2012年03月04日(日)
メトロポリタン・オペラの「神々の黄昏」を観る
今日は例の「METライブビューイング」で、リヒャルト・ヴァーグナー(Richard Wagner, 1813 - 1883)の楽劇「ニーベルングの指環」の第3夜「神々の黄昏」が上映中なので、それを鑑賞するために映画館まで足を運んで観に行ってきた。

私は昨シーズンから始まった新しい演出による「指輪」を、「ラインの黄金」からずっと観てきたので、この四部作の最後を締め括る「神々の黄昏」は見逃すわけにはいかないのだ。

しかし、はっきり言って、私はあまり乗り気ではなかった。それは、今までに何作かヴァーグナーの「指輪」を観てきたけれども、「神々の黄昏」で私が完全に満足できるような演出・演奏には出会ったことがなかったからである。

しかも、ご存知のようにこの「神々の黄昏」は「指輪」の中で最も長大であるから、家でDVDによって鑑賞する時ですら、かなりの集中力を要する。ちょっと第1幕だけ鑑賞してみようと言えるような作品ではなく、全体を通して鑑賞しないとヴァーグナーの描いた世界が、迫真力をもって観る者を惹き付けないのだ。

「指環」四部作はそれぞれ独立した性格を持っているから、単独で上演することも可能だと言われているが、「神々の黄昏」は「ラインの黄金」、「ヴァルキューレ」、「ジークフリート」と続いてきた物語の締め括りになるので、やはり観るほうとしても、それなりにしっかりとした「着地点」をこの作品に求めてしまうのだ。

そのために私が過剰な期待をこの作品に求めているのかも知れないが、今までに観た「指輪」では、どうもこの「神々の黄昏」が満足のいく出来栄えになっていなかったように思えるのである。この作品には、もはやヴォータンは登場しないし、タイトルが示すように「神々の世界」は崩壊してしまうのだ。

しかし、この崩壊を迫真的に描き切った演出に、私は今まで出会ったことがない。ジークフリートの存在感が希薄だったり、「ブリュンヒルデの自己犠牲」が迫力不足だったりして、15時間以上に及ぶ上演時間を要する楽劇の締め括りとしては、どこか物足りなさが残ったのである。

今回のメトロポリタン・オペラの上演についても、私があまり乗り気でなかったのは、このシリーズでブリュンヒルデを演じているデボラ・ヴォイト(Deborah Voit)の演技に、私は満足していなかったからである。彼女は、私が初めて映像とともに鑑賞したブーレーズ&シェロー盤でのギネス・ジョーンズ(Gwyneth Jones)に比べれば、音程はしっかりしているし、演技も下手ではない。

しかし、ヴォイトにはヴァーグナーの楽劇に対する強い「思い入れ」のようなものが感じられず、どこか醒めた部分があるように私には思えるのだ。したがって、「神々の黄昏」の最終局面で、堆く積み上げられた薪に火を放って愛馬グラーネとともに炎の中に飛び込むというクライマックスを、彼女が見事に演じ切れるかどうか、私は大きな懸念を抱いていたのである。



そして結論から言えば、やはり最後の「ブリュンヒルデの自己犠牲」は、私の予想通り期待外れに終わった。演出は今回も従来と同じロベール・ルパージュ(Robert Lepage, 1957 - )で、「水圧システムで可動する24枚の巨大な板」を使用しているのも従来通りであるが、今回は機械仕掛けの「愛馬グラーネ」が初めて登場する。

これは遠目には本物の馬に見えるが、模型なので「空を駆ける」というような芸当はできず、動きも緩慢である。したがって、「ブリュンヒルデの自己犠牲」の部分は、「勢いよく馬に飛び乗り猛火の中へ一挙におどり込む」というト書きが付いているにも拘らず、舞台上ではブリュンヒルデを乗せた馬が、のろのろと舞台中央の「焚き火」に近付いて行くようにしか見えない。

かと言って、「水圧システムで可動する巨大な板」をグラーネとして利用することには、やはり無理があったのだろう。巨大な板は重量も相当あるので、「ヴァルキューレの騎行」の場面のように「軍団」として象徴的に使うことはできても、「空を駆ける」一頭の馬の代わりはできないと思うからである。

ということで、今回の「神々の黄昏」はやはり私が満足のいく演出にはなっていなかったが、悪いところばかりでないのは言うまでもない。前回の「ジークフリート」から急遽代役で出演したジェイ・ハンター・モリス(Jay Hunter Morris)は、ここでもジークフリートに課せられた役柄を見事にこなしている。

また、ドラマの準主役であるハーゲン役のハンス=ペーター・ケーニヒ(Hans-Peter König)もニーベルング族の父親アルベリヒの怨念を晴らすという役どころを手堅く演じており、舞台全体を引き締めている。

今回もジェイムズ・レヴァインに代わって、ファビオ・ルイージ(Fabio Luisi)が指揮を行なっているが、幕間のインタビューで彼自身が語っていたように、ドイツ風の重厚な響きをことさら強調することなく、ヴァーグナーのオーケストレーションの細部を際立たせるような演奏を行なっている。それでも開映後の上演時間が、休憩時間も含めて5時間28分だから、「神々の黄昏」を鑑賞するのは容易なことではないのである。

2012-03-04 21:57 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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2012年02月12日(日)
ミラノ・スカラ座の「ヴァルキューレ」を観る
今年の1月14日に、リヒャルト・ヴァーグナー(Richard Wagner, 1813 - 1883)の楽劇「ラインの黄金」のミラノ・スカラ座(Teatro alla Scala)での上演録画を観たが、今日はその続編である「ヴァルキューレ」を観ることにした。

これも前回と同様、昨年の年末にNHK BSプレミアムで放映されていたのを録画したものだが、前回の「ラインの黄金」が2010年5月26日の公演の録画であったのに対し、今回の「ヴァルキューレ」は2010年12月7日の上演録画である。

お断りするまでもなく、「ラインの黄金」に比べて「ヴァルキューレ」は、1.5倍位の上演時間を要する。したがって、時間があって比較的に精神的な余裕がある時でないと、なかなか鑑賞できないのだ。

今日は特に精神的余裕があるわけではないが、今日を逃すと今度いつ観られるか判らないので、取り敢えず観られる時に観ておこうという気持ちで、昼からどっぷりとヴァーグナーの世界に浸っていた。演奏はダニエル・バレンボイム指揮ミラノ・スカラ座管弦楽団で、演出はギー・カシアス(Guy Cassiers)である。この点は前回の「ラインの黄金」と同じである。

しかし、前回の「ラインの黄金」の続きだと思って観ていると、何となく違和感が湧いてきた。それが何に起因するのか考えてみると、まず今回の配役が「ラインの黄金」の場合とは違っていることが判った。この両作品に共通して登場するのは、ヴォータンとフリッカだが、二人とも前回と別の歌手が担当しているのだ。

そして、もう一つの要因は、「ラインの黄金」では多くのダンサーを舞台に登場させて、様々な事物を象徴的に彼らに担わせていたのに、「ヴァルキューレ」ではその手法が用いられていないことであった。したがって、演出家は同じでも、結果としてはかなり異なった印象を受けることになった。

舞台の背面を巨大なスクリーンにしてそこに画像を映し出すという方法は今回も採用されているが、多くのダンサーが登場しないことによって、全体的に静的で抽象的な演出になっているのだ。実際に劇場に足を運んでこの公演を観た人は、巨大な絵画の中で少人数の歌手によって劇が演じられているような印象を受けたに違いない。主な配役は以下の通りである。

ジークムント : サイモン・オニール(Simon O'Neill, 1971 - )
フンディング : ジョン・トムリンソン(John Tomlinson
ヴォータン : ヴィタリー・コワリョフ(Vitalij Kowaljow
ジークリンデ : ヴァルトラウト・マイアー(Waltraud Meier
フリッカ : エカテリーナ・グバノヴァ(Ekaterina Gubanova
ブリュンヒルデ : ニナ・シュテンメ(Nina Stemme

上記の配役をご覧になればお解りのように、歌手たちの出身国は様々であるが、フンディング役のトムリンソンの他は、1960年代〜1970年代生まれの歌手が多く起用されている。因みに左上の写真は、ヴォータンとブリュンヒルデである。



そもそも「ヴァルキューレ」の第一幕は、長い間生き別れになっていた双子の兄妹の近親相姦がテーマとなっている。しかも二人が再会するまでの間にジークムントは、様々な辛酸を嘗めて来た。それ故彼は、暗い影を引き摺りながら登場し、自らを「苦痛を守る者(Wehwalt)」と名乗るのである。したがって、ジークムント役の歌手は、容姿もさることながら、声にも暗い影が付き纏っていなければならない。

その点で、今回ジークムントを演じているオニールは、歌唱力は秀でていても、ジークムントの持つ暗さを表現し切れていないように思う。私が今までに観た上演の中では、シェロー&ブーレーズ盤のペーター・ホフマン(Peter Hofmann, 1944 - 2010)の印象が最も強く、未だに彼を上回るジークムントには出会っていない。

また、この楽劇の中で重要な役割を担うブリュンヒルデも、今回のシュテンメでは私のイメージにそぐわない。確かにシュテンメの歌唱はしっかりとしておりドラマティックな要素を満たしているが、映像で観る限り、私が今まで抱いてきたブリュンヒルデのイメージとは異なる。

なお、それに関連して言えば、今回の舞台ではヴァルキューレたちは鎧や兜を身に着けているようには見えず、有名な「ヴァルキューレの騎行」の場面でも、音楽は迫力をもって威勢よく響いているのに、舞台上の彼女たちからは、軍馬に乗って空中を飛び交うような勇姿を感じ取ることができない。

ブリュンヒルデはヴォータンに見つかる前から既に武装解除しているように見えるので、これに続く「ジークフリート」で鎧兜を着けていないブリュンヒルデを目覚めさるジークフリートは、その前からブリュンヒルデが女性だと分かってしまうのではないだろうか。

主役ではないが、フリッカやフンディングは存在感をもってそれぞれの役どころをこなしており、ヴォータンも「ラインの黄金」の時のルネ・パーペよりも屈折した心情の表現に長けていて重圧感がある。

前回の「ラインの黄金」に登場した多数のダンサーたちが登場しないのは、彼らの動きが何となく不気味で観客の不興を買ったからかも知れない。しかし、そういうものを排除して静的で抽象的な演出にしてしまうと、ヴィーラント・ヴァーグナーが第二次世界大戦後にナチス色を一掃するために採用した「新バイロイト(Neuen Bayreuth)様式」に近付いてしまいそうなので、充分な配慮をもって、真に現代人の心に訴え掛ける演出を目指してもらいたいと私は思うのである。

2012-02-12 22:14 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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2012年01月14日(土)
ミラノ・スカラ座の「ラインの黄金」を観る
私は風邪気味で今日の空模様も曇りがちなので、外出しようという気が起こらない。それでも午前中には、掛かり付けの医院に行って常用している薬をもらってきた。

明日は外出する予定があるので、今日はできるだけ静養して風邪を治さなければならない。

さて、昼からは何をしようかと考えていてふと思い付いたのが、年末に録画してあった「華麗なるオペラの世界」のミラノ・スカラ座(Teatro alla Scala)のオペラのことだった。

と言っても、私は熱心なオペラ・ファンではなく、好みが非常に偏っているので、NHK BSプレミアムで年末に放映されていたオペラを全て録画したわけではない。私が家内に録画を頼んだのは、リヒャルト・ヴァーグナー(Richard Wagner, 1813 - 1883)の楽劇「ラインの黄金」と「ヴァルキューレ」だけである。

ヴァーグナーの楽劇に限らず、オペラの愉しみの一つは、同じ作品でも歌手や演出、舞台装置などによって、そこから受ける印象が大いに異なることである。特にヴァーグナーの場合は、演出家の工夫を凝らす余地が大きいので、様々な舞台を観てそれらの違いを味わうのが結構おもしろいのだ。

ということで今日は、2010年5月26日に上演された「ラインの黄金」を鑑賞してみることにした。私にとっては、スカラ座というとイタリア・オペラの活動拠点というイメージが強く、ヴァーグナーのオペラとは少し縁遠い感じがした。

さらに言えば、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場(Met)で上演されているヴァーグナーの「指輪」とスカラ座のそれとの相違点や共通点を知りたいという欲求もあったのだ。“Met”はアメリカの歌劇場らしく舞台上演を映画化して世界中に配給しているが、それに比べるとスカラ座の映像はそれほど広範に配信されていないと思う。したがって、観てみる価値は充分にあると思ったのである。この上演の主なキャストは以下の通りである。

ヴォータン : ルネ・パーペ(René Pape
ローゲ : シュテファン・リューガマー(Stephan Rügamer
アルベリヒ : ヨハネス・マルティン・クレンツレ(Johannes Martin Kränzle
ミーメ : ヴォルフガング・アプリンガー・シュペルハッケ(Wolfgang Ablinger-Sperrhacke
ファゾルト : ヨン・クワンチュル(Kwangchul Youn
ファフナー : ティモ・リーホネン(Timo Riihonen
フリッカ : ドリス・ゾッフェル(Doris Soffel)
フライア : アンナ・ザムイル(Anna samuil

演奏は、ダニエル・バレンボイム指揮ミラノ・スカラ座管弦楽団で、演出はギー・カシアス(Guy Cassiers)である。

左上の写真はこのスカラ座の上演の一場面で、左の男性がヴォータン、右の女性がフリッカである。かつてブーレーズ&シェローのコンビで「指輪」が初めてバイロイトで上演された時には、「スーツを着た神々なんてあり得ない」という非難を浴びたらしいが、この写真を観ていただければお解りのように、もはやスーツを着た神々は当たり前のこととなってしまった。

そして、三枝成彰さんの解説にもあったように、舞台の背面を巨大なスクリーンにしてそこに画像を映し出すことが、最近のオペラの流行だそうである。したがって、この上演でも巨人のファゾルトとファフナーは、舞台背後のシルエットによって巨人であることを暗示させているが、それぞれの演者は巨人のように装うことをしていない。



さらに、この演出の特徴は、舞台に多くのダンサーを登場させて、様々な事物を象徴的に彼らに担わせていることである。例えば「隠れ頭巾(隠れ兜)」も実際に小道具を使うのではなく、ダンサーたちの群れによって表現されるし、それを使ってアルベリヒが変身した蛙も、小道具ではなく、うずくまったダンサーの群れに緑色の光を当てることによって表現されている。

歌手の中では、「真っ黒で瘤だらけ」とか「ひき蛙のような格好」とラインの娘たちから揶揄されるアルベリヒが意外とスマートで、しかも存在感のある存在となっている。これは、アルベリヒ役のクレンツレの歌唱力と演技力の賜物であろう。

また、小柄であるにも拘らず巨人ファゾルトを演じているヨン・クワンチュル(연광철)も、歌唱力・演技力ともに優れており、私が今まで観たどのファゾルトよりも存在感があった。

全体としては必ずしも台本に忠実な舞台ではないが、ヨーロッパの長い伝統の重圧を跳ね返しながら、違和感のない世界を構築しているのは、ヴァーグナーの普遍性と多様性を巧みに利用して現代的な演出を試みたカシアスの手腕に因るところが大きいと思う。もちろん、バレンボイムの指揮による重厚な演奏が、それを支えているのは言うまでもないことである。

2012-01-14 22:20 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2011年11月27日(日)
メトロポリタン・オペラの「ジークフリート」を観る
今日は久し振りに、「METライブビューイング」の映画を観に行った。今までにも何回かご紹介したように、これはメトロポリタン・オペラの上演を映像化したものである。

そして、昨日から一週間限定で上演されているのが、リヒャルト・ヴァーグナー(Richard Wagner, 1813 - 1883)の楽劇「ジークフリート」である。

ご存知のように、この楽劇(Musikdrama)は楽劇「ニーベルングの指環」の第3作で、今日の映画は2011年11月5日の舞台上演を収録したものである。しかし、この映画の上映時間は休憩時間を含めて約5時間11分である。実際の舞台では幕間の休憩時間がもっと長いはずなので、上演時間は6時間を超えるかも知れない。

しかも、この「ジークフリート」はタイトル・ロールのジークフリートが主になって、最初から最後までほとんど歌い続けているので、演じるほうも体力が必要だが、観ているほうも結構、体力を消耗するのだ。さらに、長い割りには舞台に登場する人物が少なく、「ヴァルキューレの騎行」のような派手な見せ場が少ない。

おまけに、この前の月曜日にインフルエンザの予防接種を受けた私は、どうも体の調子が良くない。それで、今回はパスしようかとも考えたが、同シリーズで「ラインの黄金」と「ヴァルキューレ」を観てしまったので、ここで止めると中途半端なのだ。ということで、体調不良の時には適さないこの楽劇を、敢えて観に行くことにした。

いつもは神戸の映画館に観に行くのだが、なぜか神戸は2月25日(土)からの上映になっている。大阪は相変わらず午後4時半からの上映なので、終わるのは夜の10時前である。というわけで、今日の私は、わざわざ京都まで足を運んだのだ。もちろん、大阪府知事選挙の投票を終えてからである。

さて、少し余裕をもって早目に出発したので、京都の京阪三条駅に着いたのが9時20分過ぎで、そこから歩いても5分ほどしか掛からないので開映時間には十分に間に合った。しかし、映画館で手渡された「タイムスケジュール」を読んで、私は出鼻を挫かれたような気分になった。そこには、「当初指揮を予定しておりましたジェイムズ・レヴァインが、背中を痛めたため降板となりました」と書いてあったからである。

さらに、それに追い打ちをかけるように、「当初ジークフリート役で出演予定だったギャリー・レイマンが病気のため降板となりました」と書いてあるではないか。「代役ばっかりで大丈夫かいな」と、私の心に不安がよぎった。考えてみれば、ジェームズ・レヴァイン(James Levine, 1943 - )も今年で68歳だし、あれだけの巨体でオペラの指揮を繰り返していたら、背中を痛めるのも無理はないのだ。



ということで、今日の映画ではイタリア人でメトロポリタン歌劇場首席指揮者であるファビオ・ルイージ(Fabio Luisi, 1959 - )という人の指揮によって上演が行われていた。また、降板となったジークフリートの代役は、ジェイ・ハンター・モリス(Jay Hunter Morris)が務めた。

演出や舞台装置はこのシリーズで変わりはないので、斬新であるが奇抜ではない。アメリカ人向けの穏当な演出や舞台装置である。後は、演奏とジークフリートを演じる歌手の出来栄え次第なのだ。この楽劇で最も重要な役割を演じるジークフリート役のモリスは、代役であるにも拘らず、この「怖れを知らぬ者」という難しい役どころを見事に演じている。

下手をすれば能天気で重みのない印象を与えかねないこの主人公を、モリスは充分な存在感をもって演じており、それが全篇の雰囲気を引き締めている。映像で観た彼の顔つきは、若い頃の原田芳雄を想い起させる無頼漢のような雰囲気を漂わせているが、それはあくまで彼の演技力によるものだろう。歌唱についても、ただ大声を出しているのではなく、繊細な表現力で各場面に応じた歌い方をしている。

ルイージの指揮は、映画の中の幕間のインタビューで彼自身が語っているように、意識的にドイツ風の重厚な響きをオーケストラから引き出すのではなく、比較的軽快にストーリー展開を支えている。しかし、これも決して軽佻浮薄に堕することなく、ヴァーグナーの勘所を押さえているのだ。当初の予定上映時間が5時間56分なのに対し、今日の映画の上映時間が5時間11分になっているのは、全体的にレヴァインよりも速目のテンポを採用していることが、その一因かも知れない。

森の小鳥の歌唱を担当しているモイツァ・エルドマン(Mojca Erdman)はモーツァルトのオペラで定評があるらしいが、カーテン・コールと幕間のインタビューでしか姿を観られなかったのが少々残念であった。

2011-11-27 21:31 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2011年11月06日(日)
ヴァーグナーの歌劇「リエンツィ」を観る
リヒャルト・ヴァーグナー(Richard Wagner, 1813 - 1883)のオペラの中で、大作であるにも拘らず演奏されることの少ないのが「リエンツィ、最後の護民官」である。

いや正確に言うと、大作であるが故に上演されることが少ないのかも知れない。この全5幕のオペラは、私が持っているハインリッヒ・ホルライザー(Heinrich Hollreiser)&シュターツカペレ・ドレスデンのCDでは3枚組で、演奏時間は3時間37分46秒である。

しかも、1842年10月20日にドレスデンで行われたこのオペラの初演は成功を収めたそうだが、ヴァーグナー自身がこのオペラを習作と見做していたのか、バイロイト音楽祭で上演されることはない。

したがって、私もさんざん日本語対訳付きのディスクを探し回ったのだが、結局見つけられずに上記のホルライザー盤を買ったのだった。当然、そのディスクには英語の対訳しか付いていなかったので、私がこのオペラのディスクを通して聴いたのは1回だけである。

ところが、この前の「文化の日」に「まさかないだろうなぁ〜」と思いながらHMVのサイトで検索してみると、このDVDが見つかったのだ。もちろん、日本語字幕付きである。ただし、収録時間は156分なので、70%ぐらいの長さにカットされている。

しかし、ドイツの歌劇場で上演される場合でも、2時間半程度にカットされて演奏されることが多いようなので、カット自体はそれほど大きな問題ではないと思った。それよりも、貴重なこのオペラの演出がどのようなものなのかのほうが、私の気に掛かった。

このディスクの映像は、2010年の1月と2月にベルリン・ドイツ・オペラで行われた上演をライヴ収録したもので、演出を手掛けたフィリップ・シュテルツル(Philipp Stölzl, 1967 - )が2部構成に再構築している。

このオペラは、北欧の神話や伝説に題材を採った後年のオペラ(歌劇、楽劇)とは違って、14世紀のローマに実在したコーラ・ディ・リエンツィ(Cola di Rienzi, c. 1313 - 1354)という護民官を主人公にしている。 私は護民官というのがどんな地位なのか知らなかったが、簡単に言うと「古代ローマ共和制時代に、貴族と平民との間に立ち、平民の身体・財産を保護した官職」だそうである。

しかし、このディスクのジャケットを観ればお解りのように、シュテルツルのこの作品の演出では舞台を20世紀に移し、「反-独裁」という明確な主張を前面に打ち出したものとなっている。したがって、平民会から選出された護民官が、独裁者となって民衆の離反を招き、最後には彼らに殺されるという展開になっている。キャストは以下の通りである。

1.歌劇「リエンツィ」 (フィリップ・シュテルツルによる2部構成版)

セバスティアン・ラング=レッシング指揮ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団&合唱団の演奏で、配役はトルステン・ケルル(リエンツィ)、カミッラ・ニールンド(イレーネ)、ケイト・アルドリッチ(アドリアーノ)他である。

これはベルリン・ドイツ・オペラによる上演で、演出家のシュテルツルもベルリン生まれのドイツ人だから、当然、その演出にはヒトラーを想起させるような事物が多く登場する。例えば、冒頭の序曲の部分は、映画「独裁者(The Great Dictator)」の中でチャップリン扮する「ヒンケル」が、風船の地球儀を弄ぶシーンから着想を得ているように思える。



また、リエンツィの妹イレーネは、ここでは「ファースト・レディ」のような役割を担っている。正装して2人が立っている姿は、ヒトラーとエヴァ・ブラウンを連想させるのだ。さらに、この演出ではこの兄妹を近親相姦の象徴的存在として位置付けている。

時として、舞台背景の大スクリーンにナチス・ドイツのプロパガンダ映画のようなものが映し出されるが、それらの映像の収録に当たっては、レニ・リーフェンシュタールのカメラ・アングルが参考にされたという。

1960年代に生まれた演出家が、2010年になっても執拗に「独裁」を攻撃し続ける姿勢を観て、私はドイツ人にとっての「戦後」が未だに終わっていないのをつくづくと感じた。ベルリンはヒトラーという独裁者から解放された後も、スターリンによって辛酸を嘗めさせられたのだ。特典映像の「メイキング」の最後で、演出家シュテルツルが語っている言葉を引用して、今日の記事を締め括ろう。

「独裁者と善というのは、今日の視点から言えば、完全に矛盾しています。」


2011-11-06 21:56 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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