漢検のご案内
まあちのブログ

[左提右挈 その4]
2008年02月17日 21時50分
 紀元前3世紀、秦の始皇帝が亡くなり、項羽や劉邦が活動し始めたころの話です。
 魏の張耳と陳余は互に認め合い、「刎頸の交わり」を結びました。廉頗と藺相如の故事にならったのです。二人は当時、大スターで宿敵の秦から張耳に一万両、陳余に五千両の賞金をかけられるほどの大物でした。
 その後、張耳と陳余は趙王に仕えることになりました。ところが、ひょんなことから趙王が燕に囚われの身となり、燕は趙王を帰して欲しければ趙の領地の半分を寄越せと言ってきました。そこで、趙の論客が燕に赴き、張耳と陳余の大物二人が連携して攻め寄せると、燕なんぞ一ひねりだぞと威しつけると、燕は怖れをなして趙王を帰した、という一節から。
なお、本文は史記の「張耳陳余列伝」(明治書院新釈漢文大系「史記」)によりました。

 「それ一の趙を以てすらなお燕を易(あなど)る。況や両賢王を以て左提右挈して、王を殺すの罪を責めば、燕を滅ぼすこと易からん」
 (そもそも一つの趙でも燕を軽んじていたのです。まして張耳と陳余という二人の賢王が互いに手をつなぎ、王を殺したという罪によって燕を責めたならば、燕を滅ぼすことはたやすいことでしょう)

 余談ですが、張耳と陳余はその後数奇な運命をたどりました。
 秦に攻められ籠城する張耳を陳余が救援しなかったことから、二人の固い友情に罅が入ったのです。
 救援を巡る二人のやりとりは、後世の評価が分かれるところです。

 趙王と籠城する張耳は陳余に使者を送って背信を非難しました。「わしとお前は刎頸の交わりを結んだはずだ。こちらは絶滅寸前と言う状態なのにお前は数万の兵を擁しながら救援に出ようとしない。どうして玉砕覚悟で秦軍にたちむかわないのだ」
 これに対し陳余はこう答えました。
「今、攻撃に出たところで自滅するだけで趙を救うことはできない。私が死をともにしないのは、理由がある。趙王とあなたのために秦に報復したいからだ。今、攻撃をかけて出るのは、飢えた虎に肉を投げ与えるようなもの、なんの益があろう」


 落城寸前の張耳らは、救援に駆けつけた項羽軍の活躍によって救われました。命拾いした張耳は激しく陳余を非難しました。陳余には陳余の言い分があり、二人の仲たがいは決定的になりました。
 陳余は張耳と決別し、趙を去り漁師になりました。張耳は項羽軍に加わり、秦の滅亡に貢献しました。項羽は論功行賞の際、張耳を趙の一国の王に任命し、陳余を地方の領主にしました。陳余はこれにも不満でした。その後、陳余は機会を得て、斉の兵を借り、張耳を攻め、張耳は敗走しました。敗れた張耳は、今度は劉邦を頼りました。
 やがて、天下の情勢は劉邦に傾き、劉邦は項羽を討つため趙に協力を求めました。趙にあった陳余は、劉邦の下に身を寄せていた張耳の首を条件に協力を約束しました。困った劉邦は姑息な手段を取りました。ニセ首を届けたのです。一旦はこれを信じて劉邦に協力した陳余でしたが、張耳が生きていることを知るとすぐさま反旗を翻しました。
 劉邦の天下となった後、劉邦は張耳と韓信に命じて趙に攻め入らせました。その結果、陳余は殺されました。一方、張耳は趙王に取り立てられ、陳余の死後2年して薨りました。これが刎頸の友の結末です。
 
[画像 1]
 
←前へ - 次へ→

1.コメントを見る(0)
2.コメントを書く
3.ブログトップへ

トップへ

ブロガリトップへ

Produced by ZAQ
Copyright (C) Kansai Multimedia Service Company All Rights Reserved.