ニックネーム:ものづくり三世
性別:男
年齢:エルビス・プレスリーと同じ日に生まれた
都道府県:大阪府
2010年01月19日(火)
デフレについて @ 国内総生産から見たデフレの観察
今回は、景気の後退とデフレについて考えてみることにします。インターネットで調べると参考資料がたくさん出てきますが、市場の状況と統計資料を使って自分なりの理解を深めることにします。

2007年の秋から下降気味になった景気は、2008年9月のリーマン・ブラザース破綻によって急速に悪化しました。米国経済の縮小が輸出の減少につながり、企業収益の低下、設備投資の減少と連なって、個人消費や住宅建設の現象に及んで全面的な不況色が強くなりました。上昇機運にあった景気が世界同時不況の中で急速に下降した結果、供給力に比べて需要が減少し、物価を引き下げ、それが企業業績の悪化や個人所得の減少につながっています。このような需給の差、GDPギャップの拡大はデフレスパイラルを招くというので、神経質になっていますが、2009年11月に政府が月例経済報告で経済情勢について「物価の動向を総合してみると、緩やかなデフレ状況にある。」という報告をしました。それを受けて、政府や日銀に対して積極的なデフレ対策を求める論評が増えています。

統計上では、日本の国内総生産のデフレータは、1995年以降減少傾向が続いていますので、日本はデフレが常態化していると見られます。しかし、最近の景気後退とデフレを結びつけることだけでデフレ問題が解決するかどうかは判りません。デフレの要因はその時期によって異なっていますので、状況を把握するために、1980年以降の国内総生産の変化を、図1の名目暦年国内総生産で見ることにします。

まず、名目国内総生産は1980年から1987年までは平均変化率5.5%で増えています。1987年からは成長率は平均変化率7.3%の増加になり、平成バブルが発生ました。1990年にバブルが崩壊した後も、政府の景気対策などが働いて国内総生産は1997年まで平均変化率1.6%で上昇していました。しかし、1997年7月にアジアの経済危機が発生し、国内では北海道拓殖銀行が11月に破綻したことをきっかけとして金融業の最終調整が始まりました。そのために国内総生産は2003年まで下降線をたどり、2002年頃から2008年までの緩やかな回復につながっています。この期間は「いざなぎ景気」を越える長期の景気上昇だと言われていましたが、その背景には米国でのサブプライム・ローンの提供によるバブルの拡大がありました。しかし、2007年末から米国の金融不安や原油・原材料の高騰などで景気は停滞しはじめ、2008年のリーマン・ショックによって急速な下降を示しています。2009年の国内総生産の年間統計はまだ公表されていませんので、図1では1月から9月までの四半期データを平均して算入していますが、その段階では2008年よりさらに大幅な下降を示しています。

1980年から平成バブルが発生する1987年までは、名目国内総生産がほぼ直線状に拡大していました。これは少し余談になりますが、このような傾向は1972年頃から続いています。直線状であるということは毎年の国内総生産の増加額が一定であるということです。なぜその様になっているのか、何か必然的な根拠があるのか、たまたまそうなっていたのかは判りません。その結果、経済成長率は、分母になる国内生産額が大きくなるにつれて小さくなってきます。1972年から1973年には国内総生産が92.4兆円から112.5兆円に増えましたので成長率は21.8%でしたが、1986年から1987年では335.5兆円から349.8兆円の増加で成長率は5.2%に低下しています。

図1では、1980年から1987年までの経済成長の状態を直線で近似して、それを2007年頃まで外挿して表示しています。これと実際の国内総生産を比較すると、平成バブルの時期には過大な総生産が記録されて直線の上側に大きく膨らんでいることが判ります。1990年にバブルが崩壊した後は実際の国内総生産は徐々に元の直線の方に戻ってきます。ところが、1997年に直線と交差して、その後は横ばい状態になっています。もし日本経済のポテンシャルが元の直線で表す成長線上にあるとするなら、国内総生産の曲線は過剰な総生産を埋め合わせた後は直線上に戻ってくるか、あるいはこの直線と平行に上昇するはずですが、実際には横ばいを続けて成長線に戻れなくなっています。このことから、2000年以降の日本経済がバブル以前の成長路線とは違った路線を進んでいることが判ります。

このような景気の変化とデフレの影響を、さらに詳しく見るために、実質国民総生産とデフレータ変化率をグラフで対比させてみます。

図2の実質暦年国内総生産のグラフを見ると、バブル崩壊後の曲線は名目国内総生産のグラフに比べて成長が大きくなっています。2000年以降は景気が停滞しているのですが、それは名目経済であって、実質経済は成長路線に戻ろうとしていました。2008年9月のリーマン・ショックでその夢は挫折していますが、戦後の日本経済の記録では、このように実質国内総生産が下落したのは、1974年と1997年だけです。1974年は前年のインフレ抑制策の影響であり、今回と様子は異なりますが、1997年と2008年はバブルの終焉による景気の下降と見ることが出来ます。

図3のデフレータの動きを見ると、このような景気の変動とデフレ現象の関係がさらにはっきりとします。平成バブルの時期はインフレが進行しデフレータの前年比変化率が増加しました。その後バブルの崩壊と共にデフレータ変化率は減少していますが、1994年までは正の値を維持していました。しかし、1995年からマイナスの変化になりデフレ状態を示しています。1997年には消費税率の改定により一次的に物価が上昇していますが、その後はさらにデフレ傾向が継続しています。2005年頃からマイナス幅は少しずつ減っていますが、依然としてデフレータの低下は続いています。リーマン・ショックでデフレが進行したというのが一般的な考え方ですが、これはサブプライム・バブルによる価格上昇をはき出しているわけで、2009年の4月以降に急激な物価の下げが起こっています。

このような国民経済計算の観察によると、1980年以降の日本経済は実質ベースでは成長を維持してきましたが、その間に三つのデフレ現象を経験しています。それらは、(1) 平成バブルによって高騰した物価の調整、(2) 2000年以降の継続的な物価の低下、及び(3) 2009年の物価の急落です。この中で最も支配的なものは(2)の長期にわたるデフレの継続であり、最近問題視されている2009年の景気後退は、実質国内総生産の落ち込みが支配的であることが判ります。

註1) 国内総生産に関するグラフは内閣府経済社会総合研究所の国民経済計算の平成12歴年連鎖価格GDP需要項目別時系列表より作成。また、1980年より前の国内総生産に関する資料は平成2年基準の時系列表に準拠している。
註2) 国内総生産の平均変化率はその期間の初年の国内総生産に対する年平均変化率。
2010-01-19 09:40 | 記事へ | コメント(0) |
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2010年01月15日(金)
大阪府立大学
1月13日に大阪府立大学経済学部の同窓会が開催されました。大阪府の橋下知事は大阪には大学が沢山あるのだから、財政問題を抱えている府が費用を負担して大学を経営する必要はないだろうとか、大阪市立大学と重複する学部があるのだから、統合したら良いではないかというような見解を示して、大学の対応を求めています。大学の方は工学部などが主体となって研究の成果、人材育成の有用性などを知事に示して、大学の存続を訴えていますが、その過程で、12月3日に大学の理事長・学長から知事に対して改革案が提出されました。
改革案には、現在の7学部を4学域体制に移行させてして理系を強化した形にすると書かれています。大阪府立大学は農学部と工学部を母体にして出来た大学で、その後に経済学部を増設、社会福祉事業短期大学、看護大学、大阪女子大学を合併して、現在は工学部、生命環境科学部、理学部、経済学部、人間社会学部、看護学部、総合リハビリテーション学部を保有する総合大学になっています。新しい組織では、現代システム科学域、工学域、生命環境科学域、地域保健学域という四つの学域を持つ形になり、経済学部は現代システム科学域に移行することになっています。この学域は、知識情報システム学類、環境システム学類、マネジメント学類に分かれていて、経済学部はマネジメント学類を構成することになります。
このような大学の改革案の提出に先立ち、経済学部は11月26日に、改革案に対して「これは教育内容等の本質的議論がなされないまま作られたものであり、経済学部として同意できるものではない」ということを緊急声明として発表しています。
このようなやりとりは大学のオフィシャルサイトの中で公表されているので、極めて異常な状況です。大学の学生数は平成22年の募集人数では1学年が1362人でそのうち経済学部は250人になっていますが、総定員を維持したまま理系を強化するということは文系の学部の定員を減らすということなので、その点に特に経済学部が危機感を持っています。
大学院の社会人学生として経済学部に5年間お世話になったので、この一連の成り行きには危惧を抱いております。
元企業人として、世間一般の経済学部の教育について、以前から違和感を持っております。企業では経済学部などの文系学部の卒業生は企画管理、営業、資材調達、会計経理などの部門に配属されますが、一部の学生を除いて、ほとんどは大学で受けた教育とは関連の薄い業務に就きます。企業側では、学生が何を学んだかということより、何かを学んで身につける努力をしたことや、多くの人と交流をしたといった学生生活の経験を評価するということになります。このような仕組みが今後もこのまま続いて良いのかという点では、いくつかの動きがあるように思います。近年社会人を対象にした大学院教育が増えています。これは、社会人になってから改めて必要な学力を求めて大学に戻ってくる姿です。また、大学によっては教育の内容を社会のニーズに合わせて変えているところもあるようです。また、従来はほとんどの学生は4年間の学部を卒業すると就職していました。最近は大学院の前期課程で特定の部門の高度な教育を受けて、その知見が生かせるところに職を求めるということもできるようになっています。しかし、理系のように学部の卒業生の80%以上が大学院に進学し、より高度な技術知識を身につけて、それを職場で実用化するというのとは全く異なっています。
大阪府立大学の経済学部は大きな危機に直面していますが、大学教育の存在意義という点からその研究と教育の内容を検討して、新しい理念に基づいた制度に再編することが、社会のニーズに適合した大学という生き残りと将来発展につながるのではないかと思います。経済学の課程には、ミクロ経済、マクロ経済、計量経済といった基礎的な領域と、金融、財政、国際経済、地域経済、公共経済というような応用領域があります。これ等は学問としての領域であり、研究者や教育者の育成という点ではこのような領域で高度な教育を行うのは意味があると思いますが、社会の経済活動の役に立つ人材育成という視点では、人と社会、財の生産と分配、金融と財政、組織活動、というような切り口で学科を見直すことが必要で、いつまでも同じ講座が継承されていることに問題があるのではないかと思います。
昨年暮れに大阪大学工学の同窓会の機械部会総会で昔と今の教育制度の変遷についての説明がありました。50年前にあった講座名は全く姿を消して、ルーツをたどるのも難しい状態になっています。学部では、まず機械力学、熱力学、流体力学、固体力学という基礎学科をどこに出しても恥ずかしくないように徹底的に鍛え、その上に制御、情報、設計、生産というシステム概念を重ね合わせ、複合メカニックス、マイクロ機械科学、知能機械学、総合デザイン工学の4分野に整理して教育と研究を行っているということでした。高度な技術の進歩と、多様化した社会ニーズに対応するために大学の教科内容は、複雑すぎて理解できないほどに変わってしまっていました。
大阪府立大学の経済学部は、現在は経済、経営、法学の三分野の学域を包含した経済学科と経営学科に分かれています。このような枠組みは、過去の歴史の中でほとんどほとんど変わっていないのではないかと思います。もし、この3分野に情報処理の技術を加えれば社会が求める人材の教育ができる多様な仕組み作りができるのではないかと思います。ピンチはチャンスですから、この機会に新しい組織を作って欲しいと思います。国の将来はどれだけ技術革新により新しい産業を生み出すことが出来るかにかかっています。しかし、技術が生かされるためには、効率的なマネジメントが不可欠で、理系だけでは折角の技術が生かされません。ひとつのキャンパスに理系と文系の学部がありながらその間の交流がないのは宝の持ち腐れです。この点も大学改革の中に折り込んで欲しいと思います。
投入する財政資金が足りないから規模を縮小するということよりも、投入資金による成果を拡大して収益を増やす方がより健全だ、というのが経済学の教えではないでしょうか。
2010-01-15 14:12 | 記事へ | コメント(0) |
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2010年01月11日(月)
山口家住宅と町家喫茶「アカリ珈琲」
江戸時代の初期に建てられた町家が堺市の中心部に残っています。
1615年の大阪夏の陣のときに豊臣方が徳川の拠点となっていた堺のまちを焼き払いましたが、山口家住宅はその後に建てられたもので、350年ほど前の町家建築として1966年に国の指定重要文化財になっています。中世の自治都市であった堺のまちは環濠に囲まれていて、その外側に農地が拡がっていました。山口家は代々農地の庄屋を務めた家柄だったそうですが、住まいは環濠の中にあり、周辺の広い農地からの年貢米をこの屋敷に集めて収入としていたのです。
現在この住宅は堺市が保有して、歴史館として一般に公開していますが、昨日は山口家の当主山口敬さんのご案内で土間、お座敷、前栽、お蔵などを見学し、その後実際にこの家に住まわれていた頃の出来事などを伺う機会に恵まれました。山口さんの先代義一氏は昭和初期に政友会の幹事長を務めた代議士でしたから、敬さんは東京生まれで、父上が亡くなられてから堺に戻ってこられたそうです。

入口を入ると広い土間があり、それにそって長い上がり框が伸びています。出入りの人達は土間のところで応対して、親しい人だけがお座敷に上がるということだったそうです。
土間の天井は梁や棟木がむき出しになっています。外からものを運び込む広い開口部の上には、ことさらに太い梁が渡されていて、頑丈な建築を際だたせています。
土間にそって家族の居間があって、食事をする部屋には戸棚があり、そこには食器などが収納されていたそうです。当初は食事の際は家族がそれぞれの箱膳を使っていたが、後には一緒に丸いお膳を囲むようになったということで、明治から昭和への家庭の食事風景の変遷が語られました。炊事場は土間にあって、へっついさん(かまど)がしつらえてあります。昭和の頃にはガスコンロが付いたタイル張りのかまどあって、朝はおかゆを食べていたということで、町家のあさげの様子がうかがえました。歴史館として保存する際に古い資料にしたがって昔のかまどを再現したそうです。流しもタイル張りになっていますが、水道は使わず、井戸水を汲み置いて使っていたそうです。
土間の一角に畳敷きのところがあって、そこはおとこし(下男)とおなごし(女中)の食事をする場所だったとのことで、家族と使用人の居場所や食事の時の器なども区別されていたことが判ります。
玄関脇のお座敷は仏間になっていて、その向こう側の座敷は客間になっています。このお座敷とは別に、居間の反対側に奥座敷があって、そこには茶室があります。先々代は茶人で、ここで親しい方々をおもてなしになっていたそうです。奥座敷の前は前栽で、庭石や樹齢200年と伝えられる大きなハゼの木などが昔のままに残っています。
堺市内は昭和20年7月の大空襲で壊滅的な被害を受けましたが、山口家は被災を免れて最近行政の手で歴史的建築物として保存・公開されるようになりました。

山口家住宅のあるあたりは、堺の旧市街の北部で東には寺町、西には鉄砲町があって、歴史的な建物が数多くあるところです。鉄砲町のところに町家を改装した喫茶店があるというので、見学前に立ち寄ってランチをいただいてきました。目立った看板もなく、よく見ないとここがお店だとは気がつかないのですが、窓格子に「アカリ珈琲」と書いた板切れが立てかけてあって、その横にメニュウと営業中という掲示がありました。中は手作りふうの装飾で、お茶を飲んだりお酒をいただいたり出来るようになっています。人づてにお店のことが広がって、訪ねてくるお客が増えているとのことで、ご近所では若い人達が何かお店を始めようという動きも出てきているようです。戦国時代には世界有数の鉄砲生産地であったこの場所から、堺の包丁や自転車産業が発達し、そこにまた、何かしら新しいまちづくりが動き出すのかも知れません。
2010-01-11 16:44 | 記事へ | コメント(0) |
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2010年01月08日(金)
Happy birthday
今日は私の75回目のお誕生日です。1935年(昭和10年)1月8日生まれというと、Elvis Presleyが有名ですが、日本では著名人は見あたりません。小泉元首相が1942年1月8日生まれで、Presleyのファンだということになっています。日本人で1935年に生まれた人の現在の生存数は129万人ですので、その中で1月8日に生まれた人は3,500人ぐらいだという計算になります。中学生の時に同じ日に生まれた同級生が2人いましたが、50人の中に3人というのは、かなり偏っていたことになります。
1935年は世界大恐慌の後で、世の中がきな臭くなってきた時期でした。母親のお腹の中にいたときに室戸台風が大阪湾を直撃して、海岸近くのわが家は水深1メートルの高潮をかぶってしまいました。中国大陸に戦乱が広まる中で、幼稚園に通っていた昭和15年には皇紀2600年の祭典が催されました。昭和16年には小学校が国民学校と改称されて、その年に一年生となりました。その年の12月8日の真珠湾攻撃で日本は米英両国との戦争に突入、昭和20年に敗戦の日を迎えました。国民学校はまた小学校になり、昭和22年に新しくできた新制中学校に入学しました。昭和25年に高等学校、28年に大学に進学、32年に社会人にと、焼け跡から立ち上がる日本の姿を見て過ごしました。昭和31年の経済白書に「もはや戦後ではない」という副題がつけられて、そこから日本の高度成長が始まったのですが、1990年のバブル崩壊までの道のりは、険しくとも常に右上がりの時代でした。
今振り返ってみると、よき時代を生きることが出来たという気もします。しかし、その期間の毎日が、将来の希望に満ちて過ごせたわけではありません。国を挙げて、色々な問題を一つずつ解決しながら進んできた結果であったと思います。
現在の日本経済は閉塞感に満ちていますが、焼け跡の中に呆然と立ちつくした昭和20年と比べてみれば、それは天国と地獄の差だと思います。足下を踏みしめて、一歩一歩前に進むことがより豊かな未来を造るのです。
Happy birthday to myself! 乾杯!
ワインはMouton Cadet rouge, 2006、女房と二人でハーフボトル1本が適量です。
2010-01-08 23:59 | 記事へ | コメント(1) |
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2010年01月07日(木)
ブログ再開にあたって
2010年も既に今日で1週間が過ぎました。「光陰矢の如し」と言いますが、近年は文字通り光の速度で日常生活が飛んで行くような気がします。20世紀が終わって新しい世紀が始まった年に、43年間のサラリーマン生活に終止符を打って年金生活者の仲間入りをしました。その頃はまだ心身共に元気だったので、「人生一周り半」論を唱えて社会人学生となりました。5年間の大学院生活は新鮮で、何となく別な人生が始まったような気がしました。行きがかりではじめた経済学研究に一区切りをつけて、そこからは行き当たりばったりで、年金制度の勉強やらまちづくりやらに首を突っ込んでいるうちに、気がついたら明日からは後期高齢者ということになってしまいました。統計では75歳の男性の平均余命は11.4年ですから、手持ち時間は10年少々ということになります。寿命は授かりものですからどうなるかわかりませんが、頭の働きはどんどん衰えてゆくことは間違いがありません。
まだまだ先は長いと思っていましたが、ここからは短期決戦で行かねばと思い立ち、手始めに2007年から中断していたブログを再開することにしました。今日は再開第一便を発信します。どんなブログになるのかはやってみないとわかりませんが、できるだけ新鮮な情報を発信したいと思っております。
まだお正月気分が抜けきれませんので、今日は、景気づけに、わが家のお正月の床の間を飾る掛け軸の絵を添えて画面をにぎやかに致します。これはお目出度い場面で演じられる雅楽「還城楽」の舞姿です。

2010-01-07 21:40 | 記事へ | コメント(0) |
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