実のところ、私はこのシェーンベルクの編曲によるマーラーの「大地の歌」を聴くのは初めてではない。フィリップ・ ヘレヴェッヘ指揮アンサンブル・ミュージック・オブリク(Ensemble Musique Oblique)の演奏で聴いたことがあるのだ。したがって、この演奏を聴いても違和感は感じない。
これは、シェーンベルクが13人の奏者のために編曲を開始したものだが、実際には「音楽私的演奏協会」の経営が1921年に経済的に行き詰まり、シェーンベルクによる編曲は未完のまま残された。したがって、全体の編曲は1983年になって漸くライナー・リーン(Reiner Riehn, 1941 - )によって完成されたのである。しかし、どの程度までシェーンベルクが編曲し、どこからがリーンの手になるものかよく分からない。
しかし、リーンが未完のまま残されたこの室内楽版「大地の歌」を完成する際には、シェーンベルクが大オーケストラのためのオリジナル・スコアに書き残した指示を尊重したことが判っているので、シェーンベルクの音楽的語法は最大限活かされているはずである。
ヘレヴェッヘ盤を聴いたのはかなり以前なので、どんな演奏であったかあまり記憶にないが、さすがにマーラーはノン・ヴィブラートの唱法ではなかった。このディスクでもそれは同じで、ヴィブラートを効かせた歌い方である。
独唱が Monica Groop (メゾ・ソプラノ) と Jorma Silvasti (テノール)で、オスモ・ヴァンスカ(Osmo Vänskä, 1953 - )というフィンランドの指揮者による Sinfonia Lahti Chamber Ensemble による演奏である。
この演奏の特長は、マーラーの厖大なオーケストレーションを削ぎ落としてもなお残るこの曲の骨格を、鮮明に浮き彫りにしていることである。ヘレヴェッヘ盤の演奏では多少違和感があったピアノの音が、この演奏では他の楽器群と上手く融合しており、オリジナルの管弦楽版を聴き慣れた耳にもすんなりと入ってくるのである。
特に曲の半分近くを占める最後の「告別(Der Abschied)」の楽章は、ピアノがまるで梵鐘のように響く。また、たった13人の演奏者であるにも拘わらず、打楽器の(ような)特殊な響きとともに、この世の不条理に対する諦念とでもいうべき境地を見事なまでに表現している。
私はオスモ・ヴァンスカという指揮者の演奏を初めて聴いたが、このディスクの演奏を聴いた限りでは、音響を実に巧みに色彩的に表現できる指揮者であるように思われる。ヘレヴェッヘと同じように「守備範囲」がかなり広いようで、ベートーヴェンからシベリウス、ニールセンのような北欧の音楽、グバイドゥリーナのような現代音楽までをも含む、一風変ったディスコグラフィーの持ち主である。中には今まで名前を聞いたこともないような作曲家たち(アホ、クーシスト、サンドストレム、ラウタヴァーラ、ラングストレム、レイフス等々)が含まれている。
私は「北欧の奇才」を掘り当てたのかも知れない。
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2009-01-27 21:40
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この曲を聴くのには、ある種の「身構え」が要る。何せ、冒頭にパイプ・オルガンと千人近くの演奏者たちが、大音響を発することから始まるからである。“Veni, creator spiritus, (来たれ、創造主たる聖霊よ)”と轟き渡るこの冒頭の圧倒的な迫力は、聴く者の体を直撃するのである。
したがって、凹んでいたり、落ち込んでいたら、あなたはこの曲を聴くべきではない。一網打尽にされてしまうからである。私が今日、この曲を聴く気になったのは、11月15日にシェーンベルクの「ヤコブの梯子」をギーレンの指揮で聴いた時に、カップリングされていたこのマーラーの第8交響曲を聴いたからだった。あの演奏も、筋肉質の引き締まった演奏であったが、ナクソス・ミュージック・ライブラリーで聴いていたので、トラックの切れ目ごとに一瞬の「空白」ができてしまう。しかも、あれはオーディオ・ディスクである。実際の演奏風景は窺い知れない。
そこで、今日はちゃんと演奏風景&日本語字幕付きで、この曲を鑑賞することにしたわけである。このDVDのセットは二枚組で、一枚にはクラウス・テンシュテット(Klaus Tennstedt, 1926 - 1998)指揮シカゴ交響楽団によるマーラーの第1交響曲、もう一枚には、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団他による、この第8交響曲が収録されている。
この交響曲は、マーラー自身が初演し耳にすることのできた最後の作品になった。マーラーは有名な指揮者でもあったので、初演の後、自分の描いていたイメージと異なる響きであった場合には、スコアに若干手を加えていたらしいが、そうしたことのできたのはこの第8交響曲が最後だったのである。
「千人の交響曲」(Symphonie der Tausend )という標題はマーラー自身が付けたものではなく、初演時の興行主が宣伝用のキャッチフレーズとして用いたもので、マーラー自身はこの題名を嫌っていたという。しかし、実際に1910年9月12日及び13日の初演時の演奏者は、合唱団858人、オーケストラ171人、それに指揮者マーラーを加えて、合計1,030人で演奏された。(上の写真は、1916年3月2日、レオポルド・ストコフスキー指揮によるアメリカ初演時のもので、演奏者は1,068人)
このディスクでの演奏者の総数ははっきり判らないが、1991年1月27日と28日にロンドンのロイヤル・フェスティヴァル・ホールで行なわれたこのライヴ映像では、ステージの背後にある観客席もびっしりと合唱団(少年合唱団を含む)で埋め尽くされており、しかも、その合唱団にもう一人指揮者が付いている。マーラーがメンゲルベルクに宛てた手紙の中で、「大宇宙が響き始める様子を想像してください」と書いているのが誇張でないことが判るのである。
この曲は二部構成で、第一部が中世マインツの大司教ラバヌス・マウルス(776?〜856)作といわれるラテン語賛歌「来たれ、創造主たる聖霊よ」から、第二部がゲーテの戯曲「ファウスト」第二部の終末部分から、それぞれ歌詞を「再構成」している。
ゲーテの「ファウスト」は私も若い時に読んだが、第一部は解り易かったのに、第二部が何か訳のわからない話だったのを憶えている。「ファウスト」の第二部のおもしろさが解るのは、40歳を過ぎてからだと、どこかで聞いたことがあるが、50歳を過ぎた私は未だにこの大作を再読していない。
柴田先生の「グスタフ・マーラー」(岩波新書)には、「初演に出席した3000人の中には、数日後マーラーに賛辞に満ちた礼状を書いているトーマス・マンをはじめ、シュテファン・ツヴァイク、マックス・ラインハルト、バイエルン皇太子、ベルギー王アルベール一世、クレマンソー、ヘンリー・フォード、音楽家ではリヒャルトの息子のジークフリート・ヴァーグナー、指揮者のクレンペラー、ストコフスキー、ヴァインガルトナー、ムック、シューフ、ブレッヒ、シュティードリー、メンゲルベルク、作曲家ではシェーンベルク、リヒャルト・シュトラウス、ヴェーベルン、カゼッラ、フランツ・シュミット、コルンゴールト、エルガー、ラフマニノフ、ヴォーン・ウィリアムズらがいたとされるが、この中の何人かの不在説もある」とのことだが、何人かが欠けていたとしても錚錚(そうそう)たるメンバーであることに変わりはない。
テンシュテットの指揮も、この表現主義の頂点に立つ大作を、大時代的にではなく現代的に、かつ充溢した浪漫性を余すところなく表現している。まさに、白熱の名演である。
なべて移ろいゆくものは、
比喩にほかならず。
足らわざることも、
ここにて高き事実となりぬ。
名状しがたきもの、
ここにて成しとげられたり。
永遠の女性、
われらを高みへ引きゆく。
やはり、女性に敵う存在はないということか。
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2008-11-22 20:45
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さて、漸くマーラーである。
もう随分前の話になるが、私にはCDプレイヤーを買ったら、ぜひ買おうと思っていたCDセットが何組かあって、このバーンスタインのマーラー交響曲全集(13枚組み)は、そのうちのひとつだった。写真でご覧のように、この厚みが買った時代をよく表していると思う。今だったら、もっとコンパクトなパッケージにして、値段もずっと安いと思う。これは、堂島の「ワルツ堂」で買ったものである。
私は87年の1月に引越しすることが決まっていたので、CDプレイヤーを買うのをそれまで控えていたのであるが、引越しを待たずしてすでに84年頃にはLPで、柴田南雄先生の本を参考にして、第10番のクック補筆完成版を除いて、全ての曲を聴いていたのである。どの曲を誰の演奏で聴いたかは、7月8日の当ブログでご紹介したので、ここでは繰り返さないが、すでにバーンスタインより若い世代の指揮者による演奏に馴染んでいたのである。
柴田先生の言葉を引用させていただくと、マーラーの交響曲は「誕生時がすでに表現主義の演奏様式(マーラー自身やワルター)の時代であり、ついで両大戦間の新古典主義の洗礼をうけ(セル、ホーレンシュタイン、クーベリックら)、今ようやく60年代以後の今日的様式での好演があらわれつつある。(メータ、アバド、レヴァイン)」(柴田南雄著「マーラー演奏のディスコロジー 前編(78年1月の記)」より)ということになる。
しかし、レナード・バーンスタインは1918年生まれで、ジェームズ・レヴァインは1943年生まれである。25歳も年が違うのである。25年といえば四半世紀である。クラウディオ・アバドにしても、1933年生まれだから、バーンスタインより15歳も若いのだ。私は、バーンスタインによる交響曲全集を聴きながら、やはり指揮者の年代の差を感じざるを得なかった。私の耳には、晩年のバーンスタインの演奏は「遅く」「粘りっこく」感じられた。この全集の中で唯一再録音が叶わず過去の(1975年のザルツブルク音楽祭のライブ)録音を使った「第8番《千人の交響曲》」の冒頭の気迫が、歳月の流れを示しているように思う。ついでにいえば、晩年のグレン・グールドのテンポも非常に「遅い」。それと、交響曲第4番の第4楽章のソプラノソロを、ボーイ・ソプラノに歌わせているのも、私には違和感があった。
私はまだ、老境の域に達していないのかもしれないと思いつつ、この全集が心にぴったりと来るときまで手元に置いておこうと思っている。
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2007-09-18 19:59
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ブルックナーもマーラーも、今日のクラシック音楽産業を支える重要な二本柱の様相を呈している。特にブルックナーの場合は、同じ曲でも何度か改訂されているので、レコード会社も何か新しい話題になるような演奏を提供すべく、第3番の初稿を出したり、「ダブル・ゼロ」(第00番)を出したりと、色々と商魂たくましい。
マーラーの場合も、ノリントンのノン・ヴィブラート奏法の演奏で「花の章」つきの「巨人」を出したりして、何とか新しいものを提供しようと躍起になっているようである。まあ、消費者としては珍しい演奏が次々に出てきて、何となく購買欲をそそられるが、私としては少々食傷気味ではある。別に私は、クラシック音楽産業を非難しているわけではない。自分自身が、常に新しいものを求めているので、文句を言える立場には無いのである。
ところで、前置きが長くなってしまったが、今日の本題は「ブルックナーとマーラー」とどっちが好きか、という単純な話である。結論から言うと、私はブルックナーのほうが好きである。 その理由は、マーラーの場合、何か「頭」で音楽を描いているような感じがあって、心底、感動できないところがある。別に音楽理論を特別に勉強したわけでもなければ、スコアも読めない私が、耳で聴いた感じだけで話しているのをご承知の上お聞きいただきたいのだが、マーラーは良くも悪くも「都会の知識人」であり、ニーチェのツァラトゥストラやゲーテのファウストなんかを引用して、いかにも世紀末の爛熟した文化の落とし子という風に見える。きっと、彼のスコアも校正に校正を重ねた緻密なものなんだろうと思う。
それに対し、ブルックナーは田舎のオルガン弾きのおじさん(もちろん彼もウィーンにいたことはある。)という風情で、彼の作品は自分の感情を素直に五線紙に描きつけた結果できた音楽という風に、私には感じられる。そしてそのことが、彼の音楽に理屈抜きで惹かれる理由なのかもしれない。「心」が伝わるのである。
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2007-07-17 20:29
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ブルックナーについて /
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マーラーに入門して徐々に彼の音楽の「語法」に慣れてくると、同じ曲でも色んな指揮者の演奏で聴きたくなり、バーンスタインの全集も買ったし、分売されていたレヴァインの選集も全部買い揃えた。バーンスタインとベルリン・フィルのライブ(1979年の録音)も買った。
意外と知られていないかもしれないが、ハイティンクがコンセルトヘボウ管弦楽団と毎年クリスマスに行うコンサートのライブでの選集(CD9枚組、PHILIPS)は、名演揃いである。(ただし、これには6番と8番が欠けている。その代り、歌曲集「さすらう若人の歌」と「少年の魔法の角笛」からの数曲が含まれている。)これは、全身全霊を懸けた「重い」バーンスタインと、レヴァイン、アバドなどの新世代の「あまり粘り気のない」演奏の中間に位置するような演奏である。
マーラーの生演奏は、シャイーの指揮でコンセルトヘボウ管弦楽団の第3番を聴いたことがあるが、演奏全体が冗長な感じで、もう少し引き締まったところが欲しかった。
今はもう「マーラー熱」は醒めたので、ノリントンのノン・ヴィブラート奏法のマーラーのような少し変わったCDが出ると買う程度であるが、正直なところノリントンの演奏には少し失望している。第2番はまだ買っていないが、これまでリリースされたものは、あまり感心できない。特に第5番は、第1楽章からアダージェットまではある程度予想通りの、あっさりとしたテンポの速い演奏であるが、最終楽章がやけにモタモタしていて、これでは、それまでの努力が水の泡になってしまう。
もし、「無人島に1組だけマーラーのディスクを持っていくならどれにするか?」と問われれば、今の私はあのワルターがウィーン・フィルを振った1938年の第9番を持っていくと答える。(なお、この演奏の録音は何種類かあるが、DUTTON盤が一番音が良くお勧めである。)
P.S 第8番「千人の交響曲」は、絶対にテンシュテットのDVDで鑑賞すべきだと思う。あの迫力は、音だけでは伝わらないと思う。
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2007-07-09 20:29
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