「オッパイ丸出しの自由の女神:テルミドールの聖母」
ヴェルサイユの間(ほとんどブログ記事と関係無い食べ物の会話がなされている部屋)でM様より19世紀革命期後のパリモードについてのお話がありましたので、本日は急遽プログラムを変更させて頂きまして、ナポレオン戦争に退屈しているおっちゃんたち(貴方のことですよ…誰とは言わないけど)のために、週末サービスでオッパイに関する話をしたいと思います。とうとう曲目解説とは何の関係もない個人的興味の世界に迷い込んで来ました。
テレーズ・ドゥ・カヴァリュス

↑このところで、片方のオッパイが出ています。
残念ながらお見せできませんが。
テレーズ・ドゥ・カバリュス(1773.7/31〜1835.1/15)はマドリード近郊の銀行家の娘。十六歳の時、貴族の生活に憧れ年老いた金持ち貴族ド・フォントネ侯爵と結婚。宮廷生活を享受しながらも自由主義にかぶれラメット兄弟やラファイエットと交流。革命と同時に夫は亡命するがテレーズは拒否し離別、1793年ボルドーに移りそこからスペイン国境に向かい父の援助で亡命を図る。
ボルドーでは派遣議員タリアンがジロンド派への容赦無い粛清を行っていたが、タリアンに見そめられ愛人となる。彼女に骨抜きにされたタリアンが、彼女に求められるまま政治犯を釈放し私腹を肥やしたことがパリに知られて、職権濫用でパリに呼び戻されると後を追ってパリに戻るが、そのまま逮捕されラ・フォルス監獄に入る。タリアンに救出を求める矢のような催促をするが、なかなか釈放されない。1794年7月25日、痺れを切らしたテレーズはタリアンに「明日、革命裁判所に出頭するようにとのことです。つまり断頭台に登れと言うことです」と手紙を送る。受け取ったタリアンは、バラスやコロー・ブルボアに誘われていたクーデターを決意し7月26日「僕はいよいよ実行する。」と返事を書く。7月27日、決死のクーデター、テルミドールの反動は成功し、7月28日、テレーズは監獄から釈放される。
タリアンはテルミドールの反動の首謀者として時の人となり、テルミドール派の人々はテレーズをテルミドールの聖母と呼んで、これが彼女の一生の称号となる。テレーズとタリアンは即結婚。テルミドールという名の娘を設ける。しかし、一年足らずでタリアンの権力も弱まると、今度は時の人パラスの愛人となる。1802年にはタリアンを見切って離婚。しかしバラスは浪費癖のあるテレーズに困り果て、革命成金のウヴラールの元に厄介払い。それも長続きせず、1805年カラマン伯爵と再婚。残りの三十年を人々に忘れ去られて夫の領地で平穏に暮す。
つまり、タリアン夫人としてまたバラスの愛人としてテレーズはファーストレディーとなり、ファッションリーダーでした。彼女のサロンには権力者が集い、そこへの出入りを許されたナポレオンは、ジョゼフィーヌと出会うのです。勿論ジョゼフィーヌともまぶだちで、二人が裸でダンスしている版画も残っています。一体バラスは何人愛人を囲っていたのやら。嫁さん一人もてあましているのに、うらやましい限りです。
ピエール‐ポール・プリュドン1758〜1823
皇妃ジョゼフィーヌの肖像(1763〜1814)1805年
ルーブル
透けていますでしょうか

当時のファッションは、革命前のロココ風のウェストを緊縛する宮廷ファッションが消え去り、自然主義の影響を受けた開放的な衣装、古典主義つまりギリシャ・ローマ風に流れるような布の線を十分に活かして胸高に帯びを結ぶ衣装が流行していました。その布もシースルーの薄布で、乳首が透けて見えないといけてないと思われていました。素晴らしい!。それにつば広の帽子をかぶり長いショールを引っかけるのです。このスタイルの女性を「メルヴェイユーズ」(伊達女)と呼び、タリアン夫人はそのリーダーでした。彼女は、惜しげもなくオッパイを丸出しにしてそれを着こなし、喝采を浴びました。現代風に言うとトップレスサロンですかね。
Jeanne-Marie-Thérèse Tallien dite "Madame Tallien" (1804)
Gérard François Pascal Simon (1770-1837): baron
Châteaux de Versailles et de Trianon
タリアン夫人の肖像
この画では左オッパイが丸出し状態です。

Circle of Jacques-Louis David
Portrait of a Young Woman in White, c. 1798
Chester Dale Collection
おっちゃんへのおまけです。この娘の服装はノースリーブなので少し反則です。フレンチスリーブが正解です。

もひとつおまけです。
ナポレオンの愛人、マリー・ヴァレウスカの肖像。
18歳で70歳の貴族と結婚していたところ、37歳のナポレオンがワルシャワで見そめて、人身御供のようにワルシャワ大公国から献上されました。ナポレオンとの間には男の子が誕生します。

このファッションスタイルは、革命期からナポレオン時代に流行しましたが、その後もフランス共和国のシンボルとなり、時には革命帽をかぶり(7月革命を描いたドラクロワの「民衆を率いる自由の女神」)、時には女神像となって何度も繰り返し現れます。フランスではこの象徴的女性をマリアンヌと呼ぶそうです。画像もお見せしたかったのですが、ご自分でお探し下さい。お楽しみに。
ユジェーヌ・ドラクロワ1798〜1863
民衆を導く自由の女神(1830年7月28日)
1830年
ルーブル
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2004-12-19 00:38
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