ちょうど、一昨日の30日に、学生と話をしていたところだったデコちゃん。
もちろん彼女たちは知るはずもなく、こんな風に説明をしていた。
妖艶な女性、清楚な女性、おきゃんな女性、ひたむきな女性、主婦から娼婦、愛人まで、あらゆる女性を演じられる、今ではありえない女優さん
代表作は何になるのかなあ。二十四の瞳、カルメン、成瀬巳喜男作品のいくつか・・・
私はやはり、『カルメン故郷に帰る』が好きかなあ・・・
黒澤明とのロマンス、そのせいなのか、黒澤作品には出演していない・・・彼女が出ていれば、黒澤作品が変わっていたんじゃないか、なんて一時期は思っていた
僕が彼女を知ったのは、もう引退してエッセイストとして活躍しておられたころ。戦後日本映画にはまった時に、当然のように彼女の姿を見て、そして、一目ぼれ・・・。
好きな女優さんは、と聞かれると、古い人やけど、と言い訳しながら、デコちゃんの名前をずっとあげ続けてきたのだ。空気読めない奴と思われただろうな・・・この間写真集を買ったところだったのに・・・
昨晩ネットで見た訃報。28日に亡くなられたとのこと。まだ生きたはるよ、と学生に言っていた一昨日には、もう旅立っておられたのだ・・・ご冥福をお祈りいたします。
|
2011-01-01 14:11
|
記事へ |
コメント(0) |
トラックバック(0) |
|
domestic movies |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/kosuzu/trackback/385/
"高校生活最後の文化祭のステージを控える女子高生バンドの数日間を、ユーモアとせつなさをちりばめ、鮮やかに切り取った青春映画の傑作。"(日本映画専門チャンネルのページから)

最近こういう映画がけっこう多い気がする。古くはバタアシ金魚、櫻の園、最近ではウォーター・ボーイズ〜スウィング・ガールズあたりで定着?ロボコン、恋は五七五、シムソンズなどいろいろある。
キーワードは、日常性。

例えばそれは、おそろしく高い壁を、特訓と魔球で乗り越えるというような、あまりに過剰なスポ根型ビルドゥングスロマンと一線を画す。強い敵が限りなく登場し、最後には宇宙代表と野球をする、みたいな世界にぶっ飛んでゆくことは決してない。あくまで日常にいるこれらの映画は、それゆえにスポ根のように見えてもスポ根とはある一線を画するのだ。
またこれらは、青春映画としてもこれまでとは異質だ。例えば、80−90年代の青春映画といえば名が挙がるだろう大林映画が、時にはSFの設定を借りてまで非日常の世界を設定し、その経験を経ての成長を描く、通過儀礼型のビルドゥングスロマンなのに対比すると、彼/彼女達は学校という日常のなかで、そう高くもない普通の壁に挑みながら成長をしてゆく、緩いビルドゥングスロマンである。
(セーラー服と機関銃は非日常経由だな、そう考えると。のだめは??そういえば、長澤版セーラー服は最後の数回を見逃した。)
しかしこの映画は、そうした日常性の映画群の中に置いてみると、何というか、独特だ。それはひとえに、何度も何度も繰り返されるブルーハーツに尽きる。終わらない歌、リンダリンダ、ブルハ最初期のこれらの曲はもはやクラシック。デビュー当事にわれわれが与えられたガツーンと来た衝撃は、時代の中でもはや失われている。
が、しかし、今なおポップで、しかもリアルな曲が、彼女達の手で少しづつ仕上げられてゆく様は、われわれにもある感慨をもたらす。僕らがブルーハーツを聞きながら育っていったように、彼女達もブルーハーツに出会うことで成長してゆくからだ。これもまた一つのビルドゥングスロマン。特にヴォーカリストの、韓国の少女が成長する姿が良い。そのひたむきな姿が。

ブルーハーツをフックにして、映画と現実がシンクロをし始める。映画の最後、彼女達の演奏で飛び跳ねる聴衆の中に、自分がいるような気がしてしまう。それは日常からほんの数センチだけ飛び跳ねるための仕掛け。すぐそこに、普通の言葉で歌わねばならないことがあるというブルーハーツのリアリティが、見事に表現されている。
|
2006-12-05 21:59
|
記事へ |
コメント(0) |
トラックバック(0) |
|
domestic movies /
punk |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/kosuzu/trackback/144/
長澤まさみのドラマ。めずらしく毎回欠かさず見る。ドラマを見ようと思って見るのは本当に久しぶりだ。薬師丸ひろ子の映画ヴァージョンからはるか彼方のこの時代、どのようなドラマになるんだろうか?
薬師丸ひろ子の映画は何年前になるんだろう?彼女の絶頂期、何度か映画館に行って見た。相当にファンだったのだ。当然ながら、主題歌のレコードも買った。ポスターも部屋に貼っていた。
映画には独特の雰囲気があった。アイドル映画のなかではピカイチだろう。って、他のアイドル映画はほとんど見てないけど。
なんていうか、薬師丸ひろ子という、素人臭さがいい意味でいつまでも抜けない役者が大人になる瞬間の、まさに素の姿が、あの映画のフィルムには定着されている。髪を短く切って、映画のなかでさらに短くされて、もちろん役柄の上でのことなのだが、それが、生の彼女自身にあまりに重なってしまうたたずまい。
もちろんそれは、単に素のままでいればいいというわけではなく、高度な演技力があっての自然なたたずまいなのだろうが。
長澤まさみも悪くないけれど、やはり薬師丸ひろ子の演技はなかなかのものなんだなあ、といまさら思う。といっても、ドラマと映画、比べるのはかわいそうだが。いや、このドラマも悪くはない。
っていうか、懐かしい。あの主題歌のメロディを聴くと、ちょっと泣けてくるぐらいに切ない。なぜかな?疲れてるからかな?まんまと乗せられてるのかな?
夢のいた場所に未練残しても心寒いだけさ
なんて歌われたら、つらいなあ。昔のことを思い出している身としては。
探したらポスター発見↓
|
2006-11-03 22:43
|
記事へ |
コメント(0) |
トラックバック(0) |
|
domestic movies |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/kosuzu/trackback/132/
日本映画専門チャンネルで『祭りの準備』を見てはじめて知った黒木和雄監督が、すでになくなっておられたことを知ったのは数ヶ月前。この記事を書いたのが4月2日で、なくなられたのは4月12日だったらしい。不思議なものだ。
彼の晩年の名作『父と暮せば』を見る。
宮沢りえと原田芳雄の二人芝居。原爆の際に瀕死の父を見捨てて生き残ってしまったというトラウマを持つ娘の心を開こうと、父が幽霊になって帰ってくる、そういう話。非常に舞台的な展開。徐々に父と娘の事情が明らかになってゆく。長回しのカメラワーク。原田はもちろん、宮沢りえもがんばっていた。
反戦映画、原爆の悲惨さを訴える映画、まあ一言で言うとそういうことになるんだろう。
しかし、少し前に見た、黒木和雄の追悼番組で、黒木自身が友人を見捨てた経験をトラウマとして持つ、というエピソードが語られていた。それゆえに黒木は井上ひさしのこの物語に飛びついたのだ、と。
そして、それを知って見ると、この映画は少し違った相貌を見せる。
これは鎮魂と再生の物語なのだ。
延々となされる死者と生者の二人芝居。娘は父との問答の中で、徐々に記憶を取り戻してゆくのだが、それは、実は娘の頭の中で繰り返される延々の煩悶、自問自答しながら、抑圧を一枚一枚はがしてゆく過程であると考えても良さそうだ。つまり、ここで出てくる父とはまさに、娘の頭の中にある父の像、父の記憶を、演劇的に、形に表したものなのだ。
ゆえに、芝居のほとんどが繰り広げられる、舞台となる家は、いわば娘の頭の中なのである。芝居的な設定も、妙に奥行きのない舞台も、そう考えると効果的に選び抜かれていることがわかる。ラスト近くで、部屋を写していたカメラがパンするとそこは原爆ドームに変わっているというシーンもそれを暗示する。
娘は自分の頭の中で父と話し続ける。一歩一歩、自分の記憶のひだに分け入り、抑圧していた記憶をたどる。そして、死んだ父の記憶と対話し―それは自分との対話でもある―自らの中の父を大いなる助けにしながら、自分の力で立ち直ってゆく。
これは、反戦の映画である、が、それ以上に、鎮魂と再生の映画である。娘は悲劇の中から自分の力で立ち上がる。「しばらく逢えんかもしれんね」とついに娘は清々しい顔をして父に言う。父は照れくさそうに娘の前から去る。娘が立ち直ったことを知って。

このシーンの二人の演技は絶品だ。特に原田芳雄の歩き方が素晴らしい。
気がめいるような原爆の悲惨さを、娘の最後の笑顔は救ってくれる。ラストシーン、原爆ドームに咲く二輪の花。あれは希望だ。再生してゆく娘の希望なのだ。
そして、それを知った死者は希望に満ちて死んでゆく。娘の記憶の中の父は、おそらく微笑んだに違いない。これこそが鎮魂なのである。
***
死者が戻ってくるという設定は、最近の感情垂れ流させ系の映画にもあった記憶があるが、しかし、この映画で、父が用事を終えて、あの世へ帰ってゆく最後のシーンは清々しい。そこに涙はない。死者は生者を生かそうとして戻ってきているのだから、死者が去る時とは、新しい希望に満ちた世界が再生する時なのだ。そこに涙はなかろう。
われわれは、自らが生きるために死者の記憶を呼び戻す。それで良いのだ。死者とは生者が生きようとする努力の中にある。
どんな立派な墓を立てようと、靖国に祀ろうと、お経をいくらあげようと、それは鎮魂ではない。鎮魂とは、生者の魂の中で死者が微笑んでいること。それによって生者の魂こそが安らぐこと。死者の記憶は生者の鎮魂のためにのみ、生者によって語り継がれるべきのみなのであり、それ以上でも以下でもない。
***
黒木和雄という監督の記憶を、私はこのようにして語り継いでゆこうと思う。今年、授業で見せた『祭りの準備』を、学生達は衝撃的といって見てくれた。そこには何が生まれていたんだろうか?
|
2006-08-25 00:51
|
記事へ |
コメント(1) |
トラックバック(0) |
|
domestic movies |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/kosuzu/trackback/107/
1950年作。黒澤明の出世作。ヴェネチア映画祭で邦画初の金獅子賞を取ったという勲章ゆえに、黒澤の代表作、日本映画の金字塔とされるが、必ずしも、これは、黒澤の真骨頂ではなかろう。
言いたいことはわかる。原作芥川龍之介の龍之介らしいテーマである。が、なんか映画はちぐはぐな感じがする。そして、そのちぐはぐはひとえに、志村喬演じる杣売り役にある。
杣売りが最後に赤ん坊を引き取ることで、全てが相対化された世界に「信」が回帰する。映画の最後でようやく秩序が戻ってくる。それは確かに、黒澤映画における志村の役割である。
だが、そこに至る前段が問題だ。森の中の盗賊と侍と女で繰り広げられた殺人事件。三人全員の証言が食い違う。誰が真実なのか?それを眺めていた杣売りの四番目の証言こそが真実かと思いきや、その杣売りも嘘をついていたことが最後に暴かれる。それを容赦なく暴き立てる上田吉二郎演じる下人が、この映画における最も上位の審級にいる。

いつもは、志村が演じるはずの最上位の審級が、上田に取って代わられ、そして志村は逆に、自らの相対性を暴き立てられる、という位置にいる。(上田吉二郎は良い役者さんだね。黒澤映画にも相当出てる。チョイ役なのになぜか注目してしまう圧倒的な存在感がある)

もちろん、そうした志村の地位の失墜があったからこそ、最後にその志村によってもたらされる希望が余韻を残すのではあるが、しかし、こうしたテーマは黒澤が描かなくても、他の誰かでも描けることだ。
いっそのこと、最後の、志村が赤ん坊を引き取るエピソードは抜きにして「誰も信じられない」ままに、映画を終わっていれば、それはまた別の意味を持っただろうが、しかし、そうした地点に黒澤が至ったのは、ようやく「乱」なのである。
というわけで、この映画は、必ずしも、黒澤の真骨頂ではない。もちろん、面白い映画であることは間違いないが。三船、森雅之、京マチ子は、それぞれに迫力満点だ。京マチ子は今の役者さんにはない色気、目の力を持ってるねえ。

|
2006-06-06 00:02
|
記事へ |
コメント(0) |
トラックバック(0) |
|
domestic movies |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/kosuzu/trackback/57/
黒澤明の中では中程度の評価の作品。けど、これは実はすごい。
1957年。蜘蛛巣城と隠し砦にはさまれた作品。ゴーリキーの翻案。山田五十鈴演じる大家の鬼嫁の演技は、いつもながら鬼気迫る、凄絶な色気がある。

この映画をどう読み解くか。これまでわからなかった解釈ができるようになった気がする。ポイントになるのは、左卜全演じる巡礼だ。

巡礼は、どん底の住人に、希望を捨てちゃいけないよ、どこかいいところがあるよ、と希望を与えてくれるやさしいおじいさん。しかし、「いろいろもまれてカドが取れた」と自分で言うとおり、実はすねに傷を持つ「大ネズミ」(人を殺して、逃げ回っているらしい)。自分がたきつけた奴らが、ここから抜け出そうとしていざこざを起こしたら、さっさとトンズラする。
どん底の住人達の絶望には差がある。そして、いくばくかの希望をまだ持っている何人かが、巡礼の与える言葉を信じ破滅してゆく。どん底では、生き延びるためには、全ての希望を、プライドを捨て去らなければならないということか。
巡礼は、どん底で這い回る無知蒙昧の輩に明るい光と希望と智恵を与える「啓蒙」者だ。いわば彼は「近代」だ。だが、彼は、映画の台詞でも出てくる通り、「なにかと言やあ・・・いいところがあるから、そこへ行け・・・その癖、そこがどこだか教えねえ」のだ。
巡礼の言葉にそそのかされて、どん底の住人は脱出を試みる「どいつもこいつも、あの爺に一服盛られて、頭に来やがった」。しかし誰もそれに成功しない。「あの爺、悪い智恵つけやがったぜ」
「悪い智恵」のおかげで破滅する泥棒、大家の鬼夫婦、その妹。

「ごろーろっぷの酒毒」を直してくれるお寺があるという「悪い智恵」を教えてもらったアル中の役者は物語の最後に自殺する。これはまさに近代の啓蒙の逆説だ。
もちろん、だからといって、この映画が、単純に反近代を打ち出しているかというと、まったくそうではない。なぜなら、そこには守るべき伝統など何もないからだ。そこは人の死がネタにしかならない「どん底」なのだから。
映画の最後になってどん底の世界にようやく居場所を見つける、東野英治郎演じる鋳掛け屋。はじめはいつかここを抜け出すぞ、俺はちゃんとした職人なんだ、と言っていたのだが、連れ合いに死なれ、そんな希望やプライドを捨てることで、名実ともにどん底の住人となる。希望やプライドを捨てることが、これほどに人を自由にするのかということを、彼の演技は雄弁に語っている。

彼らが生きる傾いた長屋 は、われわれの住むこの世界に他ならない。「つっかい棒」がないと倒れてしまう長屋、僕らは実はそういう場所にいる。決してこの世界は「まっすぐ」ではない、ということ。そこには我慢ならないことがあり、つらいことがある、穴があいた、ぼろぼろの場所。われわれはそこで、毎日馬鹿囃子を踊っているだけなのかもしれない。

だから、人はユートピアを夢見る。泥棒も、役者も、大家の鬼嫁も、みんな必死で脱出しようとしていたのだ。だが、それがことごとく失敗するのは、結局は、それらが全部嘘だから、なのかもしれない。巡礼はそれを知り抜いて、なお、彼らに嘘を吹き込んでいた。
巡礼と同じ境遇(人殺し)である喜三郎はそれを良くわかっている。喜三郎は言う「この世の中にゃ、嘘でつっかい棒しなきゃ、生きていけない奴もあらあ。爺はつまり、そこんとこを良く知っていただけってことさ」
その嘘を本気にしてしまわざるを得ない人々の悲劇。「どん底」が描き出しているのは、まさにそれ。
夜鷹のおせんは純情そうなことを言いつつも、実はしたたか。口では「どっかへ行っちまおう、どこでもいいや、ここでさえなけりゃ」というが、しかし、決して脱出しようとはしない。せいぜい憂さ晴らしに飲みに行き、ありもしない過去の恋愛話を泣きながら語るだけ。ユートピアは、夢見ているうちが一番いいのだということを、彼女は知っていたのだろう。
「ここではないどこか」「本当の自分」「本当にやりたいこと」「新しい明日」、こうしたものを求めることこそが「近代」である。「夢と希望」を持って生きていこうというメッセージが氾濫する時代である。だが、ここではないどこかにたどり着いたと思っても、少しすると、そこは相変わらずどん底だ、ということがわかる、それがこの世の中であり、この人生。
じゃあ、希望なんて持たなけりゃいい。というわけには行かないのが人間だ。「嘘でつっかい棒しなきゃ、生きていけない奴」ばかりだ、世の中は。今もたくさんの「物語」が、僕らにつっかい棒をしてくれている。そうして僕らは生きている。今の日本では特にそんな奴が多いな。
「どん底」は告げる。どこにもユートピアはない。いや、けど、案外今お前のいるどん底がユートピアかもよ。世界はどこもどん底で、けどそこは住んでみると案外天国で、世の中はそんなもん。

だからみんなで踊ろう馬鹿囃子。「住めば都」という言葉はこういう深い意味を持っているのかな。
そして、こうした世界を描いているがゆえに、「父」である志村喬は出てこない。
ゴーリキーの「どん底」を読み返してみたくなった。黒澤さん、あなたの言いたかったことがこの歳になって、ようやくわかりました。
|
2006-05-16 01:56
|
記事へ |
コメント(0) |
トラックバック(0) |
|
domestic movies |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/kosuzu/trackback/47/
黒澤のフィルモグラフィーの中では、後ろに三作があるのだけれども、実質的には、最終作のような気がする「乱」(1985)。実は「乱」をちゃんと見るのははじめてだったりする。
この映画は様式美、それに尽きる。物語の行き着く場所は、「リア王」を下敷きにしているということを引き算しても、見えている。もちろん、その物語はシェークスピアによって完成されたドラマなので、「人間の愚かさ」というテーマがひしひしと伝わってくるのであるが、逆に言えば、それだけ、なのだ。
これまでの黒澤のすごさは、そういったわかりやすいテーマを、映像が軽く凌駕しているところにあった。黒澤の抱く狂気が、黒澤の抱く社会性/物語性/秩序を凌駕しようとし、テーマが破綻しそうでありながら、しかし何とかそうした狂気をコントロールして物語が構成を保った時、黒澤の傑作が生まれ出てきた。(もちろん、「わかりやすいテーマ」を打ち出した映画はそう多くないし、しかもそれらはあまり成功していないとも言える。)その狂気は、主に三船敏郎によって演じられてきたのであるが、それを以前に「キャラの暴走」と言った。(コントローラーが志村。)
この映画では、そうした暴走がない。「人間の愚かさ」という、もはや80年代においては陳腐な、ゆえに、わかりやすい、学級会的なテーマを超えた、訳のわからない力が、伝わってこなかったのだ。
仲代演じる大殿の狂気、三人の息子の狂気、長兄の嫁の狂気、ここには狂気が満ちている。何人かの忠臣と、そしてピーター演じる狂阿弥のみが正気である。だが、狂気に満ちた映画からは、なぜか黒澤自身の狂気が伝わってこない。それは何より、狂気が真正面から取り上げられたから、に尽きる。ここでの狂気は、すでにシナリオに書き込まれた狂気である。黒澤の計算どおりに、つまりはreason理性によってすでにコントロールされた「狂気」に過ぎない。人の狂気を「愚かさ」と描き出すことをこの映画のテーマとしてしまったゆえに、かえって、抑制できずにこぼれおちてくる狂気が伝わってこない。黒澤自身もコントロールできない、どす黒いものが、ここではフィルムに定着していないのである。
だが、これはもはやどうしようもないことなのかもしれない。黒澤は、あまりに美しい自然と、あまりに美しい衣装と、そうした映像美の中に狂気を投げ込むことで、その狂気を浮き彫りにしようとしている。もちろんその成功が、この映画を見るに堪えるものにしていることは疑いない。が、ごみだめの中の正気と狂気を描いた「酔いどれ天使」(=正気をテーマにしながら、狂気のほうがかっこよかった映画)から、何と遠くに来てしまったことだろう。
すでに書いたように、このような黒澤映画の変容の大きな原因を、私は「志村喬=父の不在」だと思っている。志村は黒澤における理性的な領域、超越的な他者=父の役割を負わされて、三船、すなわち、黒澤の狂気を体現し、映画においても暴走する「子」と、ドラマの中で対峙してきた。
だが、この映画にはもはや三船も志村もいない。子=三船にかわって狂気を体現する役割を負わされたのは仲代達也であった。しかもこの物語では彼は「父」を演じる。それはもしかしたら、子供のままの「父」だったのかもしれない。そして黒澤は、その狂気に満ちた「子供」である「父」を最後に殺さざるを得なかったのである。どういうことか、もう少し論じよう。
リア王では父−娘であった確執は、ここでは父−息子に翻案されている。「蜘蛛巣城」と同系のこの映画において、異なっているのは「父と息子」の問題が真正面から取り上げられていることだ。だが、これまでの黒澤の映画を見ていれば、「息子」というテーマに違和感はない。では「息子」と「娘」は如何に異なるのか。
息子とは「のちに父となる子」にほかならない。そこに不可避に浮かび上がってくるのはすでにいる「父」を押しのけて「子」が「父になる」とはどういうことかという問題、簡単に言い換えると「成熟」とはどういうことか、という問題系に他ならない。
黒澤と成熟、これは黒澤映画を語る上ではずせないテーマである(が、あまり、それを論じたものを読んだことがないなあ)。結論から言うならば、「乱」で殺された「父」とは、大人になれずに、子供のままに大きくなってしまった「父」なのだ。黒澤は、三船の身体を借りて表現され続けてきた「子」、つまりは自らの狂気を、うまく成熟させ得なかった。子は自分をコントロールしてくれる父=志村を、あまりにはやく失って、大人になってしまったのだ。たとえば、「赤ひげ」で描かれた三船の成熟、父としての三船は、しかし、それを受け止める更なる外部の「父」がいなければ成就しない。加山演じる「子」には、父の成熟を見届けることはそもそも不可能なのだ。「志村の不在」とはそういうことなのだ。
この映画は、「子供のままの父」を殺す映画である。三船と志村を殺す映画である。そして仲代は、そうした多面的な、狂気に満ちた父を見事に演じている。
この映画は黒澤の長年のテーマの総決算である。ここにはもはや、全てをコントロールする勘兵衛のような超越的な人物は映画の中には描かれない。黒澤が「天の視点」から映画を撮ったと言っているように、全員が、物語の内部にある。もちろん、三船のように、物語からはみ出す人間もいない。唯一、ピーター演じる狂言回しが、物語の推移を最も外部から眺めている他者である。

彼は何度も大殿に「狂ってしまったほうが楽だ」という。これは、黒澤明の偽らざる心境ではないのか。
この映画は、自分の中の狂気と格闘し続けた黒澤が、最後に、自らの狂気を、父性と共に葬ろうとする試みだったのだ。ピーターは、大殿を茶化しながらも、狂気に陥った大殿に最後まで付き添い、大殿の最後を見取ることとなるが、それはまさに、黒澤自身の見取り役にほかならない。物語内部における他者に見取られることによって、未成熟な父の死は成就するのだ。
この映画は、黒澤が長年アイデアを温め、完成させた映画である。自分の総決算になるかもしれない、と彼が語っているとおり、ようやく父を殺し、黒澤は次のステージへと進むこととなる。だが、そのときすでに遅く、彼に時間は残されていなかった。「夢」の最後のシークエンスにおける老人や、「まあだだよ」の先生は、残念ながら、様式美の中に埋もれ、往年の黒澤映画のヒーロー達のようにインパクトを残さないけれども、これこそが黒澤なりの「成熟とは何か」への回答なのである。
|
2006-05-07 17:29
|
記事へ |
コメント(0) |
トラックバック(0) |
|
domestic movies |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/kosuzu/trackback/41/
黒澤明監督作品。1958(S33)
黒澤の三大、スカッとする作品の一。残りは用心棒と椿三十郎。まあ、とにかく、文句なしに面白い。
スターウォーズの元ネタになったことで有名。
戦に敗れた秋月家を再興するために、侍大将の真壁六郎太(三船敏郎)とおてんばな姫様(上原美佐)が、大量の軍資金(金の延べ棒)を持って、敵中をいかに突破するか、というお話。意気地ないくせに強欲な二人の百姓(千秋実、藤原鎌足)が、真壁を金狙いのごろつきと思い込んだまま、金欲しさに道中を共にすることになる。次から次へと立ちふさがる困難を突破し、彼らは無事、味方の領地に逃げ延びることができるのか?という話である。
この映画には、二つの物語が流れている。ひとつは、真壁と姫の物語。もうひとつは、百姓達の物語。この二つの物語が、位相を異にしながら、時に絡み合い、ときにすれ違いながら、最終的にひとつになる、そうした形で全体のプロットは組み立てられている。
百姓達は、ラストにいたるまで、自分達が、姫様の逃避行につきあっているのだという物語を知らない。真壁は、百姓の物語に対して、上位の立場にたち、それをコントロールして、自分達だけでは運び切れない金を運ばせようとするが、必ずしも完全にコントロールできるわけではなく、百姓達は欲にかられて勝手な行動をとり、それが困難を招く。(ここから、真壁の戦略的な知のあり方を、リベラリズムやマキャベリズムと関連させて論じることも面白いテーマだけど、それは置いておく)
もちろんわれわれ観客は、すべてを知らされている。百姓達が知らない真壁側の物語はもちろんであるが、逆に真壁にはコントロールできない百姓側の物語もやはり存在する。たとえば、彼らは案外いろいろと小賢しい知恵を働かせ、スキあらば逃げ出して真壁をあわてさせると同時に、時には真壁を越える知恵をひねり出したりもする。われわれは、こうした、相容れない二つの物語が、すれ違いながらも、如何にして一つの目的を達成してゆくのか、というスリルを楽しむのである。
これはある意味、他者の問題である。「七人の侍」で、侍と百姓は結局は絶対的な他者であり、理解し得ないのだ、という結論に至った黒澤は、ここでも、同様のテーマを描く。だが、「七人の侍」が描き出した「他者との断絶」は、ここでは描かれていない。この映画は、それまでは小心な強欲者であった百姓が、(主体的に動いていたつもりで)実は真壁の物語の中に取り込まれていたということを知らされることで、そうした境地を脱し「成熟」するさまを描き出している。
この映画のオープニングは二人の百姓である、エンディングも二人の百姓である。この映画の主人公は実は彼ら二人なのだ。すなわち、この映画は勧進帳風の敵中突破の物語である以上に、百姓達の成熟を描くビルドゥングス・ロマンなのである。彼らの成熟は、自らがお釈迦様の手のひらの上にあったということを知ったときに訪れる。良くわかっていたはずのアニキ「真壁」は実は自分達の外側にいた超越的な他者だったのだ。
その他者から褒美にもらった一枚の金を、彼らはもはや取り合うことはできない。超越的な他者の存在の前では、われわれは自分の無力を思い知るしかない。たとえば、神の恩寵を、われわれは強欲をむき出しにして争うことはできないのだ。彼らの「強欲」はここで消え去ることとなる。最後のシーン、千秋と藤原の笑顔は印象に残る。

だが、はたして、彼らはそんなに悟りきった笑顔で良いのか。彼らをここまで生き延びさせたのは何だったのか?彼らは「俗世」に生きる人間だ。その彼らが一瞬のロマンに満ちた逃避行の後に、戻ってゆく場所は「俗世」である。真壁は彼らをこれからもずっと守ってくれるわけではない。映画はそれで終わるから良いけれども、二人はあんなにいい奴になっちゃって、ちゃんと自分の村に帰りつけたのだろうか?
「七人の侍」が、農民達の生き延びようとする切迫した場所からの叫びだったとすれば、この百姓達の行動は、確かに相当に過剰な「強欲」である。だが、その強欲こそが彼らを生き延びさせたのだ。この「強欲」こそが、映画をスリリングにし、親しみやすくし、リアリティを現出させる。すなわち、そうしたキャラクターを「勧進帳」に投げ込んだという黒澤のアイデアが、この映画を傑作にしたのだ。とすれば、最後のシーンは、実は二人の百姓の生命力の枯渇にほかならない。
←馬の代わりに荷車を曳かされても、金のためならがんばる二人
重ねて言おう。この映画自体は、勧進帳の焼き直しのような形式を持つ。実にわかりやすい時代劇の類型にはまり込んで、ともすれば陳腐になってしまう危険性を持つ。ところが、発表から40年たってもいまだにこの映画は抜群に面白いとするなら、それは、二人の百姓という、「欲望」にまみれた抜群にリアルな人間をそこに投げ込んだからに他ならないのだ。百姓は最後に「いい奴ら」になってしまう。確かに、彼らのいわば「改心=回心」はエンディングとしては良くできているけど、大体、そういう道徳ものって、教訓くさくって、面白くないんだよね。(もちろんこの映画は別だけど)
この映画に流れる二つの物語は、お約束の定型化された「聖」なるヒーロー物語(聖性は幸姫が担っている)と、リアリズムあふれる「俗」の物語である。真壁の物語は、典型的なヒーローもの、アクションものの系譜にあり、そこでは定型化された形式が内容を凌駕する。それは時代劇としてはそこそこ面白いが、筋は読める、結末はわかっている、という水戸黄門か、暴れん坊将軍レベル。そこに百姓の「俗」なる物語が付け加わったところがこの映画の傑出した点であり、それがこの映画の生命力を支えている。だが、百姓の物語は、最後には、真壁の物語に取り込まれビルドゥングスロマンという定型に滑り込む。
これこそ「俗」の敗北である。「欲望」の敗北である。「聖」なる幸姫が聖なる姿形に戻り「仲良う分けるのじゃ・・・喧嘩はならぬぞ!!」と最後に彼らに命じる。彼らは畏れ入るしかないではないか。それは「回心」という、少々感動的な物語で味付けされてはいるけれども、実はリアルな人間像の敗北なのだ。
ところで、黒澤映画の傑作の多くにおいて見られるのは「キャラの暴走」であるとぼくは思っている。ぎらぎらとした欲望を、その身体から発散させ、その暴走を見事に表現したのが三船敏郎という役者である。初期の傑作「酔いどれ天使」に始まり、「野良犬」「羅生門」「七人の侍」など、黒澤の名作においては、三船は常に、野性味あふれる役柄を演じている。これは単に、三船の持ち味、というだけには留まらないのだ。
三船は、黒澤の他の作品では、物静かな男の役もやっている。だが、そういう作品は概して中途半端だ。また、黒澤以外の監督作品では、から回り、という評価がしばしばなされる。黒澤によって三船の欲望に満ちた身体がフィルムに定着されたとき、傑作が生まれるのである。
そしてそれは、志村喬という「制御」の役割を果たす役者と共に考えることでより良く理解される。上記諸作に典型的であるが、三船は若さにあふれ、野性的で、無軌道で、不道徳で、お約束の物語から、常にはみ出そうとする「欲望=俗」。そしてそれを何とか押しとどめ、コントロールし、飼いならそうとするのが志村の役柄である。つまり志村喬は、監督である黒澤自身も統御できない、三船に投影された欲望を、役者としてコントロールする、そういう場所に居たといってよい。黒澤映画では、いわば志村喬は、監督以上に、外部の、超越的な位置にいる。(特に、七人の侍は、その典型である。侍を指揮し、そして、最後には自ら、誰もが勝ったと思っていた戦の敗北を宣言するのだから。)
このように考えるとき、「隠し砦」においては、何が足りなかったのかは一目瞭然であろう。この映画には志村喬が足りなかった。
欲望のままにはみ出そうとする奴らはいる。それは百姓達である。そして、それをコントロールしようとするのが三船なのである。これはまったく新しい局面だ。
特に「酔いどれ天使」において顕著なように、暴走する三船の身体は、映画の主人公を食ってしまうほどの存在感を持っていた。そのため「酔いどれ天使」は、必ずしもまとまりのある作品ではないが、しかし、それを凌駕する吸引力を持つ映画である。とするならば、「隠し砦」は、その見事な物語構成とは裏腹に、いまひとつ、吸引力に欠ける映画とも言うことができるだろう。それは、百姓達の物語の、リアリティあふれる身体性が、作品の持つ構築力を凌駕しなかった、ということである。何度も言うが、最後の回心は、枠からはみ出そうとする身体性の、欲望の、敗北なのだ。

といって千秋実、藤原鎌足が駄目だとか言うつもりはない。彼らの演技は、この映画に別の深みを与えている。だが、この傑作を更なる傑作「七人の侍」と比較するとき、黒澤映画を貫くあるひとつの重要な要素の欠落に、また、気づかされる、ということなのだ。もちろんそれこそ、先に述べた、「志村喬の不在」にほかならない。
志村喬という役者が、なぜかは知らないが、チョイ役でしか機能しなかったことが、この映画を、超傑作にはしなかった理由だろう。それこそが、この映画を、スカッとさせる娯楽映画の傑作にしたということは逆に言える。そして、そういう映画を作ろうと黒澤が考えていたというのであれば、もはや私がここで文句をつけるまでもない。だが、しかし、「七人の侍」を頂点にした黒澤映画は、その頂点における志村喬の名演を最後に、新しい局面へと突入するのだ。これ以降、志村が、三船と拮抗する役柄を演じることはなくなる。その役割は、仲代達也や加山雄三に取って変わられてゆく。志村喬に何があったのかはよくは知らない。もう歳だったのかなあ?
が、ともかく、これ以降の黒澤映画は、「志村喬の不在」という巨大なテーマと取り組まざるを得なくなるのである。それは言い換えるならば、「他者」の不在、「超越者」の不在、さらに言えば「父」の不在、である。
これ以降の黒澤映画を見ると、表面的なテーマを超えて、この「父の不在」が大きく作品を規定していることは一目瞭然だ。「隠し砦」から「赤ひげ」までの諸作では、三船がそれまでの志村の位置を占めることとなる。全体を俯瞰し、コントロールする戦略家としての三船(「隠し砦」「用心棒」「椿」)は、七人の侍の勘兵衛だ。「天国と地獄」は運転手の子供を救う父親役。「椿」ではたくさんの息子達をコントロールする。そして、「赤ひげ」では加山という息子と対峙する。もちろん、それが、必ずしも成功しているとは言い切れないが、それは三船一人の問題ではない。むしろ重要なのは、それに拮抗できる、「子」がいないということなのだ。黒澤の欲望を黒澤に代わって画面に刻み込むには、加山雄三では厳しいし、クールな仲代はちょっと違う。志村、三船の父、子は、もはや戻っては来ないのだ。
「酔いどれ天使」から「七人の侍」まで、志村、三船が支えた「物語=秩序=理性=父」と「リアリズム=暴走=欲望=子」の拮抗。暴走する後者、押しとどめる前者。先にも書いたように「隠し砦」は、後者の敗北が明確に刻まれた映画である。そして、これ以降の黒澤は「物語」へと傾斜し、様式化への方向をたどることとなる。言い換えれば、黒澤の欲望は変形され、彼独特の鮮烈な「美」へと向かうのだ(そういえば、カラー映画は「赤ひげ」の次の「どですかでん」からだ)。「父」志村と「子」三船でいられた幸せな時代は戻ってこないのだ。もはや「父」はいない。「隠し砦」は黒澤のフィルモグラフィーにおいては、父‐子の幸せな時代の終わりを告げる、そういう位置にある映画なのであり、ここから黒澤は「父の不在」との格闘を始めるのである。それはいわば、自らの暴走する欲望との格闘でもある。そして、その答えは、「夢」の最終話の笠智衆、さらに言えば、「まあだだよ」の先生へと帰結することとなるのだが、それはまた今度。

上原美佐演じる幸姫。美しい。
|
2006-05-01 23:38
|
記事へ |
コメント(0) |
トラックバック(0) |
|
domestic movies |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/kosuzu/trackback/39/
1982年作。大林宣彦監督。
ちゃんと見るのははじめて。男の子と女の子が入れ替わるというSF的設定ながら、結局は大林監督的なテーマに収斂してゆく。
大林は、どの映画でも大人になろうとする直前、青春との決別の最後の瞬間をノスタルジックに切り取って、フィルムに定着させる。主人公は、映画が終わってから、大人になるのだろうが、それは暗示されるだけ。
ここでも、「さよなら、私」と、最後に小林聡美扮する一美が言う。1980年代初頭は、まだ衒いなく言えたのか?いや、僕の個人的な印象では、その当時ですら、そのまま放り出すと、ちょっと恥ずかしい台詞だ。今ではもはや言わせることはできなさそう。
この最後の台詞を言わせるためだけに、映画のすべてが奉仕している。約2時間の映画は、そのままでは恥ずかしい台詞を観客に届かせるための長い前振り。
たとえば、ストーリー上は、必ずしも、この台詞が最後に出てくる必然性はないと思う。それは妙に唐突ですらある。映画の中で「私」をめぐる物語は必ずしも深められていないからだ。どちらかというとコメディ。一夫(尾美としのり)の中に入ってしまった一美はアイデンティティクライシスというよりも、異常事態にどうしたらいいかわからない状態(そりゃそうだ)。なので、最後の台詞は唐突で、そしてそれがゆえに、フックとなって、われわれに引っ掛かりを残す、という効果もある。
おそらくは、この台詞がこの映画のすべてだと考えねばならないのだ。原作がどのようなものかは知らないが、おそらくは原作的ではなく、大林的なるものは、ここにある。コメディタッチであっても、何であっても、彼はここに帰着させねばならなかったのだろう。これが言いたいから、この映画を撮ったんだ、と彼は言うに違いない。
60年代のストレートな青春映画が、外、に向いていたのに対して、これは、内向きへの屈折の第一歩を刻んでいる。もちろん、60年代のように、屈託なく「青春」するのは恥ずかしいので、SF的シチュエーションが取り入れられる。時代は変わった、のだ。
そして大林は、これ以降、尾道、という場所の助けもかりながら、自意識が幾重にも織り込まれてゆく時代と逆行するかのように、相当に剛速球でこうしたテーマを投げ込み始めるようになる。この映画はそういう意味では、彼の作品の中で最も屈託を残している映画なのかもしれない。
最近大林監督はどうしているのだろうか。大林的テーマは、ある一面で時代を写し取りながらも、その表層的な意匠は、おそらくは時代に沿うものではなかっただろう。それでもそこそこの映画を撮れてしまうところがこの人のすごさではあるが、しかし、例えば代表作「ふたり」における家族の描き方、特に父親の不倫の描き方はぎこちない、の一言だった。あのシーンがなければ名作にならなかったに違いないが、もっとちゃんと家族が描けていれば、ものすごい作品になっていただろう(キャスティング自体から悪いね、あれは。岸辺一徳はあやしすぎる)。
大林は大人、を描けるのか?成熟が、何かを捨てることであるかもしれないとき、それを捨てることを、ノスタルジックに描き出す技術は天下一品。しかしリアルな痛みを彼は描き出せていないのかもしれない。とすれば、映画の主人公は、映画の後も、実は、同じような、夢の空間から一歩も外に出ていないのかもしれないのだ。
はたして大林監督は「成熟」を描き出せるのか?いつもその一歩手前で終わってしまってはいないか。
そのような映画を彼が撮っているのかどうか、勉強不足で知らぬ。またどなたか教えてください。
けど、とりあえず、この映画は、面白いことは確か。尾美としのりの女の子役の演技が良いのは、誰でも見ればわかるだろうが、ほとんどでてこない男の子役の演技の良さが、それを引きたてている。彼は大林的な微妙な陰影を表現できる役者さんだ。ついでに、60年代の青春映画に多数出演している佐藤允が父親役で出ているのがいい。
|
2006-04-20 01:22
|
記事へ |
コメント(0) |
トラックバック(0) |
|
domestic movies |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/kosuzu/trackback/30/
1975年(昭和50年)作品。ATG。黒木和雄監督。
日本映画専門チャンネルのHPの解説を引用させてもらおう。
「昭和30年初め頃の高知県・中村市。信用金庫に勤める20歳の主人公が閉鎖的な村社会から脱出しシナリオライターを目指して上京するまでを描く。脚本家・中島丈博の自伝的色彩の濃い小説の映画化。楯男を溺愛する母親(馬渕晴子)、精神を患った若い娘と同棲する楯男の祖父(浜村)。隣に住む男(原田)は人殺しで捕まり、片思いの女(竹下)は男に棄てられた腹いせに楯男を誘う。人生の祭りの前の青春期という“祭りの準備”の季節を生きる若者の姿が鮮烈に描かれる。キネマ旬報ベストテン第2位。 」
簡潔な要約ではあるが、実際に映画を見てみると、この村は「閉鎖的」という言葉では語りつくせない。主人公の境遇は「どろどろ」だ。
たとえば、祖父は、同棲した娘が出産とともに正気に戻り、毛嫌いされて自殺。ちなみに、この娘は、大阪で娼婦をし、ヒロポンの打ちすぎでおかしくなって村に戻ってきた。村では誰とでも寝る。主人公とも、主人公の祖父とも。
隣に住む男には同じくやくざ者の兄がおり、兄の嫁は兄が刑務所にいるときは弟に抱かれている。
主人公の父は、愛人と暮らすが、その愛人が死に、家に戻ってくる。主人公は母から逃れ東京に出たいがために父と母を一緒に暮らさせたいが、母は父と暮らすことを拒否。かつての父の愛人(=死んだ愛人に父を奪われた別の愛人)に父を押し付ける。
気まぐれな恋人(都会的なものの象徴)に翻弄され、会社でボヤを出す主人公。
気がふれていた娘から、赤ん坊の父親はあんたかも、とほのめかされる主人公。
そして、息子が唯一の生きがいだと、彼を離そうとしない母親。
こうしたどろどろしたものをすべて振り切って、主人公が東京へ出てゆくラストシーン。駅の数分間のシーンがこの映画のハイライトだ。
主人公は、人殺しで指名手配中の隣の男(原田芳雄)と駅で出会う。男は主人公の決意を聞き、主人公の乗った列車をバンザイして見送る。村を捨てて出てゆく男を、村に帰りたくても帰れない男が見送る、という構図ではあるが、しかしそこにある感情が単にそれだけではないことは、原田芳雄の秀逸な演技で表現されている。以前大阪にいたこともあり、前科者となって村に戻り、また今警察に追われるやくざ男。原田の演じる役どころだ。今、未来のみを見つめて、村を捨ててゆく主人公は、かつての自分かもしれないし、また自分が失敗したことをやろうとする眩しい存在なのかもしれない。だが、そんな複雑な気持ちを表現するすべを持たないやくざ者は、バンザイ、という彼にできる精一杯の表現で主人公を見送るのだ。都市と地方に翻弄される二人の若者達の感情がが絡まりあう。そして、それを見事に表現する、電車の扉が閉まる直前の原田芳雄のアップ、複雑な表情が秀逸。それを受けての主人公の表情も良い。
現実に日本の村々がこのような「どろどろ」であったのかどうかを私は良くは知らない。もちろんこの映画が現実をよく表現しているとしても、それは土佐の中村、という場所独自のことかもしれないし、それを一般化することもできないだろう。ゆえに、この映画に描かれた村社会を過大に評価するべきではないだろう。だが、かろうじて、母の里に小さい時居た程度の私の経験からしても、このような村の雰囲気は、理解できる。
村全員が、お互いのことを何から何まで知っていて、それゆえにタブーもなく、性的な事柄まで、すべてが筒抜けで、プライバシーのかけらもない、ここで描かれた村は、そうしたうっとうしい人間関係で主人公を捕え離さない。この映画の一つのテーマはそこからの離脱にある。ネットを探っていると「この主人公にとって、まず東京があるのではなく、故郷を出ることが先にある。だから、東京の魅力とは、それ自体自律的なものではなくむしろ故郷との対応関係の中で表れでるような相対的なものではないだろうか。」というレビューがあった。まさにその通りだろう。都会/田舎、という対立構造自体が、憧れを生成させる。東京への憧れとは、故郷への嫌悪とのコインの両面だ。主人公は、何の展望もないままに、とにかく村を離れるのだ。
がしかし、そのような村は、頭がおかしくなってしまった娘が戻ってきても、何とか生きていける村でもある。前科があろうが何であろうが、何も気にしない「良い村」である(原田芳雄の台詞)。友達の身体障害者を馬鹿にした娼婦に本気で殴りかかるやくざ者がいる。親のない子供が生まれてしまったら、それを他人の戸籍に入れることに何の躊躇もない村でもある。夫を、かつての愛人に託す、愛人もそれを笑って引き受ける、そういう村でもある。正気に戻った娘を狂ったように追い回す主人公の祖父を、おばあちゃん達が楽しそうに笑ってみている村である。そこでは、たいていのことは受け入れられる。そこは、われわれが、どんなになっても、何とか生きてゆくことができる、「良い村」、なのだ。
主人公は、それを捨てる。そのかすかな後悔の念が、主人公の顔に浮かぶのは、やはり、さきほどのシーン。電車の扉が閉まり、うっとうしい村を象徴するかのようなやくざ者の温かい心を感じた時。このときの、主人公を演ずる江藤潤の表情もさっき書いたとおり、良い。動き出す電車。何か言っている主人公。カメラはその表情を電車の外から捉える。ゆえに主人公の声が聞こえないという演出が絶妙。
だが、暗転後、ラストシーン。主人公は、一転、晴れ晴れとした表情で東京へ向かう。かすかな郷愁は、やがて来る明るい世界に打ち消される。主人公は、どろどろとした「良い」村と決別し、前へと進むのだ。
この主人公は実はわれわれ自身、近代社会へと邁進した、われわれ自身なのだろう。近代は、そうしたどろどろとしたものを切り捨ててきた。相互にもたれあうずぶずぶの関係ではなく、自立した個人の取り結ぶドライな関係を求めて、われわれは進んできたのだ。もちろん、かつてあった良いものは失なわれる。だが、それでも、われわれは、前に進んできたのだ。そこは、隣の人がのたれ死のうと、気にもならない冷たい場所かもしれない。犯罪者が子供の命を簡単に奪ってしまう、乾ききった場所かもしれない。しかし、私達がそのような場所を非難することは、われわれが歩んできた道を、決断を、何から何までひっくるめて非難することでもある。それは、この映画の主人公の決断を、丸ごと否定することになりはしないか。あなたは、あの、どろどろした世界から離れようとする主人公の気持ちを否定できるのか?
今僕らは、現在を否定し、それにつながる歴史を否定し、古き良き日本を懐かしみ始めている。けど、古き良き日本って、いつ、どこにあったのかなあ?古き良きどろどろ/ずぶずぶの日本ならば、かつてあったんだろうけどなあ・・・。
すべての場所には、良いところもあり、悪いところもある。この当たり前の事実を、しかし、「理論」はなかなか認めようとしない(映画でも同様のモチーフは竹下景子に託されて描かれている)。そうした理論が届かない場所を、映画や文学は照らし出す。
われわれがたどり着いたこの場所。そこから逃れられないのならば、せめて、それを愛していこうよ。良い所も、悪いところもあって、僕らは喜んで、悲しんで・・・けど、根本のところで、世界を愛そうよ。
だって、こういうう風に見れば、世界は豊かですばらしい場所だから。
こうした見方を教えてくれるのが例えば、「きょうのできごと」であったり、「下妻物語」であったり、「誰も知らない」であったり、「木更津キャッツアイ」であったりするのならば、われわれがいかにここにたどり着いたのかを教えてくれるのが、この「祭りの準備」なのだ。
主人公を演じた江藤潤は新人だったようだが、表情が良い。村的な顔と都会的な顔が共存し、どちらにでも転ぶことのできる、まさにうってつけの顔。どことなく加山雄三に似ているが、加山の方が田舎くさい顔に思えるところも、考えさせられる。
ちなみに、この映画の画面は、ひどく暗く、なまなましい。光にあふれてはいない。
|
2006-04-02 19:58
|
記事へ |
コメント(0) |
トラックバック(0) |
|
domestic movies |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/kosuzu/trackback/18/
日本映画専門チャンネルのおかげで、国産の映画を見ることができる。50年代前後の黄金時代の日本映画の名作群(黒澤、小津、溝口・・・)は学生時代に相当見ているけれども、そうした名作以外にも、森繁の社長シリーズとか、加山雄三の若大将シリーズとかの娯楽映画も流してくれるし、最近の映画もけっこう頻繁に流れる。
昨日は行定勲監督のきょうのできごと a day on the planetを見る。

タイトル明けのこのシーンで、カーラジオから流れるのはMary Lou LordのLights Are Changing。これだけでもう名画決定。というのはちょっと大げさだが、しかし、良い映画。
最後まで淡々と、学生達の一晩が描かれる。その夜、テレビで流れる二つのちょっと非日常的なニュースと、彼らの日常が交差する。
高槻〜京都(出町柳あたり)といった、大学時代の僕の生活圏が舞台。友人達と飲み明かす一夜。思わず、学生時代を思い出す。真夜中の鴨川〜北白川。自宅生だった僕も、時には羽目をはずしたものだ。いや、僕にとってはそれは非日常の風景だったが、下宿生にとってはそれは日常の風景だろう。
そうした日常の京都の風景が、淡い光の中で描かれる。またここに登場するのは、「光」だ。ハレーション気味の、白い光が画面全体を覆っている。
その光が、人工の街を、モダン・クラシックな街、京都を、美しく覆う。
われわれは、もはや、こうした街を、愛さざるを得ないのだ。だから、われわれは、今あるこの街を、できる限り美しく描き出さざるを得ないのだ。そして、われわれは、そこで生きてゆくしかないのだ。
そこでは、学生達の日常が、ビルの隙間に落ち込んだ人の救出劇が、そして座礁したクジラが、いや、それ以外のありとあらゆることが起こっている。良いことも、悪いことも、それらすべてが「現実」だ。
声高に今の日本のゆがみを指摘し、われわれが歩んできた道を批判し、かつてあった(のか?)「美しい日本」に戻ろうとする人々がいる。
だが、最近の何人かの監督達は、こうした態度とは対極の世界を示そうとしている。この世界も、見方によっては美しいんじゃないかい?良いことも、悪いことも、すべてをひっくるめて、世界はあるんじゃないかい。運命論者だと言う勿れ。こういう風に、世界を愛する方法もあるのだから。
白い光は、確実に、ここ数年の先端的な映画や音楽を象徴するものだと僕は思っている。ハレーションと見まがうばかりの白い光。都市を如何に描き出すのか、そのひとつの答えがこれ。
唐突に思いつく。Velvet UndergroundのWhite Light White Heat。何か関係あるかな。
|
2006-03-27 22:54
|
記事へ |
コメント(0) |
トラックバック(0) |
|
domestic movies |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/kosuzu/trackback/12/