ニックネーム:hinoG
性別:男
年齢:1934生
都道府県:京都府
夫婦で菜園とゴルフを楽しんでいます時には山にも登っていました。トップの写真は千丈岳よりの浅間山の噴煙、八ヶ岳、甲斐駒で噴煙の先は富士山です
2008年01月11日(金)
頼政道は天武の道 @
京都市の東部、山科・小野・醍醐・日野から宇治市五箇の庄を経由して宇治橋に至る外山沿いの裏道に頼政道と呼ばれる古道がある。
昭和のバブル経済から平成の現在にかけて、この20〜30年のあいだ急激な宅地開発の波が山麓ぎりぎりまで押し寄せて、この頼政道を呑込み昔の面影が消滅しつつあります。
市や篤志家による石碑が建てられて、歴史愛好者や近隣住民に910年の昔の源平時代を偲ばせてくれます。

醍醐寺の北に位置する長尾天神の石段参道を横切って僅かに残る廃道に面影がある。


東宇治高校の東側に開通した宇治市道、黄檗山手線は2車線の舗装道路で頼政道の面影は無いがルートはそのままの坂道です。京阪宇治交通のバス停南100メートルに「頼政道」の碑がある。

この道は治承4年5月(1180)70歳を越えた老将、源頼政が後白河天皇の第三皇子 以仁王を担いで近江の園城寺に打倒平氏の旗揚げをしたが比叡山や園城寺の支持が得られず夜中に大津を脱出して奈良の興福寺へ向った道です。
平清盛の兵士のいる表通りを避け山手の裏道を夜陰に紛れて数十人の手勢で宇治橋まで逃れたが、青年将校平知盛の軍勢に追いつかれて平等院にて討死にした歴史があります。(頼政塚は平等院にある)
以仁王も城陽市あたりで追いつかれ斬首されたが王の打倒平氏の檄文が全国の源氏勢力を結集させて平家を滅亡させ、歴史を変えるきっかけとなった大事件だったのです。

我が街を抜ける頼政道は今も生活道路として健在で歴史のロマンを覚えるのは歳のせいかな。
2008-01-11 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年01月04日(木)
意外な所にあった伏見城大手門
伏見の御香宮さんへ初詣の帰りにフト目に付いたのが豪壮な正門でした。
いつも、何気なく潜る古めかしい山門だが注意して良くみると風雪で消えかかっている「伏見城大手門」の大きな看板がかけてある。
徳川家康が伏見城を解体した折に御香宮を移転先の本宮から現在の位置に帰して本殿を造営寄進し、徳川頼房が大手筋の大鳥居の位置にあった大手門を移築寄進したものと記録にある。(1605)
慶応4年の鳥羽伏見の戦いでは御香宮は薩摩軍の陣地になったが大手門は無傷で残ったようです。
門の西側の石垣は戦火のイメージが残っている様にみえます。(写真左)
知る人ぞ知る、桃山時代の伏見城の大手門の裏側です。あらためて見直しました。(写真右)
2007-01-04 | 記事へ | コメント(0) |
| わが街の歴史ロマン |
2006年08月29日(火)
撞木町と大石良雄について
仏教やキリスト教では戒められている「恨みを晴らす敵討ち」はなぜか日本人の心情に響く力があるらしい。
近松門左衛門が「仮名手本忠臣蔵」を浄瑠璃で発表した300年昔の江戸時代には幕府の統制で上演禁止され登場人物や時代設定を変えていたが庶民には大受けしていた。(仮名は47文字で47志の掛け言葉)
終戦後日本人の報復運動の高まりを恐れたマッカーサーが上演禁止した期間もあったが明治以降は実名の「元禄忠臣蔵」が繰り返し映画にテレビに上演される超人気演題で現在まで続いている。
この様な背景で作られた家老大石の山科行状も殆んどがフィクションだと考える方が良い。
唯一大石元家老が笹屋女将に宛てた礼状が残っているので情報収集と気晴らしに片道8キロの山越えの道を何度か通ったのは事実らしい。
当時撞木町は伏見街道沿いにありそこから伏見港までは濠川と言う運河を舟でくだる舟溜まりの近くに位置しているのでかなり賑わっていたらしい。
今では24号線の裏側のちっぽけな横丁で往時の繁栄を偲ぶ石文しか残っていない。
写真は現在の撞木町東側入り口
詳しくはこちらへどうぞ。
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