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2012年04月28日(土)
今日ご紹介するディスクのジャケットは、至って簡単である。作曲家の名前と演奏者の名前が書いてあるだけである。
作曲家の名前はエミール・シェーグレン(Emil Sjögren, 1853 - 1918)と言うので北欧系の作曲家だと思ったら、やはり彼はスウェーデンの作曲家だった。
しかし、いつものように私はこの作曲家の名前を、今までに一度も聞いたことがない。そもそも、ドイツやオーストリアの音楽を「西洋音楽」として捉える考え方からすると、1850年代生まれの作曲家で有名な人はほとんど見当たらないのだ。
ドイツのロマン派の初期の作曲家であるヴェーバーは1786年生まれで、シューベルトは1797年生まれであるが、それ以降になるとメンデルスゾーン、シューマンは1810年頃に生まれており、ブラームスでさえ1833年生まれである。
その後はと言うと、マーラーが1860年、R.シュトラウスが1864年に生まれているが、今日の主人公であるシェーグレンと同じ1950年代に生まれた作曲家は、エンゲルベルト・フンパーディンク(Engelbert Humperdinck, 1854 - 1921)ぐらいしか見当たらない。フンパーディンクはバイロイトでヴァーグナーのアシスタントを務めた作曲家であるが、ヴァーグナー自身は1813年生まれである。
もちろん話をドイツ語圏の作曲家に限るからロマン派と後期ロマン派の間に大きな溝があるように感じられるが、ビゼーは1838年、チャイコフスキーは1840年、グリーグは1843年に生まれているので、ロマン主義音楽はヨーロッパでそれぞれの民族性を帯びながら、着実に広まっていたのである。
そうした流れを押さえた上で、スウェーデンのエミール・シェーグレンという作曲家を眺めてみると、彼はロマン派の作曲家であることは間違いないが、独墺文化圏の影響よりもフランスのロマン派の影響を受けているように思えるのである。
彼はストックホルムで生まれているが、それは彼の両親が地方から首都ストックホルムに移住してきたからである。父親はカルマル市 (Kalmar)出身で、衣類の販売を生業としていた。しかし、シェーグレンが10歳の時に父親が亡くなったので、母親は下宿屋を営んで生計を立てた。
したがって、彼は母親を始め、祖母や親戚の女性たちに囲まれて育ったのである。そうした女性たちの中に、彼の音楽的才能を見出しそれを育んだ女性がいた。1869年に彼がストックホルム音楽院に入学できたのは、その女性による教育に因るところが大きいと思われる。
1874年に同音楽院を卒業した彼は、1879年から1880年に掛けてベルリンに留学し、フリードリヒ・キール(Friedrich Kiel, 1821 - 1885)やカール・アウグスト・ハウプト(Carl August Haupt, 1810 - 1891)に師事している。彼は帰国後、1881年から1883年まで、ストックホルムにあるフランス改革派教会のオルガニストを務めている。
しかし、彼は当時のスウェーデンの伝統に飽き足らず、国外に脱出することを熱望していた。1883年にコペンハーゲンに赴いた彼は、その後、ヴィーン、メラーノ(Merano)、ミュンヘンを歴訪し、1885年にはパリを訪問した後、デンマークを経てベルリンに戻っている。
1890年に彼はストックホルム聖ヨハネ教会のオルガニストに就任し、ストックホルムで没するまでその地位にあった。彼は1897年に教え子のベルタ(Berta)と結婚してストックホルムに居を構えたが、そこにじっと留まっていたわけではなかった。
1901年の春にシェーグレン夫妻はパリに旅行し、ジャック・ティボー(Jacques Thibaud, 1880 - 1953)、ジョルジェ・エネスク(George Enescu, 1881 - 1955)、アレクサンドル・ギルマン(Alexandre Guilmant, 1837 - 1911)といった国際的に最高水準にある演奏者たちのコンサートに足を運んでいる。
したがって、シェーグレン夫妻は第一次世界大戦が勃発するまで、ほぼ年に一回のペースでパリを訪れているのである。だから、シェーグレンの作品にフランスの風味が感じられても、不思議ではないのだ。そんな彼が残した作品には歌曲やピアノ曲が多いが、今日はその中からピアノ作品集を収録したディスクを聴いてみた。収録曲は以下の通りである。
1.旅のスケッチ Op. 15 (1884)
2.エレジー Op. 41, No. 1 (1904)
3.はるかな国 Op. 41, No. 2 (1905)
4.ユモレスク Op. 41, No. 3 (1905)
5.キジバト Op. 41, No. 4 (1905)
6.今と昔の思い Op. 23 (1890)
7.ピアノ・ソナタ第2番 Op. 44 - 第2楽章 アンダンテ・カンタービレ・エ・コン・モート (1905)
ピアノ独奏は、イングリド・リンドグレン(Ingrid Lindgren)である。この女性ピアニストについて詳しいことは判らないが、このディスクが“Bluebell”というスウェーデンのレーベルから発売されているので、スウェーデン人だと思われる。
最初の「旅のスケッチ」が最も作曲年代が古いが、この頃から彼の作品にはドイツ風の厳格さよりもフランス風の優雅さが漂っている。
第1曲「朝の散歩」 - 第2曲「森の中で」 - 第3曲「湖上で」 - 第4曲「村の宿屋」 - 第5曲「セレナーデ」 - 第6曲「夕べの雰囲気」の6曲から構成されており、力強さと繊細な詩的表現を兼ね備えた独自の世界を構築している。
「Op. 41」の4つの小品は、長くても3分程度の小品ばかりであるが、やはり北欧風の清涼感を湛えながらも、大仰な楽想に陥ることなく、軽妙洒脱な性格的小品になっている。
「今と昔の思い」は7曲の小品から構成されているが、この作品は各曲に「旅のスケッチ」のような標題が付けられていない。演奏時間はこのディスクで33分17秒を要しているが、「今と昔の思い」よりも雄大な印象を受ける。しかし、シェーグレンの持ち味はここでも失われておらず、北欧の厳しさよりも移ろいゆく気分をそのまま音にしたような雰囲気を漂わせている。
若き日のヴィルヘルム・ステーンハンマル(Wilhelm Stenhammar, 1871 - 1927)に作曲を教えていたこともあるというシェーグレンだが、その作風はフランスの印象主義音楽の到来を予告するように響くのである。
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2012-04-28 22:58
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2012年04月15日(日)
春らしい感じのするジャケットに惹かれてこのピアノ曲集を聴き始めたが、スヴェン・エリク・タープ(Svend Erik Tarp, 1908 - 1994)というのがどこの国の作曲家か私は知らなかった。
それで調べてみたところ、この人はデンマークの作曲家であることが判った。しかし、デンマーク国内でもあまり知名度が高くないのか、WIKIPEDIAには彼についての記述がないのだ。
こういうケースは非常に珍しいので私も一瞬戸惑ったが、CDの解説書に彼の経歴が掲載されているので、それを参照することにした。それによると、彼はデンマークのティステ(Thisted)という町で生まれ、彼の父親はその町とフェレッツレヴ(Fjerritslev)の間を繋ぐ鉄道会社を経営していた。
タープが2歳の時に家族はコリング(Kolding)に引っ越し、彼の父親は雇われて民営鉄道の経営に従事することになった。したがって、タープは少年時代をコリングの街で過ごすことになったのである。彼は1927年にコリング高等学校(Kolding Højere Almenskole)を卒業し、その後間もまなくコペンハーゲン大学で音楽を学び始めるが、1930年にはデンマーク音楽アカデミーへの入学が認められ、そこで2年間学んだ。
その後彼は、更なる研鑽を積むために、1933年と1937年にドイツ、オーストリア、オランダに留学している。また、1936年から1940年までは、コペンハーゲンの王立劇場アカデミーで教鞭を執り、1942年には母校のデンマーク音楽アカデミーで聴覚訓練、音楽史、音楽理論の講義を担当している。
さらに彼は、1941年から1945年までの間、デンマーク王立教育研究学校で教鞭を執るとともに、コペンハーゲン大学でも教職に就いて音楽学を教授している。しかも、それに先立つ1938年には、デンマークの作曲家や音楽出版者の権利を管理する非営利団体“KODA”の運営に従事するようになっていた。
彼は当初コンサルタントして働いていたが、1961年から1974年までは統括部長を務めている。また、1956年から1962年までの間に彼は、デンマーク放送協会の音楽顧問を努めている。上記の経歴から解ることは、彼がデンマークの楽壇において重要な管理業務を行なう立場にあったということである。
しかし、こうした要職にあったことは、彼の作曲活動を阻害することはなかった。彼は多くのピアノ作品に加えて、代表作とされる「ピアノ協奏曲 ハ長調」や10曲の交響曲を作っているのである。彼が交響曲第10番を完成したのは、死の2年前の1992年のことである。だが、どういうわけか彼の作品で、録音されているものは極めて少ない。
ということで、今日はそんな希少なディスクのうちで、彼のピアノ作品集を収めたディスクを聴いてみた。収録曲は以下の通りである。
1.主題と変奏 「カリヨン」 Op. 43 (1944)
2.ピアノ組曲 (1927/1929)
3.ピアノ・ソナチネ Op. 48 No. 1 (1945)
4.ピアノ・ソナチネ 「ファンタジエッタ」 Op. 48 No. 2 (1945)
5.ピアノ・ソナチネ Op. 48 No. 3 (1945)
6.3つのインプロヴィゼーション Op. 21 (1934)
7.ピアノ・ソナタ Op. 60 (1956)
ピアノ独奏は、トーニャ・レモー(Tonya Lemoh)である。レモーは、西アフリカの西部にあるシエラレオネ共和国出身の父親とオーストラリア人の母親を持つシドニー生まれのピアニストである。
さて、デンマークの楽壇に多大な貢献をし、生涯に10曲もの交響曲を書いているにも拘らず、なぜタープの知名度が低いのかということは、最初の収録曲「カリヨン」を聴けば何となくわかるような気がする。
というのは、この主題と変奏から成る10分余りの曲から聴き取れるのは、デンマークの民族性ではなく、フランス風の軽妙洒脱な雰囲気だからである。
タープに関するNMLの短い解説にも、「フランス6人組(Les Six)」からの影響を受けていると書かれているし、このディスクのレーベル“Dacapo”のウェブサイトにも、ドイツからの圧倒的な影響よりも、フランスの音楽文化に親近性があると書かれている。
上述したように、彼はドイツ、オーストリア、オランダに留学しているが、フランスに留学したという記述はない。それにも拘わらす、「フランス6人組」や「印象主義」の影響さえ指摘する記述が多い。実際に4曲目の「ファンタジエッタ」では全音音階を使って書かれたような旋律も登場する。
長調でも短調でもないという点で調性感は曖昧だが、無調とか十二音技法とは全く違った曲想である。6曲目の「3つのインプロヴィゼーション」は即興演奏風に作られているが、ジャズのインプロヴィゼーションのような即興演奏ではなく、ジャズのような雰囲気は感じられない。
いずれにしても、このディスクだけを聴いて彼の音楽性を論じることは不可能で、少なくとも20世紀末に作られた交響曲を何曲か聴いてみないと彼の全体像は見えてこないだろう。20世紀の音楽という観点から捉えれば、これらのピアノ曲の作風は、やや「時代遅れ」とも感じられるが、デンマークの音楽史上で独自の地歩を固めていることだけは確かなのである。
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2012-04-15 22:40
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2012年04月04日(水)
「船頭多くして船山に上る」とはよく言ったもので、わが内部監査室は4月1日付で新しく就任した室長以外にも、前室長の「担当部長」や定年後の再雇用者など、年長者が自分勝手に色んな指示を出すので、纏まりが付かない状態になっている。
その上、私は毎日2時間は子会社の経理事務員をやっているので、内部監査のあれやこれやに時間を費やしていられない。これは前室長の残した負の遺産である。
きちんと、物事の筋道を立てて考えずに、上から言われたことをそのまま引き受けてくるからこういう事態に陥っているわけで、その辺を整理して上層部に異議申し立てができる人間がいないと、どんな組織でもまともに機能しないのである。
そんなこんなで、私の疲労感は頂点に達しているが、息子の就職はまだ決まっていないので、隠退して悠悠自適の生活を送るわけにはいかないのだ。ということで、今日もまたPCに向かってキーボードを叩いているわけである。本当は、もっとじっくりと時間を掛けて勉強したいこともあるのだが、会社員は一日の大部分を仕事に費やしてしまうので、残された時間は少ないのだ。
したがって、今日ご紹介するディスクもそれほど時間を掛けて選んだわけではないが、20世紀の北欧の音楽を最近聴いていないように思うので、聴いてみることにした。私はデンマークのカール・ニールセン(Carl Nielsen, 1865 - 1931)の豪放磊落な作風に元気づけられることが多かったので、今日は20世紀のスウェーデンの作曲家で、それほど前衛的な作風ではないグンナル・デ・フルメリー(Gunnar de Frumerie, 1908 - 1987)の作品集を選んでみた。
この人はストックホルム県のナッカ(Nacka)という街で生まれ、ストックホルムとヴィーンでピアノを学んだ後、パリでピアニストのアルフレッド・コルトー(Alfred Cortot, 1877 - 1962)に師事している。さらに彼は、1923年から1928年までの間、ストックホルム音楽大学で研鑽を積んでいる。
彼は幅広い分野で作品を残しているが、やはりピアノの達人だったようで、ピアノのための作品が最も有名だそうである。WIKIPEDIA(英語版)には、ブラームスの複雑性と印象主義の優雅さを混ぜ合わせたような作風だと紹介してあるが、実際に聴いてみると北欧的な線の太さを感じる。それは、厳冬に耐え得る者だけが持っている力強さの反映であろう。
以上の説明を読んでから彼の作品を選んでいたら、彼のピアノ協奏曲を選んでいたかも知れないが、私は彼についての予備知識なしにディスクを選んでしまったので、このディスクにはピアノのための作品は含まれていない。収録曲は以下の通りである。
1.チェロ協奏曲 Op. 81 (1984年版)
2.ヴァイオリン協奏曲 Op. 19 (1976年版)
3.交響的変奏曲 Op. 25 (1940 - 41)
演奏はリュー・ジア(Lü Jia, 1964 - )指揮ノールショッピング交響楽団で、「チェロ協奏曲」のチェロ独奏はマッツ・リードストレム(Mats Lidström, 1959 - )、「ヴァイオリン協奏曲」のヴァイオリン独奏はトビアス・リングボリ(Tobias Ringborg, 1973 - )である。
「ヴァイオリン協奏曲」は1936年に作曲されたが、1975年から1976年に掛けて改訂されているので、このディスクはその改訂版を使用した演奏である。
「チェロ協奏曲」もわざわざ「1984年版」と書いてあるので、何年か前の作品の改訂版であろうが、原典版の作曲年代は不明である。
これらの協奏曲は3楽章様式で、調性感は曖昧だが前衛的な作風ではない。オーケストラを思いっ切り響かせて、息の長い旋律を奏でるという点では、北欧の正統的な作風だと言えよう。
そういう意味では、同じスウェーデンのヴィルヘルム・ステーンハンマル(Carl Wilhelm Eugen Stenhammar, 1871 - 1927)や、デンマークのニールセンのような骨太な豪快さを持っているのである。今日の私にはチェロの野太い音のほうが好みに合うが、ヴァイオリン協奏曲も決して線の細い音楽にはなっていない。
最後の「交響的変奏曲」は、タイトルが示す通り主題と11の変奏から構成されており、最後の変奏の後をフーガで締め括っている。この主題は、北欧の民謡のような雰囲気を漂わせている。演奏時間は18分程度の曲だが、変化に富み、満々と水を湛えた大河のように勇壮に流れて行くのである。
これらの作品は、やはり北欧ならではの音楽であり、スケールの大きさをまざまざと感じさせるのだ。「チェロ協奏曲」を書いた(改訂した)1984年には、フルメリーは既に76歳である。私も老醜を晒すことなく、活き活きとした老後を送りたいと思った。
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2012-04-04 22:19
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2012年02月13日(月)
私がこのディスクを聴いてみようという気になったのは、オット・マリング(Otto Malling, 1848 - 1915)という作曲家に興味があったからではなく、ジャケットの白いドレスを身に着けた女性の絵画に惹かれたからである。
しかし、こういう趣味の良いジャケットのディスクは、内容も充実していることが多いというのが私の経験則である。
したがって、取り敢えず聴いてみることにしたのだ。このディスクの発売元である“Dacapo”というレーベルはデンマークのレーベルで、ブクステフーデからニールセン、ノアゴーまで北欧作曲家の作品を幅広く手掛けているそうである。ここまで書けばお解りのように、今日ご紹介するオット・マリングは、デンマークの作曲家なのである。
ニールセンが1865年生まれだから、マリングはニールセンより17年前に生まれている。しかし、彼のことはWIKIPEDIA(デンマーク語版)にもそれほど詳しく記されているわけではなく、彼に対する関心は祖国でもそれほど高くはないようである。
彼はコペンハーゲンで生まれ、ニルス・ゲーゼ(Niels Gade, 1817 - 1890)やヨーハン・ペーター・エミリウス・ハートマン(Johann Peter Emilius Hartmann, 1805 - 1900)に師事したことは知られているが、その生い立ちや幼少期の頃のことはほとんど知られていない。
彼の音楽上のキャリアは、1875年に学生合唱協会の副指揮者を務めたことから始まる。また、彼はコペンハーゲンのサンクト・ペトリ教会(Sankt Petri Kirke)でオルガニストを務める傍ら、1874年にコペンハーゲン演奏協会の共同設立者となり、1889年に王立デンマーク音楽院の教授、1909年からは同音楽院の院長に就任している。
そして、1900年にはコペンハーゲン大聖堂のオルガニストの地位に就いている。したがって、世紀の変わり目のデンマーク音楽界では、彼は大きな尊敬を集めていたのである。それは、彼がコペンハーゲン音楽院において、ハートマンの後継者となったことからも窺い知ることができる。
彼はあらゆるジャンルの作品を書いたが、彼の死後、デンマーク国内では音楽の嗜好が変わってしまい、それとともにマリングのことも忘れ去られてしまったという。しかし、彼はデンマーク人として最初に管弦楽法の教則本“Instrumentation Lære til Brug ved Undervisning og til Selvstudium (1897)”を執筆することによって、デンマークの音楽界に多大なる貢献を果たしたのである。
彼の作品に再び脚光が当てられるようになったのは、20世紀後半になってからだそうである。そんな彼のピアノのための作品を収めたのが、今日ご紹介するディスクである。収録曲は以下の通り。
1.ピアノ協奏曲 ハ短調 Op. 43 (1890)
2.ピアノ三重奏曲 イ短調 Op. 36 (1889)
演奏は、ペッテル・スンドクヴィスト(Petter Sundkvist, 1964 - )指揮デンマーク放送シンフォニエッタで、ピアノ独奏はアマリエ・マリング(Amalie Malling, 1948 - )である。また、「ピアノ三重奏曲」では、エリザベト・ツォイテン・シュナイダー(Elisabeth Zeuthen Schneider)のヴァイオリンと、モーテン・ツォイテン(Morten Zeuthen)のチェロとのトリオで演奏を行なっている。
ピアノを演奏しているアマリエ・マリングは偶然にも作曲者と同じ姓だが、血縁関係はないようである。
タイトルだけを観ると、2曲とも短調の曲なので暗くて憂鬱な曲想だと思われるかも知れないが、実際にはこのジャケットの絵画のように優美で繊細な曲想である。
「ピアノ協奏曲」は3楽章様式で、冒頭のオーケストラの響きは分厚いが、それがピアノの音色の登場とともに次第に柔らかな表情を見せ始める。
したがって、ニールセンのように豪放磊落な面とともに、非常に細やかな感情表現が随所に窺えるのである。アマリエ・マリングのピアノは力強さに欠けていないが、力で押しまくるような演奏ではない。
むしろ、彼女のピアニズムとマッチするのは「ピアノ三重奏曲」のほうで、ここでは軽やかなピアノのタッチが、ヴァイオリンとチェロとともに柔らかな音響空間を生み出している。
オット・マリングが亡くなった1915年に、デンマークでは女性参政権が認められており、これは全世界でも早い部類に属する。それ以降、福祉国家への道を歩み始めたデンマークにとっては、20世紀初頭のこの時期が時代の変わり目に当たっていたのであろう。19世紀風の優雅さは、ポストモダンの時代になって再び蘇ったのである。
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2012-02-13 22:12
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2012年01月12日(木)
私がかつて北欧の音楽に凝っていた時、ヨハン・スヴェンセン(Johan Svendsen, 1840 - 1911)の2つの交響曲は聴いたことがある。
しかし、その時の印象があまり強くなかったのか、それ以降彼の作品は聴いたことがないように思う。
そして、今日このディスクに巡り会って聴いてみようという気になったのは、弦楽四重奏曲と弦楽八重奏曲という組み合わせだったこともあるが、どちらも作品番号が若いからだった。
彼はその名前から想像が付くように北欧の作曲家であるが、デンマークだったかノルウェーだったか記憶が定かではない。それで調べてみると、彼はノルウェーのクリスチャニア(Christiania)で生まれているが、この街は現在のオスロである。そして、彼が生まれた時、この街はスウェーデンの統治下にあった。
彼の父親は音楽の教師だったので、彼は父親からヴァイオリンとクラリネットを学んでいる。そして、彼は学業を終える以前から、既にオーケストラの団員として活動を始めており、時折ヴァイオリニストとして演奏旅行にも出掛けていたのである。
そんな彼がドイツのリューベック(Lübeck)を訪れた際に、裕福な商人の目に留まり、そのお蔭で彼は1863年から1867年まで、ライプツィヒ音楽院に留学させてもらえることになった。彼は当初、フェルディナンド・ダヴィッド(Ferdinand David, 1810 - 1873)に師事してヴァイオリンを学び始めたが、その後作曲に転じてカール・ライネッケ(Carl Reinecke, 1824 - 1910)に師事することになった。
1867年には作曲で最優秀の成績を修めて卒業するが、その間に既に結婚して一児を儲けている。その後、徐々に彼の関心は指揮に向かい始め、パリ(1868年 - 70年)とライプツィヒ(1870年 - 72年)で研鑽を積んだ後、生まれ故郷のクリスチャニアに戻っている。
しかし、彼はそのまま故郷で作曲に専念したわけではなく、その後も渡米したり、ドイツ、イタリア、イギリス、フランスを渡り歩き、その間に結婚したりしている。彼がデンマークのコペンハーゲンに落ち着くのは、1883年にコペンハーゲン王立劇場管弦楽団の首席指揮者に任命されてからである。
その後彼は没するまでコペンハーゲンで暮らすことになったので、ノルウェーの作曲家だが、人生の大半をデンマークで過ごしたと言われることになった。しかし、コペンハーゲンでの暮らしは安穏としたものではなく、1884年にはニューヨークで知り合った夫人サラ(Sarah)と離婚している。
彼らの夫婦仲は数年間に亘って最悪の状態だったらしく、サラが怒りに駆られてスヴェンセンの交響曲第3番の唯一の写筆譜を暖炉に投げ込んで燃やしてしまったこともあったという。しかし、彼はこれに懲りず、1901年12月10日に離婚した後、同年12月23年には別の女性と再婚しているのだ。
しかし、今日ご紹介する彼の作品は、そんなゴタゴタよりもずっと前に書かれた作品である。収録曲は以下の通り。
1.弦楽四重奏曲 イ短調 Op. 1 (1865)
2.八重奏曲 イ長調 Op. 3 (1866)
演奏はコントラ四重奏団(Kontra Quartet)というデンマークの弦楽四重奏団であるが、「八重奏曲」では他にヴァイオリン2挺とヴィオラ、チェロが加わっている。
作曲年代を見ればお解りのように、これらの作品はライプツィヒ音楽院に在学中に書かれている。年齢的には20代半ばの頃の作品である。
したがって、どちらの曲も若々しいエネルギーに溢れており、特に「八重奏曲」は響きが分厚く若い情熱が迸っている。
どちらも4楽章様式で、「弦楽四重奏曲」の演奏時間は25分程度だが、「八重奏曲」は41分余りを要する大曲である。
私はかつて聴いた彼の2つの交響曲の記憶がないので、それと比べて論じることはできない。同世代のエドヴァルド・グリーグ(Edvard Grieg, 1843 - 1907)ほどノルウェーの民族性を感じさせず、スケールの大きいダイナミックな曲想である。
それは、彼がまだ若い頃の作品だからなのか、それともライプツィヒ音楽院で学んでいた頃に作ったからなのか、私には分かるはずもない。しかしこれらの作品は、彼が20代半ばにしてドイツ・ロマン派の音楽様式を完全にマスターしていたことを示しており、更なる跳躍の可能性さえ秘めているのだ。
それにしても悔やまれるのは、彼が1882年から1883年に掛けて作った「交響曲第3番 ホ長調」が焼失してしまったことである。彼が現代に生きていたならば、楽譜のコピーをUSBメモリーに保存して持ち歩いていたに違いない。
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2012-01-12 23:05
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