ニックネーム:hinoG
性別:男
年齢:1934生
都道府県:京都府
夫婦で菜園とゴルフを楽しんでいます時には山にも登っていました。トップの写真は千丈岳よりの浅間山の噴煙、八ヶ岳、甲斐駒で噴煙の先は富士山です
2012年01月24日(火)
清盛寺の大悲閣
清盛寺(せいじょうじ)は平清盛の時代より更に400年以前の奈良時代の天平勝宝二年に東大寺の末寺「清成寺」として創建されたと寺史にある。
寿永元年(1183)源平合戦で壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党が清盛の五女「登貴姫」を守護して伊予国浮穴郡小田村に逃れて来たが翌年二月十六日に没した位牌が残されていて、その時より山号と寺号を改め、太田山清盛寺と改め、領主より一村を寺領として遣わされ、村も「寺村」と称したと伝えられている。その時の領主が伊予国守の末裔で小田砦(現在の 城の台公園)の日野氏だったのではなかろうか。



現在も 愛媛県内子町小田寺村の檀家200軒が曹洞宗の清盛寺を支えて堂宇の改築整備がされていて京都には見られない地方文化の暖かさが窺がえる。
写真は 本堂の西に縁続きの大悲閣で秘仏の千手観音様が祀られている。
「わが街の歴史」では無いが日野家ゆかりの末裔の地を訪ねて見ました。
屋根の頂上の大きな瓦の擬宝珠(?)は見事でした。
2012-01-24 | 記事へ |
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2011年02月20日(日)
方丈庵の中を覗く
方丈記の中で長明さんが庵の様子を詳しく述べているので、それを画像上再現して見た、実際はもっと薄暗くて雑然としていたはずだが見易く、整理整頓してライトアップしてある。
方丈記を理解するために役立てば幸いです。


@中央の囲炉裏は暖房・湯沸し・焼き芋などに必要不可欠
A東のベッドは、わらびの枯草(ほどろ)が麻布で包んである
 (夏には麻布の蚊帳が必要だった筈だが此処では省略した)
B南西の隅に吊り棚(本箱)に和歌・管弦・往生要集など参考書類
 (筆硯等の筆記用具や長明自身のノートや無名抄も置いている)
C弦楽器の琵琶と琴が釣り棚に立て掛けてある
 (着替え用の衣類や墨染めの衣も行李などにいれてあったはず)
D阿弥陀と普賢菩薩の掛図に経机と法華経が西北隅にあり
 仏門に入って連胤の法名を持つ僧侶長明の重要な空間で香炉や木魚も有ったはず、夜間の照明は燈心の行燈があったと思われる
E外出用の蓑笠や草鞋の他に斧・鎌・鋸などの最低限の道具が東隅に
 (鍋・釜・茶碗などの食器類と米・麦・豆・味噌の容器も必需品)

此処まで考えると、詩歌、管弦を愛して念仏三昧で風流な生活の5年間を過ごしたとはとても考え難い。
頼りにしていた、日野家の財政も破産寸前に凋落していて、裏山の木の実に蕨や草の根で飢えを凌いでいた様子も伺える。
偶々、都で逢った源家長が「人違いかと思うほど痩せ衰えた長明」だったと日記に書いている。
方丈記の最終ページで、飢えと寒さに耐えて貧窮の住いの中で聖人を目指した長明の本音の呟きがひしひしと伝わって来る。
「南無阿弥陀仏なむあみだぶつナムアミダブツ」三遍申してやみぬ。 と・・・・・・
聖人に成り切れない凡人の長明(ながあきら)さんだからこそ吾ら老友会の大先輩と親しみを覚える。
2011-02-20 | 記事へ | コメント(1) |
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2011年02月19日(土)
鴨長明の方丈庵を尋ねる
長明(連胤)が日野の里山に逃れて来て、自前の住い(方丈庵)で過ごした5年間の様子を随筆風にまとめたのが「方丈記」である。
長明の当時の環境や年齢に近づいた老人にとって、方丈記に書かれ文章が簡潔で名文なのはさておき、当時の世相や風景が見事なドキュメント記事として理解できる様になった。
日野の里に住む老人が伝統行事や土地勘を生かして、先ずはじめに方丈庵の画像上の再現を試みたので興味のある方は見て下さい。

これが平成23年現在の方丈庵遺跡地の岩で「方丈石」と呼ばれている岩と谷川です。
丹波下山の「大福光寺からの遺跡探訪団記念碑」が立てかけてある。


荷車二台分の建材を運んで来て草葺の屋根で覆うとこんな庵になるよだがチョット手間がかかり過ぎ
でいくら器用な長明さんも難し過ぎると思われる。


杉皮葺きの屋根に杉皮の外壁で仕上げるとこんな庵になる。
プラスチックやトタンの無い時代の山小屋は大抵こんなものだったとおもわれる。
下鴨神社の河合神社境内に復元されている庵に似ているが、こちらの方が原形に近いようだ。
参考意見などお持ちの方のコメントがあればどうぞ。
2011-02-19 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月09日(土)
柳山近況
柳山に鎮座の神々の声が次第に遠くなって「柳大明神の跡地」がなぜ許波多神社旧跡の碑になったかまでは聴けなかった。
理由はそれぞれの時代の想いが混信したためらしいが、藤原鎌足がこの地に許波多神社を祀った大化元年(645)までさかのぼると理解しやすい。


物部氏の祖先を祀る宇治の地を蘇我氏から引継いだ時、藤原氏が皇極天皇の指示を受けて、「許波多神社」に皇祖「アマノオシホミノ尊を祀る「柳大明神」を分詞した古事に由来するようです。

磐船系の神と天孫系の神を合祀して領民を納得させた藤原不比等の知恵によるのかもしれない。
それだけ、物部系の部族の力が健在していたのでしょう。
以来、藤原氏の許波多神社お旅所に物部氏の柳大明神を迎える祭礼が1000年以上引き継がれていた。

近衛家の領地内に位置する「柳大明神の社」を明治政府が近衛家に強要して許波多神社のお旅所に移転させたが、既に元和7年(1621)に近衛家から分離して木村右兵衛尉安冶を神主とした柳大明神が土地の氏神として独立していたのは明らかです。

従って、「許波多神社御祭神 柳大明神旧跡」と表記するの方が正解だと思うが、歴史から危うく抹殺されそうになってギリギリ踏みとどまって「許波多神社旧跡」の碑を建てた宇治ライオンズクラブの行動はさすがです。 

この辺りで、一段落しますがこの地をもっと掘り下げると「源氏ミュージアム」より実体のある「歴史ドラマ館」が出現するかも知れません。
 長々のお付き合いして下さった多数の訪問者に感謝します。
2008-02-09 | 記事へ | コメント(2) |
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2008年02月03日(日)
柳山遠望 B
『 その後の大和には 蒙古来襲、南北朝分裂、朝鮮出兵 などの大事件があった割には眼下の様子に変化の少ない800年だった。

宇治橋方向から北西方向に目を転じると「松殿山荘」の名を残している小高い森が見下ろせる。
頼政の討死にで 失敗したかに見えた後醍醐天皇の悲願は各地武士達の不満に火を付けた。

最初に都に乗り込んだ木曽義仲は近江や河内の武士の支持を得てアット言うまに、平清盛を追放して都を征服した。
清盛に冷遇されていた藤原基房(松殿)は義仲と手を組んで摂政に復活したが、義仲が宇治川の合戦で義経軍に破れたために松殿山荘の松殿系は三日天下で消滅した その名残だ。
藤原兼実(九条)が頼朝の支持で太政大臣になるが(1189)長続きしなかった。

その40年後、鎌倉幕府に不満を持つ後鳥羽天皇が倒幕の旗を揚げた承久の乱(1221)で執権北條時頼に機先を制されて隠岐に流され、藤原家実(近衛)が北條時頼に推挙されて太政大臣になった。
それ以来この地はほぼ近衛家が守っていたようだ。、九条家と近衛家が交互に摂政関白をつとめていたが、この宇治地方にかっての栄光は戻らなかった。

承応3年(1654)徳川家綱の時、水尾天皇の母中和門院(近衛前久の娘)が宇治別邸9万坪を寄付して、中国福建省の黄檗山から隠元禅師と弟子20人を迎え黄檗山万福寺を建立した、リンとした空気が漲り門前辺りが賑やかになって来た。 将軍家綱をはじめ大老酒井忠勝や多くの武士や商人の寄進で中国風の伽藍が7年後に完成し、達磨禅師の臨済宗をつたえている。マンネリ化した世相に喝!が入った。
岡の屋の舟付き場から宇治川対岸の填島へ架かる隠元橋は建設資材を陸揚げした桟橋の名を留めている。
その隠元橋、今年の春には4車線のコンクリート橋となって開通するようだ。これで朝夕の渋滞が解消されそうだ。

明治維新の後 弾薬庫を作るために没収した万福寺の土地は戦後、寺に返還されたが、我々の鎮座していた柳大明神の跡地は宇治市に払い下げられたままだ、今も許波多神社のお旅所の仮り住まいには交代で出かけてはいるがいつもは柳山の上で見守っているよ。

今年も2月3日の節分には氏子の皆が大勢参加来してくれていたね。
「ここの神さんは、柳山にあったんだよ、神さんを勝手に立ち退きさして弾薬庫を作りよったんで、戦争に負けるのは当たり前だ」とはお蕎麦やお神酒の接待に来ていた氏子の一人のつぶやきだったな。

自由平等の世の中になって、やりすぎの不敬罪が無くなったのは結構だがその反動で 祖先の築いた心の拠り所まで無くして黙っている4千余人の氏子は元気ないな、東西6丁南北8丁の神領を、例え100分の1くらいでも返せと言う勇気があれば良いクニになるのだがなあ・・・ 山城の国だけでなく日本人の古里としても・・・』

 とは400年前の神主 木村右兵衛尉安冶さんみたいでした
 プライバシーもあるので最近の事は話しにくいようでした。
2008-02-03 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年02月01日(金)
柳山遠望 A
柳山にはアマノオシホミさんばかりでなく藤原一族の方をはじめこの地で働いていた大勢の方々もお集まりのようで賑やかです。

『 眼下の宇治地区は藤原氏十二代目の道長と次の頼道の頃(1000)は平和で賑わっていましたな。
一条天皇の中宮に入れた道長の幼い娘(あきこ)に付けた大勢の女官の中に遠縁の藤原為時の娘(きょうこさんだったかな?)がいた。
彼女はなかなかの才媛で、宮廷生活の中に「白馬の王子様」を登場させて源氏物語を発表しベストセラーになったのもその頃だった。彼女、道長との連絡で宇治の別荘によく来ていたね。
54帖のうち終わりの10帖はその時の体験を元にしたようだ。
憧れの人、道長のイメージを重ねているたみたいだよ。
ひらがな文字が普及して「枕草子」や「源氏物語」が出回って、日本文化の基礎が出来たのもころだ、仏教もボツボツ中間階層に広まっていたな。

息子の頼道は2代目社長気取りの摂政になって道長の別荘跡に大金を注ぎ込んで新羅国に負けない瓦葺の阿弥陀堂(鳳凰堂)(写真)を建てよった。
死後の極楽浄土を望む信仰は結構だが国の収入を浪費し過ぎたな。
合わせて、天皇家でも会長と社長が骨肉の争いをする上皇政治が始まって雲行きがあやしくなていた。
政治のトップを見て官僚達が見習うのはどこの世界にもある事で荘園や寺領の奪い合いが表面化して来たね、打ち出の小槌にも限りがあって国家の財政破綻して、世の中が騒々しくなって来て武士の出番になったわけよ。
天皇家警護のために取り立てたられた源義家と平清盛も天皇家の内紛の犠牲になって源平の対立がはじまったと言うわけだ。

源頼政がこの平等院で平知盛や重衡に追われて討ち死にをしたのは平等院完成120年後の治承4年5月(1180)だった。

更に10年後、この場所のすぐ下流で平氏を追い出した木曽義仲勢が守る宇治川を源頼朝軍が突破する宇治川の先陣争いで有名な宇治川の合戦があった。

名馬「するすみ」の梶原景時が先陣を切って増水している宇治川に乗り入れた時、先を越された「いけずき」の佐々木高綱が「梶原殿、馬の腹帯がゆるんでいるぞ!」と叫んでいる。景時が引き返して腹帯を締め直している間に高綱が敵の矢をくぐり抜けて一番乗りの殊勲を立てた、景時がだまされたたと気が付いて悔しがったと言う有名な話の「屏風絵」である。
画家は江戸時代の丸山応挙と競っていた「曽我蕭白(ショウハク)」の1760年ころの作品だが実に見事に表現されているのでこちらから拝借した。
名馬と言っても木曽駒より小さな馬だった事や、武士のよろい姿が良く判る。
勇猛な景時は縄文系の顔で、ずるかしこい高綱の顔は弥生系に見えるのは、戦の中にもう一つ争いが続いていた事まで描いた蕭白も只者ではない。
高綱の使用している「あぶみ」は許波多神社の重文「孔雀銅象嵌半舌鐙(クジャクドウゾウガンハンゼツアブミ)」と同じころのものだよ。

更に30年後の承久4年(1221)には後鳥羽上皇軍が守る宇治橋を鎌倉幕府の執権北条義時軍が突破する承久の乱が始まって後鳥羽上皇に味方した公卿の家屋敷は焼打ちされてしまったが阿弥陀様には手がだせなかった。
このへんは、東大寺を焼討ちして、後で打首の仕返しにあった重衡の間に信仰心の変化がうかがえる。

眼下の、京都と奈良を結ぶこの地域は何かあると騒々しくなるので国内の様子が良く判ったよ、それだけ戦略上重要な位置であった証拠だ。

ところで、Webで拝借した空撮平等院の写真を見ると、当時の姿を良く復元したものだと感心している、柳山からの望遠だと当時のままに見える。 』 とおっしゃておられます。
  つづく
2008-02-01 | 記事へ | コメント(2) |
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2008年01月30日(水)
柳山遠望@
思いがけなく話題が広がって来たのでこの辺で蓋をしようかとコンポストを用意しましたが柳山に鎮座のカミさん達がもう少し話したいそうです。
関心のある方はどうぞやじって下さい。

『柳山(柳大明神の裏山)の景色が気に入ってツイ2千年近く居ついてしまったが以前はもっと眺めよかった、下界の様子も手に取る様に見えていたよ。
此処から宇治川まで真直ぐに3キロメートルほど下る参道がある、この道より南(左)に藤原南家、右方が藤原北家に別れていた、南家は四代目の仲麻呂(恵美押勝)の我がままが災いして取潰され、鎌足より300年後の道長の頃には北家が相続していたようだ。
道長は思慮深い男で我々も密かに応援していたので成長して関白まで登りつめ、平安王朝文化の花を開かせたよ。
財力も権力も手にいれた道長が鎌足以後の先祖供養するために浄妙寺を木幡の地に建立したのは1007年だったのは御堂関白記にあるとおりだ。

浄妙寺は450年後の室町幕府の頃、農民一揆の焼討ちで消滅しているが宇治市の発掘調査でその場所が宇治市木幡小学校の運動場であった事を確認して復元図(写真右)が公表されている、本当は門や鐘楼もあってモット立派だったはずだが?。
道長や息子の頼道の墓もその裏手の茶畑辺りのはずだが未だ見つかっていないようだな。
最近、その茶畑から偶然発掘された見事な青磁水差が京都国立博物館に保存されているのご存知かな?
この茶色がかった水差の色こそ「源氏物語の末摘花」の中で「秘色(ヒソク)やうな唐土のものなれど・・・」と紫式部が書いた南中国越州窯特有の青磁器の色らしい、呉越国特使(957)が届けた逸品を、引き継いで大切にしていた道長の棺に入れられたものかも知れんぞ。

その頃、道長さんは宮中の忙しい仕事の合間に宇治の別荘に来て天皇家の世継ぎの事や朝廷の人事のことなどを思案していようだった、数人の供を連れた乗馬姿をよく見かけたものだったよ。

浄明寺領地の東隣に、藤原真夏系の日野資業が浄明寺建築の大工や仏師を雇って作らせた法界寺がある、こちらは承久の乱(1221)や応仁の乱(1477)の焼き討ちに遭って消滅したが阿弥陀堂だけが奇跡的に難を免れて平安時代の建築技術を今に伝えている。(写真上左)
浄明寺の在りし日の姿も推測出来るでしょう。』  だそうです
  つづく
2008-01-30 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月20日(日)
柳大明神と物部氏
大海皇子(672)が吉野でクーデターを起こす前に立ち寄って武運長久を祈ったと言う柳大明神には更にドラマチックな過去がある。
←       400年前
弥生時代の頃(200)琵琶湖周辺で新羅系の移民が稲作農業で栄えていた。巨椋池周辺の木幡姫と政略結婚して京都周辺まで勢力を広げ、更に大阪の河内周辺の芦原まで開拓していた磐船系の王が応神天皇である。(五箇の庄の双子塚古墳や許波多神社の「応神天皇と木幡姫」の神像はその軌跡の一つ)
→        100年後
同じ頃九州(邪馬台国)で勢力を広げていた百済系の移民が豊かな土地を求めて瀬戸内海を東進し(285)堺市辺りに拠点を作った天孫系の王が神武天皇である。
この二つの勢力と大和の豪族が離合集散の結果仁徳天皇を誕生させた(313)が部族間の抗争はくすぶっていた。
→       200年後
古墳時代の頃(346)北朝鮮の高句麗に追われて「扶余国(ブヨコク)の王依羅(イリ)が衆数千を率い海を越えて倭の王になる」(高麗記)の一団が 越(新潟県)に移住して近江の高島辺りまで勢力を拡大していた。
「大河ドラマ風林火山」の武田信玄が諏訪氏の姫を娶り信濃を統一した様に政略結婚は常套手段で、おおほど王は近江の高島で生まれた
混乱していた仁徳朝廷に迎えられ?政略結婚して大和朝廷を継いだのが継体天皇(507)(おおほど王)である。
この集団は最新兵器の鉄剣や軍馬を導入していて軍事担当の物部氏となった。

扶余族の中に柳氏の姓があり柳大神とは関係があるのかも知れない、柳大明神は大化改新より更に200年前にさかのぼって物部氏の氏神として鎮座していたものと推測できる。
→       80年後
飛鳥時代の用命天皇2年(587)崇仏派の蘇我馬子が排仏派の物部守屋を倒し土地や使用人を没収して政権の基盤を作った。(聖徳太子のころ)

柳大明神のすぐ近くに、国の史跡に指定されている隼上り瓦窯跡遺跡がある、宇治市の発掘調査で、ここで焼かれた数千枚もの高句麗様式の布目瓦が50キロメートルも南の飛鳥豊浦寺に運ばれていたことが明らかにされているから、藤原鎌足が許波多神社を建てる前この辺りは蘇我氏の支配下にあった。
豊浦寺は崇仏派の蘇我氏が日本で初めて建立した本格的仏教寺院で、排仏派の物部守屋一族を倒して(587)政権を握った一大デモンストレーションだったらしい。
→        50年後
蘇我政権樹立50年の後(645)中臣鎌足が中大兄皇子(天智天皇)と謀って女帝皇極天皇の目の前で時の宰相蘇我入鹿の首をはね、蘇我一族を滅ぼすクーデターに成功している。
クーデターの仲間に引き入れていた蘇我氏の相続者である蘇我石川麻呂の上奏によるとして、曽我氏の支配地であった宇治・木幡・日野・山科一帯の戦略的地域を藤原鎌足が支配することになった。
皇極天皇は夢のお告げとして、その土地に「日本に天下っていない先祖の霊」天忍穂耳尊(アマノオシホミノミコト)の祀りを命じたとある。物部氏の氏神が念頭にあったと思われる。

鎌足が宇治の木幡に許波多神社(五ヶ庄の許波多神社では無い)に土地の氏神の柳大神を祀ったのは、その地区の支配を天下に認めさせた証しでもある。
以後500年間(奈良・平安)長期政権を維持した藤原時代の始まりでした。
この頃、古事記(712)日本書紀(720)は藤原政権監修の下に生まれた。
→         80年後
奈良時代、聖武天皇の時(727)扶余国の遺民が建国した渤海国の使者が平城京に国書と貢物(馬2頭と論語)を届けたと記録にある。「大和国と渤海国は同祖の兄弟国であり友好を図りたい」と言うプロポーズだったらしいが300年も過去の事で日本に定着していた朝廷からの返答は無かった。
漢字記録が定着していた渤海国には何らかの記録があったらしい。
(その後渤海国との定期交流は200年続いている)

伏見区日野に鎌足が奈良の春日大社を分祀したと言う古い萱尾神社がある。
明治の廃仏毀釈により、その萱尾神社に合祀された祠の一つに写真の柳大神があるから藤原鎌足以前に既に柳大神を祀っていた豪族が日野の里にもいた証でそれも「物部一族」だと推測する。
天武天皇が「柳大明神」の称号と神領を寄進するまでは「柳大神」の名の氏神だったと考えられる。

柳大神の名前は珍しく、物部氏の伝説のある愛媛県にもわずかに残っているそうだが謎の古代史を解くキーワードかも知れない。
万世一系の天皇を担ぎ出した軍国主義の呪縛の解けた現在、ボツボツ日本史をまとめる勇気ある歴史学者の出現が待たれる。

「許波多神社跡地の碑」を掘下げると古代史が見えて来るのではなかろうか、もう少し脚光を当てて貰いたいものです。
又、日本民族の祖先は全て渡来人だから、朝鮮半島からの移民を渡来人と言う表現にも問題がある、何時の時代の移民かを記すべきだと思う。

「10年一昔」より「100年一昔」の感覚になった老人には千年昔の出来事も身近に思える。
頼政道を毎日歩いている住民のたどり着いた「柳大明神は物部氏の氏神」だったと言うロマンの要約でした。
2008-01-20 | 記事へ | コメント(22) |
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2008年01月17日(木)
頼政道は天下統一の道
頼政が落ちのびた道は、400年後の元亀4年(1573)に織田信長も軍勢を率いて柳山(柳大明神の裏山)に登って本陣を張り、宇治川を挟んで槙島城に立てこもる足利義昭(室町幕府最後の将軍)を攻め落として天下統一の歴史を開いた道でもある。
柳山から見下ろす現在の景色には槙島も巨椋池も地名のみで当時の面影は無いが戦略的位置が理解出来る。
(写真右下の屋根は柳大明神跡地に建った宇治市黄檗体育館・正面の山は石清水八幡宮・右上の山は天王山から西山)

この戦いに信長の家来の木下藤吉郎も参戦し、この辺りの地形を記憶していて、伏見城建設の折には宇治川の流れを変える太閤堤を築き資材運搬の航路を開いたと推測する。太閤堤は眼下の宇治川対岸にあり最近宇治市の発掘調査でその規模が明らかになっている。

大海皇子がこの道を落ちて行った時(672)、天智天皇を支えていた藤原鎌足は3年前に病死していたが、この辺りの土地(南15kmの宇治〜北26kmの山科)一帯は既に藤原鎌足の領地になっていたので鎌足の息のかかった舎人が皇子を宇治橋まで護衛していたらし。
宇治橋まで見送った舎人の一人が「羽のはえた虎を野に放ったみたいだ」とつぶやいたとか。
鎌足の長男 藤原真人(定恵)は10年前 遣唐使として帰国直後23歳の若さで暗殺されているが、末子の藤原不比等(哲学者梅原猛が「日本歴史上最大の政治家である」と言った後の宰相)は未だ10歳くらいの子供で眼下の何処かの屋形で養育されていて壬申の乱を運良く免れている。(「天風の彩王」黒岩重吾著)
以後、今日に至るまで藤原氏支流の公卿の家名が三室戸・日野・小野・勧修寺・山科などの地名として残っており数々の歴史ドラマの舞台になっている。

明治維新後、眼下の宇治川まで3kmの広大な傾斜地に明治政府が火薬製造工場や弾薬庫を建設していて軍事大国の拠点にもなっていた事を思えば2千年のむかしから日本の歴史変遷の中心地であったのです。

2008-01-17 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年01月12日(土)
頼政道は天武の道 A
源頼政が平家の追手から脱出した治承4年より500年前に同じ道を、天智天皇の弟の大海皇子が身の危険を察知して大津京から吉野へ密かに脱出し、成功した歴史がある。
その歴史を頼政は当然知っていたはずだが決断力と機動力のある平家の武士団には通じなかったようです。
頼政主従が宇治橋までたどり着いた時、追手の平知盛の騎馬軍団に追着かれて一戦を交えたが多勢に無勢で敗れて討死にした。
頼政の墓が平等院の境内にある。

大海皇子と側近は家族を残して脱出の途中、宇治市五箇の庄の柳神社に武運長久を祈ったところ愛馬が元気になり無事に吉野に着き、壬申の乱で大友皇子との政権争いにも成功して天武天皇となった。
後に天武天皇は柳大明神の称号を贈り神領を寄進したと伝えられている。
黄檗山手線のトンネル工事と宇治市黄檗体育館の工事中に柳大明神の柱跡が発掘されてその場所が特定されているので天武の昔の街道がその場所にあった事は間違い無い。

宇治市ライオンズクラブと宇治市が建てた許波多神社跡碑(柳大明神)と黄檗トンネル南口の神社跡地


高峰山の尾根(現在の宇治カントリー)を越えて柳大明神跡の前に抜ける廃道(道幅2メートル)が林の中に50メートルほど残っている。現存する頼政道であり大海皇子が落延びた天武の道に違いない。

これから先、羽戸山城砦遺跡・隼上り瓦窯遺跡・菟道へと下り坂を約3キロメートルで宇治橋に着く古代の軍用道路だったとも推測出来る。
2008-01-12 | 記事へ | コメント(0) |
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