2012年05月19日(土)
シューマンの歌劇「ゲノフェーファ」
私がロベルト・シューマン(Robert Schumann, 1810 - 1856)が歌劇を作っていたことを知ったのは、5月15日に彼の「交響曲第1番『春』&序曲集」を聴いた時だった。

しかし、こういうあまり有名でないオペラは、DVDはおろかCDでも発売されていないだろうと思った。だから、駄目元でHMVのウェブサイトで捜してみたところ、意外なことにこのオペラのDVDがあったのである。

このディスクは輸入盤だが日本語字幕が付いているので、早速買い求めて鑑賞してみた。Blu-ray Disc でも同じ映像が愉しめるが、私はそれほど画質に拘るほうではないので、2,000円余り安いDVDを買い求めたのだ。

私はヴェルディやプッチーニのオペラの新しい演出のディスクが発売されてもあまり興味が湧かないのだが、上演される機会が少ないドイツ・ロマン派のオペラは、目に付けばすぐに買うことにしている。こういうオペラは、すぐに廃盤になってしまうことが多いからである。

以前にも書いたように、このオペラはシューマンが完成させた唯一のオペラで、クリスティアン・フリードリヒ・ヘッベル (Christian Friedrich Hebbel, 1813 - 1863)の戯曲「ゲノフェーファ(Genoveva)」に基づいている。当初、シューマンは友人のロベルト・ライニック(Robert Reinick, 1805 - 1852)に台本の製作を依頼したが、ライニックのテキストに満足できなかったシューマンは、最終的には自分の納得がいくように書き改めている。

シューマンは1847年4月に序曲の構想を練り、大まかなスケッチを書き上げているが、オペラ全曲の完成は1849年で、翌1850年6月25日にライプツィヒの歌劇場でシューマン自身の指揮によって初演されている。したがって、彼の「交響曲第2番」と同時期に作曲された作品なのである。

全四幕のオペラで、このディスクの収録時間は146分だから、特段に長大なオペラではない。ストーリーを簡略化して言えば、スペインからイスラム教徒が侵入してきたために、ジークフリート伯爵が討伐のために出征して居城を空けた隙に、家臣のゴローが伯爵夫人のゲノフェーファに言い寄る。しかし、貞淑な妻ゲノフェーファはそれに応じなかったために、奸計に巻き込まれるというものである。

ただし、ゴローの乳母であるマルガレータが魔女という設定になっているので、単なるメロドラマや男女の愛憎劇にはなっていないのだ。リヒャルト・ヴァーグナー(Richard Wagner, 1813 - 1883)を引き合いに出すまでもなく、モーツァルトの歌劇「魔笛」でも、神官ザラストロや夜の女王のような得体の知れない「人物」が登場する。

私はあまり多くのイタリア・オペラを鑑賞していないが、ジュゼッペ・ヴェルディ(Giuseppe Verdi, 1813 - 1901)によって代表されるイタリアのロマン派オペラが、ヴェリズモ・オペラ(verismo opera)として現実を冷徹に描く方向へ進んで行くのとは対照的に、独墺のオペラでは魔性の存在が現実と超現実の世界を接合する役割を果たしているように感じられるのである。



このディスクの演奏は、ニコラウス・アーノンクール指揮チューリヒ歌劇場管弦楽団(Orchester der Oper Zürich)&合唱団で、配役は以下の通りである。2007年にチューリヒ・オペラ・ハウスで行われた上演がライヴ収録されている。

ゲノフェーファ: ユリアーネ・バンゼ(Juliane Banse :S)
ゴロー: スワン・マーシー(Shawn Mathey :T)
ジークフリート: マルティン・ガントナー(Martin Gantner :Br)
マルガレータ: コルネリア・カーリッシュ(Cornelia Kallisch :Ms)
ドラゴ: アルフレート・ムフ(Alfred Muff :Bs) ほか

演出はマルティン・クシェイ(Martin Kušej, 1961 - )という人が手掛けている。彼はオーストリア人だが、ケルンテン州(Kärnten)のスロヴェニア語を話す少数民族の出身だそうである。彼の演出は、極めて簡素な舞台装置と相俟って、非常に現代的である。すなわち、このディスクを観て違和感を覚える人が、少なからずいると私は思うのである。

まず、ゲノフェーファ、ゴロー、ジークフリート、マルガレータの4人が常に舞台上に存在していて、姿を消すことがほとんどない。歌詞の内容から考えて、これは台本のト書きを無視しているとしか思えないのである。

時代を20世紀や21世紀に設定することはしていないが、ゴローの乳母で魔女のマルガレータは、顔や手に泥または煤を塗ったゾンビのような姿で登場するので、実在の人物ではなく亡霊ではないかと思ったほどである。

したがって、最初は多少舞台設定が解かりにくいが、観ているうちに各人の人間関係が解かってくる。そしてこうした演出が、悪魔的なるものと、清廉なゲノフェーファが象徴する神的なるものとの対比を際立たせるのに役立っていることに気付くのである。

HMVのレビュアーの中にも「良く分からない演出」を書いておられる方がいらっしゃるけれども、魔女が登場するような物語を21世紀に上演する場合、ト書きに忠実に上演すると却って陳腐な印象を観衆に与えてしまうのではないかというのが、演出者の危惧したことではないだろうか。

政治の世界の権力闘争と男女間の愛憎を接合するのが、このドラマの魔女の役割であるとするならば、この演出は21世紀においてそれを現代的に描くために考え出された一つの方策であると言うことが出来る。

もちろん、ユリアーネ・バンゼが演じる清楚なゲノフェーファと、アーノンクール&チューリヒ歌劇場管弦楽団の引き締まった演奏がなければ、この演出は空回りしていたかも知れない。そういう意味では、必ずしも傑作とは言えないシューマン唯一のオペラに、この上演は新たな光を当てて現代に蘇らせる試みだと言えよう。

2012-05-19 23:01 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2012年03月04日(日)
メトロポリタン・オペラの「神々の黄昏」を観る
今日は例の「METライブビューイング」で、リヒャルト・ヴァーグナー(Richard Wagner, 1813 - 1883)の楽劇「ニーベルングの指環」の第3夜「神々の黄昏」が上映中なので、それを鑑賞するために映画館まで足を運んで観に行ってきた。

私は昨シーズンから始まった新しい演出による「指輪」を、「ラインの黄金」からずっと観てきたので、この四部作の最後を締め括る「神々の黄昏」は見逃すわけにはいかないのだ。

しかし、はっきり言って、私はあまり乗り気ではなかった。それは、今までに何作かヴァーグナーの「指輪」を観てきたけれども、「神々の黄昏」で私が完全に満足できるような演出・演奏には出会ったことがなかったからである。

しかも、ご存知のようにこの「神々の黄昏」は「指輪」の中で最も長大であるから、家でDVDによって鑑賞する時ですら、かなりの集中力を要する。ちょっと第1幕だけ鑑賞してみようと言えるような作品ではなく、全体を通して鑑賞しないとヴァーグナーの描いた世界が、迫真力をもって観る者を惹き付けないのだ。

「指環」四部作はそれぞれ独立した性格を持っているから、単独で上演することも可能だと言われているが、「神々の黄昏」は「ラインの黄金」、「ヴァルキューレ」、「ジークフリート」と続いてきた物語の締め括りになるので、やはり観るほうとしても、それなりにしっかりとした「着地点」をこの作品に求めてしまうのだ。

そのために私が過剰な期待をこの作品に求めているのかも知れないが、今までに観た「指輪」では、どうもこの「神々の黄昏」が満足のいく出来栄えになっていなかったように思えるのである。この作品には、もはやヴォータンは登場しないし、タイトルが示すように「神々の世界」は崩壊してしまうのだ。

しかし、この崩壊を迫真的に描き切った演出に、私は今まで出会ったことがない。ジークフリートの存在感が希薄だったり、「ブリュンヒルデの自己犠牲」が迫力不足だったりして、15時間以上に及ぶ上演時間を要する楽劇の締め括りとしては、どこか物足りなさが残ったのである。

今回のメトロポリタン・オペラの上演についても、私があまり乗り気でなかったのは、このシリーズでブリュンヒルデを演じているデボラ・ヴォイト(Deborah Voit)の演技に、私は満足していなかったからである。彼女は、私が初めて映像とともに鑑賞したブーレーズ&シェロー盤でのギネス・ジョーンズ(Gwyneth Jones)に比べれば、音程はしっかりしているし、演技も下手ではない。

しかし、ヴォイトにはヴァーグナーの楽劇に対する強い「思い入れ」のようなものが感じられず、どこか醒めた部分があるように私には思えるのだ。したがって、「神々の黄昏」の最終局面で、堆く積み上げられた薪に火を放って愛馬グラーネとともに炎の中に飛び込むというクライマックスを、彼女が見事に演じ切れるかどうか、私は大きな懸念を抱いていたのである。



そして結論から言えば、やはり最後の「ブリュンヒルデの自己犠牲」は、私の予想通り期待外れに終わった。演出は今回も従来と同じロベール・ルパージュ(Robert Lepage, 1957 - )で、「水圧システムで可動する24枚の巨大な板」を使用しているのも従来通りであるが、今回は機械仕掛けの「愛馬グラーネ」が初めて登場する。

これは遠目には本物の馬に見えるが、模型なので「空を駆ける」というような芸当はできず、動きも緩慢である。したがって、「ブリュンヒルデの自己犠牲」の部分は、「勢いよく馬に飛び乗り猛火の中へ一挙におどり込む」というト書きが付いているにも拘らず、舞台上ではブリュンヒルデを乗せた馬が、のろのろと舞台中央の「焚き火」に近付いて行くようにしか見えない。

かと言って、「水圧システムで可動する巨大な板」をグラーネとして利用することには、やはり無理があったのだろう。巨大な板は重量も相当あるので、「ヴァルキューレの騎行」の場面のように「軍団」として象徴的に使うことはできても、「空を駆ける」一頭の馬の代わりはできないと思うからである。

ということで、今回の「神々の黄昏」はやはり私が満足のいく演出にはなっていなかったが、悪いところばかりでないのは言うまでもない。前回の「ジークフリート」から急遽代役で出演したジェイ・ハンター・モリス(Jay Hunter Morris)は、ここでもジークフリートに課せられた役柄を見事にこなしている。

また、ドラマの準主役であるハーゲン役のハンス=ペーター・ケーニヒ(Hans-Peter König)もニーベルング族の父親アルベリヒの怨念を晴らすという役どころを手堅く演じており、舞台全体を引き締めている。

今回もジェイムズ・レヴァインに代わって、ファビオ・ルイージ(Fabio Luisi)が指揮を行なっているが、幕間のインタビューで彼自身が語っていたように、ドイツ風の重厚な響きをことさら強調することなく、ヴァーグナーのオーケストレーションの細部を際立たせるような演奏を行なっている。それでも開映後の上演時間が、休憩時間も含めて5時間28分だから、「神々の黄昏」を鑑賞するのは容易なことではないのである。

2012-03-04 21:57 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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2012年02月12日(日)
ミラノ・スカラ座の「ヴァルキューレ」を観る
今年の1月14日に、リヒャルト・ヴァーグナー(Richard Wagner, 1813 - 1883)の楽劇「ラインの黄金」のミラノ・スカラ座(Teatro alla Scala)での上演録画を観たが、今日はその続編である「ヴァルキューレ」を観ることにした。

これも前回と同様、昨年の年末にNHK BSプレミアムで放映されていたのを録画したものだが、前回の「ラインの黄金」が2010年5月26日の公演の録画であったのに対し、今回の「ヴァルキューレ」は2010年12月7日の上演録画である。

お断りするまでもなく、「ラインの黄金」に比べて「ヴァルキューレ」は、1.5倍位の上演時間を要する。したがって、時間があって比較的に精神的な余裕がある時でないと、なかなか鑑賞できないのだ。

今日は特に精神的余裕があるわけではないが、今日を逃すと今度いつ観られるか判らないので、取り敢えず観られる時に観ておこうという気持ちで、昼からどっぷりとヴァーグナーの世界に浸っていた。演奏はダニエル・バレンボイム指揮ミラノ・スカラ座管弦楽団で、演出はギー・カシアス(Guy Cassiers)である。この点は前回の「ラインの黄金」と同じである。

しかし、前回の「ラインの黄金」の続きだと思って観ていると、何となく違和感が湧いてきた。それが何に起因するのか考えてみると、まず今回の配役が「ラインの黄金」の場合とは違っていることが判った。この両作品に共通して登場するのは、ヴォータンとフリッカだが、二人とも前回と別の歌手が担当しているのだ。

そして、もう一つの要因は、「ラインの黄金」では多くのダンサーを舞台に登場させて、様々な事物を象徴的に彼らに担わせていたのに、「ヴァルキューレ」ではその手法が用いられていないことであった。したがって、演出家は同じでも、結果としてはかなり異なった印象を受けることになった。

舞台の背面を巨大なスクリーンにしてそこに画像を映し出すという方法は今回も採用されているが、多くのダンサーが登場しないことによって、全体的に静的で抽象的な演出になっているのだ。実際に劇場に足を運んでこの公演を観た人は、巨大な絵画の中で少人数の歌手によって劇が演じられているような印象を受けたに違いない。主な配役は以下の通りである。

ジークムント : サイモン・オニール(Simon O'Neill, 1971 - )
フンディング : ジョン・トムリンソン(John Tomlinson
ヴォータン : ヴィタリー・コワリョフ(Vitalij Kowaljow
ジークリンデ : ヴァルトラウト・マイアー(Waltraud Meier
フリッカ : エカテリーナ・グバノヴァ(Ekaterina Gubanova
ブリュンヒルデ : ニナ・シュテンメ(Nina Stemme

上記の配役をご覧になればお解りのように、歌手たちの出身国は様々であるが、フンディング役のトムリンソンの他は、1960年代〜1970年代生まれの歌手が多く起用されている。因みに左上の写真は、ヴォータンとブリュンヒルデである。



そもそも「ヴァルキューレ」の第一幕は、長い間生き別れになっていた双子の兄妹の近親相姦がテーマとなっている。しかも二人が再会するまでの間にジークムントは、様々な辛酸を嘗めて来た。それ故彼は、暗い影を引き摺りながら登場し、自らを「苦痛を守る者(Wehwalt)」と名乗るのである。したがって、ジークムント役の歌手は、容姿もさることながら、声にも暗い影が付き纏っていなければならない。

その点で、今回ジークムントを演じているオニールは、歌唱力は秀でていても、ジークムントの持つ暗さを表現し切れていないように思う。私が今までに観た上演の中では、シェロー&ブーレーズ盤のペーター・ホフマン(Peter Hofmann, 1944 - 2010)の印象が最も強く、未だに彼を上回るジークムントには出会っていない。

また、この楽劇の中で重要な役割を担うブリュンヒルデも、今回のシュテンメでは私のイメージにそぐわない。確かにシュテンメの歌唱はしっかりとしておりドラマティックな要素を満たしているが、映像で観る限り、私が今まで抱いてきたブリュンヒルデのイメージとは異なる。

なお、それに関連して言えば、今回の舞台ではヴァルキューレたちは鎧や兜を身に着けているようには見えず、有名な「ヴァルキューレの騎行」の場面でも、音楽は迫力をもって威勢よく響いているのに、舞台上の彼女たちからは、軍馬に乗って空中を飛び交うような勇姿を感じ取ることができない。

ブリュンヒルデはヴォータンに見つかる前から既に武装解除しているように見えるので、これに続く「ジークフリート」で鎧兜を着けていないブリュンヒルデを目覚めさるジークフリートは、その前からブリュンヒルデが女性だと分かってしまうのではないだろうか。

主役ではないが、フリッカやフンディングは存在感をもってそれぞれの役どころをこなしており、ヴォータンも「ラインの黄金」の時のルネ・パーペよりも屈折した心情の表現に長けていて重圧感がある。

前回の「ラインの黄金」に登場した多数のダンサーたちが登場しないのは、彼らの動きが何となく不気味で観客の不興を買ったからかも知れない。しかし、そういうものを排除して静的で抽象的な演出にしてしまうと、ヴィーラント・ヴァーグナーが第二次世界大戦後にナチス色を一掃するために採用した「新バイロイト(Neuen Bayreuth)様式」に近付いてしまいそうなので、充分な配慮をもって、真に現代人の心に訴え掛ける演出を目指してもらいたいと私は思うのである。

2012-02-12 22:14 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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2012年01月14日(土)
ミラノ・スカラ座の「ラインの黄金」を観る
私は風邪気味で今日の空模様も曇りがちなので、外出しようという気が起こらない。それでも午前中には、掛かり付けの医院に行って常用している薬をもらってきた。

明日は外出する予定があるので、今日はできるだけ静養して風邪を治さなければならない。

さて、昼からは何をしようかと考えていてふと思い付いたのが、年末に録画してあった「華麗なるオペラの世界」のミラノ・スカラ座(Teatro alla Scala)のオペラのことだった。

と言っても、私は熱心なオペラ・ファンではなく、好みが非常に偏っているので、NHK BSプレミアムで年末に放映されていたオペラを全て録画したわけではない。私が家内に録画を頼んだのは、リヒャルト・ヴァーグナー(Richard Wagner, 1813 - 1883)の楽劇「ラインの黄金」と「ヴァルキューレ」だけである。

ヴァーグナーの楽劇に限らず、オペラの愉しみの一つは、同じ作品でも歌手や演出、舞台装置などによって、そこから受ける印象が大いに異なることである。特にヴァーグナーの場合は、演出家の工夫を凝らす余地が大きいので、様々な舞台を観てそれらの違いを味わうのが結構おもしろいのだ。

ということで今日は、2010年5月26日に上演された「ラインの黄金」を鑑賞してみることにした。私にとっては、スカラ座というとイタリア・オペラの活動拠点というイメージが強く、ヴァーグナーのオペラとは少し縁遠い感じがした。

さらに言えば、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場(Met)で上演されているヴァーグナーの「指輪」とスカラ座のそれとの相違点や共通点を知りたいという欲求もあったのだ。“Met”はアメリカの歌劇場らしく舞台上演を映画化して世界中に配給しているが、それに比べるとスカラ座の映像はそれほど広範に配信されていないと思う。したがって、観てみる価値は充分にあると思ったのである。この上演の主なキャストは以下の通りである。

ヴォータン : ルネ・パーペ(René Pape
ローゲ : シュテファン・リューガマー(Stephan Rügamer
アルベリヒ : ヨハネス・マルティン・クレンツレ(Johannes Martin Kränzle
ミーメ : ヴォルフガング・アプリンガー・シュペルハッケ(Wolfgang Ablinger-Sperrhacke
ファゾルト : ヨン・クワンチュル(Kwangchul Youn
ファフナー : ティモ・リーホネン(Timo Riihonen
フリッカ : ドリス・ゾッフェル(Doris Soffel)
フライア : アンナ・ザムイル(Anna samuil

演奏は、ダニエル・バレンボイム指揮ミラノ・スカラ座管弦楽団で、演出はギー・カシアス(Guy Cassiers)である。

左上の写真はこのスカラ座の上演の一場面で、左の男性がヴォータン、右の女性がフリッカである。かつてブーレーズ&シェローのコンビで「指輪」が初めてバイロイトで上演された時には、「スーツを着た神々なんてあり得ない」という非難を浴びたらしいが、この写真を観ていただければお解りのように、もはやスーツを着た神々は当たり前のこととなってしまった。

そして、三枝成彰さんの解説にもあったように、舞台の背面を巨大なスクリーンにしてそこに画像を映し出すことが、最近のオペラの流行だそうである。したがって、この上演でも巨人のファゾルトとファフナーは、舞台背後のシルエットによって巨人であることを暗示させているが、それぞれの演者は巨人のように装うことをしていない。



さらに、この演出の特徴は、舞台に多くのダンサーを登場させて、様々な事物を象徴的に彼らに担わせていることである。例えば「隠れ頭巾(隠れ兜)」も実際に小道具を使うのではなく、ダンサーたちの群れによって表現されるし、それを使ってアルベリヒが変身した蛙も、小道具ではなく、うずくまったダンサーの群れに緑色の光を当てることによって表現されている。

歌手の中では、「真っ黒で瘤だらけ」とか「ひき蛙のような格好」とラインの娘たちから揶揄されるアルベリヒが意外とスマートで、しかも存在感のある存在となっている。これは、アルベリヒ役のクレンツレの歌唱力と演技力の賜物であろう。

また、小柄であるにも拘らず巨人ファゾルトを演じているヨン・クワンチュル(연광철)も、歌唱力・演技力ともに優れており、私が今まで観たどのファゾルトよりも存在感があった。

全体としては必ずしも台本に忠実な舞台ではないが、ヨーロッパの長い伝統の重圧を跳ね返しながら、違和感のない世界を構築しているのは、ヴァーグナーの普遍性と多様性を巧みに利用して現代的な演出を試みたカシアスの手腕に因るところが大きいと思う。もちろん、バレンボイムの指揮による重厚な演奏が、それを支えているのは言うまでもないことである。

2012-01-14 22:20 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2012年01月08日(日)
ヘンデルの歌劇「ロデリンダ」を観る
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Händel, 1685 - 1759)のオペラを、日本語字幕付きで観られる機会はそれほど多くない。

HMVのウェブサイトで調べてみると、現在ヘンデルの歌劇「ロデリンダ(Rodelinda)」のDVDで入手可能なものは2種類しかなく、日本語字幕が付いているのはそのうちの1組しかない。

したがって、例の「METライブビューイング」でヘンデルのこのオペラが採り上げられるとなると、私としては観に行かないわけにはいかないのだ。ただし、今回のこのヘンデルのオペラに関しては、多少懸念を抱いていた。まず、ヘンデルのオペラを上演するにはメトロポリタン歌劇場は大き過ぎないかということと、ピリオド楽器による演奏を聴き慣れた耳に、同歌劇場のオーケストラが違和感のない演奏をしてくれるかということである。

今回上映されているのは2011年12月3日の上演を収録したもので、オーケストラの指揮をしているのが、ハリー・ビケット(Harry Bicket, 1961 - )である、私はこの指揮者の演奏を聴くのは初めてだが、イギリスのリヴァプールで生まれた彼は、エンシェント室内管弦楽団(Academy of Ancient Music)、イングリッシュ・コンサート(The English Concert)、モンテヴェルディ管弦楽団(Monteverdi Orchestra)などの古楽器オーケストラで、オルガンやハープシコードを弾いていた経歴を持つ。

したがって、メトロポリタン歌劇場のオーケストラを指揮しても、それほど違和感のないヘンデルの演奏になっていた。自らハープシコードを弾きながらの指揮だったので、オーケストラの規模も比較的少人数に抑えられており、ピリオド奏法を意識した演奏になっていたのである。

スティーヴン・ワズワース(Stephen Wadsworth)の演出もアメリカ人好みの穏当なもので、時代を19世紀や20世紀に設定するような奇抜なことはしていない。衣装や舞台装置も、実に伝統的である。したがって、ヘンデルの世界に抵抗なく入っていけるようなお膳立ては調っているのである。

しかし、私が何となく違和感を感じたのは、このオペラの主役であるロンバルディア王妃ロデリンダはソプラノ歌手の担当で問題はないのだが、準主役とも言うべきロンバルディア王が本来はアルト・カストラートが担当すべき役柄だったということに起因している。

言うまでもなく、カストラート(castrato)は「去勢された男性歌手」のことで、ヘンデルの時代にはこのカストラートを起用したオペラが多く作られた。カストラートは声変わりをせずにボーイ・ソプラノの音域をも歌うことができたが、骨格や肺活量は成人男子と同じなので、高くて力強い声が出せる。

しかし現代では、音楽のために青少年を去勢することなどできないから、カストラートも存在しない。したがって、カストラートに割り当てられた役柄を誰が担当するのかという問題が発生する。その結果、カウンターテナーの男性が歌うか、「ズボン役」と呼ばれる男装した女性が歌うことになるのである。

だが、「ズボン役」を起用するとどうしても不自然さが付き纏うので、そういう場合には舞台を20世紀に設定して、「異空間」でヘンデルのオペラが演じられることが多い。そのほうが、男装した女性の存在が目立たなくなるからである。



しかし、今日私が観たメトロポリタン・オペラの「ロデリンダ」では、カウンターテナーがカストラートの代役を務めている。カウンターテナーは裏声(ファルセット)を使って高音を出すので、かなりのヴェテランでも力強い声を安定的に出すことは難しいようである。

この「ロデリンダ」でロンバルディア王ベルタリードを演じているのは、カウンターテナーのアンドレアス・ショル(Andreas Scoll, 1967 - )である。映像で観る限り、優れた歌唱力と演技力を兼ね備えている。

しかし、この物語は王位を巡る権力闘争の物語で、ロンバルディア王ベルタリードと彼から王位を奪ったグリモアルド、さらにはグリモアルドの腹心でトリノ公のガリバルドが、三つ巴になって王位を奪い合うドラマなのだ。

その権力闘争の中で、グリモアルドはテノール歌手、ガリバルドはバリトン歌手によって演じられているのに、準主役のロンバルディア王ベルタリードがカウンターテナーだと、どうしても迫力に欠ける嫌いがある。

それは、アンドレアス・ショルの演技力や歌唱力の問題ではなく、カウンターテナーの声質に因るのではないかと私は思う。最終的に勝利を収めるのはロンバルディア王ベルタリードなのだが、力強さという点では、ベルタリードは些かひ弱で求心力を欠いているように思えるのだ。

幕間のインタビューでアンドレアス・ショルが話していたように、ベンジャミン・ブリテンの歌劇「真夏の夜の夢」であれば、当初からカウンターテナーを想定して作曲されているので、妖精の王オベロンはカウンターテナーでなければならない。しかし、ヘンデルの作ったオペラ・セリア「ロデリンダ」の中で、アルト・カストラートが担っていた役割を再現するのは容易なことではないと、つくづく感じたのである。

2012-01-08 22:08 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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ニックネーム:風街ろまん
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都道府県:大阪府

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