2011年07月04日(月)
「私の甘いため息」 - バロックのアリア集
私は普段ほとんど、「オムニバス・アルバム」というのを聴かない。なぜなら、そのディスクを企画した人のセンスによって、その出来栄えが大きく左右されるからである。

それに、「名曲集」というのは、大抵おもしろくない。一人の作曲家の作品を集めた「名曲集」であっても、「いいとこ取り」になってしまって、お互いの曲がそれぞれの魅力を打ち消し合ってしまう傾向がある。

ましてや、色んな作曲家の曲を集めた「オムニバス・アルバム」になると、纏まりがなくなってしまうようで聴く気がしなかった。しかし、そんな私がこのディスクを聴く気になったのは、ひとえにジャケットの絵画があまりにも美しかったからである。CDの販売が音楽配信に取って代わられようとしているが、私がジャケットに拘る理由はここにある。

このジャケットの絵画は、フランソワ・ジェラール(François Gérard, 1770 - 1837 : 右下の肖像画)というフランス人の画家によって描かれた「プシューケーとアモル(Psyché et l’Amour : 1822)という絵画の一部である。私は美術史には詳しくないのでこの画家の名前は聞いたことがなかったが、18世紀フランス新古典主義を代表する画家の一人だそうで、「アルプスを越えるナポレオン」の作者として知られるジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David, 1748 - 1825)の弟子だそうである。

クラシック音楽で言う「新古典主義」と随分時代がずれているが、フランソワ・ジェラールの生年がベートーヴェンと同じなので、彼がどういう時期に活躍したのか、おおよその見当は付く。プシューケーはギリシャ神話に登場する美しい王女で、アモルは愛の神である。アモルはクピードー (Cupido) とも呼ばれ、英語のキューピッド (Cupid)はこれから派生している。

しかし、文学音痴の私には、ギリシャ神話における「プシューケーとクピードー」の話について語るだけの能力がない。ということで、それは興味のある方がご自身で調べていただくことにして、このディスクの紹介に移ることにしよう。収録曲は以下の通りである。

クラウディオ・モンテヴェルディ(Claudio Monteverdi, 1567 - 1643)
  1.「私の甘いため息」 SV 242
  2.「美しいお嬢さん」 SV 235
ジローラモ・フレスコバルディ(Girolamo Frescobaldi, 1583 - 1643)
  3.アリエ・ムジカーリ・ペル・カンタルジ第1巻 - 黄金の舟の中で
  4.アリエ・ムジカーリ・ペル・カンタルジ第2巻 - ああ我が心
クラウディオ・モンテヴェルディ
  5.「東方に夜明けが来る時」 SV 233
  6.「主よ、あなたに感謝します」 SV 193
ジョン・ダウランド(John Dowland, 1563 - 1626)
  7.歌曲集第4巻 「巡礼の慰め」 - 暗闇に私は住みたい
  8.歌曲集第1巻 - もう一度帰っておいで、やさしい恋人よ
  9.歌曲集第1巻 - 私の嘆きで人の心を動かせるものなら
  10.歌曲集第1巻 - 透明な涙よ
シジズモンド・ディンディア(Sigismondo d'India, c.1582 - 1629)
  11.「素直に人々は言う」
  12.「彼らは私の涙に泣いた」
  13.「あなたにはたくさん言いたいことがある」
ジュリオ・カッチーニ(Giulio Caccini, c.1545 - 1618)
  14.「言っておくれ、僕の美しい炎」
  15.「麗しのアマリッリ」
ロバート・ジョーンズ(Robert Jones, c.1577 - 1617)
  16.「熱い ため息」
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Händel, 1685 - 1759)
  17.カンタータ「私の胸は騒ぐ」 HWV 132c
ジャコモ・カリッシミ(Giacomo Carissimi, 1605 - 1674)
  18.「地獄の門よ開け」

演奏は、ハンス・ルートヴィヒ・ヒルシュ(Hans Ludwig Hirsch)指揮ミュンヘン・バロックゾリステン(Münchner Barocksolisten)で、テノール独唱はウィリアム・マッテウッツィ(William Matteuzzi, 1957 - )である。

ルネサンス音楽からバロック音楽への過渡期に位置付けられるモンテヴェルディから、バロック後期のヘンデルまでかなり広範な時代の作曲家の作品を収めているが、やはり中心になっているのはモンテヴェルディと同時代の作曲家たちの作品である。

ヘンデルはイギリスに帰化したドイツ人であるが、ダウランドとジョーンズはイギリス人で、その他は全てイタリア人である。

そして、これらの曲が「恋の歌」であることを考えれば、ミサ曲のようにラテン語ではなく、自国の言葉によって歌われていることはほぼ確実であろう。

ただし、はっきりと英語と分かるのはダウランドの歌曲だけで、ジョーンズもヘンデルも、イタリア語の歌詞に曲を付けている。やはり、ルネサンスからバロック初期に当たるこの時期には、声楽曲の分野でイタリア語が支配的な地位を占めていたのであろう。テノールのマッテウッツィは、声域が広いことで知られており、“high C”を上回る“high F”の高音を歌えることで知られている。

しかし、このディスクはロッシーニのオペラを収めたものではないので、私はカリッシミの「地獄の門よ開け」のクライマックスで披露されるような高音の炸裂よりも、タイトル通り、ため息(sospiri)の甘美さを切なく表現して欲しいと思ったのである。なお、プシューケーは最終的に女神となるのだが、彼女の神性を表わすために、蝶の羽を背中に生やした姿で描かれることが多いという。このジェラールの絵画でも、彼女の頭上に一羽の蝶が浮遊しているのはそのためであろう。(画像をクリックすると大きくなります。)
2011-07-04 22:41 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
| モンテヴェルディを聴く / ダウランドを聴く / 古楽について |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/Kazemachi/trackback/586/
※ブログ管理者が承認するまで表示されません
2008年05月11日(日)
歌劇「ポッペアの戴冠」
歌劇「ポッペアの戴冠」は、モンテヴェルディの最後のオペラだそうである。コルネリウス・タキトゥス(Cornelius Tacitus, 55年頃 - 120年頃)の「年代記」が原作とされ、運命の神、美徳の神、愛の神の三人の登場から劇は始まるが、最終的に勝利を収めるのは愛の神である。

私が観たのは昨日と同じニコラウス・アーノンクール&ジャン=ピエール・ポネルのコンビによるもので、昨日の「オルフェオ」と同時期に収録されたものである。ただし、こちらは「オペラ映画」というよりライブ収録ではないかと思う。私が観たのはDVDではなく、ずっと以前にNHKの衛星放送で放映されていたものを録画したテープによってである。

「オルフェオ」が悲劇であったのに対し、こちらは一応ハッピーエンドで幕を閉じている。粗筋は端的に言ってダブル不倫の話である。夫のある身でありながらローマ皇帝ネロ(暴君ネロ)と不倫を重ねるポッペアが、最後には皇后オッターヴィアに代わって皇后の位に就くという話である。ネロとポッペアの愛の勝利、そしてポッペアの夫であったオットーネとドルシッラの愛の勝利によって幕が閉じられる。結局、憂き目を見たのは元皇后のオッターヴィアだけということになる。

演出はポネルらしく、周到に練りに練られたもので、「オルフェオ」と同じく、チューリヒ歌劇場モンテヴェルディ・アンサンブルのリュート奏者を舞台に上がらせたり、画面に登場させてその音を視覚的にも強調させたり、映像と音楽の融合を図ろうとしている。また、「オルフェオ」の場合にも感じたことだが、ポネルはシンメトリックな画面構成が好きなようで、随所にそういう人員配置がされている。

音楽も「オルフェオ」より楽器の使用法が巧妙になっており、ポッペアのアリアでリコーダーを使ったり、愛の神の役を少年に割り当てたり様々な工夫の跡が見られる。

最後の場面はめでたく皇后となったポッペアと皇帝ネロの二人だけにスポットライトが当てられ、「愛の二重唱」とでもいうべき静かで充足した場面で幕を閉じる。ただ、私にはここで歌われている「もう不安を感じることはない」というのに、少々疑問を感じるのだ。結婚ということによって、不安は解消するのか。逆にいえば、不安が解消するということは、愛の消滅につながらないのか。また、民衆たちはこの二人のことをどう見ているのか。

ポネルは美徳を押しのけて勝利した愛を、少し皮肉っぽい目で見ているような気がする。
2008-05-11 15:55 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
| モンテヴェルディを聴く / 古楽について / オペラについて |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/Kazemachi/trackback/245/
※ブログ管理者が承認するまで表示されません
2008年05月10日(土)
歌劇「オルフェオ」
この歌劇「オルフェオ」(1607年)の題材となっているのはギリシャ神話で、モンテヴェルディのこの作品とともに、クリストフ・ヴィリバルト・グルック(Christoph Willibald (von) Gluck, 1714 - 1787)による歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」も同じ話を素材としている。

神話であるから、話の筋は現実離れしている。最愛の妻エウリディーチェが毒蛇に噛まれて亡くなったのを聞いたオルフェオが、黄泉の世界まで彼女を連れ戻しに行く。彼岸の王は妻の熱意にほだされて、オルフェオがエウリディーチェを連れ戻すのを許すが、地上の世界に着くまで振り返って妻エウリディーチェの顔を見てはいけないという条件をつける。しかし、オルフェオは自らの情念に負け、振り返って妻の顔を見てしまう。このことによって、エウリディーチェは永遠に帰らぬ人となってしまうのである。それを嘆き悲しんだオルフェオも、父アポロンに連れられて昇天する、というのが粗筋である。

話は逸れるが、神話・民話にはこの類の話が多く、日本の「鶴の恩返し」なども、「見てはいけませんよ」と言われると人間は見たくなってしまうのかもしれない。ワーグナーの「ローエングリン」でも、ローエングリンから、「自分の名前や素性を聞いてはいけない」と言われていたのに、エルザは情念に駆られて聞いてしまうのである。また、黄泉の世界に行くのに川を渡るのも、われわれにとっては「三途の川」を想起させて興味深い。

それはともかくとして、このDVDは1988年に亡くなった名演出家ジャン=ピエール・ポネルの演出によるもので、最初の出だしを観ると舞台上演の録画のように見えるが、これはれっきとした「オペラ映画」である。制作は1978年で、まだ古楽器の演奏が珍しかったのか、ニコラウス・アーノンクールの指揮するチューリヒ歌劇場モンテヴェルディ・アンサンブルが頻繁に画面に登場する。舞台装置、衣装、演出ともに違和感がなく、史上6作目のオペラとされるこの作品の魅力を最大限引き出している。また、現代の聴衆にも充分アピールする演出になっている。音楽面では、金管楽器群がそれぞれの場面に応じて効果的に採用されているのが印象に残った。

この歌劇を観ていると、モンテヴェルディが「自分の曲では言葉が主人」だと言った意味がよくわかる。
2008-05-10 14:23 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
| モンテヴェルディを聴く / オペラについて / 古楽について |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/Kazemachi/trackback/244/
※ブログ管理者が承認するまで表示されません
2008年05月06日(火)
モンテヴェルディを聴く〜その3
昨日に引き続いて、モンテヴェルディの「マドリガーレ集」である。演奏も昨日と同じ、ロンギーニ&デリティエ・ムジケである。今日はその第5巻である。この第5巻を選んだのには理由がある。それは、柴田南雄著「西洋音楽の歴史=上」に以下の記述があるからである。

「 ともかくモンテヴェルディには、人にショックを与える要素、ほとんど挑戦的とさえいえるような一面がある。たとえば、彼の『マドリガル集・第五巻』(一六〇五年刊)の巻頭を飾っているすばらしい小曲『むごいアマリリよ』は、当代の音楽理論の権威であったボローニャのジョヴァンニ・マリア・アルトゥージ(一五〇四頃−一六一三)をカンカンに怒らせたのである。彼は、わざわざ『最近の音楽の不完全さについて』という大げさな題の論文を書き、その中に『むごいアマリリよ』の中から七か所、一四小節を引用(曲全体は六七小節にすぎない)して理論上『誤り』であると決めつけ、耳ざわりで粗野な響がすると非難した。」

実際にこの「むごいアマリリよ:Cruda Amarilli (Cruel Amaryllis)」を聴いてみたが、現代のわれわれが聴くと切ないラブソングで、当時の「流行歌」のようなものかな、と思う程度である。宗教的な曲ではなく、世俗曲だなあと思うぐらいで、別に強く印象に残るような曲でもないように思う。昔のドーナツ盤(EP)のように、演奏時間も3分36秒ときわめて短い。

このディスクには他にも、O Mirtillo、 Era l'anima mia (My spirit)、5部構成の Ecco, Silvio, colei (Lo, Silvio)、3部構成の Ch'io t'ami (If, cruel girl)、Che dar piu vi poss'io? (What more can I give you?)、M'e piu dolce il penar per Amarilli (The pain I suffer for Amaryllis)、Ahi, come a un vago sol (Alas, as if toward a graceful, lovely sun)、Troppo ben puo (Tyrannous love)、Amor, se giusto sei (Love, if you are just)、 T'amo, mia vita! (I love you my beloved!)、E cosi, a poco a poco (And thus, little by little)、 Questi vaghi concenti (These lovely songs) と英訳の題名からも想像がつくように、恋を歌った曲がほとんどだと思う。

全体を通して、「切ない恋」とか「恋焦がれる気持ち」とか、そういうトーンが漂っている。 何回か出てくるアマリリ(Amarilli)というのが、どれだけ魅力的な女性であったのか、と思わざるを得ない。

ところで、モンテヴェルディはアルトゥージの非難に対して堂々と反論し、「自分の曲では言葉が主人なのであり、つまり歌詞内容に密着して不協和音も協和音も自在に駆使するのだから、古頭のアルトゥージとは創作態度が根本からちがうのだ、といい切っている」(前掲書)そうである。ルネサンスのミサ曲の厳格な様式を守ろうとする「守旧派」に、公然と反旗を翻したのである。

ま、この手のことはいつの時代にもあることで、ベートーヴェンの最初の交響曲でさえ、初演時には「不協和音」という非難を浴びたのだから、「改革派」にとっては宿命のようなものである。

因みに、私は植物に疎いのでアマリリスと聞いてもぴんと来ないが、ウィキペディア(Wikipedia)によると、「アマリリス(Amaryllis)は、ヒガンバナ科ヒッペアストルム属(ヒペアストラム属とも、ラテン名Hippeastrum)の園芸雑種。学名Hippeastrum × hybridum。 多年草で原産は南アメリカ。夏場、ユリに似た六弁の大きい花を2-4個つける。花の色は白・赤・など。」とある。
2008-05-06 09:08 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
| モンテヴェルディを聴く / 古楽について |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/Kazemachi/trackback/240/
※ブログ管理者が承認するまで表示されません
2008年05月05日(月)
モンテヴェルディを聴く〜その2
さて、このブログを書き始めのとほぼ同時に、古学の世界に引き寄せられその中を徘徊してきたが、「重要な人物を忘れてはいないだろうか」と自問して、そういえばクラウディオ・モンテヴェルディ(Claudio Monteverdi, 1567 - 1643)って、「聖母マリアのミサと晩課」しか聴いたことがないなと気づいた。

「モンテヴェルディは、たんに本格的なオペラの最初の作曲家であるばかりでなく、身をもってルネサンスからバロックへの変容(メタモルフォーズ)を成し遂げた人物でもある。」(柴田南雄著「西洋音楽の歴史=上」)

ということで、まずは手頃なところからと思い、彼の「マドリガーレ集第1巻」を聴いてみた。ロンギーニ&デリティエ・ムジケの演奏。レーベルはお馴染みのナクソスである。

このデリティエ・ムジケ(Delitiae Musicae)は1992年の設立で、イタリアのルネサンス期、バロック期の音楽の復興に注力しているそうである。現在、ナクソス・レーベルで、モンテヴェルディのマドリガーレ集(CD12枚組)を刊行すべく活動しているそうだ。なお、ここでいう「マドリガーレ」とは「フロットラ(frottola)」という15世紀から16世紀にかけてイタリアで人気のあった世俗歌曲から生まれて発展したもので、自由詩の抑揚に合わせて創られた歌曲のことである。

このCDには、全26曲のマドリガーレが収められている。歌詞はイタリア語なので、聴いているだけでは意味はわからない。ただいえることは、最初の曲は五声のア・カペラの合唱で、フランドル楽派のポリフォニーのミサ曲を連想させるが、聴き進むうちに伴奏楽器の響きが耳に入るようになり、最後のほうは通奏低音と独唱という形のようになっている。また、私が聴いた限りでは、このディスクの歌唱はすべて男声で歌われていると思われ、カウンターテナーの人の声が力強くよく通る声で、演奏全体を引き締めているように感じる。

これ一枚で、「ルネサンスからバロックへの変容」を見るのは早急であるが、ある意味で興味深いディスクである。
2008-05-05 08:33 | 記事へ | コメント(4) | トラックバック(0) |
| モンテヴェルディを聴く / 古楽について |
トラックバックURL:http://blog.zaq.ne.jp/Kazemachi/trackback/239/
※ブログ管理者が承認するまで表示されません
次へ
HMV
ジャパン
にほんブログ村 クラシックブログへ

ニックネーム:風街ろまん
性別:男性
年齢:56歳
都道府県:大阪府

»くわしく見る