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『ロシア 闇と魂の国家』
亀山郁夫 ; 佐藤勝著, 文藝春秋(文春新書623), 2008. 248p.

あいまに読んでいました。でもむずかしくて。
ロシアの思想体系にはうとくて、部分的なロシア理解しかないので。
でもしっくりとくるところもありました。


佐藤:『ドストエフスキー−謎とちから』(文春新書)も大胆な解釈に目を奪われがちですが、その底には徹底した実証性が常にある。
 「亀山ドストエフスキー論」の面白さは「自分はこの読み方を採用する」という、インテリ(知識人)としての「命がけの飛躍」をしているところ。「決断」と言ってもいい。この決断こそが「物語」をつくるという意味で、今の日本の社会と国家にいちばん欠けているところです。

亀山:(…)文学というのは、あるいは文学の想像力というのは、ものすごい揺れを含んだ軟体動物なんですよ。作家の頭のなかをのぞいてみるといいんです。彼らは信念でプロットを組み立てているわけではない。信念が表に出てきたら、小説は死んでしまいます。極限のあいまいさを追求するのが文学なんです。そして学問は、そのあいまいな地盤に両足をかけて、なおかつ決断することなんです。

佐藤:ただしこれは、一定の学識がないとできないんですよ。いや、学識よりももう少し広く、教養といった方がいい。時代を感じることができる。どうも、最近、「決断」という言葉が重みを失っている。「判断」は、情報や資料を基にして行うことだが、「決断」はそれと関係のないところで恣意的に自分で決めること、と誤解している。「決断」のインフレーションが起きている。(pp.38-40.)

図書館情報学を学んだ現時点で、このことはより理解できる気がします。
また、研究者などもよく言っていますね、大きな発明をするには、さいごには想像力の飛躍が不可欠だと。
けっきょく創造ということ、そこへ到る過程、すべてそうなのだと思います。


佐藤:マサリクは、「ドストエフスキーは神を信じていないからこそ、逆にキリスト教を礼賛しているのだ。本当に信仰を持っていれば、あのようなあからさまで無条件な礼賛などできない」という、ひねくれた見解を示しています。(p.125.)

やはりマサリクは読んでみようと何度目かの決意をしました。


●ケノーシスについて
・「謙譲」「謙遜」という意味のギリシャ語。キリスト教神学においては、とても重要な概念。
・ケノーシスの起源は、神が神であることに固執せずに、キリストとして肉体を持ち人のかたちをとったという受肉論にある。
・「ケノーシス」自体に傲慢さの要素はないが、人間が「ケノーシス」について理論化しようとする瞬間に、おのずから傲慢さが出てくる。
・日本人の「靖国のこころ」「特攻の精神」はケノーシスに近い。1942年から43年にかけてのドイツとのスターリングラード攻防戦でも特攻はあり、ドイツ軍の戦車に地雷ごと突っ込むという、死なしには遂行できない軍命だったが、ソ連は特攻として記録に残さなかった。生きる可能性が実は0パーセントなのに、0.01パーセントぐらいあるというフィクションの上で、通常の軍命としてやっていた。ロシアと日本の間で靖国問題が起きないのは、ロシア人自体に靖国に通じる自己犠牲の発想があるから。


佐藤: 日本人は幽霊や霊魂という形で、「霊」と「魂」を一緒にしがちですが、たとえば古代ギリシャでは二つは明確に分かれていました。「魂(プシュケー)」は個人に備わっている個性であって一人の人間に複数備わっているけれど、「霊(プネウマ)」は一つしかない。その感覚はロシア人もそうで、「魂」が「個性」とすれば、「霊性」は「命の原理」、空気のようなものです。
 そのふたつは区別できるけれど、パッケージになっていて分離はされません。ロシア人が互いの個性の違いを尊重するのは、こういった「霊」「魂」をよく理解しているからではないでしょうか。(pp.218-219.)

佐藤: われわれ日本人がロシアから学ばないといけないのは、「魂」の回復です。つまり、個々の「魂」によって世界を構成し、自分の魂に映る世界像についてきちんと話す。同時に、ほかの人が話す世界像について最後まで聞く。この集積が大事なのです。ところが、今の日本では、自分の魂に基づいて、責任をもって語るインテリも政治家もいなくなっている。ステレオタイプの感覚で世界を把握しているから、ステレオタイプから少しでも外れる他人の世界観を最後まで聞くことができない。ちょっとでも異質のものを見ると排除したいという欲望が働く。魂がこのように弱ることで、日本自体が弱ってきているのです。(p.221.)

話を聞けないひと、多いですね。ほんとうに。しかもただ話を聞くだけで肉体化しなきゃまったく意味もありません。わたしはもともと視野のせまいかたくななところのある人間で、いったん排除してしまうこともありますけれど、そんな自分を重々承知しているので、常に自己反省して、日々更新するように努力しているところがあります(ここのところ、表面的な理解ですまされると、あまりわかってもらえないみたいですけれど)。それが人間的ゆらぎってことなんじゃないでしょうか。
でも、あるひとびとは、わたしよりさらりと受け入れているようにみえて、じつは何も受け止めていない。それが端的に現れるときがあります。めんどくさいと思考停止・放棄。やわらかいものを最初から求める。意見と否定とは違うことが理解できない。すこし下の世代のそんな特徴を講習中にしばしば感じました。彼らの領域でしか通用しないんですね。見ていてすごくあやうい。
それはここでいう「魂」が形成されていない、もしくは形成しようとすらしていない、もしくは気づいていない、からなのかもしれません。もちろん世代でひとくくりにはできないことなんでしょうけれども。
ある意味で、わたしは講習の長い期間、羽をたたんでいたのかもしれません。それがストレスとなっていた。と今になって思います(云ってることが青くてあとで恥ずかしくなりそうですけれど)。
でもいちばんしんどかったのは、安易な共感、べったり依存されたことでしたけど!(ここはわかってくれている友人に向けた、ただの愚痴です)。


佐藤: 私は文学とは、インテリになるための方便と考えています。これは私自身の考えではなく、日本の傑出したマルクス経済学者だった宇野弘蔵の見解を踏襲しています。宇野は、インテリとは、自らが置かれた状況をリアルに認識している人と考えました。私は、認識しているだけでは不十分で、その認識を自分の言葉で表現することができるということをこれに付け加えるべきだと思います。(pp.233-234.)
2008年9月8日 | きゃべつ定食 / エッセンス |
きょうのひるまは夏でした

朝、開館まぎわの図書館へてくてく。空の青さにびっくりし、帰りにはわたがしをちぎったような雲のひくさにびっくりしました。きのうはあんなに秋の高い空だったのに!でも夕方には秋の空にもどっているなぁと屋上でぼんやりながめていました。



さて。美術館や映画など…気になっているものはたくさんあって、気分転換したいのはやまやまなのですが、講習も来週で終わるのだし集中力を切らさないでおこう…といちにち本を読むことにしました。
といっても、講習がらみではなく。

●岡田斗司夫『フロン―結婚生活・19の絶対法則』海拓舎, 2001

講習で知り合ったかたに、自分の具体的な経験を軸に推敲と理論立てをしていった恋愛論家族論、大変為になる、と薦められていた本です。ずっと余裕がなかったのですが、きょう読みました。


・男と女の違いは「感情をみつめる能力」
一般的に男性は、感情を過小評価する傾向にあり、女性は過大評価する傾向にある。感情に流されるヤツは負け犬とする価値観が男性のなかにあり、感情に無頓着なのは優しくないとする価値観が女性のなかにある。女性はまいにち自分の感情をみつめつづけるが、男性は自分が彼女を好き、彼女も自分を好き、それでOK、よっぽどのことがない限り、感情への観察はそれっきり。
だから結婚後、妻が出している「あんたを嫌いになっちゃうけど、構わないの?」というサイン(感情変化)に無頓着な夫は気づかない。すると感情変化を重視する妻は「夫も自分が嫌いなんだ」と判断し、離婚しましょう、となる。

・オンリーユー・フォーエバー症候群
「この世にはたったひとり、自分にとって運命の人がいる。その人と生涯添い遂げて暮らすことが、女の本当の幸せである」
と日本人女性が持つ「恋愛に対する信仰心」のこと。

・情報革命の到来とともに、誰もが「唯一無二の自分」を深く愛するようになり、「自分の気持ち至上主義」が生まれた。

・女性にとって家庭は安らぎの場ではなく、職場である。育児をする職場。しかし男性は家庭に安らぎを求める。

・家庭から夫をリストラせよ。
夫は育児の戦力にならないばかりか、リーダー役を妻が担うことへの障害となる。別居して、お互い個人個人で幸せになる方法を考えよう。異性に対して持っている欲求を、複数の相手に分散してしまおう。

というような内容だったかな(違うかも)。
感想。
この作者の言うことは、わたしの母が実行してきたことと近いと思います。夫に頼らず、できることはすべてじぶんでする、仕事をつづけて、いつでも離婚ができるようにしておく。よく言えばお互いが自立しあった関係。
ただ、違うとすれば、リーダー役を父が手放さなかったこと。それに伴う、母の不自由さ、でした。
でも現在はそれもほぼ解消されています。

読んでいて後半、すこし複雑なきぶんになりました。
「オンリーユー・フォーエバー症候群」なんて信じられるほど楽観性はもともとなく、それは、こどものころから母と父の関係を見てきていたので悟ってしまったようなところもあり、でもその裏返しの欲求として、じぶんはこうなりたくない、というのも強くあります。
たぶん分裂してしまっているのでしょうね。


●Jamais Jamais 『B型自分の説明書』文芸社, 2007

流行っていて、講習生のあいだでもちょくちょくこの話題になっていたんです。どう語られているのかちょっと見てみたくなり、ツタヤでぱらっと立ち読みしようとしたら、ぜんぶビニールで閉じられていた。という話をしたら、年下の女の子が貸してくれました。
貸してもらった手前、読破(というのだろうか、これ)しなきゃいけないので、がんばってみました。でも飽きてしまいますね。うちの母(もちろんB)はさいしょの数ページ、おもしろーいこれ、と読んだものの、すぐほおりだしておりました。

いちばんウケタのは、

電話中、気づくとなんかいじってる。
お茶してるとき、気づくとなんかいじってる。
会話中、気づくとなんかいじってる。
しかもティッシュとかビリビリにしてる。紙もビリビリ。
てところ。


●亀山 郁夫, 佐藤 優『ロシア闇と魂の国家』文春新書, 2008
まだとちゅう。
2008年8月31日 | きゃべつ定食 / エッセンス |
チベット問題ではなく、チベット仏教について
今週、あいまに読んでいたのは、山際素男『チベット問題:ダライ・ラマ14世と亡命者の証言』(光文社新書, 2008. 240p)

さらと読んだ限りでは、中国政府による植民地政策(チベット問題)に重点を置いているというよりは、第一章「ダライ・ラマ法王とともに」とあることからわかるように、チベット理解に焦点を合わせていると思います。
(第1章:ダライ・ラマ法王とともに/第2章:亡命チベット人の証言/第3章:『チベット通信より』)

チベット仏教というものを、というよりは宗教というものを、若いころから興味はつねにあるものの、いまだ知らずにいるので、そのあたりのダライ・ラマによることばが興味深かったです。


 仏教の見地では、宇宙の創造主、絶対的神、絶対的超越者というものは存在しません。いっさいは“行為”“カルマ”の結果として現われるのです。すべての科学的成果、気高いあるいは邪悪な破壊的行動も“行為”によって生じます。そしてその現世に起こるいっさいのものが前世の行為から生じるから不思議なのです。この前世ゆえになかなかカルマが理解できないのです。
 人間の行為には三種あります。身体的行為、言葉の行為、精神的行為(身・口・意)このうち精神、心はもっとも複雑で理解し難いのに、われわれは“心”という言葉をしきりに用い、他者の心を利用します。では心とはなんなのか?これが理解できないから精神、心のカルマ(行為)も理解できないのです。
 われわれの表面的に把[捉]えられている粗い意識(五感など)の段階が最深部のもっとも微妙な意識に吸収される時、もはやカルマ、行為はなくなります。なぜならその状態はもっとも微妙な、分別、動機、行為の消えた状態であり、それゆえカルマは断絶します。頭が働くから動機が現れ、積極的動機が起これば積極的行為が生じ、消極的動機から消極的行為が生まれるわけです。
 私がヒンドゥ教で疑問に思うのは、人々が絶対者、創造主を信じ、同時にカルマも信じている点です。これはどうやって説明できるのか私には分かりません。仏教には創造主というものは存在しません。自らが創造主であるなら、つまり、いっさいの分別、動機、行為を持たぬ至高の“存在者”がどうやって行為によって創造するのでしょうか(p.69-70)

日常生活における仏教徒の基本的態度は、慈悲に基づいた非暴力ということです。なぜそうであらねばならないのか?物事は相対的であり、自分の益、幸福は他者に拠っているからです。自分の幸せは独りで成り立ってはいません。(…)われわれ人間は、ほかの生物とともにこの地球上に生きており、わたしたちの存在そのものが地球に依存しているのですから、この地球を大切にする責任を負っています。すべての物事が相互依存である限り、自分自身の利益や幸せのために他人の権利を無視することは許されないのです。これが仏教の基本構造です。(p.72)

伝統的チベット仏教、タントラヤナ(真言乗)にはすべての、四つのタントラすなわちクリヤー・タントラ(作、行)、チャリア・タントラ(行、実践)、ヨーガ・タントラ、そして無上ヨーガ・タントラが含まれています。この四つが完全に残され、顕教と密教、小乗、大乗、大乗密教と、仏教のすべてのシステムが完全な形で伝わっているのがチベット仏教の特色であり、これは世界に誇っていい人類的遺産だと思います。(…)
 第四の無上ヨーガ・タントラ行の根本は慈悲であり、それはまた“空”の教義に基づいています。ここでいう“空”とは“自性”=自立した存在というものの本質であり。自性の欠如という思想です。それは究極的実体は“空”であるということを認識、理解することです。(p.73)


ダライ・ラマ関連本がなにげに続いているのですが(このあいだの上田紀行『かけがえのない人間』もダライ・ラマとの対話に拠っていた)、偶然です。
でもちょっともう少し詳しいものを読んでみたくなりました。いやいやあやしくないですよ。心配しないでね。
ことばで説明できることとできないことがあること、その境界のようなものがあるとするなら、というあたりに惹かれます。と云ってみましたがたぶんテキトウです。
2008年8月23日 | きゃべつ定食 / エッセンス |
二本の映画と、すこしまえの青
■ファーストフード・ネイション(2006年/米=英/108分/監督:リチャード・リンクレイター)

こないだたまたまケーブルでやっているのを知って観た『リトル・ミス・サンシャイン』に出ていたポール・ダノ。この作品にも出ていて、このひとひと目でわかる、すごく気持ち悪いオーラ、持ってるものなんだろうか。
あんまり出てこないのかな?と思っていたらさいごのさいごにスローモーションでえんえんつづく牛の屠殺場面、きょうは水曜日で、おばさんやなぜかおじさん(もしかしたら混んでいるほうが来やすいの?) がたくさんいたのでやや心配になりつつ、じぶんもすこし脚がふるえてしまった。もともと、それほど肉は食べないほうなのだけれどさ。でも、やっぱ当分豆でいいや。とおもった。
朝のべんとうづくりでも、肉やハンバーグを焼くとからだじゅうが朝から汚染されるようでまえからすごく嫌だったので、明日はいなりずしにしよう、と決めて買い物をしたら明日はいらないとのことだった。
シルヴィアがアメリカでのはじめてのレストランでチキンを食べたあと「冷凍だわ」と云っていたところで、んん、と考えた。さいきん「朝つぶしたばかりだからね」と店のおばちゃんが云う鶏やさんでしか鶏肉は買わないことにしているけれど、冷凍でもわたしわかるだろうか?


■暗殺 リトビネンコ事件(2007年/ロシア/110分/監督:アンドレイ・ネクラーソフ )

こちらが一応本命だったのだけど。公開まえは、観よう、と固く思っていたのにいざ公開がはじまると本で読んだことばかりで観る意味はないんじゃないか、など観ない理由をさがしはじめていた。でも行った。
リトビネンコの話す声の調子、表情、それからアンナ・ポリトコフスカヤ(への追悼のように映されている)の話し声、表情、リトビネンコの妻マリーナの目、映像力というのは、あるんだな。
学校占拠事件はロシア側のやらせだったということがポリトコフスカヤの口からはっきり語られている。
プーチンの横領事件もはっきりと語られている。



『ロシアン・ダイアリー 暗殺された女性記者の取材手帳』アンナ・ポリトコフスカヤ著

『プーチニズム 報道されないロシアの現実』につづきポリトコフスカヤの著作を読むのは二冊目。これは遺作というかたちで出版された。すでに暗殺されているから。日記というけれど、こんな日記は読んだこともない。つらいような戻ってこれないような気持ちになってしまうので、ところどころはざっと目を通すだけにした。

わたしはポリトコフスカヤのように生きたい。というのはあきらかに違って、生きることは決して無い、臆病だから。こういうひとの存在を知っていって、じぶんにできることを考える、だけなのかな、これからも。そしてゆらいでいく。
この本を読んでいたら、アフリカのことには興味はないの?アフリカだってかなりひどいじゃない、と云われた。じゃああなたがそのことを深く知って教えてくれればいい。そんな自己弁護をしているあいだに。

わたしたちは何が必要かはわかっていても、そのために戦う粘り強さに欠けている。ほとんどすぐに諦めてしまう。棚からぼたもちが落ちてくるのを待つあいだに、人生は通りすぎていく−2005年3月25日
2008年2月28日 | 見る観るみる / エッセンス |
さいきんのちびと本のことなど
晩ごはんの支度をしていると…なんとなーく視線を感じる、というのはたぶんうそですが、気がつくとこんなふうにこちらをじいっと見ているときがあります。

この、もの云いたげな顔!
顎をひきぎみにして、上目づかい。ときにはすこし顔をななめに向けて目だけでこちらをみている。

ちゃんと云いなはれ。



餌付けに挑戦してみるか〜



本のことなど。堀江敏幸の『アイロンと朝の詩人』と『バン・マリーへの手紙』。片方の図書館で予約待ちをしていたら片方の図書館の新刊コーナーにそろって置かれていたので即借り。地元の人々にはあまり人気がないみたいだけれど、司書のかたで好きなひとがいるのかもしれない。数少ない新刊(おすすめ?)コーナーによく並んでいる気がする。この対談に申し込んでいたけれど尾鷲滞在が予定より長びいてしまい、行けなくてザンネンに思っていたところなので、つづけて本を読めるのはうれしい。そうそうこれを機に小川洋子の作品を読んでみようと思っていたのに、またのびてしまったなぁ。たぶんずっと読まない気がする。対談は記事だけ読んでると…このふたりだとこんな感じなのかな…というような、でした。
本をめぐる偶然がこの本の中にもあった。

あるかたとの出会いから読みはじめようとしている島尾敏雄『死の棘』。三度目の貸出状態なのだけれど、数ページ読んだところでなぜかとまってしまっている。じっくり読みたいけれどいまはそうできないのでよしているのかも…しれない。

『終生ヒトのオスは飼わず』米原万理の本、かなりひさしぶり。と思って開いたら、はんぶんは猫と犬のはなしだった。続編というような感じらしい。なかには眉をひそめるような処置もあるのだけど、それを包み込むのはこのひとのとんでもない愛らしさなんだろうなぁ。(昔ロシア語を習っていたという某にーさんによるとおもろない人らしいですが)。猫って個性的なんやなぁ。犬って…と思ったのでした。おわり。

自画像せねば…

2007年11月1日 | うさぎうさぎうさぎ / きゃべつ定食 / エッセンス |
5月あたりに読んだ本・2

筆のためし描きにはうさぎ(文と関係ありません)


■作劇術

新藤兼人。
この本が出たのは知ってはいたのだけれど、あんまり映画も意識してみたことはないし、読もうとは思っていなかった。

きっかけは日経新聞だった。《わたしの履歴書》なるコーナーで、著名人が登場なさり何回かにわけてじぶんの過去を語ってくださる。興味があるひとのときだけ目を通すことにしている。そこに、すこしまえ、新藤兼人さんが登場したのだった。サラリとした語り口に、これならまとめて読んでみたいな、と思ったのだった。

内容。さすがに独立プロの先駆けとして奮闘されてきたひとのことばは重みがある。
シナリオ「ヒロシマ」、既成の原爆映画について。


...肝心の爆発がないんですね。それは予算の問題があるからですが、投下後の惨状を描くだけでいいのかという思いもあるんです。落ちる前と落ちたこと、そして落ちた後を描かないと、落ちたのはしょうがないということになりませませんかね。...僕としては世界に思い知らせるために、落ちたところをやるべきだと考えるんです。突風で飛び出す目玉、熱線で焼けただれていく顔、五万人が一瞬にして消えてしまったんですよ。大惨事です。原爆映画をいうのは、金がない、金がないといって、そこを避けて来たんだと思うんです。



二十億あれば撮れるそうです。
お金を寄せ撮っていただきましょう。
個人的には原爆描写はみたくないし、スプラッタになると思うんだけど。でもこんだけの熱意あるひとに、撮ってもらいたい。



あとは雑感・違和感を。
・近代劇全集
・「ふくろう」の話、すごい
・インタビュアーは岸川真、小野民樹。すごい

・女(=母)にこだわりますね。徹底してますね。救いのない描きをする。映画はみていないので、わかりませんが、この本からは、観たくはないな、と思った。矛盾を感じるからです。

・今度は(御歳95歳なので年齢的に最後の作といわれている)小学校のときの先生を素材に、一本撮るそうです。その先生は職をはなれてからもこどもの声が聴きたいと学校のそばに住んでいるそうです。そうしたじぶんのこどものころを描きたいと。

このあたりで、思ったわけです。わたしは教師である(あった)肉親を多数もっています。そばで葛藤をみてきました。教育はある意味とりかえしがつかないわけです。職を終えたとき、そうしたものを昇華できるのなら、なんと軽やかだろう。でもほんとうに誠実であれば、できなかったことの重さから、声など聴きたくない、みたくもない、と思うのではないか。

これは現在のわたしの考えで、これから変わるかもしれない。70歳になったら、95歳になったら、変わるかもしれない。

新藤兼人『作劇術』


つづく

2007年6月9日 | エッセンス |
5月あたりに読んだ本
■辻まことの世界

辻まことを知っている?
矢内原伊作のジャコメッティ本をぱらぱらと読んでいたら、このひとの文章にもっとふれたくなった。いままで少なからず読み返しているのに、そんな気は起こらなかった。ふしぎなことだ。身近な図書館の蔵書検索をすると、あまり置いてなさそうだったので、その中から《矢内原伊作編》というこの本を選んだ。矢内原が日本人のものを編纂するくらいだから、面白いに違いない、と。辻まこと、名前ぐらいしか知らない。

辻潤を父とし、伊藤野枝を母とする。

中身。鳥類図譜などcaricatureも載っていてその鋭さはスバラシイと思うが(こんなひとがいたのかとまで思ったが)、それよりは文章に惹かれた、というよりは勇気づけられた。

私は自分が世間からさがした友人よりずっと多くの友人を書物によって得たことを告白せざるを得ない。書物を友人とするような癖が、私だけの癖ではないように思える。

というのはおそらくとてもわかりやすく有名なことばと思われるが、これにぴくっとくるひとは読んだらいいとおもう。

深い底からきらきらしているような文章だから。
わたしは戦時の大陸におけることがらをかいた文章の感触がいちばん残っている。

辻まことの世界 辻まこと(著), 矢内原伊作(編)


つづく
2007年6月8日 | エッセンス |
さいきん本を読んでないんじゃない…

ええそうなんです。

しかも読んだ本も忘れているし。

日記もつけるのさぼっているし。

だめやん。

ってことで今併行読み・もしくは読み終わって手元にあるのを列挙。


「猫にかまけて」町田 康
ひとは愛するもののことを語ると月並みになるんですね★★(とちゅう)

「モーツァルトとブルックナー」宇野功芳
アツイ想いはわかった★★



「火星の人類学者 脳神経科医と7人の奇妙な患者」オリヴァー・サックス

《BOOKデータベースより:すべてが白黒に見える全色盲に陥った画家、激しいチックを起こすトゥレット症候群の外科医、「わたしは火星の人類学者のようだ」と漏らす自閉症の動物学者…脳神経科医サックスは、患者たちが抱える脳の病を単なる障害としては見ない。それらは揺るぎないアイデンティティと類まれな創造力の源なのだ。往診=交流を通じて、不可思議な人生を歩む彼らの姿を描か出し、人間存在の可能性を謳った驚きと感動の医学エッセイ 》
とてもおもしろいです。脳ってなんだ・ニンゲンってなんだ・異常ってなんだ・正常ってなんだ・その境界とは?と考えます。安価な文庫が出ているのですがこっちの表紙絵のが好きなので。★★★★★


「行動経済学 経済は「感情」で動いている」友野 典男

バカですみません。とてもタメになりそうですがまだとちゅうです★★★




「犬のことば」日高 敏隆


《BOOKデータベースより:動物と人間の垣根をとりはらい、動物たちとの親身なつきあいを通して、彼らの意識の内側をさぐり、〈動物は意識を持っているか〉〈生物の性はなんのためのものか〉〈ゴキブリはなぜ嫌われるのか〉など、さまざまな疑問や、おかしな新発見を報告する、動物学への招待》
とても好きな感じです。対象との距離がいい。★★★★


「フラーニャと私」ユーリー・ノルシュテイン構成・文

絵とかぱらぱらしか見てませんが。つくりのわりに安いとおもう★★★




「きりのなかのはりねずみ」ノルシュテイン,コズロフ作 ヤルブーソヴァ絵


すこしまえにココに原画展を観にいったのです。それまでノルシュテインの絵本はアニメーションに対してその付録のようなものだろうと思っていたのですが、そんなことはなく、絵本という表現形態を真摯に研究して作られていることを目の当たりにした(それが成功しているかどうかは別…)。日本版は2000年制作だけれど、最近ロシアではあたらしく数場面が追加され出版されたらしく、その原画も今回観ることが出来た。蛇足だと思われる場面もあったけれど、いい絵だと思うものもあって、なによりよりよいものを作り上げようとする執念がすごいとおもう。ロシア語版がほしいと思った。でもやっぱりアニメーションがいちばんだけど。
↑の「犬のことば」にハリネズミへの憧憬をつづるエッセイがあって、作者は飼ったことがあるらしい。すこしうらやましかった。ハリネズミはわたしにとって空想上のイキモノだ。★★★
2007年5月2日 | エッセンス |
買いました 杉浦茂『怪星ガイガー・八百八狸』青林工藝社


杉浦茂傑作選集 怪星ガイガー・八百八狸



買いました(笑)。杉浦茂はラムさんに教えてもらった漫画家で、作品はすこししか読んだことがないけどとっても好きです。いましろたかしと同じぐらいツボりました。





しかし、アマゾンさん。
本がまんま入ってまして、端っこかなりへたってましたが。いいけど。





《単行本化を予定されながらなぜかお蔵入りとなった幻の『怪星ガイガー』が新たに発見された原稿から初単行本化!!『八百八狸』オリジナル版(同じく初単行本化)併録!!1955年、全盛期の代表作がかつてないクオリティで甦る!!※ハードカバー、見返し企画は初版限定仕様
各界のファンによる“杉浦キャラ似顔絵大会”を見返しに収録!》
帯文よりまんま掲載。





花輪さん
さすがじゃよ。杉浦茂といえば水玉じゃよ。わしゃそう思う。

2007年2月26日 | エッセンス |
『人類』 Robert Antelme
『人類―ブーヘンヴァルトからダッハウ強制収容所へ』
ロベール・アンテルム(著)
宇京頼三(訳)

《レジスタンス活動中に踏み込まれ、強制収容所へ送られる》
自らが置かれた状況を、描写していくだけ。すべてが等価されていくような感覚。とても「おもしろかった」。終盤の死の行進のエピソードは「物語」としてだけでも息をつめるように読んでしまうし、アンテルムが行列をはなれてのちはじめて開ける空間はほんとうに美しいと感じる。
マルグリット・デュラスの元夫でもある。

[amazon] 人類―ブーヘンヴァルトからダッハウ強制収容所へ


2007年2月8日 | エッセンス |