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2011年06月16日(木)
コルトーとピアノ、リスト、モーツァルト、ベートーヴェン、シューマン、
アルフレッド・コルトー

ベルナール・ガヴォティ    遠山一行、徳田陽彦訳

白水社


歌うピアノ   p.294〜

コルトーはピアノを「歌わせる」魔術的な才能を持っていた、と人は何度書いただろうか。答えは肯定にも否定にもなる。というのも、他の弦楽器や管楽器には自明のモデルとして人間の声があり、「歌うような調子」カンタービレを出すためにはつねに人間の声に着想を得るからである。
「ピアノは逆に、音を維持できないという性質を利用することができたから、他の楽器とは異なった、まったくピアノ固有のカンタービレが得られたのである。スタインウェイとかベヒシュタイン製のピアノからピアニストが得る歌うような調子は、人間の声をまねたものではない。まさにこの点、ピアノのカンタービレは非現実的なものなのだ。」



乳色の声ヴオワ・ラクテ(同音異音の銀河ヴオワ・ラクテにひっかけたもの)

   p.301〜
・・・リストよりショパンにより近いコルトーは、何よりもまずピアノを、すなわち張った弦にハンマーが打つ衝撃を忘れさせようとした。非常に稀な場合をのぞいて、彼はピアノの打弦的な性質をそれほど高く評価しなかった。なぜなら・・・・



様式について p.316〜

 
「コルトーは鍵盤の前でものを考える人間という非常に稀な実例である。その音色、気高さ、鋭く洞察力のある正確という彼の特質ゆえに、ひとつひとつの音が密度の高い円熟したものとなっている。・・・・



鍵盤の詩人 p.324〜

コルトーのもつ真似の出来ない大きな天賦の才能は、彼の音色である。ここで繰り返して言うが、その手首の理想的な柔軟性こそ、彼のながい経歴の最後にいたるまで、世界中の人が完全に酔いしれたあのタッチの要因なのである。


  P.325〜
『効果をあげないピアニッシモは意味がない。色彩をもって響かせねばならない。たとえきわめて静かな楽想のなかでも』とコルトーは命じている。ルバートについては、ショパンの定義(『左手をあなたの楽長にしなさい。右手はあなたの好きなように動かしなさい』)より、コルトーはリストの定義のほうを好んでいる。すなわち、『風にさらされる木だ。葉は揺れるが、幹は動かずにしっかりしている』。



大きな謎 p.363〜
 
 
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2011年05月19日(木)
石本正の絵と音楽の関係 パブロ カザルスのバッハ&キリテ カナワ
石本 正

絵をかくよろこび

ロマネスクへの憧憬、裸婦への愛着・・・

画業60余年の創作秘話を縦横に語り尽くす

              石正美術館(島根県三隅町立)4月7日オープン

              新潮社  ISBN4-10-382202-3 C0071

p.236
画を描く楽しみ


p.251〜252
 
《椿》はパブロ・カザルス演奏のバッパの「無伴奏チェロ組曲」を聴きながら描いていた。 花は一応そのとおり描いてはいるけれど、蕾は音符のつもりである。花も蕾も動いて自然の音が鼓動するように
調子をはっきりさせ、リズミカルに描いた。

 私の画は日本画でも洋画でもなく画である。今度の展覧会でもそこを理解してもらいたい。
 
 この図録の表紙の画は、「画を見、理解してほしい」という意味をこめている。裏表紙はニュージーランドのトーテムポールの文様である。キリ・テ・カナワはイギリス系の有名なオペラ歌手だが、ニュージーランドのマオリ族の血が流れている。彼女の曲を聴きながらマオリ族の文様をイメージし、これを描いた。

 画を描くことは楽しい。生きる喜びである。


           (「石本正展」 1996〜97 図録)
2011-05-19 | 記事へ |
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2011年04月09日(土)
S.ツヴァイクとA.シュヴァイツァー、オルガン、J.S.バッハ
時代と世界

つヴァイク全集 21
みすず書房

猿田 悳(さるた・とく)

書籍コード 0398−00212−8005

わすれられぬ体験
p.305

〜わたしはアルザスのちいさな町、ギュンスバッハにむかって車をはしらせる。そこにアルベルト・シュヴァイツァーの牧師館をたずねようというのである。ちょっとのあいだアフリカに仕事をのこして、ちょうど故郷の村に休養して新たな奉仕のための準備をしていたこの注目すべき、比類なき人物を訪問できるという機会を、むざむざのがしていいはずがない。けだし、完全な人間には、完全な芸術より出会うことはまれなのである。


p.306
〜つまり、この人物は、たぐいない、一回かぎりの、反復できぬまでに結合した多彩な存在なのだ。
 多くのひとたちは、彼について、ただ彼が数年まえゲーテ賞を受けたということしか知らないが、・・・・・・
卓抜の神学者のひとりとして賛美するし、音楽家たちは彼のなかに、ヨハン・セパスティアン・バッハについてのもっとも基礎的な、もっとも偉大な書物を書いた人物をみとめて敬意をはらう。

さらにオルガン製作者は、ヨーロッパのすべてのオルガンについて彼ほどくわしく、その演奏技術について彼ほどにそのうんのうを書いたひとはいないといって賞賛する。一方、音楽好きは彼をギュンター・ラミンとならんで、現代おそらく最大のオルガニストとして尊敬しているのである。したがって、どこであれ彼が演奏家の予告をすると、すべての席は数日前に売り切れるのだ。



p.308

〜音楽ではこんにちなお凌駕されることなき、ヨハン・セパスティアン・バッハについての記念碑的な伝記である。オルガン演奏の巨匠としては、彼は町から町へと旅をつづけ、あらゆる手に入るものを弾いてたしかめ、昔のオルガンづくりのなかばわすれられた秘密を新たに発見するが、この領域においても、かれの仕事は権威のあるものとなった。

2011-04-09 | 記事へ |
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2011年03月09日(水)
アルトゥール・ルービンシュタインの思い出話 アルバート・アインシュタインと
ベルリンへの長い旅

戦乱の極東を 生き延びたユダヤ人音楽家の記録

ヘルムート・シュテルン[著]
真鍋圭子[訳]

        朝日新聞社 ISBN 4-02-257297-3

大演奏家たち ― イスラエル・フィルハーモーニー管弦楽団で

イスラエルでの再出発

p.155〜156

とくに印象に残っているのは、アルトゥール・ルービンシュタインとの出会いです。そのとき彼は何回目かの客演で、三週間ほど滞在していました。六十歳前後で、キャリアの絶頂。若々しく、魅力的な人物でした。暑さのためもあって、私は朝早く練習するのが習慣になっていました。私がバッハのソナタに集中して弾いている時、ルービンシュタインが私の開け放った窓の前に立って聞き耳を立てているのに、突然気がつきました。私はヴァイオリンを手から落としそうになりました。「続けたまえ。それでいいんだよ。」その後私たちはしばしば会い、いっしょに朝食をとり、ロシア語で話をしましたが、彼はそれを楽しんでいるようでした。
 ルービンシュタインはピアニストとしてブリリアントだっただけではなく、ジョークや逸話を話すのもすばらしく上手でしたが、話のなかの彼は、いつももちろんいい役で登場していました。あるとき、アルバート・アインシュタインの話になりました。アインシュタインはバイオリンがかなり上手だったらしく、ルービンシュタインはときどき彼と合奏していたようです。アインシュタインがむずかしい箇所でたびたび引っ掛かると、ルービンシュタインは彼にいったそうです。
「アルバート、きみの欠点は、小節の数を数えられないことだよ」
2011-03-09 | 記事へ |
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2011年02月26日(土)
モーツァルそしてグルックと王妃マリー・アントワネットの関係
遠藤周作
王妃 マリー・アントワネット
                  朝日新聞社

1.嵐の前

p.15〜
 
その人はひょっとすると、・・・・彼女は昨年の冬のある出来事を思い出す。彼女は王宮の庭園で一人の少年と遊んでいた。少年は宮廷楽団のコンサート・マスターの子供だった。
 眼の大きな、利口そうなその子は王女の気に入った。女官たちの目を逃れて二人は大理石を敷き詰めた回廊で鬼ごっこをした。

 「ぼくは作曲するんだ」
少年は誇らしげに言った。
 「いつか、ぼくの作曲を聞かせてあげるよ」
 「ほんとう?」
 「ぼくらは結婚しようよ。君はいつか、僕のお嫁さんになるんだよ」
 「ええ」

 その子の名は・・・・・たしかアマデウス・モツアルトと言った。
 あの利口そうな、眼の大きな少年。その少年の面影を王女は明日、出会うであろう仏蘭西皇太子の上にいつか重ねあわせていた。それほど王女の心にはまだ幼々したものが残っていたのである。
 


 Variations on Austria
オーストリアの音楽
A Musical Guide

オーストリアの黄金時代

クリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714-1787)

 
マリアテレジアの娘で当時フランスの若き王妃であったマリー・アントワネットのためにオペラを作曲し、上演しました。
これを機にグルックはイタリアの正歌劇から脱しフランスのオペラ・コミックを創作するようになりました。
グルックはウィーンに住んだ36年の間、終始堅実な市民であり裕福でまた人々の尊敬を受けました。
宮廷作曲家グルックの後をモーツァルトが引き受け、モーツァルトの財政状態も改善されました。
2011-02-26 | 記事へ |
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2010年07月19日(月)
プロの音楽家が生まれる背景は、モーツァルトばかりでなくバッハの場合にも見て取れる
モーツァルト

ある天才の社会学

MOZART
Zur Soziologie eines Geniies
Norbert Elias

叢書・ウニベルシタス 353

ノルベルト・エリアス著
青木隆喜 訳

ISBN 4-588-00353-4

p.27〜
貴族的な主人とモーツァルトとの葛藤、そして彼の生涯は、その当時、市民的音楽家が―市民的文学者とは逆に―宮廷に雇われるか、せいぜいのところ宮廷貴族の周辺におかれていたことを典型的に示している。それでも(オーストリアとともに)ドイツには、イタリアと同様に音楽家には脱出の可能性があった。これはなによりも、この地域独特の支配構造に関係がある(けっしてブルジョアジーの興隆に関係があるのではない)。その支配構造がドイツやオーストリアにおける音楽の発展にとって非常に大きな意味をもっているのである。


p.28〜
ローマ帝国の後継者であるドイツ民族のアルプスの南と北の地域で、皇帝や教皇のような集権的支配者による統一の努力がすべて挫折し統一力が衰退したために、数多くの小国家が生み出された。


 フランスやイギリスのような中央集権化された諸国では17世紀には唯一の宮廷ができて、それが権力や冨、文化的な重要さにおいて他のあらゆる貴族にまさっていたが、それに対してドイツやイタリアはほとんど無数の宮廷や宮廷風の都市体制に分裂していた。
 〜略〜

 
こういう主権領国の大半では、絶対支配を行使する支配者が官職組織を保有し、雇った音楽家からなる楽団を不可欠の示威手段としてかかえていた。その多様さがドイツならびにイタリアの音楽風土の特徴をなしていた。


 
フランスやイギリスでは、パリやロンドンのような首都に国家が集権化したために、音楽家の重要な職が統合されていた。従ってこれらの国では、雇い主である君主と高位の音楽家が争う場合でも、音楽家は鞍替えすることができなかった。たとえば皇帝の不興を買ったフランスの音楽家に隠れ家を提供できるほど、権力や冨、名声において皇帝のそれに匹敵するライヴァルである宮廷は存在しなかった。それに対してドイツやイタリアでは数十の宮廷や都市があって、互いに勢力を争い、音楽家をめぐってきそい合っていた。昔のドイツ帝国を継いだ地域における宮廷音楽家の異様な創造力を、何よりも、このように多くの宮廷があり、それに応じて音楽家の地位も多様であった状況に結び付けても、それはけっして法外なことではない。


p.29
 
こういう状況こそ、当時のイタリアやドイツに比較的数多くの音楽家が現れた条件だったのである。それは、同時に音楽家の地位を高め、音楽家が自分の力を主人に対して発揮する機会を与えた。


フランス王に雇われた音楽家が解雇されてもフランス以外の宮廷で職につける可能性はまだ残っていたが、たいていのフランス芸術家の目にはそれは零落に等しいと見えた。


ところが、イタリアやドイツでは事情が違っていた。そこでは、主人といさかいを起こし、何らかの仕方で主人から遠ざかり別の地方に赴く職人芸術家は少なくない。ミケランジェロは教皇と争ったときフィレンツェに行った。彼に出会った教皇の手の者は、戻りたがらない彼に翻意を迫らねばならなかった。


バッハが雇い主であるワイマール公と気まずくなったとき、いろんな関係で別の宮廷に或る地位が得られそうなので辞職を願い出たところ、怒った大公は反抗的態度のかどでバッハを投獄したが、バッハは頑固で、結局辞めさせてもらっている。


バッハのこういうエピソードを聞くと、モーツァルトに通ずるところがあるのに気づく。こういう出来事は、伝記にとって重要だというだけのものではない。


それは、音楽家の個人的運命にとって重要なのである。だが、そういう出来事を正しく見るためには、出来事だけにとどまるのではなく、そこに宮廷社会における力の差や社会の構造が示されていることを考えなければならない。
2010-07-19 | 記事へ |
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2010年07月04日(日)
奇蹟の人リヒテル ―スヴァトスラフ・リヒテルの一生はさながら一冊のロマンである
レコードの文化史

クルト・リース著
佐藤牧夫訳

音楽の友社

p.533

リヒテルはひかえめな、おちついた人である。ただ一つの点でかれは頑迷といってよいほど頑固である。レコードの録音をとりたがらないのでである。かれは少数の人々のために録音したが、それは友人のプロコーフィエフか妻かのどちらかのためであった。つまり、プロコーフィエフの作品を録音するか、妻といっしょに何曲かの歌を録音するか、そのいずれかであった。もっとも、万やむをえないときにはピアノ協奏曲も録音した。ちなみにかれはレコードのために演奏することが嫌いであるとはっきり公言している。


 
それにもかかわらず、ドイツ・グラモフォンは、リヒテルと交渉を始めるのに成功する。一九五八年十月、リヒテルがワルシャワで公演したさいにドイツ=ポーランドの共同製作が生まれる。リヒテルはなかでも極度の運指の熟練を要求するひじょうにむずかしい、ローベルト・シューマンのトッカータを演奏する。録音技師は ―もちろん― テープを使用する。したがって、そのつもりなら何回かに区切って録音することもできたであろう。しかしリヒテルは全曲をとおして演奏する。そればかりではない。テープを聞いてかれは満足できない ―自分自身に満足できない。かれはもう一度演奏する。こうしてつづけさまに六回も演奏する― これはドイツ・グラモフォンのスタッフ全員の心に畏敬と驚嘆をふきこむ壮挙であった。
 リヒテルはあいかわらず懸念をいただきながらレコードを視聴して唖然とする。このように完璧な録音ができようとは思ってもみなかったのである。
 こうしてリヒテルはさらにレコードをつくることを承諾する。
2010-07-04 | 記事へ |
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2010年06月14日(月)
パデーレフスキー、ガーシュイン、リヒテルはレコードとどう向き合ったか?
レコードの文化史
Weltgeschichte der Schallplatte von Curt Riess

クルト・リース著   佐藤牧夫
 
          音楽之友社   ISBN 1073-240010-0777

P.547  訳者あとがきから
 
本書はレコードの≪世界歴史≫と名乗っているとおり、レコードの発明、発達、レコード会社の栄枯盛衰、レコードに登場する演奏者のエピソードを世界的な視野に立って興味ぶかくつづっております。国際的なジャーナリストとして幅広い活動をしたリースの強みは本書にもあらわれて、レコードの歴史がたんにレコードだけの歴史に終始しないで、レコードが紆余曲折を経ながら繁栄の一途をたどって今日にいたったあいだの、それぞれの時代の姿があざやかにとらえられています。・・・・



P177   第二部 勝利の行進 <第七章 平和―はたしていつまで?>
 
一九〇七年・・・・・
 有名なピアニスト・ヴィルヘルム・バックハウスWilhelm Backhausはロンドンのグラモフォン・カンバニーのレコードにバッハJohann Sebastian Bachの≪平均率クラヴィーア曲集≫の一部分を録音した。


P199   第二部 勝利の行進 <第八章 戦争>
 
 もう一社アメリカの新しい会社が1914年11月に設立された。イオリアン・カンバニーである。新会社の設立者はたいへん人気のあるピアノを製造していた業者であった。ピアノの製造で儲けた大金をレコードにつぎこんだのである。



パデーレフスキーの場合
p233    第三部 一九二〇年代 <第九章 混乱とジャズ>
  
パデーレフスキーはすでに十年まえの一九一一年に、イギリスのグラモフォンのために、数枚のレコードを録音していた。ローザンヌの自宅でスタインウェイでショパンを演奏したのだった。その時パデレフスキーはすでに五十歳をこえていて、スターであった。


p234〜236  
  
パデーレフスキーは世界各地で迎えられ、世界各地で賞賛された。そのような時に第一次世界大戦が起こったのである。
 パデーレフスキーは生粋のポーランド人であることをけっして隠さなかった。戦争が始まったいまこそ、ポーロンドが圧制者のロシア人とオーストリア人から自由になって、ふたたび独立国にかえる好機であるとパデーレフスキーは考えた。そしてピアニストとしての自分自身の道はさしおいて、このために、ただこの目的のために、ひたすら働く決心をした。どこで?もちろんアメリカで。そこには約300万人のポーランド移民がいた。そしてなにより第一に、一つの民族が自由を求めていることを理解してくれる人々がいた。パデーレフスキーは英語の授業をうけた。アメリカ人を味方にするにはポーランド語のアクセントをなおす必要があると思われたからである。
 パデーレフスキーは、アメリカ各地を根気良く回り歩き、〜略〜
かれは30分話をしたあとで、30分ショパンをひいた。このポーランドの心から人々に語りかけてもらおうというのであった。〜略〜しかし寄金は十分集まらなかった。かれは私財を犠牲にした。パデーレフスキーはアメリカ大統領のもとに招かれた。〜略〜ウィルソン大統領はパデーレフスキーから深い感銘をうけ、自分が再選―1916年―されたならポーランドの復活に最善の努力をつくす約束をした。事実、ウィルソンはこの要求をかれの平和条件14ヶ条の第13項目にかかげた。
 そして、パデーレフスキーのもっとも栄えある日、1919年6月28日がやってきた。この日、パデーレフスキーは独立国ポーランドの代表者(初代大統領)としてヴェルサイユの講和条約調印者の一人になったのである。〜略〜  
  


 
〜略〜たしかにポーランドはパデーレフスキーを大統領に選んだ。しかし、おおぜいの人々がかれを拒んでいた。〜略〜1919年12月5日、パデーレフスキーは深い失望のうちに大統領を辞任した。それでも国際連盟ポーランド代表に就任することに同意した。しかし、あらたにポーランドの権力を握った人々とりわけ軍国主義者たちと協調できなかったので、この新しい地位も体裁にすぎなかった。パデーレフスキーはスイスの家へひっこみ、ふたたび公演旅行に出、賞賛を博した。しかし、かれはいまでは年よりはやく老け込んだ、諦めきった人であった。


p236
 
パデーレフスキーになおも残された喜びは、ただ一つ、レコード録音だけであった。録音のときには、自分と自分の音楽だけになれたからである―頬のこけた、顔色の悪い、青いはげしい目の、真白な長髪に赤味がかった金髪をまばらに残している。この長身痩躯の人が。パデーレフスキーはレコードのためにベートーヴェンの≪悲愴≫を、リストの≪ハンガリア狂詩曲≫をひき、ショパンを幾度となくひいた。かれのひくピアノはまるでこの世のものとは思われないあやしい音色をかなでた。さながら管弦楽団の演奏を聞くかのような思いがした。人々は、かれの<分散和音のトリック>についていろいろ語ったり書いたりした。
 演奏会ではいつも聴衆の完成をうけたけれども、パデーレフスキーはこのレコード録音から演奏会よりはるかにおおくのものを与えられたのである。 

 
 ガーシュイン、リヒテルの場合は次に・・・続けます。
2010-06-14 | 記事へ |
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2009年12月16日(水)
ふん!フン!糞!3声?6声?モーツァルトはカノンで「おれの**でも舐めやがれ
ともかくこんなこと書いていいの?と驚く表現が一杯な本なのです・・・
モーツァルトばかりでなく、彼のお母さんだって、プファルツ皇女エリーザベト・シャルロッテ・・・排泄のジョークだらけ・・・

「鳥屋の梯子と人生はそも短くて糞まみれ」
アラン・ダンデス/ 新井 皓士訳  平凡社
 p98
モーツァルトの手紙
18世紀もまた著名な代表に欠けてはいません。ルターの糞尿嗜好傾向は昔からかなり良く知られていたのに対し、モーツァルトのそれは最近まで恐らくは彼の伝記専門家しか知られていませんでした。しかし、家族宛の手紙の中で、この作曲家は、まさに並外れの肛門嗜好的耽溺をみせております。実際、彼の糞便イメージはほとんど並ぶものがない、と私は思います。モーツァルトの私信類を読む場合には、確かに彼は相手を面白がらせようとしてそうしたのだ、ということを心に止めておくべきでしょう。今日に至るまでドイツ人やオーストリア人がそうであるように、彼は肛門関係のことを口にすることにおおいにユーモアを感じたのです。


p99からp107まではこれでもかこれでもかと出る出るモーツァルトの手紙に出てくるウンチやお尻の表現満載

p106
トーマス・マンはドイツ人の性格を書き表そうと試み、音楽は、「デーモンの世界」ではあるが、ドイツ人の魂の一部をなしている、と主張しました。〜略〜マンは、ファウストは音楽的たらざるべからず、いな[もしファウストという典型的な人物が存在したとすれば]音楽家であったはずだ、と示唆しました。音楽は「計算された秩序であり、同時に混沌を醸成する非合理性である」とマンは書いています。
「カノン」
このような視点において私は、モーツァルトの尾籠猥褻なカノンはドイツ人の国民性の完全なミクロコスモス(小宇宙)とみなされ得る、と強く主張したいのです。


p109
「ゲーテ」は一応いやがった

p113[カント曰く、勤勉、清潔、倹約、秩序

p156
[モーツァルトのプルンピと魔人ハーマン]

(参考)
朝日ジャーナル
1988.10.7  BOOKS
「清潔なドイツ人の心にある糞尿嗜好」 評者 野村 雅一
2009-12-16 | 記事へ |
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2009年11月12日(木)
あこがれ人に踏みつけられし菫花 ゲーテとモーツァルトの心を捉えた菫
牧場にぽつんとはにかんだように人知れずたたずむ一輪の菫、
それはなんとも可愛い菫だった

そこへ羊飼いの乙女が
身も心も軽やかに
ほらすぐそこまで
牧場を歌を口ずさみながら駆けてきた

ああ、菫はふと思う
自然の中で自分が一番美しい花ならば・・・
ああ、ほんの束の間なりとも
この愛しい乙女が私を摘んで
胸に押し付けてくれるだろうに
ああ、たった 
ほんのわずかなあいだにせよ・・・

ああ、その娘はついにやって来た。なのに、ああ、
その菫にはおかまいなしに
そしてなんと、その哀れな菫を踏みつけてしまった。
埋もれ息絶える。でも私は嬉しい・・・
そんな風に死ぬのだから 
愛しい愛しい人の足にかかって

なんてかわいそうな菫!
それは、ほんとうに愛らしい菫だった。 訳どれみ


                愛のニオイスミレ
                  香り放ち清潔な姿   
                           くらしのガーデニング 藤岡 作太郎
世界的にも日本はスミレが多いことで知られているが、芳香のあるスミレは少ない。ニオイスミレはヨーロッパ原産で、英名はスイート・バイオレットとして親しまれている。
 こぼれ日の木陰で清潔な姿で咲くバイオレットに魅了されたゲーテは、せめてかわいい羊飼いの少女に摘ませてあげたいという思いを詩につづり、モーツァルトが作曲した名曲のスミレがこのバイオレットである。また宝塚歌劇の心を歌った名曲の「スミレの花咲くころ 初めて君を知りぬ」もこのバイオレットがふさわしい。
 スミレの仲間は世界中で約五百種で、その中、日本には約五十種が自生して、花姿にかけては追随を許さないが、残念なことに、やや香りに乏しい。この点ニオイスミレ=バイオレットは香水の原料としてもヨーロッパで使われたり、花はハーブとしてサラダにして食されている。日常的な宿根草だけに、ガーデニングでも重宝な植物である。

   〜略〜
 
バイオレットは「愛」と「誠実」の象徴で、西洋では強い人気がある。
2009-11-12 | 記事へ |
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2009年08月17日(月)
クリストーフォリのpiano発明を始めて報じたのはマフェイでイタリアのジャーナル
マフェイ(Scipione Maffei)は、

1709年にバルトロメーオ クリストーフォリ(Bartolomeo Cristofori)にインタビューし、

そのことは、1711年にGiornale de'letterati d'Italia,vol.D(Venice,1711),
pp.144-59に掲載されました。

*マフェイがクリストーフォリにインタビューした年、1709年に、初めての週刊誌が誕生したそうです。

近代文化史 2
エーゴン・フリーデル 宮下啓三訳
みすず書房

断末魔のバロックp160〜161
      週刊誌 
目ざめつつある市民階級にとってもっとも重要な文学的事件は、しかしながら、イギリスにおける週刊誌の発生だった。1709年にスティールが、彼のもっともよき協力者であるアディソンとともに『タトラー』を創刊した。1711年には『スペクテイター』、1713年に『ガーディアン』がこれにつづいた。


2009-08-17 | 記事へ |
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2009年07月30日(木)
クリス-トォリ,ヘンデル、スカルラッティ、モーツァルト、ベートーヴェンの引越し
フォルテピアノ・ヤマモトコレクション所蔵のピアノ達が現役で活躍していた頃、人々は気軽にヨーロッパ内外を行き来している。
このことに着目していたら、良い文章にめぐりあえました。

     ツヴァイク全集12
   
     精神による治療
     
    佐々木斐夫、高橋義夫、中山誠訳  みすず書房
                      ISBN4-622-00012-1
  フランツ・アントン・メスメル

p.76      パリ
 
18世紀という世紀はものごとを世界的な立場から考え生活し

ていた時代である。まだヨーロッパの科学や芸術の世界が一つの大き

な家族社会であることを示しており、精神的な人間の間ではまだ今日

見られるような国家と国家との間の偏狭な対立意識など問題となって

いなかった時代である。芸術家も学者も、音楽家も哲学者も当時は、

その居住地を変えることで祖国からいかなる制約をもうけておらず、

自分たちの才能や使命を充分に発揮することができる所ならどこでも

気楽に我が家としている。相手がどんな国や民族や貴族であろうと、

彼らはよい友人として振舞っている。・・・・・略・・・・・
2009-07-30 | 記事へ |
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2009年06月25日(木)
ベートーヴェンとコーヒー豆のこと
ドイツ文化と人間像 
       相良守峰 著   三修社
p210
〜略〜
特にコーヒーについては独特の好みがあって、自分の家でコーヒーを入れる時は必ず六十粒を一杯分ときめていたと言います。自分で丹念に六十粒をかぞえる。かぞえ違いがないかと心配になって、もう一度かぞえ直すという念の入れ方だったそうです。このことは、ベートーヴェンの晩年に十何年かの間親しくしていて、ベートーヴェンの相談役や秘書役のような位置にあったアントン・シントラーという人が『ベートーヴェンの生涯』という伝記に書いてあるから本当のことでしょう。
2009-06-25 | 記事へ |
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ゲーテとベートーヴェンに関する逸話やエピソード
ドイツ文化と人間像 
       相良守峯著    三修社

p193
 ゲーテとベートーヴェン 
 〜略〜

p194〜5
  略〜
  
・・・・ゲーテとベートーヴェン(ドイツ人はベートホーフェンと発音します)のお話をするつもりなのですが、ゲーテとベートーヴェンがどういう時代に出会ったか・・・・略・・・・
 1812年、というと、ゲーテの住んでいたヴァイマルやエルフルト附近はフランス軍に占領されていた時代です。が、六十三歳になるゲーテは戦争の危険を避けるためと、健康を養う為にこの年の夏は数週間、ボヘミア(今のチェコ)のカールスバートという温泉地に滞在して保養していましたが、やはり保養の為テプリッツという、カールスバートから近い温泉地に来ていたゲーテの主君、ヴァイマルの侯爵カール・アウグストに呼ばれて、この一八一二年の九月の始めにゲーテもテプリッツに移っています。ゲーテとベートーヴェン、すなわちこの世界的な文豪と世界的な音楽家とは、このとき初めて会見をしたのです。

      〜略〜
p197
・・・・・・「題名のない音楽会」という番組があります。・・・略・・・ある晩この番組で「ベートヴェン」という題でやったことがあるのですが、・・・・一人の浪花節語りが、むろん和服姿で三味線をひきながらベートーヴェンのことを浪花節で語った。・・・略・・・私が愉快だったというのはこの浪花節のことなんです。

  
      〜略〜
p198
・・・・・「ゲーテの旦那、いま通ったお偉い人たち、それや身分は高いかも知れねえが、ほんとうは旦那の方がずっと偉いんだろう。それなのにどうして旦那があんなにペコペコするんですかい」というふんに抗議を申し込むと、ゲーテの方は、「だがね、お前さん、世の中には身分によってそれぞれきまりというものがあらあな。きまった礼儀作法、それは守らなくっちゃいけねえよ。」


      〜略〜
p199
・・・・・ゲーテとベートーヴェンがまるで違う思想を持っていたことがお分かりになると思います。ベートーヴェンは平民的な考えの人で、政治的にはメッテルニヒの反動政治の下においても共和制を理想としました。・・・・略・・・・
しかしながらベートーヴェンは何物よりも自由を尊び、束縛をきらいましたから、国家や皇帝の権威によっても自由を奪われることには甘んじませんでした。
2009-06-25 | 記事へ |
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2009年06月07日(日)
ベートーべンは大のコーヒー好き=ウィーンのカフェは文化工房
ウィーンのカフェDas Wiener Kaffeehaus
平田 達治著  
大修館書店 ISBN 4-469-21200-8


T ハプスブルクの都に花開いた文化工房
p.8
■最良の教養の場―ツヴァイク

 p.63
■新聞も百科事典もある情報の宝庫

U ウィーン・カフェ誕生の伝説と真実
V ウィーン文化を支えたカフェ探訪
  
10 ウィーンカフェと音楽家
p.158

■ベートーベンは大のコーヒー好き
 ―略― 
グリルパルツァーとも知り合いで、一八〇八年には一時郊外デーブリング地区(現在の一九区)のグリンツリング通り六四番地の同じ家に住む隣人同士でもあったベートーベンもなかなかのコーヒー好きであったようだ。
 
 ―略―
彼にとってコーヒーは欠かすことのできない食品で、来客があったりすると、自分で豆を挽き湯を沸かして、好みのコーヒーを作ったという。豆六十粒をもってコーヒー一杯分とするのが常だったと伝えられるが、楽聖のこの処方で美味しいコーヒーが得られるか否か、
・・・・略・・・
p.159
彼の行く付けのカフェとしてはカフェ・クラーマー、グラーベン街の中央、ハプスブルガー通りの角にあったカフェ・タローニなどの名が伝わっている。
  ・・・略・・・

p.160
・・・略・・・
ベートーベンは一八一四年に当時プラーターにあった「第一カフェ館」で自作のピアノ曲、変ロ長調三重奏曲をシュパンツィクやリンケと一緒に演奏したが、すでに耳を患っていた楽聖が聴衆の前でピアノ演奏をしたのはこのときが最後だったとされている。


・・・略・・・
ベートーベンの四重奏曲の演奏に身を捧げたヴァイオリニストのヨーゼフ・ベームは、最初このカフェの、楽聖のいる前で弦楽四重奏曲一二七番を二度演奏し、それが認められて世に出ることができたのだが、耳が聞こえなかったベートーベンは、このとき弓の動きを注意深く目で追い、どんな小さなミスも見逃さなかったという。

・・・略・・・

p.163
■シューベルトとその仲間たち


  
    







2009-06-07 | 記事へ |
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2008年12月21日(日)
ドナウ河の源流フュルステンベルクとモーツァルト、ハイドン、リスト        
加藤昌彦著 
ドナウ河紀行 ―東欧・中欧の歴史と文化―
岩波新書 189 
p3 
1 シュヴァルツヴァルトの森から[ドイツ]
源流争い

ドナウ河は、南ドイツのシュヴァルツヴァルトから流れる。

―略―

この森林地帯の東斜面、南の端に、ドナウエッシンゲンという人口
二万そこそこの田舎町がある。

―略―

町の中央に、フュルステンベルク・シュロスと呼ばれる小さな宮殿が立っている。この地方の領主であった貴族のフュルステンベルク候の居城である。ドイツ・オーストリアならとくにめずらしくもない建物だ。この館の庭―そこにドナウの源流がある。

p4
 庭園を飾るネオ・バロック様式の手すりから階段を下りると、真ん中に円形プール状の小さな人工の池がある。底からはこんこんと水が湧き出ている。これが「シュロッス・クヴェレ」(館の泉)といわれて、ドナウの源とされてきた由緒ある泉である。

―略―

 ところでこのドナウエッシンゲンという町は、今世紀の初めまでは、領主のフュルステンベルク候の館がある以外は、なんの変哲もない田舎町にすぎなかった。フュルステンベルク候は、ドイツの貴族の中でも最も古い家系の一つで、一三世紀にこのドナウエッシンゲンの近くにあった城塞の名前をとってフュルステンベルク≠ニ名乗った。オーストリアのハプスブルク家とも婚姻を結んでいる。一四八八年以来ドナウエッシンゲンを領有してきたが、一七二二年にここに館を建て居城とした。もちろん当時はまだ村落で、付近は王侯貴族お好みの狩り場となっていた。

p5
 フェルステンベルク家の人々は代々学問と藝術を愛した。田舎貴族とはいえ、館の中には立派なライブラリーを備えていた。十三万冊ににのぼる蔵書と、五百冊のインキュナブラ(一五百年以前の印刷本)は、今日に貴重な資料として残され、その中にはゲルマンの壮大な民族叙事詩『ニーベルンゲンの歌』の写本のような、またとない文化財も含まれている。館の裏手にあるギャラリーには、ドイツ・ルネッサンスの巨匠クラナッハをはじめ、数々の名画のコレクションがある。
 
 このドナウの泉の館には、一七六六年に、当時九歳のモーツァルトが招きを受けてコンサートを行っている。 フュルステンベルク候はこの天才音楽家をねんごろにもてなした。同伴した父親のレオポルドはこの時の模様を、友人に次のように書き送っている。

 『結局私たちは一二日間そこにいたのです。そのうち九日は夕方五時から九時までが音楽でした。・・・・侯爵は私に二四ルイ金貨を下さり、子供たちもそれぞれダイヤの指輪を頂戴しました。私たちが暇乞いするとき、侯爵の目からは涙が流れていました。まもなく私たちも別れぎわに皆泣いてしまいました。侯爵は私に手紙をしばしばよこすようにと仰せられました。こんなわけで私たちの滞在は最高に満足の行くものでしたが、別れもまったく悲しいものでした・・・・」


p6
 
 ハイドンのオラトリオ『天地創造』のドイツにおける初演もここで行われた。ピアノの名人リストもこの館で恂爛たる演奏を披露し、候を感動させている。


 一九二二年以来この町で、世界的に有名な音楽祭が催されるようになったのも、こうしたフュルステンベルク家伝統の芸術愛好の精神と無縁ではないであろう。

 ―略―
2008-12-21 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年09月19日(金)
モーツァルトとクラヴィーアdas Klavier日常ドイツ語でピアノのこと 
「モーツァルトへの旅」  小塩 節 
 TOMO選書 主婦の友社 1978年

p38  父の楽譜帳
   〜略〜
父が七歳のナンナールにクラヴィーアを教え始めたとき、弟は三歳だった。彼は長いことクラヴィーアの前に立ちつくして、姉の練習をおとなしく聴いていたが、練習の合い間に姉が席を立つとクラヴィーアのところに近づき、小さな手を鍵盤にのせ、三度の和音をさがして、うっとりと聞きほれた。そしてそれをいつまでも鳴らして諧音を楽しんでいることが良くあった。こうして彼の音楽へのめざめはクラヴィーアに始まり、作曲もメヌエットなどクラヴィーアの小曲から始まった。後半生では彼はクラヴィーア演奏家・作曲家として活躍し、それで生計を立てた。
   〜略〜
モーツァルトが使い、作曲に予想したのは、今のピアノとはちがう十八世紀の、それもまさにモーツァルトの時代ニ、三十年間のクラヴィーアだった。挿絵を見るとわかるように横幅も音の幅も狭く、ペダルもない。やさしい音を出す鍵盤楽器だった。

p39
彼は幼少のころはチェンバロを使った。英語でハープシコードというものだ。フランス語でクラヴサンと言う。その後用いたのは主にシュペートなどのクラヴィーアである。さらにはアウクスブルクの製造家シュタインのつくったハンマー・フリューゲル、そしてさらに後年には、ウィーンの楽器製作者アントーン・ヴァルターのものやバウアー製のクラヴィーアであった。
 これらはバロック時代のチェンバロやクラヴィコルドとはちがうものだった。ザルツブルクの生家には、現在いくつかのクラヴィーアが展示されている。それはベートーヴェンとその後の音楽家たちが使ったピアノ・フォルテとも異なっている。ピアノは一八〇〇年ごろ、モーツァルトが死んだのちに今のものに近い形がつくられ、一八五〇年ごろに定着したと言われる。現在の日常ドイツ語では、ピアノをもクラヴィーアと言うのでまぎらわしいが、歴史的記事の訳出にあたっては注意する必要がある。なお、クラフィーアと読む人がいるが、ラテン語からきたこのKlavierのVは濁って発音するからクラヴィーアでなくてはいけない。

p40
ともあれ、こういう楽器を使い、作曲に予想したモーツァルトのいわゆる「ピアノ」曲を、ベートーヴェン以降のピアノと同じ地平で扱ってはならない。モーツァルトが使ったハンマーフリューゲル、それからフランクフルトのゲーテの生家で私が弾かせてもらった、少年ゲーテや妹のコルネーリアの弾いた小さなクラヴィーアの音は、むろん音量は限られているが、なんと言ったらいいだろう、やさしくてすんなりとしまった音を立てて鳴る。
 〜略〜
2008-09-19 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年07月30日(水)
スカルラッティは、フィレンツェで新発明のクリストーフォリのピアノに遭遇したか?
1702年頃 フェルディナンド候に招かれて、息子と共に4ヶ月もフィレンツェに滞在したドメニコ・スカルラッティのことが簡潔に紹介されていますので、紹介しましょう。

An illustrated
History of Music T
マルク・パンシェルル著
皆川達夫監修・訳
音楽の歴史
ISBN4−89194-001-8 c1073

P.111
マドリッドのチェンバロ奏者
スカルラッティ
 
1685年、バッハ、ヘンデルと同じ年にナポリに生まれたドメニコ・スカルラッティDomenico Scarlattiは、ヨーロッパ中を旅した後、マドリッドでポルトガル王女マデレーナ・バルバラ、後のスペイン女王のチェンバロ奏者として仕えた。彼の器楽作品の大半はマドリッドで作曲され、1757年この地で死んだ。

 若い頃は、オペラと宗教音楽を作曲しており、最近ようやく注目されつつある。ヴァイオリンとバスのための楽曲約10曲、ピアノを意図して作られたと思われる作品約10曲(彼の晩年、女王の各地の館にはこの新しい楽器が合計3台もおかれていた)、それ以外は、すべてチェンバロのための作品で、ソナタは555曲数えられる

 〜略〜

 その奏法は、ときに現代の演奏家さえ困難を覚えるほどのものがあり、形式が固定されているにもかかわらず、主題は独自の発展をとげてゆく。和声は新しく、後の時代の筆写者が多少手を加えたのではないかと思わせる程の、斬新さを蔵している。そうしたすべての手法は、、ひたすら表現のために存在している。それは自由な即興性に満たされ、ときに陽気であり、ときに鋭く皮肉にみちている。ときとしてはある種のメランコリーをふくみ、しかも、スカルラッティはモーツァルトと同様に、自らのひそやかな悲しみを垣間見せるのを恥じるように、急激に調子をかえてしまう。

  〜略〜
2008-07-30 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年06月25日(水)
ピアノの起源 マックス・ウェーバー 音楽社会学からの引用
マックス・ウェーバー 音楽社会学   
訳解  安藤 英治、池宮 英才、 角倉 一朗
創文者 

p231
           二九
 近代に固有の第二の鍵盤楽器たるピアノは、技術的には非常に異なった二つの歴史的起源をもっている。一方にはクラヴィコードClavicord がある。 全西欧世界の合理的音測定の基礎となった初期中世のモノコード≠ヘ、一本の弦と移動する駒を持った楽器であるが、クラヴィコードは、このモノコードの弦を増やしてでき上がったものであって、多分間違いなく修道僧の発明になるものであろう。  〜 略  〜

十四世紀には二十二の全音階の音(hと並んでbも含め、Gからe´まで)を包括るするだけの音域
p232
を持っていたこの楽器は、アグリーコラの時代(十六世紀)にはすでに、Aからh"に及ぶ半音階的音階をもつまでになっていた。この楽器の音はすぐに消えるので、これが装飾的恩恵を生む刺激となり、かくてこの楽器はとりわけ厳密な意味での芸術音楽に使う楽器となっていた。この楽器は、弦の鳴っている部分を区切って沈黙させるタンジェントによって打鍵された。楽器の運命がもはや少数の音楽家や耳のこえた素人達(ディレッタント)の需要によっては決定されず、資本主義的になった楽器生産の市場の諸状況によって決定されるまでになるまでは、この楽器は、ハンマークラヴィーアHammerklavierとの競争に負けることはなかったが、それは、完成の域に達したこの楽器独特の音色の効果、つまりその特徴たる表現豊かな顫音。ebungenのおかげであった。

 ピアノの第二の源は、プサルテリウムPsalteriumに由来するクライヴィシムバル,lavicymbal、クラヴサン,lavecinまたは、チェンバロ,embaloと、これと多くの点で異なったイギリスのヴァージナル〃irginalとである。これらの絃は、それぞれの音に一本ずつあって羽茎で掻き鳴らされたので、強弱や音色を調節する能力はないが、タッチTonanschlagは非常に自由であり、明確であった。前に述べたような短所はクラヴサンとオルガンに共通しており、ひとびとは同様の技術的手段をもってこの短所を匡正しようと努めた。十八世紀に入るまでオルガニストは正規のクラヴィーア製造家であり、したがってまたクラヴィーア作品の創始者でもあった。
    〜 途中 略  〜
p234
 ハンマークラヴィアは、一部はイタリアの土壌の上(クリストーフォリ)、一部はドイツの土壌の上に、種々の段階を経て発展して行った。しかしイタリアにおける諸発明は、最初そこでは実際上ほとんど利用されなかった。
 イタリアの文化は、(実際、近代の戸口に至るまで)北方の音楽文化の室内空間的性格には無縁であった。ア・カペッラ歌唱A-capella-gesangとオペラは、そして特にオペラはそのアリアが、理解し易い、歌い易いメロディーを求める家庭需要を充たすように作られており、市民的な家庭<zーム文化がないという事実によって規定されたイタリア流の理想であった。こういう事情により、ピアノの生産とピアノのそれ以上の技術的発展との中心は、当時音楽的にもっとも良く―つまりこの場合、もっとも広汎に―組織されていた国、すなわちザクセンにおかれていた。
 
2008-06-25 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年05月13日(火)
アルトゥール・シュナーベル わが生涯と音楽 和田丹訳 白水社
シュナーベルの最初のピアノに対する認識は?
p.315
・・・あなたは、ピアノ−《ハンマークラヴィーア》―が、バッハの存命中に発明されたことをご存知でしたか?
最初のものは、イタリアのパドヴァで1710年ころにつくられました。音楽家のなかには、大変に熱狂してこれを歓迎した人もいましたが、その発明者は成功せず、これらの楽器はわずかしかつくられませんでした。バッハは、1726年にドイツで製作された最初のものである、一見しておそまつな模造品をみて、それを不満足に思いました。その生涯の重要な時期に《ハンマークラヴィーア》の発明と存在のことを知り、それを演奏すらしていたことを、きわめて重要だと思います。
*******
 >ヨーロッパでも、最初のピアノに対する認識は、この頃でもまだこの程度だったのですね・・・

その後、
 クリストーフォリピアノの内部構造がX線で初めて明らかになったのは、1990年代に入ってからでした。
 オリジナルのクリストーフォリピアノ、1720年と1726年のオリジナルピアノを調査をした上、1726年のオリジナルから起された図面をもとに、クリストーフォリ・ピアノ1726年モデルの制作を行いました。
2008-05-13 | 記事へ | コメント(0) |
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2008年04月18日(金)
グルダの真実 クルト・ホーフマンとの対話から
フリードリヒ・グルダ著 田辺秀樹訳
洋泉社 ISBN4-89691-131-8
p.218
・・・まったくピアノなしになるなんて、そりゃあ願い下げだね。
そんな生活は、冗談じゃない、おぞましいもいいところさ。



p85
「演奏するときはいつも、命がけという気持ちでやらなければいけない」−−−−

p86
−−−−そう、どの瞬間においても、それが命がけであるかのように弾かなくちゃいけないんだ。これこそが演奏家にとって、最高に大事なことなんであって、俺にとっては、今にいたるまで、この姿勢は自明のものなんだ。


クラヴィコードの発見 
p115
俺にとって、ピアノ以外の楽器のなかで主要なものになった、もうひとつの楽器は、クラヴィコードだった。
〜途中略〜

p116
じっくりそれを眺めてみた。なんてヘンテコな楽器なんだ、
て思ったよ。

〜略〜好きなようにしてみてください」。
そんな会話を交わしているうちに、俺は突然この楽器に魅了され始めたんだ。そうなると、俺のことだから、もうやるっきゃないわけさ。俺はすぐに新品のクラヴィコードを買い込んで、そいつをいじくり始めた。「ようし、遅くともあさってまでには、こいつを完璧に弾けるようになってみせるぞ」って自分に言い聞かせたさ。ピアノの一種なんだから、なんてことないって思ったんだ。
ところが、それはとんだ見当違いだった。最初のうちはガックリすることの連続で、そのうち−ジャズを始めたときと同じょうに−自分がそれについて何もわかっちゃいない、最初から根本的に学ばなくてはダメだ、ってことがはっきりしたんだ。そうなると、負けず嫌いの俺のことだから
−なにしろアメリカの批評家に、「ブルドッグにも似た断固たる姿勢」って書かれたことがあるくらいだからね−こう決心したわけさ−「どれだけ練習しなきゃならないか、どれだけ時間がかかるか、そんなことはどうでもいい。とにかく、クラヴィコードを弾けるようになってやるんだ。
それも、ちゃんと弾けるようになってみせるぞ!」。
2008-04-18 | 記事へ | コメント(0) |
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2007年09月22日(土)
クリストーフォリ・ピアノ(1726年モデル)復元には真鍮弦を張りました
ヴァルター・ベンヤミンが「真鍮工場訪問」を書いていますので一部ご紹介しましょう。 「子どものための文化史」 晶文社

エーバースヴァルデ付近(ベルリン東北約50キロ、温泉地フライエンヴァルデの西に位置する町、フィーノ運河にのぞむ)の真鍮工場のヒルシュ‐クプファに関する記述です。

クリストーフォリがピアノを発明した頃の、真鍮製造に思いをはせて・・・。


 p268〜

まず第一に科学全体があり、物理学と化学が真鍮について僕たちに教えてくれるいっさいがある。真鍮とは何ぞや。 その融点は何度か? その硬度は? 加熱したさいの膨張率は? 比重その他は? これらの問いのうち、ひとつの真鍮工場での技術的な操業にとって重大でないものは、ただのひとつもないのだ。

それともぼくたちは、まったく別の側面から接近することもできる。このような工場は、その製品を立派に売りさばくためには、何を製造しなければならないか、と。 そこで工場生産されるのは何か? 例えばぼくたちは後になって聞くことになるだろうが、ぼくたちがふだん真鍮製の道具として手にするようなものは何ひとつ生産されない。300年まえこの真鍮工場が大選帝侯によって創設されたとき、そこで作ったすべてのものもどれひとつとして。 鍋釜類でも金具類でもなく、照明器具でも食器でもない。 そういったすべてを作るのは専門工場であり、まさにこれらの専門工場に、ヒルシュ‐クプファの真鍮工場がその材料を供給するのである。つまり、ここで作られるのは半製品なのだ。 ありとあらゆる長さ、性状、規格の薄板、帯状板、管、棒、針金なのであり、それらは後に他の金属製品工場や電気工学系企業で次の加工を施されるのである。

それとも、再びもうひとつの問題点から。 すなわち、このように巨大な企業、約二千人の労働者と焼く四百人の職員をその経営内に抱える大企業は、いかにして生まれるのか? もちろん一朝一夕にしてではない。 しかもこの真鍮工場のヒルシュ・クプファは、ヨーロッパに現存する最大の真鍮工場であると同時に、もっとも古い企業のひとつである。 それは、1697年までさかのぼる。この工場の成立の事情を語ることは、もうひとつの独立した問題であろう。 ・・・・・・

真鍮とは何だろう? 真鍮とは銅と亜鉛の合金である。 化合と合金のあいだの区別については君たちの多くがきっと知っているだろう。 科学的に化合できるのは、二個の元素がいつもその原子量に従ったある方法においてのみである。このことをきみたちは学校でドルトンの法則として学んでいる。 合金にできるのは物理学的な方法で、ひじょうにさまざまの割合での融解によってである。 真鍮における銅と亜鉛の平均比率は、薄板では63対37、棒ではCu58対Zn42である。さまざまな種類の真鍮があり、だからそれぞれの炉―全部で23の炉―のなかで各種各様のものが鋳造される。 どういう種類の真鍮かは、ちょうど来ている注文に従うわけである。

ところで、単純に銅と亜鉛が特定の比率で計算されて炉の中に投入される、というようなものではない。 かりにそういう処置がされたとしたら、ひじょうに質の悪い不均一な真鍮が出来てくるだろう。 つまり、亜鉛は約600度で溶け、銅は約1100度ではじめて溶けるのだ。 固体の銅の部分が長いあいだ液状の亜鉛のなかに漂流して、その銅自体がようやく溶け出したら、ただ不均等に亜鉛のなかに溶けてゆくだろう。 それゆえに、言わば媒介的な、均一化するような塊が、すなわち古い真鍮くずが添加されるのである。 それらは約900度で融解し、そしてこういう方法で融解過程を持続化する。このような鋳造物が重さ30キロ以上に達しえなかったのは、まだそんな昔のことではない。 だが1920年この真鍮工場で運転が開始された新しい炉では、600キログラムまでの鋳塊が生産されている。・・・・・・・

この真鍮工場は、いまでは時代遅れになったフィーノ運河と、新しい近代的なホーエンツェレルン運河がなければ、現在ある姿になることはできなかったろう。・・・・

(フィーノ運河 ベルリン西辺のハーフェル川と東の大河オーダーを結ぶ古い運河の一部で、17世紀初めブランデンブルク選帝侯ヨーアヒム・フリードリヒ(1546−1608)に開かれたもの。 なお、本文にあるとおりエーバースヴェアルデ=フィーノの製銅を始めたのも彼である。

W・ベンヤミン (1892‐1940)
1892年ベルリンのユダヤ人の富豪の家に生まれる。ベルリン大、フライブルク大で哲学を専攻。33年パリに亡命、40年パリ陥落のためスペインに向かう途中服毒自殺。

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