ニックネーム:ひつじ先生
アートは「メディウム」です。メディウム(媒介)とは、簡単にいうと「のり」です。いろいろなものを接着し関係づけます。アートを媒介としたさまざまな関係の中にいろいろな出来事が生まれ、生成しています。ここでは、子どもやARTや文化をめぐって、日々の生活の中で気づいたことをお話できればと思います。◆コンタクト 辻 政博 masatsuji@jcom.home.ne.jp

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バイオグラフィー
2011年07月11日(月)
インドから帰宅


○愚娘が、インドから帰ってきました。
今回は、友人と行ったので写真の数は少ないようです。友人は、初めてインドにいったので、はじめは、その汚さにめげたようですが、何日かたつと、なじんだようです。まとわりつくハエも気にしなくなったそうです。
最後はもっといたいと言い出したみたいです。よくインドは「ハマる」と「くせ」になるといいます。どんな魅力があるのでしょうか?行かないとわかりませんね。





     ©Shino Tsuji


      ©Shino Tsuji


       ©Shino Tsuji


     ©Shino Tsuji
2011年7月11日 17時52分 | 記事へ |
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2011年05月31日(火)
ルオーは好きだな

    <人物のいる風景>1897年。パステル、木炭など。ルオー26歳の作品。

「パナソニック電工汐留ミュージアム」は、「車いす」の車に親切で、駐車場で、誘導してくれました。こうした心遣いがないのが大方ですが…。


○28日(土)は、おばばの誕生日で、朝、便座に座りながら・・・
「今日は、何日か知ってる?」
「わからん」
「誕生日だよ」
「おお、そうだったのか」
と言って、泣き出したのでした。
「誕生日まで生きのびるとは、思わなかった!」
オイオイオイ・・・そして・・・
「<28歳>まで生きるとはなあ〜」
「??????」
「・・・ん〜、ちがう?」
「いくつだ?」
「あ〜、87歳だった」
(一同、大笑い)

誕生日だからというわけではないのですが、日曜日に、おばばのすきな銀座方面にでかけました。

○ルオーのこの初期の作品を以前からみたいと思っていました。というのも、ルオーは、ギュスターブ・モローの弟子で、その教室には、マチスやマルケなどらの級友がいました。が、彼らとは、どこか一線を隔てていると感じていたからでした。マチスらが「野獣派」へと時代の最先端へと突き進むなか、ルオーの初期は、なんとオーソドックスでしょう。

むしろ、ルオーは、プサンやクロード・ロランらの「古典主義的風景画」を忠実に学習していたのでした。
そこには「自然」があり「光」がありました。また、たんに、眼に見えた風景を切り取りとるというのではなく、自然を宗教的な神秘性によって再構成するようなまなざしがありました。

そこには「キリスト者」としてのルオーのまなざしが根底にあるように思います。ですから、簡単にモダニズムに向かわなかったのも当然です。
以後、独自の様式をもつに至っても、ルオーの主題は変わっていません。キリストと風景が繰り返し描かれています。そして、ルオーには、描くこと自体が「道」のようです。完成ではなく、描くこと自体が目的のようで、その絵肌の厚みは、ルオーの絵描きとしての生き様を示しているように感じます。

また、戦争や貧困に目を向けてもいます。人間の生の「暗部」をとらえようとしています。ルオーの芸術は、感覚的な愉しみではなく、いかに生きるべきかという、誰もが最後には、向き合わねばならない問題を取り上げているのです。

ルオーは、ヨーロッパの伝統を引き継ぎながら、独自の様式として発展させ、その宗教的まなざしから、人間とは、人間の生き方とは何か、を追求した画家なのです。

「泰西名画」という括りを超えて、未だに、伝わる何かをぼくは感じるのでした。


2011年5月31日 05時39分 | 記事へ |
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2011年05月16日(月)
4分33秒






http://www.youtube.com/watch?v=hUJagb7hL0E





















2011年5月16日 08時19分 | 記事へ |
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2011年03月06日(日)
カラヴァッジョの「表情」・散歩


○見舞いに行って「写真」を撮ると、面白い感じで写っていました。「光と影」の感じが…ラ・トゥールやカラヴァッジョみたい!?…というのは、大げさですが、彼らの絵をみると、その演出は、見事すぎるくらいです。

ところで、カラヴァッジョは、そうした演出・構図も見事ですが、そこに描かれている人物の表情は、生々しく、こんなに現代的であったとは思いもよりませんでした。

ものの細部をまじまじと注意してみると、見え方が変化してくるようです。普段は、あまりものをよく見ていないのですね。








ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『いかさま師』ルーヴル美術館


ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ『聖マタイの召命』 1599年-1600年 サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂(ローマ)


<部分>

<部分>

<部分>








夜明けの「新板橋」

十条にある下町の歌舞伎座「篠原演芸場」


○体がかちこちで、具合がよくないですね。運動不足です。少し、歩いてみましたが、継続しないとだめですね。













2011年3月6日 13時33分 | 記事へ |
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2011年01月11日(火)
Still Life


「カリンとラ・フランス」水彩、130×230o



○帰り道、スーパーで果物を買いました。家にカリンがあったので、組み合わせて、かいてみました。(このカリンは拾ってきたものです)

時々、なんかこう、素朴にものをかきたくなります。うまくかこうというのではなく、何も考えずに、やるところが、面白いのです。

対象と紙と水彩絵の具の間で、それはほとんど感覚的なできごとで、紙の上に、現れ出てくる「絵」に、ぶつぶつと反応している自分に気づきます。

対象を見すぎると、ほとんど無限の感覚与件が押し寄せてきて、目が回ってしまいます。むしろ、水彩の色彩や紙の平面性に限定されるところで、対応した、感覚の選択が、問題のようです。

こういう時は、あまりに感情的な心情や意図的で主観を再構成し、演出するといった表現形式にはなりません。描いている自分は「世界」の入口に立っているようなものです。

「印象派」の「印象」ってこんな感じだったのでしょうか?

…わかりません。


○Satie 「Gymnopedie ジムノペディ」です。

http://www.youtube.com/watch?v=JHJZBrLrZZw&feature=related



















2011年1月11日 19時43分 | 記事へ |
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2010年12月03日(金)
南インド(クイロン〜アレッピー)・サルガド・藤原新也





○やっと、愚娘から、メールが届きました。Quilon〜Allepeyまで、船でついたそうです。クイロン?アレッピー?ってどこ?
そこで、ネットで調べると…



クイロン(トリヴァンドラムの北、バスで2時間程度)からアレッピー(コーチンの南、バスで1時間半程度)まで船で約8時間の船旅。この迷路(水路)は現在も、日常の交通網として使われている。クイロン以北には多くの水路と入江があり、海岸線とほぼ沿っている。アレッピー周辺では、大きな湖が出現しアラビア海が入り組む複雑で広大な水郷地帯
(http://yoshidanoharuo.web.fc2.com/scenery/sce_India_Quilon.htmlより抜粋)


トリバンドラムの北60km,アレッピーの南90kmのところにある町。アシュタムディ湖の近くに位置するバックウオター(水郷地帯)入口の町である。9世紀頃は香辛料貿易の中継地として栄えたが,現在は静かな田舎町になっている。
(http://www.geocities.jp/msakurakoji/200Southasia/205Quilon/P01.htmより抜粋)


…とありました。どうやら、このあたりは、水郷地帯で、船での旅行が有名のようです。

ネットには、いろいろ旅行記がのっているのですね。たくさんの若者が、旅をしているようです。

たまたま知り合った男の子が、同じ写真学校の出身で、「ドキュメンタリーフォト」コースを出たらしく、話がはずんだようです。

ドキュメンタリーフォトというと、セバスチャン・サルガドを思い出します。先だって、写真美術館で「アフリカ」をみましたが、サルガドの場合、紛争地域に入り込んでの、撮影なので、並大抵のことでは、できないですね。

サルガドの写真は、悲劇と相反するような美があります。






セバスチャン・サルガド











また、「インド」というと藤原新也さんの「印度放浪」を思い出しますね。




藤原新也著、朝日新聞社、1972年。
<帯の言葉>
近代という病いの末期に生きる一人の青年が、原初の土地=インド亜大陸を巡りつつ、蝕まれた肉体と精神を恢腹していく――行動する思索家・藤原新也の処女作。





藤原新也撮影(http://www.fujiwarashinya.com/photogallery/01/index.htmlより)


いつだったか、横内克之先生が「藤原新也」さんを講師に呼びたいなあ、と言ったことがありました。機会があれば、講師にお呼びして、お話を聞きたいものです。


○さて、本日は、はっぴいえんど の「12月の雨の日 〜 風をあつめて」を聞きながらのお別れです。(1985年国立競技場版)

http://www.youtube.com/watch?v=fgXXnwFYjM0&feature=related 




















2010年12月3日 19時08分 | 記事へ |
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2010年11月23日(火)
麻生 三郎展(東京国立近代美術館)


麻生三郎「家族」1959年




麻生 三郎「男の像」1963年




○やっと暇をみつけて、「麻生三郎」展にでかけました。ひとりの作家が一生をかけて追及した作品群は、見ごたえがあります。

それにしても、なんという「暗さ」と「怪奇」とでも言っていいような対象が解体してしまった表現でしょう。

(こんな一般受けのしない展覧会を企画した東京国立近代美術館をまずは褒めたたえたいと思います)

1994年に「鎌倉」でみてから、16年ぶりの再開です。ぼくには、16年の歳月が一層、麻生三郎の作品を確固たるものに、発酵させているようにも思えました。

ところで、麻生の絵画は、たいへん触覚的です。内臓感覚で描いていると言ってもいいかもしれません。

何度も繰り返し描かれた油絵の具の表面は、自分が見えてしまう「現実」との格闘のようです。

そして、画家には、同時にもうひとつの「現実」も見えているようです。絵画という事物の現実です。

試行錯誤の繰り返しによって、画面は、マチエールが増大し、その物質性を露にしはじめます。

けれども、画家は、物質のむこうにある見えてくる「対象」を手放そうとはしません。それは、自己がこの世界に実在する感覚だからです。そして、その世界は、たんに視覚的な模倣でもありません。

(また、現代のコンセプチュアルARTが、事物を操作可能な手段として、とらえているのとは、かなり位相がちがいます)

この世界に実在するという感覚とそれを絵画という実在(物質)として存在させようとする執拗な思考錯誤が生み出す緊張感が、麻生絵画の魅力でしょう。

現在という時代の、明るくモダンな消費社会から、階層化した人間そのものが、消費の対象となってしまったような姿を露にした社会のなかでは、一層、麻生の実存的な呻きがリアルに感じられます。



○本日は、友部正人さんの「大阪へやってきた」を聞きながらのお別れです。


http://www.youtube.com/watch?v=e990KauU45E






◆麻生 三郎(あそう さぶろう、1913年(大正2年)3月23日 - 2000年(平成12年)4月5日 )は、東京都生まれの洋画家である。

武蔵野美術大学名誉教授。戦中戦後を通して焼けただれ、焦げ付いたような暗褐色に彩られた家族を中心とした人物像や自己の内面を解体デフォルメし、闇の中から浮かび上がるように描き出す作風で知られる。彫刻家の麻生マユは実娘。

経歴 [編集]
東京都京橋区本湊町(現在の中央区湊)鉄砲洲の炭問屋麻生惣兵衛、喜代の三男として生まれる。実家は当時築地の居留区があった明石町にほど近く、下町でありながらモダンな雰囲気に影響され洋画を志したと述べている。

明治学院中等部在学中の1928年より、小林萬吾の設立した同舟舎洋画研究所にて本格的にデッサンを学びはじめ、1930年に太平洋美術学校選科に入学。ここで松本竣介や寺田政明らと出会い、長谷川利行や靉光との交流が始まる。1933年に退学し、個人活動を開始。1936年に寺田政明らとエコール・ド・東京を結成。翌1937年の第一回エコール・ド・東京展に作品を発表した。

1938年2月、突如としてヨーロッパに出発し、フランス、ベルギー、イタリア各地をまわる旅に出る。しかし折しも第二次世界大戦へ向けて状況が悪化し始め、約半年後の9月に帰国した。[1]

帰国後は豊島区長崎にアトリエを構え、1939年には福沢一郎、北脇昇、寺田政明らと美術文化協会を結成。さらに1943年には寺田政明、松本竣介、靉光、糸園和三郎、井上長三郎、大野五郎、鶴岡政男と「新人画会」を結成。戦況が厳しくなり、軍部による抑圧の中、作品を発表し続けた。1944年に召集を受け入営するものの、身体虚弱の為に兵役不適とされてすぐに帰されたという。また空襲によりアトリエを焼失し、多くの作品が失われた。

戦後、松本竣介、舟越保武と日動画廊にて三人展を行った後、1947年より自由美術家協会に参加[2]して戦後復興に尽力した。1950年頃から世田谷区三軒茶屋に自宅兼アトリエを構え、近所や少年期を過ごした隅田川界隈の素描作品を数多く残している。

1952年より1981年まで武蔵野美術学校にて教鞭をとり、後進の育成を手がけた。1959年第5回日本国際美術展優秀賞。1963年芸術選奨文部大臣賞受賞。展覧会としては1973年に東京都美術館で個展を、1994年には三重県立美術館、茨城県近代美術館、神奈川県立近代美術館を巡回する「麻生三郎展」等が開催されている。

2000年に87歳で死去。墓地は神奈川県川崎市多摩区南生田の春秋苑。

(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%94%9F%E4%B8%89%E9%83%8Eより)








2010年11月23日 18時06分 | 記事へ |
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2010年11月17日(水)
トンネルの唄・朝比奈逸人(あさひな やすと)


朝比奈逸人/作 「無題」1984/91 油彩、合板、綿布




朝比奈逸人/作 「無題」1988/91 油彩、合板、綿布

(「形象のはざまに」展 1992年。東京国立近代美術館より)





○高田渡さんのうたう唄に「トンネルの唄」というのがあります。トンネルを人生に見立てて歌ったうたなのですが、その歌詞は、軽快な音とは、ちょっと異なって、単純な比喩には、なっていないのでした。

そんな「トンネルの唄」の作者は、「朝比奈逸人」という人で、どうも、「現代美術」の「朝比奈逸人」さんと、同一人物らしいという書き込をみつけたのでした。

1951年生まれの朝比奈さんは、ぼくとだいたい同じ世代で、80〜90年代当時、その作品を画廊や美術館でみかけました。

「変形キャンバス」が特徴で、その内部には、アンリ・マチスのような「平面化」された形と色がほどこされているものでした。なかなかいい感じの作品でした。

ぼくとしては、「フォーク」の世界と「現代美術」の世界は、まったく異質な世界だと思っていたので、かなり驚きのある発見です。

ホーボーな世界は、放浪の世界で、権威的な世界から逸脱していく、心性をもっています。…というか、そのような階層の唄なのですね。高田さんをみれば一目瞭然ですね。

その後の朝比奈さんは「消息不明」のようです。

今、朝比奈さんの絵をみてみると、「トンネル」の向こうにみえる風景・世界のようにも見えてきました。

そして、その世界は、伝統的な図と地が分節された世界ではなく、「トンネルの唄」の歌詞のような…


空も地面も何にもなくて 長い長いトンネルの中

呼び合う声だけが聞こえるよ だれも姿は持ってないからさ



…すなわち、秩序が、分節され、腑分けされていない世界のように見えてくるのでした。










「トンネルの唄」(フォークデュオMW)の演奏は…

http://www.youtube.com/watch?v=E3GQNlOB72M&feature=related


高田渡さんの「トンネルの唄」は…


http://www.youtube.com/watch?v=7Vg1ucqku-s&feature=related


「トンネルの唄」
 詩・曲:朝比奈逸人


こんな長いトンネルってあるだろうか もう前にも後ろにも行かないよ

最後の汽車から降ろされて もうあの娘にも会えないな


オイラもそうだよ、ホントはさ だれでも家に帰りたがっている

都会は花盛りですって便りを出した ああ、そんなのウソだけどな


昔、プラットホームの上、灰色の 煙の天使が浮かんでた

で、今になって思うんだ あいつら流されて来たんだ


朝はあしたの後ろ姿 夜は夜で思い出を繕う

ねえ、トンネルってため息なのかい ねえ、トンネルってため息なんだろ


空も地面も何にもなくて 長い長いトンネルの中

呼び合う声だけが聞こえるよ だれも姿は持ってないからさ


こんな長いトンネルってあるだろうか もう前も後ろもなくなった

最後の汽車から降ろされて もうあの娘にも会えないな

最後の汽車から降ろされて もうあの娘にも会えないな








2010年11月17日 19時33分 | 記事へ |
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2010年10月08日(金)
見舞い・「丸木スマ」おばあちゃんの絵


通勤時、7時ころ、墓地からみた「朝焼け」。




娘のドローイングとオババ



○おじさんは、早起きです。7時ころに学校に着きます。
今日の朝焼けは、きれいでしたね。

今週は、とてもハードでした。金曜日の6時間目を終えて、へとへとでした。(月)〜(水)の出張がききました。

来週も(火)〜(金)まで、4連続です。乗り切れるでしょうか。

…ということで、オババの見舞には、行かなかったのですが、「あいつは、4日も見舞いに来ないな」とのたまわっているらしかったので、金曜日は、行って来ました。

日曜日に、お陰さまというか、そろそろ医者が退院しなさいとのことなので、退院することになりました。

本人は、家だと動いて生活しなければならないので、「面倒くさい」とのことです。

(実に「なまけもの」な人です(笑い)。なまけものでも86年は、生きれるという見本かもしれません。いや、逆に、ナマケモノの方が、長生きするかもしれません)

食事、排泄、「透析」の通院と家で世話をする人間は、もっとたいへんになりそうです。

「老人介護」は難題です。








丸木スマ《めし》1950。




丸木スマ《白い母猫2》年代不詳。




丸木スマ《白い鳥》1951。


○ところで、娘のドローイングをみていたら、「丸木スマ」さんの絵を思い出しました。

丸木位里さんの母親で、70を過ぎてから絵を描きだしたそうです。なんとも言えない素朴な心情のようなものが漂っています。

ぼくなどは、表現というものは、「これでいいのだ」と思ってしまうのです。

皆さんは、作意にまみれたテクニシャンの絵が好きですか?




原爆の図丸木美術館 http://www.aya.or.jp/~marukimsn/

原爆の図丸木美術館丸木美術館(まるきびじゅつかん)とは、埼玉県東松山市大字下唐子にある美術館である。原爆の図を常設展示している。

概要 [編集]
正式名称は、財団法人原爆の図丸木美術館である。1967年に開館。丸木位里・丸木俊夫婦による「原爆の図」連作ほか共同制作、位里の母・丸木スマの絵画を常設展示している。

原爆に関連して、原発にも反対しており、原発分の電気料金は払わないと東京電力に通知、電気料金の一部を支払わなかったため、東京電力が料金未払いとして送電を停止。発電機による自家発電によって電気をまかなったこともある。 2009年現在は美術評論家の針生一郎が館長を務めている。

丸木位里は1995年、丸木俊は2000年に亡くなっている。

主な収蔵品 [編集]
原爆の図
水俣の図
南京大虐殺の図
アウシュビッツの図
沖縄戦の図

住所・交通 [編集]
住所 - 埼玉県東松山市大字下唐子1401
鉄道 - つきのわ駅から徒歩2km
バス
東松山駅東口から東松山市内循環バス唐子コース「浄空院入口」バス停から徒歩5分
高坂駅西口から東松山市内循環バス唐子コース「丸木美術館北」バス停から徒歩2分
道路 - 東松山ICから国道254号小川方面10分

(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%88%86%E3%81%AE%E5%9B%B3%E4%B8%B8%E6%9C%A8%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8より抜粋)









2010年10月8日 19時18分 | 記事へ |
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2010年09月13日(月)
「まど・みちおえてん」


川崎市市民ギャラリー「まど・みちおてん」    「きりん」1977年



「くるみ」1961年12月3日



○詩人の「まど」さんは、ことばを操るひとでもありますが、「え」をかくひとでもあります。

はじめてまとまった絵をみました。それらは、1961年(51歳)から、1964年(55歳)までの間に集中して描かれたようです。年代の不明な作品も多くあり、今のぼくには、全体を俯瞰できない状態ですが、絵画制作へのまどさんの、なみなみならぬ情熱が伝わってきます。

シュルレアリスムのようなイメージの模索、幾何学的な抽象、紙が破けるほどのかきこみ、丹念な気質、質感へのこだわり、曼荼羅への連想…など、さまざまなものを想起させます。
また、ぼくなどには、情動と知性の葛藤のようなものも感じます。

なぜ、まどさんが、絵をかくにいたったか、その背景や理由は、詳しくはわかりませんが…「カタログの解説」(有田順一、P7)によると、抽象画家ポリアコフについて、次のようなことを述べているようです。


「…ひとことで言えば、絵をみるときくらいは、自分の視覚を自由にさせておいてやりたいと思う、ということだろう。そのためにこそ絵を見るのだと言ってもいい気がする。(中略)そして私が視覚にもとめているもの、その見る自由であって、大げさかも知れないが、それを守る最後の砦が抽象画だという風に私は考えているらしい」(わたしの一枚セルゲ・ポリアコフ「無題」美術出版社 1970年9月48、49頁)


そして、こうした見る自由に根差しながらも、自然や宇宙の成り立ちに感応しながら、明快(直截)にそれを形象化したいという表現者としての意思を、まどさんの「え」に感じるのでした。





まど・みちお(1909年11月16日 - )は日本の詩人である。本名は石田 道雄(いしだ みちお)。 25歳のときに北原白秋に認められ、33歳のときに召集される。詩作りは20代から始め、以来詩を作り続けている。創作意欲の源は、政治・行政・教育・経済・戦争などに対する不満である[1]。 『ぞうさん』や『やぎさんゆうびん』などの、そのおおらかでユーモラスな作品は童謡としても親しまれている。

経歴 [編集]
現在の山口県周南市(当時の徳山町)に次男として生まれる。幼い頃に父が仕事の都合で台湾へ渡り、さらにまどが5歳の時に母が彼の兄と妹を連れて同地に移住したため4年ほどの間、祖父と2人での生活を送っている。その後、彼も祖父のもとを離れて台湾へ渡った。

台北工業学校土木科に在学中、数人で同人誌『あゆみ』を創刊し詩を発表。卒業後は台湾総督府の道路港湾課で働いていたが1934年、雑誌『コドモノクニ』の童謡募集に応じて5篇を投稿、そのうちの2篇が特選に選ばれたのをきっかけに詩や童謡の投稿を本格的に行うようになる。1936年には山口保治によって童謡『ふたあつ』が作曲された。その翌年には同人誌『昆虫列車』の創刊に参加し、1939年の廃刊まで活動する。

・1943年、召集によって台湾の船舶工兵隊に入る。マニラを皮切りに各地を転戦し、シンガポールで終戦を迎える。日本に戻り、1948年には出版社に入社。雑誌『チャイルドブック』の創刊にたずさわり詩や童謡の発表をしながら子供のための雑誌、書籍の編集やカットに関わった。

・1959年に出版社を退社した後は、詩・童謡・絵画に専念する。1963年にはそれまでに作った童謡を『ぞうさん まど・みちお子どもの歌一〇〇曲集』としてまとめる。その5年後、はじめての詩集となる『てんぷらぴりぴり』を出版し第6回野間児童文芸賞を受賞。1976年、『まど・みちお詩集』(全6巻)によって第23回サンケイ児童出版文化賞を受賞。第1巻『植物のうた』は、日本児童文学者協会賞にも選ばれた。同年、川崎市文化賞を受賞。

その後の賞歴を箇条書きする。

1979年 『風景詩集』により第22回厚生省児童福祉文化奨励賞。
1980年 第23回日本児童文芸家協会児童文化功労賞。
1981年 第4回巌谷小波文芸賞。
1986年 『しゃっくりうた』により第35回小学館文学賞。
1992年 まどの生誕地である山口県徳山市(当時)から、市民文化栄誉賞。
1993-1994年 『まど・みちお全詩集』により第43回芸術選奨文部大臣賞および第40回産経児童出版文化賞大賞、第16回路傍の石文学賞特別賞。
1994年 国際アンデルセン賞(Hans Christian Andersen Award)作家賞。
1998年 第47回神奈川文化賞。
1999年 1998年度朝日賞。
2001年 『うめぼしリモコン』により第11回丸山豊記念現代詩賞。
2003年 第59回日本芸術院賞。
1992年には、皇后美智子の選・英訳による『どうぶつたち』(The Animals)が日本およびアメリカで出版された。

・満90歳(1999年11月)を過ぎた頃からは、自らの「老い」を見つめた詩も増えているとされる[2]。

・2008年末、腰を痛めたのを機に入院し[3]、2009年11月現在、療養中であるが[3]、創作活動は行っている[2][3]。

・2009年、満100歳を迎えるにあたり、新作詩集2冊(『のぼりくだりの…』『100歳詩集 逃げの一手』)が11月に刊行された[4]ほか、出身地の周南市ではさまざまな記念イベントが開催された[5][6]。

作品 [編集]
『やぎさんゆうびん』 [編集]
1939年、「昆虫列車」に初出、1953年にNHKラジオで放送された(作曲:團伊玖磨)。白ヤギと黒ヤギの間で終わりなく繰り返される手紙のやりとりがユーモラスな作品である。

『ぞうさん』 [編集]
1948年に書かれたもので、1953年に團が曲をつけてNHKラジオで放送された。その歌詞は自らのもつ差異を肯定し、誇りとするものとされている[7]。周南市徳山動物園には『ぞうさん』の歌碑がある[8]。

まどは『ぞうさん』について次のように語っている。

「『鼻が長い』と言われれば からかわれたと思うのが普通ですが、子ゾウは『お母さんだってそうよ』『お母さん大好き』と言える。素晴しい。」(まど・みちお)[1]

『ふしぎなポケット』 [編集]
1954年発表。たたくたびに中のビスケットが増える魔法のポケットがほしいと歌う作品。作曲は渡辺茂。

おもな著作・関連作品一覧 [編集]
詩集 [編集]
『てんぷらぴりぴり』(大日本図書、1968年)
『まめつぶうた』(理論社、1973年)
『まど・みちお詩集』(全6巻 銀河社、1974-1975年)
『風景詩集』(銀河社、1979年)
『つけもののおもし』(ポプラ社、1979年)
『いいけしき』(理論社、1981年)
『しゃっくりうた』(理論社、1985年)
『くまさん』(童話屋、1989年)
『それから…』(童話屋、1993年)
『メロンのじかん』(理論社、1999年)
『おなかの大きい小母さん』(大日本図書、2000年)
『きょうも天気』(至光社、2000年)
伊藤英治編『まど・みちお全詩集』(理論社、1992年初版、1994年増補新装版、2001年新訂版。右のISBNコードは新訂版。 ISBN 9784652042311)
市河紀子編『のぼりくだりの…』(理論社、2009年)
水内喜久雄『100歳詩集 逃げの一手』(小学館、2009年)
エッセー [編集]
『すべての時間を花束にして』(聞き書き:柏原怜子、佼成出版社、2002年 ISBN 9784333019717)
『いわずにおれない』(集英社、2005年 ISBN 9784086501019)
詩画集 [編集]
『とおいところ』(新潮社、2003年 ISBN 9784104641017)
翻訳絵本 [編集]
皇后美智子選・英訳『どうぶつたち(The Animals)』(絵:安野光雅、すえもりブックス、1992年 ISBN 9784915777066)
皇后美智子選・英訳『ふしぎなポケット(The Magic Pocket)』(絵:安野光雅、すえもりブックス、1998年 ISBN 9784915777219)

童謡 [編集]
『ぞうさん』(作曲:團伊玖磨)
『やぎさんゆうびん』(作曲:團伊玖磨)
『おにぎりころりん』(作曲:小森昭宏)
『いちねんせいになったら』(作曲:山本直純)
『ふしぎなポケット』(作曲:渡辺茂)
『ドロップスのうた』(作曲:大中恩)
『みずあそび』(作曲:滝廉太郎)
『赤とんぼ』(作曲:山田耕筰)
『あわてんぼうの歌』(外国曲)

合唱曲 [編集]
児童(女声)のための合唱組曲『虫の絵本』(作曲:吉岡弘行)
テントウムシ
チョウチョウ
ガガンボ
セミ
混声合唱組曲『宇宙のうた』(作曲:近藤春恵)
女声(児童)合唱曲『花と木の歌』(作曲:今井邦男)
『こんなにたしかに』(作曲:山本純ノ介)
混声合唱組曲『詩の歌』(作曲:三善晃)
コスモスのうた

いちばんぼし
かいだん I
やどかりさん
サザンカ

かいがらさん

同人誌 [編集]
昆虫列車
※詩人の水上不二と発行
資料 水上不二さんの詩(ポエム・ライブラリー夢ぽけっと 2005年)

校歌 [編集]
安曇野市立豊科南小学校(長野県安曇野市)
川崎市立白幡台小学校付属幼稚園(2003年閉園)(神奈川県川崎市)
立川市立立川第九中学校(東京都立川市)
川崎市立稗原小学校(神奈川県川崎市)
川崎市立南菅小学校(神奈川県川崎市)
私立丸山幼稚園(神奈川県川崎市)
練馬区立大泉第二小学校(東京都練馬区)
練馬区立旭町小学校(東京都練馬区) 
町田市立忠生第四小学校(2001年閉校)(東京都町田市)
長野市立篠ノ井西中学校(長野県長野市)
世田谷区立希望丘小学校 (東京都[世田谷区])

(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BE%E3%81%A9%E3%83%BB%E3%81%BF%E3%81%A1%E3%81%8Aより)









2010年9月13日 21時07分 | 記事へ |
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2010年08月29日(日)
「益子参考館」が心配だ!


「益子参考館」久しぶりにでかけました。とても静かで閑静なたたずまいの「民藝」の館です。


  
 

母屋の廊下。              芋虫のような登り窯。





たいへんです。「かやぶき」がくずれはじめています。





○久しぶりに、「益子参考館」のでかけました…しかし、かやぶきの屋根は、崩れ落ち、今にも崩壊しそうです。2年前に来たときは、まだこんなに荒れて、いませんでした。
はやく手当をしないと、貴重な文化財が失われてしまいます。
江戸時代の農家を移築した家は、よく見ると、太い柱に虫が食っていたり、壁にカビがはえていたりします。
国や県が、補助して直さないと、重要文化財の保存は無理だと思います。





◆益子参考館(ましこさんこうかん)は、栃木県芳賀郡益子町にある浜田庄司の自邸と陶芸窯(工房)跡にある博物館。

歴史 [編集]
1924年、浜田庄司が益子町に移住。
1930年、現在地に建物を移築し、自身の生活の場とする。
1977年、益子参考館開館、現在に至る。

内容 [編集]
浜田庄司が収集した、陶磁器、木工、漆器、金工、染織他の工芸品を展示、公開する。

関連項目 [編集]日本民藝館
バーナード・リーチ
河井寛次郎

外部リンク [編集]
財団法人 益子参考館

http://www.mashiko-sankokan.net/




◆濱田 庄司(はまだ しょうじ、1894年(明治27年)12月9日 - 1978年(昭和53年)1月5日)本名象二は、主に昭和に活躍した日本の陶芸家。

経歴 [編集]
神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市)溝ノ口の母の実家で生まれる。東京府立一中(現東京都立日比谷高等学校)を経て、1913年、東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科に入学、板谷波山に師事し窯業の基礎科学面を学ぶ。1916年同学校を卒業後は、学校が2年先輩の河井寛次郎と共に京都市立陶芸試験場にて主に釉薬の研究を行う。またこの頃柳宗悦、富本憲吉やバーナード・リーチの知遇を得る。

1920年、イギリスに帰国するリーチに同行、共同してコーンウォール州セント・アイヴスに築窯する。1923年にはロンドンで個展を開催、成功する。

1924年帰国、しばらくは沖縄・壷屋窯などで学び、1930年からは、それまでも深い関心を寄せていた益子焼の産地、栃木県益子町で作陶を開始する。

殆ど手轆轤のみを使用するシンプルな造形と、釉薬の流描による大胆な模様を得意とした。戦後、1955年2月15日には第1回の重要無形文化財「民芸陶器」保持者(人間国宝)に認定。また1964年に紫綬褒章、1968年には文化勲章を受章する。

柳宗悦の流れをうけて民芸運動に熱心であり、1961年の柳の没後は日本民藝館の第2代館長にも就任する。また1977年には自ら蒐集した日本国内外の民芸品を展示する益子参考館を開館。

1978年益子にて没。享年83。

(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E7%94%B0%E5%BA%84%E5%8F%B8より)












2010年8月29日 19時25分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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清家清「私の家」&おばばの見舞





○おばばの見舞に行くと壁に「足」のイラスト。老人ということもあり、お医者さん(看護士)が「図」で説明していました。
そう言えば、医者がカルテをかくとき、簡単な図解をしているのをみかけたことはないでしょうか。そして、ドイツ語?で、病名をそえたりしています。
医者は図工も語学もできないといけない職業でもありますね。
患者側としては、手術の際、手先のおぼつかない医者は不安です。小学生時代にいっぱい図工をやってほしいですね。(それも10歳までにたくさん経験してほしいですね)
ダビンチも、「解剖学」の先鞭をつけたひとですね。その時代は、現代のように学問が細分化しておらず「総合性」をもっていたのですね。
小学校で「総合」はすっかりすたれてしまいましたが、思うに総合とは、「あるもの」と「あるもの」を関連付けて、全体としてみる思考作用です。
部分は現象的なので、目が向き固定されがちですが、全体を関連付けたまなざしは、なかなかもてないというのが、現状のように感じる今日このごろです。




○「総合」ということでいうと「建築」も総合ですね。ぼくは全然その方面には暗いのですが、先だってTVで、昔のCM…「ちがいがわかる男」=「清家清」さんの特集をしていました。「私の家」の特集でした。
その特徴は…

・内と外がつながっている。ドアなし。
・床暖房。
・ワンルーム。
・移動式たたみ。(1.5メートル四方)
・「広さ」はせまく、50平米(5×10メートル)です。

その大きさを決める基準というのがまた、たいへん興味深いものでした。
清家さんは、「適切な大きさ」を掃除という労働の分析をおこない、その疲労度から換算していたのです。
5分ほどの掃除の時間が適切で、その大きさは「60平米以内」というものです。
そこにはヒューマンなスケールがあるように感じました。

また、「しつらい」という概念や「鴨長明」の「方丈記」(方丈=3メートル四方)への関連も示唆に富んでいました。

そして、建築は、つくったときが完成ではなく、「はじまり」だというのです。
そこに住む「家族」の交流こそが目的だというのです。
そこには、「ひとが生きる場」への視線がありました。
これは、現代を生きる人間にとって、ものすごい大切なものではないでしょうか。




美の巨人たち・清家清「私の家」1

http://www.youtube.com/watch?v=m9JbqAFRw1o

美の巨人たち・清家清「私の家」2

http://www.youtube.com/watch?v=4gUgxvb5DhA

美の巨人たち・清家清「私の家」3

http://www.youtube.com/watch?v=EbjUAW-CI2Y






◆プルフィール
清家 清(せいけ きよし、1918年12月13日 - 2005年4月8日)は、日本の建築家。

日本における代表的な現代建築家。戦後すぐに「森邸(1951年)」を発表し、同じ50年代に発表された、池辺陽の「立体最小限住宅(1950年)」、増沢恂の「最小限住宅」、広瀬鎌二の「SHシリーズ」、と共に機能主義による都市住宅のプロトタイプを提案し、住宅をはじめとする明瞭で軽快な作品で日本の伝統的モダン美を独自の解釈ではじめて形にした。

勲二等瑞宝章及び紫綬褒章受章。工学博士(東京工業大学)。主な称号に東京芸術大学名誉教授、東京工業大学名誉教授、日本建築学会名誉会員、東京建築士会名誉会員。息子は経済学者で慶應義塾長の清家篤。

経歴 [編集]
1918年京都府京都市に生まれる。少年時代を神戸市で過ごし、旧制神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)を経て1941年東京美術学校(現・東京芸術大学)、1943年東京工業大学卒業。太平洋戦争に従軍。海軍技術見習尉官・中尉・大尉、海軍兵学校教官。1945年正七位に叙される。復員後、東京工業大学助手・講師・助教授を経て、1962年同大学より工学博士の学位を授受、教授に昇進。東京工業大学の清家研究室からは、林昌二、林雅子、篠原一男らが育つ。1977年東京芸術大学教授併任、1979年東京工業大学を停年退官。1981年日本建築学会会長。1989年東京建築士会会長。1983年 紫綬褒章。1989年 勲二等瑞宝章。1991年から1997年まで札幌市立高等専門学校校長。退任後、株式会社デザインシステム(東京都大田区)代表取締役を務めた。没後、叙・従三位。

エピソード [編集]
初期の「斉藤助教授の家」(1952年)に惚れ込んだグロピウスが、清家を自宅に連れて帰ったことは有名。
博学で多彩な趣味の持ち主。ネスカフェゴールドブレンドのCMでは"違いのわかる男"として建築家という職業を世に印象付けた。
清家の自宅は車掌車の実物そのままを設置した電車の家として「タモリ倶楽部」の東京トワイライトゾーンで紹介された。タモリたちは当初清家の事に気付かず単なる一般の変なおじさんと思い込み、清家の家を弁当の届け先にしたり、その弁当の受け取りにサインをさせたりと数々の無礼を行ったが、清家は怒る事もなくにこやかに応対した。番組内での言動から清家が鉄道模型から始まって実物を手に入れるまでになった鉄ちゃんという事がうかがえる。
没後、2006年に開催された回顧展の会場には実物大の「私の家」が再現された。

代表作品 [編集]
建築作品 [編集]

東京工業大学南5号館
豊雲記念館森博士の家(1951・東京)
斉藤助教授の家(1952・東京)
私の家(1954・東京)
九州工業大学記念講堂(1960・福岡)
‘61東京国際見本市鉄鋼特設館(1961・東京)
小原流家元会館(1962・兵庫)
東京オリンピック選手村メインゲート(1964・東京)
東京工業大学校舎(1965・東京)
日本万国博覧会・国連館・スイス館・アメリカ館ディスプレイ・虹の塔(専売公社館)
豊雲記念館(1970・兵庫)
続私の家(1970・東京)
在フィリピン日本大使館公邸(1971・フィリピン)
伊豆・三津シーパラダイス(1977・静岡県 1982年増築 1991改修)
軽井沢プリンスホテル新館(現 ザ・プリンス軽井沢)(1982・長野)
野尻湖プリンスホテル(1983・長野)
水上高原プリンスホテル(1984・群馬)
新富良野プリンスホテル(1988・北海道)
在シンガポール日本大使館公邸(1988・シンガポール)
倅の家(1989・東京)
横浜・八景島シーパラダイス(1993・神奈川)
鎌倉プリンスホテル(1994・神奈川)
札幌市立高等専門学校(1995・札幌)
パラオ国サンゴ礁保全研究センター(1999・パラオ)

計画類 [編集]
高蔵寺ニュータウン住棟計画(1966・東京都)
大島観光開発マスタープラン(1972・東京都)
玄海海中公園マスタープラン(1972・佐賀県)
芦屋浜総合計画(1972・兵庫県)
高井住宅団地マスタープラン(1972・東京都)
常滑ニュータウンマスタープラン(1973・愛知県)
石見町自然休養村計画(1975・島根県)
玄海海中公園海中展望塔(1975・佐賀県)
築地中央卸売市場再開発計画(1976・東京都)
高鷹台住宅団地計画(1977・)
都賀の台住宅団地計画(1979・)
伊勢おはらい町再構想計画(1979・三重県)
知多ビーチランド基本計画(1980・愛知県)
蛍が丘共同住宅計画(1981・静岡県、再開発計画1989年)
八景島事業開発計画(1987・横浜市)
小笠原海中公園基幹施設(1988・沖縄県)
枕瀬地区周辺整備計画(1995・島根県)
サンゴ礁保全計画調査(1996・パラオ)
紅葉台ニュータウン計画(1996・大分)
海中公園に関する基本調査(1997・ブルネイ)
八景島イベント広場(1997・横浜市)

(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%AE%B6%E6%B8%85より抜粋)
























2010年8月29日 04時27分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2010年08月13日(金)
「イノセンス―いのちに向き合うアート」展、栃木県立美術館
 

舛次 崇(しゅうじ たかし)左《植木とスリッパとテープ》2009。
右《植物鉢の花》1997






松本国三(まつもとくにぞう)《無題》2002




 

建物がなんだか古い感じがする栃木県立美術館だが、ケーキセットは、お得(笑)。




○水曜日から、やっと夏休みになりました。
けれども、家人は所用、母親はリハビリ、娘はバイトと、おっさんをかまう相手はいず、お盆の帰省ラッシュ直前で、渋滞の心配を無視して、以前から、見たいと思っていた、栃木県立美術館の「イノセンス」展をみてきました。

本展覧会では、障がいをもつひとのARTだけでなく「難波田史男」や「奈良美智」さんや「丸木スマ」など…さまざまな表現者の作品が一緒に展示されていました。

こうした表現を区分けしたり、定義したりしようとすると、なかなかむずかしいのですが…むしろ、そんなことよりも、「アール・ブリュット(Art Brut、「生(なま、き)の芸術」)」とは、よく言ったもので、作者が、そこに生きていることを、形や色などを通じて、直截に表現していることに、まず、強いインパクトを感じます。

「子ども」の表現もそうですが、そこにはある種の「色メガネ」…「未熟」「稚拙」…があり、そうしたものをとっぱらった時にみえてくるものがあるように思えます。






◆アウトサイダー・アート
アウトサイダー・アート(英: outsider art)とは、特に芸術の伝統的な訓練を受けていなくて、名声を目指すでもなく、既成の芸術の流派や傾向・モードに一切とらわれることなく自然に表現したという作品のことをいう。 フランスの画家ジャン・デュビュッフェがつくったフランス語「アール・ブリュット(Art Brut、「生(なま、き)の芸術」)」を、イギリスの著述家ロジャー・カーディナルが英語表現に訳し替えたものである。

特に、子どもや、正式な美術教育を受けずに発表する当てもないまま独自に作品を制作しつづけている者などの芸術も含む。なお、デュビュッフェの作品をアール・ブリュットに含める場合もある。

アウトサイダー・アートは絵画や彫刻だけでなく、服飾、映像、文学、音楽などとしても現れる。また、ある種のインスタレーションや建築、庭園など作品というより空間の形態を取ることもある(visionary environment、ヴィジョナリー・エンヴァイアランメント、幻視的空間)。

デュビュッフェが1949年に開催した「文化的芸術よりも、生(き)の芸術を」のパンフレットには、「アール・ブリュット(生の芸術)は、芸術的訓練や芸術家として受け入れた知識に汚されていない、古典芸術や流行のパターンを借りるのでない、創造性の源泉からほとばしる真に自発的な表現」と書かれている。

評価と疑問

シュヴァルの理想宮、ヴィジョナリー・エンヴァイアランメントの例デュビュッフェ自身は知的障害者が描いたものとは一切言っていないが、狭義にはそういった障害者の作品を指していうことがままあり、一般的にもアウトサイダーアートというと知的障害者、精神障害者あるいは精神病患者が精神病院内におけるアートセラピー(芸術療法、クリエイティヴ・セラピーの一種)などで描いた絵画と思われがちだが、必ずしもそうではなく、芸術作品で生計を立てたり、既存の団体に発表することなく、独学で孤独に作品を作り続けた人達、刑務所などで初めて絵を描いた人達などの作品も含むのが本来の意味である。

しかし、障害者の芸術作品を取り上げる場合に「アウトサイダー」と表現してしまうと、とかく障害者を社会の枠外に置きたがる風潮のなかでは障害者に対しての差別的な言葉であるという非難をされてもしかたがない。その上アウトサイダー・アートを安直に精神障害者のアートとしてしまうことは本来の意図からしても外れてしまっているわけである。その代わり今日では、そういったさまざまな障害を持った人たちの作品を「エイブルアート」「ワンダー・アート」「ボーダーレス・アート」という呼称で、社会につながりを持つための手がかりとして支援しようとする動きがある。日本では、トヨタ自動車などがその最大のスポンサーとして活動している。

なお、いわばこちら側の視点であちら側の「芸術」を評価しているという構造自体がおかしい、と現在の「評価方法」の根本に疑問を呈する論者もいる。但しこれはアウトサイダー・アートの価値自体を認めないという立場ではなく、プリミティブ・アートに対する西欧(文明)からの評価に対する批判と同じ視点である。

(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%83%E3%83%88より)





◆アール・ブリュット・コレクション
アール・ブリュット・コレクション (Collection de l'art brut) は、アール・ブリュットの概念を提唱したフランスの画家、ジャン・デュビュッフェが蒐集したコレクションをもとに発足した、スイスのローザンヌにあるアウトサイダーアートの美術館。

沿革
1923年、ジャン・デュビュッフェは、兵役中に気象関係の部署に配属された際、ある女性から送られてくる雲の中に浮かぶ幻影の克明な記録を見て、精神病の患者の視覚表現に興味を抱くようになった[1]。またジャン・デュビュッフェは、ドイツ人の精神科医であるハンス・プリンツホルンが1922年に出版した、精神病患者が作った絵画などの作品の中で際立った芸術的表現を見せた作品を収集してまとめた『精神病者の芸術性』(Bildnerei der Geisteskranken)という本を読み、強い感動を覚えた。

40歳を過ぎてから、ジャン・デュビュッフェは本格的に画家として生きていく決意を固めた。ジャン・デュビュッフェはかねてから強い関心を抱いていた精神病患者の作品など、正統とされる芸術表現を逸脱した作家の芸術作品をもっと見たいと考え、1945年、スイスそしてフランス各地の精神病院、監獄などを訪れ、アウトサイダーアートの蒐集を開始した[2]。これが現在のアール・ブリュット・コレクションの源流である。

1947年にはパリ中心部にある画廊の地下室で、蒐集したアウトサイダーアートの展示が始まった。ジャン・デュビュッフェはその後も各地でアウトサイダーアートを蒐集し、コレクションを充実させていった。1948年にはジャン・デュビュッフェはシュルレアリストのアンドレ・ブルトンらとともに、アール・ブリュット協会を設立し、1949年には展覧会が行われ、注目を集める。しかし資金不足とアール・ブリュット協会内での会員同士の対立などのため、アール・ブリュット協会の活動は低迷し、1951年には解散する。この背景には、両者の思想の対立があった。デュビュッフェは、作品そのものに価値があるとみなし、愛したのだが一方、ブルトンたちシュルレアリストには、アウトサイダー・アートを制作するひとの狂気への興味が優先し、それがいかに自分たちの作品と近いかを参照する手段として、アウトサイダー・アートはあったのだ。

1951年、ジャン・デュビュッフェの蒐集したコレクションは、戦後に知り合った友人の画家、アルフォンソ・オッソーリオの勧めにより、ニューヨーク近郊のイーストハンプトンのオッソーリオの邸宅で保管されることになった。この頃、ジャン・デュビュッフェは自らの創作活動に力を注ぎ、アウトサイダーアートの蒐集にはほとんど取り組まなかった[3]。また、オッソーリオに対し、アメリカ合衆国のアウトサイダー・アートの発掘の促しにオッソーリオは応じず、コレクションは増えなかった。だがこの寄贈(と1951年のシカゴでのデュビュッフェの講演)がアメリカ、中でもシカゴ・イマジストにアウトサイダー・アートへの関心を持たせることとなった。

1950年代末からデュビュッフェは活動を再開し、1962年にコレクションをイーストハンプトンからパリへと戻すと、アール・ブリュット協会も復活させた。この際、オッソーリオにジャンヌ・トリピエやオーギュスト・フォレスティエなど十点を分け与えているが、これらの作品はいま、やはりアール・ブリュットを専門とするabcd協会に渡っている[4]。1964年からはアール・ブリュット協会の協会誌の発行を開始し、そして1967年にはパリ装飾美術館でジャン・デュビュッフェが蒐集したコレクションの大規模な展覧会が行われた。

自らが蒐集したコレクションの公的な扱いを希望したジャン・デュビュッフェであったが、フランス国内での寄贈は拒否されてしまい[5]、かねてから関係が深かったスイスで受け入れ先を探した結果、1971年、コレクションの受け入れを表明したスイスのローザンヌ市に寄贈する決意をした。

ローザンヌ市は、18世紀に建てられた貴族の館であるボーリュウ館を改装し、ジャン・デュビュッフェのコレクションを展示することとした[6]。1975年にジャン・デュビュッフェのコレクションはローザンヌに移送され、翌1976年2月26日、アール・ブリュット・コレクションは開館した。

ローザンヌにコレクションが移転された段階で、これ以上アウトサイダーアートのコレクションを増やすことについて慎重意見が出された。これは向精神薬の発達や作業療法の発展によって、精神病患者の作品の独自性が薄れてきたことなどを懸念する声が出たためであるが、ジャン・デュビュッフェは蒐集を継続することを決断した[7]。その後も世界各地から優れたアウトサイダーアートの作家が発掘されており、アール・ブリュット・コレクションの蒐集作品も増え続けている。

名称について
アール・ブリュット・コレクションは、全世界からアウトサイダーアートの作品を蒐集、展示しており、文字通りアウトサイダーアートの美術館として機能しているが、その名称に美術館(Musée)という言葉は用いられていない。これはこれまでの美術や文化の伝統的価値観を否定したジャン・デュビュッフェが美術館という言葉を嫌い、コレクション(Collection)を用いることにしたことによる[8]。

概要
アール・ブリュット・コレクションでは、文化的な伝統や社会的規範などにとらわれずに作られたアウトサイダーアートの作品を、世界各地から蒐集し展示している。その作者は囚人、精神病者、何らかの理由で社会から見放された孤独な人々などであり、それゆえ芸術的伝統にとらわれない独自の表現方法を用い、時にはこれまで芸術では利用されなかった材料を用いたり、使用されたことのない技法が用いられている。アール・ブリュット・コレクションが蒐集したアウトサイダーアート作品は約3万点に及び、うち700点が常設展示されている。

アール・ブリュット・コレクションの展示室の内装は、基本的に黒色で統一されていて照明も薄暗く、また窓がほとんどない。これはアウトサイダーアート作品の多くは痛みやすいため薄暗い照明が適していることと、世間から閉じられた孤独な環境の中で、独自に生み出されてきたアウトサイダーアート作品を展示するためには、このような展示環境が良いと考えられたことによる[9]。

また、アール・ブリュット・コレクションではアウトサイダーアートの調査研究、そして蒐集を盛んに続けている。それらの成果は1964年に創刊されたアール・ブリュット協会誌の流れを汲む研究誌、「アール・ブリュット」で紹介するとともに、著名なアウトサイダーアートの作家を紹介する単行本やDVDなどを発行している。

常設展示の他、随時特別展が行われており、2007年にはロシアのアウトサイダーアーティストであるアレクサンドル・ロバノフの特別展、そして2008年2月から2009年1月までの予定で、日本のアウトサイダーアートの特別展が行われている。

(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3より)





◆日本のアウトサイダー・アート
この記事では、日本におけるアウトサイダー・アート (英語:outsider art)またはアール・ブリュット (フランス語:art brut)について解説する。

アウトサイダー・アート、アール・ブリュットの定義は様々であって、また、この概念自体(特に、アウトサイダー・アート)が、例えばそう呼ばれる美術作品を主流の美術(つまり、インサイダー)から外すものだと批判されることもある[1]。しかし、本記事では、例えば障碍者芸術に留まらない、いままであまり顧みられなかった美術全体について扱うために、代表的な呼称であるアウトサイダー・アートを採用することにする。特に取り上げる論者がアウトサイダー・アートとアール・ブリュットどちらの用語を採用しているかによって両者を使い分けることとするが、ここでは、それぞれの用語の解説はアウトサイダー・アートの記事に譲って、特に意味の使い分けはしない。

概要
日本のアウトサイダー・アートの主流をなすのは、障碍者の、なかでも知的障碍者の美術である。これは、1930年代後半に日本で初めてアウトサイダー・アートが見出されてからすでにあった傾向であった。1950年代から山下清に世間の関心が高まり、山下が大衆的人気を得た後、美術界は長い間アウトサイダー・アートに対して沈黙していた。その後は、ほぼ福祉分野でのアプローチばかりが目立つようになる。1990年代から、「アウトサイダー・アート」、「アール・ブリュット」の用語が日本に定着し、また、エイブル・アート・ムーブメントが始まってからは、広く人気が出だした。そして美術関係者、福祉関係者双方がアウトサイダー・アートについて調査、発掘、研究と、活発に活動するようになってきている。

年表
1927年(昭和2年) - 東京深川の渡辺金蔵自作の自邸、二笑亭が着工する。
1928年(昭和3年) - 千葉県市川市の八幡学園で、図工の時間が導入される。
1937年(昭和12年) - 式場隆三郎による「二笑亭綺譚」が、『中央公論』に掲載される。
1938年(昭和13年) - 二笑亭、解体される。戸川行男、早稲田大学大隈講堂小講堂で『特異児童作品展』をひらく。
1939年(昭和14年) - 東京銀座の青樹社にて、『特異児童作品展』
1950年(昭和25年) - 福来四郎、神戸市立盲学校で造形美術教育をはじめる。
1954年(昭和29年) - 朝日新聞が山下清を捜索、以降、山下ブームに。
1955年(昭和30年) - 東京渋谷の東横百貨店にて、落穂寮作品展
1956年(昭和31年) - 東京八重洲の大丸にて、山下清作品展
1964年(昭和39年) - 西垣籌一、京都府亀岡市みずのき寮(現みずのき)にて、絵画教室をはじめる。
1974年(昭和49年) - 西村陽平、千葉県四街道市の千葉県立千葉盲学校に図工担当教諭として着任する。
1985年(昭和60年)頃 - 田島征三、滋賀県信楽町の信楽青年寮と関るようになる。
1991年(平成3年) - はたよしこ、兵庫県西宮市のすずかけ作業所にて絵画教室をはじめる。
1993年(平成5年) - 東京砧公園の世田谷美術館にて、『「パラレル・ヴィジョン」展』
1995年(平成7年) - エイブル・アート・ムーブメントが提唱され、運動がはじまる。
1997年(平成9年) - ローザンヌ(スイス・ヴォー州)のアール・ブリュット・コレクションにて、『Art incognito 展』
2004年(平成16年) - 滋賀県近江八幡市にボーダレス・アートギャラリー NO-MA(現ボーダレス・アートミュージアム NO-MA)、開館
2008年(平成20年) - アール・ブリュット・コレクションにて、『「日本」展』

歴史
前述のように、日本にアウトサイダー・アートという概念が定着するのは、1990年代前半からであるが、この節では、日本でアウトサイダー・アートという概念が広まる以前の、アウトサイダー・アートと呼ばれうる美術の歴史から書く。

式場隆三郎と山下清の登場
日本におけるアウトサイダー・アートの最初期の活動として精神科医の式場隆三郎の活動が挙げられる[2]。式場は、1898年(明治30年)に生れ、さまざまな活躍をした文化人で知られるが、美術方面でもフィンセント・ファン・ゴッホの研究や啓蒙につとめ、また、日本のアウトサイダー・アートを発見したりプロデュースしたりした。その例として、二笑亭や山下清が知られる。

式場は、1937年(昭和12年)から『中央公論』11月号から二号連続で、「二笑亭綺譚」を掲載した。これは、渡辺金蔵という建築の専門知識のないもの(セルフビルダー)による自邸、「二笑亭」の紹介であり、のちに単行本化し、別に「狂人の絵」というやはりアウトサイダー・アートと関係のある一篇[3]をつけて昭森社から発行された。二笑亭は、日本のアウトサイダー・アートの「源流」と見なされている[4]。1938年(昭和13年)に解体されることになるこの奇妙な建物を、「誰も実行できない夢と意欲を、悠々とやりとげた逞しい力に圧倒されさうだ」と感嘆して紹介した式場の功績は、1993年(平成5年)に監修してちくま文庫から『定本二笑亭綺譚』を刊行した藤森照信にも、その先見性を賞賛されている。

1938年(昭和13年)、早稲田大学講師で心理学者の戸川行男が、早稲田大学大隈講堂小講堂で特異児童作品展[5]をひらいた。戸川は1935年(昭和10年)ごろから[6]千葉県市川市の指定知的障害児施設八幡学園に通い、学園生の山下清などの作品に魅了され、これを紹介する美術展の開催を思い立ったのだった。八幡学園は、久保寺保久による設立当初の1928年(昭和3年)ごろから、美術の時間を導入していた。この展覧会は評判を呼び、山下のちぎり絵については特に注目された(他にも、学園生の石川謙二、野田重博、竹山新作、沼祐一、苗字は分らないが義明、務、繁の作品が展示された)。『美之國』[7]や『美術』[8]、『みづゑ』[9]による特集や、展覧会に対する安井曾太郎、北川民次、倉田三郎、寺田政明などの評を見ることもできる。式場は、1936年(昭和11年)から八幡学園の顧問医師となっていて、この時から生徒の作品を知っていたと思われるが[10]、1938年には「異常児の絵」という文で、前述した1939年(昭和14年)発刊の『二笑亭綺譚』でも、山下の作品を図版入りで紹介している。また戸川は作品集を発行するために春鳥会『みづゑ』の大下正男の協力のもと『特異児童作品集』を発行した。安井が選者を担当したのだが、山下の作品が中心に選ばれた。

1939年、やはり戸川を中心に企画され、東京銀座の青樹社において、特異児童作品展が催された。12月8日から11日までの会期の予定が、12日まで延長された。というのは、この展覧会は盛況を博して来場者は二万人にも及んだためで、マスメディアもよくこれを取上げた。展示されたのは1938年と同様、八幡学園の学園生の作品で山下清のものだけではなかったが、美術界を中心に知識階級で巻起こった論争の争点は、「山下が本当に天才であるのかどうか」または、山下の作品の「芸術性」にあった。この展覧会や山下を論評した人物は、梅原龍三郎、小林秀雄、伊原宇三郎、伊藤廉、藤島武二、川端龍子、荒城季夫、谷川徹三、川端康成、戦後になって柳宗悦の名が挙げられる。

一方1939年以降の式場は、アウトサイダー・アートの紹介から離れ、ゴッホの啓蒙にのめり込んで行く[11]。服部正はその理由を、式場が、彼の言葉を借りれば「病的絵画」とこれ以上関与することによって、日本におけるゴッホの普及第一人者が式場であったため、意図しないところで、ゴッホの絵が病的なものであると誤解されるのをおそれたことにあるという[12]。式場は、ゴッホの精神障碍が癲癇性のものであると研究しており、それはゴッホの作風には影響していないという立場であった。1953年(昭和28年)、式場は、「ゴッホ生誕百年祭」と題して次々と企画を打ち、ゴッホの存在を世に知らしめていく。この啓蒙活動は大成功するものの、美術専門家からは白眼視された。たとえば岡本謙次郎は、活況のゴッホ生誕百年記念展に出向き、その「ワイザツさ」に、「入口をのぞいただけでひきかえした」といって批判した[13]。その後、式場の活動は、美術関係者から無視されるようになっていく。

大衆的になっていく山下人気
山下清山下のことはその後、第二次世界大戦を挟んだせいもあり世間から忘れられたが、1954年(昭和29年)1月、突然の様に山下の話題が持ち上がった。朝日新聞社会部の記者、矢田喜美雄から持ちかけられ、式場隆三郎と朝日新聞が、山下清の行方を捜すキャンペーンをはじめたのである[14]。新聞以外に、ラジオでも広報はなされた。山下にはもともと放浪癖があって、ときどき八幡学園からいなくなるのだが、この時は鹿児島にいて、新聞掲載の四日後とすぐに見つかった。山下はキャンペーンで「日本のゴッホ」と名付けられ、有名になっていく。式場は、山下のちぎり絵とゴッホの絵を比べて、「彼(山下)自身のハリ絵が点描的なので(ゴッホの作品)と実に近似感がある」[15]と評したが、服部は、両者の作品は似ていないし、症例も類似しないとする。三頭谷はむしろゴッホより、同じ印象派のクロード・モネとの類似を指摘する。にも拘らず山下がそう称されたのには、前年の「ゴッホ生誕百年祭」をはじめとする式場によるゴッホの啓蒙の成果があったためと服部は見る[16]。もっとも山下自身は、ゴッホにはさほど興味がなかったようではあるが[17]。

式場はさらに、「特異児童」の絵画全体に関わっていくようになった。1955年(昭和30年)3月に、東横百貨店(東京都渋谷区渋谷)で滋賀県の落穂寮の作品の展覧会を、1956年(昭和31年)の3月から4月まで、「山下清作品展」を大丸(東京都中央区八重洲)で開催した。この山下展は、八十万人の観覧者を集めたほどの盛況ぶりだった。両作品展には知的障碍者へのカウンセリングのための教育相談室が設置され、多数の相談者が訪れたという。これには、式場の、障碍者教育への情熱が背景にあった。服部は、現在までの日本のアウトサイダー・アートの特色として、教育との強烈な結びつきを挙げるが、これは、式場の時代からすでに示されていた傾向だという[18]。そして、以降、山下への、さらにはアウトサイダー・アートに対しての美術界のアプローチも、ほぼ絶えていったのであるが、その理由を服部は、山下人気の立役者である式場が前述のように美術界から無視されていたこと[19]、はたよしこは、あまりにも式場の活動が教育よりだったために、美術界から、美術とは無関係のものであると看過されたこと[20]、小出由紀子や三頭谷鷹史は、山下が大衆的な人気を集めるようになったこと[21]が以降の無視の一因であると指摘する。

以上の様に戦後の山下ブームが戦前のブームと違う点は、その作品自体より、山下自身が人気を得たことにある。戦前でも、山下を中心とする八幡学園の生徒の障碍という点は関心を持たれたのであるが、戦後においては、山下一人に人気が絞られ、また、その愛すべきキャラクターと芦屋雁之助主演のドラマなどマスメディアでの宣伝により、美術界の沈黙とは裏腹に山下清の名は日本中に大きく知れ渡った。

なお、式場のほかには、精神科医の呉秀三による患者の創作文字についての報告もみられる。

福祉施設における美術活動
以上の経緯から、美術界が主体となって動くアウトサイダー・アートの本場である欧米諸国と違って日本のアウトサイダー・アートは長い間、福祉施設の医師やワーカ、またはその現場に行って作品を生み出す手助けをする芸術家の活動が主流であった。現場に出向いた芸術家として、福来四郎や西垣籌一、西村陽平、田島征三、はたよしこなどが代表的である。以下、それぞれの活動を活動開始順に解説する。

福来四郎による神戸市立盲学校における視覚障碍者美術教育
1950年(昭和25年)、福来四郎は、神戸市立盲学校で造形芸術教育をはじめた。この視覚障碍者に対しての美術教育は、日本に限らず世界のなかでも、さきがけであった。この取り組みは、1969年(昭和44年)に講談社から刊行された福来自身による著書、『見たことないもん作られへん』にまとめられている

西垣籌一とみずのき寮の教え子
1964年(昭和39年)、日本画家の西垣籌一は、京都府亀岡市の知的障害者更生施設みずのき寮(現みずのき)に絵画教室をひらいた。のちに専用のアトリエを建設したが、最初は古い鶏小屋に筵をしいて教室とし、絵画指導を行った。西垣は1978年頃からプロの絵描きを育てる活動に変え、一時期は公募展に応募するなどもした。当初から、「何をどう表現するかの最も重要な部分」[22]には踏み込まないものの、技術技法にはかなり踏み込んだ指導を行ったのが特徴である。そのために服部正や西村陽平は、みずのきの作家たちのことを、本当にアウトサイダー・アート、アール・ブリュットと呼んでよいのか疑問を投げかけている[23]。その後、1987年(昭和62年)には東京霞ヶ関や京都で、1995年(平成7年)には横浜ポートサイドギャラリーにて、『「みずのき寮のアーティストたち」展』など多くの展覧会を催した。

みずのき寮の活動には、キュレーターの小出由紀子も関っている。小出は、膨大な作品の調査や整理をかって出た。1993年(平成5年)の巡回展「パラレル・ヴィジョン」展が世田谷美術館で開催され、同時に世田谷美術館の独自企画「日本のアウトサイダー・アート」展に寮に所属する小笹逸男、福村惣大夫、吉川敏明の作品が展示された。その縁で、アール・ブリュット・コレクションのキュレーター、ジュヌヴィエーヴ・ルーランが来所したときの案内役も、小出は務めている。その後小出は、アール・ブリュット・コレクションと掛け合って、コレクションに32点の寮生の作品を収め、作品を世界に知らしめることに一役を担った。1998年(平成10年)に西垣は寮を離れ、2000年(平成12年)に死去したものの、その後は西垣のアシスタントだった谷村雅弘が教室を主宰している[24]。

西村陽平による千葉県立千葉盲学校における視覚障碍者美術教育
千葉県立千葉盲学校1974年(昭和54年)、造形作家の西村陽平は、千葉県四街道町(現四街道市)の千葉県立千葉盲学校に図工担当教諭として、1998年まで着任した。西村の、大量の粘土を生徒に使わせる、焼き方に黒陶を採用する、といった特色のある指導法は高く評価され、エイブル・アートを展示する1997年(平成9年)の「魂の対話 Able Art '97」でも紹介された。これら作品は、西村の方針により、福祉色の強い展示会を嫌って、日本のみならずカナダやイギリスの、美術作品として勝負できる場で展示された。また西村は、エイブル・アート・ジャパンの副会長を務めるなど、エイブル・アート・ムーブメントとの関りも深い。

プロデューサーとしての田島征三と信楽青年寮の作家
1985年(昭和60年)頃、絵本作家の田島征三は、伊藤喜彦の作品を通して、滋賀県信楽町の知的障害者更生施設兼授産施設信楽青年寮を知った。そして、信楽青年寮の作家と、プロデューサーというかたちで関るようになった。村田清司の絵を元に絵本を出版したり[25]、1998年(平成10年)に東京で「しがらきから吹いてくる風」展を開いたり、1992年(平成4年)には信楽青年寮の芸術家を紹介する著書、『ふしぎのアーティストたち:信楽青年寮の人たちがくれたもの』を労働旬報社から出版したりと、作家と一対一の対等の関係で精力的に活動をしている。

はたよしことすずかけ作業所絵画教室の生徒
1991年(平成3年)、絵本作家のはたよしこは、兵庫県西宮市の知的障害者授産施設西宮市立武庫川すずかけ作業所にて絵画教室をはじめた。はたは、生徒に多少のアドバイスはするものの、生活面など過度な干渉をしないことを基本に活動を続けている。ローザンヌ(スイス・ヴォー州)のアール・ブリュット・コレクションにも収められた舛次崇や富塚純光など、世界で知られる芸術家も在籍している。はたは教室での作品のプロデュースもし、また、1995年(平成7年)からは全国でアウトサイダー・アート作品の発掘[26]を、2004年に滋賀県近江八幡市に開館したボーダレス・アートミュージアム NO-MAのアートディレクターに就任するなど、アウトサイダー・アートの普及に努めている。

「アウトサイダー・アート」「アール・ブリュット」の日本への移入
前述のように、日本では、美術の専門家からのアウトサイダー・アート全般に対する言及は少なかった。そのなかで、1968年(昭和43年)に、『芸術新潮』に寄稿した東野芳明の文[27]は、「アール・ブリュット」の概念を日本に輸入した初期の例として注目される[28]。東野は1965年にパリで、「アール・ブリュット」(Art brut, 生の芸術)の提唱者である画家のジャン・デュビュッフェに会い、彼のコレクション(アール・ブリュット・コレクション)を観覧している。しかし、以降、東野自身のみならず美術分野での論述は絶えてしまった。次には、1989年(平成元年)から1992年(平成4年)にわたって刊行された都築響一編著の『アート・ランダム』が、アウトサイダー・アート、アール・ブリュットの概念が世に広がる前に取り上げた例として知られる[29]。また、1991年(平成3年)から2001年(平成13年)にかけて、資生堂が日本では先駆的に、小出由紀子の企画で、年に一度ほどアウトサイダー・アート展を、所有するザ・ギンザアートスペース(2001年は資生堂ギャラリー)にて催していたことも、特筆される[30]。


世田谷美術館日本で「アウトサイダー・アート」、「アール・ブリュット」が話題になりその名が知れ渡ったのは、1993年(平成5年)のことである[31]。1992年(平成4年)にロサンゼルスのロサンゼルス郡立美術館が「パラレル・ヴィジョン」展を企画、開催した。展覧会は年明けて1993年から、ソフィア王妃芸術センター(スペイン・マドリード)、バーゼル・クンストハレ(スイス・バーゼル=シュタット準州・バーゼル)を巡回し、日本では世田谷美術館(東京都世田谷区)にやってきたのだった。世田谷美術館は、同時に「日本のアウトサイダー・アート」展を独自開催し、みずのき寮で生まれた作品を展示した(小笹逸男、福村惣大夫、吉川敏明)。「パラレル・ヴィジョン」展は評判を呼び、以降、ヘンリー・ダーガーを中心にアウトサイダー・アートの名は知れ渡るようになる[32]。

こうして、美術界からの働きかけが出てきたわけだが、1995年(平成7年)には福祉分野の方でも、新たに大きな運動が生まれた。エイブル・アート・ムーブメントである。運動の中心となっている財団法人たんぽぽの家とエイブル・アート・ジャパン(旧称、日本障害者芸術文化協会)は、活発に展覧会を開いたり、企業のメセナ事業と共同でさまざまな障碍者美術運動を展開し、ひろがりを見せている。日本の、特に――日本のアウトサイダー・アートの主流を担ってきた――知的障碍者による美術制作の援助活動は、それぞれ別々に行われてきたが、エイブル・アート・ムーブメントは、これらの連携を取持つ役割を担っている[33]。


ボーダレス・アートミュージアム NO-MA2004年(平成16年)に、滋賀県近江八幡市に、ボーダレス・アートギャラリー NO-MA(2007年(平成19年)に、ボーダレス・アートミュージアム NO-MAに改称)が開館した。この美術館は、世界でもほとんどない健常者と障碍者の作品を分け隔てなく展示することを目的に開設された。これまで日本では、アウトサイダー・アートを常時展示する施設がほとんどなく、NO-MA は、その役割を担う存在として期待されている。昭和初期の町屋を改装した、オルタナティヴ・スペースとしても注目を集める[34]。

2006年(平成18年)からは、ボーダレス・アートミュージアム NO-MAとアール・ブリュット・コレクションとの3年間にわたる連携事業が開始された[35]。2006年(平成18年)11月にはリュシエンヌ・ペリー館長を始めとするアール・ブリュット・コレクションのスタッフが来日し、ボーダレス・アートミュージアム NO-MAの協力のもと、日本各地でアウトサイダーアートの調査を行った[36]。その結果をふまえて2008年(平成20年)1月から7月にかけて、旭川美術館、ボーダレス・アートミュージアム NO-MA、そして松下電工汐留ミュージアムでアール・ブリュット・コレクション収蔵作家の作品と日本のアール・ブリュットの作家の作品を同時に展示する展覧会、「アール・ブリュット 交差する魂展」が行われた。

一方、2008年(平成20年)2月から2009年(平成21年)1月にかけて、アール・ブリュット・コレクションで「日本展」が行われた。この展覧会に出品された小幡正雄、澤田真一、舛次崇、宮間英次郎ら、日本の作家の作品は会期終了後、アール・ブリュット・コレクションに作品が収蔵されることになっている[37]。

精神障碍者のアール・ブリュット作品については、はたよしこが蒐集した作品で企画された「目覚めぬ夢――日韓のアール・ブリュットたち」展(土屋正彦、山崎健一、高橋重美、木本博俊、周愛英)が催され、大きくクローズアップされた。それまで閉鎖的と言われた精神科の現場の看護師の協力も得られる状況が生まれてきている[38]。

評価・特徴

宮間英次郎元来アウトサイダー・アートの定義としては作者が障碍者である必然性はなく、例えば受刑者やスラム街の住人など、社会的に孤立した人たちが、美術的な専門教育を受けることなく独自の感性で創り上げた芸術作品もアウトサイダーアートとされている。日本ではこれまでのところアウトサイダー・アートとされた芸術作品の作者が障碍者ではない例としては、宮間英次郎や寺下春枝が挙げられるが[39]、あまり調査、研究は進んでいない[40]。

アール・ブリュット・コレクション館長であるリュシエンヌ・ペリーは、日本のアール・ブリュット作品の特徴として、ところどころに日本文化の影響があること、洗練さと細やかさがあることをあげる。もっとも同時に、自身によるアール・ブリュットの定義、「特定の文化に列していないこと」[41](「文化的処女性」[42])に見られるような、ステレオタイプとは無縁の文化にとらわれない創造性を指摘する。そして、日本という競争や能率で抑圧された社会から逸脱したことによって、アール・ブリュットの作家たちは、しがらみにとらわれない独自の表現方法を確立したのだ、として称賛する[43]。

アウトサイダー・アートが専門のキュレーターで、兵庫県立美術館学芸員の服部正は、そんな日本のアウトサイダー・アートには、ある特殊事情があると述べる。それは、西洋のアウトサイダー・アートが学んだ歴史の典型を経験していないために生まれたことだという。ここでいう典型とは、福祉施設や精神病院など、現場の医師、ワーカが発する現場で生まれた作品に関する情報を、美術界が取り上げていく構図である。日本の場合、式場、山下以降の、美術界のアウトサイダー・アート全般に対しての「無視」があったため、長い間、現場による活動、運動が主流であった。そのため、西洋であれば、作品そのものの賞賛が主流であったはずが、日本では、最初期の式場隆三郎による活動から既に、作家の立場の向上、福祉改善、美術教育、と、作品よりその作家に目が向く傾向が強く、結果美術運動ではなく福祉改善運動としての一面がより重視されていると分析し、これを問題視する。エイブル・アートに対しても同様に批判している[44]。また、以上の状況を踏まえて、さらに日本のアウトサイダー・アートの特殊性を挙げている。西洋では、美術界によるアウトサイダー・アートの活動が盛んであるため、その市場も成熟しているが、日本の場合、福祉と美術の協力が不足しているため、市場が育ちにくく、商業活動と言えば、福祉施設による、Tシャツやカレンダーといった雑貨類を販売するいわゆる「アート活動」が一般的だという。しかし、その福祉施設による活動も、障害者自立支援法などによる予算の縮小や制作時間の短縮の問題があるといい、今後の制作状況に影響があることを懸念する[45]。

服部以外にも、都築響一は、それまでの「障碍者の作品」に対しての見方が、「山下清の世界」[46]であったと述懐し、自ら編集した『アート・ランダム』では、コンテンポラリー・アートと見られ得るアウトサイダー・アートの作品を紹介しようとつとめたことを語っている[47]。また、日本のアウトサイダー・アート作品のコレクションがすすんでいないことを述べ、作品探索の調査不足を訴える[48]。

日本のアウトサイダー・アートは、その福祉関係者による活動の中でも、知的障碍者施設からのものが大部分を占める。西洋ではよく目立つ精神障碍者による作品は、日本ではほとんど見出されていないのが現状である。これは、八幡学園以降知的障碍者施設での活動が連綿と続いてきたこともあるし、また、日本の精神病院の閉鎖性や、これは西洋でも同様のことが言われているけれども、薬物療法の進歩が、患者の創作意欲を減退させているのだ、という指摘もある[49]。一方、はたよしこは、自身の活動をきっかけに、現場の看護師の協力が得られるようになってきた現状を報告し、その成果の一部を、2009年の展覧会、「目覚めぬ夢――日韓のアール・ブリュットたち」展で紹介した[38]。

アール・ブリュットが専門でフリーのキュレーターの小出由紀子は、日本の様な宗教性の弱い国では、ヘンリー・ダーガーに代表されるアール・ブリュットのしがらみのない表現が受け入れられる素地があるとする。特にヘンリー・ダーガーの表現の先鋭さは、2008年公開のドキュメンタリー映画『非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎』が評判を呼ぶなど、日本で受け入れられている。そして、1990年代前半に、アール・ブリュットが紹介されたことによって、日本の美術とこれまで過激な表現を担ってきたサブ・カルチャーとの境界、棲み分けが崩れてきていることも同時に指摘した[50]。

代表的な作家
伊藤喜彦(信楽青年寮)
小幡正雄
小笹逸男(みずのき、旧みずのき寮)
大江正彦
川村紀子(工房絵)
喜舎場盛也
坂上チユキ
澤田真一
舛次崇(すずかけ作業所)
富塚純光
辻勇二
西川智之
藤崎美佐枝
福村惣太夫(みずのき寮)
戸來貴規
村田清司(信楽青年寮)
松本国三
宮間英次郎
本岡秀則
吉川敏明(みずのき寮)
山下清(八幡学園)
渡辺金蔵 - 二笑亭建設者
代表的な関連施設 [編集]
小出由紀子事務所
神戸市立盲学校
信楽青年寮
すずかけ作業所
千葉県立千葉盲学校
みずのき(旧みずのき寮)
ボーダレス・アートミュージアム NO-MA
八幡学園

(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%88%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88より)










2010年8月13日 19時16分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2010年08月11日(水)
北川フラムさん『大地の芸術祭』


北川フラムさんから、本をいただきました。ありがとうございます。




今年も、新潟はARTで暑いですね。昨年は、都図研でツアーにいきましたね。





○いつも都図研がお世話になっている「北川フラム」さんから『大地の芸術祭』(北川フラム著、角川学芸出版、2010年)をいただきました。ありがとうございます。

都図研では、都図研西多摩大会の記念講演をしていただいたり、越後妻有にも2回(07年、09年)ほどツアーを組んで回ったり、海外のアーティストと交流授業したりするなど、いろいろな面でお世話になっています。

ぼくからみると、北川さんは、袋小路に陥ったARTを、社会のなかで、新たなツールとして生き返らせ、人々のためのARTとして、蘇生させた現代の最高のアートディレクターでは、ないでしょうか。

図工や都図研などの周辺的な世界にも目を配ってくれる方は、芸術の世界には、ほとんどいませんので、図工教育にとって、貴重な方であるというべきでしょう。

北川さんのこの本には、「大地の芸術祭」の「基本理念」が書いてありました。



◆「人間は、自然に内包される」
◆地域・世界・ジャンルを超えた協働
◆集落(ローカル)世界(グローバル)
◆サイトスペシフィック
◆生活の集積が文化
◆ユニークな拠点施設
◆空家・廃校プロジェクト




何のためにARTがあるのかをあらためて問うとき、北川さんが指摘したこの基本理念は、ものすごい示唆に富んだ意味を含んでいると思います。

図工教育でも、その目的は、たんに作品をつくることでないとすれば、このことばは、大きなヒントとなると思います。

8月の1ケ月間、「越後妻有 大地の芸術祭2010夏 1ケ月の里山の祭リレー」を開催しています。
身も心もリフレッシュしたい方には、絶対におすすめです。





●プロフィール
北川 フラム(きたがわ ふらむ、1946年10月5日 - ) は、新潟県高田市(現上越市)出身のアートディレクター。

来歴
新潟県立高田高等学校、東京芸術大学美術学部卒業。アートディレクターとして国内外の美術展、企画展、芸術祭を多数プロデュースする。1997年より越後妻有アートネックレス整備構想に携わり2000年から開催されている「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」では総合ディレクターを務める。

父は良寛研究家の北川省一。「フラム」は本名でありノルウェー語で「前進」を意味する。

主な役職
財団法人直島ベネッセハウス|福武美術館財団常務理事
アメリカ合衆国コサンティ財団理事
大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレ総合ディレクター
地中美術館総合ディレクター
東京都現代美術館美術資料収蔵委員
株式会社アートフロントギャラリー代表
女子美術大学教授
京都精華大学客員教授
愛知県立芸術大学客員教授

*新潟市美術館運営問題 
2007年から新潟市美術館の非常勤館長に就任していたが、「他の作品への影響を考慮せずに、水分を含んだ作品の持ち込みを許可し、展示中にカビが発生」、「展示室内から所蔵品の天敵とされる昆虫が数十匹発見される」など杜撰な運営、管理能力の欠如と、殆ど実体のない勤務状況などが問題となり、市長は2010年3月12日付けで館長職の解任を発表、3月末の任期満了を待たず更迭に踏み切った。

主な展覧会・プロジェクト
ガウディ展(1978年‐1979年)
子どものための版画展(1980年‐1982年)
アパルトヘイト否!(1988年‐1990年)
ファーレ立川(1994年)
さよなら同潤会代官山アパート展(1996年)
ショパン・ポーランド日本展(1999年)
札幌ドームアート計画(2000年)
第1回 大地の芸術祭-越後妻有アートトリエンナーレ2000-(2000年)
第2回 大地の芸術祭-越後妻有アートトリエンナーレ2003-(2003年)
第3回 大地の芸術祭-越後妻有アートトリエンナーレ2006-(2006年)
第4回 大地の芸術祭-越後妻有アートトリエンナーレ2009-(2009年)
大阪・アートカレイド・スコープ2007 大大阪にあいたい(プロデューサー) 
大阪・アートカレイド・スコープ2008 大阪時間(プロデューサー)
にいがた水と土の芸術祭2009(ディレクター)
水都大阪2009(プロデューサー)
瀬戸内国際芸術祭2010(総合ディレクター)

主な受賞歴
日本都市計画学会計画設計賞(1994年)
日本建築美術工芸協会特別賞(1994年)
メセナ大賞(1998年)
東京クリエイション大賞アートシーン創造賞(2002年)
フランス共和国芸術文化勲章(2003年)
ポーランド共和国文化勲章(2003年)
芸術選奨文部科学大臣賞(美術部門、2007年)
国際交流基金国際交流奨励賞、文化芸術交流賞(2007年)

著作・編著・共著
私ではなく、不知火の海が(現代企画室)、1981年
ART UNIVERSIADE -菜の花里見発見展記録集-(現代企画室)、2003年
いま、そこにいる良寛(現代企画室)、2004年
希望の美術・協働の夢 北川フラムの40年 1965-2004(角川学芸出版、2005年
大地の芸術祭 -越後妻有アートトリエンナーレ2006-(現代企画室)、2007年
つながる日本海 -新しい環日本海文明圏を築くために-(現代企画室)、2007年
逸格の系譜 -愚の行方-(現代企画室)、2007年
M×M -建築家が語る「都市への処方」-(前田建設工業(現代企画室)、2007年
大地の芸術祭 -(角川学芸出版、2010年7月)

外部リンク
アートフロントギャラリー
瀬戸内国際芸術祭 2010
大地の芸術祭・越後妻有アートトリエンナーレ
にいがた水と土の芸術祭2009

(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%B7%9D%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%A0より)




2010年8月11日 19時37分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2010年08月01日(日)
長谷川利行&『ONE PIECE』
 

「神保町 ONE PIECE カーニバル」



○たまたま古本を見に行ったら、「神保町 ONE PIECE カーニバル」というのをやっていました。商品が10パーセントoffで少し得しました。(笑い)

それにしても、マンガ家の生原稿というのは、すごいうまいですね。(ぼくの個人的なたんなる感想(妄想)ですが、「天才少年」は、「マンガ」か「ロック」か「サッカー」に流れます。この世界は、露骨に実力が問われる世界ですね。他のジャンルは、なんというか…これになれなかった人間がなるというか…また、出自や階層や環境などによって、なれたり、なれなかったりするわけですが…「学力と階層」については近年、教育学の研究がありますが、芸術ジャンルと階層の研究というにはあるのでしょうか?)

このマンガは、ものすごいヒット作品です。うちのすでに20代の二人の子どもは、いまでも、新刊本がでると買って読み続けているようです。
もうすぐ2億冊に手が届きそうだといいます。このマンガの世間への浸透度は、ものすごいものがありますね。ある世代全体の共通の経験を構成していると思われます。(だから、このマンガの読者ではない、ぼくなどは、おっさんになってしまうわけですね)

時々、子どもがトイレに置き去りにした『ONE PIECE』があって、目をとおす程度の読者ではありますが、「大航海時代」を彷彿させる、奇想天外の冒険マンガで、いつの時代でも、子どもというのは、こうした物語に惹かれるのですね。(注1)







『歿後60年 長谷川利行展』カタログ、2000年。古本定価6,300円が、10%offで5,300円でした。




○ところで、今日の本題は「長谷川利行」でした。(注2)
利行(リコー)の作品は、美術館にならんだ近代絵画の作品のなかでも、ぼくなどには、ひときわ目につく作品で、気になってしょうがない作家のひとりです。

利行の絵には、その画面が発する独自の感覚的な強度があるように思えます。
それは、利行の眼前にある「風景」や「人」との対応が、絵の具をキャンバスにおいていく、あるいは、描いていく、その行為そのもののなかに、刹那、浮かび上がる詩的なイメージです。
それは、外界との接続を、身体や鋭敏な神経を通じて、かろうじて保とうとする努力から生まれてきているようにも見えます。

酒井忠康さんは、カタログ「序」のなかで、




…歴史による審判は、たしかに生き倒れの行路病者の印象をぬぐいさることはできないとしても、それ以上に、彼の東京市を描いた作品、たとえば《機罐車庫》(cat.no.9)、《浅草停車場》(cat.no.10)、《地下鉄ストアー》(cat.no.34)、《カフェ・パウリスタ》(cat.no.20)などの作品が、おのずから内容とするその人間的内景(偽ることのできない魂の声)は、同時代のたとえば中国の徐悲鴻やアイルランドのジャック・バトラー・イエイツなど、辺境の地のすぐれた天才画家たちと一緒に評価すべき時期にあるように思われます。(同書P7)



さらに続けて「長谷川利行の絵画の根本にあるのものは何かという問いにたいしては、彼の魂の詩という以外にはないけれども、生きるということがすなわち画作となっていた」(P7)と述べ、類縁をもつ詩人や画家として、辻潤、高橋新吉、朝井閑右衛門をあげているのは興味深いところです。






「街角」ドローイング、1938年、水彩、鉛筆、紙。
人々が、重層的に交差していく情景がなんとも言えません。東京という都市に住む市井の人々の姿が、切々とした感情を含んで浮かび上がってきます。



 

「ノアノアの女」1937年。      「カフェ・オリエント」1936年。



   

「四宮潤一氏像」1936年。             「少女」1935年。



また、尾崎眞人さんは、「半塗り」いうことばを持ち出し、利行の絵画について説明します。(同書P16〜17)
実は、気になってたのが、利行の絵画の「地塗り」でした。先日も横須賀美術館で、利行の絵をみましたが、線や色面の背後にあって、グレートーンの地塗りがなんとも、効果的に画面全体を支えているようにみえました。
利行は、「アクション」と「絵画の平面性」の問題を意識していたように見受けられるのでした。


関東大震災から、第二次世界大戦までの「東京」を利行はあっという間に駆け抜けてゆきましたが、この時代は、どんな時代だったのでしょう。あらためて再考したい気分にかられました。


なお、まぼろしの作品「カフェ・パウリスタ」が、TV番組「なんでも鑑定団」で発見されましたが、下記のアドレスでその時の様子をみることできます。



なんでも鑑定団「長谷川利行1」

http://www.youtube.com/watch?v=OTtKlUwS5KE&feature=related

なんでも鑑定団「長谷川利行2」

http://www.youtube.com/watch?v=4TH2loBi8xw&feature=related






(注1)
『ONE PIECE』(ワンピース)は、尾田栄一郎による日本の少年漫画。および、これを原作としたテレビアニメ、アニメ映画、ゲームといったメディアミックス作品。1997年より『週刊少年ジャンプ』(集英社)にて連載されている。略称は「OP」、「ワンピ」。

概要
海賊となった少年モンキー・D・ルフィが、仲間を集めながら海を渡り海賊王を目指す海洋冒険ロマン。

夢への冒険・仲間たちとの友情といったテーマを前面に掲げ、少年漫画の王道を行く物語でありながらも深く練り込まれたストーリー設定であり、随所に感動エピソードやバトルシーン、ギャグなどを織り交ぜた少年漫画として人気を博している。また、戦争や権力、領土問題、宗教問題など様々な社会問題も織り交ぜた、重厚なストーリーとなっている。

2010年6月現在、原作の単行本は58巻まで刊行されており、『ジャンプ』現行連載陣の中では『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(1976年から連載中)に次ぐ長期連載となっている。日本国内における単行本売り上げは、史上最速1億冊突破を達成し[1]、初版発行部数320万部(59巻)と累計発行部数1億9000万部以上(58巻時点)の日本記録を保持しており[2]、前人未到の国内累計発行部数2億部に迫る勢いである。

1999年に放送が始まったアニメ版もロングラン作品になっている。2007年には、連載10周年を記念して5冊の本が出版される等、様々な企画が立てられた。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/ONE_PIECEより)




(注2)
長谷川 利行(はせがわ としゆき 明治24年(1891年)7月9日? - 昭和15年(1940年)10月12日)は京都府出身の洋画家、歌人。名の読みは「りこう」とも。

経歴
1891年に京都府京都市山科区で伏見警察署の警察官であった長谷川利其(としその)、テルの五人兄弟の三男として生まれる。家族構成や出生日はいくつかの説があり、はっきりとしていない。和歌山県有田郡広村(現広川町)の私立耐久中学校(現県立耐久高校)に入学し、文学を志し同人誌などを発行するも、1909年に中学校を中退し、当時は歌や詩に興味を持ち、1919年には「長谷川木葦集」という私家版の歌集を発行している。1921年に上京するも、しばらくは大衆小説などを書いていた。

いつ頃に絵を始めたか不明であるが、独学ながら非常に速筆で、1〜2時間ほどでれっきとした油絵を仕上げてしまう。自身の「アトリエ」を持たず、「思い立ったら絵を描く」スタンスを生涯続けた。帝展や二科展に落選を重ね、1923年の第1回新光洋画会展にて「田端変電所」が初入選する。

関東大震災に被災し、また震災の被害をうけた東京をうたった歌誌「火岸」を刊行後、帰郷し、一時京都で活動する。1925年再上京し日暮里の寺院の離れに暮らす。紹介で高橋新吉と出会い、前田寛治や里見勝蔵の知己を得る。

靉光、麻生三郎、井上長三郎、寺田政明らとの交流が始まり、第14回二科展で樗牛賞を受賞するなど精力的に活動。翌1926年には一九三〇年協会展で奨励賞を受けるなど、徐々に評価を高めていった。

だが、長谷川の生活は、浅草近辺の貧民街で一日中絵を描いているか、絵を換金して酒を飲んでいるかだったという。ついには、友人たちに絵を書いて送りつけたり、岸田國士ら著名人のところに押しかけて絵を描き、金をせびったりするなど生活は荒れ果てていった。このため、知人たちは後世まで彼については堅く口を閉ざし(このため彼の経歴には不明な点が多い)、長谷川の評価が進んだのは死後数十年たってからである。

40歳を過ぎた1930年代以降は木賃宿や簡易宿泊所、救世軍の宿舎などを転々とし、1937年の二科展を最後に公募展への出展をしていない。1932年に詩人や小説家と共に芸術家グループ「超々会(シュルシュル会)」を結成し、長谷川は会の中心的な人物となるものの、1年ほどで自然消滅したという。

その後、理解者であった天城俊彦が新宿に開いた天城画廊で頻繁に個展を開いていたが、安酒の飲み過ぎで慢性化していた胃潰瘍の悪化で徐々に身体が弱り、また1936年の晩秋頃に泥酔してタクシーにはねられ重傷を負うなど、1939年以降はほとんど作品を残していない。

1940年5月、胃癌のため三河島の路上で倒れて、東京市養育院に収容される。治療を拒否し、同年10月12日死去。49歳没。この際、手元にあったスケッチブックなどの所持品がすべて養育院の規則により焼却された。

翌1941年1月になって養育院を訪れた天城俊彦らにようやくその死が知られることとなり、遺骨は天城俊彦によって引き取られた。

1969年、上野不忍池弁天島に「利行碑」が建てられ、長谷川の短歌が刻まれている。[1]

2009年、一九三〇年協会展に出展していたうちの一つの絵画、「カフェ・パウリスタ」が発見され、2月24日放送の開運!なんでも鑑定団で紹介された。鑑定額は1800万円。

(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%88%A9%E8%A1%8Cより)





2010年8月1日 02時58分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2010年07月13日(火)
ブルーノ・ムナーリ展3
 

<左>「ブルーノ・ムナーリ展」カタログ、横須賀美術館、2010。

<右>「目の見えない少女のための触覚のメッセージ」1976/1985
麻、綿、ビニール、紐、スポンジ、鎖



○横須賀美術館から帰ったあとに、岩崎清さんと有福一昭さんから、お礼のメールをいただきました。
ぼくとしては、家族サービスをかねて、前々から一度行きたいと思っていたので、ちょうどよい機会だと思い、でかけたので、なんだか、とても恐縮です。

お二人のメールによると、1985年の「こどもの城」開館から、25年にわたって「ムナーリコレクション」を児童館や美術館でおこなってきた事業のようです。(継続は力なりですね)

そのお二人が、同じように、今回の横須賀美術館での展示は、これまでのなかでも、たいへんよいものであると述べられていました。
美術館の場所や建物の関係、展示の方法、ワークショップなど、かなり力のこもった展覧会であることは、まちがいありません。
都図研の先生方の間では、たぶん、「ブルーノ・ムナーリ」に関して、あまり知られていなようですから、ぜひ、夏休みの期間に、楽しみながら研修に訪問されるとよいと思います。

また、「展覧会がNHKの19日のE-TVの番組で放映されるらしい」とのことです。(詳しいことはまた調べます)

第1室の天井から「ひも」のような作品がぶら下がっています。上に写真であげた「目の見えない少女のための触覚のメッセージ」(1976/1985)です。
さりげないのですが、「触覚」という観点から、世界を把握するもので、ぼくなどは、はっとさせられるものです。
そういえば、岩崎先生は「ギャラリーTOM」の副館長で、また、CCAAにも視覚障害者のための作品室がありますね。
このあたりにも、ムナーリの多岐にわたる先見性が見て取れるようです。
ムナーリの展示には、こうした世界をみるための「視覚的な仕掛け」がいっぱい埋め込まれているようです。






2010年7月13日 04時59分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2010年07月11日(日)
ブルーノ・ムナーリ展〜海のみえる美術館〜
  

行ってきました!横須賀美術館。眼前に海の広がるきれいなミュージアムでした。設計も開放感があって、なかなかいい感じです。



  

ちょうど、「こどもの城」の有福さんたちが、ワークショップをしていました。「テクスチュアー」がテーマで、子どもたちが「フロッタージュ」していました。
正面のレストランのテラスで海を見ながら「イタめし」がいただけます。パスタ、うまいです!


  


岩崎清さんも応援にきていました。横須賀美術館の「ワークショップルーム」は、入口のところにあり、たいへんよい場所に設計されています。他の美術館より大事にしているように感じました。


 

手で触れるコーナーもあり、手でたっぷり味わえるるところがいいですね。「ムナーリ」「企画展示室」「谷内六郎」と三つあるので、結構、見ごたえがあります。




○車椅子の母親を連れて、ちょっと遠いのですが、横須賀美術館に行ってきました。はじめてでした。
海辺のなだらかな起伏のある場所につくられた美術館は、開放感があってなかなかいい感じです。
「浦賀」の近くなので、余裕のある人は、「ペリー来航」を楽しむのもいいかもしれません。

ブルーノ・ムナーリの作品群は、知的なセンスやユーモアを、「視覚」を通して感じさせます。彼は「視覚的な構造」に根差しながら、そこに「デザイン」を生み出します。そしてそのデザインの目的とは「ひと」がかかわることを念頭につくられています。だからその視線は「子ども」にも向かったのでしょう。

また、「谷内六郎」さんの作品もまとめて、はじめてみました。
たいへん抒情的な作品ですが、この仕事もぼくには、人間の「記憶」や「視覚」をめぐる谷内さんの表現への取り組みを感じるのでした。表現そのものはやさしいのですが、谷内さんの表現への精神は、たいへん強いものを感じさせてくれます。

…ということで、車椅子の母親には、ちょっと遠かったようですが、海の見える美術館で愉しみました。



◆プロフィール
谷内 六郎(たにうち ろくろう、1921年12月2日 - 1981年1月23日)は日本の画家。

略歴
東京恵比寿で9人兄弟の6男として生まれる。駒沢尋常高等小学校卒業の後、見習い工員などをしながら絵を独学で学んだ。

戦後、漫画仲間の鈴木善太郎、片寄貢らと銀座の街頭で政治風刺漫画を描く。また1945年12月に創刊された左翼系の新聞「民報」に4コマ漫画『真実一郎君』を連載。

・1955年、『おとなの絵本』で文藝春秋漫画賞を受賞。

・1956年、「週刊新潮」の創刊号から表紙絵を担当。大丸東京店にて初の個展「谷内六郎作品展」を開催。

・1958年、人形作家の熊谷達子と結婚。

・1962年、作詞を担当した『遠い日の歌』が第17回芸術祭奨励賞を受賞。

・1981年1月23日、急性心不全のため死去。59歳没。

(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%86%85%E5%85%AD%E9%83%8Eより)






2010年7月11日 22時40分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2010年06月19日(土)
ルーシー・リーの繊細な器


ルーシー・リー「溶岩秞鉢」1968年頃




「青紋文鉢」1980年代




ルーシー・リー



○土曜日は、仕事だったのですが、うれしいことに、少し早く終わったので、TAXに飛び乗り、六本木の国立新美術館に、でかけました。
「ルーシー・リー」の展覧会が明日で閉館だったからです。ぜひ、実物をみたいと思っていたので、たいへんうれしかったです。
とても簡素で「品」を感じるルーシーの作品群でした。
「肉」は、かなり薄く、また、「口」も空間に開かれているので、軽快な感覚を見る者に伝えてきます。
また、釉薬の質感や線描による装飾も、しっとりとした自然の感覚にみちていて、穏やかな感性を湛えていました。
一方で、凛とし強さも伝わってきます。

若い女性の参観者が多く、ルーシーの仕事に共感する姿がみられました。

焼き物は、すでに、形態が前もってほとんど決まってしまっているため、逆に、「使うための形態としてみないで、みている」自分を発見します。純粋に、その質や形態に向かうことができます。

それは、ぼくには「ミニマル・アート」に通じるような感覚です。
直感的な物言いなのですが「アグネス・マーティン」などと共通するものを感じるのです。

陶芸作家は、沈黙と忍耐の芸術家・職人です。
通常の社会的な交流のある仕事というよりも、ひたすら内部に沈潜していく仕事です。そこには、孤独に親しみ、結晶化したような美しさがあります。
ルーシーの作品をみていて思いました。
アグネスの仕事にもそうしたものがあるのでしょう。

ともに長寿をまっとうしています。








アグネス・マーティン

(http://www.google.co.jp/imglanding?q=Agnes%20Martin&imgurl=http://www.paceprints.com/contemporary/martin_a/images/martin-s-u_417-002-000.jpg&imgrefurl=http://cmuarch2013.wordpress.com/2009/02/05/ben-pell-lecture-notes/&h=576&w=576&sz=72&tbnid=e7yVS1ZXgas4CM:&tbnh=134&tbnw=134&prev=/images%3Fq%3DAgnes%2BMartin&hl=ja&usg=__2IPx9kz9knk6quPVKcsbV-_Ozag=&sa=X&ei=RiQdTMTMBcuIkAXgrMmyCw&ved=0CCIQ9QEwAQ&start=0#tbnid=e7yVS1ZXgas4CM&start=3より)




Agnes Martin, "The Peach," 1964. Oil and graphite on canvas,
72 x 72inches (183 x 183 cm). Dia Art Foundation, New York; Promised gift of Louise and Leonard Riggio. Photo: Bill Jacobson. Courtesy Dia Art Foundation.
(http://www.new-york-art.com/old/mus-dia-m.phpより)








「国立新美術館」。ナント!ぼくは、中に入ったのは、遅ればせながらはじめてでした。「印象派」展も開催中のためか、たいへん混んでいました。





会議の合間に一服。「喫煙室」からの風景です。この辺は「屋上緑化」が進められています。


◆ルーシー・リー略歴など
ルーシー・リー(Dame Lucie Rie、1902年3月16日 - 1995年4月1日)は、20世紀後期のイギリスを拠点に活動した、オーストリアはウィーン出身の陶芸家。本名はルツィエ・ゴンペルツ (Luzie Gomperz)。大英帝国二等勲爵士 (DBE)。

イギリスを代表する陶芸家であったバーナード・リーチと親交を持ったが、電気式陶芸窯から生み出されるその軽く薄い作風に対しては、強い火と土窯から生まれる日本風の重厚なものに強く傾倒していたリーチから手厳しい批評を得ることとなり、以後、芸術面に経済面も加えて大いに苦悩する。当時を回想するに「キャベツの日々だった」、すなわち、キャベツばかりを食べる、お金の無い日々であったという。しかし、独自の方向性を大きくは変えることなく模索を続け、やがて、釉薬や線描、緻密な成分計量に基づく理論的工法などによる独特の繊細かつ優美な作風を確立した。リーチものちにこれを認め、推奨するまでになっている。

1902年 - ユダヤ系の医師の娘としてウィーンに生まれる。
1922〜1926年 - ウィーン工業美術学校でミヒャエル・ポヴォルニー (Michael Powolny) に陶芸を学ぶ。
1937年 - パリ万国博覧会で銀メダルを獲る。
1938年 - ナチスによるオーストリア併合後、イギリスに移住。
1939年 - ロンドンの一角にあるアルビオン・ミューズに移る。
1946年 - ハンス・コパー(en、1920- 1981年)が工房に参加。
1951年 - ロンドンのバークレー・ギャラリー (Berkeley Gallery) でハンス・コパーと共同展。
1960年 - キャンバーウェル・カレッジ・オブ・アーツで教鞭を執る(1972年まで)。
1964年 - 東京の国際陶芸展に参加。
1969年 - ロンドンの王立芸術学院より名誉博士号を授与される。
1972年 - ハンブルク美術工芸博物館(de)で『Lucie Rie - Hans Coper Keramik』展。
1981年 - CBEを受勲。
1989年 - 草月会館と大阪市立東洋陶磁美術館で個展。
1990年 - 脳梗塞で倒れ、以降、陶芸を続けることが不可能となる。
1991年 - 大英帝国二等勲爵士の称号を贈られる。
1994年 - メトロポリタン美術館でハンス・コパーとの共同展。
1995年 - 脳梗塞により、ロンドンにて93歳で他界。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%BCより)

◆アグネス・マーティン略歴など
Agnes Martin (March 22, 1912 – December 16, 2004) was a Canadian-American painter, often referred to as a minimalist; Martin considered herself an abstract expressionist.

Life and career
Agnes Martin was born in Macklin, Saskatchewan, grew up in Vancouver,[1] and moved to the United States in 1931, becoming a citizen in 1950. Martin studied at Western Washington University College of Education, Bellingham, WA, prior to receiving her B.S. (1942) from Teachers College, Columbia University. A few years following graduation, Martin matriculated at the University of New Mexico, Albuquerque, where she also taught art courses before returning to Columbia University to earn her M.A. (1952). Her work is most closely associated with Taos, New Mexico, although she moved to New York City after being discovered by the artist/gallery owner Betty Parsons in 1957. According to a filmed interview with her which was released in 2003, she moved from New York City only when she was told her rented loft/workspace/studio would be no longer available because of the building's imminent demolition. She goes on further to state that she could not conceive of working in any other space in NY and consequently left the city for other places and ended up in Taos, NM.

Since her first solo exhibition in 1958, Martin’s work has been the subject of more than 85 solo shows and two retrospectives including the survey Agnes Martin organized by the Whitney Museum of American Art, New York, which later traveled to Milwaukee, Miami, Houston and Madrid (1992–94) and Agnes Martin: Paintings and Drawings 1974–1990 organized by the Stedelijk Museum, Amsterdam, with subsequent venues in France and Germany (1991–92). In 2002, The Menil Collection, Houston, mounted Agnes Martin: The Nineties and Beyond. That same year, The Harwood Museum of Art at the University of New Mexico, Taos, organized Agnes Martin: Paintings from 2001, as well as a symposium honoring Martin on the occasion of her 90th birthday. In addition to participating in an international array of group exhibitions such as the Venice Biennale (1997, 1980, 1976), the Whitney Biennial (1995, 1977), and Documenta, Kassel, Germany (1972), Martin has been the recipient of multiple honors including the Lifetime Achievement Award on behalf of the Women’s Caucus for Art of the College Art Association (2005); the Governor’s Award for Excellence and Achievement in the Arts given by Governor Gary E. Johnson, Santa Fe, New Mexico (1998); the National Medal of Arts awarded by President Clinton and the National Endowment for the Arts (1998); the Distinguished Artist Award for Lifetime Achievement by the College Art Association (1998); the Golden Lion for Contribution to Contemporary Art at the Venice Biennale (1997); the Oskar Kokoschka Prize awarded by the Austrian government (1992); the Alexej von Jawlensky Prize awarded by the city of Wiesbaden, Germany (1991); and election to the American Academy and Institute of Arts and Letters, New York (1989).

The Agnes Martin Estate is represented by The Pace Gallery, New York.
Artistic style
Her signature style is defined by an emphasis upon line, grids, and fields of extremely subtle color. While minimalist in form, these paintings were quite different in spirit from those of her other minimalist counterparts, retaining small flaws and unmistakable traces of the artist's hand; she shied away from intellectualism, favoring the personal and spiritual. Her paintings, statements, and influential writings often reflect an interest in Eastern philosophy, especially Taoist. Because of her work's added spiritual dimension, which became more and more dominant after 1967, she preferred to be classified as an abstract expressionist. She consciously distanced herself from the social life and social events that brought other artists into the public eye. When she died at age 92, she was said to have not read a newspaper for the last 50 years. The book dedicated to the exhibition of her work in New York at The Drawing Center in 2005—3 X Abstraction (Yale University Press)— analyzes the spiritual dimension in Martin's work. She then moved onto working with shoes, shirts and other clothing. She blended these into paintings through a technique she called 'clothed spacing.'

Martin worked only in black, white, and brown before moving to New Mexico. During this time, she introduced light pastel washes to her grids, colors that shimmered in the changing light.

(http://en.wikipedia.org/wiki/Agnes_Martinより)



2010年6月19日 19時33分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2010年06月01日(火)
笑う男


松田正平「自画像」1996年


○時々「江古田」というとなり町に散歩に出かけます。蔵造りの蕎麦屋さんに入ると、子どもの絵のような作品に出会いました。
「松田正平」という画家の作品でした。
画集(『松田正平画文集』求龍堂、2004)をぺらぺらめくっていると、この「自画像」がありました。「笑う自画像」なんてはじめてです(笑い)。
レンブラントにしろ、ゴッホにしろ、自画像はシリアスですね。
1913年生まれの松田さん、83歳の時の作品です。
芸術というと、セクトやエコールなど…文脈で評価されることが多いのですが…この「笑う自画像」をみると、そうしたものが吹っ飛んでしまいますね。
油絵の作品は、飄々とした感じで、今でいう「へた・うま」のイラストに通じるものがあるようです。ですが、よくみると、マチエールなど、たいへん凝ってつくりあげているのがうかがえます。
この「域」「心情」に達するのは、並大抵のことではありません。
松田さんの画室がそれを物語っています。


◆略歴
大正2(1913)年、島根県生まれ。8歳で山口県宇部村恩田の松田家養子となる。東京美術学校(現:東京藝術大学)卒業。渡仏、山口師範学校教師、国画研究所主任講師などを経て、昭和38(1963)年から平成6(1994)年まで市原市鶴舞に在住していた。洲之内徹、白洲正子、山田洋次などから高い評価を得てきた。昭和59年第16回日本芸術大賞受賞。平成5年山口県選奨(芸術文化功労)受賞。平成12年度地域文化功労者文部大臣賞受賞。平成14年度文化庁長官表彰受賞。代表作《はげこう》《眠る人》《周防灘》《ばら》など。
平成16(2004)年5月没。(91歳)
(ara-chb.ed.jp/board/culture/lobby_tenji/matuda_syouhei.htmより)





松田正平さんの散乱する画室が、格闘を物語っていますね。



2010年6月1日 22時12分 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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