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2009年08月16日(日)
経営学は文系か理系か?
←スタンフォード大フーバータワー(あとで削除します)

太田ブログ(太田述正コラム#3464(2009.8.16)http://amigo.mail.goo.ne.jp/goomail/index.ghtml?view=mail_read&msg_id=1250404313.66667.079&sort=date&order=desc&fid=1)で、太田氏がスタンフォード大でMBAを取得したことに関して、2チャンネラーから、「文系の人たちが仮説に過ぎない理論を妄信してしまう危険性を有している」との批判に、MBAが実質理系であると憤慨されていた。本件に関し太田氏の過去ログ(以下)でも、言及がなされている。

(転載はじめ)
その後留学してみて、経営学も、必修科目たる会計学、経済学、統計学、意志決定理論、コンピューター・プログラミング、マーケティング、組織論のうち、最後の二つを除いてすべてが理系・・ただしマーケティングも方法論の部分は理系・・であることを発見し、スタンフォードビジネススクールで大苦戦することになります。
(太田述正コラム#2501(2008.4.22)http://blog.ohtan.net/archives/51188315.html)より
(転載おわり)

太田氏のように、理系的?学問に翻弄されたMBA履修経験者からすれば、MBAを単純に文系の範疇で認知されることは憤懣やる方ないだろう。さて格好よく裁く能力もつもりもないので、(日本における)文系vs.理系の不可思議さに愚見を弄してみる。

私も高校以来、文系・理系の言い回しにいつのまにか洗脳されていたが、10代後半に外国人宣教師に英語を習った際に、彼らの意識に文系・理系の対立が(日本人ほどに)ないことに驚いた覚えがある。あるのは学問(science)と文学(literature)といった感じだった。

その時のやりとりで覚えているのが、言語学(linguisitics)を専攻している宣教師(semester missionary)がいて(彼が教師を目指していたのではなかったこともあり)、私がそんな意味のない?(理系でもないし)勉強をして何の意味があるのかと噛みついた(柔らかく)時のことである。彼が答えて言うには、いや、linguisticsは、面白いscienceだよと(Linguistics is a interesting science.)。えー!?science=科学→理科系の学問とイメージしていた私は、変な言い方だなあwとしか、その時思わなかった。

話が長くなりそうなので、少し飛ばすが、後年、副島隆彦氏の以下の説明に出くわした時に、当時のもやもやした疑問が雲散霧消した(ほどでもないが)。当時感じた宣教師の学問(science)と文学(literature)の分類感覚とピタッと符合したのである(と今、知ったかぶりでこじつける)。

(転載はじめ)
・・・世界普遍的価値に基づけば、14世紀にヨーロッパで成立した大学は、神学、法学、医学、哲学の4つの学部からできており、哲学それ自身は、もともとは神学の下女あるいははした女としての位置付けであったが、哲学を基に、日本語でいう科学は発展したのであって、その内容は「物理的な自然、自然法則、人間社会についての諸事実を観察と検証によって人間が獲得する体系化した知識のこと」で、科学と学問とは同義であり、したがって、自然科学と社会科学の区別は存在せず、また、文学は厳密には学問ではなく、学問を始める前の準備として初等ないし下級学問(リベラル・アーツ)の意味しか有しないことを指摘し、理系と文系を分け、文学部哲学科、人文科学部なる意味不明なものを擁する日本の大学制度を批判している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%AF%E5%B3%B6%E9%9A%86%E5%BD%A6#cite_note-5より
(転載おわり)

ただ、公平にいえば、当時の宣教師とのやりとりの中で、いわゆる物理、科学、工学系の教科と、(理系的?といわれる)経済学、心理学、・・・の間に垣根がある感覚もあることも分かった(根拠は詳しくは忘却したが、この感覚のみ残存)。が決して日本における文系・理系の類ではない。少なくとも、英語のnatural scienceとsocial scienceの分類感覚と、我々の文系・理系の分類感覚が明らかに異なるのである。冒頭の2チャンネラーの指摘は、文系vs.理系の文脈で処理されるべきでなく、単にMBAの教育のあり方という枠組みでの解決が求められるべきということに過ぎない。
2009-08-16 22:06 | 記事へ |
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2008年03月09日(日)
いわゆる自己実現について
戦後は個人の諸権利が拡大した。特に自意識が肥大化したことは自由な雰囲気がなせるわざであったといえるかもしれない。それはそれでよかったことでもあったのであろう。しかしいわゆる自己実現の思想を全国民が認知したことが、あにはからんや社会の秩序の破壊に決定的打撃を与えた。自己実現を求める態度と対蹠的なのは運命に生きるという思想である。かっては、それぞれが生まれたところで、可能な範囲での生の充実化を図った上で、家庭や集団の秩序のために例えば、女性が犠牲になった面があった。家父長制における長男の嫁はそのような例である。21世紀の現代社会はその反動ぶりが凄まじく、運命に生きるという言葉も全く想起されない社会に成り果ててしまった。社会の維持のためには、相対的な意味からしても誰かが犠牲的精神を発揮しなければならない。それは社会の鉄則、あるいは不文律と表現してもよい。このことには真の美しさの発露がある。”何で私がそんなことをしなければならないのか?What about my right?”とか声高に叫ぶ現代の諸氏には、その美しさの意味は生涯を通じて理解できないことであろう。
2008-03-09 20:27 | 記事へ | コメント(0) |
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