ニックネーム:Kaze
性別:50半ばを過ぎた、おっちゃんです(^_^;)
都道府県:大阪府

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2011年07月02日(土)
bokuhakaze2開設しました(*^-^*)
ブログ容量がいっぱいなりましたので
「bokuhakaze2」を開設しました。
これからは、こちらにお越し下さい
http://blog.zaq.ne.jp/bokuhakaze2/
2011年7月2日 21時28分 | 記事へ | コメント(4) |
| 日々の中で |
2011年06月26日(日)
ニーチェ
昨日も今日も仕事で出かけることが出来なかった…
今日は、外仕事
最近、山歩が出来ないのは、仕事が忙しいこともあるのですが
血圧の薬が増えたことで、薬に体が慣れていないみたい…
と言うのも、服薬して30分ほどすると胸が痛くなる…
今日も急いで荷物を運びたかったのですが、胸が痛くて息苦しくなり走らなくても汗が噴き出ていました
で、最近は山歩よりもお寺巡りになっています(^_^;
そんな日々なんで、本の紹介です
前から読みたいと思っていたのがニーチェの『ツァラトゥストラ』
そのきっかけを作ってくれたのが、ETVの「100分 de 名著」です
西研さんの解説を聞いていてニーチェに対する敷居が低くなったような…(^_-)
番組を見られなかった方は、まず、番組のホームページにアスクセスしてみてください。
さらに『100分de名著「ツァラトゥストラ」』(NHK出版)を読むと、比喩が多く難解な『ツァラトゥストラ』でニーチェが何を伝えたかったのかが分かります。
・第一回「ルサンチマンを克服せよ」
・第二回「神の死≠ゥら超人≠ヨ」
・第三回「永遠回帰とは何か?」
・第四回「現代に超人≠ヘ可能か?」
と四回(四章)にまとめられています。
西研さんはニーチェの思想をあえて一言でいうならば、
「固定的な真理や価値はいらない。君自身が価値を創造していかなくちゃいけない」(P7)と紹介しています。
ニーチェと言えば「神は死んだ」をすぐ思い出すのですが、これはキリスト教ばかりでなくあらゆる宗教に向けた言葉でもあるのですね。
「これまでのキリスト教やバラモン教や仏教の背後にある意志は、疲労して休もうとする意志、何も創造せずひたすら安楽になろうとする意志にすぎない、というのです。
さらに別の断片で、民主主義や社会主義に対しても、創造性をめざすのではなく「安楽状態」をつくろうとしている点で、それらはキリスト教と同じ穴のムジナだとニーチェはいいます。」(P48)
西さんは、ただニーチェを無批判に紹介しているのではありません。
「ニーチェのいう超人が、孤独に一人がんばる、イメージを伴っていることが気になるのです」(P53)
と、語り、西さんのゼミ生だった視覚障碍の学生の話が紹介されていました。
そして「頼らないのが自立ではなく、助力が必要ならばそれをきちんと他人に伝えられることが自立なのです」(P55~56)と、語っています。
「永遠回帰」について、1980年代初頭に西さんが二十代で出会った「骨形成不全症」という病気を抱えた女性が紹介されています。
Kさんのことを振り返り
「障害だけを見ればたしかにマイナスだ。でも、この障害とともに自分の人生はあった。苦しみもあったけれど悦びもあった。障害のおかげで、他の障害者や健常者の友だちに出会えた。素敵な出会いがたくさんあった。この人生全体を私は愛す」と彼女は心から思っていたのかもしれません。(P72)
と振り返っています。
番組の質問コーナーがあって、読んでいるとなるほどと思いました)

この番組を見た後、手にしたのが『ツァラトゥストラ』(上下)ニーチェ/丘沢静也訳/光文社古典新訳文庫です。この本を選んだのは、訳が新しい(上巻が「2010年11月20日」、下巻が「2011年1月20日」)
訳注がなく読みやすそうだったからです。

その後、気になっていた本を昨日購入。
「漱石の『猫』とニーチェ
稀代の哲学者に震撼した近代日本の知性たち」
杉田弘子/白水社(2010年2月)です。これから読むのですが、目次から近代日本の知性としてあげられている主な人物は
第一章高山樗牛、第二章夏目漱石、第三章新渡戸稲造、第四章夏目漱石門下生(安部能成、和辻哲郎、阿部次郎など)、第五章萩原朔太郎、第六章芥川龍之介
これから読むのですが、第二章から読もうかなと思っています
「あとがき」を読んで『ツァラトゥストラ』を岩波文庫の氷上英廣訳でも読んでみたいなと思いました(本屋さんで丘沢訳と氷上訳のどちらにしようかなと迷ったのですが、新しいということで丘沢訳を選んでいます)

ニーチェの言葉を読みながら思いだしたのは小学校時代の恩師からいただいた言葉です。

あたえられた運命は
甘受して、
しかる後に、その運命と、
ガップリ四つに取り組む。

そして
花の春、実りの秋など、
そんなことは考えないで
ただ、現在の
この一瞬、一瞬を、
額に汗し
掌に汗して、
頑張る。

そして、やがては、
その運命を、
開拓し、征服して、
おのが人生を創造していく。

追記)このブログも今回のアップでblog容量がなくなりました。
次回からは、「bokuhakaze2」にアップしますのでよろしくお願いします
アドレスは後日、報告します(^_^;
2011年6月26日 20時40分 | 記事へ | コメント(12) |
| 読書 |
2011年06月20日(月)
妙心寺東林院
記事の順番を入れ替えました
土日、仕事で出かけられなかったので
休みをもらったのですが…
で、京都にやって来ました(*^-^*)
アジサイが満開でした(*^-^*)
小さなお寺なんですが…
平日で雨なのに参拝者がいっぱい
お抹茶と
花をイメージしたお菓子をいただきました
カメラの設定がモノクロになっていました(^_^;
樹齢300年の名木は枯れていますが…

雨で苔が美しい(*^-^*)

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹(しゃらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)のことわりをあらはす。奢(おご)れる人も久(ひさ)しからず、唯(ただ)春の夜の夢のごとし。たけき者も遂(つい)にはほろびぬ、偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ…
(『平家物語(一)』岩波文庫より)

ナツツバキが見頃です(*^-^*)

花のささやき
沙羅双樹は、お釈迦さまが入定された時、いっせいに花開き、その死を悲しんだといわれ、仏教とゆかりの深い名木です。
インドと日本の沙羅双樹は種類が違いますが、『平家物語』にうたわれた沙羅双樹は日本の木がイメージされたもののようです。
朝に咲き夕べには散りゆく一日花≠フ姿が、人の世の常ならぬことをよく象徴しています。
形あるものは必ずこわれて行く。形美しきもの永遠に保てず
お釈迦さまは「今日なすべきことを明日に延ばさず、確かにしていくことがよき一日を生きる道である」と教えになっています。
沙羅の花は一日だけの生命を悲しんでいるのではなく、与えられた一日だけの生命を精一杯咲きつくしています。
人間の生命にはいつかは限りが来ます。
そこから「生かされている人生をどう生きるか。今日を無駄にはできない」、つまり「今は今しかない。二度とめぐり来ない今日一日を大切に、悔いなき人生を送らねば……」という気持ちがわいてこないでしょうか。
この仏縁深き花のもとで、静かに座って自分を見つめ、生きる≠アとについて考えてみてください。

 佛さへ 身まかりませし花の色
   見ていま沙羅に おもえ諸人
  山田無文老大師御作
(東林院パンフレットより)



東林院(とうりんいん/沙羅双樹の寺)
享禄4(1531)年,細川氏綱(うじつな)が父,高国の菩提を弔うために建立した三友院に始まる。のち、戦国武将で連歌の第一人者と言われ、秀吉、家康の二代にわたって重用された山名豊国が東林院と寺号を改めて妙心寺に移し、妙心寺五十一世、直指和尚を開祖として弘治二年(1558)に再建された。以来山名家の菩提寺になっている。
(東林院の説明板にネットで検索した記事を付け加えています)
2011年6月20日 21時00分 | 記事へ | コメント(6) |
| 散歩 / 巡礼 / 京都 |
法堂〜双ガ丘
東林院の後、妙心寺で訪ねたかったのは春光院なんですが、非公開です
外国の方には、座禅体験と「当寺院ではキリスト教系の学校機関のみへの修学旅行や校外学習の受け入れ」をしています。
と言うのは、国の重要文化財である「南蛮寺の鐘」や狩野永岳による金襖絵、他の隠れキリシタンゆかりの美術品を所蔵しています。
で、法堂(はっとう)で鏡天井に8年の年月を費やして描かれた狩野探幽の筆による雲龍図を拝観しました(撮影禁止)。見る角度によって龍の顔や動きがかわりダイナミックで、おもしろかったですよ
法堂の後に、妙心寺で見たかった「浴室」
蒸し風呂です
明智光秀の叔父、密宗和尚が光秀の追善菩提のために建立したとされています。はじめは小規模のものだったようです。
体を洗った湯を流せるように板の間が真ん中に少し傾いています。

風呂の裏側になります。
次に向かったのが「長泉寺」
記事を書くために検索して分かったのですが、非公開のお寺みたいです(^^ゞ
そうとは知らず、中に入ってしまいました…
参拝する場合は事前に同寺へ問い合わせをしてください。
電話番号は下記の記事に載っています
(「ふるさと昔語り(43)仁和寺の法師(京都市右京区)」京都新聞2007年2月16日掲載)

はじめ、どこにあるのかは分かりませんでした…
ぐるっと墓所を回って気がつきました。
『徒然草』には、『平家物語』成立について書かれています。その一部を島内裕子さんの訳で紹介します。

【第二百二十六段】
(略)この行長入道は、『平家物語』を作って、盲目の生仏(しょうぶつ)という人物に、詞章を教えて語らせた。
お世話になった比叡山関係のことが、特に好意的に書いてある。
源義経のことは、詳しく知っていて、書き載せた。
その兄の源範頼(のりより)のことはよく知らなかったのだろうか、多くのことを書き漏らしている。
武士のことや武芸のことは、生仏が東国の出身だったので、武士たちに直接に質問し、それを行長に教えて書かせた。
その生仏の生まれつきの声を、今の世の琵琶法師は真似て、語っているのである。
(『徒然草』島内裕子/校訂・訳/ちくま学芸文庫)
兼好法師の墓は、赤矢印の生垣の中です。
民家の間の路地を上がっていくと
雙ケ岡(双ケ丘/ならびがおか)の入口にです。
なんとイノシシの注意書き(^_^;)
丘の頂上への道はいくつもあったのですが、舗装された道を選ばずに

右大臣贈正二位清原真人夏野公墓の石碑
財団法人京都市埋蔵文化財研究所」発行のリーフレット(No.268 2011年4月)が参考になると思います。
そのリーフレットから一部紹介します。
この双ヶ岡には、古墳時代後期の6世紀後半から7世紀前半に築かれた24 基の古墳があって、「双ヶ岡古墳群」と呼ばれています。
1号墳は直径44m・高さ8m の円墳です。埋葬施設として横穴式石室を備えていますが、その入口は南西、つまり嵯峨野の方向に向けられています。
同じ太秦地域にある、巨大な石室で有名な蛇塚(へびづか)古墳にも遜色ない大きさの石室です。
1号墳の墳丘の南東部には明治45 年(1912)に建てられた「右大臣贈正二位清原真人夏野公墓」と刻まれた立派な石碑があります。
平安時代初期の貴族で、双ヶ岡の南東裾に山荘(後の法金剛院)を構え、右大臣までのぼり詰めた清原夏野(きよはらなつの)延暦元年〜承和4年(782〜837)の墓と顕彰されたこともあったようです。
双ヶ岡の南西は葛野(かどの)秦氏の本拠地・太秦です。集落遺跡である村ノ内町遺跡や常盤仲之町遺跡、群集墳である常盤東ノ町古墳群など古墳時代後期の遺跡密集地であり、飛鳥時代には広隆寺(蜂岡寺)が建立されます。1号墳は出土遺物などから6世紀後半に双ヶ岡に最初に造られたもので、周辺の古墳にくらべて墳丘や石室の規模が秀でた立派なもので、首長の墓と考えられます。これらの地域が一望できる双ヶ岡一の丘に築かれていることも、それを裏付けています。
太秦を本拠とした秦氏の長の墓と考えて良いでしょう。
一の丘(標高116m)頂上に着くと見晴らしがいい
『徒然草』によく登場する仁和寺が眼下に見えます(^u^)
一の丘だけで仁和寺を目指すことにしました
2011年6月20日 20時48分 | 記事へ | コメント(0) |
| 散歩 / 巡礼 / 京都 |
仁和寺
遅めの昼食をカレーにしました。
歩き疲れた体に元気がでる(^_-)
仁和寺(にんなじ)二王門
真言宗御室派の総本山で、平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。
平安時代前期に光孝(こうこう)天皇が創建に着手した後、仁和4年(888)に宇多天皇が完成させ、仁和寺と名付けた。
宇多天皇は退位の後、出家して、仁和寺内に僧坊を営み、三十余年間修行に専心したため、法皇が御座する室(僧坊)ということから、「御室」が後に仁和寺周辺の地名となった。
以後、明治維新まで約千年間、皇子皇孫が門跡として法燈(ほうとう)を伝えたが、その間、応仁の乱の戦火で全伽藍を焼失し、双岡(ならびがおか)西麓に仮御所を設けた時期もあった。
現在の伽藍は、江戸時代初期に徳川家光の協力を得て再建されたもので、御所の紫宸(ししん)殿を移した金堂(国宝)をはじめ、御影堂(みえどう)・観音堂・鐘楼・五重塔・経蔵・二王門(いずれも重要文化財)などは当時の建物である。
仁和寺境内は仁和寺御所跡として史跡に指定されている。
西門から成就山(じょうじゅざん)の麓にかけて、四国の八十八カ所霊場を縮小した「御室八十八カ所巡りの霊場」があり、中門の左手には、遅咲きの桜の名所として有名な「御室桜」(名勝)が見られる。
(京都市の案内板より)

金剛力士
ハトよけの網がないのがうれしい
御殿を拝観しました。

南庭



売店そばに織部灯籠がありました。
松田毅一氏は、織部灯籠をキリシタン灯籠とすることを否定されていますが、
断定していいのかなと思います。
御室桜
御室桜は、遅咲きの桜として知られているが、その数約200本で、江戸初期にはすでに現在の場所に植えられていたようである。
また江戸中期には観桜の名所としても知られており、丈が低く根元から枝を張る御室桜と、その満開の花を愛でる人々の風景が『都名所図会』にも紹介されている。
大正13年(1924)、国の名勝に指定された。
(仁和寺の説明板より)


五重塔
寛永21年(1644)の建立であり、総高は36.18メートル。
東寺の五重塔と同様に、上層から下層にかけて、各層の幅にあまり差が見られない姿が特徴的である。
初重正面に、大日如来を意味する額が懸けられ、内部には大日如来、その四方にも仏が安置される。
また中央に心柱(しんばしら)を、その心柱を囲むように四本の天柱(てんちゅう)が塔を支えている。
さらに柱や壁面には、仏や真言八祖(はっそ)等が描かれる。
※心柱=仏塔などの中心に立てる柱。
※天柱=天井が落ちないように支える柱。
(説明板より)
国宝金堂
移築/江戸初期 寛永年間(1624〜44)
本尊/阿弥陀三尊
仁和寺の本堂。現在の金堂は慶長年間(1596〜1615)造営の内裏紫宸殿(だいりししんでん)を寛永年間(1624〜44)に移築したもの。
当時の宮殿建築を伝える現存最古の紫宸殿として国宝に指定されている。
堂内には、本尊である阿弥陀三尊像や、四天王像などが安置されている。
※紫宸殿=御所の中心的建物。
※宮殿建築=天皇が使用する建物の総称。
(説明板より)
経蔵(きょうぞう)
建立/江戸初期 寛永(1644)〜正保年間(1644〜48)
寛永〜正保年間の建立。建物は禅宗様で統一される。内部には釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩などを安置し、壁面には菩薩や羅漢などが描かれている。
内部中央には八面体の回転式書架(輪蔵)を設け、各面に96箱、総計768の経箱を備える。
経箱には天台宗の学匠であった天海による『一切経』が収められている。
※禅宗様=鎌倉時代(1192〜1333)、禅宗と共に入って来た宋の建築様式。
※書架=本を並べて置く棚。本棚。建築様式。
(説明板より)
水掛不動尊

御影堂(みえどう)
真言宗の祖師である弘法大師空海、仁和寺開山寛平(かんぴょう)法皇、第二世性信(しょうしん)親王を安置する。
現在の御影堂は、慶長年間(1596〜1615)造営の内裏清涼殿の一部を賜り、寛永年間(1624〜44)に再建されたもの。
蔀戸(しとみど)の金具なども清涼殿のものを利用するが、檜皮葺(ひわだぶき)を用いた外観は、弘法大師が住まう落ち着いた仏堂の印象を与えている。
※清涼殿=内裏の殿舎の一つであり、天皇の日常生活の居所。
(説明板より)
観音堂
建立/江戸初期 寛永18年(1641)〜正保元年(1644)
本尊/千手観音菩薩
現在の建物は寛永18年〜正保元年にかけて建立。
千手観音菩薩を本尊とし、脇侍として不動明王・降三世明王(ごうざんぜみょうおう)、その周りには二十八部衆を安置する。
また須弥壇(しゅみだん)の背後や壁面、柱などには、極彩色で仏・高僧で描かれる。
現在も仁和寺に伝わる法流の相承などに使用される。
※須弥壇=本尊等の仏像を安置するために一段高く設けた場所。須弥山(しゅみせん)に由来する。
二王門の向こうに見えるのは双ガ岡です(*^-^*)

御室仁和寺駅から
帷子ノ辻駅で乗り換えて、嵐電天神川駅から地下鉄に乗り換えました
2011年6月20日 19時26分 | 記事へ | コメント(0) |
| 散歩 / 巡礼 / 京都 |
2011年06月19日(日)
それでも、日本人は「戦争」を選んだ
土曜、日曜日と仕事で出かけることができずにいます(-_-;)
で、一度紹介した本ですが
『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』加藤陽子/朝日出版(2009年7月)
この本は「2009年08月07日(金)」で紹介しているのですが、この頃の空気を感じていると、再読したくなりました。
この本は、加藤陽子東京大学教授が中・高校生17名(歴研メンバー)と日清戦争から太平洋戦争までの選択をいっしょに考え、話し合った5日間の記録です。
中・高生相手ですが、ハイレベルです。でも、分かりやすく、今まで思い込んでいたことが違った視点から見ることで、別の姿を見せてくれる。読んでいて、歴史の面白さ、恐さ、不可解さが深まりますよ。

本屋さんに行きますと、「大嘘」「二度と謝らないための」云々といった刺激的な言葉を書名に冠した近現代史の読み物が積まれているのを目にします。地理的にも歴史的にも日本と関係の深い中国や韓国と日本の関係を論じたものにこのような刺激的な惹句(じゃっく)のものが少なくありません。
しかし、このような本を読み一時的に溜飲を下げても、結局のところ「あの戦争はなんだったのか」式の本に手を伸ばし続けることになりそうです。なぜそうなるかといえば、一つには、そのような本では戦争の実態を抉(えぐ)る「問い」が適切に設定されていないからであり、二つには、そのような本では史料とその史料が含む潜在的な情報すべてに対する公平な解釈がなされていないからです。(「おわりに」より P407)

中学生・高校生対象に戦争の道を進んだ、当時の状況を生徒たちに考えさせていきます。
当時の書評をまだ読めるので
朝日新聞
http://book.asahi.com/news/TKY200908060189.html
毎日新聞
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2009/08/20090816ddm015070002000c.html
2011年6月19日 20時49分 | 記事へ | コメント(0) |
| 読書 |
2011年06月16日(木)
蕪村俳句集
『蕪村俳句集』尾形仂校注/岩波文庫(1989年3月)
高校の担任の先生が古典の担任だったのに
真面目に授業を受けず、古典文法が理解できなかったσ(^_^;が紹介するのは(^^ゞなんですが…
先日、金福寺を訪ねる時に読みました。
古典の素養がないσ(^_^;なのでちゃんとした読み方はできませんが、
蕪村は毛馬村で生まれただけに、俳句に詠まれた場所が身近です。
散歩で訪ねた場所が出てくるのを楽しみに読んでいました。
例えば、先日訪れた芭蕉庵をはじめ京都の芹生、愛宕山、西国三十三ヶ寺の中山寺、亀山、宝積寺、御室仁和寺、鞍馬山などたくさん出てきます。
その中で、歴史のある神社だなと思っていた大原の江文神社(2009年02月28日)を詠んだ句

にしき木の立聞(たちぎき)もなく雑魚寝哉

注釈を読んでいて万葉の頃のような風習が残っていたのかとビックリしました。
また、徒然草に登場する芋頭を好んだ盛親僧都を詠んだ

庵の月 主(あるじ)をとへば 芋掘りに

気に入った俳句というか注釈なくても分かるなと思ったのが

動く葉もなくておそろし夏木立(こだち)

今年は、まさに猛暑となるかもしれませんね

薬喰(くすりぐひ)隣の亭主箸(はし)持参

注釈に「薬喰…寒中の滋養のため獣肉を食うこと」とありました。
蕪村の俳句集を読んでいると当時の人々の生活をうかがうことが出来ます
2011年6月16日 20時12分 | 記事へ | コメント(4) |
| 読書 |
2011年06月12日(日)
一乗寺下り松〜狸谷山不動院
記事の順を入れ替えました(*^_^*)
昨日は仕事、今日は天気予報で午後から
で、叡山電車に乗り「一乗寺」で下車
一乗寺(いちじょうじ)下(さが)り松
ここは、近江(現在の滋賀県)から比叡山を経て京に通じる平安時代からの交通の要衝で、この松は古くからの旅人の目印として植え継がれ、現在の松は四代目に当たる。
江戸時代の初め、この地で、剣客・宮本武蔵が吉岡一門数十人と決闘を行なった伝説が有名で、ここから東に約三百メートルの所にある八大(はちだい)神社の境内に、決闘を見下ろしたという初代の松の古株が保存されている。
武蔵は決闘に向かう途中、同神社で神頼みをすることを思い立ったが、神仏に頼ろうとした自分の弱さに気付き寸前でやめたという話もある。
平安中期から中世にかけ、この辺りにあった一乗寺という天台宗の寺が地名の由来となったが、南北朝の動乱以後に衰えて廃絶した。
傍らの記念碑は、大正十年(1921)に広島県呉の剣士・堀正平氏により建立されたものである。
京都市の説明板より

その八大神社にやってきました。
下り松古木
その後、登っていくと
狸谷山不動院
阪神タイガースの優勝記念の石碑がありましたよ(*^O^*)
お砂踏みがあったので寄ってみました
すると
木食上人の参籠の碑があったので、狸谷山不動院のHPを見ると
「狸谷山縁起
慶長九年(1604)には、剣豪宮本武蔵が、滝に打たれて、修行を続け、己に克つ不動心を感得し、享保三年(1718)には、木食上人正禅が、現内陣で、(洞窟を改修)、17年間参籠し、菩提心の開発に努め、狸谷修験者の先駆となる。」とありました。
階段が長い…

宮本武蔵 修行の滝

水子地蔵尊

本殿です

奥の院に行く道があるのですが、スズメバチを見たら引き返すようにとの注意書きがあり、
水子地蔵尊の前で、今まで見たこともないようなオオスズメバチに出会ったので断念しました
下りていくと登る時に気がついていなかった杉の大木
さらに下りていくと男の子が見せてくれたのが(*^-^*)
おじいちゃんがお孫さんのために

なかなか迫力のある布袋様
この後、詩仙堂、金福寺、廬山寺を巡ったのですが、後日アップします(^_^;
2011年6月12日 22時00分 | 記事へ | コメント(0) |
| 巡礼 / 散歩 / 京都 |
詩仙堂丈山寺
見過ごしてしまいそうな…
なんか顔に見える
詩仙堂丈山寺
「石川丈山(いしかわ じょうざん)は、隷書、漢詩の大家であり、
わが国における煎茶(文人茶)の開祖と言われている。
丈山は、家康に仕え武勲をたてただけでなく、平素から読書に親しみとくに詩を好みました。
三十三歳で隠退後は藤原惺窩(ふじわら せいか)について朱子学をおさめ、駿河清見寺の説心和尚に禅を学び、
五十九歳で詩仙堂を造営し、没するまでの三十余年を、清貧の中に聖賢の教えを自分の勤めとし、
詩や書や作庭に寝食を忘れてこれを楽しんだ風雅な文化人でもありました。
その庭は当時でも代表的な名園でしたが、
後世修理が加わった今でもこの趣をそこなうことなく現代に引き継がれています。」(詩仙堂HPより)
堂内は撮影禁止ですが、お庭はいいとのこと
さつきは遠目にはきれいですが、さかりを過ぎていました…

手前の岩
空を見上げているように見えました
耳に手を当てて何か聞いているのかな(^◇^)
堂内を見た後
お庭の見学





中には入れなかったのですが

この古木には
お顔が付いていました
(見方によっては、横を向いている顔も見えます
2011年6月12日 21時50分 | 記事へ | コメント(2) |
| 巡礼 / 散歩 / 京都 |
本願寺北山別院
路地を歩いて行くと
本願寺北山別院


梵鐘の形が面白かった(*^-^*)

ここに寄ったのは…ぜひ見たかった
扉は閉まっていましたが、鍵がかかっていなかったので、開けさせていただきました(^^ゞ
親鸞聖人は九才の春に出家得度されたと伝えられております。
その後比叡山で数々の厳しい修行をされましたが、悟りの境地には遥かに遠く、自らの力では到底及ばぬ世界であることを知られました。
二十年後の建仁元年(1201)、深い苦悶と焦燥の中で聖徳太子ゆかりの六角堂に百日間通われることになりました。
この地は比叡山と六角堂のおよそ中間にあり、境内に湧出する水で精気を養われたと伝えられています。
この年聖人は比叡山を下りて生涯の師の法然上人に会われ、以後は阿弥陀仏の本願により救われる悦びを深く味わわれた生涯でありました。
(2007年7月記之/北山別院の説明板より)
2010年05月30日(日)に比叡山を登った時に
雲母坂(きらら坂)に「親鸞聖人旧跡」がありました。
http://blog.zaq.ne.jp/bokuhakaze/article/494/
この後、金福寺に向かいました
2011年6月12日 21時00分 | 記事へ | コメント(2) |
| 巡礼 / 散歩 / 京都 |
金福寺
佛日山(ぶつにちさん)金福(こんぷく)寺は貞観六年(864)安恵僧都(あんねそうず)が慈覚大師・円仁の遺志により創建し、大師自作の観音像を本尊として安置した。
もと天台宗の寺であったが、後一時荒廃し、江戸時代中期、圓光寺の沢雲長老の法嗣(ほうし)鉄舟和尚が再興し、臨済宗南禅寺派となり、今日に至っている。
又当寺は松尾芭蕉と与謝蕪村にゆかりのある俳句の聖地として、或いは舟橋聖一の歴史小説『花の生涯』などのヒロイン村山たか女の終焉の寺としても知られている。
(金福寺パンフレットより)
身がわり地蔵
弁天堂
「金福(こんぷく)寺と村山たか女(じょ)
作家舟橋聖一の歴史小説『花の生涯』・諸田玲子『奸婦にあらず』のヒロイン村山たか女は、井伊直弼が彦根城の埋木舎(うもれぎのや)で不遇な部屋住の生活をしていた頃の愛人であった。
直弼は三十二才のとき江戸に下り、四十四才で大老職に就任した。
その頃アメリカの強硬な要求で開国政策を推進せざるを得なかった。
一方、たか女は京都において幕府の隠密(スパイ)となり、攘夷論者達(薩摩、長州、水戸藩の浪人、公家)の動向を探索し、その情報を長野主膳を通じて幕府(大老)に密報をすることで「安政の大獄」に加担した。
その為に、たか女は勤王方から大変恨まれ、大老が万延元年「江戸城桜田門外の変」で暗殺されると、彼女は勤皇の志士に捕らえられ、京都三条河原で生晒(いきさらし)にされたが、三日後に助けられ、文久二年尼僧となって金福寺に入り、名を「妙寿(みょうじゅ)」と改め、十四年間の余生を送り、明治九年、当寺に於いて六十七才の波瀾の生涯を閉じた。
本墓は当寺に程近い圓光寺に在り、金福寺には彼女の御位牌、筆跡、遺品などが伝わっているとともに詣墓(まいりばか)がある。」
(金福寺パンフレットより)

花守は野守に劣る今日の月 蕪村
西と見て日は入りにけり春の海 百池

やまもも
梅雨のころに暗紅紫色の実がなりたべられる
樹齢三百年
京都名木百選の一つ
「村山たか女」の参り墓
たか女は、明治九年金福寺で十四年間隠棲し六十七才の生涯を閉じた。
当寺この寺は圓光寺の末寺であったので本墓は圓光寺に建てられた。
金福寺でも彼女の菩提を弔うため本墓の土を埋め、彼女の筆跡を刻み参り墓とした
白髪苔

与謝蕪村の墓
与謝蕪村 享保元年(1716)〜天明三年(1783)
江戸時代中期の画家であると共に俳人である。
摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれ(父母のことについては不詳)、二十才の頃江戸に出て夜半亭宋阿(早野巴人)に入門し俳諧を学んだが、師の没後、茨城下館、結城、奥羽一円を絵画、俳諧の修行遍歴をした。
三十六才で上京し、三十九才から三年間を丹後で過ごし、絵画の習練に励み、得るところ多く、帰京後、その地に因んで姓を「与謝」と改めた。
五十一才の時、讃岐に渡り琴平、丸亀に滞在し一層画技を磨き、その後は大作を盛んに画き、京都画壇にその地位を得た。
また蕪村は芭蕉没後の平俗化した俳壇に新風を吹き込み、一般に「俳諧の中興者」と言われている。
六十八才、京都で没した。
絵画の代表作には「十宜之図(じゅうぎのず)」(国宝)、「奥の細道図巻」(重文)、「夜色楼台図(やしょくろうだいず)」(重文)、その他数多くある。
(パンフレットより)

高浜虚子が蕪村の墓にまいられての句
徂(ゆ)く春や京を一目の墓どころ
芭蕉の碑
蕪村や道立(どうりゅう)が建てたもので芭蕉の生涯を称えた文が刻してある。
蕪村は碑の建立時に
我も死して碑に辺(ほとり)せむ枯尾花
とよみ残していたので望みどおり後丘の墓に納骨された
蕪村ここでよめる句

耳目(じもく)肺腸(はいちょう)ここに玉巻く(たままく)芭蕉庵
三度(みたび)啼(な)きて聞えずなりぬ鹿の聲
鹿ながら山影門(さんえいもん)に入日哉(いるひかな)
畑うつやうごかぬ雲もなくなりぬ
冬ちかし時雨(しぐれ)の雲もここよりぞ
我も死して碑にほとりせむ枯尾花(かれおばな)

うき我をさびしがらせよかんこ鳥
   芭蕉翁
句意・そのさびしい鳴き声でものうい我を一そう
淋しがらせてくれよ、と閑古鳥によびかけた
(注)閑古鳥(かっこう)

たか女が祀った「福巳塔」
たか女は巳年生まれであった。慶応3年当寺で還暦を迎えたが、九死に一生を得て生き永えたのは、巳をお使いとする弁財天のご加護と信じ、堂を建て弁財天と巳を祀った。
弁天堂鬼瓦
Kazeも巳年生まれなので(^_-)
たか女の位牌
蕪村筆
「洛東芭蕉庵再興記」
芭蕉を敬慕していた蕪村は芭蕉庵の荒廃を惜しみ安永5年庵を再興し句会を催した。
彼は芭蕉の「幻住庵ノ記」や「嵯峨日記」にならって、この再興記を当寺に書き残した。
現在、俳文学の教材として用いられる含蓄のある名文として世に知られている。
蕪村が描いた芭蕉翁像
蕪村筆 芭蕉翁像
蕪村が64才安永8年特に当寺の為に描いたもの。彼は芭蕉を俳諧の先師として最も尊敬していた。
芭蕉の肖像画として最も勝れたものとの定評がある。
上部には芭蕉を賞賛した清田儋叟(せいたたんそう)の撰文、及び芭蕉の俳句を彼自身が書いてこの画像の賛としている。
本堂の中には蕪村や芭蕉、たか女の遺品などが展示されていました。三脚を立てなければ撮影してもいいと許可していただきました
この後、を乗り継いで向かったのが廬山寺です
2011年6月12日 20時45分 | 記事へ | コメント(0) |
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廬山寺〜御所
廬山寺(ろざんじ)
日本廬山と号する圓浄宗の大本山で、正しくは廬山天台講寺という。天慶元年(938)、慈恵大師良源(元三大師)が船岡山南麓に開いた輿願金剛院に始まる。
寛元三年(1245)、法然上人に帰依した住心房覚瑜が出雲路に廬山寺を開き、この二カ寺を兼務した廬山寺第三世明導照源上人(1339〜1368)によって廬山寺を輿願金剛院に統合し、円、浄土、戒、密の四宗兼学寺院となった。
その後、応仁の兵火に遭い、天正元年(1573)、当地に移った。
現在の堂宇は、1788年の「天明の大火」による炎山以後のものである。
当地は紫式部の邸宅跡で源氏物語執筆の地と伝えられ、本堂前の「源氏の庭」には「紫式部邸宅跡」の石碑が立っている。
本堂には、恵心僧都の作と伝えられる阿弥陀三尊等が安置されている。
そのほか、国宝の慈恵大師自筆遺告状、また、重要文化財として、鎌倉時代の如意輪観音半跏像、後伏見天皇及び正親町天皇(おおぎまちてんのう)の宸翰(しんかん)、法然上人選択集などを蔵し、境内には、光格天皇父の閑院宮典仁(すけひと)親王(慶光天皇)陵などがある。
良源が修行の邪魔をする悪鬼を退散させたという故事に由来する二月三日の節分会は「鬼の法楽」の名で知られ、悪疫退散を祈願する行事が行われる。
(京都市の説明板より)
元三大師堂
元三大師良源【諡号(しごう)・慈恵(じえ)】
良源延喜十二年(912)9月3日、近江国(滋賀県)浅井郡虎姫で生まれる。
父は饗場重頼、母は物部憲興の娘月子といい、幼名を日吉丸あるいは観音丸という。
延長元年(923)12才の時仏門に入り理仙大徳に師事する。
良源は得度し、正式の僧となる時期日前に来て、師理仙の突然の死に遭遇し、後に伊勢国朝明郡の郡領船木良見の尽力により得度を許されたため良見の一字を得て僧名を良源と名乗り、修行を重ねる。
良源55才で第18世天台座主となり叡山の諸堂を復興し、山侶2,700人に及び中興の祖と号せられる。その間累進して僧正に任ぜられ、つづいて行基以来の大僧正に任ぜられる。
名声は高く当時並ぶ者がなかったといわれる。
後世元三大師という俗称が一般的であるが、魔滅大師(豆大師)、角大師、鬼大師で知られ、また「おみくじ」の創始者として広く知り渡り、信仰され親しまれている。
(案内板より)
実は、2010年06月06日(日)に比叡山に元山大師堂を訪ねています
http://blog.zaq.ne.jp/bokuhakaze/article/509/
賓頭盧(びんづる)尊者

源氏庭
本堂の裏にまわると墓地になっていました。
そこに首なし地蔵様がおられました。
慶光天皇廬山寺陵

帰りに元三大師堂を再び訪ねました。
廬山寺を訪ねた理由は、紫式部というよりは、明智光秀の念持仏が奉納されているからなんですが、お聞きすると2月3日に大師堂が開扉されるそうです。来年の2月3日は金曜日なので訪ねることはできないと思いますがいつかお会いしたいと思っています。
日曜日ですが、雨が降っているためか、とっても静かな御所です。
土御門第跡(つちみかどていあと)
平安時代中期に摂政・太政大臣となった藤原道長の邸宅跡で、拡充され南北二町に及び、上東門第(じょうとうもんてい)、京極第(きょうごくてい)などとも呼ばれました。
道長の長女彰子が一条天皇のお后となり、里内裏である当邸で、後の後一条天皇や後朱雀天皇になる皇子達も、誕生しました。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」の歌は、この邸で催された宴席で詠まれたいいます。
(案内板より)
清水谷家の椋(むく)
この大きなムクの木は、このあたりが清水谷家という公家の屋敷であったことから「清水谷家の椋」よ呼ばれています。
樹齢は約三百年といわれ、苑内でも数少ないムクの大木です。
1864(元治元)年の禁門の変の時、長州藩士で遊撃隊(長州尊皇攘夷激派の一つ)の総督だった来島又兵衛がこの木の附近で討死したとも伝えられています。
(案内板より)

蛤御門(はまぐりごもん)
江戸時代末期の1864(元治元)年、この門の周辺で長州藩と、御所の護衛に当たっていた会津・薩摩・桑名藩との間で激戦が行われました。
この戦いが「禁門の変(蛤御門の変)」で門の梁にはその時の鉄砲の弾傷らしき跡が残っています。
この門は新在家門(しんざいけもん)といわれていましたが、江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、「焼けて口開く蛤」にたとえて、蛤御門と呼ばれるようになったといわれています。
(案内板より)
このへこんでいるのが弾傷かは???

河原町三条に出て
六曜社で一休みしました(*^^)v
六曜社では、ドーナッツが楽しみですが、お昼が遅くなったので
歴史散歩に便利なのが山川出版社から出ている歴史散歩シリーズです。
今日は、『散歩コース 京都洛西・洛北散歩22コース』を携行しました。
2011年6月12日 20時00分 | 記事へ | コメント(2) |
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2011年06月05日(日)
悲しみの中にいる、あなたへの処方箋
今日も出かけることなく…と言うよりも職場へ出かけて仕事
そんな一日でしたが、mkfamilyさんが取り上げておられた本を読みました
『悲しみの中にいる、あなたへの処方箋』垣添忠生著/新潮社(2011年2月)
mkfamilyさんが紹介されているので簡単に書きます
垣添さんは、国立がんセンター名誉総長でありながら、最愛の妻をガンで喪います。それだけに喪失感は、絶望の淵を彷徨うほどの苦しみに陥ります。
自死まで考えた苦しみの中からの再生の過程を語っておられます。
死別の悲嘆の渦中にある方は、第1章を読まれた後は、第4章「悲しみの中にいる、あなたへの処方箋」・「日野原重明先生の特別講義」・「アルフォンス・デーケン先生の特別講義」と読み進められてから第2章、第3章を読まれたらいいのではないでしょうか?
悲嘆のただ中にいる人が家族に、友人におられる方は、最初から読み進めることをオススメします。
垣添さんにとって「わたしのケースではとくにからだを動かすことが、精神の回復に役立ってくれました」(P21)と書かれていて、なんと2009年は一年の目標を九月の剣岳登頂に合わせて六つほど山を登り、日々のトレーニングを繰り返し、目標を達成することができました。翌10年には、登山仲間のリーダーから「剣岳を明治時代に国の測量隊が初登頂したルートを登って欲しい」と計画され、準備を進めてきました=iP183)そして、15時間かかりながらも無事やり遂げておられます。
「死別の悲しみの、もっとも有効な排出方法は泣くことです。涙にはたいへん大きな癒し効果があります」(P121)
Kazeの妹が義弟の葬儀で一番心の許せる親友と抱き合って泣いていた時に、妹が泣くことができたと思いました。泣かずに耐えている妹を見ていると辛くてたまりませんでした。
埼玉医科大学精神腫瘍科には、「遺族外来」があることを初めて知りました。
日野原先生との対談で日野原先生が「ターミナルケアをこころざすきっかけにもなった、十六歳で亡くなった少女のケースを忘れることができません」と仰っています。
十六歳で亡くなった少女については、以前、『死をどう生きたか』で紹介しましたが、日野原先生の原点だと言えます。
またデーケン先生の原点は、四歳で白血病のために亡くなった妹との体験があります。
日本では、「死」はタブーとなり隠されていますが、その元になっているのは、『古事記』のイザナギ・イザナミの国うみ神話などに見られる、死を「穢れ」と見なしてきたことにあるのかもしれませんね。
Kazeも正直、「死」は怖いです。でも、「死への準備」が必要になってきた年齢になっているなと思っています。
この本は、妹にも読ませたいのですが、読んでくれるかな…
看護師をめざしている、姪に看護師の必読書と言って読まそうかな…

「死と生を考える全国協議会」HP
http://www2u.biglobe.ne.jp/~shinai/seitoshi.htm
「日本死の臨床研究会」
http://www.jard.info/
などが参考になると思いますし、それぞれのリンク集も参考になると思います。
2011年6月5日 18時14分 | 記事へ | コメント(6) |
| 読書 |
2011年06月04日(土)
病院巡り
久しぶりにでしたが、午前中巡りをして
午後は、母のお見舞いに行って来ました。
昨日、母が白内障の手術(左目)をしました。
恐がりの母が、白内障の手術を無事終えたのも、
妹が涙腺が詰まり涙が頻繁に出るために、2度ほど手術をしています。
それでも再び頻繁に涙が出るようになり、3度目の手術を8月にする予定です。
妹が手術に耐えていることを思って、頑張ったそうです(*^-^*)
月曜日に右目の手術をします。
左目の手術を終えた後、もう右目はしたくないと弱音を言わないか心配していましたが、大丈夫みたいなので安心しました。
母がつまづき転んで手を骨折したり、滑って足の骨にひびがいったのは、白内障で見えにくかったことも原因の一つになっていると思います。
80になる父は、母の留守の間、自炊を頑張ってしています(*^-^*)
見舞いの帰りに、久しぶりに古本屋さんによりました。
そこで見つけたのが
『キリシタン時代の研究』高瀬 弘一郎著/岩波書店(1977年)
品切れになっている本です。書店のHPに
“16世紀中期に始まるほぼ100年間,世界的な布教組織をもつイエズス会は,日本でも数多くの改宗者を獲得し,「キリシタン時代」の立役者となった.その組織的基盤をなした経済活動を厖大な未刊文書の分析をふまえて描く”
第69回(昭和54年6月11日)日本学士院賞を受賞しています。
専門書なので読み切れるかは自信がありません(^_^;
2011年6月4日 20時23分 | 記事へ | コメント(12) |
| 日々の中で / 読書 |
2011年05月28日(土)
キリシタン遺跡
阪急大宮駅で降りて訪ねたのが
「フランシスコの家」です。
普通の民家のようでしょう(*^-^*)
「キリスト教文化資料館」があるので訪ねました。
玄関を開けて声をかけると男性の方が出てこられて、信者でもないKazeのために案内して下さった
中庭には、雨の中マリア様がたたずんでおられました。
そして見せて下さったのは、金属の鏡です。それに光を当てると
反射して
十字架が反対側に映し出されました。
鏡の表面を見ても十字架は見えません。
これは、「魔鏡」です。上手く撮せなかったので“キリスト教文化資料館”の「展示物紹介」をご覧下さい。
キリシタン取り締まりの高札
(お聞きすると撮影を許可して下さった)
キリシタン灯籠(織部灯籠)
並べられていたのは

踏絵
踏絵とは、徳川幕府のキリシタン禁制下、宗門改め(一般庶民の宗教を確認する行事)で庶民に踏ませたキリストや聖母マリアなどの画像のことで、この絵を踏むことを「絵踏(えぶ)み」と称しました。
踏絵は、寛永5年(1628年)長崎奉行がキリシタン探索の方法に用いたのが始まりといわれますが、実施の記録が残っているのは寛永8年(1631年)からです。踏絵を拒否すると獄門に送られ、激しい責めの後、多くは殉教しました。
記録によれば、仏教徒を装っていた隠れキリシタンたちは、踏絵を行なった後に痛悔の祈りをなし、聖像を踏んだ足を洗った水を飲んで罪の赦(ゆる)しを乞うた、といわれます。
幕末まで約230年間続いたこの制度は、長崎では安政4年(1857年)を最後に廃止されましたが、九州各藩では明治4年まで行なわれていました。
現在保存されている踏絵には「板踏絵」と「真鍮(しんちゅう)踏絵」の2種があります。「板踏絵」は、信者から没収したブロンズレリーフの聖像を板にはめ込んだもので、「真鍮踏絵」は、寛文9年(1669年)長崎の鋳物師(いものし)・祐佐(よしすけ)に命じて鋳造させたものです。現在、東京国立博物館に踏絵10枚、真鍮踏絵19枚が収蔵されています。
(資料館の説明板より)


妙見菩薩像
マリア観音
うまく撮せていないのですが背中に十字架が刻まれていました。
他にもロザリオなどキリシタン遺物が展示されていました。
京都四条病院にあったのが
二十六聖人発祥の地
ここから400メートル妙満寺町に1594年フランシスコ会のペトロ・バプティスタ神父により聖マリア教会病院 学校 スペイン使節館が建てられた
1597年2月5日に長崎で殉教した二十六聖人は同神父をはじめ5名のフランシスコ会士と3名の日本人イエズス会士および17名の日本人信者で殆どここで活動した人であった。
ここに建設された聖アンナおよび聖ヨセフ病院は京都最初の西洋式のもので貧しい人が多数収容された。
ここに二十六聖人を顕彰するとともに救貧救病の社会事業が行なわれたことを記念して銘板を掲げる
1979年 駐日スペイン大使館 カトリック京都司教区
蛸楽師通を歩いているとKazeの好きな空也上人ゆかりの

空也堂(くうやどう)
空也を本尊とするため空也堂を呼ばれるが、正しくは紫雲山(しうんざん)光勝寺極楽院(こうしょうじ ごくらくいん)と号する、天台宗の寺。
天慶2年(939)、空也上人の開創といわれ、当初は三条櫛笥(くしげ)にあったので櫛笥道場とも市中道場とも呼ばれた。
応仁の乱で焼亡したが、寛永年間に現在地に再建された。
空也は鐘を叩き念仏を唱えて全国行脚し、仏教の庶民階層への布教に尽力する傍ら、橋を架け、道路や井戸を整備し、野にある死骸を火葬して荼毘に付すなど社会事業を行なった。
そのため、空也は市聖とか阿弥陀聖と称され、後の一遍をはじめとする布教僧に大きな影響を与えた。
毎年11月の第二日曜日に、空也上人を偲んで開山忌(空也忌)の法要が営まれる。
王服茶(おうぶくちゃ)の献茶式の後、空也僧による歓喜踊躍(かんぎゆやく)念仏と重要無形民俗文化財の六斎(ろくさい)念仏焼香式が奉修される。
京都市の説明板より
さらに歩いて行くと
「此附近 本能寺跡」の石碑
この地に本能寺があり、織田信長が明智光秀に攻められ、本能寺が炎上しているのが見えたであろう場所に

此付近南蛮寺跡(このふきん なんばんじあと)
織田信長の時代に、耶蘇(やそ)会(イエズス会)よって建てられ、京都におけるキリスト教と南蛮文化の中心になった「南蛮寺」は、この北側、姥柳町(うばやなぎちょう)の辺りにあったといわれている。
戦国末期、京都でのキリスト教布教は、永禄4年(1561)にこの付近に礼拝堂が設けられた。
数々の迫害に遭いながらも、宣教師は布教に努め、信長の保護もあって信者は増加した。
天正4年(1576)、数百人の信者の協力と所司代村井貞勝(むらいさだかつ)の援助により、古くなった礼拝堂が再建され、7月16日に献堂式のミサが行なわれた。
これが南蛮寺で、信者の間では珊太満利亜上人(さんたまりあしょうにん)の寺とも呼ばれた。
しかし、天正15年(1587)6月、九州征伐を終えた豊臣秀吉は宣教師追放令を発し、キリスト教の弾圧に転じた。
南蛮寺もその時に破壊され、この地に復興されることはなかった。
京都市の説明板より
雨の中を歩いてたまたま出会ったのが
和泉式部誠心院専意法尼の墓所(宝篋印塔/ほうきょういんとう)
 あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
  いまひとたびの あふこともがな
    (和泉式部 百人一首より)
寺伝によりますと、平安の女流歌人の代表とされる、和泉式部は当誠心院の初代住職と言われています。
 大江山 いく野のみちの とほければ
  まだふみもせず 天橋立
    (小式部内侍 百人一首より)
その歌を 母と共に百人一首に収められている、娘小式部内侍は、若くして他界します。
娘に先立たれ、この世のはかなさを思った和泉式部は、当時、女人には出来ぬとされていた、往生のすべを求め、誓願寺のご本尊のお告げにより、六字名号を念仏し女人の往生を成し遂げます。
その後、和泉式部は六字名号を念仏する人があれば、二十五菩薩と共にお迎えに来て下さると言う、謡曲「誓願寺」の舞台にもなっている宝篋印塔が左の石塔です。(後略/誠心院の説明板より)
雨の中を町の中を歩いたので、河原町三条にある「六曜社」地下店でコーヒー&ドーナッツです(*^-^*)
実は、昨夜職場の飲み会があったので、今日は休肝日です
今回、参考にした本が
『京のキリシタン史跡を巡る――風は都から』杉野 榮著/嶋ア 賢児写真/三学出版(2007年)
追記)検索しているとこんな記事があったので参考になると思います。
「カトリック中央協議会」のホームページ
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/library/book/hand2010/kansai2.htm
長崎観光情報「ここは長崎ん町」のホームページ
http://isidatami.sakura.ne.jp/26seizin.html
日本二十六聖人が歩いた行程は(「日本二十六聖人記念館 」HPより)
http://210.136.236.116/MartyrsHP/JpRoute.html
2011年5月28日 21時05分 | 記事へ | コメント(6) |
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