今日は朝から、映画「容疑者]の献身」を観に行ってきた。そして、未だその感動から覚めやらぬところである。
私は東野圭吾さんの原作を読んだこともないし、テレビドラマ「ガリレオ」も観たことがないので、先入観が一切ない状態で映画館に足を運んだわけである。
まず、冒頭に出てくる物理学者湯川(福山雅治)と女性刑事内海(柴咲コウ)の会話が、この物語のテーマを暗示している。内海は論理的思考を何よりも重視する湯川に対し、「論理で解明できないこともあるんじゃないの。例えば、愛とか。」と言って食い下がる。
実は、これがこの映画に一貫して流れているテーマであり、最後に湯川と内海が大学構内のベンチに座って話し合うところまで、ドラマの展開とともに底流となって渦巻いていることなのだ。「容疑者]」は、自分の愛する人に「生かされて」いたのだ。「容疑者]」は、恋をすることがなければ、罪を犯すこともなかっただろう。
私はかつて、ロラン・バルトの「恋愛のディスクール・断章」という本を読んだことがある。この本はその書名が示すように、断章群にタイトルを付し、それをアルファベット順に配列して構成された書物である。したがって、通常思い浮かべられるような体系的・論理的な「恋愛論」ではない。論理体系を徹底的に排除することによってしか、その本質に迫れないのが恋愛である。そのことを、それ自体で示したのがこの書物なのだ。バルトはこの書物の中で、以下のように語っている。
「恋愛主体がその愛を生きている間、こうしたフィギュール(言述の破片)群は、まったく無秩序に彼の脳裏にあらわれてくる。フィギュールの出現はすべて偶然(内的、外的な)に依存しているからだ。そうした偶発事件(「ふりかかってくる」もの)のたびごとに、恋するものはフィギュールの貯蔵庫(宝庫?)を開き、おのが想像界の命令を、あるいはその快楽を、必要に応じて取り出してくるのである。(中略)いかなる論理も特定のフィギュールとフィギュールを結合することがなく、その隣接性を規定することもない。フィギュールとは連辞の外に、物語の外にあるのだ。」(三好郁朗訳)
「容疑者]の献身」が悲劇的であるのは、恋愛主体が、高校教師に身をやつしているとはいえ、今でも天才的数学者としての論理的思考を保持しているところにある。そもそも、恋愛や献身というのは、バルトが言うように論理の埒外にある。逆に言えば、論理によって統御できないものを統御しようとしたために、恋愛主体は犯罪者となることによって、論理的に「完結」しようとするのである。しかし、恋愛対象である女性は、その完結性を突き崩すことによって、彼の献身に応えるのだ。ここに至って、「容疑者]」はそれまで築き上げてきた論理的完結性を失うと同時に、孤独から「解放」されるのである。しかし、決して「ハッピー・エンド」ではない。
真相が明らかになるのは、物理学者湯川の論理性が旧友「容疑者]」の論理性を解読するからである。おそらく、この映画は堤真一という名優の存在なしには成立し得なかっただろうと思えるほど、堤の存在感は大きい。
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2008-11-02 20:01
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今日10月31日は、今は亡き名優、渡辺 文雄(わたなべ ふみお、1929年10月31日 - 2004年8月4日)さんの誕生日である。渡辺さんといえば、大島渚監督の映画の常連で、1960年の安保闘争を描いた「日本の夜と霧」や、死刑制度の問題点を鋭く抉り出した「絞死刑」(1968年)で、佐藤慶さんや戸浦六宏さんとともに、よく拝見した俳優さんである。
折りしも、昨日、国連の自由権規約委員会が日本政府に対して、死刑制度の廃止や、警察の留置所を拘置所代わりに使う代用監獄問題の是正を求める報告書を公表した。
YAHOO JAPAN への書き込みなどを拝読していると、「内政干渉だ」という論調が多いが、私は、人間が人間を裁くことの意味をもう一度冷静に考えてみていただきたいと思う。
人間は誤りを犯すものであり、逮捕から警察の取調べを経て判決が確定し、刑が執行されるまでのプロセスに問題はないと言い切れるのか。それを思うとき、私は人間が人間を裁くことに、もっと慎重であるべきだと思う。
また、日本の場合、死刑と無期懲役との間に差があり過ぎるのではないかとも思う。単なる感情論ではなく、冷静に再考すべき時に来ている。
なお、大島渚監督の「絞死刑」は、死刑問題を考える上で、観ておかなければならない映画のひとつであろう。
音楽を担当しているのは、林 光(はやし ひかる、1931 - )さんである。
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2008-10-31 23:40
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昨日のブログで、「柴咲コウ」さんを、誤って「柴崎コウ」さんと書いてしまいました。ファンの皆様方、どうも申し訳ありませんでした。謹んで、お詫び申し上げます。m(__)m
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2008-10-27 20:31
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私は柴咲コウさんのファンではありませんが、その俳優としての力量はもとより、RUI や KOH+ としての歌唱力にも一目置いております。私が初めて彼女の歌手としての表現力の豊かさに気が付いたのは、映画「黄泉がえり」で「月のしずく」を聴いたのがきっかけでした。
今日ご紹介する「最愛」という曲も、「容疑者]の献身」(原作:東野圭吾さん)という映画の主題歌で、福山雅治さんの作詞・作曲です。この映画では、柴咲さんと福山さんが主役を演じています。私はこの映画をまだ観ていませんが、現在公開中だと思うので観に行ってこようと思っています。
なお、この映画には堤真一さんも出演しています。堤さんは結構「味のある」役者さんで、シリアスな役柄からひょうきんな役柄まで、幅広くこなせる人です。関西(兵庫県西宮市)出身なので、私には何となく親近感が湧くのです。
このポロモーション・ヴィデオには、歌詞付きのものとそうでないものがありますが、敢えて歌詞付きのものを選びました。それは、「めくられて」と「捲られて」、「思い」と「想い」、「一人」と「独り」と「ひとり」など、それぞれどの言葉を選択するのかに、詩を作った人の気持ちが込められているからです。ゆっくりお楽しみ下さい、詩と音楽と映像の共演を。
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2008-10-26 19:51
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私の世代にとって10月10日といえば、「体育の日」である。「え!『体育の日』ってあさってじゃないの!」という声が聞こえてきそうである。特に若い人たちの間から。確かに、2000年に「ハッピーマンデー制度」が導入されてからは、10月の第2月曜日が「体育の日」となっている。しかしそれまでは、10月10日が「体育の日」であった。
それでは、なぜ10月10日が「体育の日」であったのかご存知だろうか。
そうである。1964年の10月10日に東京オリンピックの開会式が行われ、その後二週間にわたる熱戦が繰り広げられたのである。下の映像は、いずれも市川 崑(いちかわ こん、1915 - 2008)監督による映画「東京オリンピック」の入場式の映像である。単なる報道映像ではなく、映画監督が捉えた独自の視線を感じ取ることができる。
この映像で見る限り、当時の開会式は今ほどにはショー的な要素が少なく、商業主義的演出を感じさせない。選手たちも、陸上自衛隊音楽隊の奏でる行進曲に歩調を合わせ、足並みを揃えて行進している。当時小学生であった私も、学校の運動会の前には入場行進の予行演習を何遍もさせられたものである。少しでも全員の足並みが揃わないと、「やり直し!」という叱責の声が容赦なく先生から飛んでくる。そしてまた、最初から行進し直すのである。
みんなと足が揃わない時は、(みんなが右足を出しているのに自分だけが左足を出して歩いているような場合)スキップしてみんなに合わすのが「隠し技」である。私は個人的には、こういうのがあまり好きではなかった。「だいたい合ってれば、それでええやん」と思っていたのである。しかし、行進の練習ばかりに時間を取られるのが苦痛だったので、何とか早く終わらせるべく、仕方なくスキップをしていたのを思い出す。
さて、この映画「東京オリンピック」の音楽を担当していたのが、あの黛敏郎さんであることは、あまり知られていない。開会式冒頭のテープ音楽「オリンピック・カンパノロジー」も黛さんの作品である。確か、昭和天皇の開会宣言の後に流されているファンファーレも、黛さんの作曲したものであったと思う。
こうして改めて観てみると、アルファベットの順番で米ソ両大国が続けて入場してくるところが、圧巻である。ドイツは、東西両ドイツがドイツの三色旗(黒、赤、黄)の上に白色の五輪を描いた独自の旗を掲げて、統一選手団として入場している。当時ヴェトナム戦争の渦中にあったヴェトナムの選手団は、南ヴェトナムの旗を掲げている。キューバの選手団が、各々、日の丸の小旗を掲げて入場しているのは、親日感情の現われか。まさに、米ソ両大国の均衡の上に成り立っていた時代を象徴する映像といわねばなるまい。
なお、最後の部分で電光掲示板に表示されている「より遠く より高く より強く」は、ラテン語で“CITIUS ALTIUS FORTIUS”と記されている。
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2008-10-10 21:19
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