ニックネーム:うしちゃん    歓迎光臨
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2005年08月14日(日)
β版 その2.3
ナポレオンが去ってロッシーニが来た!
 これは、ナポレオン戦争後の全ヨーロッパの音楽シーンを席巻したロッシーニ(1792-1868)のオペラを称えるスタンダールの言葉です。


 フランス革命の混沌から頭角を現したちまちフランス国民の英雄となったナポレオンは、独裁政治ながらアメリカ独立・フランス革命の自由、平等、友愛の時代精神を全欧州に伝播する役割を果たします。ナポレオン占領下の地域は封建主義から解放されてナポレオン法典の下で確実に新しい時代の空気を吸い、一度ひっくり返った18世紀絶対主義の欧州秩序はナポレオン後はもう元には戻れず、19世紀市民革命の時代に突入していきます。


本日のプログラム、ショパン、チャイコフスキー等の19世紀の音楽家達は、社会的にはナポレオンの、音楽的にはロッシーニの影響を多大に受けたのです。

ロッシーニは三度泣く?
ロッシーニは生涯には三度泣いたと言う伝説があります。すなわち、オペラ「セビィリアの理髪師」の初演の時、パガニーニを聞いた時、フォアグラ詰め七面鳥を落とした時。


 実はボーマルシェの戯曲による彼の17番目のオペラ「セヴィリアの理髪師」は、ロッシーニより34年前、モーツァルトとともに18世紀を代表するオペラ作曲家で当時絶大な人気を誇ったパイジエルロ(1740 – 1816)により作曲されていました。24才の若き天才ロッシーニは同じオペラを何とわずか13日で書き上げ、不遜にも大先輩に挑戦状を叩き付け1816年2月20日、ローマのアルジェンティーナ劇場で初演されます。
しかし初演直前となっても序曲がありません。ロッシーニは前年に書いたオペラ「イギリスの女王エリザベス」序曲を使い回します。でもこの曲は更にオペラ「パルミラのアウレリアーノ」序曲の再転用だったのです。彼はこの序曲を気に入っており、オペラがこける度に、勿体ないので次のこれはと思うオペラの序曲に転用していたのです。
 さて挑戦の結果は、パイジエルロの支持者により散々な野次と口笛の嵐となり、第二幕には殆どの聴衆が帰ってしまう歴史的大失敗に終わりました。でもそのいやがらせは初演日だけ。翌日もう聴衆の反応に興味が無くなり宿でふて寝していたロッシーニは、ローマ市民達の歓声に起こされます。オペラが大評判となっているとの知らせが入ったのでした。
 では、この二度もオペラ化された「セヴィリアの理髪師」とはどんなお話なのでしょう。

フランス革命の導火線
フランスの作家ボーマルシェによって書かれた戯曲「セヴィリアの理髪師」(1772)は、「フィガロの結婚」(1778)、「罪ある母」(1792)とともにフィガロ三部作と呼ばれています。
 スペインのセヴィリア、アルマヴィーヴァ伯爵が伯爵の身分ではなく本当の自分を愛する人を願い、貴族の孤児で彼女の遺産を狙う後見人の医師バールトロに隔離されたロッジーナに思いをはせます。伯爵は何でも屋の理髪師フィガロを雇い入れ、フィガロの知恵でバールトロの目を盗み、地位を偽って変装した伯爵とロッジーナを上手く結びつけます。
 続く「フィガロの結婚」でのフィガロは、婚約者スザンナを狙う浮気者の伯爵の鼻をあかし、訴訟をすりぬけてスザンナとめでたく結ばれます。戯曲は当たります。浮気が当たり前の特権階級を平民がうまくやり込める話に平民は拍手喝采。マリーアントワネットもこの劇を喜び自分でロッジーナ役を演じて貴族の間で顰蹙を買いました。「フィガロの結婚」は革命の導火線と呼ばれていますが、無邪気に導火線に点火したのは彼女でしょうか。
 最後の「罪ある母」の舞台は20年後1790年革命後パリ。伯爵の地位を捨て財産を処分しパリに出た伯爵家の財産を狙う悪者の計画を、フィガロが未然に察知して防ぎます。伯爵の隠し子と伯爵夫人の不義の息子とを結びつけ、お互いに浮気を許し合った伯爵と伯爵夫人も仲直りして、財産を若い二人に相続させることになってめでたしめでたし。
 いずれも、貴族社会の悪徳を平民フィガロの知恵と活躍で防ぐお話ですが、実はこの物語以上に波瀾万丈の人生を送ったのが作者ボーマルシェ自身なのです。

風雲児ボーマルシェ
劇作家カロン・ド・ボーマルシェ(1732-1799)はパリの時計商で、20歳で時計の特許訴訟で名を売り、国王から時計注文を受けて王室御用達時計商となって宮廷に出入りします。


 1756年宮廷役人の未亡人と再婚して妻の領地であるド・ボーマルシェの名前を、更に4年後には国王秘書官の地位を買収し貴族の称号を手に入れます。更に宮廷でカロンの音楽の才能が認められ、ルイ15世の三人の娘達のハープ教師となり、大銀行家と知己を得ます。
 1764年カロンは商用視察目的で、本当は彼の妹に二度も婚約しながら逃げた婚約者を追ってスペインを旅行します。この時の見聞が後のフィガロの舞台背景となります。
 カロンの最初の妻は再婚後一年以内に死亡し、1768年には別の金持ちの未亡人と再婚しますが、彼女も1771年に死亡したため毒殺の噂が流れます。更に1770年には死亡した大銀行家がカロンから15,000フラン借りたと認める借金証文が出てきて、相続人である銀行家の甥がその借用書無効の訴訟を起こします。カロンは、この裁判には勝訴したものの、判事への贈賄疑惑が浮上して彼は公民権を降格されます。
この事件後数年間カロンは国王の秘密工作員となり、英国、オランダ、ドイツ、オーストリアで秘密工作を行います。彼は頻繁に英国を訪れた結果、独立運動を続けるアメリカを支持するようになり、フランス政府がアメリカに対して資金や武器の援助を行うよう説得します。この独立運動への援助は、フランスの国家経済を疲弊させる一因となります。
彼が有名な二つの戯曲を書いたのは、まさにこの秘密工作員として活躍した時期で、二つの戯曲は人々に熱狂的に受け入れられ、ポーマルシェの名は売れに売れます。更に戯曲の他にも数々のパンフレットを発行し、超売れっ子の流行パンフレット作家になります。彼はフィガロの利益の一部を慈善業に寄付し、パリ水道事業にも参画して、革命前の時代ボーマルシェは富と名声を手に入れました。
 ボーマルシェは図らずも思想、経済両面でフランス革命を早めてしまいましたが、彼自身の考え方は共和主義などではなく、ボーマルシェの財力と飛び抜けた人民の人気を恐れた新政府は、1792年共和国への国家反逆の疑いで彼を逮捕・投獄します。彼は一週間後に出獄出来ますが、ホーマルシェはオランダとイギリスに亡命します。彼は1796年に再びバリに戻りますが、1799年67才で無くなります。
 ボーマルシェを一言で説明することは不可能。王室御用達時計商、ジゴロ、宮廷官吏、王室音楽教師、貿易商、裁判の被告と原告、囚人、秘密工作員、アメリカ独立運動家、劇作家、ベストセラー作家、水道事業者、ボルテール全集出版者、共和国政府国家反逆者、亡命者…。彼の一生はフィガロを遙かに超えた波瀾万丈の伝説の生涯でした。
でも、伝説という意味では、作曲家ロッシーニも決して負けてはいません。

鉄人ロッシーニ
ロッシーニは1792年アドリア海に面したぺザロで生まれ、両親により音楽の手ほどきを受けます。父がナポレオンのシンパだったため一時投獄されて、やむなく1800年一家はボローニャに出ます。1806年14才でボローニャの音楽院入学、その年に最初のオペラを作曲。1809年卒業後17歳から本格的にオペラの作曲を開始し、ボローニャ、ローマ、ベニス、ミラノ、ナポリ等で活躍した後、1823年にはパリのイタリア劇場総監督として渡仏します。しかし、1829年のウィリアムテルの成功後、1930年ロッシーニは37才で突如オペラ界から引退します。この20年間に作曲したオペラは40。まさにオペラの鉄人です。


何故人気の絶頂で突然オペラの作曲をやめたのか。1830年パリ7月革命で、ルイ18世の弟王、超反動シャルル10世が亡命し、代わりに銀行家におされたオルレアン家のルイ・フィリップが即位します。ロッシーニのイタリア劇場総監督の契約はシャルル10世と直接交わしていたため契約継続が紛糾し、革命騒ぎにすっかり嫌気がさしたロッシーニがオペラ界から引退したのだとも言われています。
でもロッシーニ伝説は続きます。すなわち華麗なる料理の鉄人への転身。パリで超高級レストラン「グルメのための天国」を経営し料理本を出版。新進オペラ作曲家ワーグナーがパリのロッシーニの店を訪ねた際、ワーグナーがしきりとオペラ劇場の話をするのにロッシーニはトリュフの話ばかり、トリュフのすばらしさを讃えて今迄に泣いたのはパガニーニを聞いた時とトリュフ詰七面鳥をボートから落とした時だと蕩々と説明したそうです。
その後、1837年にロッシーニはボローニァ音楽院名誉院長としてパリを離れて帰国しますが、1855年再度パリに出て、1868年にパリで没します。

初恋のコンチェルト


 このロッシーニのオペラに熱狂したのがショパン(1810−1849)です。当時ロッシーニのオペラはワルシャワでも大変評判。1825年11月ショパンが友人に宛てた手紙に、「理髪師の上演は好評で、魔弾の射手がまもなく上演されるらしい。僕も理髪師の主題によるポロネーズ変ロ短調を作曲した。」と書いています。更にロッシーニのオペラの影響としては、ショパンのピアノ協奏曲2番の一楽章が、オペラアリアの息継ぎやコロラトォーラ的な旋律だとの研究者の指摘があります。
 ところでショパンを理解するには、当時のポーランド情勢を知っておくことが不可欠です。ヤゲヴォ王朝断絶後、選挙王制となったポーランドでは、王権が低下し有力貴族が勢力を増して国家としての基盤が弱体化し、ついに1772、1793、1795の三回のポーランド分割で国家が消滅し、ワルシャワを含む旧ポーランド西側は東プロイセンとなります。しかしプロイセンは1806年にナポレオンにより首都ベルリンが陥落、ナポレオンはベルリン勅令「大陸封鎖令」を発令、翌1807年プロイセンはフランスとティルジット条約を結び、過去三回のポーランド分割で得た東プロイセンを、ナポレオンに推された隣国ザクセン大公フリードリヒ=アウグスト一世を国王とするワルシャワ大公国に譲りました。ワルシャワ大公国では、ナポレオン法典に基づくワルシャワ公国憲法が施行され、ポーランド国民は自由の空気を吸うことが出来ました。しかし、チャイコフスキーの大序曲1812年でご存じのモスクワ遠征失敗をきっかにナポレオンが失脚すると、1815年ウィーン体勢下ワルシャワ大公国はロシア皇帝が国王を兼ねるロシア領ポーランド王国となってしまいます。
 ショパンはワルシャワ大公国時代、1810年ワルシャワ郊外でフランス人の父とポーランド人の母の間に生まれました。同年父がワルシャワの中学校のフランス語教師の職を得て引っ越し、ショパンはワルシャワで4歳からピアノの手ほどきを受けます。1826年彼は16歳でワルシャワ音楽院に入学。1829年19歳のショパンは、美人の同級生コンスタンツィア・グラドコフスカに一目惚れします。元来内気な彼は彼女に声を掛けることなくただ一人で燃え上がり、彼女とのデートを夢想してピアノ協奏曲2番の二楽章アダージョを作曲します。つまりピアノ協奏曲2番はショパンの初恋のコンチェルトです。



革命のエチュード
ピアノ協奏曲2番を作曲した1829年、ショパンは最初のウィーン演奏旅行を行いました。そして1830年11月2日、二度目のウィーン訪問の為、彼はワルシャワを出発します。
 当時ポーランドでは、ロシア皇帝ニコライ1世の反動政治に対して独立運動が秘密裡に進められていました。そこへウィーン体制を支える一角のフランスでの、ロッシーニの運命をも狂わせた七月革命の成功が伝えられると、1830年11月29日、ワルシャワの士官学校の生徒が蜂起したのをきっかけとしてワルシャワ革命が起こります。一時はロシア総督を追って革命政府を樹立し、1831年1月に独立宣言します。しかし、ロシアは大軍をポーランドに派遣、9月にはワルシャワを占領、ロシアは革命勢力を徹底弾圧し、ポーランドをロシアの属州とし、以後ロシア化政策を推し進めました。


 ショパンは革命に参加しようと急遽帰国を考えますが、友人から音楽によって祖国の為に尽くすよう諭され、父の祖国フランスへ向かったのでした。しかし、パリに向かう途中のシュツットガルトでワルシャワ陥落の報を聞き、その時の衝撃で「革命」のエチュードを作曲します。その後、パリに留まったショパンは、ついに祖国に帰ることなく1849年39歳の若さでパリにて客死しました。
ではここで、ショパンの祖国ポーランドを弾圧した帝政ロシアの情況を見てみましょう。

帝政ロシア
 1825年12月14日、ロシア軍の自由主義青年将校のグループ(デカブリスト:12月党)による革命蜂起が起きます。さる11月19日、前皇帝アレクサンドル1世の急死により、皇位継承に混乱が生じ三週間皇帝が空位となります。デカブリストはこの機会を利用して、ロシアに立憲君主制を成立させようと企て、新皇帝ニコライ1世の宣誓式が元老院で行われる日に結集したのです。しかし、夕刻には新皇帝ニコライ1世軍に包囲され壊滅します。


 前皇帝アレクサンドル1世は即位当初開明的な思想の持ち主で、法による統治・三権分立の政治改革に着手しますが、ナポレオン台頭により国内に反革命・反自由主義の風潮が高まり改革は頓挫します。1812年のナポレオンモスクワ遠征では冬将軍に助けられ、ウィーン会議を主導し神聖同盟の盟主となり、ポーランドを入手し反動的な政治を行いました。
 一方ナポレオン戦争でヨーロッパに出陣して自由の空気を吸った青年将校・貴族達は、この反動政治に反発し、立憲君主制を目指すデカブリスト運動を生み出します。青年将校達は、革命で自由民になり自分の土地を守るため死にもの狂いで戦うフランス軍や、自由主義改革により短期間に強力になったプロシア軍を見て、ロシアも農奴を解放して兵士の愛国心を涵養しなければ強くならない、そのためには専政君主から立憲君主制にする改革が必要と痛感したのでした。
 新皇帝ニコライ1世は、革命運動を鎮圧するため、1826年に皇帝直属官房第三部を設置し、検閲法を制定、デカブリストに好意的だった、チャイフスキーのオペラ「エフゲニ・オネーギン」の著者プーシキンもこの時ペテルブルグを追放されました。1830年には、ショパンに衝撃を与えたポーランドのワルシャワ11月蜂起を鎮圧。しかし、力をつけたブルジョワジーを懐柔するため、1832年には名誉市民という身分を作ったりもしました。
当時帝政ロシアの外交政策は不凍港を手に入れるための南進政策です。ニコライ1世は南下した先に陣取るオスマン・トルコ帝国と戦い続けます。
 オスマン領のギリシャで反乱が起きると、1827年、英・仏との艦隊を組織してオスマン帝国艦隊を撃破。引き続き1828-29年の露土戦争でも勝利をおさめます。
 続く1855-56のクリミア戦争では、ロシアは英・仏・トルコ・サルディニア4カ国軍と戦いますが、この戦争のさ中1855年にニコライ1世は亡くなり、跡を継いだアレクサンドル2世は敗北を認めて1856年講和条約が締結されます。 この敗北の原因を遅れた農奴制度に求めたアレクサンドル2世は、1861年農奴解放を断行します。帝は更に、身体刑の廃止、地方自治の確立、司法制度や教育制度の改革を実施、国民皆兵の制度を作り、警察制度も改善する等数々の改革を推進し国力の増強を図ります。
 1876年、バルカン半島におけるオスマントルコ支配からのスラブ人蜂起であるブルガリア暴動とセルビア・トルコ戦争に、ロシア帝国は同じスラブ人としてこれに介入した結果、ついに露土戦争(1877-78)に発展します。ロシアはこの戦争に大勝利を納めるのですが、多くのロシア国民は否応無しにこの戦争に巻き込まれました。

 1861年当時、法律学校を卒業して法務省の官僚になりたてのチャィコフスキーは、この農奴解放に大層感銘を受けました。しかしながら、農奴解放後も農民の惨めな生活には変わりがありません。更にその上に振り下ろされた暗い運命の鉄槌が、1877-78年のロシア・トルコ戦争でした。
 でも実は、彼にとってもこの年は、運命の年となりました。チャイコフスキーの交響曲4番第一楽章の冒頭は、社会・個人両面における運命のファンファーレです。


運命の年
 チャイコフスキーは1840年4月25日(ロシア暦)、モスクワの東700kmでウラル山脈の西側に位置する鉱山都市ヴォトキンスクの鉱山長(官位は陸軍中佐)で鉱山技師の父イーリアの次男として生まれます。当時、鉱業は重要産業で、下級貴族で田舎町の名士の息子です。4才でピアノを習いだし、当時、家にあったオルケストリオン(自動演奏器)のモーツァルトやロッシーニなどの曲に熱中したとあります。
 1850年10才のチャイコフスキーは、難関エリート校のペテルブルグ法律学校に合格し、寄宿舎に入ります。学生時代にもピアノを習った他、首都ペテルブルグには三つのオペラ劇場があり、ロッシーニ、ベッリーニ、ヴェルディ、モーツァルト、マイヤーベア等のオペラ公演を見に出かけたといいます。1859年19才で法律学校を13番で卒業すると、9等官の官位を与えられ、法務省第一部管理課に配属されて政府キャリア役人となります。
 当時ロシアでは音楽家の社会的評価が低かった中、ユダヤ系ピアニストで作曲家のアントン・ルービンシュタインが西欧社会で名声を得て凱旋帰国し、1858年に大公妃エレーナの援助でロシア人音楽家の養成と地位向上を目指してロシア音楽協会を設立します。



 これが1862年にペテルブルグ音楽院となると、法務省に勤めながらも早速チャイコフスキーは第一期生として入学し、1865年に優秀な成績で作曲科を卒業します。役所では1860年には課長上級補佐、最終的に1867年には7等官(陸軍中佐相当)にまでなりましたが、音楽の道を進むことを決意したチャイコフスキーはペテルブルグ音楽院卒業後、アントン・ルービンシュタインの弟ニコライが院長をしているモスクワ音楽院の教官としてモスクワに移ります。

 モスクワで、安月給のためいつも風采の上がらぬ恰好のチャイコフスキー見て、アントンは、彼の給料を上げてニコライの家に下宿させるよう弟に指示します、この時期に、交響曲1番(1866)、幻想組曲ロメオとジュリエット(1868)、アンダンテ・カンタービレ(1871)を作曲します。
 1871年には何かと窮屈な上司ニコライの家から飛び出し、アパート生活を開始して独身生活を謳歌します。実は彼には法律学校時代から同性愛の性癖があったのです。
 1873年モスクワ音楽院での教え子で恋人でもある19才の青年ザークが自殺し、彼の死の衝撃と彼への愛の思い出から、ピアノ協奏曲1番(1874-5)が作曲されました。更にバレエ「白鳥の湖」(1875-6)もこの時代の名曲です。そして、1876年バルカン半島でのスラヴ人の蜂起が起こると、チャイコフスキーはスラブ行進曲(1876)を作曲して国民の汎スラブ意識を高揚します。この蜂起がロシア・トルコ戦争(1877-8)に発展すると、悲痛な世相を反映する交響曲4番のスケッチに取りかかります。



 この時もまだチャイコフスキーのモスクワ音楽院での給料は余り高くありません。また作曲では収入が望めず、彼は慢性金欠病状態。そんなチャイコフスキーを見かねたロシアの鉄道王の未亡人フォン・メック夫人は、1876年12月、チャイコフスキーに対し援助を申し出ます。最終的にはモスクワ音楽院の年俸の倍の6000ルーヴルもの年金になりました。

 翌1877年5月、彼は突然のラヴレターを受け取ります。モスクワ音楽院の教え子で田舎貴族の娘で相当な親の資産を相続したアントニーナ・イヴァーノヴァ・ミリューコヴァです。時にチャイコフスキー37才、アントニーナ28才。一旦断ったチャイコフスキーですが、彼女となら兄妹の愛が育めると思い7月挙式します。



 しかし、この結婚は失敗でした。あてにしていたアントニーナの遺産は結婚前にだまし取られ無一文状態、私生活上ももとより無理な結婚です、チャイコフスキーは9月にモスクワ川に入水自殺を試みてとうとう結婚生活は破綻。彼はペテルブルグに逃れ、1878年にはモスクワ音楽院を辞します。

 この国家的危機ならびに、個人的には経済上の安定及と私生活上の破綻という運命の年、チャイコフスキーは交響曲4番(1876-7)と、プーシキンの戯曲に基づくオペラ「エヴゲニ・オネーギン」(1877-8)に没頭するのです。

 交響曲4番は、1876年から書き出したスケッチを1877年5月から12月にかけて作曲したもので、ちょうどこの主義・趣味に沿わぬ結婚生活の破局の時期とラップします。テーマは、パトロネスのフォン・メック婦人に告白したように、ロシア・トルコ戦争に、農奴解放後も苦しい生活を続ける多くのロシア国民が否応無しに巻き込まれていった暗い時代背景でした。


「野に白樺は立っていた」
 一楽章冒頭はロシア国民に襲いかかる戦争の暗い影・避けられない運命の力を表すファンファーレです。続く第一主題では、この避けられない現実の運命に対する人々の嘆き悲しみとため息が、初めは下降旋律、続いて上昇旋律により表現され、とうとう現実に堪えられなくなった人々は第二主題の甘い幻想に浸ります。しかし、再び運命のファンファーレに現実に引き戻され、深い嘆きと悲しみの中に一楽章を終えます。

 二楽章は、仕事に疲れひとり暖炉の前に座る夕暮れ時、取り上げた本が手から落ちるまどろみの瞬間に見る甘美な青春への追想と失ったものへの甘く悲しい嘆きです。主部の二つの主題で、自分の人生にもう存在しないもの、過ぎ去ったものが如何に多いのということを静かに嘆き悲しみ、続く中間部では、過ぎ去った青春、若い血がたぎり命が満ち足りていた喜びの瞬間の甘い思い出に浸ります。しかし再び主部が現れ、過去への嘆きのうちに眠りに陥るのです。

 三楽章は、少しばかり酒を飲んだ酩酊状態のうちに頭の中に浮かんでくるとりとめのないイメージです。心は晴れないが、悲しくもなく、何も考え悩むことの無い状態です。弦のピッチカートによる第一主題は少しばかり遊んできた百姓達、第二主題のロシアの踊りを踊ります。そこへ遠くから第三主題の軍隊の行進曲が聞こえてきます。これらの三つのイメージが重なりあった挙げ句、唐突に途絶えます。

 四楽章は、戦争や個人の苦悩を吹き飛ばす、ロシア農民の祭のなかにある単純だか力強い喜びです。序奏部はロシア農民の祭の喧噪。続く第一主題はロシア民謡「野に白樺はたっていた」による主題。再び序奏の後、第二主題は行進曲風の農民の主題です。これらが展開した後、一楽章冒頭の運命の主題が割り込んできます。でも最後は農民の祭の喧噪にかき消されてしまいます。チャイコフスキーの個人的不幸や戦争に対する不安等のインテリ階層のメランコリーは、この圧倒的な農民パワーにすべて吹き飛ばされてしまいます。

 交響曲4番は1877年末に完成し、1878年2月にモスクワ音楽院の上司であるニコライ・ルービンシュタインの指揮により、モスクワのロシア音楽協会演奏会で初演されました。




悲愴
 交響曲4番上梓後、並行して作曲を続けていたオペラ「エウゲニー・オネーギン」は、1878年1月末に完成します。初演は1879年3月、モスクワ音楽院で指揮は同じくニコライ・ルービンシュタインです。その粗筋は次のとおりです。

娘ばかりの田舎地主ラーリン家に、妹オリガの恋人で詩人のレンスキーが、友人で遊び人のエヴゲニー・オネーギンをペテルブルグから連れてきます。姉タチヤーナはオネーギンに人目惚れし、ラヴレターを書きますがオネーギンに振られてしまいます。
さて、ラーリン家で行われた田舎の舞踏会、オネーギンは戯れにオリガとワルツを踊ると、怒ったレンスキーが決闘を申し込み、とうとうオネーギンはレンスキーを殺してしまいます。
その後、姉タチヤーナはグレーミン侯爵の妻となりペテルブルグに。グレーミン侯爵家の舞踏会で、侯爵は親戚のオネーギンに妻を紹介し、オネーギンもタチアーナも強く動揺します。今や親戚の妻となったタチアーナにオネーギンは愛を告白するのですが拒絶され、彼は自らの運命をのろうのでした。

 1880年には大序曲「1812年」及び弦楽セレナーデを作曲、続いてバレエ「クルミ割り人形」や交響曲5番を作曲するのですが、1890年、フォン・メック夫人が突然援助打ち切りを宣言します。チャイコフスキーとこのパトロネスとは、膨大な書簡のやりとりがあったのですが、とうとう最後まで一度も会わず仕舞いとなってしまいました。
 1893年、交響曲第六番悲愴初演直後、公式文書ではコレラにより死亡したことになっています。実はこの悲愴という表題は最初からあったわけではなく、死を予見したかのように初演前に彼が突如つけたタイトルで、悲愴交響楽はそのまま彼のレクイエムとなりました。彼の死の原因については諸説があり、未だにミステリーとなっています。

2005-08-14 10:40 | 記事へ | コメント(6) | トラックバック(0) |
| 曲目解説 第五回 定期演奏会 |
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2005年08月06日(土)
β版 その1.2
β版 その2.3へ引っ越しました。
2005-08-06 09:40 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
| 曲目解説 第五回 定期演奏会 |
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2005年08月01日(月)
β版 その1
 ★様、F野氏からの指令により、今週ずっと、プログラムに載せる曲目解説を書いておりました。今迄弊店に書き綴りました曲目解説を元に、一つの文章を綴れとの無理難題。この一週間ブログは全くほったらかしで、毎晩頭を悩ませています。締め切りは8/1なのですが、今現在もなお、チャイコフスキーの部分のつながりがうまく行かず、苦吟しています。
 でも、締め切りは締め切り。出来ている部分だけ、β版として公開致します。
 字数は大幅オーバー、いくらフォントを小さくしても、一寸無理かも。皆様からの誤りのご指摘、ご批判、アドバイス、ご指導賜りたく、宜しくお願いします。
 一応、おちゃらけ一切なしの真面目一点張りの内容ですので、念のためお断りまで。

(以下本文、出来てるとこまで)

β版 その1.2へ引っ越しました。

(ここまで完成稿のつもり)
 写真ものせたいのですが、弊店の曲目解説にすべてありますので、そこを見て下さいね。
 この内容では、曲目解説失格とお考えでしたら、かいちょ様におすがりするしかありません。 
2005-08-01 00:24 | 記事へ | コメント(7) | トラックバック(0) |
| 曲目解説 第五回 定期演奏会 |
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2005年02月22日(火)
「2月22日は何の日」 にゃンこの日!
Nikolay Rubinstain
本当は、お兄さんのアントンの方がヴィジュアル的に格好いいんですが…


Q.今日は何の日か?
A.2月22日は、チャイコフスキー交響曲第4番初演の日です。

 1878年2月22日(旧暦2月10日)、モスクワのロシア音楽協会演奏会で、ニコライ・ルービンシュタイン(作曲家アントン・ルービンシュタインの弟)の指揮により、チャイコフスキーの交響曲第4番が初演されました。

 とりあえず、安モンの全音の解説文を元に整理してみましたが、チャイ4は大変複雑ですね。余り良く勉強出来ておらず、わからんとこだらけです。マエストロ Y原の訂正コメントを待っています。

第一楽章
T導入部(1-27 Fmoll 3/4)運命のファンファーレ、交響曲全体メインテーマ
 「これは運命です。これは幸福を妨げる運命の力です。」

U提示部(27-133)
@第一主題(27-83 Fmoll 9/8)フレーズ末尾下降2音:溜息、嘆願、訴え
・第一部(27-51) Vnから始まる下降旋律 嘆き、悲しむ泣き声でしょうか
 「運命の力は征服されず押さえられず、妥協し、空しく嘆き悲しむ他ありません。」
・第二部(52-69) Vc,CBから始まる上昇旋律 うなり声でしょうか
 「慰めのない絶望感はいよいよ強まり、ますます激しくなります。」
・第三部(70-103) 第一部再現
・第四部(104-114)第二主題へのつなぎ
 「現実から離れて幻想にふける方が良くはないか?」
A第二主題(115-132 F moll/As dur→H dur/Gis moll→F moll/As dur 9/8) Clからの旋律
 「おお、歓喜よ!少なくとも甘い、そしてやさしい幻想が現れました。何か幸福な、輝かしい人間の形が現れて、どこかへさし招いています。」

V展開部(133-283 Hdur/As moll 9/8)
・第一部(133-160 H dur/As moll 9/8)
 「何と素晴らしいことよ!アレグロの無遠慮な最初のテーマは、今では何と遠くに聞こえることだろう!」(Timpが無意識下の不安感をかき立てる)
・第二部(161-192 H dur 9/8)
 「だが、幻想は少しずつ魂を包みすっかり包み込んでしまった。陰気なものはすべて、悲しいものはすべて忘れられてしまう。そしてそこに、そこにこそ幸福!」
・運命(193-200 H moll 3/4)
 「否!それは幻想であった。そして運命は幻想から覚める。」
・第三部(201-247 転調激しくてよくわかりません教えて9/8)
・運命(248-256 H moll 3/4)
・第四部(257-282 As moll 9/8)
 「かくて人生のすべては、幸福のはかない夢や幻想と、重苦しい現実との果てしない交替である。…避難所は無い…この海をさまよいゆけ。この海がおまえをつかまえてその深みに沈めるまで。これが、ほぼ第一楽章の表題です。」

W再現部(283-380 9/8)
@第一主題(284-294 A moll 9/8)
A第二主題(295-313 D moll 9/8)
B展開部(313-380 F dur 9/8)

Xコーダ(381-422 As moll 9/8)

あかん! 色使いすぎてよけいに何が何だか解らなくなってもた!

 ここで、一氣にチャイ4の解説をしてしまうと、明日から読者がいなくなるので、じっと我慢。それに、ロッシーニの解説をしているうちに、やっぱり19世紀の欧州史を通説せずには、曲に對する理解が深まらない、とかように思う次第でございます。


やっぱり我慢出来ないので、お兄ちゃんのアントン・ルービンシュタインの画像貼っちゃいました。
2005-02-22 00:03 | 記事へ | コメント(6) | トラックバック(0) |
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2005年02月21日(月)
「料理の鐡人」
 昨日は、はしゃいで画像を貼りすぎましたので、本日は大人しく致します。

 どうしてロッシーニがオペラ界から引退したのか。これには複雑な事情がありそうです。
 政治的には、1830年の7月革命により、超反動的なブルボン家最後の王シャルル10世がイギリスに亡命します。かわってルイ13世の子孫でブルボンの分家筋オルレアン家のルイ・フィリップが、7月王制として銀行家たちにより担ぎ出されると、ロッシーニはフランス王立劇場委員会との契約を続けることが不可能となり、これ以上オペラの作曲を続けることができなくなりました。
 經濟的にも、1830年当時、ロッシーニは余生を過ごすのにもう十分な財産を築き上げており、これ以上、お金を稼ぐ目的で劇場のための作曲をする必要はありません。
 一方、妻イザベラとの間がうまくいかず、体調を崩して作曲への意欲を失っていたとも言われています。いずれにせよ、その後の数少ない作品ではスターバト・マーテル(1842)が有名な位でしょうか。

 でも天才ロッシーニは、世界一のオペラ作曲家の名聲をきっぱりと捨てた後、更なる伝説を作りだします。すなわち華麗なる料理の鐵人への転身。パリで個人的に超高級レストラン「グルメのための天國」を經營し、料理本まで出版する始末。一生遊んで暮らせる財産を手に入れた天才の考えは凡人の想像をはるかに超えてますトリュフをふんだんに使った牛フィレ料理ロッシーニ風トルネードは現在にまで伝わっている有名料理だそうです。(貧乏サラリーマンは残念ながら食べたことありません。誰かレポート下さい。)まあ世界的な名聲の点では次元が異なりはしますが、細川元首相が政治から一切手を引いて陶藝家になったのと同じようなものでしょうか。



 新進オペラ作曲家ワーグナーがロッシーニを訪れた時にも、ワーグナーがしきりとオペラ劇場の話をしたのに、ロッシーニはトリュフの話をしたそうです。この時ロッシーニは、トリュフのすばらしさをたとえ、今までに二度泣いたのは、パガニーニを聞いた時とトリュフ詰め七面鳥を落とした時という件があります。本人はセヴィリアの理髪師の初演に泣いたなどとは言っていません。三度泣いたというのは、誰が付け加えたのでしょうか。自分で記事にしといて何ですが。

 1837年には、当時パリで活躍していたオペラ作曲家マイヤーベヤー(1791-1864)と対立して、15年住んだパリを離れ妻とともにボローニャへ帰國し、ボローニャ音楽院名譽院長となります。1845年にイザベラが亡くなると、翌年にはオリンペと再婚します。ボローニャでは、豚牧場を經營しトリュフを採る豚を飼育したそうです。
 
 1848年2月革命に触発されてイタリアではミラノ、ヴェネツィアの蜂起、パルマ、モデナの共和國移行などがイタリア統一戦争に拡大していく中、ロッシーニはフィレンツェに疎開します。兩親も亡くなりイタリアに留まる理由もなくなって、1855年ロッシーニは病気療養のため再びパリに出ます。パリですっかり元気をとりもどしたロッシーニは、再び作曲への意欲も湧きピアノ曲や歌曲を作曲します。そして二番目の妻オリンペと1868年11月13日に死亡するまでパリで幸せに暮らしました。

 毎日余談ですが、ロッシーニが疎開した1848年の北イタリアの独立運動を制圧したのは、皆様よーくご存じのラデッキー将軍RADETZKY, JOSEF, COUNT OF RADETZ (1766-1858)。ラデッキーはボヘミア生まれで、ナポレオン戦争でも活躍、1848年の北イタリアでの軍功によりオーストリア国民的英雄となり、ヨハン・シュトラウス(パパ)がラデッキー行進曲を作曲したのは有名な話ですね。ラデッキーはミラノ総督としてミラノで没しました。
 あの〜個人的な疑問ですが、1848年ドイツ3月革命当時のボヘミア司令官で、6月のハンガリー革命蜂起を鎮圧後、ウィーン10月革命も鎮圧したヴィンディシュグレーツ将軍は人気無かったんですかね。どうしてラデッキーばっかり有名なのか?いずれにせよ、オーストリア・ハプスブルグ帝国の黄昏が近づいてきました。

 ということで、第五回定演のアンコールは、ロッシーニとも因縁のあるラデッキーでは如何。サリマライズの前にでもちょこっとばかしどうですか?

ラデッキー将軍
2005-02-21 00:02 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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2005年02月20日(日)
「オペラ座の鐡人」2月20日は何の日か?
Gioacchino Rossini(1792.2/29 〜1868.11/13)
何だか、高校時代のDr.Iに似てますね。


Q. 2月20日は何の日か?
A. 2月20日は、ロッシーニのオペラ、セヴィリアの理髪師がローマで初演された日です。

 皆様、お久しぶりです。いくら週末に記事を書きためておいても、三日以上持ちませんね。

 ロッシーニは、1792年2月29日(閏年生まれ、四年に一回しか誕生日が来ないねん)、食肉検査役人でホルン吹きの父と歌手の母との間に、アドリア海に面したぺーザロで生まれ、両親によりホルンと歌の音楽の手ほどきを受けました。父はナポレオンのシンパで共和主義的考えの持ち主だったため、1796年のナポレオンのイタリア電撃作戦(12/18の記事参照)の折にはしゃぎすぎ、ナポレオンがエジプトで迷子になっている間にオーストリアが巻き返して一時投獄されてしまいます。1800年、母ちゃんはやむを得ずロッシーニを連れ歌手の仕事のためにボローニャに出ます。



 ロッシーニといえば、たった12才で作曲したという6つの弦楽ソナタ(1804)が超有名ですね。私の大好きな曲(理由はコンバスが参加出来るからだけど)です。1806年14才、ボローニャの音楽学校に入学しチェロを学びます、その年に最初のオペラ(初演は6年後の1812年、モーツァルトに近い天才ぶりです)を作曲しています。1809年卒業後、17歳から本格的にオペラを作曲しだし、1829年までの20年間に、40曲のオペラを作曲します。
 1810年から1813年の間、ボローニャ、ローマ、ベニス、ミラノの劇場のためにオペラを作曲し、当時ヨーロッパで最高水準のオペラ劇場として名高いミラノのスカラ座との契約を結ぶ事が出来てスカラ座のためにオペラの作曲をします。



 余談ですがスカラ座に因む話題をひとつ。今から四半世紀前、K大オケの毎年夏恒例演奏旅行の際、コンバスやティンパニなどの大型楽器をレンタカーのトラックに載せて運搬しました。荷造りノーハウは木村運送仕込。木村運送と言えば、石○さんが嫁がれたそうでおくればせながらおめでとうございます。その時の楽器固定用のロープは、毎年東大路知恩院前の一澤帆布店までチャリで買いに行きました。その際に、一澤の社長さんが出てきて、音楽が好きでイタリア旅行でミラノに滞在した際、スカラ座を見に行こうと探したけれど、ファサードがしょぼくてなかなか見つからんかった、といいながら、スカラ座の写眞を見せてくれたことを思い出しました。

ミラノ・スカラ座


 さらに1815年には、ナポリのサン・カルロ劇場の劇場主が魅力的な契約金を提示して、ロッシーニは他劇場の為に作曲しても良いという条件で音楽監督に就任し、生活・作曲の中心をボローニャからナポリに移します。

ナポリ・サンカルロ劇場


 そして1816年2月20日、ローマのアルジェンティーナ劇場のために作曲したセヴィリアの理髪師が初演されます。さんざんな初演の後このオペラは大ヒットします(詳細は11/13の記事でどうぞ)。
 1822年には、ナポリで彼のオペラを演じたスペイン人オペラ歌手のイザベラと結婚します。

Isabera


 1823年には、ロッシーニはパリのイタリア劇場の総監督として、妻とともにパリに向かいます。パリでも一年に一曲のペースで新作を作り続け、1829年ロッシーニ37才の時、最後のオペラ、ウィリアム・テルをパリのオペラ座で公演します。そして、この大ヒットオペラを最後に、突然きっぱりオペラから身を引きます。

パリ・オペラ座


 またまた余談ですが、土曜日、家族で映画「オペラ座の怪人」を観に行きました。ミュージカルなので小學生でも字幕が何とかなるかと思っていたところ、五年の上の娘は大層はまった様子で原作文庫本も小遣いで買って帰りました。が、三年生の下の娘は鼻歌こそうたっていますが今ひとつ内容がフォロー出来ていません。
 映画の方は、現在はモノクロ回想部がカラーというジュディー・ガーランドのオズの魔法使い仕立て、時代背景は家無き娘ぺリーヌ物語のパリ、イタリアオペラの流行の時代考証もちゃんとしてます。難点を言えばあんな巨大な地下構造物がオペラ座の地下にあるとは、物理的に無理がありますね。はい。でも、音楽に文句の付けようもなく、豪華絢爛ゴシック・ホラーな映像で娯楽作品としては満足出来る仕上がりです。
 わざわざ以前より予定していたブログ記事の投稿日にあわせ、家族を巻き込んで映画に行くこの努力、これこそお茶のおもてなしの心です。ちょっとあざとかったですか?

 ということで、本日の記事は、オペラ劇場に因んだ話題と画像を特集してお送り致しました。皆様、如何でしたでしょうか。

 ロッシーニのお話は明日に續きます
2005-02-20 00:10 | 記事へ | コメント(4) | トラックバック(0) |
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2005年01月26日(水)
「栄光と挫折」
 「セヴィーリアの理髪師」の上演許可までには2年以上かかりましたが、1778年に完成した「フィガロの結婚」は、戯曲の危険な内容を見抜いたルイ16世の反対により、1784年までの6年間、上演は禁じられていました。しかし一度上演されるや、フィガロの結婚は人々に熱狂的に受け入れられ、ポーマルシェの名は売れに売れます。更に戯曲の他にも数々のパンフレットを発行し、超売れっ子パンフレット作家になります。

 さてフィガロの結婚の他に、人々を革命に導いた著作として、「12/22 トホホなクーデター」に紹介しましたシェーイエスの書いたパンフレット「第三身分とは何か」が有名ですね。当時本は高級品でとても平民が購入出来る値段ではありません。かわりに人々はパンフレットを買って読んでいました。だから、ベストセラーはパンフレットですし、ベストセラー作家はパンフレット作家ということになります。

 ベストセラー作家になったボーマルシェ、フィガロの利益を慈善業に寄付したりもします。彼はまたバリ水道事業にも参画し利益を得ます。かくして、革命前の時代、ボーマルシェは富と名声を手に入れました。しかし、後にこのことが、彼の身の破滅の原因となってしまうことは歴史の皮肉しょう。

 ボーマルシェは、彼の著作によって図らずも革命を早めてしまいましたが、彼自身の考え方は殆ど共和主義ではなく、新政府も彼に恩恵を与えるどころか、ボーマルシェの飛び抜けた人民の人気を恐れ、彼の富と名声をうらやむボルテールらによって完全にたたきつぶされます。ボーマルシェがオランダからマスケット銃を輸入しようとしていたことが、破壊的な失敗となります。彼は武器を自宅に隠匿しているとして告発されます。家宅捜索の結果、彼の家からはケルンの彼の個人印刷所で発行した数千のボルテール全集が発見されただけでした。1792年8月、ボーマルシェは共和国への国家反逆の疑いで逮捕され投獄されます。一週間後に出獄しますが、ホーマルシェはオランダとイギリスに亡命しました。

 彼はようやく1796年にバリに戻り、1799年の5月18日に67歳で突然死します。

 ボーマルシェを一言で説明することは不可能です。時計やさん、金満おばさん専門ジゴロ、宮廷官吏、王女の音楽教師、貿易商、数々の裁判の被告と原告、囚人、秘密工作員、アメリカ独立運動家、劇作家、ベストセラー作家、水道事業者、ボルテール全集出版者、共和国政府国家反逆者、亡命者…。彼の一生は、フィガロを遙かに超えた波瀾万丈の栄光と挫折の連続でした。


 追伸、ホーマルシェのフィガロは、フランス国内では喜劇として有名でしたが、国外ではオペラとして名をあげました。「セヴィーリアの理髪師」については、パイジェッロが1782年、ロッシーニが1816年、「フィガロの結婚」はモーツァルトによって1786年にオペラ化されています。
2005-01-26 00:30 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2005年01月25日(火)
「フィガロ・フィガロ・フィーガロ 導火線に火をつけたのは誰?」
モーツァルト フィガロの結婚 手書譜

 秘密工作員ボーマルシェは、1772年に戯曲「セヴィリアの理髪師」を書きます。内容は皆さんよーくご存じでしょうけれど蛇足ながら。
 スペインはセヴィーリアの町(位置は1/15 1805年の明暗 起の巻参照)。アルマヴィーヴァ伯爵が、自分の地位ではなく本当の自分を愛する人を見つけたいと願い、貴族の孤児で彼女の遺産を狙う後見人で医師のバールトロに隔離されているロッジーナに思いをはせ、何でも屋の理髪師フィガロの知恵により、地位を偽って変装した伯爵とロッジーナを、バールトロの目を盗んで上手く結びつけるお話です。
 戯曲は1772年に完成していましたが、上演の段取りが付かず、ようやく1775年2月に喜劇としてコメディー・フランセーズが初演しました。当初4幕で書かれていたものを初演直前に5幕に書き直してうまくいかず、三日後に4幕に直して再演してやっと人気が出ます。この戯曲の舞台背景には、スペイン旅行の見聞が活かされていますね。

 1782年に書かれたのが、「セヴィリアの理髪師」の後編となる「フィガロの結婚」です。伯爵の使用人となったフィガロが伯爵夫人ロッジーナの侍女スザンナと結婚しようとするのですが、伯爵夫人との倦怠期に陥ったアルマヴィーヴァ伯爵が、何とか侍女スザンヌをものにしようと画策します。自分で放棄したはずの初夜権を復活させようかとも考えたりするのですが、前回まんまとフィガロにしてやられた医師バールトロとフィガロに金を貸している女中頭マルチェリーナとが組んで訴訟を起こし、借金が返せないのなら結婚するとの借用証文どおりフィガロにマルチェリーナと結婚せいと迫ります。でも、すんでのところでフィガロがバールトロとマルチェリーナの実の子供だと判明し、両親と息子と嫁の四人で感動の再会をします。伯爵の計画は水泡に帰し、伯爵は地団駄を踏みます。この他伯爵夫人にお小姓のケルビーノが思いをよせて迫るので兵隊さんに行かされたりとか、シッチャカメッチャカな愛憎模様が繰り広げられます。
 「フィガロの結婚」はあたります。浮気が当たり前の特権階級を平民がうまくやり込める話に、平民は拍手喝采します。マリーアントワネットも無邪気にこの劇を喜んで、自分でロッジーナ役をしたりして貴族の間で顰蹙を買いました。「フィガロの結婚」は革命の導火線と呼ばれていますが、無邪気に導火線に火をつけたのはこのマリーアントワネットでしょう。

 三部作最後の「罪ある母」は1792年に書かれました。舞台は、フィガロの結婚より20年後、1790年の革命後のバリ。伯爵家の長男が死亡し、伯爵夫人と軍隊に行って戦死した小姓ケルビーノとの間に出来た次男レオン(ケルビーノやるやん)に自分の財産を相続させたくない伯爵は、伯爵の養女で実は伯爵の愛人とに出来た娘フローレスティンと友人ベジュールスとを結婚させて財産を譲ろうと考えています。でもこいつは伯爵の財産を狙う悪者でした。伯爵はこの友人の勧めで、伯爵の地位を捨て、セヴィーリアの財産を整理してパリに出てきています。伯爵は次男をケルビーノと同じく軍隊にやって戦死ざせ、伯爵夫人は修道院に追いやろうと考えたのです。でも、レオンとフローレスティンは密かに恋仲となっていました。ベジュールスの陰謀に気づいたフィガロとスザンヌはこの悪巧みを暴いて、レオンとフローレスティンとを結びつけ、お互いに浮気を許し合った伯爵と伯爵夫人も仲直りして、財産も若い二人に相続させることになってめでたしめでたし。

 随分長い話になってしまいました。今日はひとまずここらへんで店じまいします。
2005-01-25 00:25 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2005年01月24日(月)
「1月24日は何の日か? 風雲児」
Caron de Beaumarchais painted (1755) by Jean M. Nattier.

Q.1月24日は何の日か?
A.220年1月24日、三国志の英雄、風雲児曹操孟徳が生まれたのですが、今日は曲目解説に集中しましょう。
1月24日は、カロン・ド・ボーマルシェ(1732.1/24〜1799.5/18)の生まれた日です。

 戯曲「フィガロの結婚」はフランス革命の導火線と言われますが、これに「セヴィリアの理髪師」「罪ある母」を含めたフィガロ三部作の作者として有名なカロン・ド・ボーマルシェは、1732年1月24日にパリに生まれました。

 カロンはパリの時計商の息子で、父の手ほどきで時計製作の技術を身につけます。二十歳の時にカロンが発明した時計の逆進機構をライバルメーカーにパクられて特許訴訟を起こしたことにより科学アカデミーで名を売り、宮廷にも名前が聞こえました。国王から時計の注文を受け、王室御用達時計商となり宮廷に出入りするようになると、イケ面で頭が良く自信たっぷりの彼は宮廷でのしあがり始めます。
 そんなボーさま(肖像画は23歳のボーさまです。この微笑でおばさんをたらしこみました。私にはにやけた甘ったるいボンボンに見えますけど〜。)によろめいた高齢の宮廷役人の妻フランケ夫人は、夫の事務所をカロンのために使わすように夫を説得し、数ヶ月後に夫が他界するとさっそく1756年にカロンと再婚します。カロンはこの時に妻の領地であるド・ボーマルシェの名前を手に入れます。四年後には、国王秘書官の地位を買収し、貴族の称号を手に入れます。更に宮廷でカロンの音楽の才能が認められ、ルイ15世の三人の娘達のハープ教師となりましたが、この地位により大銀行家ジョゼフ・デュバリーと知己を得ることが出来ました。
 1764年、カロンは商用視察の目的で、でも本当はカロンの姉に二度も婚約しながら逃げた婚約者(悪いやっちゃ)を追いかけてスペインに旅し、スペインをジロジロ見学して廻りました。カロンは姉の婚約者に結婚不履行の復讐するかわりに、1767年にこの婚約破棄事件をもとに彼の劇作家デヴューであるエッセーとラブストーリーの戯曲を書きました。でもこの劇はそれほど当たりませんでした。でもこの旅行での見識が後のフィガロの舞台背景となります。
 カロンの最初の妻は結婚して一年以内に死亡し(え〜都合良すぎるやん、ほんまかいな、殺したんとちゃうか)、1768年には別の金持ちの未亡人と再婚しますが、彼女も1771年に死亡したため毒殺の噂が流れます(後家殺し!間違いない!!)。
 1770年に銀行家デュバリーが死亡すると、デュバリーが死亡する前にボーマルシェから15,000フラン借りたと認める借金証文の写しが出てきます(も〜ボーマルシェ怪し過ぎ)。デュバリーの相続人である甥がその証文が無効であると裁判所に訴えますがボーマルシェは勝訴します。すると、今度は敵さんは議会にこの事件を持ち込みます。ちょうどその時、ボーマルシェはコメディイタリアの女優との争い事から投獄されていたからです(敵ながらあっぱれな作戦です)。カロンは、国会議員でカロンについての報告書を作成するグズマン判事と面接するため、3日間仮出獄を許されるのですが、最終日になつても判事との面接が叶いません。困ったカロンに、グズマン判事夫人と夫人の秘書に賄賂を渡せば、グズマン判事と面接出来て、もし敗訴したならお金は返る条件で、カロンに有利な報告書を作成してもらえるとの話がありました。カロンは賄賂を渡し面接も叶い報告書が作成されますが、敗訴してしまいます。約束により賄賂は返してもらえるのですが、夫人秘書分の賄賂は必要経費として返してもらえません。後にグズマン判事夫人に秘書などいないことを知ったカロンは、今度はグズマン判事夫人に秘書経費の返還を求めます。しかし、夫人はこの件を全く関知しないと言い張り、当初この事件に無関係と考えられていたグズマン判事はこの司法スキャンダルについて訴追されます。訴訟は両者が出版した回想録を通じて行われます。それまで無名たったカロンは、まさにこの著名な回想録の著者として世間に名が知れ渡ります。判決の結果、カロンとグズマン夫人は公民権を降格され、グズマン判事自身は彼の地位を保ちました。しかしカロンは二年後に地位を取り戻すことが出来ました。
 この事件後の数年間、カロンは国王の秘密工作員として国外で活躍します。英国、オランダ、ドイツ、オーストリアでフランス国王の為の秘密工作を行います。彼は頻繁に英国を訪れた結果、独立運動を続けるアメリカを支持するようになり、彼の不屈の努力により、フランス政府がアメリカに対して多大だが個人的な資金や武器の援助を行うよう説得しました。彼自身も、主にフランスやスペイン政府の使者として、一部には彼の利益の為に、頻繁にアメリカと往復し、独立運動を援助する為に40艘もの艦隊を雇うことまでしました。
 彼が有名な二つの戯曲を書いたのは、まさにこの秘密工作員として活躍した時期なのです。

 ちょっと長くなりましたので、続きは明日のお楽しみとしましょう。
2005-01-24 00:20 | 記事へ | コメント(3) | トラックバック(0) |
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2004年12月14日(火)
「デカブリストの失敗でショパン怒る」12月14日は何の日か?
Q.今日は何の日か?
A.12月14日には、ロシアでデカブリストの乱が起きました。

 時は元禄15年(1702年)12月14日、『赤穂浪士』(一昨年の今日のMLに47士の名前を全部書いて文字化けと間違われました)が見事本懐を遂げました。では、曲目解説と関係ないので、今日はショパンの敵、おチャイコ先生の祖国ロシアネタとします。

 1825年12月14日、ロシア軍の自由主義青年将校のグループ(デカブリスト:12月党)による革命蜂起が起きました。といっても近衛3連隊約3000人が元老院広場に集まって単に気勢を上げていたのが鎮圧されてしまったという事件です。
 さる11月19日、アレクサンドル1世の急死により、皇位継承に混乱が生じ三週間皇帝が空位となる事態になります。デカブリストはこの機会を利用して、ロシアに立憲君主制を成立させようと企て、新皇帝ニコライ1世の宣誓式が元老院で行われる日に結集したのです。しかし、夕刻にはニコライ軍に包囲され壊滅します。

デカブリストの乱
サンクトペテルブルクの元老院広場



 アレクサンドル1世(即位1801年)は、即位当初開明的な思想の持ち主で、法による統治・三権分立の政治改革に着手しますが、ナポレオンの台頭により国内に反革命・反自由主義の風潮が高まるにつれ、彼の改革は頓挫します。1812年のナポレオンのモスクワ遠征では、モスクワを炎上させて灰にして明け渡しながらも冬将軍に助けられ、ウィーン会議を主導して神聖同盟の盟主となり、ポーランドを手に入れ、反動的な政治を行いました。

アレクサンドル1世



 一方、ナポレオン戦争でヨーロッパに出陣して、自由の空気を吸った青年将校・貴族達は、この反動政治に反発し、立憲君主制を目指すデカブリスト(12月党)運動を生み出します。しかしこれは市民の運動ではなく、あくまでも自由主義の貴族の運動です。デカブリストの乱の絵を見ても、市民が野次馬として観ているのがわかります。これが市民を巻き込む革命に至るにはまだ100年近くかかるのです。青年将校達は、革命で自由民になり自分の土地を守るため死にもの狂いで戦うフランス軍や、自由主義改革により短期間に強力になったプロシア軍を見て、ロシアも農奴を自由にし兵士の愛国心を涵養しなければ強くならない、そのためには専政君主から立憲君主制にする改革が必要と感じたのでした。だって、ロシア軍は殆どナポレオン軍から逃げ回っていた弱たんでしたから。
 さて、新皇帝ニコライ1世は、革命運動を鎮圧するため、1826年に皇帝直属官房第三部を設置し、検閲法を制定、デカブリストに好意的だったプーシキンもこの時ペテルブルグを追放されました。1830年には、ショパンが泣いて悔しがったポーランドのワルシャワ11月蜂起を鎮圧します。しかし、力をつけたブルジョワジーを懐柔するため、1832年には名誉市民という身分を作ったりもしました。

Portrait of Emperor Nicholas I ,1830s
Vernet, Horace,
Copyright ©2003 State Hermitage Museum.
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2004年12月09日(木)
「本家セビーリアの理髪師」12月9日は何の日か?
Q.今日は何の日か?
A.12月9日は、パイジエッロがロシアからナポリへ呼び戻された日

 曲目解説のため、むりくりに超マイナーな出来事をほじくり返しています。拙者、勉強不足で恥ずかしながらパイジエッロさんとお付き合いしたことが無く、曲目解説のためだけに、知らないお方のお話をさせて頂きますことを、予めお断り申し上げます。今日のお話に誤りがございましたら、謹んでお受けし、訂正させて頂きます。知ったか振り斬り。

 パイジエッロ(1740.5.9 – 1816.6.5)は、モーツァルトとともに18世紀を代表するオペラ作曲家で、シチリアに生まれナポリの音楽学校で学び、ナポリを中心とする他、北イタリアの諸都市でオペラ作曲家として活躍しました。当時ナポリを支配していたスペイン・ブルボン家のナポリ王フェルディナンド4世(シチリア王フェルディナンド3世)のお気に入りでしたが、宮廷と揉め事を起こしたのか仕事を干されます。
 1776年に、ロシアの女帝エカテリーナ2世(ポーランドを3分割した張本人の一人)から宮廷音楽監督として招聘されると、喜んで首都サンクト・ペテルブルグに赴き、「セビーリャの理髪師」(1782)をはじめとする新作オペラを作曲します。しかし、1783年11月に宮廷劇場委員会と揉め事を起こし、女帝の引き留めも振り切り、妻の健康を理由にしてロシアを去りました。
 1783年11月23日、ナポリの劇場で上演された「セビーリャの理髪師」が評判となると、かつてのパトロン、フェルディナンド4世は1783年12月9日付けで彼を宮廷劇音楽作曲家に任命し呼び戻します。本人は、ロシアからの帰途、1784年8月にはウィーンで自作オペラ「ヴェネチアのテオドア王」を上演するなどし、結局ナポリに帰りついたのは1784年の10月以降でした。モーツァルトがこのウィーン公演を聞いた記録が残っています。
 「セビーリャの理髪師」がウィーンで上演されたのは1783年8月で、モーツァルトはこれを聴いた可能性が大きいと考えられますが定かではありません。モーツァルトが「フィガロの結婚」を作曲するのは1786年ですので、当時の人気オペラ作曲家パイジエッロの「セビーリャの理髪師」に大いに触発されて続編を作曲したのではないかと言われています。

 さて、その後のパイジエッロですが、1799年フランス革命軍と国内共和派とが国王を追放してナポリにパルテノペーア共和国が成立するとナポリの楽長に就任しますが、同年6月国王がナポリに戻り解任されます。その後許されますが、ナポレオンの招聘を受けて1802年1月19日に契約し4月にはパリに赴きました。1806年にはナポレオンの兄ジョゼフ=ボナパルトがフェルディナンド4世をシチリアへ追放すると再びナポリの音楽監督に就任します。しかしまたもウィーン会議の結果、フェルディナンド4(3)世が両シチリア王国フェルディナンド1世として戻り、パイジェッロはナポレオンへの協力者として公職追放されます。しかし恩赦により再度音楽監督の地位が終身与えられ、1816年6月5日にこの世を去ります。ロッシーニのリメイク版「セビーリアの理髪師」の初演日が1816年2月20日ですので、死ぬ前に若造の挑戦を受けるという苦々しい思いをしたのかも知れません。とにかく、彼の後半の人生は、フランス革命とナポレオン戦争に翻弄されたのでした。

 シシリーとフランスとくれば、マフィアの語源を語りたくなりますが、曲目解説と無関係のため、後日のお楽しみにしときます。知ってる人は、コメントで蘊蓄披露して下さい。

Giovanni Paisello
2004-12-09 21:41 | 記事へ | コメント(0) | トラックバック(0) |
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2004年12月05日(日)
「ザルツブルグの雨宿り」12月5日は何の日?
Q.今日は何の日か?
A.12月5日はモーツァルトの命日です。

 モーツァルトは1756年1月27日ザルツブルグに生まれ、ルイ16世皇后王妃マリー=アントワネットに求婚するも断られるという波乱万丈の生涯を送り、1791年12月5日ウィーンで35歳の若い命を散らせました。

モーツァルト遺稿
レクィエム最終頁



 ロッシーニは、モーツァルトの「フィガロの結婚」(1786年K.492)を観て、パイジエルロが1782年に作曲した「セヴィリアの理髪師」を、1816年に作曲し直したものと考えられます。当然、モーツァルトもパイジエルロのオペラに触発されたに違いなく、この三者の関係は、なかなか複雑なものとなってきます。

 またまた昔話になりますが、今から四半世紀前うちの大学オケのヨーロッパ演奏旅行で、ザルツブルグ音楽祭に参加しました。ドム(ザルツブルグ大聖堂)でカラヤン、ウィーンフィルがブルックナーのテ=デウムを演奏した後、そのドムの正面広場(イェーダーマンの演劇の舞台)で、大学祝典とベー7を演奏する予定でした。

Dom(左)とホーエンザルツブルグ城(右山上)
写真左手前のドム広場に舞台と客席が見えます。
この舞台で演奏する予定だったのですが…



 ところが、急な降雨となり、仕方なしに教会内のウィーンフィルが乗っていた舞台に乗って演奏したので、結果的にウィーンフィルを前座にしてしまいました。出番前も、舞台の袖で待機したので、カラヤンを砂かぶりで観てました。ザルツブルグのカジノでやったルーレットも勝ちました。あの夏の日はちょっとついていました。

ドム内陣
ここに舞台が作られカラヤン・ウィーンフィルが演奏し、その後に…
ザルツブルグ大聖堂のパイプオルガンはヨーロッパ最大級だそうですよ、知らんかったけど
大聖堂内はものすごい残響で大変でした。
当時持っていたブルックナーのテ=デウムのレコードがカラヤンのだったので、何だか嬉しかったです。



 ブルックナーにも感謝の意を表すため、リンツ郊外のザンクト=フローリアン修道院のパイプオルガンの地下に安置してあるブルックナーの棺にお参りにも行きました。この棺の蓋を開けたら、腐ったブルックナーが入っているのかと考えると変な気がしました。棺にべたべた触って音楽の技量が向上しますようにお祈りしました。当然、お定まりのウィーン中央墓地にも行き、大作曲家さん達のお墓参りもしました。
 ウィーンでは、ホテルザッハのザッハトルテを食べたり、プラターに遊びに行って観覧車に乗ったり、ハイリゲンシュタットの居酒屋でホイリゲをがぶ呑みした後ホテル迄帰る道すがら、夜中にウイーン市内の通りで大声で大地の歌のさわりの部分”Dunker ist das Leben,ist der Tod "や"ewig,ewig"とか、復活の"auferstehen,ja auferstehen"(綴り適当ごめん)なんかを適当に合唱し、大変楽しい思い出となりました。ご近所の皆様あの節には大変ご迷惑をおかけ致しました。深く反省しお詫び申し上げます。確かかんちゃんも一緒に騒いだよね。
 ところでザンクト=シュテファンのカタコンベは結構骨のあるグロい死の世界でしたが、ザンクト=フローリアンのブルックナーの棺のすぐ横にも、お骨がいっぱい積み上げてありました。ちっょと日本人にはつらいものがあります。
2004-12-05 01:02 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(1) |
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2004年12月03日(金)
「お約束の語群」
失礼しました。
昨日の世界史中間考査問題の語群です。

[語群]
ア.8 イ.9 ウ.10 エ.11 オ.12
カ.13 キ.14 ク.15 ケ.16 コ.17
サ.コルベール シ.テュルゴー ス.ネッケル
セ.タレーラン ソ.カロンヌ
タ.ヴェルサイユ チ.パリ ツ.バスチーユ
テ.ヴァレンヌ ト. チュイルリー
ナ.ダビィッド ニ.ドラクロワ ヌ.マラー 
ネ.ダントン ノ.ロベスピエール
ハ.国民公会 ヒ.国民議会 フ.立法議会
ヘ.革命評議会 ホ.公安委員会
マ.三部会 ミ.総統 ム.統領
メ.独立宣言 モ.人権宣言
ヤ.ナポレオン法典 ユ.憲法 ヨ.権利の章典
ラ.制限 リ.普通 ル.ブリュメール
レ.テルミドール ロ.ジャコバン
ワ.ジロンド ヲ.フイヤン ン.ジュ=ド=ポーム

 毎日夜更かししたので、とうとう風邪ひいてしまいました。嫁さんに罰があたったと馬鹿にされました。仕事帰りにお医者さんに行って、きつーい注射一本打ってもらいました。
 ファイト!は,おっと一発やった。
 一本は何やった?
 愛情か?

(7)の誓い 作者:(8)
2004-12-03 21:08 | 記事へ | コメント(3) | トラックバック(0) |
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2004年12月02日(木)
「高校世界史中間試験」12月2日は何の日?
Q.今日は何の日か?
A.12月2日は皇帝ナポレオン即位の日です。

 1804年12月2日、ノートルダム寺院においてナポレオンが皇帝に即位しました。パリに住んでいたVc.U田殿、ルーブル(あれ、ヴェルサイユ宮殿でも見たぞ)に掲げてあったダヴィッドの超巨大な油絵を思い出して下さい。(ノートルダムといえば、正面左手よりぐるぐる延々と階段を登って尖塔に上がり、パリの絶景を楽しんだことを思い出します。)


 どうやら曲目解説する上で、フランス革命前夜からナポレオンに至る時代背景の復習が不可欠かと思われますので、今回はそのお話を。と、思いましたが、それでは余りに芸が無い。そこで、今回は気分はもう高校生になって頂きたく。回答はコメントに書いて送るように。フランスネタです、U田殿は必ず回答して下さい。現役大学生の皆様、簡単でしょ。勿論現役高校生の方がいましたら小手調べにどう。その他一般参加歓迎。本人と推定出来ないニックネームでも、OBオケの jinko-ok-ob@mte.biglobe.ne.jpのアドレスでも結構。正解は後日、皆様の回答が出揃いましたら、おいおいと。
 余りにコメントがなくて退屈につき、無理矢理皆を引きずり込む強攻策に出ました。


 次の文章の(  )に最も適する言葉を、下記の語群から選び、記号で答えなさい。

 1774年に即位したルイ(1)世は、数々の戦争で破綻した国家財政を立て直すため、財政長官に重農主義者(2)を起用した自由化改革、銀行家(3)を起用した宮廷費・貴族年金削減、(4)を起用した特権身分免税特権廃止を試みたが、いずれも特権階級の強行な反対により頓挫。特権階級は、1615年以来開かなれかった(5)を要求し、1789年5月5日に開催されたが、議決方法を巡り40日間も紛糾し、ついに第三身分は6月17日に(6)として三部会から独立することを宣言した。これに対して同20日国王は議場を閉鎖したため、議員達はヴェルサイユ宮殿の室内球戯場に集合し、憲法が制定されるまで解散しないことを誓った。これが(7)の誓いであり、この時の様子を描いた(8)の絵は有名である。

 ちなみに、1989年フランス革命200周年の夏、球戯場の誓いの絵が描いてあるカミュのブックをフランス土産として買って帰り今でも飾ってます。中身はとっくに蒸発したけど。いかん、この調子で書いているとナポレオン即位は朝方になってしまう。ここからターボを効かせましょう。

 これに対して国王は軍隊を用いこの議会の武力解散を図ったため、ついに7月(9)日パリ市民が立ち上がり、廃兵院を襲い武器を奪うと弾薬を求めて(10)を襲撃して此処にフランス革命が勃発し、この議会を救った。
 議会は、8月4日封建王制の廃止宣言、同26日に(11)を出し、立憲王制のための憲法制定を目指したが、国王はこれを認めようとせず、再び平民を武力弾圧しようとしたため、10月にはパリの女性を中心とする民衆が(12)行進を起こし、国王一家をパリへ連行した。
 1791年6月国王一家が王妃の祖国への国外逃亡を企てた(13)逃亡事件が起こると、国王は急速に国民の信頼を失った。同9月憲法制定、10月に(14)が成立した。翌1792年4月、外国の介入を期待する国王に対し、多数派の(15)派の圧力で革命防衛を大義名分にオーストリアに宣戦布告した。同年8月(16)日、プロイセン軍の進入に対し敵に通じた宮廷と政府の無策に対しパリ市民が蜂起、マルセイユなどの地方連盟兵とともに王宮を陥落させ、国王一家を幽閉して王権が即時停止した。同年10月、(17)選挙による(18)が招集され、王権の廃止と共和制の樹立が宣言された。
 まもなく、革命政府内では、穏健共和主義者と急進共和主義者の(19)派の対立が激化し、翌93年1月に国王が処刑されて外国の干渉を招いたため、ついに同年6月、急進派はパリの民衆の支持を背後にクーデターを決行し、(20)を中心とする革命独裁を開始した。ところが恐怖政治と行き過ぎた革命により、民衆も独裁者(21)より離反し始めたため、穏健派は翌94年7月27日、(22)9日のクーデターを決行して彼を逮捕し処刑した。
 これ以後再び実権を握った穏健革命派は、翌95年10月に(23)政府を発足させた。しかしこの政権は不安定で、民衆は次第に政局の安定を望み軍部に期待を寄せるが、この情況を背景に登場したのが、ナポレオン=ボナパルトである。

 おおやっと出た、ああしんど。フランス革命はややこしい。

 ナポレオンは王党派の反乱を鎮圧して頭角を現し、1796年のイタリア遠征で戦果を上げた。1797年第一回対仏大同盟を破り、次いでエジプト遠征から帰り、1799年11月9日、(24)18日のクーデターで政府を倒して第一執政となり軍事独裁政権を樹立し、1804年には(25)を定め、12月2日、ついに皇帝に即位し、共和制を廃止した。

[語群]

あかん、語群は明日や。U田君すまん。
2004-12-02 00:20 | 記事へ | コメント(2) | トラックバック(0) |
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2004年12月01日(水)
「ギロチン大王」12月1日は何の日か?
Q.今日は何の日か?
A.ギロチン法案提出の日

 1789年12月1日は、医師で国民議会議員のギヨタンが、有罪者の苦痛を軽減するため、古くから南仏やイタリアで使用されていた断頭台の採用を定める法案を、国民議会に提案した日です。提案者の名から断頭台のことをギヨチーヌ(ギロチン)と呼ぶようになったものです。後に恐怖政治時代に、多くの人を処刑するのに使用されたため、恐怖政治のシンボルとなりました。
 それにしても、立憲君主制を目指した国民議会は、一体何を真剣に議論してたんでしょう。今回もネタ切れのため、フランス革命物で誤魔化す私。
2004-12-01 00:45 | 記事へ | コメント(8) | トラックバック(0) |
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