝日新聞社)。
また彼は同年4月「朝日新聞」紙上に5回にわたって署名入りの論説欄で「枢府と内閣」(吉野作造「枢府と内閣他」朝日文庫)と題する文章を発表、政府が緊急勅令(大日本帝国憲法第8条に規定する天皇大権)によって関東大震災による火災保険一割支払いを行ったことに対して、枢密院はこれを憲法違反として清浦奎吾内閣を批判攻撃しました。清浦内閣はこの勅令を撤回、政府の責任支出で解決したのです。
吉野はこの論説において枢府が諮詢の主体である天皇との間にのみ交渉をもつべきであったものを、天皇をぬきにして、あるいは直接に内閣にむけて批判することが不可なのであると論じ、理論上枢密院の廃止が必要と主張しました。
 これに対して伊藤博文の側近でもあった枢密顧問官伊東巳代治(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む10参照)は憤慨したようで、圧力を受けた朝日新聞はおどろいて吉野の引退を要請、彼はこれを受け入れ、同年5月朝日新聞を退社、東大で研究室を持つ講師となりました。
 同年11月吉野作造ら8名で明治文化研究会が創立されました(「新旧時代」創刊号)。
その目的は明治初期以来社会万般の事相を研究し、之れを我が国民史の資料として発表することで、機関誌「新旧時代」(後に「明治文化」と改題)を発行、時々講演会及び展覧会を開くことを事業としました。この明治研究の成果は吉野作造編輯「明治文化全集」(日本評論社)として刊行されたのです。

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造30(最終回)

1924(大正13)年初頭に起こった第二次護憲運動の結果、6月第一次加藤高明(護憲三派連立)内閣が誕生、翌年普通選挙法が成立(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む29参照)すると、吉野作造は将来における無産政党の成長による政治の刷新を期待して、1926(大正15)年11月4日安部磯雄(片山 潜「日本の労働運動」を読む22〜25参照)・堀江帰一らとともに、堅実な無産政党の結成を提唱しました(第二編 社会民衆党史 河野密・赤松克麿・労農党書記局「日本無産政党史」白揚社)。
 1929(昭和4)年〜1930(昭和5)年ころから、吉野作造の評論活動は少なくなりました。その理由は健康を害し、病に伏すことが多くなったからでしょう。
「中央公論」昭和8年1月号に掲載された吉野作造の評論「議会から見た政局の波瀾」は彼が同誌に寄せた最後の評論となりました。ここでは立憲政友会と斎藤実内閣、政友会と軍部との関係について起こる多くの場合を想定して論じられていますが、将来への希望や期待は述べられていないのです(岡義武解説「吉野作造評論集」岩波文庫)。吉野作造は1933(昭和8)年3月18日死去しました(吉野作造年譜 田中惣五郎「吉野作造」未来社)。
翌年大内兵衛(当時 東大教授)は吉野作造を回顧して次のように述べています。「世評によれば、後半生の先生(吉野作造)は前半生の先生に比して華々しくなかったと。(中略)健康の関係からいって元よりこれは止むを得ぬことであったが、しかし(中略)アカデミックにもジャーナリスチックにも乃至はポリチカルにもその活動の熱を失ってゐたとは見えなかった。否、その衰へたのはただ肉体だけであり、その精神に至っては文字通り益々壮んなものがあったのである。(中略)明治の政治史はその最大のエナージェチックな研究者を失くしたことは、疑いない。そして反動の波高き言論界は最も勇気ある論客を失くしたのだ。」(大内兵衛「ある距離に於ける吉野先生」赤松克麿編「故吉野博士を語る」岡義武解説「吉野作造評論集」岩波文庫 引用)

歴史が眠る多摩霊園―著名人全リストー頭文字―おー大内兵衛

現代の吉野作造に対する評価はどうでしょうか。「天皇制や元老への批判を回避した吉野の国内改革論を、当時の現実可能性の観点から評価しようとする一部の吉野弁護論は、中国侵略政策にたいする吉野の現実妥協的態度の帰結する歴史的責任をいかに弁明するのであろうか。」(小林幸男「帝国主義と民本主義」岩波講座 日本歴史19 現代2)に代表される吉野作造批判に対して、本書の著者(松尾尊~)は次のようにのべています。『なるほど吉野は、その初期においては帝国主義的侵略を謳歌し、その盛期にあっても朝鮮・満州を捨てよとは容易にいわず、その晩年においては満州国の存立をみとめるかの如き口ぶりをみせる。民主主義者として一貫性に欠けるといいうるかも知れない。しかし先人の業績を評価するに、その不振な時期、おくれた側面のみ着目するのは道ではあるまい。その生涯の最も生彩を放った三一、五四両運動の時期において、吉野の示した言動を帝国主義よばわりすることは、眼をとじて、自ら一個の知識人としてあの時代を生きたならば、いかなる態度をとりえたかを省みるとき、吉野が独立運動家を不逞鮮人よばわりすることを固く拒否したひそみにならい、「予輩の良心が断じて許さぬ」ことを明言しておきたい。』
2013-05-21 05:44 | 記事へ | コメント(20) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇41吉野作造) |
松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造11〜20
2013年05月11日(土)
松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造11

 「憲政とは何ぞや」において『「憲法」という言葉を単に字義の上から解釈すれば、「国家統治の根本法則」ということになる。(中略)ただ近代の政治上の言葉として「憲法」という時は、なおこの外に他の要素をも加味して居るものでなければならぬのである。
しからば問う、我々のいわゆる「憲法」とはいかなる要件を備うる国家の根本法則を指称するのか。予輩は次の二種類の要件を以ていわゆる憲法の特色なりと答うる。
第一、いわゆる憲法は普通の法律に比して一段高い効力を付与せらるるを常とする。(中略)普通の立法手続では憲法の変更は許されないという事を意味するのである。
第二には、憲法はその内容の主たるものとして(イ)人民権利の保障、(ロ)三権分立主義、(ハ)民選議院制度の三種の規定を含むものでなければならぬ。つまりこれらの手段によって我々の権利自由が保護せらるる政治を立憲政治というのである。』と記述されています。

吉野作造記念館 

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造12

 「憲政有終の美を済すとは何の謂(いい)ぞ」において「予はいわゆる憲法なるものの意義を説き、この憲法に遵拠して行うところの政治がいわゆる立憲政治であるという事を明らかにした。(中略)しかしながら単純なる憲法の発布、単純なる議会の開設は、それだけで以て直ちに人民の権利自由を完全に保障し、我らの生活を十二分に幸福になし得るものではない。(中略)
 憲法の制定・議会の開設そのものが我々の期待に背き、我々に失望を与えたということから来るところの我々の不満に、細かく見ると自ら二つの種類がある。第一は、いわゆる従来の憲法的制度というものは本来、我々の権利を保障し、我々に幸福をを来たすものではない、これによって自由幸福を贏(か)ち得べしと考えたのがそもそもの誤りであるという説であって、(中略)予はこれを名づけて絶対的悲観説といおう。(中略)
 第二の不満は、現在の憲法的制度を以て必ずしも第一説の如くその本来の目的を達するに適せざるものと視るのではないが、ただその制度に欠点あり、、またその運用の方法に適当ならざるところありしがために予期の如き成績を挙げないのであると観るの説である。前者の絶対的に対して予はこれを相対的悲観説と名づけたい。(中略)
 しかしてわがいわゆる憲政有終の美を済すの論は実にこの説に根拠して起るものである。
(中略)要するに我々は立憲治下の国民として、その有終の美を済すためになお一層努力しなければならぬ。しかしながらその努力は盲目的ではいけない。一定の主義方針に基づく奮闘努力たるを要する。しからばその一定の主義方針とは何であるかというに、これは言うまでもなく、もともと憲法の制定を見るに至らしめた根本の思想でなければならぬ。(中略)
 少しく近代の文明史に通ずるものは、諸国の憲法一として近代文明の必然的産物たらざるなきことを認めざるを得ない。(中略)しかして予はこの各国憲法に通有する精神的根柢を以て、民本主義なりと認むるものである。」と叙述されています。

宮城県―組織でさがすー震災復興・企画部―地方機関―東京事務所―首都圏みやぎ情報ー文京区 8−首都圏みやぎゆかりの地「吉野作造ゆかりの本郷」

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造13

 「憲政の精神的根柢=民本主義」において『洋語のデモクラシーという言葉は、今日実はいろいろの異なった意味に用いらるる。(中略)予輩の考うるところによれば、この言葉は今日の政治法律等の学問上においては、少なくとも二つの異なった意味に用いられて居るように思う。一つは「国家の主権は法理上人民に在り」という意味に、またモ一つは「国家の主権の活動の基本的目標は政治上人民に在るべし」という意味に用いらるる。この第二の意味に用いらるる時に、我々はこれを民本主義と訳するのである。(中略)故に予は等しくデモクラシーとという洋語で表わさるるものでも、その意義の異なるに従って、あるいは民主主義あるいは民本主義と、それぞれ場合を分かって適当な訳字を用うることにしたいと思うのである。』と述べられています。
 「民本主義と民主主義との区別」において「民主主義の二つの種類とはいかなるものをいうか。第一に民主主義は、凡そ国家という団体にあっては、その主権の本来当然の持主は人民一般ならざる可からずという形において唱えられることがある。(中略)
 この立場からいえば、共和国が唯一の正当なる国家であって、君主国の如きは不合理なる虚偽の国家である。君主は人民より不当に権力を奪ったものであるという結論に達せざるを得ない。かかる意味で唱えられる民主主義はこそは、我が国などで容れることの出来ない危険思想である。(中略)何となれば、社会主義者の運動は多くの場合において、民主共和の危険思想をを伴うこと、従来諸国の例に明白であるからである。現に我が国でも幸徳一派の大逆罪は、社会主義者の間から輩出したではないか。
 第二に民主主義は、或る特定の国家においてその国の憲法の解釈上主権の所在は人民にありと論断するの形において唱えらるる事がある。もっとも大多数の場合においては、主権の所在という問題は憲法上初めから極めて明白なるを常とする。例えば我が国においては帝国憲法第一条に、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあり、また第四条には「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とありて、憲法の解釈上毫も民主主義を容るべき余地がない。(後略)」と記述されています。

南 英世の VIRTUAL 政治・経済学教室―政治経済学講義ノートー現代政治と民主社会―第2章 日本国憲法(1)(基本的人権)−1.明治憲法と日本国憲法

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造14

 「民本主義に対する誤解」において「いわゆる民本主義とは、法律の理論上主権の何人に在りやということは措(お)いてこれを問わず、ただその主権を行用するに当って、主権者は須(すべか)らく一般民衆の利福並びに意嚮を重んずるを方針とすべしとする主義である。
 (中略)しかるに世間には、民本主義と君主制とをいかにも両立せざるものなるかの如く考えて居る人が少なくない。これは大いなる誤解といわなければならぬ。
 民本主義に対する誤解の大部分は、理論上の根拠なき感情論に出づる場合が多い。殊に従来特権を有して独り政権に参与し来った少数の階級は、その特別の地位を損われんことを恐れて、感情上盛んに民本主義に反抗するのであった。(中略)この点において予は、社会の上流に居る少数の賢明なる識者階級に向かって、彼等自身の立憲思想の真の理解とまた民衆に対する指導の職分の自覚とを希望せざるを得ない。(中略)
 第二に…民本主義は民主主義を伴い易いのである。して見れば民本主義と民主主義とは理論上明白に別個の観念であるとしても、実際の運動として現るる時は、二つのもの必ず一所になる因縁を有して居ると。この説は或る点までは真理である。
 多少の弊害の出現に逡巡しては進歩発達の事業は何一つ手が出せない。我々は徒に安逸を貪って従来の因襲に籠城すべきではない。発展は奮闘を要する。」と記述されています。

歴史が眠る多摩霊園ー著名人リストーあー赤松明子―赤松克麿

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造15

 「民本主義の内容(一)=政治の目的」において『民本主義は第一に政権運用の終局の目的は、「一般民衆のため」ということにあるべきを要求する (中略)しかるにこの点は今日各国において十分に貫徹せられて居るというに、必ずしもそうではない。(中略)なおこれに関連して注意すべきは、近頃我が国などにおいて、右の歴史的特権階級の外に、新たにいろいろの特権階級が発生するの傾向があることである。中にも最も著しいのは金権階級である。俗用の語でいわゆる資本家なるものである。(中略)
しかるに日清戦争は初めて政権をして金権の前に助力を乞わざるを得ざらしめた。(中略)もしそれ日露戦争に至っては、桂公の政府は徹頭徹尾資本家の前に叩頭(こうとう 頭を地につけて拝礼する)してその財政的助力を求めたのである(1904.1.30日銀総裁、三井倶楽部に大都市の主要銀行家を招き、国債応募について懇談 新聞集成「明治編年史」第十二巻 財政経済学会)。ここにおいて金権は一躍して時に臨んで政権を左右し得るの大勢力となった。(中略)もしそれこの財政的特権階級が、歴史的特権階級と結託して、傲然民本主義に臨むことあらん乎、国家の不祥これより大なるはない。』と叙述されています。

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造16

 「民本主義の内容(二)=政策の決定」において『第二に民本主義は政権運用の終局の決定を一般民衆の意嚮に置くべき事を要求する(中略)
 しかるに民本主義のこの第二の要求に対しては、世上これを難ずるの議論が相当に強い。今これらの批難を細かく観察して見ると、大体三つの種類があるように思われる。
第一の批難は、民本主義は憲法上君主大権の義に反するとする説である。(中略)この批難にも細かく分かつと更に二つの細別がある。一つは…予のいわゆる民本主義を民主主義と混合し、(中略)以て我が国の如き君主国に在っては許すべからざる僻論なりと論ずるのである。この説の謬(あやまり)なる事は巳に述べた。(中略)
もう一つの批難は、たとえ政治上の主義にもせよ、君主はその権力を行使するに当って常に必ず人民一般の意嚮を参照せねばならぬと慣行が極っては、それだけ君主の大権が制限せられ、、従って君主大権の自由行動を妨ぐる結果となるという説である。しかしこの種の論者は、君主の大権なるものは、立憲国においては初めから各種の制限を受けて居るものであるという事を心付かざる人々である。(中略)
予の観るところによれば、大臣の任命につき議会の多数党に人を採るのも、元老への御下問によって極めるのも、共に君主の大権に対する事実上の制限たる事は同一であると思う。(中略)しからばここに君主は果してそのいずれの制限を採るべきものであるかの問題が起こる。(中略)明治天皇陛下は維新の初め現に広く会議を起し万機公論に決すべしと勅せられて居る(1868五箇条の御誓文 維新史料綱要)。即ち多数の人に相談して公平にして且つ正当な政治を行うという民本主義の精神は、明治初年以来我が国の国是(こくぜ 確定している一国の方針)であった。(中略)

真実一路の旅なればー五箇条の御誓文

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造17

第二の批難は、凡そ人民一般は本来愚なものであって自ら自家の利福の何たるかを知らぬ、これを熟知する者はむしろ少数の賢者である。従って多数政治は実際の利害得失を比較すると少数政治に比して却って劣れりというのである。(中略)
しかしながら我々は、最もよく人民一般の利福の何たるかを知りまたいかに奉公の念に富む人でも、彼らの最も多く考うるものは概して自家の利益であるという普通の事実を看過してはならぬ。いわんや賢明なる人といえども、少数相比周(ひしゅう ぐるになって助けあう)して万人環視の外に政権の運用を司ることとなっては、動もすればその間に弊害を生ずることは免れない。(中略)
民本主義の行わるる事は、それ程高い智見を民衆に求むるという必要はない。その理由は後にも説くが如く、今日の政治はいわゆる代議政治という形において行われて居るのであるが、その結果今日では我こそ人民の利福意嚮を代表して直接国事に参与せんと欲する輩は、自然進んで自家の政見を人民に訴え、以てその賛同を求むるという事になる。そこで人民はこの際冷静に敵味方の各種の意見を聴き、即ち受動的にいずれの政見が真理に合しているやを判断し得ればよい。(中略)この点において今日の開明諸国の人民は、概して民本主義の政治を行うに妨げなき程度には発達して居るものと断言して差支ない。(中略)
第三にこういう批難をする人もある。(中略)一般に人民の意嚮、即ちいわゆる「民意」なるものは本来実在するものではない。(中略)故に民意を取って政策決定の標準となすというが如きは畢竟空論であると。(中略)しかれども社会万般の事象を洞察達観するものにとっては、この見えざる意思の主体を認識することは決して困難ではない。(中略)ただ民本主義の主張は、一部の論者の難ずるが如く、実在せざる「民意」という仮定を前提とした荒唐無稽な説でないという事を承知して貰えばそれでよいのである。(後略)』と記述されています。

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造18

 「代議政治」において「代議政治の運用意の如くならざる他の国においては、この種の議論は英国程は盛んに唱えられていない。しからばこれらの国においてはいかなる議論が唱えられているかと言うに、曰く、民本主義の理想から言えば人民の直接政治が一番よい。しかしこれが不可能なるが故に、止むを得ず代議政治に拠った。しかして代議政治は民本主義の要求を如実に現わしたものでないから、それ自身固有の欠点を有するものである。ただこれを措いて外に我々はヨリよき制度を知らないから、止むを得ずこれを採用しているのである。されば我々はこれに由っては完全に民本主義の要求を満足する事が出来ないことは初めよりこれを認めざるを得ない。代議政治に伴って種々の弊害に苦しむのは、この点より見て実は怪しむに足りないのであると。(中略)しかしてこの説は従来、いかにかしてその弊害を減少せんとの希望からして、いろいろ矯正策の研究を促した。(中略)
遂に代議政治は民本主義の要求に応うるの外貌の許に、実は民本主義に敵するものなりとなし、真に民本主義に忠ならんと欲する者は須らく代議政治を真向に否認せざるべからずと論ずるに至ったのである。この議論の明白なる代表者は、近時仏国に起って伊太利、英吉利、亜米利加等に段々蔓延して居るサンジカリズムの議論である。(中略)

独学ノートー検索―サンジカリズム 

右は極端な例であるが、(中略)代議政治の欠点を認めてこれに重大な補正を加えんとするものに、かの人民投票の説がある。(中略)もっとも一概に人民投票というても細かく見るとこれに二つの種類がある。第一は洋語イニシアチーヴというもので、人民の方から進んで或る種の立法を議会に建議するのである。(中略)これに反して第二は議会で決定した事を更に人民に諮るもので、洋語レフェレンダムと称するものである。(中略)何故に人民投票制は実際上あまり採用されていないか。そは思うに、理論は別として実際は極めてこれを行うに不便であるからであろう。(中略)
かくて我々は、代議政治において最も着眼を要する二つの方向があるということを認めざるを得ない。一つは人民と代議士との関係である。他は代議士と政府との関係である。この両種の関係が民本主義の本旨に従って最も適当に組み立てられ居る時に代議政治の運用がその宜しきを得るのである。」と述べられています。

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造19

「人民と議会との関係」において「我々は政界の廓清を計りて憲政の順当なる進歩を見んとせば、まず以て議員と人民との関係を正すことに綿密なる注意を加うるを必要とする。しかしてこれがために採るべき方法は、差当り少なくとも三つあると思う。
第一選挙道徳を鼓吹する事 一つは我々の投ずる一票が(中略)僅かの金銭や脅迫等のために左右せらるるには余りに神聖なものであるとという事である。二つには投票は国家のためにするものであって、地方の利益のためにするのではないという事である。三つには選挙は我々の特権であって候補者から頼まれてするものではない。
第二に予は選挙法中、取締規則を厳重にし且つこれを励行することが必要であると主張する(中略) 
次に予は第三に選挙権は出来るだけこれを拡張することが必要であると主張する 選挙権が限られて居れば、腐敗手段が無遠慮に行われる。選挙権が極端まで拡がって来ると、到底買収などはし切れなくなる。(中略)
もっとも選挙権の拡張は以上の立場からばかりでなく、選挙の本質に関する理想上の要求としても唱えられて居る。(中略)
もっとも(中略)必ずしも無制限にこれを許せという意味ではない。(中略)例えば幼者、狂者、犯罪人、貧民救助を受くるもの、破産の宣告受けたるもの等は、初めからこれを除外せねばなるまい。それ以外において婦人を除くべきや否やはけだし将来の問題である。(中略)さもあらばあれかく理論上の要求としては出来るだけ選挙権を広く与うべしというに拘わらず、実際上種々の制限を設けて居るもの近世国中甚だ尠くはない。その理由にはいろいろあるが、その主なるものを挙げるとつぎの二つがあると思う。
第一は(中略)即ち選挙という公権をを実行する程智見の熟せざるもの尠くないというところから、制限制度を是認せんとするものである。(中略)故に多少の制限を選挙権の範囲の上に加うるの必要がありとしても、財産の有無をを以てその標準とするの不当なるは今日は已に余りに明白である。(中略)
第二は何人が適任者なるかは多数の能く決し得るところではなくして、少数者のみよくこれを知っている。故に選挙権を制限するは即ちこの目的に協う所以であると。(中略)
世界の文明国はほとんどみな大体普通選挙制を採用してしまったと見てよい。故に今日東西の文明国中、比較的重き制限を付するものとしては、僅かに露西亜と我が日本とを数うべきである。(中略)我が国の多数の識者の間には実に不思議な程普通選挙制度に対する誤解と反感とが激しい。もっともこの制度は初めは主として社会主義者の一派によって唱えられたのであった。これがたまたま誤解を招く所以となったのであろう。(中略)しかれどもこの点の誤解を解いて、我々が衷心から普通選挙制の採用にあらずんば憲政の円満なる進行を見る能わざる所以を納得し、またこれを深く国民一般に徹底せしめるのでなければ、我が国憲政の前途は実に暗澹たるものである。」と記述されています。

浦辺研究所―歴史研究所―ロシア史―第8回 ロシア帝国の滅亡

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造20

「議会と政府との関係」において「議員の政府に対する道徳的独立を全うしたる上で、更に政府の非違をを厭(あ)くまで糺し、十分に議員をしてその監督の任に当たらしむるためには、政府をして議会に対し政治上の責に任ぜしむることが必要である。ここにおいて政治上いわゆる責任内閣の問題が起る。(中略)
責任内閣なる制度に対してまた超然内閣という主義がある。これは議会の意思に超脱して内閣は全然絶対的独立の地位を取るべしという趣意である。故に超然内閣は断じて立憲政治の常則ではない。(中略)
かくの如く責任内閣の制度は憲政運用上欠くべからざるものであるが、ただ然らばいかにして議会は内閣の責任を問うやというに、その方法は一にして足らない。(中略)しかして今日責任糾弾のために用いらるる普通の方法は議院内閣の制度である。従って最近においては、大抵の国において、議会に多数を占むる政党の領袖が政府を組織するという例になって居る。この意味において今日の政府は政党内閣である。(中略)こういう制度が一般に行わるれば、政府の責任は即ち彼が議会に依然として多数的信任を維持し得るや否やによって糺弾さるる。(中略)
故に今日政党内閣の制度は、責任内閣の主義を最もよく貫くものであるとはいえ、小党分立の国においては実は十分にその妙を発揮することを得ないのである。(中略)

WELCOME TO YOKOYAMAS HOMEPAGE―世界史ノート現代編―第15章―1 帝国主義の成立と列強の国情―フランス

我が国の状況は如何というに、(中略)今日では、十分政党内閣の主義が貫かれないまでも、しかも議会の多数的勢力と何らかの形において結託せずしては、何人といえども内閣に立つ事が出来ないという形勢に立ち至って居る。我々はますますこの形勢を助長し発達せしめて、政党政治の更に完全なる実行を見んことを期すべきである。」と述べられています。
2013-05-11 05:36 | 記事へ | コメント(2) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇40吉野作造) |
松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造1〜10
2013年05月01日(水)
松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造 1

 松尾尊~「大正デモクラシーの群像」(同時代ライブラリー35 岩波書店)は次の項目で構成されています。
大正デモクラシ−とは何か          美濃部達吉
明治末期のルソー               吉野作造その朝鮮・中国論
夏目漱石 その政治思想 「野分」の背景 佐々木惣一
三浦銕太郎                    山本宣治
石橋湛山 追悼の記 その平和主義    大正デモクラシーと現代
 私はこれら諸項目の中から、吉野作造の生涯を主として田中惣五郎「吉野作造―日本的デモクラシーの使徒」(未来社)で辿り、その朝鮮・中国論が彼の思想の中でどのように位置付けられるのかを調べてみたいと考えます。
 吉野作造(戸籍名は作蔵)は1878(明治11)年1月29日宮城県志田郡古川町字大柿96番地(宮城県大崎市)で父吉野年蔵の長男(母こう)として出生しました。吉野家は「吉野屋」あるいは「綿屋」の名で呼ばれ、農家に原綿を渡し、委託加工させていたが、後、機械紡績が出現してからは、製綿・織布・織糸の小売を業としていました。

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―よー吉野作造

 吉野作造が生まれたとき、2人の姉があり、この地方の商人のならわしとして長女が養子を迎えて家業の後継者となることは珍しくなかったようです。
 1883(明治16)年寺子屋式(しばらく年長の姉のそばに机を並べることを許可される)古川尋常小学校に入学、1886(明治19)年4月小学校令公布で小学校も学校らしい体裁を整えるようになりました。
 彼が尋常小学校4年の1889(明治22)年2月11日大日本帝国憲法が発布され(児島襄「大山巌」を読む27参照)、この年の春高等小学校1年生となりました。1890(明治23)年7月第1回総選挙施行、第2回臨時総選挙が行われた1892(明治25)年宮城県尋常中学校(仙台一中)に入学しましたが、彼は成績抜群の秀才で高等小学校卒業生総代として答辞を読み、古川町では中学校進学第一号という名誉を担ったのです。
 同年養子を迎えた長姉しめが死去、次姉りえが養子の後妻として吉野家の後継者となりました。

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造 2

 新島襄(久米邦武「米欧回覧実記」を読む4参照)はかねてから仙台に同志社分校の設立を希望しており、友人富田鉄之助の援助により1885(明治18)年宮城英学校を設立しましたが、翌年東華学校と改称、教師スタッフも同志社から送りこまれていました。
 ところが欧化主義に対する反動があったため、1892(明治25)年東華学校は廃校となり、同年中学校改正令により教職員・生徒はそのまま宮城県尋常中学校(仙台1中)に引き継がれたのです。同校初代校長は大槻文彦[大槻玄沢(吉村昭「冬の鷹」を読む11参照)の孫で明六社に属す。国語辞典「言海」の著者]でした(「仙台一中・一高百年史」)。
 1897(明治30)年彼は首席で仙台一中を卒業、同年9月仙台の大学予科法科(二高)に入学しました。
 第二高等中学校は1887(明治20)年4月宮城県仙台区(仙台市)に設立された旧制高等中学校(略称二高)です。1894(明治27)年6月25日高等学校令により第二高等学校と改称、帝国大学進学者のために大学予科を設置していました。
 1898(明治31)年ミス・ブゼル(尚絅女学校)のバイブルクラスに参加、翌年7月4日洗礼を受け、キリスト教(カルヴィン主義の流れをくむプロテスタントの一派―浸礼派)に帰依(内ヶ崎作三郎「吉野作造君と私」 赤松克麿「故吉野博士を語る」中央公論社)、同年秋阿部たまの(父弥吉は秋田藩士出身で仙台監獄において受刑者の職業補導に従事)と結婚しました。

尚絅学院大学図書館ー企画展示 「尚絅学院の創立期」

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造 3

 1900(明治33)年9月吉野作造は東京帝国大学法科大学政治科の新入生として上京、本郷台町の寄宿舎(中央学生基督教青年会館)に入り、やがて海老名弾正の本郷教会(機関誌「新人」)に参加、借家して翌年仙台から夫人と愛娘を迎えましたが、彼は勉学に励む毎日が続き、相変わらず成績優秀でした。

東京福岡県人会―会報「東京と福岡」―バックナンバーー2008年3月号目次―<郷土の先達(31)>海老名弾正     

 当時設立まもない京都帝国大学(1897年設立)は別として、官学の最高学府であった東京帝大法科大学はどのような特徴を持っていたのでしょうか。
 「恰度その頃(三十四五年頃)から大学の諸教授も割合に緩(ゆっ)くりした気分で学生に接する様になったと思う。今から回顧するに、それ以前に在ては政府でも条約の改正だ法典の編纂だ、弊制の改革だと新規の仕事に忙殺され、従て学者の力を藉(か)る必要も繁(しげ)かったので、帝大の教授は隠に陽に大抵それぞれ政府の仕事を兼ねさせられていたものらしい。今日は閣議がありますからとて講義半途に迎の腕車(わんしゃ 人力車)に風を切って飛んでゆく先生の後姿を羨しげに眺めたことも屡々ある」(民本主義鼓吹時代の回顧 吉野作造「閑談の閑談」抄 人間の記録 日本図書センター)
 このように吉野作造が東京帝大法科大学に入学する以前、大学教授は政府閣僚を兼任することも多く、大学は政府と一体化していたのが実態だったともいえるでしょう。
 しかるに吉野作造の法科大学入学のころから帝大は政府から独立し、教授の個性ゆたかないわゆる学派が成長してくる傾向が顕著となります。
 たとえば法科大学学長に穂積陳重が就任、「憲法国法学講座」(明治27年9月〜34年9月)は一木喜徳郎担当の第一講座「国法学」と穂積八束(陳重の弟)担当の第二講座「憲法」で構成されており、明治34年9月から「憲法国法学講座」は憲法と国法学の独立した2講座に分かれ、前者を一木喜徳郎の学統をつぐ美濃部達吉が担当して天皇機関説を、後者を穂積八束の学統をつぐ上杉慎吉が担当して天皇神権説を講じ対立するようになりました。美濃部達吉についてはのちに詳説します。

クリック20世紀―人物ファイルーアー一木喜徳郎

近代日本人の肖像―日本語―人名50音順―ほー穂積八束

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造 4

 吉野作造が主として受講した「政治学講座」はあまり重要視されぬ分野でしたが、1900(明治33)年「政治学政治史講座」として新設され、翌年10月ドイツ留学から帰朝した小野塚喜平次が教授としてこの講座を担当、吉野作造は小野塚喜平次にもっとも深い印象を受けたのです(民本主義鼓吹時代の回顧 吉野作造「閑談の閑談」抄)。小野塚は政治権力者が法の上にあるとする従来の絶対主義的君権主義を批判するゲオルグ・イェリネックらの影響をうけた人物であったことに注目する必要があります。
 1901(明治34)年吉野作造は安部磯雄(片山潜「日本の労働運動」を読む22〜25参照)・木下尚江(木下尚江「田中正造の生涯」を読む20参照)らキリスト教社会主義者の講演会(本郷教会の別働隊「明道会」主催)に参加するようになりましたが、他の社会主義者の一派である唯物論の幸徳秋水らにはその放縦ともいえる男女関係も関係して反発を感じていたようです(片山潜「日本の労働運動」を読む34参照)。また浮田和民(早稲田大学教授)執筆の雑誌「太陽」における巻頭論文にもひきつけられました(民本主義鼓吹時代の回顧 吉野作造「閑談の閑談」抄)。

歴史が眠る多摩霊園―著名人リストーあ行―うー浮田和民

 日露関係が緊迫した1903(明治36)年6月10日東京帝国大学法科大学教授戸水寛人・小野塚喜平次・富井政章ら7博士は政府に建議書を提出、満韓交換の対露方針に反対、同年6月24日東京朝日新聞に公表しました(七博士事件・司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む19参照)。
 やがて日露講和の内容が知られるに及んで、戸水寛人・金井延・寺尾亨・中村進午・建部遯吾・岡田朝太郎の6博士は世に伝えられる講和の内容は開戦の目的を達成するものではなく、戦争が継続するのもやむを得ないとする上奏文を宮内省に提出、「六博士の奏上」事件が起こるに到りました。
 1905(明治38)年8月25日文部省は戸水寛人を休職処分としましたが、東京・京都帝大教授らは大学の自治を要求して抗議運動を開始、同年12月2日東京帝大総長山川健次郎は辞職、東京・京都帝大教授らも抗議して辞職したため、同年12月8日文相久保田譲は辞表を提出、翌年1月29日戸水寛人が復職(「官報」)して事件は解決しました。

ねずさんのひとりごとー検索ー山川健次郎   

 これら一連の事件については、さまざまな見解がありますが、このことによって東京帝国大学は国家権力からの不当な干渉に対して独自性をつよめ、大学自治の確立にむけて一歩前進したといえるでしょう(立花隆「天皇と東大:大日本帝国の生と死」上 文芸春秋)。

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造 5

 1903(明治36)年9月吉野作造は穂積陳重教授の法理学演習に参加、「ヘーゲルの法律哲学の基礎」という課題をえらび翌年7月報告論文(優秀論文としてやがて出版)を提出、東京帝大法科大学を卒業、就職を希望せず、学究として立つ決心で、ひきつづき政治史研究のため東京帝大大学院に入りました。一方日露戦争について吉野作造はこれを支持する態度をとっています(吉野作造「露国の満州占領の真相」「新人」明治37年3月号 松尾尊~編「中国・朝鮮論」−吉野作造 東洋文庫161 平凡社)。
 ところが明治30年代に同業者とともに吉野年蔵は羽二重合名会社を創立したのですが、日露戦争後における機械製糸の発展は吉野家のような田舎の小資本家を圧倒、吉野家は没落して吉野作造一家の生活ならびに学資を支えることは困難となっていったのです。
 1906(明治39)年1月22日吉野作造は夫人と二女を伴い、1901(明治34)年李鴻章没後北洋大臣兼直隷総督を引き継いだ袁世凱(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む15参照)の招きによりその長男克定の家庭教師として天津へ出発しました(「新人」明治39年2月号)。

世界史の目ーVol.115〜116 辛亥革命 前編・後編

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造 6

このようなことが実現した背景としては、日露戦争を立憲政治を確立した日本の専制政治ロシアに対する勝利ととらえ、日本の立憲政治を清国にも導入しようとする機運が清朝において推進された事情があり、1906(明治38)年8月12日北洋大臣袁世凱は立憲準備を上奏、同年9月1日清朝は立憲予備を上諭(数年後に立憲政治実施を宣言)、同年11月6日中央官制改革を実施、全国に36師団の陸軍(新軍)を設置、1907(明治40)年袁世凱は軍機大臣に就任、その中心人物となっていました。一方穂積陳重教授らの尽力と紹介で、生活費にも事欠く吉野作造が学究として自立できるまでの暫定的な就職口を世話しようという意図と上述のような清国情勢の推移が合致したものと思われます。
 この時点で吉野はとくに清国への関心があって渡航したわけではなく、清国の将来についても悲観的で「結局外国の勢力に依って僅かに治まるのかとも思われる。」(「再び支那人の形式主義」「新人」明治39年9月号 松尾尊~編「中国・朝鮮論」−吉野作造)と述べ、日本の対清国政策に無批判でした。
 このような情勢の下で清国に赴いた吉野作造はただ袁克定の家庭教師というだけでなく、袁世凱の参謀将校たちに国際法の講義も担当させられています。
ところが1908(明治41)年11月14日清国の光緒帝が、同月15日西太后が没し、同年12月2日溥儀(光緒帝の甥3歳)宣統帝が即位、その父醇親王が摂政として政権を掌握すると、袁世凱と対立していた醇親王は翌年1月2日軍機大臣袁世凱を罷免、袁世凱は河南省に引退しました。

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造 7

かくして吉野作造は1909(明治42)年清国より帰国、同年2月5日東京帝国大学法科大学助教授に任ぜられ、政治史講座を担当することになったのです。1914(大正3)年7月には東京帝大法科大学教授となりました(田中惣五郎「前掲書」)。
 1910(明治43)年1月政治史及び政治学研究のため、彼は満3年間ドイツ・イギリス・アメリカへ留学を命ぜられ、同年4月15日新橋を出発、途中パリーのキリスト教青年会で当時欧州に滞在していた王正廷(後に中国国民政府外交総長)の噂を聞き、王に会いたいと念願、その後の王の活躍を聞いて、吉野ははじめて清国における革命運動に強い関心をもつようになったのです(「支那問題に就いて」松尾尊~編「中国・朝鮮論―吉野作造」東洋文庫161 平凡社)。この間に日本では大正政変(第1次護憲運動・寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む13〜14参照)が起こりました。
 吉野作造のデモクラシー思想はキリスト教信仰に基礎づけられるものでした(吉野作造「デモクラシーと基督教」「新人」大正8年3月号 岡義武解説「吉野作造評論集」岩波文庫)が、吉野外遊中の大正政変や其の他は吉野作造の立場を有利にする出来事であったので、ここで再度とりあげることにします。しかし今回は権力者並びに議会外の民衆の動向に焦点をあててみましょう。

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造 8

1913(大正2)年2月10日再開された議会の周辺の様子を「東京朝日新聞」は次のように伝えています。「刻々にその数を増す内外の群衆は、次第に気を得てさらに万才を絶叫すれば、議院内に入った国民党の代議士約百五十名は、一時に議院の露台に立ちあらわれ、白バラを打ち振りつつ内外の群衆に和して万才を唱う。ついには犬養木堂(毅)氏までが露台上にあらわれ、これに和する数千の群衆、いまは我をわすれて熱狂し、騎馬隊(憲兵)は二手にわかれて議院前の通路を遮断し、通行を禁止するなど、ほとんど底止するところを知らざる有様であった。」(「大正政変」信夫清三郎「大正デモクラシー史」日本評論社)
このような情勢の中で桂太郎首相は衆議院議長大岡育造の勧告を受け入れて総辞職を決意、3日間の停会命令が出されましたが、議会を包囲していた民衆は日比谷公園に向かいました。ところが警視庁は騎馬巡査を先頭にしてこれを阻止しようとしたため、激昂した民衆に逆襲される状態となり、民衆の一部はすぐ近くの政府寄りの記事を売り物にしていた都新聞社の襲撃を開始しました。
「その時大野伴睦は二十四才の青年で明治大学の学生であった。彼もまた血にわく民衆の一人として焼打に参加した。徳川夢声の「問答有用」で彼は語った。
伴睦―都新聞へいってね、活字いれてあるケースをぼくはひっくりかえした。(中略)ぼくは出る時に、騒擾罪というものはどのくらいの罪かということを見ていったんや。それにね、首謀者は無期から死刑まで、卒先助勢者は六ヵ月以上七ヵ年以下の懲役に処すと書いてある。
付和随行者は五十円以下の罰金だというんですな。もしひっかかったら、なんでもかまわん、付和随行にもっていきゃええと思ってね。(笑)あとで調べられたときにね、「君は扇動演説をやったんじゃないか」という。「冗談いっちゃいけません。おれは知らん。都新聞、都新聞というから自分は都新聞へワッショワッショというて付和随行していった」というた。(笑)」(信夫清三郎「前掲書」引用)

温泉ドライブのページー4.旅のあれこれ@―俳人―大野伴睦

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造 9

 1913(大正2)年7月3日吉野作造は欧米留学から帰朝、横浜に帰着しました。
シーメンス事件とよばれる海軍収賄事件(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む15参照)が新聞に報道された1914((大正3)年1月23日綜合雑誌「中央公論」新年号に吉野作造の論文「学術上より観たる日米問題」が掲載されたのをはじめとして、同年3月号には山本権兵衛内閣倒閣運動を背景とした「民衆の勢力によって時局を解決せんとする風潮を論ず」という「中央公論」の特輯欄に吉野は「民衆的示威運動を論ず」と題して、欧米留学中見聞した示威運動を紹介しました。
 このような綜合雑誌「中央公論」誌上における吉野作造の所信発表とその影響力拡大を可能にしたのは、編集主幹滝田哲太郎(樗隠)の援助によるところが大きかったといえるでしょう(亡友滝田哲太郎君と私 吉野作造「閑談の閑談」抄)。

東京紅團―地区別散歩情報―千代田区の散歩情報―「中央公論社」の足跡を歩く

1914(大正3)年8月23日第2次大隈重信内閣はドイツに宣戦布告、翌年加藤高明外相の訓令にもとづき日置益公使は中国政府に対華21ヵ条要求を提出、同年5月9日中国政府は日本の要求をすべて受諾、内政において同内閣は懸案の2個師団増設問題をめぐる議員買収問題で動揺、政局不安定となっていました(寺林峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む17〜18参照)。
 1915(大正4)年6月吉野作造は「日支交渉論」(吉野作造選集8 岩波書店)を刊行、上述の対華21ヵ条要求について論じていますが、「予はこの度の対支要求の如きは、大体に於て我国の最少限度の要求を言現わしたものであると信ずる。」とし、「支那に対する帝国将来の地歩を占むる上から見て、極めて機宜に適した処置であったと信ずるものである。」(「支那に対する帝国の実際的態度」「日支交渉論」第三章の三 松尾尊~編「中国・朝鮮論―吉野作造」東洋文庫161 平凡社)と述べ、列強と並んだ日本の中国分割参加を積極的に支持していました。

松尾尊~「大正デモクラシーの群像」を読むT−吉野作造10

 しかるに1916(大正5)年「中央公論」1月号に吉野作造の論文「憲政の本義を説いて其(その)有終の美を済すの途を論ず」(岡義武編「吉野作造評論集」岩波文庫)が発表されたのです。

聚史苑―大正年表2−1月 吉野作造 「中央公論」で民本主義論を展開

同論文の冒頭において「憲政の何たるかに通ぜざるは、独り一般下級の国民ばかりではない。上級のいわゆる識者階級また然りである。(中略)かくて今日は、上下一般に向かって最も率直に、最も大胆に、最も徹底的に立憲政治の真義を説くべき時ではあるまいか。」と述べられています。
同論文の「序言」において「立憲政治のやや完全なる形式を備えながら、国民智徳の高いと低いとの差によって、憲政の運用上両極端の現象を呈して居るものは北米合衆国と墨西哥〔メキシコ〕とである。(中略)かくの如く、相隣しておりながら、一方は隆々たる勢いを以って栄え、一方は紛乱に紛乱を重ねて居るものは、そもそも何の理由によりて然るか。
(中略)これ畢竟両国民の智徳の程度に大いなる高低の別があるからである。これには深い歴史上の原因がある。第一に北部は主として英国のいわゆるアングロ・サクソン族の移住し来った所であり、南部は例外を除き、専ら西班牙よりの移住民である。
第二にこれら両国よりの移住民は元来本国においていかなる階級に属しておったかというに、合衆国に移住した英国人は、本国において概して最も優等なる階級に属しておったものである。これに反して墨西哥の移民は如何というに、この方は本国における無頼の徒にあらざれば、労働者あるいは兵卒等皆下層階級の者が主となっておる。(中略)
 第三にこれら両国移住民の移住後における家族関係の点も参酌する価値がある。英国より渡来し来った者は、概してみんな家族を率いて移住してきた。然らざるも清教徒(ピューリタン)の事なれば、移住後も土人と結婚するというが如き者は一人もなかった。しかるに墨西哥に移住した者は、労働者兵士等、皆妻子を有って居る者ではない。忽ち土人と雑婚し、ために多くの混血児を生じた。しかしてこれらの混血児は、これをかのピューリタンの輩が、人種の純潔を保ちつつ、その高尚なる理想を子孫に伝えたのに比すれば、もとより同日の談ではない。我々はこれらの例に徴して、切に憲政の成功にはいかに国民の教養が先決問題として肝要であるかを知らねばならぬ。」と結ばれています。
2013-05-01 05:47 | 記事へ | コメント(1) |
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寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21〜30
2012年11月21日(水)
寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む21

 原敬は政党党首としてはじめて首相に任命された人物で、爵位をもたず藩閥でもない衆議院議員であり、「平民宰相」と呼ばれました。また外相内田康哉・陸相田中義一、海相加藤友三郎のほかの閣僚はすべて政友会出身であり、本格的政党内閣のはじめと評価されたのです。
 1918年11月11日ドイツは連合国と休戦協定に調印、第1次世界大戦は終了、1919(大正8)年1月18日パリ講和会議が始まりました。

第1次大戦―パリ講和会議―ベルサイユ条約―国際連盟   

 講和会議の中心は5大国(米・英・仏・伊・日)2人ずつの全権で構成される10人委員会にあり、ここで戦後処理に関するすべての問題を決定、其の他の講和会議参加国は自国に関係する議題が上程されたときに10人委員会に召喚され発言する機会が与えられました。
日本全権は西園寺公望(主席全権)と牧野伸顕が任命されたのです(「官報」)。
 会議の主導権は米大統領ウイルソン・英首相ロイド・ジョージ・仏首相クレマンソーの手中にありました。
 同年1月27日牧野伸顕全権は山東半島のドイツ利権および赤道以北のドイツ領諸島の無条件譲渡を要求(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)、これに対して翌日中国全権団(南北両政府代表で構成)の顧維鈞(駐米公使)は山東省のドイツ権益は直接(日本の介入を認めず)中国に返還されるべきと主張、日本と対立しました。
 同年4月11日日本全権は国際連盟規約委員会で人種的差別撤廃の趣旨を規約前文に挿入するよう提議しましたが不成立、同年4月21日日本政府は山東問題に関する要求が通らないときは米大統領ウイルソンが提唱する国際連盟規約調印見合わせを日本全権団に訓令、4月22日山東問題に関する第1回首相会議がウイルソンの宿舎で開催、同月28日日本は国際連盟規約に同意、同月29日第2回、同月30日第3回首相会議が開催され、同年5月4日の講和会議で日本全権牧野伸顕は山東還付(ただし経済的特権および青島に専管居留地設置の権利を留保)を声明しました(外務省編「前掲書」)。
 これに対して北京の学生3000人余が山東問題に抗議して示威運動(五・四運動)、同年6月28日ベルサイユ講和条約が調印されましたが、中国北京政府は調印を拒否しました。結局パリ講和会議は山東問題を解決出来なかったのです。
 他方朝鮮ではこれより以前の同年3月1日京城(漢城)・平壌などで朝鮮独立宣言が発表され、示威運動が朝鮮全土に拡大しました(「大正編年史」)。

北九州のあれこれー北九州の歴史―大正時代―4三・一運動と五・四運動

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む22

 寺内正毅内閣はいわゆる超然内閣(「大山巌」を読む27参照)で議会内に与党を持たなかったが、立憲政友会は事実上の与党としての役割を果たしていました。だから寺内正毅内閣が米騒動により崩壊後、原敬立憲政友会総裁を首相とする内閣が1918((大正7)年9月29日成立すると、憲政会幹部の間に寺内・原は同罪として原内閣打倒が主張されたのも、それなりの説得力があったのです。
 しかし加藤高明憲政会総裁は議会の第一党に政権が移って政党政治の第一歩が築かれたと評価するとともに、1919(大正8)年年9月14日名古屋における憲政会東海大会において原内閣に対する厳しい論戦を挑みました。
 その第1点は同年5月4日日本全権の山東還付声明を8月2日内田康哉外相が再確認しましたが、この山東還付声明における青島専管居留地設置についての関係国との解釈の食い違いがあると指摘したこと、第2点は同年4月11日日本全権が国際連盟規約委員会で人種的差別撤廃の趣旨を規約前文に挿入するよう提議しましたが不成立に終わったことなどを追及しました。

第1次大戦―パリ講和会議―近衛文麿の「英米本位の外交を排す」の詳細―人種差別撤廃提案   

 内政においては普選運動の高まりに対する政府与党と野党の対応の問題が緊急の課題として浮上してきたのです。
 1918(大正7)年12月25日招集の第41議会の最中に1919(大正8)年3月8日原敬内閣提出の衆議院議員選挙法改正案(小選挙区・選挙権資格を直接国税3円以上に拡大)を可決、普選論主張の村松恒一郎ら6名が立憲国民党より除名され脱党する騒ぎが起こり(衆議院・参議院編「議会制度七十年史」政党会派編 大蔵省印刷局)ましたが、同年12月20日には憲政会政務調査会でも普選案の条件(納税資格を撤廃しても「独立の生計を営むもの」という制限を有権者資格に加えるか否か)を巡って対立がめだつ情勢となってきました(「日本労働年鑑」大原社会問題研究所)。同年12月24日第42通常議会が招集され、1920(大正9)年2月14日衆議院では憲政会・国民党・普選実行会提出の普通選挙法3案が上程されましたが、2月26日普選法案審議中に解散となりました。

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む23

 加藤高明憲政会総裁は翌日『原(敬)君は今回の提案(普選法案)を以て「帝国の国情に鑑みざるものにして、社会組織を脅威し国家の前途に危害を及ぼすものなり」と云ひたるが、、吾人は帝国の国情に鑑み其の将来の安寧・秩序を保つが為には、本案(普選法案)を最も必要なりと確信す。』と述べて党員を激励しました。
 1920(大正9)年5月10日第14回総選挙が実施され与党立憲政友会が大勝する結果となりました(衆議院・参議院編「前掲書」)。第43議会で同年7月12日衆議院は野党提出の普選法案を否決、このため普選運動は1919〜1920年にかけて普選運動の中心であった友愛会など労働者組織の多くが運動より離脱、普選運動は一時衰退する傾向を見せましたが、加藤高明は原敬内閣の失政を追及することをやめませんでした。
 彼は以前からシベリア撤兵を主張していましたが、同年3月2日原敬内閣は閣議でシベリア出兵の目的をチェコ兵救援より朝鮮・満州のへの過激派の脅威阻止のためと変更して駐留することを決定、とくにニコラエフスクは黒竜江の河口に位置し、樺太防衛上の要地であるから、同地に駐屯する我が守備兵は依然留置することになりました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。
 ところが同年3月12日ニコラエフスクの日本軍は休戦中のパルチザン(赤軍の別働隊)を攻撃して敗北、3月18日戦闘停止、5月24日より収容中の日本軍民多数が殺害されました(尼港事件及樺太内必要地点ノ一時占領ニ関スル件 外務省編「日本外交文書」大正九年 第1冊 下巻 外務省・井上清「日本の軍国主義」U 東大出版会)。
 加藤高明は同年6月27日の憲政会東海大会において「遠く西伯利(シベリア)の内地に出兵し、其後過を改めて撤兵せむと欲せば、屡々撤兵の機会ありたるに拘わらず、(中略)終に撤兵の機を失し、(中略)外は帝国国際上の立場を困難ならしむるのみならず、之が為露国民の反感を招き不祥の事件は頻々として吾人の耳朶を打つに至る。最近に於けるニコラ(イ)エフスク虐殺事件の如きは其最も甚しきものなり。(下略)」と原敬内閣の外交政策を批判したのです。同年12月25日招集の第44議会においても、1921(大正10)年1月24日彼は貴族院でシベリア撤兵を主張しています。これに対して原首相は日本のシベリアに対する地理上の関係は他国と異り、同地の政情は直ちに朝鮮・満州に波及、またシベリアの日本居留民の生命・財産を保護するために今ただちに撤兵できぬと答弁しました(大日本帝国議会誌刊行会「大日本帝国議会誌」第12巻)。
 同年2月3日衆議院では憲政会・国民党より各々提出の普通選挙法案を否決(大日本帝国議会誌刊行会「前掲書」)しました。
 同年11月4日原敬首相は政友会近畿大会出席のため向かった東京駅で中岡艮一に刺殺され、翌日内閣は総辞職、同月13日高橋是清(1921.12.21立憲政友会総裁「立憲政友会史」5)に組閣命令が出され、原内閣の全閣僚留任のまま高橋是清内閣が成立しました(新聞集成「大正編年史」)。

Musasino Rest Gallery―目次―胸を打つ人間ドキュメントータイトルー平民宰相・原敬暗殺   

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む24

 1921年7月11日米大統領ハーディングは軍備制限ならびに太平洋・極東問題でワシントン会議を開くことを非公式に提案(同年8.13日本を正式招請8.23参加回答)海軍軍縮には米・英・日・仏・伊の5国、太平洋・極東問題には前記5国の外、中国(北京政府のみ、広東政府招請されず)・ベルギー・オランダ。ポルトガルの9国が参加しました。9月27日同会議全権に加藤友三郎(原内閣海相)・徳川家達(貴族院議長)・幣原喜重郎(駐米大使)が任命されました(新聞集成「大正編年史」)。

第1次大戦―支那事変―ワシントン会議   

 同年11月12日ワシントン会議第1回総会で米国務長官ヒューズは建造中の主力艦の廃棄・保有比率の設定を提案しています。
 当時米・英・日3国は建鑑競争をやめず、1920年の戦後恐慌による経済の低迷によって重い財政負担にあえいでおり、その解決を軍備縮小にもとめていたのです。しかし軍縮を達成するにはベルサイユ講和条約に規定された第1次世界大戦後の国際秩序(ベルサイユ体制)を維持できるか否かにかかっていたのです。ところがベルサイユ条約は山東問題を解決できず(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む24参照)、戦争の火種はなくなっていませんでした。同会議が太平洋・極東問題を議題として採択しなければならなかった理由はこれでおわかりでしょう。
 同年12月13日締結された太平洋方面における島嶼たる属地及島嶼たる領地に関する四国(米・英・仏・日)条約(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)は太平洋方面における島嶼たる領地の相互尊重を約し、同条約第4条で大不列顚国及日本国間の協約(日英同盟)終了が規定されました。
 いわゆる日英同盟ははじめロシア、後にドイツを対象とする軍事同盟でしたが、英国にとってロシアは革命によって崩壊、ドイツも第1次世界大戦に敗北したので存続の利益がなくなったのに、日本の中国支配強化に利用されるだけの存在となっていたから、1921年英帝国会議においてオーストラリアやニュージーランドは日英同盟存続を望んでいたにもかかわらず、日本と対立する米国と関係の深いカナダが日英同盟の廃棄を強く主張、同会議を主導するに至り、英国は日英同盟廃棄にふみきったわけで、これによって日本の外交は国際的孤立を深めたのです。
 山東問題に関する日中会談は米英両国のオブザーバーが臨席して日中直接交渉がワシントン会議の外で行われました。中国はワシントン会議の正式議題として山東問題を討議したい希望でしたが、同会議出席の9国中6国がベルサイユ講和条約に拘束されている状況の下では現実に希望は成立せず、1922(大正11)年2月4日締結された山東懸案解決に関する条約(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)は日本の膠州湾租借地還付、中国の同地開放、日本軍の撤退などを規定しています。
 同年2月6日に締結された中国に関する九国条約其の他(外務省編「前掲書」)は中国の主権・独立ならびに領土保全を尊重、中国の門戸開放・機会均等を約束しました。また同日成立した海軍軍備制限に関する条約(外務省編「前掲書」)は米・英・日・仏・伊の主力艦保有量比率を5・5・3・1.67・1.67とし、航空母艦もほぼ同様の比率で保有量が制限されました。

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む25

 加藤高明はワシントン会議における日英同盟存続の可否について、いろいろの関係からやはり存続して赤の他人となってしまわぬ方がよいと思っている。英国側で種々議論が出て、何うなっても介意せぬと云うなら寧ろ廃棄するがよいと述べ、また海軍制限に関しては財政的に行詰っているから、英米とお互いに縮小することは必要だ。併し常に対等の権利だけは主張するが宜いとして英米の主力艦保有量7割確保を主張、結局6割に同意した政府を批判しました。
 1922(大正11)年2月6日ワシントン会議が終了する直前の同年2月1日加藤高明の政敵であった元老山県有朋が死去(徳富蘇峰編「公爵山県有朋伝」下 原書房)したことは元老の政界における影響力の衰退を象徴する出来事でした。
 1919(大正8)年末に招集された第42議会以後普選運動の主な担い手となったのは地域の市民的政治結社で1922(大正11)年春より普選運動は再び高揚しました。1921(大正10)年末に招集された第45通常議会において提出された憲政会・国民党・無所属組の統一普選案(憲政会の従来「独立の生計を営む者」という条件を削除、国民党は選挙権年齢20歳を25歳に改める)が翌年2月23日衆議院に上程され、討論中傍聴席より生蛇を投入した者が出ました。同夜普選要求の群集が警察官と衝突する騒ぎが起き、2月27日普選案は否決されました(新聞集成「大正編年史」)。しかし政友会内部にも普選法案にたいする動揺が拡大しつつあったのです。
 高橋是清内閣は同議会に過激社会運動取締法案を提出しました。床次竹二郎内相はロシアの過激派と連絡する赤化運動と朝鮮独立運動の取り締りを目的とすると説明しましたが、とくに新聞社などがこの法案は言論報道の自由を圧迫するおそれがあるとして反対運動を展開、同年3月24日貴族院は同法案を修正可決しましたが、衆議院で審議未了となり、翌日衆議院は各派共同提出の陸軍軍備縮小建議案などを可決しました(「大日本帝国議会誌」第13巻)。
 高橋是清内閣は最初から不安定な内閣でしたが、同内閣が第45議会をのりきると、高橋に辞職をもとめる動きが活発となり、同内閣は1922(大正11)年年6月6日閣内不統一により総辞職、6月9日元老松方正義は枢密院議長清浦奎吾と相談、加藤友三郎を第一候補とし、彼が辞退すれば憲政会総裁加藤高明を推す方針をきめ、病中の西園寺公望の同意を得ました。

近代日本人の肖像―人名50音順―か・こー清浦奎吾 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む26

 憲政会の安達謙蔵は同郷のよしみで清浦奎吾に探りを入れ、「ともかく大森駅のプラットホームで人目を避けて、手真似で指を二本出したら加藤友三郎とか、一本出したら加藤高明であるとか、ちょっと合図をすることにしようとの約束で、時日の打ち合わせまでして置いて辞去した。そして予は其の指定の時日の大森駅に行って待っていると、程なく清浦子が見えて約束のサインを受けたわけであるが、」(「安達謙蔵自叙伝」新樹社)元老の後継首相候補が加藤友三郎であることを知り、落胆したそうです。松方正義が加藤友三郎に組閣の意思を確かめると加藤友三郎は即答を避けました。一方床次竹二郎(政友会)は加藤友三郎を訪問、組閣を引き受けるよう説得し、加藤(友)も政友会が援助することを条件に組閣を承諾しました(岡義武・林茂校訂「大正デモクラシー期の政治―松本剛吉政治日誌―」大正十一年六月十二日条 岩波書店)。かくして1922(大正11)年6月12日加藤友三郎内閣が成立しました。

近代日本人の肖像―人名50音順―か・こー加藤友三郎 

 同年日本軍は漢口・青島・北満州・沿海州からの撤兵を終了していましたが、同年6月24日日本政府は10月末までにシベリアからの撤兵を完了すると声明、10月25日尼港事件の賠償をもとめて北樺太を除き声明を実行していましたが、同年9月25日極東共和国・ソビエト政府との交渉は決裂しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)。
 1923(大正12)年1月加藤高明は貴族院において加藤友三郎首相に対し、北樺太駐兵其の他に関し、次のような質問演説を行いました。
 すなわち北樺太駐兵の目的は第一に国家が其の多数国民を失った、其悲惨事に対して、道義的補償を得ること、第二に被害者遺族に対する精神的、経済的補償を得ることであるが、利害を考慮すれば、此際、北樺太における軍隊を撤退して、好機来たらば、他の方法によって、要求の貫徹を期するのが、利益であろうという趣旨でまた山東利権については譲歩しすぎて国威の失墜を招いているとの質問でした。
 同年8月24日加藤友三郎首相は病没し、翌日内閣は総辞職、同月28日山本権兵衛に組閣命令が出されました(新聞集成「大正編年史」)。

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む27

 山本権兵衛は組閣命令を受けて直ちに政・憲・革の3党首をはじめ、政界の主要人物を水交社(1876創設 海軍将校の親睦団体)に招いて入閣を要請しましたが、加藤高明は政党内閣を理想とすることを理由に承諾せず、即刻開催された憲政会最高幹部会でも入閣拒絶の党議が成立、1923(大正12)年8月30日加藤高明は水交社を訪問して入閣辞退を回答しました。
 しかるに同年9月1日関東大震災が起こって、戒厳令が公布され、9月2日朝鮮人暴動の流言がひろがり、朝鮮人迫害がはじまる情勢の中で(「関東大震災と朝鮮人」現代史資料6 みすず書房)、第2次山本権兵衛内閣が成立しました(「大正編年史」)。

探検コムー災害史―関東大震災 日記・鳥瞰図・画像 

 野党憲政会内部にはこのままでは憲政会へは政権はこないという失望がひろがり、非政友会勢力合同論と反対論が対立、また1919(大正8)年12月以来加藤高明は普通選挙の断行を政見の第一に掲げていましたが、元老およびその周囲はまだこれを回避しようとしており、憲政会に政権を渡そうとしないので、加藤高明を総裁から追放しようとする加藤排斥派と擁護派がいがみあい、これに非政友会勢力合同論がからんで、憲政会は分裂の様相をみせはじめました。しかし加藤高明はこの難局をきりぬけ、引き続き加藤総裁が指導する憲政会の団結をまもることに成功しました。
 同年12月27日難波大助が摂政(1921.11.25皇太子裕仁摂政となる「官報」)を狙撃する事件(虎ノ門事件)が発生し、山本権兵衛内閣は総辞職、1924(大正13)年1月7日清浦奎吾(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む28参照)内閣が貴族院研究会の援助を受けて成立しました。

クリック20世紀―年表ファイルー1923年―虎ノ門事件 

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む28

 清浦奎吾内閣を松本剛吉は「清浦内閣は(山本内閣と)同じく寄木内閣にして、而(し)かも其寄木は前内閣の如く棟梁自ら為せるにあらず、叩き大工の寄合に委して思ひ思ひの工夫を持寄り作り上げたるものにして、首相の抜擢推薦に依れる閣臣一人もなし。首相の威令何に因ってか行はれん。其命脈の如き永くて三月、短かくて一ヶ月ならんことを予は断定す。」(岡義武・林茂校訂「前掲書」大正十三年一月七日条 岩波書店)と批評しています。
 1924(大正13)年1月10日政友会・憲政会・革新倶楽部の護憲3派有志ははやくも清浦内閣打倒運動を開始しました(第2次護憲運動発足)。同年1月15日政友会総裁高橋是清は同会幹部会で清浦内閣反対を声明、これに対して山本達雄・中橋徳五郎・床次竹二郎・元田肇らは脱党し(新聞集成「大正編年史」)、同月29日政友本党を結成、第1党として清浦内閣の与党となりました(衆議院・参議院編「議会制度七十年史」政党会派編 大蔵省印刷局)。
 同年1月18日高橋是清・加藤高明・犬養毅3党首は枢密顧問官を辞職した三浦梧楼(「大山巌」を読む41参照)の斡旋で会談し、政党内閣確立を申し合わせました(新聞集成「大正編年史」・「観樹将軍回顧録」大空社)。同年1月30日憲政擁護関西大会が大阪中央公会堂で開かれ、3党首も出席、その帰途加藤高明は名古屋で下車しましたが、護憲3派幹部乗車の列車転覆未遂事件が起こり、翌日衆議院で列車転覆未遂事件に関する浜田国松の緊急質問中、暴漢3人が壇上を占拠、議場混乱のため休憩中解散となりました(新聞集成「大正編年史」)。

大阪市中央公会堂―公会堂の歴史   

 憲政会の議会解散に対する声明書が「現内閣は此の如くして故らに国民の階級的自覚心を喚起し、左なきだに動揺を免れざる国民思想をして、益々険悪に赴かしめ、其の極まる所、或は恐る、彼の戦慄すべき階級闘争を惹起するに至らむことを」(「憲政会史」下巻 原書房)と述べているように、彼等は清浦内閣に代表される貴族支配への民衆の反感が社会主義と結合した民主主義運動の展開に移行していく事を深く恐れていたのです。

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む29

 1924(大正13)年5月10日第15回総選挙が実施され、憲政会当選者は153名に達して第1党となり、これに対して清浦内閣の与党政友本党は114名に止まり、護憲3派の大勝となりました。
 同年6月7日清浦奎吾内閣は総辞職した結果、憲政会に反対してきた元老西園寺公望(同年7.2松方正義死去)も「政局并に人心の安定を期する」(岡義武・林茂校訂「大正デモクラシー期の政治・松本剛吉政治日誌」大正十三年六月十一日条 岩波書店)には加藤高明を推す外なしとの松本剛吉の建策を受け入れ、彼を首相に推薦、6月9日加藤高明に組閣命令が出されました。かくして加藤高明は高橋・犬養両党首を訪問、3派連立を協議、6月11日第1次加藤高明内閣が成立、若槻礼次郎(内相 憲政会)、浜口雄幸(蔵相 憲政会)、高橋是清(農商務相 政友会)・横田千之助(司法相 政友会)・犬養毅(逓信相 革新倶楽部)・外相幣原喜重郎らが入閣しました(「官報」)。

三菱グループー三菱グループについてー三菱人物伝―三菱の人ゆかりの人―vol.18 幣原喜重郎  

コトバンクー検索―松本剛吉   

 加藤内閣がまず取り組んだのは行財政の整理で陸軍の4個師団の廃止・実行予算3000万円節約が閣議決定されましたが、軍部大臣武官制の改正などは見送られました。
 外交では1925(大正14)年1月20日北京で日本国及「ソヴィエト」社会主義共和国連邦間の関係を律する基本的法則に関する条約(日ソ基本条約)が調印され、同年5月15日北樺太派遣軍の撤兵が完了しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下 原書房)。
 懸案の普選問題については同年3月2日衆議院で普通選挙法案(衆議院議員選挙法改正案)が修正可決されましたが、松本剛吉は西園寺公望の意をうけて加藤高明首相を訪問、「若しも通過困難なる場合は、断然意を決して解散の処置を執られ、真の我党内閣に改造せられては如何でありますか(貴族院で普選案の通過が困難ならば断乎として解散し、憲政会内閣を作ってはいかがですか)」と勧めました。ところが松本は「(加藤)首相は身を震はし、火鉢に両手を突き、頗る緊張して之を聴かれ、下の如く答へらる。曰く御親切の段感謝に堪えず、実は解散の事に関しては(中略)浜口、若槻、安達抔よりは二三回此の事を申出でたれども、自分は御承知の如く病身にして如斯事迄も断行してやり通す勇気がありません、兎に角此の議会は如何様にしても、假令(たとえ)曲りなりにも、通過する様御配慮を願ひ度旨答へられたり。」(岡義武・林茂校訂「前掲書」大正十四年三月五日条)と述べています。同年3月29日両院協議会案が成立、結局25歳以上の男子に選挙権、30歳以上の男子に被選挙権を与え、欠格条項として「貧困ニ因リ生活ノ為公私ノ救助ヲ受ケ又ハ扶助ヲ受クル」者が除外されました(内閣印刷局「法令全書」第一四巻ノ二 原書房)。
 同年3月7日衆議院で治安維持法案が修正可決され、3月19日貴族院も可決しました(「法令全書」同上 原書房・「大日本帝国議会誌」)。その内容は「国体(天皇統治の国がら)ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」などで、従来の治安警察法が政治活動や社会運動などの具体的行動を取り締まるものであったのに対して、治安維持法は国体変革と私有財産の否認という思想・信条を取り締まるもので、社会主義運動や労働者・農民運動をを取り締まるだけでなく、のちには拡大解釈されて民衆の諸権利と自由を弾圧する悪法の代表例となりました。
 同年5月5日貴族院令が改正されましたが、有爵議員を若干減員、帝国学士院互選の勅選議員を設置するなどの微温的改革が行われたに止まりました。

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む30(最終回)

 1925(大正14)年4月4日立憲政友会総裁高橋是清が引退を表明、同月16日商相兼農相を辞任、後任には政友会より野田卯太郎、農相に岡崎邦輔が任命され、4月13日田中義一が莫大な政治資金を準備したといわれ、大会で政友会総裁に就任しました(新聞集成「大正編年史」)。

近代日本人の肖像―人名50音順―た・とー田中義一 

 同年4月15日田中義一政友会総裁は加藤高明首相と会見、現内閣支持を共同声明しましたが、5月10日革新倶楽部総会は政友会との合同を決議、5月30日合同反対派の尾崎行雄らは中正倶楽部残留派とともに新正倶楽部を組織、5月14日政友会は臨時大会で革新倶楽部・中正倶楽部と合同しました。また5月28日加藤内閣逓相犬養毅が政界引退を表明、5月30日逓相を辞任したので(後に地元で推薦され、補欠選挙で再選して政友会に所属)後任に安達謙蔵(憲政会)が任命されました(新聞集成「大正編年史」)。
 このように第1次加藤高明内閣を支えた護憲3派に変動が起こる中で、同年7月30日閣議は税制整理案をめぐって対立激化、小川平吉(法相 政友会)、岡崎邦輔(農相 政友会)らは退席、7月31日加藤高明内閣は閣内不統一により総辞職、一方政友会と政友本党幹部は提携を申し合わせていました(新聞集成「大正編年史」)。
 「総裁(田中義一)は自分が働き出せしにあらずして、自然と政本提携又は合同成立の見込あり(自分がはたらきかけたのではないが、おのずと政本提携または合同が実現する見込みである)」と唯一人の元老となった西園寺公望に伝えるよう松本剛吉に依頼しました。松本が報告すると西園寺公望は「政権を執るが為めに俄かに企んだことならん(政権をとるためににわかにたくらんだことであろう)田中が働き出した訳ではない抔(など)は其言訳ならん(田中がはたらきかけたのではないというのはいいわけであろう)、実に驚いた者共である」(岡義武・林茂校訂「前掲書」大正十四年七月二十八日条)と非難、同年8月1日加藤高明を再び首相に推薦、翌日第2次加藤高明内閣(憲政会単独)が成立しました。
 しかし憲政会単独では衆議院の過半数に達しないため政局は不安定となり、憲政会では浜口雄幸蔵相や安達謙蔵逓相らは繰り返して解散断行を主張しましたが、貴族院に議席をもつ加藤高明首相や若槻礼次郎内相は解散する勇気がなく、政友本党と妥協して議会をのりきる方針を変えませんでした。
 かかる情勢において同年12月25日第51議会が招集されましたが、1926(大正15)年1月26日首相加藤高明は病気により内相若槻礼次郎を首相代理に任命(「官報」)、しかるに同年1月28日加藤高明首相は67歳で死去、勲功により伯爵を授与されました。
この小説は加藤高明死去の有様の叙述で終了しています。
 「加藤は初め風邪だったが、それが肺炎になり、結局心臓麻痺で亡くなられた。(中略)加藤がまだ野党の総裁でやっていたころ、私は加藤の心臓のよくないことを、ひそかに聞いていた。(中略)それがなぜ私たちに伝えられたかというと、お前がたは努力して加藤を助けているが、あの人の身体は、いつどんな変化があるかわからん。それは覚悟しなければならんという意味だったろう。(中略)
 私が明治二十五年に大蔵省に入ったときは、(加藤は)監督局長だったと思う。(中略)そのころから加藤を知っていた。(中略)
 原(敬)はなかなかの利口者だから、山県(有朋)公などにはよほど取り入っていた。(中略)そこへいくと、加藤は老人を喜ばせることのできない男であった。うっかりすると、怒らせてくる。」(若槻礼次郎「明治・大正・昭和政界秘史」−古風庵回顧録―講談社学術文庫)
 若槻礼次郎の指摘はたしかにその通りですが、山県有朋に取り入ることの上手かった原敬が、結果として衰退しつつあった元老の影響力を温存し、明治国家を民衆のために改革するという側面をもった大正デモクラシーを不徹底なものにしたことは確かで、元老を怒らせた加藤高明も国家の不徹底な改革に終わったことは原敬と同様ですが、1932(昭和7)年5.15事件による犬養毅政友会内閣の倒壊まで、継続する政党内閣の慣例を切り開いた点で、その実績は高く評価されるべきでしょう。
2012-11-21 07:11 | 記事へ | コメント(21) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇38「加藤高明」) |
寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む11〜20
2012年11月11日(日)
寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む11

 鉄道国有は満州進出を強化するための軍事輸送確保をめざす軍部が常に強く主張するところで、桂太郎内閣は総辞職以前の最後の閣議でこれを決定、後継の西園寺公望内閣にこの案踏襲を一条件として提案したところです。西園寺内閣首脳部は43000万円で全国17の私設幹線鉄道を買収する具体案を閣議にはかり、また元老にも了解を求めました。

古屋哲夫の足跡―文献(著作目録)―著作・論文等―52『日本内閣史録』2 第一次西園寺内閣―4 鉄道国有と加藤外相の辞職  

 しかし閣内において上記内容の鉄道国有法に一人反対したのは加藤高明外相でした。西園寺公望首相・原敬内相・寺内正毅陸相らが外相を説得、とくに原敬は外相所管事務でもないのに、職を賭してまで反対論を唱える必要なしと彼をなだめましたが、1906(明治39)年2月17日の閣議で加藤外相は(ア)私権(財産権)蹂躪(ふみにじる)、(イ)国債の負担過重、(ウ)官営多分拙劣という理由を挙げて反対、翌日外相は岩崎久弥らに辞職せざるをえないことを告げています。同年2月28日西園寺公望内閣は閣議で鉄道国有法案を決定、3月3日加藤高明の外相辞任が確定しました。以後原敬との交友はほとんど断絶したものとなりました。
 同年3月末鉄道国有法は議会を通過成立しましたが、買収された私有鉄道は17社、その建設費は25800万円、その買収価格は45600万円に増加、その利子2280万円となり、翌年10月1日買収を完了しました。
 当時加藤高明が私有鉄道の大株主三菱の利益を代弁するために鉄道国有法に反対したという批判があり、これに対しては岩崎弥之助が末延道成に「加藤が姻戚関係から三菱の為に主張するように噂されることは、誠に気の毒に堪えない。」と語った言葉を引用して、上記の批判が不当であるとする意見(伊藤正徳「前掲書」)があります。
 しかしながら岩崎家の働きかけがなかったとしても、この問題について彼は岩崎家と密接に連絡をとりあっており、鉄道国有法案反対が岩崎家の利益と矛盾しない行動であった事はたしかで、「かれは朝鮮の鉄道を強制買収することには異論をとなえずに賛成していたのだから、その主張には矛盾があったばかりでなく、財閥の利益を擁護しようとする意図はみえすいていた。」(信夫清三郎「明治政治史」弘文堂)という見解も説得力があります。
 加藤外相が鉄道国有法に反対した理由としては、上記軍部(山県有朋・桂太郎ら)の圧力に対する反感もあったと考えられます。

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む12

桂太郎・小村寿太郎と加藤高明の関係は以前から交流がなかったのですが、1908(明治41)年第1次西園寺公望内閣が赤旗事件(「日本の労働運動」を読む44参照)で総辞職、同年7月14日第2次桂太郎内閣が成立、同年8月27日小村寿太郎が駐英大使から外相に就任すると、加藤高明は外相から駐英大使引き受けの要請を受けました。

マネー辞典―分野別辞典―政府―大使館   

7月上旬桂太郎からの招電に接した小村寿太郎は自分の後任に経済の理解がある加藤高明を推薦しました。桂は加藤とはほとんど面識がなかったので、伊藤博文・松方正義(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む6参照)に根回しを依頼、加藤は事前に岩崎久弥と相談の上小村外相と会見、同年9月12日彼の駐英大使親任式がおこなわれました。同年12月17日加藤大使は夫人と娘を同伴して新橋駅を出発、下関から平野丸に乗船、翌年2月11日ロンドンに着任しました。
1894(明治27)年7月16日調印された日英通商航海条約(「大山巌」を読む34参照)は領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部撤廃を規定しており、1899(明治32)年7月17日から実施となりましたが、同条約第21条において本条約は実施の日より11箇年経過後両締約国が本条約終了の意思を他方に通知すれば、1箇年経過後本条約は消滅する旨の規定がありました。加藤駐英大使の第一の任務はこの日英通商航海条約の改定交渉にあり、1911(44)年4月3日新しい日英通商航海条約(外務省編「日本外交文書」第44巻第1冊 巌南堂書店)が調印され日本は関税自主権の回復に成功しました。
加藤大使の第二の任務は第3回日英同盟協約(「坂の上の雲」を読む12・45参照)改定交渉でした。これは日露戦争後日米関係の悪化にともない、日英同盟廃止の世論が高まるイギリスが要求したもので、本協約第4条「両締約国ノ一方カ第三国ト総括的仲裁裁判条約ヲ締結シタル場合ニハ本協約ハ該仲裁裁判条約ノ有効ニ存続スル限右第三国ト交戦スルノ義務ヲ前記締約国ニ負ハシムルコトナカルヘシ」の規定が重要です。条文の意味が判りにくいと思いますが、要するに英国が米国と総括的仲裁裁判条約を締結したとき、日本と米国が戦争しても、英国は米国と戦争する義務はないという意味です。また本協約第6条で有効期限は10年とされました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。
 同年8月加藤高明は勲功により男爵、旭日大綬章を授けられました。
 同年8月25日桂太郎首相は政綱実行の一段落を期として辞表を提出、後任首相に西園寺公望を推薦(徳富蘇峰編「公爵桂太郎伝」坤巻 原書房)、8月30日第2次西園寺公望内閣(外相内田康哉)が成立しました。
 1912(明治45)年7月30日天皇逝去の公電が加藤大使に発せられたのはロンドン時間の7月29日午後9時ころで、ただちに皇太子嘉仁親王践祚、大正と改元、8月27日追号を明治天皇と決定しました(「官報」)。
同年8月13日大正天皇は元老ならびに西園寺公望首相に先帝の遺業を継ぐに当たっての勅語を下し、内大臣兼侍従長に桂太郎を任命しました(「官報」)。

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む13

 1911(明治44)年9月加藤高明駐英大使は賜暇を得て10月東京に帰着したのですが、翌年山本権兵衛(「坂の上の雲」を読む16参照)海軍大将の仲介で彼が桂太郎と会談したのはロンドンへ帰任する約2週間前の4月上旬でした。
 このとき軍人の政治を嫌悪していた加藤は桂から希望により近く後備役(現役・予備役を終了したものが服務する兵役)に編入されること、及び政党についての考え方などを聴き、桂の軍人らしくない一面を見、桂は山本権兵衛が加藤を外交第一人者として推挙する通りの識見をもった人物として評価したようです。
 1912(大正1)年11月10日西園寺公望首相は師団増設問題で元老山県有朋と会見、意見一致せず、同月22日上原勇作(「坂の上の雲」を読む33参照)陸相は朝鮮に2個師団増設案を閣議に提出しましたが、同月30日の閣議は上記増設案を財政上不可能として否決したため、上原陸相は12月2日帷幄(いあく)上奏(閣議を経ず直接天皇に上奏)により天皇に単独辞表を提出、陸軍は後任陸相を送らなかったので、同月5日第2次西園寺公望内閣は総辞職(原奎一郎編「原敬日記」3 福村出版株式会社)、12月17日桂太郎に組閣の大命が降下すると、彼はロンドンの加藤高明に外相就任を要請、その承諾を得ました。同年12月21日第3次桂太郎内閣が成立(徳富蘇峰編「前掲書」)、同年12月24日第30通常議会が招集されました。しかし早くも翌1913(大正2)年1月17日政友会8団体の交渉委員は同会本部で協議の結果、西園寺総裁に、我党は現内閣に反対の意思を表明す、其手段方法及び時機に就ては最高幹部に一任すと決議しました。これに対して桂は新党組織を計画、1月21日議会に15日間の停会命令がだされ、この間に桂首相は何とか危機をのりきろうとしていたのです。ところが1月24日憲政擁護第2回連合大会が東京新富座で開催され、聴衆は場内満員に及ぶ盛会となりました(新聞集成「大正編年史」大正昭和新聞研究会)。

坂の上の雲マニアックスーContents Navi―人物用語辞典―いー帷幄上奏

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む14

 1913(大正2)年1月28日夜加藤高明は東京に帰着、翌同月29日桂太郎首相と会談、入閣条件として対支策・対満蒙外交に関して、陸軍側が外務当局の意思を無視し、又は独断にて計画を進めることは、日露戦争以来、現実の弊であった。自分が外相となって責任を取る場合には、外交は外務大臣の意見に従って統一節制あるものにしたいとの要求を出し、桂首相はこれを受け入れました。
 同年2月5日数万の民衆が議事堂を包囲する中で議会は再開され、立憲政友会・立憲国民党両党は桂内閣不信任案を提出、政友会の尾崎行雄(「大山巌」を読む47参照)が「彼等は常に口を開けば直に忠愛を唱ヘ、恰(あたか)も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へて居りまするが、其為すところを見れば、常に玉座(天皇の座席)の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執って居るのである。(拍手起る)彼等は玉座を以て胸壁となし詔勅を以て弾丸に代ヘて政敵を倒さんとするものではないか。」(「大日本帝国議会誌」第8巻 大日本帝国議会誌刊行会)と叫んで桂首相を指さすと、桂太郎の顔はさっと青ざめたそうです(尾崎行雄「咢堂回顧録」下 雄鶏社)。
 5日間の停会命令が下されましたが、議事堂周辺には護憲派民衆の示威行進が行われていました。
同年2月7日桂首相は新党を立憲同志会と命名、宣言書を発表しました(新聞集成「大正編年史」)。

History of Modern Japan―日本近現代史研究―政党議会に関するデータベースー2.政党に関するデータベースー戦前期:衆議院院内会派ー立憲同志会

加藤外相の建策により、2月8日首相官邸において桂首相は立憲政友会総裁西園寺公望と会見、内閣不信任案の撤回を要望しましたが、翌日西園寺は加藤高明を介してこれを拒絶したので、大正天皇は西園寺に衆議院の紛糾を解決せよとのご沙汰を下しました。2月10日西園寺は政友会総裁辞任を上奏したのですが、政友会議員総会は不信任案を撤回しないと決議しました。
 同日再開された議会周辺を護憲派の民衆が包囲する情勢の下で、桂首相は衆議院議長大岡育造の勧告により内閣総辞職を決意、3日間の停会命令が出されましたが、民衆の中には政府系新聞社や警察を襲撃するものが出、軍隊が出動する騒ぎに発展しました(第1次護憲運動)。

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む15

1913(大正2)年2月11日第3次桂太郎内閣は総辞職、元老会議は後継首相に山本権兵衛を推薦、翌日山本権兵衛(「坂の上の雲」を読む16参照)に組閣命令が出されました。同年2月13日山本権兵衛よりの加藤高明留任要請を謝絶、2月20日山本権兵衛内閣(首・外・陸・海を除く全閣僚は政友会出身)が発足しました。
 桂太郎は立憲同志会に加藤高明を引き入れたいと熱望していたので、かれは同年4月同志会に入党、同年4月25日より中国視察旅行に出かけ、6月7日東京に帰着、この間北京到着後袁世凱、上海では孫文らと会見しました。
 1911年清朝は外国資本を導入して鉄道の国有化をはかりましたが、強力な反対運動が起こって同年10月10日武昌が革命軍に占領されるとまたたく間に中国の大半が革命軍の手に落ちました(辛亥革命)。1912年1月1日革命軍は南京において中華民国成立を宣言、孫文が迎えられて臨時大総統に就任しましたが、2月12日清朝の宣統帝は退位、軍閥袁世凱に臨時共和政府組織の全権を与え、ここに清朝は滅亡しました。袁世凱は南京の革命政府と協定して大総統の地位を引き継ぎ、北京政府を樹立、革命を弾圧したので、孫文は1913年第二革命を起こしたが失敗、日本に一時亡命しました(尾形勇・岸本美緒編「中国史」世界各国史3 山川出版社)。

孫文・梅屋庄吉と長崎ー歴史年表ー1900年〜1915年

1913(大正2)年加藤高明は7月15日同志会5常務の筆頭となりましたが、同年10月8日桂太郎は彼をを枕頭に招いて立憲同志会と憲政のために尽力を依頼、同月10日死去しました(徳富猪一郎編「前掲書」)。よって同年12月23日立憲同志会は結党式を挙行、総理に加藤高明が就任しました(新聞集成「大正編年史」)。
 山本権兵衛内閣は同年6月13日陸・海軍省官制改正を公布、軍部大臣の現役武官制を撤廃し、軍部の横暴を非難する世論に配慮を示しました(「官報」)。
 しかし1914(大正3)年1月23日各新聞はベルリン裁判所におけるシーメンス社勤務リヒテルの裁判で、同社より日本海軍高官に贈賄した証拠が出たと報道、立憲同志会の島田三郎は衆議院予算委員会でシーメンス事件に付き政府を攻撃、3月24日山本権兵衛内閣は総辞職しました(新聞集成「大正編年史」)。

聚史苑―歴史年表―大正年表―大正年表1:1912〜1915年―1914(大正3)年1月22日ーシーメンス事件     

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む16

 元老会議は徳川家達(貴族院議長)らに組閣を要請しましたが辞退され、ついに井上馨が大隈重信(「田中正造の生涯」を読む12参照)を後継首相に推薦説得、しかしすでに十数年も政治の実際から離れていた老齢の大隈重信は加藤高明を訪問、大命(天皇の組閣命令)を拝受すべきか否かについて彼の意見を聞きました。出来る限りお助けするから、今後のことは少しも御心配には及ばぬとの彼の激励をうけて大隈重信も政権を担う決意を固めました。かくして1914(大正3)年4月16日第2次大隈重信内閣が成立、副総理格として加藤高明(立憲同志会総理)が外相として入閣しました。
 1898(明治31)年以来外務省が外交機密往復文書の写しを悉く元老の手許に送付する慣例がありましたが、加藤外相はこれを廃止、必要ある場合外務当局に精説させることにしました。これが元老とくに山県有朋の反感を買うに至った理由の一つです。
 1914(大正3)年6月28日オーストリア皇太子がオーストリア国籍のセルビア人に暗殺されるサラエボ事件をきっかけに7月28日オーストリアはセルビアに宣戦布告、第1次世界大戦がはじまりました。

第1次大戦―サラエボ事件―直前外交        

 同年8月4日英国はドイツに宣戦布告、8月7日同国はドイツ武装商船撃破のため、日本の対ドイツ戦参加を希望してきました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。同日午後10時から早稲田の大隈首相私邸で開かれた閣議で加藤外相は「日本は今日同盟条約の義務に依って参戦せねばならぬ立場には居ない。(中略)ただ、一は、英国からの依頼に基く同盟の情誼と、一は、帝国が此機会に独逸の根拠地を東洋から一掃して、国際上に一段と地位を高めるの利益と、この二点から参戦を断行するのが機誼の良策と信ずる。(下略)」と述べ、閣議が対独参戦を決定して散会したのは8日午前2時でした。
 8月9日加藤外相は英大使に東アジアのドイツ勢力一掃のため参戦と説明したことに対して英国は日本が第1次世界大戦を利用して中国侵略を推進しようとする動きを警戒、日本の軍事行動開始見合わせを希望しましたが、同月12日英国は戦地極限を条件として日本の参戦に同意しました。
 同年8月15日日本政府はドイツに膠州湾租借地(山東省・「大山巌」を読む44参照)の交付を要求する8月23日の期限付最後通牒(自国の最後的要求を相手国に提出して、それが容れられなければ、自由行動をとるべき旨を述べた外交文書)を発し、無回答であったので、同日ドイツに宣戦布告しました(外務省編「前掲書」)。9月2日日本軍は山東省に上陸開始、10月14日までに日本海軍は赤道以北のドイツ領南洋諸島を、11月7日日本軍は青島を占領しました(「大正編年史」)。

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む17

 前年12月3日付加藤外相の訓令にもとづき、1915(大正4)年1月18日日置益駐華公使は中華民国大総統袁世凱に5号21カ条の要求を提出し秘密交渉とするよう求めましたが、それは旅順・大連の租借期限延長・山東省ドイツ利権(山東利権)の譲渡をはじめとする膨大な利権を要求するものでした(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

横浜 金沢 みてあるきー付録―ファミリー版 日本史ミニ事典―コラムー対華二十一ケ条要求  

 同年1月22日から2月8日にかけて日本政府は上記対中国要求を第5号(「中央政府ニ政治財政及ビ軍事顧問トシテ有力ナル日本人ヲ傭聘セシムルコト」など7カ条)を除いて英・仏・露・米に通告、ところが中国は第5号の存在を在中新聞特派員に漏らしたので、2月20日米大使から第5号について問い合わせがあり、日本政府は第5号が希望条項であると説明、2月27日までに英・仏・露・米に第5号を内告せざるを得ませんでした。この点について、第36議会では加藤外交の失敗として厳しい追及を受けています。
 5月4日閣議は元老の意見や英外相グレーの通告をを考慮、21カ条要求から第5号を削除、同月6日午前会議で最後通牒案を決定、5月7日日置公使は最後通牒を中国外交総長陸徴祥に交付、同月9日中国は日本要求を総て承認、同月25日21カ条要求に基づく山東省に関する条約・南満州・東部内蒙古に関する条約などの日中条約並びに交換公文に調印しました。
 同年11月22日英・仏・露3国大使は中国の独・墺との国交断絶勧誘に関し、日本が支持するよう要請する覚書を提示しましたが、12月6日日本政府は中国の対独・墺国交断絶に反対なる旨英・仏・露に回答しました(外務省編「前掲書」)。その理由はドイツ山東利権継承をのぞむ日本にとって、ドイツへの戦勝国として中国が講和会議に参加した場合、日本のドイツ山東利権継承に反対するおそれがあったからです。

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む18

 懸案の2個師団増設問題について、1914(大正3)年12月25日衆議院は軍艦建造費を可決しましたが、2個師団増設案を否決したため、衆議院は解散されました。1915(大正4)年3月25日第12回総選挙が実施され、与党立憲同志会は解散時の議席95から151議席に躍進して第一党となり、野党立憲政友会(1914.6.18総裁 原敬「立憲政友会史」4)は解散時の議席185から104議席に減少(衆議院総議席381)し、与党が大勝(衆議院・参議院編「議会制度七十年史」政党会派編)、同年5月17日第36特別議会が招集されました(衆議院・参議院編「前掲書」帝国議会史編)。
 ところが政友会所属議員板倉中・白川友一は大浦兼武内相に、第35議会で2個師団増設案を通過させるため、買収されたとの容疑で拘引され、7月29日大浦内相は辞表を、翌日大隈首相以下も辞表を提出しました。
 しかるに元老会議を主導した山県有朋は桂太郎なき後の長州陸軍閥の後輩寺内正毅に組閣させたい意向でしたが、まだその準備が整わず大隈首相に留任を勧告、8月10日大隈重信内閣は外相加藤高明・蔵相若槻礼次郎・海相八代六郎が辞任、内閣改造で留任することになりました(「大正編年史」)。

近代日本人の肖像―人名50音順―た・とー寺内正毅

 1916(大正5)年3月26日大隈首相は元老山県有朋を訪問、立憲同志会総理加藤高明を後継首相に推薦しましたが、4月上旬山県有朋は挙国一致の必要を理由に政党首領の組閣に反対と返書しました(徳富蘇峰編「公爵山県有朋伝」下 原書房)。
 同年7月14日加藤高明は日独戦争以来の功績により子爵を授けられ、旭日桐花大綬章と3500円を下賜されました。
 同年10月4日大隈首相は加藤高明を後継内閣首班に推薦して辞表を提出、元老会議は後継首班に寺内正毅を推薦、寺内正毅に組閣命令が下され、10月9日寺内正毅内閣が成立しました(「大正編年史」)。

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む19

 1916(大正5)年10月7日加藤高明立憲同志会総理は寺内正毅に後藤新平ら(同志会脱党)が入閣すれば寺内内閣に反対と申し入れ(鶴見祐輔「後藤新平」第3巻 勁草書房)ましたが、同月9日寺内新内閣に内相として後藤新平が入閣しました(「大正編年史」)。
 同年10月10日立憲同志会・中正会・公友倶楽部は合同して憲政会(総裁 加藤高明)を結成、衆議院の過半数を握るに至ったのです(「大正編年史」)。

横浜 金沢 みてあるきー付録―ファミリー版 日本史ミニ事典―図表ー政党の変遷―憲政会

 1917(大正6)年1月25日衆議院に憲政会・国民党共同提出の内閣不信任案が上程されましたが、提案理由説明の演説で国民党の犬養毅は憲政会を批判、衆議院は解散されました(「大日本帝国議会誌」・「大正編年史」)。同年4月20日第13回総選挙の結果、立憲政友会が大勝、憲政会は敗北しました(衆議院・参議院編「議会制度七十年史」政党会派編)。

近代日本人の肖像―人名50音順―あ・おー犬養毅

 同年6月2日寺内正毅首相は原敬(立憲政友会)・加藤高明(憲政会)・犬養毅(立憲国民党)3党首に挙国一致の外交を行うための臨時外交調査会委員就任を懇請、原敬・犬養毅は受諾しましたが、6月4日加藤高明は拒絶しました(「大正編年史」)。このころ第1次世界大戦をめぐる国際情勢は大きく局面を転換しつつあったのです。
 イギリス海軍の海上封鎖に苦しんだドイツが1917年1月9日無制限潜水艦作戦を決定すると、同年1月11日英国は輸送船団護衛のため日本軍艦の地中海派遣を要請、同年2月初旬日本軍艦は地中海へむけて出発しました。
 同年2月3日アメリカは対独断交(同年4月6日対独宣戦布告)、米駐中国公使は北京の段祺瑞政権に対し対独参戦を要請、1月20日寺内内閣は北京の段祺瑞政権に借款を供与(西原借款のはじめ)するとともに2月9日閣議で中国の参戦に関する米国の勧誘を支持すると決定、同月12日独・墺との国交断絶を中国に勧告しました(中国同年3.14対独国交断絶、同年8.14宣戦布告)。これに対して孫文は同年9月10日大元帥に就任、広東軍政府樹立を宣言、同年9月13日対独宣戦を公布したのです。
 同年1月27日外相本野一郎はグリーン駐日英大使と会談、講和会議の際山東ドイツ利権竝赤道以北のドイツ領諸島の処分に関し日本の提出する要求を英国政府が支持する旨の保障を得たいとの希望を開陳しました。これに対して同年2月13日英外相は駐英大使珍田捨巳に講和会議で山東省のドイツ利権ならびに赤道以北のドイツ領諸島に関する日本の要求を支持と回答、日本がそれまで反対してきた中国の対独参戦に同意することを条件に3月1日フランス、3月5日ロシア、3月23日イタリアも英と同内容の支持を回答しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。
 同年6月13日日本政府は米国差遣特命全権大使に石井菊次郎を任命、同大使は7月28日横浜を出発、11月2日同大使は米国務長官ランシングと中国に関する交換公文において、米国は日本が領土の近接する中国において特殊利益を有することを認め、同時に両国は中国の独立・門戸開放・機会均等の尊重を約束(石井・ランシング協定)しましたが、中国をめぐって対立する日米が共通の敵ドイツを屈服させるまで、一時妥協せざるを得なかったということでしょう。
 1918年1月8日米大統領ウイルソンは戦争終結の条件として14ヶ条の提案を発表しました(外務省編「前掲書」)。

第1次大戦―パリ講和会議―ウイルソンー14ヶ条の提案   

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む20

 1917年3月12日ペトログラードに労働者・兵士ソビエト(評議会)組織が成立、同月15日リヴォフ公首班の臨時政府が成立、ニコライ2世は退位してロマノフ王朝が滅亡しました(ロシア2月革命)。同年5月1日ロシア臨時政府は連合国に最後の勝利まで戦争継続と声明、7月21日ケレンスキー(ペトログラードソビエト議長・社会革命党)内閣が成立しました。
 しかるに同年11月7日ペトログラードでレーニンの指導するボルシェヴィーキ(ロシア社会民主労働党多数派)は武装蜂起してケレンスキー政権を打倒、全露ソビエト政権を樹立してレーニンは議長に就任(10月革命)、第2回全露ソビエト大会は交戦国の政府と国民に即時無併合無償金の講和締結を提唱するレーニンの「平和に関する布告」を採択しました。しかしこの提唱は受け入れられず、1918年3月3日ソビエト政権は独・墺とブレスト・リトウスク条約を締結して単独講和にふみきりました。
 このころロシア国内にはオーストリアからの独立を希望するチェコスロバキア軍がいたのですが、ソビエト政権が独・墺と講和したため、英米側に移動しようとするチェコ軍救出を名目に連合国はシベりアに出兵して革命干渉に乗り出したのです(和田春樹編「ロシア史」世界各国史22 山川出版社)。

第1次大戦―ロシア革命―ブレストリトウスク条約―シベリア出兵

 1918(大正7)年4月5日日英陸戦隊はウラジオストクに上陸を開始していましたが、同年6月21日英首相ロイド・ジョージは珍田捨巳駐英大使に日本のシベリア出兵を要請、7月8日米国はチェコ軍救援のためウラジオストクに日米共同出兵を提議してきました。
 8月2日日本政府はシベリア出兵を宣言、9月中旬までに日本軍はハバロフスクやチタを占領、ニコラエフスクにも陸戦隊が上陸しました。10月末シベリアの日本軍は北満派遣も含めて72000に達し、同年11月16日アメリカは日本の兵力増派に抗議してきました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。ところが前年の夏ころから米価の暴騰が激しくなり、8月3日富山県中新川郡西水橋町に米騒動が起こったのをきっかけに、騒動は全国に波及しました(井上清・渡部徹編「米騒動の研究」有斐閣)。

日本歴史巡りー大正―米騒動    

 同年9月21日寺内正毅首相は辞表提出、9月27日立憲政友会総裁原敬に組閣命令が出されました(「大正編年史」)。
 米騒動は明治時代において弾圧された労働運動や普選運動をはじめとする社会運動(「日本の労働運動」を読む46〜50参照)が再び活発化するきっかけとなりました。
 米騒動がようやく沈静化した直後の1918(大正7)年10月6日富山県滑川(なめりかわ)で普通選挙期成同盟会が結成され(斎藤弥一郎「富山県社会運動史」富山県社会運動史刊行会 松尾尊~「政党政治の発展」岩波講座 日本歴史 現代2引用)、これが新聞を通じて全国に報道されると、新しい普選運動を呼び起こす役割を果たしたのです。
2012-11-11 06:46 | 記事へ | コメント(0) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇37「加藤高明」) |
寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む1〜10
2012年11月01日(木)
寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む1

 寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」(講談社)は第24代首相加藤高明の生涯を述べた伝記小説として1994(平成6)年出版された作品です。
 この小説第一章は加藤高明の生まれ故郷の描写から始まります。彼は1860(安政7・万延1)年正月3日尾張藩(徳川御三家の一つ)下級武士服部重文(しげあや)の二男總吉(ふさきち 母 久子)として尾張国海東郡佐屋(愛知県愛西市)代官所の手代屋敷に生まれました。彼の祖父服部作助以来服部家は佐屋代官所手代を務め、武士としての地位は低かったようですが、役得が藩手当を上回り、経済的には豊かでした。

お城のとびらー愛知県―尾張北西部の城―佐屋代官所

 1864(元治1)年12月父の鵜多須(愛西市)代官手代転任により同地に移転、1867(慶応3)年秋祖父母(作助・加奈子)が代官手代職を嗣子重文に譲って名古屋に移転するとき、祖父母の懇望と本人の希望で總吉は名古屋に転住、寺子屋前田修観堂に就学して「十八史略」の素読を学ぶに至りました。
 明治新政府は信州の伊那・筑摩両郡の旧幕領取締りを尾張藩に命じ、1868(明治1)年閏4月伊那県を設置しましたが、役人には依然として尾張藩士を多く任用しました(「長野県史」近代史料編 第1巻 長野県史刊行会)。同年末服部重文も伊那県出仕を命ぜられ、翌年3月妻子を連れて就任、まもなく塩尻勤務となり、總吉も塩尻に移ったとき、1870(明治3)年正月4日の出産時に母久子が死去しました。
 父重文は久子死後佐屋に帰って旧職に復帰(代官所は邑宰方、手代は属吏と改称)、亡妻の妹鐐子と再婚、名古屋で祖父母と同居するようになり、總吉も同年3月名古屋でかつての藩校明倫堂に入学しましたが翌年7月明倫堂は廃校となってしまいました。

さのすけの史跡めぐり日記―2012−03−26:歴史その他―尾張藩の藩校・明倫堂

 1872(明治5)年8月服部總吉は加藤家の養子として加藤姓を名乗ることになりました。總吉の祖父作助の妻加奈子は羽田野左次郎の三女で、加奈子の姉(左次郎の長女)あい子が加藤家の久兵衛(二代)に嫁いでいました。加藤家の武五郎(三代)の子鐘子は幼歿、武兵衛(四代)が同年6月に死去、總吉が後継者に選ばれたのです(伊藤正徳編「伝記・加藤高明」伝記叢書175 大空社 以下とくに記述しない限り、加藤高明個人の記事は同書による)。
 1872(明治5)年12月加藤總吉は名古屋洋学校に入学しました。この洋学校は1870(明治3)年6月の創立ですが、總吉はその教育内容に満足せず、1873(明治6)年12月叔父安井譲(司法省権大録)の薦めもあり上京、叔父宅に寄宿して翌年4月東京外国語学校(のちに英語学校、さらに大学予備門と改称)に入学、同級生に末松謙澄(「伊藤博文と安重根」を読む18参照)がいました。1874(明治7)年安井叔父は總吉に改名をすすめ、「中庸」第二十六章から「高明」の2字を選んでくれ、以後加藤高明となのることになったのです。

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む2

 1875(明治8)年7月加藤高明は東京英語学校を卒業、愛宕下の叔父宅から神田錦町の共立学舎(旧旗本の古屋敷で学生の寄宿舎兼受験予備校)に転居、同年9月東京開成学校に入学して寄宿舎に入りました。1877(明治10)年4月開成学校は法・理・文・医の四学部で構成される東京大学の一部となり、高明は同大学法学部の1年級に編入されました。

東京都の城―その他東京都の史跡―東京大学発祥の地

 法学部では鳩山和夫教授が原書でイギリスの契約法を講義した外はほとんど英人教授が英法の諸講義を担当、教室で日本語が通用しないことは開成学校と同様でした。
 1881(明治14)年7月高明は東京大学法学部を首席で卒業、法学士の学位を授与されました。彼は当時の東大卒業生がめざした薩長藩閥万能の官界における立身出世の風潮に見切りをつけ、岩崎弥太郎(「龍馬がゆく」を読む16参照)の経営する郵便汽船三菱会社に入社しました。同社社長岩崎弥太郎は有望の大学生を自宅に招いて晩餐会を催すことが度々あり、高明が知人を介して入社の希望を岩崎社長に伝えると岩崎弥太郎は喜んで加藤高明を平社員最高給50円で本社調役として採用しました。その仕事は主として買収した太平洋汽船会社の航海諸規則の翻訳だったのです。
 同年10月から翌年にかけ神戸支社・小樽・大阪出張所勤務を経て、1882(明治15)年12月本社に呼び戻され、翌年4月高明は洋行を命ぜられて岩崎社長の私費負担で横浜を出港、6月ロンドンに到着し、岩崎弥太郎の紹介状をもってリヴァプールの親日派豪商(羊毛問屋)ボースを訪問、当地に下宿してボースの事務所に通い、英国の商売の実情ならびに英国紳士の人格や慣行にいたるまで貴重な経験を学びとりました。
 1884(明治17)年2月彼はロンドンに移り実地の各所見学や新聞・雑誌の閲読ならびに各種講演の聴講に過ごし、時には議会(「米欧回覧実記」を読む9参照)を傍聴してグラッドストーン首相の演説に耳を傾けることもありました。
 当時ロンドン在住の日本人は少数で、彼らはよくチャーリングクロスのカレドニアンホテル等で会合を持って談笑したものですが、加藤高明の生涯に大きな影響を与えたのは陸奥宗光(「大山巌」を読む34参照)との出会いでした。陸奥宗光は紀州藩(徳川御三家の一つ)出身で1877(明治10)年の西南戦争に際し、政府転覆の陰謀に加担して投獄されましたが、赦免されて伊藤博文の勧めもあり、英国に外遊中でした。彼は獄中英語も勉強しましたが、英国では彼の英語は通じず、英国政治家などと会見の際には加藤高明が通訳をつとめるようになりました。こうした陸奥との交流を通じて彼は陸奥の政治論を傾聴し、敬意を払うようになったのです。

旅々列車たびーヨーロッパーイングランド南部―チャーリングクロス駅

 しかし1885(明治18)年2月7日岩崎弥太郎は死去(新聞集成「明治編年史」第6巻 財政経済学会)、その訃報電報につづいて帰社命令が届き。加藤高明は同年6月末三菱本社に出勤しました。

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む3

 1885(明治18)年8月18日加藤高明は三菱本社副支配人に昇格、月給100円を支給されました。当時三菱と共同運輸との競争が激化、同年7月末両社の合同の合意成立、同年10月1日日本郵船会社が発足し、高明は本社庶務課の副支配人を命ぜられ、その仕事はほとんどが外国人との接触でした。それは当時日本郵船の幹部の一部・船員および主要技術者はすべて外人で、その部門に関する通達は英語で行われ、日本人にはとくに英文を付記することになっていたからです。

日本郵船―IR情報―個人投資家の皆さまへー日本郵船の歴史

 加藤高明に縁談が持ち込まれました。岩崎弥太郎が加藤高明の才幹を高く評価していたことは既述の通りですが、岩崎弥太郎が生前高明を岩崎家の婿にしたいとの意思表示も遺言もなかったようです。しかし1886(明治19)年春岩崎弥太郎の一周忌明けに際して弥太郎長女春治の婿定めが重要話題としてとりあげられたとき、岩崎弥之助(弥太郎弟)はためらうことなく加藤高明を指名、弥太郎母美輪子もこれを支持したようで、岩崎家は加藤高明の身辺調査の上、人を介してこの縁談を加藤高明に伝えたのです。彼は岩崎家の申し出にしばしの猶予を希望、一説には陸奥宗光に相談したともいわれますが、決断は自身で下し、同年4月8日神田駿河台の加藤高明自宅で結婚式を挙行しました。以後「三菱の婿」という世評が一生彼につきまといました。

三菱グループー三菱グループについてー三菱人物伝―三菱の人ゆかりの人―vol.14 加藤高明  

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む4

 1886(明治19)年2月陸奥宗光は帰国すると、同年10月外務省に出仕、井上馨外相の懐刀と呼ばれていました。彼は英国外遊中に知り合った加藤高明の外務省入省を強く働きかけたであろうと思われます。
 1887(明治20)年1月加藤高明は公使館書記官兼外務省参事官に任命され、奏任官三等下級俸(月給約120円)を給与され、総務局政務課勤務となり、翌年2月大隈重信が外相に就任すると、外相秘書官兼政務課長に抜擢されました。しかし大審院の外人判事任用問題で条約改正問題が紛糾、1889(明治22)年10月大隈外相遭難(「大山巌」を読む28参照)で辞職するに至り、黒田清隆内閣は総辞職、しばらく内大臣三条実美が臨時首相をつとめました。このころ加藤高明の父服部重文が死去しています。

近代日本人の肖像―人名50音順―か・こー加藤高明

 同年12月山県有朋内閣が成立、青木周蔵外相が慰留したにもかかわらず、加藤高明は翌年2月5日外務省を去り、1890(明治23)年9月大蔵省(蔵相松方正義)参事官に任命されましたが、その人事をめぐる経緯は不詳です。
 同年は帝国議会が開かれた年にあたり、第一から第六議会までは加藤高明の大蔵省在任期間に相当する時期に当たりました。歴代内閣は政府予算をめぐって衆議院としばしば対立(「大山巌」を読む29〜32参照)したため、大蔵省は議会ごとに帝国議会交渉事務取調委員会を組織、議会に提出する法律と予算の一切に関して、この委員会で討議しました。加藤高明は同上委員を命ぜられ、同委員会の論客として活躍しました。1892(明治25)年8月主税局長となり、第五・六議会においては政府委員として代議士の質問にたいする答弁を担当しています。
 1892(明治25)年8月8日第2次伊藤博文内閣が成立、陸奥宗光が外務大臣に就任しました。1894(明治27)年7月25日豊島沖の海戦により日清戦争が勃発すると、同月28日加藤高明は再び外務省に復帰、特命全権公使兼政務局長に任命されました。陸奥宗光外相の下に林董(「伊藤博文と安重根」を読む8参照)次官・加藤高明政務局長・原敬(「田中正造の生涯」を読む28参照)通商局長らが外相を補佐したのです。
 同年11月23日彼は駐英公使に任命され、1895(明治28)年1月23日ロンドンに着任しました。
  同年4月17日日清講和条約(「大山巌」を読む39参照)調印、日本は清国から遼東半島・台湾・澎湖諸島を割譲され、償金として庫平銀2億両(テール 中国で生まれた質量の単位)の支払いを受けるなどの権利を獲得するに至りましたが、同年4月独・露・仏3国公使はそれぞれ外務次官林董(陸奥外相は病臥)に遼東半島の清国への返還を勧告する覚書を提出(三国干渉)しました。本国政府の訓令により翌日加藤高明駐英公使はキンバレー英外相と長時間会談し、英国の後援を懇請しました。これに対して4月29日英外相は三国干渉に関し日本に助力できない旨、加藤駐英公使に通告、同年5月4日閣議は遼東半島の全面放棄を決定、翌日上記3国公使に通告しました。また同年11月8日奉天(遼東)半島還付条約・付属議定書調印、日本は遼東半島還付報償金として庫平銀3千万両(テール)の支払いを受けることとなりました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

コインの散歩道―東洋〜中世・近世・近代―近代中国の貨幣

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む5

1895(明治28)年7月6日清国の対日賠償金調達のため、露仏借款4億フランが成立、10月31日日本は清国より講和条約第4条にもとづき、軍事賠償金2億両の第1回払込分5000万両に相当する英貨822万余ポンドをロンドンで受領、同年11月16日清国より遼東半島還付報償金3000万両に相当する英貨493万余ポンドをロンドンで受領しました(「明治財政史」第2巻 丸善株式会社)。これに対して1896(明治29)年3月23日英独対清第1次借款(対日賠償金)1600万ポンドが成立、同年5月7日日本は清国より賠償金第2次払込英貨851万余ポンドをロンドン・ベルリンで受領しました。
 しかるに清国は償金調達に苦しみ、1898(明治31)年2月1日償金支払いの延期を要請してきました。日本政府は同年2月中旬加藤駐英公使に英国が露国と共同して清国公債の募債に応ずる意思がないのかを探れとの訓令を発しましたが、加藤公使は清国における英露対立の国際情勢の下で英露共同募債は不可能であることを説き、ソールスベリイ英首相が公債金は英国の大蔵省より直接支払うべきものと明言したことを報告、2月25日政府は貴下の聡明なる裁量(wise discretion)を信じて財務契約の全権を一任する(外務省編「日本外交文書」第31巻 第1冊 巌南堂書店)旨加藤公使に打電しました。同年3月1日日清戦争賠償金支払のため英独第2次対清借款1600万ポンドが成立、かくして同年5月7日日本は清国より軍事賠償金残額1192万余ポンドをロンドン・ベルリンで受領、償金は全額受領済みとなり、同月10日威海衛占領軍に引き揚げを命令しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

つかはらの日本史工房―東大・京大・阪大・一橋・筑波に関する受験情報―東大日本史の研究―解法の研究―1976―3 近代における金融制度の変遷―D

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む6

  日清戦争における日本の勝利をみて列強は清国分割(「大山巌」を読む44参照)を争っていました。1898(明治31)年3月19日西徳二郎(「大山巌」を読む49参照)外相は露駐日公使ローゼンに対し「満韓交換論」(「坂の上の雲」を読む10参照)を通告しましたが、拒絶されました。
  加藤高明駐英公使は「満韓交換論」に反対し「完全に露国を韓国から撤退せしめ、(中略)若し露国が之を拒むなら、日本は行動の自由を保留」すべきとの意見を述べて戦争の起こることを覚悟し、英国を加えての対露強硬外交を主張しました。
しかし19世紀末年ころから始まっていたオーストラリアにおける日本人労働者排斥の動きについての英国との交渉で、日本政府がアジア人排斥法案中「日本人を除外する」ことでの交渉を訓令したにもかかわらず、加藤駐英公使は「人種による区別よりも、寧ろ能力による制限を受けるほうが(中略)賢明である」と英国政府に申し出たのです。
これは対露強硬外交を主張する加藤高明が対英交渉では公使の権限をこえた軟弱外交を展開しているとしか考えられないのですが、彼自身この矛盾に気づいていたのでしょうか。

オーストラリア発見―日本との結びつきー地理・歴史―8.白豪主義政策

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む7

1898(明治31)年9月15日付願書で加藤高明駐英公使は賜暇帰朝を大隈重信外相に願い出たのですが、種々の感情的行き違いと混乱があり、加藤高明は翌年4月15日ロンドンをを出て、米国・カナダ経由で5月22日横浜に帰港、1899(明治32)年7月17日青木周蔵(「大山巌」を読む50参照)外相に駐英公使辞任を申し出たのです。
1899(明治32)年義和団(「大山巌」を読む49・50参照)が山東省に蜂起すると、翌年列強は清国に出兵、とくにロシアは1900(明治33)年7月以降満州に出兵、またたく間に満州全土を占領下におきました(「坂の上の雲」を読む10参照)。日本ではこれに対して伊藤博文らの対露協調路線と山県有朋らの日英同盟路線が対立していました。
1900(明治33)年2月23日山県有朋首相は加藤高明の駐英公使罷免を決定、このころから加藤高明が山県有朋より伊藤博文に親近感を持つ傾向が著しくなったようです。同年10月19日成立の第4次伊藤博文(立憲政友会)内閣において加藤高明(政友会非所属)は外相に就任しました。
1901(明治34)年1月7日露公使の韓国中立化提案に対して、同月23日駐露公使珍田捨巳は満州からの露軍撤退が先決と回答しました(「坂の上の雲」を読む10参照)。

Early Japanese Immigrants―1.パイオニアたちの横顔―珍田捨巳

同年3月6日ロシアは清国に協約調印を要求、3月10日イギリスは対露抗議しました。
同年3月12日加藤高明外相は伊藤博文首相にロシアの満州占領に対する方針について閣議で討議を要請する意見書(「坂の上の雲」を読む11参照)を提出しました。その方針は三案から成り、第1案はロシアが満州撤兵に応じないときは日露戦争を開始、第2案は韓国を占領または保護国化するなど同国をわが国の勢力下に置く、第3案はロシアの満州占領に対して抗議にととめ、後日臨機の措置を講じるとの内容でした。
同年3月20日加藤外相は清国公使に満州に関するロシアの期限(3.26)付要求を拒否するよう勧告、3月25日にも珍田公使より露外相に要求撤回を勧告、4月5日露政府は満州に関する対清交渉断絶を声明しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。
 しかし伊藤博文首相は同年5月2日閣内不統一のため辞表提出、6月2日第1次桂太郎内閣が成立し、9月21日外相に小村寿太郎(「坂の上の雲」を読む11参照)が任命されました。伊藤博文は日露協調の途を求めて同年9月18日欧米外遊のため横浜を出発しました(「坂の上の雲」を読む11参照)が、この交渉は失敗に終ったのです。
1902(明治35)年1月30日ロンドンで日英同盟協約調印(「坂の上の雲」を読む12参照)後、伊藤博文乗船の膠州丸が2月25日長崎港外に到着すると加藤高明は船上で伊藤に面会、さらに同船が神戸に回航して以後、伊藤の大磯邸まで付き添って日英同盟締結に至る情勢を説明、伊藤を説得しました。

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む8

1902(明治35)年第7回総選挙が近づくと、加藤高明立候補の要請が各方面から寄せられるようになりました。同年6月23日土佐政友派の片岡健吉・林有造の両氏が板垣退助(「龍馬がゆく」を読む18参照)を通じて彼の立候補を要請すると、反対派は大石正巳らを通じて彼に運動を試みるという状態で、困惑した加藤高明は同月中に口頭および書面で謝絶の意を表明したのでした。
しかるに高知県の反板垣派は彼の不承諾にもかかわらず、彼を推薦、自費で運動をはじめ、当選したら受諾を乞う旨の電報を寄こしました。
同年8月10日第7回総選挙に際して加藤高明は高知県郡部の定員5名中848票を得て4位で当選しました。かくして当選受諾を迫る地元と拒否する彼との押し問答の末、加藤高明は当選受諾の意思をかため、8月21日板垣退助を訪問してその経過を報告したところ、板垣退助の激怒を買ってしまったのです。加藤高明はその帰途原敬の許に立ち寄り板垣を宥めるための相談をもちかけ、原敬は片岡健吉に板垣説得を依頼してくれましたが、板垣の怒りは容易に解けませんでした。

近代日本人の肖像―人名50音順―あ・おー板垣退助

桂太郎内閣は対露軍備拡張のため地租増徴継続による海軍拡張計画をめざしていましたが、同年12月3日伊藤博文政友会総裁は加藤高明の斡旋で憲政本党総理大隈重信と会談(「伊藤博文伝」下 春畝公追頌会)、両党提携の機運がたかまり、12月4日政友会・憲政本党はそれぞれ大会を開いて地租増徴継続に反対、海軍拡張の財源は政費節減に依れと決議しました(「立憲政友会史」)。

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む9

1902(明治35)年12月16日衆議院において地租増徴継続(地租条例改正)法案を委員会で否決したため、同年12月28日地租条例改正案の採決寸前に衆議院は解散されました。
第8回総選挙を前にして加藤高明は高知からの立候補要請を拒否しましたが、伊藤博文より横浜選挙区からの立候補勧告をうけ、彼は大隈重信・岩崎弥之助(「凛冽の宰相 加藤高明」を読む5参照)・原敬らに相談の上、立候補を承諾しました。しかるに1903(明治36)年3月1日に実施された第8回総選挙において加藤高明の政敵島田三郎(「田中正造の生涯」を読む13参照)1106票、奥田義人430票を得て当選したのに、加藤高明は418票の得票に止まり落選してしまいました。しかし奥田義人が横浜選挙区当選を辞退したため彼は補充当選を受諾する屈辱を味わったのです。

鳥取県―組織と仕事―未来づくり推進局―広報課―広報課所管コンテンツーとっとり県政だよりー2007(平成19)年9月号―自助と共助が防災の基本!―郷土の先人豆知識―奥田義人    

同年5月19日衆議院において地租条例改正案が委員会で否決され、翌日桂首相は政友会との妥協交渉を開始、同月24日政友会議員総会は妥協案(海軍拡張費を公債で充当)を承認(「原敬日記」明治36年5月24日条 福村出版株式会社)、かくして加藤高明が尽力した伊藤と大隈の提携は崩壊したのです。
1904(明治37)年2月10日日露戦争が開始された後、同年3月1日の第9回総選挙に際して加藤高明は立候補を断念しました。

寺林 峻「凛冽の宰相 加藤高明」を読む10

 1904(明治37)年政治から遠ざかっていた加藤高明は奥田義人を通じて伊東巳代治を知り同年8月20日奥田義人が彼を訪ねて、伊東社長の東京日日新聞売却希望を伝えました。

近代日本人の肖像―人名50音順―あ・おー伊東巳代治

加藤高明は岩崎久弥(岩崎弥太郎の長男)らと協議し、同年10月11日東京日日新聞(以下東日と略)を10万円で入手したのです(1907年5月東日社長を退く)。

早稲田大学図書館―コレクション紹介―WEB展―貴重資料の紹介―東京日日新聞

 彼が東日紙社長となると、従来大隈重信を眼の敵にしていた東日が一転して大隈に対し好意的に変化したことは世間を驚かせました。
 1905(明治38)年9月5日日露講和(ポーツマス)条約(「坂の上の雲」を読む48参照)が締結され、その内容が10月16日に発表されると、翌日東日紙は加藤高明執筆の「講和条約の発表」と題する論文を掲載、特に樺太南半しか領土として獲得できなかったことや償金を得られなかった点を軟弱外交として非難しました。
 1905(明治38)年12月21日第1次桂太郎内閣は総辞職、加藤高明は西園寺公望(1903.7.14立憲政友会総裁「伊藤博文伝」)の意向をうけた原敬の訪問を受け、岩崎弥之助・久弥や木内重四郎(岩崎弥太郎の女婿)らとも相談の上入閣を受諾しました。同年12月22日西園寺公望との会談で彼は外務大臣就任を承認、翌1906(明治39)年1月7日第1次西園寺公望内閣が成立するに至りました。しかし鉄道国有問題で加藤外相は在任わずかに56日で退陣するに至ったのです。
2012-11-01 06:39 | 記事へ | コメント(0) |
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佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む11〜20
2012年07月11日(水)
佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む11

 李麟栄は1896(明治29)年の初期義兵で柳麟錫の下に参加、解散後農業に従事していましたが、原州で決起した李殷瓚・李九載らの勧誘で倡義(義を唱える)大将として1907(明治40)年8月関東(大関嶺より東の江原道)に移動、解散兵200名を含む義兵を募集し、統監と漢城駐在の各国総領事宛倡義理由書を送付しました。京畿道揚州に進んだとき、各地から一万人以上の義兵が結集、漢城に進入し統監府に迫って韓国の独立と皇室の安全をかちとり、奸臣を殺害する計画を練っていましたが、同年12月25日李麟栄の父死去の報を受け、彼は後事を許蔿に託して帰郷しました(海野福寿「韓国併合史の研究」)。
 1908(明治41)年許蔿は漢城東大門30里外に迫ったのですが、日本軍の迎撃に敗退、彼は同年6月11日憲兵隊に捕えられ(朝鮮駐箚軍司令部編「朝鮮暴徒討伐誌」 海野福寿「前掲書」引用)、10月13日絞首刑に処せられました(「李朝実録」第五十六冊 学習院東洋文化研究所)。

韓国語教室―韓国略史72−48.国の為に散って行った人々 

 「ロンドン・デイリー・メイル」特派員として漢城滞在中、日本軍がその地域全体を破壊し大規模殺人を実行しているとの情報を得たマッケンジーは1907年秋義兵闘争の盛んな忠清道に赴き、利川・提川・原州で焼き払われた村落住民たちから日本軍の強姦・住民殺害・掠奪などの暴行を聞き、焼き払われた廃墟を見ました。さらに危険を顧みず、義兵の根拠地を訪れ、義兵と接触することに成功しました。その様子を彼は次のように述べています。
 「五、六名の義兵が庭に入って来て、私の前に整列し、そして敬礼した。彼らはいずれも、十八歳から二十六歳くらいまでの青年であった。賢そうで容貌の端正な一人の青年は、いまだに韓国正規軍の古い制服を着ていた。もう一人は、一着の軍服ズボンをはいており、二人は軽いぼろぼろの朝鮮服をまとっていた。革靴を穿いている者は一人もいなかった。彼らは腰のまわりに、自家製の木綿の弾帯を巻いており、半分位弾丸が入っていた。(中略)
 私は彼らの持っている銃を見せてもらった。六人の者がそれぞれちがった五種類の武器を持っていたが、その一つとしてろくなものはなかった。一人はもっとも古い型の火縄銃として知られている昔の朝鮮の先込め銃を誇らしげに持っていた。(中略)
 しばらくすると、その日の戦闘を指揮した将校が私を訪ねて来た。(中略)私は義兵軍の組織について、いろいろ彼に尋ねてみた。(中略)彼が私に語ったところから察すると、彼らはじっさいなんら組織されていないということがあきらかであった。(中略)
 彼は、自分たちの前途が必ずしも明るいものでないことを認めた。『われわれは死ぬほかはないでしょう、結構、それでいい、日本の奴隷として生きるよりは、自由な人間として死ぬ方がよっぽどいい』。彼はそう言った。(中略)
 日本軍は至る所を焼打ちするとともに、反乱軍を手助けしたとの疑いのある者を、多数射殺している。私がこういうことを書きつけている時に、韓国人がいつもきまっておしまいに言うことは何であるかというと、一斉射撃を浴びせかけたあと、焼打ちを指揮している日本軍将校は、死体に近づいて、その剣で突き刺したり斬ったりしたということである。」(マッケンジー「朝鮮の悲劇」東洋文庫222 平凡社)
 1909(明治42)年6月14日伊藤博文は枢密院議長に転出、後任統監には副統監曾禰荒助が任命されました(「官報」)。

佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む12

 1905(明治38)年10月12日桂首相は米鉄道資本家ハリマンと南満州鉄道(長春・旅順口間の鉄道 略称 満鉄)に関する日米シンジケート(公債・社債引受けのために銀行其の他の金融機関によって組織される証券引受団体)組織(米資本提供で日本の法律にもとづく)につき予備協定覚書(「日本外交年表竝主要文書」上)を交換しましたが、同月16日帰朝の小村外相の反対でハリマンに覚書中止を通告(外務省編「小村外交史」原書房・「伊藤博文と安重根」を読む3参照)、以後満州をめぐる日米関係は次第に対立を深めるようになりました。
 1906(明治39)年3月19日英駐日大使は満州における日本官憲の通商妨害について抗議、門戸開放・機会均等の実行を申し入れ、同月26日米大使も同様抗議しました(「日本外交文書」第39巻第1冊)。
 一方日露戦争まで満州をめぐって対立抗争してきた日露両国は満州進出を企図する米国に対抗、1907(明治40)年7月30日日露協約(第1回)を締結(「日本外交年表竝主要文書」上)して相互の領土・権利の尊重、清国の領土保全、機会均等を承認、秘密協定で満州に鉄道・電信利権に関する利益分界線を設けるに至りました。
 アメリカの満州進出に対抗するため、満州で共通利益をもつ日露間で、さらに意見交換するため、1909(明治42)年10月14日伊藤は露蔵相と会見するため大磯(神奈川県大磯町)から満州へ出発しました(「日本外交文書」第42巻第1冊)。本書の記述はここから始まります。

釜山でお昼をー過去の釜山や近郊の様子―交通史―鉄道史―会社―東清鉄道―南満州鉄道

 同年10月18日彼は大連港から遼東半島に上陸、21日旅順から南満州鉄道の列車に乗り22日夕刻奉天に到着、24日中村是公満鉄総裁の案内で撫順炭坑を視察、25日夕刻長春に到着しました。同日夜寛城子駅でハルビンに向かう東清鉄道の特別夜行列車に乗り込みました(室田義文翁物語編纂委員編「室田義文翁譚」常陽明治記念会 海野福寿「伊藤博文と韓国併合」青木書店 引用)。

佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む13

 1909(明治42)年10月26日午前9時伊藤と室田義文(むろたよしあや 貴族院議員)ら随員を載せた特別列車はハルビン駅に到着しました。やがて列車最後尾の貴賓車両にココフツェフ蔵相が乗り込んできてハルビン総領事川上俊彦の通訳により、伊藤博文はココフツェフと初対面の挨拶を交わしました。
 伊藤はロシア鉄道守備隊を閲兵(軍隊を整列させて検閲すること)、各国代表団の名士たちと言葉を交わし在留日本人団から歓迎の言葉をかけられた伊藤が日本人団に数歩歩み寄ったとき、伊藤の3mほど後ろを歩いていた室田は「ピチピチという音、それから爆竹様のもの音を聞いた。そこで歓迎のためなのだなと思っていると、つづいてパン!パン!と音がした。はっとして気がついて見ると、堵列(垣根のように並ぶ)した儀仗兵(儀礼・警備のために外国高官などにつけられた兵隊)の間から、小さな男が恰度(ちょうど)大きな露兵の股の間をくぐるような恰好(かっこう)をしながらピストルを突き出している」(「室田義文翁譚」)のを見ました。伊藤はココフツェフの身体にもたれるように倒れこんだので、伊藤は列車内に運ばれました。
 『気附ノ薬ニモトテ先ヅ「ブランデー」ヲ勧メルコトトナリ第一回ニ其一杯ヲ勧メタルトコロ苦モナク飲ミ干サレマシタ丁度其際テアッタト思ヒマスガ通弁(通訳)ガ来テ犯人ハ韓人テアル直ニ捕縛シタリトノコトヲ告ケタルニ公爵ハ之ヲ理解シ「馬鹿ナ奴ダ」ト申サレマシタ(中略)五分間の後尚「ブランデー」一杯ヲ勧メタルニ際シ公爵ハ最早其ノ首ヲ上グルコトモ出来ナクナリ(マシ)タノデ、其儘(まま)口ニ注キ込ミ夫(そ)レヨリ一二分ノ間ニ全ク絶命セラレタル次第デアリマシタ』(明治42年12月16日室田義文の東京地裁検事局 古賀行倫検事に対する陳述 市川正明「安重根と日韓関係史」原書房)
 10月26日夜『伊藤公爵加害犯人は、韓国人安応七(安重根の通称)、平壌生まれ(黄海道海州生まれの誤り)、住所不定、年齢三一歳なる者、公爵狙撃の目的を以て、元山(咸鏡南道)よりウラジオストクを経、昨夜、当地着。停車場付近を徘徊(はいかい うろつく)しつつありし旨自白せり』という電報による捜査報告が届きました(海野福寿「前掲書」)。

安重根(アンジュングン)義士紀念館

 同日夜伊藤博文暗殺の報が日本に届くと、石川啄木(「田中正造の生涯」を読む23・24参照)は岩手日報への通信記事「百回通信」の十六〜十八を伊藤博文追悼に当てました。その十六において啄木は「偉大なる政治家偉大なる心臓――六十有九年の間、寸時の暇もなく、新日本の経営と東洋の平和の為に勇ましき鼓動を続け来りたる偉大なる心臓は、今や忽然として、異域の初雪の朝、其活動を永遠に止めたり。」と伊藤の功績を称えつつも、その十七において「其損害は意外に大なりと雛ども、吾人は韓人の愍(あはれ)むべきを知りて、未だ真に憎むべき所以(ゆゑん)を知らず。寛大にして情を解する公も亦、吾人と共に韓人の心事を悲しみしならん。」(「啄木全集」第9巻 岩波書店)と安重根への同情の念を表明していることに注目する必要があります。
 1909(明治42)年11月4日伊藤博文の国葬が行われました(「伊藤博文伝」下 春畝公追頌会)。与謝野寛(鉄幹)は歌集「相聞」に「伊藤博文卿を悼む歌。明治四十二年十一月」と前書きする数首の一つとして「伊藤をば惜しと思はば戦ひを我等のごとく皆嫌へ人」を掲載していますが、上記石川啄木と同様の所感を表明したものと思われます。大岡信氏は「彼の門下にあった石川啄木にも、これだけ率直な述志の歌はないだろう。」(大岡信「第四 折々のうた」岩波新書)と批評しています。

与謝野馨―与謝野馨を知りたいー与謝野家の人々

佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む14

 1909(明治42)年10月27日伊藤の遺骸を収めた仮棺は大連ヤマトホテルの旧館に運ばれ、その特別室で遺体に防腐剤処理が行われた際、小山善侍医らによる銃弾の摘出が行われたのではないかと推定され、室田もこれに立ち会った可能性が高いと思われます。
 同年11月20日室田は赤間関(下関)区裁判所検事田村光栄の安重根の写真提示による事情聴取に対して「此写真ニアル人物ハ…多分自分ヲ狙撃シタル人物ニ相違ナシト思フ。…公爵ヲ狙撃セシモノハ此写真ニアル狙撃者デナク他ノ者ナラント思ハレル」と伊藤狙撃犯は安重根とは別人とする陳述をしました(市川正明「前掲書」)。
 室田義文は後に伊藤博文狙撃犯人について「その時、例の小男(安重根)は既に兵隊の手で取り押さえられていたが、真実、伊藤を撃ったのは此の小男ではなかった。」(「室田義文翁譚」)と述べ、安重根伊藤狙撃犯人説を重ねて否定していることが注目されます。室田説の根拠となっているのは(イ)伊藤の被弾がフランス製騎兵銃(カービン銃)の弾丸3発で(ロ)被弾の射入角度が右上方から斜め下に向けたもので、階上から発射したものと推定の2点です。
 室田の主張はロシアとの関係悪化を心配した山本権兵衛海軍大将から口止めされたため、彼は口惜しかったのか、終生それを孫の福田綾に語ったそうです(海野福寿「伊藤博文と韓国併合」青木書店)。

谷中・桜木・上野公園―谷中墓地―碑 室田義文

佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む15

 安重根は伊藤狙撃現場でロシア側の東清鉄道警察署長心得ニキフオーホーロフらに逮捕されましたが哈爾賓(ハルビン)は清国領土で東清鉄道付属地であるとともに公開地である、日本は清国に対して自国民の治外法権(領事裁判権)を有する、しかるに日韓協約(第2次)により日本領事が在外韓国人の保護を兼務することになったのであるが、外務大臣の命令により、安重根の裁判は日本領事にかわって関東都督府[関東州(ポーツマス条約によりロシアから清国政府の承諾を得て獲得した旅順口・大連を中心とする遼東半島租借地)管轄並びに満鉄線路・付属地の保護取締まりに当たる官庁]法院で日本刑法により行われることとなりました(満州日日新聞社編「安重根事件公判速記録」復刻版 韓国併合史研究資料96 龍溪書舎)。
 ハルビンに出張した横溝孝雄検察官の尋問で安重根は伊藤殺害理由として15項目の理由を述べました。その中には孝明天皇暗殺などまとはずれと思われる項目もありますが、韓国の独立を武力による圧迫で奪ったことを批判する内容(「安応七訊問調書」明治42年10月30日 哈爾賓日本総領事館 市川正明「前掲書」)です。彼は同年11月3日関東都督府典獄(刑務所長)の監督下に置かれ旅順に連行されました。

天気清朗なれども浪高しー検索−旅順監獄―2010-03-28

 1909(明治42)年11月24日第6回尋問(市川正明「前掲書」)で安重根は横溝検察官の「其ノ方ノ言フ東洋平和ト言フノハ如何ナル意味カ」との質問に彼は3人兄弟(清・韓・日)の寓話に託して「此三家ハ兄弟デアルト言フ事ハ明カデアルカラ同心ニテ他ニ当レハ三家ヲ安全ニ維持スル事が出来ルノデ…。(中略)結局伊藤ノヤリ方ガ悪イ為メ韓国ハ今日ノ状態ニ至ッタノデ若シ奸策強制ヲ加ヘネバ無論東洋ハ至ッテ平和ニ為ッテ居ル事ト思ハレマス」と述べています。

佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む16

同年12月13日から起稿、翌年3月15日自分史「安応七歴史」(市川正明「安重根と日韓関係史」原書房)または「安重根伝記及論説」(七条清美関係文書 国立国会図書館憲政資料室所蔵 中野泰雄「安重根―日韓関係史の原像」亜紀書房 引用)を完成しました。この記録によれば、安重根は1879(高宗16)年9月2日(旧暦7月16日)黄海道海州で両班(やんばん 朝鮮の貴紳階級の家柄)に属する旧家安泰勲の長男として生まれました。安泰勲は親日派の朴泳孝と親密だった人物です。安重根は少年のころから狩猟に熱心で、短銃射撃術は抜群でありました。1894年安重根は金氏の娘(亜麗)と結婚していますが、東学党の乱(「大山巌」を読む33参照)とよばれる農民蜂起が起こると、郡守の要請により安泰勲とともに重根は乱鎮圧に参加し、まもなく日清戦争が始まると農民蜂起は鎮圧されました。ところが農民軍からの戦利品をめぐる争いで安泰勲の身辺に危険が迫り、安一家はフランス人のキリスト教(カトリック)教会に数カ月かくまわれたことがあり、これをきっかけに安一家はキリスト教の洗礼を受けました。1905年日露戦争終了後、日韓協約(第2次)が締結され、伊藤博文が初代統監として漢城に駐在する(「伊藤博文と安重根」を読む6・7参照)に至ると安泰勲は日本の韓国支配に失望、清国移住をもとめて平安道鎮南浦に引っ越す途中死去、安重根は鎮南浦で米穀や石炭の取引に従事するようになりました。。1907年日韓協約(第3次)(「伊藤博文と安重根」を読む10参照)が締結され、反日義兵闘争が高まると、安重根は鎮南浦を去って山岳ゲリラに参加しました。1908年6月彼は間島(韓国側の呼称、清国行政区では吉林省の一部)を経て李範允の大韓義軍に属して参謀中将となり、咸鏡北道へ出撃、日本軍と交戦しました。はじめはゲリラ戦を有利に展開したが、やがて日本軍に包囲されて敗退しました。

世界飛び地領土研究会―関東州―満州国の地図(1933年)

 1909年正月ポシェトのノウォキエフスク(烟秋)付近で、11人の農民・労働者・義兵の同志と「断指同盟」を結び、全員左手薬指を切り、その血で大極旗(韓国国旗)の白地に「大韓独立」と書き、韓国独立のため献身する証しとしたのです。
 1909年秋ウラジオストクにいた安重根は伊藤博文が近くハルビンを訪問する噂を聞き込み、新聞社でその情報が事実であることを確かめました。同月21日彼はウラジオストク駅からシベリア鉄道でポグラニチナヤに到着、清国側の綏芬河駅に接続して、ここでハルビン行きの列車に乗り換えたのです。安重根はハルビンの新聞で伊藤博文の日程を詳しく知ることが出来ました(中野泰雄「前掲書」)。

佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む17

 1910(明治43)年2月7日から関東都督府地方法院における安重根他3名の公判が開始され、2月12日まで5回行われました。公判で提出された小山善侍医の尋問調書では伊藤の負傷は3発とも右側から水平に射入したと述べられ、地方法院に提出された安重根の「証拠金品目録」(海野福寿「伊藤博文と韓国併合」引用)にはブラヲニング式短銃 一、発射したる弾丸 一、とあり、伊藤の遺体から摘出されたと思われる弾丸も、安重根が伊藤を撃った後に随員に向けて撃った弾丸も、田中清次郎満鉄理事に命中したと思われる弾丸一発を除いて、証拠品としては提出されていないのです。すなわち室田義文の二重狙撃説は採用されていません。
 安重根は結審の同年2月12日「私は個人的にやったのでなく義兵としてやったのであるから戦争に出て捕虜となってここに来て居るものだと信じて居りますから私の考へでは私を処分するには国際公法万国公法に依て処断せられん事を希望いたします」と抗議しましたがうけいれられませんでした。同年2月14日安重根に死刑の判決が下りました(満州日日新聞社編「安重根事件公判速記録」復刻版 韓国併合史研究資料96 龍溪書舎)。
 同年3月26日安重根の死刑が執行されました(朝鮮総督府「韓国ノ保護及併合」市川正明編「日韓外交史料」第8巻 原書房)。本書の記述はこれを以って終了しています。
 本書刊行後上垣外憲一「暗殺・伊藤博文」(ちくま新書268 平成12年刊)・大野芳「伊藤博文暗殺事件」(新潮社 平成15年刊)が発表されました。両書とも安重根単独犯行説を否定、室田二重狙撃説を前提として立論されている点に特徴があります。そうした犯行を計画したのは伊藤と対外政策において対立してきた山県有朋・桂太郎ら長州閥陸軍首脳並びに右翼勢力とする観点を史料を駆使して提供した作品として注目されます。

佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む18

 伊藤博文は韓国併合構想について、まとまった意見書を執筆したことはありませんでした。
1907(明治40)年日韓協約(第3次)締結直後の7月29日伊藤は次のように演説しています。「日本は韓国と合併するの必要はなし、合併は甚だ厄介なり。韓国は自治を要す。(中略)独逸(ドイツ)のババリヤに於けるが如く、日本は韓国に対して雅量を示すの必要あり、」(在韓新聞記者招待晩餐会における演説 春畝公追頌会代表 金子堅太郎「伊藤博文伝」下 春畝公追頌会)
 この演説で伊藤は韓国の合併に反対、ドイツにならって日本の指導下に連邦制をとれと主張しているのです。これは同年の韓国軍隊解散の詔勅発布後に予想された軍隊反乱などの韓国側の反発を考慮した伊藤の巧妙なリップサーヴィスだったとも思われます。
 伊藤の韓国併合構想を知る他の手がかりとなる伊藤直筆メモ[堀口修・西川誠監修編集「公刊明治天皇御紀編修委員会史料 末松(謙澄)子爵家所蔵文書」下 ゆまに書房]には併合後の韓国に、80人の地方選出議員による衆議院と修正機関として50人の元老選出議員による上院を設置、併合後の朝鮮総督にあたる日本人「副王」の下に韓国人による「責任内閣」をつくる構想が記述され、ドイツの連邦制についての言及は見られません。

西日本シティ銀行―サイトマップー個人のお客様―その他―地域社会貢献活動―ふるさと歴史シリーズー北九州に強くなろうーbX 末松謙澄

 しかし伊藤の死去により、彼の韓国併合(自治植民地)構想は消滅したのです。

佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む19

 1910(明治43)年3月20日山県有朋・桂太郎・寺内正毅の「三巨頭」は会談し、韓国統監曾禰荒助の解任と韓国の「合邦(直轄植民地)断行」を合意したそうです(永島広紀編集「木内重四郎伝(岩崎弥太郎の女婿 貴族院議員)」復刻版 ゆまに書房)。
 同年5月2日夜桂太郎首相と会見した西園寺公望は「秋頃合邦を断行する筈(はず)」で統監には寺内正毅陸相を「当分兼任せしむる積り」と聞かされ、「合併に不同意も唱へ難きに因り、其も宜しからん」と桂に応えたことを、原敬は西園寺から聞きました。原は「急ぐ必要なし、後(おく)るれば後るゝ程無事に合併し得べし」と西園寺に翻意を求めましたが、西園寺の意見は変わらなかったそうです(「原敬日記」第3巻 明治43年5月3日条 福村出版)。
 同年5月30日寺内正毅は陸軍大臣兼任のまま韓国統監に任命されました(「官報」)。6月3日閣議は併合後の韓国に対する施政方針を決定、その要点は(ア)統治において日本憲法は施行しない、(イ)天皇に直隷(直属)する総督が政務を統轄、法律にかわる命令の布告権をもつ、(ウ)現行の行政機構を改廃するなどです。
 寺内正毅は副統監山県伊三郎(山県有朋の養嗣子)を韓国に先行させ、自身は東京において併合準備委員会による「併合実行細目」を7月8日の閣議で決定、7月23日漢城に着任しました(黒田甲子郎編「元帥寺内伯爵伝」大空社)。
 同年8月16日寺内統監は李完用韓国首相を統監官邸に招き、併合は「合意的条約」によるべき事を述べ、「併合方針覚書」を手交しました。李完用は「国号ハ依然韓国ノ名ヲ存シ皇帝ニハ王ノ尊称ヲ与ヘラレタキコト」を強く求めましたが、日本政府はこれを認めませんでした。
 韓国皇帝が統治権の譲与を申し出、これを天皇が受諾するという内容の併合条約案は8月22日韓国側午前会議にかけられ、寺内の報告によれば、まず皇帝が「統治権譲与ノ要旨ヲ宣示シ且条約締結ノ全権委任状ニ躬(みずか)ラ名ヲ署シ国璽ヲツ(けん 押印)セシメ之ヲ内閣総理大臣ニ下付セラル」と述べ、「内閣総理大臣ハ其ノ携フル所ノ条約案ヲ上覧ニ供シ、逐条説明スル所アリ列席者孰(いず)レモ異議ヲ唱フル者ナク皇帝ハ一々之ヲ嘉納(喜んで受け入れる)シ裁可ヲ与ヘラレタ」と寺内は宮中に居た国分秘書官から経過報告をうけました(海野福寿解説「韓国併合始末 関係資料」復刻版 不二出版)。しかし午前会議の実態は「諸臣、あい顧みて色を失う。興王(高宗の兄)は対えるに極まり罔(な)しを以てし、総相(李完用)は対えるに勢い奈何(いかん)ともする無しを以てし、余(金允植)は対えるに不可を以てす。他の大臣は皆言(ことば)無し。闕(けつ 宮廷)を退く」[金允植(中枢院議長)「続隠晴史」海野福寿「伊藤博文と韓国併合」青木書店 引用]という状態でした。
 同日李完用首相・趙重応農商工相が統監官邸を訪問、李完用が全権委任状を提示、日韓両文の「韓国併合に関する条約」(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)調印書2通に寺内正毅と李完用が記名調印しました(山本四郎編「寺内正毅日記」明治43年8月22日条  京都女子大学)。この条約第1条に「韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本皇帝陛下ニ譲与ス」と記述され、日本の併合強制の実態に反する条文となった理由はすでに先行する諸条約で日本が韓国の自主独立を保障することを繰り返し確認していたため、併合を韓国側から希望する形式を取らざるを得なかったということでしょう。
 日本では同日午前10時40分より、天皇臨席の枢密院会議が開催され、「韓国併合ニ関スル条約」案及び関連勅令案を審議して可決、11時45分閉会、議長山県有朋は天皇にこれを奏上、天皇は直ちに之を裁可しました(宮内庁編「明治天皇紀」第十二 明治43年8月22日条 吉川弘文館)。
 同年9月30日朝鮮総督府官制が公布され、総督は陸海軍大将とし、他に政務総監を置くことに決定、10月1日付で初代朝鮮総督に寺内正毅が陸相兼任のまま任命されました(海野福寿編集解説「外交史料 韓国併合」下 不二出版)。

佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む20(最終回)

 韓国では1910(明治43)年8月22日の韓国併合条約調印から8月29日の日韓両国「官報」による公布まで報道管制が敷かれたので新聞記者もこれを知る者もなく、同月26日の山県副統監の記者会見で初めて知らされ、28日午後、条約文其の他の提供をうけて29日の新聞で報道しました(釈尾東邦「朝鮮併合史」朝鮮及満州社)。韓国民衆の動向については「此ノ日京城(漢城)及龍山ニ於テハ韓人ハ掲示板ノ下ニ群集シテ勅語其ノ他ヲ閲読シ 三々伍々集リテ囁(ささや)クモノアリト雖(いえども)概(おおむ)ネ平日ト異ルコトナク(中略)依然平穏ニシテ警備上特別ノ処置ヲナスノ必要ヲ認メス」[吉田源治郎(第二師団司令部参謀)「日韓併合始末」韓国併合始末 関係資料 所収]という状況であったようです。しかしそれは韓国民衆が併合を冷静に受け止めたからではなく、厳しい警備弾圧態勢に屏息(へいそく 息をひそめる)するほかはなかったからです(釈尾東邦「前掲書」)。
 併合後まもなく朝鮮に赴いた高浜清(虚子)は拷問のため歯を抜きとられた朝鮮人を見て日本人が朝鮮人を人間以下にしか見ていない様子をうかがい知ることが出来ました。また安重根の写真を持っている妓生(きーせん 韓国の芸妓)に出会い、韓国民衆が安重根を英雄視していることも知り、彼はこの衰亡の国民を憐れむとともに、日本人という発展力の偉大なる国民の一員としての誇(ほこり)を感じたと云っています(虚子「朝鮮」実業之日本社)。

むしめがねー目次ー俳句の歴史ー高浜虚子

 併合条約が公表された同年8月29日東京では軒並みに日の丸が掲げられ、記念の花電車に喜んで乗り込む人々の姿が見られました(釈尾東邦「前掲書」)。
 片山潜らの「社会新聞」(労働運動史研究会編「明治社会主義史料集」 第7巻 明治文献資料刊行会)でも併合直後の同年9月15日号に「日韓併合は事実となった。之が可否を云々する時ではない。今日の急務は我新朝鮮を治むるに当たり高妙なる手段方法を用ゐることである。(中略)彼等は今尚ほ未開の人民である指導教育は我責任である。」(「日韓合併と我責任」)と述べています。
 同年9月9日夜石川啄木は「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」その他を詠み、これを若山牧水主催の文芸短歌雑誌「創作」(明治43年10月号)に「九月の夜の不平」中の1首として発表しました(「啄木全集」第1巻 岩波書店)。これはメディアを通じてなされた唯一の韓国併合批判として有名です。近藤典彦氏によれば韓国併合批判の作品は他にも数首あるといわれています。

石川啄木著『一握の砂』を読む 近藤典彦ー韓国併合批判の歌 六首 
2012-07-11 06:34 | 記事へ | コメント(16) |
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佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む1〜10
2012年07月01日(日)
佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む1

 佐木隆三「伊藤博文と安重根」(文芸春秋)は明治時代の元勲の一人で、初代の韓国統監を勤めた伊藤博文が1909(明治42)年ハルビンで韓国義兵安重根に暗殺された事件を中心に描いた小説で、1992(平成4)年3月発行「別冊文芸春秋」に発表、後に加筆して単行本として出版された作品です。

近代日本人の肖像ー人名50音順ーあ・おー伊藤博文

 1898(明治31)年4月25日、日露両帝国政府は「西・ローゼン協定」を締結し、日露両国は韓国の独立を認め、直接の内政干渉を行わないことを約束(「坂の上の雲」を読む10参照)、また1902(明治35)年1月30日締結された日英同盟協約(第1回)前文においても、日英両国政府は「清帝国及韓帝国ノ独立ト領土保全トヲ維持スルコト」を約束していました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。
1904(明治37)年1月21日韓国皇帝は韓国戦時中立宣言を発表、これは日本とロシアが交戦しても、韓国はどちらにも援助せず、軍用地も提供しないことを意味していました(外務省編「日本外交文書」第37巻第1冊 巌南堂書店)。
1904(明治37)年2月10日、日本はロシアに宣戦布告(「坂の上の雲」を読む17参照)、すでに2月8日仁川に上陸した日本軍先遣部隊2000余の内大半はただちに漢城に進入、同年2月23日日韓議定書に調印(「坂の上の雲」を読む26参照)しました。その要点は@大韓帝国政府ハ大日本帝国政府ヲ確信シ施設ノ改善ニ関シ其忠告を容ルル事(第1条)A大日本帝国政府ハ大韓帝国ノ独立及領土保全ヲ確実ニ保証スル事(第3条)B第三国ノ侵害ニ依リ若クハ内乱ノ為メ大韓帝国ノ皇室ノ安寧或ハ領土ノ保全ニ危険アル場合(中略)大韓帝国政府ハ大日本帝国政府ノ行動ヲ容易ナラシムル為メ十分便宜ヲ与フル事
大日本帝国政府ハ前項ノ目的ヲ達スル為メ軍略上必要ノ地点ヲ臨時収用スルコトヲ得ル事(第4条)C両国政府ハ相互ノ承認ヲ経スシテ後来本協約ノ趣意ニ違反スヘキ協約ヲ第三国トノ間ニ訂立スル事を得サル事(第5条)D本協約ニ関連スル未悉ノ細条ハ大日本帝国代表者ト大韓帝国外部大臣トノ間ニ臨機協定スル事(第6条)などで(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上)、日本は同議定書第3条で韓国の独立を保障したにもかかわらず、第4条で韓国内に軍用地を確保する権利を韓国に認めさせ、第5条で韓国の条約締結に関する事前承認権を持ったことになります。

佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む2

1904(明治37)年3月7日伊藤博文は韓国皇帝を畏服させるため、韓国皇室慰問の特派大使として訪韓(1898伊藤は清国漫遊の途中訪韓、韓国皇帝に拝謁)を命じられ、同月18日韓国皇帝に謁見、国書を奉呈、同月20日・25日の両日にも内謁見しました。これは「日韓議定書」の批准書交換に相当するものです(海野福寿「韓国併合史の研究」岩波書店)。
 同月20日の内謁見で伊藤博文は韓国皇帝に「(日韓)議定書ニ定ムル事項ハ貴国ニ於テ遵行セラルヽヲ要スルト同時ニ苟(いやしく)モ之カ障害タルヘキモノハ断シテ之ヲ排斥セラレサルヘカラス」と迫り、同月25日の内謁見においても、伊藤は閔丙奭宮内大臣を通じて皇帝に「若シ韓国ノ態度不鮮明ニシテ其去就定マラスト(伊藤博文が)復命センカ我政府ハ(中略)韓国ニ於ケル兵力ヲ数倍シ威圧ノ行動ニ出スル等、其ノ変ニ処スルノ準備ヲ為スハ勿論ナリ」(「日本外交文書」第37巻第1冊)と威嚇することを忘れませんでした。
日韓議定書第6条の規定により、同年8月22日日韓協約(第1次)が調印(「坂の上の雲」を読む26参照)されましたが、この協約は条約形式をとらず、前文・末文を省略した政府間の行政上の取り決めで、次の3カ条を規定しています(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上)。@韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル日本人一名ヲ財務顧問トシテ韓国政府ニ傭聘シ財務ニ関スル事項ハ総テ其意見ヲ詢(はから)ヒ施行スヘシA韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル外国人一名ヲ外交顧問トシテ外部ニ傭聘シ外交に関スル要務ハ総テ其意見ヲ詢ヒ施行スヘシ。B韓国政府ハ外国トノ条約締結其他重要ナル外交案件即外国人ニ対スル特権譲与若クハ契約等ノ処理ニ関シテハ予メ日本政府ト協議スヘシ
この協約により財務顧問には目賀田種太郎大蔵省主税局長・貴族院議員が、外交顧問には駐米日本公使館雇のアメリカ人スティーブンスが任命されました。

東京都千代田区の歴史―神田神保町―目賀田種太郎

佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む3

 1905(明治38)年1月1日第3軍が旅順を攻略(「坂の上の雲」を読む27参照)後の同年1月22日小村寿太郎(「坂の上の雲」を読む11参照)外相は高平小五郎駐米公使に講和問題に関する日本政府の見解(「坂の上の雲」を読む36参照)を米大統領に伝えるよう訓令、同年1月25日高平公使は「平和克復後に於ける満韓、旅順に関する我政府の意思竝びに希望の件」を申し入れましたが、同申し入れは韓国について「(日露)開戦当時ニ於テ帝国ノ地位ヲ侵迫シタルカ如キ陰険ナル勢力ノ回復ヲ防遏センカ為メニハ韓国ヲ以テ全然日本ノ勢力圏内ニ置キ該国国運ノ保護監督幷ニ指導ヲ完全ニ帝国ノ掌中ニ収ムルヲ必要ナリト信ス」と述べています。
 同年5月27〜28日日本海海戦で連合艦隊がバルチック艦隊を撃破、同年6月米大統領が日露両国に講和を勧告すると、両国は講和を受諾しました。講和会議においてロシア全権ウイッテは「日本の韓国主権不可侵」を講和条約に明記することを強く主張しました。小村寿太郎全権はこれに反対して対立、結局会議録に「日本国全権委員ハ、日本国ガ将来、韓国ニ於テ執ルコトヲ必要ト認ムル措置ニシテ、同国ノ主権ヲ侵害スヘキモノハ、韓国政府ト合意ノ上、之ヲ執ルヘキコトヲ茲(ここ)ニ声明ス」と記載することで合意しました(「日本外交文書」第37・38巻別冊 日露戦争X)。以後日本が韓国主権侵害の度ごとに韓国政府・皇帝との合意を条約形式で締結せざるを得なかったのはこのためです。

春や昔―メインコンテンツー「坂の上の雲」登場人物―登場人物一覧―うーウイッテ

 同年7月27日桂太郎首相は来日中の米陸軍長官タフトと会談、日本はアメリカのフィリピン統治を認め、アメリカは日本が韓国に保護権を確立する事を認める「桂タフト協定」を締結しました(「坂の上の雲」を読む45参照)。

Een Japanner die zonnecellen orderzoekt―アーカイブーApril 2010―2010.4.16 小村寿太郎の帰朝を待てなかった桂太郎  

つづいて同年8月12日ロンドンで第2回日英同盟協約が調印(「坂の上の雲」を読む45参照)されましたが、同協約は韓国について「大不列顚国ハ日本国カ該利益ヲ擁護増進セムカ為正当且必要ト認ムル指導、監理及保護ノ措置ヲ韓国ニ於テ執ルノ権利ヲ承認ス」と述べています。
 第2回日英同盟協約締結を通告された朴斉純韓国外相は駐韓英公使に「両締約国ハ相互ニ清国及韓国ノ独立ヲ承認」した第1回日英同盟協約に違反すると抗議しましたが、日英両国公使は協議してこの抗議を無視しました(「日本外交文書」第38巻第1冊)。
 同年9月5日日露両国はポーツマス条約(「坂の上の雲」を読む48参照)を締結、日露戦争は終結しましたが、同条約において「露西亜帝国政府ハ日本国カ韓国ニ於テ政事上、軍事上及経済上ノ卓絶ナル利益ヲ有スルコトヲ承認シ日本帝国政府カ韓国ニ於テ必要ト認ムル指導、保護及監理ノ措置ヲ執ルニ方リ之ヲ阻礙(そがい)シ又ハ之に干渉セザルコトヲ約ス」(第2条)と規定しました。
 上記の文章に頻出する「監督」あるいは「監理」とは、当時の外務省取調局長幣原喜重郎によれば「併合」の意味で使用されたものです(海野福寿「前掲書」)。

近代日本人の肖像ー人名50音順ーさ・そー幣原喜重郎

佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む4

 日露講和会議録に記載された合意(「伊藤博文と安重根」を読む4参照)にもとづく保護条約交渉について、1905(明治38)年10月18日伊藤博文は小村外相の要請を内諾、同年11月2日「韓国皇室御慰問ノ思召ヲ以テ特派大使トシテ差遣」する勅命をうけました(「日本外交文書」第38巻第1冊)。
なぜなら小村外相はポーツマス条約でロシアから譲渡された旅順・大連の租借権ならびに長春〜旅順間鉄道経営権など清国政府の承認を求める条約交渉のため北京に赴かねばならなかったからです。かくして伊藤博文は特派大使として主に韓国皇帝と折衝、形式的には林権助特命全権公使が条約交渉及び調印を担当することになっていました。
 同年11月10日伊藤特派大使は文武官随員を従え、王宮の慶運宮(徳寿宮)に参内、高宗皇帝に謁見、天皇の親書を奉呈、同月15日伊藤は皇帝に内謁見して、韓国の外交権を韓国政府から委任を受けた日本政府が行うことを提案、外部大臣朴斉純に対して、林権助駐韓公使の提案にもとづき協議し、協約調印に至るよう勅命を下すことを要請しました(伊藤大使内謁見始末「日本外交文書」第38巻第1冊)。

ハシムの世界史への旅―旅行記・写真集―大韓民国―徳寿宮―景福宮―安重根義士記念館

 同月16日林権助公使は朴斉純外相に協約案を示し交渉を開始、翌17日林公使は日本公使館に大臣全員を招集し、協約案についての韓国側の意見を聴取しました。大臣たちは誰も明確に賛否を表明せず、「内閣員だけでは極められぬ大事件ゆゑ、いよいよ王様(陛下)の御前に出て国王(皇帝)の意向をお聴きするより仕方がない」(林権助述「わが七十年を語る」第一書房)ということになりました。
 韓国駐箚軍(「坂の上の雲」を読む26参照)は旧王宮の景福宮前の広場で演習したり、メインストリートの鐘路を示威行進するなどして市民を威圧(「駐韓日本公使館記録」第25巻 国史編纂委員会 海野福寿「韓国併合史の研究」岩波書店 引用)、また王宮内には日本の憲兵・領事館警察官・韓国政府傭聘の日本人巡査を配置して、保護のためと称し皇帝・大臣の王宮脱出を防止し、あわせて協約締結反対の民衆が王宮内に進入しないよう厳戒態勢をとりました(林権助「前掲書」)。

佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む5

 御前会議で韓国大臣たちの総意として、条約案拒絶を2度奏上しましたが、皇帝は承認せず、大臣たちに林との交渉を継続するように命じたようです(「日本外交文書」第38巻第1冊)。皇帝は上記御前会議の結果を宮相を通じて伊藤に連絡、伊藤は慶雲宮に急行して皇帝への内謁見を求めましたが、皇帝は病気を理由に謁見せず、宮相は「協約案ニ至テハ朕カ政府大臣ヲシテ商議妥協ヲ遂ケシメントス。卿(けい)冀クハ其間ニ立チ周旋善ク妥協ノ途ヲ講センコトヲ」(日韓新協約調印始末「日本外交文書」第38巻第1冊)との勅答を伊藤に与え、大臣たちにも伝達しました。
 よって伊藤は各大臣の説得を開始、辞意を表明した韓圭ソル参政(首相)は皇帝の「妥協ヲ遂ケ」の沙汰に反対したことを述べましたが、伊藤は韓参政に協約案に対する賛否を各大臣に問うよう求めました。その結果伊藤は韓参政と閔泳綺度支相の2人だけ協約案反対と認め、韓参政に本問題を可決したものとして必要形式を整え、皇帝の裁可を請い、調印の実行を促しました。
 1905(明治38)年11月17日特命全権公使林権助と外部大臣朴斉純との間に調印された日韓協約(第2次)の要点は下記の通りです(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上)。
1 日本国政府ハ在東京外務省ニ由リ今後韓国ノ外国ニ対スル関係及事務ヲ監理指揮スヘク日本国ノ外交代表者及領事ハ外国ニ於ケル韓国ノ臣民及利益ヲ保護スヘシ
2 日本国政府ハ韓国ト他国トノ間ニ現存スル条約ノ実行ヲ全フスルノ任ニ当リ韓国政府ハ今後日本政府ノ仲介ニ由ラスシテ国際的性質ヲ有スル何等ノ条約若(もしく)ハ約束ヲナササルコトヲ約ス
3 日本国政府ハ其代表者トシテ韓国皇帝陛下ノ闕下(宮廷)ニ一名ノ統監(レヂデントゼネラル)ヲ置ク統監ハ専ラ外交ニ関スル事項ヲ管理スル為メ京城(漢城)ニ駐在シ親シク韓国皇帝陛下ニ内謁スルノ権利を有ス(以下略)

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佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む6

 第2次日韓協約が調印された1905(明治38)年11月17日以後韓国には不穏な情勢が展開しました。
 宮内府特進官趙秉世は郷里の京畿道に退隠していましたが、協約調印後上京し同年11月23日調印に応じた大臣を糾弾、協約破棄を求め(「李朝実録」第五十六冊 学習院東洋文化研究所)、漢城駐在の各国公使に援助を要請する書を、林権助公使には日本政府の反省を促す書を送りました(黄玹「梅泉野録」国書刊行会)。侍従武官長閔泳煥も趙秉世を助け同月28日上奏、鐘路などの商店は同月27日以来休業してこれに呼応しました(「駐韓日本公使館記録」第25巻 海野福寿「韓国併合史の研究」岩波書店 引用)。
 林公使は同月27日皇帝に上奏して趙秉世らを解散させようとしましたが、閔泳煥は帰宅せず、同月30日小刀で自殺、趙秉世も同年12月1日朝阿片を飲み同日午後4時半絶命しました(「日本外交文書」第38巻第1冊)。
 同年12月21日統監府・理事庁官制が公布され、天皇に直隷(直属)することになった統監には枢密院議長伊藤博文が初代統監、後任の枢密院議長には山県有朋が任命されました(「官報」)。
 すでに日露戦争中から日韓議定書(「伊藤博文と安重根」を読む2参照)第4条により、ほとんど無償で日本軍に軍用地を収用され、また労働力を徴発されることによって、生活基盤を奪われた韓国民衆は1906(明治39)年夏閔宗植・崔益鉉を指導者に反日義兵として蜂起します。閔宗植は隠棲した元官吏で、同年5月11日同志とともに挙兵、同月19日洪州城を占領、1100人以上の義兵で日本憲兵・警察隊を撃退しました。そこで韓国駐箚軍の歩兵二中隊は同月31日午前6時洪州城を占領(「駐韓日本公使館記録」第26巻 海野福寿「韓国併合史の研究」岩波書店 引用)、閔宗植は洪州城を脱出逃亡しました。彼は同年11月逮捕され、平理院の裁判で死刑判決を受けましたが終身刑に減刑、珍島に配流となりました(朝鮮総督府「朝鮮ノ保護及併合」市川正明編「日韓外交史料」8 原書房)。
 崔益鉉も同年陰暦2月全羅北道泰仁に下り、日本の「棄信背義十六罪」を問責する書を日本政府に送り挙兵しました。同年6月12日彼は捕虜となり、韓国駐箚軍の軍律審判(軍法会議)により禁錮3年の刑に処せられ、彼と韓国皇帝並びに民衆との結合を断ち切るため伊藤博文の意向(「駐韓日本公使館記録」第26巻 海野福寿「前掲書」引用)を反映した閣議決定により、対馬厳原の獄舎に流罪となりましたが、1907(明治40)年1月1日死去しました(「義兵将 崔益鉉の生涯」 旗田巍「朝鮮と日本人」勁草書房)。

佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む7

 1899(明治32)年5月18日ロシア皇帝ニコライ2世の提唱により、オランダのハーグで第1回万国平和会議が開催され26カ国が参加、同会議は同年7月29日世界最初の国際紛争を平和的に処理することを目的とする「国際紛争平和的処理条約」(万国仲裁裁判所設置などを含む)など3条約と宣言を採択して閉幕しました。韓国は万国平和会議に参加していませんでしたが、1903(明治36)年初めころ「国際紛争平和的処理条約」などの加盟の意思をオランダ政府に通知しました。しかし上記条約締約国でなかったため、その希望は実現しませんでした(外務省編纂「日本外交文書 海牙万国平和会議」(復刻版)第1巻 巌南堂書店)。

第1次大戦―戦後―国際連盟―第1回万国平和会議―第2回万国平和会議

 1904(明治37)年10月米大統領セオドア・ルーズベルトの第2回万国平和会議開催提案により、同会議開催の気運が高まると、同年末以降韓国皇帝は秘密ルートを通じて日本の不当な支配により独立が危機に陥った実態を露・米・仏、とくにアメリカ政府に繰り返し訴えていたのです(「日本外交文書」第38巻第1冊)。
 1906(明治39)年4・5月ころロシア政府は第2回万国平和会議開催の時期・提出議題及び「国際紛争平和的処理条約」新規加盟の方法についての通告を参加予定国に送付しましたが(「日本外交文書 海牙万国平和会議」第2巻)、日本の妨害により韓国は同会議の正式招請状を受け取ることができませんでした。しかし1907(明治40)年4月20日韓国皇帝高宗は元参賛李相ソル・元平理院検事李儁に第2回万国平和会議出席のための全権委任状を与え(海野福寿「日韓協約と韓国併合」明石書店)、ついで5月8日官立中学校教師で「コレア・レヴュー」主筆ハルバートをヨーロッパに出発させました(「日本外交文書」第40巻第1冊)。
 同年5月21日李相ソル・李儁(ハーグ密使)はウラジオストックを出て、6月4日ペテルブルクでロシア皇帝に高宗の親書を奉呈、ベルリン経由で6月25日ハーグに到着しましたが、7月2日ロシア主席委員ネリドフならびにオランダ外相との会見要請を拒否されました(「駐韓日本公使館記録」第31巻 海野福寿「前掲書」引用)。ハーグ密使の目的は「国際紛争平和的処理条約」加盟にあり、それを前提にハルバートによる常設仲裁裁判所への提訴にあったのですが、結局その目的を達成することはできませんでした。

佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む8

 韓国皇帝高宗のハーグ密使派遣を知った伊藤博文は1907(明治40)年7月3日林董(はやしただす)外相に高宗の責任を追及し、韓国の内政権を獲得するきっかけとすべきであるとの意見を伝えました。ついで伊藤は同月5あるいは6日ころに「皇帝ニ対シ其ノ責任全ク陛下一人ニ帰スルモノナルコトヲ宣言シ併テ其ノ行為ハ日本ニ対シ公然敵意ヲ発表シ協約違反タルヲ免レス。故ニ日本ハ韓国ニ対シ宣戦ノ権利アルモノナルコトヲ総理大臣(李完用)ヲ以テ告ケシメタリ」と報告、また同月7日日本政府に対して「此際我政府ニ於テ執ルヘキ手段方法(例ハ、此ノ上一歩ヲ進ムル条約ヲ締結シ我ニ内政上ノ或権利ヲ譲与セシムル如キ)ハ廟議(朝廷の評議)ヲ尽サレ訓示アランコトヲ望ム」(「日本外交文書」第40巻第1冊)と要望しました。

近代日本人の肖像―人名50音順―は・ほー林董

 李完用韓国首相は伊藤を訪問、「事茲ニ至リテハ国家ト国民ヲ保持セハ足レリ皇帝身上ノ事ニ至リテハ顧ルニ遑(いとま)ナシ」と皇帝の退位を示唆するかのような発言が行われました。伊藤はこれに対して「譲位ノ如キハ本官深ク注意シ韓人ヲシテ軽率事ヲ過マリ其ノ責ヲ日本ニ帰セシムル如キハ固(もと)ヨリ許ササル所ナリ」と報告しています(「日本外交文書」第40巻第1冊)。

佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む9

 伊藤から請訓を受けた日本政府は同年7月10日山県有朋ら元老と桂太郎前首相も出席して西園寺公望首相をはじめ斎藤実海相・寺内正毅陸相・林董外相・阪谷芳郎蔵相・原敬内相で構成される会議を開催しましたが、「結局此際内政の実権を我に収むる事、若し能はずんば日本人を内閣員となし又内閣員は必らず統監の同意を要する位にはなさん、此大体の方針を適当に実行する事は伊藤侯に一任すべし、此趣旨を説明する為めには林外相渡韓すべしと云うに決定」(原奎一郎編「原敬日記」第2巻 明治40年7月10日条 福村出版株式会社)しました。同月12日の閣議で韓国内政権掌握の実行を伊藤侯に一任し、その協定は政府間協約として締結すること、及び林外相の韓国派遣を決定しました(海野福寿「韓国併合史の研究」岩波書店)。
 林外相が漢城に到着した同年7月18日夜皇帝高宗は純宗への譲位の詔勅を発布、同月20日中和殿で略式の譲位式を挙行しました(「日本外交文書」第40巻第1冊)。

★アジア韓国★海外ブログ★カテゴリー 2012-03-20:古宮・王宮・ランドマークー徳寿宮―中和殿   

 同年7月24日伊藤統監は李完用首相らに協約案を提示、当日大要次のような日韓協約(第3次)及び覚書(不公表)を調印したのです(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上)。
[日韓協約(第3次)]1.韓国高等官吏ノ任免ハ統監ノ同意ヲ以テ之ヲ行フコト(第4条)
2.韓国政府ハ統監ノ推薦スル日本人ヲ韓国官吏ニ任命スルコト(第5条) 3.韓国政府ハ統監ノ同意ナクシテ外国人ヲ傭聘セサルコト(第6条) 4.明治三十七年八月二十二日調印日韓協約(第1次)第一項ハ之ヲ廃止スルコト(第7条)
[覚書(不公表)]第三−一 陸軍一大隊ヲ存シテ皇宮守備ノ任ニ当ラシメ其ノ他ハ之ヲ解体スルコト 第五 中央政府及地方庁ニ左記ノ通日本人ヲ韓国官吏ニ任命ス 一 各部次官
一 内部警務局長 (以下略)

佐木隆三「伊藤博文と安重根」を読む10

1907(明治40)年7月18日皇帝高宗の純宗への譲位表明以来、漢城市内は不穏な情勢となりました。同日夜市内中心部の鐘路には多数の群衆が集まって皇宮前に押し寄せ、翌19日人々が鐘路で路傍演説、夕刻には侍衛隊第三大隊の兵士数十人が二手に分れ、一方は鐘路巡査派出所に、他方は道路上で警戒に当たっていた警察官に発砲(「外務省特殊調査文書」第38巻 高麗書林 海野福寿「韓国併合史の研究」岩波書店 引用)、20日午後、民衆が李完用首相邸を焼き打ちしました(「日本外交文書」第40巻第1冊)。

大河の釣り人―大韓帝国歴代大臣―内閣総理大臣―李完用

同月21日伊藤博文は西園寺首相に対して、韓国駐箚軍応援の軍隊増派を要請、これによって同月27日第十二師団(小倉)所属の一個旅団は渡韓を完了、平壌を中心とする北部に展開(「朝鮮駐箚軍歴史」金正明編「日韓外交資料集成」別冊1 巌南堂書店)し、海軍第三艦隊も同月29日仁川に入港した駆逐艦4隻を加えて連携態勢を整えました(「外務省特殊調査文書」第38巻 高麗書林 海野福寿「韓国併合史の研究」引用)。
 同年7月31日軍隊解散の詔勅が発布(海野福寿「日韓協約と韓国併合」明石書店)され、翌8月1日朝李秉武軍相は駐箚軍司令官官邸に韓国軍隊長を招集、軍隊解散の詔勅(「日本外交文書」第40巻第1冊)を伝達しました(「朝鮮駐箚軍歴史」)。次いで午前10時から練兵場で一般兵士に対し解散を命ずることになっていましたが、侍衛歩兵第一連隊第一大隊長の憤死がきっかけとなり同大隊が決起、第二連隊第一大隊も同調しました。韓国軍隊反乱を予想していた長谷川好道韓国駐箚軍司令官は歩兵第五十一連隊第三大隊其の他に命じて鎮圧に当たらせ、歩兵同大隊は交戦後反乱した韓国侍衛歩兵両大隊兵営を占領しました(「日本外交文書」第40巻第1冊)。地方鎮衛隊にも解散命令が下り、原州鎮衛隊・江華島分遣隊でも反乱勃発、解散した兵士の中で、反日義兵に加入する者も多くなり、やがて全国各道に拡大して数年間に及ぶ騒擾事件の一原因となりました。
2012-07-01 05:31 | 記事へ | コメント(0) |
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片山潜「日本の労働運動」を読む41〜50
2012年04月10日(火)
片山 潜「日本の労働運動」を読む41

 このように日本社会党で直接行動派と議会政策派が大論争をくりひろげていたころ、1907(明治40)年2月4日以降足尾銅山(「田中正造の生涯」を読む15参照)で大暴動が起こったのです(「日本労働運動史料」2 東大出版会)。
 明治期の鉱山は江戸時代囚人労働による生産の伝統がつづき、その劣悪な待遇に対する不満が他産業の労働者以上に強かったといえるでしょう。
 大日本労働至誠会は1902(明治35)年春南助松と永岡鶴蔵が北海道夕張炭鉱の坑夫を組織して結成されたもので、やがて1906(明治39)年12月5日には南助松が夕張炭鉱から足尾銅山に移ってくると、同会足尾支部が結成され、労働至誠会の坑夫待遇改善運動が活発となっていくのです(「日本の労働運動」を読む21参照)。

二村一夫著作集―総目次―第4巻 「足尾暴動の史的分析」−序章 暴動の舞台 足尾銅山

 当時の足尾銅山の坑夫は(ア)物品で賃金を払ってはならないと法律で規定されているにもかかわらず、会社の販売店から粗悪で高価な日用品を購入させられる「現物賃金制」、(イ)会社役員が賄賂の多少によって坑夫の就業に差別をつける、(ウ)近年の物価高にもかかわらず賃金が上がらないの3点で苦痛を強いられていました。
 労働至誠会はたびたび演説会を開き、坑夫が団結して会社に諸種の要求を提出し、もし要求が実現しない場合は坑夫を募集している北海道へ集団移住することを訴えていました。

片山 潜「日本の労働運動」を読む42

 1907(明治40)年2月4日午前9時ころ第三・四見張所前で職員と坑夫が賃金上のことで争いを起こし、それを見ていた周囲の者が口ぐちに「ヤレヤレ」とこれを応援、やがて5〜600名の労働者が見張所に石を投げ込んだのが始まりで、電話線・電線が切断されて鉱山外との通信が途絶えました。

二村一夫著作集―総目次―第5巻「鉱業労働史研究」−足尾暴動

 この騒動は南助松ら労働至誠会員の慰撫でおさまり、南らの助言で2月6日午前9時に20数項目の要求を会社に提出することになりましたが、6日朝数千の坑夫がダイナマイトで鉱山の建物数か所を爆破放火、鉱業所長南挺三を襲撃して重傷を負わせ、石油庫・火薬庫を爆発させるに至ったのです。
 すでに栃木県警務課長・日光警察署長・足尾警察署長・宇都宮裁判所予審判事・検事らが制・私服の部下数百名を率いて事件現場に乗り込んでいましたが、彼等は事件をどのように収拾したらよいのかわからず、足尾警察署長が南助松らを検挙すると、事態を一層混乱させると主張したのに、予審判事は2月6日南助松・永岡鶴蔵ら労働至誠会幹部を兇徒嘨集罪で逮捕、かえって混乱を助長する結果となり、彼等は変装して姿をくらます状態でした(田中惣五郎「前掲書」)。
 栃木県知事の報告により警察力で足尾暴動を鎮静化させることができないと悟った原敬内務大臣は陸軍大臣寺内正毅に軍隊の出動を要請、2月7日午前8時30分高崎第15連隊の歩兵3個中隊が雪中足尾に到着、午後4時足尾銅山に戒厳令を公布、騒擾を鎮圧しました。
 2月4日の正午ころ南助松から平民社宛に電報が届き、2回目、3回目とつづいたので平民社は西川光次郎を特派員として現地に派遣しましたが、彼は軍隊が足尾に到着する数時間以前に足尾警察署の刑事に兇徒嘨集罪で逮捕され、この報を得た平民社は荒畑勝三を第2の特派員として再び現地に派遣、彼は危うく検挙を逃れ、南助松らの妻女を平民社まで伴うことに成功しました(吉川守圀「荊逆星霜史」不二出版・荒畑寒村「ひとすじの道」日本図書センター)。

片山 潜「日本の労働運動」を読む43

 1907(明治40)年2月17日日本社会党第2回大会が神田錦輝館で開催されました(「日本労働運動史料」2 東大出版会)。
大会は幹事堺利彦の開会の挨拶に始まり、次いで竹内余所次郎を議長に選出、議案として@党則第1条「本党は国法の範囲内に於て社会主義を主張す」を「本党は社会主義の実行を目的とす」とする、A党則第4条「評議員十三名」を「評議員二十名」に増員B其の他を可決、改選された評議員は再撰されたもの堺利彦・西川光次郎・田添鉄二・森近運平らで、新選されたものは石川三四郎・幸徳秋水らでした。
 本大会の最重要議案である評議員会作成原案の次のような決議案を堺利彦が提案しました。
 我党は現時の社会組織を根本的に改革して生産機関を社会の公有となし人民全体の利益幸福の為に之を経営せんと欲するものなり
 我党は此目的を持し現時の情勢の下に於て左の件々を決議す
一、我党は労働者の階級的自覚を喚起し其団結訓練に勉む
一、我党は足尾労働者の騒擾に対し遂に軍隊を動かして之を鎮圧するに至りしを遺憾とし、之を以て甚だしき政府の失態なりと認む
一、我党は世界に於ける諸種の革命運動に対し深厚なる同情を表す
一、左の諸問題は党員の随意運動とす
 い、治安警察法改正運動 ろ、普通選挙運動 は、非軍備主義運動 に、非宗教運動
 これに対して田添鉄二は評議員会原案の(ア)足尾事件の前に「一、我党は議会政策を以て有力なる運動方法の一なりと認む」の一項を付加、(イ)「ろ、普通選挙運動」を削除、
という修正案を提出しました(「田添鉄二氏の演説要領」参照「平民新聞論説集」岩波文庫)。
 幸徳秋水は評議員会原案の(ウ)第一項「我党は」の次に「議会政策の無能を認め専ら」の語句を付加、(エ)「ろ、普通選挙運動」を削除、という修正案を提出しました(「幸徳秋水氏の演説」参照「平民新聞論説集」岩波文庫)。
 大会は3時間に及ぶ討論ののち採決、其の結果は次の如くでした。田添案 2票、 幸徳案 22票、 評議員会案28票、 かくして評議員会案が採択されたのです。
 採択された評議員会案が秋水の直接行動論の影響著しいものであったので、評議員会案提案者堺利彦が「大会は事実に於て大多数を以て幸徳説を可決したる者と謂はざるを得ず」(堺利彦「社会党大会の決議」日刊「平民新聞」28号 明治40年2月19日付「明治社会主義史料集」第4集 明治文献資料刊行会)と述べています。
 この大会において山川均は「予は直接行動に信頼するものである、」(「社会党大会の成蹟」日刊「平民新聞」第29号 明治40年2月20日付・「平民新聞論説集」岩波文庫)と主張した直接行動派でしたが、彼は後年当時を回顧して次のように述べています。「あの十七日の大会の空気のなかで、ただ一人(議会政策論者と思われる西川は、足尾事件のために宇都宮監獄に拘禁されていた)議会政策論のために闘った田添の態度にたいして、私は今も尊敬を払っている。」(山川菊栄・向坂逸郎編「山川均自伝」岩波書店)

経済学者名鑑―やー山川均 

 かかる日本社会党の決議により西園寺公望(第一次)内閣は同年2月22日治安警察法第8条第2項により日本社会党を結社禁止とし、日刊「平民新聞」も発売禁止や記事執筆者ならびに発行編集責任者の処罰が行われ、同年4月14日第75号で廃刊となりました。

片山 潜「日本の労働運動」を読む44

 1907(明治40)年2月19日渡米中の片山潜が帰国しました(辻野功「前掲書」)。彼は「労働者諸君に告ぐ」(日刊「平民新聞」第40号 明治40年3月5日付・「平民新聞論説集」岩波文庫)を発表、直接行動論を批判して自分が議会政策派であることを明らかにしました。
 これに対して直接行動派は日刊「平民新聞」第42号「片山先生に告ぐ」において片山潜をからかうかのような批判の文章を掲載したのです。
 日刊「平民新聞」廃刊以後、その後継紙として同年6月1日森近運平が半月刊紙「大阪平民新聞」(「明治社会主義史料集」第5集)を、同月2日には片山潜・西川光次郎が週刊「社会新聞」(「明治社会主義史料集」第6・7集)を創刊しましたが、次第に「大阪平民新聞」は直接行動派の、「社会新聞」が議会政策派の機関紙の傾向を強め、互いに相手を非難攻撃するようになりました。

井原市―観光者の皆さまへー井原市の歴史・文化―井原市ゆかりの偉人―お知らせー井原市の偉人紹介ページ更新―関連リンクーいばらの偉人―バックナンバーー森近運平

 ところが両派内部にも対立が激化し、やがてそれは理論的対立を越えた感情的抗争に矮小化していきました。
 1908(明治41)年6月18日、日刊「平民新聞」第59号に論説「父母を蹴れ」(明治40年3月27日付・「平民新聞論説集」)を掲載したため投獄されていた山口孤剣が出獄しました。石川三四郎が山口は直接行動派と議会政策派の分裂以前からの入獄者なので、出獄歓迎会を両派一緒にやらないかと堺利彦・西川光次郎によびかけました。堺・西川両人とも同意したので同年6月22日午後1時東京神田錦輝館で両派合同の「山口君出獄歓迎会」が開催されました(「本書」A)。
 幹事役の石川三四郎が閉会の辞を述べはじめたころ、会場の一角で革命歌を歌いながら、赤地に白く「無政府共産」などと縫いとりした旗を大杉栄・荒畑寒村ら若手の直接行動派が議会政策派の人々を囲んで会場内を走りまわり、やがて戸外に出ていきました。
 警官隊が「戸外だから旗を巻け」と要求したが、大杉らは聞かず、警官と乱闘、会場に居た山川均と堺利彦は大杉らと警官の間にはいって警官をなだめ、乱闘は治まったのですが、警察の増援隊が到着すると、警察は大杉らだけでなく、仲裁役の山川・堺まで逮捕、「無政府共産」の旗を堺利彦から預かり、帰宅中の管野スガら4人の女性まで拘束されました(赤旗事件・「日本労働運動史料」2 東大出版会)。

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 赤旗事件被逮捕者たちは次のように処分されました。堺利彦・山川均らは官吏抗拒罪で重禁錮2年、荒畑寒村らは1年半、大杉栄2年半(前科1年半通算)、重禁錮1年罰金10円大須賀里子、小暮れい子(5年執行猶予)、無罪管野スガ、神川まつ
 この外錦町警察署留置場便所の壁につめ痕か何かで「一刀両断帝王頭、落日光寒巴里城」とフランス革命を詠んだ漢詩が落書されていました(荒畑寒村「ひとすじの道」)。この嫌疑をかけられた佐藤悟は不敬罪で懲役3年に処せられたのですが、真犯人は別にいたらしくもあります(赤松克麿「日本社会運動史」岩波新書)。

日本キリスト教女性史(人物編)―索引―かー管野スガ

 ところがこの事件は内閣総辞職という政変に発展しました。西園寺公望(第1次)内閣の内相原敬はその日記で次のように述べています。「本日参内し親しく侍従長と内談せしに、同人の内話によれば、山県(有朋)が陛下に社会党取締の不完全なる事を上奏せしに因り、陛下に於せられても御心配あり、(中略)山県が他人の取締不充分なりと云ふも、然らばとて自分自ら之をなすにも非らずとて、徳大寺(侍従長)も山県の処置を非難するの語気あり、(中略)山県の陰険なる事今更驚くにも足らざれども、畢竟現内閣を動かさんと欲して成功せざるに煩悶し此奸手段に出でたるならん、」(原奎一郎編「原敬日記」第2巻 明治41年6月23日条)
 同年6月27日西園寺公望首相は原敬・松田正久を招いて病気を理由に辞意を告げたのですが、7月2日原敬が西園寺首相を訪問すると、首相は本日個別に閣僚招き、辞意を伝えたと述べ、実は寺内正毅陸相に対し山県有朋が辞職をすすめた(軍部が倒閣手段としてしばしば利用・「大山巌」を読む48参照)が、寺内は単独で辞職を決断できず、首相に山県の意図を報告、其の結果西園寺首相は辞職を決意した旨語ったそうです。かくして7月4日第1次西園寺内閣は総辞職、7月14日第2次桂太郎内閣が成立するに至ったのです(「原敬日記」)。

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 1907(明治40)年10月27日幸徳秋水は病気静養とクロポトキン「麺麭(パン)の略取」(英訳版)翻訳に取り組むため、東京大久保から郷里高知に向かい、途中別府温泉に宿泊、故郷中村に帰りました。
 彼に赤旗事件を知らせる守田有秋の電報がとどいたのは、1908(明治41)年6月23日のことでした。新聞等で事件の詳細を知ると、かれは同年7月21日上京の途につき、その途中で和歌山県新宮の医師大石誠之助(祿亭)の許に立ち寄り、同年8月12日箱根足柄下郡温泉村の林泉寺住職内山愚堂を訪問(塩田庄兵衛編「幸徳秋水の日記と書簡」未来社)、同月東京に到着(「社会主義者沿革」下)、10月豊島郡巣鴨に平民社の看板を掲げましたが(「逆徒判決証拠説明書」<大逆事件判決に先立ち、外務省が各国駐日公使館に送付したもの>宮武外骨編「幸徳一派大逆事件顛末」「明治社会主義文献叢書」竜吟社)、秋水の家は不断に警察の監視下にありました。

新宮市観光協会―新宮ガイドー観るー遺跡―大逆事件と大石誠之助

 赤旗事件で逮捕の後、無罪放免された管野スガはもともと荒畑寒村の愛人でしたが(荒畑寒村「ひとすじの道」日本図書センター)、秋水の身辺を世話するようになりました。11月上京した大石誠之助は秋水を診察、秋水は余程の難病、長生きできないようだと診断しました(「逆徒判決証拠説明書」宮武外骨編「前掲書」)。
 1909(明治42)年1月秋水は翻訳「麺麭の略取」を平民社訳として出版しましたが、たちまち発売禁止となりました。
 1909(明治42)年2月新村忠雄が、同年2月13日宮下太吉が秋水を訪ね、天皇に対するテロの決意を表明しています。
秋水が千代子夫人を離婚、千駄ヶ谷に引っ越し、同年5月25日菅野スガを発行編集人、古河力作を印刷人として「自由思想」を発刊したころから、幸徳秋水と管野スガとの愛人関係を同志たちが非難するようになりました(吉川守圀「荊逆星霜史」)。
 「自由思想」は発禁となり同年7月に廃刊、管野スガは数百円の罰金を払えず、1910(明治43)年5月18日100日の換金刑に服するため入獄させられました。

片山 潜「日本の労働運動」を読む47

  このような情勢の中で幸徳秋水周辺の社会主義者宮下太吉・管野スガ・新村忠雄らが明治天皇暗殺計画を練りはじめたのです。
 1910(明治43)年5月17日管野スガ・新村忠雄・古河力作3名は天皇に爆弾を投げる順番のくじ引きをし、(1)管野スガ、(2)古河力作、(3)新村忠雄、(4)宮下太吉の順と決定しました(古河力作「余と本陰謀との関係」神崎清「大逆事件記録」第1巻新編獄中手記 世界文庫)。しかし後のことはすべて管野スガの出獄待ちで、具体的計画はきめられていなかったのです。
 幸徳秋水は古くからの友人奥宮健之に爆裂弾の製法を質問し、それを新村忠雄を通じて宮下太吉に伝えたことはあったようです(「逆徒判決証拠説明書」)。しかし同年3月11日親友小泉策太郎(三申)のすすめで「通俗日本戦国史」執筆のため湯河原の天野屋旅館に籠り、天皇暗殺計画から離れたと見られます。宮下太吉らも「幸徳は筆の人で実行の人ではない」[「予審(当時の刑事訴訟法により起訴後被告を公判に付すべきか否かを決定する手続き)調書」宮下太吉(第四回) 塩田庄兵衛・渡辺順三編「秘録大逆事件」上 春秋社]と思い、秋水を除外して計画をすすめたのです。
 天皇暗殺計画は宮下太吉の軽率な言動から当局に知られ、彼は同年5月25日検挙、明科製材所を捜索されて証拠品を押収されました。新村忠雄らも同日逮捕され、関係者の一斉検挙が始まったのでした(荒畑寒村「日本社会主義運動史」毎日新聞社)。
 同年6月1日上京のため湯河原駅に向かっていた幸徳秋水も逮捕され、当局は関係者が幸徳秋水・管野スガ・宮下太吉・新村忠雄・古河力作ら7名であると発表しました(小林検事正談「東京朝日新聞」明治43年6月5日付)。
 しかしかねて社会主義者を一掃したいと考えていた元老山県有朋(「大山巌」を読む29参照)・首相桂太郎(「坂の上の雲」を読む11参照)・司法省行刑局長兼大審院次席検事平沼騏一郎らの圧力によって司法当局の方針は強硬となり、6月3日には大石誠之助を取り調べたのをはじめとして8月までに和歌山・岡山・熊本・大阪でも関係容疑者26名が逮捕され、逮捕を免れたのは片山潜ら議会政策派と堺利彦・山川均・大杉栄ら赤旗事件などで入獄していた者だけでした。

近代日本人の肖像―人名50音順―は・ほー平沼騏一郎

片山 潜「日本の労働運動」を読む48

 裁判は同年12月10日大審院で開始、裁判長は被告の氏名点呼後、事実審理を非公開とし、検事の起訴内容陳述も公開せず、傍聴人を法廷外に退去させました。「はじめての裁判から最終審まで秘密で、しかも判決に対して上告する道は全然なかった。」(「本書」A)その裁判の様子を弁護人の一人今村力三郎(「田中正造の生涯」を読む29参照)は「裁判所が審理を急ぐこと奔馬の如く一の証人すら之を許さざりしは予の最も遺憾としたる所なり」(「芻言」幸徳秋水全集 別巻1 明治文献)と述べています。
 1911(明治44)年1月18日大審院は大逆罪(改正「刑法」第73条 天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子、又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス・内閣官報局「法令全書」第四〇巻ノ二 明治40年 法律第四十五号 原書房)により幸徳秋水ら被告24名に死刑を判決(「大逆事件判決書」我妻栄他編「日本政治裁判史録」明治・後 第一法規出版)、翌日「天皇陛下の思し召し」で12名が無期懲役に減刑されました「日本労働運動史料」2 東大出版会)。
 同年1月24日幸徳秋水ら11名が処刑され翌日管野スガが処刑されました。減刑された被告たちもその行く末が悲惨を極めたことは申すまでもありません(田中伸尚「大逆事件」岩波書店)。
 大逆事件の死刑実施に対して、海外の社会主義者より日本の在外公館に抗議が集中しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。
 同年2月1日徳富蘆花(「大山巌」を読む45参照)は天皇尊崇の念に厚い人物でしたが「謀叛論」と題する講演を第一高等学校(東大教養学部の前身)で行い、「(前略)明治昇平(世が平かに治まること)の四十四年に十二名といふ陛下の赤子(せきし 人民)、加之(しかのみならず)為す所あるべき者共を窘(くるし)めぬいて激さして(過激化させて)謀叛人に仕立てゝ、臆面(気おくれした顔色)もなく絞め殺した一事に到っては、政府は断じて之が責任を負はねばならぬ。(中略)諸君、幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做(な)されて殺された。が、(中略)自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。」(「謀叛論」(草稿)「明治文学全集」42 徳富蘆花集 神崎清「解題」参照 筑摩書房)と幸徳秋水らの処刑を批判したため、同校長新渡戸稲造らの譴責(けんせき 官吏に対する懲戒の一つ、現在の国家公務員法では戒告に相当)問題に波及しました。

近代日本人の肖像ー人名50音順ーな・のー新渡戸稲造

 永井荷風は1911(明治44)年偶然大逆事件の容疑者を護送する囚人馬車が日比谷の裁判所の方に走っていくのを目撃して「この折ほど云うに云われない厭な心持のした事はなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。」と思いつつも「然し私は世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。」と述べ、「わたしは自ら文学者たる事について甚だしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。」(「花火」1919年 雑誌「改造」に発表・「日本文学全集」永井荷風集 筑摩書房)と述懐しています。

黙翁日録ー大逆事件への処し方ー2010年4月25日 

 1961(昭和36)年1月18日大逆事件被告で無実を訴え続けた生き残りの坂本清馬らは死刑判決50年目で東京高裁に再審を請求しましたが、1965(昭和40)年12月1日東京高裁は再審請求を棄却、同年12月14日坂本清馬は請求を棄却した東京高裁決定に憲法違反があるという理由で最高裁に特別抗告しました。しかし1967(昭和42)年7月5日最高裁は大逆事件再審請求の特別抗告を棄却する決定を下しました。かくして大逆事件は後味の悪い謎を秘めて歴史の闇に消えていくかとも思われます。後味の悪い謎とは何かについて知りたいと思われる方は田中伸尚「前掲書」に詳説されていますのでご覧下さい。
 しかし大逆事件を見直そうという動きは各地域の草の根から拡大している事も確かです(田中伸尚「前掲書」)。

片山 潜「日本の労働運動」を読む49

 議会政策派の片山潜は1908(明治41)年3月15日永岡鶴蔵が鉱夫組合を結成(「社会新聞」39号)したとき幹事として参加、事務所を自宅に置く(「自伝」年譜)など協力したのですが、永岡は足尾へ赴いても滞在することすらできず組合活動は不可能でした。 「我々は絶えず労働者と接触していた。そして彼等を組織しようとしたが、いつも当局の為にぶちこわされた。」(「本書」A) 同年3月19日片山潜の協力者田添鉄二が肺結核のため32年8カ月の若さで永眠したことは片山にとって大きな打撃であったでしょう(岡本宏「前掲書」)。
 片山潜ら議会政策派が引き続き普通選挙運動に熱心であったことは当然です。同年2月4日片山潜・中村太八郎・安部磯雄らは普通選挙同盟会の相談会を神田美土代町の青年会館で開催、普選法案と請願の提出を協議し、同年2月6日普通選挙法案が松本君平ら外2名の代議士によって衆議院に提出されました。同法案は7対3で委員会を通過したのですが、本会議で否決となりました。
 1910(明治43)年2月3日片山潜・中村太八郎の尽力により築地精養軒に木下謙次郎・田川大吉郎の2代議士を交えた会合が持たれ、普選法案を多数党たる政友会代議士に提出させ、その際田川が主任となり尽力すること等が決定されました。
 1911(明治44)年2月25日普選法案が諸派代議士22名によって衆議院に提出され、3月11日同法案は衆議院で可決されましたが、3月15日貴族院で否決されました(衆議院・参議院編「議会制度七十年史」<帝国議会議案等件名録>大蔵省印刷局)。
 同年5月警視庁は普選運動を抑圧するため、普通選挙同盟会に「政治ニ関スル結社(政社)」の届出を命令しました。それまで普通選挙同盟会は治安警察法における「政社」の取り扱いを受けていなかったため、法的に軍人・教員・女子等の入会制限はなく、政党に所属する代議士の入会も自由でした。しかし同会が「政社」として取り締まりの対象となることによって、同会の政党所属代議士は脱会か脱党を選ばねばならなくなり、同年5月29日中村太八郎・片山潜らが出席して総会を開いた普通選挙同盟会は「各政党員其ノ他個人トシテノ助力ニ依頼シテ以テ本会ノ目的ト同一ナル効果ヲ獲得スルニ若カス」(「社会主義者沿革」下)という理由で翌日自発的解散を警視庁に届出たのです。

片山 潜「日本の労働運動」を読む50(最終回)

 1906(明治39)年電車賃値上げ問題をおこした3電車会社(「日本の労働運動」を読む37参照)は合併して東京鉄道会社となりましたが、1911(明治44)年8月1日東京市が買収し、東京市電気局が設置されていました(「交通局五十年史」東京都交通局)。
 しかし同年末に運転手・車掌など従業員に分配された会社解散慰労金が予想よりあまりにも少額で配分が不公平であることを理由に同年12月31日から翌年1月2日の3日間にわたってストライキが勃発しました。
 片山潜は前年12月30日から翌年1月4日にかけて東京市電6000名のストライキを指導しました。
 ところが片山潜らは1912(明治45)1月15日市電労働者を教唆扇動してストライキをさせたとし検挙され(新聞集成「明治編年史」第14巻 財政経済学会)、治安警察法第17条違反で同年4月30日5箇月の懲役に処せられました。
 片山潜が「自伝」を書きはじめたのは獄中にあった同年3月1日からです。
 同年7月30日明治天皇逝去による大赦令で片山潜は千葉監獄を出所しましたが、入獄のため、勤務中の「東洋経済新報」の月給を半減され、生活はますます窮乏の一途をたどったのです(「自伝」年譜)。

To東洋経済ーサイトマップー会社案内ー会社概要ー沿革ー東洋経済新報社の歴史

 大逆事件の判決と処刑が行われた1911(明治44)年1月東京の牛込天神町六番地にある東洋経済新報に石橋湛山が入社、2階編集室に席を与えられましたが、彼の向かいの席は副主幹格の三浦銕(てつ)太郎で、その隣に座るのは片山潜という温厚な人物でした。政府の圧迫で身の置所のない片山潜を主幹の植松考昭と三浦がみかねて入社させていたのです。片山は本名やペンネームで社会問題の論文や劇・音楽・美術・建築の批評などを書いていました。

石橋湛山記念財団―石橋湛山とはー石橋湛山略歴

 石橋湛山が入社して1年後、片山は東京市電労働者のストライキを扇動したとして逮捕投獄され、出獄後もしばらく東洋経済新報に勤務していましたが、結局日本にいられなくなって渡米しました(石橋湛山「湛山回想」岩波文庫)。
 1914(大正3)年9月9日片山潜は横浜出港渡米(「自伝」年譜)、再び日本に帰ってくることはありませんでした。
 「片山氏は後にソ連におもむき、その最後はソ連から国葬の礼を受けた。しかし東洋経済新報社における氏は、率直にいって、そんな大物ではなかった。(中略)われわれは氏から直接社会主義についての議論を聞いたことはなかったが、その人物は温厚、その思想はすこぶる穏健着実で、少しも危険視すべき点はなかった。(中略)けだし当時の片山氏の思想はキリスト教社会主義に属していたものと思われる。(中略)しかるに氏に対する官憲の圧迫ははなはだしく、(中略)私は三浦氏ともしばしば語ったことであるが、片山氏を共産党に追いやったのは、全く日本の官憲であった」(石橋湛山「前掲書」)
2012-04-10 05:45 | 記事へ | コメント(18) |
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片山潜「日本の労働運動」を読む31〜40
2012年03月31日(土)
片山 潜「日本の労働運動」を読む31

 1901(明治34)年7月2日の「万朝報」(「同左」36日本図書センター)紙上に社長黒岩周六の「平和なる檄文、理想的団結を作らん」と題する理想団の趣旨説明があり、同年7月20日開団式が挙行されました。発起人は内村鑑三・黒岩周六・幸徳伝次郎・堺利彦・円城寺清ら8人です。団規第一条には「理想団は団員の誓約に基き、身を正しくして人に及ぼし、以てわが社会を全体を理想に近からしむるを目的とす。」と規定しました。
 1901(明治34)年12月10日田中正造が議会開院式より帰途の天皇に足尾鉱毒事件を直訴(直訴状原案 幸徳秋水執筆)したことは既に述べました(「田中正造の生涯」を読む23参照)。秋水は死を覚悟した田中正造の多年にわたる鉱毒事件との取り組みに疲れ果てた姿を見て、直訴状原案執筆依頼を断ることができなかったようです(師岡千代子「風々雨々―幸徳秋水と周囲の人々」幸徳秋水全集 別巻1 明治文献資料刊行会)。

田中正造とその郷土―田中正造(メイン)−略歴(足跡)−1901 天皇に直訴―(直訴に関する事実)  

 1903(明治36)年日露開戦を不可避とする風潮の下で、同年6月19日幸徳秋水は「開戦論の流行」と題する主張を「万朝報」(「同左」43日本図書センター)紙上に掲げ、七博士(「坂の上の雲」を読む19参照)らの戦争扇動を非難、6月30日には内村鑑三が「戦争廃止論」を掲げ、戦争不可避を主張するものを説得しました。
 ところが万朝報社内の円城寺清らはロシアの満州撤兵第3期日の同年10月8日に万朝報の開戦論への態度決定を求めました(「坂の上の雲」を読む12〜13参照)。
 かくして同年10月12日幸徳秋水・堺利彦(「坂に上の雲」を読む19参照)は「万朝報」([同左]45日本図書センター)紙上に次のような「退社の辞」(「坂の上の雲」を読む19参照)を発表しています。「予等の意見を寛容したる朝報紙も、近日外交の事局切迫を覚ゆるに及び、戦争の終に避くべからざるかを思ひ、若し避くべからずとせば挙国一致当局を助けて盲進せざるべからずと為せること、是亦読者諸君の既に見らるヽ所なるべし。此に於て予等は朝報社に在って沈黙を守らざるを得ざるの地位に立てり、然れども永く沈黙して其所信を語らざるは、志士の社会に対する本分責任に於て欠くる所あるを覚ゆ、故に予等は止むを得ずして退社を乞ふに至れり。」内村鑑三のそれは別に黒岩涙香あての覚書の形式で発表されました([坂の上の雲]を読む19参照)。

片山 潜「日本の労働運動」を読む32

 1903(明治36)年11月15日幸徳秋水・堺利彦は平民社(東京市麹町区有楽町三丁目十一番地の借家 林茂・西田長寿編「平民新聞論説集」解説 岩波文庫)を設立して週刊「平民新聞」を発刊、その宣言において非戦論と社会主義を提唱しました(「万朝報」45明治36年11月14日号広告)。
一方社会活動の激務と生活の困窮、個人的には妻フデの死去(明治36年5月16日 片山潜「自伝」年譜)による経済的・精神的打撃により、生活立て直しとアムステルダムで開催される第2インターナショナル(「坂の上の雲」を読む21参照)第6回大会出席のため、片山潜は同年12月アメリカへ向けて横浜を出港しました(「本書」A)。平民社の設立とともに、社会主義協会の事務所も片山潜の家から平民社に移され、片山の渡米によって、我が国社会主義運動の主導権は安部磯雄・片山潜から幸徳秋水・堺利彦に握られるに至ったのです。

幸徳秋水を顕彰する会―幸徳秋水 各種関連資料―幡多郷土資料館にて撮影―平民新聞

 1904(明治37)年2月10日日本がロシアに宣戦布告後も平民新聞の非戦論は変化しませんでした。同年3月13日付平民新聞第18号は次のような幸徳秋水執筆の社説「与露国社会党書」(林茂・西田長寿編「平民新聞論説集」岩波文庫)を掲げました。
 「嗚呼(ああ)露国に於ける我等の同志よ、兄弟姉妹よ、我等諸君と天涯地角(天のはてと地のすみの意で、両地の遠く隔たっていること)、未だ手を一堂の上に取て快談するの機を得ざりしと雖も、而(しか)も我等の諸君を知り、諸君を想ふことや久し」という有名な文章から始まり、「諸君よ、今や日露両国の政府は各其帝国的慾望を達せんが為めに、漫(みだり)に兵火の端を開けり、然れども(中略)諸君と我等とは同志也、(中略)然り愛国主義と軍国主義とは、諸君と我等の共通の敵也、」と両国同志の連帯を訴える一方で「然れども我等は一言せざる可からず、(中略)我等は憲法なく国会なき露国に於て、言論の戦闘、平和の革命の極めて困難なることを知る、而して平和を以て主義とする諸君が、其事を成すに急なるが為めに、時に干戈(かんか 武器)を取て起ち、一挙に政府を転覆するの策に出(い)でんとする者あらん乎(か)、(中略)是れ平和を求めて却(かえ)って平和を撹乱する者に非ずや、」(「本書」A)と露国社会民主労働党の武力革命も否定しない路線を批判しているのです(「坂の上の雲」を読む20参照)。

片山 潜「日本の労働運動」を読む33

 週刊「平民新聞」(労働運動史研究会編「明治社会主義史料集」別冊3 明治文献資料刊行会)第19号に“TO THE SOCIALISTS IN RUSSIA”として「与露国社会党書」が英訳発表されると、各国に多大の反響を呼び、「平民新聞」同年7月24日付第37号は「露国社会党は之を見て大いに感ずる所やありけん、其の機関新聞『イスクラ』の紙上に於て之に答ふるの一文を発表したり。吾人は未だ直接に右『イスクラ』の露文に接せざれども米国新聞の英訳に依りて其全文を見るを得たり。左に之を訳載す。」と前置きして「日露両国の好戦的叫声の間に於て彼等の声を聞くは、実に彼の善美世界より来れる使者の妙音に接するの感あり」(労働運動史研究会編「前掲書」別冊4・「本書」A)とロシア社会民主労働党は「与露国社会党書」を高く評価しました(「坂の上の雲」を読む21参照)。

独学ノートー単語検索―ロシア社会民主労働党―プレハーノフ

 しかし同党はその革命路線に対する「平民新聞」の批判に対しては「力に対するには力を以ってし、暴に抗するには暴を以ってせざるを得ず。(中略)悲しむべし、此国の上流階級は曾て道理の力に服従したる事なく、又将来然すべしと信ずべき些少の理由だも発見すること能(あた)はず。」(労働運動史研究会編「前掲書」別冊4・「本書」A)と回答、「平民新聞」は「深く露国の国情を憎み、深く彼等の境遇の非なるを悲しまざるを得ず。」と註をつけたのでした。
 同年8月14日片山潜はアムステルダムで開催された第2インターナショナル第6回大会に出席、次のような万国社会党大会報告を週刊「平民新聞」(明治37年10月9日付 第48号)に掲載しました。「十四日は晴天にして(中略)当日の会長(議長)はバンコール、副会長(副議長)は露国代表者プレカノフ(プレハーノフ)氏及び小生の二人、大会の幹事ツルールストラ氏報告の演説を為し、(中略)殊に現時敵国なる日露人プレカノフ及片山両氏が此の会の副会長と成り、共に人類の為めに万国平和の為めに一室に会するは此の上なき快事にあらずやとの言下に小生とプレカノフ氏と会長の前にて握手し、露国人と日本人は友人なることを公表せしに、満堂の拍手喝采数分に及び、一旦我等は席に復したれども会衆は尚も拍手喝采を続けたるを以て、我々は再び立って握手し、以て満堂の激賛に報ゆ、」

片山 潜「日本の労働運動」を読む34

 週刊「平民新聞」発刊のはじめ、しばらくその言論活動を見守っていた政府は次第に取り締まりを強化する方向に転じました。幸徳秋水執筆の社説「嗚呼増税」(明治37年3月27日付 平民新聞第20号・林茂・西田長寿編「前掲書」)が新聞紙条例違反に問われて発売禁止となり、発行編輯人堺利彦は軽禁錮2箇月に処せられ、巣鴨監獄に入獄、ついで石川三四郎執筆の論説「小学教師に告ぐ」(明治37年11月6日付 平民新聞第52号・林茂・西田長寿編「前掲書」)が新聞紙条例違反により、発行人西川光次郎は軽禁錮7箇月・罰金50円、印刷人幸徳秋水は軽禁錮5箇月・罰金50円に処せられ、印刷機没収となりました。
 さらに明治37年11月13日発行の平民新聞第53号は創刊1周年記念号にあたり、幸徳秋水・堺利彦の英訳文重訳「共産党宣言」(岩波文庫)を掲載すると、発売禁止となり(「本書」A)、西川光次郎・幸徳秋水・堺利彦は起訴されました。

独学ノートー単語検索―共産党宣言   

 つづいて同月16日社会主義協会に結社禁止命令が出されました(近代日本史料研究会編「社会主義者沿革」上 日本社会運動史料 第1集 明治文献資料刊行会)。
 このような情勢の中で「平民新聞」は発行が困難となり、同新聞は1905(明治38)年1月29日第64号(赤刷り「新ライン新聞」発禁による終刊の例にならう)で廃刊となりました。

法政大学大原社会問題研究所 OISR.ORG 総合案内―サイト内検索―新ライン新聞

 すでに発行されていた月刊雑誌「直言」が、1905(明治38)年2月5日週刊「平民新聞」の後継紙、週刊「直言」として創刊されました(「本書」A)。
 同年9月5日ポーツマス条約(日露講和条約)が締結されると、東京日比谷で講和条約反対国民大会が開催、政府系新聞社・交番などが焼き打ちされ、この動きは各地に拡大しました。同月6日政府は東京市及び府下5郡に戒厳令を施行(「坂の上の雲」を読む49参照)、治安妨害の新聞・雑誌の発行停止権を内務大臣に与えたので、朝日新聞・万朝報・報知新聞などとともに週刊「直言」も発行停止処分を受けました。かくして「直言」は経理上も破綻し同年9月10日付第32号で廃刊されました。
 さらに同年10月9日平民社内部の思想的(唯物論的社会主義対キリスト教社会主義)・感情的(堺利彦が先妻の死後1年足らずで延岡為子と結婚したことなど「直言」第31号)対立が日露戦争の終結とともに顕在化して、平民社はその歴史的役割を終え解散に至ったのです(労働運動史研究会 明治社会主義史料集 第1集「直言」解説 明治文献資料刊行会)。

片山 潜「日本の労働運動」を読む35

 1905(明治38)年11月10日安部磯雄・木下尚江・石川三四郎(旭山)らキリスト教社会主義者は月刊雑誌「新紀元」を発行、これに対して同年11月20日西川光次郎・山口孤剣ら唯物論的社会主義者は半月刊誌「光」を創刊しました(「明治社会主義史料集 第2〜3集」)。
同年7月28日幸徳秋水は5箇月の刑期を終了して出獄、保養のため小田原に赴き、8月10日小田原から無政府主義者アルバート・ジョンソンあて返書において次のように述べています。
『五ヵ月間の禁錮生活は甚しく私の健康を害ひましたが、しかし私はそのために社会問題に関する多くの知識を得ました。(中略)私が獄中で読みました沢山の著書の中には、(中略)特にあなたのお送り下されたラッドの「ユダヤ人及クリスチャンの神話」と、クロポトキンの「田園、工場、製作所」とは幾度となく読み返しました。(中略)事実を申せば、私は初め「マルクス」派の社会主義者として監獄に参りましたが、其の出獄するに際しては、過激なる無政府主義者となって娑婆(しゃば 牢獄の外の自由な世界)に立戻りました。(中略)』(「書簡」塩田庄兵衛編「幸徳秋水の日記と書簡」未来社) 
 この文章通り秋水が渡米以前このような思想的転換をしてしまったかどうかは疑問です(「世界革命運動の潮流」『光』16号参照)。

独学ノートー単語検索―無政府主義 

 同年11月14日秋水は多くの外国革命党の領袖を歴訪し、彼等の運動から何物かを学ぶため其の他の理由で渡米しました(塩田庄兵衛編「前掲書」)。
他方同年12月6日社会主義者の提案で理想団・新紀元社・普通選挙同盟会・国家社会党・印刷工組合誠友会・光社ほか8団体の代表が普通選挙連合会を結成しました。1906(明治39)年2月11日普通選挙全国同志大会が開催され、「吾人は日本人民にして成年に達したるものは総(すべ)て衆議院議員の選挙権を有するを以て合理的にして且つ急務なりと信ず。仍て之れを決議す」という決議文を決定、同年2月20日山路愛山・中村太八郎・堺利彦らが衆議院に赴き、奥野市次郎ら議員を通じて上記決議文と普通選挙請願書を提出しました(松尾尊~「大正デモクラシーの研究」青木書店)。

片山 潜「日本の労働運動」を読む36

 1905(明治38)年12月21日第一次桂太郎(長州閥・「坂の上の雲」を読む11参照)内閣は日露講和をめぐる前記騒擾事件をきっかけとする民衆運動の高まりの中で総辞職し、元老会議を経た桂太郎の推薦により、1906(明治39)年1月7日第一次西園寺公望(1903立憲政友会総裁・「火の虚舟」を読む9参照)内閣が成立しました(「官報」)。
 西園寺公望内閣は、その成立と同時に社会主義者の団体であっても、その実際の行為を見て処置するとの方針を決定しました(立命館大学編「西園寺公望伝」第3巻 岩波書店)。
 同年1月14日西川光次郎らは日本平民党を、同月28日には堺利彦らが日本社会党を結成、結社届は受理されました。そこで同年2月24日両党合同の日本社会党第1回大会が開催され、党則の起草は評議員に一任、堺利彦・片山潜・西川光次郎・森近運平・田添鉄二(「日本の労働運動」を読む39参照)ら13人の評議員を選出、さらにその中から堺利彦・西川光次郎・森近運平ら3名が常任幹事に選ばれました。2月27日評議員会で決定された党則第1条は「本党ハ国法ノ範囲内ニ於テ社会主義ヲ主張ス」と規定しています(近代日本史料研究会編「社会主義者沿革」上 日本社会運動史料 第1集 明治文献資料刊行会)。評議員に選出された片山潜は同年1月18日アメリカから帰国していたのです(片山潜「自伝」年譜)。同党には安部磯雄・木下尚江・石川三四郎ら「新紀元」派のキリスト教社会主義者や渡米中の幸徳秋水も参加していませんでした。

Kei′s Café―日本史―資料―政党変遷―戦前

片山 潜「日本の労働運動」を読む37

 結党直後の日本社会党が直面した問題は東京市電運賃値上げ反対運動でした。当時東京市電は東京市街鉄道(街鉄)・東京電車鉄道(東電)・東京電気鉄道(外濠)の3社が経営していましたが、この3社が共同で3銭の運賃を5銭に値上げしようとしたため、1906(明治39)年3月11日日本社会党は前年8月結党の山路愛山・中村太八郎らの国家社会党と共同で日比谷公園において東京市電値上げ反対市民大会を開催、雨天にもかかわらず参加者があり、同年3月15日の第二市民大会には多数の参加者がありました(木下尚江「嗚呼三月十一日」『新紀元』第6号)。

写真紀行・旅おりおりー史跡を訪ねるー墓地・終焉の地―やー山路愛山

しかるに散会後、大衆の一部は「電車賃値上げ反対、日本社会党」と大書した赤旗数流を掲げて示威行進、その際に電車会社・電車・市役所などに投石したものがあり、警視庁は兇徒嘨集罪で日本社会党の西川光次郎・山口孤剣・大杉栄らを逮捕起訴しましたが(辻野功「前掲書」)、同年3月23日内務大臣原敬(「田中正造の生涯」を読む28参照)は3社の値上げ申請を却下しました。

静岡東方見聞録―ようこそ静岡市へー歴史散歩―アナーキスト大杉栄、静かに眠るー大杉栄(1885-1923)

 ところが同年6月28日3社は合併して再び内務大臣に値上げ申請、内務大臣は9月11日から乗車料金を3銭から4選に値上げを認め、通行税を含めて5銭とすることで許可を下したのです。
 日本社会党は国家社会党や新紀元社とも提携して乗車ボイコット運動を呼び掛け、9月5日には本郷座で電車賃値上げ反対市民大会を開催、また日比谷公園でも市民大会が開かれました。9月5日から7日にかけて3夜で破損した電車は54台、8日の朝までに器物損壊・電車妨害の罪で検挙されたものは94名に達しました(辻野功「前掲書」)。
 それでも東京市電運賃値上げ反対運動は成功しませんでしたし、民衆の一部が暴動化したのは遺憾ですが、日本社会党が他の勢力と協力して公然と大衆運動を組織することに成功した意義は高く評価されるべきでしょう。

片山 潜「日本の労働運動」を読む38

 1905(明治38)年11月29日幸徳秋水はシャトルに到着、12月5日サンフランシスコに入り、同月10日アルバート・ジョンソンの紹介で社会革命党系のロシア亡命者フリッチ夫人の許に下宿することになりました。12月17日フリッチ夫人は普通選挙の無用を、同月23日彼女は治者暗殺のことを論じました(「渡米日記」塩田庄兵衛編「幸徳秋水の日記と書簡」未来社)。
 1906(明治39)年4月18日サンフランシスコで大地震が発生しましたが、秋水は此の時の経験を次のように述べています。
 「去る十八日以来、桑港全市は全く無政府的共産制(Anarchist Communism)の状態に在る。商業は総て閉止、郵便、鉄道、汽船(附近への)総て無賃、食料は毎日救助委員より頒与する、食料の運搬や、病人負傷者の収容介抱や、焼迹の片付や、避難所の造営や、総て壮丁が義務的に働く、買ふと云っても商品が無いので、金銭は全く無用の物となった、財産私有は全く消滅した、面白いではないか、」(「無政府共産制の実現(桑港)4月24日」「光」第13号 明治39年5月20日)

防災システム研究所―サンフランシスコ地震の教訓 

 同年6月23日幸徳秋水は横浜に入港、6月28日神田錦輝館における日本社会党演説会で「世界革命運動の潮流」(要旨「光」第16号)と題して議会主義か、直接行動かの問題を次のように提示したのです。
 「将来革命の手段として欧米同志の執らんとする所は、(中略)唯だ労働者全体が手を拱して何事も為さヾること、数日若くは数週、若くば数月なれば即ち足れり、而して社会一切の生産交通機関の運転を停止せば即ち足れり、換言すれば所謂総同盟罷工を行ふに在るのみ。」と世界革命運動の潮流を述べ、さらに日本のそれについて「我日本の社会党も、従来議会政策を以て其主なる運動方針となし、普通選挙の実行を以て其第一着の事業となせり、(中略)然れども予は去年獄中に在りて少しく読書と考慮とを費せるの結果、私かに所謂議会政策の効果如何を疑ひしが、後ち在米の各国同志と相見るに及びて、果然彼等の運動方針が、一大変転の機に際せるを感ぜり。」と議会政策への疑念を表明したのですが、「予は今日本の国情に疎なり、敢て軽々しく断ずるを得ず、(中略)諸君乞う指教を吝まざれ」と結論を保留しました。

片山 潜「日本の労働運動」を読む39

 かかる幸徳秋水の主張に対して、従来の普通選挙運動を重視する議会政策派田添鉄二・片山潜・西川光次郎らは対抗して論陣を展開、両派の対立は激化しました。
 議会政策派の一人片山潜は1906(明治39)年8月第3回の渡米で日本におらず、同派の中心的論客となったのは田添鉄二です。
 彼は1875(明治8)年7月24日、熊本県飽託(ほうたく)郡中緑村の生まれで、熊本英学校や長崎の鎮西学院などのキリスト教主義学校に学び、1892(明治25)年日本メソジスト熊本教会で受洗しました。1898(明治31)年渡米、ベーカー大学からシカゴ大学に移り社会学を専攻しました。大学での講義のほかに彼が影響をうけたのはシカゴ市街頭にいつも見られる政治家と市民の街頭討論会でした。
 1900(明治33)年帰国、「長崎絵入新聞」主筆となり、やがて「鎮西日報」に移りましたが、社主と意見が合わず、1904(明治37)年上京、私塾を開き英語を教授していました。
 彼は著書「経済進化論」を平民文庫として出版したことから平民社と接触して社会主義運動に加わるようになり、平民社解散後は主として「新紀元」を応援しました。日本社会党が結成されると、評議員に選出され、同党議会政策派の理論的指導者となるに至ったのです(岡本宏「田添鉄二:明治社会主義の知性」岩波新書)。

全国名前辞典―た3−田添鉄二 

片山 潜「日本の労働運動」を読む40

 1906(明治39)年10月25日発行の「光」第25号は日本社会党が平民社を再建、1907(明治40)年1月中旬機関紙日刊「平民新聞」を発行することを声明、「光」は明治39年12月25日発行の「光」第31号をもって廃刊、「新紀元」派の安部磯雄・石川三四郎らも日刊「平民新聞」を応援しましたが、木下尚江は社会主義を捨て、伊香保に隠棲して宗教的著述に専念する姿勢をとりました(年譜「木下尚江全集」第19巻 教文館)。

Web新富座―口上―Web新富座―第61回 平民社と新富座(1)

 かくして1907(明治40)年1月15日創刊された日刊「平民新聞」において、幸徳秋水が『余は正直に告白する、「彼の普通選挙や議会政策では真個の社会的革命を成遂げることは到底出来ぬ、社会主義の目的を達するには、一に団結せる労働者の直接行動(ヂレクト、アクション)に依る外はない」、余が現時の思想は実に如此(かくのごと)くである』(「余が思想の変化」日刊「平民新聞」第16号 明治40年2月5日・「平民新聞論説集」岩波文庫)と持論の直接行動論を主張しました。
 これに対して田添鉄二は「今日まで社会改革に志す人々の往々陥り易き短所は、社会の革命を以て、一活劇の下に実現し得るという思想である、(中略)即ち社会全体の進化其物には些(さ)の考慮を払わないで、個人の力、団体の力を神の如くに過信する思想である。」と直接行動派を批判、「社会は人為の創造でなく自(おのずか)らなる進化である。革命とは、即ち此自らなる社会進化作用を指して云ふたのである。(中略)最近四十余年間に於ける日本を顧みよ、吾人は欧米人が数百年を要せし社会革命を四十余年間に成し遂げたのである。(中略)故に吾人が社会の進化革命に向って為し能(あた)ふ事は、即ち新社会を神の如くに創造するといふことでなく、(中略)全く社会進化の動力を利導促進するといふことに止まるのである。」と革命を進化論的に理解し、「吾人の往くべき道は、なるべく犠牲少なくして効果の大なる所を選ばねばならぬ、(中略)予は飽くまでも日本社会党運動の常道として、左の方針を取りたいとおもふ。」として「@平民階級の教育 階級的自覚の喚起 A平民階級の経済的団結運動 B平民階級の政治的団結運動 C議会政策」の諸政策を提示しました(「議会政策論」」日刊「平民新聞」第24・25号 明治40年2月14〜15日・「平民新聞論説集」岩波文庫)。
2012-03-31 07:31 | 記事へ | コメント(2) |
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片山潜「日本の労働運動」を読む21〜30
2012年03月21日(水)
片山 潜「日本の労働運動」を読む21

 かくして明治時代の組織的な労働運動は僅かな例外を残して壊滅状態に陥ったのです。僅かな例外としては「活版工組合誠友会」と「大日本労働至誠会」が挙げられます。
 活版工組合誠友会は活版工組合規約運用停止とともに結成され、機関雑誌「誠友」を発刊、労働条件の改善、治安警察法の廃止、普通選挙法発布等を主張しました。その活動にあたり岸上克己は「(活版工)組合の失敗に鑑みる所あり、誠友会は決して世の名士なるものを頼まず、また資本主の協力をも冀(こいねがわ)ず、飽迄(あくまで)も職工の自力によってのみ活動せんことを期せり。」(附録(6)「活版工の過去及現在附将来為すべき事業」本書@)とのべています。
 大日本労働至誠会は1902(明治35)年春南助松と永岡鶴蔵が北海道夕張炭鉱の坑夫を組織して結成(「日本労働運動史料」1 東大出版会)されたもので、やがて1906(明治39)年には南助松が夕張炭鉱から足尾銅山に移ってくると、同会足尾支部が結成され、労働至誠会の坑夫待遇改善運動が活発となっていくのです(「日本労働運動史料」2・辻野功「明治の労働運動」紀伊国屋新書)。

オンライン版 二村一夫著作集―総目次―別巻2 新史料発掘―13 [資料紹介]永岡鶴蔵自伝「坑夫の生涯」      

 日本の労働運動にとって極めて困難なこの時期において、もっとも必要であったのは、活版工組合誠友会の岸上克己や大日本労働至誠会の南助松・永岡鶴蔵のように地味な取り組みで、片山潜も後に南助松と永岡鶴蔵の活動を世界に紹介しています(「本書」A)。

片山 潜「日本の労働運動」を読む22

 安部磯雄(「田中正造の生涯」を読む24参照)は1865(慶応1)年2月4日福岡黒田藩下級武士岡本権之丞の次男として生まれました。磯雄が新島襄(「米欧回覧実記」を読む4参照)によって1875(明治8)年に設立された同志社英学校に入学したのは1879(明治12)年9月のことでしたが、その目的は海軍軍人になろうとして英語を学ぶためで、当時キリスト教を邪教であると思い込んでいた磯雄は、同英学校がキリスト教主義の学校であることを知らずに入学したのです。
 徴兵検査が近くなると、私立学校であった同志社英学校には官立学校と異なり徴兵免除の特典がなかった(「日本の労働運動」を読む11参照)ので、郷里の父の指示と手続きにより、彼は養子ではなく戸主になるために、19歳の時、33歳の独身女戸主の所へ10〜15円を提供する代わりに、彼女と形式的結婚をして兵役免除適用者となりました。かくして磯雄は竹内姓を名乗ることになりましたが、1885(明治18)年徴兵令改正が行われ、徴兵免除の特典は60歳以上の老人を扶養する義務を負う者に限定されることとなったのです。磯雄の父はあわてて磯雄を竹内家から離縁してもらい、「年は六十以上の婦人、実子はあるけれども籍は別になっている。実子が彼(老婦人)を扶養しているのでなんら他の者に厄介をかける必要はない」(安部磯雄「社会主義者となるまで」改造社)という家を見つけ、15円を贈ってその家の養子となり、彼は安部磯雄と名乗るに至ったのです。

学校法人 同志社―新島遺品庫資料―部分公開コースーHTML版―同志社のはじまりー英学校

片山 潜「日本の労働運動」を読む23

 安部磯雄は5年間の同志社における学生生活で新島襄の人格と思想に大きな影響を受けました。新島はすすんで学生の行事に参加して学生との交流に努め、「私共は神の前において誰も同胞兄弟であるから、今後皆さんはどうぞ私を新島さんと呼んで下さい」(安部磯雄「前掲書」)と学生に要求、また彼は学生を呼び捨てにせず、どんな人も何々さんと呼びました。磯雄が同志社に入学した翌年、有名な「自責の杖」事件が起こりました。

学校法人 同志社―新島遺品庫資料―部分公開コースーHTML版―新島襄ディスコグラフィーー1879〜1883―1880年(明治13)年4月13日―イラストーショートストーリー

磯雄は「自責の杖」事件について何も言及していませんが、このような新島の態度に驚嘆、2年生になると海軍軍人志望を放棄してキリスト教に深い関心をもつようになったのです。
 きっかけは1880(明治13)年12月末期末試験の勉強中鼻と唇の間に腫物ができ、府立病院で診察の結果、瘍(ちょう 皮膚下の化膿性疾患 激痛を伴い、死に至ることもある)の手術をうけ、数日間生死の境をさまよいました。
 この時磯雄は「若し基督教の説くが如く死後尚ほ来世があるとすれば、私共は敢て死を恐れるに足らぬではないか。然し永遠の生命ということが果して事実であるかどうか。幸にして此度死を免れることが出来るならば、真剣に基督教を研究しよう。」(安部磯雄「前掲書」)と決心、1882(明治15)年2月5日同級生らとともに、今出川通の第一教会で新島襄から洗礼を授けられました。
 磯雄は同志社の北に位置する臨済宗相国寺境内をよく散歩したものですが、そこで彼は乞食の姿をよく目にし、明治維新後豊かな生活は一変して貧乏となった磯雄の心情を揺さぶりました。1883(明治16)年はじめて経済学を学んだ磯雄は「精神生活は宗教により、物質生活は経済学によりて指導されるべきものである」(安部磯雄「前掲書」)という抽象的な結論を得たに過ぎませんでした。
 1884(明治17)年同志社英学校を卒業後、しばらく母校の教員を勤め、やがて岡山教会に赴任、1891(明治24)年同教会からアメリカのハートフォード神学校(コネチカット州)に留学、1893(明治26)年6月夏季休暇を利用してニューヨーク市の社会事業見学に赴きました。同じころ磯雄はエドワード・ベラミー(Edward Bellamy)の小説「百年後の社会」(Looking Backward  警醒社書店)を読んで「恰(あたか)も盲者の目が開いて天日を仰いだ」(安部磯雄「前掲書」)感があったということです。

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 「現在の経済組織には貧乏が発生するという必然的素因が含まれて居る。これを社会主義に改造すれば貧乏問題も根本的に解決されることになる。」(安部磯雄「前掲書」)これが「百年後の社会」を読んだ安部の感想でした。

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 安部磯雄は3年間アメリカ留学後、さらにベルリン大学で研鑚して1895(明治28)年2月帰国、洪水で被害を受けた岡山教会の再建に尽力し、1897(明治30)年1月再び同志社の教壇にもどりました。ところが当時の同志社では学校のあるべき姿をめぐって小崎弘道と湯浅治郎が対立していました。この騒動にまきこまれた磯雄は在職2年で同志社を退職、1899(明治32)年岸本能武太(一緒に洗礼をうける)の推薦で東京専門学校(早稲田大学の前身)講師となったのです。同年彼は社会主義研究会に加入しました。

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 社会主義研究会は1898(明治31)年10月結成(「『六合(りくごう)雑誌』の研究」教文館)され、「本会ハ社会主義ノ原理ト之ヲ日本ニ応用スルノ可否ヲ考究スルヲ目的トス」という性格の団体で、その本部はユニテリアン協会の惟一館(芝区四国町)に設置されました。
 本会の理論的指導者は村井知至で、その他岸本能武太・片山潜・幸徳秋水らが加入、主流はユニテリアン派のクリスチャンで、片山潜はユニテリアン派ではなかったが、クリスチャンであり、キリスト教と無縁な幸徳秋水は異色の存在でした。
 社会主義研究会は1900(明治33)年1月28日、会の名称を社会主義協会と改め(労働運動史料委員会「日本労働運動史料」2 東大出版会)、「社会主義の原理を討究し、之を我邦に応用するを以て目的とす。」(規約第2条)という性格をもつ団体となり、会長は安部磯雄、幹事は片山潜でその本部を片山潜の経営するキングスレー館に設置することになりました。

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 すでに述べたように労働組合運動は治安警察法の制定によって、ほとんど壊滅に近い状態となり、その行きづまりを労働者政党結成によって打開しようとするに至りました(「日本の労働運動」を読む21参照)。日鉄矯正会は「若し社会主義を基礎として政党が組織されるならば、二千有余の組合員は悉くこれに参加すべし」と片山潜に伝えてきたほどでした(安部磯雄「明治三十四年の社会民主党」社会科学 辻野功「前掲書」引用)。
 かくして社会主義協会の安部磯雄・片山潜・幸徳秋水・西川光次(二)郎・河上清・木下尚江6名は1901(明治34)年5月18日「社会民主党宣言書」(安部磯雄起草)を発表して「社会民主党」を結党(労働運動史料委員会「日本労働運動史料」2 東大出版会・「本書」A)しました。

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 社会民主党の母胎となった社会主義協会の主流がアメリカ留学の安部磯雄・片山潜にあり、同党結成に参加した6名中5名までがキリスト教信者であったため、社会民主党宣言・綱領はアメリカ的でキリスト教的であったのは当然でしょう。同党宣言は米ウイスコンシン大学教授イリー博士の著作「社会主義と社会改良」が参考とされ、綱領にも反映しているのです(赤松克麿「日本社会運動史」岩波新書)。
 社会民主党宣言は次のような文章から始まっています。「如何にして貧富の懸隔(かけ離れること)を打破すべきかは、實に二十世紀に於けるの大問題なりとす。」
 続いて当時の日本の現状を「今や我国に於ける政治界の有様をを見るに、政治機構は全く富者の手中に在るものゝ如し。貴族院が少数の貴族富豪を代表するは言ふまでもなく、衆議院と雖も其内容を分析すれば悉く地主資本家を代表せるものにあらざるはなし。(中略)然れども記憶せよ国民の大多数を占むるものは田畠に鋤鍬を採る小作人、若くは工場に汗血を絞る労働者なることを。」と指摘、「我党は(中略)社会主義と民主主義に依り、貧富の懸隔を打破して全世界に平和主義の勝利を得せしめんことを欲するなり。故に我党は左に掲ぐる理想に向って着々進まんことを期す。」として軍備全廃など8項目の理想綱領と、全国の鉄道・電気瓦斯事業・都市における土地などの公有・酒税など消費税の全廃とこれに代えるに相続税などの直接税を以ってすること・少年、婦女子の夜業禁止・一日の労働時間を8時間に制限・労働組合法と小作人保護法の制定・普通選挙法、公平選挙法(比例代表制)、重大問題に関する一般人民の直接投票制実施・貴族院廃止・軍備縮少・治安警察法の廃止など28項目の実践綱領を掲げました。
 同宣言はさらに「帝国議会は吾人が将来に於ける活劇場なり、多年一日我党の議員国会場裡に多数を占めなば、是れ即ち吾人の抱負を実行すべきの時機到達したるなり。(中略)選挙権にして一たび多数人民の手に帰せんか、(中略)之に加ふるに公平選挙法を採用して、少数者の意見をも代表し得るの途を開かば、(中略)尚ほ諸君の代表者を議会に送るを得べし。故に我党は其目的を達する最初の手段として、先づ選挙法の改正を絶叫せんと欲す。」と述べ、民主主義的手段による社会主義の実現を主張しました。
  この「社会民主党宣言書」は「労働世界」、東京の「万朝報」「毎日新聞」「報知新聞」などの日刊新聞、京都の地方紙「日出新聞」に掲載報道されました(「本書」A注)。
 社会民主党結成の動きを察知した当局が派遣した刑事を安部磯雄は共鳴者とし、同宣言書が印刷される数日前、所轄警察署長が安部磯雄を訪問、綱領の中の軍備全廃及び縮少・一般人民直接投票制・貴族院廃止の3項目を削除するならば、結党を許可するとの政府側の内意を伝えましたが、安部磯雄はこれを拒絶しました(「明治三十四年の社会民主党」「社会科学」)。
同年5月20日治安警察法第8条第2項違反を理由に社会民主党は結社禁止となり、同宣言書を報道した紙誌は差し押さえられ、安寧秩序紊乱で起訴されました(「官報」)。安部磯雄らは経済問題を中心に綱領を作成することにして、同年6月3日社会平民党の結社届を出しましたが、これも即日禁止となったのです(労働運動史料委員会「日本労働運動史料」2 東大出版会)。

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 社会主義研究会と普通選挙期成同盟会の正式接触は1900(明治33)年1月28日の社会主義研究会第11回例会において同上同盟会幹事北川筌固と小野瀬不二人が、すでに両組織に属していた幸徳秋水の紹介で同上研究会に入会、その時北川筌固が普選運動の現状について報告したことに始まります。このことがきっかけで、社会主義研究会の村井知至・安部磯雄らが同盟会に加入、同上同盟会側でも中村太八郎・木下尚江らが社会主義協会に加盟することになりました(辻野功「前掲書」)。
 1901(明治34)年4月3日二六新報社主催東京向島において開催された第1回日本労働者大懇親会は参加者3万人余といわれ、片山潜の提案によって工場法と普通選挙法の制定を要求することを決議しました(労働運動史料委員会「日本労働運動史料」1 東大出版会)。
 かかる普選運動の活発化を背景として、1902(明治35)年2月12日中村弥六・花井卓蔵・河野広中らは最初の普通選挙法案を衆議院に提出しましたが、同年2月25日否決されました[衆議院・参議院編「議会制度七十年史」(帝国議会議案等件名録)大蔵省印刷局・松尾尊~「前掲書」]。普選法案は当時の納税資格10円以上[1900(明治33)年山県有朋内閣のとき、納税資格は10円以上に引き下げ、「火の虚舟」を読む18参照]の人々の反発を買ったのです。

近代日本人の肖像―人名50音順―か・こー河野広中

 1902(明治35)年から翌年ころになると、はじめ普通選挙期成同盟会の主流は自由民権運動の流れに属しながらも、その中心からはずれた人々でしたが、やがて片山潜・幸徳秋水・安部磯雄・木下尚江・西川光次郎らの社会主義者に移行していったといえるでしょう。
 1903(明治36)年日露両国関係の緊迫とともに普通選挙同盟会は主戦論と非戦論で対立激化、事実上解体してしまいました。

片山 潜「日本の労働運動」を読む27

 幸徳秋水は1871(明治4)年9月22日父幸徳篤明・母多治子の3男伝次郎として、高知県幡多郡中村町(現 四万十市)に生まれました。父篤明は薬種業・酒造業を営んでいましたが、伝次郎が2歳のとき死去、以後母の手でそだてられました。
 彼は高知中学校中村分校在学中1885(明治18)年分校が暴風雨で倒れて廃校となり、同級生たちは本校の高知中学校へ転校しましたが、家が貧しかった優等生伝次郎は転校をあきらめ、憂鬱な日々を酒に紛らわせていました。1887(明治20)年8月17日伝次郎は旅費50銭をもち高知へ家出、自由民権運動発祥の地であった高知では条約改正問題への反対論で盛り上がり、郷土出身の谷干城と板垣退助が脚光をあびた存在でした(「大山巌」を読む26参照)。伝次郎少年は本を売って得た4円50〜60銭を入手、友人とともに上京して郷土出身の林有造の世話で林の兄岩村通俊の別邸に住むこととなりました。

宿毛文教センターー宿毛歴史館―宿毛人物史―岩村通俊

 ところが同年12月25日保安条例が発布され、条約改正反対を叫んでいた人々は24時間ないし3日以内に東京を退去させられました。伝次郎も土佐出身だというそれだけの理由で東京を去らねばならなくなったのです。彼はとぼとぼと東海道を徒歩で郷里へ向かいました。「嗟(ああ)帰路実に寒かりし、飢えたりし。」(「後のかたみ」塩田庄兵衛編「幸徳秋水の日記と書簡」未来社) この辛い思い出を彼は終生忘れることができなかったのです(田中惣五郎「幸徳秋水」三一書房)。

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 1888(明治21)年10月1日保安条例は解除、上京勝手次第となったので、伝次郎は親友横田金馬が当時大阪で角藤定憲と壮士芝居を創始、保安条例で大阪に来て「東雲新聞」を発行していた中江兆民が壮士芝居の顧問をしていた関係をたどって中江兆民の学僕に住み込むことになりました(「火の虚舟」を読む17参照)。
 1889(明治22)年2月11日大日本帝国憲法発布とともに大赦令が公布され、保安条例処刑者中江兆民も自由の身となり、やがて東京と大阪を往復、同年10月東京表神保町に定住するに至り、伝次郎は相変わらず中江宅の玄関番をしていました。
 1890(明治23)年7月1日第1回衆議院選挙が実施され、中江兆民は大阪から立候補当選しました(「火の虚舟」を読む18参照)が、伝次郎は総選挙以前病気に倒れ同年9月帰郷、翌年4月三度目の上京後、再び病に倒れて療養生活を続け、国民英学会に入って英語学習に努めました。1893(明治26)年23歳で国民英学会卒業、同年3月伝次郎は一時離れていた中江家に戻り、「自由新聞」の翻訳記者として採用され、中江兆民から秋水の号を与えられました(「火の虚舟」を読む19参照)。
 自由新聞入社とともに秋水は中江家の玄関番をやめ、1895(明治28)年2月広島新聞に移り、以後転々と勤務先を変えながら、1896(明治29)年4月麻布市兵衛町に借家で一戸を構えて故郷から母を呼びよせ、友人の世話で旧久留米藩士某の娘で17歳の朝子と結婚しました。すでに年少で吉原通いをしていた秋水でしたが、無教養なこの娘にあきたらなかったらしく、彼女を里帰りさせて、あとから三行半(離縁状)を郵送したのです。
 1898(明治31)年2月秋水は中江兆民の紹介で黒岩涙香(「田中正造の生涯」を読む22参照)創刊の「万朝報」記者となりました。

高知県立文学館ー常設展示ご案内ー常設展示室ー近代文学ー「黒岩涙香と万朝報」

 1899(明治32)年7月秋水は師岡正胤(節斎 国学者)の次女千代子(戸籍名千代)と再婚しました。彼女は父の薫陶をうけて国文ばかりか英仏語にも通じる才媛だったようです。

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 1898(明治31)年11月18・19日、秋水が万朝報(「同左」25日本図書センター)に論文「社会腐敗の原因と其救治」を発表すると、村井知至・片山潜は秋水に社会主義研究会入会を勧誘、秋水は喜んで同月20日惟一館において開催された同研究会第2回例会に出席しました(週刊「平民新聞」54号)。さらに翌年6月25日同研究会第8回例会で秋水は「現今の政治社会と社会主義」と題する発表を行い、彼が思想的に社会主義へ傾斜していったことがわかります。つづいて1900(明治33)年2月17・18日の「万朝報」(「同左」30日本図書センター)で治安警察法公布に先立ってかれは同法を批判攻撃しました。
 同年の義和団の乱(「大山巌」を読む49・50参照)に際して、日本は列国とともに派兵、日本軍の規律はロシア軍の清国民に対する蛮行に比して立派だと喧伝されましたが、実は日本軍にも分捕(馬蹄銀)事件(「坂の上の雲」を読む19参照)と呼ばれる略奪行為がありました。おそらく幸徳秋水らはこれを「万朝報」(「同左」37・38日本図書センター)[無署名「北清分捕の怪聞」1901(明治34)年12月1日〜1902(明治35)年1月19日まで連載]でとりあげ、きびしく追及したため、当時陸軍少将真鍋斌を休職に追い込み、山県有朋ら軍部の恨みを買って、これが後の大逆事件の遠因になったとする研究があります(小林一美「義和団戦争と明治国家」汲古書院)。
 1900(明治33)年6月1日憲政党(旧自由党系)総務は伊藤博文に党首就任を要請したところ、同年7月8日伊藤はこれを断り、新党組織を示唆、8月23日憲政党総務は新党への無条件参加を申し入れました。8月25日伊藤博文は政友会創立委員会を開き、宣言および趣意書を発表すると、9月13日憲政党臨時大会は政友会参加のため解党を宣言、9月15日立憲政友会発会式(総裁 伊藤博文)が挙行されました(「大山巌」を読む48参照)。大阪毎日新聞主筆原敬も同会創立慰労会に参加しました(「原敬日記」第1巻 明治33年9月15日条 福村出版株式会社)。

横浜金沢見てあるきー附録―日本史ミニ事典―図表―政党の変遷

 同年8月26日付の手紙で、中江兆民は幸徳秋水に立憲政友会を批判した「祭自由党文」を執筆するよう依頼、これに応えて秋水は同年8月30日「万朝報」(「同左」32日本図書センター)に「自由党を祭る文」を掲載しました(「火の虚舟」を読む20参照)。

忠臣蔵―高校日本史―日本史史料集(近代編)―10 立憲自由党〜政党政治への批判―1107自由党を祭る文

 「歳は庚子(明治33年)に在り八月某夜、金風(秋風)浙瀝(せきれき 風が木を鳴らす音)として露白く天高きの時、一星忽焉(こつえん たちまち)として墜ちて声あり、嗚呼(ああ)自由党死す矣。」という有名な文章から始まるこの祭文(祭祀の時、神霊に告げる文)はつづいて「専制抑圧の惨毒滔々四海に横流し、維新中興の宏謨(こうぼ 大きなはかりごと)は正に大頓挫をを来たすの時に方(あた)って、祖宗(現代以前の代々君主の総称)在天の霊は嚇として汝自由党を大地に下して、其呱々(乳飲み子の鳴き声)の声を揚げ、其円々の光を放たしめたりき。」と述べ、明治維新を天皇制中興とし、これを妨害するのが専制官僚で、自由民権運動は「祖宗在天の霊」によって生まれたと主張、民衆の動向に言及していません。
 また「吾人年少にして林有造君の家に寓す、一夜寒風凛冽の夕、薩長政府は突如として林君等と吾人を捕へて東京三里以外に放逐せることを、当時諸君が髪指の状宛然(そっくりそのまま)目に在り。忘れざる所也。」と保安条例の恨みを忘れていないようです。

片山 潜「日本の労働運動」を読む30

 1901(明治34)年4月20日秋水は「廿世紀の怪物帝国主義」(幸徳秋水「帝国主義」岩波文庫)を発表、内村鑑三はこの著作に序文を寄せ「友人幸徳秋水君の『帝国主義』成る、君が少壮の身を以て今日の文壇に一旗を揚るは人の能く知る処なり、君は基督信者ならざるも、世の所謂愛国心なるものを憎むこと甚し、君は曾て自由国に遊びしことなきも真面目なる社会主義者なり、余は君の如き士を友として有つを名誉とし、茲に此独創的著述を世に紹介するの栄誉に与かりしを謝す。」と述べています。

法政大学大原社会問題研究所 OISR.ORG 総合案内―大原デジタルライブラリーー大原クロニカー「社会労働運動大年表」解説編―全項目一覧―1901-5−<廿世紀之怪物帝国主義>[文]1901.4.20 ―<社会主義神髄>1903.7.5

 同年5月18日幸徳秋水も参加した社会民主党が結党され(「日本の労働運動」を読む27参照)ましたが、同月20日治安警察法により結社禁止となったことは既に触れた通りです。幸徳秋水の提唱で事務所を秋水の自宅(麻布宮村町)に置く「社会平民党」が社会民主党実践綱領の国民投票・死刑廃止・貴族院廃止・軍備縮少・治安警察法ならびに新聞紙条例廃止の諸項を削除(近代日本史料研究会編「社会主義者沿革」上 日本社会運動史料 第1集 明治文献資料刊行会)、同年6月3日結社届出をしましたが、再び結社禁止となりました。
2012-03-21 05:44 | 記事へ | コメント(0) |
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片山潜「日本の労働運動」を読む11〜20
2012年03月11日(日)
片山 潜「日本の労働運動」を読む11

 1886(明治16)年夏ころ、岡塾・攻玉社の友人の一人岩崎清吉が来年徴兵検査の年で心配しているのを見て片山潜は彼に渡米を勧めたのでした。
 ところが岩崎清吉に渡米を勧めた片山潜は岩崎の郷里の森鴎村漢学塾幹事の待遇で下野の藤岡に赴きましたが、やがて東京へ帰りました。岩崎清吉は渡米準備のため福沢諭吉(「大山巌」を読む24参照)の慶応義塾にはいり英語を研究、やがて渡米して桑港(サンフランシスコ)上陸の経験と米国の模様を書いたかなり詳しい手紙をくれました。

慶応義塾―慶応義塾の紹介―歴史・風物トピックスー動画ライブラリー  

その手紙に桑港で苦学、相当成功していた千葉某のことを書いて「米国は貧乏でも勉強のできる所だ」とあり、これを見て片山潜は渡米の決心をしたのですが、英語を熱心に勉強した様子はみうけられません。それに彼は無一文であったので、岩崎の父其の他から50〜60円の資金提供をうけ、記憶では1884(明治17)年11月26日サンパウロ号で横浜から桑港に向け出港しました。日本人の同航者9人の内伊沢という男だけが中等に乗っていて、慶応義塾出身の仲間を中心とするグループが支那人のコックと交渉、西洋料理を食っていたので、三等室にいた潜も上陸4〜5日前にこの洋食仲間に金をだして入れてもらった結果、所持金のほとんどを失いました。船は横浜を出航してから19日目の朝桑港に到着上陸、馬車で日本人のよく行くホテルで昼食後、メソジストミッション(Methodist mission「メソジスト派の福音会」)に向かいました。

オンライン版 二村一夫著作集―総目次―第6巻 高野房太郎とその時代―4 アメリカ時代―(24)コスモポリタンホテルから福音会へー*6−*9−*10

片山 潜「日本の労働運動」を読む12

 片山潜はメソジストミッションをねぐらに2〜3週間桂庵(職業紹介所)に通い、英語ができないので、やっと12月20日になって週給2ドル50セントの住み込み働き口が見つかりました。この家庭は主婦と2〜3歳の少女と下女の3人家族で、仕事はウエイター、皿洗いと部屋の掃除がすべてでした。ところが同胞の日本人に騙されてこの働き口をやめたため、無収入となり、その日の食事代もなく、物乞いをしてようやくパンにありつく境遇となり、やっと週給3ドルの仕事を見つけたら3日目の深夜熱病にかかり、その心細さに堪え切れず、はじめてキリスト教信仰を求めました。
 このように働き口を転々と変えながら貯蓄した金の中から帰国する日本人矢野に30ドル貸し、潜の老母に送金するよう依頼した30ドル合計60ドルを託しましたが、矢野は横浜到着後行方不明となり、潜は60ドルをだまし取られたのです。
 一方潜は桑港の住宅地アラメダでキリスト教の第一組合教会に所属、働きながら勉強するためにオークランド(サンフランシスコ湾の東岸)にあるホプキンズ・アカデミー(大学予備校)に入学したのですが、同校生徒は片山潜をからかってcatty(ケティー 猫のようなの意味、ずるいの意味もある)[「予が名を英語にて綴れば片はケテーなり」自伝]と呼んだので潜は同校生徒を殴ったこともあったようです。

片山 潜「日本の労働運動」を読む13

 1886(明治19)年メリーヴィル大学(テネシー州)予備校に入り半年間で卒業、当地で13人家族の家内労働に従事しつつ大学に通学しました。この大学は黒人と貧白人のために設立された大学でしたが、大学の教授・学生らが黒人に不公平な取り扱いをしていること、学科の程度も高くなく、労働の機会も少ないので、アイオワ大学(のちグリンネル大学と改名 アイオワ州)に移ろうと考え、友人大久保利武からもらった5ドルを元手に日本陶器を仕入れて売却、その金でグリンネル市に赴き、1889(明治22)年9月中旬アイオワ大学に入学、働きながら大学に通学しました。
 潜は大学で学んだことは覚えていないし、直接役立ったものはないけれども、間接的にその結果を感ずるものは第一に図書館を利用して或る特殊な問題を研究する方法と第二は討論の恩恵であると云っています。
 潜が社会問題に興味をもつようになったのはメリーヴィル大学在学中で、「クリスチャンユニオン」(宗教雑誌)に掲載されるリチャード・イリー教授の論文を読んだのがきっかけでした。彼がグリンネル大学に入学した年の暮にイリー博士は「キリスト教の社会的側面」(“Social Aspects of Christianity“)と題する著作を発表、潜はこの著作を読んで面白く感じたのです。彼が社会主義者になったのは同大学4年生時に応用経済の一部門として社会主義を一期間研究、この時参考書として読んだ月刊雑誌に掲載されていたフェルディナンド・ラッサールの伝記を読んでからでした。

Kouryuuの日々雑感―国家についての小論考―フェルディナンド・ラッサール

片山 潜「日本の労働運動」を読む14

 1894(明治27)年春、片山潜は白人の友人と英国旅行にでかけました。リヴァプール港で上陸、ロンドンに赴いたのですが、6週間のロンドン滞在は潜にとって有益でした。
 この時は丁度日清戦役中で潜が輿論の熱狂の様子に驚嘆したと同時に学者の権威のすこぶる偉大なのにもまた驚いた一事は日本の海軍が支那(清国)のコースン号を撃沈した一件(「大山巌」を読む35参照)でした。「英国の諸新聞が(中略)大艦隊を差し向けて日本を懲罰すべし(中略)と其は激甚の攻撃であったが其翌日かに或る大学教授、多分ホルランドであったと思ふがロンドンタイムスに一段半程の手書を出した。之が要点は既知の日本が撃沈したのは万国公法上英国を攻撃したのではない。支那の将官が英艦長の言を聞いて降参せざりし故に日本が撃沈したので英国の名誉を棄損せぬというのであった。(中略)所が驚く可し、今迄対日悪口雑言を並べたてて居ったものが一言も云わない、(中略)予は英国の輿論の訓練の能く行き届いて学者の説を尊重するに驚かざるを得なかったのである」(「自伝」)。
潜は安下宿屋に泊ってあらゆる社会及び慈善事業其の他社会問題に関する事業を視察、イギリス労働運動の指導者トム・マンの演説を聞き、その能弁、頭脳の的確さと之を謹聴したロンドン労働者の態度に驚嘆したのです。次いでスコットランドのエヂンバラにおける欧州第一といわれる貧民窟を見学、グラスゴーでは貧民窟を廃止し貧民長屋を市設していました。また英国世界有数の工業都市マンチェスターの水道事業を我が国東京のそれと比較して感服、同年9月ボストンに上陸、英国旅行を終了しています。

エディンバラの地下世界―lithosの日記

片山 潜「日本の労働運動」を読む15

 1894(明治27)年年秋潜はエール大学(コネチカット州)に転校、社会問題を専門に研究、卒業論文は「欧米の都市問題」で大学卒業後、1895(明治28)年5月〜9月までノースフィールドホテルで働いて帰国の旅費を稼ぎました。紐育(ニューヨーク)で一緒に帰国する約束の杉田金之助(エール大学に留学)と市中を見学、杉田は米国土産に女郎(淫売婦)買いを経験してみたいと云いだしました。潜は吉原で女郎買いをしたことはあり、米国で女郎の研究をしたことがあるが、女郎買いの経験はなく、結局彼等は紐育を去ってワシントンのスミソニアン博物館を見学すると、梅毒の発達経過を示したワック(ス)人形(蝋人形)を展示しているのを見て、杉田は怖じ気づき、女郎買いを断念しました。
 同年10月タコマ(ワシントン州)から貨物船(後部甲板に仮寝床を急造)に乗って帰国の途についたのですが、出航8日目に船が故障して動かなくなり70余日漂流、偶然出会った石炭船に引かれて再びタコマにもどり、数日後ヴィクトリア号で18日かかって1896(明治29)年正月無事横浜に到着しました。
 潜は郷里に帰って老父(1892年母死去)や旧友に会い再び上京、牧師とか伝道師として就職を希望しましたが、同志社の勢力がつよく組合教会では働けません。早稲田専門学校の英語教師も半年で解雇され、組合派の宣教師長であったグリーン博士が月に25円呉れることになったので、1897(明治30)年東京の神田三崎町に家を借りて「キングスレー館」という看板を掲げ、セツルメント(settlement 宗教団体などが都市の零細民地区に宿泊所・託児所などの設備を開設、彼等の生活向上のための援助をする)事業を始め、幼稚園、小僧夜学校、市民夜学校などを開催しました。

オンライン版 二村一夫著作集―総目次―第6巻 高野房太郎とその時代―6 労働運動家時代―(64)片山潜と高野房太郎  

 同年真夏米国帰りの3人、即ち高野房太郎・澤田半之助・城常太郎が神田の青年会館で労働問題演説会を開き、その演説会には片山潜も頼まれて演説しました。潜は労働問題の専門家ではありませんでしたが、演説会には何時でもきまって出席演説したので、とうとう労働問題の専門家となったのです。
 同年7月5日労働組合期成会が結成され、同年8月1日の月次会で潜は同会幹事に選出されたことは既に述べた通りです。
独身では事業をやるのに世間の信用がないといわれ、岩崎清七の世話で39歳の片山潜は栃木県出身の横塚七郎兵衛の次女フデ(明治10年7月4日生)と同年11月8日結婚しました。

片山 潜「日本の労働運動」を読む16

 1898(明治31)年2月2日日本鉄道会社(「雄気堂々」を読む18参照)の機関方(機関手)はひそかに「我党待遇期成大同盟会」秘密出版物(石田六次郎起草といわれる)を日本鉄道各駅機関方に配布しました(労働運動史料委員会「日本労働運動史料」2 東大出版会)。「前略会社は尚爰に見るなく益々我等を冷遇す、」(「本書」@)で始まる檄文は大要次のように述べています。
「日清戦争時の軍隊輸送で軍隊輸送責任者は准軍人とみなし、機関方、火夫、駅長、助役らは予備役を免除された。然るに関係駅長、助役らは賞金勲章褒状をもらったのに、機関方、火夫には何の報酬もない。「某駅長は曰く、機関方は馬なり、我々駅長が叱咤の下に業務を全ふせば可なりと。」
(1)運動の手始めとして明治三十一年二月十五日まで機関方火夫一同臨時上給(賃上げ)のことを、この書翰一覧の上必ず弐銭郵券を奮発し、課長宛に匿名で何百通を限らず東西南北より上願する事。
(2)機関方を機関手に、火夫を乗組機関生に、掃除夫を機関生とする事

オンライン版 二村一夫著作集―総目次―第6巻 高野房太郎とその時代―6 労働運動家時代―(76)期成会の東北遊説   

片山 潜「日本の労働運動」を読む17 

 日本鉄道会社は課長を東北に派遣調査の結果、尻内(当時 青森県三戸郡上長苗代村大字尻内 現在 八戸市尻内町)勤務機関方石田六次郎・青森勤務機関方池田元八を首謀者と認め、同年2月21日までに上記両氏を含めた10名(石田六次郎を含む5名はキリスト教徒)を解雇しました。

けやきのブログU−バックナンバーー2011年9月5日 日本鉄道会社/東北・高崎線敷設

 これに対して同月24日から25日にかけ、尻内の機関方は電報で「シリ(尻内)アオ(青森)ミナヤメタ」と各地の機関方へ打電、一ノ関機関方も「ウナ(至急電報)キカンコミナヤメ」と盛岡の機関方へ知らせ、1898(明治31)年2月26日早朝から上野―青森間の列車は機関方400余名の同盟罷工によりほとんど止まってしまったのです。28日までに機関方陳情委員が上京、2月28日より3月6日まで会社側と交渉、3月6日会社側は要求を受諾、3月29日要求はすべて実行されたので、4月5日待遇期成同盟会は解散、新たに「日鉄矯正会」が結成されました(「本書」@・労働運動史料委員会「前掲書」)。
 同年3月東京の印刷職工7人は百人余の会員を集めて懇話会を結成しましたが、彼等7人は4月5日解雇され、同盟罷工も敗れて懇話会は消滅しました。しかし江沢三郎らは岸上克己ら12人の同志を集め、同年8月4日活版工同志懇話会第1回創立委員会を開催、翌年11月3日活版工同志懇話会を改組、活版工組合を結成しました。会長には秀英舎長佐久間貞一の親友であった島田三郎を推戴、会報主任に岸上克己、名誉員に片山 潜、高野房太郎らが推選されていることからもわかるように、活版工組合は労働組合期成会の援助により誕生した組合でした。
 同組合は規約第3条で「本組合は印刷営業組合と提携して相互の福利便益を期すものとす。」と労使協調主義を掲げていますが、同規約第59条では「本組合員を雇用する工場の労働時間は一日十時間とし、三十分間の休憩時間を受るものとす。」と規定し、当時11〜12時間労働が普通だった労働条件の向上を勝ち取ろうとしていた点が注目されます。さらに同規約第60条では夜業は2割増を規定しています。これらの規約により活版工は安心して組合に加入しました。また規約第15〜18、20、22条で共済制度も実施されたのです(「本書」@)。

片山 潜「日本の労働運動」を読む18

1898(明治31)年春、高野房太郎は満29歳で貸席兼料理店「柳屋」経営の横溝新兵衛長女で16歳のキクと結婚、同年11月29日彼は一時労働組合期成会常任幹事および鉄工組合常任委員(無報酬)をやめて、12月22日「横浜鉄工共栄合資会社」という鉄工組合第3支部を対象とする「共働店」(生活協同組合)を開業しました。翌年6月25日高野房太郎は元のポスト復帰(有給)、鉄工組合本部(日本橋区本石町)に引っ越し、片山潜と2人で本部常任役員を勤務することになりました。
 ところが房太郎が本部常任役員に復帰したころから、鉄工組合の財政は急速に悪化の一途をたどっていたのです。組合費納入人員が停滞状態であるのに、組合は本部事務所をもち、2人の有給常任役員を抱え、加えて共済給付金が増大、組合が対策として組合費・共済給付を削減すると、組合費納入者は一時増加しましたが、やがて減少していきました。
 その主な理由の一つは鉄工組合員の多数を占めていた東京砲兵工廠や日鉄大宮工場(鉄工組合第二支部)が1899(明治32)年以降組合活動家のみせしめ解雇を強行したからです。
 つづいて1900(明治33)年3月10日治安警察法(「大山巌」を読む48参照)が公布され(内閣官報局「法令全書」第三十三巻ノ二 原書房)、政治結社、集会、示威運動の規制の外、労働運動・農民運動などの取り締まりも規定していました。
 同法には労働組合結成や同盟罷工を禁止する条項はありませんが、とくに問題とされるのは次のような第十七条の規定です。

オンライン版 二村一夫著作集―総目次―第6巻 高野房太郎とその時代―6 労働運動家時代―(83)本部常任に復帰―(90)治安警察法公布

片山 潜「日本の労働運動」を読む19

 治安警察法第十七条二項の「同盟解雇」とは使用者が同盟して労働者を解雇し、または労働に従事する申込を拒絶すること(「日本国語大辞典」小学館)で、「同盟罷業」とは労働者のストライキを意味する語句です。この条項は形式的には労使双方を取り締まることになっていますが、実際の目的は労働者の争議を取り締まることで、労働者が同盟罷業を起こす目的で「他人ヲ誘惑若(もしく)ハ煽動」することを禁止するとは事実上同盟罷業を禁止することと同じことであり、同条項に違反した場合には同法第三十条により厳しい刑罰が課せられました。
 治安警察法の制定はすでに始まっていた労働運動の進め方に関する片山潜と高野房太郎の対立を顕在化させていったのです。治安警察法公布直後の「労働世界」(労働運動史料刊行委員会)第57号に掲載された論文「労働運動の前途」(「労働運動史料刊行委員会」)において、片山潜は「今や治安警察法制定と供(共)に既に開始した労働運動も其方針を一転して政事運動として決行せざる可からざる気運に至れり」とし、ストライキを「同盟罷工を起して工業に障碍を来すが如き児戯に類する運動」と軽視、其運動の順序は、第五 労働者独立政党を組織して平和の下に政事運動を為す事 第六 政事運動の第一着として普通撰挙を得るに極力先鋒を向くる事」などを主張しました。

小松芳郎 脚光 歴史を彩った郷土の人々―8 中村太八郎

 これに対して高野房太郎はこのころすでに普通選挙(期成)同盟会(1899樽井藤吉ら東京で結成 松尾尊~「大正デモクラシーの研究」青木書店)に参加していましたが、「労働世界」第60号(1900年5月1日)、第61号において論文「職工組合に就て」を発表、治安警察法を制定した支配者に反省を求めるとともに、片山潜の主張を直接反論することはしませんでしたが、政党運動に問題打開の途をもとめる人々にも反省を求め、労働組合主義を堅持することを主張したのでした。
 その後鉄工組合は事実上壊滅状態となり、1900(明治33)年8月高野房太郎は労働運動から離脱、城常太郎とともに中国天津で商店を開くため渡航、1904(明治37)年青島のドイツ人病院で死去しました。

オンライン版 二村一夫著作集―総目次―第6巻 高野房太郎とその時代―6 労働運動家時代―(91)運動方針をめぐり対立―(92)鉄工組合の壊滅―(94)運動からの離脱―(96)青島に死す   

片山 潜「日本の労働運動」を読む20

 1901(明治34)年4月日鉄矯正会は前記「労働世界」の要請に応じ、「本会は社会主義を標榜となし諸労働問題を解釈すること、其の第一の方法として普通選挙同盟会に加入すること」(「労働世界」77号)を決議し、社会主義政党が組織されるならば、これに組織的に加入することを表明しました。後述する同年5月社会民主党の結成は上述のような日鉄矯正会の動向を反映したものですが、このような同会の動向に対し警察当局ならびに日本鉄道会社は警戒と圧力を加えたのです。
 同年10月東北地方で天皇親臨の陸軍大演習が挙行され、天皇は御召列車に乗って演習地に向かいました。御召列車の前には一駅の間隔で統監列車が走ることになっており、統監列車が仙台駅を出発、小牛田(こごた)駅から瀬峰駅に到着寸前機関車が故障して動かなくなりました。小牛田駅に到着した御召列車を汽車課長は統監列車が瀬峰駅に到着したものと思い込んで御召列車に発車を命令したため、御召列車は統監列車に追突寸前で急停車しました。御召列車は急停車の際激動、天皇は驚いて窓から首をだして外をのぞいたそうです。
 この統監列車故障の責任が問題となり、事件の前日日鉄矯正会所属の機関手が統監列車の機関車故障を申し出たにもかかわらず、会社の担当者はこれを無視、事件後これが矯正会員が計画的にたくらんだ陰謀であるかのごとく宣伝、同年11月25日日鉄矯正会福島支部は福島警察署の命令により解散させられました[労働運動史料委員会「前掲書」1・木下尚江「日本鉄道会社」(「毎日新聞」明治34年11月30日〜12月4日号)木下尚江全集第 14巻 教文館]。

ときエクスプレスーplus+―御召列車―御召列車の事故―日本鉄道小牛田―瀬峰間での追突未遂事故   

 活版工組合においても、営業組合の中に活版工組合の勢力拡大をおそれるものが多くなり、、夜業2割増の約束も営業組合責任者の交代で空文化、1900(明治33)年5月10日活版工組合は規約の運用を停止して、事実上解散の状態となってしまいました。
   
2012-03-11 07:00 | 記事へ | コメント(2) |
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片山潜「日本の労働運動」を読む1〜10
2012年03月01日(木)
片山 潜「日本の労働運動」を読む1

 片山 潜「日本の労働運動」(岩波文庫 以下「本書」と略)には@ 片山 潜・西川光次郎合著「日本の労働運動」(序文に明治三十四<1901>年五月の日付がある)、A 片山 潜「日本における労働運動」(英語版)−社会主義のために―(序言にニューヨーク市において一九一八(大正七)年七月九日の日付がある)の2著作が収録されています。
 この2著作によってわが国の労働運動の黎明期すなわち職工義友会の結成から労働組合期成会による労働組合の発展と衰退、社会主義政党の結成と治安警察法による弾圧、日露戦争と反戦運動、足尾銅山の暴動事件、大逆事件、東京市電ストライキなど明治日本の労働運動・社会主義運動の概観を知ることが出来ます。この2著作の史料としての価値については同書解題をご覧ください。
 高野房太郎は1869年1月6日(明治元年11月24日)長崎府彼杵(そのき)郡長崎町銀屋町18番で和服仕立業を営んでいた高野岩吉の四男仙吉を父とし、母マスの長男として出生しました。1871年9月16日(明治4年8月2日)には弟岩三郎(後に帝国大学法科大学教授)が生まれています。

教育文化協会(ILEC)―本と資料の紹介コーナーールーツを求めてー二村一夫『労働は神聖なり、結合は勢力なり』(岩波書店)

 1877(明治10)年父仙吉は上京、神田で旅館兼回漕業「長崎屋」を開業しました。上京の動機は西南戦争による不景気で家業がやりにくくなり、横浜で汽船問屋をしていた房太郎の伯父高野亀右衛門や弥三郎が呼び寄せたもののようです(高野岩三郎「兄高野房太郎を語る」)。

オンライン版 二村一夫著作集―総目次―別巻3―目次―回想記・追悼記―2 高野岩三郎「兄高野房太郎を語る」 

 ところが1879(明治12)年父仙吉は死去、1881(明治14)年長崎屋は火事により全焼してしまいました。しかし高野一家は日本橋小網町に転居、旅館「長崎屋」を再建しています。
 同年江東高等小学校を卒業した房太郎は翌年横浜商法学校に通いながら、伯父高野弥三郎の経営する横浜の汽船問屋兼旅館「絲屋」(三菱会社代理店)の住み込み店員となりました。
 1886(明治19)年房太郎の母マスは「長崎屋」を廃業、横浜へ転居するつもりだったようですが、同年4月高野弥三郎が死去したため、彼女は東京大学付近で学生下宿を営み、渡米を希望する房太郎の思いに応えたのです。
 同年12月2日房太郎は太平洋郵便汽船会社の客船ニューヨーク号で横浜を出港、同月19日サンフランシスコ入港、現地で「スクールボーイ」(通学時間を保障して家事手伝いをさせるアルバイト)としてサンフランシスコの対岸オークランドの会社経営者アルバート・ブレイトン家に住み込み、家族同様に可愛がられたようです。
 翌年房太郎は1箇月ほど日本に帰り、アメリカにおける日本雑貨店開業のための資金を作り、房太郎をよく知っていた高田早苗(「大山巌」を読む27参照)の紹介で「読売新聞」通信員となりました。彼は帰米後1887(明治20)年12月22日第1回の「米国桑港通信」を「読売新聞」に掲載しています。

片山 潜「日本の労働運動」を読む2

 1888(明治21)年サンフランシスコのコスモポリタンホテルで客引きの副業をしながら、同年5月ころ房太郎は友人中川宇三郎と共同出資で日本雑貨店を開きましたが、約半年で経営破綻、彼はサンフランシスコを離れて、ブレイトン家の息子たちと働いたことのあるカリフォルニアのポイント・アリーナに赴き、マクニール編「労働運動―今日の問題」というアメリカ労働運動の百科全書ともいうべき書物に接し、労働運動にかんする関心を深めました。
 房太郎が労働組合の存在に気づいたのはサンフランシスコでの靴工城常太郎との出会いがきっかけだったとおもわれます。城常太郎は日本で靴工の労働運動に参加した経験者で、製靴業は明治以後、主として陸軍の需要を中心としており、一般市場の需要が極端に小さかったことと雇用主と徒弟・職工の関係もうまくいかず、1888(明治21)年秋日本人靴工の新たな職場開拓の目的でサンフランシスコへやってきたのです。彼が渡米後最初に得た働き口はコスモポリタンホテルの皿洗いだったので、おそらく同ホテルの客引きをしていた高野房太郎の世話によるものでしょう(牧民雄「ミスター労働運動 城常太郎の生涯」彩流社)。

ミスター労働運動&明治時代の労働運動史 

 そのころアメリカ西海岸で「白人靴工労働同盟」は中国人排除のために、白人組合員が製造した靴にだけ「ユニオン・ラベル」を貼り、非組合員が製造した製品のボイコットを呼び掛ける戦術をとっていたのです。城常太郎と高野房太郎の間でこのことがきっと話題になったことでしょう(二村一夫「労働は神聖なり、結合は勢力なりー高野房太郎とその時代―」岩波書店)。房太郎がアメリカの労働運動を紹介した「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」(ワシントン州タコマにて、「読売新聞」米国通信欄 明治二三・五・三一 第四六五一号以下 ハイマン・カブリン編著「明治労働運動史の一歯句(せき 場面)」有斐閣)は次のように述べています「吾人は北米合衆国の政史を読む毎に常に労役者が其政治上に於て偉大の勢力を有するを認む。吾人の労役者の此勢力の結果として支那人拒絶条例の発布を見たり」。
 このような状況において労働組合期成会の前身「職工義友会」(牧民雄「前掲書」によれば「労働義友会」)がサンフランシスコで創立されたのです。「本書」@はこのことについて、次のように述べています『職工義友会は日本に於て創設せられし者にあらざりき。爰(ここ)に面白き意味あり。此の会は明治廿三年仲夏、米国桑港に於て当時同地に労働しつつありし、城常太郎、高野房太郎、澤田半之助、平野栄太郎、武藤武全、木下源蔵、外四五名の労働者によりて組織せられし者にして、その帰するところは「欧米諸国に於ける労働問題の実相を研究して、他日我日本に於ける労働問題の解決に備へんとするにあり」たり。』(第一編第二章第一節)
 「本書」によれば「職工義友会」の創立は1890(明治23)年ということになりますが、二村一夫氏の考証によれば、同会の創立は1891(明治24)年であったことが指摘されています(二村一夫「前掲書」)。

片山 潜「日本の労働運動」を読む3

 やがて房太郎は1893(明治26)年夏タコマからサンフランシスコ経由でシカゴに赴き、シカゴ万博の日本品即売所で、同年11月からはマサチューセッツ州グレイト・バーリントンのホワイティング家で働き、翌年3月6日はじめてアメリカ労働総同盟(AFL)会長サミュエル・ゴンパースに手紙を書いています。

JIRAF―JIRAF Database―ナショナルセンター北米―アメリカ合衆国―アメリカ労働総同盟・産業別労働組合―略史   

 この時の房太郎とゴンパースとの往復書簡邦訳は下記1の通りです。なお英文の原文をご覧になりたい方は下記2を参照して下さい。

オンライン版 二村一夫著作集 

下記1 同上著作集―総目次―第6巻 高野房太郎とその時代―4 アメリカ時代―(43)東部への旅(2)−グレイト・バーリントン
下記2 同上著作集―総目次―別巻3−関連史料一覧―5 Correspondence between Fusataro Takano and Samuel Gompers
 房太郎のゴンパース宛書簡の要点は次の如くです。(1)私は数年以前に渡米したが、アメリカ労働者の豊かさに比して日本の労働者の社会的・物質的に哀れな状態を思い、帰国後には、彼等の境遇の改善に努力したい。
(2)現在日本には労働団体は存在せず、その原因は彼等の無知にあり、労働者を教育するには彼等を労働組合に組織する必要がある。
(3)労働者を組織するには、貴同盟のような職業別組合の路線をとるべきか、あるいは労働騎士団のような地域的組織を選ぶべきか迷っている。
(4)こうした問題についてあなたのご助言を賜りたい。貴組合の規約あるいは印刷物があれば、ご恵与願いたい。
 これに対する同年3月9日付ゴンパースの返信の要点は次の如くです。(1)お便りを拝見し、言葉に表現できない程の喜びを感じる。労働者は各職種や職業単位の組合に組織されるべきである。
(2)要請に応じ参考文献を送付するので、研究をお願いしたい。
(3)この問題についてあなたと話し合う時間をとるので、いつかニューヨークをを訪問することを希望する。

片山 潜「日本の労働運動」を読む4

 1894(明治27)年4月房太郎はグレイト・バーリントンからニューヨークに赴き、水兵に応募するため「海軍工廠」を訪ねました。水兵志願の理由はサンフランシスコにおける日本雑貨店破綻によるもの及び東京の高野家における借金返済の必要があり、水兵になれば衣食住保証で30ドル余の月給が支給されるからでしょう。

オンライン版 二村一夫著作集―総目次―第6巻 高野房太郎とその時代―4 アメリカ時代―(44)ニューヨークにて(1)−アメリカ海軍へ入隊―注*3

水兵(食堂関係のウエイター)として採用された房太郎は出航まで約半年の待機期間に労働組合に関する情報収集に努めるとともに同年9月4日ゴンパースに面会、ゴンパースは彼をアメリカ労働総同盟の日本担当オルグ(organizerの略 未組織の労働者などを組合に組織する人)に任命しました。
 同年11月20日房太郎乗り組みの米アジア艦隊所属機帆船砲艦マチャイアス号は日清戦争の主戦場である北東アジア海域でアメリカ合衆国の利益を守ることを任務としてニューヨーク海軍基地を出港しました。同号は1895(明治28)年4月25日から27日まで長崎に停泊、このとき唐津にいた房太郎の姉キワとその夫井山憲太郎に再会、長崎を出港した同号は中国海域を航行後、同年11月24日朝鮮半島済物浦(仁川)に入港、1896(明治29)年4月4日済物浦出港、同月6日長崎到着、一旦中国海域に戻った後、同年5月末神戸を経て同年6月18日横浜に入港しました。同号の横浜繋留中、房太郎はマチャイアス号をから逃亡帰国したのです。

片山 潜「日本の労働運動」を読む5

 帰国後、高野房太郎はやがて横浜発行の英字新聞「デイリー・アドヴァタイザー」記者として就職しました。
 「本書」@は我が国における「職工義友会」の再建について次のように述べています『然るに明治廿九(1896)年の末に至り、彼等の多くは帰朝し、先ず澤田半之助及び城常太郎の両氏は日本に於ける労働運動の時期巳に熟せるを見たりしかば、翌三十(1897)年四月に東京麹町区内幸町に職工義友会を起こし、「職工諸君に寄す」てふ印刷物を普(あまね)く各工場に配布しぬ。是れ日本に於ける労働運動の最初の印刷物なるを以て、吾等はその全文を左に記載せん。

オンライン版 二村一夫著作集―総目次―第6巻 高野房太郎とその時代―6 労働運動家時代―(57)運動開始を決断―(60)「職工諸君に寄す」―*4

 先是義友会は適当なる運動員を得るの必要を感ぜしを以て、元桑港に於て義友会の一人たりし人にして、当時横浜に於て洋字新聞「アドバアタイザア」の記者たりし高野房太郎氏に嘱目(注目)し、澤田半之助氏を使はして高野氏を説かしめしに、高野氏は甘諾(快く承諾)職を捨て丶東京に出で来りぬ。』。
 しかるに1896(明治29)年11月高野房太郎は労働運動開始を決心、同年12月アドヴァタイザーを辞職、靴造りを職業にしている友人(城常太郎)と相談するために上京しています(1896年12月11日付ゴンパース宛書簡 オンライン版 二村一夫著作集―総目次―第6巻 高野房太郎とその時代―6 労働運動家時代―(57)運動開始を決断 参照)。
二村一夫氏は上記書翰史料を根拠として、本書@の誤りを指摘しているのです。

片山 潜「日本の労働運動」を読む6

 「職工諸君に寄す」は次のような文章から始まっています。「来る明治三十二(1899)年は実に内地開放の時期なり。外国の資本家が低廉なる我賃銀と怜悧なる我労働者とを利用して、巨万の利を博せんとて我内地に入り来るの時なり。」(「本書」@)
 幕末に締結された不平等条約において外国人は居留地に住むことおよび遊歩制限を義務づけられていました(例 1858 日本国米利堅合衆国修好通商条約第3条 「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。対等条約調印より少なくも5年後に外国人は日本国内を自由に旅行あるいは居住することができ、外国人居留地は廃止されることになっていました(例 1894 日英通商航海条約第1条、第18条、第21条 「同上書」上 原書房)。「職工諸君に寄す」冒頭の言葉はこのことを指し、警戒を呼びかけているのです。
 さらに「職工諸君に寄す」は次のように述べています「家を守るべき妻、学校にあるべき小児が、工場に働くとは誠に不自然極りたる次第にて、更に其原を尋ねて賃銀の安き為め男一人の腕にては妻子を養ふことを得ざるに依ることを思へば、誠に一大恨事の極なりと云はざるべからず。」。すなわち職工義友会が組織化を呼び掛けているのは男子労働者のみで、当時の製糸女工や紡績女工のほとんどは年少で嫁入り以前の一時期の女子労働者(「雄気堂々」を読む19参照)として組織化の対象とはされていなかったことに注意する必要がありましょう。
 つづいて「職工諸君に寄す」は次のように主張します『或る人は云ふ「(前略)富者益々富み貧者益々貧し。労働者の蒙むる不正其沈淪(ちんりん おちぶれはてる)せる境遇実に悲惨の極にして、之を改良せんとする唯革命あるのみ。貧富を平均するにあるのみ。」(中略)貧富平均論は言ふべくして行ふべき事にあらず。左れば我輩は諸君に向って断乎として革命の意志を拒めよ(中略)と忠告するに躊躇(ちゅうちょ ためらう)せざるものなり。(中略)労働は神聖にして結合は勢力なり。(中略)我輩は爰に再び諸君に同業組合の組成を勧告する者なり。然らば如何にして同業組合は組織すべきか。』。
 このように呼び掛け、問いかけて「職工諸君に寄す」は7人以上ある職業者が集って地方同業組合を設け、これを地方連合団・全国同業連合団・大日本同業連合団に拡大、また同業組合の積立金を基礎に共済活動も可能になることを述べています。

片山 潜「日本の労働運動」を読む7

 1897(明治30)年6月〜7月にかけては横浜付近の船大工約400人が組合を結成、賃上げを要求して同盟罷工(ストライキ)を決行しました(労働運動史料委員会「日本労働運動史料」2 東大出版会 製作 中央公論事業出版)が、そのきっかけとなったのは「職工諸君に寄す」であったと推察することができます(「高野日記」)。

オンライン版 二村一夫著作集―総目次―第6巻 高野房太郎とその時代―6 労働運動家時代―(62)「職工諸君に寄す」の影響  

 同年7月5日「労働組合期成会」発起会が開催され、規約を討議決定、最後に仮幹事として高野房太郎・城常太郎・澤田半之助3人を選出、規約にもとづく役員選出までの運営を委託しました(「本書」@)。労働組合期成会はそれ自体が労働組合ではなく、文字通り労働組合結成を援助する啓蒙宣伝組織です。 
 同年8月1日労働組合期成会は第1回月次会を開き、次のように役員を選出しました(「本書」@)。
幹事 片山 潜(「坂の上の雲」を読む21参照) 澤田半之助 高野房太郎 村松民太郎 山田菊三 小出吉之助 松岡乙吉 島粛三郎 石津弥一 馬養長之助
常置委員 田中太郎 野村 莠 間見江金太郎 松田市太郎 岩田助次郎
幹事長は互選により高野房太郎を推し、役員中より運動委員 演説会委員を選出しました。
評議員 佐久間貞一 鈴木純一郎 後に日野資秀 島田三郎 村井知至 安部磯雄

オンライン版 二村一夫著作集―総目次―第6巻 高野房太郎とその時代―6 労働運動家時代―(59)後援者・佐久間貞一 (64)片山潜と高野房太郎 (68)鈴木純一郎のこと (69)期成会の仲間たち

 同年12月1日には日本最初の近代的労働組合「鉄工組合」が結成され、発会式の当日我国最初の労働雑誌(実体は新聞)「労働世界」(「労働新聞社」刊行 編輯部長 片山潜・労働運動史料委員会編「労働世界」労働運動史料刊行委員会 製作 中央公論事業出版) 第1号が発刊されました。同号は「労働世界の方針は社会の改良にして革命にあらず。その資本家に対するや敢て分裂的争闘を事とせんとするにあらずして真正の調和を全うせんとするにあり」と主張しています。鉄工とは金属機械工場で働く労働者の総称です。発足時の鉄工組合員は13支部 1183人で、主として東京砲兵工廠で働く労働者で構成されていました。
 同年12月10日同組合本部委員総会で高野房太郎は本部参事会員(中央執行委員)に選出されています。
 翌年4月1日警視庁は4月3日上野で開催予定の労働組合期成会主催の大運動会(集会ならびに示威行進)に対し禁止を命令しました(「労働世界」10号 労働運動史料刊行委員会)。

片山 潜「日本の労働運動」を読む8

 高野房太郎とともに日本労働運動黎明期の指導者であった片山 潜とはどのような人物であったのでしょうか。
 片山 潜は「卑俗なる予の生涯を茲(ここ)に少しも修飾を加えず赤裸々に語る?(中略)之が唯一の目的は予のもっとも愛する子供等に其の父が如何なる場所で、而も如何なる父母に依って生育したか、又如何なる青年時代を如何なる境遇で過したか、その壮年時代は何処で暮らしたか如何なることを為したかを詳細に語るのである。」(片山 潜「自伝」岩波書店)と述べています。この文章が獄中で執筆を開始したものであることを考えると、彼がなぜこのような「自伝」を書くことを考えたかがよく理解できるように思います。
 片山 潜は1859(安政6)年12月3日美作国久米南条郡羽出木村の庄屋藪木葭三郎の孫、父国造(戸籍では国平)・母きちの次男藪木菅太郎として生まれました。国平は越尾村から藪木家へ養子にきたのですが、故あって菅太郎4歳のとき家を去り僧侶となったので、菅太郎は兄とともに母に育てられたのです。彼の幼時曾祖父はまだ健在で、菅太郎は曾祖父から昔話を聞き、また「庭訓往来」(「市塵」を読む2参照)などの本を読むことを教えられました。

岡山県久米南町―プロフィールー町の先人―片山 潜

片山 潜「日本の労働運動」を読む9

 7〜8歳のころ氏神様の神主家本駿河守の処に行き、「いろは」の手本を書いてもらって、これを手習いするのですが、この寺子屋では生徒は菅太郎一人しかいませんでした。やがて彼はずる休みをするようになり、困った母は菅太郎を遍庄院(遍照院)という寺に預け、手習いの外「孝経」(孔子が弟子曾参に孝道を説いたものを曾参の門人が記録したものといわれる)の素読(書物の意味を理解せず、文字だけを高声で読むこと)を教えられましたが、すぐに忘れ、学問がきらいになっただけでした。津山藩の儒学者大村綾夫先生に四書(大学・中庸・論語・孟子を指す、五経とともに儒学の根本の書)の素読や「十八史略」(十八史から抜き出した初学者用の読本)の講義の指導をうけたこともありましたが、理解できず、居眠りをして叱られたようです。
 間もなく誕生寺(法然の誕生地に弟子が建立した寺院)の建物を利用して成立小学校が設立され、菅太郎は1872(明治5)年14歳で同小学校に入学、前後百日通学しました。学校では内藤・長井の両先生の指導を受けたのでしたが、菅太郎は夜学において内藤先生に算術で分数の初歩まで習い、はじめて勉強の面白さを知りました。彼は『斯様な田舎で勉強するよりも、東京に行って大学にでも入った方がよい』と放言して先生や同級生から嘲笑されたのですが、女生徒の級長をしていた頼子(蕾子)だけが同情してくれたそうです。
 1877(明治10)年菅太郎自身で焼いた炭6俵を牛に、4俵は自分で背負って大戸の問屋へ売りに行っていたとき、大戸の蔵本塾で多くの学生が勉学している姿を見て、同年正月自分も学問で身を立てることを決心、母の激励で弓削小学校の助教となり、翌年故郷を離れて津山の植月小学校(植月村の観音寺)に転勤、同年8月徴兵令を回避するためか、神目村農業片山幾太郎の養子となりました。

町人思案橋・クイズ集―サイト内検索ー兵役免除ー明治時代、いくら払えば兵役を免除されたの?

片山 潜「日本の労働運動」を読む10

 1880(明治13)年菅太郎は岡山師範学校に入学、成績優秀で級頭となりましたが、岡山師範時代の友人で上京していた渡辺益見を頼って東京遊学の志を立て、兄杢太郎に旅費を都合してもらって上京、銀座鍋町の印刷業績文社の活版工[初め車廻し、後文撰 (活字拾い) ]として働きながら、やがて下宿屋の学生の紹介で、岡鹿門(おかろくもん 仙台藩出身)が仙台屋敷の長屋を2〜3軒借りて開いていた漢学塾に住み込みで入門しました。当時の教育はすべて西洋風で英語がもっとも盛んでしたが、官立学校(陸海軍および法律関係の諸学校)へ入学するには漢学の素養が必要で、岡塾もそれで入門者が絶えなかったのです。菅太郎はやがて活版工をやめて岡塾の塾僕(先生の講義の時間を知らせ、講堂の清掃と入学希望者の受付をするなどが仕事で、飯と味噌・醤油を供給される外、給金なし)となり、岡鹿門から四書及び書経・詩経(易経・礼記・春秋とともに五経と呼ばれる)・左(氏)伝(春秋の解釈書 伝左丘明作)の講義を受けました。とくに左伝の筆誅(罪悪をを記して責めたてること)的論法は後に論理や哲学を研究するときに役立ったのですがその思想は菅太郎にとって空虚と感じられたのです。
 1883(明治16)年渡辺益見の周旋で菅太郎は芝新銭座の攻玉社(社長 近藤真琴)に塾僕として入りました。攻玉社幹事に藤田潜という人物がいて、「予の名が潜であったのを不平を云った」(片山潜「自伝」)とあるので、このころ菅太郎は潜(ひそむ)と名のっていたらしく、以後「片山潜」の呼称を用いることにします。
 攻玉社学生は皆海軍志願者ばかりで、その主要研究は数学でした。潜はやがて分校の測量部でもっぱら数学を勉強しつつ、矢野文雄「経国美談」を読んで感動しました。

大分の歴史と自然―歴史―大分の先哲―近代の先哲―矢野(やの)龍溪(りゅうけい)−詳細データー著作物―経国美談   

 しかし数学はできたが、製図は苦手であったため、攻玉社をやめ、岡塾に戻りました。
  
2012-03-01 05:38 | 記事へ | コメント(4) |
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木下尚江「田中正造の生涯」を読む21〜30
2011年10月05日(水)
木下尚江「田中正造の生涯」を読む21

 正造は川俣事件被告51名のために大弁護団を組織、1900(明治33)年10月10日前橋地方裁判所で川俣事件第1回公判が開催されると、同公判を傍聴、12月なかごろまで前橋に滞在(「全集」Nk緕l八−九七二)、同年11月28日同事件第15回公判における検事論告に憤慨して欠伸(あくび)をしたため官吏侮辱罪を適用され起訴となりました。
 同年12月22日前橋地裁は川俣事件に対し判決、被告51名中29名が有罪(治安警察法違反罪2名、官吏抗拒罪26名、官吏侮辱罪1名)となり、検事・被告ともに控訴しました(1902.12.25控訴院控訴棄却により裁判消滅)。
 1901(明治34)年3月16日増税法案(北清事変費・建艦費補充など)を可決した第15議会において、3月24日正造は「鉱毒を以て多大の国土及び人民を害し兵役壮丁を減損せし古河市兵衛を遇するに位階(1900年従五位授与「古河市兵衛翁伝」)を以てせし儀につき質問書」を提出、演説を要求(「全集」G四四三−四五〇)しましたが、同議会は閉会しました。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む22

 しかし田中正造を支援する人々が次々と行動に立ちあがっていたことも忘れてはいけないことでしょう。同年5月21日神田基督教青年会館で三好退蔵・富田鉄之助・田口卯吉3名の発起により、鉱毒調査有志会が結成(「全集」Nh黶Z三五)され、51名が参加しました。
 その中には三宅雪嶺(「田中正造の生涯」を読む18参照)・陸羯南(「坂の上の雲」を読む7参照)・徳富蘇峰(「大山巌」を読む45参照)・秋山定輔・黒岩周六(涙香)などのジャーナリスト、島田三郎(「田中正造の生涯」を読む13参照)・高田早苗(「大山巌」を読む27参照)・谷干城(「大山巌」を読む25参照)・三浦梧楼(「大山巌」を読む41参照)らの貴衆院議員、松村介石らのキリスト教徒、潮田千勢子・三輪田真佐子・矢島楫子・山脇房子らのキリスト教婦人矯風会幹部、島地黙雷、田中弘之らの仏教徒など広範囲にわたる人物が網羅されていました。

近代日本人の肖像―人名50音順―か・こー河上肇ー黒岩涙香

全国名前辞典―あ行―あ3−阿部(安部の誤り)磯雄―ま行―ま2−松村介石―や行―や1−矢島楫子  

仏教百科事典―人物―人名―島地黙雷(しまじもくらい) 

 同年11月20日本郷中央公会堂で鉱毒地救助演説会が開かれ、島田三郎・木下尚江の外、牧師田村直臣(北村透谷の結婚式を司会)も演説、田村の演説に感動した東京帝大学生河上肇は演説会終了後、着ていた外套とえりまきを脱いで被害民のために差し出しました(河上肇「自叙伝」五 思い出・断篇の部 6 木下尚江翁 岩波文庫)。
 同年11月29日神田基督教青年会館で鉱毒地救済婦人会発会式が行われ、潮田千勢子が会長に選ばれ、同日の潮田・矢島・山脇らに安部磯雄・島田三郎らも加えた演説会に出席させた女中から鉱毒被害の様子を聞いた古河市兵衛の妻タメは翌日神田川に投身自殺しました(明治34年12月1日付 新聞集成「明治編年史」第11巻 財政経済学会・河上肇「前掲書」)。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む23

すでに田中正造は同年10月23日衆議院議員を辞職していました(五七 「議員辞職」政論「全集」A)。顧みれば正造は10年間鉱毒問題を訴え続けて政府・議会に裏切られつづけ、かくなる上は鉱毒問題に関する世論の盛り上がりを背景に、人の意表をつく行動にでて、この問題をひろく国民に訴えようと決意したようです。
1901(明治34)年12月10日第16議会開院式に臨み、帰途につく天皇の馬車に向かって群衆の中から駆けだした正造は直訴状[原案 幸徳秋水(「火の虚舟」を読む19参照)執筆 本書]を手に「お願いでございます。」と叫びながら馬車に近付き、護衛の騎兵がこれを遮ろうとして落馬、正造も躓いて転び、警戒中の警察官にとりおさえられました(1「直訴に関する談話」参考資料「全集」B)。彼は麹町警察署で取り調べの上釈放、不起訴となりました。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―略歴(足跡)―1901(明治34)年 鉱毒事件を天皇に直訴―翌日の時事新報―直訴状全文はこちらを参照ー直訴に関する事実―正造の関係者―石川啄木

木下尚江「田中正造の生涯」を読む24

 この事件は新聞にも報道され、反響は大きく、同年12月27日千余名の大学・専門学校・中学校の学生・生徒を田村直臣・安部磯雄・木下尚江・内村鑑三らが引率、被害地を見学し、被災民と交流しました。
 志賀直哉は足尾鉱毒地の視察を計画したところ、祖父がかつて古河市兵衛と足尾銅山を経営していたという理由から反対され父と衝突、以後の決定的な不和の原因となりました(年譜「志賀直哉全集」第14巻 岩波書店)。

近代日本人の肖像―人名50音順―さ・そー志賀直哉

 また石川一(啄木 当時盛岡中学校生徒)は正造の天皇直訴の報道をきくと、その心境を和歌に託し、翌年1月29日青森歩兵第五連隊第二大隊の八甲田山雪中行軍遭難事件を報道する「岩手日報」号外を友人とともに盛岡で売り、その利益を鉱毒被害民への義捐金として贈りました(啄木案内 年譜「啄木全集」岩波書店)。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む25

 1900(明治33)年田中正造は川俣事件第15回公判における検事論告に対する欠伸で官吏侮辱罪に問われましたが、1902(明治35)年5月9日東京控訴院は正造に対し禁錮40日、罰金5円を判決(同年6.12大審院上告棄却)。この結果彼は同年6月16日〜7月26日巣鴨監獄で服役しました(「全集」Nh齠二九−一二三二)。この間病監に入り、差し入れの新約聖書を読み(明治35年7月27日付原田定助宛書簡「全集」Nh齠二八)、強い影響を受けたのです。

ケペル先生のブログーバックナンバーー2011年6月2日―新井奥邃(あらいおうすい)と田中正造

 正造の直訴を契機とする鉱毒世論の高揚によって、鉱毒事件が政治問題化することを恐れた桂太郎(第1次)内閣は同年3月17日閣内に第2次鉱毒調査委員会を設置、4月から実地踏査を開始しました。
 『明治三十五年十月、谷中村の染宮太三郎氏方に於て翁の政談演説があった。(中略)当時十四歳の筆者は片隅の柱の陰にかくれて各弁士の演説を聴いていた。やがて田中翁が演壇に現われた。白地の立縞の単衣(ひとえ)と黒い袴、背丈は高くないが、頭の大きな肩巾の広い、実に頑丈な体格、筆者は小学校の読本で見た坂上田村麻呂のようだと直観した。(中略)筆者は帰る時、聴衆の中でただ一人の小さな子供だったので、翁の眼にふれ、「何処から来たか」とたずねられたが、はにかみ性の筆者は、モジモジしながら別れたのを昨日のように記憶している。翁はその年、数え年で六十二歳であった。』(島田宗三「前掲書」)
 1903(明治36)年5月28日第18議会において島田三郎が足尾鉱毒に関して質問演説すると、政府は同年6月3日島田の質問演説に関する答弁に代えて鉱毒調査委員会の調査報告書を発表しました(「全集」N一三八五、一三八七)。
 同調査報告書によれば、(1)農作物に被害を与える銅成分は明治30年の鉱毒予防命令(「田中正造の生涯」を読む18参照)以前に銅山から排出され、銅山付近及び渡良瀬川河床に残留するものが大部分で、現在の操業によるものは比較的小部分に過ぎない、(2)現在の被害の原因は鉱毒と洪水の両者にあるとし、(3)この観点から次のような鉱毒処分法の勧告を行いました、すなわち(ア)足尾銅山の予防工事を厳重にすること、(イ)足尾の林野経営、(ウ)渡良瀬川の治水事業、などを列挙しています(「栃木県史」通史編8)。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む26

 この報告書は(3)−(ウ)について、渡良瀬川の治水は堤防の修築だけでは不可能であるから、渡良瀬、利根及び思(おもい)川の合流する付近に渡良瀬川の流量の一部を遊水させ、本川の減水を待ってこれを排水する遊水池を設けることが必要であると述べています。
この報告書は結局鉱毒問題を治水問題に置き換えようとする意図をもっていたといえましょう。
この遊水池の場所について報告書では明示されていませんが、調査委員会の審議で谷中(やなか)村が候補地に挙げられていました。
 栃木県下都賀郡谷中村は栃木県の最南端、渡良瀬川の北岸に位置し、北に赤麻沼があり、谷中村の東端で巴波(うずま)川・思川が合流して渡良瀬川に注ぎ、同村は三方を堤防で囲まれる輪中(わじゅう 水害を防ぐため、村落が堤防で囲まれ、水防協同体を形成したもの「孤愁の岸」を読む 参照)の村でした。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―正造ゆかりの地―谷中村跡―時事新報の記事―仮小屋

木下尚江「田中正造の生涯」を読む27

 1904(明治37)年7月30日谷中村問題に専念のため、田中正造は以後同村川鍋岩五郎方を根拠地として寄留するようになりました。(「全集」Oh齪Z六五、一六六六)。
 日露戦争が開始された後の1904(明治37)年12月10日栃木県会は秘密会において堤防修築費の名目で谷中村買収案を可決、同日閉会しました。
 社会主義思想に理解を示さなかった正造は日露戦争に対して非戦論を主張し、そのために闘った社会主義者たちの行動には理解を示し、谷中村問題を彼らに理解してもらおうと努力しました。当時正造の直訴に感動、学業を放棄して鉱毒地に入り活動していた黒沢酉蔵[1925北海道製酪販売組合(雪印乳業の母胎)設立に参加]に正造は手紙で幸徳秋水・堺利彦らの平民社月例会に出席して谷中村問題を訴えるよう依頼しています(「黒沢酉蔵宛書簡」明治37年11月5日付 1753 「全集」O)。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―正造の関係者―黒沢酉蔵

木下尚江「田中正造の生涯」を読む28

 1905(明治38)年3月18日栃木県知事は告諭第2号により谷中村土地被買収者には補償と代替地を貸与(将来は移譲)、非土地所有者には別途救済を約束し(「全集」Kp407)、同年7月10日には瀦(貯)水池用測量のため谷中村立ち入りを通告してきました。また県当局は村長のなりてがないことを理由に下都賀郡役所書記を管掌村長とし、村民の買収を推し進めたのです。1906(明治39)年7月1日管掌村長は村会決議を無視して谷中村を藤岡町に合併、翌年1月26日西園寺公望(第1次)内閣は谷中村に土地収用法の適用を公告(田中正造日記三−三「全集」Jp21)、同法所管の内務大臣原敬(1905.3.24古河鉱業副社長就任、内相就任とともに同社顧問)は谷中村の強制買収を決定したのです。

近代日本人の肖像―人名50音順―は・ほー原敬・福田英子

 1907(明治40)年4月14日付で谷中村残留民は栃木県に土地収用反対意見書を提出(飯塚伊平宛書簡写本「全集」Ps二五〇)、正造も同年4月17日福田英子らとともに栃木県知事に対して「旧谷中村の土地収用に対する意見書」(谷中村問題四六「全集」Bp四八三)を、5月10日には安部磯雄らとともに、内務大臣原敬へ「土地収用法適用につき訴願書」(谷中村問題四八「全集」Bp四九三)を提出、瀦水池なる文言は法律にはない、政府の措置は法に反し、法律を破壊するものであることを強調しました。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む29

 1907(明治40)年6月29日から7月5日にかけて、栃木県は谷中堤内残留民屋16戸を強制破壊、正造は破壊現場に立ち会い、抗議の意思を表明しましたが実力で破壊を阻止する行動には出ませんでした。「而してこれがために家を失ひたる者は、竹を柱とし、芦を屋根とし麦稈(むぎわら)を板敷となし、その上に筵(むしろ)を覆ひて、蚊帳(かや)をうち釣れるもあり。小舟を沼田に浮べ、竹もてこれに蚊帳を張りかけ、寂しき夢を結べるもあり。あるひは雨戸を寄せ、筵を張りなどして、僅かに雨露を凌(しの)げるもあり。中には蚊帳なくして、終夜藪蚊(やぶか)に攻められつヽ、苦しみ明かす者もあり。見るも憐(あわ)れ深き寒村の荒涼たる沼田の水に、夜半(よわ)の月影清く映りて、凄愴の景、坐(そぞ)ろに人をして泣かしむ。」(荒畑寒村「谷中村滅亡史」岩波文庫)
 三宅雪嶺・島田三郎夫妻・矢島楫子・弁護士今村力三郎らの尽力で谷中村救済会が東京で結成されると、7月21日谷中残留民は救済会宛に「憲法および国民の生命権利に対し安全保証を与えられ、又人道のために臨時救済の方法を立てられ併せて谷中村の土地復活を期せられたき請願書」[谷中・治水問題(一)「全集」C]を提出しました。

歴史が眠る多摩霊園―著名人―頭文字―あー今村力三郎

 同日救済会は残留民に不当買収価格に関する民事訴訟を起こすことを提案、正造と残留民は土地収用法の適用を不法としていたので、買収価格の高低を争うことに疑問をもったが、残留民らは安部磯雄・田中正造らとともに宇都宮地方裁判所栃木支部に訴訟を起こし、残留民の団結を守るための力となりました(参考資料一三「全集」別巻p四〇九)。
 同年8月25日渡良瀬川は大洪水を起こし、谷中残留民の仮小屋が流失、正造は26日船を借りて残留民の救出に乗り出しましたが(逸見斧吉・柴田三郎宛書簡 明治40年8月29日付「全集」Ps三六六)、彼らは病人すら船の収容に応ぜず、正造は「此人々の自覚は神にも近き精神」と称賛しました(「逸見斧吉宛の書翰」明治40年9月1日付 本書)。しかし社会運動から手を引いていた木下尚江は強制破壊に立ち会ったのですが、やがて風雨にさらされる残留民を残して上州伊香保に帰山しました。その理由を木下は次のように述べています「今日まで彼等は翁(正造)の命令的態度に慣れ来りて自決ということに不経験なれば、この大機に際して彼等の精神に一大転化を与へざるべからずと思ふ」(「逸見斧吉宛の書翰」明治40年7月19日付「木下尚江全集」第19巻 書翰・草稿・補遺)。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む30(最終回)

 1908(明治41)年7月21日栃木県は谷中堤内に25日より河川法準用を告示、これにより残留民の仮小屋も谷中堤内の耕作も県の許可が必要となることになります。
 同年9月19日正造は谷中残留民名義の「瀦水池認定河川法準用不当処分取消の訴願書」を藤岡町を経て内務大臣に提出(1909年却下)[谷中・治水問題(一)三三「全集」C]しました。
 1909(明治42)年9月内務省は栃木・群馬・埼玉・茨城4県に同省起業渡良瀬川改修工事費分担(渡良瀬川の河身変更、谷中村堤内外を中心に遊水地化)を諮問、正造は谷中残留民とともに陳情書を作成、栃木県会へ提出するなど反対運動をつづけましたが、各県会はやがて同改修案を可決、これをうけて1910(明治43)年3月23日第26議会も総工費750万円、14箇年継続事業として渡良瀬川改修案を可決しました(年譜「全集」別巻)。
 1913(大正2)年正造は過労で病床に伏す日々が多くなりましたが、それでも河川調査をやめようとはしませんでした。足利・佐野の友人を訪問しながら谷中へ向かう途中、同年8月2日足利郡吾妻村大字下羽田の庭田清四郎宅で倒れ、そのまま臥床してしまいました。9月3日医師和田剣之助は正造の病気を胃癌による幽門狭窄と診断、翌日午後零時50分正造は木下尚江に支えられて端坐すると、「ハァ」と大きな息をして呼吸をやめました。枕元に残された菅の小笠と繻子(しゅす 経糸・緯糸の浮いた組織の織物、古来帯地に用いることが多い)の袋には、日記3冊と「苗代水欠乏農民寝食せずして苦心せるの時、安蘇郡、及び西方近隣の川々細粒巡視及其途次に面会せし同情者の人名略記内報その一号書」と題された草稿、新約聖書一冊、帝国憲法と馬太(マタイ)伝を白糸で綴じあわせた小冊子、それに石ころ数個と鼻紙が少々あったということです(島田宗三「前掲書」)。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―正造ゆかりの地―田中霊祠

栃木県の土木遺産―土木遺産目次―V 河川砂防―渡良瀬遊水池―番外―足尾銅山「光と影」年表
2011-10-05 05:56 | 記事へ | コメント(14) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇28) |
木下尚江「田中正造の生涯」を読む11〜20
2011年09月25日(日)
木下尚江「田中正造の生涯」を読む11

 栃木県においても国会開設運動を中心とする自由民権運動は盛り上がりをみせていました。1880(明治13)年3月10日嚶鳴社の沼間守一(ぬまもりかず)・青木匡・西村玄道3名は足利町の友人にまねかれて演説会に出席し、佐野町春日岡においても演説、これをきっかけにして足利に第十九嚶鳴社、佐野町にも第二〇嚶鳴社が設立され、3月20日第二〇嚶鳴社は毎月社員を東京から招いて演説会を開くとともに、「栃木新聞」に会員募集の広告を出しました。

多摩川誌―目次―第6編 社会生活史―第4章 近代―第3節 自由民権運動と多摩―3.1.3 都市民権派ジャーナリストの活躍―(1)嚶鳴社の活躍

 同年8月上旬田中正造ら6名の連名による「栃木県下同志諸君に告ぐる書」が「栃木新聞」に発表され、「進んで輿論を翼賛して国会開設を天皇陛下に請願し、退ては民権を回復し自由を拡張し全国公衆と共に国民本分の義務を尽」そうではないか、との呼びかけが行われました(「全集」@九六)。同年8月23日安蘇結合会第1回会合が佐野町春日岡惣宗寺で開催、正造は会長に選出されましたが、同年10月3日同会は中節社と改称、正造は同月4日国会開設建白書起草委員となりました(四 安蘇結合会日誌「論稿」一「全集」@)。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―正造ゆかりの地―3 春日岡山惣宗寺

木下尚江「田中正造の生涯」を読む12

 1881(明治14)年7月26日「東京横浜毎日新聞」(嚶鳴社系民権派新聞)社説「関西貿易商会ノ近状」で北海道開拓使官有物払下げ事件が暴露されて以来、各新聞はこぞってこの問題を取り上げ、自由民権運動はかつてない盛り上がりを見せたのです。
 同年10月1日開催予定の国会期成同盟大会を前に、同年9月23日遊説のため上京した板垣退助を迎えて新聞・雑誌社が上野精養軒で各派懇談会を開き、ここでは地方と府下を一貫した大政党の結成を主張するものが多く、発起人が政党組織の案を起草し、全国に呼び掛けることを決定しました(大久保利謙「明治十四年の政変」明治史料研究連絡会編「明治政権の確立過程」明治史研究叢書1 御茶の水書房)。
 しかるに翌9月24日板垣退助・中島信行・山際七司・林包明ら30余名は向島八百松楼で会合、政党組織について討議しましたが、これは愛国社系の政社を中心とするもので、嚶鳴社らの府下新聞・雑誌社などは呼ばれていませんでした。同年10月1日に開会した国会期成同盟は自由党準備会と国会期成同盟は同主義であるからこれを合体して一つの政党をつくることを決定、翌10月2日自由党組織原案起草委員5名を選出しました(由井正臣「前掲書」)。
 このような民権派の動きに応じて同年10月12日政府は北海道開拓使官有物払下げ中止、参議大隈重信罷免を発表するとともに、明治23年を期して国会を開設するとの詔書が発せられました(「伊藤博文伝」・「大山巌」を読む19参照)。

近代日本人の肖像―人名50音順―あ・おー大隈重信

 同年10月18日浅草井生村楼(いぶむらろう)で土佐の立志社を中心に自由党結成会議が開会しましたが、沼間守一ら嚶鳴社系の人物は参加していませんでした(「涌井藤七への書翰」本書)。正造は統一政党の結成をあきらめてはいませんでしたが、1882(明治15)年4月16日大隈重信を総理とする立憲改進党が結党されると、正造は同年村落名望家とともに同党に入党しました(「回想断片」「全集」@)。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む13

東北物語り伝承館―東北近代化の物語りー福島事件

 1883(明治16)年栃木県令藤川為親は福島事件の原因の一つとなった会津三方道路(会津地方から新潟県・山形県・栃木県に通じる県道)の一つを引き継ぎ、栃木県側の塩谷郡横川村から塩原村経由で陸羽街道(明治6年奥州街道を改称)親園村に至る道路開鑿を計画、その費用55,565円余の地方税を3年分割で支出するという案を県会に提出しました。
 県令提案は県会で廃案となりましたが、内務卿の命令で県令原案が執行となり、さらに同年10月30日福島県令三島通庸が栃木県令を兼任すると、土木工事はさらに拡大されました。
 三島は着任すると県庁を栃木町から宇都宮に移転するとともに、1884(明治17)年陸羽街道を氏家宿以北は旧街道に沿って新たに開通させ、以南は改修するための土木費105,073円余を県会に提案してきました。県会は紛糾の末道路橋梁費105,090円を
可決すると、県令はさらに沿道各戸に数十日間の無賃労役を課し、欠席するときは代人料1日25銭を納入させるというものでした(由井正臣「前掲書」)。
 やがて同年8月乙女村事件が起こりました。これは労役民の遅参を怒り、監督巡査が反抗した乙女村民衆73名を逮捕、小山(おやま)警察分署にて暴行を加えたという事件です(三四 「三島県令土木事件」「論稿」一「全集」@)。
 正造は事件現場にかけつけ調査、上京して島田三郎らの紹介で宮内卿土方久元・内務卿山県有朋に三島通庸の圧政を訴えました(「昔話」「全集」@)。

近代日本人の肖像―人名50音順―さ・そー島田三郎―ま・もー三島通庸

木下尚江「田中正造の生涯」を読む14

ところが同年9月23日加波山事件(「大山巌」を読む23参照)が起こりました。この事件は福島事件で弾圧され三島通庸に報復しようとする河野広躰(ひろみ)らのグループと栃木自由党員鯉沼九八郎らのグループらが茨城県加波山で武装蜂起、警官隊の攻撃で壊滅したという事件ですが、三島県令は田中正造を加波山事件容疑者として逮捕、正造は佐野警察署に79日間拘留され、不起訴処分となって釈放されました(三五「佐野警察署への請書」「論稿」一「全集」@)。
同年10月29日自由党は解党(「自由党史」下 岩波文庫)、12月17日大隈重信・河野敏鎌らが立憲改進党を脱党(指原安三「明治政史」明治文化全集 第9〜10巻 正史編 日本評論社)するなど自由民権運動は衰退し敗北していくのです。
1889(明治22)年2月11日の大日本帝国憲法発布(「大山巌」を読む27参照)式典に田中正造は栃木県会議長として出席(「回想断片」「全集」@)、明治憲法への期待を表明しています。しかし伊藤博文が同年2月15日府県会議長を招待して行った憲法講話で伊藤が展開した超然内閣(政党内閣の否定・「大山巌」を読む27参照)の主張に対して正造は論評しませんでした。正造は政党内閣制を理想としていたからでしょう。
国会開設の時期が迫ってくると、政党再編を目指す動きが活発となりました。1889(明治22)年5月26日正造は立憲改進党勢力を拡張するために、佐野で明治倶楽部の発会式を挙行(「全集」Mh齪Z七)、安蘇・梁田・足利の3郡に組織の根をおろすことを目的としたもので、同年問題となった大隈重信外相条約改正案(「大山巌」を読む28参照)をめぐる政争の中で、栃木県下の明治倶楽部を中心とする改進党勢力は大隈条約改正案断行を主張する建白運動を展開しました(四三「外交条約改正の決行を請うの建白」「論稿」一「全集」@)。
 1890(明治23)年7月1日第1回総選挙が実施され(衆議院・参議院編「議会制度七十年史(政党会派編)」大蔵省印刷局)、田中正造は立憲改進党候補として、栃木3区(安蘇・足利・梁田郡)から衆議院議員に当選しました(「全集」Ms一五・二二〇)。
 当時の新聞の報道するところによれば、田中正造は垢じみた紋服を着て、乱れた髪を整えもせず、演壇で怒声を張り上げ、大臣や吏党(現在の政府与党に相当)議員を批判、「栃鎮」(とちちん 栃木鎮台の略)とか「田正」(たなしょう)というニックネームがついていました。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む15

  足尾銅山は1610(慶長15)年発見され、江戸幕府直轄の鉱山として、産銅は日光山用銅や江戸城増築の際の屋根瓦などに利用、また長崎貿易における輸出品としても重要な役割を果たしました、しかし幕末には衰退して廃山寸前の状態でした。同銅山は1873(明治6)年民間経営に移行しましたが、経営は不振がつづきました(「栃木県史」通史編8 栃木県)。
 古河市兵衛は1832(天保3)年京都岡崎のうまれで、幼名は木村巳之助、家は貧乏な豆腐屋で、18歳のとき母方の叔父の世話で盛岡に赴き、南部藩御用商人の店で働きましたが店は倒産、叔父の世話で1858(安政5)年京都の豪商小野組番頭古河太郎左衛門の養子となり、古河市兵衛と改名しました(五日会編「古河市兵衛翁伝」近代日本企業家伝叢書3 大空社)。養父とともに生糸の買い付けに従事、一時成功しましたが、1874(明治7)年10月22日大蔵省は小野・島田・三井の各組に対して、公金預かり高に対する抵当増額を定め、このため小野・島田両組は倒産、大蔵省より事前通告をうけ、これに対する内密の工作をした三井組は生き延びることができたのです(大江志乃夫「日本の産業革命」岩波書店)。

近代日本人の肖像―人名50音順―は・ほー古河市兵衛

 このとき小野組に多額の貸し付けを行っていた第一国立銀行は大打撃をうけましたが、古河市兵衛は自らの財産を抵当として差し出し、第一国立銀行は危機を回避できました。渋沢栄一はこの恩義に報いて古河市兵衛に融資を強化、古河市兵衛の大きな後ろ盾となったのです(「雄気堂々」を読む15参照)。
 市兵衛はすでに1875(明治8)年古河本店(後の古河機械金属株式会社)を創業、鉱山経営にのりだしていましたが1876(明治9)年12月30日足尾銅山の買い取り名義人として相馬家(旧相馬藩主)を立て、資金は相馬家が半額出資、自身は相馬家家令(家務の管理人)であった志賀直道(志賀直哉の祖父)の共同経営(1886志賀直道経営から離脱)とし、1880(明治13)年渋沢栄一も出資(1888渋沢栄一経営離脱)に加わりました。
 足尾銅山は古河市兵衛の経営後も不振がつづきましたが、1881(明治14)年銅の大鉱脈を発見、以後つづいて大鉱脈を掘り当て、銅生産高は急上昇しました。
 1888(明治21)年フランスを中心とする国際的銅シンジケート(販売・購買企業連合)の代理者ジャーデン・マジソン商会との古河産銅全額買い取り契約が成立、しかるに翌年3月同シンジケートが崩壊した結果、銅価格は暴落、古河は巨額の利益を手にいれました(「古河市兵衛翁伝」)。しかし他方同じころ足尾銅山の鉱毒問題が顕在化して大きな社会問題を引き起こすようになっていたのです。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む16

 1890(明治23)年ころ、足尾銅山の鉱毒で渡良瀬(わたらせ)川の魚類が多数死滅し問題となり始めていました(「郵便報知新聞」)が、同年8月渡良瀬川沿岸は大洪水に見舞われ、その田畑被害は、以前のそれとはまったく違っていました。昔洪水は上流の腐葉土を運んできてくれたので、農民は同川沿岸の土を自分の田畑にはこんで肥料としたものでしたが、同年の洪水により、稲は冠水しただけで穂が出ず、桑木は80〜90%枯れてまうという状態となったのです(「過日来御約束の被害土壌調査致候処、悉く銅の化合物を含有致し、被害の原因全く銅の化合物にあるが如く候。」(渡良瀬川沿岸青年有志の依頼による農科大学教授古在由直の回答 6月1日付<明治23年>・「足利郡吾妻村々長亀田佐平より栃木県知事への上申書」明治23年12月18日付 本書)。
 1891(明治24)年11月26日開会の第2議会で田中正造ははじめて政府に質問書を提出しましたが、その最初が「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」(同年12月18日付)でした(「本書」)。

山とスキー・歴史と文化―国内の歴史と文化(一覧表)―D12 足尾銅山―日本鉱工業の光と陰

 この質問演説で、正造は足尾鉱毒問題を放置する監督官庁の怠慢を指摘するとともに、当時の松方正義内閣(第1次)の農商務大臣陸奥宗光(「大山巌」を読む34参照)の子潤吉が古河市兵衛の養子となっていることに言及し、「まさかに農商務大臣たる国家の大臣と云ふものが、斯くの如き事を以て公務を私するもので無いと云ふことは、拙者も信じて居る。乍併(しかしながら)斯くの如きことを人民が言ふ時には、何を以て之を弁解する」(「本書])と述べ、間接的に国家権力と財界との癒着を批判しました。
 田中正造の質問演説の日、松方内閣は衆議院を解散したため、正造の質問演説に対する政府答弁はなかったのですが、のちに農商務大臣陸奥宗光は官報に要旨次のような「足尾銅山礦毒の件に関する答弁書」(「本書」)を発表しました。すなわち(1)渡良瀬川被害が足尾銅山の鉱毒によるものとは断定できない、(2)被害の原因については分析試験中である、(3)鉱業人は鉱物流出を防止するため独米両国から「粉鉱採聚器」を買い入れて鉱物の流出防止の準備中である。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む17

 1892(明治25)年2月栃木県知事は県会議員による鉱毒仲裁委員会を組織、示談契約は同年8月から翌年にわたって栃木・群馬2県関係43町村と結ばれ、その内容は古河市兵衛が「仲裁人の取扱に任せ、徳義上示談金」の一定額を支払うのと引き換えに、被害者は「明治二十九年六月三十日迄は粉鉱採聚器実効試験中の期限とし、契約人は、何等の苦情を唱ふるを得ざるは勿論、その他行政及び司法の処分を乞ふが如き事は一切為さヾるべし」(「契約書」本書)というものでした。これによって鉱毒被害民の反対運動は一時下火となり、田中正造はこのような示談契約に賛成したわけではありませんでしたが、第4議会(明治25年11月29日―26年2月28日)から、日清戦争を経て、第8議会(明治27年12月24日―28年3月23日)まで、正造の足尾鉱毒事件についての議会発言はありません。
 1895(明治28)年3月16日栃木県下都賀郡部屋村他4村及び足利郡足利町他11村の鉱毒被害民は古河市兵衛との間に賠償金による永久示談契約を締結(「全集」Mnl三四・四三五)しました。田中正造は翌年3月25日第9議会において「足尾銅山鉱毒に関する質問書」を提出、永久示談の不当を追及しています(「全集」FbP06)。
 しかるに1896(明治29)年7月21日、8月17日、9月8日の3回にわたって渡良瀬川に大洪水が起こり、その鉱毒被害は1府5県1市20郡2区251町村に波及、農作物や桑木は立ち枯れる光景が現出しました(島田宗三「田中正造翁余録」上 三一書房)。これは永久示談なるものが、いかにむなしく不当なものであるかを実証したのです。
 正造は大洪水以後被害調査と請願運動組織のため奔走、同年10月4日群馬県邑楽(おうら)郡渡瀬村早川田(さがわだ)(群馬県館林市下早川田)の雲龍寺に栃木・群馬両県鉱毒仮事務所を設立、同寺においてしばしば鉱毒演説、同年11月栃木・群馬両県3郡9町村鉱毒被害民は足尾銅山鉱業停止請願書を農商務大臣に提出し、同年12月23〜28日栃木・群馬両県8村総代は上京、農商務省・内務省・東京鉱山監督署などに陳情するに至りました。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―正造ゆかりの地―4 雲龍寺

木下尚江「田中正造の生涯」を読む18
 
1897(明治30)年2月26日第10議会において、田中正造は「公益に有害の鉱業をを停止せざる儀に付質問書」を提出、これにつき説明演説を行いました(「本書」)。
 同年2月28日以降正造をはじめ、津田仙・島田三郎(「田中正造の生涯」を読む13参照)・谷干城・三宅雪嶺らの知識人による鉱毒演説会が神田基督教青年会館をはじめとして東京の各地で開かれるようになり、注目を集めました。

港区ゆかりの人物データベースー索引 ゆかりの人物ーつー津田仙

3月20日には谷干城(「大山巌」を読む25参照)らが被害地を視察(「全集」Mlワ七一)、これに影響をうけて3月23日農商務大臣榎本武揚も被害地を視察しました(「年譜」「全集」別巻)。

近代日本人の肖像―人名50音順―ま・もー三宅雪嶺

農商務大臣榎本武揚は田中正造の質問書に対する答弁書で、はじめて鉱毒の存在を認めたが、古河と被害民との示談成立を理由として処分を保留と述べるに止まりました(「政府の答弁書」明治30年3月18日 本書)。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―田中正造の関係者―榎本武揚

この間被害民は「押し出し」と呼ばれる請願行動を繰り返しています。当時進歩党(「大山巌」を読む46参照)と提携していた第2次松方正義内閣は同年3月24日内閣に足尾銅山鉱毒調査会を設置、委員長に法制局長官神鞭(こうむち)知常が就任しました。
同年3月29日第10議会閉会後農商務大臣榎本武揚は辞任、外相大隈重信が同大臣を兼任しました(「年譜」「全集」別巻)。
 足尾銅山鉱毒調査会はまず古河側に鉱毒防御の工事を命令、その設備が期日までに完成せず、怠慢の処置があれば鉱業を停止する、また鉱毒被害地は地租条例第20条の一般災害地なみの免租を適用することを決定、同年5月27日東京鉱山監督署長は古河市兵衛に対して、坑内排水の沈澱池、゚(からみ 鉱石を熔錬する際に生ずる滓)・捨石・泥渣などの堆積所の整備、脱硫塔、烟道及び大煙突の建設などを義務付け、各工事を完成期限までに完了するよう37項目について明示(「古河市兵衛翁伝」)、古河側は同年11月22日命令通りこの工事を完成させ、鉱業停止には至りませんでした。しかし脱硫塔は機能せず、沈澱池も不充分なもので、鉱毒が依然として垂れ流しの状態であることはのちに明らかとなっていったのです。また地租免租処分の結果、被害民は選挙権その他公民権を失うものが続出しました(「栃木県史」通史編8・荒畑寒村「谷中村滅亡史」岩波文庫)。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む19

 1897(明治30)年5月27日鉱毒防御工事命令がでると、これに期待した前記知識人らの支援活動は次第に不活発となり、新聞報道も少なくなっていきました。正造は1898(明治31)年1月2日進歩党首大隈重信を大磯に訪問、鉱毒問題について激論を交わしました(「田中正造日記」明治31年1月2日条「全集」I)。
 同年3月15日第5回臨時総選挙で田中正造は衆議院議員(進歩党所属)に当選しましたが、5月19日開会の第12議会で自由・進歩の両党は提携して6月10日地租増徴案を否決、衆議院は解散、同月22日自由・進歩両党は合同して憲政党を結成、その結果第3次伊藤博文内閣は倒壊、6月30日大隈重信内閣が憲政党を基礎とし我が国最初の政党内閣として成立しました(「大山巌」を読む46参照)。
 しかるに同年9月6日渡良瀬川大洪水で打撃をうけた被災地では、免租処分によって発生した公民権喪失による町村自治崩壊の救済を求めて、9月26日雲龍寺を出発した被害民約1万人のうち2500名は警察官の警戒網をくぐりぬけて東京府南足立郡淵江村保木間の氷川神社に到達しました(「田中正造日記」明治31年9月27日 本書)。

猫のあしあとー猫の足あとー城東地区の寺社―足立区の寺社―足立区の神社―足立区西保木間の神社―保木間氷川神社

 これを迎えた田中正造は被害民に代表を選んで他は帰郷することを勧め、彼らに以下の約束をしました。それは(1)被害民代表とともに政府に被害の惨状を十分に説明する、(2)現政府は憲政党内閣で吾々の政府であるから信用して、不充分な点があれば助けざるを得ない、(3)もし政府が正造と被害民の代表の説明を聞き入れないならば、議会でその責任を問い、社会にその不法を訴える(島田宗三「前掲書」)。
 かくして被害民の代表50名は上京して内務大臣板垣退助・農商務大臣大石正巳に面会を申し入れましたが、板垣内相は面会を拒絶、大石農商務相は3度目にようやく面会を許諾しました(「田中正造日記」明治31年9月29日〜10月1日 本書)。
 正造が吾々の政府として期待した憲政党内閣は被害民の期待に応えず、4箇月で倒壊、憲政党は旧自由党系の憲政党と旧進歩党系の憲政本党に分裂しました(「大山巌」を読む47参照)。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む20

 1895(明治28)年以来田中正造は胃カタルを起こしてしばしば病床に伏すようになっていましたが、1899(明治32)年秋より正造の関与で同年12月22日鉱毒議会が結成され、栃木・群馬4郡19箇村1070余名で構成されていました。この組織を背景に1900(明治33)年2月9日第14議会において正造は「足尾銅山鉱毒問題の請願に関する質問書」を提出、説明演説しました(「本書」)。
 同年2月13日未明雲龍寺の鐘を合図に被害民は鉱毒悲歌を歌いながら出発、彼らは渡良瀬川を渡り、館林を通過、利根川河畔の川俣に到着しました。
 このとき待ち受けた警官隊・憲兵は永島与八ら15名を逮捕、被害民は解散させられ、さらに後の捜索によるものを合わせると被逮捕者は100余名に上りました(川俣事件「栃木県史」通史編8)。

宮代NOW(GOOな情報)−バックナンバーー2011年05月22日―川俣事件(群馬県明和町)

 同年2月14日正造は同議会において「院議を無視し被害民を毒殺し其請願者を撲殺する儀に付質問書」など2件の質問書を提出、川俣事件を追及(「本書」)、同月15日「政府自ら多年憲法を破毀し、曩(さき)には毒を以てし今は官吏を以てし、以て人民を殺傷せし儀に付質問書」を提出、説明演説中、憲政本党脱党を宣言(「本書」)、2月17日には「亡国に至るを知らざれば之れすなわち亡国の儀に付質問」を提出、説明演説(「本書)、しかしこれに対する政府答弁は「質問の旨趣要領を得ず、依て答弁せず。右及答弁候也」(「政府の答弁書」明治33年2月21日 内閣総理大臣 侯爵 山県有朋 本書)というものでした。
 このような状況の中で島田三郎経営の「毎日新聞」は事件直後記者木下尚江を現地に派遣して報道、苦境にあった田中正造を励ましたのです。このころ正造は毎日新聞社にはじめて木下尚江を訪問、謝辞を述べています。同新聞に連載されたこの記事は後に増補して「足尾鉱毒問題」と題して同社から発行されました(「木下尚江全集」第1巻 教文館)。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―田中正造の関係者―木下尚江
2011-09-25 06:04 | 記事へ | コメント(2) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇27) |
木下尚江「田中正造の生涯」を読む1〜10
2011年09月15日(木)
木下尚江「田中正造の生涯」を読む1

 田中正造は幕府老中水野忠邦が天保の改革を開始した1841(天保12)年11月3日下野国安蘇(あそ)郡小中(こなか)村(栃木県佐野市小中町)で、父富蔵(25歳)、母サキ(22歳)の長男として生まれ、幼名は兼三郎といいました(年譜「田中正造全集」別巻 岩波書店 以下「全集」と略)。

栃木県WEB観光案内所―栃木県:見所・観光―佐野市―田中正造生家

 兼三郎の家は代々小中村六角(ろっかく)家知行所の名主を勤めていました。「正造も四代目の名主の家に生まれたるものヽ、家は村中でヤット中等の財産に過ぎず。」(「回想断片」全集 第1巻 以下@と略)と正造は後に回想しています。
  兼三郎の祖父正造(兼三郎はのちに祖父の名を継ぐ)は激しい気性の人であったらしく、大酒のため35歳で早く死去したため、田中家では男子30歳を越すまでは酒盃を口にしないという家憲がたてられたそうです(木下尚江「田中正造の生涯」伝記叢書83 大空社 以下「本書」と略)。
 兼三郎の父富造(富蔵)は温厚な性格で教育熱心な人物だったようです。兼三郎は7歳ころ赤尾小四郎(鷺洲)に入門しましたが、赤尾鷺洲は「生徒に教うるに厳なり。先ず四書五経唐詩選古文等に至り生徒独り無点本(返り点や送り仮名のない漢籍など)を読むに至るものにあらざれば講議を為さず」という教育方針をとったので「兼三郎の学未だ無点本を独り読むに至らずして少しも講議を授けずして師は死したりき。」(「回想断片」全集@)という結果に終わりました。これは1856(安政3)年で、兼三郎16歳のときのことです。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む2

領主六角越前守は江戸幕府の高家(幕府の儀式・典礼を司る家柄)衆で、下野国に小中村以下7箇村と武蔵国2箇村をあわせて2000石を領有していました(近代「足利市史」第1巻 通史編 足利市)。六角家は京都の烏丸大納言光広の次男木工権頭広賢が1647(正保4)年に輪王寺宮守澄法親王日光山門跡として関東下向の時、江戸に随行して六角家を称したのがその始まりとされています(「寛政重修諸家譜」巻第1401 続群書類従完成会)。

栃木県WEB観光案内所―栃木県の国宝―日光東照宮ー輪王寺

小中村は相給(あいきゅう 複数の大名・旗本によって1村が分割支配されている村)の村で、石高1438石余の中、旗本六角家が1012石余、旗本佐野家が409石余、浄蓮寺が16石余を領有、佐野領では名主石井郡造、六角領では田中正造・篠崎茂左衛門が村政を担当していたのです(由井正臣「田中正造」岩波新書)。当時武家財政は火の車で、領主六角家も破産寸前の状態でしたが、富造は六角家の用人坂田伴右衛門とともに財政整理に努め、やがて負債償却を実現、5000余両の剰余金を生むことに成功しました。  
この功績で1857(安政4)年富造は割元(村々名主等の総取締役)に昇進、苗字帯刀を許され、兼三郎は小中村六角家知行所名主に選ばれました(正誤「全集」@p86)。
 近くに足利(あしかが)・桐生(きりう)の絹織物や真岡(もうか)の綿織物など有名な織物生産地があり、米麦生産を中心とした小中村では商品作物(染料)として藍玉(「雄気堂々」を読む2参照)生産がさかんになりつつありました。兼三郎は藍玉商に力を入れ、3年で300両の大金を手にしたのでした(「田中正造昔話」以下「昔話」と略「全集」@)。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む3

 六角領では割元役は1年交替の各村持ち回りの慣例があり、1857(安政4)年田中兼三郎の父富蔵が割元に任命されたことは、従来の慣例を無視したものでした。またこの申し渡しの際平百姓で村役人になれない小前(こまえ)身分の平塚承貞(大久保村医師)が村役人席についたことおよび村々出金の当座御仕舞金を年度途中までに上納することも申し渡されました。
 こうした従来の慣例無視に小前農民は富蔵割元昇進は認めるが、足利郡の今福・田島・助戸・山川4箇村は従来の慣例通り割元を年番で選出するとして六角家に訴願を提出したのです(由井正臣「前掲書」)。
 1862(文久2)年朝廷は島津久光の建議により勅使大原重徳を江戸に下向させて勅旨を伝え、将軍家茂は幕政改革のため松平慶永を政事総裁職に、一橋慶喜を将軍後見職に任命しました。この新政の一つとして山陵修復が行われ、幕府は宇都宮城主家老戸田忠至(大和守)を山陵奉行に任命(「維新史料綱要」巻4 文久2年10月22日条)、新たに指定された神武天皇陵(畝傍山山陵)の祭典が実施されました。

奈良の名所・遺跡―バックナンバーー2006年11月03日 ミサンザイ古墳「神武天皇陵」

このとき六角越前守は高家として将軍代拝のため大和に赴き、割元富蔵は会計掛として六角越前守に随行したのです(「昔話」「全集」@)。父富蔵が畿内滞在の間田中兼三郎が割元職を代行しました(「回想断片」「全集」@)。
 1862(文久2)年六角家筆頭用人坂田伴右衛門死去により、後任として林三郎兵衛が用人を受け継ぐことになりました。同年林三郎兵衛の主家江戸屋敷普請案は田中富蔵・兼三郎父子の反対によって失敗しましたが、林は翌年上記事情による富蔵不在時に再び江戸屋敷普請計画実現をはかって、村々に2000両の先納金を課してきたのです。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む4

 1863(文久3)年田中兼三郎(同年 大沢清三郎次女 カツと結婚)は領主に上書を提出して林三郎兵衛を糾弾(「昔話」「全集」@)、これに対して林らは兼三郎の名主休役を命じたのでした。1864(元治1)年には領主在京につき、領分村々へ高100石につき3両の割合で御用金を賦課、平塚承貞居住の大久保村のみ例外とする村々分断策がとられました。
 これに対して1867(慶応3)年4月小中・山川・助戸・田島・今福・稲岡の6箇村は別家六角録三郎を通じて平塚承貞罷免を要求するとともに、、林・平塚らの悪業を8箇条に列挙、関係者を召喚して調査を要請する嘆願書を提出、この嘆願書とは別に六角家親族
による本家の家政の乱れを取り締まるよう訴え出ました。よって同年6月長沢内記・日野大学の家臣が調査を開始、11月烏丸家が長沢・日野両家に六角家家政取り締まりを依頼するに至りました。

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 しかるに同年10月14日徳川慶喜は大政奉還、12月9日王政復古の大号令、翌1868(慶応4・明治1)年1月3日鳥羽伏見も戦いで徳川軍敗北、同年1月7日明治新政府は慶喜征討令を発し、2月9日有栖川熾仁親王は東征大総督として江戸へ向け進軍、3月11日東山道総督府は領主に不平あるものは訴えでるよう布告(年譜「全集」別巻・「維新史料綱要」巻8 明治元年3月11日条)、4月11日新政府軍は江戸城を接収しました(「天璋院篤姫」を読む18参照)。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む5

 6箇村名主総代助戸村藤吉ならびに山川村藤七郎は六角家問題を東征大総督府に訴え出ました。大総督府内に設置された教諭安民方は六角家問題を調査、同年4月13日夜林三郎兵衛・平塚承貞を逮捕、同月26日大総督府から派遣された役人が六角主税を尋問しました。
これに対して林一派の村役人は大総督府に賄賂を贈った結果、林・平塚は投獄約1箇月で釈放されるに至ったのです。彼らは大総督府に本領安堵の嘆願書を提出、同年5月六角主税は朝臣(新政府の臣下)を認められるとともに本領安堵の裁許状を下附される成功を収めました。

近代日本人の肖像―た・とー田中正造 

 一方田中兼三郎は本家烏丸家に嘆願書を提出して、六角家の旧慣無視と不要土木工事などの収奪を列挙、林三郎兵衛の厳重処分と六角主税の引退を求めました。この嘆願書を入手した林らは兼三郎を捕えて、江戸屋敷内の牢獄に閉じ込め、入牢は約10箇月に及びました(「昔話」「全集」@)。
 その牢獄は「広さ僅かに三尺立方にして、床に穴を穿て大小の便所を兼ねしむるが如き、其窮屈さは能く言語の尽し得べき所にあらず」(「昔話」「全集」@)という状態で、はじめ兼三郎は毒殺を警戒して食事をとらず、同志がひそかに差し入れた鰹節2本を齧って飢えに堪えたそうです。
 兼三郎はかかる状況で林三郎兵衛と対決したのですが、明治新政府役人の吟味の結果、1869(明治2)年初め役人へ遺恨を含み、種々の書類を作成、上書し、領主のことまで誹謗したことは罪軽からず、よって家族ともども領内徘徊を禁じ、他領へ追放という処分が下され、兼三郎はようやく釈放されました。彼は六角家騒動の運動費としての借金1000両を田畑などを処分して少しずつ返済していきました。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む6

 田中兼三郎は出獄後、隣の堀米村の地蔵堂で村民の援助により手習塾を開き生計を立てていました。この年の5月17日戊辰戦争は終了(「維新史料綱要」巻10 明治2年5月17日条)、同年2月小中村は日光県の管轄下におかれる政府直轄地となりました。
 赤尾鷺洲塾の同門で出流山事件に参加したが斬首を免れ、新政府に出仕して府県学校取調局御用掛の職にあった織田龍三郎のすすめで、同年8月兼三郎は留学の目的で東京に赴き、このとき彼は正造と改名しました(「回想断片」「全集」@)(改名は花輪到着時とする「全集」別巻p375)。

例幣使街道の歴史を歩くーW リンクー14.出流山天狗事件

しかし織田はすでに免職となり、正造は勉学どころか織田の生活を助けて苦闘中、同年12月陸中江刺県大属早川信斎が公務上京、正造の様子を見て江刺へ同行するよう勧誘しました。江刺県は同年8月朝敵仙台・南部両藩処分の結果設置され、下閉伊郡遠野町に本庁を、鹿角郡花輪町に分局を置き、栃木県横堀村出身の国府(こくぶ)義胤が大参事として在任中であったので、正造は江刺行を決心、1870(明治3)年2月20日早川とともに東京を出発しました。
 正造は3月3日江刺県役所に到着しましたが、国府大参事はすでに辞職、しかし3月19日付で附属補(下級官吏)に採用、月給8円を支給され、同月22日同県鹿角郡花輪町役所勤務となりました。赴任途中から正造は「食するものなく蕨(わらび)の根を製し食」する現地農民の窮乏生活を目撃、3月26日花輪に着任した正造の任務は救助窮民取り調べでした。同年4月7日聴訟掛兼山林掛となり(「御用雑記公私日記」本書)、「五十敲(たたき)以下の犯罪」の調査裁判、及び主として開墾許可の仕事を担当しました(「奥州花輪より故郷への書翰」本書)。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む7

 花輪分局では分局長が小山少参事でその下僚として木村新八郎大属がいました。小山は下野黒羽藩(勤王藩)、木村大属は旧幕府小普請役出身でしたが、戊辰戦争で朝敵であったこの地域の旧士族は新政府へ反抗的でした。小山少参事は寸陰館(郷校信盛堂再興)に集まる士族良識派を分局の下級役職に採用して彼らとの融和をはかる策をとっておりました。
 ところが1871(明治4)年2月3日夜正造の上司であった木村新八郎大属が殺害される事件が突発したのです。同年6月10日正造は木村新八郎殺害犯人として逮捕されました(正誤p86「全集」@)。

田中正造とその郷土―佐野が生んだ偉人―田中正造―正造の関係者―木村新八郎

 正造は出張巡回中の弾正台(明治新政府の監察機関)の役人による審問をうけたのですが、その審問とは江戸時代そのままの白州(しらす 罪人を糾問する場所)での拷問をうけ、証拠としては正造の脇差に曇りがあるという程度でした。
 しかも正造にとって不利となったこととは、かれが当時リューマチを病んでおり(「昔話」「全集」@)、身の周りの世話や言葉の通じない不便のため、すでに結婚している身でありながら、地元の15歳の少女を雇い同棲していたことでした。しかもこの少女は木村新八郎殺害当夜、正造と同室していたのに、熟睡していて何も知らないと役人の審問に答えたため、正造の潔白を立証するには不利な証言となったのです。
 弾正台は審問未了のまま秋田に出発したため、正造は入獄中免職となり、花輪から江刺県獄に移され、審問が継続され拷問がつづけられました。この年の冬正造は病死した囚人の衣類をもらいうけてようやく凍死を逃れたということです。同年の廃藩置県によって江刺県は他県に併合されたため、審問は放置されました。翌1872(明治5)年正造の身柄は岩手県盛岡獄に移送され、畳のある部屋に起居して書物の差し入れも自由となりました。
 正造はこのころ、翻訳書を借りて政治・経済の学習に努め、とくにスマイルズ著(中村正直訳)「西国立志編」(明治4年刊行)を熟読(「昔話」「全集」@)、この書は彼の精神的成長におおきな影響を与えました。
 1874(明治7)年4月5日県令から木村新八郎遺子らの証言により、正造の嫌疑ははれ、無罪放免を示達されました。彼は岩手県中属西山高久宅に引き取られて療養、同年5月9日叔父に付き添われて正造は盛岡から小中村に帰着しました(「昔話」「全集」@)。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む8

 1871(明治4)年7月の廃藩置県ののち、同年11月栃木県が設置され(「栃木県史」通史編6 栃木県)、1873(明治6)年小中村などは栃木県第九大区三小区という行政区域に再編されていました。
 1874(明治7)年帰郷した正造の仕事はまず残っていた六角家騒動の運動費にかかわる借金を引き続き返済することでした。獄中正造はウエリントン(1815年 ワーテルローの戦いでナポレオン軍を敗北させたイギリス軍司令官)の伝記[「西国立志編」第九編二十七 ウエリントン、正直にして借財を懼(おそ)るること。第十編十一 ウエリントン、ワシントン(米初代大統領)借債を懼れしこと「講談社学術文庫」527]を読み、同氏が借金を厭っていたことを深く記憶していた影響によるものでしょう。

近代日本人の肖像―人名50音順―な・のー中村正直

 正造の母サキは同年3月9日死去していたので、父庄造(明治2年富蔵改名)に後妻クマを迎え(系図附言 8正造継母クマ 「全集」別巻)、「家政の憲法」(「昔話」「全集」@)を制定して家人にこれを守るよう求めました。その内容とは家内一同借財をわすれないこと、向かう3年間は新しい家財道具を購入しないこと、日曜日には家内一同休息すること、新たな金銭出費については家内一同で相談することなどで、正造へのヨーロッパ思想の影響がよく表れていると思います。彼は家を出て隣村赤見村の造酒業「蛭子(えびす)屋」の番頭となりました。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む9

 蛭子屋の番頭をやめた正造は村に夜学を開いて青年の指導にあたるとともに、1873(明治6)年7月布告された地租改正条例により、全国に逐次実施されつつあった地租改正に関わるようになります。
 栃木県の地租改正は1875(明治8)年11月から着手、翌年から翌々年にかけて改正が実行されましたが、田畑等級や地価決定など農民の地租負担額に関わる点で、政府・県対農民の利害は鋭く対立することが多かったのです。

国税庁―国税庁概要―税務大学校―租税史料―租税史料ライブラリーー地租改正

1876(明治9)年正造は自分の田畑の等級を上げ、村民不満の等級を下げて村の紛争を鎮めたと云っています。
 1877(明治10)年西南戦争が起こると正造は西郷隆盛に同情を寄せたため、区長高田一三ら村の有力者らの疑惑をうけ、夜学への子弟の出席を妨害されて夜学は解散しました(「昔話」「全集」@)。
 西南戦争の軍費調達のための不換紙幣乱発による物価騰貴を見越して正造は土地を買収、これを売却して3000余円の利益を得ると、それを資金に政治活動専念を決意しました。正造は1878(明治11)年には、すでに1874(明治7)年民撰議院設立建白書を左院に提出(「雄気堂々」を読む15参照)した板垣退助訪問を企てたり、政府に国会開設建白を図ったと回想(「昔話」「全集」@)しています。

木下尚江「田中正造の生涯」を読む10

 1878(明治11)年7月三新法(郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則・内閣官報局「法令全書」明治11年 第11巻 原書房)制定、これによって大区小区制は廃止され、郡・町村が復活、民衆の地方行政参加を認める府県会の開設や戸長(江戸時代の村役人としての性格と政府の代官としての性格をあわせもつ)公選が実施されることになりました。県会議員の被選挙権は地租10円以上を収める満25歳以上の男子で、選挙権は地租5円以上を収める満20歳以上の男子に限られており、栃木県安蘇郡における被選挙権資格者は全人口の2〜3%にすぎませんでした。
 1879(明治12)年3月栃木県会議員選挙に次点で落選しましたが、同年8月「栃木新聞」(「下野新聞」の前身)を再刊、正造は同新聞編集長になり、同年9月「国会を設立するは目下の急務」(二「論稿」一「全集」@)を同新聞に掲載しました。
 1880(明治13)年2月補欠選挙により正造ははじめて栃木県会議員に当選しました(「奇談慢筆」「全集」@)。
 1880(明治13)年2月22日第3回地方官(県令・府知事)会議を傍聴するため府県会議員104名は東京両国の中村楼に集合(田中正造も出席)国会開設問題を討議、同年2月24日37名が出席、その中の多くが国会開設建言(正造ら賛成)を決定、3月2日建言を元老院に提出しました(内藤正中「自由民権運動の研究」歴史学研究叢書 青木書店)。県会議員となった正造はこのようにして全国的自由民権運動に参加していったのです。時期を同じくして自由民権運動は下記のような盛り上がりを見せていました。
 同年3月15日愛国社(1875年土佐の立志社のよびかけで大阪において組織された全国的政治組織)第4回大会が大阪で開催、2府22県から代表が参加、国会期成同盟を結成、片岡健吉・河野広中を提出委員とし、国会開設請願書を提出しました(「自由党史」岩波文庫)。
2011-09-15 05:48 | 記事へ | コメント(0) |
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司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む41〜50
2011年05月30日(月)
司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む41

 午後2時8分バルチック艦隊旗艦スワロフの司令塔にいたロジェストウェンスキーは射撃を命令、スワロフの主砲が三笠に向けて砲撃しましたが、砲弾は三笠を飛び越えて水煙をあげ、バルチック艦隊主力艦は主砲・副砲を発射、その後三笠及び後続艦には命中弾も多かったのですが、連合艦隊は応射しませんでした。
午後2時10分三笠は砲撃を開始、つづく諸艦の砲火はまずバルチック艦隊旗艦スワロフと戦艦オスラーヴィアに集中しました。バルチック艦隊は次第に東方へ変針、連合艦隊の最初の射撃後、スワロフの前部煙突が吹き飛び、2回目の射撃で司令塔内にいたロジェストウェンスキーは額を割られ、顔中血だらけになり、無電装置が破壊、無電技師は戦死しました。5〜6分後飛来した砲弾でロジェストウェンスキーは足を負傷しました。午後2時50分過ぎスワロフは舵機が破壊され、南東方から北方へ転針したかのように見えました。東郷・秋山はバルチック艦隊が南東方へむかう連合艦隊をやりすごして北方へ逃走をはかったと思い込み、連合艦隊に「左八点一斉回頭」(左へ90度回頭せよ)の旗信号を後続艦に指示し、第1戦隊はこれに従いました。

春や昔ーメインコンテンツー「坂の上の雲」と日露戦争ー海戦ー死闘

スワロフの行動を見た2番艦アレクサンドル3世艦長はスワロフが行動の自由を失ったと判断、スワロフの後を追わず、後続艦を南東方へ誘導しました。
 しかし連合艦隊第2戦隊旗艦出雲における参謀佐藤鉄太郎中佐は信号旗が揚がっていない事を理由としてスワロフの行動は舵の故障によると判断、上村司令官の決断で第2戦隊は東郷の指示に従わず、後続艦に「我に続け」の信号旗を掲げ、東南東に向かうバルチック艦隊の先頭艦アレクサンドル3世の前に廻り込むことに成功しました。やがて砲撃戦となり、アレクサンドル3世は浸水により艦は傾斜、戦線を離脱しました。代わってバルチック艦隊先頭艦となったボロジノ艦長は左回頭によって第2戦隊の後ろから北へ転針しました。連合艦隊第2戦隊もボロジノを先頭とするバルチック艦隊を追って北へ転針しました。
 戦艦オスラーヴィアは連合艦隊射撃開始後10分で後部煙突がなくなって2本煙突となり、舷側には無数の穴があき、艦首も破砕されて、午後3時10分ころ艦首を海中に没し、黒煙を残して沈没しました。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む42

 一方スワロフを追っていた連合艦隊第1戦隊はやがてスワロフのみが北上しているので、バルチック艦隊全体が北上するとの判断の誤りに気付き、南東方向にもどってバルチック艦隊を探していたところ、午後3時58分ボロジノを先頭とするバルチック艦隊に遭遇、これを追いかけてくる第2戦隊とバルチック艦隊を挟撃しました。この攻撃によってバルチック艦隊は戦艦ボロジノをはじめとして次第に沈没する艦が増加していったのです。ネボガトフ少将指揮下の第3戦艦戦隊(旧式戦艦4隻)は連合艦隊から黙殺されたため、運よく現場を逃れることができました。
 スワロフ艦内で負傷の手当てを受けていたロジェストウェンスキーは午後5時30分に駆逐艦ブイヌイに移乗しましたが、大破損したブイヌイから再び別の駆逐艦ベドウィに移乗しました。
 やがて日没を迎えたので東郷平八郎司令長官は午後7時28分主力艦への攻撃中止と鬱陵島への集結を命令しました。
 連合艦隊主力艦が鬱陵島へ移動すると、翌日5月28日にかけて駆逐艦と水雷艇が攻撃の主役となって策敵行動を開始しました。スワロフは4隻の日本水雷艇が放った魚雷によって撃沈されたのです。バルチック艦隊の新式戦艦5隻のうち4隻が沈没、戦艦アリヨールのみ逃れることができました。
 5月28日午後4時45分ころ露駆逐艦ベドウィと随行駆逐艦グローズヌイは日本駆逐艦漣(さざなみ)と陽炎(かげろう)に発見され、グローズヌイには逃げられましたが、漣はベドウィを捕獲、同艦に乗り込んだ海軍士官は頭を包帯で蔽った人物を発見、彼がロジェストウェンスキーであることを確認、同月29日このことを巡洋艦明石を通じて旗艦三笠に通報、漣はベドウイを佐世保へ曳航、ロジェストウェンスキーを佐世保海軍病院に入院させました。
5月28日夜明け連合艦隊第5戦隊はネボガトフ指揮下(旗艦ニコライ1世)の第3戦隊を発見、やがて連合艦隊主力も加わって包囲、ネボガトフ艦隊は降伏しました(外山三郎「前掲書」)。

春や昔ーメインコンテンツー「坂の上の雲」と日露戦争ー海戦ー鬱陵島

連合艦隊旗艦三笠と第1、2戦隊は1905(明治38)年5月30日佐世保に帰港しました。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む43

 1905(明治38)年6月1日小村寿太郎外相の訓令により駐米公使高平小五郎は米大統領セオドア・ルーズベルトに日露講和の友誼的斡旋を申し入れました。その文面は米大統領が「直接且全然其一己ノ発意ニ依リ」(外務省編「日本外交文書」第37・38巻別冊 日露戦争X 巌南堂書店)両交戦国を接近させてくれることを希望するものでした。日本政府としては米国の斡旋が日本の依頼によるものであることを秘密にして、米大統領の一存で講和を斡旋するという形式をとってもらいたいということを意味しており、先に講和を申し出た方が交渉において不利になるからです。

歴史が眠る多摩霊園ー著名人頭文字ーたー高平小五郎

 米大統領はこの日本の申し入れを受け入れましたが、日本が賠償金を望まず、樺太の割譲だけに止まるなら、講和の見込みがあると高平公使にくぎを挿すことを忘れませんでした。
 翌日ルーズベルトはロシア駐米大使カシニーと会談、ロシアに講和を勧告するとカシニーはロシアから講和を云いだしたら日本は苛酷な条件を要求する恐れがあるとしながらも、講和への関心を示し、これに対してルーズベルトは、日本が苛酷な条件を要求するとは思えないが若干の領土を割譲し、いくらかの賠償金を払う覚悟は必要であろうと述べました(「小村外交史」)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む44

 同年6月5日米大統領は駐露大使メイヤーに命じてロシア皇帝に、日露講和全権の会合を勧告、この会合をロシア皇帝が受諾するならば、そのことを秘密にして日本の承諾を取りつけるよう努力する旨を伝えさせました。同月7日メイヤーからロシア皇帝が米大統領の勧告を絶対秘密にする条件で受諾したとの電報が届きました。日本海海戦に敗北したロシアは講和を希望しながらも、自分から言い出せないだろうから、ルーズベルトを利用してロシアを講和にひきだそうとする日本政府の作戦が成功したのです。
 6月9日米大統領は正式に日露両国に講和を勧告、日本は6月10日、ロシアは6月12日講和を受諾しました(外務省編「日本外交文書」第37・38巻別冊 日露戦争X)。
 7月3日日本は小村寿太郎外相と高平小五郎駐米公使を全権に、7月14日ロシアは閑職に左遷されていたウイッテとローゼンを全権に任命、講和会議の場所についてはアメリカ側がポーツマス軍港を指定、8月9日海軍工廠の一室で両国全権最初の予備会議が開かれました。

日露戦争特別展Uー日露戦争史ー政治・外交ーポーツマス講和会議開始

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む45

 1905(明治38)年6月30日の閣議は日露講和談判全権委員に対する訓令案を決定しましたが、その内容の要点は 甲 絶対的必要条件 @韓国の自由処分をロシアに承諾させる。A一定の期限内に日露両国は満州から撤兵する。B遼東半島租借権及び哈爾賓(ハルピン)旅順間鉄道を日本に譲渡させる。 乙 比較的必要条件 @軍費賠償金獲得。A薩哈嗹(サハリン 樺太)及び其の附属諸島割譲などを含む4条件などでした(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。1875(明治8)年5月7日樺太・千島交換条約(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)調印により樺太全島はロシアの領有となっていたのです。

北方領土問題―北方領土問題関連史料 入口―サンクトペテルブルグ条約(樺太千島交換条約)(日本語)フランス語 ロシア語  

 この要求実現をめざして同年7月7日第13師団は南樺太に上陸、翌日大泊占領、同月24日北樺太上陸、同月31日ロシア軍は降伏し降伏条件に調印しました(沼田多稼蔵「前掲書」)。
 一方こうした軍事作戦と同時に外交で日露講和会議で要求する日本の国際的地位をあらかじめ英米両国に支持させようとする工作が推し進められていました。
 同年7月27日桂太郎首相はフィリピン視察の途上、来日中の米陸軍長官タフトと会談、その結果桂タフト協定が成立しました(「日本外交年表竝主要文書」上 関係書類焼失により、米国務省文書収録)。その内容は次の通りです。@フィリピンをアメリカが統治することは日本にとっても利益である。Aアメリカは日本が韓国に保護権を確立することを認める。
 つづいて同年8月12日ロンドンで第2回日英同盟協約が調印されました(「日本外交年表竝主要文書」上)。その要点は次の通りです。@両締約国の一方が他国の攻撃を受けたとき、他の締約国は共同戦闘に当たり、講和も双方合意により実行する。A日本は韓国において政事上、軍事上及び経済上卓絶な利益を持っているので、大不列顚国(英国)は日本が指導、監理及び保護の措置を韓国に実行する権利を承認する。B大不列顚国は印度国境の安全に関する特殊利益を持つので、日本は大不列顚国の印度領地を擁護するため必要な措置をとることを承認する。C本協約の有効期限を10年とする。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む46

 このころロシアでは革命情勢が緊迫の度を高めていました。1905(明治38)年6月には戦艦「ポチョムキン」乗組員が艦の指揮をとる反乱が勃発しました(ウォーナー「日露戦争全史」時事通信社)。

歴史研究所―ロシア史―第8回 ロシア帝国の滅亡

 このような情勢を背景として同年8月10日日露講和第1回会議が開催され、日本側の講和条件12カ条を提出、同月12日より逐条審議に入りました。ウイッテは回答書で8カ条を原則的にまたは条件付きで承認しましたが、その具体的内容は日本の韓国保護権、日露両国の満州撤兵と門戸開放、旅順・大連の租借権及び東清鉄道南部支線の日本への譲渡、オホーツク海、ベーリング海沿岸の漁業権を日本人に与えるなどの項目です。他方ウイッテが拒否したのは4カ条で、その内容は樺太割譲、賠償支払い、中立港で抑留されているロシア艦艇の引き渡し、ロシアの極東における海軍力の制限でした(「日本外交文書」第37・38巻別冊 日露戦争X)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む47

 講和会議で最後まで難航したのは賠償金と樺太割譲問題でした。1905(明治38)年8月17日ウイッテはロシア皇帝に交渉の難航を報告、暗に樺太を日本に与えて講和を成立させる方がよいという見解を上申しましたが、皇帝は領土を割譲し、賠償金を支払うことを拒否しました。小村全権もロシア側がポーツマス引き揚げの様子を示して態度を変えなければ、戦争継続するしかないと報告、政府の訓令を求めました。
 しかし8月18日第7回講和会議秘密会でウイッテは樺太南部を日本領、北部をロシア領とする妥協案を示したことに対して、小村は現在樺太全体は日本の占領下にあるのだから、樺太北半をロシアに返還するのなら、代償として12億円をロシアが支払わない限り、日本政府は承認しないだろうと答えました。この案を日本政府は承認、代償12億円は多少下回ってもよいと訓令、8月23日第8回講和会議で小村全権は@北緯50度以南の樺太を日本領、北半をロシア領とする。Aロシアは北樺太返還の代償として12億円を日本に支払うなどを日本政府として正式に提案しました。これに対してウイッテは樺太全部を日本領とすることを承認する代わりに償金を支払わないことで講和成立を希望、同月28日を最終会談とすることを両者は取り決めましたが、もはや会談は決裂したと思っていたのです。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む48

 1905(明治38)年8月26日、ウイッテは9月5日発の欧州行き汽船に乗るためニューヨークのホテル予約を命じ、小村も同日桂首相にポーツマスを引き上げる旨の電報を打ちました。
 桂内閣は8月28日の最終会議を24時間延期するよう小村全権に命令、元老も参加した閣議を招集、8月28日午後8時35分「假令(たとい)償金割地ノ二問題を抛棄スルノ已ムヲ得サルニ至ルモ、此際講和ヲ成立セシムルコトニ議決セリ、然レトモ先ツ償金問題ヲ抛棄シ割地問題ヲ維持スルコトハ談判上従来我ノ執リタル態度ニ照ラシ此際ノ機宜ニ適シタル歩武(わずかの距離)ナリト思考」(外務省編「日本外交文書」)との桂外相訓令が小村全権宛発信されました。この訓令が発せられた直後に、露帝に謁見した米大使からの情報としてイギリス公使からロシア皇帝は樺太南部の割譲を認める気があるとの連絡があり、これも小村全権に報ぜられました。
 8月29日の会議でウイッテは皇帝が樺太南部の日本への譲与に同意したとの覚書を提出、小村全権がロシア側回答を受諾すると回答すると、急いで会議場を出たウイッテは別室の随員に「平和だ、日本は全部譲歩した!」と叫んだそうです(「小村外交史」)。
 同年9月5日日露講和条約(ポーツマス条約)が調印され、@ロシアは日本の韓国保護権を承認。A日露両国の満州撤兵と門戸開放。B旅順・大連の租借権及び東清鉄道南部支線(長春旅順口間)の日本への譲渡。Cロシアは北緯50度以南の樺太を日本に譲与。Dロシアは日本海・オホーツク海・ベーリング海沿岸の漁業権を日本人に許与するなどが主な内容です(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む49

 日本が黄海海戦に勝利した直後、ドイツ人医師ベルツの日記に『著名な雑誌「太陽」七月号に日本がやがて徹底的勝利の後に提示すべき要求事項を表明した、戸水教授(「坂の上の雲」を読む19参照)の一文が掲載されているーすなわち』として6カ条が挙げられていますが、その五にはエニセー河以東の全アジアロシアを日本に割譲すること、その六としてロシアは最低十億円の戦費賠償金を支払うことと記述されています(「ベルツの日記」下 明治37年8月26日付 岩波文庫)。
  日露戦争遂行に必要な国力が限界に達しているのもかかわらず、国民は何も知らされず、勝利のニュースばかり聞かされていた人々は講和会議が開かれる以前から代議士や新聞記者などが中心になって、領土では樺太は勿論のこと沿海州やバイカル湖以東、賠償金は20億円から40億円を要求する大会が各地で開かれていました。
 ポーツマス条約が調印された1905(明治38)年9月5日東京の日比谷公園で講和条約反対の国民大会が開催され、これを解散させようとした警察官と衝突した数万の民衆は首相・内相官邸に押し掛け、国民新聞社など政府系新聞社を破壊、交番などに放火、以後各地で講和反対大会が開かれました。政府は軍隊を出動、翌日東京市及府下5郡に戒厳令を適用して弾圧しなければならない状態でした(新聞集成 「明治編年史」第12巻 財政経済学会)。

日露戦争特別展U−日露戦争史―政治・外交―日比谷焼打事件

 このような人たちはとくに講和会議で賠償金もとれず、譲歩したことを大きな不満として爆発したのでしょう。このように大事なことを国民に知らせない秘密主義は、のちの日本を蝕む要因の一つとなっていくのです。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む50(最終回)

 1916(大正5)年第1次大戦視察を終了して帰国した海軍少将秋山真之は第2艦隊第2水雷戦隊司令官に任命されましたが、このころから体調がすぐれず、日露戦争の作戦指導で全力を傾注した疲労がようやく出てきたかのように見えました。このこととどんな関係があったのでしょうか、秋山は当時急速に教勢を拡大しつつあった大本(おおもと)教に帰依しました。大本教発祥の地京都府綾部は軍港舞鶴に近いこともあってか海軍出身者との関係が深かったのです。

春や昔ーメインコンテンツー「坂の上の雲」の主人公たちー智謀如湧 秋山真之―年表、写真集、逸話集―真之と大本教    

 第2水雷戦隊司令官を7カ月余で退いた秋山は翌年7月海軍将官会議議員という閑職に任命されましたが、しばしば激しい腹痛がおこって艦上勤務に堪えられなくなったからです。
 もはや秋山の命が長くないと察せられ、同年12月1日海軍中将に昇進しましたが、同日予備役に退く予定の待命となりました。小田原の山下亀三郎別邸で療養中1917(大正7)年2月4日死去しました(桜井真清「秋山真之」秋山真之会)。
 秋山好古が内地に凱旋したのは1906(明治39)年2月9日で、騎兵第1旅団の千葉県習志野の兵舎に到着しました。
 好古は1916(大正5)年陸軍大将となり、1923(大正12)年予備役に編入、翌年北予中学校長に就任、1930(昭和5)年同中学校長辞任、上京後発病、陸軍軍医学校に入院、同年11月4日死去しました(秋山好古大将伝記刊行会編集・発行「秋山好古」)。

坂の上の雲マニアックスーゆかりの地―秋山好古の墓ー秋山真之の墓  
2011-05-30 08:02 | 記事へ | コメント(7) |
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司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む31〜40
2011年05月20日(金)
司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む31

 その後何度か石炭を積み込みながら、アフリカ西岸を南下し、喜望峰及びアグラス岬の灯台を回って艦隊はインド洋に入り、1905(明治38)年1月9日マダガスカル島のノシベに入港しました。ノシベ港にはすでにフェリケルザム支隊が到着して艦隊主力の来航を待っていました。ロジェストウェンスキーはここで旅順陥落の情報を入手しただけでなく、本国で血の日曜日事件が勃発、首都ペテルブルクが騒乱状態に陥っているという噂も聞いたのです(ポリトゥスキイ著 長村玄訳「リバウからツシマへ」文生書院・ノビコフ・プリボイ「前掲書」)。

大連紀行―日清・日露戦争―日露戦争―バルチック艦隊航行図    

Fabrik―最近のコメントー2010-01-22 TAMO2−血の日曜日事件

 バルチック艦隊はこのノシベで2カ月停泊しました。その理由の一つは石炭問題にありました。バルチック艦隊に供給する石炭は無煙炭とすることを、ロシア政府はドイツのハンブルク・アメリカン会社と契約していましたが、同会社はイギリスの妨害で艦隊への石炭供給を拒否、ロシア政府は同会社を契約違反と批判し、交渉の結果ドイツ汽船は艦隊と同航するが、日本艦隊に出会ったときは降伏すると主張しました。他の理由はロシア政府がバルチック艦隊を増強してさらに一艦隊を追加し、ネボガトフ少将指揮の第3太平洋艦隊を編成するために、老朽軍艦をかき集めていました。ロジェストウェンスキー提督はこれに反対する電報を本国政府に打ったのですが、彼の意見は聞き入れられませんでした(外山三郎「日露海戦史の研究」教育出版センター)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む32

 明石元二郎は筑前福岡藩の明石助九郎の子として1864(元治1)年に生まれ、藩校修猷館を経て1883(明治16)年陸軍士官学校卒業、1889(明治22)年陸軍大学校卒業、フランス公使館付を経て、1902(明治35)年ロシア公使館付陸軍武官に転任しました(小森徳治「明石元二郎」上 明治百年史叢書 原書房)。

近代日本人の肖像―あ・おー明石元二郎 

 寺内正毅陸相の決断で陸軍省からその工作資金として100万円を送らせたそうです(長岡外史文書研究会編「長岡外史関係文書」回顧録篇 吉川弘文館)。当時の国家予算が2億3000万円程度であったことを考えると明石に支出された100万円がいかに多額であったかがわかります。
 日露開戦とともにペテルブルグ日本公使館はスウェーデンのストックホルムに移転しました。栗野慎一郎駐露公使一行がストックホルム駅に到着するとロシアと開戦した日本歓迎の人々がホームに集まっており、偶然離宮に赴く途中のスウェーデン国王と駅で栗野公使が握手したとき、明石元二郎も国王に紹介されました。
 明石はストックホルムでロシアに独立を奪われたフィンランド憲法党のカストレンに面会を申し入れましたが断られました。しかし彼の定宿ホテルを訪ねてきたフィンランド独立運動指導者コンニー・シリヤクスを通じてカストレンに会うことができ、他の地下運動指導者とも知り合いになることができたのです。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む33

 1904(明治37)年明石はストックホルムからロンドンに移りました。やがて同年10月1日シリヤクス主催の反露諸派の合同会議がパリで開催され、明石も出席しました。会議は共同の目的をツアーリズム(ロシア皇帝の専制政治体制)打倒にあるとし、ツアーリズム打倒のために、各党派はもっとも得意とする方法をとることで合意しました。この会議以後ポーランドでは主要都市でゼネストが起き、11月から12月にかけてロシア本国でもモスクワ、キエフ、オデッサなどで学生や労働者のデモが頻発、このような情勢の中で1905(明治38)年1月22日血の日曜日事件が起こったのです。
 明石はこの流血事件をストックホルムの宿で聞いた後パリへ向かいました。シリヤクスらの企画と要請により、明石がスイスで買い付けた兵器弾薬はバルチック方面向け小銃16000挺・弾丸300万発、黒海方面向け小銃8500挺・小銃弾120万発で、彼はこれをシリヤクスらに渡すための秘密輸送に苦心しましたが、これがロシアの革命派の手に渡ったのは日露戦争終了後でした(小森徳治「明石元二郎」上 原書房)。
 「風采といひ、顔付といひ、アノ変な男が、敵国たる露西亜の内部を撹乱して、夫婦喧嘩をさせるといふ手際には、私も始めて吃驚(びっく)りしたのだ。(中略)欧羅巴から帰ると、先づ真直に参謀本部へ来て、二十何万円かの残金を返す時も、『百留の紙幣を吹き飛ばしたから、少し足らなくなるが、大体は之れで計算が合ふつもり』といって、其受取書や使ひ途などを、スッかり持って来て差出した。此等の残金などは参謀本部でも当てにはしては居なかった。」(「陸軍中将長岡外史氏追懐談」小森徳治「明石元二郎」下 原書房)
 のちに上原勇作が明石を山県有朋の許に連れて行ったとき、季節は厳寒時で風邪をひいていた山県は足を真綿でつつみ、そばにストーブを置いていました。そのストーブ越しに明石は小便をもらしているのに気付かず話に熱中し、山県の足を濡らしたそうです(「元帥上原勇作男追懐談」小森徳治「明石元二郎」下 原書房)。この話は誇張されている可能性がつよいのですが、明石の一側面を知る挿話として紹介します。

近代日本人の肖像―あ・おー上原勇作 

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む34

 1905(明治38)年1月12日大本営は第3軍の再編と鴨緑江軍の新編成を決定しました。それは第3軍から第11師団を引き抜き、これに後備第1師団を追加して鴨緑江軍とし、韓国西北部を防衛、できれば満州ロシア軍主力の左翼に進出させ、将来ウラジオ攻撃作戦に投入することも考えていましたが、満州軍総司令部はこれに反対、奉天付近と予想される両軍主力決戦に集中させるべきと主張、結局できるだけ早く撫順方面に進出して奉天会戦に参加させることになりました。第3軍も旅順から満州軍左翼へ向け北進していったのです(古屋哲夫「日露戦争」中公新書)。

第一次大戦―日露戦争―奉天会戦  

 黒溝台の戦い(「坂の上の雲」を読む24参照)の後、1905(明治38)年2月20日大山巌満州軍総司令官は各軍司令官を集め、次のように訓示しました。この大作戦の主目的は出来るだけ多くの損害を敵に与えて、再起できないようにすることで、土地や陣地を奪うことではない。また弾丸の製造能力から豊富な予備弾をもつことはできないから、1発たりとも無駄な弾丸を撃たないようにとの注意も与えました。
 総司令部作戦はまず鴨緑江軍を最右翼として前進させ、この間に第3軍を左翼から北進させてロシア軍を包囲しようという計画でした。第2軍の秋山支隊はこの作戦の途中で3月2日臨時に第3軍司令官乃木希典の指揮下にはいることになります。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む35

 同年3月1日日本軍は奉天に向かって総攻撃を開始、攻撃は思うように進展せず、第3軍の迂回北進のみ順調に進みましたが、孤立するおそれがあり、第2軍左翼と連携して奉天西側面に向かって包囲網を絞る方針に変えました。3月7日総司令部から第3軍の行動が遅いとの指示を受けると、温厚な性格の乃木希典軍司令官も怒って軍司令部を急に前進させたため、軍司令部が銃弾の飛び交う前線に突出するという事態に至りました(谷寿夫「機密日露戦史」原書房)。
 ところがこの日ロシア軍は退却を開始しました。鴨緑江軍と第1軍は3月8日から追撃、例えばロシア軍総退却を目撃した第1軍前衛の歩兵中尉多門二郎はその様子を次のように述べています。夜明けとともに朝食をとるため六家子という部落で大休止、炊事担当の兵士以外他の兵は寒気の中で疲労して死人のように眠りこんでいました。
 多門中尉はやや高所に上って前方の渾河左岸を見ると、「雲霞の如き大軍」と形容するほかないほどのロシアの大軍が地を覆ってうごき、その動きは地平のはてまで続いていました。
このとき多門中尉は追撃というような考えは瞬時も浮かびませんでした。それよりも動物的恐怖心―もしこの大軍が逆にわが方にむかって逆襲してくれば日本軍はどうなるのかーということだけが、全身をとらえつくしていました(多門二郎「予ガ参加シタル日露戦役」後篇 兵事雑誌社)。
第2・第3軍が展開する左翼では、ロシア軍は退路を確保するために反撃しましたが、3月10日第2・第4軍は奉天付近を占領、第1・第3軍は左右から鉄道線路に近付き、第3軍からは30分ごとにロシア兵を満載して列車が北上するのが目撃されましたがどうすることもできませんでした。
 3月16日日本軍は鉄嶺を占領しましたが、ここで追撃を打ち切りました。奉天会戦は日露戦争最大の会戦でしたが、日本の戦争能力は限界に達し、外交交渉による早急の講和が緊急の課題として浮上してきたのです(旧参謀本部編 桑田忠親・山岡荘八監修「日露戦争」徳間書店)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む36

 日本がアメリカの日露戦争調停を期待して特使金子堅太郎を派遣したことは既に述べた通りです(「坂の上の雲」を読む16参照)。1905(明治38)年1月15日米大統領セオドア・ルーズベルトは駐米公使高平小五郎に対して講和条件に関する次のような見解を伝えました。戦後日本は旅順を領有し、韓国を勢力範囲に入れる権利がある。しかし満州は清国に返還、列国保障のもとに中立地域にすべきである。私はこの見解を書面にしてイギリス・フランス・イタリア3国に送ったと(外務省編「小村外交史」原書房)。

クリック20世紀―人物ファイル一覧―ラーセオドア ルーズベルト

米大統領は日露戦争について、イギリスに旅行中のロッジ上院外交委員長に次のような書翰を送っています。「露国の勝利は文明に対する一打撃であると同時に、東亜の一国としての露国の破滅も予の所見にては均しく不幸であろう。日露相対峙し互いに牽制して、その行動の緩和を相計るというのが最善である。」(1905年6月16日付書簡 外務省編「小村外交史」原書房) つまりルーズベルトはロシアの満州支配に反対するために日本を支持したのですが、日本がロシアに代わって満州を支配することにも反対であったのです。
同年1月22日外相小村寿太郎は高平公使に対して、次のような講和問題に関する日本政府の見解を米大統領に伝えるよう訓令、高平公使は同年1月25日日本政府見解を申し入れました。即ち@韓国の保護権を日本が掌握する。A満州について日露両国ともすみやかに撤兵し清国に返還することが必要で、満州将来の行政は改革と善政の保障を条件として清国に行わせる方が国際的中立化より優れている。B遼東半島租借権をロシアから譲り受ける権利がある。C一時の休戦に止まるような条件では講和できないなどの4項目でした(「平和克復後に於ける満韓、旅順に関する我政府の意思竝びに希望の件」外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。 
 同年2月8日米大統領はフランス大統領を介して講和勧告をロシア皇帝に送ってくれるよう依頼したのですが、ロシア皇帝はバルチック艦隊と満州における数十万の大軍を頼み、講和勧告を拒絶しました(「小村外交史」)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む37

 1905(明治38)年3月16日バルチック艦隊はようやくマダガスカル島ノシベを出港、インド洋を東進してマラッカ海峡を通り、4月8日シンガポール沖に到達しました。同年4月13日南ベトナム(フランス領)カムラン湾付近で艦隊は停止、石炭積み込みを開始しました。翌日カムラン湾内に入り、ここで種々の物資を補給するとともにネボガトフ少将指揮下の第3太平洋艦隊の到着をここで待っていたのです。

記念館「三笠」−「三笠」艦内展示―中央展示室―バルチック艦隊

ところが中立の立場をとるフランスはバルチック艦隊のカムラン湾退去を要求、艦隊は4月22日カムラン湾を去り、同月26日北方のヴァン・フォン湾(フランス領)に入り、また追い立てられて外洋に去るという行動をとり、艦隊乗組員の信頼感を低下させました。
 ネボガトフ艦隊は同年2月15日リバウを出港、地中海からスエズ運河を経て紅海を経由、インド洋を横断して5月4日明けがたシンガポール付近に達したとき、旅順艦隊所属で旅順陥落後捕虜となり、本国送還中のロシア水兵が汽艇でネボガトフ艦隊に接近、シンガポール駐在ロシア領事から聞いた情報―ロジェストウェンスキー艦隊はカムラン湾かヴァン・フォン湾にいるーをネボガトフに伝えました。5月9日正午過ぎネボガトフ艦隊はロジェストウェンスキー艦隊旗艦スワロフとの交信に成功、同日午後4時両艦隊は接触することができたのです。同年5月14日朝バルチック艦隊はヴァン・フォン湾を出港しました(ポリトゥスキイ・ノビコフ・プリボイ「前掲書」)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む38

 203高地が陥落し旅順艦隊が壊滅すると、伊東祐亨軍令部長の命令で東郷平八郎連合艦隊司令長官は第2艦隊司令長官上村彦之丞を伴って上京、1904(明治37)年12月30日伊東軍令部長・山本権兵衛海相は東郷平八郎・上村彦之丞らと海軍最高首脳会議を開き、バルチック艦隊行動の推論にもとづき、日本海軍の配置について検討、まず全力を朝鮮海峡に置き、以って敵の第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)の行動を監視、機に応じて動作することを決定(「明治三十七八年海戦史」)、艦隊を鎮海湾に集結することになりました。
 海軍最高首脳会議の決定にもとづき、連合艦隊参謀長加藤友三郎は先任参謀秋山真之に作戦計画の策定を任せ、1905(明治38)年4月12日連合艦隊司令長官東郷平八郎の名で連合艦隊の詳細な戦策が提示されました(「極秘 明治三十七八年海戦史」田中宏巳「秋山真之」吉川弘文館 引用)。具体的には七段構えの戦法とよばれるものです。

記念館「三笠」−エピソードー参謀秋山真之による「七段構えの戦法」

七段構えの戦法で採用された連携水雷は黄海海戦時、日本駆逐艦が露旅順艦隊の針路を通過したとき、石炭叺(かます)を海に投棄すると、機雷敷設と誤認した露艦が針路変更したことをもとにして作戦が計画されました。これはバルチック艦隊の針路に9連群36個の連携水雷[数キロに及ぶ長大なロープの100m間隔に水雷をつなぎ水面下に漂わせる。 海軍軍令部「極秘明治三十七八年海戦史」(防衛省防衛研究所図書館蔵書)]を投下、同艦隊を変針させて丁字戦法にもちこむ作戦だったのです。

Z旗―水軍―日本海戦史―近代―日本海海戦    

 同年5月14日ヴァン・フォン湾を出港し、東シナ海に入ったバルチック艦隊はその後行方不明となり、日本側は津軽海峡へ向かったのではないかとの見方が強くなりました。連合艦隊司令部は「相当の時期までに当方面に敵影を見ざれば、当隊は明夕刻より北海方面に移動す」と軍令部に打電しました。5月25日東郷は旗艦「三笠」に各司令官と参謀長を招集、午後3時津軽海峡に向けて移動することを決定しかけた時、遅れて会議に参加した第2艦隊参謀長藤井較一が移動に反対、第2艦隊第2戦隊司令官島村速雄(連合艦隊前参謀長)も藤井の意見に同意、同月26日正午まで移動を延期しました。その期限直前バルチック艦隊の一部が清国呉淞(ウースン 上海の外港)に入港したという情報がはいり、移動中止となりました(田中宏巳「秋山真之」吉川弘文館)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む39

1905(明治38)年5月27日午前2時45分仮装巡洋艦(哨戒艦)信濃丸艦長成川揆は左舷の闇の中に浮かび上がった燈火を見ていました。午前4時30分ころ、艦長は艦を燈火近くに接近させて備砲をもたない病院船であると推定、やがて夜が白みはじめると信濃丸は無数の軍艦(バルチック艦隊)の真っただ中にいることがわかったのです。信濃丸はバルチック艦隊群を脱出するために転舵しつつ、「敵の艦隊二〇三地点(長崎県五島列島西方白瀬岩礁付近)に見ゆ。時に午前四時四十五分」と繰り返し暗号で打電、さらに午前四時五十分「敵航路東北東、対馬東水道に向かうものの如し」との電文が対馬に停泊中の第三艦隊旗艦厳島を中継して午前5時5分鎮海湾に待機していた連合艦隊旗艦「三笠」に入電しました。信濃丸にもっとも近い位置にあった3等巡洋艦和泉も信濃丸の第1報を受信すると周辺の海を駆け巡り、約2時間後の午前6時45分バルチック艦隊を発見、同艦隊の勢力、陣形、針路などを詳細に報告しました(外山三郎「日露海戦史の研究」下 教育出版センター)。

春や昔ーメインコンテンツー「坂の上の雲」と日露戦争ー海戦ー敵艦見ゆ

東郷平八郎連合艦隊司令長官は艦隊に出動を命令し、次の有名な電文が大本営に打電されました。「敵艦見ユトノ警報ニ接シ連合艦隊ハ直(ただち)ニ出動之ヲ撃(沈)滅セントス本日天気(候)晴朗ナレトモ波高シ」(「明治三十七八年海戦史」)(水野広徳「此一戦」国書刊行会)この電文は諸書によって若干の相違があります。
この電文で「天気晴朗」以下がもともと用意されていた電文に秋山真之が追加したものとされています。司馬遼太郎氏はこの小説で、この追加文は砲撃能力において日本が露艦隊よりはるかに優れており、波高しという状況はきわめて我が方に有利であることをこの一句で象徴したのであると東京の軍令部は理解したと云っています。
 ところが上記連携水雷作戦は静かな海面でないとできず、「波高し」とは同作戦が「変更やむなしの事態もある」ことを大本営に事前通知したとの戸高一成説(「日本海海戦に丁字戦法はなかった」中央公論 平成3年6月号)が「極秘明治三十七八年海戦史」の公開とともに有力となり、司馬遼太郎氏は同書を読んでいない(読むことができなかったのでしょう)との指摘がなされています(木村勲「日本海海戦とメディアー秋山真之神話批判―講談社選書メチエ」)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む40

同日午後1時39分連合艦隊は対馬東水道で北東に向かう2列縦陣のバルチック艦隊を発見しました。
つづいて司馬遼太郎氏は『旗艦「三笠」最上艦橋には司令長官東郷平八郎と参謀長加藤友三郎、参謀秋山真之が立ち、その外砲術長安保清種少佐と測距儀操作長谷川清少尉などが残り、他の幕僚たちは一段下の装甲で覆われた司令塔に入った。
どういう陣形で戦うのか、東郷も加藤も明示しなかったため、砲術長がたまりかねて「もはや8000m」と叫ぶと、彼の眼前で背を見せていた東郷の右手が高く上がり、、左へ向かって半円を描くように一転、参謀長は「艦長取舵一杯」と叫び、三笠は艦首を左へ急転した。有名な敵前回頭がはじまったのである。日本の海軍用語でいうところの「丁字戦法」を東郷はとった。』(概略)と述べています。

明治という国家―Categories―秋山真之―戦艦「三笠」―「三笠艦橋の図」の真実(2006年9月4日)

しかるに三笠艦橋の司令塔内部では戦術をめぐる対立が起こっていました。「反航(すれちがい)戦にするか同航(並行)戦にするかとの議論が艦橋において起こるに至った。こんなに接近して未だ射撃準備も出来上がらないのに、同航戦をするため針路を転ずるときは多大の損害を受けるから、一時反航戦をして好機会を待つにしかずという論と、そんな事をすれば敵を逸する恐れがあり、なんでも同航戦をして雌雄を決すべしとの論が起こった」(田中宏巳「秋山真之」吉川弘文館)
 よって次のような批評がでてくることになります『同文中(松村談話速記)の「取舵に大角度の転針」が、後世「敵前大回頭」として有名になった。しかし転針は迷いに迷った末の決定であり、東郷英雄伝説に描かれる格好のよいものではない。』(田中宏巳「前掲書」)。
2011-05-20 08:16 | 記事へ | コメント(0) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇24) |
司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む21〜30
2011年05月10日(火)
司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む21

 これに対して同年3月27日社説「嗚呼増税」を掲げた同新聞は発禁処分を受けましたが、平民新聞は引き続き発行され、同年7月24日(第三十七号)には「与露国社会党書」への「イスクラ(火花)」(ロシア社会民主労働党機関紙)の応答が「露国社会党より」として平民新聞に掲載されました。
 同年8月14日片山潜はアムステルダムで開催された第2インターナショナル大会に出席、同大会は片山潜と露国代表プレハーノフを副会長(副議長)に選出、両者は握手して満堂の拍手喝采数分に及んだそうです(「万国社会党大会報告」片山潜自伝 岩波書店)。

法政大学大原社会問題研究所―大原デジタルライブラリーー大原クロニカー「社会労働運動大年表」解説編―1889.7.14−第2インターナショナル

クリック20世紀―人物ファイルーカー片山潜 

 週刊「平民新聞」は当局の弾圧により次第に経営困難となり、1905(明治38)年1月29日第64号で廃刊、加藤時次郎ら発行の「直言」をもって「平民社」機関紙とする了解のもと、同年2月5日から再出発しました。しかしこうした我国における反戦平和運動は深く国民の中に浸透するに至りませんでした。
 1904(明治37)年9月与謝野晶子の「君死に給ふこと勿れ」が「明星」に発表され、大町桂月らとの間に、この詩をめぐって議論が展開されたことは有名です。また翌年1月出征した夫をおもう妻の切ない心を詠った大塚楠緒(くすお)子「お百度詣」が「太陽」に掲載されたことも記憶されるべき事柄です。

近代日本人の肖像ー人名50音順ーよ・わー与謝野晶子

宮古万華鏡―サイト内検索―「君死にたまふこと勿れ」とその周辺―お百度詣 大塚楠緒子

青空文庫―公開中 作家別―は行―10.長谷川時雨―11.大塚楠緒子―いますぐXHTML版で読む    

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む22

 極東に展開するロシア艦隊は主力が旅順(旅順艦隊)、支隊がウラジオストック(ウラジオ艦隊)を根拠地としていました。
 1904(明治37)年2月3日早朝旅順艦隊の動きが活発となり、午前10時までに「レトヴィーザン」「ペテロパーヴロヴェスタ」「ポルターワ」などの主力艦が出港行方不明となりました。同年2月6日連合艦隊は旅順及び仁川の露艦隊攻撃と韓国首都漢城を占領する陸軍部隊の上陸支援を任務とし佐世保を出港、2月8〜9日仁川、つづいて旅順港外の露艦隊を攻撃、ところが旅順艦隊は大連湾口に停泊しており、同艦隊は損傷をうけ湾内に潜み旅順港外に出てこなくなりました。2月9日には仁川の露軍艦2隻を撃破しました(海軍軍令部編「明治三十七八年海戦史」東京水交社)。
 出口がせまく要塞砲で守られている旅順艦隊に有効な打撃を与えることは困難で、旅順港内に封じこめるために、港の出口に闇夜を利用して汽船を爆破して沈め、水雷艇に乗り移って帰ってくる「旅順口閉塞作戦」が3回にわたって実施されましたが、十分な成果を収めることはできませんでした。同年3月27日に行われた第2回作戦で行方不明の部下杉野孫七上等兵曹を探して戦死した広瀬武夫(島田謹二「ロシアにおける広瀬武夫」朝日選書)海軍少佐(死後中佐)が戦死、戦争美談となったのもこのときのことです。こののち連合艦隊先任参謀は有馬良橘から秋山真之に交代しました。

坂の上の雲マニアックスーContents Navi―人物・用語辞典―ひー広瀬武夫―全文を表示―「広瀬武夫」をもっと詳しく見る  

大連紀行―日清・日露戦争―日露戦争―年表―第1回旅順口閉塞作戦    

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む23

 第1軍(軍司令官 黒木為髑蜿ォ)の主力は同年3月15日鎮南浦に上陸、5月1日鴨緑江を渡河して九連城を占領、5月10日鳳凰城に進出、遼陽に向けて前進するための補給を待ちました(旧参謀本部編 桑田忠親・山岡荘八監修「日露戦争」徳間書店)。
第1軍の陸軍中尉多門二郎は同年5月1日朝鮮の対岸虎山の西の河原で戦死者をはじめて見ました。偵察に出た兵が撃たれたのです。初陣の多門は中学生のころ東京三宅坂の堀からひきあげられる土左衛門をみて以来のことで「大に心持が変になった」が、「こんなことではいかん」と思いかえしつつ、兵士の手前、平気な顔をして、「御同様、こんなになるんだぜ」と中隊の兵に小声でかたりかけたりしました。仙台歩兵第四連隊の小隊長であった彼は、のろいにぶいといわれる東北兵をひきいて、近衛兵や九州兵におくれをとるまいと決心していたのです(多門二郎「予が参加したる日露戦役」「現代日本記録全集」第6 橋川文三編 日清・日露の戦役 筑摩書房)。
第2軍(軍司令官 奥保鞏大将)は5月5日遼東半島南岸(塩大澳付近)に上陸、秋山好古少将は騎兵第1旅団長として第2軍に所属しました。第2軍は南下して遼東半島の中でもっとも幅が狭い金州付近を占領し、旅順を孤立させる作戦を命ぜられていました。5月26日第2軍は南山を攻撃、第2軍は機関砲(銃)使用に習熟せず(大江志乃夫「日露戦争の軍事史的研究」第1章二−2 岩波書店)、歩兵攻撃中心の日本軍は苦戦の末南山を攻略、5月29日には大連を占領しました。

近代日本人の肖像ー人名50音順ーあ・おー奥保鞏―か・こ―黒木為

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む24

同年4月30日ロシアはバルチック艦隊による増援を決定(田中宏巳「秋山真之」吉川弘文館)、この情報を得て、バルチック艦隊が極東に到着するまでに、旅順を陥落させようと、5月31日大本営は旅順攻撃のため第3軍(軍司令官 乃木希典大将)を編成、第2軍を遼陽に向け前進させることを決定しました。6月20日満州軍総司令部(総司令官 大山巌・総参謀長 児玉源太郎)を設置、総司令部は戦局の推移とともに移動、参謀総長には山県有朋が任命されました(谷寿夫「機密日露戦史」原書房)。
この人事についてははじめ山県有朋が満州軍総司令官を自薦しましたが、すでに総参謀長に内定していた児玉源太郎は部下に能力を発揮させる雅量のない山県を嫌い、雅量のある大山巌の総司令官就任をつよく希望しました。しかし桂首相・陸相寺内正毅らは同じ長州閥で陸軍の巨頭山県に遠慮、児玉の要請を斡旋しようとしないので、児玉は明治天皇を動かし勅命で大山総司令官任命を実現したのです。
大山が明治天皇に拝謁すると天皇は「山県もいいのだが、こまかいことまで口出しするので、諸将がよろこばぬようだ、そこへゆくとお前はうるさくなくていいということでお前に決まった」と云ったので、大山は笑いだし「すると、この大山はボンヤリしているから総司令官にちょうどよいというわけでございますか」と答えたそうです(生出寿「知将児玉源太郎」光人社)。
また5月19日渤海湾の大孤山に上陸した独立第10師団を拡大して6月30日第4軍(軍司令官 野津道貫大将)が編成されました(沼田多稼蔵「日露陸戦新史」岩波新書)。

近代日本人の肖像ー人名50音順ーな・のー乃木希典―野津道貫

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む25

 1904(明治37)年4月25日ウラジオ艦隊は軍隊輸送中の金州丸を元山沖で、同年6月15日対馬海峡で陸軍運送船常陸丸・和泉丸を、7月20日津軽海峡を通過して太平洋岸で汽船・帆船など5隻を撃沈しました(「明治三十七八年海戦史」)。
 このようなウラジオ艦隊の活動を見て旅順艦隊はウラジオ艦隊への合流を目的に同年8月10日旗艦ツエザレウイッチ以下17隻が旅順港を出港、黄海で連合艦隊と交戦、旗艦ツエザレウイッチ砲塔が撃破され司令長官や操舵手らが戦死したため、旅順艦隊は大混乱に陥り、主力は再び旅順に敗走しましたが、他の戦艦などが膠州湾・上海・サイゴンで武装解除となりました(黄海海戦)。なお8月14日には第2艦隊(司令長官 上村彦之丞)は蔚山沖でウラジオ艦隊と交戦1隻撃沈、2隻を撃破しました(「明治三十七八年海戦史」)。
 同年8月19日第3軍(参謀長 伊地知幸介)による旅順第1回総攻撃が実施されましたが、同月24日までに日本軍死傷者は15800名という犠牲者を出し失敗に終わりました(沼田多稼蔵「前掲書」)。
 8月25日夜半第2・4軍(第1軍は別働隊)は遼陽に向かって前進、第2軍所属秋山好古指揮の支隊(騎兵及び歩砲工兵を含む)は日本軍主力の左翼に位置し、ミシチェンコ指揮下のコサック騎兵集団の横撃を防ぐ任務を与えられていました。同月27日豪雨の中を奥軍は鞍山站を攻撃しましたが、ロシア軍主力は首山堡に退却しており、同月30日未明から首山堡攻撃を開始、秋山支隊は応援に派遣されたバイカルコサック騎兵砲第2中隊と死闘、同月31日橘中佐は大隊を率いて突撃の末戦死、翌日の首山堡占領に貢献、海の広瀬武夫中佐とならんで軍神扱いをうけました。別働隊の黒木軍は日本軍右翼から8月24日行動を開始、同月30〜31日太子河を渡河してロシア軍を攻撃、9月2日饅頭山を占領、クロパトキンは奉天まで退却を決意、日本軍は9月4日遼陽を占領しました(遼陽の会戦)(旧参謀本部編「日露戦争」徳間書店)。

第一次大戦―日露戦争―遼陽会戦  

 茂沢祐作(第1軍第2師団歩兵第16連隊所属上等兵)は遼陽の会戦を次のように述べています。
 「敵の砲撃はますます猛烈を極め、落下する砲弾は実に寸土も余さざるごとくなりし。(中略)午後に至って吾々の弾薬補充の道は絶え、ために大いに節約を要し砲兵もまったく沈黙の姿となり、有利の目的を見逃せしこと一再ならず。」(9月2日)「昨晩のごとき爆裂弾を携えてこれを投じつつ吾らが散兵線(散開した戦闘隊形)に飛び込んできた露兵は、身に絨袴(ズボン)と長靴を履きたるほか裸体にて、一つの武器だも携えることなく進んできたには驚いた。」(9月3日)(茂沢祐作「ある歩兵の日露戦争従軍日記」草思社)
 遼陽会戦が終了してから、日本軍の将兵には、これで戦争は終わりだ、ヤレヤレという気が満ちており、「兵士は『進軍喇叭は冥土の鐘なり』といい、『旅順に進むものは意気銷沈し、北進軍に従軍するものは昂る。』等の言を弄するもの生じ、寒心に堪えざるものあり」(谷寿夫「機密日露戦史」原書房)と述べられています。
 クロパトキンの遼陽退却に対する批判が高まり、グリッペンベルク大将が彼と同格で第2軍司令官に任命されて満州に派遣されることになりました。この動きに対抗するためクロパトキンはロシア政府に工作するとともに、攻勢にでたのが沙河会戦です(ウォーナー「日露戦争全史」時事通信社)。
10月10日日本軍は沙河付近でロシア軍主力を攻撃しましたが、同月20日には弾薬不足のため攻撃中止、沙河をはさんで両軍は対峙しました。11月の満州は冬季にはいり、両軍の戦線は膠着状態が続きました(旧参謀本部編「日露戦争」徳間書店)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む26

日露開戦後の1904(明治37)年2月23日日韓議定書が調印され、@日本政府は韓国皇室の安全並びに韓国の独立と領土保全を確実に保証する。A第三国(ロシア)の侵害もしくは内乱により韓国皇室の安寧あるいは領土の保全に危険がある場合、日本政府は臨機必要の措置をとる。韓国政府は日本政府の行動を容易ならしめるため、十分便宜を与える。日本政府はこの目的を達するため、軍略上必要の地点を臨時収用することができる。B両国政府は相互の承認なく、本協約の趣意に反する協約を第三国との間に締結してはならない。と規定されました(「日韓議定書」外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。
同年5月30日元老会議で「対韓方針に関する決定」(翌日閣議決定)が了承され、(二)−一、防備ヲ全フスルコトでは日韓議定書第三条(韓国の独立と領土保全)により、平和克復後も相当の軍隊を同国要所に駐留させる必要があり、三、財政ヲ監督スルコトでは韓国軍隊は親衛隊を除くほか漸次その数を減少させると述べています(外務省編「前掲書」)。
同年3月11日後備歩兵5個大隊を中心に韓国駐劄軍(司令官 原口兼済少将)が編成されたのですが、8月12日後備歩兵12個大隊に増強、9月7日近衛師団長長谷川好道中将を大将に昇進させ、韓国駐劄軍司令官として天皇に直属させました(陸軍省編「明治軍事史」下 原書房)。これは韓国駐劄軍司令官が位階勲等とともに公使の上に立ち、外交にも介入する先例となったのです。
さらに日韓議定書を推し進める日韓協約(第1次)が同年8月22日調印され@韓国政府は日本政府推薦の日本人1名を財務顧問として傭聘、A韓国政府は日本政府推薦の外国人1名を外交顧問として庸聘、B韓国政府は外国との条約締結其の他重要な外交案件の処理に関してあらかじめ日本政府と協議するという内容でした(外務省編「前掲書」)。
これによって韓国政府は財政・外交の実権を失い、日本の保護国へ一段と傾斜していったことがわかります。  

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む27

同年10月26日第3軍による第2回旅順総攻撃が本来海岸要塞用の28センチ榴弾砲を旅順攻撃にもちこみ実施、しかし同月31までに日本軍死傷者3830人を出して失敗に終わりました(沼田多稼蔵「前掲書」)。
 11月26日第3軍による第3回旅順総攻撃が開始されましたが失敗、同月28日乃木希典軍司令官は203高地(通称 爾霊山)攻撃を以後の作戦の中心とすることを命じました。203高地とは旅順の町や港が見下ろせる旅順の背面にある山で、この山頂からの観測で28センチ砲をもってロシア艦隊を砲撃破壊する積りだったのです。同月28日夜日本軍は山頂の一角を占領することに成功しましたが、29日未明ロシア軍によって奪回されてしまいました。
 この報告を聞いた満州軍総司令部総参謀長児玉源太郎は怒り、大山巌総司令官名で発電された訓示は次のような内容のものでした。「今回二百三高地ニ対スル戦闘ノ状況不利ナルハ指揮統一ノ宜シキヲ得サルモノ多キニ帰スルト云ハサルヲ得ス畢竟高等司令部及予備隊ノ位置遠キニ失シ敵ノ逆襲ニ対シ之ヲ救済スルノ時機ヲ誤リタルモノナリ貴官深ク此ニ鑑ミ明朝ノ攻撃ニ当リテハ必ス此弊ヲ除キ各高等司令部適当ノ位置ニ進出シテ自カラ地形ト時機トヲ観察シ占領ノ機会ヲ逸セス且其占領ヲ確実ニスルコトヲ期セラルヘシ」(陸軍省編「明治軍事史」下 原書房)
 1904(明治37)年11月29日児玉源太郎は旅順に赴き、乃木軍司令官は児玉に軍司令官代理として第3軍を指揮することを認めたようで、児玉の指揮の下12月5日ようやく203高地を確保することに成功しました。しかしこの日までの日本軍死傷者は約17000人に達しました。かくして12月10日までに28センチ砲で旅順艦隊の主力を破壊する事が出来たのです。この日児玉源太郎は旅順から引き揚げました(沼田多稼蔵「前掲書」)。
 本郷源三郎は熊本の貧農の息子でしたが、幼年学校・士官学校を首席で卒業、日露戦争では陸軍大尉として出征しました。ある日ばったり出会った石光真清に、彼は維新前だったら熊本の片田舎の貧乏百姓として暮さねばならぬ自分が、このように武士の身分になれたのも時代のおかげだ、満足して死ねるといい、数日後の東鶏冠山のたたかいで胸に貫通銃創を受けて戦死しました(石光真清「望郷の歌」中公文庫)。
 1905(明治38)年1月1日旅順守備軍司令官ステッセルは降伏を申し入れ、翌日水師営で旅順開城規約調印、同月13日日本軍が入城を果しました(沼田多稼蔵「前掲書」)。

中国東北地方に高句麗文化を訪ねるーはじめにー水師営会見所

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む28

 沙河でロシア軍と対峙していた日本の満州軍総司令部はときには零下40度まで下がる厳寒の満州においてロシア軍が攻勢に出るはずはないと楽観していました。総司令部の児玉源太郎・松川敏胤らはロシア軍がかつてナポレオン指揮下のフランス軍をロシアの厳冬下に撃破したという史実をあまりよく知らなかったもののようです。しかし日本軍の最左翼に布陣していた秋山好古指揮下の秋山支隊は1905(明治38)年1月9日永沼秀文中佐指揮の挺身隊などを遠く蒙古地帯まで派遣して、後方を撹乱しつつ情報を収集し、ロシア軍が攻勢に出ることを推察する報告を総司令部に連絡していましたが、総司令部は楽観していたのです。
1904(明治37)年10月26日極東総督アレクセーエフは解任され、クロパトキンは極東陸海軍総司令官(総司令部を奉天に設置)となり、ロシア満州軍は第1軍〜第3軍(第1軍司令官 リネウイッチ大将・第2軍司令官 グリッペンベルク大将・第3軍司令官 カウリバルス大将)に再編成されました。

坂の上の雲マニアックスーContents Navi―人物・用語辞典―くークロパトキン 

1905(明治38)年初め旅順陥落の情報が入ると、クロパトキンに批判的なグリッペンベルクは乃木軍が旅順から北進してくるまでに日本軍に大攻勢をかけることを主張、これに対して慎重なクロパトキンも許可、日本軍左翼に布陣する秋山支隊が展開する黒溝台を攻撃するために、ロシア陸軍最強といわれるミシチェンコ中将指揮下のコサック騎兵支隊を臨時に露第2軍に所属させました。
 クロパトキンは総攻撃開始以前に日本軍の実態を知り、あわせて鉄道破壊などを任務として同年1月9日ミシチェンコ騎兵支隊を日本軍後方に派遣したのです。しかしこの作戦は不徹底で鉄橋を爆破できず、海城・牛荘城・営口の日本軍兵站基地に打撃を与えることもなく、作戦期間8日間で北方へ撤退していっただけに終わりました(デニス・ペギー・ウォーナー「日露戦争全史」時事通信社)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む29

 同年1月25日グリッペンベルクはシベリア第1軍団・猟歩兵1個師団及び欧露から到着した第8軍団、狙撃歩兵第1旅団・同第5旅団、これに付加されたミシチェンコ機動軍即ち秋山好古支隊の約6倍の兵力で総攻撃を開始、これが成功すればクロパトキン指揮下のロシア軍主力は日本軍中央部を突破する積りだったのです。
 日本満州軍総司令部は予想せぬロシア軍の大攻勢に狼狽し、作戦室は騒然となりました。総参謀長児玉源太郎も落ち着きを失っていたとき、総司令官大山巌は作戦室に姿を現し、「時に殷々たる砲声を耳にしては、児玉に問うて曰く。今日も戦がありますかと。(中略)かかる際に、突如として悠々たる奇問に接すると。今迄熱し切ってゐる頭脳に向けて、萬斛(ばんこく 多量)の冷水を瀉(そそ)ぎかけられた心地がして、愕然として俄に悟る処が多かった。」(近世名将言行録刊行会編「近世名将言行録」第3巻 吉川弘文館)。

春や昔―メインコンテンツー「坂の上の雲」と日露戦争―日露戦争(陸戦)―黒溝台会戦 

 秋山好古は李大人屯に司令部を置き、支隊は韓山台・沈旦堡・黒溝台付近に布陣していましたが、グリッペンベルク軍の攻撃を受けると総司令部に連絡、総司令部は第8師団に秋山支隊の救援を命令、黒溝台は一時放棄しましたが、秋山は李大人屯・沈旦堡を死守、救援に赴いた第8師団は敵の重囲に陥り、身動きできない状況に置かれました。そこで総司令部はさらに第2軍の第3・5師団及び第1軍第2師団を引き抜いて秋山支隊救援に投入、1月29日黒溝台を奪回しました(沼田多稼蔵「前掲書」)。 クロパトキンは1月28日グリッペンベルクに退却を命令、怒ったグリッペンベルクは欧露に帰って新聞その他にクロパトキン批判の文章を発表しました(ウォーナー「前掲書」)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む30

 ロシア皇帝ニコライ2世の侍従武官として皇帝の信頼が厚かったロジェストウェンスキー少将(後)中将)はバルチック艦隊(第2太平洋艦隊)を編成して極東へ派遣し、旅順の第1太平洋艦隊の増援を皇帝に進言、バルチック艦隊司令長官に任命されました。
艦隊(旗艦スワロフ)は1904(明治37)年10月15日バルト(バルチック)海のリバウ港を出港しました。ところが同年10月21日艦隊は北海のドッガーバンクと呼ばれる浅瀬で英漁船を日本水雷艇と誤認して砲撃(ポリトゥスキイ著 長村玄訳「リバウからツシマへ」文生書院)、このため英露関係が一時緊迫しました。

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 この事件から2日目バルチック艦隊は英仏海峡を通過、事件から6日間航海してスペインのヴィゴに入港、ここでドイツ国籍の石炭輸送船から石炭の補給を受けようとしましたが、イギリスの圧力をうけてスペイン政府はバルチック艦隊の戦艦1隻について石炭400トンのみを積み込むことを許可しました。このやりとりで艦隊は5日間の足どめをくったのです。
 同年11月3日艦隊はフランス植民地モロッコのタンジールに入港、ここでフェリケルザム少将指揮下の支隊はスエズ運河経由の針路をとることになり、艦隊主力は石炭を積み込み同月7日出港、以後主力はアフリカ西岸を南下、11月12日フランス植民地のダカール入港、ダカール総督は艦隊への石炭積み込みを許可しませんでしたが、ロジェストウエンスキーはこれを無視、猛暑の中での石炭積み込みの重労働を強行、乗組員たちは疲れ果て、これが士気の低下を引き起こしたのでした(ポリトゥスキイ著 長村玄訳「リバウからツシマへ」文生書院・ノビコフ・プリボイ「ツシマ バルチック艦隊の壊滅」原書房 このプリボイの著作は小説の形式で叙述されており、必ずしも史実とは限らないことに注意)。
 艦船はよく故障しそのたびに艦隊は航行を停止、ようやくフランス領赤道アフリカのガポン沖の公海に投錨、イギリスとの対立を避けたいフランスからの圧力でペテルブルクからガポン沖投錨を避けるよう指示されたのですがロジェストウェンスキーはこれを無視、相変わらず石炭組み込みを強行、12月1日ガポンを出発しました(ポリトゥスキイ著 長村玄訳「リバウからツシマへ」文生書院・ノビコフ・プリボイ「ツシマ バルチック艦隊の壊滅」上 原書房)。
2011-05-10 08:32 | 記事へ | コメント(0) |
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司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む11〜20
2011年04月30日(土)
司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む11

1901(明治34)年3月12日加藤高明外相は伊藤博文首相にロシアの満州占領に対処する方針について閣議での討議を要請する意見書(「日本外交文書」第34巻)を提出しました。その方針とは@ ロシアの満州侵略に抗議し、ロシアが応じないときは日露戦争を開始する。その理由としてロシアの満州支配は朝鮮に拡大し日本の自衛を危険に陥れる。A 韓国に関する日露協商(西・ローゼン協定)を無視―具体的には韓国を占領または保護国化あるいは其の他適宜な方法で同国を我国の勢力下におく。B ロシアの満州占領に対しては抗議もしくは権利の留保にとどめ、後日臨機の措置を講じるの3策を内容とするものでした。
 この意見書が閣議で討議されたかどうかは、第4次伊藤博文内閣が同年5月3日総辞職したため不明ですが、韓国を日本の支配下に置くことは当時の日本指導者の一致した方針であったことに注意する必要があります。
 1901(明治34)年6月2日第1次桂太郎内閣が成立、外相小村寿太郎は対露軍備拡張のための財源としての地租増徴に地主勢力の反発がつよく、当面「満韓交換論」で日露協約をはかる方針をとりました。しかし「満韓交換論」で日露協約が成立したとしても、それでロシアの勢力南下を防ぐことは困難であり、ロシアに対抗するための日英同盟が何としても必要と考えたのです。元老山県有朋もこれを支持しました(徳富猪一郎「公爵山県有朋伝」下 山県有朋公記念事業会)。

近代日本人の肖像ー人名50音順ーか・こー桂太郎―小村寿太郎

 一方元老伊藤博文や井上馨らは日英同盟が朝鮮問題を解決するものではなく、その成立がロシアの外交政策を硬化させるおそれがあると考えていました。
 アメリカのエール大学が創立二百年の式典を挙行するにあたり、伊藤博文に名誉法学博士の称号を贈りたいと申し出たので、井上馨は伊藤にアメリカから欧州にわたり、ロシアに赴いて朝鮮問題についてロシアの指導者と会談することを勧めました。かくして同年9月18日伊藤は欧米にむけて横浜を出発しました(「伊藤博文伝」下巻 春畝公追頌会)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む12

 1901(明治34)年10月16日林董(はやしただす)駐英公使はランスダウン英外相と公式の同盟交渉に入り、11月6日英外相は林公使に同盟条約草案を手交しました(「日本外交文書」第34巻)。イギリスはロシアに向かう伊藤博文の行動を注目していたのです。
 伊藤博文は同年11月28日ニコライ2世に謁見、12月2日露外相ラムスドルフ、翌日ウイッテ蔵相、12月4日再びラムスドルフと会談、基本的に「満韓交換論」にもとづく覚書を提出、これに対して12月7日元老会議(桂首相・小村外相出席)は日英同盟修正案を可決、天皇の裁可をへて12月12日林公使は同修正案を英外相に提出しました。
 同年12月17日伊藤博文はベルリン駐在のロシア大使からラムスドルフ修正案を手交されましたが、12月23日伊藤はラムスドルフに交渉の打ち切りを打電、日露交渉は不成立となったのです(「日本外交文書」第35巻)。
 1902(明治35)年1月30日ロンドンで日英同盟協約(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)が調印されました。その要点は次の通りです。@ 大不列顚(英国)国は主として清国に関し、日本国は清国に有する利益に加えて韓国において政治上竝商業上及び工業上格段に利益を有するので、両締約国はその利益を擁護するため、必要不可欠の措置をとることを承認する。
A もし日本国または大不列顚国の一方が上記各自の利益を防護するため列国と戦端を開いたとき、他の一方の締約国は厳正中立を守り、その同盟国に対して他国が交戦に参加しないよう努力する。B 本協約の有効期間は5箇年とする。
 日英同盟の成立はロシアに対する圧力となったことは確かです。1902(明治35)年4月8日ロシアは清国と満州撤兵にかんする協定(「満州還付条約」日本外交文書 第35巻)を結び、撤兵を3期にわけて、半年後盛京省の遼河の線以南から、1年後盛京省の他の地域と吉林省から、1年半後黒竜江省からと18箇月以内の撤兵を約束し、同年10月8日約束通り第1期撤兵を実行しました(古屋哲夫「日露戦争」中公新書)。
 1902(明治35)年10月2日第1次桂太郎内閣は「清韓事業経営費要求請議」を決定し、「鉄道経営ハ我対韓政綱ノ骨髄ナリ」(「「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)と述べていますが、京仁・京釜両鉄道敷設権の実現すら容易でない状況で、東清鉄道ならびに同鉄道南満州支線の敷設をフランス資本の援助のもとに進めているロシアと日本の資本力の差はあまりにも大きかったといわざるを得ません。

坂の上の雲マニアックスーContents Navi―人物・用語辞典―けー京仁鉄道―京釜鉄道   

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む13

 「北清事変に関する最終議定書」(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)第11条にもとづき、イギリス・アメリカなど列国は清国と通商及航海条約修正交渉をはじめ、日本政府も満州還付条約調印後の同年6月19日上海で清国と通商及航海条約改訂交渉を開始(「日本外交文書」第35巻)、翌年10月8日日清両国間追加通商航海条約に調印しました(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。この条約では@ 清国政府は日本国汽船が貿易の目的で清国開港場より、届け出た内地に航行することを承諾する。A 清国政府は各国人の居住及貿易のため盛京省奉天府及同省大東溝を開く。などの条項があり、これらの条項内容は条約交渉の途中ですでにロシア側に知られていました。
するとロシアが満州から撤兵すれば、あとを追うように、日英米などの列国の勢力が満州に入りこんでくるという印象をロシアに与え、満州撤兵政策を主導してきた蔵相ウイッテや北部満州だけをロシアの勢力圏とし南満州を放棄することも考えていた陸相クロパトキンらに代わって、ロシア皇帝ニコライ2世の信任厚い撤兵反対派の宮中顧問官ベゾブラゾフらの勢力が強大となってきました(大竹博吉監修「ウイッテ伯回想記 日露戦争と露西亜革命」上 明治百年史叢書 原書房)。
1903(明治36)年4月8日ロシアの第2期満州撤兵は実行されませんでした。同年4月20日小村外相はロシアの第2期満州撤兵のための代償要求を清国政府に拒絶するよう勧告することを駐清公使内田康哉に訓令、4月27日清国はロシアの要求を拒絶しましたが、ロシアは撤兵しませんでした。
同年4月21日桂首相・小村外相・伊藤博文・山県有朋らは京都無鄰菴で会合、次のような方針を承認しました(徳富猪一郎「公爵山県有朋伝」下)。@ 朝鮮問題について我国の優越権を認めさせ、一歩も譲歩しない。A 満州問題についてはロシアの優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決する。

京都観光Navi―サイト内検索―無鄰菴―ホームページー無鄰菴とは

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む14

1903(明治36)年5月上旬ロシア軍は鴨緑江を越えて大東溝の対岸龍岩浦に軍事根拠地の建設を開始しました。同年6月12日露陸相クロパトキンは旅順へ赴く途中東京を訪問、桂首相と会談しています(徳富猪一郎「公爵桂太郎伝」坤 原書房)。彼は日露交渉の妥協点を探って旅順における対日外交首脳会議に臨むつもりだったのでしょう。同年8月12日ロシアは旅順に極東総督府を設置、関東軍司令官アレクセーエフを総督に任命、8月29日蔵相ウイッテは失脚しました(大竹博吉監修「前掲書」)。

第一次大戦―日露戦争―龍岩浦事件  

司馬遼太郎氏はこの小説で次のように述べています。「十九世紀からこの時代にかけて、世界の国家や地域は、他国の植民地になるか、それがいやならば、産業を興して軍事力をもち、帝国主義国の仲間入りをするか、その二通りの道しかなかった。(中略)日本は維新によって自立の道を選んでしまった以上、すでにそのときから他国(朝鮮)の迷惑の上においておのれの国の自立を保たねばならなかった。」(第二部 開戦へ)
このような指摘に対しては次のような意見もあることをご紹介しましょう。「もし日本が朝鮮の市場と資源を日本資本主義のために確保することのみを目的とし、そのために朝鮮の近代化の改革を援助したならば、その目的は容易に達せられ、かつ朝鮮に親日的な政権を安定させることもでき、したがってロシアの政治的・軍事的な朝鮮進出を防ぐこともできたであろう。」(井上 清「現代史概説」岩波講座「日本歴史」18 現代1)
 同年6月23日午前会議で満韓問題についてロシアとの交渉を決定、10月6日東京で小村外相と露駐日公使ローゼンとの交渉が開始されましたが交渉は進展せず、12月30日閣議はロシアとの開戦の際、清国には中立を維持させ、韓国は支配下に置くとの政策を決定したのです(「日本外交文書」第36巻)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む15

1900(明治33)年騎兵大佐秋山好古は広島の第5師団兵站(作戦軍のために後方で馬匹・軍需品の輸送や確保などを担当する)監として出征しました。彼は同年7月18日西太沽に上陸、連合軍の主力として8月15日北京を占領しました。
 1901(明治34)年義和団事件最終議定書調印(「大山巌」を読む50参照)により、列国は華北駐兵権を獲得し、その駐屯軍司令部は北京に設置されました。天津の「清国駐屯軍守備隊司令部」の司令官に任命されたのは秋山好古です。さらに昇格して「清国駐屯軍」の司令官を兼務、ひきつづき天津に駐在しました。
 1903(明治36)年陸軍少将秋山好古は清国から帰国、千葉県習志野にある騎兵第一旅団長となりました。やがてロシア陸軍省からシベリアのニコリスクで陸軍大演習を行うので参観武官派遣を要請する招待状が陸軍省に届き、同年9月4日好古は横浜からウラジオストックへ出発、9月11日到着、同地を見学後ニコリスクに赴き、同月13日から大演習を参観してロシア騎兵の行動を観察、演習終了後もロシア皇帝の勅許を得てハバロフスク総督代理リネウイッチ大将と会見、さらに旅順を訪問、極東総督アレクセーエフと会談、旅順軍事施設を見学、東京に帰着したのは同年10月3日のことでした(「秋山好古」)。日露関係が緊迫したこの時点でロシア側が日本軍人をシベリア陸軍大演習に招待し、ロシア旅順軍事施設見学も許可したのは、ロシア軍の威容を見せつけることで、日本の対露戦決意を牽制する積りだったのでしょう。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む16

 1902(明治35)年5月27日フランス通であった坂本俊篤が海軍大学(海大)校長に就任すると、まず戦術教官山屋他人の後任人事をてがけました。山屋は海大で「海軍戦略」と「海軍戦術」を担当、各国の海大の教育内容を調査し、すすんだ教育方法を積極的に取り入れた人物でしたが、坂本が米国留学中の秋山真之と会談した際、その識見を評価、彼を海大教官に迎えたのです。
 同年7月17日付転任の辞令を受け海大教官となった真之はアメリカにおける見聞を生かした講義で、海大選科聴講生八代六郎は毎回真之の講義に出席、あるとき真之の講義に対する八代の質問が口喧嘩に発展、翌日八代が真之に詫びたということもあったということです(桜井真清「秋山真之」秋山真之会)。
 1903(36)年10月19日山本権兵衛海軍大臣は常備艦隊司令長官に東郷平八郎海軍中将を起用、司令部幕僚に島村速雄・有馬良橘・秋山真之らが任命され(「財部彪日記」国立国会図書館憲政資料室所蔵)、海軍軍令部長伊東祐亨の指揮下に12月28日第1・第2艦隊を連合艦隊に組織、司令長官に東郷平八郎中将(のち大将に昇進)、参謀長島村速雄・先任参謀有馬良橘・次席参謀秋山真之らが任命されました。このころ真之は結婚しています。

近代日本人の肖像ー人名50音順ーや・ゆー山本権兵衛―た・とー東郷平八郎

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む17

 1904(明治37)年2月4日午前会議はロシアとの交渉を打ち切り、軍事行動に移ることを決定、2月6日駐露公使栗野慎一郎は国交断絶を通告(「日本外交文書」第37巻第1冊)、2月10日日本はロシアに宣戦布告しました(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。
 同年1月27日ニコライ2世はアレクセーエフに電訓し「我れ等は鴨緑江と図們江との分水嶺なる山脈までは日本軍の占領に任すべきなり。」と韓国問題に対する日本への全面譲歩を命じました(参謀本部第四部編「明治三十七八年役露軍之行動」第1巻 文生書院 国立国会図書館所蔵 大江志乃夫氏下記著書引用)。

株式会社 文生書院―電子復刻版―明治三十七八年役露軍之行動

 「しかしアレクセエフからローゼン公使にニコライ2世の電訓が到達したのは2月7日であり、ローゼン公使がこれを日本政府に伝える手段を失ったあとであった。(中略)日露開戦は両国にとって避けることのできた不必要な選択であった。」(大江志乃夫「世界史としての日露戦争」第3章2 立風書房)
 和田春樹氏は「2月3日(1月21日)ロシア皇帝は『日本には中立地帯(韓国北部)について、同じことを提案するが、しかし秘密条項とする』」(ラムスドルフへの手紙)と云いだし、韓国問題に関する日本への譲歩を撤回したと指摘しており(和田春樹「日露戦争 起源と開戦」下 岩波書店」)、大江説と微妙な食い違いをみせています。
 いずれにしてもロシア皇帝ニコライ2世は気まぐれな、無定見の人物であったようです。
和田氏は「小村はロシア皇帝を支配している戦争党の中心人物(ベゾブラゾフ)が戦争回避を真剣に望んでいるとの情報を受け取り、それを確認さえしていた(五三 1904年1月14日付 在露国栗野公使ヨリ小村外務大臣宛電報「日本外交文書」第37巻第1冊 巌南堂書店)。だから彼が戦争を回避しようと思えば、踏みとどまるに充分な余裕があったのである。」(和田春樹「前掲書」)と述べています。
 私は読者の皆様に、日露戦争は避けようと努力すれば避けられた可能性の高い戦争であったと結論付けたこれら諸研究があることを注目して頂きたいと思います。
 同年2月4日夜、伊藤博文より側近の金子堅太郎に電話が入り、金子が伊藤邸にかけつけて、「御用の趣は」と何度か尋ねましたが、伊藤は安楽椅子に座り込んだまま返事をしませんでした。しばらくして「わたしはまだ食事をとっていないから、しばらく待ってくれ」と云って食事を運ばせたのですが、その食事も粥一ぱいを口にいれただけでした。
 それから「日露間の関係は干戈(戦争)によって解決するほかないこととなった。米国をわが国の味方にするのが良策と思う。(中略)それで、君に米国に渡り、米国が、わが国を援助するよう尽力してもらいたいのだ。」と依頼しました。金子はハーバード大学に学び、米大統領セオドア・ルーズベルトと同期だったのです。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む18

 金子は成功の自信がなく考えましたが、結論は変わりませんでした。しかし伊藤から「今度の戦いに勝利を得んとするのは無理である。成功しようと考えるのでは駄目だ。尽くせるだけ尽くすのだ。」と説得され承諾させられたのでした。金子は出発以前参謀次長児玉源太郎を訪ねて戦争の見通しを質問すると、児玉は「五分五分と云ふところかな。(中略)どうにか四分六分まで漕ぎつけたい」と答えました。
 さらに山本権兵衛海軍大臣を訪ね、海軍はどうかと質問すると、このあと山本は海軍の見通しについて「まず日本の軍艦の半分は沈める。そのかわり、残る半分をもってロシアの軍艦を全滅させる。」と語りました(金子堅太郎述・平塚篤編著「伊藤公を語る」興文社)。
 財政についても井上馨・松方正義を訪問して打ち合わせました(松村正義「日露戦争と金子堅太郎」新有堂)。

近代日本人の肖像ー人名50音順ーか・こー金子堅太郎―児玉源太郎―た・とー高橋是清 

1904(明治37)年2月24日ロンドン市場における英貨公債募集のため、日銀副総裁高橋是清が英国に派遣されました(「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む19

 日露関係の緊迫により、日本国内では対露強硬論や反戦平和の運動などさまざまな動きが活発となりました。
 1903(明治36)年6月10日東京帝国大学法科大学教授戸水寛人・小野塚喜平次・富井政章ら7博士は政府へ建議書を提出(戸水寛人「回顧録」戸水寛人)、満韓交換論の対露方針に反対するとともに、同年6月24日東京朝日新聞にこれを公表しました(7博士事件)。

坂の上の雲マニアックスーContents Navi―人物・用語辞典―しー七博士意見書   

このような対露強硬論は前年からの農村の不作による経済の不況とむすびついて、ゆきづまった状況を打開するための、民衆の戦争への期待を背景としていました。
 ドイツ人医師ベルツ(児島襄「大山巌」を読む21参照)は同年9月宮ノ下に汽車で向かう途中の事を次のように記述しています。「ハイカラな若い日本人にあう。語っていわく、民間の対露感情の激化はもう抑えきれない。政府は宣戦を布告すべきで、さもないと内乱の起こる虞れがあるとか。(中略)こんな無責任な連中は気楽なものだ。(中略)日本の新聞の態度もまた厳罰に値するものといわねばならない。(中略)交渉の時機は過ぎ去った。すべからく武器に物を言わすべしーと。しかしながら、勝ち戦さであってさえその半面に、いかに困難な結果を伴うことがあるかの点には、一言も触れようとしない。」(「ベルツの日記」上 1903年9月25日 岩波文庫)
 1900(明治33)年の北清事変の際、荒畑勝三は「二六新報」(報道中心の日刊新聞)が日英両文でロシア兵の清国民に対する暴虐な蛮行を糾弾した特別号の記事によってロシアに対する憎悪の念をつよめました。日本の軍人も略奪行為があったのですが(第十 馬蹄銀分捕事件 松下芳男「陸海軍騒動史」くろしお出版)、そんなことは彼の念頭になく、義和団に同情してロシアに対する敵愾心をつよめたのです。1903(明治36)年横須賀の海軍造船廠の職工であった荒畑勝三は艦艇の艤装(船舶が航海可能なように必要品を整え、出発の準備をすること)や修理で忙しい毎日を送っていましたが、同年10月12日弁当箱をつつんだ「万朝報」(「万朝報」45 日本図書センター)を読むと、[内村鑑三(児島襄「大山巌」を読む29参照)は別文]秋水先生(幸徳秋水・「火の虚舟」を読む19参照)・枯川先生(堺利彦)の連署で、戦争反対の主義を貫くため、開戦論に転じた「万朝報」を退社する旨の「退社の辞」が掲げられ、この日から彼は社会主義と非戦論に血をわかすようになりました(荒畑寒村「ひとすじの道」人間の記録28 日本図書センター)。

聚史苑―歴史年表―大正年表―1912年〜1915年ー1912年6月28日堺利彦ー同年10月1日荒畑寒村     

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む20

 同年11月15日幸徳秋水・堺利彦らは平民社を結成し、週刊「平民新聞」(「週刊平民新聞」史料近代日本史 社会主義史料1-4 創元社)を創刊しました。1904(明治37)年1月17日(第十号)中江兆民の「三酔人経綸問答」(松本清張「火の虚舟」を読む14〜15参照)の一節を紹介した同新聞は「小日本なる哉(かな)」を掲載し、(1)軍隊存在の理由なし、(2)真の自治制、(3)小国を以って甘んずる事、(4)万全の策、万全の希望の4項目を挙げ、(3)において「大国を羨むこと勿れ、大国の民は何れも不幸なり、殊に大国たらんとして成り損ねたる伊太利(イタリア)の民の不幸を思へよ。之に反して小国の民は皆幸福なり、瑞西(スイス)の人民、丁抹(デンマーク)の人民等を看(み)ずや。」と述べています。このことはかつて岩倉使節団が「其国小ナリト雖(いえ)トモ、大国ノ間ニ介シ、強兵ノ誉レ高ク、他国ヨリ敢テ之ヲ屈スルナシ」(久米邦武「米欧回覧実記」を読む27参照)と褒め称えたスイス観や中江兆民の「三酔人経綸問答」における洋学紳士の小国主義思想を「平民新聞」が受け継いでいることを示すものでしょう。
同年3月13日平民新聞は幸徳秋水執筆の社説「与露国社会党書」(林茂・西田長寿編「平民新聞論説集」岩波文庫)を掲げ、手を携えて共通の敵<軍国主義>と戦うことを提言したことは有名です。
2011-04-30 09:42 | 記事へ | コメント(0) |
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司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む1〜10
2011年04月20日(水)
司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む1

 司馬遼太郎「坂の上の雲」(「司馬遼太郎全集」24〜26 文芸春秋)は伊予松山出身の秋山好古・真之兄弟・正岡子規の生涯を中心に、日清戦争・日露戦争時の日本の栄光と発展を明るく描写した作品です。
 司馬遼太郎氏はこの小説の意図を次のように記述しています。
 「庶民は重税にあえぎ、国権は重く民権はあくまで軽く、足尾の鉱毒事件があり、女工哀史があり小作争議がありで、そのような被害意識のなかからみればこれほど暗い時代はないであろう。しかし、被害意識のみみることが庶民の歴史ではない。明治はよかったという。その時代に世を送った職人や農夫や教師の多くが、そういっていたのを、私どもは少年のころにきいている。(中略)
 いまからおもえば、じつにこっけいなことに米と絹のほかに主要産業のないこの百姓国家の連中が、ヨーロッパ先進国とおなじ海軍をもとうとしたことである。陸軍も同様である。人口五千ほどの村が一流のプロ野球団をもとうとするようなもので、財政のなりたつはずがない。(中略)
 明治は、極端な官僚国家時代である。われわれとすれば二度と経たくない制度だが、その当時の新国民は、それをそれほど厭うていたかどうか、心象のなかに立ち入ればきわめてうたがわしい。(中略)
 町工場のように小さい国家のなかで、スタッフたちは(中略)そのチームをつよくするというただひとつの目的にむかってすすみ、その目的をうたがうことすら知らなかった。この時代のあかるさは、こういう楽天主義からきているのであろう。
 このながい物語はその日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。やがてかれらは日露戦争というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでゆく。(中略)楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみみつめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ 花や雲を数える語)の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。」(第一部あとがき)

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む2

 秋山信三郎好古は1859(安政6)年伊予松山藩松平家(久松家)で下級武士の役職である徒(かち)目付秋山平五郎久敬の三男として生まれました。
 久松家は徳川家康の異父弟を家祖とする家柄であったので、明治維新の際には官軍である土佐・長州藩兵の占領下におかれて賠償金15万両を課せられ、藩士の生活は困窮しました。
 好古は8歳で藩校「明教館」の附属幼年部「養成舎」に入学しました。1871(明治4)年松山に士族・町家の別なく入学できる小学校が設立されましたが、好古は小学校に入学せずやがて設立された中学校にも入らず、家が貧困であったせいか風呂屋の風呂焚きをしていたそうです。

松山市HP―「坂の上の雲」の町松山―ゆかりの地を訪ねるーぐるっと城下コースー7 秋山兄弟生誕地

 1872(明治5)年5月東京に師範学校が設立され、翌明治6〜7年にかけて大阪、仙台、名古屋、広島、長崎、新潟にも設置され、学費は官費でした。師範学校入学資格は19歳であるのに、好古は16歳であったので、検定試験による小学校教員の資格を大阪でとり、19歳まで待つことを勧められ、1875(明治8)年好古は船で大阪へ行きました。
 彼は堺県で受験、首尾よく代用教員試験に合格、ところがただちに本教員の検定試験が大阪府庁でおこなわれ、好古はこれにも合格して、月給9円で野田小学校勤務を命ぜられました。その月給から彼は松山から大阪へ出るための船賃の外に借りた旅費を両親に返済したのです。
 彼は年齢を偽って17歳で大阪府立師範学校に入学を許可され1年で卒業、「三等訓導」の辞令をもらいました(「秋山好古」秋山好古大将伝記刊行会)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む3

 しかるに旧松山藩士の先輩である愛知県立名古屋師範学校付属小学校主事和久正辰の勧誘で、好古は同付属小学校に赴任しました。1877(明治10)年好古は和久から東京の陸軍士官学校(1874年設立)応募を勧められ、士官学校に出願、1月に試験があり第三期生として合格、彼は騎兵科に配属されました。

近代日本人の肖像ー人名50音順ーあ・おー秋山好古 

 好古は1879(明治12)年陸軍少尉に任官、1883(明治16)年陸軍大学校入学、1886(明治19)年陸軍騎兵大尉となり、すでにフランスに留学中の久松定謨(さだこと)の補導役として1887(明治20)年フランスへ留学、仏騎兵を研究、1891(明治24)年帰国、東京駐屯の騎兵第一大隊中隊長となりました。1893(明治26)年好古は彼が陸軍少尉のころ下宿していた旧旗本佐久間家の長女多美と結婚しています(「秋山好古」)。
 1894(明治27)年日清戦争が起こりましたが、司馬遼太郎氏は「この戦争は清国や朝鮮を領有しようとしておこしたものではなく、多分に受け身であった。」とこの小説(「第一部 日清戦争」で述べています。日本が「受け身」であったかどうか、日清戦争前後の朝鮮情勢について(「大山巌」を読む12〜15、20、24、32〜39、41〜〜44、49〜50)を参照して下さい。1894(明治27)年9月の黄海海戦後、大山巌を軍司令官とする第二軍が編成され、陸軍騎兵少佐秋山好古の率いる騎兵第一大隊は第二軍第一師団に所属して旅順攻略戦に参加(「大山巌」を読む37参照)しました。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む4

 秋山淳五郎真之(さねゆき)は好古の弟で、父久敬の五男として1868(慶応4)年松山城下に生まれました。
 真之はやがて儒学者近藤元修の塾で「論語」「孟子」などの四書五経の素読を繰り返す毎日で、間違えると師匠近藤の鞭が机を容赦なく叩いたと云います(水野広徳「提督秋山真之」秋山真之会)。和歌も七・八歳のころからよみはじめ、雪の朝北窓から放尿して「雪の日に北の窓あけシシすればあまりの寒さにチンコちぢまる」と詠んだということですが、本格的には14歳ころから歌人井手正雄(桜井真清の伯父)について学ぶようになりました。
朝暗い時に近藤塾に通い、そのあと勝山小学校に登校する毎日でした。真之は12〜3歳のころ手のつけられない悪童だったようで、、いつも8歳の桜井真清(さねきよ)を子分のように連れ歩いていましたが、ある日真清の家で花火の火薬調合書をみつけ、何日もかかって打ち上げ花火を作り、13〜4人の子供を集めて町はずれの野原で花火を打ち上げたのです。巡査が駆けつけたとき、真之らは逃げ散ったあとでした。しかし巡査が桜井家を訪問、真之が首謀者であることがすぐにわかったようで、真之は母親お貞から短刀をつきつけられて、母親と一緒に死ねと叱られたそうです(水野広徳「提督秋山真之」秋山真之会)。

近代日本人の肖像ー人名50音順ーあ・おー秋山真之 

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む5

正岡子規は1867(慶応3)年9月17日伊予国温泉郡藤原新町(松山市新玉町)に生まれ、幼名は処(ところ)之助で4〜5歳のころ升(のぼる)と改名しました。父正岡隼太(はやた)は松山藩の下級武士で馬廻り加番(候補)役でした。母は藩の儒学者で藩校明教館の教授であった大原有恒(観山)の長女八重です。1868(明治1)年新玉町の屋敷を売って湊町新町(湊町四町目)に移転、升は上京するまでここに居住しました。
1872(明治5)年父病没、翌年から母方の祖父大原観山に手ほどきをうけたのですが、観山は1875(明治8)年死去するまで結髪をしていた人物で、孫の升にもなかなか断髪を許しませんでした。板垣退助らが民撰議院設立建白書を発表した1874(明治7)年升は松山市智環学校に入学、のち勝山学校に転校しました。1880(明治13)年9月には松山中学校に入学します(「子規全集」第22巻 年譜・資料 講談社)。
松山中学校の前身は藩校明教館で、1875(明治8)年に愛媛英学所となり、創設者は土佐出身の自由民権論者岩村高俊が前年愛媛県権県令として松山に赴任したとき、内藤鳴雪を県学務課長に抜擢し、2人で相談をして慶応義塾出身の草間時福を中学校長に任命しました。でも升が松山中学に入学したころ、中央の干渉により岩村高俊らは愛媛を去っていました。

宿毛市立宿毛文教センター宿毛歴史館―宿毛人物史―岩村高俊

しかし升は1882(明治15)年民権論の影響をうけ、青年会で「自由何クニカアル」(草稿「無花果艸紙」子規全集 第9巻)などの演説をしたり、柳原正之(極堂)らと自由民権雑誌創刊を計画したりするようになりました(柳原極堂「友人子規」博文堂書房)。
1883(明治16)年5月松山中学を中退を決意、この年2月ころから東京遊学について、叔父加藤恒忠(拓川)からの手紙により上京を決心、6月10日出発、14日東京到着、恒忠や友人の居所などに宿泊、6月末久松家の書生部屋に入りました。
 升は共立学校(のちの開成中学)などに通って勉強し1884(明治17)年9月大学予備門の入試をうけて合格しました。

坂の上の雲マニアックスー「坂の上の雲」ライバル伝ー秋山真之と正岡子規ーmenuー正岡子規ー人物・用語辞典―かー加藤恒忠

東京紅団―文学散歩情報―ま行―正岡子規 散歩―東京を歩く3

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む6

 秋山好古は陸軍少尉に任官すると弟真之の松山中学校の学資の面倒をみていましたが、真之は正岡升が上京すると、おそらく兄好古に懇請したのでしょうか、真之は兄の指示で上京、東京麹町番町にあった好古の下宿に同居しつつ、大学予備門に入学しました。
 好古が陸軍大学校に入学すると、真之は神田猿楽町の正岡升の下宿に移り、帝国大学(東大の前身)入学をめざしてともに勉学に励みました。勉学の余暇に寄席見物にいくのが楽しみであったようです。
 しかるに真之は帝国大学入学をやめて、1886(明治19)年海軍兵学校に入学しました。志望変更の理由は不明という外ありませんが、兄に学費負担をかけることへの気兼ねがあり、学費なしの学校としては陸軍士官学校、海軍兵学校、師範学校くらいで、教師になる気持ちはなかったとすれば、軍人しかなく、兄の助言で海軍を選んだのではないでしょうか。
 当時の海軍兵学校は東京築地にありましたが、1888(明治21)年瀬戸内海の江田島に移転しました。

海軍砲術学校―サブメニューー懐かしの艦影―番外編―江田島 旧海軍兵学校 写真集

 1890(明治23)年7月秋山真之は海軍兵学校を首席で卒業、少尉候補生となり練習艦隊に乗り組み、同年10月出帆翌年1月イスタンブール入港、1891(明治24)年5月15日品川沖に帰着しました。真之はイギリスで建造された巡洋艦「吉野」の廻航委員として1893(明治26)年6月渡英しました。
 日清戦争を真之は巡洋艦「筑紫」乗り組みで戦ったのですが、豊島沖並びに黄海海戦には参加せず、偵察や通報などが主で、1895(明治28)年の威海衛作戦時(「大山巌」を読む39参照)にめだつ活躍をした程度です。この威海衛作戦について真之は故郷の井手正雄に宛てた手紙で次のように述べています「開戦以後此ニ半歳、其間海陸之激戦数次骨ヲ白沙ニ暴(さら)し屍ヲ漁腹に埋ムル者其数幾何(いくばく)何老幼飢凍百姓流離ス小子ハ陸ニ平壌旅順威海衛ノ惨烈なる光景ヲ見又吾甲板上ニハ粉骨飛肉之悲状ヲ目撃シ戦勝之今日万感交々発シ自ラ謂ク此天地間ニ生ヲ享(う)ケテ父母兄弟ヲ有スル蒼々たる丞民(意気さかんな庶民)も此ニ至リ而(て)ハウジ蟲同様之有様ト存候」(桜井真清「秋山真之」秋山真之会)。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む7

 はじめ政治家志望であった正岡升は1885(明治18)年春哲学者志望となりましたが、同年7月語学力不足と数学の点数の不足により学年試験に落第、同年夏帰省、歌人井戸正雄(真竿)に和歌の手ほどきを受けました。叔父加藤恒忠の紹介で陸羯南を四谷に訪問したのもこのころです。加藤恒忠と陸羯南とはかつて司法省法学校(東大法学部の前身の一つ)に学び、賄征伐に関する校長の態度に反発して1879(明治12)年4月ともに退学した仲間でした(陸羯南著・鈴木虎雄編「羯南文録」大日社)。

近代日本人の肖像ー人名50音順ーか・こー陸羯南 

1887(明治20)年7月の帰省のときには大原其戎(きじゅう)について俳句を作り始めました。また野球に熱中するのもこのころからです。

坂の上の雲マニアックスーmenu―正岡子規―野球  

 雅号についての一般論を述べた正岡升の文章(「雅号」筆任勢 第二篇 「子規全集」第10巻 講談社)で滝沢馬琴や大田南畝の雅号について記述した後、自己のペンネームとして「野球」を紹介しています。
『「ベースボール」を訳して「野球」と書いたのは子規が嚆矢(こうし 物事の最初)であった。が、それは本名の升(のぼる)をもじった「野球」(ノボール)の意味であった。』(余録 二 嗜好 河東碧梧桐「子規の回想」沖積舎)とあるのは雅号としての野球の読み方としては正しいのですが、子規が「ベースボール」を訳して「野球」と書いたというのは誤りのようです。「日清戦争初まるや欧化主義の反動として、国粋論が起り、ベースボールに反対する者さへ生じてきた。これを憂へて一高(東大教養学部の前身)出身の中馬庚氏が日本式の野球術語を完成した。」(横井春野「日本野球戦史」日東書院)との指摘が正しいとされています(久保田正文「正岡子規」吉川弘文館)。
 1888(明治21)年4月正岡升は第一高等中学校(東京大学予備門の後身)古荘嘉門校長の官僚主義教育に反発、寄宿舎の「賄征伐」(食堂の食器を投げたり壊したりなどしていやがらせをする)事件に参加(「賄征伐」筆任勢第二編 「子規全集」第10巻)、同年8月 横須賀・鎌倉方面に遊び、鎌倉で血を吐きました。
 同年9月本郷真砂町の常盤会(旧藩主久松家設立の育英会)寄宿舎に移りましたが、翌年5月喀血が1週間つづき、はじめて子規と号したのはこのときでした。
子規とは「ほととぎす」を意味する語句で、その啼く声が血を吐いてなくようにせつないことを自分の喀血にかけたのです。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む8

 1890(明治23)年6月第一高等中学校の卒業試験を終え、9月東京大学(文科大学)哲学科に入学しましたが、翌年2月国文科へ転科、春ドイツ人ブッセの担当する哲学総論の試験に苦しみ、同年6月試験放棄、12月常盤会寄宿舎を去り文学者として身を立てる決心をしました。
 1892(明治25)年2月陸羯南の隣家へ転居、6月学年試験を受け落第、12月陸羯南の日本新聞社入社、月給は15円でした。
 1893(明治26)年2月子規は日本新聞文苑欄に俳句を載せはじめました。同年3月大学中退、翌年2月東京下谷区上根岸町に転居、1895(明治28)年2月従軍記者の希望がかない、4月近衛師団付きで宇品出発 金州、旅順などに赴きましたが、5月帰国途中の船内で喀血、8月帰省、夏目漱石の下宿に移りました。同年10月漱石と別れて松山を出発、大和路を歩いて法隆寺に至ったとき、浮かんだ句想をもとに、次の有名な作品が生まれました。「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(「寒山落木」巻四 子規全集第2巻・○御所柿を食ひし事 くだもの 同全集第12巻 講談社)。

K-SOHYA POEM BLOG-月別アーカイブー2010/11/14−柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

1896(明治29)年1月日本新聞に「従軍記事」を発表、翌年1月「ほととぎす」創刊号が松山からでました。
1898(明治31)2月「歌よみに與ふる書」(「子規全集」第7巻)を日本新聞に発表して和歌の革新運動を開始しました。

壺斎閑話ー月別アーカイブー2009年1月17日 歌よみに与ふる書

1901(明治34)年10月子規は中江兆民の「一年有半」(「火の虚舟」を読む20参照)を読み、「浅薄ナコトヲ書キ並ベタリ」(「仰臥漫録」二 子規全集第11巻 講談社)と酷薄な批評を投げかけています。
子規は1902(明治35)年9月18日朝「絲瓜咲て痰のつまり仏かな」以下3句をのこして翌日午前1時死去しました(「子規全集」第22巻 年譜 資料 講談社)。 

日本の墓ー著名人の墓ー50音順で探すーまー正岡子規

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む9

 1895(明治28)年秋山好古は騎兵中佐に昇進、翌年陸軍乗馬学校長となり、1897(明治30)年「本邦騎兵用法論」と題する論文を書き注目されました。
 巡洋艦「筑紫」乗り組みの秋山真之は日清戦争中に海軍中尉(戦後大尉)となり、1895(明治28)年長崎に入港、翌年横須賀鎮守府水雷術練習所学生を命ぜられ、やがて水雷艇隊付きとなり、海軍軍令部諜報課員となりました。
 1897(明治30)年6月アメリカ留学を命ぜられた真之ははじめ海軍大学校に入学するつもりでしたが入校を拒否され、紹介でかって海軍大学校長ですでに現役を退いたマハン大佐の許を訪問、独学で過去の戦史を研究するよう助言されました。
 スペイン領キューバ島の独立運動激化にともなう不穏な情勢により在留アメリカ人の救出が必要になる場合に備えてハバナ港に派遣されていた戦艦メーン号は1898(明治31)年2月原因不明の爆発で沈没しました。これをきっかけにアメリカはスペインと開戦、スペイン領のキューバとフィリピンで行動を起こし、スペイン軍を制圧しました(「米西戦争」)。
 セルベラを司令官とするスペイン艦隊が5月19日キューバ島のサンチャーゴ港に入港すると、港の入り口がせまく突入不可能と知ったアメリカ軍によって港口封鎖のため、給炭船を自沈させる作戦に失敗すると、艦隊による直接封鎖がおこなわれました。
 6月13日真之は観戦武官としてフロリダ半島タンパ港から輸送船「セグランサ」号に乗り込み、カリブ海域に向かいました。

無限蒸気艦―特集 坂の上の雲―秋山真之 年譜 戦役 事件 事象―米西戦争関係艦

 7月3日早朝サンチャーゴ港内のセルベラ艦隊はフィリピンに向かう目的で、危険と知りながら出港し、米艦隊の攻撃を受けて大損害を被りました。
 真之はこの戦闘後4隻のスペイン艦の残骸を調査、8月3日以後ニューヨーク日本領事館で「極秘諜報」(「諜報」第百十八号 防衛省防衛研究所蔵)を完成、8月15日付で海軍軍令部第三局諜報課に送付しました。真之はここでスペイン艦の被弾が少ないのに、火災とそれが弾薬庫に引火して起きた爆発の被害が大きいこと、スペイン艦隊が長い停泊で艦底についた付着物のため減速して出港し、米艦の餌食になりやすかったことを指摘しており、この観察が後の日露戦争における海戦に役立ったといわれています。
 以後真之は米北大西洋艦隊旗艦「ニューヨーク」に乗艦して経験をつみました(島田謹二「アメリカにおける秋山真之」朝日文庫)。
1900(明治33)年英国駐在として4月ロシヤ駐在の広瀬武夫とロンドンで再会、イギリスで建造中の戦艦「三笠」、ドイツ建造の巡洋艦「八雲」などを視察(島田謹二「ロシアにおける広瀬武夫」朝日選書)、真之は同年8月14日横浜に帰着、同年10月31日常備艦隊参謀として海上勤務につきました。

司馬遼太郎「坂の上の雲」を読む10

 すでに1895(明治28)年日清戦争後の朝鮮駐在公使三浦梧楼による朝鮮王妃閔妃暗殺関与事件(「大山巌」を読む42〜43参照)後、ロシアの朝鮮への影響力は強大化し、翌年2月11日露朝鮮駐在公使ウエーバーは朝鮮国王と世子を露公使館に移し(露館播遷 1897.4.2宮廷にもどる)、朝鮮政府は親露派の要人で内閣が組織されるなどの朝鮮情勢変化が起こっていました。
1898(明治31)年3月19日西徳二郎外相はロシア駐日公使ローゼンに対し、ロシアが韓国(1897朝鮮国号を大韓と改称)に対し助言・助力を日本に一任すれば、満州は日本の利益範囲外と認める旨(満韓交換論)を通告しましたが、同年4月2日露公使は拒絶と回答しました(外務省編「日本外交文書」第31巻第1冊 巌南堂書店)。

大連紀行―日清・日露戦争―日露戦争    

同年4月25日西徳二郎外相は露駐日公使ローゼンと朝鮮問題に関する議定書(西・ローゼン協定)に調印、日露両帝国政府は@韓国の独立を認め、直接の内政干渉を行わない A韓国に練兵教官・財政顧問を送るときは事前に協議する B露西亜帝国政府は韓国における日本の商工業の発達を認め、日韓両国間における商工業関係の発達を妨害しないことを約束しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 原書房)。
 北清事変(「大山巌」を読む49参照)が起こり、1900(明治33)年7月4日建設中の東清鉄道を義和団が攻撃しはじめると、ロシア東部シベリア軍は清国軍による黒竜江の対岸ブラゴヴェシチェンスク[中国黒竜江省愛琿(黒河)の黒竜江を隔てた対岸の町]砲撃事件をきっかけに国境を越えて満州全土を占領してしまったのです。日本人が満州に潜入することも困難となりました(石光真清「曠野の花」中公文庫)。しかしロシアは8月25日満州占領は一時的な措置であると弁明しました。
 1901(明治34)年1月7日露公使は列国共同保証の下に韓国の中立化を提案しましたが、同月23日駐露公使珍田捨巳(ちんだすてみ)は満州からの露軍撤退が先決と回答しました(「日本外交文書」第34巻)。
2011-04-20 09:38 | 記事へ | コメント(2) |
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松本清張「火の虚舟」を読む11〜20
2010年12月11日(土)
松本清張「火の虚舟」を読む11

 篤介の担当は国憲案の調査検討で、彼は汚れた単物(ひとえもの 裏のない一重の夏衣服)の上に小倉袴を着け、いり豆を袂にいれて官署(役所)に出かけ、暇さへあれば豆を出してポツリポツリと喰っていたので、ついに豆食い書記官とあだ名されたそうです(岩崎徂堂「中江兆民奇行談」)。
 このころ篤介は日本の改革をめざし策論一篇を草して勝海舟に頼み、島津久光に献呈したと幸徳秋水「兆民先生」は述べています。元老院議官だった勝海舟は薩摩出身の海江田信義を紹介、篤介は海江田を通じて左大臣島津久光に会った経過を勝に報告しました(「海舟日記」明治8年9月18日条 勝海舟全集 第20巻 勁草書房)。
 「兆民先生」によれば久光は「足下の論甚だ佳し、只だ之を実行するの難き耳(のみ)」というと、篤介は「何の難きことか之れ有らん。公宜しく西郷を召して上京せしめ、近衛の軍を奪ふて直ちに太政官を囲ましめよ。事一挙に成らん。」と述べましたが、久光はまあ、よく考えてみよう、と云ったままで、話はそれっきりになったということです。
 「策論」(「全集」第1巻)の内容は第一策〜第七策まであり、第七策には「仏蘭西ノ碩儒孟得士瓜(モンテスキュー)曰ク、国ノ草創ニ在テハ英傑制度ヲ造リ、既ニ開クルニ及ンデハ制度英傑ヲ造ルト、善キ哉言ヤ、」とあり、このモンテスキューの言葉はルソー「社会契約論」から孫引きしたものです。このように篤介は主観的にはルソーの思想を日本に生かそうと試みているようですが、自らを英傑になぞらえて民衆の力を結集するという発想に欠け、島津久光のような超保守勢力の協力で武装蜂起による権力奪取を夢みているだけで、そこには民主主義思想の理念を見出すことは出来ないのです。
 篤介は1877(明治10)年1月元老院を辞職しています。西郷が薩南に挙兵して西南戦争が勃発した時期に当たります。幸徳秋水は「兆民先生」で「元老院幹事故陸奥宗光君と善からずして」と述べていますが、辞職の真の理由は不明という外はありません。このころ篤介は「秋水」(おそらく「荘子」秋水篇からとる 金谷治訳注「荘子」第二冊 岩波文庫)の号で執筆するようになります(年譜「全集」別巻)。1878(明治11)年4月23日篤介は高知県士族松田庄五郎の長女鹿(しか)と結婚(「全集」第12巻 月報10)していますが、翌年9月離婚しました。

松本清張「火の虚舟」を読む12

 1880(明治13)年3月15日愛国社第4回大会が大阪で開催され、同年3月17日愛国社を国会期成同盟と改称、片岡健吉・河野広中を請願提出委員とすることを決議しました(「自由党史」岩波文庫)。しかるに政府は同年4月5日集会条例を制定(「法令全書」原書房)して、かかる反政府運動の抑圧をはかりました。
 のちに結党される自由党の準備会合が都市ならびに地方民権家合同で1880(明治13)年12月12日東京において開催されたとき、中江篤介ははじめて現実の政治活動に参加しました(「河野磐州伝」上巻 河野磐州伝編纂会編刊)。ここで政党準備は可決されたが、新聞発行は否決されたため、のちに自由党に参加するグループが企画したのが「東洋自由新聞」の発刊でした。
  1880(明治13)年10月21日西園寺公望がフランス留学から帰国しました。肥前出身でフランス帰りの松田正久がある日西園寺を訪問し、新聞を作るので社長になってくれるよう依頼、西園寺はひきうけて中江を引っ張って行こうかと云い、中江に西園寺が話すと中江は「金をくれるなら奮発しよう」と冗談半分に答えたそうです(「坐漁荘日記」昭和6年11月9日○東洋自由新聞の事 小泉策太郎「随筆西園寺公」小泉三申全集 第3巻 岩波書店)。

中江兆民のHomePage―中江兆民をめぐる人々―松田正久

 1881(明治14)年3月18日「東洋自由新聞」が創刊され、社長西園寺公望・幹事松田正久は無給、中江篤介は主筆として新聞紙上の社説に健筆をふるいました。
 西園寺公望が政府と対立する自由民権派の「東洋自由新聞」社長に就任すると、岩倉具視は西園寺実兄の宮内卿徳大寺実則を通じて明治天皇の内諭という形式で西園寺の「東洋自由新聞」社長辞任を申し入れました。西園寺公望は内諭を受け入れませんでしたが、内諭が内勅に格上げされると、西園寺は内勅に屈服(立命館大学編「西園寺公望伝」第1巻 岩波書店)、西園寺社長退社が同年4月9日に発表され、篤介は同年4月9日の社説「西園寺公望君東洋自由新聞社ヲ去ル」で西園寺社長の退社に抗議したのです。
 信州出身の記者松沢求策は「内勅」の事情を暴露した檄文を配布したため、同年4月23日逮捕され懲役70日の宣告を受けました。このような事情により「東洋自由新聞」は同年4月30日34号を発行しただけで事実上廃刊となりました(西田長寿編「東洋自由新聞」東大出版会)。
 篤介の論説は同紙上に無署名も含めて22篇掲載されていますが、第3号社説「君民共治之説」(「全集」第14巻)で政体の名称は数種あって、名ではなく実を問題にせよと説き、イギリスに国王はいるが、宰相を選ぶのも、法律を作るのも人民である。これは共和ではないか。実を主として考えれば、共和政治を君民共和といいかえればよいと主張しています。

松本清張「火の虚舟」を読む13

 「東洋自由新聞」廃刊の記事につづいて、(「自由党史」中)は次のように中江篤介を紹介しています。「篤介兆民と号す。土佐の人、維新前長崎に留学し、後ち又巴里に遊ぶこと数年、夙に仏蘭西学に得る所あり、奇才を以て世に推さる、其の自由主義を講するや、専らルーソーの民約論を祖述し、人爵を排し、階級を撃ち、議論奔放、天馬の空を行くが如く、青年の徒、風を聞いて来たり遊ぶ者多し、」
 1881(明治14)年10月自由党結成、翌年3月立憲改進党結党後、1882(明治15)年6月25日自由党機関新聞「自由新聞」が発刊、自由党総理板垣退助社長となり、社説掛には板垣退助・馬場辰猪らとともに中江篤介が名を連ねています(「自由党史」中)。
 しかし板垣外遊の資金の出所をめぐる板垣と馬場の対立が激化(「大山巌」を読む19参照)、同年9月28日馬場辰猪は自由新聞社員を解除(追放)されました(「自由党史」中)。篤介は馬場の正しさを認めながら、行動をともにせず、自由新聞の馬場追放の強引さと改進党攻撃に反発し、やがて自由新聞から退社しました。
 「自由新聞」の発刊準備が進んでいた同年2月20日仏学塾出版局は「(欧米)政理叢談」と題する雑誌を発刊、同誌第2号からルソー「社会契約論」の篤介漢訳「民約訳解」「全集」第1巻)が連載されるようになりました。

鷹の歌―「民約訳解」を読むーはじめにこちらを読んでくださいーはじめにー第一章以下

松本清張「火の虚舟」を読む14

 篤介はおそらく1886(明治19)年9月(明治22年9月届 「中江家戸籍」年譜「全集」別巻)、長野県東筑摩郡洗馬村出身で平民松沢吉宝の姪ワイの子松沢ちの(通称弥子 いよこ)と結婚しました。
 松沢ちのは被差別部落の出身だという噂がありました。巌本善治主筆の「女学雑誌」(明治22年12月7日付)に次の記事があります。
 「民権を伸ると云ひ、自由を張ると云ふものにして、尚ほ穢多新平民を別視するものあるに至ては、其陋見憫れむに堪へたり。吾人は彼の兆民居士が啻(つと)に大阪新平民の代議員たらんとするのみならず、現に其一婦人の婿となれるを見て大いに喜こぶもの也。」(「新平民」「全集」別巻)

麹町界隈わがまち人物館―メニューへー人名50音順―[あ行―1]―巌本善治

 松本清張氏は長野県東筑摩郡洗馬村まで調査して松沢ちの被差別部落出身説を否定しました。
 1887(明治20)年5月篤介は「三酔人経綸問答」を集成社から刊行しました。その構成を要約(桑原武夫・島田虔次訳・校注「三酔人経綸問答」岩波文庫)すると、酒好きで政治論議を好む南海先生の許へ、ある雨降りの日に金斧印の洋火酒(ブランデー)を持って2人の客が訪問する所から始まります。南海先生は彼らに会ったこともなく、名も知りません。一人は服装も洋風で、目もとすずしく、身体はすんなり、言語明晰です。他の一人はカスリの羽織にきりりとした袴の和装で、あさぐろい顔にくぼんだ目、見ただけでも冒険を喜ぶ豪傑連中の仲間と判ります。そこで南海先生は洋装の人物を紳士君、和装の人物を豪傑君とよんで姓名を尋ねようとしませんでした。
 まず紳士君が「私もまた、世界の形勢について、自己流の考えで見当をつけております。一度先生のご批判をうけたまわりたいものです。」と前置きして次のように主張しました。
 民主制こそ理想の政治体制です。「文明の進歩におくれた一小国が昂然としてアジアの端っこから立ち上がり、一挙に自由、博愛の境地にとびこみ、(中略)軍艦を商船にし、(中略)純粋に理学(哲学)の子となったあかつきには、もし彼ら(欧洲諸国)が侵略して来たとして、こちらが身に寸鉄を帯びず迎えたならば、彼らはいったいどうするでしょうか。剣をふるって風を斬れば、(中略)ふうわりとした風はどうにもならない。私たちは風になろうではありませんか。」

松本清張「火の虚舟」を読む15

 これに対して豪傑君は次のように主張します。「小さな国を急に大きくしようと思っても、できるはずがない。(中略)幸いなことに、国を大きくし、国を富まし、兵隊を増し、軍艦を多くする方法が、今日われわれに、ちゃんとあるのです。
 アジアだったか、アフリカだったか、大きな国がひとつある。(中略)一面とても弱い。つまり、よく肥えた大きなイケニエの牛なのです。(中略)その国の半分あるいは三分の一を割き取ってわが国とするならば、われわれは大国となるでしょう。もとの小国はすっかり民権主義者、民主主義者にくれてやろう。(中略)この連中、きっと大喜びでしょう。
 そもそも他国よりおくれて、文明の道にのぼるものはこれまでのいっさいをすっかり変えなければなりません。そうなると国民のなかにきっと昔なつかしの思いと新しずきの思いとの二つが生まれて、対立状態を示すようになるのは、自然の勢いです。(中略)文明国となる準備のために、改革計画を妨げる昔なつかしの元素は、すっかり切り取ってしまう」

高知市立自由民権記念館

 2人の客が南海先生の2人に対する批評を乞うと、先生はつぎのような批評を下しました。
 「紳士君の説は、ヨーロッパの学者がその頭の中で発酵させ、言葉や文字で発表したが、まだ世の中に実現されていないところの、眼もまばゆい思想上の瑞雲のようなもの。豪傑君の説は、昔のすぐれた偉人が、百年、千年に一度、じっさい事業におこなって功名をかち得たことはあるが、今日ではもはや実行し得ない政治的手品です。」
 2人の客は異口同音に「もし彼ら(欧洲諸国)がいつか、たけだけしくも攻めて来たとするならば、先生はいったい、どういう風に対処されるつもりですか。」
 南海先生「われわれはただ力のかぎり抵抗し、国民すべてが兵士となり、敵愾心をいよいよ激しく燃やすならば、どうして防衛することができぬなどという道理がありましょう。」
 洋学紳士「先生、どうか話の要点をつまんで、おっしゃってください。」豪傑の客「わが国将来の大方針について、先生のお考えをお教え願いたい。」
 南海先生「立憲制度を設け、上は天皇の尊厳、栄光を強め、下はすべての国民の幸福、安寧を増し、上下両議院を置いて、上院議員は貴族をあて、代々世襲とし、下院議員は選挙によってとる、それだけのことです。」
 噂によると洋学紳士は北アメリカに行き、豪傑の客は上海に行った、とも言う。そして南海先生は相変わらず酒ばかり飲んでいるという所で「三酔人経綸問答」は終了しています。
 松本清張氏はこの三酔人がすべて兆民の分身であったと述べていますが、この点についてはさまざまの説があります(田中彰「小国主義」岩波新書)。
 本書をひもとくとき、桑原武夫氏の解説(「三酔人経綸問答」岩波文庫)が指摘しているように、三酔人の主張が明治以降の日本にどのように受け継がれ、そして現在に至ったかという観点で読むことが重要で、興味のある方はぜひこの解説をご覧ください。
  同年8月「平民のめさまし」(文昌堂)を出版、はじめて「兆民」と号するようになりました(「全集」第10巻)。出典に相当する古典も見当たらず、「億兆の民」を意味する号でしょう。

松本清張「火の虚舟」を読む16

 1887(明治20)年井上馨外相の条約改正案に対するボアソナード・谷干城意見書が秘密出版で公表され、10月には片岡健吉らが植木枝盛起草の三大事件建白書(地租軽減・言論集会の自由・外交失策の挽回)を元老院に提出、一時衰退したかに見えた自由民権運動は再び盛り上がる情勢となってきました(「大山巌」を読む26参照)。
 同年12月2日後藤象二郎は天皇に拝謁を乞い、宮内大臣に拒否されると封事(密封して君主に奉る意見書)を奉呈して退出しましたが、これは中江兆民が後藤の意を受けて起草したものです(「自由党史」下)。
 これに対して政府は同年12月26日保安条例を官報号外により公布施行、秘密の結社集会の禁止・屋外の集会運動の制限・危険人物の退去命令などで、中江兆民は皇居3里以外に2年間追放され大阪に移転しました。大阪で民権派の新聞発行の企画があり、兆民は新聞主筆として招かれていたからです。
 1888(明治21)年1月15日「東雲(しののめ)新聞」(原田伴彦・村越末男監修「復刻東雲新聞」部落解放研究所)が創刊されました。
 「東雲新聞」に第3号から連載された「国会論」(「全集」第10巻)で兆民は完全普通選挙を主張、「土着兵論」(「全集」第11巻)では徴兵制に変えて民兵制を主張、理由として常備軍では地位や金の有る者は兵役をまぬかれるし、数十万の兵力を養うのは経済的ではないなどが挙げられています。
 さらに同年2月「東雲新聞」に2度連載された論文「新民世界」(「全集」第11巻)で兆民は「余は社会の最下層の更に其下層に居る種族にして、印度の「パリヤー」希臘(ギリシャ)の「イロット」と同僚なる新平民にして昔日公等の穢多と呼び做(な)したる人物なり」とし、「吾等の同僚中には死獣の皮を剥ぐ者有り公等の同僚中には死人の皮を剥ぐ者有るに非ずや獣の皮を剥ぐ者これを穢多と謂ひ人の皮を剥ぐ者これを医師と謂ふ何の論理法ぞや」と部落差別を痛烈に批判しました。

松本清張「火の虚舟」を読む17

 幸徳秋水が兆民宅を訪ねたのは1888(明治21)年11月で、兆民は「頭に真紅の土耳其(トルコ)帽を載き、身に東雲新聞の印半纏を着て出入りせしも此時に在りき。壮士演劇を創して其顧問たりしも此時に在りき。」(「兆民先生」)という変わった服装をしていたと幸徳秋水は伝えています。兆民宅には食客が「予等書生多きは四五人、少なきも二三人常に玄関に群居せり」(「兆民先生」)という状態であったようです。
 同年12月3日「東雲新聞」の記者であった角藤定憲(すどうさだのり)が大阪新町高島座で改良演劇と称して壮士芝居を公演しました(「全集」別巻 年譜)。これが新派(歌舞伎を旧派と呼ぶ)劇のはじまりといわれています。兆民と角藤定憲の関係については前掲の「中江兆民奇行談」に詳説されていますので、興味のある方はご覧下さい。

TownStroll-大阪の歴史の散策情報ー大阪市内のマップ概略ー肥後橋〜西大橋ー19 角藤定憲改良演劇創始の地の碑 

 1889(明治22)年2月11日大日本帝国憲法が発布されました(「大山巌」を読む27参照)。このことに関して「先生嘆じて曰く、吾人賜与せらるゝの憲法果して如何の物乎、玉耶将た瓦耶、未だ其実を見るに及ばずして、先づ其名に酔ふ。我国民の愚にして狂なる、何ぞ如此(かくのごと)くなるやと。憲法の全文到達するに及んで、先生通読一遍唯だ苦笑する耳(のみ)。」(「兆民先生」)

松本清張「火の虚舟」を読む18

 1890(明治23)年7月1日第1回総選挙が行われました(衆議院・参議院編「議会制度七十年史」政党会派編 大蔵省印刷局)。
 当時の衆議院議員選挙法(内閣官報局編「法令全書」第22巻ノ1 明治22年 原書房)によれば、被選挙人は満30歳以上の男子、直接国税15円以上を選挙府県内で前満1年以上納める者とされていました。選挙権も満25歳以上の男子で直接国税15円以上を納入することが必要とされ、直接国税15円以上とは田地1〜2町歩以上の地主か、年収1000円以上の者となり、選挙権有権者は約46万人、全人口の1.1%に過ぎませんでした。
 中江兆民は戸籍を高知から大阪府西成郡曽根崎村2767番地に移し、財産を被差別部落民らの名義を借り、大阪四区で衆議院議員に当選しました。
 同年11月29日開会された第1通常議会において、山県有朋内閣は軍備増強の予算案を提出しました。民党は民力休養・政費節減をスローガンに、軍艦建造費など政府予算案大削減で対抗しましたが、1891(明治24)年2月20日政府は民党の土佐派切り崩しで修正案(歳出削減額を縮小)を通過させました(「大山巌」を読む29参照)。
このことについて中江兆民は「衆議院彼れは腰を抜かして、尻餅を搗きたり総理大臣の演説に震懾(しょう 恐)し、解散の風評に畏怖し、両度迄否決したる即ち幽霊とも謂ふ可き動議を、大多数にて可決したり、(中略)無血虫の陳列場」(「全集」第12巻)と述べ、下記の辞表を衆議院に提出「小生事近日亜爾格児(アルコール)中毒病相発シ行歩艱難、何分採決ノ数ニ列シ難ク、因テ辞職仕候、此断及御届候也」、同年2月27日衆議院は辞職を承認しました(「帝国議会衆議院議事速記録」年譜「全集」別巻)。

松本清張「火の虚舟」を読む19

 1891(明治24)年4月20日「北門新報」が北海道小樽で創刊され、兆民が主筆となりました。彼は東京から「北門新報の発刊に就て」(「全集」第13巻)の原稿を送り、「一年三百日、内閣、国会、政党、撰挙、競争、離間、讒誣(ざんぶ 無実のことを云いそしる)等の瘴煙(しょうえん 毒気を含んだもや)中に吸嘘(呼吸)し、殆んど将に窒息せんとす」と述べ、内地から北海道を見るのは「炎天に冰水(ひょうすい 氷水)の看板を見るが如し」と嘆息しているようです。
 同年8月兆民は「北門新報」退社、札幌で高知屋という紙屋(材木屋目標)を開業しましたが長続きしなかったようです。
 1893(明治26)年3月一時中江家を離れて下宿していた幸徳秋水が三たび中江家に住みこむようになり、このとき幸徳は兆民から「秋水の二字を用ゐよ。是れ正に春藹の意と相反す。予壮時此号を用ゆ。いま汝に与へん。」(「兆民先生」)といわれたのです。幸徳の記録によれば、兆民は北海道、大阪をかけまわり、東京の自宅で妻子と暮らすのは金策がつくのを待つ間だけであったようです(幸徳秋水「兆民先生行状記」岩波文庫)。

幸徳秋水を顕彰する会―幸徳秋水 略伝 

 1897(明治30)年12月22日兆民は「国民党」を結成、翌年1月15日機関誌「百零一」創刊、この機関誌に発表された「創立趣意書」には「夫レ征清ノ役タル空前ノ偉業ナルモ還遼(遼東半島還付)ノ一躓(ち つまずき)頓(とみ)ニ国民ノ意気ヲ沮喪(そそう 気力がくじける)シ余ス所ハ亜細亜老大国ノ門戸ヲ打破シテ欧洲列強ノ為メニ覬覦(きゆ 限度を超えたことを望み願う)侵略ノ道ヲ闢(ひら)キタルニ過ギズ」(「全集」第15巻 )と述べ、日清戦争を肯定しました。
 1898(明治31)年年3月15日の第5回総選挙で国民党は一人も当選せず、国民党は解党して党員は憲政党に加入せざるを得なかったのです。
 信州飯田出身の伊藤大八は1877(明治10)年仏学塾に入った兆民の愛弟子でしたが、、第一議会以来自由党代議士となり、1892(明治25)年6月21日鉄道敷設法が公布されると自由党系の鉄道族議員として実力をたくわえ、1898(明治31)年6月30日第1次大隈重信憲政党内閣(隈板内閣)の時逓信省参事官兼鉄道局長となりました。

国立国会図書館―資料の検索―憲政資料室所蔵資料―旧蔵者50音順索引―いー伊藤大八関係文書

 中江兆民は1894(明治27)年から関東をはじめとして中国・四国・九州・奥羽地方の鉄道会社発起人となり伊藤大八に代表される政府高官との橋渡しをして報酬を得ていたようですが、期待するほどの報酬は得られなかったようです。
 群馬県議会は1881(明治14)年に公娼廃止の建議を可決、県令は廃娼令を布達しましたが延期され、1893(明治26)年12月31日廃止が実現しました。しかるに憲政党内閣の成立により任命された旧自由党系の群馬県知事草刈親明は公娼復活賛成を明言、そこで運動費を受け取り、板垣退助内務大臣と地方の旧自由党系の人物を橋渡しする役目を引き受けたのが中江兆民でした。草刈知事は公娼復活を許可するに至りましたが、憲政党内閣は短命で倒壊したため(「大山巌」を読む46・47参照)、新内閣によって草刈知事は免官となり、後任知事が許可を取り消し、兆民の運動は失敗、この件は当時の「毎日新聞」や「万朝報(よろずちょうほう)」(「群馬の大怪聞」1-13 万朝報刊行会編「万朝報」25 日本図書センター)に醜聞として連載報道されました。

松本清張「火の虚舟」を読む20(最終回)

 1900(明治33)年8月26日付の手紙で兆民は幸徳秋水に立憲政友会を批判した「祭自由党文」を執筆するよう依頼(「全集」第16巻)、これに応えて秋水は同年8月30日「万朝報」に「自由党を祭る文」を掲載しました。のちに紹介する予定です。
 ところが同年10月兆民は近衛篤麿が組織した対外硬(対露強硬)派の運動体「国民同盟会」に参加、秋水は「国民同盟会は蓋(けだ)し露国を討伐するを目的となす者、所謂帝国主義の団体也。先生の之に与(くみ)する、自由平等の大義に戻(もと)る所なき乎」と批判すると兆民は笑って「露国と戦はんと欲す、勝てば即ち大陸に雄張して、以て東洋の平和を支持すべし、敗るれば即ち朝野困迫して国民初めて其迷夢より醒む可し。能く此機に乗ぜば、以て藩閥を勦滅(そうめつ 滅ぼし尽くす)し内政を革新するを得ん、亦可ならずや」(「兆民先生」)と云ったそうです。

近代日本人の肖像―人名50音順―か・こー近衛篤麿

 1901(明治34)年3月22日兆民は突然喉から出血、大阪滞在中の4月中旬喉頭癌の診断を受け、医師から余命一年半を宣告されると、同年5月26日気管を切開、6月「一年有半」(「全集」第10巻)を執筆、8月3日脱稿、原稿を幸徳秋水に託し9月2日博文館から出版されました。
 同年9月6日兆民は堺の大上練炭会社事務所を発って東京に帰り、「続一年有半」の執筆を開始、約10日間で書き上げ、同年10月5日博文館から出版されました。

雁屋哲の今日もまた―アーカイブー2009年 05月―2009年5月22日(金)中江兆民の「一年有半・続一年有半

 同年12月13日中江兆民は55歳で死去、青山墓地の母の隣に埋葬されました。

中江兆民のHomePage―東京周辺の自由民権史跡―青山霊園―青山霊園の中江兆民関係者―兆民中江先生瘞骨(えいこつ 土中に埋めた骨)之標

 松本清張氏は兆民の「一年有半」の中にある「我儕(我輩)は是れ、虚無海上一虚舟」という文句がいちばん好きなんですといって、本書の叙述を終了しています。

 
2010-12-11 08:52 | 記事へ | コメント(1) |
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松本清張「火の虚舟」を読む1〜10
2010年12月01日(水)
松本清張「火の虚舟」を読む 1

 松本清張「火の虚舟」(文芸春秋)は明治の自由民権運動の中心的理論家で「東洋のルソー」と呼ばれた中江兆民の生涯を講演形式で叙述した作品です。
 中江兆民は多くの著作や翻訳があるにもかかわらず、自伝もなければ日記もつけていません。幸徳秋水は師である中江兆民の晩年に自伝を書くように勧めると、兆民は笑って「我れ一寒儒の生涯、何の事功か伝ふるに足る者あらん哉。且つ夫れ自伝を艸(草)する、勢ひ知人故旧の秘密を暴露せざるを得ず。彼のルーソーの如きは忌憚なきの甚しき者、是れ予の忍ぶ能はざる所也」(幸徳秋水「兆民先生」岩波文庫)と答えたそうです。
 兆民の写真はパリ留学時代のものと、晩年の病中に子供の丑吉と並んで撮った白い髭のある顔のものと2枚残っています。後者は兆民が嫌がるのを家族が無理に撮らせたもののようで、これが兆民関係の本に使われているものです。写真を嫌ったということは、自伝を書かなかったこととともに、彼の閉鎖的性格を示すものではないでしょうか。
  兆民の死の直前に書かれた岩崎徂堂「中江兆民奇行談」(「世界ノンフィクション全集」2 筑摩書房)によれば、兆民は大酒のみで奇行の人であったそうです。同書には次のような挿話が紹介されています。
  兆民が四谷新宿辺を散歩していたとき、暑さにたまりかねて浴衣のままある家の天水桶(昔軒先などに置いた防火用の雨水を貯えた桶)に飛び込み、通りかかった巡査からはだかで公然かかることをなすと処分するぞと脅されました。兆民はこれに対して天水桶よりはい出し、はだかではない、この通り単衣(ひとえもの)を着ておるではないかと抗議したので、巡査はなすところなく帰ったそうです。

近代日本人の肖像―人名50音順―な・のー中江兆民 

 中江篤介(戸籍名 篤助)は1847(弘化4)年11月27日土佐国高知城下新町[他説 山田町(高知市はりまや町3丁目18番地「略歴メモ」中江兆民全集 別巻 年譜 岩波書店 以下「全集」と略)]で父卓介(元助)の長男として生まれました。
 山田町は足軽と町人が混住する町でしたが、篤介の父卓介は江戸詰めの下横目役(下級警察官)の足軽で後に足軽支配を離れたようです。、母は柳(りゅう)という名でした(明治25年作成「戸籍」 東京都文京区役所保管)。
 篤介は幼名を竹馬といい、後に1字にまとめて篤助を戸籍名としました。父は江戸詰めであったため事実上母子家庭で貧しい生活だったようです。母柳はのちに幸徳秋水に篤介の幼時を次のように語ったそうです。「篤介少時、温順謹厚にして女児の如く、深く読書を好みて郷党の賞讃する所となりき。而して今や即ち酒を被(あお)って放縦至らざる無し。性情の変化する、何ぞ如此(かくのごと)く甚しきや。此一事余の痛恨堪へざる所也、卿等年少慎んで彼に倣ふ勿れと。」(幸徳秋水「兆民先生」岩波文庫)
 1861(文久1)年父の死後、同年5月8日篤介は家督を相続しました。

土佐の歴史散歩―高知市―中心部―中江兆民誕生地案内板

松本清張「火の虚舟」を読む2

  1848(嘉永1)年土佐藩主となった山内豊信(とよしげ 容堂)は1853(嘉永6)年吉田元吉(東洋)を参政に起用し、洋式軍備強化をめざす藩政改革に着手しました(平尾道雄「土佐藩」吉川弘文館・「龍馬がゆく」を読む4参照)。
1858(安政5)年井伊直弼が大老に就任、同年10月幕府は土佐藩主山内豊信を隠居させ、翌年9月前藩主豊信は謹慎を命ぜられました。参政吉田東洋は土佐藩を幕府の方針に従う方向に転じました。
しかるに1860(万延1)年3月桜田門外の変により大老井伊直弼が暗殺され、幕府独裁体制が崩壊すると、同年7月武市瑞山は再び江戸に赴き、長州藩の久坂玄瑞・・桂小五郎・高杉晋作らと接触、1861(文久1)年8月江戸で土佐勤王党を結成しました(「土佐勤王党盟約書」武市瑞山関係文書一 日本史籍協会叢書 東大出版会)。
他方武市瑞山は上述のような意図の実現をはかり、1862(文久2)年4月8日土佐藩参政吉田東洋は土佐勤王党の那須信吾らによって暗殺されました(「維新史料綱要」巻4東大出版会・「龍馬がゆく」を読む6参照)。
吉田東洋が暗殺される3日前、藩校文武館(後に致道館と改称)が開設され、16歳の中江篤介が入学していました。

南国土佐へ来てみいやー土佐維新街道―土佐の高知のおらんく℃ゥ慢―[史跡]その他―Next―2008.12.28 致道館門

土佐藩校としての教授館は1760(宝暦10)年に創立されていましたが、嘉永年間に事実上廃絶状態となっていました。文武館は教授館の復活ではなく、文館と武館にわかれ、文館では細川潤次郎(十洲)が「蕃学」を教授していました。細川潤次郎は長崎で蘭学を学び、高島秋帆から砲術を学んで1857(安政4)年帰国、翌年藩命により江戸で中浜万次郎について英学を3年間勉学、帰国後、吉田東洋の下で制度改正御用をつとめ、文武館開館と同時に教授となった人物です(飛鳥井雅道「中江兆民」吉川弘文館)。
 のちに細川潤次郎の長男細川一之助が大山巌の次女芙蓉子と結婚することになります(「大山巌」を読む40参照・寺沢龍「明治の女子留学生」平凡社新書)。

幕末歴史探訪―地域別分類―長崎―高島秋帆

Web高知―土佐路ぶらりー土佐の偉人・異人―ジョン万次郎(中浜万次郎)

潤次郎は南新町の自宅で教授したそうですが、そこは山田町のすぐ近くで中江篤介は潤次郎の自宅に通ったのでしょう。しかし潤次郎は江戸と高知の往復に忙しく、実際には潤次郎の弟子で医学を緒方洪庵に学んだ萩原三圭の指導を受けることが多かったようです(飛鳥井雅道「前掲書」)。
 文武館において篤介は「蕃学」のみならず「漢学」についても学習しました。漢学は史学と経学(儒学)にわかれていましたが、篤介が愛読したのは「史記」で「史記の如きは之を暗(そら)んずるまで繙読(ひもときよむ)し、何てふ熟語は何伝にありと云ふことまで記憶せる積りなり。」(「兆民居士の文学談」「全集」第17巻)と述べています。

松本清張「火の虚舟」を読む3

 江戸で公武合体・雄藩連合を策していた前土佐藩主山内豊信(容堂)は1862(文久2)年4月8日の土佐藩参政吉田東洋暗殺以後、土佐勤皇党の破約攘夷方針に押されているかのような土佐藩の動向につよい不満をもっていました。
1863(文久3)年4月豊信が高知に帰ってくると、同年5月24日郷士以下の軽格の藩士すべてが集合させられ、藩奉行職は「一旦朋党の盟約相結び候輩といへども先非を改め、正道に相帰候得は、既往之小過は深く糾明仰付られず」と事実上の土佐勤王党解散命令を布告しました(「高知県史」近世篇 高知県・「龍馬がゆく」を読む9参照)。
平井収二郎・間崎哲馬・広瀬健太ら土佐勤王党の志士は、吉田東洋暗殺後も藩政改革が進まないのに焦慮し、京都で青蓮院宮の令旨をもらい、これを藩主の祖父に示して改革をおしすすめようと画策しました。同年4月容堂は平井・間崎を京都で逮捕させ、高知に檻送、同年6月広瀬を含む3名に切腹を命じました。
 中江篤介が1892(明治25)年執筆の「平井収二郎君切腹の現状」と題する覚書(「全集」第17巻)によれば、1863(文久3)年6月9日の夜、自宅近くの煮売屋の腰掛で町の人と雑談していたとき、近くの牢屋雇人が白木の水桶、青竹、白張の燈灯などをかついで、南の牢屋に向かっていました。平井収二郎らの切腹準備だったのです。皆で切腹を覗きみようとし、篤介は遠慮なく塀に攀登って見下ろしました。切腹は本人が短刀を腹に突きたてると介錯人がすぐに首を切り落とすもの聞いていた篤介は予想とは異なった光景を見ました。その原文は下記の通りです。
 「罰文を聴了(ききお)はるや、前に置ける九寸五分の短刀を三方と共に頂きて一礼し、然後(しかるのち)短刀の下に敷きたる布切を取り膝の上にて刀の中子を巻き斜に刀を操り尖を左腹に押当て軽々に引き廻はし僅に血をみるのみにて充分の気力を留め徐に喉を刺し是に於て力を極めて一割せし故少しもかく(口偏に畫)声を発せずして前に伏し其侭(そのまま)絶命せり」この回想文を依頼したのは平井収二郎の妹でした(「龍馬がゆく」を読む5参照)。

南国土佐へ来てみいやー土佐維新街道―土佐の高知のおらんく℃ゥ慢―[幕末土佐]維新の志士―Next―2009.07.29 平井収二郎墓所

 1863(文久3)年8月18日の政変(「龍馬がゆく」を読む9)参照)以後同年9月21日土佐藩は武市瑞山ら土佐勤皇党の主な指導者を投獄、翌日藩はこの勤王党弾圧が京都朝廷からのご沙汰であると藩内に布告しています(瑞山会「維新土佐勤王史」)。
  1865(慶応1)年閏5月11日武市瑞山ら土佐藩尊攘派は処刑されました(「維新史料綱要」巻6)。

松本清張「火の虚舟」を読む4

 1865(慶応1)年9月中江篤介は土佐藩から英学修行の目的で長崎へ公費留学を命ぜられました(「年譜根居帳」「全集」別巻)。長崎には安政年間以来幕府の語学研修所があり、同年8月「済美館(せいびかん)」と改称されましたが、篤介は済美館学頭平井義十郎に師事、フランス語学を学びはじめました。藩命には英学修行とあったのに篤介がなぜフランス語学を学んだのか不明ですが、当時の長崎在留外国人は英米人の商人が多かったのに対して仏人は少数ながらカトリック神父が中心でした。
1863(文久3)年長崎にきたプチジャン神父は1865(慶応1)年2月19日大浦天主堂(仏人フューレ設計)を建設完成、日本人に「フランス寺」とよばれました。このとき浦上の潜伏キリシタンが天主堂を訪ね、プチジャンにキリスト教信仰を告白したことは有名です(「近代日本総合年表」岩波書店)。

あじこじ九州―長崎県―(国宝)大浦天主堂

 当時イギリスが薩長に好意的だったのに対してフランスは幕府に接近、イギリスに対抗していました。またプチジャンは済美館で教えており(飛鳥井雅道「前掲書」)、おそらく篤介はフランス寺との接触があったとかんがえられます。

松本清張「火の虚舟」を読む5

 一方1865(慶応1)年夏坂本龍馬は亀山社中を長崎郊外の亀山に設立することに成功していました(「龍馬がゆく」を読む13参照)。中江兆民は後年幸徳秋水に坂本龍馬と自分の関係を次のように語っています。
 「先生曾て坂本君の状を述べて曰く、豪傑は自ら人をして崇拝の念を生ぜしむ、予は当時少年なりしも、彼を見て何となくエラキ人なりと信ぜるが故に、平生人に屈せざるの予も、彼が純然たる土佐訛りの方語もて「中江のニイさん煙艸(たばこ)を買ふてきてオーセ、」などゝ命ぜらるれば、快然として使ひせしこと屡々(しばしば)なりき。彼の眼は細くして其額は梅毒の為め抜上がり居たりきと。」(幸徳秋水「兆民先生」岩波文庫)。
 このような坂本龍馬と篤介の接近は何時ごろだったのでしょうか。慶応元年時点で龍馬は薩摩藩の保護下にあったとはいえ脱藩者としてお尋ね者であり、篤介は土佐藩公費留学生の身分でした。長崎には土佐藩の出張所である土佐商会があり、藩監視の目も厳しい状況の下で篤介が龍馬と親しく交際することは困難だったでしょう。

九州〜列車で行こう〜下町親父の珍道中―すべて表示―検索 土佐商会跡

 やがて篤介は江戸に出たいと思うようになり、長崎から江戸への直行便外国船の船賃25両の支出を長崎における藩留学生監督であった岩崎弥太郎に申し出たのですが断られ、藩参政後藤象二郎(「龍馬がゆく」を読む16参照)が長崎出張の折、扇面に書いた詩を提示して嘆願すると、後藤は笑って25両を出したので篤介は江戸に向かいました(幸徳秋水「前掲書」)。幸徳秋水の書くところによれば、詩の後半の二句は「此身合称諸生否 終歳不登花月楼」とあり、勉強のため一生遊郭に登楼する暇もなくなるの意ですが、この詩を見ると篤介はすでに長崎の丸山で放蕩の味を覚えていたようです。

松本清張「火の虚舟」を読む6

 篤介は江戸で旧松代藩士村上英俊が深川の真田藩邸内で開いていた私塾達理堂に入門しましたが、「先生学術儕輩に抜き、眼中人なく、気を負ふて放縦覊(き つなぎとめる)す可らず、屡々深川の娼楼、所謂仮宅に留連し、遂に村上先生の破門する所となれり。」(幸徳秋水「前掲書」)。深川は岡場所(江戸時代、江戸で官許の吉原以外の遊里)の多かった所で、幸徳秋水の文章にはどことなく、篤介が村上英俊を軽んじていた様子が伺えるようです。
 達理堂を破門された篤介は横浜天主堂の僧(神父)に学んだのですが(幸徳秋水「前掲書」)、おそらく長崎のプチジャン神父の紹介であろうと思われます。
 1868(慶応3年12月7日 太陽暦1868年1月1日)兵庫開港が実現(「維新史料綱要」巻7)、フランス駐日公使レオン・ロッシュは開港行事のため兵庫に行きました。横浜天主堂の神父たちはフランス外交団の通訳を兼ねていたので、篤介も通訳(おそらく臨時雇い)として採用され兵庫に赴きました。このときの様子を後に篤介は次のように述べています。
 「余や二十余年前、神戸開港のとき仏蘭西公使レオンローシ領事レック二氏に従ふて通弁官の列に在りき。毎夜「ラシャメン」(ロッシュの妾)「コック」、別当(馬丁)を教師として花(札)を引く否摘めり当時今の総理大臣伊藤(博文)伯、陸奥(宗光)公使、中島信行の三氏は判事(外国事務局)として該地に在り余一日判事庁に抵(いた)りて金を乞ひ、夫れより押し送り舟を買ふて大阪雑喉場に至り直ちに京都に赴きたり。」(「土佐紀游」第二 全集 第11巻)
 通訳をやめた篤介は再び東京に出て、福地源一郎(桜痴)が湯島天神下に開いた日新社の塾頭となってフランス語を教えましたが、福地が放蕩で授業をしなかったため、長続きしませんでした。

近代日本人の肖像―人名50音順―は・ほー福地源一郎―ま・もー箕作麟祥

結局篤介は1868(明治1)年5月ころ代々幕臣の蘭学者であった箕作麟祥(みつくりりんしょう)が神田に開いた塾に入門しました。箕作麟祥は明治新政府の信頼も厚く、箕作塾からかなりの人々が幕府の蕃書調所を引き継いだ大学南校に雇用されました。篤介も1870(明治3)年5月大学南校大得業生(だいとくぎょうせい 下級の教員 句読、翻訳を授ける 「東京大学百年史」 通史一 東京大学出版会)となっています(「官員録」 「全集」別巻 年譜)。
  ところが大学南校は学制改革のため、1871(明治4年)9月一時閉鎖され、同年7月廃藩置県のため篤介は土佐藩下級藩士としての身分も失ったのでした。

松本清張「火の虚舟」を読む7

 1871(明治4)年11月12日横浜を出発した岩倉使節団は43名の政府留学生を随行させていましたが、その中に中江篤介が含まれていたことはすでに述べた通りです(「米欧回覧実記」を読む2参照)。
 篤介がそれまで全く接触のなかった薩摩藩出身の大蔵卿大久保利通に直接交渉して政府留学生となったことは有名です(幸徳秋水「兆民先生」岩波文庫・勝田孫弥「甲東逸話」富山房)。
 はじめ篤介は大久保利通を訪ねて役所に行き、面会を申し入れましたが、警備役に断られました。そこで篤介は毎日役所の門前に遊びに行き、大久保の馬丁と親しくつきあうようになり、やがて馬丁に主人大久保に頼み事があるのだがどうしたらいいか相談しました。馬丁は主人の退庁時に黙って馬車の後ろに乗り、お屋敷到着時に頼み事を云ったらいいと教えてくれました。篤介は馬丁のすすめに従い、幸徳秋水の語るところ(「兆民先生」)によれば大久保利通に次のような内容の話をしたのです。政府が海外留学を官立学校の生徒に限るのは道理に合わない。官立学校生徒以外でも優秀な者は多い。げんに自分などは学術優秀で、国内では就くべき先生もなく、読むべき書物もないほどだ。同じく国民であり、同じく国家のためである以上、出身学校が官であろうが私であろうが、区別はありますまいと。
 大久保が「足下(そっか きみ)土佐人也、何ぞ之を土佐出身の諸先輩に乞はざる。」と訊くと篤介は「同藩の夤縁(いんえん 縁故)情実を利するは、予の潔(いさぎよ)しとせざる所也、」と応えたそうです。大久保は「善し、近日後藤、板垣諸君に諮(はか)りて決す可し。」と答えました(「兆民先生」)。

近代日本人の肖像―人名50音順―あ・おー大久保利通―さ・そー佐佐木高行

 「中江篤助・長州人河内宗一、律学修行トシテ佛国ヘ遣サル。右ハ佛国法律家入用ニ付、司法省ヘ暫時御雇ニテ、本文之通被 仰付候。志願者モ多ク有之候得共、両人見込アルニ依リ、周旋ノ上相運ビ候事。」(東大史料編纂所編「保古飛呂比―佐佐木高行日記」五 明治4年10月15日条 東大出版会)と記述されていることを見ると、大久保はおそらく篤介に約束した通り、後藤、板垣に相談したでしょうが、篤介の海外留学生採用には当時司法大輔(次官)であった佐佐木高行が関係していたようです。
 篤介は岩倉使節団とともに横浜を出発、アメリカ合衆国を経て、使節団よりさきにニューヨークから大西洋を渡り、明治5年正月11日(1872年2月19日)パリーに到着しました(「全集」別巻 年譜)。

松本清張「火の虚舟」を読む8

 1870年フランスは普仏戦争に敗北、ナポレオン3世は同年9月セダンの戦いでプロシャの捕虜となり、フランスは帝政を廃して共和制となりました。しかしプロシャは戦争を継続、1871年パリーを開城、フランスを屈服させたのでした。だが同年3月パリ・コンミューンが起こり、世界最初の労働者政権が成立、5月ティエールらのフランス臨時政府の弾圧により崩壊した後も第3共和制は不安定な状態がつづいていました。篤介を迎えたフランスの政治情勢はこのような時期にあたっていたのです。

WELCOME TO YOKOYAMA’S HOME PAGE―世界史ノート(近代編)−第13章 2.自由主義・国民主義の進展ー6.フランス第二帝政と第三共和政

 幸徳秋水は「先生が仏国留学中の事、親しくその詳細を叩くに遑(いとま)あらざりしは、今に於て予の深く遺憾とする所也。但(た)だ予は先生が、まず小学校に入れるを聞けり。而して児童の喧騒に堪へずして、幾(いくば)くもなくして去り、里昂(リヨン)某状師(弁護士)に就て、学べるを聞けり。先生が司法省の派遣する所たりしに拘らず、専ら哲学・史学・文学を研鑚したることを聞けり。孟子、文章軌範、外史の諸書を仏訳したることを聞けり。其渉猟せる史籍の該博なりしことを聞けり。」(「兆民先生」)と述べるのみで、篤介の仏国留学生活はそのほとんどが不明という外はありません。

外務省HP―外交政策―G/7 G/8―サミットの歴史についてー問.過去のサミットの議題及び成果は?―こちら参照―首脳会議・外相会議―リヨン会議―5 リヨン案内―U リヨン・今日の顔―リヨンと日本の関係

松本清張「火の虚舟」を読む9

 文部省が留学生を原則としてすべて呼び返すと通告したため、篤介はやがてリヨンを去って、旧知の馬場辰猪を訪ねてロンドンに赴き相談、パリーに戻りました。パリーで篤介は西園寺公望と知り合い(木村毅編「西園寺公望自伝」講談社)になりましたが、西園寺は篤介について「勉強よりも高論放談の方だった」と述べています。篤介が若くして亡くなった馬場辰猪を追悼する文(「弔馬場辰猪君」全集第11巻)に「余ノ天性無作法ナル仏国ニ居リ重ニ下等職人連ト交ハリ且酒ヲ呑ムヤ(馬場辰猪と)反対の性行益々極点ニ達シタリ」とある所を見ると、公家出身の西園寺公望が金のかかる遊びをしている(「日本料理」西園寺公望「陶庵随筆」国木田独歩編 中公文庫)のと対照的で、パリーにおける両者にあまり深い交際はなかったのではないでしょうか。

近代日本人の肖像―人名50音順―さ・そー西園寺公望―は・ほー馬場辰猪

  1873(明治6)年7月篤介はフランスでの留学生残留者6名の中に加えられたのですが、12月末文部省の留学生に対する「全員帰国令」が改めて出され、「仏国の教師、先生の才を惜みて、資を給して止まらしめんと云ふ」(「兆民先生」)状況であったのに、篤介は年老いた母を心配して帰国の途につきました。
 1874(明治7)年4月26日マルセイユから東回りの船に乗り、スエズ運河を通り、インド洋通過、サイゴン経由、上海で別の船に乗り換え同年6月9日日本に帰着しました。
帰国途中、篤介は次のような光景を目撃したと記述しています。
 「吾儕(ごさい 吾輩)嘗(かつ)テ印度海ニ航シテポルトサイド セイゴン等ノ諸港ニ碇泊シ岸ニ上リテ街衢(がいく)ニ逍遥セシニ英法(仏)諸国ノ氓(民)此土ニ来ルモノ意気傲然トシテ絶ヘテ顧慮スル所無ク其土耳古(トルコ)人若クハ印度人ヲ待ツノ無礼ナルコト曾テ犬豚ニモ之レ如カズ一事心ニ愜(叶)ハザルコト有レバ杖ヲ揮フテ之ヲ打チ若クハ足ヲ挙ゲ一蹴シテ過ギ視ル者恬トシテ之ヲ怪マズ(中略)抑々欧洲人ノ自ラ文明ト称シテ而シテ此行有ルハ之ヲ何ト謂ハン哉」(「論外交」全集 第14巻 ・「米欧回覧実記」を読む30・「大山巌」を読む19参照)
 帰国後篤介は直ちに大久保利通に報告に行くと、大久保は「目を閉じて、聞くが如く聞かざるが如く」眠っているようでした。篤介が抗議すると、大久保は笑って、いや決して眠っているのではない。「君に腹蔵なく満腔の所見を十分陳述せしめんと思ふがために殊更に目を閉ぢ」ているのだと云ったそうです(「甲東逸話」)。

松本清張「火の虚舟」を読む10

 中江篤介が帰国したのは1874(明治7)年1月板垣退助らが愛国公党を結成し、左院に民撰議院設立建白書を提出した(「雄気堂々」を読む15参照)直後のことで、同年10月ルソーの「民約論」(「社会契約論」)巻二の翻訳草稿(漢字カタカナ交じり文「全集」第1巻)を残しているので、彼がルソーを最重要視していたことがわかります。

谷底ライオンーライオンズ伝―ルソー

 同じころ篤介は「仏蘭西学舎」(のち「仏学塾」と改称)を東京麹町に開きました(「仏蘭西学舎開塾広告」「全集」第17巻 )。風刺画家ジョルジュ・ビゴーが「仏学塾」の教師を勤めていたこともあります(「外国人教師雇の願」 全集 第17巻)。

着物イメトレ部屋―小説の中の着物―ビゴー日本素描集 

 民撰議院設立建白書発表をきっかけとする自由民権運動は江藤新平による佐賀の乱失敗後沈滞し、政府内部も大久保利通と木戸孝允が気まずい関係となっていました。そこで1875(明治8)年2月11日大久保・木戸・板垣の大阪会議が開かれ(木戸公伝記編纂所「松菊木戸公伝」下 明治書院)、木戸・板垣は参議に就任、同年4月14日元老院・大審院を置き、地方官会議を設け、漸次立憲政体を立てるとの詔が出ました。他方政府は反政府運動取締りのため、同年6月28日讒謗(ざんぼう)律・新聞紙条例を制定しました(「法令全書」)。

自己採点用高校日本史―6エピソード高校日本史―第八章 近代国家の成立(2)―181-1 自由民権運動T−4

 篤介は同年2月23日東京外国語学校長に任命されましたが、5月18日元老院副議長後藤象二郎の上申により、元老院権少書記官に任命されました(「元老院日誌」年譜「全集」別巻)。
2010-12-01 08:20 | 記事へ | コメント(0) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇19) |
児島襄「大山巌」を読む41〜50
2010年10月11日(月)
児島襄「大山巌」を読む41

 朝鮮では1895(明治28)年初頭、政府の重要部署に日本人顧問を登用するなど、清国の影響を排除する改革が進行するかに見えたのです。しかし日本が三国干渉に屈服すると、朝鮮の政治情勢は急速にロシヤの影響力に頼る傾向を強め、日本人が訓練した軍隊である訓練隊を解散させようとしました。
 一方同年6月4日伊藤博文内閣は閣議で朝鮮への干渉をなるべく止めて、自立させる方針をとることに決定しました(「日本外交年表竝主要文書」上)。しかし井上馨は対朝鮮政策に困惑し、当時宮中顧問官で予備役陸軍中将三浦梧楼と朝鮮駐在公使を交代したい希望を表明していました(「世外井上公伝」第4巻 明治百年史叢書 原書房)。

近代日本人の肖像―人名50音順―ま・もー三浦梧楼 

 井上馨は同郷の三浦梧楼が熟慮実行型ではなく、どちらかといえばやや単純な直情径行型の人物であることをよく知っていたはずです。しかし井上馨は6月22日上京して閣議に出席し政府の対朝鮮不干渉政策に賛成するとともに、朝鮮駐在公使を三浦梧楼と交代することについて伊藤首相の内諾を得ました。
 外交経験に乏しい三浦梧楼は政府に@日本が独力で朝鮮国の防衛と改革にあたる、A朝鮮国を日本と列国との共同保護国とする、B一強国(ロシヤ)と朝鮮半島を分割占領する、の三案のうちいずれか、もしくはどのような案でもよいから方針を明示してくれれば、自分は身命を捧げて任務を遂行する旨を上申(350 対韓政策ニ関スル三浦新公使意見書「日本外交文書」第28巻第一冊)しましたが、政府は回答しませんでした。
 同年7月19日三浦梧楼は特命全権公使に任命されましたが、任国は発令されませんでした。三浦の上申に対する政府の回答がなければ、朝鮮に赴任しないと三浦が主張したからです。
 当時西園寺公望が外相代理を務めていたにもかかわらず、山県有朋が三浦に会って赴任を求めました。そこで三浦は「我輩は政府無方針の儘に渡韓する以上は、臨機応変自分で自由に遣るの外は無いと決心したのである。」(三浦梧楼「観樹将軍回顧録」伝記叢書46 大空社)と記述しています。
 三浦は同年9月3日朝鮮国王に謁見して信任状を奉呈しました。

児島襄「大山巌」を読む42

 前朝鮮駐在公使井上馨が1895(明治28)年9月17日漢城を去った後、漢城新報社長安達謙蔵が三浦公使を訪ねて新公使の抱負を訊くと三浦は「どうせ一度はキツネ狩をせねばならぬが、君の手許に若い者(当時は壮士と称していた)が、どれくらゐ居るか」と尋ねました。
 同年10月3日三浦は一等書記官杉村濬、宮内府顧問岡本柳之助とともに次のような計画を立てました。@常ニ宮中ノ為ニ忌マレ自ラ危ム所ノ訓練隊ト時勢ヲ慷慨スル壮士輩ヲ利用シ、A暗ニ我京城(漢城)ノ守備隊ヲモ之ニ声援セシメ、B以テ大院君ノ入闕(にゅうけつ 入宮)ヲ援ケ、C其機ニ乗ジ宮中ニ在テ最モ権勢ヲ擅(ほしいまま)ニスル王后陛下(閔妃)ヲ殪(たお 殺害)サン(353 「広島地裁 韓国王妃殺害事件予審終結決定書」市川正明「日韓外交史料」5 原書房)。

釜山でお昼をー過去の釜山や近郊の様子―昔の生活と文化―雑記―閔妃暗殺―広島裁判の被告人

 三浦公使は同年10月7日深夜から8日未明にかけて行動をおこすために、漢城守備の大隊長馬屋原務本少佐に「訓練隊ヲ操縦シ且守備隊ヲシテ之ニ声援セシメ、大院君ノ入闕ヲ容易ナラシムヘキ」と命令[公使の命令に服従すべきは高等軍衙(おそらく参謀本部をさす)の訓令による]、領事館警察の警部萩原秀次郎も指示をうけて巡査を招集しました。漢城新聞社長安達謙蔵の指揮する壮士隊は8日午前2時ころ大院君を擁して光化門を日本軍守備隊が用意した梯子で乗り越え王宮内に侵入、国王夫妻が居住する乾清宮に赴き、閔妃を探索しましたが、壮士は誰も閔妃を視たものがなく、女官に囲まれた気品ある美女を殺害、女官から閔妃の頬に疱瘡の痕があることを壮士が訊きだし、死体を見て確認したといわれます(212 明治二十八年十月八日王城事変顛末報告ノ件・349 韓国王妃殺害事件軍法会議判決書 市川正明「前掲書」)。
 一方大院君は長安堂で国王と会見して、この際日本公使の指導下に改革断行を進言、国王は無言で大院君の進言を裁可しました。
 大院君の国王謁見後、安達謙蔵ら壮士隊は引き揚げたのですが、光化門外には多数の市民が異様な壮士隊の様子を目撃していました。彼らが鐘路街を通行しているとき、朝鮮の有力閣僚たちが逃げ込んで、事件を知った露公使ウェーバーと米代理公使アレンを乗せた2台の馬車が王宮に向かって走ってきました(「安達謙蔵自叙伝」新樹社)。

児島襄「大山巌」を読む43

 露公使ウェーバーと米代理公使アレンは左右に三浦公使と大院君が侍立する朝鮮国王に謁見後、日本公使館を訪問して三浦公使を詰問しました(15 王妃殺害事件ニ付各国使臣トノ談話報告ノ件 市川正明「前掲書」)。

釜山でお昼をー過去の釜山や近郊の様子―人物名―りー李昰応

 1895(明治28)年10月8日付伊藤首相宛て三浦公使は事実を伝えて政府に事件収拾を委ねるべきとする内田定槌領事の進言により公使自身の事件関与を示唆する内容の電報と西園寺外相代理宛てロシヤ公使らとの問答を報告した電報を発信しました。政府は外務省政務局長小村寿太郎らを漢城に派遣して、真相調査と適切処置を命じたのです。 
 小村寿太郎らの派遣を知ると、内田領事は一等書記官杉村濬を通じて漢城新報社主筆国友重章と協議、領事館警察の取り調べを受けるべき人物12名を選定、取り調べの節同一の申し立てをするよう申し合わせ、10月12日取り調べ責任者萩原秀次郎警部が調書を作成しました。しかし萩原警部は事件関係者の一人ですから、被疑者が被疑者を取り調べたことになり、事件の真相を究明するものとはならなかったことは明らかでしょう。しかも小村寿太郎は事件関係者を速やかに帰国させ、日本で処分するほうが得策であるとし、また処分するかしないかを慎重に検討すべきと政府に意見を具申しました(70 三浦公使帰朝処分ノ件 市川正明「前掲書」)。
 日本政府は10月17日三浦公使の召喚と小村寿太郎の弁理公使を発令、壮士たちは10月20日仁川を出航、宇品に入港すると警官が謀殺罪および兇徒嘯聚罪の広島検事局逮捕状を示して手錠をかけられました。
 三浦梧楼も公使館付武官楠瀬幸彦中佐らとともに10月23日仁川を出航しましたが、下関海峡で西園寺外相代理から公使罷免と広島に直行すべき電報をうけ、やがて壮士と同じく逮捕状を示され監房に収容されました。
 事件について軍人は第五師団軍法会議、三浦梧楼らは広島地方裁判所で審理、1896(明治29)年1月14日付楠瀬中佐以下8人に対し無罪判決(349 市川正明「前掲書」)、同年1月20日付予審判事は三浦梧楼らを証拠不充分により免訴としました(355〜6 市川正明「前掲書」)。
 判決後三浦梧楼が上京すると侍従米田虎雄が来訪、天皇に心配をかけて申し訳ないと三浦が謝ると米田は「イヤお上はアノ事件をお耳に入れた時、遣る時には遣るナと云ふお言葉であった」と応えました(「観樹将軍回顧録」)。この米田侍従の言葉は天皇の発言を正確に伝えたものかどうか不明ですが、正確に伝えたものならば、天皇の発言は当時の政府首脳の本音を不用意にもらした独白とも推察されます。
 同年2月11日露公使ウェーバーは朝鮮国王と世子を露公使館に移し(露館播遷)、朝鮮国王は政府を同公使館に置くことを宣言、親露派の要人で新内閣が組織され、各機関の日本人顧問は解雇されました。

児島襄「大山巌」を読む44

 日清戦争後の日本の政策はは対ロシヤをめぐる政治外交に力点がおかれたといえるでしょう。明治29年度予算は歳入1億3789万円余、歳出は1億5218万円余で増税と公債発行で戦後経営の急務即ち対露軍備増強を賄ったのです。
 賠償金は円に換算して3億4405万余円でそのうち7895万余円を臨時軍事費特別会計の補填にあて、5403万余円を陸軍、1億2526万余円を海軍拡張費にまわし、残額8000万余円を次の戦費として貯蓄する方針でした。
ロシヤは清国が日本への賠償金支払いに苦労しているのを視て1895(明治28)年6月フランスとともに共同借款を供与、イギリスもこれに対抗してドイツとともに清国に融資、この4国借款で清国は日本への賠償金を期限内に完済しました。
1896(明治29)年4月30日ロシヤ皇帝ニコライ2世の戴冠式(5月26日)参列のため清国の李鴻章はペテルブルクに到着、露蔵相ウィッテと交渉、6月3日露清同盟(秘密)条約を締結、日本に対する攻守同盟とそのため黒竜江省と吉林省を横断してウラジオストックに至る鉄道(東清鉄道)敷設権をロシヤに与え、権利者を露清銀行とすることなどをとりきめました。
 一方朝鮮国王は1896(明治29)年2月以来ロシヤ公使館に滞在する状態がつづいていたので、同年5月14日小村寿太郎朝鮮駐在公使はロシヤ公使ウェーバーとと次のような覚書(「日本外交年表竝主要文書」上)を交換しました。@日露両国代表者は朝鮮国王が安全を確認すれば王宮に還御するよう忠告する、A日露両国は漢城および開港地の日本人居留地を保護するため日本軍4個中隊(1中隊200名以下)の駐留を認め、ロシヤも日本兵力を超過しない衛兵を駐留することを認める。
 露清同盟条約締結後、同年6月9日ロシヤ外相ロバノフ・ロストウスキーは李鴻章とおなじくロシヤ皇帝の戴冠式に出席した山県有朋とモスクワで朝鮮問題に関する日露議定書(山県・ロバノフ協定「日本外交年表竝主要文書」上)に調印、その特徴は小村・ウェーバー覚書の内容をほぼ確認する程度の合意でした。
 1897(明治30)年朝鮮国王はロシヤ公使館から王宮にもどり、10月16日国号を大韓と改称しました。
 同年11月14日ドイツは同国宣教師が殺害されたことを口実に山東半島膠州湾にドイツ艦隊が入港、陸戦隊が青島を占領、翌1898(明治31)年3月6日清独間の膠州湾租借(99年)条約を締結、つづいて同年3月27日ロシヤは遼東半島の旅順・大連両港租借(25年)権と東清鉄道南満州支線(南満州鉄道)敷設権を獲得、4月22日日本は福建不割譲に関する日清交換公文を交わしました(「日本外交年表竝主要文書」上)。イギリスは6月9日香港対岸の九龍半島(99年)を、7月1日には山東半島威海衛(25年)を租借、フランスは1899(明治32)年11月16日広州湾(99年)を租借、アメリカは1898(明治31)年4月の米西戦争でフィリピン獲得後、清国に進出を企図して翌年9月6日米国務長官ジョン・ヘイが清国の門戸開放・機会均等・領土保全覚書を列強に通告し、中国分割参加の意図を表明しました(鈴木俊編「中国史」世界各国史\ 山川出版社)。

世界飛び地領土研究会―膠州湾―威海衛―香港―広州湾―古い世界地図―その他各種の地図―東支鉄道(東清鉄道)路線図

児島襄「大山巌」を読む45

 1896(明治29)年5月21日大山巌の長女信子が19歳で肺結核のため死去しました。
 徳富健次郎(蘆花)は1898(明治31)年8月、逗子の旅館柳屋で同宿した元大山巌大将副官福家安定中佐夫人安子から蘆花夫人愛子に語る大山信子の不幸な生涯について知ることを得たのです(福田清人・岡本正臣「徳富蘆花」清水書院)。

近代日本人の肖像―人名50音順―た・とー徳富蘇峰・徳富蘆花 

 徳富蘆花は同年11月29日から兄徳富猪一郎(蘇峰)の経営する国民新聞に小説「不如帰」(ほととぎす)」の連載を開始、その要旨は海軍少尉川島武男と愛妻浪子の病気をめぐる悲恋を描いたもので、翌年5月24日まで同新聞に掲載され、1900(明治33)年刊行、1901(明治34)年2月大阪朝日座で芝居として上演されるほどの人気を得ました(秋庭太郎「日本新劇史」筑摩書房)。
 ところがこの小説で浪子の父「片岡毅陸軍中将」を「この大山巌々として物に動ぜぬ大器量の将軍」(徳富蘆花作「不如帰」岩波文庫)という表現があり、其の他だれが読んでも「片岡毅」が「大山巌」をモデルとしていることがわかる文章が続くのです。しかも浪子は「早くより英国に留学して男まさりの上に西洋風の染みし」継母に冷たく扱われることになっており、継母のモデルにされたと察しのつく大山巌夫人捨松は悩みぬいたようです(久野明子「前掲書」)。

「不如帰」ネット文学記念館

児島襄「大山巌」を読む46

 1896(明治29)年6月9日の山県・ロバノフ協定締結後、同年9月18日第2次松方正義内閣が同年3月1日立憲改進党を中心として結成された進歩党を与党として成立(外相は進歩党首大隈重信)、大山巌に代わり高島鞆之助陸軍中将が陸軍大臣に就任しました。しかし松方首相は政党との連携に失敗、1898(明治31)年1月12日第3次伊藤博文内閣(外相西徳二郎、陸相桂太郎中将、海相西郷従道、蔵相井上馨など)成立、同年1月20日元帥府(げんすいふ 天皇の軍事上の最高顧問機関)条例公布(「官報」)、陸軍大将山県有朋・小松宮彰仁親王、大山巌、海軍大将西郷従道に元帥の称号が授与され、同時に陸軍中将川上操六が参謀総長に任命されました。
 同年6月10日自由・進歩両党は連携して衆議院で日清戦争賠償金を陸海軍拡張費にあてることに伴う歳入不足を補うために伊藤内閣が提出した地租増徴案を否決、衆議院は解散されました(林田亀太郎「日本政党史」上巻 大日本雄弁会)。
 同年6月22日自由・進歩両党は合同して憲政党を結成、同月24日伊藤首相は元老(天皇を補佐し重要政策決定に影響力をもった政治家 憲法外の存在)会議で憲政党に対抗するため、@首相在職で政府党を組織、A下野して政党を結党、B憲政党に政権を渡すなどの方針を示したのですが、山県有朋はすべてに反対して激論となりました。同日伊藤首相は辞表を提出、後継首相に大隈重信・板垣退助を推薦、同月27日大隈・板垣に組閣命令が下されました(「伊藤博文伝」)。かくして第1次大隈重信内閣(内務大臣板垣退助)いわゆる隈板(わいはん)内閣とよばれる最初の政党内閣が誕生することになったのです(林田亀太郎「前掲書」)。

児島襄「大山巌」を読む47

 しかし同内閣は陸海軍大臣は桂太郎・西郷従道を留任させることで山県有朋ら政党内閣反対派と妥協して発足、同年8月21日尾崎行雄文相が帝国教育会夏季期講習会の修了式における演説で最近の日本における「拝金熱」について「百千年の後共和政体設立するが如き(勿論なかるべきも)場合は、三井・三菱が大統領候補になるかもしれぬ」(共和演説・「新聞集成明治編年史」)と述べたことについて、山県有朋の指示をうけた陸相桂太郎は首相大隈重信に重大問題化する恐れがあると警告しました。

近代日本人の肖像―人名50音順―あ・おー尾崎行雄 

また川上操六参謀総長は桂太郎陸相とともに内相板垣退助に働きかけ、板垣は10月21日天皇に文相弾劾上奏を行ったのです。10月24日尾崎文相は辞表提出、閣議は後任文相をめぐって紛糾、大隈首相は独断で犬養毅を文相に奏請すると、板垣退助ら旧自由党系閣僚が辞表提出、10月31日大隈重信内閣は崩壊しました(大津淳一郎「大日本憲政史」第4巻 明治百年史叢書 原書房)。
 10月29日憲政党旧自由党派は大会を開催して憲政党解散と新憲政党結成を議決、11月2日板垣内相は旧進歩党系の憲政党を集会および政社法違反として禁止したので、同月3日憲政党旧進歩党系は憲政本党を結成してこれに対抗しました(林田亀太郎「前掲書」下巻)。

児島襄「大山巌」を読む48

1898(明治31)年11月8日第2次山県有朋内閣(外相青木周蔵、陸相桂太郎、海相山本権兵衛、蔵相松方正義)が成立、山県首相は憲政党を抱き込んで同年12月20日懸案の地租増徴法案可決に成功しました。 
 1899(明治32)年3月28日文官任用令改正が行われました。従来の文官任用令においては判任官・奏任官については学識検定を必要とする規定がありましたが、勅任官などの高級官吏は閣僚の奏薦によるとされていたため、内閣と進退を同じくしたり、情実人事の温床となったりしました。そこで山県首相は高級官吏が不偏不党を維持し、法定の理由以外で解任されないよう身分保障することを目的として文官任用令改正と文官分限令・文官懲戒令を公布し、政党の官僚統制を困難とする措置をとりました(徳富猪一郎「公爵山県有朋伝」)。
 同年5月11日参謀総長川上操六陸軍大将が死去、後任に大山巌が任命されました(徳富猪一郎「陸軍大将川上操六」伝記叢書 大空社)。

近代日本人の肖像―人名50音順―か・こー川上操六 

1900(明治33)年3月10日治安警察法(「法令全書」)を公布、政治結社・集会・示威運動の規制と労働運動・農民運動の取り締まりを規定しました。さらに同年5月19日陸軍省・海軍省官制を改正(「勅令」)、軍部大臣の現役大・中将制を確立、軍部は彼らの意向に協力しない内閣に閣僚を送らないことによって、内閣の存廃をきめる力を持つに至りました。
このような山県有朋内閣の政策に対して、6月1日憲政党は伊藤博文に党首就任を要請しましたが、伊藤はこれを断り、新党組織を示唆、憲政党は新党への無条件参加を申し入れ、8月25日伊藤博文は政友会創立委員会を開き、宣言および趣意書を発表、9月13日憲政党臨時大会は政友会参加のため解党を宣言(林田亀太郎「前掲書」)、9月15日立憲政友会発会式(総裁伊藤博文 所属代議士152名)が挙行されました(小林雄吾「立憲政友会史」第1巻 日本図書センター)。 

児島襄「大山巌」を読む49

 義和団はもともと義和拳とよばれる呪術で、18世紀末直隷・山東地方におこり、もし義和拳をおこなえば刀鎗・銃丸でも身体を傷つけることはないと信ぜられていました。清国政府はしばしば兵を出して鎮圧につとめ、一時ほとんど衰滅したかと思われていましたが、近年直隷・山東の地にキリスト教が拡大、とくに山東は儒教の祖孔子の生誕地で外国を排斥する風が強く、外人宣教師との紛争が絶えませんでした。山東省の威海衛・膠州湾のような外人占領地において民衆が外人を殺害し、教会堂を焼くなどの事件が頻発、このような情勢の中で義和拳が復活、義和団が台頭してきたのです。
 1900(明治33)年5月3日青木周蔵外相は駐清公使西徳二郎に対して、義和団に関し欧米諸国と共同の措置をとるよう訓令を発しました。5月20日北京駐在の11カ国公使団は清国に対して義和団の速やかな鎮撫を要求、5月31日英仏露米伊日の陸戦隊400余名が太沽に停泊する各国軍艦から北京に到着しましたが、6月8日北京・天津間の鉄道不通、10日には電信も不通、11日北京日本公使館書記生杉山彬が永定門外で殺害されるに至ったのです(「日本外交文書」第33巻別冊一 北清事変 上 巌南堂書店)。

坂口筑母の部屋―過去ログー2010.3.28−西徳二郎 自筆 書状

 同年6月15日山県有朋内閣は参謀総長も出席した閣議で清国へ陸軍部隊を派遣を決定、各国公使に通告しました(「日本外交文書」第33巻別冊「北清事変」)が、このとき派遣兵力量を討議しようとしたとき、参謀総長大山巌は「出兵すへきや否やは内閣の決議を要する固より当然なれとも、其兵力及び編成等に関しては本職其責に任し調査決定すへき」(陸軍省編「明治軍事史」明治百年史叢書 原書房)と主張、このことをめぐって山県有朋首相と意見の対立があったようですが、天皇の裁可を得て当面の清国派遣隊を編成しました。

児島襄「大山巌」を読む50(最終回)

 同年6月19日清国総理衙門はは各国公使に24時間以内の北京立ち退きを要求、翌日義和団は北京各国公使館を包囲しました。
 6月23日英代理公使は青木外相に北京列国公使館救援のため日本出兵の意向を問う覚書を提出、7月5日には派遣軍増員を要請、翌日日本政府は閣議で混成1個師団清国増派を決定(「日本外交年表竝主要文書」上)、派遣日本軍は総計約22000に達すると各国公使に通告しました。

近代日本人の肖像―人名50音順―あ・おー青木周蔵 

 同年7月8日英代理公使は青木外相に対して清国へ日本軍を増派すれば、財政上の援助を辞せずとし、7月14日には日本軍2万人増派すれば100万ポンド援助と通告しました(「日本外交年表竝主要文書」上)。同年7月末8カ国連合軍は33000(その2/3日本軍)に達し、8月14日北京城内に侵入、翌日列国公使館区域を救援しました(「北清事変」)。
 「その(義和団)鎮圧に際し最も強力な先鋒となり、更に最も忠実に列強の方針に随従することに依って、日本は始めて列国と対等の立場を獲得し世界の舞台に登場するに到り愈々(いよいよ)極東の憲兵(軍事警察官)としての実力を買われたのであった。」(外務省編「小村外交史」明治百年史叢書 原書房)。
 1901(明治34)年9月7日北清事変に関する最終議定書(「日本外交年表竝主要文書」上)調印、日米英仏露独墺伊白西蘭11カ国代表と清国側全権慶親王・李鴻章の間の交渉で、清国は賠償金4億5000万海関両の39年分割払いと太沽砲台撤去、北京公使館区域の各国駐兵権などを承認しました。
2010-10-11 05:16 | 記事へ | コメント(0) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇18) |
児島襄「大山巌」を読む31〜40
2010年10月01日(金)
児島襄「大山巌」を読む31
 

  1892(明治25)年8月8日第2次伊藤博文内閣が成立、外務大臣は陸奥宗光、大山巌は陸軍大臣に復帰しました(「官報」)。
 同年11月30日フランスから廻航していた砲艦千島が瀬戸内海で英国船ラヴェンナ号(ピーオー社所有)と衝突沈没する事件が発生、日本政府は翌年5月横浜領事裁判所に損害賠償請求の訴訟を起こしました。しかるにピーオー社は逆に日本側に責任があるとして1893(明治26)年10月25日上海の英高等裁判所で日本が敗訴しました(外務省編「日本外交文書」第26巻)。
 1892(明治25)年11月29日第4議会開会、民党は翌年1月26日政府予算案の軍艦建造費などを削減、2月7日衆議院は内閣弾劾上奏決議案を可決(「議会制度七十年史」帝国議会史 上巻)、2月10日「在廷ノ臣僚及帝国議会ノ各員ニ告グ」の詔書が出され、軍備拡張のため、内廷費毎年30万円ずつ6年間下付、同期間中は文武官俸給の1割を納付させて製艦費補助に充てることを命ぜられました。これにより衆議院は2月22日製艦費を含む予算案を可決しました(「議会制度七十年史」帝国議会史 上巻)。
1893(明治26)年4月24日大山巌の長女信子16歳が西郷従道夫妻の媒酌で三島弥太郎(故三島通庸の長男)と結婚しました。

近代日本人の肖像―人名50音順―ま・もー三島通庸 

このとき大山巌50歳、夫人捨松33歳、次女芙蓉子12歳、三女留子10歳、四女久子8歳、長男高7歳、次男柏3歳でした。
やがて同年7月10日信子は嫁ぎ先から実家に帰されてきました。肋膜炎または肺患(肺結核)の疑いがあるとの医師の診断で沼津の別荘や横須賀の親戚などに転地療養となりました。
やがて大山巌の長女信子の嫁ぎ先三島家から信子の離婚話が持ち込まれてきました。大山家は冷却期間をおいて信子の療養に取り組むべきだと考え、横須賀の親戚に頼んで三島家との音信を信子に知らせずに絶つことを依頼しました。ところがこのままでは離婚になるかもしれないとの夫三島弥太郎の書簡を偶然見てしまった信子は高熱を発して倒れ、大山巌は横須賀の親戚から信子を千駄谷の自宅に連れ帰りました。そのころ三島家から信子の嫁入り道具や衣装が送り返されてきていました。大山巌は自宅の庭の一隅に離れ屋を建て信子の療養所としたのです。

児島襄「大山巌」を読む32

一方千島艦事件の日本敗訴により、同年10月安部井磐根、大井憲太郎らは大日本協会を組織し対外硬派を形成して内地雑居反対・対等条約締結・現行条約履行・千島艦訴訟事件詰責を主張、改進党も同調、自由党は反対しました(林田亀太郎「日本政党史」大日本雄弁会)。

北九州のあれこれー北九州の歴史―明治時代3−1 日清戦争

1893(明治26)年11月28日第5通常議会が開会、12月19日衆議院に安部井磐根ら提出の現行条約励行案を上程、10日間の停会を命じられました。さらに12月29日陸奥外相の現行条約励行反対の演説後さらに14日間の停会を命じられ、政府は大日本協会に解散を命令、翌日衆議院は解散となり、翌1894(明治27)年3月1日第3回臨時総選挙実施、結果は民党が130議席を占め、無所属を何人か民党側に引き寄せることができるなら、衆議院を支配できる情勢となっていました。
かくして国内の世論は排外主義・対外硬・対清硬に向かっていました。キリスト教の立場から戦争に反対していた北村透谷(北村透谷「平和」発行之辞 其の他 家永三郎編「日本平和論大系」 第1巻 日本図書センター)は同年5月自殺、反戦の立場を守ったのは少数のキリスト教徒だけでした。

エッセイの森―もう一つの森―15 北村透谷・小田原

同年3月27日陸奥外相がイギリス駐在の青木周蔵公使に宛てた書簡で「内国ノ形勢ハ日又一日ト切迫シ、政府ハ到底何カ人目ヲ驚カシ候程ノ事業ヲ、成敗ニ拘ラスナシツヽアルコトヲ明言スルニアラサレハ、コノ騒擾ノ人心ヲ挽回スヘカラス。サテ人目ヲ驚カス事業トテ、故モナキニ戦争を起ス訳ニモ不参候事故、唯一ノ目的ハ条約改正ノ一事ナリ。」と述べています(「陸奥宗光関係文書」国立国会図書館憲政資料室 藤村道生「日清戦争」岩波講座「日本歴史」近代3 引用)。
同年5月15日第6特別議会開会、5月30日衆議院は内閣弾劾上奏決議案を可決(「議会制度七十年史」帝国議会史 上巻)、6月2日衆議院はまたもや解散されました。第2次伊藤博文内閣がかかる強気の対応に踏み切った理由は何だったのでしょうか。

児島襄「大山巌」を読む33

 1894(明治27)年6月1日朝鮮駐在代理公使杉村濬は東学党指導の農民暴動による全州占領と朝鮮政府の清国への援兵要請を陸奥外相に報告、日本政府はこの報告を6月2日受信しました(「日本外交文書」第27巻ノ二)。

理解する世界史&志向する競馬ー理解する世界史ー年表4−1894 朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱)

 日本政府は同年6月2日の閣議で清国の出兵に対抗、混成1個旅団の朝鮮派遣を決定、同月5日大本営(戦時中に設置された大日本帝国陸海軍の最高統帥機関)を参謀本部内に設置しました(陸軍省編「明治軍事史」明治百年史叢書 原書房)。
 6月7日清国公使は陸奥外相に朝鮮国王の要請により属邦保護のため出兵することを通告、外相は朝鮮を清国の属邦と認めないと抗議、、駐清代理公使小村寿太郎は清国政府に公使館保護のため日本軍出兵を通告しました。6月10日休暇帰国中の大鳥圭介朝鮮駐在公使は軍艦八重山に搭乗、海軍陸戦隊に守られて漢城に帰任、同月12日混成旅団先頭部隊は仁川に到着しました(「日本外交文書」第27巻ノ二)。

児島襄「大山巌」を読む34

 大鳥公使は漢城に入ると意外に平穏で清国派遣の軍隊も牙山に滞陣、さらに内地に進軍する様子もないので、同公使はしきりに日本政府に電報を送り、当分の間多数の軍隊を派出するのは外交上得策でないことを勧告してきました。これに対して陸奥外相は「然れども翻て我国の内情を視れば最早騎虎の勢(物事の勢いに乗じて中途でやめにくいこと)既に成り中途にして既定の兵数を変更する能はざる」により「仮令外交上の多少の紛議あるも大島少将の率いる本隊(即ち混成旅団)をして尽く京城(漢城)に滞陣せしめ尚ほ朝鮮政府に対し速に其内乱を鎮圧するの得策なるを説き之が為めには我が兵を仮し援助すべしと申込むべしと訓令したり」(陸奥宗光「蹇蹇録(けんけんろく)」岩波文庫)と述べています。

近代日本人の肖像―人名50音順―ま・もー陸奥宗光 

 6月16日陸奥外相は清国公使に東学党の乱の共同討伐ならびに朝鮮内政の共同改革を提案しましたが、清国は拒絶、日本は内政改革実現まで撤兵せずと通告しました。
 同年6月末から7月にかけて、英露両国は日清関係の調停斡旋を申し入れてきましたが、清国政府はこれを拒絶、調停は失敗しました。
 すでに1891年3月29日ロシヤ皇帝アレクサンドル3世はシベリヤ鉄道建設の勅書を発表、来るべきロシヤの極東への影響力増大に衝撃をうけたイギリスは極東の同盟国として憲法制定による政治の近代化を達成し、経済における産業革命に突入しつつあった日本を評価、不平等条約の撤廃と対等条約調印に同意する情勢にありました。
 かくして1894(明治27)年7月16日日英通商航海条約(領事裁判権撤廃、関税率引き上げ実現・外務省編「日本外交年表竝主要文書」上)が調印されたのです。このとき英外相キンバーレーは「此条約ノ性質タル日本ニ取リテハ清国ノ大兵ヲ敗走セシメタルヨリモ寧ロ遙ニ優レルモノアリ」と述べたと青木周蔵公使は報告(対英談判終了に付青木公使報告 外務省編「前掲書」)しています。
 同年7月23日日本軍は漢城の朝鮮王宮を占領、朝鮮軍を武装解除し、国王は日本の圧力により大院君に国政総裁を命じました。7月25日大院君は清・朝鮮宗属関係の破棄を宣言、牙山の清国軍撤退を大鳥圭介公使に依頼しました(「日本外交文書」第27巻ノ一)。

児島襄「大山巌」を読む35

 1894(明治27)年7月19日大本営は連合艦隊に清国軍増援部隊の阻止を命令しました(参謀本部「明治二十七八年日清戦史」第1巻 東京印刷)。
 同年7月25日連合艦隊第1遊撃隊 吉野(旗艦)、秋津洲、浪速3艦は豊島沖で清国軍艦 済遠、広乙を攻撃(海軍軍令部編「廿七八年海戦史」春陽堂)。日本側公式戦史はすべて清国軍艦が先に発砲したと主張しています。これに対して清国側は開戦の上諭(天子がさとし告げる文 「清光緒朝中日交渉史料」巻十六引用 「日本外交文書」第27巻ノ二)で「我備えざるに乗じ、牙山口外海面に在りて、砲を開いて轟撃し」(原漢文 書き下し文とする)と述べ、日本軍艦が先に発砲したと主張しています。日本軍艦浪速は清国軍を乗せた英国籍船舶高陞号を撃沈、英国の世論は日本の賠償を要求しましたが、英国国際公法学者「ホルランド」らは浪速艦の行為を失当にあらずと論述、英国政府も納得するに至りました(「蹇蹇録」)。この豊島沖の海戦により日清戦争が開始されました。

大連紀行―日清・日露戦争―大連と日清・日露戦争―日清戦争

児島襄「大山巌」を読む36

 つづいて7月29日大島混成旅団は朝鮮の成歓を、同月30日には牙山を占領、8月1日日本は清国に宣戦布告しました。宣戦の詔勅は「苟(いやしく)モ国際法ニ戻ラサル限各々権能ニ応シテ一切ノ手段ヲ尽スニ於テ遺漏ナカラムコトヲ期セヨ」(「日本外交年表竝主要文書」上)と宣言しています。
 成歓の戦いで中隊長松崎直臣大尉と死んでもラッパを口から離さなかった第9中隊ラッパ卒白神源次郎は日清戦争における陸軍戦死者第1・2号とされましたが後に死んでもラッパを口から離さなかったのは第12中隊のラッパ卒木口小平に訂正され、国定修身教科書で「キグチコヘイハ(中略) シンデモ ラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」と記録されたのです(西川宏「ラッパ手の最後 戦争の中の民衆」青木書店)。

MegaphoneBeat―虎スポット(岡山編)−壮烈喇叭手の碑

 9月1日第4回臨時総選挙が実施され、10月18日第7臨時議会が広島で開会されましたが、臨時軍事費特別会計法や軍費支出のための公債募集にかんする法律を可決、議会は戦争に協力しました(衆議院・参議院編「議会制度七十史」帝国議会史 上巻)。
 一方同年9月1日大本営は第1軍を編成(軍司令官 山県有朋大将 12月18日野津道貫中将に交代)、同月15日平壌を総攻撃、翌日占領。このとき大院君が清将に送った密書が発見され、彼の面従腹背が明らかとなりました(「蹇蹇録」)。大本営は広島に移され、9月15日明治天皇は広島に到着しました(「官報」)。
 同年9月17日連合艦隊(司令長官 伊東祐亨海軍中将)は清国北洋艦隊(司令長官 丁汝昌)主力に遭遇、北洋艦隊に損害を与えました(黄海海戦・海軍軍令部編「廿七八年海戦史」春陽堂)。黄海海戦の勝利により、日本軍は黄海の制海権を握り、遼東半島上陸作戦が可能となったのです。
 同年10月25日新たに朝鮮駐在公使として漢城に赴任した井上馨は後に平壌で発見された大院君の密書を彼に提示し、大院君を政権から放逐しました(「蹇蹇録」)。

児島襄「大山巌」を読む37

 1894(明治27)年10月3日大本営は第2軍を編成(軍司令官 大山巌大将)、同月24〜26日遼東半島花園口に上陸、11月6日金州城を占領しました(参謀本部編「明治廿七八年日清戦史」参謀本部)。さらに11月21日旅順口攻略をめざして、11月17日第2軍は前進を開始したのです。ところが11月18日第2軍先鋒秋山好古少佐指揮の捜索騎兵ならびに第3連隊第1大隊は旅順口北方の土城子の戦いで、第2軍の半島攻略戦最初の戦死者11名を出したのでしたが、その死体は例外なく斬首されて頭部を持ち去られ、身体にもあるいは両腕を切られ、腹部を乱刺し、中には陰部をえぐられた遺体もあったということです。
 「實ニ言語ニ絶スル惨殺ノ状ヲ目撃セラレタル山路(第一師団長 山地元治陸軍中将)将軍ハ大ニ怒リ此ノ如キ非人道ヲ敢テ行フ国民ハ婦女老幼ヲ除ク外全部剪除セヨト云フ命令ガ下リマシテ旅順デハ實ニ惨又惨、旅順港内恰(あたか)モ血河ノ感ヲ致シマシタ」[向野堅一(第一師団司令部付き通訳官)「明治廿七八年戦役余聞戦役夜話」井上晴樹「旅順虐殺事件」筑摩書房 引用 ]
 第2軍の旅順虐殺は土城子における清国軍の日本兵士死体損壊がきっかけであったとされていますが、清国兵の死体損壊行為の理由の一つは日本兵の首や身体各部に懸賞金がかけられていたからであると「チャイナ・ガセット」(8月27日付)は述べています(井上晴樹「前掲書」)。しかし第2軍兵士はこのような清国軍の行為に復讐心をたぎらせたことはたしかで、しかも師団長という第2軍幹部の組織的命令が「婦女老幼ヲ除ク」と限定されていたにもかかわらず、婦女老幼を含めた殺戮へとエスカレートしていった主要な要因であったことは確かです。
 有賀長雄(第2軍司令部参謀部付法律顧問)の著作(「日清戦役国際法論」哲学書院)によれば、第2軍司令官大山巌は住民が殺戮されたことを認めています。

児島襄「大山巌」を読む38

 虐殺された人数は何人あったのでしょうか。旅順白玉山の東麓に旅順虐殺事件から2年目にあたる1896年11月21日殉難した人々を弔うために「万忠墓」の3文字を刻んだ石碑が建立され、官兵商民男婦の被難者一万八百余名が火葬され、遺灰は集められてここに葬られている旨の41文字が彫られているということですが、曲伝林「万忠墓記」には一万八百余名は誤りで、実際は一万八千余名と記されていて、これが現在の中国側の公式数字とのことです(井上晴樹「前掲書」)。しかし虐殺は旅順周辺にまで及んだことを考えるとその人数は一万八千余名をさらに上回ると考えられます。
 同年11月22日ワシントンにおいて日米通商航海条約(対等条約)が調印(「日本外交文書」)され、元老院(上院)で審査中、陸奥宗光は「其後幾程もなく不幸にも彼の旅順口虐殺事件と云ふ一報が世界の新聞紙上に上るに至れり」(「蹇蹇録」)と述べ、米国の新聞紙中には痛く日本軍隊の暴行を非難、暗に今回の日米新条約で治外法権を放棄するのは危険との意を諷するに至ったと言い、英国の国際公法学博士「ホルランド」は「日清戦争に於ける国際公法」と題する論文において彼ら(日本の将卒)は戦闘の初日を除き其翌日より四日間は残虐にも非戦者、婦女、幼童を殺害したと述べていることを紹介し、「これ過大の酷論なるべし」と記述しています。陸奥外相は12月17日付米国「ワールド」紙に「真の非戦闘員のほとんどは、日本が包囲する前に旅順を立ち去っていた」などの弁明を掲載しましたが、この弁明が事実でなかったことを大江志乃夫氏が詳説(「東アジア史としての日清戦争」立風書房)しているので、興味のある方は御覧ください。

児島襄「大山巌」を読む39

 1895(明治28)年1月20日第2軍主力は山東半島栄城湾に上陸、2月2日威海衛軍港陸岸を占領、2月11日北洋艦隊司令長官丁汝昌は自決、北洋艦隊は翌日連合艦隊に降伏しました(参謀本部編「明治二十七八年日清戦史」第6巻 東京印刷)。
 すでに清国は張蔭恒・邵友濂を講和全権委員に任命したことをアメリカ公使を通じて日本に通告、日本側は内閣総理大臣伊藤博文と外務大臣陸奥宗光が、清国代表と交渉する全権弁理大臣に任命され、広島で会談、ところが清国全権は全権委任状を持たないことを理由に同年2月1日日本全権は清国全権との交渉を拒否しました。そこで清国は2月19日講和全権に李鴻章を任命したことをアメリカ公使を通じて我が国に通告、これに対して日本は下関を両国全権会談の地に指定、同年3月20日伊藤・陸奥両全権は下関春帆楼で来日した李鴻章と全権委任状を交換、第1回会談が行われました(「日本外交文書」)。

九州〜列車で行こう〜下町親父の珍道中―名所&うまい山口―タイトルー春帆楼―検索

 陸奥宗光は李鴻章を評して「彼は古希(70歳)以上の老翁に似ず状貌(容貌)魁偉(大きく立派)言語爽快にして曾国藩が其容貌詞令以て人を圧服するに足ると云ひしの的評なるを覚ゆ」(「蹇蹇録」)と述べています。

独学ノートー単語検索―李鴻章

 同年3月24日李鴻章は第3回講和会議帰途暴漢に狙撃されて負傷、このため3月30日かねて清国が要求していた日清休戦条約(台湾・澎湖列島を除く)に調印(「日本外交文書」)、同年4月17日日清講和条約調印(「日本外交年表竝主要文書」上)、清国は朝鮮の独立を承認、遼東半島・台湾・澎湖列島を日本に割譲、賠償金として庫平銀2億両を日本に支払い、日本と欧米諸国並みの通商条約(不平等条約)締結を約束、講和条約施行の担保として日本軍隊の山東省威海衛占領を承認しました。
 しかるに4月23日在東京露・独・仏公使は外務省に林董次官を訪問(陸奥宗光外相は播州舞子で病気療養中)、本国政府の訓令を受けたとして遼東半島の清国への返還を勧告する覚書を提出しました(三国干渉・「日本外交年表竝主要文書」上)。
 同年4月24日広島における御前会議は三国干渉に関し列国会議招集による処理にまとまりましたが、翌日舞子に来訪した伊藤首相に陸奥外相はこの問題を列国会議にかけても意見はまとまらず、かえって下関条約全体が破滅する危険性があるとして反対、結局三国に対しては譲歩せざるを得ないが、清国に対しては一歩も譲歩しない方針とし、天皇の裁可を受けました(「蹇蹇録」)。同年5月4日政府は閣議で遼東半島の全面放棄を決定、翌日露・独・仏三国公使にこの旨を通告しました(「日本外交文書」)。

児島襄「大山巌」を読む40

 1895(明治28)年5月21日大山巌は征討大総督小松宮彰仁親王とともに神戸に帰港、同月25日神戸から京都に向かい、歓迎群衆に囲まれる中を京都御所に到着、明治天皇臨席の立食宴の後、夕刻から開かれた京都府民の凱旋祝賀会に臨みました。同月26日大山巌は陸相に復帰、29日帰京する天皇に従い、30日東京に到着(尾野実信「前掲書」)、京都を遙かに越える群衆の歓迎に迎えられたのでした。大山を迎えた家族は夫人捨松はじめ18歳の長女信子、14歳の次女芙蓉子、12歳の三女留子、10歳の四女久子、9歳の長男高、6歳の次男柏みな元気でしたが、巌は捨松から長女信子の病状は楽観を許さず、信子の夫三島弥太郎の再婚の話がすすめられ、三島家から正式に離婚申し入れがあったことを告げられたのです。

栃木県立図書館―資料案内―特別コレクション―大山柏文庫―大山柏氏略歴

 同年6月8日大山巌は夫人捨松と長女信子を伴い、凱旋報告のための伊勢神宮参拝の名目で西下しましたが、実は旅行中信子にそれとなく離婚問題を納得させるための旅行だったようです(久野明子「前掲書」)。
 同年6月19日大山は奈良見物に向かう捨松夫人、信子とわかれて、日本政府との打ち合わせのため神戸に来た井上馨朝鮮駐在公使との会談に赴きました。
 同年9月16日大山巌長女信子は三島弥太郎と正式に離婚しました。
2010-10-01 04:41 | 記事へ | コメント(0) |
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児島襄「大山巌」を読む21〜30
2010年09月21日(火)
児島襄「大山巌」を読む21
  
  1882(明治15)年8月5日大山巌が帰京したとき、夫人沢子は病床に伏し、容体は重篤となっていました。大山はドイツ人医師で1876(明治9)年東京医学校(東大医学部の前身)教授として招聘されたエルヴィン・ベルツの往診を求めましたが、周辺の必死の介護もむなしく、沢子は同年8月24日死去したのです。
「今日、国民の中で第一流の女性の一人である、陸軍卿大山大将夫人の葬儀が行われた。産褥熱におかされて、二日前に永眠したとき、夫人は二十三歳だった。(中略)一週間前、夫人の病床に呼ばれたときは、もう意識もなく、青白くやつれ果てていた。夫人を診察したのは発病後三週間目のことで、すでに絶望状態にあった。だが大山将軍は、夫人を毎日みてくれるようにとの希望だった。自分はその希望に従い、夫人が徐々にではあるが確実に、死の手におちてゆくのを見守ったのである。その時、医術の無力、人間の無能をどれほど痛感したことか!」(トク・ベルツ編「ベルツの日記」上 明治15年8月25日条 岩波文庫)

軽井沢周辺案内 観光案内―観光―道の駅草津ベルツ記念館

大山巌は5歳の長女信子をはじめ3人の幼娘をかかえて若妻に先立たれ、途方にくれていました。

児島襄「大山巌」を読む22

大山巌私邸を故沢子の父吉井友実が訪問して巌に縁談を持ち込んできました。候補者は陸軍大佐山川浩(大蔵)の妹山川捨松だったのです。

鹿鳴館の貴婦人

呆嶷館(ほうぎょくかん)−会議室発言集―山川大蔵

山川捨松(「米欧回覧実記」を読む2・4参照・「大山巌」を読む9・11参照)はアメリカ留学後ニューヘヴン市の宣教師レオナード・ベーコン博士宅に寄宿、同地のハイスクールを経てヴァッサーカレッジに進学しました。彼女の友人マリアン・ホイットニー夫人の回想によれば、彼女は「ほっそりとして優しい感じのする女の子」で、同じころエール大学にに留学していた山川健次郎(後に東京帝国大学総長)は捨松が母国語を忘れないよう毎週1回彼女に日本語のレッスンを受けさせたので、捨松はどの科目より難しいとこぼしていたそうです。
1882(明治15)年6月14日山川捨松はヴァッサーカレッジを卒業、ニューヘヴン病院で2カ月看護婦コースを修学、同年11月末津田梅子とともに帰国しました。同年12月捨松と同じアメリカ留学仲間永井繁子と結婚した海軍兵学校教官瓜生外吉の結婚記念パーティに大山巌も招待されましたが、このとき在留外人の素人芝居―シェークスピア「ベニスの商人」の英語劇が開催されました。このときユダヤ商人シャイロックをやりこめるポーシャの役をつとめたのが山川捨松で大山巌はこのとき彼女を見ていた筈です。
大山巌の希望を得て吉井友実が捨松の兄山川浩に彼女の結婚について意向を内々に探ってみると、山川浩は即座に辞退したようです。やはり幕末以来の薩摩に対する会津の敵意と遺恨はそう簡単に水に流せる事柄ではなかったのでしょう。
その後この二人の縁談がどのように進められたのか不明ですが、この縁談をまとめるために徹夜の説得も辞さなかったのは西郷従道(西郷隆盛弟)であったそうです(久野明子「鹿鳴館の貴婦人 大山捨松」中央公論社)。1883(明治16)年11月8日に大山巌と捨松の結婚式が挙行されました。両人の結婚披露宴は新築の「鹿鳴館」で開催されたのです。

発祥の地コレクションー東京千代田区ー鹿鳴館時代の発祥地

児島襄「大山巌」を読む23

 1881(明治14)年10月12日明治23年に国会を開設する旨の詔書が発せられると、翌年3月14日伊藤博文は憲法調査のため東京を出発、主としてドイツに滞在、ベルリン大学教授グナイスト、ウイーン大学教授スタインの憲法講義を受け、ドイツ宰相ビスマルクと会見、彼の政見を聴取して1883(明治16)年8月3日帰国しました(「伊藤博文伝」)。
 このような日本の将来の政治体制をドイツに範をとる方向を見定めて、1884(明治17)年2月16日陸軍卿大山巌は川上操六・桂太郎両陸軍大佐らを随員として欧州兵制視察のため横浜を出発、ドイツからメッケル少佐を陸軍大学教官として招聘契約(尾野実信「前掲書」)、1885(明治18)年1月25日帰国しました(「明治政史」明治文化全集 正史篇 日本評論社)。

杜父魚文庫ブログーPROFILE―kajikablog―ARCHIVES―August 2006―4/7PAGES―2006.08.13−明治陸軍育ての親・メッケル少佐 古沢襄

1884(明治17)年9月加波山事件が起こり、自由党首脳部はこのような自由民権運動の激化に恐怖感を抱いたもののようです。同年10月29日自由党大会が大阪で開催され自由党は解党、板垣退助は「暫らく郷里に帰りて午眠を為さんとす」(解党の演説「自由党史」下)と述べています。

散歩の変人―カテゴリー関東―2010.04.16 下館・益子編(2)加波山事件志士の墓(09.8)

児島襄「大山巌」を読む24

この間に1884(明治17)年12月4日朝鮮では甲申事変が起こりました(外務省編「日本外交文書」第17巻)。壬午事変以後清国への依存度を深めた閔氏政権が再建されました。清国は朝鮮政府を指導して日本の進出を防ぐため、1882〜6年の間に米・英・独・伊・露・仏との間に通商条約を締結させました。
 清国の影響力拡大、日本の勢力後退という情勢の下で、朝鮮政界は閔氏一族ら清国に依存する事大党と日本と結び改革を実行しようとする金玉均・朴泳孝ら独立党との対立が激しくなりました。
 「自由党史」によれば、金玉均・朴泳孝らは日本政府が対朝鮮政策で積極的でないことを歎き、三田慶応義塾の福沢諭吉に援助をもとめ、福沢は後藤象二郎を金玉均らに紹介しました。

近代日本人の肖像―人名50音順―は・ほー福沢諭吉

後藤は独立党援助のための政治資金の調達に悩み、1884(明治17)年秋、板垣退助に相談、板垣は仏国公使を介して仏銀行家より資金調達の約束を取り付けました。たまたま後藤と会った伊藤博文は後藤から独立党援助計画を聞き、これを井上馨外務卿に伝えたところ井上はこのような大事を在野の人物に託してはいけないとし、済物浦条約の償金50万円のうち40万円を返附して朝鮮改革の資金とする方針に転換したと言っています。
 1884(明治17)年ヴェトナムをめぐって清仏戦争が起こり、8月清国がフランスに敗北すると、同年11月12日朝鮮駐在公使竹添進一郎は朝鮮における清国勢力打破のため、(甲案)親日派を扇動して内乱を起こすか、(乙案)親日派を保護するにとどめるかにつき、伊藤博文・井上馨両参議に請訓、両参議は11月28日乙案を可とし、公の干渉を行わないよう電訓しました(市川正明編「日韓外交史料」第3巻 原書房)。しかしこの電訓が届かないうちに金玉均・朴泳孝らは閔氏政権を打倒するために日本と結んで武装蜂起し、独立党政権を樹立する計画を練り、その期日として同年12月4日が選ばれたのです。
 この日は漢城郵征局(郵便局)落成式があり、漢城駐在の公使・領事や政府要人の閔氏一族も出席することになっていました。日本の竹添進一郎公使は急病を理由に欠席、代理が出席していました。
 落成祝宴中金玉均一派が郵征局付近に放火、局外に出ようとした閔泳翊が切られ局内に逃げ込んだため、局外に出てくる閔氏一族を暗殺する計画は失敗しました。そこで金玉均は清兵作乱を国王に告げ、王宮から景祐宮に国王を移し、国王自筆の「日使来衛」と書いた紙片を日本公使館に届けさせ、公使館護衛の駐屯日本軍は出動して景祐宮の四門を警備しました。
 知らせを受けて景祐宮に駆けつけた政府要人のうち、金玉均が指定した人物だけを宮廷内にいれ、閔氏一族ら清国派が暗殺されました。同年12月6日早朝独立党は親日派政権を樹立、政綱を発表しました。
 ところが12月5日の朝宮廷重臣の一人が清国軍兵営に来て、国王を日本軍から救出するよう要請があり、12月6日午後日清両国の軍事衝突が起こり、竹添進一郎公使と日本軍は日本公使館に撤退せざるをえないことになりました(田保橋潔「前掲書」)。
 12月6日竹添公使は機密書類を焼き、国旗を降ろして公使館警備日本軍とともに仁川に避難、途中公使館付武官磯林真三大尉ほか日本人男女40人が殺害され、公使館は再びおしよせた暴徒に焼かれました。竹添公使を除いて公使館関係者および日本軍兵士ならびに金玉均らは12月11日定期船「千歳丸」で仁川を出港、日本に逃れました(「朝鮮京城事変始末書」明治文化全集 第11巻 外交篇 日本評論社・田保橋潔「前掲書」)。
 1885(明治18)年1月9日特派全権大使井上馨外務卿は左議政金宏集全権と甲申事変処理の漢城条約(「日本外交年表竝主要文書」上)に調印、朝鮮政府は国書により日本に謝罪、死傷者に賠償金支払い、犯人処罰、日本公使館再建を約束しました。
 同年4月18日参議伊藤博文全権大使は清国直隷総督李鴻章と天津条約(「日本外交年表竝主要文書」上)を締結、朝鮮から日清両国軍共同撤兵、将来派兵の際の行文知照(公文書のやりとり、照会)、両国とも軍事教官を派遣しないことなどを約束しました。

児島襄「大山巌」を読む25

 1885(明治18)年12月22日太政官制を廃止し、内閣総理大臣および宮内・外務・内務・大蔵・陸軍・海軍・司法・文部・農商務・逓信の各大臣を置き、宮内以外の大臣で内閣を構成することを定めました(「法令全書」第18巻ノ2 原書房)。また内閣職権を定め、内閣総理大臣の権限(各大臣の首班として行政を統督、ただし軍機事項は陸軍大臣より報告を受けるにとどまる、すなわち統帥権の独立の法文化)を規定しました。 また同日内閣総理大臣に伊藤博文、外務大臣井上馨、陸軍大臣大山巌、海軍大臣西郷従道、農商務大臣谷干城、文部大臣森有礼らが任命され、第1次伊藤博文内閣が成立しました(「明治政史」明治文化全集 第9巻 正史篇 上)。

近代日本人の肖像―人名50音順―た・とー谷干城

 相次ぐ朝鮮半島における壬午・甲申事変の続発と清国の朝鮮支配の強化に対抗して、海軍大臣西郷従道は陸軍大臣大山巌と協議、1886(明治19)年6月15日海軍公債証書条例を公布(勅令)、海軍拡張のため利率5分で1700万円を公募する措置をとりました。また陸相大山巌は明治20年度予算に陸軍軍備増額を要求、苦慮した伊藤首相は天皇に帝室費の一部を下賜することを奏請、天皇は海防整備のため手許金30万円を下賜することを決定しました。同年3月23日伊藤博文は鹿鳴館に地方長官を招集、地方有志の海防費献金を求めることを訓示、9月末までに203万円余を集めました(「伊藤博文伝」)。また蔵相松方正義は年収300円以上収入に1/100〜3/100の所得税を創設しました(勅令)。

児島襄「大山巌」を読む26

 一方我が国外交の重要課題の一つに条約改正問題があります。1886(明治19)年5月1日井上馨外相は各国公使と第1回条約改正会議を外務省で開催、正式に条約改正案を提出しました(外務省編「日本外交文書」第19巻)。翌年4月22日第26回条約改正会議は裁判管轄に関する英独案を修正議了しましたが、その内容は次の如くです。@批准後2年以内に日本内地を外国人に開放、A泰西(西洋)主義による司法組織、法律を制定、B外国籍の判事・検事を任用する(外務省編 条約改正関係「日本外交文書」経過概要 巌南堂書店)
 また同年4月20日には首相官邸で仮装舞踏会が開催(「伊藤博文伝」)され、伊藤首相は伊太利ベニス貴族の服装、大山巌陸相はチョン髷で大小を腰にさしていました(時事新報の記事「自由党史」下 引用)。このころ同様の舞踏会が鹿鳴館で開かれ、卑屈な欧化政策として非難の声が高まりました。
 同年6月1日司法省法律顧問ボアソナードは条約改正に関し裁判管轄条約案に反対する意見書を内閣に提出(条約改正関係「日本外交文書」経過概要)、さらに同年7月3日農商務相谷干城は裁判管轄条約案に反対し、条約改正は国会開設後に延期せよとの意見書を伊藤首相に提出、後辞職しました(平尾道雄「子爵谷干城伝」富山房)。

chotto 法学―世界の法律家―ボアソナードと民法成立の嵐

 かくして8月になると条約改正に反対する各地代表が続々と上京、元老院や諸大臣に要求を提出、この間ボアソナード・谷干城の意見書が秘密出版で流布、10月には高知県代表片岡健吉らが植木枝盛起草の三大事件建白書(地租軽減・言論集会の自由・外交失策の挽回)を元老院に提出(「自由党史」下)、一時衰退したかに見えた自由民権運動は再び盛り上がる情勢となってきました。
これに対して政府は同年12月26日保安条例を官報号外により公布施行、秘密の結社集会の禁止・屋外の集会運動の制限・危険人物の退去命令などで、中江兆民・尾崎行雄・林有造ら570人を皇居3里以外に追放しました。拒否した片岡健吉ら15名は軽禁錮2年半(3年 自由党史)に処せられました(「明治政史」明治文化全集 正史篇 上)。

児島襄「大山巌」を読む27

 1888(明治21)年1月4日伊藤博文首相は大隈重信を外相に迎えて局面打開を図りました。伊藤博文は同年4月30日枢密院官制が公布されると枢密院議長に就任、同日黒田清隆内閣が成立しました(「明治政史」明治文化全集 正史篇 上)。
 1889(明治22)年2月11日大日本帝国憲法が発布されました(「法令全書」第22巻ノ一 原書房)。当時日本が模範とした欧米列強の中でもロシヤなどはまだツアーの専制政治下にあり、アジアで日本が最初に憲法による政治の近代化を成し遂げたことは評価されるべきでしょう。

明治・その時代を考えてみようー歴史上の事件に対する項目―大日本帝国憲法・国会開設

しかしながらこの憲法は欽定(勅命によって定められた)憲法として専制的であり、ベルツが「東京全市は十一日の憲法発布をひかえてその準備のため、言語に絶した騒ぎを演じている。至るところ、奉祝門、照明、行列の計画。だがこっけいなことには、だれも憲法の内容をご存じないのだ。」(「ベルツの日記」上 明治22年2月9日条 岩波文庫)とか「残念ながらこの祝日は、忌まわしい出来事で気分をそがれてしまった―森(有礼)文相の暗殺である。」(ベルツ「前掲書」明治22年2月11日条)というような在日外人の否定的評価をうけることになったのです。

History of modern Japan―日本近現代史研究―人物に関するデータベースーもー森有礼

また外人のみならず、中江兆民は「吾人賜与せらるるの憲法果して如何の物乎(か)。玉耶(か)将(は)た瓦耶(か)。未だ其実を見るに及ばずして、先づ其名に酔ふ。我国民の愚にして狂なる何ぞ如此(かくのごと)くなるや。」と批判し、憲法を大阪で一読して、あまりに専制的なのにあきれ苦笑するばかりであったそうです(幸徳秋水「兆民先生」岩波文庫)。また民衆の中には「欲張り連は、政府から絹布の半被(はっぴ)を下さるのだと思った」(高田早苗「半峰昔ばなし」明治文学全集 明治文学回顧録集一 筑摩書房)人もいたようです。

日本掃苔録―CONTENTS―銅像めぐりーたー高田早苗

 憲法発布の翌日黒田清隆首相は鹿鳴館に地方長官を集め、政府は超然として政党の外に立つとの方針を訓示(超然主義演説)しました(「明治政史」明治文化全集 第10巻 正史篇 下)。

児島襄「大山巌」を読む28

 黒田清隆内閣に留任した大隈外相は井上馨とは異なり、国別交渉により欧米列強間の対立を巧みに利用して最強硬のイギリスを孤立させつつ、極秘に条約改正交渉をすすめましたが、1889(明治22)年4月19日その内容を「ロンドンタイムス」が論評、この記事を外務省翻訳局長小村寿太郎が紹介したといわれ(「大隈侯八十五年史」第2巻 明治百年史叢書 原書房)、同年5月新聞「日本」(主筆 陸羯南 くがかつなん)がこれを翻訳掲載しました。

近代日本人の肖像ー人名50音順ーか・こー陸羯南

大隈案は井上案に比して前進した点が多かったのですが、そこで問題となったのが大審院に外人判事を任用することで、これには内閣法制局長官井上毅の外人法官任用は憲法第19条「日本国民ハ法律命令ニ定ムル所ノ資格ニ応シ、均シク文武官ニ任セラレ、其ノ他ノ公職ニ就クコトヲ得」に違反するという見解が出され、同年10月18日大隈外相は閣議の帰途玄洋社員来島恒喜に爆弾をなげられて負傷するに至りました(「玄洋社社史」近代史料出版会)。
 負傷した大隈重信を診察したドイツ人医師ベルツはこのときの様子を次のように述べています。「下腿を動かすと、骨がまるで袋にはいっているかのように、手の中でがたがた音を立てた。上腿切断手術よりほかに、施す手段がないことは明白だった。」(「ベルツの日記」上 明治22年10月18日条 岩波文庫)。
同年12月10日閣議は条約改正交渉延期を決定、12月14日大隈外相は辞表を提出しました(徳富蘇峰「公爵山県有朋伝」中 明治百年史叢書 原書房)。

児島襄「大山巌」を読む29

同年12月24日第1次山県有朋内閣が成立、翌1890(明治23)年7月1日第1回総選挙が行われ、民党(野党)の立憲自由党(同年9月15日結成)と態勢をたてなおした立憲改進党が、吏党(与党)を抑えて多数派を占めたのです。 
 同年10月30日戦前日本の教育の背骨を形成する教育に関する勅語が発布されましたが、翌年1月9日第一高等中学校始業式において講師内村鑑三は教育勅語に対して拝礼せず(小沢三郎「内村鑑三不敬事件」新教出版社)、国家主義者・仏教徒らによるキリスト教への批判攻撃が高まってきました。

はなごよみーもくじー雑学資料室―歴史資料―修身教典 第二−勅語―教育勅語

歴史が眠る多摩霊園―著名人(頭文字)−あー内村鑑三

1890(明治23)年11月15日明治天皇は有栖川熾仁親王ら皇族と山県有朋首相ら閣僚らとともに大山巌の私邸(東京府豊多摩郡千駄谷町)を訪問しています(宮内庁編「明治天皇紀」第七 吉川弘文館)。 
 同年11月29日開会された第1通常議会において、12月6日山県有朋首相は施政方針演説で「国家独立自衛の道は一に主権線を守禦し、二に利益線を防護するに在る。」(「公爵山県有朋伝」下)とし、主権線とは国疆(境)、利益線とは主権線の安全と緊しく相関連するの区域(朝鮮)であり、そのためには軍備増強が必要であると主張、松方正義蔵相は軍艦製造費521万余円、鉄道建設費250万円を含む8307万円余の予算案を提出しました。

近代日本人の肖像―人名50音順―や、ゆ、よ、わー山県有朋

明治23年は凶作で、産業界も日本資本主義最初の恐慌が起こるという背景の下で、民党は民力休養・政費節減をスローガンに、軍艦建造費など政府予算案の800万円近い大削減で対抗しましたが、1891(明治24)年2月20日政府は民党の土佐派切り崩しで修正案(歳出削減額を縮小)を通過させました(「大日本帝国議会誌」大日本帝国議会誌刊行会)。
この切り崩された土佐派の中に植木枝盛がいたのです(家永三郎「植木枝盛研究」岩波書店)。

児島襄「大山巌」を読む30

第1議会が終わると山県有朋は辞表提出、1891(明治24)年5月6日第1次松方正義内閣が成立、外務大臣は青木周蔵(このとき大山巌の陸相辞任と高島鞆之助陸軍中将の就任内定、やがて大山巌陸軍大将に昇進)、しかるに同年5月11日滋賀県大津で巡査津田三蔵が来日中のロシヤ皇太子に斬りつけた傷害事件(大津事件)が発生しました(外務省編「日本外交文書」第24巻)。松方首相・山田顕義法相らは大津事件犯人に刑法第百十六条の皇室に対する罪(死刑)を適用する方針でしたが、大審院長児島惟憲は津田三蔵を謀殺未遂罪に該当する旨の意見書を首相・法相に提出(「伊藤博文伝」)、5月27日大審院は刑法第二百九十二条其の他の謀殺未遂罪により無期徒刑を判決しました(「日本外交文書」第24巻)。 

近代日本人の肖像―人名50音順―か・こー児島惟憲 

 同年11月26日第2通常議会開会 すでに同年3月19日立憲自由党は自由党と改称しましたが、昔の民衆運動と結合した大衆政党から地主・ブルジョア政党としての性格を強め、改進党と連携して、松方内閣の軍事費を大幅に削減、このため政府は衆議院を解散、1892(明治25)年2月15日第2回総選挙施行、選挙干渉により各地で騒擾事件が起こりましたが(衆議院・参議院編「議会制度七十年史」帝国議会史 上巻 大蔵省印刷局)、結局民党側の勝利に終わりました。同年5月6日第3特別議会開会、政府の露骨な選挙干渉が問題となり、河野敏鎌内相は干渉選挙の責任者処罰を断行、干渉選挙を支持した高島鞆之助陸相、樺山資紀海相は7月28日辞表を提出、同日松方首相も辞意を奏上しましたが天皇に慰留され一旦留任を決意、ところが大山巌陸軍大将は陸軍中将川上操六・海軍中将仁礼景範とともに松方首相を訪問して辞職を勧告、後任の陸・海相に就任するものはいないと述べ辞去、これにより7月30日松方内閣は総辞職しました。
2010-09-21 05:50 | 記事へ | コメント(0) |
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児島襄「大山巌」を読む11〜20
2010年09月11日(土)
児島襄「大山巌」を読む11

1870(明治3)年8月15日大山弥助らは普仏戦争観戦を命ぜられ、8月28日横浜から米飛脚船クレド・ハフリック号で出発、太平洋を横断、サンフランシスコからニューヨーク経由で大西洋を渡り、10月23日ロンドン到着、閏10月23日ベルリン着、11月11日(西暦1871年1月1日)以後普仏戦争(「米欧回覧実記」を読む14参照)を観戦しました。フランス政府がプロシヤに降伏後、弥助はパリに入り、3月19日マルセーユから日本への帰途につき、5月5日(明治4年3月16日)横浜に帰着しました(「元帥公爵大山巌」年譜)。
 すでに1870(明治3)年12月勅使岩倉具視らが鹿児島を訪問したとき、藩主の依頼により鹿児島県大参事の職にあった西郷隆盛は岩倉に提出した改革意見二十五箇条の中で、明治新政府の軍事力を世襲の士族軍隊を中核とすることを主張していました(「西郷隆盛意見書」(「西郷隆盛全集」第3巻 大和書房)。翌年2月13日政府は薩長土3藩の兵を徴して御親兵の編成を命令し、4月25日大山弥助は御親兵を統括する兵部省の役職兵部権大丞に任命されました(尾野実信「前掲書」)。
 同年7月14日天皇は在京56藩知事を集め、廃藩置県の詔書を宣下しました(「維新史料綱要」)。

イッシーのホームページー地理のページー府県の変遷

 同年8月15日大山弥助は陸軍少将に昇進しましたが、普仏戦争観戦の結果、国産兵器の発達をめざす研究のため欧州留学を希望、同年11月3日「兵部省出仕、仏国留学被仰付候事」という辞令を受けたのです(尾野実信「前掲書」)。
同年11月12日岩倉大使一行は米欧回覧のため、午後1時横浜を出港しましたが、このとき同行した5人の女子留学生の一人として山川(咲子)捨松(「大山巌」を読む9参照)がいました(「米欧回覧実記」を読む2・4参照)。
 1869(明治2)年11月松平容保の嗣子容大をもって松平家再興が認められ会津藩23万石は斗南(となみ)藩3万石(青森県下北郡・上北郡・三戸郡と岩手県二戸郡の一部)として陸奥半島田名部付近に移住させられてから、「過去もなく、未来もなく、ただ寒く飢えたる現在のみに生くること、いかに辛(つら)きことなりしか」「やれやれ会津の乞食藩士ども下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け、生きて残れ、会津の国辱雪(そそ)ぐまでは生きてあれよ、ここはまだ戦場なるぞ」(石光真人「ある明治人の記録」会津人柴五郎の遺書 中公新書)と皆歯をくいしばり耐えぬいたのです。山川咲子は姉たちと畑に出て肥桶を担ぎ野良仕事を手伝いました。箱館のフランス人宣教師の家に預けられたこともあるので、それが女子留学生の一人となるきっかけになったのかもしれません。咲子の留学がきまると、咲子の母唐衣は咲子を一度は捨てるが、将来を期待して待つという意味をこめて、捨松と改名させました(久野明子「前掲書」)。
同年11月12日午後8時大山弥助は横浜からフランス飛脚船でインド洋・地中海経由でパリーに向かいました(尾野実信「前掲書」)。

児島襄「大山巌」を読む12

 李氏朝鮮政府の外交政策は清国の宗主権を認める「事大」と隣国日本と通交関係を維持する「交隣」の2原則からなり、他の諸外国に対しては鎖国政策をとっていました。このような鎖国政策を推進したのは若年の国王李熙(りき)の実父李昰応(りしおう 大院君)です。江戸時代対馬の宗氏を介した外交交渉と貿易が行われ、日本には将軍の代替わりごとに朝鮮通信使の来日がありましたが、1811(文化8)年を最後として、通信使来日は中絶していました(中村栄孝「江戸時代の日鮮関係」日鮮関係史の研究 下 吉川弘文館)。
  草梁倭館は朝鮮側が釜山草梁項に設けた外国人接待のための、建設維持費ともに朝鮮側負担の客館で、江戸時代対馬の宗氏は慣例によってその使用権を認められていたのです(田保橋潔「近代日鮮関係の研究」上巻 明治百年史叢書 原書房)。ここで貿易も行われ、その利益が対馬藩の財政を支える有力な財源の一つとなっていたので、対馬藩は朝鮮に対して卑屈な態度をとりがちでした。

朝鮮通信使の足跡をたどるー倭館

1868(明治1)年12月19日対馬藩主宗義達(よしあき)は家老樋口鉄四郎らを草梁倭館に派遣、新政府成立通告書を朝鮮地方官吏東莱府使を通じて朝鮮政府に提出しようとしましたが、東莱府使は通告書に「皇上登極(こうじょうとうきょく 天子即位)」などの文字が、対馬藩の副翰にも「勅」の文字が使用されているのは従来の慣例にそむき、朝鮮を下国として軽侮しているとし、通告書の受理を拒否しました(田保橋潔「前掲書」)。従来の慣例にそむくという理由は「皇」とは清国の皇帝のことで、「勅」とは皇帝の詔勅のことであり、これまで日本から朝鮮あての文書にこのような文字は使用していなかったということです。
征韓論はすでに江戸時代に見られ(「世に棲む日日」を読む6参照)ますが、このとき木戸孝允は「兵力を以、韓地釜山附港を被為開度(開かせられたく)、是元より物産金銀の利益は有之間敷(これあるまじく)、却て御損失とは奉存候得共(存じ奉り候えども)、(中略)億万生の眼を内外に一変仕、(中略)此外に別策は有之間敷。」(「明治2年正月大村益次郎宛書簡」木戸孝允文書 三)と早くも征韓論を主張していたのです。 

児島襄「大山巌」を読む13

 1871(明治4)年4月27日明治政府は大蔵卿伊達宗城を欽差(勅使)全権大使とし、条約交渉のため清国派遣を決定、清国欽差全権大臣李鴻章と交渉、日本ははじめ欧米諸国にならって清国と不平等条約を締結しようとしましたが、清国案にもとづいて討議、同年7月29日対等条約である日清修好条規(大日本国大清国修好条規)を天津で調印しました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上 明治百年史叢書 原書房)。しかし1873(明治6)年4月30日批准書交換によりようやく発効したのです。

独学ノートー単語検索―日清修好条規

1871(明治4)年年副島種臣(肥前藩出身)が外務卿に就任すると、翌年8月18日外務大丞花房義質および森山茂らを軍艦で朝鮮釜山に派遣、9月16日草梁倭館を外務省直轄の在外公館として外務省官吏を駐在させ、従来の宗氏と朝鮮との私的貿易関係を廃止、宗氏の使者を退去させ、その旨を朝鮮側に通知しました(田保橋潔「前掲書」)。日本側は草梁倭館の歴史的事情にうとく、この措置に朝鮮側が反発したのは当然というべきでしょう。
朝鮮側は従来の宗氏仲介による旧慣を主張して交渉に応ぜず、1873(明治6)年5月朝鮮の東莱府使が草梁公館の門前に「彼雖受制於人不恥[彼(日本人)は制を人(欧米人)に受くと雖も恥じず]、其変形易俗、此則不可謂日本之人[その形を変え俗を易(か)え、これすなわち日本の人というべからず]、不可許其来住於我境[其の我が境に来住するを許すべからず]、…」(田保橋潔「前掲書」)という文章を含む掲示を発表して日本の開化政策を非難、これにより日本政府内に征韓論が高まってきました。
 当時岩倉大使一行は外遊中で留守政府首脳部は太政大臣三条実美以下西郷隆盛(薩)・板垣退助(土)・後藤象二郎(土)・大隈重信(肥)・江藤新平(肥)らの参議で構成されていました。
 板垣退助は居留民保護のための兵を釜山に送ることを提案、これに対し西郷はまず自ら全権大使として朝鮮に赴き、もし危害を加えられたら軍隊を出動させるべきと主張、同年8月17日の政府首脳会議で西郷の朝鮮派遣を内定、三条は8月19日箱根御用邸にて明治天皇の裁断を上奏、天皇は「宜く岩倉の帰朝を待ちて相熟議し、更に奏問すべし」と述べました(宮内庁「明治天皇紀」第三 明治六年八月十九日条 吉川弘文館)。

「征韓論」政変をめぐってー毛利敏彦氏に答える

西郷隆盛は人情に厚く、版籍奉還(1869)後に推進された家禄の削減や、徴兵令の公布(1873)による士族の没落と困窮による不満を朝鮮との軍事的緊張に生かし、士族を救済するために、征韓論を利用したとも考えられます。

児島襄「大山巌」を読む14

 1873(明治6)年9月13日外遊から東京へ帰った岩倉具視は、まずすでに参議を辞任していた大蔵卿大久保利通を復職させ、同年10月14・15日大臣・参議会議(木戸病気欠席)において西郷・板垣・後藤・江藤・副島らの大使派遣論と岩倉右大臣および大久保・大隈らの内地優先論が激突、太政大臣三条実美は西郷の主張を認め、岩倉および大久保らは辞意を表明しました。

維新の嵐―明治十一年・東京―第9章 背景世界設定―1)明治政府―@組織―政府組織図

 ところが政府分裂の危機に直面して、三条実美は心痛のあまり、10月18日朝卒倒、人事不省となり、10月20日勅命により岩倉具視が太政大臣代理を務めることになりました。
 同年10月23日岩倉具視は天皇に上述の大臣・参議会議の決定と岩倉の意見(「朝鮮事件ニ関スル奏問書」岩倉具視関係文書 第1巻 日本史籍協会叢書)をともに上奏、翌日岩倉の意見を可とする天皇の裁断が下り、征韓派参議はただちに辞職しました(「岩倉公実記」下 明治百年史叢書 原書房)。
 1874(明治7)年1月14日右大臣岩倉具視が東京赤坂喰違で高知県士族武市熊吉らに襲撃される事件が発生しました(「岩倉公実記」下)。

気ままに江戸 散歩・味・読書の記録ー以前の記事ー2009年12月18日 喰違の変

 岩倉具視は事態収拾策として西郷を上京入閣させる以外にないと考え、西郷を説得する使者として当時ジュネーブに留学中の陸軍少将大山弥助を呼び戻すことを協議、弥助を呼び戻す役として宮内少輔吉井友実に白羽の矢がたてられました。
 佐賀の乱の平定が布告された3日後吉井友実は辞職、三条実美と岩倉具視連名の大山弥助宛て手紙を手にパリに赴き、同年5月2日ジュネーブからやってきた大山弥助に会って帰国を要請、弥助は一旦帰国を断りましたが、三条・岩倉両大臣は弥助に帰国命令の電報を打ち、同年10月3日弥助は東京に帰着(尾野実信「前掲書」)、その2日後鹿児島に向かいました。帰国以前弥助は大山巌と改名しています。
 鹿児島県では1873(明治6)年に実施された地租改正や太陽暦も行われませんでした。
 西郷隆盛は1874(明治7)年4月私学校を設立しました。それは賞典学校と銃隊学校、砲隊学校があり、厳密には銃・砲隊学校が私学校です。賞典学校は西郷隆盛らが戊辰戦争の功績により賜った賞典禄を経費に充て、銃隊学校は篠原国幹、砲隊学校は村田新八が指導、経費は鹿児島県令大山綱良が旧藩から県に引き継がれた公金から支出、次第に賞典学校は士官、銃隊学校と砲隊学校は下士官養成の教育組織となっていきました(陸上自衛隊北熊本修親会編「新編西南戦史」明治百年史叢書 原書房)。鹿児島県は西郷隆盛の影響下に薩摩士族が民衆を抑圧する、明治新政府から軍事的、政治的に独立した政治組織となりつつありました。
 大山巌が鹿児島に滞在したのは同年10月7日から11月3日朝までで、その間何回西郷隆盛と会ったのかは不明です。11月12日東京に帰った大山巌は大久保利通に西郷の説得が不調に終わったことを報告しています。同年12月18日大山は陸軍少輔の辞令を受け、陸軍省第一局長に補任されました。
 他方西郷と同じく征韓派として下野した板垣退助は同年4月土佐に帰り、片岡健吉、林有造、谷重喜らとともに立志社と称する政社を高知城下に設立しています(「自由党史」上)。

児島襄「大山巌」を読む15

 1874(明治7)年9月24日東莱府役人は朝鮮国王戚臣である禁衛大将趙寧夏の親書を草梁公館駐在の森山茂に手交しましたが、その内容は日朝国交梗塞に遺憾の意を表し、最近における日本国の革新を認め、新たな形式に従い、交隣を継続することを希望することを述べていました(田保橋潔「前掲書」)。これは国王・戚臣らが日朝国交再開を希望しているのに、大院君派の鎖国政策に妨げられている現状を打開するために国王・王妃閔(びん)氏一族とならぶ戚臣の中心人物である趙寧夏が国王の真意を日本側に伝達するするための措置であったようです。しかし森山茂は朝鮮の政情にくらく、趙寧夏親書の重大性を理解していなかったもののようです。
 1875(明治8)年4月森山茂および広津弘信は外務卿寺島宗則に朝鮮では大院君と王妃閔(びん)氏一派の抗争が激化し、日本の軍事圧力によって朝鮮の開国が促進される可能性がある。すなわち日本の軍艦1〜2隻を対馬・朝鮮の間に派遣して海路を測量したりすれば条約締結を督促する効果があるだろうという建白書(外務省編纂「日本外交文書」第8巻)を提出しました。
 清国は日清修好条規の批准や台湾出兵(1874)をめぐり、朝鮮が属邦ではあるが内政教令・和戦について自主独立の国であることを認めていたので、明治政府(内治派)は朝鮮に軍事的圧力を加える政策を採用、同年5月25日軍艦雲揚(艦長 井上良馨少佐)は釜山に入港、6月12日入港した軍艦第二丁卯(艦長 伊東祐亨少佐)とともに港内で軍事演習を実施、朝鮮側に恐怖感を与えました。

維新の志士たちー幕末維新 出来事一覧ー47 台湾出兵

 やがて雲揚は朝鮮東南西海岸より清国牛荘(にうちょわん 営口)辺にいたる航路研究の命をうけ、同西海岸を北上中、9月20日淡水補給のため江華島に接近、ボートをおろして漢江の支流塩河をさかのぼろうとしたところ、江華島砲台の砲撃をうけたので、同砲台に砲撃をかけ、永宗島永宗鎮砲台を攻撃、大小砲を奪い、9月28日午前8時長崎に帰港、海軍省に打電しました(明治8年10月8日付「雲揚艦長戦闘詳報」田保橋潔「前掲書」)。
 1876(明治9)年1月6日特命全権弁理大臣黒田清隆・特命副弁理大臣井上馨以下27名の使節団は軍艦3隻・運送船3隻の艦隊をひきいて東京を出港、2月10日300の兵力とともに江華島に上陸しました。日本艦隊は同年2月11日紀元節の祝砲と称して砲声を轟かせる(「日本遠征記」を読む11参照)中で4回にわたる交渉の結果、同年2月27日「日朝修好条規」の調印が江華島で行われました(外務省編「日本外交年表竝主要文書」上)。

理解する世界史―サイトマップー世界史年表4 日朝修好条規の締結(朝鮮の開国)

 この条約は第1款で「朝鮮国ハ自主ノ邦ニシテ日本国ト平等ノ権ヲ保有セリ」と規定し、清国の朝鮮に対する宗主権を否定しようとしたことが注目されます。しかし同条約は日本が一方的に領事裁判権をもつ不平等条約で、日朝修好条規附録に附属する宮本小一理事官の朝鮮国講修官趙寅凞宛往復文書(「日本外交年表竝主要文書」上)において「我人民ノ貴国ニ輸送スル各物件ハ我海関ニ於テ輸出税ヲ課セス貴国ヨリ我内地ヘ輸入スル物産モ数年間我海関輸入税ヲ課セサル事ニ我政府ノ内議決定セリ」と輸出入を無税とすることも規定されていました。
同年1月11日33歳の大山巌は吉井友実の娘で15歳の沢子と結婚しています(「元帥公爵大山巌」年譜)。

児島襄「大山巌」を読む16

1876(明治9)年3月28日廃刀令(大礼服着用および軍人・警察官・官吏制服着の場合を除き、帯刀禁止)が出され、つづいて同年8月5日金禄公債証書発行条例制定(内閣官報局「法令全書」第九巻ノ一 原書房)により翌年から華士族の家禄・賞典禄を廃止、公債を支給することで、毎年政府歳出の3分の1近くを占めていた家禄支給を停止することになったのです。
これに対して同年10月24日熊本県士族大田黒伴雄らが熊本城鎮台を襲撃、鎮台司令長官種田政明陸軍少将らを殺害しました(神風連の乱)。

熊本県HP―目的で探すー熊本県をもっと知りたいー地域発 ふるさとの自然と文化―熊本―史跡・遺跡―種田政明邸跡  ダンナハイケナイ ワタシハテキズ

つづいて同年10月27日福岡県士族(旧秋月藩士)宮崎車之助らが挙兵(秋月の乱)、10月28日には山口県士族前原一誠らが県庁を襲撃しようとして(萩の乱)、鎮台兵に鎮圧される事件が続発しました(「明治史要」)。大山巌は命により同年11月1日熊本城に到着、11月26日熊本鎮台司令長官谷干城陸軍少将が着任するまで、熊本鎮台司令長官代理を勤めながら、鹿児島の動向を探っていたようです(尾野実信「前掲書」)。

熊本城公式ホームページー歴史ドラマー神風連の乱―西南戦争熊本城籠城戦

児島襄「大山巌」を読む17

 1877(明治10)年1月5日大山巌夫人は女子を出産、信子と名づけられました。
明治天皇関西巡幸に陸軍卿山県有朋が随行するため、同年1月20日大山は陸軍卿代理を命ぜられました。
ところがすでに1月18日内務卿大久保利通は木戸孝允と会談、鹿児島にある弾薬引き揚げに合意、そのための三菱会社汽船「赤龍丸」が鹿児島に派遣されました。
鹿児島には藩政時代に設立された集成館の銃器製作所、滝の神の火薬製造所が陸軍省所管となり、その制作と製造がおこなわれており、また草牟田、田上、上之原、小山田には火薬庫があって、赤龍丸は夜間、火薬弾薬の積み込み作業をしていました。
一方1月上旬鹿児島に帰省した少警部中原尚雄らは政府の密偵または刺客であるとの噂が広まっていました。同年1月30日私学校生徒らは草牟田の火薬庫を襲撃、翌日銃器製作所と上之原の火薬庫を襲撃、銃器・弾薬を奪いとり、赤龍丸はあやうくも港外に逃れたのです。
同年2月5日捕えられていた中原尚雄が拷問の末西郷暗殺の使命を自白した口供書に署名させられましたが、それが事実であったかどうかは不明です(「新編西南戦史」)。

明治・その時代を考えてみようー歴史上の事件に対する項目ー西南戦争とその時代ー西南戦争について

同年2月15日西郷隆盛は政府に尋問の筋ありとして兵を率い、鹿児島を出発、熊本城をめざして北上を開始しました(「明治史要」)。

児島襄「大山巌」を読む18

1877(明治10)年2月19日政府は西郷軍征討令を布告、有栖川宮熾仁親王が鹿児島県逆徒征討総督に任命され、本営を福岡の勝立寺に置き、征討参軍として陸軍卿山県有朋(陸軍中将)・海軍卿川村純義(海軍中将)が総督を補佐するこことなりました。征討軍は徴兵制による軍隊を主力とし、征討第一旅団司令長官として野津鎮雄陸軍少将、征討第二旅団司令長官に三好重臣陸軍少将、征討第三旅団司令長官三浦梧楼陸軍少将、別働第五旅団司令長官に大山巌陸軍少将が任命されました。
北上した西郷軍は同年2月22日熊本城を包囲しましたが、予想と違って熊本城をせめあぐむうちに、3月征討軍は熊本北方の田原坂(たばるざか)と山鹿(やまが)に迫り、3月4日西郷軍幹部篠原国幹は戦死、征討軍は3月20日田原坂を越え、翌日山鹿を占領しました。

ワシモ(WaShimo)ホームページーコンテンツー旅行記―熊本県―田原坂を訪ねて

 一方3月8日勅使柳原前光は黒田清隆陸軍中将とともに征討軍と警察官に守られ。軍艦3隻汽船2隻にを率いて鹿児島に赴き、県令大山綱良を逮捕して東京に連行、明治政府が鹿児島県政を掌握することに成功しました。
 同年4月14日征討軍は西郷軍の包囲を破って熊本城に入り、戦争の大勢は西郷軍の敗色濃厚となってきました。
 西郷軍は人吉・都城(みやこのじょう)・宮崎・延岡に転戦、8月16〜17日長井(延岡北方)で征討軍との決戦に敗北、西郷らは残った数百人を率いて峻嶮な可愛嶽(えのだけ)を越え、9月1日鹿児島に帰り、城山に立て籠もりました。大山巌は攻城砲隊司令長官に任命され、9月24日征討軍は総攻撃、撃たれて動けなくなった西郷隆盛は負われて城山背後の岩崎谷を下り、島津家一門の邸前で自刃しました。こうして西南戦争は終了したのです(「新編西南戦史」原書房)。

史跡夜話―全国編所々散策―鹿児島県―西南戦争 城山

 他方板垣退助によって土佐に設立された立志社は同年6月片岡健吉を代表として立志社建白を天皇に提出し、国会開設要求を中心として、重税に悩み地租改正反対一揆に立ちあがる民衆の声をとりあげようとする一派と林有造らの西郷に呼応して武装蜂起を計画する一派に分かれ、8月8日林有造が東京で逮捕されるに至りました(「自由党史」上)。

児島襄「大山巌」を読む19

 1878(明治11)年5月大久保利通が暗殺され(「雄気堂々」を読む16参照)、内務卿は工部卿伊藤博文が兼任となりました。つづいて同年8月23日近衛砲兵隊が俸給削減の不満などから暴動を企て、鎮圧(竹橋騒動)、同年10月13日陸軍裁判所は竹橋騒動参加者に死刑を含む処分を判決しました(陸軍省編「明治軍事史」上 明治百年史叢書 原書房)。
 同年11月大山巌は陸軍中将に昇進、12月5日参謀本部(12月24日本部長山県有朋)設立による軍政(人事・予算など、担当官庁 陸軍省)と軍令(作戦・用兵 担当官庁 参謀本部)の分離に伴い、参謀本部次長となり、1880(明治13)年2月18日陸軍卿に就任、参謀本部次長を兼任しました。
 1881(明治14)年3月参議大隈重信は国会開設意見書を左大臣有栖川宮熾仁親王に提出しましたが、その内容は1883(明治16)年より国会を開設し、中立永久官の下の政党内閣制を主張するものでした。同年6月27日三条実美太政大臣を通じて大隈意見書を借覧した伊藤博文は同年7月5日大隈と会見、君権を人民に放棄するものと非難(「伊藤博文伝」春畝公追頌会)、来るべき国会の性格をめぐって大隈と伊藤の対立が激化してきました。
 同年7月21日参議兼開拓使長官黒田清隆は北海道開拓使官有物払下げを太政大臣に申請、閣議は有栖川宮、大隈重信の反対で紛糾しましたが、払下げを決定、7月30日勅裁(「伊藤博文伝」)となりましたが、各新聞は北海道開拓使払下げ事件を暴露、世論の批判が高まってきました。

エピソード日本史―第八章 近代国家の成立(2)−182−1自由民権運動V

 同年10月11日午前会議(天皇臨席で行われる政府首脳会議)で立憲政体に関する方針や北海道開拓使官有物払下げ中止、参議大隈重信罷免などを決定(明治14年の政変)、翌日発表、明治23年に国会を開設するとの詔書が発せられました(「伊藤博文伝」)。これに対して大隈免官に反対し矢野文雄・犬養毅・尾崎行雄らがいっせいに辞任するに至りました(「明治政史」明治文化全集 正史篇 日本評論社)。 
 同年10月18日自由党が結党、同月29日総理に板垣退助を選挙、11月9日板垣は総理を受諾しました(「自由党史」中)。
 このころ私擬憲法(憲法試案)も多く起草されましたが、中には後の日本国憲法におおきな影響を与えたとみられる植木枝盛「日本国々憲案」(「東洋大日本国々憲案」)もありました(江村栄一編「日本近代思想大系」第9巻 憲法構想 岩波書店)。彼は国内では基本的人権の尊重による自由・平等を認め、国外では「万国共議政府」(現国連に近い国際組織)の創設と「宇内無上憲法」(現国連憲章に近い国際規約)を制定することによって、軍備の縮小あるいは廃止をめざす小国主義(田中彰「小国主義」岩波新書)を主張していたのであって、欧米列強にならい武力を背景とした朝鮮進出をめざす日本政府の大国主義路線と真っ向から対立する国家構想を展開していたのです(家永三郎「植木枝盛研究」岩波書店)。

土佐の歴史散歩―地域別―高知市―中心部―植木枝盛旧邸

 同年12月28日陸軍刑法・海軍刑法を制定(「「法令全書」第14巻 原書房)して軍人の政治関与を罪とすることが定められました。1882(明治15)年1月4日軍人勅諭が陸軍卿大山巌に下達されました(「明治軍事史」上)。

たむ・たむ(多夢・大夢)ぺーじにようこそー入り口―歴史関連―軍人勅諭

 1882(明治15)年4月16日立憲改進党が結党され、大隈重信を総理に推戴しました(「明治政史」明治文化全集 正史篇)。
 同年5月福島事件(「自由党史」中)がおこり、6月3日政府は集会条例を改正(太政官布告)して、地方長官に1年以内の演説禁止権、解社命令権、内務卿に一般的な結社集会禁止権を与え、政治結社の支社設置禁止などを追加しました(「法令全書」第15巻 原書房)。

エピソード日本史―第八章 近代国家の成立(2)−184−1民権運動の激化T

 同年6月後藤象二郎は板垣退助に外遊をすすめ、旅費を華族蜂須賀茂韶から借資することで板垣も了承しました。しかるに党内外からその旅費の出所が政府であるとの疑惑を呼びながら、同年11月11日板垣・後藤は横浜から渡欧、翌年6月22日帰国、8月20日大阪中之島において「欧洲観光の感想」と題する談話を発表しました。この談話の内容を要約すると次の如くです。彼が横浜から欧州にいたる途中でみた光景は欧州人がアジア人を野蛮として奴隷のように虐待する現実でした。このような現実の下で我が国が条約改正を実現するためには欧州人が讃嘆するような至善至美の法律を作るか、海軍を拡張して彼らが恐怖するような武力を養成することである。しかし現在急速に完全な法律を作ることができない状況においては海軍拡張による武力養成が急務である(「自由党史」中)とその主張の力点が民権から国権へと移行していったのです。

児島襄「大山巌」を読む20

 排外主義の大院君は引退、朝鮮国王と閔氏一族は国内改革を開始し1881年日本から陸軍少尉堀本礼造を軍事顧問に招聘、別技軍という日本式軍隊を訓練していましたが、別技軍は服装も給与も旧軍よりよく、旧軍隊は現物給与の米の遅配が続いており、不満が高まっていました。
 日本との貿易輸出の8割は米で、その影響でソウルの米価が2〜3倍に騰貴し、政府の腐敗した現物管理の高官が米の横流しをやったり、米の配給を担当する下級官吏が米の量目をごまかすことがおこり、これが旧軍隊の米遅配や量目不足の背景となっておりました。
 量目不足の米を受け取る事を拒否した兵士らが倉庫番を殴り、倉庫番の上官が兵士を刑殺しようとしたことから、兵士らは上官閔謙鎬の屋敷を破壊し大院君に訴えでました。大院君はこの反乱軍を閔氏一族打倒と排日武力闘争に利用、1882(明治15)年7月23日反乱軍は日本人教官堀本礼造を殺害、日本公使館には反乱軍兵士や民衆が押し寄せ、花房義質公使らは7月26日済物浦よりイギリス測量船に助けられ、7月30日長崎に帰着しました(壬午事変 外務省編「日本外交文書」第15巻・田保橋潔「前掲書」)。

近代日本人の肖像―人名50音順―あ・おー大山巌

 北海道・青森に出張していた大山巌は同年7月30日東京から朝鮮における壬午事変を知らせる三条実美からの緊急電報で、至急帰京せよとの命令を受け取りました。8月5日大山は東京に到着(尾野実信「前掲書」)、8月7日井上馨外務卿の訓令を受け、花房義質公使は下関から海軍少将仁礼景範指揮の軍艦4隻に高島鞆之助陸軍少将指揮の歩兵一個大隊を乗せて朝鮮仁川に向かいました。
ところが駐日公使黎庶昌からの電報により壬午事変を知った清国は8月9日北洋艦隊司令長官丁汝昌に命令、彼は軍艦3隻を率い馬建忠とともに朝鮮に赴き、翌日仁川に到着、馬建忠は8月23日兵を率いて漢城に入り、8月26日大院君は清国軍に拘束され翌日天津に送られ軟禁されました。
このような情勢の下で花房公使は同年8月30日朝鮮と済物浦条約を締結、壬午事変の犯人処罰、賠償金50万円、公使館駐兵権などを朝鮮に認めさせました(「日本外交年表竝主要文書」上)。
同年9月30日清国軍は壬午事変を鎮定、大院君を保定に移し、清国軍は引き続き朝鮮に駐留する旨を各国公使に通告、10月1日清・朝鮮間に商民水陸貿易章程を締結、清の朝鮮に対する宗主権が強化されたのでした。
 壬午事変に対する政府の出兵について、自由党は「我邦ノ内治未ダ整ハザル┐ヲ知ラザルベカラズ、此戦乱ノ費幾何ナルヤヲ察セザルベカラズ且ツ征軍勝利ノ後民権ノ上ニ如何ナル結果ヲ為スヤヲ思慮セザルベカラズ」(自由党機関紙「自由新聞」1882年8月8日付)と平和をもって主眼となすことを強調しました(信夫清三郎・林茂監修「復刻 自由新聞」第1巻 三一書房)。

2010-09-11 05:59 | 記事へ | コメント(0) |
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児島襄「「大山巌」を読む1〜10
2010年09月01日(水)
児島襄「大山巌」を読む1

 児島襄「大山巌」(文春文庫)はのちの元帥陸軍大将大山巌誕生の叙述から始まります。大山巌(岩次郎)は1842(天保13)年10月10日鹿児島城下加治屋町の下級武士大山彦八綱昌(西郷竜右衛門次男)の次男として出生しました。郷中頭西郷吉之助(隆盛)は岩次郎の従兄弟にあたり、6歳ころから習字と読書の指導を受けました。

旅路―@旅日記(汽車旅編)−南九州編ーB早春の薩摩路を行くー維新の故郷、加治屋町

 当時の薩摩藩士は地区単位の郷中に属し、年齢によって6、7〜13、4歳までの「稚児(ちご)」と、元服した14、5〜23、4歳までの「二才(にせ)」にわかれ、「二才」の中で才能と人望を認められたものが郷中頭に選ばれました。
 稚児岩次郎は腕白少年で、いくさごっこで竹槍をかわしそこねて左眼を負傷、その視力は元通りにはなりませんでした。
 1855(安政2)年ころ、岩次郎は元服、弥助と改名し、明年薩摩藩槍術師範梅田九左衛門に入門しました(尾野実信編「元帥公爵大山巌」大山元帥伝刊行所)。

児島襄「大山巌」を読む2

  1858(安政5)年7月6日将軍家定死去(「維新史料綱要」巻3)、つづいて7月16日島津斉彬死去、死去の直前かけつけた異母弟久光に、久光かその子忠徳(茂久・忠義)を斉興に伺い後継者と定めよと遺言しました(芳即正「島津斉彬」吉川弘文館)。同年7月21日徳川慶福は家茂(いえもち)と改名(「維新史料綱要」巻3)、同年10月25日将軍宣下(「公卿補任」)、家茂は14代将軍となりました(「天璋院篤姫」を読む9参照)。
 1860(万延1)年3月3日家茂を将軍に推した大老井伊直弼は桜田門外で水戸浪士らの襲撃を受け惨殺されました(「天璋院篤姫」を読む10参照)。
 和宮降嫁という幕府の公武合体策に対して、尊皇攘夷派は1862(文久2)年1月15日坂下門外の変を起こし、老中安藤信行(信正・陸奥磐城平藩主)は水戸浪士らに襲撃され負傷しました(「維新史料綱要」巻4)。
 同年4月16日薩摩藩主島津忠義の父島津久光は藩兵を率いて入京、朝廷に幕政改革の意見書を提出するとともに、同月23日伏見寺田屋に集結した薩摩藩精忠組暴発派の有馬新七らを久光の命を受けた同藩士が斬殺しました(「天璋院篤姫」を読む12参照)。精忠組暴発派に加わっていた大山弥助ら22人は大坂藩邸を経て鹿児島に護送され、謹慎処分を受けました(尾野実信「前掲書」)。

nature-京都の散歩路ー維新の路ー伏見界隈 其の三 寺田屋事件

 同年6月10日島津久光の奉ずる勅使大原重徳の伝えた勅旨により、幕政改革が行われ越前藩主松平慶永を政事総裁職に、一橋慶喜を将軍後見職とし、松平慶永のすすめにより同年閏8月1日会津藩主松平容保は、家老の諫止にもかかわらず、京都守護職を引き受け、任命されました(山川浩「京都守護職始末」1 東洋文庫49 平凡社)。

京都探検隊―menuー新選組探索ー1862(文久2)年7月27日 京都守護職の設置

児島襄「大山巌」を読む3

  島津久光の行列は江戸からの帰途、同年8月21日イギリス商人ら4人が武蔵国生麦村で行列を横切ったことにより斬られるという事件を起こしました(生麦事件)。
 1863(文久3)年5月9日幕府は生麦事件などの賠償金44万ドルを支払いましたが、薩摩藩は犯人処刑の要求に応じなかったため、同年7月イギリス艦隊は鹿児島湾に侵入、薩摩藩と交戦しました(薩英戦争・「天璋院篤姫」を読む12参照)。
 寺田屋事件関係者の謹慎も解かれ、大山弥助も動員されました。桜島に対面する鹿児島沿岸に北から祇園洲、新波戸、弁天波戸、大門口、砂揚場の各砲台が築かれていましたが、弁天波戸砲台に配属された弥助は斬り込み隊に応募、生麦事件犯人の海江田武次隊の一員として、黒田了介(清隆)、西郷信吾(従道)野津七左衛門(鎮雄)、伊東四郎(祐亨)らとともに西瓜売りをよそおって英国艦隊旗艦「ユリアラス」に乗り込むことに成功しましたが、他の斬り込み隊はいずれも乗り込みに失敗したため、斬り込みは中止、引き揚げとなりました(公爵島津家編纂所「薩藩海軍史」中 明治百年史叢書 原書房)。

敬天愛人―薩摩的幕末雑話―第七話「スイカ売り決死隊―薩英戦争の一場面―」

 同年7月2日薩英間の砲撃戦がはじまり、弁天波戸砲台の射程距離内に接近した「ユリアラス」号に砲台発射の弾丸が命中したようです。しかし薩摩藩側は甚大な損害を受けたのです。
薩摩藩は同年11月1日イギリス代理公使に生麦事件賠償金10万ドルを交付(「維新史料綱要」巻5)してイギリスとの接近をはかるようになっていきました。

児島襄「大山巌」を読む4

 大山弥助は薩英戦争後近代的砲術の習得が必要と考えるようになりました。1863(文久3)年8月18日の政変(「天璋院篤姫」を読む13参照)後、同年9月12日島津久光上洛時弥助も久光に従って上洛しましたが、やがて11月16日江戸の江川太郎左衛門塾(「小説 渡辺崋山」を読む16参照)に入門のため江戸へ向かいました(尾野実信「前掲書」)。

伊豆の国市―観光―伊豆の国市の観光―観光施設―重要文化財江川邸―Contents―江川英竜(坦庵)―砲術と韮山塾

 1864(元治1)年7月19日禁門の変が起こり、同年7月24日幕府が長州征討(第1次長州征討)を命令、薩摩藩家老小松帯刀は大山弥助ら江戸詰め薩摩藩士22名に上京を命じました。弥助は征長軍に加わって筑前芦屋に移動しましたが、翌年再び江戸にもどりました。
 同年閏5月22日家茂は上洛参内して長州再征を奏上、西郷吉之助はこれを知ると京都へ上り、江戸藩邸の縮小をはかり、同年12月大山弥助は江戸から京都に移動、大砲隊談合役に任命され砲隊訓練を指導するようになりました。
 あけて1866(慶応2)年1月21日薩摩藩京都藩邸で薩長連合の盟約(「竜馬がゆく」を読む14参照)が成立、同年6月7日幕府軍艦は長州藩領周防大島を砲撃(第2次長州征討開始)、しかし幕軍は連戦連敗でした。同年7月20日薩摩藩主島津茂久(忠義)は父久光と連名で関白に提出した建白書において「即今兵庫・大坂ノ儀ハ将軍家御在陣中号令整粛、軍威四方ニ可輝(輝くべき)ノ処、(中略)米価ハ勿論諸色未曾有ノ騰貴ニテ、既ニ災旱水溢ノ憂モ不被図(図られず)此上兵端を開候テハ、争論日ニ長シ率土(国土のはて)分崩当年不可救(救うべからざる)勢ニ及候」(「島津久光公実記」二 日本史籍協会叢書 東大出版会)と戦争が民衆の蜂起を誘発して彼らの支配体制そのものが崩れさる危険性を指摘しています。大坂の打ちこわしで逮捕されたものに役人がその発徒人(首謀者)を問うと其の首謀者は大坂城中(当時大坂城で将軍家茂が長州再征の指揮をとっていました)にあると言ったものがいたそうです(「丙寅連城漫筆」第一 日本史籍協会叢書)。
同年7月20日将軍家茂は大坂城で死去、8月20日幕府は家茂死去を公表、徳川慶喜の宗家相続を公布、9月2日幕府軍艦奉行勝海舟は長州藩士広沢真臣と安芸厳島で休戦協定を締結、9月19日幕府は征長軍撤兵を命令しました。
 薩摩藩家老小松帯刀は京都の情勢を長州藩と大宰府の三条実美ら五卿に伝えるため、大山弥助を派遣しました(尾野実信「前掲書」)。


児島襄「大山巌」を読む5

 1866(慶応2)年12月5日徳川慶喜は征夷大将軍に任命され、15代将軍に就任、ところが同年12月25日孝明天皇が死去、翌1867(慶応3)年1月9日睦仁親王(明治天皇)践祚、関白二条斉敬が摂政となりました。
 1867(慶応3)年10月14日正親町三条実愛は同月13日付島津久光父子宛・同月14日付長州藩主父子宛の討幕の密勅を薩摩藩大久保一蔵、長州藩広沢兵助に発しました。しかるにこれをかわすかのように、同日将軍徳川慶喜は前土佐藩主山内豊信(容堂)の建白を容れ、大政奉還上表を朝廷に提出、翌日朝廷は大政奉還を勅許しました(「天璋院篤姫」を読む16参照)。これによって江戸幕府は倒壊したのですが、徳川慶喜は天皇を頂点とする新政府において主導権を握ろうとしていたのです。
 これに対して同年12月9日朝廷は王政復古の大号令を発しましたが、薩長両藩は新政府における徳川氏の主導権を否定しようとし、徳川慶喜の辞官納地を命じることを決定、有栖川熾仁親王を総裁とする新政府を成立させました。
 当時京都二条城では征長に敗れた徳川軍と国許から京都へ上洛増強された薩長軍の間に一触即発の危機が迫っていました。この危機を回避しようとして慶喜は12月12日一旦二条城を退去、大坂城に入りました。、同年12月23日江戸城二丸が焼失、これは薩摩藩の関係者による放火ではないかとの嫌疑がかけられました。当時薩摩藩の益満休之助らが浪士を使って江戸で放火・強盗などをやらせ、騒乱状態が起こっていました。同月25日徳川方の指示で旗本・庄内藩兵らが江戸三田の薩摩藩邸に押し寄せ、これにより両者戦闘状態となり、薩摩藩邸は焼き討ち、浪士70余人が徳川方に捕らえられました(「維新史料綱要」巻7)。
 この薩摩藩の挑発が大坂城に伝わると、徳川慶喜は憤激する徳川軍を抑えられず、京都に攻め上り、迎え撃つ薩長軍と1868(慶応4・明治1)年正月3日鳥羽伏見で戦いを開始しました(「維新史料綱要」巻8)。

上杉家の戊辰戦争―その他の戊辰戦争の記事―鳥羽伏見の戦いー地図

児島襄「大山巌」を読む6

 同年1月5日徳川軍は下鳥羽に米俵を積んだ陣地を構築していましたが、薩摩軍の攻撃をささえきれず下鳥羽南西2キロの富ノ森に後退しました。伏見方面から応援にかけつけた大山弥助の2番砲隊が午前11時ころ会津兵の斬り込みを撃退、富ノ森陣地に臼砲攻撃を加えていると、前日征討大将軍に任命された仁和寺宮嘉彰親王が下賜された錦旗を掲げて出陣してきました。

国立公文書館デジタルアーカイブーカテゴリー別―絵巻物ー戊辰所用錦旗及軍旗真図
 
2番砲隊は弾薬が少なくなっていたので、大山弥助は大刀を左手に、右手に六連発拳銃を握り、砲を捨てて銃をとり突撃するよう命令しました。すると一弾が弥助の右耳を撃ちぬき、手ぬぐいで頬冠りして突撃を続行しました(尾野実信「前掲書」)。
敗北した徳川慶喜は、同月8日軍艦開陽丸で老中板倉勝清、京都守護職・会津藩主松平容保らを従えて大坂を脱出、同月12日江戸へ逃げ帰りました。慶喜は鳥羽伏見戦で錦旗が出現したと聞き「あはれ朝廷に刃向かふ可き意志は、露ばかりも持たざりしに、誤りて賊名を負ふに至りしこそ悲しけれ」(渋沢栄一「徳川慶喜公伝」4 東洋文庫 平凡社)と述懐したと伝えられています。
 西郷隆盛の書簡(同年1月10日桂右衛門宛)で「人数多少をを比較いたし候得ば、賊軍(徳川軍)は五増倍(三倍「維新史」第五巻)の事に御座候得共、かくの如き勝利はいまだ聞かざる儀に御座候。京摂の間、余程人心を失い居り候事にて、今日に至りては、伏見辺は兵火のために焼亡いたし候得共、薩長の兵隊通行度毎には、老若男女路頭に出て、手を合わせて拝をなし、有難し々々と申す声のみに御座候。戦場にも路路粮食を持ち出し、汁をこしらえ、酒を酌みて戦兵を慰し、国中の人民(薩摩藩領民)よりはまさりて見え候事に御座候。」(「西郷隆盛全集」第2巻 大和書房)と薩長軍を京都の民衆が支持したことを得意そうに述べています。

児島襄「大山巌」を読む7

朝廷は1868(慶応4・明治1)年1月10日前将軍徳川慶喜、会津藩主松平容保らの官位剥奪、慶喜追討と幕府直領を没収する布告を発し、同年2月9日有栖川宮熾仁親王が東征軍大総督に任命され、東海・東山・北陸3道の軍を指揮することとなりました。東征軍は主力を東海道と東山道(中山道)に配置、東海道軍は箱根から品川へ、大山弥助が所属する東山道軍は諏訪で二分されて、一方は甲府を経て内藤新宿へ、他方は碓氷峠を越えて板橋へ向かい、品川・新宿・板橋3方面から江戸城を総攻撃することになっていました。
同年1月12日朝廷は「今度、不図(図らずも)干戈(かんか 戦争)ニ至リ候儀ニ付テハ、万民塗炭(とたん ひどい苦しみ)之苦モ不少(少なからず)、依之(之に依りて)、是迄幕領之分、総テ当年租税半減被 仰付(仰付けられ)候」(太政官編纂「復古記」第1冊 内外書籍)と旧幕領年貢半減令をだし民心の掌握に努めました。相良総三に率いられる赤報隊は東山道各地に年貢半減令を宣伝しました。ところが小諸藩が出した訴状によれば赤報隊は徒党を企、頑民を語らい合い、連判状等取りたて(長谷川伸「相楽総三とその同志」新小説社)とあるように農民を百姓一揆のような組織に組み込みつつあったことが推定されます。同年3月3日東山道先鋒総督府は先鋒嚮導隊相良総三らを偽官軍として逮捕し、下諏訪で斬罪としました(「維新史料綱要」巻8)。

幕末維新新選組―佐幕人・幕末人名鑑―赤報隊 相良総三

徳川慶喜は故将軍家茂夫人和宮親子内親王(「天璋院篤姫」を読む17参照)と天台宗管領・上野寛永寺住職輪王寺宮公現法親王を通じて、朝廷に恭順の意思伝達をはかりました。この影響もあって同年3月13日大総督府参謀西郷隆盛と慶喜助命ならびに水戸謹慎を提案する旧幕府陸軍総裁勝海舟が、薩摩藩江戸藩邸で会見、翌日江戸城総攻撃中止、江戸城開城の合意成立となりました。
江戸城開城は同年4月11日に行われ、徳川慶喜も水戸に赴きました。しかし東征軍への降伏を受け入れない大鳥圭介指揮の徳川軍の一部は日光東照宮を拠点として、奥州の諸藩と連帯し抗戦する決意をかため、宇都宮にむかい、旧幕府海軍も海軍副総裁榎本武揚の指揮により館山湾に退きました。同年4月23日大山弥助の所属する官軍は宇都宮城を攻撃、大鳥圭介軍は奥州街道から北方へ退却していきました。つづいて同年5月1日白河城を陥落させると 同年5月3日奥羽各藩代表は仙台に集まり25藩が同盟条約を決議、ついで会津・庄内・長岡など8藩を加え、奥羽越列藩同盟が成立しました。
官軍側はこの情勢に対応するために、江戸上野に集結する彰義隊制圧を決意、同年5月15日彰義隊を攻撃鎮圧しました(「維新史料綱要」巻9)。

幕末歴史探訪―人物別分類―大村益次郎

写真紀行・旅おりおりー史跡を訪ねるー墓地・終焉の地―関東―江戸以前―彰義隊の墓

児島襄「大山巌」を読む8

 官軍を迎え撃つ会津藩の軍制は年齢別の青龍(36〜49歳)・白虎(びゃっこ16,7歳)・朱雀(すざく18〜35歳)・玄武(げんぶ50歳以上)の4隊にわかれ、その外一般藩民の志願者を集め、強制することはなく、他に身寄りあらば逃れるもよしと布令がありました(石光真人「ある明治人の記録」会津人柴五郎の遺書 中公新書)。
守備兵力は官軍が接近するとみられる南の日光方面、北西の越後方面に力点がおかれ、東方は険しい安達太良山脈と猪苗代城(亀ケ城)に頼っていたのですが、1868(慶応4・明治1)年8月22日猪苗代城陥落の報をうけて会津若松が危機におちいると、藩主松平容保は弟の桑名藩主松平定敬にも応援を求め、、日向内記の指揮する白虎隊二番中隊は会津若松城下から約8キロの十六橋西方大野ケ原に進出しました。
同年8月23日土佐藩兵を先頭とする官軍は会津若松城下に突入してきました。会津若松城下は鶴ケ城を囲む内濠と外濠の間に武家屋敷が集中し、外濠から内側に入る橋には郭門がありました。
 土佐藩砲兵は鶴ケ城を砲撃、1弾が北角の櫓に命中、所蔵されていた火薬に引火して大爆発をおこし、藩士邸も放火されて市内に火煙が立ち上りました。
このころ鶴ケ城東北東2キロの飯盛山にたどりついた白虎隊二番中隊は火煙に包まれている鶴ケ城を見て自決しましたが、飯沼貞吉のみ蘇生して助けられました(「七年史」四 続日本史籍協会叢書)。

呆嶷館―会議室発言集―飯沼貞吉

児島襄「大山巌」を読む9

土佐藩部隊は鶴ケ城大手門の前に築かれた北出丸からの射撃で侵入を阻まれました。土佐藩部隊から救援を求められて、参謀伊地知正治は大山弥助の指揮する砲兵隊の出動を命じましたが、このとき弾丸が大山弥助の右股を内側から貫き弥助は転倒、同年8月24日後送されました。

Yosh’s blog―カテゴリーーこのblog内の検索 山本八重とスペンサー銃 2009.5.21

 9月に入っても、約5000人の老幼男女と藩士が立てこもる鶴ケ城には砲撃と射撃がつづき、城内は食料不足に悩まされました。とくに城内での女性の活躍は著しく、松平容保の姉輝姫は負傷者の救護と炊事を指示して昼夜の別なく働きつづけました。
当時の榴弾は弾着後しばらくしてから炸裂し、焼弾は弾体の穴から火焔を噴き出して家屋を焼き尽くします。その対策として水に濡らした綿衣類や布団をかぶせて消火する役目が女性に課せられましたが、女性が砲弾とともに爆死する危険を伴ったのです。のちに大山弥助(巌)夫人となる会津藩家老山川大蔵(浩)の妹で当時8歳の咲子(捨松)もこれら女性の中にいたのです。捨松は後に当時を回顧して次のように述べています。「当時私は8歳でした。(中略)男達は皆戦いに出ていました。女子供も精一杯男達を助けて働きました。仕事の種類によって隊を編成し、米を洗って炊きだしをする者、前線にいる兵隊達のために弾薬を作る者、幼かった私に割り当てられた仕事は、蔵から鉛の玉を運び出し、弾薬筒につめられたものを他の蔵へ運びこむことでした。」(久野明子「鹿鳴館の貴婦人 大山捨松 日本初の女子留学生」中央公論社)。
同年9月14日官軍による鶴ケ城総砲撃がおこなわれ、藩主松平容保は開城を決意、9月22日ついに会津藩は官軍に降伏しました(「維新史料綱要」巻9)。
官軍参謀であった板垣退助は、後にこのころを回顧して次のように述べています。「東北に転戦し(中略)、会津が天下の雄藩を以て称せらるヽに拘らず、其亡ぶるに方って国に殉ずる者、僅かに五千の士族に過ぎずして、農工商の庶民は皆な荷担して逃避せし状を目撃し、深く感ずる所あり。(中略)蓋し(けだし おそらく)上下隔離、互に其楽を倶にせざるが為なり。(中略)我帝国にして苟くも東海の表に屹立し、富国強兵の計を為さんと欲せば、須らく上下一和、衆庶と苦楽を同ふし、闔(こう 全)国一致、以って経綸(けいりん 国家を治め整える)の事に従はざる可からず。」(「自由党史」上 岩波文庫)と考えるようになり、故郷土佐にかえって自由平等の宣言を発したと述べています。

児島襄「大山巌」を読む10

 大山弥助は1868(明治1)年11月20日鹿児島に帰り、砲隊塾を開きながら大砲の研究に取り組み、欧米製のものを改良した「弥助砲」を考案しました(尾野実信「前掲書」)。

尚古集成館―薩摩・島津家の歴史―1908 忠重、東京へ移るー公爵 島津家―弥助砲

1870(明治3)年3月弥助は東京(1868年7月17日江戸を改称「天璋院篤姫」を読む18参照)守備の薩摩藩兵として上京、弥助の率いる大砲隊一番大隊は数寄屋橋の旧江戸南町奉行所に駐屯しました。弥助は東京到着後同伴した薩摩藩鼓隊員を横浜に派遣、イギリス公使館軍楽隊長ジョン・ウイリアムズ・フェントンの伝習指導を受けさせることにしました。
 ところが各藩徴兵の天覧(天皇御覧)演習が予定されており、当然国歌演奏が行われるべきだから、国歌の練習から始めようとフェントンが言うので、日本に国歌はないというと、フェントンは国歌を作ってくれば、自分が作曲するといっていると、伝習小頭頴川吉次郎が大山弥助に相談をもちかけてきました。
大山弥助は薩摩琵琶「蓬莱山」の一節にうたわれている「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」をフェントンに紹介させ、フェントンはこれをもとに作曲を試みました(尾野実信「前掲書」)。
しかし1883(明治13)年宮内省式部寮雅楽課の林広守が「君が代」を作曲しなおし、海軍省傭教師フランツ・エッケルトの編曲したものが、現在国歌とされている「君が代」です(小田切信夫「国歌君が代講話」君が代史料集成 第3巻 大空社)。

JURASSIC PAGE―MIDIの森―もう一つの君が代
2010-09-01 05:25 | 記事へ | コメント(0) |
| 歴史小説・歴史の記録と史実(近代篇14) |
城山三郎「雄気堂々」を読む11〜20
2010年06月11日(金)
城山三郎「雄気堂々」を読む11

 1868(慶応4・明治1)年4月24日関東監察使三条実美は江戸城に入り、大総督以下と協議し、田安亀之助を徳川家相続者とし(「維新史料綱要」巻8)、駿府(静岡)において70万石を賜ることに決定、同月29日亀之助相続を、また徳川家封地については彰義隊鎮圧後の同年5月24日伝宣しました(渋沢栄一「徳川慶喜公伝」4 東洋文庫107 平凡社・「天璋院篤姫」を読む18参照)。
 渋沢栄一は同年11月19日駿府に到着、宝台院という駿府市中の小寺院で謹慎中であった徳川慶喜の引見を受けました。その後駿府藩庁から出頭命令があり、藩の勘定組頭を申しつけるとの辞令を交付されましたが、栄一はこれを辞退したのです。
 ところが明治新政府は財政窮乏のため、参与兼会計事務掛三岡八郎(由利公正)の建議(「維新史料綱要」巻8 明治元年正月二十三日条)により「太政官札」という不換紙幣を発行(「前掲書」巻9 同年五月十五日条)、その金額は凡そ4800万両でした。また諸藩石高に応じて、1万石につき1万両を新政府が拝借、その返還は太政官札をもって行い、13箇年賦で償却することとなりました。

日本銀行金融研究所 貨幣博物館ーわが国の貨幣史・年表ーわが国の貨幣史ー20 明治維新直後の紙幣ー太政官札・京都府札

 駿府藩への割付高は70万両程で、その年の末までに政府から交付された金高は53万両でした。栄一が提出した建議に基づき、藩勘定頭平岡準蔵は石高拝借交付金と地方の資本をあわせて商法会所(常平倉)という商会を設立、栄一は頭取として経営主任となり、預金・貸付金業務や京阪における米穀・肥料を買い付けて、これを駿府地方に売却するなどで利益をあげました(「雨夜譚」巻之四)。

城山三郎「雄気堂々」を読む12

 1869(明治2)年11月21日栄一は明治新政府より召喚を受け、同年12月初旬太政官に出頭すると、大蔵省租税正に任命されました。栄一はだれが自分を政府に推挙したのか判らなかったのです。当時の大蔵卿は伊達宗城、大輔は大隈重信、少輔は伊藤博文で、省務は大隈・伊藤がその多くを管掌していたので、同年12月中旬大隈を訪問して辞意を表明しましたが慰留されました。栄一は大蔵省の組織確立のため新局を設けて旧制の改革にあたることを提議、彼は改正掛長に任命されたのです(「雨夜譚」巻之五)。

埼玉が生んだ偉人渋沢栄一―関係人物―大隈重信

 1871(明治4)年春、大久保利通が大蔵卿、井上馨が大蔵大輔となる人事異動があり、栄一も大蔵権大丞となり、不換紙幣を償却し兌換準備を実現するため、当時アメリカへ出張中であった伊藤博文大蔵少輔の建議にもとづき、新貨幣にかんする条例立案を栄一が担当、同年5月「新貨条例」が制定され(内閣官報局「法令全書」原書房)、貨幣の呼称を円・銭・厘と定め、金本位制を確立しようとしました。

日本銀行金融研究所 貨幣博物館ーわが国の貨幣史・年表ーわが国の貨幣史ー21 円の誕生

また同年7月14日廃藩置県が断行され(「維新史料綱要」巻10)、その後栄一は財政の「量入為出」(支出・収入のバランスをはかること)方針をとって、各省経費の定額を設け、支出の制限を企てていました。しかるに同年8月ころ政府内に陸軍省の歳費額を800万円に、海軍省の同額を250万円に定めようとする提議があり、大久保大蔵卿はこれに同意しようとして、これに反対する栄一と対立しました。
 同年11月12日岩倉使節団は欧米視察のため横浜を出発、大久保利通大蔵卿も副使として同行(「米欧回覧実記」を読む2参照)したため、大蔵省の実権は井上馨大蔵大輔の掌握するところとなり、翌年春大蔵少輔吉田清成の英国出張により、栄一が少輔の事務を取扱うこととなりました(「雨夜譚」巻之五)。

城山三郎「雄気堂々」を読む13

 1859(安政6)年5月28日幕府は同年6月以降神奈川・長崎・箱館3港において、欧米列強との貿易を許可することを布告しました(「維新史料綱要」巻3)。幕末貿易の中心輸出品は生糸・産卵紙で、それまで京都に生糸を送っていた関東・東山・東北の地方は蚕種を横浜に送ってヨーロッパやアメリカに輸出するようになりました。
 その背景には当時世界の絹はイタリアとフランスの生産物で供給されていたのですが、ヨーロッパの養蚕地におこった微粒子病という蚕の病気の流行により、日本の生糸は世界的に重要なものとなったという事情がありました。
 1870(明治3)年2月から大蔵少輔伊藤博文・租税正渋沢栄一が中心となって、官営模範工場の設立計画がすすめられていました。同年6月フランス人技師ポール・ブリューナが招聘され、工場敷地を調査した結果、上野国富岡(群馬県富岡)に決定、1872(明治5)年10月富岡製糸場(場長 尾高惇忠)が開業しました(「富岡製糸所沿革大要」群馬県内務部「群馬県蚕糸業沿革調査書」二 明治前期産業発達史史料 別冊(50) 明治文献資料刊行会)。

群馬風便りー囲み記事―官営富岡製糸場

 この富岡製糸場で働いた伝習工女の記録として、和田英「富岡日記」(「中公文庫」)が有名です。彼女は次のように述べています「私の父は信州松代の旧藩士の一人でありまして、横田数馬と申しました。(中略)十三歳より二十五歳までの女子を富岡製糸場に出すべしと申す県庁からの達しがありましたが、人身御供(ひとみごくう)にでも上るように思いまして一人も応じる人はありません。(中略)やはり血をとられる(外国人が飲む赤ワインを生血と誤解)のあぶらをしぼられるのと大評判になりまして、(中略)それで父も決心しまして、私を出すことに致しました。」。
 彼女は一等工女として月給1円75銭でしたが、フランス人技師ブリューナの月給は月600ドル(約1ドル1円に相当)(楫西光速他「製糸労働者の歴史」岩波新書)で、御雇外国人が当時いかに高給で迎えられていたかがわかります。

城山三郎「雄気堂々」を読む14

 井上馨大蔵大輔は伊藤博文のアメリカでのナショナル・バンク制度調査にもとづく取り調べを渋沢栄一に委嘱、1872(明治5)年11月15日「国立銀行条例」が公布されました(「法令全書」第五巻ノ一)。国立銀行とは国法により設立された民間銀行という意味で、条例によれば資本金の6割を通貨で政府へ納入、同額の金札引換公債証書を受領、その公債証書を政府に納めて、政府から同額の銀行紙幣を受け取って流通せしめ、その引き換えのために資本金の4割を金貨で準備、希望により兌換する仕組みになっていました。
 他方井上馨・渋沢栄一による財政の「量入為出」(支出・収入のバランスをはかること)にもとづく各省経費の定額化方針は抵抗が大きくなかなか実現できませんでした。かくして1873(明治6)年5月3日井上馨大蔵大輔は辞意を表明、栄一も連袂辞職を明言、同年5月7日付で三条実美を経て政治・財政・経済上の意見書を奏上しました。その後まもなく意見書が「曙新聞」に掲載されたため、司法卿江藤新平は政府秘密を漏らした咎で井上に罰金を課したのでした。政府は同年5月23日付(5月14日「太政官日誌」渋沢栄一伝記資料第3巻)で「依願免出仕」の辞令を下しました(「雨夜譚」巻之五)。

南白新平館―南白伝

城山三郎「雄気堂々」を読む15

 明治維新以後、新政府の為替方を務めていた三井組・小野組は政府の勧奨により、1872(明治5)年6月連署で国立銀行設立の願書を大蔵省に提出、翌年6月11日「第一国立銀行」(「みずほ銀行」の起源)が資本金244万円余で創立、渋沢栄一が総監に就任、東京海運橋兜町に本店、横浜・大阪・神戸に支店を置き、銀行紙幣の発行と普通銀行業務の外に租税その他の官金出納事務を大蔵省から委託されました(「渋沢栄一伝記資料」第4巻)。

東京都中央区の地域情報 イーナビライフドットコムー中央区今昔物語ー3 日本橋兜町第一国立銀行と海運橋

 1873(明治6)年10月征韓派が下野(東大史料編纂所蔵版「明治史要」明治6年10月25日条 東大出版会)し、その一人であった江藤新平は翌年1月板垣退助らとともに「民撰議院設立建白書」に署名(板垣退助監修「自由党史」上 岩波文庫)、自由民権運動のさきがけとなりましたが、同年2月佐賀の乱を起こして刑死、同年4月には台湾出兵が起こり(「明治史要」)、戦乱つづきによる金貨高騰により兌換希望者が続出しました(「渋沢栄一伝記資料」第4巻)。

詳しくわかる高校日本史―日本史講義録目次―4 近現代―076 新政府の外交―台湾出兵―077 新政府への反動―政府内部の対立ー民撰議院設立建白書

またほぼ同時に起こった小野組破産により小野組への多額の貸付を行っていた第一国立銀行の打撃は大きかったのです。
 小野組で生糸買い付けや輸出に従事していた古河市兵衛は小野組閉店の際、秋田の鉱山を含む自らの財産を抵当として差出しました。このような古河市兵衛の協力にも助けられ、第一国立銀行は危機を乗り切ることに成功したのです。渋沢栄一はこの恩義に報いて、古河市兵衛の鉱山業に融資し、やがて市兵衛は足尾銅山の経営に成功するようになりました(「渋沢栄一伝記資料」第4・15巻)。

実業史研究情報センターーブログー記事一覧―2009・03・06−古河市兵衛の鉱山事業への支援

 正貨流出のため、第一国立銀行は兌換紙幣の発行を停止、横浜第二など他の三国立銀行と協議の上、正貨を銀行紙幣と兌換する制度を通貨(政府紙幣)と兌換するよう政府に請願しました。その結果1876(明治9)年8月改正国立銀行条例が公布され、銀行紙幣も政府紙幣もともに不換紙幣となりました(「法令全書」第九巻ノ一)。

城山三郎「雄気堂々」を読む16

  征韓論に敗れて下野した西郷隆盛は江藤新平の協力要請にも応ぜず、1876(明治9)年に起こった神風連の乱(熊本)、秋月の乱(福岡)、萩の乱(山口)など不平士族の反乱を傍観、私学校を創立して士族子弟の教育にあたっていましたが、1877(明治10)年2月西郷隆盛を擁立した私学校党は挙兵、西南戦争が勃発しましたが、結局徴兵制の政府軍に薩摩士族軍は敗北、同年9月西郷は自刃してここに西南戦争は終了したのです(「明治史要」)。
 同郷でありながら西郷隆盛と対立した内務卿大久保利通は翌1878(明治11)年5月14日東京紀尾井町で石川県士族島田一郎ら6人に刺殺されました(中山泰昌編「新聞集成明治編年史」第3巻 財政経済学会)。

埼玉が生んだ偉人渋沢栄一―関係人物―西郷隆盛

歴史倶楽部―郷土の歴史よもやまー6 大久保利通暗殺事件

 西南戦争によるインフレーションの進行を阻止するために、渋沢栄一は紙幣整理を政府に建議しようとしましたが、当時の財政責任者たる大隈重信の反対で実現しましせんでした(「渋沢栄一自叙伝」抄 渋沢栄一 日本図書センター)。1881(明治14)年の政変で大隈重信が下野(「伊藤博文伝」中巻 春畝公追頌会)した後、大蔵卿となった松方正義は不換紙幣償却のために緊縮財政方針をとり、官業を払下げ、翌年10月日本銀行が開業、1885(明治18)年兌換銀行券による銀との兌換を開始しました(大蔵省「明治財政史」第14巻 吉川弘文館)。

城山三郎「雄気堂々」を読む17

  1873(明治6)年渋沢栄一は王子抄紙会社(後 王子製紙会社)を創立しました(大蔵省編「明治前期財政経済史料集成」3 大蔵省沿革志 下 紙幣寮第二 明治文献資料刊行会)。大川平三郎の母親は渋沢夫人千代の姉みちであるという御縁で平三郎は渋沢家の書生として住み込むようになりました。会社に製紙業技術革新のため留学を希望する建白を提出、アメリカに留学して帰国後、製紙法に改良を加え、のちに王子製紙支配人となった人です(竹越与三郎「大川平三郎君伝」大川平三郎君伝記編纂会・「渋沢栄一伝記資料」第11巻)。
横浜に薪炭・石炭店を営業していた浅野惣(総)一郎は石炭や薪炭の納入先である横浜瓦斯局などが処理にこまっていた石炭の廃物コークスを東京の官営深川セメント工場技師鈴木儀六の協力でセメント製造の燃料として用いる方法を開発、これを同工場や製紙会社などに売り込みました。浅野が横浜花咲町にある瓦斯製造所にいくと、コークスは王子抄紙会社が買い占めていたのですが、ここではコークスは役に立たなかったので、浅野は渋沢に石炭とコークスの交換を申し入れ、承諾を得ると、浅野は安い石炭を仕入れて横浜に運び、製紙会社に納入し、巨利を得たのです(北林惣吉「浅野総一郎伝」千倉書房)。
王子製紙支配人谷敬三から、渋沢栄一が会いたがっていることを聞いた浅野はある夜渋沢宅を訪問しましたが、栄一は浅野に「お汝(ぬし)の様な人は東京で飯を食う以上、腕で飯を食う心掛が肝心ぢゃ」と話しました(浅野泰治郎・浅野良三「浅野総一郎」渋沢栄一伝記資料 第15・29巻」。こうして浅野は1884(明治17)年渋沢の援助で経営不振の官営深川工作分局払下げを受けることに成功しました(「工部省沿革報告」明治前期財政経済史料集成 第17巻ノ1)これが浅野セメント(現 太平洋セメントの起源)の始まりです。

埼玉が生んだ偉人渋沢栄一―雑学の部屋―明治の実業家たちー浅野総一郎

城山三郎「雄気堂々」を読む18

 渋沢栄一が大蔵省在職中の1871(明治4)年7月廃藩置県の際諸藩所有の汽船をもとに郵便蒸気船会社を設立させ、とくに貢米輸送にあたらせようと考えたのです。ところが岩崎弥太郎(「竜馬がゆく」を読む16参照)が経営する土佐藩汽船6隻ではじめた三菱汽船会社は1874(明治7)年の台湾出兵(征台の役)で軍事輸送を担当、やがて郵便蒸気船会社を合併、さらに西南戦争の軍事輸送でさらに社運を向上させるに至ったのでした(「渋沢栄一自叙伝」抄)。
 政商岩崎弥太郎の三菱汽船会社横暴を憎んだ渋沢栄一は1880(明治13)年益田孝(三井物産設立者 明治の女子留学生永井繁子の兄・「米欧回覧実記」を読む2参照)らとともに東京風帆船会社を設立しました。1882(明治15)年栄一の妻千代が死去しています(「渋沢栄一伝記資料」第29巻)。この小説は糟糠の妻千代をうしなった渋沢栄一を従兄の喜作が励ますところで終了しています。
 しかし渋沢栄一は翌年伊藤兼子と再婚、彼の活躍は千代死後も止むことはありませんでした。
1883(明治16)年には北海道運輸会社などを合併して共同運輸会社を設立、三菱汽船会社に対抗しました。しかし両社共倒れの危険も予想される事態となり、1885(明治18)年9月日本郵船会社設立となったのです。

近代日本人の肖像―人名50音順―ま・もー益田孝

 また陸運では1881(明治14)年11月池田章政(旧岡山藩主)らにより東京・青森間を結ぶ日本鉄道会社が設立され、渋沢栄一は株主となり、1885(明治18)年7月以降理事員に推されて、社業の発展に尽くしました(「渋沢栄一伝記資料」第8巻)。

城山三郎「雄気堂々」を読む19

 開港後イギリス綿業資本による機械紡績糸の綿糸・綿織物の流入が手紡糸生産のみの日本に洪水のように流入しました。このような状況の下で政府は伝統的な在来紡績業を保護育成するのではなく、西洋式機械紡績を導入保護することによって輸入綿糸に対抗しようとしたのです。
 当時日本には幕末に藩営または幕府の内命による洋式機械紡績所として鹿児島・堺・鹿島の三紡績所がありました。1878(明治11)年政府は水車を原動力としミュール紡機500錘立四基を運転する官営の愛知・広島紡績所建設などに着手しました。しかしこの方針は結局失敗に帰したのであって、こうした政府の保護の外で大規模生産を実現したのは渋沢栄一の発起により1883(明治16)年に操業を開始した大阪紡績株式会社(東洋紡績の起源)でした(「渋沢栄一伝記史料」第3章第1節第1款 大阪紡績株式会社 第10巻)。渋沢栄一は筆頭株主、有力株主は蜂須賀・前田・毛利・亀井・徳川・伊達・西園寺・井伊などの大華族、益田孝・大倉喜八郎・藤田伝三郎・住友・五代友厚などの政商資本並びに東京・大阪の綿問屋の巨大商人で構成されていました(大江志乃夫「日本の産業革命」岩波書店)。

はまだよりー発祥の地コレクションー大阪府―紡績工業(大阪市)−近代紡績工業発祥の地